7月1日、水曜日の晩、シネマヴェーラで新たに始まった特集 - 『ヴァル・リュートンから始まるⅠ ロバート・ワイズ』で見ました。リュートンもワイズもよく知らないところなので、可能な限り見たい(いつもの)。
邦題は『生まれながらの殺し屋』、英国でのタイトルは”Lady of Deceit”。 原作はJames Gunnによる小説 – “Deadlier Than the Male” (1942) - 『男よりもやばい』。 監督Robert Wiseにとって最初のフィルム・ノワール作品だそう。
サンフランシスコの社交家、Helen (Claire Trevor)は自分の離婚手続き待機でリノの町の下宿屋に滞在している時に知り合ったLaury (Isabel Jewell)が恋人のSam (Lawrence Tierney)を嫉妬させるために別の男とデートするんだー、って言っているのを聞いて、その晩、Lauryと男が一緒にいるところを見たSamは、嫉妬どころか相手の男とLauryを簡単に殴り殺してその場を去り、あとでその惨劇の現場を見てしまったHelenは警察には通報せずにそのままサンフランシスコに戻る。
サンフランシスコでHelenはSamとわざとらしく再会して、彼女が金持ちのFred (Phillip Terry)と婚約していることを知ったSamはHelenの義妹で新聞社を引き継いで裕福なGeorgia (Audrey Long)の方に近づいて、結婚するところまでのしあがる。
その裏ではリノの下宿屋のおかみが雇った私立探偵Arnett (Walter Slezak)が辺りを嗅ぎまわるようになり、Georgiaの夫として各方面になりふり構わぬ傲慢さをむきだしにするようになったSamと、自分が似た者同士であることを仄めかしつつ彼に近寄ったり距離を置こうとしたりするHelenの綱引き・綱渡りは果たしてどこに向かうのかー。
極悪非道のサイコパスが社交界でのしあがろうとして、彼と距離を置こうとしつつも絡まないわけにはいかない似たもの女性の複雑な思いと境遇を描いて、それはノワールの定石であるfemme fataleに寄っていく、それに翻弄されて嬉々として破滅に向かう男性ではなく、homme fataleに寄りつつ自分でもどこに行きたいのかわからなくなっていく – でも決して狂うことはない - 女性を生々しく現前させて、目が離せない。
Samのキャラクター造形にもうちょっとだけ深みを持たせることができたらなー くらい。いまの俳優に演じさせるとしたら、やっぱりGlen Powellあたりかしら。
Executive Suite (1954)
↑のに続けてみました。 邦題は『重役室』。
脚本はErnest Lehmanで、彼が手掛けた最初の映画脚本になるそう。あと、音楽が全くついていないの。
オスカーに沢山ノミネートされて、ヴェネツィアではGrand Juryを獲っている。
大手家具メーカーの社長Avery Bullard - 冒頭は彼の目線で動いていく – がNYでの商談を終えて、秘書に夕方帰るので重役会議を招集しておくように、って電報を打って道路に出たところで急に具合が悪くなって倒れて天にー。
倒れた男性が運ばれるのをビルの上から見てて、あれはうちの社長ではないか、って確信した重役が手元の株を売って儲けようと画策するが身元の公表がぜんぜんでなかったり、死亡が公表されると、社長は後継者の指名などをしていなかったこともあり、対外発表や株主の保護、そこで誰が主導権を執って進めるか、そしてなにより、誰が後継の社長になるべきか、などについて、彼は若すぎる、人望がない、など水面下での男たちのぐさぐさの攻防が始まって、焦り苛立ち失望などが止まらなくなる。
基本は老獪なじじい vs それぞれの理想に燃える若手、という男たちの成りあがり蹴落とし駆け引きサバイバル・ドラマで、そこに創業者の娘でBullardの愛人だったJulia (Barbara Stanwyck) - 議決権をもつ – が絡んで、相当にねっとりした熱いやつに盛りあがって、俳優はみんな重心低めでうまいし、緊張が途絶えないまま最後まで運ばれる。
