3.10.2026

[music] Morrissey

28日、土曜日の晩、The O2 Arenaで見ました。

クラクフから戻ってフラットに着いたのが16時半くらいだったので余裕。アウシュビッツを見た後のしんどさとか、もう少しあると思っていたが、そんなでもなかった。覚悟していたからだろうか。

この人のライブは初来日の横浜の時から数えて何回めくらいになるのか、最後に見たのは2018年のLondon Palladium で、いつの間にか、なんとなく、なにがなんでも行く! の対象からは離れてしまっていた気がする。

その理由はいろいろあって、あんま深く考えたくないかんじだったなー、となっていたのはなんでだったのか、について考えさせてくれるようなライブだった(ライブの度にそんなことばかり考えてて楽しいの? って自分でも思うがうるせえよ、って)。

Morrisseyがレコードを出して貰えない、創作活動を十分にすることができなくて焦って腐って悶々としている、というのはずっと聞いていて、彼がそうやって周囲に毒を吐くのはいつものことのように思えたし、であれば「大丈夫」に違いない、とか。でも大丈夫とかそういうことでもなさそうで。いや、わかんないな、ってぐだぐだ考えが右に左に揺れまくった。

The Smithsという、もはや恐竜のように巨大な遺産と認知されているバンドのフロントにいた彼なので、ソロになってそれなりのキャリアを重ねていったにしても歳をとったりなんだりで自分の思うような活動をできず/させてもらえず壁にぶち当たって… なんてあの世界ではごく普通のことのようにも思えるのだが、彼にとってはそういうことではないのだ。曲を書いてライブで歌うという音楽活動は自身の生死を賭けたすべてであったのだ。

The O2のあるNorth Greenwichの駅は、アリーナのライブがある時は告知用のホワイトボードにそのアーティストの曲名や歌詞をびっちり散りばめた「案内」?を出してくれるのだが今回はさすがにハードルが高かったのか過去のNoel Gallagherのをそのまま置いていた。残念。

19:30くらいに客電が落ちて通常の時間であればサポートアクトになるのだが、Morrissey を「サポート」する度胸のある若い子なんていないので、Morrissey のお気に入りのアイコンとそれに合わせた曲(あるいはその逆)をじゃんじゃか掛けてくれて楽しい。それは過去、The Smithsが12inchのレコードジャケットでやっていたことと地続きの極めて教育的ななにか、でもあるの。

20:40くらいに客電が落ちて、マラカスを持って出てくるなりForeignerの”I Want to Know What Love is”のあの一節を、まあ今こんなことを世界の中心で吠えてやってサマになるひとなんていないよ。この曲で吠える人もいないだろうが。

バンドはおそらく若返っていて(終わりの方でメンバー紹介と自己紹介もあった)、アレンジもわかりやすいエレクトロが入ったりキーボードのソロもあったり、がんばっているようだったがそういうことではなくて、モルヒネを打ってそれが切れるまで、本当にそれくらいいっぱいいっぱいで大変なんだ - 助けてほしい - ってずっと、このギャングでパンクで落ちぶれて崖っぷちの老人が呻き続けている。

新譜のリリースを巡るごたごたのなか、尊大なアーティスト・エゴがどうの、という以前のところで、この人は最初のバンドの頃からずっと毒を呑んで吐いて悶絶して絶望して生死を賭けるようなところで歌を書いて歌ってきた。それがすべてで、それが十分にできない、というのは死ね、と言われているのに等しいのだ。 100文字程度で、誰もが言いたいことを好きなようにいくらでも吐きだすことができるようになった今(Make-up is a Lie)、彼のような態度や挙動がきちんと理解されない、ちゃんと通用しない、というのがあるにしても、じゃあどうしろと言うのか – というのが冒頭の叫びに繋がっていたし、“A Rush and a Push and the Land is Ours”~”Now My Heart is Full”の流れは本当に感動的に響いた。(ここでもし“Last Night I Dreamt…”までやってくれたら泣いちゃったと思う)

ただ他方で、昔のスタンダードばかり求めてくる客ばかり、という残酷な事実もあって、すんなり爽快に楽しませてくれない。The Smithsを聴いて育ったビリオネアのなかで、恩返しもかねて彼にお金をだしてきちんとしたアレンジと演奏で新譜も含めてセンスよく賄ってくれるような人はいないのか、金持ちはThe Smithsなんて聴く必要はなかったのか、とか。

