4.22.2026

[film] Sound of Falling (2025)

4月18日、土曜日の午前、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

ドイツ映画で、原題は”In die Sonne Schauen” - 直訳すると「太陽を見つめて」なのだが、邦題は英語題の方に繋がる『落下音』。
2月にロンドンで上映されていた時に見たかったのだが、2時間半の上映時間が無理だった1本。

監督と共同脚本はMascha Schilinski。2025年のカンヌでJury Prizeを受賞している。

なんのキャプションも出ないので、最初はちょっと混乱するが、ドイツ北東部の中庭を囲む建物に暮らす一家一族の、4つの時代 - 1910年代、1940年代、1980年代、現代 - に分かれたいろんなエピソードがノンリニアで交錯していく。語り手も時代によって、エピソードによって分かれているし、映像のトーンや明度も、誰が誰を、どの地点から見つめているかによって結構ばらけていて、構成とか成りたちを把握するのにちょっと時間がかかる。他方で、そういうのを気にせずイメージをてきとーに追っていっても、なんとなくのゆらゆらした不安や怖れなどはわかったかんじになれるのかも。

冒頭、片足がない状態で松葉杖で歩くErika (Lea Drinda)が、そのままベッドでぐったり寝ている中年男のFritz(Martin Rother)の切断された片足をじっと見つめておへそに溜まった汗をなめ、その後で彼女の欠けた脚は自分で折り曲げていただけだったことがわかる。

別の時代で幼いAlma (Hanna Heckt)が経験する葬儀と昔の葬儀の写真に刻まれた一族のなかに自分に似た少女の姿を見つける話、Fritz (Filip Schnack)が両親によって片足を痛めつけられ「労災」(=兵役拒否)される話、彼を介護するメイドのTrudi (Luzia Oppermann)の話、家族の間には目に見えない掟や序列や勝手に強引に決められてしまうものがあるようだが、死んだあとはモノクロぺったんこのイメージのなかに閉じこめられてしまうことなど。

時代が新しくなったところで、溺死したErikaの妹のIrm (Claudia Geisler-Bading)には家族がいて、彼女の娘のAngelika (Lena Urzendowsky)はいとこのRainer (Florian Geißelmann)を挑発したり、トラクターの進路に横たわったり川に入っていったり死を恐れていないふうで、そのうち家族が集合したポラロイドを撮る場面で彼女は消えてしまう - 向こう側へいってしまったのか?

更にほぼ現代になった頃の姉妹と村の少女のお話しがあり、ここでも誰かは必ず家族の誰かを失って不安定なままで、でもそれがどうした、って。

家族がメガネを手にした時の会話で、目に映ってくる像、光は網膜の上で上下左右が倒立した像として結ばれて、あるポイントで消失点として失われてしまう、そんな視覚イメージの危うさと不確かさが語られて、そういう中で部屋の暗がり、半開きになった扉から覗きこむようなショット、既にいない人を定着させる写真などが沢山でてきて、これらは生死が倒立した死者の目線なのだ、と言うことに気づく。そんなでも人はころりと死んで生まれて家族もイエも続いていくし、戦争は起こるし。 

イメージや視覚に関わること、なのでタイトルが「太陽を見つめて」なのだろうが、それが”Sound of Falling” – 「落下音」になるってどういうことなのか。太陽を見つめて目がしんで、落ちる – 五感に残るのはその音だけ、ということでよいの?

幽霊目線の、あるいは幽霊そのもののような個々のイメージは、切り取ってスタンダードの画面に置いてみれば悪くないのだが、ストーリーの軸がないので、それぞれの印象の強弱のようなところで止まってしまう(よくもわるくも)のと、音が弱すぎてふわふわしてて落下できない、というあたりがー。

 

4.21.2026

[film] 鬪ふ男 (1940) - etc.

