7月20日、祝日の月曜日の昼、TOHOシネマズシャンテの、午前10時のなんたら、で見ました。
邦題は『カプリコン・1』。 作・監督はPeter Hyams。
これまで見たことはなかったが、筋はようく知っている、という年寄りも多かったのではないか。
日本での公開は1977年末で、この頃、ぜんぜん公開してくれないけど、既に世界中で大きな話題となっていた”Star Wars” (1977)の情報を求めて、その唯一の情報源である映画雑誌(『スクリーン』と『ロードショー』があって、自分は『スクリーン』派だった)を隅から隅まで何度も読みふけっていたので、この当時の洋画情報は文字で随分入っていた。なかでもこの映画は、全米公開に先がけて、って得意気に宣伝していたのだが、ばかにすんなそれならなんでSWを公開しないんだよ? って相当頭にきていたのも憶えている。配給会社への不信はこの頃からずっと、いまだにあって、文句を言ってもどうしようもない、という今の政治に対する無力感に近いものを感じた最初期、でもあったのだが、この映画にはそんな罪はないのかも、って漸く。 あと最近だと、Marguerite Durasの『陰画の手』 (1979)でも、パリの街角を映していくなか、この映画のパネルが目に入ったり。
人類初の火星有人探査ミッションである”Capricorn One”の3人の宇宙飛行士(James Brolin, Sam Waterston, O. J. Simpson)がロケット発射直前にこっそり外に連れ出されて別施設に移送されて缶詰になって、火星着陸シーンはそこに用意されたセットで特殊撮影~放映されて、でもそうして入ってきた通信の経路がおかしいことに気付いて上に報告した管制官(Robert Walden)が友人のTVジャーナリストRobert (Elliott Gould)にそれを話した直後に姿を消して、Robert自身も姿の見えない誰かに狙われるようになる。
他方で家族を人質にされて身動きの取れない3人の宇宙飛行士たちも隙をついて飛行機で脱出して、どこかの砂漠に不時着してから、追手が来ることはわかっていたので、それぞれ別方角に逃げることにするがひとりひとりヘリコプターに追われて消されていって、政府からの対外向けでは大気圏突入時の事故で全員死亡、ということにされて、全米が悲しみに暮れる葬儀の最中に…
70年代サスペンスのひとつの典型で、世界に対する見栄張りのために政府はどんな茶番でも人殺しでも平気でやる、という権力のありようを示す格好のサンプルとして、張りぼての着陸シーンはパロディ映画で何度も反復されているのだが、こんな映画の「先行」が日本だったって、なかなか笑えないわ。
しかし、あのラストのストップモーション、これも当時は感動的だったのかもしれないが、今はパロディやられすぎてなんだか笑えてしまうやつかも。
Catchfire (1990)
7月20日の午後、↑のを見てふらふらした後、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。
邦題は『ハートに火をつけて』。Jodie Fosterの新作”Vie privée” (2025)の公開にあわせての小規模限定公開(DVD上映だけど)らしい。
劇場公開時には"Alan Smithee"名義でリリースされたが、最終版のリリースにより(最初から関わっていた)Dennis Hopperの監督作となった。脚本にはD.H. Lawrenceという名前でAlex Cox(いいかげんにしろ)も関わっている。
冒頭、夜霧の奥から典型的な90年代サスペンスの音が鳴って、ネオン・アーティストのAnne (Jodie Foster)が車で帰宅途中、高速でタイヤがパンクして仕方なく歩いていたらマフィアが敵だか味方だかを射殺している現場を目撃して警察に行ったら、警察署内にその関係者がいたのでこれはやられる、と直感して逃げて、他方でマフィアは凄腕の殺し屋Milo (Dennis Hopper)を雇って彼女の殺害を命じるのだが、Anneの部屋を引っかき回しながら彼女のポラロイド写真とかを見たMiloは彼女に惚れてしまい、彼女を捕まえてからも簡単に殺せたはずなのにハートに火をつけられちゃって、なんと彼女の方もMiloを… わざとやっているとしか思えないちゃらい銃撃シーンとか80年代ぽいご都合主義の嵐が吹き荒れて、この主演ふたりの激突から想像できそうな糸をひく神経〆やゴス・ノワール沼からは程遠いお花畑展開になって、最後はほんとうに手を取り合って彼方に消えていっちゃうの。
