6月6日、土曜日の午後、”Boys Go to Jupiter”を見たあと、シネマヴェーラのRobert Mitchum特集で見ました。これだけ特別料金 - カラー作品だから?新たに字幕をつけたから?
Joseph Losey監督による英国映画、原作はアルゼンチンのMarco Deneviによる”Ceremonia secreta” (1960)をハンガリーのGeorge Taboriが脚色している。撮影はGerald Fisher。 邦題は『秘密の儀式』。
自宅で娼婦をしているLeonora (Elizabeth Taylor)はロンドンのバスで見知らぬ若い娘Cenci (Mia Farrow)に突然「ママ」って泣きながら呼びかけられ、戸惑いながら教会にいって墓参りしてもずっと娘はついてきて、不気味だし追い払いたいのだが、実は彼女の数年前に亡くなった娘にそっくりだったので混乱して泣き崩れて、その状態でCenciに引き摺られるように彼女がひとりで暮らす豪邸に連れていかれて、朝食をごちそうになると、そこにあった写真で自分も彼女の亡くなった母にそっくりであることを知り、こんなことでよいのかと思いつつここには洋服とか宝石とかいっぱいあるし居心地も悪くないのでしばらくいてもよいかも、になる。
そのうちCenciの叔母だというHannah (Peggy Ashcroft)とHilda(Pamela Brown)がやってきて、身を隠して彼女たちの会話の様子を見ていたLeonoraはこの家族の過去の事情とか、Cenciが22歳であることとか、出入りする怪しげな継父Albert (Robert Mitchum)のことなどを聞いて、お屋敷に関わる全員が裏と過去の傷を抱えた腹黒く病んだ人々であることを知り、でもなりすましでそこにいるLeonoraもまたそれに近いひと、なのだった。
そういう綻び、というよりぼろぼろの中で押しかけるように家にやってきたAlbertとCenciがべったり濃厚な時間を過ごした後、LeonoraとCenciは海辺の高級リゾートに出掛けて、そこに現れたAlbertや突然お腹が大きくなったCenciのことを巡って修羅場となって、これでもう偽母娘の関係は終わりか、になって…
ふたりの母親、ふたりの娘、ふたりの父親の影があちこちに見え隠れするお屋敷で、対の反対側に残された者たちが互いに埋めようがない穴や傷を認めて、それでもどうにか不器用に埋めたりごまかしたりしようとしたら罪とか罰が噴出して晒されてみんなだめになっていくことの救いのなさ。
Joseph Loseyの同じ年の前作が昨年BFIで見た”Boom!” (1968) で、これは外界から孤絶した島で暮らすお金持ちのElizabeth TaylorがRichard Burtonの訪問を受けてゆっくり腐って壊れていく、非現実的にも見える人と人(or 島)のサイコドラマだった。 なんでそうなってしまう/しまったのか?というよりもなにがトリガーになって、どんなふうに人の内側は崩れて壊れていくのか、その不気味な断面をこれでもか、と見せてくれる。コミュニケーション、喪失と狂気の危うい線がこちらにも浸食してきて、どうにも止めようがなくてぐったりするのだが目が離せない。(見て楽しいものではないので評判がよくないことはわかる)
しかしElizabeth Taylor、よくこんなJoseph Loseyのに2本も続けて出るねえ(褒めてる)。
この作品ではElizabeth TaylorとRobert Mitchumの踏んづけても壊れそうにない老獪さの反対側にあるガラスのMia Farrowがすばらしかった。彼女がRobert Mitchumの髭を剃るシーンとかだんだん動かなくなっていくシーンの息をのむかんじとか。
あと、このドラマがもたらす緊張感って、映画よりも演劇とかオペラの方に向いているのではないか。きんきんやかましい現代音楽の轟音のなかに置いたらとっても雰囲気でたかも。
6.11.2026
