5月9日、土曜日の夕方、ル・シネマ 渋谷宮下で見ました。
なんとなく新作も見なきゃ、にたまになる。 邦題は『ドランク・ヌードル』。 2025年のカンヌの、ACID(思っていたのとぜんぜん違う略語だった) sectionというところでプレミアされている。
監督はアルゼンチン生まれのLucio Castro。どこかで見たような、と思ったら、デビュー作の“Fin de siglo” (2019) – “End of the Century”をコロナ禍のロンドンで、Curzonの配信で見ていた。これもどこかの町にふらっと現れた男がなんとなく性的なことなどをしてだらだらと終わるだけの話だったような。でもそれが不思議と風通しよくて。
タイトルからアジアのお話かと思ったら冒頭に出てくるのはブルックリンの町(アジアは最後の方にちゃんと)で、荷物を抱えた若者Adnan (Laith Khalifeh)が一軒の家に入って暮らし始める。あとでその家は長期で家をあけている彼の叔父のものであることがわかる。家のなかにはぜんぜん近寄ってこないけど、にゃんこも生息している。
彼はアートの勉強をしている学生で、そこに滞在している間だけ路面のアート・ギャラリーで受付のバイトをしている。もの静かで落ち着いていて何を考えているのか不明、夜は宅配でご飯(べちゃべちゃ正体不明のもの)をオーダーして、自転車でやってきたデリバリーの人と公園の暗がりで秘め事(としか言いようのない描写)をしたりしている。
そうやって知り合ったYariel (Joel Isaac)がギャラリーまでやってくる。冒頭にニードル・アートでタイトル”Drunken Noodles”を編んだりしている手が映されたりするのだが、ギャラリーではそれと同じ仕様のクィア・ニードル春画がいくつも展示されていて、それに感銘を受けてしまったらしいYarielが仲間たちを連れてやってくる。こういうことが紙芝居のようなリズムで淡々と展開されていく。
あと、山を訪れたAdanの自転車がパンクして引きずって困っていたらそこにいた白髪で半裸の仙人みたいな老人が修理して歓待してくれて、かのニードル・アートは彼の作品(実際のアーティストはSal Salandraという人らしい)であることがわかるのだが、外が暗くなってくると、老人が見せたいものがある、ってAdanを外に連れだして夕闇のなかじっと座って待っていると、どこからか牧神が現れて… このエピソードがとても素敵。
もの静かなAdanから、彼の考えや志向、欲望から夢まで、こちらに向かって語られたり示されたりすることは一切なくて、ただ幽霊のように暗がりに現れるクィアな人々の間を彷徨っているだけで、そこで浮かびあがってくるのは都会の狂気でもパラノイアックな孤独でもなく、ソーシャルにも届かないような玉突き - 半分夢を見ているようにそこにいるだけ、の状態がちょっと湿った空気感、理想的な陰多めの光の具合のなかで描かれている。この展開がリアルかリアルじゃないか、のような議論は、春画をみてその本物具合をあれこれ言うのとおなじく意味がない、というかそういうのを無粋、っていうの。
そういう彷徨いの最後にやや唐突現れる李白の酔っ払いの詩が現代のブルックリンと唐の時代をニードルの縫い縫いで結び付けて、そのスケールのありようはホラー味のないApichatpong Weerasethakulのようかも、と思った。
ニードルの編みアート、というのがよいのかも。同じニードルを使ってもタトゥーとか注射とかになるとトーンががらりと変わってしまうだろうし。
山のなか、別にいけないことはしていないが、どこか怪しく見えてしまうことをして愉しむ男たちの話、でいうと、Kelly Reichardtの”Old Joy” (2006)とか、ついこないだのIndia Donaldsonの”Good One” (2024)とか。”Drunken ~”というのもポジティブな言葉と見ておけば。
どうでもよいことだが、この日は、朝からブレッソンを2本続けてみて、スタージェスを1本みて、これをみて、その全部が90分以下の作品だった。とても丁度よくて快調なかんじ。
5.13.2026
[film] Drunken Noodles (2025)
5.12.2026
