7月26日、日曜日の午後、ル・シネマ 渋谷宮下の7Fで見ました。
英語題は”Be Pretty and Shut Up!”、邦題は『美しく、黙りなさい』(「黙りなさい」に赤の取り消し線)。
翌日の船便到着を前に、お片付けはよいのか? という声もあったが、『美しく、黙りなさい』って言われた。(美しくない)
制作から50年を記念しての劇場公開で、今後パッケージ化される予定はなく劇場上映と自主上映のみに限定されているそうなので、とにかく見に行くしかないのよ。
監督であるDelphine Seyrigが1976年に23名のフランス人、アメリカ人の女優、映画人たちに対して実施したインタビューをCarole Roussopoulosが撮影して、編集をCaroleとIoana Wiederがして、1981年に公開されている。
ボーヴォワール視聴覚センターとフランス国立図書館が主導して、2022年に修復~公開したもの、とのことで、でもどこかでなんか見た記憶が、と思ったら、2020年の初め、マドリードのMuseo Nacional Centro de Arte Reina Sofíaでの企画展 - ”Defiant Muses: Delphine Seyrig and the Feminist Video Collectives in France in the 1970s and 1980s”で7つのモニターを横並びにしたインスタレーション作品として流れていたことを思い出した。他には同じモニターでChantal Akermanの”Woman Sitting after Killing” (2001) - Jeanne Dielmanがあの後に座っているシーンを延々 – も流れていた。
質問はふたつ、「もしあなたが男性だったとしても、この職業(女優業)を選びましたか?」、「他の女優と友好的な場面を演じたことがありますか?」 - これは誘導のようなもので、最初の問いに対しては「いいえ、男性だったらもっといろんな選択肢があったはず」になるし、次の質問に対しては「いいえ、求められるのは常に男性とのインターアクションばかりだった」になることは容易に想像がつく。なぜなら我々が商業映画として接する殆どの映画は、「男優との間で」女優として輝く – その存在を最大化、最適化する形でその姿を表に出してくるものだったからで、この聞き方は動物園の動物にもし野生にいる別の動物だったら… って聞いているのと同じではないかと。
なので、殆どの女優が、それは面白い質問ね! と言ってから質問の答え以外のあんなことこんなことを嬉々としてとめどなく喋りまくるのがとにかくおもしろくて、でもそれらのおもしろい語りの背後に見える各自の業のようなものが固化していく「女性」という型の周辺に、あるいはこれに抗するかたちで立ちあがってくる何かが見えてくる。
あと、ここから、この50年で変わったこと、依然として変わっていないことについても考えないわけにはいかない。
あと、映画のなかで、Ellen Burstyn(..正確に覚えていない)だったかが語っていたEleanor Perryが夫のFrank Perryと作った映画 – ひとりの少女と4人の男が出てきて少女がレイプされてしまうやつ – って、2025年にBFIのFilm on Film Festivalで発掘上映された”Last Summer” (1969)のことだ! って少し自分内で盛りあがった。
Delphine et Carole, insoumuses (2019)
7月19日、日曜日の昼、日仏学院で見ました。
邦題は『デルフィーヌとキャロル』、タイトルを直訳すると『デルフィーヌとキャロル:反逆のミューズたち』、であり、”insoumuses”は、Caroleが立ち上げたビデオグループ “Les Insoumuses”にも繋がる。 68分の中編。
監督はCallisto Mc Nulty。 スイス生まれのCarole Roussopoulosが、1970年にJean Genetの勧めを受けて当時発売されたばかりのVideo Cameraを購入 – これを最初に買ったのはゴダール、次に彼女が、フランスの女性として初めて買った – して、Angera Davisのドキュメンタリーを制作、その後も人権擁護運動の様子をカメラに撮っていくなかで1976年にDelphine Seyrigと出会い、そこからは↑を含む女性の権利やフェミニズムをテーマにしたドキュメンタリー作品を沢山残した。 あと、↑を復元したボーヴォワール視聴覚センターもこれらの活動を通して彼女たちが設立したもの。
