4.28.2026

[film] Köln 75 (2025)

4月23日、木曜日の晩、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。邦題は『1975年のケルン・コンサート』。
2025年のベルリン国際映画祭でプレミアされた。監督はIdo Fluk。

1975年1月24日にケルンのオペラハウスで行われたKeith Jarrettのピアノソロを収録したライブ盤 - “Köln Concert”は世界で最も売れたJazzレコードの一枚なのだそうだが、そのライブ〜収録の舞台裏ではどんなことが起こっていたのか、コンサートのプロモーターだった当時18歳のVera Brandes (Mala Emde)を中心に語られる。

最初は最近の(初老の)Varaの誕生日に現れた彼女の天敵だった実父の抑圧的な言動から10代の彼女の回想に入っていく。威勢のよいパーティガールだった彼女は地元で行われたRonnie Scottのライブの後、親しくなった彼からドイツのツアーのブッキングをやってくれないか、って頼まれて、父の病院の電話回線を使って見よう見まねで手配ごとを始めて、そういう中で触れたKeith Jarrettの音楽にこれだ! って衝撃を受けてなんとしても自分で呼びたい、とオペラハウスを押さえて、今となっては歴史に残るコンサートを実現してしまうまでのどたばたを彼女の青春ドラマとして綴っていく。

もう一人の関係者として音楽ライターのMichael Watts (Michael Chernus) がケルンに向かうKeith Jarrett (John Magaro)の車に同乗して現地まで向かい、コンサート直前の彼の様子や人となりを描写していく。腰痛で状態も機嫌もよくないアーティストは到着してすぐ、ステージに用意されているはずのピアノ - 全長10フィート、重さ半トンのBösendorfer Imperialではない、小型でおんぼろのリハーサル用ピアノを見て、こんなのではやれない、と言う。

コンサートが始まる23時半(いいなー)まであと数時間、ピアノはどうにかなるのか、ばたばたで宣伝もできていない客の方は入ってくれるのか、そんなことよりご機嫌も体調もよろしくないKeith Jarrettは演奏してくれるのか? 等が渦を巻いていくのだが、結果はみんなわかっている通りめでたし、どころかとんでもなかったよ… になる。

この晩の彼のライブの様子は当然描かれないし、それと同様になぜそんな奇跡が起こったのかも明かされないしよくわからないので、よかったよかった、と言うしかなく、だからそんな朗らかな青春もの、にならざるを得ないことはわかるのだが、音楽を扱う、音楽がドライブした何かを扱うのであればそこをもう少しだけどうにかー、とは思った。

この映画の内容についてはKeith JarrettもECM RecordsのManfred Eicherもオーソライズはしていなくて、他方でこのコンサートに関わった関係者のインタビューを中心としたドキュメンタリーフィルム - “Lost in Köln”が用意されている(公開されないのかな?)ことも知っているのだが、もういいかなー、というかんじにはなっている。

少なくともみんなの手元に残されている50年前の音楽にはジャズとか即興とか、そういうのを超えた万能の、ユニバーサルな「音楽」としか言いようのない何かが跳ねてうねっていて、それに浸ることじゃ、しかない。あの盤にはそういう磁力があると思うのだが、それはまず聴いてみないことには、だしね。

あと、ジャズ以外の音楽だと、CANの”Mother Sky”がターンテーブルに乗せるところも含めて印象的に流れてきて、時代の空気、のような使い方なのだろうが、この頃のクラウトロックをもっとがんがん流しちゃってもよかったかも。

4.27.2026

[film] 沓掛時次郎 (1929)

4月19日、日曜日の午後、国立映画アーカイブの特集『発掘された映画たち2026』で見ました。
16mmプリントから復元されたサイレントで、ピアノ伴奏は吉田詩子。

原作(1928)は長谷川伸による3幕からなる戯曲で初演は同年の帝国劇場、Wikipediaによるとこれまでに8度映画化されていて、これが最初の映画化作品で、監督は辻吉朗。

