8.24.2026

[film] Writing Hawa (2024)

終戦の日などもあったので、国立映画アーカイブの返還映画コレクションなども少しづつ見たりしている。

8月16日、日曜日の昼、ポレポレ東中野で見ました。 邦題は『ハワの手習い』。

ドキュメンタリーで、監督はNajiba Nooriと兄のRasul Noori。 バイデン政権がアフガニスタンからの米軍撤退を決め、それで息を吹き返したタリバンによるアフガニスタン制圧が始まり、2021年、それがカブールに来たところでNajibaはフランスに逃れる。映画は彼女の乗った軍用機がフランスに着陸するシーンから過去に戻っていく。

主人公は監督の実母のHawaで、13歳で30歳上の父と結婚させられNajibaを含む6人の子供を育ててきた。子供たちに自分と同じ道を歩ませたくなかった彼女は全員に教育の機会を与えて、こうしてNajibaはジャーナリストとなった。認知症となりほぼ床に転がっているだけになってしまった夫の世話はするとしても、自分の時間ができたHawaは文字の読み書きと民族の編み物の売買を始めようと動き始めて、これは娘がそんな母の正面と後姿を傍で記録していったもの。

まずはHawaの殆ど喋らない、笑わない、丸っこい姿に惹かれて、そんな彼女の佇まいから彼女の過ごしてきた歳月の過酷さを知るのだが、それ以上に学ぶこと、自分のやりたいことをやるんだ、って打ちこんでいく姿にうたれるし、お父さん(夫)以外に好きになった男性はいるの? という問いにあっさり「いた」って答えたり素敵で、やがてHawaは離婚した長女の元夫と暮らしてそこの家の抑圧から逃れてきた孫(Najibaの姪)のZahraを家に置いてあげて、一緒に買い物したり勉強したりしていくようになる(とても素敵な絵)。

でもアフガニスタンの情勢はタリバンの復活と共に酷いものに、昔と同じように女性への教育を禁ずる方向に動いていって、Najibaは国外に逃れ、引き渡される懸念もあったZahraも嫌だった実家に戻らざるを得なくなって…

ドキュメンタリーは、Najibaがフランスで暮らし始めたところで終わるのだと思ったら、その後のカメラを兄のRasulが引き継いで、政変後もどうにかやっているHawaの姿を映しだしてくれる – ここ、映像のトーンなどにギャップがないのがすごい。 変わらず床にぺたんと座っているHawaの姿にほっとするのだが、連れ戻されたZahraはやはり結婚させられてしまったと…

他の国のことだから、ではなく、ほんの100年前は同じように女性を扱っていた国としてなんか言ったりできないもんか、って国立映画アーカイブの返還映画コレクションでやっている「女性たちの姿」を見たりして思った。 いまのタリバンも内側では戦時下の日本政府と同じようなトーンなのではないかしら、って。


軍服を着た神様 (2025)


8月19日、水曜日の晩にポレポレ東中野で見ました。
日本のドキュメンタリーで監督は遠藤協、文化人類学者の藤野陽平との共作のような。戦争をテーマにした映画、というよりも宗教人類学の映画かも。

台湾の南に軍服を着た日本人の神様を祀っている祠などが50くらいある、ということでコロナ禍を挟んでふたりで現地に行って見たり調査したりした記録。

なんでこんなことに? ってふつうになるのだが本当に日本人の名前の実在した軍人 – 特に偉い位の人のではなく、ヒラっぽい - が祀られていて、現地に特別よいことをしたから、というわけでもなさそうで、現地の上空で米軍機と闘って墜落したけど、人家を避けて落ちてくれたので祀ったとか、海から何度も戻ってくる卒塔婆があったので祀ったとか、彼がタバコを吸っていたので毎日線香ではなくタバコをあげるとか、日本人の神様が憑依してお告げするシャーマンとか、神様は時代を経て昇格していくのだ、とか祀られる側も祀りあげる側もなんだか微妙におかしくて、そんなのが50… 宗教なんて外からみたらどれもそんなものかもしれないのだが、当時台湾は日本に植民地支配されていたのに、なんでなんで? とか一筋縄ではいかない。

