9月19日、土曜日のマチネを、Royal Court Theatreの地下のシアターで見ました。
原作はManfred Kargeによる戯曲で、ドイツ語の原題は”Jacke wie Hose” – 「上着だろうとズボンだろうと(どちらもおなじ)」。Tilda Swintonによる一人芝居。演出(+英語翻案)はStephen Unwin。休憩なしの1時間25分。
そんなに大きなシアターではないので、チケットは最初からぜんぜん取れなくて、ほぼ諦めかけていた公演の2日くらい前、いきなり前から3列目が取れた。これでCate Blanchettに続けてTilda Swintonまで見ることができて今年の運はぜんぶ使い果たしたかも、になった。
ドイツでの初演は1982年、それを彼女が最初に演じたのは1987年のエジンバラのフェスティバル、その後、ここRoyal Courtで上演されて、今回のが39年ぶりの再演となる。その間、これを映像に残したい、と1992年にJohn Maybury監督 - Derek Jarman繋がり - Tilda Swinton主演により映画化もされている。
忘れもしない2020年の初め頃、BFIでTilda Swintonの特集上映があって、彼女が毎日挨拶にやってくるので毎日のように通っていたのだが、コロナのパンデミックでロンドンの美術館や劇場、映画館が一斉にクローズしたのが3月17日から18日にかけて。 この映画版の上映があったのは3月16日、映画館通いもTildaさまを拝むのもここから暫くできなくなったのだった。
この時は彼女の初期の主演作”Caprice” (1986)との併映で、ロックダウンで来れなくなったJohn Mayburyの替わりに、”Caprice”の監督のJoanna Hoggがゲストで登場して、学生の頃からずっと一緒にやってきたふたりの漫才のような会話がものすごく楽しかったことを思い出す。
1930年代、ナチスの台頭により(その前から)不穏で物騒になってきた東ドイツの町、ぼろそうな電化製品や家具、生活のいろんなものが散らばっているのが明るく照らしだされてゴミ屋敷手前くらいになっている部屋の真ん中にElla Gericke (Tilda Swinton)が短パン、網々のランニングシャツ一丁、髪はぼうぼうに逆立って顔半分に白ペイント(数日前のCate Blanchettも白塗り仕様だった。なにこれ)、の鬼婆のように仁王立ちして、客席の方を睨んですごい勢いで喋りだす。これだけだと威勢のよい貧乏パンクスのように見えなくもない。彼女は夫のMaxを病気で失い、でも生きていくために彼のクレーン・オペレーターとしての仕事を引き継いで、男として生きていかなければならない。
彼女には悲嘆している余裕なんてなくて、男として働く(=生き残る)ために言葉遣いや態度はもちろん、パンツの下に詰め物をして女であることがばれないようにしたり、これらがどんなに愚かしくてばっからしいことか、などを室内の冷蔵庫からいろんな食べ物を引っ張り出して齧ったり、ケチャップの瓶を振り回したりしながら嘲り、怒り、目に留まる端からぶちまけていく。女性が男性になろうとする話ではない、はじめから男性として認知された男性が男性として機能しないとやっていけない、そんな社会のふざけたさまを呪い続けて止まらない。
Swintonの初演時に全26シーンで構成されていた劇は2015年の再演時にベルリンの壁崩壊を材にしたテーマが追加され、今回あらたにナチズムの再興というテーマが追加され28シーンとなった - 劇を見ている間はそれぞれのシーンが圧巻、というか彼女を見ているだけでおもしろくて – おもしろがってはいけないのだろうが - あっという間に終わってしまう。28曲を1時間半で突っ走るギグ。
Tilda Swintonという女優のキャリアを見たとき、ハリウッドの超大作からB級からアート系まで、社会の除け者、異物、消えゆくものに対する目線(いろいろ)、というのは常に一貫してあって、そこではジェンダー、国家や階層、イデオロギー、がどのような形であれ俎上にあげられて、この劇作は、ドイツだろうが30年代だろうが関係ない、むしろ、だからこそライフワークのように取り組んでいるのだろうな、と思った。
しかしこれを昼と夜2回公演って、体力的にすごいな。
9.25.2026
