1月30日、金曜日の晩、Barbican Cinemaで見ました。
監督は”Living” (2022)のOliver Hermanus、原作はBen Shattuckのふたつの短編を束ねて、彼自身が脚本を書いている。昨年のカンヌでプレミアされた。
ケンタッキーのLionel (Paul Mescal)が子供の頃、森のなかで音楽を色彩や味覚のように捉える能力について語られ、父親の歌うフォークソングに耳を澄ますシーンから入って、1917年、大きくなってニューイングランド音楽院に入った彼は、サロンでピアノをぽろぽろ弾いているDavid (Josh O’Connor)を出会い、自分の知っている曲だったので彼のピアノに合わせて歌うと、ふたりはそのまま恋におちる。
裕福な家に生まれ、でも先行きの不透明さに塞ぎこんでいつも孤独に見えるDavidは第一次大戦に従軍すべく軍服を着て出て行って、戦後、何もなかったようにひょっこり戻ってきて大学に就職すると、Lionelを誘って蝋管の装置一式を担いで、メイン州の田舎を歩き、いろんな階層の家庭で伝わってきた、歌われてきた、フォークソング –“Ballad Line”でも歌い継がれていたような - を録音してまわるようになる。なぜ、どうしてそんなことを始めたのかの説明はないが、歌ったりしている村人の家や軒先に装置をセットして、指示をだして歌ってもらい、終わるとまた野道を歩いて野宿して、星空の下で抱きあう。
やがて大学に戻るDavidとヨーロッパに出たいLionelは再び別の道を歩むことになり、Lionelが何通かDavidに宛てた手紙には返事もなくて、ローマで声楽家として成功したLionelはオックスフォードに渡って、裕福な社交家の娘の家に招かれて結婚手前まで行くのだが、母が病で倒れたことを聞いてアメリカに戻る。
アメリカに戻ってみると母はもう亡くなっていた - 廃墟のようになった実家に佇んでいるうちにDavidにたまらなく会いたくなって、彼の勤めていた大学に行くと、彼は…
第一次大戦前後の、アメリカを含めて世界が大きく変わろうとしていた時に、古くから継がれてきた先祖らの歌、音に向きあったふたりの若者は、その音を通してなのか歴史を通してなのか、どうして、どんなふうに互いを求めあわなければならなかったのか。
蝋管に刻まれた音、そこに封じ込められた歌をふたりがじっと見つめるシーンはあるのだが、彼らにとっての音 – フォークソングがどんな意味や重みをもって、なんで迫ってくるのか、歌うことを仕事にしたLionelにとって、冒頭にあった音と色、模様などのありようとの関わりは? などがほぼ説明されないので、あまり迫ってこなかったかも。
Paul Mescalが”All of Us Strangers” (2023)で見せたAndrew Scottとの間に瞬いていたもの、あるいはJosh O’Connorが”God's Own Country” (2017)で見せたAlec Secăreanuとの間の猛々しい情欲、どちらもイギリスのぱっとしない男の足下で瞬く火花のような恋で、とても納得できる強さと濃さをもったものだったのだが、今作にはそれ – 激しく求めあって狂った犬のようになる – がなくて、とても端正でおとなしくて、ふたりの立ち姿とか画面は美しいのだが、はっきりと弱いかも。狂ったふたりがどんな演技を見せるのか、知っているだけにもったいない、しかない。
誰もが思ったであろうが、次の組合せはJosh O’ConnorとAndrew Scottになる。なってほしい。
しかしPaul Mescal、”Gladiator II” (2024)から”Hamnet”(2025)からこれ、ってもうモダンでノーマルなNormal Peopleには戻れないよね。
2.05.2026
[film] The History of Sound (2025)
[theatre] Ballad Lines
