10.21.2026

[film] Le Procès (1962)

10月14日、水曜日の晩、イメージフォーラムで見ました。

英語題は”The Trial”、邦題は『審判』。監督、脚本はOrson Wellesによるフランス・イタリア・ドイツ映画、でも言葉は英語。
 
1962年、『市民ケーン』 (1941)がSight & Sound誌の「史上最高の映画」の一位に輝いた際、プロデューサーのAlexander SalkindがWellesに15本の古典小説の中から1つを選んで映画化しないかと持ちかけて、彼の選んだのがカフカの死後に出版された小説『審判』 (1925)。 4Kリストア版、エッジの効いたモノクロ。出口なしのどん詰まりの迷路がものすごく綺麗に精緻に生々しく目の前に現れるので必見。 あと、オルセー美術館になる前のオルセー駅が出てくるので美術(館)ファンも必見。
 
冒頭、Alexandre AlexeieffとClaire Parker(夫妻)によって作られたPin Screenによるアニメーションが流れ、『掟の門前』 (1915)がWellesのあの声で朗読される。「掟」に入ろうとしてやってきた田舎の男が門番に入れるけど、今はだめ、と言われてずっと待っているうちに老いてそのまま死ぬことになって、最期になぜ自分以外の人はこの門に現れなかったのか? と聞くと「これはお前ひとりのために用意された門だからだ」と言われてしまう。 自分のために用意されている、と説明されているのに自分が入ることを許されない不条理の寓話が入口で示される(原作では後ろのほう)ことで、覚悟しとけ、と。
 
Josef K (Anthony Perkins)が共同下宿のベッドで目を覚ますと、スーツ姿の男が2人いてKが「逮捕」されたのだと言うが、彼らは自分たちの身分も明かさないし、どういう罪状なのか、容疑なのか、も明かさず、更に部屋の向こうにKの職場の同僚が3人いて、なにかを探しているようで、でも追い払ったらいなくなって連行されることもなくて、なんなの? ってなる。(悪夢の続き、始まり)
 
彼らがいなくなった後、家主のMrs. Grubach (Madeleine Robinson)や、隣に住んでいて朝帰りしたBürstner (Jeanne Moreau)と話してみるが、なんだかよくわからず、職場にいくと上司から彼の十代の従姉妹と不適切な関係にあるのではないか、と疑われ、晩にオペラを見に行ったら捕まって法廷に連行されてしまう。
 
この先はいろんな人がいろんなアドバイス、というか勝手なことを言って、通り道抜け道はどんどん細く狭くなっていって、裁判を待つ大量の被告人とか弁護士のHastler (Orson Welles)とその看護婦(Romy Schneider)とか司祭(Michael Lonsdale)とか出てくるものの、容疑も罪状もなにひとつ明らかにされず、判事も法廷での裁判もないまま、なぜか「審判」だけは下されたらしく、処刑人に捕まって石切り場に連れていかれて…
 
おお昔に読んだ原作との違いでいうと、絶望しながら弱弱しく萎えて諦めて閉じていく小説のKに対して、映画のKは乱暴までは行かないがアグレッシブで反抗的で、簡単に他人の言うことには従わない、でも詰めが甘いというか次に行きたがってしまうせいなのか、「自分がどうだから、何をしたからこういうことになっているのか?」をきちんと問えないので、行く先々でぶつかったり、的外れなことになったりしているように見えて、最期はナイフではなくダイナマイトでぶっとばされないとわからない。(ぶっとばされてもたぶんなんか言っている)
 
でも、「自分が何もので、何をしているのか」について、身分証なし、人種とか職業とかを外して相手にわかるように語るのは難しい、というところで「逮捕する」と言われたらどうなってしまうのか、強制連行も収容もこういう流れのなかで起こって、誰もどうすることもできずに殺されていった – という戦前に経験した恐怖を踏まえた、ひとを裁く or ひとを裁くまでもなく連れていく、ということが許されてしまう恐怖と不条理。そして最近何よりも恐ろしいのが、「効率」とか「体裁」などを理由にこれらをすっとばして、とりあえず目の前から見えなくしまうこと。
 
アウシュビッツや原爆 - 不条理の先を行って狂っている - を踏まえて、「審判」を読み直し、ここまでのものにしてしまうのってすごい、というのと、この手の「審判」なら今日いくらでも転がっていて、許される世の中になってしまったなー、と。
 
