1月29日、木曜日の晩、Bridge Theatreで見ました。
音楽Stephen Sondheim、脚本James Lapineによるグリム童話のマッシュアップ・ミュージカルで、初演は1986年、2014年にはRob Marshallによって映画化されている(もちろんDisneyで)。
演出はJordan Fein。 ビジュアルはずきんを被った赤ずきんが暗闇のなかに浮かびあがっている像で、これだけだとホラー映画のように見える。
上演前の舞台には黒幕が掛かっていて、それが開くとでっかい木 - 背後は深そうな森の闇、そこに普通の会社員みたいな語り部のおじさん(Michael Gould)が現れて何かを語ろうとするが、次々と現れては消える魔物 – というより変な人たち、そしてどこからか流れてきて全員がそのメロディに飲みこまれてしまう歌に圧倒されて、魅せられているうちに、森の奥に迷いこんでしまう。
パン屋(Jamie Parker)とその妻(Katie Brayben)が父親の罪によって掛けられた呪いを解くためにシンデレラの靴、ラプンツェルの金髪、赤ずきん(Gracie McGonigal)のコート、そして豆の木Jack (Jo Foster)が大切にしていた乳白色の牛 - Milky Whiteなどを集めなければいけないのだが、みんなそれぞれいろいろ抱えて這いずりまわっているので、誰かが何かをしようとすればするほど、いろんなのが出てきて事態は錯綜し、混沌は深まっていく、そんな森のなかへようこそ。
グリム童話の世界の根底を流れている家父長制や伝統的な魔女魔物に対する無意識の恐怖とか放擲とか服従とか敵意とか、最終的には自身の運命を受けいれることを呪いとして表にだして歌にして茶化したり、森の表面(表舞台)の反対側 - 森の奥の暗闇で行われていることを示さずに、そこを抜けてきた連中がどんなやつらか – 現れるのみんなほぼ変態だったり– を示して楽しい。
キャラクターとしてはお馴染みのばかりなので、善いやつ悪いやつくらいはわかるのだが、お伽噺の線が入り混じって錯綜していくなか、単純な善い悪いなんて言えなくなって、Wolf (Oliver Savile)もWitch (Kate Fleetwood)も、誰もがいろんな事情や悩みや呪いを抱えて森を抜けてきていることが見えてくる。なんでこうなっちゃうんだろう、って頭を抱えて考え始めた個が、そうやってばらばらになった”I”が”We”になることに気づいた時、そこには歌があることを知った時、など。
あれだけのキャラクターをわらわら裏に表に出してかき混ぜて、その呟きをSondheimの歌が拾いあげて、ひとつの幹とか森に撚りあげていく、そのプロセスの複雑さを思うと森のなかで方向感覚を失ったようにくらくらするが、楽しい歌と音楽はとにかくそこにあって、重ねられていくことでひとつの森を形成しようとするかのよう。Sondheimの魔法っていうのはこれかー、って初めてわかったような(おそい)。
人を悪い方に変えてしまう象徴的な筺としての森に、存在そのものが象徴として継がれてきた御伽噺の主人公たちをくぐらせてみると、どんな変態が生まれて何を歌い出したりするのか、というびっくり箱の仕掛けというか。
キャストのアンサンブルも見事で、パン屋夫妻はもちろん、Jackを演じたJo Foster (they/them)、赤ずきんのGracie McGonigalの輪郭の強さが印象に残った。あと、Jackが抱えていたMilky Whiteのぬいぐるみが異様にかわいくてとても欲しくなった。なんで売店で売ってくれないのだろう…
映画版も公開時に見たけど、個々のキャラクターとストーリーラインを正直に追っていくので、今回のような森の奥の闇の恐ろしさ、脅威を見せつける、そういう迫力はなかったような。
あと、このシアターはものすごく音がよいのだが、今回は森の奥で響く轟音が雷鳴のようにすさまじく、客席で飛びあがっている人が結構いた。
近い将来、改変版で誰かがトトロを加えたりしないかしら?(ヒトじゃないとだめか..)
