9月7日、月曜日の晩、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。
ドキュメンタリーで、邦題は『猫たちと7000マイルの旅』。監督はMye Hoang。
カタールの町には人口100万人と同じくらいの数の捨て猫がいて街中に溢れている。異国から働きに来た人たちが帰国する際にそのまま捨てていったりするからだと(怒)。
最初は夜中に、そうやって道路際に捨てられている野良猫たちのご飯とか病のケアをして、場合によっては医者に連れていったりしているおじさん、その他ボランティアの人たちの日常が描かれる。
そこからアメリカのミルウォーキーで猫カフェを経営しているKaty(元CA)の活動が紹介される。彼女は地元の猫カフェに猫を集めて紹介しながら猫の里親も募っていて、今回はカタールに飛んで、現地の猫25匹を連れ帰ろうと冒頭のおじさんたちに連絡を取って、カゴなどを揃えて - 手続きとか気が遠くなるくらいに大変そう - いくぜ! って飛んでいく。
現地に着いてからは、いろんな人たちと猫たちに会って、連れ帰る候補猫を選んでいくのだが、健康でかわいいの、というよりは大きな傷があったり片目だったり脚がなかったり、の猫たちを拾うように集めていく。ぼろぼろでも人が好きな子、とか。フライトで病が悪化しそうな子は外すのだが、本当に様々なぼろ猫が揃っていて、痛くない? 辛くない? とか思いつつも猫好きなので見ているだけで。
結局運ぶ猫の数は28匹くらいになって、飛行機での移動もこれまた大変で(シカゴでワンストップ – 乗り継ぎ)、でもどうにかミルウォーキーまでたどり着いて、猫たちは元気で、このこは… と思った猫はやはりあっという間に里親が見つかったりする。よかったね。
猫ってなんでこんなぼろぼろになってしまってもかわいいのだろうー、っていう猫好きは見て損はないけど、同時に、彼女が救うことができる猫なんてほんのひと握りだし、なんで捨てるのか世話できないなら飼うな、の怒りも結構わいてきたり、アップダウンが激しかった。
GUN FISH あなたの知らないフグの世界 (2026)
9月11日、金曜日の晩、テアトル新宿で見ました。
これもドキュメンタリーで、猫とおなじく、かわいかったりおいしかったりで死に至るかもしれないのに死んでもいいや、ってやめられない動物を相手に、それに憑りつかれたしょうもない人間たちを描く。
フグって、”pufferfish”(英語字幕ではこれ)とか”blowfish”だと思っていたのだが、ここでは”GUN FISH”で、要は命中したら死ぬから、って。
ものすごくきちんと作ってあるドキュメンタリーで、フグの調理師免許取得を目指す若い女性ふたりの奮闘を通して、なんで免許が必要なのか→毒があってふつうに食べたら死ぬから→毒と向き合ってきたこれまでの歴史とか、地域ごとの調理法などの幅と広がりまで、とても勉強になることがいっぱい。
フグって財界人とか偉い大物とか自民党などが、密談のようなことをするために料亭に入って、だいじなことを決める際に供される(場合によってはその毒で..)、という重いイメージ(GUN)があり、ふつうの人が簡単に食卓に並べて食べれるものではないし、調理法も刺身とか鍋とか皮とかいろいろあって面倒そうだし、そもそもの話として、これは何なのか? なんで当たったら簡単に死ぬようなものを歓待の場で重宝して用いるのか? そもそもそんなの食うなよ、ではないのか? と思いつつ、たぶん自分はフグの本当のおいしさ、底の深さを知らないのだろう、ってなって、これってものすごく境界のくっきりした、境界を際立たせる形で機能するひとつの文化のありようなのだろう、と思った。
養殖のフグには毒がない可能性がある、と科学者が検証を進めて、毒なしフグのリリースに向かおうとしたところで湧いてくる反対の声とか、どこかでいくらでも見てきたような。 これもまた日本の風景だよね。(ほめてない)
というように、ところどころとても男臭くヤニ臭くどす黒くて、これはこれで見事に日本文化を語っているように思った。ウナギやクジラも同じ世界なのだろうか。動物はちっとも悪くないのにね。
9.15.2026
[film] 25 Cats from Qatar (2025)
9.14.2026
[film] La cérémonie (1995)
9月6日、日曜日の夕方、恵比寿ガーデンシネマのクロード・シャブロル傑作選で見ました。
英語題は”The Ceremony”、邦題は『沈黙の女』と、webでは『ロウフィールド館の惨劇』ていうのも出てくる(どちらもなんか違う)。
