1月24日、土曜日の晩、”The Chronology of Water” (2025)を見た後にCurzon Mayfairで見ました(21:00の回、ちょっと疲れた)。
昨年のLFFでも上映されていた一本で、ドキュメンタリーではないが、実話ベースのお話し。
監督はPhilippa Lowthorpe、原作はSamuel Johnson Prize等を受賞したHelen MacDonaldの同名メモワール(2014)、脚本はEmma Donoghueと監督の共同。
”The Chronology of Water”も女性のメモワールが原作だったが、ずいぶんちがう。”The Chronology…”は父親の虐待から始まる話で、こちらは父親の突然の死から始まっている。
冒頭、Hawk(タカ)の全身/部分がクローズアップで映しだされて、そのトトロみたいに丸っこい体とその曲線とか羽根のふわふわとか、なに考えているかわからない目とか、ここだけでいいや、になる。猛禽類好きは必見。(自分はそうでもなかったが、見たら好きになった)
2007年、Helen (Claire Foy)はケンブリッジで科学史を専攻するリサーチ・フェローで、ベルリンでの招聘研究に向けた準備をしようとしていたところで、報道写真家で、大好きだった父Alisdair Macdonald (Brendan Gleeson)を突然失い、喪失状態の中、突然彼女はGoshawk(オオタカ)を飼いたい、と思い立ち、友人をつたって手に入れて、Mabel、と名付けて飼い始める。
もちろん最初はおっかなびっくりで簡単にいかなくて、食事を食べてくれないし、手に乗せてもばたばた羽ばたいて大騒ぎになるし、でも互いにだんだん近付いていって、そうなっていくのに合わせてHelenは外に出なくなり人と会わなくなっていく。それがMabelの世話によるものなのか、父の不在が改めてのしかかってきたのか、明確には語られない。ただMabelの獰猛な – でも繋がれたままの野性がHelenのどんよりとした日々に影響を与えたことはわかる。
MableがふつうにHelenの手からお肉を食べるようになると、HelenはMabelと一緒に外に出て、短い距離を飛ばして戻ってこさせたり、野に放って野ウサギやキジを捕まえたり、をするようになる。そんなふうに野生を取り戻していくMabelと、掃除もしない部屋に籠って居留守をつかうようになっていく - これも野生がもたらすなにか? - Helenのコントラスト。
鷹を抱えてキャンパスを歩くHelenに、それはEagle(ワシ)かHawk(タカ)か? って聞く人がいて、それに対して、ふたつは犬と猫くらいちがうんだよ、って返すシーンがあって、そうか犬と猫なのかー。トラとライオンくらいかと思っていたけど、随分違うのね。でもなんでタカなのか? ワシだとでっかすぎて手に負えないから?
Helenの近くにいる親友のChristina (Denise Gough)も、母(Lindsay Duncan)も籠るようになったHelenを心配して家にやってくるようになるのだが、Helen自身がタカになってしまったかのようにぴりぴりしていて抱きしめてあげることができない。主人公がタカに憑依される話、ではもちろんない(そうしてもおもしろかったかも)。なんでHelenはMabelと一緒にいるうちにああなってしまったのか、結果としてMabelはHelenに癒しを与えることができたのか、Helenはどんなふうに変わって、それはよかったのか悪かったのか、原作にはあるのかもしれないが、映画だとその辺が見えにくかったのがちょっと。動物がなにかどこかを癒してくれました、のような単純な話でないのはよいのだけど。
でもタカを腕に乗っけてちょっと浮かない顔で野道をすたすた歩いていくClaire Foyの姿はそれだけでなんだかよくて、ケンブリッジの曇った空と木と原っぱが不思議と映えているのと、タカはそんなの知ったこっちゃない、みたいな顔でいるのが素敵で。
いま絶賛公開中の”Hamnet”では、Agnes (Jessie Buckley)の飼っていたタカの死が、彼女をより家族のほうに向かわせる、そういう描写があったような。
