5.27.2026

[film] Ihmiset suviyössä (1948)

5月21日、木曜日の晩、『EUフィルムデーズ2026─クラシック・セレクション』を国立映画アーカイブで見ました。

クラシックの方もイメージ・フォーラムでやっているモダンの方も、見たことないのが多くて世界のでっかさを痛感する。

邦題は『夏の夜の人々』 - 英語題は”People in the Summer Night”。

フィンランド映画で、監督はValentin Vaala、原作はフィンランドで最初にノーベル文学賞を受賞(1939)したFrans Eemil Sillanpääの同名小説(1934)。 2017年にユーロスペースの特集上映『アキ・カウリスマキが愛するフィンランドの映画』でも上映されている。

北欧の夏を描いた映画というとベルイマンの”Smiles of a Summer Night” (1955) - 『夏の夜は三たび微笑む』がまず思い浮かんで、短い、けど輝ける夏の夜に悶々と玉突きをしていく人々の恋模様のイメージがあったので、夜に向かっていくその空気、雰囲気というかトーンの違い、によい意味で驚いて引き込まれる。

原っぱがあって小川があって、家畜の豚さんがそこらいたり、という陽の光に溢れているところは同じだが、人々は割と素のかんじで、もうじき赤ん坊が生まれそうな夫婦がいたり、都会からBFを連れてきてちょっとどきどきしている娘がいたり、飲み屋の暗がりでは男たちが気怠そうにたむろしていたり、イメージしていた/するであろう田舎の姿、夏の晩とはちょっと違うかんじなので、これ?こんなふう? っていう段差にはじめはやや戸惑う。

陽の長さ明るさも人間界とはまるで関係ないかのように動かず、でもやっぱり過ぎていく時間のなか、赤ん坊は生まれるべくして生まれようとして、飲み屋の粗暴な男が口論の末に傍にいた男を刺して、死んじゃったんじゃないか?生きているのか? という問いの脇で、あっさりひとつの命が消えて、ひょっこりひとつの命が生まれて、その間に挟まれた医者は死亡の瞬間にも誕生の瞬間にも間に合わず、でもまあ生まれた方にはとりあえずめでたいかも、とかいう。

こんなふうに更けていく夜の間に生と死、愛と憎が日が切り替わるのと同じようにめくられて、冒頭の田園の場面に戻って - という世界の暗くも明るくもない不思議なありようが描かれる。誰の上にも降ってくる夏の夜。

思ったのは(フィンランドだから)トーベ・ヤンソンのムーミンの世界で、あれも40年代に彗星のように、果てのような場所に姿を現した、決してユートピアではない、いろいろ雑多な人たちがじたばたして暮らす谷のお話だったかも。


Gražuolė (1969)

5月20日、水曜日の晩、↑と同じ特集で国立映画アーカイブで見ました。

監督はリトアニアのArūnas Žebriūnas。 英語題は”The Beauty”、邦題は『ビューティフル・ガール』。

9歳の女の子Inga (Inga Mickytė)がこちら(カメラ)の方を向いて音楽に合わせて楽しそうに踊っている、というか踊っている自分の姿を世界のみんなに見せていて、あたしはこんなにかわいいんだから〜かわいいでしょ?という目つきと振る舞いで一生懸命、Ingaは自分でそう思っているし周りの母親も男の子友達もそう思っているのだと信じて疑わない。

その思い込みがどこか外からやってきた見知らぬおかっぱ頭の変な男の子(か?)の、「べつに、そんなかわいくもないよ」の一言でがらがらと崩されて、彼女の世界が大きく揺れだして、彷徨いが始まるの。

そんなどうってことない話…が決してそうはならない大問題になってしまうところが子供の世界で、その揺らぎと問題の大きさにIngaの目線で正面から取り組もうとしたのはえらいな、と思いつつ、縁もゆかりもない世界なので、がんばってね、くらいしか言うことがない(のか?)。 とにかく残酷で野蛮な世の中なので、誰だってそんなの直視したくないし、大人が知った顔して寄り添うなんてのもずうずうしい、って思うと簡単にお手あげだし、みんな大変なのよ、って。

こんなふうにいたたまれなくなった時、頭の奥で鳴りだすのがBowieの”What in the World”なの。

5.26.2026

[film] Star Wars: Mandalorian and Grogu (2026)

