2.21.2026

[theatre] Dance of Death

2月13日、金曜日の晩、Orange Tree Theatreで見ました。

ここのところずっとばたばただからかなんなのか、映画をまったく見れていなくて、時間ができると演劇のチケットを取ってしまって、映画館に行けていない。どういうわけでこうなっているのか自分でもあまりよくわからないのだが、ライブでじたばた、というあたりが地続きなので(楽しいの?)はないか、とか。

原作はAugust Strindbergの同名戯曲 – “Dödsdansen”(1901)、脚色と演出はRichard Eyre。昨年9月にこのシアターで見たCharles Danceらが出演した”Creditors”もStrindbergが原作の3人(老人)芝居で、この時も画家Strindbergの絵画がモチーフの色模様で天井などが彩られていて、今回も。でも、舞台の上は古くて陰鬱で雑然としたリビングで、タイプライターや無線の受信機(唯一の外との交信手段)があって、やや重苦しいかんじ。

陸軍大尉Edgar (Will Keen)と彼の妻Alice (Lisa Dillon)がそのリビングに姿を現して、病弱であちこちにガタがきているEdgarとそんな奴の面倒をみるのも面倒っぽいAliceが激しくはないが刺々しい言い争いを繰りひろげていって、その刺々しさがなんだかおかしい。軍人だけどまったく出世できずに、でも軍人なので愚直に制服を着て外に出ていくEdgarと、結婚しなければ女優として成功していたはずというAliceは、互いに本当にあんたなんかいなくなっちゃえ死んじまえ、って全力全霊そう思っているようで、その言いようがストレートすぎて、それぞれ言われれば言われるほどふざけんな、って膨れて力を蓄えてくような、全体としては不条理劇の体裁でこちらに迫ってくる。 映画であればベルイマンあたりが撮りそうな。

時代設定はオリジナルの1900年初からスペイン風邪が流行した1918年頃に変えていて、ふたりの様子を見にきたAliceの従兄弟のKurt (Geoffrey Streatfeild)は最初にマスクをしていたりする。パンデミックで閉じこめられたなかでの夫婦の不和、という話は古い話に聞こえないし、すぐそこにいくらでも転がっている死、という背景がドラマをより生々しいものにしている。

そして、この閉ざされた空間で、憎み合い文句を言いあう彼らの背後に見えてくるのは本当の虚無、というか孤独で、それが第三者であるKurtの登場によってより明確になっていく。あんたなんか死んじまえ、と言ったその先、それが実現された後に、待っているのはどんな世界なのか、そうやって自分はひとりになった時に何が起こってどうなるのか、どうするのか、等々。これらが”Dance of Death”というタイトルのもとで形を作っていく、コレオグラフされていく過程がスリリングで、それを振りつけていくのは誰なのか、等。

一度Kurtが動かなくなって、あ、本当に死んじゃったんだ.. ってなるシーンがあるのだが、その時に見せるAliceの表情や挙動がすごくて、そこで自身の存在の境目(のようなもの)や重みを改めて測って見極めようとしているかのようで、こういうことは確かに起こることかも、って誰もが思わされるに違いないのと、あと、ここで問われているのは愛ではなくて、愛なんてなくて、ではなにがあるのか、と。なにが我々を、どこに向かって動かすことになるのだろうか、と。

 

[theatre] Beautiful Little Fool

2月12日、木曜日の晩、Southwark Playhouse Boroughで見ました。

脚本はMona Mansour、演出はブロードウェイのMichael Greif、ミュージカルで歌詞とスコアをアメリカ人のHannah Corneauが書いて4人編成のバンドがライブでバッキングして、アンサンブルの2人はコーラスも兼ねる。90分間、休憩なし。

舞台は暗い倉庫のようなアーカイブのなかで、ファイルや本や書類が山積みになっている2階建て、そこにScottie (Lauren Ward)がひとりで現れ、父は44歳で亡くなって、母は47歳で亡くなって、今日、48歳の誕生日を迎えるわたしは父母の亡くなった歳を越えてしまった!って嘆いたり叫んだりするとどこからかZelda Fitzgerald (Amy Parker)とF Scott (David Hunter)が蘇って、ふたりの出会いから先を歌って踊って綴っていく。

