6.30.2011

[film] Super 8 (2011)

日曜の晩、六本木でみました。

”E.T.”(1982)と"Stand by Me" (1986)を足した作品、とか言われても、どちらも公開時には、けっ、なにが友情だよ愛だよばーか、とかいって見ていない。 
だからこれが宣伝文句とか褒め言葉になる意味が、よくわからない。

けど、だから、ストーリーはなんとなくわからないこともないし、音と映像がよければそれでいいかー、と。

70年代末(たぶん)、田舎の鉄鋼の町でSuper8で映画作り(ゾンビもの)をしている少年たちのお話し、母親の死、親との確執、あれこれあるところに、アンストッパブルな列車が横滑りでなだれこんできて、町に不可解なこと起こり始める。

不可解なことっていうのは、軍が移送中だった宇宙人が逃げて、地中に潜んでじたばたやってた、と。

うん、わかんなくはないし、わるくないし、わかってやろう、かわいそうな宇宙人のためにも。
でも、散々な目にあった宇宙人くんにはほんとにわるいけど、きみ、別にいなくても物語になったよね。

ゾンビ映画撮ってるんだから、そのままリアルゾンビを出してあげればよかったのに。 
でもそれじゃロメロの"The Diary of the Dead" (2007) とおなじになっちゃうか、とか。

鉄鋼の町の若者たち、ということで"Four Friends" (1981)みたいな成長物語にしてもよかったんだよ。

でも、スピルバーグとJJAじゃ、そんなのやるわけなかったのだった。
でも、ひとりひとりの顔もアンサンブルも自転車こぎも、すごくいいとこいっぱいあるのに、もったいない。
あのでぶが最後のほうでぐちぐち言うとこなんて、最高なのにさ。

さみしいたこ星人なんてほっておけばいいんだよ。
みんなそれぞれ大変なんだからさ。

案外そのへんが、この孤絶感こそが、メッセージなのかもしれない。
たこだってさみしい。 たこだってたいへん。
だから自分のやれることをやっておきなさい、って。

たこも自分の星へのおみあげに誰か連れて行ったらおもしろかったのに。
あの爆薬マニアのガキとか。

パート2は、たこの穴から子ダコがうじゃうじゃ、か、たこの穴の残留物質で墓場の死体がゾンビ化、か、たこの穴から宇宙戦争! しかないよね。 やってほしいなあ。

音楽は、ELOの"Don't Bring Me Down"の冒頭のドラムスがすべて。 あそこだけごきげん。

えー、ほかにもなんか書くことあったはずなんだが。
いいや、たこで。

[film] A Idade da Terra (1980)

ユーロスペースでGlauber Rochaの特集(グラウベル・ローシャ・ベストセレクション)がはじまって、その横でClaude Chabrolもはじまって、爆音もはじまって、もうどうしようもない。 
泣いたりひくひくしたりしながら見れるのをひとつづつつぶしていくしかない。

土曜日の朝いちに見ました。『大地の時代』

Glauber Rochaの遺作、バイーア、リオ、ブラジリアを舞台に、大地にゆっくりと陽が昇るところからはじまって、カーニバルの狂騒、政治的寸劇、労使抗争、自然と野蛮と文明、などなど短いエピソードが交錯していく。ひとはみんなでっかい声で歌ったりどなったり、ずうっとわーわー騒いでる。 これが150分つづく。

それらが大きな木とか森とか渦とかでっかいイメージとしてのブラジル、みたいなとこに収斂していく、というよりは、それらが地面の上に勝手に垂直にどすどすと突き刺さっていくかんじ。 
でも大地はいっこだから、って。 どすどす。

製作は80年、まだポスト=コロニアルなんてなかった。 まだアンチ=コロニアルで、第三世界とかいう言葉もあって、グローバリゼーションなんてありえないかんじだった。 同時期の「地獄の黙示録」(1979)のひとを狂わせるジャングルの、あんな未開の風土のありようが、ごく普通に、堂々と横展開されている、というか。 どうだびっくりしろ、みたいな。 (びっくりする)

Pina Bauschが80年代以降、各国ベースのあれこれをやりだす前の、粗削りなフォーム、と言えないこともない。 あの世界がだめなひとには、おすすめしない。

むかしむかしの94年だか95年だかに、リオのカーニバルに行ったことがある。ひと晩、夜があけるまで見てへろへろになって、そのまま飛行場に行って、サルバドールに行って、そこでもカーニバルを見た。(踊らない、あんなの踊れない)
リオのとサルバドールのはおなじカーニバルでもぜんぜんちがうの。
でも、どっちも、音楽の快楽、というのよか、濃くて怖くて禍々しい音の闇と渦が深く強く印象としてのこった。

で、ここの人たちは、これを3日3晩、えんえんやり続けるんだよ。 
ブラジルてこええ、と心底おもった。 

その説明不能な闇のかんじ、ひたすら落ち着かない、なにをやっても落ち着きようのないかんじがこの映画のカーニバルのシーンにはそのまま転写されているようだった。
なにが起こってもおかしくないような、なにかが降りてくる、もしくはなにかが湧いてくる、そんなふうな。 そのかんじをあんなにごちゃごちゃ落ちつかない画面の垂れ流しでつくりあげてしまうなんて。

Glauber Rochaがまだ生きていたら、いまのブラジルをどんなふうに捉えただろうか、て誰もが思うのではないか。 そう思わせてしまうとこが、またすごいんだねえ。