原作はイギリスのRuth Rendellによる小説”Judgement in Stone” (1977) – これの翻訳タイトルが『ロウフィールド館の惨劇』なのね - をChabrolとCaroline Eliacheffが脚色している。この原作からは映画化がふたつ出て、ひとつはこれ、最初の映画化は1986年にRita Tushingham主演で”A Judgement in Stone”のタイトルで。 あと、1992年にはイギリスでミュージカルになっているらしい。
おとなしそうなSophie (Sandrine Bonnaire)が画廊を経営するCatherine Lelièvre (Jacqueline Bisset)と面接してブルターニュの田舎にある彼女の邸宅にメイドとして雇われる。 田舎のお屋敷には主人のGeorges (Jean-Pierre Cassel)と、Catherineの前夫との間の息子Gilles (Valentin Merlet)とGeorgesの前妻との間の娘で大学生のMélinda (Virginie Ledoyen)がいて、Catherineが忙しくて家事が大変だし、推薦状も問題なさそうだったので住みこみで来てもらうことになる。
家族は全員ふつうのよい人たちからなるよい家族ぽくて、Sophieの仕事ぶり、特に料理にはみんな満足しているようだったが、近くの町の郵便局員Jeanne (Isabelle Huppert)に対しては一家向けの郵便物を故意に汚した疑惑があったり、過去には無罪になったものの実娘の事故死の容疑者とされていたり、なによりも無礼だし、って顰蹙で、そんなJeanneはSophieに近づいていって、一緒に教会の慈善活動(バザー)に行ったりして仲良くなっていく。 その反対側で一家から毛嫌いされているJeanneとの付き合いは雇い主とSophieの間に溝をつくって、孤立した彼女はひとり自室でTVを見ることが多くなっていく。
Sophieは文字の読み書きができなくて、でも一家には目が悪いから(メガネを買う)、ということにしていたのだが、BFの子を妊娠して揺れて近寄ってきたMélindaとのやりとりでそれがばれちゃって、その報復に彼女の電話を盗み聞きして妊娠をネタに(読み書きの件を)黙っているように脅したら逆に父親に泣きつかれて、一発で解雇、一週間でここから出ていくように通告されてしまう。
教会の方でもバザーの品物回収でふたりの態度があまりにひどい(こんなゴミばかり出してくるんじゃねーよ、って投げ返す)ので教会から出入り禁止を言い渡されて、いよいよ行き場のなくなったふたりは、引き払うSophieの荷物をまとめている時にGeorgesの猟銃を発見して…
1933年に雇い主の妻と娘を惨殺したフランス人メイドの実話があり、それをもとにしたJean Genetの戯曲 “The Maid” (1947) – この演劇はロンドンでみた – もあったりするので、ネタとしてはフィクションでもノンフィクションでも人気のものなのかもしれないのだが、原作の方に少しはあったであろう復讐のやったれ!な押していくかんじは殆どなくて、あらゆる温かいものを撥ねのける冬の旅のSophie - Sandrine Bonnaireと、あらゆる攻撃をそのまま反射で打ち返すJeanne - Isabelle Huppertの組合せ、ふたりの間には絆のようなものも希薄、というか必要としていないし、なので結末もどん詰まりで明るく楽しいものではなくて、でもそれがつまんなさに繋がっているかというとそんなことは全くなくて、Sophieはあのまま”Vagabond”になっていったのだろうな、とか。
オペラ”Don Giovanni”ががんがん流れる中での殺戮って、スコセッシあたりが演出したら随分違ったものになったろうなー、と思いつつ、こちらのあっけない切り捨て方も悪くないかも、と思った。
[film] Backrooms (2026)
9月6日、日曜日の昼、池袋のグランドシネマサンシャインのDolby-Atmosのシアターで見ました。
前日にみた”The Odyssey”と共に今年を代表する作品たちであるのかどうか、など。
監督はYouTuberだったKane Parsons、これが長編映画デビューで低予算で大ヒットした(やっぱり)A24の。