4月12日、日曜日の午後、国立映画アーカイブの特集『発掘された映画たち2026』で見ました。

MoMAの“To Save and Project: The MoMA International Festival of Film Preservation”でも、BFIの”Film on Film Festival”でもレギュラープログラムの”Projecting the Archive”でも、古い映画を見よう/見たい、っていう熱と人気はずっと絶えない。映画史に残っていてDVDや配信で簡単にアクセスできるクラシックの他に、どこかの何某から意図的に埋められたり事情があってなかったことにされていた作品や作家は星の数ほどあって、その背後にはそれなりのストーリーがある、ということを知ってしまった。そうなった事情は写真家や他のアーティストのそれよりも複雑のようで、当時の社会や政治の事情にも割と関係があって – これって歴史を学ぶ、知るということの根幹でもあって、なんでそういうことが必要かというと(以下略)。 もちろん、シンプルに見ておもしろいのがいっぱい、っていうのが大きいのだが。

で、これが日本映画、ということになると戦時下の検閲とか家父長制下のげろげろが根こそぎたっぷり出てきて、なんだぜんぜん変わってないじゃんこの国、とか。例えば。

2022年のこの企画で『花ちりぬ』 (1938)、『夜の鳩』(1937)、『むかしの歌』 (1939)などを見てから、石田民三もっと見たいになっていた。映っているものは古い昔の情景だったり人々だったりなのに、撮り方や迫り方がとてもおもしろい。

鬪ふ男 (1940)

冒頭、当て逃げした車がざーっと逃げて、それを車で追っていくカーチェイスがあって、話はそこで逃げた男の方には行かず、そいつをぶん殴って捕まえた安吉(岡讓二)の方に行って、その顛末を横で見ていた留造(廣澤虎造)が久しぶりだなあ、って運命的な再会をして、ふたりは靴磨きをしながら一緒に暮らし始める。 そこでやくざに絡まれていた女性(花井蘭子)とその弟を守ったりしているうちに、北海道に残したまま生き別れになっている妹のことを思いだして、徴兵に出た後 - 戦争なんてなかったかのようにあっさりパスされ - 故郷に戻ってみると…(まるで西部劇のような画面構成がかっこよくて別の映画のよう)

そんな「鬪ふ男」の半生記が浪曲師になろうとしている廣澤虎造のラップみたいな唸り節と共に綴られて、廣澤(広沢)虎造(2代目)といえばマキノ雅広の『次郎長三国志』の歌い手で、あれも「鬪ふ男たち」のお話しだったねえ、とか。


男子有情 (1941)


上のに続けて見ました。

自由民権運動が活発になった明治の頃、街頭に立って民の抵抗歌「演歌」を歌って聴衆を煽ったりして日銭を稼ぐ仲良し学生3人組がいて、彼らのリーダーの島田(岡讓二)にはおなじ街角で物売りをしながら思いを寄せるしげ代(花井蘭子)がいて、島田らは勤勉で優秀で塾長からも期待されていたのに、しげ代が巻きこまれたやらしいやくざとの間で起こった殺人事件をひっかぶるかたちで島田は牢屋に入ってしまい、最後は法廷ドラマになるの。

どちらの映画でも人として正しくあれ、みたいなことが強く謳われつつも、政治や国際情勢みたいなところには一切触れない(触るべからずの)ような、なんとも微妙な目線の不均衡が感じられて、そこを地味な低声の音楽で歌ってごまかすような。ちょっと昔の、誰も文句の言えない至近距離の道徳美徳を説いて讃えてそっちに目を向けさせて、ところで日本が世界でなにをしていたか、どう見られていたか、等についてはとにかく触れない。なんかどこかで見たようなー。

2本とも、岡讓二が花井蘭子を助ける、その横で男が男を歌う熱いドラマで、うざい湿気がそんなになかったのはよかったかも。 でも石田民三は女性を描いたドラマのほうが好きかも。

4.20.2026

[film] Caught (1949) - etc.

3月31日に帰国して、4月3日の金曜日に帰国後最初のライブに行って、4月4日の土曜日に帰国後最初の映画を見た。割とゆっくりめだが、この先はゆるゆると老いて腐っていくだけなので焦らずに見たいものを粛々と見ていくの。

そういう時は、CMも予告も入らないシネマヴェーラと神保町シアターと国立映画アーカイブは(あとラピュタも?)が救いで、とにかくここに駆けこんで暗闇にうずくまって何本か見ること。 日本の映画館のCMと予告って、なんであんなにぐったりさせられるものが多いのだろう。 CM予告は英国のシネコンにもあるけど、日本のほどストレスを感じさせるものではない(言葉だけではない気がする)。

