6.04.2026

[film] Not as a Stranger (1955)

5月30日、土曜日の晩、シネマヴェーラのRobert Mitchum特集で見ました。

この日はお昼にここの特集で”The Lusty Men” (1952) - 既に書いた - を見て、そのあと茅ヶ崎の美術館で牧野邦夫の展覧会を見て、また戻ってきてこれを。

邦題は『見知らぬ人でなく』。 Wikiの日本語版のあらすじが 『医学の道を志す青年が学費を得るために金持ちの女に近づく。』 の一行なのがおもしろー。

原作はMorton Thompsonの同名小説(1954) - ベストセラーになった - をEdna & Edward Anhalt夫妻が脚色、それまでプロデューサーを仕事にしていたStanley Kramerが初監督している。

Lucas Marsh (Robert Mitchum)は勤勉で真面目な医学生 – 教室で横並びしている同期生にFrank SinatraとLee Marvinがいて冗談かと思う – で、結構アグレッシブな質問をして教授から目をつけられたりしている。その反対側で学費に困って、このままでは退学… というところで経験も貯蓄も豊富でLucasに親しくしてくれていた年上の看護婦Kristina "Kris" (Olivia de Havilland)と結婚してどうにか医学を続けられるようになるのだが、Krisの献身的な彼への愛と比べたら彼からKrisの方はそんなでも。

こうしてどうにか医師になる手前まで行くのだが、高名な教授に治療方針のことで食ってかかったり、金儲けのことばかり話している同期 – 特にAlfred (Frank Sinatra)にぶち切れたり、そんなのばかりなので卒業するときに指導教授から「医師も人間であることを忘れるな」って言われたりする。

インターンを終えて医師となったLucasはKrisと一緒にGreenvilleっていう田舎の町に移り住んでDr. Dave Runkleman (Charles Bickford) の病院で働くことになる。病棟に入院している人たちは貧しかったり、院長が無能でしょうもなかったりするのだが、Runkleman医師が力強くてよい人なので、一緒にがんばろう! になるのだが、Krisはそんな前のめりのLucasに自分が妊娠したことを言い出せない。

そのうちLucasは馬丁の怪我で往診に行った先で知り合った裕福な未亡人Harriet (Gloria Grahame)と恋におちて、それで家に帰らないのも多忙のせいにしてKrisとの間が遠くなっていくなか、深夜の長時間に渡る緊急の手術のサポートをKrisに頼んで、結果どうにかうまくいくのだが、自分に求められているのはやはり仕事面のサポートなのか、ってKrisはがっかりしたり、そんななか、Runklemanが倒れて…

医を志す学生から、結婚から、田舎に赴任した医師まで、強い大志と意思を抱えた若者が孤軍奮闘していく成長物語で、その思いに駆られてがむしゃらに前に進もうとするので周囲とはあれこれぶつかって大変なのだが、女性に関しては金づるか一夜の遊び程度にしか見ておらずー、という典型的な50-60年代にのし上がる男性の美談伝説で、最後に自分の力不足を認識したところで初めてKrisの献身的な愛に気づく、というところも含めて、よかったね、にしたいのだろうけどぜんぜんよかったとは思えない。タイトルの『見知らぬ人でなく』なんて医師を志すなら当たり前ではないのか、とか突っ込みどころもいっぱいなのだが、当時はこれでみんな納得してがんばれー、とか言っていたのだろうかー、って。

Lee Marvinはなんもしなくて、Frank Sinatraはちょっと威勢よく見えたのは最初の方だけで、あとはなんか割といい奴じゃん、みたいな小役で、贅沢な使い方だった。これもフィルム・ノワールに位置づけできたりするもの?(Wikiでは)

途中から登場して特に多くの波風も立たせずにすーっと消えるだけのGloria Grahameがクールに映えてて、彼女もどちらかというと「眠い目をした」女なので、Robert Mitchumと一緒だと余計に夢のなかのかんじが漂って、きつめの現実とのコントラストがよかったかも。

6.03.2026

[film] Elis & Tom: Só Tinha de Ser com Você (2022)

5月31日、日曜日の午前、新文芸座で見ました。帰国してから最初の、久々の池袋。異文化…

見たい、見なきゃだった映画をようやく。原題の後半部分を英語にすると”It Had To Be With You”、邦題は『エリス&トム ボサノヴァ名盤誕生秘話』。

