6.28.2025

[theatre] Fiddler on the Roof

6月6日、金曜日の晩、Barbican Theatreで見ました。

Sholem Aleichemの短編小説” Tevye”を原作として、1964年、NYで初演された(演出、振付はJerome Robbinsだったのか)ミュージカルで、既にいろんなところでロングランされているクラシックで、このバージョンは、昨年の夏にRegent’s Park Open Air theatre - 野外シアターで上演されたものの屋内リバイバル。演出はJordan Fein。

『屋根の上のヴァイオリン弾き』というと子供の頃、新聞の夕刊に森繁久彌主演のこれの広告がずーっと掲載されていて、なので森繁というのは屋根の上でヴァイオリンを弾く人なのだ、とずっと信じこんでいた(Wikiで当時のキャストなどを見るとすごいのね)。そういう根深いインパクトをもつ芝居であるし、他のバージョンも全く知らないしどうしようか、だったのだが一度は見ておこう、と。

演出はJordan Fein。舞台上には屋根の上に藁が茂るようにはられた掘っ立て小屋が一軒建っていて、その上には楽隊がいて、ヴァイオリン弾き(Raphael Papo)がそこで黙って弾きだして、そこに主人公のTevye (Adam Dannheisser)がやってくる。Tevyeがヴァイオリン弾きなのではなくて、彼は牛乳配達人で、ヴァイオリン弾きは彼の影のように傍にいたり屋根の上にいたり、彼とその周りのエモーションをダイレクトに音として奏でてみんなの歌を紡ぎだす。

全体としては彼の5人の娘たちの結婚 - 彼女たちひとりひとりが相手を決めたり決められたりで結婚して家を出ていく話と、彼らを包む村の人たちみんなが追いたてられて住処を追われる話を、悲劇的ではなく、どちらかというと悲喜こもごもの調子で、でも力強い歌と – ところどころコミカルなやりとりとかコサックダンスとかも交えつつ - アンサンブルのなかで高揚感たっぷりに描いていって、Tevyeひとりが出っ張るのではなく、妻のGolde (Lara Pulver)も娘たちも、等しく印象に残る。

Tevyeの伝統に忠実であろうとする誠実さ、家長としての真面目さと強さ、この揺るぎなさが一族と劇全体を支えて、それが時勢の不条理感 – なぜ自分たちばかりが? - を際立たせ、混乱の時代を生きた家族、家族のありようを描いたドラマとしてとてもよくできていて、すばらしい家族の、人々の像として迫ってくる。

他方で、でもだからこそ、家や家族を奪われ続けているガザの人たちのことが映りこんできてしまう。ここでのTevyeや女性たちの辛苦や決断が、彼らの歌や音楽が、それなりの普遍性をもって響いてくるなら(そういう造りになっていると思った)、そちらに思いが至らないわけないよね? ということを当然のように差しだしてくれる、という点でも、よいミュージカルだった。


Mrs.Warren's Profession

6月10日、火曜日の晩、Garrick Theatreで見ました。

原作はGeorge Bernard Shawの同名戯曲(1893) - 『ウォレン夫人の職業』で、発表当時検閲を受けて上演禁止となった。Shawの”Plays Unpleasant” - 「不愉快な劇」の第3作めで、ベンヤミンがこの作品について論じているベンヤミン・コレクションの文庫は日本に置いてきてしまった。演出はDominic Cooke。

実の母(Imelda Staunton)と娘(Bessie Carter)が劇中の母役娘役を演じるということで少し話題になったが、この劇で実の母娘が演じるのは過去にもあったらしい。

舞台上には円を描いて英国の庭園のようにきちんと花が植えられていて、その手前真ん中にベンチがあり、行きかう人々は円のまわりを行き来しつつ、ベンチで会話をする。舞台衣装は当時のクラシックなそれ - 貴族のきちんとしたナリをしている。

Vivie (Bessie Carter)はケンブリッジを出て、法曹の道に進もうと意気揚々で、そんな彼女のところに母Kitty (Imelda Staunton)が訪ねてきて、自分の仕事は太古からある伝統的な仕事 - 娼館の経営である、と大げさでもなく、隠すふうでもなく、堂々という。

そこから、そんなー、って大騒ぎの大喧嘩になるのではなく、基本は会話劇で、やってくる牧師や貴族の男たちも絡めつつKittyは自分の仕事のある意味での「正しさ」や誇りのようなところまで語り、Vivieは正義に燃えるひとりの女性として対峙して、その対立する中味はわかるのだが、劇としてはやや静かすぎて、眠くなってしまうやつだったかも。

Imelda Stauntonはさすがに巧くて、Bessie Carterもがんばってはいるのだがママにはやはり及ばない、その辺が正直に出てしまうところとかも。
 

6.26.2025

[theatre] London Road

6月11日、水曜日の晩、National TheatreのOlivier Theatreで見ました。

この時期(初夏?)は、リバイバルされる劇が多いようで、もうじき”Nye”も再演されるし、Old Vicでは”Girl from the North Country”もかかる。 この劇も初演の2011年以降、National TheatreやOld Vicで再演され、アメリカでも上演され、2015年には映画化もされている(未見)。今回も短期間の再上演だったが、人気のようでいっぱい入っていた。

ミュージカルだが、音楽と歌ががんがんに飛び交ってクライマックスに向けて力強く盛りあげていくタイプのではなく、ステージの奥にいるのもオーケストラではなく、木管とギターと鍵盤と打楽器を中心としたバンドが7名。つぶやくように歌い始めたり声を掛けあって繰り返していくうちに周囲の人たちが別のメロや調子で絡んで広げていくようなスタイル。13名いるキャストは住民の役だけでなく、取材に来た記者とか、いろんな役柄を掛け持ちしている。 原作はAlecky Blythe、スコアと歌詞はAdam Cork、演出はRufus Norris。

始まる前から舞台上 - 町の集会場なようなセットに普段着や部屋着に毛のはえたような服装の人々が寛いだ様子でだらだらとやってきてお茶やお菓子を用意して会合を開こうとしている。

イギリスの東、サフォーク州のイプスイッチのLondon Roadの界隈で、2006年、5人のセックスワーカーが連続して殺された。これにLondon Roadに住む住民たちが自分たちも含めこの地域をなんとか立て直さなきゃ、と立ちあがって自警団を作ったりいろんなケアもしたり奔走して、町は明るさを取り戻した - この実話を元にしていて、劇の登場人物たちには実在のモデルがいて、彼らの台詞もインタビューなどで記録されたものから来ているのだそう。実話ベースといっても事件の詳細、動機に背景、犯人像を追ったりフォーカスしたり、というところは限定的で、ニュースを聞いたりするシーンはあるものの、あくまで住民の目で見て聞こえてくるもの、が軸になっている。

冒頭に開かれる最初の会合では、どこの住民会でもそうであるように、纏まっているようないないような、ひとりひとりが思いつきのような勝手なことを言って微妙な相槌が打たれて、など、なにが合意されたのか否定されたのかわからない、なあなあの空気を音楽はうまくとらえて纏めていて、それが段々にやっぱりこのままじゃいけないよね、ってどこからかでっかいフラワーポットが持ちこまれたあたりから、音楽のアンサンブルも登場人物のアンサンブルも歌の調子も少しづつ変わって力強いうねりを作っていく。

事件が起こったのはたまたまここLondon Roadだったが、どこかで今も起こったっておかしくないことを、警察でも政治家でもない、そこに住む人たちはどう捉え、考えて、よい方向に変えていこうとするのか、したのか。えらいと思ったのは、被害者であるセックスワーカーへの偏見や、台詞として聞こえてくる「移民のせいでは?」のようなところに持っていかず、捜査や犯人捜しは警察の仕事なのでそれはそれ、自分たちがやるべきことは夜が恐くて通りを出歩けなくなってしまったこの町に誰でも来て貰えるような明るさを取り戻すことだ、って、もちろん全員が一枚岩でがっちり進むわけでもないのだが、最後に舞台が上から降りてくる花花で溢れかえるところはやはり感動するし、いいなー、って。

そうやって実際に町を復興させた彼らは偉いけど、でも彼らって自分たちのことでもあるのだ、あるはずなのだ、と思えば思うほど、今のメディアやSNS等に蔓延しているしょうもない島国根性のようなのが嫌で嫌でたまらなくなる。いまのあの国や自治体のトーンだとセックスワーカーも移民も安心安全の対象外、ってそれに全員が簡単に同調してGo、になりそうで。

この劇はすばらしくて大好きになったのだが、そういうことを思ってとても暗く悲しくなってしまった。

[film] The Rain People (1969)

6月8日、日曜日の夕方、BFI Southbankの特集 – “Wanda and Beyond: The World of Barbara Loden”で見ました。

作・監督はFrancis Ford Coppola。邦題は『雨のなかの女』。Coppolaがこんなのを撮っていたんだー、というのと、CoppolaとBarbara Lodenという線について考える。

ロングアイランドに住む主婦Natalie (Shirley Knight)は夫が寝ている間に家のワゴン車に乗って家を出て、実家に寄って、でもそこにいられそうにないので、更に西に向かい、途中のガソリンスタンドで夫にコレクトコールをかけて、自分が妊娠していること、でもしばらくは離れていたいことを告げる。両親からも夫からも離れて、彼らからするとNatalieの行動は理解できない。彼女もわかって貰えるとは思っていない。

途中でヒッチハイクしていた若者を拾い、彼はかつて大学フットボールの花形選手で‘Killer’ (James Caan)と呼ばれていて、試合で脳に損傷を負って見舞い金として貰った$1000を手元でほら、って見せてくれたりちょっと挙動が変なのだが、なんか捨てておけなくて、モーテルで関係をもったりもするのだがそこまでで、犬を躾けるように彼を扱って、彼はそれでも静かに付いてくる。 この後もKillerの元恋人の家を訪ねたり、道端の動物園で虐待飼育されている鶏とかをリリースして騒ぎになったり、コレクトコールでしつこく絡んでくる夫の電話線をずたずたにしたり、はらはらすることばかりなのだが、家的なものから逃げていくふたりのロードムーヴィーの雨に降られて錆びれたかんじがよいの。

Killerを吹っ切るようにして置き去りにしてから、スピード違反の切符を切りにきた警官のGordon (Robert Duvall)と仲良くなって、彼と娘の暮らすトレーラーハウスに呼ばれ、そこからの展開は”Wanda”の最後のようにしょうもない…

主人公はNatalieのはずなのだが、どうしてもKillerとかGordonといったバカで単細胞な男たちの危なっかしさの方に目がいってしまう、これはしょうがないことなのか…  すべて雨に降られちゃったから、って立ち尽くすしかないRain Peopleに、暗い道をとぼとぼ歩いていく”Wanda”の姿が重なる。


次の短編4本も特集”The World of Barbara Loden”からのひと枠で、6月9日、月曜日の晩に見ました。

“Sentimental Educations: Barbara Loden’s Classroom Films”というタイトルが付いていて、彼女が”Wanda”の他に監督(これらも16mmで撮影)した教育プログラム用の短編を見ることができて、このなかの1本は16mmフィルムで上映された。 Barbara Loden監督の2本を見ると、Kelly Reichardtだなあ(Barbara Lodenからの影響の大きいことよ)、って改めて。

The Frontier Experience (1975)

25分の作品。1869年、カンサスの荒野で子供たちふたりを抱え、夫はいなくなり、を生き抜いた女性Delilah Fowlerの手記をもとにした映画で、主人公をBarbara Loden自身が演じている。想像もつかないくらい大変そうで悲惨でかわいそうで、こんな過酷なところでどうやって?って話なのに、全体のトーンは乾いていて力強く、彼女はあそこで生きていたんだなー、がこちらに迫ってくる。

The Boy Who Liked Deer (1975)

これだけ16mmプリントでの上映。現代の話で、家でも学校でもやりたい放題の傲慢なガキがいて、近所にいる鹿たちを(鹿だけは)可愛がっていて、仲間たちと一緒に先生が大切にしていたE. E. Cummingsの初版本をぼろぼろにして泣かせたり(ここは先生がかわいそうすぎる)、でも彼らが別の悪戯をして狼藉して逃げる時に鹿の餌に毒が入っちゃって、大好きな鹿がしんじゃってわーわー泣くの。大好きなものってこんなにも脆いものなので、意地悪はやめようね、と。


The Fur Coat Club (1973)

次の2本は↑の”The Frontier Experience”でスクリプトを書いたJoan Micklin Silver – あの“Crossing Delancey”(1988)を監督した人だよ! - の最初期の作品で、どちらもすごくよかった。

現代、マンハッタンのセントラルパークの冬、小学生くらいの女の子ふたりが一緒に遊んでいて、道行く人の着ている毛皮にタッチする、タッチすれば幸せになれるらしくて、毛皮のひとを見つけては追っかけて背後にまわって毛皮なでなで、を繰り返していると、毛皮店の前に来て、そこは毛皮の宝庫だったのでなんとか忍びこんで幸せに満ち溢れていると閉店の時間になって鍵をかけられてしまってどうしよう、になっていたら夜更けに強盗がやってきて…

とにかく跳ね回るふたりがかわいい。90年代、毛皮反対の大波が来るNYにもこんな時代があったのねーになる。彼女たちはまだ毛皮をなでなでしたりしているのだろうか?

The Case of the Elevator Duck (1974)

古くて大きなアパートに大きめのエレベーターがあって、ある日そこの住人の少年が乗って自分のフロアまでいくと、エレベーター内にアヒル(生)がいるのを発見する。家に連れていったら怒られたので、アヒルと一緒にエレベーターに戻って、ひとつひとつ降りながらアヒルがどこのフロアで反応するのかを見ようとするのだが…

なんでアヒルがエレベーターに乗ってるねん? という突っこみを掘りさげていくのではなく、迷いアヒルをなんとかしてあげなきゃ、ってアヒルの身になって考えてあげる少年の魂がすばらしい。食用だったりして… とかそういう心配もいらなかった。

6.24.2025

[film] The Killing (1956)

6月14日、土曜日の晩、BFI SouthbankのFilm on Film Festivalで見ました。

この日は朝からStratford-upon-AvonにRoyal Shakespeare Companyの芝居を見に行って、夕方Londonに戻ってきた。土日は電車が突然止まったりなくなったりするので少しはらはらしたがどうにか間にあった。

この上映には”From Stanley Kubrick’s Personal Collection”とあって、ある日BFIにKubrickの住んでいたChildwickbury Manorから連絡が入り、ここにフィルムがいっぱいあるけど見たい? と言われたので見るに決まってるだろ、って行ってみると、よい状態で保管された彼の監督作の各国語版なども含めた大量のコレクションがあって、まだ掘り進めている最中だそうなのだが、その中からとても状態のよかったこれとデビュー作の短編ドキュメンタリーを。

Day of the Fight (1951)

監督・制作・撮影・編集をKubrickがやっている。
NYに暮らすボクサー(Walter Cartier)とその双子の兄弟がその晩の大事な試合に向けて準備していく様をDouglas Edwardsのナレーションが実況中継のように追って、その語りのテンションがそのまま試合の熱に繋がっていく。彼らの長い一日を12分に凝縮していて、終わると肩の力が抜ける – という点では既にKubrickの映画。リング上に寝転がって撮ったようなショットがあったけど、あれってやって許されたの?


The Killing (1956)

邦題は『現金に体を張れ』。Stanley Kubrickのハリウッド映画第一作。Lionel Whiteの小説をKubrickとJim Thompsonが脚色した作品。

上の“Day of the Fight”から続けて見ると、ヤマのイベントに向けて男たちが準備していくのをナレーション(Art Gilmore)が横から緊張感たっぷり、運命を語るかのように併走していくスタイルは似ている。

そしてもちろん、一対一のスポーツの試合とJohnny Clay (Sterling Hayden)が集めてくる仲間たち-それぞれで主演作を撮れそうな男たち - の群像劇&その背景となる競馬(試合)、という違いもある。どれだけ抜かりなく準備していっても「殺し」 - “The Killing”という巻き戻しのきかない一線を越えたものが出てしまったところから、事態は狂うべくして狂っていく、というノワール。

競馬の馬券売り場からお金を盗む、そこからよくあんなふうに世界とお話しを膨らませることができるなあ、って。なんでここにチェスプレイヤー兼レスラーを絡めたりすることができるのか。しかも最後なんてあんなちっちゃい犬ころに...

そしてフィルムの陰影のクオリティはすばらしかった。前見たときはデジタルで、全体に白っぽかったがこの粗い白黒の粒立ちは見事で、最後に舞い散る札束の一枚一枚がJohnnyにそう見えたであろうのと同じように非情に焼き付いてくるのだった。上映後、立ち上がって喝采する人たちがいたが、それくらい。


Hard to Handle (1933)

6月15日、日曜日の夕方、BFI SouthbankのFilm on Film Festivalで見ました。
この日、Westward the Women (1951)~Strongroom (1962)に続く3本目。35mmのフィルムはBBCが放映用に保管していたものだそう。

監督Mervyn LeRoy、主演James Cagneyによる78分のpre-codeコメディ。日本では公開されていない?

ホレス・マッコイの『彼らは廃馬を撃つ』(1935) で小説となり、Sydney Pollackの“They Shoot Horses, Don’t They?” (1969)で映画化もされた、あの悲痛な大恐慌時代のマラソン・ダンスをネタに、当時大スターだったJames Cagneyがどたばたコメディとして引っ掻き回している。

マラソン・ダンスでへろへろになりながら優勝しかけていたカップルの賞金が男の方に持ち逃げされて、その片割れだった恋人(Mary Brian)とその賞金で借金をどうにかしようとしていた詐欺師のLefty (James Cagney)は押し寄せてくる借金とりの相手をしたり逃げたりしつつ、新手の詐欺を仕掛けていって… というお話しで、恋人よりもそのママのRuth Donnellyのキャラの方がより強烈だったり、いろいろ。 

金儲けのネタとして出てくる万能のグレープフルーツ、半分に切ってお砂糖をかけてスプーンですくって食べるのって、この頃からあったのかー、っていうのと、最近そういう食べ方しなくなったよね.. とか。

そして、これくらいはったり仕込んで仕掛けて搔きまわさないと回らないくらい大変だったのが大恐慌時代、というのはなんとなく伝わってくる。そういう中でスターとして輝いていたJames Cagneyのことも。

あと、恋人役はCarole Lombardがやる予定だったけど降りた、って。

[music] LCD Soundsystem

6月19日、木曜日の晩、O2 Brixton Academy で見ました。

この日はRoyal Albert HallのYeah Yeah Yeahsもあった… と気づいた時には遅かった。NINも入れて、なんでこれらがロンドンの、この18-19日に集中するわけ? ぜんぜん行けてないけど裏ではMeltdown (Festival)も進行中だし。

彼らのライブを見るのは再結成/再起動した2016年のNYのPanorama (フェス)以来。最初に見たのは2003年のNYのBowery、The Raptureの前座で、当時のNYシーン - Yeah Yeah Yeahsもこの辺から - の狂騒のなか、何回か見ていて、なのでNIN〜LCDが続く二晩というのは自分にとってはフェスに行っているようなかんじになった(いちおう会社には行っている)。

彼らは今回このヴェニューで、6月12日から6月22日まで、間に3日間の休みを入れて、計8回のライブをやる。そんなに入るの/やるの?と思ったがぜんぶSold Outしている。

彼らはNYでも他の土地でもこのスタイルでサーカスの興行みたいに何日間も連続のライブ/パーティをやって大人気で、これが彼らのライブのスタイルとして定着している、と言ってよくて、これは2016年の再起動後のシフト、なのか、というのはちょっと確認したいところ。

DJもするJames Murphyにとっては、踊らせて、踊ってもらってなんぼ、で客の方も踊りたいからやってきて、音楽を聞く、というより約2時間のおいしい料理のコースを楽しんでお腹をいっぱいにして帰るかんじ。ステージは彼らのオープンキッチンでその上にところ狭しと並べられた機材は彼らの調理器具で、James Murphyはシェフで、お任せで定番も出すし、その日のスペシャルもあるしー。何度も通いたくなるライブにはそういうレストランみたいなところがあると思うが、LCDの場合は特にそういう食欲とか踊欲に近いようなところでの快楽を供する要素が強いと思って。

こうしてメニューはほぼ決まっているので、こんな曲をやった!とか、この曲をこんなアレンジで!とか、所謂ライブで話題になるようなことにはかすりもしない。でっかいミラーボールが回り、ストロボがばりばり、ドラムスのキックに連動したフラッシュが雷となり、ネオンのように瞬く粗めの豆電球による電光がバンドの演奏する姿を浮かびあがらせるが、全体としては歓楽街のディスコでありダンスフロアであり、新しく革新的な要素はまったくない。客層も普段着のおじいさんおばあさんがいっぱいいる。自分もだが。

一曲めの‘“You Wanted a Hit”から2階の椅子席の一番上まで(自分は後ろから2列めにいた)きれいに立ち上がって阿波踊り状態になったのはびっくりで、それはエンディングまで続いた - 疲れたひとは座るのではなく帰る。

ただ、ロンドンでいよいよ始まった年に数日あるかないかの夏日のせいか、会場内がものすごく暑くて、バーのあるロビーはひんやりしていたのでエアコンが故障していたのかもしれないが、サウナのように異様に蒸し暑く、ライブの中盤はストロボの光とこの暑さにやられて椅子の上でしんでた。そうなっても去る気になれなかったのは、どこかに気もちよく触れてくるなにかを感じていて、それをつきとめたかったのかも知れない (そんなの別にねーよ、修行かよ)。

“Home”が終わったところで電光板に”Intermission”と出たので、よろよろとロビーに出る。バーでは大きいプラスチックのコップにtap waterを注いだのを「持っていきなー」ってじゃんじゃん配っていて、ありがたく貰ったら、会場ではアンコールの”North American Scum”が始まっていて、まるで全体が最終コーナーをまわったレミングのように踊りまくっているのだった。

謎だったのはこれの2曲あとの“New York, I love You but You’re Bringing Me Down”での大合唱だろうか。NYの暮らしがどんなにしんどくしょうもなく、でも愛しいものかを(カエルが)切々と歌いあげてぶちあげる曲なのだが、ロンドンの人たち、わかんないよね?ロンドンの暮らしもいろいろあるけど、NYのとはぜんぜんちがうし。でも、わぁぁーってなんだかわめきたくなるのはわかる。

あと、“Losing My Edge”を聞けなかったのは残念であった。
 

6.21.2025

[theatre] Hamlet Hail to The Thief

6月14日、土曜日のマチネをStratford-upon-AvonのRoyal Shakespeare Theatreで見ました。

Stratford-upon-Avonはロンドンから電車で2時間くらい掛かるところで、コロナ禍で劇場もなんもやっていない頃に一度来た。 RSCの演劇もずっと見たいと思っていたのだが、夜の部だと現地に泊まらなければならない可能性もあり、でもこの演目は見たくてどうしよう… になっていたら土曜日昼のが取れた。(で、これを取ってからBFIのFilm on Film Festivalともろ被りしていたことに気づく…) なので朝は早めに出て、シェイクスピアの生家とかアン・ハサウェイのコテージとかをまわり、ふつうに観光していた。

Radioheadの”Hail to the Thief” (2003)をモチーフにしたシェイクスピアのHamletで、Thom Yorkeが音楽監督として入って、”Hail to the Thief”をそのままサウンドトラックとして流すのではなく、彼が再構成・アレンジ - パンフでは「脱構築」 - したものを8人編成のバンド(うち男女のヴォーカル2名)がライブで演奏していく – 「Radioheadは演奏しません」とチケット購入時の注意事項としてll書いてある。

劇のパンフレットにあったThom Yorkeへのインタビューには、シェイクスピアの劇はトーテミックなものなので、そこに向かって音楽を作るのは冒涜になると思った、とかあったが、”Exit Music (For a Film)" (1997)は? エンディングだからよいの?

