9月1日、火曜日の晩、神保町シアターの特集 - 『没後70年 映画監督・溝口健二の世界』で見ました。
国立映画アーカイブで企画展示などもやっているが、没後70年にしては静かで地味すぎないか、と思いつつ、見たいものは何度でも見よう。 80年のときにはこの世にいないだろうし。
原作は近松門左衛門作の人形浄瑠璃『大経師昔暦』 (1715) を元に川口松太郎が書いた戯曲『おさん茂兵衛』と西鶴の『好色五人女』 (1686)の「おさん茂右衛門」、これらを合わせて依田義賢が脚本を。
遊びの金で困っている兄(田中春男)の金策依頼で主人(進藤英太郎)の妻おさん(香川京子)から相談を受けた手代のもへい(茂兵衛)(長谷川一夫)だが、意地悪な主人に直談判してもどうしようもなく、店の金をどうにかしようとしてばれそうになったところを女中のお玉(南田洋子)に救われて、それがお玉に気があった主人を逆撫でして軟禁状態となるのだが、そこから転がったあれこれで目覚めてしまったのかもへいとおさん、騒がれて余計に確信してしまったのか、不義密通の罪で追われる身となったふたりは、もう死のうと誓ったところで更に燃えあがってしまう。なのに実親も含めた世間の格子はただただ冷たくて非情でー。
どこまでも身勝手で悲惨で内向きで、あれこれ非対称な家父長制 - 男中心社会のありようと、その不条理に正面から愛をもって激突して静かに微笑んで犠牲となる女性の聖性と - 近世の物語、悲劇としてものすごくよくできていて、ああとんでもない、っていつものように痺れつつ、そんなおさんの「美しさ」もまた男性側(のシステム)が都合よく練りあげたものなんだからね、って。コンプラで追い詰められた男たちが最後にすがろうとするのもこの辺だから、気をつけなくては、とか。
それにしても香川京子のとてつもないことったら。
赤線地帯 (1956)
9月4日、金曜日の晩、神保町シアターで見ました。 英語題は”Street of Shame”。
これを最初に見たのは00年代のNYのFilm Forumで、ものすごい衝撃で、そこから3回目くらい。
これも↑のもフィルム上映で、やっぱりなんだかんだフィルムがいいなー、説明めんどくさいけど、になる。
上映前からスクリーンの脇の小部屋にある機器がぴーぴー間歇的に変なノイズを出し続けていて、上映前にシアターから謝罪があって、上映後には無料の招待券をもらったのだが、このリアルタイムノイズ、劇中の黛敏郎のぴょーんていう変な音楽と妙に調和したりしていて悪くなかったかも。
売春防止法制定前夜の社会情勢を回想などなしでまっすぐ描いた現代劇で、溝口の遺作。
吉原の特殊飲食店「夢の里」で働く三益愛子、若尾文子、木暮実千代、町田博子ら娼婦たちの姿、そこに大阪からやってきた京マチ子、新たに働きに出ようとする少女、病気の夫と息子がいたり、一人息子と一緒に暮らすことを夢見ていたり、貢いできた男に殺されかけたり、病の夫は自殺しようとしたり、ほんとにいろいろで、全体としてはこんな制度、こんな社会、こんな男たちのせいでこんなにも … なのだが、同じ酷さでも『近松物語』のように迫害される側を恣意的に持ちあげたり賛美したりするのではなく、自分たち自らが強くしぶとく、場合によってはしなやかにしたたかに悪賢く生きる、生き延びようとする女性たちの姿を叩きつけて、やれるもんならやってみ上等だおらー、くらいの啖呵を切ってみせて、誰もがかっこいいったらない。