[film] Route One/USA (1989)
5月6日、水曜日の連休最終日は、日仏のRobert Kramer特集で終わった。
この前の日が京都日帰りで、北野天神からKYOTOGRAPHIEまで、それなりの旅をした感覚があったので(2本のタイトルの並びだけ見ても)疲れないかしら、と思ったがぜんぜん、よい意味で軽くてよかった。
Doc's Kingdom (1989)
プロデューサーのひとりにPaulo Brancoがいる。音楽はBarre Phillips。
アメリカからアフリカを経由してポルトガルで医師をしているDoc (Paul McIsaac)がいて、リスボンの港湾地区の廃屋のようなところにひとりで暮らして酒に溺れて、酒場のマスターCesar (João César Monteiro)からはもう国に帰れ、とか言われるし、留守中にも住処に嫌がらせをうけて居場所がなくなりつつあるのだが、彼に戻る国はない。
NY(花火でそれとわかる)に暮らすJimmy (Vincent Gallo)は介護している母 (Roslyn Payn)の最期を看取って、彼女の遺した手紙から父親と思われるDocのところを訪ねてみることにする。
こうして対面した父と息子の会話は、よくある親子再会もののようなエモの揺れなど殆どない、互いの今の居場所と意思を確認しただけで終わって、つまりそれがDocの”Kingdom”、ということで、彼にとっての軍服のような白衣を纏って、メガネをして、酒瓶を抱えて、戦地である病院に向かうところで終わる。”In the Country” (1967)を出てから”Kingdom”へ、恋人から肉親へ、という地勢や人間関係の変遷はあるが、闘いは続いていて終わらないのだ、という持続感とその決意は漲っている、というか強い。
Paul McIsaacは、いまだとMark Ruffaloのようだし、Vincent GalloはOscar Isaacのようだし、要はいまのハリウッドのスタンダードとして通用するキャラクターの揺るぎなさのようなものが宿っているなあ、って。
Route One/USA (1989)
↑のに続けて14:30から第一部、休憩を挟んで17:30から第二部。計4時間15分。
↑とは地続き時間続きなのか、Doc (Paul McIsaac)が、医師のキャラクターのままでアメリカに戻ってくる - アフリカ経由で、と言っていてポルトガルの滞在については触れたくないのか、でも途中でJimmyに電話をしていたりする(でも出てくれない)。
Docと撮影クルーがカナダの国境付近、北の天辺から、Route 1をKey Westまで南下していく。
“Milestones” (1975)のファブリックを縦に裁断してみたとき、その断面はどんな様相だったり模様だったりするのか。これが東西(Route 66)横断だったらどんなふうになっただろうか。(たぶん取りあげなかったのではないか)
“Milestones”のように土地や人々の間に石を置いて観測するようなアプローチではなく、ロードムービーとして過ぎ去るものは後方に去っていくものとして、そこにいた/いる人々の顔や声を自分もいなくなることを前提に視野に捕まえてフィルムに収めていく。 親と子、コミュニティ、民族、歴史、宗教、記憶、といった枠組のなかで、その土地に根をはるイギリスに対する植民地住民、北部に対する南部民、祖先や親たちからの因襲に対する従属あるいは反逆、といった歴史の諸相や断面を追って、キャラクターとしてのDoc以外は対象との出会いも含めてすべてドキュメンタリー的な生々しさと共に動いて背後に消えていく。
“Milestones”の時はFrederick Wisemanのことを思ったが、今度のはJonas Mekasのことを思った。Waldenが出てきたからだろうか。”Lost, Lost, Lost” (1976)の、亡命者としての視線と、Docの帰還したルーザーとしての視点に似たものを感じたからだろうか。そこには痛みと、ここでくたばるわけにはいかない、という燻った怒りのようなものがあるような。 それはたかだか3時間~4時間程度で描ききれるものではなかったのだろう。