沓掛時次郎モノの映画は、シネマヴェーラができたばかりの頃(2006年)の加藤泰特集で『沓掛時次郎 遊侠一匹』(1966) - 主演中村錦之助のを見ていて、この頃はNYから戻ってきたばかり、その時いた会社を辞めちゃったところに加藤泰作品がとてもしみて、衝撃だったりしたことを思いだす。もう20年前なのかー。

画面は白黒のコントラストが強い、昔の写真のようで、冒頭に中ノ川一家の親分が島流しにあって、部下の三蔵(葛木香一)らに後を頼むぞ、って消えてなくなり、でも親分がいなくなった組を捨てて出ていく者も多くなり、そうして弱体化した三蔵のところに、3人の刺客+彼らに一宿一飯で雇われた沓掛時次郎(大河内伝次郎)が現れて、三蔵は3匹をどうにか蹴散らすのだが、背後から現れた時次郎には敵わなくてやられてしまい、息を引き取る直前に時次郎に妻のおきぬ(酒井米子)と息子の太郎吉(尾上助三郎)を頼むって言い残し、おきぬからすれば夫/父を殺した男と一緒に旅をしなければならなくなるし、やがておきぬの体は弱っていって、お金もなくなってしまったので、最後にやむなくお金稼ぎのために出入りの助っ人を引き受けるのだが、いざ行ってみるとものすごい敵陣で、向こうには最初に自分を雇った3人組とかもいて…

とにかく大河内伝次郎の輪郭がフランケンシュタインのようにぶっとくて、あんなのが通りの向こうから現れたらそれだけで逃げたくなると思うのだが、最後の出入りのシーンのぶん回しはとてつもないスピードと勢いで大量の敵をばさばさなぎ倒していくし、向こうの刃はぜんぶ逸れていくようだし、サイレントのコマの早いのとかも入っているのか、イメージとしては「うぉおおりゃああああー」みたいな勢いで一気にぶちかまして、稲妻の速さでおきぬのところに戻ったのに…

自分の夫を殺した男と身寄りもお金もなくなったので一緒になって旅をしなければならなくなり、やがて情が移って、ってどう考えても男性に都合よい視点の物語で、女性からしたら恐怖と絶望一直線しかないのでは、っていつも思うのだが、でもこのお話しは好まれて映画もTVも沢山作られて昭和を代表するような男優たちがみんな演じている。よくわかんないかも。 って思いつつそのまま正門前のデモまで歩いていった。


Karl Walser  - スイス絵画の異才 

↑を見る前に、東京ステーションギャラリーで見ました。
Karl Walser (1877–1943)は小説家Robert Walser (1878–1956)の兄で、ローベルトのほうはベンヤミンを経由したり、数年前に出た本『ローベルト・ヴァルザーとの散策』で知っていて、カールの方は当時の割と典型的な線の象徴主義の画家、程度の認識しかなくて、纏めて見る機会があまりなかったかも、と。

日本に行って東京や京都に滞在していたなんて知らなくて、そこで描かれた絵がなかなかよいかんじ。祭りのごちゃごちゃした色の塊りの出し方とか、滲んで見えてしまうもののかんじとか。

ちょっとびっくりしたのは会場で上映されていた「カール・ヴァルザーゆかりの地」のビデオにベルン旧市街の古書店 – Daniel Thierstein Buchantiquariatが出てきて、ここってベルンに行った時に1時間くらいはまってたとこじゃん! で、ヴァルザー兄弟の著作が多く置いてある、って説明があって、店に入ったのはたまたま、そんなことぜんぜんそんなの知らなかったのだが、そこで買ったのはヴァルザー兄弟の評伝本だったという…(ちゃんと確かめたいのだが、本たちは今頃みんなアフリカ大陸の西か南の海上にいる – はず..)