こないだのEgberto Gismonti & Daniel Murrayのライブを逃したり、ライブ方面では気が付いたらもうその日でびっくり~既に手遅れ、というのが最近多すぎて、これはロンドンで演劇などを2~3日前とか当日に決めて行く、というのを繰り返してきたせいだと思う - 違う、怠惰で情報に鈍く疎くなっただけよ。

1974年にリリースされたElis ReginaとAntônio Carlos Jobimによる“Elis & Tom”は、ブラジル音楽、という枠を超えて誰もが認めるとんでもない名盤だと思うが、その現場の制作過程をとらえた16mmフィルムの映像を中心としたドキュメンタリー。監督はElisの当時のマネージャーだったRoberto de OliveiraとJom Tob Azulay。共同脚本にはNelson Mottaの名前がある。

最初の方の"Águas de Março" - アルバムのオープニングの『三月の水』をふたりが向かいあって掛け合いしながらレコーディングしている光景で鳥肌が立ちすぎて寒くなる。曲のなかで発せられるふたりの声の近さ、遠さ、互いに突きあう発声がリズムを刻んでそれが歌となる不思議な対流のなかで音楽が形作られていく驚異が映像として残されていて、エンディングのあの高い音がElisの声だったことを知って驚愕。鳥だったのか。

前半で、このレコーディングに来るまでのElis Reginaの軌跡、Tom Jobimの軌跡がそれぞれ紹介される。Elisは歌手としてブラジル国内では無敵となり、ヨーロッパ各国でもそれなりに人気は出たものの、キャリア10年を経てその次が見えなくて、そこで当時の軍事政権のイベントで歌ってしまったので叩かれて萎んでて、Tomは60年代にボサノヴァの旗手としてアメリカで広く知られるようになったものの、音楽の探求と洗練が人気には結びつかずにちょっと腐っていて、互いに「それはとても有意義な取り組みだと思うな」って棒読みをするだけ、もちろんキャリアの傷になることはないだろうしお金にもなるだろうし、くらい。 この時Elisは28歳でTomは47歳 - 同じくらいかと思っていたのに20歳近くの差があったとは。

今だから言うけど、という形で語られる現場でのふたりの確執 – Tomは当然自分でコンポーザー、アレンジャーを含めて全体の統括までやるつもりだったのにElisは自分の夫でピアニストでアレンジャーでもあるCésar Camargo Marianoを連れてきたので、音楽面でも簡単に衝突して、初日からマネージャーのOliveiraに「もう帰る」になるあたりはまあそうだろうなー、程度で、でも18日間かけて音楽的な落としどころをみんなで見出していった、というHélio DelmiroやPaulo Bragaといったミュージシャンたちが(彼らの証言も含めて)すばらしい、というかブラジル音楽の底の深さと恐ろしさはここにあるのだよ(どこから来るのか知らんが)、って改めてEgberto Gismontiを逃したのを悔やむ。

Tomのアコースティックに空間の拡がりを求めていくアプローチとElisの声の震えと響きでエレクトリックに世界を埋めていくアプローチをどう束ねてひとつの楽曲として構成していくのか、ジャズのエレクトリック化としてむきむき筋肉をつけていったジャズ・フュージョンの塊りとはまったく異なる可能性がここにはあったし、そういうところも含めて問答無用の名盤だったのだ、と。

この映画の中のElis Reginaは本当に楽しそうに歌っているのだが、彼女以外に映っているのはすべて男性ばかりで、こういう中でどんな思いだったのだろう、とか、タイトルも”Tom & Elis”にしたがった、というし。… というあたりで引き裂かれてあがったりさがったりしながら見ていた。

6.02.2026

[film] The Ninth Configuration (1980)

5月29日、金曜日の晩、神保町のシネマリスで見ました。
まだ行ったことがなかったここ、”Cine-malice”(悪悪シネマ)だと思っていたら、シネマのリス(齧歯目)だった。

作・脚本・監督はこれがデビューとなるWilliam Peter Blatty。彼は”The Exorcist” (1973)の原作者で、本作を”The Exorcist III” (1990)へと至る三部作の二作目として構想していた、と。

