6月13日、土曜日の午後、日仏学院の『マルグリット・デュラス 没後30年 全作上映』で見ました。
(これの7月の上映分、自分のスケジュール見えないから後で取ろうって少し置いておいてたらぜんぶ売り切れていて泣)
英語題は”The Track”、UKでのタイトルは”The Lorry”。製作費は30万フラン(当時の三千数百万円)。Durasの監督としては9作目、彼女が俳優として画面に出てくる最初の作品。
同年のカンヌでパルムドールにノミネートされて、でも上映後にはブーを浴びたりの賛否があり、その後New York Film Festivalでも上映された。
撮影は”Camille Claudel”(1988)のBruno Nuytten。音楽はベートーヴェンの「ディアベリ変奏曲」が流れていく。
郊外だか田舎の方かと思われる道路で遠くにトラックがゆらゆら走っていく映像が映しだされて、運転手はヒッチハイクで年を取った女性を車に乗せる – という場面の映像はないものの、それが導きだすストーリー、のようなものを自宅の居間で向かいあって座るMarguerite Duras(彼女)とGérard Depardieu(彼)が読みあげていく(手元の本を朗読しているかんじはないが)。女性をMarguerite Durasが演じ、男性をGérard Depardieuが演じ、それぞれの台詞を読む、という分担があるようでもなく、そのための台本、にもなっていなさそうな草稿をDurasは読んでいって、たまにDepardieuが合いの手のようなコメントをぼそぼそ入れていく。 ふたりが座る場所は、殆どが暗めの居間のようなところだが、終わりのほうで少し明るい窓際に移ったりして、トラックが移動していくように、ふたりの登場人物、ふたりの語り手もそのトーンを変えていくし、終わりのほうでは運転席からのヴューも加わったりするが、ひとつの車に乗り合わせた男女が顔も風体も目的も明らかにならないままただ走っていく、という大枠に変わりはない。
ふつうの乗用車ではなく、いろんなもの(なにを?)を運ぶ大きなトラックであること、ふたりにおそらく年齢差があること、女性はなぜそんな場所でトラックを止めたのか、どんな時間帯でどこに向かおうとしているのか、運転手と女性の間に階級や貧富の差もあるかもしれない (けど最後まで映し出されない) - このストーリーに纏わりつくであろうそういった疑問や違和感一式をぜんぶ積みこむようにして、作者であり語り手であるDurasは単なる実況というより、労働とそれへの要請も含めて – どんな関連があるのか? - 運ばれて移動していく者、それら全体像を描きだそうとする彼ら - などなどを平熱状態で語っていく。なによりもDurasの声のすうっと通っていく声の深さ、すばらしさにびっくりしたり。
郊外を走っていくトラックから、そこに乗りこんだ女性、というシチュエーションからここまでのストーリー、というか大枠を描きだすこと、それを自宅の居間でゆっくりと対話するかのように語る、という形式のシンプルで、でもとんでもなく深いこと。ギター1本の弾き語りで世界の輪郭を示してしまうシンガーのような底の知れない何かを感じた。
そして、その旅の最後のほうで唐突に吐かれる「世界なんて滅びてしまえばいい」の一言がトラックと地面を大きく揺さぶる。 あのトラックは目的地までたどり着けたのかどうか。
トラックとそれに乗りこむ女、というと、Chantal Akermanの“Je Tu Il Elle” (1974) - 『私、あなた、彼、彼女』 - のふたつめのエピソードを思い出したり。
6.16.2026
[film] Le camion (1977)
6.15.2026
[film] Sirāt (2025)
6月9日、火曜日の晩、丸の内ピカデリー Dolby CinemaのDolby Atmosで見ました。