とにかくそんな時に、シネマヴェーラの特集 - 『映画は女で作られる マックス・オフュルス特集』ほどうまくゆるく嵌って救ってくれるものはないの。

Caught (1949)  - 魅せられて

4月4日、土曜日の昼に見ました。
見たことないと思っていたが、最初の雑誌をめくっているシーンで、あ、ってわかる(映画のタイトルは憶えられないがファーストシーンだけは憶えているタイプ)。

原作はLibbie Blockの小説”Wild Calendar” (1945)、これをArthur Laurentsが脚色している。
モデルをしながら花嫁修業学校に通い、玉の輿を夢みるLeonora (Barbara Bel Geddes)が押しつけられたパーティ券でビリオネアのSmith Ohlrig (Robert Ryan)と出会う。セラピストとのセッションで君に結婚は無理だ、と言われてムカついていたOhlrigはそれへの反発でLeonoraにプロポーズして結婚してやって、ふたりにとってwin-win関係のはずだったのだが、夫はとてつもないDV野郎だった… (現代用語がわかりやすく簡単にはまってしまう)

ロングアイランドの豪邸を飛び出した彼女は境遇を隠してダウンタウンの貧しい地区で小児科医をやっているLarry Quinada (James Mason)の医院で事務のバイトを始めて、最初は怒られてばかりだったが努力してQuinadaとも仲良くなっていって、他方でOhlrigはLeonoraの居場所をつきとめて連れ戻し、Leonoraの正体を知ったQuinadaもロングアイランドに向かうのだが、そのとき彼女は妊娠していて…

ちっとも古くない、こてこてどろどろ、英米を代表する粘着パラノイア系男優が激突する、怪獣映画みたいなサイコメロドラマで自分の身とは一切関係ないので安心して見ていられる。Robert RyanとJames Masonが延々罵りあい殴りあうところをもっともっと見たかった。


Le Plaisir (1952)  - 快楽

4月5日、日曜日の昼に見ました。
英語題は”House of Pleasure”。原作はモーパッサンの短編3つ - "Le Masque" (1889), "La Maison Tellier" (1881), "Le Modèle" (1883)をもとにした3つのエピソード。これもやはり見たことがあるやつだった。邦題がシンプルすぎるのがよくないと思うの。

Le Masque
ダンスホールで仮面を被って踊っていた男が具合悪くなって倒れて、そこにいた医師も一緒に彼の自宅までついてきてもらう。仮面を外した男はよれよれの老人で、家にいた老妻は昔はこれでもプレイボーイでしたの、って語るの。酸欠で死にそうになるまで仮面をして繕ってモテようとする男性の悲哀が妻の口から語られて、いろいろしょうもない。

La Maison Tellier
小さな海辺の町で、その町の男たちみんなが通うJulia Tellier (Madeleine Renaud)の娼館があって、ある晩から突然休業になってしまったようなので行き場を失った男たちはぶつくさ言い合うのだが、彼女は従業員たちを連れて姪の初聖体拝領式に出席するため列車で田舎に向かっていた。田舎の駅で一行を迎えたJuliaの兄Joseph (Jean Gabin)はそのなかにいたRosa (Danielle Darrieux)に夢中になるし、村人は派手でおおらかな女性たちにびっくりなのだが、メインはあくまで聖体拝領式で、その時はみんなでしみじみ聖なる何かに感動して、一行が再び町に戻ると、男性たちも大喜びで戻ってくるのだった。

Le Modèle
若い画家とモデル(Simone Simon)が恋におちて、一緒に暮らして将来を誓いあうのだが、やがて画家の心は離れて友人の家に身を寄せてしまう。そこにやってきた彼女は飛びおりる!っていって本当に飛びおりちゃって、後悔した画家はずっと車椅子の彼女の面倒を見ることになる。

若い頃の画家が絵を売りにいったサロンに、こないだオルセーで見たルノワールがあった、気がした。

最初のエピソードは老いた男性を女性が見ている話しで、最後のそれは動けなくなった女性を男性が見ている話しで、どちらも若い頃からの業を引き摺っていて、その中間のエピソードでは、聖体拝領式以降の色恋が盛っていくもようを描いていて、タイトルは「快楽」。誰ひとり悪くない。 死は見え隠れしているけど、ここにはいない。


