10.31.2020

[film] Songs My Brothers Taught Me (2015)

22日、木曜日の晩、MUBIで見ました。

“Nomadland” (2020), “The Rider” (2017)のChloé Zhaoのデビュー作。Sandanceのワークショップを経て制作され、Forest Whitakerがプロデュースに参加している。

サウスダコタのインディアン居留地に暮らすJohnny (John Reddy)とJashaun (Jashaun St. John)の兄妹がシングルマザーの元で暮らしていて、Johnnyは近所の人達に闇でアルコールの販売をしながら付きあっている彼女と一緒にLAに出ていくことを夢見ていて、いつも兄と一緒に遊んでいたJashaunはつまんないな、ってなりつつも全身刺青おじさんとTシャツを売ったりするようになって。

離れて暮らしていた父親が火事で突然亡くなったり、葬式に行ったら彼の子供だという連中が25人くらいいたり、年の離れた兄は刑務所にいたり、母はどこかの若い男と仲良くなっていたり、兄妹をめぐる環境はよくない方にばかり向かっていって、そのうちJohnnyは酒の密売の件で男たちにぼこぼこにされて車を焼かれ、刺青おじさんはいつの間にかしょっぴかれていなくなり、LAに一緒にいくはずだった恋人とはなんか違うかんじになり、ここを出てどこか他の土地へ、の思いはどこまでも裏切られてどこにも行きようがないまま、でもここでずっと暮らすのはどうなのか、これでいいのか、と。

予算がなかったので地元の人々 - 素人をそのまま使い、Johnnyの家もJohnnyの実際の家そのまま、25人の子供とかエピソードのいくつかもそのままだそうなので、彼らが抱える日々の思いも同じなのかしら、と思うのだが、やはりこれはドキュメンタリーとは違って、「兄たちが教えてくれた歌」をその情景と共に映像として残そうとしている。 これまで彼女の作品すべてを撮影してきているJoshua James Richardsのトレードマークのような主人公の背中越しに広がっていく原野が美しい。 Dorothea Langeの写真のような。

これだけ貧しくて荒んで先が見えない辛そうな暮らしの中でも、負債として継がれるものというより教え説かれていくものがあるのだ、と。物語の中心人物は前半の、はっきりとどん詰まって動けなくなったJohnnyからこれからどうしていこうか…のJashaunの方に徐々に移っていって、やがて彼女はロデオの競技場で何かを見つけることができた.. のかもしれない。(そしてChloé Zhaoはここで、次作 - “The Rider”の主人公となるBrady Blackburnと出会った、と)

兄妹のふたり - John ReddyとJashaun St. Johnの落ち着いた面構えがよくて、彼らがすることもなくてぼーっと膨れてだらだらしているだけでも十分に強い絵になってしまうの、すごい。

Chloé Zhaoはこのデビュー作でどこにも行けないけど、どこか/なにかを見つけようと必死になっている若者と子供たちを描いて、“The Rider”では怪我をして先がなくなっているのに、それでも馬上にしか居場所を見出せない若者を描いて、“Nomadland”では家も家族もすべていなくなって、移動する日々に生を見い出す初老の女性を描く。ここまでの三作で年齢は 幼→若→老と上ってきて、中西部の荒野で、みんなそれぞれいろんなものを失ったり抱えたり生き辛そうなのだが、でも決して悲惨で見ていてしんどくなるものではないの。むしろ逆に、ああふらふらしないで(ふらふらしててもいい)しっかりしないと、になる。少なくとも自分は。


ベルリンで見かけて、戻ってきてからついAmazonでオーダーしてしまったAby Warburgの”Bilderatlas Mnemosyne – The Original”が届いた。小さめの家具みたいなダンボールに梱包されて、うちはいまエレベーターが動いていないので5階まで引っ張りあげるのがしんどかった。 自分が持っている本の中では間違いなく最大級のでっかさで、広げてよいしょってページをめくるだけで大仕事でなぜか大笑いしてしまう。 こんなに笑える本だったなんて。

[film] Ung flukt (1959)

21日、水曜日の晩、BFI Southbank - 映画館で見ました。

BFIでは、記念碑としか言いようがない14時間のドキュメンタリー” Women Make Film: A New Road Movie Through Cinema” (2018) で紹介された女性作家による映画の特集上映が始まって、そこからの1本。この作品は"Women Make Film"のなかでは4チャプターで参照されている。

ノルウェーで最初の女性映画監督Edith Carlmarの作品で、Liv Ullmannのデビュー作(これのひとつ前にuncreditの出演作はある)で、英語題は”The Wayward Girl” – 同タイトルで1957年のアメリカ映画があるのでちょっと混乱するのだが、原題をそのまま翻訳すると“Young escape”になる。

大学入学を控えたAnders (Atle Merton)は両親の前ではよいこみたいなのだが、高校を抜けてぷらぷらしている不良娘のGerd (Liv Ullmann)のことが好きでたまらず、ふたりでキャンプに行きたいって言ったら両親からは却下されたので、父親の車を無断で奪ってGerdを乗っけてかつて父と行ったことがある人里離れた狩猟小屋に向かう。Gerdはそんなに乗り気ではなくて退屈しのぎにはいいんじゃない、くらいの冷めたノリ。

こうして毎日ごろごろうだうだして川で泳いだり釣りしたり羊泥棒したり、ふたりだけの世界を楽しんでいくのだが、Gerdはだんだん退屈してきて町に行きたいコーラを飲みたいとか言うようになる。そのたびにAndersはなんとか宥めて、そうしているうちにAndersのパパとGerdのママがふたりを連れ戻しにやってきて、そうら来たぞ、って身構えるのだがなんだかふたりは丸めこまれて納得して帰っちゃったり。

そのうち食べ物も底を尽きてきたので盗んできた羊を殺そうってなんとか殺したらいつの間にか見知らぬ中年男 (Rolf Søder)がそれを見ていて皮を剥いだり料理したりを手伝ってくれて、Bendikと名乗るそいつは流れ者で納屋に泊めてもらうぜ、ってそのまま居ついてしまうのだが、Andersとはぜんぜん違う山男タイプのBendikにGerdは興味が湧いてちょっかいを出し始めて、Andersにはおもしろくない。

このほかにも町の雑貨屋に泥棒に入ってあたふたじたばたしたり、Gerdのママが再びバイクでやってきて居座ってBendikと仲良くなったりいろんなことが起こるので退屈しない。のだがGerdは変わらずにGerdのまま動じない - 主人公はあたしだなめんな。

こういう物語にありがちの展開 - 自由を求めて家出したふたりの関係が内部から壊れていくのでも親たちの介入によって壊れるのでも第三者の闖入によって壊れるのでもなく、そのそれぞれが少しづつ作用しながらも危ういバランスを保っていって、でも(びっくりしたことに)壊れないままで終わる。それは彼女が妊娠したからかも、とかそういうのではなく、この後にすぐ壊れてしまうであろうかんじは孕みつつも。というか、壊れたからなんだってんだよ、ってGerdはいう。

若いふたりの逃避行、というとIngmar Bergmanの“Summer with Monika” (1953) - 『不良少女モニカ』を思い浮かべるのだが、真面目な男子と奔放な女子という構図はほぼ同じ、ただMonikaがまだその揺れる内面をそこそこさらけだしていたのに対して、こちらのGerdは最後まで何を考えているのかわからない – わかられてたまるか – のような描き方をしていて、それがLiv Ullmannのぶっきらぼうな佇まいに巧くフィットしているの。かんじとしては”Vagabond” (1985)のSandrine Bonnaireのように堂々としていてかっこいい。

Liv Ullmannさんはこの時点でじゅうぶんできあがっているので、すごいねえ、しかない。


やっぱしまたロックダウンなのかなあ..

10.30.2020

[film] The Other Lamb (2019)

19日、月曜日の晩、MUBIで見ました。

LFFで新作 – “Never Gonna Snow Again” (2020)を見ることができたポーランドのMałgorzata Szumowska監督の一つ前の長編(ホラー?)。“Never Gonna Snow Again”で共同監督だったMichal Englertは、本作では撮影を担当している。

人里離れた山奥の滝のほとりで少女たちが座っていて、その滝の奥から彼女たちを見つめる目がある、という冒頭。 そのうち少女たち(を含む女性たち)は共同生活をしていて、それを束ねているのは”Shepherd” – 飼主 – と呼ばれる男 (Michiel Huisman)で、彼以外に男性はいなくて、彼を囲む夕食の長テーブルには彼の右側に”Wives”と呼ばれる赤い服の女性たち、左側には”Daughters”と呼ばれる青い服の女性たちがいて、その集団のなかではWivesの方が年齢も格も上であるらしい。

その支配 / 服従の厳かで静かな様子と雰囲気から、これはカルトの教団グループであることがわかって、映画はティーンでDaughtersに属するSelah (Raffey Cassidy) - 彼女の母もShepherdに仕えていた - の目を通して彼女が経験したり通過したりしていくあれこれを描いていく。

最初はいつの時代のドラマかわからないのだが、途中で棲家の前に警察の車が止まって警官がShepherdに質問しているシーンが出て来たので現代の話であることがわかり、Shepherdの羊である女性たちは衣食住すべて自給自足の生活をして教義らしきものを勉強しながら、共同生活を送っている。子育てや子作りもそこに含まれて、夜になるとShepherdはWivesのひとりの肩に手を置いて奥に連れていってなんかやっている。それを巡って女性たちの間には波風がたったり。

そのうちShepherdは成長したSelahを見て美しい、と言い(げろげろ)、小さい頃からShepherd を崇拝し従うように教えられてきたSelahはそれを十分に意識しつつもどこからか湧きあがってくる嘔吐や不吉な憎悪・嫌悪を抑えることができなくて、過去にShepherdに捨てられてぼろぼろになっている女性や、斑模様でこちらをじっと見つめる羊と出会ったり、その状態を抱えたまま新たな土地を求めた教団(+ 羊たち)の次の棲家を求める旅が始まって、やがてShepherdの手がSelahの肩に…

Shepherdがどこでなにをしてきたどういう男で、教団の教義がどんなので、信者はどこからどうやって集められたのか、等々は全く明らかにされず、でも明らかにされたとしても変わらないであろう不透明な気持ち悪さがホラーの画面の冷たさのなかで淡々と描かれる。その教団、教義、Shepherdにたったひとりで対峙するSelahも、自分がなんでその血まみれの方に向かおうとしているのかは十分わかっていないのだが、それでもやる。”Other Lamb”として。その辺の説得力は申し分ない。

そういえば“Never Gonna Snow Again”も同様、主人公のマッサージ師の来歴や詳細、施術を受ける住民たちの正体は – ちょっと変わった人達、くらいで留められていて至るところ謎だらけで、それでも物語は成立してしまうのだった。

物語の軸や成り立ちは全く異なるけど、教祖/教義的な縛り、その罠から抜け出そうとするひとりの女性の戦い、というところでは”Martha Marcy May Marlene” (2011)を思いだしたりもした。

主人公がぼろぼろになりながらも向かっていくその矛先が明確に描かれていなくても、我々はそれを既に知っている気がする。NY Timesのレビューで、監督は” a dark cry against the patriarchy.” - (家父長制に対する暗い叫び)という言い方をしていて、おそらくこれがー。

これならにっぽんのみんなはイメージできる。いまの政権が具体的な論拠や理由を示さずに、ただそうあるべし、みたいに圧して/推してくるどこまでもグロテスクな同心円状イエ権力のありようがこれ、だ。

でも映画は、ああなるしかあるまい、というところに最後は行ってくれるので、だいじょうぶ(なにが?)。

Raffey Cassidyさんはすばらしい。のだが、これ以降耐え忍ぶ役ばかりになってしまいませんようにー。

10.29.2020

[film] Friendship's Death (1987)

LFFでまだ書いていないのがあったので少しだけ。17日、土曜日の午後、オンラインで見ました。

LFFの中では”Treasures”っていうリバイバル作品のカテゴリーで、オリジナルの16mmフィルムからリストアしたもの。監督のPeter Wollenが原作も脚本もひとりで書いて、BFIとChannel 4が制作した78分の小品。 日本ではもちろん公開されていない。

70年代、パレスチナとヨルダンの紛争が続く中東の危険地帯でビルの中に軟禁状態に置かれたジャーナリストSullivan (Bill Paterson)の滞在する部屋に外見は女性で英語を話すFriendship (Tilda Swinton)が現れる。

彼女は自分のことを宇宙からきたロボットであり、本当はMITのラボに送られるはずがなんでか誤ってここに来てしまったのだと言う。Sullivanは彼女の相手をしつつも現地の戦争特派員である自分の仕事とか、いつどうやってここから抜け出せるのか、の方が忙しいので、気が向いた時に会話をしたりする程度で、彼女が突然戦争マシーンになって戦闘を始めるとか、仲間が宇宙からやってくるとか、そういうところにはいかない。どん詰まりの不条理劇のような設定の中で、ロボットやAIについて、彼女の知覚や属性について、ヒトとの違いについて等、やや哲学的(根源的)な広がりのある対話がぽつぽつとされていく。そこから未来が見えてくるとか、そういうかんじは微塵もない。

87年という地点から、70年代の中東情勢を振り返り、そこに英国人のジャーナリスト - 前線にいる当事者 & 兵士ではない - とどこからか迷い込んできた彷徨えるロボット - 攻撃的ではない & アメリカに向けて宇宙から送りこまれた - を置いたとき、そこにどんな会話や相互理解の余地や可能性がありうるのか?

という状態を巷に大小いろんなロボットやAIが溢れ始めていて、その活用の限界やジェンダーのありようが問題になり始めている – よね? いない? - そこから30年後の我々が眺める、というおもしろい構図。

Friendshipの動きや表情や発話は穏やかで柔らかで、Sullivanがタイプライターをひっぱたいているとそんなに強く叩かないで、って悲しそうな顔をしたり、横にいるニンゲンの、オトコの、ジャーナリストの臭さ野蛮さとの対照についていろいろ考えさせる。 Friendshipを送りこんだのが宇宙人である、ということ、Friendshipもおそらく高度の知能を持ち合わせているであろうことを想像すると、「彼女」はなんのためにここにいるのか?  という有用性について考えてしまったりするのだが、Sullivanは彼女の知識を試すのにグラスゴーにある寿司屋の名前を言え、とかしょうもないことしか聞かないし、ここのように身動きがとれない銃撃・爆撃が続く戦地でAvengersのように戦ったり守ったりしてくれるわけでもないし、はっきりと役にたつ機能を表に出すことはない。ただホテルの部屋の片隅で座ったり立ったりしているだけ。 仮に誤配がされずに正しくMITに送られていたとしたら彼女はどうなっていたのだろうか、とか。

やがてSullivanのところにも退去命令が出て、彼はFriendshipに一緒にイギリスに行こう、というのだが、彼女の答えは..

タイトルにある”Friendship's Death”が事実として明確に示されることはないのだが、ここにおいてロボットの「死」が指し示すものってなんなのだろうか? そもそもロボットに生死を問いうるのか、ということと、彼女が生きていたのだとしたら、 それは何をもってそう言えるだろうか、と。

エイリアンでも老婆でもチベットの僧侶でもなんでも自在に演じることができる近年のTilda Swintonさんに比べると、ここではまだ半完成品のような彼女なのだが、意識したというその喋り方については見事にエイリアンのアンドロイドを演じている。

そして、地球に落ちてきた、というところで言うと、David Bowieの”The Man Who Fell to Earth“ (1976)のことを思って、更にいやこれはどちらかと言えば『戦場のメリークリスマス』(1983)の方ではなかろうか、とか。

もういっこ、アンドロイドが友達云々、というところだと、70年代終わりに”Are 'Friends' Electric?” とか言ってアンドロイド=レプリカごっこをしていたGary Numanという人もいたのだが、この辺は影響していたりするのかしら?


