3.26.2026

[film] O Agente Secreto (2025)

3月15日、日曜日の午後、CurzonのBloomsburyで見ました。

英語題は”The Secret Agent”。もっと早くに見たかったのだが、上映時間がほぼ3時間で、この季節に3時間はやめて、だったのだが、これがオスカーの外国語映画賞を獲る予感もあったし(後で、そうか”Sentimental Value”があったか)、みんながそう思ったのか小さめのシアターは一杯になっていた。

作、監督は”Aquarius” (2016), “Bacurau” (2019) - 共同監督 - のKleber Mendonça Filho。昨年のカンヌでプレミアされて主演のWagner MouraがBest Actor、監督賞やFIPRESCI賞などいっぱい獲っている。

1977年、軍事独裁政権下のブラジルが舞台で、オープニングのモノクロ写真のなかに当時のCaetano VelosoとMaria Bethâniaが一緒に写っている一枚がでてきて、おおーってなったり。

黄色のフォルクスワーゲンのビートルに乗ったArmando(Wagner Moura)が死体の転がっている不吉なガソリンスタンドを抜けたりして、カーニバルで湧くレシフェの街で、義理の両親の下で暮らしている息子に会う。Armandoの母は亡くなっていて、そこには家主のDona Sebastiana (Tânia Maria – あのTânia Maria!)のもと、いろいろ裏がありそうな人達が匿われるように暮らしていて、でも最初のうちは彼がなにをする/してきたどういう人物なのか等は一切明かされず、カーニバル前の熱くて不穏な空気と現れるひと全員がやばい風に見える建物の中と外、通りの様子を映しだしていく。

雰囲気としてはほぼ同じ時代(こちらは1971年)の失踪を描いた”I’m Still Here” (2025)に近いが、具体的な事故や事件をきっかけに動いていくわけでもないので、あれよりも敵味方の見分けがつかないし、カーニバルなので何がどこから飛んでくるのかわからない異様で濃密な空気感に溢れている。

もうひとつ、当時公開されたばかりの映画”JAWS”の怖さが海辺の街をざわつかせ、Armandoの息子も映画を見たくてじたばたしているなか、実際に仕留められたサメの腹から毛むくじゃらのヒトの脚が出てきて更に恐怖を煽っていたり。

やがてArmandoは元研究者で、Marceloという偽名で市のID管理をする部署で仕事をしながら、反体制のネットワークの人々と会っていくなか、傲慢な企業オーナーによって職を追われた自身の過去、それに絡んで腐敗した警察署長とその部下たちが自分を追っていること、等が明かされていって、最後の方は殺し屋が。

約50年前の歴史、というよりある人物が本当のところ何者で、どういう目的をもって、どこで何をしていたのか、それだけを追うだけなのに、の難しさが、母の消息を追うArmandoだけでなく、現代からArmandoの消息を辿っていく学生の目も加わって現代の歴史、というほどのものではない消息とか痕跡、のようなものはどうやってあぶりだされるのか、或いは独裁政権下で反体制だった人達はそんな扱いとならざるを得ないものなのか、などを、カーニバルと”JAWS”の熱量、湿気のなか、ひとつひとつ置いていって、でっかいタペストリーが作られるのを見るようだった。

最後の方で、殺し屋がArmandoを追っていくシーンの街角や屋内や床の様子の恐ろしく息が詰まる描写のすごいこと。

90年代の中頃、リオとサルバドールのカーニバルに行ったことがあって、リオでひと晩見た後で寝ないでサルバドールの方に移動して、いまあれをやったら簡単にしぬと思うが、その時に感じた祝祭の勢いの裏側にあるひんやりとした狂った何か、暗闇に潜む止まらないなにかが少し写っている気がした。カーニバルの頃の街って、そんなふうで。

あと、でも、当時のブラジルがどんなだったか、一切知らない人が見たらどう見えるのだろうか、とか。 

 

[film] Hoppers (2026)

