9.29.2026

[theatre] The Standard of Living

9月22日、火曜日の晩、Theatre Royal Haymarketで見ました。

オープン2日目で、これは日本でチケットを取っていた。もうひとつの候補としてやはりオープンしたばかりの、Noël Cowardの”Hay Fever” - 主演はRichard E. Grant – があって、どちらにするか悩ましかったのだが、Bloomsbury Groupが出てくるというのと、前日に見た”Virginia Woolf”とも繋がるのでこっちにする。

原作はJames Graham(新作)、演出はNicholas Hytner、イギリスのマクロ経済学の礎を築いたケインズ - John Maynard Keynes (Rory Kinnear)の1917年から1946年に亡くなるまでを、彼の愛人であったDuncan Grant (Thomas Flynn)と、42歳の彼と結婚することになるディアギレフのBallets RussesのバレリーナLydia Lopokova (Natalia Osipova)、学問上のライバルだったFriedrich Hayekらとの関係のなかに描く。

舞台上にはちょっとVanessa Bell作品の色味を思わせる四角が描かれた縦長の布が間隔を置いて下がっていて、モダンダンスの舞台セットのようにも見える。

そこにスーツ姿のKeynesがひとり立って、「よく生きる」とはどういうことかを考えてみたい、というようなことを語り、戦前の財政難の時期、彼がどんな人々と出会い、どう生きて、どんなふうに彼の経済学を打ちたてていったのか、等について。

マクロ経済学でも経済学でも、これまでまったく学んでこなかったのだが、彼がWhite Hallとの間で行き来していたロンドンから南に下ったCharleston - Bloomsbury Groupの拠点 - は大好きな場所で、今回も行きたかった(いま、Quentin Bellの企画展をやっている)のだが、ちょっと遠い。Vanessa Bellの家族や彼女のパートナーだったDuncan Grantが暮らしていたこの家には、Keynesの部屋(書斎)もあって、窓が大きな2階の見晴らしのよい場所なのだが、なんで経済学の人がここにいるの? はずっとよくわからなかった。

もともとKeynesは同性愛者でDuncan Grantと関係があったが、やがてLydia Lopokovaと知り合って結婚した。Duncan GrantはVanessa Bell(既婚)の愛人でもあったので、それでCharlestonにやってくるのだが、自由奔放なLydiaの登場はここのサークル - 舞台に登場するのはVirginia Woolf、Vanessa Bell、 Lytton Strachey、Dora Carringtonなど – 彼らも十分に変人だと思うが - を戸惑わせたりもする。

経済を安定させるためには政府の介入が不可欠であり、市場が自然に均衡するのを待つのではなく、経済不況時には政府が支出すべき – というKeynesの主張はHayek (Laurie Kynaston)が唱える、不景気は経済の膿が溜まって不健康になっている状態なので、ここで政府がお金を出して援助するとダメな会社まで生き残って市場経済が壊れていくので、政府は介入すべきではない、という主張 – こんなかんじでよいの? - と正面からぶつかって、いろんなところで波風を起こしていくのだが、彼自身は(体調は悪くなっていくものの)悠然としている。

時代背景、Keynesのクィアネスとその愛のありよう、学業/政策のあれこれ、生活におけるアート、など、彼の「よく生きる」を見据えたテーマは多岐多彩にばらけて、ところどころLydiaのバレエ - Natalia OsipovaはRoyal Balletの現Principalだし – がなだれこんできたり、これまで見てきたJames Grahamの過去作 - ”Dear England” (2023)や”Punch” (2024)と比べれば、たたみ掛けてくる勢いがなくて、やや散漫でとっ散らかったものに見えてしまうのかもしれない。

他方で、よりよく、豊かな生活を、と言った時に怒涛のなんかはそんなには必要ではなく、あれこれ顰蹙を買いまくりだったかもしれないけど、CharlestonでVanessa Bellたちが家具や調度を好きなように塗ったり壁に絵を描いたり、読書したり議論したり、の生活の方に目が向いて、ここで思い浮かべるのはCalvin TomkinsがGerald & Sara Murphyについて書いた”Living Well Is the Best Revenge” (1971) - 『優雅な生活が最高の復讐である』 のことで、Keynesが実現しようとしたこと、Charlestonでの暮らしについては、「優雅な生活」と言ってもよいのかも、と思ったり。彼はそれを中央で経済政策を考えたり議論したりしながらやっていったわけで、そこまで行くのは難しいだろうけど、”The Standard of Living”とは、そもそもなんなのか?これらを振り返るのだとしたら、いまなのではないか? とか。

終わってNational Galleryの前を抜けながら、あーあ官民の恣意的かつ傲慢な操作で完全に”Standard”の在処を失ってしまったバカで腐った国に明日は… ってしょんぼりホテルに向かったのだった。

ロンドンでの演劇はこれでおわり。

9.28.2026

[theatre] Who’s Afraid of Virginia Woolf?

