5.18.2024

[film] Hoard (2023)

5月11日、土曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。 ふつうの新作のPreview公開。

作・監督はこれが長編デビューとなる英国のLuna Carmoon。 BFIとBBCがバックについていて、まあ、ぜーったい日本での公開はないと思う - くらいに地味で、血みどろ残虐シーンとかはまったくないものの、じんわり生理的・感覚的なところに訴えてくるなにかがあり、なので入り口には「不快感を与えるかもしれない描写があります」とか貼ってあったりするのだが、すばらしくよかったの。

80〜90年代にかけての南東ロンドンの下町で、母Cynthia (Hayley Squires)と幼い娘のMaria (Lily-Beau Leach)がショッピング・カートをがらがら転がしながら遊ぶように落ちているモノを拾ったり漁ったりしてそのまま家(自分たちのなのか不明)に戻るとそこにはゴミ屋敷のように拾ってきたりしたいろんなものが吹き溜まっていて、他の家族はいなくて、ふたりで散らかしまくったりしながらもお風呂に入ったりTVを見たり - 『ブリキの太鼓』 (1979)でのあるシーンが印象的に映し出され、それを食い入るように見つめるMaria - 母娘でおおむね仲良く楽しんでやっているのだが、ある晩、崩れてきたゴミの下敷きになったママは動けなくなり、救急車が呼ばれて命は助かったものの、Mariaはそのまま里親のところに保護されることになる。

そこから時間が過ぎて高校生くらいになったMaria (Saura Lightfoot-Leon) - 服に”1994”とある - はふつうによい子でもないが酷くわるい子でもなく、そんな状態で里親のMichelle (Samantha Spiro)のところにいて、そこにMichelleが育てた別の里子のMichael (Joseph Quinn)がやってきて同じ家のなかで暮らすようになって、ある日突然母Cynthiaの遺灰が届けられた辺りからMariaの挙動ふるまいがだんだんおかしくなっていって、お腹の大きなガールフレンドがいるMichael と変な関係になったり自分の部屋に溜めこみはじめたり…

おそらく心理学的に説明できる何かは沢山あるのだろうが、医師や警察が呼ばれるような方と事態には向かわず、Mariaが執着してしまうもの、彼女が見つめてしまうものの先にあるひとつひとつがなんとなく、でも確かな切実さと説得力でもってこちらに伝わってくる - それってなんなのだろう? - ので、監督の実体験に近いところもあるのかも、と思うのだがそこは別に知らなくても。

子供の頃にママとの間で、ママと一緒に築いていったお城 - Hoard - ある時一瞬で奪われるように消えてしまったその礎やパーツのひとつひとつは他の人から見ればゴミかも知れなくても、人によっては「トラウマ」って片付けてしまうだけかもしれないし、わかってもらおうなんてこれぽっちも思わないけど、子供の頃の秘密の大切ななにかで、他者が決して取り上げたり葬ったりすることはできないし、なにかで解消したり代替できたりするものではないし - だからあたしも含めてどこかに散らして放っておいて。

大人になることをやめた『ブリキの太鼓』 のOskarと、すべてを捨てて大人にならざるを得なかったMariaと。そして彼女はもう一度拾いなおそうとする - なんのために?(は問わない)

Mariaを演じたSaura Lightfoot-Leonを始め、俳優のアンサンブルもすばらしくよくて、みんなそこにいて暮らしているかんじがした。最近の日本の映画で描かれる貧困家庭とかにはなんでか余りのれないのだが、この作品のはとてもわかるかんじがした。

ラストの夜の町にEBTGの”Missing”が流れてきて、それが泣いてしまうくらいによくて、泣いてしまった。

[film] IF (2024)

5月11日、土曜日の昼、CurzonのAldgate で見ました。

作、監督はJohn Krasinskiで出演もしていて、”A Quiet Place” (2018)のシリーズのあとによくこんなの作れたもんだわ。 どこかで聞いたような話だけどなんだか泣かせやがって。

