9月18日、金曜日の晩、Donmar Warehouse で見ました。
チケットはこっちに来てから複数の舞台(どれも既に売り切れている)の状態を時間をあけてチェックしつつ諦めたり絞りこんだり、の繰り返しのなか、これは前日の晩に飛び降りるようにして取った。Donmarでやる演目はだいたい外れないから。
原作はツルゲーネフの戯曲(1855/1872)、翻案はBrian Friel、演出はLyndsey Turnerand。
舞台の上にはでっかい水槽のようにガラスで囲われた箱 - 家? があり、その内側は樹が生い茂っているのか葉っぱがびっしり覆って奥に光はありそうだがうちがはまったく見えなくて、客電が落ちてそのガラス檻が上にあがる直前、主人公の主婦Natalya (Sophie Okonedo) が苦しそうに水槽のガラスに顔を押し当てるのが一瞬見える。
17歳の養女Vera (Rachelle Diedericks)の家庭教師として住み込みでやってきた純朴な好青年 Aleksey (Patrick Gibson) と、その反対にある田舎の、田舎としか言いようのない周囲の言葉や態度にうんざり飽き飽き窒息しそうになっているNatalyaの、誰がみても人のよい - 実際悪いところが見当たらない夫Arkady (Thomas Arnold)との生活に不足不満があるわけでもなく、カード遊びばかりしている姑Anna (Susan Brown)がうっとおしくて嫌で、というわけでもないのに、自分でもなんでそんなことを、の行動や言動が飛びだして、自分はあんなにも若いAleksey を好きになってしまったどうしよう… の顛末、その表情を追っていく。 使用人たちも含めた人物の配置や彼らの珍妙な会話や行動がところどころ絶妙におかしくて、そういうショートコントの重ね合わせのなかから、なんで自分はこんなところで… の焦りと苛立ちが搾りだされ、どこかから降ってきたようなAlekseyへの思いに対する戸惑いがあり、Alekseyもまじめにそれを打ち返してくるもんだからメロドラマの渦がまわりだす。
ちゃぶ台がひっくり返されたり、誰かが刺されたり自殺したり、のおおごとはなくて、建て付けはちょっと疲れているどこにでもいそうな大家族の中間層である主婦の日常を貫いた - 半ば妄想も込みの脱出願望 or 破壊衝動を起点としたクラシックで切ない恋のお話しなのだが、夫Arkadyとのそれまで見えなかったような段差とか、どちら側も恋仇になるなんて思いもしなかったVeraとの衝突とか、なんで? これが? 自分に? おこる? という幾重もの惑いのなかで、ところどころコミカルだったりほろ苦かったりのなんか切ない、という思い。これが19世紀半ばのロシアの演劇界にもたらした波紋 - 数ヶ月間上演できなかった - とか、この後に登場するチェーホフに与えたであろう影響はよくわかる。いま見てもこんなにもおもしろいのだし。
真ん中ですべてをきりきりと仕切っていくNatalya役のSophie Okonedoの表情 - 基本は鉄の無表情で、苦々しいなにかをとにかく飲みこんで吹っ切ってタスクをこなそうとする強さがところどころ何かとせめぎ合って、それが続いていくのでもうなんでもいいや、って疲れていく彼女の存在感がすばらしいの。成瀬の映画に必ずでてきそうな女性たち← 雑すぎ。
こういう題材の映画、昔から好きではあるのだが、演劇の舞台で演じられるとライブ感がたまらないなあ、と思った。床をどんどんどつきながら「ストーリーを!」とか吠えるようなのとは別の。
今回の滞在は、前に住んでいたフラットと同じ駅のところにしたのだが、劇が終わって劇場から帰るのにあまりにすたすたふつうに歩いて帰れてしまい、もう少し懐かしがるべきではないか、と少し反省したり。
9.24.2026
[thatre] A Month in the Country
[theatre] Electra / Persona
9月17日の木曜日から夏休みを取ってイギリスに行って、24日、木曜日の朝に戻ってきた。
6日間で演劇5本、映画4本、ライブ1本、美術館いっぱい。疲れて放心状態だが置いておくと端から消えていってしまうので書けるのから書いていきたい。
