3月26日、木曜日の晩、National Theatre内のLyttelton Theatreで見ました。
まだPreview中だがそんなことは言っていられない。
ロンドンでいろんな劇場に行ったが、なんだかんだ、ここのLyttelton Theatreがサイズも含めて一番見やすくて好きだったかも、ってしみじみした。
原作はラクロによる同名の書簡体小説(1782)- 『危険な関係』。
1988年のStephen Frears監督による映画 - ”Dangerous Liaisons”の際にも使われたChristopher Hamptonによる舞台用の脚色(1985 - 初演も)をベースにMarianne Elliottが演出している。前日に続いてこれも休憩入れて約3時間。
Glenn Close, John Malkovich, Michelle Pfeiffer, Uma Thurman, Keanu Reevesらが出演した映画版は役者たちの演技が誰も彼もすばらしく展開も目が離せなくて何度でも見れるくらい好き。
今回の舞台版ではGlenn Closeが演じたメルトゥイユ侯爵夫人をLesley Manvilleが、John Malkovichが演じたヴァルモン子爵をAidan Turnerが演じている。
舞台の上方、左右奥の背景には官能的な女性の絵(日本だったら春画か)がでっかく帯のように広がり囲んでいて、その下方はミラーになって歌謡ショーのステージのよう。舞台は舞踏会のフロアだったりいろんな衝立てやドアが右左から運ばれてきたり、冒頭は正装したモデルのような男性たちがゆっくりと歩きまわる中、奥の扉からゴージャスなドレスを纏った女性たちがわらわら現れて見事な群舞を披露して、そこに先の男性たちが捕食するかのように群がる。その中心にいるのが深紅のドレスのLesley Manvilleで、見るからに女帝の貫禄で周囲を圧倒し、みんなが平伏している。
ストーリーは、メルトゥイユ侯爵夫人が、かつての愛人でもあったヴァルモン子爵を操って、貞淑なトゥルヴェル夫人(Monica Barbaro)と若くて純情なセシル (Hannah van der Westhuysen)を誘惑させて、みんな揃って転げ落ちていく様子を高みの見物して楽しもうとする。原作の書簡体小説の受けて返しての一拍入るその感覚はうまく生かされていて、場面場面の展開を追うのが楽しくて、気が付けばトゥルヴェル夫人は泥沼に落ちて、セシルは天に舞いあがって、それをどんなもんだい!って腕組みするヴァルモン子爵と、更にそれを高いところから眺めてにやにやするメルトゥイユ侯爵夫人ができあがる。
すべての立ち位置が揺るぎなく立ちあげられて彼らを身動きできないようにする前半までと、これらの縛り縛られが始めた側の思うようにはいかない「危険」なものへと変貌し、解れたり崩れたり手に負えなくなっていくさまを描くのが後半で、セシルは妊娠してしまうし、ヴァルモン子爵は狂っていくトゥルヴェル夫人を本気で恋してしまい、それを察知したメルトゥイユ侯爵夫人は嫉妬の沼に落ちて…
前日の”Romeo & Juliet”の死をも恐れずに天に昇ろうとするピュアな彼らと比べると(比べるな)、そこから約200年が経っているとは言え、なんというどろんどろの地獄絵図であろうか、って呆れてしまうのだが、これはこれで十分に生々しく、ゴージャスなセットやコスチューム、時折挿入されるダンスシーンも含めて、死と隣り合わせの恋愛遊びのデンジャラスな、でも知らんがなの刹那に溢れていてたまらなかった。
映画版でKeanuが演じたヴァルモンに決闘を申し込むセシルの許嫁の彼だけ、もうちょっとぴりっとかっこよかったらなー。
それにしても、下着1丁になって踊ったりするLesley Manvilleのものすごいこと。彼女のお芝居は2018年に”Long Day's Journey into Night” - 共演はJeremy Irons、2024年に”OEDIPUS” – 共演はMark Strong、と見てきたが、今度のが一番強烈だったかも。
4.10.2026
[theatre] Les Liaisons Dangereuses
4.09.2026
[theatre] Romeo & Juliet
3月25日、水曜日の晩、Harold Pinter Theatreで見ました。
今回の滞在期間中に見た演劇のうち、5本目となるRomeoとJuliet。なんか流行っているのだろうか?