この先どうなっていくのか誰にもわからないし、知りようがない、この人はそういう前人未踏の領域に首を突っこもうとしているのだ。 どうせ先にあるのはダブルデッカーバスだし、ってあの曲を最初に聞いた時の感覚が蘇ってしまったので、これがよいことなのかどうなのかはわかんないけど、いまだに蘇ってくるものがあるので、よいライブだったと思う。


あああと3週間を切ってしまった。どうしよう…
(ぜんぶあきらめろ)

[log] Kraków - Feb 26 -28

ポーランドのクラクフに行くのは初めてではなくて、2018年に仕事のコンファレンスかなんかで行っていて、でもこの時は仕事だったのでシロテンとSt. Mary's Basilicaと地下博物館くらいしか見れなくて(仕事なんだから仕事しろ、だけど)、今回は2泊あるのだからやはりいろいろ見たいかも、になった。

Romeo i Julia

26日、木曜日の晩にMałopolski Ogród Sztuki (MOS)で見ました。
滞在中に演劇とかやっていないか探していたら見つけて、でも2日間公演のどちらもずっと売り切れでほぼ諦めていたのだが、飛行機が現地に着いて繋がった時に見たら取れる状態になっていたのでまだ機内にいるうちに取った。

開演は19時で、入管に時間が掛かってホテルにはいったのが18時過ぎ、土地勘とかないのでとにかく早めに出て、お腹が空いていたので屋台でドーナツを買って食べながら(おいしいったら)、歩いてシアターに向かう。

ここは由緒あるJuliusz Słowacki Theatreの分館でよりモダンで実験的な劇を手がけているようなのだが、初演は2023年、ポーランド語手話による作劇 - 制作には聴覚障害者、健聴者双方が関わった - を起点にシェイクスピアの古典を再構成している。演じるのは男性2名、女性2名のみ、らしい。誰が演出したのか、などは探したけどよくわからず。

全席自由で開演時間丁度に開場して、席につくと女性2人が台座に固定されるように立っていて、間もなく始まるとふたりは歌、台詞の発話(ポーランド語)、ポーランド語手話を駆使して、その内容はプロジェクターにポーランド語 & 英語でリアルタイムで表示される。やがてそこに男性ふたりも加わってやり取りをしていくうちに女性ふたりはどちらもジュリエットで、男性ふたりはどちらもロミオであることがわかってくる。

強権的な家制度と過去からの因襲による縛りと、それに対する強い反発、そして恋に突き動かされた強い情動、全てを断ち切りたい思いとずっと一緒にいたい思い、これらに伴う犠牲... そこに手話という身体を使ってこれらを伝える/伝えなければならない、という与件が加わったとき、恋するふたりの身体がふたつに裂かれるように分かれてあることにそんなに違和感は感じなかったかも。

ふたりの恋によって彼らの自我も含めて引き裂かれた混沌とした状態を表すのに手話、発話、歌、振付けが駆使されて、英語の字幕もあるので伝わるものは伝わっていたように思えた。

他方で、原作のお家間ややくざの抗争や悲劇に向かっていく錯綜した駆け引きの殆どは(演者もいないので)無くなっていて、ふたりの場面、それもいちばんエモーショナルなところだけを抽出して煮詰めたものになってしまっていて、これでいいの? って思い始めた辺りの約60分でぷつりと終わってしまった。

帰りにカフェでピエロギを食べたらものすごくおいしくてびっくりした。

演し物ではもうひとつ、27日の晩にThe Cracow Philharmonic HallにKraków Philharmonic の演奏を聴きにいった。ポーランドならショパンだろう、と少し思ったが、こういうところのメインの音楽ホールを見たい、というのもあって、オンラインで当日取った。演目はベートーヴェンの第八交響曲とマーラーの「大地の歌」の2曲、オーケストラ演奏のよいわるいは判断できないのだが、オケも歌唱も力強くて、でもホールの音響はクラシックにしてはちょっと固かった気がした。

