4月16日、木曜日の夕方、紀伊國屋サザンシアターで見ました。
ロンドンで演劇っておもしろいかも、と思うようになり、勉強したいかも、って2年3ヶ月の滞在中に178本見た(映画の方は877本見ていた)。せっかく火がついた、と思っているので、日本でも見ようと思ってまずはこのあたりから。
オンラインでチケットを取ろうとしたところ公演は平日のマチネが多くて、夕方回の開始時間が18:00って.. でひいて、前売りで取るのは難しいか、って電話して当日券があることを確認してシアターで取ったのだが、後ろのほうはがらがらで、なんか勿体ないな、と思った。ライブもそうだけど、開始時間がこれだと(ずっとそうみたいだけど)会社勤めの人とかには根付いていかないよね。(接待とかには向いているのか?)
原作は三遊亭圓朝の古典落語「死神」。元ネタは19世紀のグリム童話とイタリアの歌劇で、どん底の主人公のやけくその行動が地べたから有頂天まで、生と死の境を跨いでいくジェットコースター芝居で、一人語りの落語としておもしろいのは言うまでもないが、演劇にしたっておもしろいに決まっている。 脚色・演出は倉持裕。
最初は通りからみた長屋の並びで、主人公たちが戸を引いて中に入るところで奥が自動でぐるっと広がったり回ったりする。長屋から地獄の入り口まで繋がっていて、語りの調子に応じて自在に滑らかに伸びたり縮んだり。
遊び人の八五郎(牧島 輝)はその日も遊んで朝帰りで、玄関で待ち伏せしていた妻のお滝(樋口日奈)といつものように口論になって、こんな状態じゃ子供も家庭もあったもんじゃないし、ってグチられて隣の子沢山の夫婦まで出てきてわーわー言うので嫌になってもう死のう、って橋のほうに歩いていくと死神(水野美紀)にぶつかって、自分のノルマ達成でうんざりの死神は死にたいって言いながら死ねない八五郎を使ってうまいことやってみるか?って持ちかける。
病に臥せった病人の枕元に死神がいたらその人はもう助からない、足元にいたら助かる見込みがある、死神を自分の目で見ることができる八五郎を使って、助かる見込みのある病人を生き返らせることができれば、死神にとってはノルマを着実にこなせるし、八五郎を医者にしちゃえば評判の名医にできるからwin-winじゃん、て、生き返らせる呪文を教えてシャバに放つ。
こうして長屋で(ニセ)医者の表札を出しておくと旦那様が病から回復してくれないという越前屋の番頭が現れて、藁にもすがる思いで、っていうので、現場に行ってみると死神が足下にいたので決めた通りにやってみたらいきなり立ちあがってウナギを食べ始めたのでおおってなり、八五郎は名医としてたちまち評判になって小金持ちになる。
でももともとの浪費好き博打好きは治らず、あっというまにすってんてんに転がり戻ってやばい、ところに再び臥せった大旦那の件が来て、でも今回ばかりは死神が枕元にいるのでどうすることもできず、でもそこをなんとか、って大金を積まれたので、ちょっと企んで死神をだましてやったらうまく生き返らせることができたのだが、あたまに来た死神が…
途中に落語家の立川志の春(複数の役も演じる)がそこまでの成りゆきを落語調でサマリーしてくれたり、歌謡曲ふうの歌唱シーンが入ったり、全体にちゃきちゃきよいテンポで楽しくわかりやすく、八五郎の転落とそれを操る死神の柔い関係を追っていく。
八五郎はもちろん、死神も万能な神というよりそれなりに苦労しているふつうの女性ぽくて、そんなふたりの軽いやり取りが生死や人の運命を軽々と操っていって、最後には自分自身が、という転換、脆い境界線にいるというおもしろさ。落語のぷつん、と切れて放り出されるオチのあっけなさもよいが、アンサンブルの果てに自分が誰それだったら..? がじんわりと来るこの劇も悪くない。
生が死神の座り位置とか蠟燭の灯で簡単にぽん、て消えてくれたりするのに、日々実際に生きて転がっていくのはなんでこんなにうまくいってくれないのかー、っていうあたりが後から。
最後の蝋燭のシーン、グローブ座のSam Wanamaker Playhouse(蝋燭シアター)でやったら臨場感が出ておもしろくなっただろうにー。
4.23.2026