6.29.2011

[film] 東京公園 (2011)

金曜日の晩、例によってへろへろのまま新宿に出て、みました。

これだぁー、みたいな鮮やかな何かが現れて残る、というよりもいろんな考えが日々ぽこぽこ浮かんでは消える、それが未だに続いている。 
そんなふうにして作られていったのかもしれない、とか思うし、朝の15分ドラマのように、公園のお散歩みたいに、ちょっとづづ見ていってもよいものかも。

したがって、以下は今の時点のあれこれ、ということで。

暴力なし、喧嘩なし、流血なし、病気なし、修羅場なし、ゾンビあり、みたいな。 
希望とか癒しとかは、あってほしいのかもしれないが、たぶんない。 なくてもいい。

写真家になりたいと思っている男の子=光司がいて、公園で家族写真を撮るのが好きで、そうやっているある日、公園を散歩する一組の母子の写真を撮って送る、というバイトを頼まれる。公園の名前は日々指示するからそこに行って、探して、撮れ、と。 
彼のアパートには同居人がいて、でもその姿はその同居人の元カノである富永からは見えなくて、どうもそいつはこの世にはいないらしい。
彼には血の繋がっていない姉がいる。
彼の母はもういなくて、彼はカメラマンだったらしい母の使っていたカメラを使う。
公園で尾行する対象の女性は亡き母にそっくり、ということを後で富永に指摘される。マザコン!と。

いろんな関係(みんなそれぞれちょっとずつ傷ついている - ごくあたりまえに)のハブとしてある彼(それはそんな珍しいことでもない、ごく普通に)の目はいつもファインダーのなかにあって、ファインダーを通して世界を見ているようで、その目が正面からとらえられることはなくて、たまにその後ろ頭を富永にどつかれたりしていて、そうしていくうちに、そのハブはぐんにゃりと、アンモナイトの渦のようなものに巻きとられていく。 
或いは、穏やかな渦のようなものがあることに、ぼんやりと気づく。

そんなふうにして、カメラを通そうが通すまいが、この世(含.この世からみたあの世)には、複数の存在と時間と目線の狭間で/に、決して越えられない溝とか境界とか河とかがあるのだ、ということを、けじめ、のようなものがある、ということを、それと同じように、それであっても、たったひとつの眼差し、たったひとつのキスで、ひょい、と超えられるなにかもある(のかもよ)、ということを、学ぶ。

いや、学んだかどうかは映画のなかではわからない、単に時間が少し過ぎただけ、なのかもしれなくて、でもその時間は複数の人たちとの間で共有されている時間でもあって、更にそれはひょっとしたらアンモナイトの渦に向かうなにか、なのかもしれない、とか。「サッド ヴァケイション」のしゃぼん玉のようななにか、かもしれない、とか。

もひとりの主人公は、バーのおかまのマスターに「いびつな娘」と言われてしまう富永でもあって、肉まんとケーキを一緒に食べてしまう酒飲みのシネフィルで、ホラー映画のなかにしか愛を見出せなかったりする。
彼女はロメロが最大限の愛を込めて描きだすところのゾンビそのもの(或いはあの、"Martin" (1977) みたいに孤独な)、というか、おそらくなくなってしまった元カレと生きている光司のあいだにゾンビのように入りこみたいのかも知れず、主人公の後ろ頭にぺしってかぶりついて、変容をうながすのだが、他方で自分の居場所を失って、結局光司の家の元カレの部屋に転がりこむ。 
それとか、金井美恵子の小説に出てくるませたガキ娘のかんじ。

そんな富永に背中を押されて義姉の部屋を光司が訪れるシーンはすさまじい。
ふたりですごいことをしたりするわけではなく、写真を撮ってパスタを作って食べてハグする、程度なのだが、この場面の、室内の光、音、ショット、すべてが驚異的な密度と緊張感と針の穴を通すかのような決定的瞬間のドミノ倒しで、コトが起こるていうのはこういうこと、それをフィルムに撮るというのはこういうことなのだなあ、と。

あと、風景もすごい。 タイトルに「東京」がつくのに東京らしい光景といったら変なスペースのパーティのとこくらいで、あとは公園と、海。 でもこの海がほんとに堂々としててすごいんだよ。
「こおろぎ」でも海はすごかったし、「サッド ヴァケイション」でも海(と橋)は圧倒的だったし、大画面でみるといつもびっくりする。 音はいうまでもなく。

監督はいやがると思うが、”The Tree of Life”とどこかしら似ている。 
でも木よりも公園のがでっかくてえらいんだよね。

6.27.2011

[film] X-Men: First Class (2011)

19日の日曜日に見てきました。

X-Menシリーズの前史、"Wolverine"もそうだったが、前史のがおもしろい、というのはどうなんだろう。

監督は"Kick-Ass"のMatthew Vaughnで、このひとはきほん直情エモ暴発型のひとなので、どうなるかなあ、だったのだが、きっとBryan Singerが裏でしばいたのだとおもう。終わりのほうとかちゃんと締まってた。

遺伝子だの名前だのによる人種の隔離排斥、国境による冷酷な分断(冷戦)、これらがはじまった20世紀のある地点からこの物語がはじまるのは、極めてまっとうなことのように思える。
そして、それらを「平和」の名の下に強引にドライブした「合衆国」に最終的なツケがまわってくる、というとこも、まあそうよね。
このロジック、というか背景を置いてしまうと、例えば善悪みたいなものは極めて両義的な、相対的なものにならざるを得なくて、そういうふうにして、本作の主人公はErik (Magneto)になるの。