もちろん全体としては酷い話で、「日本すごい」が大好物でたまらない人たちにとっては正視できない光景だらけなのだろうが、こんなのを制度の変わり目に、「郷愁をこめて」ぽい目線なしで、ドキュメンタリーのようにしれっと作ってしまった(感がある)溝口(そしてこれを最後に消えてしまった)はすごいな、しかない。実際に笑う人はもっと笑っていただろうし、泣く人狂う人はこんなもんじゃなく悲惨だったのだろうが、娯楽映画でも犯罪映画でもないリアルを目指したすばらしいアンサンブルドラマだと思う。
9.09.2026
[film] 近松物語 (1954)
9.08.2026
[theatre] 夢去りて、オルフェ
8月30日、日曜日の午後、東京芸術劇場のウェストの方で見ました。
ロンドンで演劇を見るのがとても好きになったので、帰国してからも続けたい、って月1回は見るようにしてきたのだが、なかなかしんどい。 人気の演目はすぐに売り切れていて、ロンドンだと当日の戻りやキャンセル分をオンラインで簡単に買えたのにそれがないし、当日券がある、といってもどんな席が何枚、すらわからないからリスクを冒してまで行く気にはなれないし、なによりもなによりも肝心の劇の中味が、サイトを見ただけだとイメージとかポエムみたいのでしかわからないの! わかる人にはわかるのだろうし、それで回ってきた世界なのかもしれないが、そんなにムラを作りたいのか。小劇場の時代から何ひとつ変わってないのね。以上グチ。
というわけなので、どうしても名前を知っている作家の劇などに向かってしまう。
原作は清水邦夫の戯曲(1986)、初演も同年の紀伊國屋ホール、演出は清水邦夫、劇団は木冬社。38年ぶりの再演となるらしい今回の演出は大河内直子。
舞台の上には焼け崩れたような回転木馬の残骸があって、かつては遊園地かあったらしい。手前には萎れた草、遠くに海鳴り、夜空には月。
前口上のあと、昭和14年(1939)の冬近くの日本海側(最近、日本海側おおめ)のどこかで、北一輝はまだどこかで生きていると信じる桂木一機(大石継太)が東京で役者をしている血の繋がらない妹のぎん(朝海ひかる)を呼び出す。 大日本帝国陸軍所属の小桜大尉(佐奈宏紀)の妻夢野(平体まひろ)と一機がよからぬ仲にある、という噂がたってしまい、最悪姦通罪で引ったてられる可能性があるので、子供の頃に芝居ごっこをやったように、ひと芝居うってくれないか、というのがぎんを呼び出した理由。
一機の親友だった中原源三(加納幸和)とか夢野の家族、官警なども総動員で駆けつけてばたばたするなか、サル芝居はうまくいくかと思えたのに、静かにしていた夢野が唐突に想定外のことを言い始めて、そこに夢野のことを密かに想っていた義弟の青年将校が挟まってきて大混乱のシャレではなくなりー。
口上で語られていたように、既に崩れてとうに終わってしまった廃墟の上の、どこまで嘘でどこまで本当だったのか確かめようもない、かつて夢であったような話、であるので、どんな修羅場も、どんな悲劇も、誰のどんな妄想であれ、すべては脱線した回転木馬、風と共にどこかに、夢去りて、の上に積みあげられた、例えばこんなごたごたが。 オルフェのように一瞬で消えてしまったがその残骸はいまだにー、なのか?