[theatre] 死神
4.22.2026
[film] Sound of Falling (2025)
4月18日、土曜日の午前、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。
ドイツ映画で、原題は”In die Sonne Schauen” - 直訳すると「太陽を見つめて」なのだが、邦題は英語題の方に繋がる『落下音』。
2月にロンドンで上映されていた時に見たかったのだが、2時間半の上映時間が無理だった1本。
監督と共同脚本はMascha Schilinski。2025年のカンヌでJury Prizeを受賞している。
なんのキャプションも出ないので、最初はちょっと混乱するが、ドイツ北東部の中庭を囲む建物に暮らす一家一族の、4つの時代 - 1910年代、1940年代、1980年代、現代 - に分かれたいろんなエピソードがノンリニアで交錯していく。語り手も時代によって、エピソードによって分かれているし、映像のトーンや明度も、誰が誰を、どの地点から見つめているかによって結構ばらけていて、構成とか成りたちを把握するのにちょっと時間がかかる。他方で、そういうのを気にせずイメージをてきとーに追っていっても、なんとなくのゆらゆらした不安や怖れなどはわかったかんじになれるのかも。
冒頭、片足がない状態で松葉杖で歩くErika (Lea Drinda)が、そのままベッドでぐったり寝ている中年男のFritz(Martin Rother)の切断された片足をじっと見つめておへそに溜まった汗をなめ、その後で彼女の欠けた脚は自分で折り曲げていただけだったことがわかる。
別の時代で幼いAlma (Hanna Heckt)が経験する葬儀と昔の葬儀の写真に刻まれた一族のなかに自分に似た少女の姿を見つける話、Fritz (Filip Schnack)が両親によって片足を痛めつけられ「労災」(=兵役拒否)される話、彼を介護するメイドのTrudi (Luzia Oppermann)の話、家族の間には目に見えない掟や序列や勝手に強引に決められてしまうものがあるようだが、死んだあとはモノクロぺったんこのイメージのなかに閉じこめられてしまうことなど。
時代が新しくなったところで、溺死したErikaの妹のIrm (Claudia Geisler-Bading)には家族がいて、彼女の娘のAngelika (Lena Urzendowsky)はいとこのRainer (Florian Geißelmann)を挑発したり、トラクターの進路に横たわったり川に入っていったり死を恐れていないふうで、そのうち家族が集合したポラロイドを撮る場面で彼女は消えてしまう - 向こう側へいってしまったのか?
更にほぼ現代になった頃の姉妹と村の少女のお話しがあり、ここでも誰かは必ず家族の誰かを失って不安定なままで、でもそれがどうした、って。
家族がメガネを手にした時の会話で、目に映ってくる像、光は網膜の上で上下左右が倒立した像として結ばれて、あるポイントで消失点として失われてしまう、そんな視覚イメージの危うさと不確かさが語られて、そういう中で部屋の暗がり、半開きになった扉から覗きこむようなショット、既にいない人を定着させる写真などが沢山でてきて、これらは生死が倒立した死者の目線なのだ、と言うことに気づく。そんなでも人はころりと死んで生まれて家族もイエも続いていくし、戦争は起こるし。
イメージや視覚に関わること、なのでタイトルが「太陽を見つめて」なのだろうが、それが”Sound of Falling” – 「落下音」になるってどういうことなのか。太陽を見つめて目がしんで、落ちる – 五感に残るのはその音だけ、ということでよいの?
幽霊目線の、あるいは幽霊そのもののような個々のイメージは、切り取ってスタンダードの画面に置いてみれば悪くないのだが、ストーリーの軸がないので、それぞれの印象の強弱のようなところで止まってしまう(よくもわるくも)のと、音が弱すぎてふわふわしてて落下できない、というあたりがー。
4.21.2026
[film] 鬪ふ男 (1940) - etc.