英国での公開時(2月末)、BFI IMAXで数回上映があって、それを逃したのでいいやー、って思ってしまったまま見ていなかったやつ。邦題は『シラート』。 カンヌで審査員賞を共同受賞している。監督はスペインのOliver Laxe。
日本では当たるんだろうなー、と思ったら、やっぱりすごい評判で、みんな絶賛なんだって。ふうん。
「シラート」とは、楽園と地獄の間をつなぐ細く狭く危険な道を意味するアラビア語、と冒頭の字幕にでる。
最初に砂漠にでっかいスピーカー一式が組み上げられていって、続けてそこでレイヴして踊ったり恍惚としたりしている人々 - 今作の登場人物たちもその中に – が映し出される。 たぶんこの絵、数シーンで、この映画に没入できるかそうでないか、が分かれるのかもしれない。 野外のフェスやライブで、轟音を浴びて痺れたことは何度かあるが、レイヴの、あのどぅんどぅん(びかびか)て脳に直に響いて延々続いていく、そこに煙とアルコールが流れこんでくる世界に地獄の責め苦&偏頭痛の山脈しか感じない者にとって、異世界の人たちのお話かー、になってしまう。
そこに明らかに場違いなナリの中年男Luis (Sergi López)と小学生くらいの息子のEsteban (Bruno Núñez Arjona)と子犬のPipaが現れて、5カ月前から消息を絶っていて、ここのレイヴに来ている可能性のある10代の娘の写真を手に消息の聞き込みをしていくのだが、とうぜん誰もしらない、という- レイヴなんてそんな世のしがらみから離れて恍惚とする目的で来るものなので、尋ね人をすること自体おかしい気がするが、それくらい必死なのだろう。
やがて軍が現れて場所を接収して踊る人々をどかし始めて、Luisたちは別のレイヴ会場に向かうというヒッピーふうの男女たち - 手が欠けていたり足がなかったり – に一緒に連れていってくれ、と頼む。彼らはその車だと危険だからやめたほうがいい、って強く拒むのだが、Luisは必死に頼みこんで、結局彼らの車2台の後についていくことになる。
自らの意思で姿を消した可能性もある娘を追って、小さい息子(&子犬)を伴って軍が出てくるような政治状況下で、多重に危険な砂漠を抜けていく旅を強行する。この時点でLuisは状況判断ができず頭がおかしくなっていると思うのだが、そういう描き方はしないで、子供思いの父親がレイヴの彼方に消えてしまったかもしれない娘を追う、そういうストーリーになって、でも周囲が指摘した通りそんな簡単にいくわけがなくて、道路や岩場が厄介なのは勿論、ほぼ人はいないし最後の方では地雷まで出てきて大変な目にあって、みんな死んだ目をして天を見あげてしまうの。それだけなの。
ここに描かれたぎりぎりの生のありようをレイヴの血流の刹那と絡めて宗教的な境地のようなところにまで結び付けて語る(→だからレイヴ万歳!)のは勝手だけど、ただの意味なしB級バカ映画 - 地雷でびっくりどーん!とかで十分な気がした。どうせ死ぬまで踊っていたいのだろうしー、くらい。(音がよいシアターだと本当にびっくりするかも。でもそれだけだよ)
そして、すでにいろんな人が指摘しているように、荒廃した台地で人がばたばた死んでいく極限状態とノイズのありよう(毒なのか薬なのか)を考察した映画としては『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』 (2005)があったの。自分にとってはあれが決定版で、あれでもう済んでいるんだけど、って。
しかしこれがカンヌの審査員賞なのかー なにをどう審査したんだろうねー
[film] Michael (2026)
6月6日、土曜日の晩、二子玉川の109シネマズで見ました。