邦題は『トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン』で、この違いはなんで? と思ったら原作の小説の1966年に出版された版が“Twinkle, Twinkle, "Killer" Kane!”というタイトルで、それを作者がリライトして1978年に再出版した際に”The Ninth Configuration”というタイトルになったと。映画の方も最初は” Twinkle, Twinkle, "Killer" Kane”としてリリースされ、その後複数のバージョンがあり、原作者、制作会社それぞれにいろんな思惑や捻転があった模様(Wikiによる)。

制作者側にはそんな多様なごたごたがあって日本公開も2016年の映画祭までなかったのに、ゴールデングローブの脚本賞を受賞していたりする。

70年代初、アメリカ北西部の山奥に、ベトナム戦争等で精神を病んでしまった者たちを収容するお城のような施設 - 森もお城もアメリカのじゃないよね? と思ったらあの外観はドイツのお城らしい。更に殆どのロケはブダペストで行われたそう – があって、月面着陸飛行の発射直前に突然発狂してしまった元宇宙飛行士のBilly Cutshaw (Scott Wilson)などもそこで割と平和に過ごしている。

そこに元海兵隊の大佐で、精神科医だというHudson Kane (Stacy Keach)がやってきて、Cutshawを含む収容患者たちと「治療」のように見えるやりとりをしていく中で、露わになっていくCutshawの狂気を形作るものとかKane自身のベトナム戦争従軍時のトラウマからの彼自身が抱えこんだ狂気 - 多重人格などが明らかになり、要は治療する側もされる側も、みんなどこかおかしいのだが、管理する側はそれらも分かって押さえていて、そういう中で施設の秩序のようなものは保たれている。

そこを抜けだしたCutshawが地元のバーに行って大勢のバイカー連中に恥ずかしい元宇宙飛行士であることがバレて散々いたぶられたところに通報を受けたKaneが来て、でも彼も同様に寄ってたかってぼこぼこにされて、そのなかでKaneの別人格 - Vincent "Killer" Kaneが起動して...

基本はCutshawの傷ついて彷徨える魂の救済、そのために自らを犠牲にする(既に傷だらけの)Kane、という構図は”The Exorcist”にも連なるものなのでわからなくもないのだが、その辺の狂気と正気の相克をタイトルの”The Ninth Configuration” – 生命の起源とされるタンパク質とか構成物質の奇跡的な第9の配列組合せに連ねて語ってしまうことの危うさ、更にこの星座だかストーリーだかを形作って語るのがほぼ白人男性のみ - 映画で女性が出てくるのはバーのウェイトレスくらい - というあたりがなんだかとってもあーあー、なのよね。

Kaneの絶望~怒りからの復活(→逆襲)というストーリーは、例えばMCUのヒーロー誕生の常道(胡散臭いサイエンスもどきで説明しようとするとこも含め)であるようにも見えて、この辺の根というか(白人男性が)勝つこと、生き残ることを巡る業の深さってまるで神話のようですごいな、ってしみじみした(あんますごいと思っていない)。

あと、ベトナム戦争の後始末、という角度からは『地獄の黙示録』 (1979)にも近いのかも。
罪の意識に囚われて狂ってしまった(元は優秀だった)白人男性が最後に解き放たれるお話、として。(森の奥の収容施設はカーツの神殿みたいなもの、とか)

 

6.01.2026

[film] Man with the Gun (1955)

5月27日、水曜日の晩、シネマヴェーラで新しく始まった特集 - 『眠い目をした男 ロバート・ミッチャム特集』で見ました。

東京の名画座の、邦画中心の重厚でよく考えられたプログラムってすごいなー、と思いつつ、ここがひっつかんで束にしてどかどか落としてくれる昔の海外の監督や俳優の特集はとてもありがたいしうれしいし。

監督はRichard Wilson、原作はN. B. Stone, Jr.によるSaturday Evening Postに掲載された短編(1955)- “The Deadly Peacemaker” - オルタナ・タイトルはこれだったり、UKでは”The Trouble Shooter”だったり。邦題は『街中の拳銃に狙われる男』。