アメリカ大統領を讃える歌"Hail to the Chief"をもじった”Hail to the Thief”は、ブッシュの二期目に対する失望と911のカウンターとしての理不尽な対テロ戦争に対する怒りが生々しく充満した一枚だった。それは”OK Computer” (1997)から”Amnesiac” (2001)までで描かれたテクノロジー・ランドスケープへの不安や諦念、怖れからの大きめのジャンプであると同時に、これも不安と同様、持っていきようのない、決着のつかない生の感情であることも示されて、自分にとってのRadioheadは、ここまでで止まっている。

舞台は黒で統一されて、がっちりとした制服のようなスーツのような、重そうな男性の上着がステージの上から沢山吊り下げられている。奥には四角で仕切られたブースが上下に5つくらいあってガラスで覆われ、スタジオのブースのようになっていて、ミュージシャンたちがその中で演奏しているのが(暗いけど)見える。高いところにはヴォーカルのひとが立って歌うスペースもある。床には繋がれていないフェンダーのギターアンプが6つくらい放置されたように置かれていて、椅子になったり岩になったり。

脚色・演出はSteven HoggettとChristine Jonesの二人で、彼らはDavid Byrneとsocial distance dance club - ”SOCIAL!”を手掛けたり、”Harry Potter and the Cursed Child”や”American Idiot”といったメジャーなのも沢山やっている人たちで、今回のはChristine Jonesが別の”Hamlet”の演出の手伝いをしている時に思いついたものだそう。 休憩なしで1時間40分。

問答無用のクラシックである“Hamlet”は過去にいろんな角度からいろんなテーマで語られたり取りあげられたりしてきたのだろうし、でもライブの演劇として見るのは初めてなので他との比較はできないのだが、ここでのHamlet (Samuel Blenkin)は、華奢で、髪は長めのぼさぼさで、全体にずっと内を向いていて、それが父の殺害とその周辺に漂う陰謀策謀だのの臭気に触れて怒りが噴きだして止まらなくなり、母や叔父たちだけでなく自身をも蝕んでどうしようもなくなっていく。その怒りの奔流を底に沈めるのではなく撹拌してドライブしていくのがより分厚くアレンジされた”Hail to the Thief”で、すぐ隣というか裏のブースで鳴っているライブの音も含めて、上塗りを重ね彼の目を塞いでいく苛立ちと復讐への思いがどれだけのものか、だけはよくわかる。 と同時に彼ひとりでわーわーなっているので、ひとり孤立していって、それが結果的にOphelia (Ami Tredrea)の狂気をもたらす – あの“To Be or Not to Be”はそんな彼女がいう。

そして、今のアメリカ、というか世界はブッシュの二期目の時以上に、ものすごくキナ臭くやばい状態になっている懸念があり - “Hail to the Slaughterer”で、本当に真っ暗で怒りと絶望しかない、そういうのともリンクして違和のない狂った熱の地盤。

ちょっとだけ残念だったのは結構でてくる男たちの群舞シーンが、アイドルグループのそれみたいに、なんかちゃらく見えて、全体のダークな轟音のなかでやや浮いているように見えたこと。そんな無理に群れて踊らなくたってよかったのに。

6.20.2025

[music] Nine Inch Nails

6月18日、水曜日の晩、O2 Arenaで見ました。
“Peel It Back” ワールドツアー、欧州公演の3つめ。
 
野外のフェスをまわっていた2022年から3年ぶりとなるライブで、自分の履歴をみると前回見たのは2022年のLAのPrimavera(フェス)で、その前は2018年のRadio City Music Hall、その前は同年のRobert SmithがキュレーションしたLondonのMelt Downから2つ、その前は2017年のNYのPanorama(フェス)、その前は2014年のHollywood BowlでのSoundgardenとのライブ、と、だいたい3~4年周期で見てきていて、ほぼ野外 or 大規模ホールで、アリーナは - アリーナの仕様をフルに使ったライブは久々だったのだが、なかなかすばらしかった。
 
19:20くらいに会場に入るとDJらしき人がモニターの上に組まれたやぐらでがんがん始めていて、Boys Noizeとあった前座がなかなか始まらないなー、と思っていたら、この人がBoys Noizeなのだった。名前だけ見てどっかの三文パンクバンドかと思っていた。やや80年代のカーブがはいったぶっといエレクトロで、年寄りにもやさしい。
 
ステージがふたつあることは聞いていて、スタンディングエリアの真ん中に幕に覆われた立方体のでっかい箱が組まれていて、やってくる客はそっちの方を向いて取り囲んでいるのでそこから始まるらしい、ということはわかる。20:20くらい、直前までBoys Noizeがノンストップでやっていて、気がつくと幕がなくなっていて、むきだしのキーボード類が積まれていて – そのむきだし感がまたたまらない – Trent Reznorがひとりで座って静かに”Right Where It Belongs”を歌いだす。
 
NINのライブというのは、だいたい最初からフルスロットルでぶちかまして走り抜けて、最後に満身創痍の傷だらけのへとへとで”Hurt”を歌って消える、というパターンだったので、これは新しい。そしてTrentのテンションの、漲っているかんじは変わらない。 その状態で、彼が改めて覚醒した”With Teeth” (2005)の曲から、“What if all the world you used to know is an elaborate dream?” なんて素で歌われたら… そして、この後の”Ruiner”のエンディングの吐息。 これだけでじゅうぶんモトが取れたかも。
 
続く“Piggy”でIlan Rubinを除く3人が小さなステージにあがり、Ilan Rubinは..? と思っていると、曲のエンディングで突然ドラムスが爆裂して、メインステージのスクリーンに雷神になったでっかいIlanが映しだされ、おおおって慄いている間にメンバーは仕切られた通路を通ってメインステージの方に向かう。(Taylor Swiftみたいにダイブして消えたりすればよかったのに)
 
ドラムスのばりばりはそのまま”Wish”に繋がり、いつものNINモードになるのだが、ステージを覆う蚊帳みたいな薄膜状のスクリーンに淡くプロジェクションされて揺れて、その上に火花や電光や雲が走りまくるヴィジュアルがすごい。新しい”TRON”の宣伝(音楽 by NIN)が並んでいたが映画会社からお金が出ているのではないか、というくらいの完成度。
 
そして音質もまたものすごくよくて、”March of the Pigs”のエンディングは極上最速のスラッシュだったし、延々とまらない”Reptile”の、爬虫類の肌がぴたぴたしてくる密着感ときたら卒倒もんだし、過去さんざん試行錯誤してきた”Copy of A”のビジュアルは、まるで宇佐美圭司のタブローだし。
 
“Act3”ではTrentとAtticus Rossは再び通路を渡って真ん中のステージに向かい、そこで待っていたBoys Noizeを加えた3人編成で”The Warning” – “Only” – “Came Back Haunted”の3曲を。オープニングのアンプラグド(ではないけど)の静謐さとは真逆のみっしりマッシブなエレクトロで、しかし間にスタンダードのAct2を挟むことで、逆立った毛とかトサカの裏に張りついていた怒りが肉となって膨れあがる – “Haunted”の過程を目の当たりにして、そして再びメインステージに戻った”Act4”は、せっかく盛りあがった肉たちを再びミンチにかけてしまう(Mr. Self Destruct)。
 
とてもわかりやすいストーリーラインを描いているようで、でもタイトルは”Peel It Back” – 「剥がせ」なんだよね。

セットに”The Fragile” (1999)からの曲がない(別の日にはやっているけど)、「憑りつかれ」がテーマとしか言いようがない構成で、明らかにステロイド筋肉を落としてスリムになったTrentのシェイプとあわせて相変わらず「どうしたのあんた?」 であった。(関係ないけど、典型的なBass & Drums体型になってしまったAlessandro & Ilanはどうにかすべきではないか)
 
Act4でのマイクロフォンのトラブルはやや残念だったが、彼が”Sorry about that”って謝ったり、メンバー紹介をしたりの珍しい場面を見れたのでよしとしたい。「自分で機材を壊すのは最高に楽しいけど、他人がそれをやるのは許せない」、って久々にギターを叩きつけて壊し、マイクをぶん投げていた。

こんなひとがアカデミー賞獲っているんだからなんだか痛快よね。
  

[film] Westward the Women (1951)

6月15日、日曜日の昼、BFI SouthbankのFilm on Film Festivalの最終日に見ました。
この日は3本、どれもいろんな意味でたまんなかった。

5月のシネマヴェーラの特集「超西部劇」でも話題になっていた(の?)作品。 邦題は『女群西部へ!』。
上映された35mmプリントは、もともとTV局(Channel4)が放映用に持っていたのをBFIに寄贈したもので、放映用なので殆ど上映されたことがない、ものすごくよい状態のプリントだった。

イントロでは、もともと原作を書いたFrank Capraが監督もやりたかったのにスタジオが許さず、William A. Wellmanが監督することになり、この作品はWellmanにとっても一番のお気に入りになったそう(彼の息子の評伝によると)。 あと、映画でのスタントウーマンが登場した最初期の作品になるのだとか。

1851年、カリフォルニアででっかい農場を経営するRoy(John McIntire)が男たちをこの土地に留めておくには女たちが必要だ、ってBuck (Robert Taylor)に頼んで、シカゴで集めた女性たちを結婚目的で集団で移送する計画を立てる。シカゴでは女性たちの選考会のようなものが開かれ、それなりの覚悟を問われたうえで約140人が選ばれ、女性たちは壁に貼られた相手方男性の写真からお好みをピックアップして携える(今ならオンラインでクリックして保存)。

地方の農家にヨメを、って今もどこかの国でやっている、大枠としてはなんだかひどくガサツでしょうもない話をFrank Capraが考えた、っていうのはなるほど(醒)、ってなりつつも、映画はカリフォルニアの男たちが企画したように、それに乗ったシカゴの女たちが思っていたようには進んでいかない。インディアンの襲撃があり、自然災害があり、馬車の転落があり、出産があり、そのぜんぜんうまくいかなくてきつい – 子供も含めて大量の人々がいろんな理由でばたばた亡くなったり殺されたりしていく - ドラマが中心で、ラストに描かれるウェディングはほとんど天国のようになるのだが、映画で描かれた過酷さの終着点として、ここの「天国」の描き方は無理なく整合していると思った。

苦難を乗り越えた彼女たちを待っていたものだけでなく、その苦難がものすごくダイナミックに、見事な群像劇として描かれている。泣き叫ぶ人も勿論いるが、それだけではなく、黙って黙々と歩く人、肩を寄せ合う人、西部の大地にゆっくりと歩みを進める彼女たちの像が、その連なりが、なんだかとてもよいの。

あと、女性は概ね力強くかっこいいのに対して、Buckも含めて男たちはしょうもないのばっかりで、逃げるか殺されるかばかり、というのがおもしろい。 あと、Henry Nakamuraが演じた異様に長い名前の日本人は江戸時代の日本からどうやってあそこまできたのか。侍ではなくクリスチャンのようだし。


Strongroom (1962)


↑のに続けて見ました。イントロにEdgar Wrightが登場する予定だったのだが、新作の追いこみで来れなくなった、と(”Star Wars”の上映には来てたのにな)。

英国の低予算B級映画で、監督はVernon Sewell - Michael Powellのメンターだったそう - で、今回はこのフェスのためにニュープリントが焼かれた、と。 IMDbを見ると『殺しか現金(ゼニ)か』っていう邦題が出てくるのだが、日本でも公開されたのかしら?
Edgar WrightはQuentin Tarantinoからこの映画のことを聞いて、見たらすごくおもしろかったので、Martin Scorseseにも教えてあげたら、Martyもとても気に入ったって。確かにおもしろいったら。

大西部の群像劇から、きゅうきゅうして暗い地下の金庫室にもぐる。

月曜日がBank Holidayの休日となる英国の田舎の土曜日、店を閉めて帰ろうとしている小さな銀行の支店に、行員が帰って数が少なくなったところを見計らって3人組の強盗が押し入り、残っていた店長と事務員の女性を脅して鍵を奪い、地下の金庫室(Strongroom)に案内させて袋に現金をいれて、行員ふたりを(通報されないように)金庫室に閉じこめて銀行をでる。

途中で現金を持っていく2人と、鍵を持っていく1人に分かれて(金庫室は厳重に密閉されているので、あとで鍵を開けないでそのままにしておくと人殺しになってしまう – Bank Holidayで人が来なくなるので尚更やばい)、後で落ちあおう、って別れるのだが、鍵を持っていった奴が交通事故で亡くなった、とその兄弟である現金組の方に警察が知らせにくる。

自分たちを捕まえにきたのでなかったのはよかったが、問題は鍵を持った彼が死んでしまったので、後から金庫室を開ける術がなくなってしまった – 後で金庫室から行員の死体が発見され、強盗だったこともばれたら自分たちは強盗どころか殺人犯になってしまうなんとかしなきゃ、と。

こうして、金庫室に閉じこめられ酸素不足の困難に締めつけられつつ中から穴を開けようとする行員2人と、現場に行ってバーナーを使って外から穴を開けようとする強盗2人と、この鍵はどこのなんのカギだろうか?って怪しみ始める警察の3つの現場が渦を巻いて、室内の酸素がなくなるタイムリミットも含めて、とてつもない緊張を生んでいくの。警察が鍵の専門家を呼びだして鍵を特定していくあたりのおもしろさときたら。 そして最後に…

イギリス人の間抜けなところと頑固なところとトロいところが金庫破りという犯罪を軸にまわっていくのが見事な緊張感を生んで、いまそこらで実際に起こってもおかしくないような。
 

6.17.2025

[film] Unfinished Business (1941)

6月13日、金曜日の午後、BFI SouthbankのFilm on Film Festivalで見ました。

まだ書きたいのがいっぱい詰まっているのだが、このフェスで見た作品たちがどれもすばらしかったので、記憶と感動がどっかに失せないうちに先に書いておきたい。

監督は”My Man Godfrey” (1936) - 『襤褸と宝石』 - のGregory La Cava、上映前にGregory La CavaのResearcherの方による紹介があった。邦題は『恋愛十字路』。

アメリカの田舎で結婚式のシンガーなどをしているNancy (Irene Dunne)は妹の結婚式でも歌を歌うのだが、妹からは結婚後も変わらずあたしの面倒を見てね、と言われて、このままではあかん、とNY行きの列車に飛び乗る。

その列車内で、仲間とかわいい娘を引っかけた方が勝ち、の賭けをしていたSteve (Preston Foster)に声を掛けられて彼と簡単に恋におちるのだが、NYに着いたらSteveはあっさり彼女を無視する。

オペラ歌手のオーディションに落ちたNancyは、電話交換手のバイト - 電話に出たところでスポンサーのCMソングを一節歌う – を始めて、そこでSteveの弟で酔っぱらったTommy (Robert Montgomery)と出会って、彼からSteveが結婚することを聞いたNancyはあたまきてTommyと一緒になることにして、でもやがてTommyはNancyが自分ではなくまだSteveを愛していることを知って軍隊に入ってしまう。

好きになっちゃったものはしょうがない、けど相手がいることなので泣いても酔ってもだめなものはだめで、っていう延々おわらない、懲りない、依存症みたいなありよう(Unfinished Business)にどうやって決着をつけるのか。それがずっと妹の面倒を見てきたNancyと、ずっと執事のElmer (Eugene Pallette)に面倒を見られてきたTommyの間でどんなふうに起こるのか、を細やかですばらしいカメラと俳優たちの豊かな表情と動きのなかに描きだす。

恋しちゃったものをどうすることができようか、っていうテーマは”My Man Godfrey”にもあったけど、あれよりもリアルに、恋をどうやって自分のものにするのか、という普遍的なところにさらりと迫っていて、rom-comとしてめちゃくちゃおもしろかった。”My Man Godfrey”より好きかも。


The Student Prince in Old Heidelberg (1927)

↑のに続けて、一番大きいシアターで上映されたサイレント映画。

監督はErnst Lubitsch、邦題は『思ひ出』。
上映前に、BFIでサイレント映画といえば、のBryony Dixon先生と、自分にとってはバイブルである『サイレント映画の黄金時代』の著者Kevin Brownlow先生のお話しがあった – 翻訳本持ってきてサイン貰うべきだった。

ライブの音楽伴奏はなくて、この映画のために音楽を書いたCarl Davisの、彼の指揮によるオーケストラ伴奏が壮麗に流れて、これは2023年に亡くなった彼への追悼上映でもある、と。で、この音楽が襞襞までものすごく微細なよい音で鳴って響いてこれが真ん中のスタンダードサイズの画面にはまると底抜けに気持ちよくなり、こんなに豊かで贅沢なのがあってよいものか、って悶える。

ドイツのどこか架空の国の皇太子Karl Heinrich (Ramon Novarro) - 今だったらTom Holland - が家庭教師のDr.Jüttner (Jean Hersholt) -ベンヤミン似 - と学業のために一緒にハイデルベルクに来て、学生たちと交流して下宿屋の娘Kathi (Norma Shearer)とじりじりやっぱり恋に落ちて、でも王の危篤で首都に戻らざるを得なくなり、Kathiには彼がもう戻ってこないであろうことがわかっていて…

それはもう青春の思ひ出、としか言いようのない甘く切ないアルバムが、ぜんぶ決定版のように一枚一枚めくられていって、めくられたページは元に戻ることはなくて、最後にKarlがハイデルベルクに戻ってKathiと再会するシーンの苦さと辛さなんてもう…

終わってBryonyさんが「ちょっと『ローマの休日』ぽいのよね」と語っていたが確かにそうで、でもあれよか素敵だと思った。

Kathi役のNorma Shearerは、George Cukorの”The Women”(1939)でヒロインを演じていたひと。この頃からすでにほんとにうまいったらない。


Last Summer (1969)

↑のあと、13日の金曜日の最後の1本。
この裏では同じフェスで、Princeの”Under the Cherry Moon” (1986)の上映もあったのだが、散々悩んで、チケットを取りにくそうだったこっちに転んでしまった。

このフェスでの一番の目玉 - 各自それぞれに目玉があるもの - と言われていて、配られる解説のぺら紙もカラーで刷られてなんだか力がこもっていて、イントロで登場したおじさんふたりもこの上映イベントがどれだけすごいことなのかを力説していた。

長いこと2001年にオーストラリアのアーカイブで発見された16mmプリントしか存在しないとされていたのが、BFIのアーカイブを掘ってみたら35mmプリントが2本も出てきた、と。 これはすごいことなんです!って。

監督はFrank Perry、Evan Hunterの原作小説(1968)を監督の妻のEleanor Perryが脚色している。音楽はJohn Simon。Rhoda役のCatherine Burnsはオスカーの助演女優賞にノミネートされている。邦題は『去年の夏』 - 日本でも1970年に公開されているのね… 

NYのLong IslandにあるFire Islandの浜辺で、Dan (Bruce Davison)とPeter (Richard Thomas)という友達同士の青年ふたりが、傷ついたカモメを見つけたSandy (Barbara Hershey)と知り合って仲良くなって、浜辺やそこにある彼女の家で、ひたすら悶々だらだらと日々を過ごし、そこにRhoda (Catherine Burns)というちょっと危なっかしい女の子も加わって、そのままどこに向かっているのか、だれがなにをどこに導いているのか不明の無為の日々を過ごしていって、そして… という、青春の終わり、60年代の終わりを苦めに描いて、後味も苦いまま浜辺に取り残される。 タイトルは「去年の夏」ではなく「最後の夏」だよね。

例えば西海岸の、60年代のドリーミィな夏のかんじは一切なく、甘さも感傷も排した、とてもあの時代とは思えない生々しくひりひりした映像が重ねられていくのはすごい(よくここまで徹底して)と思ったけど、映画としてのめり込めるかというとやや微妙だったかも。 Gregg ArakiやHarmony Korineの源流のひとつ、と言ってよいのかしら。

[film] Ballerina (2025)

6月8日、日曜日の午後、Curzon Victoriaで見ました。

John Wickシリーズからのスピンオフ作品で、脚本を最近のJohn Wickのを手掛けているShay Hattenが担当している。

冒頭、幼いEveが父と暮らしている孤島にChancellor (Gabriel Byrne)と呼ばれる男の一味がやってきて激闘の末に彼女の父を殺して、EveはDirector (Anjelica Huston)の組織に引き取られて、バレリーナとしてのレッスンを受けつつも格闘技の訓練を受けてプロの殺し屋として成長する – この辺を両立させる意味があまりよくわからないのだが、幼時のEveは「白鳥の湖」のメロディーを奏でるお人形のオルゴールをずっと抱えている。

殺された父の仇をとるためにも、ってEve (Ana de Armas)はAnjelica Hustonの組織と血の契りを結んで、絶対の忠誠を誓わされつつ、父を殺した連中を追っていくと... という敵討ちの物語としてはふつうのオーソドックスで、そこにJohn Wickワールドのよくわかんない組織とか掟の話が絡んでくる。 一作目の”John Wick”(2014)って、自分の犬を殺されたから、って敵をぼこぼこにしてしまう軽さがよかったのに、後のチャプターで組織あれこれが絡んでくると、なんだか面倒で見るのが辛くなってきて、今回のスピンオフは、バレリーナが主人公なのでその辺が軽くなってくれることを期待したのだが、むしろ逆で、バレエの世界の厳しい規律とか「白鳥の湖」の過酷さが絡まって被さってきて重い。バレエの軽やかさとか華麗さで殺しまくるようなところがあまりないところがなー。

Ana de Armasが007の“No Time to Die” (2021)でキューバのエージェントとして持ちこんだアクションの明快さと軽さを期待したのだが、それらはほぼなくて、血と傷にまみれて痛みに顔を歪めたりしながら殺しまくる、それが125分間続く。John Wick (Keanu Reeves)が登場してもそこは変わらず、びっくりするくらい新シリーズのフレッシュなかんじがないのって、どうなのか。

あと、基本的なところでAna de Armasさんて、コメディの顔でありキャラだと思うのよね。怒りと恨みに燃えて仁義なき全面戦争みたいの、って“Kill Bill”のUma Thurmanで見ているし、他にも同じようなドラマはいくらでもあるのでー。

最後のほうは、オーストリアの冬山の奥の集落で、そこの住民がぜんぶ敵のカルトの構成員なので四方八方から武器を携えて襲ってくる、ていうのがヤマで、お皿をばりばり割りあったり(あれ、相当痛いと思うけど)、火炎噴射機で一挙に焼き討ちとか、おもしろいところもあるけど、バレリーナがやることじゃないよね。John Wickの空手(みたいなやつ)vs. パ・ド・ドゥからの串刺し、みたいな技の対決を見たかったのになー。


バレエといえば、これの前日の7日の昼にRoyal Balletで”Onegin”を見たのだった。
バレエはもっと頻繁に、3ヶ月に一回くらいは見たいのだがチケットの値段が随分高くなっていて難しい。

「初めてのバレエ」みたいな入門編で、キャストはOneginがCesar Corrales, TatianaがFrancesca Hayward, OlgaがViola Pantuso。バレエは十分によかったのだが - Francesca Haywardはすっかり大御所になってきたなあ、とか。
お話しとしてはOneginがひとり勝手に我儘の限りを尽くして、ひとり孤立して悩んで去っていくものすごくひどい話 - ヒロインを泣かせるための典型的なバカ男設定 - だったわ。

(いろいろあるので押し込んでいく↓)


Anselm Kiefer: Early Works

“Ballerina”を見る前、バスで1時間くらいかけてOxfordに行ってAshmolean Museumで見ました。

Anselm Kieferの初期作品群を展示しているのだが、彼が24歳の時、屋根裏部屋で父が持っていたナチスの制服を発見して、Kiefer自身がそれを羽織って各地をまわりナチスの‘Sieg Heil’ 敬礼をしている写真を加工したOccupations series (1969–70) - 国としてナチスの記憶を消そうとしていったところに、もしもし?なんで忘れたりできるわけ?ってやるとか、カントやニーチェを描いた素朴な(ぽく見える)木版画とか民藝風のとか、ホロコーストの後にアートがありうるとしたら? を問い続けて塗り重ねたり積んだりしていった果てが我々の知るばかでっかいKieferに繋がっていくのだな、と。二条城での展示はこちらを使った方が馴染んだのではないか、と思ったり。

6.16.2025

[film] Wanda (1970)

6月7日、土曜日の夕方、BFI Southbankの6月の特集 - “Wanda and Beyond: The World of Barbara Loden”で見ました。

60年代と70年代の間に置かれた象徴的な作品”Wanda”を中心に、監督、女優Barbara Lodenの他の監督作品や出演作品、”Wanda”の登場を後押ししたであろう60年代末のフェミニズムの実験映画やドキュメンタリー、ここから更に広がって虐げられた女性たちの痛みや孤立を描いたクラシックたち - ブニュエルの『忘れられた人々』(1950)、溝口の『祇園の姉妹』 (1936)、ヴァルダの『冬の旅』 (1985)、目玉としてウォーホルの”The Chelsea Girls” (1966)の16mm版など、ぜんぶはとても追いきれないけど、がんばる - とか言ってるうちに月の半分まできちゃったし。

この特集のポスターに使われている”Wanda”のスチールは、Mr.Dennisの車の中にいて、出ていけ、って言われて「なにも悪いことしていないのに、なんで出ていかなきゃいけないのか?」って彼女がこっちに向かって言うシーンから(たぶん)。

上映されたのはBFI National Archives の35mmプリントで、上映前に16mmで撮影されたこの作品のプリントを巡る歴史が紹介された。今回の上映は2010年にGucciがスポンサーとなって焼かれたプリントだそう。自分が初めてBAMで見た時のIsabelle Huppertさん所有のプリントはどこから来たやつだったのか? そして4回目くらいになる”Wanda”を見る。

無力でダメで何もできない、努力することすらムリになってしまった彼女が、やはりダメな - 単細胞で暴力的で悪賢くもなれない半端男のMr.Dennisと出会って、彼の計画した銀行強盗をやってみようとするが、どっちもダメなので簡単にはぐれて失敗して… といういかにも、な、そこらに転がっていそうな話。いつも思うのはこんなにも悲惨で救いようのない話しなのに、画面から受ける強さ、固さは揺るぎなくて見るとまだだいじょうぶかも(なにが?) って、なんでもきやがれ、って背筋がしゃんとするかんじになる。ものすごく暗くて破壊的で、でも耳元で鳴る音楽がもたらしてくれる効果に近いというか。

彼女がひとりでとぼとぼ歩いているところを遠くからとらえたショット、それだけでよいの。自分もそうやって歩いているのだ、ってよく思う。


Fade In (1968/1973)

6月9日、月曜日の版、BFI SouthbankのBarbara Loden特集で見ました。彼女が初主演したrom-com… なのかなあ。

クオリティに問題がありすぎて監督名を伏せて公開するとき、”Alan Smithee”という偽名が被せられるのだが、この作品はこの監督名が付与された史上最初の作品で、実際の監督はJud Taylor - もちろんノンクレジット - だそう。という事情があって1968年に完成したのだが、TV放映という形で公開されたのは1973年だった、と。視聴率とか、どうだったのかしら?

