7月12日、日曜日の昼、K’s CinemaのEaling Studios特集で見ました。この特集で見た最後の1本となった。
邦題は『ラベンダー・モブ・ヒル』。1999年にBFIが実施した20世紀の偉大な英国フィルムのアンケートでは17位になっているそう。
原作はEaling Studioで多くの脚本を書いたT. E. B. Clarke、監督はCharles Crichton、音楽はGeorges Auric。
Henry "Dutch" Holland (Alec Guinness)がリオデジャネイロの豪華なリゾートホテルで豪勢におらおらって振るまっていて – なにしろAudrey Hepburn(カメオ)が挨拶にくる - イギリス人相手にいかにして自分はここまで来たのか、を得意げに語り始める…
ここから1年前、Dutchは真面目な銀行員で、昇進の話も頑なに拒むくらい毎日毎日金塊を積んだ車の輸送業務を担当して、銀行とLavender Hillの下宿屋との間を行ったり来たり、これを20年間ずっと続けてきて、でもあまりに頑なすぎたところで、金塊を盗むことができたら、みたいなことを考え始めたら止まらなくなり、そこに、新たな下宿人として、土産品を卸したり売ったりしているPendlebury (Stanley Holloway)が現れて、盗んだ金塊をお土産で売っているエッフェル塔のペーパーウェイトの形に鋳造してパリに輸送すれば足がつかないじゃん、て思いついて、ふたりで計画を立てて、そしたらDutchの異動の話が出てきてしまったので、少し早めに、強奪の実行時にはさらにふたりのちんぴらを雇い入れて実行して、Dutchは強盗にやられた被害者、ということになる。
全編を通して、なにかが計画通りにきっちり実行されることはなくて、必ず横から変な、想定していなかった邪魔や障害が入って当事者が(静かに)「きゃーー」って顔をゆがめて絶叫しそうになり、しかしその邪魔も、極めて英国的な合理/不合理によって処理され流されて、結果はどうにかなってしまって、全員が普通の平顔に戻る、というのを延々とやっている。(その反復にかける律儀な執念深さもまた、英国なのである)
とにかくふたりでフェイクのエッフェル塔を受けとるべくパリに行ったら、土産物屋のおばちゃんが、女子小学生に6個売ってしまったことがわかったふたりはきゃーって飛びあがり、女子小学生を追いかけてリアルエッフェル塔の天辺から一気に駆け下りて(ここのカメラがたのし)、彼女たちがカレーの港から英国に戻る船に乗り込もうとするのだが、出国手続きでいらつく(他人事とは…)ところもおかしい。
英国に戻った彼らは小学生ひとりひとりを追っかけて順番にエッフェル塔を取り戻していくのだが、ひとりだけ仲のよい警察官への贈り物にするから嫌だ、って拒否した娘がいて、そのブツはよりによって警察学校で開催されている展示会に持ちこまれて捜査方法の紹介で化学分析にかけられるところで…
あっと驚くような仕掛けもどんでんもないけど、偶然と成り行きばかりで転がっていって止まらない軽めの犯罪コメディで、動機もそこに込められた念にも深いところはなくて、すべてがまるで他人事のように(非情に)推移して、結果も誰もどうすることができず、だからどうした? になりがちなところなのに、こんなもんなんだよ、って軽く言って超然としている、それが戦後の、爆撃された瓦礫があちこちに残る町で起こるのがとっても趣深い。
底に流れる悪意、とまでは言わないどろどろ凝り固まった何か、みたいなのは“Kind Hearts and Coronets” (1949)とか”The Ladykillers” (1955) - 『マダムと泥棒』の方が渦を巻いていた気がして、Alec Guinnessはそっちの方ではないか、と思う。 この調子で自分が消えた後に、Lukeにもずっと、うるさいくらいにべらべら喋り続ければよかったのに。
7.21.2026
[film] The Lavender Hill Mob (1951)
[film] Milton Bituca Nascimento (2025)
7月11日、土曜日の晩、恵比寿ガーデンシネマで見ました。
