11.06.2026

[film] 祇園の姉妹 (1936)

10月27日、火曜日の晩、国立映画アーカイブで見ました。これTIFF?

読みは「ぎおんのきょうだい」。 監督は溝口健二、脚本は依田義賢、製作は永田雅一、キネ旬報の第1位になったり1959年の日本映画60年でも2位になったり。

京都の祇園で芸妓をやって働く姉妹 – 情に厚い姉・梅吉(梅村蓉子)と、現代的な妹・おもちゃ(山田五十鈴)がそれぞれ、だめな男、傲慢な男、嫌な男たちに好きなように玩ばれて、痛めつけられて、姉はオトナなのだが妹はふざけんじゃねえよ!ってぶち切れてパンクなおもちゃがかっこよいし、この怒りの鳴りが90年後の今もふつうに通用してしまうすごさときたら(半分ほめてない)。

自分がこれを始めて見たのは2003年、NYのJapan SocietyでSusan Sontagの選ぶ8本の日本映画特集があって、そのオープニングがこの作品(あとの7本はWebを調べれば出てくるけど、ふうん、なかんじ)で、彼女が上映前に壇上でお話しをしたの。結構興奮した早口でついていくのが大変だったが、とにかく山田五十鈴のすばらしさ、強さを讃えていたのが印象に残っている。 当時は愚かだったのでそんなピンとこなかったのだが、今見るとラストの山田五十鈴の怒りの表現は本当にすさまじくて、自分が怒られているのだ、って思ってしまう。


10月31日、土曜日の午後にここの7階展示室での企画展 - 『没後70年 映画監督 溝口健二』の関連企画で木下千花さんによるギャラリー・トーク 「松竹時代」があって、その中でこの作品の検閲について言及されていて、とても勉強になった。

もとの未検閲版は95分、検閲で3分56秒切られて91分、でも現在残っている版の長さは69分。これは再映時 -「装ひ新たに」という宣伝と共に10箇所程切られ続けてきた、という、その検察官の「風俗ヲ害スル虞アルモノ」 に対する感受性、その目線の腐って濁っていやらしいことったら、本当に気持ちわるいし、そのマインドセットは今もふつうに受け継がれているのだと思う。上の言うことは無反省に従順に受け容れるくせに、こちらの申し立ては柔らかく受けとめつつ絶対きかない、とか。 某興行会社への3億円だって、根はおんなじで要は国民を根っからバカにしているのよ。

それにしても失われてしまった『浪速女』が見たいよう。


瀧の白糸[デジタル復元版](1933)


10月31日、土曜日の夕方に、国立映画アーカイブで見ました。
TIFFなんてどうでもよいけど、このチケットだけはなんとしても取りたい、と28日の正午のオープン時にアクセスしたのだが、席を確保しても確保しても空振りするので、なにこれ? だった。

Wikiに書いてある上映時間は88分なのだが、1999年にフィルムセンター(当時)が国内の複数のバージョンを元に101分の最長版を作成して、それをより自然な見え方になる20fpsでデジタルに復元したら122分になった、と。確かにサイレントにありがちなカクカクした動きがなく、とてもスムーズかつしなやかに流れていく白糸だった。

そんな記念上映だからか、伴奏は弁士、ピアノ、鳴物、三味線の4人編成バンドでエッジが効いてて豪勢で、ライブとして怒涛の完成度で、ぜんぜんサイレントではないようだった(←褒めてる。けど、まったくのサイレントにしたらどう見えるのかも見たい)。

原作泉鏡花、監督溝口健二、製作は入江ぷろだくしょん。
女水芸人の瀧の白糸(入江たか子)と馬車の馭者だった村越(岡田時彦)が出合って一瞬で恋におちて、金がなくて学業を続けられない村越のために彼女はせっせと仕送りしたり、若い芸人ふたりを駆け落ちさせたり、自らの身を削っていったら自分が狙われて、そうして引き起こした殺しの裁きの場に現れたのは(白糸の援助を受けて)検事となった村越で…