[theatre] Man to Man
[film] Teenage Sex and Death at Camp Miasma (2026)
9月18日、金曜日の昼、CurzonのSohoで見ました。平日の昼間なので客席には数名しか。
作・監督は”I Saw the TV Glow”(2024)のJane Shoenbrun - この人(sheではなくthey/them)はいま出ているSight and Sound誌の表紙 - ちなみに先月号の表紙はChristopher Nolan – になっていたので、すごいかも、と。公開は先月だったので大きいスクリーンでの上映はなくなっていたが、公開直後はBFI IMAXでの上映もあったらしい。 タイトルから成人映画指定かと思ったがR15だった。実際そんな怖くなかったからだいじょうぶ – というかふつうのティーンホラーを期待していくと頭にくるかも。
”I Saw the TV Glow”でカルト的な人気を博したテレビ番組シリーズを題材に、それに決定的な影響を受けた(かつての)子供たちの生態、「成長」を追ったように、ここでは(あまり詳しくないのだが)『13日の金曜日』や『ハロウィン』や『エルム街』など、80年代のスラッシャー映画の伝説に連なる”Camp Miasma”のシリーズを置いて、防火服を着て頭に天井の通気口カバーを仮面のように被ったトランスジェンダーの殺人鬼”Little Death”が湖の底から現れて湖畔のキャンプでいちゃいちゃしている若者たちを槍で串刺しにしたり腕や首を切断したりしていて、爆発的な人気を得てシリーズ化されるものの、(よくある話)みるみる失速していった様子が冒頭で描かれて、かつてティーンとしてこの作品に浸っていたインディー系の映画監督Kris (Hannah Einbinder)のところに、同シリーズのリブート企画としてOrigin Storyを描く、という依頼が舞い込んで、舞いあがって伝説の撮影現場に向かうことになる。
その場所はGPS圏からも微妙に外れた、でも映画シリーズを何度も見てきたKrisにとっては間違いなく約束の地としか思えないような場所で、そこで彼女は第一作のFinal Girlで、同作出演後に映画界から引退して彼女自身が伝説となっているBilly Presley (Gillian Anderson)に会いに行く – 彼女は第一作の撮影現場のすぐそばの山荘に、”What Ever Happened to Baby Jane?” (1962)のBette Davisのように謎めいた振る舞いで籠って、ひとりジャンクフード(KFC)とアメリカン駄菓子にまみれて暮らしていた...
Krisはそんな彼女に自分がティーンの頃にこの映画からどれほどの影響を受けたのか、この映画の起源と成り立ちを掘りさげていくことが自分にとってどれだけ重要なことなのかを語って、それを横で聞いていくBillyはわかっているのかわかっていないのか、Krisを挑発するような怪しげな行動 – 不愛想だが嫌われてはいないらしい - をとって、そんなふうに近寄っていくと湖水の奥からLittle Deathが…
幼い頃の自分に決定的な影響を与えた映画なり文学なりを掘り下げていくことに伴う痛み、幼年期の終わり、いくつかの死、それらを打ち棄てられた対象 - 生きているものであれ死んでいるものであれ - のなかに見て語っていくことで蘇ってくるなにかって、なんなのか。 ”I Saw the TV Glow”ではそのメディウムとして古いブラウン管TVが置かれていたが、ここではBillyの家にある古い映写室がそういうのが湧きだす場所・洞窟として機能していて、それよりもなによりも山姥のようなBilly - Gillian Andersonがすばらしいの。
ある文化と共に育つ、それに没入していくことで自身の世界(観)を形づくること、それによって周囲との段差や痛みが広がったとしても – ふつうにでる – その痛みの正体をここまでメタ・ホラーのような形で映像化したこと、それがFinal Girl – ぼろぼろになりながらも生き残った最後のひとりとの対峙を通して現れてくることなど、ちょっと感動してしまった。
あと、思春期の呪い、世界なんて終わってしまえ、という祈りを描く、という点ではRichard Kellyからの連なりも。
9.24.2026