邦題は『ビトゥーカ ミルトン・ナシメント フェアウェルツアー』。
2025年に83歳で生涯を閉じたMilton Nascimentoが2022年のフェアウェル・ツアーで世界をまわった後、Belo Horizonteのスタジアムで行った最後のライブまでを追いつつ、彼の人と音楽を紹介していくドキュメンタリー。
“Bituca”というのは彼の幼時からの愛称で、タバコを吸うときのように唇をちょっと尖がらせているさまから来ているそう。その愛称のままずっと来た、というのが素敵。
フェアウェル・ツアーで曲を演奏し、歌っていく姿を追う、というよりは、彼の音楽、その歌のもつ広がりとか意義について、彼自身の言葉だけでなく、ブラジル音楽、米国のジャズやフュージョンの文脈から、いろんな人たちが彼の音楽について紹介したり語ったりしていって、そのメンツがとにかくすごい。
ブラジル音楽界からはChico Buarque, Caetano Veloso, Gilberto Gil, Toninho Horta, João Bosco, Djavan, Ivan Lins, Lô Borges, Sergio Mendes, アメリカ音楽界からはPat Metheny, Wayne Shorter, Herbie Hancock, Stanley Clarke, Quincy Jones, Paul Simon, Steve Jordan, Spike Lee(←出たがり)などなど。 人間国宝、なんてもんじゃないくらいすごい。
アメリカ音楽界からは、おそらくTom Jobimの後、のようなところを受けて、70年代のJazzやフュージョンが追及していって、でもきちんと捉えきれなかったり創ることができなかった音や声の肌理、のようなものをMiltonの音の複雑さと、彼らが他の「ワールドミュージック」の文脈で好んで取りあげる「野生」みたいな文脈で取りこもうとしたのではないか、とか。
ブラジル音楽界からは、ボサノヴァ等のわかりやすい海の音楽とも「ポピュラー」というのとも別に、彼の音楽から「みんなのうた」として魂の根底を揺さぶる、山のこだまのような何かを受けとっているような気がして、それは最初の方で紹介されたElis Reginaとの関わりからも明らかなように、彼の声の震えと滑らかさ、その広がりが根源的なところで人々を魅了した、ということなのだろうか。
わたし自身はというと、1990年のCaetano Velosoの初来日公演でブラジル音楽に結構な衝撃を受けて、かの地のレコードを手あたり次第に掘って聴いたりしていくなか、Miltonの音楽に対してはちょっと別もののとっつきにくい何かをずっと感じていて、それがたしかNYかどこかで彼のライブに触れてなんかわかってしまった気になった、くらい。そのときはPaulo Bragaの叩き出すぶっといグルーヴにやられて、おうこれなのかー、ってかなりびっくりした。
なので、このドキュメンタリーでミュージシャンたちが語る彼の音楽の特徴とかそこから広がる何か、はとてもよくわかるものだったが、その反対側で、彼の音楽に触れたことのないひとにどこまで訴えるものになっていたか、についてはやや「?」で、だからもっとライブの場面 - せめて1曲をフルで - とか、若い頃の彼のライブのフッテージも紹介してほしかった。 これだとお葬式で次々にコメントと感謝を述べている人たちの図、で終わってしまうような。
あと、彼を描いた彼の像って、ほぼ仏画みたいだな、って。そして、彼が仏様なのだとしたら彼の歌って、空也上人像みたいに、実体のある念仏として彼の口から(踊りながら)空に放たれていくのだな、って思った。 最後に彼がぽつんとしているシーンなんて、まるでお地蔵様のようだし。
[film] The Great Flamarion (1954)
7月11日、土曜日の昼、シネマヴェーラで新しく始まった特集 - 『ノワールから西部劇へ アンソニー・マン特集』で見ました。
この特集からまだ7本くらいしか見れていないのだが、とにかく何を見てもおもしろくてこの人なんなの? ってあきれている。上映時間だとどれも70〜90分くらいのものばかりなのだが、ここまでのことができるのか、って。
