11月3日、文化の日の晩、109シネマズの二子玉川のIMAXで見ました。
(なんかむかむかしているので先に書いて片付ける)
英語題は”Godzilla Minus Zero”。『ゴジラ-1.0』(2023)から2年後の世界を描いた直接の続編で、監督・脚本・VFXは前作と同じく山崎貴。
NYFFでプレミアされて、英Sight and Sound誌の最新号の表紙にもなっていたり海外での注目度も高そう。 以下、ネタばれしていま。
前作は終戦によりすべてを失って「ゼロ」になった日本がゴジラの登場により「マイナス1」になって、大戦の特攻で死ねなかったりした「マイナス1」の連中が掛け算で最後どうにか「1」にもっていく... そういう話だった。では今回の「マイナス0」とはなんなのか? ただの「ゼロ」とはなにがどう違うのか、など。
最初に宇宙から落ちてきた隕石が周囲の生き物をぱくぱく取りこんで一首の竜の「ギドラ」が生まれて暴れだし、災害対策を担当する機関の野田(吉岡秀隆)のところに話が持ちこまれ、管轄の米軍GHQは人は出さないけど機材は出すよ、って借りた戦闘機で爆撃したけどギドラには効かず、新参の気象学者の青山(長澤まさみ)の「プランB」で雷を落としてみたら黄金の三つ首のキングギドラに変態してどうしましょう… 更にゴジラまで蘇ってあらあら… というのが前半。
ギドラの正体を探る生物学者の村上(田中泯)は原爆で家族を失った苦しみと痛みを抱えながら、ギドラに対抗できるのはゴジラしかいない、ゴジラをギドラのところに持っていくには、ってパイロットの敷島(神木隆之介)とゴジラの細胞と共鳴できる妻の典子(浜辺美波)を使うしかないのだ、って(ボディホラーの方に振れたらおもしろくなったであろうに)。
制御不能に思える強大な力、それによる破壊に対し、人間がいかにして立ち向かい、コントロールできるところまで持っていくのか、という問いに対して、過去のシリーズが怪獣同士の本能とか生存競争、の辺りに任せていたところを人間が、日本人がどうにかするのだ、というのをコントロールできなかった原爆でマイナス1になった村上が考えて実行しようとする。
敷島はギドラの対応の最初から関わっていて、でも典子と娘の明子との生活を優先したいので、本当にこれを最後にしたい、これで数千人の子供たちを救うことができるのなら、とおいおい泣きながら作戦に同意するのだが、この辺からものすごく気持ち悪くなって自分はのれなかった。止めようのない何かがあって、でも身近な家族を守る、救うために立ちあがろう、って戦争や軍拡に向かう時に国が使ったロジックやスローガンといったい何が違うのか。 そしてあのラスト、米軍が追ってくるなか、やっぱり家族3人一緒でいよう、とかも今の与党の家族の方針とか徴兵の考え方に寄り添うものとしか思えない。
こーんな気持ち悪いことになってしまうので、断固軍縮で反核で! ならわかるけど、今回のはそっちの方にいかない。 海に消えたゴジラを冷戦に向けた最終兵器として保全・活用する決断をした米軍と、その方針に日本政府は従って足並みを揃えていくしかない。その流れで次作はあるのか… ヒットしたから絶対あるよね..
