6.19.2026

[film] L'engloutie (2025)

6月14日、日曜日の午後、日仏学院の『第7回映画批評月間 フランス映画の現在』のなかのサブ企画『批評家たちが選ぶ2024-2025ベスト』で見ました。ぜんぶ見たいけどぜんぜんまったく無理。

監督は、これまでドキュメンタリーを中心に撮ってきて、これが長編デビューとなるLouise Hémon。カンヌの監督週間に出品されて、2025年のJean-Vigo賞、André-Bazin賞を受賞している。
撮影は監督デビュー作”La Gradiva” (2026)がこないだのカンヌの批評家週間でグランプリを受賞したMarine Atlan。本作ではセザール賞にノミネートされている。

原題をそのまま訳すと「沈められたもの」?、英語題は“The Girl in the Snow”。

雪深いアルプスの山奥の村にAimée (Galatéa Bellugi)が教師として赴任してきて、雪に閉ざされて外界との交流とかなさそうな土地で、子供たちを教え、そこに住む村人と一緒に暮らしていく。彼女のほっぺたはほんのり赤く健康そうで着ているものもかわいくて、村人もそんな変な、異端な民のかんじはしない。

最初、現代の物語だと思っていたのだが、途中でもうじき年が明けると20世紀になります、というので今から100年以上前の話なのだ、ってはっとする。雪に覆われていて、彼女が暮らす校舎とか納屋も木造で、蝋燭の灯りだけだと気づかないのかも、と思いつつ、ずっと覆われたり籠ったり、の内と外の感覚の端で、さりげない村人たちの態度や挙動がなんとなく気になり始める。そんなふうに気に障る感覚が雪に覆われた屋外やそこでの(追いようがない、止まない)物音に起因しているのか、屋内の村人や子供たちとの、汎社会 - 共同体的なやりとりのなかで湧いてくるものなのか、自然光のみと思われる撮影の光の捕らえかた、なのかもしれないが、気付いたら積もっていて身動きとれなくなる雪のように絶妙、ホラーのようにのしかかってくる。

村の男たちのなかにはAiméeに近づいていく者もいて、柔らかい光のなかでふたりで親密な夜と過ごした後、次の朝には村の衆が男の名を呼びながら雪のなかを棒で突っついて探しまわる、という場面があって、それが繰り返されたりしたら、これは雪女モノ…?とか思ったりもするのだが、行方不明なんてふつうにありそうだし、って。でもそれがもう一回起こると…

雪山の奥、ずっと閉ざされた家屋の隅とか雪の塊りのなかで何が育ったり蠢いたり埋められて息の根を止められたりしているのか - タイトルの「沈められたひと」 - それらを明るみに出すことすらできないような暗く曇った世界がある – というのは我々の内側の認知なのか外側の網膜の話なのか、ということをヴィジュアルで淡々と、ひとつの閉じた世界として示しつつ、ありがちなフォーク・ホラーがぶつぶつ沸きたってくる手前のところでうまく止めているような。

でも、チャントを重ねて渦を巻いて響かせるEmile Sorninの音楽はちょっとありきたりでつまんなかったかも。 裂け目をつくって底知れない何かを暴きだすことだってできたのではないか、とか。

暗がりの隅の蝋燭とレンズ、とか撮影はさすがだと思ったが、これの前日に見た『早池峰の賦』 (1982)の舞台となった土地の情景を思い出して、ここで16mmで映しだされた40年以上前の、あの景色が強く迫ってくるものはなんだったのだろう.. って改めて思ったりした。

6.18.2026

[film] Primavera (2025)

6月14日、日曜日の午前、ユーロスペースで見ました。
邦題は『ヴィヴァルディと私』。ヴェネツィアもヴィヴァルディも好きだし、日曜の朝っぽいし、昨年は盛りあがらなかったけど『四季』の300周年だったし。

原作はTiziano Scarpaによる”Stabat Mater” (2008)、監督はオペラ演出家Damiano Michielettoの、これが監督デビュー作。暗がりの蝋燭が絵画みたいでちょっと素敵だった撮影はPaolo Sorrentino作品を撮ってきたDaria D'Antonio。

18世紀初、ヴェネツィアのピエタ孤児院 - 冒頭、院長?の女性が子猫にひどいことをするので、そういう施設だとわかる - には若い未婚の女性ばかりが収容されていて、日々音楽の訓練を受けている彼女たちは後援者たちの前で定期的にアンサンブルを披露したり、後援する金持ちの家に貰われていったり、音楽/家事か玉の輿か、くらいしか将来の選択肢はなくて、ある日後援者がここへの支援をやめて他の方に貢ぐことを聞いた館長はそいつはやばい、ってVivaldi (Michele Riondino)を教師・指揮者・作曲家として招く。

