3.05.2026

[log] Auschwitz-Birkenau - Feb 27

2月27日、金曜日の昼、現地に行きました。簡単な備忘。

ヨーロッパの近代以降の文化にずっと惹かれて追ってきたものにとって、この場所に行くこと、ここの地面の上に立って何があったのかを頭に刻むことは宿題のようになっていて、前回の駐在時にも計画していたのだがコロナで行けなくなり、本当は20代30代の時に見ておくべきだったと思うのだが、ここまで時間が掛かってしまった。ここ数ヶ月であちこちに行ったりしているのは全部そうで、なにもかもしみじみだめだった、なんでもっと早く、ってどこに行って歩いていても思う。

現地を見るにはMuseum(遺構、敷地全体がMuseumとして保護・保全されている)のやっているガイド付きのツアーに参加する必要があって、日本人の方によるガイドがよいことは知っていたのだが、時間の余裕もないのでオンラインで取れる英語のツアーにして、でも1月中旬の時点で2月の後半で取れたのはここの昼間のひと枠くらいしかなくて、とりあえずそのチケットを押さえて、その後にフライトを探してみると、クラクフから当日に入るのは無理、当日に出ていくのも無理で、会社の木金を休む2泊3日にせざるを得なかった。できればこの機会にワルシャワも行きたかったのだがそれも大変そう、後で28日の晩にMorrisseyのライブを入れていたことに気づいたが、どうにかなりそうで少しほっとしたり。

着いた日からクラクフの天気はとてもよくて、この日もぽかぽかと暖かい日差しで、クラクフの町から電車で約1時間と少し、そこからほぼ一本道を歩いて約20分。公園とかもあるあまりに普通の住宅地のなかに突然Museumの施設が現れて、入口はバスで来た団体客でわらわらしていたところを助けられるように奥に入れて貰い、いろんな言語のツアーが順番に入っていくなか、開始時刻にガイドの女性に率いられて中に入る。自分の集団は20~30人くらいか。

何度も写真で見たことがある”B”が倒立した”ARBEIT MACHT FREI” – 働けば自由になる – のアーチがいきなりあって、そこから第1収容所の施設を端から見て回る。これまでプリーモ・レーヴィやフランケルで読んで、写真でも映画でも何度も見てきたそれらが目の前にあって、あたりまえだけどぜんぶここで起こったのだと。

収容所に到着した子供たち、女性たちの写真、ゾンダーコマンドが撮った火葬場の風景、これらの以前見たことのあった写真も、この場所であった/撮られたということでこれまで見知っていたのと異なる生々しさが立ち現れてくるのと、他には映画”The Zone of Interest” (2023)に出てきたRudolf Heß一家が実際に暮らしていた家を見ること、この間の演劇”Here There Are Blueberries”で撮られていたナチス幹部たちの風景を重ねてみること。

アウシュビッツを一通り見た後に、シャトルバスで20分のところにあるビルケナウに向かい、あのずーっと奥まで伸びた線路と、当初計画ではとてつもない規模になる予定だったという広大な敷地を眺めて、実際に歩く。ここまで拡張される予定でした、ってショッピングセンターやデータセンターの拡張計画のように考えていたとしか思えなくて、そういうのを得意げに語る営業担当みたいな幹部の顔が何人も浮かんでとても気分が悪くなった。

過去にいろいろな形で表象されてきた風景や情景、それらが目の前にはっきりとある、どれも恐ろしいのだが、なによりも恐ろしいのは、ここにものすごい量の人的リソースが投入されて、毎日どれだけの数を「処理」することができるのか、「集約」とか「効率」とか言いながら日々の仕事としてやっていたことだ。こんな規模の施設で「なにをやっていたのか知らなかった」なんてありえないよね。

あとは、割と最近の映画 – “A Real Pain” (2024)とか”Treasure” (2024)で、収容所で亡くなった祖先を訪ねて(ではなく、お墓があるわけではないので収容所の遺構を訪ねて)いく子供や孫の映画がいくつかあって、これらについても訪ねたくなってしまう事情はなんとなくわかった。こんなところで、っていうのがあまりに非現実的すぎるからではないか。