「先行上映」とのことだったが、本国公開より1ヶ月半遅れて(ロシアよりも遅れてて)、なにが「先行」だよばーか、しかない。スピルバーグの新作の件もそうだが、もうほんと世界のど田舎のくせに、アニメのムラでイキっててほんと恥ずかしい。
Michael Jacksonのバイオピックで、監督はAntoine Fuqua (だから見た)。”Bohemian Rhapsody” (2018)のFreddieよりも更に名の知れた世界的なスターだし、その裏でいろいろ変な人として囁かされた人でもあったので、その辺をぜんぶ広げてみせるか、逆にぜんぶ包んでごまかしちゃうかどっちか、と思ったら後者のほうだったかも。 輝けるスター、偉人としての彼を前面にだしてまだまだ稼いでもらうから、というプロモーション継続宣言のように見えた。 そしてそれは勿論、これまで聴いてきてくれたファンに向けてのものでもあるので、だから映画は世界中でヒットしました、よかったね! と。
Michael (Juliano Valdi → Jaafar Jackson)は幼い頃から父Joseph (Colman Domingo)の下で兄弟揃って歌とダンス、振り付けの特訓を昼も夜も強いられていて、母Katherine (Nia Long)は優しいけど横にいて見ていることしかできなくて、でもライブを重ねてようやく当時昇り竜だったモータウンと契約することができて、彼らは大スターになり、それを父がマネージャーとして仕切っていたので家は栄えて誰もがハッピー、であるかのように見えた。
が、長年に渡る父親の圧とコントロールに耐えられなくなったMichaelは独立を画策してQuincy Jones (Kendrick Sampson)のプロデュースによる最初のソロ製作&Epicとの契約を裏で進めていって、父は案外あっさり承諾して – 但し時間外の副業でやれ – でも、やっぱりなんだかんだうざいので弁護士John Branca (Miles Teller)を雇って、父親を解雇するという最終手段にでて、でも父親もしぶとくJacksonsとしての大規模ツアーを計画して … 後半の方はそれぞれのピースが話としてでかすぎるし、それゆえに知っていることも多い(洋楽の情報がそんなにない時代に、結構大きめに喧伝されたから)のでふつうに見ているだけで終わってしまう。 彼が亡くなるところまでは描かれず、”Bad”のツアーでこれからぶちあげるぜー! っていうとこでぷつりと… 続編があるの?
いろんな謎、疑惑をぜんぶ晒してそれに応えろ、とまで言うつもりはないけど、映画のなかでも描かれている鼻の整形とか家のなかを動物園にしちゃった件とか、なによりも音楽映画であるの(違うのか?)なら、どうしてバンドではなくソロで行こうと思ったのか、そういうことをした理由とか事情とか葛藤くらいは、描いてもよかったのでは、と思う。全体として、悲しかったり辛そうだったりの時以外で、彼がなにを愛したり考えたりしながら、音楽活動の軸やイメージを作ったり据えたりしていったのかがあまり見えなくて(チャップリンはひとつ)、その見えないかんじが彼を不世出のスーパースターにしたのだ、なのかも知れないが、もう少し明らかにしたっていいんじゃないの? って。 “Thriller” (1982)のPVよろしく、とびきりどす黒いバビロンを暴き出すこともできたであろうに、いろいろ二重三重にガードされているんだろうな、というのは感じた。
父親を中心とした家族のドラマ、としてもColman Domingoの正面からの顔アップでぜんぶが決まって、従うのだ! っていうボス猿方式だけのようで、それがMichaelのその後の行動にうまくリンクしていかない、というあたりが圧倒的に弱い。兄弟間での駆け引きのようなものだってあっただろうに。
いろいろあったね、の家族アルバムとか、ひとつのでっかいPV、として楽しめばよいだけ、なのかも知れないけど、それだけ? アメリカのポピュラー音楽史に残る人なのに?
