4.14.2025

[film] Peindre ou faire l'amour (2005)

4月12日、土曜日の夕方、日仏のラリユー兄弟特集で見ました。邦題は『描くべきか愛を交わすべきか』。

前日の『パティーとの二十一夜』が素敵だったので、他のも見たくなり、でも『運命のつくり方』 (2002)以降、翌日曜日上映の回はどれも売り切れで取れないのだった。

Madeleine (Sabine Azéma)が田舎のほうにひとりで絵を描きに原っぱを降りて、森の方に向かっていくと、奥の方からサングラスをした熊みたいな男がよろよろやってきて、彼 – Adam (Sergi López)は目が見えないようだったが、ここの市長をやっていると言い、原っぱの外れにある売り出し中の一軒家を案内してくれる。

都会の自宅に戻ってリタイア目前の夫William (Daniel Auteuil)に家のことを話してみると興味を持ってくれて、見にいってみよう、って実際に見たら気に入って、ここを買おうよ、になって、暮らし始める(いいなー)。

新しい家にはAdamと彼の妻のEva (Amira Casar)も訪ねてきて、MadeleineとWilliamも、AdamとEvaの家を訪れて、二組四人の交流が深まっていく。

展開としては裕福な初老の夫婦が田舎の古民家を買って暮らし始めて、歩いていける距離の隣人夫婦と親交を深めていって、というそれだけなのだが、原っぱに建つ家の描写とかちっとも落ち着いているようには見えないし、夜中、灯りのない中、Adamに手を引かれて4人でMadeleineの家に戻るところ(画面まっくら)とか、EvaがMadeleineの絵のモデルになるところとか、ミステリアスななにかを暗示しているようで、この辺は『パティーとの二十一夜』にもあった、見えないところで蠢くなにかがこちらにやってきそうな光と空気が。

ある晩、AdamとEvaの家が火事になって全焼して、住処を失ってしまった彼らに、うちに来れば、とMadeleineとWilliamは誘って、4人での暮らしが始まるのだが… これが全ての過ちだった.. というほど劇的なことが起こるわけではなく、妙な空気になって夫婦の相手がなんとなく替わってて、気が付いたらなんてことを.. って狼狽して、MadeleineとWilliamはとにかく家を出て都会に宿を取ったりするのだが、自分たちが(も)やったことだし懺悔したり悔い改めたりもなんか違うかも.. ってなり、そうっと家に戻ってみるとAdamもEvaももういなくなっている。

原因はどこにあるのか、結果として許されるのか、とかそういう話ではなくて、『パティーとの… 』でも語られる「おおらかさ」みたいな話とも違う気がして、欲望というのは掴みどころがなくどこから現れてなにをしでかすのかわからないもの、というのが夫婦の取り替え、という犯罪とかスキャンダルになるほどのものではない(相手方がAdamとEvaというのが趣深い)愛のかたちを通して描かれていて、この後に現れる別の夫婦との出来事も含めて、そういうもんよね、って最後にはハッピーエンディングでよいのかどうかー みたいなトーンでさらりと描いていて、なんかよいの。
 
タイトルの「描くべきか愛を交わすべきか」については、どちらも交歓(何度か流れる”Nature Boy”の”The greatest thing you’ll ever learn is just to love and be loved in return“ )だし、「どちらもー」 しかない。『パティーとの… 』は、「語る(or書く)べきか愛を交わすべきか」っていうお話しだったのかも。


 ニルヴァーナ 『イン・ユーテロ』 研究 ~アルビニ・オリジナル・ミックスを検証する~

↑の映画を見る前、新宿のRock Cafe Loftで音楽ライター鈴木善之さんのお話しを聞いて『イン・ユーテロ』の盤を聴いた。
 
入院していて一番飢えて困ったのががりがりやかましくでっかい音で、でも入院中も出所後も耳にはなにも装着したくなくて、でもライブに行くのはしんどいし、そういえばこの日はRSDだったのにどうしようもないし、せめてどこかででっかい音をー(涙)っていう要請にぴたりと応えてくれたイベント。

『イン・ユーテロ』 (1993)の”Heart-Shaped Box”と”All Apologies”はSteve Albiniのプロデュースで録られた後、Bob LudwigとScott Littによって「お化粧」されていた、そのお化粧の度合いが経緯は不明なるも2003年にリリースされた欧州盤(+更にその数年後のリリース)にしれっと差し替え?収録されていたAlbiniのオリジナル・ミックス(かどうかは不明)らしきものによって明らかにされていて、その2つを実際に聴き比べてみましょう、という試み。

この2曲のミックス関してはPC上の音源でもはっきりそれとわかるくらい違っていて、その後にお化粧なしの『イン・ユーテロ』を1曲目からフルで、今度はちゃんとしたオーディオのでっかい音で流してみる。(この後に1993年リリース盤の通しもあったのだがそれまではいられず..)

あーこれだよなー、って痺れたのは勿論なのだが、”Heart-Shaped Box”がリリースされた当時、Anton CorbijnのあのカラフルなPVに感じた微妙な違和感 - こっちに行っちゃうのか? - はこのミックスにも起因していたのかもしれないな、とか。

Scott LittはThe dB’sの2nd(名盤)を作った後にREMをメジャーにのしあげた名プロデューサーだし、彼は悪くなくて、当時のレコード会社がろくでもなかったのだと思う。

ということよりも、久々に全曲通して聴くと、ああこれだわ、これで生きてきたんだわ、ってしみじみ思って、それだけでも。

 

4.13.2025

[film] Vingt et une nuits avec Pattie (2015)

4月11日、金曜日の晩、日仏学院の特集 - 『アラン・ギロディ&アルノー&ジャン=マリー・ラリユー特集 欲望の領域』で見ました。

シネマヴェーラの成瀬特集でリハビリを3回やって、そろそろ次のステージを、となった時、やはりこの辺かな - というか元気だったら全部通ってるし - となる。自分のなかで邦画 - 洋画(そのなかでも英語圏-非英語圏とか)、クラシックか最近のものか、など、もっと細かいいくつかの区分けがあって、元気であれば手当たり次第に見ていくのだが、そうでない時にはどういう順番で、なぜそれを見る/見たいのか、を自分に聞いて、でも本当に行けるかは自分の体との相談になるので、前売りのチケットを取ったのは割と直前だった。

邦題は『パティーとの二十一夜』、英語題は”21 Nights with Pattie”。
Arnaud Larrieu & Jean-Marie Larrieuの監督作品、これまで見たことなかったかも。

疎遠だった母が亡くなったと聞いてオード山脈の山間の村にやってきたCaroline (Isabelle Carré)が「秘泉荘」 - 母はここでひとり暮らしていた - にやってくると、よく知らない男たちがそこのプールで水浴びをしていて、管理人のPattie (Karin Viard)は気さくでよい人っぽいのだが、いきなり自分の性体験(気持ちよい系の)をあけっぴろげに語りだすのでちょっと引いたり。

光を遮って風を入れている部屋に安置されていた母の遺体と向き合っても激しい感情が湧いてくることはなく、葬儀を済ませたら帰ろうか、くらい。この部屋だけではないけど、室内の光の捉え方がすごくよい。

その晩、言葉(だけじゃなくいろいろ)のあまり通じない、でもみんな陽気で楽しそうな村の人々と会って戻ってきたら母の遺体が消えていた… 村の警察、ではない憲兵隊を呼んで調査を始めてもらうと、憲兵のPierre (Laurent Poitrenaux)は屍体愛好家が持ち去ったのかもしれない、などという。とにかく予定していた葬儀は延期するしかない、とCarolineは夫と娘たちに電話で伝える。

翌日に外見はきちんとしたJean (André Dussollier)と名乗る初老の男性が現れて、その思い出を語る様子とか母の遺体が消えたことを告げた時の反応から生前の母とは相当親しかったと思われ、山荘にある「作家の部屋」の「作家」とは彼のことではないか? さらにこの人、作家ル・クレジオその人ではないか? と思って本人に聞いてみてもふふん、と肯定も否定もしない。

ずっと続く村の祭りが迫っていて、Pattiは変わらず猥談ばかり、彼女の相手として聞かされる淫力野人のAndré (Denis Lavant)の「ばんばん!」とか、いつも上半身裸の彼女の息子のKamil (Jules Ritmanic)とか、森に生えている卑猥茸とか、淫らな風が吹きまくっても、自分はもう死んでいるのだというCarolineだったが、変な人たち、変な大気に触れて少しだけ… となったところに母が戻ってくる、というか部屋の暗がりに置かれている。

母(の遺体)が戻ってきてよかった、という話(or その謎解き)でも、Carolineが自分を取り戻してよかったね、という話でもなく、明るい昼間から夜になり、夜が朝に変わっていく時間に、ちょっと淫らな欲望の風に吹かれて何かが何かに伝染して、死者もゆらーりと踊りだすよ、ってそんなお話し。

タイトルはPattiが生前の母にいつも猥談を聞かせていたら、いつかそれらの話を本に纏めましょう、と母に言われた、その本のタイトル、でもある。Pattiの言葉がそれを聞く人(≒死者)に吹きこみ、もたらす茸の胞子的な活力に満ちた、森に蠢く不思議な何かが千夜でも三六五夜でもなく、二十一夜くらいやってくる、と。 月が絡んだらもっと素敵になったかも。

音楽もはまってくるし、ものすごく好きなやつだった。

4.11.2025

[film] 鰯雲 (1958)

4月10日、木曜日の夕方、シネマヴェーラの成瀬特集で見ました。

日々のリハビリというかエクササイズで通っているのだが、まだボディに塞がってくれない穴があるし痛いし、でもずっとごろごろしているのもよくないと思うし、なんか難しいことだ。

まずカラーだったのでびっくりした。成瀬作品として初のTOHO Scopeによるカラー作品。原作は農村に関する小説や著作を遺した和田傳、脚本は橋本忍、同時上映は『おトラさんの公休日』 - なんかおもしろそう。 成瀬作品のタイトルとしては、『稲妻』 (1952)、『浮雲』 (1955)、『驟雨』 (1956)、『乱れ雲』 (1967)などに並ぶ気象シリーズ(全体に影響を及ぼすどうすることもできない現象に近い何か、及びその予兆?)としてよいのか。

戦後、農地改革後の神奈川の方の農村で八重(淡島千景)が新聞記者大川(木村功)のインタビューを受けているのが冒頭で、これからの農家や家、女性/嫁のありかたについて、自分の言葉で澱みなく語り、その様子に感銘を受けた大川と八重はちょっといいかんじになり、その後はひたすら地面に向かっていく農作業も含めたどろどろの、綺麗ゴトもくそもない実情が並べられていく。

八重の夫は戦争で亡くなっていて一人息子を育てつつ姑ヒデ(飯田蝶子)の面倒を見ていて、本家の方では八重の兄・和助(中村鴈治郎)の長男、初治(小林桂樹)の縁談が立ちあがり、その嫁候補として名の挙がったみち子(司葉子)に会いに大川とふたりでその農村に赴いたらなんかよいかんじになって一晩を共にしてしまい、みち子の継母、とよ(杉村春子)は和助に追い出された最初の妻だったことがわかり、どんな勝手な酷い目にあわされたのかがわかるのだが、この家に嫁がせるんだーとか、この辺、少し複雑でこんがらがっててくらくらする。(外国の人からしたら??になるよ)

他には分家の娘の高校生浜子(水野久美)が大学に行きたいと言ったら、婿貰うしかないお前が大学に行ってどうする? って和助に一喝却下されて、でも彼女は駅前に部屋を借りて出て行った本家次男で銀行勤めの信次(太刀川洋一)と仲良くなって妊娠したり、和助が初治とみち子の式の費用をどうにかしたい、けど田んぼは売りたくない、でフリーズしたりとか。本家ファースト、家中心で問答無用の和助のこれまでのやり方と、それが経済的にも成り立たなくなったから家を出て独立するよ、の子供勢の間で建前と恥と本音が炸裂して誰にとってもどうにもならない状態になっていく。

ここに出てくる全員がそれぞれのバージョンで不幸になる予兆しか見えなくて、描かれる恋模様だって親たちが決めた初治とみち子のあれに(無邪気で幸せそうだけど)恋はないし、八重と大川のも浜子と信次のも許されない系のでどんよりしている。のだが、そんな彼らが部屋の暗がりでよりそう絵のなんと艶かしく美しいことか。

これが近代化がもたらした災厄なのだ、っていうのは簡単だけどその根は代々意識の隅々にまで浸透しちゃっている(とみんな思い込んでいる)し、いまの夫婦別姓に反対しているのもこの勢力だし、いまの地方の過疎化だって制度・政策的なもの以上にイエの延長としてのムラ意識の充溢だと思うし、鴈治郎が黙れば済む話ではないの。

なんか全体としてはチェーホフのやりきれないかんじに溢れていたような。

それにしても中村鴈治郎 (2代目)、すごいよね。『浮草』 (1959)でも『小早川家の秋』 (1961)でも、いやらしくてくたばらない嫌なじじいの典型をやらせたら右に出るものなしで、しかもその裏に弱さ辛さ優しさも滲ませて … 騙されちゃいかんー、なのに。


今回の成瀬はここまで。
もうじきNYのMetrographでもレトロスペクティヴがあるのね。
わたしが成瀬に出会ったのは2005年のFilm Forumでの特集だったなー。ロンドンにも回ってきますように。

4.10.2025

[film] あらくれ (1957)

4月9日、水曜日の午後、シネマヴェーラの成瀬特集で見ました。

前の日にリハビリ(言い訳)で『女の歴史』を見にいって生還して、まだ会社への通勤はしんどいかなー、と思いつつ、リハビリを一日でやめてしまうのはよくないな、と再びのこのこやってくる。階段はしんどいので可能な限りエレベーター/エスカレーターを使うのだが、日本のバリアフリー、まだまだよね。

『流れる』 (1956)の次の成瀬監督作品。原作は徳田秋声の同名新聞連載小説(1915)を水木洋子が脚色している。500%理解できないが公開時には成人映画指定されて18禁になったのだそう。そりゃヘイズ・コードには引っかかりそうだが。

