10月10日、土曜日の昼、日仏学院のChantal Akerman特集で見ました。
邦題は『一晩中』、英語題は”All Night Long”。上映前と後にMarilyn Wateletさんのトークがあった。
Marilyn WateletさんはChantalの映画プロデューサーで、15歳の頃からChantalと一緒に映画館に入り浸っていた彼女の盟友で、Chantalの短編”Family Business: Chantal Akerman Speaks About Film” – アメリカ西海岸に”Golden Eighties” (1986)への出資を求めて旅をした時のどたばた旅コメディ – に出てくるひと。ロックダウン中の2020年6月6日、Chantalの誕生日を祝ってYouTubeで特別公開します! ってtweetしていたのも彼女ではなかったかしら?
この『一晩中』も、ものすごく好きな作品で、一晩中だって見ていられるやつ。これが最初の撮影監督作品となったCaroline Champetierによる夜の闇、影の描写 – その奥で蠢いているようななにか - がどこを切っても美しいとしか言いようがない。冒頭のEdward Hopperの濃赤の陰影 – Hopperだよねえ、と思ったら後のトークでも言及されていた。
ブリュッセルの街中、暑そうな夏の晩 - 開いているドアや窓からいろんな音が響いてくるなか – いろんな人々が家に入る、家から出る、道路を横切る、抱擁する、追いかける、何やら言い合う、などなど、アルコール・ドラッグ・セックス・バイオレンス、夜の物語というと付いてくるこれらをとりあえず視界から外して、夜になると自分が何をしているのか、何をしたかったのか、わからなくなってごそごそうろうろを始めてしまう困った人々が右往左往して横切っていくさまを描いて止まらない。
夜は家に帰って寝るもの – 異議なし、だけど、寝れない、寝れなくなったり、誰かに会いたくなったりしてしまうことも動かしがたい事実で、なんで寝れなくなるのか、どうしたら寝れるようになるのか、などそれぞれ悩みを抱えていてもいなくても、なんだか人は建物の、部屋の中や外で集まったり散ったりキスしたりしたくなる – 「なんでどうして?」はない。理性はどこかで眠ったまま。 そんな総勢80人の夜中を抜けて空が明るくなるまで。
Marilyn Wateletさんのトークでも出てきたが全体として見るとPina Bauschのダンスのような、日々の小さな窓から見える動きから何かの箍が外れて、個々の動きや抱擁が背景も含めて制御できない大きなマスのうねりとなって押し寄せて元に戻れなくなっていく、その説明できない動物たちの、でも深く頷いて感動してしまう何かがやってくる。 この「やってくる」「押し寄せてくる」たまらないかんじとか。それが朝の光のなかに冗談のように溶けて散っていくかんじとか。
この後の”J'ai faim, j'ai froid” (1984)も” Portrait d’une jeune fille de la fin des années 60 à Bruxelles” (1994)も、この舞台設定、シチュエーションの変奏というか、ここから流れでてきた少女たちの朝までバージョンのようにも見えるし、このひとつ前の”Les rendez-vous d'Anna” (1978) - 『アンナとの出会い』から、として見るとAnna個の孤独な声、彷徨いが薄まることなく滞留し凝集するように厚く重ねられていくよう(Aurore Clémentも続けて出てくる)だし、この群れの声にならない動き蠢きは、ドキュメンタリーの”D'Est” (1993) - 『東から』の寒気のなか立っている人々の間からも聞こえてくるような。短編でもフィクションでもドキュメンタリーでも、彼女はこんなふうに世界と向かいあって世界を作りあげようとする。そして、この世界まるごとの静かでやかましいざわめきは、”Jeanne Dielman, 23 quai du Commerce, 1080 Bruxelles” (1975)のあの家、あの台所から鳴り始めたような気もする。
10.16.2026
[film] Toute une nuit(1982)
10.15.2026
[film] J'ai faim, j'ai froid (1984)
10月9日、金曜日の夕方、日仏学院のChantal Akerman特集で見ました。
邦題は『おなかすいた、寒い』、英語題は”I'm Hungry, I'm Cold”。