ヨーロッパでは第二波が深刻になってきていてあらら、なのだが、全体の傾向としては地域とか時間とかいろんな規制とか規則がこまこまやかましすぎてみんなうんざりしてて、一応マスクはするけどもう遊ぶよ夜は長いし人恋しいし、になってて、校長先生が緊張感が足りない! って怒りはじめたのが今、だと思う。

10.28.2020

[log] Dresden - Berlin

23日の金曜日に会社を休んで、2泊でドレスデン - ベルリンに行ってきた。

夏休みが2泊のベネツィアだけではつまんないな、って次の計画を立てていたのだが、当初予定していたところへのフライト(英国内)がキャンセルになって、次のを探していくなかで昔から行きたかったドレスデンが浮上した。いま英国から行きやすいのはイタリアとドイツで、イタリアは行ったから次はドイツかしら、というのも。

ただ報道されているようにヨーロッパは10月に入って第二波? って「?」付きの感染者がぼこぼこ湧いてきて下がる気配がなくて、英国でも警戒レベルがあがって、直前までどうなるのかしら..  だったのがなんとかなった。ずっとマスクしてたし、どこに行っても入っても今後の追跡のために名前と連絡先を書かされたけど、それくらい。(まだわかんないが)大丈夫だったかも。

ドレスデンへは直行便がないのでベルリンから約2時間の電車になる。本当はプラハからの列車旅が素敵だそうなのだが、いまチェコへの入出国は難しそうなので、ベルリン経由にする。
目的はほぼ美術系のみ。これに関しては、とってもすばらしい街であり旅だった。

ドレスデンの主要美術館・博物館は“Staatliche Kunstsammlungen Dresden“ていうコンプレックスで束ねられているらしいのだが、どの建物になにがどう入っていてどこがばらけているのか調べるのも面倒だったので(←よくない)見たいやつの上から見ていくしかない。以下、ほぼ時系列で。

Zwinger

この宮殿にあるGemäldegalerie Alte Meister (Old Masters Picture Gallery) はなんとしても行っておきたかった美術の館で、特に18世紀頃までの西洋美術の充実ぶりはとてつもない。なに見てもわーすげえなこれ..  しかない。庭園は紅葉がとてもきれいだった。

Raffaelの“Die Sixtinische Madonna“ (1512-13)の額縁の底で頬杖ついて膨れている天使はみんなが知っている有名なやつで、これが本物。 ぜーんぜん関係ないけど、90年代のNYにAngelsっていうイタリアンレストランがあって、Angel Hairパスタが名物で、ここのトレードマークがこの天使二匹だったの。あの頃たしかにあったAngel Hairのブームって、なんだったのかしら? とかしょうもないことを思いだしたり。   館内でやっていた企画展示はふたつ;

Raphael. Legacy and Inspiration

Garofaloの大作 “The Triumph of Bacchus” (1540) - 元のドローイングはRaphaelの - を中心にこの頃の画家たちへのRaphaelの影響範囲を示す。どの絵も大漁旗みたいにダイナミックでドラマチックでイキっているかんじ。(今ならきっとデコトラとかに乗ってやってくる)

Caravaggio. The Human and the Divine

ローマのPinacoteca Capitolinaから借りてきたCaravaggioの“Johannes der Täufer“ (1602) – 「洗礼者聖ヨハネ」を中心に関連しそうな館内収蔵品を回りに置いている、のだが技法的にもテーマ的にも緩めに広げていて、Francisco de ZurbaránからRubensからVermeerの「取り持ち女」まで節操なくここに並べられている。

他にはGiorgioneの寝っ転がるVenus、Cranachは山盛り、Jan van Eyckの宝石みたいな”Dresden Triptych” (1437)、Jean-Étienne Liotardの驚異的なパステル画 - ”The Chocolate Girl” (1744-45)、あとヴェネツィアの運河で有名なCanalettoってドレスデンの水辺の景色もいっぱい描いていて、先月の旅から繋がってきたり。

Vermeerの「窓辺で手紙を読む女」(1657–59)は未だ修復中なので出ていなくて、でもお披露目のスケジュールが出たので、来年の再訪を計画したい。その時はオペラハウスもついでに。

Historic Green Vault

王宮にある宝物庫には「歴史的なの」と「新しいの」があって、歴史的な方はチケットが時間制で切られていて、こっちは23日に着いてすぐに行った。荷物はぜんぶロッカーとかに預けて中は撮影禁止。モスクワのダイヤモンド庫みたいなかんじ。象牙とか珊瑚とか琥珀とかエナメルとか金銀とかブロンズとかガラスとか、いろんな宝石を盛大に散らしためちゃくちゃ細かい工芸品とか家具とか場合によっては鏡で部屋まるごととか、国宝みたいのがごろごろしてて、王族っていうのはなんでもできちゃったんだねえ、しかない。なんで緑なのかというと孔雀石の緑なのね。

翌日は新しい方のVaultも見て、武器とか馬具とかテントとか、修復中の広間もあったけど、窓から見ることができる向こう側の建物の壁とか、きれいなのもいっぱいあって、これらは爆撃が一旦ぜんぶ壊しちゃったんだなあ、って。

Albertinum

こちらは近代美術館。
なんとしても見たかったのはCaspar David Friedrichの「山上の十字架」- テッチェン祭壇画 (1808)で、見るというより拝んで、この他にも「墓場の入り口」(1825) とか彼のよい絵がほぼ一部屋ぶん。
Oskar Kokoschkaの自画像を含む数点とか、Wolfgang Tillmansの部屋がひとつ、Gerhard Richterの部屋がふたつ、どれもよい意味で素っ気なくただそこに置いてあるふうでよかった。見逃していた部屋があったことがわかったので、ここもまた来るしかない。

あと、ここの隣のKunsthalle im Lipsiusbauでやっていた“1 Million Roses for Angela Davis”、時間がなくて諦めた。時間がなくてどこに向かったかというとー。

Dresdner Molkerei Gebrüder Pfund

世界中のどの都市にも必ずある「世界一美しい本屋」、ではなくてこれは「世界一美しい牛乳屋」だそうで、ミルク好きだから行った。創業1880年で、内部にVilleroy & Bochのタイルがびっちり貼られていて確かに美しい。けど、ここでやはり問われるべきはミルクそのものであるから、立ち飲みで(上のフロアにはカフェもあった)生乳のような酸味のあるミルクと、それにマンゴジュースを加えたのをふたつ飲んだ。おいしいけど、マンゴのはマンゴラッシーの砂糖なしとほぼ同じだったような。もうちょっとどこのどんな牛とか、そういうのを知りたかったな。店内のカウンターではチーズを売っていたのでチーズひとつとトートと牛乳石鹸とパンフをお土産に買った。

で、24日の夕方に電車でベルリンに戻ったのだが、予定より遅れて到着した電車が途中でキャンセルになって、よく知らん駅で降ろされてぐったりした。 で、25日は夕方までベルリン。

ベルリンは何度か来ているし、いつものように絵画館だけ見て帰ればよいか、だったのだが、ホテルの近くにあったブランデンブルク門とか、きちんと見たことなかったので見る。ついでにその近くの「ホロコースト記念碑」を見て、まだ時間があったので「壁」まで歩いて、その隣にあったGropius Bauに入って展示 – この間までBarbicanでやっていた”Masculinities: Liberation through Photography”  - を見た - 展示というより建物のほうを見たかっただけ。

Gemäldegalerie

もうここに来るのは4回目くらいなので慣れたものだったのだが、巡回ルートがこれまでと真逆の方向になっていたので変なかんじ。いつもの常設のは楽しくてスキップしながら – ほんと楽しいよねえここ - 見る。 ここのCaravaggioの”Amor Vincit Omnia” (1601-02) - "Love Conquers All"ってドレスデンで見たCaravaggioと同じように全裸の少年がくねっている。テーマは違うけど。

Between Cosmos and Pathos: Berlin Works from Aby Warburg's Mnemosyne Atlas

今回ここに来たのはこれが見たかったから。 Aby Warburgが晩年に手掛けていた未完のプロジェクト”Mnemosyne Atlas” – 古代から近代まで、いろんな図像やイメージが貼られた63枚の黒パネルの一部を並べて、”Between Cosmos and Pathos”というテーマの元にこれらと関係のある美術品 – 絵画、彫刻、写真、ポスター、等をベルリンの美術館・博物館群のコレクションの中から拾ってきて並べてある。こういうことができるのはベルリンかThe Warburg Instituteがあるロンドンくらいよね(あんま関係ないけどThe Warburg Instituteの公園を挟んだ反対側にBloomsbury Groupの人々が住んでいたの)。 
というわけで、”Laocoön and His Sons” - “Mnemosyne and Her Daughters” - “Atlas” - “Trajan” - “Ninfa” - “Seven Women” - “Melancholia”といったカテゴリーの下、絵画だけでもBotticelliの”Venus” (1490)からFilippino Lippiの“The Muse Erato” (1500)からDomenico Ghiralandaio “Judith with her Maid” (1489)からRembrandt “The Abduction of Proserpina” (1931) からRubens “Fortuna” (1636-38)から … 単独で見ているだけでもすばらしい絵画たちが連なって見事な星座を作ってみせる。錬金術師Aby Warburg。

後で知って地団駄ふんだのだが、ベルリンの別の場所 - HKW (Haus der Kulturen der Welt)ではこの展示と並行して”Aby Warburg: Bilderatlas Mnemosyne - The Original” ていう展示をやっていて、ここには復元された63枚のパネルがあったんだって。うううー(11/30までやっているのか..)

すべて見終わって売店に行ってこれのカタログ(英語併記)は当然買ったのだが、その横にばかでかい63枚のパネルの図像が収録された”Mnemosyne Atlas”が... €200で…  しばし立ち尽くし、帰りの荷物をひとつチェックインすれば、とかいろいろ考えて、でもぎりぎりで踏みとどまる。(でもさっき、Amazon Primeで少しだけ安かったのでつい…)

ここの展示で目をものすごく使って偏頭痛の兆候が出てきた – いつもの頭痛薬を忘れてきたのは痛かった -  ので、あとは飛行機の時間までMustafaの屋台に行ってケバブ食べたり、川縁のドームに行ってぼーっとして過ごした。ベルリンも紅葉が見事で、公園には”People on Sunday” (1929)のかんじがあって - あれは夏の話しだけど - 疲れた目にしみた。

やっぱり2泊ではぜんぜん足らなかったわ..

10.27.2020

[log] 10 Years

このサイトで書き始めてから10年が経っていることに気づいた。10年で2800本くらいあるのな。 偉い、とか感謝、とかそういうことよりも、そろそろ飽きてきたのでやめるとか、突然くたばって止まるとか、そういうことがあってもおかしくないお年頃になってきたので、この辺の区切りでなんか書いておきたいかも。 ということで少しだけ。

ここの10年間の前には、mixiの日記に5年くらい同じような - どこ行ってなに見たとか聴いたとかの感想とかもやもやとか - しょうもないことを書いていて、その前には音楽ライターの鈴木さん個人の掲示板に - いまにして思えばほんと失礼極まりない - 同じようなのをポストしていた。その前はというと、ネットもメールもまだまだだったので、頼まれもしないのに知り合いの人達に手紙を書いて送りつけていた。

乗っけるメディアは手紙 → 人の掲示板 → コミュニティサイト → ブログと変わってきて、でも今のここのは(コメント欄を閉じているし参照リンクも殆ど貼らないので)ブログなんてものではないただの感想たれ流しで、いまの時代にあった他のやりようみたいのも探せばあると思うのだが面倒くさいのでほったらかしている(うちに10ねん)。  少し昔だったらこういうのは大学ノートの束が本人の死後に押入れから発見.. のような類のやつなのだろう。でもわたしの手書き文字は時としてわたしにも読めないやつだったりすることがあり、それでは備忘の機能を果たしてくれないのでどうしても電子で吹き溜まってくれるこういう場所が必要になる。(それか思いきってzineとか)

書いている中身は - たまにこの映画見ていたっけ? などを確認するのに昔の文章を検索して見たりすると底抜けに稚拙でどうしようもないことを平然と書いていることに愕然として、そういうのを含めての備忘だから仕方ないにしても、このバカは.. ってうんざりして、でも今の自分が過去の自分にそう思うってことは少しは成長しているのでは... と思いたくなるときもあるが、そんなおめでたいことを思ったりするバカに成長なんてあるわきゃないし -  なのでたぶん、ここ30-40年くらいはあまり変わりばえしないバカの駄文のままで来ている、と。

自分以外でこれを読んでくれている人達は、手紙時代からそんなに変わらないたぶん4 - 5人で - 名前も顔も知っているそれくらい - 書いていくことで友達が増えて世界が広がるなんてSFだと思う -  いまもその人たちに読んでもらうことを少しだけ頭において書いている。今年のロックダウンの期間中はみんな暇だったからなのかアクセスカウンターの数字がたまにえらく上がったりしてびっくりしたが(おそらくカウンターのバグ)、それでもここに定期的に来てずっと読んでくれている人って世界で10人、もいないのではないか。アクセス動向の解析なんてしたことないけど。

備忘、といっても現在の自分のありようによって備えようとするなにかは変わっていくのだろうし、最近はとめどなくダムの放水みたいに昔のこと手前のこといろんなことを忘れ続けているので中味はほんとに空っぽになってしまう懸念があって、そうなるとこんなのを読んでくれている人達にはごめんさない・ありがとう、しかない。ほんとうに。

元々ずっと音楽とかライブのことを書きたかったのだが、今の音楽ってストリーミングとか膨大にリリースされる新譜とか、流通の根本から昔と違ってしまってこれらに深く入り込む時間も余力も覚悟もない。これっておそらく、(アーティストへの「ケア」みたいなところも含めて)音楽「産業」が勝利した、ということなのだろうか(← 過去に散々軽蔑してきた新しい流れについていけない年寄りの言い草..)。 聴くのもライブに行くのも好きなので書いていきたいけど、関わり方はやや変わってしまったかなあ、って。

映画は、英国に来てしみじみ改めて思うけど、見ていない作品 - 女性監督のとか - が新旧多すぎて自分がこれまでに見てこなかった/見てこれなかった世界について感じたり考えたりすることが多いので、いろんなジャンルの中ではいま一番見たり/書いたり、をその紹介も兼ねて繰り返している。日本の洋画興行の邦題も含めたマーケティングのひどさについて文句を言うことが多いが、これって遥か彼方の昔から業界の体質のようなものとして代々受け継がれ醸成されてきたものの一部だと思っていて、これがそのまま昨今のメジャー系はアニメ、マニアック系は映画秘宝、女子系はほんわか、みたいなわかりやすい図式に集約展開されている気がする。(彼らの)経済的にはおいしい構造でありモデルなのかもしれないが、シンプルに気持ちわるいのでどこまでも抵抗していきたい。

気持ち悪いといえばいまの日本という国ぜんぶがそんなふうに幼児化の果てに悪辣になっていて、もうじき4年経ってそろそろ帰国の話も出てくるので憂鬱でたまらない。帰ってこなくていい、って言われるなら喜んで残りたいわ。どうせ帰ったらお金もなくなって本も買えなくて図書館は企業のサービス提供型になってて本は読めない、映画館は寄りたくない、どこにも行けなくなる。そういうのに備えていまは古本をせっせと買い込んでいるところ。ああかみさま。

でもまあとにかく、これからもこんなふうに書いていければと思っているので、適当にお気軽におつきあいくださいませ。 

10.22.2020

[film] Small Axe: Lovers Rock (2020)

18日、日曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。
LFFはこの数時間前に見た”Ammonite”でクローズしたのだが、これもLFFので、でも当初の上映作品ラインナップには入っていなくて、後から発表されてチケット取ったらタダだった。よくわからないのだが、おまけ上映、ってことかしら?