冒頭、少年の犬がばうばう吠えていただけで馬に乗ったやくざがそれを銃で簡単に殺してそのまま立ち去ったり、もうじき結婚するJeff(John Lupton)が新居予定地に立ち入っていた男たちに文句をいったら撃たれたり – そんなふうに荒れて無法地帯になった町にどこかから仲裁屋のClint Tollinger (Robert Mitchum)が現れて、保安官が及び腰でなにもしないし、町民のなかでもどうする?の空気になっているなか、とりあえずClintは彼を雇う議会承認を得てそのまま副保安官になると、昼間の銃器携帯禁止とか深夜の出歩き禁止とか、ひとりで強引なルールを決めて、従わない奴とかのさばっていた奴を簡単に撃ち殺したり強引に街の浄化を進めていく。けど、Clintが「街中の拳銃に狙われる」ようになるまでには結構いろいろある。

最終的に狙うのは姿を見せない謎の巨漢黒幕Dade (Joe Barry)なのだが、そこに行く前に別れたきりになっていてこの街でキャバレーの女将をしている元妻Nelly(Jan Sterling)のこと、別れたきり会っていない娘のBethのことが気がかりだったり、Jeffの許嫁のStella (Karen Sharpe)は力強いClintに気があるようだったり。

あの眠そうな目で周囲の空気なんか知ったことか、って眺めつつ強引すぎてなんだこのやろう? なのだが銃の腕も含めて確かなので誰も文句を言えなくて、それでも家族のことだけが弱点で、ひとり自滅しそうになったところで立て直そうとしていた別の家族に助けられる。

寂れていたコミュニティを救う物語、という点ではKen Loachの50年代アメリカ西部劇版… のわけないか。


The Lusty Men (1952)

5月30日、土曜日の昼、同じくシネマヴェーラのRobert Mitchum特集で見ました。

監督はNicholas Ray、原作はClaude StanushがLife誌に書いた記事”King of the Cowpokes” (1946)、これを『彼らは廃馬を撃つ』のHorace McCoyを始めその他大勢で脚色している。 邦題は『ラスティ・メン/死のロデオ』 - 日本では劇場未公開だったの?

長年ロデオ選手でやってきたJeff McCloud (Robert Mitchum)は危険なこぶ牛のロデオで怪我をして、もう引退しようと生まれ育った田舎の家に戻ってきたが、いたのは見知らぬ欲深い老人と、その土地を買おうと近くの農場で働く若い夫婦 - Wes (Arthur Kennedy)とLouise (Susan Hayward)だった。

それまで小銭稼ぎでロデオ大会に出たりしていたWesはその世界で有名なJeffと出会って舞いあがり、彼に付いてきて貰った大会でそこそこの小銭を稼ぐことができてしまったので、地道な農夫としての道よりもロデオライダーとして稼いでいくことに決めて、Jeffを連れてトレイラーハウスで各地を転々とする生活に入る。生活は少し派手になったものの荒れて、事故で亡くなったり老後は悲惨だったりするロデオライダー達を見ると貧しい家庭から地道にやってきたLouiseはJeffに当たったりもするのだが、それなりのお金が入ってくるようになると何も言わなくなる。

JeffとLouiseが近づいていく反対側で、自信がついたWesがJeffを追い出す、もういらないって言いだすとJeffはもやもやとやけになって自ら大会にエントリーして…

ロデオという半端で危険なスポーツ&ショービズの世界に生きる男たち女たちのいろんな生き様をパノラマで描きつつ、その生と死がロデオ的に振り回されて地面に吸い込まれたり横滑りしたりして彼方に消えていくさまが、ドラマとは程遠いドライな目線で描かれて、その切り口がすばらしい。なんでこんなふうにしてまで生きなければならないのか、という吐き捨てるところと、でもどのみちずっとこんなだからー、ってどかすかパレードしていくところと。延々引き延ばされ張り巡らされていく“Endgame”のような。

ロデオでもカタギでもだめだった - すべてを達観した老人のようにも見えるRobert Mitchumがこぶ牛に踏み潰されて、ひとりで死んでいくだけの映画、にも見えて、それだけで十分って思ったり。

でもなんだかんだ言って、ロデオって動物虐待だからシンプルに因果応報、でよいのか。

[film] Victoria (2016)

5月26日、火曜日の夕方、日仏学院エスパス・イマージュ で、第七回映画批評月間のプレ・イベント&サブ企画 - 『急に具合が悪くなる』公開記念 ヴィルジニー・エフィラ特集』で見ました。

