4.16.2026

[log] London - others part 3

ロンドンの最後の方に見てまだ書いていなかったやつなど。これで終わり。

Orwell: 2+2=5 (2025)

3月29日、日曜日の晩、Barbican Cinemaで見ました。

これがロンドンで見た最後の映画で、ふつうの新作はいろいろありすぎて決められず、BFIではFlareの映画祭でそれどころじゃなさそうだし、この辺になった。映画については見ようと思えばどこでも、の感覚があるのでー。

制作、監督、脚本はJames Baldwinのドキュメンタリー”I Am Not Your Negro” (2016)のRaoul Peck。 Damian LewisがGeore Orwellの声を含めたナレーションをやっている。

George Orwellの小説“Nineteen Eighty-Four” / “1984” (1949)を執筆した当時のOrwell自身についてのドキュメンタリーと、何度か映画化されてきた小説の大枠の紹介と、その内容が予言していた現代の独裁者(いっぱいいる)、飼いならされてしまう官僚や市民たち、そのツールとしてのAIの台頭などについて、そんなに緻密に追っているようには見えないのに、あまりに今にフィットしていて戦慄、のさまを並べていく。タイトルの”2+2=5”は、上が「2+2=5だ」って言ったらそれは2+2=5になるのだ、なるよな? という管理統制の理不尽を示す例で、いまやシャレでもなんでもなくなっていることは衆知のとおり。

George Orwellって、日本では”1984”と“Animal Farm”くらいのイメージだと思うが、英国ではそれに留まらない幅広い著作がある国民的な作家であることをペンギン古書収集活動で知ったりしたのだが、幼少期の彼やビルマで警察官をしていた頃のこと、晩年のジュラ島での生活のことなども含めて紹介されると、改めて取組みたくなるのと、繰り返し挿入される過去の”1984”の映画化作品で主人公のWinston Smithを演じたPeter CushingやJohn Hurtの像と、お話しとしての怖さ – ここの怖さやばさって、相当普遍的なものになっている気がするのだが、それなのになんで? というのがぞわぞわ来て、ああ”2+2=5”をソフトに強要されて誰もなんとも思わないあの国のあの社会に戻されるんだわ、って改めてうんざりぐったりした。


Michaelina Wautier

3月29日、日曜日の午後、Royal Academy of Artsで見ました。

2020年にNational Galleryで企画展示が組まれたArtemisia Gentileschi (1593-1652)と同時代を生きたベルギー(当時スペイン領)の女性画家Michaelina Wautier (1614–1689)の特集企画。Artemisiaがそうだったように、絵描きとしての技量が優れていたが故に作品が家族の男性(Artemisiaの場合は父、Michaelinaの場合は兄)に帰属するものとされてしまい、結果として美術史のなかに埋もれていた、という。 ほかにもこんな女性たちがどれだけあるのか、って思うが、とにかくこうして見れるだけでも。

この時期の絵画の技術的な巧い下手はわからないのだが、並んでいる肖像画も話題になっている”The Triumph of Bacchus” (1655–59)も絵としての迫力は十分で、これなら男性作家の間に埋められてしまうの無理ないかも、とか、他方で肖像画の髪の膨らんだかんじとか表情の柔らかさは、やはり女性のそれかも、とか。いやそんなことより男性・女性ではなく、Michaelina Wautierという画家との出会いを歓ぼうではないか、って言いたくなった。

Rose Wylie The Picture Comes First

上でMichaelina Wautierを見た後に、2回めのRose Wylieを見る。

彼女と最初に出会ったのは2018年、Serpentine Sackler Galleryでの”Rose Wylie: Quack Quack”で、後で図録を取り寄せるくらい好きになって、昨年、ベルンの Zentrum Paul Kleeでの”Rose Wylie. Flick and Float”で再会して、今回が3度目。何度見てもなんとも言えずすばらしい後ろ頭の魔法。