この作品での彼を正義、というつもりはないし、そうすることに意味があるとも思えないのだが、しかし、彼の言うことはいちいち圧倒的に正しく、揺るがない。
なにもしなければ国が我々を潰しにくる、だから戦うしかない、とか、社会に認めてもらいたいのなら、まず自分で自分のことを受け入れることだ、とか。 (ref. "Lonely Planet" by The The)

彼はダークサイドに堕ちたのではない。 国家がその穴を掘り、そこに闇を呼びこんだのだ。
彼の家族に対してそうしたのとまったく同じように。

(これを見てしまうと、Star Warsのep.1~3なんて、めちゃくちゃ甘いし弱いよね)

これに対して善玉であるはずの、Charlesの言葉は圧倒的になよなよとよわい。
「友よ頼むから聞いてくれ」くらいしか言えないCharlesは、鉄のヘルメットで想念も断ち切られ、かわいそうにおしりに穴まで開けられてしまう。
(ふたりのホモセクシュアルな関係については、だれかがどっかでちゃんと書いていそうね)

こうして、キューバで彼らミュータントに向けられたミサイルから全ては始まって、21世紀に入ってからの3部作でこの闘いは決着がついた、かに見えたのだが、実は根っこのとこは何も変わっていないんじゃないか、あのまま終わらせたらまずいんじゃないか、という製作者側(Bryan Singer)の危惧が、前史がいっぱい作られている背景にはあると思うわけです。 実際それでいいのよ。

これの次は、"2nd Class"ができて、以降は5年おきくらいで、"Class of 19xx"とか、学園モノでやっていくといいなあ。
デザインとか意匠とか音楽をその時代にあわせて作っていくの。 おもしろいとおもうけど。

[film] Foo Fighters: Back and Forth (2011)

せめてこれくらいは、あうあう、ということで初日の土曜日に見てきました。
でっかい音で聴けるなら、とそれだけが目あてだったのに、シアターは1だった。 
せめて2か7にしてほしかった(ぜんぜんちがうんだよう)。 
林由実香だって7なのに(行けなかったけど)。

”Back and Forth”のほうは、Behind the Music系のドキュメンタリーの王道だった。渋谷陽一も日経エンタも間違いなくぜっさん、みたいな。
バンドヒストリーを隠さず漏らさずきちんと追って、メンバーがそれぞれきちんと受け答えしてコメントして、誰がみてもわかりやすくて納得できておもしろいふうにみせる、という。

こういうことをやって、それなりにさまになる最後の現役ロックバンドなのかも。 
ストーンズやU2のなんて今更見たくもないし、ColdplayとかArcade Fireなんかのそれが、おもしろいものになるとは思えない。

US郊外のアングラパンクコミュニティから出て、ひたすら激しく、やかましい「バンドの」音を志向し、とは言いながらもみんなに聴いてほしいんだよう、というサービス根性とでっかいハートを併せもつ、そういうバンドであるが故になしえた偉業 - たぶん裏では映像の1000倍くらいいろいろあったんだろうが、べつにいいやと笑って流せるアメリカの、アメリカ人Dave Grohl とそのバンドの-。

個人的には、バンド前史のKurtの死のところがしみた。
彼の死の前後の報道は、MTV Newsのあのオープニング(ばん・ばん・ばん・ばん)と、Kurt LoderとTabitha Sorenのあの顔と声と共にずううっとあって記憶から剥がれてくれない、おそらく大多数のアメリカ人にとってもそうなんだろうなあ、て。

ドキュメンタリーの後の3Dライブは、まあ、あんなもんかも。
映像に興味ない(と言い切る)バンドがやりそうなことだよね。

あとは、Krist Novoselicと(3Dライブでは)Pat Smearが鳴らす "I Should Have Known"の中盤のベースラインね。 おそらく、彼らにしか出すことのできない音。 爆心地で鳴っている音、吹いてくる音。 
この音のためだけに、2時間半以上座っていてもいい。 あれは吉祥寺でもういっかい、だな。

字幕は、直前までいろいろあったみたいでしたが、あんなもんかしら。
バンド名とかちょこちょこ抜けていたけど。

[film] アトムの足音が聞こえる (2010)

引っ越しをしたりしておりまして、それどこじゃなかったのです。
そのうち時間ができたら書きますが、ほーんとに過酷だった、だった、じゃない、まだこれからなのだわ。 前回みたいに箱開けで飽きないようにしないと。

で。こういうときに限って映画がうじゃうじゃやってくるし、書いてる時間ないし。

17日の金曜日、ユーロスペースの最終日にみました。

なんの前知識もない状態でみる。 こういうのはそのほうがおもしろいしね。
アトムの足音を生んだ音響デザイナーの大野松雄のドキュメンタリー。
伝説はなんで、いかにして伝説となったのか、が関係者証言で語られる前半部と、このかんじだともうてっきりこの世いないと思われた本人が突然姿を現す - しかも岐阜の知的障害者施設で - 後半部、この稀代の偏屈老人が録ったり擦ったり早送りしたりしてきたトラックを、別のテープが追っかけていく。

