4.03.2026

[log] Paris - Mar 20 2026

3月20日から21日の間、パリに行ったのでその簡単な備忘を。

パリはとても好きな場所で、今回の2年3ヶ月の滞在中に、さっき数えたら10回行っている。でもほぼ日帰り or 1泊で、そんな短い滞在だから何度も行くことになって、そんな短い滞在だからどんどん好きになってたまらなくなっているのだと思うが、こればっかりはどうしようもない。 帰国してからも雑誌Figaroのパリ特集とか買ってるし。

今回も、時期が時期(引越し荷物出し3日前)なので日帰りでいいや、だったのだが、20日からChristophe Honoré演出による”Bovary Madame”の舞台があるのを知り、チケットを探したら取れてしまったので、1泊しないわけにはいかなくなった。

朝6時くらいの電車 – Eurostarで行くのも北駅に着いてから地下鉄に潜るのも、お手のものでまるで通勤のよう。


Nan Goldin - This Will Not End Well

Grand Palaisで見ました。 その隣の展示”Matisse: 1941 –1954”は未だやっていなかった。
写真ではなく、ビデオ作品の展示で、場内にテントのような部屋が仕切ってあって、それを回っていく、のだが全部見ている時間はないので、”Stendhal Syndrome”(2024)と代表作”The Ballad of Sexual Dependency” (1981-2022)の一部くらい。”Stendhal Syndrome”はオウィディウスの『変身物語』のモティーフをルーブル美術館の所蔵品を中心に重ねつつ、スタンダール・シンドロームを引き起こすに決まっている美の根源に迫っていく。彫刻作品等を切り取る目線、光の具合が絶妙で、Nan Goldinてこんな… って。
”The Ballad of Sexual Dependency”の方はNan Goldinの王道で、夜の光とその下での体の線とか、なんであんなに切なく映えるのだろうか、と。


Visages d'artistes - De Gustave Courbet à Annette Messager

隣のPetit Palaisで見ました。クールベから現代のアネット・メサジェまで、アーティストの顔、貌は、その捉え方はどんなふうに変わっていったのか、を追っていく企画展示。アトリエでの、社交場での、プライベートでの、女性であることによる… など狭いようで十分に広いテーマなので、ちょっと散漫になっていたかも。モダン以降に絞った方がおもしろくなったのではないか、など。


Maison Gainsbourg

パリ行きを企画するたびに、後になって思いだしたり、Sold Outで入れなかったりで宿題になっていた館へ。

Serge Gainsbourgが1969年から亡くなるまで暮らした家と通りの向かいのミュージアム。まずミュージアムの入り口でヘッドセットを貰ってから家の方に向かい、約30分、Charlotteの声に導かれて彼の暮らした痕跡を見て、その後でミュージアムに移動して、彼の業績を辿って、最後にバーがあって、ブティックがあって。

彼とCharlotteが子供の頃に暮らしたお家の中は、黒め暗めのインテリアやいろんな散らかりようも含めてそうなんだろうなー、としか言いようのないモノたちで溢れていて、Gainsbourgだなあ、しかない。住んでいた頃はタバコですごい匂いだったりしたのかしら。

Serge Gainsbourgを聴いていたのは大学生の頃で、来日公演にも行ったし最初にCDボックスセットを買ったのも彼のだったし、そこからなんとなく離れてしまったのはなんでだろうか、などを振り返りつつ考えてしまった。


Clair-obscur

Bourse de Commerceで見ました。ここが持っているPinault Collectionの中から、“Clair-obscur” - 明暗対比というテーマで、光と闇の、その対置とか境目とか変化のありようを捕まえようとしたアーティストたちとその作品群を集めている。

レンブラントやカラヴァッジョが用いた描写の技法としてのchiaroscuro、というよりも、光と闇の成り立ちそのものを見つめるというか、会場にはジョルジョ・アガンベンの『現代/同時代性とは何か』 - “What is the Contemporary?” (2009) からの引用 – 「現代/同時代人とは、自らの時代を見つめる際に、光ではなく影に目を向ける者のことである 云々」が貼られていて、Frank Bowling, Alberto Giacometti, Pierre Huyghe, Bill Viola, Bruce Nauman, Carol Rama, Wolfgang Tillmansなど、懐かしいのも含めて、でもテーマそのものはやや古いような新しいようなー。


