7.17.2026

[film] 海灘的一天 (1983)

7月12日、日曜日の午後、シネマート新宿で見ました。

Edward Yang - 楊德昌の最初の長編劇映画、撮影のChristopher Doyleにとっても長編劇映画デビュー作、侯孝賢も登場する、記念碑的な作品のリストア版。ようやく見れた(とみんなが言う)。

英語題は”That Day, on the Beach”、邦題は『海辺の一日』。
166分、ちょっと長いけど、海辺で一日ぼーっとしている時に浮かんでくるようなことが押し寄せてきて - 押し寄せてくるかんじを体感できて - とても満ち満ちて固まった、豊かな午後の時間を過ごすことができる。これこそが自分にとってのEdward Yangのイメージかも。

ヨーロッパでずっと活動してきたピアニストの蔚青(Terry Hu)が13年ぶりに母国の台湾に還ってきてコンサートをする、というラジオのアナウンスが流れ、晩に向けた準備をしようとしている彼女のところに、旧友の佳莉(Sylvia Chang)が会って話したい、と連絡してきたので、彼女は午後の予定をキャンセルして、再会したふたりはお茶を飲みながら対面する。

ここでふたりの関係、その過去を掘り下げていくのかと思ったら、佳莉の兄の佳森(Ming-Hsiang Tseng)が父の経営する医院を継ぐべくお見合いで結婚することになり、彼が当時付きあっていた蔚青が海外に出てしまった経緯が語られ、そこからふたりのその後に向かうかと思ったら、今度は佳莉の方に向かい、彼女の方にも親からよろしくあてがわれた男が紹介されたので、大学から兵役に出るところだった徳偉(David Mao)を捕まえて家を出て一緒になる。徳偉はとてもよい人で幸せだったが、大学の金持ち友人だった阿財(Hsu Ming)の会社に就職してから忙しくなり、ふたり一緒に過ごす時間が減って、互いにぎすぎすして追い詰められていって、そういう状態で今から3年前に、徳偉が行方不明になって、彼の名前が書かれた薬瓶が海岸で見つかって、それらしい男の影も目撃されていたので捜索が進められるなか、阿財が現れて徳偉の周辺で会社のお金が無くなっていること、怪しい出張を繰り返していたこと、実は死んでいないのではないか、と語るのだが、佳莉は彼女のなかで彼の死亡認定をする。浜辺では見つかったぞ、のようなシーンも描かれるが、彼女はもう振り返らない。

最初のシーンは夕刻の海辺の捜索が一瞬だけ、彼が消えてしまったあの日、海辺で過ごした一日はどんなだったのだろうか – その場面を直接には描かず、↑のような十数年に渡って散らばったストーリーを十数年ぶりに再会したふたりの対話を通して、回想 - 回想のなかでも回想して右に左に振れまくり、起こったことはリニアではない形でとめどなく流れていって、誰にも止めることも巻き戻すこともできない時間の塊りに対する後悔や残響をもたらして、もちろん、だからどうなるというものでもない。 蔚青が海外に出るきっかけを作った佳森も数年前に寂しく病死したことが、最後に付け足されて、ふたりは別れてそれぞれのトラックに戻る。 

映画の文法、のようなところで言えば、たぶんやってはいけないこと - 見る側を困惑させるし、だらだら締まりなく起こってしまったこと、を回想のがんじがらめで封じ込めていくので、どこに連れていきたいの? になるのだが、愛を求めるひと、愛から逃げるひとのシンプルな往復によるメロドラマがなんだか心地よくなっていく不思議。

なんとなく、成瀬の容赦ない『流れる』、ではなく『流れた』 みたいな(佳莉の髪型)。公開に近い年代でいうと”Love Streams” (1984)にあったある種の気持ちのよさ。 ここでとめどなく流れていったのは時間ではなく愛だったけど。

蔚青はその晩のコンサートで、どんな曲を弾いて、そのピアノはどんなふうに鳴ったのだろうか? といったことまで思ってしまったり。

7.16.2026

[film] Historias del buen valle (2025)