2.03.2026
[film] H is for Hawk (2025)
2.01.2026
[film] The Chronology of Water (2025)
1月24日、土曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。
“Woman with a Movie Camera”というシリーズ企画のなかでのPreviewで、イントロで主演のImogen Pootsさんの挨拶があった。水泳のおかげで腹筋がたっぷりついた、とか。
原作はLidia Yuknavitch (1963- )の同名メモワールをベースとした、Kristen Stewartの初監督作。脚本は原作者と監督の共同。音楽はParis Hurley。
Lidia Yuknavitchは、水泳で奨学金を得てアメリカのオリンピックの代表候補になるほどのところまで行ったのに薬物依存などで道を断たれて、その後大学で勉強し直して作家となった。映画を見ればわかるのだが、幼時から実父による性的なそれを含む虐待に晒されつきまとわれ、妹も同様、母はアル中、という凄惨な家庭で育って、本人も死産を経験したり男を次々に変えたり逃げられたり、どこまでも荒んでいって出口らしきものがない。
しかしこの話は、そうやって人生の危機や困難を乗り越えて二の足で立つ所謂「サバイバー」としての彼女の強さを描くのではなく、タイトルにあるように中心にくるのは「水」 - 変幻自在で一箇所に一形態に留まらず、クロノロジカルな変転や総括を許さないで絶えず流れて移ろっていく水のことを描こうとしている。
歯を食いしばって耐えて泣き叫んで血だらけになったり酒や薬でらりらりになって踏みとどまる主人公の姿も、彼女を虐待したり彼女から遠ざかっていった男達も、その結果として周囲から認知される「サバイバー」の輪郭からも遠ざかるように断続的に現れる「水」のイメージ、クロノロジー。 「水に流す」「お茶を濁す」まで含めて、水と共にあることで彼女はとにかく生きる - 死なずにあることができた、ということについての映画なのだと思った。女性の強さ - 最近言われるレジリエンスや元気を貰える系、の話ではまったくない。
なので時系列もばらばらで泳いでいく、重力や支点を失って浮遊していく主人公のイメージ、血も涙も涎も体液も混ざって薄まったり広がったり澱んだりしていく水として常に溢れては流れて消えて、映画の時間もこれらの水面を眺めているうちに終わってしまうような。
監督のKristen Stewartが描こう、捕えようとしたのがこのような水のイメージなのだとしたら、それははっきりうまくいっているように思えた。2時間を超える、結構しんどいテーマを扱う作品なのに、水と水を透過して流れこむ光の、そこで歪んだり屈折したりする身体や表情の捕まえかたが、アートフィルムのようでもあるがいつまでも見ていられるし、そうあることで安易な結論に落ち着くことを許さない。人の、女の一生を勝手に簡単に総括されてたまるか、という原作者と監督の決意表明のようにも思えたり。
デビュー作でこんなものを出してきたKristen Stewartに新人らしからぬ、とかいうのは失礼も甚だしく、狼男に惚れられて吸血鬼との間に子供を産んだときから、Personal ShopperからDianaまで演じていくなかで既に形成されていった何かだったのではないか。 (だから年代記じゃないって何度言えば)
でももう”Charlie's Angels” (2019) みたいのはやってくれないのかな… (少しだけ)
Kim Gordonが一瞬出てきて、そこにいるだけで電気が流れているようにかっこいい。
最後にPJ Harveyの”Down by the Water”でも流れてくれたら最高なんだけど、と思ったがさすがにそれはなかった。
週末にダブリンに行っていて、さっき帰ってきた。
2日間で9万歩以上歩いていて、こんなの週末じゃない、って自分に文句をいった。
1.30.2026