1月26日、月曜日の晩、Southwark Playhouse Elephant (Elephant and Castleにあるから)で見ました。
“A Folk Musical”とあって、コンポーザーはFinn Anderson、演出はTania Azevedo。
タイトルは声に出すと”Blood Line”と読めなくもなくて、ポスターはそれに沿うかのように草や紐やワイヤーをわし摑みする拳で、ちょっと熱い。
7人の女優(シンガー)と1人の男優、バンドは3人(+裏にドラムスがひとり)、全員が手を打ち足を踏み鳴らしたりしながら歌って踊るが、West Endのミュージカルに見られる華々しく弾けて元気いっぱいのショーの要素はそんなにない。微細なハーモニーを重ねて響かせ聴かせるのに注力しているような。
カナダから連なるアパラチア山脈の南側、ウエストバージニア州、バージニア州、ケンタッキー州、テネシー州、ノースカロライナ州に移住してきたスコットランド系アイルランド人(スコッツ=アイリッシュ - アルスター系移民)の間で歌い継がれてきた音楽 – カントリーミュージックの原型になったと言われる – についてのお話し、というかその歌の背後にはどんな(女性たちの)ドラマがあったのか。
現代のNYに住むSarah (Frances McNamee)とAlix(Sydney Sainté)のカップルのところに、死に瀕したSarahの叔母Betty (Rebecca Trehearn) から箱が送られてきて、こんなのいらなんだけどどうしよう、と言いながら箱に入っていたカセットテープをかけてみると、Bettyと一緒に歌っている子供の頃のSarahの声、Bettyを経由して彼女の先祖たちの声が聞こえてくる。
17世紀初のスコットランドで牧師の妻Cait (Kirsty Findlay) は出産を望んでいなくて、そこから5世代を経た18世紀初、アイルランドのアルスターに渡っている15歳のJean (Yma Tresvalles) は子供が欲しくて逃げるようにNYに渡ろうとしている。そしていまの時代の、SarahはAlixとの間の子供が欲しくなって、Alixと一緒に病院に行って検査を受けよう、と誘っている。
いろんな事情だったりやむにやまれぬを抱えて、海を渡って国を越えて生きながらえてきたSarahの先祖 - スコッツ=アイリッシュの民、そのなかで、彼らが海を渡った背景には男女、家族、集落、それぞれの理由や事情があったはずだが、ここでは女性の、おそらく産む(産まない)自由なんて、家を出ていく自由なんてなかった、そんなふうに掟のような何かに縛られなければならなかった彼女たちの声にフォーカスして、それが歌として、複数の声として立ちあがって、最初はひとりぼっちだった鼻歌がみんなの歌に撚りあげられていく様をダイナミックに描く。
なぜ女性なのか - 彼女たちの声が正しくとりあげられ振り返られてきたとは思えないから、だし、それは歴史の捉え方も含めて今も我々の認識の底に無意識にあるように思えるから、だし、でもなにより、彼女たちの歌は美しくて正しいからだ、それなのになんで? という螺旋の問いのなかに閉じこめて、その同じ歌がそれを開け放ってくれたりする。
歌はそんなに(自分のイメージする)フォークのかんじはなくて、ところどころメジャーなスケールで聞こえて声の重なりとか感動をもたらしてくれたりもするのだが、そう来れば来るほど、現代のSarahたちとのギャップがやや気になった。Sarahのような同性婚で精子提供を受けるようなケースがぶち当たる壁、悩みや逡巡と、彼女の先祖たちの受難の話って、同じバラッドのなかで歌ってしまってよいものだろうか - どちらも痛みを伴う選択であるとしても - とか。
今公開中の映画 - “The History of Sound” (2025)も昔の歌に耳を傾ける、というのがテーマになっていたが、これってどういうことか、を少し考える。
2.03.2026
[theatre] Guess How Much I Love You?