でもこの劇の森とトトロの森はちがうよね。
2.11.2026
[theatre] Into the Woods
2.10.2026
[theatre] Dublin Gothic
1月31日、土曜日の晩、Abbey Theatreで見ました。
Abbey Theatreは1904年に建てられた(火災で1951に再建)アイルランドの国宝で、William Butler YeatsやSeán O'Caseyが設立に関わってアイルランドの文学復興運動にも貢献した場所、なのだがシアターとしてはものすごくシンプルであっさりしている。バルコニーもドレスサークルもなく、だんだんの傾斜があるだけ。でもおそらくこのサイズでのこの傾斜がものすごく見やすい、没入できる空間を作っているのだと思った。ロンドンのNational Theatreもこのサイズのがあったらなー、とか。
原作はこれが劇作デビューとなるBarbara Berginの同名戯曲(2025)。演出はCaroline Byrne。上演時間は2回の休憩を挟んで3時間半。
舞台は、三階建てのビルの断面のような、朽ちたビルの骨格だけが露わになったような構造になっていて、1830年からの約150年に渡る複数の家族の歴史を描いていくなか、その内装は時代や場面によって変わっていくが、120のキャラクターを次々に演じ分けていく19人の俳優たちは着替えで出たり入ったりする以外は、だいたいこの3層のどこかにいる。上の階での動きは(寝ていたり)少なくて下に行けば行くほど出入りは激しくなる。舞台手前の土があるところ – 地上層には、シャベルが5本くらい無造作に突きたてられている。
時代は1830年から1910年までが第一部、1910年から1950年までの戦争期が第二部、1950年から1980年までが第三部で、そこにおける負けっぱなし(Loser)の家族の歴史が、貧困、地主、階層、移民、宗教、性労働、エイズ、家父長制などの角度からショートコントのように忙しないやり取りで、やられて下に落ちたり転がったり泣いて泣かれてどこかに消えていく様が次から次に世代を伝って連鎖するように繋がれていく。”Loser”の主は、地主から虐げられる小作人からはじまり、弱いものはずっと弱いまま、ストライキや暴動、さらには独立戦争~2つの大戦を経て、その容赦ない虐めの連なりの行きつく先は常に末端の(末端と見られている)力のない女性たちで、そんなことになっても彼らとしては立ちあがって生きていくしかない。たくましい女性たちも当然出てくるが彼女たちもずっといるわけではなく、いつの間にか背後の闇に消えていく。
休憩時間には幕に出てきた家族の家系図が投影されて、最初の休憩では3世代3家族だったのが、次の休憩では確か5世代4家族になっていたり。でもそれでああそうか、ってなるところは少ない。
あまりに登場人物が多すぎて慌しく錯綜しつつ転がっていって、演じる方も大変だろうが見る方もあっぷあっぷで、とにかく各階/層で何かが起こって、誰かが殴られたり泣いたり落ちたり死んだりしていて、それらのシルエットを追っていくのが精一杯で、そこには常に地を這っていくような死や退廃のイメージがあった、という意味での”Gothic”であれば、それはそうなのだろうが、もうちょっと落ち着いて像を焼きつけられるようにしても、とか。
路地を抜けても抜けてもずっと果てなく続いていく出口なしのごじゃごじゃ、という点で、例えばLondon Gothicとはどう違うのか? Londonだと、もっと足元がきつく縛られていて身動きが取れずに埋められていく気がする。Dublinは勝手に動けてしまう分、後からのダメージとか踏み外しとか破滅がよりはっきり出て、でもなんかめげない(気がする)。
そして今はあの国がしみじみ嫌だ。あんなところに戻りたくない。
2.09.2026
[log] Dublin - Jan 31 - Feb 1
1月31日〜2月1日の一泊でアイルランドのダブリンに行ってきたので簡単なメモを。
アイルランドは2度目で、最初に行ったのは90年代の真ん中くらいだったので、ほぼ30年前 … になる。
前回はNYに住んでいた時だったので西のシャノン空港から入ってゴールウェイとかをぐるりと回って、ダブリンは終わりに1泊しただけで、ばたばた走り回って終わって、雨の夜のダブリンの湿ったイメージだけ残っている。