同じ原作の映画版だと、Harold Pinterが脚本を書いたDavid Jones監督版(1993)を見てみたい。(たぶん見ていない)

10.20.2026

[film] PARKS パークス (2017)

10月13日、火曜日の晩、シネマリスの橋本愛特集で見ました。

もう約10年前の作品で、公開時はロンドンにいたので見れなくて、向こうであー見たい、と思ったことを思い出し、この特集での最終上映にどうにか滑りこむ。

2014年にバウスシアターがなくなり、オーナーだった本田拓夫さんが吉祥寺と井の頭公園を舞台にした映画を作りたいと思い、そこに井の頭公園の開園100周年という節目が重なり.. という官民共同(じゃないけど)のような、周囲からいろいろ被さってくるのはとっ散らかって恥ずかしいものになってしまいがち、の偏見を軽く蹴っとばす、素敵な音楽映画になっていた。 尚、この上映は先の8月に亡くなられた本田拓夫さんの追悼も兼ねて、とのこと。
(本当はFrederick Wisemanにドキュメンタリーを撮ってほしかったかも)

映画館が町と共にあって、そこで上映される映画が人を育てて、その人は必ず映画館に、その町に戻ってくる、という鮭の回遊みたいな話は、戻る先の映画館がなくなったらどうなってしまうのか… ということを切々と訴えたのがこの作品と次の『BAUS 映画から船出した映画館』 (2024)だったと思うのだが、だからいまこんなんなっちゃったんじゃないか!! ということはずっと思っている。町を形づくるものはなんなのか、という問い。 それは公園と美術館と映画館と図書館と本屋と劇場とライブハウス、なんだよ。文化が根を張って育っていくための苗床。ロンドンとNYをみてみ。

監督・脚本・編集は瀬田なつき、音楽はトクマルシューゴ、配給はboid。

吉祥寺のアパートに暮らす大学生の吉永純(橋本愛)は、恋人にはふられて卒業も危うくて、そこに陽気なハル(永野芽郁)が訪ねてくる。彼女は亡くなった父について小説を書こうとしていて、父の恋人がここに暮らしていたらしい、とアパートの写真をもってきて、純はすることもなかったので付きあうことにして、その恋人がその後に住んだ家にたどり着くと、既に亡くなっていた彼女 - 佐知子の孫だという時生(染谷将太)が出てきて、こいつも暇だったのでみんなで家のなかを探していったら、遺品の箱からオープンリール・テープが出てきて、再生してみると、ハルの父と佐知子が一緒に歌っているのが聞こえてきて、でもテープの音は途中までだったので、この歌の先をどうにかしよう! っていう話と、その曲を公園のフェスで披露しよう! っていう話が重なって、なんだか盛りあがっていくの。

ハルの父と時生の祖母はどうして別れちゃったのか、そういうどろどろした話はなし、悪い人は出てこない、恋愛もなし、3人がこれからどこに行くのかもわからない、公園と音楽だけで走りぬけていくミュージカルで、音楽を介して時を超えていろんな人たちが公園に集まってくるよ、きたよ、というおはなし。 これと交錯するかたちで家族史とここからの船出を描いたのが『BAUS…』 で、公園と映画館が吉祥寺という町を作った、それに関わったり通り過ぎていったりしたいろんな人たち、その盛衰を掴まえてきた映画という(メディアとは呼びたくない)でっかい反射板のようなやつについて。

簡単に音楽が人を繋いだり癒したりしないのもよかった。曲を作る、それを鳴らす、聞いてもらう、それを公園の光と風の中でやる、歌う。そこに浮かびあがってくるかつての恋人たちの姿 – PARKS。

約10年前、コロナが覆う前の、公園や花びらの輝度とか、人と人の間の距離のとりかたも、今とはちょっと違う気がする。自転車で抜けていく風のかんじもなんだか(気のせい)。コロナ後の『BAUS…』と続けて比べてみたかったかも。

テーマもスケールもぜんぜん違うのだが、それぞれに抱えていて大変な、アーケードとブティックを舞台にした”Golden Eighties” (1986)を - なんだかこっぱずかしくなるところも含めて - 思いだしたりした。

最後に流れる相対性理論の『弁天様はスピリチュア』から大友良英から牧野琢磨まで、公園で鳴る音を寄せて彼方に掃き散らかしたようなサウンドトラックもすばらしく豪華。

しかしBAUSもなくなり、大島弓子先生も描かなくなってしまったので、吉祥寺はどこかの遠い星のようになってしまったねえ。(ロンドンより遠いかも)

