7.14.2026

[film] Blood on the Moon (1948)

7月8日、水曜日の晩、シネマヴェーラのRobert Wise特集で見ました。この特集での最後の2本。
邦題は『月下の銃声』。 ゴスメタル系のアルバムタイトルにありそうな。

原作はLuke Shortによる小説”Gunman's Chance” (1941)をLillie Haywardが脚色している。

放浪のカウボーイJim Garry (Robert Mitchum)が友人のTate Riling (Robert Preston)に会いに行く途中で牛の大群に襲われて、近くの牧場主John Lufton (Tom Tully)のところに寄ったら彼の家族への手紙を託され、持って行ったらそこの娘2人に敵意をむきだしにされて、なんでだろう? と思っていたらRilingはインディアンの代理人と組んでLuftonの牛を買い叩いて土地から追い出そうとしている謀略が背後にあることを知る。

どうもLuftonが善玉でRilingが悪玉らしいのだが、Luftonの娘のうちひとりはRilingと繋がっていたり、全体に薄暗い照明や夜明かりのなか、主人公Garryと同じようにどっちが敵でどっちが味方なのか、誰がどうしようとしているのか明確に把握できず、主人公の思惑も含めて簡単には見えてこなくて、GarryはRilingの仲間であることをチラつかせたりしたせいで脅されたり刺されたりぼろぼろになりながら、威勢のよいLuftonの娘Amy (Barbara Bel Geddes)と一緒に戦っていくことになる。

最初に登場した頃のRobert Mitchumは無精ひげの胡散臭い風体で、狙われたり真相を知ったりするなかで、ひげはきれいになってて、でも何が正しくてどっちがどうなのか、などは薄暗くて(彼も察知しているのかどうか)見えてこなくて、謀略とか思惑に巻き込まれ、裏切りに夜討ちの連続で、これを「西部劇ノワール」と呼ぶのであればそうなのだろうな、としか言いようがない暗さと徒労感がずっと渦を巻いてつきまとい、拳銃早撃ちとか馬駆けとかで悪党をやっつけていく爽快感なんてまるでないのだが、ぼそぼそ喋って地面に転がってばかりのRobert Mitchumの重さと地味な暗さ、天井の低さのどん詰まり感がなかなかよくて、とても見ごたえがあった。

いまやっている時代劇ノワール『黒牢城』よりも、こっちかも、とか。


All That Money Can Buy (1941)

上のに続けて、シネマヴェーラで見ました。 邦題は『悪魔の金』。

監督はWilliam Dieterle、編集がRobert Wise、音楽はこれでオスカーを受賞したBernard Herrmann。 原作はStephen Vincent Benétによる短編小説"The Devil and Daniel Webster" (1936)を戯曲化したもの (1938)で、当初は同名のタイトルでリリースされる予定だったが、”The Devil and Miss Jones”っていう似た名前の映画があったので、”All That …”の方に変更された、と。 最近だと“All the Money in the World” (2017)っていうRidley Scottの映画もあったよね。あんま関係ないけど。

1840年のニューハンプシャーにJabez Stone (James Craig)という真面目な農夫が妻のMary (Anne Shirley)と敬虔な母(Jane Darwell)と一緒に暮らしていて、子供も生まれそうなのについてない、お先真っ暗なことばかりで途方に暮れていたら悪魔- Mr. Scratch (Walter Huston)が現れて、自分と契約したら楽になるよ、って金貨をちらつかせて、契約したら確かに生活は楽になって大きな家も建つのだが、Jabezの性格はどんどん嫌な方に変わってあれこれ手が付けられなくなっていく。

そこに以前から地元の貧しい者の味方として慕われていた議員で弁護士で弁のたつDaniel Webster (Edward Arnold)が現れて、Mr. Scratchは彼にも大統領にしてあげるよ、って誘惑しようとするのだがー。

