8月14日、金曜日の晩、二子玉川の109シネマのIMAXで見ました。
邦題は『オークストリートの異変』。David Robert Mitchellの8年ぶりの新作で、プロデュースはJ.J. Abrams。
撮影は“It Follows” (2014)から一緒にやっているMike Gioulakis、音楽はMichael Giacchino。
1982年のミシガン州の郊外のOak streetに、Denise Platt (Anne Hathaway)とGreg (Ewan McGregor)の夫婦、Audrey (Maisy Stella)とBrian (Christian Convery)の子供たちと犬のStarbuckが暮らしていて、冒頭からごくごく普通のアメリカン・サバービアの昼間の光景があり、Gregは家族には言っていないが職を失って副業のピザ配達でごまかしていて、Deniseは夫を捨てる女性の小説を地下に籠って細々と書いたりしていて、そういうのも含めて家族も家屋もそこらにいそうなありそうな。
Deniseが変な植物を見つけて写真を撮ったら、それは数百万年前に絶滅したようなやつだ、って言われて、へーとか言っていると夜中に雷と嵐が鳴ってざわざわって一瞬逆立って静まり、Starbuckがいなくなって、探しに出た家族の前に驚愕の光景が…
J.J. Abramsだし予告にも少し映っていたので、恐竜/怪獣ものだとは思っていたが、出し方、見せ方も含めてあまりにシンプルにストレートに隣近所一帯がJurassic Parkになっちゃったよ、をやっていて、パニックをもたらす恐怖の滲み方、出し方も過去のDavid Robert Mitchell作品と比べたら雑で凡庸で、この辺が賛否の分かれているところなのだろうか。
とりあえず家に籠って窓に板を打ち付けて厳重にして何か聞こえたり揺れたりするたびに外を見てみるとあれらはどう見ても恐竜とか怪鳥とかで、でもどこからか恐竜が近所に湧いてでた、というよりは近所一帯が恐竜のいる場所と時間にスリップしてしまったらしい - Carl Saganを読んでいたAudreyは出現したワームホールによるものだ、と言ってみるがどうしてよいのやら見当もつかない。
やはりお約束通り、いなくなっていた犬のStarbuckが一瞬現れて消えたので、それを追ってBrianとAudreyは外に出てしまい、彼らを追ってGregとDeniseも外に出て、そこで改めて家族の絆が試されるようなことになったりしたら余りにもふつうすぎてそれは… って文句言おうと思ったらGregがあっさり食べられちゃったので、そこはよかった。
不定期にきらきら光っては消えるワームホールらしき光源に向かって行ってみて、いちかばちかで飛びこんでみて... から先は割とふつうだったかも – というか、こんな異常事態に割とふつうに驚いてふつうに対応する、それが80年代前半の、こんな世界なくなっちまえー、に対する距離のとりかただったような。 AudreyがひとりでSteve Winwoodの"Valerie"を聴くシーンがとてもよくて、昔がよかったとかちっとも思っていないのに戻ってきて、って言ってしまう妙に外した屈折した思い、というか。同様にやってらんないー、の事態なのにRoxyの”More Than This”を口ずさんでしまったりとか。
彼のデビュー作“The Myth of the American Sleepover” (2010)を公開直後にNYで見た時からずっとある、よくわかんない理不尽な、乾いた郷愁のようなものが今回のでも吹いてきて、それが半端なサバービアのありようにはまって、それらは恐竜程度の異物ではびくともしないことがわかる。Night Shyamalan(撮影が同じMike Gioulakis)は同じくプレーンな風景に異物を持ちこんでどんでんを仕込むが、David Robert Mitchellのは、いるだけ、あるだけ、見ているだけで既に十分に孤立してて不穏でおかしい。 恐竜が家に寄りかかって交尾していたり、大亀が湧いていたり、白いでっかい無表情なヘビみたいのがぬーん、て家に入ってきて、いきなりパックマンみたいに口開けたり、映画のテーマとかどうでもよくて(よくない)、これらが夏の一夜のSleepoverで起こったらどんなに素敵だったろうね、とか。
ワームホールを抜けて1982年に行きたいよう。恐竜がうようよしていても今のこんな国よりよっぽどまし。
Audrey役のMaisy Stellaは”My Old Ass” (2024)でもワームホールから落ちてきた年取った自分と会ったりしていた... よね。