Fondation Cartier pour l'art contemporain

移転したカルティエ財団の現代アートのデパート。移転後に初めて行った。こんなのでっかいがらくたまみれなのがルーブルの向かいにある、ってだけでなんか痛快かも。

17:00からパフォーマンスがある、ということで、混んでて座れなくて上からだけど、説明がフランス語なのでさっぱりだったけど、なんとなく見た。

Le Musée Vivant de la Mode, performance quotidienne par Olivier Saillard & invites 

Olivier Saillard本人(たぶん)がマイクをもって解説しながら(←仏語でもちろんわからないので以下憶測→)ミュージアムで展示される服と身につけられて機能する服の違いについて、モデルたちの実演を交えながら、服を着る、羽織る、纏うなど、そこにおける服や布、その形、それを身に着ける際の動作、などについて微分で見ていく。動きも服もシンプルなものばかりだが、こういうのと切り離されたところで発展(少なくとも経済的な)を遂げてきたモードとかクチュールのありようについて。 これ、西洋だとまだ連続性があったり見えたりでおもしろいかもだけど、東洋のもんぺとか割烹着みたいなものから追ってみたら(or 追えない)おもしろくなるのではないか、とか。


[theatre] Bovary Madame

20日の20:00からThéâtre de la Villeで見ました。
フランス語の劇だし、英語字幕なんてつくとは思えないのだが、なんたって「ボヴァリー夫人」だし、演出はChristophe Honoréなので、なんとかなるのではないか(←まったく根拠不明)、と。詳細は追えなかったので、以下、簡単な感想だけ。

ステージはすり鉢状の客席(バルコニーなし)から見下ろす形で、初日だったせいか取れたのは一番後ろの天辺に近いところだった。 上演は2時間半で休憩なし – この長さで休憩なしは珍しい。映画だと思えばよいのか。

原作はGustave Flaubertの”Madame Bovary” (1857)、プログラム冊子はなく”Bovary Madame”のタイトルでChristophe Honoréが作者名となっているスクリプトは売っていたので、翻案もHonoréなのだろう。Emma役は、François Ozon作品によく出ているLudivine Sagnier。

中央には丸い砂場があって、左側には段になった客席のようなのがあり、右側の奥にはピアノがあり、主人公達の内面を掘り下げていく心理劇というよりは玉突きアンサンブルで、常にわいわい人がいて、プロジェクションも使ってサーカスやバーレスクの要素もあって、音楽は村人たちによる楽団の演奏もあればダンサブルなJustin Timberlake もある。 Honoréの映画にもあるミュージカルの要素や指向 - 突然歌いださないわけにはいかない - はストレートに、よいかたちで出ている。

そんななか、EmmaもCharles Bovaryもエキセントリックな加害者だったり被害者だったりで突出して対峙する、ようなことはなく、Emmaは極めてまっとうに自由を希求するひとりの女性としてまっすぐこちらを向いていて、たぶん死なないの。


ここでいったん切ります。

4.02.2026

[theatre] Summerfolk

3月16日、月曜日の晩、National TheatreのOlivier Theatreで見ました。

滞在最後の月となった3月は、演劇を14本見ていた。旅をしているか演劇を見ているか、だった気がする(仕事は..?)

すぐそこで人が動いて交錯して会話をして泣いたり笑ったり抱きあったり殺したり、設定はどうあれ何かが生起している、それで空気が動いてこちらに靡いて場合によっては感動してしまったりする。それはNational Theatre Liveでも映画でも確認できるものるのかもしれないが、いまそこにあって巻き戻しのきかない何かに囚われてしまう、という感覚。(20年前はたしか音楽のライブについて同じようなことを)

原作はMaxim Gorkyの同名戯曲(1904)で、初演も同年。 これをNina RaineとMoses Raineの兄妹(彼らってパステルナークの大姪甥なんだって)が翻案し、演出はRobert Hastie。約3時間で休憩一回。

1898年、まだ駆け出しだったゴーリキーはチェーホフにファンレターを送って、チェーホフは彼に戯曲を書くように勧めて、ゴーリキーは『桜の園』へのオマージュとしてこれを書いた、と。チェーホフが亡くなった1904年を舞台に、チェーホフの世界の住人としか思えないようなひとくせふたくせもある「田舎」のひとたちが動きまわっていく、ある季節。