舞台となった1939年から約50年後の1986年に書かれた芝居、そこから約40年後の再演(脚本は変えていないとのこと)なので、2段階でいろんなことが言えるのだろうか。バブル前夜の好況に浮かれて、全共闘は過去のものとなり、軽薄や表層が尊ばれた86年に北一輝を理想とする主人公の不倫どろどろの軽くない修羅場や殺傷沙汰を持ち出すのは、ものすごく場違いかつアナクロで、そのギャップゆえの「夢去りて」感を見せることの意義はあったのかも、と想像がついて、では、今回の再演はというと、この程度の修羅場ならリアリティドラマなどでふつうに見慣れているし、北一輝のような思想もいちコンテンツでしかなく、タイトルだってアニメのそれ?になりそうなくらいの軽さで、焼け跡も壊れた木馬も絵として映えればよし、だし - 80年代のクッションを介さなくても違和感なくふつうのドラマとして流れていってしまいそうな。
初演当時は、それでも愛を、失われたものを届かない場所と時間を経て語る、というロマンがありえた気もするのだが、いまはどうなのだろうか? 割とエモ抜きで走っていく主人公たちにどこまでついていけるのか、辺りだろうか。割とあっさり受けとめることができてしまったのだが、最近の若いひとたちがこれ見てどう思うのかは不明。
時代の段差を前提としたような劇なので、ここまで時代が隔てられてしまうと夢の効力も薄まってしまうのでは、と少し思った。Tom Stoppardの”Arcadia” (1993) のようにひとつの場所、ふたつの時代を交錯させた方が「夢去りて」のかんじは出たかも。
あと、家族–軍人-北一輝という同心円の体裁、80年代には「右傾化」で茶化していれば済んでいたあれこれが、近年はシャレにならなくなっていて、しらんぞー、しかない。 軍は簡単に去ってはくれないよ。
9.07.2026
[film] Útóipe Cheilteach (2026)
8月27日、木曜日の晩、ユーロスペースで見ました。
英語題は”Celtic Utopia”、邦題は『ケルト・ユートピア』。
上映後に監督のひとりDennis HarveyとPeter Barakanのトークと、更に現地と画面を繋いで映画にも出てきたThe DeadliansのSean Fitzgeraldが数曲歌ってくれた。
関係ないけど、Peter Barakanさんをライブで見た最後はいつだったか、Linton Kwesi Johnsonのライブ(っていつ?)以来だったのではないか。
冒頭、色褪せていていつのフィルムだかわからないが、女の子がアコーディオンを抱えて弾こうとして、でも音がでない・聞こえない? もうひとつは、道がない入り組んだ入り江に降りていったら岩の間に耳にタブのついた山羊だか羊だかの腐乱死体が挟まっていて、くっさーいー、ってなる。 どちらもなんだかとてもアイルランドなかんじがした。
ただ、この「アイルランド」についても「ケルト」についても、イメージとしてはなんとなく笛の音とか渦巻模様とか、わかるものの、もう少し具体的に、例えばケルトの文化を生きる、ってどういうことなのか、を見ようとした時、どんなものが見えてくるのか - について、現在のアイルランドのミュージシャンたちの演奏とインタビューを次々と映しながら、「こんなかんじ」のようなところを見せてくれる。
そこにはふたつの言語(ゲール語、英語)のこと、宗教対立から始まった分断と紛争の歴史、マグダレン・ランドリーでの虐待のこと、などの史実や事実があり、それでもor それ故に故郷に対する思い、ユートピア的な地に対する思いは強くあって揺るがない、というのが、インタビューや音楽を通して見えてくることで、そこに自分自身が聴いてきたアイルランドの音楽とか、現地に行って触れてきたアイルランドの食べ物とか街角とかいろんな文化の様子とかが重なって、やっぱりアイルランドいいなー、になる。この「いいなー」、は例えばフランスやイタリアに対するそれとははっきりと異なるやつで。