[film] Nouvelle Vague (2025)
1月25日、日曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
本公開の1週間前なので”Preview”マークが付いていたが、ここでは1月の特集として”Ensemble: The Filmmakers from Richard Linklater’s Nouvelle Vague”というのもやっていて、”À bout de souffle” (1960) - 『勝手にしやがれ』はもちろん、元旦に見た” The 400 Blows” (1959)から2日間に分けて上映された”Out 1: Noli me tangere” (1971)まで、よい意味で教科書的に網羅していて、もちろん見たいのだけどとにかくぜんぜんまったく時間がない。
Richard Linklaterが『勝手にしやがれ』の撮影、映画を作っていく過程を通してJean-Luc Godardを中心とした”Nouvelle Vague”シーン、それを作ったCahiers du Cinéma誌の中心にいた若者たちの青春群像を描いた、ということでよいのか。昨年のカンヌに出品されて、LFFでも上映されていた。
モノクロで、主要な登場人物たちは最初にカメラを見つめるとその彼/彼女の名前が字幕でちゃんと出るし(名前が出るたびに「うぅ」とか唸るうざいじじいが必ずでるよ)、劇中では個々のやりとりもちゃんと名前を付けて呼びあうし、ご丁寧にリールの切り替えのキューマークも出るし、あの時代の若者たちや映画制作周辺の雰囲気を小学生にもわかるように伝えようとしている、ことはわかる。
誰もがお金がなかったあの時代、映画に飢えていた若者たちはどんなふうに寄り集まって自分たちで映画を撮っていったのか、という、あの時代のあれらの映画を見て、かっこいいー!って痺れた人なら取り組んでみたいテーマであり題材なのだと思う。それは稀代のならずもの集団映画、“Slacker” (1990) - 今回の特集でも再上映されている – をデビュー作で撮ったLinklaterなら猶のこと、なのかも。
Godardは新人のGuillaume Marbeckがとても小ぎれいにかわいらしく演じ、Jean-Paul BelmondoをAubry Dullinが、Jean SebergをZoey Deutchが演じているが、Godardの突飛でなにを考えているのかわからない演出に戸惑いながら役を演じる「彼ら」を演じる彼らは、なんだかとても辛そう。アドリブの演技をきちんとカバーする、って難しいことだろうし、それはこういう撮り方をしてこういうことになった、ということ(も説明されている)を知っていればわからないでもないのだろうが、ご苦労なこった、って変な心配をしてしまう。
全体にものすごく整然と綺麗に整っていて、ちょっとコミカルでおしゃれなTVドラマのようにも見えて、自分が山田宏一の『友よ映画よ、 わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』などを通して感じた絶望と貧困のなかから立ちあがってタバコの煙とヤニと男くささにまみれた(と想像する)あれこれとのギャップがありすぎるし、この違いを「冒涜」とまでは思わないものの、どこか別の世界の別の時代のなにか、と考えた方がよいのかも。 JLGがこれを見たらどう思うか – そのうちできるであろうAI JLG(もうあるのかな?)に聞いてみたい。 あと3回くらい自死したくなるのではないか。
あの時代のパリがどんなふうで、あの世界でどんな映画が作られていたのか、は今回の特集で上映されている作品群を見れば十分で、それでも今回のようにたっぷりのお金をかけてきちんと描いてみたい、伝えたい何か、ってなんなのか? がよくわからないし、きちんと伝わってくるとも思えないし。
アメリカ人だから、アメリカ人の見た/イメージする”Nouvelle Vague”像、でよいのかも、とか思わないでもないのだが、それって誰にとってどういう意味があるの? っていつもなるし。 当時と同額(現時点換算)の予算規模で、当時と同じ機材を使ってやってみる、の方がまだ伝わるものがあったのではないか、とか。