キャストがなかなかすごくて、Dean Stockwell, Joe Pesci, John Turturro, Fred Ward, Vincent Price, カメオで出てくるのがCharlie Sheen, Catherine Keener, Toni Basil, そしてそこに立っているだけで変なオーラのBob Dylanとか…
あと、AnneのネオンアートはJenny Holzerのだって。やっぱり。
あと、↑のとの繋がりでいうと、どっちもクライマックスがヘリコプター・チェイスだった。 そういえば、ヘリコプターを使ったアクションてなくなってきているような。
8.03.2026
[film] Capricorn One (1977)
8.02.2026
[dance] 私は海をだきしめていたい
7月25日、土曜日の午後、彩の国さいたま芸術劇場で見ました。
(船便到着の2日前に 〜 以下略。だってチケット取っちゃっていたんだもの)
開演は午後3時で、とにかく駅から劇場までのあの距離がだいじょうぶか(熱波) だったのだがどうにか。(次からはちゃんと備えるようにしたい)
日本のダンスカンパニーのも見ていったほうがよいのかも、くらいで。
Noism Company NiigataはNoism0とか1とか2とかあって、NDCみたいなやつ? と思ったらそうみたいだった。演出・振付は金森穣による2本立て。
私は海をだきしめていたい
原作(?)は今年生誕120年を迎える新潟の坂口安吾の同名短編(青空文庫で読める)、音楽はエリック・サティで、暑さから退避すべく暗めの会場に入ると生誕160年であるサティのピアノ - 『ジュ・トゥ・ヴ』(Je te veux / あなたがほしい: 1902)が不機嫌に鳴り響いていて気もちよい。
短編の『私は海を~』がどんなやつかというと、例えば 『この女の不具な肉体が変に好きになってきた。真実というものから見捨てられた肉体 ~ 私の孤独な肉慾に応ずる無限の影絵であって欲しい ~ 私の肉慾も、あの海の暗いうねりにまかれたい』(雑な切り貼り)というような、役立たずの毒男がひとりでぶつぶつ呟きつつ空中をぐるぐる回ってやっぱり独りでどうしようもないわ、って片隅に追いやられていく、それを離れて見ているような感覚の絵で、サティのピアノの定点をぐるぐる陰険に回っていく虚無・無常の図にうまくはまる。
最初に客席側の階段を燕尾服で黒の傘をさした男がひとり静かに下りていって、ゆっくりとステージにあがり、ステージの奥には赤を纏った女性がひとり光を浴びるように立っていて、背景には淀んで曇った海(日本海?)、ステージ上の男は影がいくつかに分裂してそのいくつかが交互に静かに不穏に回りながら女性に絡みついていって、でも最後にはひとりにもどる。 海を抱きしめていたい、のだろうが言ってみただけ or うまく言語化できず - でどうあがいてもひとり… という静かに煩悶して崩れていく肉のさまが生々しく描かれていたような。
なんとなくPina Bauschの“Café Müller” (1978) - 音楽はPurcellだったが... を思い出してしまったのは、次のが「春の祭典」だったからだろうか。
改訂版 春の祭典
初演はコロナ禍にあった2020年で、ここからダンサーの人数を減らし(20数名→たしか12名)、舞台装置もよりシンプルなものになったそう。 照明も衣装もスリムな白系、小道具として、人数分の四角い椅子(デザイン:須長檀)が縦横斜めに置かれ、これらがダンサーたちによって組み合わされるとベッドにもバリケードにも要塞にもなって、有機的なところ無機的なところが絡み合い、2名の生贄を生んでしまう生々しいニンゲンたちの春のドラマが展開されていく。
私小説的だった「私は海を~」に比べるといきなりダイナミックな神話の世界に飛びこんでいくような明確な変化~ 個の虚しい呟きから集団の暴力・狂騒へ(黒→白)、があって、今回の「改訂」は前半部分からの流れのなかに置こうとすると必要だったのだろうな、と思われた。(それかあるいは、コロナ禍に要請されたものとポスト・コロナで要請されるもの、のちがい? とか)
ストラヴィンスキーなので、聴いているだけでそれなりに盛りあがることはできてしまう、という点を差っ引いてしまうと、割とふつうのモダンの群舞に見えてしまったのがやや残念だったかも。 海を抱きしめようとしたら嵐がきて落ちて溺れて死にそうになった、とかそんなめちゃくちゃに狂ったのを見たかったかも。