7月11日、土曜日の午後、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。上映後に監督José Luis Guerínとのトークつき。
英語題は”Good Valley Stories”、邦題は『よき谷の物語』。

ドキュメンタリー作品で、最後に見た彼のフィルムも確か”Correspondences: Jonas Mekas - J. L. Guerin” (2011) というドキュメンタリーだったかも。

バルセロナ近郊のVallbona地区、Besòs川と運河と鉄道の線路に挟まれた三角地帯のような場所があって、都市開発から取り残されたこのエリアに昔から住んでいる人、どこかからやってきて住み着いた人などが暮らし共存して、独特のコミュニティを形作っている、そこに暮らす人々と、開発の要請はここにも来て、という谷の物語。

冒頭はモノクロで、後のトークによると、バルセロナ現代美術館(←よいところ)からの依頼で10分程の短編をスーパー8で撮ったもの。これが良かったので、ひとりでやっていたのを広げて腰を据えて撮ることにした。ただお金がなかったので映画学校の若者たちに手伝って貰って、完成までに2年を要した。(と、後のトークで語っていた)

元気に川遊びをしたり走り回ったりする子供たちもいるが、住民の多くは高齢者で、所謂働き盛り、で漲っているような人たちはほぼ出てこない。子供たちと女性たち、老人たち、そして他国からやってきた移民、そしてアヒル。 12ヶ国語が話されていて、人との間だけでなく、植物と会話している人たちまで出てくる。

映画を撮っていると、西部劇にすべきだ、という老人がいて、決め手は風だ、なんてかっこいいことを言う人もいれば、奥さんと出会った頃の話をしながら泣いてしまう人もいる。老人の話は何を聞いてもしみるし、威勢のいいガールズトークもたまんないし、彼ら自身の言葉での会話がぜんぶ聞こえてきたらどんなに楽しいだろう、ってくらいにいろいろな人々が次々と現れる。

画面をひっきりなしに電車(こないだ大事故を起こしたやつ?)が通って(この映画のなかで40本通るって)、一度もこの地に停車することはない。列車が停まって、人々がそこから下りてくるところから始まるドラマではなく、川は昔から動かなくて、道路もそうで、そういう境界の狭間に(保護されていない)ポケットのように生まれてしまったエリア、地帯に、どこかから流れてきた人たちが集まってきてそこに暮らす、というどこにでもありそうな絵。 滞在許可は?みたいな話にはならない。

でも古い住宅は建て替えられて、さらに大きな開発が入って、住民たちは出ていかざるを得なくなり、終わりの方では警察がくるぞー、ってざわざわする場面もある。でも立ち退き拒否とか、強制執行、のような話にはならず、文明の拡張、都市の拡張、によって他所に追いやられる人々という、大きな物語の一部(よき谷の物語)として語られる。(もちろん、だからと言って体制に与するような話ではない)

変わっていかざるを得ない地域のなかで、移っていくもの変わらないもの、という代理店が喜んで制作しそうなテーマなのだが、なぜこの谷に人々は集まってくるのか、集まって暮らすというのはどんなことなのか、という根源的なことを個々の会話のなかから掬いあげようとしていて、そこから彼らを主人公にしたフィクション(John Fordのような?)まで浮かんでくる大きな風呂敷のような造りと広がりがあるの。

後のトークで、住民に演技指導のようなことはしていなくて、あえて言えば、そういう動きをしてくれそうな状況を作るべく動いたりはした、と。でも肝心なのは、いつどこで撮影するかである、と。

どんな町でも村でも、谷でも島でも、これと同じような人々のお話を編むことはできるのかもと、なんとなく先月見た羽田澄子の『早池峰の賦』 (1982)を思い起こしたり。

エンドクレジットでは、この映画に登場して亡くなられた方々の名前に並べてJonas Mekasの名が。Jonas Mekasという人もNYのロングアイランドという島に流れてきて、そこに住み着いた人として映画(日記)を撮り続けた人で、この映画の終わりに名前が載るのにまったく違和感ないような。

“Innisfree” (1990)を見たいな、見なきゃな、と言い続けて軽く10年以上かも。

7.15.2026

[theatre] バストリオ セザンヌによろしく!