4月12日、日曜日の午後、国立映画アーカイブの特集『発掘された映画たち2026』で見ました。
MoMAの“To Save and Project: The MoMA International Festival of Film Preservation”でも、BFIの”Film on Film Festival”でもレギュラープログラムの”Projecting the Archive”でも、古い映画を見よう/見たい、っていう熱と人気はずっと絶えない。映画史に残っていてDVDや配信で簡単にアクセスできるクラシックの他に、どこかの何某から意図的に埋められたり事情があってなかったことにされていた作品や作家は星の数ほどあって、その背後にはそれなりのストーリーがある、ということを知ってしまった。そうなった事情は写真家や他のアーティストのそれよりも複雑のようで、当時の社会や政治の事情にも割と関係があって – これって歴史を学ぶ、知るということの根幹でもあって、なんでそういうことが必要かというと(以下略)。 もちろん、シンプルに見ておもしろいのがいっぱい、っていうのが大きいのだが。
で、これが日本映画、ということになると戦時下の検閲とか家父長制下のげろげろが根こそぎたっぷり出てきて、なんだぜんぜん変わってないじゃんこの国、とか。例えば。
2022年のこの企画で『花ちりぬ』 (1938)、『夜の鳩』(1937)、『むかしの歌』 (1939)などを見てから、石田民三もっと見たいになっていた。映っているものは古い昔の情景だったり人々だったりなのに、撮り方や迫り方がとてもおもしろい。
鬪ふ男 (1940)
冒頭、当て逃げした車がざーっと逃げて、それを車で追っていくカーチェイスがあって、話はそこで逃げた男の方には行かず、そいつをぶん殴って捕まえた安吉(岡讓二)の方に行って、その顛末を横で見ていた留造(廣澤虎造)が久しぶりだなあ、って運命的な再会をして、ふたりは靴磨きをしながら一緒に暮らし始める。 そこでやくざに絡まれていた女性(花井蘭子)とその弟を守ったりしているうちに、北海道に残したまま生き別れになっている妹のことを思いだして、徴兵に出た後 - 戦争なんてなかったかのようにあっさりパスされ - 故郷に戻ってみると…(まるで西部劇のような画面構成がかっこよくて別の映画のよう)
そんな「鬪ふ男」の半生記が浪曲師になろうとしている廣澤虎造のラップみたいな唸り節と共に綴られて、廣澤(広沢)虎造(2代目)といえばマキノ雅広の『次郎長三国志』の歌い手で、あれも「鬪ふ男たち」のお話しだったねえ、とか。
男子有情 (1941)
上のに続けて見ました。
自由民権運動が活発になった明治の頃、街頭に立って民の抵抗歌「演歌」を歌って聴衆を煽ったりして日銭を稼ぐ仲良し学生3人組がいて、彼らのリーダーの島田(岡讓二)にはおなじ街角で物売りをしながら思いを寄せるしげ代(花井蘭子)がいて、島田らは勤勉で優秀で塾長からも期待されていたのに、しげ代が巻きこまれたやらしいやくざとの間で起こった殺人事件をひっかぶるかたちで島田は牢屋に入ってしまい、最後は法廷ドラマになるの。
どちらの映画でも人として正しくあれ、みたいなことが強く謳われつつも、政治や国際情勢みたいなところには一切触れない(触るべからずの)ような、なんとも微妙な目線の不均衡が感じられて、そこを地味な低声の音楽で歌ってごまかすような。ちょっと昔の、誰も文句の言えない至近距離の道徳美徳を説いて讃えてそっちに目を向けさせて、ところで日本が世界でなにをしていたか、どう見られていたか、等についてはとにかく触れない。なんかどこかで見たようなー。
2本とも、岡讓二が花井蘭子を助ける、その横で男が男を歌う熱いドラマで、うざい湿気がそんなになかったのはよかったかも。 でも石田民三は女性を描いたドラマのほうが好きかも。
4.20.2026
[film] Caught (1949) - etc.