3月15日、日曜日の昼、CurzonのAldgateで見ました。

ぜんぶ問答無用の自業自得なのだが、日々ばたばた忙しいところに日帰りで行って帰ってみたいなことを繰り返しているさなか、”Ready or Not 2: Here I Come”とか”They Will Kill You”とかの予告を見るとものすごく胸が高鳴って、いやいや今そっちに行ってはいけないし、と。

Pixarのアニメーションで、地下鉄の掲示板で流れているのを見てすぐにやられた(くらい疲れている)。邦題は『私がビーバーになる時』。

作・監督はDaniel Chong、共同脚本に、”Me and Earl and the Dying Girl” (2015)や”Luca” (2021)や”Elio” (2025)のJesse Andrewsの名前がある。音楽はMark Mothersbaugh。

オレゴン州のBeaverton(ビーバー豚)の街で、Mabel (Piper Curda)はスケートボードで疾走するティーン(Bikini Killの”Rebel Girl”ががんがん)で、ずっと一緒に暮らしていた祖母から自然を愛する動物たちと共生ことの大切さなどを教わってきて、だから高速道路建設で森を潰そうとしている市長のJerry (Jon Hamm)とは事あるごとにぶつかる犬猿の仲で、家の前の空き地とその池にビーバーが現れなくなったことが気になっていて、でもJerryはもう来なくなっちゃったんだから潰したっていいだろ、という。 でも亡くなった祖母との思い出もあるのでぜったいそんなことはさせたくない。

反対運動ばかりやっているので、Mebelによい顔をしない大学の先生がラボでやっている実験 - ロボットのビーバーに遠隔でヘルメットをかぶって没入して森をうろついているのを見たMabelはこれだ! ってリアルビーバーになりすまして森のビーバーとか動物たちに会ってみると、彼らの言葉とかがぜんぶわかるし、こちらが言うことも通じるし、ふつうの生ビーバーとして認知して貰えて、King George (Bobby Moynihan)っていう哺乳類の王に会って仲良くなってしまう。これだけで10000個くらいの突っこみができそうなのだが、そんなことを言っている場合ではないの。

彼らとのやり取りを通して人間の可聴帯域ではない音波を出している装置 - これのせいでビーバーは出ていった - を突きとめてそれを壊して一件落着.. になるかと思ったら、そんな簡単ではなく、これをきっかけに昆虫、両生類、魚類、爬虫類、鳥類の代表からなる評議会と人類の、これも全方位からの突っこみ満載の、でもとにかく大戦争が始まってしまうの。

人間には見えていない別の世界があるし動物には動物の世界が、というのを想像できるようになるだけで、こういうアニメーションは十分ではないか、と思うのだが、彼らには彼らの王がいて、王がいるからにはシェイクスピアの裏切りとか敵討ちとか思いこみ勘違いの世界が広がっていて、渡っていくのはいろいろものすごく大変なの、というのをおお真面目にやっているので、こんなのぜったいビーバーたちだけで維持していくの無理じゃろ、 になるし、しばらく混乱は続きそうなのだが、いいのかしら? おもしろそうだからよいかも。

人の身体や感情をドライブする何かがその外にある、簡単にドライブされたり乗っ取られたりするくらいにそれらは脆くて弱いやつで – というのは”Inside Out” (2015)のストーリーを作ったDaniel Chongらしいし、そこがストーリーの宝庫であることもわかるし、そこに大切なことを乗せてみるのもわかるのだが、ビーバーならビーバーだけの、『ぼのぼの』みたいな(あれはラッコだけど)すっこ抜けたやつであってほしかったかも。甘ったれるな、って言われたらわかったよ、っていう。アニメーションはかわいくてたまらないんだけど。