“Stranger Things”のSadie Sinkと映画”Hamnet” (2025)の劇中、グローブ座で上演される”Hamlet”でHamlet役を演じていたNoah Jupeの競演。 原作(1596)はShakespeare、演出はMark StrongとLesley Manvilleによる”Oedipus”がおもしろかったRobert Icke、設定やコスチュームは現代のそれになっていて、タイトルの”&”はハートマークを模していて、客層もやはりたいへん若い。それもあるのか上演前からスマホ撮影に対するチェックと指導は厳しめ。 休憩を挟んで約3時間。
配役は若いぴかぴかのふたり vs 汚れて醜い一族の大人たち、が強調されているようで、シンプルな黒の背景にふたつの勢力の対立構造がざっと紹介された後、中央に置かれた大きな白いベッドの布団からJuliet (Sadie Sink)がひょこっと顔を出してふぁーって気持ちよさそうな伸びをすると、それだけで客席から溜息がもれたりする(Paddingtonミュージカルの登場シーンと同じ)。そして少しの間を置いて、同じベッドからRomeo (Noah Jupe)も姿をあらわす。場所は別々であっても、そんなふうにどこかでなにかが同期している予感のようなものがふたりを近づけていく。
舞台の上にはデジタルの時計板が表示されていて、前日の土曜日頃~キャピュレット家でふたりが目線を交錯させる日曜の晩からふたりが遺体となって発見される水曜日の朝まで、たった4日間の時間を刻々と刻んでいく。で、場面によっては同じシーンの時間を巻き戻して、もしこの場面がこう進行していたら… という仮設定シーンも重ねて上演されたりする – 例えばもしあの晩ふたりが出会わなかったら、とか。でもこの悲劇には関しては、どれだけの「もし」を重ねたとしても、誰もが最後にああなってしまうことを知っているし、それ以外の結末なんてありえないし、みんなそれを見にくるものなので、あんなふうにもしもあの時… を重ねていくことにどんな意味があるのか、はちょっと思った。(ひとりひとりが後でしみじみ振り返って想像すればよいことでは - 実際にそうするし - とか)
ただ、これをやることで、ふたりのあの出会いがどれだけの奇跡の上に重ねられたとてつもない奇跡であったのか、はくっきりと強調されていたかも。
光と闇をコントラスト強めに交錯させていく演出とライティングは、ふたりが相対するやくざでバカでしょうもない世の中やそこに潜むガサツな大人たちを劇画のような暗さのなかに浮かびあがらせ、その反対側でまばゆい、止まらない愛を辺りかまわずぶちまけていくふたりの姿を照らして、近づいてくる最後の時までの切なさ辛さときたらたまんなくて、ふたりはそれに応えるかのように羽を目一杯広げて飛びたとうとして、その眩しいことったら。
これまで見た同作の翻案ものとしては、やはりBaz Luhrmannの映画版 - “Romeo + Juliet” (1996)のClaire DanesとLeonardo DiCaprioの、あのふたりを思い浮かべてしまう。グランジの泥のあとに現れた彼らの瑞々しさと、それに続くケミストリーと、それが壊されていく、でもぜったい壊されないが故の痛みがどこまでも伸びていって、トラウマになりかねないやつ。
あの映画ほどの悲痛なかんじはなく、他の舞台にあったような悲劇一直線の生真面目な暗さもそんなになくて、とにかくふたり一緒にいられれるのなら、あとはなにもいらない! のつんのめった明るさがふたりをたったふたりにする。それだけで十分、になってしまう、そんな舞台だった。Sadie Sinkの輝きを見てほしい。
Bruno DumontのRomeo and Julietにインスパイアされたという新作、見たいような見たくないような…
