7月5日、日曜日の午前、K’s Cinemaのイーリング・コメディ特集で見ました。
映画史に残る名作、とかそういうのではないと思うが、やっているとつい見てしまう1本で、このサイトでも書いているのだが、それでもまた見てしまった。 1950年のBAFTAではBest British Filmにノミネートされていて、結果は『第三の男』の前に敗れている。
コメディにしてはかなりダークな、Oscar Wildeの系譜に連なるようなストーリーテリングで、決して明るく楽しい結末でもないのだが、踏板外しみたいなラストの見事さには、ううう、ってなる。
エドワード朝時代のイギリスの牢獄に公爵Louis D'Ascoyne Mazzini (Dennis Price)が入っていて、翌日絞首刑が執行されるというので教会からも人が来て、看守たちも公爵さまだから、ってやや緊張しているのだが、彼はずっと書き溜めていた手記を仕上げようとしていて… というところから回想がはじまる。
彼の母は公爵の末娘だったが、身分違いのイタリア人のオペラ歌手と結婚したことで放り出され、それでも夫婦にはLouisが生まれて貧しくても一家で幸せで、でも父が亡くなるとすべてが一変し、生活に困って実家に助けを求めてもすべて却下されて失意のなか母も亡くなる。こうして復讐の鬼となったLouisは、爵位継承順位で自分より上位にいるD'Ascoyne家の8人を順番に殺害していくことにする。この皆殺し計画と並行して、幼馴染のSibella (Joan Greenwood)との実らなかった恋、自分のせいで未亡人となり、やがて妻となるEdith (Valerie Hobson)とのこともあり、決して明るくはないけど、きちきち律儀に復讐を成しとげていくさまがクールにすっとぼけつつ進んでいって、とにかく爵位を取り返すの。すっとぼけと言えば、殺される側の8人をひとりで演じているAlec Guinnessの絶妙なこと。殺される側がなんだか楽しんでいるように見えてしまう巧さ。
原作はRoy Hornimanの小説“Israel Rank: The Autobiography of a Criminal” (1907)で、タイトルだけでわかる主人公 - Israel Rank - の人種はユダヤ人で、赤ん坊を毒殺したり、かなり陰惨で露骨な反ユダヤ主義小説 – という形で反ユダヤ主義を風刺しているものらしく、これをイタリア人のハーフに主人公を替えてイギリスの階級制度への風刺にひっくり返した監督Robert HamerとJohn Dightonの脚色はすごいと思った。
これ、舞台を日本にして家父長制へのどろどろした呪いと復讐を… って既にいっぱいありそうなー。
日本の皇室で38親等離れているけど継承権があると主張するやくざが… ← ちょっと生々しすぎる(そしてくそばかばかしい)
Girl, Dance, Girl (1940)
同じ5日、↑のを見たあと、日仏のデュラス特集で“Aurelia Steiner”の(Melbourne)と(Vancouver)を見て、このまま週末を終えてしまうのはどうか、ってなったので、途中で渋谷によってシネマヴェーラのRobert Wise特集で見ました。 帰れよ。
もう何回も見ているし、書いているし、でもいいの。 Dorothy Arzner監督による『恋に踊る』。この作品でRobert Wiseは編集をしていて、彼の次の編集ワークが”Citizen Kane” (1941)で、この他にもWilliam DieterleやGregory La Cavaといった監督の編集を手掛けているのね。
オハイオからNYに出てきて、ダンスで成功を目指すJudy (Maureen O'Hara)とBubbles (Lucille Ball)がいて、Bubblesは”Tiger Lily”の名でブロードウェイのバーレスクのステージに立って、途中からJudyがクラシックバレエの衣装でステージにあがると客から引っ込めーってぶうが出て、改めてTiger Lilyが出てきてやんやの喝采になる、という演出がうけて大当たりするのだが、本当か? っていつも思う。
だって、Maureen O'Haraが現れて踊るんだよ? 節穴かよ? って思うのだが、最後にやっぱり彼女に怒られるのでストーリーとしての筋は通っているのか。
