5.29.2014

[log] May 29 2014

こうして、いつものように眠くてだるくてしょうもないところにバスでげろげろに転がされてやってきたここは羽田で、これから深夜便でSan Franciscoに向かうところ。 Londonのがいいのにー。

木曜日の夕方に現地に着いて、金曜日いちにち仕事で引きまわされて、土曜日の晩に帰りの飛行機に乗って、日曜日の夜中に戻ってくるの。

ばっかみたい〜♪

今回のお仕事はPalo Altoで、最初にこのお話しが来たときは、Palo Altoで”Palo Alto”を見よう! とか思ったのだったが、もうNYで見ちゃったし、Palo Altoで”Palo Alto”やってる映画館、一軒しかないねえ。
調べてみたらホテルから歩いていけるとこに映画館なんてないしー。
ふつう、そういうもんなんだろうけどさ。

土曜日、飛行機が発つまでの間にSFのダウンタウンにいければ、なんだけど、難しそうだねえ。引率系ではなくてお付き系だからねえ。

San Franciscoに向かう787は、こないだ具合わるくなってハワイに降りたりしていたので、今回もそれとおなじマジックを期待したいなー。行きじゃなくて帰りに起こってくれたらもっとうれしいなー。
とかゆってるとろくなことにならないんだねえ。

ラストバウス、自分にとっての最後のバウスは、31日の”This Is The End”にしたかったのにー。
でもこれの爆音はぜったいすごいから、ぜったい見るべし、なのよ。

しかし、リノベーションしたという羽田のラウンジ、特にダイニングのフロア、あまりにしょぼい。なにこれ。
かっこつけようとして失敗した地方の大学のカフェ、というより学食、みたいな。

では、また。

[film] Withnail & I (1986)

24日の土曜日の午前、まだ時差ボケもあってぐだぐだなのに、そういえばこれもバウスだった、と思いだして慌てて出かける。 爆音ではなくて、シアター2の、小さいほうね。

『ウィズネイルと僕』

これは欧米ではごくふつーに必見のカルトの星で、Ralph Steadmanによるカバー画(+ポスター)のCriterionのDVDも持ってて当然のやつで、でもスクリーンでは見たことなかったかも。

69年のロンドン、うぬぼれ屋で我が強くてつんつんしたWithnail (Richard E. Grant)と、ちょっとおっとりしているけどだめだめの「僕」(Paul McGann)はどっちも役者になりたくて、でも仕事が来ないから結局のところ失業者でしかなくて、毎日酒とクスリに溺れてごろついているのだが、寒いし腹へったし家はゴミとか虫とかだらけでおもしろくないので、WithnailのおじさんのMonty (Richard Griffiths) - でぶでゲイで変態で、でも金持ち - の田舎のコテージを少しの間借りてそこで暮らすことにする。

けど、天気はずっと悪いし寒いしなによりも食べ物ないし、たいして変わらずに終始ぶうぶう言っているばかりで、下心むんむんのおじさんとかもやって来るし、あんまいいことないからロンドンに戻ることにして酷い目にあいつつも戻ったら、一応「僕」のほうには役者の仕事がきて、でもWithnailにはこなくて、つまんないから公園でシェイクスピアかなんかを吟じるの。 それだけなの。

だめですることがなくてしょうもなくて、そういう連中がぐちぐち言いながら横滑りでだらだら無為に過ごしていく日々を美化することも卑下することもなく、細工も工夫も奇跡もなく、赤裸々に、とかでもなく、ただただカメラでとらえて、それだけなのになんでこんなにおもしろいのか、美しいと言ったってよいくらいなのが不思議なの、ほんとに。 ブリューゲルの絵みたいなおもしろさ。

映画の舞台は69年のロンドンなのだが、ここにあるのは80年代、死ぬほど訪れてみたかったロンドン、でもあるの。行ってみたところでこんなふうなぼろかすになるのがわかっていたのに、それでも行ってみたかったロンドン、変な人たちがうようよしていたロンドン、そのかんじがあるの。

最近の英国男子ブームとか、ぜんぜんわかんないのだが、このふたりとかはちがうの?

こうして再びロンドンに行ってみたくなったり。

5.27.2014

[film] Recuerdos de una mañana (2011)

5日の午後、イメージフォーラム・フェスティバルで見た最後のやつ。
ホセ・ルイス・ゲリンの中短編ふたつ。 監督本人が来ているとは知らなかった。

「ある朝の思い出」

韓国の全州映画祭のデジタル・プロジェクトとして映画作家3人に委託されたうちの1本。他に頼まれたのはジャン=マリー・ストローブとクレール・ドゥニ、だそう。

2008年のある朝、ゲリンの家の反対側のアパートに住んでいるバイオリン弾きが全裸で飛び降り自殺をした。 その事実以外に彼のことを全く知らないゲリンが、事故を目撃した近隣の住人や彼を知るひとのインタビューを通して、自殺の動機や自殺した人の心理や事故の投げかけた波紋を追う、というのでは全くなくて、ある朝、ある場所で起こったこと、ひとがひとり亡くなったということ、これらはどういうことだったのか、をフィルムに記録してみる、という試み。

自殺したひとの内面、その家族や人間関係、これらはわかりようがない、その上で、彼が抱えていたに違いない苦しみや痛みが一点に収斂し、彼の体を空中に投げ出し、一挙に地面に衝突させてしまったある朝の、ある路面の様子を建物の内側と外側、中で聴こえる音、外で聴こえる音、それらの出入りや重ねあいを通して彼が見ていたであろう風景、彼が聞いていたであろう音を拾いあげ、一度は静まり返ったこれらが再びひとつの風景として周囲に受容され、ふたたび元の通りになっていく過程を描く。

もちろん、それでなにかが浮かばれるわけでも救われるわけでもないし、都市生活者の孤独、みたいなものがあぶり出されるわけでもない。 例えば、われわれが経験している沢山の朝と彼の「ある朝」とを隔てたものはなんだったのか、彼が自ら塞いでしまった知覚の扉はどの方向を向いていたのか、とかが複数のガラス窓を通してぼんやりと見えてくる。

自殺したひとはゲーテの「若きウェルテルの悩み」とかプルーストの『サント=ブーヴに反論する:ある朝の思い出』(タイトルはここから取られた。 前に筑摩文庫で出ていた評論集①が本棚のどこを探しても出てこないのはなぜ) をカタルーニャ語に翻訳していたという。 上映後のトークでゲリンは彼がウェルテルを訳していた、という箇所に動かされて撮りはじめた、と言っていたが、そうかー ゲリンはウェルテル読みかあ、「シルビア」なんてそんなふうだもんなあ、とそっちの方に感心したり。

あと、"Guest" (2010) を撮ったあとで、全く違ったことをやってみたかった、とも言っていた。
確かに未知の異国にGuestとして赴いてその時間のなかでカメラをまわすことと、Homeにカメラを据えてある一点のひととき、を追っていくことの違い、がわかりやすく示されていた。



Dos cartas a Ana (2011)   - 「アナへの2通の手紙」

スペインのMuseo de Arte Contemporáneo Esteban Vicenteより委託されたインスタレーション「コリントスの女」の一部として製作されたもの。

プリニウス経由で紀元前ギリシャの写実画家ゼウクシスのお話、ろうそくの光で恋人の影を壁に映しだす肖像画から照らしだされるイマージュ、絵画、そして映画の起源。 こういうのを啓蒙臭ぷんぷんではなく、映像詩みたいな「手紙」としてさらっと女性に出しちゃうんだから、どこまでロマンチストでやーらしいんだか。

こんなのを受け取ってしまったアナは、どんな顔をしたのだろうか、どんなふうに返したのだろうか、とかそっちのほうが気になったり。

5.26.2014

[film] Labor Day (2013)

10日の土曜日、「大佛さま...」のあとで新宿に移動して見ました。

原題の"Labor Day"ていうのは、9月の第一月曜日の祝日で、夏の終わり(=学校の新年度の始まる前)にくる連休のことで、このタイトル、この映画で描かれていることに照らして見るととてもよく見えてくるものがあると思うのだが、この「とらわれてうんたら」みたいな邦題だとぜんぶおじゃん、だよね。 ちなみに夏の始まりは"Memorial Day"で、ちょうどいまなの。

Jason Reitmanの新作、なら見る。  すごい、とはぜんぜん思わないけど、このひとのは見てあげないと、ていうかんじにはなる。 (Alexander Payneとかもおなじ系)

87年(はんぱな年..)の夏、Adele (Kate Winslet)は一人息子のHenry (Gattlin Griffith)とふたり暮らしで、夫とは離婚しててちょっと情緒不安定で、Henryはそんな母親を支えなきゃ、みたいな意識が芽生えはじめたお年頃で、物語は主にHenryの視点で語られる。