祀る対象がアメリカでもヨーロッパでもなく日本の、というのがあるのであれば、やはり日本と台湾の歴史も含めた関係のなかで見ていった方が、と思っていると、九州の方では海に仏様を送り出す絵があり、台湾では海から流れてきた卒塔婆を神様にしている、とか。

宗教なんてこの程度の、外にいる人から見たらよくわかんない変な土着の営みの塊なのだ。歴史的な経緯とか地理や風土の条件など、いろんなものが作用して食の世界(それ食べれるの?なんでそんなものを食べてるの?など)と同じような土地や集団に根差した固有性や多様性をもつようになったものだから、それはそれは、って尊重しておけばよい、だけで。 

でもひとつだけ、こういう宗教(的な動き)を政治に持ちこむな、だけははっきりと。 持ちこんだ途端、それはカルトになるから(ここんとこずーっと、なんか見てる)。

[film] Under the Volcano (1984)

8月13日、木曜日の晩、StrangerのJohn Huston特集で見ました。 邦題は『火山のもとで』。

原作は英国人Malcolm Lowryによる同名の半自伝?小説(1947)、これを当時20代だったGuy Galloが脚色、撮影はGabriel Figueroa、音楽はAlex North。 メキシコとアメリカの共同制作で、同年のカンヌでプレミアされて、Albert Finneyがオスカーの主演男優賞などにノミネートされた。

1938年のメキシコ、モレロス州のQuauhnahuac(クアウナワク)の1938年の死者の日(11月2日)に酔っぱらって現地を彷徨う(元)英国領事Geoffrey Firmin (Albert Finney)の前後不覚でつんのめったまま堕ちていく姿をフラッシュバック、夢や内面描写一切なしで描いて、まあ暗くて救いがない。

大昔に途中まで読んで投げてしまった原作小説では、もう少しメキシコ現地の風土民俗とか、そこで燻って地面と身体を揺らす火山とか、死者の日の死後の世界と繋がっている祝祭の様が、(十分白人目線ではあるものの)主人公(&複数の人物)の意識や挙動に作用干渉して、欧米的な体裁をもった理知や視野が中米の野蛮によって狭窄され歪められ破壊されていくさまが心理小説のように綴られていた、気がする。

今回、この外的環境ぽいパーツ、描写をばっさり刈って心理内面を捨てて三枚におろして振り返り後戻りなしとしたことで、我々は堕ちるとこまで堕ちて戻る場所も意思も失ったひとりの哀れな白人中年男性Geoffreyが自死のような死に向かって転げ落ちていく「だけ」のシンプルかつ普遍的なイメージを追うことになる。

そこには彼の凋落の一因だったかも知れない(不貞により?)消えてしまった妻Yvonne (Jacqueline Bisset)との、双方でなにを考えているのかよくわからない帰還〜再会があり、GeoffreyがYvonneとの仲を疑っているスペイン内戦から帰還した異母弟のHugh (Anthony Andrews)の登場があり、このふたりは酔っ払いGeoffreyの後をついてまともな方角を向かせようとするのだが、そんな程度で正気に返れるGeoffreyではなかった。

こうして酔っ払ってスピーチをめちゃくちゃにして、懲りずに酒がありそうなところに寄っていっては酒をせびり酒をあおり、ぐでぐですぎてひとりではシャワーを浴びることも着替えることもできず、酒場の裏手の娼館に押し込まれ金をむしられて性病もうつされて、100%自業自得の、絵に描いたような自滅劇が展開される。メキシコも火山もあんま関係ない。

この土地でなかったら、彼が例えばアメリカやイギリスの田舎にいたら、というのはあったのだろうか? 大して変わらない気がするが、領事としての任期を終えても帰国しようとはしなくて、もう後には引けない場所、死の国がすぐそこに口を開けた火山のもとにまで来た、たどり着いた感は際だっているような。

キャリアを通して屈強な(はずだった)男性の挫折や敗北や破滅 – ほぼ自業自得 - をずっと描いてきたJohn Hustonの、これがその晩年にたどり着いた最期のどん詰まり、なんの言い訳も弁明もなく、酒で追い込んで自分で自分を不自由に不器用に壊して終わらせる - ひっそり隠れて孤独に滅びるのではなく、かつて愛した女性とどうでもいい親族くらいは呼んで証人として見てもらい、でもこれこそ自分だけが自分に対してできる最後の、最良の落とし前のつけ方なのだ見とけ、って。 これ、Hustonだから見るけど、そうじゃなかったら…