大正時代の末期の東京、お島 (高峰秀子)は最初の結婚でごたごたして嫌だと実家に逃げて出戻った後に缶詰屋の鶴(上原謙)の後妻として入るのだが彼から日々着るものから態度振る舞いまで散々叱言と嫌味を言われ、その延長で堂々と浮気され、妊娠すれば早すぎないかと疑われ、いいかげん頭きて大喧嘩したら階段から落ちて流産して、そのまま離縁する。

続いて兄 (宮口精二)に連れられて山奥の旅館に下働きに出され、そこの暗くねっとりした主人の浜屋 (森雅之)から言い寄られて関係をもってしまうのだが彼には寝たきりの妻がいたのでお島は更に奥地の温泉宿に飛ばされて、島送りのような暮らしは父 (東野英治郎)が連れ戻しにくるまで続く。のだが浜屋との関係はその後もなんだかんだだらだらと。

続いて伯母 (沢村貞子)のところに預けられたお島は出入りしていた裁縫屋の小野田 (加東大介)のところで働き始め、仕事のできない怠け者で不細工な彼の尻を叩いているうちに仕事がおもしろくなり一緒になって洋装屋を興すことにして、何度か失敗を繰り返しながらどうにかなってきたところで、浜屋の病のことを聞いて駆けつけると彼は亡くなっているわ戻ってみると小野田は浮気しているわ、ブチ切れ、というよりすべてを吹っ切るべく洋装屋のできる若手の木村(仲代達矢)ともうひとりの若造に声をかけて飛び出していくのだった。

なす術もなく運命に翻弄されきりきりしていくこれまでの高峰秀子とは違い、言いなりになると思ったら大間違いだ、って毛を逆立てて突っかかっていく「あらくれ」で、あの後もぜったい仲代達矢となんかあって泣くことになるかもしれないのに勝ち負けじゃねえんだよ、って動じない。品行方正とか、そういうのを貫くというのでもなく、なーんで男はろくでもないのばっかしなのに、なーんで女ばっかりあれこれ言われり後ろ指さされたりなんだよ? って、その説得力は確かにある。水木洋子の脚色でどれくらい変わったのだろうか。

その反対側でハラスメント野郎(上原謙)に、いいかっこしいのむっつりすけべ(森雅之)に、働きたくない怠け者(加東大介)と、あとこいつの父親も酷いし、男の方もよく揃えたもんだ、こんなそもそものクズ連中に向かってあらくれても、と思ったりもするが、こんなのがそこらじゅうに吐いて捨てるほどいた(今もか…)のだとしたら… といううんざりの徒労感も見えたり。高峰秀子があと1000人いたら。

『流れる』からの流れでいうと、彼女がミシンを2階に引っ張りあげるところから何かが始まる、ような。ミシンは抵抗への狼煙になるのかー。

4.09.2025

[film] 女の歴史 (1963)

4月8日、火曜日の午後、シネマヴェーラの成瀬特集で見ました。

退院後、最初の1本で、これをなにがなんでも見たいから、というよりは地下鉄に乗って渋谷の町に出て2時間強の映画を見て帰ってくる、という活動がどれくらい体力的にしんどい負荷をもたらすのかを試す目的。これが無理なら会社に行くのはもっと無理だろうし、ね。

入院前の最後に見たのが『女の座』 (1961)だったので、次は『女の歴史』 (1963)かー、くらいだったのだが、こちらの原作(着想)はモーパッサンの『女の一生』 (1883)だという - けどモーパッサンのとは随分ちがう(脚本は笠原良三)。 公開時の同時上映は岡本喜八の『江分利満氏の優雅な生活』だったと(あれこれなかなかの段差)。

東京の下町で小さな美容室を切り盛りする信子(高峰秀子)がいて、姑の君子(賀原夏子)と自動車会社に勤める息子の功平 (山﨑努)と暮らしているのだが、功平はあまり家に帰ってこない。ものすごく幸せでもなく、 ものすごく辛くて不幸でもないこの現在地点から、いろんな過去が信子の語りと共に切り取られて行ったり来たりしつつ、現在もまた流れていく… という構成。

時間の流れには抗えない戻れないという『流れる』や『女の座』にあった語り口(なるようになる、しかない)ではなく、こんなこともあんなこともあったという「歴史」を振り返ることで「現在」を変えるなにかは見えてくるのか、というこれまでとは少し異なる視点。 あるいは「座」という空間的な切り口から「歴史」という時間的な切り口に変えてみたところで、女性の生き辛さの総量はそんなに変わらないよね、と言うことか。

木場の材木屋の跡取りだった幸一 (宝田明)からお見合いで見そめられて割と強引にもっていかれる婚礼から新婚旅行の初夜、相場で失敗して愛人と無理心中をした幸一の父のこと、幸一に召集令状が来て彼を戦地に送って空襲にあって疎開して、そこで幸一の戦死の報が届き、生活苦を玉枝(淡路恵子)に助けてもらったり、夫の親友だった秋本隆 (仲代達矢)に言い寄られたり、周囲が目まぐるしく変わっていく反対側で生活は直線で苦しくなっていく中、姑と幼い息子と3人で懸命に生きていく姿が描かれる。

現在の時間軸ではキャバレーで働いていたみどり(星由里子)と出会って親密な仲になった功平が彼女との結婚を信子に伝えたら反対されたので家を出て、郊外の団地でみどりと暮らし始めた - と思ったら自動車事故で突然亡くなってしまい、信子はどん底に。ひとりで信子のところを訪ねてきたみどりは功平の子を妊娠している、と言うのだが…

『女の座』との対比でいうと、しっかりした家に嫁いだ高峰秀子が戦争で夫を失い、拠り所のように大切に育てていた一人息子も失って家のなかで一人孤立してしまう、というところは同じ。婚前婚後の違いはあるが宝田明から言い寄られるのも同じ。最後にアカの他人と3人で残されてしまう、というところも同じ。あとはなんと言っても、自分はそんな悪いことしたわけでもないのになんでこんな目に? という不幸絵巻も。これらってぜんぶ彼女が女性だから起こったことだよね。 でもあのラストは素敵。

なぜ成瀬の映画で高峰秀子ばかり(他の女性も割とそうか)がこんな酷い仕打ちに遭ってしまうのか、についてはもう少し他の作品も見た上で書ければー。

あと、何度も映し出される美容室のある路地の佇まいが素敵なのと、終戦後の闇市の混沌を切り取った美術がどこを切り取ってもすごい。本棚の奥からリュミエール叢書『成瀬巳喜男の世界へ』 (2005)が出てきたので美術監督の中古智のインタビューを読んでみよう。

4.07.2025

[film] 女の座 (1962)

3月29日、土曜日の昼、シネマヴェーラの成瀬特集で見ました。

入院前日、まだ健康(でもないか)だった頃に見た最後の1本。フィルムの状態がよくない、という注意があったがそんなに気にはならなかった。始まってすぐ、見たことあったやつじゃん、になったがこれも気にすることはない。

オールスター・キャストによる正月映画、だそうで、こんな暗いのを正月に… と思ったが当時の「女の座」を基軸に見てみればこれでもじゅうぶん「よかった」ほうに入る「喜劇」なのかも知れない。

家長の父、金次郎 (笠智衆)危篤の報を受けて集まってくる家族たちが紹介される。金次郎の後妻あき(杉村春子)、戦死した長男の嫁芳子(高峰秀子)は高校生の息子健と一緒に同居して家にくっついた荒物雑貨店+家事全般を切り盛りし、長女の松代(三益愛子)は家を出て下宿屋をやっていてそのダメ夫が良吉(加東大介)で、次女で結婚していない梅子(草笛光子)は家の敷地内に別棟を建てて暮らしていて、次男の次郎(小林桂樹)は家を出て町の中華料理店をやっていて、三女の路子(淡路恵子)は正明(三橋達也)と結婚して九州にいたが今回の騒ぎで戻ってきて、そのまま居着こうとしていて、四女は夏子(司葉子)で、五女は雪子(星由里子)で… という大家族模様をわざとらしい形でなく紹介しつつ、そのまま満遍なく家族の出来事 - どんな昔のことも現在のことも家族の姿、ありように繋がっていく - のなかで展開させつつ見せていくやり方がすごすぎて目を離すことができない。

あの時期、おそらくどこにでもあった家長を中心としつつも核家族化の流れと共に解れるべくして解れつつあった大家族の、崩落でも没落でもない、誰も中心にいる家長の思う通りにはならないし、させないし、勝手に生きていこうとしていた家族の断面を『流れる』的な屈辱や自嘲のなかに描くのではなく、「仕方ない、けど私は」的な近代的自我の立ちあがりの中にばらばらと置いて、家族同士がその喧騒で騒がしくなっていくなか、これも同様にできあがりつつあった学歴社会の厳しさにひとり向き合って悩んでいた健は…

他にも独り身だった梅子のところに現れた(あきの先夫との間の子)六角谷甲(宝田明)が実はとんでもない詐欺師であることがわかったり、夏子は中華料理店の客で気象庁に勤める青山豊(夏木陽介)をちょっと好きになるものの結局は見合いをした相手とブラジルに駐妻として行くことにしたり、誰も彼も家族のことより自分のことばかり、の果てにぽつんと残されてしまったことに気づく金次郎とあきと芳子がいて、この辺が『東京物語』 (1953) と対比されるところなのだろう。

子供たちに置いていかれた老親と嫁として嫁いできただけの女性(他人)が心を通わせるこれらのお話しって、近代化と家父長制の軋轢、というか、これらをかわいそう、って思わせ泣かせてしまう甘さが、家父長制を精神的にも制度的にも支え、のさばらせてきたのだ、というところまで分からせてくれる視野の広がりがあるような。

あの荒物雑貨店ってセットなのかしら? ああいうお店ってあったよね。すばらしい臨場感。

4.06.2025

[film] BAUS 映画から船出した映画館 (2024)

3月23日、日曜日の昼、テアトル新宿で見ました。
これの次の回だと舞台挨拶もあったのだが、自分に残された時間はもうそんなにないのだった。

当初青山真治が脚本を用意して企画していたものが彼の急逝により弟子の甫木元が引き継いで完成させたもの。プロデューサーには仙頭武則に樋口泰人の名前もある。当然。

“BAUS”というだけでそれは2014年に閉館した吉祥寺のバウスシアターであることは最初からわかっていて、原作はバウスシアターの元館主・本田拓夫による経営者家族の年代記であるらしいのだが、そもそもこの映画の中心は「爆音映画祭」という特殊な映画の上映形態を編みだしてしまったその場所、あのシアターのなぜ? と核心に迫り、それを総括するはずのものであったのではないか。

本来なら「映画館から船出した映画」であってもおかしくないタイトルの転倒や、ちっとも船出なんかしないでひとつの土地にずっと停泊していることとか、ぜんぶ目眩しの照れ隠しで、あの時のバウスシアターがどうしてあんなふうでありえたのか、をストレートに掘って語ることをわざわざ回避している気もした。青山真治と樋口泰人によるドキュメンタリー『June12,1998 at the edge of chaos カオスの縁』(2000)のタイトルを引き摺る - 「カオスの縁」にあった場所なのに。

1927年、青森から流れてきたハジメ(峯田和伸)とサネオ(染谷将太)の兄弟が吉祥寺の映画館で巻き込まれるように働き始めて、サネオはハマ(夏帆)と結婚して家族ができて、でも戦争が近づいてきて.. という戦前〜戦後に跨る家族の物語を井の頭公園に佇む老人 - サネオの息子タクオ(鈴木慶一)が踏みしめていく。テンポが速くてサクサク進んで、音楽が大友良英だったりするので朝ドラっぽく見えてしまったりする(←見たことないくせに)のだが、それらは全て鈴木慶一の後ろ頭に収斂され、土地と興業、そして時の流れ、消えていった者たちの方へと意識は向かう。

この辺、『はるねこ』 (2006)の甫木元空の幻燈画のような人と景色の描き方が見事にはまっているのだが、他方で青山真治がやっていたら『サッド ヴァケイション』 (2007)の、あのなんとも言えないノラ家族の姿が見られたのかもなー、とか。

映画館の最初の季節には弁士が入っていたし、映画だけでなく落語などもやっていた。なにをやるか、よりもどう見せて、その向こう側の世界の作りだす渦にどれだけ囲い込むか、没入できるか、が試されていた、というあたりに爆音の話には繋げられそう。(だけど、その基点である吉祥寺という土地について、自分はよく知らない)。

映画の聴覚に訴えてくるところ全てをサウンドボード上で再構成し、コンサート用のPAでライブ音響として鳴らすことで娯楽パッケージとしての映画体験をライブのそれに変えてしまえ、という試み。そこには当然映画の歴史、興業の歴史、更にはそもそも映画って何? にまで踏みこんだ問いと答えが求められるし、それが可能となる/それを可能とする個々の映画作品の、更にその映画のジャンルやテーマにまで踏みこんだキュレーションのセンスが必要となる訳だが我々には樋口泰人(斉藤陽一郎)がいたのだ、と。(樋口泰人伝にしてもよかったのでは)

ここまで行って初めて”BAUS”がBAUSであった意義とか戦前からのならず者ストーリーが繋がってくると思うのだがそこまでは届かず、敢えてブランクにしているかのよう。映画館のインフラがどこでも平準化され、配給されなくても配信で入ってくるからいいや、がスタンダードになりつつある今こそ、映画・映像を爆音で体験することの意義を問うべき - とか言ってもなー。それはもう船出しているのだ、とか?

