6.25.2026

[film] 黒牢城 (2026)

6月21日、日曜日の夕方、TOHOシネマズ日本橋で見ました。
 
映画とは関係ないけどTOHOシネマズ、上映前の宣伝があまりに常軌を逸してやかましくてくだらなくて、目を瞑っていても吐きそうになるので今後はできるだけ行かないようにしたい(もう100回めくらい)。
 
脚本・監督は黒沢清、原作は米澤穂信による同名ミステリー時代劇小説で、今年のカンヌにも出品された。
 
時代劇にもミステリーにも疎くて、「くろろうじょう?」「こくろうじょう?」とか言うありさまだし、黒沢清監督作品も、見る機会があれば見るけど海外にいた時には見れないままだったし、国内外の黒沢マニアのような人たちには敵わないのだが、でもおもしろく見て、いろいろ考えさせられた。以下、ネタバレのようなところもあるかも。
 
登場するのは歴史上実在した人物たちで、史実としてもそんなには違っていないらしい。
 
戦国時代、織田信長の殺してしまえ戦略に叛旗を翻して自分の城に立てこもった荒木村重(本木雅弘)のところには威勢がよくて血気盛んな家来たちと優しい妻・千代保(吉高由里子)がいて、周辺国の武家も含めて一触即発の膠着状態になっていたところに信長からの使者として軍師・黒田官兵衛(菅田将暉)がやってくると、村重は彼を人質として地下牢に幽閉してしまう。
 
そんな城内で室内の少年が刺されて殺される事件が起こったり、殺した敵の武将の首が替えられていたり、宝物の壺を持たせた密使が殺されたり、不可解な事件が続いて、放っておくと士気にも響くし、村重は黒田官兵衛にこれどう思う? って助けを求める。
 
ふつうのミステリーに求められるような何故、誰が、どんなふうにそれをやったのか、という角度からの精緻でロジカルな謎解きを見せるというより、人がいっぱい死ぬ、殺されるのも殺すのも当たり前、進むも地獄/進まぬも地獄、の戦時の世になーんでわざわざそんな手のこんだことしてかき乱すの? というリーダーの苦悩と、その目線を超えたところにある宿命とか天罰のありようを描く。謎解きは誰かの恨みを晴らしたり明日への展望をもたらしてくれるもの、ではなく、だからこうするしかないのだ、という諦めに近い洞察と決意をもたらす。
 
突発的に作動して、意味不明だけど起こっちゃったことはしょうがないからどうにかしよう、という黒沢清得意のアクションの仕掛け、というかドライブは今回のような群集劇でも – 少し斜め上からの構図から黒い男たちが虫みたいにわらわら湧いて蠢いて雷に打たれたり、これだから… としか言いようのないぞわぞわが湧いてきたり。 これらの群像とそれを率いるリーダーの、後に引けなくなった姿を描く、という点では間違いなく上の意向に振り回されて身動き取れなくなる現代 or アカルイミライの話で、ここをどう見るかー。天罰ですらどうすることもできない地獄、としてあの時代を捕えることもできたのではないか、など。

あの雷があそこにいた全員を叩きのめしてくれたら、より天罰感がでたのに。
 
でも、いろんな描き方があるであろうことは承知のうえで、あの存在の薄さがひとつのメッセージとして機能していることをわかったうえで、たったひとりの女性である千代保が見た地獄を軸として戦乱の世でどんなふうに「天罰」の考え方が生まれ維持され、それを待望したり、それに向かって動いたりするようになっていったのか、を宗教映画のように描いたやつの方が見たかったかも。

あと、音楽 - 半野喜弘 - がとてもよかった。

6.24.2026

[film] Son nom de Venise dans Calcutta désert (1976)

6月20日、土曜日の午後、日仏のマグリット・デュラス特集で見ました。

英語題は“Her Venetian Name in Deserted Calcutta”、邦題は 『ヴェネツィア時代の彼女の名前』。

“India Song” (1975)のサウンドトラックをそのまま使って、映像パートだけ新たに、というか別のモノを撮りなおした作品。音の長さは同じなので上映時間も120分で同じ。