ラストは「ニューロマンサー」みたいに没入したままにしちゃえばよかったのにな。自分だったらそうして、ずっとビーバーとして生きるだろう。

あと、ラストに流れるSZAの”Save the Day”がとてもよかった。

3.25.2026

[log] Madrid - March 14 2026

3月14日、土曜日、Madrid日帰りをしたので、簡単な備忘。

Madridはこれまでも日帰りで何度か行っていて、行っても真ん中の美術館3つをぐるっと回って、そんなにものも食べず、帰りの空港のラウンジでへたりこんで食べて終わりで、なんて勿体ない、のかも知れないが本人がそれで幸せだって言うのだからいいじゃないの、である。

本当はもう少し早い時期にしたかったのだがMadrid往復の運賃が謎に高いことがあったりして踏みきれずにここまで。

だから空港からプラド美術館まではお手のもので、着いてプラドに行ったら開館直後のとてつもない列だったの戦略を変えた。

Out of Focus. Another View of Art @ CaixaForum Madrid

CaixaForumはバルセロナのは行ったことがあって、それがマドリードにもできていた。
ボカシとか焦点ずらしとかピンぼけ、に的を絞った企画展示で、これは所謂「抽象」とは異なる視座で対象を見つめる(or 見つめない、正視しない)ことで立ち現れてくる何か、でよいのか。

Gerhard Richter, Mark Rothko, Yves Klein, Claude Monet, Thomas Ruff, Alfredo Jaar, Christian Boltanski, Bill Violaなどなど。 これらをついかっこいいー、って見てしまう傾向についても。

Hammershøi - The Eye that Listens @ Museo Nacional Thyssen-Bornemisza

これだけは時間指定のチケット取って行った。
聴く目… 窓の方に向かって、こちらに背を向けて佇む女性の像、というよく知られたイメージから広がる、彼女は何を見つめていたのか、その眼差しの先を聴きだそうとするかのような距離の取り方、それでも届きようのないかんじというか。正面や横を向いた女性の像もあるが、とにかく圧倒的に遠くにあって – でもそこにいる - その不思議というか。

ここの常設展示はそんなに数多くはないのだが、そのいつものが楽しくて、常設の理想型だなー って思う。

Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía

前回来た時はもう閉まっていて泣いたことを思い出した。

Maruja Mallo - Mask and Compass
スペインの”Generation of 27”を代表する女性画家Maruja Mallo (1902 - 1995)のレトロスペクティヴ。ものすごく広い活動の幅 - 具象も抽象もグラフィックも - と太字の大らかな強さ、輝きに圧倒される。

他の小規模の展示では、Alberto GrecoとかJuan Usléなどがおもしろくて、自分にとって未知のアーティストを教えてくれるのはいつもここだったなあ、と思いつつ、時間を過ごしてしまうのはやはり「ゲルニカ」の周りだったりする。

Museo Nacional del Prado


プラド美術館って、いつからそうなっているのか知らんがずーっとデパ地下のように混んでいて、そのせいか館内の写真撮影は一切禁止になって、それでも人で溢れている。ここが不思議なのは、そういう芋洗い状態でも絵を見始めると没入して、もっともっと、になって彷徨ってしまうことで、この特殊な高揚感は、ルーブルにもNational Galleryにもない気がする。これがコレクションの力によるのか並べ方がもたらすものなのかは不明。ルーブルだと人混みで疲れてもういいや、になるところが、やっぱりあれも見ておきたいな、になって抜けられない。

National Galleryで5月から始まる企画展示 - Zurbarán (ああ見たいよう)の「羊」などを未練たらたらで見たり。

Galería de las Colecciones Reales


英語だとRoyal Collections Gallery、Royal Palaceの向かいにある王宮博物館で2023年に再オープンされたところにまだ行っていなかった。朝から休まずに歩いていたのでもうやだ、だったのだが、プラドから25分くらい歩く。いろんな花が咲き始めていて春はすぐそこに。

Juan de FlandesからDürer、Caravaggio、BoschのタペストリーにVelázquezのすごい白馬、もちろんGoyaまで、スペインの王朝がいかにとてつもないお金を注ぎ込んでいたのかをまざまざと見せつけられる。

