ポレポレ東中野で、8月25日、火曜日の晩にProgram Aを、26日、水曜日の晩にProgram Bを見ました。
永田康祐という人もその作品も初めてでよく知らない状態で、どちらも中短編のドキュメンタリーを3本ずつ。Program Aが割と最近の作品群で、Program Bがそれよりすこし前の作品群、なのかしら。
特定のテーマを見つけて掘り下げていくにあたって、現地に飛んでフィールドワークをしたり関係者にインタビューを重ねながら事象の本質や根源に迫っていくやり方が、作家自身の内側の対話を反映するような近めのところを転がっていく。そのペースが見ている自分の思考の流れと同期するところが沢山あり、それがなんだか読書をしている時の感覚と快楽に近くて、とてもおもしろいと思った。 以下、いくつかの作品の感想を。
Fire in Water (2025)
『韓国語で酒を意味する「スル」は、「水(ス)」と「火(プル)」に由来するという説がある』 という(仮)説から入って、この「水の中の火」(タイトル)が示す発酵のありよう(劇中、背後でずっとぶつぶつぶつと発酵が進む音が鳴っている)、そのイメージから、日本統治下の朝鮮半島における稲作と酒造の歴史へと分け入って、食料増産と税収確保の名目で、こんなふうにそれまであった伝統文化、その根幹にあった食は変えられて、それが酵母や微生物のレベルまで徹底して浸透し変容と同化を促していったことを示す。戦争は単に人を殺して領土を奪うだけでなく、ここまでのことを徹底してやってしまうのだ、と。
これと同様のことは古のヨーロッパ大陸でも、シルクロードでもいくらでも起こってきたのだろうなー、というのと、主に男たちが飲んでいい気になって暴れたり憂さ晴らしするための「酒」や主食である米や麦を押さえる、のは基本なんだろうな、と。
だからこそ国を守らなきゃいけないんだ(→軍備、徴兵)、というのではなく、だから、こういうことが起こっちゃうから、日々の食や農について、自分が何を口にしているのか、それがどこから来たどのくらい貴重(食料はぜんぶ貴重)なものなのか、等に注意すべきだし、それらを支える農家へのケアをきちんとしなきゃ、になる。 「安くて旨けりゃなんでもいい(もってこい)は絶対ちがうし、やってはならんし。
このプログラムの他の2本 – “Fish of Empire” (2025), “Suddenly This Overview” (2026)も、小さな、でもどこかで目にとまったような場所や地点から戦時の記憶や歴史を掘り下げていって、それが今も物理的にそこにある、自分の足場と共振していることを示すものだった。過去や歴史は、常にどんなとこにでも、地理的に消滅したりしない限りいくらでもある - 見えない(or 見たくないから見ない)状態になっているだけ – を表に出すこと。映像表現とは。
Purée (2020)
それまで手掴みで、手で掴めるものをそのまま口に運んでがしがし食べたりしていた料理が、17世紀フランスで登場した「ピュレ」によって、どんなふうに変わり、その後のなにを変えていったのか、を実際にピュレを調理していく(顔は映らないが監督本人がやっているって)過程の映像– ふつうの料理の煮る焼く蒸す、とはちょっと違う実験みたいに見える - を通して調理すること、食べること、そのありようがどんなふうに変わっていったのか。
から始まって、作る人食べる人、作らせる人(権力側、富裕層)の構造や段差、それを支えた組織や共同体とその変遷まで文献を掘ったりしながら。 ピュレもムースもシロップもお粥もポリッジも豆腐もソフトクリームでも、うまうま、ってなんでも口にしてあんま咀嚼せずに食べてるけど、口のなかでもぐもぐ飲みこんでりゃいいってもんじゃないのよ。ちょっとは考えろ、実はそこにはこんなにもいろんな歴史や労働や権力がなだれ込んできて、ここから広がるなにかを示してくれる。 目をつむって口に入れたピュレ状のなにかが、口内で解けて広がって、これは何だなんの風味だ?って1000のスレッドが自動で立ち上がっていくのと同じように。
Translation Zone (2019)
実際に調理場でチャーハンを作りながら(最後のいただきまーす、まで)、料理のレシピや料理用語がどんなふうに翻訳されたり、あるいは食材そのものがどう代用されたりすり替えられたりして、その結果として「料理」が変容して(あるいは「定番化」して)きたのかをミクロにマクロに、その”Zone”の幅も含めて追っていって、例の「おいしけりゃなんでも..」というのとは異なる料理に向かう態度のようなものを考えさせる。
