6.29.2021

[film] Peter Rabbit 2: The Runaway (2021)

6月26日、土曜日の午後、TOHOシネマズの新宿で見ました。

「こころ」(1955) を見た後にややジャンプしすぎな気もしたが、漱石とBeatrix Potterは同時代人(ひとつ違い)だし、妻と親友(or うさぎ)との間でうじうじする他に友達のいないだめな男の話、という点では近いじゃん、とか思って。 そして、チケットを取ってしばらくして、あ! Daniel Schmid… って(泣)。

前作は悪くなかった.. と思うもののブラックベリーの件だけは受け入れるわけにはいかなくて(英国でもTV放映の際はカットされておらず)、でもそこを差し引いても連中を見たいという欲望にまけた。

前作からの続きで、冒頭にBea (Rose Byrne)とThomas (Domhnall Gleeson)はめでたく結婚 - 思い描いた阿鼻叫喚の結婚式は妄想のなかだけ – ふたりは地元に小さなショップを開いて、自主制作したウサギ話の冊子を売ったりして、Peter (James Corden)と仲間たちは適度に庭を荒らしても許されるくらいの協定を結んで緩く幸せに暮らしていたら、ロンドンからセレブ出版人のNigel Basil-Jones (David Oyelowo)がやってきて、是非この話を出版させてくれ、と言ってきたのでウサギたちみんなを連れて列車でグロスターの町に出かける。

Nigelは彼のオフィスでPeterたちのキャラ化とフランチャイズ計画を揚々とぶちあげるのだが、その中でひとり悪者キャラに設定されていたPeterは拗ねて彼らから逸れてひとり町をうろついているとBarnabas (Lennie James)ていう年長のウサギと出会う。Peterの父のことを知っているらしい彼の言葉に乗せられて人間たちに痛い目を見せてやろうぜ、って彼の仲間 - 猫とかネズミとか – と一緒にファーマーズマーケットの襲撃(実際にはドライフルーツの樽の強奪)を計画して、そこにPeterの仲間たちと地元からアナグマとかカエルとか豚とか鹿とか全員が加わるのだが、やっぱり計画は失敗してみんなペット屋経由で散り散りに売られちゃって…

話自体は(ヒトから見れば)どうってことない小噺みたいなもんなのだが、それをいかにも世のおおごととして堂々物語ってしまうところはPotterの原作みたい、というのと、更にこの映画そのものがNigelのやり口のままにキャラクターとストーリーを産業化している、というメタ構造になっていて、それがものすごくおもしろく機能してくれれば感心もするのだが、そうでもないところがどうにも中途半端で、最後にはPeterたちがかわいいからまあいいか.. になってしまうところもオリジナルのありようとおなじだったり。

一作目で「家族」ができあがって、二作目ではその「絆」が試される、ってこういうファミリー向けのでは定石の展開なのだが、ここでやはり比較してしまうのは”Paddington”の方で、あっちは都市に迷いこんだ一匹の熊とそれを囲む家族を中心とした人間たちの話で、こっちは田園地帯の動物たちとBeaとThomasの夫婦がばちばちする話で、お話として圧倒的におもしろいのは前者の方だと思うのだが、それでもこの作品を捨てがたいものにしているのは物言わぬ(実は凶暴な)動物たちをたったひとりで引き受けてぼこぼこにされるDomhnall Gleesonの身体のすばらしさなのだと思う。これはEwan McGregorでもDaniel CraigでもAdam DriverでもBen Whishawでも難しい、あの針金みたいな体と叫び声があっての芸当ではないか。

あと、James Cordenの声はいまだになにかどこかが違う気がしてならないの。

あと、究極の野望は”Paddington vs Peter Rabbit”と、もういっこは”The Secret Life of Pets”のSnowballたちとのバトルなんだけど。ウサギの目が湛える狂気って確かにあって、それはネコのともクマのとも違う。(Warner Bros. のウサギはちょっと違う)

音楽は辻楽士みたいなリスが歌ってくれたり楽しいのだが、全体のノリはSupergrassの”Alright”が軽快に刻んでくれて懐かしくて気持ちよい。春に向かっていく映画だなー。


そんなことよりもう1年のはんぶんが終わろうとしている。なにもかも嘆いているうちに過ぎてしまうなんてひどい。

6.28.2021

[film] That Cold Day in the Park (1969)

6月23日、水曜日の晩、BFI PlayerのSubscriptionで見ました。邦題は『雨にぬれた舗道』。
監督は、7月までBFIでレトロスペクティブ "Robert Altman: American Outsider" - あーあーみたいー - が進行中のRobert Altman、撮影はLaszlo Kovacs。原作はPeter Milesの同名小説 (1965)。

バンクーバーに一人で暮らすFrances Austen (Sandy Dennis)がいて、アパートの調度とか家にやってくる客の年齢や物腰とか母の頃から仕えているメイドがいることなどから日々の暮らしには困っていないようなのだが、ある日の夕方、帰宅途中に近所の公園のベンチに若者がひとり、うなだれて座っているのを見て、ディナーの接客中にも家の窓からもその若者が目に入る(というか、Francesが彼を気にして何度も見る) - ここの、遠くに滲んで煤けて見える若者 - Francesにはそう見える - のイメージがすばらしい。

やがて雨が強くなって、彼の姿を頭から振り切ろうとしても振り切れなくなったFrancesは、客を帰した後で傘をさして彼のところに寄っていってうちに来なさい、と彼を家に入れ、濡れネズミを拭いて脱がして風呂に入れて食事を与える。年齢不詳の若者 (Michael Burns)は無表情で言葉を喋ることができないようで、でもこちらの言っていることは聞こえてわかるらしい。彼女は若者を濡れてかわいそうだったから置いてやっているのだ、という顔と素振りをしつつ、はっきりと彼に何かを掻きたてられていて、こうして彼を暫く家に置いて面倒を見ているうちによりくっきりと愛着(愛なんてとんでもないわ)が湧いてきたようで、用事をしながら彼に向かって好き勝手なことを喋ったり遊びに引き入れたりするようになる。

でもこの若者は昼間になってFrancesがいなくなるとそこを抜け出して自分の実家に行ったり(当然ふつうに喋れる)、更に姉Nina (Susanne Benton)とその恋人にも会って今の状況を話すと、少しやくざな姉は面白がって弟の滞在している昼間に押しかけてきて、勝手に風呂に入って寛いで、やりたい放題をやったり。そういう姉の振る舞いに対する苛立ちと戸惑いから &彼の姉に対する近親相姦的な欲望も - 彼の方にもこの場所とFrancesにはほんのり愛着が湧いているらしいことがわかる。

やがてFrancesは病院の婦人科を訪ねて避妊具装着の手術をして、彼女のアパートを訪れた初老の男性からねちねちと求愛を受けて - このとき若者は別の部屋に閉じ込められている - でもやはり無理だわって男を退けて追い出した後、若者の部屋に入って彼を誘おうとしたら…  この時の彼女の切り裂くような叫びで映画のトーンが鮮やかにひっくり返るの。

そしてFrancesは繁華街の怪しげなところに向かい、娼婦Sylvia (Luana Anders)を雇って若者の相手をさせようとするのだがー。

Francesのトラックと若者のトラックは最後まで交わることがない。若者が喋れないふりをしていたことは最後にはバレてしまうのだが、それとは関係なく、Francesの内面や過去は彼に晒されることはないし、逆もまた同様、そういう状態で「Francesの」愛の物語が着々と進められていく。やや特異な、母のいない孤独な世界で培われ、若者の登場によって膨れあがった女性の妄想や情念が暴走する作品で、後の”Images” (1972) や”3 Women” (1977)とトリロジーを成すとも言われているのだが、この3つ、ぜんぜん別の映画のような気もする。

共通するのは女性(たち)が主人公で、彼女たちはどれも病的にとり憑かれたり壊れたりしているようなのだが、でもそれってAltman映画の男性たちだってほぼ全員そんな腐ったようなのばかりだし。ポイントは彼女たちの奇妙だったり突飛だったりに見える行動が映画の文脈のなかでそれなりに説明できているかどうかで、その点は音や視点の使い方も含めて、ものすごく丁寧になされている気がする。だからよく言われるRobert Altmanの映画とミソジニー問題は、この作品に関してはあたっていないのではないかしら。

この映画のSandy Dennis、すばらしいよね。BFIの特集でもかかっている”Come Back to the Five and Dime, Jimmy Dean, Jimmy Dean” (1982)、改めて見たいなー。 スクリプトをIngrid Bergmanに送って却下されて、Vanessa RedgraveからSandy Dennisを紹介された、とIMDBにはあったけど。


7月から3ヶ月間だけでいい、オリンピックとスポーツを一切報道しないニュースチャンネルをやってくれたら少し高くても加入するよ。 Covid-19の感染が収束していません、というのとオリンピックの準備は着々と進んでいます(嬉々)、というのを並べてよくへーきなツラして報道できるよな。久々に吐き気がするようなのばっかし。

6.27.2021

[film] こころ (1955)

6月26日、土曜日の昼、シネマヴェーラの新珠三千代特集で見ました。
ここではまだ勅使河原宏特集をやっているのだとばかり思っていた。時間の流れかたがどうもおかしい。

監督は市川崑、原作は夏目漱石のザ・にっぽんの近代小説、みたいな一編 - もう何十年も読んでいないし内容もほぼ憶えていない状態で、どこまで浮かんでくるものがあるのか、拾いあげることができるのか。

明治45年、冒頭が奥さん(新珠三千代)の顔のアップから入って先生(森雅之)との出かける出かけないのやりとりで、ここだけでふたりの仲はあまりよくない - よくなりたいと思っているけど(どちらかというと先生の方で)なにかが引っかかって、わかっているもののどうすることもできずに凝り固まって疲れているような状態が描かれる。こんなふうに少しだけどんよりうんざりの無表情に近い顔のアップから引いて、それでも決して捕まえることのできない「こころ」のイメージが何度も反復される。(もうひとつは海の揺れる水面のイメージ)

梶という人物の墓参りに行った先生と知り合いらしい日置 = 私(安井昌二)の目や先生とのやりとりを通して見えてくる先生の、優秀で落ち着いて見えるのに定職にもつかずなにかを諦めてしまった様子、先生と奥さんの間のどこかが外れて遠くなってしまっている関係、その根っこにあるらしい梶(三橋達也)という人物の影が描かれ、それが私の父の病気で先生の下から離れて田舎の実家に戻ったところで起こった明治天皇の崩御とそれに続く乃木大将の殉死を経由して、こんなわたしはこんなところで消えてしまうのがよいのですなぜなら… という先生からの手紙 - 映画の後半の先生による回想 - によって説明される。