Richard Linklaterは同時期にこれも実在の人物を中心においた”Blue Moon” (2025)をリリースしていて、Ethan HawkeがLorenz Hartを演じている。これはLFFで見たのだが、こちらもなんだか微妙だった。Ethan Hawkeはすばらしかったのだが。
同様のバイオピックでだいじょうぶかなー、ってちょっと心配(っていうほどじゃないけど)なのはSam MendesのThe Beatlesのやつ。
[film] The Voice of Hind Rajab (2025)
1月24日、土曜日の昼、Curzon Bloomsburyで見ました。
作、監督はチュニジアのKaouther Ben Haniaでチュニジア/フランス映画。
Executive ProducerとしてBrad Pitt, Joaquin Phoenix, Rooney Mara, Jonathan Glazer, Alfonso Cuarón, Spike Lee, Michael Mooreらの名前が並ぶ。
昨年のヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門でプレミアされ、審査員大賞を受賞している。
まだ日本公開が決まっていないのだとしたら、こんなに恥ずかしいことはない。BBDの件といい、どこまで内輪の利益とか目線優先の幼稚な国であろうとしているのか。
事実に基づく話で、Red Crescentの人々は俳優が演じている - 一部実際の彼らも映る - が、彼らがやりとりするHindの声は彼女がかけてきた時に録音されたものをそのまま使っている。
2024年1月29日、パレスチナのRed Crescentの緊急コールセンターで電話を受けているOmar (Motaz Malhees)のところに、ドイツの男性から、いとこのHind Rajabがガザ地区のガソリンスタンドのところで車内に閉じこめられている、という通報を受けて彼女の番号に掛けてみると、背後に銃声が響くなか、6歳の彼女が出て、一緒にいる大人たちもいとこもみんな動いていない、すぐ助けに来て、という。
彼らのセンターからHindのいるところまでは40数マイル、でもガソリンスタンドから8分のところに救急車がいることがわかり、急行してもらおうとするのだが、コーディネーターのxxからは許可が出るまで動けない、動くなと言われる。これまで何人の救命士が命を落としたと思っているんだ、プロトコルには従え、と内輪で小競り合いしている間にHindとの連絡が途絶えて、でも何度か繋がり直して、でも夜になって偉い人(イスラエル軍側の許可もいるって)の承認を得るのが難しくなってくると、最後の手として、彼女の助けを求める声をソーシャルメディアにポストして拡散することをやってみる(監督もそれを聞いて映画にしようと思ったと)。
映画の予告篇は火事場から彼女を救出することができるのか? というサスペンス調で、フィクションであれば危機一髪の救出劇、に仕立てるところだろうが、これはそうではないので結果は最悪で(ネタバレ? ネタ扱いするなんて最低)、後の調査結果によると彼女が乗っていた車にはイスラエルの戦車から335発の銃弾が撃ち込まれ、彼女の遺体は6人のいとこ達のそれと共に一週間放置され、現場に向かった2人の救命士も殺されてしまった。殺されたのだ。我々は彼女たちを見殺しにした側に立っている。
こんなふうに見る人を金縛りにして感情に訴えるフィクションのような作りにしたことに対する賛否があるのはわかる。素材はあるのだから関係者の証言や時系列を重ねて整えて普通のドキュメンタリーとして作った方が、なぜこんなことが起こったのか、起こらないようにするにはどうすべきだったのか、の検証はしやすいし、それは必要なことなのかも知れない。でも今のイスラエルはそんなの聞こうともしないだろう。 それなら助けを求める彼女の声とその悲劇を前面に出して… こうしてあれだけの映画人が集まったのだし、ヴェネツィアでは上映後のスタンディングオベーション23分の記録を作ったのだそう。