8.01.2026
[film] Sois belle et tais-toi! (1981)
7月26日、日曜日の午後、ル・シネマ 渋谷宮下の7Fで見ました。
英語題は”Be Pretty and Shut Up!”、邦題は『美しく、黙りなさい』(「黙りなさい」に赤の取り消し線)。
翌日の船便到着を前に、お片付けはよいのか? という声もあったが、『美しく、黙りなさい』って言われた。(美しくない)
制作から50年を記念しての劇場公開で、今後パッケージ化される予定はなく劇場上映と自主上映のみに限定されているそうなので、とにかく見に行くしかないのよ。
監督であるDelphine Seyrigが1976年に23名のフランス人、アメリカ人の女優、映画人たちに対して実施したインタビューをCarole Roussopoulosが撮影して、編集をCaroleとIoana Wiederがして、1981年に公開されている。
ボーヴォワール視聴覚センターとフランス国立図書館が主導して、2022年に修復~公開したもの、とのことで、でもどこかでなんか見た記憶が、と思ったら、2020年の初め、マドリードのMuseo Nacional Centro de Arte Reina Sofíaでの企画展 - ”Defiant Muses: Delphine Seyrig and the Feminist Video Collectives in France in the 1970s and 1980s”で7つのモニターを横並びにしたインスタレーション作品として流れていたことを思い出した。他には同じモニターでChantal Akermanの”Woman Sitting after Killing” (2001) - Jeanne Dielmanがあの後に座っているシーンを延々 – も流れていた。
質問はふたつ、「もしあなたが男性だったとしても、この職業(女優業)を選びましたか?」、「他の女優と友好的な場面を演じたことがありますか?」 - これは誘導のようなもので、最初の問いに対しては「いいえ、男性だったらもっといろんな選択肢があったはず」になるし、次の質問に対しては「いいえ、求められるのは常に男性とのインターアクションばかりだった」になることは容易に想像がつく。なぜなら我々が商業映画として接する殆どの映画は、「男優との間で」女優として輝く – その存在を最大化、最適化する形でその姿を表に出してくるものだったからで、この聞き方は動物園の動物にもし野生にいる別の動物だったら… って聞いているのと同じではないかと。
なので、殆どの女優が、それは面白い質問ね! と言ってから質問の答え以外のあんなことこんなことを嬉々としてとめどなく喋りまくるのがとにかくおもしろくて、でもそれらのおもしろい語りの背後に見える各自の業のようなものが固化していく「女性」という型の周辺に、あるいはこれに抗するかたちで立ちあがってくる何かが見えてくる。
あと、ここから、この50年で変わったこと、依然として変わっていないことについても考えないわけにはいかない。
あと、映画のなかで、Ellen Burstyn(..正確に覚えていない)だったかが語っていたEleanor Perryが夫のFrank Perryと作った映画 – ひとりの少女と4人の男が出てきて少女がレイプされてしまうやつ – って、2025年にBFIのFilm on Film Festivalで発掘上映された”Last Summer” (1969)のことだ! って少し自分内で盛りあがった。
Delphine et Carole, insoumuses (2019)
7月19日、日曜日の昼、日仏学院で見ました。
邦題は『デルフィーヌとキャロル』、タイトルを直訳すると『デルフィーヌとキャロル:反逆のミューズたち』、であり、”insoumuses”は、Caroleが立ち上げたビデオグループ “Les Insoumuses”にも繋がる。 68分の中編。
