10.01.2026

[film] Mr. Nelson, Did You Kill People? (2026)

ロンドン行く前に見て、書いていなかったやつなどから。
9月13日、日曜日の昼、kino cinema新宿で見ました。

邦題は『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』 - これはどちらかというと洋画枠だと思うので。

この時も満席で、その状態が続いているらしいのは裏事情があるにせよないにせよ、よいこと。結果的にヒットすればもっとよいこと。とにかく多くのひとが見ればそれで。

原作はAllen Nelsonによる同名の手記、脚本・撮影・監督は塚本晋也、9月のヴェネツィアでプレミアされて、Leoncino d'Oro Award(イタリアの高校生たちが審査員となる)を受賞している。

元海兵隊員でベトナム戦争の退役軍人のAllen Nelsn (若い頃Mark Merphy、少し歳をとってからRodney Hicks)は、復員後NYで猫と暮らしているが明らかにPTSDで大きな物音がするとパニックを起こして倒れてしまう。ある日、高校の同窓生と再会して、小学校で教師をしている彼女から戦争体験について子供たちの前で話してくれないか、と乞われて、最初は断るのだが、子供たちの手紙をみてやってみることにして、なんとか自分の体験を話して、でもその最後に子供から「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」と尋ねられると…

そこから数年後、Allenは妻のLinda、彼女の連れ子のSeanと暮らしてDr. Daniels (Geoffrey Rush)の元で治療を続けていて、そこで自分の過去を語る。暴力的だった元軍人の養父の元で育ったこと、そこから逃れるように海兵隊に入って、戦地ベトナムに派遣され、そこから先は凄惨な戦争 – 殺し合いの現場の描写が延々続いていく。それを治療とは言え記憶を掘って医師に語るのはものすごいストレスなのだが、治療の終わりにDr. Danielsは「なぜ人を殺したのか?」と聞うてきて、Allenは目を背けるように「戦争だった。殺さなければ自分が殺されてしまう」とか「上からの命令だった」とかどうにか返すのだが、その問いは彼にとって銃を突きつけられるような地獄で、でもDanielsは静かに、何度でも同じ問いを繰り返す。

戦時の前線での描写はいつもの塚本映画のそれで、恐怖を煽ってそれを重低音のように引き摺って目を背けさせない、ディゾルブの多用も含めて感覚にダイレクトにくるのはしんどいのだが、これと併せて彼が現地の子供たちと仲良くなって遊んだりする場面も描かれて、でも、それでもAllenは人を殺しているんです - こんなふうに、というところに戻っていく。

『野火』 (2014)の暴力が理性の崩壊の果てに現れるようなかたちを取っていたのに対して、ここでの暴力は理性を維持させようとする軍のシステムのもとで正当化され、でもどっちにしても人は殺されて、殺された人々は田村やAllenのように生き残る - 生き残って苦しむことはない。ただ消える。地獄はどっちの側に。

死のうが生き残ろうがどっちにしても救われない、戦争とは表向きは国と国がやるものだから、でもそれは地面の上で(or 空の上から)人が人を殺すということなのだ、とゆっくりと引き摺りおろすように告げる。 戦争が、でも軍が、でもなく主語は「自分」なのだと。

このやり方でいったら、例えばアメリカ人の社会のそこそこの地位にあって「よいひと」「頼りになる人」の半分くらいは人殺しになってしまうのかもしれないし、自分らの先祖だって人殺しだらけなのかもしれない、だって人類の歴史は戦争と共にあったのだから… という形で「そういうもんだ」と言うのをもうやめよう/やめるべきだ、ということを切々と訴えているのだと思った。 

だってもうリモートで手を汚さずいくらでも大量に簡単に人を殺せるようになって、核兵器の所持や使用について政治家がカジュアルに口にするようになって、ガザであれだけ子供たちが殺されているのに誰もちっとも動かないし。 これらのメッセージに対して「不快感」とかのたまう腐った連中もな.. (まっくら)