でもそんなことより、彼女の他にこの2年間でイスラエルによって約20000人の子供たちが殺されて、停戦合意の後も殺され続けていて、我々はそれを救うことも手を打つこともできないままでいる、ということの重さと異様さに吐き気がする。 こんな状態のなかオスカーもBAFTAもなんの意味があるのか。やめちまえって思う。
A Grain of Sand
1月27日、火曜日の晩、Arcola theatreで見ました。
これも今のパレスチナを生きる、生きなければならない、あるいは生きることの叶わなかった子供たちの声、語りを纏めた劇。元になったのはLeila BoukarimとAsaf Luzonが纏めたブックレット”Million Kites: Testimonies and Poems from the Children of Gaza”。 ここからElias Matarが脚本を書き、Sarah Aghaが一人芝居として何人かを演じていく。
舞台は客席の一番前と繋がっている床上で客席が見下ろすかたち、真ん中に砂場のように砂が盛ってある。
中心にいるのはガザに暮らす11歳のRenadで、家族とおばあちゃんも大きな家で一緒に幸せに暮らしていたのだが、今はみんなどこかに行ってしまった。
Renadは自分のおばあちゃんがそうだったようにストーリーテラーになりたくて、おばあちゃんが語ってくれたガザの昔話のなかで、彼女は想像力の翼 – パレスチナの太古の伝説の鳥Anqaの - をひろげて、どうにか生きて、どこかに行ってしまった家族を探すことができないか、と。
Renadの話に加えて、スクリーンに名前と年齢が表示されてから、それぞれの子供たちの詩や言葉がRenadを通して語られていく。家族はどこに行っちゃったんだろう? なんで病院は(学校は、教会は)安全て聞いたのに爆撃されて燃えているんだろう? この痛みや辛さはいつかどこかに行ってくれるんだろうか?などなど。子供たちが必死で、言葉にできないなにかを言葉にしようとしていることがわかって胸が痛くなる。
それは浜辺で流されて盛られたり崩されたり遊ばれたり、いろんな意味でただの小さい砂粒なのかもしれないけど、消滅することはない、流されて消えてなくなってよいものではない。最後、背後のスクリーンに子供たちの名前がものすごい数、砂の細かさで集められ映しだされて見えなくなってしまう。Hind Rajabのかき消された声のように。絶対そうはさせないから、という意思に貫かれている舞台だった。
1.28.2026
[theatre] Dante or Die: I Do
1月23日、金曜日の晩、Malmaisson Hotelで見ました。
演劇で、主催はBarbican、劇団名がDante or Die(英国の劇団)、会場はBarbicanの裏手にあるシティーホテル。金曜日は18:15の回と20:45の回の上演があって、見たのは20:45の回。
制作はDaphna Attias + Terry O’Donovan、脚本はChloë Moss、演出はDaphna Attias、初演は2013年で、今回のロンドン公演の後は、ReadingやManchesterの同じホテルチェーンをツアーしていくらしい。
最初はどういうものかよくわからなかったのだが、ホテル(通常営業もしている)のロビーにある受付にいくと、色分けされたバラの造花一輪(自分はRoyal Blueだった)を渡されて、その色別グループの担当ガイドの人がいるグループに合流する。会場(部屋)が狭いので荷物やコートはクロークに預ける。
そうやってグループ分けされた全6組(かな?)は、ガイドの案内に従ってロビーのひとつ上の階の6つの部屋のそれぞれで展開される15分くらいのドラマを見て、次の部屋(のエピソード)に移って、を繰り返していく。部屋に入ったら演者の演技の邪魔にならない限りはどこに立ってもベッドに座ってもよいし、ドラマの進行を妨げないようにちょこちょこ自分の居場所を変える必要もあったり。全体のストーリー(的なもの)はどの部屋のどのエピソードから見てもわかるようになっている(プレイテキストを買ったら、付箋で自分の見る順番をタグしてくれた)。