6.12.2026
[film] Undercurrent (1946)
6月6日、土曜日の午後、シネマヴェーラのRobert Mitchum特集で見ました。
ひとつ前に書いた“Secret Ceremony” (1968)のすぐ後で、すばらしく充実した2本立て(じゃないけど)となった。
原作はThelma Strabelが雑誌Woman's Home Companionに掲載した小説"You Were There" (1944-45)、脚色はEdward Chodorov、ここにノンクレジットでMarguerite RobertsとGeorge Oppenheimerが協力している。監督はVincente Minnelli、撮影はKarl Freund (!?)。 Vincente Minnelliの” The Clock” (1945)に続くドラマ・フィルム - この前はずっとミュージカル - の2作目。邦題は『底流』。
科学者である父に倣って、自身も科学者・研究者としてのキャリアを考えていたAnn Hamilton(Katharine Hepburn)は父を訪ねてきた科学者/実業家のAlan Garroway (Robert Taylor)と恋におちて、割と簡単に結婚してしまう。 ふたりは幸せで、その後ワシントンDCに越して、Annは慣れない社交界にどうにか適応しなきゃ、って苦労していたある日、手にとった田園詩集にものすごく癒されて、これ大好き! というとAlanは急に不機嫌になって、それは弟のMichael (Robert Mitchum)の本だ、という。彼とは疎遠になってもう会っていない、という。
その後、西海岸のAlanの実家に行くと、Michaelのでっかい荒馬とか、彼の影とか痕があちこちにあったり感じられたりするのがいちいち気になって、でもその都度、Alanは癇癪を起して止まらなくなり、それがあまりに強く激しいので兄弟の仲違いの原因はなんなのか、なぜ名前を出しただけであんなに不機嫌になるのかを知りたくなる。 そしてそれを確認するためにもMichael本人に直接会ってみたい.. 会うことさえできれば… がぐるぐる回りだして止まらなくなるのが”Undercurrent”。
この辺の盛りあげかたが流石で、とても他人とは思えないくらい自分と好みが合っているMichaelに惹かれていてもたってもいられない、それと並行してそうではないAlanとの関係はどうでもよいただの夫に格下げされていって、なのに彼は嫌われ妄想を過度に勝手に膨らませてぶつかったり詮索してきたりするので余計に溝が広がって距離を置きたくなる、という悪循環。
ひとつの方向として、気配ばかりで正体が見えない相手を探す/待つファンタジーの側面があり – 一度庭師を装ったMichaelとさらりと会う場面があったり、ずっと流れてきて耳から離れないブラームスのピアノとか - もうひとつにはそれを妨害したり妬んだりモンスターとしての正体を現していく夫をどうしたらよいものか、がちょっと怖いサスペンスのように描かれる。で、見ている側ははらはらしながら、AnnとMichaelの出会いとAnnとAlanの破局を待つことになるの。 夫婦の関係が壊れていくひとつの典型的なパターンが極めて精緻に、”Undercurrent”の渦を意識させつつ、抉り出すように描かれていて、たまんない。
やがてAlanの元カノで、Michaelのこともよく知るSylvia (Jayne Meadows)との会話で確信を深めたAnnだったが、その頃にはAlanも覚悟を固めてAnnのところにやってくるのだった。最後のほうはKatharine Hepburnの聡明さ vs. ノワールの狂った男の性むき出しで、どうなるかは見えているのだが、それらも含めて最後のきたきたきた感が溢れて、そこに割って入るのが眠い目をしたRobert Mitchumである、という見事さ。彼、最後の方までなかなか姿を現さないというのがとても効果的で。しかしどう見てもRobert Taylorと兄弟には見えないのだけど。
あの後、AnnとMichaelは一緒になったのだろうか? そんな簡単にいくわけない、実はMichaelは多重人格者だった... というあたりをつい期待してしまう。
あと、最初の方にでてくるわんこのRommyがものすごくかわいいの。
シネマヴェーラのRobert Mitchum特集はここまでになってしまった。 会社のバカ。だいっきらい。
RIP David Hockney..
何度も通った2017年のTate Britainでのレトロスペクティヴが思い出される。
こないだまでの英国生活の思い出の最後に買ったのが”David Hockney by David Hockney” (1976)のサイン本だった。
ありがとうございました。
6.11.2026
[film] Secret Ceremony (1968)
6月6日、土曜日の午後、”Boys Go to Jupiter”を見たあと、シネマヴェーラのRobert Mitchum特集で見ました。これだけ特別料金 - カラー作品だから?新たに字幕をつけたから?
