7月29日、水曜日の晩、ユーロスペースで見ました。
邦題は『メレディス・モンク 踊る声、歌う身体』。
Billy ShebarとDavid C. Robertsの共同作・監督によるアメリカのパフォーミング・アーティスト、Meredith Monkを追ったドキュメンタリーで、昨年のベルリン国際映画祭でプレミアされている。
紐のような三つ編みの、ひょろっと質素な恰好で、トライベッカのロフトに陸ガメのNeutronと暮らす彼女の佇まいを挟みつつ、60年代からヴォイス、ダンスを中心としたパフォーマンスの領域をひとり淡々と切り開いてきた彼女のいろんなPiecesを拾い集めてモザイクとして並べたり散らしたり(声なので)伸ばしたりしながら、BjörkやDavid Byrneをはじめとした現代アートへの影響、その広がりを示す。
90年代のNYで、BAMに通っていた自分の感覚からすると、彼女はBill T. JonesやTrisha Brown、Lucinda Childs、Yvonne Rainerといったダンス系のパフォーマーの流れにあって、Merce Cunninghamの影響下、60年代のJudson Dance Theaterの裾野からきた人、というイメージがあったので、”Voice”(踊る声)というこの映画の軸に据えられたテーマというか構図はふーんなるほどー、だった。
映画にも出てくるが活動初期、60年代の批評ではめちゃくちゃ叩かれていたのがここまで来たのは、やはり映画にあるようにBjörkやDavid Byrneの影響力なのか、彼らのような可聴帯域をぶちぬく変態パフォーマーが注目されだした90年代の文化とかテクノロジーの辺りから掘り下げていった方がおもしろいのかも、と思った。(昔はパフォーマンスの現場にいかないと触れられなかったものによりアクセスしやすくなった、とか)
という外からの見方云々から離れて、Monk自身はずっと声と身体に関わる表現を追求してきた、というところで、最後に残るのは、ひとりロフトで世界と向き合っているような像だったり。 とにかく、きちんと評価されてしかるべきだった人がきちんと紹介されているので、見に行った方がよいの。
Elis Island (1982)
7月26日、日曜日の夕方、ユーロスペースで見ました。
船便到着の前日にこんなの見ていてよいのか、だったのだがこれは公開日が限られているのでしょうがないの。
共同監督としてBob Rosen。
移民の受け入れ口だったエリス島を舞台に、観光客が集まる現代の様子と、モノクロのサイレントのように映し出される当時の移民たちの姿を交互に対照させつつ、異国・異文化に適応すること、その様式に体を合わせること、自国の言葉を使わないこと、等を求められた彼らが歌っていた歌、舞っていた舞い、その表情や振る舞いはどんなふうだったのか、を幽霊のように呼び寄せてみる29分。
当時のリアルな状況やストーリーを追ってきちんと再現するのではなく、自分の頭のなかの、あるいはその場所にこびりついた単一の、集団の記憶や残像は失われた廃墟の隅でどんな声を、音を持ちうるのか、どんなふうに聞こえてくるのかに耳をすませてみよう… というイマジナティヴな控えめな実験。 Monk自身による音楽がとてもよいの。
Book of Days (1989)
↑のに続けて見ました。こちらはMonkの単独監督作で、75分の中編。
New York Film Festivalでも上映されている。 35mmプリントでの上映。
中世フランスの小さな村に暮らすユダヤ人の少女に導かれながら、ユダヤ人差別や迫害、疫病(ペスト)、終末への恐怖が支配した時代の暮らし、家族やコミュニティを描いて、それらが日々の本(Book of Hours - 時祷書ではなく)として積みあがっていくさまを。
少女の見透して描いたTVや飛行機の絵が、現代(当時)のエイズ禍や人種やジェンダー差別で揺れるNYに浮かびあがってきて、“Elis Island”と同様、こちらにも現代の描写はあるが、入口よりもっと奥に入りこんで当時の生活や雑踏に寄り添おうとしているような。