ただ単純で楽観的なアイルランド万歳! にはなっていないところがよくて、インタビュー対象となった若いミュージシャンたちの考えや見えているものも含めると、ぼろぼろでどうにかここまで来たし、わからないことだらけだけど、ここまで来れたんだから、あとは酒と歌があればどうにか、くらいかも、という平熱感。 単純なユートピアを目指すんだ!でも アイルランドはユートピアだ!でもなく、またケルトとは、ケルトであることとは?もはっきりと示されない(示しようがない)まま、子供の頃から歌い伝われてきたような歌をうたう、歌うこととは、等について、政治家でも歴史家でも批評家でもなく、若いミュージシャンたちが自分の言葉でぼそぼそ語ろうとする。 そういう中から光として現れたKneecapとかFontaines D.C.がそもそも抱えこんでいる豊かさ、分厚さについて。
まったく事情も背景も異なるとは言え、自分の国についても振り返ってしまう。そもそも他の国のことを眺めていられる余裕あるのか?はあるけど。 余裕とかじゃなくて、過去・歴史との向き合い方、文化の複雑さや分断に対する目線、接し方、等も含めて、学ぶべきところは多いし。 政治と音楽は別、なーんて幼稚でお子様な言い草だろうか、って思ってしまうし。(もうほぼ諦め)
登場したミュージシャンのなかで見たことがあったのはバルセロナのPrimaveraで見たLankumくらいだったが、Lankum、すごくよい意味でモダンでよかったの。
映画のなかで何度か言及されていたマグダレン・ランドリーについては、“The Magdalene Sisters” (2002)が有名だが、最近のドキュメンタリーではAoife Kelleher監督による“Testimony” (2025)がすばらしくよかったので、公開されてほしい。まだ生存している当事者たちの証言をいかに歴史のなかに刻む、刻みうるのか、という国境を越えた試み、そのなかで改めて露わにされる彼女たちの痛みについて。
[film] The Dog Stars (2026)
8月31日、月曜日の晩、Tohoシネマズ日本橋で見ました。
監督はRidley Scott、Peter Hellerによる同名小説 (2012)を原作にMark L. Smithが脚色して、撮影はErik Messerschmidt。主人公はラストサバイバーでもなんでもないのだが邦題は、『ラスト・サバイバー』。
2035年、グローバルパンデミックで人類の殆どがやられてしまったらしいアメリカのコロラドの山奥の元飛行場だったようなところで元整備工だったHig (Jacob Elordi)と犬のJasperはセスナに乗って誰もいない街まで飛んでいって生活の必要物質をかき集めたり、かつて住んでいたところに行って亡くなった妻の幽霊と会ったり、Mennonitesのコミュニティに物質を届けたり、を淡々をやっていて、住処に戻ると主人公とどういう関係かは不明だが元軍人らしいBangley (Josh Brolin)がいる。
飛行中にGrand Junctionからの無線信号のようなものを受け取ったHigはそこに行ってみたい、というのだがBangleyは反対で、そうしているうちに敷地に侵入してきた連中によってJasperは殺されてしまい、悲しくてやけくそになったHigは止めるBangleyを振り切ってGrand Junctionへと向かう。
のだが途中で飛行機が壊れてPops (Guy Pearce)とCima (Margaret Qualley)の親子が暮らす農場に落ちて、最初は警戒されながら彼らと、特にCimaとは少しずつ仲良くなっていくのだがそこも襲撃されたので、どうにか修理が間に合った飛行機で3人で憧れのGrand Junctionに向かって、だがしかしそこも組織された変態の巣窟なのだった… (ここでAliensが出てくるかと思ったのに)
出てくる人たちが全員見事に(白系)犬顔でタイトルも「犬星たち」なのでしょうがないのだろうが、全員が犬的な温もりを求めている & 襲ってくる方も全て狂犬 - のようで、予告でかかっていたブラピの新作もそれっぽいかんじだったし、なんなの? ポストアポカリプスには犬がいないと生きていけないの? みんなそんなの見たいの?
映画のなかでは、外見はともかく俺はぜったい外には行かないって踏みとどまったBangleyだけが猫か。
猫と一緒に滅びるのを待つ(だけの)映画を見たい。
Ridley Scott、こんなに緩いやつでいいの?