見ながらだんだんにストーリーも思い出されてきて、仏教を学んでその可能性を追いつつもお嬢さん - 後の奥さんへの恋に身を焦がして挟み撃ちで自ら死を選ぶ梶と、その梶を自身のエゴ - お嬢さんは自分のもの - によって殺してしまった(と思い込む)先生のふたりのピュアな友情と、それをドライブしているように見える明治という時代の終わり。うーんと遠くから見れば明治天皇の死に殉じた男子ふたりの無理心中、のようでもあるのだが、少し近寄ってみれば単なる女子の取り合いなのに、それを近代的エゴと呼んだり天皇の死と結びつけたりするのってどうなの? ひとの「こころ」の見えないことなんて、時代のありようとかに関係ないものなんじゃないの? と子供の頃に読んだときには思ったりしたねえ、とか。

いまはもう少し、なんとなくわかるかも - たぶん研究本とか読めばいくらでも書いてあるに違いない。「こころ」なんて見えなくたってわかんなくたってよいのだ執り行ってしまえ、が明治以前で、もう少しちゃんと周りの人たちのことも見て想像してみれば、っていうのがそれ以降ので。いまは明治の時代に遡りたい連中がうようよなので、余計よくわかるよね、やり口とかも含めて。なにがしたいんだか知らんが。(じつは精神的には明治の頃のままなのだ、というのもふつうにあり)

映画だと、あのあと先生の元に戻った日置が先生を殺してしまったのは自分だと、罪の意識に苛まれて死んでしまうのだとしたらそれは明治の物語になるし、ひとりぼっちになってしまったかわいそうな奥さんと結婚するのだとしたらそれは明治以降の物語になる、のかも。 でも結婚しても亡くなった日置の父の後を継ぐべくふたりで田舎に戻らなければならなかったのだとしたら奥さんの苦労は終わらなくて - 地獄の日々は続いたり。

顔の正面のアップから入って部屋の影日向を通り抜けていくカメラの動きはその始めからクラシックなホラーのようで、映し出される新珠三千代が時折見せる魂の抜けたような表情と、成瀬の頃からわかっていたよあんたは、の森雅之と、悟りまであと10年、としか思えない煩悩もろだしの三橋達也の3人の顔が織りなすドラマはスリル満点でおもしろかった。魂のせめぎ合いのドラマというよりは魂の欠けたピースをそのまま曝して、その状態に「こころ」という張り紙を「割れ物注意」みたいに貼ってしらっとしている、そんなかんじ。魂、ではなくて、「こころ」の。

自殺した梶が一瞬動いて見える(動いてない?)シーンがあって、あそこで起きあがってそのままホラーになってもまったく違和感ない画面の作りだった気がした。実際先生は梶の亡霊にとり憑かれただけだった、というふうにしたっておかしくないし。

あとは、お嬢さん-奥さんの扱いの、本人不在のひどさ、これはこの時代なのだからしょうがない、ではなく戦争や独裁の時代を語るのと同じようにいちいちしつこく語っていった方がよいのかも、と最近思うようになった。ここでいう「こころ」って男野郎共の勝手なそれ、でしかないよね。

もうすでにあるのかもだけど、女性監督による徹底的にお嬢さん-奥さん目線での「こころ」が撮られないかしらー。 


そして、オリンピックはやることにしたから、と言われたからといってはあそうですか、にしてはいけない。国の愚策によって何十万人もの国民を殺してしまって謝罪したアメリカとイギリスは本当にそのまま選手を派遣するの?  そうか連中にとって日本は競技用のグラウンドでしかないのか..

6.25.2021

[film] A Quiet Place Part II (2020)

6月20日、日曜日の昼間、TOHOシネマズの新宿で見ました。
本来であれば、英国では昨年の3月30日に公開される予定で地下鉄の駅にもいっぱいポスターが貼ってあった。1年3カ月の間、Quiet Placeで生きることを課された果てにようやく見ることができて嬉しいな。 作/監督もメインのキャストも前作からそのまま。

前作の”A Quiet Place” (2018)には誰もの期待を超えたおもしろさがあった。音を出したらあっという間に殺されてしまう、というシンプルなルールにごく普通にいそうな家族を絡ませ、生死の境い目としての無音と有音のコントラストとその変わり目の恐怖を浮かびあがらせることに成功していた。

冒頭は”Day 1”- これが最初に起こった日の出来事を描いて、休日か週末、地元のグラウンドの野球大会でいろんな家族がみんなでわいわい楽しんでいて、まだパパのJohn Krasinskiも元気で、遠くの空にでっかい何かが光りながら落下していくのが見えて、これはなんかやばいかも、って車に戻ろうとしたところであいつらが襲いかかってきてパニックになる。

そこから前作の終わりに繋がって、もうパパはいなくてママのEvelyn (Emily Blunt), 耳の不自由な娘のRegan (Millicent Simmonds)、息子のMarcus (Noah Jupe)、ゆりかごにいる赤ん坊の4人で生き残るべく、遠くの山の合図が見えたところに歩いていったらそこにひとりで暮らす (Cillian Murphy) – 彼も冒頭の野球大会の客席にいて、でも彼の子供たちは… - と出会って、よそ者を受け容れたがらない彼と"Beyond the Sea"の曲を流し続けているラジオ局がある場所 - 海上の島 - に行くべし、というReganがぶつかって火の玉のReganがひとりで出かけようとするのと、赤ん坊用の酸素ボンベ – なにかあったときに密閉しておく – が必要となったEvelynと、二手に分かれたサバイバルチームと、赤ん坊とふたりで残された頼りないMarcusの3地点を切り替えて繋いだはらはらのドラマが展開していく。

あのエイリアンだか化け物だかは変わらずに音を立てるとどこからか(必ず背後から)現れて、でも迎え撃つ側も特定の周波をでかい音で浴びせて顔をのぞかせたところに銃弾をぶちこんで殺る、ていうところは用意できているので、やりとりは喰うか喰われるかの猛獣/怪獣狩りに近いかんじ。前作のなにをどうしたらよいのかわからない - 無音が有音に変わったとたんに露わになる金縛りの恐怖とは別の、オーソドックスなスリラーパニックになっていて、その点をつまんなくなった、という人はいるのかも。

あとは家族構成の絶妙さ – 聖母か、っていうくらい崇高に歯をくいしばるEvelynと、怖いものなしの気丈なReganと、あんた男の子なんだからしっかりなさいよ、って時代が時代なら100発くらい尻を叩かれまくる頼りなさ満点のMarcusの3人、そこにすべてを失って自棄になった素浪人のようなEmmettが絡む – そのまま昔の東映時代劇になってもおかしくなさそうな人物設定が、よいの。

冒頭の落下物は宇宙船だったのか隕石だったのか? あの化け物はそれを操縦してきたのかそれにくっついてきたのか? 何を食べているのか?生殖は?変異体は? などなどの謎はこの後のシリーズで明らかにされるのかもしれないけど、あいつら、造型からして掘ってもあまり深みがなさそうなところがなんかね。

コロナ禍での生活様式 - 情報の拡散はだいじ、生活必需品もだいじ、家の中で守るべきものは守れ - 破って騒いだら死ぬぞ - に偶然のようにフィットしている。対処方法もわかってきたけど、油断するとほうら - とかも。 でもヒトはどこまでも懲りないバカなのね。


日本の場合はウィルスというよりははっきりと人災だから、選挙でなんとかする。選挙だけは這ってでも、いけ。

6.24.2021

[film] Surge (2020)

6月19日、土曜日の昼、BFI Playerで見ました。
見るからに暗くて怖そうでサイコなどこを切っても英国映画なのだが、Ben Whishawを見るためだけに105分を。

ロンドンのStansted空港にセキュリティ警備員として勤務するJoseph (Ben Whishaw)がいて、ディパーチャーの手荷物チェックのところで、探知機にひっかかった乗客のボディーを服の上から触って確認する係で、(空港を使うたびに大変だろうなと思うし)その様子を見ているだけでストレスのレベルがあがってしまうのだが、仕事が終わって帰宅してもひとりでご飯食べてぼーっと宙を眺めてほぼ喋らず動かず。

ある日、仕事の後に父のAlan (Ian Gelder)で実家に戻り、母のJoyce (Ellie Haddington)も加えて家族で話そうにも父はずっと不機嫌だし母は途方に暮れていてなんの集まりだかわからなくて、Josephの誕生日のケーキを出そうとしたところを見られた母が動転して更にぎこちなく全員が気まずくなり、その空気に耐えられなくなったJosephはコップを歯で噛み砕いて口内血まみれにして家を飛び出してしまう。

その辺でなにかの糸が切れてしまったのか、翌日の空港で大暴れしてクビになったJosephは、そのまま仕事の同僚で少し仲の良かったLily (Jasmine Jobson) - 風邪をひいて休んでいた - のアパートに行って、映らないと言っていたTVを直してあげるよ、って。でもそれにはケーブルが必要だな、と近所のデリに行ってケーブルを買おうとしたらデビットカードが使えなくなっていて現金もなくて、銀行の窓口に行ったらまずIDを言われて、運転免許証もないので、しょうがないかって、銀行強盗(銃をもってる。騒がずに金をだせ)をやっちゃうの。

それがあっさりうまくいって、LilyのTVも直って彼女とハグして気が大きくなったのか盗んだ現金で高そうなホテルに泊まって、滞在した室内のベッドとか家具を静かにぐしゃぐしゃにして(すばらし)、続けて次の銀行でも強盗して両親のところに行ったら…  (いくらなんでも捕まらなさすぎ、だとは少しだけ思うー)

トリガーは実家での両親とのやりとりだったのか、空港のチェックで変に絡んできた中年男性だったのか、どちらでもありそうなのだが、後者だったら膨らんでおもしろくなったかも。

割と真面目に平凡にやってきた男性が突然ぶちきれて転落していくありがちなお話 – すぐ思い浮かぶのはMichael Douglasの”Falling Down” (1993)とか – とは少し違っていて、冒頭から彼の頭のなかには不機嫌と不安と不満がとぐろを巻いていて、その渦が耳鳴りのようにでっかくなって収拾がつかなくなっていくお話で、彼は自分のことをわかっているしコントロールもできているのだと思う。その範囲内で止められないなにかが噴きあがって(Surgeして)しまってそれがそのまま行動に押し出される。失敗でも転落でも不自然でも理不尽でもない。

服装も表情も地味でどこにでもいそうな若者の頭蓋骨の裏側と脳の隙間に吹く隙間風の冷たさと不快感を頬や眉間の歪みでその襞まで、口蓋の裏に滲む血の味まで表現してしまうBen Whishawのものすごさ。”Paddington”の熊の声のキュートさに、007のQのスマートさに騙される人はいないと思うし、”Mary Poppins Returns” (2018)のMichaelとか”The Personal History of David Copperfield” (2019)のUriah Heepのように複雑であればあるほど深みを増すのもわかるけど、このひとの凄みと怖さが全開になるのは、ちっとも悪くないしおかしくないだろほら、って気がつけばなにかを撒き散らしている”Little Joe” (2019)の科学者とかこの作品のJosephみたいな男性。ごくふつうにそこらにいるー。