始まりはまだイギリスにいた頃で帰国が決まっていたんだかいなかったんだか、St. Etienneのフェアウェル・ツアーが発表されて、グラスゴーのライブのサポートがThe Pastelsだったので、グラスゴー行ってなかったしPastelsも見てなかったなー、と軽い気持ちでチケットを取って、その後に帰国が決まって、ちょうど日本はこの時連休だから休暇で戻ってくればよいのではないか、って円安がひどくなりそうだったので飛行機も押さえて、そしたらNational Theatreの演目でこれが発表になったのでついでに押さえて、身動き取れない状態に追い込んでいったのだが、そんなのではまだまだ甘かったことを後でしる。
(同じようにチケットを取ってしまっていて諦めざるを得ないやつに10月のCabaret Voltaire とかもあるの)
決めてからもグラスゴーはライブが終わった後に日帰りできるわけないので現地の宿を確保して、電車で行けると思っていたらその日曜日には電車がないので飛行機を手配することになり、そういうのが好きで得意な人ではないので、これはなんかの呪いだ、とかぶつぶつ言っているともう当日になっている。
飛行機がヒースローに着陸したのが17日の15:30、地下鉄を乗りついでホテルに入ったのが17:30、身支度整えて地下鉄でNational Theatreに向かって着いたのが18:10 - ここの本屋にはおもしろいのがいろいろあるのでざーっと見て買って、席についたのが、18:25。 開演は18:30、休憩なしで2時間。 飛行機が30分遅れたらアウトだった…
舞台は白木の段々が上に伸びていく様式で、真ん中にキラキラ輝くハンマー(ふつうのサイズの)が置いてある。
翻案・演出はBenedict Andrews。主演はCate BlanchettとNina Hoss。二本立て?で、”Electra”は演劇の定番 - ソフォクレスの悲劇、”Persona”はIngmar Bergmanの1966年の映画で、”Electra”を舞台で上演していて突然喋れなくなってしまった女優Elisabethと彼女を看る看護婦のAlmaのお話。古代劇と現代(心理)劇はどこでどんなふうに接続しうるのか、だけでなく、劇のありよう(古代と現代、映画と演劇)の対称性も視野に入ってきて、風呂敷はややでっかいかも。
開演時間になると最前列に座っていたCateとNinaが立ち上がって客席の方を向き、コイントスでどっちがどっちを演じるか決める、と。結果、この晩はElectra / ElizabethをNina Hossが、Electraの母Clytemnestra / Alma をCate Blanchettが演じることになった。(この配役がものすごくはまっていたので、最初から決まっているのでは、逆の組み合わせなんて用意されていないのでは、と少しだけ)
階段ステージに上がる時はシンプルな黒のシャツとジャージ姿で、どの登場人物も舞台の下に置いてあるバケツの白い顔料を自分の顔に塗りたくってから階段のステージを上がって、Electraは真ん中に置いてあるハンマーを手にすると、それを振り回しながら父の死に対する、そして父Agamemnonを殺した高慢な母Clytemnestraに対する怒りをぶちまけ続けて、母は貫禄でのろのろかわし続けて、そこに無垢な妹のChrysothemis (Ella Lily Hyland)が絡んで。
ふたつの劇の合間 - 本来休憩が入りそうなところは、掃除する人たちが殺されたAegisthus (Patrick Robinson)の血をモップでぬぐったり階段を掃除して、女優たちは階段のところどころで勝手に座ってメイクをし直して、何事もなかったかのように次の”Persona”が始まる。
“Electra”で怒りと共にあらゆる言葉をぶちまけ当たり散らしていたElectraはElisabethとなって沈黙と自閉のなかにあり、それを看護するAlmaは、先ほどの邪悪な役柄から離れて一見穏やかで優しく、そうしながらライブカメラ(映像はモノクロ)を持ち出して降りてきた小スクリーンに客席の我々の顔、彼女の、自分たちふたりの顔を投影していって、映画の浜辺の場面は舞台裏に消えたふたり、として表現される。
ベルイマンの映画にあったようなふたつの自我の融合 〜 ペルソナへの回帰(らしきもの)はここでも起こるのだが、映画のように強烈な印象を与えることはない。Electra を演じていたElizabethはなぜ沈黙のなかに籠ってしまったのか? なぜライブカメラなのか? Almaのやったことによって、なぜElizabethは治ったと言えるのか、これらの問いに明確な答えが用意されることはない。