とにかく、デルフィーヌとキャロルのふたりが現地で、女性たちと一緒になって戦ったり議論したりしつつ記録していった70年代以降のデモの記録、TV討論の様子などが、げろげろになる点も含めてものすごくおもしろくて、↑にも書いたけど、この50年で変わったこと、変わらないことについて考えてしまう。
昨年、BFIで行われたLaura Mulveyの企画特集も、結構人が入っていたしすごくおもしろかったし、割とそういうとこに足を運んで見ているほうだと思うのだが、足元を見るとぜんぜん、なにひとつ変わっていないのでは… ってものすごく暗澹として、例えば、日本の映画女優にいま、”Sois belle et tais-toi!”の質問を投げたらどうなるだろうか? とか。
この国が得意としている「ガラパゴス」なのかもしれないが、ガラパゴス(の動物たち)だって環境に合わせて進化はしていくもので、これは適応する先を愚かなことに完全に誤ってどうにも動けなくなっているような…
でもとにかく、そういうのとは別に、見ていると不思議と明るくなれる映画だからー
渋谷宮下の特集上映でももうじきかかるらしいので、この機会にぜひ。
8.01.2026
[film] Sois belle et tais-toi! (1981)
7.30.2026
[film] Sangue del mio sangue (2015)
7月25日、土曜日の夕方、イメージフォーラムで見ました。
Marco Bellocchioの10年以上前の作品が何で突然今頃? なのだが、彼の作品、最近はTVシリーズなどもあって見るのが難しくなっている気もするので、見れるものは見ておきたい。
見事な濃淡・陰影を湛えた撮影は “Vincere” (2009) - 『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』のDaniele Cipri。
英語題は”Blood of My Blood”、邦題は『私の血に流れる血』。 後半、老吸血鬼も少しだけ出てくるが、吸血鬼もの、ではない。というか、吸血鬼ものの形をとったキリスト教批判というか。
二部構成で、最初のパートは17世紀、イタリアのボッビオ – Bellocchioの生まれ故郷で監督デビュー作-『ポケットの中の握り拳』の舞台でもある – の修道院を若いFederico (Pier Giorgio Bellocchio)が訪ねてくる。そこの修道女Benedetta (Lidiya Liberman)と関係をもって、自殺した兄をキリスト教徒としてきちんと埋葬してほしい、と頼みにきたのだが、そのためにはBenedettaが悪魔の影響下にあったことを証明する必要がある、ということで、大勢の立ち合いのもと、水責め(重い鎖を巻いて沈められて沈んだままだったら善人とか)、火責めの残忍な異端審問が行われて、彼女は傷だらけのまま狭い石の牢獄に監禁されるのだが、なにをやっても効かなくて、他方でFedericoは別の修道女ふたり(うち一人はAlba Rohrwacher!)との愛欲に溺れたり、兄の仇であるはずのBenedettaにも疼くように惹かれたりしてかなりどうしようもない。
次のパートは同じ土地の現代に時代は移り、自称税務調査官、見るからに怪しいFederico (ふたたびPier Giorgio Bellocchio)が、ロシア人の資産家Ivan Rikalkov (Ivan Franek)を伴って、かつて修道院で、現在は修道院兼刑務所となり、ぼろぼろに朽ちかけている建物を購入したいと言って訪問してくる。管理人はこんな廃墟のようなところを、と戸惑うのだが、かつて修道院だったこの場所には老いたBasta伯爵 (Roberto Herlitzka)がひとりでひっそりと暮らしている。
伯爵の表情はずっと固まったように凍り付いたまま(すごい横顔)、ほぼ喋ることもなく、その状態で町を徘徊して歯医者に行ったり(レントゲンで吸血鬼であることが...)、バーでひとり佇んだりしていて、そんなしおしおになっても、とにかくずっと生きているらしい - なんのために?
