10月18日、日曜の夕方、東京芸術劇場のプレイハウスで見ました。
舞台芸術祭「秋の隕石2026東京」(アーティスティック・ディレクター:岡田利規)の演目のひとつ。
原作は英国の劇作家Sarah Kane(1971-1999)による”Crave” (1998)、同年エジンバラで、Kaneがwriter-in-residenceをしていたPaines Ploughによって初演された。彼女にとって4作目(遺作のひとつ前)の戯曲で、彼女の過去の戯曲の暴力描写がもたらす印象や偏向を避けるべくMarie Kelvedonという筆名で発表されたそう。演出はドイツのChristopher Rüping。
休憩なしの105分。舞台の奥正面にスクリーンがあって、最初はドイツ語タイトルの”GIER”が中央小さめに投影されている。スクリーン上部に日本語の字幕、英語字幕対応は別デバイスになるらしい。向かって左手に、右側を向いた椅子とそれを収めようとする撮影スタジオのような機材が一式、ステージ手前右に鍵盤兼指揮者、その並びに客席の方を向いたライブの弦奏者が3名。
舞台に出てくる俳優は男2,女3の計5名。原作では、A, B, C, Mの4名のみで、それぞれ名前も属性も役割も明らかにされていないが、原作者が過去のインタビュー等で、A (Author, Abuser) – 年長の男性、B (Boy) – 若い男性、C (Child) – 若い女性、M (Mother) – 年長の女性である、と大枠を語っている。彼らは地味な服装でばらばらの動きをして、会話になるようなならないような短いフレーズのような台詞を互いにだったり世界に向かったり - 吐き、でも会話を深めたり一緒に動いたりすることはない。そして原作の設定にはない女性(Wiebke Mollenhauer)が左手の椅子に座り、白バックに彼女の顔を中心に置いた画像がライブでスクリーンに大きく映しだされる。彼女だけは最後まで喋らず、他の4人は彼女に向かってそれぞれ自分たちの言葉をばらばらと投げて、彼女はそれを無言で受けとめていて、たまに表情を変えたりするが、そこから動くことは許されていないよう。
AがCに何か言ったり、MがBに何か言ったりはあって、それによって近寄ったり遠ざかったり、自由な4人はダンスのように動いたりもするが、それらはすべて舞台中央の彼女の表情、その動きに吸い込まれていくようにも見える。
5人目の女性が誰なのかについては、いろんな解釈が成り立つだろう。原作者のSarah Kane自身と取ることもできるし、見ている観客 – 我々自身、ということもできるし、それよりもう少し広くて遠い、所謂傍観者・観察者ということも。自分はアニメーション映画 “Inside Out” (2015)の主人公の頭のなかに湧いてでて彼女の頭や行動を統御していくエモに近いようなやつらに近いのではないか、と思った。答えはそれぞれで、正解なんてない、のだろうが。 そして、この5人目の人物によって全体を見渡しやすくなった、とは思ったものの、そのわかりやすさはかえって危険だったりしないか? とも。
劇の終わりのほうで、女性は突然メイクを始めて、しばらくするとそのメイクを自分で崩しはじめ、最後には思い切ったように全てをきれいに拭い去って、『外の世界は過大に評価されすぎている』というフレーズを残し、椅子を立ってステージ~劇場を抜けて池袋の街に走りだす (その後ろ姿をライブカメラが併走して捕らえていく)。
ここまでくるとメッセージとして見えてくるものはあるのだが、原作にない設定のキャラがここまで終わりを巻きとってしまってよいのか? は当然あって、しかもそれが、分裂~混沌~統合~解放・引き受け、のようなわかりやすいストーリーラインに沿ったものに見えたので、こんなのでよいの? って思った。 こんなようなアタッチメントを許容する抽象度、自由度をもった原作なのかもしれないし。でも、最後あんなふうにプールに飛びこんじゃうことができるのなら幸せなのよ。(ビルから飛び降りたらどうしよう… って思った)
原作戯曲のエンディングがどんなものなのか知らないのだが、「(それでも)さあ、街へ出よう!」みたいのはどうなのかしら、にちょっとだけなった。 Wiebke Mollenhauerの笑顔はとても素敵だったのだが。
10.23.2026
[thatre] Christopher Rüping "Gier (Crave/渇望)" by Sarah Kane
10.22.2026