撮影はJanusz Kaminskiだし、かわいいコレオグラフはMandy Mooreだし。

“IF”は”IT”に近いけど少しだけ違って、”Imaginary Friend”のこと。

最初に女の子Bea (Cailey Fleming)の子供の頃からの家族アルバム(ホームビデオ)の映像が流れて、パパ(John Krasinski)とママ(Catharine Daddario)と3人でとても幸せそうなのだが、Beaが大きくなってきた最後の方で、微笑んでいるママは頭に布を被って何かの治療をしていることがわかる。

Beaがブルックリンハイツにあるおばあちゃん(Fiona Shaw)のエレベーターもない古いアパートにやってきてそこにしばらくの間滞在して、入院していて大手術を受けるパパの病院にお見舞いにいく。 ママはもういなくてパパまでいなくなったらどうしよう、って不安でたまらないのだがBeaを元気づけたいのかパパは悪ふざけばかりしていて、Beaもパパにそんな気遣いはさせたくないので適当に相手をしている。

そんなある日、アパートにハチみたいなツノが生えて棒の足をした変な影がBeaの目に入るようになり、気になってそれを追っていくと上のフロアの部屋に消えたので、そこに入ってみると夜中に遭ったらぜったいこわい蜂の精みたいなBlossom (声: Phoebe Waller-Bridge)と人間の格好をしているが得体の知れないCal (Ryan Reynolds)がいて、やがて紫のでっかいもふもふ - Blue (声: Steve Carell)もどかすかと現れて、こいつらなんなの? になるし、向こうは向こうであなたには私たちの姿が見えるの? って驚いている。

Calの説明によると、あのお化けみたいな連中はIF .. “Imaginary Friend”で、かつてどこかの子供のIFとしてずっとその子の傍にいたのだが、子供が成長すると、成長したからなのか見えなくなることが成長なのか - 用なしとされて子供の視界からは消えて見えなくなって、でも彼らの存在まで消えることはなくてその辺をお化けや妖怪のように彷徨っている - のだがそんな彼らがどうしてBeaには見えるのかはCalにもわからない。

CalとBlossomはそうして用なしとされたIFと子供をマッチングするサービスをしている、と聞いたBaeは暇だしおもしろそうなので彼らを手伝うことにして、コニーアイランド - あんなきれいじゃないよ - にあるIFの養老院 - ただのお化け屋敷みたい - を訪問してIFたちと面接した上でパパの病院に入院している子などに試してみるのだがなかなかうまくいかない。マッチングがうまくいくとその子にはIFがみえるようになって彼らは柔らかく暖かそうな光に包まれるの。

でも変てこなのばっかしのIFたちに気づいてくれる子供はなかなかいなくて、そうしているうちにパパの手術の日が近づいてきて… この先どうなるかは書かない。

IFの代表格といったらWinnie-the-Poohとか、あと他にはトトロとか? って”Christopher Robin” (2018)などを思い出したり、トトロも親が入院している設定だったなー、とか思って、でも最後のほうはああそうだったんだね、ってやられてしまう。

姿が見えなくなっても(見えなくされても)IFたちはずっと近くにいてこっちのことをずっと気にして憶えていてくれるんだよ - そこも含めてのImaginaryなのかもだけど、やっぱりいるんだ、って思う - 思わせてくれるシンプルなストーリーで、これはこれでよいのかも。

ちょっとずついろんなIFが出てくるのだがその声をやる人たちが異様に豪華で、Louis Gossett Jr. - R.I.P , Emily Blunt, George Clooney, Bradley Cooper, Matt Damon, Brad Pitt, Bill Hader, Richard Jenkins, Blake Lively, Sam Rockwell, Amy Schumer などなど。

続編があるとしたらIFしか見えなくなってしまった大人たちの話(笑えない)とか、狂ったIFが人を殺し始めるホラーとか(割とふつう)。

[film] The Idea of You (2024)

5月7日、火曜日の晩、EVERYMAN King’s Crossっていう映画館で見ました。

配信でも見れるようなのだがめんどくさいので上映館を探してみるとロンドン中心部の映画館やシネコンではやっていなくて、近めでいったことのないここ - 一応チェーン展開しているみたい - にした。

受付にもシアター内にも誰も人がいなくて勝手に中に入ると椅子はソファになっていたりクッションがあったりゆったりめ、上映時間近くになるとウェイターのような人が食べ物飲み物のオーダーを聞きにくる - アメリカのAlamo Drafthouse 形式のとこだった。チケットの値段が高めだったのはそういうことかー。(なんもオーダーはしない)