9月のNew York Film Festival (NYFF)ではこの作品がオープニングを飾って、それがワールドプレミアだった。監督のSteve McQueenがBBCと組んで”Small Axe”という5つのエピソードからなる選集を作っていて、NYFFではこのうちの3つ – “Lovers Rock” -  “Mangrove” - “Red, White and Blue”が上映されて、LFFでは、オープニングで“Mangrove” – こないだ見たドキュメンタリー “Mangrove Nine” (1973)の裁判を扱ったもの - が上映されて、エンディングで”Lovers Rock”が上映された。

上映された3つ(2つは未だ)はどれも評判がよくて、恐らく英国の40-50年前、実際に起こったことや事件を題材にしている、という点でまさに今見られることを狙って作られていて、だから、上映前のビデオで監督が語っていたようにBBCで幅広く放映される、という点が重要なのだと思う。

”Small Axe”は各エピソードによって時間の幅があるようだが、これは68分の小品。すんごくよい、というか大好き。 あの頃のゆったりしたレゲエが好きな人にはたまんなくて、床でごろごろ悶絶しながら見たくなるような1本。

監督の叔母さん - 家が厳格で敬虔なカトリックだった ー の若いころのお話しがモデルなのだという。
時は1980年頃、ロンドンのLadbroke Grove界隈の一軒家で、ソファを庭に出したり、でっかいスピーカーを家に運び込んだりしている若者たちがいて、キッチンでは料理を作っている女性たちがいて、若者たちは配線してスピーカーを繋いでサウンドシステムから音が鳴ると歓声をあげる。

夜中に家の2階の窓から靴を抱えてこっそり地面に降りてどこかに向かう女性がいて、これが主人公 – という程目立つわけではない – のMartha (Amarah-Jae St. Aubyn)で、友人の女性と落ちあってバスでさっきの家に向かうと、その家には若者たちがいっぱいいて、50p払って中に入るとフロアでDJがぶんぶん音楽を鳴らしてて、キッチンでは料理がサーブされてて、みんな思い思いに - 体揺らしたり一緒に踊ったり、煙にまみれたり、庭のソファでだらだらしたり - 楽しんでいる。

映画はこの一晩にこの家のダンスフロアで起こったことを中心に、シンデレラのMarthaが朝迄にそうっと自宅のベッドに戻るまでを追う。誰かは誰かといつも一緒にいる、誰かは誰かを狙っている、誰かは誰かから離れようとしている - でも殺人や惨劇が起こることはないの。みんな暴れるのではなく楽しむためにきているので、睨みあいや小競りあいや引っ掻きあいはあるけど、降り注がれる音楽 – ラヴァーズ・ロック - がすべてを包みこんで酢漬けの骨抜きにしてくれる。

"Kung Fu Fighting" (1974)でみんなバカみたいに一緒に踊ったり、Janet Kayの“Silly Games” (1979)でみんな鳥みたいに超高音だして笑ったり、ひとりだけ危ない動きをしている奴がいてはらはらしたり、そういうフロアの様子、そして家の中と外の様子を隅から隅まで繋いで捕えて我々を離さないカメラがすばらしいの。そこで流れていた彼らだけの時間。 昼間にどんな辛くてやなことがあったとしてもー。

これはLockdown真っ只中の6月に見た”Babylon” (1980)と同じ場所 - Ladbroke Grove、同じ時代のお話しで、あそこで力強く鳴らされていた闘争のためのダヴやレゲエがここではラヴァーズ・ロックになっていて、でもそこにギャップはないの。彼らが肌を摺り合わせるその隙間にサウンドシステムの振動が挟まってきて彼らの生そのものを揺らし、固める。 できれば”Babylon”との2本立てで、ライブハウスにサウンドシステム組んで上映するのが理想的。

今から40年前のこと、という時間差もあるけど、あんなふうにフロアでくっついて踊って騒いでいた時代が本当に遠く感じられて、その遠さというのは“Mangrove Nine”を見た時に感じる時代的な距離感と違うのか同じなのか。そういう距離の、そういう記憶の域に置いてしまってよいのだろうか、という問い。 今ああいうのをやろう/やりたい! とかそういうことではなくて。

最後に彼と自転車に乗ったMarthaが見る朝の光 - あのかんじを思い出すんだ、って。
いいなー、って終わってしばらく立てなかった。立ちたくなかった。

エンドクレジットにDennis Bovellの名前があって(IMDbには出てない)、彼が出ていてもちっともおかしくないのだが、どこにいたんだろう?

あと、Original ScoreはMica Leviってあるんだけど、どこで鳴っていたんだろ?

10.21.2020

[film] Ammonite (2020)

18日、日曜日の午後、BFI Southbankで見ました。LFFのクロージング作品。
見なきゃ見なきゃと言いつつ未だに見れていない”God's Own Country” (2017)のFrancis Leeの最新監督作品。

英国の実在した古生物学者Mary Anning (1799-1847)を登場させて、彼女の生涯の一時期を切り取ってみせたフィクション。ちなみにSaoirse Ronanが演じるCharlotte Murchison (1788-1869)も同じ時代に実在した地質学者で、ふたりは1825年にライム・レジスで会って、その後ロンドンでも会ったという記録があるそう。でもこれはフィクション。

19世紀の真ん中頃、英国南西部ドーセットのライム・レジスの海岸 – 波打ち際から少し奥に入って崖になっているあたり – でしゃがみこんで石を拾ったり掘ったりしている女性がいて、それがMary Anning(Kate Winslet)で、家に戻ると老いた母親がいて、ふたりで拾った石とか石でできた装飾品を売る小さな土産物店をやっていて、ふたり共寡黙で、豊かではないかもしれないけど落ち着いて暮らしている。

ある日、観光でやってきた紳士が化石についてMaryと話をした後で、連れている彼の妻Charlotte Murchison (Saoirse Ronan)のことでお願いがある - 彼がロンドンに行っている間の4~5週間、彼女の面倒を見てあげてくれないか、と言うので、まずはそんなのだめ、って断るのだがお金のために仕方なく受ける。しばらくするとCharlotteは彼女の店を訪ねてきて、Maryの化石堀りについてくるのだが終始つまんなそうで(まあ、つまんないだろう)、そのうち冷たそうな海に落ちてびしょ濡れになって、風邪で高熱を出してMaryの家で寝込むことになる。

自分の化石掘りについてMaryはほぼ喋らず語らず、でも実際には彼女が掘りあげたIchthyosaursは大英博物館に行っていたりするし、石をひとめ見ただけで判別してしまうのですごい人のようで、でもほぼ喋らないし自慢もしないので本当のところはわからなくて、別にわかって貰おうともしていない。まるめの背中が寄ってくるな触ってくるな関わらないで、ってずっと言っているような。

Charlotteも最初はずっと黙っているのだが、最初の子を流産してから塞ぎこんで鬱になっていたことがわかり、やがて風邪から回復して医師から音楽会に招待されると、隣に座った婦人と楽しそうに社交のお喋りを始めたので、なーんだそういう奴かよ、ってMaryは膨れたり。

そんなふたりが化石掘り以外にすることもないので横並びで一緒に掘っていって、しょうがねえなあ、とか、なにやってんだよ、みたいなやりとりをしつつ、大物を掘りあてたりして、互いにおそるおそる近寄っていって.. という辺りがものすごくよいの。火花を散らして燃えあがる愛のようなやつが石を拾って化石を掘って、の地道な作業と同じようなペースのなかで突然見出される。ふたりはただの石ころの奥にそいつが眠っていることをわかっていた。愛っていうのはそんなふうにして掘りだされるあれではないのか(なんてもちろん言わないよ)。

やがてCharlotteは夫のいるロンドンに戻らなくてはならなくて、Maryはお別れしてからまた元の暮らしに戻った、と思ったら母が亡くなって、そういう状態でCharlotteからの手紙を受けとるとたまらずにロンドンに出て行って、そしたら…

あのラストはすばらしいの。なにかが溢れかえる、というより、地味だけどじーんて、ずっと残る(まだ残っている)。

地の果てのような場所で、金で雇われてしぶしぶ始まった関係が... というと日本でももうじき公開される(よかった!)“Portrait of a Lady on Fire” (2019)に少し似ているのかもしれない。あれは浜辺で絵を描いていく話だった(そんな単純なわきゃないが)。 火と石(それか貝か)の違い、くらいには違うかも。

あと、終始むっつりしたままのKate Winsletが見事で、そこでどうしても”Nomadland”のFrances McDormandのことを思いだしてしまう。Maryはずっとあの浜辺にいて移動なんてしないのだが、石を掘って拾いあげてそれを割って磨いて、そういうのを延々続けながら数億年前の恐竜とかアンモナイトに到達しようとする – 座りこんでそんな時間の旅を続けていくNomad - Bruce Chatwinの方に近い – の一種なのではないか。

そして、極めてほんとうにどうでもいいことなのだが、”Nomadland”にも”Ammonite”にも、主演女優が野外で座りションをするシーンが登場する。LFFの同じシアターで続けて見た2本がこうだとなんというか。偶然だろうけど、偶然だろうか…

Mary AnningのWikiとか読んでいるとおもしろいねえ。”She sells sea shells by the sea shore”って彼女のことなのね(明確な証拠はないらしいけど)。

10.20.2020

[film] Rebecca (2020)

17日、土曜日の夕方、Curzon Victoria - 映画館で見ました。これはさすがに人が入っていた。
Netflixにももうじき(明日?)来るやつ。

Daphne du Maurierのブリリアントな原作 (1938)があって、Hitchcockの映画 (1940)、これもクラシックなマスターピースから80年たってのリメイク。 いい度胸じゃねえか、ってレビューではぼこぼこに叩かれているようだが、まあでも、そんなに悪くなかったかも。過去のと結びつけたり比較したりしようとしなければ。 これもまたRebeccaの呪いなのかもしれない。

後にMrs. de Winterと呼ばれることになる女性 (Lily James)の声の回想で始まる。彼女がモンテカルロのリゾートで、偏屈なお金持ちおばさんのお付きとしてドジなあたし全開であたふたしている時にMaxim de Winter (Armie Hammer)と出会って、おばさんが病で臥せっている隙に彼と仲良くなって、でもおばさんが回復して別れる時がきて、そしたらMaximから結婚しよう、そのまま英国に行こう、って言われる。

Maximは妻を亡くしていて、そこに話題がいくとたまに暗いところを見せるのだが、彼の邸宅はコーンウォールの海岸沿いに建つお城のようなお屋敷でManderleyって呼ばれていて、Maximが彼女を連れて車で奥に入っていくと執事とか召使がずらっと並んで迎えてくれる。でもそこでは彼の前妻のRebeccaに仕えていたMrs. Danvers (Kristin Scott Thomas)が隅から隅まで仕切っていて…

 “Emily in Paris” ← パリが恋しいので見てる – meets “Downton Abbey”をものすごくダークな方に突き落としたらこんなかんじ? Emilyがお屋敷でうわぁーってなる端から刺される叩かれる殴られる泣かされる、でもめげずに.. こんな話じゃなかった気がとっても。

やがて屋敷のところどころで見え隠れして彼女を苦しめるRebeccaの影が最悪に終わった仮装舞踏会の終わりに突然水死体として浮かびあがってきて、なんなのこれ?って。

彼女はMaximと前妻の間になにがあったのか、Rebeccaがどんな人だったのか十分に知らされていないし、Maximもお屋敷の人々も知らせていないので当然そこにはギャップがあって「なんで教えてくれないの?」って泣くのはわかるけど、これはそういう話ではなくて、お屋敷に馴染んでいくにつれて幽霊のように亡霊のようにいつでもどこでも付いてきて彼女を見ている/彼女が見ていると思うRebeccaその人の存在、その死の謎に関わるお話しなの。彼女ががんばってRebeccaの死因を突きとめました – わかりました - とかそういうのじゃないの。とにかく単純に、タイトルロールの”Rebecca”が薄すぎて、そのこと自体が何かを指し示しているというか。

なんでRebeccaは死ななければならなかったのか、そして、なのにまだあんなふうに生きているかのようにすべてが遺されているのか、っていう問いを通して男系社会(Mrs. Danversもその一部)が女性をいかに生殺しにして放置するか、そういう地獄を晒す話なのだと思っていた。そして彼女は知らず知らずのうちに次の餌食になってしまう可能性が十分にあって、それが見えているRebeccaは彼女を守るために海から蘇り、Mrs. Danversに命じてすべてを焼き払ったのだ、としか思えない。 

こんなふうにいろんな見方読み方をすることができる古典だから別にいいけど、これだけいろんなモダンホラーが出てきている今なのに、なにかしら半端にその可能性を狭めてしまっているような気がしてさー..

あと、Armie Hammerはやっぱり違ったのではないか。イギリス人の俳優にしないとさー。Hitchcock版の冒頭でLaurence Olivierが崖から飛び降りようとしていたあの危うさ、彼には自分を追い込みながら他人のことなんて知ったこっちゃない独善ぶりとそれを当然と思う傲慢さ - イギリスの貴族階級の腐臭ぷんぷんがあったけど、Armie Hammerは自殺なんてしそうにないし狂ったかんじを表現するにしても別のタイプ(糸巻ぐるぐるではなく空っぽ系)だと思うし、”Call Me by Your Name” (2017)のなんも考えてない明るいアメリカ人、にしか見えない彼(褒めてる)の方が使い方としては正しいと思うんだけどー。

Lily Jamesさんはがんばっていてよいのだが、”All About Eve” (2019)にあった主人をoverrideする図太さがほしかったかも。

Kristin Scott ThomasのMrs. Danversはお見事だと思った、けどあの終わりかたはどうだろうか。火か水か。

あと犬のJasperもHitchcock版の黒い子の方がよいわ。

次のリメイクをやるなら女性監督に撮ってほしい。英国には優れた人がいっぱいいるよ。

とにかくこれの前にNational Galleryで見たArtemisia展が凄まじくてさあー。

10.19.2020

[film] Nomadland (2020)

16日、金曜日の晩、LFFでBFI Southbankで見ました。
こないだのVenice Film Festivalで金獅子を獲って、NYFFでも大評判になっていたChloé Zhaoの新作。

上映前にChloé ZhaoとFrances McDormandの録画されたトークが流れて、ふたりでRVにちょこんと座ってなんかよいかんじ。前作の”The Rider” (2017)までは素人を使っていたところを今回初めてFrances McDormandとDavid Strathairnというプロの俳優を起用したことについて、などなど。

原作はJessica Bruderのノンフィクション- “Nomadland: Surviving America in the Twenty-First Century” (2017)。
最初にネヴァダのEmpireという町が石膏工場の閉鎖に伴って郵便番号ごと地図から消えた、という字幕 – 事実が出る。

Fern (Frances McDormand)は夫が亡くなった後もひとりそこで暮らしてきたのだが、今もひとりで、貸倉庫にあるものをいくつかRV(トレイラー)に積んでから凍てつく道路に走りだしていく。最初に入るのがでっかいAmazonの配送センターで、彼女はもう季節労働者として慣れたかんじで仕事仲間とやりとりして、洗濯したりお喋りしたり。そこを出るとまた次のトレイラーキャンプのようなところに移動して、そこでバイトのような仕事をして、あれこれ調達していろんな友達を作ってあそこがいいとかわるいとかの情報交換をして、また次に移っていく。年金とか福利厚生のこともあるので、行政の人とも話したりするのだがそこで彼女は自分を”Homeless”ではなく”Houseless”である、という。

最初にAmazonのセンターが出てきた時、”Sorry We Missed You” (2019) のような貧困をテーマにした悲惨なドラマなのかと思ったのだが、ぜんぜん違った。車が壊れてお金が.. のようなエピソードは出てくるものの、一箇所に定住せず、季節ごとに場所を変えて生きていくFernとその周囲にいる人々(仲間、というかんじではない)のありよう – 「どうやって」生きるのかというより彼女たちが「こんなにも」生きているその姿 - を描く。ものすごく寒そう(天候が)な光景もあれば、極楽のように美しい四季の景色もあり、困ったことも悲しいことも起こるけどそれって我々の日々とそんなに変わらない。そこに悲惨さなんてないし、そもそも誰にそんなことを言う資格があるの?

Chloé Zhaoの前作の”The Rider”は、頭に致命的な損傷を負いながらもロデオの、馬上の世界から抜ける(を捨てる)ことができない男の話で、そうしなければ生きることができないような生き方を美しい景色の中で清々しく描いていたが、これもそうで、車で移動を続けながらその日暮らしを続けていくFernに周囲や家族は同情したり困惑したりするものの、彼女は揺るがず、自分の家であるRVに乗りこんで自分の家である道の上を走っていく。

(Chloé Zhaoが他に潰しのきかない不器用な単独の生を描くのに対して、Kelly Reichardtの映画では誰かがその状態をひっくり返したり煽ったりしにやってくる、気がする)

繰返しになるけど、人がそうやって自分で生きていくことについて、そもそもは(法に触れない限りは)自分以外の誰かがあれこれ言うべきことではない、となった時に次に問われるべきはその生がどれだけ堂々とした豊かなものとして描かれているかで、その点ここでのFrances McDormandは本当にすごい。男のようで女のようで、少年のようで老人のようで、そんな彼女がランタンを手にすたすた歩いていくだけでなんであんなに感動してしまうのだろう。彼女の表情やため息や慟哭を俳優のそれとしてとらえることがまったくできない、そういうすごさ。

繰返しになるけど、人は助け合うもので支え合うもので - そんなの十分にわかるしわかっている、でもそういう生き方ができなくて、両手にいっぱいの記憶や思い出を抱えて立ち尽くして - “What’s remembered lives” - 残っていくのはそういうもので、我々を生かして、生き延びさせてくれるのは家や場所やモノではないのだ、ということを知ったとき、ある場所に留まって暮らしていくことが耐えられなくなる人達もいるのだ、ということもわかってあげてほしい。

少し前に見たドキュメンタリー – “Nomad: In the Footsteps of Bruce Chatwin” (2019)も同様にNomadをテーマにしたものだった。これを見るとヨーロッパとアメリカではNomadのありようも異なる、というのがわかっておもしろいのだが、”What’s remembered”を抱いて/求めてどこまでも獣道を走っていく、という点は共通しているのかもしれない。 そして、この映画にはFernのようなNomadを通して今のアメリカを描く、という側面も当然ある - けどそれはわかりやす過ぎてやや危険な気もする。

そして、あれこれ縛りまくって慣れあうのでNomad的な生き方を断じて許そうとしないのが(特に昨今の)にっぽんの共同体というあれ(縛りの切り札としての生産性だなんだ … )で、世界でいちばん嫌いで苦手なやつなのだが、あの国にもそういう人(々)を描いた作品はあるの。 例えば大島弓子の『ロストハウス』とか。いますごく読み返したいのだが日本に置いてきてしまった..