[music]「The Wonderful and Frightening World of The Fall」 ~ザ・フォールの深遠な世界
10月15日、木曜日の晩、SUPER DOMMUNEに行って見て聞きました。
発売になったばかりのFall本『ザ・フォールの素晴らしき世界』の刊行記念で著者の上村彰子さんと司会の鈴木喜之さん他ゲストによるトークとミニライブとDJ。
7月にイギリスから船便が着いて、オーディオ機器の前に箱が積まれて家で音楽を聴けない状態になってしまった(箱を開けてお片付けをすればよいだけなのになぜそれができない?)ので、ライブ以外で音楽を聴くのはこういう機会とか場所に出かけるしかない、という情けないことになっている。
The Fallについては、2022年8月のRock Cafe Loftでのトークにも行って、轟音で楽曲を視聴する〜浸る、というよりこれってなんなの?へんなの~ のような与太話と共に珍奇なものを眺めたり流したりしていくのがなんだかとても気持ちよかったので。(なぜちっとも明るくないのに、気持ちよくないのに気持ちよいのか問題)
あと、14日の夜に映画『審判』を見て、Josef KからThe Fallへ。カフカからカミュであり、自分が最初にThe Fallと出会った日本編集オムニバス盤『Clear Cut』のA面1曲目(Josef K “It's Kinda Funny”)~2曲目(The Fall “City Hobgoblins”)の流れそのままなので、なんだかうれしい。
中心にあるThe Fall本については、まだ読んでいる最中だが、The Fallの全体像ってディスコグラフィやバンドの変遷を追うだけでは捕捉できないのだ、ということを言うために現地側と日本側双方で見えた聴こえたものをぜんぶきちんと追った上で、音楽史におけるマンチェスターの位置づけや、曖昧に片づけられがちな「ポストパンク」の時間的、概念的な広がりについて触れ、それを語るためにそもそものパンク(遺物ではなく現在の)とは、まで踏みこんだ後、そんな文脈やストーリーから離れて「ぞっとするもの」がひしめく彼の詞の世界に至る。で、結果的にThe Fall抜きでは成りたたないような(実際そうなのだが)形で70年代からの英国音楽を俯瞰・総括してしまっている。あんな隅っこにいた、入れ歯がたがたのマイナーなバンドでそれができてしまう、それがThe Fallだとできてしまうのだ、それがThe Fall(のThe Wonderful and Frightening World)の淵なのだ、と。 イギリスには当然のように大量のThe Fall本があって、それらはThe Fallが有史以前からあるようなものとして書かれているのに対して、ここでの書きよう、丁寧な網羅ぶりはすばらしい。
特に日本でのリリースまできちんと追っているのはえらいなー、だった。Rough Tradeの日本盤は第一弾リリースの時だけ、あとはきちんと売ろうとしているとは思えない宣伝コピーとかライナーもムダとしか思えず輸入盤のみ、にシフトしてしまったので、日本でもそれなりに追うことで受容史のようなものは見えてくるものなのか、とか。
トークの最後の方、締めくくりのように語られた、端からきちんきちんと追って聴かなくても流しておいて、お!ってなればよい、というのはThe Fallを聴く正しい態度で、彼らの音楽そのものが、集中して聞きこむような態度を拒むようなバラック、パルプ感(→ Mark Fisher)に溢れている、というか、田舎道を壊れた車で走っていく感覚(Simon "Ding" Archerのでげでんでげでんベース)があり、流れていく景色をちゃんと見つめたら気持ち悪くなる、止まらないけど、そのうち勝手に、簡単に壊れる – くらいの距離感で聞いていくやつー。
Mark E Smithのあの湧いた端から吐きだすようなポエトリー手前の雑言をどうトラックに乗せるのか、どう乗っかるか、それらのせめぎ合いの気持ちよさ、がThe Fall的な音楽のベースとしてあるような気がしていて、あれは言っていること・言われていることを含めて、たぶんイギリス的に気持ちよい形式なのだと思う。
あと、なんでMark E SmithやThe Fall(だけ)があんなふうに出てきたのだろうか、って思うとき、アメリカのクリーブランド、David ThomasのPere Ubu(←Alfred Jarry起源) - どちらも一時期Rough Tradeにいた – のアヴァン・ガレージ、砂漠の広がりを補助線として引いてみたい(のだが、オーディオが..)。どちらもよれよれになっても、最後までステージの上で歌う – がなるように呻くように歌って吠えることをやめなかった犬じじい共。