Anne Hathawayさんが主演の新作で上映がこういうことになっている - 配信メインでも内容がよければ中心部の映画館で上映されるはず - ことから察するに、なんかやばい内容のあれかもしれないが、彼女のそういうのには慣れているのでだいじょうぶ。むかし、”One Day”とかもあったしー。

40を過ぎてシルバーレイクでギャラリーを経営していて、既に離婚して高校生の娘がいるSolène (Anne Hathaway)がいて、娘はボーイズヴォーカルグループのAugust Moonっていうののファン - “Moon Head”と呼ばれる - で、パパ/Solèneの元夫が、娘とその仲間のためにコーチェラのVIPチケットをとってあげた (いいなー)のだが直前に行けなくなってしまいSolèneに現地までの車の運転とガキ共の引率を頼む。

なんとか現地に着いてひとりになってトイレに行きたくなって、女性が出てきたトレーラーがあったのであれだと思って中に入って用を足して出たらそこにAugust MoonのリードヴォーカルのHayes (Nicholas Galitzine)がいて、よく知らないままなによあんた? みたいな会話をするとそれはコーチェラに出演する彼のトレーラーでした、と。そんなはなしあるかー

その会話で彼の方が彼女のことが引っかかってしまったらしく、ライブ前のMeet & Greet(ファンの集い)でも熱狂する娘たちを置いて、Hayesの方がSolèneに気づいて話しかけてきて、あーでもわたしはちがうから、って彼女は距離を置くのだが、その後のライブで彼の歌に触れるとなんかいいかもな、になる。

普段の生活に戻ったSolèneであったが、ある日彼女のギャラリーにHayesがひとりで訪ねてきて、アートに興味があるんだ、などと言いつつ展示されている作品をぜんぶ買いあげてくれて(いいなー)、実はあの後ずっと気になって君のことを調べてここに来た、とか言うのでいやいやちょっと待って、とか返して押して引いてなんだかんだもうわかったから以下略。

後半はファンとメディアの両方からすさまじい誹謗中傷の大嵐(Yoko Ono 2.0には笑った)に見舞われて家族は壊れ、擦り切れていくふたりの恋の行方はいかにー…

見るひとのジェンダーや年齢によってその反応が分かれるであろうことは想定済みで、でも真ん中のふたりがよいのであればいいじゃん、に落ちることも見えているのだが、最近の誹謗中傷の底なしのえげつなさとか年齢差を都合よく曲解する気持ちの悪い中年男などが浮かんできてしまってあんま楽しいかんじにはなれないのはこちらの問題なのかー。

あとやはり、どうしても残念なのがふたりを結びつけたはずの音楽があまりに弱すぎて引っかかってこないことで、若い頃にボーイズグループを多少は聞いたにちがいない - 耳に入ってくるからさ - Solèneからみて、Hayesの曲ってそんなによいと思える? って。

[film] Dancing on the Edge of a Volcano (2023)

5月4日、土曜日の晩、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。

この日はStar Warsの日だったのでお昼は当然、公開25周年となる“Star Wars: Episode I - The Phantom Menace” (1999)を見た。最後の殺陣のとこ(だけ)は、映画史に残るくらいすごいと改めて思った。

レバノンのドキュメンタリー映画で、まだ記憶に新しい2020年8月、レバノンの港で起こって街全体を吹き飛ばした大爆発事故の直後、ちょうど現地では女性映画監督Mounia Aklが劇映画“Costa Brava”を撮る準備を進めていて、彼らの撮影を前に進めるか止めるかどうする? の日々の奮闘の記録を”Costa Brava”の編集を担当したCyril Arisがドキュメンタリーとして纏めたもの。

プロダクション開始までの秒読みもそうだし、制作が始まってからもほんとにいろんなことが起こって、なんというか…

まず爆発でオフィスの殆どが吹き飛んで、撮影担当は片目を失い、通貨が暴落して制作資金が紙切れ同然となり、ガソリンも入手困難になり、パレスチナ人の主演男優はコロナもあって入国ルートが限られてしまい、トルコ経由でようやくたどり着いても空港から出ることを許されない。娘役の女の子ふたりはコロナに罹って隔離されることになったり、毎日のように何か危機的なことに直面させられる。