8.21.2026

[film] Minions & Monsters (2026)

8月10日、月曜日の晩、六本木のTohoシネマズで見ました。 ↓とおなじく、夏は怪獣映画だからー。

この夏の同じようなのとして「ちいかわ」もあって、どうしたものか… って固まっていてまだ見ていない。べつにいいかなー

監督、Minionsの声は前作と同様Pierre Coffin、共同脚本は彼とBrian Lynch、Minionsのシリーズとしては“Minions” (2015)から3つめ、”Despicable Me”も含めたシリーズだと7つめとなる。らしいのだが、中味が頭にぜんぜん残っていないところがこのフランチャイズの魅力でもある。 はずだったのだが、今回のはどうか。

最初のUniversal映画のロゴがどんどん古くなって、映画ができた頃のにまで遡り、George Lucas(本人が喋る)などが展示されているFilm MuseumでガイドのOlivia (Allison Janney)が映画産業におけるMinionsの功績について語り始める。

前世紀の初め、最凶の悪の首領を求めて世界を彷徨ううちにハリウッドに流れ着いて映画監督Max (Christoph Waltz)の撮影現場にぶつかったMinionsはやはり現場でめちゃくちゃをやって怒られて、でもBright Brothers (ふたり分Jeff Bridges) – Warners Brothers? - に見込まれたMinionsは彼らの映画に出るようになって大スターとなって、ここにリュミエールからメリエスからロイドからキートンからチャップリンまで(まだある?)、映画史上のいろんなパロディが盛りこまれ、そのうちトーキーが導入されると英語を喋れないのでクビになったりもするのだが、この辺までを盛りこんだ意味があんまよくわからなかった - 映画史の横に実はずっといた、程度でよいのか?

クビになったけどMaxから映画撮影用のカメラを貰ったMinionsのJamesとHenryは、そこに耳の聞こえないEdも加えて映画を撮り始めて、いろんなネタを求めていくなかで、やっぱりモンスター映画だ、ってなり、H. P. Lovecraftのクトゥルフ神話よろしく古文書の文字をなぞったらやはりLovecraft的な造型のタコやイカのモンスターが出現してびっくり、なのと、他のMinionsは宇宙からやってきたロボットDrot (Jesse Eisenberg)の手下になって彼が恋をしたサフラジェットの活動家Debbie (Zoey Deutch)への恋の手助けをしたりの大騒ぎになり、そして最後にはこれらもまた、という層で重ねられたてんこ盛り。

Minions共がわらわらうねりを作って意味ないことをわめきつつ大挙で押し寄せ襲いかかってすべての秩序を破壊してサラ地にしてしまう。無邪気な悪への憧憬はバナナへの愛と同じく底のぬけた無意味に貫かれていて、そのアナーキーな挙動はパンクとしか言いようがないのだが、今回はそこにモンスターの規模と破壊力が加わって更にめちゃくちゃやらかしてくれるかと思ったのに、なんでかここに映画史 – というか産業の歴史とかサフラジェットとか、人類の歩みなど積み重ねが重ねられて、書物に封じ込められていたモンスターもエイリアンロボットも、それらを蹴散らすというよりその層に厚みを持たせる方に作用してて、主演Minionたちも妙にエモーショナルでよい奴らに見えて、最後に大花火がぶちあがらないのはなんか残念だった。

Minionsなので統制なんて取れるわけないのだし、出来不出来もあるのだろうけど、もうちょっとがんばってほしかったかも。 バナナ~って欲望まっしぐらで突っこんでいくだけでよかったのに。 誰かのためになんかやる、とか考えたりしなくて(しないのが)よかったのにー。

8.20.2026

[film] The End of Oak Street (2026)

8月14日、金曜日の晩、二子玉川の109シネマのIMAXで見ました。

邦題は『オークストリートの異変』。David Robert Mitchellの8年ぶりの新作で、プロデュースはJ.J. Abrams。
撮影は“It Follows” (2014)から一緒にやっているMike Gioulakis、音楽はMichael Giacchino。