メキシコの見世物小屋でショーの最中、どこかで銃声が響いて、駆けつけると楽屋で女性が絞殺されていて、その夫が怪しいって逮捕されるのだが、その後に舞台の上から傷を負って落ちてきたThe Great Flamarion (Erich von Stroheim)は息も絶え絶えにこれまでのことを語り始める… というノワールの典型的なスタイルで、宿命の女と思い込んでいた彼女にやられてしまうまでのこと。
百発百中の拳銃ばんばん芸で各地のどさ回りを続けてそれなりに稼いでいるFlamarionがConnie (Mary Beth Hughes)とそのアル中のだめ夫Al (Dan Duryea)と組んでやっているうち、Connieに言い寄られて言われるままに夫から逃れて実家の方に隠れたい、でも1年後に一緒になりましょう、と言うのでそれを信じてお金を渡して待ち合わせを誓ったシカゴの豪華ホテルで待ったのにぜんぜん現れなくて、気づいたら彼女は別の自転車芸の男と一緒に興行していると聞いて…
わかりやすすぎて同情の余地があまりないロマンス詐欺事案なのだが、Erich von Stroheimの純情の痛さと怖さ、それに相性よく絡みつくヨーロッパ・ホラーの暗い粘着力とMary Beth Hughesの軽い悪女っぷりが見事な模様を描くクラシック。
The Furies (1950)
7月13日、月曜日の晩に見ました。邦題は『復讐の荒野』。Walter Hustonの最後の出演作 - にしてはあまりに見事にみっしり詰まって漲っている。Mannの作品にしては長い109分。
ニューメキシコに広大な牧場 “Furies”を経営する家父長制の権化のような親分T. C. (Walter Huston)がいて、家でもビジネスでも現地民から搾取しまくっているのに周りからは豪快ないい親父って見られていて(よく見る)、その愛娘Vance (Barbara Stanwyck)は父を尊敬しつつも貰えるものは貰うから、って負けなくて、追い出されると頭きて父を敵視する男たちと組んだりしながらやり合って自分の道を切り開くまで、を女性映画ウェスタンのように描く。わたしはBarbara Stanwyckがかっこよければそれでだいたい満足なのだが、この映画でそれ以上にかっこよかったのが、現地民側で息子たちを従えて狂喜しながら撃ちまくる豪快なママだったかも。
父に対抗すべく味方になってくれそうな男と付き合ってみるのだが、結局男なんて簡単に裏切るし父には敵うわけないか、って愛・憎・諦めで身動き取れなくなっていく自分に苛立つ彼女 - こんな複雑なエモを表現できるのは彼女くらいよね、って。
Strange Impersonation (1946)
7月13日の晩、↑のに続けて見ました。邦題は『仮面の女』。68分の作品。
化学研究者として頭角を現してきたNora (Brenda Marshall)は同じ職場の婚約者Stephen (William Gargan)から早く一緒になろう、って言い寄られているのだが仕事に熱中したいので先延ばしにしていて、同僚で助手のArline (Hillary Brooke)からはほどほどに、って言われていて、ある晩、Arlineと一緒に自分を使って麻酔薬の実験をしたら火事になって大やけどをして、顔が変わってしまい人生終わった、になっていたところに訪ねてきた女性Jane Karaski (Ruth Ford) – 車でちょっと引っかけてしまっただけなのにたちの悪い保険屋とつるんで金を巻きあげようとやってきた – とやりあううちにJaneはアパートから落ちて顔がわからない状態で死んでしまったので、Noraは西海岸で整形して名前も含めて彼女になりすまして、Stephenと結婚しているArlineのところに近づいていくと…
よくある復讐劇、だけではない、女性と仕事、お金にまで踏み込んだ深い作品で、でも最後はやはり破綻してノワールの悲劇として終わるのか、と思ったら。
しかし、Noraが家に持ち帰って実験をした理由が、研究所だと申請がめんどくさいから、って、いまだと確実にコンプラで…
7.17.2026
[film] 海灘的一天 (1983)