これらは爆発の惨事からの連鎖として予測できなかったことでもないので、はじめにやめる・あきらめる、という選択肢もあったはずだが、彼女たちは撮影するほうを選んで - その理由も決意も明確には語られなくて、でもそれでも十分だし、そう決めた以上は断固完成させようとして負けないし強いし。

そこには理不尽な爆発の原因究明も含めて、政府側の対応の拙さ、責任の取らなさに対する怒りもあって、同じようにしょうもない(あれだけの事故を起こしておきながら責任を有耶無耶にして再稼働とかさせようとする)政府を身近に見ている者としてはがんばれー、しかない。

よくわかんない闇雲な映画愛とか執念みたいなのをちらつかせないのもなんかよくて、みんなでびっくりしたり笑ったりしながら一緒にやっていくMounia Aklさんの姿と彼女を支える女性たちも素敵でさー。街角の様子もあんな酷いダメージを受けたのになんとなくほのぼのしている。そういうお国なのか。

レバノンと言えばおいしいお菓子とお料理で、その上でこの映画を見るともっとレバノンが好きになる。そのうち行ってみたいな。


Celluloid Underground (2023)

5月4日の土曜日、↑の前に、Barbican Cinemaで見ました。これもドキュメンタリー。
上映後に作・監督のEhsan KhoshbakhtとのQ&Aがあった。

ドキュメンタリーというより個人的な映画エッセイで、現在イランから逃れて亡命状態でロンドンに暮らすKhoshbakhtが、ヒチコックの生まれたロンドンのLeytonstoneの街 - モザイクとかヒチコック関連のが街中に沢山 – を見渡したりしながら、イラン革命の前まではイランも(そこにいた自分も)みんな映画を愛していたと回想していく。

町中にふつうに映画館があって、家族で映画を楽しむことのできた時代が革命と共にどこかにいって町から、町の記憶から映画館が消えていこうとした頃、KhoshbakhtはAhmad Jorghanianという変な人と会う。この人は映画に関するものは35mmフィルムからポスターからなんでもかんでも自分の家に大量に貯め込んでゴミ屋敷をつくっていて超然としていた - 映画が好きらしい。

あの国では見つかったら犯罪として牢屋にぶちこまれる可能性があるなか、このおじさんはそれでも集める、って穴倉に運んでいてかっこいいなー、なのだがKhoshbakhtは突然彼が自動車事故で亡くなった、と聞いて…

他の国のいろんな事情を見ても、映画ってその人の人生を変えてしまうくらい強いものなんだ… というのと同じく、国による取り締まりとかを見ても劇物なんだなあ、と改めて思って。貯めこむ/貯めこんでしまうのはわかるけど、どうしようもないし。

今もどこかに埋もれていて誰かに発見されるかもしれない映画のこと、それが投影されるのを待っている映画館のことを思うと、ほんとに映画ってなんか…

こないだの”Kim’s Video”にもKim’s Underground ってあったし、映画は表象としてあるものだが、その獲得や確保をめぐる活動はいつもUndergroundでどこか犯罪ぽくもあり孤独で…. というそのありようについて考えさせられるのだった。

5.13.2024

[log] Assisi May 05-06

5月5日から6日、英国Bank Holidayの3連休の後ろの2日間を使ってアッシジに行ってきた。はじめは土日で行こうと思っていたのだが現地にたどり着くまでに1日かかることがわかり、日曜日の教会はミサなどがあるので日/月の2日とした。 その後、月曜日も午前11時には現地を出ないと夕方の飛行機に間に合わないことがわかって泣いて、これなら二泊にすればよかったのに… になるのはいつものこと。 以下、簡単なメモ程度で。

アッシジは元々行きたくてバケットリストにはずっとあったのだが98年の地震でもう無理か.. になって頭から外していて、でも2020年の秋にパドヴァでジョットを見てあーやっぱり行きたいかも! になったところでコロナ & 帰国が来てだめになり、でもこないだのクリスマスイブに見た映画は(わざと)『聖なる道化師 フランチェスコ』(1950) だったし、最近(でもないが顕著に)転んだりぶつかったり挫いたり流血したりしているのはただしくパワーを授かっていないから、お祈りが足らないからでは? と勝手に思いこんで、なら行こうか(ならもっと滞在しろよ)と。