とにかく必見だからー。
7.10.2026
[film] Kind Hearts and Coronets (1949)
7.09.2026
[film] Césarée (1978)
7月4日、土曜日の午後、日仏学院のデュラス特集で見ました。
今回のこの特集で、再見するのも含めてデュラス作品を見てきて、映画としてはおもしろいのだが、感想を書くのは難しいなー、って改めて。今回の短編について言えば、映像として映しだされるものとデュラス自身の何かを語らんとするその語りは関係ない、と言えるものなのか、どこかなにかの繋がりや連関が見えてくるのではないか、と探りながら見る、というやり方もあれば、その土地と歴史、その記憶に関係するもの、それらを呼び覚ますもの、として彼女が練りあげようとしたストーリーを読もうとする、いやそもそもの映画的な語りをぶっ壊すものとして... など、映画とは、小説とは、ということよりもアートをつくる、考えるということの豊かな根幹を考えさせるもの、としか言いようがない。そういうのに対して感想もくそもないわ。ふつうに論考になっちゃうわ。
“Les Mains negatives” (1979) - 『陰画の手』と同様、Pierre Lhomme, Éric Dumage, Michel Cenetの3名が撮影し、Amy Flamerの弦が響きわたる現代の映像と音にデュラスの声が被さっていく。
古代ローマの要衝だった地中海沿岸の都市Césarée、紀元66年に始まったユダヤ戦争で、ヘロデ朝ユダヤの統治者の王女ベレニケはローマ軍司令官と密会して、やがて追放される、という愛と裏切りの悲劇が語られて、そこで映しだされる映像はパリのコンコルド広場や工事中のマイヨールの彫像、テュイルリー庭園など、なんとなく王家の残り滓っぽいあれこれ。
『陰画の手』では紀元前に遺された洞窟の手の跡(陰画)に朝の到来と共に半端に置きざりにされて目覚める現代パリの路地を重ね、そこから愛を求めるひとつの声を響かせていたが、その一年前に作成されたこの作品は、捨てられたベレニケの聞かれることのなかった声を現代の喧噪のなか - 都市と戦争の非情さのなかに放り出す。
Duras et le Cinéma (2014)
『陰画の手』の併映作品だった”Marguerite, telle qu'en elle-même” (2002) - 『マルグリット・デュラス、あるがままの彼女』と同様、Dominique Auvrayが監督したデュラス生誕100周年に向けて作られたドキュメンタリー作品。 邦題は『デュラスと映画』。
『あるがままの彼女』がデュラスの生い立ちや思想や愛がどんなふうに生まれ育まれていったのか、その背景を順に追っていったのに対して、こちらは彼女が映画に(小説ではなく映画に)向かっていった思いや考え方をストレートかつ具体的に示す。彼女の言葉だけではなく、撮影現場の記録、関係者たちの証言 - Melvil PoupaudがBruno Nuyttenの声を、Nahuel Pérez BiscayartがBenoît Jacquotの言葉をあてて、中心にある大きな空洞となったデュラス、そこに当時の関係者たちの声を響かせて彼女の不在を際立たせる。
内容からして、『陰画の手』の後に『マルグリット・デュラス、あるがままの彼女』を、”Césarée”の後に『デュラスと映画』を合わせたのは、狙ったことだったのだな、と今になって気づいた。
Le Navire Night (1978)
↑のに続けて見ました。 邦題は『船舶ナイト号』
パリのドイツ占領時代の名残である使われていない電話回線を通して偶然に知り合った、互いの顔も本名も知らない男女のやりとりが語られる(声はデュラスとBenoît Jacquot)。進行するにつれひとりは裕福な父親の別荘で暮らす白血病の女性、ひとりは電話会社で夜勤をしている男性であることがわかってくるがそれがどうしたで、最後まで彼らの姿が映しだされることはなく、かわりに屋内のインテリア(あのきらきらしたやつなに?)とか、この映画に出演する予定だったDominique Sanda, Bulle Ogier, Mathieu Carrièreらの、メークアップしたり、ただ立っていたり、ピアノを弾いていたりする背中が映しだされる。