7月12日、日曜日の午後、シネマート新宿で見ました。
Edward Yang - 楊德昌の最初の長編劇映画、撮影のChristopher Doyleにとっても長編劇映画デビュー作、侯孝賢も登場する、記念碑的な作品のリストア版。ようやく見れた(とみんなが言う)。
英語題は”That Day, on the Beach”、邦題は『海辺の一日』。
166分、ちょっと長いけど、海辺で一日ぼーっとしている時に浮かんでくるようなことが押し寄せてきて - 押し寄せてくるかんじを体感できて - とても満ち満ちて固まった、豊かな午後の時間を過ごすことができる。これこそが自分にとってのEdward Yangのイメージかも。
ヨーロッパでずっと活動してきたピアニストの蔚青(Terry Hu)が13年ぶりに母国の台湾に還ってきてコンサートをする、というラジオのアナウンスが流れ、晩に向けた準備をしようとしている彼女のところに、旧友の佳莉(Sylvia Chang)が会って話したい、と連絡してきたので、彼女は午後の予定をキャンセルして、再会したふたりはお茶を飲みながら対面する。
ここでふたりの関係、その過去を掘り下げていくのかと思ったら、佳莉の兄の佳森(Ming-Hsiang Tseng)が父の経営する医院を継ぐべくお見合いで結婚することになり、彼が当時付きあっていた蔚青が海外に出てしまった経緯が語られ、そこからふたりのその後に向かうかと思ったら、今度は佳莉の方に向かい、彼女の方にも親からよろしくあてがわれた男が紹介されたので、大学から兵役に出るところだった徳偉(David Mao)を捕まえて家を出て一緒になる。徳偉はとてもよい人で幸せだったが、大学の金持ち友人だった阿財(Hsu Ming)の会社に就職してから忙しくなり、ふたり一緒に過ごす時間が減って、互いにぎすぎすして追い詰められていって、そういう状態で今から3年前に、徳偉が行方不明になって、彼の名前が書かれた薬瓶が海岸で見つかって、それらしい男の影も目撃されていたので捜索が進められるなか、阿財が現れて徳偉の周辺で会社のお金が無くなっていること、怪しい出張を繰り返していたこと、実は死んでいないのではないか、と語るのだが、佳莉は彼女のなかで彼の死亡認定をする。浜辺では見つかったぞ、のようなシーンも描かれるが、彼女はもう振り返らない。
最初のシーンは夕刻の海辺の捜索が一瞬だけ、彼が消えてしまったあの日、海辺で過ごした一日はどんなだったのだろうか – その場面を直接には描かず、↑のような十数年に渡って散らばったストーリーを十数年ぶりに再会したふたりの対話を通して、回想 - 回想のなかでも回想して右に左に振れまくり、起こったことはリニアではない形でとめどなく流れていって、誰にも止めることも巻き戻すこともできない時間の塊りに対する後悔や残響をもたらして、もちろん、だからどうなるというものでもない。 蔚青が海外に出るきっかけを作った佳森も数年前に寂しく病死したことが、最後に付け足されて、ふたりは別れてそれぞれのトラックに戻る。
映画の文法、のようなところで言えば、たぶんやってはいけないこと - 見る側を困惑させるし、だらだら締まりなく起こってしまったこと、を回想のがんじがらめで封じ込めていくので、どこに連れていきたいの? になるのだが、愛を求めるひと、愛から逃げるひとのシンプルな往復によるメロドラマがなんだか心地よくなっていく不思議。
なんとなく、成瀬の容赦ない『流れる』、ではなく『流れた』 みたいな(佳莉の髪型)。公開に近い年代でいうと”Love Streams” (1984)にあったある種の気持ちのよさ。 ここでとめどなく流れていったのは時間ではなく愛だったけど。
蔚青はその晩のコンサートで、どんな曲を弾いて、そのピアノはどんなふうに鳴ったのだろうか? といったことまで思ってしまったり。
7.16.2026
[film] Historias del buen valle (2025)
7月11日、土曜日の午後、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。上映後に監督José Luis Guerínとのトークつき。