見ごたえはあって、一般的なメッセージや教訓としてもたぶん悪いことは言っていなくて学びも多く、結末の持って行きかたも間違っていない映画だと思うのだが、会社とか経営とかそこでの仕事とかにぜんぜん興味を持てないまま生きてきてしまったので、何をやっているのか、何を言っているのかはわかるものの、これ、なにがおもしろいんだろ? の連打になってしまったのが残念だった。(そもそもなんで会社員なんかになったの? → 自分、といういつもの)
他方で、ここに出てくるような人たち(Executives)によって決定されたり執行されたりしたことが、多くの人たちの人生や生活の行方や質を決めることになる、という仕組みとか、そんな彼らに対するべらぼうな報酬とか支配/服従のありようとか、いまや世界の殆どの会社組織で行われていることとは言え、なんともグロテスクでおそろしいことだわ、って改めて思った。
7.06.2026
[film] Born to Kill (1947)
[film] 急に具合が悪くなる (2026)
6月30日、火曜日の晩、ル・シネマ 渋谷宮下で見ました。
まだあれこれ考えたりしているが、なんか書いてみよう。3時間20分ある作品だが、するする見れて、軽い。
仏語題は”Soudain”(突然)、英語題は”All of a Sudden”、先のカンヌで主演のふたりが女優賞を共同受賞している。
原作は哲学者宮野真生子と文化人類学者磯野真穂による同名の往復書簡集(未読)で、映画は中心のふたり、その間で交わされるメディア(手紙→対話/演劇)、言葉も含め、舞台をパリとそこの介護施設に変えて、いろんな出会いや衝突があるなか「急に具合が悪くなる」ような事態はそこになにをもたらすのか? というその行方と結末を見せる、というより、どこまで転がっていってもどうにもならないnow/here な世界を、ロメール調のさらさら手書き日めくり方式で綴って見ようと。
パリで高齢の認知症患者向け介護施設のディレクターをしているMarie-Lou (Virginie Efira)は、老人たちを機能不全に陥った機械として扱うのではなく、人として対面して時間をかけてケア、支援していく、ユマニチュードの方法論を軸とした施設の設計や運営に反対したり疑義を抱くお役所や現場のスタッフ達と辛抱強く対話を続けていて、疲れて眠れなくなった時に誘眠剤を飲んでしまったせい(が直接の要因ではないが)で患者が亡くなって、トラムでひとり泣いていたら、丘の向こうから走ってきた智樹(黒崎煌代)と出会い、自閉スペクトラム症である彼と、その祖父で役者をしている吾朗(長塚京三)と彼の舞台を作・演出しているMari (岡本多緒)と出会い、彼らの演劇 - イタリアで精神病院を廃止した精神科医Franco Basagliaについての芝居 - “Da vicino nessuno è normale” - 『近づいてみれば、誰もまともな者はいない』 - を見に行ったMarie-Louは感銘を受けて、Mariと親交を深めていく。
Mariはステージ4の癌患者で、いつ「急に具合が悪くな」ってもおかしくない状態であること、またそうなったらもう先は長くないことをMarie-Louに告げ、Marie-Louは自分の施設での運営や指針を巡る試練や困難について語り、ふたり共なんでこんなに生きにくい状態になっているのか、等についてナンシー・フレイザーの資本主義システムの絵を白板に描いたりしながら共に対話して考えていく。
ドラマは急に具合が悪くなったMariが急遽日本に帰国し、一緒についてきたMarie-Louの求めに応じて再びパリに戻り、という展開を見せて、ふたりの抱える生き難さが周囲のいろんな人たちとの関係の移り変わりによってどんなふうに別の様相に変わっていくか、を描いて、所謂難病モノにある周囲の希望や悲嘆にフォーカスするものにはなっていかない。そういったエモを周到に回避しつつ、変わることは難しいかもしれないが、例えばこんなことも、という見せ方に向かう。
「急に具合が悪くなる」ことの「急に」が急であることを察知するためにはずっと傍にいて「いつも具合が悪い」ことを見ながら認識しておく必要がある。「急に具合が悪くなる」ことの背後には「ずっと具合が悪いまま」である/がある、ということ。 『悪は存在しない』 (2023)で、そう言いながら「悪は存在する」さまを軽く示していたように。
