10.13.2025

[film] Tron: Ares (2025)

10月10日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。久々なので3Dにしてみた。
最初の“Tron” (1982)も次の”Tron: Legacy” (2005)も実は見ていない。

コンピューターの向こう側に別の世界があったり別の人格が潜んでいたりする、というのは、もうコンピューターができて50年くらいになるのだからもういい加減諦めたらどうか、と思うのだが、ひとは夢みることをやめないし、最近はAIなどもあるので、まだ諦めていないらしい。でもあれらはものすごい労力と奴隷仕事の積み重ねでできあがった - 大半はゴミみたいな – ただのコードの羅列でしかない。 という認識は80年代からあったので、それを甘ったるくて超ださいコンピューターグラフィックスで包んで「SF」の名のもとに商品化したディズニーにはあーあ、しかなくて、いや、あれはアニメーションのようなものだから、というのであれば、アニメにしてもやっぱりださいし、でしかなかった。

今回見ることにしたのは音楽がNINだったから。 ディズニー側も早い時期からNINのロゴを入れて宣伝しまくっていたので、ちょっとは違って見えるのかしら、くらい。なので音もでっかいIMAXにしたのだが、あんまし変わんなかったかも。 ていうか、Trentは自分の音のバックがあんな程度のリンゴ飴みたいなグラフィックスで満足しちゃうわけ? 昔の君だったら絶対採用しなかったでしょ?

ENCOMとDillinger Systemsの2大グリッド企業があって、Dillinger Systemsの世襲のCEO – Julian (Evan Peters)は3Dプリンターを使って兵器とか29分で消える(なんで?)最強の使い捨て兵士Ares (Jared Leto)をリリースして、ENCOMのCEOのEve (Greta Lee)はそのデジタルの生成物を永遠に存続させることができるコードをアラスカの山奥から発掘して、それを知ったJulianはそいつを手にいれるべくENCOMのメインフレームに襲撃をかけて、Aresなどを総動員してEveをさらってこようとするのだが。

競争相手の新技術をかっさらうためにロボットを投入したらそのロボットが寝返ってひどい目にあいました、ママ(Gillian Anderson)にも怒られたけど、ママも死んじゃいました、っていうそれだけの話で、一企業があそこまでめちゃくちゃやっても許されるのだからなんだって許される、っていう、ここだけ今と繋がっていそうなディストピア。

そもそもなにをしたいのかが(説明されていたのかも知れないけど)よくわかんなくて、兵器市場の寡占化?世界征服?それで? とか、永遠に存続させるコード(不老不死の薬みたいな?)もネットから隔絶された山中に保存されていて、引っぱりだしたばっかりに大騒ぎになって、こっちもよくわかんない、みんな落ち着け!ほんとうにやりたいことはなんなの? って聞きたくなる。(ディズニーに聞け)

テック・ビリオネアって、なんでこんなふうに碌なことしないの?そういうバカがなれる世界なの?バカだからなれるの? 地球とか学術の世界にまともなことをしてくれる正義の味方の極左のビリオネアっていないの?

あとはあれよね。なんでデジタル生成物に髭を生やさせたり左利きにさせたりする必要があるのか、とか。そんな生成物がなんでDepeche Modeを80’s popで一番だと思うのか、とか、なんでJeff BridgesはCGじゃなくてリアルに歳をとった姿をしてみせるのか、とか。

まだまだ続きそうなかんじなのがこわい... 

NINの音としては、(NIN名義ではないが)“Challengers” (2024)のサントラのゴムみたいに打ち返していく弾力が効いてて、本体の中味がない –“Challengers”も割とそうだった - ことを考えるとゴスでダークなとぐろ巻きにしなかったのは懸命だったかも。Nine Inch Noizeの流れもあるので当分はリズム方面を追求していくのかしら。


All of You (2024)

9月28日、日曜日の晩にCurzonのVictoriaで見ました。
これも近未来っぽい設定のだったので、メモ程度で書いておく。

作/監督はWilliam Bridges。
舞台は近未来らしいロンドン。大学の頃からつきあっていたSimon (Brett Goldstein)とLaura (Imogen Poots)がいて、町には100%の相手を見つけることができるよ、テストを受けましょう!っていう勧誘の広告が溢れていて、Lauraは悩んだ末にテストを受ける/受けたい、って言ってSimonもそれに同意する。

で、Lauraはテストの結果でマッチングされた男性と一緒になって結婚して、子供ももうけて、でもテストを受けていないSimonはずっとLauraのことを想っていて、別の女性とつきあってもしっくりこなくて、Lauraもそれを知っててたまにデートをしたりして、でも今の家族と別れるかというとそこまではいかなくて、ふたりでずっとうだうだしているの。それだけなの。

なんでそこまでテストの結果に縛られるのかわからなくて、それが「幸せ」を予測してくれているから、なのだとしたら悩むな、しかないと思うのだが、彼らはずっと悩んでいてあんま幸せには見えなくて、そんなの知らんがな、になるの。

最後までどんよりめそめそしているImogen Pootsは素敵なのだが、設定がありえないくらい陳腐で、なんで?ばっかりだった。某宗教団体の合同結婚式に科学をまぶしただけの、そんな未来を描いたディストピアもの、として見るべきなの? 表面はrom-comだと思ったのに?

[film] Thelma & Louise (1991)

10月5日、日曜日の夕方、BFI Southbankの特集 - “Ridley Scott: Building Cinematic Worlds”で見ました。上映前に監督Ridley Scottのトークつき。

短編からMezzanineを使った企画展示から過去作品のclapperboard(カチンコ)を壁にずらりと並べた展示とか、BFIの売店では彼のサイン入り赤ワインの大きいボトル(£300)を売っていたり - なども含めた総括的な回顧で、この中で自分は”Boy and Bicycle” (1965) + “The Duellists” (1977)の二本立てとか”Someone to Watch Over Me” (1987)を見たくらい。

今や世界的な巨匠であることは確かなのだろうし、新作がリリースされたらふつうに見るのだが、昔から映画ファンだったわけではない(今だってそう)ので、”Alien” (1979)とか”Hannibal” (2001)とか、怖そうなのは見ていなくて、この”Thelma & Louise”も見ていなかった。トークの際に「見たことない人?」で手を挙げた1/3くらいに入っていて呆れられたが、公開当時は”Bonnie and Clyde”の女性版、という紹介のされ方(つまり最後は死んじゃうので悲しい)で、今みたいにフェミニズムやLGBTQ+文脈で語られることなんてなかったの(←言い訳になっていない)。

監督のトークは、よく話題になるメインの2人のキャスティングについて、既にいろんな名前があったりするが、今回はMeryl StreepとMichelle Pfeifferの名前が出て、他にはHans Zimmerのどうやって作ったのかわからん音楽の凄みとか、ロケはどこをどう切っても絵になるので楽しかった、とか、割とふつうで、翌日一部で話題になったらしいこの日の別枠のトークでの、「今の映画は殆どがクソ」発言も見ればわかるごりごりの頑固じじいぶりが素敵だった。

フィルムは今回の特集のために焼かれた35mmのニュープリント。最初の方のごちゃごちゃしてもうやだ! の鬱屈して湿った空気が後半に向かってどんどん晴れて風景と一緒に視界が広がっていく(彼女たちが広げていく)のが爽快なロードムービーで、男たちは全員が揃いも揃ってバカで腐ったろくでなしで、”The Blues Brothers (1980)のふたりは生き延びたのに彼女たちはなぜ死ななければならなかったのか、なぜあそこでLouise (Susan Sarandon)は、死のう!ってThelma (Geena Davis)に言ったのか、等について少し考える。

いまリメイクするとしたらメインのふたりは誰がよいかしら? とか(暇つぶし)。


Boy and Bicycle (1965)

9月4日、木曜日の晩に見ました。
27分の短編でRidley Scott自身がカメラを回して、弟のTony Scottが主演して、音楽はJohn Barryに格安でやってもらったデビュー作。地表の横線の置き方とかそこに向かって乗り物(ここでは自転車)が走っていく姿には既に彼の特徴が表れているように思ったが、それよりも彼のフィルモグラフィーが熊のぬいぐるみのアップから始まっている(エンディングも)ことはちゃんと記憶しておきたいかも。 ↑の週末にはこの二本立て上映に合わせた監督のトークもあったので、この辺、だれか質問したのかしら?

The Duellists (1977)


↑のに続けて見ました。邦題は『デュエリスト/決闘者』。
BFIアーカイブからの35mmのフィルム上映で、色味とか光のかんじも含めて70年代のヨーロッパ映画にしか見えない。原作はJoseph Conradの”The Duel” (1908)、19世紀初のフランスの、ナポレオン軍に従軍する二人の兵士 - Keith CarradineとHarvey Keitelによる30年に及ぶ決闘の歴史を描く。

ぜんぜんやられない懲りないねちっこいのに妙に爽やかに時間を超えて追っかけてくるHarvey Keitelがよい味で、ここは”Thelma & Louise”の彼の役にも引き継がれているような。

この最初の2本にあった軽妙な軽さがいつの頃からかどこかに行ってしまった気がして、それは何がそう見せているのか、ただの気のせいか、とか。

10.11.2025

[film] Islands (2025)

10月4日、土曜日の昼、BFI Southbankで見ました。

新作で、監督はドイツのJan-Ole Gerster。
Tom (Sam Riley)はカナリア諸島のホテルリゾートで専属のテニスコーチをしていて、昼は滞在客の子供や老人相手にレッスンをして、夜は地元のクラブに出かけて踊って酔っぱらってビーチで目覚める、みたいなことを繰り返している。

ある日、泊まりにきたイギリス人の裕福そうな夫婦のAnne (Stacy Martin)とDave (Jack Farthing)から彼らの息子の個人レッスンを頼まれて、ついでに彼らの部屋を裏でアップグレードしてあげたりしたことから親しくなって、一緒に食事をしたり観光したりラクダに乗ったりするようになる。 AnneとDaveは二人目の子供ができないことでちょっとぎすぎすしていて、互いの話を聞いてあげたりして、TomがDaveをクラブに連れていって呑んで騒いだ翌朝、Daveが消えてしまったことを知る。最初は酔っぱらってどこかに、と思っていたのだが現れないので警察に届けて本格的な捜査が始まって、そうしてAnneとTomは一緒にいるうちに親密になっていって、Daveのほうはぜんぜん出てこないのでどこかでもう亡くなっているに違いないし、それでもいいか、と思っていると…

捜査中に浮かびあがるAnneの怪しい挙動とか、ちょっとミステリーぽいところもあるのだが、そこにTomの日差しは強いのにいつまでもどんより投げやりの日々 - Daveと同じようにいつ消えてもおかしくない、むしろ消えちゃえって思っているTomの澱んだ姿に、何を予知しているのか飼育場からの脱走を繰り返す観光用ラクダの姿が重なっていく。Daveの捜索で、海からこのラクダの死体があがるシーンはなかなか素敵。

全体に70年代のアントニオーニみたいな、ブルジョアの腐っていく世界に漂う焦燥と倦怠がゆったりとクールに描かれていて、ちょっと長いけどそのリズムも含めて悪くなかったかも。Sam Rileyがすばらしくよいし。


Brides (2025)

10月3日、金曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

これも新作で、監督はNadia Fall - ずっと演劇畑でやってきた人で、National TheatreでNicholas HytnerのADをしていたり、今はYoung Vicで上演中の”Entertaining Mr Sloane”の演出をしている - の長編映画デビュー作。 予告にイスタンブールと猫が出てきたので見た。

2015年、15歳で家出してシリアのISに入隊したShamima Begumの事件を元にしたドラマ。

同じ学校に通うDoe (Ebada Hassan)とMuna (Safiyya Ingar)の親友同士がいて、冒頭はふたりがばたばたと電車で空港に向かい、出国審査を済ませて飛行機に乗ってイスタンブールに向かうところから。ここまではふたりの冒険が始まるどきどきがあるのだが、トルコの空港に着くと、来ているはずの迎えはいないし来ないし、とりあえずバスで国境近くまで行くしかないか、って、まずイスタンブールに向かうのだが、そこでDoeはパスポートなど一式を失くして…

無口で内気なDoeと強くて奔放なMunaのコンビは素敵で無敵のようなのだが、旅の途中で英国での彼らの家族や学校での辛くしんどくうんざりの日々が重ねられて、旅先での困難を支えるのはもう二度とあそこには戻りたくない、って家を出た強い意思、というその部分は普遍的に伝わってくるものだが、そこから彼女たちがどこに向かって何をしようとしているのか、は伏せられている。困っている彼らを助けて親切に泊めてくれたバスターミナルの女性とその家族を裏切るようなことまでしたり、最後に車に乗せてくれたパパと娘たちの幸せそうな姿を置いても、ずっとママから電話とメッセージがくるDoeのスマホを壊してまで彼女たちの国境を超えようという決意は揺るがず、絶望の深さが知れて、それはもうほとんど自殺のようなものに見えるのだが、最後に描かれるDoeとMunaの最初の出会いのシーンを見ると、それしかなかったのだろうな、って。後からいくらでも言うことはできる、というー

女の子ふたりの友情、を甘く切なく描くようなやり方ではなく、特に真面目なDoeの苦悶の表情を見るとどこかにたどり着いたから決着するものでもないのだろうな、って思えて、ふたりの女性の映画として成立させようとしているように見えて、そうするとタイトルの”Brides”が。

10.10.2025

[film] A House of Dynamite (2025)

10月5日、日曜日の昼、BFI Southbankで見ました。

公開直後のイベントで上映後に監督Kathryn Bigelow他とのQ&Aがある。

この週末のBFIはRidley Scott一色で、監督本人が来て、彼の代表作いろいろの上映(ほぼ35mmフィルム上映)の前にイントロしたりQ&Aしたりトークしたり、彼のサインを求める人たちでざわざわしていて、自分もこの日の夕方に”Thelma & Louise” (1991)とじじいを見た(そのうち書く)。

脚本はNoah Oppenheimで、監督とふたりでいろいろ練りあげて行ったことが後のトークでわかった。
映画は112分あるが、対象となる出来事は18分間で、この18分を3つのセグメント、いろんな登場人物視点や立場に分けたり引き伸ばして見せる。彼女の得意な突発的なアクションや爆発で人や建物が吹き飛んだり、は今回はない。登場人物たちは、仕事場の端末、スマホの画面、会議室のモニターに向かって苛立ったり怒鳴ったりしている動きが殆どで、明確な敵はいない、見えない – 誰が仕掛けたものなのか明確にはわからない、という点では”The Hurt Locker” (2008)の怖さに近いのかもしれない。

アラスカの米軍基地で発射を確認されていないで飛んでいる大陸間弾道ミサイルが発見され、最初は何かのテストかと思っていたのがどうもそうではなく、シカゴに向かっている本物らしい、ということがわかってくる。ホワイトハウスではOlivia Walker (Rebecca Ferguson)がいつものように出社してオフィスで各担当と繋いだところで、ミサイルの情報が来て、彼女たちも最初はなにかのドリルではないかと疑うのだがそうではなくて、脅威レベルが引き上げられて、アラスカの軍が迎撃に向かうものの失敗して、数分後には間違いなく米国領内に飛んでくることがわかる。

パニックになることを承知で市民に伝えるべきか、報復すべきなのか、するとしたらそのタイミングは、などが渦巻く中、ホワイトハウス関係者にも避難勧告が出て、Oliviaにも家族がいるしどうしよう.. の辛さとどうすることもできないもどかしさが受けとめ難い事実としてのしかかってくる、けどどうしようもない。

続くセグメントでは、USSTRATCOM(アメリカ戦略軍)のAnthony Brody (Tracy Letts)将軍が即時報復すべきかどうかについて大統領のセキュリティアドバイザーのJake Baerington (Gabriel Basso)と衝突して、議論が宙に浮く。ロシア外相は関与を否定し、北朝鮮についてエキスパート(Greta Lee)に聞くと発射できる可能性はある、という。でも確実な情報は得られないまま、で、どうする? に戻る。

最後のパートは、合衆国大統領(Idris Elba)で、女子バスケットボールのイベントに出ていたところを緊急で呼びだされ、こういう有事のアドバイザーであるRobert (Jonah Hauer-King)から分厚いマニュアルをもとに打つべき手について説明されて判断を求められるのだが、決められない。困ってRobertに聞いても、自分は取りうるオプションについて説明するだけですから、と返される(そりゃそうよね)。

事態に直面する職員から最終決定をくだす大統領まで、3つのレイヤーで上に昇っていくものの、限られた時間で判断するには情報が足らなすぎるし、でもそれに伴う犠牲と被害は大きすぎるし、責任の重さだけでなく、みんなそれぞれ愛する家族がいて、という明日にでも十分に起こりうる渦の緊迫を描いて、そうなんだろうな、そうなるよな、しかない。(シナリオ作りにはそれなりの中枢の人たちが参画しているので相当にリアルなものだ、と後のトークで)

だからー、抑止力とか言って核を持って広げるのは簡単だけど、それがもたらす事態って現場レベルに来ると具体的にはこうなるのだよ、って。 あと、“Oppenheimer”(2023)でもそうだったが、核がもたらすリアルな災禍については、この映画でも触れられない。この辺には巧妙な狡さを感じる。実際に起こったことなのに。かつてアメリカが起こしたことなのに。という、結果としては隅から隅までアメリカの前線で戦っている人々を讃える、それだけの映画でしかなくて、ここから核を失くすべき - 失くそう、の議論には行きそうにないのが。

あとそうよね、この映画は美しいくらいの統制と緊張に貫かれているのだが、現実のいまの大統領の下でこれが起こったら一瞬で世界は灰になるのが見える。Tomでもムリ。

映画の”Independence Day” (1996)だったら大統領が戦闘機に乗って突撃にいくし、ここの大統領はIdris Elbaなのでやってくれるか、と思ったがやっぱりそれはなかった。

上映後のQ&AはKathryn Bigelowだけでなく、脚本のNoah Oppenheim、Rebecca Ferguson、 Tracy Letts、Jonah Hauer-King、撮影のBarry Ackroyd、音楽のVolker Bertelmannが並んだ。監督だけだと思っていたのに、Rebecca Fergusonさんまで見れてうれしい。

質問コーナーで印象に残ったのは、ゲティスバーグの戦いを祝うイベントとかリンカーンの像とかが映しだされる場面があって、その意味を問われて、まあ普通の答えだったのだが、Tracy Letts(”Lady Bird” (2017)のパパだった人だよ)が手をあげて、もうひとつある - ここで描かれているようなことが起こったらこんなレガシーなんてなんの意味もなくなる、ということだ。いまのアメリカを見ろ、って。(拍手)

Tracy Lettsさんは、彼の書いた舞台、”Mary Page Marlowe” – 主演Susan SarandonをOld Vicでやっているので見に行く。

あと、撮影のBarry Ackroydの、どこにカメラを置いているのかわからないくらい多くのカメラを置いて撮っていくやり方とか。Ken Loachに学んだそうな。

10.09.2025

[theatre] Titus Andronicus

9月29日、月曜日の晩、Hampstead Theatreで見ました。

もとはStratford-upon-Avonで演っていたRSCの舞台がLondonに来たもの。
原作はシェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス
』(1593-94)、演出はDavid Tennantの”Macbeth”を演出していたMax Webster。音楽はMatthew Herbert。

Titusを演じていたSimon Russell Bealeが健康上の理由で降板してJohn Hodgkinsonが演じることになった。 元のポスターにあった、血まみれになって叫んでいる丸っこい熊みたいなSimon Russell Bealeを見たかったのでちょっと残念。

なぜか舞台を囲む席のうち一番前のが取れてしまったのだが、席に着く前に、「あなたの席の下にはブランケットがあります。シーンによっては血しぶきが飛んでくることがあるので、それでガードしてください。飛んでくる可能性がある箇所は3つあるのですが、知りたいですか?」と聞かれて、(そんなの知ってたらおもしろくないじゃん)だいじょうぶ、と返した。のだが、横の人たちを見ると、みんな首までしっかり被っているのでちょっと不安になる。そうやって首まで巻いているとぽかぽかしてきて眠気が…

舞台はモダンでモノクロームで殺風景で、金属の格子があったり上から拷問器具の鎖がさがっていたり屠殺場のように冷え冷えしていて、床は大理石の薄白で、表面にうっすらと墓碑銘のような文字が掘ってあることがわかる。

黒のタイトな服を着たダンサーのような男性たちが数名出てきて、くねくねざわざわ、っていうかんじの不吉っぽい舞いをして、消える。以降、彼らは場面転換のたびに現れたり、死体を舞台(石盤)の下に埋葬(落と)したりする。

ゴート族との戦いに勝利し凱旋したローマ軍将軍Titus(John Hodgkinson)の運命を追う血みどろの史劇で、復讐と憎悪に燃える側とその炎に焼かれる側で、互いの家族の妻や娘や息子が強姦される舌を切られる両手を切られる、自分で腕を切る、人肉パイにされる、など残酷陰惨な場面が延々続いて大変で、これらがモダンでクリーンな空間でしらじらと(ライブで見るとどたばた音は恐いくらいやかましく)展開される。 だから戦いや復讐は虚しい、とか、だからやっぱり家族は大切、とかそういうところにも向かわず、こんな諍いなんて屠殺場のin-outとなにが違うのか、って。それだけで、Titus Andronicusの将軍としての威厳や悲愁もないことはないが、そんなことより、これは不可視なところでの拷問や虐殺が正当化されて、膨れあがる憎悪の裏側でぴかぴかの表面だけがもてはやされる現代の権力者たちのしょうもなさを指しているんだろうな、って。

血しぶきはずっと来なかったのだが、ちょっと油断した – Tamora (Wendy Kweh)が刺殺されるところ - でばしゃーって飛んできて顔にかかった(冷たい。絵具の匂い)。


Troilus and Cressida

9月30日、火曜日の晩、Shakespeare’s Globe Theatreで見ました。

二日間続けてShakespeareの史劇を見ようと思ったわけではなくて(Shakespeareはなにを見てもおもしろいことがわかってきたので、なんにしても可能な限り見る)、もう野外で見る劇は日が短いし、天気も安定してないし寒いしで、気候が崩れないところを狙ってて、たまたまこの日はよさそうだったので、昼間に空いているところを取った。休憩をいれて約3時間の野外劇は、夜になるとやっぱり冷えて寒くて、休憩時間に帰ってしまう人も結構いた。

原作はシェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』 (1602)、演出はOwen Horsley。

舞台の右手には半分壊れたでっかい張りぼての足が無造作に置かれて、金メッキが剥がれていて、その少し上には”TROY”っていう矢印の看板がやはり棄てられたようにかかっていて、いまは錆びれてしまったかつての繁華街の趣き。舞台の上の階にいるバンドもブラスと太鼓が中心の気の抜けたちんどん屋風情。

最初はトロイ側(8人)とギリシャ側(9人)のそれぞれの見得の張りあいで、トロイ側は金を塗ったむきむきの筋肉鎧をつけていて威勢も景気もよくて、でもそのギャップはあくまで冗談のように機能していて、最初に舞台の下から現れた道化のThersites (Lucy McCormick)がいろいろやさぐれで案内してくれる。もうひとつのテーマであるTroilus (Kasper Hilton-Hille)とCressida (Charlotte O’Leary)の恋も、大阪のおばちゃんみたいな(←すみません偏見です)Pandarus (Samantha Spiro) によってかき回されてばかりで落ち着かない。

Cressidaがギリシャ側に売られた後の顛末も、あまり悲劇的なトーンはなく、だからどうしろっていうのよ、みたいなふてくされと共に語られて、あまりにしょうもないので笑ったり歌ったり騒いだりするくらいしかないじゃん、になってしまって、とにかく神々も含めていろんな連中がわらわら出たり入ったりしつつコントやミュージカルみたいなのをやっていくので、飽きないことは確かで、よく言えば戦乱期の混沌と落ち着きのなさ、みたいのは表現できていると思ったが、そもそもこういう劇なのかしら?