4.08.2026
[theatre] Evening All Afternoon
3月24日、火曜日の晩、Donmar Warehouseで見ました。
この日は午後から航空便と船便の荷物出しがあって、13時開始予定だったのが前のが押してるとかで3時間ほど後ろに倒れて、でも17時前にはどうにか終えて、スーツケースなどに詰めた生き残り荷物と一緒に車で西の方のホテルに移動してからCovent Gardenに行ってBleecker Burgerでバーガーとフライとシェイクを頼んでなんとか生き返って、その隣でこれを見た。
上演前は、Joni Mitchellの”Both Sides Now”が繰り返し流れていて、ステージ上は手前に椅子がある白の簡素なリビングのよう。奥に小物が並べられた棚があって斜めから照らされるモノトーンの照明が柔らかく影絵の効果を生み出している。
原作はNYのAnna Zieglerによる新作(これがプレミアとなる)の2人芝居、演出はDiyan Zora。1時間半、休憩なし。
Delilah (Erin Kellyman - こないだの映画 - “28 Years Later: The Bone Temple”(2026)での演技が印象に残った、これが彼女の演劇デビュー作)はジャマイカ生まれの母を亡くして、彼女の父は7歳年上のイギリス人女性のJennifer (Anastasia Hille)と結婚した。彼女は地味で穏やかな典型的なイギリス人で初婚で、Delilahは最初からふてくされていて、彼女のなにもかもが気にくわないらしい。
ブルックリンで育ったアメリカン娘と午後の紅茶とその時間を愛する穏健なブリティッシュ女性が最初から意気投合するはずもなく、愛する母を失ったばかりのDelilahからすれば、再婚によって父までも奪われたかのようで、でもそれらをぶつけることができる相手がいるとすれば目の前のJenniferしかいない。
Jenniferからすれば、これまでしたことがなかった結婚(生活)に加えて、自分が持つことになるとは思っていなかった子供 - 娘までついてきて、いかにもイギリス人な辛抱強さと諦念と母親的なおせっかいでもってどうにかできる、と思っているような(はっきりそう語るわけではないが、その態度物腰、眼差しと自分の知るイギリス人の範囲ではそうかな、って)。
劇は最初から敵意&憎悪丸出しのDelilahとそれをぜんぶ律儀に正面から受けながら少しでも自分のことをわかって貰おうと静かに優しく語りかけていくJenniferと、でもそれらのコミュニケーションがぜんぶ空振りしたり宙に浮いてしまったり、舞台の中央にはゆっくり回転するサークルがあって、その端と端に立ったふたりが距離を縮めることなく同じ軌道を回り続けていく姿が描かれていく。
やがて静かな語り、そのやりとりの中で明らかにされていくJenniferの過去、彼女の抱えてきた喪失と失意の物語がDelilahのなにかに触れて、めでたく分かり合えて結ばれる - そんなわけはないのだが、それぞれの影がふたりの間にひとつの、いくつかの像を切り結んでいく様が刻々と描かれていく。対話やそこに向かう姿勢がどう、という以前のところで、そこにいるひとりの人はそれぞれいろんなものを背負ってそこに座っている、その息遣い、それがもうひとりに触れて何かが起こるその不思議が舞台の上に置かれているようだった。
この静かな紛争の第三の当事者であるDelilahの父親、Jenniferの夫がここにいないことについて、人によっては違和感を感じるのかも知れないが、これは原因や和解を模索するお話しではない気がして。
客席には女性がやや多めで、最後の方はすすり泣く声があちこちから聞こえて、そうかも、って思った。アメリカで上演しても同じ反応になるのかしら?
