8.14.2026

[film] Rhythm on the River (1940)

8月6日、木曜日の晩、シネマヴェーラのBilly Wilder特集で見ました。

監督はVictor Schertzinger、楽曲はVictor Youngによるミュージカル・コメディでBilly Wilderは共同脚本で参加している。 邦題は『愉快なリズム』。 とっても愉快だった。

Bob Sommers (Bing Crosby)とピアノのBilly Starbuck (Oscar Levant)は、名前だけは有名でセレブな作曲家Oliver Courtney (Basil Rathbone)に楽曲を提供しているゴーストライターで、その場でさらっと作ってくれたりするのでOliverはBobに感謝しまくっているのだが、Bobはずっとこれを続けていくつもりはなく、郊外のTarrytown(よい町)で叔父が経営する宿屋に戻ってボートを買いたいのだ、という。

やはりゴーストだった作詞家が亡くなった後、Courtneyのところに面接にやってきたCherry Lane (Mary Martin)は採用の際の条件 – ぜったい表に自分(Cherry)の名前を出さないこと – などに少し躊躇するが受け容れて、彼のための作詞仕事に集中するためにTarrytownのBob叔父の宿に滞在することになるのだが、ずっとすれ違っててなんか互いが気に障って衝突しているばかりのふたりが、同じ雇い主のところで飼われていたことを知るまでのすったもんだの楽しさ(ちょっとルビッチの”The Shop Around the Corner” (1940)ぽい)、知って仲直りして一緒にCourtneyのところを離れるのだが売れるアテがなくて、バンドを組んで営業を始めるのだが、これも売れなくて... という広義だとバンド・音楽業界もの、今の時代にも適用できそうなミュージカルになっていて、とにかく楽しくて目が離せない。

ただBing Crosbyのぴかぴかのオーラと歌声が素敵すぎて、あんたなら最初から簡単に自前でデビューできるよ、ってみんなが思ってしまうであろうところがなー。


The Major and the Minor (1942)

8月8日、土曜日の午後、↑と同じ特集でシネマヴェーラで見ました。  

Billy Wilderのアメリカでの初監督作で、原作はFannie Kilbourneの小説” Sunny Goes Home” (1921)をEdward Childs Carpenterが戯曲化した”Connie Goes Home” (1923)をBilly Wilder & Charles Brackettが脚色している(Sunny → Connie → Susan)。
邦題は『少佐と少女』だが、日本では劇場未公開だって?(ありえない..)

頭皮マッサージの派遣仕事でNYのホテルの一室に滞在する顧客のところをSusan Applegate (Ginger Rogers)が訪れたらそこの中年おやじに堂々とセクハラされたので都会はもうムリ、って故郷のアイオワ州に帰ることにするのだが、Grand Central駅の切符売り場で、運賃が値上がりしていて帰郷用に握りしめてきた切符代金では帰れないことがわかって、うーん、て考えて駅の女子トイレでメイクを落として着替えて12歳の少女Su-Suになりすまし、子供運賃でどうにか列車に乗りこむことに成功する。

この時点からおいおい、なのだが列車内でも当然怪しまれて、タバコを吸っているのを見られて、逃げ込んだ先が士官学校のPhilip Kirby少佐(Ray Milland)の客室で、びっくりしたことに彼はSu-Suを迷子の12歳とふつうに思い込んで彼女を匿ってくれて、そのまま士官学校に連れ帰って候補生たち、軍の関係者に紹介するのだが、そこには彼の婚約者のPamela (Rita Johnson)がいて、なんだあの娘は、って騒ぎが広がっていくの。

撮影当時だいたい30歳だったGinger Rogersが12歳の少女を演じる滑稽さ以上に、Philip Kirbyほか士官候補生全員が彼女が12歳であることを疑わないところから始まってしまう男女間のごたごたについて、勘違いより根深い無意識レベルの思い込みが軍の士官ぜんぶを覆ってしまうしょうもなさ、気持ち悪さがあって、そこをとりあえず放置して最後にSusanが正体を明かしても、Pamelaの策謀が明らかにされてもなんかもやもやが残ってしまう。 それぞれの小ネタやキャラクターの設定は十分におもしろいのでそちらを見てしまうのだが。