最後は吉本小喜劇?(←すみません見たことないです)みたいにみんなで踊ってまわってええじゃないかー、みたいになるのだが、やはりどうしても、はて何を見たのか? にちょっとだけなったかも。

10.08.2025

[film] Arena Legacy

10月1日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

9月の特集だったTV局 - Associated-Rediffusionのシリーズとは別で、BBCのドキュメンタリーTVシリーズ - ”Arena”の放送開始(第一回放送が1975年10月1日)から50周年を記念して、アーカイブから2番組を上映して、シリーズ全体の制作責任者だったAnthony Wallから話を聞く、という企画。

アートや文化に関する人やトピックを取りあげて掘り下げていって、どんなエピソードが放映されたかはWikiにもあるし、BBCのサイトにもあって、(英国内なら)配信でほぼ見れるようになっている。Dylan ThomasとかHarold PinterとかJorge Luis BorgesとかJean GenetとかEvelyn WaughとかEdward Saidとか、作家についてのもの、Edward HopperやFrancis Baconといった画家についてのもの、史跡から建物まで、なんでもあって、とても見たいのだが、ロックダウンでも起こらない限り、いまあれこれ見ている時間はないや…

この日上映されたのは2プログラム。番組のオープニングは海を漂うボトルのなかにネオン文字の”Arena”が浮かびあがり、音楽はBrian Enoの"Another Green World”だったりする。

My Way (1979)  37min

誰もが知っているスタンダードの曲”My Way”について、Frank SinatraからElvis PresleyからSid Viciousまで、なんでこの曲がそんな世界のスタンダードになったのか、楽理とか歌詞とかいろんな角度から掘り下げたり、あなたにとっての”My Way”とは? をイギリスの保守系政治家に聞いてみたり、そのアプローチがおもしろい。

元はフランスの"Comme d'habitude"っていう曲で、それをPaul AnkaがSinatraが歌う用に英訳してリリースしたら爆発的にあたって、それ以前だとDavid Bowieがフランスのオリジナルに強引に英詞を被せるようなことをしていたり – これが後に”Life on Mars”になった、と。

みんながどんなにこの曲を愛しているか、というよりいかに誰もが自分の”My Way”を叫んだり歌ったり訴えたがっているのか、がよくわかる内容で、とてもおもしろい。ある人が”My Way”を歌って叫ぶことで犬の遠吠えみたいにわんわん広がっていくその効果のありようとか。応援歌というよりやはり遠吠えに近いものなのかしら。

ラストはSid Viciousの“My Way”で、真ん中で反転させるようにSinatraのを被せて、最後ふたたびSidのに戻って、それでも曲のぎらぎらしてて、実はクールに見えてしまったりのイメージは揺るがない、というのを示す。

こんなふうに、結構作りこんだところも含めて単なるドキュメンタリーに留まっていないような。
日本のスタンダード演歌とかでやってもおもしろくなるかも。


Chelsea Hotel (1981)  55min

NYのランドマーク建物 - 建物がすごいとかではなく、そこに引き寄せられた人々がすごかった - Chelsea Hotelについて、ホテル内に観光ツアーの一団がぞろぞろ入っていくのを横目に、当時の住人などにインタビューしたり、Stanley Kubrickの”The Shining” (1980)よろしく、三輪車に乗った子供がホテル内を走り抜け抜けていったりする。

そうやって子供が走っていった先 - Arthur C. Clarkeが”2001: A Space Odyssey” (1968)を書いた部屋で、ヘッドホンをしたAndy WarholとWilliam Burroughsが一緒にウサギを食べてて、BurroughsがWarholにサインして絵まで描いてあげた自著をプレゼントするとか。そういうのを筆頭に、大昔から文化人や(文化人=)変態が滞在したり居住していたりしたホテルの謎に迫る -

のはずだったと思うのだが、あんな人もいる、こんな人もいた、をやっているうちに住み心地とかインスピレーションの起源とか、そういう知りたい本題などから外れていってしまうのがおもしろい。作曲家のVirgil Thomsonが語るGertrude Steinとの思い出とか、Alice B. ToklasのCook Bookでアメリカ版の初版から削除されたレシピのこととか、幽霊みたいに歩いていくQuentin Crispとか、屋上の家(? あんなのあるの?)でピアノを弾くJobriathとか、”Chelsea Girls”を歌うNico(横でギターを弾いているのはだれ?)とか、ホテルを舞台にしたホラーよりもわけのわからない人々が幽霊のように現れては消えていく。

そしてこれが撮られたのが44年前であることを考えると、ここに写っている多くの人たちもみんなほぼ亡くなっていて、どっちみち幽霊屋敷、じゃないホテルなんだなー、って気づいて、マンハッタンのほぼ真ん中にこれだけいろんな化け物が跋扈する場所があったのか、と(まだあるけど)。

本当なら2時間くらいの内容になってもおかしくなかったし、してほしかった。

今回上映された2本の共通項、というとSid Viciousだと思うのだが、そこは意図したものだったのか? をちょっと聞きたかった。

数ヶ月前の特集でやっていた”Moviedrome”のシリーズにしても、こういうのがTVを点けたら流れてくる、っていうのが「文化」を作ったのだろうなー .. 今と昔ではTVの位置も文化も変わってしまっている、とは言えいいなー、しかなかった。

10.06.2025

[theatre] The Land of the Living

9月27日、土曜日のマチネをNational TheatreのDorfman Theatreで見ました。

原作はDavid Lanの新作戯曲、演出は(映画監督としても知られた)Stephen Daldry。

Dorfman TheatreはPitをいろいろ加工リフォームできるのだが、今回は舞台をランウェイのように縦に長くぶちぬいて、突き当りに重そうな扉と、本棚とピアノ。反対側には扉と簡素なキッチン、現在のRuthが座る揺り椅子。ステージの下、客見えるところにも書類棚が沢山並んでいる。舞台に本棚があって本が詰まっていたり書類が積んであったりすると(自分が)嬉しくなることに気づいた。客席のA列とB列の間も兵士たちが通り抜ける狭い道になっていたりする。

第二次大戦の頃、ナチスがスラブ系の子供たちを家族から引き離して誘拐し、遺伝的要件を満たしていればドイツ人家庭に入れてドイツ人として育てる、というLebensborn計画(の後始末)を巡るドラマ。連れ去られた子供の数は数十万人、ヨーロッパ全土で1100万人に及んだ避難民が収容されていたキャンプからRuthのいたUNRRA(the United Nations Relief and Rehabilitation Administration)は本国送還などを支援して軍と一緒に欧州各地を転々としていた。

1990年のロンドン、戦後から45年経って、Thomas (Tom Wlaschiha)がRuth (Juliet Stevenson)の家を訪ねてきて、ピアノを弾いたり、昔話をしていく中、幼い頃のThomas (Artie Wilkinson-Hunt)のこと、そして戦後処理をする国連のUNRRAとしてやってきて、引き取られた子供たちをドイツ人家庭から再び引きはがして故郷に返す活動をしていたあの頃のRuthと子供たちのことが蘇ってくる。Thomasにとってはあの時の自分に何が起こったのかを知ること、Ruthにとっては、あの時の自分に何ができなかったのかを掘りさげること – どちらにとっても楽しく懐かしい振りかえりの旅ではない。

現代のRuthの部屋と当時に繋がる長い廊下を行ったり来たりしながら、戦時下の銃声が鳴り響く中での混乱、母たちの声と嘆き、子供たちからすれば引き離される不安と恐怖のなかに置かれた孤独、どれだけ手を尽くしても終わりの見えないRuthたちの疲弊、これらが縦長の舞台を目一杯使って延々描かれていって、客席の背後の闇からはThomasだけではない多くの子供たちの声や気配がずっとしている。

これらは勿論、いまの移民、難民政策にも繋がる話で、”The Land of the Living”とは何なのか、国境の右左だけでなく、家族が一緒に安心していられる・暮らせる場所ではないのか、ということを改めて。いまの時代であれば尚更に。

劇としてはメッセージも含めてものすごくいろんなことを詰め込み過ぎの印象があって、戦中と戦後を繋いで次から次へといろんなことが起こって、俳優陣もいくつかの役をかけ持ちしつつ舞台を代わる代わる駆け回って大変そうだったが、見ている方も咀嚼している暇がなくてちょっとしんどかったかも。これなら映画にした方が... とか。


Creditors

9月25日、木曜日の晩、Orange Tree Theatreで見ました。

原作はスウェーデンのAugust Strindberg(画家でもある)による同名戯曲 “Fordringsägare” - (1889) - 邦題だと『債権者』。英訳はHoward Brenton、演出はTom Littler。 休憩なしの約90分。

ホテルの一室に画家のAdolf (Nicholas Farrell)が療養のため長期滞在していて、そこに滞在している友人のGustav (Charles Dance)が訪ねてきて、Gustavに勧められてAdolfは粘土彫刻をやってみたが女性像はあまりうまくいかなかったり、ふたりでAdolfの妻で小説家のTekla (Geraldine James) – Gustavの元妻でもある – を待って彼女のことを話題にしながら、Teklaをどうしてやろうか – のようなことをそれぞれが考えているよう。やがてTeklaがやってきて、

“Creditors”は3人が互いのことを言う際に使ったりする言葉で、過去の関係においてそれぞれが何らかの負債のようなものを負ったり負われたりしつつ、自分が相手のことをそれぞれのやり方で上に立ってやりこめたりどうにかできるのではないかと踏んでいる、そんな三つ巴のやり取りが続いて最後には..

内に何かを秘めて煮込んだ一筋縄ではいかない初老の男女たちのドラマで、全員めちゃくちゃ自然のようで、でも裏があって怪しくてうまいのだが、やはりCharles Danceの老いた蛇のような佇まいがものすごい。実生活で絡まれたりしたら絶対にいやだと思うが、目の前3メートルくらいのところにいる彼の存在感は痺れるような強さがあったの。

[music] Edwyn Collins

10月4日、土曜日の晩、Royal Festival Hallで見ました。

“The Testimonial Tour”と題されたEdwyn Collinsお別れのライブ。2005年に梗塞で体の自由を失ってからもライブは続けていたがもう.. ということなのだろう。本当にありがとう、おつかれさまでした、しかない。

これの前日はRefusedの解散ツアーのライブだったし、いろいろ終わりの季節の予感。

チケットは5月か6月に発売になって、でも発売日にミスしたら前方は簡単に埋まってしまい、それから数ヶ月間、辛抱強く毎日チェックしていたら前から2列目が釣れた。こういうこともある。

さて、Orange Juiceとの出会いというと亡くなられた渋谷陽一氏のサウンドストリートで”Simply Thrilled Honey”が流れたのが最初だった記憶がある(いや、その前に買って聴いていたか?)。徳間からでたRough Tradeのコンピレーション盤”Clear Cut”の紹介で、他にはThe Fall、The Raincoats, Delta 5なども流れた(NHK FMで)。しばらくして輸入盤の7inchを買って、イルカが飛んでいる1st “You Can't Hide Your Love Forever” (1982)も買って、これは同じプロデューサーAdam KidronによるScritti Polittiの1stと並んで、自分の恋愛に対する基本の態勢を決定づける1枚となる - よくもわるくも、たぶん相当だいぶわるい方に。あと更にはスタックス・ソウルへのゲートウェイにもなったのよ。

そんなふうに聴きこんでいながら、彼の初来日のクラブチッタは用事があって行けず、ようやく見ることができたのは2010年頃の100 clubで、今回が2回目で最後のライブとなる。

物販にはPostcard Recordsのシンボル猫のTシャツ、トート、プリント、コップなどが並んでいて、珍しくバカ買いしてしまった。2018年にエジンバラで”Rip It Up: The Story of Scottish Pop” っていう企画展示があった時に行って買っただろ(と、今になって思いだす)。

バンドはG2, B, D, Key (+Sax)の5人、知っている人がいない若い編成だったがギターの刻みと弾みが気持ちよかったので十分。Edwynは杖でマイクスタンドまで歩いていって座って歌うのだが、まったく問題なく、本人もだいじょうぶだろ?って何度も客席に確認していたが、よい声が出ていた。

1曲目で”Falling and Laughing”〜”Dying Day”をやる。「1980年の、ちょっとインディーぼいやつね」だって。”The Wheels of Love”ではDennis Bovellとデュエットして、本編ラストの”A Girl Like You”ではPaul Cook御大がドラムスで入り、コーラスにはなんとVic Goddard - もうほんとおじいさんだねえ - が入る。

いちばんよかったのは”Intuition Told Me (Part 1)” 〜 “Simply Thrilled Honey” 〜 “Consolation Prize”の流れだろうか。ぜんぶばりばりに歌えていろいろ蘇って涙ぐんでしまえる曲たち。これに続いた2ndからの”I Can’t Help Myself” 〜 “Rip It Up”も悪くはないのだが、いつもあのバカにしたような邦題がチラついて今だに腹立たしさが。

アンコール、ソロから2曲やった後、バンドメンバー紹介をして、ここで再びゲストがはいる。なんとOrange JuiceのオリジナルメンバーのJames Kirkがギターに、Steven Dalyがドラムスに。まったく予想もしていなかったのであわあわする。フリッパーズギターの2人が突然同じステージに立つようなもん、と言ったら通じるだろうか。彼らが入って”Felicity” - Jamesの曲と、”Blue Boy”を。”Blue Boy”のミドルで炸裂するギターをJamesが思いっきりためてがしゃーんてやっているのをみてじーんとした。

人が亡くなるのと同じく、自分が大好きだったバンドもいつかは活動を停止したり解散したり消滅したりって、まあ当たり前のことではあるのだが、こういう形で終わりを見ることができてネコ土産も買って帰れて、って40年前の自分には想像できることではなかったねえ。 それがどうした? だけど。

[film] Happyend (2024)

9月28日、日曜日の昼、Curzon Bloomsburyで見ました。

いくつかのシアターで『何かが大きく変わる予感がする』 - “Something big is about to change”というコピーのついた自動車のひっくり返った看板(ポスターではなく立体の)が置いてある。

監督は”Ryuichi Sakamoto | Opus” (2023)を撮った空音央。邦題も『HAPPYEND』。

幼馴染でずっと親友できたユウタ(栗原颯人)とコウ(日高由起刀)は高校でもつるんで18禁のクラブイベントに行ったりEDMやったり仲間と楽しく過ごしていたのだが偉いんだぞって顔して頭の悪そうな校長(佐野史郎)とか学校にはうんざりしていて、ある晩、校長が自慢している(それしか自慢できるものがなさそうな)車にいたずらしたら激昂して全校にバカみたいな名前(パノプティコンから)の監視システムを敷いてますますやってらんねー、になっていく、そうやって消耗させて支配しようとする大人たちとの終わらない戦いの日々。

学校の外では頻繁に繰り出されるフェイクの地震アラートとそいつをネタに緊急事態条項を成立させようとするやらしい政府(また復活しちゃうね)やそれを下支えする外国人排斥の空気とか、どこかで見た(まだ消えてない)おなじみのうんざりがぷんぷんで、ユウタとコウの周囲にもそれらに同調する連中、反対する連中それぞれがいて、でも目の前の校長のアレだけはカタをつけないといけなくて。

彼らがハッピーエンドになろうがどん底に落ちようがそんなことは割とどうでもよくて、いまの空気や問題の並べかた、それらがどんなふうに日々べったり張りついてきて気持ち悪いものなのか、はよく描けているように思った。けど、他方で、彼らの青春のお話だからしょうがないのかもしれないが、これを彼らの世代の、仲間や友達がいる前提で成り立つようなお話にしてしまってはいけないのではないか。「彼らの物語」にした途端にそれは、というかそれこそが連中の思う壺なんだってば。

思い出したのは、ここから20年ほど遡る『アカルイミライ』 (2003)で、あれも同じように若者たちのどん詰まりを描きつつも、それでも周辺の大人たちも巻きこむ世の中の不穏さ、気持ち悪さに溢れてはいなかっただろうか。あの頃ぜんぜんアカルく見えなかったミライが、あれから20年経ってどうなった?( ⤵︎ )


Breakfast Club (1985)

9月20日、土曜日の晩、Stratford-upon-Avonから戻ってきて、BFI Southbankで見ました。

シアターに入るとSimple Mindsの”Life in a Day” (1979)が流れていてちょっと動揺して倒れそうになる。 高校に通う時いつも聴いていた曲、40数年ぶりに聞いたかも。映画の主題歌の”Don't You (Forget About Me)”と同じバンドのだから、くらいで流していたのだろうが、Simple Mindsの初期はほんとによい曲だらけなんだから。

たぶん見るのは公開当時と、00年代のNYと、今回のが3回目くらいで、今回が一番しみたかも。

折角の土曜日に学校から呼び出しをくらい、親に連れられて学校にきて、"who you think you are"というテーマでエッセイを書くことになった互いをよく知らない 5人の一日を描く。

境遇もばらばら、共通の話題もそんなになく、一致しているのはそんなことをした教師への恨みと学校への嫌悪だけ。 やけくそになっていろいろ吐き出したりぶちまけたり、彼らみんな誰もが自分を理解してくれるとも、理解してほしいとも思っていない。そこから何が起こりうるというのか。最初に見た当時は、なんてスイートな結末、だったが、今見ると彼らがああなっていく過程の不思議なリアルさと、それを実現してしまった脚本、若者たちの演技の見事さに打たれる。

そして、"who you think you are"を改めていまの自分に。

10.04.2025

[theatre] Invasive Species

9月21日、日曜日の晩、King's Head Theatreで見ました。

原作は主演もしているMaia Novi、演出はMichael Breslin。NYのOff-Broadwayで上演されて評判になっていた舞台を持ってきたもの。スクリプトには”A True Story”とある。 休憩なしの約75分。

アルゼンチンからNYの演劇学校にやってきて女優を目指しているMaia (Maia Novi)がいて、パラマウント映画のオープニングのあの音楽を全身に浴びて、わたしはやれる!絶対にスターになる!って意気揚々で張りきっているのだが、気が付いたら病院のベッドに寝かされてて、ここはどこ? わたしは? になっている。

そんな彼女の周りにいろんな怪物とか変な人などが次々に現れて彼女を上げたり下げたり一緒にダンスしたり、全体としてはなにがなんでも有名になるんだ妄想に憑りつかれてしまった彼女に襲いかかる終わりのない悪夢を4人のパフォーマーがいろんな役 - 医師、病院の他の収容者、演劇学校の仲間、マイアミにいる母 - 等を代わる代わる演じたりして、そのうちのひとつがポスターになっているいろんなチューブを纏ったみど蚊みたいな虫だったり。

彼女はこんなInvasive Species(外来種)が媒介するなにかにやられてしまったのか、ひょっとして彼女自身が外来種だったりするのか、そもそもこれって病気とか害悪だったりするのか、でも今ってこんな人ふつうにいるじゃん? とか。

舞台はめまぐるしく、強いテンションで照明や音楽を変えながらMaiaが辿っていくジェットコースターのぐるぐる旅と敵のようにやってくる困難をノンストップで見せて – でも舞台は小さいただのフロアなので転換は工夫していて飽きることはない。 のだが、後半に向かうにつれて見る方も演じる方もちょっと疲れて内省的になってくるような – それはそれであって当然のことだとしても。

なのでそれらが飽和した状態でのあのラストはとてもよくわかるかんじだった。ちょっと凡庸かも、とは思ったが。


Cow | Deer

9月22日、月曜日の晩、Royal Court Theatre(の上のシアター)で見ました。

演劇というよりは音の実験パフォーマンスのような。ポスターは牛の顔左半分、鹿の顔右半分の合成写真で、動物好きなので見る。生きた彼らは出てこなかった。

演出Katie Mitchell, 台本Nina Segal, サウンドアーティストのMelanie Wilsonの3名 +National Theatre of Greeceの共同制作。休憩なしの約60分。

会場は暗くて、舞台のところは大きな作業机が3つ並んでいて、そこに草の俵のようなものとか土が積まれて盛られて、水槽もあって、奥にはブースもあって、鳥の声や水の音がしていて、机の前にはマイクロフォンが9本、刺さるように立っている。(撮影厳禁)

そこに黒い服を来た4人の奏者というべきなのかパフォーマーが現れて、牛と鹿のそれぞれの一日を音で描いていく。バックグラウンドで流れるField recordingで録った音の様子から、これは牛のそれ、これは鹿のあれ、はなんとなくわかる – それだけでもすごいが、スクリプトを読むと、結構細かく牛と鹿のそれぞれの動きが書かれていて、パフォーマーたちは、いろんな道具(濡れた布、布袋、石、木の枝、いろんな葉っぱ、じょうろ、スイカとか果物、砂とか砂利とか)を机の上の塊りの上で叩いたり鳴らしたり潰したり散らしたり指でくりぬいたりして音を出して、場面によってはそれらをミックスさせながら音のランドスケープとしか言いようのないものを見せてくれて、牛と鹿が最後にどうなってしまうのかもはっきりわかるし、とにかくこれらの音を通して牛の、鹿の一日 and/or 一生を。

あらかじめ録ってある音とライブで出す音の境界(の決め)ってなんなのだろう、とか、エレクトロニクス系のライブで机の上に箪笥シンセとか機材が積んであって演奏するのと違いがあるとしたら、とか。

日本には江戸家猫八っていうのがいて(自分がよく知るのは三代目だった)、彼がひとりいたらこれらの音はだいたい賄えてしまうのだけど、って少し思った(ちがうだろ)。

10.03.2025

[music] The Life and Songs of Martin Carthy

9月27日、土曜日の晩、HackneyのEartH Theatreで見ました。

ブリティッシュ・フォーク界のもはや人間国宝といってよいMartin Carthyは84歳で、こないだの5月に新譜を出したりしているすごい人で、そんな彼へのトリビュートライブで、ものすごい人数が出演して演奏するのだが、ロックの世界からはBilly BraggとかGraham Coxonくらい。彼のライブは2017年にCafé OTOでも見ているのだが、本当に不思議な歌を歌うすてきなおじいさんなんだよ。

会場オープンが17:00でライブは18:00から、というのを知ったのがBFIで映画を見終わった17:30くらいで、まあ最初の方は見逃してもいいか、と思って軽くご飯などを食べて会場に19時過ぎに着いたらずっと前からSold outしていた会場はとうにぱんぱんで、オープニングのJoe Boydのスピーチも、続くBilly BraggもMartin CarthyもGraham Coxonも - それぞれ弾き語りだと思うが - 既に終わっていた(ことを後で知る。底なしのおおバカ)。

全体は3部構成で、ACT1がFolk Troubador、ACT2がInnovator & Collaborator、ACT3がJust Don’t Call Him a Legend、終演は23:00、と。席は指定ではなくて、入った時には上までびっちり埋まってて、立ってるひとも大勢いて、3時間以上そうしているのはしんどいので下におりて階段通路に座る。

ステージ上にはパブ”North Country Maid”(彼の曲名でもある)ができていて、どういうことかというと、出演者はほぼ全員そこの椅子に座ってパブのカウンターで頼んだのを呑んだりくつろいだりしてて、自分の出番がくるとあいよ、ってかんじで真ん中に出て行って演奏するの。壁っぽい衝立にはポスターやチラシが貼ってあって、レコードも貼ってあって、主賓のMartinは前方にちょこんと座らされて、演者と会話したり、曲によっては(ほぼぜんぶ彼の曲だから)強引に歌わされたりギターを弾いたり一緒に口ずさんだりしている。 ぼろいパブの隅によくいそう、ずっと鎮座している神様的な存在というか。

演奏はギターを抱えた弾き語りだけでなく、ハルモニアとかアコーディオンとかダルシマーとか、アカペラだけとか、鈴がついた服とドタ靴でダンスをする男集団とか、バンドもあったし、人によって曲によって無限にありそう。

第一部の休憩後、第二部に入る前に各界からのお祝いのメッセージビデオが流れて、これがまた冗談みたいな。

KT Tunstall → Paul Brady → Jools Holland → Van Dyke Parks → Paul Weller → Robert Plant → Bob Dylan、だよ。 これだけの広がりのおおもとにこの小さなおじいさんがちょこん、て座ってて、みんなが行けなくてごめん、って言うの。

個人的にはMaddy Priorを見て聴けたのがよかった。Graham Coxonはずっとステージ上で寛いでいて、歌をうたう女性にGの音だしてくれる? ってこき使われていたりした。

酔っ払いのお話しが長くなっていくのと同じように、どの曲もお話しを語り聞かせる調子なので一曲がかなり長めで、でもどれも気持ちよく入ってくる。誰の話だったか忘れてしまったが子供の頃にギターを練習していて、ギターのコードってメジャーかマイナーか、くらいだったところに、Martinの曲からそれだけじゃない、こんな(実際にいくつか弾く)のがあるんだって知って、そこから深みにはまった、みたいな話がおもしろかった。 音楽史的にはVilla-LobosとかJoão Gilbertoのようなところに位置付けられるのかしら。

最後は出演者全員の合唱で何曲かやって、”Hard Times of Old England”から”England Half English”に繋いだBilly Braggは(やっぱり)力強く”Free Palestine!” を叫んでくれた。


Gina Birch & The Unreasonables  

9月24日、水曜日の晩、100 Clubで見ました。
この日はお芝居を見に行く予定だったのだが、彼女のライブの予告が来たので演劇はキャンセルしてこっちにする。

こないだ出たAudrey GoldenによるThe Raincoatsの評伝本”Shouting Out Loud: Lives of the Raincoats”は当然全員のサイン入り、トートバッグとバッジがついた特装版を予約して手に入れた。見たことのない写真とか関係者証言が山盛りで、いつでもどこからでも読める。カートが亡くなった晩のNY Academyでのライブ(Liz Phairの前座、自分がRaincoatsのライブを最初に見たとき)のバックステージがどんなだったかが綴られていたり、興味深い。

昨年のTate Britainの企画展示”Women in Revolt ! Art and Activism in the UK 1970-1990”の会場でもちょこちょこライブをしていたらしい彼女が、バンドでライブをやるって。それにしてもすばらしいバンド名よね – “The Unreasonables” - 理不尽やろうども。

会場はもちろん埋まっているわけなくて、入ると物販のところにもう彼女が立っていて、なんでもサインするよー、って。客層は老人ばかりでみんな椅子を求めてフロアを彷徨っている。