最近はいろいろふてくされていて、寝る前に転がってあーつまんねーなどっか行きたいなー、って演劇のチケットを取ったりする(とてもよくない)のだが、そうしている時にダブリンのAbbey Theatreでの”Dublin Gothic”が目にとまり、でも1/31が最終日だった。 チケットとか取れるのかしら? って見たらちょうどよさそうなところがひとつ空いている。 でもまあ飛行機だって取らないといかんしな、ってBAに行ってみたらぜんぜん高くなかったりして … このところの遠出はすべてがこの調子でなんか仕掛けられているとしか思えない(だとしても引っ掛かる方がバカ)。
もういっこよくないのは帰国まであと2ヶ月のお買い物モードになっていること。こういうときふつうの大人の会社員は靴とかスーツとかを買いに走るようなのだが、そんなの買うかボケ、で本とかの方に向かう。前回の帰国時はコロナ禍だったのでお店はほぼ開いておらずオンラインで買うしかなくて、そうすると古本は遠ざかってしまう(状態とかちゃんと見れないから)のだが、今回はそれがない。ヨーロッパじゅうの古本屋がばさばさ扉をひろげて呼んでいる(バカ)。
National Gallery of Ireland
ホテルに着いたのが8:30くらい、荷物だけ預けて町に出ると小雨がぱらばらだったがこんなのロンドンと変わらないので気にしない。ここは9:30には開いていた。
Picasso: From the Studio
パリのピカソ美術館の貸出が多かったように見えたが、ピカソが世界各地のスタジオで制作した絵画、彫刻、陶器などを時代別、場所別に並べていて、それだけでこれだけ楽しいものができてしまう不思議。外でライブで描いたものとスタジオに篭って描いたもの、という違いでは勿論なく、テーマが静物や子供といったインドアを向いている、というだけで、場所や土地や風土を超越した何かが見えるわけではないので、企画展としてはやや弱いかも。なのだが個々の作品は見ていておもしろいからー。いまTate Modernでやっている”Theatre Picasso”もこれと同じ視座に立ったものかも。
これ以外はNational Galleryなのですべて無料で、数点あったBonnardも1点しかなかったMorisotもよいし、WB. Yeatsの弟のJack B. Yeatsの作品をいくつか見れたのもよかった。
MoLI – Museum of Literature Ireland
アイルランド文学博物館、か。貴重な文献や史料類を網羅する、というより沢山のパネルと文字情報でアイルランドの文学者の像を多角で示す。知らない人も沢山。一番上の階にあった『ユリシーズ 』の初版、Copy No 1の威圧感がすごかった。
文学関係だとOscar Wildeの家と、『ユリシーズ 』に出てくる薬局Sweny's Pharmacy - もはや何を売っている? お店なのかすらわからないごちゃごちゃでカウンターの向こうで店主らしき人がガイドをしていた。
今回の探訪の目的には帰国前お買い物もあったので、古書店を含めて本屋を結構まわった。その中ではUlysses Rare Booksが圧倒的にやばかったかも。ここなら30分で1000万くらいかんたんに使うことができる、というくらいの質と量で、欲しいのありすぎて決められず、1時間くらい悩んでなんとか1冊選んで、日曜日は休みなので夕方にもう一回きた。天気は寒くて降ったり止んだりのぐだぐだで、それ以上に本屋にやられたかも。
この日の昼はThe Winding Stairっていう本屋の2階のレストランでかなりちゃんとしたスコッチエッグとサンドイッチを食べて、お腹がすかない状態でそのまま演劇を見て終わった。
翌2月1日は定番の(前回来た時にも行った)The Book of KellsとLong Library(改装中で半分も埋まっていない)を見て、Christ Church CathedralとSt Patrick's Cathedralを見て終わった。The Book of KellsはThe Book of Kells “Experience”となっていて、最近多い気がする“Experience”系のってどうなのか、って改めて思った。まず“Experience” 「経験」の定義が曖昧でうまく主体のすり替え(ただのコンテンツ消費を自分のかけがえのない「経験」と思いこませる )があり → ぼったくり → 後になんも残らず、なんだろうなー、等。