など.. というのもあるが、やはりこれは映画からどこかに船出していった青山真治の、家族や歴史や文化、人々への眼差し、洞察に対する敬意に溢れた作品としか言いようがない、と思った。

最後に流れた1曲がものすごく沁みて、誰これ? と思ったら(やはり)Jim O'Rourkeだった。

[film] Underground アンダーグラウンド (2024)

3月22日、朝にシネマヴェーラでその日のチケットを確保した後、ひとつ下の階のユーロスペースで朝一の回を見ました。

小田香監督の前作『セノーテ』 (2019)はパンデミックでロックダウンしているロンドンで見て、あの水脈というか水路というか、それ以上に地下の洞窟にあんな光景がある、ということを未知未開の驚異映像のように取りあげるのではなく、昔からずっと積み重ねられてきた現地の人々の歴史と生活の合間に - こういう地層、というか水と共にうねる何かがあるのだ、とマップしてみせるその手つき、というか接し方と、その映像たちがその土地の成り立ちに重なりながら形成されていくような様がとてもよかったの。

『鉱 ARAGANE』 (2015) - 未見、『セノーテ』 に連なる地下三部作(となるのか?)の最新作が今作で舞台は日本、タイトル通りに日本の”Underground”を追っている。

では、日本の”Underground”とは、いったい何を指し示すことになるのか?

初めにダンサーの吉開菜央が日本家屋のような建物のなかで起きてトイレに行って窓を開けてストレッチして、という朝の始まりの光景や野菜を切って味噌汁をつくったり - のルーティーンが描かれる。 何気なくそこにある一日、晴れても曇ってもいない光の射してくる場所。オーバーグラウンドとアンダーグラウンドの中間にあるような。

日本のアンダーグラウンドには何があるのか? 掘ったら何が出てくるのか? のっぺりなんの面白みもなさそうな商業目的で開発された新興住宅地とかニュータウンといった「オーバーグラウンド」のB面として、遺骨とかお墓とか遺跡とかは必ず「先祖代々の」みたいな文句と共にやってくるものの、その正体がなんであるのかはわかっていてもあまり語られないことが多い。それははっきりと死骸で、でもかつて生きて喋ったり動いたりしていた者たち、時によっては殺されてしまった人々であったり、今は姿を変えて棄てられたりなかったことにされ埋められたりしている、それらの記憶を、声をつかみ取る、(下に澱んでいるそれらを)掬いあげようとする試みが16mmフィルムに収められている。

それを単なる紀行ドキュメンタリーにするのではなく吉開菜央(「演じる」ではない、「操られる」「同化する」というか)の「影」がひっそりと射していくかのように沖縄戦の現場のひとつ - ガマやダムで沈んだ村や大きな雨水菅や半地下の映画館など、各地の地下空間を巡っていく。 その影の形に沖縄戦体験者の声を紡ぐガイド松永光雄や読経の声が重ねられて記憶は多層となり鹿の骨やサンゴに固化していく - そんなふうに時間をかけて繰り広げられていく地下世界の循環、連なり。

「影」の日常と彼女の向かっていくアンダーグラウンドとの対比が興味深くて、例えば、自分の部屋でごろごろだらだらし続けるChantal Akermanの姿と、その反対側で彼女の向かっていったホテルや「東」や「南」の姿のことを思った。単純に両者を比較できるものではないが、なぜそれを撮るのか、撮り続けようとするのか、の問いの起点には部屋や家、基調として流れる日常の時間が必ずどこかにあるのだと思う。

あとは、Edward Hopperのシアターや映画館の暗がりに佇む女性の像なども。重ねられた記憶の間でどう動くのか、そこから外? どこ? に出ていくのか。

ひとつの「影」の出どころ、ありようを特定するのに目を凝らす必要があるのと同じように、この映画が映しだしているイメージたちも一度で見て終われるものではないような。それくらいこの作品に映しだされるイメージと音の豊かさ、多様さは半端ではないので、どこかでもう一回見たい。英国ではもう上映されたのかしら?

[log] March 30 - April 6 (3)

そしてずっと繋がれて動けないまま時間の感覚が歪んでくるのか、痛みの感覚 - 麻痺のような何かが広がってくるのか、単なる鎮痛剤のおかげ ←たぶんこれ - なのか、状態が変わってきた気がしたのは2日目くらいからで、痛いけど食べるし痛いけど寝るし、が常態となり、そうしながら点滴の管の数が減っていき、あとは自分内でどうにかしなはれ、になる、その跳躍というのか切断というのか、はちょっと怖い。生まれた時がまさにそうだったわけだが。

ここから先の生活はひたすらだらだらするばかりであまりおもしろくなくなるのだが、ひとつだけ、執刀した先生にお願いして自分の手術の映像を見せてもらったの。自分の顔や体が映っているわけではないので本当にそれが自分のかはわからないのだが、じょきじょき切り刻んでいって患部に到達してより分けて摘んで切り取って結んで、の一連の小さい箇所に対するマイクロな作業を、ロボットの3本の手なのか指なのか、がさっさか捌いていくのを倍速で見せて貰って、テクノロジー! って思った。でもそれ知らずに映像だけみたら鶏や魚捌いてるの(のを100倍拡大したの)とそんな違わないかも。

手術後2日過ぎて、点滴による鎮痛剤投与がなくなったあたりから歩く練習をしましょう、って管の繋がったガラガラに掴まって病棟内のサーキット(ただの通路、一周30mくらい?)をゆっくりぐるぐる歩く - だけなのにすごくしんどい。こんなんではエレベーターのまだ動いていない時間帯のシネマヴェーラに並べない! になってしまうのでがんばる。病と戦うとか、リハビリで歯を食いしばってなどという態度は個人的に嫌なのでそういうんじゃないんだ、という顔をつくって歩くのだが誰もわかってくれない。

既に少し書いた朝昼晩のお食事は、一日のトータルが1800Kカロリーを超えないように、各食200gのご飯とメインおかず、副菜1〜2でコントロールされつつ、質も量ももう飽きた嫌だになりそうでならない絶妙な線を維持し続けて、部屋からほぼ出れないのでお腹減らないはずなのに少しは減ってやってくる半端な欠落感をどうにかー、をどうにかしてくれる。で、それでもなんかー、とかパン食べたい、とか言う場合は追加料金での特別メニューを事前予約できる。楽しみがないので晩一回、朝一回、洋食をやってみたのだが、ロールパンとか別皿サラダとか、なんとなく昭和のゴージャス感たっぷりのやつだった。お年寄りにはうけるかも。

5日の土曜日の午前に最後の管が抜かれて - あれらを引っこ抜く瞬間のにゅるん、とくる痛覚ってなんかCronenbergだよね、とか思いつつ、抜かれた後の虚脱感 - いや、抜かれた抜かれないに関係あるのかないのかどうでもよくなるくらいとにかくだるいのってなんなの? 今回、切り取って体外に出されたのなんてせいぜい数十グラムくらい、手術の日から退院するまでに約6〜7日じっと転がっていた、それだけなのになんでこんなに力が入らないの、って?

でもとにかくこの状態から動き始めるしかないわけね、とこれから退院する。 当分スポーツ・運動はだめ(やるかそんなもん)らしいがじっとしている映画館はべつによい(好きにすれば)らしいので、がんばる。

あととにかくケアしてくれたナースの皆さんには本当に感謝しかない。すばらしい人たち。ありがとうございました。

[log] March 30 - April 6 (2)

この先、0時からは断食で、水分摂取は午前6時までとのこと、5時56分くらいに看護師のひとが来て、この先飲めなくなるので思いっきり飲んでおいてくださーい、というので飲んだのだが、飲んでおかないとどんなリスクや危機が待ち受けているのかがわからないのでいまいち腑に落ちてこないまま、胴はたぷたぷに。

手術は8:30からで、管を入れる場所にパッチを貼ったり線を引いたり、前回のよりは明らかに大掛かりっぽく、手術用の服と紙パンツで待機して、時間になったら連れられて手術室まで歩いて向かう。前回はベッドに横たわった状態で運ばれてかっこよかったのに今回は何故? と思ったら手術をするロボットのある部屋が奥の方でごちゃごちゃ入り組んでいてベッドが通れないからではないか、と。沢山の手術室のあるフロアの湯気のあがる現場っぽい臨場感 - SWに出てくる整備庫みたいな - がなかなかかっこよくてそのまま機器とか配線とか見たかったのだが、そんな場合ではないのだった。

まずは麻酔医の人々が(いつもずっとものすごく丁寧でてきぱきなのすごい)、これまで説明してきた手順通りに声を掛けあって指示をして一発で管を通して、点滴から麻酔が入りますー深呼吸してー、と言われ今度は負けないと思って天井を睨んで、いまその絵は残像として残っているのに意識が戻ったのは病室に戻った14:30なのだった。その間自分はなにをされていたのか? の変なかんじ。戻ってこれたので手術は「成功」と言ってよいのか? こんな管まみれで動けない状態での「成功」ってなに? など。

その先はいろんな管に繋がれて動けないまま2時間置きにいろんな人たちがやってきて体温脈拍血圧などのデータをとったりガーゼを替えたり点滴を替えたり痛み止めをくれたり、なにかお困りのことは〜? などあらゆる方角からよってたかって生かされている状態とそれを維持する活動 - この人たちがいなくなったら簡単に死んじゃうんだろうな - が深夜0時くらいまで続いて、その0時になってはじめて水を飲んだ。

痛みについてはどう言ったらよいのだろうか? 胸から下のお腹の全面がじんわり小針で刺されながらロースターでゆっくり回転しているような、走っている時の脇腹の痛みと腹筋の筋肉痛がカラフルに炸裂しているような、これらが体を起こしたりくしゃみしたり、立った状態からベッドに横になる、という動きをするだけで一斉に猛々しく立ちあがって内臓を食い破ろうとする - こんなに騒々しい痛みの感覚は初めてかも。痛みについては考えない、というのがそれを回避するひとつの方法なのかも知れないが、ここまで影のようにひっついてくるとなんなの? って。

こういう入院・手術って大きな流れのなかでは大凡これで「死ぬことはないから」って片付けているし、それだからここまでのこのこやってきたわけだが、実際にその最中に入ってみるとこれはやばいかも、ってなってくるのはこんなふうにずっと「痛い」からではないか。痛いのが止んでくれないとなんかおかしい、とんでもないなにかが降りかかってきているのではないか、が反射していってそればかり考えるようになる(→ カルト)、とか。

[log] March 30 - April 6 (1)

このたびはこれのために日本に来たので、逃げたり隠れたり蒸発したりするわけにもいかず、着陸して3週間、どんより冴えない悶々の日々を過ごしてきて、ついにこの日、というかこの週、が来てしまった。

治療してよくなる、健康になるのだから、という大義はあるものの、これまでの日々の暮らしで具体的に痛みや苦痛や不便を感じてきたわけではなく、手術の後もはっきりとよくなった、万事快調! と感じることができる類いのものでもなさそうなのだが、でもその真ん中の手術と術後しばらくの間ははっきりと痛いし気持ち悪いし辛くしんどいものになるであろうことは前回の検査入院でようくわかっていたので、体感レベルでは高いお金を払って泊まりがけで痛いめにあいにいくようなもので、なにひとつおもしろくないし、でもだからと言って泣いたり騒いだり逃亡したりするのは子供のすること、というのもわかっている。

あとはこの先、もう老いたぽんこつなので、これと同様のことが別の部位で起こらないとも限らず、多かれ少なかれそんな痛みが裏に表に本人にはどうすることもできないオセロみたいな陣地とりを繰り広げていくことになるであろうことを思うと、せめてきちんと記録くらいはとっておこうかな、という備忘を。

病院は10時に入院受付ということでその時間に入った。周りには開いた桜がぽつぽつ。
病室は667で、666だったら素敵だったのになー、ちぇっ、など。

サインしたいろんな誓約書を渡して、引き換えにいろんなルールの説明を受けて(ここまで来たんだからじたばたしないで観念して言うこと聞け)体重血圧測って採血されて(針6回刺してやっと)、パジャマを借りて、本日はそのまま病室でお過ごしください、って言われたのがお昼前。

最初のお昼は天ぷらそばで、昔の給食のソフト麺みたいに温かい蕎麦つゆを蕎麦の容器に入れる方式で、翌日の手術以降しばらくは食べれなくなるらしいのでありがたく頂くのだが、量が少ない… のと、あと12時間くらい、映画館にも美術館にもお花見にもいかず、静かにこの部屋で過ごせと? (だからあんたは病人だって言ってるだろ)

でも見張られているわけではないので、外に出て近くの古い教会を見たり桜を見たり駅の方のお店に行ってみたのだがどこも日曜日で閉まっていて、あんまりにもつまんないので下のコンビニで「金のアイス あずき最中」を買って部屋で食べたり。

今回、あまり選ぶ時間がなかったものの、本は『目白雑録Ⅲ 日々のあれこれ』(中公文庫版)と『ショットとは何か 歴史編』と『灯台へ』(文庫版)を突っ込んできていて、個室にはTVもDVDプレイヤーもあるのだがちっとも見る気にはならないのでだらだらうとうとしながら読む。「目白雑録..」には老いと病と病院についていろいろ書いてあってリアル病室で読むと枯れた臨場感がたまらない。

晩ご飯は18:00に来て、翌日からは点滴になるのでこれがラストフィジカルご飯、なのだが鮭の切り身と粉ふき芋となめこおろしとご飯、って少なすぎてこれだと夜中にわなわなが来てしまう気がしたので、パジャマから普段着に替えて下のコンビニに降りたら日曜日は17:00で閉まっていてこんなのコンビニじゃないじゃん、って泣きながらそういえば4階に食べ物の自販機があった気がしたのでそこに行ってシュークリームとフルーツヨーグルトを買って食べた。

3.28.2025

[film] 舞姫 (1951)

3月22日、土曜日の午後、↑の『流れる』に続けてシネマヴェーラで見ました。

上映後に岡田茉莉子さんのトーク、聞き手は蓮實重彦、ということで、今回の日本滞在中、ほぼ唯一のイベントっぽいやつ。立ち見になるかどうかのぎりぎりくらいだったが座れた。

原作は川端康成の新聞連載小説(1950-51)、脚色は新藤兼人。当時18歳の岡田茉莉子の、これがデビュー作である、と。

元バレリーナで、現在はバレエ教師をしている波子(高峰三枝子)が銀座で竹原(二本柳寛)とバレエを見ていて、そこを出てから波子は彼を引っぺがすようにして別れて、娘の品子(岡田茉莉子)と会って食事をしていると波子のマネージャーの沼田(見明凡太朗)が現れてねちねち絡んできて、ここまででどんな人物配置になっているのかが見えてくる。

波子には考古学者の地味な夫 - 八木(山村聰)がいて、彼との間に高男(片山明彦)と品子が生まれて約20年くらい、でも竹原とは結婚するずっと前から付きあってきて、子供が大きくなって手を離れそうで、自分がこれからどう生きていくか、を考えたときに、いろいろ内面とか良心の呵責などが湧いてきて悩ましく、それを察した八木は波子に意地悪く嫌味を言ったりぶつかってきて、それに高男が加担して、そうなると品子は母親の方について、家庭内の不和分断が染み渡って誰にも止められない。

そんななか、品子は高校時代のバレエの恩師香山(大川平八郎)が怪我をしてからバスの運転手をしていると聞いて穏やかではいられなくなり..