監督はCallisto Mc Nulty。 スイス生まれのCarole Roussopoulosが、1970年にJean Genetの勧めを受けて当時発売されたばかりのVideo Cameraを購入 – これを最初に買ったのはゴダール、次に彼女が、フランスの女性として初めて買った – して、Angera Davisのドキュメンタリーを制作、その後も人権擁護運動の様子をカメラに撮っていくなかで1976年にDelphine Seyrigと出会い、そこからは↑を含む女性の権利やフェミニズムをテーマにしたドキュメンタリー作品を沢山残した。 あと、↑を復元したボーヴォワール視聴覚センターもこれらの活動を通して彼女たちが設立したもの。
とにかく、デルフィーヌとキャロルのふたりが現地で、女性たちと一緒になって戦ったり議論したりしつつ記録していった70年代以降のデモの記録、TV討論の様子などが、げろげろになる点も含めてものすごくおもしろくて、↑にも書いたけど、この50年で変わったこと、変わらないことについて考えてしまう。
昨年、BFIで行われたLaura Mulveyの企画特集も、結構人が入っていたしすごくおもしろかったし、割とそういうとこに足を運んで見ているほうだと思うのだが、足元を見るとぜんぜん、なにひとつ変わっていないのでは… ってものすごく暗澹として、例えば、日本の映画女優にいま、”Sois belle et tais-toi!”の質問を投げたらどうなるだろうか? とか。
この国が得意としている「ガラパゴス」なのかもしれないが、ガラパゴス(の動物たち)だって環境に合わせて進化はしていくもので、これは適応する先を愚かなことに完全に誤ってどうにも動けなくなっているような…
でもとにかく、そういうのとは別に、見ていると不思議と明るくなれる映画だからー
渋谷宮下の特集上映でももうじきかかるらしいので、この機会にぜひ。
7.30.2026
[film] Sangue del mio sangue (2015)
7月25日、土曜日の夕方、イメージフォーラムで見ました。
Marco Bellocchioの10年以上前の作品が何で突然今頃? なのだが、彼の作品、最近はTVシリーズなどもあって見るのが難しくなっている気もするので、見れるものは見ておきたい。
見事な濃淡・陰影を湛えた撮影は “Vincere” (2009) - 『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』のDaniele Cipri。
英語題は”Blood of My Blood”、邦題は『私の血に流れる血』。 後半、老吸血鬼も少しだけ出てくるが、吸血鬼もの、ではない。というか、吸血鬼ものの形をとったキリスト教批判というか。
二部構成で、最初のパートは17世紀、イタリアのボッビオ – Bellocchioの生まれ故郷で監督デビュー作-『ポケットの中の握り拳』の舞台でもある – の修道院を若いFederico (Pier Giorgio Bellocchio)が訪ねてくる。そこの修道女Benedetta (Lidiya Liberman)と関係をもって、自殺した兄をキリスト教徒としてきちんと埋葬してほしい、と頼みにきたのだが、そのためにはBenedettaが悪魔の影響下にあったことを証明する必要がある、ということで、大勢の立ち合いのもと、水責め(重い鎖を巻いて沈められて沈んだままだったら善人とか)、火責めの残忍な異端審問が行われて、彼女は傷だらけのまま狭い石の牢獄に監禁されるのだが、なにをやっても効かなくて、他方でFedericoは別の修道女ふたり(うち一人はAlba Rohrwacher!)との愛欲に溺れたり、兄の仇であるはずのBenedettaにも疼くように惹かれたりしてかなりどうしようもない。
次のパートは同じ土地の現代に時代は移り、自称税務調査官、見るからに怪しいFederico (ふたたびPier Giorgio Bellocchio)が、ロシア人の資産家Ivan Rikalkov (Ivan Franek)を伴って、かつて修道院で、現在は修道院兼刑務所となり、ぼろぼろに朽ちかけている建物を購入したいと言って訪問してくる。管理人はこんな廃墟のようなところを、と戸惑うのだが、かつて修道院だったこの場所には老いたBasta伯爵 (Roberto Herlitzka)がひとりでひっそりと暮らしている。
伯爵の表情はずっと固まったように凍り付いたまま(すごい横顔)、ほぼ喋ることもなく、その状態で町を徘徊して歯医者に行ったり(レントゲンで吸血鬼であることが...)、バーでひとり佇んだりしていて、そんなしおしおになっても、とにかくずっと生きているらしい - なんのために?
