10月3日、土曜日の夕方、東京日仏学院エスパス・イマージュで行われている特集『シャンタル・アケルマン映画祭2026 『母が笑う』刊行記念』で見ました。
Chantal Akermanの映画はこれまでの特集 - 一番古いのは前世紀のアテネの - とイギリスでコロナのロックダウンになった時に、いま見れるものは(たぶん)ほぼ見ているので、今回の特集は好きなのだけをつまんで見ていくことにする。
62分、サイレント、字幕もなにも入らないドキュメンタリーで、彼女の最初の長編。撮影のBabette Mangolteと組んだ最初の作品でもある。
Hotel Montereyは、NYのアッパーウェスト - 住所は215 W 94th Street。Broadway沿いにあり、現在も名前を変えてどこかのチェーンのホテルとして営業しているようだが、90年代を過ぎても治安はそんなによくなかったエリアで、昔の映画だと”The Naked City” (1948)とか、”The Panic in Needle Park” (1971)とか、そういうやばめのが撮られた界隈にある。
そんなエリアに建つホテルに滞在する人々も安全第一を求めてはいなくて、そういうところに滞在したChantalとBabetteはここで映画を撮り始める。多くの人が当時のNYの実験映画の前線 - Michael Snowなどからの影響を指摘しているが、Chantal自身はそれらからの影響は認めつつもそんなでも、と言っているし、そもそも知覚や認識をどうにかしたれ、のような「実験」の姿勢と本作から見えてくるものは随分ちがう気がする。
固定されたカメラをホテル内から入口の方に向けてとかエレベーターの前とかに置いておく。最初は何が映っているのかよくわからないのもあり、(まるで幽霊のように)人が通ったりすることでその色 - 明暗、距離感とか、調度の配置などがぼんやりと浮かんできて、そうやって「ホテル」という「家」とは異なる都会の建築構造物のありようとか特性が見えてくる。通過と定住の間を行き来する壁や柱などで仕切られた空間。この作品を見る殆どの時間は、そんな空間を空間としてどう把握する、どこまで把握できるのか、等を頭のなかで転がしていくことに費やされるような。
カメラは下から上に移動していって、最後は屋上に出て、ハドソン川やBroadwayを見渡してゆっくり横に回ったりもする。 『眺めのいい部屋』的なヴューを求めて、というよりは、非常口を抜けたらここに出たけど、あとは飛び降りるしかないのか? のような「おわり」感まで漂っている気がするのは気のせい?
La Chambre (1972)
11分の短編で、これもサイレントだが、”La Chambre 2” – こっちは見たことないかも – の方にはサウンドトラックがついているらしい。
当時彼女が滞在していたNYのSpring Streetのアパートで撮影された2テイク。 マンハッタンの北にある”Hotel Monterey”、南にある「部屋」、パブリック vs. プライベート。いろんな点で対になっているような。
“Hotel Monterey”のカメラは主に上下に動いていくが、こちらのカメラはゆっくりと回転していって、そこにベッドに寝転んでこちらを見ているChantalが映って、2回転めくらいではリンゴを齧っていたりする。とにかく部屋の散らかりよう、ごちゃごちゃが見事で、美しいかんじすら漂っていて、どうしたらこんなふうにできるのだろう、と。
部屋(空間)のなかにひとがいる、それを見る、その状態・様態をカメラがとらえて、それを見ている我々が把握するというのはどういうことか、は後の”Jeanne Dielman...” (1975)に繋がっていくし、寝転んで食べる、というのは、後の”Je Tu Il Elle” (1974) の紙袋から砂糖むしゃむしゃ、のシーンに繋がっていくので、この” Hotel Monterey”と”La Chambre”はものすごく重要な、サイレントであることも含めて、これからの見取り図、テンプレートのようなもの – 特に”Jeanne Dielman...”で顕著にあらわれる部屋のなかで誰かが動いている、何かをしている、それってなんだ? っていう、画面の奥、その向こうを探っていくような、彼女の映画を見る時に湧いてくる不思議な感覚は既にあって、これってなんなのだろうか、って…