谷桃子バレエ団が協力したバレエのシーンはやや遠くからではあるがちゃんと撮られていて、バレエで表現される舞姫の魔界や煩悩、エモの奔流など、女性たちの揺れや狂いようが高峰三枝子と岡田茉莉子の見事な演技と共に精緻に重ねられていく反対側で、それらをドライブする(できると思いこんでいる)男性たちの一本調子の愚鈍さ、ろくでもなさはもう少しどうにかできなかったのか。 と思うのは、結局男たちがどれだけしょうもないクソ野郎であっても、表面の和解の後、のさばってなんのダメージも受けずに社会を渡っていける(と彼らは確信できるであろう)から。原作と脚本が「彼ら」だからか。それにしても山村聰って、教養もあって育ちもよいのに爽やかに粘着して相手を潰す、みたいな役をやらせるとしみじみうまいよね。

あと、バレエの公演中、見ている横から割りこんでなんか言ったりしても当然、と思っている(そういう脚本を書ける)神経がなんかいや。どうせ女子供の、って思っていて、自分はどこまでも冷静に事態を見渡せるんだ、って無意識的ななにかが。

全体としては暗くてブラックで舞姫がじんわり絞められていくお話しだったが、反対側の男たちの薄っぺらさが鼻についてどうにもバランスがよくなかったかも。

上映後、岡田茉莉子さんのトークは、これまで、吉田喜重と一緒のも含めて結構聞いてきて、でも今回の聞き手の人のは初めてで、どうなるんだろ? と思ったがなんだかんだいつもよりややつんのめった(つまり)いつもの蓮實重彦だったかも。

それにしても、東宝演技研究所に入所して2週間くらいでこれに出演して、演技について成瀬から特になにも言われなかった、っておそろしいし、実際高峰三枝子とのやりとりの滑らかなことったらすごい。『坊っちゃん』 (1953)は見なくては。


あさって日曜日から収容されてしまうのでしばらく更新はとまります。やだなあー。

3.27.2025

[film] 流れる (1956)

3月22日、土曜日の午後、シネマヴェーラ渋谷でこの日から始まった特集 - 『初めての成瀬、永遠の成瀬』で見ました。

「初めて」と「永遠」の間に「久々の」と入れたくなるような成瀬。特集の初日で、トークもあるので少し早めに行って、9:20くらいに列の終わりに着いたらカチカチを持った映写のおじさんが現れてこの辺から立見になる可能性ありますー、とかいうのでびっくり。レオス・カラックスがすぐ売り切れたのはわかるけど、こっちは… そうかーネットに行けない老人がぜんぶこっちに流れる、のかー。

『流れる』は本当に好きでこれまで何回も見ていて、日本映画のなかで一番好き、というくらい好きかも。理由はよくわかんないけどとにかく見ろ、流されろ、こんなにすごいんだから、しかないの。

原作は幸田文の同名小説 (1955)で、ラジオドラマにも舞台にもなっている。映画版の脚本は田中澄江と井手俊郎。フィルム上映だったのもうれしい。デジタルで見るよか断然の、あのしなびた風情。

川べりの下町にある置屋「つたの屋」に女中の仕事を求めて梨花(田中絹代)- 呼びにくいから「お春」でいいだろ、って勝手に変えられてしまう – がやってきて、彼女の目を通して、ではなく、つたの屋にいる芸者たち - つた奴(山田五十鈴)、染香(杉村春子)、なな子(岡田茉莉子)、芸者ではないがつた奴の娘の勝代(高峰秀子)、つた奴の妹で幼い娘を育てている米子(中北千枝子)らが紹介され、つた屋のある路地、その界隈がちょっと困った顔で彷徨う田中絹代と共に描かれて、ここで背後に鳴っているどーん、どーんという音がまるで西部劇のようなテンションで空気を震わせる。 こんなふうに「流れる」が流れ始める。

いきなりすごい事件が勃発したり凶悪なキャラが登場するわけではなく、つた奴の姉のおとよ(賀原 夏子)が訪ねてきてずっと滞留しているらしい借金のことをねちねち話したり、冒頭にいてどこかに出て行ってしまう芸者の叔父だという鋸山(宮口精二)がどうしてくれるんでえ、って家までユスリに来たり、お春が買い物に行ってもおたくは払いが溜まっているから、とよい顔をされなかったり、全体としてお金に困っていて、でもそれはこれまでもずっと続いてきたことだし、と言いつつも見ての通り商売として繁盛しているわけではないので、いろんなコネと資金に恵まれているかつての同僚のお浜(栗島すみ子)に助けて貰ったりして、「流れる」というよりは「沈む」ような。

それでも沈まずに流れていくのは、事態を柔く受けとめてばかりの母への苛立ちとともに冷静に見つめる勝代とか、他人事のどこ吹く風で呼ばれない芸者としての日々をへらへら過ごす染香やなな子がいるからで、彼女たちの言葉や行動は大勢を打開したりすることはないものの湿気の多い暗めのメロドラマにすることから救って、ものすごく豊かでおもしろい(おもしろいのよ)女性映画になっている。元気を貰える、とかそういうものではないが。

反対に男性の方はというと、薄くて弱くて、米子の元夫で体面はねちねち気にするけど圧倒的に力になってくれない加東大介とか、今でもそこらじゅうにいそうなクレーマー鋸山とか、なに考えているのかわからない官僚タイプの仲谷昇とか、借金のカタによく知らんじじいと一緒になってほしいとか、なにもかもうっとおしくていなくてもいい存在ばかり、余りのどうでもよさに感嘆するばかり。

なので見事に恋愛なんて出てこないの。染香が逃げられた、って少し泣くくらいで現在形の恋愛はまったく別世界のことのような潔さがある。

こうして、誰もがそれぞれに流れていってしまうその先で大海にでるとか、大船に拾われるとか、そういうことはなく、冒頭とあまり変わらない光を柔らかく反射する川があるだけなの。今後の生活もあるから、と(母からはやめておくれ、と言われた)ミシンの下請けを始めた勝代のたてる機械音と、向かい合って稽古をするつた奴と染香のツイン三味線が重なりあってひとつの音楽に聞こえてくるラストのすばらしさときたら。

そして、この後の『舞姫』上映後のトークで明かされた染香となな子の「じゃじゃんがじゃん..」がその場で楽しくなってやってしまったふたりのアドリブで、それがそのまま無言で採用されてしまったという驚異も…

3.25.2025

[film] Scandal Sheet (1952)

3月20日、木曜日の春分の日、シネマヴェーラのSamuel Fuller特集で見ました。

監督はPhil Karlson、原作はまだスクリーンライターだった時代のSamuel Fullerが書いた小説”The Dark Page”(1944)。 この頃の彼は第二次大戦の歩兵だったと。

やり手の編集長Mark Chapman(Broderick Crawford)の下、ケバケバのスキャンダル記事をメインに据えたら部数を伸ばして快調なNew York Express紙が勢いに乗って独身者向けのパーティ(ここで出会って結婚したら家電を!など)を開いて盛りあがっていると、会場にいた初老の女性がMarkに声をかけてきて、Markはかつて妻だったらしい彼女を捨てて名前を変えて現在の地位にのしあがったことがわかり、揉めてもみ合っているうちに彼女は頭をぶつけて死んじゃって、彼は指輪を処分して彼女の持っていた質札も処分しようとするのだが、それが飲んだくれの元新聞記者 - でも推理は冴えている - に渡ってしまったので、取り返すべく次の殺人が起こって…

うちが主催のパーティで起こったこんなネタ、部数伸ばすのに恰好かつ最適じゃん、とMarkに育てられた若い記者Steve (John Derek)と社の方針についていけなくて辞めようと思っているJulie (Donna Reed)が動きだし、亡くなった女性の持っていた写真に写っていた男(若い頃のMark)の正体を割り出していくと…

部下が事件を掘り下げて、容疑者特定に近づけば近づく程、部数は伸びて株主も(配当があるから)盛りあがって、その反対側で追い詰められたMarkの焦りはじりじりと焦げて広がっていって…

あんま期待していなかったのだがすごくおもしろかった。前の週に見た”Park Row” (1952)と併せてジャーナリズムとは、で突っこんでいくとここまで行ってしまう、という暗黒篇というか。どっちにしても泥まみれで楽な仕事ではなさそうだけど。

パーティの雑踏とか、酒場のごちゃごちゃの捉え方がよくて、これらとラストシーンの夜のオフィスのだだっ広い空間の対比とか。

あと、やはりDonna Reedが素敵。


Underworld U.S.A. (1961)

3月16日、↑のに続けて見ました。邦題は『殺人地帯U・S・A』。

The Saturday Evening Postの1956年の記事を元にSamuel Fullerが脚色・監督したもの。彼特有の粗さ、暗さ、猛々しさがノンストップでぶちまけられていく。

14歳のTolly Devlinは街をふらふらしている時に父親が4人のギャングに殺されるとこに出くわして、その中心にいたVic Farrarが刑務所にいることを知ると自ら犯罪を繰り返して刑務所に入り、そうして大きくなったTolly (Cliff Robertson)は、終身刑をくらっているFarrarに近づいて、彼が亡くなる直前に残りのギャング3人の名前を聞きだして、シャバに出てからギャングの内部に入りこんで大物になっている3人に近づいていって、他方で警察にもコネを作って両方からの情報を掴んでうまく捌いて、ひとりまたひとりと消していくのだが…

復讐を誓ったものが、それを実現するために地下に潜って、時間をかけて裏社会でのし上がっていくお話しで、でも結局はコネと人脈とそれらの使いよう(あと努力)、みたいなところにおちて、そういう点ではUnderworldもOverworldもそんなに変わらないのかも。母親的な存在のSandy(Beatrice Kay)も、情婦的な存在のCuddles (Dolores Dorn)のモデルのようなありようも含めて。

その説得力の強さ、迷いのないTollyの輪郭の太さは末尾に”U.S.A.”って付けても違和感のない汎用性普遍性を湛えている、と思う反面、あんまりにも極太ゴシックの男社会絵巻なのでちょっとしんどい気はした。昔のヤクザ映画なんてみんなこんなんじゃん、と言われればそうなのだが。そして、どっちみち破綻してほれみろ、なのだが。

他方で悪も正義もなく(見えない映さない)、復讐/敵討ちの情念でなんでも突破しようとする、それが万能で、説得力をもって認められ許されてしまう世界ってずーっと今に続いていて、これってなあー。


Samuel Fuller特集のはここまで。 ちょっと物足りなかったのだが、どれもぜんぜん古いかんじがしなかったのはさすが。何回見ても新しい。

3.24.2025

[film] Quatre nuits d'un rêveur (1971)

3月16日の午後、Alain Resnaisの↑のに続けて角川シネマ有楽町で見ました。

邦題は『白夜』、英語題だと”Four Nights of a Dreamer”、原作はドストエフスキーの短編、監督はRobert Bresson、撮影はPierre Lhomme、音楽はF. R. Davidが聞こえてくるのがうれしい。

4Kリストアされた版で、その色合い – モデルたちの顔とか頭よりも、首から少し下に纏っている服装の赤とか青の、くっきりではなく滲んだようにしみてくるその重なりよう、夜の河べりの雑踏など - の美しいこと、それを見てうっとりするだけでもよいの。暴力や激しい修羅場が出てくるわけではなく、夢見る者たちの四夜、でもあるので。

他方で、Robert Bressonの映画はシネマではなくシネマトグラフで、動いているのは俳優ではなくモデル、というところから始まっている。 例えば料理をお皿として、食材を原料として置き直したところで(ちょっとちがうか)、お料理の味が変わるのか(結構変わると思うよ)、というと、Bressonの映画の場合、映画の見方を根本から変えてくれるくらいにおもしろく変化してくれるので、とりあえずパンフレットだけでも買って読んでみると深まるのでは、とか。

画家志望のJacques (Guillaume des Forêts)はヒッチハイクで郊外に出かけて、発散というより悶々として戻ってきた晩、ポンヌフの橋のたもとで靴を脱いで身投げしようとしているMarthe (Isabelle Weingarten)を見かけて助けて、明日の晩もまたここで会おうって約束して、そこから始まる四夜のお話し。

Jacquesは携帯型のテープレコーダーに自分にとっての理想の出会い、みたいのをぼそぼそ語って、それを再生しながら絵を描いたりしているのだが、友人をアパートに招いて絵を見てもらっても、自分の絵や出会いのイメージを理解してくれる人なんて現れそうにない。

Martheは、離婚してひとりの母親の家に母と暮らして、そのうち一部屋を下宿人に貸しているのだが、新しく来た下宿人の部屋に積んである本をみたり、彼に映画に誘われて、最初はそんなでもなかったのだが、段々惹かれていって、互いに離れ難くなってきた頃に、下宿人はアメリカに留学するので1年待ってほしい、必ず戻ってくるから、と告げて消えてしまう。

JacquesがMartheに出会ったのは、下宿人が戻ったということを知っても連絡がないのでもう先はないのか、ってMartheが死のうとした晩で、JacquesはMartheに諦めないで手紙を書いてみれば、と言って励ましたりするのだが、そうしているうちにJacquesはMartheを好きになってしまったことに気づく。