10.19.2026

[film] 旅籠屋騒動 (1939)

10月12日、祝日の月曜日の午後、シネマヴェーラの『映画を輝かせるために』特集で見ました。

この週末から上映作品が洋画系のから邦画系に変わっていて、自分の場合、洋画と邦画だと太陽と月くらい見てきたものも過ごした時間も違うのでだいじょうぶかしら、なのだが、今はとにかく見れるものをー。

『お伊勢詣り』 改題とあって、戦後にこのタイトルに変わったらしい。
監督は森一生、脚本は依田義賢、56分。製作は新興キネマ京都、というところで、当時吉本興業から移籍した人気の関西芸人が大勢出ていて、ふつうの時代劇というより、後半はほぼ関西漫才のプロモーションVのようにも見える。

江戸時代のお伊勢参りで賑わう街道沿いの旅籠が舞台で、そこの主人(伴淳三郎)が病で臥せっていて、でもなかなか死ななくて、そこのバカな長男がやってきた女中に惚れてばたばたしているのと、そこにやってきた偉いお殿様に粗相をして、殿様がわしを笑わせたら許してやるわ、っていうので、そこにいた連中が代わる代わる座敷に出ていって「漫才」らしきものをするの。疎いのでよくわからないのだが、演者が前に出ていって、こちら(カメラの方)を向いて、こちらを意識しながら会話らしきやりとりとか芸っぽいものを披露して、おもしろいでしょ? ってやるのが漫才なのか、殿様の前には3組出てきて、でもどれもなにがおもしろいのかさっぱりわからないのが、おもしろい、といえばおもしろい。ネタがどう、容姿がどう、ではないし、彼らの話を際立たせるようなカメラの角度とかアップとかカットとか照明とか、工夫もなんもなくて、ただ殿様の正面に出ていって、なんかピンポンで喋って、失礼しましたー、を流して終わり。これらをほぼ素で流しているように見えて、漫才のネタとか内容(1週間経ったら完全に消えた.. くらいの)より、そのなんの作為もない垂れ流し技の強さ、斬新さが印象に残っていたり。

ただ、あんなしょうもないぽんこつ殿様の言いなりになる漫才師たちと、いまの政権の太鼓持ちで利権も含めてべったりの吉本は、この頃からずっと繋がっているのだな、って思って、あーあになった(ここはあまり笑えない)。


マリヤのお雪 (1935)


10月12日、↑のに続けて見ました。 76分。 英語題は”Oyuki the Virgin”…

監督は溝口健二、35mmフィルム上映で、フィルムの状態が音声も含めて結構ぼろぼろだったので次はデジタルで見たい。

川口松太郎の舞台劇「乗合馬車」が原作で、モーパッサンの「脂肪の塊」(1880)を西南戦争の時代に翻案した作品で、西部劇、と呼んでよいのかどうか。

西南戦争の戦火が迫ってきたので、乗合馬車で町を出ることにした一団がいて、乗合なので上流の人たちから酌婦おきん(原駒子)とお雪(山田五十鈴)まで揃っていて、上流の人たちはなんで彼女たちのようなのが? って蔑んでいて、でも彼女たちは黙って相手にしない。そのうち官軍の隊長朝倉(夏川大二郎)に捕まって、馬車の面々は彼女たちを差し出すように置き去りにして、仕方なく自分たちの店に戻ってきたふたりは、怪我をした朝倉と再会して…

フィルムはあんなにぼろぼろなのに、お雪の立ち姿と桜の散っていくさまだけは白く浮きあがって神々しくて、まるで宗教画のようで、なんだこれは、になる。翌年の『祇園の姉妹』 (1936)もそうだけど、この時期 - 当時18歳 - の山田五十鈴のとんでもなく、突き抜けてそこに生きているかんじ、ってなんなのか、っていつも、改めて思うのだった。

[film] Digger (2026)