10.13.2026
[film] Hotel Monterey (1973)
10.12.2026
[film] ファーストボイス (2026)
10月4日、日曜日の夕方、新宿ピカデリーで見ました。
脚本は橋本裕志、監督は前田哲。
好景気に浮かれていた1989年の日本で、最初のセクシャル・ハラスメント裁判に臨んで勝利した女性たちのお話をinspired by true events で描いたもの。
これまで基本、この時期に作られた、この時期を描いた邦画は見てこなくて、なぜならやっぱりファッションとかやりとりとかどうにも恥ずかしくていたたまれなくなるから。特に女性のメイクとかボディコンシャスと言われていた頃のファッションとか。みんなが軽薄で浮かれていることが許された時代だったから、であるし、これは日本だけではない、全世界的な傾向であったこともわかっているのだが、それでもこの国の場合は。
屈辱的な敗戦〜安保の敗北を経ての高度成長期、みんなが猛烈に働いてがんばって、それが日本を経済大国に押し上げて、その行き方・行き末に異議を唱えるものなんていない、誰もが深く考えない/みんなと同じにしていればよい、というありようを象徴する、そのなれの果てがあのファッションで、なにを着ようが勝手だろ、は当然だとしても、ああいう格好で会社に行った女性たちが男性社員のためにお茶汲みとか事務全般なんでも、をやらされて待遇でも給与でもすごい男女格差や制限があって、それを誰もなんとも思わず、居酒屋の無礼講以外では声もあげていなかった。(それをなんだかんだよかった、と回顧するじじいの今だに多いこと。この世代のなれの果てがよりによって首相としてこの国をなんも考えずに破壊しようとしていること、など)
そんな時代の、そんな腐れたオフィスで執拗な嫌がらせを受けた末に仕事を奪われる(いちおう自主退職にしておいてやるよ)という性別に起因する差別 - ハラスメントが起こって、編集者の仕事を奪われた上原恵(ファーストサマーウイカ)が女性弁護士朝日道子(綾瀬はるか)の事務所に駆けこんで、他の弁護士や女性支援団体の支持も受けて、ここを崩すのは極めて難しい、と言われていたケースに勝利するまで。
どうして難しいかというと、当時の日々のビジネスの習慣や慣行、進め方働き方とあまりに普通に無反省に結びついたり基礎になったりしていて、劇中の台詞にも(たしか)あったように「こんなことで目くじら立てていたらビジネスが成り立たなくなる」ようなレベルのことに見えたから。だから当然のように、原告の行動や振るまいにそもそも落ち度があったのではないか、ってそっちに目が向けられたり。
360°こんなふう、当時の職場や男性社員、メディアの風向きがどんなだったかを知るものが見ると、たぶんものすごくその通りすぎてうんざりがっくりするし、知らない人が見ると中世か… のようだろうし、見ていて楽しいエンタメにはなっていないと思うが、でも本当にあんなもんだったんだから。
と思っていた者にとって、具体的なケースや審議に沿う形できちんと表に出してくれるので、やはり偉大かつ重要な裁判だったのだなあ、と思うし、これがなかったら - グローバルの流れもあったのでそれなりに変わっただろうとは思うものの - どうなっていたことやら、って。
↑のビジネスが成り立たなくなる発言ではないが、日本経済の今の長い不振停滞は結構この辺のこととも関連あると思っていて、昔はハラスメントやり放題の豪傑マンが強引に推し進めていたやり方が世界のどこでも通用しなくなった、というのが大きいのではないか。行動原理の礎のところまで染みこんでいたやり方(恫喝とか)を根から変えていくには時間がかかるし。
見方を変えれば昔より少しはましに、よくなってはいるのだ、ということもできる - でも今の経営の中核を担っている層はバリバリだった連中に洗脳された世代なので油断ならないけど - 政治の世界も同じか。まだまだよね、など、いろいろ考えさせられたので、みんなに見られてほしい。ハリウッドの法廷ドラマと比べたらへなちょこで、もっとかっこつけてよいのに、とか思うけど、これでも十分。
あと、いまの企業のコンプラ問題って、だいたいにっぽんのヤンキー文化(虐めとかやっちまったもん勝ち)と飲酒文化(呑んで忘れればOK)と地続きなので、ここからどうにか、ってしようとすると結局いまの政治風土に行き着くんだよ。だから政治をどうにかしないと、なの!