厳しい社会の掟、法の前に引き裂かれるふたり、この世で叶わぬ恋ならせめてあの世で、に向かうしかないふたりの悲劇、残酷さはこの後の溝口作品にいくらでも登場するテーマなのだが、(今回のポスターにあったように)水芸の真ん中で笑っている彼女を見ると、なんだかたまんなくなる。彼女が旅芸人であり、芸能とは、というところも含めると…

その後の映画化、1952年版(京マチ子 - 森雅之)、1956年版(若尾文子 - 菅原謙二)は最後ふたりが結ばれる話になっているのか。 あと、1973年のTVドラマ版 – 監督稲垣浩、脚本依田義賢、主演岡田茉莉子(岡田時彦の娘)- 田村正和のも見たいなー。

11.05.2026

[film] 女が階段を上る時 (1960)

10月30日、金曜日の晩、東京国際映画祭(TIFF)をやっているTOHOシネマズシャンテで見ました。

今回のTIFFは、これと日仏でやっていたユーセフ・シャヒーン特集と、国立映画アーカイブでやっていた溝口健二特集、だけだった。
 
一応上映される作品のリストを見て、来日するゲストも見て、スケジュールも見たけど、別にいつも行っているところで見たいもの見ていればいいや、になってしまった。
今回の映画祭でしか見れない、見ないとそれきりになってしまう作品、も多分あるのだろうが、それを言うなら映画祭外でこの国に入ってこない/見れない作品なんてふつうに山ほどありすぎて、古本と同じく一期一会でいいや、になっているのと、とにかく異常なスポンサーの数、支援したくもないスポンサーのための映画祭、市場の呼び込みのような誘導 - だってお祭りなんだから、なのだろうが、あの空気に耐えながら映画を見る気になんてなれないの。 そこまで映画を愛していないのかも。
 
「日本映画クラシックス」部門で世界初上映となる4Kデジタルリマスター版。確かに画面は黒が深くてすごくきれい。
監督は成瀬巳喜男、ストーリー/脚本/製作は菊島隆三、撮影は玉井正夫、音楽は黛敏郎。
 
『女が階段を上がる時、それは女が銀座の夜に花開く時… 』(Wikiにあるあらすじ)- というフレーズにのって、銀座のバーの雇われマダムの圭子(高峰秀子)が階段を上がると、そこにはマネージャーの仲代達矢がいて、沢山の女給がいて、中村鴈治郎(実業家)とか森雅之(銀行支店長)とか小沢栄太郎(利権屋)とかの重要顧客がいて、そんなでもない加東大介がいて、独立をめざして他のバーにいったユリ(淡路恵子)とかもいて、バーが開いているときは華やかな社交場(ていうの?)でみんな笑顔なのだが、そこを離れると男たち女たちそれぞれのどす黒い欲とか思惑が渦巻いて、悪口陰口泣いたり言い寄られたり、それぞれに大変で、圭子の周りだけでも、日々晩御飯を食べよう、って言い寄られては断り、疲弊したユリが自殺したり、優しくしてくれた加東大介と再婚するか.. までいって嘘だったことがわかったり、ずっと思っていた森雅之と彼の転勤前に強引にやられてしまったり、彼女のリビング(階段手前)の様子はなかなかひどくて、そんなになっても彼女は階段を上がるのだ、という女性映画。
 
女性映画。 こんなふうに接客業をする女性が直面するであろう裏側の苦難困難哀しみ、そのループをひとつの世界として描いて、その搾取のありようったら酷すぎ、なのだがこれを、この映画を作ったのはほぼ男性 - スタッフで女性は衣装の高峰秀子くらい - なので、その構造を明らかにしたからと言って、男性にとってどこまでも都合のよいものでしかない(あの駅で見送られるラスト)ように見える。これを見た大多数の男性は自分には、自分のやっていることとは関係ないかわいそうになーって思っておわり。
 
溝口が『祇園姉妹』や『赤線地帯』で描いた逃げようのない搾取空間や男性による明白な加害・暴力等、ではなくて、逃げたければ、辞めたければいつでも、になっている分、質が悪くてどうしたものかになる。今もこういう世界はある、いまのリアルと繋がっている、という点で評価してよいのかもしれないけど、こういうところにやってくる男性の女性に対する意識って、ぜーんぜん変わらない、変わっていかないよね。痴漢が減らないのと同じで。これでいいの? おかしくない?
 
