3月1日、日曜日の午後、Phoenix Theatreで見ました。
West Endでロングランしている商業演劇系(っていうの?)は余り見ていなくて、まずチケット代が高いし、しばらくやっているだろうから、というのがその理由だったのだが、帰国を前にやっぱりいくつかは見ておきたいな、になり、このシアターはいつも行く本屋Foylesの反対側にあって、本屋を出るたびに”Hawkins”の文字が目に入って見たいかも、になっていた。
NetflixのあのTVシリーズ(最後のエピソードは見れていないので帰国したら見る)、1983年から始まったあの物語の約40年前から始まる前日譚 - 冒頭に字幕で小さく”The Philadelphia Experiment”とでる – で、Duffer Brothers, Jack Thorne, Kate Trefryがオリジナルストーリーを作って、演出はStephen Daldry(!)とJustin Martinの共同。TVシリーズを見ていなくても、そんなに憶えていなくても「変なもの」は変なものとして目の前にダイナミックに迫ってくるし、知っている人には40年後の起源や登場人物がこんなところに、になる。 休憩含めて3時間、最後には映画のようなエンドロールが流れる。
暗転して闇の奥からTVシリーズのあのシンセ(もろJohn Carpenter)が湧いてくるだけで、どよめきが起こる。全体としてサウンドデザインが見事で、最後の方の光と轟音の嵐は怖いくらいだった。ところどころの古いフィルムのプロジェクションも効果的。(Ratingは12+で、日曜日の昼だからか子供もいっぱい見ていたがぜったい怖いとおもう)
冒頭が戦時中、洋上の戦艦のなかで起こった謎の出来事→大事故と失踪、そこからTV版の舞台となったインディアナ州ホーキンスに移って、そこでの平凡な学園生活と、周辺でペットが不審な死にかたをしていく事件を中心に、いくつかのエピソードが併走していく。冒頭の事故の唯一の生存者の息子で、不思議な能力をもつ少年Henry Creel (Jack Christou)、はぐれ者の彼に近づいていくPatty (Avril Maponga)を中心に、田舎の高校の平々凡々とした日々と、その裏に潜んでいるのか進行しているのか何やらおそろしい、”Strager Things”の端々をじわじわと炙りだすように描いて、でも全体像はちっともわからない。 TVシリーズを知っている人は、これらがどうなっていくのか、なんでこんなことに.. は凡そわかっているので、きたきたきた..になったり、これって、あれのこと? になったりと慌しいのだが、音とヴィジュアルの有無を言わせない説得力がすべてをなぎ倒して覆いかぶさってきて、記憶も忘却もどこかに行ってしまう。単独の舞台として見ても十分わけわかんなく錯綜していてよいと思った。
TVシリーズでWinona Ryderが演じたJoyceやDavid Harbourが演じたHopperの高校生時代の姿も出てくるが、彼らはちょっと微妙で、別になくてもよいくらいのエピソードの出し方。そして、若い頃のDr Brenner (Stewart Clarke)も当然。
この時点で誰かがどうにかしていたら、この件はどうにかなって(収束して)いたのだろうか?勿論そんなことにはならず、Stranger ThingsはStrangerのまま、だから、劇は冷たく恐ろしいままにその蓋を閉じて or 開けたままにHawkinsの80年代を用意する。しかし、この劇を見てからTVシリーズに行くと、あまりにほのぼの腑抜けで無邪気すぎるふうに見えてしまったりしないだろうか。
軍の実験と超能力と怪物と田舎を掛けあわせた超常化け物怪奇ホラーとして、とてもよくできているなあ、と改めて思ったのと、そういうのなしでも、シアター/お化け屋敷として十分機能しているように思えた。5時間くらいに引き延ばして、外に出られなくする設定を加えたらパーフェクトではないか(なにが?)。
3.13.2026
[theatre] Stranger Things: The First Shadow
[theatre] The Shitheads
3月3日、火曜日の晩、Royal Court Theatreのupstairsのシアター(全席自由)で見ました。