Shelter (2026)
9月3日、木曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。 邦題は『シェルター』。
監督はRic Roman Waugh、Jason Statham自身がプロデュースに参加している。
こちらも犬系のアクションだが、いまのこの時期、イギリス任侠B級(ハゲ)映画としてGuy Ritchieの新作とこれがかかっていて、どうしようかなー、でこっちにした。なんとなく。
スコットランドの孤島のもう使われていない灯台の根本の小屋にMason (Jason Statham)とわんわんがひっそり隠れるように暮らしていて、たまに少女Jessie (Bodhi Rae Breathnach)とそのおじさんが小さい船でやってきて食料などを置きにくるのだが彼はずーっと喋らず無愛想の隠者のようで、でも嵐の日に彼らの船がやられてJessieだけを助けることができて、怪我をして孤児になった彼女の面倒を見ることになるのだが、対岸に薬を買いに出たところで町の監視カメラに映った彼の顔からアラートが出て、MI6の強硬派でトップから後ろに退いたManafort (Bill Nighy)が、こいつは… って近くにいた腕のよい刺客を送るとか、Masonを殺しにエージェントとか一連隊を送ったり越権で勝手にやりだして、なんかおかしいぞって気付いたMI6のRoberta (Naomi Ackie)が調べてみたらMasonはMI6のエージェントの中でも過去最強のやばいやつだった、と。
出だしは結構スローで島に留まり、また犬が亡くなったりしてだいじょうぶかな?なのだが、基本はなんだこのハゲどいてろ、って言われたStathamが実はとんでもない狂犬で返り討ちにあってぼろぼろ、のいつものパターン(少女とか弱いやつには弱くて、強いやつには強い)は不変で、Jessieを守ったり彼女に怒られたりしながら車でロンドンまで行って、Jessieの安全を確保したナイトクラブでManafort の刺客エージェント全員撃ち殺したってぜんぜんへっちゃらで、最後にはManafortと向かいあう。
最後にStathamとBill Nighyが正面から激突(銃撃よりは肉弾で)してくれたら最高だったのになー。
9.06.2026
[film] Violette Nozière (1978)
8月30日、日曜日の昼、恵比寿ガーデンシネマで見ました。
『クロード・シャフロル傑作選 vol.2』として上映される3本のうちのひとつ。傑作選のvol.1は見れていないのだが、とにかく見る。邦題は『ヴィオレット・ノジエール』。Isabelle Huppertはこの作品でカンヌの女優賞を獲っている。こんなのが、これまで日本未公開だったの?
監督はClaude Chabrol 、撮影はJean Rabier、音楽はPierre Jansen、スタッフの名前をいくら並べてもこの映画全体を覆うみっしりとしたプロダクションの濃さ固さは説明できない気がする。 1930年代パリのあのアパート、ホテル、くしゃくしゃしたベッド、それらが目の前にあって、それは「再現」とか「体感」なんてレベルではなくそこに、ただ目の前にあるのを撮っているような。 タイパとかコスパとか「世界線」とか、バカのひとつ覚えのように唱える「関係者」どもを2時間映画館の暗闇に閉じこめてやりたくなるが、連中にはもったいなさすぎか、って。
実在した女性 - Violette Nozière (1915-1966)が実際に起こした犯罪を元に、どんなふうに事件が起こったのかを追っていく。なんで、どうして彼女が、は台詞等も含めて一切説明されないが、見ていれば経緯と連関はぜんぶ見えてきて、そうして画面上に示されたものが説明してくれるかというと、やれるもんならいくらでもどうぞと、そういう角度からの澄んで醒めた見通しのよさがある。謎のようなものはひとつもない。
10代のViolette Nozière (Isabelle Huppert)は売春をして小銭を稼いで、仕事仲間も顧客もお気に入りの学生もいて、きちきちに狭そうなアパートに帰ると列車の機関士をしている父Baptiste (Jean Carmet)と母Germaine (Stéphane Audran)がいて、ふたりの仲は悪くなさそうだが、どちらもVioletteには厳しく鬱陶しそうで、でもVioletteの実の父はBaptisteではないことを母と娘は共有していて、なのでVioletteは金がありそうな実父のところにたかりに行ったり、それに加えてアパートの金が隠してあるところからしょっちゅうくすねたりやりたい放題なのだが、医者からは梅毒がやばいところまで来ている、と言われて、自分は処女なのでこれは遺伝であんたたちから来たのだ、と薬(毒)を盛ってあっさり殺してしまう。