そしてその「急に」という事態、時間のありようは、患者ひとりひとりの時間感覚が異なるようにケアされていくなかで引き延ばされ、それが資本主義システムの求めてやまない効率や時間のお金の使い方 - 予測・計測可能ななにか、に対置、対抗されるものとしてあるように示される。ふたりの食べるカップラーメンの2.5分が、ぜったい2.5分よりも長かったように(いちばんはらはらした場面)。
そしてたぶんそこに、原作の往復書簡の宮野さんがテーマとしていた九鬼周造の「偶然性」の話も絡んでくるのだろうな、というのと、もうひとつの基調音としてあるロメールの映画とはまさにそういうchance meetingの織物としてあったよね、というのと。
ふたりが京都の山の上で語り合いながら朝を迎えるシーン、『レネットとミラベル/四つの冒険』 (1987)の"The Blue Hour"みたい、って思った。
主要な舞台を日本ではなくパリに置いたのも、ロメール、というだけでなく、日本だと雑で愚かで幼稚な資本主義がやかましく声高に進行しすぎていてドラマとして成立しないからではないか、とか。
ひとつだけ、施設の老人たちや自閉症の智樹の「演技」の描き方は、ちょっと気になった。ワークショップであれ本番であれ、彼らがあんなにきちんとコントロールされて動いてくれるわけなかろうに、って。
7.03.2026
[theatre] ハムレット
6月28日、日曜日の午後、静岡芸術劇場で見ました。 月1回は見たい演劇。
台風でどうなるんだろ? だったが新幹線は動いていた。雨風は去っていて、でもこの時期の吹きつけてくる霧雨がすごくいやで。
静岡、というと、2023年に静岡県舞台芸術公園で『Hamlet à l'impératif ! ハムレット(どうしても!)』を見ていて、静岡はなんとなく「ハムレット」を見る土地、になっている感がある。(それがどうした)
この舞台は昨年11月にここで上演されたもののリバイバルだそう。原作はシェイクスピア、河合祥一郎の翻訳をベースに、脚色・演出は上田久美子。
開場の少し前にロビーのようなところで、地元高校の芸術科演劇専攻(そんなのあるのいいなー)の生徒たちによる、ハムレットのあらすじについてのパフォーマンス 「みにみにハムレット」という5分くらいのがあった。5分でまとめて説明します、ということで、波も間合いもちゃんとしていて、これ自体は別によいのだが、劇の本編の方でも冒頭にホレイシオ(本多麻紀)が出てきて「要約します」というのをやっていて、これは最近の風潮なのだろうか、「まとめサイト」とか、「あらすじ」とか、他方でネタバレ禁とか、なんかぜんぶ繋がっているのだろうな、と思った。
そして最初に、登場人物全員が白いひらひらの衣装で登場して、全員がオフィーリアである、という。配布された縦長の冊子には、人間以外の存在を無視しないために、ということで「ノンヒューマンな存在たち」を意識した動き、という言及があり、冒頭のオフィーリア(たち)の動きは - ストーリーの本筋から排除されがちな彼女の声や目線を拾いあげるものでもあり - その方向性に倣ったもの、であるのかしら。
この世継ぎをめぐる復讐と自家撞着のどろどろと転がっていく物語は、確かに王子ハムレット(山崎皓司)を中心に据えたものなので、そこから漏れたり拾いあげられなかった声などもあるのかもしれないが、では、そうして拾われたり掬いあげられたりした声の確かさとか網羅性って、どうなのだろう? そこにおいてもまた、オルタナの「存在」によるふるいが掛けられたりしないのか? とか。 物語を作る、というのはそもそもが作者のそうした恣意の塊りを捏ねていくことなので、読みの試みとしては別の視点が導入されたりしておもしろいかもしれないけど、物語の本来のありようを薄めてしまう – それって先に書いたあらすじ、要約志向にも繋がっていくやつなのかも、とか。
なんでそんなことを? たぶん、作品の外にあるいろんなものとか関係各所などへの配慮? 見てわかってもらうための努力? でもこういうのってそもそも自分が見て取り組んで考えるなかで見いだしたり纏めたりすべきものではないのか?