1月24日、土曜日のマチネをRoyal Court Theatreで見ました。
同シアターの70周年を迎えるシリーズのオープニングを飾る作品。
インスタで流れてきた予告だと、男女のどたばたコメディのように見えたのだが、とても重いテーマを扱っていることをシアターに入ってから知る。場内にはContent Guidance and Warningsの張り紙がある。 確かに人によっては重いテーマかも。
原作は(俳優でもある)Luke Norris、演出はJeremy Herrin、1時間35分(休憩なし)のShe (Rosie Sheehy)とHe (Robert Aramayo)によるほぼふたり芝居。
最初は妊娠20週目の超音波検査にやってきた夫婦の会話で、ふたりはおそらく日々の会話そのままのノリで、生まれてくる子の名前について、候補を並べつつ冗談を言ったり小突きあったりしながら結果を待っている。彼はおしゃべりで陽気で、放っておくといくらでも喋っているようなタイプで、彼女はそんな彼を巧みに統御しつつ時折感情を爆発させて黙らせる、そういうパワーを持っている。 いつもそうなのであろうふたりの会話のテンポは卓球のように速く緩急自在で、喧嘩のように声を荒げることはあっても、いつもこんなだから、っていう安定感のようなものが軸にある、そんなふたり。
全体は6つのシーンから構成されていて、最初の病室からふたりだけの寝室まで、シーンごとに中の建付けはがらりと変わるが、暗いなか、その暗転と共にふたりの姿だけ、その思いだけがぽつんと浮かびあがるようなデザインになっている。
ネタバレにならざるを得ないが、テーマは若いカップルが経験する彼らの子の(思いもしなかった)死産と、その悲しみ辛さがどんなふうにやってきて、それをふたりは、ふたりでどう乗り越えるのか、等。 まったくの偶然だけど前日の晩が”I Do”という結婚式当日のドラマだったのと、この日の夕方に見た映画 - ”The Chronology of Water”にもそういうシーンが出てきたので、なんなんだこれは… に少しだけなった。
子を失った悲しみ、その表し方は男女それぞれで当然違う。それぞれがあなたには/君にはわからないだろうけど、と言いながら互いと自分の両方に向かって感情を爆発させて、どれだけ爆発させても相手に響くことはない。彼女は、これはわたしの身体のこと、このおなかで起こったことだ、前と後で自分の体は変わってしまったんだわかるか? といい、そんなのわかるわけないけど、こっちだって辛いに決まってるだろ、って命懸けの口喧嘩、みたいになって、どっちも折れない。折れたところでどうなるものでもないし、どう収拾をつけるのか、つくようなものなのかもわからない。けど、それをぶつけることができる相手は目の前の彼と彼女しかいない。
当然ながら、カップルによってその痛みの重さ、受けとめ方から立ち直りまで、それぞれだと思うものの、この舞台で描かれたふたりについては、思ってもいなかった事態に向きあい、押し寄せる怒涛の悲しみと混乱を引き受けつつもふたりの受けた痛みの重さ、その総量をダイレクトにぶつけ合い、ぶつけあうことで互いを確かめていく(しかない)過程がむき出しで生々しく描かれていて、辛いけど目を離せなかった。
どちらが正しいとか、どちらが勝つとか負けるとか、そういう話ではなく、でもぶつかって吐き出さないことには次に進めない、そんな話をシーンごとに少しずつトーンを変えて解していく。
最後、どうやって終わるのだろう、って思ったが、そうかー って。 改めてタイトルを振りかえるの。
[film] H is for Hawk (2025)
1月24日、土曜日の晩、”The Chronology of Water” (2025)を見た後にCurzon Mayfairで見ました(21:00の回、ちょっと疲れた)。
昨年のLFFでも上映されていた一本で、ドキュメンタリーではないが、実話ベースのお話し。
監督はPhilippa Lowthorpe、原作はSamuel Johnson Prize等を受賞したHelen MacDonaldの同名メモワール(2014)、脚本はEmma Donoghueと監督の共同。
”The Chronology of Water”も女性のメモワールが原作だったが、ずいぶんちがう。”The Chronology…”は父親の虐待から始まる話で、こちらは父親の突然の死から始まっている。