Madame de... (1953)  - たそがれの女心

4月6日、月曜日の晩に見ました。 これはさすがに見たことあった。

原作はLouise de Vilmorinの同名小説(1951)。
ベル・エポック時代のパリに関係の冷めきった夫婦 – Louise (Danielle Darrieux)と伯爵で軍の将軍でもあるAndre (Charles Boyer)がいて、遊びすぎて金がなくなったLouiseが夫から貰ったイヤリングを売ったら、それが宝石商~夫~夫の愛人を介してコンスタンティノープルまでいって、それを手に入れたイタリアの外交官であるDonati男爵(Vittorio De Sica)とLouiseとの出会いを経てぐるっと戻ってくるのだが、その軌跡が決闘沙汰にまで繋がっていく。

「呪いのイヤリング」と言いたくなるところだが、中心にいるのは自身の苗字を言えずに”...”となってしまう彼女の祈りと苦しみ、その悲劇、あとは将軍のクズっぷりと。

上の“Le Plaisir”が、死に向かう一歩手前までを描いているとするなら、こちらは死につながるチェーン(リング)に託された何かを映しだして、どっちにしても楽なことはない。なのになんで人は恋におちてしまうのか、など。

4.19.2026

[film] ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。(2026)

4月9日、木曜日の晩、TOHOシネマズ日本橋で見ました。
暇な老人たちがみんなこれを見てなんか振り返ったり語ったりしているようなのでー。

原作は写真家、地引雄一の自伝的エッセイ『ストリート・キングダム 東京パンク / インディーズ・シーンの記録』(1986)、監督は田口トモロヲ、脚本は宮藤官九郎、音楽は大友良英で、70年代後半の「東京ロッカーズ」を中心とした東京の「パンク」シーンの立ち上がりのようなところを、その場に居合わせて出会ったり記録したりしていく「ちゃんとした」人 - 写真を撮るユーイチ(峯田和伸)の目を通して綴っていく。

映画としては可もなく不可もなく、ちょっと社会の本流から外れたところに潜む危なそうなやばそうなテーマや人々をおもしろおかしいアンサンブルの人情噺に、うまく(NHKぽく)まとめていると思った。130分は長いけどそれだけ多くのバンドや集まっていた人たちをカバーしようとした結果だし、キャストもちゃんとしているようだし(知らない人たちばかりだったが)。

“Based on true events”なので、出てくるバンドや人物にはモデルがいて、わかる人にはすぐそれと特定できるようになっていて、そういうのも含めて幹になっているストーリーやメッセージのところは崩しようがないし強いし、その上であれはあんなんじゃなかった、とかあんなのもいたよあったよ、って当時を知る人たちが周りでいろんなことを語ったりしている。

映画は冒頭、80年代初、学祭でのスターリンのライブの狼藉を描いてそこに居合わせた主人公が、なんでここまでこんなことに… って回想をはじめる。70年代終わりの日本の田舎で、Sex Pistolsを聞いてこれだパンクだ! って東京に出てきてリザードのライブで開眼して、彼らの写真を撮り始めると、その流れで東京ロッカーズのシーンと出会って、いろんなことが起こっていく。

Sex Pistolsを聞いてすげー、ってなる辺りは同じだしわかるけど、それで走りだして東京に行って、リザードでおおってなるのはどうなのか? でそこから先はあまりよくわからなかったかも。はじめの頃のリザードのライブは凄かったのだ、と言われたらそうだったんですね、しかなくてそれで終わりになる。

自分にとってのパンクはまず音で、言葉なんてどうでもよくて、あの当時の日本のそれは音としてぜんぜん響いて来なかったし、「東京ロッカーズ」なんて、そんなふうなラベルを貼ってる時点で、バンドたちでわらわら寄って集っている時点でそんなのパンクでもなんでもないじゃん、て思った。ライブに通ってのめり込むにしても、東京に出てチケットを買う、それを繰り返す余裕なんてなかったし、その反対側で聴かれるのを待っている音、読まなければいけない本はいっぱい積まれていたし、歌詞のことを言うならAmnesty International Reportをそのまま曲にのせたThe Pop Groupの方に惹かれて、異文化にある彼らがどういう文脈で、どこに針を通してなにをパンクさせようとしたのか、まずそっちだったし。

あとは全体に漂うださいかんじ。「東京ロッカーズ」にしても少し後の「めんたいロック」にしても、なんでそんなふうにわざわざださくするの? 売るためのラベルなの? だったし、そこにいる人たち、みーんな揃ってずーっとタバコ吸ってて煙いしすぐアルコールに行くし、そんなのにお金と時間を使いたくなかったのよね。