これ、2月25日のチケットを取っていたのだが、前日くらいに出演者が怪我をしたのでこの日の上演はなくなって、払い戻しするか別の日に振り替えるかどっちがいい? と聞いてきて、振り替えたい候補日をメールで送ったらこの日のチケットがきたの。
原作は詩人でもあるJack Nichollsの劇作デビューで、Royal Courtの公募作のなかから選ばれたもの、演出はAneesha SrinivasanとDavid Byrne(あのDavid Byrne氏とは同姓同名)の共同。約1時間40分で休憩なし。
場内は洞窟の中らしい赤暗い照明で、舞台奥の上の方には出入り口らしい穴が開いていて、大きな音ではないが「ジンギスカン」のディスコの音楽が流れていて、ちょっといかれたダンスフロアのように見えなくもない。
紀元前数万年前、先史・原始時代のやがて英国になると思われる土地に暮らしていた原始人たちのお話しで、「はじめ人間ギャートルズ」の世界で毛皮を羽織っていたりするのだが、主人公たちの名前はClareとかGregとか現代人のそれで、喋る英語もスラングみたいのも含めて今の英語(たぶん)だったりする。
考古学的な考証は横に置いて、自然と人工の配分とか、ムラとか家族とか近くのヒトとか恋愛とか、そういう現代の我々の前提とか縛り、目線から離れてフリーハンドでいろいろ好き勝手に思い描いて、それでも今のしがらみとかはどうしてもくっついてくるだろうから、言葉とか名前だけは現代のをコラージュのようにぶつけてみる、とどんなふうになるのか、という実験?
最初に登場人物らしき人がひとり、少しおどおどしつつ現れて、「このお話はBased on a True Storyである、と思うよ」 とか言う。そうでしょうとも。
それからいきなり3人の人形遣いに操作されたバカでかいヘラジカのパペットが現れて(ぶんぶん振り回されるツノだけでもすごい)、そいつを前にClare (Jacoba Williams)とGreg (Jonny Khan)が出会って、少し強くて狡猾そうなClareはヘラジカを倒して、無邪気でおしゃべりなGregはもうじき酷い気候になるから南に行くべきとか、ふたりの会話は噛み合っているのかいないのか、そこだけ切り取るとSNLやモンティパイソンのスケッチみたいなコメディネタの掛けあいなのだが、いきなりClareはGregを殺しちゃって(客席の笑いが凍りつく)、カチ割った頭から脳みそを食べたりするの。
後半、Gregの首をぶら下げて洞窟の家に戻ったClareを無邪気な妹のLisa (Annabel Smith)と病弱な父 (Peter Clements)が迎えて、今度は原始時代のシットコムみたいな家族ドラマが繰り広げられ、そこにGregの妻Danielle (Ami Tredrea)と歩き始めたばかりくらいの赤ん坊パペット(2人で操作して1人は赤ん坊の声も。ちょっとホラーに出てくるベイビーぽい)が現れて、Gregを見なかったか?って聞いてきて…
人間を動物の習性や挙動から隔てて「人間」にしたものはなんだったのか? 最初の方でClareがGregに何度も執拗に聞かせてほしいと請う”Story”のこと、そして自分たちとは異なる「あいつら」的に語られる”Shitheads”のこと、これらが明確な意図をもって彼らの間で使われ始めた時、あらゆるギャグは停止して殺戮が始まる、と。そしてこの温度差をどちら側からどう見るか、が今の我々に問われていることなのではないか – など、真面目に考えることもできる。
あと、折角ここまで作ったのなら、イギリス人 - ブリトン人がなんでこんなんなって、こんなままなのか、まで掘り下げてみてもよかったのではないか、とか。
送り出しでも「ジンギスカン」がじゃんじゃん流れて、しばらく頭の後ろで鳴っていた。ジンギスカン食べたくなった。
3.11.2026
[film] If I Had Legs I'd Kick You (2025)
3月2日、月曜日の晩、"The Moment"に続けて、Picturehouse Centralで見ました。
これも、なんで今これを? になるのかもしれないが、上映館が少なくてすぐ終わっちゃう気がしたのとRose Byrneが好きなので。
監督・脚本はMary Bronstein、プロデューサーにはJosh Safdieと彼の助監督で、監督の夫でもあるRonald Bronsteinなどの名前がある。Josh Safdieの終わりが見えないままずるずる、の薄ら寒い感覚ははっきりとある。