[thatre] A Month in the Country
9月18日、金曜日の晩、Donmar Warehouse で見ました。
チケットはこっちに来てから複数の舞台(どれも既に売り切れている)の状態を時間をあけてチェックしつつ諦めたり絞りこんだり、の繰り返しのなか、これは前日の晩に飛び降りるようにして取った。Donmarでやる演目はだいたい外れないから。
原作はツルゲーネフの戯曲(1855/1872)、翻案はBrian Friel、演出はLyndsey Turnerand。
舞台の上にはでっかい水槽のようにガラスで囲われた箱 - 家? があり、その内側は樹が生い茂っているのか葉っぱがびっしり覆って奥に光はありそうだがうちがはまったく見えなくて、客電が落ちてそのガラス檻が上にあがる直前、主人公の主婦Natalya (Sophie Okonedo) が苦しそうに水槽のガラスに顔を押し当てるのが一瞬見える。
17歳の養女Vera (Rachelle Diedericks)の家庭教師として住み込みでやってきた純朴な好青年 Aleksey (Patrick Gibson) と、その反対にある田舎の、田舎としか言いようのない周囲の言葉や態度にうんざり飽き飽き窒息しそうになっているNatalyaの、誰がみても人のよい - 実際悪いところが見当たらない夫Arkady (Thomas Arnold)との生活に不足不満があるわけでもなく、カード遊びばかりしている姑Anna (Susan Brown)がうっとおしくて嫌で、というわけでもないのに、自分でもなんでそんなことを、の行動や言動が飛びだして、自分はあんなにも若いAleksey を好きになってしまったどうしよう… の顛末、その表情を追っていく。 使用人たちも含めた人物の配置や彼らの珍妙な会話や行動がところどころ絶妙におかしくて、そういうショートコントの重ね合わせのなかから、なんで自分はこんなところで… の焦りと苛立ちが搾りだされ、どこかから降ってきたようなAlekseyへの思いに対する戸惑いがあり、Alekseyもまじめにそれを打ち返してくるもんだからメロドラマの渦がまわりだす。
ちゃぶ台がひっくり返されたり、誰かが刺されたり自殺したり、のおおごとはなくて、建て付けはちょっと疲れているどこにでもいそうな大家族の中間層である主婦の日常を貫いた - 半ば妄想も込みの脱出願望 or 破壊衝動を起点としたクラシックで切ない恋のお話しなのだが、夫Arkadyとのそれまで見えなかったような段差とか、どちら側も恋仇になるなんて思いもしなかったVeraとの衝突とか、なんで? これが? 自分に? おこる? という幾重もの惑いのなかで、ところどころコミカルだったりほろ苦かったりのなんか切ない、という思い。これが19世紀半ばのロシアの演劇界にもたらした波紋 - 数ヶ月間上演できなかった - とか、この後に登場するチェーホフに与えたであろう影響はよくわかる。いま見てもこんなにもおもしろいのだし。
真ん中ですべてをきりきりと仕切っていくNatalya役のSophie Okonedoの表情 - 基本は鉄の無表情で、苦々しいなにかをとにかく飲みこんで吹っ切ってタスクをこなそうとする強さがところどころ何かとせめぎ合って、それが続いていくのでもうなんでもいいや、って疲れていく彼女の存在感がすばらしいの。成瀬の映画に必ずでてきそうな女性たち← 雑すぎ。
こういう題材の映画、昔から好きではあるのだが、演劇の舞台で演じられるとライブ感がたまらないなあ、と思った。床をどんどんどつきながら「ストーリーを!」とか吠えるようなのとは別の。
今回の滞在は、前に住んでいたフラットと同じ駅のところにしたのだが、劇が終わって劇場から帰るのにあまりにすたすたふつうに歩いて帰れてしまい、もう少し懐かしがるべきではないか、と少し反省したり。
[theatre] Electra / Persona
9月17日の木曜日から夏休みを取ってイギリスに行って、24日、木曜日の朝に戻ってきた。
6日間で演劇5本、映画4本、ライブ1本、美術館いっぱい。疲れて放心状態だが置いておくと端から消えていってしまうので書けるのから書いていきたい。