 “The Rider”に続いて撮影を担当したJoshua James Richards、Ludovico Einaudiの音楽もすばらしいったら。

こういうのに備えるためにアメリカの運転免許を更新しておくんだったわ、と改めて。


夕方に外に買い物にでても、もう日が短くてあっという間に暗くなっていくのでなんか辛い。そのうち慣れる。 といいな。


10.18.2020

[film] Our Dancing Daughters (1928)

11日、土曜日の昼、Criterion ChannelのJoan Crawford特集で見ました。
サイレント。邦題は『踊る娘達』。 大ヒットして、Joan Crawfordをスターにのし上げた1本とのこと。

Diana (Joan Crawford)はドレスもナリも派手でぶっとんでてパーティ仲間の間ではとんがった人気者としてどんちゃん騒ぎの先頭に立ってわーわーやっているのだが、裏では両親の言うことをちゃんと聞くよいこで、仲間のひとりAnn (Anita Page)はややおとなしめに見えて結婚はなんといっても金よ相手は金持ちに限るわよ、って情け容赦なく残虐で、仲間のもうひとりBeatrice (Dorothy Sebastian)は既に付き合っている金持ちの彼がいるのだが、こいつは過去のこととかでうじうじ悩んでばかりの奴で、どうしたものか、になっている。

ある日、DianaとAnnはパーティでぱりっとした金持ちのBen (John Mack Brown)と出会って、モノにするならこいつだぜ! ってなって、DianaとBenはしっとりよいかんじになるのだが、策士Annが背後から羽交い締めくらわせて横取りして、あーあ、になっちゃって諦める。 でもそのうちAnnがex.彼とか親とか巻きこんで嘘ついていたことがわかって…

やっぱり結婚にしても恋愛にしても金とか名誉とかじゃなくて徳よねー  ずるしちゃだめよねー、に違いないのだが、ラストのAnnへの仕打ちが唐突ですさまじいのでびっくりした。

最初の方でJoan Crawfordさんが字幕上ではっきりと宣言する -
“To myself ! I have to live with myself until I die - so may I always like - myself !”
ていうのが、その後の彼女のキャラクターをぜんぶ象徴しているねえ。それにしても、サイレントでも彼女の声って響いてくるんだよ。

これってどういう客層(親たち? 娘たち?)に、どういう理由で受けていたのか、ちょっと気になるかも。

Dancing Lady (1933)

17日、土曜日の昼間、Criterion Channelで見ました。 これも歌って踊るJoan Crawfordによるpre-code映画。

Janie (Joan Crawford)はブロードウェイのバーレスクショーで踊っているときに少し肌を出しちゃったらそのタイミングでガサ入れにあって逮捕され牢屋に入れられるのだが、罰金を立て替えてくれて出してくれたのがそのショーを見ていたお金持ちのTod Newton (Franchot Tone)で、彼女に好意を持っているらしくなんでも言ってごらん、というのでブロードウェイの演出家Patch Gallagher (Clark Gable)が仕込みをしているミュージカルに出たい、と言ったら、そのプロダクションにお金をいれて口利きしてくれてシアターに入ることができた。

でもPatchとJanieは最初はつんけん喧嘩ばかりしてて、でもJanieのダンスを見た彼は考えを改めてふたりはよいかんじになって舞台も仕上がっていくのだが、どうしてもJanieと結婚したいTodがプロダクションから突然お金を引き揚げてしまったので、シアターは解散して、TodはJanieをキューバに連れて行ってプロポーズしちゃうの…

なーんのひねりもないバックステージものなので、安心して見ていられて、Joan Crawfordの雑だけどダイナミックで迫力たっぷりのタップとか、Joan CrawfordとClark Gableがジムでエクササイズしながらやりあうとことか、これがスクリーンデビューらしいFred Astaire役で出ているFred AstaireとJoan Crawfordのダンスとか、どうみてもBusby Berkeleyのぱくりにしか見えないレビューシーンとか、裏方で絶え間なくバカをやり続けているthe Three Stoogesの連中とか、お正月映画みたいに見所がたっぷりあって飽きないの。

あと、どうでもいいけどTod役のFranchot Toneは、このあとリアルJoanと結婚する(Joanにとってはふたり目の旦那)。


今日でLondon Film Festivalが終わった。ほんとあっというま。 結局オンラインとリアルで10本みた。こんなもんかねえ。まだ見ていない上映後トークやQ&Aの動画がいっぱいあるので見ていかねば。


[film] Delia Derbyshire : The Myths and Legendary Tapes (2020)

15日、木曜日の晩、LFFのオンラインで見ました。この日のこの上映がワールドプレミアだったそう。

監督で女優のCaroline Catzさんによる、英国の電子音響 〜 Electronic dance musicのパイオニアとされるDelia Derbyshire (1937–2001)の評伝ドキュメンタリー映画 - 一部実演パートあり(実演パートでは監督自身がDelia Derbyshireの役を演じている)。 監督は2018年に同タイトルの短編(13分)を発表していて、今回はそのフル・バージョンというか完成形というか。

2001年7月3日 - Delia Derbyshireさんが亡くなった日 - Northamptonの家の屋根裏から267本のテープが見つかった ー という出だしに導かれて、彼女の生涯を追う旅が始まる。 Coventryに生まれ、幼い頃の空襲警報の音(とそれがクリアされた時の音)を音の原体験として聞いて育った彼女はケンブリッジで数学と音楽を学んで、どうしても音楽をやりたいとDeccaの門を叩くが、女子は秘書以外は採用していないと鼻であしらわれ、ようやくBBCに見習いのような形で職を得て、そこの音響効果部門として設立されたRadiophonic Workshopに入って、60年代からTVやラジオ番組の効果音響とかを手がけて、その代表が英国人なら誰でも知っている(みたい。よく流れるし)”Doctor Who” (1963-)のテーマ音楽(の音色)を作った人(として認知されたのはずっと後のことだが)として知られる。

誰も聞いたことがない、世界に存在したことがないような音/音色を作る、という使命に燃えつつも現実には仕事の締め切りや制約に追われて職場でぐったり、という日々の姿と、シンセサイザーの登場してきた時代に実験音楽も含めて仲間との間で共同制作や創作を続けつつも”Feminism登場前からのPost-Feminist”として奮闘する姿を、彼女の実際のインタビュー音声や関係者証言、実演ドラマを通して追っていく。 そしてこれらの背後で、彼女の音やテープに残された周波や波形を使って彼女とチャネリングしつつその像を呼びだしていくCosey Fanni Tuttiさん(かっこいい)がいる。

当時のロックのシーンとの関わりだとスタジオにBrian Jonesが来た、とかJimi Hendrixとのことが少し触れられているくらいで、どちらかというとEMS Synthiの登場とか新たな機器やテクノロジーの革新に触れて仲間たちとKaleidophon studioを立ち上げて舞台音楽などにもフィールドを広げていく辺りが音楽ドキュメンタリーとしてはおもしろくて、でもその裏側で彼女は疲弊して70年代の真ん中にぷつりと音楽を止めて田舎の方に引っこんでしまう..

彼女がやろうとしたことを電子音楽やノイズミュージックの歴史 - ここにBBCのような放送局やポピュラーミュージックがどんな役割を果たしたのかも含めて - にきちんと位置付けたり検証したりすることがメインで、他方でそれを正面からやろうとすると、彼女が女性であったが故にぶつかった壁や差別の構図が見えてきてしまう、という近年の歴史検証ドキュメンタリーには定型のあれになって、その辺で映画としてはやや散漫になってしまったかんじなのが残念かも。 実録パートよりも彼女の遺した音像いろいろについて、後世のミュージシャンたちの証言も含めてもっともっと聴きたかった。

それか、Cosey Fanni Tuttiさんにぜんぶ任せて音だけを延々流してもらうだけ、とか。
関係ないけど、わたしがこういう系の音に触れたのはThrobbing Gristleの”Heathen Earth” (1980)あたりが最初だったと思うのだが、これの最初のトラックのぼわーん、ていうのにそっくりな音がこの映画で聞こえてくる。

それにしても最後の方で流れる彼女が60年代に作ったというEDMのプロトみたいなのを聴くとびっくりするよ(もう有名なことだったのかも知れないけど)。そのままクラブでがんがん流してもへっちゃらな強さと洗練があるの。

昭和のにっぽんに生まれた我々の”Doctor Who”的な音ってなんだろうか?  やっぱり「ウルトラQ」になるの?

 

10.17.2020

[film] American Utopia (2020)

14日、水曜日の晩、LFFの、BFI Southbankで上映されたのを見ました。

こちらでの上映タイトルは”David Byrne's American Utopia”。
きっとこの後、”Trent Reznor’s American Dystopia”みたいのが出てくるのを見越してのことだと思う。

上映前に(録画だと思うが)David Byrne氏とLFFのプログラマーとのQ&Aがあった。

“American Utopia”は最初はDavid Byrneのソロアルバムで、それをライブショーに展開したものをブロードウェイのミュージカルにして、その時点で当然やり方とか仕様は変わって、これをフィルムにする、となったらどう変わるのだろう、って、ここでSpike Leeを呼んで、彼は何度かショーを見に来てくれた後で「やる」と言って今年の2月、10数名のカメラクルーが乗り込んできて撮影が行われた、云々。

当然のようにSpike Leeが撮ったPVのようなものにはなっていないし、隅から隅までDavid Byrne、というわけでもない。たぶん、「今のアメリカ」 vs. “American Utopia”という揺るぎない視座というかリングがあって、そこに両者が(更にはJames Baldwinが、Janelle Monáeが)Joiuntしている、そんなかんじ。

2018年にロンドンのO2アリーナで行われたこのライブを逃したのは後悔オブザイヤーだったのだが、それがブロードウェイのシアターのサイズに縮まって定席化され、それが今回は(映画館がフルでオープンできないことを考えると)TVやPCのサイズになった。サイズが小さくなっていくにつれてそこに込める/込められるものも当然変わってくる。その辺は当然のように考慮されていて、単にライブショーを撮ったものではなくなっている。ほぼ真四角の土俵の真上から捉えたもの、床面から足の裏を捉えたもの、どうやって撮っているのかわからないくらい近寄ったもの、などなど。

ライブフィルムの概念とか常識を変えた! というのは宣伝の常套句として昔から割とどこにでもあって、その点では”Stop Making Sense” (1984)は当時まさにそういう言われ方をしていた。舞台の骨組みを見せて、光と影、三面スクリーン、でっかいスーツ、ひとりからの増殖、など、そこでは弾き語りからファンカデリックの音の乱れ打ちへと変容していくなかであらゆる「意味」を積んで盛って飽和させて結果的に無化し、それら束になって道化のDavid Byrneを壊していく様がドキュメントされていた。(”American Utopia”のエンディングクレジットにはJonathan DemmeへのSpecial Thanksが)

そして、”Utopia”にはあらゆる意味が正しく充足されて既にそこにあるのだから、Stop ”Stop Making Sense”という状態を示している、とは言えないだろうか。

この作品でも最初は机に座って脳みそを手にしたDavid Byrneがひとり、銀ラメの魚みたいなエンターテイナーのスーツを着て、そこに同じ衣装のヴォーカルが2人、太鼓が3人とか加わって音がだんだん厚くなっていく。パーカッションは”Stop Making Sense”の横並びアフロファンクからサンバのバテリアによるトロピカリアになっていて、床に固定された楽器はない。全員が楽器を抱えたちんどん屋になって縦横無尽にくるくる練り歩き、その動きは勿論振り付けられてはいるもののコントロールされたかんじはしない。ひとりひとりがパートの機能役割を意識的に担いつつも自在にポータブルに動き回る - 理想的なちんどん屋(= Utopia?)。演奏のクオリティとバンドのダイナミズム、この文脈で再定義されたレパートリーの新鮮さ、などなど聴いていて気持ちいいったらない。

さすがにもう”Psycho Killer”とかはやらない(と本人も語っていた)。 “This Must Be The Place (Naïve Melody)”とか“Everybody's Coming to My House”とか “Burning Down the House”とか“Road to Nowhere”とか、場所とか家とか、それがあること、それの持つ意味についてを問うているものが多くて、それを落ち着きのない、一点に止まることのない動きのなかで歌って、それを聴く我々はコロナで家の外に出られず画面の前に縛りつけられている – なのに“Everybody's Coming to My House” – とか歌ってしまう皮肉。 これが”America”であることはなんとなくわかる。でも果たしてこれは”Utopia”なの?

最後の方で歌われるJanelle Monáeの“Hell You Talmbout” – BLMでも取りあげられた多くの死者(→ Dystopiaによって殺された)の名前が読みあげられ呼びかけられ、彼らの肖像写真が掲げられる。そしてそれを手にしているのはおそらく彼らの家族で、その場所は同じステージの上であることに気付く。この部分の映像はライブとは別で撮られたもので、Spike Leeはおそらくこれをやりたかったに違いない、というのと、もういない彼らの像がステージに現れることで、”Utopia”は完成するのだろう、と。(ちなみにオープニングとエンディングで表示される”Utopia”のタイトルは上下が倒立している) そしてこれもまた、なんとしても大統領選直前に公開/放映されなければならなかった1本..

最後にちんどん屋は客席の間を練り歩いて、そこから楽屋に引っ込んだDavid Byrneは楽屋口から自転車で町に飛びだしていく(彼は自転車の本も書いているし)。車ではなくて自転車で - 馬車でも列車でも車でもなく、自転車である、ということ。どこまでも - ステージを離れてもコロナ以降のありようを示していて、この舞台が2021年の公演再開の時にはどう変わっているのか、楽しみ。

あとはそれまで”America”が保つかどうか...
 

