10.19.2026

[film] 旅籠屋騒動 (1939)

10月12日、祝日の月曜日の午後、シネマヴェーラの『映画を輝かせるために』特集で見ました。

この週末から上映作品が洋画系のから邦画系に変わっていて、自分の場合、洋画と邦画だと太陽と月くらい見てきたものも過ごした時間も違うのでだいじょうぶかしら、なのだが、今はとにかく見れるものをー。

『お伊勢詣り』 改題とあって、戦後にこのタイトルに変わったらしい。
監督は森一生、脚本は依田義賢、56分。製作は新興キネマ京都、というところで、当時吉本興業から移籍した人気の関西芸人が大勢出ていて、ふつうの時代劇というより、後半はほぼ関西漫才のプロモーションVのようにも見える。

江戸時代のお伊勢参りで賑わう街道沿いの旅籠が舞台で、そこの主人(伴淳三郎)が病で臥せっていて、でもなかなか死ななくて、そこのバカな長男がやってきた女中に惚れてばたばたしているのと、そこにやってきた偉いお殿様に粗相をして、殿様がわしを笑わせたら許してやるわ、っていうので、そこにいた連中が代わる代わる座敷に出ていって「漫才」らしきものをするの。疎いのでよくわからないのだが、演者が前に出ていって、こちら(カメラの方)を向いて、こちらを意識しながら会話らしきやりとりとか芸っぽいものを披露して、おもしろいでしょ? ってやるのが漫才なのか、殿様の前には3組出てきて、でもどれもなにがおもしろいのかさっぱりわからないのが、おもしろい、といえばおもしろい。ネタがどう、容姿がどう、ではないし、彼らの話を際立たせるようなカメラの角度とかアップとかカットとか照明とか、工夫もなんもなくて、ただ殿様の正面に出ていって、なんかピンポンで喋って、失礼しましたー、を流して終わり。これらをほぼ素で流しているように見えて、漫才のネタとか内容(1週間経ったら完全に消えた.. くらいの)より、そのなんの作為もない垂れ流し技の強さ、斬新さが印象に残っていたり。

ただ、あんなしょうもないぽんこつ殿様の言いなりになる漫才師たちと、いまの政権の太鼓持ちで利権も含めてべったりの吉本は、この頃からずっと繋がっているのだな、って思って、あーあになった(ここはあまり笑えない)。


マリヤのお雪 (1935)


10月12日、↑のに続けて見ました。 76分。 英語題は”Oyuki the Virgin”…

監督は溝口健二、35mmフィルム上映で、フィルムの状態が音声も含めて結構ぼろぼろだったので次はデジタルで見たい。

川口松太郎の舞台劇「乗合馬車」が原作で、モーパッサンの「脂肪の塊」(1880)を西南戦争の時代に翻案した作品で、西部劇、と呼んでよいのかどうか。

西南戦争の戦火が迫ってきたので、乗合馬車で町を出ることにした一団がいて、乗合なので上流の人たちから酌婦おきん(原駒子)とお雪(山田五十鈴)まで揃っていて、上流の人たちはなんで彼女たちのようなのが? って蔑んでいて、でも彼女たちは黙って相手にしない。そのうち官軍の隊長朝倉(夏川大二郎)に捕まって、馬車の面々は彼女たちを差し出すように置き去りにして、仕方なく自分たちの店に戻ってきたふたりは、怪我をした朝倉と再会して…

フィルムはあんなにぼろぼろなのに、お雪の立ち姿と桜の散っていくさまだけは白く浮きあがって神々しくて、まるで宗教画のようで、なんだこれは、になる。翌年の『祇園の姉妹』 (1936)もそうだけど、この時期 - 当時18歳 - の山田五十鈴のとんでもなく、突き抜けてそこに生きているかんじ、ってなんなのか、っていつも、改めて思うのだった。

[film] Digger (2026)

10月11日、日曜日の昼、二子玉川の109シネマズのIMAXで見ました。

特殊メイクでぶよぶよしわしわ不格好なTom Cruiseが明らかにロボットなぼろ猫をなでなでしながら地球資源起因の大規模危機について偉そうな連中とわーわー激論してさあ大変! みたいな予告だけで、悪ふざけにしてもこんなのぜったいムリ、見るもんか、だったのだが、Mark Cousinsさんが自分にとってブレヒトやマックス・ベックマンに近い、オーソン・ウェルズも気に入ったと思う、と言っていたとか、Neil Youngも絶賛、とかいうので見ることにした。思っていたようなさいてーの映画ではなかったが、描かれた先の世界がさいてーであることには変わりない。ほーらこんなにおかしいだろ? というパロディも含めて笑わせる映画というより、根にある目線はものすごくシリアスで暗いやつ。