Wilderのおもしろさのコアには、社会の無意識のようなところにある気持ち悪い何かを晒しつつもそれらを無視して成立させるギャグ、あるいは、ギャグを形成する過程でそういうのが見えているのに、それらをとりあえず置いて(or わざと晒して)ストーリーとして立ちあげてしれっと示してしまう、ようなところがあって、その辺がなんか。ストーリーとしておもしろければそれでよいのか、ってなりがちかも。(そんな単純な話ではないと思うのでもう少し考える)

あと、Kirby役はCary Grantを想定して書いていたって、これはそうだよねー、と。

8.13.2026

[film] Moulin Rouge (1952)

8月7日、金曜日の晩、帰国後はじめて、ひさびさとなった菊川のStrangerで見ました。

『生誕120年 ジョン・ヒューストン特集』として4Kリストアなどをされた4作品が上映される。

ジョン・ヒューストンの映画もビリー・ワイルダーのと同じように長いのが多いのだが、ワイルダーは2時間かけて「ストーリー」を描こうとしたのに対して、ヒューストンは同じ時間で登場人物たちが置かれた状況とか「シーン」を、(例えば)そこで負け続ける男たちなどを描こうとしていて、「ストーリー」は最後まで一緒にいてあげないとどうなるのかわからない面倒くささがあるのに対して、「シーン」の方はどうせ負ける or 最初から負けてることがわかっているので、安心して見ていられて長さもそんなに気にならない、のかもしれない。

今回の4作品がどんな観点からピックアップされたのかしらんが、見事にどうしようもなく、しかし堂々としょうもなく狂ったり消えていったりの男たち - がどんなにしょうもないかを細々と - のドラマが並んでいて、これらは勝ち負け以前のクズだらけの男風景ばかりを見せられてうんざりの日々にうまくはまる.. のかどうか。

邦題は『赤い風車』。 原作はPierre La Mureによる同名小説(1950)、脚本はHustonとAnthony Veillerの共同、撮影はOswald Morris、音楽はGeorges AuricとWilliam Engvickによる英国映画。

パリのMoulin Rougeを舞台に画家Henri de Toulouse-Lautrec(1864-1901)の生涯を回想含めて振り返っていく評伝ドラマ。

冒頭、Moulin Rougeの片隅で黙々と踊り子たちの絵 - みんなよく知るあのシルエット - を描き続けるHenriの姿があって、店が終わって立ち上がったところで貴族の家に生まれながら階段から落ちる事故と遺伝的要因により脚の成長が止まってしまった姿が明らかになり、そこからの帰りに警察から逃れようとしていた威勢のいい娼婦Marie Charlet (Colette Marchand)を助けて家に連れ帰って面倒をみてあげようとするのだが、荒くれ野良猫の彼女はHenriの思いなんて知るか、ってどこかに消えてしまったり、橋から身投げしようとしているかに見えたMyriamme Hyam (Suzanne Flon)に声をかけたら思っていたよりずっとしっかりした女性だったり。

報われそうにない歪な片思いの思いを絵にぶつけて、それなりに絵は評価されていくものの、リアルライフでは次々と見捨てられて気が付けばひとり、を繰り返してどんより壊れていくHenriと、赤い風車をぐるぐる回しながら見守っているMourin Rougeの覆いを、彼の絵の色調、ゆるゆるの輪郭線のなかに描いていく。

彼はなんでMarieにあんなにひどい目にあったのに、どこまでも彼女を求めていったのだろう? という一番どろどろしていそうなあたりが一番残ったかも。

アーティストの見た夢、ヴィジョン、色彩の格子のなかに彼の(あまりぱっとしなかった)人生を封じこめてしまうこと、なぜならそこにこそ彼の(生きる)世界はある/あったのだから – そう思うとVincente MinnelliがVincent van Goghを描いた” Lust for Life” (1956)を見直してみたいなー、と思いつつ、やはり見比べるべきは、同じヴェニューを描いた(とは思えないけど)Jean Renoirによる”French Cancan” (1955)のPierre-Auguste Renoirだろうか。

どちらもそれぞれに見事で、『風車』はHenri de Toulouse-Lautrecという画家個人が見つめていた(光というよりは)底とか床で渦をまく闇を、『カンカン』はPierre-Auguste Renoir - Jean Renoirが夢想した集団の狂騒とその果てのユートピアまで掴まえようとしていて、どちらも総合芸術的なスケールで迫ってくるその強さ。(今、ここからBaz Luhrmannの”Moulin Rouge!” (2001)とかを見ると結構陳腐なものに見えてしまう - あれは青春バカ映画でよいのだが)