こういうお話にひっついてきそうな苦労や苦渋や愛憎など、こんなわたしに誰がしたなど、べたべたした湿気や目線を一切排除して、アパートとホテルとカフェの描写と行き来と簡単な会話のやり取り、親の娘に対する干渉の具合とそれに対する反応などで、どの辺に向かうどんな話なのか - 少なくともメロドラマとは違うし、サスペンスのように何かに抗うわけでもないし - はわかってしまう。Violette Nozièreはこんなことをしました。というのだけで、これだけのものができてしまう驚異。
運転する列車から元気よく手を振る父の思い出も何度か出てくるが、それでも揺るがない、というか吹っ切る、断ち切るための小道具のように浮かんできて、決まっていたことをやるだけ、のような。
それにしても、今から振り返ればなんの違和感もなくいつもの当たり前の彼女、としか言いようがないのだが、Isabelle Huppertの鉄面の、ちょっと歪んで、微笑んでいるのか怒っているのかの口元と、すべてをばちばちにはね返してしまう目の強さはとうにあって、Huppert = Nozièreの映画、それ以上でもそれ以下でもないの。
9.03.2026
[film] 恐怖份子 (1986)
8月25日、火曜日の晩、ル・シネマ 渋谷宮下の9Fで見ました。
邦題は『恐怖分子』、英語題は”Terrorizers” – かっこいい。
2015年にデジタルリマスターされた際にもイメージフォーラムで見ているのだが、これは何度でも。
監督は楊徳昌(Edward Yang)、脚本は楊徳昌と小野(Hsiao Yeh)、撮影は張展(Chang Chan)。
スラムのようなアパートで銃声が響き、それを写真家になりたい青年シャオチェン(馬邵君)がカメラで追い、飛び降りて足を怪我した不良少女シューアン(王安)を更に追いかけて撮って、大病院の出世競争のなかにいる医師リーチュン(李立群)とその妻 - 小説家で鬱病を患うイーフェン(繆騫人)のそれぞれの葛藤とすれ違いが旧知の編集者と彼女を結びつけ、カメラをもった青年はシューアンとアパートでぶつかり、足の怪我で動けないシューアンのいたずら電話が小説家たちをあちこちに動かし散らして、物理的な彷徨いと妄想に近い思いこみが粉塵のような「恐怖」の種とか粉 - 「恐怖分子」を捲きあげてあたり構わず散らしていって止まらない。
これらすべてが偶然の出合い頭の事故のように起こって、説明やストーリーを排するかのように配置されていって、撮られた写真を寄せ集めて並べて貼ってばらして、のような作業の果てに、引き裂かれた男(たち)は妄想もろとも自殺する、というお話。
ここはやはり7月に見た 『海灘的一天』 (1983) - 『海辺の一日』を思い起こさないわけにはいかない。
どちらも最後に(or最初から)主人公の夫である男性が(or 『海辺..』では主人公の兄の医師も)亡くなる話で、どちらも妻の方を向いてくれない/本心を明らかにしてくれない夫の振る舞いに傷ついている妻の話で、その先にどうなるのか - 幸せを掴めたのだろうか – までは示されない。
『海辺の一日』は残された妻の回想(語り)という形式を取るので、すべては夫の消えたあの海に集約されていく、一枚の絵の枠に収まっていく印象があったが、こちらは中心のふたりの外側(社会的には下層・周辺)にいる男女がアナーキーに彼らの足場足元を揺さぶってきて、不安と恐怖の種を散らしていく。彼らの不幸や不安とは関係ないはずなのに、目に耳に入れたくないのに否応なく挟まってくる – Terrorizers.
ふつうストーリーに挟まってこないノイズのようなこれらは、実際には存在したり活動したりしているものだし、これらを排除したところで成立するメロドラマなんてありえない(し、そもそもばっかじゃないの?)、という原理的な問いから始まったものとはいえ、これらの粒(分子)が連なって重なって並べられるその配置があまりにスタイリッシュで、こんなきれいでかっこよくてよいのか、にはなる。
90年代になるとここで見られた混濁が更に加速して味噌も糞ものぐじゃぐじゃ模様を描き、そこになんでもかんでも「世界」というラベルが貼られたりして、これはこれでうっとおしくなっていくのだが、そうなる前の、まだ都市や世の中をそれなりに整った(壊されるべき)ものとして、そこからこぼれ落ちる偶然も含めて(恐怖を恐怖として)掴まえて並べようとしていた時代の記念碑的なランドスケープになっているのではないか。