何かの用事があったのか、Docは途中で消えて、Miami – Key Westで再び合流するのだが、最後に現れる南のランドスケープのトーンがこれまでのそれと結構違って開かれているように見えるのは気のせいだろうか? その先にはなんもなく誰もいなくて、ペリカンがいるだけ、みたいな。「アメリカ人」のいなくなる地点がある、というあたり前のことを言うためにあの風景を持ってきたかのような。 ファブリックのおわり、切れ目。 のはずなんだけどでも.. ここに”Doc’s Kingdom”のラスト、リスボンの港湾地区のイメージが重なって、更に”Kingdom”が。
帰り道、もうRobert KramerもJonas MekasもFrederick Wisemanもいないんだなあ、って改めて思った。
5.11.2026
[film] Christmas in July (1940)
5月4日、月曜日のお昼にシネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。
邦題は『七月のクリスマス』。原作はPreston Sturges自身が書いた戯曲 - ”A Cup of Coffee” (1931) - これ初演が1988年だって.. Preston Sturgesが作・監督をした2作目。 67分あっという間。
これは00年代、確かBrooklynで、自分が一番最初くらいに見たPreston Sturgesの映画で、一瞬で好きになって、その後も数回見ている(見ているうちにそんなでもなくなってきたが、でも変わらずに好き)。
コーヒー会社Maxford House Coffeeが毎年公募しているコーヒーのキャッチフレーズコンテストで、選考の現場は結論の一等賞が出ずに紛糾していて、決まらないのでラジオでの当選者発表は延期となり、賞金の2万5千ドルが当たったら… の夢をだらだら語っていたJimmy (Dick Powell)とBetty (Ellen Drew)のカップルはがっかりするのだが、彼の考えたちっともおもしろくないコピー"If you can't sleep at night, it's not the coffee, it's the bunk"を自信たっぷりに強引にいいよね、って言わせて勝手に将来設計をしてしまうところとか、こいつだいじょうぶかよ、になる。
翌日出社しても彼の自信は揺るがずイヤなかんじがとっても鼻につくので、同じフロアの同僚男たちが悪戯であなたのコピーが当選しましたおめでとう!のフェイク電報を渡したら舞いあがって社長まで報告に行って、コーヒー会社には小切手を取りに行って、本件で疲れ切っていたコーヒー会社の社長は憑き物を払うかのように小切手を渡しちゃって、Jimmyはその足でデパートに向かい、ママが欲しがっていたソファベッドとかどかどかでっかい買い物をやりまくり – これが7月のクリスマス – たくさんのプレゼントを積みこんだ船団で自分の家に向かい、子供たちに贈り物をばらまいて、ご近所の路地一帯が飲めや歌えのお祭り状態になったところに警察がやってきて…
全体としてはとにかくありえない夏のバカ小噺、でしかないのだが、7月のクリスマスを抜けていくうち、イヤな奴だったJimmyも、会社の偉い人たちもみんなちょっとよい人になっていくような、そんな魔法の力を感じることができる1本だと思う。Sufjan Stevensのクリスマスアルバム(最初の)に入っている”Christmas in July”は、直接の関係はないみたいなのだが、どこか似たような印象 – ものすごい名作ではないけど忘れ難い - を残すの。
Remember the Night (1939)
5月8日、金曜日の晩、シネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。
邦題は『想い出のクリスマス』。こちらの方がまだクリスマス映画っぽい。そしてこれは本当に、正真正銘の必見の名作ったらないの。
監督はMitchell Leisen、脚本がPreston Sturgesで、彼が他の監督のために脚本を書いた最後の作品、でもある。