海外にいたので、現地の食材を使って現地の料理をどこまで「らしく」作れるか、とか日本の料理を現地の食材を使ってどこまで「らしく」作れるか、その「らしさ」はどこまで(だれが?)許容できるものなのか、等については相当試行錯誤とか失敗とかした(とても楽しかった)ものだが、そういうことを数万、数千万人のレベルでやっていくこと、そこに貿易や現地の流通事情やコミュニティの情報交換などが関わったりして、こんなふうにして大なり小なりの「レシピ」はできあがっていくのだなー(これって政治に近いよね)とか。 同じ民族の同じ系の料理でもマジョリティとマイノリティでもこれって起こりうるよな、とか、なにをもってスタンダードはスタンダードになるのか、とか、考えがいくらでも広がっていく。のが楽しい。
のこり1本の『鮭になる』 (2024)は太い朴訥な線の手書きアニメーション(作画:山本悠)で、養殖場で寄生虫に感染した鮭と老人の、どちらも用なしとなった彼らの行く末を描いて、とても他人事ではないので、しょんぼりした。 少しだけDon Hertzfeldtのアニメを思いだしたり。
9.01.2026
[film] Fire in Water 永田康祐映像作品集
[film] The Gold Diggers (1983)
8月22日、土曜日の午後、ユーロスペースで見ました。
個人的にはこの夏の最大映画イベント。80年代初のロンドンの空気を見事に切り取った女性映画監督ふたりによる2本。なんで今なのか、はよくわかんないけど、それでも必見。BFIのマークが見えるだけでうれしい。
監督はSally Potter、これが彼女の長編映画デビュー作。脚本はSally Potter, Lindsay Cooper, Rose Englishの共同、音楽はHenry CowのLindsay Cooper、撮影は”Jeanne Dielman, 23 quai du Commerce, 1080 Bruxelles” (1975)を始め、Chantal Akerman作品を手がけたBabette Mangolte、全スタッフが女性による作品。 (ちなみに同じ頃のアメリカだと、Susan Seidelmanの”Desperately Seeking Susan” (1985)もすべて女性スタッフによるもの)
Sally Potterその人については、この翌日にユーロスペースでトークもあったようなので、よいか。
音楽面でも今回のサントラで1曲歌っているし、Fred Frithとの共演などもあるし、ソロを2作出しているし、実弟はVDGGのNic Potterだし、70~80年代の英国左翼音楽のど真ん中にいた(いる)人でもあるの。
元ネタ(のひとつ)はMervyn LeRoy監督、Busby Berkeley振付によるアメリカ映画“Gold Diggers of 1933” (1933)と見ることもできて、大恐慌の最中のアメリカで、あるところにはあるはずのお金を富裕層からふんだくろうと金策に駆け回った女性たちの姿を描いたあれから丁度50年後、やはり景気がよくないイギリスで、ふんだくるもなにも、そもそもお金の起源と流通、金づるはどこに? を女優のRuby (Julie Christie)、でっかいコンピューターのオペレーターCeleste (Colette Laffont)の女性ふたりの眼と行動を通して、政治、経済、地勢、ジェンダー、エンターテインメントなどの観点から暴きたてて世界をぐるりと掘って見渡す政治経済アドベンチャー映画なの。
これらを氷河が横たわるアイスランドの台地から現代ロンドンのコンピュータールーム~劇場までを繋いで、金を掘ったり追ったりしていく者たちの様々なイメージと足跡を結んで懲りない滅びない星座として描きだす。
さらにこのありさまを金を掘ったり追ったりする者たちの汗と涙の狂騒のなかに刻むのではなく、あんたら何やってんの?いつまでもご苦労なこった、というしらーっとした目で突き放す。そういう時のJulie ChristieとColette Laffontの顔、馬に乗って去っていく姿がしらじらとかっこいいったらないの。
Nightshift (1981)
8月23日、日曜日の晩、ユーロスペースで見ました。
監督はRobina Rose、作は舞台となったPortobello Hotelで実際に夜勤していたRobina RoseとNicola Lane、撮影は当時Robinaとパートナー関係にあったJon Jost(ちょっとだけ顔も出す)、音楽はPenguin Cafe OrchestraのSimon Jeffes、など。