スーパーマーケットに買い物に行ったふたりは、怪我をしてて車に乗せてくれ、てFrank (Josh Brolin)に強引に請われて家に連れて帰ることになって、そしたら彼はTVでがんがん指名手配中のリアル脱獄犯だったの。 でも強そうだしこわいので言われるがままにしていると、料理作ってくれたり家の建てつけ直してくれたりキャッチボール教えてくれたり、いろいろ便利で頼もしかったりする。

そのうちAdeleとFrankは動物みたいに仲良くなってきたりするので、これって疲れきったAdeleの妄想か、ママを想うHenryのお祈りか、とか思ったりもするのだが、FrankはFrankで囚人に堕ちた忌まわしい過去を抱えていることが明らかになり、みんなそれぞれに沸騰点を抱えたままボロ屋にうずくまっていて、そんな夏の終わり、すべてをふっきるために車でカナダに移住することを計画する。

ぐずぐずぐだぐだした終わり方、ほんと終りのほうはじれったくてしょうもなくて、その亀のような不器用さこそが彼ら(みんな)だったのだ、と思えなくもないのだが、もうちょっと(映画としては)なんとかする余地があったのではないか。

でもこの、もうちょっとなんとかしてほしかったかも、の部分て、”Up in the Air”にも”Young Adult”にもあったJason Reitmanの映画の核心であるような気もして、そう思ってみれば、あの甘々のエンディングも許してあげてもよいのかも (← 何様だおまえ)。

Kate Winsletの順調だったのにどこかで壊れてしまった不安定な人妻とJosh Brolinの強面だけど割と繊細、な組み合わせの体臭が漂ってきそうなむっちりしたかんじは悪くなかった。 夏の終わりのそんなふたりの。

ピーチパイを作るところは、もうちょっと上の角度から見たかったかも。
アメリカの桃は堅めでそんなに甘くなくて、パイには丁度よいんだよね。(リンゴも)

で、この夏はここ行きたい。

http://www.grubstreet.com/2014/05/four_twenty_blackbirds_opening.html

[film] 大佛さまと子供たち (1952)

渡米前のあれこれ、全部は無理だろうが書けるやつから書いていきたい。
NFCのアンコール特集で10日の土曜日に見ました。

「蜂の巣映画」三部作の3本目、ということだが前2作は見ていない。

奈良・東大寺で、観光案内でお金を稼ぎながらたくましく生きている戦災孤児たちの姿を描く。
毎日街角でラジオの尋ね人放送を聞いている豊太を中心に、お寺観光豆知識を教えてくれる寺の子とか、新しく仲間に加わる子とか、寺に居候している売れない画家とか、東京から来たお金持ちのおねえさんとか、寺の内外いろんな人たちとの交流を、決して「子供だから」とか「子供なのに」とかいう目線ぬきで日記風に重ねていくのと、そこに広がっている奈良の、大佛さまを中心としたでっかいランドスケープがすばらしい。

実際に大佛さまはでっかいし、その他の仏像とかもでっかくて見事で、そういうのの御加護のもとに、という描きかたは特にしていないのに子供たちや仏閣の撮り方、スクリーンの納まりかた、そういうのの帰結として、子供たちが互いに寄り添って、大佛さまにも寄り添って生活している、タフにハードにではなく、やわらかくゆったり生きている、そういう光景がたまらなくよいの。

最近都会では仏像様を美術鑑賞の対象として眺めたりしているらしいが、違うんだな、みたいな台詞が出てくるが、本当にそうなの。この作品を見ると、お寺や仏像の周りに生活があること、おなじ屋根の下や扉のすぐむこうに仏様がいること、信心とは、信仰とはどういうのをいうのか、みたいのを考えさせられるし、仏像とか大仏とかって、そもそもそういうのを考えたり振りかえったり気配を感じたりするために作られたもんだよね、ていうのがわかるの。 仏教徒でもなんでもない自分にだって。

そして、この作品はそんな大佛さまと子供たちのゆるい繋がりを描くことで、信仰のあるべき姿、みたいのが奇跡的に現れてしまっている。 (ここに出てくる大人たちは誰もみななんかふわふわしていて、リアルな「大人」はいない)

映画は、東京に出ていくことを決意した豊太と友達が大佛さまの掌に気持ちよさそうに寝転がっているところで終わって、毎日親の消息を固唾をのんで聞きいっていた彼の辛さを思うとたまらなくなる。 すばらしいエンディングだとおもった。

併映された記録映画 「奈良には古き佛たち」は、「大佛さま...」と一部同じマテリアルを使いつつ、メッセージとして伝わってくるものは変わらない。

4Kの超細密画像なんて使わなくたって、仏像のもつアウラとその価値は、情報としての精度や確度で決められたり伝わったりするわけではなく、それが置かれた場所に差してくる光とか影だまりとか空気とか湿度とか、そういうのが風や波のようにこちらに渡ってくる、そういうものなのではないか、というのがわかる。 たとえ壊れて隅に立てかけてあるような像でも、そこには必然と因果とがあって、そういうのですらひとを救うのではないか、とか。

自分にとって、キリスト教映画のベストは「神の道化師、フランチェスコ」(1950) で、仏教映画のベストはこれ、ということになった。

5.25.2014

[log] New Yorkそのた2 - May 2014

NYの残りのあれこれそのに。 食べものとか本とかレコードとかいろいろ。

たべものー。

Russ and Daughters Cafe :   11日、到着した昼間、すぐ行った。

Russ and DaughtersはHouston沿いにむかーしからあるJewishの乾物 - 魚屋で、最近だと”Lola Versus” (2012)でGreta Gerwigさんがここのサーモン(だったっけ?)を買うなり店頭でむしゃむしゃ食べだすシーンが印象的でしたね。 気持ちはわかるの。

CafeはOrchard stを少し奥に入ったところで、Cafeというよりはダイナーみたいなかんじ。
最初に冷たいBorscheを頂いたらこれがとんでもなくて、これまでのベストは2nd Aveのウクライナ・ダイナー、Veselkaのそれだったが、あれの上を行ったかも(どっちもおいしいよ)。
ビーツの甘さと酸っぱさが冷たさのなかでたぶたぶと押し合い、サワークリームの雲がふんわりと上に引っ張りあげる。 繊細すぎてとてもスープとは思えない。

キャビアとかもあるが、干魚系、酢漬け魚系はどれもおいしそうで涎が溢れてきて、けっきょく酢漬け鰊プレートにする。酢漬け鰊といってもいろいろあって、甘酢でとろとろめのやつとか、しっかり浸かったのとか、3種類と、あとはRollmops - 巻いた酢漬け鰊にピクルスが挟んであるやつ - が壮絶にすさまじくて、泣きそうになった。しめ鯖とか小肌が好きなひとには劇薬だとおもう。

こんどはオランダ鰊の季節に、ぜったい再訪する。

あとは、Bouley行った。 昔のBouleyがあった場所はCitibankになっていて、Duane stを挟んでBrushstrokeの反対側に移動していた。 わたしはBouleyの熱狂的な信者ではないが、例えばJean GeorgesやDaniel Bouludのいかにもな経営と比べるとぎこちなくて危なっかしいし、90年代の神懸かりとしか言いようなかったお皿達に比べると明らかにパワーは落ちていると思うものの、このひとのお料理はなんか好きなの。

今回は、なんといってもパンのワゴンだった。木製のでっかいワゴンの上にてんこ盛りのいろんなパンがパンおじさんと共にがたごと現れる。 Alain Ducasseのとこのデザートワゴンもそうだけど、てんこ盛りワゴンが向こうからやってくると泣きそうになるのはなんでなのか。
パンは、いちじくとかアプリコットとかナッツとかハーブとか、練り込み系が8種類くらい、穀物系が4種類くらい、それから生まれてからこれまでで見たことないくらいばかでかいブリオッシュローフの塊、これらを好きなだけいくらでも切ってくれる。(そういえば普通のバゲットとかなかったな)

Bouleyさんは、かつてBouley Bakeryていうお店でBakery道を追求していた時期もあったのでそこに立ち返って改めて、ということかしら。 もちろん、これらのパンとバターだけで他になんもいらない(ことは決してないのだが)くらいおいしいの。

お料理は、Meyer Lemonの泡(味噌といくらが奥から)にくるまれた牡蠣が前菜、じんわり滋味滋味くる系のLong Island鴨がメインというBouley定番でいった。

終ったのがほとんど深夜0時で、そうすると余ったパンを分けてくれたりする、かもしれない(わかんないよ、はしゃぎまくっていたから憫におもって恵んでくれたのかも、だけど)。