彼にとって音響は「効果」ではなく「世界」だった。 彼はたんに「アトムの足音」を作ったのでなく、「アトムの足音がきこえる」ような世界を、その響きや時間、その記憶も含めたような世界まるごとを音で作ろうとしたのだとおもう。
だから、70年代のドキュメンタリー制作の仕事も現在の身障者施設での仕事も、ぜんぶ繋がっているのだろうなー、と。 ひとつの道を極めた職人、というよりも、職人のありようを、彼らとその表現が活きる場所をつくる - それを、そこらにある素材だのリソースだのを繋いでとりあえず作って、それで次にいく - そういうタイプの表現者だったのではないか。

で、彼の登場してきた50~60年代の前衛芸術のひとたちがみんな志向・試行していたのはそういうところで、荒川修作なんかもこれに近いところにいたひとだとおもうのだが、そうやって見てみると最後のサバイバーなのかもねえ、とかおもった。
あるいは単に、へんなおじさんである、と。

小杉武久さんが彼のアシスタントだった、ということは、John CageとかMerce Cunninghamとおなじレベル、ていうことだよねえ。 アトムの足音 - Merceのステップ - Cageのきのこ、とか繋いでみるとおもしろいねえ。 ぜんぶ軟体だよね。 ぷにょぷにょ。

終映後に急遽組まれた監督とプロデューサーのトークもおもしろかった。
借金取りの件だけがほんと心配だが。

6.19.2011

[log] NYそのた

もう遠い昔々のことに思えるが、NYで買って帰ったものとかを少し。

少し前に、Chelseaのギャラリーで、Velvet Undergroundのオリジナルメンバーだった(Maureen Tuckerの前任ね)Angus MacLise (1938-1979)の回顧展示をやってて、5月中旬の訪米のときには見れたはずだったのにまだだいじょうぶと勘違いしてて、2回目の今回のときはもう終ってた。ばかばか。

で、この展示を記念してカタログとか彼がTony Conradらと一緒に作った未発表音源のアナログとかが販売されてて、Webshopだとアナログは売り切れてしまったのだが、Other Music行ったら、最後の1組があった。 ので買った。

Angus MacLiseに関する記事はこちら;

http://www.nytimes.com/2011/05/06/arts/music/angus-maclise-of-velvet-underground-in-dreamweapon.html

Bergdorf Goodmanで古本を買おう、のコーナー。
ここには、昔からうーんと高いCecil Beatonものがいっぱいあって、手を出したら破滅だから、とこれまでは軽く無視していたのだったが、ついに一冊だけ。
"The Best of Beaton" (1968, Macmillan)。 ベストものだし、状態よかったし、いいか、って。

序文を書いているのがTruman Capoteで、BeatonによるCapoteといったら、"The Boy With the Thorn in His Side"のシングルジャケットなのだし。

あとは、St. Mark's Bookshopで、New YorkerやVillage VoiceのRock CriticだったEllen Willisの評論をまとめた"Out of the Vinyl Deeps - Ellen Willis on Rock Music"。
裏の推薦文を書いているのが、Jonathan Lethem, Kathleen Hanna, Ann Powersなど。 
まだぱらぱらしか見れていないが、よいかんじ。

Bust誌の最新号もかった。 Bitch誌はやめた。

帰りの飛行機でみたのはー。

もういっかい、"Just Go with It"みた。
これがちゃんと公開されないんだとしたら、この国はほんとに救いようがねえ。

あと、”I am Number Four”みた。
わるくなかったかも。 八犬伝とかアストロ球団とか、ああいうの+学園もの、だよね。
でもNo1.から3.は既に死んじゃってて、4と6が出てきたの。守護獣とかもいるの。あんま期待せずに適度に楽しみ、としておこう。

あと、"Unknown"みた。
Bruno GanzとFrank Langellaが対峙したとこでおおー、となったがそれ以降はしゅるしゅるしゅる、だったねえ。
そういえば、行きで"The Tourist"見たのだったが、あれとおなじようなかんじ。
あんなの謎でもなんでもないよ。 みんなもっとしっかりしようよ、て。

あと、"True Grit"の途中まで。

こんなもんかー。

6.16.2011

[film] Out of the Blue (1980)

まだ6月3日の金曜日なのだった。

Angelikaで"Submarine"を見てから、そのまま横に流れてAnthology Film Archivesで、Dennis Hopperの"Out of the Blue" (1980)。
なんでかこれの35mm New Printが焼かれて、一週間だけ公開、だって。
こんなの見るしかないよね。この日が初日で、7:15と9:15の回のみ、見たのは9:15の。

彼にとっては、"Easy Rider" (1969)、"The Last Movie" (1971)に続く3作目で、これに続くのが"Colors" (1988)なの。

タイトルの"Out of the Blue"は、Neil Youngの"Hey Hey, My My"のあれで、これがそのままテーマ曲としても流れてて、Dennis Hopperはこの曲を聴いて、パンク映画をつくろう、て作ってしまったのだと。 すごいねえ。

家族3人のお話で、パパがDennis Hopperで、娘がTerrence Malickの"Days of Heaven" (1978)に出ていたLinda Manzで、あとはママ。

冒頭、いきなりらりらり状態のままトラックでスクールバスに突っこみ大惨事を引き起こす父娘。 父はそのまま刑務所行きで、娘は立派にパンクになりました、と。
別に髪をおったてたり体にピン刺したり家出したり喧嘩したり過激に暴れたりするわけではなく、「ヒッピーを殺せ、ディスコをぶっつぶせ」とかつぶやきながら、野良猫みたいにいらいらうろうろしているだけなの。