うん、自分もそうだからこうなっちゃうかも、既にとっくにそうなのかも、と思わせてしまう「自然」さ。とその反対側に立ち昇ってくる強烈な違和と嫌悪、これらを両方一編に共存させて体現しまう顔面と身体の強さ。これってどんな訓練をしたら表に出せるようになるものなのか。

こういうのもいいけど、早く次のPaddingtonでほっこりさせて。


天皇まで出てきた。次はポツダム宣言が。

6.22.2021

[film] Letters Home (1986)

6月15日、火曜日の晩、MUBIで見ました。
6月6日のChantal Akermanの誕生日にあわせてリリースされたと思われる1本。まだこんなのがあったのね。

Sylvia Plath (1932 -1963)の書簡集 - “Letters Home: Correspondence 1950–1963” (1975)をRose Leiman Goldembergが舞台化した作品を映画化したもの - TV MovieとあるのでTV放映されたのかしら?
登場人物は母 - Aurelia Schober Plath (1906–1994)と娘 - Sylvia Plathのふたりだけ。Delphine Seyrigが母を、その実の姪Coralie Seyrigが娘を演じている。

原作となった書簡集、自分が持っているのは鈍器手前の結構分厚い本で、参照したり付き合わせしたいところいっぱいなのだが、このこは今段ボールに入って南のどこかの船に積まれてこっちに向かっている(はず)。はやくおいで。

冒頭、黒バックのでっかい白文字で、タイプライターのがちゃがちゃする音をバックに女性ふたりが童謡みたいなのを歌っている。字幕でSylviaの弟のWarren Plathとその妻Margaretへの謝辞、Ted Hughesにも。Sylviaから家族に宛てられた669通の手紙が元になった作品である、と。

真ん中に灯りがあって、はっきりと舞台とわかる空間に母とタイプをがちゃがちゃさせるSylviaがいて、ふたりはふつうの会話をするというよりは、Sylviaが書いた手紙を元に、Sylviaのメッセージに母が合いの手を入れたり、コメントを挟んだり、向かい合ったり近寄ったりカメラに向かったり、単純に手紙を読みあげる、というよりダイナミックな対話劇に近い(そう見える)ものになっている。母の言葉はSylviaの手紙の言葉をそのまま読みあげることもあれば、それに沿ってなにかを加えることもある。向かい合ってピンポンすることもあればそれぞれがカメラに向かって語ることもある。でも、母が言うことはSylviaには聞こえているものの、どこかしらSylviaの元には届いていないような。

オーストリアからアメリカに移民した2世だった母、ドイツ人だった父、その間に生まれて子供の頃から詩を書いて、アメリカ東海岸からイギリスに渡った娘、そのふたりの間を過ぎていった日々 - 学生時代の意気揚々としたSylvia, イギリス行き、Ted Hughesとの出会い〜結婚、子供ができて、溝が生まれて、絶望 〜 そして..   30歳で自殺した詩人の最後の13年間に母と娘の間でなされた、ひょっとしたら対話になったかもしれない、でもそこに届かずに潰えてしまったふたりのー。 

ふたりの会話のみと言っても、部屋のセットも照明も服装も気がつけば変わっているし、小道具もいろいろ出てくるし、背後の音もサイレンが聞こえたり鳥の声だったり波の音だったり、これらはひとりの - ふたりの近しい女性の言葉を聞く - 響かせることに徹している。そうやってどこまでも続いていくかに見えたやりとりが、1963年2月12日に…   最後のふたりのやりとり、短く繰り返される”NO”の痛み。 それに続けて母が朗読するSylviaの17歳 - 1949年11月13日の日記。 ここのところだけでもみんな見て、読んで、と強く思った。

もういっこ思ったのはChantal Akermanの遺作となった”No Home Movie” (2015)のこと。NYにいた彼女が母に向かって語りかけるビデオレターで、彼女はどれくらいこの作品のこと、Sylviaの手紙のことを意識したのかしなかったのか - 再見したいところ。

もし。 Jeanne Dielmanに娘がいたらこんな会話は成立しただろうか? というのも少し。


コロナで人が亡くなり続けているのに、とにかくあまりにバカバカしく腹立たしいことばかりやってくれて、こんな国とっくに諦めているしだいっきらいだし離れたいのだが、それでも反対するのは立ち直ってほしいとかまだがんばれば、とかそういうのではなくて、とにかくあの連中のやろうとしていることは人の道として許されてはならないって思うから。あれもこれも下品すぎ。

6.21.2021

[film] Hécate (1982)

6月14日、月曜日の夕方、ル・シネマで見ました。

原作はPaul Morandの『ヘカテと犬たち』Hécate et ses chiens(1954)、Daniel Schmid監督 - Renato Berta撮影、Daniel Schmidの生誕80周年で、デジタルリマスター版がリバイバルされる、と。
見るのは3回目くらいで、でもこういうのは何十回見たってよいの。恋愛とおなじで。

1942年、スイスのベルン、フランス大使館のパーティに出席した外交官のJulien (Bernard Giraudeau)が10年前に彼が駐在した北アフリカの植民地でのことを思い出すの。

怪しげでやばそうな人たちがうようよしてて危険そうな(実際に危険な)土地でも彼の前途は洋々で、先輩のJean Bouiseは彼を見込んでいろんな助言をくれるし、生活環境も悪くなさそうだし、そんなある日、アメリカ人の人妻Clothilde (Lauren Hutton)と出会って何度か会っているうちに身の上をほとんど話さないし本心も明かしてくれない謎めいた彼女に惹かれていく。

荒れた砂漠の地で彼が寂しさを感じていたのか、彼女のそっけなさがそれに油を注いでしまったのか、そういうのではない純正の運命とかスパークとかだったのか、ふたりは逢瀬を重ねるようになり、彼はどこにいってもなにをしていても彼女の姿を追い求めるか、彼女の姿を求めてどこにでも行くようになるか、発情した獣のようになり、仕事どころではなくなっていく。

やがて彼女が仲良くしていたIbrahimという子供にまで突撃して庇いようのない状態になってしまった彼はシベリアに左遷されて..

ストーリーの表面はこんなもので、まじめな駐在外交官のひとり勝手に墜ちてしまった(よくある)恋の悲劇(彼にとっては)、程度なのだが、これを砂漠の砂の間に散っていく火花みたいに、すばらしくゴージャスに切なく散る(まったく意味のない)恋の、生のドラマとして画面に映しだしてくれるので、それに浸っているだけでよいの。

有名なバルコニーでの、JulienがClothildeを背後から抱きしめるシーンのシンプルな、でもパーフェクトな三角形の構図とそこに立ち昇る官能のものすごいこと。 ふたりは誰にも見られることがない(はずの)上の階のバルコニーで、ふたり共カメラの方に向かって、たまらずに二本足で立ちあがった動物のように息と腕を絡ませて、その状態から向かい合うことも横になることもできずに縛りあって固まって、でも何かを掴まえようとするかのように蠢いて、そのぎりぎりした持続のなかにしかふたりはいない、そうやって生きるしかない、そんなような恋の。

彼には任期と任務があるし彼女には夫があるし、その状態を打ち壊してまで達成するほどの恋とは(少なくとも彼女の方は)考えていなかった - アメリカ人だし? それが北アフリカのこの土地ではなんで可能と、自分にはできると思えてしまったのか、彼はシベリアで顛末を反省するレポートとか書かされたのだろうか。

未開の植民地下に暮らす外交官の恋(未満)、というとMarguerite Durasの”India Song” (1975)を思い浮かべて、あの映画の中心にいたのは女性 - Delphine Seyrigで、赤を纏っていて(JulienはDiorの白)、砂漠ではなく湿地帯で、いろいろ対照的なのだが、Julienはあの映画で赤子のように泣き叫んでいたMichael Lonsdaleに近いのかも。 植民地においては、植民国のひとは好きなように、どれだけみっともない恋を曝しても自由、なのか。

絶頂(に近い状態)の持続、をオペラのような上昇と下降のなかに描くということにかけてDaniel Schmidってほんとによくてすごくて、今週末からアテネフランセ文化センターで始まる特集『再考―スイス映画の作家たち ダニエル・シュミット、アラン・タネール、フレディ・ムーラー』見ておきたいのだが、もんだいは体力とやる気だわ…


昨年はコロナで帰国できなくて受けられなかった人間ドックを2年ぶりに。久々に胃カメラでぶん回されて死にそうになって眠くてしょうもないのだが、妙に懐かしかったり。

6.18.2021

[film] Old Enough (1984)

6月13日、日曜日の晩、これもMetrographのバーチャルで見ました。

前日に見た”Bernice Bobs Her Hair” (1976)の監督のJoan Micklin Silverの娘さんのMarisa Silverが22歳のときに書いて作ったデビュー作。プロデュースを姉(or 妹)のDina Silverがやっていて、その年のSundanceでドラマ部門のGrand Jury Prizeを受賞している。邦題は『オールド・イナフ/としごろ』... 日本公開されていたのね?