ハリウッドからユタの砂漠にやってきた映画制作チームの編集担当Jean (Barbara Loden)が、制作の手伝いにやってきた地元のカウボーイRob (Burt Reynolds)と恋におちていろいろごたごたする、というお話で、ヒゲを生やしていないつるつる顔のBurt Reynoldsはなんだか変だぞ(胸毛はたっぷり)、くらいしか印象に残らない。

評論家とか権威の人にこの映画はだめ、って言われてもどこがダメなのかあまりよくわからなかったりする自分でも、さすがにこれはアレかも、と思うくらいのやつだった。JeanもRobもなんでそこにいて、出会って愛したり別れたりすることになるのか、皆目わからなかったり。

こんなのでも映画になるのか、とBarbara Lodenさんは思って、それがやがて”Wanda”に、なんてことになるわけもなかろうが、すべてがきらきらきれいにお化粧されているこの世界の反対側に”Wanda”が立ってことだけはわかる。”Wanda”だって、十分に作りこまれた世界ではあるのだが、それにしても。
 

6.14.2025

[film] Star Wars (1977)

6月12日、木曜日の夕方17:30、BFI Film on Film Festivalのオープニングで見ました。

Film on Film Festivalは、上映されるフィルムだけではなく、上映素材としての「フィルム」にも着目して、今年で設立90周年を迎えるBFI National Archiveの協力のもと、とっておきのお蔵出しをするお祭りで、2023年の第1回の際はナイトレートフィルムの上映があったそうだが、2回目となる今年は8mm、16mm、28mm、35mm、70mmのいろんな作品をぜんぶ物理フィルムでがらがらかけて回して、今年はボローニャの方の映画祭には行けなかったのでありがたく見まくりたいのだが、日曜日までの4日間しかやらないなんて、短すぎる。土曜日には用事入れちゃっていたし。

そして、このオープニングでGeorge Lucasが勝手に改変してしまったのでもう見ることのできない1977年のリリース時のバージョンの35mm dye transfer IB Technicolorというの(知らなかったのだが、英国以外はEastman Kodakのプリントだったのだそう)が上映される、と。日本でも報道されていたくらいの、これはとにかくおおごと、ではある。

日本では本国公開から遅れること1年以上 - 洋画配給会社への不信は間違いなくここから始まった - 待たされすぎてあたまがおかしくなってしまった公開当時中学生の自分はまだ入れ替え制ではなかったのでチケットを買えば一日中潜ってひたっていられる映画館で何度も何度も、正確な数はもう忘れてしまったが、40回以上は見た。タマゴから孵ったヒナが最初に見たのについていくのと同じで、自分にとってはこれが正しい”Star Wars”で、現在流通している改変/改悪版は着色料まみれの二次資料としか言いようがなくて、とにかくこの目でふたたびおっかさんをー、とか。

と思っては見たものの、BFIのシアター(一番大きいとこだけど、そんなにでっかくはない)なのでチケットはすごい争奪になることが予想され… と思っていたら抽選になりますー、って連絡がきて、もちろん応募はするのだがそういうのに当たったことがない(そして実際に外れた)のであーあーって暗くなっていたら、2回の上映のうち、最初の回の上映でfundraising ticketが出ているのを知る。

London Film Festivalとかのfundraising ticketは4ケタで手が出るものではないのだが、これはそこまでは行かなくて、バレエとか洋楽の高いのを買ったと思えば、くらいで、もう自分が生きているうちにこのバージョンのをフィルム上映で見る機会が出てくるとは思えないし、など悩んで(うそ。実際には速攻で)取ってしまった。それにBFIのアーカイブには散々お世話になっているので、寄付になると思えばぜんぜん、って。

自分で席は決められないのだが、ものすごくよい真ん中の真ん中の席で、前の列にはEdgar Wrightがいた。

フェスティバルのオープニングなので挨拶などもあって、なんとLucasfilm社長のKathleen Kennedyが出てきたよ。「illegalな上映会にようこそ」だってさ。今回のこのバージョンが現在のSWの世界(AndorからThe Mandalorianから、企画中のStarfighterまで)の源流になっていることは間違いない、と。(そんなこと言うならふつうに見れるようにしてくれ)

映画のほうはいいよね。オープニングに”Episode IV – A New Hope”と入っていない、ただの”Star Wars”だけの。フィルムは約50年前のものだなんて信じられないくらいきれい(人によっては黄ばんでいるとか言うかな)で、ノイズすら遥か昔の銀河系の彼方のものだし、と思えてしまう。でもフィルムかデジタルか、についてはこういうのを見ると、まったくの別ものなのでどっちがどっちの議論なんかしてもしょうがないのではないか、と。見たいひとは何があってもその時に見たいのを見る、だけだし。

最初と最後に大きな拍手が起こったことは言うまでもないが、上映中で唯一拍手が出たのはMos EisleyでHan SoloがGreedoを撃ち殺すシーン。やっぱりな、って。

終わりの方は、なんだかずっとじーんとしていた。画面の流れとか誰がどこで何を言うか、画面上のそれと頭のなかで再生されるそれが同期してはまっていくのがひたすら心地よくて、あーこの映画が自分を作ったのだわ、って思った。「理力」とはなんなのか、なぜ人はダークサイドに落ちるのか、そんなことばかり考えていた。 それは今も。


Behind the Scenes of Star Wars


この上映企画の一環で、BFIのなかのBlue Roomというギャラリーのようなスペースで、BFI National Archiveが保管している関連お宝が公開されていた。

“Star Wars”が当初”The Adventures of Starkiller”と呼ばれていた頃のoriginal continuity scriptとそれに添付された撮影現場のポラロイド写真の現物を見ることができる。
時間ごとの閲覧チケットはあっという間に売り切れていて、でも上映後に辛抱強く並んでいたら20:30過ぎに入れてくれた。

撮影はもちろん不可、飲み物なども持ちこみ不可で、一部は拡大されてパネルに並んでいるが、本物は係員のひとがクリアファイルをめくりながら説明してくれる。

書き込みは異様に細かくてぐしゃぐしゃで、ふーん、くらいなのだが、Trash compactorのシーンのところはぐるぐる渦巻がいっぱい描いてあって、あーなるほど! だった。

6.13.2025

[film] The Salt Path (2024)

6月2日、月曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
新作の英国映画で、Gillian Andersonさんが出ているから、くらいの理由で。

原作は映画の主人公でもあるRaynor Winnが書いてベストセラーになった実話ベースの同名の回想録 – 未読 - で、監督はこれが長編映画デビューとなるMarianne Elliott。

Raynor Winn (Gillian Anderson)とMoth (Jason Isaacs)の夫婦は事業に失敗して家と農場を失い、役所に行っても緊急事態ではないので家を用意できるのは2年後、と言われ、更にMothの方は治癒が難しく悪化する可能性のある脳疾患で足を引き摺って歩くしかない、と言われて、でも、なのか、だから、なのか、英国南西部のサマセットからドーセットまでの海岸線をふたりで歩いてみることにする。

難病が絡んだ感動の夫婦の実話!みたいだったらやだな、だったがそういうのではなかった。外側は悲惨ぽいし辛そうだし天候のせいでずっとびしゃびしゃなのだが、態度としてはどこまでもドライにそれがどうした、みたいにずっと歩いていく、それだけなの。 最後は笑って終わるし。

こうして50代の夫婦が、重いリュックとテントと全財産(ほぼない)を背負って、海岸沿いの崖っぷちばかりの砂利路を登ったり下ったりよろよろ歩いていって、画面にはふたりで歩いたマイル数も表示されるのだが、外見はハイキングしてアウトドアする人でも中味はホームレスで、カフェに寄ってもお湯だけ頼んで、そこに持参にしているティーバッグを突っ込んだり、クリームティーもひとつ頼んでスコーンをふたりで分けたり、ATMで操作するたびにお金が出てきますように、ってお祈りしたり、とにかく大変そうで、ただ一番謎なのは、なんでこんな厳しい状況になっているのに、崖っぷちを歩き続ける苦行のようなことをやろうと思ったのか、この辺の難行とか苦しみに対する考えかたってイギリス人に対する謎のひとつ、ではある。

そしてもちろんなによりも、天候だってひどい。テントが or テントごと吹き飛ばされそうになったり、足の先は赤黒くてよくわかんなくなっているし、Mothの足はふつうに動いてくれない難病だしで、どうするのか、まだ行くのか? みたいな場面が延々続いて、映画としては結構散漫でだらだらしているのだが、(晴れていれば)海辺の景色が素敵なのと、羊とかもふもふのウサギとか、鹿とか、アザラシとか、猛禽とか、いろんな野生動物 - 羊はちがうか - が出てくるので、やっぱりあの辺は行かなきゃなー、になる。 スコーンも食べたいし。

こないだ見た”Good One”もアウトドアぽくないアウトドア映画で、これはホームレス≒アウトドア映画で、どちらもアウトドアをレジャーではなくて一時的な、やむを得ない退避の時 – しかもぜんぜん楽しくない - のように使っていて、そういうアウトドアなら、自分にいつ降りかかってきてもおかしくないかも。

あと、彼らは体育会系じゃない文系のふたりで、Raynorは原作本のもとになるであろう旅のメモをガイドブックにずっと書きつけているし、Mothは道中ずっとSeamus Heaneyの(が翻案した)”Beowulf”を読んでいて、いよいよお金がなくなった時に広場でそれを大声で朗読してお金を集めたり、どこまでも微妙に不器用で危なっかしいのもよいの。

6.11.2025

[film] Lemminge (1979)

6月1日、日曜日の午後、BFI Southbankで見ました。

6月のBFIの特集にはふたつ大きいのがあって、ひとつが” Wanda and Beyond: The World of Barbara Loden”、もうひとつがこの”Complicit: The Films of Michael Haneke”で、なんで一年のうち一番日照時間が伸びてみんなが歓びに溢れかえる月(英国の場合)に、こんなに過酷な特集を(ふたつも)ぶつけてくるのか? って思ったのだが、秋冬にこれをやるとまじで死にたくなってしまう人が出てくるからではないか。

特集のうち、Barbara Lodenの方は今のところできるだけ見に行っているのだが、Michael Hanekeの方は見れる機会に、くらいで、まだこれくらい。

これはMichael HanekeがTV用に制作した作品で、“Lemmings, Part 1 – Arcadia”(英語題)が113分、続く”Lemmings, Part 2 – Injuries”(英語題)が107分、纏めて上映されたのではなく、別枠で、日曜日の後半がレミングの大群にのまれた。 こんな際どくもやもやして暗いの、よくTVで放映したものだわ。

Lemmings, Part 1 – Arcadia

第二次大戦後、1959年、ウィーン南部の町の若者たち – Hanekeの世代、彼の生まれ育った町 - と親たちの衝突、というかそこまでいかないただの断絶、溝が横たわっていて、そこに向かってレミングが – その行動については登場人物たちの口からもヒトゴトのように語られる。

当時のPaul Ankaとかのポピュラー音楽が流れるなか、夜に自転車をのりまわしたり自動車を壊したりしている男性ティーンを中心にふたつくらいの家族があり、強権的な父親がいたり、寝たきりの母がいたり、中年の女教師と関係を持っていたり、学校やサークルもあるが、若者それぞれになにをやってもの無力感~絶望があって、それがある日、糸が切れるように自殺に至る - 何故?についてはわからないし語られない。残された者の辛さと他にも伝播していく可能性が等しく並べられていって、先の大戦を止められなかったように、それはどうにも止められるようなものではないのだ、という灰色の壁とか空気が映しだされる – そんなArcadia(理想郷)のありよう。

50年代という時代やオーストリアの郊外の町、という背景の特殊性はあまり強調されておらず、若者たちの不安や不満の根源に迫ったり掘ったりしていくアプローチも取らない。ここに描かれたような普遍ぽく平坦な環境下では、交通事故のようにそういう事態がある/おこる、ということを淡々と描いて、そこに救いや解決策のようなものはないんだから、ってそれらの方は触れない ~ これが/だからレミング。


Lemmings, Part 2 – Injuries

Part1から20年後、ここに出てきた人物たち- 同一人物設定 - は中年になっていて、でも痛みや病の総量はあまり変わっていない。

冒頭、原っぱの木に車が突っ込むところが描かれて、そこに至るまでの成りゆきが綴られていく - けど、明確な因果関係などはここでも描かれることはない。

疎遠だった父が亡くなったとの連絡を受けて、数十年ぶりに実家に戻った女性ががらんとした家でいろいろ思ったり、旧友と再会したり、新たな恋人を作ってみようとするのだが、どれも最初は大丈夫ぽいのに途中からなんでこんなことしてるんだろう… に襲われて、その傷(Injuries)のようなものが広がって自分でもよくわからないまますべてを壊してしまおうとする。 日本だと万能薬のように使われる「絆」なんて微塵もない。

Part1にあった成長のようなテーマから継承とか後始末、のようなところに移って、画面や人物の挙動の不透明度と不可視なかんじはPart1より増しているのだが、わかるわからないでいうとものすごくよくわかって、わかるから怖さもより増している。どっちにしても止められないけど。

これ、Part1と同じく女性ではなく男性を主人公にすべきだったのでは、というのは少し思った。これだと女性特有のあれ、で片付けられておわり、になったりしない?(そこも狙い?)

レミングについては、止められない、なんでそうするのかわからない、でもみんな突っこんでいく ←これが自然現象なの? というありようから何から、Hanekeが描くのはヒトではなくすべてレミング(の仲間)、というのが既に表明されているかのようだった。全部はとても追えそうにないけど。

6.10.2025

[theatre] The Crucible

5月31日、土曜日の晩、Shakespeare's Globeで見ました。昼に”1536”を見て、晩はこれ。

Shakespeare's Globeの屋外のシアターはコロナの時に劇場のツアー(観光)で来たことはあったが劇が上演されるのを見るのは初めて。(いまここでは”Romeo and Juliet”も並行して上演している) 演目はArthur Millerの『るつぼ』(1953)。演出はOla Ince。

休憩があるとはいえ、2時間50分の舞台をPitのスタンディングで見るのはしんどいので椅子席にしたのだが、前の方の席だと背の高いひとに立たれたら遮られたり、背もたれもなかったりするので、次回以降は後ろの背もたれありの、全体を見渡せるところにしようと思った(学び)。

開演15分くらい前からステージの上のほうから太鼓がどーん、どーん、と鳴って、牧師が白い寝間着でぐったりした女性をステージ中央のベッドに運びこんで天を仰ぎながらお祈りしたり、大きな農家のホールを模したようなメインのステージから離れた島のように小さいステージでは土が盛られて女性たちが農作業のようなのを始めたり、銃を抱えた狩猟民の恰好をした男性たちがPitを練り歩いたりする。要は客席を含めた劇空間が17世紀のアメリカの田舎の村の日常に変わっていく、のだが、観客が立っている間をかき分けていったりするのでざわざわと騒がしくて落ち着かなくて、みんなスマホを見たり写真を撮ったり – 都度注意されていたが – しちゃうものだし。

セイラムの魔女狩り裁判をテーマにした“The Crucible” - 「るつぼ」という劇がそもそもそういう騒がしいもので、火のないところに煙をたてたのは誰とか、なんでこんなことになったのか → 魔女だから → なんで魔女? の同じところをぐるぐる回り続け、認めたくない人は滑稽なくらいに認めないし、でも病のような明らかにおかしいことが起こったりはしているし、まず現象を受けいれるのではなく、受けいれないところ - 起こっているけど起こってはいないのだ – みたいな不信と不条理から入ってしまうので、みんなざわざわ落ち着かなくなるのは当然で、どうなるかというと、声の大きい人が勢いで場を制して、それで落着したようになってしまう。 どこかで見られる/見たことある光景ですね。

本当は少女たちをパニックや金縛りや憑依に陥れる恐怖や村の底を流れていそうな禍々しい何かを掘って炙りだすような劇でもあったはずだが、ここではがやがやした群像時代劇に徹して、John Proctor (Gavin Drea)とかつて関係をもったAbigail (Hannah Saxby)との、John Proctorと妻Elizabeth (Phoebe Pryce)との対立、Johnのところに奉公しているMary Warren (Bethany Wooding)の悲惨などが前に出て、後半の裁判ではDanforth (Gareth Snook)の滑稽なほどのオトコの嫌らしさが際立ち、全体としては、これだから田舎は怖いわ - 魔女なんかよりも断然 - になってしまう。それもそうなんだけど.. それもあるけど、もっと怖いのはその田舎(るつぼ)が「グローバル」の広がりを見せてきていること、ではないか。

“The Crucible”は、2016年にBroadwayで上演されたのを現地まで見に行って、この時は演出Ivo van Hove、AbigailがSaoirse Ronan、John ProctorがBen Whishaw、音楽Philip Glass、というスタッフ&キャストで、世界はひとつの荒れた教室としてあり、どこまでもきりきりと自己と他者を縛っていくとこんな奇怪なものが、というArthur MillerというよりIvo van Hoveなやつだったが、より原作に近い世界を表しているほうでいうと、今回の上演版のほうかも知れない。

2016年の地点から見たいま、「世界」との緊張のありようって、視野はより狭く、でも自分を中心にした時には割と勝手に広く、間がいろんなノイズまみれでしんどくて、でも認めてもらえるならそれでよし、みたいになっているような? そんな簡単じゃないよ、じゃなくて誰かがそんな簡単に - 甘くやさしい「るつぼ」にしたがっているのがわかって、あれこれ吐きそうな。

というのを、客席も含め騒々しく落ち着かない雰囲気のなかで見ていて、21:30頃から空がうっすら暗くなっていくのはちょっとよかったかも。

[film] La porta del cielo (1945)

6月3日、火曜日の晩、BFI Southbankで見ました。 4Kリストア版のUKプレミア。
監督はVittorio De Sica、 英語題は”The Gate of Heaven”。 日本では公開されていない?

ロレートの聖マリアの聖堂に向かう列車に医療関係者といろんな患者たちが乗りこんでいって、それぞれここに来るまでの事情や境遇がフラッシュバックで語られていく。車椅子の少年は家族に見放されて近所の親しいねえさんに連れられて乗りこんでくるし、左腕が突然動かなくなってしまったコンサートピアニストがいるし、同僚のちょっとした意地悪で目が見えなくなってしまった工場の人がいるし、誰もがこの大変な戦時下になんで..? の不安に不満、絶望を抱えながら列車に乗りこんで、神にすがる思いの人もいれば、もう神なんているものか、と諦めている人もいる。びっちりの客車のなかでも、車椅子の少年はみなにやさしく構って貰えるし、予約なしに乗りこんできたピアニストを気にかける看護婦の女性もいるし。

最初に患者たちを紹介していくパートはエピソードによって質もばらばらで雑なところもあるし、だいじょうぶかなあ?になるのだが、ロレートに着いて、列車から降りた患者たちと医療関係者、彼らを迎えるキリスト教関係者たちが光を求めて一方向に歩きだすシーンはなんだか言葉を失う。わかりやすい奇蹟が(それっぽいのはあるけど)起こるわけではなく、みんな黙ってゆっくりと一方向に向かって歩いて/歩かされていくだけ。宗教ぽい、と言われれば教会がお金も出しているのでその通りなのだが、”The Gate of Heaven”というのはこれを指すのか、というのがすぐにわかる、不思議な力強さがある。

撮影は終始イタリアを占領していたナチスの統制下で行われ、場所も時間も制限される中、ナチスの立ち入ることのできない聖堂に大量の「エキストラ」として人々を雇って囲うことで多くの人々を連れ去られることから救った、と聞くと、この映画の制作がそのまま”The Gate of Heaven”だったのだなあ、って。

つい先日、“Bicycle Thieves” (1948) - 『自転車泥棒』の子役だったEnzo Staiolaが亡くなったと聞いて、この”The Gate of Heaven”に出ていた人たちももうみんなこの世にはいないんだろうな、みんな天国に行っているといいな、って思った。戦時下に作られた映画だから余計に、かもしれないがそう思えてしまうまっすぐな切実さがあるの。


Sleeping Car (1933)

少し昔に見た昔の映画で書くのを忘れていたやつ。
5月20日、火曜日の晩にBFI Southbankの”Projecting the Archive”っていうアーカイブから古いのを引っぱりだして上映する定期の特集で見ました。

上映前に主演のIvor Novelloについて本を出している研究者の人によるイントロがあった。

監督はAnatole Litvakで、90年代にナイトレートフィルムが発見されるまで所在不明とされていた作品だそう。 撮影をGünther Krampf、美術をAlfred Jungeが手掛けて、とてもヨーロッパ映画の香りがする英国製の軽いrom-com。

オリエント急行等の寝台車(Sleeping Car)の車掌をしているフランス人のGaston (Ivor Novello)は、港々ではない駅々に女をつくって、停車するとデートをして去り、を繰り返していて、そんな彼が乗客のAnne (Madeleine Carroll)と犬(かわいい)と知り合って、ウィーンでデートしようとするのだがお金がなくて、怒った彼女はパリに戻ってしまうのだが、イギリス人の彼女は結婚でもしない限りこれ以上ここに滞在するのは不可、って言われて結婚するしかないかー、となった時に相手として引っかかってきたのがGastonで、彼は自分の優位な立場を使っておらおら、って婚礼の宴の準備を進めちゃったり好き放題やる、それだけのコメディなの。でもどちらもサバサバ系の顔立ちなのでそんなもんかー、ってなってよいの。すぐに別れそうだけど。

Ivor Novelloってあまり知らなかったのだが、当時の英国ではアイドルのようなすごい人気だった、ということを知った。

6.09.2025

[theatre] 1536

5月31日、土曜日のマチネをAlmeida Theatreで見ました。評判なのかチケットがなかなか取れなかった。

エカテリーナ大帝の生涯を描いたTVドラマ”The Great” (2023) - 最初の数話は昔に見た - の脚本などを書いたAva Pickettの劇作デビューで、トランスジェンダー、ノンバイナリーの劇作家に贈られる Susan Smith Blackburn prizeを受賞している。演出はLyndsey Turner。

“1536”はヘンリー8世によって2番目の王妃Anne Boleynが処刑された年で、でも宮廷ドラマではなく、その頃にエセックスの田舎に暮らしていた3人の女性たちが主人公。

木が1本立っていて周囲は草ぼうぼうのどこにでもありそうな野原からも野道からも外れた場所で、幕が開くとAnna (Siena Kelly)が村の男と木にもたれかかって激しく青姦しているシーンから始まる - 次以降の幕の導入もほぼこれ。そんなふうに激しく、物怖じせず堂々とはっきりとものを言って力強い彼女の近所の友達にはいつも血まみれで世慣れしている助産師のMariella (Tanya Reynolds - こないだの”The Seagull”ではMashaを演じていた)とよくも悪くもふつうによいこの村娘Jane (Liv Hill)がいて、いつも他愛ないいろんなことを話している。

ある日、Anne Boleynが王に囚われて処刑されるかもしれない、という噂が流れてくると、ありえない! こんなことって許されると思う? なんで王だからって? なんで男っていつも? などAnnaを中心に全員がふざけんじゃないわよ! って盛りあがるのだが、それとは別にJaneの結婚というのも身近な話題として近づいていて…

お上とか政治に対する、あるいはいやらしい男社会全般に対して女性たちの間で共感をもって語られる怒りや失望と、自分の身の回りの出来事やお作法とかしきたり(のようなもの)として日々対峙したり受け容れたりせざるを得ない細かな所作とが、処刑と結婚という両極端なイベントとして目の前に現れ、立場の異なる3人の女性の間で交錯し、小さな見解の衝突を生み、これらが暴走して「やっちゃった…」の悲劇に繋がっていくまでをものすごく生々しく描いていて、Anne Boleynが処刑されたその日の、ラストのとてつもないテンション、それが訴えかけてくるものは1536年のそれとは思えない。

舞台を1536年に置いた意味について、Ava PickettはGuardian紙のインタビューで「ミソジニーと家父長制のトリクルダウン効果」というようなことを語っていて、これは本当にそうだよな、と思った。ロンドンから遠く離れたエセックスの田舎にも(日本にだって)、約500年を経た今の世にも、どういうわけか均質なクオリティできっちり浸透して届いて抜かりなくうっとおしくうんざりさせられるこれらってなんなのか。

そしてこれらトリクルダウンの温床となっていそうな男性ホモソーシャルのゴキブリのしぶとさに対する(対置はしていないものの)「シスターフッド」的な連帯の脆さ危うさも - 結局男性の敷いたガサツさや暴力がすべてを … なのだとしたら悔しいし悲しすぎるし。少なくともこれは古から続くそういうもの(伝統?)、みたいに扱ってはいけないよね、って改めて。

日本の少子化の要因って経済以上に絶対ここだと思う。
別の史実を使って日本版を翻案したらおもしろいのに(特定の史実とかはなくてずーっとか… )。


V&A East Storehouse

これの前、同じ日の午前中に、オープンしたばかりのV&A East Storehouseに行った。Victoria & Albert Museumがロンドン五輪をやった跡地? - 東の方の公園に新たにオープンした倉庫(分館?) - これとは別に別館の美術館(V&A East)も来年できる - で約250,000点のがらくたというかオブジェというか収蔵品がでっかい標本箱のように仕切られた立体で並べられている。入場は無料、荷物はすべてロッカー、が条件。それらのブツをちゃんと見たり調べたりしたい人はオンラインで申請すれば館内のStudy Roomで現物を見ることもできるらしい。絵画から台所道具から楽器から陶器から仏像から服から布から、見る人が見ないとわかんないようなものまで、集められたもので美術館に展示されていないのはなんでも。