[film] Balada de um Batráquio (2016)
10月3日、土曜日、午前にシネマリスで『未知との遭遇』を見た後、ふらふらしながらアテネ・フランセ文化センターの坂をのぼって、午後からこの週にやっていた『現代ポルトガル映画傑作選2026』で見ました。最終日。
11分の短編 英語題は、”Batrachian’s Ballad”、邦題は『とある蛙のバラード』。
92年生まれのLeonor Telesの2作目。2016年のべルリン国際映画祭で短編部門金熊賞を史上最年少で受賞している。
ドキュメンタリーで、冒頭に昔々、すべての生き物は自由で平等で互いに寄り添うことができて、みんなが一緒に踊って幸せだった – のにお祝いに蛙だけが招かれなくて、蛙は絶望にかられて死んでしまった、という寓話が語られる。
ポルトガルでは「ロマ人立入禁止」のしるしとして、店先に陶器の蛙を置く風習があって(そんなのまったく知らなかった)、父方の祖母がロマ系である監督は、「そんなつもりじゃなかった」などど言われることは百も承知のうえで、それぞれの店に対して一軒一軒アクションを起こしていく、その記録。彼女が店の入り口に踏み入って、そこにある蛙の置物を手に取って、それを外の路上に叩きつけて壊して、逃走する。それだけ。アクションは一瞬で終わるのだが、入り口にある蛙の破壊が連続していくことで、なんとも言えない感覚をよびおこす。こんなに沢山の蛙とその数だけの絶望が店先に晒されている…
矢野顕子の『ふりむけばカエル』を流してほしかったかも、ってちょっとだけ思った。
あと、さっき見てきた”Digger”の最後もカエルの合唱だったな…
Terra Franca (2018)
↑のに続けて見ました。 英語題は”Ashore”、邦題は『水際』。原題をそのまま訳すと「率直な、自由な土地」、英語題だと「岸にあがって」くらい。
同じくLeonor Teles監督の長編第1作 - 80分。監督の故郷であるテージョ川沿いにある漁村 - Vila Franca de Xira - ヴィラ・フランカ・デ・シーラに暮らす漁師の一家の日常 〜 娘の結婚式に向かうあれこれを写し取ったドキュメンタリー。びっくりするくらいよくて、José Luis Guerínの『よき谷の物語』を思い起こしたりした。シネマ・デュ・レエル映画祭でSCAM賞のほか、多数の賞を受賞しているそう。
漁師で父親のAlbertinoは寡黙で70年代のBurt Reynoldsを崩したかんじのおじさんで、ひとり小さな舟に乗り込んで、毎日仕掛けた仕掛けの結果を見て、ぜんぜんだめっぽいのが続いてうううむー、なのだが文句を言ってもしょうがないので喋らずに腕を組んで遠くを見てばかり、更にここに自治体の環境規制や漁獲規制の話もあるので、どうしたものか、って更に固まっていくのだが、やはりどうすることもできなくて、黙るしかない。そんな彼の前に広がる川の、水の、すばらしい広がりときたら。
仕事はそんなでも家に帰れば妻のDáliaがいて、既に赤ん坊がいるけどもうじき結婚式をする予定の娘がいて、式や新しい生活に向けた準備あれこれと際限のないお喋りがあってなんだかんだ慌ただしく、こんなものかな、になっていく。
そんな家族の真ん中にカメラを置いて、インタビュー形式で語らせるのではなく、彼らがリビングやカフェで勝手に喋ったり言いあいしたりを撮って録っているだけで、特にすごい事件が起こったり感動的なストーリーやエピソードが語られたりするわけではないのだが、とにかくおもしろいったらない。
最後の結婚式も、ごく普通にみんなが笑って祝福している家族の集まりで、みんなずっと喋ったり踊ったり、その横でカメラを回している、それだけなのになんだかじーんとしてしまうのはなんでだろう? 『よき谷の物語』もそんなかんじのだった。自分のこれまでにもこれからにも、一切関係なかった、これからもないであろう人たちの声、語り、笑い、がなんでこんなに近くにやってきてくすぐってくるのか?
