2月18日、金曜日の夕方、BFI IMAXで見ました。
公開前のPreviewをIMAXのみでやっていて、どの回もチケットの売れ方がすごい。老人たちがツアーのように押し寄せてノヴェルティとして配られているElvisの旗を持っている。英国のElvis狂いがすごい、というのは知っていたがこの人たちかー、って。
Baz Luhrmann監督による“Elvis” (2022)に続くElvisものの第二弾。最初のは評伝ドラマだったが、今回はコンサート・フィルムで - 監督はコンサート・フィルムでもドキュメンタリーでもない、と言っているらしいが – “Elvis”で使う用に過去のコンサート・フィルムの未公開フッテージを探していたらカンザス州の岩塩鉱山にあるワーナー・ブラザースの映画アーカイブで、35mmと8mmの映像が入った68箱の箱が発見され、でもそこには音声が付いていなかったので、別の、既存の音声ソースをあてるのにPeter Jacksonの”The Beatles: Get Back” (2021)の修復スタッフの力も借りて、ぎんぎんの装飾まみれの、Baz Luhrmann印 – あのばかばかしいエンドロールも含めて - の堂々たる”Elvis”フィルムが出来あがった、と。
Elvis Presleyその人の紹介は兵役とか映画でのキャリアを繋いで紹介するくらいで軽く、あとはラスベガスのInternational Hotelでの公演に向けたリハーサルから本番まで、曲の合間にインタビューで喋る映像も挟まるが、ほぼコンサートの怒涛の勢いと迫力が前面に出ていて、これだからIMAXで、というのは納得できる重量感。
こういうライブ・フィルムはリハーサルのも含めて大好きで、まずはバンドの方に目がいってしまうのだが、とにかくバックのTCB (Taking Care of Business) Band - James Burton, Jerry Scheff, Ron Tuttらの音がばさばさでっかくてウォールオブサウンドのオーケストラですばらしくて痺れて、でもそれ以上にそこに乗っかるElvisの声もまた波のように自在で、全体としてモンスター大戦争みたいな隙間のない重量感。 しなやかなんだか垂れ流しなんだかわからないが、どんな歌でも彼が声を発すれば、それはどんなぐだぐだでもとにかく歌になって流れてくる不思議さ。
歌っているシーン以外のインタビューや語りの部分もあるが、それらは全体としてはあまりに軽くてバカっぽくて - 「わたしはただのエンターテイナーです」「わかりません言えません」を本当になんも考えてなさそうな顔でいうので、この辺は”Elvis”にも出てきたマネージャーTom Parkerによる圧力、抑圧があったのだろう、と思って、ただそんなことも歌が始まればどうでもよくなる、そういう闇雲で破天荒な抱擁力があって、あの場にいた女性たちはこれにやられたのだろう、と。これらの熱狂的な女性たちの間に、一瞬Priscillaと娘も映ったりするのだが、誰という言及はなくて、はいはいKingなのね、って思った。終わったら当たり前に拍手喝采だし。
こんなライブを多いときは1日10回、数千回までこなして、その間北米から外には一切出なかった、と。化け物みたいな – よくわかんないけどなんかすごい、音楽フィルムとしては”Becoming Led Zeppelin” (2025)に並ぶやつだと思うが、ショウビズという衣を纏っている分、こっちの方が異様でわけわかんなくてびっくりする。
こういうライブ映像を見る時って、かっこいいー!っていうのがまず来るかそうでないか、が結構大きいと思うのだが、このフィルムに関してはもちろんそういうのはなくて、でも音楽の強さ – 特にスタンダード - “You Don’t Have to Say You Love Me”とか“You’ve Lost That Loving Feeling”とか”Always On My Mind”などを歌うときに津波のように押し寄せてくるあれらは何なのか、これらが本能に近いところ、動物的ななにかを突いて襲いかかってくるの。
日本のIMAXでこれをどこまで上映できるのか、はわかんないけど、日本なら樋口さんの爆音があるのでそこでかかってくれることを祈りたい。
Elvisと同じようなことをやって/やれてしまう歌手がこの世界にはまだひとりいて、Morrisseyっていうのだが、今週末に見れる.. だろうか。明日からクラクフに飛んで、アウシュヴィッツに行くのだが…
2.26.2026
[film] EPiC: Elvis Presley in Concert (2025)
2.24.2026
[dance] Tanztheater Wuppertal Pina Bausch "Sweet Mambo"
2月11日、水曜日の晩、Sadler’s Wellsで見ました。