冒頭、”Bernice Bobs Her Hair”の時と同じように監督のMarisa Silverさんが出てきてイントロをする。母が映画監督だったので、小さい頃から映画を作る道具や環境が家にふつうにあり、姉とふたりでままごとのようにそれらを使って遊んでいたので、映画の世界に入る難しさのようなものはあまりなかったかも知れない。映画に出てくれた俳優さんも母の知り合いでヴィレッジ界隈で演劇をやっていたサークルの人達だったし。撮影のMichael Ballhausだけはずっと憧れで、ドイツに行った時に頼んだら時間が空いたら来る、と言って、そしたら本当に参加してくれたので感激した - 彼にはいろんなことを教わった、などなど。

あと、2018年にこの作品がMetrograpghで上映された際、”Eighth Grade” (2018)の監督のBo Burnhamさんがこの作品を紹介していて、その際のコメントはMetrographのサイトで読むことができる。”Eighth Grade” – 確かにちょっと近いかも。”Eighth Grade”で主人公のパパを演じていたJosh Hamiltonは、この”Old Enough”が役者デビュー(当時10歳、でも画面には現れず..)だったとか。

New York - 監督はQueensって言ってたけどどうだろう? Brooklynぽくない?- に暮らす11歳と3/4のLonnie (Sarah Boyd)がいて、ぱりっとモダンな4階まであるタウンハウスに両親と妹(まだ6歳のAlyssa Milano)とメイドと暮らしていて、自分たちが上流であることもわかっているし生活に過不足はないものの、なんかどんよりしていて、そんなある日、道端で遊んでいる子供たちの間にいた14歳のKaren (Rainbow Harvest – なんてかっこいい名前!)と出会う。彼女の面構えとかいでたちにぽーっとなったLonnieは彼女にくっついて化粧品の万引きしたり、メイクを教わったり、キャンプをさぼって一緒に過ごしたり、教会に行ったりいろんな経験をしていく。

Lonnieの家と比べると金銭的な豊かさではKarenの家は下の方で、彼女の父はDanny Aielloで、兄のJohnny (Neill Barry)はちょっとかっこよくて、でもそんなギャップはどうでもよい、というか自分の家に対するのと同様、Lonnieにはあまり見えていない。

“Old Enough”というとき、それは親が子供に対していうこともあれば、子供が自分に対していうこともあれば、親のそういう目線に対する反発のように浮かぶものでもある、この線 – “Eighth Grade”ではタイトルがまさにそれだった- を巡る終わりのない攻防、というかどこまでもつきまとってくる縛り(?)に対するぐじゃぐじゃした思いが生々しい。

そしてこの”Old Enough”という問いは決して彼女たちだけのものではあるまい。このどこからやってくるのかわからない解しと縛りのめくるめく(しょうもない)ドラマは、やがて老いて死ぬ存在であるヒトの根幹どこにでも刺さってくる命題、のような気もする。じゃなかったらなんでこんなにしみるのか。

高低差をうまく活かして落ち着いた(クールな)Michael Ballhausのカメラとか、女の子ふたりのじたばたなのでÉric Rohmerの「レネットとミラベル」を思い浮かべたりもして - Julian Marshallによるエセエレクトロみたいな音楽も含め - でもそれでもヨーロッパのかんじはしない、やはり全体としてはNYのお話だなあ、って思った。”Little Fugitive” (1953)のような肌触りも。


こないだのRSD Dropのオンラインで買ったWarpaintのデビュー盤 - “The Fool”のAndrew Weatherall Remixesが来て、聴いてみたら、なんかたまらなくよくて。10年前のだし、アメリカのバンドなのに、なんでこんなに.. (英国) って。 あーほんとしみじみライブ行きたい。あんなくそなオリンピック1回なくせば10000回くらいライブができてみーんな幸せになれるのに。

[film] Bernice Bobs Her Hair (1976)

6月12日、土曜日の昼、Metrographのバーチャルで見ました。

TV局PBSの”The American Short Story”というシリーズの一編として制作・放映された45分の作品。原作はF. Scott Fitzgeraldの1920年に出版された短編集 - ”Flappers and Philosophers”に収録されている同名の短編(未読)。

監督はローカル紙編集部の面白い群像ドラマ - ”Between the Lines” (1977)や素敵なromcom – “Crossing Delancey” (1988)を撮ったJoan Micklin Silverで、彼女の娘さんのMarisa Silver - 彼女も映画作家 – による簡単なイントロがあった。

あんましいけてなくて本人もそれをわかっているBernice (Shelley Duvall)が従姉でフラッパーのMarjorie (Veronica Cartwright)のところに滞在して、いろんな社交の場でイェールやプリンストンあたりから休暇で戻ってきた若い男子に囲まれてダンスも会話も上々で鼻高々のMarjorieに対してBerniceはなにをどうやっても空振りばかりでうまくいかなくて、どうしたらそんなに人気者になれるの? って聞くと、いじわるでBereniceを蔑んでいるMarjorieは髪をボブにしてみたらいいわよ、って返して、それは罠だ、って自分でも思うものの意地もあるので周囲にそれを宣言しちゃって、男子とかもいる前で床屋にいって、ばっさりやってもらう。そうしたら…

田舎のお屋敷にいてちやほやされてきた女子とその田舎より更に田舎からやってきた世間知らずの女子と、それに絡む都会の青年たちの織りなすドラマ、というほどのものでもない他愛のないスケッチ、なのだが、Bereniceに絡んでくる青年 – Warren (Bud Cort)が、19歳なのにもう年を取りすぎたって嘆いている男の子で、Shelley DuvallとBud Cortといったら”Brewster McCloud” (1970) - 『バード★シット』のふたりで、彼らが第一次大戦後のアメリカの女子・男子のコスチュームドラマをやっていて、しかもメインはShelley Duvallの方だから - それだけ、見ているだけでたまんないものがある。

終盤、あったまにきて大きなハサミを手にしたBerniceがMarjorieの寝室に忍びこんで復讐して旅立つところは照明とかテンポがすばらしくよいの。原作のストーリーは19歳だったFitzgeraldが14歳の妹Annabelに宛てて書いた長文の手紙 - 会話とかマナーとか服装に関するアドバイス – が元になっているそうで、そういう文脈で書かれた原作とはメッセージのありようも受け取り方も少し異なっているのかもしれないけど、これはこれでー。

例えば、いま現代においてこのお話、特にBereniceについてどんなことを言うかというと、The Divine Comedyが1993年の文芸アルバム”Liberation” - 他にはチェーホフとかE. M. ForsterとかWordsworthとか - のなかに”Bernice Bobs Her Hair”ていう曲があって、そのなかで”Why should I let you walk all over me?” って歌っていたりする。


ここ一年くらい、一日1本、ストリーミングで映画をみて、少し前に見たやつの感想を書いて、というのをほぼ日課のようにやってきて、帰国してからも続けようと思ったのだが、週3日くらい通勤を始めるようになったら(だって来いっていうから)それだけでとてつもない疲労と倦怠感に襲われて通勤の日は帰宅するなり目を回してばたんきゅーになってしまった。英国に行く前(2017年より前)はどうやって時間を作っていたのか思い出すことすらできない。 年をとったからとかそもそもがいやいや園だとか、いろいろあるのだろうが、無理しないでてきとうにやることにした。もっといっぱい書きたいのになあー。 とにかく、自分の仕事はてきとうに選んじゃあかん、てことに尽きるのね。
 

6.15.2021

[film] The Father (2020)

6月13日、日曜日の午後、ル・シネマで見ました。
上映前に下のドゥマゴでコーヒーを飲んでNADiff modernで本を眺めて、よくもわるくも変わらない「村」だよねえ、と思った。

Anthony Hopkinsが史上最年長でのオスカー主演男優賞を受賞した作品。Florian Zellerが自身の演劇作品”Le Père” (2012)を映画化したもので、彼の監督デビュー作となる。 認知症の父を介護する娘や家族のドラマ – というよりはホラーに近いかも。とても切ないやつ。

Ann (Olivia Colman)がロンドンの西(W9- Lauderdale Rdって見える)のフラットに戻ると父(Anthony Hopkins)がひとり音楽を聴いていて、ふたりの会話から父がケアラーの女性を脅して彼女が来てくれなくなったので、このフラットに来ていること、彼の腕時計を彼女が盗んだと思っていること、等と、Annは恋人とパリに暮らすことにしたこと、を告げられて、これらは父にとっては初耳のことばかりなのでやや混乱している。

翌日に帰宅したAnnは(映画を見る我々&父には)別の女性になっていて、パリに行く話なんてしていないというし、よく知らない男性のPaul (Rufus Sewell)が親しげに話しかけてくるし、こんな具合に見ていくとフラットの玄関やキッチンの調度も自分が住んでいたところとはなんだか様子が違うようだし、いったいこれはどういうことだ? になっていく。一人称のカメラと全体の様相がなんの段差も説明もなく - 一人称ってそういうもの - 繋がって流れていくので雰囲気としては不条理劇としか言いようがないのだが、父にはそれが我慢できない- その現実を受け容れなければならない理由を理解できない。だってこれまでと明らかに違うのだし、それをどう言ったらわかってもらえるのか?

元エンジニアの父は「父親」としてきちんと振る舞ってきたし、その下で子供たちも立派に育ってきたのだから今もこうして世話をしてくれるのだろうし、だから自分の理解や認識の土台が崩れているとは思わないし思いたくないし、だから第三者が偉そうになにかを言ったり誤りを正そうとしてくるのは耐えられないし。

でも、Annたちはそう思っていなくて、父は進行中の病気を患っていて、本人がそれを認めないというのもそこに含まれていて、自分たちも含めた誰かが面倒を見なくてはいけないものだ、と。こうして次のケアラーのLaura (Imogen Poots)が来ると父は少し機嫌がよくなって、彼女はAnnの妹のLucyに似ている、Lucyは最近来ないよね、というのだが、Lucyが事故で亡くなっていることすらも彼は憶えていない – このこともAnnにとってはとてもつらい。

互いにまったく交錯することのない - 理解しあうことのできない – でも確実にそこにあって終わらないそれぞれの苦しみをどうしたらいいのか、どこに向かえばよいのか、映画は答えを差しださないし差しだせない。そういうそれぞれの混乱と痛みだけが残って、それが何に起因するのかもよくわからなかったりする - 感覚のレベルでとても生々しくて、その状態が曝けだされたままで終わる。

ここを家族の間の出来事としてぽつんと置いておくのか、あるいは老いが暴きだす生のドラマとして見せるのか明確には示さないのだが、その底意地の悪さは - Anthony Hopkinsがきつかった、っていうのもわかる – なんかすごいな、って。Michael Hanekeなんかよか残酷かも。

去年見たホラー映画 “Relic” (2020)を少し思い出したり、その先で大島弓子の『8月に生まれる子供』とか、小津の『小早川家の秋』(1961)の万兵衛みたいにしてみてもおもしろかったかも、とか。

そうそう、父の日の割引きとかー?


そういえば、上映前の映画泥棒のCM、まだやっていたのでうんざりした。もうこれ10年以上やっているよね? 映画泥棒はちっとも減らないの? そうやってずっと同じフォーマットで(目をつむるので絵はわかんないけど)楽にお金を儲けて、上映前の気分を台無しにし続けてくれて、これやってる連中の方がよっぽど映画泥棒だわ、って改めて思った。みんなずっとあれでいいと思ってるんだ?