ドラマの筋、情念の流れとして、最後は村上がゴジラやアメリカと刺し違えるのかと思ったらそうはならないし。途中からこれは”Digger” (2026)みたいにぜんぶ田中泯の舞台でした.. だったらおもしろいのに、と思ったのだがそれもなかったし。
あと、どうでもよいけど、エキストラで逃げたりしている日本人みんな結構太っているよね、孤児施設の子供たちの肉付きも割とよいし、銀座和光の屋上でがんばる政府の人たち – あれで吹き飛ばされないのも不思議だけど、いつの間にかみんな包帯したり絆創膏していたりとか、あのオレンジの革ジャンはなに? とかそういうあたりでシラけてしまった。あと芝居 - 台詞のやり取りが全般にぜんぶださいし。
怪獣同士が戦うシーンは、IMAXで増幅された迫力はあるけど、流れがないというか。とにかく前作も今作もゴジラが不格好で不細工すぎて、そこにちょこちょこ人間たちが挟まってくるのがつらい。 怪獣たちの絵としてはアメリカのMonsterverseの”Godzilla” (2014 film)と”Godzilla: King of the Monsters” (2019)あたりのが断然好きだったかも。
11.04.2026
[film] ゴジラ -0.0 (2026)
[film] The Ozu Diaries (2025)
10月29日、木曜日の晩、ル・シネマの7階で見ました。
昨年のヴェネツィアでプレミアされ、同年のTIFFでも公開された小津安二郎の評伝ドキュメンタリー。
脚本・監督・編集はアメリカのDaniel Raim。 139分。
本作の上映に併せて、小津の作品も日替わりで上映されていたのだが、昼間なのでほぼ見れていない。
この秋はTIFFで溝口を見れて、ここで小津も見れて、それだけで十分なはずなのに、なんだか落ち着かないねえ。(落ち着け)
小津の映画(のどんなやつでも)を最初に見た時の「なんか変なものを見ちゃったかも…」のモヤモヤした違和感のようなやつ、その後にやってくる(こともある)「感動」(カッコ付き)のあれらって、なんなのか? って「日本人」にも湧くやつなので、「外国人」には余計わけわかんないかもしれないよね、という辺りをその「外国人」がものすごくきちんと振り分けて並べてインタビューやコメントも取り付けたり、この辺かも、と提示してくれるので、とても勉強になる。 日本人だと面倒だったりかえって畏れ多くてできないようなことなのかも。 こんなのNHKがやれよ、はちょっと思うのだが。
もはや見ることが叶わないものだらけのサイレント期から、召集されて中国に渡った戦時のことから、帰還して再び映画を撮り始めて巨匠となっていくまでを彼の日記や現存する資料、関係者インタビューなどを通して明らかにしていく(被さってくる小津や野田高梧の声は大堀光威、田中絹代の声は中井貴惠、等)。 インタビューコメントは映画監督として黒沢清、Wim Wenders、Luc Dardenne、Tsai Ming-liangなど。 俳優として香川京子、子役として『麥秋』に出ていた城澤勇夫など - 子役の話はおもしろいねえ。
わりとスムーズにエモを直撃してくるのでわかりやすい(と自分が思う)溝口とか成瀬以上に、画面(の隅とか奥とか)に映っているもの、目線の高い低い、それらが時間の長さ配分も含めてどう、どんなふうに映っていて、それらがなんであんなにいつまでも頭の隅に残って、場合によっては感動してしまったり、その不思議に迫っていくなかで、小津自身の言葉よりも彼の描いた絵(かなりびっちり)とか、野田高梧と蓼科の山荘に籠って一升瓶を延々あけ続けたとか – ものすごく時間を掛けて描いたり書いたりしていた、という辺りがおおー(やっぱり)って。 映画がアート、芸術と呼べる何かなのだとしたら、それはこれこれこういう要素で成り立っているから、が説明できている気がする。
あと、女性に対する扱いの酷さについて、溝口や成瀬だとストーリーの真ん中に女性の過酷な運命や道行きを置いたりするけど、小津だと『風の中の牝雞』 (1948)はすごい(ひどい)けど、それ以外はものすごく巧妙に画面デザインや会話のなかに溶かしこんで配置しているイメージがあって、その辺を女性の目線で掘り下げたものをみたい。それがどうしてどうなって(主に男性の、じじいの)「感動」に繋がったりするのか、も含めて(もうあるのかな?)。 小津研究 - 小津を掘ってすごいぞ、って語るのって男性ばっかりのイメージがある。
非常線の女 (1933)