これは演劇であり、演劇は舞台の上で、ライブで起こるイベントである、ということを明確に意識し、そこから始まってテーマ(問い)を置いていくというやり方。なので、なんとなくそうなのかも、くらいの答えを自分で見つけるしかないかも。ベルイマンの映画を見ていない人にはどう映るのだろう、とか。
ただ、ふたりの女優 - Cate BlanchettとNina Hoss - がライブでぶつかりあう演技、その迫力はすばらしかったのでそれだけでもー。
9.16.2026
[film] Mirakelet i Gullspång (2023)
9月10日、木曜日の晩、シネマート新宿で見ました。
ドキュメンタリーで、英語題は”The Gullspång Miracle”、邦題は『グルスポングの奇跡』。
作・監督はMaria Fredriksson、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク合作映画。2023年のTribeca Film Festivalでプレミアされている。
ノルウェー北部に暮らす老婦人のMayがスウェーデン南部のグルスポングに暮らす妹のKariを訪ねていて、長期滞在者向けのアパートを探している場面が冒頭、彼女が見にいった家にかけてあった果物の静物画を見て、こういう絵が欲しかったのよ! ってこの場所に決めて、家主(?)のOlaugに会ったらびっくり。彼女は1988年に自殺した彼女たちの姉、Astrid – 愛称”Lita”に瓜二つで、誕生日もOlaugと同じ年の同じ日で、彼女も若い頃はLitaと呼ばれていた、と。
MayとKariが調査を進めてみると、Litaは実は双子で、更に家族に突っこんだ聞き込みをしてみると、当時ノルウェーに侵攻してきたナチスに人体実験のため誘拐される恐れがあったのでOlaugだけを家族から引き離したことがわかり、更にDNA検査をするとOlaugとLitaはMariとKariの姉妹とは異母姉妹であることがわかって、Olaugは先祖代々の家族が暮らす農場に行って、自分がこれまで知らなかった沢山の親族と会う。全員とても信心深くて、よい人たちっぽい。
ここまでは、TVにもありそうな感動再会ファミリーヒストリーとして見ていけて、大変だったんだなー、なのだが、その先、自殺だったはずのLitaの死因が警察の記録と検視報告では心不全だったこと、更にその場所が人里離れた田舎の湖畔だったことがわかる(そういう場所まで行って自殺、ならわかるけど)。敬虔なキリスト教徒である姉妹は死因が自殺でないのがわかっただけでもよかった、って安堵するのだが、かつて軍の中尉まで昇進して、あの人たちとは知的レベルが違うのよ、と自分でいうOlaugは、これは他殺だ、Litaは殺されたのだ、と主張し、Litaが亡くなった晩に彼女と車を目撃した近隣の人の証言や、Litaに3種の保険がかけられていたこと、いかにも怪しいLitaの前夫のインタビュー等も被されると、ここから先、Mayたち家族とOlaugの仲は急速に悪化していって。 とどめを刺すように2回目のDNAテストの結果として、Olaugと姉妹たち、Litaの娘とは血縁関係がある可能性は殆どない、と出て… (監督もお手あげ)。
互いが互いを憎みあうところまで来てしまったので(Mayたちは縁を切りたかったOlaugが検査結果を改竄したのだ、とまで言う)、最後はもう二度と会わないわさよならー、で終わって、表面上は元に戻るようなのだが。
他人の家族、の話だし、かわいそうなLitaを除けば誰かが嘘をついている、明らかに邪悪な人がいる、というわけでもなさそうなので、映画はそのままあっさり終わってしまう。 フィクションであれば、北欧の大家族、その底に渦を巻いた陰謀と憎悪の顛末を凍てつく湖の景色と共に描けたのだろうなー、とか夢想しつつ、そういうネタの在処が暴かれた、というか、そんなようなネタはこんなふうに表向き奇跡みたいな顔をして眠っているものなのかも、と思ったりした。
あと、ドキュメンタリーにしては全員の顔とかツブが揃いすぎている気がしたので、そのままOlaugを探偵役にしてミステリー仕立てのドラマにしちゃえばおもしろくなったのに(シャレにならず)。
あと、同じようなことが自分の身内に起こったら、結構嫌なかんじになるかも。 猫とかフグとかの話のほうがいいかも。
明日から夏休みをとって少しいなくなります。
9.15.2026
[film] 25 Cats from Qatar (2025)
9月7日、月曜日の晩、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。