あと、本のなかの、MarkのリストにあったPeter Hammillも(ずっと聴いてきているので)宿題で。
10.21.2026
[film] Le Procès (1962)
10月14日、水曜日の晩、イメージフォーラムで見ました。
英語題は”The Trial”、邦題は『審判』。監督、脚本はOrson Wellesによるフランス・イタリア・ドイツ映画、でも言葉は英語。
1962年、『市民ケーン』 (1941)がSight & Sound誌の「史上最高の映画」の一位に輝いた際、プロデューサーのAlexander SalkindがWellesに15本の古典小説の中から1つを選んで映画化しないかと持ちかけて、彼の選んだのがカフカの死後に出版された小説『審判』 (1925)。 4Kリストア版、エッジの効いたモノクロ。出口なしのどん詰まりの迷路がものすごく綺麗に精緻に生々しく目の前に現れるので必見。 あと、オルセー美術館になる前のオルセー駅が出てくるので美術(館)ファンも必見。
冒頭、Alexandre AlexeieffとClaire Parker(夫妻)によって作られたPin Screenによるアニメーションが流れ、『掟の門前』 (1915)がWellesのあの声で朗読される。「掟」に入ろうとしてやってきた田舎の男が門番に入れるけど、今はだめ、と言われてずっと待っているうちに老いてそのまま死ぬことになって、最期になぜ自分以外の人はこの門に現れなかったのか? と聞くと「これはお前ひとりのために用意された門だからだ」と言われてしまう。 自分のために用意されている、と説明されているのに自分が入ることを許されない不条理の寓話が入口で示される(原作では後ろのほう)ことで、覚悟しとけ、と。
Josef K (Anthony Perkins)が共同下宿のベッドで目を覚ますと、スーツ姿の男が2人いてKが「逮捕」されたのだと言うが、彼らは自分たちの身分も明かさないし、どういう罪状なのか、容疑なのか、も明かさず、更に部屋の向こうにKの職場の同僚が3人いて、なにかを探しているようで、でも追い払ったらいなくなって連行されることもなくて、なんなの? ってなる。(悪夢の続き、始まり)
彼らがいなくなった後、家主のMrs. Grubach (Madeleine Robinson)や、隣に住んでいて朝帰りしたBürstner (Jeanne Moreau)と話してみるが、なんだかよくわからず、職場にいくと上司から彼の十代の従姉妹と不適切な関係にあるのではないか、と疑われ、晩にオペラを見に行ったら捕まって法廷に連行されてしまう。
この先はいろんな人がいろんなアドバイス、というか勝手なことを言って、通り道抜け道はどんどん細く狭くなっていって、裁判を待つ大量の被告人とか弁護士のHastler (Orson Welles)とその看護婦(Romy Schneider)とか司祭(Michael Lonsdale)とか出てくるものの、容疑も罪状もなにひとつ明らかにされず、判事も法廷での裁判もないまま、なぜか「審判」だけは下されたらしく、処刑人に捕まって石切り場に連れていかれて…
おお昔に読んだ原作との違いでいうと、絶望しながら弱弱しく萎えて諦めて閉じていく小説のKに対して、映画のKは乱暴までは行かないがアグレッシブで反抗的で、簡単に他人の言うことには従わない、でも詰めが甘いというか次に行きたがってしまうせいなのか、「自分がどうだから、何をしたからこういうことになっているのか?」をきちんと問えないので、行く先々でぶつかったり、的外れなことになったりしているように見えて、最期はナイフではなくダイナマイトでぶっとばされないとわからない。(ぶっとばされてもたぶんなんか言っている)
でも、「自分が何もので、何をしているのか」について、身分証なし、人種とか職業とかを外して相手にわかるように語るのは難しい、というところで「逮捕する」と言われたらどうなってしまうのか、強制連行も収容もこういう流れのなかで起こって、誰もどうすることもできずに殺されていった – という戦前に経験した恐怖を踏まえた、ひとを裁く or ひとを裁くまでもなく連れていく、ということが許されてしまう恐怖と不条理。そして最近何よりも恐ろしいのが、「効率」とか「体裁」などを理由にこれらをすっとばして、とりあえず目の前から見えなくしまうこと。