Lee Leander (Barbara Stanwyck)は盗みの常習犯で、宝石を盗んでそれを質屋に入れようとしたところで簡単に逮捕されて、その裁判をNYの検事補のJack (Fred MacMurray)が担当することになるのだが、クリスマス直前で陪審員が被告に甘くなるのを避けるべく、強引に裁判を年明けに延期させる。
勝手に裁判を延期されたLeeはクリスマスを拘置所で過ごすことになったことを嘆いて、それを知ったJackは保釈金を積んであげるのだが、どっちにしても彼女の行き場はなくて、たまたま彼女が同じインディアナ州の出であることを知ったJackは自分の実家に帰る車に一緒に乗せていってあげることにする。
帰郷の道中でいろんな騒ぎが起こって、Leeの実家でとうに再婚していた実母に酷い仕打ちを受けた彼女をみたJackはそのまま自分の実家に連れて行って、そこでも楽しいながらもいろいろあって、そうしているうちにLeeを愛してしまったJackは彼女を裁判でどうにかしようとするのだが…
クリスマスにあってはならないような気まずいこと、居たたまれないことが次々と襲いかかってきて、でもクリスマスだからぜんぶ乗り切ることができる、と信じることになる/信じるしかないふたりが旅の途中で落っこちてしまった恋のお話で、どこの地点からか自分でもその理由がわからなくて困ったようにずっと潤んでしまって口数が減ってしまうBarbara Stanwyckの瞳を見ているだけでこちらも泣きそうになってきて、そんなに悲しいことが起こっているわけでもないのになんで? ってがんばって戦っていると最後に”Remember the Night”っていうタイトルがきて決壊する。 クリスマスの奇跡が起こる映画ではないの。クリスマスの、出会いの奇跡を信じろ、忘れるんじゃないってずっと先延ばししていく映画で、その先には永遠しかないの。それをクリスマスと呼ぶんだって。
[log] Kyoto - May 05 2026
5月5日、こどもの日の火曜日は日帰りで京都に行ったので、その簡単な備忘。
もともと京都は大好きなので大きな展覧会があると奈良や大阪も組みあわせて泊まりがけで行ったりしていたのだが、これまで日帰りしたことはなかった。
でも(でも、じゃないよ)パリだってロンドンから日帰りしていたのだから、と思ってやってみることにした。
検討を進めていくとパリ日帰りと結構似ていることがわかり、現地までだいたい電車で2時間半だし、現地のバス地下鉄に大きく左右されるものの狙いを定めていけばどうにかなりそうだし、でも食べもの関係は諦めになるしかないし、でもGWでめちゃくちゃ混んでいそうだし。でもGWが混んでて最低だったら次からはやり方を変えればよいだけ。
新幹線を見てみると朝早くの下りと夜遅くの上りはまだ空いていて、Eurostarと比べたら本数めちゃくちゃあるし、どうにかなる気がした。なにより時差なんてないし、通貨だって同じだし、言葉だって通じるんだから(たぶん)。
特別展 「北野天神」 @ 京都国立博物館
まずはこの辺から、で行ってみる。 北野天神がどこのどういうもので菅原道真公の1125年式年大祭を記念した、とか言われてもはぁ.. なのだが、目玉の国宝 - 北野天神縁起絵巻(承久本)の海に浮かんでいるいろんな変な生き物とか、地獄の描写とか、炎のぐるぐるは実に魅力的で楽しめた。あとは十一面観音立像とか。刀剣は変わらずよくわからず。 こんなふうに「北野天神」として昔から奉られてきた宝物たちの全貌、のようなものは(絵巻物的に)見渡せるのだが、ここへの信仰が時を経てここまで持ちこたえてきたそのありよう – よって立つところ、のようなものは現地で見たり感じたりしないとわからないのだろうなー、というのはこういう特別展でいつも思うこと、であった。
日本画アバンギャルド KYOTO 1948-1970 @ 京セラ美術館
戦後の京都で若い日本画家たちが「日本画」という画材やお作法の枠のなかで、それらを超えようとどんなことをやってきたのか、の記録。
展示の最初の方、戦後の上村松篁や秋野不矩などの絵がその表面に浮かびあがらせる生々しさはとてもスリリングでおおおってなるのだが、それが後半に向かってパンリアル美術協会、ケラ美術協会などを立ち上げて、表面を飛び出して乗せたり盛ったり積んだりを始めるとそんなに面白くなくなってしまったのはなんでだろうか、と。世界中で誰もが同じようなことをやりだしたから? - でも世界中で同じようなことをやっていたって生き残っているものはあるので、それってなんなのだろう? といういつもの問いが。
