11.23.2025

[theatre] Porn Play

11月15日、土曜日の晩、Royal Court TheatreのUpstairsで見ました。

シアターのあるSloane Square周辺は始まったばかりのクリスマスマーケットできらきらのぐしゃぐしゃだった。

座席指定ではなく全席自由なのだが、A4サイズバッグより大きい荷物は預けるように、というのと、入る前に入り口に置いてあるソフトカバーで靴を包むように、という指示があって、中に入ると客席が四方を囲む形で全体が乳白色のふかふかので覆われたソファのようになっていて中央は大きな楕円の2段くらいのすり鉢型 - たぶん女性器を模している - に凹んでいる。

タイトルだけでもはっきりと18禁なのだが、ポルノがダイレクトにプレイされるわけではもちろんなくて、いろいろ考えさせてくれるとてもよい内容のものだった。

プレイテキストの最初にはMiltonの引用と、もうひとつ、”All paradises are defined by who is not there, by the people who are not allowed in.”というToni Morrisonの言葉が引いてある。

原作はSophia Chetin-Leuner、演出はJosie Rourke、休憩なしの約75分。冒頭、女性 - イヴ? - が現れて無言のマイムをして誘惑の世界に誘ってくる。

大学の修士を出て講師としてJohn Milton (1608-1674)を教えているAni (Ambika Mod)は学業は優秀で学界で有望な若手と言われいて、彼Liam (Will Close) もいるし、彼との仲がうまくいっていないわけでもないのだが、インターネットポルノに嵌っていて、彼と会った(やった)後の寝る前とかにPCとかスマホを出して(セットのクッションの隙間に挟みこんであってすぐに取り出せるようになっている)サイトにアクセスして、マスタベーションをするのがふつうの癖のようになっていて止められない。Liamもそれを知っているのでやめてくれない? と頼むのだが、Aniはなんで? 浮気しているわけじゃないし、あなたに満足していない、ってことでもないし、酒とかドラッグみたいに習慣化によって体によくないことになるわけでもないし、嫌なのはわかるけど誰にも迷惑かけてもいないし、個人的な愉しみなんだからほっといてほしい、ってつっぱねている。

その習慣はやがて真面目な父にも見つかって器具を取りあげられてしまったり、Liamからも距離を置かれるようになったり、どこかおかしいのかも、って産婦人科に行ってみたりするが、どうにもならない。やめられない。これって悲劇なのか喜劇なのか?

なんでそれをしてはいけないのか、の方よりも、どうしてそれが彼らからよろしくないこととみなされてしまうのか、の方にどちらかと言うと力点が置かれ、それは彼女の研究テーマである『失楽園』の方にも及んでいく。他方で、彼女が見ているサイトの映像は抽象化され(見えた範囲ではりんごみたいのが映っていたり)てて、喘ぎ声とか、音声のみが聞こえてくる。あと、ここで商業コンテンツとして提供されているポルノ業界がその根に孕んでいそうな暴力や虐待についても触れられてはいない。

性の快楽に根差したことは決定的な答え、ありようとして説明しにくい気がするし、逆に汎化しすぎるとわけがわからなくなるだろうし、そのバランスをうまくとって、全体としてはどうしたもんかねえ… みたいな途方に暮れる系の軽めのコメディに仕上がっているような。

あと、こないだの”Every Brilliant Thing”にも出演していたAni役のAmbika Modのさばさばした態度と軽妙な受け応えのトーンが絶妙で、彼女なしには成り立たなかった気がする。

これを見た後で、既に書いた映画 - ”The Choral”を見たのだが、世界があまりに違いすぎて変なかんじになった。

11.22.2025

[film] The Choral (2025)

11月15日、土曜日の晩、Curzon Victoriaで見ました。
監督はNicholas Hytner、脚本はAlan Bennett - このふたりによる新作は”The Lady in the Van” (2015)以来だそう。

1916年、第一次大戦中のヨークシャーの架空の町で、郵便配達の青年が戦死の通知を家族に届けたりして暗くなっているところで、コミュニティのコーラス団が団員を募集しているので行ってみよう、って見に行ったらなんとなくテストを受けさせられて気がつけば団員になっている。そんななか、指揮者が戦争に行ってしまったので新たにリーダー/指揮者として採用されたDr Guthrie (Ralph Fiennes)と寄せ集められた個性的な団員たちとのやり取りとどうなることやら、等を描いていく。

Dr Guthrieは敵国であるドイツに長く暮らし芸術を愛する、という点から始めはバッハの『マタイ受難曲』を採りあげていたのだが反ドイツの声も強くあったのでエルガーの『ジェロンティウスの夢』を歌うことにする。あと掘り下げられることはないが彼はゲイで、つまりあらゆる点で(この時代には)不適格な属性の人なのだが、音楽に対する思いと情熱、指導力は確かなのでみんな彼の言うことを聞いて練習に励んでいく。

団員の方も個性豊かで、元からいたメンバーに加えてDr Guthrieが軍の病院やパン屋からスカウトした面々がいて、団員同士の男女の恋があり、よいかんじになったところで戦地から片腕を失った彼が帰還してきたり、本当にいろいろあって、エピソードが散りすぎていることはしょうがないのか、とりあえずエルガーを歌うクライマックスに向けて… となったところで本番の日に現れたエルガー(Simon Russell Beale)本人は結構嫌な奴だったり。

やがて楽団メンバーにも招集がかかるようになり、戦地に赴く前の晩、ひとりは憧れていた娼婦のところに行って、ひとりは憧れていた彼女のところに行くが無事に戻ってきたらね、ってやんわり拒まれたり。ラストの出征のシーンも、あまり盛りあがるような、感動的な描き方はしていなくて、そこはよいかも。

全体としてものすごくいろんな人、エピソードが散らばっていて朝ドラみたい - 朝ドラほぼ見たことないけど - なのだが、Ralph Fiennesひとりがずっとしかめ面のすごい重力で全体を繋ぎとめるべく指揮棒を振っているのだった。そこはまるでこないだの『教皇選挙』のようだったかも。


Move Ya Body: The Birth of House (2025)

11月6日、木曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
毎年やっている音楽ドキュメンタリーフィルムの祭典 - Doc’n Roll Festivalからの1本で、このフェスはいろんな映画館に散らばってランダムに上映があるので、気付いたら見逃していた、のものも多くて、今年のではButthole SurfersのとCoilのが痛かったよう。

上映前に監督Elegance Brattonの録画されていたイントロが流れて、自身のハウスミュージック体験の初めは90年代初のNYのLimelightっていう元教会の建物だったところだ、って語っていて、おー、あたしはあそこでGang of FourとかGeneを見たよ、ってなった。

70年代後半、ディスコ・ブームが馬鹿な白人たちによって潰されて行き場を失ったシカゴのアンダーグラウンド・シーンで、数キロ先でも聴こえるような強い輪郭と断線されたって途切れることのないぶっとさをもったリズムを生みだすこと。それは当時のシカゴのまるでアパルトヘイトの人種隔離された居住区画と常態化した人種差別からの解放を担う革命の音楽でもあった、と。

当時その突端にいて、とにかくシンセで音を作りたかったVince Lawrenceとその周辺の仲間たちに話しを聞きながら、当時の革命の様子をダイナミックに描いて、それもやがては白人に搾取されてしまうことになるのだが、とてもおもしろかった。ここからどうやってNYやUKに飛び火していったのか、とか。主人公も編集も、そんなにドラマチックに盛りあげる方にいかないところもよくて、この淡々とした静けさが今も続いている大きなジャンルのベースを作ったのだねえ、って。

11.20.2025

[theatre] The Weir

11月13日、木曜日の晩、Harold Pinter theatreで見ました。

事情はよくわかんないけど、チケット代高すぎ。Stallの後ろの方で£200くらい、それでもびっちり埋まっている(ずっと)。

7月にOld Vicで見た”Girl From the North Country”のConor McPhersonが1997年に書いて初演した劇の再演で、アイルランド公演からのツアー。今回も彼自身が演出を手掛けている。休憩なしの1時間40分。

アイルランドの田舎のバーで、時代設定は明示されていないのだが、登場人物が酔っぱらってFairground Attractionの”Perfect”を口ずさんだりするので、80年代末か90年代初ではないか。

オープニング、幕があがると古くて暗いバーで、向かって右側にカウンターがあり、左奥にドアがあって、椅子がいくつか。そこにJack (Brendan Gleeson)が立っていて、ひとりでカウンターの中に入ってコップを出して、何を飲みたいのか蛇口をがちゃがちゃやってうまくいかず、そうやっているところにバーテンダーのBrendan (Owen McDonnell)が入ってきて灯りをつけて、ふたりのやりとりからJackは常連中の常連で、BrendanはJackのすることも求めているものもぜんぶわかっているのでなにも気にしないで放っておいている。

そこから別の常連らしいJim (Sean McGinley)が現れて、彼も自宅の居間にいるかのように自然にそこに溶けこんで、更に男女ふたり – ちょっとお喋りで騒がしいFinbar (Tom Vaughan-Lawlor)と地元民ではなさそうな女性のValerie (Kate Phillips)が現れる。別にバーなんだから誰が来たっておかしくないのだが、ふたりの登場によって少しだけいつもと違う雰囲気になったよう – に見えて、でも誰もそんなこと気に留めず、騒ぎもしないでいつもの会話のトーン、リズム、間合いを維持していく、それを可能にしている仄暗いバーのセット、外で微かに鳴っている風音、なによりも俳優たち、が見事。”Girl From the North Country”の大きな家もそんなかんじで維持しているなにかがあったような。

他所からきたValerieがいたせいもあるのか、それぞれにこの土地に古くから伝わる変な話や怪談をしていって、みんな知っている話のようで、ほぼどれも酔っ払いの独り言戯れ言で、合間合間にFinbarがバカなことを突っこんで、やがてValerieの番になると、彼女の話は幼い娘を失った実話に基づく悲しいそれで、みんながちょっと静まりかえってしまったところで、Jackがある話を始める…

それは喪失のこわさ、哀しさを語るというよりも、その不在がずっと自分の身に纏わりついて、自分自身になって、ずっとそこから逃れられないのだ、という根源的な底についてのもので、それがあの薄暗い穴のような場所で、Brendan Gleesonの口から語られると、この人はもうこの世にいない何者かなのではないか、このバーは向こうの世界との間の堰(Weir)としてあるのか、など。あるいは、こういう人の語りが堰のように別の世界の何かをこの世と繋ぎ留めたりしているのか、とか。

勿論、話はその奥に向かっていくことはなく、みんなはぽつりぽつりと帰り支度をして抜けて行って、最後に冒頭と同じようにJackとBrendanがのこる。それだけなのだが、なんとまあ、しかない。こうやって、こんなふうにアイルランドのいろんなお話し(と歌)はずっと語り継がれてきたのだろうな、と思うし、だからみんなあんなに酔っぱらっちゃうんだな、っていうのも感覚としてわかってしまうような。

1時間40分という時間はたぶん丁度よくて、これ以上続いたら戻って来れなくなる可能性があったかも。
でももう一回見て浸かりたくなる、濃厚な時間だった。Brendan Gleesonの立ち姿がとにかくすごすぎ。

あと、こんなふうに特定の場所の周りに渦のように巻かれて浸かって流れる時間て、映画を見ている時のそれとは明らかに違うと思って、それがなんなのかを掘りたくて演劇に通っているのだわ、って。


Playing Burton

11月16日、日曜日の昼にOld Vicで見ました。
Welsh National Theatreの制作で、ロンドンではこの日の昼と夜の2公演のみ。

作はMark Jenkins、演出はBartlett Sher、Matthew Rhysのひとり芝居で、彼がWales出身の名優Richard Burtonを演じる。 1時間40分くらいだけど1回休憩が入る。

ステージ上には簡素なテーブルと椅子があるだけ。スーツにタイ姿で登場するなりコップに酒をぐいぐい注いでがぶがぶ飲んで、壊れた機械のような勢いでウェールズのPontryhdyfenの炭鉱夫の極貧家庭で生まれた幼少の頃からのことを語っていく。

後半は、まず新聞に載った自分の訃報を読みあげ、ちゃんちゃらおかしいわ、みたいに自身の名声やElizabeth Taylorとのこと、KennedyやChurchillと会った時のこと、要は俳優として頂点にあった自分のキャリアを高いところから喋り倒していく。

Richard Burtonは、12月のBFI Southbankの特集でかかるので、そこで作品を見ながら考えていきたいのだが、あんな高い声でべらべら喋っていく人だったのかしら、というのが少しだけ気になった。
 

11.19.2025

[film] The Running Man (2025)

11月14日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。

監督はEdgar Wright、原作はStephen King(Richard Bachman名義)の近未来SF小説(1982)。1987年にもPaul Michael Glaser監督、Arnold Schwarzenegger主演で映画化がされている(未見)。

Ben Richards (Glen Powell)は病気の子供を抱えた状態で無職になって、妻Sheila (Jayme Lawson) にホステスのようなことをやって貰って暮らすしかなくて、絶望してネットワークTVの人気リアリティ番組 – “The Running Man”に応募してしまう。プロの殺し屋(本当に殺すよ)たちから30日間逃げ続けることができたら10億ドル貰える、というので、サインしたらいろいろ話がちがう、があったりしたものの逃げることができないまま番組が始まって、最初は3人いた候補のうち2人は簡単に消されて、ものすごく悪い奴 - ほぼ凶悪犯 - としてターゲットにされて追われる身となる。

番組のプロデューサーのDan Killian (Josh Brolin)も大人気TVホストのBobby T Thompson (Colman Domingo)もまるで漫画のキャラクターで、ディストピアでのリアリティ・ショウの怖さ、とかよりヤクザに借金をして妻子を人質に取られて逃げ回る構図とそんなに変わらない気もするのだが、ポイントはどこにも逃げようがない状態のなか逃げまわって、本人は必死なのにそれがお茶の間のエンターテインメントになってしまう、という徒労感と辛さだろうか。

変装してNYに行って、そこからボストンに逃げて、追ってきたハンターたちをビルごとぶっ飛ばしたら、彼は多くの警備隊を皆殺しにした極悪テロリストの扱いにされて、いやそうじゃないんだ、というTV局側の手口の非道について収録ビデオで伝えても、TV側が放映時にフェイクの映像に差し替えてしまう。そんなふうにフェイクに置き換えられるんだったら局側はなんだってできちゃうし、賞金渡さずに闇に葬っちゃうとこだってできるだろうし、「リアリティ」もくそもないじゃん、と思うのだが、それこそが監視社会のやること - ストーリー作りなんだろうな、となる。ぜんぶがこの調子の仕込まれたどん詰まり感のなか動いていくのでしんどい – なにがしんどいかって、まさに今の監視社会とメディアがやろうとしている囲い込みのお祭りを直に思い起こさせてくれるから。

というジャンクで重い空気を吹っ切るかのように走り抜けていくGlen Powellのアクション(といかにもEdgar Wrightぽいつんのめって転がっていく勢い)はちょっとじたばたして重いけど、痛快なところもそんなにないけど、悪くはないし、彼を助けたり匿ったりする反体制のグループも出てきたりするのだが、全体としては今あんまり見たくないものを横並びで見せられているかんじがどうしても。もちろん、これはホラーなのだから、って言われたら黙るしかない。

80年代にこれを見ても、近未来は大変そうだなあ、で終わっちゃうのかもだが、いまこれを見ても思い当るところがありすぎて、それがきつい。いまのアメリカや日本の政府(とメディア&マス)が向かっている方向とわかりやす過ぎるくらいに同期している。 だからすごい! と言うひともいるのだろうが、わかっているけどさ… のしんどさが先にくるというか。

昨晩、”One Battle After Another” (2025)の2回目をBFI IMAXで見て、監督のPaul Thomas AndersonとLeonardo DiCaprioのイントロが付いていて、これも体制側に追われて追い詰められていくお話しなんだけど、いま欲しいのはこの、こっちの軽さなんだよねー、と。

[film] Melo-dramarama

11月15日、土曜日の昼から午後にかけて、BFI Southbankでのイベントで見たり聞いたりした。

この月の特集”Too Much: Melodrama on Film”の方も見てきているのだが、この日は目一杯メロに浸かって頂きましょう、という催し。 NFT3という中サイズのシアターでランチやティーブレイクを挟んで夕方まで、トークを中心としたいろんな発表があって、久々にメモを取ったりしながら見てしまった(が、いつものように何が書いてあるのか、きったなすぎてほぼ読めない。いいかげんにしろ)。

時間割りはこんなかんじ –

① 11:00-12:00: The Many Faces of Melodrama: Christine Gledhill and Laura Mulvey in Conversation

② 12:00-12:50: To Have (or Have Not): Class Representation in Britain and Hollywood

③ 13:30-14:15: Mommy Dearest: The Evolution of the Maternal Melodrama

④ 14:15-14:50: Bylines and Backlots: Fan Magazines and How They Saved Film History

⑤ 14:50-15:30: In Glorious Technicolor: Costume Design in Hollywood Melodrama

⑥ 15:40-16:20: Small Screen, Big Emotions: 40 Years of EastEnders and Beyond

⑦ 16:20-17:00: The Future of Melodrama: Tears in the 21st Century

用事もあったので、①から⑤までしかいられなかったのだが、どれもおもしろいったらなかった。


The Many Faces of Melodrama: Christine Gledhill and Laura Mulvey in Conversation

まず全体の導入のような位置づけで、イギリスにおけるメロドラマへの着目がどこからどう、のような話。
Douglas Sirkの”Sirk on Sirk”が出版されたのが1972年、これをフォローするかたちでエジンバラの映画祭でSirk作品のレトロスペクティブが組まれ、それがロンドンにも来て、まだFilm Studyが学として立ちあがる前くらいのタイミングだったがこの辺りからいろいろ始まったのだ、とLaura Mulvey先生が。

バルザックやヘンリージェイムズの小説の頃からドラマのなかにあったギルティ、イノセント、ヴィランといった角度からの揺さぶりと、19世紀フランスのシアターでのステレオタイプなステージングがドラマチックな音楽と共に映画の方に流れていって、そこではHighly Stylizedなかたちでゴミ(trashes)- マスキュリニティの危機、Fem、自分が何をやっているのか考えようとしない - 等が、過剰に強調されて”motion”が”emotion”へと変容していった、と。他ジャンルからはグランドオペラやバレエのコレオグラフからの影響もあった、と。

こんなふうな汎用化によってぼんやりしてしまう危険もあるのだが、クリップとしては”Written on the Wind” (1956)、“The Bourne Supremacy” (2004), “A Cottage on Dartmoor” (1929)等が参照された。このイベントでは、”Written on the Wind”と”Leave Her to Heaven” (1946)からの引用が圧倒的で説得力あったような。

To Have (or Have Not): Class Representation in Britain and Hollywood

まずはHollywoodのクラス表現として、”Working Class Melodrama” – “Middle Class Melodrama” –“Victorian Melodrama” – “Street Melodrama”などの切り口からいくつかの例を示して、そこからドラマとしてクローズアップされがちな階層間の移動(mobility)については、Mobility with Nobility の例として、”Stella Dallas” (1925, 1937)が、Mobility without Nobilityの例として"Mildred Pierce" (1945)が参照される。ここらで使われる階段(階段おち)についても。

Britainのクラス表現は、当然これとはぜんぜん違ってディケンズから入って、邪悪さを象徴する悪い男 – 特に“Man in Grey” (1943)でのJames MasonのプレゼンスとMargaret Lockwoodの話し方(Posh)の違いとか、クラスを抜けて成りあがりを求めていくGainsborough Picturesのヒロインたち。あとはこの特集で80周年を迎える”Brief Encounter” (1945) - 『逢びき』のこと。成り立ちも傾向も異なる相容れないふたつの、ふたりの世界を描きつつ、Unifyさせようとする何かを描いてきた、とか。

Mommy Dearest: The Evolution of the Maternal Melodrama

Fatherhoodの不在によって起動されるMotherhoodのありよう – ふつうの家族とは異なる、より複雑な事情が強調したり導いたりする弱さとそれを乗り越えよう(or 抑えよう)とする力とか愛、ここに挟まってくる教会、犠牲を払う、という考え方とか、こうして書いているだけでもいろいろ迫ってくるので、相当に熱い。

この特集ですばらしい音楽と共に再見した”Stella Dallas” (1925)の時にも思ったのだが、時代も境遇もまったく異なって共感なんてできようがないはずのこんなドラマに揺さぶられてみんな揃ってびーびー泣いて(泣かされて)しまう、その動力の根源にあるものってなんなのか、なのよ。

ここで挙げられていたイタリアのメロドラマ –“Maddalena” (1954)は見たい。
現代のドラマとして参照されていたのは”We Need to Talk About Kevin” (2011)、Joan Crawfordが体現していたある時代のアメリカの母親像、あとPre-Code時代のシングルマザー像と、Post-Code時代のそれの違い、変化など。

Bylines and Backlots: Fan Magazines and How They Saved Film History

ファン・マガジンの存在は、映画の初期から観客と映画会社を結ぶ大きな架け橋となっていて、それがメロドラマの変遷 - 観客は何を求めているのか - にも大きく寄与していったことを資料と共に見せていく。 最初期にはFlorence LawrenceやMary Pickfordといった女性の存在が大きかったと。

いまは「マーケティング」とか「ファンダム」とか素人の手でどうこうできるようなものではなくなっている気がするが、初めの頃はこんなふうにやっていました、と。

In Glorious Technicolor: Costume Design in Hollywood Melodrama

映画の初期から、映画のなかの人々がリアルに生きているものであることを知らしめるべく、コスチューム・ディレクターはプロデューサーや監督とずっと一緒に動いて、色がないモノクロフィルムの頃ですら赤いドレスを赤く感じられるようにするための生地の工夫をしたりしていたのだそう。

カラーの時代に入ってからの具体例としては”Leave Her to Heaven” (1946)でのコスチュームを担当したKay NelsonがGene Tierneyの衣装を場面ごとに、ガウンのイニシャルとか壁紙との調和とかも含めてどう見せようとしていたか、とか。

“All That Heaven Allows” (1955)のヒロインJane Wymanの衣装の色調の変化を彼女のエモーショナル・ジャーニーとして捉えて、最初と最後の場面で同じ衣装を着ていることの意味とか。 “Written on the Wind”でのLauren Bacallの着ていたグレイの意味とか。あたりまえなのだが、ぜんぶに意味があって、それはプロデューサーも含めて作る側はすべて把握して、きちんとコントロールしていた、と。

最近の映画だと”Far From Heaven” (2002)のSandy Powellがやったキャラクタリゼーションと個々の色調を同期させるやり方とか。

斯様にコスチュームの世界は映画のテーマの中心を貫いて緻密な職人芸でデザインされてきたのに、なんでクレジット上では”Gowns by ..”くらいしかないのか。資料がなくて調べるのが大変すぎるんだよ! と発表者は嘆いて終わっていた。 けど、ものすごくおもしろかった。


これらのテーマをクラシックな日本映画にはめて考えてみても、相当におもしろいものができる気がした。
材料も人もありそうだから、誰かやらないかしら。

全体を通して、なぜメロドラマを見るべきなのか、がなんとなくわかった気がした。いま自分がここにこうしてあらされているありよう、ガサツさ無神経さに対する抵抗、ふざけんじゃねえよの裏返しとしてそれは組織されて、風に書かれた暗号として散っていったのだ。なんて。

あと、久々にこういうのに漬かって、ああどうしてこういう道に進まなかったのだろうか、なにがいけなかったのだろうか、ってメロドラマっぽく天を仰いで自分で自分を殴打するのだった。(そういう季節)

11.17.2025

[film] Laura Mulvey

BFI Southbankの11月の特集に”Laura Mulvey: Thinking Through Film”というのがあって、恥ずかしながらこの人のことは知らなかったので、勉強してみようと思って見ている。

彼女の論文 - “Visual Pleasure and Narrative Cinema” - 『視覚的快楽と物語映画』(1975) - 翻訳はフィルムアート社の『新映画理論集成① 歴史/人種/ジェンダー』(1998)所収 - の出版50周年 + これ以降の膨大な著作等、を讃えて彼女にBFI Fellowshipの称号が与えられ、今回の特集では彼女が共同制作した8作品を上映したり、シンポジウムが開かれたり、上映前のトークにも頻繁に顔を出して、12月には彼女がセレクトしたクラシックの特集も組まれている。

Laura Mulvey in Conversation

11月4日、火曜日の晩、BFI Fellowshipの受賞記念を兼ねた彼女の業績紹介と本人によるスピーチがあった。

BFI Fellowshipというのはフィルム・TVの世界で多大な貢献を認められた個人に贈られる最高の位で俳優とか監督とか、彼女の直前にこれを受賞したのはTom Cruiseだったりするので、素朴な「?」が浮かんだりするものの、過去の受賞者のリスト(Wikiにある)を見てもなかなかすごい賞であることはわかる。

