9月5日、土曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。
先行上映とか偉そうに謳っているが、グローバルでみたら断トツの後行で恥ずかしいばかり。
原作はホメロスの叙事詩。監督はChristopher Nolan、脚本もChristopher Nolan(とホメロス)。撮影はHoyte van Hoytema。
全編IMAXで撮影されて、上映/再現もIMAX 70mmが最適なのだろうが、最適な上映設備を選んでしまうような映画、そういうのがあってもよいのだろうし、そうした理由についてNolan自身がいくらでも説明しているようだが、ここまでくると遊園地の世界だよね。体験至上の罠。お金は使って貰いますよって。
冒頭、吟遊詩人のようなTravis Scottがラップの強さでいいか「ストーリー」ってのはこういうもんだヤツの話をとにかく聞いてみ、ってオデュッセウスとトロイア戦争について語り始める。この調子でおらおらって最後まで行ってくれるかと思ったのだが、どこかで飲みこまれてしまったような。
王の中の王アガメムノン (Benny Safdie)によってイタカからトロイア戦争に派遣されたオデュッセウス(Matt Damon)が妻ペネロペ(Anne Hathaway)に自分が死んだら再婚するように言い残して出ていって、彼女と息子のテレマコス(Tom Holland)の館にはむさい求婚者とかよからぬ企みを持つ連中が詰めかけて毎晩飲めや歌えを延々繰り広げている。
映画はオデュッセウスが前線に立ったトロイア戦争に向かって10年、だらだらしんみり過ごしてイタカに帰還するまでの10年、計20年の旅と、その間待ち続けていたペネロペの周辺と、パパを待ちきれずに探しに出たテレマコスの3つくらいの間を時間の前後無視で行ったり来たりしていく。誰もが知るエピソードが多いのでこれがあれか、って思ったり、その辺なんも考えずに見ていてもどかーんとでっかいのが来たりするので、その辺の混乱はあまり気にならない。戦乱の世なのでどうせ混乱まみれということでよいのか。そんなふうにほぼ3時間はあっという間に過ぎてしまう。アトラクションだから。
怪物はポリュフェモスとかライストリュゴネスとか見てすぐわかるのだが、神々は女神アテナ(Zendaya)もニンフのカリュプソ(Charlize Theron)も魔女キルケ(Samantha Morton)も、人間とあまり見分けがつかない世界のすぐ横にいて、ゼウスの法が、とか言われてもそんな重く響かないし誰も聞いてない。会社の偉い人が社内規定とかコンプラについてなんか言ってるよ、くらいのかんじかも。
クライマックスはオデュッセウスが乞食に身をやつして宮殿に戻って、狡猾なアンティノオス(Robert Pattinson)などを懲らしめてペネロペとの再会を果たすシーン、なのだろうが、”Interstellar” (2014)でのふたりの逆のを思い浮かべてしまったり(とにかくぜんぜんよかったね、の感動が来ない)、そんなに盛りあがらなくて、やはりトロイの木馬とか怪物とのバトルとか、そういう戦乱あれこれを描いたアクションドラマ、に見えてしまう。
IMAXででっかく重々しく描かれるぺったんこな海の表面と、その縁でぎりぎりまでひたすら耐えて待って最後に爆心地に向かって実際にふっとんで粉になって消える兵士、という構図(例えば”Dunkirk” (2017))はNolan映画定番のスペクタクルで、でもこの地味なかんじをスペクタクルと言ってよいのかはちょっと考える。
この叙事詩は人間の愚かさとか狡さに対する戒めとしてずっとあって、シノン(Elliot Page)に対する後悔とかオデュッセウスの苦渋も多少は描かれるものの、基本的にはこいつの表に出てこない傲慢や狡猾さを、故郷に戻るとか家族との再会とかで美化してしまっていないか。冒頭の「ストーリー」賛美もその流れのなかで見ると、これって圧政者が金を撒いて進めるプロパガンダの手法と同じようなものになっていないか、と(そこまで狙っている?)