10月18日、日曜日の午後、ル・シネマの7階で見ました。
サイレントで、ピアノ伴奏は天池穂高。原案は「ゼームス槇」名義で小津安二郎。
昼間は都会の大手の会社でタイピストとして働いて、その会社の御曹司の専務と金目当てで付きあったりするモダンな時子(田中絹代)は、夜/裏ではやくざの襄二(岡譲二)と暮らしてて、そのグループに加わった青年宏(三井秀夫)の姉 - 和子(水久保澄子)と出会った襄二が、彼女のふつうの佇まいにが惹かれていくのに頭きて和子のとこにいったら、あらよい人じゃないの、ってあっさり自分も足を洗うことにするのだが…
タイトルからしてギャング、ノワールっぽいし、スチールもこちらに向かって銃を構えた田中絹代だし、画面構成のモダンな意匠もそこに沿ったものだと思うのだが、結末以外は、なんだかrom-comじゃないの、と思って見てしまう。 昼夜の二重生活 – 夜はかっこつけてもぜんぜんギャングに見えずにかわいくなってしまう - とか、やきもちから始まって堅気になろうと簡単に思って走りだしたりとか。 正式タイトルは「わたしのなかの非常線」あたりではないか、とか。
[film] Possible Love (2026)
10月28日、水曜日の晩、シネマヴェーラで『わが恋の旅路』 (1961)を見た後、ユーロスペースに下りて見ました。
オリジナルタイトルは『가능한 사랑』、邦題は『もしもの愛』。 Netflixなので配信ならふつうに見れるのかも知れないが、配信関係はぜーんぶ止めてしまったので、こういう機会でもないと見れない。
監督はLee Chang-dong、原作・脚本もOh Jung-miとの共同。8年ぶりの長編だそう。164分。
こないだのヴェネツィアでGrand Jury PrizeとFIPRESCI Prizeを受賞している。
二組の夫婦/家族が登場する。ひとつはホソク(Sul Kyung-gu)とミオク(Jeon Do-yeon)と10歳になる息子のチョルで、ホソクは大手自動車メーカーのリストラとそれに伴う労働争議に敗れるかたちで失業して、それに伴う心身の痛手から立ち直ろうとして苦しんでいる - そんな彼の苦しみをどうにかしなければ、とひとつになっている家族、もう一組は自殺した元同僚の葬儀にやってきたホソクとミオクを見て撮影させてほしいと申し出るドキュメンタリー映画作家のイェジ(Cho Yeo-jeong)と、その夫でヘッジファンドに働く裕福なサンウ(Zo In-sung)の夫婦(と犬)。カメラを手にしていないイェジは洗練されたファッションを装って頭もよさそうで、出自も境遇もまったく異なるものの、労働をテーマに撮り続けてきたイェジは、争議での機動隊の暴力と仲間に見捨てられたトラウマに苦しむホソクと、彼に前を向いてもらおうと懸命にケアするミオクの姿に打たれて、ホソクに煙たがられつつもなにか喋りだす度にカメラを回してくる。そして実際、ミオクが語るホソクの現在や彼と出会った頃の思い出話はなんかよいの。
当初の撮る側と撮られる側の関係と役割は緊張感たっぷりだったり痛々しかったりのミオクの語りが、語れば語るほどイェジたちを虜にしていって、彼らはそこまで語ってくれたお礼に&もっと仲良くなりたいから、とサンウの家が代々持っているプライベートビーチ付きの別荘にミオクたちを招いてひと夏を楽しく一緒に過ごしましょう、ということになる。
ふつうに撮られる側のミオクたちには喋りたくないこと、明かされたくないことがあったかもなのに、そしておそらくサンウの仕事がホソクの仕事を奪ったかもしれないのに、ミオクは率直に思うところをなんでも語って、当初はがちがちだったホソクも、別荘で感極まってわーん、くらいのところまで語ってくれて、そこまで喋ってくれたのであれば、お礼に、のような流れがあって、ここまでで十分よいドキュメンタリーになったのかも、と思いつつ映画はまだ続いて、酔っぱらってカラオケで騒いでホソクの箍が外れてそこらじゅうに放尿して…
もしもの愛、ひょっとしたらの愛の行方は、隔離されたビーチや山荘での惨劇ホラーになる可能性もやけくそ乱交ポルノになる可能性も孕みつつ、やっぱり互いの階層とその立ち位置を残酷なくらいに表に出してしまい、ミオクたちが出ていく形で終わって、それぞれの階層もそのポジションも揺らぐことなく元にもどる。親の代から管理人をしているという喋らない彼も含めて、何も変わることはない。 そんななかに少しだけあった「もしもの愛」。もちろんだーれも悪くない...?