エンドクレジットで家族のスナップショットのバックにBill Withersの”Lovely Day”が流れてくるともうそれだけで…. ずるいや..
10.09.2026
[film] Disclosure Day (2026)
10月4日、日曜日の昼、109シネマズ二子玉川のIMAXで見ました。 本国公開から4カ月遅れてようやく。
一応備えというか、振り返りというか、前日3日の朝に、シネママリスで”Close Encounters of the Third Kind - Final Cut” (1977)を見ておいた。劇場で見るのは4回目くらい、最初に見たのは日本公開時の小学生のときで、この時は盛りあげを狙ったのか”Star Wars”か『未知との遭遇』か、みたいなのがあり、周囲には「未知との遭遇」の方が断然おもしろいよ、と言っていた。実際そう思ってて、そう言いながらSWに通いまくっていたのだが。
宇宙人との遭遇を描く、というより宗教の話 – なにを信じるかというより、信じているもののありようを開示する話、だと思った。おもしろいおもしろくないで言うと、すごくおもしろかった。
脚本David Koepp、監督Steven Spielberg、撮影Janusz Kamiński、音楽John Williams。
冒頭、プロレス興行が行われている会場からDr. Daniel Kellner (Josh O'Connor)が恋人Jane (Eve Hewson)と一緒に車で逃げだす。 彼はアメリカ政府の下請け業者Wardex (Waived Reporting, Development, and Extraction)のサイバーセキュリティ専門家で、そこから持ち出したアーカイブ一式と怪しげなデバイスのようなブツをもっていて、彼を導いていくのはWardexを抜けた彼の元上司のHugo (Colman Domingo)、彼を追っかけていくのはWardexのヘッド、Noah Scanlon (Colin Firth)。かつて修道院にいたJaneは、Danielと一緒にそこに匿ってもらい、彼の抱えているモノの中身となんで追われているのかを聞くと動揺する。
カンサスのローカルTV局の気象予報士Margaret Fairchild (Emily Blunt)は、出勤前にアパートのキッチンに迷いこんできたカーディナル - 赤い鳥と目が合ったらちょっと眩暈がして、そこから仕事場に車で向かう途中、交通違反で呼びとめられた警官の心に暖かく触れてしまったり、北朝鮮情勢で緊迫している局内の関係者をロシア語と韓国語で落ち着かせたり、更に生放送中に、ヒトの言葉とは思えない変な音声を発声して自分でびっくりする。(聖霊降臨)
TVであんな声を発してしまってから、Wardexはあいつだ、って彼女の方も追い始めて、Noah自らが変なデバイスを握りしめ憑りついてぼろぼろに消耗しながら突きとめようとするその場所には、Noah(と元Wardexのスタッフたち)がある施設を作りあげていて、それはやがて到来するその日その時 – Disclosure Dayに向けたものだった。
約束の地と時に向かって走る啓示を受けた者とそれを阻止しようとする者の追いかけっこで、その過程で誰がなんのためにそんなことをしているのかが見えてきて、そうやって見えてくるものに大きな驚きはなくて、どちらかというとやはりこういうことだったのか、に落ち着いていく。 『未知との遭遇』でも、約束の地、あの晩、は決まっていて、そこに向かう追いかけっこはあったが、その情報を持つものの立場、優位性のようなもの、は逆転している。そこの落ち着き(落ち着かせ)かたが過去のSteven Spielberg作品と比べるとあまりにわかりやすすぎ、座りがよくない、つまんない、唖然とするようなものがない、ということなのではないか。