そして最後に石の壁のなかに(数十年?数百年?)放置・幽閉されていたBenedettaが彼女を閉じ込めたのと同じ枢機卿によって「ひょっとして聖女なのかも」という畏れと共に解放され、汚れにまみれていたはずの全裸の彼女は少しも老いておらず、ちょうどその反対側で伯爵は...
お話はBellocchioによるフィクションだが、Benedettaは16世紀に実在し、修道院に13年間幽閉された「モンツァの修道女」 - Marianna de Leyva – の生涯から引かれていて、最新作の”Rapito” (2023)でも顕著だったキリスト教(がその教義のもとで支配し、その名のもとで為してきた悪業)への批判が炸裂している。
故郷ボッビオで撮っていること、前半後半それぞれに息子のPier Giorgioを起用していることからも『私の血に流れる血』、というときの「私」とはBellocchio本人だと思われるのだが、なにがここまで彼をキリスト教批判に向かわせるのか、”Rapito”イギリスでの公開時のトークでも本人が語っていた記憶が。ものすごく真っ当な宗教(的なもの権力、教条主義全般)に対する異議申し立てだったの。
という見方もあれば、聖女(聖なるもの)→ 吸血鬼(邪なるもの)→ ロシアの資産家(のっぺら)という歴史の流れのなかで淘汰されてきたもの、それでも残されているなにか(あるとしたらそれは?)、を概観する、というのもあるのかも。 修道院なのに、ずーっと生きにくい状態はどこまでも続いている。例えばこんなふうに、と。
[film] Obsession (2025)
7月23日、木曜日の晩、二子玉川の109シネマズで見ました。
邦題は『オブセッション 災愛』。
プロダクションはBlumhouseで、ホラーだと聞いていたし「災愛」なんていかにも、なかんじなのだが、出てくる人数少なめ、画面は地味で暗そうなので、この程度なら乗り越えられるのではないか、ってなんとなく。目を覆ったり口や頬を押さえたくなるような恐怖描写はないのだが、シンプルで後からじわじわ沁みてくる、80年代のB級風味がある。
作・監督・編集は元YouTuberのCurry Barker、これが劇場公開デビュー長編で、昨年のトロントの”The Midnight Madness”という部門でプレミアされている。
楽器店で働くBear (Michael Johnston)は幼馴染で同僚のNikki (Inde Navarrette)と付きあいたいと思っているが、なかなか言い出せなくて、ひとりうじうじ行ったり来たりを繰り返していて、彼女がクリスタルのネックレスをなくしたというので、替わりを買ってプレゼントしてあげよう… と地元の怪しげな雑貨屋に行くと、そこで紙の小箱に入った"One Wish Willow" - 「願いが叶う柳の枝」 - 願をかけてその枝を折ると願い - ひとつだけ - が叶うというブツを見つける。胡散臭いけどおもしろそうなので買って、軽いかんじでぽきっ、てやってみる。
そしたらだんだんに、やがてはっきりとNikkiが寄ってきて、自分に好意を持ってくれている、それどころか愛してくれているようで、家にも来て、ずっと一緒にいたい、とか言われて、あまりの急展開に驚きながらも自分が望んでいたことだったので歓んでいちゃいちゃべたべた過ごすのだったが、突然彼女が錯乱して怒鳴ったり、強い態度に出る - 自分が家を出たり彼女から離れようとすると – のが目立つようになる。
はじめのうちはNikki自身も我に返って後で謝ったりして、Bearもそういうものか、って思ったりしたのだが、家の扉を内側からテープでがちがちに留めて外に出られなくしていたり、を見ると、ちょっとこれは… になって枝を買ったお店に行って願いが呪いみたいに強すぎるやつなので元に戻せないのか、って聞いてみると、そんなのムリ、死ぬしかないよ、とか言われて..