4.07.2026
[theatre] The Tempest
3月22日、日曜日の午後、グローブ座にあるSam Wanamaker Playhouseで見ました。
船荷出し&引越し2日前、最後から2番目の日曜日、こんなとき、日曜の昼間にやってくれるマチネは大変貴重でありがたいったらない。
原作(1611–1612)はShakespeare、翻案、演出、主演はTim Crouch。
シアターに入ると、役者たちは既に床に寝転がったり、座ってぼーっと宙を眺めていたり、後でCaliban (Faizal Abdullah)であることがわかる彼なんか、蝋燭ひとつひとつに地味に火を灯したりしている(このシアターの照明はぜんぶ蝋燭なので準備がいる)のでシアターの裏方の人だと思っていた。
そんなふうに開場した時から始まっているので劇が始まる前の舞台の写真を撮ることは禁止で、始まってしばらくして、劇の途中でスマホで撮影していた客をProsperoが注意したので、客席側がはっ、となったら実はその人は役者 – Antonia (Amanda Hadingue)で、あとからステージに乗りこんできてこの劇おもしろくないよ、って文句を言ったりする。他にも客席の上のほうから鼻歌が、と思ったらそれが幻惑するコーラス組になったり、スマホ撮影禁止の立札を持って一番前で立っていたのがFerdinando (Joshua Griffin)だったり、特にナポリの連中はProsperoの島に客席のあらゆるところから勝手に現れたり戻ったりしてて楽しく、彼らは休憩時間もそのまま客席にいたり。
舞台は蝋燭の灯だけで浮かびあがる暗くて狭い船室のようで、壁には博物館のように過剰な装飾と陳列品がみっしり、床にも散乱するいろんなガラクタが転がっていて、Prosperoの船は壁に取り付けられてくるくる回転する模型で、ゴミ屋敷手前のような投げやりな散らかりようを見ると、Prospero (Tim Crouch)は復讐に燃える大公というよりとうに萎れた隠者のようで、彼の傍にいる娘のMiranda (Sophie Steer)も妖精のAriel (Naomi Wirthner)もとてもおとなしくて、異界からも魔法からも遠い、枯れたお茶の間の住人のようにしか見えない。
そういうとっ散らかった状態で、召使のTrinculo (Mercè Ribot)とStephano (Patricia Rodriguez)は語学学校の生徒で周囲と話が通じなくてずっこけてばかりだし、サッカーチームのTシャツを着たCalibanはマレー系シンガポール人の母国語で会話をしてきたり、ポスト・コロニアルというか、ま、そうなんだろうな、っていうかたちでいろいろな面倒とか地ならしが次から次へとせわしない。
原作を読んだり、原作に忠実な他の芝居を見た時に感じられるグランド・ロマン的な何か、がオタクが籠る部屋のような小宇宙へと変わって、それなりの小爆発を見せる - 巨視的な世界観と目の前のみみっちい作為や小芝居的な動き、魔法の力と投げやりでなるようにしかならん、みたいな諦念が交錯して、運命の力、囚われと赦し、のような原作のテーマはどこかに行ってしまったかのように見えるのだが、これはこれでありなのかも、って思えてしまう居座りのパワーというか。
だってそうなんだもの、という諦めたような老人の呟きの外で吹きまくる大嵐(Tempest)、いろんなノイズ、という対比がくっきりと示されて、これはこれでひとつの世界、ひとつの船の行方を追っていて、よいと思った。というかこれもまたShakespeareの広げた風呂敷のうちなんだろうなー、と。
ただ、お片付け&荷物出しの前に見るべき芝居ではなかったかも。
4.06.2026
[log] Paris - Mar 21 2026
パリ一泊の続き、3月21日、土曜日のことを少し。
Musée de Cluny - Musée national du Moyen Âge
クリュニー中世美術館は、パリの美術館の中でもずっと大好きな場所なのでちゃんとお別れしたいな、だったところにたまんない企画展示がくっついていた。
LICORNES !