もう始まっているのだろうが、AIが人の代わりに人を殺すようになったら、こんな問いは成立しなくなってしまうだろう。そうなってしまう前に。

9.30.2026

[log] London そのた

ここまでで書いてきた以外の展覧会など。10月から始まるあれこれの谷間で、数はそんなになかった。

一番の誤算だったのはBritish Museumでの”The Bayeux Tapestry”で、メンバーでも時間ごとでの予約が必須だったこと。次の予約のオープン時にどうにかするのかしないのか…


James McNeill Whistler @ Tate Britain

9月21日、月曜日の午後、Tate Britainで見ました。チケットをいちいち買うのが面倒なのでTateはメンバーシップを更新してしまった。

アメリカで生まれてイギリスで活動したJames McNeill Whistler (1834-1903)の大規模回顧展。
アメリカ人がラファエル前派と日本美術とクールベを混ぜたら限りなく印象派ぽくなった、というのがこれまでの印象だったが、印象派以上に抽象的な色や形象の配置、そのありように注意を払いつつ日本画やウィーン世紀末の様式美に近づいていったのがわかるような展示。ラスキンが激怒したのはなんとなくわかる。鳥居清長とか屏風が展示されていたり、孔雀の間の再現もあったり、が、やはり”Nocturne”のシリーズ、アムステルダムの運河とか、暗くなった水辺のもやもやが染み出してくるような色の明滅がすばらしい。

あと、この人の東洋美術への傾倒は、印象派のそれ(上っ面の印象だけの)とはかなり違うのかも、と思った。


Frida: The Making of an Icon @ Tate Modern

Tate Britainから移動して見ました。Frida Kahloの絵画作品を並べていく、というよりも彼女自身が描いた自画像も含めて、そこから”Frida”というアイコンがグローバルでどんなふうに生成発展していったのか、という観点から他アーティストの作品も含めて並べているので、Frida Kahloの作品 - 彼女の静物画とか好きなのだが – に漬かりたい人はちょっとがっくりくるかも。フェミニズムの文脈でどんなふうに、はこれまでも結構見てきた気もするので。


Anish Kapoor @ Heyward Gallery

9月22日に見ました。インドに生まれて英国で活動してきた彫刻家のでっかいオブジェ、彫刻の展示。人気があるのかTime Slotごとの予約が必要で午前に行ったら午後のスロットしか取れない、と言われたのだが、昨年のメンバーシップがまだ残っているから、と言われて入れて貰った。
ここで展示された塩田千春の時と同様、でっかい塊りやミラーを使った彫刻をフロアいっぱいに並べて、まあでっかい、すごい、しかない。

2階に血に染まったでろでろの内臓がバットに入っているようなオブジェが沢山あって、この後で見た映画”Resident Evil”に出てきたのと見事に繋がった。バルコニーの倒立するミラーのオブジェも楽しかった。


Queen Elizabeth II : Her Life in Style @ The King’s Gallery

これも”The Bayeux Tapestry”と同様、時間ごとのチケットが売り切れてどうしようもなさそうだったが、22日、朝食を食べながらスマホをいじっていたら9時過ぎに12:15の回のが釣れた(もちろん正規の)。こういうこともある。

この展示の期間だけ、名前を昔のQueen’s Galleryに戻せばいいのに。
わたしは自称パンクのくせにこのおばあさんのことはなんか好き(でも現国王はきらい)で、昔の英国Vogueの戴冠式記念号とかも持っているので、この展示は見たかった。

エリザベス女王が着ていたドレス、帽子、靴、アクセサリー、カバンなどなど全部出し。手紙とかメモの類は低めの陳列棚にあって、高齢の女性たちがみなさんきちんと列を作って丁寧に見ている – これって結構珍しい光景。
やはり50年代のNorman HartnellやHardy Amiesらのドレス、それらを覆う細部の職人技がすばらしい。遠くから見ても近くに寄っても。
カタログは会場では買わずにピカデリーのHatchardsに行ってサイン入りのを買った。