舞台の上は空気でぶわぶわ自在に膨らんだり萎んだりするビニールシートで雲のように覆われ、それが天井にまで伸びていて(最後は客席まで覆いにくる)、この雲が登場人物たちの視界を遮ったり塞いだり。音楽は、此岸彼岸の境目を意識させるかのような電子音とかちりちりしたノイズと、太鼓のとんとこから最後は和太鼓まで。全体として決して元に戻すことのできない、やっちゃったどうしよう… なひりひりした感覚が充満していて、ストーリーの本筋はそれに乗って揺れずにふつうにハムレットしていたような。オフィーリア、最初はあんなにいっぱいいたのに。ホレイシオも肝心なところでは妙におとなしいし。
結局、要約とか語り部とかオフィーリアとかノンヒューマンが脇でいくらざわついてもハムレットの悲劇は動かしようがなくぶっとく天井から落ちてきたもの、というのが明らかになった、ということでよいのかしら。
演劇は舞台と客席がどちらもナマなのでいろんな化学変化や突発事故がありうるしあったらおもしろいだろうな、とは思うけど、その向こう側にはテコでも動かない、動かしえないヒューマンの領域というのが確かにあるのかも、って思ったりした。
帰り、新幹線まで少し時間があったので静岡駅の地下を通って歩いていける駅ビル?の上の静岡市美術館でやっていた『スウェーデンのうつわ グスタフスベリのある暮らし』という展覧会でうつわを見て帰った。ハムレットはデンマークだけど、彼、うつわとか興味なかったのかな… (それどころじゃな… )
7.02.2026
[film] The Man in the White Suit (1951)
6月27日、土曜日の昼、K’s Cinemaの特集 - 『英国イーリング・コメディの黄金時代』で見ました。 邦題は『白衣の男』。
この作品、英国にいた間に、もちろん見たことはあったのだが、「イーリング・コメディ」という括りでの特集ではなかった気がする。英国の戦前~戦後の映画って、Ealingだけじゃなくて、Alexander KordaのLondon FilmsとかRank OrganizationとかABPCとかMichael PowellのThe ArchersとかHammerとかGainsboroughとか、ハリウッドに対抗すべく国策でやっていたのでめちゃくちゃいろんなプロダクションがあって、どれを見たって – 少なくともいまの時代に生き残って再映されるようなやつについては – 外れがないの。
そういうのをアーカイブから引っ張り出して単発だけど35mmフィルムで上映してくれる火曜日のBFIの”Projecting the Archive”のシリーズとか、毎回痺れるおもしろさでいつも満員になって… 何が言いたいのかというと国立映画アーカイブのあれは、国策としてもぜんぜんだめで愚かで、ふざけんな、しかない、ということ。
そんななか日本で「イーリング・コメディ」がうける(結構お客入っているらしい)のは、デパートの英国展でスコーンやフィッシュアンドチップスに群がるのと同じようなものなのではないかしら。確かにとても英国らしい風味が効いてておいしいけど、英国のおいしいのってそんなんで終わるもんではぜんぜんないのよ。
イギリスの地方の繊維工場の片隅で怪しげな機械がピコぽこ変な音をたててずっと稼働していて、これ誰のものだ? ってざわざわしてようやく捕まったのがケンブリッジ出のSidney Stratton (Alec Guinness)で、彼は決して摩耗しないし汚れも一瞬で落ちる真っ白で強力な繊維の開発を続けていて、それなりのお金をかけたりしてようやく成功すると、彼はイノベーター、パイオニア、って持ちあげられるのだが、経営幹部と工場の労働者たちはこれができちゃうとやっぱり困るかも、って言いだして、追いかけっこが始まって…
最初からほーらこんなおかしいでしょ、って笑わせるのを狙っている、というよりは、自分の信ずるところに愚直に邁進していって、周囲もそれにきちんと応えているのに、なんでか全体として変な方に捩れていって、結局どうしようもなくなって、なんとも言えない気まずさが残る。そういう気まずさとかやりきれない「にがにが」をどうにかするために、パブ、っていう施設が発展したのね。
白いスーツを着て飄々と逃げ回るAlec Guinnessの姿はEP4でデス・スターの中をすり抜けていくObi-Wan Kenobiに重なっていく。この頃からああなることを予見していたのだとしか言いようがないの。
Vesna na Zarechnoy ulitse (1956)
↑のに続けて、Morc阿佐ヶ谷という行ったことのない映画館に行って、そこの『ソビエト映画特集』で見ました。
昔の映画をやってくれる館が昔より増えたのはよいこと、と思いつつ、洋画の新作はブロックバスターかジャンク系のホラーか、各国の映画祭でかかるような「佳作」ばかりで、見れていないのはほんと多いよねえ…