まず朝6:30の飛行機でローマまで飛んで、空港から電車でローマの中央の駅に行って、そこから北に行ってTerontola-Cortonaの駅で乗り換えて、斜め右の南に下りていく。直線距離だとたぶん3時間掛からないと思うのだが、乗り換えで1時間以上待ったり、タイミングでこうするしかないのか、他にもっとよいルートがあるのか、わかんなくて、でもフランチェスコなら無理しないことです、とかいうよきっと。← たんに旅の企画ができないだけ。

こうしてアッシジの駅に着いたのが16:50くらい、山というか丘の上の中心近くに向かう前に駅の近くのポルチウンクラのサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会に行った。19:30まで開いている、とあったので。中の小聖堂は工事中で足場が組んであったりしたが、すでに十分な史跡でたまんなかった。キリスト教の人だったらそれだけで泣いちゃうであろうような。

着いた時間が遅かったからかホテルの人は帰宅してて不在で、置いてあった自分宛の封筒にあったメッセージを読んで鍵と部屋(三つ並んでいる真ん中、とか)を発見して中に入り、まだ充分に明るいし見れるところは見ないと、と外にでる。

アッシジの中心部って、横に細長くてその一番奥の端に聖フランチェスコ聖堂があり、端から端まで歩いても30分くらいか。車も走ってはいるが狭く入り組んだ階段と坂だらけで、そこに大量の関連教会がひしめく全体が世界遺産になっていて、筋肉の疲労さえ考えなければ(筋肉なんてないと思えば)とっても楽しい。

こうしてまだ入ることができたサン・ルフィーノ大聖堂を見て、開いているお堂などに端から入って、日が沈む前に聖フランチェスコ聖堂も外から見ておこう、と思って行ってみる。聳え立つ、とかヴァチカンみたいにものすごく屹立して圧倒的な存在感を示す、というより桂離宮的な景色との調和のなかに建っていて、中に入れなくても夕陽のなかにあるのを見ているだけで時間が過ぎて暗くなった。

翌朝、下のお堂は6:00に開くというので、6:20くらいに中に入ると朝のお祈りが始まるところで、何を言っているのか勿論わからないし宗教的な人でもないのだが、じーっと聞くのは好きなので聞いて、終えてからお堂の下のフランチェスコのお墓にいって、一旦外に出て、でも上のお堂が開くのは8:30だったのでそれまで近辺を歩いたり、もう一回下のお堂で(お祈り中には見れなかった)奥の方にあった絵を見たりして、上のお堂が開いた後にも一通り見る。何回見ても初めて見たように入ってくるフレスコのくすんだ色のすばらしさ、なんで人が本当に浮いているように飛んでいるように見えるのか、とか。2時間以上眺めていてもぜんぜん飽きなかった。そしてイタリアにはまだこういうのが山ほどあるのね…

この後はサンタ・キァーラ修道院にも行って下のお墓も拝んで、周囲を歩いて、でもサン・ダミアノ教会はちょっと遠かったので諦めた。とにかく聖フランチェスコ聖堂がよすぎる。

食べ物は、ずっと歩いていたしそんなに。何食べてもおいしいしかないし。Umbriaの名産のSpelt strangozziっていうパスタとか。行きのローマ中央駅にあったMercato Centraleっていうフードコートは楽しかった。

帰りの電車は、乗り換えのとこで軽く30分遅れてくれて、でもだいじょうぶだった。ドイツの電車よかぜんぜん。イタリアの駅、ホームが低いのがたまんない。これが映画で映しだされるときに効くのよね。

当然また行きたい。イタリア、行っていないところが多すぎる。

5.11.2024

[film] The Fall Guy (2024)

5月3日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。

これの上映が20:30からで、17時からはRough Trade Eastで新譜が出たばかりのCamera Obscuraのインストアライブがあったので、早めに会社を抜けて行った。ライブは2部構成で最初の早い時間のはサイン入りのレコードがついてて、後のはライブ後のサイン会がついている。客がみっしりであまりよく見えなかったけど、新譜からの曲も含めて元気そうに歌ってくれてよかった。”Let's get out of this country”と”Lloyd, I’m ready to be heartbroken”もやってくれた。英国に来る前、嫌なことがあると”Let's get out of this country”を頭のなかで流してがんばったことだよ。