アウシュビッツや原爆 - 不条理の先を行って狂っている - を踏まえて、「審判」を読み直し、ここまでのものにしてしまうのってすごい、というのと、この手の「審判」なら今日いくらでも転がっていて、許される世の中になってしまったなー、と。
同じ原作の映画版だと、Harold Pinterが脚本を書いたDavid Jones監督版(1993)を見てみたい。(たぶん見ていない)
10.20.2026
[film] PARKS パークス (2017)
10月13日、火曜日の晩、シネマリスの橋本愛特集で見ました。
もう約10年前の作品で、公開時はロンドンにいたので見れなくて、向こうであー見たい、と思ったことを思い出し、この特集での最終上映にどうにか滑りこむ。
2014年にバウスシアターがなくなり、オーナーだった本田拓夫さんが吉祥寺と井の頭公園を舞台にした映画を作りたいと思い、そこに井の頭公園の開園100周年という節目が重なり.. という官民共同(じゃないけど)のような、周囲からいろいろ被さってくるのはとっ散らかって恥ずかしいものになってしまいがち、の偏見を軽く蹴っとばす、素敵な音楽映画になっていた。 尚、この上映は先の8月に亡くなられた本田拓夫さんの追悼も兼ねて、とのこと。
(本当はFrederick Wisemanにドキュメンタリーを撮ってほしかったかも)
映画館が町と共にあって、そこで上映される映画が人を育てて、その人は必ず映画館に、その町に戻ってくる、という鮭の回遊みたいな話は、戻る先の映画館がなくなったらどうなってしまうのか… ということを切々と訴えたのがこの作品と次の『BAUS 映画から船出した映画館』 (2024)だったと思うのだが、だからいまこんなんなっちゃったんじゃないか!! ということはずっと思っている。町を形づくるものはなんなのか、という問い。 それは公園と美術館と映画館と図書館と本屋と劇場とライブハウス、なんだよ。文化が根を張って育っていくための苗床。ロンドンとNYをみてみ。
監督・脚本・編集は瀬田なつき、音楽はトクマルシューゴ、配給はboid。
吉祥寺のアパートに暮らす大学生の吉永純(橋本愛)は、恋人にはふられて卒業も危うくて、そこに陽気なハル(永野芽郁)が訪ねてくる。彼女は亡くなった父について小説を書こうとしていて、父の恋人がここに暮らしていたらしい、とアパートの写真をもってきて、純はすることもなかったので付きあうことにして、その恋人がその後に住んだ家にたどり着くと、既に亡くなっていた彼女 - 佐知子の孫だという時生(染谷将太)が出てきて、こいつも暇だったのでみんなで家のなかを探していったら、遺品の箱からオープンリール・テープが出てきて、再生してみると、ハルの父と佐知子が一緒に歌っているのが聞こえてきて、でもテープの音は途中までだったので、この歌の先をどうにかしよう! っていう話と、その曲を公園のフェスで披露しよう! っていう話が重なって、なんだか盛りあがっていくの。
ハルの父と時生の祖母はどうして別れちゃったのか、そういうどろどろした話はなし、悪い人は出てこない、恋愛もなし、3人がこれからどこに行くのかもわからない、公園と音楽だけで走りぬけていくミュージカルで、音楽を介して時を超えていろんな人たちが公園に集まってくるよ、きたよ、というおはなし。 これと交錯するかたちで家族史とここからの船出を描いたのが『BAUS…』 で、公園と映画館が吉祥寺という町を作った、それに関わったり通り過ぎていったりしたいろんな人たち、その盛衰を掴まえてきた映画という(メディアとは呼びたくない)でっかい反射板のようなやつについて。
簡単に音楽が人を繋いだり癒したりしないのもよかった。曲を作る、それを鳴らす、聞いてもらう、それを公園の光と風の中でやる、歌う。そこに浮かびあがってくるかつての恋人たちの姿 – PARKS。
約10年前、コロナが覆う前の、公園や花びらの輝度とか、人と人の間の距離のとりかたも、今とはちょっと違う気がする。自転車で抜けていく風のかんじもなんだか(気のせい)。コロナ後の『BAUS…』と続けて比べてみたかったかも。
テーマもスケールもぜんぜん違うのだが、それぞれに抱えていて大変な、アーケードとブティックを舞台にした”Golden Eighties” (1986)を - なんだかこっぱずかしくなるところも含めて - 思いだしたりした。