もう公開から時間が経っていろいろバレ始めているのでそのまま書くけど、まだ知りたくないひとは以下、読まないほうがよいかも。見た後だと割とどうでもよくなるような小細工(← ほめてる)ではあるのだが。

監督Alejandro González Iñárritu、撮影Emmanuel Lubezki、プロダクション・デザインはDennis Gassner。 いちおうWarner Bros.としての最後の映画作品になるのだそう。

父親の代からテキサスの石油で財をなした”Digger” Rockwell (Tom Cruise)が窓の向こうに壮麗な景色が広がる豪邸のベッドで目を覚まして瀕死の老猫Maggie(『熱いトタン屋根の上の猫』のマギーだよね)をよしよししてから、彼の会社が開発を強行したアラスカとグリーンランドの石油掘削基地で進行している深刻な事態について部下から緊急の連絡を受けて、科学者Ganesh (Riz Ahmed)も間違いなくやばいと言っているし、肛門のガンで死にそうなアメリカ合衆国大統領(John Goodman)以下宗教関係者も含めて喧々諤々の議論の末に、やっぱりこれはかなりやばいぞ、ってなったところで、ここまでの一式は、演劇“Fossil Fools”の舞台セットで、ここまでのやりとりは本番直前のドレスリハーサルであることがわかる。

間もなくこの舞台の初日を迎えようといていて主役のDiggerを演じるCurtis Markson (Tom Cruise)は、20年前の初演時からこの役を演じているので、テーマや演技・役のあり姿については自信たっぷりなのに、事あるごとに女性の若手演出家と衝突してどうにも居心地が悪く、そんな時に、ジャマイカの空港から飛びたった娘の飛行機が消息不明になっていることを知ってあれこれがたがたになっていく。

ここで楽屋に貼ってある(結構長い時間映っていた)John Cassavetesの”Opening Night” (1977)とか、同じIñárrituによる”Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance)” (2014)のMichael Keatonを思い起こしたりもするのだが、Gena Rowlandsのように劇を改変してしまう度胸はないし、Tom Cruiseはあの時落ち目だったMichael Keatonとも違うので、主演の苦悶を通して演劇のありようを探ったり問うたりするようなものでもないのか、と思って。

リハーサルの舞台袖にいて、Curtisの娘を捜してあげましょう、という気弱そうな青年Kenny (Jesse Plemons)が申し出て実際に探しだしてくれて、実は彼がこの舞台のプロデューサーで、実在したDiggerの親戚だったと…

政府高官と富豪を巻き込んだバカバカしい環境危機茶番「劇」として、上演後は大喝采 – ただしよく見ると客席には動いていないマネキンがいっぱい – で、Curtisもやり遂げたぞ、って英雄伝説を更新するそんな劇場の外に広がっているのは ー。

“Don’t Look Up” (2021)のように茶化そうが、この映画のようにメタ演劇にしてDigしてみようが、世界の危機は止まらないし、止めようがないだろう、どうしてかというと.. っていうのを二重三重くらい念を入れて語って、劇場から出た人たちの家路までこんなだぞ、っていうのだが、そうなってもそんな時に演劇を見る人たち、演劇を作る人たちには響かないのだろうよ、って。最近のチケット代のあがり方をみると、演劇すばらしいい! なんてあまり…

Tom Cruiseはふつうによいのだが、あんなふうに体型くずして老いた無様な姿を晒さないと- この映画に限った話ではないか - こんなメッセージも受け取って貰えないって、これはこれでやばいような。だーかーらーずっとやばいって言ってるだろ、ってぐるぐる。

環境問題とAIと富豪問題、これらをほんとどうにかしないと、Warnerどころか映画そのものがなくなるよ。

あと、地球温暖化、環境問題について本当に頭にきて悔しくてたまらないのは、こいつら金持ちを嗤ったりどうにかすればどうにか、なんて話ではなくて、連中の利益や高笑いの反対側でずっと生きてきた動物たちが殺されたり種を絶たれてしまったりすることなんだよ、だから地獄におちろ!消えろ!って(ずっと念じている)。