Olivier Thatreの広いステージを目一杯に使って、大きな柱が巨木のように立っていて、奥のほうには暗い森が広がっている大きな別荘のような邸宅(の骨組)があって、客席からはその全容を見渡せるかんじ。この周りを森の地元民のような銃を抱えた不穏な連中が通り過ぎたり、使用人たちがいたり、そこに泊まりにきた貴族たちとその友人たちが賑やかに、というアンサンブルドラマで、とても全員の顔と名前は憶えていけないが、衣装(かわいくて素敵)と言葉の粗さやトーンで、誰がどんなふうとかエピソードの推移はわかって、その区分けの内側とか複数のつなぎ目でいろんなことが起こったり語られたりしていく。

休憩を挟んだ後半は、小川(本当に水が張ってある)が流れる気持ちよさそうな夏の風景 - まるでマネの『草上の昼食』の景色のなか、貴族たちは変わらずご機嫌で飲んで騒いで叶わぬことがわかっている愛を囁いたり嘆いたり、『真夏の夜の夢』が上演されたり、チェーホフの『かもめ』や『桜の園』のように、消えてしまう、失われるであろうことがわかっている何かを、繋ぎとめることなんてできるわけないので、ひたすら儚いそれらの周りでじたばたしてとほほ、ってなるばかり。当時の紛争やきな臭い話題や雰囲気も漂ってくるが、そういうのは見たくないし、見ない。そんなことより、詩を! 愛を! と訴える。

このような緩い態度が最後に悲劇を… にはならないものの、そういう雰囲気を散らしながら、彼らの夏は、Summerfolkはどこかに去っていって、今がよければそれでいいのか、これが最後の夏になってしまうのではないか。なんてことも誰も気にしない。

未来なんて誰も予測できないのだからきな臭いのからは離れて目を逸らして、今を楽しんじゃってよいのだ、は前世紀末にそういう時期があったからわかるし、今もあれとは違うトーン(戦前)で、正にそんなふうになっているのだと思うが、彼らをそういう態度に向かわせるものはなんなのか、を考えさせる - そこに向かわせるようなセットや衣装やアンサンブルのデザインがすばらしい。彼らの過ぎていった夏が、こんがらがったままいつまでも残る。

みんなどこに行っちゃったんだろうね?

4.01.2026

[film] Project Hail Mary (2026)

もう日本に戻って、仕事も始まっているのだが、しばらくの間は籠の鳥で、体力的にも動きようがないしあらゆるやるきが失せている。しばらくは向こうで見たものでまだ書いていないのがいっぱいあるので、それらを書きながらじめじめめそめそしていきたい。

3月19日、金曜日の夕方、BFI IMAXで見ました。
公開初日ということで早めにこの日のチケットを取っていたのだが、実際には1週間くらい前からどこでもプレビューをやっていて、なんだよそれ?になった。

IMAX 70mmによる上映で、北米以外のヨーロッパで見られるのはここだけ、と。 本編開始前に監督Phil LordとChris Millerによる短い挨拶が流れて、IMAXの70mmってほんとにすごいんだよう、って映画の内容にはほぼ触れずに中学生みたいにふたりで盛りあがるので、少しだけ不安になった。

原作はAndy Weirによる同名SF小説(2021)、脚色はDrew Goddard。音楽はDaniel Pemberton。原作は日本の家に置いてあることは知っていて、けど読んでいない。この作品についてはまず原作から読むべし、みたいなのがあるらしいのだが、そうだったのかどうかは自信がない。

Grace (Ryan Gosling)が宇宙船のなかで目覚めると、他の乗組員は死んでいて、自分も髪と髭ぼうぼうで、でも自分がなんでそこでそんなことをしているのかさっぱり憶えていなくて混乱して死にそうになる。彼が宇宙船のなかを彷徨いながら、自分がなんでこんなことになっているのか、徐々に浮かんでくる過去の断片を繋いでこのミッションのおおもとを探っていくのと、それと並行して航行中に出会ったエイリアンとの交流と、彼とそいつと地球はどうなっちゃうのか、などを行ったり来たりしつつ追っていく。

いろんなテーマがありそうで、人によっていろんな捉え方ができると思うが、同じ原作者で、Matt Damon主演で映画化された”The Martian”と同じように宇宙をたったひとりでサバイヴしていくドラマ、と見た。