始まりはまだイギリスにいた頃で帰国が決まっていたんだかいなかったんだか、St. Etienneのフェアウェル・ツアーが発表されて、グラスゴーのライブのサポートがThe Pastelsだったので、グラスゴー行ってなかったしPastelsも見てなかったなー、と軽い気持ちでチケットを取って、その後に帰国が決まって、ちょうど日本はこの時連休だから休暇で戻ってくればよいのではないか、って円安がひどくなりそうだったので飛行機も押さえて、そしたらNational Theatreの演目でこれが発表になったのでついでに押さえて、身動き取れない状態に追い込んでいったのだが、そんなのではまだまだ甘かったことを後でしる。
(同じようにチケットを取ってしまっていて諦めざるを得ないやつに10月のCabaret Voltaire とかもあるの)
決めてからもグラスゴーはライブが終わった後に日帰りできるわけないので現地の宿を確保して、電車で行けると思っていたらその日曜日には電車がないので飛行機を手配することになり、そういうのが好きで得意な人ではないので、これはなんかの呪いだ、とかぶつぶつ言っているともう当日になっている。
飛行機がヒースローに着陸したのが17日の15:30、地下鉄を乗りついでホテルに入ったのが17:30、身支度整えて地下鉄でNational Theatreに向かって着いたのが18:10 - ここの本屋にはおもしろいのがいろいろあるのでざーっと見て買って、席についたのが、18:25。 開演は18:30、休憩なしで2時間。 飛行機が30分遅れたらアウトだった…
舞台は白木の段々が上に伸びていく様式で、真ん中にキラキラ輝くハンマー(ふつうのサイズの)が置いてある。
翻案・演出はBenedict Andrews。主演はCate BlanchettとNina Hoss。二本立て?で、”Electra”は演劇の定番 - ソフォクレスの悲劇、”Persona”はIngmar Bergmanの1966年の映画で、”Electra”を舞台で上演していて突然喋れなくなってしまった女優Elisabethと彼女を看る看護婦のAlmaのお話。古代劇と現代(心理)劇はどこでどんなふうに接続しうるのか、だけでなく、劇のありよう(古代と現代、映画と演劇)の対称性も視野に入ってきて、風呂敷はややでっかいかも。
開演時間になると最前列に座っていたCateとNinaが立ち上がって客席の方を向き、コイントスでどっちがどっちを演じるか決める、と。結果、この晩はElectra / ElizabethをNina Hossが、Electraの母Clytemnestra / Alma をCate Blanchettが演じることになった。(この配役がものすごくはまっていたので、最初から決まっているのでは、逆の組み合わせなんて用意されていないのでは、と少しだけ)
階段ステージに上がる時はシンプルな黒のシャツとジャージ姿で、どの登場人物も舞台の下に置いてあるバケツの白い顔料を自分の顔に塗りたくってから階段のステージを上がって、Electraは真ん中に置いてあるハンマーを手にすると、それを振り回しながら父の死に対する、そして父Agamemnonを殺した高慢な母Clytemnestraに対する怒りをぶちまけ続けて、母は貫禄でのろのろかわし続けて、そこに無垢な妹のChrysothemis (Ella Lily Hyland)が絡んで。
ふたつの劇の合間 - 本来休憩が入りそうなところは、掃除する人たちが殺されたAegisthus (Patrick Robinson)の血をモップでぬぐったり階段を掃除して、女優たちは階段のところどころで勝手に座ってメイクをし直して、何事もなかったかのように次の”Persona”が始まる。
“Electra”で怒りと共にあらゆる言葉をぶちまけ当たり散らしていたElectraはElisabethとなって沈黙と自閉のなかにあり、それを看護するAlmaは、先ほどの邪悪な役柄から離れて一見穏やかで優しく、そうしながらライブカメラ(映像はモノクロ)を持ち出して降りてきた小スクリーンに客席の我々の顔、彼女の、自分たちふたりの顔を投影していって、映画の浜辺の場面は舞台裏に消えたふたり、として表現される。
ベルイマンの映画にあったようなふたつの自我の融合 〜 ペルソナへの回帰(らしきもの)はここでも起こるのだが、映画のように強烈な印象を与えることはない。Electra を演じていたElizabethはなぜ沈黙のなかに籠ってしまったのか? なぜライブカメラなのか? Almaのやったことによって、なぜElizabethは治ったと言えるのか、これらの問いに明確な答えが用意されることはない。