心理療法士のLinda (Rose Byrne)は摂食障害でチューブを通して栄養を摂取するしかない娘のために日々通院していて、そこのドクター(Mary Bronstein - 監督本人)からはいつも柔らかく怒られたりあなたのせいではない、って言われたりして(医者患者のどちら側も)疲れている。夫のCharlie(最後にちょっとだけ出てくるChristian Slater)は船の仕事で海に出ていて能天気でご機嫌な電話はしてくるけどずっと帰ってこない。
ある日アパートに帰ったら天井から水漏れがしていて、しばらく見ていたら大量の水と共に天井の一部が落ちてきた(これってNYではあるのよ普通に)ので、母娘はしばらくモーテルで暮らすことになり、娘が装着している栄養補給機のたてる音で眠れなくなり、外にワインを買いにでると店員とトラブルを起こしたり、それを横で見ていた管理人のJames (A$AP Rocky)に助けられたり。
もともと鬱のあった彼女は同じオフィスの同僚セラピスト(Conan O’Brien)のセラピーを受けるが鉄仮面の彼とのセッションは全く会話にもセラピーにもならず - Conan O’Brien最高 - こうして何の、誰の助けもケアも得られなくなってしまった彼女はー。
建てつけ、構成としては、どうってことのない日常のやり取りがちょっと捩れて終着点の見えない何か – ぐしゃぐしゃのホラーのように変わっていく、ひとつひとつの出来事が恐ろしいのではなく、終わらないこと、なにもかも終わらないために始まっていく感が恐ろしくて、その「責任」がすべて自分の方に向かってくる。穴の開いた天井も業者が都合でいなくなって放置されていたり、他方でチューブに繋がれた娘を放置するわけにはいかないし、自分の患者もいる反対側で自身の鬱もどうにかしないことには、とすべてクリアにわかっているのに、どこにも行けない動けない恐怖と情けなさが彼女の感覚や判断力を塞いでいって、「正気」とか「日常」に戻ることができない。
Rose Byrneの一見クールで、すべてをソツなくこなすように見えて実は、のコメディエンヌの資質を見事に反転させドロ沼に嵌って孤立して極限状態にまで突っ走っていく主婦の姿を描いて、でもこれはあなたの姿でもあるのではないか? と問う。でもそこまでシリアスで陰惨な地獄に行かないところがRose Byrneの格、というか見事さで、全体がダークなのに妙な安定感があったりするのはよいことなのかどうなのか。
そして最後まで顔が明かされずにマシーンのビープ音のみでその存在が示される「娘」のありよう、これがもたらす悪夢とは? というー。
ホームレスで、少しだけドラッグにやられている少女たちの彷徨いを描いたJosh Safdie(脚本はJosh + Ronald Bronstein)の“Heaven Knows What” (2014)にかんじとしては近いかもしれないが、あそこにあった屋根のない「自由」のようなものはなくて、寧ろ屋根がなくなったことによる「縛り」が無情に降ってきて、それでも” I'd Kick You” !っていう強さというか、ふざけんな、の勢いがあってよいの。
[film] The Moment (2026)
3月2日、月曜日の夕方、Curzon Aldgateで見ました。
いろいろばたばたで新しい映画を見る余裕がぜんぜんなく、旧作なんてもってのほかでBFI Southbankにも行けていない。こんなことがあってよいのでしょうか神さま、の状態が続いている。
そんなあれも見ないとこれも見ないとでぱんぱんな時に限って、ついこんな半端なのを見てしまったりするのはどうなのか。
監督はFKA TwigsやBillie EilishのMVを撮ったり、Timothée Chalametの映画のプロモーションに携わってきたAidan Zamiriで、これが初監督作となるが、元のアイデアなどはCharli XCXによるもの。配給はA24。
モキュメンタリーで、2024年のアルバム”Brat”のリリースに合わせたプロモーション”Brat Summer”、これの舞台裏も含めて、こんなことがあったりしてねえー、というのを彼女の位置からたっぷりの皮肉と共に描いている。全体としてはよくもまあ、っていうのとここまでやるのかー、ていうのが入り混じる。産業って… とか。