監督のWilliam Dieterleにとっては『ノートルダムの傴僂男』 (1939) – これも編集はRobert Wise – に続く作品で、古くからある御伽噺ふう – というかふつうのファウスト伝説の悪魔がやってくるのをやっていて、そんなに怖くはないけど、見てすぐわかるキャラクターたち – 特にWalter Hustonうますぎ - とか舞台劇のようなセリフ回しとか、楽しいし、ヨーロッパの民話がこんなにも19世紀の腐り始めたアメリカにはまってしまうことにびっくり。

悪魔と戦う政治家、というと、そういえばゾンビと戦うリンカーンもいたし、アメリカだとやはりそうなるのか。いま、その伝統の線上に立って、政治家本人がしょうもない悪魔になってしまったら誰がどうするのか、が問われている。べつに問わなくてもいいからだれかどうにかしろあの腐れでぶを。

あと、William Dieterleと言えば大好きな“Portrait of Jennie” (1948)とか“September Affair” (1950)なのだが、あのちょっと不思議で独特なストーリーの運び、テンポは、既にあるような。

7.13.2026

[film] Höhenfeuer (1985)

7月7日、火曜日の晩、ユーロスペースで見ました。
邦題は『山の焚火』、英語題は”Alpine Fire”。 作・監督であるFredi M. Murerの「マウンテン・トリロジー」を構成する1本で、デジタルリマスター版での上映。 ロカルノ映画祭でグランプリを受賞しているし、いろんなところで必見、と言われている。 ので見る。

アルプスの山の奥のウリ州、そこの山腹に4人家族が暮らしている。家畜として豚、牛、鶏などがいて、4人それぞれ働いているが息子のBub (Thomas Nock)は聾唖で、文字は読めるようだが、ちょっとしたやり取りも難しそうで、でも家族はしっかりと強い父(Rolf Illig)と敬虔深くやさしい(何も言わない)母(Dorothea Moritz)と辛抱強く弟の面倒を見て読み書きを教えたりしている姉のBelli (Johanna Lier)がいて、父はBubを施設に預けたりはせず、躾のようなところまで含めてBelliに任せていて、学校に行きたいであろうBelliは、それを諦めてずっと家にいる。

Bubは大きくなって思春期を迎えて力仕事もこなせるようになってきた半面、挙動が荒く、思うようにいかなくなった時の反発やぶち壊しがだんだん手に負えなくなっていって、彼はとうとう自分で家族の家から出て、少し離れた山の奥に籠ってひとりで暮らして石を積んだり並べたりするようになり、Belliはそこに食料や衣類を届けたりしているのだが、そのうちBelliが妊娠していることがわかって、母はそれを察知しても黙り、でもそれを知った父親は激怒して銃を手に取って…

登場するのは家族の4人と、一度だけ少し離れたところに暮らす祖父母が出てくるくらい、外の世界(社会)との交流はほぼ描かれず、それでどうにか暮していけてしまう家族がある、あった時に、そこでの時間や季節、生活の営為はどんなふうに流れていくのか、をドキュメンタリーのように追っていく。アルプスの山でのお話だが、山の雄大でドラマチックな景色とかが映されることはなく、白い霧だか雲だかと岩と草だらけで騒がしいのは家畜ばかり、ドキュメンタリーとして見せられてもわからないかもしれない時間の流れ方、喋らない人々の表情や挙動が野生動物のように生々しい。

なので、Belliの近親相姦 - 妊娠も大問題として挙げられるのではなく、起こってしまったこと、として山中暮らしの雑事のように、せいぜい焚火を焚いて暖をとるような所作のなかで起こって、なにをどうすることもできないような事態として放置される。 『最後通告』で忽然と消えてしまう子供たち、あそこで最後に現れる謎の少年のように、言葉を発しない、あるいは発したとしても届かない距離のなかに置かれた者たちが行き交う、そこから出ていくことのない山の暮らし(最後の方でヘリに吊るされて山の向こうに飛んでいく牛だけが… )。それを過酷と思うのは都会人の勝手だが、とりあえず焚火はあったかくないと死んでしまうし。