前座はTaliableっていうDJつきの、白覆面をした女性ラッパーで、元気があってよかった。

Gina Birch & The UnreasonablesはGinaを入れた3人組で、彼女以外の二人はギターだったりベースだったり、場合によってはキーボードと太鼓だったり。Ginaもベースだったりギターだったりで、曲によって細かく持ち替えたりしていたので、もう纏めてなにかをリリースできるところまで来ているのかもしれない。曲のかんじは後期Raincoatsにも通じる風通しのよいがしゃがしゃで、背後のプロジェクターからはTateの展示でもリピートされていた70~80年代の彼女の映像が流れていく。

ラストはもちろん”Lola”で、みんなでぴょんぴょん合唱して終わって、またねー ってかんじで別れる。

10.01.2025

[film] One Battle After Another (2025)

9月26日、金曜日(公開初日)の晩、BFI IMAXで見ました。
 
IMAX 70mmのフィルム上映で、北米以外でこのプリントを見れるのはここだけだそうで、後半の車の追っかけっこのところとかめちゃくちゃすごいよ。IMAX 70mmの映像がもたらす驚異、を初めてちゃんと思い知ったかも。
 
Paul Thomas Anderson (PTA)の新作で、あんまりかっこよいとは思えないLeonardo DiCaprioがおろおろしまくるだけの予告ががんがんかかりまくり、公開週末の全米興行収入では一位になってしまったという…
 
原作はThomas Pynchonの” Vineland” (1990)(を緩く)、音楽はJonny Greenwood、撮影はMichael Bauman。
 
Wes Andersonの世界に出てくる変人たちよりはもう少しリアルっぽい変人たち – 特に男はいっつもぜったい変態 - が、2009年から現在までの、16年に渡るアメリカ合衆国と思われる国で機関銃を撃ちまくったりの「バトル」を繰りひろげていくのだが、架空の組織や体制を扱いながらも、その崩れっぷりも含めてとてもPTAぽい。DiCaprioばかりがクローズアップされがちだが、彼はひたすら逃げまくっているだけ、Robert Altman的にぶっこわれた(ていく)集団活劇、として見たほうがよいのかも。 162分、あっという間。
 
カリフォルニアの移民収容施設に、Perfidia Beverly Hills (Teyana Taylor)とGhetto (Leonardo DiCaprio)のいる極左組織 – French75が乗りこんで拘留されていた移民たちを解放する。その際にPerfidiaは軍のLockjaw (Sean Penn)を縛りあげて辱めて、Lockjawはその快楽にやられてPerfidiaに粘着して彼女に会うようになり、French75周辺の情報を聞きだしてそれを元に組織を壊滅状態に追いこんで、その間にPerfidiaは女の子を出産するが、彼女はその子をずっと恋人だったGhettoに託して消えてしまう。
 
そこから16年経って、Ghettoは名前をBobに変えて、娘のWilla (Chase Infiniti)と身を潜めて小さな町に暮らしているのだが、白人至上主義の極右秘密結社に勧誘されたLockjawが過去のPerfidiaとの関わりを消すべく(純血主義だから)Willaを捕らえて、French75の壊滅に動きだして(ここに先住民の殺し屋が挟まるとかめちゃくちゃ)。
 
学校のダンスパーティに向かう寸前にFrench75のDeandra(Regina Hall)に救われたWillaは修道院に匿われて、Bobのところにも追っ手が迫って、空手のSenseiのSergio (Benicio del Toro)に助けられながら一緒に逃げるのだが。
 
後半は半分らりらりで組織の合言葉も思いだせず、ひとり勝手に錯乱して大騒ぎなのに「トム・クルーズでいけ!」ってSergioに車から放り出されてしまうBobと、修道院にやってきたLockjawとのやり取りのあとに殺し屋に引き渡されたWillaの戦いと、そしてLockjawにも刺客が…
 
極右に極左、移民コミュニティに修道院に軍に警察、これらがぐちゃぐちゃに入り乱れるOne After Anotherの殺し合いに潰し合いの顛末について70年代を舞台にCoppolaやScorseseが描いてきたギャング映画とも、復讐ファーストのTarantinoのそれともまったく異なる色調とアスペクト比で広げてみせて、それはいまのランドスケープに見事に繋がってしまう。 みんなそれぞれに高慢と偏見と陰謀論で人々をより分けたり分断したりしつつ、誰もが自分はトム・クルーズなんだと思っていて、知らないところで誰かが誰かに簡単に殺されていく – と、そこまで悲惨なトーンではないのだが、そういう腐れて錯綜した(特に白人男たちの)気持ち悪さ、に溢れている。
 
PTAはこんなふうに何かに憑りつかれて捩れておかしくなってしまった男たちをずっと描いてきたので、これもそのバージョンなのかもしれないし偶然なのかもしれないけど、あまりに今のあれが支配する世界に近いところに来てしまっていて、結果として笑えたかも知れないところで笑えない。それでよいのかも、だけど。 あの極右の白い男たちのつるっとしたゴムの顔の光沢とか、ああいうのってほんとうにいるんだよ。
 
音楽はピアノがぽんぽんずっと鳴っているかんじなのだが、ところどころの腑抜けモーメントで、あ、Jon Brion?って聞こえるところがあって、後で確かめたらやはりそうだった。変態の世界を優しく覆ってくれるJon Brionの音の毛布。 最後に来るのはTom Petty & The Heartbreakersの”American Girl” 〜 Gil Scott-Heronの”The Revolution Will Not Be Televised”だよ(どちらもこのドラマが動いていた時代に亡くなった闘士である)。こんなの嫌いになれるわけがない。
 
それにしても、90年代にLeonardo DiCaprioとSean Pennがこんな映画でこんな形でやりあうことになるなんて、誰が想像したであろうか。
 
そして、男優たちの反対側にいる女優陣は全員がすばらしいったらない。尼さんたちの銃撃戦を見れたらもっとよかったのにな。(そしてPaddingtonはこっちに来るべきだった)
 
プロモーションのひどさとか上映館数の少なさとか、左翼アレルギーも含めた日本の映画配給のしょうもない幼稚さ、これもまたOne After Anotherの戦いということで。(他人事)

[theatre] Measure for Measure

9月20日、土曜日昼のマチネを、Stratford-upon-AvonのRoyal Shakespeare Theatreで見ました。

ロンドンからStratford-upon-Avonは電車で2時間以上かかるのでお芝居に行って戻ってくると一日潰れてしまうのだが、これは予告見てすぐ見たい!と思ってチケット取って、行きの電車が途中で止まって乗り継ぎに失敗して(次の電車は1時間後..)、現地で遊ぶ余裕もぜんぜんなくなってしまったのだったが、それでも見てよかった。

原作はシェイクスピアの『尺には尺を』 (1603-04)。 演出はEmily Burns。

舞台はクローム、メタル、ガラスでモダンに仕切られた現代のオフィスのような空間 - 牢獄はガラスで覆われたケースが下りてくる仕掛けだったり。 前回ここで見た”Hamlet Hail to The Thief”もモダンな舞台だったので、このシアターで見るシェイクスピアは自分にとってすっかり現代劇になっている。

冒頭、舞台奥のでっかい三面プロジェクターにMonica Lewinsky/ClintonのスキャンダルからTrump、Harvey Weinstein, Jeffrey Epstein, Prince Andrewまで、現代の権力者による性加害の映像がずらっと並べられて壮観(吐気)。

ぱりっとした背広を着た公爵Vicentio(Adam James)がしばらく身を隠すから宜しく、と周囲に告げて後任にAngelo (Tom Mothersdale)を指名して自分は僧院の修道士に姿を変える。

恋人のJuliet (Miya James)を結婚前に妊娠させた罪で拘留されているClaudio (Oli Higginson)にAngeloは絞首刑のオーダーを出して、その官僚的な身振りと手つきに揺るぎはなくて、Claudioの妹Isabella (Isis Hainsworth)は絶望しつつ減刑を求めて彼のところに通って、を続けていると、ひと晩付き合ってくれたら考えよう、というところまで来て、でもそんなの絶対嫌だしおかしいし、なのでClaudioの友人のLucio (Douggie McMeekin)に相談したりしつつ泣いていたら公爵がAngeloに婚約を破棄されたMariana (Emily Benjamin)の件を持ちだして罠を仕掛けたらどうか、と。

こうしてAngeloのところに怯えながらやってきたIsabella、それとは逆に闇の向こうから救世主として堂々と現れるMariana、欲望と体裁の間でどきどきしつつ目隠しをされて縛られてされるがままのAngeloの前で「すり替え」が行われる「現場」の生々しい臨場感 - 流れている曲はElvis Presleyの”Can’t Help Falling in Love”。

当然このトリックは事後にばれて、だまされて意固地になったAngeloはClaudioの刑を取り下げようとしない(レコーディングして脅迫しちゃえばよかったのに)。 最後の裁きのシーンでは、リアルタイムのカメラが登場人物たちの表情と挙動をプロジェクターにでかでかと映しだし(Ivo van Hove風)、誰もどこにも逃げられない緊迫の様がドキュメントされるのだが、ドラマの構造としては遠山の金さんなので、やや陳腐(おもしろいけど)。それでも女性たちの証言が重ねられて皮が剥がれていくところは力強くスリリングな現代の法廷劇になっていて、冒頭の腐った権力者たちの像ともここで連なってくるのか、と思った。

婚姻制度のもつ奇妙な(まるで罰と表裏一体の)力と、それに多かれ少なかれ起因したスキャンダルのありようは現代のそれとしか言いようがないのだが、” Measure for Measure” - 『尺には尺を』の、ここでの尺と尺って互いが見合ったものになっていないような。でも、最後に一緒になろうと公爵から言われたIsabellaの少しの困惑からの最後の行動はすばらしくて(という言い方でよいのかな)、まだ目に焼き付いている。公爵からあんなこと言われて、この上なき幸せ、だと思われた(少なくとも公爵はそう思った – 救いあげてやっただろ、とか)のに、彼女にしてみれば、なんだこの地獄は、でしかなかった、という…(尺には尺って、ひょっとしてこっち?)

雨音のようにずっと鳴っているAsaf Zoharの音楽もすごくよかった。

このあと、ロンドンに戻ってBFI SouthbankでRe-releaseされた”Breakfast Club” (1995)を見ました。

9.29.2025

[film] Der Anschlag (1984)

9月19日、金曜日の晩、ICAで見ました。
ドイツの女性映画監督、Pia Frankenbergの特集で3日間で5本の上映がある、と。

彼女のことは殆ど知らなくて、Ulrike Ottingerの” Freak Orlando” (1981)にScript Supervisorとして参加していたり、写真家のElliott Erwittと結婚していたり、いろいろあるようなのだが、本人も来てトークをするようだし、見てみようかな、くらいで。

Der Anschlag (1984)

彼女の2番目の短編で、英語題は”The Assault”。 8分くらいのモノクロで、Pia Frankenberg自身も登場する。今回は35mmプリントでの上映。歩いている男性が、そこにいた女性を突然ビンタしてそのまますーっと立ち去って、女性はなんてこと? ってやり返せないまま絶句してしまうのだが、しばらくすると、彼女がそこらにいた人をビンタしていて、気がつくとその振る舞いが街中に伝播して、みんなでわーわー大変なことになってしまう。というのを遠くからとらえている。

これ、後のトークでも言われていたが、いまのSNSの状況がまさにこれなんだよね。物理的な痛みがこないだけで、ぜんぜん知らない通りすがりの人に文句言ったり傷つけたりを平気でする/やり返すようになってしまって、みんながそれに熱中して、そんなのが常態化してしまっている。

まだ映画を撮り始める前、ヴェネツィアの映画祭に行って、あまりに退屈でつまんないので友人とうだうだしている時に思いついた話だそう。

Nicht nichts ohne Dich (1985)

長編デビュー作で、英語題は”Ain’t Nothin’ Without You”、ヴェネツィアでプレミアされてMax Ophüls Prize for the best German-languageを受賞している。モノクロのThomas Mauchによる撮影が素敵。

映画監督のMartha (Pia Frankenberg)と建築を学んでいるAlfred (Klaus Bueb) - 天辺はげでメガネで無精ひげ - がいて、割と裕福なMarthaと貧乏なAlfredのそれぞれのいろんな人たち – ポルトガル移民とか - との出会いやいざこざと、他人はよいとして自分の明日はどっちだ、の政治やフェミニズムを巡る葛藤と彷徨いの日々を寒くてしんどそうなドイツの風景のなかに描いて、とてもおもしろかった。 80年代の最初の方、何をやっているのかよくわかんない人たちの、なんかできる、やれそう、っていうだけで転がっていって、気がつけばどこかに散ってしまってあれってなんだったのか... こんな話って、割とそこら中にあったような。

Sehnsucht nach dem ganz Anderen (1981)

19日の上映がおもしろかったので、23日の晩の上映にも行ってみた。
英語題は”Longing for Something Completely Different” – これが彼女の監督短編デビュー作。14分で、会話とかはなしで背後をジャズが流れていく。

ドイツのどこかの駅で、夜の列車に乗りこもうとしている若い女性がいて、掲示板を見たりしつつ、どれに乗ろうか決めかねているようで、でも決めて乗りこんで、何をするかと思ったら、寝込んでいる乗客の横に座って、そうっと荷物を開けて中にあるものを取り出して、を始める。盗んだり壊したり持ち主に何かしたりするわけではなく、単にかばんとかお弁当箱とか、なにが入っているのかを確かめて、その周りにブツを広げていくの。やがて、それを遠くから見ていた謎の女性(監督本人)が横に来て…  

上の“Der Anschlag”もそうだったが、実際にあまり起こるとは思えないような出来事を描いて、でもそれが起こったとしたらどんなふうに見えるのか、どうなってしまうのかを想像力でもって捉えようとする、アート、パフォーマンス系の作家のアプローチなのだが、へんな臭みがなく、全体を俯瞰して斜め上から眺めているようなクールネスがある。 いまの作家だとMiranda Julyだろうか(なんとなく雰囲気も似ている)。

Nie wieder schlafen (1992)

これが現時点で彼女の最後の映画作品となっている(いまは執筆活動が主だそう)。英語題は”Never Sleep Again”。

Rita (Lisa Kreuzer – ヴェンダース映画の常連), Roberta (Gabi Herz), Lilian (Christiane Carstens)の3人の女性がベルリンに車で着いて、誰かの結婚式に参列して船の上のパーティのあたりからつまんなくなって、そこを抜けて、ベルリンの壁(崩壊)の痕がまだ残っている街を彷徨ったり語ったり呑んだりいろんな人と出会ったりしていくさま – だるいけど、いつまでも起きてこんなふうに喋ったりうろついたりしていたいんだ – の終わらない日を描いていて、とてもよかった。 このモードがNYに行くと例えば”Sex and the City”になっていったりしたのかも。

都市があって、あまり明確な目的はなさそうだけど、じたばた生きている人たちがいて、それぞれのこんがらがった像や事情をこんがらがったままに置いておもしろく見せるのって、結構むずかしい気がするのだが、彼女の90数分間はそれがうまく示せている気がした。


今回、特集の2日目に上映されて見れなかった”Brennende Betten” (1988)は、撮影がRaoul Coutardで、Piaの相手役としてIan Duryが登場するスクリューボール・コメディだと… 見たかったよう。

9.26.2025

[film] Anna May Wong: The Art of Reinvention

BFI Southbankの9月の(正確にはLFFが始まる10月頭までの)特集で、”Anna May Wong: The Art of Reinvention”をやっている。

1905年にアメリカ西海岸で中国系移民3世として生まれ、サイレントの頃からヨーロッパ、ハリウッドで活躍した彼女のことは何本かの映画で見てきたものの、彼女はいつも脇役だったり、時として悪役だったり、あまりセンターに置かれて朗らかで幸せな役を演じることはなくて、それらを通して見えてくるのは、当時の観客がどんなふうにアジアの若い移民の女性を見ていたのか、ストーリーにおける彼女の表情、振る舞いや役柄に何を求めていたのか、などで、それを見て感じるなにかは同じアジア人として心地よいものばかりではないのだが、でも彼女はそれらを自身の身体で演じることを通して、はっきりと何かと戦っていたのだ、ということが見えてくるのだし、これらを作ったりこれらに触れたりしてきた欧米人の感覚が当時からものすごく変わったようにも見えないので、彼女の戦いは今を生きる我々のそれにも通じてくるに違いない、と。

この特集で彼女の映画が上映されるホールの前にはだいたい”Content warning: Contains sexist and racist attitudes, language and images”という注意書きが貼ってある。

あと、今回の特集のすごいのは、最近リストアされたもの以外を除いて、ほぼBFIのアーカイブにある35mmフィルムで上映されて、サイレントの場合はライブのピアノ演奏が付くこと。

The Toll of the Sea (1922)

9月1日、月曜日の晩に見ました。サイレントで、テクニカラーのフィルム。テクニカラーの最初期の1本で、当時技術的に可能だった赤と緑の色素だけで作られたカラーなのだそう。よくわかんないけど。
Anna May Wongが17歳だった頃、最初期の主演作。監督はChester M. Franklin。

「マダム・バタフライ」の舞台を日本から中国に替えただけの、溺れていた白人を助けて恋仲になって結婚の約束までしたのに彼は帰国して、戻ってきた時には結婚していて、彼女は.. っていうありがちな悲恋もの。

Großstadtschmetterling: Ballade einer Liebe (1929)

9月6日、土曜日の昼に見ました。
ドイツで撮られた彼女の最後のサイレントフィルムで、監督はRichard Eichberg。英語題は”Pavement Buttefly”。これは前に見たことがあるやつだった。

見世物小屋のダンサーだった彼女がそこを抜けだして若い画家と出会って恋に落ちるのだが、彼は画商の娘と出会ったらそちらに行っちゃって、見世物小屋から粘着してくる奴もいて、以降は転落してぼろぼろになっていって、かわいそうったらないの。

パーティのシーンで日本の提灯がかかっていたりする。

Die Liebe eines armen Menschenkindes (1928)

9月7日、日曜日の午後に見ました。月1回のサイレント特集の日で、市民の携帯に警報のテストアラームが来る、ということで開始を5分遅らせていたのだが、めちゃくちゃやかましいのがわんわん鳴りだして、サイレントを上映するのになんてこと!ってみんなで怒っていた。

これも監督はRichard Eichberg – 彼と組んだ最初の作品で、彼女にとって最初のドイツ映画 - で、英語題は”Song” - 主演の彼女の名前。貰ったプログラムノートには、この映画の撮影でベルリンに滞在した時にベンヤミンと出会って、彼は彼女に魅了されて、とか書いてある。

イスタンブールの磯で生きた蟹を彼女が齧っていたら(...おいおい)、2人組の男に襲われて、それを救ってくれた通りすがりのナイフ投げ芸人のところに付いていって、彼と暮らし始めるのだが、彼は前に付きあっていた歌手のことをずっと想っていて。バカな男にとって極めて便利で都合のよい一途なアジア人女性の典型をこれでもか、っていう波乱万丈のメロのなかで見せられて、あーあ、ってなった。

Peter Pan (1924)

9月21日、日曜日の昼に見ました。
監督はHerbert Brenon。 サイレントで、(後から買われたものだと思うが)ディズニーのお城の上に星が降りそそぐオープニングのすごく古いのが。親子連れもいっぱい。

Anna May WongはTiger Lily役。 犬のNanaが着ぐるみだったり、ワニも着ぐるみでかわいいし(でも海にいるのか?)、引き込まれて見てしまった。

Tinker Bellが弱って死にそうになるところでは、Peter Panが客席に向かって「みんなの力が必要なんだ!力をくれ!」っていうので、日曜の昼間だし、みんなで懸命に拍手して、Tinker Bellを救ってあげたりした。

The Thief of Bagdad (1924)

9月21日、日曜日の午後に見ました。
監督は問答無用のRaoul Walsh、主演はDouglas Fairbanks。彼女はモンゴル人の奴隷役。 あっという間の154分。

彼女の扱いも含めて、典型的なオリエンタル、アジア描写が満載なのだが、全体がおとぎ話の大噓ホラ噺風味を豪快に貫いてあまりにバカバカしいので、しょうがないか(なにが?)になってしまう。それらを浮かびあがらせずに納得させてしまう、セットや演技の堂々として力強いこと。

Hai-Tang (1930)

9月23日、火曜日の晩に見ました。
別の英語題は”The Flame of Love”。彼女の最初のサウンド映画で、声だけ別テイクにすればよいのに、英語版、ドイツ語版、フランス語版、それぞれ別に男性の主役を置いて、言語別に撮影された - フランス語版は、英語/ドイツ語版のプレミアの後にパリに渡って撮られたのだそう。で、彼女はひとり特訓して、ドイツ語もフランス語もぜんぶ自分の声で喋って演じている、って。一番メジャーなのはドイツ版だそうだが、今回上映されたのは英語版。

ロシア人中尉が踊り子Hai-Tang (Anna May Wong)に恋をして部屋で会ったりしていて、でも彼の上官からHai-Tangと夜に食事をさせろ、って厳命がくだって… 今だとセクハラ、パワハラの教材ネタにしかならないくらいにしょうもないお話しなのだが、彼女のリアル歌声はすばらしかった。

まだ特集は続いていて、あと2本くらいは見ると思うので、また書くかも。続けて見ていった時に見えてくるものがメインストリームの大女優の特集のそれとはぜんぜんちがう。 ごくシンプルに、嫌な社会だ、って思う。

9.25.2025

[theatre] The Bride and The Goodnight Cinderella

9月18日、木曜日の晩、South BankのQueen Elizabeth Hallで見ました。2日間公演の2日目。

ブラジル生まれでアムステルダムで活動するアーティストCarolina Bianchiと彼女が率いるパフォーマンスグループthe Cara de Cavalo(馬の顔)による公演 - 演目は”Cadela ForçaTrilogy”のChapter-1で、18禁。休憩なしの2時間半。 2023年にアヴィニョンの演劇祭でプレミアされ、ヨーロッパ中をツアーしてきた舞台で、英国でも2023年にグラスゴーのフェスで上演されている。

“The Bride”というのは、イタリアの女性アーティスト/パフォーマーのPippa Baccaによるパフォーマンス”Brides on Tour”で、ウエディングドレスを着て花束を手にした彼女がヒッチハイクするのを記録していくパフォーマンスだったのだが、彼女は2008年の国際女性デーに、ミラノからエルサレムに向かう旅をしていた途中、イスタンブール近郊で、レイプされて殺されて道端に棄てられているのを発見された。

“Good Night, Cinderella”はブラジル人が使うお酒に入れて眠らせて.. のレイプドラッグの隠語で、Carolina Bianchi自身もこれの被害にあったことがあるという。

舞台上には簡素なデスクの上に書類の束、と背後にはプロジェクターがあり、前半はCarolina Bianchiがひとりで登場して客席に向けてレクチャーをしていく。最初がダンテの『神曲』からの引用、女性がどこまでも追われる姿を描いたボッティチェリの絵画たち、女性によるパフォーミングアートの歴史を踏まえつつ、特に”The Bride”のパフォーマンスについて、なんでこんなことになったのか、「女性側の落ち度」として片づけられがちであることを十分に承知したうえで、古来からずっと、揺るぎなくあって変わることのない男性による性加害やフェミサイドの歴史 – もうひとつピックアップされたのは、ブラジルのサッカー選手が恋人を仲間に殺させて、事件発覚後も選手を続けていた件 – などを紹介していくのと、ドラッグについてはMarina Abramović等によるパフォーマンスの例を示しつつ、自分で錠剤(たぶん本物じゃないだろうが)を砕いて飲んで、もし薬が効かなかったら数時間かけてレクチャーの残りをやりますが... と言ったりしているとぐったりして机の上に崩れ落ちて、ここから後半に移る。

前半のイメージは白で、BrideでもCinderellaでも祝福されたもの(白)としてあるはずだった女性のイメージは、男性の快楽のために消費され穢されるべきものとして初めからあったこと、女性によるアートがいかにそこに自覚的であったかを示して、後半は対照的に黒づくめの衣装(黒というだけで仕様は各自ばらばら)を纏った男女8人くらいが黒子のように出てきて、Carolinaを隅に運んで服を替えさせたりして、ぐったりしている彼女の脇でレイプドラッグがもたらす悪夢のような光景 - 外側だけでなく内側も - を本物の車を使ったりしつつ展開していって、前半のクリーンで整然としたレクチャーとは真逆の、リアルな地獄めぐりのような絵を見せてくれる。

ここで何度か言及されていたのがRoberto Bolañoの名前、特に”2666” (2004)で、なるほどいくらでも出てくる失踪者の件、それが至るところに埋められてうやむやになってきた歴史はあるかも。

2時間半で、ものすごくいろんなものが出てくるのでついていくのが大変だったが、それでも相手にしているものの始末に負えないどす黒いどうしようもなさ、その歴史も含めた巨大さは十分にわかってうんざりした(このパフォーマンスに対して、じゃないよ)。18禁でよいのかも。

性加害の罪がどこまでも軽くて、警察すらそこに加担して許してしまうような自分の国を見ても、容易にどうこうできるものではないことはわかる(いや、わからないよ - なんであんなに野放しで寛容なままで許されているのか)  - が、だからこそ上演されてほしい。

9.24.2025

[film] Steve (2025)

9月17日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
Previewで、上映後に監督、原作者とメインキャストとのQ&Aがあった。 Netflixなので日本でも見れるのかしら?