[film] Secret Ceremony (1968)
[film] Boys Go to Jupiter (2024)
6月6日、土曜日の昼、渋谷のホワイトクイントで見ました。
ぜんぜん知らないアメリカ産のアニメーションだったが短くて軽そうだったし、どんなものかしら? くらいで。
原作、製作、監督、音楽はJulian Glander、この若者がひとり、当然低予算で作ったらしい。孤独に孤独であることの諸相、などをテーマにすっとぼけたアニメーションを描く、つくる、という点ではDon Hertzfeldtを思わせたし、声優陣には”Eighth Grade” (2018)のElsie Fisherとか、Janeane Garofaloとか、Tavi Gevinsonとか、”Sorry, Baby” (2025)のEva Victorとか、世界の片隅へなちょこ系オールスターズだし、Special ThanksにはMiranda Julyの名前があったし、これらを豪華、と言ってよいのかどうか、だろうが自分にとっては超豪華としか言いようがない。
UKでは、2025年のGlasgow Film Festival で上映されただけ – たぶん英国人にはわかんないのだろうなー のかんじ。
安っぽい、ポップと毒毒の中間地帯を無邪気に、なんも考えていないふうに埋めつくすアメリカの駄菓子の輪郭と色合いのなかに海も家も砂浜も無神経にぶよぶよと建っていて、そこにやはりすべてにおいて無頓着で頭にも身にも虫が湧いているとしか思えないふやけた若者たちが浮かぶように佇んでいて、ものすごくてきとーにラップをして遊んだりしていて、その近くには肥大した芋虫みたいなエイリアンみたいな奴らが変な音を出しながら伸びたり縮んだりしている。 この絵だけで映画館を出たくなる人がいても責めはしない。
そんなてきとーにふやけた若者たちの間にBilly 5000 (Jack Corbett)はいて、他の仲間にはFreckles (Grace Kuhlenschmidt)とか Beatbox (Elsie Fisher)とかPeanut (J.R. Phillips)がいて、Billy 5000はUber EatsライクなGrubsterっていう宅配ピザ(だけじゃない)配達サービスのバイトをしながら誰にも搾取されることなくそのアプリのバグを使って一人暮らしするための$5000を貯めようとしていて、たいへんだけどがんばる、っていいながらどこかの底辺を彷徨っているようで、でも彼の暮らす世界には底辺も頂点も存在していないかのよう。
ある日宅配に行った工場で、かつての同級生Rosario "Rozebud" Dolphin (Miya Folick)と会って、そこの工場長の娘である彼女が持っていた標本とかを持ち帰ったら、それが単なるエイリアンではないとんでもないやつで…
お金を稼ぐこと、家族である(になる)こと、旅をすること食べること泊まること、これら生活の根幹がそこらでごろごろしているエイリアンたちとの間でお茶の間的なスケールのコミュニティで進行して転がって、決して「アドベンチャー」にも「ジャーニー」にもなっていかないし、そうなることにも興味ないし、というすっからかんの実存のありよう。でもここからJupiterに飛んでいったとしてもなんの不思議もないし、たぶんいけるし。
軽めのドラッグをやってトリップしている若者たちの戯言、メッセージもくそもない、と片付けることは簡単かもしれないが、そうも言い切れないような腰の据わったLo-fiの居直り感と虚脱感がなんだか痛快で心地よい。ただぶっきらぼうに、でもそこにいるの。 なんとなく漂う宮沢賢治のかんじ、など。
シアターで貰ったBoidのペーパーで樋口さんはDinosaur Jr. ぽい、と言っていたが、あんなに洗練されてもいなくて、Sebadohあたりではないか。
6.09.2026
[log] Nara / Kyoto / Osaka - June 05 2026