ホラー、というふれ込みだったが表面だけだとぜんぜん怖さはなくて思弁SFのようなものとして入ってくるのかも。画面は意図的に30年前のビデオ映像の粗い画質と当時のアメリカのオフィスの滅入るようなのっぺりした薄黄色系で統一されていて、怪物やバイオレンス、血だまりの欠片やその気配はごく僅か - 音だけが全方位で圧してくるAtmosなので余計に、かもしれないが - 壁や通路を見つめて考えざるを得ない、という。
90年代の頭 - の日付が入ったビデオ映像が冒頭に流れるので、現代から90年代を振り返るようなお話? かと思ったらずっと90年代のままで推移していく - アメリカ西海岸の郊外で”Captain Clark’s Ottoman Empire”という格安家具店を経営しているClark (Chiwetel Ejiofor) は元建築家だが失敗して妻とも離婚して、お店の家具で寝泊まりしている自分に絶望して、セラピストのMary (Renate Reinsve)のところに通ったりしているのだが、怪しい自己啓発ビデオを出している彼女自身が相当いろいろ抱えていそうな。
郊外のぶっとんだ家具屋、というと”Punch-Drunk Love” (2002)でPhilip Seymour Hoffmanがやっていた役とか、半壊したセラピストというと、間もなく最低の邦題で”If I Had Legs I'd Kick You” (2025)がリリースされるRose Byrneを思い起こしたりするので、ぜったいになんか起こりそうなことは確か。
家具屋の調子のよくない電気系統を見にきた電気屋が、変なふうに取り付けられたブレーカーを見つけて、夜間に室内の明かりが妙な動作をしだしたのでClarkが調べていると、ドアもなにもない壁に光の輪郭が瞬いていて、そこを押したら壁の向こう側に行けてしまう。壁の向こう側には延々と続く空間 - 標識が裏返っていたり椅子が半分埋まっていたり下に抜けていたり、できそこないのモダンアートのような不気味なBackroomsのネットワークがあって、そこから元のオフィス/家具屋/住処に戻れることを確認したClarkは熱中してそことの行き来を繰り返して地図を作って、仕事場の社員ふたりを呼び出してビデオで撮ってみようとする。
彼らがビデオを持って入った先から展開される映像と顛末は”The Blair Witch Project” (1999) - 見たことないけど - の世界のようになってびくびくなのだが、そこにあったもの、なのか見出されたもの、なのか、これらの異物にMaryと、更にはAsync Research Instituteなる怪しい機関の科学者らしきPhil (Mark Duplss)が絡んで、フランシス・ベーコンの身体とか、なんでこんなことになってしまったのか、この先なにが起こるのか、等が続編以降で語られていく? のだろうか。
日本のオフィスビルはそもそも小さいのでそんなかんじはないのかもしれないが、アメリカの郊外の箱として深く考えずにでーんと建てられただけ、のような建物(箱)のだだっ広いばかりで奥に広がっていくバックルームの深い意味があるとは思えない配置とか広さとか殺伐さって、なんで? どうして? と陰謀めいた何かを想起させないわけにはいかなくて、そこに目をつけたのはうまいかも。例えばDavid Lynchだとどうしてもヒトの脳奥の病理や妄執に向かいそうなところを、空間の方になんかした? 起こった? って問うて、その返事の返し方が変だぞ、とか。
あと、80年代の終わりから90年代ってインターネットの登場でオフィス内の配線とかサーバー用の部屋の確保とかレイアウトを抜本的に見直すことが割とあって、北中南米の古めのビルでそれをやると、これなに? みたいな器具とか機械が発掘されて、そのまま棄ててなんか起こったらやなので放置、みたいなのばかりだったのを思い出したり。
もういっこは、オフィスの延長(書庫スペース廃棄)のような流れでクラウド等が登場して仮想でマルチのBackspaceが立ちあがって、これらが相当に入り組んで同期異常などが起こると例えばー。
でも、Clarkが壁をぬるりと抜けて向こう側にいく描写だけちょっとなー。あくまで即物的な行き来の世界のなかでしかありえない、とんでもないことを表現してほしかったかも。 向こう側に行った後はあれでよいけど。
既にいろんな人が言っているのだろうが、”The Odyssey”は神々の世界のBackroomsに迷いこんで20年間彷徨って還ってきた昔の人類のお話、だとか、少し前の”The End of Oak Street” (2026)もこれだろう、とか。
でも映画ってそもそも、単層的なBackroomsを繋いでそれらしく見せる詐術として発展してきたものよね?