Charli XCXは”Sucker” (2014)などはよく聴いた、くらい。元気があってよいなー、くらい。
“Brat”のアリーナツアーの準備を進めながらちょっと疲れてきたCharliのところにAtlanticレーベルの大物Tammy Pitman (Rosanna Arquette ..あらら)が、このツアーを歴史に遺る遺産とすべくamazonと提携したコンサートフィルムを撮影する話を持ってきて、監督Johannes Godwin (Alexander Skarsgård ..あらあら)が現れて、常にリハーサルする彼女の後ろを追っかけてうざい口を出し始めて、クリエイティブ・リードのCeleste (Hailey Benton Gates)と彼女は事あるごとに顔を見合わせることになる。あと、ツアーを後押しするプロモーション企画として、落ち目になりつつあるカード会社Howard Stirlingが発行する”Brat”クレジットカードが発表され、サインアップするとツアーチケットが付いてくるとか。
この他にもその筋では有名なのだと思うセレブが右から左から実名・カメオで湧いて画面のあちこちにいて、詳しい人にはより楽しめるのだろうが、そうでなくとも、Charliを取り巻く大量かつ多様な何をやっているのかわからない人たちによって「界隈」が形成され、どっちが先なのか知らんがコラボティヴでストラテジックな連携・提携によるプラットフォームができあがり、そこに我々のお金がじゃんじゃか自動で吸いこまれていくのだな、ということはわかる。
でもそういう中でCharliは疲れていって、もうなにもかもいやだ、というかんじで突然イビザに逃げて高級リゾートに籠ろうとするのだが、そこでも怪しげなエステティシャンが絡んできたり。
これ、エンタメの実経済を支えるバカみたいに脳みそその他が空っぽな人々を風刺するコメディ – “Spinal Tap”のクラブ・レイヴ版にすればよかったのに、と思ったのだがそちらには行かず、ひたすら疲弊して本音をぶちまけることもできないCharliの、沢山の人達が準備してリソースを出してここまで来たのだから、って全てをのんで受けいれる姿が描かれる – そういう形で示される業界への批判で、それでも最後にはamazon musicで宜しくね、って出るので失笑せざるを得ない。
ファザコンでミソジニー丸出しのJohannesをどこかでぼこぼこにしてくれると思ったのにそれはないし、音楽も殆ど流れてこないし、主人公は疲弊して浮かない顔で、そういうところで最近のメガヒットは形成されるのだな、パンクなんて異なる惑星の話としか思えないし、Morrisseyが嘆くのも無理はないわ、って。
3.10.2026
[music] Morrissey
28日、土曜日の晩、The O2 Arenaで見ました。
クラクフから戻ってフラットに着いたのが16時半くらいだったので余裕。アウシュビッツを見た後のしんどさとか、もう少しあると思っていたが、そんなでもなかった。覚悟していたからだろうか。
この人のライブは初来日の横浜の時から数えて何回めくらいになるのか、最後に見たのは2018年のLondon Palladium で、いつの間にか、なんとなく、なにがなんでも行く! の対象からは離れてしまっていた気がする。
その理由はいろいろあって、あんま深く考えたくないかんじだったなー、となっていたのはなんでだったのか、について考えさせてくれるようなライブだった(ライブの度にそんなことばかり考えてて楽しいの? って自分でも思うがうるせえよ、って)。
Morrisseyがレコードを出して貰えない、創作活動を十分にすることができなくて焦って腐って悶々としている、というのはずっと聞いていて、彼がそうやって周囲に毒を吐くのはいつものことのように思えたし、であれば「大丈夫」に違いない、とか。でも大丈夫とかそういうことでもなさそうで。いや、わかんないな、ってぐだぐだ考えが右に左に揺れまくった。
The Smithsという、もはや恐竜のように巨大な遺産と認知されているバンドのフロントにいた彼なので、ソロになってそれなりのキャリアを重ねていったにしても歳をとったりなんだりで自分の思うような活動をできず/させてもらえず壁にぶち当たって… なんてあの世界ではごく普通のことのようにも思えるのだが、彼にとってはそういうことではないのだ。曲を書いてライブで歌うという音楽活動は自身の生死を賭けたすべてであったのだ。