邦題は『ザレチナヤ通りの春』、英語題は”Spring on Zarechnaya Street”。
監督はFeliks MironerとMarlen Khutsievの共同によるソビエト映画で、ぜんぜん知らなかったがとても有名な作品らしく、ウクライナ映画ベスト100の45位になっているそう。
大学を出たばかりのTatyana Levchenko (Nina Ivanova – ちょっとAmy Adamsに似ている)が駅前で車を拾って、工場の方に向かう。ご機嫌で愛想のいい運転手は前の教師が来て帰っていったことを知っていて、車代は帰る時でいいよ、とかいう。
工場地帯に入って、そのなかにある労働者向け(?)の学校のロシア語、ロシア文学の教師として赴任してきた彼女に知り合いが下宿を調達してくれて、工場勤務をしている生徒たちを含めていろんな人たちが彼女の前に現れて、みんなの人気者Sasha (Nikolai Rybnikov)も寄ってきてちょっかいを出してくるのだが…
そびえ立つ広大な工場地帯、そこでの労働者たちの活気–すぐ歌がでる、 新任教師としての意気、そんな中でやっぱり芽をだしてくる恋への期待と立ちはだかる壁と行ったり来たりの宙ぶらりん状態が、厳しい冬から春への移り変わりと共に綴られていって、最後はやっぱり。 意外な要素も、見ていて恥ずかしくなるようなやり取りもなく、それらが気持ちよいくらいに各トラックにのってはまってアンサンブルを奏でていって、いつまでもずっと見ていても飽きない、70年前の作品であることを感じさせない王道のrom-com。なんでこんなふうにできてしまうのだろう? しかない。
この映画の殆どが撮られたウクライナのザポリージャ、この映画から70年で相当いろいろあった(今も…)のだろうなー、というのを(あまりに眩かったりするので)思ってちょっとしんみりした。
7.01.2026
[film] あの鷹巣町のその後 (2005)
6月25日、木曜日の晩、シネマヴェーラ渋谷の羽田澄子特集で見ました。
この特集 - 『福祉、芸術、ジェンダーを通して日本を描く』の「福祉」のパートを見ていなかった気がしたので。
180分、休憩なし。『住民が選択した町の福祉』 (1997) & 『続 住民が選択した町の福祉-問題はこれからです』(1999)から続く3つめの作品で、これの続き(↓)も含めると全4部作(上映時間8時間13分)になる。最初の2本を見ていなくても、冒頭で丁寧にここに来るまでに鷹巣町でなにが起こったのか、「あの鷹巣町」で起こった「問題」とはなんだったのか、をきちんと説明してくれる。
地方の話と福祉の話は、例えば昨今の政治の劣化とか右傾化とか分断とか格差とかを考えていくとどうしても突き当たることだし、そろそろ自分ゴトのど真ん中になりつつあるし、とりあえずどうすべきか、も大事だろうが、本当の敵はどこにいるのか、その正体はなんなのか、を見据えておくためにも。
秋田県にある人口2万3千人の鷹巣町で、1991年に若い町長が誕生すると、町民の自由参加によるワーキンググループが組まれて、福祉の先進国デンマークの福祉行政を参考に先駆的な老人保健施設「ケアタウンたかのす」の構想が立ちあがり、町議会の多数を占める前町長派に反対されながらも、どうにか可決されて、ケアタウンの施設もサービスも稼働を始めるのだが、やはり問題はいろいろ出てきましたよ、というのが前2作までのあらすじ。
その町長が4期目をかけた2003年の町長選挙で大敗し、その背景と町が今後この先どうなっていくのかを探るべく、羽田監督自身が現地に乗りこんで、関係者への聞き取りを進め、自分でナレーションもしながら全容を明らかにしていく。
無投票で再選が確実視されていた前町長の対立候補として突然現れたのは病院出身の医師で、手厚い福祉政策については評価しながらも財政を圧迫するのでまずは経済面の建て直しを、とその手段として町村合併や大病院、大規模店の誘致などを主張して、当選するとその路線に切り替わって、2005年に北秋田市が誕生する。 その裏でケアタウンの予算も、自主運営されていたサポートホームも集会所に転用されたり、ケアを取り巻く人も環境も変わっていく。
福祉のあり姿を追う/問う、のがそもそものテーマだったと思うのだが、映しだされるのは小自治体の、小汚い政治家たちのお金の使い道に関する政治の駆け引き(というより排除と押し売り)ばかりで、それはやがて地方都市(が合わさった勢力)ではどうすることもできなさそうな、中央政府の意向でもあることが見えてきて、そして地方は中央に憧れてそれに倣うもの、といういつもの茶番を見ることになってうんざりする。