Pina Bauschが亡くなった後のTanztheaterの公演は2020年にSadler’s Wellで” Blaubart”(青髭)(1977)の再演を見て、彼女の作ったものは今後もこんなふうに伝統芸能的に遺され継承されていくのかと、それって、なくなってしまうよりはましであるが、やはりちょっと寂しいな、と思ったものだった。
90年代からBrooklyn Academy of Music (BAM)でPinaの作品 - 新作も再演もずっと見てきたので、この2008年の最晩年の作品も再演にあたっては何等かの手が加えられて、上演後のカーテンコールの最後に彼女がちょっとだけ顔を見せてお辞儀をする、そこまでが彼女の作品だったんだよなー、って。
でも見ていないものがあればやはり見たいし、タイトルが"Sweet Mambo"なんて、80年代初の”Bandoneon”や”Walzer”など、タイトルに音楽が入っているのは外れないという確信がある。2007年の”Bamboo Blues”と並行して制作が進められ、2008年の初演時から7人のダンサーが今回の舞台に立つ。昨年日本で上演されたものと同じキャストなのかは不明。
セットデザインはPinaとずっと一緒にやってきたPeter Pabst、舞台上はシンプルなでっかいカーテンがぶあんぶあん風に靡いて膨らんでいて、そこに輝ける笑顔のNaomi Britoが大股でのっしのしと入ってきて、グラスの淵をふぁーんて撫でて鳴らしながら四方八方を挑発して、その甘さに吸い寄せられた男たちが虫のように群がって、愛と憎の、支配と服従のドラマが切れ目なく流れていって、愛における自由と束縛の止まらない追いかけっこが。そこに音楽がある限り、どんなに辛くてしんどそうな修羅場でも、甘いMamboのリズムに彩られて、実際に流れていくのはHope Sandoval, Portishead, 三宅純、坂本龍一、Cluster & Eno、などアンビエントでエレクトロニカでラウンジーでサイケでフォーキーで恨み節、呪い節もたっぷりなのに、ぜんぶしゃかしゃかのMamboになってしまう魔法。
背後で投影されていた映画は、Viktor Tourjansky監督、Zarah Leander主演の“Der Blaufuchs” (1938) – 英語題“The Blue Fox” - 女性が夫から離れて別の男と駆け落ちすることを考えるコメディで、男性による虐待の裏側でこれが流れていること、等。
昔彼女の舞台を見にいくのって、世界の都市シリーズではないが、見たことがない世界の葉っぱの裏側に触れる/見てしまう、そういうどきどきと少しの怖さがあったのだが、今回のこの舞台には堂々とした普遍的な愛憎ドラマの風格と完成度があって、とても満足して、でもやはり少しだけ寂しい気がして、それは冒頭に書いたのと同じ何かなのかも…
Pierrot Lunaire
2月17日、火曜日の晩、Royal Opera House内のLinburyTheatreで見ました。
アメリカの振付師Glen Tetley (1926-2007)の生誕100周年を記念した公演 - 『月に憑かれたピエロ』。初演は1962年。Arnold Schoenbergの同名曲(1912)にインスパイアされたモダン・ダンス創世期の作品。45分で休憩なし。
舞台には縦長三角の足場が組まれているだけ。小編成のアンサンブルとソプラノによる歌をバックに、無邪気なPierrot (Marcelino Sambé)が足場に絡まって無邪気に踊っていると、妖艶で掴みどころのないColumbine (Mayara Magri)が現れて彼を誘惑したりくすぐったりしていると、そこにちょっと悪賢そうなBrighella (Matthew Ball)がやってきて、ピエロの服をはがして三角関係をずたずたにして、これらのドラマをとってもSchoenbergな無調の音楽が、煽って倒立させて底に落っことしていく。
これらが足場の三角、関係の三角、倒立する三角などの鋭角的なデザインにあわせてわかりやすく組み立てられ展開されていって、それはまさに初期のMartha Grahamのダンスに感じるのと同じもので、ポストモダンてなに?っていうくらい無邪気で無防備なモダンのモードに溢れているのだがぜんぜん悪くないのだった。これと同じキャラクターと衣装を使って、Wayne McGregorが振り付けたらどんなふうになるのか、ちょっと見てみたいかも。
[film] The President's Cake (2025)
2月14日、土曜日の昼、Curzon Bloomsburyで見ました。
イラク/カタール/アメリカ映画で、原題は“Mamlaket al-qasab”。
作・監督はこれがデビューとなるイラクのHasan Hadi。Executive ProducerにはChris ColumbusとEric Rothの名前がある。昨年のカンヌのDirectors' Fortnightでプレミアされて、Audience AwardとCaméra d'Orを受賞している。