お昼はやはり『ユリシーズ 』にでてきたパブ - Davy Byrnesで、ゴルゴンゾーラのサンドイッチとブルゴーニュ - じゃないピノ・ノワール(原作ではブルゴーニュ)を戴いて、ワインはグラス半分も無理だったが、こういうのかー、って。
前回のNY → Dublinより、当たり前かもだけど今回のLondon → Dublinの方が、段差がなくてスムーズに見て回れてよくて、よいどころかすごく素敵で改めて好きになって、また来たくなった。初夏のビューティフルな季節に来たらいちころだろうな、とか、テムズ川もリフィー川くらいの幅ならよかったのにな、とか。
2.05.2026
[film] The History of Sound (2025)
1月30日、金曜日の晩、Barbican Cinemaで見ました。
監督は”Living” (2022)のOliver Hermanus、原作はBen Shattuckのふたつの短編を束ねて、彼自身が脚本を書いている。昨年のカンヌでプレミアされた。
ケンタッキーのLionel (Paul Mescal)が子供の頃、森のなかで音楽を色彩や味覚のように捉える能力について語られ、父親の歌うフォークソングに耳を澄ますシーンから入って、1917年、大きくなってニューイングランド音楽院に入った彼は、サロンでピアノをぽろぽろ弾いているDavid (Josh O’Connor)を出会い、自分の知っている曲だったので彼のピアノに合わせて歌うと、ふたりはそのまま恋におちる。
裕福な家に生まれ、でも先行きの不透明さに塞ぎこんでいつも孤独に見えるDavidは第一次大戦に従軍すべく軍服を着て出て行って、戦後、何もなかったようにひょっこり戻ってきて大学に就職すると、Lionelを誘って蝋管の装置一式を担いで、メイン州の田舎を歩き、いろんな階層の家庭で伝わってきた、歌われてきた、フォークソング –“Ballad Line”でも歌い継がれていたような - を録音してまわるようになる。なぜ、どうしてそんなことを始めたのかの説明はないが、歌ったりしている村人の家や軒先に装置をセットして、指示をだして歌ってもらい、終わるとまた野道を歩いて野宿して、星空の下で抱きあう。
やがて大学に戻るDavidとヨーロッパに出たいLionelは再び別の道を歩むことになり、Lionelが何通かDavidに宛てた手紙には返事もなくて、ローマで声楽家として成功したLionelはオックスフォードに渡って、裕福な社交家の娘の家に招かれて結婚手前まで行くのだが、母が病で倒れたことを聞いてアメリカに戻る。
アメリカに戻ってみると母はもう亡くなっていた - 廃墟のようになった実家に佇んでいるうちにDavidにたまらなく会いたくなって、彼の勤めていた大学に行くと、彼は…
第一次大戦前後の、アメリカを含めて世界が大きく変わろうとしていた時に、古くから継がれてきた先祖らの歌、音に向きあったふたりの若者は、その音を通してなのか歴史を通してなのか、どうして、どんなふうに互いを求めあわなければならなかったのか。
蝋管に刻まれた音、そこに封じ込められた歌をふたりがじっと見つめるシーンはあるのだが、彼らにとっての音 – フォークソングがどんな意味や重みをもって、なんで迫ってくるのか、歌うことを仕事にしたLionelにとって、冒頭にあった音と色、模様などのありようとの関わりは? などがほぼ説明されないので、あまり迫ってこなかったかも。
Paul Mescalが”All of Us Strangers” (2023)で見せたAndrew Scottとの間に瞬いていたもの、あるいはJosh O’Connorが”God's Own Country” (2017)で見せたAlec Secăreanuとの間の猛々しい情欲、どちらもイギリスのぱっとしない男の足下で瞬く火花のような恋で、とても納得できる強さと濃さをもったものだったのだが、今作にはそれ – 激しく求めあって狂った犬のようになる – がなくて、とても端正でおとなしくて、ふたりの立ち姿とか画面は美しいのだが、はっきりと弱いかも。狂ったふたりがどんな演技を見せるのか、知っているだけにもったいない、しかない。
誰もが思ったであろうが、次の組合せはJosh O’ConnorとAndrew Scottになる。なってほしい。