Georgie (Carla Langley)とTunde (Dauda Ladejobi)の結婚式当日、式が始まる15分くらい前の各部屋の混乱や狂騒やじたばたを観客は目の当たりにしていく。見ていく順番は組によって違うが、各部屋(の演者)は式の15分前に時間を正確に合わせる必要がある(部屋の外で聞こえる掃除機や誰かの叫び声も含めタイミングは計算されている)ので、ガイドの人が部屋をノックしてそこに入るときはせーの、で全てのグループが同期をとる。終わると観客は誘導されて避難訓練や健康診断のように次の部屋の前 - ホテルの廊下に一列に並んで次のエピソードが用意されるのを待つの。
最初の部屋に入ると、半裸の老人(男)(Geof Atwell) が車椅子に座っていて、体が不自由で言葉も喋れないようなのだが、彼に服を着せたり薬を飲ませたりしている妻と思われる女性や慌しく出入りする親族らしき人の発言から彼は花嫁の祖父であるらしいことがわかる。でも彼は終始ほぼ動かず表情も変えられず、その様子を見てケアをする女性は涙ぐんでしまったり。 これも光景としてはありそうだしわかるし。
次の部屋は、洗面所の化粧台のところでベストマン(Manish Gandhi)が鏡を見ながらスピーチの練習をしていて、このエピソードはどうかな? って花婿のほうに電話でお伺いをたてると「それはなし」とか素っ気ない返事が返ってきたり、着替えをしていると列席者でゲイの恋人らしき男が現れてキスしたり、緊張とテンションでぐしゃぐしゃになっていく。
次の部屋は、入ると電話がじゃんじゃん鳴るなか花婿がパンツ一枚で天井をぼーっと眺めていて… こんなふうに部屋の散らかりよう、人物の表情と動き、部屋に駆けこんでくる人々の様子を見ただけで、そして残された時間が15分しかないことで、そういうことね… ってどんな事態になっているのかは想像・把握できる。他には昔に別れて招待されていない花嫁の実父が元妻と娘にこっそり会いに来ていたり。
ホテルは四つ星、モダンで小ぎれいなのだが、ロンドンなので部屋によってはとても小さくて、そこに10人くらいの観客が入るので結構ぱんぱんで、俳優の演技とか彼らが見ているスマホの画面まで含めてものすごく間近で見ることになるし、式の開始までに残された時間を思うと修羅場の真っ只中に居合わせていることになる、その臨場感と緊迫感はなかなかすごい。各エピソードの終わり近くには”Trainee”の名札をつけた清掃員らしき女性が現れて”Sea of Love”を小さな音で流しながら少し片づけなどをして、エピソードの合間 - 客が廊下に出ている間の彼女は時間を巻き戻すべく逆の動きをして、”Sea of Love”も逆回転で流れたり、いろいろ細かく作りこんである。
結婚式手前のこの場、この時間に他人の不幸を願ったり幸せを呪ったりする者はいない。”I Do”の一言を言う/聞くためにそこにいる誰もが自分のやり方で目の前の幸せを掴もう、掴んでもらおうとしている10数分間、だからこそこれだけのドラマが生まれて、うまくいっていない場合にはどうにか収まる兆しとか意思を見せる、その微細な瞬間を掴まえるのって、こうでもしないと難しいのかも。
そして俳優の人たちも、一回の上演で、同じ演技のセットを6回繰り返すことになるので、大変よね。
客も廊下に出て並んで入って、緊迫のドラマを見て、を繰り返すので結構疲れて、自分の回では客のひとりのひとが廊下で倒れて一時期的に全員ロビーに戻されたり、があった。(これも仕込み? って誰かが言っていたが違った)
エンディングはというと、式そのものをクライマックスとして見せてハッピーな方にはもっていかず、混沌のままで放置して解散となるのも素敵。あの登場人物たちが、それぞれの部屋で、幽霊のようにずっとああしている絵を想像したりもした。
終わって外に出たら23時を過ぎていて、うー、ってなった。
これを見る前はBFI SouthbankのDavid Lynch特集で、彼の初期の短編作品6本を見ていた。(だから疲れたのか?)