7月9日、木曜日の晩、浅草九劇で見ました。 浅草に行ったのなんて数十年ぶりではないか。

月1回は見たい演劇シリーズ。 場所も劇団もまったく知らないところだったが、せんがわ劇場演劇コンクールでグランプリとオーディエンス賞をW受賞した作品の再演である、と。「セザンヌ」がタイトルにあるのであれば、サント=ヴィクトワール山をふらふら見に行ってしまった者としては見たほうがよいのかしら、くらいで。

初演は2023年、兵庫県豊岡市の神鍋山で『セザンヌの神鍋山』(どんなところなのか見当もつかないや)という野外劇として上演されたものらしい。

会場はシアターというより服がいっぱいぶら下がっていたりステージの前に半透明のビニールが掛かっていたり、中央に水の溜まった透明な箱があったり、実生活が進行中のゴミ屋敷~大昔の雑然とした小劇場ふう、バストリオも劇団ではなくパフォーマンス・コレクティブ、というらしい。開演時間前から演者と思われる人々が舞台や仕掛けの周囲を行ったり来たりせわしなく、プロジェクターでステージ前の様子を映しだしていたり、上演前には主宰の今野裕一郎から上演時間は約60分、少しでるかも、と話があった(実際には1時間10分くらい)。

最初にドラムスの人が出てきて、使いこんでいくうちに削れて折れてしまったスティックの話をしつつ、いろんなドラムスのリズムのパターンを試して、そこからいろんな人たちがステージに上がったり下りたり回ったり、ステージ下で絵を描いているのをライブでプロジェクションしたり、サックスを吹き鳴らしたりしつつ、いろんな言葉と声、音が飛んでは消えていってとにかくせわしなく、同時性のごちゃごちゃの中で突然(のように見える)山を見つめる、山と向かいあう話が浮かびあがり、それを訴える(ようにみえる)セザンヌはプログラムの紙によるとセザンヌ1から3まで女性3名がいて、とにかくゴミだろうがなんだろうが何がどれだけ溢れかえってやかましくても死ぬまで山の肌理、壁、その硬さと向かいあって自問していろんなひとつの山を刻んでいった彼/彼女の姿があちらこちらに現れては消えていく。

いまここ、の一回性に集中して何かを表現しようとする、それを見にその時間、その場所に人が集まってくる演劇/パフォーマンスという様態とセザンヌがあのアトリエから丘を登って山が見える場所に行ってずっとひとつの山を見つめ、探求しながら描いていったその姿勢(のようなもの)は、このとっちらかったパフォーマンスが見せる80~90年代の相対主義的なバラけぶりと相容れないように見えるし、むしろただの偏屈な困った人として隅に追いやられてしまうであろうことまで示される。

セザンヌがたった一人で、それなりの時間をかけて追い求めていった事物の、対象の本質(のようなもの)を見据えて掴みとろうとする試みは、せわしない今の世の中でどこまで可能となるのか、をものすごく落ちつきのない雑踏とかお茶の間のなかから伝えようとして、その難しさに苦笑したりへらへらしそうになりつつなんとか『よろしく!』とだけは言って、最後にパレスチナ、シリアといったこの世の地獄を正面から突きつける。

とてもまじめで今できるのはこういうことなのだろうな、と思いつつ、わたしはセザンヌをパンクとして見たものなので、ここまできちきち積みあげないと突破はむずかしいのかー、たいへんだよなー現代って(そんなもんか)。

あと、このしんどさ、複雑さ、雑多さにぶつけるのであれば、セザンヌというよりキーファーあたりではないのか、とか(… とりかえしのつかないことに)。

7.14.2026

[film] Blood on the Moon (1948)