これは悲劇であり破滅なのか? という本作への問いが反転して現れたのが『最後通告』なのかもしれないが、ストーリーを貫く意思のような力は『焚火』のほうが『満月』よりも強く効いているかも。どちらも柔らかい光で、あのラストシーンを狂ってるなんて言えるだろうか。

思い出したのはピランデルロ/タヴィアーニ兄弟の”Kaos” (1984) - 『カオス・シチリア物語』だったかも。海の物語に対する山の物語、というか。これらがどちらも80年代の中頃に出てきた、というのはー。

[film] Vollmond (1998)

7月6日、月曜日の晩、ユーロスペースのFredi M. Murer小特集で見ました。

彼の作品はこれまで見たことなかったので。 英語題は”Full Moon”、邦題は『最後通告』。35mmプリントでの上映。 作・監督はFredi M. Murerによるスイス - 仏 - 独合作映画。

山間の村に暮らすEscher家で、満月の次の日、10歳の息子が帰ってこないままになって、これは誘拐かなにかの事件かも、と通報して警察が動き出して刑事のWasser (Hanspeter Müller)が派遣されるのだが、捜査をしていくうち、この日同様に一帯の12人の子供達が突然に姿を消してしまっていたことがわかる。全員10歳の子供たちで、スイスの4つの言語圏にきれいに散らばって(各3名)いて、誰ひとり書き置きを残さず、争ったり抵抗したりした形跡も怪しい人物の目撃情報もない模様。

という、あまりに静かで穏やかな事件 - 「児童の誘拐」らしくない事件であることが消息を追っていく中で明らかになっていって親たちの焦りや苛立ちとは反対方向のみんなお手あげにならざるを得なくて、彼らが消えた1週間後、各家庭に同じ宗教的なシンボルのようなものが描かれた手紙が届き、宛名の筆跡は子供たちそれぞれのものであることがわかる。この件も含めて不穏な様子がほとんど見えないので、どこかに匿われてどうにか生きているのではないか、になる。

こうしてストーリーは、誰が何を目的にどうして子供たちを拐っていったのか、という犯罪捜査 - 領域や条件を狭めていく - から、こんな不可思議なことが起こってしまった環境や地勢の方に目を向けさせるように動いていって - あまりに手掛かりがないから - いまこの土地で神隠しのようなことが起こりうるとしたら、たぶんたとえば、というふんわりとした考察に向かっていくような – もちろん、ふんわりのはずがない。

グローバル化(云々が言われ始めた前世紀末)、という流れの反対側で言語や人種による分断と孤立化が進み、自然はいくらでも好きなように破壊され淘汰され、テロも戦争も一向になくならず、人類は反省も躊躇もしない - 劇中の子供がいなくなった母親とWasserが一夜を共にしてしまったり、もっと真剣に生きろどうにかしろ、って山の神が何かに向かって怒った - 『最後通告』 - ということでよいのか。

同様に子供たちの集団神隠しを扱った映画 - “Picnic at Hanging Rock” (1975)あたりと比べても神秘的だったり退廃的だったりの雰囲気からは遠く、例えばいまは満月の距離感で離れているだけ、欠けてもじきにまた戻ってくるから、くらいの緩やかな、より現実的に足元を見ているような感覚がある。都会で起こったことではなく、田舎の山奥なので誰も真剣に動こうとはしない、という辺りも含めて、それでも満月は不穏にあたりを照らしだして人々を惑わせる。

いまの、ここ数年の現実世界では、ガザでもイランでも数千人規模で白人たちによって子供たちが殺されていて、それに対して誰も何もどうすることもできない。ここでの『最後通告』を遥かに超えた、本当にひどいところまで来てしまっている、という。(だから半端になだらかに見えてしまうのかな?)