Richard Dadd - Beyond Bedlam @ Royal Academy of Arts

Richard Dadd (1817-1886)はヴィクトリア朝の頃のイギリスの画家で、20歳でRoyal Academyの美術学校に入って優秀だったが、ギリシャ、トルコ、シリアをまわるエジプト遠征の途中で精神に異常をきたして、父親を殺して、フランスに逃げる途中で捕まってベスレム王立病院(通称Bedlam – タイトル)に収容されて、ここで約20年、別の病院に移送されて亡くなるまで約20年、今回展示されたような作品たちを描いた。異常になる前の作品も展示されていて、”Puck”や”Titania Sleeping”とか、妖精など(彼の描くやつが自分にとってのシェイクスピアの妖精)テーマ面の共通性はあるものの、入院前と後ではかなり変わって、9年かけて作成された”The Fairy Feller's Master-Stroke”(1855-64) - 「お伽の樵の入神の一撃」はすさまじい。水木しげるの陰惨なところとか。Queenの名盤“Queen II”でも歌われているので、聴いてみてほしい。


今回のNational GalleryはRenoirとVan Eyckという大規模展前ということで常設展示のみだったが、それでも30分くらいは浸かれる。見にいくところはだいたい同じだけど。

レコ屋はRough Trade Eastくらい。ろくなもんを買わず。
本屋はSouth BankのBFI前の青空屋台の古ペンギン(文庫)は、やはり相当買ってしまった。こういう屋台って新刊本ではないので、実にいろんなのがあって半年ぶりだと並んでいるのもがらりと変わっている。どの屋台で買っても久しぶりだねー、って値引きしてくれてうれしい。からって買うな。

新刊本だと、John Bergerの生誕100周年(Centenary)で出版された”Four Horizons, A Visit To Le Corbusier's Chapel At Ronchamp”。まだぜんぜん見れていないが。

分厚いのだと、先のQueen Elizabeth IIのカタログ、少し前までNational GalleryでやっていたZurbarán展の図録、ドイツのエッセンでやっているGustave Courbet展の図録、など。 帰りのスーツケースは久々に30kg超えた。

出発前はスケジュールをあれこれ詰めこみすぎで、ドミノになったらやばいかも、の懸念があったのだが思っていた以上にするする行けてしまった。これがクセになったら、そっちのほうがぜったいにやばい。

で、もう今年はあと3か月とか言うのか。ふざけ..

[film] Resident Evil (2026)

9月22日、火曜日の午後、Picturehouse Centralで見ました。

ロンドン滞在最後の日、できれば、なんでもいいから映画あといっぽん見たいかも、でも2時間を超えるのはきついししんどいかも、って思っていたらちょうど1時間半くらいのがあった。

この週末にはDaisy Edgar-Jonesが主演する”Sense and Sensibility” (2026)の新版が公開予定になっていて、映画館でもバスでもでかでかと宣伝されていて死ぬほど見たいのだが、日本公開はいつになることやら…

監督は”WEAPONS” (2025)のZach Creggerで、脚本は彼とShay Hattenの共同。
これがビデオゲーム起源であるとか日本だと「バイオハザード」になるとか、帰国してから知った(それぐらいこの世界に疎い)。ポスターのビジュアルは、あまりぱっとしない青年が必死で走っているの(少しブレた姿)を正面からとらえたやつ(もうひとつは、ドアの戸口の暗がりからクモみたいにヒトの手足がじょろじょろ)で、Milla Jovovichの立ち姿なんかとはかけ離れてるし、あんなホラーとは思わないじゃん。 BFIのIMAXでも上映しているし。

宅配業をやっているBryan (Austin Abrams)は、冒頭、電話で恋人と別れる別れないの話をねちねちしていて、深夜の病院で血まみれを見ただけでびくびくするような人なのだが、カウンターで緊急のプライオリティAで別の病院に運んでほしいものがある、報酬はずむから、と言われて軽く受けて、夜中の雪道を車で走っていくと、ふらっと道に出てきた女性を轢いてしまう。急ぎの荷物があるので放っておけばいいのにどうしても放っておけない彼は、近くの家に助けを求めに行ったり、彼女を警察に託したり、でもあまりに不気味で不可解なことが起こり続けるので、悲鳴をあげながら空き家の引き出しにあった猟銃を手にして、とにかく荷物を運ぶべく病院に向かおうとする。