Claire Keegan原作の”Small Things Like These” (2024)の監督Tim Mielantsと主演のCillian Murphyが再び組んだ(あと、Emily Watsonも再び)作品。原作はMax Porterの小説”Shy” (2023)で、彼はExecutive Producerとして制作にも関わり、映画化にあたりタイトルを”Shy”(登場人物の名前)から”Steve”(Cillianが演じる登場人物の名前)に変更している。

音楽は“Ex Machina” (2014)を担当したBen SalisburyとGeoff Barrow組。(つまり)

Steve (Cillian Murphy)は攻撃的な行動や言動で周囲に適応できない問題を抱える児童- といっても中高生くらいの男子を全寮制で収容・教育している田舎の施設の校長をしていて、他には副校長のAmanda (Tracey Ullman)、セラピストのJenny (Emily Watson)、新米教師役でLittle Simzがいたりする。

生徒たちは凶暴、といってよいくらいにみんな強そうでずっと興奮してイキっていて、校内では野放しなので、互いに脅しあったりとか、喧嘩とかラップバトルみたいのばかりやってて、殴りあいも茶飯事で、仕事とはいえよくこんなところで... と思っているとSteveはしょっちゅう建物の奥とか裏に行ってよくわからない薬とかドリンクとか明らかに酒をあおったりしていて、周囲もそれを黙認しているような。

映画はその施設の撮影と生徒を含む関係者にインタビュー – 6歳下の自分に、今なら何を言いますか?とか - にきた地元TV局のクルーとそこで撮影された映像、映画の冒頭 はSteveへのインタビュー映像で、なにかに堪えきれずに泣きだしてしまう場面から遡り、他方でそんなの構わずやりたい放題言いたい放題の生徒たちの様子、たまたま視察にきた地元の議員もいじられて憮然としていたり、生徒の中でもおとなしめのShy (Jay Lycurgo)の様子、そして、突然施設の売却に伴う閉鎖を言い渡された日の出来事を、画面の隅にタイムスタンプを表示したりしつつ追っていく。

”Small Things Like These”でも全体に漂う不穏できつくて暗いイメージがあったが、ここではそれに手持ちカメラがもたらすホラーっぽい揺れが加わり、更にSteveの挙動も表情もよりとろんとして怪しくなり、タイムスタンプもあるので、そうやって過ぎていく時間と、次になにが起こるのか、なにが待っているのか、わからないことだらけで怖い。特に終盤、不可避に広がって消火しようがなくなっていく暴力の連鎖の描写はどうやって撮っているのかもわからないくらいの混沌のなかを抜けていく。なによりも怖いのはなんのためにこんなことになっているのか誰も考えていないことではないか。

やがて施設の売却に伴う閉鎖を一歩的に通告されてしまうSteveと、母からもう連絡してくるな、と電話で一方的に言われてしまったShy、それぞれの絶望とテンションが最大になったところで…

教訓とか救いとか庇護者のない世界で、自分ひとりでなんとかやってきたふたりの男 - 中年と青年が、その最後の拠り所を失ってしまう、しまいそうになった時、どうなってしまうのか。ああいう場所と土地で、恒常的な暴力や怒号にずっと晒されてきた人が、その糸が切れてひとりになる、というのはどういうことなのか、等。

最後のほうで、AmandaがSteveを押さえこむように抱きしめて「あなたは悪くない」って何度も何度も繰り返していう場面がとてもよい。(後のトークで、あれはアドリブだったって) あと、これも終わりのほうで、Tracey UllmanとEmily WatsonがCillian Murphyを挟んで立っているシーン。このふたりが同じ画面内に一緒にいる絵って、たまんない人にはたまんないのではないか。

上映後のトークは、監督のTim Mielants、原作者+Executive ProducerのMax Porter、真ん中にいたCillian Murphy, Tracey Ullman, Jay Lycurgoが参加して、予想はしていたが、一番落ち着いて理知的に返していたのは、やはりCillian MurphyとJay Lycurgoだった。この後全員がBarbican Cinemaの同じイベントの方に移動していた。

こういうどこまでも閉じた学園ものって苦手だった(だって知らんし関係ないし)のだが、これは割とすんなりと見ることができたのはなんでだったのか。

どうでもよいけど、無精ひげぼうぼうのCillian MurphyってRufus Wainwrightにそっくりになるよね。

9.23.2025

[film] Spinal Tap II: The End Continues (2025)

9月16日、火曜日の晩、Curzon Aldgateで見ました。

“This Is Spinal Tap” (1984)から、監督Rob Reinerも中心のバンドメンバー3人も進行役のMarty(Rob Reiner)もすべて引き継がれ、全員がプロデュースにも関わっていて、準備段階から世界の片隅でいろいろ囁かれていた待望の続編。 と言いつつ誰もそんなにものすごく待望しているわけでも、というところまで含めてすべて計算に入っている。

パート1が登場した当時、ロックはもうとっくに脳死していて、メタルはただの冗談でしかなかった。冗談として冗談をやっている、という点でこの作品はタチが悪いやと思って、なので公開当時には見ていない(見たのは00年代に入ってからだったかも)。 ただ不思議なことに、この作品の評価はどんどん上がって伝説のような神話のようなものになり、DVDはCriterion Collectionからリリースされ、National Film Registryに登録(2002)までされる問答無用のクラシックになってしまった。

そして今日、メタルは収益でいうとライブ産業(コンテンツ)のメインストリームとなり、先のOzzyのライブでもはっきりしたように感動などを呼んでしまうものにもなって、リブートもフランチャイズもあって当たり前の世界なので、すべてはSpinal Tapのために、くらいの凱旋リリースとなってもおかしくないくらいなのだが、そこまで堂々としていなくて、あえて外しているように見えて/見せてしまうところがいかにもこのバンドの世界らしい。

冒頭、今世紀の伝説となること間違いなしの再結成&ファイナルライブのカウントダウンが始まったバックステージでのメンバーの表情をとらえて、全員が浮かない顔をしていて、そこから遡ってバンドにあと1回ライブする契約が残っていたことを確認した監督/語り部のMartyが、生き残った伝説のメンバー3人を訪ねていくところから。

Nigel (Christopher Guest)は妻と一緒にギターとチーズのお店 - ギターとチーズを交換もできる – をやっているし、David (Michael McKean)はpodcast用の音楽を作ったりしているし、Derek (Harry Shearer)は接着剤博物館を運営していて、それぞれ音楽とは細々と関わりを続けているものの、典型的な元セレブの「余生」を送っていて、でもたぶんできるかもやれるかも、って周囲を睨み合いながら最後となるライブに合意する。

こうして音楽をまったく理解できないプロモーター(Chris Addison) - あの、韓国の踊るボーイズみたいのはできないのか?とか言う - と契約し、会場はStormy Danielsがキャンセルしたので空いていたニューオーリンズのアリーナに決まり、空いていたドラムスにはQuestlove, Chad Smith, Lars Ulrichらにオファーが行く - 画面で彼らとちゃんとやり取りしたりする - ものの「残念ながら」、って断られて若い女性のDidi (Valerie Franco)に決まって、リハーサルが始まると、Paul McCartneyやElton Johnが顔を出したり、復活に向けたよい雰囲気は確実に作られていくのだが、もちろん、メンバー全員は浮かない顔をしてメンバー間とスタッフと小競り合いのようなことばかりしている…

モキュメンタリーなので、こういう復活劇にありがちなこと全部が隅々まで盛られていて、それをわかった上で楽しむ、のが正しいことはわかっているのだが、すべてがあまりにどこかで見てきた馴れ合い、倦怠、失望などにリンクしていて、メンバーはずっと冴えない表情で、でもライブの演奏シーンのところだけほんの少し神が降りてきて、その神が次なる惨劇を呼んで、” The End Continues”と…   作品としては40年を費やして彼らとおなじように萎れてしまった前作からのファンの思いにもきちんと応えるものになっている、とは思うものの、その間のドキュメンタリー/モキュメンタリーの多様化とか深化も踏まえると、とてつもなくばかばかしいことだねえ… って返すのが正しい反応、でよいのか。

彼らのことを一切知らない若者たちが見たらどう見えるのかしら? とか。

9.22.2025

[film] The Golden Spurtle (2025)

9月12日、金曜日の晩、ダウントンを見た後に、そのまま隣にあるCurzonのDocHouseで見ました。

ポリッジ(porridge)の世界選手権についてのドキュメンタリー。監督はオーストラリアのConstantine Costi、英国/オーストラリア映画で配給はDogwoof。

Spurtleというのはポリッジをかき混ぜるのに使う木製の匙で、優勝者にはこれをかたどった黄金のトロフィーが贈られる。たぶん本物の金ではないと思うが、外したら武器にするくらいはできるかも。

イギリスの朝食メニューとしてあるポリッジは日本だと「オートミール」と呼ばれてしまうのかも知れないが、お米とお粥くらいの違いがある。朝のBAの飛行機に乗るののなにがよいかというと、ここのラウンジにはポリッジがあるからで、これに蜂蜜をかけて食べるとああ飛行機に乗るんだわ、ってなるくらい脳はポリッジ状に腐りはじめている気がする。

スコットランドのCarrbridgeという小さな町で毎年行われているポリッジチャンピオンシップのある年の様子、特に世界中から集まってくる選手たちを追っていく。で、今年のはずっとこのイベントを主宰して引っ張ってきたCharlie Millerの最後の年になるのだと。 この人がどんなにすごい人かというと... 割とそこらにいそうなただのおじさんで、それがまたよいの。

世界にはいろんな料理があるので、なんの料理を対象としたどんな選手権があってもよいとは思うが、ポリッジにしたのはうまいな、って思った。「パン」みたいに汎用性があるように見える反面、朝のぼーっとした頭と身体にしみるようなシンプルさ、かつ微妙な匙加減が求められて、作り込みすぎても素(す)すぎてもだめだと思うし、プリンと同じように硬め柔めの議論だってあるし、どんな蜂蜜かメープルシロップかとか、あとは供される温度だって重要な要素になるだろうし ← うるさいよ。

映画はCarrbridgeの町並み – ほんとにただのふつうのスコットランドの地方都市 - を紹介してから過去2回優勝している地元の女性とか、参加してくるオーストラリアの人、ニューヨークの人、などを紹介する。ふだんはタコスを作ったりしているが、ポリッジを専門にやっているわけではない人たち。 というかパン屋があるみたいにポリッジ屋があるかというとそうではないし、どちらかというとグラノーラあたりに近いのかも。(もちろん、グラノーラにもなめてはいけない世界のようなもの、はある)

選手権の日は豪雨で、審査員の紹介もそんなになくて、審査の基準も調理の際のルールもあんまわかんなくて(たぶんてきとーなんだと思う)、優勝したポリッジも、どこにどんな秘密やこだわりがあったのかはわからなくて、おいしいポリッジの秘密を探りたい人にはううーってなるのだが、世界の果て、というほどでもないほどほどの田舎で、毎年こんな変なチャンピオンシップをやっているんだよ、というドキュメンタリー映像の纏まりとしてはよくできていたかも。

日本からも秘伝のタレとか味噌とか麹とかを持参して参加すればそこそこのところには行けるのではないか。


Istanbul

で、これの翌朝にフラットを出て、9月13日から15日まで、トルコのイスタンブールに行った。
フライトが朝6:15発で、ラウンジが開いたのが5:00だったので今回のポリッジは駆けこみでかっこむこととなった。

トルコは初めてで、見たいところはいろいろあるものの、カッパドキアとか考えだしたらきりがなくなりそうなので、まずはイスタンブール2泊から。いつものように美術館・博物館、というより街とか建物を見よう、の方で、グランバザール、地下宮殿、アヤソフィア、トプカプ宮殿、ブルーモスク、くらいを回れればいいや、くらいで。

天気もよくて、これらはどれもすばらしかったの – 特にトプカプのカリグラフィーと衣装展示、考古学博物館 – だが、街を歩いていくなかで想定していなかったのが、にゃんこだった。あんなにうじゃうじゃいて、手を出したら寄ってきたりして転がってくれたり(噛んでも引っ掻いても許す)してくれるので、全然次のに行けない。みんなあの寄ってくる猫たちをどうにかしながらあんな建物を建てたり街を作ったりしていったのだろうか。いやそもそも戦争なんかできんよね(猫のために戦ったとか)。

美術館だと、Istanbul ModernでAli Kazmaと塩田千春を見た程度で終わってしまった。屋上のテラスも気持ちよいし、ここの地下の映画館、なかなかよい特集をやっているみたい。

グランバザールの古書店は、英語と仏語の古本もふつうにあって、でも古本は今の自分のとこをいい加減にしないと状態になっているので目を逸らして掘らないことにした。

サバサンド(Fish Wrap - Balık Dürüm)はもちろん、今回の旅の大きな目的のひとつであった。サバとイワシをそれなりに食べてきた者として、サバの可能性がどのような形で、しかも「ストリート・フード」としてどう実現されるのか。サバのやや尖った風味はスパイスやハーブ系の野菜によく合って馴染む、ただ問題は断片として散らばりがちなこれらをどう口内でまとめあげるか – なのでサバカレーのアプローチはわかる – だったわけだが、ここではこれらをトルティーヤの皮で包んで、巻かれたそいつを転がして焼きあげる、というすごいこと - 内側は蒸されるし外側はかりっとなるし – をやっていてこんなのをストリートでやっちゃうのは反則ではないか、って思った。骨とってくれるのはいいけど、皮はつけておいてくれても、とか。 トッピングのたれには醤油とかコチュジャンとかカレーとか.. だーかーらーストリート・フードなんだって。 野良になって食ってろ。

あと、一瞬思ったのだが、ロブスターロールって… 以下略。

ポリッジよりもこれの選手権やっているのであれば見たい。

というわけでまた行きたいよう。

9.21.2025

[film] Downton Abbey: The Grand Finale (2025)

9月12日、金曜日の夕方、Curzon Bloomsburyで見ました。
公開初日だがそんなに入っていないし、すごい宣伝をしているわけでもない。そのうち入ってくるだろうから気にしない、なかんじで堂々としてる。

“The Grand Finale”というタイトルからもわかるように、たぶんこれで終わりの。これまでもずっと「もうこれで終わり」を言い続けてきた気もするが、Dame Maggie Smithの死があり、戦争の時代に入ったらムリ、というのもあったのか。サザエさんみたいに永遠に続くもんだと思っていたのに。

監督は前作の”Downton Abbey: A New Era” (2022)と同じくSimon Curtis。しかし”A New Era”って言った3年後に“The Grand Finale”って。パチンコ屋じゃないんだから。

冒頭、1930年のロンドンでGuy Dexter (Dominic West)主演でNoël Coward (Arty Froushan)作の”Bitter Sweet” (1929)を上演していて、バックステージでRobertたちはNoël Cowardと会ったりする。前作ではサイレント映画の制作がサイドストーリーとしてあったが、今回はそれがミュージカル、というかNoël Cowardになっている。後半、彼があんなに前に出てくるとは思わなかった。

それに続けて、王室のメンバーが来るような格式の舞踏会に来ていたLady Mary (Michelle Dockery)、the Earl of Grantham - Robert (Hugh Bonneville)、the Countess of Grantham - Cora (Elizabeth McGovern)は法的に離婚したLady Maryが王族のやってくる宴に同席することは許されない、といきなり退場を命じられて社交界がざわざわするのと、ダウントンの方にはLady Granthamの弟のHarold (Paul Giamatti)と彼の財務アドバイザーというGus (Alessandro Nivola)がアメリカからやってきて、大恐慌は乗り切ったとか言っているのだがどうにも怪しい。

Maryは滞在していたGusと酔っ払って寝てしまったりするのだが、その辺から雲行きが怪しくなり、やがてHaroldがGusに騙されてダウントンの資産の大部分を投資で失ってしまったこととか、そのためにロンドンの屋敷を売るしかないかもとか、Noël CowardとGuy Dexterがダウントンにやって来るというのでみんなで張り切ったりとか、郡のお祭りで堅物のSir Hector Moreland (Simon Russell Beale)と女性たちが対立したりとか、Daisy (Sophie McShera)が料理長に昇格したりとか、四方八方てんこ盛りで、結末は代が替わってMaryがダウントンの新たな当主になって、Violet (Maggie Smith)の肖像がそれを見守る、というそれだけなのだが、ものすごくいろいろ詰めこんであって、危機が訪れてもぜったいどこかから誰かが現れてどうにかしてくれる、という魔法の館。 Maggie Smithが生前何度も語っていた「長すぎるのよ… 自分がなにをやっているかぜんぜんわからないのよ…」と途方に暮れていた状態は正しく維持されている、というべきか。

こういう家族一族を描いたドラマで、みんなで一丸となって歯をくいしばってがんばって生きた、みたいのが死ぬほど嫌いなので、ダウントンの各自が自分の持ち分をこなしてたらどうにかなったよ、っていうのがよくて、それは究極には家父長制か階級制か、みたいなところに行くのかも知れず、どっちも嫌だけどドラマとして見るなら断然こっちかも。ほぼ関係ないし。

おもしろかったのはロンドンのお屋敷を売るというのでRoyal Albert Hallの近くのフラットを見にきたRobertとCoraが屋内の物音を聞いて、「あの音はなんだ? ひとつの建物の中に別の知らない家族がいるということか?」ってびっくりしたように言うところ。

でもやっぱりこれで終わりって勿体なくない? この一家がどうやって戦争の時代を乗り切ったのかって、やっぱ見たいよねえ。

9.20.2025

[film] Drama 1: The Entertaining Mr Orton

9月7日、日曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。

ここの9月の特集、でっかいのは”Ridley Scott: Building Cinematic Worlds”で、これは割とどうでもよくて、もうひとつは”Anna May Wong: The Art of Reinvention”で、がんばって見ているけどここに書けていなくて、あとひとつ、日程がぜんぜん合わずに泣いているのが”Associated-Rediffusion: The UK’s First Groundbreaking TV Franchise”という特集。

最初は何なのかわからなかったのだが、英国で商用TV放送は1955年、Associated-RediffusionとABCの2局による夜間番組の放送から始まって、国営のBBCとは別にドラマ、時事番組、討論番組、ドキュメンタリー、子供向け番組、コメディなどをかけて、TV CMの導入も含めて後の商用TV放送の先駆となったそう。Associated-Rediffusionが存続したのは1955年から1968年までで、その中からBFI National Archiveに保存されているものを紹介していく特集で、ComedyだとComedy1, Comedy2, Comedy3のようにオムニバスとして組み合わせたり、人気のあった連続ドラマだと数エピソードを纏めたり。

このDrama1は、Joe Ortonの書いた劇作をドラマ化したもの3本を束ねていて、Drama2は、Harold Pinter特集、Drama3は、Oscar WildeとAnton Chekhov。2は終わっちゃって3は予定があって見れない。 あーくやしいったら。

3本のトータルの上映時間は191分で、途中1回休憩が入った。しかしこんなのをTVで見れていたなんて。

Entertaining Mr Sloane (1968)

80分で、月曜の22:30に放映されたそうで、3幕の合間にはCMが入ったという。原作は1963年で1970年にはDouglas Hickox監督により映画化もされている。

若者Sloane (Clive Francis)が下宿先を探して中年女性Kath (Sheila Hancock)の家を訪ねてきて、同居している彼女の父Kemp (Arthur Lovegrove)は噛みついて、兄のEd (Edward Woodward)も眉をひそめるのだが、若いSloaneのことを気にいってしまったKathは、なんとしても彼に住んでほしくて1幕の終わりにはセクシーな寝間着姿で現れて。 2幕以降、出ていこうとするSloneと妊娠をほのめかしてなだめたり留めようとするKath、ろくなもんじゃない奴だ、って追い出そうとするKempとEdとの攻防が続いて、留守の隙にSloneはKempを殺してしまうのだが、その死の扱い/報告を巡ってKathと事実を握るEdが対立して…

まずは誰かの欲望とか野望があって、その後に続く終わりのないせめぎ合いと駆け引きをすごく狭いスペースと関係 - 「英国」的な? - のなかで描きながら、セクシャリティとか老いとか普遍的な、時として宇宙的に広がるなにか(の端っこ)を見せてくれる、というのが自分にとってのJoe Ortonで、モノクロで、小さな家のダイニングから断固として外に出ていかないカメラは、これだなー、というものだった。

いまYoung Vicで本作を上演しているので、そのうち見にいく。


The Erpingham Camp (1966)

“Seven Deadly Sins”という全7話からなるシリーズの一篇。Deadly Sinsは”Pride”, “Gluttony”, “Sloth”, “Avarice”, “Lust”, “Envy”, “Wrath”で、その回がこのうちの何をテーマにしていたのかは最後に明かされる。監督はJames Ormerod。 53分。

いつもきちんとして威厳たっぷりのMr. Erpingham(Reginald Marsh)が経営する伝統あるHoliday Campがあって、そこの従業員も彼の指揮下で軍隊のように教育され統率されているのだが、その晩のパーティの責任者に任命された若者がちょっと間抜けで張り切り過ぎたら何かのタガが外れ、客が暴走を始めて止められなくなって…

この日のテーマは”Pride”でした。

エウリピデスによる『バッコスの信女』 - The Bacchaeのペンテウスの悲劇を元にしているそうだが、あまりよくわからなかった。けど暴動のシーンの転がりかたはすごいと思った。 “Bacchae”もNational Theatreで上演が始まったのでそのうち行きたい。


The Good and Faithful Servant (1967)

“Seven Deadly Virtues”のシリーズからの一篇。書かれたのは1964年。これも監督はJames Ormerod。 53分。ここでテーマとなっているVirtueは”Faith”。

工場のドアマンとして50年間勤めてそこを退職することになったGeorge (Donald Pleasance)がいて、辞めることになっても自分のことなんて誰も気にしていないし覚えていないし贈り物もつまんないものだし、でも最後の日にそこで掃除婦をしていたかつての恋人Edith (Hermione Baddeley)と再会して、彼女の家で孫だという子供とも会うのだが...