もちろん性格が悪くても頭はよさそうなNolanはこの辺を十分わかっていて、音楽は重心低めでドラマチックなところをできる限り抑えて、「本当に起こったこと」のような地続きの低空を慎重に這ってくる。 ロケ地となった西サハラの問題や外部の者(移民)への歓待など、眺めてふーんとなる箇所は結構あるかも。
でも、これらぜんぶを俯瞰して、ああ人類はこんなところまで来てしまったのか、って嘆きたいのであれば、IMAXに行くよりも今のホワイトハウスを見ればじゅうぶん、ではある。
あの日から25年。まだぜんぜん過去の事件になってくれない。あの粉塵の匂い、どんよりした通りの向こう、戦闘機の音…
9.11.2026
[film] The Odyssey (2026)
9.10.2026
[film] Reinas (2024)
9月5日、土曜日の昼、K‘sシネマで見ました。
邦題は『マイ・リトル・クイーンズ』、英語題は”Queens”。
監督はKlaudia Reynicke、脚本はKlaudia ReynickeとDiego Vegaの共作。スイス、ペルー、スペインの共同制作映画。2024年のベルリン国際映画祭の青少年向けのGeneration Kplus部門で最優秀作品賞を受賞している。
90年代初のペルーで、社会経済が落ち込んでインフラもがたがた、夜間外出禁止令が出て治安も不安定になってばかりなので、シングルマザーのElena (Jimena Lindo)は Aurora (Luana Vega)とLucia (Abril Gjurinovic)の娘ふたりを連れて国を出ることを決意し、苦労してアメリカのミネソタに職を見つけて、パスポートとか為替とか引っ越しとかの準備を進めている。 のだが、最大の難関は別れてどこにいるかもわからない - つかまることはつかまるけど - の夫で娘たちの父Carlos (Gonzalo Molina)の渡航同意書(へのサイン)が必要となることだった。
タクシー運転手らしきことをしているCarlosはお気楽で、今回のことでElenaに呼ばれてわかったサインするよ、と口では言うものの信用できなくて、彼に懐いている娘たち(タイトルの”Queens”)を車で海の方に連れだして、アメリカなんか行きたくないな、パパと一緒がいいな、の雰囲気を作ろうとする。既に恋人がいて、彼との間に妊娠の疑いが出てきた姉のAuroraは特に揺れだして、渡航前にきりきりしてきた母から逃げるように優しくてどこにでも連れていってくれる父の方を向くようになる。根がてきとーなCarlosは、Luciaに対して政府の諜報機関で仕事をしている、ってホラを吹きまくったり。そして渡航の日も近くなりサインの期限も迫ってきて親族でのお別れ会が開かれた晩に…
ファミリードラマの割と普遍的なところと、当時のペルーという土地の事情がもたらす混乱や困惑、でもどうにかしなきゃ! のはらはらがうまくミックスされたとてもきちんと作られたコメディで、すごくおもしろいのになんであまり上映されていなかったのかしら。
96年末に起こった在ペルー日本大使公邸占拠事件の前で、あの事件の後に数回ペルーのリマに仕事で行ったことがあるのだが、この画面に映された町のかんじとか、浜辺の風景とか、当時のままのような気がして、ずっと手つかずのままだったのかしら。それってよいこと… にしよう。
Ready or Not 2: Here I Come (2026)
9月2日、水曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。
↑のとジャンルはちょっと違うが、姉妹が手をとりあってひどい環境から抜けだそうとがんばるお話、というところは似ている… のかも…(こじつけ)
前作 – “Ready or Not” (2019)は見ていなくて、ここから製作に7年かかっているのだが、お話としては前作が終わった地点から始まる – 焼けただれたお屋敷を出たところに主人公のGrace (Samara Weaving)がぼろぼろの状態で座っていて、ここまででどんなことがあったのかを駆けつけた救急隊員に丁寧に説明してくれるので、だいじょうぶ。