ここのコレクションルームでやっていた特集「没後20年 井田照一」はなかなかよかった。版画における透明さの追求が、光の明滅とか、光そのものの構成を組み立てるようなところ向かっていくさまが。
モダン都市生活と竹久夢二―川西英コレクション @ 京都国立近代美術館
いつものキュートで安定した夢とそのパターンの世界なので、うっとりしていくだけ。千代紙とかも素敵で、あと、竹橋もそうだけどコレクション展がいつもよくて、今回は昭和100周年で京都の日本画を。隣で見てきたアバンギャルドの展示と比べると、こちらの方により「近代」を感じてしまったり。
1階でやっていた『加守田章二とIM MEN』も。土と布で、とても渋くかっこよいのだが、ここで立ち昇ってくる気がした金属のような、焦げたり枯れたりの「男くささ」のようなものとは。 竹久夢二的世界との対比で(対比するな)。
KYOTOGRAPHIE
このタイミングで京都に行くことにした理由として、これをやっている、というのもあったのだった。
KYOTOGRAPHIEを見るのは初めてで、Dayパスポートを買って、10個の展示を廻った。
Ernest ColeはPhotographer’s Galleryで見たやつだったし、Linder SterlingはHayward Galleryで見たやつだったし、Daido MoriyamaもAnton Corbijnもいろいろなところで散々見てきたので、最初の方に重信会館(緑で覆われた学生寮の廃墟)で見たYves Marchand & Romain Meffreによる「残されるもののかたち」はよかったー、くらい。
新進、あるいは大御所の写真作家の作品を京都の古い家や建物のなかに展示してみる、海外から来た人にはOpen Houseでなければ入れないような建物の内側に入って内部の採光や調度建付けを見ながら写真作品にも触れることができる、それをスタンプラリーのように繋げてより多くの人に見てもらう、というアイデアとしては一石二鳥でよいところもあるのだろうが、やはり写真作品に触れる – その写真が撮られたときのテーマ、光や対象のありようと、その写真を展示する環境のありようは当然違うのだから、後者についてはいろいろ配慮されるべきではないか、と思った。そんなの十分に配慮してキュレーションしているのだ、なのだろうが、例えば、Fatma HassonaのGazaをテーマにした写真をああいう空間で展示することについては、ふつうに違和感が残った。写真として捕らえられたテーマやその細部に集中して見たい、それだけ。 置かれた環境との間の異化効果を見る、楽しむ、というのもあるのかもしれないが、それはもう少し先の話ではないか、など。
Echoes by Satoko Imazu @ Ace Hotel Kyoto
これはKYOTOGRAPHIEとは関係なく、Ace Hotelのラウンジでやっていた展示。
アーティスト・イン・レジデンスのプログラムで滞在した京都御所の周辺、その日常を反射(空間)ではなく反響(音)”Echoes”としてとらえようとした時、光はどんなふうに揺れたり時間を経て定まったりしていくものなのか、そして最後にあったでっかい木(反響板)にやられる。
ここのAce HotelにはStumptown Coffeeがあるんだねえーと。(飲んでる時間なし)
竹内浩一 風が迎えて @ 京都府立堂本印象美術館
動物の絵が好きなのでやや遠めだったがバスで行った。
お猿のふわふわした毛と体の丸み、山羊だか羊だかの横たわる頭部、馬の頭部、カバの全身、すべてが精緻かつ絶妙な濃彩で描かれていて、そんなふうにベースがあるところでいきなり猿があんないでたちで座っていたりするのがたまらない。猿があんなふうにしている世界があるのだ、と信じ込ませてしまう強さを、ふんわりと見せてしまうというか。
美術館関係はこんなかんじ。
あと、合間に念願のアスタルテ書房(いまはアスタルテ書茶房)に行った。靴を脱いで入った途端、これはやばいところだ(軽く3時間くらいかかる)と思ったので、とにかく抜けださねば、って目に入ったフランセス・スポールディングの『ヴァネッサ・ベル』 - 翻訳あったのかー – を掴んで買って抜けた。また今度。