最近のガキがロック!とか、パンク!(びっくりマークつき)とか言ったり「アティチュード」とかポーズとったり、というのとはぜんぜんちがう、パワーゼロの、すれっからしの、ゴミみたいに汚れて目つきの悪い娘の行状を描いているだけなのだが、やはりこれが、これこそがパンクなんだわ、としか言いようがないの。

というわけなので、映画としての盛り上がりには、ものすごく欠ける。
殺伐としているばかりで、退屈で、暗くて、寒いばかりで、なんじゃこれ、の連続で、でもパンクってそういうものなんだからしょうがないの。
カセットで録ったデモみたいに荒れてて、へたくそで、上がっていかない。

たぶんこれと、ドキュメンタリーの"We Jam Econo: The Story of the Minutemen" (2005) あたりを見れば、アメリカのサバービアにおけるパンクのコアとか成り立ち、みたいなところはわかるのではないだろうか。

それにしても、Neil Youngのあの曲を聴いただけで、それだけで、なんでこんなものが作れてしまうのか。 しみじみ謎。

ここでのDennis Hopperの役柄は、"Blue Velvet" (1986)の変態おやじにそのまま繋がっていくようだし、Linda Manzは"Days of Heaven"のLindaが流れてきたかのよう。 
そして、同年の、すばらしい女の子映画、"Times Square" (1980)とも - あれは街の女の子のお話だったが - ともそのどんづまり具合において、はっきりと反響しているとおもった。

それにしても、"The Tree of Life"の中で描かれる家族が、あのブラピ一家ではなく、この一家だったらなあ、とかちょっとだけ夢想した。

6.10.2011

[film] Submarine (2010)

まだ先週金曜日(3日)だす。

この日公開になる映画のうち、なんとか時間を調整して見るべし、と思っていたのが2本あって、ひとつがこれと、もうひとつがMike MIllsの"Beginners"だった。
のだが、もう1本、やっぱしこれは見ないと、というのが突然横から出てきたので、Mike Millsのは諦める。 彼のは日本でやってくれるかもだし。

自身も俳優で、Vampire WeekendなんかのPVとかも撮っている英国人の映画監督デビュー作。 どっかのレビューでWes Anderson + Hal Ashbyとあったが、うん、おおざっぱにはそんなかんじかも。

映画のポスターで正面を向いて堅い顔している男の子が主人公のOliver君15歳で、いつも紺のダッフル着てて、地味でぱっとしてなくて、家族にもなんかうんざりで、そんな彼が同じがっこの女の子、Jordanaさんを好きになるの。

彼女はいっつも赤着てて、ぶーっと仏頂面で、無口で、このふたりをまんなかに置いて、前と後ろに(ウェールズの?)海とか海岸線を持ってきただけで、それだけでいいの。
それだけで、不治の病とか自殺とかいじめとかトラウマとか、そんなの持ってこなくたって、彼の途方に暮れた表情と、彼女の不機嫌な眼差しがあるだけで、青春映画としてじゅうぶん達成されてしまうなにかがあるの。 それでいいや、て思ってしまうの。 年寄りはとくに。

最近(でもないか)だと、"Garden State" (2004)とか"The Squid and the Whale" (2005)にもあった、小声で下向いて「こんな世界なくなっちゃえ」ていうつぶやきで世界をじっとり埋めつくすあれ、とか、"Greenberg" (2010)の、もやもやもんもんした雲のなかにある世界のあれ、とか。
(そういえば、Ben Stillerは本作のExecutive Producerで、いっしゅん出てくる)

トリュフォーのドワネルものとは、ちょっとちがうかなあ。

たまにHDで撮ったみたいなぎざぎざしたとこが癇に障って、ああこれがちゃんとしたフィルムだったらー、とか思わないでもないが、贅沢いわない。

音楽は北極猿のAlex Turnerくんで、もっとちゃらちゃらしたかんじかと思ったらものすごく地味にしっとりしててよいかんじだった。
帰りにOther Musicで、これのサントラ - 10inchのアナログを買おうかどうしようか悩んで、結局やめちゃった。

6.06.2011

[film] The Hangover Part II (2011)

IFC Centerを出てだらだらとEast Villageのほうに歩く。
まだ木曜日なのにこんなことしてていいのか...  よくない。

ワゴン車営業が主なアイスクリーム屋のVan Leeuwenがこないだ7thにお店をオープンしたので行ってみる。 お天気のせいもあったが、すんばらしく気持ちのいいカフェでー、これでかき氷とかあったら最高なんだけどなー。

http://www.vanleeuwenicecream.com/













で、晩の8時過ぎにAstor Placeのシネコンでみました。

映画の冒頭でBradley Cooper扮するPhilが、前回と同様に携帯をもって空を仰いで「またやっちまった」、と呻く。 これにつきるの。 

見るほうはその自白を受けて、そうかまたやっちまったわけね、という目でこれからの展開を追跡して検証していくことになるの。 気がついたら体の一部が変になってて、よく知らない動物がいて、仲間がどっかにいなくなっててさあ大変、と。

そういう意味では、"The Hangover"を最初に見たときの驚愕とスリルはなくて、そのかわりに、ほうらやっぱり、的な確信と共に全ては動いていって、その確信と期待は最後まで裏切られることは、まあない。 
それでも/だからこそおもしろい、という言い方はできるし、それじゃつまんない、という見方をすることもできる。