The O2のあるNorth Greenwichの駅は、アリーナのライブがある時は告知用のホワイトボードにそのアーティストの曲名や歌詞をびっちり散りばめた「案内」?を出してくれるのだが今回はさすがにハードルが高かったのか過去のNoel Gallagherのをそのまま置いていた。残念。
19:30くらいに客電が落ちて通常の時間であればサポートアクトになるのだが、Morrissey を「サポート」する度胸のある若い子なんていないので、Morrissey のお気に入りのアイコンとそれに合わせた曲(あるいはその逆)をじゃんじゃか掛けてくれて楽しい。それは過去、The Smithsが12inchのレコードジャケットでやっていたことと地続きの極めて教育的ななにか、でもあるの。
20:40くらいに客電が落ちて、マラカスを持って出てくるなりForeignerの”I Want to Know What Love is”のあの一節を、まあ今こんなことを世界の中心で吠えてやってサマになるひとなんていないよ。この曲で吠える人もいないだろうが。
バンドはおそらく若返っていて(終わりの方でメンバー紹介と自己紹介もあった)、アレンジもわかりやすいエレクトロが入ったりキーボードのソロもあったり、がんばっているようだったがそういうことではなくて、モルヒネを打ってそれが切れるまで、本当にそれくらいいっぱいいっぱいで大変なんだ - 助けてほしい - ってずっと、このギャングでパンクで落ちぶれて崖っぷちの老人が呻き続けている。
新譜のリリースを巡るごたごたのなか、尊大なアーティスト・エゴがどうの、という以前のところで、この人は最初のバンドの頃からずっと毒を呑んで吐いて悶絶して絶望して生死を賭けるようなところで歌を書いて歌ってきた。それがすべてで、それが十分にできない、というのは死ね、と言われているのに等しいのだ。 100文字程度で、誰もが言いたいことを好きなようにいくらでも吐きだすことができるようになった今(Make-up is a Lie)、彼のような態度や挙動がきちんと理解されない、ちゃんと通用しない、というのがあるにしても、じゃあどうしろと言うのか – というのが冒頭の叫びに繋がっていたし、“A Rush and a Push and the Land is Ours”~”Now My Heart is Full”の流れは本当に感動的に響いた。(ここでもし“Last Night I Dreamt…”までやってくれたら泣いちゃったと思う)
ただ他方で、昔のスタンダードばかり求めてくる客ばかり、という残酷な事実もあって、すんなり爽快に楽しませてくれない。The Smithsを聴いて育ったビリオネアのなかで、恩返しもかねて彼にお金をだしてきちんとしたアレンジと演奏で新譜も含めてセンスよく賄ってくれるような人はいないのか、金持ちはThe Smithsなんて聴く必要はなかったのか、とか。
この先どうなっていくのか誰にもわからないし、知りようがない、この人はそういう前人未踏の領域に首を突っこもうとしているのだ。 どうせ先にあるのはダブルデッカーバスだし、ってあの曲を最初に聞いた時の感覚が蘇ってしまったので、これがよいことなのかどうなのかはわかんないけど、いまだに蘇ってくるものがあるので、よいライブだったと思う。
あああと3週間を切ってしまった。どうしよう…
(ぜんぶあきらめろ)
[log] Kraków - Feb 26 -28
ポーランドのクラクフに行くのは初めてではなくて、2018年に仕事のコンファレンスかなんかで行っていて、でもこの時は仕事だったのでシロテンとSt. Mary's Basilicaと地下博物館くらいしか見れなくて(仕事なんだから仕事しろ、だけど)、今回は2泊あるのだからやはりいろいろ見たいかも、になった。
Romeo i Julia
26日、木曜日の晩にMałopolski Ogród Sztuki (MOS)で見ました。
滞在中に演劇とかやっていないか探していたら見つけて、でも2日間公演のどちらもずっと売り切れでほぼ諦めていたのだが、飛行機が現地に着いて繋がった時に見たら取れる状態になっていたのでまだ機内にいるうちに取った。