ロンドンのNotting Hill - 最初にジャマイカ系移民が入って、世界で最初のサウンドシステムが組まれて、最初期のパンクが鳴らされたグラウンド・ゼロの近くに建つPortobello Hotel(まだホテルとして稼働中)の玄関口に16mmカメラを添えて、フロントで夜勤する女性(Jordan / Pamela Rooke)と彼女の傍らを行き来していく夜の人々の生態(& 変態)を、獣道を抜けていく夜の動物たちのように捕らえて見ているだけでたまんない。これは大昔にBFIで見たことがあって、何度見てもとにかく飽きないの。
同様の変な人々の巣窟としてのホテルとしては、NYのChelsea Hotelが有名だが、あちらの「ほらほら見て見て」の騒々しさ、顕示欲の塊とは全く異なる、海の底の静けさと巻きあげられた泥の滑らかな軌跡が残像のように残る。そこに静かに浮かぶJordanの能面の無表情が怖さと妙な安心感の両方をくれる。奥/裏の方に引き摺りこまれるような禍々しさは感じられない。(いや。ああいう手動リフトの付いたフラットにずっと住んでいたことがあったので、単に落ち着くだけなのかも、と後で思った)
定住する場所ではないホテルで、人はパーティの支度をしたり、帰ってきて横になったり、パーティや仕事の続きをやったりする。なんにしても寝る以外ではせいぜい2~3時間くらいの勝負で歓んだり悲しんだりして、朝になると出ていく。 そこにやってくる人たちのために寝ないで働いた人たちが迎える朝とは。
クラブやパンクで華々しく騒々しい表とは別に、静かで淫靡でどこか歪んだ洞窟と繋がったこんな空間は確かにあって、しかしこれもまた紛れもなくシーンの一部だった。Penguin Cafeもおそらくそんな場所にあった。
これの併映はDerek Jarmanの”Jubilee” (1978)でもよかったかも。Jordanの異なるもう一つの顔を見ることができるし。音楽もBrian Eno(Penguin Cafeの元締め)だし。
[film] The Drama (2026)
8月22日、土曜日の昼、ヒューマントラストシネマの渋谷で見ました。 邦題は『ドラマなふたり』。
監督はノルウェーのKristoffer Borgli。 ベースはカップルの会話(&心理)劇で、物理的な流血はそんなにないものの、神経を無駄に刺して引っ張って逆撫でしてくるあたりはやっぱりA24かも。 以下、ネタばれっぽいところも含む。
Charlie (Robert Pattinson)はイギリスから来てNYのCambridge Art Museum(もちろんそんなの存在しない)でキュレーターを務めていて、ある日カフェでひとり読書をしていたEmma (Zendaya)を見かけて、話しかけるために、彼女が読んでいた本をサーチして、その本いいよね、って声をかけて、そこで彼女は片耳が聞こえないことがわかり、ちょっとばたばたするのだが、それをきっかけに仲良くなって、一緒に暮らし始めて、結婚するところまでくる。 この出会いのなんてことはないやりとりが、結構血圧がきゅーってあがるかんじで撮られていて、この後の流れを象徴していたような。
結婚式が近づいて、ふたりは親友のRachel (Alana Haim)とMike (Mamoudou Athie)とディナーをして、そのテーブルで、これまでに自分がした一番ひどいことを暴露してみよう、というのを始めて、Emmaは14歳のとき、父親の持っていたライフルを使って学校で銃乱射事件をしようとしたけど、実行には移せなかった、という話をする。 それはいくらなんでもひどすぎる、シャレにならん、一体どういうこと? って一同震えて、回想シーンも入って掘り下げていくと、校内でいじめられっ子だった彼女はそんな日々にブチ切れて計画を立ててひとり射撃の訓練とかも始めて、そのせいで片耳が聞こえなくなった。いよいよ実行まで行こうとしたとき、地元のショッピングモールでリアル乱射事件が起こって友人が犠牲となり計画はなくなって、彼女は銃規制派のほうに転じることになった、と。
今はもう大丈夫だから、というEmmaを他の3人も信じてくれる、というのは甘くてそうもいかなくて、そこまで思いつめて銃を手にしようと思った人が、そう簡単に - 後で規制派に転じたとは言え、いや簡単に転じてしまったが故に- 彼女のことを信じられるだろうか、って特に花嫁の付き添い人をするはずだったRachelは敵意を顕わにするようになり、もちろんCharlieも、がたがたに揺れ始めて神経症のようになり、オフィスの秘書とひと悶着起こしてしまったり、それでもとにかく結婚式を吹っ飛ばすところまではいかずに当日を迎える。