9月21日、月曜日の晩、West Endの@sohoplaceで見ました。
この日が初日で、最初からぜんぜんチケット取れなかったのだが、渡英直前にどうにか取れた。

原作はEdward Albeeの同名戯曲 (1962) - 1966年にMike Nichols/ Elizabeth Taylor/ Richard Burtonにより映画化もされている。 今回の演出はMarianne Elliott。公演時間は休憩1回を入れて3時間10分くらい(Act1で約2時間、Act2 & 3で約1時間)。
 
この劇場は舞台が円形で客が取り囲んで - 1階席だと家政婦が見るような位置から見守る形式、ミッドセンチュリーのゆったりモダンな家具、レコードプレーヤー、バーカウンタ、本棚にソファ、流れているのは当然ラウンジジャズ。Act1の後、Act2では家具などの配置が180度変わっていて、Act3では、ものすごくゆっくりと床が回転していることがわかる。
 
開演前、客席の向かい側に誰がどうみてもJudi Denchさま(と隣にいたのは誰?)が姿を現し、周囲がざわざわしだす。そりゃ初日だもの。
 
大学で歴史学を教えている初老のGeorge (Billy Crudup)とMartha (Gillian Anderson)の夫婦が夜中の2時にぐでんぐでんのご機嫌状態でなだれ込むように帰宅して、それぞれバカなことを言ったりやったりしていると玄関のベルが鳴って、新任で生物学を教えるNick (Josh Dylan)と新妻のHoney (Phoebe Horn)のふたりが、さっきの会で誘われたので来ました、って。もう夜遅いし悪いし、と遠慮がちなふたりに対して、酔っぱらってサディスティックな方にスイッチが入ってしまったGeorgeとMarthaは飛んで火にいるウブなふたりを餌食にすべく容赦なく襲いかかるのだが。
 
基本は社会的にも優位な位置に立つGeorgeたち夫婦が結婚して間もないのでいろいろ努力したり苦労したりしていそうなNickとHoneyを夫婦のこととか仕事のことなどについておもしろおかしく、そのうちこんなんなっちゃうんだぞ、って自虐もこめて脅したり吹かしたり、その反応を見て楽しむ - 日本社会にもよくある – あれだと思うのだが、若いふたりに向かったそれらのネタが、自分たちの方に、ネタによっては数倍でっかいブーメランになって返ってきて、酔いもあるのでその打突のインパクトも倍以上、どういうことだよこれ? ってわめきだしたり。
 
「ヴァージニアウルフなんてこわくない!」って童歌のように振りをつけて歌うことで、おもしろおかしく茶化していたネタのいくつかが、彼らがシリアスに秘密にしていた「息子」にまで及んだことで、隠されていた穴に落ちて戻れなくなってしまうGeorgeと、そうなることなんてわかっていただろうがー、のMarthaと。
 
Martha役のGillian Andersonは思っていた通りの強さとしなやかさで酷くやられたかに見えても立ちあがって薄ら笑いを浮かべて反撃し、George役のBilly Crudupはインテリ風のメガネをかけ、動きは今にも一線を越えてしまいそうなDavid Byrne(”Burning Down the House”)か”Falling Down” (1993)でブチ切れてしまうMichael Douglas(になる手前)のようにも見える。リングサイドで見た限りでは、Gillianやや優勢、でもBillyは不気味にまだなにかありそう.. といったかんじ。 そして若いふたりも若さゆえの無知を前に出して簡単には引き下がらないで蘇って… というアンサンブルがスリリングで3時間あっという間だったことは確か。
 