素朴なお願いを、(素朴だから素朴に)お願いしたらちょっと効きすぎてびっくり恐いよう、って素朴に夢見た相思相愛が地獄の釜底にまで転がっていくドラマで、最後はやっぱりびっくりぼこぼこ血みどろの「そこまでやらなくても」になっていくのだが、そもそも愛とはここまで相手を縛って苦しめたりするものなのだ、少なくともそういう思いと紙一重の厄介な呪いみたいなもんなのだ覚悟しておけ、ということを109分かけて伝えようとしていて、でもこれなら90分くらいでも十分だったかも。
通常のホラーであれば、こういう呪いとか呪縛を解く、あるいはどうやって解くのか、に向けて主人公はしゃかりきになって動いていくものだと思うが、この映画の場合、もちろんそういう動きはしてみるものの、終盤は為すすべもなくやられて埋もれていくばかりで、この辺は気弱でなかなか愛を告げることができなかった最初の方の主人公の設定とも整合していて、つまりこの彼の場合はかわいそうだけどそもそもどうしようもなかったのね、で終わり(でよいのか?)。
画素の粗いデジタルで撮られたような暗めの籠ったような映像も、あんまり好きではないのだが、このテーマだとやはりそうなってしまうのか。
だから愛なんてさ、って軽く蹴っ飛ばしてどこかに高跳びしてくれることも期待したのだが、そうもならなくて、この辺はやっぱり律儀でまじめなのね、って思った。
7.29.2026
[film] Reign of Terror (1949)
7月16日、木曜日の晩、シネマヴェーラのAnthony Mann特集で見ました。
邦題は『秘密指令』。めちゃくちゃおもしろいフランス革命ノワール。Walter Wangerのプロダクションで、撮影はJohn Alton。
冒頭のタイトルでは”The Black Book”と出て、エンディングのタイトルで”The End of “Reign of Terror””って出るの。
フランス革命直後の混乱期、独裁 - 恐怖政治の準備を進めるMaximilien Robespierre (Richard Basehart)はDantonとか政敵を片っ端からギロチンに送りまくっていて、これに対抗する反乱軍の愛国者Charles D'Aubigny (Robert Cummings)のグループは地下に潜って暗闘を繰り広げている。
CharlesはRobespierreがパリに召喚したストラスブールの検察官デュヴァルをホテルで殺害して彼になりすましてRobespierreに近づくと、彼はこれから処刑する予定の市民の名前が記された”Black Book”が盗まれた、全権を与えるので探しだしてほしい、とCharlesに依頼する。”Black Book”の存在が市民に知れてしまうと独裁者として君臨することは難しくなるし、逆に反乱軍はこの本を手に入れて国民公会までにその内容を暴くことができれば、Robespierreによる恐怖政治 - “Reign of Terror”を止めることができる。
こうしてCharlesはかつての恋人Madelon (Arlene Dahl)の助けを借りながら魔法のBlack Bookを探そうとパン屋の奥とか地下を這いずりまわり、そこに絡んでくる爬虫類の策士Fouché (Arnold Moss)、捕らえられてしまう同志François Barras (Richard Hart)、いつでもどこでも、誰ひとり信じることができないなか、迫ってくる期限と包囲網のはらはらが最後のギロチン台に向かっていって…
フランス革命ものとか、ノワールとかジャンルなんてどうでもいい、とにかく革命の同志になって手に汗握るってこれよね、になるからー。
The Far Country (1954)
7月18日、土曜日の午後、シネマヴェーラで見ました。