もともと『貴婦人と一角獣』のタペストリーで有名な館でのユニコーン特集。古代の木彫のからイッカクの角を使った装飾、彫刻、近代の絵画まで、点数はそんなにないが、ユニコーンの特異な容姿に人は何をこめたり現したりしてきたのか、そして全体として悲劇的なトーンが感じられてしまうのはどうしてか、など。 手塚治虫の「ユニコ」はやはりないのだった。
階上の通常展示の方、イタリアの方をいろいろ周って、現地のクラシックなキリスト教美術に触れた上で接すると改めてなにやら迫ってくるコレクションになっているのではないかと思って、タペストリー以外のも含めてじっくり見てみればなんとすばらしいこと、になって抜けられなくなる。
Leonora Carrington
Musée du Luxembourgで見ました。フランスでは初となる彼女単独での回顧展とのことで、126点出ている。Carringtonは数年前に出た彼女のタロットを集めた画集ではまって、その前からRemedios Varoと並んで追ってはいたのだが、纏めて見たいとずっと思っていた。
あと、あまりきちんと想定はしていなかったのだが、↑のクリュニー美術館の中世美術とユニコーンからの流れの見事なこと(自画自賛)。 歩いていける距離なのでこれから行く人は是非(Carrington → クリュニーよりはこっちで)。
テーマ別、年代別の構成だったが、彼女が思春期の頃に出会ったイタリア古典美術やルネサンスへの傾倒から晩年のシュールレアリズムへと至る流れが極めて自然に説明されていくようで、そうするとユニコーンなんてとても架空の生き物とは思えなくなってきてしまうし、他の生き物たちだってたんに絶滅危惧種としてその辺で少し見えにくくなっているだけなのではないか、とか。
CarringtonからRenoirへ。Musée d'OrsayのRenoir展は、2018年の”Renoir père et fils: Peinture et cinéma”(単独というより父子展)以来だと思うが、今回のは大規模改修前のお蔵出しというかんじだろうか(実際にはお蔵出しを遥かに超える規模だった)。この展示だけ入口もいつものとは別で、川沿いの道をずっと歩いたところから入る。
Renoir dessinateur
企画展示は2つあって、Renoirのデッサンを集めたものがこちら。彼の丸かったり温かかったりするあの面や空間たちがどんな線の重なり、連なり、濃淡、くしゃくしゃから生まれていったのかを並べてみせる、という興味深い企画。既にほぼできあがっているようなパステル画や水彩画から、落書きのようなスケッチから線描まで、創作の秘密、というよりもあれこれ書き散らしたりしつつ、こうやって纏めて固めていったのか、というのがわかる。 というか、シンプルになにこのかわいいの? になるという。それらを嬉々として描いているのがもしゃもしゃしたおっさんである、というとこだけが少し。
Renoir et l'amour - La modernité heureuse (1865-1885)
『ルノアールと愛』。Renoirの活動の初期20年間に絞って、彼が描いた「愛」や「幸福」をテーマにした企画展示。
『デッサン展』での試行や習作がどんなふうに彼の目の奥に火をつけ、それが極彩色の「愛」として画布の上に結実していったのか、がわかる、というか、オルセーの収蔵品だけではなく、ワシントン - 『舟遊びをする人々の昼食』(1876)やボストン - 『ブージヴァルのダンス』 (1883) - などからも来ていて、そしてここに150歳を迎えるオルセーの『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』 (1876)が加わると、ちょっととんでもないというか、絵巻物のようなドラマに溢れていて、これらを貫いて司る「愛」とは... などとつい考えてしまいたくなるような、そういう密な空気に溢れているのだった。その空気のありようって、そこらの「印象派展」に必ず数点は添えられているルノアールのプランターに植ったような品のよい可愛らしさ、なんてものではなく、獰猛で猛々しく迫ってくるものなのだった - 「印象」なんて柔いものでもなく。
この『愛』の展示は、今年後半にロンドンのNational Galleryにも行くようで、でも『デッサン』展の方までは行かないのだとしたら、オルセーでやっているうちに両方見といた方がよいのかも。
図録は両方の展示で2冊あって、でもそれまでにユニコーン!のとCarringtonのも買ってしまっていたので、1冊だけにした - のをちょっと後悔している。どんなに重くても船荷に突っ込むだけなんだから買っちゃえばよかった。