どう見ても他から勝手に不条理に押しつけられた運命を受け容れて、できることをがんばって、それをやりとげる - それをどん底からの復活とか危機一髪の大逆転とか、歯をくいしばる仰々しいドラマにしないで淡く柔らかい笑顔でたまに泣いたり空を仰いだりしつつも、どうにか最悪を回避してしまう男がいて、それがRyan Gosling、というのがよくて、ほぼそれだけなのかも。岩蜘蛛みたいなエイリアンは何考えているのかわからないし、「プロジェクトいちかばちか」のプロジェクトを率いるEva (Sandra Hüller)もほぼ感情を表にださないし、そんなノンエモの砂漠でとにかくがんばる男の話。

SF(映画)としてどうなのかはよくわかんなくて、主人公がああいうことになった経緯とか解決に至る道筋に科学的な、SF-空想科学っぽい理屈がまぶしてあれば、だったのだがそれらしいのはなくて、どっちみち死ぬんだからって、特攻隊のように昏睡状態のまま宇宙船に乗せられるし、理屈なんて別になくてもよくて、エイリアンとの意思疎通もすごくいい加減で、すべてはそういうものなのだ/どうにかなっちゃったのだ、で進んで、そこに彼の笑顔が見事にはまって調和して、みんな幸せになるので、それでよいのかも、とか。

音楽は全体にしんみり湿った70年代のようで、たまたま映りこんでしまったかのようなSandra Hüllerがカラオケで歌う”Sign of the Times”になんだかじーんとなった。

3.30.2026

[log] March 30 2026

戻りのヒースローまで来ました。
自分の中で世界が終わる日、として置いていたこの日がついに来てしまったあーあー、しかない。

24日の荷物出しは前のスロットのが押して3時間遅れで始まって、本の箱はSサイズが23個になって、人が詰めたり運び出しを始めるとすべての計画がなし崩しにどうでもよくなっていくのはいつも通りで、全ての運び出しが終わってからDonmar Warehouseに行って演劇を見て、夜に演劇を見るのはこの後27日まで、Harold Pinter Theatre → National Theatre → Young Vicと続いた。28日の土曜日は日帰りでアントワープに”Antwerp Six”の展示を見に行って、日曜日、月曜日(今日)は美術館へのお別れとお買い物で走り回った。

前回の駐在 - やはり英国から帰国した時はコロナ禍の真っただ中で、空港はがらんがら、飛行機も数名しか乗っていない非現実的な世界で、しかもその後に隔離される先がすごく嫌なホテル、というより収容所であることがほぼわかっていたので、なにもかもまっくらで沈んでいた。

今回、すべては元に戻り、街は活気に溢れていて楽しいことばかりらしいのだが、帰る先はコロナ禍の時以上に酷く壊れて腐った独裁国家で、これこれこんなだから嫌だと書くことすらうんざりのあんなところに首に縄をされて引かれていく気分で、でもすべてはこれまでの行状の報いなのだし、殺すならとっとと殺しやがれ、とかたいへん殺伐としている。

1年を過ぎたあたり、手術で帰国したりしていた頃もあったが2年と3ヶ月の間ロンドンにいて、いろんな映画をみて、演劇をみて、音楽のライブにいって、バレエやダンスを見て、新旧のアートに触れ、古書店とか遺跡とか聖堂を回って、その活動は英国の外にも広がって日帰りなどするようになり、そういうのを見たり触れたりそれらに向かって動いている間だけ自分は生かされているのだと思うようになった。 人によってはそれがスポーツだったり仕事だったりするのかもしれない没入できる何かが、これなのかも、って。

休みの日は何をしていますか? とか趣味は? と聞かれた時に、映画でも演劇でも絵画でも、それらの「鑑賞」でも小旅行でもない、いろんなアートを渡りながら自分がこれまで見たり読んだりしてきたあれこれと結んだりどこかで繋がっていたことに気づいたりするのがおもしろく、そのおもしろさに目覚めて没頭している。いちばん近い例えでいえば料理 - 自分で作って自分で食べるを繰り返す - あたりなのかも。うまくいかないこともあるが、うまく纏まったり収まったりしたときの気持ちよさとおいしいかんじったらない。

そしてあの国に帰るのがとっても嫌な理由のひとつは、食材を集めたり新鮮なのに触れる機会がものすごく限定されたり難しかったりできなかったり、輸入する人に勝手に前処理されてしまったりするからなのかも、って。なにこのわけわかんないのは? ってリアルタイムでどきどきしながら毛が逆立っていく感覚はなくて、チケットを手に入れる時点でおおよそわかっていたり、これはぜったい! みたいなのはとうに売り切れてて手に入らなかったり。