なんでも扱う/集めて(or 盗んで)きたV&Aだからできることだと思うし、これこそが美術館や博物館のやることだとも思うし。特定の、専門の領域を持っていなくても、箱や包まれた何かが積みあがっているだけで嬉しくなってくる(← なんかの病だよね)人にとっては天国だと思う。

あたりまえだけど、それぞれのモノたちは自然にここに流れてきたわけではないし、そうなるはずだったものでもないし、すべてはいろんな個人とか歴史の個別の事情や巡り合わせが縒りあわされてこうなった - その縁の不思議さも - これだけ集まって渦を巻き星雲のようになっていると改めて思ったり。 - 杉本博司が小田原のあの場所でやろうとしているのもこれに近い何かではないか、とか。

6.07.2025

[film] Darling (1965)

5月30日、金曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

この日から、リリース60周年を記念した4Kリストア版が小規模ながら全英でリバイバル公開されている。邦題は『ダーリング』。

監督はJohn Schlesinger、脚本はFrederic Raphael。 主演のJulie Christieはオスカーの主演女優賞を獲って、他にオリジナル脚本、コスチュームデザインも受賞している。

モデルをしているDiana Scott (Julie Christie)はTony (T.B. Bowen)と結婚していたが、TV局に勤めてアート系番組の司会をしたりしているRobert (Dirk Bogarde)と出会って恋におちて、Robertにも妻と子供がいたのだが、一緒に暮らし始める。メディアや広告業界にコネがあったRobertのおかげでいろんな仕事も来て、広告屋のMiles (Laurence Harvey)とも仲よくなって、やがて妊娠していることがわかり、でもキャリアのためにさらりと中絶する。

ずっとこんなかんじでパリでもどこでも行きたいところに行って会いたい人に会って遊んで、を繰り返しているので、Robertは愛想が尽きて離れていって、仕事でMilesと行ったローマで、貴族のCesare (José Luis de Vilallonga)と会って求婚されて、最初は断るのだが結婚することにして、でも大きな屋敷の大家族のなかほぼ独りぼっちなので嫌になってロンドンに戻って、Robertとも会うのだが意地悪されて関係が戻ることはなくて、結局ローマに戻る。

若さと美しさに溢れていて誰も(男たち)が寄ってきて構ってくれる女性が東に西に誘われるままそれらに乗って笑って楽しんでいるのだが、でもいかにもスマートなその脇を炭鉱ストや飢餓の話や、2階にいる「ゴージャスなニグロ」が嫌味のように流れていく。いまの「インフルエンサー」がどうのこうのする/したい/できちゃう、のとは別のヴァース(?)には厳然と社会や階層の過酷さがあって、行けるところも行けないところもある - その上での彼女のふるまいや、場合によっては涙があって、トータルとして「ダーリング」である、と。

もうひとつはDianaと同じようにRobertやMilesの当時の先端を行っていたような英国の男たちの強烈な底意地の悪さとか鼻持ちならない嫌らしさ(そういう連中がいる、というのはよくわかる)、構ってもらう、という態度を取りつつも彼女は正面からぶつかって、ある意味戦っていたのだな、と。最後にローマの貴族のところ、カトリックに落ち着く、というのはなんかわかるような。

というのとは別に、当時のロンドンガールのかっこよさ - パリのそれとはやはり違う – がモノクロで見事に活写されていて、ぼーっと見ているだけでも素敵、になるかも。全体としてはやや辛かったりもするものの。

同じ1965年に公開されたAgnès Vardaの”Le Bonheur” - 『幸福』と比べてみてもおもしろいかも。
ぜんぜん「ダーリング」じゃなかったり「幸福」じゃなかったりする女性たち。


The Hustler (1961)

5月24日、土曜日の午後、BFI Southbankで見ました。

Tom Cruise特集では当然この続きの”The Color of Money” (1986) - 『ハスラー2』をやるわけだが、その前日譚としてのこれも上映していた。なので、この午後は見ようと思えば2作続けて見れたのだが、”The Color of Money”の回は、別のチケットを取ってしまっていたので、これだけ。

監督はRobert Rossen、原作はWalter Tevisの同名小説(1959)、撮影はEugen Schüfftan、音楽はKenyon Hopkins。

"Fast Eddie" Felson (Paul Newman)が相棒のCharlie(Myron McCormick)とどこからか流れてきて、Minnesota Fats (Jackie Gleason)っていう伝説のハスラーと一騎打ちをするところから始まって、とにかくおもしろくて止まらない。

モノクロの大画面で迫ってくるプールバー全体の威容というか迫力がすばらしくて、そこで1本の棒を持って四角の台の周りをぐるぐる行ったり来たりしている男たち、それを囲む男たち - 25時間くらいそうやって全員が睨みあっているの、すごく変なの、と思いつつ、のめり込むように見てしまうのだった - ゲームではなく、彼らを。

前半のMinnesota Fatsとの勝負もよいが、後半にBert (George C. Scott)と絡んで擦り切れていくのもたまらなくよいの。Robert Altmanの博打ものにも結構影響を与えているのではないか。

こっちで夜中にTVをつけるとプール(ビリヤードとはちがうって)をやっていることがあって見たりするのだが、へんな競技というのか博打に近いのか、でもこんなに夜のかんじが似合うあれってないよな、と思ったり。

6.06.2025

[theatre] The Deep Blue Sea

5月28日、水曜日の晩、Theatre Royal Haymarketで見ました。

原作は英国の劇作家Terence Rattiganの1952年の戯曲。1955年にAnatole Litvakが、2011年にはTerence Daviesが、同じタイトルで映画化している。日本語版は小田島雄志訳で『深い青い海』という題で出版されている(1968)。 

この舞台の演出はLindsay Posner。オリジナルは一年前にバースで上演されて評判になっていた舞台だそう。

幕があがると、古くて薄暗い部屋がゆっくりと浮かびあがる。重くいろんなものを吸っていそうなカーテン、光は全て均等に柔らかく、曇って色あせた壁、そこに掛かった何枚もの絵画など – ここが”The Deep Blue Sea”なのだ、というのは想像がついて、その部屋の片隅に布に包まれた人が倒れていて、隣人と思われる人たちがばたばた現れると彼女を奥のベッドに運んで医師を呼んできて面倒を見ると彼女 - Hester (Tamsin Greig)は立ちあがって、大丈夫だというがあまり大丈夫そうではなくて、ガス自殺を図ったものの、お金がなくてガスが供給されなかった(お金を入れるとガスが出てくる仕組み)ことがわかる。

もう大丈夫だからと人々を帰しても、夜になってやはり心配になった彼らみんなが – みんなが入れ替わり立ち替わりなのが妙におかしい - Hesterの様子をこわごわ見にやってきて、その中には別居している夫で判事のWilliam(Nicholas Farrell)がいるし、彼女の若い恋人でパイロットだったFreddie Page (Oliver Chris)もやってくる。Hesterの彼らとの個別の会話、話題の拾い方とかその温度感から、彼女がなぜこの薄暗い部屋 – The Deep Blue Seaにずっとひとりでいるのか、彼女がなにを求めているのか、なんで死のうと思ったのか、などが照らしだされてくる。

それは一見して他人が容易に入りこめない(入りこんではいけない)領域のように思えるし、最初のうち、ああこれはしんどそう、って思うのだが彼らひとりひとりに対する彼女の振る舞いや会話のトーン、彼らが彼女に対するときの態度など、過去に遡ったりしながら廻っていく細かな会話の積み重ねから、部屋のように固定された彼女の孤独と痛みがぼんやりと浮かびあがってくる。Hesterは彼らの今の都合や用事を妨げたり遮ったりしてはいけないことはわかっているけど、でもやっぱりFreddieとは一緒にいたいし、男たちの方もHesterの思いや辛さ、気遣いはわかっているので、これまで通りに振るまわねば、と思いつつも、また自殺されても困るので、どちらもなかなか動けなくて、その状態をどうにかするのにお酒の力を借りようとすると、それはそれで、別方向にドライブがかかってしまったり…

ヤマはHesterとFreddieの関係をどうするかどうなるのか、それがどっちみち続かずに壊れてしまうことは誰が見たって明らかで、それがわかっているWilliamや医師が最後のほうに現れて部屋と彼女をほんのり温めてくれるのだが、痛みの総量はそんなに変わらないようで、ああこれがKitchen sink realismか、と改めて。確かにリアリズムなんだけど、どうやってその粒度と明度に到達できたのか、は魔法に近いなにかのような。

50年代の闇、とまではいかない日々の生の薄暗さがどうしてこんなに生々しく迫ってくるのか。やはり思いだしてしまうのは杉村春子の『晩菊』 (1954)で、女たちはみな命をかけるくらいにずっと必死に生きて恋をしていて、その反対側の男たちはどいつもこいつもぼんくらのダメであることが明らかな奴ばっかりなのか。ちゃんと探求したらおもしろいテーマになると思うなー。


ここのシアター、次の7月にかかるのはミュージカルで、原作はJudith Kerrの“The Tiger Who Came to Tea”なの。見たいけど、子供向けなんだろうな…

6.04.2025

[film] The Phoenician Scheme (2025)

5月26日、月曜日の夕方、CurzonのBloomsburyで見ました。

この日、英国はバンクホリディの3連休最終日で、でもどこかに行く予定を立てるのを忘れた(べつに寝てればいいのに)ので、近場のWinchesterに行った。むかし、コロナでロックダウンしていた時に大聖堂だけでも見れないかと企てたことがあったのだが、開いていなくて見れていなかった。

Jane Austenの生誕250年のイベントがあちこちであって、Winchester Cathedralにある彼女の墓碑と小さな展示を見て、聖堂の近くにある彼女が亡くなった家を見て、戻ってきたらBBCで特集番組をやっていたり。250歳のJane Austen、違和感なくイメージできてしまうのがすごい。

Wes Andersonの最新作。予告から既にWes Andersonの世界が広がっていて、おもしろそうだし、たぶんおもしろいのだろうが、どうしたもんかな、って積極的に見たいかんじではなくて、でも/なので日帰り旅行の終わりに取った、くらい。

センスのよい画面構成と色彩のデザイン、怪しげで何を考えているのかわからない(だいたい不機嫌な)無表情とどこからどうしてやってきたのかわからないミステリアスな登場人物たち – でも演じているのはびっくりするような有名な俳優たちで、彼らの仮面の背後には陰謀とか共謀とか使命とか妄執が蠢いたり積み重なってコントロールできなくなっていて、そんな彼らがどういう因果かこの世に存在するのかしないのかわからないような地の果ての土地にやってきて、それぞれが帰属する集団や家族や一族の信念に基づいて勝手な動きをしていくので、ごちゃごちゃの諍いや小競り合い、場合によっては戦争まで連鎖して起こったり、ばくちのように予期しない事故や出来事も襲ってきて、でも落着、というより複数の線がアナーキーに流れていくばかりで誰にも止めることができない、というパニック、騒乱状態を古くからある映画的な活劇やアクションの伝統や手口も参照したり引用したりしつつ手抜きしないで描いていく。そのイメージ、エクリチュールの置き方はWes Anderson印、としかいいようのない表象を形作って、そのディレクション(非時間、無国籍性、多様性など)はハイ・ファッション・ブランドの戦略とも親和性が高いようでマーケティングも無敵で、みんながかわいいー! 大好き!って褒めたたえてやまない。

Tim Burtonと同じようにそのまま展覧会のアートネタになりそうな小物や空間や作家性を一貫して創って保っていて、何が来ても何回でも見て追っていけるものの、なんかもういいかな、になりつつあるかも。 映画なんて2時間くらいの駄菓子の娯楽でよいのだし、評論家や映画好きはどうせいつものように褒めるのだろうし、とか - こんなひねくれた見方をさせてしまうのも、彼の映画のあまりよくない特徴なのかも。

敵がいっぱいいて常に狙われている富豪の悪徳商人Zsa-Zsa Korda (Benicio del Toro)が誰に産ませたのかの尼の娘(Mia Threapleton)とアシスタント(Michael Cera)を連れてある計画を実行しようとするのだがそれを阻止する勢力もいて、土地を渡りつつ敵を迎え撃ったりやられたり蹴散らしたりしていく… くらいなのだが、登場する全員が強烈な個性と臭いを放つ人たち、一族郎党なので、それぞれの動きとか佇まいとか、へんなのー、って笑って追っているうちに終わってしまって、後にはストーリーも含めてなんも残らない(すでにあまり憶えていない)。残るひともいるのだろうが。

例えば、なんで彼はあんな風貌で傷だらけなのか、過去に何をしてどんな恨みを買ったのか、等について、Wes AndersonをRoman Coppolaも、聞けば設計図やストーリーボードを持ちだして子供のように嬉々としてすらすら説明してくれるのだろう、と思う。でもそんなのちっとも聞きたくならないしどーでもいいやになってしまう - というあたりだろうか。

どうせどう転んだってガキの映画になるのだから、彼にはStop-motionのアニメ + 実写でモンスター映画を撮ってほしいんだけど。 “The Life Aquatic with Steve Zissou” (2004)で、あと少しだったと思うのに、あれの続きでもよいからー。

[film] Vanilla Sky (2001)

5月27日、火曜日の晩、BFI SouthbankのTom Cruise特集で見ました。

監督はCameron Croweで、Alejandro Amenábarの”Open Your Eyes” (1997)のリメイク - 公開当時にオリジナルの方も見なきゃ、と思ったのになんもしないまま簡単に四半世紀が過ぎちゃうとは。

BFIの人のイントロがあって、冒頭の無人のタイムズスクエアでの撮影時のエピソードなど。この頃NYに住んでいて、映画撮影のためマンハッタンのここからここまでブロックされます、とかニュースでよくやっていたのであれかー、と。 冒頭のシーン、タイムズスクエアで車から降りたTom CruiseにRadioheadの” Everything In Its Right Place”が被さってくるシーン、彼がひとりで北から南に向かって走っていくだけなのに結構鳥ハダだったことを思いだす。 そしてあんなところにVirgin Megastore(CD屋)があったなんて、これだけで十分SFのような。

David Aames (Tom Cruise)は大金持ちの父から出版社を引き継いでパーティ三昧で暮らしているぼんぼんで、パーティで友人のBrian (Jason Lee)からSofia (Penélope Cruz)を紹介されて恋におちるのだが、ずっと付きあっていた(いると思いこんでいた)Julie (Cameron Diaz)が車にDavidを乗せたまま爆走し、車ごと橋から落ちて亡くなり、Davidは顔に損傷を負ってマスクなしではどこにも行けない状態となる。

そこから先の、というかどの地点からなのかは不明なのだが、精神科医のCurtis (Kurt Russell)に対してDavidが語ったり、あるいは自虐を絡めた妄想込みで錯乱・暴走していく彼の姿を通して、自分のありようとか「本当の自分」を見つけようとする苦難の道が綴られていく。ドラッグとかマスクとか、隠蔽やごまかしなしにいまの自分や周囲と向き合うことができるのか – “Open Your Eyes”はその縛りを解放する呪文なの。

最初に見た時の自分の評価は微妙で、当時吉本ばななさんもぎりぎりでよしとしよう、みたいに書いていた記憶があるが、今改めて見ると、見栄えよく育った金持ちのぼんぼんのおめでたく都合のよい再生ストーリーで、こんなんだからやがてEronみたいのものさばってくるわけだー、くらいに結構むかついた - たぶん評価の温度感や目線は公開当時のそれから随分変わっているのではないか。

ただ、人口庭園みたいにきれいなフェイシャルを揃えて、脅かされることのないパーフェクトな、Vanilla Skyの世界を作る - オトコでお金があればできるのだ – っていう枠を作る限りにおいてはよくできた映画なのかも。Cameron Croweのおめでたいガキっぽさがよくも悪くも全開の。

冒頭にタイムズスクエアを走っていったTomが映画館に入って自分&映画館ごと爆破するとか、そういうのだったらまだなんかわかったかも。


Collateral (2004)

5月29日、木曜日の晩、BFI SouthbankのTom Cruise特集で見ました。

この特集では銃を持たないTom2作だけにしようと思っていたのだが、時間が空いたのと、これは見ていなかったのと。 こんなにすごいのを見ていなかったなんて愚かものだった。

監督はMichael Mann、やくざものとしては”Heat”(1995)よか断然冴えわたっている。それをもたらしているのはTom Cruiseの、自己愛みたいなところをざっくりそぎ落とした鉱物のような殺し屋の像なのだと思った。

まじめで平穏な将来を夢みるタクシー運転手のMax (Jamie Foxx)が一見ふつうそうに見えたVincent (Tom Cruise)を客として乗せたところから始まる悪夢のような巻きこまれのひと晩。Vincentは殺し屋で、やばいと思ったら相手を容赦なく殺して、関わらなかったことにして逃げようとするMaxも縛り付けて隙も抜け目もなくて、散々めちゃくちゃに振り回されて、ようやくどうにか抜けられそう、と思ったら最後に…

夜の通りをコヨーテだか野犬が2匹横切って、Audioslaveの”Shadow On The Sun”が流れて空気と温度がざらっと変わったところから始まるクラブでの銃撃のとんでもないこと。逃げたくても怖くて逃げられない - 現場から逃げられない怖さとVincentから逃げられない怖さの二重縛りが銃声のエコーと共に。

そしてこれは夜のLAの映画でもあって、遠くから見えるオフィスとか、道路の上にかかった長い果てしない歩道とか、最後に出てくる地下鉄(の機械みたいな冷たさ)とか、あのどこまでも遠くて冷たくて見渡せて– でも結局到達できない距離感ってLA独特のものだよねえ、ってしみじみした。

6.03.2025

[film] Good One (2024)

5月25日、日曜日の午後、BFI Southbankで見ました。
MI8を見たあと、へろへろの状態で。海の次は山か、とか(違)。

父娘が一緒にハイキングに行く、という以外どういう映画なのかわからなかったが、それなりに楽しめた。
監督のIndia Donaldsonの長編デビュー映画で、2024年のサンダンスでプレミアされているアメリカ映画。

NYに父と暮らす17歳のSam (Lily Collias)が父とその友人と一緒に北の方のCatskill(ちなみにFishkillっていうのもある)の山奥にハイキングにいく朝から始まる。

どういう経緯や目的があってこの旅行が企画されたのか、等はわからず、出発の朝のSamのだるそうな様子から、山に行って楽しんでこよう!みたいな雰囲気は感じられないし、父Chris (James Le Gros)が運転する車で彼の友人のMatt (Danny McCarthy)をピックアップした時も、彼の家の入口でMattとその息子らしき若者が揉めているのが見えて、やがて諦めたMattがひとりで車に乗りこんできたので、おそらくは親父ふたりがなんとなくのノリで決めて、若者代表でSamが付きあわされているのだろう、くらい。

ChrisもMattもどちらも成功かつ成熟した大人のかんじはあまりなくて、どちらも離婚しているようだし、元俳優であるらしいMattの話しぶりからも、重すぎる荷物を開けてみた時の(アウトドアとかぜんぜん縁がなさそうな)散らかったかんじからも、この旅が彼ら中年男たちになにかをもたらしたり転機になったりする可能性はなさそう(蒸発とか自殺はありそう)で、どちらかというと大学入学などを控えたSamの思い出作りになったら喜ばしい、くらいの、うざいおっさんの考えそうな臭いがぷんぷん漂う。

他方でそれらの「真意」のようなものを探る方にも目標地点を示す方にも向かわずに、カメラは3人の行動を追っていくだけ。車を停めてキャンプするための道具をリュックに詰め替え、歩きだしてしばらくしたら雨がきて、雨宿りしていると別の山歩き男たちが現れて、など。予告を見た時はこの男たちとの間でやばいことになるのか、と思ったりもしたがそんなこともなく、つまんなそうな話をつまんなそうにして男たちは消えて、もうこのさき一生思いだすこともないであろう、とか。

ナレーションもないし本質に向かうような会話もないしテントの中の様子が映ったりもないのだが、それでもこのぱっとしないキャンプ、というかその時間とか丘の上から見渡せる森の景色とかがSamには何かを与えたのでは - このつまんなさ退屈さ、それにつきあわされたり耐えていったりがこの先の人生のどこかでぜったい求められるんだから、とか - わかんないけど。そして森とか自然はなにも応えず返さずにそこにあるだけの背景以上でも以下でもー。

父と娘と森、で“Leave No Trace” (2018)を参照するレビューもあったが、男ふたり、だとKelly Reichardtの”Old Joy” (2006)を思いだしたりもした。あの、楽しいんだか楽しくないんだかぜんぜんわかんない変な男たちが出てくる映画。

もう一生アウトドアなんてしないし関係ないし、っていう人が見ても納得できるやつだと思う。反対にアウトドアに情熱をもって取り組んでいる人がみたら怒るやつかも。怒らせとけ、くらいの..


Compensation (1999)

5月24日、土曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
ここの5月の特集、ぜんぜん追えなかったのがひとつあって、“Black Debutantes: A Collection of Early Works by Black Women Directors”というので、有名な作品だと”Losing Ground” (1982)などもかかったのだが、時間が取れなくてごめんなさい、しかなかった。

上映前に監督のZeinabu irene Davisさんのプレ・レコーディングされた映像が流れる。

1910年と現代のアメリカでそれぞれ、聾唖者の女性(Michelle A. Banks)と健常者の男性(John Earl Jelks)が恋におちて、途端にいろいろやってくる困難 -昔のアメリカだと、女性は読み書きできても、男性の方で文字が読めなかったりとか。現代ドラマで描かれがちな周囲の無理解やシンプルな差別偏見、のような取って付けたようなものはなく、恋とは、思いを伝えるとは.. のそもそもを考えさせるようなやりとりが淡々と紡がれていって考えさせられる。

昔のアメリカのパートは、やりとりなどが字幕で描かれるのだが、まるでサイレント映画で、そうかサイレントってそもそも… と改めて思ったり。

タイトルは詩人Paul Laurence Dunbarの詩から採られたもの。

映画は1993年に完成していたが上映まで1999年まで待たなければならなかった、とか。
でも昨年アメリカ議会図書館のアメリカ国立フィルム登録簿に登録されて、今回の4Kリストア版が公開されるに至った、と。日本で公開されたことがあるのかは不明だけど、公開されてほしいな。

6.01.2025

[film] Seconds (1966)

5月23日、金曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

クラシックを大きい画面で見よう、の枠で、John Frankenheimer監督作を2本やっていた。
原作はDavid Elyの同名小説(1963)、撮影はJames Wong Howe、音楽はJerry Goldsmith、オープニングのタイトルバック - 顔や頭部のいろんな部分の歪んだクローズアップ - はSaul Bass。
邦題は『セコンド/アーサー・ハミルトンからトニー・ウィルソンへの転身』。

NYの郊外スカースデイルに妻と暮らす銀行員のArthur Hamilton (John Randolph)はグランドセントラル(66年の駅!)への通勤も含めて日々ぼんやり疲れていて、ある日の帰宅時、見知らぬ男からダウンタウンの住所を書いた紙を手渡され、その晩には死んだと思っていた幼馴染のCharlieから電話が掛かってきてその住所に来るべきだ、と強く言われる。

Arthurがその住所に行って見ると食肉加工工場で、その奥にはカフカぽい迷宮が広がっていて、帰ろうと思った時にはもう遅くて、改造手術を受けた彼はAntiochus "Tony" Wilson (Rock Hudson)として生まれ変わり、元のAuthurはどこかでだれかの焼死体として処理されている。

こうしてRock Hudsonの容姿を持つ西海岸の現代美術家として生まれ変わったTonyは用意されていたかのようなマリブの海沿いの邸宅とアトリエをそのまま貰って、なに不自由ないセレブの暮らしを満喫できるはずだった、のだが。

過去や家族を捨て、別人として生まれ変わったはずの人がうまくいかなくて破滅するよくあるお話、ではあるのだが、そこに含意されがちな教訓とか戒めのような要素はあまりなくて、なぜ自分は自分でないといけないのか、自分を自分たらしめているのはなんなのか、を考えさせて不安と不条理の底に突き落とす。”First”や”Second”の「自分」- そのコアを決めるのは自分なのか、どこの誰なのか、がわからなくなってくる実存レベルの恐怖がある。


The Manchurian Candidate (1962)

5月24日、土曜日の昼、BFI Southbankで見ました。
↑の3つ前に作られたJohn Frankenheimer監督作品。原作はRichard Condonの同名小説 (1959)。
Jonathan Demmeが同名”The Manchurian Candidate” (2004)としてリメイクした方も有名かも。 邦題は『影なき狙撃者』。

朝鮮戦争に従軍していたアメリカ軍の小隊が罠に嵌って敵方に捕えられ、でも帰国すると英雄として迎えられる。特に帰還兵のひとり、Raymond Shaw (Laurence Harvey)は上院議員の父と選対長母Eleanor(Angela Lansbury)によって選挙キャンペーンのネタにされ、誰もが”he is the kindest, bravest, warmest, most wonderful human being”とかいうけどそんなのもちろん嘘だし、彼と同じ隊にいて捕えられていた上官のMarco (Frank Sinatra)は異様な悪夢を見るようになって。