“Le camion” (1977) - 『トラック』が運転手とそこに乗りこむ女性を映さないまま、それを遠目で見ながらデュラスとGérard Depardieuがなにやら言い合っていたのと同じように。 乗り物映画 - 車から船へ – こっちには船すら出てこない、頭のなかでとめどなく、どうとでも転がっていく、でも確かにそこにあったらしい愛の物語。
はじめから難破・破綻した映画を計画すること - 彼女は『スクリーンを覆う素材を見つけた』と言っている。なんで映画はルックスに、ヴィジュアルに従属しなければならないのか、という根源的な問い。電話回線を通してここまでの愛を描くことができるのであれば。
そして、この撮影で撮られた素材たちを使って、約2000年前の愛 - ”Césarée”、数万年前の愛 - 『陰画の手』 - が語られる。 『ヴェネツィア時代の彼女の名前』 (1976)のように、そんなの朽ちた建物の隙間からいくらでも湧いてくるのだ、って。
7.08.2026
[dance] String SAGA / 暗闇から解き放たれて
7月3日、金曜日の晩、新国立劇場の中劇場で見ました。
吉田都が芸術監督を務める新国立劇場バレエ団 – 6月に英国舞踊批評家協会賞(National Dance Awards)最優秀カンパニー賞を受賞するまで、そんなバレエ団があることすら存じませんでした。
海外からのバレエ公演は一部の貴族・富裕層のためのバカ高いチケットで、円安の流れも含めてそういうのに誰も抵抗しないようなので、国内のでもなんでも見れるやつを見ていくしかないや、になる。
ダブルビルで、同バレエ団の委嘱作品、で、”String SAGA”は世界初演、30分 – 休憩30分 - 25分、という構成。 このシアターは休憩時間に行くところがない。
String SAGA
振付は宝満直也、音楽は久石譲の「Viola Saga」 (2022)。
Twist(撚る)- Tension(張る) - Intertwine(絡まる) - Flick(弾く)- Spin(紡ぐ)- Tangle(縺れる)の6つのパートからなり、『強でしなやかな"糸"(ダンサー)と、鮮やかで豊かな"糸"(音楽)、そしてそれぞれの"性"(Saga)が撚り合い、一枚のタペストリーが織り上がるまでの道のりを描』く、とサイトの解説にはある。
冒頭、暗闇のなかにゆらゆら動く光る繭が浮かびあがり、それをダンサーがつつくとそれに応じて自在に揺らめいて、それに合わせて複数のダンサーが光る糸の周りで操り操られ、絡まり絡められ、を澱みなく繰り広げていく。光の繭は美しくて目にやさしいけど、音楽との絡み、変拍や変調も含めて、旧型モダンの典型でちょっと見たことあるかんじすぎたかも。
いまの日本で糸をテーマにやるのであれば、塩田千春のあの赤い雲に突っこんでいってぐじゃぐじゃになる、か、未だにぶっとくてうざいオトコの荒縄文化に突っこんでいって… どっちにしても突っこんでぐしゃぐしゃ…(にしたい。が見たい)
暗闇から解き放たれて - Escaping the Weight of Darkness
振付はアメリカのJessica Lang – ちなみに大女優の方はJessica Lange – ABT (American Ballet Theatre)でずっとやってきた人なのかー。 ABTはクラシックもモダンも90年代、00年代にものすごくいっぱい見たので、彼女の作品もどこかでなにかは見ているはず – ちゃんと調べろ。
2014年にこのバレエ団のために作った作品の再演。干支が一回転して暗闇のありようは、変わったのかどうか。
音楽はÓlafur Arnalds, Nils Fram, Josh Kramer, John Metcalfeなど。このなかでは、John Metcalfe – 一時期The Durutti Columnにいたよね - くらいしか知らないや。
幕があがると、ダンサーは床に寝ていて、あちこちに散らばっている白く光る雲のような救命ボートのような血小板のような楕円の塊がゆっくりと浮かんで上昇して、進行するにつれ雲は上がったり下がったり、様々な高さのそれらと絡んだり遠ざかったり、寄り添うのか邪魔をするのか。 舞台の奥のほうは腰から上くらいまでの白い仕切りで遮られて、ダンサーたちの下半身、脚たちしか見えない - 脚は宙に浮かびあがったり - 状態で推移していく。