5月22日、金曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。IMAXの2Dで。

今回のに関しては特にぜんぜん期待していなくて、Disney+のTVのシリーズは英国に行った時点で止まってしまい(”Andor”も同じく)、それでも困らなかったので、そうかスクリーンに来たか、くらいで。
でも”SW”がついているので見るの。これはしょうがないの。

監督はJon Favreau - クッキングパパなので、こんなもんかも。

Star Warsサーガは壮大で、帝国と反乱軍の延々続いていくいろんなレベルでの戦いをいろんな星やそこに住む多様な人(の形をしたのとそれ以外)たちを跨ぎながら描いていくので、文化として確立されたものも文化以前のごたごたもぜんぶ - つまり神話から民話から言い伝えまで、どんなのでもあり得る。そういうなか、すべての層を貫く共通項としての「支配」とその周辺に撚られる富と権力、それを実現する主な手段としての暴力があり、それを捉まえる軸として「正義」というのがあって、それをミクロな末端のところまで落としてきたジャンルが西部劇と股旅物 - 今回であれば賞金稼ぎと道連れの話 - で、それをとても正統的に集約するかたちで実現したのが子連れ狼なので、本作が成立する由縁、拠って立つところは揺るがないの。ただ、話のスケールとしてでっかいところまで行かないし、行かないことがよい点だったりもするので、今回のように大作として騒がれてしまうのはどうだろうか、と思ったり。ゴジラものにおけるミニラ枠みたいなもんなのに、とか。

今回のMandalorianは新共和国からお金をもらって帝国軍の軍閥を追っていて、司令官のWard (Sigourney Weaver) からCommander Coinを捕まえてくるように請われる。彼の居場所はでっかいなめくじ(対)みたいなHut Twinsが握っていて、Twinsのところに行ったら情報提供には後継者となる甥のRotta the Huttを救出して連れてこい、と。Mandalorianは渋ったが、与えられた宇宙船がなんかかっこよかったので、なんとなく請けることにして…

どこかの星で犯罪王に囚われて闇ファイトで有名になっていたRottaのところに行くと、彼はあとひとつ勝てば自由になれるしあそこには帰りたくないし、とごねて... ここから先は反乱軍と軍閥なんてどうでもよくなり、後を継ぎたくない王子のお家騒動に巻き込まれてHutのお城で戦うことになって散々のMandalorianなのだった。

たんに好き嫌いなので流してくれてよいのだが、EP6のJava the Huttの頃から思っていたのは、こいつってレイアに首絞められただけであっさり死んじゃったし、動きはごろごろなめくじの鈍重で、得意技はプレスするだけで隙だらけにみえるし、邪悪そうで喋りも怖そうなだけで、何がそんなに強くてすごくて、あんな権勢を手にしたの? だった。

あと、ちゃんばらではなく基本はガン・ファイトなので、鎧装備も含めて見せ方が難しいよね。「顔を見られたので殺す」なんて言っちゃうし – そりゃそうなんだけど、あんた主人公でしょ… 。 剣があって銃があって、飛び道具として例えばGuardians of the GalaxyのYonduが使うyaka - 口笛で操る矢みたいなのがあったらおもしろいのに。

あと戦いの場面設定、というか全体の絵は闘技場に怪獣が出てくるところなども含め、どこかのSWエピソードで見たようなのばっかりになるのはしょうがないのか... 倒れたDin Djarinを介抱する穴倉みたいのまで既視感たっぷり、繋がっている世界なのでわざとなのかも知れないけど、そこまでやらなくても、とか。

Groguについては、もういい加減に「Yodaの子供」とか言う輩はいなくなってきたようなので、もっと個性を出してくるかと思ったのだが、あんま変わっていなかったような。 戦のど真ん中でとんでもないめちゃくちゃをやらかして、ごめんやりすぎた... の場面があってほしかったかも。もう子供だから、でなにやっても許される季節は終わりかけているのか微妙だけど..