オムニバス映画“Paris vu par...” (1965) - 『パリところどころ』の20年周年記念で製作された” Paris vu par... 20 ans après” (1984) - 『新パリところどころ』のなかの1本、最初のエピソード。 Philippe Garrelなど6人の監督のうちの1名(唯一の女性監督)として参加して作られたモノクロ、17分の短編。
ブリュッセルからパリに出てきたふたりの女の子(Maria de Medeiros, Pascale Salkin)が一緒に街中を彷徨い、おなかすいたので、カフェでパンとオレンジジュースをもりもり食べて逃げて、更におなかすいたので、レストランで一緒に歌を歌ったらご飯を奢ってもらって、その男性のところに転がりこんで、ひとりは彼と寝て、もうひとりはひとりで、というそれだけ。 ふたりの少女の冒険でもなく、初体験でもなく、ちょっと遠出してきて、おなかがすいて、寒かったからなんかした、というそれだけの行動、ふたりの会話、それらの懲りない反復を捕らえた作品。 家庭や規範や男性からこんなにも自由である、ということを街をぶっとばすこともなく、こんなにも軽やかに、かっこよく描けるなんて。
『街をぶっ飛ばせ』 (1968)がそうだったように背後でがしゃがしゃ鳴っていなくても、映像だけでじゅうぶんパンク、としか言いようがないやつなの。
Portrait d’une jeune fille de la fin des années 60 à Bruxelles (1993)
邦題は『ブリュッセル、60年代後半の少女のポートレート』、英語題は”Portrait of a Young Girl at the End of the 1960s in Brussels”。
“Tous les garçons et les filles de leur âge” - 「彼らと同年代の少年少女は皆…」 という思春期をテーマにしたTVシリーズの1本として製作された。長さは約1時間、予算は約540万フラン、撮影はスーパー16で、撮影期間は18~23日、メインテーマは青春、1960年から1990年の間のいずれかの年代の前半、中間、後半を選択し、その年代の音楽を用いたパーティーシーンが含まれること、など変てこな制約があり、Chantalの作品の他にはClaire Denisの” US Go Home” (1994)や、Olivier Assayasの” La Page blanche” 後で長いバージョンの”L'Eau froide” (1994) - 『冷たい水』になる、など。見たことあるのもあるけど、ぜんぶ通しで見たい。
1968年4月のブリュッセルで、学校に行きたくない15歳のMichèle (Circé Lethem)はパリから出てきた20歳のPaul (Julien Rassam)と道端で知り合って、映画館でべたべた過ごして、彼とは寝たのかどうしたのか、夜になるとDanielle (Joëlle Marlier)と一緒にパーティに参加して踊って、朝に原っぱをずーっと歩いてどこに行こうかー。
パーティでのダンスシーンは、翌日に見た”Toute une nuit” (1992) - 『一晩中』のそれと同様、Pina Bauschぽさがたっぷり。相手に合わせたり導いたりするダンスというより、どうしようもなくひっついている、ひっついてしまって離れなくてちょっと困った–でもやめられないかんじ。
『おなかすいた、寒い』から(時代は遡るけど)約10年経って、ここでもふたりの少女が、家出ではないものの、「おなかすいた、寒い」的なところでひたすら彷徨い歩いて踊って喋って朝を迎える。そんなポートレート。なにも背負いこまない、明日のことなんて知らない、その断面のなかに現れる顔 - 少女たちの像。
ここから後、『囚われの女』 (2000)や『オルメイヤーの阿房宮』 (2011)といったやや重めの文芸(?)大作になっても、テクスチャーは異なるものの、女性(の身体、言葉)がなんで、ここに、こんなふうに、なきゃならんのか? とか、二度と戻るもんか、といった生理・身体的な苛立ちとそこからの逃走は続いているように見える。
あと、少女のポートレートというとMarguerite Duras(の少女時代のそれ)を思い浮かべたりもして、両者の違いを見ていくのもおもしろいかも。場所(土地)、熱、声のありよう、ぜんぶがあまりにも違うし。