10.16.2020

[film] Undine (2020)

13日、火曜日の晩、LLFが行われているBFI Southbankで見ました。

今回のLFFで、出かけていって見た最初のシアター上映作品。でも開始が20:45のせいか、映画祭の華やかさは欠片もない。3つのシアターの入り口はそれぞれ別の裏入り口みたいなところで分けられていて入って出るだけ、ロビーでざわざわしたりカフェやバーでわいわいしたりもない。そんなの別になくても、って思ってきたけどなければないでなんかつまんないっていう。

ついこの間見た気がする“Transit” (2018)に続くChristian Petzoldの新作。主役のふたり - Paula Beer & Franz Rogowskiもそのまま。これがかかった今年のベルリン国際映画祭で、Paula BeerはBest Actressを受賞している。

冒頭、Undine (Paula Beer)とJohannes (Jacob Matschenz)がカフェで向かい合って固まっていて、言葉少なく別れを切り出すJohannesに向かって、Undineは泣きながら別れたら死ぬことになるよ、とか言っている。

Undineは歴史学者で、博物館だか市の施設の中で、ベルリンの街の成り立ちとか都市計画とかその歴史について、いくつかのジオラマを参照しながらツアー客相手にガイドをしているのだが、先程の別れ話がショックだったので途切れたり止まったりしている。がんばって説明を終えて隣のカフェで大水槽の前に立ってぼーっとしていると、Christoph (Franz Rogowski)が寄ってきて、さっきの説明がすばらしかったので御礼を言いたくて、という。Undineが険しい顔をしているのでさっさと立ち去ろうとしたとき、突然大水槽のガラスが割れてふたりは水浸しになってその破片でUndineは少し怪我をして。

こうしてUndineとChristophは仲良くなって、Undineの住んでいるベルリンとChristophの働いている少しは離れた田舎の水辺 – 彼はここで潜水士(溶接工事とか)の仕事をしている – を行ったり来たりのつきあいが始まって、Christophは潜水しているときに巨大ナマズを見たり、Undineと一緒に泳いでいるとき、不思議なものを見たり、彼女に潜水士の人形をあげたり。

ある日、Christophが田舎に戻るので駅に向かってふたりで腕を組んで歩いているとき、向こうからJohannesと奥さんが歩いてくるのとすれ違ったのでUndineは振り返り、きっ、って向こうを睨むのだが、その晩UndineはChristophから妙な電話を受けとる。昼間の彼女について、彼らとすれ違ったとき、胸の鼓動が高まっていただろ、って一方的に彼女を責めると電話は切れて、なんかもやもやしたので翌日彼が働く水辺に行ってみると…

Undineという名前は水の精霊 - 『オンディーヌ』 - なので水辺とか水槽とか潜水士とか水に関わる場面が多く出てくるのだが、彼女の皮膚がウロコやヒレに変わったり、歯がぎざぎざになってロブスターを殻ごと齧ったりなにかを食い破ったりすることはないの。変な、不可思議なシーンや現象はところどころ出てくるものの、それらに明確な答えや理由があるわけではなく、Undineの叶わぬ悲恋、とその周辺をゆっくりと回っていく。そういう不可解なところが水のなかに音もなく沈んでいくかんじがなんかいいの。

Undineが静かに水に入っていって飛沫も波紋も立てることなくすうっと水中に消えるシーンがすばらしい。(ゴダールの映画にこんなところなかったかしら?) そしてあのラストも。

とにかくPaula Beerさんと水(含. 涙)の相性がものすごくよいので多少理不尽なことが起こっても変に見えないし、あまりに平々凡々としたChristophの佇まいとか喜んだり狼狽えたりの素ぶりがそこにまた嵌ってクラシックなカップルの像を結ぶ。

上映前にベルリンにいる監督とのQ&Aのビデオが流れて、こないだのヴェネツィア映画祭ではJoanna HoggさんたちとFairy taleと映画についてずっと話していたそうなのだが、これは3部作の最初のパートとなる作品で、ベルリンと水についてで、次の作品はバルト海と火についてのものになる、って。

関係ないけど、監督の背後には『東京物語』のスチールを貼ったパネルが立てかけてあった。


ロンドンでのCovid19の警戒レベルが”Midium”から”High”にあがったって。美術館と映画館が閉まらなければ。それだけ。

10.14.2020

[film] Aggie (2020)

12日、月曜日の晩、Film ForumのVirtualで見ました。

アメリカのアートコレクターで篤志家のAgnes Gund – “Aggie”のドキュメンタリー。監督は彼女の娘のCatherine Gundさんで、家族ならではのほんわかしたやりとりも描かれていて、それはこの映画に関してはよい方向に作用しているような。

彼女は1991年から2002年迄MoMAの総裁(President)をやって、NY市の学校の子供達へのアート教育を推進するプロジェクト”Studio in a School”をしたり、有名なところでは自分のコレクションのRoy Lichtensteinの“Masterpiece”(←タイトル)を$165ミリオンで売って、”Art for Justice Fund” - 正当な刑事裁判や更生プログラム導入のための –を立ち上げたり、映画関係だと”Pink Flamingos” (1972)をMoMAのコレクションに加えたのは彼女だったり。

わたしがアメリカに行って最初に見た展覧会はMoMAの”Henri Matisse: A Retrospective” (1992-1993)で、あれは今思いだしても空前絶後のとんでもないやつだったが、この辺りを境に、90年代中~後半のMoMAは従来のモダン・クラシックス路線から結構エッジ―で辺境の見たこともない変てこなやつらを積極的に紹介するようになっていった気がする。その背後にはYoung British Artistsの台頭とかいろんな事情があったのかもしれないが、そういったシーンの裏にいたのが彼女でした、と。

クリーブランドの銀行家の、アートとは全く縁のないごく普通の家庭で育った彼女がなんで? という生い立ちの部分と、先のLichtensteinとかRauschenbergとかRothkoといったアーティストとの交流と彼らの作品を集めていく話、そしてLouise BourgeoisやMarina Abramovićといった女性アーティストとの話や彼らのコメントを車に乗った母と娘の会話が繋いでいく。

とりとめないと言えばそうかも、だし、彼女のどこになにがどう引っかかって、ばかでかい(見るひとが見たら)ゴミと紙一重のようななんかの塊だの堆積だのをアートだと思って買ったり集めたりしてきたのか、その思惑とか謎は明らかにされないし、その手つきが結果的に招いたアート市場のバカバカしい高騰についてどう考えているのか等、もやもやするとこともあるのだが、そこは掘ってもわかんないか。

ただ、上映後におまけで付いていた監督とAggieへのインタビューも含めて見たときに、改めてアートは社会にとって何でありうるのか - 昨今の学問は、人文は、アートは何の役に立つのか – っていう、どっかの国で巻き起こっているしょうもない議論(ほんとにやだ。あの連中ぜんぶ肥溜めに漬けこんで地底人の餌にしてやりたい)の行方とかその考え方についてはきちんと整理されている気がした。 

得体のしれない、見たこともないような何かに遭遇した時に感じる戸惑いとか疑念とか、これはなんだろ?  なんでこんな色と形なんだろ? と考えたり話を聞いたり想像したりする力は共感(empathy)する力に繋がっていて、それが”Justice”について考える際にはぜったいに必要になるのだ、と。そんな単純なパスではないだろ(悪についても同様のことが言えないだろうか?)とは思いつつも、これってひとつの解にはなっているのかな、って。 見たくない考えたくないそんなの時間のムダ、みたいな連中に共通した物言いとか、ひとめ見ただけの入り口で拒絶する返し方とか、そうとしか思えないもん。「反知性主義」なんて大層なものでもないの、ただ幼児がイヤイヤしてるか卑しい卑怯者がいじめたくていじめているだけなの。(過去散々あったので地獄に堕ちろ、よりもっとひどいことを頭のなかで叫んだり思ったりしている)

でも、本屋がなくなり図書館がなくなり映画館はアニメばかりで美術館は年寄りに占拠され劇場もライブハウスも閉鎖、という今の状態は非常に相当にやばい、と深刻に思っていて、だからAggieみたいな人がいるだけでアメリカは羨ましい。なんでいま、Gerhard Richterに30億円つぎこんで喜んでいるのか、そっちじゃないだろうに。

おまけのインタビュー映像のトークではBLMが盛りあがって大統領選を前にした今、出るべくして出たわね、ってインタビュアーの女性は語っていたが、そうかもしれないしそうじゃないかもしれない。Aggie本人はふふん、て笑っているだけで、あまり語らず、それってソーシャルなあれこれを操る詐欺師かアーティストの謎めいた微笑みにしか見えなくて、でも彼女になら騙されてもいいや、って。

孫たちとのやりとりも素敵で、あんなおばあちゃんがいたらなー。

10.13.2020

[film] Śniegu już nigdy nie będzie (2020)

11日、日曜日の晩、LFFのオンライン上映で見ました。

ポーランド映画で、BFIのプログラマーのGeoff Andrewさんが薦めていたので。英語題は”Never Gonna Snow Again”。制作にMatch Factoryが入っていていかにもそんなかんじの。女性のMalgorzata Szumowskaさんと撮影担当のMichal Englertさんの共同監督作品。

森の奥から何かを担いだ男がひとり歩いてきて町に入ってお役所のような建物に入って役人のような男と面会して、やりとりから男はこの土地への滞在許可を求めてきたこと、担いでいるのはベッドであることがわかって、男は役人の頭を軽くマッサージしてあげると役人はことんと落っこちて、男は自分の書類に自分でスタンプを押したのを持って部屋を去る。

彼がZhenia (Alec Utgoff)で、そのまま住宅街 – 近隣一帯が囲われていて同じタイプの裕福そうな白い一軒家が並んでいる -  の一軒のドアを叩くと、出て来た女性はZheniaのことを知っているようで、Zheniaは子供が散らかし放題にした床にベッドを広げて目の下のクマが深くてグチだのなんだの喋りまくる彼女にマッサージをして、終わると彼女はすっきりしたようで、Zheniaは出ていく。

そうやってその界隈の数軒を回っていくのだが、どの家でも彼は知られていて普通に入れて貰ってマッサージを終えると感謝されたりして、その繰り返しのなかで、誰かと誰かが浮気をしていたり、末期ガンを患っている男がいたり、ブルドッグ(かわいい)を3頭飼っているおばさんがいたり、そのエリアの住人たちがどんなふうなのかわかってくるのと、Zheniaには特異で不思議な治癒力みたいなの - 催眠術も使ったり - があるらしいことがあまり喋らない(たまにロシア語で受け答えをしている)Zheniaの行動からわかってくる。

どちらかというとコメディタッチで、そのうち個性的な住人たちが突然白目を剥いて襲いかかってきたり夜空に向かって変な踊りを始めたりしそうな緊張感を孕みつつも、やはりZheniaはどこから来た何者なのか、が気になってくる。彼はチェルノブイリの事故が起こる7年前のあの日、あの近くで生まれていて、彼が質素な借り部屋から窓の外を眺めるときその景色は琥珀色の火花や塵が雪のように舞っていたあの時の光景に繋がっていって、住人の子供に「今年は雪は降るのかしら?」と聞かれた彼は”Never Gonna Snow Again”、と静かに答えるの。

Zheniaと彼の家族があの事故によってどうなって今の彼がここにいるのか、彼の持っている力は事故と関係があるのかないのか、彼は果たして天使なのか悪魔なのかその両方なのか、なにひとつ明らかにされないのだが、その彼のぽつんとしたありようとこの囲いの外のどこにも行けなさそうな住民たちとの緊張関係がよいの。どんな要求もお願いも受けとめて実現してくれる彼の紙一重に見える脆さと透明さはとてつもない惨事や災厄をもたらすわけではないし、そんなやわな住民たちでもなさそうなのだが、そこにふわりと残る像があって、よいかんじ。

それをチェルノブイリのせい、とかチェルノブイリがなければ.. とか言うことはしなくて、でも、チェルノブイリのことは例えばこんなふうに残る必要があるしこうして残っているし、と語っている気がする。それって良いことなのか悪いことなのか? 「もう雪が降ることはない」 - これも同様の問い - 雪のないクリスマスとか寒さだけしかない冬とか – から導かれる未来のことで、その先に希望とか幸せはあるのだろうか? というと、そんなにあるとは思えないのだが、でも日々のあれこれは続いていく。

そしてこの地の果てのような土地で起こっているようなことって、例えば福島 - 『風の電話』 - とか水俣のような土地の物語に繋がっていくのではないか、とか。

で、最後にZheniaを訪ねてくる人たちのところで、ああーって。それもあるのか。

主演のAlec Utgoffさんの不思議な存在感がよくて、この人なら”Ghost” (1990)のPatrick Swayzeをやれるかも(そんなに見たくはないけど)。

マッサージ台を担いだマッサージ師のrom-comといえば、”Enough Said” (2013)があって、あれはよかったな。また見たい。

10.12.2020

[film] Saint Maud (2019)

10日、土曜日の午後、Curzon SOHO - 映画館で見ました。

Edgar Wrightさんが最近、ロンドンのCurzon SOHOの入り口とか誰もいない客席とかトイレの壁紙とか、もう閉じてしまったPicturehouse Centralの写真とかをTwitterにポストしていて、おこがましいけどああ同志だわ、って思って、その彼がこれを絶賛していたので見る。あとThe Final GirlsのAnna Bogutskayaさんもほめていたので。ホラーは怖いので見ないのだけど、これは見たほうがいいらしい。

昨年のLFFでも上映されていた英国産ホラーで、作・監督はRose Glass(かっこいい名前)さんでこれが長編初監督作となる。英国での配給はStudio Canalで、米国での配給はA24。オープニングの週末の興行成績はUK4位だって。

まず、タイトルが黒字白抜きでものすごくでっかく出るのでそれだけでなんか怖い。

英国の北東の海辺の町スカボローに契約看護師のMaud (Morfydd Clark)がいて、素っ気ないひとり部屋で信仰にすべてを捧げる質素な暮らしをしていて、彼女の次の患者は丘の上に立つお屋敷にひとりで暮らすAmanda Köhl (Jennifer Ehle)で、車椅子の彼女はもうそう長くはなくて、Maudはそこに住みこみで末期のケア - 食事を作り食べさせ、投薬し注射し、マッサージしたり入浴させたり – をしていくことになる。 

モダンダンスのダンサーでコレオグラファーだったAmandaはやってくる死のことをあっさり受けとめていて、だからタバコも酒もやるし、享楽的な友人たちを呼びこんで遅くまで騒いだりしていて、Maudは神のご加護と自分の献身が足らないからだわ、って懸命に彼女のためにお祈りしてケアをして、そういう想いが通じたのか悪いと思っているのか、AmandaはMaudの前では静かにされるがままで、柔らかい笑顔と感謝と、メッセージを加えたWilliam Blakeの画集を贈ってきたりする。

でもその状態もAmandaの友人がやってくると簡単にひっくり返されて、そうやって強引に開かれたパーティの場でぶちきれたMaudはクビになってしまう。ひとり部屋に籠ったり気晴らしに町に出て遊んでみても自責の念とAmandaへの想いが募るばかりでそのうち幻覚のようなものを見たり瘡蓋ばりばり剥がしたり身体がおかしくなったりしてくる – 気がするだけなのか本当なのか、まだまだ修行が足らないというのか。

神への想い、信仰が極限まで行った時、それは(それに応えて神は?)その本人の身体や心にどんなことをしでかすのか、そして他者には何をしようとするのか、それをキリスト教/キリスト者の世界観のなかではなく、もう少し広い情念と受難の相克のなかで暴走させてみると、例えばこんなふうになる。神でも悪魔でもやろうと思えばヒトには試練の名の元でどんなことだってできてしまうはずなので、それをどこまで表現として神々しいもの(→奇跡)にするか、エクストリームなぐさぐさに持っていくか、程度問題なのだろうが、ここでは孤独なMaudとより高いところでダンスをしていたAmanda - 顔立ちがちょっと似ている - の間で起こりうるケース =「ホラー」としてとても納得できるかんじ - なのでものすごくわかって、わかっているのに床面にずり落ちていくのが怖い。

過去の映画のなかではやはり”Persona” (1966)だろうか。あの映画で起こり得たかもしれない転移や変異のどこかに虫(バグ)が混入して融和や昇華のシナリオが破綻するとこんな世界がやってくる。悪魔が降りてきたわけでも霊的ななんかでもなさそうで、信仰のサイコドラマの、ひょっとしたら隣の部屋で実際に起こっていてもおかしくない痛さと生々しさがたまんないし、聖Maudにとってこれは崇高な愛のドラマ以外のなにものでもない、ということ。そう、怖がるようなことではないのよ、って..

例えば”Midsommar” (2019)の怖さと比べたらこっちの方が断然。文化人類学と神学の距離の違い、というか。ロケーションとして英国の海辺の町って – こないだ見た”Make Up” (2019)もそうだったけど、やっぱし怖いかも。

彼女の次作の音楽はTrent Reznor & Atticus Ross組にお願いしたい。パーティの時にバックで聞こえてくるのはESGの”You're No Good”とか、Gang of Fourの”At Home He's A Tourist”とか、The Jesus Lizardとか、よい趣味なの。

Sight & Sound Magazineの最新号はこの作品がメインのホラー特集で、なんでこんな寒くて暗くて雨ばかりの季節にそんなのやりたがるのかしら。

10.11.2020

[film] Possessed (1931)

今月に入って、Criterion Channelで”Starring Joan Crawford”という枠で25本の選集がリリースされている。 彼女の主演作品のいくつかは2018年のBFIの彼女の特集で見て、でももっといろいろ見たいので、ここで見ていく。

これは10日、土曜日の昼間に見ました。彼女の主演で1947年にも同名の作品 - 邦題『失われた心』が作られていて、原作から何から全く異なるものなのだが、どちらも自分を所有するのは何か誰か、自分は誰のものか、という問いを巡りつつ、あたしはあたしのもんじゃボケ! っていう作品で、2011年に出版された彼女の評伝本(by Donald Spoto)のタイトルも”Possessed”、ていうの。

Marian (Joan Crawford)は、ペンシルベニアの製紙工場で働いて、母と実家暮らしで、同じ工場で働くAl (Wallace Ford)からは早く結婚しようぜ、って下品に迫られているのだが、もうそういう生活が嫌になっていて、外を歩いていったらゆっくり走っている列車の中にはいろんな人生が見えて - このシーン、すばらしいの - その客車にいた金持ちっぽいWally (Skeets Gallagher)が声をかけてきてシャンパンを飲ませてくれて、成功したいのならNYに来たまえってカードをくれたので、意を決してNYのWallyのアパートに来て訪ねたら、本当に来ると思わなかったわって追い払われて、 でも入れ替わりでWallyのところにやってきた法律家のMark (Clark Gable)にやけくそで絡んでみたら、この娘は ..  って火がついた。

そこから3年、MarianとMarkは結婚はしていないものの、恋人のように(恋人なんだけど)いつも一緒にいて、その間にMarianはフランス語や社交や接待の術も身に付けてMarkの仕事をきっちり支えているのだが、そこにセメント会社の社長になったAlが契約の相談でMarkを訪ねてきて、そこにMarianがいたもんだから性懲りもなく彼女に結婚を迫ってきてうんざりする。丁度Markが知事選に立候補を考えている時で、彼の友人たちがMarianとの関係をどうにかしないとスキャンダルになるぞ、って陰で言っているのを聞いたMarianは、あたしはAlと結婚するからさよなら、って姿を消す。

選挙戦はMarkの方が優勢で進んでいくのだが、対立候補側はスキャンダルで潰すべく演説会でMarianの名前を出して動転させてやれ、って企んでいて。でもその会場にはMarianも来ていて..