90年代初、サダム・フセインの独裁政権下のイラクで、国民の祝日であり国民全員が彼の生誕を祝わなければならない日に向けて、学校の教室のクジで、彼の誕生日のケーキを焼いて持ってくる係(でもそれを食べるのは先生)に当たってしまった9歳の少女Lamia (Baneen Ahmed Nayyef)がいて、こんな光栄なことはない、ってみんなは言うのだが、そんなわけあるか、って口には出さないけど彼女の顔は言ってて、でも拒否したり持っていかなかったりすると罰せられるのでしょうがない。祖母Bibi (Waheed Thabet Khreibat)と雄鶏のHindiと一緒に湿地帯の脇の家で暮らす彼女は、家に帰ってBibiにそのことを言うと、Bibiはぶつぶつ言いながら卵、小麦粉、砂糖、のリストを作ってくれて、では材料を買いに行こうと車に乗せて貰ったりしながら町にでる。でも町で最初に入った家で、Bibiがそこの女性と里親の相談らしきことをしているのを聞いて、たまらずそこを飛びだして、町でスリとかをしている同じ教室のSaeed (Sajad Mohamad Qasem) – 彼もクジで外れてフルーツ担当にされた - と一緒になってケーキを作る材料を集めはじめるが経済制裁下なので調達は容易ではない。
これだけだとの世間知らず怖いもの知らずの子供ふたりのほんわかしたサバイバル冒険話に見えてしまうし、自分も軽くそんなものか、と思っていたのだが実際にはとても暗くて重い – Lamiaの将来についても、家族についても、この先幸せになれそうな要素なんて欠片も出てこないし、どこに行ってもサダム・フセインの肖像だらけで、なんなのこいつ?になって落ち着かない。そんな心配が山のように溢れてくるなか、Saeedに助けられたりしつつ粉を探していくと、Hindiがどこかに消えてしまったり、Bibiが動けなくなってしまったり。
どこの町にも良い人はいるし悪い人もいるし、サダム・フセインみたいに、なんであんなに祭りあげられて騒がれているのかわからない人もいるし – それくらいの知識でもって人混みを渡って大人たちとケーキの材料の交渉をしていかなければならないLamiaとSaeedの不安ときたらとてつもないだろうと思うし、自分がBabiの立場にあったらその倍たまらなくなると思うし、Babiはきっとそうなっているだろうなと思うだけでいたたまれなくなるし、要はサダムがどう、という以前に、ここで生まれた不安と感情の渦の広がりに胸が痛くなるばかり。
で、こういう子供(冒険)映画の定番として、必ずどこからか頼りになれそうなおじさんおばさんが現れてどうにかしてくれる、という流れがあったりして、この映画でも実際そういうところもあるのだが、戦時下なので最後までどうなるかわからないし、実際にあの終わり方には目の前が真っ暗になる。 けど実際のところだと、あんなふうだったのだろうな、と思う。90年代初のイラクで子供時代を過ごした監督の発言などを読んだりすると。
Lamiaを演じるBaneen Ahmed Nayyefの素人のすばらしさを讃えるのは簡単だが、それ以上に、あんな世の中だったら、演技だなんだ以前にあんなふうに子供たちを縛ったり凍りつかせたりしてしまうであろう寒々しさのことを思ってしまう。
タイトルの『大統領のケーキ』の後に続くのは「のために犠牲にされる子供たち」なのか。
さいごにネタバレになってしまうが、オンドリはぶじ、ということだけはー。
2.21.2026
[theatre] Dance of Death
2月13日、金曜日の晩、Orange Tree Theatreで見ました。
ここのところずっとばたばただからかなんなのか、映画をまったく見れていなくて、時間ができると演劇のチケットを取ってしまって、映画館に行けていない。どういうわけでこうなっているのか自分でもあまりよくわからないのだが、ライブでじたばた、というあたりが地続きなので(楽しいの?)はないか、とか。
原作はAugust Strindbergの同名戯曲 – “Dödsdansen”(1901)、脚色と演出はRichard Eyre。昨年9月にこのシアターで見たCharles Danceらが出演した”Creditors”もStrindbergが原作の3人(老人)芝居で、この時も画家Strindbergの絵画がモチーフの色模様で天井などが彩られていて、今回も。でも、舞台の上は古くて陰鬱で雑然としたリビングで、タイプライターや無線の受信機(唯一の外との交信手段)があって、やや重苦しいかんじ。