財源は限られている - 人口は減っている - 使い道を絞るしかない、という出発点からのとにかく儲かること優先、というじじい共が、ハコ作ってバラ撒いてなんぼ、というこれまで散々見てきた政治の風景と、ケアする側もされる側も辛くない、遠くないはずの幸せを追求していく福祉の道とはぜんぜん別種のものなので、一方が他方を排除するのはおかしいのだが、それができてしまうのは一言でいってしまえば貧しいからで、この風潮とダウンワードスパイラルは今のこの国全体を覆っているのでどうしようもない。
あと、いまもどこにでもいるユニオンを毛嫌いするじじいが出てきて、なんかの病気だよねあれ、と改めて思った。
あの鷹巣町のその後 続編 (2006)
↑のに続けて見ました。これは59分と短い。
前回、合併で誕生した北秋田市の市会議員選挙のあと、鷹巣町が国に先駆けて制定した「高齢者安心条例」が廃止され、ケアタウンは財政支援を打ち切られて、福祉の現場はどうなっている/いくのかを関係者に取材していくのと、そもそもの発端として、なんでこんなこと - 2003年の町長選挙の大敗 – になってしまったのか、を改めて振り返っていく。
福祉は生産性とかで測ったり効率化云々でどうにかしたりすべきものではない、と思うのだがー、っていう原理原則を福祉なんてやりたいやつがやれ(自治体の責任ではない)、って思っている家父長制下で甘やかされてきたじじい共は死んでも理解できないので、連中が死んでもらうのを待つしかないのか。
なんであの選挙で負けたのか、についてはそれまで12年間続いた政権下で撒かれた利権、という話が出てきて、これも今のくそ政権に繋がるところだねえ。みんながしぶとく利権に群がって、政府はそういうところに金をバラまいて事業を興して、そうでないところからは巻きあげて、ついてこれない人々を道端に棄てて、誰も責任を取ろうとしないし、いくら弱者排除の卑怯者とか言われても軸と脳が腐っているから理解できないし。政治家だけの話ではなくて「社会」の役に立たないものはいらない、消えてよし、という方向にいろんな仕組みが囚われているところで、福祉なんて成り立たないし、育ちようがあろうか。
ここ数日起こっているしょうもない事態にも繋がっていて、どうしたらよいのかねえ、っていつもの。
これを見てから『急に具合が悪くなる』を見ると、急に具合がよくなることはないけど、よりよく理解できたかも。特に白板のところとか。
[film] Supergirl (2026)
6月26日、金曜日の晩、109シネマズの二子玉川のIMAXで見ました。
こういうのは台風が来ようが何が来ようが、基本は初日に見ることになっているので、しょうがない。
上映中に地震が来て、結構揺れたのでこれはだめかもー … って覚悟したが中断はしなかった。
昨年リブートされた”Superman” (2025)にも少しだけ出てきた”Supergirl” - Kara Zor-El (Milly Alcock)を主人公に据えたドラマで、いとこのKal-El (David Corenswet)も少しだけ出てくるが、メインの舞台は地球ではないし、宇宙の広さとか正義とか大義とかの話はあんま出てこない。
作はAna Nogueira、監督は”I, Tonya” (2017)や“Cruella” (2021)のCraig Gillespie、プロデューサーにはJames Gunnの名前がある。昨今、いろんなユニヴァースだらけでどうでもよくなっている感があるが、DC内では”Chapter One: Gods and Monsters”というのに含まれているらしい。
崩壊しかけたクリプトン星で幼いKaraとわんわんのクリプトが両親によって地球に住むいとこのKal-Elのところに送り出されたが、Supermanの彼のように地球人の両親にちゃんと手間をかけて育てられたわけではないKaraはちょっと無軌道で厭世的で、23歳になった時も、ひとりでいろんな惑星酒場をよれよれ渡りながら飲んだくれてパーティ三昧の日々を過ごしてて、Supermanは心配して電話をかけてきたりするがまあ相手にしない。
ある星に住んでいたRuthye (Eve Ridley)は盗賊団の首領Krem (Matthias Schoenaerts)に一家を皆殺しにされ、形見の刀を背負って復讐の機会を狙っていたところでKal-Elと出会って、奴らをやっつけてほしい、と頼むのだが相手にされなくて、でも連中に突っこんでいったクリプトが毒矢にやられてあと3日の命、になってしまったので、解毒剤を持っているKremを探して渋々一緒に旅をしていくことになる。敵をすぐにでも殺してやりたいと恨みに燃えるRuthyeに対して、解毒剤を手に入れたいからちょっと待て、というKaraと。
Kremの一味が若い娘を誘拐して集団花嫁として束ねて取引したりしているのを知った彼らは、やっぱりこいつらやっつけるしかない、って一匹狼のLobo (Jason Momoa)の助けも借りながら連中を追っていくのだが果たして。 そしてわんわんのクリプトは...