高峰秀子が成瀬の映画で演じてきたにっぽんの不幸な女性のありとあらゆるヴァリエーション、これらが今もぜんぜん、なにひとつ変わっていないのだなぜならー、ということを細部まで感じて思い起こすために彼の映画はあって、これからも見られるべきだとは思うものの、もういい加減疲れてきたかも。

11.04.2026

[film] ゴジラ -0.0 (2026)

11月3日、文化の日の晩、109シネマズの二子玉川のIMAXで見ました。
(なんかむかむかしているので先に書いて片付ける)

英語題は”Godzilla Minus Zero”。『ゴジラ-1.0』(2023)から2年後の世界を描いた直接の続編で、監督・脚本・VFXは前作と同じく山崎貴。
NYFFでプレミアされて、英Sight and Sound誌の最新号の表紙にもなっていたり海外での注目度も高そう。 以下、ネタばれしていま。

前作は終戦によりすべてを失って「ゼロ」になった日本がゴジラの登場により「マイナス1」になって、大戦の特攻で死ねなかったりした「マイナス1」の連中が掛け算で最後どうにか「1」にもっていく... そういう話だった。では今回の「マイナス0」とはなんなのか? ただの「ゼロ」とはなにがどう違うのか、など。

最初に宇宙から落ちてきた隕石が周囲の生き物をぱくぱく取りこんで一首の竜の「ギドラ」が生まれて暴れだし、災害対策を担当する機関の野田(吉岡秀隆)のところに話が持ちこまれ、管轄の米軍GHQは人は出さないけど機材は出すよ、って借りた戦闘機で爆撃したけどギドラには効かず、新参の気象学者の青山(長澤まさみ)の「プランB」で雷を落としてみたら黄金の三つ首のキングギドラに変態してどうしましょう… 更にゴジラまで蘇ってあらあら… というのが前半。

ギドラの正体を探る生物学者の村上(田中泯)は原爆で家族を失った苦しみと痛みを抱えながら、ギドラに対抗できるのはゴジラしかいない、ゴジラをギドラのところに持っていくには、ってパイロットの敷島(神木隆之介)とゴジラの細胞と共鳴できる妻の典子(浜辺美波)を使うしかないのだ、って(ボディホラーの方に振れたらおもしろくなったであろうに)。

制御不能に思える強大な力、それによる破壊に対し、人間がいかにして立ち向かい、コントロールできるところまで持っていくのか、という問いに対して、過去のシリーズが怪獣同士の本能とか生存競争、の辺りに任せていたところを人間が、日本人がどうにかするのだ、というのをコントロールできなかった原爆でマイナス1になった村上が考えて実行しようとする。

敷島はギドラの対応の最初から関わっていて、でも典子と娘の明子との生活を優先したいので、本当にこれを最後にしたい、これで数千人の子供たちを救うことができるのなら、とおいおい泣きながら作戦に同意するのだが、この辺からものすごく気持ち悪くなって自分はのれなかった。止めようのない何かがあって、でも身近な家族を守る、救うために立ちあがろう、って戦争や軍拡に向かう時に国が使ったロジックやスローガンといったい何が違うのか。 そしてあのラスト、米軍が追ってくるなか、やっぱり家族3人一緒でいよう、とかも今の与党の家族の方針とか徴兵の考え方に寄り添うものとしか思えない。

こーんな気持ち悪いことになってしまうので、断固軍縮で反核で! ならわかるけど、今回のはそっちの方にいかない。 海に消えたゴジラを冷戦に向けた最終兵器として保全・活用する決断をした米軍と、その方針に日本政府は従って足並みを揃えていくしかない。その流れで次作はあるのか… ヒットしたから絶対あるよね..