そして最後に石の壁のなかに(数十年?数百年?)放置・幽閉されていたBenedettaが彼女を閉じ込めたのと同じ枢機卿によって「ひょっとして聖女なのかも」という畏れと共に解放され、汚れにまみれていたはずの全裸の彼女は少しも老いておらず、ちょうどその反対側で伯爵は...
お話はBellocchioによるフィクションだが、Benedettaは16世紀に実在し、修道院に13年間幽閉された「モンツァの修道女」 - Marianna de Leyva – の生涯から引かれていて、最新作の”Rapito” (2023)でも顕著だったキリスト教(がその教義のもとで支配し、その名のもとで為してきた悪業)への批判が炸裂している。
故郷ボッビオで撮っていること、前半後半それぞれに息子のPier Giorgioを起用していることからも『私の血に流れる血』、というときの「私」とはBellocchio本人だと思われるのだが、なにがここまで彼をキリスト教批判に向かわせるのか、”Rapito”イギリスでの公開時のトークでも本人が語っていた記憶が。ものすごく真っ当な宗教(的なもの権力、教条主義全般)に対する異議申し立てだったの。
という見方もあれば、聖女(聖なるもの)→ 吸血鬼(邪なるもの)→ ロシアの資産家(のっぺら)という歴史の流れのなかで淘汰されてきたもの、それでも残されているなにか(あるとしたらそれは?)、を概観する、というのもあるのかも。 修道院なのに、ずーっと生きにくい状態はどこまでも続いている。例えばこんなふうに、と。
[film] Obsession (2025)
7月23日、木曜日の晩、二子玉川の109シネマズで見ました。
邦題は『オブセッション 災愛』。
プロダクションはBlumhouseで、ホラーだと聞いていたし「災愛」なんていかにも、なかんじなのだが、出てくる人数少なめ、画面は地味で暗そうなので、この程度なら乗り越えられるのではないか、ってなんとなく。目を覆ったり口や頬を押さえたくなるような恐怖描写はないのだが、シンプルで後からじわじわ沁みてくる、80年代のB級風味がある。
作・監督・編集は元YouTuberのCurry Barker、これが劇場公開デビュー長編で、昨年のトロントの”The Midnight Madness”という部門でプレミアされている。
楽器店で働くBear (Michael Johnston)は幼馴染で同僚のNikki (Inde Navarrette)と付きあいたいと思っているが、なかなか言い出せなくて、ひとりうじうじ行ったり来たりを繰り返していて、彼女がクリスタルのネックレスをなくしたというので、替わりを買ってプレゼントしてあげよう… と地元の怪しげな雑貨屋に行くと、そこで紙の小箱に入った"One Wish Willow" - 「願いが叶う柳の枝」 - 願をかけてその枝を折ると願い - ひとつだけ - が叶うというブツを見つける。胡散臭いけどおもしろそうなので買って、軽いかんじでぽきっ、てやってみる。
そしたらだんだんに、やがてはっきりとNikkiが寄ってきて、自分に好意を持ってくれている、それどころか愛してくれているようで、家にも来て、ずっと一緒にいたい、とか言われて、あまりの急展開に驚きながらも自分が望んでいたことだったので歓んでいちゃいちゃべたべた過ごすのだったが、突然彼女が錯乱して怒鳴ったり、強い態度に出る - 自分が家を出たり彼女から離れようとすると – のが目立つようになる。
はじめのうちはNikki自身も我に返って後で謝ったりして、Bearもそういうものか、って思ったりしたのだが、家の扉を内側からテープでがちがちに留めて外に出られなくしていたり、を見ると、ちょっとこれは… になって枝を買ったお店に行って願いが呪いみたいに強すぎるやつなので元に戻せないのか、って聞いてみると、そんなのムリ、死ぬしかないよ、とか言われて..