7月8日、水曜日の晩、シネマヴェーラのRobert Wise特集で見ました。この特集での最後の2本。
邦題は『月下の銃声』。 ゴスメタル系のアルバムタイトルにありそうな。

原作はLuke Shortによる小説”Gunman's Chance” (1941)をLillie Haywardが脚色している。

放浪のカウボーイJim Garry (Robert Mitchum)が友人のTate Riling (Robert Preston)に会いに行く途中で牛の大群に襲われて、近くの牧場主John Lufton (Tom Tully)のところに寄ったら彼の家族への手紙を託され、持って行ったらそこの娘2人に敵意をむきだしにされて、なんでだろう? と思っていたらRilingはインディアンの代理人と組んでLuftonの牛を買い叩いて土地から追い出そうとしている謀略が背後にあることを知る。

どうもLuftonが善玉でRilingが悪玉らしいのだが、Luftonの娘のうちひとりはRilingと繋がっていたり、全体に薄暗い照明や夜明かりのなか、主人公Garryと同じようにどっちが敵でどっちが味方なのか、誰がどうしようとしているのか明確に把握できず、主人公の思惑も含めて簡単には見えてこなくて、GarryはRilingの仲間であることをチラつかせたりしたせいで脅されたり刺されたりぼろぼろになりながら、威勢のよいLuftonの娘Amy (Barbara Bel Geddes)と一緒に戦っていくことになる。

最初に登場した頃のRobert Mitchumは無精ひげの胡散臭い風体で、狙われたり真相を知ったりするなかで、ひげはきれいになってて、でも何が正しくてどっちがどうなのか、などは薄暗くて(彼も察知しているのかどうか)見えてこなくて、謀略とか思惑に巻き込まれ、裏切りに夜討ちの連続で、これを「西部劇ノワール」と呼ぶのであればそうなのだろうな、としか言いようがない暗さと徒労感がずっと渦を巻いてつきまとい、拳銃早撃ちとか馬駆けとかで悪党をやっつけていく爽快感なんてまるでないのだが、ぼそぼそ喋って地面に転がってばかりのRobert Mitchumの重さと地味な暗さ、天井の低さのどん詰まり感がなかなかよくて、とても見ごたえがあった。

いまやっている時代劇ノワール『黒牢城』よりも、こっちかも、とか。


All That Money Can Buy (1941)

上のに続けて、シネマヴェーラで見ました。 邦題は『悪魔の金』。

監督はWilliam Dieterle、編集がRobert Wise、音楽はこれでオスカーを受賞したBernard Herrmann。 原作はStephen Vincent Benétによる短編小説"The Devil and Daniel Webster" (1936)を戯曲化したもの (1938)で、当初は同名のタイトルでリリースされる予定だったが、”The Devil and Miss Jones”っていう似た名前の映画があったので、”All That …”の方に変更された、と。 最近だと“All the Money in the World” (2017)っていうRidley Scottの映画もあったよね。あんま関係ないけど。

1840年のニューハンプシャーにJabez Stone (James Craig)という真面目な農夫が妻のMary (Anne Shirley)と敬虔な母(Jane Darwell)と一緒に暮らしていて、子供も生まれそうなのについてない、お先真っ暗なことばかりで途方に暮れていたら悪魔- Mr. Scratch (Walter Huston)が現れて、自分と契約したら楽になるよ、って金貨をちらつかせて、契約したら確かに生活は楽になって大きな家も建つのだが、Jabezの性格はどんどん嫌な方に変わってあれこれ手が付けられなくなっていく。

そこに以前から地元の貧しい者の味方として慕われていた議員で弁護士で弁のたつDaniel Webster (Edward Arnold)が現れて、Mr. Scratchは彼にも大統領にしてあげるよ、って誘惑しようとするのだがー。