この後は、午後2時くらいまでゆっくりオルセーの他の展示を見て、朝から十分お腹いっぱいになったので本屋を数軒回って、いつものLa Grande Épicerie de Paris - バターなんて買うもんか - に寄って帰った。
今回Sold outしてて諦めたのはJeu de PaumeでのMartin ParrとLa Galerie DiorでのAzzedine Alaïa's Dior Collectionだった。くやしい。
4.03.2026
[log] Paris - Mar 20 2026
3月20日から21日の間、パリに行ったのでその簡単な備忘を。
パリはとても好きな場所で、今回の2年3ヶ月の滞在中に、さっき数えたら10回行っている。でもほぼ日帰り or 1泊で、そんな短い滞在だから何度も行くことになって、そんな短い滞在だからどんどん好きになってたまらなくなっているのだと思うが、こればっかりはどうしようもない。 帰国してからも雑誌Figaroのパリ特集とか買ってるし。
今回も、時期が時期(引越し荷物出し3日前)なので日帰りでいいや、だったのだが、20日からChristophe Honoré演出による”Bovary Madame”の舞台があるのを知り、チケットを探したら取れてしまったので、1泊しないわけにはいかなくなった。
朝6時くらいの電車 – Eurostarで行くのも北駅に着いてから地下鉄に潜るのも、お手のものでまるで通勤のよう。
Nan Goldin - This Will Not End Well
Grand Palaisで見ました。 その隣の展示”Matisse: 1941 –1954”は未だやっていなかった。
写真ではなく、ビデオ作品の展示で、場内にテントのような部屋が仕切ってあって、それを回っていく、のだが全部見ている時間はないので、”Stendhal Syndrome”(2024)と代表作”The Ballad of Sexual Dependency” (1981-2022)の一部くらい。”Stendhal Syndrome”はオウィディウスの『変身物語』のモティーフをルーブル美術館の所蔵品を中心に重ねつつ、スタンダール・シンドロームを引き起こすに決まっている美の根源に迫っていく。彫刻作品等を切り取る目線、光の具合が絶妙で、Nan Goldinてこんな… って。
”The Ballad of Sexual Dependency”の方はNan Goldinの王道で、夜の光とその下での体の線とか、なんであんなに切なく映えるのだろうか、と。
Visages d'artistes - De Gustave Courbet à Annette Messager
隣のPetit Palaisで見ました。クールベから現代のアネット・メサジェまで、アーティストの顔、貌は、その捉え方はどんなふうに変わっていったのか、を追っていく企画展示。アトリエでの、社交場での、プライベートでの、女性であることによる… など狭いようで十分に広いテーマなので、ちょっと散漫になっていたかも。モダン以降に絞った方がおもしろくなったのではないか、など。
Maison Gainsbourg
パリ行きを企画するたびに、後になって思いだしたり、Sold Outで入れなかったりで宿題になっていた館へ。
Serge Gainsbourgが1969年から亡くなるまで暮らした家と通りの向かいのミュージアム。まずミュージアムの入り口でヘッドセットを貰ってから家の方に向かい、約30分、Charlotteの声に導かれて彼の暮らした痕跡を見て、その後でミュージアムに移動して、彼の業績を辿って、最後にバーがあって、ブティックがあって。
彼とCharlotteが子供の頃に暮らしたお家の中は、黒め暗めのインテリアやいろんな散らかりようも含めてそうなんだろうなー、としか言いようのないモノたちで溢れていて、Gainsbourgだなあ、しかない。住んでいた頃はタバコですごい匂いだったりしたのかしら。
Serge Gainsbourgを聴いていたのは大学生の頃で、来日公演にも行ったし最初にCDボックスセットを買ったのも彼のだったし、そこからなんとなく離れてしまったのはなんでだろうか、などを振り返りつつ考えてしまった。
Clair-obscur
Bourse de Commerceで見ました。ここが持っているPinault Collectionの中から、“Clair-obscur” - 明暗対比というテーマで、光と闇の、その対置とか境目とか変化のありようを捕まえようとしたアーティストたちとその作品群を集めている。