Virginie Efiraご本人がやって来てトークをする、ということで、ぱんぱんに入っていた。

監督は”Anatomie d'une chute” (2023) - 『落下の解剖学』 のJustine Triet、彼女の長編2作め。同年のカンヌ国際映画祭批評家週間に出品され、わんわんのJacquesがPalm DogのJury Prizeを受賞し、セザール賞で5部門にノミネートされている。

英語題は”In Bed with Victoria”。このタイトルで思い出すのはドキュメンタリーの”In Bed with Madonna” (1991) - 別名は”Madonna: Truth or Dare”。

法廷では辣腕の女性弁護士Victoria (Virginie Efira)は、私生活と恋はさっぱりのさんざんで、幼い2人の娘を抱えながらこのままでいいのか、これからどうするつもりだ問題を抱えてどん詰まっていって、親友のVincent (Melvil Poupaud)の結婚式に出ても、オンライン・マッチングで出会った男と寝たりしても、焦りばかりが湧いてきて、かつて弁護をしたヤクの売人Sam (Vincent Lacoste)が、法律を学びたいのでインターンで雇ってほしい、としつこく言ってくるので住み込みの子守りとして置いてあげて、いいのか? で、とにかく落ち着かないまま、結果ふつうに怪しい女性になってしまっている。

こういう設定はSATCでもBridget Jonesでも、この頃に公開された”Trainwreck” (2015)でも、世間的にはそんなおかしいところがあるとは思えないのに本人がひとり焦りまくって自分で墓穴や墓石を用意してそこに落ちたり籠ったりであーめん、てやっているもてない女性を中心に据えてその彷徨いを延々とらえてシリーズ化もできるrom-comの典型で、エピソードとしては親友のVincent (Melvil Poupaud)が妻を刺した容疑の裁判で弁護を頼まれるとか、人気ブロガーとなった元夫が自分のプライベートで淫らな過去 - 裁判官と浮気していた等 - を晒しにくるのに対抗したりとか、そういう混乱のなか、Vincentの事件の証人と接触して、6カ月間の弁護士資格停止処分を受けたり、なーにやってるんだろ自分、なことばかりが積みあがってきてとにかくぜんぶイヤになっている。

このしんどさが周囲とのずれとか軋轢のなかでばたばた折り重なってやってくる、というより、日々の自分のしんどい実存、その重さ、なんで自分はいつまでたってもこんなふう? こんなふうにいつまで? というどうしたものか、を抜けて流血するように湧いてきて止まらないなにか、として現れてくるのがよくて、全体の流れはコメディの体裁を取っているようで、受ける印象はとても深くて重い実存ドラマのように見えてくる。なので、終盤のSamとの互いを探りあうようなラブシーンがすとん、と腑に落ちるように沁みてくる。これがすべてを解決するわけではないけどね… という距離の取り方。

この辺の淵とか引っかぶりで微細に揺れ動いて、でも留まることのないエモーションの出し方は、彼女が主演した『パリの記憶』 (2022)でも見ることができるもので、上映後のトークは、ほらーやっぱりー としか言いようのない彼女の輪郭のつよさを確認できるのだった。もうじきの『急に具合が悪くなる』でも、このタイトルだけでぜったい間違いないやつ、と確信があるので、楽しみ。見ている側もぜったい引き摺られて急に具合が悪くなったりするようなやつに違いない、と思ったり。

[theatre] エンドゲーム

5月24日、日曜日の午後、新国立劇場の小劇場で見ました。

原作はSamuel Beckettの同名戯曲 “Endgame” (1955–1957, 初演はロンドンのRoyal Court Theatre,1957)。 Beckettの『ゴドーを待ちながら』(1948–1949)の次の作品。

翻訳は岡室美奈子、演出は芸術監督の小川絵梨子、キャストの4名は1,016名の応募者の中からオーディションで選ばれたそう。1時間30分、休憩なし。

この劇 – “Endgame”は、2020年2月にロンドンのOld Vicで、ショートピース“Rough For Theatre II” (circa 1960)との二本立てで見た。演出はRichard Jones、HammをAlan Cummingが、ClovをDaniel Radcliffeが演じて、これが自分にとって最初のベケット劇だったかも。コロナ禍でいろんなものが端から打ち切られていく最中で、この劇も見てしばらくしたら打ち切られたり、見てからしばらくの間も終末感ばりばりの雰囲気が繋がっていたことを思い出す。