やがてそれが捕虜となった際に行われた洗脳によるものであることがわかってきて、アカ狩りに夢中だったアメリカはきたきた! って燃えあがる - そんな単純なドラマではなく洗脳が洗いあげてしまう価値観とか記憶の危うさ、深層とか表層で括ってしまううさん臭さを暴いているのだと思って、それは↑の”Seconds”がとらえようとした自己の基盤のようなところにも繋がっていくところが興味深い。

でもこれっていくら映画としておもしろくても現実はなあー、になりがちだったところに、最近のAIのバイアスの話とか、すぐ右左を分別したがる「ふつうの日本人」の傾向などを重ねてみると実はぜんぜん古くない - 退行してきているのではないか、って思ったりした。

出てくる人たちの顔が、ほんと典型的なアメリカ人顔だったり東洋人顔だったりなのもおもしろかった。

[theatre] The Gang of Three

5月18日、日曜日の晩、King's Head Theatreで見ました。

こういうの - 実在した政治家をポートレートした政治ドラマ、密室で3人のやくざが殺し合うドラマだと思ったらちがった - を見ても(背景とか歴史として起こったこととか対象となった主人公達をまったく知らなくても)おもしろいと思うのかどうか、の実験。

作は政治のノンフィクションを書いているRobert KhanとTom Salinsky、演出はKirsty Patrick Ward。約90分の一幕もの。

客席と同じ高さにリビングがあって、背面には本が詰まった重厚そうな本棚があって、その手前には革製のソファがあって、さらにその手前にはお酒やカクテルをつくる小テーブルがある – 見るからにオトコの部屋の仕様、で、タイトルにあるギャングの部屋でもないよな、と思ったら登場するなり政治の話を始めたのでそうなんだー、くらい。

英国労働党にいて、党内でそれなりの地位・役職にあった三人 - Roy Jenkins (1920-2003), Denis Healey (1917-2015), Anthony Crosland (1918-1977)が主人公で、彼らは全員同じ頃1917年~20年に生まれ、全員がオックスフォード卒で、全員が労働党に入った、過ごした時代を含めて同じカルチャー & 気質とか性向をある程度共有している – 互いのことが野心や野望も含めてわかっている、お見通しの間柄。

舞台の上のほうに掲示板があって最初は80年代初、そこから78年とか、70年代初とか40年代まで行って、また戻ってきたりする。時代が切り替わる際にはセットはほぼそのままで、幕入りの音楽として”God Save the Queen”とか” This Town Ain't Big Enough for Both of Us”とか、最後には”Love Will Tear Us Apart”、などが流れる。

3人全員がひとつの部屋にいる場面はあまりなくて、だいたい3人のうちの2人での会話が中心で、たまにその途中でひとりの動きが停止すると、その間に、もうひとりが彼や彼の動きについて自分がどう思っているのかの独白が入る。どす黒い悪口ではなく、政治家として彼を、彼の動向を今後どう見て扱っていくべきか、が戦略のようなところも含めて語られる。

語られる内容は、党内の動き、保守党の動き、欧州内の動き、いろんな政策策定や今後の人事に向けた動き、これらについて互いに意見交換して、合意形成をしたりネゴして同意を求めたり、どこの政治家もやっていそうなカーテンの裏側の駆け引きが繰り広げられていく。当時の政治や政治家、社会の状勢等を知っていればものすごくヴィヴィッドにおもしろく感じられたのだと思うし、実際前のめりで楽しんでいる観客が多数だった。

知らなくてもおもしろいと思われたところは、当時の保守党や自分らの党を彼らがどう位置付けてどう持って行こうとしていたのか、とか、3人ともが最終的に狙っているのは自分こそが!の首相の座なので、そこに向けてのひとりひとりの陰口とか中傷みたいな裏での刺しあいとか – これらは権力を手にしようとする者に共通した、普遍化されたムーブと思われるので、なるほどなー、って。

例えば当時のサッチャー政権がなんであんな酷くて内外から散々非難されつつものさばってしまったのか? については、これを見ると当時の労働党の裏側で、幹部クラスのこういう連中が自分こそが(次に天下を取る!)、みたいなボーイズクラブ内の自己満に近い駆け引きを延々やっていたからなのか(勿論そんな簡単ではないだろうけど、彼らのナルっぽい挙動ったら)、というあたりは察することができる。

同様のことはアメリカでも日本でも間違いなくありそうなことだし、政治(家)なんてそういうもの、と言ってしまうのは簡単なのだが、やはりその野卑さ、それらを自覚していない幼稚さ・ガキっぽさ、等が(「可愛げ」みたいに誤魔化されずに)白日の下に晒されないと、政治不信も政治離れも止まんなくて、だめよね。

日本でも同様のドラマは作れるのでは、と思うのだが、書ける人がいないか… それ以前に、客が入らないか…

[film] Mission: Impossible - The Final Reckoning (2025)

5月25日、日曜日の午前、BFI IMAXで見ました。

公開週の最初の数日間は、チケット取るの出遅れたらほぼ埋まってしまい、日曜日の9:15の回をどうにか。
ものすごくあちこちで宣伝していて予告ばかり見せられて、総集編ぽいので昔のを思いだすのも面倒だし、直接繋がっている前作だってもう憶えていないし、これで終わりね、っていうのもなんかやだし、見たい気にさせてくれる要素がひとつもなかったの。

上映前に、TomがBFI IMAXの天辺からやあ!って挨拶する映像が出る。こないだ昇っていたのはこれを撮るためだったのか。後で別の機会にBFIの人が語っていたが、ほんの数分(もないか)の映像でもドローンも含めて準備がものすごく大変で、でもTomはさっと登場して時間通りにきっちり終えてさすがだった、って。 Tomよりも天辺からだとBFIやNational Theatreはあんなふうに見えるのかー、って。昇ってみたいなー。

本編の前にもうひとつ、もう少しGeneralなTomの挨拶映像が入る。これのプロモーションで世界中を飛び回っている彼を見ていると、ふつうに主演俳優やプロデューサーの仕事を越えていて、そういう域を目指しているのだろうが、これってこの人しかできない、そういうところまで来ているのではないか。だからなに? でもあるのだが。

もうひとつ、今回BFIのTom Cruise特集の予告がなかなかよくできていてとてもかっこよいので、見てみましょう。YouTubeとかにあります。

ストーリーの説明は面倒なのでしない。しなくても成立しそうな。
IMFのEthan Hunt (Tom Cruise)がワシントンの上層部とかAIとかネットとか、ぜんぶを敵に回して、「これが最後の最後だからぼくを信じてくれ」って、言ってひとりでインポッシブルなミッションに向かっていって、最終的には「世界」を破滅から救う。彼が敵に回したり、ぎりぎりで欺いて裏切ったりする敵も、パニックに陥れながら救う世界も、同じ「世界」の一部で、こんなふうにどうにかできるならイスラエルとかロシアとかいまのアメリカとかをどうにかしてくれ、ってつい思ってしまう、くらいに昨今の世界情勢が嫌になっていて、そういう人たちのためにもこの映画はあるのかもしれないが、やはり別のものとして見るべきなのか。

そう思わせてしまうのは、彼が直接立ち向かうのが、今回だとAIとか、難攻不落ぽいテクノロジーの塊りで、それを作りだしたり利用したりする悪漢はその背後にいて、こいつらをどうにかしても、動きだしてしまった機械を停めることはできまい、やれるもんなら~ っていうチャレンジがまずあるから。機械は壊してしまえば止められる、という地点に立ってテクノロジー vs. 人力という古くからあるテーマを最新の映像技術と、Buster KeatonやGene Kellyみたいな驚異的な身体能力をもった人との対決で描いていくので、こんなふうにヒトが勝てればなー、ってまずはなんとなく思ってしまうのね。

でも今回、クライマックスの空中戦はわかるけど、中盤の深海での作業って、どれくらいやばくて大変なのか、ぜったい大変なんだろうけど、あまりイメージできないところがなー。これと比べるとラストの飛行機のやつは、予告で見たときは緩くない? って思ったけどとんでもないのだった。 ほんとにKeatonみたい。

他方で、テクノロジーの方については、既に多くのひとが指摘していると思う(実際には見てない)が、データセンターとかネットワークをなんだと思っているのか、はあるよね。MIの過去作でも、中東の高層ビルの真ん中にサーバー置いていたり、金庫破りの金庫くらいにしか見ていないし、データセンターを繋いでいるはずのネットワークだって、空気とか光とかとおなじ、最初から無制限に無尽蔵にすべてが繋がっている前提で話ができている。

水道管やガス管とおなじで、容量もあるし遅延だってあるんだよ、っていうなかで、最後にスリのGrace (Hayley Atwell)が1/1000秒だかを持っていっちゃう軽さ、いいかげんさは最高だと思った。

2時間49分は確かに長いし、ぐったり疲れるのだが、久々に映画の「絶体絶命!」とか「危機一髪!」ってこういうもの、っていうのをTom Cruiseは体を張って(というのも久々)見せてくれて、勿論この裏には最終回のクサさみたいのもついて回るのだが、これについてはぎりぎりで異議なし、でよいと思った。 もう1回は見たくないけど。

Angela Bassettの合衆国大統領はかっこよかったねえ。ここに今のアレがいたら、簡単に世界がふっ飛んでいた、って誰もが思ったのではないか。

ラストのトラファルガー広場のシーンはセットだよね? なんか変なとこをバスが通っているし…

5.29.2025

[theatre] My Master Builder

5月22日、木曜日の晩、Wyndham's Theatreで見ました。

Ewan McGregorの17年ぶりのWest End出演となる舞台。
原作はイプセンの”The Master Builder” (1892) - 『棟梁ソルネス』をLila Raicekが脚色して、Michael Grandageが演出したもの。
 
舞台は最初ガラスの骨組みのような構造物がPhilip JohnsonとかRenzo Pianoのそれのように聳えて光が注いで神々しく、それを背に建築家のHenry Solness(Ewan McGregor)が10年前に焼け落ちた礼拝堂を再建する仕事について情熱的に語る - この礼拝堂はまるでDavid Bowieなのだ!- って”Moonage Daydream”がじゃーん、て流れる(…よくわかんない)。
 
現代のNYのハンプトンの彼の自宅 - 背後にビーチがあって明るくてモダン - で、出版社に勤める妻のElena (Kate Fleetwood)がゲストを招いたパーティの準備を進めていて、ゲストにはHenryのライバルに近くなってきた弟子のRagnar (David Ajala)や彼と付き合っているらしいElenaの部下のKaja (Mirren Mack)がいて、Kajaがゲストとして招いたMathilde (Elizabeth Debicki)がやってきて目を合わせるとHenryの様子が変わって冒頭の自信に溢れた姿とは別人のようにおろおろし始める。HenryとMathildeは10年前 - 礼拝堂が焼け落ちて、彼の息子が亡くなった年 - に出会って一瞬で恋におちて、その後は離れてそのままになっていた。
 
ふたりのどちらもはじめは再会にややうろたえて(あとで忘れるわけないだろ.. って言う)、少し落ち着いてから陰でこそこそ会って、それぞれの10年間について語り合い – Mathildeは”Master”っていう小説を書いていたり、Henryは美しくなったMathildeに骨なしのめろめろに溶けて崩れて、もう建築も家庭もどうでもいい、ってなりかけるのだが、ふたりの雰囲気が盛りあがってくるといちいちElenaが割りこんできたり、そうこうしているうちにパーティが始まって、Henryにとっては新プロジェクトのお披露目に近いものだし、Elenaはこの機にHenryと社交界での自分の地位を揺るぎないものにしたい、と張りきっているのだが、MathildeにやられてしまったHenryにはどうでもよいうわの空になっていて、その反対側でMathildeとの間のこともお見通しのElenaは、この機会にすべてまっさらになって頂きましょう、くらいに思っている。
 
みんなから尊敬され、地位も名誉もたっぷりあった建築家がすべてをぶち壊して落っこちて瓦礫に埋もれてしまう話、「棟梁」 - カリスマ建築家とは思えないくらいピュアなHenryと、10年前の喪失も含めて彼をいろんな情念込みで繋ぎ留めて支えてきた妻Elenaと、Henryと同じように空っぽの10年間を過ごしてきたMathildeの三角関係の行方は、真ん中にいたHenryが”Master Builder”とは思えない勢いで踏板を踏み外して間抜けに簡単に落っこちてしまって、最近はそういう事案もいっぱいあるから驚きはしないものの、お話しのバランスとしては、Elenaの孤独と怒りのほうがやや際立っていて、これでよいのかしら? だったかも。
 
Ewan McGregorは、Obi-Wan Kenobiが10年前に堕ちたダークサイドから抜けたと思ったら割と簡単にやられてしまう話、として見れば、それなりに趣き深く、彼も舞台なれしているかんじで素敵で、それよか、それ以上にElizabeth Debickiの、あのキリンみたいにひょろっとした容姿が驚異で、しなやかな珍獣としか言いようがないのだった。足の指までなんであんなに長いの?
 
 
イプセンと言えば、5月8日の木曜日に、Lyric Hammersmith Theatreで”Ghosts” (1881)の半分だけ見たのだった。
 
この日は短期滞在した日本から戻ってきて、ヒースローに16:30に着いたのだが、Paddingtonから先の地下鉄が全然動いてくれなくて、おうちに着いて荷物を置いて、そのまま外に出たらシアターに向かう地下鉄もやはりのろのろ運転で、シアターに駆けこんだのは19:45、15分遅れだから入れてくれたっていいのに、ダメで、休憩後の21時くらいから後半パートだけを見た - 見ないよりは見たほうがよいから。
 
発表当時、テーマの過激さ(性病、自殺、安楽死、など)から発禁処分をくらった劇で、現代のシンプルなリビングとソファを中心に静かに展開していく母と息子の地獄絵は、現代ならそんなに過激ではないように思われた。その週末で終わってしまったので再見できなかったのが残念だった。

5.27.2025

[film] Flickorna (1968)

5月17日、土曜日の午後、BFI SouthbankのMai Zetterling特集で見ました。

英語題は”The Girls” (日本では公開されていないの?されていたらごめんなさい)。
上映後に研究者を含む3人の女性によるディスカッションがあった - がこちらは略。

監督はMai Zetterling、脚本はMai Zetterlingとパートナーの英国人David Hughes。
原作はアリストファネスによる古代ギリシャ劇”Lysistrata” - 『女の平和』(411 BC)。

公開当時、Simone de Beauvoirがル・モンド紙で"The best movie ever made by a woman"と絶賛した、と。2012年にはスウェーデン映画のオールタイムBest25の1本にも選ばれているそう。

Liz (Bibi Andersson)、Marianne (Harriet Andersson)、Gunilla (Gunnel Lindblom)の3人の舞台女優がいて、彼女たちの所属する劇団が”Lysistrata”を上演するツアーに出ようとしているところで、でもそれぞれに既婚の恋人を置いていったり、子供の世話を頼めなかったり、夫から文句を言われたりいろいろあって、ツアーに出たら出たで、劇の最中は、多くの男性客が寝ていたり無表情だったりがひどくて、劇のテーマがきちんと伝わっているかどうかわからなかったので、、終演後、客席に残って少しトークをしませんか? と客席に呼びかけても雰囲気が微妙に、男性はまた無表情に戻って、要は女性に指示されたりが嫌なようで、それなら女性客だけを相手にするか、とかいろいろ話して、それでも男性たちからは早く家庭に戻ってきてくれとかうるさいので、もう別れるしかないな、になっていく。

女性たちが女性たちのための芝居をやる、それも紀元前に書かれたようなクラシックだし、職業として劇団に参加している以上ツアーなんて普通にあることなのに、始まる前からも始まってからも何かを言ってやりたくて我慢できない - 家を長期間留守にすること、夫の相手をしないこと、子供の相手もしないこと、夫のよく知らない技術でもって自分の仕事をしてお金を稼ぐこと、などに異議いちゃもんを唱えたい男たちがいて、あらゆる角度から首を突っこんできて従わせようとする。

といったことが振り返って見ればよりはっきりと見えて、それってアリストファネスが劇のなかで書いた時代のとなにひとつ変わってないのにあきれる。自分たちのことは一切言われずに容認されてきた男性たちが、そういう自分のありようを振りかえることなく平気ででかい顔をしていられる、ということに。

1968年、という年を反映したドラマでもあるのだろうが、68年ですらこの地点か、というのとそこから50年を経ていても大差ないな(後退しているんじゃないか?)とか、でも原作上演時からだと2436年経っているんですけど… とか。 ならいいかげん諦めたらどうだ、って平気な厚顔で言ってきそうな今日この頃が、笑えるような笑えないようなトーンで描かれていて、トータルではやはり、ぜんぜん笑えない – 笑うべきなの?


Älskande par (1964)

5月18日、日曜日の午後、BFI Southbankの↑と同じ特集で見ました。

英語題は”Loving Couples”。邦題は『歓喜のたわむれ』(←ポルノか..)

監督はMai Zetterling、彼女の監督としての長編デビュー作で、同年のカンヌにも出品された。原作はスウェーデンの小説家Agnes von Krusenstjerna(1984-1940)による同名小説 (1933)で、Mai Zetterlingは後の監督作”Amorosa” (1986) - 未見 - で彼女の人生を映画化している。

第一次世界大戦が始まる前のスウェーデンの古く重厚そうな病院に3人の女性(Harriet Andersson, Gunnel Lindblom, Gio Petré)が出産のためにやってきて、悲しんでいる女性、苦しんでいる女性、浮かれている女性それぞれで、彼女たちがここに来るまでにどんな生や家庭環境を経たり交錯したりしてきたのか、結婚と出産は繋がっているのかいないのか、等を、フラッシュバック、フラッシュフォワードを繰り返しつつ置いていって、歓喜も辛苦もひとそれぞれなのだが、共通の通過点として描かれるのが1914年の白夜の晩の出来事で、白夜映画といえば思いだすベルイマンの“Smiles of a Summer Night” (1955) - 『夏の夜は三たび微笑む』ほど明るくもおめでたくもないのだが、やはり悲劇的なところも含めてなだらかで大らかに見えるところもあり、それは監督も語っているようにスウェーデン的、なものなのかもしれない。

主人公として複数の境遇にある女性を置く、というのは↑の”The Girls”と同様だが、”The Girls”ほどメッセージに重心を置いていない分、(原作のトーンなのかも知れないが)物語の複雑さが前に出てきて、こちらの方がのめり込むようにして見れたかも。

俳優として彼女の出演した英国映画を中心に見てきた後に、これらの監督作(の初期)を見ると、なぜどうしてここまでのものを? というのは探りたくなるかも。

[film] The Green Man (1956)

5月18日、日曜日の昼、BFI Southbankで見ました。

大きいスクリーンでクラシックを見よう、の枠で、BFI所蔵のArchive 35mm Printでの上映。

アメリカの50年代の映画がなにを見てもそんなに外れないのはイギリスの50年代についても同じで、有名なEaling Stidioのは勿論、他のヨーロッパの国々に負けないように国の威信をかけた産業としてやっていたのと、演劇の伝統もあるのでよい脚本と俳優がいくらでもあったとか、とにかくおもしろいんだって。

犯罪巻き込まれすっとぼけコメディで、監督はRobert Day、ノンクレジットでBasil Deardenがサポートしている。元は舞台劇 - “Meet a Body”を元にしたもの。

Harry Hawkins (Alastair Sim)は爆弾を使っていろんな殺しを請け負ってきたプロの殺し屋で、でももう老いたので次ので終わりにしようとしている。今回依頼を受けたターゲットはSirの称号をもつビジネスマンで、まずその秘書の女性にアプローチして彼がタイピストの女性を連れて週末に海辺のホテル”The Green Man” - なんでこれがホテルの名前なの? - に滞在することを知ると、自分の棲家に戻って爆弾の製造と準備を始める - のだが嫉妬に狂った秘書がHarryの家まで乗りこんで来て様子を見られたので始末したら、それをたまたま隣にやってきた掃除機のセールスマンWilliam Blake (George Cole)とその家に新婚で暮らす予定だったAnn (Jill Adams)が何かを察知して、彼らの勘違いも込みでの大騒ぎの追いかけっこが始まるの。

誰も事態を正しく把握しないまま大変だぁ、ってそれぞれ勝手に騒いだら、それが延焼して手がつけられなくなって、パニック起こして目を瞑って大振りしたらたまたま当たっちゃった、みたいに転がっていく痛快捕物劇、そんなに悪玉に見えない犯人(とその助手)はほんとついてなくてざんねーん、みたいな、昔の赤塚不二夫の漫画みたいなオチの。

要領が悪くて融通が利かない困った英国人たちをそのまま野に放って好きなように振るまわせると暗殺の企てすらこんなおかしく捩れてなんでこんなことに… ?になって、でもそれがあまり変なふうに見えない、どこが変なのかきちんと指摘できない、という底意地の悪いおかしさ - これも、掘ればなんでおかしいんだろう? ってなりそう - が底にあってとても納得する。

終わってみんな思わず拍手してしまうのだったが、どこが? と問われたらなんか固まってしまいそうなー。


The Man Who Finally Died (1963)

5月17日、土曜日の夕方、BFI SouthbankのMai Zetterling特集で見ました。

Mai Zetterlingが女優として出演した(でもそんなに出てこない)イギリス映画で、監督はQuentin Lawrence。1959年にTV放映されたドラマのリメイクだそう。これもBFIのアーカイブプリントでの上映。

ドイツ移民でイギリスに暮らしていたJoe (Stanley Baker)はずっと昔に死んだと思っていた父が亡くなった、というドイツからの知らせを受け、首を傾げつつ現地に向かうと、どこか胡散臭そうなvon Brecht博士(Peter Cushing)や 父と結婚していたというLisa (Mai Zetterling)が現れて、でも彼らに父の最期の様子を尋ねても普通の病死だった、としか言わないし、警察は煙たがるようにとっととイギリスに帰れ、とそればっかりだし、怪しげな保険屋は現れるし、カトリックなのにプロテスタントで葬儀が行われているとか、葬儀にLisaらが参列していなかったことまでわかると、父はまだ死んでいないか何かの事件に巻き込まれたのではないか、と疑い始めて止まらなくなっていく。

どことなくMorrisseyを思わせる風貌のStanley Bakerのエネルギッシュな動きと固い表情がすべてで、とにかく諦めないで父の墓まで掘り返してしまう強さと頑迷さが、戦後のドイツとイギリスのそれぞれのありようまで示しているような。

最後はあんなところまで転がっていくとは思わなかった。戦争で生き残ってしまった人々は、自分はどこでどうやって死ぬ・消えるべきなのか - “Finally Died” - までを常に考えていたということなのか、というのと、敵国だった国に戦後移民として渡っていった人々、自国に留まった人々それぞれの思いとか。

5.25.2025

[theatre] The Brightening Air

5月16日、金曜日の晩、Old Vicで見ました。

作・演出はConor McPherson、タイトルはW. B. Yeatsの詩、”The Song of Wandering Aengus”から取られたもの。その一節は 〜

“Who called me by my name and run
And faded through the brightening air”

Chris O’Dowdと昨年このシアターでの”Machinal”ですばらしい演技を見せてくれたRosie Sheehyの共演を見れるのであれば、と。

1981年(という設定の意味は不明)、アイルランドの北西のスライゴの田舎 - カーテンと光を使って農家のリビングの奥行きをうまく表現している - にStephen (Brian Gleeson)とBillie (Rosie Sheehy)が静かに慎ましく暮らしていて、他に元聖職者で盲目の彼らの叔父 Father Pierre (Seán McGinley) と家政婦のElizabeth (Derbhle Crotty)、あとLydia (Hannah Morrish)が入ってきて、ここに離れて暮らしていた能天気で調子良さそうな長兄のDermot (Chris O’Dowd)が若いFreya (Aisling Kearns)を連れてやってくる - というか彼のちょっとやかましい登場がそこに集まっている一家のいろんな事情や関係を明らかにしていく - 例えばLydiaはDermotの別居中の妻だったり、ElizabethとStephenは関係を持っているとか、Billieは隣家の若い農場主 Brendan (Eimhin Fitzgerald Doherty) に気があるとか。

全員がリビングに集まった状態、というより、入れ替わり立ち替わり数人単位でのセッションのような形での個々の会話が家族間で重ねられていく中で、いつまでこの家を、誰がどうやって維持していくのか〜誰が継ぐのか、適切な人がいないのであれば売るしかないのでは? みたいに余り楽しくない相続の話になっていく。 それを仕向けているのは金まわりがよくて家を出たもののなにかやばいことになって戻ってきたらしいDermotで、薄っすらやらなきゃ、と感じてはいたもののまともに向き合ってこなかった面々は、それぞれの形でこれからの人生に向き合って不機嫌になったり、怪しげな聖水にすがったり、てんでばらばらな反応を示して、でもどちらにしても明るくなる兆しのようなものはどこにもない。

おそらく誰もが親族での集まりがあったりした時などに経験しそうな面倒でとっ散らかった光景で、年齢とか長男長女とか子供がいるいない、などによる序列的なあれ - にもよるのだろうが、一族を引き裂くような修羅場とかお先真っ暗な未来、まではいかない、声の大きい奴が大きい声で何かを言って、他の人はまた始まった、って思って、こんなの退散するに限る、って、翌日には忘れる/忘れたいやつ。そういう時にテーブルに並んでいたものとかそこに射している光とか。

