5月10日、日曜日の午後、TOHOシネマズ日比谷で見ました。
最近のは除いて、NTLのリスト、きちんと見れていないのではないか、という疑念があって、これもそういう1本で、見れるのであればありがたく(ぜったい)見る。
2024年、2回目のロンドン生活が始まったとき、演劇はおもしろそうなので月3回は劇場に通うようにしよう、って目標を立てたのが、滞在の最後の方では月10回見ることになっていたのは、ふつうにライブで見る演劇がおもしろかったからで、日本に戻ってきた今、同じことができるか、というとちょっと自信がない。日本の商業演劇のチケットは変な席でもふつうに映画の10倍くらいの値段だし、それに見合う内容のものなのかどうか、俳優も演出家も舞台でどうなのか知らない(歌手とかタレントとして有名なのはわかる… ひともいる)ので、様子見で、しばらくは月1回くらいを目標にしておこうかなー、くらい。 どうなるかわかんないけど。
原作はPeter Morgan、演出はStephen Daldry、2013年にGielgud Theatreでプレミアされて、2015年にはブロードウェイにも行って、同年のWest Endでのリバイバル時に女王はKristin Scott Thomasが演じた、と。
1952年にエリザベス2世(Helen Mirren)が即位してから亡くなるまでの約60年間、毎週火曜日、バッキンガム宮殿の謁見室で歴代首相から女王に行われた謁見の様子を代々の首相が次々と入れ替わっていく – その(歴史の)順番はばらばらな - スタイルで綴っていく。対面相手の首相が変わるたび、女王の衣装も当然変わるし、衣装を変えるところまで見せたり、でもその辺も含めて女王様は余裕。 歴代首相は12人のうち3人を除いて網羅され、名前が示されなくても英国人であれば誰が誰、とすぐわかるようになっていると思われる。
実際にそこでどんなことが話されたのかの記録は残っていないし、立憲君主制だから女王が首相の語る政策に反対したり意見をしたりすることはできないしで、内容についてどこまで本当なのかなんて知る由もないのだが、それでも女王のこれまでの言葉や態度から、彼女だったらこういうのは嫌がったのでは、くらいのことはわかるし、女王の物腰や挙動を完コピしていそうなHelen Mirrenの振る舞いを見ていると7~8割は当たっているのではないか、くらいに思えてくる(今だったらAIに書かせることもできるかな)。
代わるがわる登場する時の首相たちは当然のようにクセものばかりで、落ち着いた女王の前では誰もが変わった愚か者のように見えてしまうのだが、そうすることで女王の聡明さと、それ故の孤独や苛立ちが透けて見えて、しかしそれが決してかわいそうな女王に見えない、というところがこの演劇の肝、というか女王の女王たる由縁なのかしら。保守だろうが革新だろうが、政治家で上にのしあがってくる奴なんてロクなもんじゃない、ということを我々は女王の目で、Audienceとしてしっかりと目の当たりにして、直言はできないものの当時の政治の断面やありようを見ることになる。(へたなことを書いたらどちら側からも叩かれるだろうし、女王の年齢や経験にあわせて喋る内容も変わっていくだろうし、ネタ作りは相当に難しかったのではないか)
首相それぞれで飽きないのだが、やはりチャーチルとサッチャーがおもしろかったかな。あんま似ていなかったけど。
これって中心にいるのがエリザベス2世でなくても、そこらにいる女性が首相に向き合うことになったとしても... という普遍性をもたせるようなところ – そもそも政治ってなんなのかについて考えさせるようなところもあって、そういう観点でもおもしろいかも、と思った。
あと、舞台を横切っていくだけのコーギー2匹がかわいかった。もっといっぱい出せばよかったのに。
5.18.2026
[film] National Theatre Live: The Audience
[film] L'Argent (1983)
5月9日、土曜日の昼、ユーロスペースの特集 『ロベール・ブレッソン傑作選』から続けて2本見ました。
ブレッソンのこの辺のは、絶版にならない岩波文庫の赤のクラシックと同じなので何十回でも見てよい/見るべきものなの。
L'Argent (1983)
『ラルジャン』は日本で公開された時にシネヴィヴァンで見てぶん殴られたような衝撃を受けて、日本版のLDも手に入れて、でもLDプレイヤーが壊れてしまったので見れない状態が続いている。