自分がTodd Phillipsのコメディに求めているのはシュールなお笑い世界とそのバリエーションを作ること、というよりは、どこまでも卑劣で下品でしょうもない一過性のギャグを、その連鎖を惜しげもなく垂れ流してほったらかし、のほうにあって、そういう点からすると今回のはあんま、かも。 
一回はこういうことやっておけば、お金は儲かるし、程度かなあ。

今回は、言葉のあんま通じない異国でそれが起こる、とか、そういう場所なので起こってしまった出来事も荒っぽかったり痛かったり、とか、追っかけて行った先で起こるどんぱちが派手だったり、そういったことが米国人の憧れるエキゾチックなエイジアンリゾートであるところのタイで起こる、そのギャップが米国人からみたらおもしろい、のかもしれないけど、アジア人からみたら、べつにあんまし、よね。

前回はいなくなったのがウェディングの当事者だったから大騒ぎもわからないでもなかったのだが、今回いなくなるのは花嫁側のガキだし、あんなの置いておきゃいいじゃん、とかおもうし、Heather Grahamみたいなおねえさんはいない(かわりにおかまさんが・・・)し、Paul Giamattiは出てくるけど、そんなに暴れてくれない。 まえに見たimdbにはPresident Clintonとかクレジットされていた記憶があったのだが、どっかいっちゃったのか。

というわけで、いちばん楽しみで、すさまじくおもしろいのはやっぱし最後に発見されたカメラ映像のとこで、これのために、ここまでの100分をすてても、見に行く価値ある...  とおもうよ。

[film] ! Women Art Revolution (2010)

IFC Centerで水曜日に公開がはじまったばっかりのドキュメンタリー。
あたまの"!"は、最初から付いているの。 略して"! W.A.R."。

予告でMiranda Julyの新作"The Future"がかかる。猫足がたまんない。
Godardの"Socialism"の予告もかかる。はじめてみた。かっこいい。
それからR.E.M.の"Collapse Into Now"のFilm Projectから1本かかる。M.Stipeが着ぐるみ着てるやつ。

自身もアーティストである監督のLynn Hershman Leesonさんが68年頃から40年に渡って撮り続けてきた女性アーティスト達へのインタビュー、パフォーマンスを纏めたもの。

Adrian Piper, Judy Chicago, Nancy Spero, Guerrilla Girls、最近だとMiranda Julyも。 作品としてYoko Onoのむかしのパフォーマンスも一瞬。

フェミニズム運動とかアートとか、それらを、それへの共闘を声高に訴える、ということよりも、まず、なんで女性のアーティストって、女性というだけで美術館やギャラリーから遠ざけられたりしてきたんだろ? ほら! と。

えーそうだったの? アメリカなのに? と最初は思うのだが、ものすごく沢山の活動、沢山のアーティストが出てくるので、これはやはりどこか変だったのかも、闘いは続いていくのかも、という気にはなってくる。 ここに出てくる女性アーティスト達に悲壮感のようなものはまったくなく、それ故にその語りについ引き込まれてしまうような。

フェミニズムへの理解云々、というのとは別に置いて(置いておいてもだいじょうぶ、というくらいの間口の広さは当然)、あらゆるメジャーなんかくそくらえで、マイナーなアートを愛するひとりとしてこれはなんとかすべき問題だよね、とごく普通に思う。

そもそもアートの質としてどうなん? というのは当然あるにせよ、映画のスクリーンはそれを評価する場所ではないので(映画に出てくる作品はここ - http://rawwar.org/ - に網羅されている。さっきみたらAmanda Palmerさんのライブ映像とかもあるのね)、まずは60年代からあがってきたいろんな声を、いろんな顔を、まずは見て、聞いていくしかない。 どれもおもしろいよ、やっぱし。 そしてみんなとてもよい顔のひとたち。

最後のほうで、既に亡くなってしまった皆さんの顔がでてくる。
40年分だから決して少ない数ではないのだが、でも映像のなかではみんな笑っているの。

サントラは、Sleater-KinneyのCarrie Brownsteinさん。
エンディングのタイトルロールではこのバンドの演奏シーンが映るのだが、ドラムスを叩いているのはJanet Weissさん(見なくてもわかるけど)で、まだまだ続くんだなあ、と更にしみじみした。

まあ、日本ではやんないだろうな・・・

6.04.2011

[film] Bill Cunningham New York (2010)

水曜日の晩、下のほうに降りて9:30の回をみる。 ようやく。

かかった予告がどれもいかった。 "Trollhuner"(ノルウェーの怪獣もの)、 Monte Hellmanの"Road to Nowhere"(ついに)、そして"Crazy, Stupid, Love" (役者さんが豪華)。

さて、Bill Cunninghamは、主にNew York Timesのためにファッションスナップをずうっと撮り続けているおじいさんで、その彼の日常を追ったドキュメンタリー。 タイトルに彼の名前に加えて"New York"とあるのは、彼とNew Yorkのお話し、彼を通して描かれるNew Yorkという街のお話しでもあるから。

New Yorkを、ある時期のこの場所のファッションを追ったドキュメンタリーとして、今後は必須・必殺の参照アイテムとなることでしょう。すばらしい。 見てよかった。

カーネギーホールの上の穴倉のようなStudioに住み(やがて立ち退きが実行されてしまうのだが)、作業着を着て自転車(28台盗まれて29台目)に乗って、どこにでも行って、にこにこ笑いながら鳥が餌をつまむように、ダンスのステップを踏むように、驚くべきスピードで写真を撮りまくる。