David Robert Mitchellの次作、“It Follows” (2014)の続きで”They Follow”だって…
8.20.2026
[film] The End of Oak Street (2026)
8.19.2026
[film] Arise, My Love (1940)
8月11日、火曜日の午後、シネマヴェーラのBilly Wilder特集で、”One, Two, Three” (1961)に続けて見ました。
今回のこの特集ではMitchell Leisenの監督作を(Preston Sturges特集のときの”Easy Living” (1937)や”Remember the Night” (1940)と同じように)見ることができて、これらはちゃんと追っておきたい。 これも脚本はBilly Wilder, Charles Brackett, Jacques Théry。スペイン内戦時に捕虜となって実在したパイロットHarold Edward Dahlの話をベースにしている。 邦題は『囁きの木陰』。
アメリカ人パイロットのTom(Ray Milland)がスペインの牢獄にいて、銃殺刑されるその朝になって呼ばれるとジャーナリストAugusta "Gusto" Nash (Claudette Colbert)が妻を装って泣いていて、そこで恩赦がくだってTomは釈放されて、でもやっぱりすぐに嘘がばれて追っかけられて飛行機で逃げて、どうにかパリまでたどり着く。
ジャーナリストとしての仕事でTomを助けたGustoだったが、TomはGustoに惚れちゃって、でもGustoは仕事優先で、彼女のジャーナリストとしての、Tomのパイロットとしての血と使命感が、戦時下のふたりをヨーロッパのあちこちでくっつけては引き離し、タイトルの”Arise, My Love”はフランスの森の奥で、バンビとかに囲まれながら囁く愛の誓いで、もうぜんぶやめよう! ってふたり一緒に船に乗って逃げるところでドイツの潜水艦にやられて引き離されると、結局Gustoは従軍記者に戻り、Tomはイギリス空軍に行って、パリ陥落で再会するのだが、アメリカが危ないから、って戻ることにするの。
戦時下だから許されるものでもないと思うが、朝ドラみたいに(←見たことないくせに)流れが目まぐるしく変わって、会ってははぐれてを繰り返すなかで、愛はどんなふうに可能となるのかを延々(こちらに向かって)問うて試していくドラマで、戦意昂揚の裏返しバージョンのように見えなくもないのだが、Claudette Colbertの一瞬燃えあがるけどすぐ冷める、の繰り返しがたまんない人にはたまんないのかも。 ここまで引き離されてばっかりだとそういう運命なのかもさよなら、ってならないのかしら。
Hold Back the Dawn (1941)
8月12日、水曜日の晩、シネマヴェーラのWilder特集で見ました。
これも監督はMitchell Leisenで、Ketti Fringsの同名小説(1940)をCharles BrackettとBilly Wilder他が脚色している。 邦題は『国境の南』。
やつれて小汚い身なりのGeorges Iscovescu (Charles Boyer)がハリウッドのスタジオに現れてどうしてもお金が必要なので自分にこれまでに起こったことを聞いてほしい、と語り始める。(関係ないけどスタジオにVeronica Lakeがいるのが見える)
ルーマニア生まれのごろつきのGeorgesがアメリカに入国をすべくメキシコの国境の町にやってきて、でもルーマニアの割当枠だと8年くらい待つことになると聞いて絶望して、でも他に行きようがないので、同様に入国を待つ移民たちと国境のそばのEsperanza Hotelに滞在していると、かつてダンスのパートナーだったAnita (Paulette Goddard)と再会して、彼女がアメリカ人と一瞬結婚してすぐ離婚したけど市民権は残ったよ、と聞いてこれだ、ってなる。 そこに丁度子供たちを連れて遠足にきていた教師のEmmy (Olivia de Havilland)が現れたので、ちょっと彼女の車に細工をして、彼女たちご一行をホテルに足止めして、その夜更けにアプローチすると彼女はあっという間に落ちて、ふたりは結婚するの。