10.16.2026

[film] Toute une nuit(1982)

10月10日、土曜日の昼、日仏学院のChantal Akerman特集で見ました。

邦題は『一晩中』、英語題は”All Night Long”。上映前と後にMarilyn Wateletさんのトークがあった。

Marilyn WateletさんはChantalの映画プロデューサーで、15歳の頃からChantalと一緒に映画館に入り浸っていた彼女の盟友で、Chantalの短編”Family Business: Chantal Akerman Speaks About Film” – アメリカ西海岸に”Golden Eighties” (1986)への出資を求めて旅をした時のどたばた旅コメディ – に出てくるひと。ロックダウン中の2020年6月6日、Chantalの誕生日を祝ってYouTubeで特別公開します! ってtweetしていたのも彼女ではなかったかしら?

この『一晩中』も、ものすごく好きな作品で、一晩中だって見ていられるやつ。これが最初の撮影監督作品となったCaroline Champetierによる夜の闇、影の描写 – その奥で蠢いているようななにか - がどこを切っても美しいとしか言いようがない。冒頭のEdward Hopperの濃赤の陰影 – Hopperだよねえ、と思ったら後のトークでも言及されていた。

ブリュッセルの街中、暑そうな夏の晩 - 開いているドアや窓からいろんな音が響いてくるなか – いろんな人々が家に入る、家から出る、道路を横切る、抱擁する、追いかける、何やら言い合う、などなど、アルコール・ドラッグ・セックス・バイオレンス、夜の物語というと付いてくるこれらをとりあえず視界から外して、夜になると自分が何をしているのか、何をしたかったのか、わからなくなってごそごそうろうろを始めてしまう困った人々が右往左往して横切っていくさまを描いて止まらない。

夜は家に帰って寝るもの – 異議なし、だけど、寝れない、寝れなくなったり、誰かに会いたくなったりしてしまうことも動かしがたい事実で、なんで寝れなくなるのか、どうしたら寝れるようになるのか、などそれぞれ悩みを抱えていてもいなくても、なんだか人は建物の、部屋の中や外で集まったり散ったりキスしたりしたくなる – 「なんでどうして?」はない。理性はどこかで眠ったまま。 そんな総勢80人の夜中を抜けて空が明るくなるまで。

Marilyn Wateletさんのトークでも出てきたが全体として見るとPina Bauschのダンスのような、日々の小さな窓から見える動きから何かの箍が外れて、個々の動きや抱擁が背景も含めて制御できない大きなマスのうねりとなって押し寄せて元に戻れなくなっていく、その説明できない動物たちの、でも深く頷いて感動してしまう何かがやってくる。 この「やってくる」「押し寄せてくる」たまらないかんじとか。それが朝の光のなかに冗談のように溶けて散っていくかんじとか。

この後の”J'ai faim, j'ai froid” (1984)も” Portrait d’une jeune fille de la fin des années 60 à Bruxelles” (1994)も、この舞台設定、シチュエーションの変奏というか、ここから流れでてきた少女たちの朝までバージョンのようにも見えるし、このひとつ前の”Les rendez-vous d'Anna” (1978) - 『アンナとの出会い』から、として見るとAnna個の孤独な声、彷徨いが薄まることなく滞留し凝集するように厚く重ねられていくよう(Aurore Clémentも続けて出てくる)だし、この群れの声にならない動き蠢きは、ドキュメンタリーの”D'Est” (1993) - 『東から』の寒気のなか立っている人々の間からも聞こえてくるような。短編でもフィクションでもドキュメンタリーでも、彼女はこんなふうに世界と向かいあって世界を作りあげようとする。そして、この世界まるごとの静かでやかましいざわめきは、”Jeanne Dielman, 23 quai du Commerce, 1080 Bruxelles” (1975)のあの家、あの台所から鳴り始めたような気もする。

10.15.2026

[film] J'ai faim, j'ai froid (1984)

10月9日、金曜日の夕方、日仏学院のChantal Akerman特集で見ました。
邦題は『おなかすいた、寒い』、英語題は”I'm Hungry, I'm Cold”。