Vogue誌のAnna Wintourは彼には10代の頃から撮ってもらっているのーと猫みたいにめろめろになるし、Metropolitan MuseumのCostume InstituteのキュレーターであるHoward Kodaも、眼鏡おばあさんIris Apfelも、誰もが彼の撮るファッション写真の正しさ、的確さを讃え、メディアからもデザイナーからも街のおしゃれ小僧からも、誰からも慕われる。

ひとには興味がない、と。 セレブが着ているとか誰それが着ている、どこのブランド、とかそんなのはどうでもいい。 まず服を見ろ、その線を、いくつもの線を、シェイプを、色を、それらの重なりや連なりが織りなす像を見ろ、そこに全てがあるんだから、ていうの。

服飾は都市を、そこでの生を生き抜くための、或いはそこでの生を守ってくれる皮とか羽根とか鎧とか、そういうもので、だからそれらを追って束ねた彼の写真はそのままNew Yorkという街を映す鏡(ラストにVelvetsの"I'll be your mirror"が流れる)として、びっくりするようなリアルさでもって現れてくる。 こうして、ファッションの街として呼ばれるところのNew Yorkは、彼の写真によってはっきりとその貌を露にすることになる。 アジェのパリ、桑原甲子雄の東京、とおなじように控えめな、しかし幾重にも連なる重奏としてそこにあらわれる夢としての街のかたち。

だからしかし、真摯な表情として現れてこないような服やファッションに対しては、ショーのフロントローにいようとも決してカメラを向けない。 そういうお茶目な厳格さでもって、ミズラヒがある時期のジェフリー・ビーンをぱくったこととか、アルマーニもどっかの昔のデザインから持ってきていることをそれとなく暴露したりもしている。 単にぱしゃぱしゃシャッターを切るだけの記録屋でもないの。

ファッションと都市を追ったドキュメンタリー、という側面の他に、彼の暮らすカーネギーホールのStudio長屋に暮らす他のアーティスト - 同じく写真家のEditta Sherman - との思い出話もすごくおもしろくて、興味深くて、ここだけで番外編作ってくれないかなあ、とおもった。  
他にどれだけこんなふうなお話しが埋まっているのだろうか。

最後の最後にインタビュアーが彼にいくつかの質問をするのだが、そこだけちょっと泣けるかも。
ヴェンダースのベルリンに出てきた天使とおなじようなおじいさんなんだなあ、て。

このおじいさんがカメラを持って見守っている限り、世界のブランド地図がどんなんなっていこうが、おしゃれの世界はだいじょうぶだろうな、ておもえた。

あと、ちょっとだけ出てくるTom Wolfeも、すごーくかっこいいおじいさんだった。

[film] Midnight in Paris (2011)

"The Tree of Life"のあとで、ホテルに戻って部屋に荷物をひきこんだらもう5時くらいで、すっかり会社に行く気をなくしてしまったので、もう1本みることにして、再びダウンタウンに戻って、Angelikaでみました。
見れるうちに見ておかないとなにが起こるかわからないし。

Woody Allenによるパリ。
彼の描いたイギリスやスペインとは、やはりぜんぜんちがう。 でもAllen、ではあった。

主人公達がOwen Wilson (とRachel McAdams)だからか、それはそれはそれは軽くて楽しいの。

Owen Wilson(Writerをやってる)扮するGilとRachel McAdamsが婚約中のカップルで、彼女の両親と一緒にパリに来ていて、いろんなことにうんざりしてきた頃、ある晩に酔っぱらってひとり街角に座っていたら深夜の12時にどこからか車が現れて、乗れっていうから乗ったら酒場に連れていかれて、そしたらそこでCole Porterが演奏してて、ZeldaとScottのFitzgeraldに会うの。 
そこはなんでか、20年代のパリでした、と。 落語だよね。

アメリカ人にとっての憧れの20年代のパリに現代のアメリカ人が迷いこんだら... というそれだけのお話しで、数晩にわたって通っていくうちに、Hemingwayと会って、Picassoと会って、Gertrude Steinと会って、Alice B. Toklasと会って、Man Rayと会って、Salvador Daliと会って、Luis Buñuelと会って、Josephine Bakerがいて、T.S. Eliotがいて、Matisseがいて、Toulouse-Lautrecがいて、Gauguinがいて、Degasがいて、もうなんでも出てくる。 
動物図鑑じゃあるまいしそんないっぺんに出るもんか、とか思うものの、なにしろOwen Wilsonだもんだから、いちいちリアクションがおもしろくて、たのしい。 

いろいろ文句はあるのかも知れないけど、みんなそれぞれ味があってよくて、特にAdrien BrodyのDaliとKathy BatesのGertrude Steinはよかったかも。 Zeldaを演じているのは"Scott Pilgrim"でドラマーをやっていた彼女で、そこだけちょっとうーん、だったかも。  
でも、ほんとたのしいよね。 客席もいちいちわあわあどよめいていた。

映画絡みだと、GilがBuñuelに対して、きみはそのうちこんな映画つくったらいいんじゃないかなあ、ていうの。  その映画というのはねー。

あとは、実際にいた人物かどうかはしらんが、Marion Cotillard演じるPicassoの愛人- Adrianaが出てきて、そんな彼女は20年代ではなくて19世紀末、ベルエポックの頃のパリに憧れていたりする。 そんな憧れが吹き溜まる場所として描かれる、画家たち(とそのイメージ)によって永遠に保存されているパリ。