一回性の舞台でのパフォーマンスから反復可能な再帰性のある映像表現を経て、改めて彼女のパフォーマンスは、過去のそれも含めてその在処とその声が向かう先を見出したのではないか。 ”Book of Days”という土台の上に改めて彼女の”Pieces”を置いて、置きなおしてみること。断片しか聴いたことはないのだが、彼女のオペラ”Atlas” (1991)の旅は、ここでの試みから始まっているのではないか、とか。
8.05.2026
[film] Monk in Pieces (2025)
8.04.2026
[film] Desperate (1947)
7月24日、金曜日の晩、シネマヴェーラのAnthony Mann特集で見ました。 邦題は『必死の逃避行』。
トラックで貨物の運送をしているSteve Randall (Steve Brodie)は結婚4カ月の妻Anne (Audrey Long) とのアニバーサリーでおうちに帰ったところで知り合いから荷物の配達を頼まれ、記念日だから、って断ったのだが金額を積まれたので受けることにして荷物を取りにいったらそれはヤバい案件の盗品で、そんなの嫌だ、ってどうにか逃げようと近くにいた警察に合図したら銃撃戦となって、警官は撃たれて亡くなり、替わりに弟をしょっぴかれたギャングのボス(Raymond Burr)は激怒してSteveを捕まえて、お前がやったと警察に自首して弟を連れ戻せ、そうしないと妻を… って暴力で脅してくる。
隙をみてなんとかAnneをピックアップして逃げようとするが、Steveの名前と写真は警官殺しで指名手配されていて、列車~トラックなどを乗り継いでどきどきしながら逃げて、どうにか親戚のおうちに寄ったらちゃんとした結婚式を挙げなきゃだめじゃんって、いきなり結婚式になったり、でもボスの弟の絞首刑の時間が迫ってきて焦るギャングたちも必死で追ってきて…
怖いとか暗いとかいう以前に、追跡と逃走のDesperateな緊張感のなかだけで勝負していくあっという間の73分で、最初の方のゆらゆら揺れて明滅する部屋の照明の中で圧してくる暴力の濃さ、ラストのアパートの狭い階段を使った銃撃戦も、瞼の裏に残る生々しさですばらしかった。
Winchester '73 (1950)
7月28日、火曜日の晩、シネマヴェーラで見ました。 邦題は『ウィンチェスター銃'73』
昔は(今も?)Anthony Mannといえばこれ、だった1本で、さすがにむかし見たことがあった。
Anthony MannとJames Stewartが組んだ8作のうちの最初の1作。俳優が報酬として興行収入の一定割合を受け取るRevenue Shareの仕組みが初めて採用された映画だそう。
1876年、カンサスのある町にLin McAdam (James Stewart)と相棒の"High Spade" (Millard Mitchell)が流れてきて、LinはDutch Henry Brown (Stephen McNally)を追ってきたのだが、保安官のWyatt Earp (Will Geer)に銃を預けなければいけなくてどうすることもできない。
ふたりは町のお祭りの建国100周年記念射撃大会に参加して、その賞品は名高いウィンチェスターM1873ライフルという1000挺に1挺の、伝説の名刀みたいな銃で、大会はLinとDutchの接戦でLinが勝って銃を手にするのだが、Linが町を去ろうとしたところでDutchに持ち逃げされてしまう。
これ以降、伝説的なパワーを持つ(or 与える)Winchester銃とその所有者をめぐって因果応報のストーリーとか呪いのような何かが伝搬して転がっていくのかと思いきや、単に銃は撃ったり撃たれたりで持ち主を替えて渡っていくだけ、奪い奪われる宝物がふつうの銃に替わっただけのようなあっさり味のお話で、ただ銃=火器を奪い合うので当然死人は増えるよ、っていう当たり前のことを描いて、通常の西部劇にある復讐、憎悪、裏切り、のようなどろどろした念のようなものは後退して、単なる人殺しの道具としての銃と、それを扱うアクションの光と影のみが前に出てきている。
そういう劇構成をおもしろい、と思えるかどうか、なのかしら?