最後にはアケミの言うように『自分の音を鳴らせ』で、それが正しいのかもしれないが、自分の音なんてそう簡単に見つかるものではないので、ずっと旅を続けているわけだし、そこに終着点があるとも思えないのだが、なんでそこに「キングダム」なんてものを持ちだす必要があるのか。”No Future”ではなかったのか。

いまの推し活とか承認欲求の話にまで繋がる、という話も出てきたところで、あーこれはやっぱり自分とはぜんぜん関係ない宇宙の話しだったかも、と思った。

それでもパンクはあったし、あるから。

4.17.2026

[music] Hey Mercedes, etc.

ここから日本に帰国後に見たものを書いていく。のだが、いまに至るまでずっとへろへろの状態なので記憶が薄れかけたり欠けたりしているものもある、ことがわかった。

Hey Mercedes

4月3日、金曜日の晩、西永福JAMで見ました。
体力との相談もあったので当日券で、西永福ってどこ?とかぶつぶつ言いながら現地に着いて、ああまたドリンク代を強制徴収される変なシステムの日々が始まるんだわ、って憮然としつつとりあえず。

Hey Mercedesを最初に見たのは2001年のNY(911が起こる前)、“Bleed American”を出してブレークするのが誰が見たって明らかだったJimmy Eat Worldの前座で、前座ではあったが彼らはものすごくよくて、その記憶を持って数年後に手にした“Loses Control” (2003)は名盤で、今回のツアーでもオープニングで演奏される"Quality Revenge at Last"は、たまにいまだに頭の奥で鳴り響くことがある。

演奏はところどころよたったりしていたが、メロと骨格が確りしているギターバンドだし、こちらの疲労倦怠に寄り添ってくれて気持ちよかった。今だと「エモ」に分類されてしまうのかもしれないが、Jimmy Eat Worldもそうだったけど、当時はふつうにハードコア/オルタナの流れに置かれていたよね – って誰に確認してよいのかわかんないけど。


Pearl Jam: Let's Play Two (2017)

4月4日、土曜日の夕方、新宿の109シネマズで見ました。4000円… ポップコーンがついていたらしいが、そんなのいらない。 ここはやはりクラッカージャックを出すべきだった。

Eddie Vedderの来日記念(ああ20日いけないよう…)の、Pearl Jamのライブドキュメンタリーフィルム(同名のアルバムもリリースされている)。前日のライブハウスに続いての目を覚まさなきゃいかんシリーズ。 Pearl Jamのこういうのなら絶対安全確実なので。

2016年、MLBのChicago Cubsが71年ぶりにNational Leagueのチャンピオンとなり、108年ぶりにWorld Seriesの勝者となった、その年の8月20日と22日にWrigley Fieldで行われたライブを記録編集したもの。フィルムだとライブの進行とCubsの躍進が並行して進んでいって、チームの優勝の様子とライブが重ねられているように見えるが、時系列としては別でライブの方が先 – というのは見た後で気付いた。

バンドのライブフィルムというよりは、Chicago Cubsの呪いも込みの苦難の歴史と幼い頃からの球団のファンであるEddie Vedderのチームとベースボールに捧げる思いが綴られ、その強い思いが歌となって球場をまるごと揺さぶっていくさまが感動的に描かれている。それはライブの感動とはまた別の、日本にもそういう人はいるけど、野球に人生をやられてしまった人のそれで、そういうのも含めての”Let’s Play Two”だと思ったのだが、自分は野球とかスポーツにやられたことがないので、「別の」ではないのかもしれない - ぜんぶひとつに繋がっているのかもしれない、とか。

ライブの合間にCubsの野球やファンのエピソードが挟まっていくので、歌と演奏に引っ張られてのめり込んでいくタイプのライブ・フィルムではないのだが、ワールドシリーズの大逆転の盛りあがりとEddieの個人史が重ねられていくことでPearl Jamの曲の揺るぎないパワーが際立つ - “Given to Fly”とか - そういう構成になっていたような。 で、やっぱり彼らのライブに行きたくなる。