35mmフィルムのややぼやっとした、シャープではない質感が手の施しようのない霧のかんじをうまく出していたかも。

7.10.2026

[film] Kind Hearts and Coronets (1949)

7月5日、日曜日の午前、K’s Cinemaのイーリング・コメディ特集で見ました。

映画史に残る名作、とかそういうのではないと思うが、やっているとつい見てしまう1本で、このサイトでも書いているのだが、それでもまた見てしまった。 1950年のBAFTAではBest British Filmにノミネートされていて、結果は『第三の男』の前に敗れている。
 
コメディにしてはかなりダークな、Oscar Wildeの系譜に連なるようなストーリーテリングで、決して明るく楽しい結末でもないのだが、踏板外しみたいなラストの見事さには、ううう、ってなる。
 
エドワード朝時代のイギリスの牢獄に公爵Louis D'Ascoyne Mazzini (Dennis Price)が入っていて、翌日絞首刑が執行されるというので教会からも人が来て、看守たちも公爵さまだから、ってやや緊張しているのだが、彼はずっと書き溜めていた手記を仕上げようとしていて… というところから回想がはじまる。
 
彼の母は公爵の末娘だったが、身分違いのイタリア人のオペラ歌手と結婚したことで放り出され、それでも夫婦にはLouisが生まれて貧しくても一家で幸せで、でも父が亡くなるとすべてが一変し、生活に困って実家に助けを求めてもすべて却下されて失意のなか母も亡くなる。こうして復讐の鬼となったLouisは、爵位継承順位で自分より上位にいるD'Ascoyne家の8人を順番に殺害していくことにする。この皆殺し計画と並行して、幼馴染のSibella (Joan Greenwood)との実らなかった恋、自分のせいで未亡人となり、やがて妻となるEdith (Valerie Hobson)とのこともあり、決して明るくはないけど、きちきち律儀に復讐を成しとげていくさまがクールにすっとぼけつつ進んでいって、とにかく爵位を取り返すの。すっとぼけと言えば、殺される側の8人をひとりで演じているAlec Guinnessの絶妙なこと。殺される側がなんだか楽しんでいるように見えてしまう巧さ。
 
原作はRoy Hornimanの小説“Israel Rank: The Autobiography of a Criminal” (1907)で、タイトルだけでわかる主人公 - Israel Rank - の人種はユダヤ人で、赤ん坊を毒殺したり、かなり陰惨で露骨な反ユダヤ主義小説 – という形で反ユダヤ主義を風刺しているものらしく、これをイタリア人のハーフに主人公を替えてイギリスの階級制度への風刺にひっくり返した監督Robert HamerとJohn Dightonの脚色はすごいと思った。
 
これ、舞台を日本にして家父長制へのどろどろした呪いと復讐を… って既にいっぱいありそうなー。
日本の皇室で38親等離れているけど継承権があると主張するやくざが… ← ちょっと生々しすぎる(そしてくそばかばかしい)

 
Girl, Dance, Girl (1940)

 
同じ5日、↑のを見たあと、日仏のデュラス特集で“Aurelia Steiner”の(Melbourne)と(Vancouver)を見て、このまま週末を終えてしまうのはどうか、ってなったので、途中で渋谷によってシネマヴェーラのRobert Wise特集で見ました。 帰れよ。
 
もう何回も見ているし、書いているし、でもいいの。 Dorothy Arzner監督による『恋に踊る』。この作品でRobert Wiseは編集をしていて、彼の次の編集ワークが”Citizen Kane” (1941)で、この他にもWilliam DieterleやGregory La Cavaといった監督の編集を手掛けているのね。
 
オハイオからNYに出てきて、ダンスで成功を目指すJudy (Maureen O'Hara)とBubbles (Lucille Ball)がいて、Bubblesは”Tiger Lily”の名でブロードウェイのバーレスクのステージに立って、途中からJudyがクラシックバレエの衣装でステージにあがると客から引っ込めーってぶうが出て、改めてTiger Lilyが出てきてやんやの喝采になる、という演出がうけて大当たりするのだが、本当か? っていつも思う。
 