あと、ヴィクトリア女王の孫娘で、20世紀初にスペインに嫁いだVictoria Eugeniaの特集もあった。

やっぱり3泊くらいしないと無理だわ…


引っ越しの荷出しがおわって夕方にホテルに移ったのだが、まだゴミとかあるので何回か戻らないと、かも。
Sサイズの本のダンボールは結局23箱になった。
自分にでっかい声で言い聞かせておくと、ここから先、飛行機乗るまでは、もう大きい本は買えないんだからね。買ってもぱんぱんで持っていけないんだからね。いじょう。

3.24.2026

[theatre] American Psycho

3月13日、金曜日の晩、Almeida Theatreで見ました。 
チケットがぜんぜん取れないやつで、当日になんとか。

原作はBret Easton Ellisの1991年の同名小説で、2000年にChristian Bale主演で映画化されたものが、2013年にRoberto Aguirre-Sacasaの翻案、Duncan Sheikの詞/曲、Lynne Pageの振付によりミュージカル化され(この時のBateman役はMatt Smithで、ブロードウェイまで行った時はBenjamin Walkerが)今回はオリジナル版と同じRupert Gooldにより演出されている。

1989年、バブル絶頂期のウォール街で投資をしているヤッピー Patrick Batemanの生態を描く。ブランドの服で身を固め、Ralph Laurenのアンダーウェアを履いて、最新のWalkman - Auto-Reverseっていう新機能がすごいんだぜ - を携帯し、当時の日本にもそういうのでイキる社会人をいじる傾向はあったが、ここでははじめから”American Phycho”をそういう存在として置くのではなく、彼らの社会や周囲に向かう態度や傾向がサイコティックな情動として内面化、習慣化されていく道筋が鮮やかに描かれている。群舞も入ったミュージカルのぎんぎらのきめきめ(← 80’s)で攻めていくスタイルは、彼がそうなっていく過程を軽快にわかりやすく表して、当時を知らなくても納得できそうな。

冒頭で歌われるのが、映画”Marty Supreme” (2025)でも使われていたTFFの”Everybody Wants to Rule the World”で、やはりあの時代のメンタリティのようなものを代表している一曲なのかもしれない。あの映画の舞台は50年代で、主人公はずっと負け続けるわけだが、それでも立ちあがってSupremeになろうとするサイコっぽい挙動と佇まいはどこか繋がっているのかも。

そして、なぜいま”American Phycho”なのか、については、なにしろほんもんの”American Phycho”が大統領になって大量殺戮をしているからだし、大人気のJeffrey Epstein - 劇中で言及される - だって蘇って大人気だし、Trumpは劇中、主人公の憧れのアイコンとしてエレベーターですれ違ったりする(あまり似ていなかったけど)。まさかこんな形で表出してくるなんて。

この劇場でこれまでに見た演劇のセットって、納屋とか道端とか、雰囲気はあるけど埃っぽくぼろくてぱっとしないのが殆ど立ったのだが、この舞台はランウェイ仕様で床はばりばりの電飾で前の方にせり出して、これとプロジェクションをセンスよく組み合わせて殺しの場面の陰惨さも床の電飾をうまく使って軽くクールに見せる。

今回のBateman役はArty Froushan - こないだ見た映画”H is for Hawk” (2025)にも出ていた人で、脱いでもよし歌ってもよし、なので今後人気は上昇していくのではないか。

ブランドとかお金とかプライド - なによりも人を見下して自分だけは、自分だけがかっこよくて何をしたって許されるに決まっているのだ、という信念に捕らわれた人がシリアルキラーになっていく過程はそんなに無理なく音楽に乗って軽快に弾んで、この辺はいまの時代の方がいろんな動画も溢れていたりでわかりやすくなっているのではないか、他方でなんでこういうこと(人殺しとか)をしてはいけないのか、ということもあまりきちんと考えられなくなっている気もして、こういうの亡霊のようななにかを振り返ってみるのもよいかも、って。