J. Robbins

4月13日、月曜日の晩、今回の彼のライブの最終日に新代田Feverで見ました。
自分も帰国して2週間が経ったので、もうリカバーできているだろう、と思うのはあまい。ぜんぜんだめだわ。

開演時間は18:30、とあって、こういうのはふざけんな、って20:00くらいに行くのがふつうなのだが、今回はオープニングがtoddleなのであればしょうがない。新代田にどうやって行くのか、とかで少し迷ったりして着いたら少し始まっていた。 

これで何度目になるのか知らんが、とにかくtoddleは自分にとっては特別で、あのギターの絡みって世界一だと思う。
そしてこれに続くDirt CopyもStorm of Voidもそれぞれまったく異なる粒度硬度のやかましさで圧してきてすばらしい。
Dirt CopyはNAHTのひとのだったのかー、って気付いた途端にいろいろななつかしさがー。

最初の3バンドのすべててんでばらばらの鳴り、ルックスもチューニングもアンプもぜんぶ違うありようが素敵ったらなくて、J.Robbinsの、あの3ピースのシンプルでシャープな佇まいがフロアの人々も含めて包摂する、音の指向とは真逆のすばらしくきちんとばらけてて、でもそれがマイナスにならない、理想的な雰囲気に満ちたライブだった。

そういうなかで最後止まらなくなってあと一曲、を何度も繰り返しつつがりがり鳴らしていくJのギターが最後まで残って、それはもうFugaziのそれと同じく自分にとっては空気と同じようなものだと。(ないと死んじゃう)

Jawboxとの最初の出会いは、1994年、MTVが深夜にやっていた“120 Minutes”っていう番組で、そこで"Savory"を聴いて、翌日の会社の帰りに“For Your Own Special Sweetheart”のCDを買って帰った。この頃の新しい音って、ほぼそうやって手に入れていたねえ。

それにしてもー、Hey Mercedesは25年前、J.Robbinsは30年前の出会いになるのかー。
こんなことになるとはねえー..

でもやっぱり3時間を超えて立っているのはつらい。 老人にもやさしいライブスペースを作ってほしい。

4.16.2026

[log] London - others part 3

ロンドンの最後の方に見てまだ書いていなかったやつなど。これで終わり。

Orwell: 2+2=5 (2025)

3月29日、日曜日の晩、Barbican Cinemaで見ました。

これがロンドンで見た最後の映画で、ふつうの新作はいろいろありすぎて決められず、BFIではFlareの映画祭でそれどころじゃなさそうだし、この辺になった。映画については見ようと思えばどこでも、の感覚があるのでー。

制作、監督、脚本はJames Baldwinのドキュメンタリー”I Am Not Your Negro” (2016)のRaoul Peck。 Damian LewisがGeore Orwellの声を含めたナレーションをやっている。

George Orwellの小説“Nineteen Eighty-Four” / “1984” (1949)を執筆した当時のOrwell自身についてのドキュメンタリーと、何度か映画化されてきた小説の大枠の紹介と、その内容が予言していた現代の独裁者(いっぱいいる)、飼いならされてしまう官僚や市民たち、そのツールとしてのAIの台頭などについて、そんなに緻密に追っているようには見えないのに、あまりに今にフィットしていて戦慄、のさまを並べていく。タイトルの”2+2=5”は、上が「2+2=5だ」って言ったらそれは2+2=5になるのだ、なるよな? という管理統制の理不尽を示す例で、いまやシャレでもなんでもなくなっていることは衆知のとおり。

George Orwellって、日本では”1984”と“Animal Farm”くらいのイメージだと思うが、英国ではそれに留まらない幅広い著作がある国民的な作家であることをペンギン古書収集活動で知ったりしたのだが、幼少期の彼やビルマで警察官をしていた頃のこと、晩年のジュラ島での生活のことなども含めて紹介されると、改めて取組みたくなるのと、繰り返し挿入される過去の”1984”の映画化作品で主人公のWinston Smithを演じたPeter CushingやJohn Hurtの像と、お話しとしての怖さ – ここの怖さやばさって、相当普遍的なものになっている気がするのだが、それなのになんで? というのがぞわぞわ来て、ああ”2+2=5”をソフトに強要されて誰もなんとも思わないあの国のあの社会に戻されるんだわ、って改めてうんざりぐったりした。