従来のハリウッドの結婚式コメディにもよくあったような、直前にいろんな不安が湧いてでてじたばた、の体裁をとりつつ、ここに銃乱射事件という誰もが目を背けたい「現実」を繋ぐことで、全体をホラーに近い心理的な極限状態に引き摺りこむ – ここで焦点があてられているのは『ドラマなふたり』というよりは、ドラマのありようそのものだとも思うのだが – そんな試みで、あなたの婚約者が突然こんなことを言い出したら... って挑発してくるような。その挑発の仕方、作法って流血ホラーのそれとどんなふうに違うのか同じなのか。
たぶん、結局のところ、いや大丈夫だから、って大抵のひとはなると思うのだが、そんなのは自分で自分を騙しているだけで、本当はぜんぜん大丈夫だなんて言えない、妄想で銃を手にとってバリバリ、なんて妄想であればいくらでもある、その手前までの人だっているだろうし、そこでなんで踏みとどまれているかなんて、単なる環境に恵まれているだけなのかもしれないし。でもそこに求める安心て、そもそもなに? などなど。
というぐるぐるに囚われて従来であれば狭くてみみっちいやつ、として蔑まれそうな男(像)、を”Die My Love” (2025)に続いて、いや消費され続けるゴミ男、にまでスコープを延ばせば”Mickey 17” (2025)の頃から演じ続けているRobert Pattinsonはすごいなー、って思った。
ラスト、やっぱりRachelは銃を手にして… になったら最高だったのに。”One Battle After Another” (2025)の時と同様、Alana Haimはあっさり。
あと、NYの美術館の上級キュレーターで、マンハッタンのタウンハウスに住んでいるような男が、若い頃とは言えあんなふうにカフェでナンパしてどぎまぎしたりするものだろうか、とか。
8.30.2026
[theatre] 映画を撮りたいゾンビの演劇
8月18日、火曜日の晩、東京芸術劇場で見ました。月一回は見たい演劇シリーズ。
同劇場の舞台芸術部門芸術監督に就任した岡田利規の作・演出による就任第1作、とのこと。
初演はドイツのハノーファー州立劇場のレパートリーで、”Sliding Away”として上演されたものを日本版スタッフ、キャストで、このタイトルで再構成したもの。
舞台のほぼ真ん中に半ば破棄されたようなぼろい車が置いてあり、映画によく出てくる道端で乗り捨てられた車 – 乗っていた人たちはどこかに消えた、喰われてしまった… ことを想像する。上部には英語字幕が投影されていく。
そこにゾンビのメイク - 崩れた青塗り顔とか - をした5人のゾンビが現れて、ゾンビ映画を撮るにあたって人間のメイクにすることの大変さ - 3時間半かかる – 等から始まるゾンビたちそれぞれの、なんで自分たちはここに、こんなふうにあらされているのか、についての苦労やら徒労やらが語られる。
その際に何度も取り上げられるのが人間とゾンビのありようの「非対称性」で、それはゾンビが人間によって創られたものである以上どこにでもついて回るものなのかもしれないが、この議論は、たんに人間 vs. ゾンビという対立項だけでなく、見るもの - 見られるもの、例えば「正常性」(のルールや規範)を定義するもの – されるもの、男性と女性、映画と演劇、等あらゆる領域に及んでいって、止まることがない。
この防ぐことのできそうにない止まらなさは、理不尽に増殖を続けていくゾンビのありように関わるのかもしれないが、そういう状態を維持しつつ、いつまでたっても映画の撮影は始まらない。まるで「ゴドー」のように待つしかない状態で、その不条理感もまた…
ゾンビが固有種のようなものとして世界に実在するとしても、彼らの形象や仕様を生みだしたものは映画だと思われるので、非対称性について云々するのであれば、まずは映画からだ! だからとにかく映画を撮るのだ、というのが今回の視点力点と思われるのだが、ゾンビ映画も、そこで描かれるゾンビも多様化の波にさらされていて、なにをもって非対称/対称の軸とすべきなのか、それを決めるのはどこの誰になるのか、など、途方に暮れないわけにはいかないあれこれが原っぱには横たわっていて、彼らと同じように立ち尽くすしかないのかもしれない。
そして、それ(非対称性)をライブで訴えられる客席にいる我々もこれらについて(へたしたらゾンビに襲われてしまうかもしれない)緊張感をもって考えることになり、いろいろ考えたり考えに晒されたり、こういうの、おもしろい人にはおもしろいのかも知れないが、演劇としてどうかと言えば、どうなのだろうか? 「映画を撮りたいゾンビ」の話を演劇でやっても、それは演劇の話になってしまう。 「映画を撮りたいゾンビの映画」(既にあったような、ヒットしたやつ。見てないけど)、あるいは「演劇をやりたいゾンビの映画」という設定にした方が、おもしろくなったのでは。