スピーチの前に彼女を讃える関係者のビデオが流れたのだが、最初がTodd Haynesだし、Joanna Hoggは客席にいたようだし、以降、日々自分がBFIに通って映画を見ていく時にお世話になっている(とこちらが勝手に思っている)プログラマーやキュレーターの人たちがほぼ全員登場して、彼女の論文や映画の見方にいかに影響を受けたかを感謝をこめて語っていくので、つまり自分が映画を見る際の軸にもたぶん相当影響しているのだろうな、と壇上の小さく丸っこいおばあさんを見て思った。

こんにちの我々がクラシックを含むいろんな映画を見るにあたって、その制作物を構成する視覚的な物語が提供する快楽やカタルシスが主にいかに白人男性(The male gaze)のそれに資するものとなるべくいろんなシステム込みで組みあげられてきたのか、これって今や映画だけではなくてTVでも広告でも、基盤とか常識に近いところで根をはっていることだと思っているのだが、これを50年前に提起したのが先に挙げた彼女の論文であった、と。

映画なんて理屈ぬきでおもしろけりゃいいじゃん、とか、これで泣けないなんて人間じゃない、とかいう宣伝も込みの「理屈」がいかに傲慢な思いあがりに基づく乱暴なものか、はずっと感じていて、それを確かめるため、くらいの意識で見ていくとすんなりはまったり思い当ったりするところがいっぱいあって、この理屈って文化全般に渡って蔓延してきたなにかで、自分がメジャーではないマイナーな何かを追っていくその根にあるものにも繋がるのだが、そういうところを踏みしめながら見ていきたい。

Riddles of the Sphinx (1977)

11月4日の晩、↑のセレモニーが終わったあとに同じ会場(NFT1)で見ました。16ミリフィルムでの上映。
Laura MulveyとPeter Wollenによる2本目の共同監督作品で、実験映画の範疇にカテゴライズされるのだろうが、あまりそういう堅苦しさ、込み入った構築された難解さは感じされなくて、映っているものをするする見れる(その分、あまり残らなかったり..)。

いくつかのパートに別れていて、Laura Mulvey自身がカメラに向かってオイディプスとスフィンクスの神話を語るシーン、主人公の女性が暮らす家庭生活のいろんな局面を映しだしたり。 後者は定点に置かれたカメラがゆっくり回転していったり戻ったり、その動きはChantal Akermanの”La chambre” (1972) のぐるーん、を思い起こさせる。

ずっとぴろぴろ鳴り続けて頭に張りつく電子音楽はSoft MachineのMike Ratledgeによるものだった。

Crystal Gazing (1982)

11月10日、月曜日の晩、”Predator: Badlands” (2025)を見る前に。これも16mmでの上映。
最初と最後に水晶が映し出される。丸くてまっすぐに光と像を通してくれない水晶。

サッチャー政権下(この特集が始まって、彼女のトークを聞いていくと、サッチャー政権下のUKがどれほどひどいダメージを受けて変わったかが何度も語られていて、やはりそうだったのか、になった)のロンドン市民の生活を3人の主人公を中心に描いていくのだが、うちひとりのKimを演じるのがX-Ray Spex~Essential LogicのLora Logicで、映画のタイトルもバンド解散後の彼女のソロ” Pedigree Charm”のなかの曲名から採られている。(レコードは実家にあるので確認しようがないわ)

彼女がライブをしている映像もでてきて、ここでドラムスを叩いているのはCharles Haywardだったり、彼女がレコード屋に入るシーンがあって、そこはやっぱりオリジナルのRough Trade(1982年の!)だったり、いろいろ興味深い(いやそっちじゃないだろ)。

この翌日にかかった短編”AMY!” (1979)でも、主人公の女性がこちらに向かって下地からメイクをしていくシーンで、X-Ray Spexの”Identity” (1978)が轟音でフルで流れていったり、彼女の問題意識に当時のパンク/ポストパンクシーンの女性バンドなどがどんなふうに関わって影響を受けたり受けなかったりしたのかについて – どこかに纏まっているかもだけど - 聞いてみたいと思った。

まだ続いている特集で、これからも見ていくので、振り返りながら書けるものがあったらまた。

[film] Predator: Badlands (2025)

11月10日、月曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
チケットを取った回が3D上映だったので、3Dになった。
Terrence MalickともBruce Springsteenとも関係ないのだった。

監督はDan Trachtenberg。Predatorのシリーズで言うと、Arnold Schwarzeneggerが出ていた頃のは見ていなくて、最近の数本はなんとなく見ているが、積極的に見たくて見るというより、なんなのこいつら? の得体の知れない薄気味悪さに触れて楽しむ、というか。今回のは予告を見たら怪獣映画のようだったのでそれでもいいか、って。

これまで雑に見てきたPredatorの特徴は、とにかく喧嘩と殺し合いが好きで、相手が強かろうが弱かろうがまずやっつけることが第一で、宇宙船とか武闘方面の技術はあって言葉があって会話もできて、種のなかでの序列とか掟とか家族はあって名前もあるって。今回の主人公はDek (Dimitrius Schuster-Koloamatangi)っていうある家族の落ちこぼれで、冒頭の兄との喧嘩に負けて、その流れで兄は強権的な父によって殺されて、父に対して実力を示すためにある星の化け物退治に向かうことになる。

ここまでで、これなら人間のドラマと変わんないじゃん、ていうのと、いま大量に予告が出ててうんざりの”Avatar”のことを思ったりした。あの物語設定にもんのすごい大金をつぎこんで「映画」としてでかでかとリリースすることの意味がずっとわかんなくて、いや映画というのはそもそもなんでもありの雑多なジャンルだから、という括りも可能なのだろうが、そういう設定がルールのような基底前提として存立しうるゲームやアニメの世界ならまだしも、映画として、これまでの映画の世界がもたらしてきたのと同等の「感動」や「共感」を強いてくるのだとしたら、日々の人間関係ですらきちんとできずに苦しみ続けてその解に近いなにかを過去の映画に求めたりしている側としては勘弁しておくれ、になる。なんで別の星に暮らす生物(と呼んでよいかどうかも不明な)連中の挙動や行動の意味や理由を地球人の基準水準から推して把握したり理解したりしなきゃいけないのか。その正しさは誰が決めて汎用化した/されたものなのか。それらは測定不能な未知の脅威・恐怖としてあったからこそ、エイリアンの映画は成立したのではなかったか。

とにかく、その化け物がいる星に飛んで退治して父を見返してやりたいDekはそこに着いてもやっぱりうまくいかずに苦闘していると、上半身だけで転がっていたレプリカント?のThia (Elle Fanning)に愛想よく英語で声をかけられて、教えて貰ったりしながら一緒に戦っていくのとThiaにはコピーだけど気質は真逆で冷酷非道なTessa (Elle Fanning)がいて、彼女と彼女に操作された男の戦闘ロボットみたいのがわんさかやってくる。あと、外見は緑のオランウータンで顔がパグの変な生き物がついてきたり。言葉や意思は互いにふつうに通じていて、襲ってくるかそうじゃないかで敵味方はきれいに分かれて、もろに仲間の獲得と学習〜鍛錬が基本のゲームの世界になってしまう… のってわかりやすいけどつまんないよね。(Wolf .. Pack.. ) とか。ゴジラが仲間と一緒に闘いだした時と同じで。

DekがThia(半分)を背負っているのを見て、子連れ狼にすればいいのに、ってちょっと思ったのだが、あれはもうMandalorianでやっちゃっているのか…

人間が一切でてこないのはよいこと、と思ったが最後に現れるあれが… このシリーズはぜんぶ次があるように見せかけて、中途半端に終わっていくのが恒例なのでこれもそうでありますように。

11.15.2025

[theatre] Romeo a Juliet

11月5日、水曜日の晩、Shakespeare’s Globe内にあるSam Wanamaker Playhouseで見ました。

このシアターの舞台照明は蝋燭で、俳優が演じながら燭台の沢山の蝋燭に火を灯したり消したりして、売店では使い終わったちびた蝋燭をお土産として売っていたり(最初なんだこれ?って思った)。

制作はグローブ座と提携したウェールズのTheatr Cymruで、4日間公演の初日。グローブ座でウェールズ語の芝居がかかるのは初めてだという。原作はWilliam Shakespeare (1597)、翻訳はJ.T. Jonesによるもの(1983年)、演出はSteffan Donnelly。

高さのあるこのシアターで、舞台上の細工は特にしていなくて、楽隊もシンプルに3名。蠟燭の灯り(によって浮かびあがるもの)を際だたせていくクラシックな演出- 悲劇に向かうにつれて明度が落ちていく - がとても素敵。服装は革ジャンを着ていたり現代のそれだが、特に凝ったものではなくて、ごく普通の。

英語とウェールズ語が混じる劇、ということで、事前に英語キャプションを通訳表示するスマホアプリの案内がきて、シアターにもダウンロード用のQRがあって、一応念のためダウンロードはしておいたのだが使わなかった。客席から見ていてもスマホを見ながらの人はそんなにいなくて、やっぱり舞台の上の動きと発声に集中したいし、こういうエモがぶつかりあうような劇であれば尚更かも、って。

Romeo (Steffan Cynnydd)のいるMontaguesは主にウェールズ語を話し、Juliet (Isabella Colby Browne)のいるCapuletsは主に英語を話すのだが、当然両家が会話をする際にふたつの言語は混ざりあい、両家が衝突する場合にはその違いが強く際立って、ふたりが愛を交わす部分では衣服のように取り除ける柔らかい覆いになったりして、なるほどなー、にはなる。他方で、言語の違いによる違和やギャップなんて、ごく普通にそこらにあることでもあり、言語間の差異と分断がこの悲劇に(誰もが期待するであろう)決定的ななにかを持ちこんだりもたらしたりしているか、というと、そこまでではなかったかも。

でもそれは置いて、殺しの場面の凄惨さや、愛を語る場面のとろけるような甘さ、もちろん最後の悲劇は、ストレートに生々しく伝わってきて、センターの、特に際立って強いなにかをぶちまけないRomeoとJulietの柔らかく寄り添う姿が最後まで残る。ふつうにそこらにいそうな素の若者たちで、それがなんかよくて。

日本でも家父長制が強く残っていて互いにぜんぜん通じない方言を使って譲らない両家をモデルにやってみたらおもしろいかも。(まじでどうしようもなく通じないやつ)。もうすでにやっている?

ウェールズ語って、音だけ聞いているとポルトガル語みたいに聞こえるところがあった気がしたが、ぜんぜん関係ないのだった。


Ragdoll

11月3日、月曜日の晩、Jermyn Street Theatreで見ました。

1974年のPatricia Hearst誘拐事件(過激派組織シンバイオニーズ解放軍に誘拐・監禁されたが、その後犯人と行動を共にしていることが明らかとなって大騒ぎになり、やがて有罪判決を受ける)に着想を得て、Katherine Moarが書いた劇が原作。演出はJosh Seymour。 休憩なしの75分。

事件から数十年が過ぎた2017年(には何が起こった年か?)、同事件で「被害者」とされたHolly (Abigail Cruttenden)が、かつて彼女を担当した弁護士Robert (Nathaniel Parker)のオフィスを訪ねてくる。 Robertは彼女の弁護で脚光を浴びてセレブ弁護士となったが今はちょっと疲れた顔で、事務所を畳もうとしているらしい。舞台の真ん中にはものすごく豪華(そう)なソファが置かれていて、彼のかつての栄華を伺わせるが、そもそもなんでHollyは彼のところに現れたのか。

HollyとRobertの間に懐かし気な、親密な雰囲気はなく、かといって刺々しい喧嘩腰でもなく、会話のやりとりを通して皮を剥くように過去の記憶を取り出して転がしていくと、若い頃のふたり – Holly (Katie Matsell)とRobert (Ben Lamb) – が舞台上に現れるようになり、最初のうちは過去のふたりと現在のふたりが交互にスイッチしたりしていたのが、最後のほうでは4人一緒に出ているようになり、この多層化がとてもおもしろい効果を生む。

Hollyは誘拐されて犯人達に脅迫されてレイプされてその後の強盗に失敗して捕まって、Robertが弁護した裁判に負けて収監されて、Robertはセレブ弁護士としてぶいぶいだったのだが… 過去は変えられないけど、過去にあったことはあったことで消えることなんてなく、それは間違いなく現在に繋がっているので現在のことなんだ、逃げられると思うなよカス、というのと、抱かれたらぐんにゃりする猫(ragdoll)だって生きてるんだしなめんな、って掘り返されるべき昔のケースはいっぱいあるんだと思う。 まさに今の合衆国大統領だってな… 

11.14.2025

[log] Alhambra - Nov. 7th - 8th

11/7(金)~ 8(土)の一泊でアルハンブラ宮殿に行ってきたので、簡単なメモを。
9月にはイスタンブールで、トプカプ宮殿やアヤソフィアを見たので、その続きの宮殿シリーズ、もあるし、前回UKにいた時も計画していて、でもCovidで頓挫していたやつ。

ロンドンから行くルートはガトウィック空港からマラガに飛んで、そこからバスか電車でグラナダ、になる(探せばもっとよいルートはあるのかも)。
BAの便は朝6:10発で、バスと電車を乗り継いであの空港まで行くには、午前3:00に家を出るしかなくて、空港には4:30くらいに着いたのだがラウンジはまだ開いていないし。

マラガ空港のイミグレーションは朝で到着便が集中していたのか、近年ちょっと見ないぐじゃぐじゃぶりで、抜けるのに1時間強、予約しておいたバスにはどうにか間に合い、乾いた岩山を抜けてグラナダのバスターミナルまで約2時間、更にそこからホテルがある中心部までバスで30分。ホテルに入ったのが15:00少し前だったので、家を出てから12時間かかったことになる。近いようでじゅうぶん遠い。

Catedral de Granada

18世紀初に建てられたこういう聖堂は、とりあえずなんでも入るべし、の原則で入って、当然素敵なのだが、堂内で場所を区切ってやっていたJosé de Moraの彫刻展がすばらしくてずっと見ていた。生々しい、というのとはちょっと違って。濡れたような涙の跡とか顔の歪みとか、信仰が固化しているとしか言いようがない。 売店で結構分厚いカタログを買ってしまった。

そこからDarro川に沿ってアルハンブラの方に歩いていくと下の方、反対側の草の茂っているところににゃんこが気持ちよさそうにごろごろしていて、その近くにもう一匹いて、その生息しているさまはベルンの熊公園を思い起こさせるのだったが、ネコさんがあんなふうにいられるのであれば、この地はよいところに違いないと思った。

川沿いの考古学博物館を見て少し歩いていたらヘネラリフェ庭園への矢印があって、アルハンブラは翌日の昼なのだが、ここだけ先に見ておいてもよいかも、と思ってその方角に行ってみたらものすごい階段と上り坂で死にそうになり、やっと上に着いたら当日チケットは売り切れでどうしようもなかった。態勢を立て直すべくバスでいったんホテルに戻って、アルバイシン(Albaicín)に向かう。

Albaicín

丘陵地帯に白壁と石畳がずっと続く城塞都市としてできあがった住宅地で世界遺産で、さっきと全く同じく一番高そうなところまでへろへろになって登って、だらだら降りて、それだけでも、ただ歩いているだけでじゅうぶん楽しい(坂がなければ)。こういうところで人が暮らしていて(今も)、過去には城塞だったここには籠って戦うために暮らす人たちがいたのだ、そして今はそれが観光名所になっている、といういろんな時間も含めた段差について。

てっぺんの高台にも夕日で有名なサン・ニコラス教会の展望台にも夕日を待つ人たちが溢れていて、サン・ニコラスの方ではサンバみたいな音楽をじゃんじゃか打ち鳴らしていたのだが、ああいうのってほんといらない。

帰りは幸せに路地を歩きまわっていたらなんとなくホテルに着いてしまった。

8日はアルハンブラの日だったのだが、前日の夕方にメールが来て、予定していたガイドが病気で来れなくなったので、ガイド分の金額はあとで返す。チケットはWhatsappを持っているのであれば送るよ、というのだが(... 怪しい)そんなものないよ、って返したらメールでチケットが来た。ガイド付のツアーは12:00開始だったのだが、ナスル宮殿(Palacios Nazaríes)の入場時間が10:30に変わった(ここだけ厳守しろ、と)。

10:30の前にカルロス 5 世宮殿 - Palacio de Carlos Vとか、その上にあるMuseo de Bellas Artes de Granadaとか、並びにあるキリスト教の教会を見る。これらが無料って割とすごい。

Palacios Nazaríes


ここが今回のメイン。
最初の部屋のタイルとか床の紋様、そこに射してくる日の光だけでやられて、天井を仰いでもどの壁に向かってもめちゃくちゃ細かいし目のやり場だらけでお手あげになった。こないだのトプカプ宮殿もよかったのだが、あちらはまだ見せ方並べ方に博物館的な配慮があった気がしたのに対して、こちらは素でイスラム文化と芸術の凄みを鑑賞というより体験として否応なしに叩きつけてくるような、モスクがそっくり裏返って被さってくるような凄みがある。これらをデザインしたり作ったり組みあげたり嵌めこんだり整えたりするのに、どれだけの手数と時間が費やされたのか、そしてそれらが信仰の名のもとに為されただとしたら宗教って… に改めて立ち返る、立ち返らざるを得ない、それもまた狙いのひとつで、そんなのがすべてこんな辺鄙な山のなかに一式揃って遺されていて、なんてすごいことよ、しかなかった。

気づいたら2時間くらい経っていて、結果的にガイド付のにしなくてよかった、って思った。
そこから他の建物 - 要塞 – Alcazabaの上にのぼって、昨日行けなかったヘネラリフェ庭園にも行って、それぞれ眺めとかは当然よかったのだが、Palacios Nazaríesの金縛りに襲われるような妖気はちょっとなかったかも。あと、庭園に向かう途中の野道にも猫がいてよかった。

とにかくこうして数年ごしの野望をどうにかした。

Capilla Real de Granada


前日に行った大聖堂の隣というかその一部の礼拝堂が博物館になっていて、絵とか王家の黄金の宝物などがあって(撮影禁止)、改めてイスラムとの対比でいろいろ思う。こんな違うのが、歴史的な段差はあるにせよ、よく近くに並んでこれたものだなー、というか宗教ってそういうものでもあるのよね。

空港に向かうバスに乗る前に帰り - 19:30発のBA便が遅れて22:30になるかも、ってメッセージが入り、こんなことならもっとゆっくりしたのにー、って嘆いても遅い。この空港にはラウンジもないし、スマホをチャージするとこもないし、ああ3時間あったら映画いっぽん見れたのに。

ガトウィックに着いたのは午前0時半くらい、1時過ぎの電車に乗っておうちには3時くらいに着いた。ちょうど丸二日間の旅になった。

11.11.2025

[film] Palestine 36 (2025)

11月2日、日曜日の昼、Curzon Sohoで見ました。 東京国際映画祭でも上映されていたやつ。

日曜の11:00始まりで、この時間帯の上映はがらがらであることが多いのだが結構入っていて、今になっても配給もしているCurzonでの上映館数は増え続けている - 多くの人に見られているということで、これはよいこと。

パレスチナ–UK–フランス–デンマークーカタールーサウジーヨルダンの共同制作で、UKはBBCとBFIがお金を出している。このふたつがお金を出している映画にはイギリス人に見てもらいたいものがある、というのが多い。当時のイギリスの曖昧な態度が今のガザの元凶としてある、というのを明確に描いていて、これはイギリス人でなくても見るべき。

作・監督はパレスチナのAnnemarie Jacir。
1936年に始まったアラブ反植民地蜂起を描いているが、冒頭には「あなたが生まれた年」と表示される。あなたがどの年に生まれていようが、1917年にイギリス軍がパレスチナに入り、同年のバルフォア宣言でパレスチナにおけるユダヤ人国家樹立を目指すシオニスト運動への支持を表明してからずーっとこの状態のままできているのだ、と。

いろんな人が出てくる - 政治家の曖昧な態度が人々の生活を動かしたり脅かしていく、それに抵抗して立ちあがる人々が出てくる、そういうドラマだが、難しいものではない、かといって単純なヒーローが現れて民衆が蜂起する、みたいなものでもない。パレスチナはイギリスの植民地としてあり、ついこの間、イギリスはパレスチナを国家として承認した。それまでの間、イギリスはイスラエルが入植して、そこに代々暮らしていたパレスチナ人の土地や仕事や命を奪うのを100年に渡って容認してきた、という異常な、狂った背景がまずある。

イギリスの一番上は高等弁務官のArthur Wauchope(Jeremy Irons)で、なにもしない彼の周辺にはよいイギリス人もいれば悪いイギリス人もいて、特に英国軍の大尉Orde Wingate (Robert Aramayo)は残忍で容赦ないのだが、上がなにもしないし、はっきり言わないので現地に暮らすパレスチナ人は虐待され、追い詰められていく。「なぜ?」に対する明確な答えがない状態、平気でダブルスタンダードをかざす言い逃ればかりで、結果的にパレスチナの住民はされるがままに弾圧され、土地は接収されてユダヤの国ができあがっていく。

この状態をおかしいと思ったジャーナリストのKholoud (Yasmine Al Massri)は、いろいろ書き始めるが、夫のAmir (Dhafer L’Abidine)はシオニスト団体から裏でお金を受けとっていることを知ったり。

パレスチナ側でフロントにくるのはKholoudのところに出入りしていたYusuf (Karim Daoud Anaya)で、彼も最初は穏やかに見ているものの、家族も含めて犠牲があまりに広がっていくし、黙っていれば拘束される、抵抗すればあっさり殺される、のどちらかのなか立ちあがるしかない、という瀬戸際の選択がいろいろな場面で起こるのだが、映画はどちらかというと居場所と家族を次々と失っていく女性や子供たちの姿を際立たせている。堪忍袋で勇ましく立ちあがる男たちの姿ではなく、立ち尽くすしかない彼女たちの姿を – ここははっきりと今と繋がって、お先真っ暗になるというより、なんとかしてあげられないか、になって、だから今見るべきだし、見たら焦点がはっきりと定まる、そういう映画だと思った。

あと、イギリス人のものすごく礼儀正しいし、ちゃんと返答してくれるけど、相手を下と見ると譲らないところは頑として譲らないでのらくらを続ける、あのいやらしい態度のことを思ったりした。

11.10.2025

[theatre] The Assembled Parties

11月1日、土曜日のマチネをHempstead Theatreで見ました。

原作はRichard Greenberg、2013年にBroadwayで初演された舞台が長い時間をかけてようやくロンドンに来た。ものすごくローカルくさい – NYのアッパーウェストに暮らす裕福なユダヤ人家族のお話しがなんで10年以上かけてロンドンの、West Endじゃないところで上演されるのか、わかんないけどおもしろそうだったので。演出はBlanche McIntyre。

舞台上には大きなソファ、背後に大きなクリスマスツリー、大きなダイニングテーブルなど、見ただけで家族親族のクリスマスの集いを待っているセット。ユダヤ人家族だけどクリスマスを祝おうとしている、そういう家庭の。

1980年の暮れ。そこのアパートのJulie (JenniferWestfeldt)が慌しくパーティの準備 - 鵞鳥とか - を進めているところに、みんなの期待の星、長男Scotty (Alexander Marks)のハーバードの友人Jeff (Sam Marks)が現れて、どちらかというと外から来たJeffの目で幸せそうな – でもよく見ていくとやっぱり解れたり壊れたりしている家族の面々とその関係を見ていくことになる。Julieの夫は裕福なBen (Daniel Abelson)で、Benの妹のFaye (Tracy-Ann Oberman)と、彼女の夫Mort (David Kennedy)と不機嫌そうなティーンの娘Shelley (Julia Kass)も現れて騒がしくなっていく。大学を卒業したばかりのScottyは見るからに疲れてあれこれどうでもよいかんじになっていて、小さい弟のTimmyはインフルエンザでみんなのところに行けないのでぐずっている。

ここまでで、不穏な関係とか誰かの邪悪な企てが明らかにされたり、誰かが誰かの追及の的になったり、関係の綻びが前面に出るようなことはなく、会話はどこにでもある普通の家庭の(部屋が多すぎて迷うんだけど、とかは除いて)レーガンの時代の(良くも悪くも)朗らか穏やかな家庭内の会話劇が展開されていって、そこにはなんの違和感もなくて、ふつうに楽しく流れていく。

休憩を挟んだ後半は、2000年、ここから20年後の同じアパートのクリスマスになる。
成功した弁護士になったJeffがやってきて、病気で弱っているJulieとの会話からBenもScottyも亡くなっていて、やがて現れたFayeからはMortも亡くなっていることを知る。 小さかったTimmyはTim(Scottyを演じていたAlexander Marksが二役)になって、大学を中退してレストランで働いていて生活は厳しそう。 時の流れを経て世間的には凋落した、と言うのかも知れないがそういうトーンのお話しではなくて、FayeとJulieの会話は変わらずに(変わっていないことがわかる温度感で)楽しく(伝わっていようがいまいが)転がっていくし、電話を通して意地悪してくるShelleyですらいかにも、だし。