最初の晩で出会ってすくいあげて、2日めの晩で過去からを振りかえって今がどうなのか、なんでそうなのかを確認して、3日めの晩で好きになっちゃったかも、になり、4日めの晩でMartheはJacquesの想いを受けいれる…と思ったら、のどんでんがあって夢から醒める、そんな4日間のふわふわ落ち着かない橋の上の日々、橋の下では船が楽しそうに流れていく。

Martheは戻ってきた彼のところに駆け寄ってキスをして、その後Jacquesの方にも戻ってきてキスをしてそのまま向こうに行ってしまう。

Jacquesについてはその後のことも少しだけ描かれて、彼は変わらずテープレコーダーにぶつぶつ吹きこんでいて、夢から醒めていないのかもしれない – でも勿論、醒めていようがいまいが、恋は続いているように見え、でもその恋が、どんなものなのかは描かれずに多分くすぶった状態のまま、それはBressonの他の映画で主人公たちが抱えこんでいる色を失った/黒めの何かと同じようなー。この映画はその際どい境い目のようなところを捕えようとしているような。

「俳優」ではなく「モデル」なので、この辺の「魂がこもって」いない、浮ついて彷徨っていくかんじがとてもよいの。

Jonathan Rosenbaum氏がエキストラとして映っているそうで - “Two Nights of an Extra: Working with Bresson” - エキストラとして夢のなかを彷徨う、というのがどんなかんじなのか、などがわかっておもしろい。

[film] Je t'aime, je t'aime (1968)

3月16日、日曜日の昼、角川シネマ有楽町で見ました。

Alain Resnaisの映画はおおおー昔に日仏でレトロスペクティヴがあった時にひと通り見て、この映画もその際に見た記憶があるのだが、今回見てみたら記憶から落ちている気がして、そういうこともこの映画のテーマではあるのかー。 原作はJacques Sternberg。

ベルギーに暮らすClaude (Claude Rich)は自殺未遂で病院に運ばれて、退院できるようになったところでよくわからない研究施設かなにかの人たちから声を掛けられ、よくわからないまま彼らの車に乗せられて、郊外の施設に運ばれる。 もう少し用心したら、とか思うがどうでもよかったのかも。

彼らがいうには過去の時間に戻る実験をしていて、ネズミを使って1分間向こう(過去)に滞在して戻ってくるのに成功した(どうやって検証確認したのだろう?)ので、次はヒトで確かめてみたい協力してくれないか、と言われて、自分はどっちみち死のうとした人間なのでやけくそで協力することを期待されているのだろうな、と察してやってみることにする。

お話しはその科学的な建て付けとかその確かさについて突っ込んだり暴いたりするのではなく、その実験用のブースに成功済みのネズミさんと一緒に入れられて、トランスポート用のフォームマットに転がって実験台となるClaudeの姿と、その様子を別棟からモニターする - でもなんもしようとしない科学者たちを追うのと、あとはClaudeの目だか意識だかに入ってくる過去(だからどうしてそこに映っている「過去」を、「過去の記憶」ではなく「過去の時間」そのものである、と外側から言い切れるのか?)を並べていく。

まずは海の中をこちらに向かって泳いでくるClaudeがいて、浜辺には恋人のCatrin (Olga Georges-Picot)がいて、サメがいたとか他愛ない会話をしたり、その先は寝たり覚めたりを繰り返しつつ、彼女との出会いとか会話の断片、寝起き - 寝室の壁のマグリット、何度か同じイメージ、その断片が繰り返されつつ、その繰り返しのなかに彼が後悔しているのかずっと痛みとして抱えているのか、その地点、その記憶の周辺に戻って(戻されて?)いくことがわかり、Claudeもしょっちゅう現在時に戻りつつも、実験をやめるのではなく、目覚める前の地点になんとか戻ろうとする。

覚める直前の夢に戻りたいからもう一回寝る、って単に眠いから、も含めてふつうにあることだし、そんなふうにうだうだしていると、隣にいたネズミさんも過去時点に現れたりするので、これ夢じゃないんだ、とか思いつつ、でも彼は一番スイートなところではなく、一番痛切だったあの地点に吸い寄せられていって…

記憶って、それが甘くせつないものであればあるほど、そこに吸い寄せられて身の破滅を招く、ってこれまで何度も描かれてきたようなテーマをSF(ただしヌーヴェル・ヴァーグのそれ)っぽい時間旅行という設定 – 実はねちねちとストーカーのように寄っていくのと変わらない – のなかで展開して、つまり人は愛のなかで何度でも死ぬのだ、ってちょっとロマンチックなところに落ちて、それはベルギー郊外の殺風景な研究施設の穴のなかであっても変わらない。 “Je t'aime”は2回どころか、何度でも重ね塗りされて繰り返されていくのだ、と。

Alain Resnaisの記憶や時間に対する執着というか世界観って、これだけではなく何本か続けて見ていくとはっきりと見えてくるので、やはり特集で立て続けに見たいなー。

3.22.2025

[film] Park Row (1952)

ここからは日本/東京の備忘。たぶんそのうちネタが尽きる。

平日は朝からオフィス行って仕事、夕方からはロンドンともやりとりがあるので早めに抜けることができないし、なんか体力なくてすぐ疲れてしまうので映画は週末にならざるを得なくて、要は何ひとつ大変におもしろくない日々。

シネマヴェーラ、会員のを更新しても5回くらい見ればモトが取れそうだったのでそっちにしてこの日の3回分を買う。いま手元のカードには来店回数は245回、累積:0ポイント って打ってあるのだが、ポイントでは見れないのか - ポイントってよくわかんないわ。

Park Row (1952)

3月15日、土曜日の昼、シネマヴェーラの特集『映画は戦場だ! サミュエル・フラーの映画魂』で見ました。Samuel Fullerの映画は基本ぜんぶ、映っていなくても戦争ものなので体が弱っているときに見るのはちょっとしんどいのだが、でも見る。

作・監督・プロデュース、ぜんぶSamuel Fuller。
これとか”The Bowery”(1933)とか”Crossing Delancey” (1988)とか、ローワーイーストの通りの名前が入っているとなんか見たくなってしまうのはどうしてなのか? (あの通り界隈にはなにかある、って思うから)

1886年のNYで新聞記者のPhineas Mitchell (Gene Evans)が社の方針を批判して解雇され、その隣に仲間を集めて自分たちのやり方で新しい新聞社を立ち上げよう、って奮闘する。そこに横から口や手を挟んできて目障りな隣の旧来型新聞社のCharity Hackett (Mary Welch)との熾烈な戦いを通してジャーナリズムとは、を叩きつける。それを演説とか長台詞とか涙で訴えるのではなく、せかせかしたアクションと過去の先達の紹介の対比で一気に見せて、例えば新聞社を作る、っていうのがどんなかんじのものなのか、がバンドをくんでいくみたいなわくわくする痛快さの中で描かれていてかっこいいー しかないの。


Pickup on South Street (1953)

前に見たことあるやつだった。マンハッタンの犯罪、みたいな特集があると”The Naked City” (1948)と並んで必ず入ってくる一本。 邦題が『拾った女』って… 女を拾う話でも、女が拾う話でもないよ。

NYのラッシュ時の地下鉄で、スリのSkip (Richard Widmark) がCandy (Jean Peters)の鞄から財布をスったらそこに彼女が運搬を頼まれた極秘情報入りのマイクロフィルムが入っていて、警察と送付元の両方とCandyがそれぞれにSkipを追い始めるのと、自分が盗ったブツの価値を知ったSkipも動き始めて…

土地の闇をぜんぶ掌握しているかのような情報屋のMoe (Thelma Ritter)の存在感が彼らを交錯させ、かき混ぜ、それでもすべては元に戻っていくようなー。

Skipが住んでいる河の上の小屋、洗濯とかどうしているのだろう、っていつも。

コミュニストから国を守れ、っていう当時のお題目はあるものの、それをスリに言わせているのでじゅうぶんに軽くて怪しそうで、J. Edgar Hooverのお気には召さなかったらしい。


Margin for Error (1943)

この日の三本目、邦題は『演説の夜』。なにを見ても楽しくなってくる。

監督はOtto Preminger(出演も)で、原作はClare Boothe Luceによる同名戯曲 (1939)、脚色にLillie HaywardとクレジットなしでSamuel Fuller。

NYのユダヤ人の警官Moe (Milton Berle)がドイツ領事館の領事Karl Baumer (Otto Preminger)の公邸での警護を命じられて、あんなナチ野郎の護衛なんてまっぴら御免、って嫌がるのだが、説得されて任務につくと、Karl Baumerは秘書のMax (Carl Esmond)にも妻のSophiaにもめちゃくちゃ忌み嫌われていて、その事情も尤もで、他方でデモによるナチスへの抗議が渦を巻くNYではヒトラーのラジオ演説の晩に破壊工作が計画されていて…

邸内で息詰まる攻防が.. と思ったら領事は割とあっさり盛られて刺されて撃たれて死んじゃって、いなくなったのはよいけど後始末と爆破計画の阻止をどうする? の方でじたばたしていくのがほんのりおかしい。

この辺、どことなくルビッチの”To Be or Not to Be” (1942)にもある、ナチスなんてちーっとも怖くなんかないもん! が少しあるかも。こっちの方がやや堅くて真面目だけど。

3.20.2025

[film] Wolfs (2024)

ロンドンから日本行きの機内で見た映画ふたつを。
作・監督は”Spider-Man”シリーズのJon Watts。

バスにでっかい広告まで乗せて結構宣伝していたのに劇場公開直前になって(1週間は公開されていた?)配信にされて”?”になったやつ。

高級ホテルで地方検事の女性が夜中、部屋に招き入れた若い男が突然死んじゃった、ってパニックになり、なんかあったら使え、って言われていた番号に電話したら闇の仕事人George Clooneyが現れて男の死亡を確認し、片付けるからどいてて、となったところに別のルートから派遣されたらしいBrad Pittが現れて、互いに、お前は誰だ? お前の依頼主は誰だ? になるのだが、いまここで揉めても意味ないのでまずはこの依頼を片付けよう、って死体を包んで地下の駐車場の車まで運び、George Clooneyの車に積んだところで若い男が生きていることがわかって、とりあえずトランクに押し込んでチャイナタウンの闇医者のところに向かい…

仕事の内容が死体の片付けではなくなってしまったので、仕事人としては生き返ったその若者を始末して死体に戻って頂くしかないのだが、こいつがすごい勢いで逃げ出したので、彼を捕まえてそもそもなんであのホテルに行ったのかも含めて聞きだすと、こいつが運ぶのを依頼されたドラッグの怪しいルートまで遡らないとまずいかんじになってきて…

呼び出された仕事人が思いもよらなかったやばい方に巻き込まれて悪夢のような一晩を過ごすことになる、というクライム・コメディで、監督が好きだという”After Hours” (1985)っぽくもあるのだが、真ん中のふたりはやはりミスキャストだったのではないか。

George ClooneyもBrad Pittもそれなりの場数を踏んできて腕は確かなのだろうが、「オレはできる男」のナル臭が強すぎて鼻につくし、これに近いやり取りは”Ocean's -“ (2001-)のシリーズなどで既に見てるし、もうわかったよ、になる。

どうせならあの若者をモンスターかエイリアンかミュータントにでもしちゃえばよかったのに、とか。


Quiz Lady (2023)

制作会社がGloria Sanchez - Will FerrellとAdam McKayの - だったのでよいかも、になる。
監督はJessica Yu。 全世界で配信のみだったのかー。

Anne (Awkwafina) は子供の頃から長寿クイズ番組 - “Can't Stop the Quiz”に浸かって内に籠り、父は家出蒸発し、ギャンブル狂の母は借金を背負ったままマカオに高飛びして、姉のJenny (Sandra Oh)も夢を追うんだ、って家を出て、最後にはAnneと老パグのリングイネが残されて、彼女は勤務先の会計事務所と家を行き来するだけ、毎日のクイズ番組だけを楽しみに生きているので、クイズならいくらでも答えられる。

でも破産して車上で暮らすJennyが戻ってきて、母親の借金のカタでリングイネが誘拐されて身代金を要求されて、最後に残された道はAnneが“Can't Stop the Quiz”に出演して賞金を稼ぐことしかなくて、後半はWill Ferrellが司会で、陰険なJason Schwartzmanがずっと挑戦者を退けて勝ち続けている番組にJennyと一緒に臨むのだった…

例によってまともな人がひとりも出てこないドタバタコメディで、アジア人、女性、借金、等々のネガをはねのけるの。大好きなクイズ番組とパグのために。

パグがかわいいからぜんぶ許す。

3.19.2025

[film] Portrait d’une jeune fille de la fin des années 60 à Bruxelles(1994)

3月8日、土曜日の夕方 – いよいよ時間がない – Park Theatreで演劇を見たあと、移動してBFI SouthbankのChantal Akerman特集で見ました。 これはなんか見逃せない気がした。 上映前にAnother Gaze誌のDaniella Shreirさんによるイントロがあり。
 
英語題は”Portrait of a Young Girl at the End of the 1960s in Brussels”。63分の中編で、元はTV局Arteが9つからなるシリーズとして企画した”Tous les garcons et les filles de leur âge” (All the Boys and Girls of Their Age)のなかの1編。他に委託された監督たちはAndré Téchiné, Olivier Assayas, Claire Denis, Cédric Kahnなどなかなかすごくて、Assayasの”Cold Water” (1994) はこの企画から劇場公開されたものだそう。
 
舞台は1968年4月のブリュッセル – 「1968年5月のパリ」でないところがポイント – 15歳のMichelle (Circe Lethem)は親友のDanielle (Joelle Marlier)とつるんでうだうだしていて、Michelleの髪はショートでずっと洗っていないようなボーダーを着ていて、Danielleの髪はロングで身なりはややちゃんとした学生ふうで、ふたりとも学校なんてどうでもよくて頭にあるのはパーティのこととかばかり、そのうちMichelleは街中でスーツを着ているけどどう見てもちょろくてあやしい若者Paulと出会って映画館でキスをして、よい雰囲気になってきて、街をうろついてから彼のいとこのアパートに行くのだがだれもいなくて、”Suzanne”をふたりで踊ってからー。
 
