11月21日、木曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAXで見ました。 邦題はしらん。
日本には出張で、つまりお仕事目的で帰って、後半は病院通いだったりしたので、その間映画は4本しか見れなかった。しょうがないったらしょうがないのだが、そんなに見たいのもなかったのね(除.神保町シアターの田中絹代特集)。フィルメックスもやっていたけどー。
これの”I”って見ていなくて、鎧つけたり血と涙の仰々しい命懸けの決闘ものとかが好きじゃないから、なのだがどうして見ることにしたかというとPaul MescalとDenzel Washingtonが出ているから、というのと、あと決闘ものを避けるというより自分のなかでそれらが割とどうでもよいものとして見れるようになってきた、というのもあるか。Ridley Scottって、このシリーズで底辺から勝ちあがって生き延びる男性の過酷さを描いて、Alienのシリーズで凶暴な異生物からとにかく逃げて生き延びる女性の強さを描いて、セットがでっかく仰々しいスペクタクルとして見せるのと血が飛び散る生々しさがリアルであればあるほど盛りあがるので凄そうだけど、中心は結構空っぽで単純なゲームみたいなもんなのだと思う。
妻と農家をやって平和に暮らしていたLucius (Paul Mescal)の島が海からやってきたローマ軍に襲われて妻を殺され、彼は奴隷としてローマに連れてこられて、奴隷プロモーターのMacrinus (Denzel Washington)に見込まれてコロッセオのエンタメ闘技の見世物としてサメとかサイとかヒヒとかヒトとかと闘わされて、負けずにのしあがって名をあげると、あの子はひょっとして… と前作の終わりに涙の別れをしたおっかさんとかも出てきて揺れたりするのだが、でもLuciusの目はカラカラ (Fred Hechinger) とゲタ (Joseph Quinn)の皇帝たちが好き放題に支配して腐りきってしまったローマ帝国をぶっ潰すことにあった、と。
(そうじゃないかと思っていたけど)我こそがローマ皇帝の正統な後継者である、というのと、でも今のローマはすっかり腐れてしまって自分の理想とするローマじゃなくなってしまった – もうぶっ壊すしか道がない、というのに挟まれた小学生みたいな悩みも、自分が頂上に立てば(うう恥ずかし)になってがんばればよいのだ –じゃあがんばりなー しかない。
この線に沿って、Paul MescalもPedro Pascalも、ひたすら甘くやさしく強い - 一見ぜんぜん強そうではないし殺陣もアクションもスカスカなの - けど決してやられない - 「男」を演じて、その反対側でやりたい放題やりまくる頭のおかしい – でも権力だけはたっぷりあるカラカラとゲタと小猿がいて、その中間にひたすら不気味で妖艶でNYアクセントの英語を喋るDenzel Washington - 一番強そうに見えるのはこの人 - がいて、わかりやすいプロレスみたいな史劇が展開されていく。
こんなに簡単に単純に国とか政権がひっくり返る、ひっくり返せるのであればこんな楽なことはないわ、ってウクライナとかガザを見ているとしみじみ思うし、トランプみたいのもやって来るし、なんだか腹がたってきたり。 こんなの見てうっとりしたり喜んだりしててよいのか? それこそ帝国の思う壺ではないか、とか、こんなふうにお金かけて精緻に「再現」? というか表象される光景っていったいなんなのか、プロジェクションなんとかと同じようなあれではないか、とか。(ぶつぶつ)
12.02.2024
[film] Gladiator II (2024)
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