邦題は『遠い国』、アラスカを舞台にしたテクニカラーの西部劇。アラスカで撮っているわけではないと(ぜんぜん寒そうじゃないし)。
19世紀の終わりのアメリカ、Jeff Webster (James Stewart)と相棒のBen (Walter Brennan)はゴールドラッシュの噂を聞いて牛たちを連れ、面倒な連中を吹っきったりしながら旅をしている途中、絞首刑の執行を邪魔したので地元の傲慢な自称判事Gannon (John McIntire)に目を付けられて、家畜を没収されたり脅されたり、GannonのパートナーのRonda (Ruth Roman)とか勝気な少女Renee (Corinne Calvet)に助けられたりしながら、どこに行っても騙されたり盗られたりの無頼の土地を渡っていくの。
困難を乗り越えていくなか、避けられない暴力の応酬から堪忍袋が膨れていくよくありそうな辺境開拓民たちのお話しなのだが、これは今の世であればJeffとBenのブロマンスとして仕上げられたのだろうな、というくらい彼らふたりの繋がりの濃さと切なさが際立って、最後の方、夜闇の中、遠くから響いてくる鈴の音がたまんない効果をもたらすの。
Thunder Bay (1953)
7月21日、火曜日の晩、シネマヴェーラで見ました。
邦題は『雷鳴の湾』。これもテクニカラーで、↑と同じような海底油田採掘をフィールドにした変則アドヴェンチャー西部劇 - 流れ者、よそ者がその土地起源の何かに手を出そうとして現地の者の抵抗にあったり対立したりしてざわざわしてどうにかなる/する、というドラマ。 そしてこれもJames Stewartが主演。
終戦後、海軍あがりの技術者(には見えない)Steve Martin (James Stewart)とJohnny Gambi (Dan Duryea)がエビの獲れるルイジアナの湾沿いに現れて、絶対油田が出るから、って近くの海の試掘をすべく地元漁師にとりあって石油会社のMac (Jay C. Flippen)からの合意も取り付けて、やり始めるのだが、人が集まれば騒ぎが起きてきな臭くなるし、漁師は漁場を荒らされるし、地場の船乗りは許嫁を取られてやけになっちゃうし、最後にはやっぱり台風がやってきて…
酒場で与太者共を網で一網打尽にするところとか、嵐の海のぐじゃぐじゃとかおもしろい見所はあるものの、外からやってきた開拓者が当然のように現地の人の反発を招いて、やりあいながらも最後は相手を丸めこんで自分のやりたいことをやり遂げるのって、今の視点で見るとアメリカのエゴ(開拓精神とか呼ばれる)のゴリ押しで、このやり方で世界中のリソースを都合よく自分のものにしてきたんだろうなー、って割とうんざりする。昨今は特に。 ふつうになんで? ってなることが多すぎ。
James Stewartの一見強面ではない柔そうな佇まいも、そういう辺りで活きるのだろうなー、とか。
7.27.2026
[film] Ce n'est qu'un au revoir (2024)
7月18日、土曜日の昼、ユーロスペースのGuillaume Bracの特集上映で見ました。彼の一番新しいドキュメンタリー作品2本だて。
ここ数年の日本の夏が酷い、というのは聞いて覚悟していて、今年のヨーロッパも同様らしいのだが、こっちのありえないのはとにかく湿気で、これが視界と汗腺をぜんぶ塞いで、過ぎ去ってくれるはずの夏をべったべたの最悪のにしてくれる。ホラーや怪談がこいつらに対抗できるものとは思えないのだが、Guillaume Bracの映画ならどうだろうか、って。
Un pincement au cœur (2023)
邦題は『リンダとイリナ』 - タイトルを直訳すると「胸を刺すような痛み」。 38分の中編。