そして最後はやはり、いまの世界で実際に起こっている虐殺のことを考えてしまう。数日前に始まった戦争のことも。
過去のこれらからなにも学んでいない、自分たちさえ良ければそれでいい人たちが絶対安全な場所から子供たちを殺している、ということを。それを我々みんなが許してしまっている、ということを。

これ以外のクラクフでのことはまた別で。

3.04.2026

[theatre] Arcadia

2月24日、火曜日の晩、Old Vicで見ました。
原作はTom Stoppardの同名戯曲(1993 – 初演も)。演出はCarrie Cracknell。

Old Vicは昨年舞台と客席の配置をリニューアルして、舞台を前方中央の円形に、客席はそれを見下ろす or 最前列は同じ高さの地続きの床になったのだが、ずっとこのレイアウトで行くのだろうか?(上演される劇を選んでしまうような..)

1809年のイギリスの邸宅の一室で、そこに暮らす天才少女Thomasina Coverly (Isis Hainsworth)と家庭教師Septimus Hodge (Seamus Dillane)がいろんなテーマについて楽しく問答を繰り返しながら、数学や科学の理論を通して自然や宇宙の包括的な謎に迫ろうとしていくのと、登場人物ががらりと入れ替わった現代の同じ部屋で作家のHannah Jarvis (Leila Farzad)と文学教授のBernard Nightingale (Prasanna Puwanarajah)が、100年以上前、かつてこの部屋で起こっていたかもしれないことについて議論を重ねていく。

気が付くとゆっくりと回転していたりする円形の舞台には低めの棚が沢山とその上に積まれた本がいくつか。部屋の頭上には星雲のような円弧なのか原子の回転なのか、舞台と同期をとるように弧を描きながら瞬いていく光の球がある。棚のどこかには食パンくらいのサイズの亀がいて、この亀さんはどちらの時代にもいる(同じやつ?)。

1月にHempstead Theatreで見たStoppardの”Indian Ink”も過去のインドに生きた - 鮮烈に生きた英国人女性と80年代の英国を同じ舞台上に繋いで、時代を跨いで行ったり来たりする劇だった。歴史の縁に埋もれた女性の声を発掘する、ということと彼女たちがそこにいた、生きていたということを探偵のように掘り下げていくことで開かれていく我々の目、といういくつかの視点があり、それらを共時的な体験としてひとつの舞台の上に実現する – これって演劇の可能性のひとつだと思う。

19世紀の彼らは、田舎の小さな一室で幾何学や不可逆性やカオス理論、天文学の可能性や仮説について論じて、そんな夢のような理屈がこんなところでは実証できないことを知りながら、それでも語ったり議論したりしないわけにはいかない。現代の彼らはいま自分たちの住む家に出入りしていた痕跡のあるバイロン卿の謎めいた動き、その点と線を推理しながら、やはり同じところを同じように回り続けている。天と地、科学と人文、見つめる先もテーマも全く異なっているのだが、はじめからそこにある混沌に秩序と補助線を加えて見晴らしのよいアルカディアの庭園を目指そう、という思いは共通している。それが穴倉のような部屋のなかで100年以上の時を隔てて起こった、そこで起こる、瞬くかもしれなかった可能性に想いを馳せること。

19世紀の舞台と現代の舞台で、現代の方は登場人物が多いこともあってややじたばた落ち着きがなくて、両者が慌しく交錯する最後の方はもうちょっと整理してほしいと思ったが、この劇はこうなりました!という結末を提示するというよりも、とめどなく広がっていって止まらない思索のありよう、その可能性を示すものだと思うので、こんなふうでよかったのかも、と思った。舞台装置とか衣装とか、すべてのデザインが”Arcadia”!の方に向かって揃って纏まっているように見えたので。

こんなふうに自分の足下で過去に何が起こっていたのか、想像みるだけでも楽しくて、でもそれをするためには建物とか周辺の見晴らしがそれなりに残されている必要があって、英国ってそういうことができる土地でもあるよなーって。
うちのフラットのそばのテムズ川を見てるだけでも、なんか来るもの。