素朴なお願いを、(素朴だから素朴に)お願いしたらちょっと効きすぎてびっくり恐いよう、って素朴に夢見た相思相愛が地獄の釜底にまで転がっていくドラマで、最後はやっぱりびっくりぼこぼこ血みどろの「そこまでやらなくても」になっていくのだが、そもそも愛とはここまで相手を縛って苦しめたりするものなのだ、少なくともそういう思いと紙一重の厄介な呪いみたいなもんなのだ覚悟しておけ、ということを109分かけて伝えようとしていて、でもこれなら90分くらいでも十分だったかも。
通常のホラーであれば、こういう呪いとか呪縛を解く、あるいはどうやって解くのか、に向けて主人公はしゃかりきになって動いていくものだと思うが、この映画の場合、もちろんそういう動きはしてみるものの、終盤は為すすべもなくやられて埋もれていくばかりで、この辺は気弱でなかなか愛を告げることができなかった最初の方の主人公の設定とも整合していて、つまりこの彼の場合はかわいそうだけどそもそもどうしようもなかったのね、で終わり(でよいのか?)。
画素の粗いデジタルで撮られたような暗めの籠ったような映像も、あんまり好きではないのだが、このテーマだとやはりそうなってしまうのか。
だから愛なんてさ、って軽く蹴っ飛ばしてどこかに高跳びしてくれることも期待したのだが、そうもならなくて、この辺はやっぱり律儀でまじめなのね、って思った。
7.29.2026
[film] Reign of Terror (1949)
7月16日、木曜日の晩、シネマヴェーラのAnthony Mann特集で見ました。
邦題は『秘密指令』。めちゃくちゃおもしろいフランス革命ノワール。Walter Wangerのプロダクションで、撮影はJohn Alton。
冒頭のタイトルでは”The Black Book”と出て、エンディングのタイトルで”The End of “Reign of Terror””って出るの。
フランス革命直後の混乱期、独裁 - 恐怖政治の準備を進めるMaximilien Robespierre (Richard Basehart)はDantonとか政敵を片っ端からギロチンに送りまくっていて、これに対抗する反乱軍の愛国者Charles D'Aubigny (Robert Cummings)のグループは地下に潜って暗闘を繰り広げている。
CharlesはRobespierreがパリに召喚したストラスブールの検察官デュヴァルをホテルで殺害して彼になりすましてRobespierreに近づくと、彼はこれから処刑する予定の市民の名前が記された”Black Book”が盗まれた、全権を与えるので探しだしてほしい、とCharlesに依頼する。”Black Book”の存在が市民に知れてしまうと独裁者として君臨することは難しくなるし、逆に反乱軍はこの本を手に入れて国民公会までにその内容を暴くことができれば、Robespierreによる恐怖政治 - “Reign of Terror”を止めることができる。
こうしてCharlesはかつての恋人Madelon (Arlene Dahl)の助けを借りながら魔法のBlack Bookを探そうとパン屋の奥とか地下を這いずりまわり、そこに絡んでくる爬虫類の策士Fouché (Arnold Moss)、捕らえられてしまう同志François Barras (Richard Hart)、いつでもどこでも、誰ひとり信じることができないなか、迫ってくる期限と包囲網のはらはらが最後のギロチン台に向かっていって…
フランス革命ものとか、ノワールとかジャンルなんてどうでもいい、とにかく革命の同志になって手に汗握るってこれよね、になるからー。