しょぼくれの、失われた生の究極を描いたような作品で、自分のことに照らしてもしゃれになっていなくてうぅ、しかないのだが、Joe Ortonにとってはもっとも自伝的な作品でもあるそうで、これが放映されてしばらくして、彼は殺されてしまった、と…

9.19.2025

[film] Dead of Winter (2025)

9月8日、月曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

主演のEmma ThompsonとGaia Wiseのトーク付きのPreviewで、Emma Thompsonを見たくて取った。
監督はBrian Kirkで、今年のロカルノでプレミアされている。

上映前の挨拶でEmma Thompsonと娘のGaia Wise(映画で若い頃のEmma Thompson/主人公を演じている)が登場。母娘の共演は初めてだが、Emma Thompsonが初めて母のPhyllida Law(この晩の客席にいたそう)と共演した“The Winter Guest” (1997)でもタイトルに”Winter”が入っていたのはなにか因縁めいたものを感じる、と。 Gaia WiseはこないだRe-releaseで見た”Sense and Sensibility” (1995)のJohn Willoughby (Greg Wise)とElinorとの間にできた娘ってことね。

でも映画はコメディではなく、凍てつく氷の上でのアクション・スリラーだった。
“Fargo”の舞台となった(要するにめちゃくちゃ寒い)ミネソタの山奥で、Barb (Emma Thompson)がひとり、車で凍った湖にやってきて、氷の上に小さな小屋とかを設営して穴をあけて釣りをしたりする。そこに蘇る若い頃の記憶 - 若い頃のBarb (Gaia Wise)とやがて結婚することになるKarl (Cúán Hosty-Blaney)との最初のデートの場所がここで、後のほうで彼女はここにKarlの遺灰を撒きにきたことがわかる。

その湖に向かう途中で、道を尋ねようと車を停めたところで薪を割っている怪しい男(Marc Menchaca)がいて、道に血痕があったりして(鹿のだ、って男は返す)、なんか気になった彼女が帰りに寄ってみると、声が聞こえて若い女性(Laurel Marsden)が地下に監禁されているのを見つけ、なんとかしなきゃ/助けるからね、になったところでさっきの男より更に凶暴な女(Judy Greer)が突然現れて銃をぶっ放してきて、撃たれて怪我をしたBarbはいったん引っ込んで、傷口を釣り針で縫ったりしつつ、まちがいなく自分を殺しにきそうな連中とどう対峙すべきかを考える。

ここまでで、いろんな思い出を抱えたBarbが凍った湖にわざわざやってきた理由はなんとなくわかったが、ヒルビリーぽく荒れた男女 - 夫婦らしい - がなんでこんなところにいて、なんで若い女性を誘拐・監禁して、なにをしようとしているのか、はちっともわからない。中盤の湖の氷の上と監禁されている山小屋、その中間にある自分の車などを行ったり来たりの闘い - 手近にある使えそうなものを全部使って若い女性を救いだし、自分を殺しにくる敵との闘い、敵側からすれば知られてはならない自分たちがやろうとしていることを邪魔しようとするBarbを片付けないことには前に進めないのだ、という闘い - はとにかく寒そうで辛そうで、なのだが目を離すことができない。

そのきつい闘いのなかで、きつい闘いのなかだからこそ、なのか都度蘇ってくる彼女とKarlのいろんな思い出、流産したり彼が痴呆症になったり、その後の死別まで、それらを思い起こした時にEmma Thompsonが見せる表情はこれまでのおしゃべりで相手をきりきりさせるそれとは全く異なっていて、ぎすぎすした中でもなにかを包みこもうとするような暖かさがある。

そして、彼女の反対側に立つ悪漢Judy Greer、彼女も割とrom-com系に多く出ていたイメージがあったのだが、ここでの鬼婆っぷりときたら、なんでそこまで… というくらいすり切れて毛羽だっててものすごくて、夢に出てきそうなくらい。

クライマックスは書きませんが、スタントなし(だったそう)で結構すごいことをやっているので日本で公開されたら(地味すぎるので配信かなー)、見てあげて。

上映後のトークで印象に残ったのは、Emma Thompsonが語っていた、この映画には男性中心のこういうアクションもので描かれる闘いのマナー(怒りとか義憤とかがトリガー)とは全く異なる、何も持っていないところから知恵と近くにあるものを総動員して闘っていく、フェミニンなそれがある、ってとこ。 簡単にできることではなさそうだけど。

9.18.2025

[theatre] Juniper Blood

9月6日の晩、Barbicanで”Good Night, Oscar”を見て、そこのギャラリーでGiacomettiなどを見たあとの晩、Donmar Warehouseで見ました。

演劇を昼と夜ではしごする、というのは映画のそれとも音楽のそれとも違って、ちょっと疲れるけどものすごくおもしろい経験だなあ、と改めて思った。

原作はMike Bartlett、演出はJames Macdonald。

場内に入るとものすごく明るい照明で昼間のようで、ステージがあるところには本物の盛り土がしてあって本物の草が雑に生えていて、鳥とか虫の声が響いていて – 鳥はいないが実際に虫が湧いたりしたらしい - 要は日が照っている昼間、畑がある一帯、のようなところらしい。土と草の匂いがなんだか新鮮。

そこに農作業をしているらしいLip (Sam Troughton) – 髪も髭も手入れしてない無表情で浮浪者一歩手前に見える- がぼーっと現れて、虚ろな目でタバコを手で巻いてどんより吸っていると、その光景とは明らかに場違いなバカンスの恰好をした若者男女ふたり - Femi (Terique Jarrett)とMilly (Nadia Parkes) – が現れる。あまりのギャップにお呼びでない、になるかと思ったら、MillyはLipのパートナーRuth (Hattie Morahan)のex連れ子で、Femiはオックスフォードで現代農村経済みたいのを学んでて、口だけは達者でぺらぺらぺらずっと喋っている。Z世代の若いふたりは休暇ついで&手伝いでやってきて、そんなに深く考えずに農業しんどいーむりー、とか好き勝手にいう。

Lip(とRuth)はRuthの相続した土地があったのでNYの北の方にオーガニック&サステイナブルな農業の実現を求めてやってきて、日々土を耕したりしてはいるものの、Lipの顔と態度、あと舞台上に散らばった土の山とか掘られた穴とかを見る限りうまく回っているようには見えない。隣家のお気軽な農家のおっさんTony (Jonathan Slinger)は、オーガニック農業なんて金持ちの道楽でできっこない、とか言うし、若者たちも横から勝手な適当なことばかり言うのでLipは宴のテーブルの上から土を落としたりする。それでも時間は経つし日は暮れていくし。(照明は幕の終わり頃には夕暮れの明るさ程度まで落ちてくる)

弁のたつFemiがサッチャー政権当時に生まれたLip達の世代が、どんな文化的バックグラウンドを背負ってどんな思想傾向を持つに至ったか、他方でグローバル経済の進展がいかに都市と農村の地域間、国家間の経済格差を生んで結果的に誰も儲からない、おいしくない仕組みを組みあげてしまったか、この世代が正面からぶつかってこんなふうな総どん詰まり状態を生んでしまった今について爽やかに得意げに語り、だがしかーし、AIをはじめとするテクノロジーの進展がどうにかしてくれるに違いないのだ、みたいなお子様の議論を展開して(結果、泥ざばーん)、この辺はなかなかおもしろかった。

真面目にやろうとした正直者がバカを見る、儲けるのだけは得意なバカばかりがデカい顔をする、こんなのは農業だけじゃなく世界の至る所で見ることができて、どう生きるべきか、みたいな話はするだけ無駄、みたいになってしまった今の世の中で、でも生きないわけにはいかないのでー、ってなにもかもうんざりの今の中高年にははまるところも多かったのではないか。

こういうドラマだとは思っていなかったので、ややびっくりした。職業格差に関わる話なのか世代間のそれなのか、それらの複合でどっちにしたって相容れないまま滅んでいくしかないのか。

もちろん解決策なんかなくて、最後はチェーホフみたいな黄昏がやってきてどんよりするしかないのだが、でもあのラストはどうだろうか? ちょっと甘すぎやしないか、とか。
 

9.17.2025

[theatre] Good Night, Oscar

9月6日、土曜日のマチネをBarbican Theatreで見ました。

原作はDoug Wright、2022年にシカゴで初演され、翌年ブロードウェイに来て当たって、主演のSean HayesはTONY AwardsでBest Leading Actor in a Playを受賞して、今回のLondon公演でも彼がそのまま主演している。演出はLisa Peterson。 休憩なしの1時間40分。

1958年、NBCで放映されていたThe Tonight Showで、ホストのJack PaarがゲストにOscar Levantを呼んだ際に裏で起こっていたどたばた(とても本物ぽいがこのエピソードはフィクション)を描いたバックステージもの。

アメリカのトークショー – 今だとCBS (はもうじきなくなっちゃうみたいだけど)やNBCで夜の23:30頃から1時間くらい、ホストは今だとStephen ColbertとJimmy Fallon、ひとつ前だとDavid LettermanとJay Lenoとか、この舞台の時代だとJohnny CarsonやDavid Frostなどがいて、ゲストが2~3、アトラクションみたいのがあって、最後に音楽ゲストが歌ったり演奏したり、ハウスバンドもいて、寝る前のだらだらした時間に丁度よい娯楽を提供してくれるもので、番組によってはホストとの相性がよくて常連になるゲストとか企画もあって、これって十分にアメリカン・カルチャーの一翼だと思う(イギリスにもあるけど、あまりおもしろいと思ったことはない。のはなぜ?)。 TVがこのような番組の可能性を模索していた最初期に起こった - 起こっていてもおかしくなかったエピソードを綴ったもの。

Oscar Levant (1906-1972)については、”An American in Paris” (1951)でも”The Band Wagon” (1953)でも、脇にいるけどなんだか目について離れなくなるピアニストとして、名前は知らなくてもあああの!ってなる人、だと思う。

舞台は50年代のモダンな家具で整えられたTV局のドレッシングルームで、これが後半になると放送スタジオやステージに伸び縮みしたりして変わっていく。 NBCがLAで(西海岸発として最初に)放映するショーで、Jack Paar (Ben Rappaport)はOscar Levant (Sean Hayes)をゲストに呼ぼうと準備を進めていたが、オンエア直前になって彼が精神病院に入院していて薬を飲んでいることを知る。(生前Oscarは病気があることを公言していた)

それを知ったJackの上にいるNBCの幹部はOscarの出演をなんとしても阻止しようとして – 視聴者が寝る前に落ち着いた時間を過ごしてもらうのが番組のコンセプトなのにそんな病人を – って結構危ういことを言ったりする - でもどうにかして出演させたいJackと、Oscarを精神病院に入れて、でも心配になって見にきた妻June (Rosalie Craig)、使いっ走りの番組のAD(なのかな?)の若者、そして薬の飲み過ぎでぐったり動けなくなったOscarを診る医師などが絡んで騒ぎの輪が広がっていく。

後半、見切りで番組が始まって、明らかに具合がよくない、よれよれして綱渡りで、でもそれなりに笑えてしまうOscarとJackのトークを観客全員が見守るようにして見た後に披露されるSean Hayes自身によるスタンウェイ(舞台のスポンサー)のグランドピアノの爆発的な演奏 & すばらしくよい鳴りで大喝采になって、確かに演奏は見事なのでうおぉぉーってなるのだが。

結果おもしろければ(事故さえ起きなければ)、と芸と芸人を消費しようとするTVの傾向はこの頃からすでにあったのだなー、と思って、これはお芝居なのでわからないでもないけど、それでも終わったあと、ここにタイトルの”Good Night, Oscar”を被せてみると、ちょっと複雑なかんじにはなるかも。あと、舞台セットも含めてとても西海岸的な、よい意味での寛容さとわるい意味での放置する冷たさが同居していて、そこら辺も狙ったものなのだろうなー、って。

9.15.2025

[film] The Thursday Murder Club (2025)

9月5日、金曜日の晩、”Highest 2 Lowest”を見る前にPicturehouse Centralで見ました。

Netflixに入っていれば見れるやつなのかも知れないが、今のフラットに引っ越した際に契約するのを忘れてしまって、別に困っていない - 他に見るのがいくらでもあるのでそれでいいや、になっている。

原作は2020年のRichard Osmanによるベストセラー、監督はChris Columbus。

田舎に建つ引退した裕福な高齢者向けの養老施設Coopers Chaseに暮らす過去に輝かしい経歴をもって恥じることがない元MI6の諜報員Elizabeth (Helen Mirren), 元組合運動のリーダーRon (Pierce Brosnan), 元精神科医のIbrahim (Ben Kingsley)の3人(他に昏睡状態の女性ひとり)の老人たちが、新聞記事などから実際に起こった殺人事件をピックアップしていろんな角度から推理していく「木曜殺人クラブ」を作って、そこには医学の素養がある人が必要だ、って入居してきたばかりの元ナースのJoyce (Celia Imrie)を引き入れて興味深い事件を、ってなったところでCoopers Chaseの地権者のリアル殺人事件がすぐ近くで起こり、これは出番だっ、て警察から内部情報を入手すべく若い警官Donna de Freitas (Naomi Ackie)を仲間に加えて捜査を進めていくのと、殺人事件が自分たちの住処を中心とした一帯の再開発計画に絡んでいそうなので住民たちの間で反対運動が起こり、そんななか第二の殺人が.. とか。

老人たちは癖のある4人とその周辺(Elizabethの夫役のJonathan Pryceとか)も含めてよい人生を送ってきた善良な人たちばかりで、かたや悪い方はDavid TennantとかRichard E Grantとか見るからにー の連中で、その間でじたばたする警察は冴えない上司にしっかり者のDonnaという凸凹コンビで、登場人物すべてがこちらの期待した通りの役割と振る舞いをしてくれる、という点ではベストセラーになるのも納得だし、お年寄りを中心とした主役陣はみんな上手いし、すべてにおいてなんのひねりもないったらない。もっと老人達が悪い奴らを物理的にこてんぱんにする - Helen Mirrenの”Red”(2010) にあったような - のも期待したのだが、それもないし。

最初にタイトルだけ聞いた時は引退した老人達が完全犯罪を計画するようなドラマかと思ったのたが、そっちの方がおもしろくなったのではないか。

あと、お菓子作りが趣味のJoyceが焼くVictoria sponge(ケーキ)がおいしそうでー。


Honey Don’t! (2025)

9月7日、日曜日の昼、Curzon Soho で見ました。

Ethan Coenが妻のTricia Cookeと組んで、昨年の“Drive-Away Dolls” (2024)に続けて放つB級犯罪もの。Carter Burwellの音楽が冒頭からすばらしい。その音楽にのったタイトルバックで、カリフォルニアの寂れた町を車で抜けていくと、そのネオンとか落書きとか曲がりくねったパイプなどにスタッフやキャストの名前が浮かびあがってきておもしろい。

Honey O’Donahue (Margaret Qualley)はそんな町でひとりで私立探偵をしていて、ものすごく儲かっているわけでもかつかつでもなく、人探しの依頼が来ればふつうに警察なども使いながらクールに対応していって隙がない。

冒頭、崖下に落ちた車に乗っていた男女 - 当然怪我をして動けない - が誰かに車ごと焼かれて、以降その町できな臭い殺人事件が続いていくのと、その横でカルトっぽい新興宗教の牧師Drew (Chris Evans) - PTAの”Magnolia”(1999)のTom Cruiseぽい - がいつも信者の女性とやっていて、その周辺でどうも殺しは起こっているらしいぞ、なのだが、Honeyがその件に脚を突っ込んで冴えた推理や機転のきいた捜査を繰り広げていくようなやつかというと、そんなでもなく、そのカルトの中身に触れるか触れないかくらいのところでころころ簡単に人がいなくなったり殺されたりしていって、推理や捜査よりもとにかく数として溢れてくるきな臭いなにかにぶつかった、というくらいの描き方。

ナンバープレートが”Honey Dont”の車に乗って足取り軽く町を抜けていく彼女の内面に入りこんでいくような場面はそんなになくて、レズビアンの彼女がAubrey Plaza演じる不機嫌で不穏な警察官MGと恋仲になったりするくらいで、スタイリッシュではあるが、その反対側、町はずれで起こった陰惨なことを並べて、クールな女性探偵はそれにどう対応 - ほぼしてない - をしたのか、を淡々と追っていくだけ。怒りとか慟哭とか、そういうのに突き動かされて動いていくようなキャラではない。

唐突な残酷さとか喜劇的なくらいの救いのなさ、という点ではCoen兄弟の諸作っぽいかんじもなくはないのだが、すべてのピースが繋がって奇怪なランドスケープを描きだすようなところまでは行かず、いろんな一発芸を脈絡なく繋いでいくしまりのない、腑抜けた印象が残る。その腑抜け感 - ここはどうせそんな土地なのさ、のような投げやり感で転がっていくタンブルウィードの。

“The Substance”(2024)でのMargaret QualleyとDemi Moore との喧嘩はなかなかすごかったが、ここでのAubrey Plazaとの喧嘩もなかなかだったかも。

9.12.2025

[film] Highest 2 Lowest (2025)

9月5日、金曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

Spike Leeが、黒澤明の『天国と地獄』 (1963) - 英語題は”High and Low” - を現代のNYを舞台にリメイクした結構な話題作だと思うのだが、UKでの公開も宣伝もものすごく地味でどうみてもやるきないっぽい(初日なのでスクリーンだけはでっかくしてくれた)。

日本の若者たちが黒澤のオリジナル版を見ていないことについて、Spike Leeが日本のジャーナリストを責めた(彼のいつものあれよ)そうだが、だって日本で黒澤を見ろ、って言ってくるおやじって、ぜったい上から目線の黒澤の映画に出てくる脂ぎった悪役みたいなじじいばっかりだったんだもの。(だから見てないよ。お金も時間も限りがあるんだよ)

原作はEd McBainの小説” King's Ransom” (1959) – これがそもそもNYをモデルにした架空の都市が舞台だったのだが、冒頭、イーストリバーを中心にブルックリン側から映しだされるダイナミックなNYのスカイラインも、自分にとってはあんまリアルには見えない(変わりすぎてしまって)。そういうところまで含めた嘘っぽさ、絵空事のかんじがでかでかと。

主人公は音楽業界の伝説的なプロデューサーDavid King (Denzel Washington)で、冒頭のシーンは彼のWilliamsburgあたりの高層アパートのペントハウスから、その内部は高そうなアートとかレコードコレクションとか、彼にとってのアイコンとか、自分が表紙になった雑誌のカバーとかで覆われている。妻のPam (Ilfenesh Hadera)はブラックカルチャーを支援する慈善家で、息子のTrey (Aubrey Joseph)はバスケットボール選手で、問答無用で今の過剰な富裕層の典型。

Treyを車で学校に送っていったその晩に彼が誘拐されたという報が入り、アパートに捜査本部が置かれ、何をしても、どれだけ払ってもいいから彼を取り戻せ、と伝えてしばらくしたら、Treyは戻ってきて誘拐されたのはKyleではなくDavidの親友で運転手のPaul (Jeffrey Wright)の息子Kyle (Elijah Wright) であることがわかる。

自分の息子じゃなくても親友のKyleを救ってくれるよね? とTreyはパパにお願いするのだが、ビジネスでも岐路に立たされて迷っている最中に膨大な身代金の出費は痛くて、でもすぐに返事を出せないDavidにSNSはざわざわし始めるし、警察はPaul自身が仕組んでいる可能性も視野に入れていたり、いろんなことが立ちあがって出口が見えなくなる。

結局Davidは取引に応じることにして、自ら身代金を担いで④の地下鉄でBorough Hallから試合で人々がごったがえすYankee Studiumまで乗っていって(停車駅にいちいち思い出が)、更におそろしいことに球場の外ではPuerto Rican Day Paradeが行われててごった返す、なんてもんじゃない修羅場になっている。人混みが嫌いな人だったら秒で失神してもおかしくない、NYが一年で一番やかましくなる一日に、いくら荷物にGPSを仕込んでいたからと言って、犯人を捕まえることなんてできるだろうか? - いやぜったいむり。(これ、単独犯のように描かれているけど組織で動いているよね?)

でもDenselだから。 “The Taking of Pelham 123” (2009)でも、”Unstoppable” (2010)でも、やってきたことなのでまたしても、はあるけど、彼が電車に乗りこんだら解決しないことなんてないから。無敵だから。

そして今回もまた、なのだが、最後は結局Yung Felon(ASAP Rocky)とのラップ対決で - 殴りあいでも銃でもなく – 負かしちゃって、伝説上の人物なのでそういうもんなのかもしれないけど、すべてを取り戻してしまって、お手あげになる。

Spike Leeはたぶんこれを過去から連なるNYのドラマ(音楽、野球、移民、ダンス、アート等) – Highest/Lowestも社会階層に加えてNYの地理 - マンハッタンだとUpper/Lowerだけど – にしようと思っていたのかもしれないが、とにかくDenselがでっかすぎてどうしようもない。 ここはもういっかいマンハッタンにゴジラを上陸させるくらいしかないのではないか。

[film] Railway 200: Reels and Rails

9月2日、火曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

映画上映もあるが、どちらかというとお祝いイベントで、英国の鉄道200周年を記念して、この200年の間、130年くらい前に出てきた映画がどんなふうに関わってきたのか、いろんな短編やプロモーションフィルムを見ながら、歴史家のTim Dunn、BFIアーカイブのドキュメンタリー部門キュレイターのSteven Foxonのふたりがいろいろ掛け合いしながら解説してくれる。約2時間とあったが、実際には2時間半くらいやっていた。

列車も車も飛行機も、乗り物には特に興味があるわけではなくて、型とか技術とかもどうでもよくて、ただそれがレールの上を走っていく映像を見るのは好き(酔わないから?)で、走っているだけでなんかおもしろいぞ! ってなったのはJames Benningの”RR” (2007)あたりからだと思うが、英国にきて、この国の映画最初期のアーカイブを見ていくなかにも列車の映像が結構あったので、列車を撮ったり見たりが好きな人は多いんだろうな、と思って、そういう映像をまとめて見れるよい機会になった。 で、実際ものすごくおもしろかった。

最初はクリップのように短いフィルムを沢山、なにかのお祭りで当時の蒸気で動く列車が山車のように列をなして、いろんな格好の人がそれに乗っているのとか。すべての列車が外観も含めてまるで違っていて、解説の人は結構興奮していたが、あれだけいろいろあったのが/のに、どうやって今の形になっていったのか、とか。

一通りの初期鉄道を紹介した後に、いろんな短編を見ていった。

Night Mail (1936)

24分のドキュメンタリー。
General Post Office (GPO)のFilmユニットが制作したもので、客を乗せずに夜の間に郵便の集配信をする列車とそこで働く人たちの姿を追っていく。もうこの世界では有名な古典らしいのだが、ロンドンのユーストンを出て、グラスゴーを抜けてエジンバラの方に向かう列車が、どんなふうに各地の郵便袋を拾って、車内で人が仕分けして、どんなふうに袋ごと配って置いていくのか、を走りながら見せてくれておもしろいったらない。電子メールの前にはここまで人力でやる仕組みが出来あがっていたのかー (オフィス内にはシューターとかあったしな)、とか。

デジタルのいろんなのよか、例えば走行中の列車から郵便袋を引っかける仕掛けを最初に考えた人たちの方がよっぽどイノベーティブな職人だったのではないか、って思ったり。

これの最後の方に詩のようなものが朗読されて、それがバックの音楽も含めて見事に韻を踏むまるでラップのようなやつで、なにこれ? と思ったら詩を依頼されて書いたのはW.H. Audenで、音楽は当時22歳だったBenjamin Brittenが注文をうけて作ったそうな。映像に合わせるべく相当細かく言葉を切ったり貼ったりしていったその苦労の経緯がWikiにあった。えらく渋くてかっこよくてびっくりした。

あと、この映画に出てくるユーストンの駅の構内には、まだメール配送をしていたこの頃の名残りが残っているって。

Locomotion (1975)

続いて鉄道誕生150年の記念に作られたGeoffrey Jonesによる15分の短編。
蒸気機関(Locomotion)の発明から当時の先端電車まで、フォルムの不思議を追いつつ、どうやって技術の革新を成し遂げ、エリアと乗客のベースを広げて発展していったのか、を実験映画ふうに描いて、かっこよい。あまりにかっこよすぎて、今のぼろぼろの地下鉄のイメージとのギャップをどう見たらよいのか、とか。音楽はやはりぜんぜんそう聴こえないSteeleye Spanが。

Overture: One-Two-Five (1978)

時速125mph(時速201キロ)で走る(当時)最新鋭の都市間高速鉄道を宣伝したフィルム。台詞はなくてDavid Gowの音楽のみ。繰り返しになるけどこの問答無用の落ち着きはなんなのだろうか。進化とか発展を素朴に信じることができた時代の - ?

British Rail Corporate (1988)


“Chariots of Fire” (1981) - 『炎のランナー』で、英国にオスカーをもたらしたHugh HudsonとVangelisのコンビが作ったCM作品。 これもきらきらしすぎていて冗談にしか… 

日本の鉄道もそれなりの伝統はあるのでこういうドキュメンタリーはあるのだろうが、日本のってどうしても「思いを乗せて」、みたいな情緒的なものになりがちな気がする。今回見たのはどれもこの機械すごいだろー、でしかなくて、さすが産業革命の国(よくもわるくも)、って思った。

あと、よくわかんないのだが、英国ではOvergroundとUnderground (地下鉄)って別扱いなのだろうか? とか、ストにやられた4日間を振り返りつつ。


911の日でした。忘れないように。
ここ数年思うのだが、あの時と比べて、はっきりと世界は悪くなっているよね。規模とか件数の話ではなくて。

9.10.2025

[music] St. Vincent

9月3日、水曜日の晩、Royal Albert HallのBBC Promsで見て聴いた。
クラシックがメインのBBC Promsだが、毎年数組はRockやPopular系の人の枠があって、今年は彼女が。
前座なしで20:00きっかりのスタート。

彼女がクラシックの方に寄って何かやるとなると、2018年にピアノのThomas BartlettとふたりでCadgan Hallでやった彼女の歌にフォーカスしたライブを思い起こしたが、今回会場にはフルオーケストラがセットされていて、パーカッションの並びと装備が壮観。パーカッションは3名、コーラスも3名(女2、男1)、彼女のバンドのベース、ドラムス、ギターもその森のなかに埋もれ、指揮はJules Buckley。 オーケストラが配置についた後、最初に彼と、今回の編曲を担当したキーボードのRachel Eckrothが現れて配置につき、ゴージャスなインストゥルメンタルの”We Put A Pearl In The Ground”から。一聴して、ものすごくふかふかで分厚くて滑らかで、7月に見た”All Born Screaming”ツアーのごりごりばきばきのサウンドスケープからすれば笑っちゃうくらい、ものすごく違う。 

2曲目からSt. Vincent – Anne Erin Clarkが黒のスーツで現れて、”Hell is Near”から歌いはじめる。彼女の声の肌理って、David Byrneとやった頃からどんなアレンジにも楽器たちにも負けない、背景がどんなに変で分厚くとも、分厚いほど活きて飴のように伸びる艶を持っていることが明らかになったと思うのだが、今回のは本当にバックの音の海に全てを委ねて気持ちよく渡っていくような。

3曲目くらいからエレクトリックギターを下げて、でもオーケストラがいるので自在に動きまわり弾きまくることもできず、でもだんだんその箍が外れていって、終盤の”New York”ではマイク片手にピットに降りていって、(自分の席からは見えなかったけど)観客と一緒に飛び跳ねていた。

曲構成としては初期の”Marry Me” (2007)や”Actor” (2009)からの曲が - 久々に聴いたからかも知れないけど、ものすごくよく響いていた。曲の作り方とか、この頃は少し違っていたのではないか。

今回のに関してはアレンジのRachel Eckrothの功績がものすごく大きいと思って、メンバー紹介でも、「彼女をパーティに誘ってもラップトップを持ってフロアの隅で編曲していた」というくらいにすばらしく重厚な、ところどころポップで軽やかな絨毯を編みあげていた。彼女、過去にはRufus WainwrightやAimee Mannのキーボードやアレンジもやっていたそうで、なるほどー、しかないわ。


Throwing Muses

9月9日、火曜日の晩、Village Undergroundというライブハウスで見ました。

NYにも同名のコメディをやっている小屋があるが関係はないと思う。Villageではなく町の外れにあって、Undergroundではなくただの倉庫スペースのようなところ。 客は自分も含めて老人ばかりなので立っているのがきつそうだった(し、帰りはストのおかげでバスが来ないし)。

Kristin Hershのソロは、2018年、Robert SmithがキュレーションしたMeltdownのフェスで見ていて、その時にもMusesの曲はやっていたので、バンドでライブをやるとは思っていなかった。(そういえば丁度いま、Tanya DonellyもBellyでツアーをしている)

前座はforgetting you is like breathing waterというトランペットとギターの二人組で、名前だけだとリリカルふうだが、音はギターの轟音の上にトランペットが雲のように覆いかぶさるインストゥルメンタルで、やかましいけど気持ちよかった。

今回のライブは今年3月にリリースされた新譜”Moonlight Concessions” (2025)をフォローしたもので、バンドの3人+チェロで、最初から最後までずっとこの構成を崩さず、殆ど喋らずにひたすら演奏を重ねていくだけ。

彼女のソロの時のライブは座ってリラックスして、いろんなことを喋りながら演奏していった記憶があるが、バンドだとやはり違うのか、口元はミューズの微笑みを湛えていても目が笑っていないし、音の荒れようときたら30年前のバンドのそれではない。ギターをアコギに変えても、チェロとドラムスのアタックがぶつかりあってよりやかましく聞こえるし。

新譜と今世紀に入ってからの作品がほぼだったので、知らない曲も多かったが、“Counting Backwards”とかはやはり盛りあがる。それ以上に、この曲がまったく浮きあがってこないくらいに、どの曲もおなじ粒の硬さ粗さで磨かれていたのがすばらしいと思った。明るくも暗くもない、歌いあげることも、はぐらかすこともない、少し下を向いてちょっと不機嫌にひたすら地面を蹴り続けるミューズの姿があって、それはそれは素敵ったらなかったの。

[film] The Woman in the Hall (1947)

9月4日、木曜日の晩、BFI Southbankのシリーズ”Projecting the Archive”のお蔵出し35mmフィルム上映で見ました。
原作はG.B. Sternによる1939年の同名小説、監督はJack Lee。

イントロで、この作品が映画デビューとなった女優のSusan Hampshireさんが出てきて、当時のオーディションの様子などをお話ししてくれた。現在88歳になる彼女は完成されたこの映画を見ていないそうで、このトークの後に見るのだと。 9歳のデビュー当時の自分の姿を初めてスクリーンで見る、ってどんなかんじなのだろうか?