20年間で変わったこと、失われてしまったものにフォーカスするというより、変わらずに or 変わっちゃったけどそこにあるものってなんだろうね? をぶつかったり確かめたりしあいながらassembleしていく、撚りあわせていく、そんなアプローチで、この先どうなっちゃうんだろう?… の閉塞感はあまりなくて、そうだよね、やっぱりそこに行くよね、が待っている。毎年のクリスマスがBing Crosbyの歌と共にそういうとこに落ち着くのと同じように。アンサンブル・ドラマとして、設定も含めてよくできている、というかこれしかないでしょ? みたいな出しかた。でも絆を確かめにいく系のくさいやつでもないの。

20年間の変化を示すのに、例えば長髪だったJeffの髪は短くなっていて、80年代の方のJeffはカツラを被っていたのか - でもあの髪型だと80年代は違和感ないな、って変なとこに感心したり。

あと、アッパーウェストのアパートの、パークアベニュー沿いのそれとはまた異なるクラシックな堅さというかどっしり根を張っているかんじ、がもたらす「ホーム」のありよう。Scottyが出たがっていたのも、Jeffがあんなふうに戻ってきてしまうのもわかるの。

11.09.2025

[film] Office Killer (1997)

10月31日、金曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

特に宣伝していたわけではないが、BFIでは地味にこの日だけのハロウィン特集をやっていて、ここの2本と、BFI IMAXでは23時過ぎから”The Rocky Horror Picture Show” (1975)などを上映していた。ドキュメンタリーも上映されていたし、後楽園シネマ以来見ていないし行こうかな、って少し思ったがひとりで行っても楽しくないのでやめた。

Cindy Shermanの最初の、今のところ唯一の長編映画監督作品で、見たことなかった。よいかんじの35mmフィルムでの上映。

脚本はCindy Shermanを含めて4人、うちひとりはダイアログ監修としてTodd Haynes。音楽はEvan Lurieで、ちょっとつんのめったラテン、タンゴ風味で軽快に(ホラーのサウンドトラックではないかも)。

舞台はアメリカのどこかの都市 - NYではないような - の雑誌の編集部で、Kim (Molly Ringwald)とかNorah (Jeanne Tripplehorn)とかいきのいい若手が火花を散らしているものの売り上げはよくないので、オフィスの隅っこにいて地味でちょっと気味悪がられているDorine (Carol Kane)は総務のようなところに異動+在宅にされて、そんなある晩にPCの修理で電源をいじっていた若者♂がDorineの目の前で感電してコロリと死んじゃって、それを見ていたDorineは彼の死体を自宅に運んで地下に安置して、オフィスの上司名で社員宛に彼は出社していないけど大丈夫だから、とかメールを出す(昔のメールシステムは割とこういうことができたの)。

この件がきっかけになったのか、Dorineの殺人→死体を自宅の地下に運ぶ - は職場の同僚だけでなく頻繁に、しかも自分から積極的に殺しにいくようになっていくのだが、誰にも - 自宅には体の不自由で口うるさい母がいるのだが彼女にも - ばれないし、会社のみんなは突然消えちゃったけどおかしいなー、くらいで、家の猫だけが死体をがりがりしたりしている。

殺しの場面が生々しく描かれず、死体が滑稽な格好をして並べられているだけだし、なによりもDorineがそんなことをする動機がわからないのであまりホラー映画としての怖さは感じられなくて、その表層の晒しの微妙な異様さだけで何かを語らせようとするのは、彼女の写真と同じところを指向しているような印象があったかも。彼女のポートレートはDorineのやっていることと同じようなものだ、とまでは言わないけど。


The Hunger (1983)

↑のに続けてBFI Southbankで見ました。
これは恥ずかしながらこれまで見たことがなくて、この頃のBowieには、こんな映画にでてないで、”Let’s Dance”とか言ってないで、ちゃんとした音楽作って、ってずっと思っていた。ことを思いだした。

最初は兄のRidley Scottのところに話が行って、でも兄は”Blade Runner” (1982)で忙しく、マネジメントが同じでCM業界にいた弟、Tony Scottに振って、これが彼の監督デビュー作となった。原作はWhitley Strieberの同名小説を緩く翻案している。

冒頭、いきなりBauhausの”Bela Lugoshi's Dead”が聴こえてきて(イントロですぐわかる)、あらあら? と思っているとPeter Murphyの顔が大写しになるのでなんだこれは? になった。(エンドクレジットでは、Disco Band … Bauhaus と出るので場内爆笑..)

現代のNYに暮らすMiriam Blaylock (Catherine Deneuve)は古代エジプトの頃からずっと不死でやってきているバンパイヤで、パートナーらしいJohn (David Bowie)と一緒にBauhausが演奏していたクラブで若者を引っかけて、Johnと暮らすタウンハウスに連れこんで吸血してポイ、をしたりしている。

と、Johnが急に老けこんできて、病院に行っても医師のSarah (Susan Sarandon)は忙しくて相手をしてくれなくて、そうしているうちなJohnはどんどんよぼよぼのおじいさんになっていって(ここ、シリアスな描写なのだろうがなんかみんな笑ってしまうのだった)、やがてMiriamはSarahと恋仲になって…

まだとんがったCM表現がハイアートとみなされていた時代のビジュアルは見事なのだが、彼ら全員が美しく磨かれて映しだされればされるほど、なんとなく笑いが滲んできてしまう。この傾向はTwilight Sagaにもある気がするのだが、なんなのだろうねー、って思った。不老不死って、どこか滑稽に見えてしまう要件があるのだろうか。

それだけかー、なのかもしれんがハロウィンなんてこの程度でよいのだ、って夜道を(振り返らずに)小走りで帰った。

11.06.2025

[theatre] Bacchae

10月25日、土曜日のマチネを、National TheatreのOlivier Theatreで見ました。

この春にNational Theatreの新たな芸術監督に就任したIndhu Rubasinghamによる最初の舞台演出で、ギリシャ悲劇エウリピデスの『バッコスの信女』を俳優でラップアーティストでもあるNima Taleghaniが劇作家デビュー作として翻案したもの。 いろいろ元気があって威勢はよいことはたしか。

Olivier Theatreの楕円形のでっかい照明が月のように威圧的に宙に浮いていて、傾斜のある平な岩がそれに沿うように層をなして積みあがっていて、なかなかアポカリプスなふう。場面によって岩岩がぐぉーってゆっくり回転していったりする。

神デュオニソス (Ukweli Roach)が傲慢な人間の王様ペンテウス (James McArdle)によってバカにされたので頭にきて山中に囲っているバッコスの信女たちを率いて人間の世界に乗りこんでいく。いろいろ姿を変えていくデュオニソスは金ラメの衣装でイキるラッパー(たぶん歯にはダイヤモンド)で、彼に山中に連れてこられた信女たちにはVida (Clare Perkins)っていうリーダーがいて、毛皮や襤褸をまとった裸族のよう(でもメイクとかはして髪の毛もちゃんとしている)で、全員がふた昔くらい前のミュージックビデオに出てくるようなおらおらした威勢のよいヒップホップのナリで、どうせ浮世離れした現実世界の話ではないから好きにやっちゃえ、ということなのだろうが、どうなんだろうか? 預言者テーセウス (Simon Startin)はガンダルフみたいな世捨て人のナリでおろおろしているし、全体に漫画というか、ミュージカルにできそうな、することを狙ったエンタメっぽい雰囲気。9月末にShakespeare’s Globeで見た”Troilus and Cressida”に雰囲気はやや近くて、ふたつの勢力がぶつかり合うために(ちょっと楽しそうに)ぶつかっていくような。

ギリシャ悲劇の現代演劇化、というのが過去からどんな形で変遷してきたのか、今度のこれがどれくらいとんがったものなのか、はわからないのだが、タイトルであるBacchae(信女たち)の偏見込みで人からも神からも虐げられ、男たちの好きにされて岩山に追いやられた女性たちの吹き溜まった怒りが互いにどつきあいながら渦巻いていくかんじはなかなかよくて、それが女装してのこのこやってきたペンテウスを八つ裂きにしてしまうところは楽しめる - 楽しんでしまってよいのか、は少しあるが、でももっといまの世の中の虐待を受けたり疎外されたりしてきた女性たちのふざけんじゃねえよ、の怒りをぶちまけて狼煙をたくようなものにしてもよかったのでは、とか。 同様にアガウエー (Sharon Small)が嬉々としてぶらさげていた首が我が子のペンテウスのものであることを知った時の悲嘆も、そんなに響いてこない気がした。 ドラマチックであり、エモが炸裂するシーンであることはわかるのだが、なにかが薄まってしまっているような。 それが音楽によるものなのか衣装や舞台装置によるものなのかはよくわからなくて、うんとラディカルな、すごいことをやっているかんじが来ない。神々(と人間)の物語に込めるもの、込められていてほしいもの、のギャップだろうか。これだと神も人も、どっちも割としょうもないな - 実際そうであるにしても - で終わってしまうし、Bacchaeもずっと世に放たれずにあの岩山に残されたままなのかな、って。

11.05.2025

[film] The House of Mirth (2000)

10月26日、日曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。

ここの11月の特集で、”Love, Sex, Religion, Death: The Complete Films of Terence Davies”というTerence Daviesのレトロスペクティヴが始まっていて、これもMelodrama特集と並んで重いったらないのだが、英国にいるなら見ないと、ということで見始めている。特集の予告にはPet Shop Boysの"Paninaro"が流れたりして、なかなかよいの。

で、これはリリース25年周年を記念してBFIがリマスターしたものを特集と並行してリバイバル公開していて、全体にあまりに美しい絵が続くのでびっくりした。なんでこれが日本で公開されていないの?

原作はEdith Whartonの同名小説(1905)。翻訳のタイトルは『歓楽の家』。映画化されたWharton作品というと”Age of Innocense”(1920) - 映画版は1993 年 - が有名だが、これも負けていなくてすごくよい。監督・脚色はTerence Davies、撮影は”Elizabeth” (1998)のRemi Adefarasin。

UK - Germany - US合作で、20世紀初頭のNew Yorkが舞台だが撮影の殆どはグラスゴーで行われている。つまり、2000年のグラスゴーは100年前のNYであった、と。

20世紀初のNYの社交界で、Lily Bart (Gillian Anderson)は強い財力やバックがいるわけではないのだが、派手で華やかなのでそれなりの人気はあって、いつも話をする弁護士Lawrence (Eric Stoltz)をちょっとよいと思って頻繁に会ってはいるのだが、彼の収入が少ないので結婚相手としては考えていなくて、でもそうすると金融をやっている金持ちのSimon (Anthony LaPaglia)かただの金持ちのPercy (Pearce Quigley)くらいしか現実的な選択肢はなく、でも何度か誘いをすっぽかしたらPercyからは見向きもされなくなり、Simonは見るからにただの金持ちで中味なさそうだし、と、将来がいろいろ不安になってきたので友人の夫でやはりお金持ちのGus (Dan Aykroyd)に相談してみると投資のためのお金を出してくれて、でもその見返りとしてオペラの帰りに屋敷に連れこまれたので拒否したり、Simonからもプロポーズされるのだが、やっぱり嫌なものは嫌で、あれこれもうやだ! になっていたところで、友人のBertha (Laura Linney)夫妻からヨーロッパクルーズに誘われて行ってみるのだが、Berthaの不貞の噂話で疑われて結局孤立してひとり帰らされてしまう。

こんなふうにどこに行っても十分な財力も後ろ盾(男)もいないし、それを求めてもろくな選択肢も見返りもなくしょうもないのに当たったり勘違いされたり裏目に出てばかり、そうしているうちに友人がひとりまたひとりと離れていって結果的に社交界から孤立して脱がされるように借金まみれになり、職にも住む場所にも困るようになっていくさまを絵巻もののように淡々と描いていく。

抜けられない愛憎劇があるわけではないし、運命の急転をドラマチックに怖ろしげに描くものでもないし、そんな社会の非情を訴えるわけでもなく(少しはあるけど)、すべては壁のように動かし難いものとして巌としてあるだけで、カメラはもう少し将来のことを考えて人生設計すればよかったのに自業自得 - と指さされているかもしれないLily = Gillian Andersonの表情を正面からずっと捉えていって、でもそうされてもどれだけ落ちても揺るがずに正面を見据えているLilyがすごいの。最後にひとりめそめそ泣いてしまうのはLawrenceの方だったり。

Gillian Anderson、こんなにすごい人だったんだー、って。こないだ見た”The Salt Path” (2024)で、無一文になっても超然と山歩きと野宿を繰り返していた主人公の姿が重なるし。

11.04.2025

[film] Springsteen: Deliver Me from Nowhere (2025)

10月27日、月曜日の晩、Curzon Bloomsburyでみました。

監督はScott Cooper、脚本は監督とThe Del Fuegosのギタリスト - Warren Zaneの共同、撮影はMasanobu Takayanagi。

“A Complete Unknown”でTimothée Chalametが周囲から眉をひそめられつつエレクトリックに向かうBob Dylanの像を演じたように、Jeremy Allen Whiteが絶頂期に周囲の困惑を振り切ってアコースティックに向かっていくBruce Springsteenを演じている。

“A Complete Unknown”に”Deliver Me from Nowhere”と、どちらのタイトルも謎めいていて本当のところは? みたいにぼかしているものの、本作はBruce本人がNYFFにもLFFにもやってきて直にプロモーションしているので、”Deliver Me from Anywhere”にしたってよいくらいかも。

冒頭はモノクロで描かれるBruceの幼少期の姿で、酒浸りで暴力的な父(Stephen Graham)の下で母(Gaby Hoffmann)と怯えながら固まって暮らしていて、そこから成功した”The River” (1981)のツアーで”Born to Run”を熱唱するBruce Springsteen (Jeremy Allen White)の姿にジャンプして、誰もが金字塔となるであろう次作での大爆発/大儲けを期待するのだが、彼はColts Neckに一軒家を借りて、Flannery O’Connorの本を横に置いたりしつつ、Mike Batlan (Paul Walter Hauser)にマルチトラックのカセットレコーダーを持ってこさせて、アコギ1本で録音を始める。

町をうろついて、シングルマザーでウェイトレスのFaye (Odessa Young)と仲良くなったりするものの、どこに向かっているのかは本人にもわからないまま彷徨っているようで、都度子供の頃の虐待の記憶が蘇ったり、昔の殺人事件のニュースが目に入ってきたり、外から眺めれば成功の後のスランプ… のように見えるのだが、レコード会社の上の連中はそんなの理解できなくて、プロデューサーのJon Landau (Jeremy Strong)だけが静かに彼を見守っている。

やがてBruceはギター一本でカセット録りしたデモの音そのままの状態のをどうしてもリリースしたい、ってゴネて、これがやがて”Nebraska” (1982)になるわけだが、これくらいのことは当時のインタビューでも語られていた気がするし、彼のような音楽をつくる人のドラマとしてそんなにおもしろいものでもないような - 湿った質感の映像はとても素敵なのだが。

むしろ”Nebraska” の後、”Born in the U.S.A.”(1984)の最初のシングルが、ぱりぱりの”Dancing in the Dark”で、アルバム全体もBob Clearmountainミックスのプラスチックな質感になった/してしまったことの事情とかの方を知りたい。時代?

あと、これを音楽映画とするなら、ライブや演奏シーンの映像が圧倒的に少ないのが不満としてはある。アメリカのストーリーテラーとしての彼もあるけど、80年代から3時間超えのライブをずっと続けてきている、そっちの方のパワーの謎と驚異を描くことだってできたのではないか。ドキュメンタリー “Asubury Park: Riot, Redemption, Rock & Roll” (2019)で描かれたあの時代の海辺の町を舞台に。

わたしがはじめて”Born to Run”を聞いたときは既にJohnny Thundersの”Born To Lose”を聞いた後だったのでBruceには乗れず、一番聴いたのは”Darkness on the Edge of Town”だったが、この辺りから、彼の聴き手周辺ってミュージシャンも含めて走るんだぜ、みたいなバカが大量発生して(うんざりするくらいいっぱいいたのよ)ひどかったのでちょっと距離を置いてしまったまま。 みんなまだ走ってるのかな?


ニュージャージー関連でもうひとつ、10月25日の土曜日の昼、Charing Crossの書店Foylesで、”Jon Bon Jovi in Conversation”っていうトークイベントがあった。イベントの2日前くらいに告知がきて、お代は£70(うちサイン本が£60)もしたのだが、なんとなくどんな人なのか見たくて取った。11時開始の先着順の入場で9:30に行ったら既にすごい列だった。

今回リリースされた本”Bon Jovi: Forever”、本として値段は結構高いのだが、80年代からのライブの記録やチケットの半券まで、ものすごい細かさと物量で見てて飽きなくて、ファンの熱がこもるとこういうことになる、よいサンプルだと思った。

トークは、本当に率直に語るよい人で、アスリートかアストロノーツかロックミュージシャンになるしか抜け出すことができないニュージャージーの荒野からどうやって、について、裏か表かわかんないけど、Bruceの話にも繋がるような気がしたのと、闘病の話になったら(ケアしてくれた人への感謝で)声を詰まらせてしまったり。

オーストラリアから来ている人、80年代からずっと追っかけしている人(彼に指さされてた)、よいファンに囲まれてきたんだなー、って。

11.02.2025

[film] Stiller & Meara: Nothing Is Lost (2025)

10月27日、月曜日の晩、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。
Ben Stillerの監督によるドキュメンタリー作品で、こないだのNYFFでプレミアされ、Apple TV+でも配信が始まっているので、日本でも見れるのかしら?

Ben Stillerが彼の両親 - Jerry StillerとAnne Meara、60-70年代のTVを中心としたショウビズの世界で花形だった夫婦コンビの足跡を辿っていく。
まず、Benが両親が住んでいた(Anneは2015年に、Jerryは2020年に亡くなっている)NYのアパートに足を踏みいれると、膨大な量のフィルム、写真、手紙、メモラビリア等がぜんぶ遺されていて、TVのThe Ed Sullivan Show等を中心としたフッテージ - ユダヤ人の夫とアイリッシュの妻、とか - の数々、彼ら二人が遺したホームムービーなどから振りかえりつつ、彼らが辿ってきた道と、途中からBenと姉のAmyも生まれて家族ができて、セレブとして多忙だった彼らの家族として過ごすのってどういうことだったのか、等も含めて追って、そこにはBenの妻や子供たちも加わる。

Anneはコメディではなく俳優を志望していて、でもJerryと出会ってコメディの道に入って、漫才コンビとして成功して、生活も安定して、アメリカ中を転々とするような生活になって、幼いAmyやBenからするとそんなに幸せではなかったようなのだが、でも、大量の記録を通して浮かびあがってくるのは、どれだけふたりがずっと愛しあっていて、どれだけ子供たちのことを気にかけていたかで、それはこの、ここで映しだされる分も含めた記録の総量を見ればわかるし、だから”Nothing is Lost”なんだよ。彼らはいなくなってしまったけど。

ということを、Ben Stillerが自分と、自分の今の家族にも言おう、言わなければ、と思って作った作品で、それはJerryとAnneがずっとお互いに見つめ合って言い続けていたこととも重なって、ああ、ってなる。家族ってそういうものだ、って言ってしまうのは簡単だけど、こんなふうに正面きって言う – ずっとぺらぺら冗談ばかり言っていたBen Stillerがふと真顔になるあの瞬間を思いだしたり。

Benが父に今の自分ほど有名じゃなかった、って言うと横にいた母が即座にあなたおねしょしてたでしょ、ってBenを激怒させたりとか、とにかく素敵な家族なの。


Omar and Cedric: If This Ever Gets Weird (2023)

10月18日、土曜日の晩、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。
こんなの見にくる人いるのか? と思ったが結構入っていた。でもここの上映のローテーションには入っていないみたい。

Omar Rodríguez-LópezとCedric Bixler-Zavalaの80年代から、特にAt the Drive-InとMars Voltaを中心とした活動の記録。タイトルの”If This Ever Gets Weird”はその後に、すぐにやめような、が来る。

監督はNicolas Jack Daviesで、上映前にシアターに顔を見せて、トークとかできないけど、上映後も上のバーにいるからなんか聞きたいことあったら声かけて、と。

監督はいるのだが、素材の殆どはOmarがずっと撮り続けてきた膨大な量のビデオや写真で、一番古いのは80年代のプエルトリコからやってきた移民としての家族のこと。そこから、テキサスのハードコアシーンでのふたりの出会いから、あきれるくらいにぜんぶ揃っていて、そこにOmarとCedricが交互にナレーションを被せていくので、ドキュメンタリー作品としての強さはあまりなく、ふたりによる活動の回顧-総括みたいなものになっていて、このふたりについてはそれでよいのかも。 上映時間は127分だが200分にしたって見たい人は見るだろう。

At the Drive-Inが爆発して、そのピークに分裂してMars Voltaを作った頃のなぜ?についてもJeremy Wardの死についても、CedricのScientologyの件についても、Teri Gender Benderのことも、彼ら自身の言葉で率直に語られているし、おもしろい、というのとは違うのかもしれないが、バンドの活動を記録する、というのはこういうことだよね、というのがよくわかる内容になっている。 と同時にOmarのばけもののような創造の裾野、その広がりを目の当たりにして、なんてすごい、になる人はなると思う。


Kim Novak's Vertigo (2025)


10月18日、土曜日の午後、LFFをやっているBFI Southbankで見ました。少しだけ書いておく。

監督はAlexandre O Philippeで、監督自身が大ファンであるKim Novakの自宅を訪ねていろいろ昔話を聞いて記録していく。

タイトルから、彼女の名を一躍有名にしたAlfred Hitchcockの”Vertigo” (1958) - 『めまい』の撮影時のことなどが、スキャンダラスなところも含めて赤裸々に語られるのかと思ったのだが、そうではなく、彼女のキャリアを振りかえって、自分がいかに恵まれたスタッフやキャストに囲まれて「女優」として成長できたか、等について感謝を込めて語っていく。クライマックスは、ずっと箱にしまわれていた『めまい』でのグレイのスーツを出して抱きしめるところで、分裂をテーマにしていたあの映画のあれこれが幸せに統合されていくようでよかったねえ、になるのだが、他方で、(犬猿だったと言われる)Hitchcockのことがあまり出てこないのは、ちょっと残念だったかも。

[film] Frankenstein (2025)

10月26日、日曜日の昼、BFI IMAXで見ました。
LFFでも上映されていた、Guillermo del Toroによるフランケンシュタイン。

原作はMary Shelleyの小説 – “Frankenstein; or, The Modern Prometheus” (1818)。

人間の欲とか傲慢が生みだした半(反 or 超?)自然が作りあげた「人間」になれない、なりきれない怪物、化け物が必然的に巻きおこしてしまう悲劇を、そのどうすることもできない情動と共にメロドラマとして描く、これを通して「人間」の異様なありようを逆に露わにする、というのがdel Toroが一貫してやってきたことではないか、と思っていて、今度のも怪奇ではあるけどホラーではない。ただそこから宣伝コピーにあるような”Only Monsters Play God”の領域まで行けているのか、については微妙かも。

上映前に録画されたdel Toroの挨拶があって、最初にBoris KarloffのFrankensteinを見たのは父に日曜日の教会に連れていってもらった後で、なので自分にとってのFrankensteinの記憶は、教会と共にある、と語っていた。

二部構成で、最初がVictor Frankenstein (Oscar Isaac) - 造ったひとが語るお話し、後半がFrankenstein (Jacob Elordi) - 造られたモノが語るお話し、で、冒頭、北極海で氷で動けなくなった大きな船にひとりの男と毛皮に包まった大男が現れて船員たちと暴れて騒動を起こして、結果瀕死になった男 - Victorはなんでこんなことになったのかを振り返って語り始める。

厳格かつ傲慢な父 (Charles Dance)のもとで捩れて、でも先鋭的な医学者となったVictorは学校で寄せ集めの器官から永遠の命をもつ人造人間のデモをして顰蹙をかうのだが研究を止めず、そこに叔父の武器商人Harlander (Christoph Waltz)が出資してくれて戦場から適切な屍体を調達して理想のあれを造っていく話しと、そこに優しい弟のWilliam (Felix Kammerer)と彼の婚約者のElizabeth (Mia Goth)が絡むのだが、結局は誰の話しも聞かない妄執に駆られて爆発していくVictorの野望がdel Toro得意の(やりたくてたまらない)でっかい機械装置と共にぶち上がり、その崩壊と共になし崩しで野に放たれる。

後半のFrankenstein - 怪物パートは、凶暴で言葉を持たず愛を知らなかった彼がElizabethや老人との出会いによって少しづつ獣からなにかに…

父親の冷血とネグレクトがVictorを歪な方に導いて、Victorはその最期に怪物を、っていうのは原作もそうだったっけ? というのと、結局これだと神=父、になっちゃうのはやだな、っていうのと、だから素敵なElizabeth = Mia Gothがもっと前面に出てほしかったのになーとか、ものすごいオトコの野蛮さを素直にあっさり垂れ流していて、怪物をあんなきれいな顔のにしたとこも含めてどうなのか。最近のスーパーヒーローものの設定やストーリーラインにきれいに乗っかれそうなところがちょっと嫌かも。