He Walked by Night (1948)
7月28日、火曜日の晩、↑のに続けて見ました。 今回のAnthony Mann特集はこれでおわり。 邦題は『夜歩く男』。
監督はAlfred L. Werkerで、Anthony Mannはノンクレジットでの参加だそう。ここでも見事な撮影はJohn Alton。
実在した退役軍人の凶悪犯Erwin "Machine-Gun" Walkerの事件を元にしていて、冒頭のパトロール中の警官を撃つシーンも、ただの「夜歩く男」のなんてことのないシルエットが突然銃を向けて、そこから噴きだしてくる恐怖の絵から始まって、犯人(Richard Basehart)の無表情なごくふつうの佇まい(同居している犬がかわいい)とか、それを追う警察側も型破りな強引で個性的な誰かが出張ってくることもなく、追う側 – 追われる側の駆け引きを光と影の収縮のなかで追っていて、それが最後、地下水道で視野も含めて狭まっていく逃走/追跡シーンで炸裂する。犯人のキャラクターとか犯行の動機とか事情背景に入り込まずに、ただ「誰かが夜に」のイメージの断面とどこにいてなにをしているのかを追うだけ。
こんなにシンプルで、なのにこんなにおもしろくできるのか、って。
8.03.2026
[film] Capricorn One (1977)
7月20日、祝日の月曜日の昼、TOHOシネマズシャンテの、午前10時のなんたら、で見ました。
邦題は『カプリコン・1』。 作・監督はPeter Hyams。
これまで見たことはなかったが、筋はようく知っている、という年寄りも多かったのではないか。
日本での公開は1977年末で、この頃、ぜんぜん公開してくれないけど、既に世界中で大きな話題となっていた”Star Wars” (1977)の情報を求めて、その唯一の情報源である映画雑誌(『スクリーン』と『ロードショー』があって、自分は『スクリーン』派だった)を隅から隅まで何度も読みふけっていたので、この当時の洋画情報は文字で随分入っていた。なかでもこの映画は、全米公開に先がけて、って得意気に宣伝していたのだが、ばかにすんなそれならなんでSWを公開しないんだよ? って相当頭にきていたのも憶えている。配給会社への不信はこの頃からずっと、いまだにあって、文句を言ってもどうしようもない、という今の政治に対する無力感に近いものを感じた最初期、でもあったのだが、この映画にはそんな罪はないのかも、って漸く。 あと最近だと、Marguerite Durasの『陰画の手』 (1979)でも、パリの街角を映していくなか、この映画のパネルが目に入ったり。
人類初の火星有人探査ミッションである”Capricorn One”の3人の宇宙飛行士(James Brolin, Sam Waterston, O. J. Simpson)がロケット発射直前にこっそり外に連れ出されて別施設に移送されて缶詰になって、火星着陸シーンはそこに用意されたセットで特殊撮影~放映されて、でもそうして入ってきた通信の経路がおかしいことに気付いて上に報告した管制官(Robert Walden)が友人のTVジャーナリストRobert (Elliott Gould)にそれを話した直後に姿を消して、Robert自身も姿の見えない誰かに狙われるようになる。
他方で家族を人質にされて身動きの取れない3人の宇宙飛行士たちも隙をついて飛行機で脱出して、どこかの砂漠に不時着してから、追手が来ることはわかっていたので、それぞれ別方角に逃げることにするがひとりひとりヘリコプターに追われて消されていって、政府からの対外向けでは大気圏突入時の事故で全員死亡、ということにされて、全米が悲しみに暮れる葬儀の最中に…