音楽は当時(1910-20年代)のジャズ等を使うわけではなくて、ずっと極めてプレーンなポップス・ロック調で主にZeldaが中心で歌って、ScottもScottieもソロを取る場面もあるが、やはりメインはZaldaの歌。18歳で地元アラバマのMontgomery Country ClubでScottと出会ってから盛りあがっていく恋、そこにScottの作家としての成功が加わって、奔放かつ最強のパワーカップルが生まれていくところ、やがてScottieが生まれて、ふたりの関係が壊れていって... という史実として知られているところをなぞりつつ、やはり中心は歌いあげるZelda、それを背後で見ているしかなかったScottieの嘆息、ということになるだろうか。

“This Side of Paradise”や”The Beautiful and Damned”といったScottの小説名が曲に織りこまれていたりもするが、文芸ドラマとしてはあくまでも控えめで、Scott自身が歌う場面も何かを訴えたり押しだしたり、という場面は殆どなくて、ふたりの関係の破綻についても、ScottによるZeldaの書いたものの盗用とか、精神病院に送ったり、の虐待に近い史実については十分に掘り下げられていなくて、強いふたりの個性がぶつかった帰結のような – すべてはどうすることもできなかった、なトーンで、真ん中と最後に歌われる”Call It Love”として貫かれていて、それを恋と呼ぶのであれば、そりゃなんでもそうなっちゃうよね、なのだった。

タイトルの”Beautiful Little Fool”はZeldaがScottieを産んだ時に呟いた言葉で、後にScottが” The Great Gatsby”で引用したりしているのだが、すべての女の子に”Beautiful Little Fool”であってほしいと願ったScottとあの時代のアメリカの男たち、それに対する毒なり批評なりが少しはあるかと思ったのだが、結局あのときの愛はほんものだったー 程度で終わってしまっているのはどうにも残念だしおめでたすぎるし、父母の歳を過ぎてしまったScottieも、せっかく資料庫にいるのだから改竄するくらいの勢いで何かを見つけ出して叩きつけてくれてもよいのに、結局思い出に溺れてしんみりしたまま終わってしまう。

ふたりが20年代、欧州で過ごした日々のことは、Gertrude Steinの肖像が舞台の袖に置かれて少しだけ出てくるのだが、『優雅な生活が最高の復讐である』のテーマにフォーカスしてZeldaに思う存分語って歌って暴れてもらう、という構成にした方が内容的にもおもしろくなったのではないか。

3人のアンサンブルは歌も含めて固まっていてうまいし楽しくて、でも個人的にはZeldaを壊して潰したのはScott、くらいに思っているので、このトリオネタでそんな楽しいミュージカルになるわけが… という違和感がずっと残ってしまうのだった。

2.18.2026

[theatre] Chiten Theatre: The Gambler

2月10日、火曜日の晩、Coronet Theatreで見ました。

原作はドストエフスキーの『賭博者』(1866)(亀山郁夫訳)、演出は三浦基、音楽は空間現代、初演は2021年。 90分間休憩なし。
地点の演劇は2017年、英国に渡る直前に早稲田大学大隈記念講堂で『ロミオとジュリエット』を見たのが最初で、それ以来。

舞台の上にはルーレットの上方で(or それ自体がルーレットなのか)LEDネオン付きで回転するがらがら、真ん中に長方形のテーブル(これも回転していく)、床もルーレットの色模様に色分けされている。舞台の左手にギター、左手奥にドラムス、右手にベースが入って、バンドがステージの周囲を固めてカウントして音楽が始まると、それに乗っかるようにして俳優たちがテーブルの各自の位置につくと同時にテーブルが回転を始めて、やはりものすごいテンションと速さで台詞が放たれて英語字幕上に映しだされていく。