冒頭、Hawk(タカ)の全身/部分がクローズアップで映しだされて、そのトトロみたいに丸っこい体とその曲線とか羽根のふわふわとか、なに考えているかわからない目とか、ここだけでいいや、になる。猛禽類好きは必見。(自分はそうでもなかったが、見たら好きになった)
2007年、Helen (Claire Foy)はケンブリッジで科学史を専攻するリサーチ・フェローで、ベルリンでの招聘研究に向けた準備をしようとしていたところで、報道写真家で、大好きだった父Alisdair Macdonald (Brendan Gleeson)を突然失い、喪失状態の中、突然彼女はGoshawk(オオタカ)を飼いたい、と思い立ち、友人をつたって手に入れて、Mabel、と名付けて飼い始める。
もちろん最初はおっかなびっくりで簡単にいかなくて、食事を食べてくれないし、手に乗せてもばたばた羽ばたいて大騒ぎになるし、でも互いにだんだん近付いていって、そうなっていくのに合わせてHelenは外に出なくなり人と会わなくなっていく。それがMabelの世話によるものなのか、父の不在が改めてのしかかってきたのか、明確には語られない。ただMabelの獰猛な – でも繋がれたままの野性がHelenのどんよりとした日々に影響を与えたことはわかる。
MableがふつうにHelenの手からお肉を食べるようになると、HelenはMabelと一緒に外に出て、短い距離を飛ばして戻ってこさせたり、野に放って野ウサギやキジを捕まえたり、をするようになる。そんなふうに野生を取り戻していくMabelと、掃除もしない部屋に籠って居留守をつかうようになっていく - これも野生がもたらすなにか? - Helenのコントラスト。
鷹を抱えてキャンパスを歩くHelenに、それはEagle(ワシ)かHawk(タカ)か? って聞く人がいて、それに対して、ふたつは犬と猫くらいちがうんだよ、って返すシーンがあって、そうか犬と猫なのかー。トラとライオンくらいかと思っていたけど、随分違うのね。でもなんでタカなのか? ワシだとでっかすぎて手に負えないから?
Helenの近くにいる親友のChristina (Denise Gough)も、母(Lindsay Duncan)も籠るようになったHelenを心配して家にやってくるようになるのだが、Helen自身がタカになってしまったかのようにぴりぴりしていて抱きしめてあげることができない。主人公がタカに憑依される話、ではもちろんない(そうしてもおもしろかったかも)。なんでHelenはMabelと一緒にいるうちにああなってしまったのか、結果としてMabelはHelenに癒しを与えることができたのか、Helenはどんなふうに変わって、それはよかったのか悪かったのか、原作にはあるのかもしれないが、映画だとその辺が見えにくかったのがちょっと。動物がなにかどこかを癒してくれました、のような単純な話でないのはよいのだけど。
でもタカを腕に乗っけてちょっと浮かない顔で野道をすたすた歩いていくClaire Foyの姿はそれだけでなんだかよくて、ケンブリッジの曇った空と木と原っぱが不思議と映えているのと、タカはそんなの知ったこっちゃない、みたいな顔でいるのが素敵で。
いま絶賛公開中の”Hamnet”では、Agnes (Jessie Buckley)の飼っていたタカの死が、彼女をより家族のほうに向かわせる、そういう描写があったような。
2.01.2026
[film] The Chronology of Water (2025)
1月24日、土曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。
“Woman with a Movie Camera”というシリーズ企画のなかでのPreviewで、イントロで主演のImogen Pootsさんの挨拶があった。水泳のおかげで腹筋がたっぷりついた、とか。
原作はLidia Yuknavitch (1963- )の同名メモワールをベースとした、Kristen Stewartの初監督作。脚本は原作者と監督の共同。音楽はParis Hurley。
Lidia Yuknavitchは、水泳で奨学金を得てアメリカのオリンピックの代表候補になるほどのところまで行ったのに薬物依存などで道を断たれて、その後大学で勉強し直して作家となった。映画を見ればわかるのだが、幼時から実父による性的なそれを含む虐待に晒されつきまとわれ、妹も同様、母はアル中、という凄惨な家庭で育って、本人も死産を経験したり男を次々に変えたり逃げられたり、どこまでも荒んでいって出口らしきものがない。