70年代サスペンスのひとつの典型で、世界に対する見栄張りのために政府はどんな茶番でも人殺しでも平気でやる、という権力のありようを示す格好のサンプルとして、張りぼての着陸シーンはパロディ映画で何度も反復されているのだが、こんな映画の「先行」が日本だったって、なかなか笑えないわ。
しかし、あのラストのストップモーション、これも当時は感動的だったのかもしれないが、今はパロディやられすぎてなんだか笑えてしまうやつかも。
Catchfire (1990)
7月20日の午後、↑のを見てふらふらした後、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。
邦題は『ハートに火をつけて』。Jodie Fosterの新作”Vie privée” (2025)の公開にあわせての小規模限定公開(DVD上映だけど)らしい。
劇場公開時には"Alan Smithee"名義でリリースされたが、最終版のリリースにより(最初から関わっていた)Dennis Hopperの監督作となった。脚本にはD.H. Lawrenceという名前でAlex Cox(いいかげんにしろ)も関わっている。
冒頭、夜霧の奥から典型的な90年代サスペンスの音が鳴って、ネオン・アーティストのAnne (Jodie Foster)が車で帰宅途中、高速でタイヤがパンクして仕方なく歩いていたらマフィアが敵だか味方だかを射殺している現場を目撃して警察に行ったら、警察署内にその関係者がいたのでこれはやられる、と直感して逃げて、他方でマフィアは凄腕の殺し屋Milo (Dennis Hopper)を雇って彼女の殺害を命じるのだが、Anneの部屋を引っかき回しながら彼女のポラロイド写真とかを見たMiloは彼女に惚れてしまい、彼女を捕まえてからも簡単に殺せたはずなのにハートに火をつけられちゃって、なんと彼女の方もMiloを… わざとやっているとしか思えないちゃらい銃撃シーンとか80年代ぽいご都合主義の嵐が吹き荒れて、この主演ふたりの激突から想像できそうな糸をひく神経〆やゴス・ノワール沼からは程遠いお花畑展開になって、最後はほんとうに手を取り合って彼方に消えていっちゃうの。
キャストがなかなかすごくて、Dean Stockwell, Joe Pesci, John Turturro, Fred Ward, Vincent Price, カメオで出てくるのがCharlie Sheen, Catherine Keener, Toni Basil, そしてそこに立っているだけで変なオーラのBob Dylanとか…
あと、AnneのネオンアートはJenny Holzerのだって。やっぱり。
あと、↑のとの繋がりでいうと、どっちもクライマックスがヘリコプター・チェイスだった。 そういえば、ヘリコプターを使ったアクションてなくなってきているような。
8.02.2026
[dance] 私は海をだきしめていたい
7月25日、土曜日の午後、彩の国さいたま芸術劇場で見ました。
(船便到着の2日前に 〜 以下略。だってチケット取っちゃっていたんだもの)
開演は午後3時で、とにかく駅から劇場までのあの距離がだいじょうぶか(熱波) だったのだがどうにか。(次からはちゃんと備えるようにしたい)
日本のダンスカンパニーのも見ていったほうがよいのかも、くらいで。
Noism Company NiigataはNoism0とか1とか2とかあって、NDCみたいなやつ? と思ったらそうみたいだった。演出・振付は金森穣による2本立て。
私は海をだきしめていたい
原作(?)は今年生誕120年を迎える新潟の坂口安吾の同名短編(青空文庫で読める)、音楽はエリック・サティで、暑さから退避すべく暗めの会場に入ると生誕160年であるサティのピアノ - 『ジュ・トゥ・ヴ』(Je te veux / あなたがほしい: 1902)が不機嫌に鳴り響いていて気もちよい。