ドラマの筋、情念の流れとして、最後は村上がゴジラやアメリカと刺し違えるのかと思ったらそうはならないし。途中からこれは”Digger” (2026)みたいにぜんぶ田中泯の舞台でした.. だったらおもしろいのに、と思ったのだがそれもなかったし。

あと、どうでもよいけど、エキストラで逃げたりしている日本人みんな結構太っているよね、孤児施設の子供たちの肉付きも割とよいし、銀座和光の屋上でがんばる政府の人たち – あれで吹き飛ばされないのも不思議だけど、いつの間にかみんな包帯したり絆創膏していたりとか、あのオレンジの革ジャンはなに? とかそういうあたりでシラけてしまった。あと芝居 - 台詞のやり取りが全般にぜんぶださいし。

怪獣同士が戦うシーンは、IMAXで増幅された迫力はあるけど、流れがないというか。とにかく前作も今作もゴジラが不格好で不細工すぎて、そこにちょこちょこ人間たちが挟まってくるのがつらい。 怪獣たちの絵としてはアメリカのMonsterverseの”Godzilla” (2014 film)と”Godzilla: King of the Monsters” (2019)あたりのが断然好きだったかも。

[film] The Ozu Diaries (2025)

10月29日、木曜日の晩、ル・シネマの7階で見ました。

昨年のヴェネツィアでプレミアされ、同年のTIFFでも公開された小津安二郎の評伝ドキュメンタリー。
脚本・監督・編集はアメリカのDaniel Raim。 139分。

本作の上映に併せて、小津の作品も日替わりで上映されていたのだが、昼間なのでほぼ見れていない。
この秋はTIFFで溝口を見れて、ここで小津も見れて、それだけで十分なはずなのに、なんだか落ち着かないねえ。(落ち着け)

小津の映画(のどんなやつでも)を最初に見た時の「なんか変なものを見ちゃったかも…」のモヤモヤした違和感のようなやつ、その後にやってくる(こともある)「感動」(カッコ付き)のあれらって、なんなのか? って「日本人」にも湧くやつなので、「外国人」には余計わけわかんないかもしれないよね、という辺りをその「外国人」がものすごくきちんと振り分けて並べてインタビューやコメントも取り付けたり、この辺かも、と提示してくれるので、とても勉強になる。 日本人だと面倒だったりかえって畏れ多くてできないようなことなのかも。 こんなのNHKがやれよ、はちょっと思うのだが。

もはや見ることが叶わないものだらけのサイレント期から、召集されて中国に渡った戦時のことから、帰還して再び映画を撮り始めて巨匠となっていくまでを彼の日記や現存する資料、関係者インタビューなどを通して明らかにしていく(被さってくる小津や野田高梧の声は大堀光威、田中絹代の声は中井貴惠、等)。 インタビューコメントは映画監督として黒沢清、Wim Wenders、Luc Dardenne、Tsai Ming-liangなど。 俳優として香川京子、子役として『麥秋』に出ていた城澤勇夫など - 子役の話はおもしろいねえ。

わりとスムーズにエモを直撃してくるのでわかりやすい(と自分が思う)溝口とか成瀬以上に、画面(の隅とか奥とか)に映っているもの、目線の高い低い、それらが時間の長さ配分も含めてどう、どんなふうに映っていて、それらがなんであんなにいつまでも頭の隅に残って、場合によっては感動してしまったり、その不思議に迫っていくなかで、小津自身の言葉よりも彼の描いた絵(かなりびっちり)とか、野田高梧と蓼科の山荘に籠って一升瓶を延々あけ続けたとか – ものすごく時間を掛けて描いたり書いたりしていた、という辺りがおおー(やっぱり)って。 映画がアート、芸術と呼べる何かなのだとしたら、それはこれこれこういう要素で成り立っているから、が説明できている気がする。

あと、女性に対する扱いの酷さについて、溝口や成瀬だとストーリーの真ん中に女性の過酷な運命や道行きを置いたりするけど、小津だと『風の中の牝雞』 (1948)はすごい(ひどい)けど、それ以外はものすごく巧妙に画面デザインや会話のなかに溶かしこんで配置しているイメージがあって、その辺を女性の目線で掘り下げたものをみたい。それがどうしてどうなって(主に男性の、じじいの)「感動」に繋がったりするのか、も含めて(もうあるのかな?)。 小津研究 - 小津を掘ってすごいぞ、って語るのって男性ばっかりのイメージがある。


非常線の女 (1933)