これは演劇であり、演劇は舞台の上で、ライブで起こるイベントである、ということを明確に意識し、そこから始まってテーマ(問い)を置いていくというやり方。なので、なんとなくそうなのかも、くらいの答えを自分で見つけるしかないかも。ベルイマンの映画を見ていない人にはどう映るのだろう、とか。
ただ、ふたりの女優 - Cate BlanchettとNina Hoss - がライブでぶつかりあう演技、その迫力はすばらしかったのでそれだけでもー。
9.16.2026
[film] Mirakelet i Gullspång (2023)
9月10日、木曜日の晩、シネマート新宿で見ました。
ドキュメンタリーで、英語題は”The Gullspång Miracle”、邦題は『グルスポングの奇跡』。
作・監督はMaria Fredriksson、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク合作映画。2023年のTribeca Film Festivalでプレミアされている。
ノルウェー北部に暮らす老婦人のMayがスウェーデン南部のグルスポングに暮らす妹のKariを訪ねていて、長期滞在者向けのアパートを探している場面が冒頭、彼女が見にいった家にかけてあった果物の静物画を見て、こういう絵が欲しかったのよ! ってこの場所に決めて、家主(?)のOlaugに会ったらびっくり。彼女は1988年に自殺した彼女たちの姉、Astrid – 愛称”Lita”に瓜二つで、誕生日もOlaugと同じ年の同じ日で、彼女も若い頃はLitaと呼ばれていた、と。
MayとKariが調査を進めてみると、Litaは実は双子で、更に家族に突っこんだ聞き込みをしてみると、当時ノルウェーに侵攻してきたナチスに人体実験のため誘拐される恐れがあったのでOlaugだけを家族から引き離したことがわかり、更にDNA検査をするとOlaugとLitaはMariとKariの姉妹とは異母姉妹であることがわかって、Olaugは先祖代々の家族が暮らす農場に行って、自分がこれまで知らなかった沢山の親族と会う。全員とても信心深くて、よい人たちっぽい。
ここまでは、TVにもありそうな感動再会ファミリーヒストリーとして見ていけて、大変だったんだなー、なのだが、その先、自殺だったはずのLitaの死因が警察の記録と検視報告では心不全だったこと、更にその場所が人里離れた田舎の湖畔だったことがわかる(そういう場所まで行って自殺、ならわかるけど)。敬虔なキリスト教徒である姉妹は死因が自殺でないのがわかっただけでもよかった、って安堵するのだが、かつて軍の中尉まで昇進して、あの人たちとは知的レベルが違うのよ、と自分でいうOlaugは、これは他殺だ、Litaは殺されたのだ、と主張し、Litaが亡くなった晩に彼女と車を目撃した近隣の人の証言や、Litaに3種の保険がかけられていたこと、いかにも怪しいLitaの前夫のインタビュー等も被されると、ここから先、Mayたち家族とOlaugの仲は急速に悪化していって。 とどめを刺すように2回目のDNAテストの結果として、Olaugと姉妹たち、Litaの娘とは血縁関係がある可能性は殆どない、と出て… (監督もお手あげ)。
互いが互いを憎みあうところまで来てしまったので(Mayたちは縁を切りたかったOlaugが検査結果を改竄したのだ、とまで言う)、最後はもう二度と会わないわさよならー、で終わって、表面上は元に戻るようなのだが。
他人の家族、の話だし、かわいそうなLitaを除けば誰かが嘘をついている、明らかに邪悪な人がいる、というわけでもなさそうなので、映画はそのままあっさり終わってしまう。 フィクションであれば、北欧の大家族、その底に渦を巻いた陰謀と憎悪の顛末を凍てつく湖の景色と共に描けたのだろうなー、とか夢想しつつ、そういうネタの在処が暴かれた、というか、そんなようなネタはこんなふうに表向き奇跡みたいな顔をして眠っているものなのかも、と思ったりした。
あと、ドキュメンタリーにしては全員の顔とかツブが揃いすぎている気がしたので、そのままOlaugを探偵役にしてミステリー仕立てのドラマにしちゃえばおもしろくなったのに(シャレにならず)。