9.11.2026
[film] The Odyssey (2026)
9月5日、土曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。
先行上映とか偉そうに謳っているが、グローバルでみたら断トツの後行で恥ずかしいばかり。
原作はホメロスの叙事詩。監督はChristopher Nolan、脚本もChristopher Nolan(とホメロス)。撮影はHoyte van Hoytema。
全編IMAXで撮影されて、上映/再現もIMAX 70mmが最適なのだろうが、最適な上映設備を選んでしまうような映画、そういうのがあってもよいのだろうし、そうした理由についてNolan自身がいくらでも説明しているようだが、ここまでくると遊園地の世界だよね。体験至上の罠。お金は使って貰いますよって。
冒頭、吟遊詩人のようなTravis Scottがラップの強さでいいか「ストーリー」ってのはこういうもんだヤツの話をとにかく聞いてみ、ってオデュッセウスとトロイア戦争について語り始める。この調子でおらおらって最後まで行ってくれるかと思ったのだが、どこかで飲みこまれてしまったような。
王の中の王アガメムノン (Benny Safdie)によってイタカからトロイア戦争に派遣されたオデュッセウス(Matt Damon)が妻ペネロペ(Anne Hathaway)に自分が死んだら再婚するように言い残して出ていって、彼女と息子のテレマコス(Tom Holland)の館にはむさい求婚者とかよからぬ企みを持つ連中が詰めかけて毎晩飲めや歌えを延々繰り広げている。
映画はオデュッセウスが前線に立ったトロイア戦争に向かって10年、だらだらしんみり過ごしてイタカに帰還するまでの10年、計20年の旅と、その間待ち続けていたペネロペの周辺と、パパを待ちきれずに探しに出たテレマコスの3つくらいの間を時間の前後無視で行ったり来たりしていく。誰もが知るエピソードが多いのでこれがあれか、って思ったり、その辺なんも考えずに見ていてもどかーんとでっかいのが来たりするので、その辺の混乱はあまり気にならない。戦乱の世なのでどうせ混乱まみれということでよいのか。そんなふうにほぼ3時間はあっという間に過ぎてしまう。アトラクションだから。
怪物はポリュフェモスとかライストリュゴネスとか見てすぐわかるのだが、神々は女神アテナ(Zendaya)もニンフのカリュプソ(Charlize Theron)も魔女キルケ(Samantha Morton)も、人間とあまり見分けがつかない世界のすぐ横にいて、ゼウスの法が、とか言われてもそんな重く響かないし誰も聞いてない。会社の偉い人が社内規定とかコンプラについてなんか言ってるよ、くらいのかんじかも。
クライマックスはオデュッセウスが乞食に身をやつして宮殿に戻って、狡猾なアンティノオス(Robert Pattinson)などを懲らしめてペネロペとの再会を果たすシーン、なのだろうが、”Interstellar” (2014)でのふたりの逆のを思い浮かべてしまったり(とにかくぜんぜんよかったね、の感動が来ない)、そんなに盛りあがらなくて、やはりトロイの木馬とか怪物とのバトルとか、そういう戦乱あれこれを描いたアクションドラマ、に見えてしまう。
IMAXででっかく重々しく描かれるぺったんこな海の表面と、その縁でぎりぎりまでひたすら耐えて待って最後に爆心地に向かって実際にふっとんで粉になって消える兵士、という構図(例えば”Dunkirk” (2017))はNolan映画定番のスペクタクルで、でもこの地味なかんじをスペクタクルと言ってよいのかはちょっと考える。