そういう時代だからしょうがないのだろうが、とにかく政治経済は男性がぜんぶ動かして女性はそれを下から支えて運良く金持ちと結婚できればアガリ、という価値観が吹きまくっているのでうんざりで、でもやっぱりJoan Crawfordのざけんじゃねえぞ、の念が底から力強く湧きあがってくるのがたまんなくて、特に終わりの演説会場のとこなんて拳を握ってしまって、そのあとの鮮やかなラストに痺れるの。 映画館でみたら絶対拍手が起こるやつ。


Sadie McKee (1934)

1日、木曜日の晩、Criterion Channelで見ました。
邦題は『蛍の光』? - 最後にちょっと流れるだけなんだけど? 監督は↑と同じClarence Brown。

Sadie McKee (Joan Crawford)は、お金持ちの社長の家でメイドとして自分の母と一緒に働いていて、社長の息子でNYで法律家として成功している幼馴染のMike (Franchot Tone)が久々に戻ってきて楽しい雰囲気になったのだが、その席でMikeが工場で働くSadieの恋人のTommy (Gene Raymond)のことを悪く言ったので喧嘩して飛びだして、工場をクビになったTommyと一緒にNYに駆け落ちしてしまう。

NYに来たふたりは文無しで、でもなんとか安下宿を紹介してもらって翌日は婚姻登録をしましょうね、って正午に会う約束をしてSadieは宿を出るのだが、ひとり宿でふんふん歌っていたTommyの声を聞いた隣部屋のどさ回り歌手Dolly (Esther Ralston)が彼を気に入って一座に入れて連れていってしまう。

ひとりどん底に叩き落とされたSadieはナイトクラブでダンサーをしながらのし上がる機会を狙って、大金持ちだけどしょうもないアル中のJack Brennan (Edward Arnold)と仲良くなり、彼の法務担当であるMikeへの当てつけもしてやれって、Jackと結婚してしまう。

まだTommyに未練があるので彼の舞台を見にいったりしつつ、アル中で容態がやばくなったJackの面倒を見て、でもTommyは病気が原因でどこかで捨てられたことを知ったSadieはJackに別れたいと告げて、裏でSadieに未練があるMikeはTommyを探してあげるのだが、やっと再会したときにTommyは手遅れで死んじゃうの。 でも、亡くなる直前にTommyからMikeのことを聞いたSadieは…

いろんな怒りとかでめらめらして絶対のしあがってやる、ってそれなりの地位を手にして、でも本当は最初に結婚を誓った彼のことを想ってて、その横で2人の金持ち男たちが代わりばんこで見守ってくれて、という典型的なJoan Crawford最強伝説の星雲を形作る1本で、ベタだけどおもしろいったら。

それにしても、彼女ってどれだけ田舎の工場やメイドで働いてて都会に出てきて.. っていう役をやってきたのだろうか、どれだけそういう役柄を期待されてきたのだろうか、って。


[film] The Forty-Year-Old Version (2020)

8日、木曜日の晩、CurzonのVictoria - 映画館で見た。
客は - そうだろうなーと思ったけど - 自分ひとり。 もうNetflixのストリーミングで見れるようになっているのね。

Radha Blankさんが作・監督・主演をして、今年のサンダンスのドラマ部門で監督賞を受賞している。
Radha (Radha Blank)はNew Yorkのウェスト・ハーレムのアパートでひとりで暮らしている劇作家(Radha Blank本人もずっと劇作家)で、10年前は"most promising 30 under 30”に選ばれていたのに今は仕事もなく、新作も書けず、高校生を相手に演劇のワークショップをして食い繋いでいるのだが、生徒にも小馬鹿にされたりしてぱっとしない。

高校の頃からの友人でエージェントをしてくれているArchie (Peter Y. Kim)の口利きで大物プロデューサーのJosh Whitman (Reed Birney)にパーティで会わせて貰うのだが、彼女が書いている戯曲 “Harlem Ave.”について彼がジェントリフィケーションとか小賢しいことをいってくるのでむかついて掴みかかって、おじゃんになる。

もう劇作のキャリアはこれで終わりだって思って泣いて、怒りにまかせて書いた言葉をラップにしたれ、ってインスタでみつけたDJのD (Oswin Benjamin)に連絡してBrooklynのRockaway Ave.の彼のスタジオを訪れる。そこではいろんな若者が煙もうもうの中なんかやってて、おばさんなんか用? だったDは、Radhaのライムを聴いてびっくりして、自分のやっているライブイベントに彼女を呼ぶのだがフロアに自分のとこの生徒がいたりするのを見て緊張して大失敗したRadhaはもうだめだ、って再び劇作の方に戻る。

劇の方はArchieが粘ってWhitmanとの仲を修復してくれて、白人女性の演出家を入れて“Harlem Ave.”の上演プロジェクトが始まって、そちらが忙しくてDからのCallにも出なくなっていくのだが、劇の方も決して順調というわけではなくて、これでいいのか? って自問したりArchieと喧嘩したりしつつ初日がやってきて..

もう40になるのにいまだにフリーに近い状態で、壁を見つめたまま自分が本当になにをやりたいのかわかんないまま延々もやもやしている、そういう状態を微細に具体的に描いていて、すばらしいモノクロの画面 - 構想中の劇作の内容に入るとカラーになる - がドキュメンタリーのように生々しく、嘘があるとは思えなくてじっと固まって見入ってしまう。

彼女は少し前にアーティストだった母を亡くして、兄(弟?)ともごたごたがあり、自分がやりたいこと - それを母が生きていたらそれをどう思っただろうって意識してて、その時に白人がスポンサーとなって彼らがあれこれ口を出してくる劇作は本当にこれでいいのか、ってずっと悩んでて、他方でラップはその反対側で自分の言葉でストレートに相手をぶちまかそうとする気持ち良さがあって、自分を好きになってくれたらしいDのことも含めて、どうしたらいいのか… っていうのを、近所のおじちゃんおばちゃんたちのコメントやアパートの前に居ついたホームレスの声も交えておもしろおかしく描いてて、笑えるところもいっぱいあるのだが、年齢によってはぼんやり考えてしまったりする人も多い気がする。 

ただこれで129分はちょっと長くて、90分くらいにできたら傑作になったかも、なのだが切れなかったんだろうな。この10年のジェントリフィケーションの流れとか、演劇の側から言いたいことがいっぱいあって、そこに自分のこれからをどう重ねたり折り合ったりすべきなのか、考えながら書いていったのではないか。

モノクロ画面のかんじでなんとなく“Clerks” (1994)を思い出した。これも行き場を失った若者(たち)のコメディだったねえ。

Radhaが最後にぶちかます“The Forty-Year-Old Version”がかっこいいったらないのだが、このタイトルは”The 40 Year Old Virgin”(2005) っていう今から15年前に作られたコメディ映画から来ているのよ。たぶん。


古本屋のSecond Shelfの実店舗の方がしばらく閉まるというので、金曜の夕方に予約いれて慌てて行ってきた。店を畳むわけじゃないから心配しないでいいわよ、って言われた。 久々だったのであれこれ買ってしまったのだが、"Studies in Modern European Literature and Thought"っていう叢書(?)でアイリス・マードックがサルトルについて書いている一冊があって、おもしろそう - と思ったら翻訳も出ていた..


10.09.2020

[film] Eternal Beauty (2019)

前にも後ろにもいろいろ詰まってきたので束ねて書いていく。なにがなんでも書かなきゃいけない、とかそんなことはまったくないのだが、自分の備忘のために。

3日、土曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。
昨年のLFFで上映された作品で、作・監督は”Submarine” (2010)に主演していたCraig Robertsさん。

Jane (Sally Hawkins)はparanoid schizophrenia - 妄想性統合失調症と診断されていて、本人も家族もそれは分っていて投薬を含めた治療を続けているのだが、そんな彼女の笑えるような笑えないような、浮かんだり沈んだりの日々 – 両親とのこと、姉妹とのこと、甥とのこと、医院で出会ったやはり病人との恋とか - をややコメディタッチで描く。彼女の周りの世界と彼女から見た - 我々には見えないもの聞こえないものが登場する夢や妄想も含めた世界が切れ目なく繋がっていくので初めは少し混乱するが、色使いや画面のトーン、Janeの衣装も含めて注意深く配置されていて、徒に「普通」と「異常」の境界を浮かびあがらせたり異様さを誇張したり過剰に思い入れたり「回復」を期待したりゴールに置いたり、そういうことはしていない。

監督の家族に身近にいた女性 - 監督は彼女のことをスーパーヒーローだと思っていたそう - をモデルにしていて、ケンブリッジの医療コンサルタントの助言も受けているようなのでそんなにずれたものにはなっていないと思う。けど、こういうのって人や症状の度合いによって、家族や環境によって、それが起こしてしまったかもしれない事故とか傷とかによって受け止め方はそれぞれだろうし汎用的なことをいうのは難しそうだけど、この辺はなんとか纏められている気がした。

それにしても、“Happy-Go-Lucky” (2008)から”Godzilla” (2014)や”Paddington” (2014)を経由して”The Shape of Water” (2017)まで、やはりSally Hawkinsという女優さんは異世界の動物たちと繋がっているとしか思えないし、この作品は“Happy-Go-Lucky”の裏バージョン、と言ってもおかしくないくらいに、彼女を中心とした世界ができあがっている。

もういっこ、監督が画面の色使いも含めてリファレンスにしたのがPaul Thomas Anderson の”Punch-Drunk Love” (2002)である、と。なるほど、あの映画のBarry (Adam Sandler)のかんじは確かに。

途中で聴こえてくるBeth Ortonの”Blood Red River”がなんか沁みた。


Petite fille (2020)

5日、月曜日の晩、これもCurzon Home Cinemaで見ました。フランスのドキュメンタリーで、英語題は”Little Girl”。

8歳になるSashaは身体的には男子で生まれて、でも3歳くらいから両親に大きくなったら自分は女の子になるんだ、と話し始めて、両親は混乱するものの、性同一性障害について勉強して、無知からか知っていたからかいろんな理由でSashaを追い込んだり酷い仕打ちをしてくる学校や地元の病院と戦っていくことにする。

映画はSashaを守るって決意を固めた両親 - 特に母親へのインタビューと、彼らが向かうパリの専門医のところに行って、Sashaを囲んで意地悪や酷いことをする学校や友達とどう対峙していくのかを話し合うところとか、庭や公園で遊んだりバレエ教室でレッスンを受けたりするSashaの姿を追う。

医師の話をじっと聞きながら目に涙をためて懸命に持ちこたえようとしているSashaを見ているとトランスジェンダーの「問題」とされる問題って、人権問題そのものだと思うし、これは常套の「知らなかった」「傷つけるつもりはなかった」で済んでしまう時代ではもうない。差別や暴力が許されないのと同じく。 教育もメディアもきちんと正しい事実とその反対の誤りを伝えて広めていかなきゃいけないし、社会も福祉も制度面でそれを支えるものになっていかないといけない… んだけど。 

なんだけど、両親や彼女の兄のコメントを聞いて、こんな家族としてごくあたりまえのことを言っているだけなのに感動してしまうのってまだまだだよね、っていうのと、ここまで同様のケースでどれだけの子供たちが苛まれたり潰されたり殺されたりしてきたのだろう、って暗澹となる。

そんな人は周りにいなかった、っていう人は自分が見ようとしなかった、周囲が見せようとしなかった、本人がひっそり隠していた、それだけなんだよ、ってどれだけ言ってもどっかの政治家のバカにはわかんないだろうから、こういう映画を見せるのが一番よいと思った。トランスは本人の嗜好とか傾向とか偏向とか、そういうのではない - 教育や指導や矯正でどうにかなるものではまったくないのだ、などなどを改めて。  

それと、これまでなんでこういう状態が維持されてきたのか、これを維持存続させてきた共同体の意識とか機構とかってなんなのか、って。 自分がアートに向かう理由ってこのへんで、かろうじて正気を保てているのも、たぶん。


週末だわ。

[film] Kajillionaire (2020)

 7日、水曜日の晩21:00、London Film FestivalのVirtualで見ました。
Fesの初日にリリースされたこれはシアターではやってくれなくて、オンラインでのみ。劇場では明日から一般公開される模様。

Miranda Julyの新作。長編映画としては”The Future” (2011) 以来となるがここにくるまでの間、彼女は本を書いて、iOS app“Somebody”を作って、ロンドンのデパートにチャリティーショップを開いて、インスタ上であんなこんなおもしろいことをいっぱいやってきた。そういう中での新作は所謂映画的文体やストーリーテリングの成熟や新境地みたいなとことはあまり関係ない、見る人が見たら相変わらず変なの、としか言いようがないやつかもしれないけど、自分にはものすごくおもしろいやつだし大好きだわ。

Los AngelesにRobert (Richard Jenkins)、Theresa (Debra Winger)、Old Dolio (Evan Rachel Wood)の詐欺・泥棒を生業にしている3人家族 - 喋ってばかりの父のRobertといつも不機嫌で足を引きずっている母のTheresaと、実行役で娘のOld Dolio (Evan Rachel Wood) - がいる。Old Dolioは両親の指示を受けると柵を乗り越えくぐって監視カメラをよけて他人の郵便受けに手を突っこんで引っこ抜いた郵便物から贈り物やクーポンやマネーオーダーをくすねて、3人はそれを金に換えたり、ゆすったり交渉したりのプチ悪事を繰り返してて、ずっと3人固まって行動している割にそんなに仲がよさそうにも見えなくて、報酬は3人で割っていたりして本当の家族かどうか疑わしいくらい。 工場に隣接したぼろい事務所に暮していて、ある時間になると壁の隙間から泡がぶわーって溢れてくるので掃除したりしている。ここの家賃も滞納していて家主Stovik (Mark Ivanir)からは溜まった3ヶ月分の$1500を支払え、って言われて困って、飛行機で荷物を紛失した場合は$1500くらい貰えるってあるのを見て3人でNY (LaGuardia)に飛んでそのまま戻ってきたりする。

で、その戻りの飛行機でRichardとTheresaは隣に座ったMelanie (Gina Rodriguez)と仲良くなって、陽気で楽しそうでフェミニンな彼女は、いつもぶかぶかの同じ服を来てぼさぼさ伸び放題の長髪で低い声でお爺さんのようにぼそぼそ喋るOld Dolioとは親との関係も含めてまったく正反対なのだが、LAに着いた彼女は3人と行動を共にすることになって、Old DolioはMelanieがなんだか気に食わなくて..

『万引き家族』(見てない)とか『パラサイト』で描かれた苦楽を共にする家族のドラマとか家族のありようを描くのとは全然違って、貧困を描くものでも、そのありかたを問うようなものでもなくて、”The Future” (2011)でシェルターにいた子猫のPaw-Pawの引き取られ先としてとりあえず置かれていたような、その程度のものかも。 あの映画でじたばたしながら希求されていた「未来」に相当するのが、この映画ではお金 – に置換可能なモノとか紙とかで、ビリオネアの上のとてつもない大金持ち(Kajillionaire)を狙ってて、なぜそれらをそんなに求めるのか、必要なのか、についてはあまり言及されない。ただ、そういう分割できたり交換可能だったりするモノとかカネでこの世界とか宇宙は帯とか星雲をつくって循環しているようで、たまに襲ってくる地震がそんな彼らの足下を揺らして星屑にしようとするのだが、いったいどうしろというのか。 そしてそういう世界で、愛とか、いったい何でありうるのか。

Miranda Julyの映画でいつも描かれる、どうしてもここではないあそこに行きたい、欲しい、なりたい、のにうまくいかなくて届かなくて、”The Future”にあったように窓を開けて外に向かって思いっきり叫ぼうとするその瞬間がところどころに充満している。誰もが誰かに向かってたまらずに声をあげようとするその瞬間とその持続でドラマが成り立っているような。Old Dolioがそういうので綻びて壊れそうになっているその時、その反対側でMelanieも同様に膨れあがって行き場を失って突っ立っている - そういうふたりであることがわかってきたり。

2017年にロンドンのデパート(Selfridges)でキリスト教、ユダヤ教、仏教、イスラム教の宗教を超えたチャリティーショップ(Interfaith shop)を開いた彼女の経験が反映されたりしているのだろうか? どこから集められたのか、どこにどう使うのかわからないようなのも含めて並べられていた品々は、間違いなく今の世界を構成する有機無機ななにかとしてそこに吹きだまっていた。それらはそうやって人から人の手に流通していくことで世界が保たれている - ように見えて、そういうのがラグジュアリーなテナントの間に突然現われて、消えた。

それにしても、この映画でのEvan Rachel Woodのとんでもなさをどう形容したらよいだろう。それまで体をよじったりひん曲げたり、常にその表皮や殻や毛に絶望していたかのような彼女が、突然狂ったように踊り出すあの瞬間。 あそこにはどんなダンス映画でもミュージカルでもありえないような奇跡的に突出したなにかがある。あれを見せたかったが故にMirandaは(自分が出演せずに)彼女を主演にしたのではないだろうか。

“Old Dolio”って、ゴリオ爺さん(Old Goriot)と関係あるのかしら? 考えすぎかしら?