美術館関係だと、この街にはダヴィンチの「シロテン」- 『白貂を抱く貴婦人』 (1489-1490)が名物のようにあって、これだけは事前にチケットを取った方が、とAIさんに言われたので、アウシュビッツから戻ってきた夕方に駆けこむようにチャルトリスキ美術館に入って見た。シロテンは前回クラクフに来た時にも見ていて、その時はここではない国立美術館の方にあって、でも展示場所としてはこちらの方がうまくはまっていた気がした。わたしはこの絵のシロテンの腕の白くむっちりしたところがなんとも言えず好きなので改めて舐めるように見て堪能した。夕方だったからか絵の前には人がほぼいなくて、こういう場合、ふつうだったらシロテンが絵の中から飛び出してきてくれるはずだったのだが。 あと、もうじき日本に行くらしいダヴィンチの『ミラノの貴婦人の肖像』 (1490-1496)で描かれたのと同じ女性なのかどうなのか。

これ以外の朝と、最後の日の出かける前までは主に教会を回っていた。Holy Trinity Church、聖マリア聖堂、聖フランシスコ教会などなど。古い都なのでそういうのはいくらでもあって嬉しいし、扉を開けた瞬間にわーってなって、ずっといてもなぜだか飽きないし。帰る日の朝は丘の上のヴァヴェル城のカテドラルに入って、教皇ヨハネ・パウロ二世のお墓と彼の名前のついた美術館も見た。自分がキリスト教(全般)に興味を持つようになった頃の教皇だったので、いろいろ振り返ったり。

3.05.2026

[log] Auschwitz-Birkenau - Feb 27

2月27日、金曜日の昼、現地に行きました。簡単な備忘。

ヨーロッパの近代以降の文化にずっと惹かれて追ってきたものにとって、この場所に行くこと、ここの地面の上に立って何があったのかを頭に刻むことは宿題のようになっていて、前回の駐在時にも計画していたのだがコロナで行けなくなり、本当は20代30代の時に見ておくべきだったと思うのだが、ここまで時間が掛かってしまった。ここ数ヶ月であちこちに行ったりしているのは全部そうで、なにもかもしみじみだめだった、なんでもっと早く、ってどこに行って歩いていても思う。

現地を見るにはMuseum(遺構、敷地全体がMuseumとして保護・保全されている)のやっているガイド付きのツアーに参加する必要があって、日本人の方によるガイドがよいことは知っていたのだが、時間の余裕もないのでオンラインで取れる英語のツアーにして、でも1月中旬の時点で2月の後半で取れたのはここの昼間のひと枠くらいしかなくて、とりあえずそのチケットを押さえて、その後にフライトを探してみると、クラクフから当日に入るのは無理、当日に出ていくのも無理で、会社の木金を休む2泊3日にせざるを得なかった。できればこの機会にワルシャワも行きたかったのだがそれも大変そう、後で28日の晩にMorrisseyのライブを入れていたことに気づいたが、どうにかなりそうで少しほっとしたり。

着いた日からクラクフの天気はとてもよくて、この日もぽかぽかと暖かい日差しで、クラクフの町から電車で約1時間と少し、そこからほぼ一本道を歩いて約20分。公園とかもあるあまりに普通の住宅地のなかに突然Museumの施設が現れて、入口はバスで来た団体客でわらわらしていたところを助けられるように奥に入れて貰い、いろんな言語のツアーが順番に入っていくなか、開始時刻にガイドの女性に率いられて中に入る。自分の集団は20~30人くらいか。

何度も写真で見たことがある”B”が倒立した”ARBEIT MACHT FREI” – 働けば自由になる – のアーチがいきなりあって、そこから第1収容所の施設を端から見て回る。これまでプリーモ・レーヴィやフランケルで読んで、写真でも映画でも何度も見てきたそれらが目の前にあって、あたりまえだけどぜんぶここで起こったのだと。

収容所に到着した子供たち、女性たちの写真、ゾンダーコマンドが撮った火葬場の風景、これらの以前見たことのあった写真も、この場所であった/撮られたということでこれまで見知っていたのと異なる生々しさが立ち現れてくるのと、他には映画”The Zone of Interest” (2023)に出てきたRudolf Heß一家が実際に暮らしていた家を見ること、この間の演劇”Here There Are Blueberries”で撮られていたナチス幹部たちの風景を重ねてみること。

アウシュビッツを一通り見た後に、シャトルバスで20分のところにあるビルケナウに向かい、あのずーっと奥まで伸びた線路と、当初計画ではとてつもない規模になる予定だったという広大な敷地を眺めて、実際に歩く。ここまで拡張される予定でした、ってショッピングセンターやデータセンターの拡張計画のように考えていたとしか思えなくて、そういうのを得意げに語る営業担当みたいな幹部の顔が何人も浮かんでとても気分が悪くなった。