MichelleとDanielleと一緒にいった夜のパーティでは「ラ・バンバ」などをみんなで踊るのだが、あんまりおもしろくなくて– 微塵もおもしろそうでなさすぎておかしい - 結局ふたりで手をつないで帰るの。
 
街をふらふらしている時のどこにも行きつけないすっからかんのかんじ、パーティがろくでもないものになりそうな感触がある時の夜道の冷たいかんじ、ふたりになった部屋ですることがなくなった時に吹いてくる風、などのものすごくよくわかる空気や湿気、明度は彼女のいつもの。
 
Michelleのキャスティング、スタイリングは68年当時のChantalそのものを狙ったそうで、ただ年齢だけみると、Chatalの方がMichelleより3歳上で、更にこの年に彼女はデビュー作”Saute ma Ville” (1968)を撮って、自分ごとフラットを吹っ飛ばしてしまうわけだが、そういうことを平気な顔でやってのけそうなへっちゃらなやばい佇まいはこのMichelleにも既にあるかも。
 
それにしても、同じボーダーでも『なまいきシャルロット』 (1985)のきらきらしたそれとはぜんぜん違うし、ふたりの少女ものとしては、あと少しで『レネットとミラベル/四つの冒険』 (1987)にも行きそうなのだが、男性の監督が撮ったこれらの少女映画とは、なんか次元が違う。彼女たちの野良なかんじも含めて、当たり前のように地に足がついて生きている、というか。
 
“Cold Water”との二本立てで見たいかも。
 

Hôtel des Acacias (1982)
 
↑のと同じ枠で、先に上映された42分の中編。
INSAS (the Brussels film school)のワークショップで、学生たちに制作させた作品で、Co-directedのクレジットはMichèle BlondeelとChantal Akermanの2名。 彼らの書いたスクリプトを元に4名の学生(?)が16mmのカラーで撮った作品。
 
町中のホテルに女性が泊まりにやってきて、部屋を取って、その辺りから始まる客室、フロント、フロアと昼夜を貫いてホテルの従業員たちと宿泊客たち、彼らのかつての恋人たちをも巻きこんだ恋のぶちあたり/ばちあたり大会が始まってどうにも止まらない宴になっていく。
 
“Golden Eighties” (1986)のショッピングモールの縦横を目一杯使って恋にやられて魂がとんでしまった人々が歌って踊って交差していった画面の背景を“Hotel Monterey” (1972)で切り取った四角四面のホテルの格子上に置いてみたプロト、のような。 とても学生とのワークショップで作ったものとは思えないクオリティで、たまんなかった。

“Les années 80” (1983), “Golden Eighties” (1986)との三本立てで見たい。


この後、なんかものたりなかったので、公開されたばかりのSZAとかが出ているコメディ - “One of Them Days” (2025)を見にいこうとしたのだが、途中で地下鉄が動かなくなったりしてくれたので、諦めて帰ってパッキングなどした。

3.18.2025

[theatre] One Day When We Were Young

3月8日、土曜日の午後、Finsbury ParkにあるPark Theatreで見ました。

翌日には旅立ってしまうので、夜の部とか、あまり長くて重いのは見れない、けどやっぱりなんか見たい、で休憩なしの約80分のこれを。シアターが2つあって、Park90っていう小さい方のシアターで、座席はすべて自由。ほぼ埋まっていた。

原作はこないだ見た映画”We Live in Time” (2024)とか、未見だが劇作の”Constellations”を書いたNick Payneによる2011年の作品(初演も同年)、演出はJames Haddrell。 男女のふたり芝居。

1942年のバースで、ホテルの客室のベッドにふたりの男女 - Leonard (Barney White)とViolet (Cassie Bradley)がいて、彼と彼女は結婚はしていないようで、彼の方は翌日に戦地に赴くので、これがふたりで一緒にいられる最後の晩になるかもしれない、ということで立ったり座ったり窓辺に行ったり着たり脱いだり落ち着かなくて、どちらも将来に孤独と不安を抱えていて、互いに思いを決めて飛び降りるように「やっぱり…」ってなったところで窓の外で爆発が起こって、これが後の歴史に残るベデカー爆撃であった、と。

次のシーンは、The Beatlesの”Love Me Do”が流れてくるのでそこから約20年後、遊んでいる子供たちの声が響いてくる公園のベンチで、ふたりとも少し歳をとって、ふたりの子供がいるというVioletはしきりに電報のことを気にして立ったり座ったりを繰り返す。気にしなければいけない家族がいるけど、こちらの方も気にしたい/気になってしまうふたりが、どこにも行けないまま、子供のように遊ぶこともできないまま、公園でじりじりした時間 – そのまま離れてしまいたいような/でもずっとそこに残っていたいような – を過ごしていく。

次のシーンは、流れてくる音楽で年代がわかるのだが、Tears for Fearsが聞こえた、と思ったらBlurとかまで行って、2002年頃、前のシーンから約40年後、最初のシーンから60年後で、場所は老人Leonardがひとりで危なっかしく暮らす殺風景なフラットで、そこにVioletがひとりで訪ねてくる。始めのうちはよく来たねーとか、互いの健康のこととか近況とかをぼそぼそ言い合ったりするだけなのだが、ふたりでジャファケーキを食べた辺りから、ヒューズがとんで部屋が真っ暗になった辺りから、ふたりのなかで、或いはふたりの間に、何かが立ちあがったように見えて、ふたりとも言葉を失ったり濁したりして、何が起こったのかよくわからないまま立ちすくんでいる、という…

戦時下に出会って愛しあい一緒になる手前まで行ったふたりに、そこからの20年、40年、計60年間でどんなことが起こったのか、詳細が綴られることは勿論ないし、その間ずっと互いが互いのことを強く思っていたとも思えない。ただの断面でも、それでもふたりが再会して顔を合わせた時に蘇ってくる、現れてくる何かは確かにあって、それって何なのだろうか、と。

そういう経験をしたことがなくても、ふたりの繊細な演技と会話からそういうのってきっと起こる、というのはわかるし、そうなんだろうな、って思う(根拠ないけど)。”One Day When We Were Young” – 振りかえった「ある日」のふたりはいつも(今よりは)若い。 考えてみれば当たり前のことなんだけど、そんなある日があるだけで、なにが、どんなふうに違って見えるのかしら? という振りかえり、というのか、その先を見てしまうのか、いや、見つめてしまうのは時間ではなくてあなたなのだ、と。

難病や死によってぷつんと断ち切られてしまう関係ではなく、ずっと微妙な思いを抱えたまま延びて続いていく、そういう関係、とも呼べないような優しい眼差し、そこに浸る時間、ってなにがどうなるものでもないけど、灯りとしてある。

ふたりともぜんぜん知らない俳優さんだったが、若い頃から老いた頃まで丁寧に演じていてすばらしかった。


ああPJ Harvey行けなかったよう…

3.17.2025

[film] Mickey 17 (2025)

3月8日、土曜日の昼、BFI IMAXで見ました。

この日は帰国の前日で、あれこればたばたの中、見ようかどうしようか直前まで迷っていた。

世界中でものすごくお金かけていっぱい宣伝しているし、”Parasite” (2020)でオスカー作品賞監督となったBong Joon-hoが世界にうってでる英語作品 - でも内容は予告を見る限りどう見たってB級アクションだし、でもそこは本人が一番よくわかってやっているのだろうし、公開が一年延期となったのはなんかあるのか、などなど。

原作はEdward Ashtonの2022年の小説”Mickey7”をBong Joon-ho自身が脚色、撮影はDarius Khondji。

舞台は今から30年後、2054年で、宇宙移住計画を推進するキャンペーン中の政治家Kenneth Marshall (Mark Ruffalo)がいて、借金で首が回らず将来になんの希望も持てないMickey (Robert Pattinson)と友人のTimo (Steven Yeun)はこの計画のコアとなる宇宙船の乗員に応募して別の星に移住しようと考える。ただ、応募が殺到していたこともありMickeyの身分は"Expendable"という、生体情報と記憶をぜんぶコピーされて、何度でもリプリント可能な人体を提供する、地球では禁止されているやつ – 要は放射能で焼かれたり大気中のウィルスの耐性を試されたり、危険なミッションを遂行するためのブルシットの使い捨てで、そうやって何度死んでも何度でも再生されて、彼のバージョンは17人目まで行って、Timoを含めていろんな人から「死ぬのってどんなかんじ?」って聞かれるのだが、Mickeyはへらへらしている。のだが、そうしながらも乗組員のNasha (Naomi Ackie)と恋におちたり。

4年間航行して、船はNiflheimっていう雪に覆われた星に着いて、その地表にはクマムシ – ダンゴムシ - ナウシカの王蟲みたいな”Creeper”って呼ばれる生物がうようよいて、そこの探索中に17人目のMickeyは谷底に落ちて死んだ.. と思われたのだが彼はCreeperに救われて船室に戻ってきて、そうしたらそこには(17は死んだとみなされて)リプリントされたMickey18がいたので大騒ぎになるの。

まずクローンの"Multiples"は御法度で見つけたら殺す、ってMarshallが公言しているからか、Mickey18は17を殺そうとするし、Nashaに対してふたりは恋敵になるし、でもどっちかが生き残ったところで、そこにどんな差とか意味があるというのか、だし。

TrumpとMuskを足して割ったような低能傲慢ファシストとその妻で性悪の妻Ylfa (Toni Collette)が、彼らを支援するインチキ宗教団体と一緒になってクローズドな宇宙船内でやりたい放題している、というわかりやすく生々しいディストピアを背景に、生と共生(or 寄生)、アイデンティティ、できれば愛の可能性も探る、なんていうテーマを設定できないこともなさそうだが、それって地球から隔離された宇宙船の中、という設定の段階でどうすることもできない暗箱になっている(or うんざりするくらい「今」すぎて嫌だし見たくないし)ので、実際には壊れたロボットみたいにぼそぼそ喋るMikeyの佇まいとか、できれば小さめのを一匹ほしいなCreeperとか、そっちの方に目が向いて、なんの深い感慨もなしに終わってしまう。正しいB級、にできるかどうかすらわからないジャンクなのだが、雪原の中もじょもじょ動いていくCreeperの大群の影はなんかよかった。

人体破壊→リプリント、のようなテーマであれば、David Cronenbergがあたりがもっと生理的にねちゃねちゃリアルにやってくれるものだと思うのだが、この作品の視点はどちらかというと、使い捨てOKで代替可能な身体とか、Creeperとか(昔だと)Okjaみたいな生贄にされる異形生物のありよう、みたいな、どちらかと言うと社会寄りのところにあったりするのでどうかしら?

完全無欠で最強のヴァンパイアをやっていたRobert Pattinsonが、ここまで廃れてへたれた底辺労働者をやる - どちらも不死であること、あと社会的に不可視である、というところが同じ - というのはなんかおもしろいかも。”Parasite”から続く無産者たちのお話し。

日本のキャンペーンでは、あの人工肉プレート試食は必須。あとCreeperのぬいぐるみほしい。

3.16.2025

[film] We Are Fugazi from Washington, D.C. (2022)

3月5日、木曜日の夕方、Picturehouse Centralで見ました。

どういう事情、背景によるものかは知らぬが、Doc’n Roll Filmsが主催しているイベント?で、この日の夕方一回きりの上映が英国各地のPicturehouse のチェーン館で同じ時刻に行われて、今後も5月くらいまでかけて単発の上映はしていくらしい。Fugaziの(現時点での)最後のライブである2002年のD.C.でのそれから20年後に制作された96分のこの記録(non-documentaryである、とのこと)が、なぜ今、突然にリリースされたのか、収益はチャリティー団体に行く、等の点も含めてわかんないけど、とにかく見る。

一回きりの上映だからといって、Fugaziだからといって、20年以上活動を停止しているバンドのライブ映像上映に客が殺到することなんて勿論なく、中サイズのシアターはいっぱいにならなくて、客席は中年以上の年寄りだらけではあったが、そんな程度のことでうだうだ言うやつはIan MacKayeに言いつけてやる。

ファンが各々勝手に撮った(このバンドはライブでの録音録画を禁止していない)ライブフッテージを寄せ集めて繋いだだけのもので、だから”directed by xxx”ではなく、”curated by” Joe Gross, Joseph Pattisall, Jeff Krulikとなっている。

なので最初は映像を撮った各撮影者へのインタビューなどがあって、どうしてライブの映像を撮るようになったのか、とか、Figaziに対する思いとかを語って貰ったり、撮影者の中にはD.C. パンクシーンのドキュメンタリー - “Salad Days” (2014)を撮ったJim Saahなどもいて、撮影者も素材もばらばらなのに全体のクオリティはじゅうぶん、見事に保たれている。

というか、そもそものFugaziというバンドが、そのライブが、突出しているので真横から、真下から、どこからどう撮られようがFugazi、としか言いようのない強さ粗さで迫ってきて、その紙ヤスリに削りとられていく鼓膜の感触だけでたまらない。Sex PistolsもRamonesもClashも、自分にとってパンクでもなんでもなくなってしまったいま、ノスタルジーもなんもなく擦れっからしのコンクリの床を、その足下を見つめさせてくれる。SNSや配信で流れては消えていく泡みたいなライブ映像とは、その感触もトーンもやはりぜんぜん違う。

ライブの日付は初期の80年代末から90年代初のD.C.近辺のものがやはり多く、ラストは2002年の、今のところ最後となっているライブで閉まる。客席やステージの端から固定で捉えているせいもあるのか、バンド4人 - Brendan Canty, Joe Lally, Ian MacKaye, Guy Picciotto - の輪郭がぶっとく、ギターアンプが飛んでも、会場全体の電源が落ちても、平気な顔で演奏を続けるし、モッシュで客の頭を踏んづけたガキに延々説教してるし、ああぜんぶFugaziだわ、しか出てこない。あと1曲だけ、Dischord Records仲間のAmy Pickeringさんがヴォーカルをとっている映像があり、異様にかっこよいったら。