Joseph Losey監督による英国映画、原作はアルゼンチンのMarco Deneviによる”Ceremonia secreta” (1960)をハンガリーのGeorge Taboriが脚色している。撮影はGerald Fisher。 邦題は『秘密の儀式』。
自宅で娼婦をしているLeonora (Elizabeth Taylor)はロンドンのバスで見知らぬ若い娘Cenci (Mia Farrow)に突然「ママ」って泣きながら呼びかけられ、戸惑いながら教会にいって墓参りしてもずっと娘はついてきて、不気味だし追い払いたいのだが、実は彼女の数年前に亡くなった娘にそっくりだったので混乱して泣き崩れて、その状態でCenciに引き摺られるように彼女がひとりで暮らす豪邸に連れていかれて、朝食をごちそうになると、そこにあった写真で自分も彼女の亡くなった母にそっくりであることを知り、こんなことでよいのかと思いつつここには洋服とか宝石とかいっぱいあるし居心地も悪くないのでしばらくいてもよいかも、になる。
そのうちCenciの叔母だというHannah (Peggy Ashcroft)とHilda(Pamela Brown)がやってきて、身を隠して彼女たちの会話の様子を見ていたLeonoraはこの家族の過去の事情とか、Cenciが22歳であることとか、出入りする怪しげな継父Albert (Robert Mitchum)のことなどを聞いて、お屋敷に関わる全員が裏と過去の傷を抱えた腹黒く病んだ人々であることを知り、でもなりすましでそこにいるLeonoraもまたそれに近いひと、なのだった。
そういう綻び、というよりぼろぼろの中で押しかけるように家にやってきたAlbertとCenciがべったり濃厚な時間を過ごした後、LeonoraとCenciは海辺の高級リゾートに出掛けて、そこに現れたAlbertや突然お腹が大きくなったCenciのことを巡って修羅場となって、これでもう偽母娘の関係は終わりか、になって…
ふたりの母親、ふたりの娘、ふたりの父親の影があちこちに見え隠れするお屋敷で、対の反対側に残された者たちが互いに埋めようがない穴や傷を認めて、それでもどうにか不器用に埋めたりごまかしたりしようとしたら罪とか罰が噴出して晒されてみんなだめになっていくことの救いのなさ。
Joseph Loseyの同じ年の前作が昨年BFIで見た”Boom!” (1968) で、これは外界から孤絶した島で暮らすお金持ちのElizabeth TaylorがRichard Burtonの訪問を受けてゆっくり腐って壊れていく、非現実的にも見える人と人(or 島)のサイコドラマだった。 なんでそうなってしまう/しまったのか?というよりもなにがトリガーになって、どんなふうに人の内側は崩れて壊れていくのか、その不気味な断面をこれでもか、と見せてくれる。コミュニケーション、喪失と狂気の危うい線がこちらにも浸食してきて、どうにも止めようがなくてぐったりするのだが目が離せない。(見て楽しいものではないので評判がよくないことはわかる)
しかしElizabeth Taylor、よくこんなJoseph Loseyのに2本も続けて出るねえ(褒めてる)。
この作品ではElizabeth TaylorとRobert Mitchumの踏んづけても壊れそうにない老獪さの反対側にあるガラスのMia Farrowがすばらしかった。彼女がRobert Mitchumの髭を剃るシーンとかだんだん動かなくなっていくシーンの息をのむかんじとか。
あと、このドラマがもたらす緊張感って、映画よりも演劇とかオペラの方に向いているのではないか。きんきんやかましい現代音楽の轟音のなかに置いたらとっても雰囲気でたかも。
[film] Boys Go to Jupiter (2024)
6月6日、土曜日の昼、渋谷のホワイトクイントで見ました。
ぜんぜん知らないアメリカ産のアニメーションだったが短くて軽そうだったし、どんなものかしら? くらいで。