過去にいろいろな形で表象されてきた風景や情景、それらが目の前にはっきりとある、どれも恐ろしいのだが、なによりも恐ろしいのは、ここにものすごい量の人的リソースが投入されて、毎日どれだけの数を「処理」することができるのか、「集約」とか「効率」とか言いながら日々の仕事としてやっていたことだ。こんな規模の施設で「なにをやっていたのか知らなかった」なんてありえないよね。

あとは、割と最近の映画 – “A Real Pain” (2024)とか”Treasure” (2024)で、収容所で亡くなった祖先を訪ねて(ではなく、お墓があるわけではないので収容所の遺構を訪ねて)いく子供や孫の映画がいくつかあって、これらについても訪ねたくなってしまう事情はなんとなくわかった。こんなところで、っていうのがあまりに非現実的すぎるからではないか。

そして最後はやはり、いまの世界で実際に起こっている虐殺のことを考えてしまう。数日前に始まった戦争のことも。
過去のこれらからなにも学んでいない、自分たちさえ良ければそれでいい人たちが絶対安全な場所から子供たちを殺している、ということを。それを我々みんなが許してしまっている、ということを。

これ以外のクラクフでのことはまた別で。

3.04.2026

[theatre] Arcadia

2月24日、火曜日の晩、Old Vicで見ました。
原作はTom Stoppardの同名戯曲(1993 – 初演も)。演出はCarrie Cracknell。

Old Vicは昨年舞台と客席の配置をリニューアルして、舞台を前方中央の円形に、客席はそれを見下ろす or 最前列は同じ高さの地続きの床になったのだが、ずっとこのレイアウトで行くのだろうか?(上演される劇を選んでしまうような..)

1809年のイギリスの邸宅の一室で、そこに暮らす天才少女Thomasina Coverly (Isis Hainsworth)と家庭教師Septimus Hodge (Seamus Dillane)がいろんなテーマについて楽しく問答を繰り返しながら、数学や科学の理論を通して自然や宇宙の包括的な謎に迫ろうとしていくのと、登場人物ががらりと入れ替わった現代の同じ部屋で作家のHannah Jarvis (Leila Farzad)と文学教授のBernard Nightingale (Prasanna Puwanarajah)が、100年以上前、かつてこの部屋で起こっていたかもしれないことについて議論を重ねていく。

気が付くとゆっくりと回転していたりする円形の舞台には低めの棚が沢山とその上に積まれた本がいくつか。部屋の頭上には星雲のような円弧なのか原子の回転なのか、舞台と同期をとるように弧を描きながら瞬いていく光の球がある。棚のどこかには食パンくらいのサイズの亀がいて、この亀さんはどちらの時代にもいる(同じやつ?)。

1月にHempstead Theatreで見たStoppardの”Indian Ink”も過去のインドに生きた - 鮮烈に生きた英国人女性と80年代の英国を同じ舞台上に繋いで、時代を跨いで行ったり来たりする劇だった。歴史の縁に埋もれた女性の声を発掘する、ということと彼女たちがそこにいた、生きていたということを探偵のように掘り下げていくことで開かれていく我々の目、といういくつかの視点があり、それらを共時的な体験としてひとつの舞台の上に実現する – これって演劇の可能性のひとつだと思う。

19世紀の彼らは、田舎の小さな一室で幾何学や不可逆性やカオス理論、天文学の可能性や仮説について論じて、そんな夢のような理屈がこんなところでは実証できないことを知りながら、それでも語ったり議論したりしないわけにはいかない。現代の彼らはいま自分たちの住む家に出入りしていた痕跡のあるバイロン卿の謎めいた動き、その点と線を推理しながら、やはり同じところを同じように回り続けている。天と地、科学と人文、見つめる先もテーマも全く異なっているのだが、はじめからそこにある混沌に秩序と補助線を加えて見晴らしのよいアルカディアの庭園を目指そう、という思いは共通している。それが穴倉のような部屋のなかで100年以上の時を隔てて起こった、そこで起こる、瞬くかもしれなかった可能性に想いを馳せること。

19世紀の舞台と現代の舞台で、現代の方は登場人物が多いこともあってややじたばた落ち着きがなくて、両者が慌しく交錯する最後の方はもうちょっと整理してほしいと思ったが、この劇はこうなりました!という結末を提示するというよりも、とめどなく広がっていって止まらない思索のありよう、その可能性を示すものだと思うので、こんなふうでよかったのかも、と思った。舞台装置とか衣装とか、すべてのデザインが”Arcadia”!の方に向かって揃って纏まっているように見えたので。