6月5日、金曜日に会社を休んで奈良~京都~大阪の日帰りに行ってきたので簡単な備忘を。
前回、5月5日に京都日帰りをやって、それが思っていた以上に簡単に済んでしまった(ロンドンからパリ日帰りと比べたら – 比べるな)ので、少し範囲を広げてみよう、程度で。
神仏の山 吉野・大峯 - 蔵王権現に捧げた祈りと美 @ 奈良国立博物館
新幹線で京都に着いて、そのまま近鉄のホームまで真っすぐ行ってそこにいたのに乗って奈良へ。
日曜美術館で仏様たちの群れをえっちらおっちら山の上から降ろしているのなどを見て、どうしようかなー、だったのだが7日に終わってしまうし、終了間際の土日は混むだろうしー って5日にしたのはそういうわけ。
9:30開場で9時前に着いたら既にすごい列で唸ってしまった。
蹲った小さい仏さまなどの塊りがいっぱいごしゃごしゃ置かれているところがとてもよくて、「秘仏」の看板のかかった蔵王権現立像もその流れで。青いでっかいやつはVR表示のみだった。あれは降りてきていなかったのかー。
特別展 北野天神 @ 京都国立博物館
この企画展は5月にも来たのだが、北野天神縁起絵巻(承久本)が忘れられなくて、第八巻の展示替えなどもあったようなので、もう一回。あの絵巻の漫画みたいな展開と描かれている雷神とか魔物とか噴いて渦を巻く炎とかが素敵すぎて(道真どうでもよし)、これの全部並んだのを続けてみたいので、こういう展示ではめったに買わない図録を買ってしまった – 絵巻、もうちょっと拡大して載せてくれてもよかったのに。 今回、京都はここだけ。
MOCOコレクション オムニバス - 初公開・久々の公開 - PART2 @ 大阪市立東洋陶磁美術館
京都から電車で大阪に移動する。この近辺は地名・駅名を見てもさっぱりでGoogle Map頼りの1時間強。
今回のこれは過去寄贈を受けたりしたいろんなとこのを纏めてお蔵出し~、のようなのだが陶磁器の世界は西も東も新も旧もぜんぜんわからないので、何を見てもわあーきれいーすごいー、しかない。濱田庄司のだけ、こないだ日本民藝館で見たな、程度。
没後50年 髙島野十郎展 @ 大阪中之島美術館
もうじき渋谷にも来るらしいが、何度でも。2016年に目黒で『没後40年 髙島野十郎展 ―光と闇、魂の軌跡』を見てから、もう10年になるのかー。
蝋燭の光、陽の光、月の光、カラスウリ、さくらんぼなど、その光の明滅、その表面、真ん中の焦点をじっと、穴のあくほど見つめた前回の展示から10年…
でもこういう絵画に「魂の」とか付けるのってなんか違うと思うのよね。ゴッホとかでもその傾向あるけど。
中西夏之 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置 @ 国立国際美術館
大阪まで来たのはこれがあったからだった。タイトルが既に中西夏之的に装置化されている。
初期の油彩から、クールにやばいハイレッドセンター期から、70年代から晩年まで、我々が「穏やかにみつめるために」「いつまでも佇む、装置」としての絵画、が、街角に置かれたサイネージディスプレイのようにそこにあって、でもそれらをじっと見ていると、あの卵たちのようになかでなにかが蠢くやつが頭のなかにシンクロするように湧いて拡がる。そのために置かれた装置。
それにしても後期作品の抽象のありようのおもしろいこと。みつめて穏やかになるのではなく、「穏やかに」が先に来てしまう不穏さから入り「みつめるためにいつまでも」が主で、どうしてその装置は「佇む」のか。装置は設置されたり作動したりするものではないのか、など。 絵画と言葉を巡ってだらだらといくらでも。
その上でやっていたコレクション - “Collection 3”も見たが、近現代アートのあまりに大阪っぽい盛り盛りでああ「国立国際」だなあ、って。
特別展:小泉八雲 - 怪談とフォークロリストのまなざし @ 大阪歴史博物館
まだ少し時間があったので、地下鉄でここまで。しかし大阪、エスカレーターとかエレベーター少なくない?