だって、Maureen O'Haraが現れて踊るんだよ? 節穴かよ? って思うのだが、最後にやっぱり彼女に怒られるのでストーリーとしての筋は通っているのか。
 
とにかく必見だからー。

7.09.2026

[film] Césarée (1978)

7月4日、土曜日の午後、日仏学院のデュラス特集で見ました。

今回のこの特集で、再見するのも含めてデュラス作品を見てきて、映画としてはおもしろいのだが、感想を書くのは難しいなー、って改めて。今回の短編について言えば、映像として映しだされるものとデュラス自身の何かを語らんとするその語りは関係ない、と言えるものなのか、どこかなにかの繋がりや連関が見えてくるのではないか、と探りながら見る、というやり方もあれば、その土地と歴史、その記憶に関係するもの、それらを呼び覚ますもの、として彼女が練りあげようとしたストーリーを読もうとする、いやそもそもの映画的な語りをぶっ壊すものとして... など、映画とは、小説とは、ということよりもアートをつくる、考えるということの豊かな根幹を考えさせるもの、としか言いようがない。そういうのに対して感想もくそもないわ。ふつうに論考になっちゃうわ。

“Les Mains negatives” (1979) - 『陰画の手』と同様、Pierre Lhomme, Éric Dumage, Michel Cenetの3名が撮影し、Amy Flamerの弦が響きわたる現代の映像と音にデュラスの声が被さっていく。

古代ローマの要衝だった地中海沿岸の都市Césarée、紀元66年に始まったユダヤ戦争で、ヘロデ朝ユダヤの統治者の王女ベレニケはローマ軍司令官と密会して、やがて追放される、という愛と裏切りの悲劇が語られて、そこで映しだされる映像はパリのコンコルド広場や工事中のマイヨールの彫像、テュイルリー庭園など、なんとなく王家の残り滓っぽいあれこれ。

『陰画の手』では紀元前に遺された洞窟の手の跡(陰画)に朝の到来と共に半端に置きざりにされて目覚める現代パリの路地を重ね、そこから愛を求めるひとつの声を響かせていたが、その一年前に作成されたこの作品は、捨てられたベレニケの聞かれることのなかった声を現代の喧噪のなか - 都市と戦争の非情さのなかに放り出す。


Duras et le Cinéma (2014)

『陰画の手』の併映作品だった”Marguerite, telle qu'en elle-même” (2002) - 『マルグリット・デュラス、あるがままの彼女』と同様、Dominique Auvrayが監督したデュラス生誕100周年に向けて作られたドキュメンタリー作品。 邦題は『デュラスと映画』。

『あるがままの彼女』がデュラスの生い立ちや思想や愛がどんなふうに生まれ育まれていったのか、その背景を順に追っていったのに対して、こちらは彼女が映画に(小説ではなく映画に)向かっていった思いや考え方をストレートかつ具体的に示す。彼女の言葉だけではなく、撮影現場の記録、関係者たちの証言 - Melvil PoupaudがBruno Nuyttenの声を、Nahuel Pérez BiscayartがBenoît Jacquotの言葉をあてて、中心にある大きな空洞となったデュラス、そこに当時の関係者たちの声を響かせて彼女の不在を際立たせる。

内容からして、『陰画の手』の後に『マルグリット・デュラス、あるがままの彼女』を、”Césarée”の後に『デュラスと映画』を合わせたのは、狙ったことだったのだな、と今になって気づいた。


Le Navire Night (1978)

↑のに続けて見ました。 邦題は『船舶ナイト号』

パリのドイツ占領時代の名残である使われていない電話回線を通して偶然に知り合った、互いの顔も本名も知らない男女のやりとりが語られる(声はデュラスとBenoît Jacquot)。進行するにつれひとりは裕福な父親の別荘で暮らす白血病の女性、ひとりは電話会社で夜勤をしている男性であることがわかってくるがそれがどうしたで、最後まで彼らの姿が映しだされることはなく、かわりに屋内のインテリア(あのきらきらしたやつなに?)とか、この映画に出演する予定だったDominique Sanda, Bulle Ogier, Mathieu Carrièreらの、メークアップしたり、ただ立っていたり、ピアノを弾いていたりする背中が映しだされる。