監督のWilliam Dieterleにとっては『ノートルダムの傴僂男』 (1939) – これも編集はRobert Wise – に続く作品で、古くからある御伽噺ふう – というかふつうのファウスト伝説の悪魔がやってくるのをやっていて、そんなに怖くはないけど、見てすぐわかるキャラクターたち – 特にWalter Hustonうますぎ - とか舞台劇のようなセリフ回しとか、楽しいし、ヨーロッパの民話がこんなにも19世紀の腐り始めたアメリカにはまってしまうことにびっくり。

悪魔と戦う政治家、というと、そういえばゾンビと戦うリンカーンもいたし、アメリカだとやはりそうなるのか。いま、その伝統の線上に立って、政治家本人がしょうもない悪魔になってしまったら誰がどうするのか、が問われている。べつに問わなくてもいいからだれかどうにかしろあの腐れでぶを。

あと、William Dieterleと言えば大好きな“Portrait of Jennie” (1948)とか“September Affair” (1950)なのだが、あのちょっと不思議で独特なストーリーの運び、テンポは、既にあるような。

7.13.2026

[film] Höhenfeuer (1985)

7月7日、火曜日の晩、ユーロスペースで見ました。
邦題は『山の焚火』、英語題は”Alpine Fire”。 作・監督であるFredi M. Murerの「マウンテン・トリロジー」を構成する1本で、デジタルリマスター版での上映。 ロカルノ映画祭でグランプリを受賞しているし、いろんなところで必見、と言われている。 ので見る。

アルプスの山の奥のウリ州、そこの山腹に4人家族が暮らしている。家畜として豚、牛、鶏などがいて、4人それぞれ働いているが息子のBub (Thomas Nock)は聾唖で、文字は読めるようだが、ちょっとしたやり取りも難しそうで、でも家族はしっかりと強い父(Rolf Illig)と敬虔深くやさしい(何も言わない)母(Dorothea Moritz)と辛抱強く弟の面倒を見て読み書きを教えたりしている姉のBelli (Johanna Lier)がいて、父はBubを施設に預けたりはせず、躾のようなところまで含めてBelliに任せていて、学校に行きたいであろうBelliは、それを諦めてずっと家にいる。

Bubは大きくなって思春期を迎えて力仕事もこなせるようになってきた半面、挙動が荒く、思うようにいかなくなった時の反発やぶち壊しがだんだん手に負えなくなっていって、彼はとうとう自分で家族の家から出て、少し離れた山の奥に籠ってひとりで暮らして石を積んだり並べたりするようになり、Belliはそこに食料や衣類を届けたりしているのだが、そのうちBelliが妊娠していることがわかって、母はそれを察知しても黙り、でもそれを知った父親は激怒して銃を手に取って…

登場するのは家族の4人と、一度だけ少し離れたところに暮らす祖父母が出てくるくらい、外の世界(社会)との交流はほぼ描かれず、それでどうにか暮していけてしまう家族がある、あった時に、そこでの時間や季節、生活の営為はどんなふうに流れていくのか、をドキュメンタリーのように追っていく。アルプスの山でのお話だが、山の雄大でドラマチックな景色とかが映されることはなく、白い霧だか雲だかと岩と草だらけで騒がしいのは家畜ばかり、ドキュメンタリーとして見せられてもわからないかもしれない時間の流れ方、喋らない人々の表情や挙動が野生動物のように生々しい。

なので、Belliの近親相姦 - 妊娠も大問題として挙げられるのではなく、起こってしまったこと、として山中暮らしの雑事のように、せいぜい焚火を焚いて暖をとるような所作のなかで起こって、なにをどうすることもできないような事態として放置される。 『最後通告』で忽然と消えてしまう子供たち、あそこで最後に現れる謎の少年のように、言葉を発しない、あるいは発したとしても届かない距離のなかに置かれた者たちが行き交う、そこから出ていくことのない山の暮らし(最後の方でヘリに吊るされて山の向こうに飛んでいく牛だけが… )。それを過酷と思うのは都会人の勝手だが、とりあえず焚火はあったかくないと死んでしまうし。