8.12.2026

[film] Vie privée (2025)

8月5日、水曜日の晩、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。
邦題は『プライベート・ケース』、英語題は”A Private Life”。

監督は(共同脚本も)Rebecca Zlotowski。 Jodie Fosterが流暢なフランス語でフランスの映画の情景に見事に溶けこんでいる。

パリに暮らすアメリカ人の精神分析医Lilian Steiner (Jodie Foster)がいて、冒頭、ずっと彼女の治療を受けていた患者のPierreが催眠療法士の施術により一瞬で治った、もうここには来ないしこれまでの治療費を裁判所で請求させて貰う、って帰っていって、その晩、患者のPaula (Virginie Efira)が自殺したという知らせに衝撃を受ける。信じられない状態で葬儀の場に向かうと彼女の夫Simon (Mathieu Amalric)からは憎しみを込めた目と態度で非難されて、でも長年彼女を看てきた側からすると彼女が自殺するとは思えなくて、やがてPaulaの娘のValérie (Luàna Bajrami)の訪問を受けると処方箋の紙に何か追記されていることを知って、やはりPaulaは何者かに殺されたのではないか、と思うようになる。

Lilianには関係がうまくいっていない息子のJulien (Vincent Lacoste)がいて、治療内容を記録するMiniDisc(なんで?)を注文して貰ったりしているのだが、その辺りから泣いていないのに涙が止まらなくなって別居している眼医者の元夫Gabriel (Daniel Auteuil)のところに行ったり、でも禁煙を一発で治した催眠療法士のところにいったら、変な夢を見て(見せられて)、とりあえず涙は止まる。

Gabrielの協力を得ながら、不可解な事件の周りを探っていくのと並行して彼女のオフィスが荒らされて本件のカギを握ると思われるPaulaとの最後のセッションの記録が無くなっていたり、無言電話が頻繁にかかってきたりするようになって、やっぱりSimonが怪しいかも、になっていくと、Paulaの亡くなった叔母からの多額の相続金のことを知ったり、Paulaの死後に女性用ヘアアイロンが注文されていたり、Simonを追ってその周辺を探っていくと…

本格推理モノ、というよりパリに暮らすユダヤ系アメリカ人女性が抱えて溜めこんだ家族に対する、自身の老後に対する、愛と孤独に対するいろんな思いが、自殺を装ったのか自殺だったのか親友に起こった事件の周辺と真相を巡ってぐるぐる回って結局は自分に還ってくるような女性のドラマで、全体としては老いを、これまでの罪を受け容れるとは、というのを極めてフランスぽく解消しようとして(がんばるアメリカ人を見て)いるかんじ。 心理療法や催眠療法に対する距離の取り方も、そこで現れてくる夢の置き場などについても、フランス映画だねえ、って思って、フランス映画を見たかんじにはなった。

一番わあ、ってびっくりしたのはLilianが相談にいく師匠の精神科医として出てきたFrederick Wisemanで、彼はLilianがやってはいけないことをした罪悪感の裏返しで変な夢を見るのだ、とさらりと語って彼女を怒らせたりしていて、なんだかとてもWiseman先生ぽいな、って思った。

あと、日仏のVirginie Efira小特集で見た”Victoria” (2016)でもそうだったけど、Vincent Lacosteって、家に籠ってなにをやっているのかよくわからない怪しく変な若者/おじさん、をやらせたら天下一品だなあ、って思った。

[film] Ball of Fire (1941)

8月4日、火曜日の晩、シネマヴェーラで新しく始まった特集 - 『ワイルダーならこうする! ビリー・ワイルダー特集』で見ました。邦題は『教授と美女』。

Billy Wilderはそんなに好物な監督ではなくて、主な理由は長いから。映画なら100分、ポップソングなら2分30秒以内、が理想で – だからこの前のAnthony Mannはとってもよかった。 Wilderの書くストーリーの指し示す教えとかビジョンがそうさせてしまうことはわかるのだが、長いお話にはそこまで盛らなくても語らなくてもいいから、っていつも。 「ワイルダーならこうする!」について考えることは意味あると思うけど、創作でこれを実践することにどんな意味があるのか(について考えてみること)。