これが例えば初演されたドイツだったとしたら、リアルな移民問題や過去にはユダヤ人の話が、あるいはそれなりに可視化されている格差・貧困の話などを背景に、視点を示しやすかったのかも、とか。あるいはイギリスだったら幽霊がふつうに徘徊している土地なのでー、とか。
日本だったら思い浮かぶのは働きすぎ仕事漬けのゾンビとか.. でもそんなの仕事をやりくりして演劇を見にいく人が一番見たくないやつではないかしらん、とか。 その辺を笑い飛ばせるようなナンセンスのどたばたぐしゃぐしゃが広がってくれれば、だったのだが、そんな不真面目を許さない生真面目さ、空気も含めて演出されているようでうーむ、だったり。
8.27.2026
[film] Midnight (1939)
8月15日、土曜日の昼、シネマヴェーラのBilly Wilder特集で見ました。
監督はMitchell Leisen、脚本はCharles Brackett & Billy Wilder。邦題は『ミッドナイト』。
アメリカ人の踊り子Eve Peabody (Claudette Colbert)がモンテカルロですってんてんになった状態で土砂降りのパリに列車で着いて、そんな彼女を拾ってくれたハンガリー人のタクシードライバーTibor Czerny(Don Ameche)に頼んでパリじゅうのナイトクラブを回ってもらい、そこで仕事が見つかったら運賃倍払うから、って走っていくのだがそう簡単にはいかず、Tiborからは夜遅くなったしうちに泊まれば、って誘われるのだが、それはよくない、って別れて、ブラックタイでサロンのコンサートをやっているところに質札をチケットに見せかけて潜りこみ、身元がバレそうになったところでブリッジをやっている部屋に逃げこんでテーブルを囲んだら見事にボロ負けし、そこでなにかと助けてくれたのが謎の紳士のGeorges (John Barrymore)で、なんでなの?と思ったら彼の妻Helene (Mary Astor)とよい仲になりつつある富豪のプレイボーイJacques (Francis Lederer)をEveの方に惹きよせて、ふたりの仲を断ってほしい、成功報酬もだすよ、と。こうして「チェルニー男爵夫人」になりすましたEveは、リッツホテルで身バレの危険と玉の輿の間を綱渡りしつつがんばっていると、彼女のことが忘れられなくて運転手仲間を焚きつけて追っかけてきたTiborも絡まって勘違い/思い込みトライアングルが回りだして止まらなくなる。
ノラ踊り子、タクシー運転手、上流階級を跨って互いに足を引っかけ騙しあっていくスクリューボールコメディで、John Barrymore(Drewのおじいちゃんね)はもちろん巧いし、”Cocoon”(1985)が大好きだったDon Amecheも堂々としてて見事だし、なにより緩急自在なコメディエンヌとしてのClaudette Colbertの素敵なとこが前面に出ていて、全員のアンサンブルがとにかく楽しくてはらはらで、これだから昔のってすごいなーって。(National Film Registryにとっくに登録されていた)
The Bishop's Wife (1947)
8月17日、月曜日の晩にシネマヴェーラで見ました。
監督はHenry Koster、Robert Nathanによる同名Novella (1928)を原作に、アンクレジットでCharles Brackett & Billy Wilder組が参加している(後から書き直しで入ったらしい)。地味に凄い魔法を使っていそうな(いる)撮影はGregg Toland。 邦題は『気まぐれ天使』。
これはBFIのクリスマス映画特集で見たことがあって、見終わった後に客席みんなで拍手して、ふううーって鳥肌たてていたら隣にいたいかにもイギリス紳士ふうのおじさんから「いいでしょう?よいクリスマスを」って言われたことも憶えている。
司教のHenry (David Niven)がいて、妻のJulia (Loretta Young)と娘のDebbie (Karolyn Grimes)とでっかいわんわんが教会の横で暮らしていて、Henryは地域の大聖堂の建設資金集めに富裕層の間を日々奔走して家族のことを構う時間がなくて、そんな彼のところにDudley (Cary Grant)が現れて自分は天使なのです、って言って – でもJuliaとか他のひとには言わない - 彼の横できらきら奇跡のようなことをいろいろ施して去っていくの。