陸軍大尉Edgar (Will Keen)と彼の妻Alice (Lisa Dillon)がそのリビングに姿を現して、病弱であちこちにガタがきているEdgarとそんな奴の面倒をみるのも面倒っぽいAliceが激しくはないが刺々しい言い争いを繰りひろげていって、その刺々しさがなんだかおかしい。軍人だけどまったく出世できずに、でも軍人なので愚直に制服を着て外に出ていくEdgarと、結婚しなければ女優として成功していたはずというAliceは、互いに本当にあんたなんかいなくなっちゃえ死んじまえ、って全力全霊そう思っているようで、その言いようがストレートすぎて、それぞれ言われれば言われるほどふざけんな、って膨れて力を蓄えてくような、全体としては不条理劇の体裁でこちらに迫ってくる。 映画であればベルイマンあたりが撮りそうな。
時代設定はオリジナルの1900年初からスペイン風邪が流行した1918年頃に変えていて、ふたりの様子を見にきたAliceの従兄弟のKurt (Geoffrey Streatfeild)は最初にマスクをしていたりする。パンデミックで閉じこめられたなかでの夫婦の不和、という話は古い話に聞こえないし、すぐそこにいくらでも転がっている死、という背景がドラマをより生々しいものにしている。
そして、この閉ざされた空間で、憎み合い文句を言いあう彼らの背後に見えてくるのは本当の虚無、というか孤独で、それが第三者であるKurtの登場によってより明確になっていく。あんたなんか死んじまえ、と言ったその先、それが実現された後に、待っているのはどんな世界なのか、そうやって自分はひとりになった時に何が起こってどうなるのか、どうするのか、等々。これらが”Dance of Death”というタイトルのもとで形を作っていく、コレオグラフされていく過程がスリリングで、それを振りつけていくのは誰なのか、等。
一度Kurtが動かなくなって、あ、本当に死んじゃったんだ.. ってなるシーンがあるのだが、その時に見せるAliceの表情や挙動がすごくて、そこで自身の存在の境目(のようなもの)や重みを改めて測って見極めようとしているかのようで、こういうことは確かに起こることかも、って誰もが思わされるに違いないのと、あと、ここで問われているのは愛ではなくて、愛なんてなくて、ではなにがあるのか、と。なにが我々を、どこに向かって動かすことになるのだろうか、と。
[theatre] Beautiful Little Fool
2月12日、木曜日の晩、Southwark Playhouse Boroughで見ました。
脚本はMona Mansour、演出はブロードウェイのMichael Greif、ミュージカルで歌詞とスコアをアメリカ人のHannah Corneauが書いて4人編成のバンドがライブでバッキングして、アンサンブルの2人はコーラスも兼ねる。90分間、休憩なし。
舞台は暗い倉庫のようなアーカイブのなかで、ファイルや本や書類が山積みになっている2階建て、そこにScottie (Lauren Ward)がひとりで現れ、父は44歳で亡くなって、母は47歳で亡くなって、今日、48歳の誕生日を迎えるわたしは父母の亡くなった歳を越えてしまった!って嘆いたり叫んだりするとどこからかZelda Fitzgerald (Amy Parker)とF Scott (David Hunter)が蘇って、ふたりの出会いから先を歌って踊って綴っていく。
音楽は当時(1910-20年代)のジャズ等を使うわけではなくて、ずっと極めてプレーンなポップス・ロック調で主にZeldaが中心で歌って、ScottもScottieもソロを取る場面もあるが、やはりメインはZaldaの歌。18歳で地元アラバマのMontgomery Country ClubでScottと出会ってから盛りあがっていく恋、そこにScottの作家としての成功が加わって、奔放かつ最強のパワーカップルが生まれていくところ、やがてScottieが生まれて、ふたりの関係が壊れていって... という史実として知られているところをなぞりつつ、やはり中心は歌いあげるZelda、それを背後で見ているしかなかったScottieの嘆息、ということになるだろうか。
“This Side of Paradise”や”The Beautiful and Damned”といったScottの小説名が曲に織りこまれていたりもするが、文芸ドラマとしてはあくまでも控えめで、Scott自身が歌う場面も何かを訴えたり押しだしたり、という場面は殆どなくて、ふたりの関係の破綻についても、ScottによるZeldaの書いたものの盗用とか、精神病院に送ったり、の虐待に近い史実については十分に掘り下げられていなくて、強いふたりの個性がぶつかった帰結のような – すべてはどうすることもできなかった、なトーンで、真ん中と最後に歌われる”Call It Love”として貫かれていて、それを恋と呼ぶのであれば、そりゃなんでもそうなっちゃうよね、なのだった。