今回の特集は彼の監督作だけでなく、初期の脚本仕事も多く含まれていて、どちらかというとそちらの方を。

『教授と美女』はこのサイトで何度も書いているが、80年代の終わりに日本未公開状態でVHSのみでリリースされたのを買って見て痺れて、そこからの約40年間、Film Forumで見てBAMで見てBFIで見てシネマヴェーラでも見てリメイクされた”A Song Is Born” (1948)も見て、ずっと見続けているのだが、まったく飽きることがないスクリューボールの火の玉の王。

原作はThomas MonroeとBilly Wilderによる短編小説” From A to Z”、脚本はCharles BrackettとBilly Wilderの共同、監督はHoward Hawks、撮影はGregg Tolandで、主演はGary CooperとBarbara Stanwyck。 何度見たって無敵で最強。

マンハッタンの83rdの西の邸宅で共同生活を送りながらエンサイクロペディアの編纂をしている教授たち8人のところにキャバレー歌手でギャングの情婦Sugarpuss (Barbara Stanwyck)が転がりこんできて、元はと言えばスラング研究をしているPotts (Gary Cooper)教授の研究材料のはずだったのが、サツに追われるギャング団 vs. 教授たち、の構図に転がっていって、女性に初めてぽーっとなってどうしたらよいのやらのPottsとはじめはバカにしていたのに彼を忘れられなくなっていくSugarpussの恋の行方はいかに? なの。

階級・階層の対立・対比の構図がかっちりと区切られていて、それゆえのスクリューボールなのだが、今だったらエンサイクロペディアはないのでウィキペディアで編纂作業もオンラインで、そこにやってくる彼女もSNSくらいはやっていて、でもちょっとした口出しや指導でもコンプラ案件になりかねないし対価報酬も頂きます、のでたぶん火の玉が発生したりぶち抜いたりすることは難しいのだろうな、などと思った。


Der Mann, der seinen Mörder sucht (1931)

8月4日の晩、↑のの前に見ました。 オリジナル版は97分だったそうだが上映されたのは現存する53分版。ドイツのUFAの制作・配給。 英語題は”The Man in Search of His Murderer”、邦題は『人間廃業』。

監督はRobert Siodmak、Ernst Neubachの戯曲を元に、Billy Wilder他が脚本を書いている。

真面目で暗そうなHans (Heinz Rühmann)は借金だるまで自殺しようと思って、スーツに弾を撃ち抜く✕印を描いたりしていたところで、ちょうど泥棒にきたOtto (Raimund Janitschek)が現れたので自分を撃ってくれ、って頼むと間抜けかつ慎重な彼は自分の組織に相談して、懲役3年をくらう可能性があるので年額5000でどうかとか、準備するので時間をくれ、ってあれこれ面倒くさい。

実行までの空いた時間にバーにいったHansはしつこい男に言い寄られていたKitty (Lien Deyers)と知り合って、彼女とダンスして身の上を打ち明けているうちに、死に向かいたいという自分の思いとその意に反して死から逃れていってしまう自分の境遇があほらしくなっていって…

いかにもドイツ人らしい死への欲望が、死神がなんでもかんでも狙いを外してくれることで滑稽になっていく様が描かれて、ほんとうに死んじゃうぞ? いいのか?になったところでやっぱり死にたくないかも、となって、やっぱごめん遅かった… になるのかどうか。

死をめぐって/死に向かった時に複雑に変転していく思い、そのヨーロッパ的なありようはWilderが後に監督する”Double Indemnity” (1944)にも繋がっていくなあ – あれの原作はJames M. Cainだけど、とか思った。

[film] A Future History Of: The Elephant 6 Recording Co. (2022)

8月3日、月曜日の晩、こんなん誰が見るねん、月曜日からなんやねん(関西弁)とかぼやきつつ、シネマート新宿で見ました。

邦題は『エレファント6レコーディング・カンパニー』。 客席はぱんぱん、のわけがなかった。
監督・制作・撮影その他をChad Stockflethがひとりでやっている、自主制作のような作品で確かにふつうに見ることは難しかったのかも。しかしなぜいま?