JuliaもDebbieもDudleyのことが大好きになるのだが、JuliaとDudleyはぎりぎりで恋仲にはならずに - Bishopの妻だから - 離れていく – あたりの切なさ儚さがクリスマスのそれと重なって素敵に降りてきて、でもそれだけじゃなくて、なによりも「みんな - 富豪のひとも貧乏学者も子供たちも - よいクリスマスをね!」の思いが雪のように淡い光となって覆いかぶさってくるところがたまんないのだと思う。
とにかくそのみっしりとした存在感も含めて明らかに怪しくてちっとも天使っぽく見えないCary Grantが自分は天使ですよ、って朗らかに告げたりするうさん臭さ、それを受けてぴくぴくしながらも(司教だから)毅然とやりとりしようとするDavid Nivenがたまんなくおかしくて、でもあんなふうでも天使で、この辺は“It's a Wonderful Life” (1946)と同じようにろくでもないけど天使は天使、なんだからありがたく思え、っていうのと似たようなものかしら?
8.26.2026
[film] 左撇子女孩 (2025)
8月16日の午後、新宿武蔵野館で見ました。 アイダホから台北へ。
邦題は『左利きの少女』、英語題は”Left-Handed Girl”。
監督はこれまで多くのSean Baker作品にプロデューサーとして関わってきたShih-Ching Tsou、共同制作、脚本にはSean Baker、編集もSean Baker。書かれたのは2010年だそう。 全編iPhoneで撮影されている。
母のシューフェン (Janel Tsai)は娘のイーアン (Ma Shih-Yuan)とイージン (Nina Ye)の母娘たちが車で台北の町にやってくるところから始まる。アパートらしき住処に入って、母は夜市の屋台の一角を借りてヌードル屋として働き始めて、イーアンはビンロウの売店で売り子を始めて、イージンはふたりの間をおとなしくぷらぷらしている。
ここまで、台湾の繁華街の雑踏のきらきら、ざわざわしたかんじ、そこに分け入っていくかんじが素敵なのだが、シューフェンは無口で、がんばっていこうーの元気も覇気もなく、昔に別れて病で亡くなった夫の借金を裏でどうにかしようとしているし、やはり不愛想なイーアンは、成績は優秀なのに上の学校にはいけずに将来どんよりで、店主と関係をもってずるずるだし、イージンは実家の祖父から左利きの左手は悪魔の手だ、使ってはならない、とか叱られるように言われてしまい、全員がそれぞれ自分の意思とは異なるどこかのなにかに引っ張られ縛られてしょーがないじゃん、て動きが取れず、それでも生きていかないと、になって、他を思いやっている暇なんてありゃしない。
やがてイージンは悪魔の左手を、これは悪魔の手だから自分のじゃないしと思ったのか、屋台を歩きながらいろんなちっちゃいブツを万引きするようになり、はらはらするのだが悪魔のせいだからとへっちゃらで、イーアンは妊娠してしまったらしく、やがて祖母の還暦祝いで家族親族が集まる宴が近づいてきて。
日本も同じようなかんじかもしれないが、市場に活気はあってみんな大声で元気に屋台で食べたり集まったり、日々の商売は大事だから寄ってたかってわいわい盛りあげて日々を過ごしていくものの、みんなそれぞれに自分の悩みを星のように抱えて見上げるしかなくて、それは幼いイージンにだってやってくる。折角ミーアキャットと友達になったのに、とか。彼女も含めて、そんな女性たちのそれぞれのクラッシュが溝口の映画のように並べられて、それが最後に爆発.. とまではいかないが、溢れかえってとんでもないことになる。 そんな女性映画として見るのが正しいのかも。
それらはぜんぶ家父長制起因の家のメンツとか体裁とか、そういうののひと揃えで、イージンの左手だってそうだし、妊娠したイーアンのところにあのタイミングで怒鳴りこんでくる店主の妻もそうだし、そしてその流れからのイーアンの最後のぶちまけも、場所とイベントを考えたらこんなに痛快かつ適切なことはないし、忘れられないものとして刻まれる。 もちろん、そんなことをしたからって翌日から暮らしが楽になるなんてことはないのだが、なんかすっきりしたぜ、にはなるかも。
ただ、せっかく夜市が舞台なのに、ちょっと閉じちゃっている感があるのがなー。もっと近場にはいろんな変な人、恐い人とかうじゃうじゃいるはずで、そういう中でイージンの「悪魔の手」を活かすこともできたはず。 あとちょっとがんばれば川島雄三になれたか、な?