結婚式の直後に引いたカードから始まった生贄儀式で、嫁いだ先の一家を全滅させてひとり生き残ったGraceと、それを知らされた評議会(というのがあるらしい)の若頭の双子(うちひとりがSarah Michelle Gellar)が評議会のリーダーである父(David Cronenberg ...なにやってんの?)を枕で押し殺して全権を握り、Graceの持っている指輪を奪うべく世界中から一族郎党を彼らの屋敷に召集して、新たな殺し合いが始まるの。(全体を統括する司祭が指輪繋がりのFrodo - Elijah Woodというのが実にどうでもよくて素敵)
Graceが病院に収容されたところから既に殺し屋は現れて、そこにやってきたのがずっと生き別れていた妹のFaith (Kathryn Newton)で、なにこれーとか叫んだり逃げたり戦ったりしていくのだが、ふたりともスーパーパワーがあるわけでも、ふたり揃うとなんかすごくなるわけでもなくて、妹は姉に見捨てられたことをずっと根にもっていたり小競り合いもあって、とても彼女らに生き残れる要素があるとは思えなくて、他方で襲う側も変態や異常者ばかりなので、かなり緩めでしょうもないバトルが展開されて、最後はゴキブリホイホイみたいに…
アメリカのどこかにいそうでありそうな、カルトで懲りない富裕層の所業振る舞いと、やはりどこにでもいそうな仲が良いのやら悪いのやら、の姉妹をぶつけて、ものすごく痛快なことが起こるわけでもないのだが、さくさく流れていくのがなんかよかった。
こういうのでもエンドロールぜんぶ終わるまで出ていっちゃいけないの? こんなの(っていうよりどんな映画だって)上映の途中で入って途中で出たりしても、ぜんぜんよいし、映画に失礼になるものでもない。誰かのためとかじゃなくて、見るのは自分なんだよ。映画館でもライブハウスでも、この国って、ほーんとばっかみたいになっててうんざり。
9.09.2026
[film] 近松物語 (1954)
9月1日、火曜日の晩、神保町シアターの特集 - 『没後70年 映画監督・溝口健二の世界』で見ました。
国立映画アーカイブで企画展示などもやっているが、没後70年にしては静かで地味すぎないか、と思いつつ、見たいものは何度でも見よう。 80年のときにはこの世にいないだろうし。
原作は近松門左衛門作の人形浄瑠璃『大経師昔暦』 (1715) を元に川口松太郎が書いた戯曲『おさん茂兵衛』と西鶴の『好色五人女』 (1686)の「おさん茂右衛門」、これらを合わせて依田義賢が脚本を。
遊びの金で困っている兄(田中春男)の金策依頼で主人(進藤英太郎)の妻おさん(香川京子)から相談を受けた手代のもへい(茂兵衛)(長谷川一夫)だが、意地悪な主人に直談判してもどうしようもなく、店の金をどうにかしようとしてばれそうになったところを女中のお玉(南田洋子)に救われて、それがお玉に気があった主人を逆撫でして軟禁状態となるのだが、そこから転がったあれこれで目覚めてしまったのかもへいとおさん、騒がれて余計に確信してしまったのか、不義密通の罪で追われる身となったふたりは、もう死のうと誓ったところで更に燃えあがってしまう。なのに実親も含めた世間の格子はただただ冷たくて非情でー。
どこまでも身勝手で悲惨で内向きで、あれこれ非対称な家父長制 - 男中心社会のありようと、その不条理に正面から愛をもって激突して静かに微笑んで犠牲となる女性の聖性と - 近世の物語、悲劇としてものすごくよくできていて、ああとんでもない、っていつものように痺れつつ、そんなおさんの「美しさ」もまた男性側(のシステム)が都合よく練りあげたものなんだからね、って。コンプラで追い詰められた男たちが最後にすがろうとするのもこの辺だから、気をつけなくては、とか。
それにしても香川京子のとてつもないことったら。
赤線地帯 (1956)
9月4日、金曜日の晩、神保町シアターで見ました。 英語題は”Street of Shame”。
これを最初に見たのは00年代のNYのFilm Forumで、ものすごい衝撃で、そこから3回目くらい。
これも↑のもフィルム上映で、やっぱりなんだかんだフィルムがいいなー、説明めんどくさいけど、になる。