今回、(たぶん)善玉のRottaの登場によって、今後エピソードごとに珍妙な(だけど勇者の)仲間が増えていったりする予感がなんとなく。里見八犬伝みたいになっていったらおもしろいな。歩兵はもちろんEwokの連中なの。

ほんとはこんなどうでもいいことばかりだらだら書いていきたいのに、この国はしみじみ酷い。改めて(500回めくらい)亡命を考えたい。

5.25.2026

[film] The Onion Field (1979)

5月17日、日曜日の午後、『霧のごとく』に続けてシネマート新宿で見ました。
この2本、どちらも実際にあった歴史に基づいた土地を巡るドラマ、どちらも2時間越え。

監督はHarold Becker、原作・脚本はロサンゼルス市警察の巡査部長だったJoseph Wambaughによる同名のルポルタージュ(1973)。

1963年、LAPDの刑事Karl Hettinger (John Savage)とIan Campbell (Ted Danson)は同僚で、Karlは結婚して小さな娘もいる幸せな家庭を築いていて、独り身のIanはバグパイプを吹いたり落ち着いてて優秀で、母を愛するとてもふつうの若者で、そんな彼らとは対照的にストリートではふつうの西海岸チンピラであるGregory Powell (James Woods)が手下のJimmy Smith (Franklyn Seales)を従えて、すぐ沸騰暴走するやばいキャラであることを示しつつも、あーなんかつまんねえな、とこれもふつうのでかいツラ/チンピラ振る舞いをしている。

そんなある晩、お弾けモードで違法なUターンをしたGregoryとJimmyが乗った車を業務で巡回していたKarlとIanが停車させて調べようとしたら逆に押さえこまれ、車に乗せられ本道から外れたオニオン・フィールドまで走らされて、道端の降ろされたところでIanはあっさり射殺され、Karlも追われながらも月夜の闇に紛れてどうにか逃げることができ、やがて彼の証言によりGregoryとJimmyはあっさり捕まって収監される。

犯人ふたりは特になんの問題もなくストレートに第一級殺人罪で有罪 → 死刑判決を受ける。のだが、獄中で刑法を学んでJimmyと弁護士を丸めこんだGregoryは審理をだらだら引き伸ばしたり都度弁護団を替えたりして控訴を繰り返し、そこにカリフォルニア州での制度としての死刑廃止が絡まって、終身刑のまま生き長らえていく。

他方で、生き残ってしまったKarlは後悔と罪悪感に苛まれて精神状態がおかしくなっていって、家族の面倒どころか窃盗癖や自殺志向で苦しみ、裁判での証言もできなくなって警察を辞め、リハビリをしながら細々と園芸業を始めることになる。

オニオン・フィールドのあの闇夜の出来事が、加害者側をどこまでも延命・増長させ、生き残った被害者側を苦しめてどん底に叩き落す、という非情なドラマとなり、しかしその非情の裏に法的におかしなところはなくて(当時)、なんて非道でかわいそうなことだろうか、になる。ふつうだったら、そういう状態を可能にした司法の穴というか問題はどこにあったのか、を明示すべきなのかもしれないが、それをしないので、犯罪が起こったあの時、あの場所 - オニオン・フィールドのぺったんこの闇がそのまま続いていて救いのないイメージがドラマチックとは程遠いプレーンなトーンであっさり描かれて、取り残されてどうしたら… しかなくなる。

50年代のノワールにあった、人々をかき回して狂わせる、その中心にある渦とか闇のようなもの、情念とか欲動などは(描かれ)なくて、真面目な方と不真面目な方のそれぞれの挙動と弱さ(強さではなく弱さ)、それがもたらす(ひどい)結果と現実を、それぞれの側と境目のありようと共に描いて、見ている我々をその隙間に放り出す。「当事者」が見えない大きなドラマって70年代のそれ? なのかは不明だが、70年代ぽい、でっかくてどこにも行けなくてどうしよう、って立ち尽くしてしまうかんじはあるように思った。

あと、James Woodsってこの頃からあんなにからからの悪役だったのねえ。

[film] 大濛 (2025)

5月17日、日曜日の昼、シネマート新宿で見ました。
台湾映画で、邦題は『霧のごとく』、英語題 は”A Foggy Tale”。

監督・脚本は陳玉勲 (Chen Yu-Hsun)。2025年の金馬奨(ゴールデン・ホース・アワード)で最優秀作品賞を含む4部門を受賞している。

50年代、戒厳令下、国民党政権が行った政治的迫害「白色テロ」があった時代、台湾南部の田舎のとうもろこし畑で反政府運動で追われて隠れている兄と妹の阿月(Caitlin Fang -方郁婷)が会って将来のことなどについて話をしていると畑の向こうに兄を追う複数の追っ手が現れたので散り散りになり、それからしばらくして、兄は政治犯として銃殺された、という報が届く。