まず、ストーリーは裏も表も伏線もくそもなくシンプルで軽い(2時間を切っている)のはよいと思った。Supermanのお話ってそもそもこんな程度のだったのだと思うし。 敵討ちと解毒薬を探して共通の敵を追っかけていく股旅もので、生真面目な娘と腕は確かだが飲んだくれのだらしない娘の組合せ、そこに絡む風来坊の狂犬男、など。革ジャンで顔中金具だらけの悪党バイカーとか、さらわれた女たちが籠に入れて売られていく話とか、宇宙の果てまできてまたそのイメージ? もう何回目? にはなるけど、わかりやすさを狙ったのだろうな、と思う。
他方で、赤い光の星で気持ちよく酔っ払い、黄色い光の星で最強になり、緑の光の星で力を失ってしまうので、最後のほうで緑の星に誘導されて絶体絶命、ってどうなのか。結局、たまたまああなってくれたからよかった、ってそんな他力本願ヒーローでよいのか? というのはある。(彼女がロメールの『緑の光線』なんて見たら最後にぐったり… っておもしろいけど)
地球ではなく、なんでもありの宇宙なのにこの定型スケールかあ、っていうのと、ふだんグランジのボロを纏って髪ぼさぼさで匂いが漂ってきそうなSupergirlがいとこがくれたからってユニフォームみたいなあの衣装をわざわざ着て戦う?っていう違和感と、あとなによりも、耳をばふばふさせる狂犬クリプトと一緒にめちゃくちゃ暴れまくってほしかったのになー、というところ。 Loboはいてもいなくてもべつに、くらい。
でも次のが来たらまた見てしまうのだろうな…
とにかくサッカーが終わってくれてなにより。 帰国してフットボールが更にとっても嫌いになった。
6.29.2026
[film] 嗚呼 満蒙開拓団 (2008)
6月22日、月曜日の晩、シネマヴェーラの羽田澄子特集で見ました。
この特集は先週で終わってしまったが、デュラスの特集などと被っていなければもっと見たかった。し、サブタイトルにあったように 『福祉、芸術、ジェンダーを通して日本を描く』 ことが今ほど求められている時はない、と思うの。ぜんぶ(体制からすれば)だめだめ系ので、誰もお金だそうとしないだろうが。
冒頭、80年代から始まった中国残留日本人孤児の国家賠償請求訴訟が棄却されて、残留孤児たち関係者が涙するなか、そもそもどうしてこんなことに、ということで、中国東北部にある「方正(ほうまさ)地区日本人公墓」にお参りをする日本人向けツアーに同行しながら、1932年の満洲国建国時から現地で、ここにやってきた日本人移民たちに何が起こっていったのか、を追っていく。
あんな場所に国を作って、作っちゃった以上は強くしないと周辺からやられてしまうので、本国からの移民の数を増やしたかった、他方で日本の農村部は昭和恐慌のあおりで食糧不足が危惧されていて、そんな両方のニーズも合致していた(最近の自衛隊の構図と変わらない)ので100万人規模の移住計画が立てられ、各都道府県には人数のノルマまで課されて、長野県などから多くの移民がハルビンに渡った。
でも映画での証言によると、旗を振られて移住したのは終戦間際の1945年の6月頃(えー)、8月になってソ連軍が満洲に侵攻してくると現地の関東軍はあっさり農民たちを棄てて退却をはじめて、残された民は飢えと寒さと襲撃とチフス、などでどんどん亡くなるか、現地の中国人に貰われるくらいしか道はなくて、そうやって20数万人が亡くなり、後になってゴミ捨て場のように放置され積み重ねられた骨々を見て憐れに思った現地の中国人が方正に共同墓地を作った、と。