短編の『私は海を~』がどんなやつかというと、例えば 『この女の不具な肉体が変に好きになってきた。真実というものから見捨てられた肉体 ~ 私の孤独な肉慾に応ずる無限の影絵であって欲しい ~ 私の肉慾も、あの海の暗いうねりにまかれたい』(雑な切り貼り)というような、役立たずの毒男がひとりでぶつぶつ呟きつつ空中をぐるぐる回ってやっぱり独りでどうしようもないわ、って片隅に追いやられていく、それを離れて見ているような感覚の絵で、サティのピアノの定点をぐるぐる陰険に回っていく虚無・無常の図にうまくはまる。
最初に客席側の階段を燕尾服で黒の傘をさした男がひとり静かに下りていって、ゆっくりとステージにあがり、ステージの奥には赤を纏った女性がひとり光を浴びるように立っていて、背景には淀んで曇った海(日本海?)、ステージ上の男は影がいくつかに分裂してそのいくつかが交互に静かに不穏に回りながら女性に絡みついていって、でも最後にはひとりにもどる。 海を抱きしめていたい、のだろうが言ってみただけ or うまく言語化できず - でどうあがいてもひとり… という静かに煩悶して崩れていく肉のさまが生々しく描かれていたような。
なんとなくPina Bauschの“Café Müller” (1978) - 音楽はPurcellだったが... を思い出してしまったのは、次のが「春の祭典」だったからだろうか。
改訂版 春の祭典
初演はコロナ禍にあった2020年で、ここからダンサーの人数を減らし(20数名→たしか12名)、舞台装置もよりシンプルなものになったそう。 照明も衣装もスリムな白系、小道具として、人数分の四角い椅子(デザイン:須長檀)が縦横斜めに置かれ、これらがダンサーたちによって組み合わされるとベッドにもバリケードにも要塞にもなって、有機的なところ無機的なところが絡み合い、2名の生贄を生んでしまう生々しいニンゲンたちの春のドラマが展開されていく。
私小説的だった「私は海を~」に比べるといきなりダイナミックな神話の世界に飛びこんでいくような明確な変化~ 個の虚しい呟きから集団の暴力・狂騒へ(黒→白)、があって、今回の「改訂」は前半部分からの流れのなかに置こうとすると必要だったのだろうな、と思われた。(それかあるいは、コロナ禍に要請されたものとポスト・コロナで要請されるもの、のちがい? とか)
ストラヴィンスキーなので、聴いているだけでそれなりに盛りあがることはできてしまう、という点を差っ引いてしまうと、割とふつうのモダンの群舞に見えてしまったのがやや残念だったかも。 海を抱きしめようとしたら嵐がきて落ちて溺れて死にそうになった、とかそんなめちゃくちゃに狂ったのを見たかったかも。
8.01.2026
[film] Sois belle et tais-toi! (1981)
7月26日、日曜日の午後、ル・シネマ 渋谷宮下の7Fで見ました。
英語題は”Be Pretty and Shut Up!”、邦題は『美しく、黙りなさい』(「黙りなさい」に赤の取り消し線)。
翌日の船便到着を前に、お片付けはよいのか? という声もあったが、『美しく、黙りなさい』って言われた。(美しくない)
制作から50年を記念しての劇場公開で、今後パッケージ化される予定はなく劇場上映と自主上映のみに限定されているそうなので、とにかく見に行くしかないのよ。
監督であるDelphine Seyrigが1976年に23名のフランス人、アメリカ人の女優、映画人たちに対して実施したインタビューをCarole Roussopoulosが撮影して、編集をCaroleとIoana Wiederがして、1981年に公開されている。