ドキュメンタリーで、邦題は『猫たちと7000マイルの旅』。監督はMye Hoang。
カタールの町には人口100万人と同じくらいの数の捨て猫がいて街中に溢れている。異国から働きに来た人たちが帰国する際にそのまま捨てていったりするからだと(怒)。
最初は夜中に、そうやって道路際に捨てられている野良猫たちのご飯とか病のケアをして、場合によっては医者に連れていったりしているおじさん、その他ボランティアの人たちの日常が描かれる。
そこからアメリカのミルウォーキーで猫カフェを経営しているKaty(元CA)の活動が紹介される。彼女は地元の猫カフェに猫を集めて紹介しながら猫の里親も募っていて、今回はカタールに飛んで、現地の猫25匹を連れ帰ろうと冒頭のおじさんたちに連絡を取って、カゴなどを揃えて - 手続きとか気が遠くなるくらいに大変そう - いくぜ! って飛んでいく。
現地に着いてからは、いろんな人たちと猫たちに会って、連れ帰る候補猫を選んでいくのだが、健康でかわいいの、というよりは大きな傷があったり片目だったり脚がなかったり、の猫たちを拾うように集めていく。ぼろぼろでも人が好きな子、とか。フライトで病が悪化しそうな子は外すのだが、本当に様々なぼろ猫が揃っていて、痛くない? 辛くない? とか思いつつも猫好きなので見ているだけで。
結局運ぶ猫の数は28匹くらいになって、飛行機での移動もこれまた大変で(シカゴでワンストップ – 乗り継ぎ)、でもどうにかミルウォーキーまでたどり着いて、猫たちは元気で、このこは… と思った猫はやはりあっという間に里親が見つかったりする。よかったね。
猫ってなんでこんなぼろぼろになってしまってもかわいいのだろうー、っていう猫好きは見て損はないけど、同時に、彼女が救うことができる猫なんてほんのひと握りだし、なんで捨てるのか世話できないなら飼うな、の怒りも結構わいてきたり、アップダウンが激しかった。
GUN FISH あなたの知らないフグの世界 (2026)
9月11日、金曜日の晩、テアトル新宿で見ました。
これもドキュメンタリーで、猫とおなじく、かわいかったりおいしかったりで死に至るかもしれないのに死んでもいいや、ってやめられない動物を相手に、それに憑りつかれたしょうもない人間たちを描く。
フグって、”pufferfish”(英語字幕ではこれ)とか”blowfish”だと思っていたのだが、ここでは”GUN FISH”で、要は命中したら死ぬから、って。
ものすごくきちんと作ってあるドキュメンタリーで、フグの調理師免許取得を目指す若い女性ふたりの奮闘を通して、なんで免許が必要なのか→毒があってふつうに食べたら死ぬから→毒と向き合ってきたこれまでの歴史とか、地域ごとの調理法などの幅と広がりまで、とても勉強になることがいっぱい。
フグって財界人とか偉い大物とか自民党などが、密談のようなことをするために料亭に入って、だいじなことを決める際に供される(場合によってはその毒で..)、という重いイメージ(GUN)があり、ふつうの人が簡単に食卓に並べて食べれるものではないし、調理法も刺身とか鍋とか皮とかいろいろあって面倒そうだし、そもそもの話として、これは何なのか? なんで当たったら簡単に死ぬようなものを歓待の場で重宝して用いるのか? そもそもそんなの食うなよ、ではないのか? と思いつつ、たぶん自分はフグの本当のおいしさ、底の深さを知らないのだろう、ってなって、これってものすごく境界のくっきりした、境界を際立たせる形で機能するひとつの文化のありようなのだろう、と思った。
養殖のフグには毒がない可能性がある、と科学者が検証を進めて、毒なしフグのリリースに向かおうとしたところで湧いてくる反対の声とか、どこかでいくらでも見てきたような。 これもまた日本の風景だよね。(ほめてない)
というように、ところどころとても男臭くヤニ臭くどす黒くて、これはこれで見事に日本文化を語っているように思った。ウナギやクジラも同じ世界なのだろうか。動物はちっとも悪くないのにね。
9.14.2026
[film] La cérémonie (1995)
9月6日、日曜日の夕方、恵比寿ガーデンシネマのクロード・シャブロル傑作選で見ました。
英語題は”The Ceremony”、邦題は『沈黙の女』と、webでは『ロウフィールド館の惨劇』ていうのも出てくる(どちらもなんか違う)。