Royal Academyの1回めに見にきた時に、限定でサイン入り図録を売っていたのを入手できたのは嬉しかった。


Fairy Tales

3月30日、月曜日のお昼にBritish Libraryで見ました。

British Libraryが”Fairy Tales”をテーマにした企画展示をやるのであれば、古今東西、少なくともイングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドの辺りのいろんな収蔵資料をざーっと並べてめくるめく多層多重世界のパノラマを見せてくれるに違いない、って期待して行ったら、子供と親向けに見て楽しんでもらう体験型のアトラクションに近いやつだった。 アリスとかアラジンとか竜とか魔物、それなりのスターたちと元の文献などは揃って展示されているのだが、それよりも着せ替えしたり潜りこんだり隠れたり杖を振り回したり、童話やおとぎ話の世界はこういうもんなんだよ、っていうのを一通り体験できるようになっていて、大人も子供も遊園地のように楽しんでいて、彼らにとっては遊園地だろうが、自分にとってはまるで動物園だった。

その晩に地獄に向かって飛びたつことがわかっていたので、最後にせめてファンタジーを、と思ったアテは外れて、場内にはやかましいのに疲れた人はここから抜けれます、の矢印もあったりして、そこまではしなかったけどちょっと残念だった。


最後のお買い物(でっかいの)はふたつ。どちらも古書で、古書と言っても手が届かないすごいのではないし、収集家のひとから見たらどうってことないやつなのだろうが、自分が持っているなかでは一番高価なやつでどうしようか3ヶ月くらい考えていた。 これらを含む6冊くらいの宝物は船荷には乗せずに手持ちで運んで、まだ包みを解いていない。中で腐ったりしていませんようにー。

4.15.2026

[log] London - others part 2

ロンドンの最後の日々 – でないものも含まれるが - に見たあれこれを。

Turner & Constable (2026)

3月22日、日曜日の晩、CurzonのVictoriaで見ました。
Tate Britainでの展覧会 – “Turner & Constable”の展示内容を補足してくれるドキュメンタリー映画。
どこのどなたがやっているのか知らないが、Tateとかで大きな展覧会があると、”Exhibition on Screen”という展示内容を補足してくれる1.5時間くらいのドキュメンタリーが作られて、映画館でもものすごく限定で公開されたりする – たぶんどこかの配信だとずっと見れるのかも。(日本だと日曜美術館?)

1775年生まれのターナーと1776年生まれのコンスタブル、Royal Academy of Artからほぼ同時期に世に出た19世紀初の英国風景画の巨匠、互いを意識していたに違いない同時代のふたりの作風や表象の共通点や相違をキュレーターや現代のアーティストが明らかにしていく。

展覧会の構成に沿って、最初のコーナーにあるふたりの若い頃の自画像から入って、ふたりの絵画の明らかに異なる点を強調した後に、それぞれの意匠が時代を経てどう変わって、違っていったのかを追っていく。

時代背景のようなところでは、ナポレオン戦争によってヨーロッパ、特に18世紀のグランドツアーが廃止されたことで、イギリス国内の風景に向かわざるを得なかった、それがふたりの初期の作風や方法論に影響を与えた、というキュレーターによる指摘が興味深かった。それでも、それにしてもあんなふうに違ってくるものなのかー。

これを見た上で、3/22にもう一回、Tate Britainに行って実際の展示を見たのだが、改めてコンスタブルの画面手前の傷と奥に広がっていく遠さ、ターナーの渦を巻く黄色について確かめた。


Tracey Emin - A Second Life

3月22日、Tate Modernで見ました。
新国立美術館のYBA展でも(たぶん)取りあげられているTracey Eminの回顧展。

ロンドンの美術館やギャラリーを回っていると、彼女の作品は本当にいろんな場所、テーマの企画でちょこちょこ見ることができて、どれも傷だらけのぐちゃぐちゃで痛ましいなー、と思いつつ、そんな痛みこそが彼女の作品のコアにあることはわかっていたので、今回の回顧もそれらに晒されたしんどいものになるのかも、と思っていたらそんなでもなかった。

