2月6日金曜日から7日土曜日まで、1泊でアムステルダムに行ってきたので、その簡単なメモを。
アムステルダムは前回赴任していた時に2回くらい行っていて、大好きなところなのでいつでも何度でも行きたいのだが、今回の駐在ではまだ行っていなくて、行かなきゃなー、になっていたところで、Eye FilmmuseumでのTilda Swintonさまの展示が終わりそうだったのと、Rijksmuseumで新しい企画展 - “Metamorphoses”が始まったところだったので、このふたつをメインにして。
Anne Frank House
これまでいつ行っても予約いっぱいで入れなかったところなので、やはり見ておかないと、と。
やはり前夜に見た演劇 – “Here There Are Blueberries”のこと、少し前に見た演劇 – “A Grain of Sand”を考えてしまう。Anneがこんな狭い棚の裏側で、家族と共に息を潜めて暮らしていた、その反対側で党の幹部たちはカメラの前であんな笑顔を晒して何も考えない善人のふりをして暮らしていた。そしてエプスタイン・ファイルの醜悪さやガザの件は今、目の前にある。記録はもちろん大事だけど、想像力と、なんのためにこの建物が残されているのか、ということと。
Nijntje Museum
これまでアムステルダムに行くと、少しだけ遠出してMauritshuis(美術館)に行ったりしていたのだが、今回もそのシリーズでユトレヒトのミッフィーミュージアムに行った。ミッフィーは去年の5月に松屋銀座で見たではないか、なのだが、ミュージアムがあるのであれば、そりゃ見にいくよね。
小雨でずっと寒くて暗くて、駅から結構歩いたが、入口に合羽を羽織ったミッフィーがいたのでぜんぶ赦された(バカ)。
館内はミッフィーだけじゃないいろんな動物たちが壁とか物陰に張りついていて、もう少し博物館的に、起源とか書誌とか世界的な広がりとか、あるいはDick Brunaそのひとについて、彼のヴィジョンとかミッフィーに託したものとか、説明があったりするのかと思ったのだが、そんなの一切なくて(あったのかな?)、壁とか階段とか扉の裏とかにいろんなのがいたり空中に光って浮かんでいたりするので、わー、っていちいち小さく叫びながら写真撮ったりしているうちに終わってしまった。
炸裂するcutenessの嵐のなか、ミッフィーとはこういうやつ、いつもこんなふう、というのは十分に伝わってきたし、子供たちはみんな楽しそうに遊んでいたので、(これぞエクスペリエンス? で)これでいいのよね、だった。
ユトレヒト、といえば本屋の町、でもあるので古本屋も含めて何軒か回ってみて、何軒か、でこれならば相当やばいな、って小さく呟いて早々に深入りしないようにした。アムステルダムでも、着いた日にオランダニシンの屋台に行ったら広場で古本市をやってて、雨の金曜日なのになんてことだ? って見ないようにしたのだが、あんなふうにいろんな本が目に入るようになっているのって、素敵ではないか。神保町でもないのに。
Metamorphoses
7日の朝、まだ雨がぱらぱら霧がぼうぼうだったが、行ってあたりまえのRijksmuseum Amsterdamに。
“Metamorphoses” – 『変身』をテーマに内外からクラシックを持ってきた企画展。
ギリシャ神話のオウィディウスの『変身物語』 - レダからナルシスから馴染みの変わり身神話を起源とする、それをテーマにしたり着想を得たりした古今の絵画から彫刻から現代の映像作品まで、ワシントンからMETからNational Galleryから幅広く集めていて、底なしに深くておもしろい。変身、移り身への誘惑、というのは定着させたり固着させたりが主、の彫刻や絵画にとって格好、というか基本中の基本、ひょっとしたら唯一のテーマであって、Bernini, Rodin, Brâncușあたりの彫刻作品のいまにも変身/変態を始めそうな生々しく艶かしいツヤときたら。
カタログの英語版が出るのは3月中旬頃、というのでそんなの待てるか、ってオランダ語版を…
常設展示もざーっと見たが、天気のよくない土曜の朝だからか、フェルメールもレンブラントも、あんながらがらだったの初めてだったかも。
Tilda Swinton – Ongoing