Spielbergは過去の自作で何度も地球には宇宙人がいる/きているのだ、ということを描き続けてきて、よくわかんないけど追っかけていく対象だったり、友達になるものだったり、襲ってくるものだったり、古代からずっといるものだったり(まだありそう)するし、それは他のハリウッド映画でも同様なので、映画のフィクションとして”Disclose”したところで、今さらふううん程度でしかないし、そこに重みを持たせるには宗教(キリスト教)的な啓示(覚醒~伝搬~迫害~開示)や象徴(カーディナルも雄鹿も狐も)に重ねて委ねて、でっかいストーリーとして語ってみることだったのでは。
この映画で示される開示がどうして宗教的な認知や啓示の更新に繋がる(懸念のある)おおごとなのか - おおごとと言えるのか、とか、最後に出てくるリンカーンの椅子に座ったあれを、この時期が到来するまで維持したりケアしたりしてきたのはどこのだれだったのか、とか、最後の一言とか、あえてぼかしているところもなー。
MargaretがTVであの声を出して、それがブロードキャストされてしまったことで、他にも同様の人々がいっぱい湧いてくるとか、感応した動物たちがわらわら立ちあがるとか、ノアの箱舟とか、それくらいのスケールのやつを期待したのだが。
ラストで開示されていく映像のなかには『未知との遭遇』のもあった。”Independence Day”のとか”Paul”とかも出てきてほしかったのに。
でも、追いかけっことぐるぐる動きまくるカメラとEmily Bluntがとにかくおもしろい。それだけで十分ではないか。
10.08.2026
[film] Violent Saturday (1955)
9月29日、火曜日の晩、シネマヴェーラの「映画を輝かせるために」特集で見ました。
監督はRichard Fleischer、邦題は『恐怖の土曜日』。90分。 低予算カラーのシネマスコープ。
何度でも書くけど、今回のこの特集が痛快としか言いようがないのは、「映画を輝かせるために」と題されて集められた映画が、ろくでなし、ごろつき、犯罪者など、社会規範から外れたことばかりしている連中のしょうもない所業ばかりを活写した、それ自体が映画文化の端にも引っ掛からなさそうな、一見どこからどうみても「輝かせる」なんておこがましい、そんな作品ばかり(そうじゃないのもあるけど)が並べられていることで、こういうのはずっと街の片隅で、いつでもだらだらと見られるようにしておいてほしい。 ロンドンのPrince Charles Cinemaがやっているようなかんじで。NYのFilm Forumみたいにおいしいポップコーンとキャロットケーキがあって。
銅鉱山がある小さな田舎町に、列車に乗って3人組の銀行強盗(Stephen McNally, Lee Marvin, J. Carrol Naish)がやってくる。銅鉱山の支配人(Richard Egan)は浮気性の妻を抱えてどうしたものか、になっているし、同僚のSherry (Victor Mature)は、よき父親ふうだが、彼の息子は第二次大戦に行かなかった父親を恥じているし、銀行の支配人はしょうもない覗き魔だし、図書館員のElsie (Sylvia Sidney)は借金返済のため盗みを働こうとしている、そんな中に立ちあがる犯罪映画、というよりはふつうにそこらで働く人たちがそれぞれに抱える日々の凸凹のどこか、ある土曜日の昼間に、いきなり銀行強盗が割って入ったらこんな… というアンサンブル劇。
車の乗り継ぎで農家にやってきた強盗たちにSherryひとりが納屋の影から立ち向かおうとして、傍にいた農家のアーミッシュの家族に手伝ってくれ、というが暴力はいけない、って宗教的に断られてしまい、でも、というあたりはたまらない。すべては劇的でもなんでもなく、あっという間のあれよあれよ、で立て続けに起こって、でも元に戻ることはない。亡くなった人は戻ってこないし、旅行の計画は宙に浮いたまま... 後悔まみれのあなたに、だからといってどうしろというのか、を軽く投げてくる。 そんなヴァイオレントな土曜日。