若い頃のどろぐしゃの恋愛遍歴から中絶、がんの宣告〜治療まで自分の身体に起こったことすべてを曝け出してぶちまけるデッサン、手紙、映像、キルト、血だらけだったりほぼゴミだったりのオブジェ、散らかりまくりの部屋、そして絵画まで、ハッピーで穏やかに眺めていられる作品はほぼなく、彼女の身に降りかかった困難や苦悩に引き摺りこまれ匂いを嗅がされるような。でも他方で、それらを離れて眺めているような感覚 – それは彼女が自身に向きあっているそれでもあるような – があって、タイトルである”A Second Life”というピンクの流線形のネオンと共に、次のステージが見えてくるようだった。

90年代の、誰もが「リアル」であろうとして、べったり共時の共感を求めてきたあのうっとおしい時代を抜けてここまで来た、来させたもの、それに要した時間ってなんだったのか、ということを改めて考えたり。


Lucian Freud: Drawing into Painting

2月14日、National Portrait Galleryで見ていたやつ。

Lucian Freudの、精緻にみっしり描きこまれた肉の絵画(Painting)、その中心にあるいろんな人物の描写、構成は、どんなスケッチ、デッサン、落書き等から出来あがっていったのかを見ていく。幼少期のクレヨン画から美術館の古典絵画を模写したものまで、彼の創作のプロセス、その秘密を知る、という点では興味深いのだが、そんなに明確にBefore → Afterが示されているわけではないので、ドローイングはドローイングで雑多でおもしろく、絵画は絵画でブリリアント、でしかなかったりするのが少し残念だったかも。あと、Guardian紙のレビューにもあったように、Freudにしてはそんなにすごい絵が並べられているわけではない、というところもちょっと惜しいかも。 Freudの熱狂的なファンなら別かもしれないけど。


Catherine Opie: To Be Seen


3月30日の昼、帰国する前にNational Portrait Galleryで見ました。

アメリカの写真家Catherine Opie (1961-)の肖像写真を中心とした、イギリスでは初となる規模の企画展示。

90年代以降に撮られた陰影強め、皺や傷跡、タトゥーもはっきり深く濃く定着させる絵画の強さをもった肖像写真たちで、被写体は自分の家族や友人、ロスのクィアコミュニティやサーファー、アウトサイダーたち、彼女自身の丸い大きな背中に彫られた、子供の描いた家族の絵 – 彫り傷で血が滲んでいる “Self-Portrait/Cutting” (1993)も。彼らははぐれ者ではなく、写真の中心に、”To Be Seen” - 「見られるべき者たち」 として堂々とそこにいて、像をつくる。ダイバーシティなんて当たり前のことなのに、と明確には訴えていないがトランプ政権に対する批判として写真が、というよりそこに映りこんだ人々が強く語りかけてくるような。

写真家として彼らにできることって何かあるのか、と問いながら写真の可能性を掘っていくような。


ここでまた切る。あとひとつくらい書けるかしらん。

4.14.2026

[log] London - others part 1

ここからしばらくはロンドン最後の方の日々で見て、ぜんぜん or 十分書けていなかったのを並べていきたい。

Schiaparelli: Fashion Becomes Art

V&Aで3月28日から始まった展示で、3/29の土曜日に見てきました。 Elsa Schiaparelli (1890-1973)の回顧展。

ダリやコクトー、ピカソやリー・ミラーといった同時代のアーティストとのコラボ、ロブスターや電話機や骸骨やいろんな動物たちを服やアクセサリーに織り込んで服飾をアートやオブジェの域まで高めた、自分にとってはデザイナーというよりはアーティストに近いイメージの人で、見どころもその辺になるのか。アクセサリーやアーカイブも含めて約400点が出ている。 展示の後半には今のSchiaparelliのCreative DesignerのDaniel Roseberryによるブランドの現在をうまく散りばめて、死んでいないのだアピールもあったり。

イタリアに生まれ、20代でロンドンに来て、30代で20~30年代のパリに移り住んで、ライバルとなるCoco Chanelと出会い..  展示ではあの時代のパリの空気感が充満する前半がすばらしいのと、彼女の服を身に着けた映画スターたち – Katherine Hepburn, Marlene Dietrich, Joan Crawford, Josephine Baker, Diana Vreelandらの肖像がたまらない。あの時代の彼女たちが着ていた、という強さ。