The Far Country (1954)
7月18日、土曜日の午後、シネマヴェーラで見ました。
邦題は『遠い国』、アラスカを舞台にしたテクニカラーの西部劇。アラスカで撮っているわけではないと(ぜんぜん寒そうじゃないし)。
19世紀の終わりのアメリカ、Jeff Webster (James Stewart)と相棒のBen (Walter Brennan)はゴールドラッシュの噂を聞いて牛たちを連れ、面倒な連中を吹っきったりしながら旅をしている途中、絞首刑の執行を邪魔したので地元の傲慢な自称判事Gannon (John McIntire)に目を付けられて、家畜を没収されたり脅されたり、GannonのパートナーのRonda (Ruth Roman)とか勝気な少女Renee (Corinne Calvet)に助けられたりしながら、どこに行っても騙されたり盗られたりの無頼の土地を渡っていくの。
困難を乗り越えていくなか、避けられない暴力の応酬から堪忍袋が膨れていくよくありそうな辺境開拓民たちのお話しなのだが、これは今の世であればJeffとBenのブロマンスとして仕上げられたのだろうな、というくらい彼らふたりの繋がりの濃さと切なさが際立って、最後の方、夜闇の中、遠くから響いてくる鈴の音がたまんない効果をもたらすの。
Thunder Bay (1953)
7月21日、火曜日の晩、シネマヴェーラで見ました。
邦題は『雷鳴の湾』。これもテクニカラーで、↑と同じような海底油田採掘をフィールドにした変則アドヴェンチャー西部劇 - 流れ者、よそ者がその土地起源の何かに手を出そうとして現地の者の抵抗にあったり対立したりしてざわざわしてどうにかなる/する、というドラマ。 そしてこれもJames Stewartが主演。
終戦後、海軍あがりの技術者(には見えない)Steve Martin (James Stewart)とJohnny Gambi (Dan Duryea)がエビの獲れるルイジアナの湾沿いに現れて、絶対油田が出るから、って近くの海の試掘をすべく地元漁師にとりあって石油会社のMac (Jay C. Flippen)からの合意も取り付けて、やり始めるのだが、人が集まれば騒ぎが起きてきな臭くなるし、漁師は漁場を荒らされるし、地場の船乗りは許嫁を取られてやけになっちゃうし、最後にはやっぱり台風がやってきて…
酒場で与太者共を網で一網打尽にするところとか、嵐の海のぐじゃぐじゃとかおもしろい見所はあるものの、外からやってきた開拓者が当然のように現地の人の反発を招いて、やりあいながらも最後は相手を丸めこんで自分のやりたいことをやり遂げるのって、今の視点で見るとアメリカのエゴ(開拓精神とか呼ばれる)のゴリ押しで、このやり方で世界中のリソースを都合よく自分のものにしてきたんだろうなー、って割とうんざりする。昨今は特に。 ふつうになんで? ってなることが多すぎ。
James Stewartの一見強面ではない柔そうな佇まいも、そういう辺りで活きるのだろうなー、とか。
7.27.2026
[film] Ce n'est qu'un au revoir (2024)
7月18日、土曜日の昼、ユーロスペースのGuillaume Bracの特集上映で見ました。彼の一番新しいドキュメンタリー作品2本だて。
ここ数年の日本の夏が酷い、というのは聞いて覚悟していて、今年のヨーロッパも同様らしいのだが、こっちのありえないのはとにかく湿気で、これが視界と汗腺をぜんぶ塞いで、過ぎ去ってくれるはずの夏をべったべたの最悪のにしてくれる。ホラーや怪談がこいつらに対抗できるものとは思えないのだが、Guillaume Bracの映画ならどうだろうか、って。