帰りは20時すこし前発の新幹線にしたのだが、18時過ぎて伊勢丹に行ったら駅弁関係はなんも残っていなくて憮然としたのだった。
5.08.2026
[film] Sorda (2025)
5月4日、月曜日の午後、新宿武蔵野館で見ました(もうシネマカリテはないのね…)。
これがGW中に見た唯一の新作映画。
スペイン映画で、英語題は”Deaf”。 邦題は『幸せの、忘れもの。』... 邦題についてはずっと昔から文句言い続けているけど、とにかくセンスが悪すぎるし、それが宣伝に寄与しているとは思えないし、むしろ映画のイメージを曖昧にして結果として貶めていると思う。
作・監督はEva Libertad、聴覚障害をもつ監督の妹Miriam Garloが主演している。監督は2021年に同名の18分の短編映画(未見)を作っていて、Goya Awardsにノミネートされたこれを長編に広げたものらしい。2025年のベルリンでプレミアされている。
スペインの田舎、陶芸の工房で働いているÁngela (Miriam Garlo)には聴覚障害があって、でも健常者の夫Héctor (Álvaro Cervantes)と幸せに暮らしていて、やがて妊娠していることがわかって、周囲の友人たちは喜んでくれるが、彼女は割と複雑で、最大の懸念は子供が障害をもって生まれてくるかどうか。彼女の実父母はどちらも健常者で、でも祖父母には障害があり、後天的なものらしいが妊娠している段階でそれを確認することはできないと言われる。
出産の場面だって、普段は夫が手話で端から伝えてくれるのだが、ちょっと現場が大変になって夫が病室から出されてしまうと、彼女はひとりで奮闘せざるを得なくなる。医師はマスクをしているので口元が見えない、ので彼らの指示や声掛けされていることがわからない。
そうして生まれた女の子はOna(成長するにつれて複数の子供たちが演じていく)と名付けられて、懸念だった聴覚障害はないことがわかってひと安心して、周囲と一緒に子育てをしていくのだが、ここから展開されていく「問題」にははっとさせられることが多かった。
Onaは耳が聞こえるので、Héctorは彼女と声を使って話したりしてしまいがちだが、そこでどんなやりとりがなされたのかÁngelaにわからないのはよくないので、必ずOna相手でも手話で話すようにお願いしているのに、すぐに忘れてしまうし、子育てなのでしょうがないのかもしれないが、夫はどうしてもOna - 健常者同士のやりとりの方に向いてしまうようだし、それが続けばOnaはどうしても父親のほうばかりについていくようになるだろうし、ÁngelaとOnaのやりとりの際、母の状態をわかってもらうためにOnaにヘッドホンをつけてもすぐに嫌がって外されてしまうし、母がどんな困難を抱えてどんな思いで過ごしているのかをOnaにわかってもらうにはそれなりの手間と時間がかかるに違いない。それまでの間、OnaにとってÁngelaはどんな存在になってしまうのだろうか? など。 そして、その苛立ちが彼女を周囲から孤立させていく。その孤立や苦難は、出産前にあったそれとは明らかに異なる種類のものに見える。
Ángelaの考えすぎ、心配しすぎではないか? と思うようになってきた最後の方に映画の音声はÁngelaの聴界のそれに同期する。聞えないので補聴器を付けた際のそれ – きんきんしたノイズがうるさすぎるので外してしまうところまで含めて。この状態で母親として子供と接して、子供を守ったりしなければならない、その難しさが感覚としてやってくる。
そこに愛があれば、とか、制度がどう、とかそういう話ではまったくないの。 こんなの“Deaf”というタイトルしかありえないではないか。
Gary Lucasのライブを1週間間違えてて、ショックでもう週末なんかしらない…
5.07.2026
[film] Easy Living (1937)
4月30日、木曜日の晩にシネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。