2020年初め、コロナ禍で中断してしまったBFIでのTilda Swintonの特集はあれ以降の自分の俳優観/映画観にものすごい影響を及ぼしていて、そんな彼女の「回顧」 –ではない”Ongoing”展であれば見にいかないわけにはいかない。カタログの方はロンドンでサイン入りのを買った(紙質がすてき)。
カタログの表紙は刈りあげた後ろ頭、この展覧会のメインビジュアルはCasper Sejersenによるチョビ髭、青緑のシャドウでぼけぼけの詐欺師ふうの肖像(2023)で、簡単に正体を明かされてたまるか、という点では一貫している。今回の展示もDerek Jarmanに始まり、Joanna Hogg、Jim Jarmusch、Apichatpong Weerasethakul 、Pedro Almodóvar、Luca Guadagnino、Tim Walkerらによる過去の出演作や写真をプロジェクションしているのはもちろん、一番つきあいの古いJoanna Hoggの作品 “Flat 19, 2025”は、半開きに重ねられた扉や部屋の向こうから声が聞こえてくるインスタレーションだったり、一応彼女が過去の出演作で着た衣装なども並べられているのだが、ぜんぜん所謂「女優」の展示になっていないのがおかしい。演じるということ、配役の人生を生きるということ、他者になるということ、それでも自分は自分であること、という循環を体現し、そこを抜けていくスリルと歓びをずーっと自分の身体に問うて実践してきた人の現在形がこれ、という。
この後はここの常設展示(映写機とか映写の原理とか)を少し見て、フェリーで戻ってから古い教会 - Oude kerkとか、考古学のAllard Pierson Museumなどをまわった。
1泊でじたばたするのはもう慣れつつあって、そんななかホテルのロビーにいたにゃんこが異様にかわいくて、別れが惜しまれるのだった。
2.17.2026
[log] Amsterdam - Feb 6 - 7
[theatre] Here There Are Blueberries
2月5日、木曜日の晩、Theatre Royal Stratford Eastで見ました。
開演前の舞台には宣伝なのかなんなのか、カメラのLeicaのロゴが大きく投影されていて、幕が開くと最初に20世紀初のポータブルカメラの発明〜登場は当時の人々の生活を記録するのにいかに革新的なことだったのかが説明される。
2007年、ワシントンのHolocaust Memorial Museumに一冊の古いフォトアルバムが送られてくる。そこにはアウシュビッツを記録した写真が多く収められていたが、これまでにここに送られて確認されてきた写真たちと大きく異なったのは被写体が収容所の収容者 - ユダヤ人たちのそれではなく、Rudolf Höss, Josef Mengele, Richard Baer, といった収容所の設立や運用に大きく関わっていた大物ナチス幹部や医師の写真、彼らが集まって仕事をしている場面が多く含まれていたことだった。写真の調査を進めていく中で、これらはRichard Baer の右腕だったKarl Höckerによって撮られたものであることがわかってきて、舞台はそこから、20世紀でもっとも凄惨な大量虐殺が行われていた「現場」、そこで働くナチスの幹部やその下の党員たちはどんな日々を過ごし「仕事」をしていたのか、と、このアルバムをホロコーストの被害者たちの実態にフォーカスしてきたMuseumの職員たちはどう扱ったのか、更にこのアルバムの存在がMuseumによって世界に晒された後、現代に生きる幹部の子孫たち & 我々はこれらをどう受けとめるべきなのか、について訴える、というより一緒に考えていく。
写真に写っていたのは仕事をしている彼らだけでなく、パーティーをしたり、余暇を楽しんでいたり、現地で働く女性職員たちは野外で楽しそうにブルーベリーを頬張っていたり - 劇のタイトルはここから - 多くの人は映画- “The Zone of Interest” (2023) -『関心領域』のことを思い浮かべると思う(Martin Amisによる映画の原作は2014年)。彼らは囚人たちを日々大量に虐待したり虐殺したりしながら、現代の我々と同じようにそのプロセスの「効率化」とか「改善」とかに取り組み、仕事と家庭と余暇とをはっきり意識して区別して暮らしていたことが見えてくる。このグロテスクさについて今の我々が云々することは簡単だが、もし我々がここに実際にいたとしたらどうなっていただろうか?