アイデアとしてはシンプルながら、このようなことをする/ができるためには、元の映画がそれなりの強い設定や形式を持っていないと難しい。1937年、モンスーンで荒れるカルカッタに駐留大使の妻としてやってきたAnne-Marie Stretter (Delphine Seyrig)を中心とした愛人Richardson、狂えるラホールの副領事(Michel Lonsdale)とのサークルでのすったもんだの果てに、その後の17年間をアジア各地を彷徨うことになる… という筋立ては知らなくてもぜんぜん構わないが。

音声を維持したリメイク、という構想のもと、撮影のBruno Nuytten以下数名のカメラが、カルカッタと言いながらパリ郊外のChâteau Rothschildを舞台に撮っていたオリジナルの場所を再訪し、人影なしのそこを撮り直している。

冒頭は、モノクロの点々の上をカメラがなめていって、空襲の焼け跡のようにも見えるそれらが庭の敷石(?)の模様だとわかるのは後のほうで、あとは建物の朽ちた外観、インテリア、エントランスからの眺め、崩れた家具や壁、それらを覆う木々や大気、そして朝の昼の夕闇の情景、かつて確かに人影が形造られた場所と時間を満遍なく。

華やかな外交の場 - レセプションが行われていた建物は人気も失せてすっかり朽ちて、元に戻る様子はない。”India Song”の登場人物たちはみなどこかに消えてしまった。それが会話に度々出てくる疫病によるものなのか、獣のように狂ってしまった副領事のせいなのか、終わりの方で語られるように彼女もRichardsonもどこかに消えてしまったからなのか、誰も知らない。 あるいは、この映像の方が正で、廃墟に戯れる様々な声とその持ち主の幽霊たちのやりとりがまずあって、“India Song”はこれを元に再構成したフィクションか、そこに映り込んでしまった霊たちの像なのかもしれない、とか。

Carlos d'Alessioによるピアノの”India Song”はどちらのバージョンでもメランコリックな土台を作ってすばらしく(本当に好き)、確かなものはこの旋律と、狂った娘による現地語の歌と、「ヴェネツィア時代の彼女の名前」 - Anne-Marie Stretterの母方の旧姓、くらいなの。

2024年の夏に、ロンドンのICAで“Let Cinema Go To Its Ruin: The Cinema of Marguerite Duras”という特集で見ていて、その時はAbsisによる短編 - デュラスがナレーションをする”Cygne I” (1975)、 Michael Lonsdaleがナレーションをする“Cygne II” (1975) との同時上映だった。いま見たらどんなふうに見えるだろうかー。


Nathalie Granger (1972)

6月20日の午後、↑のに続けてみました。 邦題には『女の館』というのが入ったりしていたの?

公園のはずれに荒れた庭と池?をもった一軒家があって、Isabelle Granger (Lucia Bosè)とまだ小さい娘ふたりと、夫があり、家族の友人と思われる女性(Jeanne Moreau)がいて、黒猫が住んでいる。

娘のうちのひとり – Natalieは学校で暴力沙汰を起こして、あんなところに行かない、でどうしたものか、になっていて、父親は早くに仕事で出て行ってしまい、近所ではやはり暴行事件が起こって犯人は捕まえられておらず逃走中、とか流れてくる。

全員が寡黙で不機嫌なのかほとんど会話がないので、なんでそこにそうしているのか、なにが起こるのか、なにをしようとしているのかがまったく見えない。全員がずーっと黙ったまま家屋の暗がりに立ったり座ったりしているし、Natalieも乳母車をがらがらしながら庭を徘徊したりするものの、なにをしているのか見えない。

途中、おしゃべりな洗濯機のセールスマン (Gérard Depardieu)が勝手に家に入ってきてべらべらべらべらかなりどーでもよいセールストークをしても、(あたりまえだが)かわいそうなくらい相手にしない – あんた誰?