タイトルの”Beautiful Little Fool”はZeldaがScottieを産んだ時に呟いた言葉で、後にScottが” The Great Gatsby”で引用したりしているのだが、すべての女の子に”Beautiful Little Fool”であってほしいと願ったScottとあの時代のアメリカの男たち、それに対する毒なり批評なりが少しはあるかと思ったのだが、結局あのときの愛はほんものだったー 程度で終わってしまっているのはどうにも残念だしおめでたすぎるし、父母の歳を過ぎてしまったScottieも、せっかく資料庫にいるのだから改竄するくらいの勢いで何かを見つけ出して叩きつけてくれてもよいのに、結局思い出に溺れてしんみりしたまま終わってしまう。
ふたりが20年代、欧州で過ごした日々のことは、Gertrude Steinの肖像が舞台の袖に置かれて少しだけ出てくるのだが、『優雅な生活が最高の復讐である』のテーマにフォーカスしてZeldaに思う存分語って歌って暴れてもらう、という構成にした方が内容的にもおもしろくなったのではないか。
3人のアンサンブルは歌も含めて固まっていてうまいし楽しくて、でも個人的にはZeldaを壊して潰したのはScott、くらいに思っているので、このトリオネタでそんな楽しいミュージカルになるわけが… という違和感がずっと残ってしまうのだった。
2.18.2026
[theatre] Chiten Theatre: The Gambler
2月10日、火曜日の晩、Coronet Theatreで見ました。
原作はドストエフスキーの『賭博者』(1866)(亀山郁夫訳)、演出は三浦基、音楽は空間現代、初演は2021年。 90分間休憩なし。
地点の演劇は2017年、英国に渡る直前に早稲田大学大隈記念講堂で『ロミオとジュリエット』を見たのが最初で、それ以来。
舞台の上にはルーレットの上方で(or それ自体がルーレットなのか)LEDネオン付きで回転するがらがら、真ん中に長方形のテーブル(これも回転していく)、床もルーレットの色模様に色分けされている。舞台の左手にギター、左手奥にドラムス、右手にベースが入って、バンドがステージの周囲を固めてカウントして音楽が始まると、それに乗っかるようにして俳優たちがテーブルの各自の位置につくと同時にテーブルが回転を始めて、やはりものすごいテンションと速さで台詞が放たれて英語字幕上に映しだされていく。
ふだん字幕があったら字幕のほうを見る習慣がついているのでつい字幕を見て、ああこれは日本語の劇だった、と思い直すのだが、日本語であったとしてもラップのような強さと切れ目のなさで矢継ぎ早に繰りだされるので、字幕で確認したり補強したり、とにかくせわしない。途切れることのない空間現代の音楽は昔のパチンコ屋の軍艦マーチで、ルーレットの回転に油を注いでいって止まらないしこの輪から逸れることを許さない。依存症をかき混ぜて攪拌してもう一回固めて溶かして、の繰り返し。
とまらない、やめられない、というのがギャンブルに向かう、ギャンブラーの基本的な態度で、完全に中毒で自分で自転車をこぎ続けてしまう家庭教師アレクセイ、彼が恋するポリーナ、彼女の義父のロシア人「将軍」、彼が恋するマドモワゼル・ブランシュ、英国人のミスター・アストリー、フランス人のデ・グリュー、何度も死にかけては蘇る「将軍」の「おばあさま」など、このテーブルの上とか脇にこうしているいろんな人たちも何かの縁で、ギャンブルだって何かの縁に違いないし、って熱狂的に喋りまくり賭けまくる彼らはここでこんなことをしていて幸せなはずで、ひょっとしたら誰かの何かを救っているのかも知れなくて、その欲望のありよう – 絶望~ひょっとしたら~まだまだいけるかも – の循環を反復されるポーズとかフレーズなどで繋いで端から端に叩きつけていく。
ただ近年の日本のお笑いなどで顕著になった(ように思う)、キメのポーズとかそれに合わせた掛け声とか台詞とか、それにみんなの声を重ねたりとか、どこがおもしろいんだかぜんぜんわからない、運動会の幼稚さを思わせるあれらが延々重ねられていくのはちょっと苦痛で、これって海外(あ、こっちが海外だが)の客にはどう見えているのかしら、とか、でもこの子供っぽい集団の熱狂と喧騒こそがギャンブラーを焚きつけて90分間をノンストップで走らせてギャンブラーたらしめる、ということはわかる。
やはりこの装置の外側で、なんでこんなことになっちゃったのか?とか、これらがなくなったらこの人たちは? などはあってもよかったかも – 有り金への言及はあったけど。これだけだと90分のトチ狂ったパフォーマンス(異国の)、にされて「なんかすごいねー」で終わっちゃうだけなのではないか、って。
[theatre] The Constant Wife
2月9日、月曜日の晩、Richmond Theatreで見ました。
Richmondって、ロンドンからは電車で1時間くらいかかるくらい遠くにある場所なのに、Orange Tree Theatreとかこれとか、なんで素敵な劇場があったりするのか?