10月18日、日曜日の午後、ル・シネマの7階で見ました。
サイレントで、ピアノ伴奏は天池穂高。原案は「ゼームス槇」名義で小津安二郎。

昼間は都会の大手の会社でタイピストとして働いて、その会社の御曹司の専務と金目当てで付きあったりするモダンな時子(田中絹代)は、夜/裏ではやくざの襄二(岡譲二)と暮らしてて、そのグループに加わった青年宏(三井秀夫)の姉 - 和子(水久保澄子)と出会った襄二が、彼女のふつうの佇まいにが惹かれていくのに頭きて和子のとこにいったら、あらよい人じゃないの、ってあっさり自分も足を洗うことにするのだが…

タイトルからしてギャング、ノワールっぽいし、スチールもこちらに向かって銃を構えた田中絹代だし、画面構成のモダンな意匠もそこに沿ったものだと思うのだが、結末以外は、なんだかrom-comじゃないの、と思って見てしまう。 昼夜の二重生活 – 夜はかっこつけてもぜんぜんギャングに見えずにかわいくなってしまう - とか、やきもちから始まって堅気になろうと簡単に思って走りだしたりとか。 正式タイトルは「わたしのなかの非常線」あたりではないか、とか。

[film] Possible Love (2026)

10月28日、水曜日の晩、シネマヴェーラで『わが恋の旅路』 (1961)を見た後、ユーロスペースに下りて見ました。
 
オリジナルタイトルは『가능한 사랑』、邦題は『もしもの愛』。 Netflixなので配信ならふつうに見れるのかも知れないが、配信関係はぜーんぶ止めてしまったので、こういう機会でもないと見れない。
 
監督はLee Chang-dong、原作・脚本もOh Jung-miとの共同。8年ぶりの長編だそう。164分。
こないだのヴェネツィアでGrand Jury PrizeとFIPRESCI Prizeを受賞している。
 
二組の夫婦/家族が登場する。ひとつはホソク(Sul Kyung-gu)とミオク(Jeon Do-yeon)と10歳になる息子のチョルで、ホソクは大手自動車メーカーのリストラとそれに伴う労働争議に敗れるかたちで失業して、それに伴う心身の痛手から立ち直ろうとして苦しんでいる - そんな彼の苦しみをどうにかしなければ、とひとつになっている家族、もう一組は自殺した元同僚の葬儀にやってきたホソクとミオクを見て撮影させてほしいと申し出るドキュメンタリー映画作家のイェジ(Cho Yeo-jeong)と、その夫でヘッジファンドに働く裕福なサンウ(Zo In-sung)の夫婦(と犬)。カメラを手にしていないイェジは洗練されたファッションを装って頭もよさそうで、出自も境遇もまったく異なるものの、労働をテーマに撮り続けてきたイェジは、争議での機動隊の暴力と仲間に見捨てられたトラウマに苦しむホソクと、彼に前を向いてもらおうと懸命にケアするミオクの姿に打たれて、ホソクに煙たがられつつもなにか喋りだす度にカメラを回してくる。そして実際、ミオクが語るホソクの現在や彼と出会った頃の思い出話はなんかよいの。
 
当初の撮る側と撮られる側の関係と役割は緊張感たっぷりだったり痛々しかったりのミオクの語りが、語れば語るほどイェジたちを虜にしていって、彼らはそこまで語ってくれたお礼に&もっと仲良くなりたいから、とサンウの家が代々持っているプライベートビーチ付きの別荘にミオクたちを招いてひと夏を楽しく一緒に過ごしましょう、ということになる。
 
ふつうに撮られる側のミオクたちには喋りたくないこと、明かされたくないことがあったかもなのに、そしておそらくサンウの仕事がホソクの仕事を奪ったかもしれないのに、ミオクは率直に思うところをなんでも語って、当初はがちがちだったホソクも、別荘で感極まってわーん、くらいのところまで語ってくれて、そこまで喋ってくれたのであれば、お礼に、のような流れがあって、ここまでで十分よいドキュメンタリーになったのかも、と思いつつ映画はまだ続いて、酔っぱらってカラオケで騒いでホソクの箍が外れてそこらじゅうに放尿して…
 
もしもの愛、ひょっとしたらの愛の行方は、隔離されたビーチや山荘での惨劇ホラーになる可能性もやけくそ乱交ポルノになる可能性も孕みつつ、やっぱり互いの階層とその立ち位置を残酷なくらいに表に出してしまい、ミオクたちが出ていく形で終わって、それぞれの階層もそのポジションも揺らぐことなく元にもどる。親の代から管理人をしているという喋らない彼も含めて、何も変わることはない。 そんななかに少しだけあった「もしもの愛」。もちろんだーれも悪くない...?
 