帰国まで1ヶ月を切ってしまったので、従来からのお買い物大会と見納め大作戦に加えて、しんどいばかりの箱詰め大会も始めないわけにはいかなくなった。ちまちま買い溜めてきたペンギンの古いの、Virginia Woolfの”Orlando”が3冊も出てきて、どれも1945年の版なのが笑えた。巷では3冊までなら許されると聞いたのでちょっと安心。

あと、備蓄食料の在庫一掃も始まっていて、これのルールはぜったいに賞味期限を見ないことなの。

3.03.2026

[log] Copenhagen - Feb 21 - 22

2月21日、22日の土日の1泊で、コペンハーゲンに行ってきたので、簡単な備忘を。

これの前、15日は日帰りでJersey島に行ったり、19日に日帰りでBrusselに行ったりして、どちらも雨でぐじゃぐじゃのひどい天気で、ジャージーの牛さんは見れなかったし、思うように動くことができなかった – そういうこともある(って思うしかない)。べつにいいの。

コペンハーゲンもデンマークも初めてで、街はやはり雪と氷で覆われて、冷たい霙みたいのが軽めに横殴りで運河は半分くらい凍っていたが、今はそういう季節なのでぜんぜん平気だもん、という顔で歩いていく、と氷の水たまりに…

Marmorkirken

フレデリック教会、大理石の教会で、刺さったり覆いかぶさってくるような荘厳さを訴える、というより、フレスコ画も壁の牛や鳥も、すべてが丸めで柔らかくそこに収まっていて、とても居心地がよい。凍える寒さのなかここに入ったらとても安心するのではないか。

Design Museum

日本のポスターと北斎の木版画展をやっていた。
60〜90年代くらいまでの、展覧会や万博、オリンピック、芝居から商業広告まで、知っているのも沢山あるのだがどれも刺激的で、目を惹かせて、次にちょっと立ち止まって考えさせる、ようなことを小賢しくこ憎らしくやっている。いまも日本の街にはクズのような宣伝広告がいっぱい溢れているが、こういうポスターが作られなくなったことと、「再開発」と称して街に醜悪な建物がずらずら並ぶようになったことはどこかで繋がっていると思っている。

北斎は彼のデザインがわかりやすく出て、いろんな線のありかがくっきりとわかる作品が多くあったような。でもデザインなら広重とかの方ではないか。

あと、日本刀の鍔のコレクションの量がすごくてびっくり。人を殺す刃物の部品があんなにいっぱいあるの? とか。

そしてこれ以外の常設展示は、布、家具、文具、陶器、有名な椅子コレクションまで、こんな? あんな? だらけの楽しい驚きがいっぱいで、デザインのコレクションをやるならこうこなくちゃ、の模範のような並べ方だった。ショップにも欲しいのがいっぱいあったが我慢した。

Rosenborg Slot

公園の池は凍っているのに鴨が何羽かいるその脇に建つ古めのお城。 これまで見てきた英国やヨーロッパのお城と比べてもはっきりしょぼめでガタがきていて寒そうなのだが、展示の仕方が工夫されていて次々となんだか飽きないのと、地下の宝物館でこれでもかって誇示される宝物財宝類のすごさにちょっとあきれた。

SMK – Statens Museum for Kunst

National Galleryなら必ず、どこにでも入ってみようのシリーズ。 クラシック絵画は割とふつう、フランス近代は何故かマティスが多め、北欧系はやはりハマースホイを始め、とても充実している。描かれる光の淡さ・深度が共通していることのおもしろさ。BrusselのRoyal Museumもそうだが、広々した二階建ての美術館が一番見やすいなー。

日曜日も同様にさらさら雪氷の横殴りだったが、Christiansborgの王宮に向かって、庭のキルケゴール先生の像にご挨拶して、地下の遺構からレセプションルームまでいろいろまわった。これまでに見てきた王宮と比べるとこぢんまり綺麗に纏まっていて、より現役っぽい印象。


Den Hirschsprungske Samling - Hirschsprung Collection

企画展示でやっていた”Hanna Hirsch Pauli – Kunsten at være fri - The Art of Being Freeがとてもよかった。