この叙事詩は人間の愚かさとか狡さに対する戒めとしてずっとあって、シノン(Elliot Page)に対する後悔とかオデュッセウスの苦渋も多少は描かれるものの、基本的にはこいつの表に出てこない傲慢や狡猾さを、故郷に戻るとか家族との再会とかで美化してしまっていないか。冒頭の「ストーリー」賛美もその流れのなかで見ると、これって圧政者が金を撒いて進めるプロパガンダの手法と同じようなものになっていないか、と(そこまで狙っている?)
もちろん性格が悪くても頭はよさそうなNolanはこの辺を十分わかっていて、音楽は重心低めでドラマチックなところをできる限り抑えて、「本当に起こったこと」のような地続きの低空を慎重に這ってくる。 ロケ地となった西サハラの問題や外部の者(移民)への歓待など、眺めてふーんとなる箇所は結構あるかも。
でも、これらぜんぶを俯瞰して、ああ人類はこんなところまで来てしまったのか、って嘆きたいのであれば、IMAXに行くよりも今のホワイトハウスを見ればじゅうぶん、ではある。
あの日から25年。まだぜんぜん過去の事件になってくれない。あの粉塵の匂い、どんよりした通りの向こう、戦闘機の音…
9.10.2026
[film] Reinas (2024)
9月5日、土曜日の昼、K‘sシネマで見ました。
邦題は『マイ・リトル・クイーンズ』、英語題は”Queens”。
監督はKlaudia Reynicke、脚本はKlaudia ReynickeとDiego Vegaの共作。スイス、ペルー、スペインの共同制作映画。2024年のベルリン国際映画祭の青少年向けのGeneration Kplus部門で最優秀作品賞を受賞している。
90年代初のペルーで、社会経済が落ち込んでインフラもがたがた、夜間外出禁止令が出て治安も不安定になってばかりなので、シングルマザーのElena (Jimena Lindo)は Aurora (Luana Vega)とLucia (Abril Gjurinovic)の娘ふたりを連れて国を出ることを決意し、苦労してアメリカのミネソタに職を見つけて、パスポートとか為替とか引っ越しとかの準備を進めている。 のだが、最大の難関は別れてどこにいるかもわからない - つかまることはつかまるけど - の夫で娘たちの父Carlos (Gonzalo Molina)の渡航同意書(へのサイン)が必要となることだった。
タクシー運転手らしきことをしているCarlosはお気楽で、今回のことでElenaに呼ばれてわかったサインするよ、と口では言うものの信用できなくて、彼に懐いている娘たち(タイトルの”Queens”)を車で海の方に連れだして、アメリカなんか行きたくないな、パパと一緒がいいな、の雰囲気を作ろうとする。既に恋人がいて、彼との間に妊娠の疑いが出てきた姉のAuroraは特に揺れだして、渡航前にきりきりしてきた母から逃げるように優しくてどこにでも連れていってくれる父の方を向くようになる。根がてきとーなCarlosは、Luciaに対して政府の諜報機関で仕事をしている、ってホラを吹きまくったり。そして渡航の日も近くなりサインの期限も迫ってきて親族でのお別れ会が開かれた晩に…
ファミリードラマの割と普遍的なところと、当時のペルーという土地の事情がもたらす混乱や困惑、でもどうにかしなきゃ! のはらはらがうまくミックスされたとてもきちんと作られたコメディで、すごくおもしろいのになんであまり上映されていなかったのかしら。
96年末に起こった在ペルー日本大使公邸占拠事件の前で、あの事件の後に数回ペルーのリマに仕事で行ったことがあるのだが、この画面に映された町のかんじとか、浜辺の風景とか、当時のままのような気がして、ずっと手つかずのままだったのかしら。それってよいこと… にしよう。