エジンバラの要塞のような施設とか教会とか、美術はお金かけてて荘厳ですごく圧倒的に見えるのだが、闇の深さが足らなくてちょっと軽くて紙のように見えてしまうところもある。

あと思うのだが、怪物に毛皮いらないよね。北極の海に落ちたって死なないんだから。

“Poor Things” (2023)もそうだった気がするが、人間を造る、みたいなことをやると、その監督のすべてが隅々まで出るよね - よくもわるくも。というかすべてを曝け出してわかってもらいたいちゃんがこういう人造人間モノを造るのではないか。

10.30.2025

[theatre] Every Brilliant Thing

10月24日、金曜日の晩、@sohoplace theatreで見ました。

作はDuncan Macmillan、初演は2013年で、世界80か国以上で上演されてきたのがロンドンに来た。演出はJeremy HerrinとDuncan Macmillanの共同。

ひとり芝居で、Lenny Henry, Jonny Donahoe, Ambika Mod, Sue Perkins, Minnie Driverらの各俳優の舞台が、この順番で8月から各4週間くらいかけて交替しながら上演されてきた。自分が見たのはMinnie Driverの。休憩なしの85分。

四方を囲むかたちのシアターに入ると、開演前なのにMinnie Driverさんがいて、ひとりで客席をあちこち移動しながらそこにいた観客に向かって個別に何か説明して紙を渡していて、紙には番号と、名詞だったり長めの台詞だったりが書かれていて、舞台で彼女が番号を言うと、その番号の紙を持っているひとはそこに書かれていることを聞こえるように読みあげてね、という指示をしている。端から全員に渡しているのではなくて、客席全体に満遍なく渡しているような。 番号は1番から1000000番くらいまで、連番ではなく、ランダムで、呼ぶ順番も規則も特にないようで、教室で先生に突然あてられるのを思いだしたりする。そういう客席とのインターアクションも含めて、アドリブの要素、それに瞬時に対応する機転も求められるんだろうし、大変そうかも。

メインの筋書きは、彼女が7歳の時、母親が「バカなこと」 - 自殺未遂をしてそれ以降何度か病院に運ばれて、彼女はお母さんが少しでも幸せになれるように、自分にとってBrilliantなことをリストアップして、それを母親の枕元に置いておくようになる(母は読んでくれていたらしい)。それらは母親が亡くなったあとも、人生の節目節目でいつもどこかで湧いてきて振り返ったり復唱したりすると元気になって支えてくれたり – なぜってそれらはぜったいBrilliantなものだったし、今もそうだから – というシンプルなものなのだが、これをどうやって脚本にして役者のひとり舞台に仕あげていったのか。

リストは1.がアイスクリーム!とか、他愛ないものも多いのだが、これらのリストは(月替わりの)演者によっても違うみたいだし、単に並べていくだけではなく、それにまつわる思い出とかもくっついてあるし、過去の再現場面 - 父親との会話とか初デートとか - では、何人かの客をステージにあげて即興で芝居をして貰ったりする。事前に言ってあったのだろうけど、彼らとのやり取りもすばらしく、特に靴下を脱いで手に嵌めてジョークを言うように指示されたおばあさんなんて、あなた本当に素人? になるくらいすごかった。

で、そんなふうにいろんなThingsに埋もれていっぱいになっていきつつ、最後にはCurtis Mayfieldの”Move On Up”と共にぶちあがる姿はとても感動的で、一番のBrilliant Thingはあなたでしょ、になるの。付箋だらけの本がかけがえのない一冊になったとき、そのかけがえのなさを抱きしめるあなたこそが。

だからね、床に積まれた本だって、ほら。(何がほら、だ)


Lessons on Revolution

10月25日、土曜日の晩、Barbican内の小劇場 The Pitで見ました。

4日間公演の最終日。 自由席、60分強で休憩なし。
殺風景なオフィスのような舞台には机と、その上にOHPがひとつ。背後にプロジェクションする白幕、あとはキャプションを流すディスプレイがふたつ。

2024年のEdinburgh Fringeで好評を博したらしいDocumentary Theatre(というの?)。Gabriele UbodiとSamuel Reesのふたりが書いて演じる。パフォーマンスというよりレクチャーみたいな要素もある。これも何人かの観客に紙を渡して読みあげて貰ったり、インターラクティヴに進められていったり(読んでくれた人にはお茶がふるまわれる)。

1968年、London School of Economics(LSE)を3000人の学生が占拠し、学長の辞任とアパルトヘイトの撤廃を要求した。それについて語る現代のふたりはCamdenのBTタワーが見えるフラットで一緒に暮らしながら、LSEのアーカイブに行って、なにがどうしてどうなったのか、当時の資料を掘り続ける。そうやって発見された紙切れやドキュメントをプロジェクションしながら、話は1920年代にイギリスの植民地となったローデシアから、当時世界中を吹き荒れた学生運動の嵐まで、地理と歴史を縦横に跨いで繋いで、LSEの学生運動で絶望して亡くなった学生、最後まで辞めずにナイトの称号まで貰いやがった学長、さらに家賃の値上がりでやってらんなくなっている現代の彼らまでを軽やかに結んでいく。

こんなふうにすべては繋がっている。意図的に繋げる、というよりはっきりと繋げることができて、そこには無意味なことなんてひとつもなかったし、これらの連鎖を学んでいくことって決して無駄なことではないんだから、というLessons on Revolution。

とてもおもしろくてあっという間の1時間だったのだが、敵の方もこれと同じように、改竄された歴史に基づくストーリーを紡いで、世界征服の夢を性懲りもなく膨らませているはずなので – 日本の新しい政局とかみると特に - ほんとやってらんないわくそったれ、になるのだった。

10.29.2025

[film] Too Much: Melodrama on Film

LFFが終わって、通常営業に戻ったBFI Southbankで始まったのが、特集” Too Much: Melodrama on Film”で、なんで日が目に見えて短く、午後の早めから暗くきつくなっていく季節に、わざわざ泣いて貰いましょう、みたいなのやるのだろう? - 11月終わり迄 - ってふつうに思うのだがしょうがない。

BFIのサイトの始めにはLillian Hellmanの有名な言葉 - 『もしあなたが、古代ギリシャ人のように、人間は神々のなすがままになるものと信じるなら、あなたは悲劇を書くでしょう。結末は最初から決まっているから。しかし、もしあなたが、人間は自らの問題を解決でき、誰のなすがままにもならないと信じるなら、おそらくメロドラマを書くことになるでしょう』 が引かれている。

これに倣うのであれば、メロドラマというのは『人間は自らの問題を解決でき、誰のなすがままにもならない』と信じ、これを実践しようとする女性のもの=女性映画、という気がしていて、そういう角度で見ていきたいかも、と。

Love – Obsession – Duty – Defiance – Scandal – Spectacle、のサブテーマの下に作品がキュレートされていて、日本映画からは『乳房よ永遠なれ』 (1955)と、『浮雲』 (1955)と、『西鶴一代女』 (1951)が上映されるのだが、日本なんてどろどろメロドラマの宝庫なのに、これっぽちなんてありえないわ、になるけど、こんなものなのか。”Spectacle”では『さらば、わが愛/覇王別姫』 (1993)とか”Written on the Wind” (1956)のIMAX上映があったりする。


Leave Her to Heaven (1946)

10月23日、木曜日の晩に見ました。
監督はJohn M. Stahlで、もう何度も、昨年春のGene Tierney特集でも見ているやつ。邦題は『哀愁の湖』。20世紀FOXのこの年の最大のヒット作になったそう。

テクニカラーのパーフェクトな色調のなかで描かれるアメリカの砂漠、湖、家族といったランドスケープの反対側で描かれるEllen Berent (Gene Tierney)にとっての天国と地獄。盲目的に愛していた父を亡くし、作家のRichard Harland (Cornel Wilde)と出会ってしまったばっかりに。 Ellenは彼とずっと一緒にいたい、ふたりだけでいたい、そればかりを一途に願って、彼の弟を殺して、自分も流産して、最後には自分まで殺してしまって、これだけだとなんて恐ろしい女、になると思うのだが、彼女の反対側にいるRichardはあの程度の罪で済んでしまってよいのか、彼女がああなっていったのはこいつのせいでもあるのではないか、とか。

そういう変えられなかった、どうすることもできなかったあれこれをドラマ(華やかで動かしがたい落ち着いた空気)の根底に見て感じることができる、というのがメロの基本なのだなー、って。


All That Heaven Allows (1955)

10月25日、土曜日の昼に見ました。『天はすべて許し給う』。
↑からの続きでいうと、彼女を天国に置いておけば、あとはすべてが許される、って繋がっていて、どちらも下界にHeavenがないが故に起こりうる悲劇であり、だからメロになるのか、と。

これももう何度も見ている、監督はDouglas Sirk。制作のRoss Hunter、撮影のRussell Metty、音楽のFrank Skinnerらは、こないだ見た”Portrait in Black” (1960)の面々と同じ。

Cary Scott (Jane Wyman)はニューイングランドの貴族社会で、夫を亡くして息子と娘を育てあげて、友人も言い寄ってくる男たちもいっぱいいるのだがなんかこのままでよいのか、があって、ある日庭師のRon Kirby (Rock Hudson)と出会って惹かれはじめるのだが、ふたりの間にはいろんな壁とか溝とか崖が湧いてくるのだった…

いつの時代もどんな場所でも昼メロの恰好の題材となる保守的で中に入れなくて見透しゼロの上流社会とその外側に奇跡のように現れた王子さま(あるいはその逆)の狭い世界の上がって下がって傷ついてを流麗に描いて、世間なんて知ったことかー、という状態になったところで現れる鹿も含めて、果たしてこれは地獄なのか天国なのか? 天が許したまう「すべて」って果たして誰にとってのどこからどこまで? のパーフェクトなサンプルを示す。


Enamorada (1946)


10月21日、火曜日の晩に見ました。ニュープリントの35mmフィルムでの上映。

Emilio Fernándezの監督によるメキシコ映画で、日本で公開されたのかどうかは不明。タイトルを直訳すると『愛』。とにかくおもしろいのよ。

見たことないと思っていたのだが、最初の場面で見たことある!になって、調べたら2019年にBFIで見ていた。

Cholula(チリソース)の町にやってきた傲慢で恐いものなしの革命家のJosé Juan Reyes (Pedro Armendáriz)は逆らう地元民を簡単に銃殺したりしていたのだが、町の有力者の娘Beatriz (María Félix)に一目惚れして革命どころじゃなくなり、でもBeatrizは自惚れるのもいいかげんにしろ寄ってくるんじゃねえ、の針ネズミで、教会の神父とかも巻きこんでどうなるやら… のこれ、メロドラマというよりふつうにrom-comとして楽しいのだが、どうなんだろう? 寄ってくるJosé Juanを花火屋で火まつりにしてやるところとか痛快だし、最後はハッピーエンディングみたいだし(あのままふたりで突撃して死ぬつもり?… にも見えないし)、でも、Beatriz、あんなにJosé Juanを嫌っていたのに、ああなっちゃうのはやはりちょっと謎かも。

まだこの後も泣きながら見ていくつもり。

[film] The Mastermind (2025)

10月20日、月曜日の晩、Curzon Sohoで見ました。

LFFでプレミアされたばかりで、主演のJosh O'Connorのイントロつき(この晩、彼はBarbicanでも上映後にトークをしていて、そっちの方に行きたかったのだが)。こんなに早く公開されて、トークまで付いてくるのだったら、別に映画祭で見なくても、にはなるよね。

トークは短かったが、Alice Rohrwacherの”La Chimera” (2023)でも美術品泥棒でしたけど? という問いに、自分の考えだけど”La Chimera”の彼は泥棒ではなくて、今度のはふつうにシンプルに泥棒だと思う、とか。

作・監督はKelly Reichardt、撮影は監督とずっと組んでいるChristopher Blauvelt、音楽はRob Mazurek –Chicago UndergroundでTortoiseのJeff Parkerとかと一緒にやっていた人。

Kelly Reighardtの映画、余りそんなイメージはないかもしれないけど、ずっと犯罪とか窃盗 – どす黒い本流の「クライム」というよりやむにやまれずおどおどびくびくしながら実行していくアクションの顛末などを描いていて、“Night Moves” (2013)や“First Cow” (2019)もそうだと思うが、最近のGuardian紙のインタビューによると、彼女の母は潜入捜査官、父は現場捜査官で、両親の離婚後の継父はFBI捜査官で、そういう事象・対象としての犯罪が空気のようにある家庭で育った、のだそう。

1970年のマサチューセッツの郊外で、James Blaine "JB" Mooney (Josh O’Connor)は無職で、妻のTerri (Alana Haim)とふたりの男の子がいて、実家の父(Bill Camp)は裁判官だし母(Hope Davis)もちゃんとしているのに彼だけぱっとしていなくて、でもそんなに苛立ったり困ったりしているかんじはない。

彼は地元の美術館からArthur Doveの抽象画4点を盗むことを計画して下見して、母に嘘をついてお金を借りて仲間を集めて、でも実行の日、ひとりは現れないし、残りのふたりも素人だし、子供たちは学校が休みで面倒を見なければならないし、現場にいっても盗み決行中に小学生が絡んできたり、警備員にも見つかって出る時にひと悶着あるし散々なのだが、でもどうにか盗み出すことに成功する。 ここまでが冒頭30分くらいでさっさかと描かれて、そこにはなんで強盗に踏みきったのか – しかもあんな微妙で半端な抽象画を – の説明も犯罪実行時の高揚も緊張感もまったくないの。すべてが場当たり的でいいかげんで、抜けられたのは運がよかっただけ、みたいな。 そしてそれらについてJB本人も焦りも怒りも後悔もせず、とにかく逃げて、隠して、捕まりさえしなければ(いいや)を淡々とやっていくだけ。

やがて逃げた共犯者が別の強盗をしてあっさり捕まり、JBの名前を言っちゃったので自宅にFBIがくるし(もちろんシラをきる)、ギャングにも名前が知れちゃったので盗んだ絵画も連中に持っていかれて、手ぶらの指名手配された窃盗犯となった彼は美術学校時代の仲間のところに行ったりそこからヒッチハイクで遠くに向かおうとするが結局…

前半の窃盗の場面と同様、その後の逃亡劇もぜんぜんぱっとしない、家族からも友人たちからも追われたから言われたから逃げていくだけの、しょうもない後ろ向きの立ち回りをJosh O’Connorは強い信念も動作も激情も繰りだすことなく、ひょこひょこ渡るように演じていて、そのどこまでも後ろ向きの態度と表情 - 犯罪映画の主人公としてはありえないくらいへっこんだ容姿って、悪に立ち向かうヒーローと同じくらいにすごいと思った。過去の映画だと、やはりJean-Pierre Melvilleの映画に出てくる一筋縄ではいかない、でもどこか魅力的な連中だろうか。

”La Chimera”での彼も疲れてぼろぼろだったが、そんな彼のところに欧州の神の啓示(のようなもの)がやってきた。これに対し、ここにはベトナム戦争後の米国を生きる疲弊と混沌がそのまま垂れ流されていって、神もくそもなく、ただ遠くに消えていくさまがどこか生々しい。

あと、これがアートを中心に置いた営為で、ちっともアートっぽくない構えで動いていく、というところだと監督の前作 - “Showing Up” (2022)でMichelle Williamsが演じたアーティストの姿とも重なる。周辺の雑務とかどうでもいいヒトやコトばかりがあれこれ纏わりついてきて、やりたいことのずっと手前とか周辺をぐるぐる回って出口が見えなくなって塞がっていくことの悲喜劇とか。

Kelly Reighardtの長編映画のここ数年て、男性主人公ものと女性主人公ものが交互に来ている気がして、次は女性ものになるのだろうか。Michelle WilliamsとJosh O’Connorが共演したら、とか。時代劇もよいかも。

あと、主人公の70年代ファッション(by Amy Roth)がなかなか素敵で。”The Mastermind”ブランドとかいって出してみたらよいのに(で、ぜんぜん売れないの)。

そしてさっきO2アリーナでHaimを見て帰ってきた。
この映画の唯一の不満は、ろくでなしの夫をしばきまくるAlana Haimがあまり出てこないこと、なのよね。

10.28.2025

[film] 100 Nights of Hero (2025)

10月19日、日曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

LFF最終日のクロージング作品で、この上映の1時間前に隣のRoyal Festival HallではこれのレッドカーペットとGala上映が行われていた。隣なんだからちょっとだけこっちに来てくれたってよかったのに。

作・監督はJulia Jackman(2作目の長編作品)、原作はIsabel Greenbergによる同名グラフィックノベル(2016)。タイトルからスーパーヒーローものと思いこんでいたら、ぜんぜん違った。

シェヘラザードの『千夜一夜物語』と『侍女の物語』のミックス - 他にもいろいろありそう。全体としては90分のB級で、プロダクションの完成度みたいなところからすればがたがたの穴だらけなのだが、手作りの創意工夫に溢れた楽しい作品で、とてもよいと思った、というか大好き。

月が3つあるので地球ではないかもしれないどこかの星の中世みたいな時代に、Birdman (Richard E Grant)ていう見るからに陰険邪悪なじじいっぽい鳥の神が支配している世界があって、元は彼の娘のKiddo (Safia Oakley-Green)が理想郷として描いた男女平等の世界があったのだが、Birdmanが男女平等なんて我慢できない、ってじじいの癇癪をおこしてから女性は読み書きを、それを習うことも禁じられている。

そんな世界のお屋敷に暮らす貴婦人Cherry (Maika Monroe)とそのメイドで親友のHero (Emma Corrin)のお話し。 Cherryは表面は優しそうなJerome (Amir El-Masry)と結婚するのだが、彼はCherryを妊娠させることができず、というかベッドに誘うことすらできないままでいて、後継ぎを産めなければCherryは死刑にされてしまう。彼の親友で女たらしのManfred (Nicholas Galitzine)は自分がその気になれば大抵の女なんて、って豪語するので、じゃあ自分が出張に出ていなくなる100日の間にCherryを誘惑できるか賭けをしよう、って持ちかけて自分はさっさと出ていってしまう。

こうしてCherryとHeroの前に現れたManfredはぴっかぴかのナルシスティック(でバカな)な目線と身振り - 自分が倒したでっかい鹿を上半身裸血まみれで担いできたり – でふたりをドン引きさせるのだが、あの手この手を使ってなんとかCherryをベッドに連れこもうとして、懲りずにあらゆる手口を駆使してくる。これに対抗すべく立ち塞がったHeroは、彼女の祖先の代から伝わる女たちのストーリーを、読み書きの替わりとなる不思議な能力を駆使する三姉妹 – このうちのひとりがCharli XCXだったり - の伝説を語りながら、100の夜を乗り切ろうとする。そのかわしたりかわされたりの駆け引きの日々。

見るからに頭の足らなそうなManfredの誘惑をかわしきったところで、子供ができなければCherryは死刑にされてしまうので、どっちにしても、なのだが、Heroの語り続けるストーリーは彼女たちふたりの思いと絆をしっかりと固めていって… ラストに悲壮感はまったくないの。 ”Thelma & Louise” (1991)もあるかも。

衣装とか屋敷の装飾の艶やかだったりゴスだったりの手作り感がとても素敵で、そこに迫害と漂流を余儀なくされていった女性たちの儚くて終わらない夢と物語が重ねられていく。という辺りはとてもよいのだが、もう本当に辛いばかりだし、ここに出てくるバカな男どもをいい加減どうにかしてほしい。Emma Corrinが最後に連中をぼこぼこの皆殺しにしてくれると思ったのになー。この背景設定だったらそれをやってもぜんぜん映えたはず - と思ったりもしたのだが、バカな男たちと同じ土俵に立ってやりあってはいけないのだ、という強い意思もあるのだろうな、って。

10.27.2025

[film] Roofman (2025)

10月19日、日曜日の午前10時、IslingtonのVue (シネコン)で見ました。LFFの最終日でいろいろ詰まっていたのでこの時間になる。

LFFでも上映されたやつで、ポスターはでっかい熊のぬいぐるみを肩車して黄色縁サングラスのChanning Tatumが銃を構えているやつで、その手前にKirsten Dunstがいる - こんなの絶対楽しく弾けまくるクライム・コメディだと思うじゃん。 ぜんぜん違った…

監督は”Blue Valentine “や”The Place Beyond the Pines” (2012)のDerek Cianfranceで、実話を基にしている。音楽はGrizzly BearのChristopher Bear。

00年代、Windows XPの頃のアメリカでJeffrey Manchester (Channing Tatum)は元軍人で3人の子供がいるが社会に馴染めなくて妻からは嫌われ子供たちからもちょっとひかれている。で、お金を稼ぐためにマクドナルドの屋根に穴を開けて中に侵入し(だから”Roofman”)、礼儀正しく従業員を傷つけることなく現金を強奪すること45軒、でもとうとう捕まって、でも刑務所を天才的な器用さと機転で抜けだしてしまう。

次に捕まったら永久にアウトなので軍人仲間のSteve (Lakeith Stanfield)に連絡して偽造パスポートを作って貰うまでの間、でっかいトイザらスの店舗に入り、フロアに死角のエリアを見つけると店内監視カメラのレコーディングをOFFにして、布団も髭剃りもドライヤーもM&Mとか食料もぜんぶ店内のものを調達しながら店内で生活を始める。

店長(Peter Dinklage)は厳格で陰険な奴で、彼に苛められている従業員でシングルマザーのLeigh (Kirsten Dunst)が気になったので、店長のPCのパスワードを盗んで彼女のローテーションを軽くしてあげて、彼女が通う教会にも行ってそこのコミュニティに受け入れられて、付き合いが始まる。

政府系の人には言えない仕事をしている、と嘘をついて、店内のおもちゃを沢山お土産にして、彼女のふたりの難しい娘も彼に馴染んでいって…

破綻することが見えている話なので先は書きませんが、JeffreyとLeighが親密になっていく過程と、それが儚くあっけなく壊れてしまう瞬間の切なさは実話、ということもあってかとても生々しく、それをChanning TatumとKirsten Dunstのこれ以上は望めない組み合わせが支えている。夢を追って有頂天になる姿、それが壊れたときの痛みを全身で表現できるふたりなのでー。だからどうしてもこの2人がありえないやり方で編みだすであろうハッピーエンディング - 別の結末について、つい夢想してしまうのだった。

それにしても、Jeffreyの器用さがあったらなんでもできるんじゃないか、って素朴に思う。自分は彼がさっさかできることの10%もできない気がする。


Good Fortune (2025)

10月22日、水曜日の晩、Picturehouse Centralでみました。

ポスターには背中に羽を生やしたKeanu Reeves Aziz AnsariとSeth Rogenが並んでいて、久々のバカ映画な気がした(けど実際にはそんなでもなかった)。 簡単に機内映画に行きそうなB級風味。 作・監督はAziz Ansari。

Gabriel (Keanu Reeves)は見習いの天使でTexting & Drivingをしてて危機一髪の人を救うのを - まだ見習いだから - 主にやってて、ある日、定職を持たず、車に寝泊りしてデリバリーサービスの顧客ポイントで日々食いつないでいるArj (Aziz Ansari)が目にとまってなんとかしてあげたい、と思う。

Arjは配達先の豪邸でなんでもあるけどあれこれ要領悪く暮らしているテック系の投資家Jeff (Seth Rogen)と出会って、彼の家の住みこみの小間使いとして働き始めるのだが、ちょっとしたことで解雇されて、車もなくなって、いよいよ崖っぷちになると、Gabrielは大天使Martha (Sandra Oh)が止めるのも聞かず、ArjとJeffの立場を入れ替えてやったら元に戻せなくなり、その罰として天使からふつうの人間にされてしまう。

こうして、立場がすべてひっくり返ってしまった富豪 - 極貧 - 天使はどうやってサバイブしていくのか、元に戻ることができるのか? っていう寓話、教訓話しみたいなやつで、人の運とか金まわりなんて、天使がいようがいまいが結局関係ないのだ、っていうことなのだろうが、それをこの文脈でやっても、貧乏人は諦めて努力していくしかない/そのうち回ってくるかもー、でしかなくて、それってなにがおもしろいの? になるのだった。貧乏が昔ほど笑いのネタにならなくなっている - 他にもあるけど - という事態をおちょくる、という高度な意図もあったりするのか。

あと、人間になったGabrielがナゲットとかバーガーとかタコスを、こんなに美味いものがあるなんて! って頬張るシーンは微笑ましいけど、天使って食事したことないのにどうしておいしいって言えるのか。 馬糞食べさせても歓ぶんじゃないの? とか。