あとはいつものPrime Meats(盤石のPork Chop)とかESCAとか。 天候と場所で相当制限されてしまったのが残念だった。

EatalyでやっていたNutella barもCronutも行けなかったし、High Line HotelにSt.VincentのCoffeeを買いにいくこともできなかった。
おみあげは、Union Market(ここ、まとまっていてよい)で、Bakedのグラノーラ2種とクッキーいっぱい。


レコードと本のほうは、あんまし、だったかも。
RSD関連はもうほとんど喰い荒らされていたし、中古もそんなには。

レコードは、着いた日に猫詣でついでにGreenpointのAcademy Annexに行って(猫元気)、12日にOther Music行って、14日にRough Trade行って、16日に改めて、Other Music行ってAcademyのEast Village行ってRough Tradeいった。

新譜だとRough Trade NYCがいちばんあったかも。

RSD関係で、Dresden Dollsの1stとか、Afghan Whigsの新しいの(SWANSのとどっちにしようか悩んでこっちにした)とか、The Clienteleの再発された”Suburban Light”とか、Coil/NINのRecoiledと、Wye Oakの”Shriek” (ジャケ買い)とか、La Seraの”Hour of the Dawn”(裏ジャケに背乗り猫)とか。

Afghan Whigsは、重厚で問答無用ですんばらしいが、”Gentlemen”の頃の火花飛び散る刀傷の刹那は望んでもしょうがないのかー。 The Clienteleのは、よいねえー。

本は、Word行って、McNally Jackson行ったくらい。

4ADの歴史本 - “Facing the Other Way: The Story of 4AD” by Martin Aston.
分厚い。レーベルとしての4ADはそんなに夢中になったわけではないのだが、歴史のお勉強として。

Ali Smithの”Artful”  - すごーくまじで読みたいのだがとにかく時間が。
雑誌は、取っておいてもらったT Magazineがたくさん。

マイアミでの件は、思いだしたくもないので書くのやめた。

ほかになんか忘れているきが。

5.24.2014

[log] New Yorkそのた1 - May 2014

NYの残りのあれこれそのいち。

行きの機内で見た映画、さんぼん。

The Monuments Men (2014)
邦題はミケランジェロのうんたら。たしか。
第二次大戦中、欧米の美術史家とか建築家とかでヨーロッパ各地でナチスが略奪してどこかに隠した美術品を奪還すべく特殊工作部隊が作られて、彼らがMonuments Menで、リーダーがGeorge Clooney、他のメンバーがMatt Damon、Bill Murray、John Goodman、Bob Balabanとかとっても豪華、彼らが軍服きて軽快に歩いていくので誰もが”Ocean’s xx”のシリーズみたいのを思いだすかもしれないが、実話ということで人も死んだりするしでほんの少し苦いかも。

彼らは芸術を心底愛していてそれらを救った、のかも知れないが歴史から見れば、彼らが救ったのは金や貨幣と同等の経済資産として認知された「芸術」でしかなかった、ていうキナ臭いかんじもまた。
ちなみに、Matt Damonが演じたJames Grangerは、実際にはJames Rorimerといって、このあとメトロポリタン美術館の館長になる。 その後任がクロイスターズの十字架で有名なThomas Hovingなんだよ。
監督George Clooneyの映画としては悪くないの。 Alexandre Desplat の音楽もすてき。

Anchorman 2: The Legend Continues (2013)
こんなの何回見たって面白いに決まってるんだよう。
こないだちょっとだけ劇場公開された143minの”Super-Sized R-Rated Version”をみたいー。

(500) Days of Summer (2009)
なんでかやっていたので寝起きのあたまで見ました。
最初見たときはもっと散漫な印象があったが結構ちゃんと考えて作ってあるのね、とか思った。
ついこの前見た”The Amazing Spider-Man 2”もそうだけど、Marc Webbにとっての女性ってそんな簡単にあっち側に行っちゃう謎謎なもんなのかしらねえ、とか。
あと、Joseph Gordon-Levittくんにとっては、このあとも”Don Jon”でパーフェクトな彼女を求める魂の彷徨いは続くんだねえ、とか。 こいつはこいつで反省しないねえ。

帰りの機内で見たのは、2ほん。よく寝た。

Jack Ryan: Shadow Recruit (2014) 
Jack Ryanものって、映画でも本でもほとんどしらないので、その観点からは評価のしようがないのだが、いくらエリートでちょっと従軍経験があるからって、いきなりあんなロシアで実戦入ってあれこれやってすんなりアメリカ戻ってテロ阻止したりできちゃうもんなのか、とか。

在NYのJackがFilm Forumに”Sorry, Wrong Number”-「私は殺される」(1948)を見にいって、そこで情報の受け渡しをするシーンがあるのだが、あれFilm Forumじゃないから。 看板が違うし半券も違うし座席も違うんだから、ね!(こういうとこだけむきになる)

ライズ・オブ・シードラゴン 謎の鉄の爪  (2013)
ツイ・ハークの判事ディーシリーズ、『王朝の陰謀 判事ディーと人体発火怪奇事件』- 大仏がらがらでーん - の前日譚で、いろいろあって洛陽の司法省に赴任してきた若き日のディーのおはなし。
半魚人とか大海竜とか泳ぐ馬とか毒蜂とかいっぱい出てきて楽しいけどちょっとワイアーやりすぎかも。 馬の首の下をぐるんて飛んで乗馬なんていらんし。

でも漫画みたいでおもしろかったです。


映画関係だと、Lincoln Centerで始まったFassbinderの回顧特集、”Fassbinder: Romantic Anarchist” を記念して発売されたトートとTシャツを見にいって、やっぱし買うのをやめた、ていうのがあった(16日)。 これならIFCのメタルTのがまだ。

http://filmsociety.myshopify.com/collections/shop/products/t-shirt

ちなみにFilm Comment誌のFassbinder特集デジタル版(紙版は出ないんだってさ)、99¢で買えるよ。まだ読んでないけど。

http://filmsociety.myshopify.com/products/digital-anthology-rainer-werner-fassbinder

5.22.2014

[film] The Other Woman (2014)

16日の夕方、雨風ぼうぼうのなか、Times SquareのAMCで見ました。

天候もあって体調さいあくのぼろぼろで”Queen Margot” director’s cut (159min)とか、見る元気もなくて、こういう軽いのにした。 じゃあ見なきゃいいじゃん、なのだが、だって最後の日なんだも。

Carly (Cameron Diaz)はNYの法律事務所で働くばりばりで、つきあって一年になるMark(Nikolaj Coster-Waldau Mark)とはいいかんじなので、そろそろ結婚かもとか思っていたある日、おふざけで彼の家に行ってみたら妻だという女が出てきたのでお互いにびっくりしてがっかりする。

その妻Kate(Leslie Mann)は、翌日からCarlyを追いまわすようになり、すべてを忘れてしまいたいCarlyは相手にしたくないのだが、あまりにKateがぐだぐだ涙と涎を垂らして寄ってくるのに付きあっているうち、Loser同士でなんとなく仲良くなってしまう。
 
そのうちMarkの挙動から第3の女がいるらしいことをつきとめて、ビーチで張り込んでいると、そこにいたのはぶんぶんのAmber(Kate Upton)で、ふたりはあんぐりで、そのうち結束を固めた3人はMarkに復讐する、そういうコメディなの。

浜辺でAmberを見つけたとき、目をひん剥いて声にならない叫びをあげて彼女を追いかけていくCarly、それをあたふた追うKate、そのあたりがめちゃくちゃおかしい。 もっとアクのつよいKristen WiigとかMelissa McCarthyあたりを置いてギャグ炸裂にすることもできたのかもしれないが、監督のNick Cassavetesはお行儀よくて、それでもCameron DiazとLeslie Mannの弾けたいのに一歩踏み切れないおんな二匹から滲みでてくるなにかがとんでもなくおかしい。

Markへの復讐も痛くて楽しいのだが、ポイントはそこよりは女 - 裏切られ者の烙印を押されてどこか壊れてしまったOther Woman同士の結託とか友情とかそっちのほうで、でも間違っても癒されたり元気をもらったりするような類のもんではないの。

ふつーに、やっぱしCameron Diazてすごいよねえ、とかLeslie Mannてなんであんなにおかしいの、とか。ちなみにふたりとも72年生まれ、Kate Uptonは92年生まれ…