ふだん字幕があったら字幕のほうを見る習慣がついているのでつい字幕を見て、ああこれは日本語の劇だった、と思い直すのだが、日本語であったとしてもラップのような強さと切れ目のなさで矢継ぎ早に繰りだされるので、字幕で確認したり補強したり、とにかくせわしない。途切れることのない空間現代の音楽は昔のパチンコ屋の軍艦マーチで、ルーレットの回転に油を注いでいって止まらないしこの輪から逸れることを許さない。依存症をかき混ぜて攪拌してもう一回固めて溶かして、の繰り返し。

とまらない、やめられない、というのがギャンブルに向かう、ギャンブラーの基本的な態度で、完全に中毒で自分で自転車をこぎ続けてしまう家庭教師アレクセイ、彼が恋するポリーナ、彼女の義父のロシア人「将軍」、彼が恋するマドモワゼル・ブランシュ、英国人のミスター・アストリー、フランス人のデ・グリュー、何度も死にかけては蘇る「将軍」の「おばあさま」など、このテーブルの上とか脇にこうしているいろんな人たちも何かの縁で、ギャンブルだって何かの縁に違いないし、って熱狂的に喋りまくり賭けまくる彼らはここでこんなことをしていて幸せなはずで、ひょっとしたら誰かの何かを救っているのかも知れなくて、その欲望のありよう – 絶望~ひょっとしたら~まだまだいけるかも – の循環を反復されるポーズとかフレーズなどで繋いで端から端に叩きつけていく。

ただ近年の日本のお笑いなどで顕著になった(ように思う)、キメのポーズとかそれに合わせた掛け声とか台詞とか、それにみんなの声を重ねたりとか、どこがおもしろいんだかぜんぜんわからない、運動会の幼稚さを思わせるあれらが延々重ねられていくのはちょっと苦痛で、これって海外(あ、こっちが海外だが)の客にはどう見えているのかしら、とか、でもこの子供っぽい集団の熱狂と喧騒こそがギャンブラーを焚きつけて90分間をノンストップで走らせてギャンブラーたらしめる、ということはわかる。

やはりこの装置の外側で、なんでこんなことになっちゃったのか?とか、これらがなくなったらこの人たちは? などはあってもよかったかも – 有り金への言及はあったけど。これだけだと90分のトチ狂ったパフォーマンス(異国の)、にされて「なんかすごいねー」で終わっちゃうだけなのではないか、って。

[theatre] The Constant Wife

2月9日、月曜日の晩、Richmond Theatreで見ました。
Richmondって、ロンドンからは電車で1時間くらいかかるくらい遠くにある場所なのに、Orange Tree Theatreとかこれとか、なんで素敵な劇場があったりするのか?

Royal Shakespeare Companyの制作で昨年Stratford upon AvonのSwan Theatreでプレミアされたのがキャストを替えて英国中のツアーを始めて、それがロンドンに来て、ロンドン公演は一週間だけ、英国ツアーの後は、Queen Mary 2のクルーズに乗りこむんだって。

原作はW. Somerset Maughamの同名戯曲(1926)- 1929年にはアメリカでWilliam Powell主演、”Charming Sinners”のタイトルで映画化されている - 翻案はLaura Wade、演出はTamara Harvey、ジャジーでラウンジ―で素敵な音楽はJamie Cullumのオリジナル。 舞台は淡い幾何学模様の壁紙から淡い照明から風にゆらぐカーテンまで、ものすごくおしゃれな一軒家のリビングで、冒頭に執事Bentley(Philip Rham)が現れて、ピアノをじゃんじゃか鳴らしてからドラマがはじまる。

36才の主婦Constance Middleton (Kara Tointon)は医師のJohn (Tim Delap)と結婚してだいぶ経っても幸せそうで、颯爽と誰の心配もいらないふうに暮らしているように見えて、最初の方の母(Sara Crowe)や妹Martha (Amy Vicary-Smith)とのやりとりもコミカルで揺るぎなくて、将来にわたって何の不安も心配もいらないかんじであることがわかるのだが、そのうち - 気づいていたのかいないのか、親友Marie-Louise(Gloria Onitiri)と夫が不倫関係にあることを知り、家に乗りこんできたMarie-Louiseの夫Mortimer (Jules Brown)がわめきたてたことで、夫の嘘や裏切りが決定的に晒されてみんなお手上げ、になってしまう。