戦後の苦しい時期、家族の絆やよき父や母の像が求められ描かれていた頃に、こんな毒母モノがあったのか、と。 未亡人のLorna (Ursula Jeans)はプロの物乞いで、きちんとした身なりで娘を連れて、お金持ちぽい邸宅を訪ねていく。タイトルの”The Woman in the Hall”は、執事が主人に彼女が来ていることを伝える時の言葉で、そうして客間に通された彼女は娘と一緒に偽りの身分ででっちあげのかわいそうな話をすると、それは大変ですね、といくらかを恵んでもらう。身なりもきちんとしたLornaの揺るぎない語りもあって彼女の不幸物語を疑うお金持ちは殆どいないし、彼女も自分の行いをまったく悪いことだとは思っていない。

かわるがわる母に連れられて騙しの道具として使われていた娘たち – Jay (Susan Hampshire)とMolly (Tania Tipping)も大きくなって手を離れたので、次の大博打 - 富豪のSir Halmar (Cecil Parker)に近づいて彼と結婚することにして、計画は着実にしめしめと進んでいったのだが、ある日Jay (Jean Simmons)が窃盗で捕まった、という連絡が入って、裁判所に出頭することになる。

法廷では当然証人としてLornaの素性が明らかにされてしまうので、もう全ては終わりか、になるのだが、それ以上に衝撃だったのは、Jayにとって窃盗したり人を騙したりすることは、小さい頃からずっとその現場にいてやりとりを見てきたので、まったく悪いと思っていなかった、ということであった…(そしてそんなキャラクターにJean Simmonsのあの表情が見事にはまる)

ジェットコースターのような法廷の場面は目を離せないのだが、なによりも戦後のイギリスにはこんな毒母 - 本人未公認 - もあった/いた(のだろうな、というのは感覚としてわかる)、というのをドライに切り取って見せていて、とてもおもしろかった。


A Place to Go (1963)

8月19日、火曜日の晩、BFI Southbankの同じプロジェクトで見ました。こんなのがいったいあと何本あるのか、底なしではないか…

監督はBasil Dearden、原作はMichael Fisherによる1961年の小説”Bethnal Green”。Bethnal Greenはロンドンの東の外れの下町で、映画に出てくる建物のなかには今もまだ残っているものがあるそう(そういうの、本当に素敵だと思わない?)

Ricky (Mike Sarne)はそこのタバコ工場で働きながらいつか金持ちになってどん底から抜けだすことを考えている労働者階級のあんちゃんで、思いを実行に移すべく強盗を計画して地元のギャングのJack (John Slater)とつるんで、ついでにCharlie (William Marlowe)の彼女のCat (Rita Tushingham)と付きあい始めて。他にも道端で鎖抜け芸人をやっているRickyの父(Bernard Lee)とか、印象に残る下町の人たちがいっぱい出てくる。

犯罪ドラマ(成功するか失敗するか)、というよりはそういうのが湧いて出てしまう(そこから脱出して”A Place to go”に向かいたいと願う)界隈の人間関係などにフォーカスしたドラマで”A Taste of Honey”(1961)で既にスターになっていたRita Tushinghamが出ていることからもKitchen sink realismの方に分類されることもあるようだが、とにかくごちゃごちゃと落ち着かず、全体としてはしょぼくれていてなんかよいの。

本当にこういうの、TVドラマも含めて今でもいっぱいあるので、みんな好きなんだろうなー、と思って、Kitchen sinkについては本を買って見始めたりしたところ。なぜ、例えばアメリカがノワールで塗りつぶしてしまったようなあんなことこんなことを、イギリスは律儀に表に出して並べてみせるのか、という辺りに興味があるの。


今日は10月のLondon Film Festival (LFF)のチケットのBFIメンバー向け発売日だった。
10時にサイトオープンで、でもすっかり忘れていて10:30に入ったらキューが約3万.. やっと入ることができたのは12:50頃で、もうめぼしいところはほぼ売り切れていた。

少し待てば一般公開されるので高いチケットを買う理由があるとしたらゲストに会う/を見るため、でしかなくて、その欲もあんまなくなってきているので、チケットを買ったのはほんの少しだけになった。始まったらどうせ当日のを狙ってしまうのだろうがー。

9.09.2025

[film] Kaj ti je deklica (2025)

8月31日、日曜日の昼、BFI Southbankで見ました。

英語題は”Little Trouble Girls”。原題は「彼女どうしちゃったの?」くらいの意味らしいが、英語題は最後に流れてくるSonic Youthの同名曲(”Girl”の単数複数の違いはあるが)から。あの曲がこんなかたちではまってしまうとは。

監督はスロベニアのUrška Djukić(脚本にも共同参加)。 彼女にとってはこれが長編デビュー作となる。
今年のベルリン国際映画祭で、FIPRESCI Prize(Perspectives)を受賞している。

16歳のLucija (Jara Sofija Ostan) はカトリックの学校で女性合唱団(の部活?)に所属していて、冒頭から厳しめの男性コーチに鍛えられている。彼女はすっぴんでおとなしく、目はぼーっと宙を眺めつ内側に篭っていて、彼女の隣にはメイクもしていてLucija から見ればとても大人なAna-Marija (Mina Švajger)がいて、面白半分にいろいろ教えてくれる。

合唱団は毎年恒例らしいトリエステ近郊の修道院での強化合宿にバスで向かって、川が流れていたりきれいな田舎なのだが、バスの窓から河原に全裸の男性が立っているのを見てしまったり、それくらい周りにひとのいない田舎で、中庭のある修道院は工事中で昼間は工事の音がやかましく、さっきの全裸男はそこの作業員のひとりであることがわかる。

コーラスの練習は厳しくてコーチは何度も繰り返しLucijaに「目を覚ませ」と言い続け、彼女ひとりで歌わせて、でも彼女はずっと目を覚ましているし、でも音楽よりもAna-Marijaと川べりに行って川辺で裸になっている作業員たちを見たり中庭のオリーブの木を眺めたりする方に興味があったりする(ように見える。表情などから)。

ただこの作品は、世の薄汚れた男たちが期待するような少女の所謂「性の目覚め」(ってそもそもなに?)を描いたような作品とはちょっと違っていて、Lucijaの内面の声や葛藤が描かれたり、それが何かをキックして具体的な行動や発言として表に現れたりすることは殆どない。彼女のクローズアップは何度も出てくるが泣いたり怒ったりといった感情が露わになることもなくて、ほぼ何を考えているのかわからないまま – そしておそらくそれが男性コーチの苛立ちの根にもある - そんなLittle Trouble Girl。

なぜ合唱の声はあんなに美しく、その雲が教会にある聖女の像などと結びついて聖なるイメージを形作るのか、なぜAna-Marijaの誘いはなんでもかんでも性的なものに導いているように見えるのか、Ana-Marijaがかっさらってきた作業員のシャツをわざわざ彼のところに返しに行ったLucijaは一体なにを考えていたのか、そういったところに目線や考えを導いていって、それは謎のまま謎としてなんだか心地よい。そして聖なるものとは、性的なものとは、なんであれらは我々を虫のように惹きつけてしまうのか、についてシンプルに映像で結んで語ろうとする。

最後のコーチが強いてくる対決、のような場面の描き方もはらはらするけど、それに続く場面でLucijaはあれでよかったのだ、と思わされる。彼女はあの後どうしていくのか、はあるけど、とりあえずよくあるところには着地していないような。

JLGが生きていたら絶対Lucija - Jara Sofija Ostanをキャスティングして何か作っただろうな、そんなわかりやすい透明感があって、そこは悪くない気がした。

9.08.2025

[theatre] Till the Stars Come Down

8月30日、土曜日の晩、Theatre Royal Haymarketで見ました。
もとはNational Theatreのプロダクションで、評判よかったのでWest Endで再演になったもの。原作はBeth Steel、演出はBijan Sheibani。
ステージ上にも客席が設けられていて、彼らは披露宴の賓客扱い、なのだと思う。

ある家族の結婚式〜披露宴の一日のあれこれを花嫁側の家族 - 女性が多く & みんな強い - を中心に追っていく。お葬式と並んで下世話でしょうもない内輪の愚痴や醜聞ネタに溢れかえり、でも思い当たるところもいっぱいなので、そうだよねー、とか場合によってはもらい泣きしてしまったりする(作る側としては)安全ネタでもあるのだろうが、この舞台はあれこれ豪快にぶちまけつつも、タイトルが指し示すような宇宙的なスケールで迫ったり飛ばしてくれたりする。翌日にはきれいさっぱり忘れてしまうのかもしれんが。

舞台は炭鉱のある(あった、なので生活は楽ではない)マンスフィールドの町で、Sylvia (Sinéad Matthews)がポーランド人のMarek (Julian Kostov)と結婚する蒸し暑い夏の日。Sylviaは三姉妹で、姉妹のMaggie (Aisling Loftus)とHazel (Lucy Black)と一緒に朝から身支度だなんだのてんやわんやで、こんなんでどうすんのよまったくもう! になったあたりで真打ちのように叔母のCarol (Dorothy Atkinson) - なんでも首つっこむのが大好物 - も登場して、とにかくこの暑さはなんなのよ! って朝からパンツが飛ぶような - ほんとに履いてたやつが飛んでくる - 大騒ぎになっている。

でもそういう喧騒から少し離れて、スペースシャトルの模型を手にして宇宙を夢見ている小さい姪っ子もいる。結婚するのなんかより宇宙に行ってみたいな、って。

女性たちのグチや軽口、噂話あれこれはかつてどこかで聞いたことがあるような、具体的な家族・親族構成を知らなくてもどの辺のあれか、想像がつくようなインターナショナルなものばかりで、ここに新郎がポーランド人であることからくる移民の話、さすがにヘイトまではいかないものの格差や階級起因の差別の話も絡まってバラ色の、夢の結婚生活、明るい将来について語るのは注意深く避けているような。

それでも真ん中のふたりは好きになったから、そういうのを一緒に乗り越えるのだ、ってことで結婚するのだし、だからとにかくめでたいじゃないかみんなで祝ってあげようよ、って感動的に盛りあがったそのピークで、上からばっしやーん、ってタライぶちまけの雨がきてずぶ濡れになって1幕目が終わる。

2幕目は最初からミラーボールにディスコのどぅどぅの耳鳴りが夜通しずっと鳴っているパーティーで、もう聖なるセレモニーは終わったので後は呑んで歌って踊って騒ぐ、というより恥も欲もまるだしで各自やりたいようにやる… ってなるとこれまで背後で割と地味でおとなしめだった男性側の方からもあれこれやばいのが出てきて罵り合いいがみ合いどーすんのこれ… になっていく。

ここまでくるとさすがに婚姻の意味とか、家族であることの理由とかまで考えてしまわないでもないが、そういう謎や神秘が、星が降ってくるくらい空に溢れかえっていること、そのなかを毎日毎日くるくる自転しながら抜けていっている地球のことなどを考えておくと、割とどうでもよくなれるのかも - わからんけどしらんけど - みたいな突き放した目線もあったりしてよいかんじ。 少なくともよかったよかった幸せになりいな、みたいな押し付けがましい年長者の嫌らしい落着感からは距離を置こうとしているような。

結婚モノ、というより家族ドラマとしてよくできていると思ったので、彼らの1年後とかを見てみたいな、って思った。

あと、これを毎日毎晩ずっと演じている女性たち、すごいなー、って思った。


皆既月食の時間はBFIで映画見ていて見れなかった。どっちみち雲で見れなかったらしいが。
それより帰ろうとしたら地下鉄のストが始まっていて、とってもめんどうくさかった。
 

9.06.2025

[film] Drømmer (2024)

8月17日、日曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。

日本でも公開が始まっているノルウェーのDag Johan Haugerudによるオスロ三部作。日本に行ったりしている間に上映が終わって、”Love”だけ見逃してしまい、とりあえず見た2本についてだけ書いておく。Joachim TrierのOslo trilogyと混同していて、あんま乗れないでいたら別物だったことに気づいた。

こちらではKrzysztof Kieslowskiのトリコロール3部作に匹敵する、みたいな宣伝文句もあったが、そこまではー。

Drømmer (2024)


こちらでのタイトルは”Oslo Stories Trilogy: Dreams”。
3部作を順番通りに見ようとすると、これが最後にくるらしいが、知らないで最初に見てしまった。

17歳の高校生Johanne (Ella Øverbye)がいて、シングルマザーのKristin(Ane Dahl Torp)と暮らし、祖母のKarin (Anne Marit Jacobsen)がいて、特に不満も問題もなさそうだが、なんか抱えていそうな。
そんな彼女のクラスに新任教師でテキスタイルのアーティストでもあるJohanna (Selome Emnetu)が来てから、一目で恋におちたJohanneは落ち着かなくなり、彼女の姿を目で追うようになってどうしようもなくなり、夜の街を彼女の家まで追っていってドアをノックしたら泣きだしてしまい、Johannaは彼女を抱きしめて家に入れてあげる。

後半は、JohanneがJohannaとの親密な時間について書いたものを出版経験のある祖母に見せて、祖母はその大胆で脆くて熱い孫の書いた内容を母にも共有して、これは事実なのかJohanneの夢とか妄想みたいなものなのか、それはそうとしてテキストとして出版してもよいくらいよく書けているけど、どうしようか、みたいなことを自問したり会話したり、母はどうしようもなくなってJohannaのところに行ってみたりする。

JohanneがJohannaのフラット(すごくすてきな部屋よね)で過ごした(実際に起ころうが起こるまいがの)夢の時間、そこから紡がれた夢の織物を巡って、それぞれがいろんなことを思ったり言ったりして、決して理解したり共感しあったりするものではない、ただ17歳の娘/孫の夢に巻かれてあうあう右往左往する、その3代がなんかよいの。これが例えば男性中心の(3代)だったらどんなドラマになっただろうか - ぜんぜん見たくないや - とか。


Sex (2024)

8月24日、日曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。“Oslo Stories Trilogy: Sex”。
タイトルでなにかを期待してきてしまった人はかわいそうに。

これが3部作の最初の1本だそう。
煙突掃除を仕事にしているふたりの男が休憩時間か終業後なのか、見晴らしのよい屋根の上に座って話をしている。男A (Jan Gunnar Røise) が男B (Thorbjørn Harr)に、自分がDavid Bowieに女性として見られている変な夢を見る – しかもそれが悪くないかんじのでー、という話をしてから唐突に、こないだ男性とセックスをした、と告白 – というシリアスなトーンではなく、お菓子を食べました、みたいな軽い調子で、向こうから誘われて、一旦断って外に出たけど戻ってついやってしまった、みたいな調子で言う。男Aとってはこんなふうに話してもどうってことない、ってかんじで、やったからといって自分はゲイではないと思う、なんて言う。晴れた日、屋根の上で煙突掃除のおじさんふたりがそんな話をしているのがなんかおかしい。

その場は、へえおもしろいねえー、くらいのかんじで終わるのだが、男Aはそれを妻 (Siri Forberg)にも同じ調子で話しちゃって、そうしたらその内容は妻にとってはえらい衝撃で、あなたにとってセックスはそういう「程度」のものなのか、それは大切な人とするものではないのか、って彼の方は言葉に詰まったり謝ったりしてみるのだが、そもそもそんなに悪いと思っていないから喋ってしまったものなので予想していなかった(それはどうか、だけど)彼女の反応に当惑して、ふたりの関係は気まずいものになっていく。

これも↑の”Dream”と同じように、当事者によって語られたことが当人の意図とか事実なのかどうなのか、を超えて親しい人になにかを投げかける、その波紋がもたらす困惑や混乱を追っていて、それが実際に起こったことであるかどうか、ではなく、その宙に浮いて当人が思ってもいなかった空気を作りだしてしまう、その波模様がおもしろい。 彼にとっては女性として見られている夢の方が注視すべきことなのだろうが、そっちの方は誰も相手にしてくれなかったり。

この2作、おもしろいなー、と思いつつも、これのどこがおもしろいんだろうか? というのを考えさせるところもあって、まだ考えたりしている。愛でも夢でもセックスでも、行為そのものを描こうとしないその立っている位置、だろうか。

あと、機内で見たら気持ちよく眠れそうな映画かも。

9.05.2025

[film] The Roses (2025)

8月30日、土曜日の午後、Picturehouse Centralで見ました。

原作はWarren Adlerによる“The War of the Roses” (1981)、これを元にしたMichael Douglas & Kathleen Turner主演、監督Danny DeVitoの同名映画(1989)のリメイク、だとしたらおもしろくなるかも、と思った。

監督はJay Roach、なのだが脚本がYorgos Lanthimosと仕事をしてきたTony McNamara、ということでこの取り合わせも含めてだいじょうぶか... にはなったが。

Ivy (Olivia Colman)は駆け出しのシェフで、Theo (Benedict Cumberbatch)は新進の建築家だった頃にイギリスで出会って恋におちて結婚して、ふたりでアメリカ西海岸に渡って子供たちも育って、Ivyは浜辺に小さなシーフード(蟹)レストランを開いて、Theoは彼のシグネチャーとなるMuseumの建立を見届けたところ、まではすべてがきらきら輝いていたのだが、でっかい台風が来て、彼の建物はみんなの見ている前で粉々に崩れ落ち、他方で同じ頃Ivyのレストランにたまたま避難していた高名なフードクリティックが彼女の料理を絶賛したことから、彼女はたちまちスターシェフの仲間入りをしてしまう。自身の建築が崩れていく前で罵詈雑言を吐いて地団駄を踏む動画を世界に拡散されたTheoは一瞬ですべてのキャリアを失い、翌日からは家事とふたりの子供の教育に専念することになる。

最初のうちは互いを思いやったり手伝ったりしていくものの、明らかに不健康に腐っていきそうなTheoと、彼が体育会系のばきばきに鍛えあげてしまった子供たちの姿を見たIvyは、海が見える高台に自分たちの夢の家を作ろうって彼に設計を任せて、彼は建築家としての夢を存分に発揮してすべては元に戻ったかに見えたのに、友人たち - Andy SambergとかKate McKinnonとか明らかにやばい面々 – とのパーティで改めて壊され崩されて、ふたりの仲は修復不能な地点にまで行ってしまう…

天災をきっかけに運命が二分されて一方は天に昇って一方は底に転がり落ちていく、のはわかるのだが、このドラマでは明らかにTheoの方が病んでいって、Ivyがそれに我慢できなくなったような描かれ方で、それでよいのか。互いの関係の根深いところに許しがたい要因が芽吹いて、それはふたりがふたりでいる以上どうすることもできない致命的なやつだった(ので殺しあう。しかない)というのがオリジナル版の孕んでいた凄みだったと思うのだが、そこが仕事 - 家事と育児のバランスの崩壊、という現代的なテーマの下で再構成されてしまった結果、つまんなく薄められちゃったのではないか。

なのであの最後はがっかりだったかも。Olivia ColmanとBenedict Cumberbatchが殺し合うなんて、絶対すごいところ、行きつくところまで行ってくれると思ったのになー。


Another Simple Favor (2025)

8月23日、土曜日の何時頃だろ、日本に向かう機内で見ました。
“A Simple Favor” (2018)からの、監督もメインキャストもストーリーも引き継いでの真っ当な続編。

あれから5年、Stephanie (Anna Kendrick)は人気vlogger & 素人探偵として本まで出す人気者になっていたが、彼女がネタにしていたEmily (Blake Lively)が控訴審でなぜか仮釈放され、イタリアの大金持ちの一家 – なかみはたぶんマフィア - と結婚する、カプリ島で式をあげるのでメイド・オブ・オナーとして来てほしい、という。これが”Another” Simple Favorなのだが、こんなの誰がどうみても憎たらしいStephanieを島に呼んで殺してやるからね、っていう誘い以外の何ものでもないのに、なんでStephanieはのこのこ寄っていっちゃうのか。そしてやっぱりばたばたと殺されていく大勢の人たちと、容疑者として追われることになるStephanieと。やがて明らかになるEmilyの家族の謎、というか不思議.. まだまだ出てきそうな気がする。 次は”Alternate Simple Favor” だろうな。


Love in the Big City (2024)


8月27日、水曜日の何時頃だろ、ロンドンに戻る機内で見ました。

自由で強くてかっこいい女の子Jae-hee (Kim Go-eun)と寡黙で何かを抱え込んでいる男の子Heung-soo (Noh Sang-hyun)の長い歳月に渡る友情の物語で、Heung-sooはゲイなのでJae-heeとの間で恋愛関係には発展しないのだが、常にお互いのことを気にしている。 昔からずっと続いていく(とそれぞれが勝手に思っている)ふたりの(面構えがすてきで)無頼な関係に対する、流れていってしまう時間、変わっていってしまうあれこれに対する切ないところも含めた年代記をBig Cityの物語として置いて、ちょっと長いし(でも長さが必要なことはわかる)、漫画みたいにくさい台詞もいっぱいあるのだが、なんか悪くなかった。 

9.03.2025

[theatre] A Man for All Seasons

8月20日、水曜日の晩、Harold Pinter Theatreで見ました。

原作はRobert Boltの同名戯曲 (1960)、1966年に、Fred Zinnemann監督、原作者自身の脚色、Paul Scofield主演で同タイトルで映画化され(邦題は『わが命つきるとも』)、作品賞を含む6部門でオスカーを受賞している(未見)。

これはTheatre Royal Bathのプロダクションで、今年の初めにバースで上演されて英国をツアーしている(なので1カ月しかやらない)ものがロンドンに来た。演出はJonathan Church。

英国の歴史もの、歴史上の人物が出てくる演劇は勉強になるので見るようにしている。人物像や歴史(ストーリー)を学ぶ、というのもあるし、出てきた人物に対する客席の反応 – Cromwellにブー、とか – を見るとなるほど、ってなったりもするし。

1520年代の終わりから1530年代にかけての英国で、Anne Boleynと結婚したいためにHenry VIIIはCatherine of Aragonとの結婚無効(離婚)を教皇から認めて貰いたいのだが、法を守る者として断固反対して意を曲げずに斬首されてしまったThomas Moreの像を、当時の政治・宗教だけでなく、彼を支えた家族も含めて描く評伝ドラマ。

舞台はチューダー朝ふうの重く荘厳な建物の内部で薄暗く、本棚にはびっしりの本の影があって、そういう中を(ほぼ)男たちが難しい顔で歩き回ったり怒鳴ったり密談したりしている。衣装も同様に法衣とか、家の中にいてもがっちりと重そうなのを纏っていて偉い人たちは大変そう。