ドーム状になった天井の縁は崩れて落ちていて、右左の上部にはくすんだ窓が2つ、向かって左側にはゴミ缶がふたつ、灰色の暗い部屋の真ん中には布で覆われた塊りが置かれている。開演に向かって室内の光の量が落ちていき、外界のノイズがシャーッと大きく広がったところで明転して、足をひょこひょこ引き摺るクロヴ(中山求一郎)が脚立で窓のところに行って外を眺めて、その仕事の流れで中央の覆いを剥がすと、そこにはサングラスをしたハム(近江谷太朗)がこちらを向いて座っている。

ふたりは主従関係にあるようで、目が見えず、椅子から動けないらしいハムがクロヴにあれをしろ、あれを持ってこい、ひっこんでろ等、傲慢で高圧的な指示をだして、クロヴはぶつぶつ言いながらもそれに従って奥の部屋から出たり入ったりを繰り返している。主従の関係は絶対的なものらしく、どんなに理不尽な要求が来ても、クロヴはそれに従うし、ハムがそれを労ったり感謝したりすることはない。ハムがクロヴにここを出ていかないのか? って聞くと、出ていくよ、って言いながらなんだかんだ留まっている。それが主従の関係というもの。情緒などは一切関係なく、そういうなかで、ひとはただ生きてて、オーダーや要求の垂れ流しとその受容~対応の反復のなかにある。

もうひとつ、缶のなかに住んでいて、クッキーモンスターみたいに顔を出すハムの父ナッグ(田中英樹)とそのパートナーのネル(佐藤直子)がいて、クッキーモンスターよろしくポリッジとかシュガー・プラムを要求するのだが、貰えるのはスプラッツ(犬用ビスケット)くらいなので不満たらたらで、こちらにも別の方に延びた(やはりどうにも終われない、断つことのできない)関係の線がある。

ハムは動けないし、クロヴは出ていこうとしない、そんなふたりが幸せかというと、とてもそうは見えなくて、互いに互いのことを、ふたりの関係のありようを、それが置かれた世界まるごとを忌み嫌って憎みあい、罵りあっている。こんな状態でふたりの関係が切れたところで事態がよくなるとはちっとも思えない。なので、詰んでいる - チェスの用語で打ち手がない状態をさす”Endgame”。 結果、勝ち負けがない、なのでそれによるエンディングもない。この状態がずるずる続いていくことについても、誰も異議を唱えない。

他方で演劇は時間が来たらなんらかの決着をつけて幕を閉じて終わらなければならないもので、その終わりをどういう形で示すべきか、という劇構造そのものにも踏み込まないわけにはいかない。 くそジョブの終わり、使役関係の終わり、親子関係の終わり、ヒトとしての終わり(死。旅立ち)など、あらゆる終わりのバリエーションを示しつつ、それらが決して終わらないことの絶望を散々晒して撒き散らして、でも終わるんだから、って劇を閉じて、劇は終わってしまう。これが「不条理」劇である由縁で、見終わった後もふつうにあたりまえに生活をして世界は続いているので、みんな大したもんだわくそったれ、って思ったり。

こんなふうに見るのが正しいのかどうか、考える隙もないくらいに今の世に嵌っててびっくりよ。 周囲の状況も(目が見えずに)見えないまま自分中心でハラスメントし放題のおやじと、出て行ってやらあ、と言いつつ円安とか諸事情を考えたら踏み出せず、おやじのブラックな庇護下にぐたぐだ留まってしまう召使とか、食べたいと請うものを与えることができず親すら飢えさせてしまうとか、血縁の外の女性はいなくなっても無視とか、これらはぜんぶ今の「詰んでる」社会で起こっている生々しいことばかりの羅列で、もうほんとに世界はこれで終わりなのかも、って思う今日この頃なので、あーあーしかなくて、どうせならもっとリアルに、目が覚めるくらいどん底に突き落としてくれてもよかったのに、と。