開演は19時で、入管に時間が掛かってホテルにはいったのが18時過ぎ、土地勘とかないのでとにかく早めに出て、お腹が空いていたので屋台でドーナツを買って食べながら(おいしいったら)、歩いてシアターに向かう。
ここは由緒あるJuliusz Słowacki Theatreの分館でよりモダンで実験的な劇を手がけているようなのだが、初演は2023年、ポーランド語手話による作劇 - 制作には聴覚障害者、健聴者双方が関わった - を起点にシェイクスピアの古典を再構成している。演じるのは男性2名、女性2名のみ、らしい。誰が演出したのか、などは探したけどよくわからず。
全席自由で開演時間丁度に開場して、席につくと女性2人が台座に固定されるように立っていて、間もなく始まるとふたりは歌、台詞の発話(ポーランド語)、ポーランド語手話を駆使して、その内容はプロジェクターにポーランド語 & 英語でリアルタイムで表示される。やがてそこに男性ふたりも加わってやり取りをしていくうちに女性ふたりはどちらもジュリエットで、男性ふたりはどちらもロミオであることがわかってくる。
強権的な家制度と過去からの因襲による縛りと、それに対する強い反発、そして恋に突き動かされた強い情動、全てを断ち切りたい思いとずっと一緒にいたい思い、これらに伴う犠牲... そこに手話という身体を使ってこれらを伝える/伝えなければならない、という与件が加わったとき、恋するふたりの身体がふたつに裂かれるように分かれてあることにそんなに違和感は感じなかったかも。
ふたりの恋によって彼らの自我も含めて引き裂かれた混沌とした状態を表すのに手話、発話、歌、振付けが駆使されて、英語の字幕もあるので伝わるものは伝わっていたように思えた。
他方で、原作のお家間ややくざの抗争や悲劇に向かっていく錯綜した駆け引きの殆どは(演者もいないので)無くなっていて、ふたりの場面、それもいちばんエモーショナルなところだけを抽出して煮詰めたものになってしまっていて、これでいいの? って思い始めた辺りの約60分でぷつりと終わってしまった。
帰りにカフェでピエロギを食べたらものすごくおいしくてびっくりした。
演し物ではもうひとつ、27日の晩にThe Cracow Philharmonic HallにKraków Philharmonic の演奏を聴きにいった。ポーランドならショパンだろう、と少し思ったが、こういうところのメインの音楽ホールを見たい、というのもあって、オンラインで当日取った。演目はベートーヴェンの第八交響曲とマーラーの「大地の歌」の2曲、オーケストラ演奏のよいわるいは判断できないのだが、オケも歌唱も力強くて、でもホールの音響はクラシックにしてはちょっと固かった気がした。
美術館関係だと、この街にはダヴィンチの「シロテン」- 『白貂を抱く貴婦人』 (1489-1490)が名物のようにあって、これだけは事前にチケットを取った方が、とAIさんに言われたので、アウシュビッツから戻ってきた夕方に駆けこむようにチャルトリスキ美術館に入って見た。シロテンは前回クラクフに来た時にも見ていて、その時はここではない国立美術館の方にあって、でも展示場所としてはこちらの方がうまくはまっていた気がした。わたしはこの絵のシロテンの腕の白くむっちりしたところがなんとも言えず好きなので改めて舐めるように見て堪能した。夕方だったからか絵の前には人がほぼいなくて、こういう場合、ふつうだったらシロテンが絵の中から飛び出してきてくれるはずだったのだが。 あと、もうじき日本に行くらしいダヴィンチの『ミラノの貴婦人の肖像』 (1490-1496)で描かれたのと同じ女性なのかどうなのか。
これ以外の朝と、最後の日の出かける前までは主に教会を回っていた。Holy Trinity Church、聖マリア聖堂、聖フランシスコ教会などなど。古い都なのでそういうのはいくらでもあって嬉しいし、扉を開けた瞬間にわーってなって、ずっといてもなぜだか飽きないし。帰る日の朝は丘の上のヴァヴェル城のカテドラルに入って、教皇ヨハネ・パウロ二世のお墓と彼の名前のついた美術館も見た。自分がキリスト教(全般)に興味を持つようになった頃の教皇だったので、いろいろ振り返ったり。
3.05.2026
[log] Auschwitz-Birkenau - Feb 27
2月27日、金曜日の昼、現地に行きました。簡単な備忘。