一番古いのは”Six Men Getting Sick” (1967)で、これらのって、NINと一緒にやっていた” Came Back Haunted” (2013)のテイストに近いなー、って。
1.26.2026
[theatre] Natalie Palamides: WEER
1月22日、木曜日の晩、WalthamstowのSoho Theatre – 昨年11月にJohn C. Reillyを見たとこ - で見ました。
Natalie PalamidesはLAをベースとするコメディ女優で、2017年にEdinburgh Comedy Awardsの最優秀新人賞を、2018年のひとり芝居”Nate”はEdinburgh Fringe FestivalのTotal Theatre Awardを受賞して、Netflixでも配信されたそう。
この”WEER”は、2024年のEdinburgh Fringeで上演され、A24が買い取って話題になったNYのオフ・ブロードウェイのシアター - Cherry Lane Theatreのこけら落としとしても上演された。 90’sの"one-woman romcom"ということで、このテーマなら行かないと、ってチケットを取っつ見に行ったのだが、すさまじかった。怒涛としか言いようのない90分で、終わった直後の嵐のようなスタンディングオベーションは当然かも。
会場に着くと、90’sの半端なラブソングが次々と流れていって、これだけで背筋に何かが走る。Backstreet BoysとかSpice Girlsはあたりまえ、曲名もアーティスト名もすぐには出てこないが、しょうもないPVの断片がチラついてくる方が気になって、そういうのが止まらない。舞台の奥にはチープな「1999」の板といろんな仕掛けらしきガラクタなどが散らばっている。
彼女がふたり分を演じるひとり芝居で、舞台の右手を向いている彼女の右半分は無精ひげ(口の周りをダークに塗ってる)でファッションに興味ないことがわかるチェックのシャツを着てすこしダミ声で何言っているかあまりよくわからないMarkになり、舞台の左手を向いている彼女の左半分は90’sのピンクのドレスを着たちゃきちゃきのChristinaになる。こうやってひとりコマのようにくるくる回転・反転して声を演じ分けながら90分もたせるのか、もつのか? と最初は思うのだが、これで激しい喧嘩も激しいキスもセックスもなんでもこなしてしまう。うまいとかそういうことではなくて - 腕の使い方とかよく考えたなーって思うけど、言葉にできないままエモの奔流できりきりとぶっ壊れていくカップルのじたばたや修羅場の混沌を見事に表現してしまう。
大筋は前世紀のおわり、1999年のカウントダウンを前にパーティで外出しようとしているMarkとChristinaが、彼が浮気したしない別れる別れないで喧嘩になって、でもとにかく車で外に出てみたら飛びだしてきた鹿(タイトルはDEERをもじったもの。はりぼてだけど実物大くらいの鹿)にぶつかって瀕死の重傷を負って、そしたら“1999”の右端の9がひっくり返って”1996”になり、ふたりが出会った頃からの走馬灯が回りはじめるの。
Natalieはブロードウェイで”The Notebook” - 『きみに読む物語』の舞台の雨の中のキスを見て、熱く愛しあっているふたりはどうしていつもあれこれ苦難や辛苦に見舞われて大変なことになるのか、っていう辺りからこれを思いついたらしいのだが、確かに90’sのrom-comって滑稽なほど、いろんな災難が降りかかってふたりの愛を壊したり試したりしにくるところがある。それをこれも典型的なGen Xのキャラクター設定 – ガサツですぐ熱くなるけど根は憎めない男、と過剰な思いこみであっという間に沸点に達する女、の組合せ、その切り返しのなかで描くとどうなるのか。 そんなキャラクター(の組合せ)が嵐を呼ぶのか、社会の荒波が彼らをあんなふうにしたのかしらんが、ひとこと愛してるって、ストレートに言ってキスしてハグして終わり、になる程度のことを延々遠回りして周囲を巻きこんで出口なしで繰り返していて懲りない(のはなんで?)。
客席にもちょこちょこ下りてきて浮気相手の役をやらせたり、ステージにあげて踊らせたり、右手の水溜はシャワーになったり土砂降りになったり、直立したベッドでやることなんて決まっているし、舞台でやってはいけない/でもやっちゃいそうなことはだいたい網羅して、終わりのほうはほぼパンツ一丁、右左で色模様の異なる変な動物になっていたような。 あんなこと毎日やっていて体はもつのだろうか、とか。公演が終わった後のステージ上にあれこれぶちまけられた惨状ときたらものすごいし。