こんなふうに自分の足下で過去に何が起こっていたのか、想像みるだけでも楽しくて、でもそれをするためには建物とか周辺の見晴らしがそれなりに残されている必要があって、英国ってそういうことができる土地でもあるよなーって。
うちのフラットのそばのテムズ川を見てるだけでも、なんか来るもの。


帰国まで1ヶ月を切ってしまったので、従来からのお買い物大会と見納め大作戦に加えて、しんどいばかりの箱詰め大会も始めないわけにはいかなくなった。ちまちま買い溜めてきたペンギンの古いの、Virginia Woolfの”Orlando”が3冊も出てきて、どれも1945年の版なのが笑えた。巷では3冊までなら許されると聞いたのでちょっと安心。

あと、備蓄食料の在庫一掃も始まっていて、これのルールはぜったいに賞味期限を見ないことなの。

3.03.2026

[log] Copenhagen - Feb 21 - 22

2月21日、22日の土日の1泊で、コペンハーゲンに行ってきたので、簡単な備忘を。

これの前、15日は日帰りでJersey島に行ったり、19日に日帰りでBrusselに行ったりして、どちらも雨でぐじゃぐじゃのひどい天気で、ジャージーの牛さんは見れなかったし、思うように動くことができなかった – そういうこともある(って思うしかない)。べつにいいの。

コペンハーゲンもデンマークも初めてで、街はやはり雪と氷で覆われて、冷たい霙みたいのが軽めに横殴りで運河は半分くらい凍っていたが、今はそういう季節なのでぜんぜん平気だもん、という顔で歩いていく、と氷の水たまりに…

Marmorkirken

フレデリック教会、大理石の教会で、刺さったり覆いかぶさってくるような荘厳さを訴える、というより、フレスコ画も壁の牛や鳥も、すべてが丸めで柔らかくそこに収まっていて、とても居心地がよい。凍える寒さのなかここに入ったらとても安心するのではないか。

Design Museum

日本のポスターと北斎の木版画展をやっていた。
60〜90年代くらいまでの、展覧会や万博、オリンピック、芝居から商業広告まで、知っているのも沢山あるのだがどれも刺激的で、目を惹かせて、次にちょっと立ち止まって考えさせる、ようなことを小賢しくこ憎らしくやっている。いまも日本の街にはクズのような宣伝広告がいっぱい溢れているが、こういうポスターが作られなくなったことと、「再開発」と称して街に醜悪な建物がずらずら並ぶようになったことはどこかで繋がっていると思っている。

北斎は彼のデザインがわかりやすく出て、いろんな線のありかがくっきりとわかる作品が多くあったような。でもデザインなら広重とかの方ではないか。

あと、日本刀の鍔のコレクションの量がすごくてびっくり。人を殺す刃物の部品があんなにいっぱいあるの? とか。

そしてこれ以外の常設展示は、布、家具、文具、陶器、有名な椅子コレクションまで、こんな? あんな? だらけの楽しい驚きがいっぱいで、デザインのコレクションをやるならこうこなくちゃ、の模範のような並べ方だった。ショップにも欲しいのがいっぱいあったが我慢した。

Rosenborg Slot

公園の池は凍っているのに鴨が何羽かいるその脇に建つ古めのお城。 これまで見てきた英国やヨーロッパのお城と比べてもはっきりしょぼめでガタがきていて寒そうなのだが、展示の仕方が工夫されていて次々となんだか飽きないのと、地下の宝物館でこれでもかって誇示される宝物財宝類のすごさにちょっとあきれた。

SMK – Statens Museum for Kunst

National Galleryなら必ず、どこにでも入ってみようのシリーズ。 クラシック絵画は割とふつう、フランス近代は何故かマティスが多め、北欧系はやはりハマースホイを始め、とても充実している。描かれる光の淡さ・深度が共通していることのおもしろさ。BrusselのRoyal Museumもそうだが、広々した二階建ての美術館が一番見やすいなー。

日曜日も同様にさらさら雪氷の横殴りだったが、Christiansborgの王宮に向かって、庭のキルケゴール先生の像にご挨拶して、地下の遺構からレセプションルームまでいろいろまわった。これまでに見てきた王宮と比べるとこぢんまり綺麗に纏まっていて、より現役っぽい印象。