ランドスケープについて、これらの世紀が変わると、隣の国にホン・サンスという人が現れて、Edward Yangが都市の格子のなかに置いた痛みやノイズを酔いと偶発性のなかにぺったんこに散らして、フィクションとは?のようなところに連れていってくれた、のかしらー。
9.02.2026
[film] A Hora da Estrela (1985)
8月23日、日曜日の昼、新宿武蔵野館で見ました。
Suzana Amaral監督によるブラジル映画、原作はユダヤ人の両親のもとウクライナに生まれてブラジルで育ったClarice Lispector (1920-1977)の同名小説(1977-生前最後の小説)。英語題は”Hour of the Star”、邦題は『星の時』。
ベルリンのコンペティションに出品され、銀熊賞(最優秀女優賞)を受賞している。
原作(文庫本は部屋のどこかに積まれている)と映画では、原作の方には「ぼく」という男性の語り手がいること、舞台が原作ではリオデジャネイロ、映画ではサンパウロだったり、いろいろ違いもあるようで、別もの、と見ても構わないのかも。
時報を告げたりするラジオからは、ハエのスピードはxxで地球を一周するにはxx日掛かります、など、かなりどーでもいい森羅万象の豆知識みたいなのがゆっくりとしたナレーションでどこまでも流れていく。そういう空気のなかに19歳のMacabea (Marcélia Cartaxo)がいて、町工場のようなところのオフィスでタイピストをしているのだが、指いっぽんいっぽんでタイプしてて、仕上がりも汚れていてひどい、と上から文句を言われていて、わかった、わかっているけどがんばる、と返すしかない。
ブラジルの北の方からひとりで働きに来て、貧乏長屋のような共同下宿に暮らし、トイレはベッドの下に置かれた洗面器で、化粧もせず、着るものもどうでもよく、ホットドッグとコカ・コーラが好きで、休日もなにもせず地下鉄に乗るくらい、たまに話をするのは職場の同僚と同じ下宿にいる人たちくらい。でも困っていないしそんな辛くもないし、ただ生きてる。 どうすればもっとよりよく生きられるのか、みたいな考えはないし、言われたってなにをどうしたらよいのやら。
そんな彼女が公園でOlimpico (José Dumont)と出会って、彼は今は貧乏で、教育も後ろ盾もないけど国会議員になりたい、とかひとりで喋ってばかりなのだが、うんうん、て聞いているだけで自分からほぼ何も言わないMacabeaを気に入ったのか、一緒に出歩くようになる。のだが、Macabeaは彼の好きなように扱われていて、彼に小銭を渡して職場に電話してほしい、って言ってもしてくれなくて、これを付きあっているというのか、自分は恋におちているのかどうか、それすらもわかっていなくて、でも総合的にはいいかー って日々を流していく。
Macabeaの同僚のGloria (Tamara Taxman)は派手でとっかえひっかえいろんな男性とデートと別れ(ふられ)を繰り返していて、結婚相談所の魔女のような占い師(Fernanda Montenegro)から友人の男を奪えば理想の男性と出会える、って言われたので、MacabeaのOlimpicoを横取りして、Olimpicoはほいほいついてくるのだが、けっか理想の男性と出会えてしまったGloriaはあっさりOlimpicoを捨てて、同じ占い師からメルセデスに乗った裕福な外国人とすばらしい出会いがあるよ、と言われたMacabeaの方は…
なんの抑揚もなくさーっと最後まで流れていってしまう、表面的に眺めればひどい話なのだが、Macabeaは幸せだったのだろうか? 悪趣味かつ意地悪なキャラクターの置き方やストーリーの展開、全体に漂う非情なかんじはR. W. Fassbinderだなあ、としか言いようがない乾いた暗さに満ちていて、なのに彼女の態度はFassbinderのミソジニー光線から逃れるべくして逃れ、とても穏やかにラジオを流れていく声のようにプレーンな均衡を保っているように見える。 知ったこっちゃねえだろ、ほっとけ! というような。 そんな女性像を底辺にも頂点にも置かずに輝かせることもせずに示し、そこになんのドラマも持ちこまず、ただそこにあろうとした(そして実際にそうしている!)Marcélia Cartaxoはすばらしいと思った。
日本の女優でこういう境地のようなところまで行ったのは、やはり田中絹代だろうか。
あと、こんな「女性像」を映画でさらさらと一筆書きで描けてしまう、というところがブラジル(南米)であり日本である、ということ。