主人公はThomas More (Martin Shaw)だが、他の重要な登場人物としてthe Common Man (Gary Wilmot)というのがいて、彼は召使いや船頭や看守、最後は死刑執行人などの顔をして常に現場(舞台袖)で聞き耳を立てていて、場面が切り替わるところで客席に向かってコメント(いまならtweet)したり、今の会話や動きが庶民の目や耳にはどんなふうに入っていったのか、を語り部のように教えてくれる。なかなか勉強にはなる。

Thomas Moreは最後まで落ち着いた人格者として描かれて、彼と正面から敵対するThomas Cromwell (Edward Bennett)にも、直接頼みにくるHenry VIII (Orlando James)にもブレることなく、激しい論戦を戦わせることもあれば沈黙こそが安全、って何も言わずに返すこともあり、相手側は戦術を変えてあれこれ噛みついてくるものの、日照りになろうが大嵐が吹こうが依って立つところ、正しいと思う軸はぶれないし動じない – そんな“A Man for All Seasons”であるMoreの姿の反対側で、妻Alice (Abigail Cruttenden)と娘Margaret (Annie Kingsnorth)にとってはよき夫でよき父で、彼の優秀さと正しさは十分に理解しつつも、そんなに曲げないでいると始末されてしまう、だからもういいから妥協して逃げましょう、って請うのだが彼がそう簡単に折れる人ではないこともわかっている。

なので、ここまで善悪と白黒がはっきりしたドラマであるのだから、Cromwellを中心とした悪玉の方にどこまでもゲスに悪どくなって貰いたいところで、実際彼は憎らしいくらいに狡猾で嫌らしいのだが、もっとひどくても、って思った。舞台セットがあそこまでずっと暗くて重いのだし。

この頃から約500年が過ぎて、自分の私利私欲のためには規律も法律もどうでもよい、なんならそっちを変えてしまえばよい、という政治家(+それに群がる官僚)がグローバルに溢れだした昨今(なんなんだろうね?) - “A Man for All Seasons”の意味も逆転したりして - もっとリアルに嫌らしくどす黒い政治ドラマにしちゃってもよかったのに、などと思いながらThomas Moreが斬首された建物の方に帰るのだった。

9.02.2025

[film] Shakespeare by Lubitsch

こないだ日本にいって、一番残念無念だったのはシネマヴェーラの特集『ルビッチ・タッチのすべて』のうち、たったの1本しか見れないことだった。1本見れただけでも、とすべきなのだろうが…

でも戻ってすぐ、BFI Southbankで月1回のサイレント映画特集で、ルビッチをやってくれた。
“Shakespeare by Lubitsch”と題して、2本立て。ライブのピアノ伴奏つき。

シネマヴェーラのプログラムでは “Meyer aus Berlin” (1919) - 『ベルリンのマイヤー氏』と”Romeo und Julia im Schnee”(1920) - 『田舎ロメオとジュリエット』の2本を束ねていたが、こちらはシェイクスピア由来(+バイエルン舞台)というこの2本立て。しかし、ルビッチって、”To Be or Not To Be” (1942)といいこれらといい、シェイクスピア(のコメディが?)好きだったのだろうなー、って。

Kohlhiesels Töchter (1920)  

8月31日、日曜日の午後に見ました。
2023年に修復を終えた4Kリマスター版で、上映時間は65分だったので、日本の(60分)とはバージョンが少し違うのかも。 英語題は“Kohlhiesel's Daughters”、邦題は『白黒姉妹』。
原作はシェイクスピアの”The Taming of the Shrew” (1590-92) - 『じゃじゃ馬ならし』。
ルビッチのドイツ時代のコメディで最も人気を博した作品で、でも第一次大戦があって、英国に入ってきたのはずっと後だったのだそう。

バイエルンに姉のLiesel (Henny Porten)と妹のGretel (同じくHenny Porten)の姉妹がいて、似てはいるけど性格も振る舞いも正反対で、Lieselは男勝りで力持ちで睨みを効かせてこわくて、Gretelはその真逆で所謂女性らしく、行商人への対応にしても旅人Xaver (Emil Jannings)とSeppl (Gustav von Wangenheim)への対応にしてもぜんぜん違って、Lieselが現れると場が凍りついてモノが壊れて惨劇となり、Gretelが来ると場が和らいで男達はめろめろになり、そうしてXaverはGretelにやられて結婚を申し込むのだが、彼女の父(Jakob Tiedtke)はまずLieselの結婚が先だからだめ、という。それなら、とXaverはLieselと結婚して、すぐ離婚してGretelと一緒になればいいんだ、ってLieselに近づいていって、その反対側でひとりになったGretelのところにはSepplが…

というのを一目瞭然のアクションと白黒の表情でぐいぐい引っ張りこんで笑わせて、なんかどこか変だけど、ま、いっか、とすべてを納得させてしまうすばらしさ。

Henny PortenとEmil JanningsがAnna Boleynとヘンリー8世をやった” Anna Boleyn” (1920) - 『デセプション』も見たいよう。

Romeo und Julia im Schnee (1920)

英語題は“Romeo and Juliet in the Snow”、邦題は『田舎ロメオとジュリエット』。原作はいうまでもなくあれ。

↑と同じバイエルンの山の民を舞台にした「ロメオとジュリエット」で、バイエルン人はナポリ人だから – ってよくわからないことが『ルビッチ・タッチ』の本には書いてある。

雪のなか、両家の対立がわかりやすく描かれて、結婚相手が決まっているジュリエット(Lotte Neumann)がロメオ(Gustav von Wangenheim)と出会って結婚したくなってもだめらしいから毒薬くださいー、ってふたりで薬局に行って、薬局もあいよ毒薬ねー って簡単にだしてくれて、一緒に飲んで横になって、それを見た両家はこんなことなら、って嘆くのだが毒がぜんぜん効かないので起きあがったらよかったよかった、になるの。すべてがどうでもよくてバカバカしくて、学生の自主映画みたいにいい加減なノリなのに何が来ても笑えてしまう。あと、ジュリエットの許嫁のバカ息子(Julius Falkenstein)が昔のビートたけしそっくりだった。


Design for Living (1933)

8月25日、月曜日の午後にシネマヴェーラ渋谷で見ました。 『生活の設計』。

原作はNoël Cowardの同名戯曲(1932)をBen Hechtが脚色している。
これに主演の3人だけで、5時間でも6時間でも見ていられる。(実際には91分)

パリに向かう列車の客室で広告イラストを描いているGilda (Miriam Hopkins)と画家のGeorge (Gary Cooper)と劇作家のTom (Fredric March)が一緒になって、3人は楽しく意気投合して、セックスしないという条件で共同生活を始めるが、やっぱりムリで、それぞれが不在の間にしちゃって、気まずくなること2回、Gildaは出て行って広告会社のボスでつまんない奴Max (Edward Everett Horton)と結婚するが、パーティに乱入してきたGeorgeとTomがめちゃくちゃにして、パリでまた元の生活に戻る。

まず元のデザインがてきとーでなんも考えていなかった、というか、デザインは割とちゃんとしていたがそこに暮らす人のことを考えていなかった、というか、そこで暮らす人々の挙動とかを想像したらそれらがなんか生々しすぎて笑えなかった、ということなのだろうか。それか、TomとGeorgeもやっておけばみんな平等で、破綻しなかったかもしれないな、とか。

こないだの”Materialists”の3人なら大丈夫だった(なにが?)のではないか、と思ったりもした。

「ルビッチ・タッチ」のおもしろいところって、映画としてうまくいっていない、とされる作品でも、何度でも見てしまえるところだろうか。俳優とか脚本のよさ、とは別の次元でついなんか。ちっとも名盤ではないけど、何度でも聴いてしまうレコードとおなじで。

9.01.2025

[film] Caught Stealing (2025)

8月29日、金曜日の晩、Curzon Bloomsburyで見ました。

これも見事な猫映画で、主人公はぼろぼろになりながらも猫のために生きようとする、そういう点でも似てい… 。

原作はCharlie Hustonの同名小説 (2004)で脚本も彼が、監督はDarren Aronofsky。キャストはなにげにすごい。

1998年、まだツインタワーが見えるNew YorkのLower East Sideで、Hank (Austin Butler)はお気楽なバーテンをしていて(当時あの辺にあったバーの再現度合いがすごい)、MLBのSF Giants - ボンズがいた頃の – の熱狂的なファンで、彼自身も野球選手だったが、痛ましい事故によりキャリアを断たれたことが後でわかる – 彼と電話(主に固定電話の留守電)でやりとりする母親とは最後に必ず”Go Giants!”でしめる。

彼がアパートに戻るとモヒカンパンクの友人Russ (Matt Smith – こないだのフォーク・ホラー”Starve Acre”ではゴス系の長髪だった) が父が倒れたのでロンドンに戻る、その間の猫の世話を任されて、軽く受けたらその後にロシア人のやくざたちがやってきて一方的にぼこぼこにされて気を失い、恋人の救急救命士のYvonne (Zoë Kravitz)に救われて病院のベッドで目を覚ますと腎臓を失っている。

なにがなんだかわからないままNY市警のRoman (Regina King)に連絡を取り、彼女にいろいろ教えて貰うと、Russはハシディズム(ユダヤ人)の悪名高い兄弟に絡む麻薬の売人をしていて、その金をどこかに隠してて、ロシア人たちが探しているのはその隠し場所の鍵であるらしい。 どうにか鍵を見つけてNYに戻ってきたRussと隠し場所を確認したら今後はHankがその鍵をどこかに失くして… と、全体としてはよくある巻きこまれて逃げ回って絶体絶命、味方だと思っていたら実はそうではなかったり、形勢が二転三転しつつも全体としては逃げても逃げても痛めつけられ散々な目にあっていく系ので、バイオレントな描写もいっぱい、彼のまわりの人々も容赦なくどんどん殺されたり死んだりしていって、Hankはその度にめそめそするのだが、一発逆転はあるのか、盗塁は成功するのか、みたいな。

容赦ない暴力が支配する世界に放り込まれ、悲惨な事故によってスポーツへの道を断たれた若者はどうやって突破口を見いだすことができるのか、やっぱりスポーツ的な機転とか反射神経の話になっちゃうのか。Austin Butlerがあまり体育会系の強さや獰猛さを持ち合わせているように見えない(←偏見)ところがちょっと。“The Bikeriders”(2023)の時にもそれは思ったのだがー。(子犬みたいにめそめそしているのが実にサマになる)

YankeesでもMetsでもなくSF Giantsである、という一点がどこかで効いてくるのか、と思ったがあまり関係なかった。ルーツを異にするギャングたちにとってはどうでもよく、そもそも通用するわけがない、というオチでよいのかしら。

NYのLESのぼろくてやばい佇まいに加えて、Flushing Meadows ~ Shea Stadium ~ Coney Islandまで、更にはユダヤ人コミュニティからロシアのサパークラブまで、地味できつめなNY暮らしの諸相を押さえたNYの裏通り映画としてはよくできているかも。憧れの高飛び先としての楽園(Tulum)まで込みで。

音楽はIdlesが全編を書いているが、Smash MouthとかSpin DoctorsとかSemisonicとか懐かしいのもちょこちょこ聞こえてくる。もっといろいろ流してくれてよかったのに。

しかし、最後に流れたあのバンドのあの曲には吹きだしてしまった。確かにその通りの曲ではあるのだが、これを荒れまくった犯罪映画のラストに持ってくるのかー、と。

[film] Sorry, Baby (2025)

8月28日、木曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

日本から戻って、早く戻さねば(なにからなにをどこへ?)、ということで夕方に”Escape from New York” (1981)を見て、その晩の2本め。ものすごくよかった。

作・監督・主演はEva Victor、これが彼女の長編デビュー作で、今年のサンダンスでプレミアされていて、グローバルの配給はA24。

“The Year With the Baby”から始まって”Sorry, Baby”で終わる4章からなり、時系列は少し行ったり来たりがある程度、びっくりするような段差はない。

マサチューセッツのそんなに田舎ではないところ、大学で近代文学を教えているAgnes (Eva Victor)がひとりで暮らす一軒家に友人でクラスメートだったLydie (Naomi Ackie)が車で訪ねてきて、いっぱいハグしていろいろ語りあう。Lydieはお腹が大きくてもうじき生まれそうで、後で彼女は同性結婚をして人工授精を選択したことがわかる。そういったことも含めてふたりは互いのことをとても大切な友人だと思っていることがわかる。

そこから話はふたりがその家に一緒に暮らしていた学生の頃に遡り、修士論文を書いていたAgnesが彼女の草稿を褒めてくれたり『灯台へ』の初版本(US版かUK版か?)を貸してくれたり好意をもってくれているらしい教諭のDecker (Louis Cancelmi)の指導を受けるべく彼の自宅を訪ねていったら性加害を受けてしまう - そのシーンの描写はなく、彼女が彼の家に入り、周囲が暗くなってからその家を出て硬ばった表情で放心状態で家に帰ってLydieのケアを受けるところで初めて明らかになる。

翌日医者に行っても、すぐに来てくれれば フォレンジックできたのにと言われ、Deckerは突然大学を辞めて別の学校に移り、彼女が性加害の件を大学に訴えでたのはその後だったので、学校として彼をどうにかすることはもうできない、後は警察に行きますか? と女性の職員たち(「私たちも女性ですから」って)に問われた彼女は彼には子供もいるしもういいです、と投げてしまう。

その後、Agnesはjury dutyを要請されても性加害を受けたのに相手を告発できないような自分に人を裁く資質はない、と辞退したり、Deckerの後任として非常勤から常勤職に昇格できたものの殻が抜けたようになってパニック障害に襲われ、サンドイッチ屋の主人(John Carroll Lynch)に救われたり、隣人のGavin (Lucas Hedges)とてきとーな(なにを求めているのか不明な)関係をもったり、事件から3年が過ぎても極めて不安定で落ち着かない。けど、自分では/自分でもどうすることもできない。

性加害の事実を掘り下げて、その罪や問題のありようを問う、あるいはその痛みやトラウマを共有する、そういう映画ではなく、それを受けてしまった人はこんなふうになってしまうのだ、それは共有したり癒されたりする/できるようなものではないのだ、ということを淡々と綴る。だから画面から受ける印象はユーモラスと言ってよいくらいに乾いていて軽く、”Sorry, Baby”という呟きにはその辺りも含まれていると思う。(もちろん、だからと言って許されてよいようなものではまったくない。むしろ、なぜ彼女にそう言わせてしまうのか、ということが... )

最後、Lydieが連れてきた赤ん坊を前にAgnesがひとり淡々と呟く”Sorry, Baby”は、殆ど大島弓子世界のあれで、ここか、と思った。自分も含めて世界はほんとうにクソでしかない、そんなとき、かろうじて口にすることができるのは…

あと、この言葉は彼女が拾った子猫のOlgaにも。

8.30.2025

[log] Tokyo - August 2025

8月23日、土曜日の朝にヒースローを発って、24日、日曜日の朝に羽田に着いて、27日、水曜日の朝に羽田を発って、同日の夕方にヒースローに着きました。正味3日間の滞在。

もちろん覚悟はしていたのだが、とにかくものすごく酷い暑さだった。うまくいかないのはぜーんぶ暑さのせいにしてよい、そういう暑さ。
帰国の理由メインは4月の手術後のチェックと人間ドックだったのだが、この環境であんなのやったって暑さでしんじゃったらどうする? くらいの。

ふだんの運動らしきものとしては、映画館と美術館とギャラリーと劇場と本屋の行き来のみ - 会社はやるきなしでだらだら這うのでカウントしない - の者としては、この「運動」すら許してくれない酷暑をどうしてくれよう、なのだが、こんなのでくたばりたくはないので数と範囲を限らざるを得なかった。

いか、簡単な備忘を - 全部は書いていません。

団地と映画 @ 高島屋史料館TOKYO

24日の最終日にどうにか。狭い展示スペースのなかに、戦後の高度成長期と共に形成されていった都市、その住空間として象徴的な機能、記号として根を張って広がっていった「団地」について、そこを舞台とした映画について白板に書き散らしていったものを纏めたような。ものすごい記憶の集積と労力の掛け算によるアウトプットだと思う反面、これを自分の脳内の地図にマップしていくだけの時間がなかった。実際にどこかで映画の特集を組んで見ていくしかないのかも。

難しいだろうけど、なんで団地なのか、団地的なものがあの当時の日本の都市で形成されていったのか、の方に興味があって、それは展示というより研究になっちゃうのかしら。

記録をひらく 記憶をつむぐ @ 国立近代美術館

24日、日曜日の夕方、へろへろで竹橋に向かう。今回の訪日の失敗のひとつは、月曜日を3日間の真ん中にしてしまったことで、月曜日って殆どの美術館閉まっているからー。でもこれはなにがなんでも見ようと思っていた展示のひとつ。

アートは戦争に利用される、アートは戦争に反対することもできる、アートはそうやって戦争に関わってきた、という「記録をひらく」こと、そういうのを横目に(例えば)こんな悲惨な目にあった、という「記憶をつむぐ」こと、どちらもアートの用途で目的のどまんなかとしてあり、これらを俯瞰してなお、「アートに政治を持ちこむな」なんて言うのは、自分はとてつもなく鈍いおバカさんである、って宣言しているようなもんなので、いい加減目をさましな。これらぜんぶ企画展ではなく、まるごと常設展示しておくべきではないか。

リアルであること、の意味について改めて考える。最近だったらAIに頼めばいくらでも量産してくれそうなこれら戦争の絵画たちについて。

あと、常設コレクションの7室でやっていた『戦後の女性画家たち』の展示がとてもよかった。

ロンドンのNational Army Museumでも“Myth and Reality: Military Art in the Age of Queen Victoria”という結構規模の大きい展示をやっているので、そのうち行ってみたい。

生活の設計 - Design for Living (1933)

シネマヴェーラのルビッチ特集、せめて1本くらいはー、ということで25日、月曜日の午後に見ました。 これは後で書きます。

Sentiments Signes Passions, à propos du Livre d'image, J.L. Godard @ 王城ビル
『《感情、表徴、情念 ゴダールの『イメージの本』について》展』

この展示だけは月曜日にもやっていたのでルビッチの後に行った(共催?の春画展はあきらめ)。
これ、ゴダールの展示ではなく、ゴダールの『イメージの本』についての展示なのね。Webにはいろんな解説が溢れていたが、そういうのは見ないで入った。映画館でもギャラリーでもなく、やばい出しものをやっているそれ自体がやばそうな建物に入る。

建物の内部も段差だらけのぼろぼろで薄暗く、あちこち透けるカーテンのような布で仕切られていて、雑然と置かれたモニター上の映像の他にその布にも映像 - 『映画史』的な網羅感 - が投射されていて、それらの光を頼りに階段を上っていく。階段の踊り場や布の下にはいろんな本 - シオラン、ウルフ、リルケ、マラルメ、ベイコン、マッケ、などなどが置かれていて手に取って読んでもよいらしい。

前世紀であれば「テキストの織物」とか呼んだかもしれない引用、転用、に向かう手前の、目の前の雑多な「イメージ」を粗いままに端から置いて並べて、拾えるものは拾え、というリンゴ箱に置かれた「本」として、映画を構成するなにか、というより映画から紐解かれ解されたページの切れ端が並べられて、異なる時間間隔のなか反復されていく。

そこにあるのは妙に追いたてられるような切迫感 - 目に入るものは入れておけ、足元の本も拾って立ち読みでもいいから –で、映える廃墟ビルの光景と共にみんなカメラを回していて、これもまた「イメージの本」に追記され滞留していく何か、なのだろうか。恵比寿でのペドロ・コスタの展示 - ペドロ・コスタの展示こそ、この展示のあとにここでやればよかったのにー、とか。

気がつけば1時間経っていて、その時間の使われ方は古本屋でうずくまっている時のそれと同じで、ああそうか、なのだった。

↑の『団地と映画』展も、どこかの団地を使ってこれと同じ形でやれたらすごくおもしろくなったであろうに。


トランスフィジカル @ 東京都写真美術館


26日、火曜日の昼、人間ドックと次の診察の合間に。
『総合開館30周年記念』の展示(ここでの総合、ってなに?)。学芸員4名の共同によるオムニバス形式の企画展示で、「トランスフィジカル」。表象としての写真も映像も、すべてはふつうにトランスフィジカルなので、だよね? で止まってしまう気もしたが、気にしないで見る。 ここのコレクションにはおもしろいのもいっぱいあるし、何度でも見れるし。

Luigi Ghirri - Infinite Landscape  終わらない風景 @ 東京都写真美術館


これも『総合開館30周年記念』の企画展。彼もまた「トランスフィジカル」の写真家 – メタフィジカルにいく手前で辛うじて写真であることに留まった「距離」の人で、距離を棚上げ/宙づりすること –図形化することでそれは「終わらない風景」になる、と。
イタリアのなんでもない風景を撮った写真がよい。モランディのアトリエ、は昨年ボローニャで彼の美術館であれこれ見て、その奥行きと広がりにびっくりしたので、改めて恐々と見た。

難波田龍起 @ 東京オペラシティ アートギャラリー


26日の夕方、診断を終えた後に見る。
そんなに知っている画家ではないのだが、抽象画ってなに? というのに興味がわいて追いはじめたので。
「東洋的」、って、そういう形容が入った時点で既に抽象ではないのでは、と思いつつ、でもよく見ていると確かに東洋的な何かを感じないでもない。これってなんなのか。自分のなかのフィルターなのか、抽象化を施す過程になんかあるのかな、とか。


上記以外は、ほぼデパ地下とかスーパーでの向こう数カ月分のお買い物だったのだが、日本橋三越はよりによって英国展なんかやってるし、伊勢丹はカレーフェアだし。カレーなんてほんとどうでもいいし…

本はいろいろ買ったのだが、結局他の荷物 – ほぼ当面の食料 – との兼ね合いで置いていかざるを得ないのが増えて、それらがアナザー山として積まれていて、なかなか新鮮だったりする(いやそうじゃない)。

8.27.2025

[music] Michael Shannon & Jason Narducy

8月23日、金曜日の晩、The Garage、っていうライブハウスで見ました。 
ここで最後に見たライブは2018年のA Certain Ratioだったかも。

ハリウッド俳優Michael Shannonがバンドを組んでR.E.M.のLPをリリース順に全曲カバーしていくのをずっとやっている、というのは聞いていて、彼はついこの間まで、このライブハウスから歩いて10分くらいのところにあるシアターでEugene O'Neillの”A Moon for the Misbegotten”に出演していたので、そのついでになのか、と思っていたら、これがこのバンドで初のUS外でのライブ(UKツアー)だという。バンドメンバーはギターのJason Narducyの他にはベースがTed Leo、ドラムスがJon Wurster (ex. Superchunk)、もう1人ギターがDag Juhlin (ex. Poi Dog Pondering) という半端に(自分にとっては)豪華な編成。Michael Shannonの担当はヴォーカルで、R.E.MのLPとしては3枚目の”Fables of the Reconstruction” (1985)を全曲やる、という2 DaysのDay 1。Sold Outしたそう。

わたしはR.E.M.の”Murmur”(1983) を国内盤発売初日に買って(なぜか輸入盤が見当たらなかった)、このバンドの最高作は3枚目と4枚目であり、”Document” (1987) 以降のはあまり評価しない、という哀れな者である。1985年の初め、”Meat is Murder”というロールもドライブもしないエレクトリック・ギターの金網のアンサンブルにヴォーカルを乗せる、というスタイルを持つ極めて強力な英国からの1枚でその年は終わると思われたその7月、ジョージア州アセンズのバンドがプロデューサーにJoe Boydを起用してその年のトーンを決定づける1枚を上被せでリリースする。それがこの”Fables of the Reconstruction”で、バンドとしてもそれまでのMitch Easterプロデュースによるカレッジチャート狙いの青臭いものからreconstructする1枚となった - そういう重要作であるので、行かない理由なんてない。土曜日帰国の野暮用がなかったら2日とも行っていたかも。

前座なしで20:30頃に出てきたMichael Shannon(バンド)はコートを羽織って帽子にサングラスで、直立不動で1曲目の”Feeling Gravitys Pull”から歌いだす。彼の声の肌理がMichael Stipeのそれと結構似ているせいもあってか、アクのようなところも含めてとても強く響く。バンドのアンサンブルも見事で、特にJon WursterのドラムスはBill Berry特有のクセを的確に押さえていてすばらしい。

4曲目くらいからコートも帽子も脱いでTシャツになり、そこからのMichael Shannonのテンションは痙攣するパンクシンガーのそれで、俳優である彼にとってはMichael Stipeがあのようなスタイルで歌に乗せた言葉を自分のものとして吐き出す、というエクササイズでもあるのか、(Michael Stipeが彼らを評して言ったように)これは単なるカヴァーバンドではないし、某キアヌとか某ジョニーが金持ちの道楽でやっているそれとも違うと思った。

いまLuke Hainesと組んでツアーをしているPeter Buckも、Big StarのカバーバンドでツアーをしているMike Millesも、こっちに来てこっちのMichaelを支えるべきではないのか、くらいのことを思ってしまったり。

”Fables of the Reconstruction”を順番通りに全曲演奏した後、Velvetsの”Femme Fatale”をやって、一旦引っ込んでから、第二部と言ってよいR.E.M.のベストヒッツ - というのとも違うか - R.E.M. 全キャリアのなかから彼らの演りたいR.E.M.を演奏していく。R.E.M.以外では、Wireの”Strange”(R.E.M.の来日公演でもやってくれてとても嬉しかった曲)やPylonの”Crazy” - プロデュースはChris Stamey - もあってまあなんというか。それにしても、Michael Shannonの歌う”Strange”のはまり具合ときたらなんなのか。

彼らの次のツアーは4枚目の”Lifes Rich Pageant” (1986)になるので、”Preview”として”Cuyahoga”をやった。なんであの曲であんなに盛りあがってしまうのか謎なくらいの盛りあがり。次のツアーでも英国には来てね(来るって言ったよね)。

ラストはこれしかないだろう、という勢いで疾走する”Pretty Persuasion”で、ほぼ2時間たっぷり。ここまでくると、あんたこの先映画俳優やっていても変人怪人類の役しかこないんだから、このバンドと舞台でずっとやっていけば? って思うのだった。

[theatre] The Merry Wives of Windsor

8月18日、月曜日の晩、Shakespeare’s Globeで見ました。

↓の『十二夜』と並行して上演していて(どういうオーダーになっているのかは不明)、セットの一部とか共有しているのかと思ったら全然別物だった。切り替え、大変じゃないのかしら?