しかしこの話は、そうやって人生の危機や困難を乗り越えて二の足で立つ所謂「サバイバー」としての彼女の強さを描くのではなく、タイトルにあるように中心にくるのは「水」 - 変幻自在で一箇所に一形態に留まらず、クロノロジカルな変転や総括を許さないで絶えず流れて移ろっていく水のことを描こうとしている。
歯を食いしばって耐えて泣き叫んで血だらけになったり酒や薬でらりらりになって踏みとどまる主人公の姿も、彼女を虐待したり彼女から遠ざかっていった男達も、その結果として周囲から認知される「サバイバー」の輪郭からも遠ざかるように断続的に現れる「水」のイメージ、クロノロジー。 「水に流す」「お茶を濁す」まで含めて、水と共にあることで彼女はとにかく生きる - 死なずにあることができた、ということについての映画なのだと思った。女性の強さ - 最近言われるレジリエンスや元気を貰える系、の話ではまったくない。
なので時系列もばらばらで泳いでいく、重力や支点を失って浮遊していく主人公のイメージ、血も涙も涎も体液も混ざって薄まったり広がったり澱んだりしていく水として常に溢れては流れて消えて、映画の時間もこれらの水面を眺めているうちに終わってしまうような。
監督のKristen Stewartが描こう、捕えようとしたのがこのような水のイメージなのだとしたら、それははっきりうまくいっているように思えた。2時間を超える、結構しんどいテーマを扱う作品なのに、水と水を透過して流れこむ光の、そこで歪んだり屈折したりする身体や表情の捕まえかたが、アートフィルムのようでもあるがいつまでも見ていられるし、そうあることで安易な結論に落ち着くことを許さない。人の、女の一生を勝手に簡単に総括されてたまるか、という原作者と監督の決意表明のようにも思えたり。
デビュー作でこんなものを出してきたKristen Stewartに新人らしからぬ、とかいうのは失礼も甚だしく、狼男に惚れられて吸血鬼との間に子供を産んだときから、Personal ShopperからDianaまで演じていくなかで既に形成されていった何かだったのではないか。 (だから年代記じゃないって何度言えば)
でももう”Charlie's Angels” (2019) みたいのはやってくれないのかな… (少しだけ)
Kim Gordonが一瞬出てきて、そこにいるだけで電気が流れているようにかっこいい。
最後にPJ Harveyの”Down by the Water”でも流れてくれたら最高なんだけど、と思ったがさすがにそれはなかった。
週末にダブリンに行っていて、さっき帰ってきた。
2日間で9万歩以上歩いていて、こんなの週末じゃない、って自分に文句をいった。
1.30.2026
[film] Nouvelle Vague (2025)
1月25日、日曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
本公開の1週間前なので”Preview”マークが付いていたが、ここでは1月の特集として”Ensemble: The Filmmakers from Richard Linklater’s Nouvelle Vague”というのもやっていて、”À bout de souffle” (1960) - 『勝手にしやがれ』はもちろん、元旦に見た” The 400 Blows” (1959)から2日間に分けて上映された”Out 1: Noli me tangere” (1971)まで、よい意味で教科書的に網羅していて、もちろん見たいのだけどとにかくぜんぜんまったく時間がない。
Richard Linklaterが『勝手にしやがれ』の撮影、映画を作っていく過程を通してJean-Luc Godardを中心とした”Nouvelle Vague”シーン、それを作ったCahiers du Cinéma誌の中心にいた若者たちの青春群像を描いた、ということでよいのか。昨年のカンヌに出品されて、LFFでも上映されていた。
モノクロで、主要な登場人物たちは最初にカメラを見つめるとその彼/彼女の名前が字幕でちゃんと出るし(名前が出るたびに「うぅ」とか唸るうざいじじいが必ずでるよ)、劇中では個々のやりとりもちゃんと名前を付けて呼びあうし、ご丁寧にリールの切り替えのキューマークも出るし、あの時代の若者たちや映画制作周辺の雰囲気を小学生にもわかるように伝えようとしている、ことはわかる。