原作はMoisés KaufmanとAmanda Gronichの共同で演出はMoisés Kaufman。アルバムの写真を背後に投影しながら男女8人の俳優達が入れ替わり立ち替わりナチスの当事者たち、Museumの職員、写真の被写体だったナチス党員の子孫たち、などを代わる代わる演じていく。休憩なしの1時間30分。
少しづつ真相を明らかにしていく形式のドキュメンタリーフィルムでも実現可能なことのようにも思うかも、だが、舞台上での役柄を都度変えながら演じる、という方式を取ることで、立場役柄が変わった場合、そこにおいて自分に求められた役割を拒否したり立ち止まって考えたりすることは可能だろうか? という異なる角度からの問いを提起しているようで、これって演劇という形式だから持ち込めた何か、でもあるのかも、と思った。
上演後のパネルでもアーレントの「悪の凡庸さ」を緩用しつつ(アーレントのこの発想の汎用的な解釈には要注意と断りつつ)、これと同じ過去を繰り返さないためには、という角度でのトークが行われていたが、自分の知識の及ばないところで社会のどこかで進行している明らかな悪や加害に加担している可能性について考える、ということが今ほど重い意味を持ってきているのってないかも、と思った。 逃れることのできない何かがあることを明確に意識しつつ、他方で中立でいる、政治的でないままでいることなんてありえないのだ、ということを踏まえつつ、どこまで疑義や抵抗や異議申し立てをできるのか、というー。(政治的な何かから遠ざかろうとする態度や挙動を取れば取るほど、その怪しさが露わになる、いまの日本の気持ち悪さなど)。
2.14.2026
[theatre] High Noon
2月4日、水曜日の晩、Noël Coward Theatreで見ました。
1952年の西部劇映画 – 監督Fred Zinnemann, Gary CooperとGrace Kelly主演による『真昼の決闘』の舞台への翻案。 演出はThea Sharrock。脚本を(なんと)Eric Rothが書いている。
舞台は三方が板張りのサルーンのようになっていて、真ん中の上には丸い針時計があって、最初は10:15くらいを指していて、上演時間1時間40分(休憩なし)の間、出来事はリアルタイムのシーケンシャルで進んでいって(たまに早めたりしている気がしたので時計は手動ではないか)終わりのクライマックスの頃に丁度正午(High Noon)を迎える。
冒頭が保安官Will Kane (Billy Crudup)と敬虔なクエーカー教徒のAmy Fowler (Denise Gough)の結婚式で、みんなが祝福してとても盛りあがるしふたりは愛しあっているようだし、Willは保安官のバッジと銃を置いて、ふたりで安泰平和に生きていこうとしている – ところに、昔Willが牢屋送りにした悪党のFrank Miller (James Doherty)が釈放されて正午の列車で町に戻ってくる、という知らせが入る。
これを受けて悩みながらも再び銃を手にするWillと、もうあっちの暴力の世界には戻らないって約束したよね? と彼を引き留めて、でも彼の決意は固いのでこりゃだめだ、と彼の元から離れようとするAmyと、ここに絡んでくる飲んだくれの副保安官Harvey (Billy Howle)とかメキシコ人実業家の女性Helen (Rosa Salazar)とか、ただ誰も正午に向かって流れていく時間を止めることはできないし、Willの責任感とAmyの宗教に根差した決意を変えることはできなさそうだし。
WillにしてみればAmyは自分がこういう男だとわかっていて結婚したんじゃないのか、だしAmyからすれば、結婚というのはそんなことよりまずは相手を尊重するものではないのか、だし、犬も喰わない平行線で、町の衆にとってはそんなふたりの仲よりも自分たちの身の安全なので、こんな身内でがたがたしている保安官に任せられるのか? になっていく。でも結婚式から決裂まで最初の1時間くらいでこれらのことが立て続けに起こるのって列車が来ちゃうからにせよどうしても浅く薄く見えてしまう。