今週、ちょっと長すぎ。


10.08.2020

[film] The Trial of the Chicago 7 (2020)

6日、火曜日の晩、CurzonのBloomsburyのでっかいスクリーンで見ました。
Netflixのだけどシアターではもうやっていて、これはもう絶対でっかい音と画面で見た方がいいやつ。

そもそもは2007年にSteven Spielbergが監督する予定で企画されていたのを、10年に渡って脚本を転がしていたAaron Sorkinが監督することになったやつ。

BLMのプロテストが警察側の組織的暴力も含めて長期に渡って注目され、香港でもベラルーシでも国の施政にプロテストするとどんなことになるのか、という角度での報道が毎日のように為される中(にっぽんだけはさっぱりだ。幸せ?)、一ヶ月後の大統領選がこういった正義のありようや今後の行方にどう影響するのか、全世界が注目している。このタイミングで、約半世紀前のアメリカで、今と同じように全世界が注目していた裁判がどんなだったか、振り返ってみましょう、と。 全世界必見。 こういうのが見たかったわ、ってみんなが言う。

68年シカゴで行われた民主党大会開催に合わせてベトナム戦争反対をアピールしようと多くのプロテスターが集まってくる。冒頭は、威勢よくそれぞれの属する団体を背にシカゴに向かう7人のキャラクターを紹介する。 Tom Hayden (Eddie Redmayne)とRennie Davis (Alex Sharp)は戦争反対の若者グループを代表し、ヒッピー寄りのAbbie Hoffman (Sacha Baron Cohen)とJerry Rubin (Jeremy Strong)はよりラディカルにシステムや理念の転覆を訴え、一家のパパであるDavid Dellinger (John Carroll Lynch)は、ぜったい暴力はいかん、と言ったり思ったりしている。

そこから(暴動が起こって)数か月後、彼らはみな収監されて、大統領はニクソンになって司法長官も変わって、その新しい彼が、7人(当初は8人)を裁判で訴追する側のRichard Schultz (Joseph Gordon-Levitt) とThomas Foran (J.C. MacKenzie)を呼びつけて、連中をなんとしても10年は牢屋にぶちこめ、とか言う – その時にRichard Schultzが見せる戸惑いがちょっと印象に残る。

裁判の争点は、被告たちは明確な意図をもって暴動を起こしたのかどうか。意図的にプロテスタ―たちを煽ったりけしかけたりしたのだったらアウト、になる。いやそれを巧妙に仕組んで黙らせようとしたのは警察とか権力者の側だ、っていうことを言うことができればー。

これに弁護側は一見頼りなくみえるWilliam Kunstler (Mark Rylance)とBen Shenkman (Leonard Weinglass)で、難しそうな裁判長はJulius Hoffman (Frank Langella)で、冒頭からBobby Seale (Yahya Abdul-Mateen II)が自分がこの場にいるのはおかしい、って文句いうしAbbie HoffmanとJerry Rubinはおちょくりにくるし誰もコントロールできずにざわざわして、裁判長は法廷侮辱罪を連発して渦を巻く荒れ場ができあがっていく。

証人による事実や証拠の表明がそれが起こった当日の動作に繋がって、それが更に実際のモノクロ映像にリンクしたりするのだが、検察側が呼んできた証人はみんなスパイとして被告たちの動きの裏にひっついていたことがわかってがーん、で、それに押されるようにひとりひとりの特性や事情に応じて勝手に頻繁に騒ぎを巻き起こしていく被告たちの挙動は陪審員には悪い印象しか与えない。 要は権力側の思う壺、彼らの想定したシナリオ通りに追い込まれていくのでみんなどんよりしていく。

流れが変わったかに見えたのはジョンソン大統領時代の司法長官Ramsey Clark (Michael Keaton)が証人として登場するところで、おおー、ってなるのだが、これもやらしい裁判長のせいで萎んでしまって…

法廷を離れて連中が作戦会議をするConspiracy Houseでのやりとりも含め、法廷の会話劇、法廷ドラマとしての密度濃度迫力は相当なもので、Aaron Sorkinとしか言いようがないし、ひとりひとりの演技 - Mark RylanceもEddie RedmayneもJoseph Gordon-LevittもSacha Baron Cohenも、みんな当たり前のように巧いし発話の間合いなんて殺陣みたいにかっこいいし、最後のJoseph Gordon-LevittとSacha Baron Cohenが向かい合うとこなんてとんでもないの(Sacha Baron Cohenすごいわ)。

ただその分、全世界が注目していた当時のニクソン政権も含めたその世界 - 「アメリカ」に対して人々が向けていたある種狂ったような熱にまみれた目線がこの法廷の場の狂騒や茶番を経てどんな意味や空気や臭気に変わっていったのか、あのラストがどこに向けてどんなふうに広がったり染みたりしていったのか - このドラマにそこまで求めるのは酷だろうか。 でも法廷は隔離された実験室や企業の会議室とは違うんだよ、正義と悪がせめぎ合って世界が集約されたり世界をひっくり返そうとしたり、そういう可能性がぶら下がっているところで、だからー。

でもそれでも、やはり今見られるべき映画であることに変わりはない。

にっぽんだったらここに行く手前で共謀罪でひったてられて、勝手に罪状も裁判の記録もでっちあげられていくらでも都合よく改竄されて、メディアはそれをそのまま垂れ流して、一巻のおわり。そういうのにだーれも反対しないの。ぜんぶが思考停止した悪で染め抜かれているからわかんないの。

Streamingの方でリリースされたらまた見よう。

10.07.2020

[film] Lured (1947)

9月27日、日曜日の晩、Criterion Channelで見ました。30日でここからいなくなっちゃうリストからの1本。

Douglas Sirkがハリウッドに来て最初に撮った2本 – “A Scandal in Paris” (1946)とこれ、はセットで語られることも多いのだが、今回“A Scandal in Paris”の方は逃してしまった。邦題は『誘拐魔』。Robert Siodmakのフランス映画 –“Pièges” (1939) - "Personal Column”のリメイクだそう。

舞台はロンドンで、女性が新聞の尋ね人欄で呼び出されて行方不明となり、その後で警察に詩が送られてくるという怪事件が起こっていて、アメリカからロンドンにやってきたダンサー - 本当は舞台で踊りたいのだが食えないのでTaxiダンサーをしている - Sandra Carpenter (Lucille Ball)は友人のLucyと怖いねえ、って話していたらその翌日にLucyが消えてしまったので戦慄していると聞きこみにきた警察から観察力とか把握力とかをテストされてこの事件の囮捜査 - Sandra自身が釣りのルアーになる - に協力することになる。

捜査はスコットランドヤードのHarley Temple (Charles Coburn)が指揮していて、送られてくる詩がボードレールのものであることもわかっているのだが、それがどうした? で、彼女が捜査を始めたら尋ね人欄経由で、元ファッションデザイナーの変態Boris Karloffとか、募った女性を南米に送っていた悪人とかいろいろ引っかかるのだが、肝心のやつにはなかなかぶつからない。

そのうちSandraは舞台のプロデューサーでお金持ちのRobert (George Sanders)と出会って仲良くなって婚約するところまでいくのだが、婚約パーティの晩、Robertの部屋の机の引き出しから失踪事件の証拠品とかタイプライターがばらばら出てきて、Robertは逮捕されて、Sandraの正体を知った彼はがっかりして縁を切る、というのだが、実はこのあともう一回転あって…

Sandraからすると自分の立場も他人からみた自分も外面がころころ変わり続けるので、その対応がローラーコースター状態なのだが、他の人達ひとりひとりだってみんなそうで、みんなが誰かの”Lured”状態になって回り続けている舞踏会、というあたりがなんとなくSirkかも。

画面のトーンはノワール/ゴスぽいし、ボードレールだし(でも実際に読まれるのはLord Alfred Douglasだと。真犯人の名前に繋げるとちょっとおもしろい)、Boris Karloffなのだが、これはやっぱり犯罪推理コメディというべきで、Lucille BallとGeorge SandersとCharles Coburnの3人がじたばたしているだけで楽しいったらない。

劇中で流れる”All for Love”っていう歌が素敵。歌っているのはAnnette Warrenという人。


Devil's Doorway (1950)

9月28日、月曜日の晩、Criterion Channelで見ました。これも30日でいなくなるリストから。
Anthony Mannの監督による西部劇。邦題は『流血の谷』。

南北戦争の後、Lance Poole (Robert Taylor)は勲章を貰ったヒーローとしてワイオミングの故郷に帰ってくるのだが、酒場で幼馴染とかと再会してもなんか様子が違う。町民はLanceが代々所有してきた肥沃な土地の使用権がある - インディアンであるLanceにはそれがない – ことを悪い法律家の指導で洗脳されて信じていて、Lanceは女性の法律家Orrie(Paula Raymond)に相談して知事あてに請願書を出そうとするのだがそれも失敗して、いくつかの衝突を経て武装した地元民が彼の牧場になだれこんでくる。

インディアンが代々所有して引き継がれてきた土地が国によって強引に接収される、というのはこういうことなのだ、というのを具体的な悲劇 - 戦争で貢献した英雄が彼の属性 - 人種だけでそのまま国に逆らう人物に反転してしまう – として描く。もういっこ、Lanceの側に付くのが女性法律家で、誰もまともに取りあおうとしない、という別の差別も。

ものすごく痛ましくて暗くて救われない話で、興行的にも散々だったこともわかるのだが、この時代でもここまで掘り下げようとした人々がいた、というのと、ここから70年経っているのに.. ということを知ることもできるので、古い本と同じく古い映画を見ることも大切だよね。なによりおもしろいし、って改めて。
 

明日からLondon Film Festivalが始まる。 オンラインのみの上映の方が多くて、BFIのシアターでやるのもあって、そこで見るのは4本くらいかしら。 シアターでやるのは間違いなくしばらくしたら公開されそうなやつだからそんなに無理しない。 New Yorkのがラインアップはよかったなー。 でもまけない。
 

10.05.2020

[film] On the Rocks (2020)

2日、金曜日の晩、Curzon SOHO - 映画館で見ました。
公開初日の金曜日、繁華街の真ん中の映画館でも客は1/4も入っていないくらいだった。

映画館がreopenされてから週1~2回は新作を見に映画館に通うようにしているのだが、いつもどこもだいたいこんなかんじ。007新作の公開延期はこういう状況を踏まえたものなのだろうが、これが来年4月になったら戻るのかどうか、とても疑わしい。それに応えるかのようにCineworld(大規模シネコン)とPicturehouse(大泣)のクローズが発表されてしまったので、供給側も含めて更に冷え込んでいくだろう。

我々は花火みたいな新作を見たいの。007はいつものだろうからいいけど、とっくに出来あがっている”Wonder Woman 1984”を、”Black Widow”を、”The King's Man”を、”A Quiet Place Part II”を、見たいの。映画会社側が目先の損得勘定ばっかりであれもこれも後ろ倒ししているうちに全体がドミノ倒しになって死ぬぞ。

それはともかく、予告で”The French Dispatch”がかかったのが嬉しかった。Wes Anderson、いつまでああいう細密画みたいのやっていくのだろう。おもしろいからいいけど。あと007の予告もかかって、そこでは既に4月公開、って入っていた。

そういう状況下での”On the Rock”。 冒頭でどう聞いてもBill Murrayの声が”You’re mine until you get married”という。結婚式のシーンを過ぎて暫くしても”Then you’re still mine”、と。呪いのように、Bill Murrayのあの顔と一緒に降りてくるこの声を振り払うべくLaura (Rashida Jones)の奮闘が始まる。

ダウンタウンのアパートに暮らすライターのLauraにはベンチャーでばりばり働く夫のDean (Marlon Wayans)とふたりの女の子がいて、夫を送りだしてから娘たちの面倒を見て自分の仕事もして慌しいのだが、張りきって仕事に向かう夫の後ろでなんかどんよりしている。

ある日、ロンドン出張から戻ったDeanのカバンからでっかいボディオイルの瓶が入った化粧ポーチが出てきたので聞くと、あー彼女の持っていたのが機内持ち込みできない大きさのだったから自分のカバンに入れてチェックインしたのを忘れてたありがと、とか言う。その彼女というのが夫のアシスタントのFiona (Jessica Henwick)で、会社のパーティで出会ってどんな娘かわかっていたので疑念はさらに深まり仕事も手につかなくなってきたので、こういうのに詳しそうな遊び人の父Felix (Bill Murray)を呼んで話を聞いてみる。感情的にどん詰まってしまったところに別のどん詰まらせ野郎をぶつけてイチかバチかで風穴を開けてみようとする。

父は顔には出さないものの内心ノリノリで現れて、Deanがロンドンで泊まったホテルは? - Blakesか、そいつは怪しいな(.. うんたしかに)とか、探偵気取りでアドバイスしてきて、とにかくこの不安を取り払いたい娘は眉をひそめつつも父に乗せられ誘われるままに一緒に行動するようになって…

Lauraがこれまで余り知らなかったし知る必要もなかったメンズワールドに引き摺りこまれていくスクリューボール・コメディであると同時に、その巻き込まれが父との関係をよりよくしてくれる ...  かと思ったらぜんぜん甘かった。

よく引き合いに出されるSofia Coppola - Bill Murrayの”Lost in Translation” (2003)との比較でいうと、異国のホテルで空虚さを抱えてどんよりしたScarlett Johanssonにとって頼りないけど確実にそこに立ってる電柱のような存在だったBill Murrayは、今回の父娘ドラマでは当然深く避けようがないやつ(親子だから)になっている。 父にとっての娘は冒頭の彼の言葉 - 「自分のもの」 - に集約されていて、娘にとっての父はある部分許せないところもあって意識的に関わらないよう追い払って過ごしてきたのに。

それが今回のことで女性観みたいなところも含めて父が見て踏んできた男の世界に立ち入らざるを得なくなってきりきり舞いもさせられて、結果的にそれはよいことだったのかしら?  最後の方、”Lost in Translation”的なところを経由しつつも、おかげで口笛が吹けるようになったよ、くらいにしている、その軽さがとっても好き。 特にLauraとFelixが最後に大ゲンカするところで、きょとんと無表情になったFelixの放つ「だっておまえはいつも笑わせてくれてたじゃないか」はすごい。小津のドラマみたい。

あとこれはもちろんNew Yorkのドラマでもあって、アップタウンのモネが飾ってある個人宅にBemelmans Bar、そこからダウンタウン – Lauraの暮らすアパート、あの並びはSOHOじゃない?と思ったらやっぱりWooster st.だった – の縦線を車で(地下鉄じゃない)行ったり来たりする。その中間に21 Clubや52nd & 5thのあれを挟む、という超お金持ちの世界ではあるものの、物語の舞台として地理的な配置もうまく考えられている。

ただ、Deanのあの程度の言い訳と説明でみんな納得しちゃったのは甘いと思う。彼は”TENET”の主人公並みの確信犯で、実は裏でFionaとの関係は続いていて、あの後Lauraは改めてFelixに助けを求めざるを得なくなり、父はかつて仕事で使っていた3人 - Cameron Diaz & Drew Barrymore & Lucy Liuを呼び寄せ、これに対抗すべくDeanも仕事のコネを使って雇い入れたのが東京から戻った後に仕事と名前を替え、いまは”Black Widow”と呼ばれているScarlett Johanssonだった…  というのが第二弾 – “Still On the Rocks” で、まもなく発表される予定だって。   これはフェリーニの『魂のジュリエッタ』 (1965) のNY版のような豪勢なものになるはず。