フーテンの寅みたいに愛想と調子はよくて、でも絶対責任とらない詐欺師みたいに軽いDermotの演技が絶妙で、チェーホフ的な一族の没落、どん詰まりからうまく逃れている反面、突然目が見えるようになって活力を取り戻してしまう叔父以外は、それぞれに先を見いだしたり思い直したり、その程度で何ひとつ一件落着には向かわないので、これでよいのかな? って少しだけ。始まりと終わりにBillieがガンジスの流れが〜 とか言いだすのもへ? って、なんかよくわかんないし。

リビングにはピアノが一台置いてあって、2幕目の終わりにはBillie = Rosie SheehyがRichard & Linda Thompsonの”A Heart Needs a Home”をぽろぽろ弾き語りして、それがすごくよかった。彼女、Yes (バンド)のTシャツを着ているのだが。

次回のOld Vicは、2017年のリバイバルでConor McPhersonの”Girl from the North Country”がかかるの。楽しみ。


Personal Values


5月14日、水曜日の晩、Hampstead theatreの地下の小さい方のシアターで見ました。

Chloë Lawrence-Taylorの劇作デビューで、演出はLucy Morrison、スタッフも含めてほぼ女性の二人芝居 - 終わりの方で男性が1名 - 約1時間の1幕もの。

客席とステージはほぼ同じ高さで、舞台となるフラットにはよく組み上げた、と思うくらいに本に雑誌、レコードの山とか箱、棚なのか階段なのか不明な段差、どこでも衣類や布切れがあって寝床にも椅子にもテーブルにもなりそうな山とか谷とか。誰かの部屋とか舞台セットとは思えない皮膚に近い親しみが湧いてくるほぼゴミ屋敷のようなところに、そこに暮らすBea (Rosie Cavaliero)と姉のVeda (Holly Atkins)が父の葬儀を終えてどしゃ降りのなか帰ってくる。

ふたりが会うのは久しぶりらしく、いろんな思い出話をして喧嘩腰になったり寝転がったりしながら、なんであなたはこんなゴミの中で暮らしているの? みたいな話になっていって、そして最後に…

あーそうだったのかー、になって、そのぽつんと寂しいかんじは悪くなかったかも。

5.24.2025

[film] The Accountant 2 (2025)

5月12日、月曜日の晩、CurzonのVictoriaで見ました。

前作では、会計士なのに「コンサルタント」って、屈辱としか言いようがない邦題を付けられてしまった2作目も同じタイトルでいくのだろうか? 誰も気にしていない? そんなわけないだろ、主人公のキャラクターは会計士だからこその - 常に緻密に計算して先を読んで最後に帳尻を合わせる – に沿ったもので、(最近の傾向として顕著な)有象無象なんでもありのコンサルとは職種としてぜんぜん違うんだから。

などと言っても前作”The Accountant” (2016)がどんなだったか殆ど憶えていなくて、それでもぜんぜんだいじょうぶなやつだった。 自閉症の会計士が凄腕の殺し屋なの。

原作Bill Dubuque、監督Gavin O'Connorは変わらず、撮影Seamus McGarveyも同じ。音楽はMark IshamからBryce Dessnerに変わっている。今年のSXSWでプレミアされた。132分、ちょっと長いかも。

冒頭でFinCEN(米国金融犯罪取締局?)の局長のRaymond King (J. K. Simmons)が殺し屋ぽいAnaïs(Daniella Pineda)と接触して写真に写っている家族を探すよう頼んだ後、待ち伏せしていた組織に撃たれて亡くなって、彼の腕に「Accountantを探せ」って書いてあったのを見た部下のMedina (Cynthia Addai-Robinson)が”Accountant”であるChristian Wolff (Ben Affleck)にコンタクトして、写真の家族がエルサルバドルからLAに来て、その背後に魚屋を頂点とした大規模な人身売買組織があるらしいことが見えてくると、こいつはやばいかも、と思ったのでさすらいの殺し屋をやっていた弟のBraxton (Jon Bernthal)を呼び寄せて、Anaïsは何者か、みたいな謎解きも少しはあるものの、後半はほぼ血も涙もないドンパチがどんどこ。

冒頭、マッチングアプリのアルゴリズムを解析したChristianがお見合い大会の現場に参加してえらい目にあったり、IDの特定とか敵の動きを探るのにニューハンプシャーの施設にいる自閉症の子達のハッキング集団(ややX-MENぽい)がリモートで兄弟を助けたり、前作よりは厚めで少しコミカルな色付けがされて、Ben Affleckも楽しそうに演じているようだし、ふたりだけで組織をぶっ潰していくところの派手めの突撃ムーブは昔の大風呂敷アクションもののようにも見える。なんでもかんでも端から虫のように殺していくJohn Wickの荒唐無稽さとはちょっと違う。

ただここまで武闘シーンがほとんどを占めてしまうと、彼がそもそも会計士である意味ってなんなの? になってくるかも。世を忍ぶ仮の姿、とか言ったってどっちにしても忍んでいるのだし。

“3”はAnna Kendrickが復帰するのであれば、やはり見たいかも。


Ocean with David Attenborough (2025)

5月13日、火曜日の晩、CurzonのMayfairで見ました。

Curzonの映画館チェーンの起点、この古くて大きな映画館もついに閉鎖が発表されてしまった。貴族の観覧席があったり、モダンクラシックな内装が素敵で大好きな映画館だったのにー。 観客が自分ひとりのことが過去3回くらいあったのでやはり客が来ないとしょうがないのかー。

Sir David Attenboroughの大自然ドキュメンタリーのシリーズはBBCでしょっちゅう見れるし、見ているのだが、これは彼の99歳の誕生日と6月の国連のWorld Oceans Dayに向けて、海での乱獲をやめよう、を明確に訴えていて、海も魚も好きだけど、乱獲はやめるべきだと思うのでー。

という太く強いメッセージはあるのだが、まだ明らかになっていないところの方が断然多い「海」として覆われている/覆っている世界の驚異と不思議が沢山切り取られていて、それを見ていく前半部分だけでも盛りあがるのと、後半では産業による乱獲で荒らされても守ったり人が手を引けばきちんと戻ってくる、っていう別の驚異が描かれる。楽観できるものではないし、その根拠も乏しいと思うけど、いまのままだと先がない。温暖化もそうだけど。

いま乱獲万歳をやっている企業の偉い人たちは今の業績&自分の先は短いからどうでもいい、のだろうが、最近は本当にそういうのが、そういうのに同意を求められるような空気も含めて嫌になっていて、サスティナブルとか、企業貢献の枠でしか見ようとしない企業人とか団体とか、みんな海の藻屑にだってお断りだから消えてなくなっちまえ、って。

この映画のDavid Attenboroughの柔らかいけど厳しい表情と迫力はなかなか迫ってくるものがあって、見習いたい。がんばってね。

5.23.2025

[music] Daryl Hall + Glenn Tilbrook

5月19日、月曜日の晩、Royal Albert Hallで見ました。

客層はやはり老人ばかり。H2Oを最後に見たのは前世紀 – 88年の東京ドームでずいぶん長いこと見ていなかったし、たまにYouTubeで流れてくる”Live from Daryl's House”のクリップも悪くなかったし、なんといっても今回はGlenn Tilbrookを一緒に見れるのなら、ということで。 このふたりの間にはElvis Costelloという人もいたりするのだが、さすがに彼は現れなかった。

19:30にまずGlenn Tilbrookが出てきて、バックに6人もついたのでなんか豪華だな、と思ったらDalyl Hallのバックバンドそのまま、なのだった - アメリカからずっとツアーで一緒だったのは知らなかった。
彼のソロがほとんど、相変わらずギターは巧くて、Squeezeの曲は"Black Coffee in Bed"と"Tempted"と"Hourglass"くらい、でもDifford & Tilbrook (1984)から"Love's Crashing Waves"をやってくれたのはうれしかった(12inchシングルもってる)。

休憩のあとに、さっきのバンドと一緒にDaryl Hallが登場する - 帽子を深くかぶって、サングラスで顔はほぼ見えず、2曲目に”Maneater”、3曲目に”Dreamtime”をやった後に右手のグランドピアノに移動してずっと座ったまま歌う。 本来であれば客を掴んであげるパートのはずの”Kiss on My List”~”Private Eyes”~”Rich Girl”あたりは、全然声が出ていなくて、バックバンドのコーラスにどうにか絡めていく程度。ところどころで金ラメ金長髪の幽霊みたいなCharles DeChantが背後からゆらーって現れて見事なサックスのソロを聞かせる。 それくらいなので当然野次も飛ぶし、帰っちゃう人も結構いるのだが、「言いたいことはわかるよ」くらいに返してて、おそらく本人も/本人が一番よくわかっているのだろう。

全盛期のH2Oのなりふり構わずの懸命なパフォーマンス– 当時の若者たちのアティチュードからすれば滑稽なくらいの勢いで80’sのプラスティックなポップスや60’s-70’sのスタンダード・ソウルに正面からぶつかって汗まみれになっていくところが彼らの、Daryl Hallの魅力だったのに、だからこそ”You Make My Dreams”はあんなに跳ねまわれたのだし、"She’s Gone"も"Wait for Me"も”Everytime You Go Away”もあんなに切実に痛切に響いたのに、今回のあれじゃ場末のバーでじじいが泣きぬれているだけにしか見えない。

ここはオレの家(Daryl’s House)なんだから入ってきた以上は黙って聴け、なのだろうし、H2Oの話題を避けるかのように寄り添おうとするフィラデルフィア・ソウルも、滑らかなシーツとか真綿で優しく包んでおきつつ実は締めあげて束縛する、DV臭のするものが多い(気がする)のでそういう偏り(?)に沿ったものではあるのだろう。 John Oatsとの件も、詳細はわからないが彼のどういう気質が招いた事態なのか、これを見ると察することはできる。

アンコールでGlenn Tilbrookが出てきて、一緒に”Pulling Mussels (From the Shell)”などをやる。改めて思ったのは、この曲はChris Diffordのあの低い声が裏にいないとだめなんだわ、って。

最後は”You Make My Dreams”だったのだが、いまの彼にそれを言われても、おじいちゃんよかったね.. にしかならないのが虚しかった。

自分も含めたいろんな老朽化に伴い、こういうライブも今後は出てくるのだろう。あーあ(老害)残念、で終わらせるのではなく、(向こうもこちらも)なんでこんなことに、をきちんと振りかえる機会としたい。だってそれなりに時間をかけて真面目に大切に聴いてきたのだからー。


そういえば、Squeezeが昨年前座を務めたThe Whoのドラムスの件、あれはZakがわるいのでもPeteがわるいのでもなく、いまのThe Whoにきちんとしたベースプレイヤーがいないのが原因だと思うの。

5.21.2025

[film] Desperate Moment (1953)

5月15日、木曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

5月はここで、”Passion and All That Goes With It: The Films of Mai Zetterling”という特集があって、スウェーデン生まれで最初は女優として戦後のイギリス映画でも活躍し、60年代以降は映画監督として女性映画を中心にいろいろ作っていったMai Zetterling (1925-1994)の生誕100周年を記念した回顧特集が組まれている。自分にとってTom Cruise特集よりは見たいやつなので、がんばって追っているのだが、なかなかの数があって大変(どれもおもしろいけど)。

これは彼女が女優時代に出演したイギリス映画で、監督はCompton Bennett、原作はMartha Albrandによる同名小説(1951)。 BFI Archiveにある35mmプリントでの上映。

第二次大戦終了直後のドイツで、オランダ人でレジスタンスとして活動していたSimon (Dirk Bogarde)はイギリス兵を殺した疑いで終身刑を言い渡されて収監されていたが、亡くなったと思っていた恋人のAnna (Mai Zetterling)が生きていたことを知ると、脱獄して彼女の協力を得ながら自分は殺しに関わっていないことを証明できる戦時中の同僚を探して廃墟となったベルリンを彷徨っていく。

でも証言できる人物は同じ小隊にいた3人に限られていて、Simonが訪ねていくと殺されていたり、既に家庭があるので関わりたくない、って身を引くのもいたり、他方で脱獄囚である彼への包囲網も狭まっていって、追われながら追いかけていく – そして誰にも身の上をわかってもらえない時限サスペンスのスリルが”Desperate Moment”としか言いようのない緊張を生んで転がっていくのと、とにかく事態の進展(というのか後退なのか)と共に険しさと暗さを増してなりふり構わなくなっていくDirk Bogardeの必死さがよいの。

あとは、終戦後のベルリンの廃墟と瓦礫だらけの明暗のなかでの手探りみたいに道を越えたり建物に入っていったりする絵がすばらしい。あんななかで逃げた男を探したり、証人を探したり、たったひとりで逃げまわりつつも恋人と会ったり、想像しただけでぜんぶムリ、になる。


The Haunting (1963)

5月10日、土曜日の晩、BFI Southbankで見ました。定期でやっている大きい画面でクラシックを見よう、の枠で。

監督はいまCinémathèque françaiseで特集をやっているRobert Wiseで、大ヒットした“West Side Story” (1961)のふたつ後に、モノクロのこんな地味なのを撮っている。原作はShirley Jacksonの小説 - ”The Haunting of Hill House”(1959)で、Martin Scorseseは彼のホラーのオールタイムのNo.1にこれを挙げていて、1999年にJan de Bontが同じ”The Haunting”のタイトルでリメイクしている。邦題は『たたり』。

はじめにマサチューセッツにあるその屋敷に過去起こった禍々しい出来事 - 娘はずっとひとつの部屋から出ないまま生涯を終えたとか、家を継いだものは次々に首をつったとか – が語られてDr John Markway (Richard Johnson)はこれらの超常現象(としか思えない)の原因を探るべく調査団を組織して、屋敷に乗りこんでいく、という今となっては割とふつうのお化け屋敷設定ホラー。

メンバーには子供の頃にポルターガイストを経験したらしいEleanor (Julie Harris)とか霊能者だというTheodora(Claire Bloom)とか、なんで? って突っこみたくなる人選だったり、そのせいか彼女たちが部屋に入っただけでいろんな音が鳴ったり変なことが起こったり、それは屋敷に起因しているというより、彼女たち個人の問題なのでは、みたいに緩い態度でのらくらしている男性研究者(なの?ぜんぜんそうは見えないけど)に原因があるような。

亡霊や人の影が見えて、それが知っている人だったりしたらやはりそこに留まってしまうのかも、だけど、この作品のようにどこに位置してどういう建付けなのかよくわからない壁に囲われた部屋のなかで起こる超常現象はやかましい音も含めて明らかに「超常」なだけで、その見せ方はちゃんと怖いので夜中にこんなの起こったら泣いて逃げるしかないな、なのだが、それならやっぱり逃げちゃえばいいのに、なんで留まってがんばってしまったのか、その辺がずっと引っかかってしまうのだった。

Theodora - Claire Bloomの衣装はMary Quantので、お化け屋敷でそんなの着ても.. とか。


配送ミスだのなんだのが重なって注文してから3ヶ月くらい経っていた本棚(大)がようやくフラットに届いて、でも床などに積んであったのを並べてみたらあっというまに埋まってしまったので憮然としている。あと1年はどうにか保たせなければ。

[film] The Wedding Banquet (2025)

5月11日、日曜日の夕方、CurzonのAldgateで見ました。

Ang Leeによる同名映画(1993)-未見- のリメイクで、監督はAndrew Ahn、脚本は監督と、オリジナル版でも脚本を書いていたJames Schamusの共同。今年のサンダンスでプレミアされている。

Angela (Kelly Marie Tran)はパートナーのLee (Lily Gladstone)とシアトルにあるLeeの大きな家で一緒に住んでいて、その家のガレージにはAngelaの親友のChris (Bowen Yang)とその恋人のMin (Han Gi-chan)がやはり一緒に暮らしている。

AngelaとLeeはまだ結婚はしていないが仲がよくて、Leeは体外受精(IVF)でふたりの子供を持とうとしているが2回目が失敗して費用も高額だしもう無理かも、って悲しんでいて、学生ビザで滞在しているMinはChrisと結婚してグリーンカードを、と思っているが、結婚したら韓国で財閥をやっているMinの実家にゲイであることがバレて大騒ぎになる、そんなふうになってまで結婚したくない、とChrisが返して全員がどんよりしたところで、Minが、AngelaとMinが偽装結婚すればそのご祝儀とかで3回めのIVFができるし、自分のグリーンカードも得られるじゃん!て提案して、どうにかそっちの方に動きだしたところで、Minの祖母のJa-Young (Youn Yuh-jung)が孫の婚礼のためって突然ひとりでシアトルにやってくる、と… 。

移民の事情、ゲイカップルの事情、Angelaと彼女の抑圧的な母の関係、Minの祖母を含めたお家の事情、それらを包んでいるアメリカ、いろんな事情が複合で絡まってこんがらがっているのを「結婚」いっぱつで解消・解決してしまう、って、その渦中にいてこれらを一番シリアスに切実に思っている彼らが、そんな簡単に決断して実行できてしまうものだろうか、と思うのだが、その外側にいる人たちからすれば、「コメディ映画」としておもしろおかしく見れてしまうのかも。

実際、現実から目をそらしてしまえば、全員演技はとてもうまくよくできていて、笑えるところも結構あるし、韓国の挙式の異文化も覗くことができるし、よかったねえ、になる。こういうどたばたの中にあってもLily Gladstoneの存在感はやはりすごいと思うし、Bowen Yangはやはりシリアスな演技もできることがわかったし、”Minari” (2020)のYoun Yuh-jungは問答無用だし。

結婚式のシーンでメイクしたAngela - Kelly Marie TranにPadméみたいじゃん! って言うシーンはやはりおおっ、ってなるよね(SWネタ)。

あと、祖母が来るので、家にあるゲイ的なもの(大量にある)を大慌てで片付けようとするシーン。もっとゆっくり見たかったかも。


Vingt Dieux (2024)

5月11日、日曜日の昼間、↑の前にCurzon Bloomsburyで見ました。

フランス映画で、英語題は”Holy Cow”、監督はこれが長編デビューとなるLouise Courvoisier。昨年のカンヌの「ある視点」部門で上映されている。

フランスのJuraに、酪農家の息子で18歳のTotone(Clément Faveau)がいて、近所の仲間たちとぷらぷら遊んで過ごしていたら祭りの晩に父親が突然自殺してしまい、幼い妹とふたりきりで残されてどうしよう、ってなるのだがComtéのチーズのコンテストで優勝すれば大金が入るぞ、って聞いて、自分たちでもやってみよう、と思いたち、よい牛乳を出しているという農家の娘と仲よくなって牛乳を裏から盗んだり、見よう見まねでやってみるのだが..

欧州(ではないけど、近いところ)に住んでよかったと思うことのひとつはものすごい種類のチーズが簡単に手に入ることで、フランスだけじゃなくてイギリスのチェダーもブルーも山羊も羊も驚嘆してしまうのがいっぱいあって、何をどれだけ食べたって名前とか憶えられるものでもないので、都度のバゲットさえあれば無限に幸せになれる。そしてこれでワインが飲めたらかんたんにヒトのクズになれる。

で、なかでもComtéは特別で、Borough Marketにいけば、12ヶ月24ヶ月36ヶ月ものの食べ比べができたりして、それぞれ風味がぜんぜん違うし、M&Sなどのスーパーで売っている安いComtéでもおいしかったりするので、化け物だと思うのだが、これって認定とか結構大変じゃなかったんだっけ? と思ったら映画もやっぱりそこでぶち当たって簡単に終わってしまうのだった。

チーズ作りの何が大変で、何が魅力的なのか、とかをもう少しきちんと描いてくれてもなー、とか思った。
これじゃどん詰まりの若者が”Holy Cow”って言って終わっちゃうだけの映画じゃん.. とか。

5.19.2025

[film] Pride & Prejudice (2005)

5月10日、土曜日の午後、BFI Southbankで見ました。

”Magnolia” (1999)の後だったのでちょっと段差にくらくらした。
リリース20周年を記念したリバイバル公開で、全英中でやっていて、結構人が入っているらしく、公開も当初予定より延長されている。

フィルムの冒頭に監督Joe Wrightが出てきて、これまでとは違う新しいアプローチで原作を映画化してみたものです。改めて楽しんで頂ければ… というような挨拶がある。

原作はJane Austenの同名小説(1813) – 公開当時にも見ていたはずだが、確かに20年前の映画とは思えないきらきらに溢れていてびっくりして、戸惑うくらい楽しめてしまった。

これが古典の教養小説ぽく読まれてきたことを一切無視して、時代背景やしきたりについての説明もナレーションも一切ない。制作は”Bridget Jones's Diary” (2001)や”Love Actually” (2003)といった英国産rom-comで当時波に乗っていたWorking Titleで、脚本のDeborah Moggachもその辺は十分に意識していた、と。

昔昔の英国の田舎(時代も地名もどうでもいい)で、豚とか鶏とかいろんな家畜がいっぱい画面や彼女たちの足下を横切り、いろんな匂いが漂っていそうで、気候は気まぐれで雨も降れば泥まみれになるし、でも緑の季節がきたらその光はすばらしく眩しくて、その光のなかでいろんな恋やときめきが瞬いたり失望と嫌悪がじっとり崩れ落ちて貼りついたりする。 『高慢と偏見』なんて言われなくてもわかっているし、そんなことより好きな人と一緒になれればいいんだ、家のことなんてしるか(みんな大好きだけど)って。

家にいるのはMr Bennet (Donald Sutherland)、Mrs Bennet(Brenda Blethyn)と5人の娘たち – Jane (Rosamund Pike)、Lizzy (Keira Knightley)、Mary (Talulah Riley)、Kitty (Carey Mulligan)、Lydia (Jena Malone) がわあわあ仲よく日々楽しそうに暮らしていて、他方で娘たちの結婚 – どこの家の誰に「貰われる」のか、は一家の将来の暮らしを左右する大ごとなので、Mrs Bennetはばりばりに燃えている。 と、裕福な家のMr Darcy (Matthew MacFadyen)が近くに越してきた、というので更に前のめりになって止まらない。

こうして家に訪ねてきたり村の舞踏会だったりにMr Darcyは現れて、その容姿について娘たちはひそひそ言い合うのだが、彼は無口で高慢ちきなかんじで、Lizzyに対して“tolerable”だ、なんて言ったもんだから、おうおう言ってくれるじゃねえかって水面下の小競り合いが勃発し、互いを目一杯意識したいろんな投げ合いぶつけ合いがはじまる。その間にあまりかっこのよくない聖職者のMr Collins (Tom Hollander)がLizzyにプロポーズしてきたり、JaneとBingley (Simon Woods)の恋があったり、陰険なLady Catherine de Bourgh (Judi Dench)との対決があったり、これらはぜんぶ、でくのぼうで気がきかないMr Darcyに起因したものだ、ってLizzyは思いこみ、Mr Darcyはほぼなにも言わないでぼーっと突っ立っているばかりなので、ますますなんだあのやろうはー、って荒れていく。

聡明で気遣いもウィットも人一倍、お行儀なんかよりやられたらやりかえせのLizzyにとって、Mr Darcyは一家の天敵、疫病神のようなもの、ってぐるるる、だったのに、やがてそんなヤマアラシ状態がころりとひっくり返るのも彼女の目つきなどから見え見えで、その刻一刻の経過を追っていくのは、原作の小説を読んでいくのと同じくらいにくるぞくるぞくるぞ... の波が楽しくてたまらない… そしてその緊張と愉しみをはらはらと共に持続させていって、最後に爆発させるLizzy = Keira Knightleyの表情のすばらしいことったらなく - 原作ありrom-comの頂点と言ってよいくらいの。 と、こういうのを見たのは久々だったせいもあってかとても楽しめてしまった。Keira Knightleyの最高傑作と言って間違いないのではないか。

あと、姉妹の彼女たちも、改めて見るとみんなもう有名になっていて、ああこんなところに出ていたのかー、って。いまや全員いろんな映画でめちゃくちゃ強く成長していて、その起源にJane Austen Universeがあったなんて。

あと、Mr Darcyのむっつりは相手がLizzyだったからどうにかなったのであって、ふつうの男子がやっても愚かに見えるだけだよねえ、ってこの辺は漫画だけど改めて。

[film] 婦系圖 (1942)

5月7日、水曜日の晩、国立映画アーカイブの特集 - 『撮影監督 三浦光雄』で見ました。

5日の朝から8日の朝まで急用で帰国していて、7日だけ買い物そのたの時間が空いて、松屋銀座のミッフィー展(→グッズ売るための囲い込み鷺)とこの1本だけ見た。

この特集、有名な監督の作品も多数あって、これまで見てきて頭に残っている戦前・戦後の情緒的なところも含めたいろんな映画のなかの風景はこの人が切り取って焼きつけたものが多いことを知る。これってなんだかすごいことなのではないか、って。

原作は泉鏡花の古典、「をんなけいづ」と読む。 監督はマキノ正博、初公開時は正篇101分、続篇83分の2部作で、現存するのは戦後監督自身が再編集した108分の今回上映された版のみだという。

この原作の映画化はふたつ目で、最初の(1934)は監督が野村芳亭、主演のふたりは田中絹代と岡譲二(これも見たい)。

この主演のふたりというと『鶴八鶴次郎』 (1938)があって、あれもせつないやつだったがこれも… せつない、というよりあまりにかわいそうすぎて腹がたって胸とお腹が痛くなった。

芸者お蔦(山田五十鈴)とぷらぷらスリとかをやっていた主税(長谷川一夫)はずっと近所の幼馴染で仲がよくて、ある日、主税が大学の先生らしい酒井(古川緑波)の財布をすろうとしたら失敗して、でも酒井は更生させてやるからうちに来い、って彼を自分の家に住ませて勉強などもさせたら研究者として芽がでて、酒井の娘の妙子(高峰秀子)にも気に入られ、やがて独り立ちする。そんなある日町角で再会したお蔦と主税は、改めて惹かれあって小さな所帯をもつことにして、無邪気で一途なお蔦といろいろ学んで体面とか分別とか気にするようになってきた主税はたまに噛み合わないこともあるものの幸せに暮らしていた。

将来を見込んで育ててきた主税が研究者としても一人前になって、妙子も惚れているようなので結婚でもさせてやるか、って主税のところに行ってみたら彼はちゃっかり所帯をもっていたので酒井は激怒して、てめー育ててやった恩も忘れて勝手に所帯もつとはなにごとかー、ってお蔦とは別れるようにきつく言い渡して、それを受けた(うけんな)主税はお蔦とふたりで外に出て、久々のデートだぁってはしゃぐお蔦に天神さまの境内で別れを切り出すの。それ本気? ってお蔦は聞いて、そっちがそうならこっちも本気で別れませんよ、ってさらっとかわす彼女がかっこいいのだが、主税の将来のことを思って身を引いて、地方に赴任することになった彼の見送りも駅の隅でそっと見ていて、でも列車が走り出したら我慢できなくなって… とか。

この後、お蔦は病に倒れて一目会いたいのは主税だけなのに憎たらしい酒井とかがやってきて..