上映前からスクリーンの脇の小部屋にある機器がぴーぴー間歇的に変なノイズを出し続けていて、上映前にシアターから謝罪があって、上映後には無料の招待券をもらったのだが、このリアルタイムノイズ、劇中の黛敏郎のぴょーんていう変な音楽と妙に調和したりしていて悪くなかったかも。
売春防止法制定前夜の社会情勢を回想などなしでまっすぐ描いた現代劇で、溝口の遺作。
吉原の特殊飲食店「夢の里」で働く三益愛子、若尾文子、木暮実千代、町田博子ら娼婦たちの姿、そこに大阪からやってきた京マチ子、新たに働きに出ようとする少女、病気の夫と息子がいたり、一人息子と一緒に暮らすことを夢見ていたり、貢いできた男に殺されかけたり、病の夫は自殺しようとしたり、ほんとにいろいろで、全体としてはこんな制度、こんな社会、こんな男たちのせいでこんなにも … なのだが、同じ酷さでも『近松物語』のように迫害される側を恣意的に持ちあげたり賛美したりするのではなく、自分たち自らが強くしぶとく、場合によってはしなやかにしたたかに悪賢く生きる、生き延びようとする女性たちの姿を叩きつけて、やれるもんならやってみ上等だおらー、くらいの啖呵を切ってみせて、誰もがかっこいいったらない。
もちろん全体としては酷い話で、「日本すごい」が大好物でたまらない人たちにとっては正視できない光景だらけなのだろうが、こんなのを制度の変わり目に、「郷愁をこめて」ぽい目線なしで、ドキュメンタリーのようにしれっと作ってしまった(感がある)溝口(そしてこれを最後に消えてしまった)はすごいな、しかない。実際に笑う人はもっと笑っていただろうし、泣く人狂う人はこんなもんじゃなく悲惨だったのだろうが、娯楽映画でも犯罪映画でもないリアルを目指したすばらしいアンサンブルドラマだと思う。
9.08.2026
[theatre] 夢去りて、オルフェ
8月30日、日曜日の午後、東京芸術劇場のウェストの方で見ました。
ロンドンで演劇を見るのがとても好きになったので、帰国してからも続けたい、って月1回は見るようにしてきたのだが、なかなかしんどい。 人気の演目はすぐに売り切れていて、ロンドンだと当日の戻りやキャンセル分をオンラインで簡単に買えたのにそれがないし、当日券がある、といってもどんな席が何枚、すらわからないからリスクを冒してまで行く気にはなれないし、なによりもなによりも肝心の劇の中味が、サイトを見ただけだとイメージとかポエムみたいのでしかわからないの! わかる人にはわかるのだろうし、それで回ってきた世界なのかもしれないが、そんなにムラを作りたいのか。小劇場の時代から何ひとつ変わってないのね。以上グチ。
というわけなので、どうしても名前を知っている作家の劇などに向かってしまう。
原作は清水邦夫の戯曲(1986)、初演も同年の紀伊國屋ホール、演出は清水邦夫、劇団は木冬社。38年ぶりの再演となるらしい今回の演出は大河内直子。
舞台の上には焼け崩れたような回転木馬の残骸があって、かつては遊園地かあったらしい。手前には萎れた草、遠くに海鳴り、夜空には月。
前口上のあと、昭和14年(1939)の冬近くの日本海側(最近、日本海側おおめ)のどこかで、北一輝はまだどこかで生きていると信じる桂木一機(大石継太)が東京で役者をしている血の繋がらない妹のぎん(朝海ひかる)を呼び出す。 大日本帝国陸軍所属の小桜大尉(佐奈宏紀)の妻夢野(平体まひろ)と一機がよからぬ仲にある、という噂がたってしまい、最悪姦通罪で引ったてられる可能性があるので、子供の頃に芝居ごっこをやったように、ひと芝居うってくれないか、というのがぎんを呼び出した理由。
一機の親友だった中原源三(加納幸和)とか夢野の家族、官警なども総動員で駆けつけてばたばたするなか、サル芝居はうまくいくかと思えたのに、静かにしていた夢野が唐突に想定外のことを言い始めて、そこに夢野のことを密かに想っていた義弟の青年将校が挟まってきて大混乱のシャレではなくなりー。
口上で語られていたように、既に崩れてとうに終わってしまった廃墟の上の、どこまで嘘でどこまで本当だったのか確かめようもない、かつて夢であったような話、であるので、どんな修羅場も、どんな悲劇も、誰のどんな妄想であれ、すべては脱線した回転木馬、風と共にどこかに、夢去りて、の上に積みあげられた、例えばこんなごたごたが。 オルフェのように一瞬で消えてしまったがその残骸はいまだにー、なのか?