これ、コンプラやハラスメントが今ほど言われるようになる前、それに伴うトラウマや乗り越えるべき壁がはっきりとあり、これらにぶち当たったり克服したりすることがある種の「成長」と見做されたり、これらを(タイトルのような)呪文を唱えて乗り切っちゃえ、の暗黒時代の話ではあるので、冷静に振り返るとなんで酔っぱらっているとは言えこんな怖いことになっちゃってるの? はあるかも。(Production TeamにはちゃんとMovement & Intimacy Directorがいる)
 
それにしても3日前に見た映画”Teenage Sex and Death at Camp Miasma” (2026)に続いてGillian Andersonはすさまじく、著書も2年前の”Want”に続く最新刊”More”が書店に並んでいて絶好調なのかも。

そして、見た目は朗らか爽やかで賢そうながら、ねちねちどす黒く変容していく - 最近の腐れた日本の首長がそうであるような - Billy Crudupもはっきり今を体現する人としてそこにいるのだった。

[log] Glasgow - Sept. 20

9月20日、日曜日から月曜日の朝にかけて、スコットランドのグラスゴーに行った。
いちおうSaint Etienneのファイナル・ツアーに合わせてThe Pastelsを見る、という目的なのだがそれだけではない。

これまで自分が聴いてきた音楽のうまれた土地に向かって旅をする、というのを地味にずっとやっていて、なのでNYとロンドンで暮らせたのをよいことに90年代にはアイルランドに行って、ジャマイカに行って、リオに行ってサルバドールに行ってブエノスアイレスに行って、ヨーロッパ各地各国は音楽というよりそれぞれが楽器のようだわ、って思って、でもイギリスの地方都市はぜんぜん行けてなくて、マンチェスターもシェフィールドもリバプールもまだ。これから。

ただグラスゴーの音、というのに明確なローカル色や土地の特徴があるかというとそんなでもない気がしていて、いつも思い浮かべるのはスコットランドのハイランド・カウのもしゃもしゃの輪郭とか、Postcard Records (The Glasgow School)の太鼓を叩く猫の絵だったり、視覚的にこんなかんじの、って思ったり。

最初は朝早くに電車で行こうと思っていたのだが、この日曜の午前は北方に電車が走っていないようで仕方なく飛行機にした。10時くらいにGatwickから飛び立って昼くらいに着く便で、空港からはバスであっという間。

そんなに観光している時間もないので、とりあえず大聖堂に行って、その向こうの高台にかっこよく見えたThe Glasgow Necropolis(お墓)を散策する - William Millerのお墓などがあった。

そのまま歩いて聖地のひとつ、The PastelsのMonorail Musicに向かう。入り口にカフェ/食堂があって、奥にレコード屋。Jack WhiteのThird Man Recordsのポップアップが入っていていつもと違ったかも知れないが、地元のよいレコード屋の典型のようなとこだった(今回は買わず)。 食堂ではMac & Cheeseをたべた。おいしい。

日曜の午後のグラスゴーの街中は、通り沿いに開け放たれたパブから酔っぱらったようなバンドの演奏とかそれと一緒に歌う酔っ払いの歌声とかところどころわんわん響いてきて、日曜からご機嫌だねえ、なのだが、それがお祭りではなく常態化している殺伐とした様がよくて、あと、たまたまではあるが、デリで盗みをして逃げようと走りだした青年のところにパトカーが現れて追っかける、という映画みたいなシーンまで目撃した日曜の午後。

もうひとつの聖地は、Postcard Records “The Glasgow School” - のオフィスがあった場所、だったのだが、ふつうの住宅街のなかにあるだけ、のようだったので諦める。

そしてもうひとつの聖地が、この晩のライブがあるヴェニュー、Barrowland Ballroomで、きらきらのネオンサインが華やかなんだかもの哀しいのか微妙な大看板のついたワンダーランド風のライブハウスで、NYの”Roseland”や”Bowery”と同様、Ballroomがつく小屋には伝説がおりてくることになっている。こんなところでThe Smithsの”Meat is Murder”のツアーにぶつかったら即死だろうなー。 今後のスケジュールには、Friends Againの告知などが貼ってあって二度見したり。

こうして20:00からThe Pastelsのライブを見る。バンドはホーンも含む6人編成で、ゆったり茫洋に、”Check My Heart”とかJamの”Something’s Gone”とか、思っていた通りの不穏なパステルたちでたまんなかった。たぶん10年後も同じタッチで画布に擦りつけているにちがいない、と。