1982年のミシガン州の郊外のOak streetに、Denise Platt (Anne Hathaway)とGreg (Ewan McGregor)の夫婦、Audrey (Maisy Stella)とBrian (Christian Convery)の子供たちと犬のStarbuckが暮らしていて、冒頭からごくごく普通のアメリカン・サバービアの昼間の光景があり、Gregは家族には言っていないが職を失って副業のピザ配達でごまかしていて、Deniseは夫を捨てる女性の小説を地下に籠って細々と書いたりしていて、そういうのも含めて家族も家屋もそこらにいそうなありそうな。

Deniseが変な植物を見つけて写真を撮ったら、それは数百万年前に絶滅したようなやつだ、って言われて、へーとか言っていると夜中に雷と嵐が鳴ってざわざわって一瞬逆立って静まり、Starbuckがいなくなって、探しに出た家族の前に驚愕の光景が…

J.J. Abramsだし予告にも少し映っていたので、恐竜/怪獣ものだとは思っていたが、出し方、見せ方も含めてあまりにシンプルにストレートに隣近所一帯がJurassic Parkになっちゃったよ、をやっていて、パニックをもたらす恐怖の滲み方、出し方も過去のDavid Robert Mitchell作品と比べたら雑で凡庸で、この辺が賛否の分かれているところなのだろうか。

とりあえず家に籠って窓に板を打ち付けて厳重にして何か聞こえたり揺れたりするたびに外を見てみるとあれらはどう見ても恐竜とか怪鳥とかで、でもどこからか恐竜が近所に湧いてでた、というよりは近所一帯が恐竜のいる場所と時間にスリップしてしまったらしい - Carl Saganを読んでいたAudreyは出現したワームホールによるものだ、と言ってみるがどうしてよいのやら見当もつかない。

やはりお約束通り、いなくなっていた犬のStarbuckが一瞬現れて消えたので、それを追ってBrianとAudreyは外に出てしまい、彼らを追ってGregとDeniseも外に出て、そこで改めて家族の絆が試されるようなことになったりしたら余りにもふつうすぎてそれは… って文句言おうと思ったらGregがあっさり食べられちゃったので、そこはよかった。 

不定期にきらきら光っては消えるワームホールらしき光源に向かって行ってみて、いちかばちかで飛びこんでみて... から先は割とふつうだったかも – というか、こんな異常事態に割とふつうに驚いてふつうに対応する、それが80年代前半の、こんな世界なくなっちまえー、に対する距離のとりかただったような。 AudreyがひとりでSteve Winwoodの"Valerie"を聴くシーンがとてもよくて、昔がよかったとかちっとも思っていないのに戻ってきて、って言ってしまう妙に外した屈折した思い、というか。同様にやってらんないー、の事態なのにRoxyの”More Than This”を口ずさんでしまったりとか。

彼のデビュー作“The Myth of the American Sleepover” (2010)を公開直後にNYで見た時からずっとある、よくわかんない理不尽な、乾いた郷愁のようなものが今回のでも吹いてきて、それが半端なサバービアのありようにはまって、それらは恐竜程度の異物ではびくともしないことがわかる。Night Shyamalan(撮影が同じMike Gioulakis)は同じくプレーンな風景に異物を持ちこんでどんでんを仕込むが、David Robert Mitchellのは、いるだけ、あるだけ、見ているだけで既に十分に孤立してて不穏でおかしい。 恐竜が家に寄りかかって交尾していたり、大亀が湧いていたり、白いでっかい無表情なヘビみたいのがぬーん、て家に入ってきて、いきなりパックマンみたいに口開けたり、映画のテーマとかどうでもよくて(よくない)、これらが夏の一夜のSleepoverで起こったらどんなに素敵だったろうね、とか。

ワームホールを抜けて1982年に行きたいよう。恐竜がうようよしていても今のこんな国よりよっぽどまし。

Audrey役のMaisy Stellaは”My Old Ass” (2024)でもワームホールから落ちてきた年取った自分と会ったりしていた... よね。

David Robert Mitchellの次作、“It Follows” (2014)の続きで”They Follow”だって…

8.19.2026

[film] Arise, My Love (1940)