4.26.2026

[film] Song Sung Blue (2025)

4月20日、月曜日の晩、TOHO シネマズ日比谷で見ました。

これも帰国直前のどたばたでロンドンでは見れなかった1本。向こうではクリスマス映画だった。
90年代、ミルウォーキーに実在したNeil Diamondのトリビュートバンド - Lightning and Thunderで少しだけ有名になった夫婦、Mike SardinaとClaire Sardinaのお話。

2008年にGreg Kohsによる同名のドキュメンタリーが撮られていて(未見)、同年の映画祭でそれをみたCraig BrewerがGreg Kohsにコンタクトして権利一式を買い取った、と。

冒頭、Mike (Hugh Jackman)はアル中の更生施設で断酒して20年経ったよ、ってギターを抱えて体験を語りつつ”Song Sung Blue”を歌ったりするのだがその裏の実生活はどん詰まりぼろぼろの不満だらけで、そっくりさんショーのバックステージで有象無象のカバー芸人たちにまみれ、自分はこんなもんじゃないのに、って悶々としていた時にPatsy Cline のカバーをしていたClaire (Kate Hudson)と出会う。

どちらも離婚してそれぞれにシングルマザー/ファーザーだったが、互いにどこかを稲妻に撃たれて一緒にやろう! ってレパートリーをNeil Diamond一本に定め、コンビ/バンド名を”Lightning and Thunder”としてライブハウスに出るようになる。 なんといっても演るのはHugh Jackmanだもんだから評判を呼んでハコもどんどん大きくなっていくのだが、突然の不幸が次々とやってきて止まらない。

騙されたとか盗まれたとかの他者の悪意による人災ではなく - 悪い人物がひとりも出てこない珍しい映画 - Claireは突然つっこんできた車にやられて左脚を失い(もう一回突っ込まれ)、Mikeは元々心臓がよくなくて、でも”Song Sung Blue”♪でー。

彼らはなんでそこまでして - 真ん中辺りに事故の後に心を病んでしまうClaireの姿が置かれるし、Mikeだって復帰公演の準備中に頭を… ステージで歌を歌うこと、それを聴いて一緒に楽しんで貰うことにあんなに全身全霊を傾けたのか? というのが中心にきて、それが彼らの芸道であり生きる道なのだ、というところにハリウッド・スターとしてのピークを過ぎた(と思わせたい/思わないけど)Hugh JackmanとKate Hudsonの容姿が、そして何よりもNeil Diamondの歌たちが被ってきて、そのだんだら模様が素敵ったらない。中途半端に家族の絆や救いを強制するのではなく、まずは音楽があり、そこに向かってすべてが奉仕されている。

実在のLightning and Thunderのふたりにしても、この映画のふたりにしても、なんとしてもNeil Diamondの歌をちゃんと聴いて貰いたい、という強い思いに貫かれているようで、そこは全く異論がない。ショーのオープニングを”Soolaimon”にするんだって拘るところを繰り返したり、これを機にNeil Diamondの再評価に繋がらないだろうか、って少し思ったのだが、そうなるかんじが全くないのはどうしたものか。(映画内のアレンジはCarole Bayer Sager & Diane Warrenで、悪くない)

とにかく”The Greatest Showman”と”Almost Famous”のふたりなんだから、実話のタガを外して”The Blues Brothers”みたいなバディの珍道中ものにしちゃってもよかったのに (稲妻にやられるところとか同じだし)。

あとどうでもいいことだけど、この晩はEddie Vedderの東京公演があって、仕事の都合で行けなくなって泣きながらこの映画の20:50の回に駆けこんだのだが、映画のなかにEddie - あんま似てなかったけど - が現れて彼らと一緒に歌ってくれたのだった。

4.24.2026

[film] 驟雨 (1956) - etc.