最後に流れる相対性理論の『弁天様はスピリチュア』から大友良英から牧野琢磨まで、公園で鳴る音を寄せて彼方に掃き散らかしたようなサウンドトラックもすばらしく豪華。
しかしBAUSもなくなり、大島弓子先生も描かなくなってしまったので、吉祥寺はどこかの遠い星のようになってしまったねえ。(ロンドンより遠いかも)
10.19.2026
[film] 旅籠屋騒動 (1939)
10月12日、祝日の月曜日の午後、シネマヴェーラの『映画を輝かせるために』特集で見ました。
この週末から上映作品が洋画系のから邦画系に変わっていて、自分の場合、洋画と邦画だと太陽と月くらい見てきたものも過ごした時間も違うのでだいじょうぶかしら、なのだが、今はとにかく見れるものをー。
『お伊勢詣り』 改題とあって、戦後にこのタイトルに変わったらしい。
監督は森一生、脚本は依田義賢、56分。製作は新興キネマ京都、というところで、当時吉本興業から移籍した人気の関西芸人が大勢出ていて、ふつうの時代劇というより、後半はほぼ関西漫才のプロモーションVのようにも見える。
江戸時代のお伊勢参りで賑わう街道沿いの旅籠が舞台で、そこの主人(伴淳三郎)が病で臥せっていて、でもなかなか死ななくて、そこのバカな長男がやってきた女中に惚れてばたばたしているのと、そこにやってきた偉いお殿様に粗相をして、殿様がわしを笑わせたら許してやるわ、っていうので、そこにいた連中が代わる代わる座敷に出ていって「漫才」らしきものをするの。疎いのでよくわからないのだが、演者が前に出ていって、こちら(カメラの方)を向いて、こちらを意識しながら会話らしきやりとりとか芸っぽいものを披露して、おもしろいでしょ? ってやるのが漫才なのか、殿様の前には3組出てきて、でもどれもなにがおもしろいのかさっぱりわからないのが、おもしろい、といえばおもしろい。ネタがどう、容姿がどう、ではないし、彼らの話を際立たせるようなカメラの角度とかアップとかカットとか照明とか、工夫もなんもなくて、ただ殿様の正面に出ていって、なんかピンポンで喋って、失礼しましたー、を流して終わり。これらをほぼ素で流しているように見えて、漫才のネタとか内容(1週間経ったら完全に消えた.. くらいの)より、そのなんの作為もない垂れ流し技の強さ、斬新さが印象に残っていたり。
ただ、あんなしょうもないぽんこつ殿様の言いなりになる漫才師たちと、いまの政権の太鼓持ちで利権も含めてべったりの吉本は、この頃からずっと繋がっているのだな、って思って、あーあになった(ここはあまり笑えない)。
マリヤのお雪 (1935)
10月12日、↑のに続けて見ました。 76分。 英語題は”Oyuki the Virgin”…
監督は溝口健二、35mmフィルム上映で、フィルムの状態が音声も含めて結構ぼろぼろだったので次はデジタルで見たい。
川口松太郎の舞台劇「乗合馬車」が原作で、モーパッサンの「脂肪の塊」(1880)を西南戦争の時代に翻案した作品で、西部劇、と呼んでよいのかどうか。
西南戦争の戦火が迫ってきたので、乗合馬車で町を出ることにした一団がいて、乗合なので上流の人たちから酌婦おきん(原駒子)とお雪(山田五十鈴)まで揃っていて、上流の人たちはなんで彼女たちのようなのが? って蔑んでいて、でも彼女たちは黙って相手にしない。そのうち官軍の隊長朝倉(夏川大二郎)に捕まって、馬車の面々は彼女たちを差し出すように置き去りにして、仕方なく自分たちの店に戻ってきたふたりは、怪我をした朝倉と再会して…
フィルムはあんなにぼろぼろなのに、お雪の立ち姿と桜の散っていくさまだけは白く浮きあがって神々しくて、まるで宗教画のようで、なんだこれは、になる。翌年の『祇園の姉妹』 (1936)もそうだけど、この時期 - 当時18歳 - の山田五十鈴のとんでもなく、突き抜けてそこに生きているかんじ、ってなんなのか、っていつも、改めて思うのだった。
[film] Digger (2026)
10月11日、日曜日の昼、二子玉川の109シネマズのIMAXで見ました。
特殊メイクでぶよぶよしわしわ不格好なTom Cruiseが明らかにロボットなぼろ猫をなでなでしながら地球資源起因の大規模危機について偉そうな連中とわーわー激論してさあ大変! みたいな予告だけで、悪ふざけにしてもこんなのぜったいムリ、見るもんか、だったのだが、Mark Cousinsさんが自分にとってブレヒトやマックス・ベックマンに近い、オーソン・ウェルズも気に入ったと思う、と言っていたとか、Neil Youngも絶賛、とかいうので見ることにした。思っていたようなさいてーの映画ではなかったが、描かれた先の世界がさいてーであることには変わりない。ほーらこんなにおかしいだろ? というパロディも含めて笑わせる映画というより、根にある目線はものすごくシリアスで暗いやつ。