いきなりBook of Kellsの複製本があって、八雲のインターナショナルな足跡を辿り、文学作品だけでない幅広い活動全般を。TVドラマで話題なのは知っていたが、自分が読んだのは数十年以上昔で、あの頃よかミステリアスで変なガイジン・モードが炸裂していたような。夫としてはどうだったんだろうねえ。
ここまでで、湿気も酷くて結構消耗したので新幹線の時間を少し早めにして帰った。
6.08.2026
[film] Dance First (2023)
6月2日、火曜日の晩、アイルランド映画祭2026をやっている恵比寿ガーデンシネマで見ました。
『劇作家サミュエル・ベケット ⽣誕120年記念上映』ということで、Neil Forsythが脚本、James Marshが監督したベケットの評伝映画で、イギリス・ベルギー・ハンガリー合作映画。 邦題は『まずは踊れ』。
併映でBeckett自身が唯一映画の脚本に携わった24分の短編 – “Film” (1965)も上映される。監督はAlan Schneider、撮影はBoris Kaufman。
モノクロで、登場人物(Buster Keaton)とカメラの視点を交互に微妙に対比、交錯させながら、見ること、見つめることのギャップとか違和を亀裂のように老人の震えのように描きだしていく。それらを定着させてしまうフィルムというものについて。
でも終わって残るのはBuster Keatonの掌とか指とかふっくらした老人のそれだったり。
同時上映で短編をやるなら、本編の方でも上演中の舞台(の一部)が映しだされる一幕もの”Play” (1963)を映画化した”Comédie” (1966)をやればよかったのに。キャストはMichael Lonsdale, Eléonore Hirt, Delphine Seyrigだよ。
Dance First (2023)
1969年のノーベル文学賞の授賞式で、Samuel Beckett (Gabriel Byrne)は名前が呼ばれて席を立つと「くそったれ」みたいなことを呟き、そのまま会場を後にして、そこの屋上かどこかにはもうひとりの自分(告解師?)がいて、懺悔告解をするかのように過去を吐き出しながら、ノーベル賞の賞金を誰に寄付すべきか、もうひとりの自分と対話していく。
幼い頃の彼は何事にも理屈っぽくてやり込めようとする母よりも優しい父のことが好きだったのだが、父は早くに亡くなり、若くに家を出て大戦前のパリに渡ったBeckett (Fionn O'Shea)は憧れのJames Joyce (Aidan Gillen)と出会って彼の家に出入りするようになるのだが、彼の娘のLucia (Gráinne Good)の世話をするのが嫌になって、Joyceとはそれきり。
その先は戦時下のレジスタンス活動中、いきなりナイフでフィジカルに刺されて死にそうになった事件を機に近づいていったSuzanne (Léonie Lojkine 後でSandrine Bonnaire)とのこと、活動中にナチスに拉致されて、その後ベケットが長く罪の意識で苦しむことになる親友Alfred (Robert Aramayo)のこと、後年に翻訳者として親しくなってSuzanneとの間に亀裂をもたらすBarbara Bray (Maxine Peake)とのこと、など。
波乱万丈、と言うほどではないものの、節目節目に常に女性がいて、ノーベル賞の賞金を誰に? とか議論できる程度にはじゅうぶん活動してるじゃん、だったが、やはり相当女性に対してはいろいろ思うところがあったのではないか、と思わせるような描き方をしている。例えばSuzanneの目線で描いてみたらどんなふうになっただろうか? そのうえでも”Dance First”とか言えるのか、とか。
この映画ではただの脇役でしかないBarbara BrayはHarold Pinterと活動したり、翻訳者としてMarguerite Duras、Jean Genet、Julia Kristeva、Philippe Sollersなどを英語圏に紹介したひと。みんなそれなりの足跡を遺した人たちなので、別のいろんな角度からも見てみたかった、とか思った。Shakespeare and CompanyのSylvia Beachも少しだけ出てくる。