引率している子供たちがいたEmmyは一旦帰国して、家族たちに結婚の報告をして、車ごときらきらになってすぐに戻ってくるのだが、背後に移民局の手が伸びてきたのでGeorgesは彼女を連れて海辺の町を旅していくうちに彼女を好きになってしまう。 それを察したAnitaはそんなの許さん、てEmmyに真実を告げると、Emmyは車で飛びだして行って、ハイウェイで事故にあって、それを国境をぶち抜いてGeorgesが追いかけて…
タイトルはGerogeが浜辺でEmmyを口説くときの殺し文句 - ”We can't change our course, any more than we can hold back the dawn”からで、どこを切っても昼メロに(←見たことないくせに)なりそうな、国境跨ぎのこてこてロマンス詐欺事案で、最後まで目を離せないのだが、こんな話をGeorgesから聞かされてハリウッドがはいよ、ってお金を出すかというと出来すぎていてちょっと、になるようなー。
Charles BoyerとOlivia de Havillandがメキシコを舞台にしたアメリカの映画に出ていて、Charles Boyerはアメリカに入国したいって悶えていて、ふたり共そんな無理せずヨーロッパにいればよいのに、って…
これらMitchell Leisenの戦時下の2本、最後はどちらも(ヨーロッパから)アメリカを目指す、で終わるのね。
8.18.2026
[film] One, Two, Three (1961)
8月11日、祝日の火曜日の昼、シネマヴェーラのBilly Wilder特集で見ました。
今回の特集チラシの表紙のスチール(カラーだけど、映画はモノクロ)に載ってて、特別料金が設定されていて、立ち見で通路に座るひとがでた。久しぶりすぎてこわくなる(まったく想定しておらず)。 邦題はWikiだと『ワン、ツー、スリー/ラブハント作戦』だって。
原作はハンガリーの劇作家Ferenc Molnárの一幕劇 - ”Egy, kettő, három” (1929)をI. A. L. DiamondとBilly Wilderが脚色している。 撮影中にベルリンの壁ができてしまったり、James Cagneyはこれを最後に暫く映画から離れてしまったりいろいろあったことを後から知る。そういう事情を知らなくても怒涛の高速・高濃度で撹拌されていくので特別料金はしょうがないな、って思ったり。
"Mac" MacNamara (James Cagney)は西ベルリンに駐在するコカ・コーラ社の幹部で、中東の事業失敗を挽回して、西ヨーロッパの統括拠点であるロンドンに赴任することを目指してずっと士気もテンションも高くて、秘書もお付きもそれに乗って(もともとナチス式に馴染んでいるので)職場は軍隊みたいに統率されている。
ある日、アトランタ本社の重役W.P. Hazeltine (Pamela Tiffin)から、17歳の娘Scarlettが西ベルリンに滞在するのでアテンド等よろしく、と言われる。
ところが現れたScarlettは東ドイツの極左共産主義者の若者Otto Piffl (Horst Buchholz)と結婚していて彼の反米思想に感化され、そのうち妊娠までしていること、さらに二人でモスクワに亡命しようとしていることが明らかになり、ふたりの結婚証明書を東ドイツで盗んで無効にし、それでもふたり一緒にいたいのなら、とOttoを浚って拘束して逆洗脳しようとして、そうしている間に親のHazeltineもベルリンにやってくると言うので、Ottoをまともに見える花婿にでっちあげようと、床屋靴屋帽子屋仕立て屋などを一式、期限の切られた戒厳令下の大パニックに膨れあがっていく。
次から次へと明らかになっていく驚愕の事実と、その反対にいる当事者たちの天然ぶりと、Macの怒涛のテンションにぶっとばされていく部下たち、ビジネス関係者たち、もうついていけない、って出ていこうとするMacの家族、などが東西ベルリンの溝をまたいで騙しあい引っぱりあい渦を巻いていって止まらない。恋愛要素はないのでrom-comのスクリューボールではなくて、ノリだけだと日本の無責任男モノのそれを冷戦間近の前線でぶちかましていて、なにしろヤンキーの無責任なのでびくともしない展開の強さがある。
これはやはりJames Cagneyのとてつもないパワーぶっぱなしの為せる技、としか言いようがなくて、それでもまだ余力あるみたいに見えるし、ラストのあのオチは、競合飲料メーカーのボードにいたJoan Crawfordに配慮したものだったのだろうか、とか。
どうでもいいけど、昔の駐在員はこれくらい大変だったんだろうなー、っていうのは想像できるのでそんなに荒唐無稽な話でもない、かんじがした。