オムニバス映画“Paris vu par...” (1965) - 『パリところどころ』の20年周年記念で製作された” Paris vu par... 20 ans après” (1984) - 『新パリところどころ』のなかの1本、最初のエピソード。 Philippe Garrelなど6人の監督のうちの1名(唯一の女性監督)として参加して作られたモノクロ、17分の短編。

ブリュッセルからパリに出てきたふたりの女の子(Maria de Medeiros, Pascale Salkin)が一緒に街中を彷徨い、おなかすいたので、カフェでパンとオレンジジュースをもりもり食べて逃げて、更におなかすいたので、レストランで一緒に歌を歌ったらご飯を奢ってもらって、その男性のところに転がりこんで、ひとりは彼と寝て、もうひとりはひとりで、というそれだけ。 ふたりの少女の冒険でもなく、初体験でもなく、ちょっと遠出してきて、おなかがすいて、寒かったからなんかした、というそれだけの行動、ふたりの会話、それらの懲りない反復を捕らえた作品。 家庭や規範や男性からこんなにも自由である、ということを街をぶっとばすこともなく、こんなにも軽やかに、かっこよく描けるなんて。

『街をぶっ飛ばせ』 (1968)がそうだったように背後でがしゃがしゃ鳴っていなくても、映像だけでじゅうぶんパンク、としか言いようがないやつなの。


Portrait d’une jeune fille de la fin des années 60 à Bruxelles (1993)

邦題は『ブリュッセル、60年代後半の少女のポートレート』、英語題は”Portrait of a Young Girl at the End of the 1960s in Brussels”。

“Tous les garçons et les filles de leur âge” - 「彼らと同年代の少年少女は皆…」 という思春期をテーマにしたTVシリーズの1本として製作された。長さは約1時間、予算は約540万フラン、撮影はスーパー16で、撮影期間は18~23日、メインテーマは青春、1960年から1990年の間のいずれかの年代の前半、中間、後半を選択し、その年代の音楽を用いたパーティーシーンが含まれること、など変てこな制約があり、Chantalの作品の他にはClaire Denisの” US Go Home” (1994)や、Olivier Assayasの” La Page blanche” 後で長いバージョンの”L'Eau froide” (1994) - 『冷たい水』になる、など。見たことあるのもあるけど、ぜんぶ通しで見たい。

1968年4月のブリュッセルで、学校に行きたくない15歳のMichèle (Circé Lethem)はパリから出てきた20歳のPaul (Julien Rassam)と道端で知り合って、映画館でべたべた過ごして、彼とは寝たのかどうしたのか、夜になるとDanielle (Joëlle Marlier)と一緒にパーティに参加して踊って、朝に原っぱをずーっと歩いてどこに行こうかー。

パーティでのダンスシーンは、翌日に見た”Toute une nuit” (1992) - 『一晩中』のそれと同様、Pina Bauschぽさがたっぷり。相手に合わせたり導いたりするダンスというより、どうしようもなくひっついている、ひっついてしまって離れなくてちょっと困った–でもやめられないかんじ。

『おなかすいた、寒い』から(時代は遡るけど)約10年経って、ここでもふたりの少女が、家出ではないものの、「おなかすいた、寒い」的なところでひたすら彷徨い歩いて踊って喋って朝を迎える。そんなポートレート。なにも背負いこまない、明日のことなんて知らない、その断面のなかに現れる顔 - 少女たちの像。

ここから後、『囚われの女』 (2000)や『オルメイヤーの阿房宮』 (2011)といったやや重めの文芸(?)大作になっても、テクスチャーは異なるものの、女性(の身体、言葉)がなんで、ここに、こんなふうに、なきゃならんのか? とか、二度と戻るもんか、といった生理・身体的な苛立ちとそこからの逃走は続いているように見える。

あと、少女のポートレートというとMarguerite Duras(の少女時代のそれ)を思い浮かべたりもして、両者の違いを見ていくのもおもしろいかも。場所(土地)、熱、声のありよう、ぜんぶがあまりにも違うし。

この後、斉藤綾子さんによるレクチャー『アケルマンと少女たち - アケルマンにとって60年代を振り返ることとは: 映像と感情の記憶を描くこと』があって、途中までしかいられなかったのだが、とても示唆にとんだ、あれこれ繋がってくるおもしろい内容だった。