もう公開から時間が経っていろいろバレ始めているのでそのまま書くけど、まだ知りたくないひとは以下、読まないほうがよいかも。見た後だと割とどうでもよくなるような小細工(← ほめてる)ではあるのだが。
監督Alejandro González Iñárritu、撮影Emmanuel Lubezki、プロダクション・デザインはDennis Gassner。 いちおうWarner Bros.としての最後の映画作品になるのだそう。
父親の代からテキサスの石油で財をなした”Digger” Rockwell (Tom Cruise)が窓の向こうに壮麗な景色が広がる豪邸のベッドで目を覚まして瀕死の老猫Maggie(『熱いトタン屋根の上の猫』のマギーだよね)をよしよししてから、彼の会社が開発を強行したアラスカとグリーンランドの石油掘削基地で進行している深刻な事態について部下から緊急の連絡を受けて、科学者Ganesh (Riz Ahmed)も間違いなくやばいと言っているし、肛門のガンで死にそうなアメリカ合衆国大統領(John Goodman)以下宗教関係者も含めて喧々諤々の議論の末に、やっぱりこれはかなりやばいぞ、ってなったところで、ここまでの一式は、演劇“Fossil Fools”の舞台セットで、ここまでのやりとりは本番直前のドレスリハーサルであることがわかる。
間もなくこの舞台の初日を迎えようといていて主役のDiggerを演じるCurtis Markson (Tom Cruise)は、20年前の初演時からこの役を演じているので、テーマや演技・役のあり姿については自信たっぷりなのに、事あるごとに女性の若手演出家と衝突してどうにも居心地が悪く、そんな時に、ジャマイカの空港から飛びたった娘の飛行機が消息不明になっていることを知ってあれこれがたがたになっていく。
ここで楽屋に貼ってある(結構長い時間映っていた)John Cassavetesの”Opening Night” (1977)とか、同じIñárrituによる”Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance)” (2014)のMichael Keatonを思い起こしたりもするのだが、Gena Rowlandsのように劇を改変してしまう度胸はないし、Tom Cruiseはあの時落ち目だったMichael Keatonとも違うので、主演の苦悶を通して演劇のありようを探ったり問うたりするようなものでもないのか、と思って。
リハーサルの舞台袖にいて、Curtisの娘を捜してあげましょう、という気弱そうな青年Kenny (Jesse Plemons)が申し出て実際に探しだしてくれて、実は彼がこの舞台のプロデューサーで、実在したDiggerの親戚だったと…
政府高官と富豪を巻き込んだバカバカしい環境危機茶番「劇」として、上演後は大喝采 – ただしよく見ると客席には動いていないマネキンがいっぱい – で、Curtisもやり遂げたぞ、って英雄伝説を更新するそんな劇場の外に広がっているのは ー。
“Don’t Look Up” (2021)のように茶化そうが、この映画のようにメタ演劇にしてDigしてみようが、世界の危機は止まらないし、止めようがないだろう、どうしてかというと.. っていうのを二重三重くらい念を入れて語って、劇場から出た人たちの家路までこんなだぞ、っていうのだが、そうなってもそんな時に演劇を見る人たち、演劇を作る人たちには響かないのだろうよ、って。最近のチケット代のあがり方をみると、演劇すばらしいい! なんてあまり…
Tom Cruiseはふつうによいのだが、あんなふうに体型くずして老いた無様な姿を晒さないと- この映画に限った話ではないか - こんなメッセージも受け取って貰えないって、これはこれでやばいような。だーかーらーずっとやばいって言ってるだろ、ってぐるぐる。
環境問題とAIと富豪問題、これらをほんとどうにかしないと、Warnerどころか映画そのものがなくなるよ。