Hanna Hirsch Pauli (1864-1940) はスウェーデンの画家で、昼も夜も、人が集ったり人を待っている食卓の上の光の散りようが素敵で、肖像画は結構ムラがあるが目を離せなくする力がある。
ここのハマースホイの数点もよくて、男性の脇に描かれた白い椅子と同じ椅子が展示されて(というよりそのまま置いて)あったり。

あとは、展示系とは関係なくパンがどこでなにを食べてもすばらしくて、ここなら永遠に暮らしていける。Hartっていう、Noma系列のパン屋の穀物系のとかケシの粒のとか、いくら食べても飽きがこないの。

[film] Wuthering Heights

2月20日、金曜日の晩、Elvisの”EPiC”を見た後に続けてBFI IMAXで見ました。
 
原作はEmily Brontëの『嵐が丘』、監督、脚色は”Saltburn” (2023)のEmerald Fennell。

少し前まで、バレンタイン・デーの公開に向けた宣伝攻勢がすごくて、でもそれだけ見ると映画本編前にかかるChanel N°5 のアホみたいなCM - Margot Robbie が出ている - とほとんど同じようで、最後に主題歌 - Charli XCX ってでっかくでるところだけおおーってなったり。
 
小説の『嵐が丘』は良くも悪くもの雑多な謎、見晴らしの悪さ - というほどではない、どうとでも取ることができる茫洋とした粗さと暈しに溢れたガレージ道端雑草小説で、それは欲望なのか愛なのか、みたいなところをぐるぐるまわって果てることがない。そうなってしまった時のどうでもいいや好きにして、の自由なのか不自由なのか感覚はハワースまで行って、そこの台地でぼうぼうと四方八方から吹きつけてくる風を受けているときに感じて歪んでいく自分の五感の投げやりな喪失感に似ていて、でもその放棄の総体を愛と呼んでしまうことについてはそんなに違和感はない。
 
Cathy (Margot Robbie)の家に薄汚れたHeathcliff (Jacob Elordi) が貰われたんだか拾われたんだかやってきて、いつも綺麗につんとしている彼女と粗暴な雑種の彼はずっと一緒に遊んだりしているうちに離れられなくなっていくのだが、実家が傾いたのでCathyは近所の金持ちのところに嫁いでいって、Heathcliffはどこかに消えて、小綺麗な成金になって戻ってきて、Cathyのところに顔を見せるようになる。もともと望んだ結婚相手ではなかったCathyはHeathcliffを追いかけるのだが… というのを原作の語り手で裏でふたりの関係を操る家政婦のNelly (Hong Chau) を挟んで、ほうれ見たことか、みたいに描いていく。
 
CathyとHeathcliffの他に、HeathcliffとIsabella (Alison Oliver)のいけないお話しもサブで絡んで、でも物語としての底の知れなさや制御不能の業、これらの狂える嵐や暴風のどろどろを畳みかけるところまでは行かなくて、女子であればかっこよい衣装 - by Jacqueline Durran - で映える背景でキメたい、男子であればかっこよく変態してのしかかって見返してやりたい、ふたり共通の欲としてえんえんセックスに溺れて乱れてなにもかも忘れてしまいたい、これらを強い要請とかなしにパラパラ無駄なく並べていってIMAXの大画面で浴びていると何かを見た気になってしまうのかも知れない。けど後にはなんも残らなくて、それでよいのか。もっと不純で汚れていてもやもやした何かが残る、嵐が常駐して彼方に去っていかない、のが原作の魅力だったのではないか、とか。
 
不穏さと想像していた以上のちゃらい感じ、というのは”Saltburn”が割とそれに近い印象を残した作品だったので、ちょっと期待したのだったが、真ん中のふたりがあまりにふつうの美男美女できらきら余裕と自信がありすぎててそういうのが見えないのよね。見る方もなんか綺麗だからそれでいいか、になってしまう。で、そうなることで物語の舞台としての「嵐が丘」は殆ど意味を持たない、雨風を防ぐお屋敷かすべて筒抜けの廃墟 - セックスするための場所でしかなくなる、というー。 ポルノ映画のタイトルとしてあっておかしくない「嵐が丘 - もっと吹かせて」など。

2.26.2026

[film] EPiC: Elvis Presley in Concert (2025)