あとこれもファンの撮った映像でライブ後にIan MacKayeが喋っているの(インタビューという程のものでもないか)があって、その隣に彼のママ - もかっこよし - がいたり。

アメリカの政治が、文化が、かつてない危機を迎えている今(じつはずっとそうだし、どの国だってそうだけどね)、音楽に政治をぶちこんで全面戦争に持ち込まないとだめよね、という危機感を思いっきり煽ってくれてよかった。


I Am Martin Parr (2024)


少し前になるが、2月19日、水曜日の晩、CurzonのSohoで見ました。 ↑とタイトルが似てるかなって。

Martin Parr (1952-)は英国の写真家で、Magnumのメンバーで、英国の田舎や郊外に暮らすそこらの人々の日常をぺったんこのカラーで撮らせたら流石で、その写真は、誰もがどこかで目にしたことあるのではないか。彼の写真と出会ったのはNational Maritime Museumで2018年にあった”The Great British Seaside”っていうイギリスの海辺風景を撮った集合展で、それがすごく面白かったの。最近だとパリのL'INAPERÇUっていう本屋で彼のキュレーションによる英国・アイルランドの写真集を特集していて、すてきなのがいっぱいあった。

公開日前のプレビューで、夕方の早い方の回には監督と一緒のトークとQ&Aが付いていたのだが、自分が見た夜遅い方の回はイントロだけ。それでも椅子に座って結構お話ししてくれた。

68分の長さで、Martin氏によると、90分を超える映画なんて自分には耐えられないから、と。映画はそんな彼が日々街中で撮影していく姿を追っていて、それだけなのにおもしろかった。街中をふつうに杖をついてよれよれ歩いていて、被写体を見つけると後ろから寄っていってパチリ、ってやるだけで、その姿だけでフィクションになりそうな妙なおもしろさがあるの。(やばくない)素敵なおじいさんだった。


時差ぼけの最終調整段階 = 眠くなったら寝る = いつもと同じ - に低気圧が襲ってきていいかげんにしろ、になっている。

3.14.2025

[theatre] The Seagull

3月7日、金曜日の晩、Barbican Theatreで見ました。

4月に戻ってくるまでに終わっちゃう演劇のなかで、これは特に見たかったのだがチケットが高くてどうしよう... だったのを飛び降りて取ってしまった。

この週2本目のチェーホフ劇。昨年からだと5月にDonmar Warehouseで”The Cherry Orchard”、2023年9月にAndrew Scottの“Vanya”を見たので四大戯曲ぜんぶライブで見たことになる。でもまだまだ。

脚色はThomas OstermeierとDuncan Macmillanの共同、演出はThomas Ostermeier。休憩1回の全3時間。

舞台の真ん中に背の高いトウモロコシだか葦だかの草が”Interstellar” (2014)とか”Signs” (2002)みたいに壁のように植わっていて、登場人物たちはその叢の向こうから現れる。叢の前にはビーチのようなてきとーなデッキチェアがいくつか。ステージ中央から客席の真ん中くらいまで花道のような通路が延びていて、マイクスタンドが3箇所くらいに置いてある。 設定は現代、だけど田舎。

最初に作業着姿のSimon Medvedenko (Zachary Hart)が小型の4輪トラクターのような乗り物ですーっと軽快に現れて、おもむろにテレキャスターを手にしてアンプに繋ぎ、「チェーホフやるんだってな?」なんて言いながらBilly Braggの“The Milkman of Human Kindness”をじゃかじゃか歌いだしたのでおいおい、って。合間合間に彼はこうして現れてBilly Braggもあと2曲くらいやる(なかなかうまい)。 Billy Braggにチェーホフ… ありかも。 音楽ではもうひとつ、The Stranglersの”Golden Brown”のあのシンセのひょこひょこがところどころで。

そこからMarsha (Tanya Reynolds)と彼の寸劇のようなやりとりのあと、Irina Arkádina (Cate Blanchett)が現れると、彼女のテンションとオーラが舞台のすべてを支配してしまう。

誰もが認める大女優でスターで、声も態度もでかくて誰も逆らえない、そんな彼女の周りによれよれ死にそうな兄のSorin (Jason Watkins)とか彼女に引き摺られている有名作家のAlexander Trigorin (Tom Burke)とか、壊れそうなくらいナイーブな作家志望の息子 – というよりそこらの宅録少年みたいなKonstantin (Kodi Smit-McPhee)、彼が思いを寄せる女優志望のNina (Emma Corrin)などが現れて、みんながいる前でKonstantin自作の詩劇みたいのが披露される.. がデバイスを装着して没入させてくれるはずのそれは自滅に近い大惨事で終わって、演劇界の先輩として偉そうにコメントしたつもりのIrinaは深く息子を傷つけて、母子だけでなくNinaとの間にも溝を作ってしまい …

一連の出来事が連鎖したりドライブしていく、というよりは、ひと夏、湖畔のどこかに集まって退屈でうんざりしている金持ちセレブの一族が織りなすアンサンブルで、若者たちを除けば誰も痛みや悩みを抱えていない – というかなんも抱えていない、抱える心配もなく心身腐っていくだけの大人たちと、その反対側で煩悩にまみれてひっそり殻を閉じていく若者たちのギャップ – 簡単に剥製にされてしまうカモメなど - が叢を挟んで見え隠れしていくドラマで、なにか大声でみんなに伝えたい事が出てきたひとはマイクスタンドのとこに行ってわめくとか、でも全体としては豪華なだけであまりすっきりしないコメディとしてフェードアウトしそうになったところに銃声が。

いろんな人たち、都会のどこかで会ったことがありそうな人たちが、田舎でうだうだしつつ例えば演劇を、例えば文学を語る、そこにどんな意味があるのか? そんなことしてなんになるのか? という近代における根源的かつ致命的な問い、をMarvel Cinematic Universeに出てくる超人たちがライブで仰々しく問いかけてくる。

キャストでCate BlanchettとTom Burkeは当然知っていたが、この劇は若者たちがみんなよくて、黒づくめにメガネのゴス– Marsha役のTanya Reynolds、Kodi Smit-McPhee、Emma Corrin、みんなX-Menの新キャラとして出れそうな危ういエッジが、と思ったら既にこいつらみんな。

ジャンプスーツとか、ジャンプスーツの上からビキニとか、ファッションでも大阪のオバハンふうに大暴れしてくれるCate Blanchettは言うまでもなく、ぼさぼさの無精ひげで外見がチェーホフそのものに見えてしまうTom Burkeの威圧感もすばらし – 映画 - “The Souvenir” (2019)で彼が演じた作家キャラにも通じる、そこにいて見つめるだけで誰かを蝕んでしまう毒男。 3mくらい先で身悶えするCate Blanchettを見れたのでそれだけでいいわ。


2018年のMichael Mayerによる映画版も思い出した。IrinaがAnnette Bening、KonstantinがBilly Howle、NinaがSaoirse Ronan、MarshaがElisabeth Mossで、キャスティングは悪くなかったのだが、なんか弱かったかなー。

3.13.2025

[theatre] BACKSTROKE

3月6日、木曜日の晩、Donmar Warehouseで見ました。

原作・演出はAnna Mackmin、主人公のふたりも、彼女らの周りの看護婦たち3人もすべて女性だった。 前々日に見た”Otherland”もすべて女性による舞台だったのは偶然か。

舞台の中央には病院にあるような大きい介護用ベッド、手前の方にはテーブルとかリビング、キッチン(オーブン?)のセットなどが並んでいる。

そのベッドにBeth (Celia Imrie)が動かないで横たわっていて、病院の看護婦の様子から彼女はずっとそこに寝たきりのまま、先がそんなに長くないように見えて、そこに彼女の娘のBo (Tamsin Greig)が現れると、Bethのことを一番よくわかっているのは自分、と言わんばかりに食べ物へのダメだしとかいろんな指示をしだして、それがやや強引で支離滅裂であることに自分で気付いてはっとしたり。 ここまでで、この母娘の関係がどれだけ深く互いを縛る - 逃れようのない強めのものであったことが暗示される。

Bethはずっと寝たまま動けないままではなくて、Boとの間の過去の場面の再現、になると舞台手前のリビングとかキッチンにさーっと出てきて母娘のやりとりを繰りひろげていく。それがどちら側の記憶によるものなのかは明示されず、その再現の順番も時系列ではなくランダムのようで、場合によってはベッドの背後のスクリーンに映像(ドリーミーな昔の8ミリのような)が映しだされたり、ベッドに縛られて動けない母とその傍らでやはり動けなくなり(なにもできなくて)焦りを抱えている娘の歴史を明らかにしていく。 あとスクリーン上にはちょっとノイジーでとげとげしい、トラウマのようなイメージも - 思い出したように繰り返し映しだされたりする。

70年代の奔放な時代を生きたBethはすべてにオープンかつアナーキーで、自身の性生活や男性遍歴も含めてなんでも娘に語り、その調子で豪快にBoの背を押すのだが、そういうことをされた娘の常として、Boはストイックで注意深く疑り深く、脚本家としての仕事を得て自立はしているものの攻撃的すぎていろいろ失って、中絶を通して母となる機会を失い、養子を貰って母になろうとするがそれもうまくいかないようで、言いようのないこの「母」に対する敗北感というか複雑な思いを常に抱えていて落ち着かない。柔の母と剛の娘、それぞれのいろんな思いとエピソードが錯綜して転がってややとっちらかっている感もあるのだが、ふたりの演技がものすごく巧くてキャラクターとしてのブレがないので、きちんと伝わって - 情景として浮かんでくる。そうであればあるほど、口にすることのできない別れの痛みが。

タイトルのBackstroke – 背泳ぎ – は、Boが子供の頃、水を怖がってなかなか泳ぎの上達しない彼女に一緒に水に入ったBethがBoの頭をやさしく支えて全身を浮かべてあげて、こうやって浮くんだよ大丈夫だよ、って教えるすばらしいシーンからで、今は横たわって動けなくなったBethにBoが同じようにー。

こういうの、母娘関係って自分にはわかるものではないのに、国も言葉も違うのに、なんだか何かが見えてくる不思議、というのが昔からあり、それはなんなのだろうか? と。 (そして頭のなかには矢野顕子の”GREENFIELDS” – これも大文字 - が流れてくるの)


ほらね、ちょっと留守にしただけでEBTGがライブやるとかいうし… あーあー

3.12.2025

[theatre] Otherland

3月4日、火曜日の晩、Almeida Theatreで見ました。

原作はミュージカル”Standing at the Sky’s Edge” –未見- を書いたChris Bush、演出はAnn Yee – どちらも女性。キャストの8名もすべて女性。

冒頭、Jo (Jade Anouka)とHarry (Fizz Sinclair)のふたりが友人たちに見守られて結婚しようとしている。元気いっぱいのJoと落ち着いてしなやかなHarry - どちらも輝いていて、誰もがふたりは最強のカップル、と称えて歌って踊るのだが、そこから5年後、彼女たちは別れの支度をして一緒に暮らした住処を出ていこうとしている。 劇はその原因を掘り下げるのではなく、ふたりのその後を描いていくことで、何が起こったのか、というよりどうしてこうなってしまったか、を追っていく。

Harryはトランス女性で、パスポートの性と名前もHarrietに書き替えようとしていて、でもそれに伴う様々な困難 - 手続きにかかる手間と時間以上のものだけでなく、肉親であり同性である母親からも無理しないでやめれば? と言われたりで疲弊して、性のトランジションを巡る抑圧や差別偏見は本当に身近な人々からも来ることが明らかにされる。わかって貰える人が誰もいない、という孤絶感。

Joは、南米のマチュピチュのあたりをトレッキングしていて、Gabby (Amanda Wilkin)と出会って恋におちて、大好きなGabbyのためならなんでもしよう、と思うのだが、Gabbyが子供がほしいな、と言いだして…

どちらも女性ひとりではどうすることもできない問題がやってきて、どうするのかー、って。

次の幕では、ここの円形のステージの真ん中に水が溜められていて、そこに半魚人のような姿のHarryが打ちあげられるのと、Joはお腹に機械を埋めこまれたサイボーグで、その電流がばりばり流れていく機械のなかでGabbyの赤ん坊を育てている、という近未来(ぽい)設定になっていて、例えばふたりの置かれた世界(Otherland)がこんな設定であったら、というオルタナ世界が描かれていく。ただもちろん、これがバラ色の決定版/ユートピア!のような描き方ではなく、ここまで極端な方に振れ(振らさ)ないと解決の行方って見えないものなのか、ってちょっと下を向きたくなるかんじ(ひとによると思うけど)になるものでもある。

最初の幕の問題提起と次の幕の近未来での解決策の間のギャップを示すことで、今の女性が置かれたジェンダーと出産のあり(あらされ)ようを、それが特定の社会に止まるものではない、とてもパーソナルな次元での厳しさ難しさをもたらすものなのだ、ということを伝えようとしていて、それはGuardian紙にあったChris Bushのインタビューを読んだらより理解が深まった。30代になってようやくカミングアウトできたトランス女性であるChrisが、どうしてこの話を書く必要があったのか、彼女にとって演劇とはどういうものなのか、の洞察も含む、とてもよい内容なので読んでみてほしい。

という背景を知らなくても(知らなかったよ)、結末は – まったく逆のディストピアに落っことすこともできたであろうに - とても感動的なものになっている。その持っていき方に無理や強引さがないとは言わない - ケチをつける人は沢山いるだろう – けど、逆にここにある希望や暖かさは確かにあってよいものだし、こんなふうにして舞台と現実は繋がりうるものなのか、ということもわかったのはよかったかも。 男性に見てほしいものだわ。


日本に来ているのだが、花粉と湿気と低気圧でずっとしんどくて、今日の窓の外なんてどんより灰色のまるでロンドンで、楽しいことがひとつもないのでびっくりしている。
 

[theatre] Three Sisters

3月3日、月曜日の晩、Shakespeare's GlobeのSam Wanamaker Playhouseで見ました。雛祭りの日なので三人官女(ではない)。

これ、2月に見た”Cymbeline”と同じシアターで交互に? 週替わりくらいで上演していて、セットとか結構違うのに大変では、と思ったのだが、シアターの仕様が特殊すぎるのでそんなに難しくないのかも - わかんないけど。