目に見える、目を塞ぐはっきりとした「暗闇」も、そこから「解き放たれ」るような表現もない中、どのようなかたちで、なにが解き放たれ(う)るのかについての細かな接触ややりとりを通して、いくつかのグループに分かれた伸びや寝返りのような動きが同時多発で伝搬してうねりを作っていく。 暗闇を支配するものも眩い希望も見えないが、こんなふうに動いていけるのだ、という祈りにも似たステップ。一気に見せてしまうテンションの張り具合もよくて、あっという間だった。 尖がっていない、典型的なアメリカン・モダーンの様式美にあふれていて、自分にとっては居心地がよすぎてどうか、って。
新国立劇場(中)に向かう前に、国立近代美術館で見たやつを少しだけ。
杉本博司 絶滅写真
彼の写真展はいろんなところで何度も見ているのだが。
芸術の起源とその終わり、とうに死んでいるその死とその先について、銀塩写真というそれ自体が死滅に向かうメディアの上に焼きつける。 そして「焼きつける」という行為そのものも消滅に向かうそれで、どうせそのうちぜんぶ消滅しちゃうんだぞ、ということを伝えるため(だけ)に存在し、機能していく写真というアート。そんなガラクタ系をずっと集めて並べて、海辺の測候所でしぶとく延々観測する、という執念深さ。 とにかく、それでも絶滅するんだから、って延々やり続けるの。
常設展のほうにあった、彼の創作ノートの方がおもしろかった。 やはりここまで突き詰めて考える人だったか、って。
松本陽子 宵の明星を見た日
5日、日曜日の午後に、府中市美術館で見ました。
アンフォルメルからスタートした松本陽子は、杉本博司が絶滅、南無阿弥って言っている横で、まだ遠くに瞬く宵の明星を追って、見つめようとする、ここに現れる明星の若さ、瑞々しさとは、いったいなんなのか、と。
こういうのも含めて「抽象」ってなに? について改めて考えることが多くなった。「宵の明星」っていうのも抽象だよね。
あと、この美術館の常設コレクションの端に、Joseph Love先生の作品が4つ、並んでいた。
彼が「美術批評」誌に評論を書いていたことは知っていたし、作品もいくつか見たことはあったが、ここまで並べられているのを見たのは初めてだったかも。
わたしが絵画の見方(のようなもの、手口)を教わって考えたりするようになったのは先生の講義 – 「西洋美術史」を通年取ったのが大きかったの。取り上げらる絵画はクラシックが殆どだったが、休憩時間には現代音楽をカセットで流したりしていて、今思えばいろんな入口になっていたし、昨年欧州のいろんな美術館を巡っていた時も先生の講義が突然浮かんでくる場面があったり、こういう学びって本当に一生もの、ってしみじみ思うので、大学の一般教養とか文系を軽んじる声を聞くとふざけんな、っていまだに。どんな領域であろうとー。
7.07.2026
[film] Merrily We Roll Along (2025)
7月2日、木曜日の晩、Tohoシネマズ日比谷で見ました。
ところで、“Merrily We Go to Hell” (1932)っていうDorothy Arznerによる素敵な映画があるのだが、やっぱり関係はなかった。
George S. KaufmanとMoss Hartによる同名戯曲(1934)をStephen SondheimとGeorge Furthがミュージカル化、1981年にブロードウェイで初演されたこの舞台の2023年のリバイバル版で、ベースは2012年、ロンドンのMenier Chocolate Factory(すごく小さいけどすてきなシアター)で上演されたバージョンだという。 トニー賞でBest Revival of a Musicalを受賞している。演出はMaria Friedman。
映画版の制作も進行中で2019年にRichard Linklaterによって撮影が開始され、劇で流れていく20年をまるごとかけて(編集で逆回転するのか?)撮影中 - できる頃にはしんでる - で、Paul Mescal, Ben Platt, Beanie Feldsteinが出演予定、だそう。
上演している劇の舞台をそのまま撮ったものだが、National Theatre Liveとは違うプロダクション、撮影はSam Levyで、クローズアップも含めてきちんと撮っているので、これはフィルム枠になるのだと思った。演劇のステージを撮る場合って、あまり寄らず動かずに全体を俯瞰できるようにしてほしいんだけど…(個人的な好み)