Ready or Not 2: Here I Come (2026)
9月2日、水曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。
↑のとジャンルはちょっと違うが、姉妹が手をとりあってひどい環境から抜けだそうとがんばるお話、というところは似ている… のかも…(こじつけ)
前作 – “Ready or Not” (2019)は見ていなくて、ここから製作に7年かかっているのだが、お話としては前作が終わった地点から始まる – 焼けただれたお屋敷を出たところに主人公のGrace (Samara Weaving)がぼろぼろの状態で座っていて、ここまででどんなことがあったのかを駆けつけた救急隊員に丁寧に説明してくれるので、だいじょうぶ。
結婚式の直後に引いたカードから始まった生贄儀式で、嫁いだ先の一家を全滅させてひとり生き残ったGraceと、それを知らされた評議会(というのがあるらしい)の若頭の双子(うちひとりがSarah Michelle Gellar)が評議会のリーダーである父(David Cronenberg ...なにやってんの?)を枕で押し殺して全権を握り、Graceの持っている指輪を奪うべく世界中から一族郎党を彼らの屋敷に召集して、新たな殺し合いが始まるの。(全体を統括する司祭が指輪繋がりのFrodo - Elijah Woodというのが実にどうでもよくて素敵)
Graceが病院に収容されたところから既に殺し屋は現れて、そこにやってきたのがずっと生き別れていた妹のFaith (Kathryn Newton)で、なにこれーとか叫んだり逃げたり戦ったりしていくのだが、ふたりともスーパーパワーがあるわけでも、ふたり揃うとなんかすごくなるわけでもなくて、妹は姉に見捨てられたことをずっと根にもっていたり小競り合いもあって、とても彼女らに生き残れる要素があるとは思えなくて、他方で襲う側も変態や異常者ばかりなので、かなり緩めでしょうもないバトルが展開されて、最後はゴキブリホイホイみたいに…
アメリカのどこかにいそうでありそうな、カルトで懲りない富裕層の所業振る舞いと、やはりどこにでもいそうな仲が良いのやら悪いのやら、の姉妹をぶつけて、ものすごく痛快なことが起こるわけでもないのだが、さくさく流れていくのがなんかよかった。
こういうのでもエンドロールぜんぶ終わるまで出ていっちゃいけないの? こんなの(っていうよりどんな映画だって)上映の途中で入って途中で出たりしても、ぜんぜんよいし、映画に失礼になるものでもない。誰かのためとかじゃなくて、見るのは自分なんだよ。映画館でもライブハウスでも、この国って、ほーんとばっかみたいになっててうんざり。
9.09.2026
[film] 近松物語 (1954)
9月1日、火曜日の晩、神保町シアターの特集 - 『没後70年 映画監督・溝口健二の世界』で見ました。
国立映画アーカイブで企画展示などもやっているが、没後70年にしては静かで地味すぎないか、と思いつつ、見たいものは何度でも見よう。 80年のときにはこの世にいないだろうし。
原作は近松門左衛門作の人形浄瑠璃『大経師昔暦』 (1715) を元に川口松太郎が書いた戯曲『おさん茂兵衛』と西鶴の『好色五人女』 (1686)の「おさん茂右衛門」、これらを合わせて依田義賢が脚本を。
遊びの金で困っている兄(田中春男)の金策依頼で主人(進藤英太郎)の妻おさん(香川京子)から相談を受けた手代のもへい(茂兵衛)(長谷川一夫)だが、意地悪な主人に直談判してもどうしようもなく、店の金をどうにかしようとしてばれそうになったところを女中のお玉(南田洋子)に救われて、それがお玉に気があった主人を逆撫でして軟禁状態となるのだが、そこから転がったあれこれで目覚めてしまったのかもへいとおさん、騒がれて余計に確信してしまったのか、不義密通の罪で追われる身となったふたりは、もう死のうと誓ったところで更に燃えあがってしまう。なのに実親も含めた世間の格子はただただ冷たくて非情でー。