さて”The Fall Guy”。いちおう、バンドのThe Fallとは関係ないから。 監督は”Bullet Train”(2022)の、スタントマン出身のDavid Leitch。わたしは”Bullet Train”のどこがおもしろいのかちっともわからなかったので、どうかなあ、だったのだがこれはおもしろいと思った。あれ、たぶんブラピが主演だったのが… ではないか。CGバックが当たり前でその虚構にくるまれ、そのプレゼンスが申し分ないので、それらをバックにいくらでも深刻かつ大仰な大ドラマ製作が可能となった最近の重厚長大作傾向のなか、スタントマンはこんなにもすごいんだから、を改めて打ち出しつつ – というかそれ故にか - 内容的にもB級のすかすかで燃えたり飛ばされたり落ちたり、たまんないバックステージもの。

人気俳優Tom Ryder (Aaron Taylor-Johnson)のダブルをやったりしているスタントマンのColt (Ryan Gosling)とカメラオペレーターのJody (Emily Blunt)は恋人同士だったが撮影中にColtが高いところから落下して背中を痛めて現場から遠ざかってからは疎遠のまま、やがて映画監督にまで昇りつめたJodyは変てこSF西部劇”Metal Storm”を撮ろうとしていて、主演がTom RyderなのでプロデューサーのGail (Hannah Waddingham)はColtにスタントに戻ってきてほしい、と引退状態だった彼にコンタクトしてきて、でも現場に戻ってみたら偉くなったJodyは冷めてつんけんしてて、やがてどこに消えてしまったのか現れないTomを探しに出たColtは、行く先々で理不尽に襲われて、浴室で死体を発見して、はじめのうちは調子よくスタントの技で捌いていったりするのだが、なにかがおかしいことに気付く – のだがそもそもスタントの世界は何が起こってもおかしくない世界でアクションによってそれらしく見せたり切り抜けたりするのが仕事なので簡単には終わってくれそうにない。

Jodyがカラオケで”Against All Odds (Take a Look at Me Now)”を熱唱するのと並行して走行中の車のなかでColtとStephanie Hsuと犬がくんずほぐれつのじたばたを繰り広げていくとことか、ところどころおもしろいとこはある、のだが、見せ場①、見せ場②、③.. みたいに見せるために見せてます、みたいなところがちょっと。あと、これは狙ったのだろうけど、悪役がだれだか、最初からわかっちゃうのよね。

後半は、だれかの代替としてアクションを可能な限り本物ぽく見せるだけ、という影の存在のスタントマン故の不条理なありようが滲んできたり、Jodyの恋もどれだけ叩いても虐めても絶対に死なない非現実を生きる男Coltとの間で変てこなSMのようになっていって、そこにKissの“I Was Made for Lovin’ You”のメロが何度も被さったりして、ぜったい大丈夫に決まっているけどなんか気を抜けない – 目を離せない、というむずむずした状態を維持しつつなんとなく能天気に最後まで走ってしまう。これを痛快!ってみるか、なんか騙されたかも… ってなるか、によって分かれるのかしら。

でもEmily BluntとRyan Goslingが一緒にいる絵はなんかわるくないのでよいかも。

映画の現場におけるインティマシー・コーディネーターがクローズアップされてきた流れと同じで、映画的な「おもしろさ」の背後にはこれだけのメンタル・フィジカルへのダメージを引き受ける人たちがいるのだ、という、そこをひっくり返してみたドラマで、興行として当たってほしいし、光が当たってほしいな、とエンドロールの撮影風景を見ると余計しみじみ。

第二弾も用意されているそうで、それならぜひTomCと対決してもらいたいものだ、と。

5.09.2024

[theatre] Underdog: The Other Other Brontë

4月29日、月曜日の晩、National TheatreのDorfman Theatreで見ました。
原作はSarah Gordon、演出はNatalie Ibu。Brontë三姉妹のお話で、ポスターではお揃いの紅いドレスの3人がヒップホップのレコードジャケットみたいにこちらを睨んでいる。