10月11日、日曜日の昼、二子玉川の109シネマズのIMAXで見ました。

特殊メイクでぶよぶよしわしわ不格好なTom Cruiseが明らかにロボットなぼろ猫をなでなでしながら地球資源起因の大規模危機について偉そうな連中とわーわー激論してさあ大変! みたいな予告だけで、悪ふざけにしてもこんなのぜったいムリ、見るもんか、だったのだが、Mark Cousinsさんが自分にとってブレヒトやマックス・ベックマンに近い、オーソン・ウェルズも気に入ったと思う、と言っていたとか、Neil Youngも絶賛、とかいうので見ることにした。思っていたようなさいてーの映画ではなかったが、描かれた先の世界がさいてーであることには変わりない。ほーらこんなにおかしいだろ? というパロディも含めて笑わせる映画というより、根にある目線はものすごくシリアスで暗いやつ。

もう公開から時間が経っていろいろバレ始めているのでそのまま書くけど、まだ知りたくないひとは以下、読まないほうがよいかも。見た後だと割とどうでもよくなるような小細工(← ほめてる)ではあるのだが。

監督Alejandro González Iñárritu、撮影Emmanuel Lubezki、プロダクション・デザインはDennis Gassner。 いちおうWarner Bros.としての最後の映画作品になるのだそう。

父親の代からテキサスの石油で財をなした”Digger” Rockwell (Tom Cruise)が窓の向こうに壮麗な景色が広がる豪邸のベッドで目を覚まして瀕死の老猫Maggie(『熱いトタン屋根の上の猫』のマギーだよね)をよしよししてから、彼の会社が開発を強行したアラスカとグリーンランドの石油掘削基地で進行している深刻な事態について部下から緊急の連絡を受けて、科学者Ganesh (Riz Ahmed)も間違いなくやばいと言っているし、肛門のガンで死にそうなアメリカ合衆国大統領(John Goodman)以下宗教関係者も含めて喧々諤々の議論の末に、やっぱりこれはかなりやばいぞ、ってなったところで、ここまでの一式は、演劇“Fossil Fools”の舞台セットで、ここまでのやりとりは本番直前のドレスリハーサルであることがわかる。

間もなくこの舞台の初日を迎えようといていて主役のDiggerを演じるCurtis Markson (Tom Cruise)は、20年前の初演時からこの役を演じているので、テーマや演技・役のあり姿については自信たっぷりなのに、事あるごとに女性の若手演出家と衝突してどうにも居心地が悪く、そんな時に、ジャマイカの空港から飛びたった娘の飛行機が消息不明になっていることを知ってあれこれがたがたになっていく。

ここで楽屋に貼ってある(結構長い時間映っていた)John Cassavetesの”Opening Night” (1977)とか、同じIñárrituによる”Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance)” (2014)のMichael Keatonを思い起こしたりもするのだが、Gena Rowlandsのように劇を改変してしまう度胸はないし、Tom Cruiseはあの時落ち目だったMichael Keatonとも違うので、主演の苦悶を通して演劇のありようを探ったり問うたりするようなものでもないのか、と思って。

リハーサルの舞台袖にいて、Curtisの娘を捜してあげましょう、という気弱そうな青年Kenny (Jesse Plemons)が申し出て実際に探しだしてくれて、実は彼がこの舞台のプロデューサーで、実在したDiggerの親戚だったと…

政府高官と富豪を巻き込んだバカバカしい環境危機茶番「劇」として、上演後は大喝采 – ただしよく見ると客席には動いていないマネキンがいっぱい – で、Curtisもやり遂げたぞ、って英雄伝説を更新するそんな劇場の外に広がっているのは ー。

“Don’t Look Up” (2021)のように茶化そうが、この映画のようにメタ演劇にしてDigしてみようが、世界の危機は止まらないし、止めようがないだろう、どうしてかというと.. っていうのを二重三重くらい念を入れて語って、劇場から出た人たちの家路までこんなだぞ、っていうのだが、そうなってもそんな時に演劇を見る人たち、演劇を作る人たちには響かないのだろうよ、って。最近のチケット代のあがり方をみると、演劇すばらしいい! なんてあまり…

Tom Cruiseはふつうによいのだが、あんなふうに体型くずして老いた無様な姿を晒さないと- この映画に限った話ではないか - こんなメッセージも受け取って貰えないって、これはこれでやばいような。だーかーらーずっとやばいって言ってるだろ、ってぐるぐる。

環境問題とAIと富豪問題、これらをほんとどうにかしないと、Warnerどころか映画そのものがなくなるよ。

あと、地球温暖化、環境問題について本当に頭にきて悔しくてたまらないのは、こいつら金持ちを嗤ったりどうにかすればどうにか、なんて話ではなくて、連中の利益や高笑いの反対側でずっと生きてきた動物たちが殺されたり種を絶たれてしまったりすることなんだよ、だから地獄におちろ!消えろ!って(ずっと念じている)。