Mauvaise Graine (1934)
8月10日、月曜日の平日だけど休日、シネマヴェーラのBilly Wilder特集で見ました。
英語題は”Bad Seed”、邦題は『ろくでなし』。
Alexander Eswayとの共同だが、これがWilderの初監督作となる。フランス映画。
1930年代のパリで、お金持ちの放蕩息子のHenri (Pierre Mingand)が父親に車を売られて勘当されて行き場がなくなり、売られた車を盗んじゃったことから修理工場の裏で暗躍する自動車窃盗団に加わることになって、そこにいたJean (Raymond Galle)とJeannette (Danielle Darrieux)の姉妹と仲良くなるのだが、窃盗団内でも目をつけられて、逃げ出そうとした時のごたごたですべてを失いそうになるが、最後は結局パパに助けてもらうろくでなし、と。
家族、仲間、恋人、親友、それぞれの間での情が絡んだ引っ張り合いと小競り合いが思いもよらない方に転がっていってあらら、になる辺りはWilderなのかも。でもまだ自然派、というか流されがちで、大ゴトなのか小ゴトなのか、イキっているけどちょっと弱い、かわいいかんじ。 おもちゃの車に付けられていたナンバープレートから居場所が知れてしまうところとか。
8.17.2026
[film] A Window of Memories (2023)
8月10日、平日だけど休日にした月曜日の午後、ル・シネマの9Fで見ました。
監督は清原惟で、彼女の監督作はこれまで見たことなかったかも。
昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭2025でインターナショナル・コンペティションに選出されている。
手法は聞き書きを中心としたドキュメンタリー、テーマは個人史 - 特異な運命をたどったり特殊な境遇にあったりしたそれではなく、祖母が孫に聞かせる昔話のようなものでしかない。のだが、ものすごくおもしろくて、これはなんだろうか、どうしてこんなに引き込まれるのか、になっている。
構成は4レイヤーくらいからなっていて、監督のふたりの祖母 – 父方のと母方のそれぞれの日常があり、彼らに監督が話を聞いている場面があり、その内容をテキストに起こしたものを祖母たちと一緒に編集する – ここは削った方が「らしく」なる、とか – があり、そうして出来あがったテキストをふたりの舞台俳優、パフォーマー(小山薫子、坂藤加菜)が朗読するところ - 個別に読み進めていくのではなく、同じ場所と時間を共有するかたちで - があり、これらがランダムに紡がれていく。
最終的に浮かびあがってくるのは、祖母たちがどこでどんなふうに育って、仕事につき、結婚し、子供が生まれ、彼らの戦後があり、ここまでやってきて今どんなふうに暮らしているのか、というそれだけのこと。そこにあっと驚くようなこと、隠されていたようなこと、があって、これまで生きてきた自分の足元が揺れたりすることもない。それだけなのに、あかの他人の人生なのに、なんでこんなに(以下略)。
自分の場合、親の話はずっと傍にいたし怒られたりするたびに散々聞かされたりしてきたのもあるので、わかる。でも、休みや法事の時くらいしか会う機会のなかった祖母たちの話は、断片を聞いたことがあるだけ、戦時とか大変だったんだろうなあ、くらいでしかなかった。でも彼女たちの記憶は当然そんな断片のわけがなくてすべては繋がり連なって今になっているのだ、もちろん当人でなければすべてをわかることなんてできないのだが、なにがどうなっておばあちゃんはそこにいるの?/きたの? ということくらいは聞いておくべきだったな… から始まる”A Window”。
すべての物語はどこかのだれかの記憶から始まる、のであれば、ここにある”A Window”はそのためにあるものだ、ということをその手続きとか構造のようなところも含めて具体的に明らかにしてくれる。見る - 聞く - 書く - 読む - 話す、という基本の要素ぜんぶのなかに。いまならテクノロジーもくっついてくる(スマホで録って文字起こしかんたんー、とか)。
そうしてこうしてひとつの窓から浮かびあがって掬いだされた思い出たちは、いろんな光や色を纏って彼女たちの像を、織物を形づくるだろう。どうしてそんなことをするのか?って、おばあちゃんの話を聞くのが大好きだったからだよ。「私が聞かなかったら、この話はどこに行くんだろう」が起点にあったそうだが、そういうこと。ドキュメンタリー映画を見る理由もだいたいこれ。