あと、Carlyの秘書娘がNicki Minajで、はじめはこんな秘書いるかよ、と思うのだが、だんだんありかも、になっていくのがすごい。

5.21.2014

[art] Charles James: Beyond Fashion

14日の火曜日、仕事が終わったのは16:30くらいで、そこから着替えて地下鉄のってMetropolitan Museumに行ってみました。

今回Metで見たかったのはこれくらいだったかも。
会場は2箇所に分かれていて、1階の特設ギャラリーと、ずっとリノベーションしていた地階の旧Costume Institute - 名前を変えて "Lizzie and Jonathan Tisch Gallery in the Anna Wintour Costume Center" (ついにやったねAnnaW) と。

ボールガウンてなんかすごい、と思ったのは2012年のV&Aの展示"Ballgowns: British Glamour Since 1950"で、そのときにCharles Jamesの作品はあったのかなかったのか。

1階の展示は、薄暗いフロアのひとつひとつの台の上にボールガウンが乗って(立って)いて、その横でロボットアームがそれを個別にスキャンしてて、その横のディスプレイ上にスキャンされたフォルムとそれが被さるボディのフォルムが重なってCGで流れていく。
こんなの事前に作っておいた画像をリピートさせておけばいいじゃん、とか懐古モードでやってきた老人達への嫌味か、とかいろいろ思うのだが、ようく見ていくとなかなかとんでもないことがわかる。

まずねえ、ボールガウン個々のフォルムがなんかすごいの。それこそAlexander McQueenのときに感じたのと同様の異様な、アヴァンギャルドな意匠感に溢れていて、近寄っていくと、ディスプレイ上で刻まれる白い線が描きだすガウンのフォルムと、それがボディのフォルムにぴらりと重ねられていってひとつの全体を作り出す瞬間、その工程のぞわぞわするかんじときたら。 そしてそれを操作実行しているのがぶっきらぼうなロボットである、ていう微妙な倒錯感。  フィギュアにはまるひとの快楽ってこういうところにあるのかしら、とか思った。 

物理的には、女性の身体のカーブの上に折ったり縫ったり尖がらせたりした布を重ねているだけである、ことがロボの操作でわかる、わかりすぎるくらいわかるのだが、それだけではないなにかがあたまの裏の想像界から吹き出し、染み出てくる、それをもたらしているのがCharles Jamesのデザインであり、彼の創りだしたガウンの連なりである、という。 - Beyond Fashion。

ほんとに40年代とか50年代なの?  みんなこんなの着て出かけたりしていたの? だとしたらめちゃくちゃかっこいいじゃん、とか。 レッドカーペット上でBest / Worstとかやっているゲームあれこれとは全く別の次元にある鎧のような力強さ。

1階の照明は暗くて、色彩よりもフォルム/形象を見るための展示で、地階のは色味とか生地とか縫い目とか、そういうのを見るかんじ。

地階にあったコートとかケープとかも、いかにも40年代だったり50年代だったりするのだが、でも素敵なのだねえ。 昔の映画ならなんでもいい、ていうのと同じようにこの時代のお洋服、なんでもいい、と言いたくなる。

カタログ、欲しかったけど重さであきらめた。


この後、バスで5thを降りて閉館間際のMOMAに行って、走りながらざあーっと見た。

Alibis: Sigmar Polke 1963–2010
ドイツの画家Sigmar Polkeのレトロスペクティヴ。ドットとかぎざぎざこまこました点と線とぐんにゃりした面(現実)が重なって干渉しあって、かっこよいったら。 クラウトロックなかんじ。

Lygia Clark: The Abandonment of Art, 1948–1988
ブラジルの女性アーティストのレトロスペクティヴ。 オブジェに埋もれる体験アートの実演とかもやっていた。 よくもわるくも素朴なかんじ。 トロピカリズモ。

Frank Lloyd Wright and the City: Density vs. Dispersal
部屋のまんなかにでーんと置かれた”Broadacre City. Project, 1934–35”の模型がかっこいいったら。

ゴーギャンは、なんかめんどくさそうだったので、パスした。

で、このあと地下鉄を乗り継いでWilliamsburgに出て、Rough Tradeで何枚か買ってからG LineでBAMに向かって”Breaking Glass”見て、そのあとまたGでWilliamsburg戻ってFaint見て、1時過ぎにお宿にもどった。 この不良…

5.20.2014

[music] The Faint - May 14

14日の水曜日の夕方はいろいろあって、それらは追って書くとして、この日の締めはMusic Hall of Williamsburgでのこのライブだった。
この同じ晩にBowery BallroomではOwen Palletさんもあって、どっちか少し迷って、"Breaking Glass"を見たあとならこっちかな、とか。

BAMの映画終わったのが21:00頃、そこから移動して21:30頃に着いて当日券で入ったのだが、まだ前座の最初のDarren Keen - 半裸のでぶのおっさんがフロアで絶叫しながらエレクトロを鳴らしてて、音はおもしろそうだったがついていけるモードではなかったので地下のバーの横のソファにちょっと座ろ、と座ったらそのままブラックアウトして、気がついたら22時半を回っていて前座のふたつめ - Suuns - が終わるところだった。

バンドが出てきたのは23:00過ぎ、メンバーは4人で、ひとり足りない気がしたら、BのJoel Petersen (Broken Spindles)さんがいない。結構音の土台を決めていたひとだったので、だいじょうぶかしら、と一瞬おもう。

1曲目は新譜(たぶん。未聴)からで、2曲目が"The Geeks Were Right"で、山高帽姿でくるくる回りながら軽やかに歌うTodd Finkさんを見てこれならだいじょうぶだわ、と思った。

この人達のライブを見るのはたぶん4回目くらいで、とにかくライブはよいの。
よく80年代ダンスポップバンド、て形容されたりするがライブ聴けばちがうことがわかるよ。

Gの人が曲によってBに持ち替えたりしていたが、ボトムは盤石、その上をびらびら狂暴に跳ねまくるエレクトロが重なって、でもそんなにダンサブルでもない。 踊れるけどフロア仕様とはちがうの。 90年代後半のエモがギターと絶叫でうち鳴らして走っていった上のレイヤーをキーボードに置きかえ、ちょっとした熱と諧謔と皮肉に満ちた歌を被せる。 割とありそうで、でも実はなかなかなくて、かっこよくて、それを作っているのがオマハの若者たちだという。 クール。
Saddle Creekじゃなかったら、うまくやればVampire Weekendくらいのところには行けたかもしれなかったのに。

客席に若い子はいなくて(そうよね..)、みんな中年にさしかかった煩悩を抱えこんだボディで熱狂的に踊りまくっていた。女子はLena Dunham体型おおし。 みんなやはりぶんぶんに....

終盤のノンストップの走りっぷりは見事で、アンコール1曲終えたところで、いくぜ!てかんじで"Paranoiattack"~"Glass Danse"の阿波踊り状態に突入。 0:30過ぎにみんなで「パラノイア~!パラノイア~!」て両手を挙げて絶叫するの。 楽しいったら。

おみあげにツアー記念12inchシングルかった。

[film] Breaking Glass (1980)

14日の水曜日の19:00、BAMの"Punk Rock Girls”の特集で見ました。

ご飯を食べている時間なんてなくて、売店でBakedのクッキーとコーヒーだけ。
でもこれだけで十分だった。 体が溶けそうなくらい沁みた。

客層はわかるよね、じじばばばっかし。

日本でも公開されたのを憶えているが当時は見ていない、サントラが発売されていたことも憶えているが聴いていなくて、でも Hazel O'Connorのメイクのきついおばさん顔とか、そういうのはなぜか残っているもの。 
ほんとは翌日15日の"Starstruck"(1982) - 今回の2回の上映のためだけにオーストラリアからフィルム輸入したんだすげえ高くついたんだぜ - のが見たかったんだけどねえ。

Kate (Hazel O'Connor)は、街場のパンク(になりたい)娘で、自分でビラ貼りしたりいけてないバンドでがーがー叫んだりしていて、プロモーター志望のDanny (Phil Daniels)と出会って、やがて"Breaking Glass"ていうバンドができて成功して、ふたりは恋に落ちるけどなにかを失ってネジが外れて傷ついてシーンから消える、みたいな。

ちょうどパンクが死んだ直後、雨後のなんとかみたいにいろんなバンドが出てきては消えて、ざわざわしていた頃の英国、みんなが夢見て憧れていた頃、音楽的には青春のただなかにあった英国の様子が表裏含めてストレートに描かれている。 マーケティングもくそもない状態での(ある種典型的な)バンドの成功とナイーブな、ナイーブすぎる挫折を描いただけ、Kateの白塗りメークとか気負いとかいろんなものが過剰で切羽詰まっていてちょっと恥ずかしい、けどそういうもんだと思っていた。 今の子供たちが見たら我々がグラムに感じたのと同じような目のやり場に困る感、があるかもしれない。

金儲けでも音楽形態でも絆を求めてでもなくて、とりあえず自分のなかのなんかを吐き出す、吐き出したら、吐き出せたらとりあえずそれでいい、みたいなそういう衝動と共に鳴っていた音。 パンクは自分も含めてしんじまえ、だったけど、そのあとに出てきたこれらはいちいち「自分」がいたりするので、なんかどこか恥ずかしいのね。  で、これらを愛おしい、と思えるほど老成もしていない(と思いたい)。 35年前の話なんですけど。

音楽監督はTony Viscontiなのでそれなりに厚くかっちりと作ってあって、製作はA&Mなので当時のA&Mの新人たちのポスターが端々に出てくる。 PoliceとかSqueezeとかJoe Jacksonとか。 ほかにはUltravoxとかPILとかもロゴが見えたり。 
そういう時代の空気感、みたいのがあって、ロンドン(かその郊外か)の街を上から撮っただけのシーンでも、フィルムの錆びれ具合も含めて、ああーってなる。 あの頃の英国...