邦題は『街は春風』 - Wikiで引くと『女は得です』っていうのも出るのだが、これだとあんまりだと思ったのか。
監督はMitchell Leisen、原作はOtto Premingerによるノワールの古典”Laura” (1944)の原作を書いたVera Caspary、Preston Sturgesはこれをもとに脚本を書いている。1949年にJacques TourneurがVictor Mature主演で同名の映画を撮っているがまったくの別物(こちらもおもしろかったけど)。
NYのFilm Forumなどで昔のNYとかスクリューボール・コメディの特集があると必ずレパートリーに加えられる1本で、もう2回くらい見ているのだが、何度見ても「いいなー」と「ばかばかしいー」の間を行ったり来たりして結果、とにかく大好き、なやつ。
在NYのアメリカで3番目に裕福な銀行家J.B. Ball (Edward Arnold)はダミ声でケチでめちゃくちゃ細かいので部下からも家族からも疎まれていて、Ball Jr.(Ray Milland –まだぴちぴち)は独り立ちしてやらあ、って出ていっちゃうし、妻は勝手に5万ドルの黒テンの毛皮を買ったりしているので口論となり、頭きたBallはコートをビルの屋上から投げ捨てると、それが通勤途中だったMary Smith (Jean Arthur)の上に落ちて、それのせいで帽子の羽を折られた彼女がBallのところに行くと、毛皮は持っていていい、って言うし、高級ブティックで帽子も新しいのを買ってくれる。
そんなMaryが新しいコートと帽子で職場 - 保守的な少年向け雑誌”Boy's Constant Companion”の編集部 - に行くと、彼女の待遇でそんな毛皮を手に入れるなんて不適切なことをやったに違いないって一方的に解雇され、他方で彼女がBallの愛人である、という噂が広がって、経営破綻寸前で、Ballの援助が欲しいホテルオーナーがMaryに高級スイートルームへの滞在を申し出て、MaryがAutomat(自販機で食事を供してくれる食堂。あんなのがNYにもあったの)で食事しようとしたらそこでバイトしていたBall Jr.がうまいこと見せようとして大パニックを巻き起こして、あれやこれや舞い降りた毛皮のコートが鉄鋼市場まで揺るがす大騒動につながっていって、でも最後はすべてがめでたしめでたしになってしまう。スクリューボール・コメディのなかでもかなり曲芸感が強いのだが、場面場面のストーリーにムリなところはそんなにないので、”Easy Living”というタイトルががっちり迫ってきてたまらない。ただ時代のせいか女性蔑視感が(相対的に男性の愚鈍感も)ものすごく強くて、その観点からの”Easy Living”ていうのもなんかわかるの。
The Beautiful Blonde from Bashful Bend (1949)
5月3日、日曜日の夕方にシネマヴェーラで見ました。
邦題は『バシュフル盆地のブロンド美人』、製作、脚本(ストーリーはEarl Felton)、監督はPreston Sturgesで、これが彼が最後に監督したアメリカ映画である、と。
再見で、何年か前に、シネマヴェーラでリバイバルのお祭りのような上映があった、ような(自信ない)。
テクニカラーの西部劇で、けばいカラーの配色で、冒頭から能天気な小唄にのってちゃらちゃら流れていって(タイトルがB.B.B.B.♪)だいじょうぶかこれ… ってなるのだが、そういうもんだと思ってみればとってもバカバカしくて楽しい(だけだ)から、いいの。
子供の頃からおじいちゃんに銃を仕込まれたFreddie (Betty Grable)は大きくなっても酒場の歌うたいとしてうだうだしていて、恋人のギャンブラーBlackie (Cesar Romero)が浮気しているところを見て頭きて発砲してやったらそれが判事のケツに命中して、審理の時にも同じケツに一発ぶちこんじゃったのでさすがにやばいと、友人のConchita (Olga San Juan)と一緒に田舎に逃げるのだが、そこでも地元の有力者とか現れたBlackieとかとしょうもない騒動を巻きおこして、簡単に人が死んだり生き返ったりめちゃくちゃだなあ... なのだが、とにかく最後は判事のケツへの3発目で落着する(いや、落着じゃないけど)。