前の日に見た”The Antwerp Six”の対極にあるようで、Coco Chanelがやったことと並んで、これもまた革命のようなものだったのかもしれない、とか。MET Galaを始め、レッドカーペットでの奇抜さを競うあれらの素地を作った、という功績。これらって作る人、着る人は楽しそうで、見る側はよくもまあ、とか着るの面倒くさそうだな、になって、そんな風に見る - 常に纏うファッションと飾るアートの境界を考える/考えさせるような形でのファッションのありようを作った人、ということでよいのか。


Seurat and the Sea

3月22日、Courtauld Galleryで見ました。

Georges Seurat (1859-1891)は、『グランド・ジャット島の日曜日の午後』 - “A Sunday Afternoon on the Island of La Grande Jatte” (1884-1886)の、あのでっかいやつ一枚で十分と思っていたのだが、昨年9月のNational Galleryでの企画展 - “Radical Harmony - Helene Kröller-Müller's Neo-Impressionists”がすばらしく、少し認識が変わって、点描というスタイルは結構すごいのでは、って思った。

そういう流れを受けての、Seuratが描いた海、海辺の絵を集めた展示。
Seuratは31歳の若さで亡くなるまでに45点の絵画を描いていて、ここではそのうち英仏海峡の海を描いた風景画 - 23点の油彩と3点の素描が展示されている。 こうやって並べられているものを見ていくと、ポストも含めた印象派とは全く異なる視角で光や知覚に関わる可能性を追求していたことがわかる。光やモノが網膜上に置かれるその「印象」ではなく、物理的な質量感やそれを構成する粒粒として迫ってくるその力学を追っていたということが、岸壁や海面の隆起や反射と共に見えてくる。 それは印象派の「印象」としてざっと一瞬で把握できるものではなく、じーっと見ていると静かに波打つように形作ってくるようにやってきて、そんなふうに海が迫ってくるさまが圧倒的で、わーって。

時間があったらもう一回見に行きたかったのだがー。


A View of One’s Own: Landscapes by British Women Artists, 1760-1860

Courtauld Galleryの小さな展示室でやっていた小企画。
今年はTate Britainでの”Turner & Constable - Rivals & Originals”という、なかなかすごい、歴史に残るような展覧会が開かれた年でもあったが、こういう展示もあってよいの。

18世紀から19世紀にかけて、男性画家ばかりが風景画を描いていた頃、同様に風景画を追求していた女性画家もいて、そんな10人を紹介している。油彩の大きな絵はなくて、サイズも小さめの水彩画、ペン画、素描が中心だが、どれも素敵。荒ぶる自然のなかにあって迫ってくる風景、というよりは穏やかで虹が出ていたり、楽園のような広がり - 迫ってくるというより奥に広がっていく - のなかにあって、そうだよなー、っていうのと、作品がずっと息子のものとされていてこないだ改めて発見された(ひどい話)Elizabeth Battyとか。


ここで一旦きる。 だらだら書いていこう。
 

4.13.2026

[log] Antwerp - Mar 28 2026

3月28日、土曜日に日帰りでアントワープに行ってきました。

本帰国の前々日になーにをやっているのか、なのだが、最初、たしか1月中旬頃に”The Antwerp Six”の企画展示がある、というのを見て、あー行きたいなーってなり、でも開始日は3月27日からで、もし行けるとしたら28の土曜日だけよね、ところでEurostarだったらどんなふう? って時間と値段(変動する)を見てみたらそんな高くなかったので、えいっ、て取っちゃって、後で展覧会のチケットも取って、どうしてもだめだったらしょうがない、にしておいたら結果どうにかなった。

不安要素は、Eurostarでブリュッセルまで行って、そこから約1時間、電車でアントワープに向かうのだが、週末の電車は平気で遅延やキャンセルが起こるので、たどり着けない戻れないの事態になることだった。例えば戻りのEurostarに乗れなくなって現地一泊とかになったらまじでとってもやばい。(だからふつうの子はそんなことしないのね)