舞台となった1939年から約50年後の1986年に書かれた芝居、そこから約40年後の再演(脚本は変えていないとのこと)なので、2段階でいろんなことが言えるのだろうか。バブル前夜の好況に浮かれて、全共闘は過去のものとなり、軽薄や表層が尊ばれた86年に北一輝を理想とする主人公の不倫どろどろの軽くない修羅場や殺傷沙汰を持ち出すのは、ものすごく場違いかつアナクロで、そのギャップゆえの「夢去りて」感を見せることの意義はあったのかも、と想像がついて、では、今回の再演はというと、この程度の修羅場ならリアリティドラマなどでふつうに見慣れているし、北一輝のような思想もいちコンテンツでしかなく、タイトルだってアニメのそれ?になりそうなくらいの軽さで、焼け跡も壊れた木馬も絵として映えればよし、だし - 80年代のクッションを介さなくても違和感なくふつうのドラマとして流れていってしまいそうな。
初演当時は、それでも愛を、失われたものを届かない場所と時間を経て語る、というロマンがありえた気もするのだが、いまはどうなのだろうか? 割とエモ抜きで走っていく主人公たちにどこまでついていけるのか、辺りだろうか。割とあっさり受けとめることができてしまったのだが、最近の若いひとたちがこれ見てどう思うのかは不明。
時代の段差を前提としたような劇なので、ここまで時代が隔てられてしまうと夢の効力も薄まってしまうのでは、と少し思った。Tom Stoppardの”Arcadia” (1993) のようにひとつの場所、ふたつの時代を交錯させた方が「夢去りて」のかんじは出たかも。
あと、家族–軍人-北一輝という同心円の体裁、80年代には「右傾化」で茶化していれば済んでいたあれこれが、近年はシャレにならなくなっていて、しらんぞー、しかない。 軍は簡単に去ってはくれないよ。
9.07.2026
[film] Útóipe Cheilteach (2026)
8月27日、木曜日の晩、ユーロスペースで見ました。
英語題は”Celtic Utopia”、邦題は『ケルト・ユートピア』。
上映後に監督のひとりDennis HarveyとPeter Barakanのトークと、更に現地と画面を繋いで映画にも出てきたThe DeadliansのSean Fitzgeraldが数曲歌ってくれた。
関係ないけど、Peter Barakanさんをライブで見た最後はいつだったか、Linton Kwesi Johnsonのライブ(っていつ?)以来だったのではないか。
冒頭、色褪せていていつのフィルムだかわからないが、女の子がアコーディオンを抱えて弾こうとして、でも音がでない・聞こえない? もうひとつは、道がない入り組んだ入り江に降りていったら岩の間に耳にタブのついた山羊だか羊だかの腐乱死体が挟まっていて、くっさーいー、ってなる。 どちらもなんだかとてもアイルランドなかんじがした。
ただ、この「アイルランド」についても「ケルト」についても、イメージとしてはなんとなく笛の音とか渦巻模様とか、わかるものの、もう少し具体的に、例えばケルトの文化を生きる、ってどういうことなのか、を見ようとした時、どんなものが見えてくるのか - について、現在のアイルランドのミュージシャンたちの演奏とインタビューを次々と映しながら、「こんなかんじ」のようなところを見せてくれる。
そこにはふたつの言語(ゲール語、英語)のこと、宗教対立から始まった分断と紛争の歴史、マグダレン・ランドリーでの虐待のこと、などの史実や事実があり、それでもor それ故に故郷に対する思い、ユートピア的な地に対する思いは強くあって揺るがない、というのが、インタビューや音楽を通して見えてくることで、そこに自分自身が聴いてきたアイルランドの音楽とか、現地に行って触れてきたアイルランドの食べ物とか街角とかいろんな文化の様子とかが重なって、やっぱりアイルランドいいなー、になる。この「いいなー」、は例えばフランスやイタリアに対するそれとははっきりと異なるやつで。