50年代のGary Cooperも今回のWillも、自分の言葉できちんと説明することが苦手なよう(旧型の男設定)なので、黙って行動に移そうとすると、そこで余計にいろいろ疑われて怪しまれて人を遠ざけてしまって、というよくない循環のなか、人はどうやって向こうからやってくる悪に立ち向かうべきなのか? それってなんのために? ということを問いてくる。
50年代の映画版はマッカーシズムの脅威のなかで作られてその評判もmixedだったように、今回の舞台版が突きつけてくるのは今のあの国の迎合主義や排外主義、だろうか。 どちらも根はおなじで、自分(たち)を守ろうとする過剰な要求(or 自分たちは責められているという被害妄想)が他を排除して暴力の連鎖を生んでいって止まらないやつ。
ここで問われるのは「自分たち」とは誰か、というのと、自分たちが守るべき「町」などは何を意味するのか、ということで、そんなときに流れてきたり登場人物たちが歌ったりするのが、Bruce Springsteenの何曲かで、特に”I’m on Fire”は何回も。構図としてはやや図式的すぎてわかりやすすぎて、でもそれは今だから、というのと、でもこれだけやってもまだなの?(あのバカは)、というのが交互にきてどうしても熱くなれない(よくない - 自分が)。
(これ、日本の家父長制がちがちの漁師町とかでやっても… 気持ち悪いだけか)
ステージ上で最後の銃撃戦をどう描くのか、と思ったら割とシンプルで、あんなもんしかないのかなあ。
でもBilly CrudupとDenise Goughの笑顔と抱き合う姿がとても素敵だったのでよいか。でもそんな笑顔に惚れたんだろうに、つまんない喧嘩はやめなよ、ってどうしてもなるわ。
2.12.2026
[film] The Testament of Ann Lee (2025)
2月8日、日曜日の昼、Curzon Sohoで見ました。
公開前のプレビューで、上映後に監督Mona Fastvoldと主演Amanda Seyfriedのトークつき。
昨年末にBFIでプレビューされた時は70mmフィルムで上映され、アメリカの各地でも70mmで上映されたりしてて、今回のここのは35mmフィルムでの上映。(撮影は35mmフィルムだったそう)。
監督はパートナーのBrady Corbetと共に”The Brutalist” (2024)の脚本とプロデュースを手掛け(本作の脚本も監督と彼との共同)、音楽のDaniel Blumbergも”The Brutalist”とおなじ。 昨年のヴェネツィアでプレミアされている。
18世紀イギリスで原理主義的なシェーカー運動を立ちあげ、アメリカに渡って宗教的迫害に立ち向かったAnn Leeの像を描いた歴史ドラマ。
冒頭、Ann Lee (Amanda Seyfried)を中心とした女性たちが森のなかで歌って踊っている(振付はCelia Rowlson-Hall)。時折引き攣るような震えを見せる舞いと止まらないハミングと彼女たちの固まった表情からカルト集団のそれを思わせるのだが、この場面はこの後も何度も繰り返され、映画はどうして彼女たちがこうして集って舞うようになったのかまでを描いて、やばいカルトでは? という問いからは距離を置いている。
18世紀のマンチェスターで、Ann Leeは弟のWilliamと綿工場で働いていて、ある晩両親の性行為を目撃してからそれを罪であると思うようになり、近所のクエーカー教徒の夫婦を訪ねたりしていくうち、クエーカー教徒のAbraham (Christopher Abbott)と結婚するが、生まれてきた4人の子を次々と失くして性に対する不信とキリストに対する視座をクエーカー教のそれが確たるものにしていく。
やがてシェーカー教の前身の団体に入った彼女は逮捕・投獄された際に、空中浮遊してイエスの幻影を見た、って周囲に伝えると、彼女こそが待望の救世主だ - “Mother Ann”と呼ばれるようになるのだが、迫害も激しくなってきたので、ニューヨークに渡る。
ニューヨークで弟のWilliam (Lewis Pullman) たちはシェーカー教のコミュニティのための土地を探して北に発って、やがて安息の地を見つけるものの逮捕や迫害の手は止まなくて…