それよか”Japanese Phycho”の方が陰惨でタチが悪くてどうしたものか、になる。いまの総理大臣とか。


明日は荷物をだす日で、本は結局Sサイズの箱20個でも足らないのだった。演劇のプログラム類がバカみたいに多い。どうにかなりますようにー。

3.20.2026

[theatre] Romeo and Juliet

3月12日、木曜日の晩、Shakespeare's Globe Theatreで見ました。
 
この時期の夜に野外公演はきついのでは、と思って、雨は降らなかったもののやはり時折吹いてくる風は冷たくて、椅子席はみんな体を丸めて見ていた。けどよい思い出にはなった。
 
タイトルには”Playing Shakespeare with Deutsche Bank: Romeo and Juliet”とあって、ドイツ銀行がスポンサーになって、地下鉄などの宣伝広告によると3000の学校から300000人(たしか)の学生を招待する(のか£10, £5のチケットなのか)公演で、なのでPITの立ち見コーナーは若い子たちで溢れている。このRomeo and Julietは2024年に行われたもののリバイバルだそう。 90分で休憩なし。寒くて2時間はいられないし、休憩を入れたら若者はみんな出て行ってしまうだろうからこれくらいが丁度よいのかも。
 
自分の最近のRomeo and Julietは、西部劇バージョン、半分ウェールズ語バージョン、ポーランド語手話バージョン、と見てきて、今度のはヒップホップバージョンか。舞台のあちこちはスプレーの落書きがあって荒んだどん詰まりの街角のよう、上演前は覆面をした3人の自転車乗り(プロの人達だそう)がスタンディングエリアにある台の上に乗っかって止まったりの曲乗りをして喝采を浴びている – でも劇が始まると彼らは不吉で容赦ない死神になる。 演出はLucy Cuthbertson。バルコニーにはパーカッション3人の楽隊がどんどこを。
 
中心の若い俳優たちはほぼジャージを羽織ってリズムにのって軽快に動きまわり、ゴージャスなシーンでの衣装はやくざちんぴら系のぎんぎらになり、冒頭にはストリートファイトなど路上で亡くなったと思われる若者たちへの追悼と母親たちによる暴力へ抗議のアピールがあり、それでも抗争が止まないストリートの一角には追悼の花束やぬいぐるみが置かれている。でもそんなのお構いなしに抗争と暴力は昼も夜も溢れて危険で野蛮で、そういう中、Romeo (Hayden Mampasi)とJuliet (Felixe Forde)が出会って一瞬で恋におちて、その恋がトライブ間の抗争を呼び、危険なストリートのなかで瞬いて消える。
 
ナイフによる喧嘩や抗争で人が死ぬと、それは警察の現場検証の場になり、立ち入り禁止テープが貼られ、遺体袋、医療用手袋など、ニュースに出てくる犯罪現場のそれになるし、Julietの乳母はNHSの制服を着ていて、亡くなった者の肖像がバルコニーに掲げられる。それら一連の儀式は恋にときめくふたりのすぐ横で、音もなく現れる自転車の連中の登場と共に事務のように一瞬で行われて、二度と元に戻すことはできない。ふたりの命を奪う睡眠薬も、スマホで連絡の取れなかったRomeoが手に入れたやばいストリートドラッグに替えられて.. となかなか考えられている。
 
ジャージを着ていても凛としたJulietのオーラと佇まいは素敵で、どこをどう見てもそこらのガキ(全体にオトコ共がいかに暴力的でバカであるか、がより強調されているかんじ)のRomeoが一瞬で落ちたのも納得で、周辺の暴力すらも蹴散らして無敵に思えたふたりの恋も簡単に、一瞬で消えてしまう非情さ。でもそれはこんなふうに簡単に起こりうるんだよ、っていう若者たちへのメッセージでもある。
 
これを自分が子供の頃に見ていたらどう思っただろうか?わかんねえよな、そんなの起こってみないと、だろうし、それでも自分はだいじょうぶ – だいじょうぶだよママ! ってなっちゃうんだろうな、とか。
 