しかしPaul Mescal、”Gladiator II” (2024)から”Hamnet”(2025)からこれ、ってもうモダンでノーマルなNormal Peopleには戻れないよね。
[theatre] Ballad Lines
1月26日、月曜日の晩、Southwark Playhouse Elephant (Elephant and Castleにあるから)で見ました。
“A Folk Musical”とあって、コンポーザーはFinn Anderson、演出はTania Azevedo。
タイトルは声に出すと”Blood Line”と読めなくもなくて、ポスターはそれに沿うかのように草や紐やワイヤーをわし摑みする拳で、ちょっと熱い。
7人の女優(シンガー)と1人の男優、バンドは3人(+裏にドラムスがひとり)、全員が手を打ち足を踏み鳴らしたりしながら歌って踊るが、West Endのミュージカルに見られる華々しく弾けて元気いっぱいのショーの要素はそんなにない。微細なハーモニーを重ねて響かせ聴かせるのに注力しているような。
カナダから連なるアパラチア山脈の南側、ウエストバージニア州、バージニア州、ケンタッキー州、テネシー州、ノースカロライナ州に移住してきたスコットランド系アイルランド人(スコッツ=アイリッシュ - アルスター系移民)の間で歌い継がれてきた音楽 – カントリーミュージックの原型になったと言われる – についてのお話し、というかその歌の背後にはどんな(女性たちの)ドラマがあったのか。
現代のNYに住むSarah (Frances McNamee)とAlix(Sydney Sainté)のカップルのところに、死に瀕したSarahの叔母Betty (Rebecca Trehearn) から箱が送られてきて、こんなのいらなんだけどどうしよう、と言いながら箱に入っていたカセットテープをかけてみると、Bettyと一緒に歌っている子供の頃のSarahの声、Bettyを経由して彼女の先祖たちの声が聞こえてくる。
17世紀初のスコットランドで牧師の妻Cait (Kirsty Findlay) は出産を望んでいなくて、そこから5世代を経た18世紀初、アイルランドのアルスターに渡っている15歳のJean (Yma Tresvalles) は子供が欲しくて逃げるようにNYに渡ろうとしている。そしていまの時代の、SarahはAlixとの間の子供が欲しくなって、Alixと一緒に病院に行って検査を受けよう、と誘っている。
いろんな事情だったりやむにやまれぬを抱えて、海を渡って国を越えて生きながらえてきたSarahの先祖 - スコッツ=アイリッシュの民、そのなかで、彼らが海を渡った背景には男女、家族、集落、それぞれの理由や事情があったはずだが、ここでは女性の、おそらく産む(産まない)自由なんて、家を出ていく自由なんてなかった、そんなふうに掟のような何かに縛られなければならなかった彼女たちの声にフォーカスして、それが歌として、複数の声として立ちあがって、最初はひとりぼっちだった鼻歌がみんなの歌に撚りあげられていく様をダイナミックに描く。
なぜ女性なのか - 彼女たちの声が正しくとりあげられ振り返られてきたとは思えないから、だし、それは歴史の捉え方も含めて今も我々の認識の底に無意識にあるように思えるから、だし、でもなにより、彼女たちの歌は美しくて正しいからだ、それなのになんで? という螺旋の問いのなかに閉じこめて、その同じ歌がそれを開け放ってくれたりする。
歌はそんなに(自分のイメージする)フォークのかんじはなくて、ところどころメジャーなスケールで聞こえて声の重なりとか感動をもたらしてくれたりもするのだが、そう来れば来るほど、現代のSarahたちとのギャップがやや気になった。Sarahのような同性婚で精子提供を受けるようなケースがぶち当たる壁、悩みや逡巡と、彼女の先祖たちの受難の話って、同じバラッドのなかで歌ってしまってよいものだろうか - どちらも痛みを伴う選択であるとしても - とか。
今公開中の映画 - “The History of Sound” (2025)も昔の歌に耳を傾ける、というのがテーマになっていたが、これってどういうことか、を少し考える。
2.03.2026
[theatre] Guess How Much I Love You?