あと、同じようなことが自分の身内に起こったら、結構嫌なかんじになるかも。 猫とかフグとかの話のほうがいいかも。
明日から夏休みをとって少しいなくなります。
9.15.2026
[film] 25 Cats from Qatar (2025)
9月7日、月曜日の晩、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。
ドキュメンタリーで、邦題は『猫たちと7000マイルの旅』。監督はMye Hoang。
カタールの町には人口100万人と同じくらいの数の捨て猫がいて街中に溢れている。異国から働きに来た人たちが帰国する際にそのまま捨てていったりするからだと(怒)。
最初は夜中に、そうやって道路際に捨てられている野良猫たちのご飯とか病のケアをして、場合によっては医者に連れていったりしているおじさん、その他ボランティアの人たちの日常が描かれる。
そこからアメリカのミルウォーキーで猫カフェを経営しているKaty(元CA)の活動が紹介される。彼女は地元の猫カフェに猫を集めて紹介しながら猫の里親も募っていて、今回はカタールに飛んで、現地の猫25匹を連れ帰ろうと冒頭のおじさんたちに連絡を取って、カゴなどを揃えて - 手続きとか気が遠くなるくらいに大変そう - いくぜ! って飛んでいく。
現地に着いてからは、いろんな人たちと猫たちに会って、連れ帰る候補猫を選んでいくのだが、健康でかわいいの、というよりは大きな傷があったり片目だったり脚がなかったり、の猫たちを拾うように集めていく。ぼろぼろでも人が好きな子、とか。フライトで病が悪化しそうな子は外すのだが、本当に様々なぼろ猫が揃っていて、痛くない? 辛くない? とか思いつつも猫好きなので見ているだけで。
結局運ぶ猫の数は28匹くらいになって、飛行機での移動もこれまた大変で(シカゴでワンストップ – 乗り継ぎ)、でもどうにかミルウォーキーまでたどり着いて、猫たちは元気で、このこは… と思った猫はやはりあっという間に里親が見つかったりする。よかったね。
猫ってなんでこんなぼろぼろになってしまってもかわいいのだろうー、っていう猫好きは見て損はないけど、同時に、彼女が救うことができる猫なんてほんのひと握りだし、なんで捨てるのか世話できないなら飼うな、の怒りも結構わいてきたり、アップダウンが激しかった。
GUN FISH あなたの知らないフグの世界 (2026)
9月11日、金曜日の晩、テアトル新宿で見ました。
これもドキュメンタリーで、猫とおなじく、かわいかったりおいしかったりで死に至るかもしれないのに死んでもいいや、ってやめられない動物を相手に、それに憑りつかれたしょうもない人間たちを描く。
フグって、”pufferfish”(英語字幕ではこれ)とか”blowfish”だと思っていたのだが、ここでは”GUN FISH”で、要は命中したら死ぬから、って。
ものすごくきちんと作ってあるドキュメンタリーで、フグの調理師免許取得を目指す若い女性ふたりの奮闘を通して、なんで免許が必要なのか→毒があってふつうに食べたら死ぬから→毒と向き合ってきたこれまでの歴史とか、地域ごとの調理法などの幅と広がりまで、とても勉強になることがいっぱい。
フグって財界人とか偉い大物とか自民党などが、密談のようなことをするために料亭に入って、だいじなことを決める際に供される(場合によってはその毒で..)、という重いイメージ(GUN)があり、ふつうの人が簡単に食卓に並べて食べれるものではないし、調理法も刺身とか鍋とか皮とかいろいろあって面倒そうだし、そもそもの話として、これは何なのか? なんで当たったら簡単に死ぬようなものを歓待の場で重宝して用いるのか? そもそもそんなの食うなよ、ではないのか? と思いつつ、たぶん自分はフグの本当のおいしさ、底の深さを知らないのだろう、ってなって、これってものすごく境界のくっきりした、境界を際立たせる形で機能するひとつの文化のありようなのだろう、と思った。
養殖のフグには毒がない可能性がある、と科学者が検証を進めて、毒なしフグのリリースに向かおうとしたところで湧いてくる反対の声とか、どこかでいくらでも見てきたような。 これもまた日本の風景だよね。(ほめてない)
というように、ところどころとても男臭くヤニ臭くどす黒くて、これはこれで見事に日本文化を語っているように思った。ウナギやクジラも同じ世界なのだろうか。動物はちっとも悪くないのにね。