後半はお蔦がかわいそうでかわいそうでしょうもなくなるのだがしかし、それ以上に酒井のくそじじいに腹がたってムカついてそれどころじゃなくなってしまうのだった。 てめえが全ての原因つくった諸悪の根源のくせに一言の謝罪もしないで、死の床にあるお蔦に向かって俺のことを主税だと思え、とか、ふざけんじゃねえよツラの皮。お蔦、中指たててそのままじじいの鼻の穴に突っ込んで脳みそほじくり出しちまえ、って強く思ったわ。 ほんと、あれこそが日本の軍の中心にあったクソ男共のメンタリティなんだろうな、って。

これの他に妙子も酒井が芸者小芳(三益愛子)との間に生ませた娘で、お蔦のお見舞いに来た妙子が髪を結ってほしい、と彼女に頼むシーンで、お蔦のところにいた小芳に実娘の髪を結わせてあげるとこも泣け(て、またこいつか、ってあたまく)るの。

横に絶対悪みたいな男を並べてしまったせいもあるのかもだが、ここでの山田五十鈴は本当に本当に不憫でかわいそうで、でも自分のなかの大切なものだけは失っていない強さと美しさを湛えて生きていて、その姿は改めて本当にすごい、最強の俳優だ、って思った。幽霊として現れてもなんの不自然も感じさせない - 死んでいるのに生きているかのようにそこにいることができる、というのは名優の条件だと思うが、軽々とやってのけて、あの暗がりに立っている像がずっと残る。

5.17.2025

[film] Magnolia (1999)

5月10日、土曜日の昼、BFI Southbankで見ました。

5月のBFIは問答無用のTom Cruiseの大特集で、全出演作の回顧上映があり、BFI IMAXではMIのマラソン上映会があり(ぜったいむり。あたまおかしくなる)、BFIにやって来てトークはあるけどチケットなんて取れるわけないわ、Sight & Sound誌の表紙にはなるわ、BFI IMAXの天辺に登っちゃうわ、どうせあんたは無敵なんだから好きにしてくれ、状態なの。

嫌いな俳優ではないし尊敬しているけどものすごく好き、というわけでもないので、この特集では武器を持たないTomかな、ということでこの”Magnolia”とVanilla Sky (2001)だけチケットを取っている。

上映前のイントロによると、ここで上映されるのは今回の特集のために新たに焼かれた35mmプリントで、ほんとうは6月にここで開催されるFilm on Film Festival用 – SWの”New Hope”の改悪前のオリジナルフィルムが上映されるのもここ – に準備したものだったが、この場でもう上映しちゃうのだ、と。

デジタルでもフィルムでも、スクリーンのサイズも、もうあんまり拘りはなくなって、見れるのであればなんでも、の今日この頃なのだが、ここで見たプリントから立ち上ってくる生々しい質感はちょっと驚くレベルのものだったかも。

この作品はPaul Thomas Andersonが前作”Boogie Nights” (1997)での成功を受けて十分なファンドとなにやってもよい、という自由を貰って、思いきり3時間超えの大作を作ってしまった、というやつ。PTAのなかではこれと次の”Punch-Drunk Love” (2002)が一番好きで、“There Will Be Blood” (2007)以降は、みんなそれぞれにすごいとは思うもののなんかこわい…

人の生死なんて、ほんとになにがどうなるかわかんないもんじゃ… ていうのが昔語りの飛び降りのエピソードと共に語られてから、Aimee Mannの”One”がフルで流れて、曲のエンディングでマグノリアの花のイメージがぐるりと広がると、客席のみんなが溜息をついていた。息をのんでしまう美しさがある。

オムニバスのごった煮で、いろんな人たちのいろんなエピソードがところどころでうねって絡みあってサン・フェルナンド・ヴァレーの土地と気候を形作る。アンサンブル、とはまたちょっと違って、ひとつの歌 -“Wise Up”がキャストたちを巻きこみつつ順に歌われていく、メドレーというか。

いみないくらいおおざっぱに要約すると、警官のJim (John C. Reilly)が町を見回りしていくなかでヤク中のClaudia (Melora Walters)と出会って、彼女の父(Philip Baker Hall)は長寿クイズ番組のホストをしているが病んでいて、そのプロデューサーで高齢のEarl (Jason Robards)も病床にあって長くなくて、Earlの妻のLinda (Julianne Moore)も孤立してぼろぼろで、Earlは介護をしているPhil (Philip Seymour Hoffman)に息子のFrank (Tom Cruise)を探してほしいと頼み、Frankはオトコってさいこうー!っていうやばい系の自己啓発セミナーを主宰していて... こんなふうに全体がマグノリアの花びらを形作っていて、ものすごく悪い人もいないし邪悪な何かにやられているわけでもない、なのに誰もが疲れて傷ついて嫌になってやってらんない、ってどうにか過去から生き延びてきて、でもその先にある分かれ目とか断層とか、ほんの少しのタイミングとかちょっとしたズレに左右されるばかりで、ああもうこんなのだめかも無理かも… ってなったときに天からあれが。ぼたっと落ちるマグノリアの花のように。

最初にこれを見た前世紀末、とにかくびっくりして、あーもうこれはぜったい好きだわ、ってなった。ここには救いも希望も啓示もなんもないし。でも落ちて死ななかったら生きるし。けろけろ。

自分のなかではこれが20世紀末最後の大作で、21世紀の最初の大作は”EUREKA” (2000)なの。

”Boogie Nights”とその前の”Hard Eight” (1996)からのキャストを総動員して、見事なPTA組ができあがっていて、でもここをピークに以降の作品は少しづつばらけて、キャラクターよりヒトの業とか徳のようなものを中心に練られていく印象がある。

どこを切っても見どころだらけなのだが、Tom Cruiseに絡みまくって引っぱりだすPhilip Seymour Hoffmanの粘着(その後の”MI3” (2006)に繋がる)とか、経歴詐称がばれた瞬間のTom Cruiseの表情とか。

あと、見どころ云々以前に、まずはAimee Mannの曲ありきの映画、でもあるの。

John C. ReillyとMelora Waltersの最初のデートのシーンもすごくよくて、彼女が口を開けて顎を「かきっ」って鳴らしてわたしはこれができるの、って言うシーンでは、場内のあちこちでかきんこきんうるさくなって笑った。

終わったらみんなしみじみ拍手していた。なんでだろう? って思いつつもなんか。

5.16.2025

[film] Where Dragons Live (2024)

5月3日、土曜日の夕方、演劇”Here We Are”とThe Poguesのライブの間に、Curzon BloomsburyのDoc-Houseで見ました。

オランダ人の監督Suzanne Raesが英国のOxfordshireの一軒の家を舞台に撮ったドキュメンタリー作品。

野原の真ん中に建つ英国の典型的な昔の邸宅 - Cumnor Placeが建っていて、そこに中年の女性 - Harriet Impeyがやってくる。

この邸宅は60年代に、既に亡くなっているHarrietの母で科学者だったJane Impeyが家にあったポストカード大の絵画 – これが初期フランドル派の画家 - Rogier van der Weyden (1399-1464)の“Saint George and the Dragon”であることがわかって当時の新聞に載る大きなニュースとなった - をワシントンのNational Galleryに売った利益で購入して修理して一家で暮らし、いまは中年になったHarrietを含む彼女の子供たち(男3、女1)は、ここで子供時代を過ごした。そして今は彼らの子達- Janeの孫たちがやってきて遊んだりしている。

彼らの父、作家でAshmolean Museumのアジア美術のキュレーションをやっていたOliver Impeyは2005年に、母Janeは2021年に亡くなり、住む者のいなくなった屋敷を引き払うべく、子供たちがやってきてそこに置いてあるもの - 写真や8mmも含む – を彼らの記憶と共に並べていく。日本の下品なTVだとすぐにお宝探し、とか乗りだしそうだが、そういうトーンではなく、家に置かれ、遺された大量の遺物を掘りだし、そこから祖先の足跡〜両親との思い出、自分たちの幼少期までを巡っていく旅のようなものになっていく。

もとはコロナのロックダウン中にこの邸宅でドキュメンタリーを撮る計画があり、それがJaneの死によって急遽撮影を進める必要が出てきたらしいのだが、中心にあるのはずっとここで暮らしてきた、ついこの間まで日常を送っていた母Janeの手書きのメモや貼ってある写真など、前半部分は彼女の生活の痕跡とそれが絶えてしまったことを悼み慈しむトーンが強く出ている。

後半は、父が収集していたのか放置していたのか、家のあちこちに潜んでいるかのように置かれたDragonの絵や飾り、置物の数々とそれらに囲まれて過ごした子供たちの幼年期を追っていく。 アジアを旅してDragonばかりを集めて家に運んでいた – そこから家の購入に繋がる発見があったわけだが - 父がそうやって遺したものと子供たちが父母と過ごした夏の日の記憶、片付けられ、失われていくものへの想いが父の愛したDragonに凝固し、時間を超えて飛びたっていく様はちょっと感動的だったかも。

これ、遺されたのがDragonだからなかなかかっこよいけど、へなちょこでくたくたのぬいぐるみとかがらくたばかりだったらどうなっただろう? ってちょっとだけ思った。


Blue Road: The Edna O’Brien Story (2024)


5月11日、日曜日の晩、Curzon BloomsburyのDoc-Houseで見ました。
もうじき日本のアイルランド映画祭でもかかるようで、喜ばしい。英国では結構長く上映され続けているドキュメンタリー作品。

93歳になったEdna O’Brienのインタビュー映像 – この数か月後に彼女は亡くなる - を中心に、若い頃のTV出演時の映像とか、他の彼女の記事や発言はJessie Buckleyが力強く声をあてて、家族以外の批評家や所謂「証言者」的なコメントは殆どない。作家本人がよどみなく踏みしめるように語っていく一代記で、作品を読んだことがない人でも、家族も文壇も、全てが保守的で、「らしく」あることを求められる土壌でどんなふうに彼女 = “Girl”が周囲と戦い、道を切り開いていったのか、を鮮やかに切り取ってみせて、その恥じない動じない姿はかっこいい、しかない。

タイトルのBlue Roadは、小説に”Blue Road”と書いた彼女が、そんな青い道なんてあるか、って父親に怒られたエピソードから来ていて、でもその直後、カメラはしれっと青くなっている道(美しいったら!)を映しだしていたりー。

↑の”Where Dragons Live”もそうだったが、イギリス・アイルランドの田舎の映像の美しさと、その背後にある澱んで暗く、でも引き込まれるよくわからない業のようななにか、が浮かびあがってきて、それでもやはり美しくて見つめ直してしまうのだった。

5.15.2025

[theatre] Here We Are

5月3日、土曜日のマチネを、National TheatreのLytteltonTheatreで見ました。

2021年に亡くなったStephen Sondheimが最後に手掛けたミュージカルで、原作はDavid Ives、演出はJoe Mantello。Luis Buñuelの2本の映画 – “The Exterminating Angel” (1962) - 『皆殺しの天使』 と”The Discreet Charm of the Bourgeoisie” (1972) - 『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』 をモチーフとして置いて、最初のリーディングのワークショップは2016年くらいから行われていたものの、いろいろな経緯を経て、NYのオフ・ブロードウェイで初演されたのはSondheimの死後、2023年であった、と。

一幕と二幕でトーンも含めて結構はっきり分かれていて、登場人物はほぼ同じだが別の芝居のようで、一幕目はブルジョワジーの秘かな愉しみ』をベースに、二幕目は『皆殺しの天使』をベースにしている。 ミュージカル要素が効いているのはほぼ一幕めの方。

舞台は真っ白でぴかぴかの金持ちのモダンなリビングのようなところで、上演前から執事のような男性と掃除婦の女性が掃除機をかけたりいろいろ磨いたり、汚れがないかチェックしたり、つんつんした顔と態度で(上演を?)準備している。

そのアパートにゲストがやってくる - ホストのBrink夫妻は呼んだ憶えがないらしいのだが、同様に金持ちらしい小ぎれいなZimmer夫妻と、南米の架空の国の大使Raffaelと、ホストの妻の妹で、革命思想に傾いている若者Marianneと。そこではなんの準備も用意もしていなかったので、みんなで外にブランチに行こう!おー! って歌いながら外にでる。

一行が最初に入った – “Café Everything”では、メニューはありませんなんでも作りますよー、と言いながら、注文を受けたウェイターがいきなり銃で自殺してしまったり、そんなふうに、次のレストランに行ってもどこも同様にあれよあれよと変なことが起こり、ご飯にありつけないままの彷徨いが転がっていく。歌も入ったどたばたコメディ風で楽しいのだが、『ブルジョワジーの...』 にあった悪夢と悪意に満ちた浮ついたかんじはなくて、こんなのいまのNYなら普通にあるよねー、で終わってしまうような。

3軒目のレストランあたりで、軍の偉そうな人と若い兵隊が加わり、更に失業中の司教も加わって、Raffaelの大使館にみんなで入っていったところで、どこかで銃声が響いて、携帯もほぼ通じなくなり、大使館の執事がいきなり悪の正体を現したところで一幕目が終わる。

二幕目は、大使館の屋敷のラウンジのようなところに閉じこめられた全員 - 金持ち、軍人、聖職者、悪魔、ヒッピー、あらゆる階層と職業の人たち - が、引き続きご飯にありつけないまま嘆いたり絶望したり発作にあったり、熊にあったり、でも映画 『皆殺しの天使』にあった、超越的な何かを浮かびあがらせたり揶揄したりするような仕掛けや視点はそんなになく、次から次へと起こることが起こるべくして、なかんじの、ふつうの悲喜劇の枠から出ていなくて、おもしろいけどそれだけ?それで? になってしまっているような。

閉じこめられた彼らのやりとりは形而上から形而下まで網羅した悲劇的なものとして描写される反面、やや大仰すぎて噓っぽくも見えて、いまのガザに閉じこめられて身動き取れなくなってしまっている人々のことを考えると、なんだかちっとも笑えなくなってしまうのだった。 ”Here We Are”って言えてよかったね、とか。

Stephen Sondheimのミュージカルをきちんと見てきていないので、彼のミュージカルとしてどう、というのは書けないが、ミュージカルとしては耳に残ったり場面が浮かんだりするところが余りに少ないので、割と失敗かも。

アンサンブル劇としてはブニュエルというよりはアルトマンの方かも。だからどうした、ではあるが。


Krapp's Last Tape

5月2日、金曜日の晩、Barbican Theatreで見ました。『クラップの最後のテープ』。 約60分の一幕ものなので、簡単に。

原作 (1958) はSamuel Beckett、演出はVicky Featherstone、主演(一人芝居)のKrappをStephen Reaが演じる。

暗闇の向こうにチョッキを着て机に座って幽霊のような69歳のKrappの像が浮かびあがり、ふつうあんなところにはない机の長い引き出しを開けて、そこからバナナを取り出して食べて皮を捨てて、かつて自分が誕生日前日に吹きこんだテープを聞いていく - テープレコーダーがまだ存在しなかった時代に書かれた、人と時間、記憶のありようを巡る思索劇で、ぜんぜん古くない。むしろAIやアバターが、なりすましがふつうに話題や問題になったりするいま、こんなふうに吹きこまれて「再生」される過去の自分 or 今の自分とは、その間にあるのは、溝なのかバナナの皮なのかなんなのか? を問うてくる。

ひとによっては、で? それで? になるやつかもしれないけど、いろいろ考えさせられる。

いま、Yorkの方ではGary Oldmanが同じ芝居をやっていて、そちらも見たい…

この芝居は(「ゴドーを待ちながら」もそうだけど)、いろんなバージョンのを見るのがよい気がして、見れるものを可能な限り追っていきたい。


Future Ruins、行ったほうがよいのか.. ?

5.14.2025

[film] Julie zwijgt (2024)

5月2日、金曜日の晩、Barbican Cinemaで見ました。  

ベルギー映画で、監督はこれが初監督作となるLeonardo Van Dijl、昨年のカンヌの批評家週間で上映されて、共同プロデュースにはダルデンヌ兄弟の名前が、そしてExecutiveプロデューサーにはNaomi Osakaの名前がある。 英語題は”Julie Keeps Quiet”。

ポスターは主人公Julie (Tessa Van den Broeck)が叫んでいるように見える歪んだ顔のクローズアップで、それでも“Keeps Quiet”とは?

15歳のJulieはエリート向けテニスアカデミーに通っていて、その中でも将来を見込まれて特別待遇を受けている選手で、本人もやる気十分でばりばり練習している - Julie役のTessa Van den Broeckは演技経験のないテニスプレイヤーで、撮影前に6週間のワークショップに参加しただけだそう。

ある日、同じアカデミーにいて、しばらく前に自殺したAlineという選手のコーチをしていたJeremyが協会から謹慎処分を受けてもうここには復帰できない、という連絡を受けてざわざわする。JeremyはJulieの専任コーチでもあった。

はじめのうちはふーんそうか、と独りで黙々と練習をしていくJulieだったが、そのうち何でこんなことになっているのか、Jeremyの指導がないと前に進めない、という苛立ちや焦りが彼女を追いつめていく(ように見える - ただし推測)。そしてJeremyからはJulieのスマホにちょこちょこチャットでメッセージが入ってきたりする – がそれに応えたらいけないと思うので相手にはしない(後で少し話してしまったりはする)。

何も語らないJulieは、Alineの自殺の根にあったものもおそらく知っているし、なぜJeremyが謹慎処分になったのかもわかっている。これらを吹っ切って練習を続けないと自分に選手としての将来がないこともわかっている。これらに囲まれて塞ぎこんでいる彼女のことを心配した大人たちが集まってきてカウンセリングのようなことも始まるのだが、Julieは沈黙を続ける。ここでJeremyとの間にあったことを話すと自分の今後の活動に影響するかもしれないし、最悪の場合、好きなテニスを続けられなくなってしまうかもしれない。そして大人たちは大人たちで、Julieが何かをスピークアップしまうことで自分たちの監督責任が問われてしまうかもしれない、ので無理な深掘りはせず遠くから恐々眺めるだけ。 - という状況が延々繰り返されていって、全体としては袋小路のなか、これはなんなのだろう? の不条理が浮かびあがってくる。 そしてこうして、周囲になにも言えなくなる空気や状況が形づくられていくのか、と。

少し前のテニスドラマ – “Challengers” (2024)では上位にいる女性プレイヤーとその下位の男子2名の性的なところも含めた丁々発止のやりとりがバカっぽくエネルギッシュに描かれていたが、男性と女性の位置関係が逆転すると、こうまでテーマや明度が変わってしまうものなのか。

監督は12歳の体操選手だった少女が怪我をしても周囲に言わずに我慢して無理しているのを見てこのドラマを思いついたそうだが、スポーツの場合、何故か子供たちを「大人」のように扱って(尊重して?)彼/彼女の「自主性」に任せたりする – そうすることで何か起こった場合でも責任回避できるし、うまく行ったら彼/彼女は更に成長するかもしれないし。でもやはり、彼/彼女は子供なのだから、適正に監督されてケアされなければならないし、子供たちには言いたいことをきちんと伝えられる環境が用意されるべきなのだ、と。それをずっと体育会系のカルチャーに染まってのし上がってきた協会にいる大人たちが用意できるのか? はあるけど。

この作品を集ってくるメディアに対して明確に”NO”を突きつけたNaomi Osakaがプロデュースしている、というのはとても納得がいく。

日本でも見られてほしいと思うけど、Julieの沈黙を「えらい」って勘違いするバカが大量に湧いてきそうでとてもこわい。

5.13.2025

[music] The Pogues

5月3日、土曜日の晩、O2 Academy Brixtonで見ました。

彼らの2nd “Rum Sodomy & the Lash” (1985)のリリース40周年に合わせてフルで演奏するライブで、2024年の”Red Roses for Me” (1984)の40周年記念ライブに続くシリーズなのか。

2023年のShane MacGowanの死と共にThe Poguesというバンドは無くなったのだ、と誰もが思っている。 ShaneもPhilip ChevronもDarryl Huntも亡くなり、Terry WoodsもAndrew Rankenもいない。残っているのはSpider StacyとJem FinerとJames Fearnleyの3人だけで、ゲストをいくら加えたからといってそんなのThe Poguesとは名乗れないのではないか、と。

でも、アイリッシュトラッドの野卑な獰猛さをパンクに結び付けて、それを一揆の音楽として練りあげていった彼らのスタイルはバンドがなくなったからといって塵にしてしまうのは惜しいし、それにShaneなんて生きている時から(90年代以降はずっと)ステージ上では死んでたようなもんなのだから、こういうのもありなのではないか、と。しかも会場はAcademy Brixtonなのだし。

などと思ってチケットを探そうとしたらとっくに売り切れていて、たまにリセールでフロアのスタンディングのが出てくる程度。あの会場で、Poguesのスタンディングで揉まれたら体が八つ裂きにされてしまうと思って、2階席のを追っていたらどうにか一番前のが釣れた。

直前まで映画を見ていて、開演に間に合わないかと思ったが、Brixtonの駅の近くから"Dirty Old Town"を肩を組んで歌いながら会場に向かう酔っ払いの群れを見て少し安心する。着いたのは9時少し前、そこから5分くらいで始まる。フロアを見下ろすと、既に“Rum Sodomy & the Lash”のジャケット - ジェリコーの『メデューズ号の筏』 (1818)みたいな状態のぐじゃぐじゃで。 病みあがりだったので、あそこに入っていったら簡単に死ねるな、とか。しかし40周年であるのでモッシュでべちゃべちゃになっているのって老人ばかりなのよ。

さて、”Rum Sodomy & the Lash”というアルバムは、この後の”If I Should Fall from Grace with God” (1988)でそのスタイルを完成させて世界的に成功するひとつ手前、バンドのラインナップが固まって、でもレーベルはStiffでプロデュースはElvis Costelloで、粗削りのライブの勢いをそのままもちこんで、でもトラッドもいっぱいあって、危なっかしいけどひたすら前のめりで、”If I Should Fall from...”よりも生き生きと跳ねまわっていて、よいの。

ステージ上にはアイリッシュハープもあるし、でっかい太鼓もあるし、バグパイプもある。曲によって替わる女性ヴォーカルは3人、ホーンもいるし、多いときで13人くらいがステージ上にいる。Spiderがご機嫌に客を煽って、つるっぱげのJames Fearnleyがそれに乗っかり、Jem Finerはいつものように学校の先生で、それ以外はミュージシャンみたいなミュージシャンたちが椅子に座ったりして演奏する。でも結局リズムがどんどこで、ぎゃーって雄叫びがあがったら突撃するしかないのだろうな(かわいそうに..)。

一曲目の"The Sick Bed of Cúchulainn"はスタンディングの前方からばしゃーんとかびしゃーんみたいな水が炸裂する音(要はビールの)がいっぱい聞こえて、そういう盛りあがりとは別に、音の方は細かったり荒縄いっぽんだったところが重ねられたり補強されたり、よい意味での大船になっていた。これなら旗を立てても帆をはっても飛ばされることはあるまい。音をきちんと重ねてもその勢いが削がれることはなく、客はどっちにしても幸せに突っ走っていくので、なんの不満があろうか、って何度も頷く。

曲順はアルバム通りではなくて、やはり盛りあがりを考えているのか、本編の最後は女性3人が横並びで"London Girl" – エムザ有明での初来日公演のアンコールがこの曲だったなあ、鼻からビールをぶわーってやったShaneの笑顔が忘れられないなー、とか。 アンコールの最初は“The Irish Rovers”、エンディングは”Sally MacLennane”だった。

それにしてもさー、40年だよ。「ラム酒と淫行と鞭打ちしかない」(by チャーチル)が40年って、なんで? も含めて、なんでこんなことに?/こんなふうになっているなんてー、しかない。狂っていなかったらとてもやってらんないよね。

5.11.2025

[theatre] Richard II

4月29日、火曜日の晩、Bridge Theatreで見ました。

Bridge Theatreは久々で、ここでは過去Maggie Smithの一人芝居やLaura Linneyのこれも一人芝居の”My Name Is Lucy Barton”などを見ていて、今回のは一人芝居ではないがJonathan Baileyがメインでフィーチャーされている。