90年代がどう、とかY2Kが、とか知らなくても十分に笑って楽しめる(というかこの人、1990年生まれって…)。
ただこんなふうな爆発の繰り返しのなかで見ると、改めてあの頃ってなんだったのか、になるねえ。
SohoにあるSoho Theatreでも女性(コメディアン?)によるひとり芝居、結構見たのだが、どれもみんなよく考えて練られていてすごいなー、になる。みんなどうやって思いついたり構成したりするのだろうか。
[film] Twin Peaks – original US pilot episode (1990)
1月19日、月曜日の晩、BFI SouthbankのDavid Lynch特集で見ました。
昨年の6月、”Star Wars” (1977)のオリジナル35mm版の上映で一部の話題を呼んだ作品をすべてレアなフィルムで上映する”Film on Film” Festivalのクロージングで上映され、Kyle MacLachlanとのQ&Aもあったのでチケットぜんぜん取れなかったやつ、が再び35mmフィルムで上映された。
BBC2では1990年の10月に放映され、本国アメリカでは 最初のエピソード”Northwest Passage"としてABCで同年4月に放映されたもの。日本ではWOWWOWが開局記念で放映したんだったか(この局はこういうことをしたので最初からイメージよくない)。WOWWOWも何も、当時はTVをほぼ見ていなかったので掠りもしないまま、自分にとっては今回が初めてのTwin Peaks体験となった。遅すぎ。
David LynchとMark Frostが脚本を書いて、このエピソードはDavid Lynchが監督している。
最初のパイロットで、その後のプロダクションへの出資や人気を左右する試金石となるものなので、ものすごく丁寧に慎重に作っている感じで、人気爆発後の映画版に見られるような過激な人物の登場、過剰な描写やエフェクトは抑えて、普通のアメリカの地方都市のドラマに見せようと、でもそうしようとすればするほど殊更にその異様さを炙りだし不安を煽ってしまう - ここまで計算しているのだろうが、終映後、客席ではみんな酸欠の金魚のようにため息をついて深呼吸をしていた。
そして、これを有料ケーブル放送にして金持ち層にしか見せないようにした日本の連中を改めて呪う。「サブカル」というしょうもないジャンルの囲い込みと共に文化全般の衰退と陳腐化が始まったのはこの頃からではなかったか。
Twin Peaksの町の川べりでプラスティック袋に包まれたLaura Palmer (Sheryl Lee)の死体が発見され、FBIから特別捜査官のDale Cooper (Kyle MacLachlan)がやってきて捜査を開始するのだが、両親家族も男友達も女友達も彼女の周囲にいた連中はぜんぶ怪しい。Laura自身も相当。この事件に関して、とかLauraとの関わりにおいて怪しい、というより、ふつうの人、コミュニティの一員としてなんだか捩れてておかしくて、そうやって近寄って見てみるとコンパスもそもそもの地図も狂ってくるようで、それにCooperだってなんかおかしいし、どうするのこれ? になっていく。
こうして映画のテーマは誰がLaura Palmerを殺したのか? というよりも、なんでどいつもこいつもこんなに変で怪しいのか? に集約されていくかのようで、というかそこから解きほぐしていかないと説明つきそうにないようなことがありすぎて、それは動物の行動や生態の謎を明らかにするために地層を掘って進化の謎と順番から探っていかなければならなるのと同じようなー。
そして、町の人々はそうされて然るべきの風貌と臭気をフルで装備しつつ、その異様さを自分たちの意識無意識下の夢とか糧のような形で絶えず吸収し循環(エロとグロと聖と昼と夜と)させたりしながらずっと生き永らえている。そうやって維持される出口なしの機構のことをLynchは後に、最後に”Inland Empire”と名づけたのではないか。
この後、1月21日の晩に同じLynchの特集で”Twin Peaks: Fire Walk with Me” (1992) - 『ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最期の7日間』と”Twin Peaks: The Missing Pieces” (2014)を続けて見たのだが、このUSパイロットの強さ確かさを超えるものではなかったような。俳優陣が異様に豪華だったのはおかしかったけど。
ここのエピソードって結局すべてが、最初から”Missing Pieces”なのではないか、とか。