『ベルリン・天使の詩』(1987)の頃、天使はヒトと恋におちるべく決意して人間になったのに、いまは罰で人間になるのかー、とか。

10.24.2025

[theatre] Entertaining Mr Sloane

10月14日、火曜日の晩、Young Vicで見ました。
原作はJohn Ortonの同名戯曲 (1964)で彼の最初の長編劇、演出は、こないだ見た映画”Brides” (2025) を監督していたNadia Fall。

9月のBFIの特集でも1968年に制作されたこれのTVドラマ版を見て、とてもおもしろかったし。

舞台は客席が囲む形の円形(デザインはPeter McKintosh)で、ベッドがある普通のリビングだが、黒で塗られたいろんな椅子、鳥カゴ、乳母車、ベビーベッド、カートなど、実物大のそれらがオブジェのように天井に向かって吊るされ撚りあげられている。古いフラットのリビングで妄想も含めて浮かんでは壊されたり棄てられたりしてきた遺物たちが燻されて吹きあがっている。

そんなややホラー設定のフラットに若いMr Sloane (Jordan Stephens - hip-hop duo Rizzle Kicksの片割れのひと) が家探しで颯爽と現れて、女主人のKath (Tamzin Outhwaite)は、そんな彼を嬉々として迎えてご機嫌取りをいっぱいして、彼がそこを借りることを決めると、嬉しくてたまらなくなり、早速彼の上にまたがって…

今であれば、家主の立場を利用したセクハラ&パワハラにできそうな話なのかもだが、何も考えていないふうのSloane本人はそれをそのまま受け入れて、Kathを自分の都合いいように利用していくので、今で言うならWin-winなのかもしれないが、そこにKathの兄で背広を着た堅気のEd (Daniel Cerqueira)と、いつも小言を呟いて徘徊している老父Kemp (Christopher Fairbank)が絡んできて、それぞれが自分のやりたいように振る舞い、言いたいことを言っていく。

セックスでどうとでもできると考えているKathがいて、地位や仕事でどうとでもできると考えているEdがいて、過去にSloanを見たことがあるEdはひたすら彼のことを嫌って、その中心にいるSloaneは、無表情に、自分の欲望の赴くままに好き勝手に振舞っていって、結果Kathは妊娠して、Kempに対しては暴力ふるって殺しちゃって、という非情で成りゆきまかせの世界が暗闇の、どぅどぅ響くリズムのなかで展開していく。

設定としてはやや古いのだろうが、狭く閉ざされた檻のなかで欲望と脅し、服従によってじっとり動物化していく老人から若者までを描く、という点において十分に生々しく、異様なリアリティがあると思った。


The Lady from the Sea

10月15日、水曜日の晩、Bridge Theatreで見ました。

原作はHenrik Ibsenの同名戯曲(1888) - 『海の夫人』、これをSimon Stoneが翻案して演出している。原作に登場するHilde Wangelは、後に”The Master Builder” (1892)にも出てくる。今年5月にWest Endで見たこれの翻案 - “My Master Builder”ではElizabeth DebickiがMathilde/Hildeを演じていたが、ここではAlicia VikanderがEllida(名前を少し変えて)を演じている。

三方から囲む形の舞台はまぶしい白で、プールサイドにある長椅子があって、白くモダンなテーブルがある夏の日のお金持ちの家、後半は、ここの中心に水が溜められてプールになったり、よりダークになって激しい雨が降り注いだりする。

裕福な神経科医のEdward (Andrew Lincoln)がいて、Ellidaは彼の2人目の妻で、家にはEdwardの自殺した先妻との間にふたりの娘 - Hilda (Isobel Akuwudike) とAsa (Gracie Oddie-James)がいて、他にEdwardの患者で余命がないことを告げられるHeath (Joe Alwyn)とか、いろんな立場の登場人物たちがそれぞれに勝手なことを言ってぶつかり合って賑やかなのだが、全体としては僕らお金持ちで生活に余裕あるし(なんて言わないけど)、という態度で強くふてぶてしく暮らしている(ように見える)。

そこにEllidaの過去に深く刺さっているらしい中年のFinn (Brendan Cowell)が現れて、はっとなるところで1幕目が終わる。

2幕目はEllidaの過去を巡って復縁を迫ってくる環境活動家のFinnとEllidaの泥まみれの愛憎劇がどしゃ降りの中で展開されて、どうなる? ってなったところで出会った当時、Ellidaは15歳でFinnは30代だったことが明かされ、それって… で何かが解けたような。

Ibsenの原作まで遡る必要があるのか、はわからないけど、”Master Builder”もこれも、現代で裕福な地位を築いた男たちが、過去を引き摺った運命の女性に揺り動かされ、”Master Builder”の場合は(Ewan McGregorを)破滅まで追いこんでしまう。ベースには再会し過去の自分との出会いによって何かに目覚めた女性がいて、この舞台の場合、いろいろあったけど/これからもあるけど、というアンサンブルとして終わって、各自が抱えたものすごくいろんな要素が絡みあった変な劇で、でもみんなそこらにいそうでありそうなかんじがよかったかも。

10.22.2025

[film] Die My Love (2025)

10月18日、土曜日の昼、LFFのRoyal Festival Hallで見ました。
前日の晩がGalaだったのでゲスト等はなし。

監督はLynne Ramsay、原作はAriana Harwiczの同名小説(2012)、脚色はAlice Birch、Enda Walsh、Lynne Ramsayの共同(すごい強力)、撮影はSeamus McGarvey、プロデュースにはMartin Scorseseの名がある。今年のカンヌではPalme d'Orにノミネートされた。画面はスタンダードサイズ。

Grace (Jennifer Lawrence)とJackson (Robert Pattinson)の夫婦が隣家のない、原っぱのなかに建つぼろめの一軒家にここでいいよね、というかんじでやってきて、しばらくはふたりで犬のようにやりたい放題、原っぱを転げまわってキスしてセックスして燃えあがる森を駆け抜けて、でもそのうち子供ができて、育児をはじめるとJacksonは家のなかにいないことが多くなり、産後鬱もあるのかGraceにおかしな行動が出てくるようになる。彼女はもとは作家だったのだが、特に育児を始めてからは書けなくなっている。書く努力をするとかそれ以前のところで止まっていて、でも引きこもるわけでもなく、絶えずどこかに出かけて徘徊して、でも何かが見つからないふう。

近くにはJacksonの母のPam (Sissy Spacek)がいて、彼女も認知症の夫のHarry (Nick Nolte)の介護でちょっとおかしくなっていつも銃を持ち歩いていたりする状態なので、Graceが訪ねていってもあまり(お互いにとって)助けにはならず、そのうちJacksonが家に犬を連れてくるのだが(Graceは猫~ っていったのに)、こいつがずーっと昼も夜もばうばう吠えているのでまったくの逆効果で、買い物に行っても、友人宅のパーティに行っても、車に乗っていても、Graceがなにをやらかすかわからず、見ている方の金縛りはものすごくなっていく。

GraceとJacksonの関係、その緊張が最大になるのはふたりが車に乗っているところ、ずっと起こりうる惨劇を待っている密室のようになっていて、でも、“Die My Love”とか言いながらこのふたりは相当にしぶとくて簡単に殺されたり死んだりしないであろうこともなんだか見えてくる。”Hunger Games”で生き残った人だし、The Twilight Sagaと”Micky 17”の人だし。 車のなかでJohn Prine & Iris Dementの”In Spite of Ourselves”がほのぼのと流れると、赤ん坊を挟んだ産後鬱の話というより、愛と憎しみでぐじゃぐじゃにまみれた、狂ったラブストーリーとしか言いようがないものが浮かびあがってくる。

惨劇に向かわない神経戦のようなところだと、やはりJohn Cassavetesの"A Woman Under the Influence" (1974) - 『こわれゆく女』のGena Rowlandsが浮かんでくる。この映画でGena Rowlandsが周囲にso-called「迷惑」をかけたり傷つけたり傷ついたりすればするほど異様に輝いていくのと同様、Jennifer Lawrenceがひと暴れすればするほど不敵なその艶は磨かれていって手をつけられなくなる、そんな女性映画として見るのがよいのか。

あるいは、Lynne Ramsayのデビュー作 - ”Ratcatcher”(1999)の頃からずっとある、呪われた家 – とどまるべきではない場所としての、牢獄としての家の延長として見ることもできるかも。Graceが原っぱや森を抜けていくシーン、彼女が見上げる空の鮮烈さは”Ratcatcher”の少年のそれに重なるような。

とにかくJennifer Lawrenceのとてつもなさに尽きる映画で、彼女の立ち姿、這いつくばったり寝っ転がったりの姿ばかりがずっと残る。目の前のLoveを呪って叩き潰し、それでもそれらしき何かを求め続ける彼女に”Love is a stream, it’s continuous, it doesn’t stop”と言い続けたGena Rowlandsが重なる。

そして最後に“Love Will Tear Us Apart”のカバーが流れる。歌っているのは監督のLynne Ramsayで、原曲よりゆっくりで、これがすごくよいの。 未確認だが、冒頭に流れるギターの鳴りがかっこよい曲を歌っているのも彼女なのかしら?


今日(10/22)はCabaret Voltaireの再結成ライブがある、と思って支度をしてて、でもチケットが来ていないのはどうして? と思ってよく見たら2026年の10月22日なのだった… (1年後なんて生きてるかどうかわかんないじゃん)
あまりについていないので、”Good Fortune” (2025) ていう映画を見にいった。

10.21.2025

[theatre] Mary Page Marlowe

10月11日、土曜日の晩、Old Vicで見ました。
原作は俳優もしている(こないだ見た映画”A House of Dynamite (2025)”にも出演していた)Tracy Letts、彼の母が亡くなってすぐに書き始め、母に捧げられている戯曲の冒頭にはJoan Didionの言葉が引用されている。ちょっと長いけどこんなの:

“I think we are all advised to keep on nodding terms with the people we used to be, whether we find them attractive company or not. Otherwise they turn up unannounced and surprise us, come hammering in the mind’s door at four a.m. of a bad night and demand to know who deserted them, who betrayed them, who is going to make amends”

初演はシカゴで2016年。休憩なしの1時間半で、11のシーン、ひとりの女性 - Mary Page Marlowe -の70年の女の一生が、5人の俳優と人形によって演じられる。演出はMatthew Warchus。

舞台はOld Vicの真ん中に円形のがあって、それを客席がぐるりと囲むかたち – ここでそういう舞台設定になっているのを始めて見た。舞台の上には簡素なテーブルがあって、あと酒瓶がいつもその辺に転がっている。最初はその上に主人公が着てきたであろう服たちが無造作に積まれている。

最初の場面はMary (Andrea Riseborough)が子供たちに離婚を告げるシーンで、そこからランダムに場面・時代は替わって、友達とのお泊り会で占いをして将来が明るい12歳のMaryも、高校生のMaryもまだ有望で、でも結婚した後からは、夫は飲んだくれのろくでなしでふざけんじゃねえよなめんな、の互いに酔っぱらってブチ切れて蹴っ飛ばしあうような喧嘩が絶えなくて、気が付いたら2回結婚していて、晩年にももうひとり傍に面倒を見てくれる男性がいたりする。

暗転して時代と設定と女優が切り替わり入れ替わりのたびに、ああそうなったのね、って思うのだが、Maryの人物としての輪郭、気性の一貫性は保たれていて、周囲の変化にええーってびっくりするようなことはない。特に老年・晩年期のMaryを演じるSusan Sarandonの柔らかさが、過去のぎすぎす、ごたごたを、傷だらけのMaryたちをすべて吸収し、赦し、それでもそれしかないような愛 - 怒りや後悔ではなく – で包もうとする姿に感動する。

これと似た形式でひとりの女性の一生を複数の女優が演じていく舞台にAnnie Ernauxの”The Years” – これの初演は2022年 - があったが、あそこまで過激に女性の「性」を追いつめて普遍的かつ圧倒的な型のように浮き彫りにして叩きつけることはなく、どこの場所にも時代にも、こんな女性いたかも、すれ違ったかも、になる。これはこれでよいのだが、それならもっと時間を掛けてもっといろんなひとりのMaryを見せてほしいな、にはなる。せっかく魅力的な像としてそこに現れたのだし、これだけ魅力があるならもっといろんなネタもあっただろうし。


Michael Rosen: Getting Through It


10月19日、日曜日の午後、Old Vicで↑と同じ舞台セットの上で行われた公演/口演?について少しだけ。

英国各地を回っていくようだが、ロンドンではこの日のこの14:00の回だけで、これを見ていたのでLFFの”Hamnet”に並ぶのが遅れて(...もう忘れようね。ついてない一日だったね)。

児童文学作家のMichael Rosen(79歳)による、2部構成、約1時間40分の講演、というほど固いものではない、腰の曲がりかけたおじいさんが紙束を抱えて椅子のところにやってきて、リラックスして座って、紙に書かれた原稿を一枚一枚ゆっくり、ユーモラスに読んでいくだけの舞台。最初のパートが”The Death of Eddie” – 1999年に当時18歳だった息子を突然失った時のこと、それからの日々について、後のパートが“Many Kinds of Love” - 2020年のコロナ禍で、48日間、NHSの集中治療室に入れられて死にかけていた際の自分の闘病記録。どちらも、誰の身にも起こりうる悲劇を題材に、どれだけ時間が経っても消えてくれずにそこにあるgriefやpainとどうつきあっていくべきなのか、自分はどう向きあってきたのか(乗りこえることも忘れることもできない)についての省察。子供に聞かせるようにやさしく穏やかに語っていく話芸(だよね、ここまでくると)に引き込まれた。


Lee

10月17日、金曜日の晩、Park Theatreの小さいほう(90)で見ました。

原作はCian Griffin、演出はJason Moore。席は自由で、休憩なしの約80分。

客席が少し見下ろすかたちで囲む舞台は主人公である抽象画家Lee Krasner (1908-1984) のアトリエを模していて、彼女の制作中の絵 – Barbicanの展覧会(2019年)にもあった”Portrait in Green” (1969)とか - が四方の壁に沢山貼ってある。あと、ランボーの『地獄の季節』からの一節("To whom shall I hire myself out? What beast should I adore? ~ )が壁に殴り書きされている。

Jackson Pollock (1912-1956)が44歳で亡くなってから13年後、という設定で、でも彼は幽霊Pollock (Tom Andrews)として現れてかつてパートナーだったLee Krasner (Helen Goldwyn) にぶつぶつ言ったりマンスプレイニングしたりして、どこかに消えていく。Leeはそんな彼にまたか、という態度で応えたりしている。別の女と勝手に事故って死んだんだからもう寄ってくるな。

いつものようにアトリエで絵を描いていると、近所のデリの、まだ高校生の小僧Hank (Will Bagnall)が仕事場に現れて、アーティストになりたい、というので彼が描いているという抽象画ぽい絵を見せてもらい、彼女が彼の絵をぼろくそに、でも真剣にけなしつつ、アートとは何か?なんで絵を描くのか? 抽象とは? といった根本的な問いを投げていく。その過程で、都度現れてくる自身の過去とそこにしつこく纏わりついてくるPollockの亡霊と。

他の女性アーティスト - Camille ClaudelでもDora Maarでも - と同様、男性パートナーの名声の影でまともに取りあげられることも顧みられることなく、それでもアートへの希望を棄てずに創作を続けていった女の立ち姿をHelen Goldwynがかっこよく演じている。決して笑わなくてずっと不機嫌だけどLee Krasnerがいる、としか言いようがないのだった。

Lee Krasnerの発言や思索は結構纏まって出ているのでそれらに沿った正しい評伝ドラマになっているのだろう、と思う反対側で、彼女がPollockを「てめーのせいでなあー」ってぼこぼこにしてやるようなのも期待していて、でもやはりそれはなかった。
 

[film] The Librarians (2025)

10月6日、月曜日の晩、Curzon Bloomsbury内のDocHouseで見ました。
身近に迫る危機モノ、として、今見なければいけないドキュメンタリーとしてとにかく必見だから。

監督はKim A Snyder。Executive ProducerにはSarah Jessica Parker、音楽にはNico Muhlyの名前がある。

2021年、テキサス州の上院議員が配布した本のリスト - 図書館に置くことがふさわしくないとされたLGBTQ+全般、人種、公民権運動、性教育、月経、などに関する850冊、これにフロリダやテキサスといった共和党支持の州の議員が賛同し、右派のほぼ白人の母親たちの権利団体 - Moms for Libertyが絡んで、実際に図書館からこれらの本を閲覧禁止にして、従わない図書館員(Librarian)に対して脅迫したり解雇をちらつかせるようになった。

映画はこれらの事態に立ち向かうことになったLibrarianたち(The Librarian)- 殆どが女性 - の終わらない戦いを描いていく。

昔から思想弾圧や統制のための焚書や禁書はいくらでも行われてきたので、またかよ・まだやってるのかよ、だし、それを本なんか読んだこともなさそうな、スポーツやマネーや陰謀論が大好物そうな富裕層が煽って広げているのはバカじゃねーの、しかないのだが、あまり笑えないのは、紙の本を図書館で借りて読む文化が細くなってきているところにこれが来ることで、図書館なんて行く意味も価値もない、って図書館が蓄積してきた本を中心とした知と向き合う場所と時間が削られていってしまう、そこでの出会いによって救われたり導かれたりしていた魂がその機会と行き場を失ってしまうことだ。 ネットもSNSもあるし、って言うけど、本を読むことで得られるのは情報だけじゃなくて、例えばそれを書いた人、書かれた人が辿ってきた生とその経験、めくるめくストーリーをめぐる自分との対話だったり、映画や絵画やパフォーマンスアートと同様、その形式が実現しようと、広げようとしてきた世界そのものを体験することでもあるので、そういう機会を失くして、取りあげていくことで何がよくなるのか、まったくわからない。 単に自分が目障りだから見たくないものを見れないようにしたい、というだけにしか見えない。(おれが見たくないって言ってるんだから見せるな、置くな、っていうガキのー)

もうひとつは、子供たちにとって、図書館のずっと続いていく棚とか物理的なところも含めた世界の広がりとか奥行きを目の当たりにしたり、そこでのこんな本もあるあんな本もある、って何冊も並べて開いたり閉じたり、ずっと読んでいたいけど返却しなきゃいけないのか…になったりする時間って、世界のでっかさ、底のなさ、限りある時間、などを思い知る入口だったりするので - 必要最小限の学びの場と機会を奪ってしまうことに繋がると思う。

というような、連中の懸念する「悪影響」ってなんだよ? というものすごく根源的な問い – この映画では「悪影響」を個々に掘り下げていくことはしない、あまりにバカバカしいからだと思う - を掲げてLibrarianたちは立ちあがって連帯していくのだが、SNS等による数と資金力(最後の方で化石燃料系の富豪が背後にいることがわかる)では圧倒的に弱くて負けてて、こういうドキュメンタリーの場合、終盤にある程度明るい兆し、のようなものが描かれることもあったりするのだが、それもなくて、どうなるんだろう… というお先真っ暗な状態のまま終わる。

これがバカな王の間抜けな臣下ども(の下部階層)によるご機嫌とり施策、であること、過去に有効だった試しがないこと、はわかっているのだが、もうほんとうにうざいし、恥をしれ! しかないし。

日本でも公開されますように。

[film] 遠い山なみの光(2025)

10月16日、木曜日の晩、LFFをやっているCurzon Mayfairで見ました。

今回LFFに来ている邦画はこれと『8番出口』というのがあって(他にもあったらごめん)、『8番..』はどうでもよかったのだが、こっちはなんだか見たかった。New Orderが流れるというし。

英語題は”A Pale View of Hills”、原作はKazuo Ishiguroの同名小説 (1982) – 未読。
今年のカンヌのUn Certain Regardでプレミアされた日本-UK-ポーランド合作映画。
監督・脚本は石川慶で、上映前に監督、Kazuo Ishiguro、Camilla Aiko, 吉田羊が壇上に並んだ。

冒頭、暗い室内でソファに横になっている悦子(吉田羊)がいて、彼女の記憶として浮かんでくる終戦後の長崎の様子 - 妊娠している悦子(広瀬すず)、夫の二郎(松下洸平)、たまに訪ねてくる義父の誠二(三浦友和)の家族のこと、近所の佐知子(二階堂ふみ)、その娘の万里子(鈴木碧桜)が描かれ、改めて1982年のイギリスに切り替わる – ここでNew Orderの”Ceremony”(1981)が流れる - と、次女のNiki (Camilla Aiko)が実家に滞在して、悦子が長崎にいた時の被爆も含めた経験の記録を作りたい、と悦子にいろいろ聞いたりしていく。

小説版は悦子の一人称らしいが、映画で描かれる長崎のお話しは、悦子の記憶をそのまま映しているのか、Nikiが悦子から聞きだしたことの再現なのか、あるいはNikiが遺された写真などを見て再構成したものなのかは明らかにされない。これは混乱をもたらすが、これは意図的なものであることが追って見えてくる。

悦子はひとりになってからも長く住んでいた家を処分してどこかに越そうとしており、Nikiは不倫相手との間に子供ができたかもしれず、どちらもこれまでのことにどんより疲れていて、変わらなければ、と思っている - 長崎の場面でも佐知子が、アメリカに行って変わろう、アメリカに行けば変われる、と信じているし、教育者だった誠二も悦子に変わらないとね、と背中を押されている。(悦子と誠二のやりとりは『東京物語』 (1953)の原節子と笠智衆のそれを少し思わせた。1952年の長崎で)

時空を隔てた両側でなすりつけ合うように、本を閉じるように目を背けるように現在と過去を行き来しているうちに浮かびあがってくる、その中心にある悦子の長女の自死のこと、それに対する後悔と自責と。そういう状態のなかで、過去の記憶の正しさなんて、どんな意味があるのだろうか、自分はこれから生きていっても許されるのだろうか、等。

そして/だから佐知子はいったい誰だったのか、万里子はなぜ死を選んだのか、本当のところは最後まで明らかにされない。みんな勝手に逝って、自分はあとに遺されてしまった、という感覚がずっとある。原爆が落ちたあの日からずっと。

たぶん過去と現在の時間軸と、それぞれにおける人物関係の置かれかたや目線の変化などが、きちんと対照関係をなすように細かく寄木細工のように編集加工されていて、この辺は映像だからできることでもあるのかも。そのうえで、”A Pale View of Hills” – 向こうの丘の淡い景色、という。

New Orderの”Ceremony”は、Joy Divisionの最後に作られた曲(作詞はIan Curtis)であり、New Orderの最初にリリースされた曲でもある。こんなに明るい曲を遺してIanは死んじゃって、なんで?と誰もが思った。この曲が映画では始めと終わりの2回流れる。同じイントロなのに違って聞こえる、のではないか。

今回のLFFで見た映画で、エンディングにJoy Divisionが流れた映画がもうひとつあって、もう少ししたら書く。

上映後、監督を含む4人によるQ&Aがあったのだが、次のがあったので出てしまった。
次のは、Richard Linklaterの”Blue Moon” (2025)のガラで、悪い映画ではなかったのだが、あーこれならこっちのQ&Aに残ればよかった… と後で激しく後悔した。

[film] Screen Talk: Chloé Zhao

10月12日、日曜日の昼、BFI SouthbankでのLFFのScreen Talk。 

映画祭なのでいろんなゲストが来てトークをする - 今年だとJafar PanahiとかRichard LinklaterとかYorgos LanthimosとかDaniel Day-Lewisとか - のだが、今回見てみたいと思ったのはこの人とTessa Thompsonくらい。 Lynne Ramsayは数年前に話を聞いたことあったし。 でもチケットはぜんぜん取れなくて、しょうがないので日曜の朝に並んだ。

LFFは、昨年もその前からもそうなのだが、チケット発売日にはぜんぜん取れなくて(今年はオンラインのキュー待ちで1時間半)、これだから映画祭って嫌だ、って悪態ついてるのに、始まってこういうのに並んだりしているうちにやっぱりあれも行った方がいいこれも見たいかも、になって結果キャンセル待ちに並んだり、ものすごく無駄な時間を費やしてしまう… のってやはり「お祭り」だからだろうか? (でも東京のでここまでのを感じたことはない)

あと、連日世界中から来たものすごい数のいろんな新作を上映しているのだが、こういうのを追っかける状態から自分の人生を変えてくれるような作品と出会うのってほぼ不可能だよね、って思う。べつにいいけど。

この映画祭では新作の”Hamnet” (2025)が上映されたばかりで、そりゃ見たかったけどチケットぜんぜん取れなかったのでしょうがない(最終日 - 昨日の追加上映も1時間半並んで、結局だめだった)。トークの時点ではまだ見れていない人も多いので、舞台となった本国(原作はMaggie O'Farrell)で上映できてうれしい、くらいにとどめて、過去の監督作からお気に入りのシーンを切り取ってコメントしていく、という構成。

最初は”Songs My Brothers Taught Me” (2015)の教室の、生徒たちの机にいろんな動物たちが湧いてくるシーン。
それから”The Rider” (2017) の仲間とレスリングをして本気になってしまっておいおい、になるシーン。
そして”Nomadland” (2020)からは、Frances McDormandが野宿している若者のところにサンドイッチを持っていってシェイクスピアを誦じるシーン。
“Externals”からはExternalsたちがしょうもない人間どもをどうしようか、って議論しているシーン。
そして新作からもお気に入りだというシーンのクリップが流れて、それを見ると早く見たい、しかなくなる。