約3時間、ドラマとしての緊張も、俳優たちの強めのテンションも途切れることはなく、何が起こるのかしら… ってページをめくっていくかんじで一気に見れてしまうのだが、本当にそれだけなの。 ヴェネツィアの貴族のみなさんにはブラヴォー!で心地よい作品だったことでしょうね。
11.02.2026
[film] Whalefall (2026)
10月25日、日曜日の夕方、新宿ピカデリーで見ました。
原作はDaniel Krausによる同名小説(2023)、脚本は原作者と監督Brian Duffieldの共同。製作には大好きな”Splash” (1984)のBrian Grazerがいる。あれとはちょっと違うけど。
邦題は『クジラに落ちた男』。落ちたというよりのまれたのだが。
カリフォルニアの海岸沿い、冒頭、具合の悪そうなMitt (Josh Brolin)が船の上で手紙を残して重しをつけて海に潜っていく。船にいるおじさんは泣いていて、それが自殺であることがわかって、そこから1年後、彼の息子のJay (Austin Abrams)が実家に戻ってきて母(Elisabeth Shue)や家族と再会して、父とのことを振り返る。幼い頃からスキューバダイビングの特訓を受けてきたがまったく父の期待には応えられないまま家を離れた息子だったなあ、など、ぐじぐじ思いだしたりしているうち見つかっていない父の遺骨を拾ってみよう、と思ってひとりで海に入っていく。シャチが出るので海辺は遊泳禁止だったのに。
海に入ってしばらくすると、ダイオウイカとクジラが追いかけっこをしていて、ひえー、とか見ていると再び現れたダイオウイカに絡まれて、絡まれた状態で引きずられてクジラにのまれてしまう。最初はパニックでなにがなんだかわからず、でもまだ死んだり溶けたりしていないのでどうにかしてみよう、といろいろやってみることにする。酸素の残りは約1時間。
自分がそうなったら絶対、簡単に諦めて消化されていくよね(どれくらい痛いのか、麻酔みたいにやられるのか、等)、と思うのだが父親に認められなかった/認められたいJayは、父の教えを思い起こしたりしつつ、がんばろうと決意する。でも先にのまれたダイオウイカは暴れたけど消化されちゃうし、その嘴が刺さって負傷するし、強い力でのまれて運ばれた胃の次の部屋では消化液で手がただれたり、ここにいたらやばい、って発光クラゲの明かりと尖った嘴を使って食道の方に戻る。更にがんばったら口の方まで行けて少し外が見えて、クジラクルーズの人たちの声が聞こえておーいおーい、ってやるのだが、クジラは深海のほうに急降下していって…
こないだの”Resident Evil” (2026)でも巻き込まれて散々な目にあって災難続きのAustin Abramsが
Jason Stathamでもあるまいし、落ち着け、と、だいじょうぶ、を自分に向かって連発しながらがんばっていくのだが、この人の最大の魅力は、引っぱられたりやられたりしたときの(”Resident Evil”にもあった)「きゃーっ」っていう叫びにならないような小さい叫びで、この生々しさがたまんないのかも、と気づいた。
結論はのみこまれて排泄されちゃった... とか、のみこまれたら父に会えたよ、とかになるわけはなくて、じゃあどうやって、の中身は結構バカバカしいのだが、のまれてじたばたしていったり、海に入る前の段階でこれは… のことも多いので、そこそこ安心する(どこが?)。 荒唐無稽だけど、父と息子のお話として筋は通っていたかも。
というか、最後にタイトルである”Whalefall”の意味が明らかになると、父と子の関係とか、マスキュリニティとか、この映画の中で描かれたいろんな層での戦い、サバイバルなどが、すべてそれなりのスケールで説明されてしまう、その風呂敷の大きさはなんかよいと思った。 そこらの海洋パニックやサメ映画よりもどこか純文学ぽいというか。