6.13.2021

[film] The Beach Bum (2019)

6月12日、土曜日の夕方、ヒューマントラスト渋谷で見ました。

関係ないけど、はじめBunkamuraの方にあった昔のヒューマントラストの方に向かおうとしてて、ちがうちがう、って引き返した。しばらく離れているとそんなもんよ。そういえばもうシネマライズもシネセゾンもないの。浜辺のコジキの映画を「ヒューマントラスト」なんて名前の映画館で見るの。あーあー(疲れてる)。

Harmony Korineの新作。昨年ロンドンでもロックダウンが一瞬開けた頃に映画館でやっていた。ものすごく多くの人々が亡くなったロンドンにいて、パンデミックの明けた隙間に上映されても、見る気にはなんないよね、マイアミの浮浪者の映画なんて。 でもこの内容だったら、見ておいてもよかったかも、って思った。

Moondog (Matthew McConaughey)は、かつては成功していた詩人だったらしいが、いまはぼうぼうの長髪と髭で女性の服を重ね着して、酒とタバコとドラッグとセックスにまみれてキーウェストの盛り場をふらふらしていて、でも本人は幸せそうだし、いろんな人が声をかけてくれて石を投げてきたり追い払ったりしない。ある晩に白い子猫(ごろごろ鳴いてる)を拾ってそいつと一緒に徘徊していると、資産家の妻Minnie (Isla Fisher)から電話が来て、娘Heather (Stefania LaVie Owen)の結婚式もあるんだから戻ってきなさい、と言われたので、はーい、ってマイアミに戻って、妻の愛人ではっぱを売っているLingerie (Snoop Dogg)と再会して、式は恙なく執り行われて、らりらりの状態でMinnieと車をぶっとばしていると事故にあってMinnieは天に召されてしまう。

ここから悲劇の雪だるまが始まるかと思ってもそうはならなくて、Minnieの遺言で本を書きあげないと彼女の資産は彼のところに入らないようになっていたり矯正施設に入れられたりするのだが、彼はそんなの気にせずにFlicker (Zac Efron)と一緒に逃亡してCaptain Wack (Martin Lawrence)とかLewis (Jonah Hill)とかと出会って、合間にタイプを続けて、そうやって出版した本がピュリッツァー賞を受賞してよかったよかったになる。

まじめな人が見たら怒ること確実なくらいにMoondogの所業も言い草も詩(ぜんぶ過去の詩人の引用)もヒトをなめくさったもんで、最後に花火でふっとんじゃったかと思ったけど、そうはならないし、娘とも和解するし、なんだこりゃなのだが、誰にもどこにもMoondogを非難する資格なんてないし、なんで非難しなきゃいけないの? って問いは自分に向かってくるにちがいない。ふまじめだから? ふまじめのどこがどうしていけないの? まじめじゃないから、って答えになっていない。

Harmony KorineはMatthew McConaugheyという(+ Snoop Doggという)ポジティヴィティとぶっとい男根(武闘の槍ではなく友好の竿として機能する)の象徴のような人物を造型してフロリダの楽園に置いて、そうすることで現れる(実際には現れないに決まっている)楽園のありようを描いて、それは結果としてコロナ禍の世界ではますますもってありえない、でも朝日や夕陽のようになくてはならない、みんなが待っているなにかを、生き残るために必要ななにかを教えてくれる - いや、教えてくれなくたってよくて、いるだけで、彼を見ているだけでなんだか楽しくなるのだからそれってすばらしいではないか。

もちろんそれはMatthew McConaugheyというスマートな白人によって演じられたから、これがSnoop DogやMartin Lawrenceだったらどうだったか、というのはあるだろう。けど、彼の - これまでの映画で見せてきたのと同種の - 底の抜けた意味不明の明るさと雄叫びがもたらした何かが、見事な導火線となって炸裂していることは否定できない。

あと彼、天才バカボンのパパだよね。妻はしっかりしていて、娘もお利口で。いまの時代、バカボンのパパが受け容れられるのかどうなのか、はあるけど。Moondog的な天使は、Michel Simonからバカボンのパパまで、昔は至る所に転がっていた気がする。彼らをいま、スクリーン上に呼びだすことの困難て、なんなのだろうか、と。

あと、Moondogのような人って、探せば世界のどこかにはいそうな気もして、もし見つけたら王兵あたりにドキュメンタリーを撮ってもらいたい。


えー、念の為のメモ書きだけど、まだ緊急事態宣言下、だよね?

6.12.2021

[film] Shiva Baby (2020)

6月11日、金曜日の晩にMUBIで見ました。なんかいっぱい宣伝しているので、くらい。

作・監督のEmma Seligmanさんの長編デビュー作で、これに先立って、彼女のNYUの卒業制作である8分の同名短編作品(主演も同じRachel Sennott)があって、これはWebでふつうに見れる。

冒頭、Danielle (Rachel Sennott)とMax (Danny Deferrari)が彼の部屋でセックスしていて、終わるとぎこちなく会話をして彼女は彼からお金を貰って出ていく。家に戻ると父Joel (Fred Melamed)と母Debbie (Polly Draper)がこれから出かけるShiva - ユダヤ教で葬式の後に行われるお通夜の儀 - の支度と準備で車がどうのこうの、ごちゃごちゃ騒いでいて、でもいつものことなのでまたか、というかんじで覚悟して現地に赴く。

Shivaの会場に着けば親戚、知り合い、知らない人々がわんさかいて、元気? 大きくなったね、から始まって、いまいくつ? 大学? これからどうするの? ちゃんと食べてる? 食べないとねえ、結婚は? とか、いちいち答えたくないしそんなギリないし答えたってどうせ聞いてないでしょ、なことを好き勝手に山ほど聞いてきて、でもそういうものだから、と不機嫌に混乱しつつも適当にあしらっていると、さっき部屋で別れたばかりのMaxがいるのでびっくりして、彼の方も気づいて、互いに紹介して貰ってこのやろー(蹴)、とかなって、更に起業家をやっているという彼の妻Kim (Dianna Agron) と赤子のRoseも現れて、なんだこいつはどういうつもりだ、になっていくのだが、両親も含めていろんな目が上から下から絡みついてくるこんな日には放っておくに限る。って思えば思うほど気になるし目につくし、向こうも気にしていればどうしてくれよう、だし、気にしていないのであればそれはそれで腹立たしいし。

他にはずっと幼馴染で、Law Schoolへの進学が決まっている周囲からすれば格段によいこのMaya (Molly Gordon)もいて、ふたりの会話はところどころつんけん刺々しくていったいなにがあったのかしら? になっていく。

タイトルはMaxからお金を貰うSugar BabyであるDanielleとShivaの儀式をかけていて、どちらも抜けたいのに抜けられなくて歯軋りして空を仰いでしまう、そんなDanielleの散々な半日を描いていて、やや詰め込みすぎて荒削りになっているけどおもしろい。

Max(とその家族)の全体像を見てしまってからの彼女の錯綜ぶりが楽しくて(本人的には地獄で)、コーヒーはかぶるは、家具から出ていた釘でストッキングと足を裂いてしまうわ、奥さんと同じブレスレットを贈っていたMaxへの腹いせにバスルームで半裸の自分を撮って送ってやったり(でもそのスマホをなくして..)、食べ物を手にとる - やっぱり元に戻す、を繰り返したり、なにやってるんだろ、ばかりで、そういえば亡くなったのはどなただったのかしら? って。

この狭い建物のなか、限られた時間に、宗教と葬儀と性 - お金を貰うやつとずっと愛し合っていたMayaとの- と、家族と自分の将来と、そういうのに対する問いと不安が自分のなかから、そして周囲のめったに会わないような親戚一同から、火山のような噴火とともに浴びせられて、すべてが露わにされて溶けだしていくかのようで、Danielleはどうにかなってしまいそうで、なっちゃうのか、なっちゃえば楽だぞ、とか見ているこちらもはらはらしてくる。

ほんとうは”The Graduate” (1967) - 『卒業』のようにDanielleの彷徨いがここから始まったらおもしろいのに、とか、儀式の滑稽さを描くのであれば、”A Wedding” (1978)みたいにぐだぐだになっていってもよかったのに、とか思わないでもないけど、Danielleを演じたRachel Sennottさんがすばらしいからよいの。

Ariel Marxによるきりきりした音楽はほぼサスペンスホラーなのだが、ほぼ実際、サスペンスホラー、でもあるしー。


RSD Dropは、朝起きて並びにいくことはなかったものの、だんだん気になってきてオンラインで13時に入ってみたのだがやっぱり繋がらなかったり、ほしいのはやってなかったりで、いいやって投げてしまったのだが、やっぱり気になってきたので午後3時くらいに渋谷に出てみた。 Disk Unionの新しいのも見ておきたかったし。 でもやっぱしあんまなかったかも。もうさらわれた後だったのかも。 ロンドンだったらちょうど今頃、あそこに並んでいたのになー、って。
あーあと思ってパルコの本屋でも行こうと思ったら、あれ? … パルコが.. しかもなに?WAVEって... ?
もともとそんなに縁のない街だったけど.. ってそういう言い方がぜんぶの街をだな(以下略)。
 

6.11.2021

[film] Blood Simple (1983)

6月5日、土曜日の晩、Criterion Channelで見ました。

ずっと同じようなことを書いているのだが、ここんとこずっとだるくてだめで、映画館は6/4にシネマヴェーラで『幽霊暁に死す』(1948)を見て、6/6にシネマカリテで“Cruella”見て、もっと見たいと思う反対側でどうも人混みに疲れたのか足がそちらに向かず、家で見るのもCriterion ChannelでCarole Lombardの”No Man of Her Own” (1932)を見ても、Judy Hollidayの”It Should Happen to You” (1954)を見ても、すぐにどっちも見たことあるやつじゃん、て気づいたり、MUBIでSergei Loznitsaのとかを見て震えて、震えているうちに寝てしまったり。

そういう事態をなんとか打開せねば、って、少しだけ怖めのを見てみよう、と。有名な作品だと思うのだが見たことなかった。Joel Coen & Ethan Coenの長編デビュー作。

タイヤの破片が転がった昼間の道路が映されて、世界は文句をいう奴ばかりだ、というナレーションと共に工場とか原野とか、そしてこのテキサスでは.. って夜のハイウェイを走る車に切り替わってタイトル。 車にはRay (John Getz)とAbby (Frances McDormand)のふたりが乗っていて、Abbyの不幸な結婚について話している。ふたりは既に親密な関係にあるようだが、熱狂的に愛し合っているふうでもなくて、うんざりどんよりと話した後でモーテルに入ってセックスをする。

翌日モーテルの部屋に電話が掛かってきてRayが出ると相手は名前を告げずに、もうわかっているぞ、のようなことを言って切れて、続いてAbbyの夫 Marty (Dan Hedaya)にふたりの証拠写真を見せて金を貰う私立探偵のVisserがいて、Martyは妻の浮気に怒って静かに燃えている。

RayはMartyの経営するバーのバーテンダーで、妻の相手がRayであることはわかっていて、Rayの家にいたAbbyを力ずくで連れ去ろうとするのだが指を噛まれて股ぐらを蹴りあげられて、ものすごく頭にきたらしく、この後にVisserに$10,000で殺害を持ちかけて..