ボーヴォワール視聴覚センターとフランス国立図書館が主導して、2022年に修復~公開したもの、とのことで、でもどこかでなんか見た記憶が、と思ったら、2020年の初め、マドリードのMuseo Nacional Centro de Arte Reina Sofíaでの企画展 - ”Defiant Muses: Delphine Seyrig and the Feminist Video Collectives in France in the 1970s and 1980s”で7つのモニターを横並びにしたインスタレーション作品として流れていたことを思い出した。他には同じモニターでChantal Akermanの”Woman Sitting after Killing” (2001) - Jeanne Dielmanがあの後に座っているシーンを延々 – も流れていた。
質問はふたつ、「もしあなたが男性だったとしても、この職業(女優業)を選びましたか?」、「他の女優と友好的な場面を演じたことがありますか?」 - これは誘導のようなもので、最初の問いに対しては「いいえ、男性だったらもっといろんな選択肢があったはず」になるし、次の質問に対しては「いいえ、求められるのは常に男性とのインターアクションばかりだった」になることは容易に想像がつく。なぜなら我々が商業映画として接する殆どの映画は、「男優との間で」女優として輝く – その存在を最大化、最適化する形でその姿を表に出してくるものだったからで、この聞き方は動物園の動物にもし野生にいる別の動物だったら… って聞いているのと同じではないかと。
なので、殆どの女優が、それは面白い質問ね! と言ってから質問の答え以外のあんなことこんなことを嬉々としてとめどなく喋りまくるのがとにかくおもしろくて、でもそれらのおもしろい語りの背後に見える各自の業のようなものが固化していく「女性」という型の周辺に、あるいはこれに抗するかたちで立ちあがってくる何かが見えてくる。
あと、ここから、この50年で変わったこと、依然として変わっていないことについても考えないわけにはいかない。
あと、映画のなかで、Ellen Burstyn(..正確に覚えていない)だったかが語っていたEleanor Perryが夫のFrank Perryと作った映画 – ひとりの少女と4人の男が出てきて少女がレイプされてしまうやつ – って、2025年にBFIのFilm on Film Festivalで発掘上映された”Last Summer” (1969)のことだ! って少し自分内で盛りあがった。
Delphine et Carole, insoumuses (2019)
7月19日、日曜日の昼、日仏学院で見ました。
邦題は『デルフィーヌとキャロル』、タイトルを直訳すると『デルフィーヌとキャロル:反逆のミューズたち』、であり、”insoumuses”は、Caroleが立ち上げたビデオグループ “Les Insoumuses”にも繋がる。 68分の中編。
監督はCallisto Mc Nulty。 スイス生まれのCarole Roussopoulosが、1970年にJean Genetの勧めを受けて当時発売されたばかりのVideo Cameraを購入 – これを最初に買ったのはゴダール、次に彼女が、フランスの女性として初めて買った – して、Angera Davisのドキュメンタリーを制作、その後も人権擁護運動の様子をカメラに撮っていくなかで1976年にDelphine Seyrigと出会い、そこからは↑を含む女性の権利やフェミニズムをテーマにしたドキュメンタリー作品を沢山残した。 あと、↑を復元したボーヴォワール視聴覚センターもこれらの活動を通して彼女たちが設立したもの。
とにかく、デルフィーヌとキャロルのふたりが現地で、女性たちと一緒になって戦ったり議論したりしつつ記録していった70年代以降のデモの記録、TV討論の様子などが、げろげろになる点も含めてものすごくおもしろくて、↑にも書いたけど、この50年で変わったこと、変わらないことについて考えてしまう。