原作はイギリスのRuth Rendellによる小説”Judgement in Stone” (1977) – これの翻訳タイトルが『ロウフィールド館の惨劇』なのね - をChabrolとCaroline Eliacheffが脚色している。この原作からは映画化がふたつ出て、ひとつはこれ、最初の映画化は1986年にRita Tushingham主演で”A Judgement in Stone”のタイトルで。 あと、1992年にはイギリスでミュージカルになっているらしい。
おとなしそうなSophie (Sandrine Bonnaire)が画廊を経営するCatherine Lelièvre (Jacqueline Bisset)と面接してブルターニュの田舎にある彼女の邸宅にメイドとして雇われる。 田舎のお屋敷には主人のGeorges (Jean-Pierre Cassel)と、Catherineの前夫との間の息子Gilles (Valentin Merlet)とGeorgesの前妻との間の娘で大学生のMélinda (Virginie Ledoyen)がいて、Catherineが忙しくて家事が大変だし、推薦状も問題なさそうだったので住みこみで来てもらうことになる。
家族は全員ふつうのよい人たちからなるよい家族ぽくて、Sophieの仕事ぶり、特に料理にはみんな満足しているようだったが、近くの町の郵便局員Jeanne (Isabelle Huppert)に対しては一家向けの郵便物を故意に汚した疑惑があったり、過去には無罪になったものの実娘の事故死の容疑者とされていたり、なによりも無礼だし、って顰蹙で、そんなJeanneはSophieに近づいていって、一緒に教会の慈善活動(バザー)に行ったりして仲良くなっていく。 その反対側で一家から毛嫌いされているJeanneとの付き合いは雇い主とSophieの間に溝をつくって、孤立した彼女はひとり自室でTVを見ることが多くなっていく。
Sophieは文字の読み書きができなくて、でも一家には目が悪いから(メガネを買う)、ということにしていたのだが、BFの子を妊娠して揺れて近寄ってきたMélindaとのやりとりでそれがばれちゃって、その報復に彼女の電話を盗み聞きして妊娠をネタに(読み書きの件を)黙っているように脅したら逆に父親に泣きつかれて、一発で解雇、一週間でここから出ていくように通告されてしまう。
教会の方でもバザーの品物回収でふたりの態度があまりにひどい(こんなゴミばかり出してくるんじゃねーよ、って投げ返す)ので教会から出入り禁止を言い渡されて、いよいよ行き場のなくなったふたりは、引き払うSophieの荷物をまとめている時にGeorgesの猟銃を発見して…
1933年に雇い主の妻と娘を惨殺したフランス人メイドの実話があり、それをもとにしたJean Genetの戯曲 “The Maid” (1947) – この演劇はロンドンでみた – もあったりするので、ネタとしてはフィクションでもノンフィクションでも人気のものなのかもしれないのだが、原作の方に少しはあったであろう復讐のやったれ!な押していくかんじは殆どなくて、あらゆる温かいものを撥ねのける冬の旅のSophie - Sandrine Bonnaireと、あらゆる攻撃をそのまま反射で打ち返すJeanne - Isabelle Huppertの組合せ、ふたりの間には絆のようなものも希薄、というか必要としていないし、なので結末もどん詰まりで明るく楽しいものではなくて、でもそれがつまんなさに繋がっているかというとそんなことは全くなくて、Sophieはあのまま”Vagabond”になっていったのだろうな、とか。
オペラ”Don Giovanni”ががんがん流れる中での殺戮って、スコセッシあたりが演出したら随分違ったものになったろうなー、と思いつつ、こちらのあっけない切り捨て方も悪くないかも、と思った。
[film] Backrooms (2026)
9月6日、日曜日の昼、池袋のグランドシネマサンシャインのDolby-Atmosのシアターで見ました。
前日にみた”The Odyssey”と共に今年を代表する作品たちであるのかどうか、など。
監督はYouTuberだったKane Parsons、これが長編映画デビューで低予算で大ヒットした(やっぱり)A24の。
ホラー、というふれ込みだったが表面だけだとぜんぜん怖さはなくて思弁SFのようなものとして入ってくるのかも。画面は意図的に30年前のビデオ映像の粗い画質と当時のアメリカのオフィスの滅入るようなのっぺりした薄黄色系で統一されていて、怪物やバイオレンス、血だまりの欠片やその気配はごく僅か - 音だけが全方位で圧してくるAtmosなので余計に、かもしれないが - 壁や通路を見つめて考えざるを得ない、という。