“Le camion” (1977) - 『トラック』が運転手とそこに乗りこむ女性を映さないまま、それを遠目で見ながらデュラスとGérard Depardieuがなにやら言い合っていたのと同じように。 乗り物映画 - 車から船へ – こっちには船すら出てこない、頭のなかでとめどなく、どうとでも転がっていく、でも確かにそこにあったらしい愛の物語。

はじめから難破・破綻した映画を計画すること - 彼女は『スクリーンを覆う素材を見つけた』と言っている。なんで映画はルックスに、ヴィジュアルに従属しなければならないのか、という根源的な問い。電話回線を通してここまでの愛を描くことができるのであれば。

そして、この撮影で撮られた素材たちを使って、約2000年前の愛 - ”Césarée”、数万年前の愛 - 『陰画の手』 - が語られる。 『ヴェネツィア時代の彼女の名前』 (1976)のように、そんなの朽ちた建物の隙間からいくらでも湧いてくるのだ、って。

7.08.2026

[dance] String SAGA / 暗闇から解き放たれて

7月3日、金曜日の晩、新国立劇場の中劇場で見ました。

吉田都が芸術監督を務める新国立劇場バレエ団 – 6月に英国舞踊批評家協会賞(National Dance Awards)最優秀カンパニー賞を受賞するまで、そんなバレエ団があることすら存じませんでした。

海外からのバレエ公演は一部の貴族・富裕層のためのバカ高いチケットで、円安の流れも含めてそういうのに誰も抵抗しないようなので、国内のでもなんでも見れるやつを見ていくしかないや、になる。

ダブルビルで、同バレエ団の委嘱作品、で、”String SAGA”は世界初演、30分 – 休憩30分 - 25分、という構成。 このシアターは休憩時間に行くところがない。

String SAGA

振付は宝満直也、音楽は久石譲の「Viola Saga」 (2022)。

Twist(撚る)- Tension(張る) - Intertwine(絡まる) - Flick(弾く)- Spin(紡ぐ)- Tangle(縺れる)の6つのパートからなり、『強でしなやかな"糸"(ダンサー)と、鮮やかで豊かな"糸"(音楽)、そしてそれぞれの"性"(Saga)が撚り合い、一枚のタペストリーが織り上がるまでの道のりを描』く、とサイトの解説にはある。

冒頭、暗闇のなかにゆらゆら動く光る繭が浮かびあがり、それをダンサーがつつくとそれに応じて自在に揺らめいて、それに合わせて複数のダンサーが光る糸の周りで操り操られ、絡まり絡められ、を澱みなく繰り広げていく。光の繭は美しくて目にやさしいけど、音楽との絡み、変拍や変調も含めて、旧型モダンの典型でちょっと見たことあるかんじすぎたかも。

いまの日本で糸をテーマにやるのであれば、塩田千春のあの赤い雲に突っこんでいってぐじゃぐじゃになる、か、未だにぶっとくてうざいオトコの荒縄文化に突っこんでいって…  どっちにしても突っこんでぐしゃぐしゃ…(にしたい。が見たい)

暗闇から解き放たれて - Escaping the Weight of Darkness

振付はアメリカのJessica Lang – ちなみに大女優の方はJessica Lange – ABT (American Ballet Theatre)でずっとやってきた人なのかー。 ABTはクラシックもモダンも90年代、00年代にものすごくいっぱい見たので、彼女の作品もどこかでなにかは見ているはず – ちゃんと調べろ。

2014年にこのバレエ団のために作った作品の再演。干支が一回転して暗闇のありようは、変わったのかどうか。

音楽はÓlafur Arnalds, Nils Fram, Josh Kramer, John Metcalfeなど。このなかでは、John Metcalfe – 一時期The Durutti Columnにいたよね - くらいしか知らないや。