こういうのがそれぞれの人の間の愛とか憎悪とか怒り、のようなところでどす黒いうねりを作ってドラマが進行する、というよりもバーの暗がりや道路脇やモーテルといった、人はいるけどいないようながらんとした場所で、ひたひたと人知れず、影の仕業のように顔のない情念のみが動いていって、それに対してひとりひとりはどう動いていくのか。

金を貰ったあとで、VisserがAbbyの拳銃を使ってMartyを撃ち、死んでいなかったMartyを見つけたRayが彼を遠くに運んでいって埋めて、VesselがRayを撃って、最後にAbbyは(彼女がMartyだと思っていた)Vesselと対峙する。そこにはくっきりとした復讐の連鎖とか犯罪の臭いはあまり感じられなくて、MartyがAbbyにプレゼントした銃が呪いにかけられて関係者を次々と穴に落っことしていくような。人々は多少あがいたり呻いたり抵抗したりするけど、最後には穴にずるずると、半自然落下、みたいに滑り落ちていく。

かつてのノワールにあったような運命とか宿命とか業に向かう/向かわせる強いネジ、逃れられないものはなくて、歪んでがらんとした大地の上や家の中で、濃い顔をして思いつめた変な人たちが固まってじたばたしている様を少し離れたところから見ているような。なので、「スリラー」かもだけど、そんなにははらはらしない。もう少し近くに寄って、もう少しきみの悪い、病気に近いような何かを凝視しようとするとDavid Lynchになるのかもしれない。

RayがMartyを埋めるあの夜の恐ろしさ、それが明けた翌朝の鳥の群れ、あれらはすごいねえ。あのかんじが肌感覚でなんとなくわかってしまうというあたりも。

それか、Frances McDormandかっこいい! だけでよいのかもしれない。

そして、Carter Burwellの音楽の旋律のクールなことと、それを始めと終わりでサンドしている The Four Topsの”It's the Same Old Song”のホットなこと。焚きたてのお風呂のような。


明日(もう今日か)はRSDなんだねえ。今回はあんまない(みたい)だねえ。どうするか。

6.09.2021

[film] Cruella (2021)

6月6日、日曜日の午後、シネマカリテで見ました。 ひさしぶり〜 カリテ。

Disney+のストリーミングで見ることもできるのだが、別途料金がバカ高い(これは英国でもそうだった)し、それなら映画館の方が、と。ディズニーのメジャーなやつなのにTOHOとかのシネコンでやっていない件については、どっちもどっちだ(どっちも酷い)と思うので割とどうでもいい。作品に興味なければこんなの行くもんか。行かなくたって連中の損益計算には響かないように計算済み。ほんとひどいくそったれのどうでもいい話。

わたしはGlenn CloseがCruella DeVilを演じた”101 Dalmatians” (1996) - 脚本はJohn Hughes ! – が大好きでTVで何十回も見ているから。今回の、Glenn CloseがThe Baronessやってもよかったのにな...

母Catherine (Emily Beecham)とふたりで暮らすEstella (Tipper Seifert-Cleveland)は学校では虐められっ子で、でも負けなくて、学校の扱いにあきれた母娘はロンドンで暮らすことにして、その途中でCatherineはThe Baroness (Emma Thompson)の屋敷のパーティに立ち寄るのだが、そこでEstellaはCatherineが誰かと口論の末に崖から突き落とされるのを見てしまう。

そこから10年、時は70年代、ひとりロンドンに渡ったEstella (Emma Stone)は同じく孤児のJasper (Joel Fry)とHorace (Paul Walter Hauser)に拾われて棲み処を共にし窃盗とかしながら逞しく育っていて、ふたりからの誕生日プレゼントで憧れのLiberty(行きたいよう.. 涙)に偽のレジュメで採用されて、ここでも虐められこき使われて散々なのだが、好き勝手に飾りつけたウィンドウディスプレイがやってきたThe Baronessの目にとまって、なんとかデザイナーハウスに雇われることになる。

こうして厳しい修業時代を生き延びながら頭角を現していくEstellaだったが、母の持っていた家宝のネックレスをThe Baronessがしているのに気づき、そこから彼女が母の仇であることがわかると、Estellaは白黒髪のCruellaにトランスフォームしてKings RoadのブティックにいたArtie (John McCrea)と組んで、The Baronessのショーをゲリラ的にジャックしていくようになる。 Cruellaの登場は都度センセーションを巻きおこして、当然おもしろくないThe Baronessは…

Joker的なモンスターキャラの前日譚として見ることもできるし、虐められっこの撥ね返り逆転物語として見ることもできるし、70年代パンクファッション誕生の話として見ることもできるし、でもやっぱり仇討ち(&醜いアヒルの子の成長) - EstellaはいかにしてCruellaになったか - のお話、がはまるのだろうか。 ディズニー的には。

“Mad Max: Fury Road” (2015)を手掛けたJenny Beavanによるコスチュームは見事だし、ファッション好きのみんなは必見だと思うものの、他方で、これがパンクだぜ!ってされて盛りあがることについては、ここに限らずいつだって微妙で、なんかねえ、になる。それがどうした、ではあるし、売れたもんが勝ち、なのだし、我々が最初に触れたパンクだってすでにとっくに業界で練りあげられたものだったわけだし、でもそれでも、そうではない形の残滓としてのパンクがまだ世界のどこかにあることも知っている。そしてこの映画にはEmma Stoneの感動的なやけくその大見得によって、それがかろうじて、奇跡のようにぶちまけられている。気がした。

この映画のファッションとパンクについては、この記事がわりと。
https://www.theguardian.com/film/2021/may/27/disney-cruella-punk-fashion-design

流れてくる音楽は悪くないけど、どこを切ってもちっともパンクじゃないので、そこはもう少しなんとかできなかったのかー、とか。 BlondieとClashとIggy、連中にとってはそんなもんなのよ。

もちろん、ディズニー的な配慮というかジェントリフィケーション(?)はあって、ダルメシアンの皮を剥ぐような話(そこを抜いてどーする)は周到に(or わざと)避けられているし、セックスもドラッグもないし、最後はいつもの家族的な集団の神話に幸せそうに収まってめでたしめでたし、になるの。 そんなの始めからわかっていた - だから見ない、か、それでも見ておく、に行くか。

あの蛹の衣装、ランウェイで羽化するようにすればよかったのに。


京都のピピロッティ・リストに日帰りで行こうかなーと思って、でも現地にたどり着くまでのいろんなのを考えるとそれだけで疲れてしまうのでどうしたものか。 便不便でいうと英国の方がぜったい面倒なはずなのに、ね。へんなの。

6.08.2021

[film] Faisons un rêve (1936)

6月3日、木曜日の晩、アメリカのMUBIで見ました。 あらなんでいきなりSacha Guitry? とか。
英語題は”Let's Make a Dream”、邦題は『夢を見ましょう』。“A Comedy for Three Characters”とでる。
原作はSacha Guitryによる戯曲で、映画と同様、彼自身の主演で舞台で演じられていたもの。

冒頭、民族衣装をきた6人の弦楽隊がぴろぺろぱらぺろれんれろれろれんぱらぱられんぱらりろられりろれらりん♪ みたいなのを絶妙の抑揚と節回しで演奏していて、これだけで楽しすぎて夢の入り口だわ、と思う。 ここからパーティでカードの卓や食事をつまんだりしながら男女の縁とか結婚とか年齢とかについてどうでもよいしょうもないことを喋り続けていて、そのうちダンスの時間になる。カメラが音楽と同じリズムで人から人に渡り続けて気持ちよいったらない。

続いて、The Lover (Sacha Guitry)の家に4:00に、と言われたので、3:45頃にThe Husband (Raimu)とThe Wife (Jacqueline Delubac)のふたりが現れて、時間通りに来たのになんでいないんだ? とかぐだぐだ文句を言って、でもThe Husbandの方は南米の客と会う用事があるから、ってややぎこちなく、The Wifeを置いて出ていってしまう。

ひとりになった彼女がどうしたものかと座っていると奥からThe Loverがいきなり現れて、隠れていたのね? ええだってあなたとお話したかったから、ってものすごいスピードと勢いで彼女を口説きにかかる。ふつうそんなふうに登場した男に一方的に喋りまくられたら引いてしまいそうなものだが、The Loverの怒涛のおしゃべり - セールスの勧誘みたいにも見える - に彼女は笑顔で返すようになって、びっくりしたことに彼女に”I Love You”と言わせてしまう。 ここまでで二人になってから5分くらいしか経っていない。で、彼らは夜9時にもう一度会うことにしてキスするの。 なんだこの勢いは、夢か、って。

で、冒頭の楽隊の音楽が響くなか、ガウンを羽織って、部屋に香水を撒いて召使いに帰ってよろしい、って言って、彼女がこの部屋にやってくるまでの時間経過とタクシーでの行程とタクシーを降りて階段を昇ってきてベルを鳴らすまでをべらべら想像上の実況をして、来た! と思ったら郵便屋でがっかりで、でもめげずにこちら側に向かってひとり延々喋り続ける。でも彼女が現れないので、そうなった場合に起こりうることとか言い訳とかもあれこれ喋って、電話までかけて交換手相手にやりあってなんとかThe Wifeと話し始め - というかやはり一方的にべらべらべら、こりゃどう見たってビョーキの挙動だな、と思っていると彼女は向こう側で受話器を捨てちゃってて、あーあ、と思っているとThe Loverの家のドアが開いて受話器に喋り続ける彼に彼女はそうっと寄ってキスをする。

ここまで - The LoverがThe Wifeを落っことすところまでと、The WifeがThe Loverのところに現れるまでの(ほぼ)一人芝居が「夢」の醍醐味で、ひとりスクリューボールコメディとしか言いようのない怒涛の勢いがすごくて、この後、ふたりが翌朝8;00に目覚めてThe Husbandも含めた現実をどうするか、結婚するしかないよ - “Let’s Dream!”  というThe Loverと、じゃああたしの結婚はなんだったの? とThe Wifeが聞くと、オリジナルじゃなかった、夫を替えるだけのことさ、ってふたりの結婚生活をシミュレーションしようとしたら、The Husbandがドアを叩いてくる。 The Loverはピストルを手にして..