この後、斉藤綾子さんによるレクチャー『アケルマンと少女たち - アケルマンにとって60年代を振り返ることとは: 映像と感情の記憶を描くこと』があって、途中までしかいられなかったのだが、とても示唆にとんだ、あれこれ繋がってくるおもしろい内容だった。
10.14.2026
[theatre] チャリング・クロス街84番地
10月8日、木曜日の晩、東池袋のあうるすぽっとで見ました。 劇団昴による公演。演出は菊池准。
原作はHelene Hanffの“84, Charing Cross Road” (1970)、邦訳は江藤淳による『チャリング・クロス街84番地』(中公文庫の)で、自分もここから入って、サンリオ文庫から出ていた『ニューヨーク、ニューヨーク ニューヨークっ子のN.Y.案内』は自分がNYに行く前から最良のNYガイド本だったし、ロンドンに行ってからは”84”の英国版のハードカバーの第二版とか、彼女の別の小説のサイン本なども手に入れた。(まだどこかの箱から出てきてくれない)
映画版は、David Jones監督による英国映画 - ”84 Charing Cross Road” (1987)という、Anne BancroftとAnthony Hopkinsの主演(他にDoelの妻役でJudi Dench)のがあり、よい映画だと思ったけど自分のあたまの中で組みあげられたあの本のイメージたちとはちょっと違ったかも。
演劇版は、James Roose-Evans脚本・演出により1981年に初演されてWest Endまで行って、1990年まで英国をツアーして、その後2015年からも演じられていて、とにかくずーっと人気があるようで、今回の舞台版もそれをベースにしている。
NYのへレーンはマンハッタンの東の上の方の凍てつくアパートにいて、古書店Marks & Co.があった場所はいまではいつも混み混みのマクドナルドになっている。ここでは、Grand Big Macというのが出ていた時期があって、何度か懲りずに食べては吐きそう、を繰り返した記憶が。
原作はそんなアメリカとイギリスの2地点を行き来した往復書簡集で、手紙のやりとりなので時間にも場所にもギャップがある。
舞台の左手は高くなっていて、そこがNYのへレーン(一柳みる)の書斎で、右手が低くて、そこがドエル(金尾哲夫)たちの働く古書店Marks & Coの店内で、左側でへレーンが自分の手紙を読みあげると、それは右手のドエルに届いて(聞こえて)いて、ドエルが返事を読みあげるとへレーンにも直に届いていて、その返信には古本もついてくるので、わあってなる。 本を読んでいくときにはページめくりの時間差があって、それがよいのだが、舞台版のテニスのような卓球のような右左のやりとりも楽しくて、時間が進むにつれて近くて遠くて、どうしても届かない距離のもどかしさ、切なさがやってくる。手紙でしか知らない人が突然いなくなってしまうことのぽっかり空いた日々の隙間とか。
あとは、セシリーやメガンといった、書簡のやりとりでは少ししか出てこなかった彼女たちもそこにいて、それぞれの戦後を生きていて、大変だったんだろうな、って思うところとか。
本との違いでいうと、原作はふたりの書簡のやりとりも楽しいが、英国の古典への最良のガイドでもあったこと - 最良、というのは彼女の手紙を読むと、ああこれ読みたいかも!ってお腹が鳴ること。サミュエル・ピープスもジョン・ダンもラム随筆もウォルトンもクイラー・クーチも、翻訳があれば読んでみるようになったし、ロンドンの古書店や古ペンギンでもあると手に取るようになったし。(ここにシェイクスピアが出てこないのはなんで?アメリカでもふつうに手に入っていたから?)
夢に見た英国に行けなかったへレーン、直接出会うことが叶わなかったへレーンとドエル、でもこうして手元にやってきた古書たちを抱きしめ、わたしにとっての英国はここにあるのです! っていうくだりが本では大好きなのだが、舞台版でそこがないのはしょうがないか。
あとは実際にロンドンで古書店に通うと、そこの書店員の人たちって博識なのは当然として、メールのやりとりだけでもとにかくやさしくあれこれ教えてくれて、それも一軒二軒の話ではなかったので、そういう文化なのかも。日本の古書店もそうなのかもしれないけど、そういうところには巡りあっていない。
帰国してからはWebで注文したりするのだが、それでもオーダー確認の際に、こんなのもあるけど、まだWebには出していないけどこんなのどう? …など、機械ではなく教えてくれたりして、ありがたいの(除.お財布)。