お話しはそれを知ったConstanceの揺らぎ、失望や怒り、あるいはどん底からめらめらの復讐やリカバリ、立ち直りにフォーカスしていくのかと思いきや、ぜんぜんあっさりさばさばとひとりで生きていくためにインテリアデザインの職を身につける - その準備を1年くらいかけて着々と進めて行って、それによって却ってじたばたする周囲の愚かさ、いろんな恥ずかしさが露呈していく、その工程を描いていって、そこにおまけのように献身的な恋人Bernard (Alex Mugnaioni)まで付いてくるので、いろいろご心配頂きありがとうー、って爽やかに旅立っていくConstantなConstanceの肖像を描いてかっこよいったらない。

経済的自立がすべて、誰にもやりこめられない、のようなやり方を貫いてとにかく感情に流されない/訴えない、誰の味方もしない、そういう地点から時間をかけて自分を磨いていくと、結局は周りに誰もいなくなっちゃったり、みたいな人間関係における乾いたシニカルな認識 - 原作者Maughamの時代にはちょっと皮肉に映ったかもしれない女性のありようが、今の時代だったらどんなふうに見えるだろうか、という実験? これが皮肉でもなんでもなく極めてまっとうで健全に見えてしまう、というのは一体どう捉えるべきなのか?

お勉強とか備えとか、そんなのやる余裕すらない、とかその間も一緒に暮らしたりしているんだろうし、実際のところは? とか横から意地悪く突っ込まれそうで、でも少なくともこの舞台のConstanceの態度にはブレとかなくて、あたふたするのは周囲の方で。

とにかくConstanceを演じるKara Tointonの颯爽としたしなやかさが突出していて、彼女が約100年前の舞台の世界にいることが勿体ない、そればっかりだった。

2.17.2026

[log] Amsterdam - Feb 6 - 7

2月6日金曜日から7日土曜日まで、1泊でアムステルダムに行ってきたので、その簡単なメモを。

アムステルダムは前回赴任していた時に2回くらい行っていて、大好きなところなのでいつでも何度でも行きたいのだが、今回の駐在ではまだ行っていなくて、行かなきゃなー、になっていたところで、Eye FilmmuseumでのTilda Swintonさまの展示が終わりそうだったのと、Rijksmuseumで新しい企画展 - “Metamorphoses”が始まったところだったので、このふたつをメインにして。

Anne Frank House

これまでいつ行っても予約いっぱいで入れなかったところなので、やはり見ておかないと、と。

やはり前夜に見た演劇 – “Here There Are Blueberries”のこと、少し前に見た演劇 – “A Grain of Sand”を考えてしまう。Anneがこんな狭い棚の裏側で、家族と共に息を潜めて暮らしていた、その反対側で党の幹部たちはカメラの前であんな笑顔を晒して何も考えない善人のふりをして暮らしていた。そしてエプスタイン・ファイルの醜悪さやガザの件は今、目の前にある。記録はもちろん大事だけど、想像力と、なんのためにこの建物が残されているのか、ということと。

Nijntje Museum

これまでアムステルダムに行くと、少しだけ遠出してMauritshuis(美術館)に行ったりしていたのだが、今回もそのシリーズでユトレヒトのミッフィーミュージアムに行った。ミッフィーは去年の5月に松屋銀座で見たではないか、なのだが、ミュージアムがあるのであれば、そりゃ見にいくよね。

小雨でずっと寒くて暗くて、駅から結構歩いたが、入口に合羽を羽織ったミッフィーがいたのでぜんぶ赦された(バカ)。

館内はミッフィーだけじゃないいろんな動物たちが壁とか物陰に張りついていて、もう少し博物館的に、起源とか書誌とか世界的な広がりとか、あるいはDick Brunaそのひとについて、彼のヴィジョンとかミッフィーに託したものとか、説明があったりするのかと思ったのだが、そんなの一切なくて(あったのかな?)、壁とか階段とか扉の裏とかにいろんなのがいたり空中に光って浮かんでいたりするので、わー、っていちいち小さく叫びながら写真撮ったりしているうちに終わってしまった。