10.14.2026

[theatre] チャリング・クロス街84番地

10月8日、木曜日の晩、東池袋のあうるすぽっとで見ました。 劇団昴による公演。演出は菊池准。

原作はHelene Hanffの“84, Charing Cross Road” (1970)、邦訳は江藤淳による『チャリング・クロス街84番地』(中公文庫の)で、自分もここから入って、サンリオ文庫から出ていた『ニューヨーク、ニューヨーク ニューヨークっ子のN.Y.案内』は自分がNYに行く前から最良のNYガイド本だったし、ロンドンに行ってからは”84”の英国版のハードカバーの第二版とか、彼女の別の小説のサイン本なども手に入れた。(まだどこかの箱から出てきてくれない)

映画版は、David Jones監督による英国映画 - ”84 Charing Cross Road” (1987)という、Anne BancroftとAnthony Hopkinsの主演(他にDoelの妻役でJudi Dench)のがあり、よい映画だと思ったけど自分のあたまの中で組みあげられたあの本のイメージたちとはちょっと違ったかも。

演劇版は、James Roose-Evans脚本・演出により1981年に初演されてWest Endまで行って、1990年まで英国をツアーして、その後2015年からも演じられていて、とにかくずーっと人気があるようで、今回の舞台版もそれをベースにしている。

NYのへレーンはマンハッタンの東の上の方の凍てつくアパートにいて、古書店Marks & Co.があった場所はいまではいつも混み混みのマクドナルドになっている。ここでは、Grand Big Macというのが出ていた時期があって、何度か懲りずに食べては吐きそう、を繰り返した記憶が。

原作はそんなアメリカとイギリスの2地点を行き来した往復書簡集で、手紙のやりとりなので時間にも場所にもギャップがある。

舞台の左手は高くなっていて、そこがNYのへレーン(一柳みる)の書斎で、右手が低くて、そこがドエル(金尾哲夫)たちの働く古書店Marks & Coの店内で、左側でへレーンが自分の手紙を読みあげると、それは右手のドエルに届いて(聞こえて)いて、ドエルが返事を読みあげるとへレーンにも直に届いていて、その返信には古本もついてくるので、わあってなる。 本を読んでいくときにはページめくりの時間差があって、それがよいのだが、舞台版のテニスのような卓球のような右左のやりとりも楽しくて、時間が進むにつれて近くて遠くて、どうしても届かない距離のもどかしさ、切なさがやってくる。手紙でしか知らない人が突然いなくなってしまうことのぽっかり空いた日々の隙間とか。

あとは、セシリーやメガンといった、書簡のやりとりでは少ししか出てこなかった彼女たちもそこにいて、それぞれの戦後を生きていて、大変だったんだろうな、って思うところとか。

本との違いでいうと、原作はふたりの書簡のやりとりも楽しいが、英国の古典への最良のガイドでもあったこと - 最良、というのは彼女の手紙を読むと、ああこれ読みたいかも!ってお腹が鳴ること。サミュエル・ピープスもジョン・ダンもラム随筆もウォルトンもクイラー・クーチも、翻訳があれば読んでみるようになったし、ロンドンの古書店や古ペンギンでもあると手に取るようになったし。(ここにシェイクスピアが出てこないのはなんで?アメリカでもふつうに手に入っていたから?)

夢に見た英国に行けなかったへレーン、直接出会うことが叶わなかったへレーンとドエル、でもこうして手元にやってきた古書たちを抱きしめ、わたしにとっての英国はここにあるのです! っていうくだりが本では大好きなのだが、舞台版でそこがないのはしょうがないか。

あとは実際にロンドンで古書店に通うと、そこの書店員の人たちって博識なのは当然として、メールのやりとりだけでもとにかくやさしくあれこれ教えてくれて、それも一軒二軒の話ではなかったので、そういう文化なのかも。日本の古書店もそうなのかもしれないけど、そういうところには巡りあっていない。

帰国してからはWebで注文したりするのだが、それでもオーダー確認の際に、こんなのもあるけど、まだWebには出していないけどこんなのどう? …など、機械ではなく教えてくれたりして、ありがたいの(除.お財布)。

あと、値段感とか。いつからはわからないけど、古典の古書って高いのはとんでもなく高くなってしまって、手に届かないのも多い。劇中でヴァージニア・ウルフの「一般読者」 - “The Common Reader”のことね – が2冊で$2とか言っていたが、これのちゃんとした2冊揃えなんて、いまなんて軽く£800超えるのよ。ウルフの初版本なんて、軽く£2000~4000くらい。誰に文句言ったらよいのやら。