10.16.2026

[film] Toute une nuit(1982)

10月10日、土曜日の昼、日仏学院のChantal Akerman特集で見ました。

邦題は『一晩中』、英語題は”All Night Long”。上映前と後にMarilyn Wateletさんのトークがあった。

Marilyn WateletさんはChantalの映画プロデューサーで、15歳の頃からChantalと一緒に映画館に入り浸っていた彼女の盟友で、Chantalの短編”Family Business: Chantal Akerman Speaks About Film” – アメリカ西海岸に”Golden Eighties” (1986)への出資を求めて旅をした時のどたばた旅コメディ – に出てくるひと。ロックダウン中の2020年6月6日、Chantalの誕生日を祝ってYouTubeで特別公開します! ってtweetしていたのも彼女ではなかったかしら?

この『一晩中』も、ものすごく好きな作品で、一晩中だって見ていられるやつ。これが最初の撮影監督作品となったCaroline Champetierによる夜の闇、影の描写 – その奥で蠢いているようななにか - がどこを切っても美しいとしか言いようがない。冒頭のEdward Hopperの濃赤の陰影 – Hopperだよねえ、と思ったら後のトークでも言及されていた。

ブリュッセルの街中、暑そうな夏の晩 - 開いているドアや窓からいろんな音が響いてくるなか – いろんな人々が家に入る、家から出る、道路を横切る、抱擁する、追いかける、何やら言い合う、などなど、アルコール・ドラッグ・セックス・バイオレンス、夜の物語というと付いてくるこれらをとりあえず視界から外して、夜になると自分が何をしているのか、何をしたかったのか、わからなくなってごそごそうろうろを始めてしまう困った人々が右往左往して横切っていくさまを描いて止まらない。

夜は家に帰って寝るもの – 異議なし、だけど、寝れない、寝れなくなったり、誰かに会いたくなったりしてしまうことも動かしがたい事実で、なんで寝れなくなるのか、どうしたら寝れるようになるのか、などそれぞれ悩みを抱えていてもいなくても、なんだか人は建物の、部屋の中や外で集まったり散ったりキスしたりしたくなる – 「なんでどうして?」はない。理性はどこかで眠ったまま。 そんな総勢80人の夜中を抜けて空が明るくなるまで。

Marilyn Wateletさんのトークでも出てきたが全体として見るとPina Bauschのダンスのような、日々の小さな窓から見える動きから何かの箍が外れて、個々の動きや抱擁が背景も含めて制御できない大きなマスのうねりとなって押し寄せて元に戻れなくなっていく、その説明できない動物たちの、でも深く頷いて感動してしまう何かがやってくる。 この「やってくる」「押し寄せてくる」たまらないかんじとか。それが朝の光のなかに冗談のように溶けて散っていくかんじとか。

この後の”J'ai faim, j'ai froid” (1984)も” Portrait d’une jeune fille de la fin des années 60 à Bruxelles” (1994)も、この舞台設定、シチュエーションの変奏というか、ここから流れでてきた少女たちの朝までバージョンのようにも見えるし、このひとつ前の”Les rendez-vous d'Anna” (1978) - 『アンナとの出会い』から、として見るとAnna個の孤独な声、彷徨いが薄まることなく滞留し凝集するように厚く重ねられていくよう(Aurore Clémentも続けて出てくる)だし、この群れの声にならない動き蠢きは、ドキュメンタリーの”D'Est” (1993) - 『東から』の寒気のなか立っている人々の間からも聞こえてくるような。短編でもフィクションでもドキュメンタリーでも、彼女はこんなふうに世界と向かいあって世界を作りあげようとする。そして、この世界まるごとの静かでやかましいざわめきは、”Jeanne Dielman, 23 quai du Commerce, 1080 Bruxelles” (1975)のあの家、あの台所から鳴り始めたような気もする。

10.15.2026

[film] J'ai faim, j'ai froid (1984)

10月9日、金曜日の夕方、日仏学院のChantal Akerman特集で見ました。
邦題は『おなかすいた、寒い』、英語題は”I'm Hungry, I'm Cold”。