ひとつの部屋で、午後と晩と翌朝の3場面で見事に展開される夢のすばらしいこと。「夢を見せてやる」じゃなくて「夢を見ましょう」になっているところが素敵な85年前の魔法。ちっとも古くない。 舞台で見たらすごかっただろうなー。
関係ないけど、Sacha Guitryがこのテンションで、お芝居 - ”The Judas Kiss”のOscar Wildeを演じるのを見たい。


会社の帰りにはじめてGINZA SIXっていうとこに寄った。なーんて下品でつまんない施設でしょう、て思った。
あそこの本屋を見たかったのだが、やっぱりわたしはあの本屋、だめだわ。代官山のもそうだけど。
ぜんぜん掘っていく気になれない。だいたいさー、めくることも開くこともできない本を「ヴィンテージ」とかラベル貼って偉そうに並べて、本の世界をばかにしてるわ。読まれる前の本なんてただの紙束だよ。古本、でいいじゃんか。

6.07.2021

[film] Chocolat (1988)

5月30日、日曜日の晩、MUBIで見ました。昼間に見た”U.S. Go Home” (1994)に続けてClaire Denis作品を。これが彼女の長編デビュー作で、アフリカで過ごした彼女の幼年時代を描いた作品。

フランス領だったカメルーンに若い女性 - France (Mireille Perrier)が降りたって、アフリカン・アメリカンのWilliam J. Park (Emmet Judson Williamson)の車に拾われて移動していくうち、Franceの脳裏に50年代末、ここで過ごした子供の頃のことが蘇ってくる。

幼いFrance (Cécile Ducasse)は、この土地の官吏である父 Marc(François Cluzet)と母 Aimée (Giulia Boschi)と一緒に原野の一軒家で大勢の召使いに囲まれて暮らしていて、召使いのひとりProtée (Isaach de Bankolé)は万能で優秀で、みんなのお気に入りで、Franceにもいろんなことを教えてくれる。のんびり平和な日々を過ごしていたのに、ある日家の近くにプロペラ機が不時着して、それに乗っていた白人たちが家にやってきて飛行機が修理されるまで同じ屋根の下に滞在することになると、彼らが抱えて持ち込んだ鬱憤や野卑が家族 - 特に召使いと家族との間に - 緊張をもたらすことになる。

不時着民はみんな白人で、それぞれに(彼らにとって)大事な仕事を抱えていてそれが中断されたこと、さらに修復までに時間が掛かってしまうことに苛立っていて、その苛立ちはホストであるFranceたち家族にではなく、現地民である召使いたち - 特に黙々と仕事をこなすProtéeにその矛先は向けられて、はじめは相手にしなかったProtéeもAiméeとのことを揶揄されると我慢できなくなって..

それがどうでもいいようなでっちあげであれば、そんなに大ごとにはならなかったのかも知れないが、外部からの淫らな目線によって掻き立てられてしまった何かがはっきりと露わになって、Protéeはクビになってしまう。それがなんでなのか、幼いFranceには十分理解できないのだが、大人になったFranceには運転手Williamとの会話を通してわかるようになっている。

植民地下、そこを管轄する管理官の家に初めからあった主従関係をはじめとするいろんな境界 - 植民者と被植民者、白(フランス)人と黒(アフリカ)人、男性と女性 - 等が維持しつつ補強していた目にみえない、でも誰もが認識していたに違いない現地民への差別意識が、外部の闖入者たちによって表に暴かれ、でも解消されることもなく日常は維持され - 結果として差別も温存される。でもどうすることもできなかったし、Protéeのことは好きだったし、でもそういう表明もまた差別 / 被差別の状態をそのまま補強する力にしかならない - 熱い鉄パイプを握りしめるしかないProtéeの行き場のない苛立ち。 Franceの父が地平線の比喩で説明する遠くにはっきりと見えているものの、近寄れば近寄るほど実体なく遠ざかってしまうなにか。

“Chocolat”っていうのは50年代のあの土地のスラングで「騙される」という意味で、アフリカ人の肌の色とその色が暗示する甘さ、等々が包まれている、と。時間が経ってみるとほんのり苦さが際立ったり甘さが耐え難かったり。差別そのもの、その実態を描くというよりも、いつまでも消えない鉄パイプを握った瞬間の掌に走った痛み、その跡を見つめる、というか。

そしてこれらの境界線や分断を観念的な会話劇のなかではなく、異国の乾いた風景とむきっとした筋肉の弛緩と暴発(怒り)のなかに鮮やかに描きだすClaire Denisはすでに十分Claire Denisなのだった。これを踏まえてもう一度、”White Material” (2009)を見直してみたい。


低気圧も湿気もひどいが、いまだに消えない時差ボケも相当にひどい。リモートで仕事していると空いた時間に寝ちゃうからだ、と無理して(よくないことだけど)通勤してみたりするのだが、帰宅した途端に気を失うように寝てしまったりする。そうすると朝の4時5時に目が開く、の繰り返し。 どこまでこの状態を維持できるのかやってみてもいいかも。

6.06.2021

[film] U.S. Go Home (1994)

5月30日、日曜日の昼、YouTubeで見ました。

フランスのTVシリーズ - “Tous les garçons et les filles de leur âge…” - “All the Boys and Girls of Their Time”用に作られたClaire Denisによる58分の中編。  このTVシリーズ、全部で9話あって、他の監督にはAndré Téchinéとか、Chantal Akermanとか、Olivier Assayasとか、Patricia Mazuyとか、Cédric Kahnとか、なかなかすごい。ぜんぶ見たい。制作にはTV会社の他にフランスのSONYが入って、自分の青春時代をテーマにしたものを、予算は約$100万、Super16mmでの撮影、などなど。

米国では1995年にMoMAで一度上映されて、2019年にBAMでのClaire Denisの回顧上映 - “Strange Desire”で再上映されて、英国では同じく2019年のBFIでの彼女の回顧上映 - “The Original Sin of Claire Denis”でも上映されたのだが、この時はー行けなかったのよね。  脚本には、Claire Denisともうひとり、Anne Wiazemskyの名前がある。撮影はAgnès Godard。

パリ近郊のアメリカ人駐屯基地 - “The Story of a Three-Day Pass” (1968)の主人公がいたとこ? - の近くに家族と暮らす15歳のMartine (Alice Houri)がいて、兄のAlain (Grégoire Colin)がいて、どちらも日々つまんなくてうだうだしていて、親友のMarlène (Jessica Tharaud)とお金持ちが自宅でやる夜通しのパーティに行こう、そこでバージンを捨てたい、とか言ってて、でもそこにはAlainも来るらしい。

金持ちでいっぱいのハイソなやつだから、と精一杯めかしこんで、でもお金も車もないのでヒッチハイクしてなんとかお屋敷にたどり着いて、恐る恐る中に入ると、音楽 - AnimalsとかYardbirdsとかSam CookeとかOtis Reddingとかのごりごりめのやつ、でも当時の最先端だったのだろう - ががんがんに流れていて、人はいそうだけどあちこちで固まっていてほぼ誰も相手にしてくれない。立ち尽くしているうちにMarlèneはタバコの火を貰いながらうまく誰かといなくなり、残されたMartineも同じ手でやってみようとしても引っかかるのはしょうもないのばかりなので、あーあ、って途方に暮れていると、奥でおなじ顔をしているAlainと目が合ってしまったり。

少し逸れるけどここの、パーティにどうやって溶けこんで、溶けこまないまでも居心地わるいかんじを表に出さないようにしていられるのか、って未だに自分にとっては苦手の難所で、いまのとこの最適解は、抜けられそうだったら一刻も早く抜ける、言い訳を思いつくのだったら可能な限り行かない、のこれだけ。でも子供の頃はこういうのは学校みたいに馴染まないとだめ、って思いこんでしまうので、きついかも。 家の暗がりと傍若無人に鳴り響く音楽と嫌な感じしかしない男たちの連なり、それらに直面したMartineの表情にある硬さと困惑はこの辺の事情をくっきりと、それこそ悪夢のようなだんだらで映しだす。

もうこりゃ無理だ、と外に出たMartineにAlainが付いてきて一緒に家に帰るか、ってなって、外に置かれた車の中にいた米兵のBrown (Vincent Gallo)に声をかけて、Alainは嫌がるのだが乗せていってもらうことにする。Brownとの片言英語での会話もぎこちないのだが、半分やけくそのMartineはこのアメリカ野郎くらいは自分でなんとかしないと、って執拗に上に乗っかろうとして、そのうちAlainはあきれて車を降りて..  

セックスや肉体に対する妄想に近い思い込みがまっすぐに対象を射抜くのではなく緩やかなカーブを描いて自分のとこに戻ってきて、思いも寄らずに突然手元で暴発して、でも最後には”U.S. Go Home” って吹っ切ってしまうしなやかさと強さ。この辺はClaire Denisかも。通過儀礼的ななにか、と呼ぶにはあまりに生々しく、居心地悪くいまだに燻っているあれらの。

AlainとMartineの兄妹はこの後、“Nénette et Boni” (1996)のふたりに - 不仲模様もそのままに移行する(ついでにVincent Galloも)。ふたりの諍いはこの頃からあって、ひょっとしてNénetteの妊娠はこの映画のあれだったのでは..  とか。

自分の青春時代を、というテーマでこういう小品を作ってしまうClaire Denis、えらいなー。


外に出られるようになって最初の土日。土曜日は神保町に行って、日曜日は新宿で映画を見たりしたのだが、低気圧と人出でくらくらになって、戻ってきてばたんきゅーでしんだ。この時期の日本の湿気が殺人的であることを思い出した。しかもまだ梅雨入りしていないよね? これからこういうのが二ヶ月くらい続くんだよね(泣)...  

6.04.2021

[film] Old Joy (2006)

5月29日、土曜日の晩、英国のMUBIで見ました。

”First Cow” (2019)の劇場公開記念ということでKelly Reichardtのこの作品だけ。確かに原作は同じJonathan Raymondだし、どちらもオレゴンの森の奥を舞台にした男ふたりのお話、ではある。Kelly Reichardt作品のうち、これだけは未見だった。

妻とふたりで暮らすMark (Daniel London) – 彼女との間にほんのりテンションある - のところにKurt (Will Oldham)が電話をかけてきて、よさそうな温泉を見つけたから一緒に行かないか、と能天気に誘ってくる。妊娠中の妻がよい顔をしないのは見えているのだが、父親になったらこういうこともできないだろうし – とは言わずに黙って犬のLucy(あのLucy)を連れて車を出して、Kurtを拾って森の奥の温泉を目指す。それはふたりにとっては、昔からずっと繰り返してきた”Old Joy”のひとつで。

KurtはReichardt作品におけるWill Oldhamの役割を忠実にこなしていて、つまり、べらべら(本人以外の人にとっては)どうでもよいことをどうでもよくないような表情と聞き流しに最適の抑揚で喋り続ける(あれって芸の域)のでそれを撮っているカメラ自身が飽きてきてどうしようになる - そんな位置にあって、山道を歩くMarkは慣れたもので適当に相手をしながら自分自身の思考の糸を辿っていく – つまりほぼ相手にしないので、どこまでも盛りあがったり口論になったりすることもない。そんなふたり&Lucyが森の奥に行ったらどうなるのか。 - もちろん期待通りどうにもならない。

山道を延々歩いて温泉に着いて服を脱いで、隔てられた浴槽に別々に横になって、カメラの位置は手前にMark、奥にKurtで、会話の切り返しもないので、お湯に浸かってぼうっとした湯気の向こうから声が聞こえてきて気持ちいいなー、程度なのだが、Kurtがマッサージをしてやろう、ってMarkのところにきて、彼の体に触る。ここの瞬間だけ、予感されていたところではあるが肉のかんじが突然露わになってざわっとなる。この辺、Claire Denisの映画での男性のマッシヴな肉の描きかたと比べてみたくなる。