Phil Danielsは、"Quadrophenia" (1979) - 「さらば青春の光」のJimmyで既に有名で、他にはバンドのサックス奏者(だけど耳がよく聞こえない)でJonathan Pryceなんかも出ていて、この辺もまたいろいろ微妙に懐かしいのだった。

で、再びG Lineに乗ってWilliamsburgに戻る。

5.17.2014

[log] May 17 2014

と、いうわけで帰りのJFKに来て、チェダーとモンテレージャックを頬張って落ち着いたところ。
製造元のサイトに行って調べてみたらセサミのクラッカーはもう作っていないようだ。 ちっ。

木金の悪天候が冗談のようにきんきんの快晴。 ちっ。

それにしても、毎度のことだけど、へろへろすぎる。体も弱すぎる。
仕事で来ているんだかなにしに来ているんだかまったくわからないわ。

今回は映画5、美術館2、ライブ1、でいっぱいいっぱいだった。
新しいレストランもぜんぜん行けなかった。
マイアミであんなことにならなければ、金曜日の天気がもうちょっと良ければ、がんばれたのになあー(ねえねえ、がんばるべきはおしごと…)。

渡米前のもまだぜんぜん書いていないので、さっさと片付けなければ。
帰りたくないようー。


鈴木則文監督のご冥福をお祈りします。
シネマヴェーラでの特集は映画観をひっくり返されるくらいの衝撃をもたらすものでした。
「映画は花火なんだから」て言っていた。 アドルノも「芸術は花火なんだから」て言っていた。

ではまた。

[film] Godzilla (2014)

木曜日はマイアミの天候がぐしゃぐしゃで、最終の金曜日はNYがぼろぼろで、降って止んで降りだしたらどしゃぶりで風もぼうぼう、がえんえん反復された。

金曜の晩、Times SquareのAMCで23:30の回に見ました。
シネコンで深夜の行列に並ぶのはUnion SquareでのTwilight以来だったかも。
AMCのETX(Enhanced Theater Experience)ていう爆音仕様、Dolby ATMOSで3D。
IMAXのもあったが、まずはこっちにした。 どうせもういっかいみる。

フィリピンの廃鉱からはじまって、日本の原発、ハワイの津波、べガス〜サンフランシスコに渡って繰りひろげられる核をめぐるMUTO(ていう怪獣、のつがい)とGodzillaの戦い。

これから日本でも怪獣映画の論理とか説話構造をめぐっていろんな思いを抱えたいろんなひとたちによる議論が巻き起こることでしょう。 それはとてもよいことだし、徹底的に議論する価値のあるスケールを持った作品だと思った。 東宝チャンピオン祭りで育ち、80年代東宝ゴジラなんてクズだと思っていて、Roland Emmerichによる98年版もなんだこれ ?  で、Gareth Edwardsの前作”Monsters” (2010)での怪獣の見せ方が嫌じゃなかったひとにとっては、当たり、だとおもう。 

NY1の映画のおじさんは腐れリンゴを付けていたが、そんなことないじゃん。すごくいいよ。

日本の場面は当たり前のように原発事故を、ハワイの場面はアジア各地の津波を、サンフランシスコのビル倒壊は911を思い起こさせて、その描き方は圧倒的に正しいの。起こってしまったことは起こってしまったことで、巻き戻すことはできない。多くのひとが「映画みたいだ」と言った現実の映像を映画の側に置き直すことで再生されるリアリティ、そこに「怪獣」を - 生態系のバランス - アンバランスという概念を接合すること。 54年版のオリジナル「ゴジラ」が未だに持っている力もそういうことではないか。

あー、ひとによっては平成ガメラとの比較でなんか言うかもしれない。 けど、映画で一番近いと思ったのはスピルバーグの「宇宙戦争」だったかも。 乗り物からの映像とか鳥とか燃えあがる電車とか。

海を渡っていくシーンとか、橋のとことか、怪獣のでっかさ、異様さがでっかく描かれているところもよい。 “Monsters”でもそうだったけど暗がりや闇の向こう(の蠢き)を描くのがうまいのね。
そしてなんといっても、火を吹く瞬間の驚異とカタルシス。

Ken Watanabeはちょっと弱かったかも。やんわりと抑え込まれてしまう反原発のひとみたいな立ち位置。
あと、Elizabeth Olsenさんがふつうの主婦をやっているのを初めて見たかも。

音楽のAlexandre Desplatさんは伊福部昭に及ぶべくもないが、がんばっていて気持ちよかった。
特に太鼓のどーん、どーんとか。

この次のは西回りで、セラフィールドあたりからNYに上陸してほしい。

ねえねえ、それでも原発は安全ていうの? 

5.16.2014

[film] Palo Alto (2013)

木曜日にマイアミに行って戻ろうとしたらぐだぐだで死ぬかとおもって、戻ったら戻ったで低気圧で脳が。

13日火曜日の晩、しょうもない飲み会のあと、21:55の回に駆けこんでみました。
ダウンタウンのSunshine - 先日Emma RobertsさんがNYCで一番好きなシアター、てInstagramで言ってた。 ここはよいの。すれ違いだったねえ。

Coppolaチェーン最後の刺客、Gia Coppolaのデビュー作。 原作は作中、女子サッカーのコーチ役で出ていたJames Francoの"Palo Alto: Stories" (未読)。
大人と子供の中間で揺れうごく3人 - April (Emma Roberts), Teddy (Jack Kilmer), Fred (Nat Wolff)のあれこれを。

すばらしくよかった。
もちろん、こういう青春もの - 特に「大人」の近辺・周辺で揺れ動く子供たちを描いたもの - の評価って人それぞれで、自身の過去と重ね合わせていう人もいれば、自身のなかにある理想化された「あの頃」のイメージとのギャップで語るひともいれば、キャラクターや物語の造型、その出来具合を云々するひともいて、要は映画について語るのとおなじように思春期を(えらそーに)語るその様がなんかやらしいからあてにしないほうがいいよ、と前置きしたうえで、それでもなんかよいの。

部屋の様子、部屋での挙動、運動場、夜の集まり、図書室、夜のプール、夜のスケボー、などなど、これらひとつひとつの場面、そこで子供たち同士が、子供と大人たちがどんなふうに寄っていったり話したり口論したり喧嘩したり泣いたりキスしたりするのか、を丁寧に丁寧に拾いあげる。 それは姉ソフィアが”The Bling Ring"とかで得意げに切り取って見せるクリップやスナップとはぜんぜん違って、鈍重だし重苦しいし、なによりもそこにドラマ - 自傷他傷、喪失、事故、慰め、絆の獲得/確認、などなど - はあんましなくて、それらは"Palo Alto"ていう土地の名前で括るしかないようなものなのだが、でも、こういう夜の暗さのなか、もやもやした音のなかで引き延ばされた時間と光景を知っている。 知っている、ということができる。

Emma Robetsのキスをした瞬間の表情、Teddyの治まらない揺れとぶれのなかに幽閉されたつらさ、逆にFredの苛立ちと狂騒のなかにしか自身を見いだせないつらさ、Gia Coppolaはそれらを薄暗い光のなか、蜻蛉を指で捕まえるようにそうっと、でもたしかにフィルムの上に置いた。 彼らの羽音が聞こえるくらいそうっと。

Emma Roberts、”The Winning Season” (2009)もそうだったけど、世界一体操服が似合うとおもう。
Teddy役のJack Kilmerもいいよねえ (パパKilmerもものすごく変なおじさん役で出ている)。

音楽もよくて、姉との比較ばかりになってわるいけど、"Virgin Suicide"のいかにも節介焼きおばさんぽい曲の置き方と比べるとほんとに地味なのだが、ギターの弦一本一本が、発声のときの息遣いが増幅されて、そういう音が鳴って画面上の彼らに寄り添っているの。


