10月26日、土曜日の午後のマチネーを、Harold Pinter Theatreで見ました。
これの前日、金曜日の午後にトークイベントがあった。
David Tennant Meets Greg Doran: My Shakespeare
昨年出たGreg Doranの著書”My Shakespeare”について、彼とDavid Tennantがおしゃべりする(+サイン本つき)、というもので、金曜日の午後2時からこんなのやるなよ、ってぶつぶつ言いつつ、おもしろそうだったので行ってみる。こちらに来て少し演劇を見るようになって、演るほうも語るほうも見るほうも、如何にシェイクスピアがいろんなベースとして根を張って豊潤な層としてあるか、その深さと厚みにおそろしくなり始めている時期でもあったので、こういう機会はつかまえて行くようにしている。 休憩1回挟んで2時間強、自身のシェイクスピアとの出会いに始まりシェイクスピアを演出する/演じる深さおもしろさをどこまでも掘って語っていけるふたりだと思うし、司会や客席から投げられたどんな球も軽々と打ち返していたのでそうだと思うが、もっと勉強しな(お芝居見な)きゃ→自分、になった。がんばる。
それにしても、文化階層とか教育とか、いろいろあるにせよ、基層のようなところでのシェイクスピアのこの根のはり方ってなんなのだろうか、っていつも思う。アメリカとか日本にこれ相当のってあるのだろうか? それが文化というものなのだ、って言われたら黙るしかないのか。
で、ちょうどDavid Tennant主演のMacbethをやっていたのでその翌日に見る – ずっとSold Out状態でたまたまキャンセルが出ていたのを買えた(演劇のチケットはだいたい当日とるの)。 演出はMax Webster。休憩なしの約1時間50分。
客席の各椅子にはヘッドセットが置いてあって、それを掛けてみるとテスト用の音声が流れて、聴力テストみたいに右側、左側でそれぞれ音が正しく出ていることを確認させられる。これ難聴の人とかどうするんだろうと思ったが、外してもふつうに舞台の音は聞こえたので、効果を高めるためのものだということがわかった。実際、音質は3Dですばらしくよくて、姿を現さない3人の魔女が耳元で(レフト・センター・ライトで)呻くように呟いたり囁いたりしてくるし、剣の金属のきーんていう音とか、Macbethの声は独り言のような小さいものでも拾われるし、喋りながら自分の髭をなでるじょり、っていう音、息遣いまで生々しく伝わってくる。主人公がいろんな内面の声に縛られ操られたりしながら自壊していくドラマの背景として的確かつすごく効果的ではないか、と思った。
Lady Macbeth (Cush Jumbo)の確信(悪意)に満ちた声とぶつぶつも含めて悩み苦しんでいくMacbeth (David Tennant)の声の – どちらかが打ち負かされ潰れていくドラマはこのサウンドスケープのなかでじわじわと進行していくし、Lady Macduff (Rona Morison)と子供たちが殺される場面も暗闇のなかの音のドラマとして細部まで生々しい。音や声のもつリアリティやニュアンスを舞台用に拡大再生したりしなくても伝えることができる、って結構すごいことではないだろうか。
舞台は奥の半分がガラス箱のように仕切られていて、そこにケルトっぽいどんどこ民謡を演奏したり歌ったりする人たちとか、奥まったところで議論する人たちが詰められていて、前のほうはシンプルな段々がある程度。ガラスの向こう側で決められたり動いたり守られたりしていく何か、フロントでもがいたりのたうち回ったり殺されたりしていく人々、という対比があり、全体のビジュアルは表現主義映画っぽいシャープな光と影のなかで映しだされる。浮かびあがる音像も含めて、ちょっと映画っぽすぎる、というのはあるかも知れない。
他方で、前のめりにのめり込ませるライブの緊張感はやはり演劇のものとしか言いようがなく、David Tennantすごいな、になるしかなかった。
11.04.2024
[theatre] Macbeth
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