演劇でも同様のことはできるかも知れないが、映画の場合は視野・視角が固定されて見渡しやすいのと、祖母たちの像と語り手を同じ距離感で見つめることができるような。 裁縫された黄色いワンピースのお話とか、話によってはイメージが浮かびあがりやすいものもあるのかも。
テキストを第三者が読みあげることでそれなりの効果を出せる同様のジャンルとしては「怪談」があるかも。これも映画と親和性が高いよね。
[film] The African Queen (1951)
8月8日、土曜日の昼、StrangerのJohn Huston特集で見ました。
ここしばらくは、HustonとWilderが続きそうな予感の夏。もうちょっと軽くしたいなー。
原作はC. S. Foresterの同名小説(1935)をJames AgeeとHustonが脚色している。撮影はJack Cardiff。Humphrey Bogartがオスカーの主演男優賞を獲ったアメリカ・イギリス合作映画。邦題は『アフリカの女王』。
1914年、ドイツ領東アフリカでメソジスト派の宣教師として暮らしながら統制不能な現地人に向かって布教をしているイギリス人Samuel (Robert Morley) と妹Rose (Katharine Hepburn)がいて、イギリスとドイツの間で戦争が勃発するとドイツ植民地軍が現れて村を焼き払って村人たちを連れ去って、これに抗議したSamuelは殴られて倒れた後、高熱であっさりと亡くなってしまう。
小型蒸気船”The African Queen”を使って現地への配達屋をしていたCharlie Allnut (Humphrey Bogart)はSamuelの埋葬を手伝うと、周辺の情勢が危なくなっていくばかりなので、RoseをAfrican Queen号に乗せて一緒に出ていくことにする。
イギリス人とカナダ人のふたりの間には一目瞭然の階級とか国とかそれに対する意識(と外見でも)の段差があり、でもこういう状況なので同じ側にいる敵ではない、ドイツ軍憎し、という最低線だけは合意してそれ以上はそれぞれのゾーンをキープしようとする。 のだが小さな蒸気船と川の激流とアフリカの野生とドイツ軍が容赦なく襲ってきてふたりの脳を強めにシェイクして、あるべき出立ちや振る舞いをばらばらと解して、なにかと酒に溺れて逃げるCharlie vs. それを諫めつつタンクに火薬詰めてドイツ軍にお見舞いしたれ、とかめちゃくちゃ言いだすRoseという構図に変わっていく。
でもこの映画の最大の魅力はそんなふたりの荒れた旅/冒険の行く末を追う - というところにはなく、傍若無人なCharlieや自然に洗われて自身を取り戻す、というよりもっと強く - 殻を取り払って美しくなって - この言い方には注意が必要だと思うが - どう見ても強くかっこよくなっていくRoseの変容、蒸気船「アフリカの女王」がばらばらにされた後、新たな女王として蘇り即位するまでのRoseのお話し、女性映画なのだと思う。
Humphrey Bogartにオスカーをあげたのはぼろぼろになるまで小姓としてよくがんばりましたね、ていう程度のことだったのではないか。ヘミングウェイ的な男らしさを狙ったのかもしれないが、結果的に際立って前にくるのはKatharine Hepburnの”Holiday” (1938)の彼女が大きくなったようなイメージかも(設定はイギリス人になったけど)。
船底の様子を見た後、川の表面から鳥のように細い片脚を上に持ちあげ船の縁に引っかけて這いあがろうとするあのぴーんと張った脚の動きがバレエのように見事で素敵で何度も見たくなってしまうのだが、あそこで脱皮のようなことが起こったのではないか。
最後のあれも、くるぞくるぞ、ってわかっているし、めちゃくちゃスローなのに何度見てもわくわくする、SWの痛快さと同じようなのがある。のと、「ルイーゼ王妃号」だからなんだってんだ、こちとらボロいけど「アフリカの女王」なんだぞ、っていう気高さのようなものも保たれてつつのどかーんが素敵なの。
8.14.2026
[film] Rhythm on the River (1940)
8月6日、木曜日の晩、シネマヴェーラのBilly Wilder特集で見ました。
監督はVictor Schertzinger、楽曲はVictor Youngによるミュージカル・コメディでBilly Wilderは共同脚本で参加している。 邦題は『愉快なリズム』。 とっても愉快だった。