アントワープは2度目で、前回はアムステルダムから行って大聖堂とか主なところは行っていた、と思っていたのだが結果としてはやっぱり足らないかんじになったかも。

The Antwerp Six @ MoMu - ModeMuseum Antwerpen

昼の12:00のチケットを取っていて、Eurostar →電車→メトロと乗り継いで到着したのは12:15くらいだった。よかった。

アントワープ王立芸術学院のファッション学科で学んでいた6人が1986年のBritish Designer Showでインターナショナルデビューをしてその名で呼ばれるようになってから40周年を記念した、アントワープでは初となる彼らの、グループとして、というより各デザイナー全員を束ねた回顧展。今みたいにファストファッション/ハイブランドの両極のビジネス軸でしかファッションが語られなくなるより前、80年代のロンドンを向いた若者の誰も彼もがカラスの真っ黒ばっかりだった時代にThe Antwerp Sixとして、あるいはデザイナー個人の名で呼ばれた彼らは、革命などは起こさなかったのかもしれないが、とにかくかっこよかった。 あの時代にかっこいいー、って言われるのって、本当にかっこよかったんだからね。 というのが個人的な概観。

最初の方のコーナーには、ものすごくでっかいファッション年表とその頃流行ったもの、などがべたべたかつ詳細に網羅されていて、追っていったら軽く1時間使いそうだったので、この時点で図録購入をなんとなく決めて先に。

時代を概観したあとで、6人個々の展示コーナーを順に巡っていくかんじ。
Dirk Bikkembergs(スポーツ中心のメンズ)→ Walter Van Beirendonck(かわいい) → Dirk Van Saene(ぐるぐる回っていくコンベアー仕掛け)→ Dries Van Noten(やっぱりすごい)→ Marina Yee(ファッションではなく、彼女が暮らしていた部屋の再現。ちょっとしんみり) → Ann Demeulemeester(やっぱりかっこいい)、など。

よくもわるくも統一感ゼロでばらけていて、そりゃそうだろうなーになるのだが、やはり際立ったのはDries Van NotenとAnn Demeulemeesterのクラシックの風格とはまた違う、永遠のモダーンとしか言いようのない輝きなのだった。あの当時の音がいつ聴いてもいつまでも古くならないのと同じような艶と鋭さと。

始まって2日目だったせいかものすごく混んでいたが、時間に余裕のある人は1日たっぷりいられるのではないか。

図録は€70で結構重くて、船荷を出した後なのでこれを日本まで持って帰るんだぞそれでよいのか?(って後になって思った)のだが買っちゃった… (いま、ビニール剥がしてない状態で床に転がっている)

他の企画展示として、パレスチナの民族衣装を並べた”Embroidering Palestine”があった。軍服ではなく、女性や子供たちの服。こんなに素敵な布や服、これらを纏って継いできた文化のある人々を… って改めて。

そして常設展示コーナーの充実ぶりも見事だった。徒に時代を遡らず地域を広げず、現代ヨーロッパを中心としたテーマ別展示のシャープなこと。

お昼はお芋のフライをかっこんで(ここのフライはなんでおいしいの?)から、美術館ふたつ。


Koninklijk Museum voor Schone Kunsten Antwerpen

アントワープ王立美術館。前回来た時は改装中だったのか、今回が初めて。MoMuから20分くらい歩いた。
モダンサイドと古典サイドがあって、最初にJames Ensor作品が並ぶモダンの方から入って上に昇って、しかしどういう設計なのか階段だらけでなかなか古典の方にいけず消耗した。あんな入り組んだ構造、美術館にはいらないー。

古典サイドは、Rubensの諸作はもちろん、Jan van Eyck『泉の聖母』 (1439)とかJean Fouquet 『聖母子と天使たち』(1452)とか、冷たいんだかあったかいんだかわからない聖母や天使がうじゃうじゃいてたまらなかった。


Museum Plantin-Moretus

王立美術館から再び20分歩いてプランタン=モレトゥス博物館。

16世紀の出版業者クリストフ・プランタンの家屋と印刷工房、中庭など一式がプランタン=モレトゥスの家屋・工房・博物館複合体としてそのまま博物館になっていて、これらがまるごと世界遺産に指定されている。世界最古の印刷機やそこで使われた印刷用活字一式が一揃いある、と。