3月31日に帰国して、4月3日の金曜日に帰国後最初のライブに行って、4月4日の土曜日に帰国後最初の映画を見た。割とゆっくりめだが、この先はゆるゆると老いて腐っていくだけなので焦らずに見たいものを粛々と見ていくの。
そういう時は、CMも予告も入らないシネマヴェーラと神保町シアターと国立映画アーカイブは(あとラピュタも?)が救いで、とにかくここに駆けこんで暗闇にうずくまって何本か見ること。 日本の映画館のCMと予告って、なんであんなにぐったりさせられるものが多いのだろう。 CM予告は英国のシネコンにもあるけど、日本のほどストレスを感じさせるものではない(言葉だけではない気がする)。
とにかくそんな時に、シネマヴェーラの特集 - 『映画は女で作られる マックス・オフュルス特集』ほどうまくゆるく嵌って救ってくれるものはないの。
Caught (1949) - 魅せられて
4月4日、土曜日の昼に見ました。
見たことないと思っていたが、最初の雑誌をめくっているシーンで、あ、ってわかる(映画のタイトルは憶えられないがファーストシーンだけは憶えているタイプ)。
原作はLibbie Blockの小説”Wild Calendar” (1945)、これをArthur Laurentsが脚色している。
モデルをしながら花嫁修業学校に通い、玉の輿を夢みるLeonora (Barbara Bel Geddes)が押しつけられたパーティ券でビリオネアのSmith Ohlrig (Robert Ryan)と出会う。セラピストとのセッションで君に結婚は無理だ、と言われてムカついていたOhlrigはそれへの反発でLeonoraにプロポーズして結婚してやって、ふたりにとってwin-win関係のはずだったのだが、夫はとてつもないDV野郎だった… (現代用語がわかりやすく簡単にはまってしまう)
ロングアイランドの豪邸を飛び出した彼女は境遇を隠してダウンタウンの貧しい地区で小児科医をやっているLarry Quinada (James Mason)の医院で事務のバイトを始めて、最初は怒られてばかりだったが努力してQuinadaとも仲良くなっていって、他方でOhlrigはLeonoraの居場所をつきとめて連れ戻し、Leonoraの正体を知ったQuinadaもロングアイランドに向かうのだが、そのとき彼女は妊娠していて…
ちっとも古くない、こてこてどろどろ、英米を代表する粘着パラノイア系男優が激突する、怪獣映画みたいなサイコメロドラマで自分の身とは一切関係ないので安心して見ていられる。Robert RyanとJames Masonが延々罵りあい殴りあうところをもっともっと見たかった。
Le Plaisir (1952) - 快楽
4月5日、日曜日の昼に見ました。
英語題は”House of Pleasure”。原作はモーパッサンの短編3つ - "Le Masque" (1889), "La Maison Tellier" (1881), "Le Modèle" (1883)をもとにした3つのエピソード。これもやはり見たことがあるやつだった。邦題がシンプルすぎるのがよくないと思うの。
Le Masque
ダンスホールで仮面を被って踊っていた男が具合悪くなって倒れて、そこにいた医師も一緒に彼の自宅までついてきてもらう。仮面を外した男はよれよれの老人で、家にいた老妻は昔はこれでもプレイボーイでしたの、って語るの。酸欠で死にそうになるまで仮面をして繕ってモテようとする男性の悲哀が妻の口から語られて、いろいろしょうもない。
La Maison Tellier
小さな海辺の町で、その町の男たちみんなが通うJulia Tellier (Madeleine Renaud)の娼館があって、ある晩から突然休業になってしまったようなので行き場を失った男たちはぶつくさ言い合うのだが、彼女は従業員たちを連れて姪の初聖体拝領式に出席するため列車で田舎に向かっていた。田舎の駅で一行を迎えたJuliaの兄Joseph (Jean Gabin)はそのなかにいたRosa (Danielle Darrieux)に夢中になるし、村人は派手でおおらかな女性たちにびっくりなのだが、メインはあくまで聖体拝領式で、その時はみんなでしみじみ聖なる何かに感動して、一行が再び町に戻ると、男性たちも大喜びで戻ってくるのだった。
Le Modèle
若い画家とモデル(Simone Simon)が恋におちて、一緒に暮らして将来を誓いあうのだが、やがて画家の心は離れて友人の家に身を寄せてしまう。そこにやってきた彼女は飛びおりる!っていって本当に飛びおりちゃって、後悔した画家はずっと車椅子の彼女の面倒を見ることになる。