Royal Shakespeare Companyの制作で昨年Stratford upon AvonのSwan Theatreでプレミアされたのがキャストを替えて英国中のツアーを始めて、それがロンドンに来て、ロンドン公演は一週間だけ、英国ツアーの後は、Queen Mary 2のクルーズに乗りこむんだって。
原作はW. Somerset Maughamの同名戯曲(1926)- 1929年にはアメリカでWilliam Powell主演、”Charming Sinners”のタイトルで映画化されている - 翻案はLaura Wade、演出はTamara Harvey、ジャジーでラウンジ―で素敵な音楽はJamie Cullumのオリジナル。 舞台は淡い幾何学模様の壁紙から淡い照明から風にゆらぐカーテンまで、ものすごくおしゃれな一軒家のリビングで、冒頭に執事Bentley(Philip Rham)が現れて、ピアノをじゃんじゃか鳴らしてからドラマがはじまる。
36才の主婦Constance Middleton (Kara Tointon)は医師のJohn (Tim Delap)と結婚してだいぶ経っても幸せそうで、颯爽と誰の心配もいらないふうに暮らしているように見えて、最初の方の母(Sara Crowe)や妹Martha (Amy Vicary-Smith)とのやりとりもコミカルで揺るぎなくて、将来にわたって何の不安も心配もいらないかんじであることがわかるのだが、そのうち - 気づいていたのかいないのか、親友Marie-Louise(Gloria Onitiri)と夫が不倫関係にあることを知り、家に乗りこんできたMarie-Louiseの夫Mortimer (Jules Brown)がわめきたてたことで、夫の嘘や裏切りが決定的に晒されてみんなお手上げ、になってしまう。
お話しはそれを知ったConstanceの揺らぎ、失望や怒り、あるいはどん底からめらめらの復讐やリカバリ、立ち直りにフォーカスしていくのかと思いきや、ぜんぜんあっさりさばさばとひとりで生きていくためにインテリアデザインの職を身につける - その準備を1年くらいかけて着々と進めて行って、それによって却ってじたばたする周囲の愚かさ、いろんな恥ずかしさが露呈していく、その工程を描いていって、そこにおまけのように献身的な恋人Bernard (Alex Mugnaioni)まで付いてくるので、いろいろご心配頂きありがとうー、って爽やかに旅立っていくConstantなConstanceの肖像を描いてかっこよいったらない。
経済的自立がすべて、誰にもやりこめられない、のようなやり方を貫いてとにかく感情に流されない/訴えない、誰の味方もしない、そういう地点から時間をかけて自分を磨いていくと、結局は周りに誰もいなくなっちゃったり、みたいな人間関係における乾いたシニカルな認識 - 原作者Maughamの時代にはちょっと皮肉に映ったかもしれない女性のありようが、今の時代だったらどんなふうに見えるだろうか、という実験? これが皮肉でもなんでもなく極めてまっとうで健全に見えてしまう、というのは一体どう捉えるべきなのか?
お勉強とか備えとか、そんなのやる余裕すらない、とかその間も一緒に暮らしたりしているんだろうし、実際のところは? とか横から意地悪く突っ込まれそうで、でも少なくともこの舞台のConstanceの態度にはブレとかなくて、あたふたするのは周囲の方で。
とにかくConstanceを演じるKara Tointonの颯爽としたしなやかさが突出していて、彼女が約100年前の舞台の世界にいることが勿体ない、そればっかりだった。