あと、値段感とか。いつからはわからないけど、古典の古書って高いのはとんでもなく高くなってしまって、手に届かないのも多い。劇中でヴァージニア・ウルフの「一般読者」 - “The Common Reader”のことね – が2冊で$2とか言っていたが、これのちゃんとした2冊揃えなんて、いまなんて軽く£800超えるのよ。ウルフの初版本なんて、軽く£2000~4000くらい。誰に文句言ったらよいのやら。
10.13.2026
[film] Hotel Monterey (1973)
10月3日、土曜日の夕方、東京日仏学院エスパス・イマージュで行われている特集『シャンタル・アケルマン映画祭2026 『母が笑う』刊行記念』で見ました。
Chantal Akermanの映画はこれまでの特集 - 一番古いのは前世紀のアテネの - とイギリスでコロナのロックダウンになった時に、いま見れるものは(たぶん)ほぼ見ているので、今回の特集は好きなのだけをつまんで見ていくことにする。
62分、サイレント、字幕もなにも入らないドキュメンタリーで、彼女の最初の長編。撮影のBabette Mangolteと組んだ最初の作品でもある。
Hotel Montereyは、NYのアッパーウェスト - 住所は215 W 94th Street。Broadway沿いにあり、現在も名前を変えてどこかのチェーンのホテルとして営業しているようだが、90年代を過ぎても治安はそんなによくなかったエリアで、昔の映画だと”The Naked City” (1948)とか、”The Panic in Needle Park” (1971)とか、そういうやばめのが撮られた界隈にある。
そんなエリアに建つホテルに滞在する人々も安全第一を求めてはいなくて、そういうところに滞在したChantalとBabetteはここで映画を撮り始める。多くの人が当時のNYの実験映画の前線 - Michael Snowなどからの影響を指摘しているが、Chantal自身はそれらからの影響は認めつつもそんなでも、と言っているし、そもそも知覚や認識をどうにかしたれ、のような「実験」の姿勢と本作から見えてくるものは随分ちがう気がする。
固定されたカメラをホテル内から入口の方に向けてとかエレベーターの前とかに置いておく。最初は何が映っているのかよくわからないのもあり、(まるで幽霊のように)人が通ったりすることでその色 - 明暗、距離感とか、調度の配置などがぼんやりと浮かんできて、そうやって「ホテル」という「家」とは異なる都会の建築構造物のありようとか特性が見えてくる。通過と定住の間を行き来する壁や柱などで仕切られた空間。この作品を見る殆どの時間は、そんな空間を空間としてどう把握する、どこまで把握できるのか、等を頭のなかで転がしていくことに費やされるような。
カメラは下から上に移動していって、最後は屋上に出て、ハドソン川やBroadwayを見渡してゆっくり横に回ったりもする。 『眺めのいい部屋』的なヴューを求めて、というよりは、非常口を抜けたらここに出たけど、あとは飛び降りるしかないのか? のような「おわり」感まで漂っている気がするのは気のせい?
La Chambre (1972)
11分の短編で、これもサイレントだが、”La Chambre 2” – こっちは見たことないかも – の方にはサウンドトラックがついているらしい。
当時彼女が滞在していたNYのSpring Streetのアパートで撮影された2テイク。 マンハッタンの北にある”Hotel Monterey”、南にある「部屋」、パブリック vs. プライベート。いろんな点で対になっているような。
“Hotel Monterey”のカメラは主に上下に動いていくが、こちらのカメラはゆっくりと回転していって、そこにベッドに寝転んでこちらを見ているChantalが映って、2回転めくらいではリンゴを齧っていたりする。とにかく部屋の散らかりよう、ごちゃごちゃが見事で、美しいかんじすら漂っていて、どうしたらこんなふうにできるのだろう、と。
部屋(空間)のなかにひとがいる、それを見る、その状態・様態をカメラがとらえて、それを見ている我々が把握するというのはどういうことか、は後の”Jeanne Dielman...” (1975)に繋がっていくし、寝転んで食べる、というのは、後の”Je Tu Il Elle” (1974) の紙袋から砂糖むしゃむしゃ、のシーンに繋がっていくので、この” Hotel Monterey”と”La Chambre”はものすごく重要な、サイレントであることも含めて、これからの見取り図、テンプレートのようなもの – 特に”Jeanne Dielman...”で顕著にあらわれる部屋のなかで誰かが動いている、何かをしている、それってなんだ? っていう、画面の奥、その向こうを探っていくような、彼女の映画を見る時に湧いてくる不思議な感覚は既にあって、これってなんなのだろうか、って…