幕があがると、ダンサーは床に寝ていて、あちこちに散らばっている白く光る雲のような救命ボートのような血小板のような楕円の塊がゆっくりと浮かんで上昇して、進行するにつれ雲は上がったり下がったり、様々な高さのそれらと絡んだり遠ざかったり、寄り添うのか邪魔をするのか。 舞台の奥のほうは腰から上くらいまでの白い仕切りで遮られて、ダンサーたちの下半身、脚たちしか見えない - 脚は宙に浮かびあがったり - 状態で推移していく。

目に見える、目を塞ぐはっきりとした「暗闇」も、そこから「解き放たれ」るような表現もない中、どのようなかたちで、なにが解き放たれ(う)るのかについての細かな接触ややりとりを通して、いくつかのグループに分かれた伸びや寝返りのような動きが同時多発で伝搬してうねりを作っていく。 暗闇を支配するものも眩い希望も見えないが、こんなふうに動いていけるのだ、という祈りにも似たステップ。一気に見せてしまうテンションの張り具合もよくて、あっという間だった。 尖がっていない、典型的なアメリカン・モダーンの様式美にあふれていて、自分にとっては居心地がよすぎてどうか、って。


新国立劇場(中)に向かう前に、国立近代美術館で見たやつを少しだけ。

杉本博司 絶滅写真

彼の写真展はいろんなところで何度も見ているのだが。
芸術の起源とその終わり、とうに死んでいるその死とその先について、銀塩写真というそれ自体が死滅に向かうメディアの上に焼きつける。 そして「焼きつける」という行為そのものも消滅に向かうそれで、どうせそのうちぜんぶ消滅しちゃうんだぞ、ということを伝えるため(だけ)に存在し、機能していく写真というアート。そんなガラクタ系をずっと集めて並べて、海辺の測候所でしぶとく延々観測する、という執念深さ。 とにかく、それでも絶滅するんだから、って延々やり続けるの。

常設展のほうにあった、彼の創作ノートの方がおもしろかった。 やはりここまで突き詰めて考える人だったか、って。


松本陽子 宵の明星を見た日

5日、日曜日の午後に、府中市美術館で見ました。
アンフォルメルからスタートした松本陽子は、杉本博司が絶滅、南無阿弥って言っている横で、まだ遠くに瞬く宵の明星を追って、見つめようとする、ここに現れる明星の若さ、瑞々しさとは、いったいなんなのか、と。

こういうのも含めて「抽象」ってなに? について改めて考えることが多くなった。「宵の明星」っていうのも抽象だよね。

あと、この美術館の常設コレクションの端に、Joseph Love先生の作品が4つ、並んでいた。
彼が「美術批評」誌に評論を書いていたことは知っていたし、作品もいくつか見たことはあったが、ここまで並べられているのを見たのは初めてだったかも。

わたしが絵画の見方(のようなもの、手口)を教わって考えたりするようになったのは先生の講義 – 「西洋美術史」を通年取ったのが大きかったの。取り上げらる絵画はクラシックが殆どだったが、休憩時間には現代音楽をカセットで流したりしていて、今思えばいろんな入口になっていたし、昨年欧州のいろんな美術館を巡っていた時も先生の講義が突然浮かんでくる場面があったり、こういう学びって本当に一生もの、ってしみじみ思うので、大学の一般教養とか文系を軽んじる声を聞くとふざけんな、っていまだに。どんな領域であろうとー。

7.07.2026

[film] Merrily We Roll Along (2025)

7月2日、木曜日の晩、Tohoシネマズ日比谷で見ました。

ところで、“Merrily We Go to Hell” (1932)っていうDorothy Arznerによる素敵な映画があるのだが、やっぱり関係はなかった。

George S. KaufmanとMoss Hartによる同名戯曲(1934)をStephen SondheimとGeorge Furthがミュージカル化、1981年にブロードウェイで初演されたこの舞台の2023年のリバイバル版で、ベースは2012年、ロンドンのMenier Chocolate Factory(すごく小さいけどすてきなシアター)で上演されたバージョンだという。 トニー賞でBest Revival of a Musicalを受賞している。演出はMaria Friedman。