レンブラントやカラヴァッジョが用いた描写の技法としてのchiaroscuro、というよりも、光と闇の成り立ちそのものを見つめるというか、会場にはジョルジョ・アガンベンの『現代/同時代性とは何か』 - “What is the Contemporary?” (2009) からの引用 – 「現代/同時代人とは、自らの時代を見つめる際に、光ではなく影に目を向ける者のことである 云々」が貼られていて、Frank Bowling, Alberto Giacometti, Pierre Huyghe, Bill Viola, Bruce Nauman, Carol Rama, Wolfgang Tillmansなど、懐かしいのも含めて、でもテーマそのものはやや古いような新しいようなー。
Fondation Cartier pour l'art contemporain
移転したカルティエ財団の現代アートのデパート。移転後に初めて行った。こんなのでっかいがらくたまみれなのがルーブルの向かいにある、ってだけでなんか痛快かも。
17:00からパフォーマンスがある、ということで、混んでて座れなくて上からだけど、説明がフランス語なのでさっぱりだったけど、なんとなく見た。
Le Musée Vivant de la Mode, performance quotidienne par Olivier Saillard & invites
Olivier Saillard本人(たぶん)がマイクをもって解説しながら(←仏語でもちろんわからないので以下憶測→)ミュージアムで展示される服と身につけられて機能する服の違いについて、モデルたちの実演を交えながら、服を着る、羽織る、纏うなど、そこにおける服や布、その形、それを身に着ける際の動作、などについて微分で見ていく。動きも服もシンプルなものばかりだが、こういうのと切り離されたところで発展(少なくとも経済的な)を遂げてきたモードとかクチュールのありようについて。 これ、西洋だとまだ連続性があったり見えたりでおもしろいかもだけど、東洋のもんぺとか割烹着みたいなものから追ってみたら(or 追えない)おもしろくなるのではないか、とか。
[theatre] Bovary Madame
20日の20:00からThéâtre de la Villeで見ました。
フランス語の劇だし、英語字幕なんてつくとは思えないのだが、なんたって「ボヴァリー夫人」だし、演出はChristophe Honoréなので、なんとかなるのではないか(←まったく根拠不明)、と。詳細は追えなかったので、以下、簡単な感想だけ。
ステージはすり鉢状の客席(バルコニーなし)から見下ろす形で、初日だったせいか取れたのは一番後ろの天辺に近いところだった。 上演は2時間半で休憩なし – この長さで休憩なしは珍しい。映画だと思えばよいのか。
原作はGustave Flaubertの”Madame Bovary” (1857)、プログラム冊子はなく”Bovary Madame”のタイトルでChristophe Honoréが作者名となっているスクリプトは売っていたので、翻案もHonoréなのだろう。Emma役は、François Ozon作品によく出ているLudivine Sagnier。
中央には丸い砂場があって、左側には段になった客席のようなのがあり、右側の奥にはピアノがあり、主人公達の内面を掘り下げていく心理劇というよりは玉突きアンサンブルで、常にわいわい人がいて、プロジェクションも使ってサーカスやバーレスクの要素もあって、音楽は村人たちによる楽団の演奏もあればダンサブルなJustin Timberlake もある。 Honoréの映画にもあるミュージカルの要素や指向 - 突然歌いださないわけにはいかない - はストレートに、よいかたちで出ている。
そんななか、EmmaもCharles Bovaryもエキセントリックな加害者だったり被害者だったりで突出して対峙する、ようなことはなく、Emmaは極めてまっとうに自由を希求するひとりの女性としてまっすぐこちらを向いていて、たぶん死なないの。
ここでいったん切ります。
4.02.2026
[theatre] Summerfolk
3月16日、月曜日の晩、National TheatreのOlivier Theatreで見ました。
滞在最後の月となった3月は、演劇を14本見ていた。旅をしているか演劇を見ているか、だった気がする(仕事は..?)