原作はトルストイの『にせ利札』 (1911) - “The Forged Coupon” だが、原作がトルストイだろうがドストエフスキーだろうが、原作がどうのをまったく意識させないところで作品として完結してしまっている。彼の映画のノベライズとしてトルストイを置いたってちっともおかしくないくらい。
1983年のカンヌでDirector's Prizeを受賞しているブレッソンの遺作。
遊ぶ金が欲しい青年が親に言っても聞いてくれないので腕時計を質にいれたら偽札を渡されて、それをもって写真屋に行って偽札を使う。それがばれて怒られたそこの店員が配送屋のYvon (Christian Patey) のところで偽札を使う。それに気づかないYvonがレストランでそれを使ったら見抜かれてそのまま逮捕されて、写真屋の方は裁判で嘘の証言をしてしらばっくれ、Yvonは拘留こそされなかったものの職を解雇される。
家族もいるので金に困ったYvonは雇われて強盗の逃走車の運転手を引き受けたが捕まって、今度は牢獄行きとなり、獄中で愛する娘の死を知り妻からは別れを告げられ、自殺を図るが未遂に終わる。
牢屋を出たYvonは親切な老婦人のところに滞在させて貰うが、ある晩、彼女を含めたそこの人々を斧で殺してカフェに行って自首するの。
Yvonの犯罪というより、写真屋の店員だった確信犯のLucienも最初に出てくるぼんぼんも、彼を庇おうとする家族も、偽札を介して連鎖・伝搬していく犯罪の連なりと、それらの何ひとつも救ったり治したりすることなく右から左に機械的に処理していく社会 - 処理されていく人々のありようを描く。(原作では第二部で善行の連鎖と救いが描かれるそうだが)
比較するな、なのかもしれないが、Ken Loachの映画で描かれる登場人物たちの辛苦、救いのなさ(性質は異なるとはいえ – Ken Loachはまだ人と人の繋がりやコミュニティの可能性を信じている)の百倍は重く苦しく、しかしリアルな絶望をまるごと投げてきて、40年に渡っていろいろ考えさせてくれている。 キャッシュレスになろうが関係ない - というか更にやばくなっていないだろうか。
あとは音。セザール賞の音響部門でノミネートされている、冒頭のメタリックなATMの色味とあの音だけでやられて、もうひとつ、大きな杓子が床をざーって擦っていって止まる、あの音。そして最後の夜のシーン、闇としか言いようのない闇の暗さと怖さと。
Mouchette (1967)
↑の前に、ユーロスペースの同じ特集で見ました。
原作はGeorges Bernanosの同名小説(1937)。 1967年のカンヌでOCIC Award (International Catholic Organization for Cinema and Audiovisual)を受賞している。
フランスの田舎で、虐待する父親と寝たきりの母親とずっと泣いている赤子と暮らす少女Mouchette (Nadine Nortier)がいて、どこに行っても疎まれて弾かれて、森でアル中でてんかん持ちの密猟者と会って、発作を起こした彼を助けたのにここでも虐待されて逃げて、でも結局…
これも何度か見ているが、いつもあまりにきつくてぐったりしてしまう。彼女の置かれた状況、ひっかぶる事態は、いまの世の中においても恵まれない少女が直面していることをほぼ網羅しているようで、それは恵まれない少女がいる、というだけでなく、彼女のような少女をきちんとケアできる社会になっているのか、という大人たちの意識も含めて全然変わってはいないように思えて、そういったことを知らしめるために60年前にこの作品はできたのだ、と思うことにしている。
5.15.2026
[film] The Old Oak (2023)
5月10日、日曜日の午前、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。
監督はKen Loach、脚本はPaul Laverty、製作にはWhy Not, BBC, BFIの名前がある。
2023年のカンヌでプレミアされて、英国での公開の終わりの頃にロンドンに着いたので見逃していた作品をようやく見れた。いまヒットしていることを聞くと、なんでここまで遅くしたの? ってなるがいろいろ事情はわかるし、今この作品が3年遅れの日本で、3年遅れであっても見られなければいけない状況になってしまったことは(残念ながら)間違いないの。
冒頭、イギリス北東部の小さな町、かつては炭鉱で栄えたが現在は廃れた町に、バスでシリアからの移民が到着すると町の人々は当然のように歓迎せずに冷たい目で見て、若い女性Yara (Ebla Mari)のカメラを勝手に手にとってわざと壊してしまったりする。