昨年、BFIで行われたLaura Mulveyの企画特集も、結構人が入っていたしすごくおもしろかったし、割とそういうとこに足を運んで見ているほうだと思うのだが、足元を見るとぜんぜん、なにひとつ変わっていないのでは… ってものすごく暗澹として、例えば、日本の映画女優にいま、”Sois belle et tais-toi!”の質問を投げたらどうなるだろうか? とか。
この国が得意としている「ガラパゴス」なのかもしれないが、ガラパゴス(の動物たち)だって環境に合わせて進化はしていくもので、これは適応する先を愚かなことに完全に誤ってどうにも動けなくなっているような…
でもとにかく、そういうのとは別に、見ていると不思議と明るくなれる映画だからー
渋谷宮下の特集上映でももうじきかかるらしいので、この機会にぜひ。
7.30.2026
[film] Sangue del mio sangue (2015)
7月25日、土曜日の夕方、イメージフォーラムで見ました。
Marco Bellocchioの10年以上前の作品が何で突然今頃? なのだが、彼の作品、最近はTVシリーズなどもあって見るのが難しくなっている気もするので、見れるものは見ておきたい。
見事な濃淡・陰影を湛えた撮影は “Vincere” (2009) - 『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』のDaniele Cipri。
英語題は”Blood of My Blood”、邦題は『私の血に流れる血』。 後半、老吸血鬼も少しだけ出てくるが、吸血鬼もの、ではない。というか、吸血鬼ものの形をとったキリスト教批判というか。
二部構成で、最初のパートは17世紀、イタリアのボッビオ – Bellocchioの生まれ故郷で監督デビュー作-『ポケットの中の握り拳』の舞台でもある – の修道院を若いFederico (Pier Giorgio Bellocchio)が訪ねてくる。そこの修道女Benedetta (Lidiya Liberman)と関係をもって、自殺した兄をキリスト教徒としてきちんと埋葬してほしい、と頼みにきたのだが、そのためにはBenedettaが悪魔の影響下にあったことを証明する必要がある、ということで、大勢の立ち合いのもと、水責め(重い鎖を巻いて沈められて沈んだままだったら善人とか)、火責めの残忍な異端審問が行われて、彼女は傷だらけのまま狭い石の牢獄に監禁されるのだが、なにをやっても効かなくて、他方でFedericoは別の修道女ふたり(うち一人はAlba Rohrwacher!)との愛欲に溺れたり、兄の仇であるはずのBenedettaにも疼くように惹かれたりしてかなりどうしようもない。
次のパートは同じ土地の現代に時代は移り、自称税務調査官、見るからに怪しいFederico (ふたたびPier Giorgio Bellocchio)が、ロシア人の資産家Ivan Rikalkov (Ivan Franek)を伴って、かつて修道院で、現在は修道院兼刑務所となり、ぼろぼろに朽ちかけている建物を購入したいと言って訪問してくる。管理人はこんな廃墟のようなところを、と戸惑うのだが、かつて修道院だったこの場所には老いたBasta伯爵 (Roberto Herlitzka)がひとりでひっそりと暮らしている。
伯爵の表情はずっと固まったように凍り付いたまま(すごい横顔)、ほぼ喋ることもなく、その状態で町を徘徊して歯医者に行ったり(レントゲンで吸血鬼であることが...)、バーでひとり佇んだりしていて、そんなしおしおになっても、とにかくずっと生きているらしい - なんのために?
そして最後に石の壁のなかに(数十年?数百年?)放置・幽閉されていたBenedettaが彼女を閉じ込めたのと同じ枢機卿によって「ひょっとして聖女なのかも」という畏れと共に解放され、汚れにまみれていたはずの全裸の彼女は少しも老いておらず、ちょうどその反対側で伯爵は...