すぐそこで人が動いて交錯して会話をして泣いたり笑ったり抱きあったり殺したり、設定はどうあれ何かが生起している、それで空気が動いてこちらに靡いて場合によっては感動してしまったりする。それはNational Theatre Liveでも映画でも確認できるものるのかもしれないが、いまそこにあって巻き戻しのきかない何かに囚われてしまう、という感覚。(20年前はたしか音楽のライブについて同じようなことを)
原作はMaxim Gorkyの同名戯曲(1904)で、初演も同年。 これをNina RaineとMoses Raineの兄妹(彼らってパステルナークの大姪甥なんだって)が翻案し、演出はRobert Hastie。約3時間で休憩一回。
1898年、まだ駆け出しだったゴーリキーはチェーホフにファンレターを送って、チェーホフは彼に戯曲を書くように勧めて、ゴーリキーは『桜の園』へのオマージュとしてこれを書いた、と。チェーホフが亡くなった1904年を舞台に、チェーホフの世界の住人としか思えないようなひとくせふたくせもある「田舎」のひとたちが動きまわっていく、ある季節。
Olivier Thatreの広いステージを目一杯に使って、大きな柱が巨木のように立っていて、奥のほうには暗い森が広がっている大きな別荘のような邸宅(の骨組)があって、客席からはその全容を見渡せるかんじ。この周りを森の地元民のような銃を抱えた不穏な連中が通り過ぎたり、使用人たちがいたり、そこに泊まりにきた貴族たちとその友人たちが賑やかに、というアンサンブルドラマで、とても全員の顔と名前は憶えていけないが、衣装(かわいくて素敵)と言葉の粗さやトーンで、誰がどんなふうとかエピソードの推移はわかって、その区分けの内側とか複数のつなぎ目でいろんなことが起こったり語られたりしていく。
休憩を挟んだ後半は、小川(本当に水が張ってある)が流れる気持ちよさそうな夏の風景 - まるでマネの『草上の昼食』の景色のなか、貴族たちは変わらずご機嫌で飲んで騒いで叶わぬことがわかっている愛を囁いたり嘆いたり、『真夏の夜の夢』が上演されたり、チェーホフの『かもめ』や『桜の園』のように、消えてしまう、失われるであろうことがわかっている何かを、繋ぎとめることなんてできるわけないので、ひたすら儚いそれらの周りでじたばたしてとほほ、ってなるばかり。当時の紛争やきな臭い話題や雰囲気も漂ってくるが、そういうのは見たくないし、見ない。そんなことより、詩を! 愛を! と訴える。
このような緩い態度が最後に悲劇を… にはならないものの、そういう雰囲気を散らしながら、彼らの夏は、Summerfolkはどこかに去っていって、今がよければそれでいいのか、これが最後の夏になってしまうのではないか。なんてことも誰も気にしない。
未来なんて誰も予測できないのだからきな臭いのからは離れて目を逸らして、今を楽しんじゃってよいのだ、は前世紀末にそういう時期があったからわかるし、今もあれとは違うトーン(戦前)で、正にそんなふうになっているのだと思うが、彼らをそういう態度に向かわせるものはなんなのか、を考えさせる - そこに向かわせるようなセットや衣装やアンサンブルのデザインがすばらしい。彼らの過ぎていった夏が、こんがらがったままいつまでも残る。
みんなどこに行っちゃったんだろうね?