オムニバス映画“Paris vu par...” (1965) - 『パリところどころ』の20年周年記念で製作された” Paris vu par... 20 ans après” (1984) - 『新パリところどころ』のなかの1本、最初のエピソード。 Philippe Garrelなど6人の監督のうちの1名(唯一の女性監督)として参加して作られたモノクロ、17分の短編。

ブリュッセルからパリに出てきたふたりの女の子(Maria de Medeiros, Pascale Salkin)が一緒に街中を彷徨い、おなかすいたので、カフェでパンとオレンジジュースをもりもり食べて逃げて、更におなかすいたので、レストランで一緒に歌を歌ったらご飯を奢ってもらって、その男性のところに転がりこんで、ひとりは彼と寝て、もうひとりはひとりで、というそれだけ。 ふたりの少女の冒険でもなく、初体験でもなく、ちょっと遠出してきて、おなかがすいて、寒かったからなんかした、というそれだけの行動、ふたりの会話、それらの懲りない反復を捕らえた作品。 家庭や規範や男性からこんなにも自由である、ということを街をぶっとばすこともなく、こんなにも軽やかに、かっこよく描けるなんて。

『街をぶっ飛ばせ』 (1968)がそうだったように背後でがしゃがしゃ鳴っていなくても、映像だけでじゅうぶんパンク、としか言いようがないやつなの。


Portrait d’une jeune fille de la fin des années 60 à Bruxelles (1993)

邦題は『ブリュッセル、60年代後半の少女のポートレート』、英語題は”Portrait of a Young Girl at the End of the 1960s in Brussels”。

“Tous les garçons et les filles de leur âge” - 「彼らと同年代の少年少女は皆…」 という思春期をテーマにしたTVシリーズの1本として製作された。長さは約1時間、予算は約540万フラン、撮影はスーパー16で、撮影期間は18~23日、メインテーマは青春、1960年から1990年の間のいずれかの年代の前半、中間、後半を選択し、その年代の音楽を用いたパーティーシーンが含まれること、など変てこな制約があり、Chantalの作品の他にはClaire Denisの” US Go Home” (1994)や、Olivier Assayasの” La Page blanche” 後で長いバージョンの”L'Eau froide” (1994) - 『冷たい水』になる、など。見たことあるのもあるけど、ぜんぶ通しで見たい。

1968年4月のブリュッセルで、学校に行きたくない15歳のMichèle (Circé Lethem)はパリから出てきた20歳のPaul (Julien Rassam)と道端で知り合って、映画館でべたべた過ごして、彼とは寝たのかどうしたのか、夜になるとDanielle (Joëlle Marlier)と一緒にパーティに参加して踊って、朝に原っぱをずーっと歩いてどこに行こうかー。

パーティでのダンスシーンは、翌日に見た”Toute une nuit” (1992) - 『一晩中』のそれと同様、Pina Bauschぽさがたっぷり。相手に合わせたり導いたりするダンスというより、どうしようもなくひっついている、ひっついてしまって離れなくてちょっと困った–でもやめられないかんじ。

『おなかすいた、寒い』から(時代は遡るけど)約10年経って、ここでもふたりの少女が、家出ではないものの、「おなかすいた、寒い」的なところでひたすら彷徨い歩いて踊って喋って朝を迎える。そんなポートレート。なにも背負いこまない、明日のことなんて知らない、その断面のなかに現れる顔 - 少女たちの像。

ここから後、『囚われの女』 (2000)や『オルメイヤーの阿房宮』 (2011)といったやや重めの文芸(?)大作になっても、テクスチャーは異なるものの、女性(の身体、言葉)がなんで、ここに、こんなふうに、なきゃならんのか? とか、二度と戻るもんか、といった生理・身体的な苛立ちとそこからの逃走は続いているように見える。

あと、少女のポートレートというとMarguerite Duras(の少女時代のそれ)を思い浮かべたりもして、両者の違いを見ていくのもおもしろいかも。場所(土地)、熱、声のありよう、ぜんぶがあまりにも違うし。

この後、斉藤綾子さんによるレクチャー『アケルマンと少女たち - アケルマンにとって60年代を振り返ることとは: 映像と感情の記憶を描くこと』があって、途中までしかいられなかったのだが、とても示唆にとんだ、あれこれ繋がってくるおもしろい内容だった。