90年代の頭 - の日付が入ったビデオ映像が冒頭に流れるので、現代から90年代を振り返るようなお話? かと思ったらずっと90年代のままで推移していく - アメリカ西海岸の郊外で”Captain Clark’s Ottoman Empire”という格安家具店を経営しているClark (Chiwetel Ejiofor) は元建築家だが失敗して妻とも離婚して、お店の家具で寝泊まりしている自分に絶望して、セラピストのMary (Renate Reinsve)のところに通ったりしているのだが、怪しい自己啓発ビデオを出している彼女自身が相当いろいろ抱えていそうな。
郊外のぶっとんだ家具屋、というと”Punch-Drunk Love” (2002)でPhilip Seymour Hoffmanがやっていた役とか、半壊したセラピストというと、間もなく最低の邦題で”If I Had Legs I'd Kick You” (2025)がリリースされるRose Byrneを思い起こしたりするので、ぜったいになんか起こりそうなことは確か。
家具屋の調子のよくない電気系統を見にきた電気屋が、変なふうに取り付けられたブレーカーを見つけて、夜間に室内の明かりが妙な動作をしだしたのでClarkが調べていると、ドアもなにもない壁に光の輪郭が瞬いていて、そこを押したら壁の向こう側に行けてしまう。壁の向こう側には延々と続く空間 - 標識が裏返っていたり椅子が半分埋まっていたり下に抜けていたり、できそこないのモダンアートのような不気味なBackroomsのネットワークがあって、そこから元のオフィス/家具屋/住処に戻れることを確認したClarkは熱中してそことの行き来を繰り返して地図を作って、仕事場の社員ふたりを呼び出してビデオで撮ってみようとする。
彼らがビデオを持って入った先から展開される映像と顛末は”The Blair Witch Project” (1999) - 見たことないけど - の世界のようになってびくびくなのだが、そこにあったもの、なのか見出されたもの、なのか、これらの異物にMaryと、更にはAsync Research Instituteなる怪しい機関の科学者らしきPhil (Mark Duplss)が絡んで、フランシス・ベーコンの身体とか、なんでこんなことになってしまったのか、この先なにが起こるのか、等が続編以降で語られていく? のだろうか。
日本のオフィスビルはそもそも小さいのでそんなかんじはないのかもしれないが、アメリカの郊外の箱として深く考えずにでーんと建てられただけ、のような建物(箱)のだだっ広いばかりで奥に広がっていくバックルームの深い意味があるとは思えない配置とか広さとか殺伐さって、なんで? どうして? と陰謀めいた何かを想起させないわけにはいかなくて、そこに目をつけたのはうまいかも。例えばDavid Lynchだとどうしてもヒトの脳奥の病理や妄執に向かいそうなところを、空間の方になんかした? 起こった? って問うて、その返事の返し方が変だぞ、とか。
あと、80年代の終わりから90年代ってインターネットの登場でオフィス内の配線とかサーバー用の部屋の確保とかレイアウトを抜本的に見直すことが割とあって、北中南米の古めのビルでそれをやると、これなに? みたいな器具とか機械が発掘されて、そのまま棄ててなんか起こったらやなので放置、みたいなのばかりだったのを思い出したり。
もういっこは、オフィスの延長(書庫スペース廃棄)のような流れでクラウド等が登場して仮想でマルチのBackspaceが立ちあがって、これらが相当に入り組んで同期異常などが起こると例えばー。
でも、Clarkが壁をぬるりと抜けて向こう側にいく描写だけちょっとなー。あくまで即物的な行き来の世界のなかでしかありえない、とんでもないことを表現してほしかったかも。 向こう側に行った後はあれでよいけど。
既にいろんな人が言っているのだろうが、”The Odyssey”は神々の世界のBackroomsに迷いこんで20年間彷徨って還ってきた昔の人類のお話、だとか、少し前の”The End of Oak Street” (2026)もこれだろう、とか。
でも映画ってそもそも、単層的なBackroomsを繋いでそれらしく見せる詐術として発展してきたものよね?