2月18日、金曜日の夕方、BFI IMAXで見ました。

公開前のPreviewをIMAXのみでやっていて、どの回もチケットの売れ方がすごい。老人たちがツアーのように押し寄せてノヴェルティとして配られているElvisの旗を持っている。英国のElvis狂いがすごい、というのは知っていたがこの人たちかー、って。

Baz Luhrmann監督による“Elvis” (2022)に続くElvisものの第二弾。最初のは評伝ドラマだったが、今回はコンサート・フィルムで - 監督はコンサート・フィルムでもドキュメンタリーでもない、と言っているらしいが – “Elvis”で使う用に過去のコンサート・フィルムの未公開フッテージを探していたらカンザス州の岩塩鉱山にあるワーナー・ブラザースの映画アーカイブで、35mmと8mmの映像が入った68箱の箱が発見され、でもそこには音声が付いていなかったので、別の、既存の音声ソースをあてるのにPeter Jacksonの”The Beatles: Get Back” (2021)の修復スタッフの力も借りて、ぎんぎんの装飾まみれの、Baz Luhrmann印 – あのばかばかしいエンドロールも含めて - の堂々たる”Elvis”フィルムが出来あがった、と。

Elvis Presleyその人の紹介は兵役とか映画でのキャリアを繋いで紹介するくらいで軽く、あとはラスベガスのInternational Hotelでの公演に向けたリハーサルから本番まで、曲の合間にインタビューで喋る映像も挟まるが、ほぼコンサートの怒涛の勢いと迫力が前面に出ていて、これだからIMAXで、というのは納得できる重量感。

こういうライブ・フィルムはリハーサルのも含めて大好きで、まずはバンドの方に目がいってしまうのだが、とにかくバックのTCB (Taking Care of Business) Band - James Burton, Jerry Scheff, Ron Tuttらの音がばさばさでっかくてウォールオブサウンドのオーケストラですばらしくて痺れて、でもそれ以上にそこに乗っかるElvisの声もまた波のように自在で、全体としてモンスター大戦争みたいな隙間のない重量感。 しなやかなんだか垂れ流しなんだかわからないが、どんな歌でも彼が声を発すれば、それはどんなぐだぐだでもとにかく歌になって流れてくる不思議さ。

歌っているシーン以外のインタビューや語りの部分もあるが、それらは全体としてはあまりに軽くてバカっぽくて - 「わたしはただのエンターテイナーです」「わかりません言えません」を本当になんも考えてなさそうな顔でいうので、この辺は”Elvis”にも出てきたマネージャーTom Parkerによる圧力、抑圧があったのだろう、と思って、ただそんなことも歌が始まればどうでもよくなる、そういう闇雲で破天荒な抱擁力があって、あの場にいた女性たちはこれにやられたのだろう、と。これらの熱狂的な女性たちの間に、一瞬Priscillaと娘も映ったりするのだが、誰という言及はなくて、はいはいKingなのね、って思った。終わったら当たり前に拍手喝采だし。

こんなライブを多いときは1日10回、数千回までこなして、その間北米から外には一切出なかった、と。化け物みたいな – よくわかんないけどなんかすごい、音楽フィルムとしては”Becoming Led Zeppelin” (2025)に並ぶやつだと思うが、ショウビズという衣を纏っている分、こっちの方が異様でわけわかんなくてびっくりする。

こういうライブ映像を見る時って、かっこいいー!っていうのがまず来るかそうでないか、が結構大きいと思うのだが、このフィルムに関してはもちろんそういうのはなくて、でも音楽の強さ – 特にスタンダード - “You Don’t Have to Say You Love Me”とか“You’ve Lost That Loving Feeling”とか”Always On My Mind”などを歌うときに津波のように押し寄せてくるあれらは何なのか、これらが本能に近いところ、動物的ななにかを突いて襲いかかってくるの。

日本のIMAXでこれをどこまで上映できるのか、はわかんないけど、日本なら樋口さんの爆音があるのでそこでかかってくれることを祈りたい。

Elvisと同じようなことをやって/やれてしまう歌手がこの世界にはまだひとりいて、Morrisseyっていうのだが、今週末に見れる.. だろうか。明日からクラクフに飛んで、アウシュヴィッツに行くのだが…