Saint Etienneはキーボード2人が後ろの高台、まんなかにSarah Cracknell、ドラムスはRideのLoz Colbert、ギター/ベースがひとり、バックヴォーカルはThe Dolly MixtureのDebsey Wykesで、物販に彼女の本”Teenage Daydream: We Are the Girls Who Play in a Band”のペーパーバック(サイン入り)があったので買ってしまった。出版された時のおまけ&サイン入りハードカバーも持っているのに。

Saint Etienneのライブはたぶんはじめてで、背後のスクリーンのヴィジュアル – たぶん20年くらい前のカラフルなかんじ - がどれも素敵で、デジタルの音のみっしり度合いもそんな最新のバチバチくるやつではなくて年寄りにやさしく、みんな気持ちよさそうに踊っていて、特に終わりのほうの”Only Love Can Break Your Heart”から先は温度が上がって、みんなが笑顔ではねていて楽しかった。 「またフェスとかで再結成はするかもねー」って軽く言っていたので、またやることでしょう。

帰りはホテルまでバスにしたのだが、地図が示したのと違うルートを走っていると思ったら故障していたらしく、途中でバスごと別のに移るように指示されて、ああこのままどこかに… って暗く(どうでもよく)なったが大丈夫だった。

翌朝、8:55発のフライトで戻るべく空港に行ったら、管制トラブルとかで飛ばないまま待たされる。一時はWebでロンドン到着16:00以降とか表示されて、これじゃこの日の予定ぜんぶ消えるので、祈る思いで町に戻って電車で向かう検討も始めたのだが、1時間半の遅延で済んだ – それでも映画1本分なのでじゅうぶん痛い – のはよかったかも。


また行きたいなー。

[film] Pulp: What Do You Do for an Encore? (2026)

9月19日、土曜日の夜中、22:40からBFI IMAXで見ました。たぶんこの日この1回きりの上映。

OASISのライブフィルムもまだやっているようだったが、そんなのよかこっちだろう、って。製作・配給はMUBIなので、もう配信で見れるのだろうか。 監督はアニメーション”Sing” (2016) などのGarth Jennings。

マチネで見た”Man to Man”に続けてこの日の晩も演劇を狙って、その後でこれを見に移動するつもりだった。候補はふたつ、Josh O'Connor主演の”Golden Boy”かMark Rylance 主演の”Tartuffe (Remixed)”か、だったのだが、オンラインで座席に一瞬の空きが出たタイミングは確認できたものの移動中だったりして(ロンドンの一部地下鉄ではいまだに通信が)うまく繋がらないままどちらもダメになって、仕方がないので、BFI Southbankで18:40くらいからClaude Chabrolの – BFIでもChabrol特集をやっている - ”L'Œil du malin” (1962) – “The Third Lover”を見て、22時過ぎにIMAXの方に移動した。

Pulpの2025年のツアーのロンドンO2アリーナでのライブ映像を中心に、バンドヒストリーを網羅したもの。バンドは2024年の再起動の際に愛に溢れた分厚い歴史本も出していたし、こういうのまで追っかけて見たいPulpのファンであれば全て知っているようなことだらけだろうし、と思ったらやはり客席はそんなに埋まっていなかった。予告でかかった”George Michael: The Faith Tour”にみんな立ちあがって熱狂していた。

ライブで披露されていく代表曲の合間にいろんな過去のエピソードや映像、インタビューが挟まっていく構成の98分で、最初の方で紹介された結成前のJarvisの”MASTERPLAN”が楽しい。髪の毛はIan McCulloch、顎はHugh Cornwell、眼鏡はElvis Costelloを目指す(しかない)、だって。

わたしはPulpのそんなによい聴き手だったわけではなくて、Britpopの流れのなかで出てきたバンドのひとつ、くらいに軽く見ていたのだがバンド結成は1978年のシェフィールド… ということは、おおCabaret VoltaireとHuman Leagueと同期(CabsとHLの間)なのかー、とあの妙に下世話にこてこて作り込んだ - あえて100%から外す - かんじに納得して、そしたらこの映画の彼の言葉や振る舞いあれこれがいちいち腑に落ちてたまんなくなって、O2のライブも少し無理して行けばよかったかな、って。前年のバルセロナのPrimaveraのステージ - あれはすばらしかった - で思い知ったからよいか、って思ってしまったのばか。