なんで彼女たちはずっとそんな不愛想な態度のままで一点を見つめて、Natalieもいきなり乳母車をひっくり返したりしているのか – そんなの知るかよ、なんでわざわざご機嫌にご丁寧にストーリーとやらを語ったり担いだり会話を成り立たせたりしなきゃいけないんだよ、そっち(こっち?)こそ説明してみろおら! って言っているのだと思った。 “La Musica”や”Détruire, dit-elle”の延々引き延ばされていく繋がらない会話の変奏というか倒立というか。

そして取り囲む庭も含めての館のありよう。そこに暮らす、というよりただそこにいる、たむろする場所としての、あの家まるごと。

先に書いたICAの特集の際には、これと併映されたのがFrançois Baratによる”Gaumont-Palace”で、ここではデュラスが”Nathalie Granger”の草稿などを読みあげているのだそうだが、これは見れなかった。

ここまでくると無敵、としか言いようのない語り - 説明しない/語らない語りの強さと太さと。

6.23.2026

[film] Détruire, dit-elle (1969)

6月18日、木曜日の晩、日仏学院のマルグリット・デュラス特集で見ました。

英語題は”Destroy, She Said”、邦題は『破壊しに、と彼女は言う』。

“The Track” (1977)に続いて、自分にとってはここから今回のデュラス特集が始まったかんじなのだが、どれも震えるくらいおもしろい。ふつうに生きていそうな朗らかな人たちは出ていないし、全員なに考えているのかわかんないし、どんな設定なのかもよくわかんないし、彼らの会話はコミュニケーションとして成立しているように思えないし、でも何かが起こっている、進行していることだけはわかって、その何かとは何なのかを捕捉し追跡していくだけの時間。でも映画も小説も演劇も、アートってそもそもそういうものなのだ、という根幹に気付かされる。これがどれだけすごいことかー

デュラスの書いたものの2作目、書いたらそれを映画にする、を単独監督として実践した最初の作品。書きものの方は最初のパートナーだったDionys Mascoloに捧げられている。

テニスコートがある、広い庭もある、がらんとしたモダンなホテル - 療養院のようにもみえる – に4人のきちんとした身なりの男女がいて、出たり入ったり場所と組合せを変えたりしながらいろんなことを会話していく。

「ユダヤ人です」というStein (Michael Lonsdale)、謎めいたElisabeth (Catherine Sellers)、Max (Henri Garcin)とその妻Alissa (Nicole Hiss)、終わりのほうで、Elisabethの夫Bernard (Daniel Gélin)もやってくる。

彼らが普段なにをしているどんな人物で、なんのためにそこに滞在していて、誰となにをしたいのか、どこに向かうのか、彼らの会話はその周辺をずっと回覧板していて、互いを知るとか合意とか共感とか楽しむとか寛ぐとか、そういう姿とか志向はまったくなさそう。向こう1~2時間の暇つぶしとか、あしたあさってにどうするか、くらいしか頭にないし、近くにいる他人とどう過ごすか、夫婦であったとしても、これからなにをどうするとか、まるで表に出てこない。 ホテルというのはそういう場所だし、それのどこがいけないのか、とか。

かといって不条理劇のようなどん詰まり感や不明瞭な謎、目くらましもない。すべてはオープンで、それなりの説明はされているし、登場人物たちは意味不明のやりとりをするわけでもなく、焦ったり憎しみに燃えていたりすることもない。所謂「社会」を形づくるひとたちのように見える。

やがてAlissaが森に行きたい、と言っていた彼女はいなくなり、遠くから耳を塞ぐような轟音、爆撃のような音が… (原作では音楽だったような)

破壊しに、と言った彼女が?


La Musica (1966)

6月19日、金曜日の夕方、日仏学院で見ました。

Paul Sebanとの共同監督で、これが彼女の映画監督第一作。 前年にStudio des Champs-Elyséesで上演された同名の劇作品をベースにしている。

カフェのテラスでスーツを着て硬く不安げな表情で固まっている男Lui (Robert Hossein)に興味をもったのか、横にいた少女(Julie Dassin)が声をかけて、いろんな周辺の土地やこれからしていく旅など、あそこはいい、あれはどう、とかの会話をしていく。少女は彼と一緒にどこかに行きたいようで、男はウジェーヌ・ブーダンの絵に描かれたトゥルーヴィルの浜と彼の 『浜辺の女たち』について語ったりするが、そこから動く意思はなさそうだったのだが、この辺の行ったりきたりの会話の末に車で移動を始めて一軒のホテルに辿り着く。

そしてその途中、路上に姿を見せるElle (Delphine Seyrig)のシャープで漲った姿 – めちゃくちゃかっこいい - と、ホテルに舞台を移して離婚の話を進めようとしているらしい、LuiとElleの繋がっているのかいないのか、の異様な会話 – その段差とか間合いは『破壊しに、と彼女は言う』のそれにも通じるような。 その果てに「いったい何が起こっているんだ?」 って呻くLui...  確かに何かが、音楽のように生起していく何かがそこに。