ここから銀行強盗要素を抜いてみたら構造としてどんなふうになるのか、見えるのか、っていうあたりからアルトマンの群像劇は始まったのだろうか、とか。
Suddenly (1954)
9月30日、水曜日の晩に、↑と同じ特集で見ました。
たるいったらない火曜日と水曜日の晩、会社帰りにこんなのばかり見ていたらすべてどうでもよくなってしまう。
監督はLewis Allen、邦題は『三人の狙撃者』。77分。
↑のも、のどかな田舎町で起こった3人組による強奪で、こちらも3人組による狙撃で、見て一週間経ってしまうとどっちがどっちだったか? って混同しがち。 ↑のはLee Marvin vs. Victor Mature、こちらはFrank Sinatra vs. Sterling Hayden、銀行強盗 vs. 大統領狙撃、どちらも金めあて。
冒頭、”Suddenly” っていうのは町の名前なんですよ、って説明が入る。 「いきなり町」。
カリフォルニアのこの小さな町にアメリカ合衆国大統領の列車が停車することになり、駅を見下ろす丘の上に建つBenson家 – 戦争で夫を亡くしたEllen、その幼い息子、義父の3人が暮らす - に大統領到着前の警備チェックを行うFBIの警護官と名乗る3人の男が現れて、でもこいつらが狙撃犯で、そこに本物の大統領の警護官と地元のシェリフのTod (Sterling Hayden)が現れると、連中は簡単に警護官を撃ち殺して、Todも腕を撃たれて、狙撃犯のリーダーのBaron (Frank Sinatra)はテンション高くべらべら喋って家族を脅しながら銃を据え付けたりしていく。
そこにたまたまTVの修理で電気屋が来たり、引き出しにあるおじいちゃんの銃をどうにか、とか、でもどれもこれもうまくいかなくて、駅の方に様子を見に行ったひとりが撃たれて(これはまぬけすぎ)、部屋の中では電気屋が仕掛けたコップの水のびりびりで…
スリリングなところと間抜けなところが絶妙に混在・交錯しつつ、一触即発のクライマックスになだれこむ... わけではなく、どちらかというとBaronのサイコパス設定の方が残ったりするのだが、とにかくぜんぶ予定通りにはいかないSuddenlyで、大統領を乗せた列車みたいに77分がびゅん、て。
Frank Sinatraはやっぱりうまくて、Sterling Haydenとのやりあいとか、たまんないの。
10.07.2026
[film] L'étrange Madame X (1951)
9月28日、月曜日の晩、シネマヴェーラの「映画を輝かせるために」の特集で見ました。
監督はJean Grémillon。 英語題は”The Strange Madame X”、邦題は『迷宮の女』。
Irene (Michèle Morgan)は出版社社長の妻として社交界の華だったが、体面とお金のことばかり気にする夫とは冷めて終わっていて、でも木工所で働く若者Etienne (Henri Vidal)と恋におちてしまい、身分を隠して自分は金持ちのお屋敷で働くメイドである、って嘘をついて、会えない時も仕事の事情で、って断ったり(それは正しいのだが)。
やがてEtienneの子を妊娠してしまったIreneは夫とも相談して隠れて子供を産んで(ちょっと無理あるよね)Etienneに託し、彼はそれをおじさんのとこに預けて、もう結婚しかない結婚したい、と押してくるEtienneにIreneも同意して、夫にもそれを告げる(夫は自分のビジネスにも影響するので当然いやだ、と)。