8月11日、火曜日の午後、シネマヴェーラのBilly Wilder特集で、”One, Two, Three” (1961)に続けて見ました。

今回のこの特集ではMitchell Leisenの監督作を(Preston Sturges特集のときの”Easy Living” (1937)や”Remember the Night” (1940)と同じように)見ることができて、これらはちゃんと追っておきたい。 これも脚本はBilly Wilder, Charles Brackett, Jacques Théry。スペイン内戦時に捕虜となって実在したパイロットHarold Edward Dahlの話をベースにしている。 邦題は『囁きの木陰』。

アメリカ人パイロットのTom(Ray Milland)がスペインの牢獄にいて、銃殺刑されるその朝になって呼ばれるとジャーナリストAugusta "Gusto" Nash (Claudette Colbert)が妻を装って泣いていて、そこで恩赦がくだってTomは釈放されて、でもやっぱりすぐに嘘がばれて追っかけられて飛行機で逃げて、どうにかパリまでたどり着く。

ジャーナリストとしての仕事でTomを助けたGustoだったが、TomはGustoに惚れちゃって、でもGustoは仕事優先で、彼女のジャーナリストとしての、Tomのパイロットとしての血と使命感が、戦時下のふたりをヨーロッパのあちこちでくっつけては引き離し、タイトルの”Arise, My Love”はフランスの森の奥で、バンビとかに囲まれながら囁く愛の誓いで、もうぜんぶやめよう! ってふたり一緒に船に乗って逃げるところでドイツの潜水艦にやられて引き離されると、結局Gustoは従軍記者に戻り、Tomはイギリス空軍に行って、パリ陥落で再会するのだが、アメリカが危ないから、って戻ることにするの。

戦時下だから許されるものでもないと思うが、朝ドラみたいに(←見たことないくせに)流れが目まぐるしく変わって、会ってははぐれてを繰り返すなかで、愛はどんなふうに可能となるのかを延々(こちらに向かって)問うて試していくドラマで、戦意昂揚の裏返しバージョンのように見えなくもないのだが、Claudette Colbertの一瞬燃えあがるけどすぐ冷める、の繰り返しがたまんない人にはたまんないのかも。 ここまで引き離されてばっかりだとそういう運命なのかもさよなら、ってならないのかしら。


Hold Back the Dawn (1941)

8月12日、水曜日の晩、シネマヴェーラのWilder特集で見ました。
これも監督はMitchell Leisenで、Ketti Fringsの同名小説(1940)をCharles BrackettとBilly Wilder他が脚色している。 邦題は『国境の南』。

やつれて小汚い身なりのGeorges Iscovescu (Charles Boyer)がハリウッドのスタジオに現れてどうしてもお金が必要なので自分にこれまでに起こったことを聞いてほしい、と語り始める。(関係ないけどスタジオにVeronica Lakeがいるのが見える)

ルーマニア生まれのごろつきのGeorgesがアメリカに入国をすべくメキシコの国境の町にやってきて、でもルーマニアの割当枠だと8年くらい待つことになると聞いて絶望して、でも他に行きようがないので、同様に入国を待つ移民たちと国境のそばのEsperanza Hotelに滞在していると、かつてダンスのパートナーだったAnita (Paulette Goddard)と再会して、彼女がアメリカ人と一瞬結婚してすぐ離婚したけど市民権は残ったよ、と聞いてこれだ、ってなる。 そこに丁度子供たちを連れて遠足にきていた教師のEmmy (Olivia de Havilland)が現れたので、ちょっと彼女の車に細工をして、彼女たちご一行をホテルに足止めして、その夜更けにアプローチすると彼女はあっという間に落ちて、ふたりは結婚するの。

引率している子供たちがいたEmmyは一旦帰国して、家族たちに結婚の報告をして、車ごときらきらになってすぐに戻ってくるのだが、背後に移民局の手が伸びてきたのでGeorgesは彼女を連れて海辺の町を旅していくうちに彼女を好きになってしまう。 それを察したAnitaはそんなの許さん、てEmmyに真実を告げると、Emmyは車で飛びだして行って、ハイウェイで事故にあって、それを国境をぶち抜いてGeorgesが追いかけて…

タイトルはGerogeが浜辺でEmmyを口説くときの殺し文句 - ”We can't change our course, any more than we can hold back the dawn”からで、どこを切っても昼メロに(←見たことないくせに)なりそうな、国境跨ぎのこてこてロマンス詐欺事案で、最後まで目を離せないのだが、こんな話をGeorgesから聞かされてハリウッドがはいよ、ってお金を出すかというと出来すぎていてちょっと、になるようなー。