Brontë姉妹はふつうに好きで、前回赴任の帰国前(2021年4月)にはハワースに行って一日歩いて風に吹かれておおー、ってやってきた、くらい。

舞台の中心にはヒースの丘なのか、お花や草がきれいに、ではなく割とごちゃっと適当なかんじで植わっていて、それを囲むかたちで通路がぐるりと回転してその上を人とか馬車とかが流れていく – こちらに見えるのは半円部分のみ、というセット。

上演前に座っていたら(端の席)、いきなり肩をぐいって掴まれたので誰? って振り返ったら「あたしよあたし、Charlotteよ!」って酔っぱらいのようなCharlotte (Gemma Whelan)がそこにいて、他の客や反対側の方にも行ってちょっかいだしたり啖呵をきったりしながらステージにあがる。

この劇の3姉妹のなかで一番元気で威勢がよいのが紺のドレスの彼女で、Anne (Rhiannon Clements)もEmily (Adele James)も色違いだがシェイプはおなじで、どた靴を履いている。 あと、評判の悪い飲んだくれの長男Branwell (James Phoon)も出てくるが汚れ役のようなかんじで顔を出す程度。

先に書いたように一番元気で喋りまくり全体をドライブするCharlotteがいて、少し控えめでやさしそうな(でも書いてみたら彼女が一番XXXだった)Anneがいて、ちょっと浮世離れしたようなEmilyがいる。3人がそれぞれに夢と希望をもって自分の小説を書いて、それがそれぞれに当たったりして、男であるだけでまず認められてしまうような社会で、自分たちに対する世の中の評判や扱いが変化していって、その変化を受けるかたちで姉妹それぞれの愛や関係はどう変わっていったのか、変わらなかったのか、を特にCharlotteとAnneの関係を軸に描く。タイトルにある”The Other Other.. ”の”The Other”が誰で、”The Other Other”は誰なのか、どうとでもとれるような – というか、”Underdog”も含めてそういうことを言うのは姉妹を外から見ている世間のほうで、彼女たちはずっとこんなふうに …  という描きかた。

姉妹それぞれの代表作とか、その内容、それが世に出て評価されたタイミングや順番を知らなくても…とはやはり言い切れなくて、たぶん英国の19世紀の田舎の牧師の家に生まれた女性たち、というあたりも含めて彼女たちが小説に向かった - 小説を書いて出版するというのがどういうことだったのか – 背景のようなことを知っていた方がもっとおもしろくなったに違いない。3人のばらばらなやりとりとその反対側の粗野でバカで画一的でしょうもない当時の男たちの対比はコミカルで十分笑えたりするのだけど。

『ジェイン・エア』の作者であるCharlotteについてはなんとなくわかるけど、『嵐が丘』の作者であるEmilyについては作品世界も含めてあまり触れられていない(静かで謎めいているところで止まっている)のはしょうがないか.. というか、彼女たちの振る舞いとかお行儀とかじゃなくて、なんでこの三姉妹があんなにもすばらしい作品を - 世界中で読み継がれたり映画化されたりし続けている古典を創ることができたのか、(断片でなんとなく、はあるけど)その創作の謎と秘密にちょっとでも迫ることができていたらなー というのは望みすぎだろうか…

どうせなら全三部作にして、これはCharlotte篇、とかにしてもよかったかも。


R.I.P. Steve Albini..

あまりに突然すぎて、昨晩地下鉄のホームで声が出てしまった。 あと20日を切ったこの月末、バルセロナで会えるはずだったのに。
ギターの弦を引っかくノイズ、声帯を抜けるスクラッチ、打突の鳴りと震え、世界と空気の間に必ず現れるあらゆる摩擦音をそのままアナログのテープに傷として精緻に正確に刻んでかさぶたにする。そうやってできる音のみがマスターで、それを作ることのみに注力したエンジニア - アーキテクトでもコンポーザーでもプロデューサーでもない - すばらしい腕をもつ大工で、彼の仕事はすぐにそれとわかるしいつまでも劣化しない。その仕上げ - 触感と食感にうっとりしてしまうのでメロとか詞とかはどうでもよくなる - というのは言い過ぎか。 

ありがとうございました。