原作、製作、監督、音楽はJulian Glander、この若者がひとり、当然低予算で作ったらしい。孤独に孤独であることの諸相、などをテーマにすっとぼけたアニメーションを描く、つくる、という点ではDon Hertzfeldtを思わせたし、声優陣には”Eighth Grade” (2018)のElsie Fisherとか、Janeane Garofaloとか、Tavi Gevinsonとか、”Sorry, Baby” (2025)のEva Victorとか、世界の片隅へなちょこ系オールスターズだし、Special ThanksにはMiranda Julyの名前があったし、これらを豪華、と言ってよいのかどうか、だろうが自分にとっては超豪華としか言いようがない。
UKでは、2025年のGlasgow Film Festival で上映されただけ – たぶん英国人にはわかんないのだろうなー のかんじ。
安っぽい、ポップと毒毒の中間地帯を無邪気に、なんも考えていないふうに埋めつくすアメリカの駄菓子の輪郭と色合いのなかに海も家も砂浜も無神経にぶよぶよと建っていて、そこにやはりすべてにおいて無頓着で頭にも身にも虫が湧いているとしか思えないふやけた若者たちが浮かぶように佇んでいて、ものすごくてきとーにラップをして遊んだりしていて、その近くには肥大した芋虫みたいなエイリアンみたいな奴らが変な音を出しながら伸びたり縮んだりしている。 この絵だけで映画館を出たくなる人がいても責めはしない。
そんなてきとーにふやけた若者たちの間にBilly 5000 (Jack Corbett)はいて、他の仲間にはFreckles (Grace Kuhlenschmidt)とか Beatbox (Elsie Fisher)とかPeanut (J.R. Phillips)がいて、Billy 5000はUber EatsライクなGrubsterっていう宅配ピザ(だけじゃない)配達サービスのバイトをしながら誰にも搾取されることなくそのアプリのバグを使って一人暮らしするための$5000を貯めようとしていて、たいへんだけどがんばる、っていいながらどこかの底辺を彷徨っているようで、でも彼の暮らす世界には底辺も頂点も存在していないかのよう。
ある日宅配に行った工場で、かつての同級生Rosario "Rozebud" Dolphin (Miya Folick)と会って、そこの工場長の娘である彼女が持っていた標本とかを持ち帰ったら、それが単なるエイリアンではないとんでもないやつで…
お金を稼ぐこと、家族である(になる)こと、旅をすること食べること泊まること、これら生活の根幹がそこらでごろごろしているエイリアンたちとの間でお茶の間的なスケールのコミュニティで進行して転がって、決して「アドベンチャー」にも「ジャーニー」にもなっていかないし、そうなることにも興味ないし、というすっからかんの実存のありよう。でもここからJupiterに飛んでいったとしてもなんの不思議もないし、たぶんいけるし。
軽めのドラッグをやってトリップしている若者たちの戯言、メッセージもくそもない、と片付けることは簡単かもしれないが、そうも言い切れないような腰の据わったLo-fiの居直り感と虚脱感がなんだか痛快で心地よい。ただぶっきらぼうに、でもそこにいるの。 なんとなく漂う宮沢賢治のかんじ、など。
シアターで貰ったBoidのペーパーで樋口さんはDinosaur Jr. ぽい、と言っていたが、あんなに洗練されてもいなくて、Sebadohあたりではないか。
6.09.2026
[log] Nara / Kyoto / Osaka - June 05 2026
6月5日、金曜日に会社を休んで奈良~京都~大阪の日帰りに行ってきたので簡単な備忘を。
前回、5月5日に京都日帰りをやって、それが思っていた以上に簡単に済んでしまった(ロンドンからパリ日帰りと比べたら – 比べるな)ので、少し範囲を広げてみよう、程度で。
神仏の山 吉野・大峯 - 蔵王権現に捧げた祈りと美 @ 奈良国立博物館