でもここもマッサージした/してもらった、というだけの話で、ふたりとLucyは家路について、薄暗い道路脇、アパートの手前でKurtを降ろす。あの後、Kurtはどんなふうに扉を開けて、自分の部屋に入ったのだろう、何か食べたのかしら? あの後、Markは妻とどんな表情で、どんな会話をしたのかしなかったのか。 Lucyは?とか。”First Cow”のふたりもそうだったけど、カメラがオフになって離れたその瞬間、その向こうで主人公たちはどんな表情を浮かべたのか、どこに目を向けたのか、どんな生を送っていったのか、Kelly Reichardt作品が抱えるどうにも切ないかんじ、ってこの辺なのかも。手から放れる – とまる – でも続いていく、このとめどない繰り返しのなかにあるひとりひとりの生の。

ふたりの男の間の距離のありよう - 親密な/疎遠な - を描くのではなく、そもそもが隔たってあるふたり(誰だってそうなの)が緑の山道を歩いていく、同じパスを渡っていくその不思議な影の連なりとか背中を追っていく、それだけでそこになにがあるんだろう? ってなるの。Kelly Reichardtの作品の根っこにはいつもこの問いがあるような。

こういうドラマのありように寄り添う、なにかが生起する予感をはらみつつ淡々とリズムとメロを刻んでいくYo La Tengoの音楽(ギターにSmokey Hormel)のすばらしいこと。この時期のYo La Tengoって他のフィルム用にもいろいろ作っていて、その観点からも興味深い。

もういっこ、Jonathan Raymondの原作はどんななのか、は読んでみないことにはわからないのだが、押さえておく必要があるだろう。特に彼自身が脚本(Reichardtとの共同)を書いている”First Cow”との対比において、どうなのか。なかでも、あの映画における牛とはなんだったのか、って。日本公開されたところで、もう一回みて、書いてみたいところ。

Jonathan Raymondの原作本に写真を寄せているのは、かのJustine Kurland氏で、結構な値段がついているのだが、欲しくなってきた。


今日マチ子さんの『Distance』を買ってきて開いてじーんとしている。2020年4月から1年間の、1日1枚の絵日記。 ロンドンもこんなふうだったの。なんでこんなになっちゃったんだろう、って人の消えた路地や川べりや家屋や窓を見つめすぎると、そこに幽霊や妖怪やあってはいけないもの、いてほしい人が現れたり浮かんできたりした。それは必ずしも自分にとっての、だけじゃない気がした。みんなが不安に揺れながら想像の淵に立って、風景に向かって祈るしかなかった、そんな日々の記録。まだ生々しくて、少しだけ痛かったり。

6.02.2021

[film] Her Man (1930)

5月29日、土曜日の昼、Samuel R. DelanyのCarte Blancheをやっている(あーん、ほぼ見逃してる)MoMAで見ました。2015年に失われていたネガが発見されてデジタル修復されて、2017年にBFIで上映された時、当時結構話題になったやつをようやく。 日本では公開されていない?

オープニング・クレジットの文字が浜辺の砂に書かれていて、それを波がさらってめくっていくお洒落。
アメリカの港に着いた船からAnnie (Marjorie Rambeau)が降りてくると警察が寄ってきて、逮捕されたくなかったら船に戻って元きたところに帰れ、って脅すので、彼女はしぶしぶ船に戻る。

戻った船では、Annieのくるりと翻る足元だけをカメラは追って、その足先がどこかの港に着くと彼女は船から降りて、すたすた歩いていく。この彼女を追っていくショットのえんえん続く長回しがびっくりで、いろんな声が彼女に声をかけてきて、それがスペイン語なので、ここはメキシコかキューバか(ハバナだった)、中華街を通り抜けて更に怪しげな界隈にやってくると、怪しげな酒場の扉をくぐる。 ここまでですごいため息。”Touch of Evil” (1958)のオープニング並みの驚嘆。

そこは怪しげな人たちばかりがたむろする酒場&売春宿で、ここで真ん中の女性はAnnieからFrankie (Helen Twelvetrees)に替わって、ひとりぱりっとしたスーツを着て笑わないやくざのJohnnie (Ricardo Cortez)に酒場ごと囲われてて、Frankieが客を引っ掛けてバーに合図すると、酒のグラスと水のグラスが運ばれてきて、カモの客を酔わせてぐでんぐでんにしてお金を抜く、やばくなったらJohnnieがナイフを投げてさようなら、を繰り返している。 Frankieはあーあ、って思いつつも他にどこにも行けないのでそういう暮らしをしてて、Annieはそんな彼女を酒場の隅で見ている。

ある日、肩出しルックの船員のDan (Phillips Holmes)がやってきて、彼の歌う姿にぽーっとなったFrankieは、いつものようにスリをやろうにもできなくて、Danは彼女のことが好きになって、僕と一緒にここから脱けだそう、って誘うのだが、当然Johnnieは黙っちゃいなくて…

というメインのストーリーとは別に、とても演技とは思えないようなめちゃくちゃぶっとんでらりらりした連中がうろうろしていて目が離せない。ぐでんぐでん状態でスロットマシンに絶対当たらない男と絶対に当たっちゃう男のコンビとか、帽子を被っている奴を見るとひたすらぶんなぐる奴とか、どいつもこいつも目が遠くを見ててとても演技しているとは思えない連中ばかりで、プレ・コードがやばい、検閲しないと、っていうのはこれを見れば即座にわかる気がする。酔っ払いばんざい。

で、最後はこいつらはぐれもの全員を巻き込んだ大乱闘 - より正確にはDan vs. Johnnie & 酔っ払いぜんぶ、で、そのスピードと腕のぶんまわしの凄さときたら”Come and Get It” (1936)の乱闘シーンを上回ってあんぐりしかない。 Frankieを自分のものにするため、っていうより、ぜったいただの喧嘩大好き、でぶちかましてるだろあんた、っていう怒涛の勢いなの。こんなの見たら大乱闘の大喧嘩したくなってもおかしくないかも(だからプレ・コードは)。

そうやって一応、最後はめでたしめでたし、になるのだがでもFrankieは本当にぜんぶ捨ててDanについていっちゃってよいのか、とか、そこに残るAnnieは..  とか、そういう余韻もあってよいの。今から約90年前のハバナにはこんな連中がいたんだなー、とか。


ほぼ1年2ヶ月ぶりにまる1日会社にいる(じゃない、仕事する)、をやった。こんなにも疲れるとは、こんなのを毎日毎日ずうっと続けていたとは。これじゃいろいろうんざりしちゃうわけだわ。

6.01.2021

[film] Minnie and Moskowitz (1971)

5月28日、金曜日の晩、Criterion Channelの特集 - “Gena Rowlands: An Actor’s Actor”で見ました。
そしていま、6月になったので、ここではCarole Lombardさまの特集が始まっている。

Seymour Moskowitz (Seymour Cassel)はもうもうのムスタッシュとポニーテールの髪を束ねて陽気に豪快に笑って喋って、匂ってきそうなかんじで街をうろついても周りに寄ってくるのは同様のむさくて狂った剛毛野郎ばかりで、仕事はパーキングの駐車係をしていて、それが好きでやっているというよりは他にできることがなくて、でも自分にはなんだってできると思い込んでいるから見栄きって勇んでLAにやってくるのだが、いつもと同じように小競り合いを起こしてばかりでなかなかしょうもない。

Minnie Moore (Gena Rowlands)は美術館 - The Los Angeles County Museum - LACMAだー - でキュレーターをしている独身で、同僚と映画館でHumphrey Bogartのクラシックを見てぼーっとなって、でもそうやってうっとりして帰ると、つきあっている不倫相手でもう別れたはずのJohn Cassavetesが家にいて絡んでくるのでもういい加減にして、になって泣いていたり。

そんな駐車場以外には交わるところがなさそうなふたりが巻き込まれ喧嘩のまんなかで出会って、出会うというよりSeymourが彼女だ - 彼女しかいないって興奮して、Lauren Bacallみたいだ、って突っ込んだりしたのでMinnieはついぼうっとなって、いやでもやっぱりそれぞれの境遇とか違いすぎるし無理だし、って押し戻して、そういうことを繰り返しながら結婚へとなだれこんでいくロマンチック・コメディであり、ふたりのぶあつい境遇の違いを考えるとスクリューボール・コメディなのかもしれない、けど、笑えたり爽快になったりするようなところはあまりない。家族が集うとこはおもしろいけど。

全体として迫ってくるのはやって来てほしくない夜の闇であり、ぶつかったりぶつかられたりの暴力と怒りに満ちた生(なま)の世界であり、そのなかをちっとも演技をしているようには見えない生身の俳優たちがこんなの好きになっちゃったんだからしょうがないじゃないかどうしろっていうのか、って震えながらこっちに向かってくる。そのアクの強さにこんなふうに始まる恋もある.. よね.. にならざるを得ない。何回見てもこんなことがあってよいのか、って震えるのだが、ここにこうしてあるのだから黙って見てろ、目を逸らすな、と映画の世界の人々はいう。

ここでこんなふうに描かれた愛の誕生は、続く”A Woman Under the Influence” (1974)でその瓦解を経験し、続く”Opening Night” (1977)でその復活と再生を、最後の”Love Streams” (1984)で、愛ってやつはなにがあろうととめどなく流れていくのだ、って断言する。それは、その中心にいるJohn CassavetesとGena Rowlandsのふたりが断言している、というより、愛そのものがそこで語っているような、そういう錯視と盲信の世界に我々を導く。 で、なんども言うようにそれはロマンチックでドリーミーななんかではなくて、常に死と隣り合わせの暴力と諦めのなかにある過酷なしんどいやつで、なのに目を離すことができない。なんでだろう? っていつも思うの。思うのだが、John CassavetesとGena Rowlandsのふたりを見るとこんなのしょうがないどうしようもないわ、ってなる。

これもAnti-romcomだし、”Punch-Drunk Love” (2002)がやりたかったのもこれなんだろうな、って。

このタイトル、Minnieがファーストネームで、Moskowitzがラストネームなのはなんでだろう? っていつも思う。 結婚の話だから?

Cassavetes夫妻のそれぞれの実のママが出てきたり、ふたりの娘のZoeがまだ赤ん坊だったり、ちゃっかりCassavetes家のファミリーアルバムになっている変な作品でもある。それにしたって、なんて家だろうね。


とにかく会社に出勤した。もう二度と行きたくない、とか言えないストレスと辛さ。
あまりに辛いので、帰りの本屋で『Mornington Crescent Tokyoの英国菓子』を買ってきた。あのMaids of Honourの作り方が出ている。 クリームチーズなの?  という衝撃..  恋しいよう。