そしてロンドンというのは、アメリカからやってくる下品なやつに鼻をつまんだり、ヨーロッパからやってくるものに距離を取りつつも食べようとしたり、そういう放流放牧みたいなことをずっと鷹揚にやってきた場所である、というのが大きかったかも。 そういうところにいられた、というのは幸運だったかも。

幸運といえば、これだけいろんなところ - 最後の方なんてほぼやけくそだったが - を行ったり来たり周ったりして、大きな怪我も病気もなく、階段から落ちたり転んだり倒れたりもなく、パスポートやスマホをなくしたり盗られたりもなく、体が常にぼろぼろである以外はどうにか飛行機に乗れそう、というところまではこれた。ぜったいなにかあると思ったのに。 まだわかんないけど。

今日は晴れて強い日差しのあとに曇って通り雨がきて、寒かったり寒くなかったりの全部盛りで、でもお花はいろんなところで既に、緑たちはこうしたら輝くってうっすらわかりはじめたところ。こんな素敵な季節なのになー。

4月からの新たな年度の新たな仕事、についてはまったくわかんないしどうでもいいし、つまんなかったらこれまでと同様にうろうろするし、忙しくて大変だったら、やっぱり逃げて外に出ていくと思うし。ただどっちにしても数は減ることでしょう。

あーあー

ではまた。

3.28.2026

[film] The Bride! (2026)

3月15日、日曜日の晩、CurzonのAldgateで見ました。

この日は、ビーバー → 塩田千春 → ブラジル → フランケンシュタイン、と流れてめちゃくちゃだった。一日の終わりはこれくらいのにしないと気を失う気がした。ただこのパターン(映画3、美術館2)くらいが自分にとって一番ふつうの土日ぽかったりして、そういうのの最後、でもあった。

脚本、監督はMaggie Gyllenhaal。IMAXで撮られたというのでIMAXで見たかったのだが間に合わなかった。 評判わるくて入っていない、と聞いたのだがどこが悪いのかぜんぜんわからない。

映画”Bride of Frankenstein” (1935)をベースに、その原作であるMary Shelley の小説” Frankenstein; or, The Modern Prometheus” (1818)も当然参照している。音楽はHildur Guðnadóttir。

最初に冥界にいるっぽいMary Shelley (Jessie Buckley)が、シカゴの酒場でギャングのLupino (Zlatko Burić)配下の男たちに囲まれて嫌な思いをしているIda (Jessie Buckley)に目をつけて、彼女に憑りついてめちゃくちゃをしたら、彼女は階段から突き落とされて死んでしまう。(わざとだろうけど、ギャングとヒロインの名前をつなげるとIda Lupinoになる)

他方で銀幕のスターRonnie Reed (Jake Gyllenhaal)に夢中になっているFrankenstein (Christian Bale)は、自分を作ってくれたDr Euphronious (Annette Bening)に花嫁がほしいよう、って頼んで、わかったよ、ってふたりで墓に向かうとIdaの死体を掘り起こして持ち帰り、管に繋いで液体とか電気とかを流し込むとIdaは蘇って、でも自分の名前も含めていろいろ憶えていないらしい。

こうしてふたりというのか二体というのかは、町中でBonnie & Clydeよろしく大暴れ&狼藉を繰り返して、それを警察のJake Wiles (Peter Sarsgaard)とMyrna Mallow (Penélope Cruz)が追っていくのだが…

人造のモンスター(たち)による復讐スプラッターホラー、みたいにすることもできたと思うのだが、そちらには行かずに、出てくる全員が自分はなにをやっているんだろう、みたいな顔で戸惑いつつ暴れて殺しまわる - 評判があまりよくないのだとしたら、この辺の思いきりの悪さ、にあるのではないか。Christian Baleのフランケンシュタインは、こないだのGuillermo del Toroのそれと比べるとシリアスさを欠いておとなしくてぼんくらふうで、The Addams FamilyのLurchのように見えなくもない。Patrick BatemanでありBatmanだった男がJacob Elordiなんぞに負けるわけがないのだが、どうせ僕なんか... って拗ねているようにも見える。

エクスクラメーションマーク付きの”The Bride!” – まず男たちに殺されて埋められて、男の怪物に欲しい、って言われたから勝手に生き返らせられて、よくわかんないけど何? って思ったら「花嫁」だって。”The Bride” ... はなよめだぁ? 本気で言ってんのかてめえ、という怒り、ふざけんじゃねえよ、は尤もだし、爆発頭のDr Euphroniousはおろおろしてばかりだし、Jessie Buckleyひとりが仁王立ちになって吠えていてかっこよい。