若い頃の画家が絵を売りにいったサロンに、こないだオルセーで見たルノワールがあった、気がした。
最初のエピソードは老いた男性を女性が見ている話しで、最後のそれは動けなくなった女性を男性が見ている話しで、どちらも若い頃からの業を引き摺っていて、その中間のエピソードでは、聖体拝領式以降の色恋が盛っていくもようを描いていて、タイトルは「快楽」。誰ひとり悪くない。 死は見え隠れしているけど、ここにはいない。
Madame de... (1953) - たそがれの女心
4月6日、月曜日の晩に見ました。 これはさすがに見たことあった。
原作はLouise de Vilmorinの同名小説(1951)。
ベル・エポック時代のパリに関係の冷めきった夫婦 – Louise (Danielle Darrieux)と伯爵で軍の将軍でもあるAndre (Charles Boyer)がいて、遊びすぎて金がなくなったLouiseが夫から貰ったイヤリングを売ったら、それが宝石商~夫~夫の愛人を介してコンスタンティノープルまでいって、それを手に入れたイタリアの外交官であるDonati男爵(Vittorio De Sica)とLouiseとの出会いを経てぐるっと戻ってくるのだが、その軌跡が決闘沙汰にまで繋がっていく。
「呪いのイヤリング」と言いたくなるところだが、中心にいるのは自身の苗字を言えずに”...”となってしまう彼女の祈りと苦しみ、その悲劇、あとは将軍のクズっぷりと。
上の“Le Plaisir”が、死に向かう一歩手前までを描いているとするなら、こちらは死につながるチェーン(リング)に託された何かを映しだして、どっちにしても楽なことはない。なのになんで人は恋におちてしまうのか、など。
4.19.2026
[film] ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。(2026)
4月9日、木曜日の晩、TOHOシネマズ日本橋で見ました。
暇な老人たちがみんなこれを見てなんか振り返ったり語ったりしているようなのでー。
原作は写真家、地引雄一の自伝的エッセイ『ストリート・キングダム 東京パンク / インディーズ・シーンの記録』(1986)、監督は田口トモロヲ、脚本は宮藤官九郎、音楽は大友良英で、70年代後半の「東京ロッカーズ」を中心とした東京の「パンク」シーンの立ち上がりのようなところを、その場に居合わせて出会ったり記録したりしていく「ちゃんとした」人 - 写真を撮るユーイチ(峯田和伸)の目を通して綴っていく。
映画としては可もなく不可もなく、ちょっと社会の本流から外れたところに潜む危なそうなやばそうなテーマや人々をおもしろおかしいアンサンブルの人情噺に、うまく(NHKぽく)まとめていると思った。130分は長いけどそれだけ多くのバンドや集まっていた人たちをカバーしようとした結果だし、キャストもちゃんとしているようだし(知らない人たちばかりだったが)。
“Based on true events”なので、出てくるバンドや人物にはモデルがいて、わかる人にはすぐそれと特定できるようになっていて、そういうのも含めて幹になっているストーリーやメッセージのところは崩しようがないし強いし、その上であれはあんなんじゃなかった、とかあんなのもいたよあったよ、って当時を知る人たちが周りでいろんなことを語ったりしている。
映画は冒頭、80年代初、学祭でのスターリンのライブの狼藉を描いてそこに居合わせた主人公が、なんでここまでこんなことに… って回想をはじめる。70年代終わりの日本の田舎で、Sex Pistolsを聞いてこれだパンクだ! って東京に出てきてリザードのライブで開眼して、彼らの写真を撮り始めると、その流れで東京ロッカーズのシーンと出会って、いろんなことが起こっていく。
Sex Pistolsを聞いてすげー、ってなる辺りは同じだしわかるけど、それで走りだして東京に行って、リザードでおおってなるのはどうなのか? でそこから先はあまりよくわからなかったかも。はじめの頃のリザードのライブは凄かったのだ、と言われたらそうだったんですね、しかなくてそれで終わりになる。