Den Hirschsprungske Samling - Hirschsprung Collection

企画展示でやっていた”Hanna Hirsch Pauli – Kunsten at være fri - The Art of Being Freeがとてもよかった。

Hanna Hirsch Pauli (1864-1940) はスウェーデンの画家で、昼も夜も、人が集ったり人を待っている食卓の上の光の散りようが素敵で、肖像画は結構ムラがあるが目を離せなくする力がある。
ここのハマースホイの数点もよくて、男性の脇に描かれた白い椅子と同じ椅子が展示されて(というよりそのまま置いて)あったり。

あとは、展示系とは関係なくパンがどこでなにを食べてもすばらしくて、ここなら永遠に暮らしていける。Hartっていう、Noma系列のパン屋の穀物系のとかケシの粒のとか、いくら食べても飽きがこないの。

[film] Wuthering Heights

2月20日、金曜日の晩、Elvisの”EPiC”を見た後に続けてBFI IMAXで見ました。
 
原作はEmily Brontëの『嵐が丘』、監督、脚色は”Saltburn” (2023)のEmerald Fennell。

少し前まで、バレンタイン・デーの公開に向けた宣伝攻勢がすごくて、でもそれだけ見ると映画本編前にかかるChanel N°5 のアホみたいなCM - Margot Robbie が出ている - とほとんど同じようで、最後に主題歌 - Charli XCX ってでっかくでるところだけおおーってなったり。
 
小説の『嵐が丘』は良くも悪くもの雑多な謎、見晴らしの悪さ - というほどではない、どうとでも取ることができる茫洋とした粗さと暈しに溢れたガレージ道端雑草小説で、それは欲望なのか愛なのか、みたいなところをぐるぐるまわって果てることがない。そうなってしまった時のどうでもいいや好きにして、の自由なのか不自由なのか感覚はハワースまで行って、そこの台地でぼうぼうと四方八方から吹きつけてくる風を受けているときに感じて歪んでいく自分の五感の投げやりな喪失感に似ていて、でもその放棄の総体を愛と呼んでしまうことについてはそんなに違和感はない。
 
Cathy (Margot Robbie)の家に薄汚れたHeathcliff (Jacob Elordi) が貰われたんだか拾われたんだかやってきて、いつも綺麗につんとしている彼女と粗暴な雑種の彼はずっと一緒に遊んだりしているうちに離れられなくなっていくのだが、実家が傾いたのでCathyは近所の金持ちのところに嫁いでいって、Heathcliffはどこかに消えて、小綺麗な成金になって戻ってきて、Cathyのところに顔を見せるようになる。もともと望んだ結婚相手ではなかったCathyはHeathcliffを追いかけるのだが… というのを原作の語り手で裏でふたりの関係を操る家政婦のNelly (Hong Chau) を挟んで、ほうれ見たことか、みたいに描いていく。
 
CathyとHeathcliffの他に、HeathcliffとIsabella (Alison Oliver)のいけないお話しもサブで絡んで、でも物語としての底の知れなさや制御不能の業、これらの狂える嵐や暴風のどろどろを畳みかけるところまでは行かなくて、女子であればかっこよい衣装 - by Jacqueline Durran - で映える背景でキメたい、男子であればかっこよく変態してのしかかって見返してやりたい、ふたり共通の欲としてえんえんセックスに溺れて乱れてなにもかも忘れてしまいたい、これらを強い要請とかなしにパラパラ無駄なく並べていってIMAXの大画面で浴びていると何かを見た気になってしまうのかも知れない。けど後にはなんも残らなくて、それでよいのか。もっと不純で汚れていてもやもやした何かが残る、嵐が常駐して彼方に去っていかない、のが原作の魅力だったのではないか、とか。
 
不穏さと想像していた以上のちゃらい感じ、というのは”Saltburn”が割とそれに近い印象を残した作品だったので、ちょっと期待したのだったが、真ん中のふたりがあまりにふつうの美男美女できらきら余裕と自信がありすぎててそういうのが見えないのよね。見る方もなんか綺麗だからそれでいいか、になってしまう。で、そうなることで物語の舞台としての「嵐が丘」は殆ど意味を持たない、雨風を防ぐお屋敷かすべて筒抜けの廃墟 - セックスするための場所でしかなくなる、というー。 ポルノ映画のタイトルとしてあっておかしくない「嵐が丘 - もっと吹かせて」など。