今晩 16日、Times SquareのAMC、21:45の回にJames FrancoさんのQ&Aがあるよ。
(行けない…)

5.14.2014

[film] Neighbors (2014)

11日の昼間にNYに着いたら、初夏というよりほとんど夏の陽気だった。 なんか粉が飛んでいて目にくる。

LESにオープンしたばかりのRuss & Daughters Cafeで酢漬けニシンの驚異に震えまくったあと、いちばんねむくなるに決まっている16:00からKips Bayで見ました。

こんなしょうもないR指定コメディが週末興収一位になっちゃうんだからすごいねえ。 おもしろかったけど。

Seth RoganとRose Byrneと乳呑み児の娘の3人が一軒家に越してきて幸せだったのに、隣の家に大学のフラタニティの一団(Zac Efron, Dave Franco, Christopher Mintz-Plasse, などなど)が越してきて毎晩どんちゃん騒ぎをするのでうるさくて、最初は大人の対応をしようとするのだが、そのうち我慢できなくなって一線を越えて大喧嘩に突入するの。 それだけなの。

隣の家の騒音問題が大騒ぎに、ていうシンプルなラインにご家庭コメディとしょうもない学園集団ものをミックスしただけ、ほんとにそれだけなのになんかおもしろい。 Seth RoganとRose Byrneの夫婦のふつうのようでなんともいえず変なふたりと、フラタニティていうなんか怪しい集団の放つ臭気 - どちらも自分たちはふつうでおかしくないって思っている - が噛みあわないままぶつかってスパークするところがよくて、なんにせよ近所迷惑ったらないの。

それにしても、"Knocked Up" (2007)にしても"Take This Waltz" (2011)にしても、夫婦の片割れを演じるときのSeth Rogenのなんともいえずべたべたやらしいかんじはなんなのか。 芸風、でよいのか? James Francoとの単なるバディとは思えない仲のよさも、"This is the End"(2013) のときのJay Baruchel との仲も同様で、がはがは笑いながら寄ってきてひとなつこくて親密すぎるが故の生々しい気持ちわるさ、変態ぶりが際立ってすごくて目のやり場に困る。

で、だから、それと逆の方角で喧嘩になったときのじたばたしたあがきっぷりもみどころなの。
特に最後のほうのZac Efronとのバトルの際の反射神経というか運動神経の絶妙さはなんかすごくて、このでぶったらなんなんだろう、て思う。 もうじき"22 Jump Street"がでるJonah Hillもこれに近いでぶ芸の持ち主であるが、Jonah Hillのがもっとストレートでわかりやすい。 軟体Seth Rogenのこっちの生理に訴えてくるなにか変なふうは、今後も追っていく必要があろう。

あと、Zac Efronのざっくり鮮やかな悪っぷり。 善人のようで相手がなんか地雷を踏んだと見るやぎらりと悪玉の顔に変貌する。
今後、ねちっこい悪役にとっても期待できそうなかんじ。 Kevin Baconのレベルまで行けるかどうか。

あと、フラタニティの三下で目がきょろきょろしてなかなか気持ちわるい変な子がいて、だれかと思ったら"Submarine" (2010)のCraig Robertsくんだった。 このひともなんというか、ねえ。

あんなにおもしろい"This is the End"ですらDVDスルーにしてしまう国なので公開はないかー、と思っていたらエンドクレジットにDentsu/Fujiの名前があった、のでひょっとしたらかも。


月曜晩のJimmy FallonのNeil Young + Jack White、おもしろかった。

5.11.2014

[log] May 11 2014

いまや自分が路上を彷徨う霊魂になりつつあってさいあくなのだがその霊魂はこれからちょっとだけ空に浮かんでNYまで飛んでいく。 でも仕事だしそのまま天に召されることは許されなくて、地上のあれこれどろどろはそのまま継続なので救われないことにあんま変わりはないの。
神様、つらいよう。

一週間。次の日曜日に戻ってくる。
タイミングとしてはあんましかも。
Brooklyn FleaのRecord Fairは土曜日までだし、着いた昼間にはVulture FestivalでRufusとブランチ、ていうのがあるけど行けるわけないし、晩にはHAIMのライブがあるけどチケット取れるわけないし。

Moving Imageでは溝口の特集やってる。
BAMのこの特集はぜったい、だけどむずかしいか…

http://www.bam.org/film/2014/punk-rock-girls

もちろんたとえそんなでも行ったほうがよいのは決まっていて、もんだいは限られた時間(ほんとに時間ないったら)と選択肢のなかでどこでなにを見て聴いて食べるか、なのだが、それらを事前に決めることができるのならこんな楽なことはないんだ。 仕事だってお天気だって。悪態つきながら歓喜の波に揺られているかんじ。

でもひさしぶりだしうれしいな。
5月の、夏に突入する手前でその枝葉をちょっとだけ屈めているNY。おろしたてのアイスクリーム。6月の陽気は落ち着きなくアップダウンを繰り返すし、7-8月はどこもかしこも溶けてだれるのがあたりまえになるの。

では。 また。

[film] 路上の霊魂 (1921)

GWのお休み29日(なんの日だっけ?)、朝から仕事で死んでて、路上の霊魂としか言いようのない形相のまま午後遅くにのっそりと起きあがり、神保町に行って見ました。
おなじみ「巨匠たちのサイレント映画時代 IV」。 ピアノもおなじみ柳下美恵さん。

製作は小山内薫の松竹キネマ研究所。 原作はシュミットボン『街の子』(森鴎外訳)とゴーリキー『どん底』。

ほんもんの小山内薫が出ているし、監督は村田実だし、脚本は牛原虚彦だし、島津保次郎も参加しているし、鈴木傳明も出ているし、といったふうに日本映画初期の割とゆうめいな一本らしいのだが、そういうのはともかく、じみじみに擦りきれて擦りへってあんま救われないかわいそうなお話で、よかった。

山奥で伐採所を経営しているお金持ちの老人(小山内薫)がいて、その息子(鈴木傳明)はヴァイオリニストになるはずだったがいろいろぶち切れて挫折して失踪して妻がいて娘がいて、でもひもじいし寒いし実家に戻って助けてもらいたい。
その近所にある別荘には金持ちのお嬢さんと執事と別荘番がいて、うきうきとクリスマスパーティの支度をしようとしている(クリスマスに八木節)。
 
牢屋を出たばかりで体を病んでいる2人組と実家をめざす家族3人がほんの一瞬すれちがい、それぞれの「家」に向かい、出会うのだが、その先での救われたり救われなかったりを通して憐れみとは情とは、とかそういうのを描く。 ひとの社会には階級があって貧富があって長くのびた道の上をいろんな霊魂が行ったり来たり彷徨っていて、そういう状態の絵を。

冬の晩、暖かい家の中と寒く厳しい外から来たものの間で起こるドラマ、というとこないだのノーザンライツで見た「復讐の夜」を思いだしたりするが、あれよかあっさり非情な切り捨てかたがなかなか。

柳下さんのピアノは施す側にも施される側にも等しく - 路上の、地上の霊魂に地を這うようにぴったりと寄り添うことで一瞬仰ぎ見た空の美しさと刹那を照らしだして、素敵だった。

あとどうでもよいけど、太郎が持ってけって言われた子兎って、ぜんぜん子兎じゃないとおもった。

5.08.2014

[film] Трудно быть богом (2013)

27日の日曜日、イメージフォーラムフェスティバル2014で、新宿で見ました。
毎年GWに、新宿のこの会場でこの椅子で、ってぜーんぜん嬉しくないのだが、映画を見たいからしょうがなくて来る。 ほんとにこの会場しかないの? この会場でいいと思ってるの? 有楽町のあそこもそうだけどさー。

「神様はつらい」。英語題は、“It's Hard to be a God” または “The Story of the Arcanar Massacre”。

モノクロ177分。 あのパイプ椅子みたいのの上で177分。

ストルガツキー兄弟の原作は読んでいない。 随分昔に読んだストルガツキー兄弟の他のは忘れてしまったが、あんま関係ないような気がする。 中身も形式も、文学とはかけ離れた世界の。

地球ではないどこかの惑星だか国だかのアルカナルは、地球の世界史メーターでいうと中世の暗黒時代あたりで止まっていて本とか読んでいる知識人は次々と粛清されて虐殺されてしまうのでルネサンスなんて来そうにない。それの観察のため地球から派遣された科学者たちはその様子を見ていることしか出来なくて、そんなひとりであるルマータ男爵が同胞を救いに行ったり敵とやりあったりのあれこれをカメラは追う(彼の行動を通して現地民の様子を見る/知る)。 彼のまわりにいる現地の連中はカメラの前を横切ったりレンズを覗き込んだり、動物 - ふつうの動物もいっぱい出てくるけど - と変わらない。
文人を虐待をしている族がいて、それをまた更に虐待している族もいて、要するに食物連鎖みたいに人々は獣として互いに喰いあって差しあって、それが常態となっている世界。 あってもおかしくない。

敵方との勝った負けた攻める守るとか、文明とは、とかそういうのはどうでもよくて、雪で真っ白だったりずぶずぶ雨が降り続いたりぐちゃぐちゃどろどろの地表で汚泥どころか汚物糞味噌臓物などなどが渦巻いてて甲冑がちゃがちゃさせてのしかかってくる相手を悪態つきながらぐさぐさやってそれでも全然おわらない、変わらない、収拾しない状態。

「神様はつらい」とか言ってみても神様なんていない。形而上も倫理もない。 「つらい」って言ったり思ったりしているのは地球人だけで、住民は欲望のまま好き勝手に飲み食いしてファックして縛り首して殺し合いしてあまり不満もなさそうだし。 みんなころころ肥っているから飢餓もなさそうだし。 そういえば愛は?