そうしてYaraと知り合った地元の古いパブ - “Old Oak”の主人"TJ" Ballantyne (Dave Turner)は、彼女とやりとりしながら町の歴史や炭鉱夫として亡くなった父のことなども含めて案内し、Yaraも自分の家族とアサド政権に投獄されて行方不明となっている父のことを話す。
TJのパブにたむろする白人(若いのから中高年まで)の中には地域の住宅価格の暴落と大手ディベロッパーによる近隣の買い占め、それらが招いた移民の流入(+彼らが思うところの治安の悪化)を嘆いて、町に一軒しかないこんなパブで日々の鬱憤を晴らすしかない被害者としての自分たちを強調し、移民に対するヘイトを晒して正当化するが、TJは彼らに寄り添うことはない。昔から知っている客であり友人でもあるので強い行動には出ないものの、よい顔はせず相手の話に乗ることもない。
のだが、Old Oakのカウンターの奥で長いこと打ち棄てられていたバックスペースを(常連客からの要請は断ったのに)YaraたちのFoodバンク&食堂として活用することにした辺りから常連客たちの不満が噴き出すようになって、一触即発の状態にまで転がって…
冒頭からずっと移民たちに対する酷い描写や言葉が投げられてきつくて、それがなんできついかというと、こういう現実がこの地域だけでなく、自分の身の回りにふつうにあることを自分も想像できるというより知っているから。 でもこの映画はそんな彼ら白人たちを犯罪者として描いてはいないし、画面に警察や司法が入ってくることもない。白人労働者階級の彼らもまた、80年代の炭鉱ストの頃からずっと被害者として隅に追いやられてきたのだ、ということが何度か示されて、これは僻地経済の構造的な問題であり、容易にどうこうできるものでもないこと.. なんてわかっているの。
あと、TJがYaraを地元の大聖堂に連れていって、聖歌に感動したYaraがISが永遠に破壊してしまったパルミラの神殿について語るシーンがあり、これに続くラストの葬儀のところは感動的ではあるものの、ちょっと安易かも、と思った。
結局破壊や死がないと人と人はわかりあえたりハグしたりできないのか - とまでは言っていないけど、両者の間の壁はどうやったら崩せるものなのか? もちろん、それは政治家や当事者たちが考えたり対応したりすべきことで、Ken Loachは映画作家なんだから、筋がちがうし – というあたりの苦悶が垣間見えて、現時点でこれが彼の最後の映画作品、となっているのはその辺もあるのだろうか。 排外主義ばんざいで脳が麻痺している連中はこんな映画はぜったい見ないだろうし。
“I, Daniel Blake” (2016)では給金交付に伴う老人の苦難を、“Sorry We Missed You” (2019)では休めない配送ドライバーの辛苦を、本作では移民と住民間の軋轢を描いて、そのどれもがここ数十年で見えてきた、単に生活が苦しいきついというより、目を凝らさないと見えないような社会の片隅で進行している、関係ない人たちにとっては痛くもなんともないところで進行している、でも当事者たちにとっては致命傷のように苦しくきついところを扱っていて、Ken Loachの映画はこういうのをきちんと並べようとする。見せ方はへたくそだけど、とにかく穿り出して見せようとする。
UKの今後の行方も心配だがそれ以上に日本の方だわ。政治も司法もメディアも教育も日本(人)えらいばんざい、って、それのなにがいけてないのか、なんでいけないのかぜんぜんわかっていないみたい。子供か、なのだがずっとそういう幼稚園でやってきたんだよね…
5.14.2026
[film] The Great Moment (1944)
5月4日、GWの月曜日の昼、シネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。
原作はオーストリアのRené Fülöp-Millerによる”Triumph Over Pain” (1940)、脚色・監督はPreston Sturges。歯科・外科手術での全身麻酔のやり方を発明してあの痛みから人類を救った(諸説あり)とされるWilliam Mortonの評伝ドラマで、当初はHenry Hathawayが監督する予定で、主演はGary CooperとWalter BrennanだったがCooperが離れてその計画はなくなり、その後Preston Sturgesが手を挙げて開始するもスタジオ側といろいろあって1942年には完成していたのにリリースは44年になった、など複雑な事情を抱えているらしい。 邦題は『崇高なとき』。タイトルだけだとPaolo Sorrentinoの映画みたい。