後半はライブ映像の比重が増して、2023年に亡くなったベーシストSteve Mackeyへの追悼と、これから.. みたいなことも語られるのだが、思春期のこと、大人になっても続いていくもやもや、知らない向こう側のこと、いわゆるアートと社会のこと、イギリスの社会で生きる - 危なっかしく、でもどうにか渡るようにやっていくこと、そんなみんなCommon Peopleへの思いがぐじゃぐじゃのダンゴで固まって転がっていく - 編集が面倒で結果的にそうなっただけなのかもだが、なんておもしろく唯一無二のバンドなのでしょう、と唸らないわけにはいかず、そこまで来てから”What Do You Do for an Encore?”って尋ねられるの。そんなの「最初からやり直し! 校庭10周!」しかないよね。

終わったら当然地下鉄はきれいに終わっていて、雨も降っていて、バスを乗り継いで帰った。じっとりした雨のなか深夜に乗り継ぐバスから見えるロンドンの景色もまた懐かしくてー。

9.25.2026

[theatre] Man to Man

9月19日、土曜日のマチネを、Royal Court Theatreの地下のシアターで見ました。

原作はManfred Kargeによる戯曲で、ドイツ語の原題は”Jacke wie Hose” – 「上着だろうとズボンだろうと(どちらもおなじ)」。Tilda Swintonによる一人芝居。演出(+英語翻案)はStephen Unwin。休憩なしの1時間25分。

そんなに大きなシアターではないので、チケットは最初からぜんぜん取れなくて、ほぼ諦めかけていた公演の2日くらい前、いきなり前から3列目が取れた。これでCate Blanchettに続けてTilda Swintonまで見ることができて今年の運はぜんぶ使い果たしたかも、になった。

ドイツでの初演は1982年、それを彼女が最初に演じたのは1987年のエジンバラのフェスティバル、その後、ここRoyal Courtで上演されて、今回のが39年ぶりの再演となる。その間、これを映像に残したい、と1992年にJohn Maybury監督 - Derek Jarman繋がり - Tilda Swinton主演により映画化もされている。

忘れもしない2020年の初め頃、BFIでTilda Swintonの特集上映があって、彼女が毎日挨拶にやってくるので毎日のように通っていたのだが、コロナのパンデミックでロンドンの美術館や劇場、映画館が一斉にクローズしたのが3月17日から18日にかけて。 この映画版の上映があったのは3月16日、映画館通いもTildaさまを拝むのもここから暫くできなくなったのだった。

この時は彼女の初期の主演作”Caprice” (1986)との併映で、ロックダウンで来れなくなったJohn Mayburyの替わりに、”Caprice”の監督のJoanna Hoggがゲストで登場して、学生の頃からずっと一緒にやってきたふたりの漫才のような会話がものすごく楽しかったことを思い出す。

1930年代、ナチスの台頭により(その前から)不穏で物騒になってきた東ドイツの町、ぼろそうな電化製品や家具、生活のいろんなものが散らばっているのが明るく照らしだされてゴミ屋敷手前くらいになっている部屋の真ん中にElla Gericke (Tilda Swinton)が短パン、網々のランニングシャツ一丁、髪はぼうぼうに逆立って顔半分に白ペイント(数日前のCate Blanchettも白塗り仕様だった。なにこれ)、の鬼婆のように仁王立ちして、客席の方を睨んですごい勢いで喋りだす。これだけだと威勢のよい貧乏パンクスのように見えなくもない。彼女は夫のMaxを病気で失い、でも生きていくために彼のクレーン・オペレーターとしての仕事を引き継いで、男として生きていかなければならない。

彼女には悲嘆している余裕なんてなくて、男として働く(=生き残る)ために言葉遣いや態度はもちろん、パンツの下に詰め物をして女であることがばれないようにしたり、これらがどんなに愚かしくてばっからしいことか、などを室内の冷蔵庫からいろんな食べ物を引っ張り出して齧ったり、ケチャップの瓶を振り回したりしながら嘲り、怒り、目に留まる端からぶちまけていく。女性が男性になろうとする話ではない、はじめから男性として認知された男性が男性として機能しないとやっていけない、そんな社会のふざけたさまを呪い続けて止まらない。