ディスプレイに映る黒い獣の目とか、変なふうに映りこむボヘミアの城の絵とか、ここに掛かっていたブーダンの『浜辺の女たち』なども含めて、流れていくすべてがおもしろい。 これらを通してデュラスは映画のやり口、のようなものを掴んだのではないか。

ブーダンの『浜辺の女たち』、元の絵はどこにあるやつだか探してみたのだが、彼の浜辺の絵、多すぎ。

6.22.2026

[film] 薄墨の桜 (1977)

6月16日、火曜日の晩、シネマヴェーラの羽田澄子特集で見ました。
42分の中編で、岩波映画製作所に勤務しながら4年を掛けて作りあげた彼女にとって最初の自主製作映画だそう。
印象的なギターのアルペジオは片山幹男。ナレーションは香椎くに子。

冒頭、通りの奥に制服姿の少女が何も言わずにこちらを向いていたりする絵があって、最後の方にも出てくる。
岐阜県根尾村の山あいに一本だけ立つ樹齢1400年の老桜 - 「薄墨の桜」 - と呼ばれてその地域に暮らす人々に畏れられたり愛されたりしながらずっと朽ちかけるように立っていて、春になると花をつける様子を、地域と木の歴史の紹介と四季の情景と、近くに暮らして毎日仏飯を運んだりしている6軒の家族たちを交錯させながら、とにかく千年以上。

天然記念物に指定されて、日本三大桜に数えられている有名な桜で、言い伝えによると継体天皇がこの地を去る時に苗を植えていって、そこから先、世の中のいろんな地獄を眺めたり地獄から眺められたり、ナレーションでも語られるひとの怨みを吸って育った桜、というコブだらけの凄みが、薄墨の輪郭に陰影を加えて、シンプルに「美しい」とは言えない感慨をもたらす。 幹の下から昔の人骨と思われる骨がたくさん出てきて、その骨を持ち帰って鑑定するって言った医師の家が廃墟になっている様とか。

今であれば4Kとか8Kのコントラストで華々しく映しだされるであろう桜そのものの、特に「美しい」という観点からの愛でる撫でるような描写はなくて、ぼろぼろで崩れそうになりながらずっとそこに立ってあった、近隣の家族が毎日面倒をみてきた、という薄墨の線が描く歴史と共に示す。みんなが大好きな権太のうっとおしい歴史などに眉をひそめつつ。


古代の美 (1958)

二本立てで、↑のに続けて見ました。
東京国立博物館との共同企画による22分のモノクロの短編。映される対象たちは東博で今も見ることができるし、たぶん見たことがあるものも含めて、石器や埴輪の成り立ちとか曲線とか表面の肌理を映して浮かびあがらせて、ほらこんなに美しいでしょー、というよりも、これらと当時の生活との繋がりを紹介し、なんでこれが美しいなにかとして博物館に並べられているのか、そもそもの美とは? を白黒簡潔に考えさせるような内容のものになっている。 この目線と態度は、日本の古代のそれだけでなくて、ギリシャのでもイタリアのでもそうなるよなー、というのと。


元始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯 (2001)

6月17日、水曜日の晩に、↑と同じ特集で見ました。
平塚らいてう(1886-1971)について、タイトルの有名な文言以外、実はなにも知らないかも、と思ってお勉強で。
音楽は湯浅譲二、ピアノは高橋アキ。らいてうの一人称の語りを喜多道枝、ナレーションを高橋美紀子。140分あっという間。

1911年、女性だけによる文芸誌『青鞜』を創刊するまでの、裕福な家庭に生まれて海外文化に触れて育ったのに、上からの国粋主義的な方に靡いた教育によりそれらを封じられて嫌になり、大学時代は禅を学んで、最初に書いた小説で知り合った森田草平との心中未遂事件のあたりまで、やることなすことめちゃくちゃおもしろく、詮索されたりうざいのでどこかの坊主に頼んで処女を始末したとか、夫婦別姓とうぜんとか、基本がパンクですごい。「らいてう」は”Thunder Bird” (Ptarmigan?) だし、「青鞜」なんて”Blue Stocking”だし、パンクバンドじゃん! - 面構えも含めて - とか。