原作はShakespeare、演出はNicholas Hytner。プログラムにも原作の文庫にもファミリーツリーが載っていて、これがあるといつもビビるのだが、今回はだいじょうぶ(なにが?)だった。後で振り返るのによいの。

舞台はシンプルかつダークな黒で統一され、真ん中に執務机とかベッドやシャンデリアが上から下からすーっと出てくる程度。客席を四方で囲み、裁判や演説の際は、客席やバルコニーも使う。Richard II (Jonathan Bailey)も周囲の部下たちもぱりっとした現代のスーツを着て出社(?)すると秘書から社員証のように王冠を受けとる。

王Richard IIを中心とした一族のドラマ、そのなかでも権力抗争にフォーカスして、だからQueen Isabel (Olivia Popica) の影は薄めで、硬軟いろいろのじじいたち、忠犬みたいに同じ顔した同じ動作の幹部っぽい男たち、それらに憧れていきりたい若者たちが右から左から現れては消えていく、男たちのお話し。原作を読んでいなくてもどんな話なのかはわかる - そういう話に集約してよいのかどうかは別として。

男の威厳とか人を操って言うことを聞かせる王のパワーとかオーラ - それ相当のなにかはどこでどうやって手に入れて広がってコトを起こし、それらはどうやって他の権力者 or 継承者に移って次の代にトランスフォームされていくのか。それを情緒と無常感たっぷりに”Why~??”って泣いて騒いで訴えるのではなく、権力とは、その抗争とは、その遷移とはこういうものなのだ、とドライに描いていく。弦を中心とした音楽だけは映画音楽のようにドラマチックに響いてくるが。

それでも叔父のJohn of Gaunt (Nick Sampson)の死後、Richard IIがその遺産をかっさらったり、コカインを決めながらアイルランド侵攻を決めたりしていると周囲から不満の芽が出てきてらそこに政敵、というかRichard IIの反対側に立って追放されていたHenry Bullingbrook (Jordan Kouamé - 元のRoyce Pierre sonからこの晩だけなのか替わっていた)がどこかからやってきて、彼はRichardとは反対に寡黙でなに考えているのかわからないしふてぶてしいし、スーツの他にパーカーのようなラフな格好もして、騒がしい決闘も政変もないまま気がつけば王位を奪って、側近も替わっている(ように見える)。

それでもRichardは余裕でHenryを憐れんであげたりもするのだが、周囲には響いていかない。自分の頭で叩き割ってしまった鏡は元には戻らず元の像を写すこともなく、上が替わったらすべてが入れ替わり元に戻ることはない、時間と実績とか達成の度合いとそれに纏わる合意と総意がすべてで、交替後は死体袋に入れられて滑らかな床面を滑っていくだけ、と。どこまでもドライで、でも取り巻きも含めてそういう風にしたのも彼なのだ、と。

Jonathan Baileyのそんなに大きくない身体は、とてもよく響く声(怒鳴っても痛くない)と合わさって、そのしなやかな動きは自身のエゴとパブリック・イメージを見事に統御しているかのようで、やはりかっこよいと思った。

5.10.2025

[film] 風櫃來的人 (1983)

4月30日、水曜日の晩、BFI Southbankの4月の特集 - “Myriad Voices: Reframing Taiwan New Cinema”で見ました。 侯孝賢を含めて台湾のニューシネマはこれまで全然見れていないので、いろいろ見たかったのだが、この特集もこの1本で終わってしまった。4月のばか。

邦題は『風櫃の少年』。英語題は”The Boys from Fengkuei”  CINEMATEK - Royal Belgian Film Archiveによる4Kリストア版。 別の日には撮影を担当したChen Kun-hou(陳坤厚)によるイントロがあったそう(聞きたかった)。侯孝賢の半自伝的なドラマである、と。

いつの年代かの台湾の離島、ひなびた漁村の風櫃に中学生くらいのAh-chingがいて、彼の父は草野球で打球がおでこを直撃してから椅子に座ったまま動けなくなっていて、彼の他にはAh-rong, Kuo-zai, Ah-yuの3人がいて、いつも4人で浜辺でバカなことをしているか、他のガキ共に喧嘩を売ったり売られたりで逃げては集まり、女の子にちょっかいを出しては逃げたり避けられたり、だいたい退屈ですることがないのでそういうことをして、全体としてここにいてもつまんないし、ろくなことがないからここを出てどこか別のところへ行こう、になる。 若い頃(の特に男子)というのはそういうバカなことをいっぱいしたり、いろんなところに行って自分が少しはなじめそうな場所なり集まりなりを見つける動物の時期、というのはわかっていて、それが風櫃の少年たちに起こったら、それは例えばこんな日々になる、という絵を描いている。

映画になるのであれば、最終的にどこそこに落ち着いた、か、落ち着くことができず挫折してはぐれ者になった、辺りが世の青春映画としては一般的だと思うが、この映画の主人公たちはそのぎりぎり手前、バカなことをしてふらふらしている地点、どこにも行けない吹きだまりのような場所を永遠に彷徨っているように見えて、そうしていながら4人は3人に、3人は2人になったり、父が亡くなったり、その周りで切り取らていく風景は、いつまでもあの時のまま、決着つかないまま時間ごと止まっていて、我々はそういうふうに止まった時間のありようを、あの風景を通して見る・見返す、というか。そういう印象とか残像のようにして残るなにか。

これって多分に、思いきり男子のもので、家の事情で勝手に動けなかったりする女子だと見え方も残り方も違うのだろうな、と思いつつも。

片方には家の玄関があり、片方には遠くに延びていく道路があって、バイクは画面の奥に遠ざかって消えていき、玄関の前には時間が止まって動かなくなってしまった「父」が座っていて、そのどちらにも向かえないまま乗り遅れたり(何に?)、そこにいるはずの誰か(誰?)がいなかったりした時に見える(特に見たくもない)風景、がずっとそこにあって、このパノラマはいったい何なのだ?って打ちのめされて見ていた。

とにかく風櫃には何もないので、外に出ていくしかなくて、そのきっかけとか動機は仕事か女性かしかなくて、仕事も女性も常に裏切ってくる – fitする何かなんてどこにあるのか? - ので、場所を渡って仕事を変えて、女の子には必ず振られて、を繰り返す – それが4人の男子の王兵のドキュメンタリーフィルムに出てくるような俳優顔じゃない彼らの顔と共に後ろに流れていって、それは風景と一緒にどこかに消えていく – けど消えていかずにずっと残る。

音楽はクラシックが流れて、Jia Zhangke(贾樟柯)の使うJoy Divisionがもたらす効果とはやはりぜんぜん違う。どちらもよいの。

こういうイメージを捕らえて重ねて編んでいく、って誰でも実現できそうなようで実はものすごく難しい - ゴダールの映画がそうであるように、なのかも。

5.09.2025

[film] Thunderbolts* (2025)

5月1日、木曜日の晩 - まだpreview扱いだったが - BFI IMAXで見ました。

監督は”Paper Towns” (2015)のJake Schreier、撮影はDavid LoweryとやってきたAndrew Droz Palermo、音楽はSon Luxなど、とてもMarvelフランチャイズの諸作に並べられるような粒立ちやメジャー感はなくて、それはキャストもそうで、Florence Pugh, Sebastian Stan, Julia Louis-Dreyfusを除けば有象無象すぎでヒーローものの華も勢いもなくて、しかもタイトルに雑検索用の”*”まで付いて、要は従来路線とは違うことをやろうとしている、そしてそこに間もなく公開される(やたら宣伝がうるさくなってきた)”The Fantastic Four: First Steps” (2025)のレトロフューチャー仕様を加えるともうぜんぜん違う何かに投資・変態しているようなのだが、このシリーズはずっと追っているのでしょうもなく付きあって公開初日に見てしまうのだった。

冒頭からYelena (Florence Pugh)は浮かない顔でマレーシアの高層ビルの上から飛び降りてやりたくもない請け負いの殺し仕事をやってて、雇い主のCIAのValentina (Julia Louis-Dreyfus)は弾劾裁判をくらって旗色も顔色もよくなくて、気分が晴れないYelenaはAlexei (David Harbour)を訪ねて、一緒に指令を受けた秘密施設に赴くのだが、そこに有象無象の連中がいて勝ち残りバトルをしながらこれは互いに潰しあうホイホイ系の罠だ、って気づいた時にはもう遅い。

その中にはBob (Lewis Pullman)っていうパジャマみたいな拘束衣みたいのを着た毛色の違う男がいて、のらくらぶりが気になるのだが、力をあわせてその施設を破壊して抜けだして車で逃げていくと追っ手がきて、彼らを助けるのか捕まえるのかBucky (Sebastian Stan)も現れて。

こんなふうに、明白な敵や強者が現れてそこに向かって立ちふさがる、或いはFirst Avengerのようにお国のために立ちあがる、といったポジティブな動機もなければ、スーパーパワーもそれに沿うべく積極的に獲得されたものでもない、単なる金づるだったり、AlexeiもBuckyのように過去からの柵でしかなかったり。

ストーリーラインも、集められた者同士で殺し合い、その中の突出したひとりが手に負えないので力を合わせてどうにかする、それを抜けてみると明らかな政治利用目的(と弾劾目眩し)で勝手にリプランドされて周知されて逃げようがなくなる、というもので、こないだの”Captain America: Brave New World” (2025)がそうだったように、はっきりとどーでもよいインナーポリティクスのごたごた(のエサ)を描いているだけ。

たぶんもう”New World”も新たなヒーローもこんなふうに押しつけられる形でしかやってこなくて、そんなとこで”Brave”もクソもないのだ(拡張戦略もマーケティングも)という背景の暗さと脆さが公開前から丸見えで、でもだからこそ愚連隊がやけくそでめちゃくちゃやってくれることを期待したのだが、そんなでもなかったところが苦しくて、そんなふうに置かれた苦しさや苦さも含めてわかって、というのかもしれないが、そこまで暇でもマニアでもないのよねー、とか。

寄せ集められ、束ねられて見られる、そこで期待されるやっつけ仕事の徒労感と先の見えないかんじはよーくわかるので、あと少しでおーやったやった、になれたかも知れないのに、あのラストは興醒めしてしまうし、こんなの契約違反、って椅子を蹴る人がいてもおかしくないのに。

戻りの飛行機でYelenaの姉の代の”Captain America: The Winter Soldier”(2014)を再見して、誰が本当の悪なのかわからない中、ただ正直でありたい、と語ったSteve Rogersのあのわかりやすさ明快さは政治や地政がコミックになってしまった今、望みようのないところまで行ってしまったのだろうか、とか。

こんなふうにぐだぐだどうでもよいことを考えるネタは与えてくれるのだがなー。

[film] Rich and Famous (1981)

4月30日、水曜日の晩、BFI Southbankの特集 – “The Old Man Is Still Alive”で見ました。 これがこの特集で見た最後の一本。見れてよかった。

上映前にBFIの人が出てきて、今回の上映はBFIのアーカイブにある35mmによるものです。少し退色がありますが楽しんで貰えると思います、って。うん、すごくよいプリントだった。

監督はGeorge Cukor。原作は英国のJohn Van Drutenによる戯曲 - “Old Acquaintance” (1940)をGerald Ayresが脚色したもので、オリジナルタイトルでの映画化は、1943年にBette DavisとMiriam Hopkinsの共演 - 邦題は『旧友』 - により既にある(これも見たい!)。今作の邦題は『ベストフレンズ』。

当初はRobert Mulliganの監督で撮り始めていたのだが、俳優組合のストで3ヶ月間の中断があり、彼の都合で続行不可になり、81歳でセミリタイア状態だったGeorge Cukorのところに話が行った、と。これが彼の遺作となる。

すばらしい音楽はGeorges Delerue。あと、Meg RyanがCandice Bergenの18歳の娘役でスクリーンデビューしている。80年代初のヘアスタイル。

1959年のSmith Collegeで親友だったLiz (Jacqueline Bisset)とMerry (Candice Bergen)がいて、寒そうな雪の晩、LizはMerryがBFのDoug (David Selby)と駆け落ちするのを助けて、そこから10年経った1969年、成功した作家になった(でもシングルの)Lizは、あの後Dougと結婚して一人娘がいて、西海岸の社交界で成功したセレブになっているMerryの邸宅を訪ねる。

何ひとつ不自由ない暮らしを送っているはずのMerryがLizを見ていたら自分もなんか書きたくなった - ひとつ書いてみたので作家としてLizのコメントがほしい、と言うので読んでみたら悪くないので出版社を紹介してあげたら、マリブの社交界をモデルにしたその小説は当たって、Merryは小説家としてデビューしてしまう。

こうしてずっと独身のままNYで若い青年複数も含め行き当たりばったりで相手をとっかえひっかえしつつ、こんなんでよいのか - いいや、を繰り返していくLizと、Dougとも別れ、娘のDebby (Meg Ryan)も手を離れ、作家として独り立ちしてもどこか満たされずに煩悩にまみれて落ち着かないMerryの周辺と、喧嘩してはくっついてを繰り返してなんとなく続いていく22年間の友情? を描いて悪くないの。

それは「ベストフレンズ」的な愛とプライドと確信に満ちたものではなく、ちっともふたりそれぞれのイメージしていた落ち着いた大人になれないまま、でもそうしかできないのでやりたいように過ごしていくうち、それぞれの岐路でいちいちなんかぶつかったりぶつけられたり、泣いたり呻いたりの先にいるのがやっぱりあんたか! になっていく様がひたすらおもしろかったり息を呑んだり、それだけなの。

そしてGeorge Cukorの演出は、なにがどうしたらあんなふうにおもしろくできるのかわからないが、見事に振り付けされたバレエがどんなに遠くの席からもその感情のひだひだを的確に伝え運んでくるように、ふたりの22年間をそれぞれのカットでしっかりと切り取って、そこにGeorges Delerueのスコアが絡まるとびくともしない。女性たちが言いあったり張りあったりしているのがひたすら続く”The Women” (1939)の画面から目を離せなくなってしまうのと同様の魔法、というか正しさのようなものがある。

60年代マリブのパーティーシーンではChristopher IsherwoodやPaul Morrisseyがカメオで出演していたことを後で知る。 もう一度見たい。


Frenzy (1972)

4月27日、日曜日の夕方、↑と同じ特集で見ました。
Alfred Hitchcockの終わりから2番目の作品、だけどHitchcockなもんで、おもしろくて怖くて釘づけだから。

ロンドンで、ネクタイで首を絞めて女性を殺して棄てる連続殺人事件が起こって、職を失ったばかりのRichard (Jon Finch) が犯人に仕立てあげられてどうする? の恐怖と、犯人Bob (Barry Foster) が女性に近寄って殺すシーンのどちらも(特に後者が)怖くて、これに関してはThe Old Man Is Still Alive”どころではないわ、になった。

あと、犯人が暮らしているCovent Gardenの青果市場界隈、ここには1974年まで実際に市場があって、その様子は昔のドキュメンタリーフィルムとか写真集でよく見るのであーこれがー、ってなった。

5.08.2025

[film] Sister Midnight (2024)

4月28日、月曜日の晩、JW3っていう少し北のFinchley Rdにあるカルチャーセンターみたいな施設の映画館で見ました。久々の観客自分ひとりだけ、だった。

6週間英国にいなかった間に新作としてリリースされた作品で、見たいと思っていたやつは戻ってきた時はほぼ終わって配信に移ったりしていて、それなら配信で見ればいいじゃん、なのだが配信て面倒じゃん? なのでこんなふうに地方で上映してくれていたら見にいく。

インド系英国人のKaran Kandhariが作・監督した彼の長編デビュー作で、2024年のカンヌでプレミアされ、BAFTAの最優秀新人英国映画にノミネートされた(でも”Kneecap”に敗れた)、英国 - スェーデン - インド映画。BFIも制作に関わっていて予告がおもしろそうだったの。でも予告から受けたどたばたコメディとは結構違う印象だった。

冒頭、Uma (Radhika Apte)はひとり列車に乗ってインドの田舎を旅してムンバイの町まで来て、そこの長屋の一軒にいた男と式をあげて一緒に暮らし始めるのだが、おそらく親が決めた見合い結婚の相手と思われる夫Gopal (Ashok Pathak)はほぼ喋らず顔も合わせず、TVを見て酒ばかり飲んで朝になると仕事に出て行き、夜は布団の隅で固まってUmaには触ろうともしない - たまにUmaが腕の装身具をじゃらじゃらさせて威嚇しても無反応で - といった辺りがなんのナレーションも会話もなく、アクションのスケッチのみで綴られていく。

隣のおばさんに料理を教えて貰ったりしてもおもしろくないし、Umaは歩いて4時間かかる先にあるビル清掃会社で夜間の清掃のバイトを始めて、そのビルでエレベーターを操作している老人と仲よくなって一緒に帰ったりもするのだが、それで深夜や朝にに帰宅してもGopalは何も言ってこない。

やがて深夜の帰宅中に、道端にいた山羊に寄っていって噛み殺してしまったり、そこらの鳥を捕まえて齧ったりしてている自分に気づき、ああ何をしているんだ? って慄いたりしていると、そのうち彼らはぎこちないストップモーションのアニメ(なかなかかわいい)となって蘇り、彼女の方に寄ってきて遊んでくれたりする。

新婚家庭での虐待(ネグレクト)によってゆっくりとおかしくなっていくUmaの姿を描く、というよかもう少し広い視野に立ち、ご近所界隈を含めた世界全体に向かってこれってどうなってんだふざけんな! って吠える彼女の姿を描いていて、それが女々しく痛々しいトーンではなく、鼻に絆創膏の傷だらけジャンキーのいでたちなので痛快だったりおかしかったり、その仁王立ちする像はIggy Popの”The Idiot” (1977) の収録曲 - “Sister Midnight”に見事に重なってくる。

最後には夫Gopalへの復讐へ、というシンプルなホラーの方には向かわず、我こそは夜の女王なりー、みたいに闇の中に厳かに立ちあがって、それが何? って平然としていて、結果なんかかっこよく見える。印象としてはWes Andersonのすっとぼけたトーンにガレージの錆びた臭いをまぶしたような。

音楽はInterpolのPaul Banksで、挿入曲には、The Bandの”The Weight”とか、Buddy Hollyとか、Motörhead とか、T.Rexの”Mambo Sun”とか、The Stoogesの”Gimme Danger”とか、いろんなブルーズが、インドの田舎の荒んだ景色にうまくはまっていて、よいの。
 

[theatre] Dear England

4月26日、土曜日の晩、マチネの”Punch”の後で、National Theatreで見ました。

これも原作は”Punch”と同じJames Grahamなのでこの日はJames Grahamの日。書かれたのは”Punch”よりも前、初演も2023年のNational Theatreなのだが、今回の再演版は一部リライトされているという。

演劇を見る時は(映画も割と)どんな話なのか頭に入れないで見ることが多くて、この”Dear England”も”Punch”もそうで、見る前のイメージとしては、イキった愛国者寄りのスキンヘッドの青年が暴走して何かをしでかしてお国のせいにする(したい)ようなやつだと思い込んでいて、ちょっと苦手な方面なのでどうしたものか → 続けて見ちゃえばよいか、になった。結果、偏見はよくない、になることが多い。

始まってからメンズ・サッカーのお話だと言うことを知り、やばいな(興味ない)、になり、更に実在するプレイヤーたちの、彼らが活躍したイングランド・サッカーチームの話であることがわかり - どうしてわかったかというと、Harry Kaneの名前くらいは知っていたから。 英国の場合、サッカーの話題はお天気と同じくらい日常の話題になるネタで、仕事の挨拶でも昨晩のゲームはーとか、どこそこのサポーターでーとかふつうだし、駐在していてサッカー場にいったことがないのはどうしたものか(と思いつつもうどうでもよくなっている)。

演出はRupert Goold、2023年の初演版はLaurence Olivier Awardsを獲って、West Endでもロングランした後、National Theatreに戻ってきて、この後も英国各地をツアーしていくらしい。

舞台は楕円形で、そのカーブに沿うように白色の太く強めのライトが低め斜めの位置にぐるりと照らしていて、スタジアムのピッチが目の前に迫ってくるかんじが表現されている。

最初にイングランド・チームの選手が大勝負どころでのPKを決められずにチームも観客もがっくりする場面から入って、それを見た協会首脳陣はなんでうち(イングランド・チーム)はいつもこうなるのか根っこのところから変えないとダメなんじゃないか(←まずあんたらからな、って言いたくなるダメなじじい共)ということでコーチのGareth Southgateが着任し、メンタルを鍛えるコーチとして女性のPippa Grangeを招き入れ、選手も当時のチームひとりひとりを紹介してから、ワールドカップやユーロといった大一番のゲームで実際の(よい)変化として起こったことが再現されていく。今回の上演版も昨年のユーロの結果を反映したものなのだそう - どこが該当するのかちっともわからんが。

観客は楽しみながら大ウケしているのだが、本当に一部の人たちしか知らない - Harry Kane以外で知っていたのはBBCでサッカー解説をしているGary Linekerとか、政治家のTheresa May (痛々しい)とかBoris Johnson (ほぼ化け物扱い)とかくらい - そんな自分にもおもしろく見れるのは、国技と呼ばれるようなスポーツが、どうして国をあげての熱狂をもたらすのか、その成り立ちとか構造が滑稽なところも含めてわかりやすく示されているからだと思った。 作者も含めて”Dear England…”と呼びかけたくなる愛すべき何かがここにはあるような。

では、これと同じようなドラマ - 例えば「拝啓日本」のようなものを作れるだろうか? というのは考えてみるとおもしろいかも、と思った。 日本の場合、自分も含めて組み入れられている組織なり空気なりに対してよくないことを言ったり茶化したりするのは失礼だ、みたいな抑圧が働きがちなので、あまりウケないのではないか →いまの政治に対する態度などを見ても。 たかがゲームなのにね。

そういうのは抜きにして、ゲームみたいに楽しめる作品だった。改めて、偏見もって遠ざけていて悪かったねえ、って。

5.04.2025

[theatre] Punch

4月26日、土曜日のマチネをYoung Vicで見ました。
この劇はこの日が最終日でチケットがなかなか取れなかったのだが、直前にどうにか取れた。

実際に起こった事件 - 当時28歳だった救命士見習いのJames Hodgkinsonを殴って殺してしまったJacob Dunneの手記を元に劇作家のJames Grahamが原作を書いて、演出はAdam Penford。JacobとJamesの育ったNottinghamのNottingham Playhouseで初演された舞台がそのまま来たもので、劇場にはJames Hodgkinsonに捧げます、という張り紙が。

19歳のJacob (David Shields)は下町のストリート・コーナー・ソサエティで片親(母親)の元で荒っぽく育って週末はなんかの試合にでも向かうような意気で仲間たちと盛り場に向かう - これはどこでもふつうにありそうなヤング不良の日々で、その日も特に違ったものになるはず… だったのだが。

Jamesの母(Julie Hesmondhalgh)と父(Tony Hirst)は深夜に突然病院から電話を受けて、それは彼が昏睡状態でもう助からないであろう、という連絡で、病院に向かうもののJamesはやはり助からなかった。死因はバーで殴られて昏倒してそのまま、でなぜ?の「?」がずっと周り続ける。

Jacobの方は監視カメラの映像から簡単に彼の「犯行」であることがわかって逮捕されるのだが、彼の方でも大量の?が湧いて止まらない。なんでたった一発のパンチで、自分に殺意なんてあるわけない、そんなつもりはなかった - こんなことになるなんて、等々。

まったく立場も事情も異なる両者の「?」と戸惑いの間にたまたまそこにいただけだったJamesの死は置かれていて、Jamesの両親は怒りと悲しみの、Jacobの方は悲嘆と絶望の縁を彷徨って果ても終わりもなくて、どちらも紹介されたケアのプログラムを通して事件と自分たちを見つめ直し、やがて直接会って話してみてはどうか、という申し出を受ける。

実際にそこに至るまでにものすごく長い時間と逡巡と対話の行き来があったのだと思うが、劇は両者の場面を容赦なく切り替え対比させ重ねていくのと、事件の背景にありそうな、なぜ若者の間で幼少期から暴力が簡単に肯定されてしまうのか? とかJamesはなんでそんな夜遅くまで働かなければならなかったのか? といった社会的な背景や事情にも目を向けて、単なる加害者 vs. 被害者の図に落としてしまおうとはしない。こういうことは昔から起こっていたのかも知れないが、片隅の「問題」ではなく、今ここの、ひとりひとりの社会、コミュニティに根差したなにかに関わるべきことなのではないか、と。

そういう土壌や文化のようなところまで掘りさげてみた上で後半はJamesの両親とJacobが対面する。最初はケアラーが間に入って、互いに会話するどころか目を合わせることすらできず、相手が何を求めているのかもわからない手探りの状態から、彼らはどうやって…

元はJacobの手記なので、多少は彼の目線に寄っているのかも知れないが、この部分のやりとりはちょっと感動的で、周りの客席の人たちはみんなぼろぼろ泣いていた。憎しみからは何も生まれない、とかいう決まり文句から離れたところにぽつん、と置かれたひょっとしたら救い…? と呼びたくなってしまう何かが。

Jacobを演じたDavid Shieldsの一気に走り抜ける集中力、Jamesのママを演じたJulie Hesmondhalghの静かな力のすばらしさも。

NTLのような形で日本でも見られるようにできないかしらー。