1976年、映画プロデューサーのFrank Shepard (Jonathan Groff)の公開初日の成功を祝うパーティの場から始まる。大勢の関係者、知り合いでざわざわしていて、みんなFrankのことをすごい、って褒め称えて、本人も楽しそうでご満悦なのだが、古くからの友人であるらしいMary Flynn (Lindsay Mendez)は片隅で飲んだくれて燻っていて、妻のGussieもFrankがお気に入りの新人女優のことでぶちきれていて、元は作曲家だったFrankのかつての共作者Charley Kringas (Daniel Radcliffe) のことに話題が及ぶと顔を曇らせて… ここから1973 → 1968 → 1967 → 1964 → 1962 → 1960 → 1959/58 - 最後は1957まで、年を区切って逆順に遡り、中心の3人を追っていく、という構成で、ふつう人は年を重ねると人間関係も懐も豊かになっていくもの、と言われているし、主人公のFrankの成功も栄華もそんな典型的なアメリカの成功物語のように見えるし、実際そうなんだろうな、って思う。
なのだが、この逆回転劇は彼が年を経て獲得した輝かしいなにか、とか、なんで一部変な空気だったのか、の謎解きをするというより、成功と引き換えるように彼らが失っていったもの、にフォーカスして忘れ物を積みあげていく。 ので、見ていて楽しくなっていくものではない。あの時なんであんなこと言っちゃったんだろう/やってしまったんだろう/もう戻すことはできないのか… などなど。 後ろ向きにくよくよするのが好きな(ではない。けどついついやってしまう)人にとって、スケールこそ段違いに異なるものの、いろいろ思うところがあった。そしてそれを彩るミュージカル・ナンバーは、ミュージカル・ナンバーとしての華に溢れたりしていて、同じナンバーでも時代によって違う調子に聞こえてきたり、そこでそれが鳴るのか… って振り返る徒労感も重なったり。
最後の1957年、3人が下宿屋で出会うシーンの眩くて、何かが始まりそうで走りだしたくなる雰囲気、これがクライマックスに来るのはわかるのだが、でもそれはもう二度と戻ることのできない、取り返すことのできない場所と時間で、失われていてどうすることができようか?の状態にぽつんと取り残されて終わる。
そもそもは「若いパフォーマーのための舞台」として構想されたそうで、これを受け取る年齢によって印象が変わってくるのだろうが、年寄りには結構しんどいやつかも。 あーあー、で終わっちゃうのだが。
あと、忘れる、ということについて思い出したり。これらを忘れることでこれまでどうにかやってこれたのだな、って気づいた。
あと、キャストのトライアングルのすばらしさ。Jonathan Groffのつるっとした反省しないアメリカンの典型のような顔形と容姿と歌声、Daniel Radcliffeの簡単に壊れて潰れそうな、でもしぶとい不機嫌な神経系、Lindsay Mendezのぶっとい蹴りだしと重心。そのままバンドを組めそうな3人のケミストリーがあるの。
7.06.2026
[film] Born to Kill (1947)
7月1日、水曜日の晩、シネマヴェーラで新たに始まった特集 - 『ヴァル・リュートンから始まるⅠ ロバート・ワイズ』で見ました。リュートンもワイズもよく知らないところなので、可能な限り見たい(いつもの)。
邦題は『生まれながらの殺し屋』、英国でのタイトルは”Lady of Deceit”。 原作はJames Gunnによる小説 – “Deadlier Than the Male” (1942) - 『男よりもやばい』。 監督Robert Wiseにとって最初のフィルム・ノワール作品だそう。
サンフランシスコの社交家、Helen (Claire Trevor)は自分の離婚手続き待機でリノの町の下宿屋に滞在している時に知り合ったLaury (Isabel Jewell)が恋人のSam (Lawrence Tierney)を嫉妬させるために別の男とデートするんだー、って言っているのを聞いて、その晩、Lauryと男が一緒にいるところを見たSamは、嫉妬どころか相手の男とLauryを簡単に殴り殺してその場を去り、あとでその惨劇の現場を見てしまったHelenは警察には通報せずにそのままサンフランシスコに戻る。