英語題は”Good Valley Stories”、邦題は『よき谷の物語』。
ドキュメンタリー作品で、最後に見た彼のフィルムも確か”Correspondences: Jonas Mekas - J. L. Guerin” (2011) というドキュメンタリーだったかも。
バルセロナ近郊のVallbona地区、Besòs川と運河と鉄道の線路に挟まれた三角地帯のような場所があって、都市開発から取り残されたこのエリアに昔から住んでいる人、どこかからやってきて住み着いた人などが暮らし共存して、独特のコミュニティを形作っている、そこに暮らす人々と、開発の要請はここにも来て、という谷の物語。
冒頭はモノクロで、後のトークによると、バルセロナ現代美術館(←よいところ)からの依頼で10分程の短編をスーパー8で撮ったもの。これが良かったので、ひとりでやっていたのを広げて腰を据えて撮ることにした。ただお金がなかったので映画学校の若者たちに手伝って貰って、完成までに2年を要した。(と、後のトークで語っていた)
元気に川遊びをしたり走り回ったりする子供たちもいるが、住民の多くは高齢者で、所謂働き盛り、で漲っているような人たちはほぼ出てこない。子供たちと女性たち、老人たち、そして他国からやってきた移民、そしてアヒル。 12ヶ国語が話されていて、人との間だけでなく、植物と会話している人たちまで出てくる。
映画を撮っていると、西部劇にすべきだ、という老人がいて、決め手は風だ、なんてかっこいいことを言う人もいれば、奥さんと出会った頃の話をしながら泣いてしまう人もいる。老人の話は何を聞いてもしみるし、威勢のいいガールズトークもたまんないし、彼ら自身の言葉での会話がぜんぶ聞こえてきたらどんなに楽しいだろう、ってくらいにいろいろな人々が次々と現れる。
画面をひっきりなしに電車(こないだ大事故を起こしたやつ?)が通って(この映画のなかで40本通るって)、一度もこの地に停車することはない。列車が停まって、人々がそこから下りてくるところから始まるドラマではなく、川は昔から動かなくて、道路もそうで、そういう境界の狭間に(保護されていない)ポケットのように生まれてしまったエリア、地帯に、どこかから流れてきた人たちが集まってきてそこに暮らす、というどこにでもありそうな絵。 滞在許可は?みたいな話にはならない。
でも古い住宅は建て替えられて、さらに大きな開発が入って、住民たちは出ていかざるを得なくなり、終わりの方では警察がくるぞー、ってざわざわする場面もある。でも立ち退き拒否とか、強制執行、のような話にはならず、文明の拡張、都市の拡張、によって他所に追いやられる人々という、大きな物語の一部(よき谷の物語)として語られる。(もちろん、だからと言って体制に与するような話ではない)
変わっていかざるを得ない地域のなかで、移っていくもの変わらないもの、という代理店が喜んで制作しそうなテーマなのだが、なぜこの谷に人々は集まってくるのか、集まって暮らすというのはどんなことなのか、という根源的なことを個々の会話のなかから掬いあげようとしていて、そこから彼らを主人公にしたフィクション(John Fordのような?)まで浮かんでくる大きな風呂敷のような造りと広がりがあるの。
後のトークで、住民に演技指導のようなことはしていなくて、あえて言えば、そういう動きをしてくれそうな状況を作るべく動いたりはした、と。でも肝心なのは、いつどこで撮影するかである、と。
どんな町でも村でも、谷でも島でも、これと同じような人々のお話を編むことはできるのかもと、なんとなく先月見た羽田澄子の『早池峰の賦』 (1982)を思い起こしたり。
エンドクレジットでは、この映画に登場して亡くなられた方々の名前に並べてJonas Mekasの名が。Jonas Mekasという人もNYのロングアイランドという島に流れてきて、そこに住み着いた人として映画(日記)を撮り続けた人で、この映画の終わりに名前が載るのにまったく違和感ないような。
“Innisfree” (1990)を見たいな、見なきゃな、と言い続けて軽く10年以上かも。
7.15.2026
[theatre] バストリオ セザンヌによろしく!