Eben Frost (William Demarest)がWilliam Morton (Joel McCrea)の未亡人Lizzie (Betty Field)のところを訪ねて、Lizzieがかつて主人の相棒だったEbenに向かって回想する形で話が進むが、最初の方で、Mortonが自分の発見の特許を巡ってワシントンでひと悶着起こしたこと、続けて歯科医として開業したMortonが手術に伴う患者の痛みを軽減すべく大学に行ったりしながら試行錯誤していくさまと、硫酸エーテルの吸入で全身麻酔できたかも、になるも、アイデアの盗用をしたとかしないとか、利権や名声を巡るどろどろごたごたがあり、構成はやや入り組んでいるが難しくはない。
麻酔がなければ地獄の痛み、麻酔をすればすべて忘れて天国、という両極があって、それが実用に至るまでの試行錯誤の期間は天国と地獄のしゃれにならない行ったり来たりが当然あって、どたばた映画の題材としてこんなにおもしろいものはない(はず)ってSturgesは手を付けたのだと思うが、偉人(になりたい人)の評伝を描く、というのと患者たちのしゃれにならない悲喜劇を描くというのの両建ては難しかったのかもしれない。
薬を間違ってEbenが狂っておかしくなっちゃうところとか、麻酔が間にあわないからなしでやろう、になるところとか、おかしかったりきつかったり、昔はほんとに大変だったんだろうなー、ってしみじみ思ったのと、これってひとの痛みを突き放して笑っちゃえ、っていうPreston Sturgesコメディの根幹に関わるテーマなのかも、って少しだけ。
Never Say Die (1939)
5月9日、土曜日の午後、シネマヴェーラの同じ特集で見ました。 邦題は『死んでもともと』。
監督はElliott Nugent、原作はWilliam H. PostとWilliam Collier Sr.による同名戯曲(1912)で、これをPreston Sturges+2名が脚色している。当初はRaoul Walshが監督する話もあったそう。
スイスの温泉地 - Bad Gaswasser(くさいガス水)に静養にきていた富豪のJohn Kidley (Bob Hope)は彼と似た名前の犬と健診結果が取り違えられて、余命1カ月で体が縮んで死んでしまうよ、と言われてすべてがどうでもよくなり、強気の婚約者Juno (Gale Sondergaard)を突っぱね、自分と同じように婚約者から強引に言い寄られていたMickey (Martha Raye)と出会うと、軽い人助けのつもりで結婚しようよ、って結婚してしまう。Mickyにはテキサスの地元にバス運転手の婚約者Henryがいたのだが、自分はすぐ死んじゃうから、彼とは自分が死んだ後で一緒になればいいじゃん、って。
こうしてテキサスからやってきたぼんくらのHenryがくっついた変な新婚生活を送るふたりのところには当然追手がやってきて、そのうち誤診だったことも明らかになるのだが、クマだの決闘だの面倒なのが次々とやってくるので飽きない。結果はこういう、誰もなんも考えていないけど誰もが思っていそうなところにきっちり落ちる系のrom-comによくあるやつの原型のようで、とにかくぜんぶオーライ、になっておわるの。
あと、こういう山岳系の(≒ 反都会系?)rom-comって結構見た気がするのだが、どういう事情背景でできたりしたものなのだろうか。
あと、劇中で歌われる"The Tra La La and the Oom Pah Pah" – とぅらららー うーぱーぱー♪ がたまらなく楽しかった。
5.13.2026
[film] Drunken Noodles (2025)
5月9日、土曜日の夕方、ル・シネマ 渋谷宮下で見ました。
なんとなく新作も見なきゃ、にたまになる。 邦題は『ドランク・ヌードル』。 2025年のカンヌの、ACID(思っていたのとぜんぜん違う略語だった) sectionというところでプレミアされている。
監督はアルゼンチン生まれのLucio Castro。どこかで見たような、と思ったら、デビュー作の“Fin de siglo” (2019) – “End of the Century”をコロナ禍のロンドンで、Curzonの配信で見ていた。これもどこかの町にふらっと現れた男がなんとなく性的なことなどをしてだらだらと終わるだけの話だったような。でもそれが不思議と風通しよくて。