サンフランシスコでHelenはSamとわざとらしく再会して、彼女が金持ちのFred (Phillip Terry)と婚約していることを知ったSamはHelenの義妹で新聞社を引き継いで裕福なGeorgia (Audrey Long)の方に近づいて、結婚するところまでのしあがる。
その裏ではリノの下宿屋のおかみが雇った私立探偵Arnett (Walter Slezak)が辺りを嗅ぎまわるようになり、Georgiaの夫として各方面になりふり構わぬ傲慢さをむきだしにするようになったSamと、自分が似た者同士であることを仄めかしつつ彼に近寄ったり距離を置こうとしたりするHelenの綱引き・綱渡りは果たしてどこに向かうのかー。
極悪非道のサイコパスが社交界でのしあがろうとして、彼と距離を置こうとしつつも絡まないわけにはいかない似たもの女性の複雑な思いと境遇を描いて、それはノワールの定石であるfemme fataleに寄っていく、それに翻弄されて嬉々として破滅に向かう男性ではなく、homme fataleに寄りつつ自分でもどこに行きたいのかわからなくなっていく – でも決して狂うことはない - 女性を生々しく現前させて、目が離せない。
Samのキャラクター造形にもうちょっとだけ深みを持たせることができたらなー くらい。いまの俳優に演じさせるとしたら、やっぱりGlen Powellあたりかしら。
Executive Suite (1954)
↑のに続けてみました。 邦題は『重役室』。
脚本はErnest Lehmanで、彼が手掛けた最初の映画脚本になるそう。あと、音楽が全くついていないの。
オスカーに沢山ノミネートされて、ヴェネツィアではGrand Juryを獲っている。
大手家具メーカーの社長Avery Bullard - 冒頭は彼の目線で動いていく – がNYでの商談を終えて、秘書に夕方帰るので重役会議を招集しておくように、って電報を打って道路に出たところで急に具合が悪くなって倒れて天にー。
倒れた男性が運ばれるのをビルの上から見てて、あれはうちの社長ではないか、って確信した重役が手元の株を売って儲けようと画策するが身元の公表がぜんぜんでなかったり、死亡が公表されると、社長は後継者の指名などをしていなかったこともあり、対外発表や株主の保護、そこで誰が主導権を執って進めるか、そしてなにより、誰が後継の社長になるべきか、などについて、彼は若すぎる、人望がない、など水面下での男たちのぐさぐさの攻防が始まって、焦り苛立ち失望などが止まらなくなる。
基本は老獪なじじい vs それぞれの理想に燃える若手、という男たちの成りあがり蹴落とし駆け引きサバイバル・ドラマで、そこに創業者の娘でBullardの愛人だったJulia (Barbara Stanwyck) - 議決権をもつ – が絡んで、相当にねっとりした熱いやつに盛りあがって、俳優はみんな重心低めでうまいし、緊張が途絶えないまま最後まで運ばれる。
見ごたえはあって、一般的なメッセージや教訓としてもたぶん悪いことは言っていなくて学びも多く、結末の持って行きかたも間違っていない映画だと思うのだが、会社とか経営とかそこでの仕事とかにぜんぜん興味を持てないまま生きてきてしまったので、何をやっているのか、何を言っているのかはわかるものの、これ、なにがおもしろいんだろ? の連打になってしまったのが残念だった。(そもそもなんで会社員なんかになったの? → 自分、といういつもの)
他方で、ここに出てくるような人たち(Executives)によって決定されたり執行されたりしたことが、多くの人たちの人生や生活の行方や質を決めることになる、という仕組みとか、そんな彼らに対するべらぼうな報酬とか支配/服従のありようとか、いまや世界の殆どの会社組織で行われていることとは言え、なんともグロテスクでおそろしいことだわ、って改めて思った。
[film] 急に具合が悪くなる (2026)
6月30日、火曜日の晩、ル・シネマ 渋谷宮下で見ました。
まだあれこれ考えたりしているが、なんか書いてみよう。3時間20分ある作品だが、するする見れて、軽い。