7月9日、木曜日の晩、浅草九劇で見ました。 浅草に行ったのなんて数十年ぶりではないか。
月1回は見たい演劇シリーズ。 場所も劇団もまったく知らないところだったが、せんがわ劇場演劇コンクールでグランプリとオーディエンス賞をW受賞した作品の再演である、と。「セザンヌ」がタイトルにあるのであれば、サント=ヴィクトワール山をふらふら見に行ってしまった者としては見たほうがよいのかしら、くらいで。
初演は2023年、兵庫県豊岡市の神鍋山で『セザンヌの神鍋山』(どんなところなのか見当もつかないや)という野外劇として上演されたものらしい。
会場はシアターというより服がいっぱいぶら下がっていたりステージの前に半透明のビニールが掛かっていたり、中央に水の溜まった透明な箱があったり、実生活が進行中のゴミ屋敷~大昔の雑然とした小劇場ふう、バストリオも劇団ではなくパフォーマンス・コレクティブ、というらしい。開演時間前から演者と思われる人々が舞台や仕掛けの周囲を行ったり来たりせわしなく、プロジェクターでステージ前の様子を映しだしていたり、上演前には主宰の今野裕一郎から上演時間は約60分、少しでるかも、と話があった(実際には1時間10分くらい)。
最初にドラムスの人が出てきて、使いこんでいくうちに削れて折れてしまったスティックの話をしつつ、いろんなドラムスのリズムのパターンを試して、そこからいろんな人たちがステージに上がったり下りたり回ったり、ステージ下で絵を描いているのをライブでプロジェクションしたり、サックスを吹き鳴らしたりしつつ、いろんな言葉と声、音が飛んでは消えていってとにかくせわしなく、同時性のごちゃごちゃの中で突然(のように見える)山を見つめる、山と向かいあう話が浮かびあがり、それを訴える(ようにみえる)セザンヌはプログラムの紙によるとセザンヌ1から3まで女性3名がいて、とにかくゴミだろうがなんだろうが何がどれだけ溢れかえってやかましくても死ぬまで山の肌理、壁、その硬さと向かいあって自問していろんなひとつの山を刻んでいった彼/彼女の姿があちらこちらに現れては消えていく。
いまここ、の一回性に集中して何かを表現しようとする、それを見にその時間、その場所に人が集まってくる演劇/パフォーマンスという様態とセザンヌがあのアトリエから丘を登って山が見える場所に行ってずっとひとつの山を見つめ、探求しながら描いていったその姿勢(のようなもの)は、このとっちらかったパフォーマンスが見せる80~90年代の相対主義的なバラけぶりと相容れないように見えるし、むしろただの偏屈な困った人として隅に追いやられてしまうであろうことまで示される。
セザンヌがたった一人で、それなりの時間をかけて追い求めていった事物の、対象の本質(のようなもの)を見据えて掴みとろうとする試みは、せわしない今の世の中でどこまで可能となるのか、をものすごく落ちつきのない雑踏とかお茶の間のなかから伝えようとして、その難しさに苦笑したりへらへらしそうになりつつなんとか『よろしく!』とだけは言って、最後にパレスチナ、シリアといったこの世の地獄を正面から突きつける。
とてもまじめで今できるのはこういうことなのだろうな、と思いつつ、わたしはセザンヌをパンクとして見たものなので、ここまできちきち積みあげないと突破はむずかしいのかー、たいへんだよなー現代って(そんなもんか)。
あと、このしんどさ、複雑さ、雑多さにぶつけるのであれば、セザンヌというよりキーファーあたりではないのか、とか(… とりかえしのつかないことに)。
7.14.2026
[film] Blood on the Moon (1948)
7月8日、水曜日の晩、シネマヴェーラのRobert Wise特集で見ました。この特集での最後の2本。
邦題は『月下の銃声』。 ゴスメタル系のアルバムタイトルにありそうな。
原作はLuke Shortによる小説”Gunman's Chance” (1941)をLillie Haywardが脚色している。
放浪のカウボーイJim Garry (Robert Mitchum)が友人のTate Riling (Robert Preston)に会いに行く途中で牛の大群に襲われて、近くの牧場主John Lufton (Tom Tully)のところに寄ったら彼の家族への手紙を託され、持って行ったらそこの娘2人に敵意をむきだしにされて、なんでだろう? と思っていたらRilingはインディアンの代理人と組んでLuftonの牛を買い叩いて土地から追い出そうとしている謀略が背後にあることを知る。