現れたVivaldiはごほごほ咳ばかりしていて具合も機嫌も悪そうで、とても仕事ができる人には見えないのだが、”La Follia variations”を演奏しているとき、Cecilia (Tecla Insolia)の弾くヴァイオリンにぴくってなって、彼女を第一ヴァイオリンに据えて、デンマーク王を迎えた式典で彼の作曲したソナタを披露演奏したらとても感動してくれて、VivaldiとCeciliaは音楽で結ばれた師と弟子としてよいかんじになる。

のだが、オスマン帝国とのコルフ島での長い戦いから戻った英雄Sanfermo総督はCeciliaとの結婚を一方的に決めてきて、それは孤児院への多額の寄付を伴うのでCeciliaにもVivaldiにもどうすることもできない。のだが、最後の手段としてCeciliaは館に出入りする八百屋の青年と強引に関係をもって婚姻資格(結婚式前に新婦が処女であることを医者がチェックしにくる)から外れようとして、それはどうにかうまくいって関係者一同は絶叫錯乱、独房に入れられてしまうものの、これで婚姻縛りから逃れることはできそう – だったのだが…

どちらかというと(いやどう考えても)Vivaldiが『四季』を作曲して磨きあげて弟子と一緒に披露するまで、のいろいろあったストーリーを描くと思っていたのだが、リハーサルで「春」の断片がちゅるりろ♪って聞こえてくるくらいで、Primaveraな完成形は結局示されないので、えー、だった。遺されたVivaldiの制作ノートの余白などからこんなことをイメージしてみました、というストーリーらしく、そこまで創作するなら、①病に倒れて瀕死になるVivaldi、懸命についていく弟子、②『四季』を完成披露して幸せに死んじゃうVivaldi、③そんな彼を看取りつつ超絶に弾きまくるCecilia、の方にいくか、ヴァイオリンの弦と弓で総督と館長を縛りあげてぐさぐさ血祭り、のサスペリア方面では、とふつうなら思うよね、なのだが、実際には『侍女の物語』(衣装) で、とってもかわいそうで出口なしで暗くて悲惨で、なのに最後、Ceciliaは不敵に微笑んだりしていて、なんで? 音楽はなくなったけど自由を手に入れたから? そんなんでいいの? になった。

テーマ的には女性映画だと思うのだが、Vivaldiが妙な位置で挟まってしまい、全体として座りのよくない、変な映画になっちゃっているかも。

あと、薄暗くて怖めの室内の描写はよいのにヴェネツィアの街は運河程度のぺたんこで、もうちょっとがんばれば、だった。

というわけで、ヴィヴァルディはこの週末のRosasで改めて。

6.17.2026

[film] 早池峰の賦 (1982)

6月13日、土曜日の午後、シネマヴェーラでこの日から始まった特集『羽田澄子 生誕百年記念 福祉、芸術、ジェンダーを通して日本を描く』で見ました。

羽田澄子も福祉も日本も、たぶん芸術も、ほぼわかっていない領域ばかりなので、これを機に勉強できれば、と。
読みかたは「はやちねのふ」。 芸術選奨文部大臣賞受賞を受賞しているドキュメンタリー。 16mmの上映、184分で、途中一回休憩が入った。 音楽は秋山邦晴。

昭和の50年代くらい、岩手県の山奥の大迫(おおはさま)町に、大償(おおつぐない)と岳(たけ)の二つの集落があり、そこに500年以上前から伝わる山伏神楽 - 1976年に国の重要無形民俗文化財に、2009年にユネスコの無形文化遺産に登録されている - とそれを継いで守り続ける人々の顔と姿を追っていく。

最初に「南部の曲屋(まがりや)」という村人一家がずっと暮らしてきた一軒の茅葺屋根の家を解体する現場が映しだされ、季節の風雪と自然の厳しさ、そのなかであれだけの家を維持してきて、それを解体しなければならない事情とか、昔に大人が62歳(!)になると飢饉のときとかいらないので棄てられたりしていた辻とかが紹介されて、背筋が凍る。 こんなきつい状態下で舞いとは、芸能とは、とか。 ← 今の世の行政目線。