殺されたのが本当に兄なのか、本当だったら遺体を引き取って確認したいがそれには高額な手数料が掛かる、貧しい今の家にそんなお金はない、けどやっぱりこの目で確かめないと、と阿月は別れ際に兄から貰った腕時計と持てるだけのお金を手に、列車を乗り継いでひとり台北に向かう。

親切に声を掛けてくれた男についていったら女郎屋に売られそうになり、危なかったところを人力車の車夫・趙公道(Will Or - 柯煒林)に助けられたり、幼い頃養子に出されて別れたきりで、今は地元の歌劇団で人気歌手になっている姉の阿霞(9m88)と再会したり、通りすがりの泥棒とか、いろんな善い人悪い人怖い人、大人たちとの出会いが巡っていくなか、何度も葬儀場に足を運んで兄のことを確かめてようやく、になるまで。

いなくなった(殺された)兄の話の他に、中国から国民軍として戦争に召集され、やはり白色テロによる拷問などで仲間の殆どを失い、中国に戻ることも叶わなくなった趙公道の贖罪と復讐の物語も並行して重ねられる。テロにより失われたもの、テロから取り戻そうとしたもの、等の痛ましい傷とその痕が浮かびあがり、そこに絵本を描く夢をもっていた兄のお話が被る。それは生々流転していく水の物語で、やがて空に昇って白い雲になるのと、地に留まって地面や森を覆う霧になるのがいるのだ、と。

みんなが忘れて輝ける遠くの白雲ばかりを見ようとしている今、細かな霧として目の前に漂って潤してくれているなにか、は確かにあって、そんなふうにいてくれる水粒たちに敏感でいたいし、それらを忘れずにずっと共にありたいのだ、という明確なメッセージに基づいて組み立てられたストーリーで、キャラクター設定も含めてちょっとTVドラマ的な類型感と性急さがどうかなー、になるところはあったが、なんとしてもこのストーリーを映画にしたかったのだ、という強い意思と現在への危機感にも繋がる真剣さが感じられたので、よかった。

でもさー、NHKでもドラマとかなら戦時のひどい話や官警の暴力や弾圧は悲劇としてふつうに描かれて受け容れられているように見えるのに、日々のニュースや時事解説はあんなふうな日の丸ばんざいに、圧されるままに当時通ったやばいルートをなぞって、白い雲ばかりを追ってて平気なの? お金や会社や毎日の暮らしが… なんだろうけど霧のごとく、はどこに? って世界共通なのか。 水が巡るように歴史も巡るのだ、になってよいわけがないのにさー。

5.22.2026

[film] The Lady Eve (1941)

5月16日、土曜日の昼、シネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。

Sturgesといえばこれ、の1本で、1941年のNew York Timesの年間ベストでは『市民ケーン』を抑えて1位になった、というのはダテではないの。 もう何度も何度も見ていて、何度見たってあきない。

原作はアイルランドの劇作家Monckton Hoffeによる19ページの短編"Two Bad Hats"をSturgesが脚色している。邦題は『レディ・イヴ』。

冒頭にヘビとリンゴのアニメーションが流れて、聖書に関わるようなお話だろうか、と思うのだがほぼまったく関係なくて(あー堕落、とか?)、おちょくっているだけ。

アメリカのビール(エール)会社の御曹司のCharles Pike (Henry Fonda)が一年間の密林での探索ツアーを終えてアメリカに戻る豪華客船に乗り込んできて、それを美貌の詐欺師Jean Harrington (Barbara Stanwyck)とその父(Charles Coburn)とお付きの3名が待ち構えて、足を引っかけて転ばせて懸けトランプに巻き込んで簡単に突き落とした、と思ったらそれ以上にJeanはCharlesに惚れてしまって、でもCharlesのお付きのMuggsy(William Demarest)が連中は詐欺師だから、ばらして船の上の恋は簡単に藻屑と消える。