4月15日、水曜日の晩、神保町シアターの特集 『名作の陰に女性脚本家あり 田中澄江と水木洋子』で見ました。

監督は成瀬巳喜男、原作は岸田国士の同名戯曲の他、いくつかをネタにして脚本は水木洋子。ここまで来ると「名作の陰」というより「名作のフロント」でよいのでは、と思う。

結婚後4年が経った亮太郎(佐野周二)と文子(原節子)の夫婦は倦怠期というのか仲がよくなくて、日曜の朝からどうでもいいことでぶつかって、互いがうっとおしくて何を言われても何かやっているのを見ても忌々しくて、そのやりとりだけ延々見せてくれてもよいのだが、こんなふたりの隣に越してきた小林佳樹と根岸明美の歳の離れた夫婦の火花とか、新婚旅行の途中で嫌になって夫を捨ててきた姪の香川京子が飛びこんできたりとか、彼らはみんな、いかに自分の相手の相手をするのが嫌で大変でやってらんないかを訴えてきたりするのだが、そんなことを心配している余裕なんてないし、そんなのよか自分らの事態の方が遥かに深刻でどうしようもないのだ子供にはわかんないだろうが、って思っている。

そういう至近距離の戦いのほかに、町内会のおばちゃん(見るからに昭和のおばちゃん)達から、軒下にやってくるノラ犬の挙動について、放し飼いにしておくのはどうしたものか? のねちねちが来て、それが生産性ゼロ、あたしの時間を返して系の臨時町内会に発展したり、この辺の民度(っていうの?)のありようはここから70年を経ても変わっていない。ということにびっくりすべき。

原節子は表面にぎりぎりの笑みを湛えつつ内側で燻るふざけんじゃねえぞクソ野郎ども、の状態を呼吸と所作のひとつひとつに心を込めて維持実践していくのが変わらずすごくて、その反対側に立つ佐野周二は、外面だくはよくてなんかできそうに見えて、実はとてつもないぼんくらで何も考えていないもんの殺傷力が変わらずにすごくて、結果は殺伐とした日曜深夜にひとり噛みしめるサザエさんみたいなかんじになる。

タイトルはこの程度の諍いは季節によってどこにでも起こる通り雨のようなもの、ということなのか、いやいや通り雨だって落雷や土砂崩れでひとが死ぬことだってあるのよ、ということを水木洋子は言っているのだと思う。


甘い汁 (1964)

4月17日、金曜日の晩、同じ特集で見ました。
これも原作・脚本は水木洋子で監督は豊田四郎、主演の京マチ子は毎日映画コンクールとキネマ旬報賞のふたつで主演女優賞を受賞している。英語題は”Sweet Sweat”。

昭和の真ん中くらい、どぶ川の周りに狭い住宅がひしめいて再開発で整理されようとしているエリアで、梅子(京マチ子)はなにが生業とも言えないようなマルチ水商売で冒頭から仕事仲間のすみ江(木村俊恵)と大げんかしたり、ちんぴらっぽいバーテンの藤井(小沢昭一)に紹介されたじじいの妾仕事をミスったり、家に戻れば母親(沢村貞子)と娘竹子(桑野みゆき)と弟(名古屋章)一家の8人が同居していて、どこに行ってもなにをしてもなんだかはみ出してすごいのだが、誰にどう言われようともへっちゃらだし、娘だってさばさばしているし、とにかく愛と金の甘い汁を求めて彷徨う.. というよりはもう少し強く、バウンドしていく様がモノクロ写真の至近距離で肉肉しく映しだされていく。「驟雨」?ふざけんな、って自らどぶ川に飛びこんでいくような威勢のよさ。でも、本当の甘い汁を吸っているのは彼女ではない別の奴らなのだ、というメッセージも底にあると思った。

かつての恋人で、いまはやくざになっている辰岡(佐田啓二)との再会シーンもロマンチックでもなんでもなく、ベッドの下にテープレコーダーを仕掛けるしたたかさ(そして簡単にばれる)で、そこには原節子の表面張力なんて微塵もないの。でもどちらも同じくらいに強くて負けることなんてないの。