誰もがお金がなかったあの時代、映画に飢えていた若者たちはどんなふうに寄り集まって自分たちで映画を撮っていったのか、という、あの時代のあれらの映画を見て、かっこいいー!って痺れた人なら取り組んでみたいテーマであり題材なのだと思う。それは稀代のならずもの集団映画、“Slacker” (1990) - 今回の特集でも再上映されている – をデビュー作で撮ったLinklaterなら猶のこと、なのかも。
Godardは新人のGuillaume Marbeckがとても小ぎれいにかわいらしく演じ、Jean-Paul BelmondoをAubry Dullinが、Jean SebergをZoey Deutchが演じているが、Godardの突飛でなにを考えているのかわからない演出に戸惑いながら役を演じる「彼ら」を演じる彼らは、なんだかとても辛そう。アドリブの演技をきちんとカバーする、って難しいことだろうし、それはこういう撮り方をしてこういうことになった、ということ(も説明されている)を知っていればわからないでもないのだろうが、ご苦労なこった、って変な心配をしてしまう。
全体にものすごく整然と綺麗に整っていて、ちょっとコミカルでおしゃれなTVドラマのようにも見えて、自分が山田宏一の『友よ映画よ、 わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』などを通して感じた絶望と貧困のなかから立ちあがってタバコの煙とヤニと男くささにまみれた(と想像する)あれこれとのギャップがありすぎるし、この違いを「冒涜」とまでは思わないものの、どこか別の世界の別の時代のなにか、と考えた方がよいのかも。 JLGがこれを見たらどう思うか – そのうちできるであろうAI JLG(もうあるのかな?)に聞いてみたい。 あと3回くらい自死したくなるのではないか。
あの時代のパリがどんなふうで、あの世界でどんな映画が作られていたのか、は今回の特集で上映されている作品群を見れば十分で、それでも今回のようにたっぷりのお金をかけてきちんと描いてみたい、伝えたい何か、ってなんなのか? がよくわからないし、きちんと伝わってくるとも思えないし。
アメリカ人だから、アメリカ人の見た/イメージする”Nouvelle Vague”像、でよいのかも、とか思わないでもないのだが、それって誰にとってどういう意味があるの? っていつもなるし。 当時と同額(現時点換算)の予算規模で、当時と同じ機材を使ってやってみる、の方がまだ伝わるものがあったのではないか、とか。
Richard Linklaterは同時期にこれも実在の人物を中心においた”Blue Moon” (2025)をリリースしていて、Ethan HawkeがLorenz Hartを演じている。これはLFFで見たのだが、こちらもなんだか微妙だった。Ethan Hawkeはすばらしかったのだが。
同様のバイオピックでだいじょうぶかなー、ってちょっと心配(っていうほどじゃないけど)なのはSam MendesのThe Beatlesのやつ。
[film] The Voice of Hind Rajab (2025)
1月24日、土曜日の昼、Curzon Bloomsburyで見ました。
作、監督はチュニジアのKaouther Ben Haniaでチュニジア/フランス映画。
Executive ProducerとしてBrad Pitt, Joaquin Phoenix, Rooney Mara, Jonathan Glazer, Alfonso Cuarón, Spike Lee, Michael Mooreらの名前が並ぶ。
昨年のヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門でプレミアされ、審査員大賞を受賞している。
まだ日本公開が決まっていないのだとしたら、こんなに恥ずかしいことはない。BBDの件といい、どこまで内輪の利益とか目線優先の幼稚な国であろうとしているのか。
事実に基づく話で、Red Crescentの人々は俳優が演じている - 一部実際の彼らも映る - が、彼らがやりとりするHindの声は彼女がかけてきた時に録音されたものをそのまま使っている。
2024年1月29日、パレスチナのRed Crescentの緊急コールセンターで電話を受けているOmar (Motaz Malhees)のところに、ドイツの男性から、いとこのHind Rajabがガザ地区のガソリンスタンドのところで車内に閉じこめられている、という通報を受けて彼女の番号に掛けてみると、背後に銃声が響くなか、6歳の彼女が出て、一緒にいる大人たちもいとこもみんな動いていない、すぐ助けに来て、という。