炸裂するcutenessの嵐のなか、ミッフィーとはこういうやつ、いつもこんなふう、というのは十分に伝わってきたし、子供たちはみんな楽しそうに遊んでいたので、(これぞエクスペリエンス? で)これでいいのよね、だった。

ユトレヒト、といえば本屋の町、でもあるので古本屋も含めて何軒か回ってみて、何軒か、でこれならば相当やばいな、って小さく呟いて早々に深入りしないようにした。アムステルダムでも、着いた日にオランダニシンの屋台に行ったら広場で古本市をやってて、雨の金曜日なのになんてことだ? って見ないようにしたのだが、あんなふうにいろんな本が目に入るようになっているのって、素敵ではないか。神保町でもないのに。

Metamorphoses

7日の朝、まだ雨がぱらぱら霧がぼうぼうだったが、行ってあたりまえのRijksmuseum Amsterdamに。
“Metamorphoses” – 『変身』をテーマに内外からクラシックを持ってきた企画展。

ギリシャ神話のオウィディウスの『変身物語』 - レダからナルシスから馴染みの変わり身神話を起源とする、それをテーマにしたり着想を得たりした古今の絵画から彫刻から現代の映像作品まで、ワシントンからMETからNational Galleryから幅広く集めていて、底なしに深くておもしろい。変身、移り身への誘惑、というのは定着させたり固着させたりが主、の彫刻や絵画にとって格好、というか基本中の基本、ひょっとしたら唯一のテーマであって、Bernini, Rodin, Brâncușあたりの彫刻作品のいまにも変身/変態を始めそうな生々しく艶かしいツヤときたら。

カタログの英語版が出るのは3月中旬頃、というのでそんなの待てるか、ってオランダ語版を…

常設展示もざーっと見たが、天気のよくない土曜の朝だからか、フェルメールもレンブラントも、あんながらがらだったの初めてだったかも。

Tilda Swinton – Ongoing

2020年初め、コロナ禍で中断してしまったBFIでのTilda Swintonの特集はあれ以降の自分の俳優観/映画観にものすごい影響を及ぼしていて、そんな彼女の「回顧」 –ではない”Ongoing”展であれば見にいかないわけにはいかない。カタログの方はロンドンでサイン入りのを買った(紙質がすてき)。

カタログの表紙は刈りあげた後ろ頭、この展覧会のメインビジュアルはCasper Sejersenによるチョビ髭、青緑のシャドウでぼけぼけの詐欺師ふうの肖像(2023)で、簡単に正体を明かされてたまるか、という点では一貫している。今回の展示もDerek Jarmanに始まり、Joanna Hogg、Jim Jarmusch、Apichatpong Weerasethakul 、Pedro Almodóvar、Luca Guadagnino、Tim Walkerらによる過去の出演作や写真をプロジェクションしているのはもちろん、一番つきあいの古いJoanna Hoggの作品 “Flat 19, 2025”は、半開きに重ねられた扉や部屋の向こうから声が聞こえてくるインスタレーションだったり、一応彼女が過去の出演作で着た衣装なども並べられているのだが、ぜんぜん所謂「女優」の展示になっていないのがおかしい。演じるということ、配役の人生を生きるということ、他者になるということ、それでも自分は自分であること、という循環を体現し、そこを抜けていくスリルと歓びをずーっと自分の身体に問うて実践してきた人の現在形がこれ、という。

この後はここの常設展示(映写機とか映写の原理とか)を少し見て、フェリーで戻ってから古い教会 - Oude kerkとか、考古学のAllard Pierson Museumなどをまわった。