80年代後半にルイジアナ州ラストン辺りで渦を巻いていたバンドでもムーブメントでもレーベルとも違う変てこ共同体… より少し弱めのコレクティブ - ”The Elephant 6” - Max Ernstの絵画『セレベスの象』 (1921)から取られたのかー - の活動の全貌を追うドキュメンタリー。「全貌」と呼べるほど強い輪郭を示してくるメッセージやストーリーがあるわけではない。残っていた映像の断片をつなぎ合わせていくことで見えてくるシュールな愛すべき変人たちの蠢き。虫たちの生態。

The Apples in StereoのRobert Schneider、Olivia Tremor ControlのBill DossにWill Hart、Neutral Milk HotelのJeff MangumにJulian Kosterらの動いたり演奏したりコメントしたりする姿が見れて - でもJeff Mangumのコメントはない - 音楽関係の外からはElijah WoodとかDavid Crossが(いかにも)。

そこではとびきり痺れる、知られざる名曲やライブ映像が晒されるわけではなく、どれも誰かの鼻歌から始まって部屋の壁を伝って反響したそれらが束ねられ、団子となってガレージやベッドルームの床を転がって揺らすように広がっていったやつ。決してみんなの歌にもなろうとはせず「アート」としての熟成を目ざすこともなく、ジャンクとポップの間をぬっていくマイナーな、でも止めることのできない石蹴りのような。

代表のような形で前面に出てくるのはRobert SchneiderのThe Apples in StereoとOlivia Tremor Controlで、ここにNeutral Milk Hotelが混ざるとあまりに雑多で多様すぎてレコード棚の同じ分類で括ることなんてできそうにない、という良くも悪くもばらけたそれぞれの。

出てきたバンドの中で見たことがあったのは2013年のHostess Club Weekender(..あったねえ)でのNeutral Milk Hotel(あと、これの前年にBrooklynでJeff Mangumのソロも見ている)と、もうひとつ、2001年のElf Powerがいた。この時の彼らはWilcoの”Yankee Hotel Foxtrot” (2001)のリリース前ツアーの前座のひとつで、NYのTown Hallで911直後の、まだきちんと音楽に向き合うことも難しいような状態の我々を前に、Wilcoはすばらしい音を鳴らしてくれて、その前のElf Powerも素敵でキュートで、画面にも出てくるLaura CarterさんからTシャツを買ったのを憶えている。

90年代以降のインディペンデント・レーベルを中心としたコレクティブぽい動きで言うと、Merge Recordsの創設が1989、Saddle Creek Recordsが1993、Barsuk Recordsが1998、Asthmatic Kittyが1999で、どれもローカルのlo-fiの共同体でどかすかやっていくやり口(のような?)がおもしろくて、これらも当時言われていたオルタナとして括れてしまうものだったのかどうか。

しかし、登場するバンドのなかで、やはりNeutral Milk Hotelだけは別格の風貌と特異さで空気を震わせて - というかJeff Mangumの唸って響きわたる声がすべてなのよね、って改めて思った。

たぶんアメリカ音楽史的には箸にも棒にも、のようなものかも知れないが、こうして映像として残されていることがどれだけ貴重な獣道となっていることか、というのも改めて。配信で届くような(届くことを前提に作られる)やつとは全く異なるノイズまみれの奴らの。

8.07.2026

[film] Contes de juillet (2017)

7月22日、水曜日の晩、ユーロスペースのGuillaume Brac特集で見ました。

この夏の気候も湿気もあまりに酷いし、こんな状態で夏休みもくそもないし、これまでの生涯とかなんでこんな職業とかなんでこんなに積んであるんだとか、なにもかも呪って悪態つきまくりの状態のなか、Guillaume Bracの映画をちょこちょこ見たりしているとなんか落ち着く。彼の小噺映画で小爆発を繰り返す居心地の悪さと響きあう何かがあるのだろうか?(ロメールだとこうはいかない)

邦題は『7月の物語』 - 英語題だと”July Tales”、「日曜日の友だち」と「ハンネと革命記念日」の二部構成。

タイトルの“Contes” – Talesというと、Eric Rohmerの四季の物語に代表されるあれらが浮かんで、もちろん大好物なのだが、あれよりも少しだけとっつきやすいジャンクフードぽい風味がある。 Rohmerの方はちゃんとしたお茶菓子というか。