Michaelina Wautier

3月29日、日曜日の午後、Royal Academy of Artsで見ました。

2020年にNational Galleryで企画展示が組まれたArtemisia Gentileschi (1593-1652)と同時代を生きたベルギー(当時スペイン領)の女性画家Michaelina Wautier (1614–1689)の特集企画。Artemisiaがそうだったように、絵描きとしての技量が優れていたが故に作品が家族の男性(Artemisiaの場合は父、Michaelinaの場合は兄)に帰属するものとされてしまい、結果として美術史のなかに埋もれていた、という。 ほかにもこんな女性たちがどれだけあるのか、って思うが、とにかくこうして見れるだけでも。

この時期の絵画の技術的な巧い下手はわからないのだが、並んでいる肖像画も話題になっている”The Triumph of Bacchus” (1655–59)も絵としての迫力は十分で、これなら男性作家の間に埋められてしまうの無理ないかも、とか、他方で肖像画の髪の膨らんだかんじとか表情の柔らかさは、やはり女性のそれかも、とか。いやそんなことより男性・女性ではなく、Michaelina Wautierという画家との出会いを歓ぼうではないか、って言いたくなった。

Rose Wylie The Picture Comes First

上でMichaelina Wautierを見た後に、2回めのRose Wylieを見る。

彼女と最初に出会ったのは2018年、Serpentine Sackler Galleryでの”Rose Wylie: Quack Quack”で、後で図録を取り寄せるくらい好きになって、昨年、ベルンの Zentrum Paul Kleeでの”Rose Wylie. Flick and Float”で再会して、今回が3度目。何度見てもなんとも言えずすばらしい後ろ頭の魔法。

Royal Academyの1回めに見にきた時に、限定でサイン入り図録を売っていたのを入手できたのは嬉しかった。


Fairy Tales

3月30日、月曜日のお昼にBritish Libraryで見ました。

British Libraryが”Fairy Tales”をテーマにした企画展示をやるのであれば、古今東西、少なくともイングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドの辺りのいろんな収蔵資料をざーっと並べてめくるめく多層多重世界のパノラマを見せてくれるに違いない、って期待して行ったら、子供と親向けに見て楽しんでもらう体験型のアトラクションに近いやつだった。 アリスとかアラジンとか竜とか魔物、それなりのスターたちと元の文献などは揃って展示されているのだが、それよりも着せ替えしたり潜りこんだり隠れたり杖を振り回したり、童話やおとぎ話の世界はこういうもんなんだよ、っていうのを一通り体験できるようになっていて、大人も子供も遊園地のように楽しんでいて、彼らにとっては遊園地だろうが、自分にとってはまるで動物園だった。

その晩に地獄に向かって飛びたつことがわかっていたので、最後にせめてファンタジーを、と思ったアテは外れて、場内にはやかましいのに疲れた人はここから抜けれます、の矢印もあったりして、そこまではしなかったけどちょっと残念だった。


最後のお買い物(でっかいの)はふたつ。どちらも古書で、古書と言っても手が届かないすごいのではないし、収集家のひとから見たらどうってことないやつなのだろうが、自分が持っているなかでは一番高価なやつでどうしようか3ヶ月くらい考えていた。 これらを含む6冊くらいの宝物は船荷には乗せずに手持ちで運んで、まだ包みを解いていない。中で腐ったりしていませんようにー。

4.15.2026

[log] London - others part 2

ロンドンの最後の日々 – でないものも含まれるが - に見たあれこれを。

Turner & Constable (2026)

3月22日、日曜日の晩、CurzonのVictoriaで見ました。
Tate Britainでの展覧会 – “Turner & Constable”の展示内容を補足してくれるドキュメンタリー映画。
どこのどなたがやっているのか知らないが、Tateとかで大きな展覧会があると、”Exhibition on Screen”という展示内容を補足してくれる1.5時間くらいのドキュメンタリーが作られて、映画館でもものすごく限定で公開されたりする – たぶんどこかの配信だとずっと見れるのかも。(日本だと日曜美術館?)