自分にとってのパンクはまず音で、言葉なんてどうでもよくて、あの当時の日本のそれは音としてぜんぜん響いて来なかったし、「東京ロッカーズ」なんて、そんなふうなラベルを貼ってる時点で、バンドたちでわらわら寄って集っている時点でそんなのパンクでもなんでもないじゃん、て思った。ライブに通ってのめり込むにしても、東京に出てチケットを買う、それを繰り返す余裕なんてなかったし、その反対側で聴かれるのを待っている音、読まなければいけない本はいっぱい積まれていたし、歌詞のことを言うならAmnesty International Reportをそのまま曲にのせたThe Pop Groupの方に惹かれて、異文化にある彼らがどういう文脈で、どこに針を通してなにをパンクさせようとしたのか、まずそっちだったし。
あとは全体に漂うださいかんじ。「東京ロッカーズ」にしても少し後の「めんたいロック」にしても、なんでそんなふうにわざわざださくするの? 売るためのラベルなの? だったし、そこにいる人たち、みーんな揃ってずーっとタバコ吸ってて煙いしすぐアルコールに行くし、そんなのにお金と時間を使いたくなかったのよね。
最後にはアケミの言うように『自分の音を鳴らせ』で、それが正しいのかもしれないが、自分の音なんてそう簡単に見つかるものではないので、ずっと旅を続けているわけだし、そこに終着点があるとも思えないのだが、なんでそこに「キングダム」なんてものを持ちだす必要があるのか。”No Future”ではなかったのか。
いまの推し活とか承認欲求の話にまで繋がる、という話も出てきたところで、あーこれはやっぱり自分とはぜんぜん関係ない宇宙の話しだったかも、と思った。
それでもパンクはあったし、あるから。
4.17.2026
[music] Hey Mercedes, etc.
ここから日本に帰国後に見たものを書いていく。のだが、いまに至るまでずっとへろへろの状態なので記憶が薄れかけたり欠けたりしているものもある、ことがわかった。
Hey Mercedes
4月3日、金曜日の晩、西永福JAMで見ました。
体力との相談もあったので当日券で、西永福ってどこ?とかぶつぶつ言いながら現地に着いて、ああまたドリンク代を強制徴収される変なシステムの日々が始まるんだわ、って憮然としつつとりあえず。
Hey Mercedesを最初に見たのは2001年のNY(911が起こる前)、“Bleed American”を出してブレークするのが誰が見たって明らかだったJimmy Eat Worldの前座で、前座ではあったが彼らはものすごくよくて、その記憶を持って数年後に手にした“Loses Control” (2003)は名盤で、今回のツアーでもオープニングで演奏される"Quality Revenge at Last"は、たまにいまだに頭の奥で鳴り響くことがある。
演奏はところどころよたったりしていたが、メロと骨格が確りしているギターバンドだし、こちらの疲労倦怠に寄り添ってくれて気持ちよかった。今だと「エモ」に分類されてしまうのかもしれないが、Jimmy Eat Worldもそうだったけど、当時はふつうにハードコア/オルタナの流れに置かれていたよね – って誰に確認してよいのかわかんないけど。
Pearl Jam: Let's Play Two (2017)
4月4日、土曜日の夕方、新宿の109シネマズで見ました。4000円… ポップコーンがついていたらしいが、そんなのいらない。 ここはやはりクラッカージャックを出すべきだった。
Eddie Vedderの来日記念(ああ20日いけないよう…)の、Pearl Jamのライブドキュメンタリーフィルム(同名のアルバムもリリースされている)。前日のライブハウスに続いての目を覚まさなきゃいかんシリーズ。 Pearl Jamのこういうのなら絶対安全確実なので。
2016年、MLBのChicago Cubsが71年ぶりにNational Leagueのチャンピオンとなり、108年ぶりにWorld Seriesの勝者となった、その年の8月20日と22日にWrigley Fieldで行われたライブを記録編集したもの。フィルムだとライブの進行とCubsの躍進が並行して進んでいって、チームの優勝の様子とライブが重ねられているように見えるが、時系列としては別でライブの方が先 – というのは見た後で気付いた。
バンドのライブフィルムというよりは、Chicago Cubsの呪いも込みの苦難の歴史と幼い頃からの球団のファンであるEddie Vedderのチームとベースボールに捧げる思いが綴られ、その強い思いが歌となって球場をまるごと揺さぶっていくさまが感動的に描かれている。それはライブの感動とはまた別の、日本にもそういう人はいるけど、野球に人生をやられてしまった人のそれで、そういうのも含めての”Let’s Play Two”だと思ったのだが、自分は野球とかスポーツにやられたことがないので、「別の」ではないのかもしれない - ぜんぶひとつに繋がっているのかもしれない、とか。