あと、クジラはなーんも悪くなくてかわいそうすぎるので、次はクジラ目線で、ほんとうについていなかった散々・最悪の日、を映画にしてあげて。
[film] 三味線とオートバイ (1961)
10月24日、土曜日の昼、シネマヴェーラで始まった特集『映画監督 篠田正浩 レトロスペクティブ』で見ました。 レトロスペクティブなのにたった一週間でよいのか。
原作は川口松太郎のこてこて同名小説、撮影は小杉正雄。真鍋博によるタイトルデザインが楽しい。
房雄(川津祐介)と初子(桑野みゆき)が友人たちとバイクで神奈川の方を飛ばして楽しんでいて、その帰り道、ふたりだけでどっか行こう、って抜けたら事故って初子は病院で目覚める。彼女は神楽坂辺りで小唄の師匠をしているとよ枝(月丘夢路)と2人暮らしをしていて、父は既に亡くなっていて、病院で彼女を診る医師の畔柳(森雅之)はいろいろ世話を焼いてきて変なかんじ。
房雄の方はよいとこのぼんで、事故の後の治療も自分だけ別の病院に移っちゃうし、彼の家に訪ねていっても会わせて貰えなくてちょっとやなかんじ。
そういうのに加えてとよ枝と畔柳がよいかんじになっているのがなんか気にくわなくて、居場所がなくなってきた初子はどこに向かうのかー。
三味線かオートバイか、の二択でぎりぎりしていく、のかと思ったらその辺りの掘り下げはやや中途半端、ごくふつうのcoming of ageモノで、恋愛や母からの自立を巡って、階層の段差とか戦争/男の勝手とか母の幸せなどが去来して頭きて揺れ動いてがんばらなきゃー、になっていく娘のお話し。 あと、川津祐介のどこがよいのだかまったくわからないのと、森雅之はなんもしないで一番楽なポジションなのと。
わが恋の旅路 (1961)
10月28日、水曜日の晩、シネマヴェーラの篠田正浩特集で見ました。
原作は曽野綾子の『わが恋の墓標』、脚本は寺山修司と篠田正浩、音楽は山本直純、撮影は↑と同じ小杉正雄、タイトルデザインは和田誠 - この時点で既にあの風味が。
お金持ちの宇佐美夫人(月丘夢路)との縁を断ち切って新聞記者としてスタートしたばかりの潔(川津祐介)が、溜まり場の喫茶店「朱印船」でウエイトレスの千江(岩下志麻)と知りあって恋に落ちてしまうのだが、彼女には競輪狂いのどうしようもない父親がいて、そんな地獄から抜けさせてあげよう、って富豪のぼんぼん木村(渡辺文雄)が声をかけていて、でも彼女を幸せにできるのは自分しかいない、と信じて疑わずにいたら仕事のタイミングあれこれで木村に持っていかれて連絡が取れなくなってしまう。
結婚した千江は家事とかがんばるものの木村の父(山村聰)からは認められずにストレスまみれで、そのうち事故で一切の記憶を失ってしまい潔との仲はどうなるのか、かつての愛の記憶を取り戻すことはできるのか、というこてこてのメロドラマで、ありきたりの感動に落とそうとはせず、道路とか芝刈り機などに繋いでいくところは悪くなかったかも。それが他人(外国人)の家の庭、というところもおもしろいかも。
しかし、しょうもない父親から離れられない娘=岩下志麻、その周辺をうろつく嫌らしい男ども、という構図はどうしても『秋刀魚の味』 (1962)を思い起こさせて、確かに岩下志麻の清楚な美しさはそうでしょうとも、なのだが、こういうのを見ると『戦争に負けて馬鹿な奴らが威張らなくなってよかった」(by 加東大介)けどスケベな奴らは変わらず残ったのだなあーあー、って。
11.01.2026
[dance] Hofesh Shechter Company “Theatre of Dreams”
10月25日、日曜日の午後、彩の国さいたま芸術劇場で見ました。