フランス北部の、かつて炭鉱があった町エナン=ボーモンで、町を行き交う人はそんなに多くなくてみんなマスクをしている2021年のコロナ禍でのロックダウンの最中、公的機関からの依頼を受けて高校生のワークショップを開いたりしていると、LindaとIrinaという仲のよいふたりが目に留まって、彼女たちふたり(とあともうひとり)がどんなふうにくっついていて、一緒の時間を過ごして、どんなふうに離ればなれになるのか、を(コロナだから)近くに寄ることができないカメラが追っていく。
育った環境も家族も違うし、やがて別別になることは分かっているけど、一緒に踊れば楽しいし、ちょっと険悪になったら悲しいし、やっぱり今は別れたくなんかないし。でもそれが向こうからやってくる時の嫌だ、あと少しでいいから一緒にいさせて、の溢れてくる思いが去っていく夏模様のなかに描かれて、そこにFrançoise Hardyの”L'Amitié”が流れてくる。
ほーんと、なんの変哲もない夏のバイバイを、ここまで沁みるものにしているのはなんなのだろうか、と。
Ce n'est qu'un au revoir (2024)
↑と同時上映の64分の中編ドキュメンタリーで、↑のとは土地 - ドローム県 - も学校も若者たちも、撮影に至るまでの経緯も異なるらしいのだが、ずっと楽しく一緒にいた若者たちの、やがて迎える別れの季節を追って↑の作品との際立った段差はない。同年のカンヌのACID部門に出品されている。
邦題は『また会えるよね』で、このタイトルがすべて。直訳すると「これはただの「またね」に過ぎない」と。
寄宿舎つきの公立の学校なので、昼も夜もずっと一緒に暮らしているのでマットレス倒しも大騒ぎも腰が据わって揺るがないし、『よき谷の物語』にあったような川遊びも楽しい。彼らが普段、どんなふうに校内の施設で立ったり座ったり走ったり、どんなふうに校外で笑ったり遊んだりしているのかが、絶妙な粒感で捉えられていて、いくらでも見ていられる。
肉親の死や幼い頃からの家での辛さなどについて語る子もいて、これらの(小さな)声も集団生活の中で埋もれることなく、ちゃんとそこにある。あるよ、聞いているよ、っていう絶妙なカメラの位置とそこで持続する、こちらに声が届くまでの時間のありようについて。
その流れのなかでの、不可避でやってきてしまう「別れ」に対する態度って、「また会えるよね」しかないなー、って思うと、いまここにある夏も、そのすべてが愛おしいものにー。
これまで見てきたGuillaume Bracのフィルム、フィクションも含めて、人に向かう時の柔らかさ、人懐こさ - 人に出会いたいと願う人への眼差しの暖かさは一貫していて、そんな彼が少女たちのしばしの別れ、その節目に立っているのってなんて素敵なことだろうか、って。
船便はとりあえず着いて、なんとか作った床のスペースに箱は積まれて、向こうで買って運ばれてきた小さな本棚に開けられた箱からの数冊は並べられた。かんたん。 あと18箱くらいあるぞどうする。
今回、床スペースを開けるのに紙束を整理していて、もう何度もそういうシャッフルをしているので、80年代のStudio 200のチラシに、90年代のFilm Forumのチラシに、10年代のBarbicanのパンフに、古雑誌も含めてあれこれ入り混じっていておもしろくて飽きなかった。会社やめたら毎日これやって遊べる。
7.24.2026
[film] Dead Man's Wire (2025)
7月19日、日曜日の午後、恵比寿ガーデンシネマで見ました。
英国滞在の最後のほうで公開されていたが、時間がなくて見れないままで悔しかったやつ。
70年代に実際に起こった犯罪を元にしたサスペンス。監督はGus Van Sant。
ところで、少し前に映画会社の宣伝がSNSで話題になっていたが、あれは新人設定にしてAIに書かせたものだと思う。そして、あんなもんをAIにやらせたとしてもAIでなかったとしても、どっちにしてもレベル低すぎるし効果あるとは思えないし、こんなのがこの国の洋画配給会社の「実力」なのだろう。あーあ、になるしかない。