1月24日、土曜日のマチネをRoyal Court Theatreで見ました。
同シアターの70周年を迎えるシリーズのオープニングを飾る作品。
インスタで流れてきた予告だと、男女のどたばたコメディのように見えたのだが、とても重いテーマを扱っていることをシアターに入ってから知る。場内にはContent Guidance and Warningsの張り紙がある。 確かに人によっては重いテーマかも。
原作は(俳優でもある)Luke Norris、演出はJeremy Herrin、1時間35分(休憩なし)のShe (Rosie Sheehy)とHe (Robert Aramayo)によるほぼふたり芝居。
最初は妊娠20週目の超音波検査にやってきた夫婦の会話で、ふたりはおそらく日々の会話そのままのノリで、生まれてくる子の名前について、候補を並べつつ冗談を言ったり小突きあったりしながら結果を待っている。彼はおしゃべりで陽気で、放っておくといくらでも喋っているようなタイプで、彼女はそんな彼を巧みに統御しつつ時折感情を爆発させて黙らせる、そういうパワーを持っている。 いつもそうなのであろうふたりの会話のテンポは卓球のように速く緩急自在で、喧嘩のように声を荒げることはあっても、いつもこんなだから、っていう安定感のようなものが軸にある、そんなふたり。
全体は6つのシーンから構成されていて、最初の病室からふたりだけの寝室まで、シーンごとに中の建付けはがらりと変わるが、暗いなか、その暗転と共にふたりの姿だけ、その思いだけがぽつんと浮かびあがるようなデザインになっている。
ネタバレにならざるを得ないが、テーマは若いカップルが経験する彼らの子の(思いもしなかった)死産と、その悲しみ辛さがどんなふうにやってきて、それをふたりは、ふたりでどう乗り越えるのか、等。 まったくの偶然だけど前日の晩が”I Do”という結婚式当日のドラマだったのと、この日の夕方に見た映画 - ”The Chronology of Water”にもそういうシーンが出てきたので、なんなんだこれは… に少しだけなった。
子を失った悲しみ、その表し方は男女それぞれで当然違う。それぞれがあなたには/君にはわからないだろうけど、と言いながら互いと自分の両方に向かって感情を爆発させて、どれだけ爆発させても相手に響くことはない。彼女は、これはわたしの身体のこと、このおなかで起こったことだ、前と後で自分の体は変わってしまったんだわかるか? といい、そんなのわかるわけないけど、こっちだって辛いに決まってるだろ、って命懸けの口喧嘩、みたいになって、どっちも折れない。折れたところでどうなるものでもないし、どう収拾をつけるのか、つくようなものなのかもわからない。けど、それをぶつけることができる相手は目の前の彼と彼女しかいない。
当然ながら、カップルによってその痛みの重さ、受けとめ方から立ち直りまで、それぞれだと思うものの、この舞台で描かれたふたりについては、思ってもいなかった事態に向きあい、押し寄せる怒涛の悲しみと混乱を引き受けつつもふたりの受けた痛みの重さ、その総量をダイレクトにぶつけ合い、ぶつけあうことで互いを確かめていく(しかない)過程がむき出しで生々しく描かれていて、辛いけど目を離せなかった。
どちらが正しいとか、どちらが勝つとか負けるとか、そういう話ではなく、でもぶつかって吐き出さないことには次に進めない、そんな話をシーンごとに少しずつトーンを変えて解していく。
最後、どうやって終わるのだろう、って思ったが、そうかー って。 改めてタイトルを振りかえるの。
[film] H is for Hawk (2025)
1月24日、土曜日の晩、”The Chronology of Water” (2025)を見た後にCurzon Mayfairで見ました(21:00の回、ちょっと疲れた)。
昨年のLFFでも上映されていた一本で、ドキュメンタリーではないが、実話ベースのお話し。