まだ生き残っていた当時の人々の証言も含めて、120分ではぜんぜん足らない内容なのだが、一貫して描かれて、日中双方からの証言でそうとしか言いようがないのは誰ひとり、何ひとつ責任をとらない政府(&軍)による「棄民」政策とその全容で、水俣病でも薬害訴訟でも沖縄でも、ぜーんぶそう、いま偉そうに(恥をしれ)嬉々として戦前の施策をなぞろうとしているのはそういうことをした連中の末裔だからね。ほんとに何も振り返らないし反省しようとしないし理解する脳みそもないし罰せられることもないまま、利権と世襲でありがたや、って政権を支持して崇めて下にはふんぞり返ってきた上層の連中も含めて、どうしたらいいんだろうねこれ、って暗澹としてしまうのだった。 まったく終わっていない今の話として、ね。
女たちの証言 - 労働運動のなかの先駆的な女性たち - (1996)
6月22日の晩、上のに続けて見ました。
羽田さんのオフィスの片隅に、82年に撮られたまま10年以上、宿題のように放置されていたフィルムがあると。それは大正から昭和初期に社会主義的労働運動に参与した活動家の女性たちが一堂に会した座談会の時の記録で、そこで撮られた内容を紹介しつつ、後から改めてインタビューした内容も加えて、日本における女性解放運動とは具体的にどういうものだったのかを活動した女性ひとりひとりの歴史のなかに見る。
女性の「社会参加」すら危うくあれこれ言われ、ましてや政治参加とか労働運動なんてもってのほか - 逮捕されて当たり前だったあの時代、どれだけの迫害や虐待や村八分に見舞われようとも、パートナーの死や自身の投獄や弾圧にも負けずに信念も曲げずに淡々と自身を貫いた女性たちの像と言葉。外見こそあたりまえに老いているようだが、言葉も表情もすっきり澄み渡って、あんな老人になれたらいいな、しかなくて、しかし、他方で社会の方はいつまでたってもぜんぜん変わることができない、変わらないまま女性蔑視、労働運動や組合活動への忌避がなんとなく、でもしっかりと根づいて蔓延したままで、この辺(のもうやだ)が撮った映像をそのままに置いてしまった原因だったのではないかしら、って。
山中常盤 牛若丸と常盤御前 母と子の物語 (2004)
6月19日、金曜日の晩、日仏で”La Musica” (1966)を見てから、シネマヴェーラに移動して見ました。TGIF.
『山中常盤物語』は、義経説話に基づくお話 – 頼朝に追われて奥州へ下った牛若を訪ねて旅にでた母の常盤御前が、山中の宿で盗賊に殺され、復讐に燃える牛若が盗賊をばらばらざくざくに切り刻んでその仇を討つというお話で、浄瑠璃の演目として盛んに上演された。 『山中常盤物語絵巻』は17世紀の江戸時代の画家 - 奇想系のあれで注目された - 岩佐又兵衛(1578-1650)が『山中常盤物語』と浄瑠璃をもとに描いた全12巻、150mからなる絵巻作品(MOA美術館のコレクション)。
映画は、その浄瑠璃がべんべん唸りをあげるバックトラックとなって、カメラを右から左にスクロールさせつつ絵巻に描かれたストーリーをその場面の歌と一緒に聞いて追っていく、これを12巻ぶん。シンプルな構成ながら、絵巻と浄瑠璃の世界、それらが描こうとした牛若の怒りと悲劇が300年の時を経てダイナミックに伝わってくるものだった。
絵巻に巻かれている絵は殺しの凄惨な描写も含めて鮮やかな劇画調で、よくもここまで描いたなー、くらいに肉片血みどろ、でも人の顔はわかりやすい線と色のとぼけた漫画で、こういうのが受けたんだろうなー、って。
ただ、浄瑠璃がどんなことを歌っているのか、要約でもよいから字幕で投影してくれたらより理解が進んだのになー。外国のひとにも伝わると思うし、文化事業ってこういうのに(以下略)。