どうもLuftonが善玉でRilingが悪玉らしいのだが、Luftonの娘のうちひとりはRilingと繋がっていたり、全体に薄暗い照明や夜明かりのなか、主人公Garryと同じようにどっちが敵でどっちが味方なのか、誰がどうしようとしているのか明確に把握できず、主人公の思惑も含めて簡単には見えてこなくて、GarryはRilingの仲間であることをチラつかせたりしたせいで脅されたり刺されたりぼろぼろになりながら、威勢のよいLuftonの娘Amy (Barbara Bel Geddes)と一緒に戦っていくことになる。
最初に登場した頃のRobert Mitchumは無精ひげの胡散臭い風体で、狙われたり真相を知ったりするなかで、ひげはきれいになってて、でも何が正しくてどっちがどうなのか、などは薄暗くて(彼も察知しているのかどうか)見えてこなくて、謀略とか思惑に巻き込まれ、裏切りに夜討ちの連続で、これを「西部劇ノワール」と呼ぶのであればそうなのだろうな、としか言いようがない暗さと徒労感がずっと渦を巻いてつきまとい、拳銃早撃ちとか馬駆けとかで悪党をやっつけていく爽快感なんてまるでないのだが、ぼそぼそ喋って地面に転がってばかりのRobert Mitchumの重さと地味な暗さ、天井の低さのどん詰まり感がなかなかよくて、とても見ごたえがあった。
いまやっている時代劇ノワール『黒牢城』よりも、こっちかも、とか。
All That Money Can Buy (1941)
上のに続けて、シネマヴェーラで見ました。 邦題は『悪魔の金』。
監督はWilliam Dieterle、編集がRobert Wise、音楽はこれでオスカーを受賞したBernard Herrmann。 原作はStephen Vincent Benétによる短編小説"The Devil and Daniel Webster" (1936)を戯曲化したもの (1938)で、当初は同名のタイトルでリリースされる予定だったが、”The Devil and Miss Jones”っていう似た名前の映画があったので、”All That …”の方に変更された、と。 最近だと“All the Money in the World” (2017)っていうRidley Scottの映画もあったよね。あんま関係ないけど。
1840年のニューハンプシャーにJabez Stone (James Craig)という真面目な農夫が妻のMary (Anne Shirley)と敬虔な母(Jane Darwell)と一緒に暮らしていて、子供も生まれそうなのについてない、お先真っ暗なことばかりで途方に暮れていたら悪魔- Mr. Scratch (Walter Huston)が現れて、自分と契約したら楽になるよ、って金貨をちらつかせて、契約したら確かに生活は楽になって大きな家も建つのだが、Jabezの性格はどんどん嫌な方に変わってあれこれ手が付けられなくなっていく。
そこに以前から地元の貧しい者の味方として慕われていた議員で弁護士で弁のたつDaniel Webster (Edward Arnold)が現れて、Mr. Scratchは彼にも大統領にしてあげるよ、って誘惑しようとするのだがー。
監督のWilliam Dieterleにとっては『ノートルダムの傴僂男』 (1939) – これも編集はRobert Wise – に続く作品で、古くからある御伽噺ふう – というかふつうのファウスト伝説の悪魔がやってくるのをやっていて、そんなに怖くはないけど、見てすぐわかるキャラクターたち – 特にWalter Hustonうますぎ - とか舞台劇のようなセリフ回しとか、楽しいし、ヨーロッパの民話がこんなにも19世紀の腐り始めたアメリカにはまってしまうことにびっくり。
悪魔と戦う政治家、というと、そういえばゾンビと戦うリンカーンもいたし、アメリカだとやはりそうなるのか。いま、その伝統の線上に立って、政治家本人がしょうもない悪魔になってしまったら誰がどうするのか、が問われている。べつに問わなくてもいいからだれかどうにかしろあの腐れでぶを。
あと、William Dieterleと言えば大好きな“Portrait of Jennie” (1948)とか“September Affair” (1950)なのだが、あのちょっと不思議で独特なストーリーの運び、テンポは、既にあるような。