ただ単純で楽観的なアイルランド万歳! にはなっていないところがよくて、インタビュー対象となった若いミュージシャンたちの考えや見えているものも含めると、ぼろぼろでどうにかここまで来たし、わからないことだらけだけど、ここまで来れたんだから、あとは酒と歌があればどうにか、くらいかも、という平熱感。 単純なユートピアを目指すんだ!でも アイルランドはユートピアだ!でもなく、またケルトとは、ケルトであることとは?もはっきりと示されない(示しようがない)まま、子供の頃から歌い伝われてきたような歌をうたう、歌うこととは、等について、政治家でも歴史家でも批評家でもなく、若いミュージシャンたちが自分の言葉でぼそぼそ語ろうとする。 そういう中から光として現れたKneecapとかFontaines D.C.がそもそも抱えこんでいる豊かさ、分厚さについて。
まったく事情も背景も異なるとは言え、自分の国についても振り返ってしまう。そもそも他の国のことを眺めていられる余裕あるのか?はあるけど。 余裕とかじゃなくて、過去・歴史との向き合い方、文化の複雑さや分断に対する目線、接し方、等も含めて、学ぶべきところは多いし。 政治と音楽は別、なーんて幼稚でお子様な言い草だろうか、って思ってしまうし。(もうほぼ諦め)
登場したミュージシャンのなかで見たことがあったのはバルセロナのPrimaveraで見たLankumくらいだったが、Lankum、すごくよい意味でモダンでよかったの。
映画のなかで何度か言及されていたマグダレン・ランドリーについては、“The Magdalene Sisters” (2002)が有名だが、最近のドキュメンタリーではAoife Kelleher監督による“Testimony” (2025)がすばらしくよかったので、公開されてほしい。まだ生存している当事者たちの証言をいかに歴史のなかに刻む、刻みうるのか、という国境を越えた試み、そのなかで改めて露わにされる彼女たちの痛みについて。
[film] The Dog Stars (2026)
8月31日、月曜日の晩、Tohoシネマズ日本橋で見ました。
監督はRidley Scott、Peter Hellerによる同名小説 (2012)を原作にMark L. Smithが脚色して、撮影はErik Messerschmidt。主人公はラストサバイバーでもなんでもないのだが邦題は、『ラスト・サバイバー』。
2035年、グローバルパンデミックで人類の殆どがやられてしまったらしいアメリカのコロラドの山奥の元飛行場だったようなところで元整備工だったHig (Jacob Elordi)と犬のJasperはセスナに乗って誰もいない街まで飛んでいって生活の必要物質をかき集めたり、かつて住んでいたところに行って亡くなった妻の幽霊と会ったり、Mennonitesのコミュニティに物質を届けたり、を淡々をやっていて、住処に戻ると主人公とどういう関係かは不明だが元軍人らしいBangley (Josh Brolin)がいる。
飛行中にGrand Junctionからの無線信号のようなものを受け取ったHigはそこに行ってみたい、というのだがBangleyは反対で、そうしているうちに敷地に侵入してきた連中によってJasperは殺されてしまい、悲しくてやけくそになったHigは止めるBangleyを振り切ってGrand Junctionへと向かう。
のだが途中で飛行機が壊れてPops (Guy Pearce)とCima (Margaret Qualley)の親子が暮らす農場に落ちて、最初は警戒されながら彼らと、特にCimaとは少しずつ仲良くなっていくのだがそこも襲撃されたので、どうにか修理が間に合った飛行機で3人で憧れのGrand Junctionに向かって、だがしかしそこも組織された変態の巣窟なのだった… (ここでAliensが出てくるかと思ったのに)
出てくる人たちが全員見事に(白系)犬顔でタイトルも「犬星たち」なのでしょうがないのだろうが、全員が犬的な温もりを求めている & 襲ってくる方も全て狂犬 - のようで、予告でかかっていたブラピの新作もそれっぽいかんじだったし、なんなの? ポストアポカリプスには犬がいないと生きていけないの? みんなそんなの見たいの?
映画のなかでは、外見はともかく俺はぜったい外には行かないって踏みとどまったBangleyだけが猫か。
猫と一緒に滅びるのを待つ(だけの)映画を見たい。
Ridley Scott、こんなに緩いやつでいいの?