10.12.2026
[film] ファーストボイス (2026)
10月4日、日曜日の夕方、新宿ピカデリーで見ました。
脚本は橋本裕志、監督は前田哲。
好景気に浮かれていた1989年の日本で、最初のセクシャル・ハラスメント裁判に臨んで勝利した女性たちのお話をinspired by true events で描いたもの。
これまで基本、この時期に作られた、この時期を描いた邦画は見てこなくて、なぜならやっぱりファッションとかやりとりとかどうにも恥ずかしくていたたまれなくなるから。特に女性のメイクとかボディコンシャスと言われていた頃のファッションとか。みんなが軽薄で浮かれていることが許された時代だったから、であるし、これは日本だけではない、全世界的な傾向であったこともわかっているのだが、それでもこの国の場合は。
屈辱的な敗戦〜安保の敗北を経ての高度成長期、みんなが猛烈に働いてがんばって、それが日本を経済大国に押し上げて、その行き方・行き末に異議を唱えるものなんていない、誰もが深く考えない/みんなと同じにしていればよい、というありようを象徴する、そのなれの果てがあのファッションで、なにを着ようが勝手だろ、は当然だとしても、ああいう格好で会社に行った女性たちが男性社員のためにお茶汲みとか事務全般なんでも、をやらされて待遇でも給与でもすごい男女格差や制限があって、それを誰もなんとも思わず、居酒屋の無礼講以外では声もあげていなかった。(それをなんだかんだよかった、と回顧するじじいの今だに多いこと。この世代のなれの果てがよりによって首相としてこの国をなんも考えずに破壊しようとしていること、など)
そんな時代の、そんな腐れたオフィスで執拗な嫌がらせを受けた末に仕事を奪われる(いちおう自主退職にしておいてやるよ)という性別に起因する差別 - ハラスメントが起こって、編集者の仕事を奪われた上原恵(ファーストサマーウイカ)が女性弁護士朝日道子(綾瀬はるか)の事務所に駆けこんで、他の弁護士や女性支援団体の支持も受けて、ここを崩すのは極めて難しい、と言われていたケースに勝利するまで。
どうして難しいかというと、当時の日々のビジネスの習慣や慣行、進め方働き方とあまりに普通に無反省に結びついたり基礎になったりしていて、劇中の台詞にも(たしか)あったように「こんなことで目くじら立てていたらビジネスが成り立たなくなる」ようなレベルのことに見えたから。だから当然のように、原告の行動や振るまいにそもそも落ち度があったのではないか、ってそっちに目が向けられたり。
360°こんなふう、当時の職場や男性社員、メディアの風向きがどんなだったかを知るものが見ると、たぶんものすごくその通りすぎてうんざりがっくりするし、知らない人が見ると中世か… のようだろうし、見ていて楽しいエンタメにはなっていないと思うが、でも本当にあんなもんだったんだから。
と思っていた者にとって、具体的なケースや審議に沿う形できちんと表に出してくれるので、やはり偉大かつ重要な裁判だったのだなあ、と思うし、これがなかったら - グローバルの流れもあったのでそれなりに変わっただろうとは思うものの - どうなっていたことやら、って。
↑のビジネスが成り立たなくなる発言ではないが、日本経済の今の長い不振停滞は結構この辺のこととも関連あると思っていて、昔はハラスメントやり放題の豪傑マンが強引に推し進めていたやり方が世界のどこでも通用しなくなった、というのが大きいのではないか。行動原理の礎のところまで染みこんでいたやり方(恫喝とか)を根から変えていくには時間がかかるし。
見方を変えれば昔より少しはましに、よくなってはいるのだ、ということもできる - でも今の経営の中核を担っている層はバリバリだった連中に洗脳された世代なので油断ならないけど - 政治の世界も同じか。まだまだよね、など、いろいろ考えさせられたので、みんなに見られてほしい。ハリウッドの法廷ドラマと比べたらへなちょこで、もっとかっこつけてよいのに、とか思うけど、これでも十分。
あと、いまの企業のコンプラ問題って、だいたいにっぽんのヤンキー文化(虐めとかやっちまったもん勝ち)と飲酒文化(呑んで忘れればOK)と地続きなので、ここからどうにか、ってしようとすると結局いまの政治風土に行き着くんだよ。だから政治をどうにかしないと、なの!