約3時間、ドラマとしての緊張も、俳優たちの強めのテンションも途切れることはなく、何が起こるのかしら… ってページをめくっていくかんじで一気に見れてしまうのだが、本当にそれだけなの。 ヴェネツィアの貴族のみなさんにはブラヴォー!で心地よい作品だったことでしょうね。
  

11.02.2026

[film] Whalefall (2026)

10月25日、日曜日の夕方、新宿ピカデリーで見ました。

原作はDaniel Krausによる同名小説(2023)、脚本は原作者と監督Brian Duffieldの共同。製作には大好きな”Splash” (1984)のBrian Grazerがいる。あれとはちょっと違うけど。
邦題は『クジラに落ちた男』。落ちたというよりのまれたのだが。
 
カリフォルニアの海岸沿い、冒頭、具合の悪そうなMitt (Josh Brolin)が船の上で手紙を残して重しをつけて海に潜っていく。船にいるおじさんは泣いていて、それが自殺であることがわかって、そこから1年後、彼の息子のJay (Austin Abrams)が実家に戻ってきて母(Elisabeth Shue)や家族と再会して、父とのことを振り返る。幼い頃からスキューバダイビングの特訓を受けてきたがまったく父の期待には応えられないまま家を離れた息子だったなあ、など、ぐじぐじ思いだしたりしているうち見つかっていない父の遺骨を拾ってみよう、と思ってひとりで海に入っていく。シャチが出るので海辺は遊泳禁止だったのに。
 
海に入ってしばらくすると、ダイオウイカとクジラが追いかけっこをしていて、ひえー、とか見ていると再び現れたダイオウイカに絡まれて、絡まれた状態で引きずられてクジラにのまれてしまう。最初はパニックでなにがなんだかわからず、でもまだ死んだり溶けたりしていないのでどうにかしてみよう、といろいろやってみることにする。酸素の残りは約1時間。
 
自分がそうなったら絶対、簡単に諦めて消化されていくよね(どれくらい痛いのか、麻酔みたいにやられるのか、等)、と思うのだが父親に認められなかった/認められたいJayは、父の教えを思い起こしたりしつつ、がんばろうと決意する。でも先にのまれたダイオウイカは暴れたけど消化されちゃうし、その嘴が刺さって負傷するし、強い力でのまれて運ばれた胃の次の部屋では消化液で手がただれたり、ここにいたらやばい、って発光クラゲの明かりと尖った嘴を使って食道の方に戻る。更にがんばったら口の方まで行けて少し外が見えて、クジラクルーズの人たちの声が聞こえておーいおーい、ってやるのだが、クジラは深海のほうに急降下していって…
 
こないだの”Resident Evil” (2026)でも巻き込まれて散々な目にあって災難続きのAustin Abramsが
Jason Stathamでもあるまいし、落ち着け、と、だいじょうぶ、を自分に向かって連発しながらがんばっていくのだが、この人の最大の魅力は、引っぱられたりやられたりしたときの(”Resident Evil”にもあった)「きゃーっ」っていう叫びにならないような小さい叫びで、この生々しさがたまんないのかも、と気づいた。
 
結論はのみこまれて排泄されちゃった... とか、のみこまれたら父に会えたよ、とかになるわけはなくて、じゃあどうやって、の中身は結構バカバカしいのだが、のまれてじたばたしていったり、海に入る前の段階でこれは… のことも多いので、そこそこ安心する(どこが?)。 荒唐無稽だけど、父と息子のお話として筋は通っていたかも。 
 