埼京線が最寄りの与野本町の駅に止まってくれなくて少し焦った。
イスラエル出身の振付家Hofesh Shechterが主宰するイギリスをベースとしたカンパニーの公演。現地では2024年に上演されている。休憩なしの90分。
客電がついた状態で、ジーンズ姿のひとりのダンサー(男)が客席の通路からステージにゆっくり歩いていくと、彼のために幕に隙間があいて、昇ってそこに入ると少しづつ人数を増やしながら全体では12人(たしか)のダンサーによる群舞が始まる。照明の暗い黒と青と赤、奥に向かって幾層にもレイヤーになって続く奥まで、右左で閉じたり遮っては開いてを繰り返すカーテン幕と、その奥に隙間に見え隠れしながら蠢いて重なったり連なったりしていくダンサーたち。背後ではややノイジーで工場のように圧迫感のある音(Hofesh Shechter自身が作っているそう)が壁としてずっと覆っていて、照明(by Tom Visser)も音と一緒にダイナミックに明滅して、(イメージする)夢に入っていく、夢の世界に取り込まれて閉じこめられ抜けられなくなっていく様がわかりやすく描かれる。ところどころ一列二列に並んでの止められない群舞やひとりで立ち尽くしてどうしようの不安や理不尽… 等は当然のようにPina BauschのTanztheaterを思い起こさせたりするのだが、これらみんな「夢だから」とか「悪夢だし」で片づけてしまえそうなやつかも。というかそもそもダンスというのは現実の反対側の夢や幻想がもたらすものではなかったか、と。
途中から赤いスーツを纏った3人組のミュージシャン(パーカッション、管、ギター、ヴォイスなど全員がマルチ)がステージの右奥でバッキングするようになると、ダンサーの動きにライブのダイナミズムが重なるようになって、夢の世界が外に滲み出てじわじわ圧してくるかんじになって、でもまだ夢は夢かなー、って見ていると、その流れで「さあみんな立って踊って~(日本語)」でステージ側から煽られ客電がついて、ダンサーもわらわら客席に降りてきたりふつうのライブのようになる。(ダンス見にきてあんま立ったり踊ったりしたくない派)
このまま止まらずに最後まで立って見るのはしんどいかも、と思ったらこれは終盤の入口だったようで、ダンサーたちは元に戻って座ることもできて、ただ音楽はより激しいラテン寄りのパーカッシヴなのに変わり、ええじゃないかええじゃないかの止まらないようなの(どっちみち止まっていないのだが)になって、最後は神殿のような(幕の上の飾りとか)ところにたどり着いて、たぶんもうじき目覚めがやってくるのかも、くらい。
“Dreams”というお題だけで90分を流すのはしんどいかも、と思っていたが一応ストーリー的な流れと、音楽と照明とカーテン幕をうまく使って全体の熱がうねって上がって収まっていく様を描き、これが“Theatre of Dreams”なのだ、と見せる。 強弱、揃える揃えないのバランスも含めてとてもうまく考えられたステージではあった。
迫ってくる夢の始まりから終わりまでの冷熱と明暗を叩きつける強さで一気に見せる、その強度と完成度は申し分ないと思ったのだが、どこから始まるでも終わるでもない夢にだらだら浸ったり醒めたりを繰り返し、その流れで映画館とか美術館を彷徨って仕事なんてやだー、の日々のぐだぐだを生きているものとして、あのびっちりきびきびと動いていくテンションはきついわー、とちょっと思ってしまったのだった。
無意識とかしらんけど、夢ってまずあんなふうにオーガナイズされていない、なによりも自分しか見れない、共有不能・不要のどうしようもなく隠微で腐れたしょうもないものであってほしかったの。 Pinaの「夢」がすばらしいのはそのどうしようもなく不恰好でみっともないとこにあったのだと思うし。