映画版の制作も進行中で2019年にRichard Linklaterによって撮影が開始され、劇で流れていく20年をまるごとかけて(編集で逆回転するのか?)撮影中 - できる頃にはしんでる - で、Paul Mescal, Ben Platt, Beanie Feldsteinが出演予定、だそう。

上演している劇の舞台をそのまま撮ったものだが、National Theatre Liveとは違うプロダクション、撮影はSam Levyで、クローズアップも含めてきちんと撮っているので、これはフィルム枠になるのだと思った。演劇のステージを撮る場合って、あまり寄らず動かずに全体を俯瞰できるようにしてほしいんだけど…(個人的な好み)

1976年、映画プロデューサーのFrank Shepard (Jonathan Groff)の公開初日の成功を祝うパーティの場から始まる。大勢の関係者、知り合いでざわざわしていて、みんなFrankのことをすごい、って褒め称えて、本人も楽しそうでご満悦なのだが、古くからの友人であるらしいMary Flynn (Lindsay Mendez)は片隅で飲んだくれて燻っていて、妻のGussieもFrankがお気に入りの新人女優のことでぶちきれていて、元は作曲家だったFrankのかつての共作者Charley Kringas (Daniel Radcliffe) のことに話題が及ぶと顔を曇らせて… ここから1973 → 1968 → 1967 → 1964 → 1962 → 1960 → 1959/58 - 最後は1957まで、年を区切って逆順に遡り、中心の3人を追っていく、という構成で、ふつう人は年を重ねると人間関係も懐も豊かになっていくもの、と言われているし、主人公のFrankの成功も栄華もそんな典型的なアメリカの成功物語のように見えるし、実際そうなんだろうな、って思う。

なのだが、この逆回転劇は彼が年を経て獲得した輝かしいなにか、とか、なんで一部変な空気だったのか、の謎解きをするというより、成功と引き換えるように彼らが失っていったもの、にフォーカスして忘れ物を積みあげていく。 ので、見ていて楽しくなっていくものではない。あの時なんであんなこと言っちゃったんだろう/やってしまったんだろう/もう戻すことはできないのか… などなど。 後ろ向きにくよくよするのが好きな(ではない。けどついついやってしまう)人にとって、スケールこそ段違いに異なるものの、いろいろ思うところがあった。そしてそれを彩るミュージカル・ナンバーは、ミュージカル・ナンバーとしての華に溢れたりしていて、同じナンバーでも時代によって違う調子に聞こえてきたり、そこでそれが鳴るのか… って振り返る徒労感も重なったり。

最後の1957年、3人が下宿屋で出会うシーンの眩くて、何かが始まりそうで走りだしたくなる雰囲気、これがクライマックスに来るのはわかるのだが、でもそれはもう二度と戻ることのできない、取り返すことのできない場所と時間で、失われていてどうすることができようか?の状態にぽつんと取り残されて終わる。

そもそもは「若いパフォーマーのための舞台」として構想されたそうで、これを受け取る年齢によって印象が変わってくるのだろうが、年寄りには結構しんどいやつかも。 あーあー、で終わっちゃうのだが。

あと、忘れる、ということについて思い出したり。これらを忘れることでこれまでどうにかやってこれたのだな、って気づいた。

あと、キャストのトライアングルのすばらしさ。Jonathan Groffのつるっとした反省しないアメリカンの典型のような顔形と容姿と歌声、Daniel Radcliffeの簡単に壊れて潰れそうな、でもしぶとい不機嫌な神経系、Lindsay Mendezのぶっとい蹴りだしと重心。そのままバンドを組めそうな3人のケミストリーがあるの。