いろいろ諦めきれずにめらめらしているJeanは、コネチカットの詐欺師を介してイギリス貴族の令嬢Lady Eve Sidwichとして蘇って、Charlesの実家のお屋敷を訪れる。Lady Eveは船の上と同様に彼の一族を簡単にめろめろに落として、CharlesとMuggsyは彼女があまりにあのJeanと似ているので、そんなバカなって目をこするのだが、決定打を見いだせずにずっこけてばかりで、でもEveがあまりに素敵なので結局落ちて結婚することになる。

ハネムーンの止まらない夜行列車のなか、過去の男性遍歴を連続でぶちまけてウブなCharlesを粉みじんにしてざまぁ、ってやった後、ふたりの婚姻は当然なかったことに、になるのだが、そんな簡単に終わるような恋ではないのだった…

これ、詐欺師が男性側だったら割と「痛快!」とか持ち上げられであっさり終わる気がするのだが、Barbara Stanwyckの場合、彼女が余りに堂々として見事なので、こちらもまんまと騙されて、後には痺れるような快楽しか残らないの。


The Palm Beach Story (1942)

5月16日、土曜日の夕方に同じ特集で見ました。 監督、脚本ともPreston Sturges。
日本公開(1948)当時の邦題は『結婚五年目』だったそうで... ちょっとひどい。

高速回転させたウィリアム・テルの序曲に乗って、ものすごいスピードの錐もみで大量の変な人たちが窓の向こうに流れていくスクリューボール・コメディ。

冒頭の結婚式のシーンは、何度見てもなんだこれ? ってちょっと混乱する(けど、最後にああー。って)。

そこから5年後、NYのPark Avenueのアパートに自称"Wienie King"を名乗る耳の遠い老人(Esther Howard) が妻に付き添われて内見に現れて、そこで家賃滞納で燻っていたGerry (Claudette Colbert) と出会い、老人は彼女の話を聞くとこれまでの滞納分に加えてドレス代までくれて、その晩発明家の夫のTom (Joel McCrea)と口論になった彼女は離婚手続きを進めるべくフロリダのパームビーチにひとり列車で向かうことにする。

列車に乗ろうとペンステーションに向かうGerryだったが無一文で、でも改札口で知り合ったAle and Quail Clubっていう狩猟クラブの男たちが親切で乗せて貰う。のだが、この連中がめちゃくちゃ狂ってて車内で銃を乱射しはじめたので、たまらず別の車両に逃げて、そこで出会ったのが世界的な大富豪のJohn D. Hackensacker III (Rudy Vallée) - でも相当変な - で、彼もいろいろ恵んでくれて、他方で諦めきれないTomも"Wienie King"の支援を受けて飛行機でパームビーチに向かい…

現在の貧しさと停滞する夫婦関係の縛りから逃れようとする思いと、新しい恋を見つけて落ち着きたい、という思いが道中で挟まって絡んでくる変な連中 – でもみんなお金だけは持っている – との出会いでかき回されて、でも同時に恋もノンストップの前のめりでいると、すべてが冗談みたいに都合よく落着していってしまう。

上の2作、どちらも普通じゃない大金持ちが絡んで、彼らは金儲け以外のことは無知で愚鈍で、恋にも虫のように固まって不器用だがお金は出してくれるので、うまく使っちゃえばよいのだそれが社会のためなのだ、っていうことでよいのかも。

最近の金持ちは異常者ばかりなので近寄るべからず、の方になってしまいがちだが、この頃はまだ夢があったのかも、ね。


この日、上の2本の間に、”If I Were King” (1938) – 邦題 『放浪の王者』も見たのだった。
監督はFrank Lloyd、Preston Sturgesが脚色した時代劇で、101分もあって(この特集の中では)とても長く感じた。

主人公がFrançois Villon (Ronald Colman)で、中世の詩人の、鈴木信太郎や天沢退二郎らが訳したりしてきたあのヴィヨンが、反乱軍のリーダーみたいになって大活躍するの。 ほんとかよー、って。

5.21.2026

[film] They Will Kill You (2026)

5月15日、金曜日の晩、ヒューマントラスト渋谷で見ました。 
21時からこういうのを見ているとB級感がじっとり滲みてくる。

ロンドンからの帰国前にちょっと見たかったけど間に合わなかったやつ。向こうではこれともう一本、“Ready Or Not 2: Here I Come” (2026)がほぼ同時期に公開されていて、ジャンクだろうけど血まみれになった女の子がばさばさ殺しまくるのがちょっと気持ちよさそうで、少し惹かれた。 以下、ネタバレしているかも。

