10月27日、火曜日の晩、国立映画アーカイブで見ました。これTIFF?
読みは「ぎおんのきょうだい」。 監督は溝口健二、脚本は依田義賢、製作は永田雅一、キネ旬報の第1位になったり1959年の日本映画60年でも2位になったり。
京都の祇園で芸妓をやって働く姉妹 – 情に厚い姉・梅吉(梅村蓉子)と、現代的な妹・おもちゃ(山田五十鈴)がそれぞれ、だめな男、傲慢な男、嫌な男たちに好きなように玩ばれて、痛めつけられて、姉はオトナなのだが妹はふざけんじゃねえよ!ってぶち切れてパンクなおもちゃがかっこよいし、この怒りの鳴りが90年後の今もふつうに通用してしまうすごさときたら(半分ほめてない)。
自分がこれを始めて見たのは2003年、NYのJapan SocietyでSusan Sontagの選ぶ8本の日本映画特集があって、そのオープニングがこの作品(あとの7本はWebを調べれば出てくるけど、ふうん、なかんじ)で、彼女が上映前に壇上でお話しをしたの。結構興奮した早口でついていくのが大変だったが、とにかく山田五十鈴のすばらしさ、強さを讃えていたのが印象に残っている。 当時は愚かだったのでそんなピンとこなかったのだが、今見るとラストの山田五十鈴の怒りの表現は本当にすさまじくて、自分が怒られているのだ、って思ってしまう。
10月31日、土曜日の午後にここの7階展示室での企画展 - 『没後70年 映画監督 溝口健二』の関連企画で木下千花さんによるギャラリー・トーク 「松竹時代」があって、その中でこの作品の検閲について言及されていて、とても勉強になった。
もとの未検閲版は95分、検閲で3分56秒切られて91分、でも現在残っている版の長さは69分。これは再映時 -「装ひ新たに」という宣伝と共に10箇所程切られ続けてきた、という、その検察官の「風俗ヲ害スル虞アルモノ」 に対する感受性、その目線の腐って濁っていやらしいことったら、本当に気持ちわるいし、そのマインドセットは今もふつうに受け継がれているのだと思う。上の言うことは無反省に従順に受け容れるくせに、こちらの申し立ては柔らかく受けとめつつ絶対きかない、とか。 某興行会社への3億円だって、根はおんなじで要は国民を根っからバカにしているのよ。
それにしても失われてしまった『浪速女』が見たいよう。
瀧の白糸[デジタル復元版](1933)
10月31日、土曜日の夕方に、国立映画アーカイブで見ました。
TIFFなんてどうでもよいけど、このチケットだけはなんとしても取りたい、と28日の正午のオープン時にアクセスしたのだが、席を確保しても確保しても空振りするので、なにこれ? だった。
Wikiに書いてある上映時間は88分なのだが、1999年にフィルムセンター(当時)が国内の複数のバージョンを元に101分の最長版を作成して、それをより自然な見え方になる20fpsでデジタルに復元したら122分になった、と。確かにサイレントにありがちなカクカクした動きがなく、とてもスムーズかつしなやかに流れていく白糸だった。
そんな記念上映だからか、伴奏は弁士、ピアノ、鳴物、三味線の4人編成バンドでエッジが効いてて豪勢で、ライブとして怒涛の完成度で、ぜんぜんサイレントではないようだった(←褒めてる。けど、まったくのサイレントにしたらどう見えるのかも見たい)。
原作泉鏡花、監督溝口健二、製作は入江ぷろだくしょん。
女水芸人の瀧の白糸(入江たか子)と馬車の馭者だった村越(岡田時彦)が出合って一瞬で恋におちて、金がなくて学業を続けられない村越のために彼女はせっせと仕送りしたり、若い芸人ふたりを駆け落ちさせたり、自らの身を削っていったら自分が狙われて、そうして引き起こした殺しの裁きの場に現れたのは(白糸の援助を受けて)検事となった村越で…
厳しい社会の掟、法の前に引き裂かれるふたり、この世で叶わぬ恋ならせめてあの世で、に向かうしかないふたりの悲劇、残酷さはこの後の溝口作品にいくらでも登場するテーマなのだが、(今回のポスターにあったように)水芸の真ん中で笑っている彼女を見ると、なんだかたまんなくなる。彼女が旅芸人であり、芸能とは、というところも含めると…
その後の映画化、1952年版(京マチ子 - 森雅之)、1956年版(若尾文子 - 菅原謙二)は最後ふたりが結ばれる話になっているのか。 あと、1973年のTVドラマ版 – 監督稲垣浩、脚本依田義賢、主演岡田茉莉子(岡田時彦の娘)- 田村正和のも見たいなー。