ちょっと間違えたら教団の布教ビデオになってもおかしくない開眼~伝道~受難の道のりが歌と踊りを挟みながら綴られていくのだが、内容は結構暗く血みどろの宗教ホラーすれすれのところを行って、イメージとして一番近いのはやはりLars von Trierのどろどろだろうか。ただ出産のシーンにしても監督とAmandaが相当に力を入れたそうで、男性目線のはいった仰々しく目をそむけたくなるようなそれではなく、ふつうにまっすぐに見ることができるのと、なぜAnn Leeがセックスを否定し男女同等であることをあそこまで訴えたのか、はストーリーのなかで納得できるように作られている。
他方、シェーカー教で有名な家具とか質素な生活などについては描写としてはあるものの、全体の流れのなかではやや浮いていて、シェーカー教とは、を伝える映画ではないのでしょうがないのだろうが、ちょっと詰め込みすぎてしまったのかも。バイオレントで血みどろで、でも聖なるかんじは残る、不思議な…
Martin Scorseseの”Silence” (2016) にあったような信仰のありようを示す、というよりひとりの女性がどうやって信仰を自分のものにしていったのか、を描いて、その角度からだとその混乱ぶりもなんとなくわかる気がした。
The Testament of Ann Lee with Daniel Blumberg & special guests
この日の晩20:00から、BarbicanのMilton Court Concert Hallでコンサートがあった。
“The Testament of Ann Lee”の映画音楽を作曲したDaniel Blumbergと映画でも歌っていたAmanda Seyfriedと6人の楽隊が演奏する。映画内の音楽はフルコーラスのフルオーケストラ仕様だったので、全部ではなく抜粋しての1時間くらいの会だったが、とてもスリリングでおもしろかった。
Amanda Seyfriedさんはこの日、↑のCurzonでのトークの後に、Barbican Cinemaでもトークをしていて、最後にこのライブ、大変だねえ。
バックはパーカッション1名、弦2名と、voice - コーラスではなく、ヴォイスや息を吹きかけたりする男女3名。左端に座ってエレキギターとハーモニカを下げたDaniel Blumbergと、やはり座ってマイクをもったAmanda Seyfried。
そもそもDaniel Blumbergって、ダルストンのCaféOTOの常連で、イメージでいうと吉祥寺のStar Pine's Caféで細々やっていた人がいきなりオスカーを獲ってびっくり、みたいなかんじだったのだが、今回のメンバーで中央に座るMaggie NicolsとPhil MintonもCafé OTO系 - Lindsay Cooperの楽団にいた筋金入りの前衛ジャズシーンの人たちで、そこにAmanda Seyfriedの歌がどんなふうに絡むのか。
AmandaについてはLate Showでダルシマーを弾きながらJoni Mitchelの”California”を歌うビデオが拡散されていたので知っている人も多いと思うが、ものすごく安定していて巧いので心配いらない。
音楽としてはパーカッションのからころちゃかぽこ、にきりきりさーさーした弦が絡み、そこにけったいで素っ頓狂な声とか息とか(巻上さんふう)が振りまかれ – 少しだけ「太陽と戦慄」ふうの土台の上に、Arto Lindsayふうアヒルギターが乗っかって、そこにとても艶のある、アメリカンポップスど真ん中のようなAmandaの歌が。 といういくら聴いても飽きないやつで、映画で流れていたのとはぜんぜん違うのでそれでよいのか、はあるかもだけど、あっという間に終わってしまったのが残念だったねえ。
前世紀だったらスタジオ200でやっていたようなやつ。
Hans Zimmerとかのコンサートよか断然おもしろいと思うよ。
2.11.2026
[film] It's Never Over, Jeff Buckley (2025)