同様に人工で再生されて壊れて壊していく女性でいうと”Poor Things” (2023)のBella (Emma Stone)がいたけど、あれよりも原初的でパンク、というか。女は女として生まれるというより女にさせられて、そこでいったん殺されたあとにどこに向かうのか、というとー。

たしかGuardian紙にも書かれていたが、できれば結婚式とか、初夜とか、結婚にまつわるしょうもないあれこれぜんぶを表に出して、制度も含めてぜんぶぼこぼこに叩き潰してほしかったし、Maggie Gyllenhaalが、そしてMary Shelleyがそもそもやりたかったのもその辺だったのではないか、と。

そして、だから、男性客からははっきりと嫌われそうなー (よいこと)。

3.26.2026

[film] O Agente Secreto (2025)

3月15日、日曜日の午後、CurzonのBloomsburyで見ました。

英語題は”The Secret Agent”。もっと早くに見たかったのだが、上映時間がほぼ3時間で、この季節に3時間はやめて、だったのだが、これがオスカーの外国語映画賞を獲る予感もあったし(後で、そうか”Sentimental Value”があったか)、みんながそう思ったのか小さめのシアターは一杯になっていた。

作、監督は”Aquarius” (2016), “Bacurau” (2019) - 共同監督 - のKleber Mendonça Filho。昨年のカンヌでプレミアされて主演のWagner MouraがBest Actor、監督賞やFIPRESCI賞などいっぱい獲っている。

1977年、軍事独裁政権下のブラジルが舞台で、オープニングのモノクロ写真のなかに当時のCaetano VelosoとMaria Bethâniaが一緒に写っている一枚がでてきて、おおーってなったり。

黄色のフォルクスワーゲンのビートルに乗ったArmando(Wagner Moura)が死体の転がっている不吉なガソリンスタンドを抜けたりして、カーニバルで湧くレシフェの街で、義理の両親の下で暮らしている息子に会う。Armandoの母は亡くなっていて、そこには家主のDona Sebastiana (Tânia Maria – あのTânia Maria!)のもと、いろいろ裏がありそうな人達が匿われるように暮らしていて、でも最初のうちは彼がなにをする/してきたどういう人物なのか等は一切明かされず、カーニバル前の熱くて不穏な空気と現れるひと全員がやばい風に見える建物の中と外、通りの様子を映しだしていく。

雰囲気としてはほぼ同じ時代(こちらは1971年)の失踪を描いた”I’m Still Here” (2025)に近いが、具体的な事故や事件をきっかけに動いていくわけでもないので、あれよりも敵味方の見分けがつかないし、カーニバルなので何がどこから飛んでくるのかわからない異様で濃密な空気感に溢れている。

もうひとつ、当時公開されたばかりの映画”JAWS”の怖さが海辺の街をざわつかせ、Armandoの息子も映画を見たくてじたばたしているなか、実際に仕留められたサメの腹から毛むくじゃらのヒトの脚が出てきて更に恐怖を煽っていたり。

やがてArmandoは元研究者で、Marceloという偽名で市のID管理をする部署で仕事をしながら、反体制のネットワークの人々と会っていくなか、傲慢な企業オーナーによって職を追われた自身の過去、それに絡んで腐敗した警察署長とその部下たちが自分を追っていること、等が明かされていって、最後の方は殺し屋が。

約50年前の歴史、というよりある人物が本当のところ何者で、どういう目的をもって、どこで何をしていたのか、それだけを追うだけなのに、の難しさが、母の消息を追うArmandoだけでなく、現代からArmandoの消息を辿っていく学生の目も加わって現代の歴史、というほどのものではない消息とか痕跡、のようなものはどうやってあぶりだされるのか、或いは独裁政権下で反体制だった人達はそんな扱いとならざるを得ないものなのか、などを、カーニバルと”JAWS”の熱量、湿気のなか、ひとつひとつ置いていって、でっかいタペストリーが作られるのを見るようだった。