監督、共同脚本はロシアのKirill Sokolov。South Africa / US / Canada映画。

Asia (Zazie Beetz)と妹のMariaが虐待する父親から逃れようと夜のコンビニまで逃げてくるが捕まって、Asiaは父親を撃って逃げることができたが、結局Mariaとは離ればなれになってしまう。

そこから10年が過ぎて、AsiaがNYの富裕層が暮らすクラシックな高級/高層アパート”The Virgil”の門を叩いて、メイド求むの張り紙を見てやってきた彼女は怪しげな修繕管理人のLily (Patricia Arquette)に迎えられるが、Lilyの様子とロビーにいた住人数名を見ただけでなんかここは様子がおかしいぞ、ってなってしばらくすると早速黒のレインコートを着た男女の一団が現れてAsiaを襲ってきて、簡単にやられるAsiaではないのでひとりでやり返して、首をちょん切ったり連中をぼこぼこにしてやって、でも廊下に出たらかなり痛い目に合わせたはずの奴らがふつうに、首を切った奴なんか自分の首を抱えて立っている。

この地点で、姉の妹探し&タランティーノ的なふざけんなの復讐物語と思っていたのが、お屋敷ゾンビ系の怪奇&サバイバル・ストーリーに変更となってしまい、当てが少し外れた格好になる - 相手がゾンビなら、”They Will Kill You”なんて当たり前だし、生き残ったら勝ち、のゴールは明白で、Asiaは間違いなく生き残るだろうから(ちょっとつまんないかも)。

従来のゾンビものとちょっと違うのは、廃れた都市郊外の逸れ者がそうなるのではなく、高級アパートに暮らす富裕層が、悪魔との契約で自ら望んでそうなって、そんな自分たちを維持するために生贄として外から来た若いメイドを必要としている、というあたり – やがてAsiaがここに来たのも、ここで消息を絶ったMaria(Myha'la)を探すためだったことが明らかになる。

あと、ふつうのゾンビなら頭を吹っ飛ばせば動かなくなるのだが、ここのは吹っ飛ばしても切り株からなにやら生えてきて死なないし、目玉をくり抜いても神経を尻尾みたいに引き摺ったそれがぴょんぴょん跳ねていったりする – こんな小細工は割とどうでもよくて、かっこよくて不敵な面構えで血まみれの仁王立ちになったAsiaが敵を端から豪快にやっつけていく姿が見たかったのに、なんかもったいない。

妹と別れてから刑務所に入ったAsiaがそこで鍛えられて無敵になった、その成果を発揮するのがあの程度の腐れゾンビじゃねえ… あと、金持ちが悪魔と手を結んで不死の体を手にする、ということの最低最悪の外道感、その辺の現代的な意味ははっきりとあるのに、その辺を貫禄ゼロのへなちょこ俳優にやらせるもんだから、ただの雑魚ゲームみたいに見えてしまっておもしろくないの。

でも演じている人たち、Heather GrahamとかTom FeltonとかPatricia Arquetteとか、せっかくよい人たちが出ている(なんてエンドクレジットでしった)のに、勿体ないー。

あと、やっぱり最後は”The Virgil”が闇の底にがらがらと崩れ落ちるか、燃えあがるか、大爆発のどれかひとつでもしてほしかったのだが、それもなくて、ひょっとして(やっぱり)パート2狙いなのか? って。

5.20.2026

[film] L’Amour à la mer (1964)

5月11日、月曜日の晩、イメージ・フォーラムで見ました。
4月からここでやっているGuy Gille (1938-1996)特集からの1本で、これは彼の長編デビュー作。邦題は『海辺の恋』。

夏の海辺で恋に落ちたGeneviève (Geneviève Thénier)とDaniel (Daniel Moosmann)がいて、Danielはアルジェリアで兵役に就いていて、パリの休暇で更に夢のような時間を過ごした後、Danielは次の任地のブレストに向かって、あんなに熱かったのに彼からGenevièveへの手紙の数と頻度は減っていって…
後半は自分の将来とGenevièveとのこれからに悩むDanielを中心に、そこに彼の友人Guy (Guy Gille)も絡んだりするのだが、その先は時間と重力で誰にもどうすることもできないさまが、カラーとモノクロのはめ込まれたように美しい映像の、その交錯のなかで展開されていく。