2月2日、月曜日の晩、Curzon Sohoで見ました。
本公開前のプレビューで、上映後に監督のAmy Bergとのトークがあった。Executive Producerには(またか、の)Brad Pitt。昨年のサンダンスでプレミアされている。
Jeff Buckleyのドキュメンタリーは数年前にも見た気がしていて、もういいんじゃないか、だったのだが – “It’s Never Over” – って10年をかけてバックリー財団(財団なんだ.. )から権利を取得して、そこから5年を制作に費やしたいうので決定版と呼べるもの、なのだろう。
17歳で彼を産んだ母のMary Guibert、彼が生まれて6ヶ月で家を出て行った父Tim Buckleyのことから入ってかつて恋人だったRebecca MooreとJoan Wasserからは、アーティストの彼が恋人としてどんなだったかを聞く。音楽的影響の紹介ではJudy Garland, Led Zeppelin, Nina Simone, Nusrat Fateh Ali Khanなどがあり、ミュージシャンとしてBen Harper, Aimee Mannなどがコメントをして、そして友人でもあったChris Cornellとの交流も。
アーカイブ映像も多くあって、特に彼が初期の活動拠点としていたカフェ - Sin-é時代の様子がどんなだったかがわかるのはうれしい。
彼の音楽、特にあのヴォーカルについては、聴いてふつうに驚嘆するしかなくて、今も何度聴いてもそうなると思うのだが、映画では映像として繋いでいくだけのこれらについて、なぜああいうちょっと歪な楽曲構成と展開になったのか、など解析したり批評したり、はほぼない。彼の声の特殊さ - どこまでも伸びてしなる - が必然としてもたらしたであろう音楽の肌理や特性について成り立ちも含めて知りたいのに。 ここにGary Lucasが出てこない、というのが全てを説明している気がする。
なので、映画は女性 - 母と恋人たちから見たJeff Buckleyがメインで、アーティストとしての彼ってどう? もあくまで彼女たちの目でのそれ、になっている。90年代中期以降、ポストグランジで顕在化したように思える、マッチョではなくフェミニンで、あたしが傍にいないとただのゴミになってしまう(と思いこませる)彼 – の典型を見るようで、これはこれで興味深かった。(ダメンズが汎用的な臭気を放つようになったのってこの頃から?) でもやはり、彼女たちがどれだけ彼を愛していたか、わたしにとってのJeff、を語れば語るほど、ちょっと引いてしまうのだった。彼がすばらしい人であったことは十分わかっているからー。
彼のライブは2回見ていて、初回は”Grace”のツアーの後半、ブルックリンのそんな大きくないライブハウスで、最後にAlex Chiltonの”Kangaroo”とかをやってぐじゃぐじゃのジャンク猿になっていった。2回目がこの映画の中でもPaul McCartneyがバックステージに来た!って紹介されているRoselandでの”Grace” Bandの最後のライブで、でも彼はメインアクトではなくJuliana Hatfieldの前座だった(当時のJulianaHは無敵だったの)。この時、バンドとしてのお別れを告げてから"Hallelujah"をやって、それがそのままThe Smithsの”I Know It’s Over”に繋がれて、みんながぼうぼうに泣いてて、後ろを振り返ったら生のPaul McCartneyが座っていたのでなんだこれ? ってなった。自分はこの時のライブのありえないかんじの衝撃をいまだに引き摺っているのかも。
映画のなかではChris Cornellとの話が興味深かった。競演していたらどんなにかすごい声の連なりを聴けたのだろう。
あと、上映後のトークで出てきたElizabeth Fraserとのデュオ – “All Flowers in Time Bend Towards The Sun” (1995-96) - YouTubeで見れるけど、これはどうしても使用に許可が下りなかったのだそう。