厳しく、決して豊かではない土地と季節を生き抜いてきた集落の人々にとって、山伏神楽とは何なのか。それを舞う、習う、伝える集落の人々ひとりひとり - 老いたひと若いひと – といった個々のピースを紹介しつつ、衣装や道具を準備したりメンテナンスしたり、舞いを習って練習して、歩いたり車に乗りこんだりしてお呼びが掛かった行事に出掛けていって舞って踏んで戻ってきてを繰り返す日々と季節と。 

これと並行して、貧しい土地のほぼ唯一の農産物である南部葉(なんぶば) - 江戸時代に花魁などに好まれた高級葉タバコの植え付けから収穫~乾燥~出荷~値付けまでの工程が紹介されて、これも生活をすごく豊かにしてくれるものでもないし、別品種に変える話も出ていたり、大変そうだなあ、しかない。

グローバル資本主義のヤニに尻の穴まで漬けられ尻尾を捕まれて、政府や会社のいうことをへいへい聞いて身動きできなくなっている我々からすれば、山の神のオーダー(というのかなんというのか。お告げ?)をまっすぐに受けて、神のためにああいう仮面、被り物、衣装に音楽まで用意して、舞いの一式・神事として捧げる時間や労力はものすごいし、こんなの日常のあれこれと比較できるものではないな、と思いつつ、比較できないものにしてしまう要素要因とはなんなのか、等について考える。あるいは、すでに吞み込まれて「伝統行事・芸能」になってしまったことによる神様側の問題、などあったりするのだろうか?

他方で映像から伝わってくる、舞いやお面とか、ばふばふする大きな耳(?)の造形の独特さ、それが土間の暗がりや広間の床上でどかすかはためいたりするさまの特異で異様で美しいことは、見て感動するしかない類のものだと思った。

これらの美しい姿形が撮られてから40年以上が過ぎた今… というのはどうしても考えないわけにはいかないのだろうが、ここにあるのはそれら現世とか時世とかを軽く吹っ切ってしまう美や神秘への誘惑、その一番最初の姿としか言いようのないものたちだった。
あと、なつかしー、で言えばあの時代の駅・寝台車とか昔の銀座、などもまた。

ドキュメンタリーとしては、Frederick Wisemanの特定の地域を対象・題材にしたものに近いと思ったが、本作のような語りによる補足説明はこういうテーマでは必要で、しかもそれが過不足なく絶妙な按分で計算された語り(の量)になっていて、すばらしいのだった。

ちゃんと見ていこう、と決意したので全部は無理だろうけどがんばりたい。

6.16.2026

[film] Le camion (1977)

6月13日、土曜日の午後、日仏学院の『マルグリット・デュラス 没後30年 全作上映』で見ました。
(これの7月の上映分、自分のスケジュール見えないから後で取ろうって少し置いておいてたらぜんぶ売り切れていて泣)

英語題は”The Track”、UKでのタイトルは”The Lorry”。製作費は30万フラン(当時の三千数百万円)。Durasの監督としては9作目、彼女が俳優として画面に出てくる最初の作品。

同年のカンヌでパルムドールにノミネートされて、でも上映後にはブーを浴びたりの賛否があり、その後New York Film Festivalでも上映された。

撮影は”Camille Claudel”(1988)のBruno Nuytten。音楽はベートーヴェンの「ディアベリ変奏曲」が流れていく。

郊外だか田舎の方かと思われる道路で遠くにトラックがゆらゆら走っていく映像が映しだされて、運転手はヒッチハイクで年を取った女性を車に乗せる – という場面の映像はないものの、それが導きだすストーリー、のようなものを自宅の居間で向かいあって座るMarguerite Duras(彼女)とGérard Depardieu(彼)が読みあげていく(手元の本を朗読しているかんじはないが)。女性をMarguerite Durasが演じ、男性をGérard Depardieuが演じ、それぞれの台詞を読む、という分担があるようでもなく、そのための台本、にもなっていなさそうな草稿をDurasは読んでいって、たまにDepardieuが合いの手のようなコメントをぼそぼそ入れていく。 ふたりが座る場所は、殆どが暗めの居間のようなところだが、終わりのほうで少し明るい窓際に移ったりして、トラックが移動していくように、ふたりの登場人物、ふたりの語り手もそのトーンを変えていくし、終わりのほうでは運転席からのヴューも加わったりするが、ひとつの車に乗り合わせた男女が顔も風体も目的も明らかにならないままただ走っていく、という大枠に変わりはない。