光の強弱、鳴っている音、背景の明滅、表情の強い弱い、ふたりの関係の終わりに向かって、ところどころで立ち上がる淡い期待、何を見ても何かを思い出す... なども含めて、すべてが考え抜かれた末に切り取られ、適切に配置されているように思えて、なんも言いようがない、としか言いようがない。

立ちあがってなんかする気にもならないまま散らかり放題の万年床でぐだぐだの時間を過ごしてひたすら腐っていく、腐っちまえ、で実際に腐臭が漂っているような状態は、ひょっとしたらあるのかも知れないけど、パリの人にはないのかも知れない。それくらいの強さと誇りをもって別れの時間を生きている(見つめている)かんじが漲っていて、こりゃ勝てんわ、って思った。


Au pan coupé (1967)

4月18日、土曜日の午後に見ました。 見る順番が逆になってしまったが、こちらがGuy Gilleの第2作の『オー・パン・クペ』。 タイトルは恋するふたりがかつて会って生きていた場所、そのカフェの名前。

Jean (Patrick Jouané)とJeanne (Macha Méril)が恋におちて、でもどんな若者集団と関わっても今の世の中に馴染むことができないJeanは地べたに転がってさらっと天に昇ってしまい、彼が亡くなった後も彼と共に生きた記憶が、その場所に行くと自動で再生されていく – 生き残ったJeanneのなかで、というより、ここにはふたりの、ふたりだけの世界とその時間がある。 これも何を見ても何かを、のあの瞬間を捕まえようとしている映画で、モノクロが現在の死んだ時間、カラーがふたりの記憶のなかの時間で、過去こそが現在なのだ、というメッセージが強いカラーのコントラストのなかでページをめくるように展開されていく。

どちらも撮影はJean-Marc Ripert、音楽はJean-Pierre Storaで、2本合わせて一気に見た方がよいのかもしれない。 すごくかっこいいJazzトリオのアンサンブルのように自在で、でも揺るがなくて、たまにレコード棚から引っ張り出して聴くやつ。


Quatre nuits d'un rêveur (1971)

5月16日、土曜日の昼、ユーロスペースのブレッソン特集で見ました。
英語題は“Four Nights of a Dreamer”、原作はドストエフスキーの短編『白夜』(1848)で、邦題も『白夜』。 

これも何度も見ていて、同じ原作でヴィスコンティによる”Le notti bianche” (1957) - Maria Schell, Marcello Mastroianni, Jean Maraisによるこてこてなメロドラマの方もすごく好き。 イタリアンと懐石くらい違うけど。

↑の”Au pan coupé”のJean役のPatrick Jouanéがちょっとだけ出演していて、どちらもふわふわ生きている若者たちの叶わなかった恋、という点では似ているのかもしれない。けど、こちらは人が死んだりしないブレッソンの映画。Pierre Lhommeの撮影がすばらしいの。

ヒッチハイクでうろついたり、ぱっとしない画家のJacques (Guillaume des Forêts)がポンヌフの橋から身投げをしようとしていたMarthe (Isabelle Weingarten)を引きとめて、そしたら自分が恋におちて、そのまま悶々と過ごして終わった4連夜のこと。

Jacquesがずっと携帯しているテープレコーダーから反復されていく彼の声の他に、ところどころフォークミュージックが演奏されるシーンや楽隊が映ったりするので、やや開放的な屋外の空気は広がっているものの、ガチで童貞のJacquesはずっとおろおろしているし、積まれていた本を手にしただけで下宿人に恋をしてしまうMartheも相当なもんな気がして、これが四晩だけのことで済んでよかった。 これ以上いったら”L'Argent”になってしまってもおかしくなかったかもしれない。


ここまでの3本、海辺、カフェ、川辺のそれぞれを舞台に男性はほぼぜんぶ自滅するかのように隅に消え、女性はつらい思いをするものの、まだ先がありそうでどうにかなりそうかも、で、全体として決して明るいものではないけどだいじょうぶかも、になるからたぶん。(なにが?)