Un pincement au cœur (2023)
邦題は『リンダとイリナ』 - タイトルを直訳すると「胸を刺すような痛み」。 38分の中編。
フランス北部の、かつて炭鉱があった町エナン=ボーモンで、町を行き交う人はそんなに多くなくてみんなマスクをしている2021年のコロナ禍でのロックダウンの最中、公的機関からの依頼を受けて高校生のワークショップを開いたりしていると、LindaとIrinaという仲のよいふたりが目に留まって、彼女たちふたり(とあともうひとり)がどんなふうにくっついていて、一緒の時間を過ごして、どんなふうに離ればなれになるのか、を(コロナだから)近くに寄ることができないカメラが追っていく。
育った環境も家族も違うし、やがて別別になることは分かっているけど、一緒に踊れば楽しいし、ちょっと険悪になったら悲しいし、やっぱり今は別れたくなんかないし。でもそれが向こうからやってくる時の嫌だ、あと少しでいいから一緒にいさせて、の溢れてくる思いが去っていく夏模様のなかに描かれて、そこにFrançoise Hardyの”L'Amitié”が流れてくる。
ほーんと、なんの変哲もない夏のバイバイを、ここまで沁みるものにしているのはなんなのだろうか、と。
Ce n'est qu'un au revoir (2024)
↑と同時上映の64分の中編ドキュメンタリーで、↑のとは土地 - ドローム県 - も学校も若者たちも、撮影に至るまでの経緯も異なるらしいのだが、ずっと楽しく一緒にいた若者たちの、やがて迎える別れの季節を追って↑の作品との際立った段差はない。同年のカンヌのACID部門に出品されている。
邦題は『また会えるよね』で、このタイトルがすべて。直訳すると「これはただの「またね」に過ぎない」と。
寄宿舎つきの公立の学校なので、昼も夜もずっと一緒に暮らしているのでマットレス倒しも大騒ぎも腰が据わって揺るがないし、『よき谷の物語』にあったような川遊びも楽しい。彼らが普段、どんなふうに校内の施設で立ったり座ったり走ったり、どんなふうに校外で笑ったり遊んだりしているのかが、絶妙な粒感で捉えられていて、いくらでも見ていられる。
肉親の死や幼い頃からの家での辛さなどについて語る子もいて、これらの(小さな)声も集団生活の中で埋もれることなく、ちゃんとそこにある。あるよ、聞いているよ、っていう絶妙なカメラの位置とそこで持続する、こちらに声が届くまでの時間のありようについて。
その流れのなかでの、不可避でやってきてしまう「別れ」に対する態度って、「また会えるよね」しかないなー、って思うと、いまここにある夏も、そのすべてが愛おしいものにー。
これまで見てきたGuillaume Bracのフィルム、フィクションも含めて、人に向かう時の柔らかさ、人懐こさ - 人に出会いたいと願う人への眼差しの暖かさは一貫していて、そんな彼が少女たちのしばしの別れ、その節目に立っているのってなんて素敵なことだろうか、って。
船便はとりあえず着いて、なんとか作った床のスペースに箱は積まれて、向こうで買って運ばれてきた小さな本棚に開けられた箱からの数冊は並べられた。かんたん。 あと18箱くらいあるぞどうする。
今回、床スペースを開けるのに紙束を整理していて、もう何度もそういうシャッフルをしているので、80年代のStudio 200のチラシに、90年代のFilm Forumのチラシに、10年代のBarbicanのパンフに、古雑誌も含めてあれこれ入り混じっていておもしろくて飽きなかった。会社やめたら毎日これやって遊べる。