とりあえずそういう説明は説明として、背景としてあって、すごいのはその状態を画面上に晒してぶちまける、その出力のしかた、でろでろさ加減なのだと思った。 中世の地獄絵巻(そんなのあるかしらんが)をものすごくクリアな細密画にしてリアルな音を被せた、ていう。 そんなゴミみたいなもの、見せ方によってはリアルくそゴミにしかならないと思うのだが、なぜか圧倒的な映像の力で見せてしまう。見たことがない世界の見たことがないゴミの迫力にやられる、というか。
そんなものを13年かけて作りあげたゲルマンの怒り、そのタフで分厚いことったら。

あとは音楽、ルマータが最初の方でサックスみたいなのを吹いて、最後にもういちど同じフレーズを吹く。 本とか文字はなくなるけど、口笛とかはどうか、とか。 (最後のほう、画面と音声が少しずれていた気が.. あれってわざと?)

それと、たまにさらっと挟みこまれる遠景 - 雪とか原野とか が異様に美しいのもなんというか。


ぜんぜん関係ないけど、The Cureの"Disintegration”が25周年てなんだよ、ておもう。
いいかげんにしてほしいわ。

5.06.2014

[film] The Amazing Spider-Man 2 (2014)

26日、土曜日の晩、六本木でみました。 3Dで。

えーと、こんなもんかあ、くらいだった。

Peter Parker (Andrew Garfield)とGwen (Emma Stone)は大学を卒業して、いっぱいべたべたしたいんだけど、前作のGwenのパパ(Denis Leary)の死と彼の遺言(Gwenには近づくな)がこびり付いててあんまうまくいかなくて、Gwenは自分の進路の模索を始めて。

Peterのパパへの想いもあるし、Mayおばさんのことも気にかけなきゃいけないし、でも敵はElectro (Jamie Foxx)とかメカ犀 (Paul Giamatti)とか、旧友のHarry (Dane DeHaan)がGreen Goblinになっちゃったり、いろいろ出てくるし、メディアへの露出も気にしなきゃいけないし、忙しいけどがんばれ自分、がんばってます自分、なの。

監督のMarc Webbは、基本的にはエモのひとだから(偏見です)、映画におけるエモなんて第三者によっていくらでも翻訳しほうだいなところもあって、ひとによってはわかるわかる、だったり、ひとによってはそんなもんかあ、になってしまうことも多い。

ElectroにしてもHarryにしても、なんでそう簡単に沸騰点にいってSpider-Man憎し憎しになってしまうのか、Spider-Manにしてもなんであんなに軽々復活して糸びゅんびゅん飛ばせるのか、みんなエモたっぷりだから、と言われたらそうですか、て返すしかない。

Peterの行動の基軸にいるのが死者 - 既に死んじゃったパパとママ、Gwenのパパ、など、もう会うことはできない人たちで、彼らは彼の視野の端々に現れて彼のエモを揺らし、彼を動かしていく。
Sam Raimi版のSpider-man (2002 - )がその第一作のラストで開き直りのようなかたちで明確に宣言していた”With great power comes great responsibility”ていうのとはちょっと違うの。
今作の最後のほうで起こったことがこの後の彼にどういう影響を及ぼすのか、いや及ぼすに決まっているのだがまだわかんないの。 その若者っぽい不透明で不安定なわけわかんなさをコミックのヒーローものに持ちこむことについて、これから賛否あれこれ出てくるのかもしれない。 べつにいいと思ったけど。 漫画なんだし。

しかし、Peterの部屋のポスターあれこれ  - アインシュタイン、アウンサンスーチー、アントニーニ “Blow Up”、ラモーンズ、Velvet Underground、ボウイ “Low”、”DOGTOWN and Z-BOYS”、などのプロファイルと、ベッドでのおばさんとのもろ「フェリス」なやりとりを見てしまうと、やりたかったのは青春映画のほうなのかなあ、とか思ってしまう。 家族の前ではふつうのよいこで、裏では大暴れする街のヒーロー、ていう。 べつにいいと思うけど。

Andrew GarfieldとDane DeHaanのふたり、この絵面はなんかいいかも。
ふたりでたっぷり涙と鼻汁を流して頬をすりあわせていただきたい。

音楽はHans Zimmer調が例によってがんがん。 こないだの(あんまエロくなかった)ミランダ・カー表紙の英国版GQに彼のスタジオとインタビューが載っていたのだが、このひと、Bugglesでシンセ弾いていたのね。それにThe Damnedの”The Black Album” (1980)のシンセも彼なのね(こいつだったのか…)。

あと、NY1のPat Kiernanさんがいっぱい出ていてうれしかった。

[film] Le Dernier Milliardaire (1934)

25日、金曜日の晩、シネマヴェーラのナチス映画特集で見ました。 「最後の億萬長者」。
「奥様は魔女」のRené Clairならば見てみようかな、てなった。

ヨーロッパの架空の小国、カジナリオはカジノで成り立っている国で、乞食ですら裕福だったのにやがてお金がなくなって破綻するのが見えてきて、国外にいる唯一の大金持ちバンコ氏に融資を要請したら王女との結婚と引き換えねって言われて、でもとりあえず来てもらったら国民もばんざいーで、でも独裁体制敷かれて政権内部はバカみたいな抗争とか御触れとかばっかしになって散々なのに国民はなんか喜んでいるふう、ていう底抜け困った国の風刺どたばた喜劇で、まあばからしい。

カジナリオ国といいバンコ氏といい、いかにもだし、王室解体しろとか責任者でてこいとか革命じゃ、とかにはぜったいならなくて、とにかくお金、お金が調達できさえすれば中も外もなんとかなるんだから、て王室も国まるごとのんびり信じて疑わずに突っ走ってしまうところがなかなか。

「奥様は魔女」で魔法や呪いが恋や一族の歴史すべてを絶対支配して全てを転がしていたのとおなじようにここではお金がピラミッドのてっぺんにあって、しかもそれについて誰もおかしいとは思わないし言わないし。

喜劇だからおかしければそれでよいのだが、爆笑、ていうほどのところに行かないのは十分シャレになっていないからだ、これってもろ二次大戦前のドイツとか日本じゃねえの、と思えてしまうのだが、IMDbによると1936年のKinema Junpo Awardsの外国語映画賞を獲っているのね。

ラストの王女のオチはなかなかびっくりで、目が点になった。 そんなのありか。

5.05.2014

[film] The Docks of New York (1928)

これもこっちから先に書こう。 4日、銚子にお墓参りに行って滞在3時間で戻って吉祥寺で見ました。
この連休はサイレントばっかしかも。 Jack Smithだってそんなようなもんだし。

「紐育の波止場」。

この作品はNYのFilm Forumとかの定期上映館でOld New Yorkみたいな特集やるときには必ずかかる必修のやつなので、勿論見ているのだが、前見たときは確か無音だった。 今回はMarc Ribotさんのギターつき、しかもエレクトリックだと。

Marc Ribotさんを最後に見たのは2010年、このときはThe StoneでのHenry Kaisarさんとのギターデュオで、楽しかったねえ。
バンドもよいけど、ソロとかデュオとかで自在にとりとめなく続いていくのがこの人のスタイルには合っている気がする。