タイトルからアジアのお話かと思ったら冒頭に出てくるのはブルックリンの町(アジアは最後の方にちゃんと)で、荷物を抱えた若者Adnan (Laith Khalifeh)が一軒の家に入って暮らし始める。あとでその家は長期で家をあけている彼の叔父のものであることがわかる。家のなかにはぜんぜん近寄ってこないけど、にゃんこも生息している。
彼はアートの勉強をしている学生で、そこに滞在している間だけ路面のアート・ギャラリーで受付のバイトをしている。もの静かで落ち着いていて何を考えているのか不明、夜は宅配でご飯(べちゃべちゃ正体不明のもの)をオーダーして、自転車でやってきたデリバリーの人と公園の暗がりで秘め事(としか言いようのない描写)をしたりしている。
そうやって知り合ったYariel (Joel Isaac)がギャラリーまでやってくる。冒頭にニードル・アートでタイトル”Drunken Noodles”を編んだりしている手が映されたりするのだが、ギャラリーではそれと同じ仕様のクィア・ニードル春画がいくつも展示されていて、それに感銘を受けてしまったらしいYarielが仲間たちを連れてやってくる。こういうことが紙芝居のようなリズムで淡々と展開されていく。
あと、山を訪れたAdanの自転車がパンクして引きずって困っていたらそこにいた白髪で半裸の仙人みたいな老人が修理して歓待してくれて、かのニードル・アートは彼の作品(実際のアーティストはSal Salandraという人らしい)であることがわかるのだが、外が暗くなってくると、老人が見せたいものがある、ってAdanを外に連れだして夕闇のなかじっと座って待っていると、どこからか牧神が現れて… このエピソードがとても素敵。
もの静かなAdanから、彼の考えや志向、欲望から夢まで、こちらに向かって語られたり示されたりすることは一切なくて、ただ幽霊のように暗がりに現れるクィアな人々の間を彷徨っているだけで、そこで浮かびあがってくるのは都会の狂気でもパラノイアックな孤独でもなく、ソーシャルにも届かないような玉突き - 半分夢を見ているようにそこにいるだけ、の状態がちょっと湿った空気感、理想的な陰多めの光の具合のなかで描かれている。この展開がリアルかリアルじゃないか、のような議論は、春画をみてその本物具合をあれこれ言うのとおなじく意味がない、というかそういうのを無粋、っていうの。
そういう彷徨いの最後にやや唐突現れる李白の酔っ払いの詩が現代のブルックリンと唐の時代をニードルの縫い縫いで結び付けて、そのスケールのありようはホラー味のないApichatpong Weerasethakulのようかも、と思った。
ニードルの編みアート、というのがよいのかも。同じニードルを使ってもタトゥーとか注射とかになるとトーンががらりと変わってしまうだろうし。
山のなか、別にいけないことはしていないが、どこか怪しく見えてしまうことをして愉しむ男たちの話、でいうと、Kelly Reichardtの”Old Joy” (2006)とか、ついこないだのIndia Donaldsonの”Good One” (2024)とか。”Drunken ~”というのもポジティブな言葉と見ておけば。
どうでもよいことだが、この日は、朝からブレッソンを2本続けてみて、スタージェスを1本みて、これをみて、その全部が90分以下の作品だった。とても丁度よくて快調なかんじ。
5.12.2026
[film] Route One/USA (1989)
5月6日、水曜日の連休最終日は、日仏のRobert Kramer特集で終わった。
この前の日が京都日帰りで、北野天神からKYOTOGRAPHIEまで、それなりの旅をした感覚があったので(2本のタイトルの並びだけ見ても)疲れないかしら、と思ったがぜんぜん、よい意味で軽くてよかった。
Doc's Kingdom (1989)
プロデューサーのひとりにPaulo Brancoがいる。音楽はBarre Phillips。
アメリカからアフリカを経由してポルトガルで医師をしているDoc (Paul McIsaac)がいて、リスボンの港湾地区の廃屋のようなところにひとりで暮らして酒に溺れて、酒場のマスターCesar (João César Monteiro)からはもう国に帰れ、とか言われるし、留守中にも住処に嫌がらせをうけて居場所がなくなりつつあるのだが、彼に戻る国はない。
NY(花火でそれとわかる)に暮らすJimmy (Vincent Gallo)は介護している母 (Roslyn Payn)の最期を看取って、彼女の遺した手紙から父親と思われるDocのところを訪ねてみることにする。