Swintonの初演時に全26シーンで構成されていた劇は2015年の再演時にベルリンの壁崩壊を材にしたテーマが追加され、今回あらたにナチズムの再興というテーマが追加され28シーンとなった - 劇を見ている間はそれぞれのシーンが圧巻、というか彼女を見ているだけでおもしろくて – おもしろがってはいけないのだろうが - あっという間に終わってしまう。28曲を1時間半で突っ走るギグ。

Tilda Swintonという女優のキャリアを見たとき、ハリウッドの超大作からB級からアート系まで、社会の除け者、異物、消えゆくものに対する目線(いろいろ)、というのは常に一貫してあって、そこではジェンダー、国家や階層、イデオロギー、がどのような形であれ俎上にあげられて、この劇作は、ドイツだろうが30年代だろうが関係ない、むしろ、だからこそライフワークのように取り組んでいるのだろうな、と思った。

しかしこれを昼と夜2回公演って、体力的にすごいな。

[film] Teenage Sex and Death at Camp Miasma (2026)

9月18日、金曜日の昼、CurzonのSohoで見ました。平日の昼間なので客席には数名しか。

作・監督は”I Saw the TV Glow”(2024)のJane Shoenbrun - この人(sheではなくthey/them)はいま出ているSight and Sound誌の表紙 - ちなみに先月号の表紙はChristopher Nolan – になっていたので、すごいかも、と。公開は先月だったので大きいスクリーンでの上映はなくなっていたが、公開直後はBFI IMAXでの上映もあったらしい。 タイトルから成人映画指定かと思ったがR15だった。実際そんな怖くなかったからだいじょうぶ – というかふつうのティーンホラーを期待していくと頭にくるかも。

”I Saw the TV Glow”でカルト的な人気を博したテレビ番組シリーズを題材に、それに決定的な影響を受けた(かつての)子供たちの生態、「成長」を追ったように、ここでは(あまり詳しくないのだが)『13日の金曜日』や『ハロウィン』や『エルム街』など、80年代のスラッシャー映画の伝説に連なる”Camp Miasma”のシリーズを置いて、防火服を着て頭に天井の通気口カバーを仮面のように被ったトランスジェンダーの殺人鬼”Little Death”が湖の底から現れて湖畔のキャンプでいちゃいちゃしている若者たちを槍で串刺しにしたり腕や首を切断したりしていて、爆発的な人気を得てシリーズ化されるものの、(よくある話)みるみる失速していった様子が冒頭で描かれて、かつてティーンとしてこの作品に浸っていたインディー系の映画監督Kris (Hannah Einbinder)のところに、同シリーズのリブート企画としてOrigin Storyを描く、という依頼が舞い込んで、舞いあがって伝説の撮影現場に向かうことになる。

その場所はGPS圏からも微妙に外れた、でも映画シリーズを何度も見てきたKrisにとっては間違いなく約束の地としか思えないような場所で、そこで彼女は第一作のFinal Girlで、同作出演後に映画界から引退して彼女自身が伝説となっているBilly Presley (Gillian Anderson)に会いに行く – 彼女は第一作の撮影現場のすぐそばの山荘に、”What Ever Happened to Baby Jane?” (1962)のBette Davisのように謎めいた振る舞いで籠って、ひとりジャンクフード(KFC)とアメリカン駄菓子にまみれて暮らしていた...

Krisはそんな彼女に自分がティーンの頃にこの映画からどれほどの影響を受けたのか、この映画の起源と成り立ちを掘りさげていくことが自分にとってどれだけ重要なことなのかを語って、それを横で聞いていくBillyはわかっているのかわかっていないのか、Krisを挑発するような怪しげな行動 – 不愛想だが嫌われてはいないらしい - をとって、そんなふうに近寄っていくと湖水の奥からLittle Deathが…

幼い頃の自分に決定的な影響を与えた映画なり文学なりを掘り下げていくことに伴う痛み、幼年期の終わり、いくつかの死、それらを打ち棄てられた対象 - 生きているものであれ死んでいるものであれ - のなかに見て語っていくことで蘇ってくるなにかって、なんなのか。 ”I Saw the TV Glow”ではそのメディウムとして古いブラウン管TVが置かれていたが、ここではBillyの家にある古い映写室がそういうのが湧きだす場所・洞窟として機能していて、それよりもなによりも山姥のようなBilly - Gillian Andersonがすばらしいの。