1泊でじたばたするのはもう慣れつつあって、そんななかホテルのロビーにいたにゃんこが異様にかわいくて、別れが惜しまれるのだった。

[theatre] Here There Are Blueberries

2月5日、木曜日の晩、Theatre Royal Stratford Eastで見ました。

開演前の舞台には宣伝なのかなんなのか、カメラのLeicaのロゴが大きく投影されていて、幕が開くと最初に20世紀初のポータブルカメラの発明〜登場は当時の人々の生活を記録するのにいかに革新的なことだったのかが説明される。

2007年、ワシントンのHolocaust Memorial Museumに一冊の古いフォトアルバムが送られてくる。そこにはアウシュビッツを記録した写真が多く収められていたが、これまでにここに送られて確認されてきた写真たちと大きく異なったのは被写体が収容所の収容者 - ユダヤ人たちのそれではなく、Rudolf Höss, Josef Mengele, Richard Baer, といった収容所の設立や運用に大きく関わっていた大物ナチス幹部や医師の写真、彼らが集まって仕事をしている場面が多く含まれていたことだった。写真の調査を進めていく中で、これらはRichard Baer の右腕だったKarl Höckerによって撮られたものであることがわかってきて、舞台はそこから、20世紀でもっとも凄惨な大量虐殺が行われていた「現場」、そこで働くナチスの幹部やその下の党員たちはどんな日々を過ごし「仕事」をしていたのか、と、このアルバムをホロコーストの被害者たちの実態にフォーカスしてきたMuseumの職員たちはどう扱ったのか、更にこのアルバムの存在がMuseumによって世界に晒された後、現代に生きる幹部の子孫たち & 我々はこれらをどう受けとめるべきなのか、について訴える、というより一緒に考えていく。

写真に写っていたのは仕事をしている彼らだけでなく、パーティーをしたり、余暇を楽しんでいたり、現地で働く女性職員たちは野外で楽しそうにブルーベリーを頬張っていたり - 劇のタイトルはここから - 多くの人は映画- “The Zone of Interest” (2023) -『関心領域』のことを思い浮かべると思う(Martin Amisによる映画の原作は2014年)。彼らは囚人たちを日々大量に虐待したり虐殺したりしながら、現代の我々と同じようにそのプロセスの「効率化」とか「改善」とかに取り組み、仕事と家庭と余暇とをはっきり意識して区別して暮らしていたことが見えてくる。このグロテスクさについて今の我々が云々することは簡単だが、もし我々がここに実際にいたとしたらどうなっていただろうか?

原作はMoisés KaufmanとAmanda Gronichの共同で演出はMoisés Kaufman。アルバムの写真を背後に投影しながら男女8人の俳優達が入れ替わり立ち替わりナチスの当事者たち、Museumの職員、写真の被写体だったナチス党員の子孫たち、などを代わる代わる演じていく。休憩なしの1時間30分。

少しづつ真相を明らかにしていく形式のドキュメンタリーフィルムでも実現可能なことのようにも思うかも、だが、舞台上での役柄を都度変えながら演じる、という方式を取ることで、立場役柄が変わった場合、そこにおいて自分に求められた役割を拒否したり立ち止まって考えたりすることは可能だろうか? という異なる角度からの問いを提起しているようで、これって演劇という形式だから持ち込めた何か、でもあるのかも、と思った。

上演後のパネルでもアーレントの「悪の凡庸さ」を緩用しつつ(アーレントのこの発想の汎用的な解釈には要注意と断りつつ)、これと同じ過去を繰り返さないためには、という角度でのトークが行われていたが、自分の知識の及ばないところで社会のどこかで進行している明らかな悪や加害に加担している可能性について考える、ということが今ほど重い意味を持ってきているのってないかも、と思った。 逃れることのできない何かがあることを明確に意識しつつ、他方で中立でいる、政治的でないままでいることなんてありえないのだ、ということを踏まえつつ、どこまで疑義や抵抗や異議申し立てをできるのか、というー。(政治的な何かから遠ざかろうとする態度や挙動を取れば取るほど、その怪しさが露わになる、いまの日本の気持ち悪さなど)。