[theatre] Into the Woods
1月29日、木曜日の晩、Bridge Theatreで見ました。
音楽Stephen Sondheim、脚本James Lapineによるグリム童話のマッシュアップ・ミュージカルで、初演は1986年、2014年にはRob Marshallによって映画化されている(もちろんDisneyで)。
演出はJordan Fein。 ビジュアルはずきんを被った赤ずきんが暗闇のなかに浮かびあがっている像で、これだけだとホラー映画のように見える。
上演前の舞台には黒幕が掛かっていて、それが開くとでっかい木 - 背後は深そうな森の闇、そこに普通の会社員みたいな語り部のおじさん(Michael Gould)が現れて何かを語ろうとするが、次々と現れては消える魔物 – というより変な人たち、そしてどこからか流れてきて全員がそのメロディに飲みこまれてしまう歌に圧倒されて、魅せられているうちに、森の奥に迷いこんでしまう。
パン屋(Jamie Parker)とその妻(Katie Brayben)が父親の罪によって掛けられた呪いを解くためにシンデレラの靴、ラプンツェルの金髪、赤ずきん(Gracie McGonigal)のコート、そして豆の木Jack (Jo Foster)が大切にしていた乳白色の牛 - Milky Whiteなどを集めなければいけないのだが、みんなそれぞれいろいろ抱えて這いずりまわっているので、誰かが何かをしようとすればするほど、いろんなのが出てきて事態は錯綜し、混沌は深まっていく、そんな森のなかへようこそ。
グリム童話の世界の根底を流れている家父長制や伝統的な魔女魔物に対する無意識の恐怖とか放擲とか服従とか敵意とか、最終的には自身の運命を受けいれることを呪いとして表にだして歌にして茶化したり、森の表面(表舞台)の反対側 - 森の奥の暗闇で行われていることを示さずに、そこを抜けてきた連中がどんなやつらか – 現れるのみんなほぼ変態だったり– を示して楽しい。
キャラクターとしてはお馴染みのばかりなので、善いやつ悪いやつくらいはわかるのだが、お伽噺の線が入り混じって錯綜していくなか、単純な善い悪いなんて言えなくなって、Wolf (Oliver Savile)もWitch (Kate Fleetwood)も、誰もがいろんな事情や悩みや呪いを抱えて森を抜けてきていることが見えてくる。なんでこうなっちゃうんだろう、って頭を抱えて考え始めた個が、そうやってばらばらになった”I”が”We”になることに気づいた時、そこには歌があることを知った時、など。
あれだけのキャラクターをわらわら裏に表に出してかき混ぜて、その呟きをSondheimの歌が拾いあげて、ひとつの幹とか森に撚りあげていく、そのプロセスの複雑さを思うと森のなかで方向感覚を失ったようにくらくらするが、楽しい歌と音楽はとにかくそこにあって、重ねられていくことでひとつの森を形成しようとするかのよう。Sondheimの魔法っていうのはこれかー、って初めてわかったような(おそい)。
人を悪い方に変えてしまう象徴的な筺としての森に、存在そのものが象徴として継がれてきた御伽噺の主人公たちをくぐらせてみると、どんな変態が生まれて何を歌い出したりするのか、というびっくり箱の仕掛けというか。
キャストのアンサンブルも見事で、パン屋夫妻はもちろん、Jackを演じたJo Foster (they/them)、赤ずきんのGracie McGonigalの輪郭の強さが印象に残った。あと、Jackが抱えていたMilky Whiteのぬいぐるみが異様にかわいくてとても欲しくなった。なんで売店で売ってくれないのだろう…
映画版も公開時に見たけど、個々のキャラクターとストーリーラインを正直に追っていくので、今回のような森の奥の闇の恐ろしさ、脅威を見せつける、そういう迫力はなかったような。
あと、このシアターはものすごく音がよいのだが、今回は森の奥で響く轟音が雷鳴のようにすさまじく、客席で飛びあがっている人が結構いた。
近い将来、改変版で誰かがトトロを加えたりしないかしら?(ヒトじゃないとだめか..)