基本は、そんなに律儀にちゃんと相手したりしてたら、そっちに行ったら絶対だめだよ、のホラー被害者の定番の道をまっすぐ歩んで、奥に進めば進むほどありえないの – いろんな複数の胴体同士が連結されて団子になって転がっていくの – が現れたりで殺されそうに/死にそうになる。ドラマとしては、主人公のなかにヒーロー的な何かが覚醒して、Milla Jovovichだったら戦うヒロインになるのかもしれないが、ここのBryanは最後まで逃げ… 続けられるのか。

主人公の頼もしさゼロの愚直な真面目さが(だけ)、がおもしろいところ - カメラは敵として襲いかかってくる化け物やその背後にいそうな邪悪なあれこれより、それらにいちいち震えあがりながらやけくそで立ち向かって乗りきっていく哀れなBryanが見所で、肝心の恐怖の正体や出処はよくわからない。

クライマックスは既に何かにやられて地雷原のように荒れ放題の街の中心にある高層ビルで、生存者がいるかんじではないのだが、やっぱりあれこれ出てきて襲われて地下の駐車場のインターホンから(階段を使って)上に来い、って言われて…

建物の奥で人知れずに駆動している不穏ななにかがある、というのは”WEAPONS”にもあった描写で、正体はわからないまま、それらがだんだん近づいてくる(or 気がついたら近くに)、というシンプルな物理ホラー(神経はそんなに関係なし)で、現れるのはヒトというより、変態した果ての妖怪みたいなやつばかりなので、そんな怖くない。

あと、最後はちょっと意外だったかも。あんなふうにしちゃうんだ… って。

9.29.2026

[theatre] The Standard of Living

9月22日、火曜日の晩、Theatre Royal Haymarketで見ました。

オープン2日目で、これは日本でチケットを取っていた。もうひとつの候補としてやはりオープンしたばかりの、Noël Cowardの”Hay Fever” - 主演はRichard E. Grant – があって、どちらにするか悩ましかったのだが、Bloomsbury Groupが出てくるというのと、前日に見た”Virginia Woolf”とも繋がるのでこっちにする。

原作はJames Graham(新作)、演出はNicholas Hytner、イギリスのマクロ経済学の礎を築いたケインズ - John Maynard Keynes (Rory Kinnear)の1917年から1946年に亡くなるまでを、彼の愛人であったDuncan Grant (Thomas Flynn)と、42歳の彼と結婚することになるディアギレフのBallets RussesのバレリーナLydia Lopokova (Natalia Osipova)、学問上のライバルだったFriedrich Hayekらとの関係のなかに描く。

舞台上にはちょっとVanessa Bell作品の色味を思わせる四角が描かれた縦長の布が間隔を置いて下がっていて、モダンダンスの舞台セットのようにも見える。

そこにスーツ姿のKeynesがひとり立って、「よく生きる」とはどういうことかを考えてみたい、というようなことを語り、戦前の財政難の時期、彼がどんな人々と出会い、どう生きて、どんなふうに彼の経済学を打ちたてていったのか、等について。

マクロ経済学でも経済学でも、これまでまったく学んでこなかったのだが、彼がWhite Hallとの間で行き来していたロンドンから南に下ったCharleston - Bloomsbury Groupの拠点 - は大好きな場所で、今回も行きたかった(いま、Quentin Bellの企画展をやっている)のだが、ちょっと遠い。Vanessa Bellの家族や彼女のパートナーだったDuncan Grantが暮らしていたこの家には、Keynesの部屋(書斎)もあって、窓が大きな2階の見晴らしのよい場所なのだが、なんで経済学の人がここにいるの? はずっとよくわからなかった。