2.24.2026

[dance] Tanztheater Wuppertal Pina Bausch "Sweet Mambo"

2月11日、水曜日の晩、Sadler’s Wellsで見ました。

Pina Bauschが亡くなった後のTanztheaterの公演は2020年にSadler’s Wellで” Blaubart”(青髭)(1977)の再演を見て、彼女の作ったものは今後もこんなふうに伝統芸能的に遺され継承されていくのかと、それって、なくなってしまうよりはましであるが、やはりちょっと寂しいな、と思ったものだった。

90年代からBrooklyn Academy of Music (BAM)でPinaの作品 - 新作も再演もずっと見てきたので、この2008年の最晩年の作品も再演にあたっては何等かの手が加えられて、上演後のカーテンコールの最後に彼女がちょっとだけ顔を見せてお辞儀をする、そこまでが彼女の作品だったんだよなー、って。

でも見ていないものがあればやはり見たいし、タイトルが"Sweet Mambo"なんて、80年代初の”Bandoneon”や”Walzer”など、タイトルに音楽が入っているのは外れないという確信がある。2007年の”Bamboo Blues”と並行して制作が進められ、2008年の初演時から7人のダンサーが今回の舞台に立つ。昨年日本で上演されたものと同じキャストなのかは不明。

セットデザインはPinaとずっと一緒にやってきたPeter Pabst、舞台上はシンプルなでっかいカーテンがぶあんぶあん風に靡いて膨らんでいて、そこに輝ける笑顔のNaomi Britoが大股でのっしのしと入ってきて、グラスの淵をふぁーんて撫でて鳴らしながら四方八方を挑発して、その甘さに吸い寄せられた男たちが虫のように群がって、愛と憎の、支配と服従のドラマが切れ目なく流れていって、愛における自由と束縛の止まらない追いかけっこが。そこに音楽がある限り、どんなに辛くてしんどそうな修羅場でも、甘いMamboのリズムに彩られて、実際に流れていくのはHope Sandoval, Portishead, 三宅純、坂本龍一、Cluster & Eno、などアンビエントでエレクトロニカでラウンジーでサイケでフォーキーで恨み節、呪い節もたっぷりなのに、ぜんぶしゃかしゃかのMamboになってしまう魔法。

背後で投影されていた映画は、Viktor Tourjansky監督、Zarah Leander主演の“Der Blaufuchs” (1938) – 英語題“The Blue Fox” - 女性が夫から離れて別の男と駆け落ちすることを考えるコメディで、男性による虐待の裏側でこれが流れていること、等。

昔彼女の舞台を見にいくのって、世界の都市シリーズではないが、見たことがない世界の葉っぱの裏側に触れる/見てしまう、そういうどきどきと少しの怖さがあったのだが、今回のこの舞台には堂々とした普遍的な愛憎ドラマの風格と完成度があって、とても満足して、でもやはり少しだけ寂しい気がして、それは冒頭に書いたのと同じ何かなのかも…


Pierrot Lunaire


2月17日、火曜日の晩、Royal Opera House内のLinburyTheatreで見ました。

アメリカの振付師Glen Tetley (1926-2007)の生誕100周年を記念した公演 - 『月に憑かれたピエロ』。初演は1962年。Arnold Schoenbergの同名曲(1912)にインスパイアされたモダン・ダンス創世期の作品。45分で休憩なし。

舞台には縦長三角の足場が組まれているだけ。小編成のアンサンブルとソプラノによる歌をバックに、無邪気なPierrot (Marcelino Sambé)が足場に絡まって無邪気に踊っていると、妖艶で掴みどころのないColumbine (Mayara Magri)が現れて彼を誘惑したりくすぐったりしていると、そこにちょっと悪賢そうなBrighella (Matthew Ball)がやってきて、ピエロの服をはがして三角関係をずたずたにして、これらのドラマをとってもSchoenbergな無調の音楽が、煽って倒立させて底に落っことしていく。