“The Rider”ではmasculinity(男らしさ)について、”Nomadland”ではageismについて語ることができるわけだが、”masculinity”については身震いするくらいめちゃくちゃ大好物で、解剖台の上に大切に乗っけて突っついて切り開いて、中を覗いたり、をやるのがたまらないのだ、と。(それなら日本には「九州男児」とかいう特別に強烈な亜種がいるよ、って御招待さしあげたい - ぜんぜん美しくないけど)。

物語やテーマの選び方については、あまり自分で掘って探究していくのではなく、ある程度まで進めた上で向こうからやってくる、やってくるのを待つ、という(多分に東洋的、とも取られそうな)言い方をして、映画を作っていく上での困難について聞かれると、自身のneurodivergenceについて触れ、誰がどこでどんなふうにつっかえて難しくなっているのかが人よりよく見えたり察知したりできるので、人より現場での解決や対応はしやすい、そういうのには強いのかもって。

子供の頃から漫画にどっぷり浸かってきて、映画は親が見ていた中国映画ばかり、初めて見た洋画は”The Terminator”(1984), 次が”Ghost” (1990), その次が”Sister Act” (1992)だったと。ウーピー大好きだって。

音楽については、新作のを担当しているからかMax Richterをベタ褒めしていて、彼の音楽だけでなく音楽に対する考え方にとても共感している、と。

テーマや題材や演技にものすごく強い拘りや信念を持って引っ張っていく、というより来たもの、あるものをとりあえず受けとめて一緒に可能性を探っていく、という柔軟なやり方(プロデューサーには苦労かけてごめん、って)について何度も強調していて、こういう人は強いなー、って思った。

10.18.2025

[film] Peter Hujar's Day (2025)

10月11日、土曜日の昼、West EndのVueっていうシネコンの一部を借りて上映しているLondon Film Festival (LFF)で見ました。

LFFって自分のような一般の参加者にとってはそんなに、ぜんぜん楽しいイベントではなくて、チケットは取れないし、ガラのチケットは高い(£30)し、ふだんだらだら過ごしているBFIのロビーが人でいっぱいになってうるさいし、新作はすぐシアターでかかるものも多いので、目的はスターを見たり会ったり、になるのだろうが、もうそんなに見たい人なんていないし。 はやく通常営業&特集の普段の暮らしに戻らないかなー、ばかり思っている。

監督はIra Sachs、出てくるのはPeter Hujarを演じるBen Whishawと彼にインタビューするLinda Rosenkrantzを演じるRebecca Hallのふたりだけ。76分。

1974年の12月18日、マンハッタンの94thにあるLinda Rosenkrantzのアパートを訪ねた写真家のPeter Hujarは彼女から一日インタビューを受けて、そのテープはどこかに消えたと思われていたのだが、原稿は出てきて、2019年に同タイトルの本として出版された。これを元にIra Sachsが16mmフィルムのこじんまりして暖かい質感でもって撮影した - 撮ったのはデジタルだと思うが。

彼の写真を見たのは10年代にNYのどこかのギャラリーで、写真集も買って、2019年にパリのJeu de Paumeの展覧会にも行って、イギリスに来てからもいくつかのギャラリーの展示に行った。肖像写真が多くて、対象となった人の本質を深い陰影のなかに捉える、というよりも乾いた画面上にぺたりと、ただの影と輪郭として貼っていくイメージがある。Robert Mapplethorpeの(狙ったわけではないだろうが)反対側にいるような。

このフィルムでの彼もそんなふうで、ありきたりの世間話 - お金のこと(お金ない)、健康のこと(まだエイズ禍前なので平穏)、睡眠不足の心配、New York TimesのためにAllen Ginsbergの写真を撮りに行った時のこと、Fran Lebowitzのこと、などを独り言のようにとりとめなく喋っていて、合間にお茶を淹れたりレコードをかけたり、ダンスをしたり、ずっとタバコを吸ってて、ふたりで屋上に行って喋ったり、服はふたりとも何回か替えたりしていた? そんなふうに流れていったある一日のこと。

ふたりが屋上に行った時の風景はロウワ―マンハッタンのようで、でも後の方ではハドソン川に向かう風景もあって微妙に一貫していないのだが、室内の撮影はLinda Rosenkrantzが暮らすアパートをそのまま使ったらしく、インテリアなどはさすが、だった。

そうやってちょっと不思議な彼と一緒にいた時間、ある一日の濃くも薄くもない、でもこんなふうに刻まれた一日がありました、って。

あと、エピソードとして出てくるNYにいた頃のAllen Ginsbergの奇行、変人ぶりって、むかしHal Willnerからも聞いたけど、ほんとひどいな(褒めてる)。

上映後に寝起きみたいに髪ぼさぼさのBen Whinshawのトークがあって、Peter Hujarの動くフッテージがないので – たしかに見たことないかも - 彼がどんなふうに動いたり喋ったりするのかは自分で考えた、と。ものすごく自然に見えて、本当にあんなふうだったのではないか。


Dry Leaf (2025)

10月11日、土曜日の午後、↑のに続けて同じシアターで見ました。
ジョージア・ドイツ合作映画で、ジョージア語にすると”ხმელი ფოთოლი”。

監督は”What Do We See When We Look at the Sky?”(2016)のAlexandre Koberidze。
ロカルノ映画祭でプレミアされてSpecial Mentionを受賞している。186分。

スポーツ写真家をしている娘Lisaが撮影でしばらく旅に出るが探さないでほしい、という謎の手紙を遺して消息を絶ってしまったので、父のIrakli (David Koberidze - 監督の実父)がLisaの仕事仲間のジャーナリストのLevani - 都合がわるいらしく透明人間になっているので声だけ - と共に車に乗って旅に出る、ミステリーぽい導入からのドキュメンタリーのようにも見えるロードムービーで、スタジアムのある辺り、サッカー場のある辺り、を村人とか通りすがりの人に聞きこんで、そこに着くとそこの人や子供にLisaの写真を見せて知らないか? って聞くけど知っている人も手ごたえもなくて、を延々と繰り返す。

映像は昔のVHSの画質 – つまりずっとボケボケで、その見通し、視界の悪さがIrakliのそれと重なって合わないメガネをかけた時のような不安と苛立ちをもたらす。ここには”What Do We See When We Look at the Sky?”にあったのと同じような「見晴らしのよさ」についての考察があり、ヒトだけでなくいろんな動物、牛馬豚ロバ、猫、鶏、などと共に、幽霊のような赤い影が映っていたりする(Apichatpong Weerasethakulぽいかも)。

最後も含めて、彼の旅は結局どうだったのか、ということよりも、生きていくってこんなようなことなのかも、って見えてきたところで枯れ葉(Dry Leaf)が。

10.17.2025

[theatre] (the) Woman

10月8日、水曜日の晩、Park Theatreの大きい方(200)で見ました。
原作はJane Uptonの戯曲、演出はAngharad Jones。90分休憩なし。客層は8割くらいが女性。

ポスターはピンクを背景にペンを手にしてノートを開いた女性がなんなのこれ? っていう困惑の表情でこちらを向いて何かを訴えようとしている。彼女の周りには日常のいろんなものがぐしゃぐしゃに飛び回っている。

最初は薄いピンクの衝立がある病室で、主人公のM (Lizzy Watts)が出産して赤子を抱えてベッドから立ち上がり、ここからいろいろ始まる。背後にはLEDの掲示板があって、Mの頭に浮かんだこととかシーンのタイトル、テーマらしきものが都度吹き出しのように投影されては消えていく。

劇作家でもあるMは次作(戯曲)の相談をしに出版社に向かうと、応対してくれた編集者(男性2名)はやたら丁寧に気を遣ってくれる - “sorry”って言うの禁止ね、とか - のだが、彼女がmotherhood - 「母性」をテーマにしようと思う、というと微妙に様子が変わって、それはすばらしい… けど犯罪とか憑依された赤ん坊とかミュージカル設定を入れよう、とかよくわからない条件 - ちょっと怖そうな要素 - をつけられてなんだそれ? になるとか、赤子と一緒にいても、仕事の会議中でも、友人とNight Outしてても、夫とセックスしていても、どんなシーンでも、自分の中から他人の態度からとても微妙な形で立ち昇ってきてケアされるのを待っているんだか嫌忌されているのかわかんない厄介なmotherhoodのこと - 所与としての子供のケアから面倒から、それに関わる自分のアップダウンに(初めてだから当然の)余計な懸念に心配、そんな自分を気遣ってくれたり触らないようにしてくれる周囲の人たち、など、カッコつき小文字の(the)としてデフォルトでついてくるあれこれをスケッチしていって止まらない。やろうと思えば3時間くらいのネタはあるのではないか(やってほしい)。

こんなふうに、「当事者」である母親ですら困惑して立ち尽くしてしまうmotherhoodについて、ふざけんじゃねえよどうにかしろ! って怒鳴るというより、こういうことになってしまうのはなぜ?なんで? を投げてきて、その困惑の深さ故に控えめに見えてしまうが、どうにかしないと、ってみんなが思っている - ということは客席の反応を見ていても感じた。

これ、育休とか制度の導入とか、”work–life balance”のようなバランスでどうにかできるようなことではなくて、基層とか前提に近いところ(を変えないとどうにもならない)のお話しなのだと思った。それくらい大変だから近寄らない、のではなく。

プログラムはなくて、スクリプトを買ったら冒頭にDeborah Levy, Miranda July, Virginia Woolfらの見事な引用があってそうだよねえ、になった。


Romans: A Novel


10月9日、木曜日の晩、Almeida Theatreで見ました。

原作は”Lady Macbeth” (2016)を書いたAlice Birch、スクリプトは人気なのか売り切れていた。
前日はMotherhoodのお話しだったが、この日はMasculinity - 男らしさ - がテーマとなる。演出はSam Pritchard。舞台の背景はシンプルな黒で、でも漆黒ではなく、見ているとカビのような星雲のようなものがうっすらと浮かびあがり形を変えていく。後半に入るとプールができたり回転したりする。

Victoria朝の時代から現代まで約150年間、男が生まれることを強く望んでいたごりごり家父長制の家長のもとに生まれた3兄弟 - Jack (Kyle Soller) , Marlow (Oliver Johnstone), Edmund (Stuart Thompson)がどんな生涯を送ることになったのかを寓話風に描いていく。

寄宿学校に送られて虐めに耐え抜いて強い兵士となり、二度の世界大戦を経てニューエイジ風カルト教団の教祖になって失墜するJack、虐待によっておかしくなって苛める側に立ってビリオネアのサディストになってしまうMarlow、最後まで自身のジェンダーも含めて馴染めないまま閉じこもっていくEdmund。

モダンからポストモダンまで、どのキャラクターも、映画なり小説なりでいくらでも描かれてきた、今のアメリカの政権にもうじゃうじゃいるような「男」として現れて、造型も含めて違和感ないのだが、でもこれって根っこから腐ってておかしいんじゃないの? 彼らは互いを支配し、苦しみ、愛し合い、最後は被害者ヅラして悲愴感たっぷりでかわいそうに見えるけどなんでそんなことになってしまうの? という根底に見えてくる、劇中では言及されることのないmasculinityについて。それらに対するばっかじゃねーの? として。

もうひとつ、これも指摘言及されることはないのだが近代小説における「男」像がmasculinity のvehicleとして機能・媒介してきたよね、という仮説 〜 コンラッド、ヘミングウェイ、フィッツジェラルドなどの作品で勝者/敗者として選別色分けされてきた男たちのイメージが再生される。今だとここに漫画やアニメやMCUも入ってくるのかも。

これ、日本の家族に設定を置いてもめちゃくちゃわかりやすくはまると思うので誰か翻案しないだろうか。(それを見たくなるかどうかは別)

一見ふつうの家族の年代ドラマふうに見えてしまう、見れてしまうところはあるのだが、とてもおもしろかったのでもう一度見たい。

10.15.2025

[music] Patti Smith

10月13日、月曜日の晩、London Palladiumで見ました。
彼女のデビュー作、“Horses”(1975)の50th Anniversary tourで、英国~ヨーロッパを回ってアメリカにも行くツアーのロンドン2 daysの2日め。

40th Anniversary tourのライブも見たので、50thも行かなきゃ、と思ってどうにかチケットを手に入れたのだが、後になって掘っていくと40thを見た、というのは思いこみで、自分が見たのは2005年の30thの時のライブ(日付は11/30)であることがわかって慄いてしまった。 20年前…  この時の場所はBAM (Brooklyn Academy of Music)で、ベースはFleaで、ギターにはゲストでTom Verlaine(椅子に座った状態だった)が参加していた。

会場にはRamonesからPistolsからDamnedからJohnny ThundersからSiouxsie Siouxまで、パンクのスタンダードががんがんかかっている。 前座なしで20時過ぎに始まって、まずは”Horses”の全曲通しから。 ドラムスは当初アナウンスされていたオリジナルレコーディングメンバーのJay Dee DaughertyからPolar BearのSeb Rochfordに替わっていて、アンサンブルはよりタイトに締まった印象。2023年のライブの時は過去の写真を背後にいろいろ映しだしたりしていたのだが、今回はシンプルな黒で、なんもない。

Patti Smithのライブを最初に見たのは1994年だったか95年だったかのCentral Park(おうちのどこかにポスターがある、はず)で、そこから年末のBowery Ballroomでのお誕生日ライブにも通ったり、しばらく空いた後、2023年は、The NationalのサポートをしたMSGのも見たのだが、おそろしいのは声の厚みというかでっかさがどんどん増して、ダミ声みたいな強さになってきていることだろう。 作家として本も書いて、写真集も出して、じゅうぶん隠居しておかしくない歳と容貌なのに(←偏見)、いったいどういうことなのか。

おもしろかったのは、前もやっていたかどうか定かではないのだが、1曲目の"Gloria"のエンディングを割とあっさり終わらせて、それを”Land”の最後に繋げて延々ぶちかましていたことだろうか。 (レコードのエンディングの”Elegie”は、”Land”の前にもってくる)

50年前、喪失と生への不安を抱えて、自分と世界の間にあるなにか/すべてを奮い立たせるべく解き放った”Horses”が、未だにこれだけの震えと畏れをもたらし、未だに何かを駆動し放出し続けている、その強さしぶとさの驚異をどう受けとめるべきなのか。 伝統芸ぽい落ち着きや風格なんて洗練なんて、微塵もないんだからー。

ここでいったん休憩に入って、20分後、Pattiを除いたバンドが出てきて、75年、CBGBで2ヶ月間一緒にやっていたバンドへのトリビュート、ということで、Televisionの”See No Evil”~”Friction”~”Marquee Moon”をカバーする。ヴォーカルはTony Shanahanがとって、”Marquee Moon”はヴォーカルを抜いた短縮版、ギターはJackson Smithががんばっていたが、うー。

“So You Want to Be a Rock 'n' Roll Star”から再びPattiが入って彼女のスタンダードを。エンディングの”Because the Night”の前には2003年に作った”Peaceable Kingdom”をパレスチナに捧げる(”Free Palestine!” コールが)。

アンコールはJohnny Deppがギターで加わり、Pattiの娘のJessieも入って定番の”People Have the Power”を。 それにしても、JohnnyDはなんであんな得体の知れないくそじじいになってしまったのか。


Refused

10月3日、金曜日の晩、O2 Academy Brixtonで見ました。 パンクで繋げてみる。

あまりきちんと追ってきたバンドではなかったが、解散するというし、サポートがQuicksandだというので。
なのだが嵐が来ていてバスが動いてくれなくて会場に着いた時にはQuicksandは始まっていて、どうにか数曲は見れた。ベースなしで、右左をえんえん引っ掻いて止まらない音の塊りで、こういうのは一日聴いていられる。

Refusedのメンバーは、1993年にオスロに来たLiving Colourを見にいった際、前座をしていたQuicksandを見てほれた、って後で言っていた(そうでしょうとも)。

PAにはパレスチナの旗が貼られて、セットを変えている間、ずっと”Free Palestine!”のコールがかかっている。Pattiのライブもそうだったが、ロンドンは割とずっとこんなふうなんだよ。 背後には極太ゴシック大文字で”THIS IS WHAT OUR RULING CLASS HAS DECIDED WILL BE NORMAL”と書かれたでっかい垂れ幕 - 昨年2月、D.C.のイスラエル大使館前で抗議の焼身自殺をした25歳の軍人Aaron Bushnellが最後に遺した言葉である。

思っていたより複雑によくしなる音構成で、真ん中くらいに”Old School Hardcore”って自嘲ぎみの枠でやった“Circle Pit”とか”Burn It”とかが軽やかに浮いていて、でもどっちもよいのだった。なんでもいいのか? なのだが、これに関してはなんでもいいんだと思う。総力戦、という意味で。

ヴォーカルのDennisが言っていた、学校でも職場でも世の中でおかしい、間違っていると思うことがあったり、辛いことがあったりしたら、声をあげていい、声をあげるべきなんだ、そのために僕たちの音があるってことを忘れないでほしい、っていう辺りが沁みた(”Free Palestine!”の声がさらにでっかくなる)。 改めて「政治的なこと」を嫌忌する「音楽ファン」なんて消えちまえ、って強く思った。

最後の方、背後の垂れ幕が”Umeå HARDCORE REFUSED 1991-2025”に替わって、緩急自在に爆発を繰り返す”New Noise”でのモッシュの荒れっぷりはバルコニーから見ていると壮観で、こればっかりは最後だから許してあげてよいのかも、って思った。

もうRATMもRefusedもいなくなった。でも、戦いは続く。

[film] Portrait in Black (1960)

10月2日、木曜日の晩、BFI SouthbankのAnna May Wong特集で見ました。前に書いたシリーズの続き。

邦題は『黒い肖像』。35mmプリントでのフィルム上映。

これがAnna May Wongの生前最後の映画出演作で、彼女の出演作でカラーだったのは、主演デビュー作の”The Toll of the Sea” (1922)とこの最後の作品だけだった、というのは興味深い。

原作はIvan Goff、Ben Robertsによる同名戯曲で、彼らが脚本も書いている。
監督はMichael Gordon、プロデュースはRoss Hunter、撮影のRussell Metty、編集のMilton Carruth、音楽のFrank Skinner、主演のLana Turnerという布陣は、これの前年に彼がプロデュースしたDouglas Sirkの”Imitation of Life”(1959)のをそのまま持ってきている、って。 見比べてみたくなる。

サンフランシスコで裕福な暮らしをしているSheila (Lana Turner)は、海運会社を営む傲慢な寝たきり夫(Lloyd Nolan)の介護をしながら、嫌になって疲れきっていて、そのうち彼の往診にやってくる医師のDavid (Anthony Quinn)と恋におちて、ふたりでうざい夫の殺害を計画して… すべてはうまくいったように見えたのだが、変な手紙が届いたり、運転手や家政婦(Anna May Wong)も何かを知っているようで、面倒そうなやつを消し始めたらいよいよ事態が悪い方にこじれてきて大変になるの。

お話しとしてはつんのめってて間抜けで他愛ないのだが、中心のふたりの何をやってもうまくいかない焦りと苛立ち、浮かびあがる殺意が、端正な社交生活のなかでノワール的に瞬いて膨れあがっていく様がおもしろくて目を離せなかった。Sheilaの意識の外にあった異世界(東洋のそれを含む)からの視線が波状で刺さってきて、その不安が彼女を駆りたてていくの。

Anna May Wongはいつもでっかい猫を抱えていて、それだけで絵になって素敵だった。


Shanghai Express (1932)

9月28日、日曜日の午後に見ました。
Josef von Sternberg監督、Marlene Dietrich主演による問答無用のクラシックなのだが、一番大きいシアターがほぼ埋まっていて、終わったら余裕で大拍手がでて、みんなでおもしろかったねえ、って言いあっている。

わけのわかんないものを大量に積みこんでがたがた走っていく列車に乗りあわせた得体の知れない乗客たちが楽しくて、見ているこちらもそこに乗り合わせてしまったような感覚がくる。 Anna May Wongは、ふつうにシャープでかっこよい。

Dangerous to Know (1938)

10月4日、土曜日の午後に見ました。 35mmフィルム上映。

監督はRobert Florey、原作はEdgar Wallaceの戯曲”On the Spot” (1930)、(共同)脚本をHorace McCoyが書いている。劇のほうはBroadwayで上演されて、Anna May Wongは同じ役で舞台に立ったそうな。見たかったな。

警察にも目をつけられている地元ギャングの親分Recka(Akim Tamiroff)は市長とか銀行を押さえて、やりたい放題ができる闇の王で、うるさそうな次の市長候補だって自殺に見せかけて窓から落としてしまう。そんな彼が社交界のふつうの女性Margaret (Gail Patrick)を好きになって自分のものにしようと彼女の恋人の証券マンを陥れようとしたところでいろいろ失敗して、それらをぜんぶ横で見ながら彼を静かに愛していたMadame Lan Ying (Anna May Wong)が最後に…

非情でわがままで、どこがよいのだかぜんぜんわからない男が自分の知らない、そもそも立ち入るべきではなかった世界にこじ開けて入ろうとしたら破滅して、そんなバカのためにさらに奥の隅の隅でひっそりと犠牲になってしまう彼女がかわいそうすぎて、当時のアジア人女性の位置ってそんなものだったのだろうか、とか。


Daughter of the Dragon (1931)

10月4日、土曜日の夕方、↑のに続けて見ました。 これも35mmフィルム上映。
監督はLloyd Corrigan。 邦題は『龍の娘』。

ロンドンが舞台で、20年前に死んだと考えられていたFu Manchu(Warner Oland – “Shanghai Express”でもアジア人キャラをやっていた)が、実は生きていて義和団事件で殺された家族の復讐に燃えていて、その血を継いだ娘で、エキゾチックダンサーのPrincess Ling Moy (Anna May Wong)は彼の子分から父が生きていることを知らされ、敵の屋敷にいる父を訪ねていって、そこにスコットランドヤードのAh Kee(Sessue Hayakawa)などが絡んでお屋敷の捕り物アクションになっていくの。よくわかんないけど、おもしろそうならいいや、のこてこてB級東洋伝奇アクション。 

早川雪洲がなかなかかっこよいのだが、あんな高いところから落ちても死ななかったのにはちょっと驚いた。

Anna May Wong、これの次に出演したのが“Shanghai Express”で、彼女のキャラクター的には繋がっているような。


Piccadilly (1929)

10月5日、日曜日の午後に見ました。

監督はドイツのE.A. Dupont、原作はArnold Bennettによるサイレントのイギリス映画。

ロンドンのナイトクラブ”Piccadilly Circus”が舞台で、人気踊り子組のMabel (Gilda Gray)とVic (Cyril Ritchard)がいて、でもふたりの人気も陰ってきたところで、経営者のValentine (Jameson Thomas)は地下で皿洗いをしていたShosho(しょーしょー)(Anna May Wong)と出会って、試しに彼女に出て貰ったらこれが当たって、でもそれが次の悲劇を呼ぶことに…  ピカデリーにはこんなナイトクラブがあったんだなー、あったんだろうなー、って。 Charles Laughtonが変な客としていたり、Ray Millandがエキストラでいたり。

Anna May Wongのダンスシーンが有名で、確かにすごくうまい、ということではないのだが、横で伴奏している男も含めて目を離せなくなる不思議な磁力があるの。

上映が始まって30分くらい経ったところで突然火災報知器が鳴って、他のシアターの人たちも全員外に出なければならず、ちょっと集中力を削がれてしまった。


今回のこの特集、フィルム上映やサイレント伴奏だけでなく、イントロやレクチャーが沢山ついて、アメリカ西海岸からも研究者を呼んだり、とても熱が篭っていてよかった。メインストリームとはちょっと違う位置や属性の下に置かれた彼女の出演作品を通して見ていくことで見えてくるものって確かにあるなー、って改めて。

10.13.2025

[film] Tron: Ares (2025)

10月10日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。久々なので3Dにしてみた。
最初の“Tron” (1982)も次の”Tron: Legacy” (2005)も実は見ていない。

コンピューターの向こう側に別の世界があったり別の人格が潜んでいたりする、というのは、もうコンピューターができて50年くらいになるのだからもういい加減諦めたらどうか、と思うのだが、ひとは夢みることをやめないし、最近はAIなどもあるので、まだ諦めていないらしい。でもあれらはものすごい労力と奴隷仕事の積み重ねでできあがった - 大半はゴミみたいな – ただのコードの羅列でしかない。 という認識は80年代からあったので、それを甘ったるくて超ださいコンピューターグラフィックスで包んで「SF」の名のもとに商品化したディズニーにはあーあ、しかなくて、いや、あれはアニメーションのようなものだから、というのであれば、アニメにしてもやっぱりださいし、でしかなかった。

今回見ることにしたのは音楽がNINだったから。 ディズニー側も早い時期からNINのロゴを入れて宣伝しまくっていたので、ちょっとは違って見えるのかしら、くらい。なので音もでっかいIMAXにしたのだが、あんまし変わんなかったかも。 ていうか、Trentは自分の音のバックがあんな程度のリンゴ飴みたいなグラフィックスで満足しちゃうわけ? 昔の君だったら絶対採用しなかったでしょ?