ほぼフランスが舞台だったりするので、彼の前衛に対するフランス文化圏の適合ぶりはわかるのだが、他方で彼の(and Joyceも)アイルランド性(のようなもの)がどんなふうに醸成され表れてきたりひん曲がっていったりしたのか、その辺があったらよかったのに – となると、やはり彼の舞台作品を見て掘っていくしかないのか、って。
でも俳優がうまいからだろうか、湿っぽいところがぜんぜんなく枯れてからっから、なのはどこかベケットぽくてよかった。
[film] The Big Steal (1949)
5月31日、日曜日の午後、シネマヴェーラのRobert Mitchum特集で見ました。
原作はThe Saturday Evening Postに掲載されたRichard Wormserの短編小説 - “The Road to Carmichael's" (1942)、監督はDon Siegel。71分のクリスピーなトルティーヤに乗った真面目だか不真面目だかよくわからないメキシカン・ウェスタン。
ごった返すメキシコの港で米陸軍中尉のDuke Halliday (Robert Mitchum)が彼を船まで追ってきた軍の上官Vincent Blake (William Bendix)を船室で殴り倒して陸に戻ったら携えていた30万ドルの札束をJim Fiske (Patric Knowles)に奪われて、たまたま同様にJimにしてやられて頭にきているJoan Graham (Jane Greer)と一緒に車で追っかけていくことになり、更にそんな2人をふざけんな、ってぶちきれ系で沸騰したVincentが追っかけていく。
そこにメキシコ警察のGeneral Ortega (Ramon Novarro)が絡んで、これもどこまで冗談なんだかわからない玉突き追っかけずっこけ珍道中が始まり、逃げて転んで追っかけて、がぐるぐる巡って、最後は首領の本拠地(邸宅)での銃撃戦で絶体絶命、どう考えてもしぬだろ、なのに敵が考古学マニアだったおかげでどうにかなって、冗談みたいにてきとーなハッピーエンディングに落ちてしまうところがすごい。あまりに変な展開なので、よかったねえ! とかあまり言えないけど。
これの前年にRobert Mitchumはマリファナ所持で有罪判決をくらって収監されてて、これに出ることで世間から注目されて客が入るだろうからってキャスティングされた、とか、Jane Greer はRKO PicturesのオーナーだったHoward Hughesの恋人だったが別れたので彼女のキャリアを潰そうとしていた、とか、裏のストーリーも表と同様にぐしゃぐしゃだった、というあたりもおもしろいのだが、そんなの微塵も気にしていない堂々とした演出が素敵。
Crossfire (1947)
6月1日、月曜日の晩、上と同じ特集で見ました。
監督はハリウッドの赤狩りでHollywood Tenのリストに載ったEdward Dmytryk。原作は後に映画監督となるRichard Brooks が兵役期間中に書いた小説”The Brick Foxhole” (1945)。 邦題は『十字砲火』。 映画はヒットしてRKOからリリースされたB級映画なのにオスカーの作品賞、監督賞を含む5部門にノミネートされた。
冒頭、暗いホテルの一室で殴り合いの乱闘がシルエットで描かれて、翌朝に部屋で遺体となって発見されたSamuelsの殺人事件を捜査していく犯罪もの。捜査にあたる警察のFinlay警部 (Robert Young)は夜に被害者がいたホテルのバーにたむろしていた復員兵たちが怪しいと見て捜査を始める。
Finlayに近寄ってきたMontgomery軍曹 (Robert Ryan)は友人のFloyd (Steve Brodie)とバーでSamuelsを見かけたので彼の部屋に行ったら彼がMitch (George Cooper)と一緒にいるところを目撃し、しばらくしたら泥酔したMitchが出てきてどこかに消えたので、彼があやしいのはないか、という。
Mitchの友人で彼が人を殺すような奴ではないことを知っているPeter Keeley軍曹 (Robert Mitchum)が乗りだして動揺したりよく憶えていなかったりするMitchを映画館に匿って、捜査の点と線を繋いでいく。ところどころ回想が絡まったり、そこに夢だか現実だかわからないような娼婦のGinny (Gloria Grahame)とそのヒモ(Paul Kelly)が現れたり、でも最後の方は怒涛の、まごうかたなきヘイトクライムになだれ込んでしまうので、いきなりビンタされたようにしゃっきりする。いや、あそこまではっきり言われるとそれはそれで気持ちわるい(そして、Robert Ryanこわすぎ)のだが。