L'Amie du Dimanche - 「日曜日の友だち」

会社でちょっとしょんぼりしていたLucie (Lucie Grunstein)を同僚のMiléna (Miléna Csergo)が誘って、日曜日にふたりでウォータースポーツのできる大きなレジャーセンターに行くのだが、Milénaは声をかけてきた男性に惹かれたのか、そっちばかり向くようになったので、もういい、ってLucieはひとりで過ごしていたらフェンシングの素振り(?)をしている男性と出会って、Milénaの方は男の彼女が挟まってきて修羅場になって、帰りにふたりはまた一緒になる。

こんなこともあったね/あるよね、の典型的な、いきなり大雨に降られました、のようなだれにもどうすることのできない夏の一日。

Hanne et la fête nationale - 「ハンネと革命記念日」

7月14日、革命記念日のパリ。国際大学都市の寮に暮らす女子留学生のHanne (Hanne Mathisen Haga)は、朝、友人のAndrea (Andrea Romano)が自分の横でマスターベーションしているところに遭遇し(さいてー)ふざけんな!ってキレて、記念日のパレードに行ったところでRoman (Roman Jean-Elie)に声をかけられて、夜になって寮にHanneを迎えにきた彼にAndreaがひどいことをして – Andreaほんとろくでもない - 救急の人を呼んだりして、結局パレードに行けなくなった連中みんなで宴会になって、でも楽しく進んでいったその宴も…   で、朝になってHannaはすたすた寮を出ていくの。

パリ滞在の最後の日、革命記念日のパレードもあるし、記念に残るものになる/するはずだったのに、これもどうすることもできない – とも言い切れない微妙な力がどこかで働いてあーあ、になってしまう。

きっとみんなそれぞれパーフェクトな7月のイメージはあるのだと思うのだが、なんでこうなってしまうのか。でも反省はしないの。


L'Île au trésor (2018)

↑と同じ7月22日に見ました。 邦題は『宝島』。

ドキュメンタリーで↑の「日曜日の友だち」の舞台となったパリ近郊のセルジー゠ポントワーズにあるレジャーアイランドにやってくる人々、管理したり対応したりする窓口の人々の姿を追う。最初が未成年なのに自分たちでどうにか中に入りこみたいガキ共と係員との攻防で、こういうのも含めて、いろんな世代、いろんな民族間で毎日繰り広げられているであろう光景を次々と映しだしつつ、終わりのほうでシーズンがしょんぼり終わっていくさまも映されて、これが毎日だけでなく一年のこの時期に延々繰り広げられ、積み重ねられてきたんだろうなー、って思って、そこから改めて「日曜日の友だち」を振り返ってみる。彼女たちの間で起こったような小さな諍いが幾重にも多重に折り重なっていく現場の厚み – そこにあるそんな宝の島のこと。

懲りない人たち、というのも少し思ったのだが、ヴァケーション、ヴァカンスっていうのがそもそもそういう志向をもったろくでもないものなのよね。たぶん。


À l'abordage (2020)

7月29日、水曜日の晩に見ました。 邦題は『みんなのヴァカンス』、英語題は”All Hands on Deck”。
始まってから前に見たことあったのに気づいたが、おもしろいからいいんだ。

セーヌ川のほとりの公園で、Félix (Eric Nantchouang)はAlma (Asma Messaoudene)と出会って楽しく朝まで過ごして、Almaがヴァカンスで両親と一緒に南フランスの田舎町ディーに行くというので、そこを訪れてサプライズで驚かしてやろう、って相棒のChérif (Salif Cissé)を誘って、出発の日に相乗りアプリで車を出してきたÉdouard (Édouard Sulpice)にぶつぶつ言われつつ現地に着いたら、彼の(母親の)車が壊れて、故障が直るまでの1週間、Chérifのテントで一緒に暮らすことに。気楽でいいな。

でもAlmaに会いに行ったFélixは露骨に嫌がられて散々になるし、Chérifは赤ん坊を連れたHéléna (Ana Blagojevic)と知り合って子守りその他を任されているうちに…

それぞれのキャラクター(アグレッシブ、まったり、ぼんくら、等)をベースに、彼らがヴァカンスに行ったときに起こりそうなことが、いかにも出会いそうな人たちとの出会いや喧嘩や泣き言も含めて、ヴァカンスの陽のもとに晒されて、そこには感動も奇跡もまったくない、むしろ折角のヴァカンスなのに… なストーリーが無軌道に際限なく転がっていって、それらのブレンド具合があまりに絶妙なので、これこそが求めていたヴァカンス映画だ! …のわけないよね、って改めて看板を見てしまうことになるの。