もともとKeynesは同性愛者でDuncan Grantと関係があったが、やがてLydia Lopokovaと知り合って結婚した。Duncan GrantはVanessa Bell(既婚)の愛人でもあったので、それでCharlestonにやってくるのだが、自由奔放なLydiaの登場はここのサークル - 舞台に登場するのはVirginia Woolf、Vanessa Bell、 Lytton Strachey、Dora Carringtonなど – 彼らも十分に変人だと思うが - を戸惑わせたりもする。

経済を安定させるためには政府の介入が不可欠であり、市場が自然に均衡するのを待つのではなく、経済不況時には政府が支出すべき – というKeynesの主張はHayek (Laurie Kynaston)が唱える、不景気は経済の膿が溜まって不健康になっている状態なので、ここで政府がお金を出して援助するとダメな会社まで生き残って市場経済が壊れていくので、政府は介入すべきではない、という主張 – こんなかんじでよいの? - と正面からぶつかって、いろんなところで波風を起こしていくのだが、彼自身は(体調は悪くなっていくものの)悠然としている。

時代背景、Keynesのクィアネスとその愛のありよう、学業/政策のあれこれ、生活におけるアート、など、彼の「よく生きる」を見据えたテーマは多岐多彩にばらけて、ところどころLydiaのバレエ - Natalia OsipovaはRoyal Balletの現Principalだし – がなだれこんできたり、これまで見てきたJames Grahamの過去作 - ”Dear England” (2023)や”Punch” (2024)と比べれば、たたみ掛けてくる勢いがなくて、やや散漫でとっ散らかったものに見えてしまうのかもしれない。

他方で、よりよく、豊かな生活を、と言った時に怒涛のなんかはそんなには必要ではなく、あれこれ顰蹙を買いまくりだったかもしれないけど、CharlestonでVanessa Bellたちが家具や調度を好きなように塗ったり壁に絵を描いたり、読書したり議論したり、の生活の方に目が向いて、ここで思い浮かべるのはCalvin TomkinsがGerald & Sara Murphyについて書いた”Living Well Is the Best Revenge” (1971) - 『優雅な生活が最高の復讐である』 のことで、Keynesが実現しようとしたこと、Charlestonでの暮らしについては、「優雅な生活」と言ってもよいのかも、と思ったり。彼はそれを中央で経済政策を考えたり議論したりしながらやっていったわけで、そこまで行くのは難しいだろうけど、”The Standard of Living”とは、そもそもなんなのか?これらを振り返るのだとしたら、いまなのではないか? とか。

終わってNational Galleryの前を抜けながら、あーあ官民の恣意的かつ傲慢な操作で完全に”Standard”の在処を失ってしまったバカで腐った国に明日は… ってしょんぼりホテルに向かったのだった。

ロンドンでの演劇はこれでおわり。

9.28.2026

[theatre] Who’s Afraid of Virginia Woolf?

9月21日、月曜日の晩、West Endの@sohoplaceで見ました。
この日が初日で、最初からぜんぜんチケット取れなかったのだが、渡英直前にどうにか取れた。

原作はEdward Albeeの同名戯曲 (1962) - 1966年にMike Nichols/ Elizabeth Taylor/ Richard Burtonにより映画化もされている。 今回の演出はMarianne Elliott。公演時間は休憩1回を入れて3時間10分くらい(Act1で約2時間、Act2 & 3で約1時間)。
 
この劇場は舞台が円形で客が取り囲んで - 1階席だと家政婦が見るような位置から見守る形式、ミッドセンチュリーのゆったりモダンな家具、レコードプレーヤー、バーカウンタ、本棚にソファ、流れているのは当然ラウンジジャズ。Act1の後、Act2では家具などの配置が180度変わっていて、Act3では、ものすごくゆっくりと床が回転していることがわかる。
 