監督はPhilippa Lowthorpe、原作はSamuel Johnson Prize等を受賞したHelen MacDonaldの同名メモワール(2014)、脚本はEmma Donoghueと監督の共同。
”The Chronology of Water”も女性のメモワールが原作だったが、ずいぶんちがう。”The Chronology…”は父親の虐待から始まる話で、こちらは父親の突然の死から始まっている。
冒頭、Hawk(タカ)の全身/部分がクローズアップで映しだされて、そのトトロみたいに丸っこい体とその曲線とか羽根のふわふわとか、なに考えているかわからない目とか、ここだけでいいや、になる。猛禽類好きは必見。(自分はそうでもなかったが、見たら好きになった)
2007年、Helen (Claire Foy)はケンブリッジで科学史を専攻するリサーチ・フェローで、ベルリンでの招聘研究に向けた準備をしようとしていたところで、報道写真家で、大好きだった父Alisdair Macdonald (Brendan Gleeson)を突然失い、喪失状態の中、突然彼女はGoshawk(オオタカ)を飼いたい、と思い立ち、友人をつたって手に入れて、Mabel、と名付けて飼い始める。
もちろん最初はおっかなびっくりで簡単にいかなくて、食事を食べてくれないし、手に乗せてもばたばた羽ばたいて大騒ぎになるし、でも互いにだんだん近付いていって、そうなっていくのに合わせてHelenは外に出なくなり人と会わなくなっていく。それがMabelの世話によるものなのか、父の不在が改めてのしかかってきたのか、明確には語られない。ただMabelの獰猛な – でも繋がれたままの野性がHelenのどんよりとした日々に影響を与えたことはわかる。
MableがふつうにHelenの手からお肉を食べるようになると、HelenはMabelと一緒に外に出て、短い距離を飛ばして戻ってこさせたり、野に放って野ウサギやキジを捕まえたり、をするようになる。そんなふうに野生を取り戻していくMabelと、掃除もしない部屋に籠って居留守をつかうようになっていく - これも野生がもたらすなにか? - Helenのコントラスト。
鷹を抱えてキャンパスを歩くHelenに、それはEagle(ワシ)かHawk(タカ)か? って聞く人がいて、それに対して、ふたつは犬と猫くらいちがうんだよ、って返すシーンがあって、そうか犬と猫なのかー。トラとライオンくらいかと思っていたけど、随分違うのね。でもなんでタカなのか? ワシだとでっかすぎて手に負えないから?
Helenの近くにいる親友のChristina (Denise Gough)も、母(Lindsay Duncan)も籠るようになったHelenを心配して家にやってくるようになるのだが、Helen自身がタカになってしまったかのようにぴりぴりしていて抱きしめてあげることができない。主人公がタカに憑依される話、ではもちろんない(そうしてもおもしろかったかも)。なんでHelenはMabelと一緒にいるうちにああなってしまったのか、結果としてMabelはHelenに癒しを与えることができたのか、Helenはどんなふうに変わって、それはよかったのか悪かったのか、原作にはあるのかもしれないが、映画だとその辺が見えにくかったのがちょっと。動物がなにかどこかを癒してくれました、のような単純な話でないのはよいのだけど。
でもタカを腕に乗っけてちょっと浮かない顔で野道をすたすた歩いていくClaire Foyの姿はそれだけでなんだかよくて、ケンブリッジの曇った空と木と原っぱが不思議と映えているのと、タカはそんなの知ったこっちゃない、みたいな顔でいるのが素敵で。
いま絶賛公開中の”Hamnet”では、Agnes (Jessie Buckley)の飼っていたタカの死が、彼女をより家族のほうに向かわせる、そういう描写があったような。