[film] Blue Heron (2025)
10月25日、日曜日の昼、ル・シネマ渋谷宮下の9Fで見ました。
システムのメンテナンスでずっとオンラインでチケットが取れないので窓口で買った。
カナダのSophy Romvariの作・監督長編デビュー作で、ハンガリー・カナダ共同制作。監督がヨーク大学の修士修了で作った短編ドキュメンタリー”Still Processing” (2020) – 未見- が元になっているそう。
90年代半ばのバンクーバー島で、道路脇の一軒家に車に乗った一家が越してくる。母(Iringó Réti)と父(Ádám Tompa)と小学生低学年くらいのSasha (Eylul Guven)と二人の兄弟と、他の子達より少し年長のティーンで父親がちがうJeremy (Edik Beddoes) の6人で、父は会社には行かずに家のPCでプログラミングのようなことをしていて、全体としてはとても静かな家族。両親は、子供たちの前では英語、彼らに聞かれたくない内容の時はハンガリー語で会話をする。
そのうち、家族がとても静かに見える背景には、ひょろっとしてメガネをかけてたまに薄笑いを浮かべる程度で殆ど喋らないJeremyの何をしでかすかわからない厄介な挙動、存在があることがわかってきて、万引きで捕まって手錠をかけられて帰宅したり、壁をどすどすやっていたり屋根に登っていたり、ずっとどこかに消えてしまったり。その度に父と母は口論になるので家族は静まり、医者や外部からやってきたソーシャルワーカーがいろいろ言うけど - どっかに移す“voluntary placement”とか - 原因も対策も的を得たなにかのようには思えない。
他方で、家族みんなで博物館に行ったり、暗室で写真を現像したり、水遊びをしたり、やはり静かではあるが楽しい思い出もいくつか描かれるので、どこにでもある家族の斑な思い出、不安定でも途切れず続いていく、いこうとする何かはみんなの中にある。
映画はそのトーンを変えることなく、気がつけば現代に飛んで続いていて、映像作家であるらしい女性がオンラインで療養士や専門家の意見交換を聞いたり、アーカイブの箱を開けてみたり、そのうちその中心にいるのが成長したSasha (Amy Zimmer)であることがわかる。彼女はJeremyがどうしてあんなふうだったのか、なにが彼をあんなふうにしたのか、あの時、家族はどうすればよかったのか、自分にできることはなかったのか、をいまだに踏みしめるように追っていて、そのうち彼がもうこの世にはいないことも明らかになるのだが、でもそれでも… という静かな思いに彼女とカメラは引っ張られているよう。
家族みんなで博物館に行ったときに聞いたBlue Heron(アオサギ)の大きくなるとどこかに飛んでいっちゃいます後はどうなることやら、という、その生態、何を考えているのかまったくわからない顔(サギ類って本当にそう)がJeremyに重ねられて、どうしたものか、どうすることができようか、が改めて浮かぶ。アオサギ、京都にいくとよく見るけど、あんたいっつもそんなふうで、なに考えてんの? しかないよね。
小さい頃の不安定だった家族との思い出を撮る、成長してから振り返る、というと”Aftersun” (2022)を思いだしたりもするが、あそこまでエモや情愛に溢れていないし、Paul Mescal(的な人物)が引っ張ったりするわけでもない。淡々と振り返って、あれこれ重ねていくだけ、だけなのに/だけだから、助けてあげられなくてごめんね、また会いたいよ、がじんわり迫る。でもアオサギはどこかに飛んでいっちゃった。
JeremyはPearl Jamの曲から取ったのかしら? って少しだけ。