開演前、客席の向かい側に誰がどうみてもJudi Denchさま(と隣にいたのは誰?)が姿を現し、周囲がざわざわしだす。そりゃ初日だもの。
 
大学で歴史学を教えている初老のGeorge (Billy Crudup)とMartha (Gillian Anderson)の夫婦が夜中の2時にぐでんぐでんのご機嫌状態でなだれ込むように帰宅して、それぞれバカなことを言ったりやったりしていると玄関のベルが鳴って、新任で生物学を教えるNick (Josh Dylan)と新妻のHoney (Phoebe Horn)のふたりが、さっきの会で誘われたので来ました、って。もう夜遅いし悪いし、と遠慮がちなふたりに対して、酔っぱらってサディスティックな方にスイッチが入ってしまったGeorgeとMarthaは飛んで火にいるウブなふたりを餌食にすべく容赦なく襲いかかるのだが。
 
基本は社会的にも優位な位置に立つGeorgeたち夫婦が結婚して間もないのでいろいろ努力したり苦労したりしていそうなNickとHoneyを夫婦のこととか仕事のことなどについておもしろおかしく、そのうちこんなんなっちゃうんだぞ、って自虐もこめて脅したり吹かしたり、その反応を見て楽しむ - 日本社会にもよくある – あれだと思うのだが、若いふたりに向かったそれらのネタが、自分たちの方に、ネタによっては数倍でっかいブーメランになって返ってきて、酔いもあるのでその打突のインパクトも倍以上、どういうことだよこれ? ってわめきだしたり。
 
「ヴァージニアウルフなんてこわくない!」って童歌のように振りをつけて歌うことで、おもしろおかしく茶化していたネタのいくつかが、彼らがシリアスに秘密にしていた「息子」にまで及んだことで、隠されていた穴に落ちて戻れなくなってしまうGeorgeと、そうなることなんてわかっていただろうがー、のMarthaと。
 
Martha役のGillian Andersonは思っていた通りの強さとしなやかさで酷くやられたかに見えても立ちあがって薄ら笑いを浮かべて反撃し、George役のBilly Crudupはインテリ風のメガネをかけ、動きは今にも一線を越えてしまいそうなDavid Byrne(”Burning Down the House”)か”Falling Down” (1993)でブチ切れてしまうMichael Douglas(になる手前)のようにも見える。リングサイドで見た限りでは、Gillianやや優勢、でもBillyは不気味にまだなにかありそう.. といったかんじ。 そして若いふたりも若さゆえの無知を前に出して簡単には引き下がらないで蘇って… というアンサンブルがスリリングで3時間あっという間だったことは確か。
 
これ、コンプラやハラスメントが今ほど言われるようになる前、それに伴うトラウマや乗り越えるべき壁がはっきりとあり、これらにぶち当たったり克服したりすることがある種の「成長」と見做されたり、これらを(タイトルのような)呪文を唱えて乗り切っちゃえ、の暗黒時代の話ではあるので、冷静に振り返るとなんで酔っぱらっているとは言えこんな怖いことになっちゃってるの? はあるかも。(Production TeamにはちゃんとMovement & Intimacy Directorがいる)
 
それにしても3日前に見た映画”Teenage Sex and Death at Camp Miasma” (2026)に続いてGillian Andersonはすさまじく、著書も2年前の”Want”に続く最新刊”More”が書店に並んでいて絶好調なのかも。

そして、見た目は朗らか爽やかで賢そうながら、ねちねちどす黒く変容していく - 最近の腐れた日本の首長がそうであるような - Billy Crudupもはっきり今を体現する人としてそこにいるのだった。

[log] Glasgow - Sept. 20

9月20日、日曜日から月曜日の朝にかけて、スコットランドのグラスゴーに行った。
いちおうSaint Etienneのファイナル・ツアーに合わせてThe Pastelsを見る、という目的なのだがそれだけではない。

これまで自分が聴いてきた音楽のうまれた土地に向かって旅をする、というのを地味にずっとやっていて、なのでNYとロンドンで暮らせたのをよいことに90年代にはアイルランドに行って、ジャマイカに行って、リオに行ってサルバドールに行ってブエノスアイレスに行って、ヨーロッパ各地各国は音楽というよりそれぞれが楽器のようだわ、って思って、でもイギリスの地方都市はぜんぜん行けてなくて、マンチェスターもシェフィールドもリバプールもまだ。これから。