4.23.2026

[theatre] 死神

4月16日、木曜日の夕方、紀伊國屋サザンシアターで見ました。

ロンドンで演劇っておもしろいかも、と思うようになり、勉強したいかも、って2年3ヶ月の滞在中に178本見た(映画の方は877本見ていた)。せっかく火がついた、と思っているので、日本でも見ようと思ってまずはこのあたりから。

オンラインでチケットを取ろうとしたところ公演は平日のマチネが多くて、夕方回の開始時間が18:00って.. でひいて、前売りで取るのは難しいか、って電話して当日券があることを確認してシアターで取ったのだが、後ろのほうはがらがらで、なんか勿体ないな、と思った。ライブもそうだけど、開始時間がこれだと(ずっとそうみたいだけど)会社勤めの人とかには根付いていかないよね。(接待とかには向いているのか?)

原作は三遊亭圓朝の古典落語「死神」。元ネタは19世紀のグリム童話とイタリアの歌劇で、どん底の主人公のやけくその行動が地べたから有頂天まで、生と死の境を跨いでいくジェットコースター芝居で、一人語りの落語としておもしろいのは言うまでもないが、演劇にしたっておもしろいに決まっている。 脚色・演出は倉持裕。

最初は通りからみた長屋の並びで、主人公たちが戸を引いて中に入るところで奥が自動でぐるっと広がったり回ったりする。長屋から地獄の入り口まで繋がっていて、語りの調子に応じて自在に滑らかに伸びたり縮んだり。

遊び人の八五郎(牧島 輝)はその日も遊んで朝帰りで、玄関で待ち伏せしていた妻のお滝(樋口日奈)といつものように口論になって、こんな状態じゃ子供も家庭もあったもんじゃないし、ってグチられて隣の子沢山の夫婦まで出てきてわーわー言うので嫌になってもう死のう、って橋のほうに歩いていくと死神(水野美紀)にぶつかって、自分のノルマ達成でうんざりの死神は死にたいって言いながら死ねない八五郎を使ってうまいことやってみるか?って持ちかける。

病に臥せった病人の枕元に死神がいたらその人はもう助からない、足元にいたら助かる見込みがある、死神を自分の目で見ることができる八五郎を使って、助かる見込みのある病人を生き返らせることができれば、死神にとってはノルマを着実にこなせるし、八五郎を医者にしちゃえば評判の名医にできるからwin-winじゃん、て、生き返らせる呪文を教えてシャバに放つ。

こうして長屋で(ニセ)医者の表札を出しておくと旦那様が病から回復してくれないという越前屋の番頭が現れて、藁にもすがる思いで、っていうので、現場に行ってみると死神が足下にいたので決めた通りにやってみたらいきなり立ちあがってウナギを食べ始めたのでおおってなり、八五郎は名医としてたちまち評判になって小金持ちになる。

でももともとの浪費好き博打好きは治らず、あっというまにすってんてんに転がり戻ってやばい、ところに再び臥せった大旦那の件が来て、でも今回ばかりは死神が枕元にいるのでどうすることもできず、でもそこをなんとか、って大金を積まれたので、ちょっと企んで死神をだましてやったらうまく生き返らせることができたのだが、あたまに来た死神が…

途中に落語家の立川志の春(複数の役も演じる)がそこまでの成りゆきを落語調でサマリーしてくれたり、歌謡曲ふうの歌唱シーンが入ったり、全体にちゃきちゃきよいテンポで楽しくわかりやすく、八五郎の転落とそれを操る死神の柔い関係を追っていく。

八五郎はもちろん、死神も万能な神というよりそれなりに苦労しているふつうの女性ぽくて、そんなふたりの軽いやり取りが生死や人の運命を軽々と操っていって、最後には自分自身が、という転換、脆い境界線にいるというおもしろさ。落語のぷつん、と切れて放り出されるオチのあっけなさもよいが、アンサンブルの果てに自分が誰それだったら..? がじんわりと来るこの劇も悪くない。

生が死神の座り位置とか蠟燭の灯で簡単にぽん、て消えてくれたりするのに、日々実際に生きて転がっていくのはなんでこんなにうまくいってくれないのかー、っていうあたりが後から。