仏語題は”Soudain”(突然)、英語題は”All of a Sudden”、先のカンヌで主演のふたりが女優賞を共同受賞している。
原作は哲学者宮野真生子と文化人類学者磯野真穂による同名の往復書簡集(未読)で、映画は中心のふたり、その間で交わされるメディア(手紙→対話/演劇)、言葉も含め、舞台をパリとそこの介護施設に変えて、いろんな出会いや衝突があるなか「急に具合が悪くなる」ような事態はそこになにをもたらすのか? というその行方と結末を見せる、というより、どこまで転がっていってもどうにもならないnow/here な世界を、ロメール調のさらさら手書き日めくり方式で綴って見ようと。
パリで高齢の認知症患者向け介護施設のディレクターをしているMarie-Lou (Virginie Efira)は、老人たちを機能不全に陥った機械として扱うのではなく、人として対面して時間をかけてケア、支援していく、ユマニチュードの方法論を軸とした施設の設計や運営に反対したり疑義を抱くお役所や現場のスタッフ達と辛抱強く対話を続けていて、疲れて眠れなくなった時に誘眠剤を飲んでしまったせい(が直接の要因ではないが)で患者が亡くなって、トラムでひとり泣いていたら、丘の向こうから走ってきた智樹(黒崎煌代)と出会い、自閉スペクトラム症である彼と、その祖父で役者をしている吾朗(長塚京三)と彼の舞台を作・演出しているMari (岡本多緒)と出会い、彼らの演劇 - イタリアで精神病院を廃止した精神科医Franco Basagliaについての芝居 - “Da vicino nessuno è normale” - 『近づいてみれば、誰もまともな者はいない』 - を見に行ったMarie-Louは感銘を受けて、Mariと親交を深めていく。
Mariはステージ4の癌患者で、いつ「急に具合が悪くな」ってもおかしくない状態であること、またそうなったらもう先は長くないことをMarie-Louに告げ、Marie-Louは自分の施設での運営や指針を巡る試練や困難について語り、ふたり共なんでこんなに生きにくい状態になっているのか、等についてナンシー・フレイザーの資本主義システムの絵を白板に描いたりしながら共に対話して考えていく。
ドラマは急に具合が悪くなったMariが急遽日本に帰国し、一緒についてきたMarie-Louの求めに応じて再びパリに戻り、という展開を見せて、ふたりの抱える生き難さが周囲のいろんな人たちとの関係の移り変わりによってどんなふうに別の様相に変わっていくか、を描いて、所謂難病モノにある周囲の希望や悲嘆にフォーカスするものにはなっていかない。そういったエモを周到に回避しつつ、変わることは難しいかもしれないが、例えばこんなことも、という見せ方に向かう。
「急に具合が悪くなる」ことの「急に」が急であることを察知するためにはずっと傍にいて「いつも具合が悪い」ことを見ながら認識しておく必要がある。「急に具合が悪くなる」ことの背後には「ずっと具合が悪いまま」である/がある、ということ。 『悪は存在しない』 (2023)で、そう言いながら「悪は存在する」さまを軽く示していたように。
そしてその「急に」という事態、時間のありようは、患者ひとりひとりの時間感覚が異なるようにケアされていくなかで引き延ばされ、それが資本主義システムの求めてやまない効率や時間のお金の使い方 - 予測・計測可能ななにか、に対置、対抗されるものとしてあるように示される。ふたりの食べるカップラーメンの2.5分が、ぜったい2.5分よりも長かったように(いちばんはらはらした場面)。
そしてたぶんそこに、原作の往復書簡の宮野さんがテーマとしていた九鬼周造の「偶然性」の話も絡んでくるのだろうな、というのと、もうひとつの基調音としてあるロメールの映画とはまさにそういうchance meetingの織物としてあったよね、というのと。
ふたりが京都の山の上で語り合いながら朝を迎えるシーン、『レネットとミラベル/四つの冒険』 (1987)の"The Blue Hour"みたい、って思った。
主要な舞台を日本ではなくパリに置いたのも、ロメール、というだけでなく、日本だと雑で愚かで幼稚な資本主義がやかましく声高に進行しすぎていてドラマとして成立しないからではないか、とか。
ひとつだけ、施設の老人たちや自閉症の智樹の「演技」の描き方は、ちょっと気になった。ワークショップであれ本番であれ、彼らがあんなにきちんとコントロールされて動いてくれるわけなかろうに、って。