部屋じゅうに紙の印刷物と紙ごみを積みあげ、埋め尽くし、これらに潰されるなら死んでもよい覚悟系の(たぶん)変な宗教にやられてしまった者にとって、そういうのを世界中に広めた起源のひとつとなる館なので、お参りしないわけにはいかない。昔の家屋なのでところどころ暗く、1階2階があって不思議な形に入り組んで、木がみしみしぎしぎし鳴って、頭がおかしくなりそうになったら中庭にでて一息ついたりした、のだろうか。稀覯書もいっぱい(そりゃあるだろ)あって、これらに比べたらまだまだ、って思ったので、なんの効果もなかった。なにを期待していたんだろうか。

ここまでずっと歩いて結構疲れたので、地下鉄の駅までゆっくり歩いて戻ったのだが、途中に世界中の雑誌を集めた書店(なんておそろしい)があったり、Demianていうなかなかの古書店があったり、ブリュッセルもアントワープも書店は相当にやばいのだった。

帰りは問題なく帰れた、というか電車の椅子に座ってからの記憶がほぼないくらい。

4.12.2026

[theatre] Broken Glass

3月27日、金曜日の晩、Young Vicで見ました。
これがロンドンで見た(今のところ)最後の演劇となっている。

最後になにを見ようか、の候補はいっぱいあったのだがあんま考えても時間は過ぎていくばかりだしそもそも考えている時間ないしで、えいっ、って決める。この日はロンドンの勤務場所の最後の日でもあったので、もう少し明るいのにすれば… という声もあったのだが、そんな場合か、って。

Young Vicにしたのはここに面した通りの反対側に演劇関係の本中心の古書店(その奥にはリハーサル用のスタジオもあるみたい)があって、ここににゃんこがいるから、でもあった。猫にお別れを言いたかったの。

原作 (1994)はArthur Millerの同名戯曲で、初演も同年。舞台は客席に向かってせり出している長方形の舞台の三方を囲んで見下ろす形。奥にはドアとその向こうはブースのような廊下が通っている。メインのスペース - 事務所のような待合室のようなリビングのような - には大量の新聞や雑誌 - 当時のではなく現代の - が積みあがり、散らかっている。演出はJordan Fein。休憩なしの約1時間50分。

1938年の11月、ドイツ全土でナチスによるユダヤ人による排斥・襲撃が表面化したKristallnacht - the Night of Broken Glass - の報道記事がアメリカでも出た頃、ブルックリンに暮らすユダヤ人夫婦 - Sylvia Gellburg (Pearl Chanda)とPhillip (Eli Gelb)がいて、Sylviaは突然歩くことができなくなってしまう。

怪我をしたわけでもぶつけたわけでもなく、明らかに心因性の、おそらく一時的な障害と困難、その要因や対処を巡ってPhilipと医師 (Alex Waldmann)が互いの意見や憶測をぶつけ合い、でも正解や正しい対処法が見つかるわけでもないしSylviaは快方には向かわないのでPhilipはことあるごとに誰に向かってなのかぶち切れ激昂し、激しい怒鳴りあいにまで発展したりして、まずはそんな外面だけはよい夫の日常的な抑圧と支配がベースにあるのだな、というのは容易に推測できる。

その上でSylviaの抱えこんだ疑念や不安 - ナチスはなぜあんな酷い行動に出たのだろうか、なぜあれを誰も止められなかったのだろうか、それはアメリカのブルックリンに暮らす我々のところにも波及してこないだろうか、そうならない保証はどこにあるのか、そうなった時にどこに助けを求めるべきなのか、ユダヤ人コミュニティとして行動を起こすべきではないのか、なんで誰も何もしないで平気でいられるのか、などなどがじわじわと表に出てきて、こうして提示される不安 - 踏みだすことも、逃げることも、闘うことも、こんなふうに動けなくなることすら - できない/許されない - そのありようは彼女の身体を縛って覆って、その姿は客席という安全圏からそれを眺めている我々「観客」にもその態度や認識を問うてくるようだった。

そして当然のように頭にはガザで起こっていることが浮かんできて、それはArthur Millerが得意としてきた社会的な衣を纏いつつ顕現してくる有害で邪悪で狂った男性性、といういつものテーマをどこかで薄めてしまっているのかも知れないが、それくらいの強さで今の我々を傷つけているのだと思うし、なによりも今この時にだって人が殺され続けているのだ、ということを否応なく突きつけてくる。地理名としての「ガザ」なんて一言も出てこないのだが。