[film] Balada de um Batráquio (2016)
10月3日、土曜日、午前にシネマリスで『未知との遭遇』を見た後、ふらふらしながらアテネ・フランセ文化センターの坂をのぼって、午後からこの週にやっていた『現代ポルトガル映画傑作選2026』で見ました。最終日。
11分の短編 英語題は、”Batrachian’s Ballad”、邦題は『とある蛙のバラード』。
92年生まれのLeonor Telesの2作目。2016年のべルリン国際映画祭で短編部門金熊賞を史上最年少で受賞している。
ドキュメンタリーで、冒頭に昔々、すべての生き物は自由で平等で互いに寄り添うことができて、みんなが一緒に踊って幸せだった – のにお祝いに蛙だけが招かれなくて、蛙は絶望にかられて死んでしまった、という寓話が語られる。
ポルトガルでは「ロマ人立入禁止」のしるしとして、店先に陶器の蛙を置く風習があって(そんなのまったく知らなかった)、父方の祖母がロマ系である監督は、「そんなつもりじゃなかった」などど言われることは百も承知のうえで、それぞれの店に対して一軒一軒アクションを起こしていく、その記録。彼女が店の入り口に踏み入って、そこにある蛙の置物を手に取って、それを外の路上に叩きつけて壊して、逃走する。それだけ。アクションは一瞬で終わるのだが、入り口にある蛙の破壊が連続していくことで、なんとも言えない感覚をよびおこす。こんなに沢山の蛙とその数だけの絶望が店先に晒されている…
矢野顕子の『ふりむけばカエル』を流してほしかったかも、ってちょっとだけ思った。
あと、さっき見てきた”Digger”の最後もカエルの合唱だったな…
Terra Franca (2018)
↑のに続けて見ました。 英語題は”Ashore”、邦題は『水際』。原題をそのまま訳すと「率直な、自由な土地」、英語題だと「岸にあがって」くらい。
同じくLeonor Teles監督の長編第1作 - 80分。監督の故郷であるテージョ川沿いにある漁村 - Vila Franca de Xira - ヴィラ・フランカ・デ・シーラに暮らす漁師の一家の日常 〜 娘の結婚式に向かうあれこれを写し取ったドキュメンタリー。びっくりするくらいよくて、José Luis Guerínの『よき谷の物語』を思い起こしたりした。シネマ・デュ・レエル映画祭でSCAM賞のほか、多数の賞を受賞しているそう。
漁師で父親のAlbertinoは寡黙で70年代のBurt Reynoldsを崩したかんじのおじさんで、ひとり小さな舟に乗り込んで、毎日仕掛けた仕掛けの結果を見て、ぜんぜんだめっぽいのが続いてうううむー、なのだが文句を言ってもしょうがないので喋らずに腕を組んで遠くを見てばかり、更にここに自治体の環境規制や漁獲規制の話もあるので、どうしたものか、って更に固まっていくのだが、やはりどうすることもできなくて、黙るしかない。そんな彼の前に広がる川の、水の、すばらしい広がりときたら。
仕事はそんなでも家に帰れば妻のDáliaがいて、既に赤ん坊がいるけどもうじき結婚式をする予定の娘がいて、式や新しい生活に向けた準備あれこれと際限のないお喋りがあってなんだかんだ慌ただしく、こんなものかな、になっていく。
そんな家族の真ん中にカメラを置いて、インタビュー形式で語らせるのではなく、彼らがリビングやカフェで勝手に喋ったり言いあいしたりを撮って録っているだけで、特にすごい事件が起こったり感動的なストーリーやエピソードが語られたりするわけではないのだが、とにかくおもしろいったらない。
最後の結婚式も、ごく普通にみんなが笑って祝福している家族の集まりで、みんなずっと喋ったり踊ったり、その横でカメラを回している、それだけなのになんだかじーんとしてしまうのはなんでだろう? 『よき谷の物語』もそんなかんじのだった。自分のこれまでにもこれからにも、一切関係なかった、これからもないであろう人たちの声、語り、笑い、がなんでこんなに近くにやってきてくすぐってくるのか?
エンドクレジットで家族のスナップショットのバックにBill Withersの”Lovely Day”が流れてくるともうそれだけで…. ずるいや..