どこまでも身勝手で悲惨で内向きで、あれこれ非対称な家父長制 - 男中心社会のありようと、その不条理に正面から愛をもって激突して静かに微笑んで犠牲となる女性の聖性と - 近世の物語、悲劇としてものすごくよくできていて、ああとんでもない、っていつものように痺れつつ、そんなおさんの「美しさ」もまた男性側(のシステム)が都合よく練りあげたものなんだからね、って。コンプラで追い詰められた男たちが最後にすがろうとするのもこの辺だから、気をつけなくては、とか。
それにしても香川京子のとてつもないことったら。
赤線地帯 (1956)
9月4日、金曜日の晩、神保町シアターで見ました。 英語題は”Street of Shame”。
これを最初に見たのは00年代のNYのFilm Forumで、ものすごい衝撃で、そこから3回目くらい。
これも↑のもフィルム上映で、やっぱりなんだかんだフィルムがいいなー、説明めんどくさいけど、になる。
上映前からスクリーンの脇の小部屋にある機器がぴーぴー間歇的に変なノイズを出し続けていて、上映前にシアターから謝罪があって、上映後には無料の招待券をもらったのだが、このリアルタイムノイズ、劇中の黛敏郎のぴょーんていう変な音楽と妙に調和したりしていて悪くなかったかも。
売春防止法制定前夜の社会情勢を回想などなしでまっすぐ描いた現代劇で、溝口の遺作。
吉原の特殊飲食店「夢の里」で働く三益愛子、若尾文子、木暮実千代、町田博子ら娼婦たちの姿、そこに大阪からやってきた京マチ子、新たに働きに出ようとする少女、病気の夫と息子がいたり、一人息子と一緒に暮らすことを夢見ていたり、貢いできた男に殺されかけたり、病の夫は自殺しようとしたり、ほんとにいろいろで、全体としてはこんな制度、こんな社会、こんな男たちのせいでこんなにも … なのだが、同じ酷さでも『近松物語』のように迫害される側を恣意的に持ちあげたり賛美したりするのではなく、自分たち自らが強くしぶとく、場合によってはしなやかにしたたかに悪賢く生きる、生き延びようとする女性たちの姿を叩きつけて、やれるもんならやってみ上等だおらー、くらいの啖呵を切ってみせて、誰もがかっこいいったらない。
もちろん全体としては酷い話で、「日本すごい」が大好物でたまらない人たちにとっては正視できない光景だらけなのだろうが、こんなのを制度の変わり目に、「郷愁をこめて」ぽい目線なしで、ドキュメンタリーのようにしれっと作ってしまった(感がある)溝口(そしてこれを最後に消えてしまった)はすごいな、しかない。実際に笑う人はもっと笑っていただろうし、泣く人狂う人はこんなもんじゃなく悲惨だったのだろうが、娯楽映画でも犯罪映画でもないリアルを目指したすばらしいアンサンブルドラマだと思う。
9.08.2026
[theatre] 夢去りて、オルフェ
8月30日、日曜日の午後、東京芸術劇場のウェストの方で見ました。
ロンドンで演劇を見るのがとても好きになったので、帰国してからも続けたい、って月1回は見るようにしてきたのだが、なかなかしんどい。 人気の演目はすぐに売り切れていて、ロンドンだと当日の戻りやキャンセル分をオンラインで簡単に買えたのにそれがないし、当日券がある、といってもどんな席が何枚、すらわからないからリスクを冒してまで行く気にはなれないし、なによりもなによりも肝心の劇の中味が、サイトを見ただけだとイメージとかポエムみたいのでしかわからないの! わかる人にはわかるのだろうし、それで回ってきた世界なのかもしれないが、そんなにムラを作りたいのか。小劇場の時代から何ひとつ変わってないのね。以上グチ。