Shelter (2026)
9月3日、木曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。 邦題は『シェルター』。
監督はRic Roman Waugh、Jason Statham自身がプロデュースに参加している。
こちらも犬系のアクションだが、いまのこの時期、イギリス任侠B級(ハゲ)映画としてGuy Ritchieの新作とこれがかかっていて、どうしようかなー、でこっちにした。なんとなく。
スコットランドの孤島のもう使われていない灯台の根本の小屋にMason (Jason Statham)とわんわんがひっそり隠れるように暮らしていて、たまに少女Jessie (Bodhi Rae Breathnach)とそのおじさんが小さい船でやってきて食料などを置きにくるのだが彼はずーっと喋らず無愛想の隠者のようで、でも嵐の日に彼らの船がやられてJessieだけを助けることができて、怪我をして孤児になった彼女の面倒を見ることになるのだが、対岸に薬を買いに出たところで町の監視カメラに映った彼の顔からアラートが出て、MI6の強硬派でトップから後ろに退いたManafort (Bill Nighy)が、こいつは… って近くにいた腕のよい刺客を送るとか、Masonを殺しにエージェントとか一連隊を送ったり越権で勝手にやりだして、なんかおかしいぞって気付いたMI6のRoberta (Naomi Ackie)が調べてみたらMasonはMI6のエージェントの中でも過去最強のやばいやつだった、と。
出だしは結構スローで島に留まり、また犬が亡くなったりしてだいじょうぶかな?なのだが、基本はなんだこのハゲどいてろ、って言われたStathamが実はとんでもない狂犬で返り討ちにあってぼろぼろ、のいつものパターン(少女とか弱いやつには弱くて、強いやつには強い)は不変で、Jessieを守ったり彼女に怒られたりしながら車でロンドンまで行って、Jessieの安全を確保したナイトクラブでManafort の刺客エージェント全員撃ち殺したってぜんぜんへっちゃらで、最後にはManafortと向かいあう。
最後にStathamとBill Nighyが正面から激突(銃撃よりは肉弾で)してくれたら最高だったのになー。
9.06.2026
[film] Violette Nozière (1978)
8月30日、日曜日の昼、恵比寿ガーデンシネマで見ました。
『クロード・シャフロル傑作選 vol.2』として上映される3本のうちのひとつ。傑作選のvol.1は見れていないのだが、とにかく見る。邦題は『ヴィオレット・ノジエール』。Isabelle Huppertはこの作品でカンヌの女優賞を獲っている。こんなのが、これまで日本未公開だったの?
監督はClaude Chabrol 、撮影はJean Rabier、音楽はPierre Jansen、スタッフの名前をいくら並べてもこの映画全体を覆うみっしりとしたプロダクションの濃さ固さは説明できない気がする。 1930年代パリのあのアパート、ホテル、くしゃくしゃしたベッド、それらが目の前にあって、それは「再現」とか「体感」なんてレベルではなくそこに、ただ目の前にあるのを撮っているような。 タイパとかコスパとか「世界線」とか、バカのひとつ覚えのように唱える「関係者」どもを2時間映画館の暗闇に閉じこめてやりたくなるが、連中にはもったいなさすぎか、って。
実在した女性 - Violette Nozière (1915-1966)が実際に起こした犯罪を元に、どんなふうに事件が起こったのかを追っていく。なんで、どうして彼女が、は台詞等も含めて一切説明されないが、見ていれば経緯と連関はぜんぶ見えてきて、そうして画面上に示されたものが説明してくれるかというと、やれるもんならいくらでもどうぞと、そういう角度からの澄んで醒めた見通しのよさがある。謎のようなものはひとつもない。
10代のViolette Nozière (Isabelle Huppert)は売春をして小銭を稼いで、仕事仲間も顧客もお気に入りの学生もいて、きちきちに狭そうなアパートに帰ると列車の機関士をしている父Baptiste (Jean Carmet)と母Germaine (Stéphane Audran)がいて、ふたりの仲は悪くなさそうだが、どちらもVioletteには厳しく鬱陶しそうで、でもVioletteの実の父はBaptisteではないことを母と娘は共有していて、なのでVioletteは金がありそうな実父のところにたかりに行ったり、それに加えてアパートの金が隠してあるところからしょっちゅうくすねたりやりたい放題なのだが、医者からは梅毒がやばいところまで来ている、と言われて、自分は処女なのでこれは遺伝であんたたちから来たのだ、と薬(毒)を盛ってあっさり殺してしまう。
こういうお話にひっついてきそうな苦労や苦渋や愛憎など、こんなわたしに誰がしたなど、べたべたした湿気や目線を一切排除して、アパートとホテルとカフェの描写と行き来と簡単な会話のやり取り、親の娘に対する干渉の具合とそれに対する反応などで、どの辺に向かうどんな話なのか - 少なくともメロドラマとは違うし、サスペンスのように何かに抗うわけでもないし - はわかってしまう。Violette Nozièreはこんなことをしました。というのだけで、これだけのものができてしまう驚異。
運転する列車から元気よく手を振る父の思い出も何度か出てくるが、それでも揺るがない、というか吹っ切る、断ち切るための小道具のように浮かんできて、決まっていたことをやるだけ、のような。
それにしても、今から振り返ればなんの違和感もなくいつもの当たり前の彼女、としか言いようがないのだが、Isabelle Huppertの鉄面の、ちょっと歪んで、微笑んでいるのか怒っているのかの口元と、すべてをばちばちにはね返してしまう目の強さはとうにあって、Huppert = Nozièreの映画、それ以上でもそれ以下でもないの。