最後の方で、殺し屋がArmandoを追っていくシーンの街角や屋内や床の様子の恐ろしく息が詰まる描写のすごいこと。

90年代の中頃、リオとサルバドールのカーニバルに行ったことがあって、リオでひと晩見た後で寝ないでサルバドールの方に移動して、いまあれをやったら簡単にしぬと思うが、その時に感じた祝祭の勢いの裏側にあるひんやりとした狂った何か、暗闇に潜む止まらないなにかが少し写っている気がした。カーニバルの頃の街って、そんなふうで。

あと、でも、当時のブラジルがどんなだったか、一切知らない人が見たらどう見えるのだろうか、とか。 

 

[film] Hoppers (2026)

3月15日、日曜日の昼、CurzonのAldgateで見ました。

ぜんぶ問答無用の自業自得なのだが、日々ばたばた忙しいところに日帰りで行って帰ってみたいなことを繰り返しているさなか、”Ready or Not 2: Here I Come”とか”They Will Kill You”とかの予告を見るとものすごく胸が高鳴って、いやいや今そっちに行ってはいけないし、と。

Pixarのアニメーションで、地下鉄の掲示板で流れているのを見てすぐにやられた(くらい疲れている)。邦題は『私がビーバーになる時』。

作・監督はDaniel Chong、共同脚本に、”Me and Earl and the Dying Girl” (2015)や”Luca” (2021)や”Elio” (2025)のJesse Andrewsの名前がある。音楽はMark Mothersbaugh。

オレゴン州のBeaverton(ビーバー豚)の街で、Mabel (Piper Curda)はスケートボードで疾走するティーン(Bikini Killの”Rebel Girl”ががんがん)で、ずっと一緒に暮らしていた祖母から自然を愛する動物たちと共生ことの大切さなどを教わってきて、だから高速道路建設で森を潰そうとしている市長のJerry (Jon Hamm)とは事あるごとにぶつかる犬猿の仲で、家の前の空き地とその池にビーバーが現れなくなったことが気になっていて、でもJerryはもう来なくなっちゃったんだから潰したっていいだろ、という。 でも亡くなった祖母との思い出もあるのでぜったいそんなことはさせたくない。

反対運動ばかりやっているので、Mebelによい顔をしない大学の先生がラボでやっている実験 - ロボットのビーバーに遠隔でヘルメットをかぶって没入して森をうろついているのを見たMabelはこれだ! ってリアルビーバーになりすまして森のビーバーとか動物たちに会ってみると、彼らの言葉とかがぜんぶわかるし、こちらが言うことも通じるし、ふつうの生ビーバーとして認知して貰えて、King George (Bobby Moynihan)っていう哺乳類の王に会って仲良くなってしまう。これだけで10000個くらいの突っこみができそうなのだが、そんなことを言っている場合ではないの。

彼らとのやり取りを通して人間の可聴帯域ではない音波を出している装置 - これのせいでビーバーは出ていった - を突きとめてそれを壊して一件落着.. になるかと思ったら、そんな簡単ではなく、これをきっかけに昆虫、両生類、魚類、爬虫類、鳥類の代表からなる評議会と人類の、これも全方位からの突っこみ満載の、でもとにかく大戦争が始まってしまうの。

人間には見えていない別の世界があるし動物には動物の世界が、というのを想像できるようになるだけで、こういうアニメーションは十分ではないか、と思うのだが、彼らには彼らの王がいて、王がいるからにはシェイクスピアの裏切りとか敵討ちとか思いこみ勘違いの世界が広がっていて、渡っていくのはいろいろものすごく大変なの、というのをおお真面目にやっているので、こんなのぜったいビーバーたちだけで維持していくの無理じゃろ、 になるし、しばらく混乱は続きそうなのだが、いいのかしら? おもしろそうだからよいかも。

人の身体や感情をドライブする何かがその外にある、簡単にドライブされたり乗っ取られたりするくらいにそれらは脆くて弱いやつで – というのは”Inside Out” (2015)のストーリーを作ったDaniel Chongらしいし、そこがストーリーの宝庫であることもわかるし、そこに大切なことを乗せてみるのもわかるのだが、ビーバーならビーバーだけの、『ぼのぼの』みたいな(あれはラッコだけど)すっこ抜けたやつであってほしかったかも。甘ったれるな、って言われたらわかったよ、っていう。アニメーションはかわいくてたまらないんだけど。

ラストは「ニューロマンサー」みたいに没入したままにしちゃえばよかったのにな。自分だったらそうして、ずっとビーバーとして生きるだろう。

あと、ラストに流れるSZAの”Save the Day”がとてもよかった。