これらが足場の三角、関係の三角、倒立する三角などの鋭角的なデザインにあわせてわかりやすく組み立てられ展開されていって、それはまさに初期のMartha Grahamのダンスに感じるのと同じもので、ポストモダンてなに?っていうくらい無邪気で無防備なモダンのモードに溢れているのだがぜんぜん悪くないのだった。これと同じキャラクターと衣装を使って、Wayne McGregorが振り付けたらどんなふうになるのか、ちょっと見てみたいかも。

[film] The President's Cake (2025)

2月14日、土曜日の昼、Curzon Bloomsburyで見ました。

イラク/カタール/アメリカ映画で、原題は“Mamlaket al-qasab”。
作・監督はこれがデビューとなるイラクのHasan Hadi。Executive ProducerにはChris ColumbusとEric Rothの名前がある。昨年のカンヌのDirectors' Fortnightでプレミアされて、Audience AwardとCaméra d'Orを受賞している。

90年代初、サダム・フセインの独裁政権下のイラクで、国民の祝日であり国民全員が彼の生誕を祝わなければならない日に向けて、学校の教室のクジで、彼の誕生日のケーキを焼いて持ってくる係(でもそれを食べるのは先生)に当たってしまった9歳の少女Lamia (Baneen Ahmed Nayyef)がいて、こんな光栄なことはない、ってみんなは言うのだが、そんなわけあるか、って口には出さないけど彼女の顔は言ってて、でも拒否したり持っていかなかったりすると罰せられるのでしょうがない。祖母Bibi (Waheed Thabet Khreibat)と雄鶏のHindiと一緒に湿地帯の脇の家で暮らす彼女は、家に帰ってBibiにそのことを言うと、Bibiはぶつぶつ言いながら卵、小麦粉、砂糖、のリストを作ってくれて、では材料を買いに行こうと車に乗せて貰ったりしながら町にでる。でも町で最初に入った家で、Bibiがそこの女性と里親の相談らしきことをしているのを聞いて、たまらずそこを飛びだして、町でスリとかをしている同じ教室のSaeed (Sajad Mohamad Qasem) – 彼もクジで外れてフルーツ担当にされた - と一緒になってケーキを作る材料を集めはじめるが経済制裁下なので調達は容易ではない。

これだけだとの世間知らず怖いもの知らずの子供ふたりのほんわかしたサバイバル冒険話に見えてしまうし、自分も軽くそんなものか、と思っていたのだが実際にはとても暗くて重い – Lamiaの将来についても、家族についても、この先幸せになれそうな要素なんて欠片も出てこないし、どこに行ってもサダム・フセインの肖像だらけで、なんなのこいつ?になって落ち着かない。そんな心配が山のように溢れてくるなか、Saeedに助けられたりしつつ粉を探していくと、Hindiがどこかに消えてしまったり、Bibiが動けなくなってしまったり。

どこの町にも良い人はいるし悪い人もいるし、サダム・フセインみたいに、なんであんなに祭りあげられて騒がれているのかわからない人もいるし – それくらいの知識でもって人混みを渡って大人たちとケーキの材料の交渉をしていかなければならないLamiaとSaeedの不安ときたらとてつもないだろうと思うし、自分がBabiの立場にあったらその倍たまらなくなると思うし、Babiはきっとそうなっているだろうなと思うだけでいたたまれなくなるし、要はサダムがどう、という以前に、ここで生まれた不安と感情の渦の広がりに胸が痛くなるばかり。

で、こういう子供(冒険)映画の定番として、必ずどこからか頼りになれそうなおじさんおばさんが現れてどうにかしてくれる、という流れがあったりして、この映画でも実際そういうところもあるのだが、戦時下なので最後までどうなるかわからないし、実際にあの終わり方には目の前が真っ暗になる。 けど実際のところだと、あんなふうだったのだろうな、と思う。90年代初のイラクで子供時代を過ごした監督の発言などを読んだりすると。

Lamiaを演じるBaneen Ahmed Nayyefの素人のすばらしさを讃えるのは簡単だが、それ以上に、あんな世の中だったら、演技だなんだ以前にあんなふうに子供たちを縛ったり凍りつかせたりしてしまうであろう寒々しさのことを思ってしまう。

タイトルの『大統領のケーキ』の後に続くのは「のために犠牲にされる子供たち」なのか。

さいごにネタバレになってしまうが、オンドリはぶじ、ということだけはー。