Charles BoyerとOlivia de Havillandがメキシコを舞台にしたアメリカの映画に出ていて、Charles Boyerはアメリカに入国したいって悶えていて、ふたり共そんな無理せずヨーロッパにいればよいのに、って…

これらMitchell Leisenの戦時下の2本、最後はどちらも(ヨーロッパから)アメリカを目指す、で終わるのね。

8.18.2026

[film] One, Two, Three (1961)

8月11日、祝日の火曜日の昼、シネマヴェーラのBilly Wilder特集で見ました。

今回の特集チラシの表紙のスチール(カラーだけど、映画はモノクロ)に載ってて、特別料金が設定されていて、立ち見で通路に座るひとがでた。久しぶりすぎてこわくなる(まったく想定しておらず)。 邦題はWikiだと『ワン、ツー、スリー/ラブハント作戦』だって。

原作はハンガリーの劇作家Ferenc Molnárの一幕劇 - ”Egy, kettő, három” (1929)をI. A. L. DiamondとBilly Wilderが脚色している。 撮影中にベルリンの壁ができてしまったり、James Cagneyはこれを最後に暫く映画から離れてしまったりいろいろあったことを後から知る。そういう事情を知らなくても怒涛の高速・高濃度で撹拌されていくので特別料金はしょうがないな、って思ったり。

"Mac" MacNamara (James Cagney)は西ベルリンに駐在するコカ・コーラ社の幹部で、中東の事業失敗を挽回して、西ヨーロッパの統括拠点であるロンドンに赴任することを目指してずっと士気もテンションも高くて、秘書もお付きもそれに乗って(もともとナチス式に馴染んでいるので)職場は軍隊みたいに統率されている。

ある日、アトランタ本社の重役W.P. Hazeltine (Pamela Tiffin)から、17歳の娘Scarlettが西ベルリンに滞在するのでアテンド等よろしく、と言われる。

ところが現れたScarlettは東ドイツの極左共産主義者の若者Otto Piffl (Horst Buchholz)と結婚していて彼の反米思想に感化され、そのうち妊娠までしていること、さらに二人でモスクワに亡命しようとしていることが明らかになり、ふたりの結婚証明書を東ドイツで盗んで無効にし、それでもふたり一緒にいたいのなら、とOttoを浚って拘束して逆洗脳しようとして、そうしている間に親のHazeltineもベルリンにやってくると言うので、Ottoをまともに見える花婿にでっちあげようと、床屋靴屋帽子屋仕立て屋などを一式、期限の切られた戒厳令下の大パニックに膨れあがっていく。

次から次へと明らかになっていく驚愕の事実と、その反対にいる当事者たちの天然ぶりと、Macの怒涛のテンションにぶっとばされていく部下たち、ビジネス関係者たち、もうついていけない、って出ていこうとするMacの家族、などが東西ベルリンの溝をまたいで騙しあい引っぱりあい渦を巻いていって止まらない。恋愛要素はないのでrom-comのスクリューボールではなくて、ノリだけだと日本の無責任男モノのそれを冷戦間近の前線でぶちかましていて、なにしろヤンキーの無責任なのでびくともしない展開の強さがある。

これはやはりJames Cagneyのとてつもないパワーぶっぱなしの為せる技、としか言いようがなくて、それでもまだ余力あるみたいに見えるし、ラストのあのオチは、競合飲料メーカーのボードにいたJoan Crawfordに配慮したものだったのだろうか、とか。

どうでもいいけど、昔の駐在員はこれくらい大変だったんだろうなー、っていうのは想像できるのでそんなに荒唐無稽な話でもない、かんじがした。


Mauvaise Graine (1934)

8月10日、月曜日の平日だけど休日、シネマヴェーラのBilly Wilder特集で見ました。
英語題は”Bad Seed”、邦題は『ろくでなし』。

Alexander Eswayとの共同だが、これがWilderの初監督作となる。フランス映画。

1930年代のパリで、お金持ちの放蕩息子のHenri (Pierre Mingand)が父親に車を売られて勘当されて行き場がなくなり、売られた車を盗んじゃったことから修理工場の裏で暗躍する自動車窃盗団に加わることになって、そこにいたJean (Raymond Galle)とJeannette (Danielle Darrieux)の姉妹と仲良くなるのだが、窃盗団内でも目をつけられて、逃げ出そうとした時のごたごたですべてを失いそうになるが、最後は結局パパに助けてもらうろくでなし、と。