これは悲劇であり破滅なのか? という本作への問いが反転して現れたのが『最後通告』なのかもしれないが、ストーリーを貫く意思のような力は『焚火』のほうが『満月』よりも強く効いているかも。どちらも柔らかい光で、あのラストシーンを狂ってるなんて言えるだろうか。

思い出したのはピランデルロ/タヴィアーニ兄弟の”Kaos” (1984) - 『カオス・シチリア物語』だったかも。海の物語に対する山の物語、というか。これらがどちらも80年代の中頃に出てきた、というのはー。

[film] Vollmond (1998)

7月6日、月曜日の晩、ユーロスペースのFredi M. Murer小特集で見ました。

彼の作品はこれまで見たことなかったので。 英語題は”Full Moon”、邦題は『最後通告』。35mmプリントでの上映。 作・監督はFredi M. Murerによるスイス - 仏 - 独合作映画。

山間の村に暮らすEscher家で、満月の次の日、10歳の息子が帰ってこないままになって、これは誘拐かなにかの事件かも、と通報して警察が動き出して刑事のWasser (Hanspeter Müller)が派遣されるのだが、捜査をしていくうち、この日同様に一帯の12人の子供達が突然に姿を消してしまっていたことがわかる。全員10歳の子供たちで、スイスの4つの言語圏にきれいに散らばって(各3名)いて、誰ひとり書き置きを残さず、争ったり抵抗したりした形跡も怪しい人物の目撃情報もない模様。

という、あまりに静かで穏やかな事件 - 「児童の誘拐」らしくない事件であることが消息を追っていく中で明らかになっていって親たちの焦りや苛立ちとは反対方向のみんなお手あげにならざるを得なくて、彼らが消えた1週間後、各家庭に同じ宗教的なシンボルのようなものが描かれた手紙が届き、宛名の筆跡は子供たちそれぞれのものであることがわかる。この件も含めて不穏な様子がほとんど見えないので、どこかに匿われてどうにか生きているのではないか、になる。

こうしてストーリーは、誰が何を目的にどうして子供たちを拐っていったのか、という犯罪捜査 - 領域や条件を狭めていく - から、こんな不可思議なことが起こってしまった環境や地勢の方に目を向けさせるように動いていって - あまりに手掛かりがないから - いまこの土地で神隠しのようなことが起こりうるとしたら、たぶんたとえば、というふんわりとした考察に向かっていくような – もちろん、ふんわりのはずがない。

グローバル化(云々が言われ始めた前世紀末)、という流れの反対側で言語や人種による分断と孤立化が進み、自然はいくらでも好きなように破壊され淘汰され、テロも戦争も一向になくならず、人類は反省も躊躇もしない - 劇中の子供がいなくなった母親とWasserが一夜を共にしてしまったり、もっと真剣に生きろどうにかしろ、って山の神が何かに向かって怒った - 『最後通告』 - ということでよいのか。

同様に子供たちの集団神隠しを扱った映画 - “Picnic at Hanging Rock” (1975)あたりと比べても神秘的だったり退廃的だったりの雰囲気からは遠く、例えばいまは満月の距離感で離れているだけ、欠けてもじきにまた戻ってくるから、くらいの緩やかな、より現実的に足元を見ているような感覚がある。都会で起こったことではなく、田舎の山奥なので誰も真剣に動こうとはしない、という辺りも含めて、それでも満月は不穏にあたりを照らしだして人々を惑わせる。

いまの、ここ数年の現実世界では、ガザでもイランでも数千人規模で白人たちによって子供たちが殺されていて、それに対して誰も何もどうすることもできない。ここでの『最後通告』を遥かに超えた、本当にひどいところまで来てしまっている、という。(だから半端になだらかに見えてしまうのかな?)