ふつうの乗用車ではなく、いろんなもの(なにを?)を運ぶ大きなトラックであること、ふたりにおそらく年齢差があること、女性はなぜそんな場所でトラックを止めたのか、どんな時間帯でどこに向かおうとしているのか、運転手と女性の間に階級や貧富の差もあるかもしれない (けど最後まで映し出されない) - このストーリーに纏わりつくであろうそういった疑問や違和感一式をぜんぶ積みこむようにして、作者であり語り手であるDurasは単なる実況というより、労働とそれへの要請も含めて – どんな関連があるのか? - 運ばれて移動していく者、それら全体像を描きだそうとする彼ら - などなどを平熱状態で語っていく。なによりもDurasの声のすうっと通っていく声の深さ、すばらしさにびっくりしたり。

郊外を走っていくトラックから、そこに乗りこんだ女性、というシチュエーションからここまでのストーリー、というか大枠を描きだすこと、それを自宅の居間でゆっくりと対話するかのように語る、という形式のシンプルで、でもとんでもなく深いこと。ギター1本の弾き語りで世界の輪郭を示してしまうシンガーのような底の知れない何かを感じた。

そして、その旅の最後のほうで唐突に吐かれる「世界なんて滅びてしまえばいい」の一言がトラックと地面を大きく揺さぶる。 あのトラックは目的地までたどり着けたのかどうか。

トラックとそれに乗りこむ女、というと、Chantal Akermanの“Je Tu Il Elle” (1974) - 『私、あなた、彼、彼女』 - のふたつめのエピソードを思い出したり。

6.15.2026

[film] Sirāt (2025)

6月9日、火曜日の晩、丸の内ピカデリー Dolby CinemaのDolby Atmosで見ました。

英国での公開時(2月末)、BFI IMAXで数回上映があって、それを逃したのでいいやー、って思ってしまったまま見ていなかったやつ。邦題は『シラート』。 カンヌで審査員賞を共同受賞している。監督はスペインのOliver Laxe。

日本では当たるんだろうなー、と思ったら、やっぱりすごい評判で、みんな絶賛なんだって。ふうん。

「シラート」とは、楽園と地獄の間をつなぐ細く狭く危険な道を意味するアラビア語、と冒頭の字幕にでる。
最初に砂漠にでっかいスピーカー一式が組み上げられていって、続けてそこでレイヴして踊ったり恍惚としたりしている人々 - 今作の登場人物たちもその中に – が映し出される。 たぶんこの絵、数シーンで、この映画に没入できるかそうでないか、が分かれるのかもしれない。 野外のフェスやライブで、轟音を浴びて痺れたことは何度かあるが、レイヴの、あのどぅんどぅん(びかびか)て脳に直に響いて延々続いていく、そこに煙とアルコールが流れこんでくる世界に地獄の責め苦&偏頭痛の山脈しか感じない者にとって、異世界の人たちのお話かー、になってしまう。

そこに明らかに場違いなナリの中年男Luis (Sergi López)と小学生くらいの息子のEsteban (Bruno Núñez Arjona)と子犬のPipaが現れて、5カ月前から消息を絶っていて、ここのレイヴに来ている可能性のある10代の娘の写真を手に消息の聞き込みをしていくのだが、とうぜん誰もしらない、という- レイヴなんてそんな世のしがらみから離れて恍惚とする目的で来るものなので、尋ね人をすること自体おかしい気がするが、それくらい必死なのだろう。

やがて軍が現れて場所を接収して踊る人々をどかし始めて、Luisたちは別のレイヴ会場に向かうというヒッピーふうの男女たち - 手が欠けていたり足がなかったり – に一緒に連れていってくれ、と頼む。彼らはその車だと危険だからやめたほうがいい、って強く拒むのだが、Luisは必死に頼みこんで、結局彼らの車2台の後についていくことになる。

自らの意思で姿を消した可能性もある娘を追って、小さい息子(&子犬)を伴って軍が出てくるような政治状況下で、多重に危険な砂漠を抜けていく旅を強行する。この時点でLuisは状況判断ができず頭がおかしくなっていると思うのだが、そういう描き方はしないで、子供思いの父親がレイヴの彼方に消えてしまったかもしれない娘を追う、そういうストーリーになって、でも周囲が指摘した通りそんな簡単にいくわけがなくて、道路や岩場が厄介なのは勿論、ほぼ人はいないし最後の方では地雷まで出てきて大変な目にあって、みんな死んだ目をして天を見あげてしまうの。それだけなの。