77年2月のインディアナポリスでのある朝、現地の実業家のTony Kiritsis (Bill Skarsgård)が車でモーゲージ会社のビルに乗りつけ、受付で社長のM.L. Hall (Al Pacino)と会いたい、と伝えるが彼は不在で、替わりに息子のRichard Hall (Dacre Montgomery)が出てきて応接室で応対していると、突然Richardを縛りあげて箱から出したショットガンを彼の首に引っかけ、抵抗したり警察が絡んできたら引き金が引かれてどん! になるからおとなしくしろ、のDead Man’s Wireを仕掛けられてしまう。
TonyはHall一族の会社 – 特にM.L.の方には商用の土地購入で自分の尊厳も含めて積みあげてきたものをめたくそにやられてふんだくられたのでふざけんじゃねえ、とにかく謝れ、賠償しろ、ってずっとテンション高くぶち切れていて(ホラーみたいに恐い)、その勢いで彼をビルの階下まで引き摺って車に乗せ、警察や報道からも隠れることなくこれ見ろ、寄ってくるな、って説明して、自分のアパートに連れこんで閉じこもる。
閉じこもってからは、報道を中心に24時間通しの大盛りあがりになり、Tonyは人命優先の当局から負債の取り下げなどを保障して貰い、お気に入りのラジオ局DJのFred Temple (Colman Domingo)に自分の話を聞いて貰ったり、やりたい放題で、でも電話が繋がって会話ができたM.L.からは謝罪を取りつけることはできなかったり - Al Pacino、ほぼ妖怪の頑迷さ。
つい間違って引き金を引いちゃった… はなさそうで、ぶつかったり詰まったり、ずっとテンションの高いTonyとのじりじりした駆け引きが続いて、人質のRichardはずっと死んだ魚の目で煮るなり焼くなり好きにしろ、になって、でも最後はやはりじりじり交渉、という熱さ冷たさの温度感が乱高下する空気をところどころ70年代映画のような粗め冷ための画質(撮影はデジタルらしい)が捉えていって、最近のこういう映画にある現場のライブ感は余りないけど、ここにはGus Van Sant映画の主人公のいつもの危なっかしい彷徨いがあって、緊張感は途絶えることなく、いろんなことを考える。
70年代を舞台にした最近の犯罪映画、でいうと”The Mastermind” (2025) – これも半分実話であるが - 辺りにも似た、生活に困窮した男があまりぱっとしない装備でコトを起こして悶えまくる、というのにも似た、なんともいえない切なさがあって、これはなんなのかしら。 “One Battle After Another” (2025) の最初期のBattleなのか。
脚本はAustin Kolodney、音楽はDanny Elfmanなのだが、挿入歌が近年稀にみるすばらしさで、エンディングに流れるGil Scott-Heronの”The Revolution Will Not Be Televised” (1970)をはじめ、最初の方のLabi Siffreの“Cannock Chase” (1972)とか、決着したときのYes - “I've Seen All Good People” (1971)とか、個人的にはHarpers Bizarreの”Witchi Tai to” (1969)かしら。これの入ったLP - ”Harpers Bizarre 4”、ジャケットがぼろぼろのを青山のパイドパイパーハウスで買ったなあ、って。
主人公が心酔するDJのColman Domingoがひとり異世界のクールネスを放っているのだが、彼が家に帰ったら”Michael”がいたとか...