あと、これのヴァリエーションとして、Lauraの方の浮気疑惑が持ちあがって、DeanがママのViola Davisに相談したらそれは許せないね、って”Widows” (2018)のチームが動きだして大変なことになる、しかもViolaのところにはThe Equalizerがいて… そういうのも見たい。

21 Clubの‘21’ Burgerが食べたいなー。P.J. Clarke'sのでもいい。

10.04.2020

[film] L'Île aux oiseaux (2019)

9月26日、土曜日の昼にMUBIで見ました。 英語題は”Bird Island”。
62分のフィクション/ドキュメンタリー映画。 とても静かな、鳥が好きなひとにはたまんない映画(だと思う)。

スイスにある鳥のリハビリ・診療センターに若者Antonin (Antonin Ivanidze)が新入りとして入ってくる。
彼はセンターで鳥の餌になるネズミを育てる係のPaulがリタイアするので、その後任として紹介されてやってきたのだが、これまで働いた経験がなく具合が悪くて病院にいたとかで、とても神経質で不安そうで、これ何の匂いでしょう? (糞だよ)とか聞いたりしている。 だいじょうぶかしら。

PaulがAntoninになんも考えていなそうなネズミをカゴから出して鳥の餌にする方法を引き継ぐ。やりかたはふたつある、とかいうのだが、Paulは手でばしゃん、て一瞬で叩き潰してしまう(手元は映さないからだいじょうぶ)。これを見ただけでAntoninは死にそうになってて、リハビリが必要なのは鳥よかこの子の方かも、って。 それに続いて、サーモグラフィに移されたネズミのシルエットの赤黄色がゆっくりと青に変わっていく映像。

Antoninのパートはフィクションで、センターにいる常駐の獣医のEmileとその下のSandrineのふたりの女性の仕事はドキュメンタリーとしてきちんと紹介される。彼女たちは殆ど喋らず表情も変えずクールで、どこかしら「動物のお医者さん」ぽい。そんな彼女たちがふんわりした鳥の羽の奥の皮肌をまさぐったり剥いたりして手術したり治療したりするその手元も描かれる(鳥なのでほぼ流血しないからだいじょうぶ)。あと、餌のラズベリーの実を木のでっぱりに刺していったり、そういう手元もよいの。

ドキュメンタリーなので、もちろんそこに収容されている鳥たちも沢山出てきて、飛べなくなってしまったフクロウとか、大きな鳥も小さな鳥も。鳥たちはもちろん喋らないし、具合が悪いって鳴くこと騒ぐこともないし、ただ黙って首を傾げたり羽を膨らませて木の間に挟まっていたりする。その様子だけでなんかたまんなくて、治療を終えた鳥が外に放たれるところもたまんなくて。 ごめんね、って。

センターは空港の近くにあるのか滑走路で空砲を撃って鳥を追い払うところとか、そういえばすぐ横になったり倒れたりしていたAntoninはだいじょうぶなのか、も描かれる。 最後にでてくるPaulのFarewellパーティではみんな少しだけ打ち解けてよい雰囲気にもなるのだが、それはヒトの世界のことで、別の半分には鳥の世界もあって、これらは繋がっているのでいつも通りにぱたぱた...   という空気とか風のかんじ - Bird Island - がよいの。 鳥が治るのならAntoninも、くらいでそれはシリアスでも不真面目でもない、そんなもんだからさ、くらい。


今日もまだStormが上空に居座ってぐるぐるまわっていて、ずううーっと雨だった。ありえない。
しかたがないので、オンラインで始まっていたPordenone Silent Film Festivalにサインアップして、日曜日はサイレントを見よう、をやってあとは寝てた。しんでた。

€9.90で一週間のプログラム見放題ってすごい。 これで1911年のNYとか19世紀末のロンドンとかアムステルダムの街とか人たちとか出来事の様子をびっくりするくらい鮮明な映像で見せてくれる。こういうのを見ると、過去のことを知る/知っているってどういうことなんだろう? なにがこれらを「過去」にしているのだろう? って改めて思うし、今はこんなでさっぱりの未来なんてどうでもいいから、丸くなってこういうのばかり見ていたいわ、って。


[film] Merrily We Go to Hell (1932)

ほぼ一ヶ月前、9月2日、水曜日の晩にCriterion Channelで見ました。

ここで“Two by Dorothy Arzner” っていうのがかかっていて、そのうちの1本。 Dorothy Arznerは1927年から43年まで、ハリウッドのスタジオシステムのなかで活躍していた唯一の女性監督で、これは彼女のお気に入りだったという。 邦題は『我等は楽しく地獄へ行く』。その通りかもだけど、「地獄へ道連れ」とかでもいいかも。 あと、UKではタイトルに”Hell”を使えなかったので”Merrily We Go to ____”だったそうな。

シカゴのお金持ちのお嬢様ぽいJoan (Sylvia Sydney)がパーティで楽しく酔っ払っているJerry (Fredric March)と出会って、話したらなんか楽しいので付きあうようになり、Jerryはライターで劇の脚本も書いたりしているようなのだが基本は遊び人でアル中で酒ばっかり飲んでて幸せそうで、Joanの父は反対するのだが、彼女は彼のプロポーズを受け入れる。のだが婚約パーティの時にもJerryはへべれけで姿を現さなくてしょうもなくて、でもJoanはめげないの。

そのうちJerryの書いた芝居が売れたというのでふたりでNYに行って初演に立ち会うのだが、主演女優のClaire (Adrianne Allen)はJerryの元カノで、劇の成功もあってJerryは盛大に酔っ払ってClaireにくっついてて戻ってこなくなり、あまりにひどいので、Joanはそれならあたしも好きにやるからね、って突き放してしまう。

こうしてJoanも夜遊びの生活に浸って、人気役者のCharlie Baxter (まだ端役のCary Grant)と遊んだり、Jerryと間近ですれ違ったりもするのだが、互いにつーんとしたままで、そのうち妊娠していることがわかったJoanは父親のところに戻り、アル中が酷くなって劇作ができなくなってしまったJerryも自分はやっぱりJoanを愛していたんだ、って酒を断ってシカゴに戻るのだが、Joanの父親が再会することを許さなくて..  

最後の方はメロドラマみたいになっていくのではらはらするのだが、”Merrily We Go to Hell”っていうタイトルからしてRom-comのスタイルできちんと作ってあって、とにかくSylvia SydneyとFredric Marchのふたりの相性が素敵によいのでずっと見ていたくなるかんじ。Fredric MarchがJoanに何度も“I think you're swell.“っていうのもなんかシャレてていいなー。この言い方って今もするのだろうか?

タイトルも夫婦で浮気合戦をするという内容も典型的なPre-Code時代のそれなのだが、でもふたりの関係の据え方とかラストとかは、やっぱり女性監督のそれかなあ、って。


Three on a Match (1932)


9月11日、金曜日の晩、これもCriterion Channelで見ました。 9月にここで始まった特集 - “Pre-Code Joan Blondell”からの1本。
軽いコメディかと思ったら怖いくらいにシリアスだったのでびっくり。 邦題は『歩道の三人女』?

同じ小学校に通っていた3人、Mary (Joan Blondell), Ruth (Bette Davis), Vivian (Ann Dvorak)が大きくなってから再会し、テーブルでひとつのマッチからタバコにみんなで火をつけて、軍の言い伝えって本当かしら? とか言っている。

不良で更生学校に入れられていたMaryはショーガールになっていて、真面目だったRuthは速記士になっていて、弁護士のRobert (Warren William)と結婚したVivianが一番裕福で幸せそうで、豪華客船のパーティで再会したMaryはVivianにギャンブラーのMichael (Lyle Talbot)を紹介したら、MichaelがVivianをたぶらかして2人は子供を捨てて駆け落ちしてしまう。 少し後ろめたさもあって遺されたVivianの子の面倒を見ていたMaryはRobertと仲がよくなって、他方でMichaelは博打の借金で首がまわらなくなって、Vivianはヤク漬けのぼろぼろに転落して、Robertを脅迫して金を作ろうとするが失敗して、とうとうVivianの子を誘拐して..  

3人のうちのひとり - Vivianに過酷な運命がとぐろを巻いて襲ってくるホラーみたいなやつで、結末も暗いし、でもとっても見応えはあった。

ヤクザの若頭でHumphrey Bogartが出ていて、まだ若いけど歳とった頃よか凄みとかあってすごいの。


まだ気圧がひどいったら。ほんとしょうもない週末。

10.02.2020

[film] Matador Records - Revisionist History (2020)

 9月30日、水曜日の晩、MetrographのVirtualで見て聴いた。
ドキュメンタリー映画、というよりはストリーミングのイベントで、創設30年を迎えたMatador Recordsの歴史(改竄ありあれこれでっちあげ込み)を振り返るガイド付き視聴覚ツアー。これをなんでMetrographがやっているのかは知らん。

最初に司会者の人がスタジオにいる子供達に向かってバンドとは、レコードとは、レコード会社とは、などについて子供にもわかる説明をして、創業者のChris LombardiとGerard Cosloyをオンラインで繋いで当時のことを回顧していって、その合間にレーベルのアーティストのPVとか短編映画とかを流していく。なかなかだらけた内容 – とてもMatadorらしい – でトータルの時間は2時間、と書いてあったのに実際には2時間20分くらいになっていた。

PVの最初がフェイクに繋いだリリース当時のインタビュー映像に導かれたLiz Phairの“Never Said” (1994)で、わーなつかし。 続いて祝25周年のChavez – “Break Up Your Band” (1995)で、これもなつかしくて、Bailter SpaceにPavement – “Father to a Sister of Thought” (1995)と続いて、現在のYo La Tengoが出てきて少し思い出話をしてから“Tom Courtenay” (1995)のPV – あのライブハウスはMercury Loungeだったのかー、と。

なつかしいだなんだは置いておいて、90年代中頃にこんなふうに出てきたMatadorがなーんか胡散臭くてインディペンデントのにおいがしなかったのはこういうPVとかマーケティングに力を入れているように見えたからなんだよな、って。でも当時はPVを作っても流す媒体がない - MTVの(Matt Pinfieldの)”120 Minutes”とか同じくMTVの(Kennedyの)”Alternative Nation”くらいしかなくて苦労した、と。たぶんこちらの頭がインディはこうあるべし、みたいになっていたのだと思うが、そういう力の入れ具合とかでMatadorというレーベルそのものに(他のと比べれば)そんなに思い入れはないの。(ミュージシャンからすればとてもよいところだったのかもしれない、とは思う。Pizzicato FiveやCorneliusを紹介したのもここだったし)

ただこういうPV映像が当時のAlternativeの広がりに大きな意味を持ったことは確かだった気がする。日曜の深夜って(月曜会社行きたくないよう病、だったので)起きて見ているのはすごくしんどかったのだが、Butthole SurfersもMeat PuppetsもJawboxもThe Muffsもここで知ったのだったし、BeckもGreen DayもWeezerも最初に見たのはこの番組だった気がする。MTVの隆盛と同じくらいメディアと音楽 – 特にグランジ~オルタナ周辺を考えるネタとして重要なソースのひとつではないかと思っている。

その後PVは00年代のJay Reatard – “It’s So Easy” (2008) - 当時のMatadorのオフィスで撮ったそう、Sonic Youth – “Sacred Trickster” (2009)、Kurt Vile – “Freak Train” (2009)と続いて、93年にニュージーランドのTVで流されたPavementのプロモ映像とか、SpoonのPVを撮っていたBrett Vapnekさんの短編 - “Dream Machine” (2000)とかを経て、最後にPavementのマンチェスターのライブ映像がきて、Guided by Voicesの30分以上に及ぶドキュメンタリ―“Watch Me Jumpstart” (1995)で締まる。

こうして最後に出てくるGBVが実に見事にすばらしいったらない。演奏風景はあんまなくて、メンバーたちが思いついたことを喋って佇んでうだうだしているだけで、編集もてきとーなのだが、ああアメリカにはGBVがいたんだわ、って。ナリはすれっからしの普段着で、いつも酒とタバコまみれのよれよれで、テクもぐだぐだで曲の形をなしているだけで奇跡のようなかんじなのに、単調なリズムでじゃかじゃかやっているようなのが殆どなのに、ライブになるとよくわかんないパワーでなぎ倒しにきて、実際になぎ倒されてしまう謎。 彼らと比べたらPavement のなんとおしゃれで高尚なことか。Matadorという名前にいちばん相応しいのは彼らなのかも、って。 牛には勝てるわけないことがわかっているのに虚勢はって大見得きって、ライブの後は立てないくらいしんでしまう連中。

この調子で次はMergeとSaddle Creekをお願い。


英国の上空にはStorm Alexっていうのがいて、朝からずーっと雨と風が止まなくて、こいつが停滞して上空をぐるぐる回っている。
ほんと勘弁してほしい。

10.01.2020

[film] Nomad: In the Footsteps of Bruce Chatwin (2019)

 9月13日、日曜日の晩、Film ForumのVirtualで見ました。

Werner Herzogによる英国人作家Bruce Chatwin (1940–1989)のドキュメンタリー。
2019年のTribeca Film Festivalでプレミア上映され、同年9月にはBBC2で放映されていたのね(制作がBBCだった..)。

全部で8章、Bruce Chatwinの最初の本 - ”In Patagonia” (1977)から入って彼の著作と生涯を追って最終章で” The Book Is Closed”となる。でも単なる評伝というよりは、Chatwinと親交のあったWerner Herzog自身が語り部となって、彼や彼の著作との関わりも含めて語り、パタゴニアやオーストラリアやウェールズに赴いてガイドしていく。Chatwinを手掛かりに、彼の見て触れて通過したものを踏査しつつ、Herzog自身も自分の映画 – “Signs of Life” (1968)、 “Where the Green Ants Dream” (1984)、Chatwinの原作による“Cobra Verde” (1987)など -  について語り、それは結果的にふたりが背中合わせで志向してきた - 憑りつかれたように原野に彷徨いでてしまう習性というかなんというかの - Nomad - 放浪の思考・精神をわかりやすく(かな?)説明した映画になっている。

最初が『パタゴニア』の冒頭に出てきたChatwinの家にあったブロントザウルスの皮の欠片から始まって19世紀にパタゴニアの洞窟で発見されたGiant Sloth – 巨大ナマケモノ – ひと目会いたかったなあ - の毛皮の話、第二章では英国でのChatwinの生い立ちに触れたあとで”The Songlines” (1987)に出てくるアボリジニの人類学的な考察に向かい、更には未完の著作”The Nomadic Alternative”を通して彼が向かおうとしていた考古学の方にも足を向ける。最後のChatwinのリュックサックの辺りまでくるとHerzogによるChatwin、のような語り口になって、ここに君がいてくれたら、のようなところに行ってしまうのだが、べたべたしたかんじは全くない。

遺されたものをじっと見たりフィールドワークしたりして追って掘って、かつてこれらが動いたり生きたりしていた様やそれが滅びていく様をイメージして紙とかフィルムに落として、それらもまたなにかの染みとか痕としてどこかに吹かれて転がって散っていく。それを遠くから突っ立って眺めているふたりは兄弟のようななにかで結ばれていた、というお話。

結局放浪って、壮大な夢と空白だらけの地図を手に地の果て目指して踏み出して、蒸発しても破滅しちゃったとしてもさようなら、みたいなやつで、でも本当に塵になって消えちゃうのはあれなので、せめてブロントザウルスの皮とかGiant Slothの毛皮とかリュックサックとか彼の本とか彼の映画のような - 夢の欠片でも遺して消えたいもんだぜ、ってかっこよくつぶやいてみる。

たぶんこれって、ゴミみたいな皮片とかぼろいリュック遺されてもそれってなんなの? とかコタツで丸まっていてなにがいけないの? みたいな議論になりがちで、でもそうやってえんえん放浪を続けてきた、続けざるを得なかった動物や民族がかつてはいたし、今もいるし、その殆どは塵になって消えてしまったのだろうけど、そういうのがいた/あったことを知ったり彼らのことを思ったりすることは絶対必要だと思う。なんのために博物館や美術館やアーカイブがあるのか、「知る」というのはどういうことをいうのか、の議論にも繋がるやつ。 あとこれってカフェでネットに繋げばなんでもできるしどこでも行けるし知ることができるから、とかいう勘違いノマドたちの思想とはまったく正反対のあれだからね。

あと、こういう試みというか営みが、好んで「男のロマン」みたいなので括られたり語られたり読まれたりしてしまいがちな気がするのは、ただの気のせいだろうか。女に語ってほしくない(or ただ傍で見ていてほしい)勢力のようなのが確実に存在する気がする。

どっか行きたいなー。