ただグラスゴーの音、というのに明確なローカル色や土地の特徴があるかというとそんなでもない気がしていて、いつも思い浮かべるのはスコットランドのハイランド・カウのもしゃもしゃの輪郭とか、Postcard Records (The Glasgow School)の太鼓を叩く猫の絵だったり、視覚的にこんなかんじの、って思ったり。

最初は朝早くに電車で行こうと思っていたのだが、この日曜の午前は北方に電車が走っていないようで仕方なく飛行機にした。10時くらいにGatwickから飛び立って昼くらいに着く便で、空港からはバスであっという間。

そんなに観光している時間もないので、とりあえず大聖堂に行って、その向こうの高台にかっこよく見えたThe Glasgow Necropolis(お墓)を散策する - William Millerのお墓などがあった。

そのまま歩いて聖地のひとつ、The PastelsのMonorail Musicに向かう。入り口にカフェ/食堂があって、奥にレコード屋。Jack WhiteのThird Man Recordsのポップアップが入っていていつもと違ったかも知れないが、地元のよいレコード屋の典型のようなとこだった(今回は買わず)。 食堂ではMac & Cheeseをたべた。おいしい。

日曜の午後のグラスゴーの街中は、通り沿いに開け放たれたパブから酔っぱらったようなバンドの演奏とかそれと一緒に歌う酔っ払いの歌声とかところどころわんわん響いてきて、日曜からご機嫌だねえ、なのだが、それがお祭りではなく常態化している殺伐とした様がよくて、あと、たまたまではあるが、デリで盗みをして逃げようと走りだした青年のところにパトカーが現れて追っかける、という映画みたいなシーンまで目撃した日曜の午後。

もうひとつの聖地は、Postcard Records “The Glasgow School” - のオフィスがあった場所、だったのだが、ふつうの住宅街のなかにあるだけ、のようだったので諦める。

そしてもうひとつの聖地が、この晩のライブがあるヴェニュー、Barrowland Ballroomで、きらきらのネオンサインが華やかなんだかもの哀しいのか微妙な大看板のついたワンダーランド風のライブハウスで、NYの”Roseland”や”Bowery”と同様、Ballroomがつく小屋には伝説がおりてくることになっている。こんなところでThe Smithsの”Meat is Murder”のツアーにぶつかったら即死だろうなー。 今後のスケジュールには、Friends Againの告知などが貼ってあって二度見したり。

こうして20:00からThe Pastelsのライブを見る。バンドはホーンも含む6人編成で、ゆったり茫洋に、”Check My Heart”とかJamの”Something’s Gone”とか、思っていた通りの不穏なパステルたちでたまんなかった。たぶん10年後も同じタッチで画布に擦りつけているにちがいない、と。

Saint Etienneはキーボード2人が後ろの高台、まんなかにSarah Cracknell、ドラムスはRideのLoz Colbert、ギター/ベースがひとり、バックヴォーカルはThe Dolly MixtureのDebsey Wykesで、物販に彼女の本”Teenage Daydream: We Are the Girls Who Play in a Band”のペーパーバック(サイン入り)があったので買ってしまった。出版された時のおまけ&サイン入りハードカバーも持っているのに。

Saint Etienneのライブはたぶんはじめてで、背後のスクリーンのヴィジュアル – たぶん20年くらい前のカラフルなかんじ - がどれも素敵で、デジタルの音のみっしり度合いもそんな最新のバチバチくるやつではなくて年寄りにやさしく、みんな気持ちよさそうに踊っていて、特に終わりのほうの”Only Love Can Break Your Heart”から先は温度が上がって、みんなが笑顔ではねていて楽しかった。 「またフェスとかで再結成はするかもねー」って軽く言っていたので、またやることでしょう。

帰りはホテルまでバスにしたのだが、地図が示したのと違うルートを走っていると思ったら故障していたらしく、途中でバスごと別のに移るように指示されて、ああこのままどこかに… って暗く(どうでもよく)なったが大丈夫だった。