こんなの、自分の人生にはこれっぽっちも重なってこない人たちだったり世界だったりするのだが、でもやっぱり、見てよかったなー、ってなるんだよね。
5.06.2026
[film] The Devil Wears Prada 2 (2026)
5月1日、金曜日の晩、二子玉川の109シネマズで見ました。 公開初日に見たのはファンだからでもなんでもなく、単にはやくやっつけときたかったから、くらい。
The Devil Wears Prada (2006)から主要登場人物たちの20年後の世界を描いた真っ直ぐの続編で、原作のLauren Weisberger & Aline Brosh McKennaも監督のDavid Frankelもそのまま。
20年前の前作については、911後のNYの復興という大きな枠組のなか、ファッション(と業界)のすばらしさ、ファッション業界で働くことの(大変だけど)すばらしさを讃えたものとして喧伝されて、美術館で布切れとか完成されたクチュールなどを見るのは好きだが、あの業界はいろんな偏見やハラスメントにまみれていそうだし、そんな中で働くことがすばらしい!なんて、そもそも働くことが嫌いなので口が裂けても拷問されても言えないと思うのに、Andy (Anne Hathaway) はやりがいを見いだしてしまったようなので、火星みたいに縁のない世界のことだわ、で終わっていた。
あれから20年が経ったという今作の、昨年くらいから盛りあがった続篇に対するプロモーションもとても違和感があって、20年経ったら演者だって歳をとるし業界だって変わるし、だからなんだってんだよ? しかなかった。
とにかく時代は変わって、Andyは別の雑誌社で編集者兼ライターとして働いていたが突然編集部ごと全員解雇され、その流れで古巣のRunway誌の特集の編集長をやることになって久々にMiranda (Meryl Streep)らと再会するのだが、彼女にも雑誌そのものにもマーケットにおけるパワーや影響力なんてもはや残っていないことを思い知らされる。Mirandaは言葉遣いに気をつけて、コートを自分でかけて、エコノミーで移動しなくてはならない。
健全なビジネスをビジネスとして成功させるには、かつてのような絶対権力を握るデビルであってはならない。目線も言葉遣いも、すべてが「ガイドライン」に沿った適正なものである必要があり、そんな彼女たちのビジネスそのものもそんな市場原理に則って売買される対象となる。トレンドがどう、なんて自分たちの記事でどうにかして変えたり動かしたりできるようなものではないのだ。ブランドがあってコンサルやマーケッターがいて組み立てられた宣伝戦略があり、その先には直に消費者がいるだけ。雑誌の機能は宣伝とコラボで利益を出すことのみ。コンプラと規制対応だけちゃんとしておけば、踏み外すようなことはない。
という時代のありように対する目線や感覚がきちんと機能することをおもしろおかしく描くまでで、この映画は止まってしまっている。このストーリーをドライブするビリオネアたちが鼻持ちならない中身からっぽのクソであるのと同じように、この映画はつまんなくて、それはMirandaやAndyのせいではなく、ビリオネアのクソやろうどもを支えているシステムのせいだ、と言ってしまってよくて、それ以上のことをやったり連中を痛快にぶっとばすようなことはしないし、できないし。
そんな流れと階層が見え見えなところに立って今更他人の見映えをどうこう言ったりして楽しい? ってMET Galaを見てもしみじみ思ってしまうのだった。
公開前に話題になったアジア人女性の描写の件も、この線で見てみればそうだからとしか言いようがないので製作者側は何も言わないだろう(言ってほしいけど)。アジア系はずっとあんな風に見られて使われている、という事実を反映しただけのこと。
それでも唯一見るべきところがあるとしたら、前作から20年を経た主要登場人物たちの成長、のようなものだろうか。特にMeryl StreepとEmily Blunt、彼女たちが困惑し、疲弊し、それでも十分納得できない周りからの要請に折り合いをつけて動いていこうとするその表情には見るべきものがあると思った。単に役者としてうまい、というだけなのだが。