これのポスターやプログラムには頭にキツネの被り物をした女房ふたりがすらっと立っていてなかなかかっこよいのだが、彼女たちがその格好で出てくることはなかった。やや残念。

原作はシェイクスピアの1957年の戯曲。『ウィンザーの陽気な女房たち』 。初期のタイトルは”Sir John Falstaff and the Merry Wives of Windsor”で、中世が舞台となる『ヘンリー四世』の登場人物だったでぶ騎士のFalstaffをマルチヴァースで(執筆当時の)現代に転生させている。

演出はSean Holmes。舞台セットは落ちついた淡いグリーンに葉っぱ模様の壁紙が貼られたごく普通の内装インテリアっぽい。客席側に乗りだしたり張りだしたりはそんなになくて、見方によってはホームコメディのようでもあるから?

ここウィンザーに騎士Falstaff (George Fouracres)が意気揚々とやってきて、女でも引っかけてやれ、ってMistress Ford (Katherine Pearce)とMistress Page (Emma Pallant)に名前のところだけ変えた同じ内容の誘惑の手紙を同時に送って、仲のよい彼女たちは同じような恋文を同一人物から受け取ったことを知ると、あまりに失礼なこの野郎を懲らしめてやることにして、夫のいない時間に家に来るように誘う。騙し討ちのセッティングは完璧のように思われたものの、ここにこの裏事情を知らずに妻の浮気と勘違いしてしまう夫のFordや、Pageの娘のAnneの縁談 - 3人の候補がいて簡単にはいかない - が絡んで、全体はどたばたせわしないコメディで、ぼこぼこにされていくFalstaffをはじめ、ウェールズ訛りのひどい牧師Sir Hugh Evansとか、彼らの周りの召使いたちを含めた男たちの滑稽さ浅はかさが前面にでて、「陽気な」女房たちの強さがあまり映えなかったのはあれでよいのか。

ウェールズやフランスの訛り、あるいは「女性」全般、所謂よそもの、に向けたヘイトまでは行かない、おちょくりとか嘲りが底を流れていって止まらなくて、その無邪気さや意地の悪さはやはりちょっと昔の時代のかんじがあって、結果的にそれらをぜんぶひっ被ることになるFalstaffは、1回目は洗濯籠に他の洗濯物と一緒に詰めものにされて棄てられ、2回目は狩りの標的にされて散々なのだが、わーわー笑えてとりあえず(こっちが)幸せになれるならー、くらいでよいのか。

いちおうお話しとしてはめでたしめでたし、にはなるものの、Page夫人はちょっとFalstaffに未練があるようだったし、あくまでお芝居なんだから、で締めている感はあって、このごちゃごちゃ、じたばた収まりのつかないかんじは映画でやった方が向いている気もした。思い浮かべたのは”The Witches of Eastwick” (1987) - 『イーストウィックの魔女たち』 とか。

あと、ウィンザーというと、今は王様たちが居住していて水辺に白鳥がいっぱいいるところ、というイメージくらいしかないのだが、当時の町としてはどんなふうで、その地勢のようなものも影響したりしていたのだろうか、とか。

[theatre] Twelfth Night or What You Will

8月16日、土曜日の晩、Shakespeare’s Globeで見ました。

この週のあたりは雨が来そうになかったのと、20時過ぎて日が落ちると寒く感じるようになってきたので、野外の劇は早めに行っておかないと、と思って割と直前に取って行った。 

今回はMiddle Gallery(2階。3階まである)の一番前の席を取ってみる。背もたれはないが、前の手すりにもたれかかることができるので割と楽、だけどずっと同じ前傾の姿勢だとだるくなってくる – それぞれに難しい。

原作はシェイクスピアの『十二夜』 (1601-02)。 演出はRobin Belfield、舞台の正面奥にはでっかい太陽さんがブロンズの光を出している。大らかで明るい南国のイメージ。 舞台はバルカン半島の西、アドリア海の東の古代のイリリアで、でも主人公兄妹の衣装は緑/黄色のカリビアン風で、少なくとも英国やヨーロッパの暗く重いイメージからはちょっと遠い。

船が難破して双子の兄と離れ離れになってしまったViola (Ronkẹ Adékọluẹ́jọ́)は男性名のCesarioを名乗ってイリリアの公爵Orsino (Solomon Israel)のところに仕えて、Orsinoは兄の喪に服しているので、と言い訳して相手にしてくれない伯爵の娘Olivia (Laura Hanna)と結婚したいのでなんとかしろ、ってCesarioに命ずるのだが、Oliviaが恋におちてしまったのは男としてのCesarioの方で、でもViola/Cesarioが恋をしたのはOrsinoの方だったので、うー、ってなって、他にもOliviaに求婚する連中は後を絶たず、執事のMalvolio (Pearce Quigley)や道化のFeste (Jos Vantyler)も巻きこんで、ちょっとした騒ぎになっていく。

そして、船長のAntonio (Max Keeble)に助けられたSebastian (Kwami Odoom)は彼とふたりでイリリアにやってきていて、ふたりは恋仲になっているのだが、過去OrsinoとなんかあったらしいAntonioは身を隠し、そのうちSebastianにばったりしたOliviaは、Cesarioがつれないので瓜二つのSebastianに惚れちゃって、この他にもいろんなことの収拾がつかなくなってきたころで、CesarioがわたしはViolaだ! って宣言すると、こんがらかった糸が解けて兄と妹は再会し、OrsinoとViola、OliviaとSebastianは一緒になってめでたしめでたし、となる。

性のなりすましに(どうにかなるさ、っていう)意図的な策謀など、いろんな取り違えや見通し、思いこみも含めて、恋ってどうすることもできないし、つらくてしんどいのに、なんでみんなこんなことに首を突っ込んでしまうのか、というのと、種明かしひとつでこんなに楽になるのに、なんでこんなぐしゃぐしゃにしちゃうのか、って誰に文句言ったらよいのかわからないことが雲のように積もってなんなんだろ? っていうコメディ。コメディだけど、タイミングがちょっと違ったりずれていたりしたら簡単に悲劇のほうに落ちてもおかしくない、やってらんない切なさと際どさ – “What You Will” のなかにこのドラマはあって、いろんな「よくもまあ..」が湧いてくる。

ただ、こういったことが浮かんでくるのは見てしばらく経ってからで、舞台そのものはひたすらじたばた落ち着かずに絶えず2~3人が入れ替わり立ち替わり - 今回は客のいるピットとか島はあまり使わず – が激しく、そんななかでの惚れたはったも、ちょっと軽すぎないかー? って思ってしまうのだった。

今回幸せになれなかった人たち、黄色の縞タイツにテディベアを抱えた状態でみんなからぼこぼこにされる執事のMalvolioなんて、(おもしろいけど)すごいトラウマになっちゃうだろうに、かわいそうにー、なのだがこれもまた”What You Will”ということでよいのか。

8.23.2025

[film] The Life of Chuck (2024)

8月17日、日曜日の昼、Curzon Victoriaで見ました。

脚本、監督はMike Flanagan、原作はStephen Kingの2020年に出た短編集に収められていた作品。
昨年のトロント国際映画祭でPeople's Choice Awardを受賞していて、予告では”Stand by Me” (1986)や”The Shawshank Redemption” (1994)に並ぶ感動! って熱く煽ってきて、そういう(どういう?)「感動」がなんか嫌でこれらの感動作をずっと見てきていないのでどうしようかな、だったのだが、Tom Hiddlestonを見にいく、ということにしてー。

三幕構成で、Act 3の"Thanks, Chuck"から時間を遡っていく形式。
全体のナレーションをNick Offermanが極めて落ち着いた、プレーンな声でやっている。

中学校の教師のMarty (Chiwetel Ejiofor) - Bridget Jonesが出てくるかと思った - がWalt Whitmanについての授業をしていると救急車が走っていって、生徒たちのスマホが次々に繋がらなくなり、なにやら惨事が起こっているようで、外に出ると人々は途方に暮れていて、そんななか、”Charles Krantz: 39 Great Years! Thanks, Chuck!"っていう謎の看板を目にするようになっていく。 Martyの元妻のFelicia (Karen Gillan)と再会して、この事態はなんなんだ?になっていると、Chuckの看板以外には交通手段も人々もいなくなり、もうどう見てもこの世界は終わりそう、というのが見えてくる。

並行して、死の床にあるCharles “Chuck” Krantz (Tom Hiddleston)で彼を看取っている妻と息子の姿が描かれて、Martyが経験している世界の終わりはChuckの死に伴う彼の内なる宇宙の消滅に伴ったものなのだ、ということが(我々に)わかる。

Act 2の"Buskers Forever"は、銀行員ぽくスーツを着て鞄をもって歩いているChuckがマーケットの道端でひとりドラムスを叩いている女の子の前で立ち止まり、なにかに突かれたようにそのビートにあわせて踊りだし、そこに彼に振られてうんざりしていた女性が加わって、ふたりは見事なステップを披露して、三人は片づけをして別れる。それだけなのだが、この映画は残念ながらほぼここだけかも。でもここだけでも見に行ってよいかも。

Act 3の"I Contain Multitudes"の主人公は、幼い頃に父と母を交通事故で亡くして祖父母の家に引き取られた7歳のChuck (Cody Flanagan)で、祖母のSarah(Mia Sara)にダンスを教わり、酒に溺れている祖父のAlbie (Mark Hamill)からは家の上のキューポラには絶対に立ち入るな、と言われ、学校の先生からはWhitmanを通してマルチチュードについて学ぶ(タイトルは「草の葉」にある一節で、Bob Dylanも曲のタイトルにしている)。

やがて祖母が亡くなると祖父のアル中がひどくなり、彼はChuckに会計士になることを勧める(数学がすべてだ)のだが、Chuckはダンスが好きで、ダンスサークルを通してCat (Trinity Bliss)と知り合い、イベントのダンス大会で喝采を浴びる。Chuckが11歳になってAlbieが亡くなり、全財産を相続した彼は、禁じられたキューポラに入ることができて、彼がそこで見たものは…

こんなかんじなのだが、まずは”The Life of Chuck”の”The Life”がどんなものだったのかが、幼年期と晩年を除くと十分に描かれていない(Kingの他の短編にあるらしい)ので、汲みとれるものがなさすぎるし、いや、マルチチュードを内包した生のありようを示しているのだ、それを知るのだ、なのかもしれないが、そんなのそうですか/そうですね、で終わっちゃうし。こんなふうに断片やモーメントを切り取ってその集積から「感動」を導けるのって、インスタとかTikTokのあれなのだろうか、ひょっとして自分に見えていない霊のようなものがいたりあったりするのだろうか、とか。

最後にChuckは自分がAIを搭載したロボットだったことを知る.. だったらもう少しおもしろくなったかも。

他方で、先に書いたTom Hiddlestonのダンスだけはよくて、“Much Ado About Nothing”でも存分に踊っていたが、祖母が手本にしていた(家のTVに映る)Gine Kellyくらいを狙えるかもしれない。踊ることの、その内部で肉の震える感覚を伝えることのできるダンスの使い手はそんなにいない。この人の身体はそれを実現できている気がする。あとちょっとだけ、カメラがきちんと動いてくれたらなあ…

しかし、老いて蹲っているMark Hamillを見てもすぐ”Last Jedi”にしちゃうのはよくないな。(自分が)


明日、土曜日の朝にここを発って、日曜日の朝に羽田に着いて3日間東京にいて、水曜日の朝に戻ります。手術後のチェックと人間ドックがメインなので、ご挨拶もしないまま毎度の不義理をお許しください。 だって暑いの嫌なんだもの。

8.22.2025

[theatre] The Estate

8月16日、土曜日のマチネを、National TheatreのDorfman theatreで見ました。

原作はShaan Sahotaのデビュー戯曲で、2020年のWomen’s Prize in Playwritingにショートリストされたもの。演出はDaniel Raggett。

政治家Angad (Adeel Akhtar)のオフィスから始まる。彼はHarrowとOxfordを出てシーク教系の政治家としてのしあがって、スキャンダルで辞任した野党党首の次を狙えるところまできた。はっきりと表に出さずに控えめだが、この選挙でのチャンスを逃さないようにしよう、とスタッフと一緒に燃え始めたところ。 彼の父親も荷役から身を起こした叩きあげで、スラム街の(闇)不動産王と呼ばれるまでになっていたが、選挙戦を目の前にしたところで突然亡くなった – という通知がAngadのところに届く。

舞台セットは、2人のスタッフ – 広報担当の白人女性と黒人男性 – のいる殺風景な彼の事務所と、そこから奥に広がって、彼の家のゆったりしたリビングを交互に切り替えていく構造。

葬儀で父の死を悲しむのも束の間、亡父の遺産がAngadの二人の妹 - Malicka (Shelley Conn)とGyan (Thusitha Jayasundera)には遺されていないことが明らかになり、父の面倒をずっと見てきた二人はおかしいだろう、生前には平等に分けると言っていたはず、とAngadに詰め寄って、この辺りから彼の様子がおかしくなっていく。

選挙戦は安心できるものではなくて方々を駆けずり回らねばならず、妻 (Dinita Gohil)は身重(後半では生まれている)で、家に戻ってくると妹ふたりが強く抗議してくる。妹たちに対する彼の返事は苛立ちと疲弊と機嫌のなかで二転三転し、まともに相手にされない事態に業を煮やしたふたりは、選挙戦が大詰めを迎えたところで新聞社にこの件を持ちこみ、党大会でのスピーチ直前にこれをでっかく晒されたAngadは…

まずなんといってもAngad - Adeel Akhtarがすごい。カリスマ性がある風貌ではなく、普段はどちらかというとしょぼくれてどんよりしていて、でも政治的な局面のコミュニケーション能力とか手腕はしっかりしているぽくて、そうやってのし上がってきた表の顔が、家族内の紛糾になった途端に鬼の顔となって癇癪を爆発させて手がつけられなくなる。仕事とかでそういう顔に豹変する人が昔は結構いたものだが、これを舞台上でとてつもない迫力で見せられるとちょっとびっくりした。 その爆発のなかで明かされる父からAngadに延々続けられた虐待のことも。でも(長男であるが故に)どれだけ辛い思いをさせられたからと言って、自分がぜんぶ貰ってよいのだ、という話にはならないよね。

こういうことがここまでポジションが上のほうに行った政治家で現実に起こって表沙汰になるケースはそんなにない気がして、他方で世襲や相続における長男への盲目的(まあいいじゃないか)な優遇や文化と歴史の底をえんえん流れてきた女性蔑視 - 日本にもぜったいある –を考えるにはとてもよい材料だと思って。こういうことに立ち向かうのも政治家の役割のはず、なのだが。 ここに移民として苦労してきた家族の歴史を絡めたいのはわかるけど。(苦労話を絡めてごまかそうとする傾向、についてもわかるけど)

でもあの決着はあんなものでよいのか、多分に政治的な風刺として、だと思うものの、実際にありそうすぎて(日本ではあるよね)、黙ってしまうしかなくて、うーむ、ってなる。

建付けがややぎくしゃくしていて、非現実的なところも結構ある(英国人から見たらそうでもないのかしら?)ものの、全体としては怒髪天のAdeel Akhtarが持っていってしまって、見応えはある、そんなかんじ。

8.20.2025

[film] Materialists (2025)

8月16日、土曜日の午前、シネコンのVue West Endで見ました。

“Past Lives” (2023)のCeline Songの作・監督によるrom-com。とてもJane Austen的な普遍性をもったテーマを扱っていて、どれくらい普遍的かというと、冒頭から原始人(あんただれ?)が出てきて、お花を運んできた彼はちゃんと石器も一揃い持っていてえらいねえ.. というくらい。

舞台は現代のマンハッタンで、冒頭にCat Powerの”Manhattan”が流れたりするのだが、あまりNYぽい描写はないかも。

Lucy Mason(Dakota Johnson)はAdoreというハイクラス向けのマッチング会社の社員で、そこに所属するマッチメーカーのなかでも成功していて、冒頭にも9番目のケースを成功させて皆に祝福されて、実際に彼女がクライアントと話しながら条件を絞り込んで説得して(納得させて)いくところとか、結婚式直前に不安のあまり閉じこもってしまった花嫁を説き伏せるところとか、すごい技術だと思う。

Lucyによれば、結婚とはビジネス・ディールであってブレークもリスクもある、王子様なんていないし作れないし、そこに思いこみや過剰な期待を込めるのは危険である、とさばさばしていて、貧しい家庭で育ち女優としてのキャリアもうまくいかなかった彼女自身はずっと独身でいくことを決めていた。 のだが先の結婚式でヘッジファンドをやっている資産家、見るからに大金持ちのHarry Castillo (Pedro Pascal)に声を掛けられる。彼はそこに集まっていた女性たちに向けてマッチメイクの勧誘をしているLucyに惹かれて、彼女は彼を自分のクライアントにしようとするのだが、彼はLucyがいい、って指名してものすごく高級そうなレストランでデートを重ねていく。

そしてHarryがLucyに声をかけたその会場でウェイターをしていたのがex.彼のJohn Finch (Chris Evans)で、彼はバイトをしながら小劇場で役者をしつつ、彼と同様に薄汚れた友人たちとシェアしているアパートで汲々と暮らしていて、久々に再会したLucyとJohnは彼が彼女を車で送ったりするなか、昔のことも含めていろいろ話して、当然現在のふたりの格差やこれからについても確認しあい、互いにちょっと複雑になったりする。

その後もJohnの芝居をLucyとHarryが揃って見にきたり、3人が顔を合わせる場もある反対側で、LucyはHarryのトライベッカのペントハウスにずっと泊まるようになって、当然のようにHarryは指輪を用意してきてー。

最終的にはLucyの選択になって、その結論に至るまでには、Lucyのクライアントで、彼女が紹介した性の悪い男に粘着されて大変な目にあうのを助けたりがあったりして、結着そのものは”Past Lives”のラストと同様に極めてスムーズで異論はないものの、rom-comに不可欠な最終局面における破綻とか大喧嘩とかぜんぶおじゃん、がない、弱い。対象となる男ふたりのとてつもないギャップからすれば、そのどちらを選んでもカタストロフィックな展開になってもおかしくないと思うし、Madame WebがCaptain AmericaとMister Fantasticのどっちを選ぶのか、なんて地球の未来に関わることだと思うのに、ものすごく穏やかにかつスマートに決まってしまう。

この3人だし、全員が知的に、穏やかにコトを進めようとする人格者(という設定)なので、これはこれで十分わかる。しょうがない。 だけど、やっぱりHugh GrantとColin Firthがぼこぼこに殴りあったようなのをChris EvansとPedro Pascalにはやってほしかったし、見たかったし。

まあ”Materialists”というキャラクター設定そのものが夢とファンタジーを糧に爆発する(特に前世紀の)rom-comから程遠いもの、なのかもしれないが、それゆえの自爆、誤爆があったらもっと楽しくなったのになー。とか思いつつ、例えばSATCのCarrie Bradshawはmaterialistなのか? たぶんど真ん中だと思うがあのおもしろさはなんなのか? とかいろいろ考えて止まらない。

あと、LucyとJohnのやりとりから窺えるふたりのギャップって、やはりQueens vs. Brooklynのそれとしか言いようがないのだった。

音楽はCat Powerの他にSt. Vincentとか、Johnny Thundersとか、最後にJapanese Breakfastが聞こえてきて、とても趣味がよくて、よかった。

[film] Sense and Sensibility (1995)

8月9日、土曜日の午後、CurzonのMayfairで見ました。

リリース30周年を記念したリバイバルがものすごく小規模に行われていたのと、このクラシックなシアターももうじきなくなってしまうので、見にいく。

原作はJane Austen(最初著者名は”By A Lady”とされていた)の最初の小説(1811)、監督はAng Lee、脚本を主演のEmma Thompsonが書いて、この脚色でオスカーを受賞している(脚本、ほんとにすばらしい)。 
邦題は『いつか晴れた日に』 … (改めて)「はあ?」ってかんじ。

そういえば、同じくリリース30周年で少しだけリバイバル公開されていた”Clueless” (1995)もJane Ausenの”Emma” (1816)へのオマージュで、それを言いだすとColin Firthが出ていたTV版”Pride and Prejudice”も95年。 なんだったんだ1995年。 そしてJaneの生誕250周年の今年は、Elinor役に”Normal People” (2020)のDaisy Edgar-Jonesを据えたリメイクが進行中である、と。

そういえば、こないだ見たフランスのrom-com “Jane Austen Wrecked My Life” (2024)では、パリの書店Shakespeare and Companyで働く主人公が初めてJane Austenを読むという客にこれを勧めていた。同じ職場の男性に対しては、あんたなら”Mansfield Park”(1814)かなあ(たしか)、とか。

本編上映前に、今回のre-releaseを記念してEmma Thompsonからの挨拶ビデオがあって、みんな若かった、”Titanic”前のKate Winslet、”Paddington 2”前のHugh Grantがいる… とか語ってくれて、それだけでなんかお得したかんじになる。(最後に顔を見せるのは..)

父が亡くなり、遺言により邸宅から追い出されて田舎のコテージ - でも十分豪華に見える - に引っこむことになった母(Gemma Jones)と娘3人 – Elinor (Emma Thompson), Marianne(Kate Winslet), Margaret (Emilie François)がいて、彼らに寄ってくる人々のなかにはよい人もいれば、意地悪な人もいる。彼らがどんなふうに意地悪だったり、どんなふうに素敵だったりするのか、を姉妹それぞれの視点 – まさに“Sense and Sensibility” - 『分別と多感』のなかでヴィヴィッドに描いて、これと同様のことが次の”Pride and Prejudice” (1813) - 『高慢と偏見』のなかでは突き刺さってくる他者の眼差しも加えたより深化・錯綜した形で綴られて、これらは(自分の身に降りかかってこない限りにおいて)最高におもしろいスリル満点の読み物となる。

こうしてElinorは姉妹たちを追いだした強欲陰険なFanny (Harriet Walter)の弟のEdward Ferrars (Hugh Grant)と出会い、Marianneは最初にColonel Brandon (Alan Rickman)と出会い、それからちょっと洒落てて奔放なWilloughby (Greg Wise)とぶつかってめろめろになって、こいつにふられて病で死にそうになったところをBrandonに慰められて救われる。

理想の男たちは最初から王子様として現れるわけではない。Edwardはおどおどして目を合わせようとせず、明らかに挙動がおかしいし、Brandonはむっつり怖そうで、ふたり共なにを考えているのか簡単にはわからない。Willoughbyだけはわかりやすく爽やかに寄ってきて気持ちよいところを撫でてくれる。だがそのわかりやすさはわかりやすく裏の顔と事情を晒してこちらをあっさり叩き落としてくれる。

ここには明らかにJane Austen特有(というかここから広がっていった世界も含め)の、男女(だけでなくなんでもそうだが)関係はそんな単純に決まったり決められたりするものではなく、こっちから出ていってなんぼのもん、にどうにか、ようやく、なる(ものはなるんだからやっちゃえ)、ということを性差とか境遇とか関係ない普遍的な駆け引きのなかに図示して子供にも大人にもためになるったらないの。

とにかくMarianne - Kate Winsletがすばらしい演技を見せて、あれだけ酷い目にあったってどうにかなるのだ、というのとしっかりさんに見えるElinor - Emma Thompsonだってわかりやすい勘違いをして、そんなでもどうにかなるのだし、そのSenseとSensibility勝負の世界に、べつになーんの、だれの保証も慰めもない、けど飛びこんでみればよいのだ、って。 この辺の押しつけがましくなく軽く背中を押してくれるのってよいなー、しかない。