ある文化と共に育つ、それに没入していくことで自身の世界(観)を形づくること、それによって周囲との段差や痛みが広がったとしても – ふつうにでる – その痛みの正体をここまでメタ・ホラーのような形で映像化したこと、それがFinal Girl – ぼろぼろになりながらも生き残った最後のひとりとの対峙を通して現れてくることなど、ちょっと感動してしまった。

あと、思春期の呪い、世界なんて終わってしまえ、という祈りを描く、という点ではRichard Kellyからの連なりも。

9.24.2026

[thatre] A Month in the Country

9月18日、金曜日の晩、Donmar Warehouse で見ました。

チケットはこっちに来てから複数の舞台(どれも既に売り切れている)の状態を時間をあけてチェックしつつ諦めたり絞りこんだり、の繰り返しのなか、これは前日の晩に飛び降りるようにして取った。Donmarでやる演目はだいたい外れないから。

原作はツルゲーネフの戯曲(1855/1872)、翻案はBrian Friel、演出はLyndsey Turnerand。

舞台の上にはでっかい水槽のようにガラスで囲われた箱 - 家? があり、その内側は樹が生い茂っているのか葉っぱがびっしり覆って奥に光はありそうだがうちがはまったく見えなくて、客電が落ちてそのガラス檻が上にあがる直前、主人公の主婦Natalya (Sophie Okonedo) が苦しそうに水槽のガラスに顔を押し当てるのが一瞬見える。

17歳の養女Vera (Rachelle Diedericks)の家庭教師として住み込みでやってきた純朴な好青年 Aleksey (Patrick Gibson) と、その反対にある田舎の、田舎としか言いようのない周囲の言葉や態度にうんざり飽き飽き窒息しそうになっているNatalyaの、誰がみても人のよい - 実際悪いところが見当たらない夫Arkady (Thomas Arnold)との生活に不足不満があるわけでもなく、カード遊びばかりしている姑Anna (Susan Brown)がうっとおしくて嫌で、というわけでもないのに、自分でもなんでそんなことを、の行動や言動が飛びだして、自分はあんなにも若いAleksey を好きになってしまったどうしよう… の顛末、その表情を追っていく。 使用人たちも含めた人物の配置や彼らの珍妙な会話や行動がところどころ絶妙におかしくて、そういうショートコントの重ね合わせのなかから、なんで自分はこんなところで… の焦りと苛立ちが搾りだされ、どこかから降ってきたようなAlekseyへの思いに対する戸惑いがあり、Alekseyもまじめにそれを打ち返してくるもんだからメロドラマの渦がまわりだす。

ちゃぶ台がひっくり返されたり、誰かが刺されたり自殺したり、のおおごとはなくて、建て付けはちょっと疲れているどこにでもいそうな大家族の中間層である主婦の日常を貫いた - 半ば妄想も込みの脱出願望 or 破壊衝動を起点としたクラシックで切ない恋のお話しなのだが、夫Arkadyとのそれまで見えなかったような段差とか、どちら側も恋仇になるなんて思いもしなかったVeraとの衝突とか、なんで? これが? 自分に? おこる? という幾重もの惑いのなかで、ところどころコミカルだったりほろ苦かったりのなんか切ない、という思い。これが19世紀半ばのロシアの演劇界にもたらした波紋 - 数ヶ月間上演できなかった - とか、この後に登場するチェーホフに与えたであろう影響はよくわかる。いま見てもこんなにもおもしろいのだし。

真ん中ですべてをきりきりと仕切っていくNatalya役のSophie Okonedoの表情 - 基本は鉄の無表情で、苦々しいなにかをとにかく飲みこんで吹っ切ってタスクをこなそうとする強さがところどころ何かとせめぎ合って、それが続いていくのでもうなんでもいいや、って疲れていく彼女の存在感がすばらしいの。成瀬の映画に必ずでてきそうな女性たち← 雑すぎ。

こういう題材の映画、昔から好きではあるのだが、演劇の舞台で演じられるとライブ感がたまらないなあ、と思った。床をどんどんどつきながら「ストーリーを!」とか吠えるようなのとは別の。

今回の滞在は、前に住んでいたフラットと同じ駅のところにしたのだが、劇が終わって劇場から帰るのにあまりにすたすたふつうに歩いて帰れてしまい、もう少し懐かしがるべきではないか、と少し反省したり。