彼らのセンターからHindのいるところまでは40数マイル、でもガソリンスタンドから8分のところに救急車がいることがわかり、急行してもらおうとするのだが、コーディネーターのxxからは許可が出るまで動けない、動くなと言われる。これまで何人の救命士が命を落としたと思っているんだ、プロトコルには従え、と内輪で小競り合いしている間にHindとの連絡が途絶えて、でも何度か繋がり直して、でも夜になって偉い人(イスラエル軍側の許可もいるって)の承認を得るのが難しくなってくると、最後の手として、彼女の助けを求める声をソーシャルメディアにポストして拡散することをやってみる(監督もそれを聞いて映画にしようと思ったと)。
映画の予告篇は火事場から彼女を救出することができるのか? というサスペンス調で、フィクションであれば危機一髪の救出劇、に仕立てるところだろうが、これはそうではないので結果は最悪で(ネタバレ? ネタ扱いするなんて最低)、後の調査結果によると彼女が乗っていた車にはイスラエルの戦車から335発の銃弾が撃ち込まれ、彼女の遺体は6人のいとこ達のそれと共に一週間放置され、現場に向かった2人の救命士も殺されてしまった。殺されたのだ。我々は彼女たちを見殺しにした側に立っている。
こんなふうに見る人を金縛りにして感情に訴えるフィクションのような作りにしたことに対する賛否があるのはわかる。素材はあるのだから関係者の証言や時系列を重ねて整えて普通のドキュメンタリーとして作った方が、なぜこんなことが起こったのか、起こらないようにするにはどうすべきだったのか、の検証はしやすいし、それは必要なことなのかも知れない。でも今のイスラエルはそんなの聞こうともしないだろう。 それなら助けを求める彼女の声とその悲劇を前面に出して… こうしてあれだけの映画人が集まったのだし、ヴェネツィアでは上映後のスタンディングオベーション23分の記録を作ったのだそう。
でもそんなことより、彼女の他にこの2年間でイスラエルによって約20000人の子供たちが殺されて、停戦合意の後も殺され続けていて、我々はそれを救うことも手を打つこともできないままでいる、ということの重さと異様さに吐き気がする。 こんな状態のなかオスカーもBAFTAもなんの意味があるのか。やめちまえって思う。
A Grain of Sand
1月27日、火曜日の晩、Arcola theatreで見ました。
これも今のパレスチナを生きる、生きなければならない、あるいは生きることの叶わなかった子供たちの声、語りを纏めた劇。元になったのはLeila BoukarimとAsaf Luzonが纏めたブックレット”Million Kites: Testimonies and Poems from the Children of Gaza”。 ここからElias Matarが脚本を書き、Sarah Aghaが一人芝居として何人かを演じていく。
舞台は客席の一番前と繋がっている床上で客席が見下ろすかたち、真ん中に砂場のように砂が盛ってある。
中心にいるのはガザに暮らす11歳のRenadで、家族とおばあちゃんも大きな家で一緒に幸せに暮らしていたのだが、今はみんなどこかに行ってしまった。
Renadは自分のおばあちゃんがそうだったようにストーリーテラーになりたくて、おばあちゃんが語ってくれたガザの昔話のなかで、彼女は想像力の翼 – パレスチナの太古の伝説の鳥Anqaの - をひろげて、どうにか生きて、どこかに行ってしまった家族を探すことができないか、と。
Renadの話に加えて、スクリーンに名前と年齢が表示されてから、それぞれの子供たちの詩や言葉がRenadを通して語られていく。家族はどこに行っちゃったんだろう? なんで病院は(学校は、教会は)安全て聞いたのに爆撃されて燃えているんだろう? この痛みや辛さはいつかどこかに行ってくれるんだろうか?などなど。子供たちが必死で、言葉にできないなにかを言葉にしようとしていることがわかって胸が痛くなる。
それは浜辺で流されて盛られたり崩されたり遊ばれたり、いろんな意味でただの小さい砂粒なのかもしれないけど、消滅することはない、流されて消えてなくなってよいものではない。最後、背後のスクリーンに子供たちの名前がものすごい数、砂の細かさで集められ映しだされて見えなくなってしまう。Hind Rajabのかき消された声のように。絶対そうはさせないから、という意思に貫かれている舞台だった。