こうして対面した父と息子の会話は、よくある親子再会もののようなエモの揺れなど殆どない、互いの今の居場所と意思を確認しただけで終わって、つまりそれがDocの”Kingdom”、ということで、彼にとっての軍服のような白衣を纏って、メガネをして、酒瓶を抱えて、戦地である病院に向かうところで終わる。”In the Country” (1967)を出てから”Kingdom”へ、恋人から肉親へ、という地勢や人間関係の変遷はあるが、闘いは続いていて終わらないのだ、という持続感とその決意は漲っている、というか強い。
Paul McIsaacは、いまだとMark Ruffaloのようだし、Vincent GalloはOscar Isaacのようだし、要はいまのハリウッドのスタンダードとして通用するキャラクターの揺るぎなさのようなものが宿っているなあ、って。
Route One/USA (1989)
↑のに続けて14:30から第一部、休憩を挟んで17:30から第二部。計4時間15分。
↑とは地続き時間続きなのか、Doc (Paul McIsaac)が、医師のキャラクターのままでアメリカに戻ってくる - アフリカ経由で、と言っていてポルトガルの滞在については触れたくないのか、でも途中でJimmyに電話をしていたりする(でも出てくれない)。
Docと撮影クルーがカナダの国境付近、北の天辺から、Route 1をKey Westまで南下していく。
“Milestones” (1975)のファブリックを縦に裁断してみたとき、その断面はどんな様相だったり模様だったりするのか。これが東西(Route 66)横断だったらどんなふうになっただろうか。(たぶん取りあげなかったのではないか)
“Milestones”のように土地や人々の間に石を置いて観測するようなアプローチではなく、ロードムービーとして過ぎ去るものは後方に去っていくものとして、そこにいた/いる人々の顔や声を自分もいなくなることを前提に視野に捕まえてフィルムに収めていく。 親と子、コミュニティ、民族、歴史、宗教、記憶、といった枠組のなかで、その土地に根をはるイギリスに対する植民地住民、北部に対する南部民、祖先や親たちからの因襲に対する従属あるいは反逆、といった歴史の諸相や断面を追って、キャラクターとしてのDoc以外は対象との出会いも含めてすべてドキュメンタリー的な生々しさと共に動いて背後に消えていく。
“Milestones”の時はFrederick Wisemanのことを思ったが、今度のはJonas Mekasのことを思った。Waldenが出てきたからだろうか。”Lost, Lost, Lost” (1976)の、亡命者としての視線と、Docの帰還したルーザーとしての視点に似たものを感じたからだろうか。そこには痛みと、ここでくたばるわけにはいかない、という燻った怒りのようなものがあるような。 それはたかだか3時間~4時間程度で描ききれるものではなかったのだろう。
何かの用事があったのか、Docは途中で消えて、Miami – Key Westで再び合流するのだが、最後に現れる南のランドスケープのトーンがこれまでのそれと結構違って開かれているように見えるのは気のせいだろうか? その先にはなんもなく誰もいなくて、ペリカンがいるだけ、みたいな。「アメリカ人」のいなくなる地点がある、というあたり前のことを言うためにあの風景を持ってきたかのような。 ファブリックのおわり、切れ目。 のはずなんだけどでも.. ここに”Doc’s Kingdom”のラスト、リスボンの港湾地区のイメージが重なって、更に”Kingdom”が。
帰り道、もうRobert KramerもJonas MekasもFrederick Wisemanもいないんだなあ、って改めて思った。
5.11.2026
[film] Christmas in July (1940)
5月4日、月曜日のお昼にシネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。
邦題は『七月のクリスマス』。原作はPreston Sturges自身が書いた戯曲 - ”A Cup of Coffee” (1931) - これ初演が1988年だって.. Preston Sturgesが作・監督をした2作目。 67分あっという間。
これは00年代、確かBrooklynで、自分が一番最初くらいに見たPreston Sturgesの映画で、一瞬で好きになって、その後も数回見ている(見ているうちにそんなでもなくなってきたが、でも変わらずに好き)。