のだが赤ん坊が突然病気になって、大変な時にIreneがつかまらない – Etienneが思い切って彼女が働いているはずの屋敷に駆けこんだら彼女はメイドではなくゴージャスな衣装(by Pierre Balmain)を纏う女主人で、うそ… とか言っているうちに赤ん坊は亡くなってしまい、Etienneは彼女のもとを去って、彼女は…
『曳き船』もそうだったが、自分のことなんて屁とも思っていない夫のもとで鉄の仮面を被るようになってしまった女が、ようやく素敵な男に出会えた、と思ったのに、その男にもふられることになり、あーあ(でも生きていかなければ)。この、でも生きていかなければ - の冷たさを正面から受けてひとりで立っている姿がかっこいいの。男からすれば自業自得、って言われそうなところを、それがどうしたこれが自分だ、って返して、決して媚びを売ったり泣きついたりしないその面構えの見事なこと。(日本の女優だったら誰だろうか、ってずっと考えている)
映しだされる路地の風景が素敵でさー、通りの奥に向かってずっと走っていく黒猫とか、ベンチで泣き崩れるIreneの少し奥から現れてくる馬車とか、動く絵、としての痺れるようなかっこよさがある。
Remorques (1941)
9月26日、土曜日、シネマヴェーラの特集初日の4本目で見ました。
上映前に蓮實重彦さんのトークつき。ほんとどうでもよさそうな、他愛ないことをおもしろおかしく話して、でも映画の根幹のようなところはちゃんと掬って、枯れて何を言ってもおもしろくなる落語家みたいになってきたなあ、って。彼のこういうプレトークを最初に聞いたのはいつだったか。シネセゾン渋谷での記念碑的な上映となった「生きるべきか死ぬべきか』のオープニングの時だったか? あの時は横に淀川長治さんがいたなあー。 今回でた本、どうせなら『映画千夜一夜』もマージして四巻本とかにしてもよかったのに。
英語題は” Stormy Waters”、邦題は『曳き船』。原作はRoger Vercelの同名小説 (1935)、シナリオ/台詞にはJacques Prévert。監督はJean Grémillon。 もう何遍も見ている。
André (Jean Gabin)は嵐とかで動けなくなった船から救助を求められると海に出ていってロープで引っ張って救助する曳き船の船長で、面倒見もよいので自分の仲間からの信頼も厚くて、冒頭は自分の船の仲間の結婚記念パーティなのだが、雨天で救助依頼が入ったとたんに出て行っちゃうので、妻のYvonne (Madeleine Renaud)は心配で心配で、この晩の活動ではその船にいた船員たちの救助はできたものの、船はそこの船長が嫌なやつで向こうから勝手にロープを切断しやがったので、お金を取りっぱぐれたAndréはそいつを殴り倒す。
救助された船員のなかに、その嫌な船長の妻Catherine (Michèle Morgan)がいて、彼女も夫に愛想をつかしてもうあの船にもあいつのところにも戻らない、と言い張るので、心配になったAndréが気にかけていたら、ふたりは恋におちてしまい、でもその裏でYvonneは病に倒れて…
ずっと大雨で天気が悪かったり揺れまくる船の上だったり、結婚式のすぐ後に新郎が指切断とか、不倫に死別に「呪われた映画」ここにありー、としか言いようがないのだが、「曳き船」そのものが絶望のなかの光として現れるように、彼らが苦しんでどうしようもない状況にこそ生がばちばちと叩き出されてくる。 吹きっさらしの階段に容赦なく叩きつけられる雨のようなあれらがどうにもすごいったらなくて、名画を見る感動とは別に、生きていくのは大変だなー、の重さがじっとりやってくるの。 もちろん、「曳き船」なんて来てくれない…
[film] La venue de l'avenir (2025)
9月27日、日曜日の午後、『眺めのいい部屋』のあと、ヒューマントラストシネマ有楽町に移動して見ました。