ライブの合間にCubsの野球やファンのエピソードが挟まっていくので、歌と演奏に引っ張られてのめり込んでいくタイプのライブ・フィルムではないのだが、ワールドシリーズの大逆転の盛りあがりとEddieの個人史が重ねられていくことでPearl Jamの曲の揺るぎないパワーが際立つ - “Given to Fly”とか - そういう構成になっていたような。 で、やっぱり彼らのライブに行きたくなる。
J. Robbins
4月13日、月曜日の晩、今回の彼のライブの最終日に新代田Feverで見ました。
自分も帰国して2週間が経ったので、もうリカバーできているだろう、と思うのはあまい。ぜんぜんだめだわ。
開演時間は18:30、とあって、こういうのはふざけんな、って20:00くらいに行くのがふつうなのだが、今回はオープニングがtoddleなのであればしょうがない。新代田にどうやって行くのか、とかで少し迷ったりして着いたら少し始まっていた。
これで何度目になるのか知らんが、とにかくtoddleは自分にとっては特別で、あのギターの絡みって世界一だと思う。
そしてこれに続くDirt CopyもStorm of Voidもそれぞれまったく異なる粒度硬度のやかましさで圧してきてすばらしい。
Dirt CopyはNAHTのひとのだったのかー、って気付いた途端にいろいろななつかしさがー。
最初の3バンドのすべててんでばらばらの鳴り、ルックスもチューニングもアンプもぜんぶ違うありようが素敵ったらなくて、J.Robbinsの、あの3ピースのシンプルでシャープな佇まいがフロアの人々も含めて包摂する、音の指向とは真逆のすばらしくきちんとばらけてて、でもそれがマイナスにならない、理想的な雰囲気に満ちたライブだった。
そういうなかで最後止まらなくなってあと一曲、を何度も繰り返しつつがりがり鳴らしていくJのギターが最後まで残って、それはもうFugaziのそれと同じく自分にとっては空気と同じようなものだと。(ないと死んじゃう)
Jawboxとの最初の出会いは、1994年、MTVが深夜にやっていた“120 Minutes”っていう番組で、そこで"Savory"を聴いて、翌日の会社の帰りに“For Your Own Special Sweetheart”のCDを買って帰った。この頃の新しい音って、ほぼそうやって手に入れていたねえ。
それにしてもー、Hey Mercedesは25年前、J.Robbinsは30年前の出会いになるのかー。
こんなことになるとはねえー..
でもやっぱり3時間を超えて立っているのはつらい。 老人にもやさしいライブスペースを作ってほしい。
4.16.2026
[log] London - others part 3
ロンドンの最後の方に見てまだ書いていなかったやつなど。これで終わり。
Orwell: 2+2=5 (2025)
3月29日、日曜日の晩、Barbican Cinemaで見ました。
これがロンドンで見た最後の映画で、ふつうの新作はいろいろありすぎて決められず、BFIではFlareの映画祭でそれどころじゃなさそうだし、この辺になった。映画については見ようと思えばどこでも、の感覚があるのでー。
制作、監督、脚本はJames Baldwinのドキュメンタリー”I Am Not Your Negro” (2016)のRaoul Peck。 Damian LewisがGeore Orwellの声を含めたナレーションをやっている。
George Orwellの小説“Nineteen Eighty-Four” / “1984” (1949)を執筆した当時のOrwell自身についてのドキュメンタリーと、何度か映画化されてきた小説の大枠の紹介と、その内容が予言していた現代の独裁者(いっぱいいる)、飼いならされてしまう官僚や市民たち、そのツールとしてのAIの台頭などについて、そんなに緻密に追っているようには見えないのに、あまりに今にフィットしていて戦慄、のさまを並べていく。タイトルの”2+2=5”は、上が「2+2=5だ」って言ったらそれは2+2=5になるのだ、なるよな? という管理統制の理不尽を示す例で、いまやシャレでもなんでもなくなっていることは衆知のとおり。