新幹線で京都に着いて、そのまま近鉄のホームまで真っすぐ行ってそこにいたのに乗って奈良へ。
日曜美術館で仏様たちの群れをえっちらおっちら山の上から降ろしているのなどを見て、どうしようかなー、だったのだが7日に終わってしまうし、終了間際の土日は混むだろうしー って5日にしたのはそういうわけ。
9:30開場で9時前に着いたら既にすごい列で唸ってしまった。
蹲った小さい仏さまなどの塊りがいっぱいごしゃごしゃ置かれているところがとてもよくて、「秘仏」の看板のかかった蔵王権現立像もその流れで。青いでっかいやつはVR表示のみだった。あれは降りてきていなかったのかー。
特別展 北野天神 @ 京都国立博物館
この企画展は5月にも来たのだが、北野天神縁起絵巻(承久本)が忘れられなくて、第八巻の展示替えなどもあったようなので、もう一回。あの絵巻の漫画みたいな展開と描かれている雷神とか魔物とか噴いて渦を巻く炎とかが素敵すぎて(道真どうでもよし)、これの全部並んだのを続けてみたいので、こういう展示ではめったに買わない図録を買ってしまった – 絵巻、もうちょっと拡大して載せてくれてもよかったのに。 今回、京都はここだけ。
MOCOコレクション オムニバス - 初公開・久々の公開 - PART2 @ 大阪市立東洋陶磁美術館
京都から電車で大阪に移動する。この近辺は地名・駅名を見てもさっぱりでGoogle Map頼りの1時間強。
今回のこれは過去寄贈を受けたりしたいろんなとこのを纏めてお蔵出し~、のようなのだが陶磁器の世界は西も東も新も旧もぜんぜんわからないので、何を見てもわあーきれいーすごいー、しかない。濱田庄司のだけ、こないだ日本民藝館で見たな、程度。
没後50年 髙島野十郎展 @ 大阪中之島美術館
もうじき渋谷にも来るらしいが、何度でも。2016年に目黒で『没後40年 髙島野十郎展 ―光と闇、魂の軌跡』を見てから、もう10年になるのかー。
蝋燭の光、陽の光、月の光、カラスウリ、さくらんぼなど、その光の明滅、その表面、真ん中の焦点をじっと、穴のあくほど見つめた前回の展示から10年…
でもこういう絵画に「魂の」とか付けるのってなんか違うと思うのよね。ゴッホとかでもその傾向あるけど。
中西夏之 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置 @ 国立国際美術館
大阪まで来たのはこれがあったからだった。タイトルが既に中西夏之的に装置化されている。
初期の油彩から、クールにやばいハイレッドセンター期から、70年代から晩年まで、我々が「穏やかにみつめるために」「いつまでも佇む、装置」としての絵画、が、街角に置かれたサイネージディスプレイのようにそこにあって、でもそれらをじっと見ていると、あの卵たちのようになかでなにかが蠢くやつが頭のなかにシンクロするように湧いて拡がる。そのために置かれた装置。
それにしても後期作品の抽象のありようのおもしろいこと。みつめて穏やかになるのではなく、「穏やかに」が先に来てしまう不穏さから入り「みつめるためにいつまでも」が主で、どうしてその装置は「佇む」のか。装置は設置されたり作動したりするものではないのか、など。 絵画と言葉を巡ってだらだらといくらでも。
その上でやっていたコレクション - “Collection 3”も見たが、近現代アートのあまりに大阪っぽい盛り盛りでああ「国立国際」だなあ、って。
特別展:小泉八雲 - 怪談とフォークロリストのまなざし @ 大阪歴史博物館
まだ少し時間があったので、地下鉄でここまで。しかし大阪、エスカレーターとかエレベーター少なくない?
いきなりBook of Kellsの複製本があって、八雲のインターナショナルな足跡を辿り、文学作品だけでない幅広い活動全般を。TVドラマで話題なのは知っていたが、自分が読んだのは数十年以上昔で、あの頃よかミステリアスで変なガイジン・モードが炸裂していたような。夫としてはどうだったんだろうねえ。
ここまでで、湿気も酷くて結構消耗したので新幹線の時間を少し早めにして帰った。