コーヒー会社Maxford House Coffeeが毎年公募しているコーヒーのキャッチフレーズコンテストで、選考の現場は結論の一等賞が出ずに紛糾していて、決まらないのでラジオでの当選者発表は延期となり、賞金の2万5千ドルが当たったら… の夢をだらだら語っていたJimmy (Dick Powell)とBetty (Ellen Drew)のカップルはがっかりするのだが、彼の考えたちっともおもしろくないコピー"If you can't sleep at night, it's not the coffee, it's the bunk"を自信たっぷりに強引にいいよね、って言わせて勝手に将来設計をしてしまうところとか、こいつだいじょうぶかよ、になる。
翌日出社しても彼の自信は揺るがずイヤなかんじがとっても鼻につくので、同じフロアの同僚男たちが悪戯であなたのコピーが当選しましたおめでとう!のフェイク電報を渡したら舞いあがって社長まで報告に行って、コーヒー会社には小切手を取りに行って、本件で疲れ切っていたコーヒー会社の社長は憑き物を払うかのように小切手を渡しちゃって、Jimmyはその足でデパートに向かい、ママが欲しがっていたソファベッドとかどかどかでっかい買い物をやりまくり – これが7月のクリスマス – たくさんのプレゼントを積みこんだ船団で自分の家に向かい、子供たちに贈り物をばらまいて、ご近所の路地一帯が飲めや歌えのお祭り状態になったところに警察がやってきて…
全体としてはとにかくありえない夏のバカ小噺、でしかないのだが、7月のクリスマスを抜けていくうち、イヤな奴だったJimmyも、会社の偉い人たちもみんなちょっとよい人になっていくような、そんな魔法の力を感じることができる1本だと思う。Sufjan Stevensのクリスマスアルバム(最初の)に入っている”Christmas in July”は、直接の関係はないみたいなのだが、どこか似たような印象 – ものすごい名作ではないけど忘れ難い - を残すの。
Remember the Night (1939)
5月8日、金曜日の晩、シネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。
邦題は『想い出のクリスマス』。こちらの方がまだクリスマス映画っぽい。そしてこれは本当に、正真正銘の必見の名作ったらないの。
監督はMitchell Leisen、脚本がPreston Sturgesで、彼が他の監督のために脚本を書いた最後の作品、でもある。
Lee Leander (Barbara Stanwyck)は盗みの常習犯で、宝石を盗んでそれを質屋に入れようとしたところで簡単に逮捕されて、その裁判をNYの検事補のJack (Fred MacMurray)が担当することになるのだが、クリスマス直前で陪審員が被告に甘くなるのを避けるべく、強引に裁判を年明けに延期させる。
勝手に裁判を延期されたLeeはクリスマスを拘置所で過ごすことになったことを嘆いて、それを知ったJackは保釈金を積んであげるのだが、どっちにしても彼女の行き場はなくて、たまたま彼女が同じインディアナ州の出であることを知ったJackは自分の実家に帰る車に一緒に乗せていってあげることにする。
帰郷の道中でいろんな騒ぎが起こって、Leeの実家でとうに再婚していた実母に酷い仕打ちを受けた彼女をみたJackはそのまま自分の実家に連れて行って、そこでも楽しいながらもいろいろあって、そうしているうちにLeeを愛してしまったJackは彼女を裁判でどうにかしようとするのだが…
クリスマスにあってはならないような気まずいこと、居たたまれないことが次々と襲いかかってきて、でもクリスマスだからぜんぶ乗り切ることができる、と信じることになる/信じるしかないふたりが旅の途中で落っこちてしまった恋のお話で、どこの地点からか自分でもその理由がわからなくて困ったようにずっと潤んでしまって口数が減ってしまうBarbara Stanwyckの瞳を見ているだけでこちらも泣きそうになってきて、そんなに悲しいことが起こっているわけでもないのになんで? ってがんばって戦っていると最後に”Remember the Night”っていうタイトルがきて決壊する。 クリスマスの奇跡が起こる映画ではないの。クリスマスの、出会いの奇跡を信じろ、忘れるんじゃないってずっと先延ばししていく映画で、その先には永遠しかないの。それをクリスマスと呼ぶんだって。