10.13.2026

[film] Hotel Monterey (1973)

10月3日、土曜日の夕方、東京日仏学院エスパス・イマージュで行われている特集『シャンタル・アケルマン映画祭2026 『母が笑う』刊行記念』で見ました。

Chantal Akermanの映画はこれまでの特集 - 一番古いのは前世紀のアテネの - とイギリスでコロナのロックダウンになった時に、いま見れるものは(たぶん)ほぼ見ているので、今回の特集は好きなのだけをつまんで見ていくことにする。

62分、サイレント、字幕もなにも入らないドキュメンタリーで、彼女の最初の長編。撮影のBabette Mangolteと組んだ最初の作品でもある。

Hotel Montereyは、NYのアッパーウェスト - 住所は215 W 94th Street。Broadway沿いにあり、現在も名前を変えてどこかのチェーンのホテルとして営業しているようだが、90年代を過ぎても治安はそんなによくなかったエリアで、昔の映画だと”The Naked City” (1948)とか、”The Panic in Needle Park” (1971)とか、そういうやばめのが撮られた界隈にある。

そんなエリアに建つホテルに滞在する人々も安全第一を求めてはいなくて、そういうところに滞在したChantalとBabetteはここで映画を撮り始める。多くの人が当時のNYの実験映画の前線 - Michael Snowなどからの影響を指摘しているが、Chantal自身はそれらからの影響は認めつつもそんなでも、と言っているし、そもそも知覚や認識をどうにかしたれ、のような「実験」の姿勢と本作から見えてくるものは随分ちがう気がする。

固定されたカメラをホテル内から入口の方に向けてとかエレベーターの前とかに置いておく。最初は何が映っているのかよくわからないのもあり、(まるで幽霊のように)人が通ったりすることでその色 - 明暗、距離感とか、調度の配置などがぼんやりと浮かんできて、そうやって「ホテル」という「家」とは異なる都会の建築構造物のありようとか特性が見えてくる。通過と定住の間を行き来する壁や柱などで仕切られた空間。この作品を見る殆どの時間は、そんな空間を空間としてどう把握する、どこまで把握できるのか、等を頭のなかで転がしていくことに費やされるような。

カメラは下から上に移動していって、最後は屋上に出て、ハドソン川やBroadwayを見渡してゆっくり横に回ったりもする。 『眺めのいい部屋』的なヴューを求めて、というよりは、非常口を抜けたらここに出たけど、あとは飛び降りるしかないのか? のような「おわり」感まで漂っている気がするのは気のせい?


La Chambre (1972)

11分の短編で、これもサイレントだが、”La Chambre 2” – こっちは見たことないかも – の方にはサウンドトラックがついているらしい。

当時彼女が滞在していたNYのSpring Streetのアパートで撮影された2テイク。 マンハッタンの北にある”Hotel Monterey”、南にある「部屋」、パブリック vs. プライベート。いろんな点で対になっているような。

“Hotel Monterey”のカメラは主に上下に動いていくが、こちらのカメラはゆっくりと回転していって、そこにベッドに寝転んでこちらを見ているChantalが映って、2回転めくらいではリンゴを齧っていたりする。とにかく部屋の散らかりよう、ごちゃごちゃが見事で、美しいかんじすら漂っていて、どうしたらこんなふうにできるのだろう、と。

部屋(空間)のなかにひとがいる、それを見る、その状態・様態をカメラがとらえて、それを見ている我々が把握するというのはどういうことか、は後の”Jeanne Dielman...” (1975)に繋がっていくし、寝転んで食べる、というのは、後の”Je Tu Il Elle” (1974) の紙袋から砂糖むしゃむしゃ、のシーンに繋がっていくので、この” Hotel Monterey”と”La Chambre”はものすごく重要な、サイレントであることも含めて、これからの見取り図、テンプレートのようなもの – 特に”Jeanne Dielman...”で顕著にあらわれる部屋のなかで誰かが動いている、何かをしている、それってなんだ? っていう、画面の奥、その向こうを探っていくような、彼女の映画を見る時に湧いてくる不思議な感覚は既にあって、これってなんなのだろうか、って…