最後の蝋燭のシーン、グローブ座のSam Wanamaker Playhouse(蝋燭シアター)でやったら臨場感が出ておもしろくなっただろうにー。

4.22.2026

[film] Sound of Falling (2025)

4月18日、土曜日の午前、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

ドイツ映画で、原題は”In die Sonne Schauen” - 直訳すると「太陽を見つめて」なのだが、邦題は英語題の方に繋がる『落下音』。
2月にロンドンで上映されていた時に見たかったのだが、2時間半の上映時間が無理だった1本。

監督と共同脚本はMascha Schilinski。2025年のカンヌでJury Prizeを受賞している。

なんのキャプションも出ないので、最初はちょっと混乱するが、ドイツ北東部の中庭を囲む建物に暮らす一家一族の、4つの時代 - 1910年代、1940年代、1980年代、現代 - に分かれたいろんなエピソードがノンリニアで交錯していく。語り手も時代によって、エピソードによって分かれているし、映像のトーンや明度も、誰が誰を、どの地点から見つめているかによって結構ばらけていて、構成とか成りたちを把握するのにちょっと時間がかかる。他方で、そういうのを気にせずイメージをてきとーに追っていっても、なんとなくのゆらゆらした不安や怖れなどはわかったかんじになれるのかも。

冒頭、片足がない状態で松葉杖で歩くErika (Lea Drinda)が、そのままベッドでぐったり寝ている中年男のFritz(Martin Rother)の切断された片足をじっと見つめておへそに溜まった汗をなめ、その後で彼女の欠けた脚は自分で折り曲げていただけだったことがわかる。

別の時代で幼いAlma (Hanna Heckt)が経験する葬儀と昔の葬儀の写真に刻まれた一族のなかに自分に似た少女の姿を見つける話、Fritz (Filip Schnack)が両親によって片足を痛めつけられ「労災」(=兵役拒否)される話、彼を介護するメイドのTrudi (Luzia Oppermann)の話、家族の間には目に見えない掟や序列や勝手に強引に決められてしまうものがあるようだが、死んだあとはモノクロぺったんこのイメージのなかに閉じこめられてしまうことなど。

時代が新しくなったところで、溺死したErikaの妹のIrm (Claudia Geisler-Bading)には家族がいて、彼女の娘のAngelika (Lena Urzendowsky)はいとこのRainer (Florian Geißelmann)を挑発したり、トラクターの進路に横たわったり川に入っていったり死を恐れていないふうで、そのうち家族が集合したポラロイドを撮る場面で彼女は消えてしまう - 向こう側へいってしまったのか?

更にほぼ現代になった頃の姉妹と村の少女のお話しがあり、ここでも誰かは必ず家族の誰かを失って不安定なままで、でもそれがどうした、って。

家族がメガネを手にした時の会話で、目に映ってくる像、光は網膜の上で上下左右が倒立した像として結ばれて、あるポイントで消失点として失われてしまう、そんな視覚イメージの危うさと不確かさが語られて、そういう中で部屋の暗がり、半開きになった扉から覗きこむようなショット、既にいない人を定着させる写真などが沢山でてきて、これらは生死が倒立した死者の目線なのだ、と言うことに気づく。そんなでも人はころりと死んで生まれて家族もイエも続いていくし、戦争は起こるし。 

イメージや視覚に関わること、なのでタイトルが「太陽を見つめて」なのだろうが、それが”Sound of Falling” – 「落下音」になるってどういうことなのか。太陽を見つめて目がしんで、落ちる – 五感に残るのはその音だけ、ということでよいの?

幽霊目線の、あるいは幽霊そのもののような個々のイメージは、切り取ってスタンダードの画面に置いてみれば悪くないのだが、ストーリーの軸がないので、それぞれの印象の強弱のようなところで止まってしまう(よくもわるくも)のと、音が弱すぎてふわふわしてて落下できない、というあたりがー。

 

4.21.2026

[film] 鬪ふ男 (1940) - etc.