お話はBellocchioによるフィクションだが、Benedettaは16世紀に実在し、修道院に13年間幽閉された「モンツァの修道女」 - Marianna de Leyva – の生涯から引かれていて、最新作の”Rapito” (2023)でも顕著だったキリスト教(がその教義のもとで支配し、その名のもとで為してきた悪業)への批判が炸裂している。
故郷ボッビオで撮っていること、前半後半それぞれに息子のPier Giorgioを起用していることからも『私の血に流れる血』、というときの「私」とはBellocchio本人だと思われるのだが、なにがここまで彼をキリスト教批判に向かわせるのか、”Rapito”イギリスでの公開時のトークでも本人が語っていた記憶が。ものすごく真っ当な宗教(的なもの権力、教条主義全般)に対する異議申し立てだったの。
という見方もあれば、聖女(聖なるもの)→ 吸血鬼(邪なるもの)→ ロシアの資産家(のっぺら)という歴史の流れのなかで淘汰されてきたもの、それでも残されているなにか(あるとしたらそれは?)、を概観する、というのもあるのかも。 修道院なのに、ずーっと生きにくい状態はどこまでも続いている。例えばこんなふうに、と。
[film] Obsession (2025)
7月23日、木曜日の晩、二子玉川の109シネマズで見ました。
邦題は『オブセッション 災愛』。
プロダクションはBlumhouseで、ホラーだと聞いていたし「災愛」なんていかにも、なかんじなのだが、出てくる人数少なめ、画面は地味で暗そうなので、この程度なら乗り越えられるのではないか、ってなんとなく。目を覆ったり口や頬を押さえたくなるような恐怖描写はないのだが、シンプルで後からじわじわ沁みてくる、80年代のB級風味がある。
作・監督・編集は元YouTuberのCurry Barker、これが劇場公開デビュー長編で、昨年のトロントの”The Midnight Madness”という部門でプレミアされている。
楽器店で働くBear (Michael Johnston)は幼馴染で同僚のNikki (Inde Navarrette)と付きあいたいと思っているが、なかなか言い出せなくて、ひとりうじうじ行ったり来たりを繰り返していて、彼女がクリスタルのネックレスをなくしたというので、替わりを買ってプレゼントしてあげよう… と地元の怪しげな雑貨屋に行くと、そこで紙の小箱に入った"One Wish Willow" - 「願いが叶う柳の枝」 - 願をかけてその枝を折ると願い - ひとつだけ - が叶うというブツを見つける。胡散臭いけどおもしろそうなので買って、軽いかんじでぽきっ、てやってみる。
そしたらだんだんに、やがてはっきりとNikkiが寄ってきて、自分に好意を持ってくれている、それどころか愛してくれているようで、家にも来て、ずっと一緒にいたい、とか言われて、あまりの急展開に驚きながらも自分が望んでいたことだったので歓んでいちゃいちゃべたべた過ごすのだったが、突然彼女が錯乱して怒鳴ったり、強い態度に出る - 自分が家を出たり彼女から離れようとすると – のが目立つようになる。
はじめのうちはNikki自身も我に返って後で謝ったりして、Bearもそういうものか、って思ったりしたのだが、家の扉を内側からテープでがちがちに留めて外に出られなくしていたり、を見ると、ちょっとこれは… になって枝を買ったお店に行って願いが呪いみたいに強すぎるやつなので元に戻せないのか、って聞いてみると、そんなのムリ、死ぬしかないよ、とか言われて..
素朴なお願いを、(素朴だから素朴に)お願いしたらちょっと効きすぎてびっくり恐いよう、って素朴に夢見た相思相愛が地獄の釜底にまで転がっていくドラマで、最後はやっぱりびっくりぼこぼこ血みどろの「そこまでやらなくても」になっていくのだが、そもそも愛とはここまで相手を縛って苦しめたりするものなのだ、少なくともそういう思いと紙一重の厄介な呪いみたいなもんなのだ覚悟しておけ、ということを109分かけて伝えようとしていて、でもこれなら90分くらいでも十分だったかも。
通常のホラーであれば、こういう呪いとか呪縛を解く、あるいはどうやって解くのか、に向けて主人公はしゃかりきになって動いていくものだと思うが、この映画の場合、もちろんそういう動きはしてみるものの、終盤は為すすべもなくやられて埋もれていくばかりで、この辺は気弱でなかなか愛を告げることができなかった最初の方の主人公の設定とも整合していて、つまりこの彼の場合はかわいそうだけどそもそもどうしようもなかったのね、で終わり(でよいのか?)。
画素の粗いデジタルで撮られたような暗めの籠ったような映像も、あんまり好きではないのだが、このテーマだとやはりそうなってしまうのか。
だから愛なんてさ、って軽く蹴っ飛ばしてどこかに高跳びしてくれることも期待したのだが、そうもならなくて、この辺はやっぱり律儀でまじめなのね、って思った。