2.26.2026

[film] EPiC: Elvis Presley in Concert (2025)

2月18日、金曜日の夕方、BFI IMAXで見ました。

公開前のPreviewをIMAXのみでやっていて、どの回もチケットの売れ方がすごい。老人たちがツアーのように押し寄せてノヴェルティとして配られているElvisの旗を持っている。英国のElvis狂いがすごい、というのは知っていたがこの人たちかー、って。

Baz Luhrmann監督による“Elvis” (2022)に続くElvisものの第二弾。最初のは評伝ドラマだったが、今回はコンサート・フィルムで - 監督はコンサート・フィルムでもドキュメンタリーでもない、と言っているらしいが – “Elvis”で使う用に過去のコンサート・フィルムの未公開フッテージを探していたらカンザス州の岩塩鉱山にあるワーナー・ブラザースの映画アーカイブで、35mmと8mmの映像が入った68箱の箱が発見され、でもそこには音声が付いていなかったので、別の、既存の音声ソースをあてるのにPeter Jacksonの”The Beatles: Get Back” (2021)の修復スタッフの力も借りて、ぎんぎんの装飾まみれの、Baz Luhrmann印 – あのばかばかしいエンドロールも含めて - の堂々たる”Elvis”フィルムが出来あがった、と。

Elvis Presleyその人の紹介は兵役とか映画でのキャリアを繋いで紹介するくらいで軽く、あとはラスベガスのInternational Hotelでの公演に向けたリハーサルから本番まで、曲の合間にインタビューで喋る映像も挟まるが、ほぼコンサートの怒涛の勢いと迫力が前面に出ていて、これだからIMAXで、というのは納得できる重量感。

こういうライブ・フィルムはリハーサルのも含めて大好きで、まずはバンドの方に目がいってしまうのだが、とにかくバックのTCB (Taking Care of Business) Band - James Burton, Jerry Scheff, Ron Tuttらの音がばさばさでっかくてウォールオブサウンドのオーケストラですばらしくて痺れて、でもそれ以上にそこに乗っかるElvisの声もまた波のように自在で、全体としてモンスター大戦争みたいな隙間のない重量感。 しなやかなんだか垂れ流しなんだかわからないが、どんな歌でも彼が声を発すれば、それはどんなぐだぐだでもとにかく歌になって流れてくる不思議さ。

歌っているシーン以外のインタビューや語りの部分もあるが、それらは全体としてはあまりに軽くてバカっぽくて - 「わたしはただのエンターテイナーです」「わかりません言えません」を本当になんも考えてなさそうな顔でいうので、この辺は”Elvis”にも出てきたマネージャーTom Parkerによる圧力、抑圧があったのだろう、と思って、ただそんなことも歌が始まればどうでもよくなる、そういう闇雲で破天荒な抱擁力があって、あの場にいた女性たちはこれにやられたのだろう、と。これらの熱狂的な女性たちの間に、一瞬Priscillaと娘も映ったりするのだが、誰という言及はなくて、はいはいKingなのね、って思った。終わったら当たり前に拍手喝采だし。

こんなライブを多いときは1日10回、数千回までこなして、その間北米から外には一切出なかった、と。化け物みたいな – よくわかんないけどなんかすごい、音楽フィルムとしては”Becoming Led Zeppelin” (2025)に並ぶやつだと思うが、ショウビズという衣を纏っている分、こっちの方が異様でわけわかんなくてびっくりする。

こういうライブ映像を見る時って、かっこいいー!っていうのがまず来るかそうでないか、が結構大きいと思うのだが、このフィルムに関してはもちろんそういうのはなくて、でも音楽の強さ – 特にスタンダード - “You Don’t Have to Say You Love Me”とか“You’ve Lost That Loving Feeling”とか”Always On My Mind”などを歌うときに津波のように押し寄せてくるあれらは何なのか、これらが本能に近いところ、動物的ななにかを突いて襲いかかってくるの。

日本のIMAXでこれをどこまで上映できるのか、はわかんないけど、日本なら樋口さんの爆音があるのでそこでかかってくれることを祈りたい。

Elvisと同じようなことをやって/やれてしまう歌手がこの世界にはまだひとりいて、Morrisseyっていうのだが、今週末に見れる.. だろうか。明日からクラクフに飛んで、アウシュヴィッツに行くのだが…