そしてその中心にいるふたりの、自分ゴトと他人ゴトの境を見境なく切り裂いていく切迫した演技はすばらしいと思った。

4.10.2026

[theatre] Les Liaisons Dangereuses

3月26日、木曜日の晩、National Theatre内のLyttelton Theatreで見ました。
まだPreview中だがそんなことは言っていられない。

ロンドンでいろんな劇場に行ったが、なんだかんだ、ここのLyttelton Theatreがサイズも含めて一番見やすくて好きだったかも、ってしみじみした。

原作はラクロによる同名の書簡体小説(1782)- 『危険な関係』。

1988年のStephen Frears監督による映画 - ”Dangerous Liaisons”の際にも使われたChristopher Hamptonによる舞台用の脚色(1985 - 初演も)をベースにMarianne Elliottが演出している。前日に続いてこれも休憩入れて約3時間。

Glenn Close, John Malkovich, Michelle Pfeiffer, Uma Thurman, Keanu Reevesらが出演した映画版は役者たちの演技が誰も彼もすばらしく展開も目が離せなくて何度でも見れるくらい好き。
今回の舞台版ではGlenn Closeが演じたメルトゥイユ侯爵夫人をLesley Manvilleが、John Malkovichが演じたヴァルモン子爵をAidan Turnerが演じている。

舞台の上方、左右奥の背景には官能的な女性の絵(日本だったら春画か)がでっかく帯のように広がり囲んでいて、その下方はミラーになって歌謡ショーのステージのよう。舞台は舞踏会のフロアだったりいろんな衝立てやドアが右左から運ばれてきたり、冒頭は正装したモデルのような男性たちがゆっくりと歩きまわる中、奥の扉からゴージャスなドレスを纏った女性たちがわらわら現れて見事な群舞を披露して、そこに先の男性たちが捕食するかのように群がる。その中心にいるのが深紅のドレスのLesley Manvilleで、見るからに女帝の貫禄で周囲を圧倒し、みんなが平伏している。

ストーリーは、メルトゥイユ侯爵夫人が、かつての愛人でもあったヴァルモン子爵を操って、貞淑なトゥルヴェル夫人(Monica Barbaro)と若くて純情なセシル (Hannah van der Westhuysen)を誘惑させて、みんな揃って転げ落ちていく様子を高みの見物して楽しもうとする。原作の書簡体小説の受けて返しての一拍入るその感覚はうまく生かされていて、場面場面の展開を追うのが楽しくて、気が付けばトゥルヴェル夫人は泥沼に落ちて、セシルは天に舞いあがって、それをどんなもんだい!って腕組みするヴァルモン子爵と、更にそれを高いところから眺めてにやにやするメルトゥイユ侯爵夫人ができあがる。

すべての立ち位置が揺るぎなく立ちあげられて彼らを身動きできないようにする前半までと、これらの縛り縛られが始めた側の思うようにはいかない「危険」なものへと変貌し、解れたり崩れたり手に負えなくなっていくさまを描くのが後半で、セシルは妊娠してしまうし、ヴァルモン子爵は狂っていくトゥルヴェル夫人を本気で恋してしまい、それを察知したメルトゥイユ侯爵夫人は嫉妬の沼に落ちて…

前日の”Romeo & Juliet”の死をも恐れずに天に昇ろうとするピュアな彼らと比べると(比べるな)、そこから約200年が経っているとは言え、なんというどろんどろの地獄絵図であろうか、って呆れてしまうのだが、これはこれで十分に生々しく、ゴージャスなセットやコスチューム、時折挿入されるダンスシーンも含めて、死と隣り合わせの恋愛遊びのデンジャラスな、でも知らんがなの刹那に溢れていてたまらなかった。

映画版でKeanuが演じたヴァルモンに決闘を申し込むセシルの許嫁の彼だけ、もうちょっとぴりっとかっこよかったらなー。

それにしても、下着1丁になって踊ったりするLesley Manvilleのものすごいこと。彼女のお芝居は2018年に”Long Day's Journey into Night” - 共演はJeremy Irons、2024年に”OEDIPUS” – 共演はMark Strong、と見てきたが、今度のが一番強烈だったかも。

4.09.2026

[theatre] Romeo & Juliet

3月25日、水曜日の晩、Harold Pinter Theatreで見ました。
今回の滞在期間中に見た演劇のうち、5本目となるRomeoとJuliet。なんか流行っているのだろうか?