10.12.2026

[film] ファーストボイス (2026)

10月4日、日曜日の夕方、新宿ピカデリーで見ました。

脚本は橋本裕志、監督は前田哲。
好景気に浮かれていた1989年の日本で、最初のセクシャル・ハラスメント裁判に臨んで勝利した女性たちのお話をinspired by true events で描いたもの。

これまで基本、この時期に作られた、この時期を描いた邦画は見てこなくて、なぜならやっぱりファッションとかやりとりとかどうにも恥ずかしくていたたまれなくなるから。特に女性のメイクとかボディコンシャスと言われていた頃のファッションとか。みんなが軽薄で浮かれていることが許された時代だったから、であるし、これは日本だけではない、全世界的な傾向であったこともわかっているのだが、それでもこの国の場合は。

屈辱的な敗戦〜安保の敗北を経ての高度成長期、みんなが猛烈に働いてがんばって、それが日本を経済大国に押し上げて、その行き方・行き末に異議を唱えるものなんていない、誰もが深く考えない/みんなと同じにしていればよい、というありようを象徴する、そのなれの果てがあのファッションで、なにを着ようが勝手だろ、は当然だとしても、ああいう格好で会社に行った女性たちが男性社員のためにお茶汲みとか事務全般なんでも、をやらされて待遇でも給与でもすごい男女格差や制限があって、それを誰もなんとも思わず、居酒屋の無礼講以外では声もあげていなかった。(それをなんだかんだよかった、と回顧するじじいの今だに多いこと。この世代のなれの果てがよりによって首相としてこの国をなんも考えずに破壊しようとしていること、など)

そんな時代の、そんな腐れたオフィスで執拗な嫌がらせを受けた末に仕事を奪われる(いちおう自主退職にしておいてやるよ)という性別に起因する差別 - ハラスメントが起こって、編集者の仕事を奪われた上原恵(ファーストサマーウイカ)が女性弁護士朝日道子(綾瀬はるか)の事務所に駆けこんで、他の弁護士や女性支援団体の支持も受けて、ここを崩すのは極めて難しい、と言われていたケースに勝利するまで。

どうして難しいかというと、当時の日々のビジネスの習慣や慣行、進め方働き方とあまりに普通に無反省に結びついたり基礎になったりしていて、劇中の台詞にも(たしか)あったように「こんなことで目くじら立てていたらビジネスが成り立たなくなる」ようなレベルのことに見えたから。だから当然のように、原告の行動や振るまいにそもそも落ち度があったのではないか、ってそっちに目が向けられたり。

360°こんなふう、当時の職場や男性社員、メディアの風向きがどんなだったかを知るものが見ると、たぶんものすごくその通りすぎてうんざりがっくりするし、知らない人が見ると中世か… のようだろうし、見ていて楽しいエンタメにはなっていないと思うが、でも本当にあんなもんだったんだから。

と思っていた者にとって、具体的なケースや審議に沿う形できちんと表に出してくれるので、やはり偉大かつ重要な裁判だったのだなあ、と思うし、これがなかったら - グローバルの流れもあったのでそれなりに変わっただろうとは思うものの - どうなっていたことやら、って。

↑のビジネスが成り立たなくなる発言ではないが、日本経済の今の長い不振停滞は結構この辺のこととも関連あると思っていて、昔はハラスメントやり放題の豪傑マンが強引に推し進めていたやり方が世界のどこでも通用しなくなった、というのが大きいのではないか。行動原理の礎のところまで染みこんでいたやり方(恫喝とか)を根から変えていくには時間がかかるし。

見方を変えれば昔より少しはましに、よくなってはいるのだ、ということもできる - でも今の経営の中核を担っている層はバリバリだった連中に洗脳された世代なので油断ならないけど - 政治の世界も同じか。まだまだよね、など、いろいろ考えさせられたので、みんなに見られてほしい。ハリウッドの法廷ドラマと比べたらへなちょこで、もっとかっこつけてよいのに、とか思うけど、これでも十分。

あと、いまの企業のコンプラ問題って、だいたいにっぽんのヤンキー文化(虐めとかやっちまったもん勝ち)と飲酒文化(呑んで忘れればOK)と地続きなので、ここからどうにか、ってしようとすると結局いまの政治風土に行き着くんだよ。だから政治をどうにかしないと、なの!