3月24日にロンドンのフラットから荷出しして、4月16日に英国のサザンプトン港を出港して、6月16日にシンガポールに着いて、そこで荷物を積みかえて、6月30日に東京の港に着いた船便が、こんどの月曜日にようやくやってくる。本当にまる4カ月かかるとは。
3月の終わりに帰国して、どうせこれが来るから、ってお片付けをずっと先延ばしにしてて、その間だって2年間で買っていなかったあんな本こんな本や新刊本は考えなしに買ってそのまま積んでて、もんだいは、今いるところに20箱ぶんの本をどうやって上積むのか? で、ふつうに見ただけでどう見ても考えてもこれ以上はむり。最近の世間には積読を称賛する傾向もあるらしいが、もうどう見ても何をしても絶対むり…
7.23.2026
[film] Side Street (1949)
7月15日、水曜日の晩、シネマヴェーラのAnthony Mann特集で見ました。邦題はそのまま『サイド・ストリート』。
監督Anthony Mannにとっては最後のノワール作品で、主演はFarley GrangerとCathy O'Donnell。Nicholas Rayのデビュー作、”They Live by Night” (1948) - 『夜の人々』のふたりで、これが日本で公開された1988年に有楽町スバル座で見てぼろぼろに泣いて、映画でこんなに泣けることってあるんだーと自分でびっくりしたあの作品のあのふたりによる2作目。 ”They Live by Night”はHoward Hughesが気に入らなくてお蔵入りになりそうだったところ、MGMが今作でふたりを再フィーチャーしたのを聞いて、慌ててリリースしたものだそう。(あんなすごいデビュー作なのに..)
全編NYの街中でロケをしていて、NYを舞台にしたノワールや犯罪映画がよくやっているように冒頭にNYってこんな街なのさ、の紹介がはいる。
身重の妻Ellen (Cathy O'Donnell)を抱えて生活が苦しくて郵便配達をしているJoe (Farley Granger)は配達先の弁護士事務所でちらっと見てしまった$200くらいを盗もうとしたら思っても見なかった$30000が手に入ってしまい、黙って隠れていればよいのに息子が生まれたからって、わざわざ一部を返しに行ったりしたもんだから当然のように狙われて、金の出処や隠し場所をめぐって次々と殺人が起こって、やくざと警察の両方から追い回されて大変な目にあうの。
最後はダウンタウンで結構大がかりなカーチェイス - 通りを疾走していくのを上から撮る - があって、Trinity Churchになだれ込んでの銃撃があり、ああまたFarley Grangerは.. ってハンカチを出そうとしたら大丈夫になった。死ななくてよかった。
すごくどうでもいいことだが、今も残る3rd AvenueのP.J. Clarke's(ダイナー)が”Clarke’s Cafe”っていう名前でちょっとだけ映る。ここのハンバーガーが自分にとっては世界の3本指でー。(食べたいなー)
それにしても中心のふたりは一緒にいるだけでなんか光が浮かんでくるような。自分が何かの病気なのか。
The Tall Target (1951)
7月15日の晩、↑のに続けて見ました。 “TTT” - 邦題は『高い標的』。
1861年2月、NY市警のJohn Kennedy (Dick Powell)はかつて護衛をしたリンカーンがワシントンD.C.での就任演説に向かう途中で暗殺される、という情報を得て上に報告するが誰も相手にしてくれないので職を辞して単身列車に乗り込んで暗殺阻止に向けて動き出す... という今もふつうに、どこにでもありそうな要人警護サスペンスアクション。
実際に列車に乗りこんでみれば、周りはガチの南軍支持者だらけ、客車にいる全員がやらかしてもおかしくない状況下で、D.C.に直接向かわずボルチモアで降りて演説するという情報が入ってくるとさらにてんやわんやになって、狭い車内での乱闘で殴っては殴られて気を失ったり、でも列車はちっとも止まってくれず、車窓に書かれたメッセージなんてわかるわけないじゃん、とか思うのだが、ここでケネディががんばらなかったらリンカーンは.. って思うとやはりみんな熱くなってしまうのだろう、か。
アクションものとしては列車のなか、客室や車両が変われば人も含めて別世界、というのを主人公の徒労感も含めてうまく表現していたと思うが、遠くて果てのないかんじがちょっと疲れたかも。
最後にリンカーンも横顔だけ出てきてなんか喋るのだが、いい気なもんよね、って少しだけ思った。
そんなことよりリンカーンから代々積みあげてきた遺産を台無しにして、世界中に害悪を撒き散らしているあのでぶをどうにかしてほしい。