10.14.2026

[theatre] チャリング・クロス街84番地

10月8日、木曜日の晩、東池袋のあうるすぽっとで見ました。 劇団昴による公演。演出は菊池准。

原作はHelene Hanffの“84, Charing Cross Road” (1970)、邦訳は江藤淳による『チャリング・クロス街84番地』(中公文庫の)で、自分もここから入って、サンリオ文庫から出ていた『ニューヨーク、ニューヨーク ニューヨークっ子のN.Y.案内』は自分がNYに行く前から最良のNYガイド本だったし、ロンドンに行ってからは”84”の英国版のハードカバーの第二版とか、彼女の別の小説のサイン本なども手に入れた。(まだどこかの箱から出てきてくれない)

映画版は、David Jones監督による英国映画 - ”84 Charing Cross Road” (1987)という、Anne BancroftとAnthony Hopkinsの主演(他にDoelの妻役でJudi Dench)のがあり、よい映画だと思ったけど自分のあたまの中で組みあげられたあの本のイメージたちとはちょっと違ったかも。

演劇版は、James Roose-Evans脚本・演出により1981年に初演されてWest Endまで行って、1990年まで英国をツアーして、その後2015年からも演じられていて、とにかくずーっと人気があるようで、今回の舞台版もそれをベースにしている。

NYのへレーンはマンハッタンの東の上の方の凍てつくアパートにいて、古書店Marks & Co.があった場所はいまではいつも混み混みのマクドナルドになっている。ここでは、Grand Big Macというのが出ていた時期があって、何度か懲りずに食べては吐きそう、を繰り返した記憶が。

原作はそんなアメリカとイギリスの2地点を行き来した往復書簡集で、手紙のやりとりなので時間にも場所にもギャップがある。

舞台の左手は高くなっていて、そこがNYのへレーン(一柳みる)の書斎で、右手が低くて、そこがドエル(金尾哲夫)たちの働く古書店Marks & Coの店内で、左側でへレーンが自分の手紙を読みあげると、それは右手のドエルに届いて(聞こえて)いて、ドエルが返事を読みあげるとへレーンにも直に届いていて、その返信には古本もついてくるので、わあってなる。 本を読んでいくときにはページめくりの時間差があって、それがよいのだが、舞台版のテニスのような卓球のような右左のやりとりも楽しくて、時間が進むにつれて近くて遠くて、どうしても届かない距離のもどかしさ、切なさがやってくる。手紙でしか知らない人が突然いなくなってしまうことのぽっかり空いた日々の隙間とか。

あとは、セシリーやメガンといった、書簡のやりとりでは少ししか出てこなかった彼女たちもそこにいて、それぞれの戦後を生きていて、大変だったんだろうな、って思うところとか。

本との違いでいうと、原作はふたりの書簡のやりとりも楽しいが、英国の古典への最良のガイドでもあったこと - 最良、というのは彼女の手紙を読むと、ああこれ読みたいかも!ってお腹が鳴ること。サミュエル・ピープスもジョン・ダンもラム随筆もウォルトンもクイラー・クーチも、翻訳があれば読んでみるようになったし、ロンドンの古書店や古ペンギンでもあると手に取るようになったし。(ここにシェイクスピアが出てこないのはなんで?アメリカでもふつうに手に入っていたから?)

夢に見た英国に行けなかったへレーン、直接出会うことが叶わなかったへレーンとドエル、でもこうして手元にやってきた古書たちを抱きしめ、わたしにとっての英国はここにあるのです! っていうくだりが本では大好きなのだが、舞台版でそこがないのはしょうがないか。

あとは実際にロンドンで古書店に通うと、そこの書店員の人たちって博識なのは当然として、メールのやりとりだけでもとにかくやさしくあれこれ教えてくれて、それも一軒二軒の話ではなかったので、そういう文化なのかも。日本の古書店もそうなのかもしれないけど、そういうところには巡りあっていない。

帰国してからはWebで注文したりするのだが、それでもオーダー確認の際に、こんなのもあるけど、まだWebには出していないけどこんなのどう? …など、機械ではなく教えてくれたりして、ありがたいの(除.お財布)。

あと、値段感とか。いつからはわからないけど、古典の古書って高いのはとんでもなく高くなってしまって、手に届かないのも多い。劇中でヴァージニア・ウルフの「一般読者」 - “The Common Reader”のことね – が2冊で$2とか言っていたが、これのちゃんとした2冊揃えなんて、いまなんて軽く£800超えるのよ。ウルフの初版本なんて、軽く£2000~4000くらい。誰に文句言ったらよいのやら。