35mmフィルムのややぼやっとした、シャープではない質感が手の施しようのない霧のかんじをうまく出していたかも。

7.10.2026

[film] Kind Hearts and Coronets (1949)

7月5日、日曜日の午前、K’s Cinemaのイーリング・コメディ特集で見ました。

映画史に残る名作、とかそういうのではないと思うが、やっているとつい見てしまう1本で、このサイトでも書いているのだが、それでもまた見てしまった。 1950年のBAFTAではBest British Filmにノミネートされていて、結果は『第三の男』の前に敗れている。
 
コメディにしてはかなりダークな、Oscar Wildeの系譜に連なるようなストーリーテリングで、決して明るく楽しい結末でもないのだが、踏板外しみたいなラストの見事さには、ううう、ってなる。
 
エドワード朝時代のイギリスの牢獄に公爵Louis D'Ascoyne Mazzini (Dennis Price)が入っていて、翌日絞首刑が執行されるというので教会からも人が来て、看守たちも公爵さまだから、ってやや緊張しているのだが、彼はずっと書き溜めていた手記を仕上げようとしていて… というところから回想がはじまる。
 
彼の母は公爵の末娘だったが、身分違いのイタリア人のオペラ歌手と結婚したことで放り出され、それでも夫婦にはLouisが生まれて貧しくても一家で幸せで、でも父が亡くなるとすべてが一変し、生活に困って実家に助けを求めてもすべて却下されて失意のなか母も亡くなる。こうして復讐の鬼となったLouisは、爵位継承順位で自分より上位にいるD'Ascoyne家の8人を順番に殺害していくことにする。この皆殺し計画と並行して、幼馴染のSibella (Joan Greenwood)との実らなかった恋、自分のせいで未亡人となり、やがて妻となるEdith (Valerie Hobson)とのこともあり、決して明るくはないけど、きちきち律儀に復讐を成しとげていくさまがクールにすっとぼけつつ進んでいって、とにかく爵位を取り返すの。すっとぼけと言えば、殺される側の8人をひとりで演じているAlec Guinnessの絶妙なこと。殺される側がなんだか楽しんでいるように見えてしまう巧さ。
 
原作はRoy Hornimanの小説“Israel Rank: The Autobiography of a Criminal” (1907)で、タイトルだけでわかる主人公 - Israel Rank - の人種はユダヤ人で、赤ん坊を毒殺したり、かなり陰惨で露骨な反ユダヤ主義小説 – という形で反ユダヤ主義を風刺しているものらしく、これをイタリア人のハーフに主人公を替えてイギリスの階級制度への風刺にひっくり返した監督Robert HamerとJohn Dightonの脚色はすごいと思った。
 
これ、舞台を日本にして家父長制へのどろどろした呪いと復讐を… って既にいっぱいありそうなー。
日本の皇室で38親等離れているけど継承権があると主張するやくざが… ← ちょっと生々しすぎる(そしてくそばかばかしい)

 
Girl, Dance, Girl (1940)

 
同じ5日、↑のを見たあと、日仏のデュラス特集で“Aurelia Steiner”の(Melbourne)と(Vancouver)を見て、このまま週末を終えてしまうのはどうか、ってなったので、途中で渋谷によってシネマヴェーラのRobert Wise特集で見ました。 帰れよ。
 
もう何回も見ているし、書いているし、でもいいの。 Dorothy Arzner監督による『恋に踊る』。この作品でRobert Wiseは編集をしていて、彼の次の編集ワークが”Citizen Kane” (1941)で、この他にもWilliam DieterleやGregory La Cavaといった監督の編集を手掛けているのね。
 
オハイオからNYに出てきて、ダンスで成功を目指すJudy (Maureen O'Hara)とBubbles (Lucille Ball)がいて、Bubblesは”Tiger Lily”の名でブロードウェイのバーレスクのステージに立って、途中からJudyがクラシックバレエの衣装でステージにあがると客から引っ込めーってぶうが出て、改めてTiger Lilyが出てきてやんやの喝采になる、という演出がうけて大当たりするのだが、本当か? っていつも思う。
 
だって、Maureen O'Haraが現れて踊るんだよ? 節穴かよ? って思うのだが、最後にやっぱり彼女に怒られるのでストーリーとしての筋は通っているのか。
 
とにかく必見だからー。