9.14.2026
[film] La cérémonie (1995)
9月6日、日曜日の夕方、恵比寿ガーデンシネマのクロード・シャブロル傑作選で見ました。
英語題は”The Ceremony”、邦題は『沈黙の女』と、webでは『ロウフィールド館の惨劇』ていうのも出てくる(どちらもなんか違う)。
原作はイギリスのRuth Rendellによる小説”Judgement in Stone” (1977) – これの翻訳タイトルが『ロウフィールド館の惨劇』なのね - をChabrolとCaroline Eliacheffが脚色している。この原作からは映画化がふたつ出て、ひとつはこれ、最初の映画化は1986年にRita Tushingham主演で”A Judgement in Stone”のタイトルで。 あと、1992年にはイギリスでミュージカルになっているらしい。
おとなしそうなSophie (Sandrine Bonnaire)が画廊を経営するCatherine Lelièvre (Jacqueline Bisset)と面接してブルターニュの田舎にある彼女の邸宅にメイドとして雇われる。 田舎のお屋敷には主人のGeorges (Jean-Pierre Cassel)と、Catherineの前夫との間の息子Gilles (Valentin Merlet)とGeorgesの前妻との間の娘で大学生のMélinda (Virginie Ledoyen)がいて、Catherineが忙しくて家事が大変だし、推薦状も問題なさそうだったので住みこみで来てもらうことになる。
家族は全員ふつうのよい人たちからなるよい家族ぽくて、Sophieの仕事ぶり、特に料理にはみんな満足しているようだったが、近くの町の郵便局員Jeanne (Isabelle Huppert)に対しては一家向けの郵便物を故意に汚した疑惑があったり、過去には無罪になったものの実娘の事故死の容疑者とされていたり、なによりも無礼だし、って顰蹙で、そんなJeanneはSophieに近づいていって、一緒に教会の慈善活動(バザー)に行ったりして仲良くなっていく。 その反対側で一家から毛嫌いされているJeanneとの付き合いは雇い主とSophieの間に溝をつくって、孤立した彼女はひとり自室でTVを見ることが多くなっていく。
Sophieは文字の読み書きができなくて、でも一家には目が悪いから(メガネを買う)、ということにしていたのだが、BFの子を妊娠して揺れて近寄ってきたMélindaとのやりとりでそれがばれちゃって、その報復に彼女の電話を盗み聞きして妊娠をネタに(読み書きの件を)黙っているように脅したら逆に父親に泣きつかれて、一発で解雇、一週間でここから出ていくように通告されてしまう。
教会の方でもバザーの品物回収でふたりの態度があまりにひどい(こんなゴミばかり出してくるんじゃねーよ、って投げ返す)ので教会から出入り禁止を言い渡されて、いよいよ行き場のなくなったふたりは、引き払うSophieの荷物をまとめている時にGeorgesの猟銃を発見して…
1933年に雇い主の妻と娘を惨殺したフランス人メイドの実話があり、それをもとにしたJean Genetの戯曲 “The Maid” (1947) – この演劇はロンドンでみた – もあったりするので、ネタとしてはフィクションでもノンフィクションでも人気のものなのかもしれないのだが、原作の方に少しはあったであろう復讐のやったれ!な押していくかんじは殆どなくて、あらゆる温かいものを撥ねのける冬の旅のSophie - Sandrine Bonnaireと、あらゆる攻撃をそのまま反射で打ち返すJeanne - Isabelle Huppertの組合せ、ふたりの間には絆のようなものも希薄、というか必要としていないし、なので結末もどん詰まりで明るく楽しいものではなくて、でもそれがつまんなさに繋がっているかというとそんなことは全くなくて、Sophieはあのまま”Vagabond”になっていったのだろうな、とか。
オペラ”Don Giovanni”ががんがん流れる中での殺戮って、スコセッシあたりが演出したら随分違ったものになったろうなー、と思いつつ、こちらのあっけない切り捨て方も悪くないかも、と思った。