でも最後、三人がiPhoneの画角に収まっている絵はなんだかとってもよいの。
あと、ミーアキャットって、飼えるの?
8.25.2026
[film] My Own Private Idaho (1991)
8月16日、日曜日の午後、シネマート新宿で見ました。 4Kリストア版でのリバイバル公開。
邦題は『マイ・プライベート・アイダホ』。 “Own”を抜いてしまってよいのか?
とても有名な作品なのにこれまで見たことがなくて、それを言うなら『ショーシャンク』とか『スタンドバイミー』とか『レオン』とか、なにひとつ見たことがないので、自分は映画についてなんか書いたりしてはいけない人間なのだ、と思いつつずっと書いたりしている。ほっといてほしい。
監督はGus Van Sant、知らなかったが原作はシェイクスピアの『ヘンリー四世 第1部』『ヘンリー四世 第2部』『ヘンリー五世』を緩く基にしたものだという。
1991年のヴェネツィアや全米映画批評家協会での最優秀男優賞をはじめ、いろいろ沢山受賞している。
男娼のMike (River Phoenix)はナルコレプシー - 場所と時間を選ばず発作のように強い眠気に襲われてその場で落ちてしまう睡眠障害 – を患っていて、冒頭、あたりに何もない道端で遠くに広がる道を見て、「人の歪んだ顔みたいだ」とか呟いたりしているとそのまま落ちてしまう。
シアトルで年配の女性から声を掛けられて彼女の邸宅にいくと、そこには親友のScott (Keanu Reeves)もいて、でもコトに及ぼうとしたところで彼はナルコレプシーで落ちて、目が覚めるとシアトルにいたりする。こんなふうにアイダホ、ポートランド、シアトル、最後のほうではローマまで瞬間移動するかのように、場所を変えていく。これらの移動に彼の明確な意思はなく、定住するわけでもなく、肝心なときにナルコレプシーで落ちてしまうのと同じような、否応のなさがあって、でもその根底には原風景のようなIdahoの、My Own Privateな道路と原野が広がっている。
根無し草でその日暮らしのMikeと、お金持ち市長の息子でよい毛並みで今はふらふらしているけど、やがてシェイクスピアよろしく親の後をしっかり継ぐであろうScottの振る舞いは、根本から相容れるものとは思えなくて – というかMikeはすぐ寝ちゃうし -で、どちらもやがてそうなることはわかっていて、そんななかで彷徨いと汚れ、酩酊と昏睡が繰り返されて、それらは何ひとつ生み出さないゴミ(結果きれい)みたいなもんで、それらがたまんなく素敵に見えるのだが、重ねて中心のふたりがRiver PhoenixとKeanu Reevesなので、つい何かを託したり夢想したくなったりするのかもしれない。 でも見事になにもない、やや見栄えのよい雑種と血統書付きの犬ころが同じ画面のなかにいてじゃれたりしている、それだけのー。
これが”Gerry” (2002)までくると、Matt DamonとCasey Affleckなので、なにをどう振ってもなんも生みださないノラの、ただの殺伐とした砂利の空っぽの台地くらいしか広がっていないのだが、ここに来るまでに10年かかった、ということなのか。
あとこの頃はグランジもあって、みんなが自分のゲロとか晒して、ゲロの可能性と緩めの孤独に賭けているようなところもあり、そういうなかでのクィアとか、郷愁とか、とても画面はきれいなのだが、とにかくいろいろ込められていることは確かかも。所謂ロードムービーの終焉なども。
こんなのこぎれいな白人男性のファンタジーじゃん、と思うところもあるので、例えば黒人キャストだったら、ナルコレプシーで寝入ったら略奪されて殺されてしまうかもだし、都市はシカゴとかディープサウス辺りとなり、シカゴだったら路上で凍死してしまうだろうし、ものすごく切実できついお話になるのではないか、などと想像したり。
でもあのラストはいいなー。彼はまだたまにああやって道端に転がっているのではないだろうか。