根底に横たわるどうすることもできない不和、断絶に恋はどうやって立ち向かうのか、というこの悲劇の「悲」のありようを別の角度から見てみたり、これに加えて劇の展開のスピードで薄まってしまった何かがあるのかもしれないが、これはこれでよかったかも(伝わってくるものはあったから)。

Romeo and Julietは来週もうひとつある。

3.19.2026

[theatre] The Rat Trap

3月11日、水曜日の晩、Park Theatreの大きい方(PARK 200)で見ました。

間違えやすいのかもしれないが、アガサ・クリスティの有名なのは”The Mousetrap” (1952) - 『ねずみとり』で、ジャンルとかぜんぜん別のだから。

原作はNoël Cowardで、彼が1918年、18歳の時に書いた最初期の劇で、でも初演は1926年。これを書きあげて劇作家としてやっていく自信がついたそうだが、18歳でこんなの書くのか…

結婚にまつわるコメディ - タイトルも、テーマとしてもコメディになりうるようなものかと思ったのだが、あまりそんなかんじはしなくて、多くの人がイプセンやストリンドベリの結婚ドラマに言及している。

罠にはまった/かかった!のを発見した瞬間はおおってなるけど、その後の始末とか決着の面倒くささ、しんどさ..に全員が結婚てなんなのさ.. って凍りついた表情のまま考え込んでしまう、ような。

翻案はBill Rosenfield、演出はKirsty Patrick Ward。演じるのはRSCで見た”The Forsyte Saga Parts 1 and 2”を作った演劇集団Troupe。

新進作家のSheila (Lily Nichol)がルームメイトのOlive(Gina Bramhill)と話をしていて、彼女が劇作家のKeld(Ewan Miller)と婚約した話を聞くと複雑で、KeldよりもSheilaのほうが遥かに才能ありと見ているので、結婚によって彼女の才能がスポイルされてしまうのではないか、と危惧していて、でもSheilaとKeldが一緒にいるところを見る限り、とても溌剌として幸せそうで心配いらないように見えたのだが。

でも休憩後、Oliveの危惧は見事に当たり、既に結婚しているふたりの表情と態度には明らかな疲れと苛立ちと嫌悪軽蔑が見てとれて、自分のプライドが先でとにかくすることぜんぶ褒めたり慰めたりしてほしいKeldと、あんたのママでもないのになんでそんなのに付きあわなきゃならんのか、のSheilaはぶつかって、彼女の方の執筆は止まってしまい、罠にかかった2匹のネズミ(→タイトル)のように口を開けば喧嘩ばかりになって、Keldと新進女優Ruby (Zoe Goriely)の噂を聞いたSheilaは家を出て行ってしまう。

最後はSheilaとOliveがいるところに、有名になったせいもあるのか一段と天狗の嫌なやつになったKeldが現れてよりを戻してほしい、と頼んでくる。ひととおりのやりとりの間、表情を固くして、あなたを前とおなじように愛することはできない、と繰り返すSheilaだったが最後の最後で彼のところに戻る、と。理由は妊娠してしまったから、それだけで、それでもあなたとの関係を修復するつもりは一切ないから、って。 そこであっさりぽつっと終わるの。

キャラクターたちはそれぞれ出来あがってはいるものの、劇中のやりとりだけではやや画一的、表面的で生きているかんじがあまりしないあたりが「初期作」の所以なのかと思うし、結末についても、自分の頭でそれなりに補正 - ここは自分を殺して子供を生かすためにそうするしかないのか、とか、Keldにとってはこの後の日々がぜんぶ地獄になるな、とか思えるのだが、底で渦を巻いている(のが見える)憎悪が、最後っ屁のようなかたちで痛快に何かに向かって飛んでいくようなことはなかった。

結婚は相手の才能や機会を潰すこと、潰して平気でいられること、結婚するまでのときめきや楽しさは絶対に続かない、こういったことを18歳の若者が深くないとは言え見据えて劇作にしようとしていた、ってやっぱりすごいな。そういえば”The Forsyte Saga”も結婚における「所有」を巡るドラマだったような。