動く(野生の)らいてうの映像は14秒しか残っていないそうで、基本は彼女が遺したものを語るか、関係者の証言を繋いでいくしかないのだが、太陽を直接撮ることはできない、ということもあるし、今となっては普遍的であったりめえよーなことばかりだし、彼女が照らし出した女性たちの言葉が運動に撚りあわされていく過程はふつうにおもしろかった。

他方で、この国に蔓延るこういう運動嫌い(モノ言うひとを毛嫌いする)の習性はどうにかならんものかー、って。そーんなに考えたり振り返ったりが嫌で従属して服従する奴隷根性が心地よいかー、っていつもの、身の回りについて考えてしまう。 サッカーなんて世の中から消えてなくなっちゃえ。

[film] Caprice (2015)

6月14日、日曜日の晩、日仏の『第7回映画批評月間 フランス映画の現在』のサブ企画『『急に具合が悪くなる』公開記念 ヴィルジニー・エフィラ特集』で見ました。今回の特集で上映される彼女の3作品のうち、これだけ見ていなかったので。

作・監督・主演はEmmanuel Mouret。

パリで小学校の教師をしているClément (Emmanuel Mouret)は、妻と別れて息子と暮らしていて、勤務先の校長で、妻に逃げられてしまったThomas (Laurent Stocker)と互いの悩み相談をしたりしている。この時点で、小学校の教員、ひとりは校長の立場にあるような男たちが恋の悩みでぐだぐだしていることに不安を覚えるのだが、そういう世界なのだと思うしかない。

演劇ファンであるClémentは女優Alicia Bardery (Virginie Efira)が主演する舞台を見に通っているのだが、3回めに行った際、隣に座ったCaprice (Anaïs Demoustier)からあなたのこと前にも見かけた、って話しかけられて、彼女は陽気でおしゃべりで彼と仲よくなりたいふうなのだが、彼はそんなことよりAliciaの劇に感動して涙を流している。

そんなある日、Thomasから小学生の甥の面倒を見てほしいという女性の依頼をうけて、行ってみたらその豪邸に住んでいたのはAliciaで、夢かと思うのだが話していくうちAliciaはClémentのことを気に入ってくれたようで、ふたりはそのまま倒れこんで、やがて彼は彼女の家に息子と一緒に転がりこんで暮らし始める。

そんなある日、寂しがりの校長Thomasを慰めるべく一緒に呑みに行ったClémentは、女性2人組と仲よくなって、そのうちのひとりがCapriceで、彼女のアパートで一夜を明かして朝帰りしたところをAliciaのメイドに見られてちょっと変な状態になり、Aliciaの方もThomasと一緒に劇場のオフィスで夜を明かしてしまい、互いに自分たちはこのままでいてよいのか? になっていく。

そして、一晩一緒に過ごしてしまって扉が開かれたと思ったのかCapriceは彼女の劇団の公演を見に来てほしいって頼みに来たり、Aliciaのいない時に足を骨折してギプス生活になった彼を助けてくれたり積極的で、そんなCapriceの影がAliciaにも見えてくるのだが…

ジャンルとしてはrom-comに分類されるのかもしれないが、結末、決着のつけ方でいうと自分のなかではこれはrom-comではなくて、とても軽いご都合主義たっぷりの古からあるフレンチ・コメディで、よかったねー、くらいしかない。Virginie Efiraも、ああいう役柄だからなのか、思いっきりエモに振れたりの場面もなくて、ちょっと窮屈そうだったかも。


千変万化する恋 日本のロマンチック・コメディ映画の輝き @ 早稲田大学演劇博物館

6月14日、日曜日の昼、日仏に向かう前に見た企画展。
この大学は野蛮人の巣窟、というイメージがあったのでこれまで構内に入ったことも近寄ったこともなかった。

日本のロマンチック・コメディ映画の歴史をポスターを中心に概観する。見たことある映画も見たことない映画もいっぱいあるが、タイトルやポスターの構図を見ているとやはり「日本の」ロマンチック・コメディの定義、のようなことを考えてしまう。