Bob Sommers (Bing Crosby)とピアノのBilly Starbuck (Oscar Levant)は、名前だけは有名でセレブな作曲家Oliver Courtney (Basil Rathbone)に楽曲を提供しているゴーストライターで、その場でさらっと作ってくれたりするのでOliverはBobに感謝しまくっているのだが、Bobはずっとこれを続けていくつもりはなく、郊外のTarrytown(よい町)で叔父が経営する宿屋に戻ってボートを買いたいのだ、という。
やはりゴーストだった作詞家が亡くなった後、Courtneyのところに面接にやってきたCherry Lane (Mary Martin)は採用の際の条件 – ぜったい表に自分(Cherry)の名前を出さないこと – などに少し躊躇するが受け容れて、彼のための作詞仕事に集中するためにTarrytownのBob叔父の宿に滞在することになるのだが、ずっとすれ違っててなんか互いが気に障って衝突しているばかりのふたりが、同じ雇い主のところで飼われていたことを知るまでのすったもんだの楽しさ(ちょっとルビッチの”The Shop Around the Corner” (1940)ぽい)、知って仲直りして一緒にCourtneyのところを離れるのだが売れるアテがなくて、バンドを組んで営業を始めるのだが、これも売れなくて... という広義だとバンド・音楽業界もの、今の時代にも適用できそうなミュージカルになっていて、とにかく楽しくて目が離せない。
ただBing Crosbyのぴかぴかのオーラと歌声が素敵すぎて、あんたなら最初から簡単に自前でデビューできるよ、ってみんなが思ってしまうであろうところがなー。
The Major and the Minor (1942)
8月8日、土曜日の午後、↑と同じ特集でシネマヴェーラで見ました。
Billy Wilderのアメリカでの初監督作で、原作はFannie Kilbourneの小説” Sunny Goes Home” (1921)をEdward Childs Carpenterが戯曲化した”Connie Goes Home” (1923)をBilly Wilder & Charles Brackettが脚色している(Sunny → Connie → Susan)。
邦題は『少佐と少女』だが、日本では劇場未公開だって?(ありえない..)
頭皮マッサージの派遣仕事でNYのホテルの一室に滞在する顧客のところをSusan Applegate (Ginger Rogers)が訪れたらそこの中年おやじに堂々とセクハラされたので都会はもうムリ、って故郷のアイオワ州に帰ることにするのだが、Grand Central駅の切符売り場で、運賃が値上がりしていて帰郷用に握りしめてきた切符代金では帰れないことがわかって、うーん、て考えて駅の女子トイレでメイクを落として着替えて12歳の少女Su-Suになりすまし、子供運賃でどうにか列車に乗りこむことに成功する。
この時点からおいおい、なのだが列車内でも当然怪しまれて、タバコを吸っているのを見られて、逃げ込んだ先が士官学校のPhilip Kirby少佐(Ray Milland)の客室で、びっくりしたことに彼はSu-Suを迷子の12歳とふつうに思い込んで彼女を匿ってくれて、そのまま士官学校に連れ帰って候補生たち、軍の関係者に紹介するのだが、そこには彼の婚約者のPamela (Rita Johnson)がいて、なんだあの娘は、って騒ぎが広がっていくの。
撮影当時だいたい30歳だったGinger Rogersが12歳の少女を演じる滑稽さ以上に、Philip Kirbyほか士官候補生全員が彼女が12歳であることを疑わないところから始まってしまう男女間のごたごたについて、勘違いより根深い無意識レベルの思い込みが軍の士官ぜんぶを覆ってしまうしょうもなさ、気持ち悪さがあって、そこをとりあえず放置して最後にSusanが正体を明かしても、Pamelaの策謀が明らかにされてもなんかもやもやが残ってしまう。 それぞれの小ネタやキャラクターの設定は十分におもしろいのでそちらを見てしまうのだが。
Wilderのおもしろさのコアには、社会の無意識のようなところにある気持ち悪い何かを晒しつつもそれらを無視して成立させるギャグ、あるいは、ギャグを形成する過程でそういうのが見えているのに、それらをとりあえず置いて(or わざと晒して)ストーリーとして立ちあげてしれっと示してしまう、ようなところがあって、その辺がなんか。ストーリーとしておもしろければそれでよいのか、ってなりがちかも。(そんな単純な話ではないと思うのでもう少し考える)