ここに描かれたぎりぎりの生のありようをレイヴの血流の刹那と絡めて宗教的な境地のようなところにまで結び付けて語る(→だからレイヴ万歳!)のは勝手だけど、ただの意味なしB級バカ映画 - 地雷でびっくりどーん!とかで十分な気がした。どうせ死ぬまで踊っていたいのだろうしー、くらい。(音がよいシアターだと本当にびっくりするかも。でもそれだけだよ)

そして、すでにいろんな人が指摘しているように、荒廃した台地で人がばたばた死んでいく極限状態とノイズのありよう(毒なのか薬なのか)を考察した映画としては『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』 (2005)があったの。自分にとってはあれが決定版で、あれでもう済んでいるんだけど、って。

しかしこれがカンヌの審査員賞なのかー なにをどう審査したんだろうねー

[film] Michael (2026)

6月6日、土曜日の晩、二子玉川の109シネマズで見ました。

「先行上映」とのことだったが、本国公開より1ヶ月半遅れて(ロシアよりも遅れてて)、なにが「先行」だよばーか、しかない。スピルバーグの新作の件もそうだが、もうほんと世界のど田舎のくせに、アニメのムラでイキっててほんと恥ずかしい。

Michael Jacksonのバイオピックで、監督はAntoine Fuqua (だから見た)。”Bohemian Rhapsody” (2018)のFreddieよりも更に名の知れた世界的なスターだし、その裏でいろいろ変な人として囁かされた人でもあったので、その辺をぜんぶ広げてみせるか、逆にぜんぶ包んでごまかしちゃうかどっちか、と思ったら後者のほうだったかも。 輝けるスター、偉人としての彼を前面にだしてまだまだ稼いでもらうから、というプロモーション継続宣言のように見えた。 そしてそれは勿論、これまで聴いてきてくれたファンに向けてのものでもあるので、だから映画は世界中でヒットしました、よかったね! と。

Michael (Juliano Valdi → Jaafar Jackson)は幼い頃から父Joseph (Colman Domingo)の下で兄弟揃って歌とダンス、振り付けの特訓を昼も夜も強いられていて、母Katherine (Nia Long)は優しいけど横にいて見ていることしかできなくて、でもライブを重ねてようやく当時昇り竜だったモータウンと契約することができて、彼らは大スターになり、それを父がマネージャーとして仕切っていたので家は栄えて誰もがハッピー、であるかのように見えた。

が、長年に渡る父親の圧とコントロールに耐えられなくなったMichaelは独立を画策してQuincy Jones (Kendrick Sampson)のプロデュースによる最初のソロ製作&Epicとの契約を裏で進めていって、父は案外あっさり承諾して – 但し時間外の副業でやれ – でも、やっぱりなんだかんだうざいので弁護士John Branca (Miles Teller)を雇って、父親を解雇するという最終手段にでて、でも父親もしぶとくJacksonsとしての大規模ツアーを計画して … 後半の方はそれぞれのピースが話としてでかすぎるし、それゆえに知っていることも多い(洋楽の情報がそんなにない時代に、結構大きめに喧伝されたから)のでふつうに見ているだけで終わってしまう。 彼が亡くなるところまでは描かれず、”Bad”のツアーでこれからぶちあげるぜー! っていうとこでぷつりと… 続編があるの?

いろんな謎、疑惑をぜんぶ晒してそれに応えろ、とまで言うつもりはないけど、映画のなかでも描かれている鼻の整形とか家のなかを動物園にしちゃった件とか、なによりも音楽映画であるの(違うのか?)なら、どうしてバンドではなくソロで行こうと思ったのか、そういうことをした理由とか事情とか葛藤くらいは、描いてもよかったのでは、と思う。全体として、悲しかったり辛そうだったりの時以外で、彼がなにを愛したり考えたりしながら、音楽活動の軸やイメージを作ったり据えたりしていったのかがあまり見えなくて(チャップリンはひとつ)、その見えないかんじが彼を不世出のスーパースターにしたのだ、なのかも知れないが、もう少し明らかにしたっていいんじゃないの? って。 “Thriller” (1982)のPVよろしく、とびきりどす黒いバビロンを暴き出すこともできたであろうに、いろいろ二重三重にガードされているんだろうな、というのは感じた。

父親を中心とした家族のドラマ、としてもColman Domingoの正面からの顔アップでぜんぶが決まって、従うのだ! っていうボス猿方式だけのようで、それがMichaelのその後の行動にうまくリンクしていかない、というあたりが圧倒的に弱い。兄弟間での駆け引きのようなものだってあっただろうに。

いろいろあったね、の家族アルバムとか、ひとつのでっかいPV、として楽しめばよいだけ、なのかも知れないけど、それだけ? アメリカのポピュラー音楽史に残る人なのに?