というか、最後にタイトルである”Whalefall”の意味が明らかになると、父と子の関係とか、マスキュリニティとか、この映画の中で描かれたいろんな層での戦い、サバイバルなどが、すべてそれなりのスケールで説明されてしまう、その風呂敷の大きさはなんかよいと思った。 そこらの海洋パニックやサメ映画よりもどこか純文学ぽいというか。
 
あと、クジラはなーんも悪くなくてかわいそうすぎるので、次はクジラ目線で、ほんとうについていなかった散々・最悪の日、を映画にしてあげて。
 

[film] 三味線とオートバイ (1961)

10月24日、土曜日の昼、シネマヴェーラで始まった特集『映画監督 篠田正浩 レトロスペクティブ』で見ました。 レトロスペクティブなのにたった一週間でよいのか。
 
原作は川口松太郎のこてこて同名小説、撮影は小杉正雄。真鍋博によるタイトルデザインが楽しい。
 
房雄(川津祐介)と初子(桑野みゆき)が友人たちとバイクで神奈川の方を飛ばして楽しんでいて、その帰り道、ふたりだけでどっか行こう、って抜けたら事故って初子は病院で目覚める。彼女は神楽坂辺りで小唄の師匠をしているとよ枝(月丘夢路)と2人暮らしをしていて、父は既に亡くなっていて、病院で彼女を診る医師の畔柳(森雅之)はいろいろ世話を焼いてきて変なかんじ。
 
房雄の方はよいとこのぼんで、事故の後の治療も自分だけ別の病院に移っちゃうし、彼の家に訪ねていっても会わせて貰えなくてちょっとやなかんじ。
 
そういうのに加えてとよ枝と畔柳がよいかんじになっているのがなんか気にくわなくて、居場所がなくなってきた初子はどこに向かうのかー。
 
三味線かオートバイか、の二択でぎりぎりしていく、のかと思ったらその辺りの掘り下げはやや中途半端、ごくふつうのcoming of ageモノで、恋愛や母からの自立を巡って、階層の段差とか戦争/男の勝手とか母の幸せなどが去来して頭きて揺れ動いてがんばらなきゃー、になっていく娘のお話し。 あと、川津祐介のどこがよいのだかまったくわからないのと、森雅之はなんもしないで一番楽なポジションなのと。
 
 
わが恋の旅路 (1961)
 

10月28日、水曜日の晩、シネマヴェーラの篠田正浩特集で見ました。
 
原作は曽野綾子の『わが恋の墓標』、脚本は寺山修司と篠田正浩、音楽は山本直純、撮影は↑と同じ小杉正雄、タイトルデザインは和田誠 - この時点で既にあの風味が。
 
お金持ちの宇佐美夫人(月丘夢路)との縁を断ち切って新聞記者としてスタートしたばかりの潔(川津祐介)が、溜まり場の喫茶店「朱印船」でウエイトレスの千江(岩下志麻)と知りあって恋に落ちてしまうのだが、彼女には競輪狂いのどうしようもない父親がいて、そんな地獄から抜けさせてあげよう、って富豪のぼんぼん木村(渡辺文雄)が声をかけていて、でも彼女を幸せにできるのは自分しかいない、と信じて疑わずにいたら仕事のタイミングあれこれで木村に持っていかれて連絡が取れなくなってしまう。
 
結婚した千江は家事とかがんばるものの木村の父(山村聰)からは認められずにストレスまみれで、そのうち事故で一切の記憶を失ってしまい潔との仲はどうなるのか、かつての愛の記憶を取り戻すことはできるのか、というこてこてのメロドラマで、ありきたりの感動に落とそうとはせず、道路とか芝刈り機などに繋いでいくところは悪くなかったかも。それが他人(外国人)の家の庭、というところもおもしろいかも。
 
しかし、しょうもない父親から離れられない娘=岩下志麻、その周辺をうろつく嫌らしい男ども、という構図はどうしても『秋刀魚の味』 (1962)を思い起こさせて、確かに岩下志麻の清楚な美しさはそうでしょうとも、なのだが、こういうのを見ると『戦争に負けて馬鹿な奴らが威張らなくなってよかった」(by 加東大介)けどスケベな奴らは変わらず残ったのだなあーあー、って。