あと、Kirby役はCary Grantを想定して書いていたって、これはそうだよねー、と。
8.13.2026
[film] Moulin Rouge (1952)
8月7日、金曜日の晩、帰国後はじめて、ひさびさとなった菊川のStrangerで見ました。
『生誕120年 ジョン・ヒューストン特集』として4Kリストアなどをされた4作品が上映される。
ジョン・ヒューストンの映画もビリー・ワイルダーのと同じように長いのが多いのだが、ワイルダーは2時間かけて「ストーリー」を描こうとしたのに対して、ヒューストンは同じ時間で登場人物たちが置かれた状況とか「シーン」を、(例えば)そこで負け続ける男たちなどを描こうとしていて、「ストーリー」は最後まで一緒にいてあげないとどうなるのかわからない面倒くささがあるのに対して、「シーン」の方はどうせ負ける or 最初から負けてることがわかっているので、安心して見ていられて長さもそんなに気にならない、のかもしれない。
今回の4作品がどんな観点からピックアップされたのかしらんが、見事にどうしようもなく、しかし堂々としょうもなく狂ったり消えていったりの男たち - がどんなにしょうもないかを細々と - のドラマが並んでいて、これらは勝ち負け以前のクズだらけの男風景ばかりを見せられてうんざりの日々にうまくはまる.. のかどうか。
邦題は『赤い風車』。 原作はPierre La Mureによる同名小説(1950)、脚本はHustonとAnthony Veillerの共同、撮影はOswald Morris、音楽はGeorges AuricとWilliam Engvickによる英国映画。
パリのMoulin Rougeを舞台に画家Henri de Toulouse-Lautrec(1864-1901)の生涯を回想含めて振り返っていく評伝ドラマ。
冒頭、Moulin Rougeの片隅で黙々と踊り子たちの絵 - みんなよく知るあのシルエット - を描き続けるHenriの姿があって、店が終わって立ち上がったところで貴族の家に生まれながら階段から落ちる事故と遺伝的要因により脚の成長が止まってしまった姿が明らかになり、そこからの帰りに警察から逃れようとしていた威勢のいい娼婦Marie Charlet (Colette Marchand)を助けて家に連れ帰って面倒をみてあげようとするのだが、荒くれ野良猫の彼女はHenriの思いなんて知るか、ってどこかに消えてしまったり、橋から身投げしようとしているかに見えたMyriamme Hyam (Suzanne Flon)に声をかけたら思っていたよりずっとしっかりした女性だったり。
報われそうにない歪な片思いの思いを絵にぶつけて、それなりに絵は評価されていくものの、リアルライフでは次々と見捨てられて気が付けばひとり、を繰り返してどんより壊れていくHenriと、赤い風車をぐるぐる回しながら見守っているMourin Rougeの覆いを、彼の絵の色調、ゆるゆるの輪郭線のなかに描いていく。
彼はなんでMarieにあんなにひどい目にあったのに、どこまでも彼女を求めていったのだろう? という一番どろどろしていそうなあたりが一番残ったかも。
アーティストの見た夢、ヴィジョン、色彩の格子のなかに彼の(あまりぱっとしなかった)人生を封じこめてしまうこと、なぜならそこにこそ彼の(生きる)世界はある/あったのだから – そう思うとVincente MinnelliがVincent van Goghを描いた” Lust for Life” (1956)を見直してみたいなー、と思いつつ、やはり見比べるべきは、同じヴェニューを描いた(とは思えないけど)Jean Renoirによる”French Cancan” (1955)のPierre-Auguste Renoirだろうか。
どちらもそれぞれに見事で、『風車』はHenri de Toulouse-Lautrecという画家個人が見つめていた(光というよりは)底とか床で渦をまく闇を、『カンカン』はPierre-Auguste Renoir - Jean Renoirが夢想した集団の狂騒とその果てのユートピアまで掴まえようとしていて、どちらも総合芸術的なスケールで迫ってくるその強さ。(今、ここからBaz Luhrmannの”Moulin Rouge!” (2001)とかを見ると結構陳腐なものに見えてしまう - あれは青春バカ映画でよいのだが)