4月12日、日曜日の午後、国立映画アーカイブの特集『発掘された映画たち2026』で見ました。

MoMAの“To Save and Project: The MoMA International Festival of Film Preservation”でも、BFIの”Film on Film Festival”でもレギュラープログラムの”Projecting the Archive”でも、古い映画を見よう/見たい、っていう熱と人気はずっと絶えない。映画史に残っていてDVDや配信で簡単にアクセスできるクラシックの他に、どこかの何某から意図的に埋められたり事情があってなかったことにされていた作品や作家は星の数ほどあって、その背後にはそれなりのストーリーがある、ということを知ってしまった。そうなった事情は写真家や他のアーティストのそれよりも複雑のようで、当時の社会や政治の事情にも割と関係があって – これって歴史を学ぶ、知るということの根幹でもあって、なんでそういうことが必要かというと(以下略)。 もちろん、シンプルに見ておもしろいのがいっぱい、っていうのが大きいのだが。

で、これが日本映画、ということになると戦時下の検閲とか家父長制下のげろげろが根こそぎたっぷり出てきて、なんだぜんぜん変わってないじゃんこの国、とか。例えば。

2022年のこの企画で『花ちりぬ』 (1938)、『夜の鳩』(1937)、『むかしの歌』 (1939)などを見てから、石田民三もっと見たいになっていた。映っているものは古い昔の情景だったり人々だったりなのに、撮り方や迫り方がとてもおもしろい。

鬪ふ男 (1940)

冒頭、当て逃げした車がざーっと逃げて、それを車で追っていくカーチェイスがあって、話はそこで逃げた男の方には行かず、そいつをぶん殴って捕まえた安吉(岡讓二)の方に行って、その顛末を横で見ていた留造(廣澤虎造)が久しぶりだなあ、って運命的な再会をして、ふたりは靴磨きをしながら一緒に暮らし始める。 そこでやくざに絡まれていた女性(花井蘭子)とその弟を守ったりしているうちに、北海道に残したまま生き別れになっている妹のことを思いだして、徴兵に出た後 - 戦争なんてなかったかのようにあっさりパスされ - 故郷に戻ってみると…(まるで西部劇のような画面構成がかっこよくて別の映画のよう)

そんな「鬪ふ男」の半生記が浪曲師になろうとしている廣澤虎造のラップみたいな唸り節と共に綴られて、廣澤(広沢)虎造(2代目)といえばマキノ雅広の『次郎長三国志』の歌い手で、あれも「鬪ふ男たち」のお話しだったねえ、とか。


男子有情 (1941)


上のに続けて見ました。

自由民権運動が活発になった明治の頃、街頭に立って民の抵抗歌「演歌」を歌って聴衆を煽ったりして日銭を稼ぐ仲良し学生3人組がいて、彼らのリーダーの島田(岡讓二)にはおなじ街角で物売りをしながら思いを寄せるしげ代(花井蘭子)がいて、島田らは勤勉で優秀で塾長からも期待されていたのに、しげ代が巻きこまれたやらしいやくざとの間で起こった殺人事件をひっかぶるかたちで島田は牢屋に入ってしまい、最後は法廷ドラマになるの。

どちらの映画でも人として正しくあれ、みたいなことが強く謳われつつも、政治や国際情勢みたいなところには一切触れない(触るべからずの)ような、なんとも微妙な目線の不均衡が感じられて、そこを地味な低声の音楽で歌ってごまかすような。ちょっと昔の、誰も文句の言えない至近距離の道徳美徳を説いて讃えてそっちに目を向けさせて、ところで日本が世界でなにをしていたか、どう見られていたか、等についてはとにかく触れない。なんかどこかで見たようなー。

2本とも、岡讓二が花井蘭子を助ける、その横で男が男を歌う熱いドラマで、うざい湿気がそんなになかったのはよかったかも。 でも石田民三は女性を描いたドラマのほうが好きかも。