7.03.2026
[theatre] ハムレット
6月28日、日曜日の午後、静岡芸術劇場で見ました。 月1回は見たい演劇。
台風でどうなるんだろ? だったが新幹線は動いていた。雨風は去っていて、でもこの時期の吹きつけてくる霧雨がすごくいやで。
静岡、というと、2023年に静岡県舞台芸術公園で『Hamlet à l'impératif ! ハムレット(どうしても!)』を見ていて、静岡はなんとなく「ハムレット」を見る土地、になっている感がある。(それがどうした)
この舞台は昨年11月にここで上演されたもののリバイバルだそう。原作はシェイクスピア、河合祥一郎の翻訳をベースに、脚色・演出は上田久美子。
開場の少し前にロビーのようなところで、地元高校の芸術科演劇専攻(そんなのあるのいいなー)の生徒たちによる、ハムレットのあらすじについてのパフォーマンス 「みにみにハムレット」という5分くらいのがあった。5分でまとめて説明します、ということで、波も間合いもちゃんとしていて、これ自体は別によいのだが、劇の本編の方でも冒頭にホレイシオ(本多麻紀)が出てきて「要約します」というのをやっていて、これは最近の風潮なのだろうか、「まとめサイト」とか、「あらすじ」とか、他方でネタバレ禁とか、なんかぜんぶ繋がっているのだろうな、と思った。
そして最初に、登場人物全員が白いひらひらの衣装で登場して、全員がオフィーリアである、という。配布された縦長の冊子には、人間以外の存在を無視しないために、ということで「ノンヒューマンな存在たち」を意識した動き、という言及があり、冒頭のオフィーリア(たち)の動きは - ストーリーの本筋から排除されがちな彼女の声や目線を拾いあげるものでもあり - その方向性に倣ったもの、であるのかしら。
この世継ぎをめぐる復讐と自家撞着のどろどろと転がっていく物語は、確かに王子ハムレット(山崎皓司)を中心に据えたものなので、そこから漏れたり拾いあげられなかった声などもあるのかもしれないが、では、そうして拾われたり掬いあげられたりした声の確かさとか網羅性って、どうなのだろう? そこにおいてもまた、オルタナの「存在」によるふるいが掛けられたりしないのか? とか。 物語を作る、というのはそもそもが作者のそうした恣意の塊りを捏ねていくことなので、読みの試みとしては別の視点が導入されたりしておもしろいかもしれないけど、物語の本来のありようを薄めてしまう – それって先に書いたあらすじ、要約志向にも繋がっていくやつなのかも、とか。
なんでそんなことを? たぶん、作品の外にあるいろんなものとか関係各所などへの配慮? 見てわかってもらうための努力? でもこういうのってそもそも自分が見て取り組んで考えるなかで見いだしたり纏めたりすべきものではないのか?
舞台の上は空気でぶわぶわ自在に膨らんだり萎んだりするビニールシートで雲のように覆われ、それが天井にまで伸びていて(最後は客席まで覆いにくる)、この雲が登場人物たちの視界を遮ったり塞いだり。音楽は、此岸彼岸の境目を意識させるかのような電子音とかちりちりしたノイズと、太鼓のとんとこから最後は和太鼓まで。全体として決して元に戻すことのできない、やっちゃったどうしよう… なひりひりした感覚が充満していて、ストーリーの本筋はそれに乗って揺れずにふつうにハムレットしていたような。オフィーリア、最初はあんなにいっぱいいたのに。ホレイシオも肝心なところでは妙におとなしいし。
結局、要約とか語り部とかオフィーリアとかノンヒューマンが脇でいくらざわついてもハムレットの悲劇は動かしようがなくぶっとく天井から落ちてきたもの、というのが明らかになった、ということでよいのかしら。
演劇は舞台と客席がどちらもナマなのでいろんな化学変化や突発事故がありうるしあったらおもしろいだろうな、とは思うけど、その向こう側にはテコでも動かない、動かしえないヒューマンの領域というのが確かにあるのかも、って思ったりした。
帰り、新幹線まで少し時間があったので静岡駅の地下を通って歩いていける駅ビル?の上の静岡市美術館でやっていた『スウェーデンのうつわ グスタフスベリのある暮らし』という展覧会でうつわを見て帰った。ハムレットはデンマークだけど、彼、うつわとか興味なかったのかな… (それどころじゃな… )