“Stranger Things”のSadie Sinkと映画”Hamnet” (2025)の劇中、グローブ座で上演される”Hamlet”でHamlet役を演じていたNoah Jupeの競演。 原作(1596)はShakespeare、演出はMark StrongとLesley Manvilleによる”Oedipus”がおもしろかったRobert Icke、設定やコスチュームは現代のそれになっていて、タイトルの”&”はハートマークを模していて、客層もやはりたいへん若い。それもあるのか上演前からスマホ撮影に対するチェックと指導は厳しめ。 休憩を挟んで約3時間。

配役は若いぴかぴかのふたり vs 汚れて醜い一族の大人たち、が強調されているようで、シンプルな黒の背景にふたつの勢力の対立構造がざっと紹介された後、中央に置かれた大きな白いベッドの布団からJuliet (Sadie Sink)がひょこっと顔を出してふぁーって気持ちよさそうな伸びをすると、それだけで客席から溜息がもれたりする(Paddingtonミュージカルの登場シーンと同じ)。そして少しの間を置いて、同じベッドからRomeo (Noah Jupe)も姿をあらわす。場所は別々であっても、そんなふうにどこかでなにかが同期している予感のようなものがふたりを近づけていく。

舞台の上にはデジタルの時計板が表示されていて、前日の土曜日頃~キャピュレット家でふたりが目線を交錯させる日曜の晩からふたりが遺体となって発見される水曜日の朝まで、たった4日間の時間を刻々と刻んでいく。で、場面によっては同じシーンの時間を巻き戻して、もしこの場面がこう進行していたら… という仮設定シーンも重ねて上演されたりする – 例えばもしあの晩ふたりが出会わなかったら、とか。でもこの悲劇には関しては、どれだけの「もし」を重ねたとしても、誰もが最後にああなってしまうことを知っているし、それ以外の結末なんてありえないし、みんなそれを見にくるものなので、あんなふうにもしもあの時… を重ねていくことにどんな意味があるのか、はちょっと思った。(ひとりひとりが後でしみじみ振り返って想像すればよいことでは - 実際にそうするし - とか)

ただ、これをやることで、ふたりのあの出会いがどれだけの奇跡の上に重ねられたとてつもない奇跡であったのか、はくっきりと強調されていたかも。

光と闇をコントラスト強めに交錯させていく演出とライティングは、ふたりが相対するやくざでバカでしょうもない世の中やそこに潜むガサツな大人たちを劇画のような暗さのなかに浮かびあがらせ、その反対側でまばゆい、止まらない愛を辺りかまわずぶちまけていくふたりの姿を照らして、近づいてくる最後の時までの切なさ辛さときたらたまんなくて、ふたりはそれに応えるかのように羽を目一杯広げて飛びたとうとして、その眩しいことったら。

これまで見た同作の翻案ものとしては、やはりBaz Luhrmannの映画版 - “Romeo + Juliet” (1996)のClaire DanesとLeonardo DiCaprioの、あのふたりを思い浮かべてしまう。グランジの泥のあとに現れた彼らの瑞々しさと、それに続くケミストリーと、それが壊されていく、でもぜったい壊されないが故の痛みがどこまでも伸びていって、トラウマになりかねないやつ。

あの映画ほどの悲痛なかんじはなく、他の舞台にあったような悲劇一直線の生真面目な暗さもそんなになくて、とにかくふたり一緒にいられれるのなら、あとはなにもいらない! のつんのめった明るさがふたりをたったふたりにする。それだけで十分、になってしまう、そんな舞台だった。Sadie Sinkの輝きを見てほしい。


Bruno DumontのRomeo and Julietにインスパイアされたという新作、見たいような見たくないような…