あと、地球温暖化、環境問題について本当に頭にきて悔しくてたまらないのは、こいつら金持ちを嗤ったりどうにかすればどうにか、なんて話ではなくて、連中の利益や高笑いの反対側でずっと生きてきた動物たちが殺されたり種を絶たれてしまったりすることなんだよ、だから地獄におちろ!消えろ!って(ずっと念じている)。
10.16.2026
[film] Toute une nuit(1982)
10月10日、土曜日の昼、日仏学院のChantal Akerman特集で見ました。
邦題は『一晩中』、英語題は”All Night Long”。上映前と後にMarilyn Wateletさんのトークがあった。
Marilyn WateletさんはChantalの映画プロデューサーで、15歳の頃からChantalと一緒に映画館に入り浸っていた彼女の盟友で、Chantalの短編”Family Business: Chantal Akerman Speaks About Film” – アメリカ西海岸に”Golden Eighties” (1986)への出資を求めて旅をした時のどたばた旅コメディ – に出てくるひと。ロックダウン中の2020年6月6日、Chantalの誕生日を祝ってYouTubeで特別公開します! ってtweetしていたのも彼女ではなかったかしら?
この『一晩中』も、ものすごく好きな作品で、一晩中だって見ていられるやつ。これが最初の撮影監督作品となったCaroline Champetierによる夜の闇、影の描写 – その奥で蠢いているようななにか - がどこを切っても美しいとしか言いようがない。冒頭のEdward Hopperの濃赤の陰影 – Hopperだよねえ、と思ったら後のトークでも言及されていた。
ブリュッセルの街中、暑そうな夏の晩 - 開いているドアや窓からいろんな音が響いてくるなか – いろんな人々が家に入る、家から出る、道路を横切る、抱擁する、追いかける、何やら言い合う、などなど、アルコール・ドラッグ・セックス・バイオレンス、夜の物語というと付いてくるこれらをとりあえず視界から外して、夜になると自分が何をしているのか、何をしたかったのか、わからなくなってごそごそうろうろを始めてしまう困った人々が右往左往して横切っていくさまを描いて止まらない。
夜は家に帰って寝るもの – 異議なし、だけど、寝れない、寝れなくなったり、誰かに会いたくなったりしてしまうことも動かしがたい事実で、なんで寝れなくなるのか、どうしたら寝れるようになるのか、などそれぞれ悩みを抱えていてもいなくても、なんだか人は建物の、部屋の中や外で集まったり散ったりキスしたりしたくなる – 「なんでどうして?」はない。理性はどこかで眠ったまま。 そんな総勢80人の夜中を抜けて空が明るくなるまで。
Marilyn Wateletさんのトークでも出てきたが全体として見るとPina Bauschのダンスのような、日々の小さな窓から見える動きから何かの箍が外れて、個々の動きや抱擁が背景も含めて制御できない大きなマスのうねりとなって押し寄せて元に戻れなくなっていく、その説明できない動物たちの、でも深く頷いて感動してしまう何かがやってくる。 この「やってくる」「押し寄せてくる」たまらないかんじとか。それが朝の光のなかに冗談のように溶けて散っていくかんじとか。
この後の”J'ai faim, j'ai froid” (1984)も” Portrait d’une jeune fille de la fin des années 60 à Bruxelles” (1994)も、この舞台設定、シチュエーションの変奏というか、ここから流れでてきた少女たちの朝までバージョンのようにも見えるし、このひとつ前の”Les rendez-vous d'Anna” (1978) - 『アンナとの出会い』から、として見るとAnna個の孤独な声、彷徨いが薄まることなく滞留し凝集するように厚く重ねられていくよう(Aurore Clémentも続けて出てくる)だし、この群れの声にならない動き蠢きは、ドキュメンタリーの”D'Est” (1993) - 『東から』の寒気のなか立っている人々の間からも聞こえてくるような。短編でもフィクションでもドキュメンタリーでも、彼女はこんなふうに世界と向かいあって世界を作りあげようとする。そして、この世界まるごとの静かでやかましいざわめきは、”Jeanne Dielman, 23 quai du Commerce, 1080 Bruxelles” (1975)のあの家、あの台所から鳴り始めたような気もする。