マリッジブルーに陥った男が20年代のパリに逃避したくなっただけ、のおはなし、或いはAllenがいっつも描く、ここではないどこか(含.天国とか地獄)、を求めて悶々逡巡してばかりの小噺、にちがいないのだが、それはそれでいいのよ。 Owen Wilson全開だし。 

どうでもよいことだが、Rachel McAdamsの上腕のたぷたぷにはちょっとびっくりした。
Owen Wilsonはあれがこわくなったのではないか。

日本でもまちがいなく公開されることでしょうが、その前にこれのひとつ前の"You Will Meet a Tall Dark Stranger" (2010)もぜったい。  おもしろいから。

[film] The Tree of Life (2011)

もう帰りのJFKだす。 あっというますぎる。

行きの飛行機は、こないだとおなじ5月のメニューだったので見るもんがなくて、しょうがないので、ひさびさに"Enchanted" (2007)とか見て、ああこの頃のAmy Adamsはまだ可愛かったのだねえ、としみじみしてから、"The Fighter" (2010)を見て、3年でここまでー、と思って、それからなんとなくもいっかい"Tangled" (2010)を見た。 そんなていど。

着いたら夏で、あっつかった。

ホテルの部屋が空くのが3時、ということで、これは例によって予測していたわけだが、荷物を預けてそのまま地下鉄でダウンタウンに向かって、Sunshine Landmarkで、みました。  

今年のカンヌ、デ・ニーロが審査委員長になった時点で、これがパルム・ドールを取るであろうことは大体予測できた。 彼がダルデンヌ兄弟やカウリスマキに賞あげるわきゃないしね。

予告なしにいきなり始まる。

あんま説明しにくいのね。 すごく変な映画。

50年代のある家族の風景、アメリカ郊外の風景、父がいて母がいて、子供がふたりいて、と、子供のひとりは(おそらく)戦死して、ひとりが歳をとってモダンな建築事務所かどこかで働いているところと、宇宙の起源とか生命の起源とかが、時間の流れも含めてランダムに交錯していく。 

家族の誕生と喜び、成長、イノセンスの喪失、そして死後の世界まで、これらが宇宙とか地殻変動とかバクテリアとか恐竜とか隕石衝突とか、そういうのとぜんぶ繋がっている、とはいわない。 これらのイメージが意味あるかたち - "The Tree of Life" - のようなところに明示的に連鎖・連携・収斂していくわけでもない。  
おおきな樹とか光がところどころ現れるが、これらが特になにかを言わんとしている、とも思えないし、特にシンボリックな使われ方をしているわけでもない。 それぞれのショットは短めで、落ちつきなく切り替わり、音楽はぶ厚い荘厳なやつが絶えまなく、わんわん鳴っている。 音像・音響は、例によってすさまじい。

文章で書いてしまうとなんだそりゃ、な感がいっぱい出てきてしまうが、とんでも、とか、ムー、とか、或いは詩的、とか普遍性とか、そう簡単には言えないような作りになっているように思えた。 映画でしか表現できないなにかを追っていったらここまできた、みたいな。

前作の"The New World" (2005)も、たしかに変な映画ではあった。
文明の起源、成り立ちとその段差、みたいのが、ものすごくいいかげんに乱暴に、並べられていて、でもあそこで流れている河はすごかった。 おなじように、今回は、樹がすごい、とは言おう。

あるいは、”Badlands” (1973)や"Days of Heaven" (1978)にあったアメリカの道路 - Terrence Malick の道路、と言ったほうがよいかもしれないが、それがいっぱいでてくる。

アメリカの50年代、晩夏の夕暮れの風景、子供の頃に見たであろうああいう風景が、なんであんなにおなじような郷愁というか、なんとも言えないなにか、として迫ってくるのか、不思議だ。  なんだろ、あれ。

Brad Pittが父親で、Jessica Chastainが母親(すごくよい)で、Sean Penn - ここでのSean Pennは、Mystic Riverの彼のよう - が成長した彼らの息子で、でも彼らがお互い意味あるような会話をするシーンはないの。 父親は父親で(ああいう時代だから強くて、絶対で)、母親は母親で、子供はああいう親のもとで育つような子供として、ごくふつうにある。 われわれのイメージの根源にある、そういう汎化された中流の家族の像に、われわれのイメージとしてある宇宙だの惑星だのがダイレクトにぶつかる。

ブラピを猿人に対置してみて、『2001年宇宙の旅』と同じようなかんじか、とか思わないでもないが、あれともちがうよねえ。 とうぜん。

音楽の奥のほうで、囁くようなかんじで"How... ?"、”Why... ?”、"Where... ?"ではじまるようなひとりごと、問いかけがずうっと。  これらのつぶやきが宇宙の彼方からとんでくる。

これらの問いは、彼らの生の条理不条理の苦悶から絞り出されてきたわけではなく、また問いの答えが得られたからといって、彼らに安らぎがもたらされるわけでもないようにみえる。 
安息と不安の狭間で、なんでここで、こんなんなっちゃっているんだろ? という溜め息、そのときに見上げてしまう空とか樹とか。 そんなようなー

138分間、ずうっとこれが続く。 これはこれですごい。

これとおなじようなことをずっと昔からやっているのが、例えば大島弓子で、ホームドラマと宇宙とか天体の運行をごく普通に対置して、びくともしない。

そういえば、ところどころで現れる光の渦、あれは「ジギタリス」だよね。