10.09.2026
[film] Disclosure Day (2026)
10月4日、日曜日の昼、109シネマズ二子玉川のIMAXで見ました。 本国公開から4カ月遅れてようやく。
一応備えというか、振り返りというか、前日3日の朝に、シネママリスで”Close Encounters of the Third Kind - Final Cut” (1977)を見ておいた。劇場で見るのは4回目くらい、最初に見たのは日本公開時の小学生のときで、この時は盛りあげを狙ったのか”Star Wars”か『未知との遭遇』か、みたいなのがあり、周囲には「未知との遭遇」の方が断然おもしろいよ、と言っていた。実際そう思ってて、そう言いながらSWに通いまくっていたのだが。
宇宙人との遭遇を描く、というより宗教の話 – なにを信じるかというより、信じているもののありようを開示する話、だと思った。おもしろいおもしろくないで言うと、すごくおもしろかった。
脚本David Koepp、監督Steven Spielberg、撮影Janusz Kamiński、音楽John Williams。
冒頭、プロレス興行が行われている会場からDr. Daniel Kellner (Josh O'Connor)が恋人Jane (Eve Hewson)と一緒に車で逃げだす。 彼はアメリカ政府の下請け業者Wardex (Waived Reporting, Development, and Extraction)のサイバーセキュリティ専門家で、そこから持ち出したアーカイブ一式と怪しげなデバイスのようなブツをもっていて、彼を導いていくのはWardexを抜けた彼の元上司のHugo (Colman Domingo)、彼を追っかけていくのはWardexのヘッド、Noah Scanlon (Colin Firth)。かつて修道院にいたJaneは、Danielと一緒にそこに匿ってもらい、彼の抱えているモノの中身となんで追われているのかを聞くと動揺する。
カンサスのローカルTV局の気象予報士Margaret Fairchild (Emily Blunt)は、出勤前にアパートのキッチンに迷いこんできたカーディナル - 赤い鳥と目が合ったらちょっと眩暈がして、そこから仕事場に車で向かう途中、交通違反で呼びとめられた警官の心に暖かく触れてしまったり、北朝鮮情勢で緊迫している局内の関係者をロシア語と韓国語で落ち着かせたり、更に生放送中に、ヒトの言葉とは思えない変な音声を発声して自分でびっくりする。(聖霊降臨)
TVであんな声を発してしまってから、Wardexはあいつだ、って彼女の方も追い始めて、Noah自らが変なデバイスを握りしめ憑りついてぼろぼろに消耗しながら突きとめようとするその場所には、Noah(と元Wardexのスタッフたち)がある施設を作りあげていて、それはやがて到来するその日その時 – Disclosure Dayに向けたものだった。
約束の地と時に向かって走る啓示を受けた者とそれを阻止しようとする者の追いかけっこで、その過程で誰がなんのためにそんなことをしているのかが見えてきて、そうやって見えてくるものに大きな驚きはなくて、どちらかというとやはりこういうことだったのか、に落ち着いていく。 『未知との遭遇』でも、約束の地、あの晩、は決まっていて、そこに向かう追いかけっこはあったが、その情報を持つものの立場、優位性のようなもの、は逆転している。そこの落ち着き(落ち着かせ)かたが過去のSteven Spielberg作品と比べるとあまりにわかりやすすぎ、座りがよくない、つまんない、唖然とするようなものがない、ということなのではないか。
Spielbergは過去の自作で何度も地球には宇宙人がいる/きているのだ、ということを描き続けてきて、よくわかんないけど追っかけていく対象だったり、友達になるものだったり、襲ってくるものだったり、古代からずっといるものだったり(まだありそう)するし、それは他のハリウッド映画でも同様なので、映画のフィクションとして”Disclose”したところで、今さらふううん程度でしかないし、そこに重みを持たせるには宗教(キリスト教)的な啓示(覚醒~伝搬~迫害~開示)や象徴(カーディナルも雄鹿も狐も)に重ねて委ねて、でっかいストーリーとして語ってみることだったのでは。
この映画で示される開示がどうして宗教的な認知や啓示の更新に繋がる(懸念のある)おおごとなのか - おおごとと言えるのか、とか、最後に出てくるリンカーンの椅子に座ったあれを、この時期が到来するまで維持したりケアしたりしてきたのはどこのだれだったのか、とか、最後の一言とか、あえてぼかしているところもなー。
MargaretがTVであの声を出して、それがブロードキャストされてしまったことで、他にも同様の人々がいっぱい湧いてくるとか、感応した動物たちがわらわら立ちあがるとか、ノアの箱舟とか、それくらいのスケールのやつを期待したのだが。
ラストで開示されていく映像のなかには『未知との遭遇』のもあった。”Independence Day”のとか”Paul”とかも出てきてほしかったのに。
でも、追いかけっことぐるぐる動きまくるカメラとEmily Bluntがとにかくおもしろい。それだけで十分ではないか。