[film] No Other Choice (2025)

3月10日、火曜日の晩、Curzon Bloomsburyで見ました。

封切から随分時間が経ってしまい、そろそろ見れなくなりそうだったし。
韓国映画で、原題は”어쩔수가없다”、邦題は『しあわせの選択』。

監督はPark Chan-wook、原作はアメリカのDonald Westlakeの小説”The Ax” (1997)で、Costa-Gavrasの“Le couperet” (2005)に続く2度目の映画化作品で、エンドクレジットではCosta-Gavrasに捧げる、と出る。 昨年のヴェネツィアでプレミアされた。

夏の夕方、大きな家の庭でバーベキューをしている幸せそうな一家の姿が描かれる。ユ・マンス(Lee Byung-hun)は勤めている製紙工場のオーナーから送られた鰻を焼いていて、妻のミリ(Son Ye-jin)と彼女の連れ子のふたりの子供たち、ラブラドール犬の1号と2号がいて、仕事でそんなご褒美を貰えるんだからパパすごいよね、ってなっていたら、実はそれは会社を買ったアメリカ人オーナーからの送別の品で、もう会社来なくていいから、って言われてどうすることもできずに捨てられる。

製紙工場の求職は業界内のかなり狭いマーケットであるらしく、自分と同様の経験を積んでいて優秀な求職者が他にもいるので、どうしよう、って焦っているうちに家計はみるみる苦しくなり、自分ががんばって買い戻した先祖代々からの家も、犬たちも手放さなければならなくなり、これは他の求職者を始末してでも職を手に入れるしかない –“No Other Choice”になっていく過程が漫画みたいに汗をつーって垂らす主人公の顔のクローズアップと共に臨場感たっぷりに描かれていく。

前半の幸せな家庭の描写と、それらを手放したくない、という強い思いが、一気に爆発するのではなく、じりじりと小出しに積み重なったりすれ違ったり、またぶつかったり、のように捩れて煮詰まって絡まって主人公の五感を塞ぎ、やがてもうとにかくぶっ殺す - 標的を消すことが最優先の目的になって止まらなくなっていく感情の生々しさ。“No Other Choice” – そもそも選択肢の問題だったはずがリアルでファイナルの”No Other Choice”しかない、のダルマになって転がって折り重なっていく人も含めた環境の過酷さ – そして、”Choice”はどんな立場の誰にでも迫ってくるものなので、その果ての結果として、それぞれの”No Other Choice”のせめぎ合いが最後に行きついた地点とは – などが、突きつけられるように。

ああほんとうに嫌な世の中だわ、ってぜんぶ放り出す、これもまた”Choice”のバリエーションであったはずだが、画面上に現れる人たちはみんな情念の塊りのように濃くて強くて、というその構図を、至近距離と遠景と両方の視角で対置していって、でしょ? って迫る。

どうしてそこまでしなければならなかったのか – しなきゃならないんだよ!のような煮凝りのようなところは、Park Chan-wookの映画では”Stoker” (2013)の頃からずっとあって、そのSMみたいなのが見る前はきついよね(なのですぐに見にいかない)、でも見るとその設計の見事さに引き込まれる。今回だと“The Handmaiden” (2016)のお屋敷のような高いところ、低いところ、常に全体を俯瞰しながら事の顛末を追っていくようなプロダクション・デザインの見事さ。これが地を這うような出口なしの地獄から全体を救っているような。

こういうどろどろしたサスペンス・ドラマって、日本の得意分野であるような気がするのだが、やっぱり流行らないのかしら。絆とか希望とかそんなのばっかりよか、今こそこういう方に行ってほしいんだけど。


残された日数が少なくなって、送別会のようなものも入ってきて、どの日に何を見るのか、の選択がぎりぎりで決めて諦めないといかんのも沢山でてきていてしんどいし、4月以降の日付で素敵な予告や宣伝が流れてくるとあーあー、になる。いつものことではあるのだが…