英語題は”Colours of Time” - 邦題は『モネと時間旅行』。 客寄せだろうけど、「モネ」の名前を出すのはどうかと思うし、時間旅行をする話でもない、原題をそのまま翻訳すると「未来の到来」。 監督はCédric Klapisch。
現代のフランスの郊外の宝探しと、ベルエポック時代のル・アーブル/パリでの親探しの話が交互に行ったり来たりしていく。
現代の方では、巨大なショッピングモール建設計画の予定敷地内にある1944年から誰も中に入っていない家屋の取り壊し承認を得るために、その家を所有していたAdèle (Suzanne Lindon)の子孫たちが不動産会社によって大量に集められて説明会が開かれ、建設の邪魔になるので潰しちゃってよいでしょうか? って問うて、でもその家の中に何があるのか誰も知らないので、Adèleの直系の親族から4人の代表 - 教師のAbdelkrim (Zinedine Soualem), コンテンツ写真家Seb (Abraham Wapler), 会社の偉いひとCéline (Julia Piaton), 養蜂家のGuy (Vincent Macaigne)が選ばれて、初めて対面する4人が互いの腹のなかと家のなかを探っていく。
これと並行して、19世紀では、その同じ村のその家を出て列車と船を乗り継いでひとり母親探しにパリへと向かうAdèleの姿が描かれる。 Adèleに向けて生活費の仕送りだけはしてくれている母親を訪ねるべく公証人のところで住所を聞いて行ってみたらそこは娼館で、客の相手をしている母Odette (Sara Giraudeau)を見ていたたまれなくなって、旅の始めに出会った青年2人のモンマルトルの下宿に転がりこんで、せっかく来たのでしばらく滞在してみることにする。サラ・ベルナールなどにも会えたりするし。
現代の方では家の壁に貼ってある大量の古い写真とか油絵とかカンバス布に赤い線とか、アートっぽいものが見つかるが専門家でもないのでほぼガラクタにしか見えなくて、破棄してよいものか、になっていくのと、Adèleの方は改めてきちんと母と対面して、自分の父親は誰? と聞いてみたら、ふたりの候補がいると。 ひとりは写真家のナダール、もうひとりが画家の…
ここまで来たら、Adèleの家にあれらがどういう経緯で遺されていたのか、というのと彼女の父親はどちらなのか、を詰めていくのかと思ったら、4人が薬草 – やはりVincent Macaigne持ち込み – でナダールのアトリエで開かれた第1回印象派展のサロンにタイムスリップするとか、父親については、うーんこっちじゃない気がするとか、その程度のもので、それなら『マンマ・ミーア!』みたいな楽しいバカコメディにしちゃえばよかったのに。(最初からその程度に軽く見るべきだった?)
当たり前だけど、誰にでも親がいて祖先がいて、それらはずっと繋がっていて過去でも今でも未来に向かって開かれているのだ、というだけの話が、モネの絵とかショッピングセンターとか、結局お金とか資産の話から切り出されていくのはしょうがないのか。落ちるところが「あなたの大切な資産をお守りします」みたいな話になるのがどうにも。
結局Adèleはどっちの男と結婚したのか、とか、あの絵は結局慰謝料なんだから親族全員で分配すべきではないか(→戦争)、とかそういうぐだぐだに向かっていった方が楽しくなったのではないか。
それか、Adèleの父親(候補)がRenoirだったら、Cézanneだったら、Manetだったら、果たしてどんな絵が遺されただろうか、彼女の運命も変わったのではないか、とか。
それか、実はあの家のなかでAdèleの遺体が見つかって、それを見つけた親族も殺されて、現場に遺された絵具のタッチから犯人を捜してみよう! とか。
Vincent Macaigneがいなかったらどうなっていたことか。