5.28.2026

[theatre] Love and Information

5月23日、土曜日の夕方、KAAT 神奈川芸術劇場の大スタジオで見ました。

開演は17:00で、前売りが取れなくて、でも当日券が出る、とあったので早めに行ったらチケットは16:15に抽選です、って…
どういう「公平性」?を狙ったものなのか知らんけど、こういうのは見たい人がその思いの強さに応じて見たければ早くから並んでチケットを買って見る、そういうもんだと思っていた。 神奈川まで出かけて行って抽選外れたらさよなら、なんて二度と行きたくなくなる。マチネ中心の時間割とかパンフレット2500円とか、日本の演劇興行界ってものすごく「ムラ」な感じがして引いている。「関係者」はそれでよいと思って頷きあって変わることができない典型的な「ムラ」社会。

抽選開始時には沢山(50人くらい?)の人が並んでいたので、こんなの絶対外れる、と思って中華街で遊んで帰る計画を立て始めたのだが、当たってしまったので、抽選制度に対する怒りを鎮めながら会場に入る。

原作はCaryl Churchillの同名戯曲(2012)、プレミアは2012年9月にRoyal Court Theatreで、演出はJames Macdonald。その後にNY他にも行っている。

今回のKAAT版、翻訳は髙田曜子、演出は桐山知也、キャストは2チームあって、Mainチームには8人、Nextチームには10人。自分が見た回は、Mainチームの方の。 休憩なしの80分で、公演後にアフタートーク付き。

全体は7つのセクションに分かれていて、そのセクションの中には短いのから長めのまで、数分間のコントのようなエピソード小噺が入っていてそれが全部で60くらい、7つのセクションの進行順は決まっているが、その枠内のエピソードの順番は演出家が決められるようになっている。登場人物の配役も自由で、原作では100人以上の登場人物がいるが、どのキャラクターをどう束ねて(同一化して)どの俳優に重ねたり委ねたりするのかは任されていて、演出の自由度が高い。英国のプレミア時の俳優は16人だったそう。

舞台設定はシンプルで、まんなかを横切って奥からのライティングできらきらする玉すだれのようなのが複数層下がっていて、その奥は暗くて椅子が8つ横に並ぶ。セクションとエピソードのタイトルが英語(日本語)で上部に字幕で出ると、それの演者が玉すだれの奥からフロントに出てきて横一列に立って並び、各自がタブレットを読みあげていくリーディング公演形式。エピソードによっては奥の暗がりで座っている演者が加わるものもある。

セクションはそこで扱われる”Information”の中味によって登場人物がどういう行動をするのか、で大まかに分けられているようで、その下の各エピソードのタイトルは「神」とか「ピアノ」とか「セックス」とか一言でわかりやすいものが多い。「謝ることを知らない子供」とかいうのもあった。

演者各自が読みあげる内容は他の演者と会話になっているものもあれば、そうでないものもあって、ただ、そうして発する台詞の重ねあいが彼らの事情や状況を説明したり次の行動を促したり、始めから与えられているエピソードのタイトルと合わさって、こういうことを言わんとしているのか(も?)、というのがわかる - ものもあれば、状況や人物の特性がもう少し明らかにならないと(or あえてボカしていて)よくわからないものもあって - 演じている人々にもよくわからず、こういう状態の人ではないか、と当てはめたら見えた! というのもアフタートークで語られた - その辺の見えないかんじをおもしろいと思うか、わかんなくていらいらするか、がのめり込める/こめないの分かれ目になるのかも。

“Information”が状況やコンテキストによって、なんらかの意味を担ったり、意味を被せられたりしていく様子と経緯、それが時と場合によっては”Love”というなんだか柔らかいふわふわしたものに変わる、あるいは刃のように研ぎ澄まされていくさまが解体ショーのように生々しくドキュメントされていくところがおもしろかった。

ありがちな”Love and Communication”ではなく、”Love and Information”としていることのおもしろさ。”Communication”なんてはなから期待していないような。

他方で、その辺の「建て付け」のようなところがわからないと、単なるショートコントの羅列、とかリハーサルの延伸、のように見えてしまうのかも、って。

あと、情報量の多さというのも、おそらくひとつのテーマとしてあって、次から次へといろんなのが来て溢れかえって大変、というその経験もまたこの劇を構成する要素なのではないか。リーディング形式、というのが明確な意味をもってくる劇、であるような。