9.11.2026
[film] The Odyssey (2026)
9月5日、土曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。
先行上映とか偉そうに謳っているが、グローバルでみたら断トツの後行で恥ずかしいばかり。
原作はホメロスの叙事詩。監督はChristopher Nolan、脚本もChristopher Nolan(とホメロス)。撮影はHoyte van Hoytema。
全編IMAXで撮影されて、上映/再現もIMAX 70mmが最適なのだろうが、最適な上映設備を選んでしまうような映画、そういうのがあってもよいのだろうし、そうした理由についてNolan自身がいくらでも説明しているようだが、ここまでくると遊園地の世界だよね。体験至上の罠。お金は使って貰いますよって。
冒頭、吟遊詩人のようなTravis Scottがラップの強さでいいか「ストーリー」ってのはこういうもんだヤツの話をとにかく聞いてみ、ってオデュッセウスとトロイア戦争について語り始める。この調子でおらおらって最後まで行ってくれるかと思ったのだが、どこかで飲みこまれてしまったような。
王の中の王アガメムノン (Benny Safdie)によってイタカからトロイア戦争に派遣されたオデュッセウス(Matt Damon)が妻ペネロペ(Anne Hathaway)に自分が死んだら再婚するように言い残して出ていって、彼女と息子のテレマコス(Tom Holland)の館にはむさい求婚者とかよからぬ企みを持つ連中が詰めかけて毎晩飲めや歌えを延々繰り広げている。
映画はオデュッセウスが前線に立ったトロイア戦争に向かって10年、だらだらしんみり過ごしてイタカに帰還するまでの10年、計20年の旅と、その間待ち続けていたペネロペの周辺と、パパを待ちきれずに探しに出たテレマコスの3つくらいの間を時間の前後無視で行ったり来たりしていく。誰もが知るエピソードが多いのでこれがあれか、って思ったり、その辺なんも考えずに見ていてもどかーんとでっかいのが来たりするので、その辺の混乱はあまり気にならない。戦乱の世なのでどうせ混乱まみれということでよいのか。そんなふうにほぼ3時間はあっという間に過ぎてしまう。アトラクションだから。
怪物はポリュフェモスとかライストリュゴネスとか見てすぐわかるのだが、神々は女神アテナ(Zendaya)もニンフのカリュプソ(Charlize Theron)も魔女キルケ(Samantha Morton)も、人間とあまり見分けがつかない世界のすぐ横にいて、ゼウスの法が、とか言われてもそんな重く響かないし誰も聞いてない。会社の偉い人が社内規定とかコンプラについてなんか言ってるよ、くらいのかんじかも。
クライマックスはオデュッセウスが乞食に身をやつして宮殿に戻って、狡猾なアンティノオス(Robert Pattinson)などを懲らしめてペネロペとの再会を果たすシーン、なのだろうが、”Interstellar” (2014)でのふたりの逆のを思い浮かべてしまったり(とにかくぜんぜんよかったね、の感動が来ない)、そんなに盛りあがらなくて、やはりトロイの木馬とか怪物とのバトルとか、そういう戦乱あれこれを描いたアクションドラマ、に見えてしまう。
IMAXででっかく重々しく描かれるぺったんこな海の表面と、その縁でぎりぎりまでひたすら耐えて待って最後に爆心地に向かって実際にふっとんで粉になって消える兵士、という構図(例えば”Dunkirk” (2017))はNolan映画定番のスペクタクルで、でもこの地味なかんじをスペクタクルと言ってよいのかはちょっと考える。
この叙事詩は人間の愚かさとか狡さに対する戒めとしてずっとあって、シノン(Elliot Page)に対する後悔とかオデュッセウスの苦渋も多少は描かれるものの、基本的にはこいつの表に出てこない傲慢や狡猾さを、故郷に戻るとか家族との再会とかで美化してしまっていないか。冒頭の「ストーリー」賛美もその流れのなかで見ると、これって圧政者が金を撒いて進めるプロパガンダの手法と同じようなものになっていないか、と(そこまで狙っている?)
もちろん性格が悪くても頭はよさそうなNolanはこの辺を十分わかっていて、音楽は重心低めでドラマチックなところをできる限り抑えて、「本当に起こったこと」のような地続きの低空を慎重に這ってくる。 ロケ地となった西サハラの問題や外部の者(移民)への歓待など、眺めてふーんとなる箇所は結構あるかも。
でも、これらぜんぶを俯瞰して、ああ人類はこんなところまで来てしまったのか、って嘆きたいのであれば、IMAXに行くよりも今のホワイトハウスを見ればじゅうぶん、ではある。
あの日から25年。まだぜんぜん過去の事件になってくれない。あの粉塵の匂い、どんよりした通りの向こう、戦闘機の音…