でもこの劇の森とトトロの森はちがうよね。
2.10.2026
[theatre] Dublin Gothic
1月31日、土曜日の晩、Abbey Theatreで見ました。
Abbey Theatreは1904年に建てられた(火災で1951に再建)アイルランドの国宝で、William Butler YeatsやSeán O'Caseyが設立に関わってアイルランドの文学復興運動にも貢献した場所、なのだがシアターとしてはものすごくシンプルであっさりしている。バルコニーもドレスサークルもなく、だんだんの傾斜があるだけ。でもおそらくこのサイズでのこの傾斜がものすごく見やすい、没入できる空間を作っているのだと思った。ロンドンのNational Theatreもこのサイズのがあったらなー、とか。
原作はこれが劇作デビューとなるBarbara Berginの同名戯曲(2025)。演出はCaroline Byrne。上演時間は2回の休憩を挟んで3時間半。
舞台は、三階建てのビルの断面のような、朽ちたビルの骨格だけが露わになったような構造になっていて、1830年からの約150年に渡る複数の家族の歴史を描いていくなか、その内装は時代や場面によって変わっていくが、120のキャラクターを次々に演じ分けていく19人の俳優たちは着替えで出たり入ったりする以外は、だいたいこの3層のどこかにいる。上の階での動きは(寝ていたり)少なくて下に行けば行くほど出入りは激しくなる。舞台手前の土があるところ – 地上層には、シャベルが5本くらい無造作に突きたてられている。
時代は1830年から1910年までが第一部、1910年から1950年までの戦争期が第二部、1950年から1980年までが第三部で、そこにおける負けっぱなし(Loser)の家族の歴史が、貧困、地主、階層、移民、宗教、性労働、エイズ、家父長制などの角度からショートコントのように忙しないやり取りで、やられて下に落ちたり転がったり泣いて泣かれてどこかに消えていく様が次から次に世代を伝って連鎖するように繋がれていく。”Loser”の主は、地主から虐げられる小作人からはじまり、弱いものはずっと弱いまま、ストライキや暴動、さらには独立戦争~2つの大戦を経て、その容赦ない虐めの連なりの行きつく先は常に末端の(末端と見られている)力のない女性たちで、そんなことになっても彼らとしては立ちあがって生きていくしかない。たくましい女性たちも当然出てくるが彼女たちもずっといるわけではなく、いつの間にか背後の闇に消えていく。
休憩時間には幕に出てきた家族の家系図が投影されて、最初の休憩では3世代3家族だったのが、次の休憩では確か5世代4家族になっていたり。でもそれでああそうか、ってなるところは少ない。
あまりに登場人物が多すぎて慌しく錯綜しつつ転がっていって、演じる方も大変だろうが見る方もあっぷあっぷで、とにかく各階/層で何かが起こって、誰かが殴られたり泣いたり落ちたり死んだりしていて、それらのシルエットを追っていくのが精一杯で、そこには常に地を這っていくような死や退廃のイメージがあった、という意味での”Gothic”であれば、それはそうなのだろうが、もうちょっと落ち着いて像を焼きつけられるようにしても、とか。
路地を抜けても抜けてもずっと果てなく続いていく出口なしのごじゃごじゃ、という点で、例えばLondon Gothicとはどう違うのか? Londonだと、もっと足元がきつく縛られていて身動きが取れずに埋められていく気がする。Dublinは勝手に動けてしまう分、後からのダメージとか踏み外しとか破滅がよりはっきり出て、でもなんかめげない(気がする)。
そして今はあの国がしみじみ嫌だ。あんなところに戻りたくない。