家族、仲間、恋人、親友、それぞれの間での情が絡んだ引っ張り合いと小競り合いが思いもよらない方に転がっていってあらら、になる辺りはWilderなのかも。でもまだ自然派、というか流されがちで、大ゴトなのか小ゴトなのか、イキっているけどちょっと弱い、かわいいかんじ。 おもちゃの車に付けられていたナンバープレートから居場所が知れてしまうところとか。

8.17.2026

[film] A Window of Memories (2023)

8月10日、平日だけど休日にした月曜日の午後、ル・シネマの9Fで見ました。

監督は清原惟で、彼女の監督作はこれまで見たことなかったかも。
昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭2025でインターナショナル・コンペティションに選出されている。

手法は聞き書きを中心としたドキュメンタリー、テーマは個人史 - 特異な運命をたどったり特殊な境遇にあったりしたそれではなく、祖母が孫に聞かせる昔話のようなものでしかない。のだが、ものすごくおもしろくて、これはなんだろうか、どうしてこんなに引き込まれるのか、になっている。

構成は4レイヤーくらいからなっていて、監督のふたりの祖母 – 父方のと母方のそれぞれの日常があり、彼らに監督が話を聞いている場面があり、その内容をテキストに起こしたものを祖母たちと一緒に編集する – ここは削った方が「らしく」なる、とか – があり、そうして出来あがったテキストをふたりの舞台俳優、パフォーマー(小山薫子、坂藤加菜)が朗読するところ - 個別に読み進めていくのではなく、同じ場所と時間を共有するかたちで - があり、これらがランダムに紡がれていく。

最終的に浮かびあがってくるのは、祖母たちがどこでどんなふうに育って、仕事につき、結婚し、子供が生まれ、彼らの戦後があり、ここまでやってきて今どんなふうに暮らしているのか、というそれだけのこと。そこにあっと驚くようなこと、隠されていたようなこと、があって、これまで生きてきた自分の足元が揺れたりすることもない。それだけなのに、あかの他人の人生なのに、なんでこんなに(以下略)。

自分の場合、親の話はずっと傍にいたし怒られたりするたびに散々聞かされたりしてきたのもあるので、わかる。でも、休みや法事の時くらいしか会う機会のなかった祖母たちの話は、断片を聞いたことがあるだけ、戦時とか大変だったんだろうなあ、くらいでしかなかった。でも彼女たちの記憶は当然そんな断片のわけがなくてすべては繋がり連なって今になっているのだ、もちろん当人でなければすべてをわかることなんてできないのだが、なにがどうなっておばあちゃんはそこにいるの?/きたの? ということくらいは聞いておくべきだったな… から始まる”A Window”。

すべての物語はどこかのだれかの記憶から始まる、のであれば、ここにある”A Window”はそのためにあるものだ、ということをその手続きとか構造のようなところも含めて具体的に明らかにしてくれる。見る - 聞く - 書く - 読む - 話す、という基本の要素ぜんぶのなかに。いまならテクノロジーもくっついてくる(スマホで録って文字起こしかんたんー、とか)。

そうしてこうしてひとつの窓から浮かびあがって掬いだされた思い出たちは、いろんな光や色を纏って彼女たちの像を、織物を形づくるだろう。どうしてそんなことをするのか?って、おばあちゃんの話を聞くのが大好きだったからだよ。「私が聞かなかったら、この話はどこに行くんだろう」が起点にあったそうだが、そういうこと。ドキュメンタリー映画を見る理由もだいたいこれ。

演劇でも同様のことはできるかも知れないが、映画の場合は視野・視角が固定されて見渡しやすいのと、祖母たちの像と語り手を同じ距離感で見つめることができるような。 裁縫された黄色いワンピースのお話とか、話によってはイメージが浮かびあがりやすいものもあるのかも。

テキストを第三者が読みあげることでそれなりの効果を出せる同様のジャンルとしては「怪談」があるかも。これも映画と親和性が高いよね。