翌朝、8:55発のフライトで戻るべく空港に行ったら、管制トラブルとかで飛ばないまま待たされる。一時はWebでロンドン到着16:00以降とか表示されて、これじゃこの日の予定ぜんぶ消えるので、祈る思いで町に戻って電車で向かう検討も始めたのだが、1時間半の遅延で済んだ – それでも映画1本分なのでじゅうぶん痛い – のはよかったかも。


また行きたいなー。

[film] Pulp: What Do You Do for an Encore? (2026)

9月19日、土曜日の夜中、22:40からBFI IMAXで見ました。たぶんこの日この1回きりの上映。

OASISのライブフィルムもまだやっているようだったが、そんなのよかこっちだろう、って。製作・配給はMUBIなので、もう配信で見れるのだろうか。 監督はアニメーション”Sing” (2016) などのGarth Jennings。

マチネで見た”Man to Man”に続けてこの日の晩も演劇を狙って、その後でこれを見に移動するつもりだった。候補はふたつ、Josh O'Connor主演の”Golden Boy”かMark Rylance 主演の”Tartuffe (Remixed)”か、だったのだが、オンラインで座席に一瞬の空きが出たタイミングは確認できたものの移動中だったりして(ロンドンの一部地下鉄ではいまだに通信が)うまく繋がらないままどちらもダメになって、仕方がないので、BFI Southbankで18:40くらいからClaude Chabrolの – BFIでもChabrol特集をやっている - ”L'Œil du malin” (1962) – “The Third Lover”を見て、22時過ぎにIMAXの方に移動した。

Pulpの2025年のツアーのロンドンO2アリーナでのライブ映像を中心に、バンドヒストリーを網羅したもの。バンドは2024年の再起動の際に愛に溢れた分厚い歴史本も出していたし、こういうのまで追っかけて見たいPulpのファンであれば全て知っているようなことだらけだろうし、と思ったらやはり客席はそんなに埋まっていなかった。予告でかかった”George Michael: The Faith Tour”にみんな立ちあがって熱狂していた。

ライブで披露されていく代表曲の合間にいろんな過去のエピソードや映像、インタビューが挟まっていく構成の98分で、最初の方で紹介された結成前のJarvisの”MASTERPLAN”が楽しい。髪の毛はIan McCulloch、顎はHugh Cornwell、眼鏡はElvis Costelloを目指す(しかない)、だって。

わたしはPulpのそんなによい聴き手だったわけではなくて、Britpopの流れのなかで出てきたバンドのひとつ、くらいに軽く見ていたのだがバンド結成は1978年のシェフィールド… ということは、おおCabaret VoltaireとHuman Leagueと同期(CabsとHLの間)なのかー、とあの妙に下世話にこてこて作り込んだ - あえて100%から外す - かんじに納得して、そしたらこの映画の彼の言葉や振る舞いあれこれがいちいち腑に落ちてたまんなくなって、O2のライブも少し無理して行けばよかったかな、って。前年のバルセロナのPrimaveraのステージ - あれはすばらしかった - で思い知ったからよいか、って思ってしまったのばか。

後半はライブ映像の比重が増して、2023年に亡くなったベーシストSteve Mackeyへの追悼と、これから.. みたいなことも語られるのだが、思春期のこと、大人になっても続いていくもやもや、知らない向こう側のこと、いわゆるアートと社会のこと、イギリスの社会で生きる - 危なっかしく、でもどうにか渡るようにやっていくこと、そんなみんなCommon Peopleへの思いがぐじゃぐじゃのダンゴで固まって転がっていく - 編集が面倒で結果的にそうなっただけなのかもだが、なんておもしろく唯一無二のバンドなのでしょう、と唸らないわけにはいかず、そこまで来てから”What Do You Do for an Encore?”って尋ねられるの。そんなの「最初からやり直し! 校庭10周!」しかないよね。

終わったら当然地下鉄はきれいに終わっていて、雨も降っていて、バスを乗り継いで帰った。じっとりした雨のなか深夜に乗り継ぐバスから見えるロンドンの景色もまた懐かしくてー。