当事者ふたりの間にクラッシュがあって一瞬火花が散るが、そのあとで行き違ったり宙ぶらりんの状態が続いてやっぱりだめよね… ってぜんぶ潰れて諦めかけた際でのまさかの逆転/復活というのが自分にとってのrom-comの大まかな定義 – そのクラッシュの強度と範囲が階級の壁をぶち破るようなところまでアナーキーに転がっていくのがスクリューボール・コメディ – なのだが、日本の場合、やはり家制度とか男性をたてる、というのが最初からベースとしてあって、女性主人公が向こうの家族とか関係者におおっ、という竜巻や混乱を巻き起こすものの、最終的な幸せの落下地点は家族のありようや男性上位の既存圏内に収まる(彼らをたてる)かたちでどうにかする - 幸せとはそういう(家族の)ものだからー、というのが多いのかしら。 そして(例えば)高度成長期以降で、この枠とか閾のありようが変わっていった、というようなことはあったのかしら?(かんがえ中)

あと、韓国とか90年代以降のもあったが、こちらのほうは見てないやつだらけで...  時代的、地理的な段差についても考えたり。

どこかの邦画系名画座はとうぜん連動企画を考えてほしいものー。

6.19.2026

[film] L'engloutie (2025)

6月14日、日曜日の午後、日仏学院の『第7回映画批評月間 フランス映画の現在』のなかのサブ企画『批評家たちが選ぶ2024-2025ベスト』で見ました。ぜんぶ見たいけどぜんぜんまったく無理。

監督は、これまでドキュメンタリーを中心に撮ってきて、これが長編デビューとなるLouise Hémon。カンヌの監督週間に出品されて、2025年のJean-Vigo賞、André-Bazin賞を受賞している。
撮影は監督デビュー作”La Gradiva” (2026)がこないだのカンヌの批評家週間でグランプリを受賞したMarine Atlan。本作ではセザール賞にノミネートされている。

原題をそのまま訳すと「沈められたもの」?、英語題は“The Girl in the Snow”。

雪深いアルプスの山奥の村にAimée (Galatéa Bellugi)が教師として赴任してきて、雪に閉ざされて外界との交流とかなさそうな土地で、子供たちを教え、そこに住む村人と一緒に暮らしていく。彼女のほっぺたはほんのり赤く健康そうで着ているものもかわいくて、村人もそんな変な、異端な民のかんじはしない。

最初、現代の物語だと思っていたのだが、途中でもうじき年が明けると20世紀になります、というので今から100年以上前の話なのだ、ってはっとする。雪に覆われていて、彼女が暮らす校舎とか納屋も木造で、蝋燭の灯りだけだと気づかないのかも、と思いつつ、ずっと覆われたり籠ったり、の内と外の感覚の端で、さりげない村人たちの態度や挙動がなんとなく気になり始める。そんなふうに気に障る感覚が雪に覆われた屋外やそこでの(追いようがない、止まない)物音に起因しているのか、屋内の村人や子供たちとの、汎社会 - 共同体的なやりとりのなかで湧いてくるものなのか、自然光のみと思われる撮影の光の捕らえかた、なのかもしれないが、気付いたら積もっていて身動きとれなくなる雪のように絶妙、ホラーのようにのしかかってくる。

村の男たちのなかにはAiméeに近づいていく者もいて、柔らかい光のなかでふたりで親密な夜と過ごした後、次の朝には村の衆が男の名を呼びながら雪のなかを棒で突っついて探しまわる、という場面があって、それが繰り返されたりしたら、これは雪女モノ…?とか思ったりもするのだが、行方不明なんてふつうにありそうだし、って。でもそれがもう一回起こると…

雪山の奥、ずっと閉ざされた家屋の隅とか雪の塊りのなかで何が育ったり蠢いたり埋められて息の根を止められたりしているのか - タイトルの「沈められたひと」 - それらを明るみに出すことすらできないような暗く曇った世界がある – というのは我々の内側の認知なのか外側の網膜の話なのか、ということをヴィジュアルで淡々と、ひとつの閉じた世界として示しつつ、ありがちなフォーク・ホラーがぶつぶつ沸きたってくる手前のところでうまく止めているような。

でも、チャントを重ねて渦を巻いて響かせるEmile Sorninの音楽はちょっとありきたりでつまんなかったかも。 裂け目をつくって底知れない何かを暴きだすことだってできたのではないか、とか。