ヨーロッパの近代以降の文化にずっと惹かれて追ってきたものにとって、この場所に行くこと、ここの地面の上に立って何があったのかを頭に刻むことは宿題のようになっていて、前回の駐在時にも計画していたのだがコロナで行けなくなり、本当は20代30代の時に見ておくべきだったと思うのだが、ここまで時間が掛かってしまった。ここ数ヶ月であちこちに行ったりしているのは全部そうで、なにもかもしみじみだめだった、なんでもっと早く、ってどこに行って歩いていても思う。
現地を見るにはMuseum(遺構、敷地全体がMuseumとして保護・保全されている)のやっているガイド付きのツアーに参加する必要があって、日本人の方によるガイドがよいことは知っていたのだが、時間の余裕もないのでオンラインで取れる英語のツアーにして、でも1月中旬の時点で2月の後半で取れたのはここの昼間のひと枠くらいしかなくて、とりあえずそのチケットを押さえて、その後にフライトを探してみると、クラクフから当日に入るのは無理、当日に出ていくのも無理で、会社の木金を休む2泊3日にせざるを得なかった。できればこの機会にワルシャワも行きたかったのだがそれも大変そう、後で28日の晩にMorrisseyのライブを入れていたことに気づいたが、どうにかなりそうで少しほっとしたり。
着いた日からクラクフの天気はとてもよくて、この日もぽかぽかと暖かい日差しで、クラクフの町から電車で約1時間と少し、そこからほぼ一本道を歩いて約20分。公園とかもあるあまりに普通の住宅地のなかに突然Museumの施設が現れて、入口はバスで来た団体客でわらわらしていたところを助けられるように奥に入れて貰い、いろんな言語のツアーが順番に入っていくなか、開始時刻にガイドの女性に率いられて中に入る。自分の集団は20~30人くらいか。
何度も写真で見たことがある”B”が倒立した”ARBEIT MACHT FREI” – 働けば自由になる – のアーチがいきなりあって、そこから第1収容所の施設を端から見て回る。これまでプリーモ・レーヴィやフランケルで読んで、写真でも映画でも何度も見てきたそれらが目の前にあって、あたりまえだけどぜんぶここで起こったのだと。
収容所に到着した子供たち、女性たちの写真、ゾンダーコマンドが撮った火葬場の風景、これらの以前見たことのあった写真も、この場所であった/撮られたということでこれまで見知っていたのと異なる生々しさが立ち現れてくるのと、他には映画”The Zone of Interest” (2023)に出てきたRudolf Heß一家が実際に暮らしていた家を見ること、この間の演劇”Here There Are Blueberries”で撮られていたナチス幹部たちの風景を重ねてみること。
アウシュビッツを一通り見た後に、シャトルバスで20分のところにあるビルケナウに向かい、あのずーっと奥まで伸びた線路と、当初計画ではとてつもない規模になる予定だったという広大な敷地を眺めて、実際に歩く。ここまで拡張される予定でした、ってショッピングセンターやデータセンターの拡張計画のように考えていたとしか思えなくて、そういうのを得意げに語る営業担当みたいな幹部の顔が何人も浮かんでとても気分が悪くなった。
過去にいろいろな形で表象されてきた風景や情景、それらが目の前にはっきりとある、どれも恐ろしいのだが、なによりも恐ろしいのは、ここにものすごい量の人的リソースが投入されて、毎日どれだけの数を「処理」することができるのか、「集約」とか「効率」とか言いながら日々の仕事としてやっていたことだ。こんな規模の施設で「なにをやっていたのか知らなかった」なんてありえないよね。
あとは、割と最近の映画 – “A Real Pain” (2024)とか”Treasure” (2024)で、収容所で亡くなった祖先を訪ねて(ではなく、お墓があるわけではないので収容所の遺構を訪ねて)いく子供や孫の映画がいくつかあって、これらについても訪ねたくなってしまう事情はなんとなくわかった。こんなところで、っていうのがあまりに非現実的すぎるからではないか。
そして最後はやはり、いまの世界で実際に起こっている虐殺のことを考えてしまう。数日前に始まった戦争のことも。
過去のこれらからなにも学んでいない、自分たちさえ良ければそれでいい人たちが絶対安全な場所から子供たちを殺している、ということを。それを我々みんなが許してしまっている、ということを。
これ以外のクラクフでのことはまた別で。