冒頭のマンハッタン東側の埠頭のざわめき、近づいていく船と港と陸地と人が巻きおこす人工音、そこに幾重にも重なってくるギターノイズにやられる。
電線に繋がれたエレクトリックギター、6本の弦の振動だけではなく弦周辺の振動とか揺れとかもマイクで拾って増幅してフィードバックして、すべてをでっかく大仰にひろげてみせる。 実際には細い弦をかしゃかしゃ引っ掻いているだけなのに。

船乗りのBill (George Bancroft)が船から降りて、翌日はまた船なので酒でも飲んで、と思っていると女(Mae - Betty Compson)が突然海に飛びこんだので自分も飛びこんで助けてあげる。 びしょ濡れの女の服を調達してきて、階下の酒場で飲もうって誘って、酒場ではいつものように大法螺とか大喧嘩のパレードで、その勢いでBillは女に結婚しようぜ、て言ってMaeは相手にしないのだが、俺は思ったことはすぐに実行すんだ、とか言って牧師を呼んできて、式になってしまうの。 みんな酔っぱらいだしわーいわーいで、誰も本気にしちゃいない。どうせ朝がくれば。

こんなふうに陸での一晩を楽しんでやれ、っていうBillと、自殺しようとしたばかりで気が昂ぶっているMaeと、同じようにぐさぐさしているもう一組の夫婦と、ゾンビのように取り囲んでいる大量の酔っ払いと、正気で冷静なひとはひとりもいない(除.やってきた牧師)。 それでも、こんなこともよくあるから、程度でふたりは夫婦になって、翌日は当然のように全てが醒めてまた一悶着あって、でもBillは船に戻る。 ほら、だから言ったじゃん、て。

Billのでっかくて力瘤とタトゥーのみ、あとはなんもない、みたいな船乗りの風情と、Maeの口の端がちょっと歪んでふん、みたいな組み合わせがたまんないの。

Marc Ribotのエレクトリックギターは、そんな感情のぶれやゆれを、ふつうとはちがう酔っぱらい状態をびろびろに増幅して酩酊の渦に叩きこむだけでなく、その裏で瞬く心の冷や汗とか、ちがうこんなの本心じゃない、とか、なんでこんなんなるの、とか雑踏のなかの声にならない叫びをも爪たてて引っ掻き傷として画面に捻じこんで、えぐりこんでくる。  

この腑に落ちるかんじが尋常ではなくて、それはどこをどう切っても絵になるおおもとの映画が絶品だから、としか言いようがないんだけど。 酒場の明かり、夜霧、マッチの火、これらも全てが人工で、その光の度合いと調合でひとはくっついたりはなれたり。
ラスト、Night Courtの場面でのギターは、まるでパイプオルガンのように荘厳に降り注いでくるのだった。 

これが80年以上昔の映画だなんて、だれが信じられましょう。


ピアノのサイレントもよいけど、ギターのもよいねえ。
ギターのだと、Lincoln CenterでみたGary Lucasさんによる"Dracula" (1931) が、印象に残っている(アコースティックとエレクトリックをとっかえひっかえで)。

あと、ピアノとシンセだったけど、Mission of BurmaのRoger MillerさんがやっているAlloy Orchestraも素敵だった。

こういうので来日してもらえば若者にだって (むりか...)。

5.03.2014

[film] Проверка на дорогах (1971)

20日の日曜日のごご、シネマヴェーラのナチス映画特集で見ました。
アレクセイ・ゲルマンの映画、見たことがなかった。

「道中の点検」、英語題は”The Trial On The Road”。 モノクロ。

1942年の冬でずっと雪ばっかしのロシアの平原、ナチスドイツの占領下で、ロシアのパルチザンがいろんな作戦たてたり奇襲かけたりしている。
冒頭の、双眼鏡で偵察しているところからいきなりドイツ軍の小隊を襲うシーンのタイミングのすばらしさと緊張感に痺れて、そのまま最後まで行く。きついけど。

そのパルチザンの小隊にナチスに協力していたラザレフが投降してきて、隊の内部はそんな裏切り者信じるな、という派とまあ同じ民族なんだしなんかやらせてみては、という派に別れて、ラザレフは一部から冷たい目を浴びつつ黙々と言われたことを遂行して段々と認められていくのだが、やがてでっかい作戦を任されて。

終盤に裏切りとかどんでんがあるわけではなくて、なぜラザレフは一度ドイツに寝返ったのか、なぜまた戻ってきたのか、の細かな説明があるわけでもなくて、雪のなか、ひたすらドイツ軍を追っかけていくパルチザンの厳しい戦いとその中でただただ任務をこなして、やったりやられたりして白色の、雪の向こうに埋もれ、消えていく兵士の姿を描く。 勝ち負け?

ありがちな戦争の虚しさ悲惨さ残酷さ、というよりも雪とか寒さとかパルチザンの移動生活とかなにもかも難儀できつくて、そういうのが常態となってしまうこの世界とか歴史の因果とか、なんなのかこれは、という冷え冷えしたかんじがやってくる。

もういっこはこんなふうな戦争において、英雄って一体どういう奴なのか、なにしたら英雄と呼べるのか、とか。 そんなの冒頭でガソリンに浸されていたジャガイモみたいなもんじゃねえのか。
というようなことを、過去の償いのために黙って働くラザレフと、過去の功績から偉そうにふんぞり返る上官の対比を通して、従来のヒロイズムとは線を引いた地点からしらーっと眺める、その距離の取り方の正しさ(故に本国では15年間公開禁止だった、と)。

おまえらが見たがっている戦争映画なんてこんなもんだ。 くだんねえだろ? どうしろってんだ?

あと、パルチザンが爆破しようとした橋の真下を通過していた船の甲板をびっちりと埋めていたロシア人の捕虜(故に爆破できなかったの)、あのびっちり感には言葉を失った。

[music] Core Anode

こっちから書いておく。 もう5月なのね。

先週からはんぱないぐじゃぐじゃに突入してしまい、今週はさらにひどくなって連休もくそもなくなってしまったので、金曜の晩くらいは、と吉祥寺に向かった。

ドラムス5、ギター3、エレクトロ2、ベース1。
ステージ上はなんかものものしいが、出てきたメンバーはてんでばらばら、年寄り、若者、おねえさん、帽子に長髪に坊主、など、コミュニティでやってるラテンロックのバンド、でもおかしくないふうの11人。

最初に大友さんがメンバー紹介を含めてなんか言う。 ライブの後だと耳が聞こえなくなるから、とか、1時間30分はやりません死ぬから、とか。

で、せーの、で突然の土砂降り豪雨。 果たしてこれをノイズミュージック、と呼んでよいのかわからないのだが、とにかく轟音。ばりばりばたばたぎゃんぎゃんごうごう、大小の音の粒々がありとあらゆる隙間をびっちり埋めていく、そうして埋めていく過程が、鼓膜にミクロの穴を開けていく過程が見える。 でもタライから大水を被るというより、それはやはり土砂降りで、ひとつひとつの粒がどこの太鼓からどこのギターから飛んでくるのか/どいつが飛ばしているのか、はわかる。 大波小波があるわけではない、ただただお仕置きみたいなお経みたいな集中豪雨、その土砂降りが45分だか50分だか続いて、やがて照明が落ちてまっくらになって、ぴたりと雨があがる。

例えば、バウスの30年間、あのシアターで鳴った全ての音を45分に圧縮したらこんなふうになるのかもしれない、或いは、ひとが生まれて最初に聴いた音の断面を分解して増幅して45分間に敷衍したらこんなふうになるのかもしれない。 時間と鼓膜の摩擦、その擦れあったりすれ違ったりする瞬間に現れる像を捕まえようとする。 

だからひとはこの音に、ノイズに浸る、というよりはこの轟音のなかにあっても、なにかを聞き取ろうとして、そしてそれは聞こえてくる、かんじがする。 耳がおかしくなっているだけ、なのかもしれないが、それもまたひとつの相互作用と。

わたしにとっての大友さんというのはNYのTonicとThe Stoneで、あそこでやっていたいろんなのも今回のも、ぜんぶ繋がっていて、ひとりでターンテーブルと針でなんかやって出てくる音も、今回のような大編成でも、同じ密度と濃度でやってくる。摩擦が伝搬する、その強さと弱さ、その仕掛けと仕組みも含めてぜんぶ見せてくれる。

アンコールはねえだろ、と思っていたがやったよ。 30秒。
つい笑ってしまうのだったが、そんな笑いが漏れてしまうのもこのひとのライブなの。
そして翌朝、なんでかとっても気持ちよく目覚めることができる。 へんなの。

ラスト・バウス、だそうで、もちろんできるだけ通いたいのだが、あんまし悲しいかんじはない。
爆音の可能性はこんなもんじゃなくて、この場所でなければ、というようなもんではないことを知っているから。 心配なのは樋口さんのほうだよね。