2.14.2026

[theatre] High Noon

2月4日、水曜日の晩、Noël Coward Theatreで見ました。

1952年の西部劇映画 – 監督Fred Zinnemann, Gary CooperとGrace Kelly主演による『真昼の決闘』の舞台への翻案。 演出はThea Sharrock。脚本を(なんと)Eric Rothが書いている。

舞台は三方が板張りのサルーンのようになっていて、真ん中の上には丸い針時計があって、最初は10:15くらいを指していて、上演時間1時間40分(休憩なし)の間、出来事はリアルタイムのシーケンシャルで進んでいって(たまに早めたりしている気がしたので時計は手動ではないか)終わりのクライマックスの頃に丁度正午(High Noon)を迎える。

冒頭が保安官Will Kane (Billy Crudup)と敬虔なクエーカー教徒のAmy Fowler (Denise Gough)の結婚式で、みんなが祝福してとても盛りあがるしふたりは愛しあっているようだし、Willは保安官のバッジと銃を置いて、ふたりで安泰平和に生きていこうとしている – ところに、昔Willが牢屋送りにした悪党のFrank Miller (James Doherty)が釈放されて正午の列車で町に戻ってくる、という知らせが入る。

これを受けて悩みながらも再び銃を手にするWillと、もうあっちの暴力の世界には戻らないって約束したよね? と彼を引き留めて、でも彼の決意は固いのでこりゃだめだ、と彼の元から離れようとするAmyと、ここに絡んでくる飲んだくれの副保安官Harvey (Billy Howle)とかメキシコ人実業家の女性Helen (Rosa Salazar)とか、ただ誰も正午に向かって流れていく時間を止めることはできないし、Willの責任感とAmyの宗教に根差した決意を変えることはできなさそうだし。

WillにしてみればAmyは自分がこういう男だとわかっていて結婚したんじゃないのか、だしAmyからすれば、結婚というのはそんなことよりまずは相手を尊重するものではないのか、だし、犬も喰わない平行線で、町の衆にとってはそんなふたりの仲よりも自分たちの身の安全なので、こんな身内でがたがたしている保安官に任せられるのか? になっていく。でも結婚式から決裂まで最初の1時間くらいでこれらのことが立て続けに起こるのって列車が来ちゃうからにせよどうしても浅く薄く見えてしまう。

50年代のGary Cooperも今回のWillも、自分の言葉できちんと説明することが苦手なよう(旧型の男設定)なので、黙って行動に移そうとすると、そこで余計にいろいろ疑われて怪しまれて人を遠ざけてしまって、というよくない循環のなか、人はどうやって向こうからやってくる悪に立ち向かうべきなのか? それってなんのために? ということを問いてくる。

50年代の映画版はマッカーシズムの脅威のなかで作られてその評判もmixedだったように、今回の舞台版が突きつけてくるのは今のあの国の迎合主義や排外主義、だろうか。 どちらも根はおなじで、自分(たち)を守ろうとする過剰な要求(or 自分たちは責められているという被害妄想)が他を排除して暴力の連鎖を生んでいって止まらないやつ。

ここで問われるのは「自分たち」とは誰か、というのと、自分たちが守るべき「町」などは何を意味するのか、ということで、そんなときに流れてきたり登場人物たちが歌ったりするのが、Bruce Springsteenの何曲かで、特に”I’m on Fire”は何回も。構図としてはやや図式的すぎてわかりやすすぎて、でもそれは今だから、というのと、でもこれだけやってもまだなの?(あのバカは)、というのが交互にきてどうしても熱くなれない(よくない - 自分が)。

(これ、日本の家父長制がちがちの漁師町とかでやっても… 気持ち悪いだけか)

ステージ上で最後の銃撃戦をどう描くのか、と思ったら割とシンプルで、あんなもんしかないのかなあ。

でもBilly CrudupとDenise Goughの笑顔と抱き合う姿がとても素敵だったのでよいか。でもそんな笑顔に惚れたんだろうに、つまんない喧嘩はやめなよ、ってどうしてもなるわ。