1775年生まれのターナーと1776年生まれのコンスタブル、Royal Academy of Artからほぼ同時期に世に出た19世紀初の英国風景画の巨匠、互いを意識していたに違いない同時代のふたりの作風や表象の共通点や相違をキュレーターや現代のアーティストが明らかにしていく。

展覧会の構成に沿って、最初のコーナーにあるふたりの若い頃の自画像から入って、ふたりの絵画の明らかに異なる点を強調した後に、それぞれの意匠が時代を経てどう変わって、違っていったのかを追っていく。

時代背景のようなところでは、ナポレオン戦争によってヨーロッパ、特に18世紀のグランドツアーが廃止されたことで、イギリス国内の風景に向かわざるを得なかった、それがふたりの初期の作風や方法論に影響を与えた、というキュレーターによる指摘が興味深かった。それでも、それにしてもあんなふうに違ってくるものなのかー。

これを見た上で、3/22にもう一回、Tate Britainに行って実際の展示を見たのだが、改めてコンスタブルの画面手前の傷と奥に広がっていく遠さ、ターナーの渦を巻く黄色について確かめた。


Tracey Emin - A Second Life

3月22日、Tate Modernで見ました。
新国立美術館のYBA展でも(たぶん)取りあげられているTracey Eminの回顧展。

ロンドンの美術館やギャラリーを回っていると、彼女の作品は本当にいろんな場所、テーマの企画でちょこちょこ見ることができて、どれも傷だらけのぐちゃぐちゃで痛ましいなー、と思いつつ、そんな痛みこそが彼女の作品のコアにあることはわかっていたので、今回の回顧もそれらに晒されたしんどいものになるのかも、と思っていたらそんなでもなかった。

若い頃のどろぐしゃの恋愛遍歴から中絶、がんの宣告〜治療まで自分の身体に起こったことすべてを曝け出してぶちまけるデッサン、手紙、映像、キルト、血だらけだったりほぼゴミだったりのオブジェ、散らかりまくりの部屋、そして絵画まで、ハッピーで穏やかに眺めていられる作品はほぼなく、彼女の身に降りかかった困難や苦悩に引き摺りこまれ匂いを嗅がされるような。でも他方で、それらを離れて眺めているような感覚 – それは彼女が自身に向きあっているそれでもあるような – があって、タイトルである”A Second Life”というピンクの流線形のネオンと共に、次のステージが見えてくるようだった。

90年代の、誰もが「リアル」であろうとして、べったり共時の共感を求めてきたあのうっとおしい時代を抜けてここまで来た、来させたもの、それに要した時間ってなんだったのか、ということを改めて考えたり。


Lucian Freud: Drawing into Painting

2月14日、National Portrait Galleryで見ていたやつ。

Lucian Freudの、精緻にみっしり描きこまれた肉の絵画(Painting)、その中心にあるいろんな人物の描写、構成は、どんなスケッチ、デッサン、落書き等から出来あがっていったのかを見ていく。幼少期のクレヨン画から美術館の古典絵画を模写したものまで、彼の創作のプロセス、その秘密を知る、という点では興味深いのだが、そんなに明確にBefore → Afterが示されているわけではないので、ドローイングはドローイングで雑多でおもしろく、絵画は絵画でブリリアント、でしかなかったりするのが少し残念だったかも。あと、Guardian紙のレビューにもあったように、Freudにしてはそんなにすごい絵が並べられているわけではない、というところもちょっと惜しいかも。 Freudの熱狂的なファンなら別かもしれないけど。


Catherine Opie: To Be Seen


3月30日の昼、帰国する前にNational Portrait Galleryで見ました。

アメリカの写真家Catherine Opie (1961-)の肖像写真を中心とした、イギリスでは初となる規模の企画展示。

90年代以降に撮られた陰影強め、皺や傷跡、タトゥーもはっきり深く濃く定着させる絵画の強さをもった肖像写真たちで、被写体は自分の家族や友人、ロスのクィアコミュニティやサーファー、アウトサイダーたち、彼女自身の丸い大きな背中に彫られた、子供の描いた家族の絵 – 彫り傷で血が滲んでいる “Self-Portrait/Cutting” (1993)も。彼らははぐれ者ではなく、写真の中心に、”To Be Seen” - 「見られるべき者たち」 として堂々とそこにいて、像をつくる。ダイバーシティなんて当たり前のことなのに、と明確には訴えていないがトランプ政権に対する批判として写真が、というよりそこに映りこんだ人々が強く語りかけてくるような。

写真家として彼らにできることって何かあるのか、と問いながら写真の可能性を掘っていくような。


ここでまた切る。あとひとつくらい書けるかしらん。