というわけなので、どうしても名前を知っている作家の劇などに向かってしまう。
原作は清水邦夫の戯曲(1986)、初演も同年の紀伊國屋ホール、演出は清水邦夫、劇団は木冬社。38年ぶりの再演となるらしい今回の演出は大河内直子。
舞台の上には焼け崩れたような回転木馬の残骸があって、かつては遊園地かあったらしい。手前には萎れた草、遠くに海鳴り、夜空には月。
前口上のあと、昭和14年(1939)の冬近くの日本海側(最近、日本海側おおめ)のどこかで、北一輝はまだどこかで生きていると信じる桂木一機(大石継太)が東京で役者をしている血の繋がらない妹のぎん(朝海ひかる)を呼び出す。 大日本帝国陸軍所属の小桜大尉(佐奈宏紀)の妻夢野(平体まひろ)と一機がよからぬ仲にある、という噂がたってしまい、最悪姦通罪で引ったてられる可能性があるので、子供の頃に芝居ごっこをやったように、ひと芝居うってくれないか、というのがぎんを呼び出した理由。
一機の親友だった中原源三(加納幸和)とか夢野の家族、官警なども総動員で駆けつけてばたばたするなか、サル芝居はうまくいくかと思えたのに、静かにしていた夢野が唐突に想定外のことを言い始めて、そこに夢野のことを密かに想っていた義弟の青年将校が挟まってきて大混乱のシャレではなくなりー。
口上で語られていたように、既に崩れてとうに終わってしまった廃墟の上の、どこまで嘘でどこまで本当だったのか確かめようもない、かつて夢であったような話、であるので、どんな修羅場も、どんな悲劇も、誰のどんな妄想であれ、すべては脱線した回転木馬、風と共にどこかに、夢去りて、の上に積みあげられた、例えばこんなごたごたが。 オルフェのように一瞬で消えてしまったがその残骸はいまだにー、なのか?
舞台となった1939年から約50年後の1986年に書かれた芝居、そこから約40年後の再演(脚本は変えていないとのこと)なので、2段階でいろんなことが言えるのだろうか。バブル前夜の好況に浮かれて、全共闘は過去のものとなり、軽薄や表層が尊ばれた86年に北一輝を理想とする主人公の不倫どろどろの軽くない修羅場や殺傷沙汰を持ち出すのは、ものすごく場違いかつアナクロで、そのギャップゆえの「夢去りて」感を見せることの意義はあったのかも、と想像がついて、では、今回の再演はというと、この程度の修羅場ならリアリティドラマなどでふつうに見慣れているし、北一輝のような思想もいちコンテンツでしかなく、タイトルだってアニメのそれ?になりそうなくらいの軽さで、焼け跡も壊れた木馬も絵として映えればよし、だし - 80年代のクッションを介さなくても違和感なくふつうのドラマとして流れていってしまいそうな。
初演当時は、それでも愛を、失われたものを届かない場所と時間を経て語る、というロマンがありえた気もするのだが、いまはどうなのだろうか? 割とエモ抜きで走っていく主人公たちにどこまでついていけるのか、辺りだろうか。割とあっさり受けとめることができてしまったのだが、最近の若いひとたちがこれ見てどう思うのかは不明。
時代の段差を前提としたような劇なので、ここまで時代が隔てられてしまうと夢の効力も薄まってしまうのでは、と少し思った。Tom Stoppardの”Arcadia” (1993) のようにひとつの場所、ふたつの時代を交錯させた方が「夢去りて」のかんじは出たかも。
あと、家族–軍人-北一輝という同心円の体裁、80年代には「右傾化」で茶化していれば済んでいたあれこれが、近年はシャレにならなくなっていて、しらんぞー、しかない。 軍は簡単に去ってはくれないよ。