暗がりの隅の蝋燭とレンズ、とか撮影はさすがだと思ったが、これの前日に見た『早池峰の賦』 (1982)の舞台となった土地の情景を思い出して、ここで16mmで映しだされた40年以上前の、あの景色が強く迫ってくるものはなんだったのだろう.. って改めて思ったりした。

6.18.2026

[film] Primavera (2025)

6月14日、日曜日の午前、ユーロスペースで見ました。
邦題は『ヴィヴァルディと私』。ヴェネツィアもヴィヴァルディも好きだし、日曜の朝っぽいし、昨年は盛りあがらなかったけど『四季』の300周年だったし。

原作はTiziano Scarpaによる”Stabat Mater” (2008)、監督はオペラ演出家Damiano Michielettoの、これが監督デビュー作。暗がりの蝋燭が絵画みたいでちょっと素敵だった撮影はPaolo Sorrentino作品を撮ってきたDaria D'Antonio。

18世紀初、ヴェネツィアのピエタ孤児院 - 冒頭、院長?の女性が子猫にひどいことをするので、そういう施設だとわかる - には若い未婚の女性ばかりが収容されていて、日々音楽の訓練を受けている彼女たちは後援者たちの前で定期的にアンサンブルを披露したり、後援する金持ちの家に貰われていったり、音楽/家事か玉の輿か、くらいしか将来の選択肢はなくて、ある日後援者がここへの支援をやめて他の方に貢ぐことを聞いた館長はそいつはやばい、ってVivaldi (Michele Riondino)を教師・指揮者・作曲家として招く。

現れたVivaldiはごほごほ咳ばかりしていて具合も機嫌も悪そうで、とても仕事ができる人には見えないのだが、”La Follia variations”を演奏しているとき、Cecilia (Tecla Insolia)の弾くヴァイオリンにぴくってなって、彼女を第一ヴァイオリンに据えて、デンマーク王を迎えた式典で彼の作曲したソナタを披露演奏したらとても感動してくれて、VivaldiとCeciliaは音楽で結ばれた師と弟子としてよいかんじになる。

のだが、オスマン帝国とのコルフ島での長い戦いから戻った英雄Sanfermo総督はCeciliaとの結婚を一方的に決めてきて、それは孤児院への多額の寄付を伴うのでCeciliaにもVivaldiにもどうすることもできない。のだが、最後の手段としてCeciliaは館に出入りする八百屋の青年と強引に関係をもって婚姻資格(結婚式前に新婦が処女であることを医者がチェックしにくる)から外れようとして、それはどうにかうまくいって関係者一同は絶叫錯乱、独房に入れられてしまうものの、これで婚姻縛りから逃れることはできそう – だったのだが…

どちらかというと(いやどう考えても)Vivaldiが『四季』を作曲して磨きあげて弟子と一緒に披露するまで、のいろいろあったストーリーを描くと思っていたのだが、リハーサルで「春」の断片がちゅるりろ♪って聞こえてくるくらいで、Primaveraな完成形は結局示されないので、えー、だった。遺されたVivaldiの制作ノートの余白などからこんなことをイメージしてみました、というストーリーらしく、そこまで創作するなら、①病に倒れて瀕死になるVivaldi、懸命についていく弟子、②『四季』を完成披露して幸せに死んじゃうVivaldi、③そんな彼を看取りつつ超絶に弾きまくるCecilia、の方にいくか、ヴァイオリンの弦と弓で総督と館長を縛りあげてぐさぐさ血祭り、のサスペリア方面では、とふつうなら思うよね、なのだが、実際には『侍女の物語』(衣装) で、とってもかわいそうで出口なしで暗くて悲惨で、なのに最後、Ceciliaは不敵に微笑んだりしていて、なんで? 音楽はなくなったけど自由を手に入れたから? そんなんでいいの? になった。

テーマ的には女性映画だと思うのだが、Vivaldiが妙な位置で挟まってしまい、全体として座りのよくない、変な映画になっちゃっているかも。

あと、薄暗くて怖めの室内の描写はよいのにヴェネツィアの街は運河程度のぺたんこで、もうちょっとがんばれば、だった。

というわけで、ヴィヴァルディはこの週末のRosasで改めて。