ENCOMとDillinger Systemsの2大グリッド企業があって、Dillinger Systemsの世襲のCEO – Julian (Evan Peters)は3Dプリンターを使って兵器とか29分で消える(なんで?)最強の使い捨て兵士Ares (Jared Leto)をリリースして、ENCOMのCEOのEve (Greta Lee)はそのデジタルの生成物を永遠に存続させることができるコードをアラスカの山奥から発掘して、それを知ったJulianはそいつを手にいれるべくENCOMのメインフレームに襲撃をかけて、Aresなどを総動員してEveをさらってこようとするのだが。

競争相手の新技術をかっさらうためにロボットを投入したらそのロボットが寝返ってひどい目にあいました、ママ(Gillian Anderson)にも怒られたけど、ママも死んじゃいました、っていうそれだけの話で、一企業があそこまでめちゃくちゃやっても許されるのだからなんだって許される、っていう、ここだけ今と繋がっていそうなディストピア。

そもそもなにをしたいのかが(説明されていたのかも知れないけど)よくわかんなくて、兵器市場の寡占化?世界征服?それで? とか、永遠に存続させるコード(不老不死の薬みたいな?)もネットから隔絶された山中に保存されていて、引っぱりだしたばっかりに大騒ぎになって、こっちもよくわかんない、みんな落ち着け!ほんとうにやりたいことはなんなの? って聞きたくなる。(ディズニーに聞け)

テック・ビリオネアって、なんでこんなふうに碌なことしないの?そういうバカがなれる世界なの?バカだからなれるの? 地球とか学術の世界にまともなことをしてくれる正義の味方の極左のビリオネアっていないの?

あとはあれよね。なんでデジタル生成物に髭を生やさせたり左利きにさせたりする必要があるのか、とか。そんな生成物がなんでDepeche Modeを80’s popで一番だと思うのか、とか、なんでJeff BridgesはCGじゃなくてリアルに歳をとった姿をしてみせるのか、とか。

まだまだ続きそうなかんじなのがこわい... 

NINの音としては、(NIN名義ではないが)“Challengers” (2024)のサントラのゴムみたいに打ち返していく弾力が効いてて、本体の中味がない –“Challengers”も割とそうだった - ことを考えるとゴスでダークなとぐろ巻きにしなかったのは懸命だったかも。Nine Inch Noizeの流れもあるので当分はリズム方面を追求していくのかしら。


All of You (2024)

9月28日、日曜日の晩にCurzonのVictoriaで見ました。
これも近未来っぽい設定のだったので、メモ程度で書いておく。

作/監督はWilliam Bridges。
舞台は近未来らしいロンドン。大学の頃からつきあっていたSimon (Brett Goldstein)とLaura (Imogen Poots)がいて、町には100%の相手を見つけることができるよ、テストを受けましょう!っていう勧誘の広告が溢れていて、Lauraは悩んだ末にテストを受ける/受けたい、って言ってSimonもそれに同意する。

で、Lauraはテストの結果でマッチングされた男性と一緒になって結婚して、子供ももうけて、でもテストを受けていないSimonはずっとLauraのことを想っていて、別の女性とつきあってもしっくりこなくて、Lauraもそれを知っててたまにデートをしたりして、でも今の家族と別れるかというとそこまではいかなくて、ふたりでずっとうだうだしているの。それだけなの。

なんでそこまでテストの結果に縛られるのかわからなくて、それが「幸せ」を予測してくれているから、なのだとしたら悩むな、しかないと思うのだが、彼らはずっと悩んでいてあんま幸せには見えなくて、そんなの知らんがな、になるの。

最後までどんよりめそめそしているImogen Pootsは素敵なのだが、設定がありえないくらい陳腐で、なんで?ばっかりだった。某宗教団体の合同結婚式に科学をまぶしただけの、そんな未来を描いたディストピアもの、として見るべきなの? 表面はrom-comだと思ったのに?

[film] Thelma & Louise (1991)

10月5日、日曜日の夕方、BFI Southbankの特集 - “Ridley Scott: Building Cinematic Worlds”で見ました。上映前に監督Ridley Scottのトークつき。

短編からMezzanineを使った企画展示から過去作品のclapperboard(カチンコ)を壁にずらりと並べた展示とか、BFIの売店では彼のサイン入り赤ワインの大きいボトル(£300)を売っていたり - なども含めた総括的な回顧で、この中で自分は”Boy and Bicycle” (1965) + “The Duellists” (1977)の二本立てとか”Someone to Watch Over Me” (1987)を見たくらい。

今や世界的な巨匠であることは確かなのだろうし、新作がリリースされたらふつうに見るのだが、昔から映画ファンだったわけではない(今だってそう)ので、”Alien” (1979)とか”Hannibal” (2001)とか、怖そうなのは見ていなくて、この”Thelma & Louise”も見ていなかった。トークの際に「見たことない人?」で手を挙げた1/3くらいに入っていて呆れられたが、公開当時は”Bonnie and Clyde”の女性版、という紹介のされ方(つまり最後は死んじゃうので悲しい)で、今みたいにフェミニズムやLGBTQ+文脈で語られることなんてなかったの(←言い訳になっていない)。

監督のトークは、よく話題になるメインの2人のキャスティングについて、既にいろんな名前があったりするが、今回はMeryl StreepとMichelle Pfeifferの名前が出て、他にはHans Zimmerのどうやって作ったのかわからん音楽の凄みとか、ロケはどこをどう切っても絵になるので楽しかった、とか、割とふつうで、翌日一部で話題になったらしいこの日の別枠のトークでの、「今の映画は殆どがクソ」発言も見ればわかるごりごりの頑固じじいぶりが素敵だった。

フィルムは今回の特集のために焼かれた35mmのニュープリント。最初の方のごちゃごちゃしてもうやだ! の鬱屈して湿った空気が後半に向かってどんどん晴れて風景と一緒に視界が広がっていく(彼女たちが広げていく)のが爽快なロードムービーで、男たちは全員が揃いも揃ってバカで腐ったろくでなしで、”The Blues Brothers (1980)のふたりは生き延びたのに彼女たちはなぜ死ななければならなかったのか、なぜあそこでLouise (Susan Sarandon)は、死のう!ってThelma (Geena Davis)に言ったのか、等について少し考える。

いまリメイクするとしたらメインのふたりは誰がよいかしら? とか(暇つぶし)。


Boy and Bicycle (1965)

9月4日、木曜日の晩に見ました。
27分の短編でRidley Scott自身がカメラを回して、弟のTony Scottが主演して、音楽はJohn Barryに格安でやってもらったデビュー作。地表の横線の置き方とかそこに向かって乗り物(ここでは自転車)が走っていく姿には既に彼の特徴が表れているように思ったが、それよりも彼のフィルモグラフィーが熊のぬいぐるみのアップから始まっている(エンディングも)ことはちゃんと記憶しておきたいかも。 ↑の週末にはこの二本立て上映に合わせた監督のトークもあったので、この辺、だれか質問したのかしら?

The Duellists (1977)


↑のに続けて見ました。邦題は『デュエリスト/決闘者』。
BFIアーカイブからの35mmのフィルム上映で、色味とか光のかんじも含めて70年代のヨーロッパ映画にしか見えない。原作はJoseph Conradの”The Duel” (1908)、19世紀初のフランスの、ナポレオン軍に従軍する二人の兵士 - Keith CarradineとHarvey Keitelによる30年に及ぶ決闘の歴史を描く。

ぜんぜんやられない懲りないねちっこいのに妙に爽やかに時間を超えて追っかけてくるHarvey Keitelがよい味で、ここは”Thelma & Louise”の彼の役にも引き継がれているような。

この最初の2本にあった軽妙な軽さがいつの頃からかどこかに行ってしまった気がして、それは何がそう見せているのか、ただの気のせいか、とか。

10.11.2025

[film] Islands (2025)

10月4日、土曜日の昼、BFI Southbankで見ました。

新作で、監督はドイツのJan-Ole Gerster。
Tom (Sam Riley)はカナリア諸島のホテルリゾートで専属のテニスコーチをしていて、昼は滞在客の子供や老人相手にレッスンをして、夜は地元のクラブに出かけて踊って酔っぱらってビーチで目覚める、みたいなことを繰り返している。

ある日、泊まりにきたイギリス人の裕福そうな夫婦のAnne (Stacy Martin)とDave (Jack Farthing)から彼らの息子の個人レッスンを頼まれて、ついでに彼らの部屋を裏でアップグレードしてあげたりしたことから親しくなって、一緒に食事をしたり観光したりラクダに乗ったりするようになる。 AnneとDaveは二人目の子供ができないことでちょっとぎすぎすしていて、互いの話を聞いてあげたりして、TomがDaveをクラブに連れていって呑んで騒いだ翌朝、Daveが消えてしまったことを知る。最初は酔っぱらってどこかに、と思っていたのだが現れないので警察に届けて本格的な捜査が始まって、そうしてAnneとTomは一緒にいるうちに親密になっていって、Daveのほうはぜんぜん出てこないのでどこかでもう亡くなっているに違いないし、それでもいいか、と思っていると…

捜査中に浮かびあがるAnneの怪しい挙動とか、ちょっとミステリーぽいところもあるのだが、そこにTomの日差しは強いのにいつまでもどんより投げやりの日々 - Daveと同じようにいつ消えてもおかしくない、むしろ消えちゃえって思っているTomの澱んだ姿に、何を予知しているのか飼育場からの脱走を繰り返す観光用ラクダの姿が重なっていく。Daveの捜索で、海からこのラクダの死体があがるシーンはなかなか素敵。

全体に70年代のアントニオーニみたいな、ブルジョアの腐っていく世界に漂う焦燥と倦怠がゆったりとクールに描かれていて、ちょっと長いけどそのリズムも含めて悪くなかったかも。Sam Rileyがすばらしくよいし。


Brides (2025)

10月3日、金曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

これも新作で、監督はNadia Fall - ずっと演劇畑でやってきた人で、National TheatreでNicholas HytnerのADをしていたり、今はYoung Vicで上演中の”Entertaining Mr Sloane”の演出をしている - の長編映画デビュー作。 予告にイスタンブールと猫が出てきたので見た。

2015年、15歳で家出してシリアのISに入隊したShamima Begumの事件を元にしたドラマ。

同じ学校に通うDoe (Ebada Hassan)とMuna (Safiyya Ingar)の親友同士がいて、冒頭はふたりがばたばたと電車で空港に向かい、出国審査を済ませて飛行機に乗ってイスタンブールに向かうところから。ここまではふたりの冒険が始まるどきどきがあるのだが、トルコの空港に着くと、来ているはずの迎えはいないし来ないし、とりあえずバスで国境近くまで行くしかないか、って、まずイスタンブールに向かうのだが、そこでDoeはパスポートなど一式を失くして…

無口で内気なDoeと強くて奔放なMunaのコンビは素敵で無敵のようなのだが、旅の途中で英国での彼らの家族や学校での辛くしんどくうんざりの日々が重ねられて、旅先での困難を支えるのはもう二度とあそこには戻りたくない、って家を出た強い意思、というその部分は普遍的に伝わってくるものだが、そこから彼女たちがどこに向かって何をしようとしているのか、は伏せられている。困っている彼らを助けて親切に泊めてくれたバスターミナルの女性とその家族を裏切るようなことまでしたり、最後に車に乗せてくれたパパと娘たちの幸せそうな姿を置いても、ずっとママから電話とメッセージがくるDoeのスマホを壊してまで彼女たちの国境を超えようという決意は揺るがず、絶望の深さが知れて、それはもうほとんど自殺のようなものに見えるのだが、最後に描かれるDoeとMunaの最初の出会いのシーンを見ると、それしかなかったのだろうな、って。後からいくらでも言うことはできる、というー

女の子ふたりの友情、を甘く切なく描くようなやり方ではなく、特に真面目なDoeの苦悶の表情を見るとどこかにたどり着いたから決着するものでもないのだろうな、って思えて、ふたりの女性の映画として成立させようとしているように見えて、そうするとタイトルの”Brides”が。

10.10.2025

[film] A House of Dynamite (2025)

10月5日、日曜日の昼、BFI Southbankで見ました。

公開直後のイベントで上映後に監督Kathryn Bigelow他とのQ&Aがある。

この週末のBFIはRidley Scott一色で、監督本人が来て、彼の代表作いろいろの上映(ほぼ35mmフィルム上映)の前にイントロしたりQ&Aしたりトークしたり、彼のサインを求める人たちでざわざわしていて、自分もこの日の夕方に”Thelma & Louise” (1991)とじじいを見た(そのうち書く)。

脚本はNoah Oppenheimで、監督とふたりでいろいろ練りあげて行ったことが後のトークでわかった。
映画は112分あるが、対象となる出来事は18分間で、この18分を3つのセグメント、いろんな登場人物視点や立場に分けたり引き伸ばして見せる。彼女の得意な突発的なアクションや爆発で人や建物が吹き飛んだり、は今回はない。登場人物たちは、仕事場の端末、スマホの画面、会議室のモニターに向かって苛立ったり怒鳴ったりしている動きが殆どで、明確な敵はいない、見えない – 誰が仕掛けたものなのか明確にはわからない、という点では”The Hurt Locker” (2008)の怖さに近いのかもしれない。

アラスカの米軍基地で発射を確認されていないで飛んでいる大陸間弾道ミサイルが発見され、最初は何かのテストかと思っていたのがどうもそうではなく、シカゴに向かっている本物らしい、ということがわかってくる。ホワイトハウスではOlivia Walker (Rebecca Ferguson)がいつものように出社してオフィスで各担当と繋いだところで、ミサイルの情報が来て、彼女たちも最初はなにかのドリルではないかと疑うのだがそうではなくて、脅威レベルが引き上げられて、アラスカの軍が迎撃に向かうものの失敗して、数分後には間違いなく米国領内に飛んでくることがわかる。

パニックになることを承知で市民に伝えるべきか、報復すべきなのか、するとしたらそのタイミングは、などが渦巻く中、ホワイトハウス関係者にも避難勧告が出て、Oliviaにも家族がいるしどうしよう.. の辛さとどうすることもできないもどかしさが受けとめ難い事実としてのしかかってくる、けどどうしようもない。

続くセグメントでは、USSTRATCOM(アメリカ戦略軍)のAnthony Brody (Tracy Letts)将軍が即時報復すべきかどうかについて大統領のセキュリティアドバイザーのJake Baerington (Gabriel Basso)と衝突して、議論が宙に浮く。ロシア外相は関与を否定し、北朝鮮についてエキスパート(Greta Lee)に聞くと発射できる可能性はある、という。でも確実な情報は得られないまま、で、どうする? に戻る。

最後のパートは、合衆国大統領(Idris Elba)で、女子バスケットボールのイベントに出ていたところを緊急で呼びだされ、こういう有事のアドバイザーであるRobert (Jonah Hauer-King)から分厚いマニュアルをもとに打つべき手について説明されて判断を求められるのだが、決められない。困ってRobertに聞いても、自分は取りうるオプションについて説明するだけですから、と返される(そりゃそうよね)。

事態に直面する職員から最終決定をくだす大統領まで、3つのレイヤーで上に昇っていくものの、限られた時間で判断するには情報が足らなすぎるし、でもそれに伴う犠牲と被害は大きすぎるし、責任の重さだけでなく、みんなそれぞれ愛する家族がいて、という明日にでも十分に起こりうる渦の緊迫を描いて、そうなんだろうな、そうなるよな、しかない。(シナリオ作りにはそれなりの中枢の人たちが参画しているので相当にリアルなものだ、と後のトークで)

だからー、抑止力とか言って核を持って広げるのは簡単だけど、それがもたらす事態って現場レベルに来ると具体的にはこうなるのだよ、って。 あと、“Oppenheimer”(2023)でもそうだったが、核がもたらすリアルな災禍については、この映画でも触れられない。この辺には巧妙な狡さを感じる。実際に起こったことなのに。かつてアメリカが起こしたことなのに。という、結果としては隅から隅までアメリカの前線で戦っている人々を讃える、それだけの映画でしかなくて、ここから核を失くすべき - 失くそう、の議論には行きそうにないのが。

あとそうよね、この映画は美しいくらいの統制と緊張に貫かれているのだが、現実のいまの大統領の下でこれが起こったら一瞬で世界は灰になるのが見える。Tomでもムリ。

映画の”Independence Day” (1996)だったら大統領が戦闘機に乗って突撃にいくし、ここの大統領はIdris Elbaなのでやってくれるか、と思ったがやっぱりそれはなかった。

上映後のQ&AはKathryn Bigelowだけでなく、脚本のNoah Oppenheim、Rebecca Ferguson、 Tracy Letts、Jonah Hauer-King、撮影のBarry Ackroyd、音楽のVolker Bertelmannが並んだ。監督だけだと思っていたのに、Rebecca Fergusonさんまで見れてうれしい。

質問コーナーで印象に残ったのは、ゲティスバーグの戦いを祝うイベントとかリンカーンの像とかが映しだされる場面があって、その意味を問われて、まあ普通の答えだったのだが、Tracy Letts(”Lady Bird” (2017)のパパだった人だよ)が手をあげて、もうひとつある - ここで描かれているようなことが起こったらこんなレガシーなんてなんの意味もなくなる、ということだ。いまのアメリカを見ろ、って。(拍手)

Tracy Lettsさんは、彼の書いた舞台、”Mary Page Marlowe” – 主演Susan SarandonをOld Vicでやっているので見に行く。

あと、撮影のBarry Ackroydの、どこにカメラを置いているのかわからないくらい多くのカメラを置いて撮っていくやり方とか。Ken Loachに学んだそうな。

10.09.2025

[theatre] Titus Andronicus

9月29日、月曜日の晩、Hampstead Theatreで見ました。

もとはStratford-upon-Avonで演っていたRSCの舞台がLondonに来たもの。
原作はシェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス
』(1593-94)、演出はDavid Tennantの”Macbeth”を演出していたMax Webster。音楽はMatthew Herbert。

Titusを演じていたSimon Russell Bealeが健康上の理由で降板してJohn Hodgkinsonが演じることになった。 元のポスターにあった、血まみれになって叫んでいる丸っこい熊みたいなSimon Russell Bealeを見たかったのでちょっと残念。

なぜか舞台を囲む席のうち一番前のが取れてしまったのだが、席に着く前に、「あなたの席の下にはブランケットがあります。シーンによっては血しぶきが飛んでくることがあるので、それでガードしてください。飛んでくる可能性がある箇所は3つあるのですが、知りたいですか?」と聞かれて、(そんなの知ってたらおもしろくないじゃん)だいじょうぶ、と返した。のだが、横の人たちを見ると、みんな首までしっかり被っているのでちょっと不安になる。そうやって首まで巻いているとぽかぽかしてきて眠気が…

舞台はモダンでモノクロームで殺風景で、金属の格子があったり上から拷問器具の鎖がさがっていたり屠殺場のように冷え冷えしていて、床は大理石の薄白で、表面にうっすらと墓碑銘のような文字が掘ってあることがわかる。

黒のタイトな服を着たダンサーのような男性たちが数名出てきて、くねくねざわざわ、っていうかんじの不吉っぽい舞いをして、消える。以降、彼らは場面転換のたびに現れたり、死体を舞台(石盤)の下に埋葬(落と)したりする。

ゴート族との戦いに勝利し凱旋したローマ軍将軍Titus(John Hodgkinson)の運命を追う血みどろの史劇で、復讐と憎悪に燃える側とその炎に焼かれる側で、互いの家族の妻や娘や息子が強姦される舌を切られる両手を切られる、自分で腕を切る、人肉パイにされる、など残酷陰惨な場面が延々続いて大変で、これらがモダンでクリーンな空間でしらじらと(ライブで見るとどたばた音は恐いくらいやかましく)展開される。 だから戦いや復讐は虚しい、とか、だからやっぱり家族は大切、とかそういうところにも向かわず、こんな諍いなんて屠殺場のin-outとなにが違うのか、って。それだけで、Titus Andronicusの将軍としての威厳や悲愁もないことはないが、そんなことより、これは不可視なところでの拷問や虐殺が正当化されて、膨れあがる憎悪の裏側でぴかぴかの表面だけがもてはやされる現代の権力者たちのしょうもなさを指しているんだろうな、って。

血しぶきはずっと来なかったのだが、ちょっと油断した – Tamora (Wendy Kweh)が刺殺されるところ - でばしゃーって飛んできて顔にかかった(冷たい。絵具の匂い)。


Troilus and Cressida

9月30日、火曜日の晩、Shakespeare’s Globe Theatreで見ました。

二日間続けてShakespeareの史劇を見ようと思ったわけではなくて(Shakespeareはなにを見てもおもしろいことがわかってきたので、なんにしても可能な限り見る)、もう野外で見る劇は日が短いし、天気も安定してないし寒いしで、気候が崩れないところを狙ってて、たまたまこの日はよさそうだったので、昼間に空いているところを取った。休憩をいれて約3時間の野外劇は、夜になるとやっぱり冷えて寒くて、休憩時間に帰ってしまう人も結構いた。

原作はシェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』 (1602)、演出はOwen Horsley。

舞台の右手には半分壊れたでっかい張りぼての足が無造作に置かれて、金メッキが剥がれていて、その少し上には”TROY”っていう矢印の看板がやはり棄てられたようにかかっていて、いまは錆びれてしまったかつての繁華街の趣き。舞台の上の階にいるバンドもブラスと太鼓が中心の気の抜けたちんどん屋風情。

最初はトロイ側(8人)とギリシャ側(9人)のそれぞれの見得の張りあいで、トロイ側は金を塗ったむきむきの筋肉鎧をつけていて威勢も景気もよくて、でもそのギャップはあくまで冗談のように機能していて、最初に舞台の下から現れた道化のThersites (Lucy McCormick)がいろいろやさぐれで案内してくれる。もうひとつのテーマであるTroilus (Kasper Hilton-Hille)とCressida (Charlotte O’Leary)の恋も、大阪のおばちゃんみたいな(←すみません偏見です)Pandarus (Samantha Spiro) によってかき回されてばかりで落ち着かない。

Cressidaがギリシャ側に売られた後の顛末も、あまり悲劇的なトーンはなく、だからどうしろっていうのよ、みたいなふてくされと共に語られて、あまりにしょうもないので笑ったり歌ったり騒いだりするくらいしかないじゃん、になってしまって、とにかく神々も含めていろんな連中がわらわら出たり入ったりしつつコントやミュージカルみたいなのをやっていくので、飽きないことは確かで、よく言えば戦乱期の混沌と落ち着きのなさ、みたいのは表現できていると思ったが、そもそもこういう劇なのかしら?