原作では被害者はホモセクシュアルという設定で、でも当時のヘイズ・コードは同性愛への言及不可だったので、背景が人種差別~反ユダヤ主義に変更されたという。なぜそんな代替が可能になってしまうのか、というのはあるけど。そんなふうに隠したところでぜったいいつかばれるんだし、とか。
6.04.2026
[film] Not as a Stranger (1955)
5月30日、土曜日の晩、シネマヴェーラのRobert Mitchum特集で見ました。
この日はお昼にここの特集で”The Lusty Men” (1952) - 既に書いた - を見て、そのあと茅ヶ崎の美術館で牧野邦夫の展覧会を見て、また戻ってきてこれを。
邦題は『見知らぬ人でなく』。 Wikiの日本語版のあらすじが 『医学の道を志す青年が学費を得るために金持ちの女に近づく。』 の一行なのがおもしろー。
原作はMorton Thompsonの同名小説(1954) - ベストセラーになった - をEdna & Edward Anhalt夫妻が脚色、それまでプロデューサーを仕事にしていたStanley Kramerが初監督している。
Lucas Marsh (Robert Mitchum)は勤勉で真面目な医学生 – 教室で横並びしている同期生にFrank SinatraとLee Marvinがいて冗談かと思う – で、結構アグレッシブな質問をして教授から目をつけられたりしている。その反対側で学費に困って、このままでは退学… というところで経験も貯蓄も豊富でLucasに親しくしてくれていた年上の看護婦Kristina "Kris" (Olivia de Havilland)と結婚してどうにか医学を続けられるようになるのだが、Krisの献身的な彼への愛と比べたら彼からKrisの方はそんなでも。
こうしてどうにか医師になる手前まで行くのだが、高名な教授に治療方針のことで食ってかかったり、金儲けのことばかり話している同期 – 特にAlfred (Frank Sinatra)にぶち切れたり、そんなのばかりなので卒業するときに指導教授から「医師も人間であることを忘れるな」って言われたりする。
インターンを終えて医師となったLucasはKrisと一緒にGreenvilleっていう田舎の町に移り住んでDr. Dave Runkleman (Charles Bickford) の病院で働くことになる。病棟に入院している人たちは貧しかったり、院長が無能でしょうもなかったりするのだが、Runkleman医師が力強くてよい人なので、一緒にがんばろう! になるのだが、Krisはそんな前のめりのLucasに自分が妊娠したことを言い出せない。
そのうちLucasは馬丁の怪我で往診に行った先で知り合った裕福な未亡人Harriet (Gloria Grahame)と恋におちて、それで家に帰らないのも多忙のせいにしてKrisとの間が遠くなっていくなか、深夜の長時間に渡る緊急の手術のサポートをKrisに頼んで、結果どうにかうまくいくのだが、自分に求められているのはやはり仕事面のサポートなのか、ってKrisはがっかりしたり、そんななか、Runklemanが倒れて…
医を志す学生から、結婚から、田舎に赴任した医師まで、強い大志と意思を抱えた若者が孤軍奮闘していく成長物語で、その思いに駆られてがむしゃらに前に進もうとするので周囲とはあれこれぶつかって大変なのだが、女性に関しては金づるか一夜の遊び程度にしか見ておらずー、という典型的な50-60年代にのし上がる男性の美談伝説で、最後に自分の力不足を認識したところで初めてKrisの献身的な愛に気づく、というところも含めて、よかったね、にしたいのだろうけどぜんぜんよかったとは思えない。タイトルの『見知らぬ人でなく』なんて医師を志すなら当たり前ではないのか、とか突っ込みどころもいっぱいなのだが、当時はこれでみんな納得してがんばれー、とか言っていたのだろうかー、って。
Lee Marvinはなんもしなくて、Frank Sinatraはちょっと威勢よく見えたのは最初の方だけで、あとはなんか割といい奴じゃん、みたいな小役で、贅沢な使い方だった。これもフィルム・ノワールに位置づけできたりするもの?(Wikiでは)