6.12.2026

[film] Undercurrent (1946)

6月6日、土曜日の午後、シネマヴェーラのRobert Mitchum特集で見ました。

ひとつ前に書いた“Secret Ceremony” (1968)のすぐ後で、すばらしく充実した2本立て(じゃないけど)となった。

原作はThelma Strabelが雑誌Woman's Home Companionに掲載した小説"You Were There" (1944-45)、脚色はEdward Chodorov、ここにノンクレジットでMarguerite RobertsとGeorge Oppenheimerが協力している。監督はVincente Minnelli、撮影はKarl Freund (!?)。 Vincente Minnelliの” The Clock” (1945)に続くドラマ・フィルム - この前はずっとミュージカル - の2作目。邦題は『底流』。

科学者である父に倣って、自身も科学者・研究者としてのキャリアを考えていたAnn Hamilton(Katharine Hepburn)は父を訪ねてきた科学者/実業家のAlan Garroway (Robert Taylor)と恋におちて、割と簡単に結婚してしまう。 ふたりは幸せで、その後ワシントンDCに越して、Annは慣れない社交界にどうにか適応しなきゃ、って苦労していたある日、手にとった田園詩集にものすごく癒されて、これ大好き! というとAlanは急に不機嫌になって、それは弟のMichael (Robert Mitchum)の本だ、という。彼とは疎遠になってもう会っていない、という。

その後、西海岸のAlanの実家に行くと、Michaelのでっかい荒馬とか、彼の影とか痕があちこちにあったり感じられたりするのがいちいち気になって、でもその都度、Alanは癇癪を起して止まらなくなり、それがあまりに強く激しいので兄弟の仲違いの原因はなんなのか、なぜ名前を出しただけであんなに不機嫌になるのかを知りたくなる。 そしてそれを確認するためにもMichael本人に直接会ってみたい.. 会うことさえできれば… がぐるぐる回りだして止まらなくなるのが”Undercurrent”。

この辺の盛りあげかたが流石で、とても他人とは思えないくらい自分と好みが合っているMichaelに惹かれていてもたってもいられない、それと並行してそうではないAlanとの関係はどうでもよいただの夫に格下げされていって、なのに彼は嫌われ妄想を過度に勝手に膨らませてぶつかったり詮索してきたりするので余計に溝が広がって距離を置きたくなる、という悪循環。

ひとつの方向として、気配ばかりで正体が見えない相手を探す/待つファンタジーの側面があり – 一度庭師を装ったMichaelとさらりと会う場面があったり、ずっと流れてきて耳から離れないブラームスのピアノとか - もうひとつにはそれを妨害したり妬んだりモンスターとしての正体を現していく夫をどうしたらよいものか、がちょっと怖いサスペンスのように描かれる。で、見ている側ははらはらしながら、AnnとMichaelの出会いとAnnとAlanの破局を待つことになるの。 夫婦の関係が壊れていくひとつの典型的なパターンが極めて精緻に、”Undercurrent”の渦を意識させつつ、抉り出すように描かれていて、たまんない。

やがてAlanの元カノで、Michaelのこともよく知るSylvia (Jayne Meadows)との会話で確信を深めたAnnだったが、その頃にはAlanも覚悟を固めてAnnのところにやってくるのだった。最後のほうはKatharine Hepburnの聡明さ vs. ノワールの狂った男の性むき出しで、どうなるかは見えているのだが、それらも含めて最後のきたきたきた感が溢れて、そこに割って入るのが眠い目をしたRobert Mitchumである、という見事さ。彼、最後の方までなかなか姿を現さないというのがとても効果的で。しかしどう見てもRobert Taylorと兄弟には見えないのだけど。

あの後、AnnとMichaelは一緒になったのだろうか? そんな簡単にいくわけない、実はMichaelは多重人格者だった... というあたりをつい期待してしまう。

あと、最初の方にでてくるわんこのRommyがものすごくかわいいの。

シネマヴェーラのRobert Mitchum特集はここまでになってしまった。 会社のバカ。だいっきらい。


RIP David Hockney..

何度も通った2017年のTate Britainでのレトロスペクティヴが思い出される。
こないだまでの英国生活の思い出の最後に買ったのが”David Hockney by David Hockney” (1976)のサイン本だった。
ありがとうございました。