最後は吉本小喜劇?(←すみません見たことないです)みたいにみんなで踊ってまわってええじゃないかー、みたいになるのだが、やはりどうしても、はて何を見たのか? にちょっとだけなったかも。

10.08.2025

[film] Arena Legacy

10月1日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

9月の特集だったTV局 - Associated-Rediffusionのシリーズとは別で、BBCのドキュメンタリーTVシリーズ - ”Arena”の放送開始(第一回放送が1975年10月1日)から50周年を記念して、アーカイブから2番組を上映して、シリーズ全体の制作責任者だったAnthony Wallから話を聞く、という企画。

アートや文化に関する人やトピックを取りあげて掘り下げていって、どんなエピソードが放映されたかはWikiにもあるし、BBCのサイトにもあって、(英国内なら)配信でほぼ見れるようになっている。Dylan ThomasとかHarold PinterとかJorge Luis BorgesとかJean GenetとかEvelyn WaughとかEdward Saidとか、作家についてのもの、Edward HopperやFrancis Baconといった画家についてのもの、史跡から建物まで、なんでもあって、とても見たいのだが、ロックダウンでも起こらない限り、いまあれこれ見ている時間はないや…

この日上映されたのは2プログラム。番組のオープニングは海を漂うボトルのなかにネオン文字の”Arena”が浮かびあがり、音楽はBrian Enoの"Another Green World”だったりする。

My Way (1979)  37min

誰もが知っているスタンダードの曲”My Way”について、Frank SinatraからElvis PresleyからSid Viciousまで、なんでこの曲がそんな世界のスタンダードになったのか、楽理とか歌詞とかいろんな角度から掘り下げたり、あなたにとっての”My Way”とは? をイギリスの保守系政治家に聞いてみたり、そのアプローチがおもしろい。

元はフランスの"Comme d'habitude"っていう曲で、それをPaul AnkaがSinatraが歌う用に英訳してリリースしたら爆発的にあたって、それ以前だとDavid Bowieがフランスのオリジナルに強引に英詞を被せるようなことをしていたり – これが後に”Life on Mars”になった、と。

みんながどんなにこの曲を愛しているか、というよりいかに誰もが自分の”My Way”を叫んだり歌ったり訴えたがっているのか、がよくわかる内容で、とてもおもしろい。ある人が”My Way”を歌って叫ぶことで犬の遠吠えみたいにわんわん広がっていくその効果のありようとか。応援歌というよりやはり遠吠えに近いものなのかしら。

ラストはSid Viciousの“My Way”で、真ん中で反転させるようにSinatraのを被せて、最後ふたたびSidのに戻って、それでも曲のぎらぎらしてて、実はクールに見えてしまったりのイメージは揺るがない、というのを示す。

こんなふうに、結構作りこんだところも含めて単なるドキュメンタリーに留まっていないような。
日本のスタンダード演歌とかでやってもおもしろくなるかも。


Chelsea Hotel (1981)  55min

NYのランドマーク建物 - 建物がすごいとかではなく、そこに引き寄せられた人々がすごかった - Chelsea Hotelについて、ホテル内に観光ツアーの一団がぞろぞろ入っていくのを横目に、当時の住人などにインタビューしたり、Stanley Kubrickの”The Shining” (1980)よろしく、三輪車に乗った子供がホテル内を走り抜け抜けていったりする。

そうやって子供が走っていった先 - Arthur C. Clarkeが”2001: A Space Odyssey” (1968)を書いた部屋で、ヘッドホンをしたAndy WarholとWilliam Burroughsが一緒にウサギを食べてて、BurroughsがWarholにサインして絵まで描いてあげた自著をプレゼントするとか。そういうのを筆頭に、大昔から文化人や(文化人=)変態が滞在したり居住していたりしたホテルの謎に迫る -

のはずだったと思うのだが、あんな人もいる、こんな人もいた、をやっているうちに住み心地とかインスピレーションの起源とか、そういう知りたい本題などから外れていってしまうのがおもしろい。作曲家のVirgil Thomsonが語るGertrude Steinとの思い出とか、Alice B. ToklasのCook Bookでアメリカ版の初版から削除されたレシピのこととか、幽霊みたいに歩いていくQuentin Crispとか、屋上の家(? あんなのあるの?)でピアノを弾くJobriathとか、”Chelsea Girls”を歌うNico(横でギターを弾いているのはだれ?)とか、ホテルを舞台にしたホラーよりもわけのわからない人々が幽霊のように現れては消えていく。

そしてこれが撮られたのが44年前であることを考えると、ここに写っている多くの人たちもみんなほぼ亡くなっていて、どっちみち幽霊屋敷、じゃないホテルなんだなー、って気づいて、マンハッタンのほぼ真ん中にこれだけいろんな化け物が跋扈する場所があったのか、と(まだあるけど)。

本当なら2時間くらいの内容になってもおかしくなかったし、してほしかった。

今回上映された2本の共通項、というとSid Viciousだと思うのだが、そこは意図したものだったのか? をちょっと聞きたかった。

数ヶ月前の特集でやっていた”Moviedrome”のシリーズにしても、こういうのがTVを点けたら流れてくる、っていうのが「文化」を作ったのだろうなー .. 今と昔ではTVの位置も文化も変わってしまっている、とは言えいいなー、しかなかった。

10.06.2025

[theatre] The Land of the Living

9月27日、土曜日のマチネをNational TheatreのDorfman Theatreで見ました。

原作はDavid Lanの新作戯曲、演出は(映画監督としても知られた)Stephen Daldry。

Dorfman TheatreはPitをいろいろ加工リフォームできるのだが、今回は舞台をランウェイのように縦に長くぶちぬいて、突き当りに重そうな扉と、本棚とピアノ。反対側には扉と簡素なキッチン、現在のRuthが座る揺り椅子。ステージの下、客見えるところにも書類棚が沢山並んでいる。舞台に本棚があって本が詰まっていたり書類が積んであったりすると(自分が)嬉しくなることに気づいた。客席のA列とB列の間も兵士たちが通り抜ける狭い道になっていたりする。

第二次大戦の頃、ナチスがスラブ系の子供たちを家族から引き離して誘拐し、遺伝的要件を満たしていればドイツ人家庭に入れてドイツ人として育てる、というLebensborn計画(の後始末)を巡るドラマ。連れ去られた子供の数は数十万人、ヨーロッパ全土で1100万人に及んだ避難民が収容されていたキャンプからRuthのいたUNRRA(the United Nations Relief and Rehabilitation Administration)は本国送還などを支援して軍と一緒に欧州各地を転々としていた。

1990年のロンドン、戦後から45年経って、Thomas (Tom Wlaschiha)がRuth (Juliet Stevenson)の家を訪ねてきて、ピアノを弾いたり、昔話をしていく中、幼い頃のThomas (Artie Wilkinson-Hunt)のこと、そして戦後処理をする国連のUNRRAとしてやってきて、引き取られた子供たちをドイツ人家庭から再び引きはがして故郷に返す活動をしていたあの頃のRuthと子供たちのことが蘇ってくる。Thomasにとってはあの時の自分に何が起こったのかを知ること、Ruthにとっては、あの時の自分に何ができなかったのかを掘りさげること – どちらにとっても楽しく懐かしい振りかえりの旅ではない。

現代のRuthの部屋と当時に繋がる長い廊下を行ったり来たりしながら、戦時下の銃声が鳴り響く中での混乱、母たちの声と嘆き、子供たちからすれば引き離される不安と恐怖のなかに置かれた孤独、どれだけ手を尽くしても終わりの見えないRuthたちの疲弊、これらが縦長の舞台を目一杯使って延々描かれていって、客席の背後の闇からはThomasだけではない多くの子供たちの声や気配がずっとしている。

これらは勿論、いまの移民、難民政策にも繋がる話で、”The Land of the Living”とは何なのか、国境の右左だけでなく、家族が一緒に安心していられる・暮らせる場所ではないのか、ということを改めて。いまの時代であれば尚更に。

劇としてはメッセージも含めてものすごくいろんなことを詰め込み過ぎの印象があって、戦中と戦後を繋いで次から次へといろんなことが起こって、俳優陣もいくつかの役をかけ持ちしつつ舞台を代わる代わる駆け回って大変そうだったが、見ている方も咀嚼している暇がなくてちょっとしんどかったかも。これなら映画にした方が... とか。


Creditors

9月25日、木曜日の晩、Orange Tree Theatreで見ました。

原作はスウェーデンのAugust Strindberg(画家でもある)による同名戯曲 “Fordringsägare” - (1889) - 邦題だと『債権者』。英訳はHoward Brenton、演出はTom Littler。 休憩なしの約90分。

ホテルの一室に画家のAdolf (Nicholas Farrell)が療養のため長期滞在していて、そこに滞在している友人のGustav (Charles Dance)が訪ねてきて、Gustavに勧められてAdolfは粘土彫刻をやってみたが女性像はあまりうまくいかなかったり、ふたりでAdolfの妻で小説家のTekla (Geraldine James) – Gustavの元妻でもある – を待って彼女のことを話題にしながら、Teklaをどうしてやろうか – のようなことをそれぞれが考えているよう。やがてTeklaがやってきて、

“Creditors”は3人が互いのことを言う際に使ったりする言葉で、過去の関係においてそれぞれが何らかの負債のようなものを負ったり負われたりしつつ、自分が相手のことをそれぞれのやり方で上に立ってやりこめたりどうにかできるのではないかと踏んでいる、そんな三つ巴のやり取りが続いて最後には..

内に何かを秘めて煮込んだ一筋縄ではいかない初老の男女たちのドラマで、全員めちゃくちゃ自然のようで、でも裏があって怪しくてうまいのだが、やはりCharles Danceの老いた蛇のような佇まいがものすごい。実生活で絡まれたりしたら絶対にいやだと思うが、目の前3メートルくらいのところにいる彼の存在感は痺れるような強さがあったの。

[music] Edwyn Collins

10月4日、土曜日の晩、Royal Festival Hallで見ました。

“The Testimonial Tour”と題されたEdwyn Collinsお別れのライブ。2005年に梗塞で体の自由を失ってからもライブは続けていたがもう.. ということなのだろう。本当にありがとう、おつかれさまでした、しかない。

これの前日はRefusedの解散ツアーのライブだったし、いろいろ終わりの季節の予感。

チケットは5月か6月に発売になって、でも発売日にミスしたら前方は簡単に埋まってしまい、それから数ヶ月間、辛抱強く毎日チェックしていたら前から2列目が釣れた。こういうこともある。

さて、Orange Juiceとの出会いというと亡くなられた渋谷陽一氏のサウンドストリートで”Simply Thrilled Honey”が流れたのが最初だった記憶がある(いや、その前に買って聴いていたか?)。徳間からでたRough Tradeのコンピレーション盤”Clear Cut”の紹介で、他にはThe Fall、The Raincoats, Delta 5なども流れた(NHK FMで)。しばらくして輸入盤の7inchを買って、イルカが飛んでいる1st “You Can't Hide Your Love Forever” (1982)も買って、これは同じプロデューサーAdam KidronによるScritti Polittiの1stと並んで、自分の恋愛に対する基本の態勢を決定づける1枚となる - よくもわるくも、たぶん相当だいぶわるい方に。あと更にはスタックス・ソウルへのゲートウェイにもなったのよ。

そんなふうに聴きこんでいながら、彼の初来日のクラブチッタは用事があって行けず、ようやく見ることができたのは2010年頃の100 clubで、今回が2回目で最後のライブとなる。

物販にはPostcard Recordsのシンボル猫のTシャツ、トート、プリント、コップなどが並んでいて、珍しくバカ買いしてしまった。2018年にエジンバラで”Rip It Up: The Story of Scottish Pop” っていう企画展示があった時に行って買っただろ(と、今になって思いだす)。

バンドはG2, B, D, Key (+Sax)の5人、知っている人がいない若い編成だったがギターの刻みと弾みが気持ちよかったので十分。Edwynは杖でマイクスタンドまで歩いていって座って歌うのだが、まったく問題なく、本人もだいじょうぶだろ?って何度も客席に確認していたが、よい声が出ていた。

1曲目で”Falling and Laughing”〜”Dying Day”をやる。「1980年の、ちょっとインディーぼいやつね」だって。”The Wheels of Love”ではDennis Bovellとデュエットして、本編ラストの”A Girl Like You”ではPaul Cook御大がドラムスで入り、コーラスにはなんとVic Goddard - もうほんとおじいさんだねえ - が入る。

いちばんよかったのは”Intuition Told Me (Part 1)” 〜 “Simply Thrilled Honey” 〜 “Consolation Prize”の流れだろうか。ぜんぶばりばりに歌えていろいろ蘇って涙ぐんでしまえる曲たち。これに続いた2ndからの”I Can’t Help Myself” 〜 “Rip It Up”も悪くはないのだが、いつもあのバカにしたような邦題がチラついて今だに腹立たしさが。

アンコール、ソロから2曲やった後、バンドメンバー紹介をして、ここで再びゲストがはいる。なんとOrange JuiceのオリジナルメンバーのJames Kirkがギターに、Steven Dalyがドラムスに。まったく予想もしていなかったのであわあわする。フリッパーズギターの2人が突然同じステージに立つようなもん、と言ったら通じるだろうか。彼らが入って”Felicity” - Jamesの曲と、”Blue Boy”を。”Blue Boy”のミドルで炸裂するギターをJamesが思いっきりためてがしゃーんてやっているのをみてじーんとした。

人が亡くなるのと同じく、自分が大好きだったバンドもいつかは活動を停止したり解散したり消滅したりって、まあ当たり前のことではあるのだが、こういう形で終わりを見ることができてネコ土産も買って帰れて、って40年前の自分には想像できることではなかったねえ。 それがどうした? だけど。

[film] Happyend (2024)

9月28日、日曜日の昼、Curzon Bloomsburyで見ました。

いくつかのシアターで『何かが大きく変わる予感がする』 - “Something big is about to change”というコピーのついた自動車のひっくり返った看板(ポスターではなく立体の)が置いてある。

監督は”Ryuichi Sakamoto | Opus” (2023)を撮った空音央。邦題も『HAPPYEND』。

幼馴染でずっと親友できたユウタ(栗原颯人)とコウ(日高由起刀)は高校でもつるんで18禁のクラブイベントに行ったりEDMやったり仲間と楽しく過ごしていたのだが偉いんだぞって顔して頭の悪そうな校長(佐野史郎)とか学校にはうんざりしていて、ある晩、校長が自慢している(それしか自慢できるものがなさそうな)車にいたずらしたら激昂して全校にバカみたいな名前(パノプティコンから)の監視システムを敷いてますますやってらんねー、になっていく、そうやって消耗させて支配しようとする大人たちとの終わらない戦いの日々。

学校の外では頻繁に繰り出されるフェイクの地震アラートとそいつをネタに緊急事態条項を成立させようとするやらしい政府(また復活しちゃうね)やそれを下支えする外国人排斥の空気とか、どこかで見た(まだ消えてない)おなじみのうんざりがぷんぷんで、ユウタとコウの周囲にもそれらに同調する連中、反対する連中それぞれがいて、でも目の前の校長のアレだけはカタをつけないといけなくて。

彼らがハッピーエンドになろうがどん底に落ちようがそんなことは割とどうでもよくて、いまの空気や問題の並べかた、それらがどんなふうに日々べったり張りついてきて気持ち悪いものなのか、はよく描けているように思った。けど、他方で、彼らの青春のお話だからしょうがないのかもしれないが、これを彼らの世代の、仲間や友達がいる前提で成り立つようなお話にしてしまってはいけないのではないか。「彼らの物語」にした途端にそれは、というかそれこそが連中の思う壺なんだってば。

思い出したのは、ここから20年ほど遡る『アカルイミライ』 (2003)で、あれも同じように若者たちのどん詰まりを描きつつも、それでも周辺の大人たちも巻きこむ世の中の不穏さ、気持ち悪さに溢れてはいなかっただろうか。あの頃ぜんぜんアカルく見えなかったミライが、あれから20年経ってどうなった?( ⤵︎ )


Breakfast Club (1985)

9月20日、土曜日の晩、Stratford-upon-Avonから戻ってきて、BFI Southbankで見ました。

シアターに入るとSimple Mindsの”Life in a Day” (1979)が流れていてちょっと動揺して倒れそうになる。 高校に通う時いつも聴いていた曲、40数年ぶりに聞いたかも。映画の主題歌の”Don't You (Forget About Me)”と同じバンドのだから、くらいで流していたのだろうが、Simple Mindsの初期はほんとによい曲だらけなんだから。

たぶん見るのは公開当時と、00年代のNYと、今回のが3回目くらいで、今回が一番しみたかも。

折角の土曜日に学校から呼び出しをくらい、親に連れられて学校にきて、"who you think you are"というテーマでエッセイを書くことになった互いをよく知らない 5人の一日を描く。

境遇もばらばら、共通の話題もそんなになく、一致しているのはそんなことをした教師への恨みと学校への嫌悪だけ。 やけくそになっていろいろ吐き出したりぶちまけたり、彼らみんな誰もが自分を理解してくれるとも、理解してほしいとも思っていない。そこから何が起こりうるというのか。最初に見た当時は、なんてスイートな結末、だったが、今見ると彼らがああなっていく過程の不思議なリアルさと、それを実現してしまった脚本、若者たちの演技の見事さに打たれる。

そして、"who you think you are"を改めていまの自分に。

10.04.2025

[theatre] Invasive Species

9月21日、日曜日の晩、King's Head Theatreで見ました。

原作は主演もしているMaia Novi、演出はMichael Breslin。NYのOff-Broadwayで上演されて評判になっていた舞台を持ってきたもの。スクリプトには”A True Story”とある。 休憩なしの約75分。

アルゼンチンからNYの演劇学校にやってきて女優を目指しているMaia (Maia Novi)がいて、パラマウント映画のオープニングのあの音楽を全身に浴びて、わたしはやれる!絶対にスターになる!って意気揚々で張りきっているのだが、気が付いたら病院のベッドに寝かされてて、ここはどこ? わたしは? になっている。

そんな彼女の周りにいろんな怪物とか変な人などが次々に現れて彼女を上げたり下げたり一緒にダンスしたり、全体としてはなにがなんでも有名になるんだ妄想に憑りつかれてしまった彼女に襲いかかる終わりのない悪夢を4人のパフォーマーがいろんな役 - 医師、病院の他の収容者、演劇学校の仲間、マイアミにいる母 - 等を代わる代わる演じたりして、そのうちのひとつがポスターになっているいろんなチューブを纏ったみど蚊みたいな虫だったり。

彼女はこんなInvasive Species(外来種)が媒介するなにかにやられてしまったのか、ひょっとして彼女自身が外来種だったりするのか、そもそもこれって病気とか害悪だったりするのか、でも今ってこんな人ふつうにいるじゃん? とか。

舞台はめまぐるしく、強いテンションで照明や音楽を変えながらMaiaが辿っていくジェットコースターのぐるぐる旅と敵のようにやってくる困難をノンストップで見せて – でも舞台は小さいただのフロアなので転換は工夫していて飽きることはない。 のだが、後半に向かうにつれて見る方も演じる方もちょっと疲れて内省的になってくるような – それはそれであって当然のことだとしても。

なのでそれらが飽和した状態でのあのラストはとてもよくわかるかんじだった。ちょっと凡庸かも、とは思ったが。


Cow | Deer

9月22日、月曜日の晩、Royal Court Theatre(の上のシアター)で見ました。

演劇というよりは音の実験パフォーマンスのような。ポスターは牛の顔左半分、鹿の顔右半分の合成写真で、動物好きなので見る。生きた彼らは出てこなかった。

演出Katie Mitchell, 台本Nina Segal, サウンドアーティストのMelanie Wilsonの3名 +National Theatre of Greeceの共同制作。休憩なしの約60分。

会場は暗くて、舞台のところは大きな作業机が3つ並んでいて、そこに草の俵のようなものとか土が積まれて盛られて、水槽もあって、奥にはブースもあって、鳥の声や水の音がしていて、机の前にはマイクロフォンが9本、刺さるように立っている。(撮影厳禁)

そこに黒い服を来た4人の奏者というべきなのかパフォーマーが現れて、牛と鹿のそれぞれの一日を音で描いていく。バックグラウンドで流れるField recordingで録った音の様子から、これは牛のそれ、これは鹿のあれ、はなんとなくわかる – それだけでもすごいが、スクリプトを読むと、結構細かく牛と鹿のそれぞれの動きが書かれていて、パフォーマーたちは、いろんな道具(濡れた布、布袋、石、木の枝、いろんな葉っぱ、じょうろ、スイカとか果物、砂とか砂利とか)を机の上の塊りの上で叩いたり鳴らしたり潰したり散らしたり指でくりぬいたりして音を出して、場面によってはそれらをミックスさせながら音のランドスケープとしか言いようのないものを見せてくれて、牛と鹿が最後にどうなってしまうのかもはっきりわかるし、とにかくこれらの音を通して牛の、鹿の一日 and/or 一生を。

あらかじめ録ってある音とライブで出す音の境界(の決め)ってなんなのだろう、とか、エレクトロニクス系のライブで机の上に箪笥シンセとか機材が積んであって演奏するのと違いがあるとしたら、とか。

日本には江戸家猫八っていうのがいて(自分がよく知るのは三代目だった)、彼がひとりいたらこれらの音はだいたい賄えてしまうのだけど、って少し思った(ちがうだろ)。

10.03.2025

[music] The Life and Songs of Martin Carthy

9月27日、土曜日の晩、HackneyのEartH Theatreで見ました。

ブリティッシュ・フォーク界のもはや人間国宝といってよいMartin Carthyは84歳で、こないだの5月に新譜を出したりしているすごい人で、そんな彼へのトリビュートライブで、ものすごい人数が出演して演奏するのだが、ロックの世界からはBilly BraggとかGraham Coxonくらい。彼のライブは2017年にCafé OTOでも見ているのだが、本当に不思議な歌を歌うすてきなおじいさんなんだよ。

会場オープンが17:00でライブは18:00から、というのを知ったのがBFIで映画を見終わった17:30くらいで、まあ最初の方は見逃してもいいか、と思って軽くご飯などを食べて会場に19時過ぎに着いたらずっと前からSold outしていた会場はとうにぱんぱんで、オープニングのJoe Boydのスピーチも、続くBilly BraggもMartin CarthyもGraham Coxonも - それぞれ弾き語りだと思うが - 既に終わっていた(ことを後で知る。底なしのおおバカ)。

全体は3部構成で、ACT1がFolk Troubador、ACT2がInnovator & Collaborator、ACT3がJust Don’t Call Him a Legend、終演は23:00、と。席は指定ではなくて、入った時には上までびっちり埋まってて、立ってるひとも大勢いて、3時間以上そうしているのはしんどいので下におりて階段通路に座る。

ステージ上にはパブ”North Country Maid”(彼の曲名でもある)ができていて、どういうことかというと、出演者はほぼ全員そこの椅子に座ってパブのカウンターで頼んだのを呑んだりくつろいだりしてて、自分の出番がくるとあいよ、ってかんじで真ん中に出て行って演奏するの。壁っぽい衝立にはポスターやチラシが貼ってあって、レコードも貼ってあって、主賓のMartinは前方にちょこんと座らされて、演者と会話したり、曲によっては(ほぼぜんぶ彼の曲だから)強引に歌わされたりギターを弾いたり一緒に口ずさんだりしている。 ぼろいパブの隅によくいそう、ずっと鎮座している神様的な存在というか。

演奏はギターを抱えた弾き語りだけでなく、ハルモニアとかアコーディオンとかダルシマーとか、アカペラだけとか、鈴がついた服とドタ靴でダンスをする男集団とか、バンドもあったし、人によって曲によって無限にありそう。

第一部の休憩後、第二部に入る前に各界からのお祝いのメッセージビデオが流れて、これがまた冗談みたいな。

KT Tunstall → Paul Brady → Jools Holland → Van Dyke Parks → Paul Weller → Robert Plant → Bob Dylan、だよ。 これだけの広がりのおおもとにこの小さなおじいさんがちょこん、て座ってて、みんなが行けなくてごめん、って言うの。

個人的にはMaddy Priorを見て聴けたのがよかった。Graham Coxonはずっとステージ上で寛いでいて、歌をうたう女性にGの音だしてくれる? ってこき使われていたりした。

酔っ払いのお話しが長くなっていくのと同じように、どの曲もお話しを語り聞かせる調子なので一曲がかなり長めで、でもどれも気持ちよく入ってくる。誰の話だったか忘れてしまったが子供の頃にギターを練習していて、ギターのコードってメジャーかマイナーか、くらいだったところに、Martinの曲からそれだけじゃない、こんな(実際にいくつか弾く)のがあるんだって知って、そこから深みにはまった、みたいな話がおもしろかった。 音楽史的にはVilla-LobosとかJoão Gilbertoのようなところに位置付けられるのかしら。

最後は出演者全員の合唱で何曲かやって、”Hard Times of Old England”から”England Half English”に繋いだBilly Braggは(やっぱり)力強く”Free Palestine!” を叫んでくれた。


Gina Birch & The Unreasonables  

9月24日、水曜日の晩、100 Clubで見ました。
この日はお芝居を見に行く予定だったのだが、彼女のライブの予告が来たので演劇はキャンセルしてこっちにする。

こないだ出たAudrey GoldenによるThe Raincoatsの評伝本”Shouting Out Loud: Lives of the Raincoats”は当然全員のサイン入り、トートバッグとバッジがついた特装版を予約して手に入れた。見たことのない写真とか関係者証言が山盛りで、いつでもどこからでも読める。カートが亡くなった晩のNY Academyでのライブ(Liz Phairの前座、自分がRaincoatsのライブを最初に見たとき)のバックステージがどんなだったかが綴られていたり、興味深い。

昨年のTate Britainの企画展示”Women in Revolt ! Art and Activism in the UK 1970-1990”の会場でもちょこちょこライブをしていたらしい彼女が、バンドでライブをやるって。それにしてもすばらしいバンド名よね – “The Unreasonables” - 理不尽やろうども。

会場はもちろん埋まっているわけなくて、入ると物販のところにもう彼女が立っていて、なんでもサインするよー、って。客層は老人ばかりでみんな椅子を求めてフロアを彷徨っている。

前座はTaliableっていうDJつきの、白覆面をした女性ラッパーで、元気があってよかった。

Gina Birch & The UnreasonablesはGinaを入れた3人組で、彼女以外の二人はギターだったりベースだったり、場合によってはキーボードと太鼓だったり。Ginaもベースだったりギターだったりで、曲によって細かく持ち替えたりしていたので、もう纏めてなにかをリリースできるところまで来ているのかもしれない。曲のかんじは後期Raincoatsにも通じる風通しのよいがしゃがしゃで、背後のプロジェクターからはTateの展示でもリピートされていた70~80年代の彼女の映像が流れていく。

ラストはもちろん”Lola”で、みんなでぴょんぴょん合唱して終わって、またねー ってかんじで別れる。