とにかく、人生の役に立ちそうな、養分になりそうな感動的なあれとか、微塵もないのがよいんだってば!(100回でも言う)
 

8.06.2026

[film] Spider-Man: Brand New Day (2026)

7月31日、金曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAXで見ました。
まだぎりぎり初日に見ようとする気力は残っているらしい。(暑さを逃れたいだけかも)

ただ、あまり乗り気はしなくて、予告とかどう見ても暗そうだし、監督は前3作のJon Wattsから”Shang-Chi and the Legend of the Ten Rings” (2021)のDestin Daniel Crettonに変わっているし、前作で”No Way Home”となった後の”Brand New Day”で、新しいスタートなのだろうが、前作の終わりに保護者であるMayおばさん(Marisa Tomei)を亡くし、Dr Strangeに頼んで親友のNed (Jacob Batalon) と最愛のMJ (Zendaya)を含む世界から自分の記憶を消してしまった後の、ほんとうに初期化された”Brand New”なので、そこに痛みや苦しみがないわけがなくて、でもその痛みの中心にいるのは彼だけで。

これまでよりもカメラがPeter Parker (Tom Holland)の至近に寄って、彼の筋肉も骨格も太く肉肉しくなっていて、この点でももう子供ではない – Brand Newということなのだろうが、最初の2つのコミックみたいに軽いハイスクールのノリを愛していたので、きついとまでは言わないけど、やだな、くらい。筋肉増量の件に加えて糸が手首から出る出ないでじるじるしたり、クモの話だからしょうがないのか。でも興行的には当たったらしい。

そんな彼が動き回るNYの町も3Dでぐるぐる迫って遠くなったり近くに来たりが慌ただしく、アストリア近辺の萎びた町のかんじは殆どなくて - デリの店頭くらい - ほぼ近代都市NYのビルの奥行き、深さが解像度高めで迫ってくるくらい。(でもそれならNYでなくても)

そうやって犯罪や犯罪者を追いかけていつもの捕り物をやっていくうち、市のDamage Control局を中心に近くにいる人の人格を一瞬乗っ取って渡っていく正体の見えない敵が現れて、今回”Black Widow”を襲名したBlack Widow(Florence Pugh)に教えて貰ったり、おかしくなった自分のパワーのコントロールについてDr Bruce Banner (Mark Ruffalo)に聞いたり、どうしたんだ自分? て言いながら敵を追っていく。

のと、もうひとつは永遠に失われてしまったNedとMJの周りを諦めきれずにずっとうろついて怪しまれて、特にMJとのことは離れることができないままめそめそしている。今作で見るべきところがあるとしたら、唯一MJとの間の失われた手紙をめぐるやり取りで、これはもう”Challengers” (2024)に続いて Zendayaすごいや、としか言いようがない。

あと、後半になって尻尾を捕まえた変幻自在の敵がJean Grey (Sadie Sink)だったのにはちょっと驚いて、あのJean GreyならPeter勝てないよね、と思ったらあんなやり方で責めるとは。Marisa Tomei最強(そして、Marisa TomeiとNaomi Wattsに操られるばかりのPeter Parker)。

自分が自分だったからみんな遠くにいってしまった、Saraは消えてしまった、と嘆く彼らに対してMayおばさんは“They love you not because you're special, we love you because you're you.”と語って肩を抱く。20数年前の“With great power comes great responsibility”をめぐる箴言が今回のこれで割ときれいな弧を。

こういうのはわかるし別にいいんだけど、でも全体としてなんか楽しくないんだよ。ビルの間を渡って悪いのをとっちめていくすかっとした感覚がないの。Peter ParkerはSpider Manを本当に職業とかミッションにしちゃったんだなー、っていうコトの重圧とか運命の大変さばかりがやってきて。そりゃ大変でしょうとも、がんばってね、なんだけど。

あと、今回から登場した威勢のいいFrank Castle - “Punisher” (Jon Bernthal)、”The Accountant 2” (2025)でのキャラとほぼ同じなので、兄弟のBen Affleckも連れてくればよいのに。NJあたりにいるんだろうし。

あと、今回の音楽はどこも、どれも見事に引っかからなかったかも。自分がもうついていけなくなっているだけなんだろうなー、って思った。