途中から登場して特に多くの波風も立たせずにすーっと消えるだけのGloria Grahameがクールに映えてて、彼女もどちらかというと「眠い目をした」女なので、Robert Mitchumと一緒だと余計に夢のなかのかんじが漂って、きつめの現実とのコントラストがよかったかも。
6.03.2026
[film] Elis & Tom: Só Tinha de Ser com Você (2022)
5月31日、日曜日の午前、新文芸座で見ました。帰国してから最初の、久々の池袋。異文化…
見たい、見なきゃだった映画をようやく。原題の後半部分を英語にすると”It Had To Be With You”、邦題は『エリス&トム ボサノヴァ名盤誕生秘話』。
こないだのEgberto Gismonti & Daniel Murrayのライブを逃したり、ライブ方面では気が付いたらもうその日でびっくり~既に手遅れ、というのが最近多すぎて、これはロンドンで演劇などを2~3日前とか当日に決めて行く、というのを繰り返してきたせいだと思う - 違う、怠惰で情報に鈍く疎くなっただけよ。
1974年にリリースされたElis ReginaとAntônio Carlos Jobimによる“Elis & Tom”は、ブラジル音楽、という枠を超えて誰もが認めるとんでもない名盤だと思うが、その現場の制作過程をとらえた16mmフィルムの映像を中心としたドキュメンタリー。監督はElisの当時のマネージャーだったRoberto de OliveiraとJom Tob Azulay。共同脚本にはNelson Mottaの名前がある。
最初の方の"Águas de Março" - アルバムのオープニングの『三月の水』をふたりが向かいあって掛け合いしながらレコーディングしている光景で鳥肌が立ちすぎて寒くなる。曲のなかで発せられるふたりの声の近さ、遠さ、互いに突きあう発声がリズムを刻んでそれが歌となる不思議な対流のなかで音楽が形作られていく驚異が映像として残されていて、エンディングのあの高い音がElisの声だったことを知って驚愕。鳥だったのか。
前半で、このレコーディングに来るまでのElis Reginaの軌跡、Tom Jobimの軌跡がそれぞれ紹介される。Elisは歌手としてブラジル国内では無敵となり、ヨーロッパ各国でもそれなりに人気は出たものの、キャリア10年を経てその次が見えなくて、そこで当時の軍事政権のイベントで歌ってしまったので叩かれて萎んでて、Tomは60年代にボサノヴァの旗手としてアメリカで広く知られるようになったものの、音楽の探求と洗練が人気には結びつかずにちょっと腐っていて、互いに「それはとても有意義な取り組みだと思うな」って棒読みをするだけ、もちろんキャリアの傷になることはないだろうしお金にもなるだろうし、くらい。 この時Elisは28歳でTomは47歳 - 同じくらいかと思っていたのに20歳近くの差があったとは。
今だから言うけど、という形で語られる現場でのふたりの確執 – Tomは当然自分でコンポーザー、アレンジャーを含めて全体の統括までやるつもりだったのにElisは自分の夫でピアニストでアレンジャーでもあるCésar Camargo Marianoを連れてきたので、音楽面でも簡単に衝突して、初日からマネージャーのOliveiraに「もう帰る」になるあたりはまあそうだろうなー、程度で、でも18日間かけて音楽的な落としどころをみんなで見出していった、というHélio DelmiroやPaulo Bragaといったミュージシャンたちが(彼らの証言も含めて)すばらしい、というかブラジル音楽の底の深さと恐ろしさはここにあるのだよ(どこから来るのか知らんが)、って改めてEgberto Gismontiを逃したのを悔やむ。
Tomのアコースティックに空間の拡がりを求めていくアプローチとElisの声の震えと響きでエレクトリックに世界を埋めていくアプローチをどう束ねてひとつの楽曲として構成していくのか、ジャズのエレクトリック化としてむきむき筋肉をつけていったジャズ・フュージョンの塊りとはまったく異なる可能性がここにはあったし、そういうところも含めて問答無用の名盤だったのだ、と。
この映画の中のElis Reginaは本当に楽しそうに歌っているのだが、彼女以外に映っているのはすべて男性ばかりで、こういう中でどんな思いだったのだろう、とか、タイトルも”Tom & Elis”にしたがった、というし。… というあたりで引き裂かれてあがったりさがったりしながら見ていた。