George Orwellって、日本では”1984”と“Animal Farm”くらいのイメージだと思うが、英国ではそれに留まらない幅広い著作がある国民的な作家であることをペンギン古書収集活動で知ったりしたのだが、幼少期の彼やビルマで警察官をしていた頃のこと、晩年のジュラ島での生活のことなども含めて紹介されると、改めて取組みたくなるのと、繰り返し挿入される過去の”1984”の映画化作品で主人公のWinston Smithを演じたPeter CushingやJohn Hurtの像と、お話しとしての怖さ – ここの怖さやばさって、相当普遍的なものになっている気がするのだが、それなのになんで? というのがぞわぞわ来て、ああ”2+2=5”をソフトに強要されて誰もなんとも思わないあの国のあの社会に戻されるんだわ、って改めてうんざりぐったりした。
Michaelina Wautier
3月29日、日曜日の午後、Royal Academy of Artsで見ました。
2020年にNational Galleryで企画展示が組まれたArtemisia Gentileschi (1593-1652)と同時代を生きたベルギー(当時スペイン領)の女性画家Michaelina Wautier (1614–1689)の特集企画。Artemisiaがそうだったように、絵描きとしての技量が優れていたが故に作品が家族の男性(Artemisiaの場合は父、Michaelinaの場合は兄)に帰属するものとされてしまい、結果として美術史のなかに埋もれていた、という。 ほかにもこんな女性たちがどれだけあるのか、って思うが、とにかくこうして見れるだけでも。
この時期の絵画の技術的な巧い下手はわからないのだが、並んでいる肖像画も話題になっている”The Triumph of Bacchus” (1655–59)も絵としての迫力は十分で、これなら男性作家の間に埋められてしまうの無理ないかも、とか、他方で肖像画の髪の膨らんだかんじとか表情の柔らかさは、やはり女性のそれかも、とか。いやそんなことより男性・女性ではなく、Michaelina Wautierという画家との出会いを歓ぼうではないか、って言いたくなった。
Rose Wylie The Picture Comes First
上でMichaelina Wautierを見た後に、2回めのRose Wylieを見る。
彼女と最初に出会ったのは2018年、Serpentine Sackler Galleryでの”Rose Wylie: Quack Quack”で、後で図録を取り寄せるくらい好きになって、昨年、ベルンの Zentrum Paul Kleeでの”Rose Wylie. Flick and Float”で再会して、今回が3度目。何度見てもなんとも言えずすばらしい後ろ頭の魔法。
Royal Academyの1回めに見にきた時に、限定でサイン入り図録を売っていたのを入手できたのは嬉しかった。
Fairy Tales
3月30日、月曜日のお昼にBritish Libraryで見ました。
British Libraryが”Fairy Tales”をテーマにした企画展示をやるのであれば、古今東西、少なくともイングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドの辺りのいろんな収蔵資料をざーっと並べてめくるめく多層多重世界のパノラマを見せてくれるに違いない、って期待して行ったら、子供と親向けに見て楽しんでもらう体験型のアトラクションに近いやつだった。 アリスとかアラジンとか竜とか魔物、それなりのスターたちと元の文献などは揃って展示されているのだが、それよりも着せ替えしたり潜りこんだり隠れたり杖を振り回したり、童話やおとぎ話の世界はこういうもんなんだよ、っていうのを一通り体験できるようになっていて、大人も子供も遊園地のように楽しんでいて、彼らにとっては遊園地だろうが、自分にとってはまるで動物園だった。
その晩に地獄に向かって飛びたつことがわかっていたので、最後にせめてファンタジーを、と思ったアテは外れて、場内にはやかましいのに疲れた人はここから抜けれます、の矢印もあったりして、そこまではしなかったけどちょっと残念だった。
最後のお買い物(でっかいの)はふたつ。どちらも古書で、古書と言っても手が届かないすごいのではないし、収集家のひとから見たらどうってことないやつなのだろうが、自分が持っているなかでは一番高価なやつでどうしようか3ヶ月くらい考えていた。 これらを含む6冊くらいの宝物は船荷には乗せずに手持ちで運んで、まだ包みを解いていない。中で腐ったりしていませんようにー。