原作はチェーホフ(1900)で、理由は知らぬがここでチェーホフが上演されるのは初めてだそう。演出はCaroline Steinbeis、翻訳/脚本はRory Mullarkey、チェロを中心としたシンプルな演奏は3名構成。

”Cymbeline”のセットには骨が貼られたりしていたが、こっちは花で、特に1幕目は正面上部に花文字で”IRINA”ってでっかく掲げられていて、”IRINA”の結婚が彼女たちにとってひとつのテーマであることがわかる。

上演開始前からMasha (Shannon Tarbet)は黒い服を着て舞台の隅にじっと座って本を読んだりしていて、長女のOlga (Michelle Terry)はいかにも教師、という緑と白のかっちりした衣装で、冊子を抱えててきぱき行ったり来たりしている。そして末妹のIrina (Ruby Thompson)は白を纏って彼女が登場するだけで場が明るくなる、そんな三姉妹で、まずこのばらばらに見えるけど素敵に色分けされた衣装の3人が並んで舞台にいるだけで、ちょっとかっこいいバンドを見ているかんじになる。

他には姉妹から大事にされている兄弟Andrei (Stuart Thompson)とか彼の妻でOlgaとは別の意味できりきりしゃきしゃきしているNatalya Ivanovna (Natalie Klamar)とか、唯一結婚しているMashaの夫Fyodor Kulygin (Keir Charles)の - 教師だからしょうがないのか - しょうもない凡庸さとか、なにを言ってもやっても怒られたり無視されたりちょっとかわいそうな老家政婦のAnfisa (Ishia Bennison)とか、なんだかんだ三姉妹の傍にいたがる馴染みの老医師Ivan Chebutykin (Peter Wight)とか、あとはなにがしたいのか家にずっと居たり出入りしたりしている兵隊たちのよくわからない挙動とか。

みんなが今の暮らしに満たされていないもやもやを抱えつつ、Irinaの結婚(がもたらす何か)に僅かな望みを繋いでいて、それは過去の一家の栄華とモスクワでの暮らしに繋がっていて、「モスクワ」の単語が出るだけでその場が少し明るくなる不思議、があったりするのだが、そんな期待が内側外側それぞれの事情でどんよりと曇っていく、それと共に舞台上の蝋燭 – このシアターの照明で、本当に火が点いている – の火が消されていって、幕の終わりの方はこれまで見たことないような暗さ、暗がりに向かう中で劇が進行していく。

2幕目は、一家の屋根裏部屋のようなところにいる姉妹たちの周りで、それぞれに家庭に絶望しているAleksandr Vershinin (Paul Ready)とMashaが近づいて – いややっぱりだめだわ、になり、Andreiの賭博が問題になり、近くで火事が起こって、Irinaの結婚問題も夢や理想を追っても.. の辺りに落ちて、人々はばたばた動きまわるのだが、全体としては停滞と諦めの霧が次第に濃くなっていって、最後はIrinaの婚約者が決闘で亡くなってしまうのだが、もちろん誰にもどうすることはできないことばかりで、やっぱ自分たちでどうにかしていくしかないよね、って決意して終わる。

いろんな人が現れては消えてつつ勝手にいろんなことを言って、でも全体としては停滞したまま丸ごと沈んでいく… というチェーホフの芝居をシェイクスピア的な小世界の空間に展開してみたら、ということなのか… と思ったが、ショートコントみたいな芝居が次から次へ流れていくばかりでやや落ち着きはよくなかったかも。3姉妹はとても素敵で魅力的で、見ていて楽しかったのだが。

3.09.2025

[log] March 09 2025

朝4:30の車でヒースローに来て、これから朝のフライトに乗って日本にもどる (いつもの夕方の便は取れなかった)。朝のフライトでよいのはBAのラウンジのPorridge (おかゆ)で、今回の旅の歓びのピークはここまで。

これまでの人生、いつでもどんなときも日本に戻るフライトが楽しみ(!)になったことなんてなかったのだが、今回のは断トツの格別、1ミリも微塵も楽しくなれそうなことが出てこない。

日本には昨年11月にも、こないだの1月にも帰っているのだが、今回の滞在はものすごく長い。お彼岸に向かって、日に日に陽の沈むゆらゆらが遅く長く延びていく、ただの自然現象なのに、桜が咲くのよりもなによりも、なんともいえない虫の感覚でもって喜ばしく解れていくロンドンののろい春をライブで実感できないなんて、とてつもない大損をしている気がする。

前回の帰国のときは、それでも初めての検査入院とか、興味本位の前向きになれそうなことも少しはあった。
でも入院も検査も、最初はわああー、とか喜んでいたけど、あんなしんどくて辛くてぐったりするの、1泊で十分だと思ったのに今度のはー。(やっぱり健康がいちばん)

いまとなって不思議なのは、人間ドックでなんか見つかった時、前から怪しかったとはいえ、医師の勧めとか聞かずに知らんぷりで帰国してそのままにしちゃえば普段通りにできてよかったのに、どうしてそうしなかったのか? 根はまじめなよいこってことか、手術とかやってみたかったのか、どうせやるなら早いほうが、とか思ったのか。

もう少し若い頃であれば、どうせ死ぬなら早い方が、とか思っていたのだが、今はそっちの方に考えが向かない。というあたりが老いた(結果)と見るのか、だから老いたのだ(原因)と見るのか。

滞在が延びたり、戻ってこれなくなったら、お部屋に積んであれらの本はどうなっちゃうのだろう、とか、殆どがロンドンで手に入れたものなのでできればロンドンで捌きたいのだが、どこにどうやって、とかどうでもよいことばかり考えてしまう。

戻るのに気がのらないので、日本で何をやっているのか、何を見たいかとか、ぜんぜんチェックしていなくて、どちらかというと、こちらで最後に何を見ておくべきか、ばかり追っていた。

映画は生き延びていられればそのうちいつかどこかで、とあまーく思っているのだが(でももうじきのBFI Flareに行けないのは残念)、生ものに近い演劇はその時のライブだから、って思うことが多くなって、だからこの一週間は4月で終わってしまいそうな演劇ばかり見ていたのだが(あと、昨日の初日に見たNational Galleryの”SIENA”はすばらしかった)、改めて映画を見るのとは別の体力とか神経を使うものだねえ。

いまの東京だと、坂本龍一のがまだ間にあったら、と、ヒルマ・アフ・クリントと、目黒?でやっている黄金テンペラ画のと、映画はレオス・カラックスが来るらしいけどチケットは無理そうだし、『白夜』と成瀬とオリヴェイラと ← なんだかんだチェックしているではないか。

ただこれらも病院の検査とメンタル含めた体調次第だし、そうでない間はふつうに仕事できるはずよね、とされているのでひと揃え面倒くさい。これなら人里離れたサナトリウムのようなところ(なんてもうないか)でひとり読書でもできたら、なのだが、身体ばかりはどうしようも & 身体を動かさないことにはどこにも、の間でフリーズしてしまう。とにかく健康がいちばん。て言うのは簡単だけど老化は自然現象だし。

というものすごくしょんぼりの日々になってしまいそうですが、なんか書けたら書いていきまー。

3.08.2025

[theatre] Hadestown

3月2日、日曜日の午後のマチネを、Lyric theatreで見ました。

ふつう演劇って、日曜日は公演しないと思っていたのだが、これは日曜日のマチネがあって、今週は特に時間がないので取りたいと思ったのだが、人気があるのかリリースされる端からすいすいなくなっていくし、チケットの値段高いし。 でもしょうがないのでどうにか取る。

最初は2007年にバーモント州のD.I.Y.プロジェクトとして始まり、2019年のブロードウェイ公演はTONY賞の14部門にノミネートされ、Best Musical、Best Original Scoreを含む8部門で受賞していて、ロンドン版は2018年にNational Theatreで上演された後、2024年からここでリバイバルされている – のが今回見たバージョン。こういう人気ミュージカルって、実はあまり見たことないの(”Wicked”も”Hamilton”も”SIX”も見てないや...)。

客層はみんな若めで華やかで、物販にわいわい並んでいるし、看板のとこで記念写真撮っているし、自分がいつもいく演劇とか映画のかんじとは結構ちがう(それがどうした?)。

原作はギリシャ神話の”Orpheus and Eurydice” - 『オルペウスとエウリュディケ』を元にAnaïs Mitchellが脚色、作詞、作曲までぜんぶやっていて、この舞台の演出はRachel Chavkin。

舞台は現代の栄えているとは思えない町の居酒屋、天井高のあるサロンバーのようなところで、左右に各3名くらいのバンド、奥の扉の向こうにドラムス、その上には工場を含めてその一帯を支配しているHades (Phillip Boykin)と妻のPersephone (Amber Gray)がふんぞり返っていて、その周りをモイラ - 「運命の三女神」が歌って舞って動きまわる。 という全体図をMCにあたるHermes (André De Shields)がゴスペルの司祭の威厳と貫禄でもって紹介していく。音楽から離れた台詞や会話はなく、すべてが音楽のなかで語られ、怒り、泣き、愛もまた。

そういう雑踏のなか、仕事を求めて流れてきたEurydice(Eva Noblezada)とミュージシャンになりたいけどまだ半端なOrpheus (Reeve Carney)の若いふたりが運命の出会いをして、互いに運命の出会いであることはわかるけど、日々の生活をどうにかしなきゃ、なので、EurydiceはふらふらとHadesのブラック工場に契約して、ふたりは引き離されてしまい…

ギリシャの神々が大恐慌時代のアメリカの貧富がくっきり分かれた社会階層の断面に現れて(いて)なんかする、というのはわかるし、そこに現代の格差や労使問題を練りこむ、のもあるだろう、し、そこで貧しいけれど心のきれいな男女が出会って、純愛... になりそうなところで女性が売られて一転悲恋に、というのは昭和の労働者を描いた映画やドラマで散々に見てきたので今更、なのだが、格上の権力者に敵いようがない圧倒的な強者であるギリシャの神々を置いた、というのが(少しだけ)新しいのか。

あとは使い古されたドラマでも、歌いあげるミュージカルにすることで心に灯が(ポスターにあるような紅いバラが)ともる、のかも知れない。音楽はオーケストレーションやコーラスを多用して音の壁で盛りあげるのではなく、フォーク、ブルース、ゴスペル、R&Bなど、アコースティック寄りで、踏み鳴らす足音と耳元の歌声で切々と親密に持ちあげていくので、圧倒される、というよりもつい拳とハンカチをぎゅううっとしてしまう、というか。(すすり泣いている人が結構いたのでびっくりしたけど)

でも最後の結末が鶴の恩返し(ふう)になってしまうのは、ギリシャの神々にしてはせこすぎやしないだろうか? (いまのUSAを見ると全く笑えないけど) そしてそのせこいのに負けてしまったOrpheusもさー…

あ、でも、若いふたりはきらきらしていてとてもよかった。ちょっと疲れたPersephoneも。

このアンプラグドみたいなバージョンとは別にパンク(スチームパンク)バージョンとか作ればいいのに。

この回ではないが、フィルム撮りをしていたようなので、そのうち日本の劇場でも見れるようになるかもしれない。

3.07.2025

[film] Ainda Estou Aqui  (2024)

3月2日、日曜日の昼、Curzon Sohoで見ました。英語題は”I'm Still Here”。

この日の晩に発表されるオスカーで、外国語映画賞はこれだろうなー、と思ったので見ておいたら、ほうら当たった。

監督はWalter Salles、オリジナルスコアはWarren Ellis - これも見事なのだが、挿入されている当時のブラジルの音楽がすばらしすぎ。

1970年軍事政権下のリオで、元国会議員で技師のRubnens Paiva (Selton Mello)と妻のEunice (Fernanda Torres)と沢山の子供たちは本とか音楽とか友人たちに囲まれて、近くにはビーチもあるし楽しく幸せに暮らしていて、でも上空を軍用ヘリが飛んでいったり装甲車が走っていったり、やや不穏で、でも自分の家、家族には関係ないと思われた。

そんなある午後に、銃を持った男たちがやってきて、Rubensに支度をさせて車で連れ出し、Euniceと娘のEliana (Luiza Kosovski)も別の車に乗せられ、途中でフードを被せられ、Elianaはすぐに釈放されたようだが、Euniceは12日間監禁され尋問 - 写真を見せられてこの中にコミュニストはいるか? - されて、そんなことより夫は? 娘は? どこにいてどうなっているのか、誰に何度聞いても答えは返ってこない。

Rubensがいなくなってから先、視点はEunice中心に固まっていくが、釈放されて家に戻っても政府が差し向けたガラの悪そうな男たちが家に常駐して子供たちも含めて24時間監視している、というホラーで、どういうホラーかと言うと、すべてが突然で、何が起こっているのかこの先どうなるのか、いつまで続くのか、どんなことをされるのか全くわからないことにある。

Rubensと同時期に尋問を受けていた人から少しだけ彼の様子を聞きだしたりすることはできたものの、過ぎていく時間と共にEuniceは彼がこのまま帰ってこないこと、おそらく拷問の末亡くなってしまったことを受けいれざるを得なくなっていく。映画は彼女の悲嘆や絶望をダイレクトに映しだすのではなく、世紀を跨ぐ長い時間のなかで彼女がその事実 - もう彼はいない、会えない - をどうやって一人で受けとめ、その後を生きたか。リオにいてもしかたないので、サンパウロに引っ越すことにした際の、がらんとなったみんなで過ごした家にお別れを告げるところが痛切にくる。原作は、Euniceの息子で作家になったMarcelo Rubens Paivaの回想録に基づいていて、そこには監督のWalter Sallesも子供の頃に出入りしていたという。そういう点では”I’m Still Here”と言いつつ、みんなそこにいたのだよ、というそれぞれのパーソナルな場所と時間を刻んだものにもなっているような。

サンパウロに移ったEuniceは大学に入り直して人権弁護士として活躍して、2018年に亡くなる前、最後の15年間はアルツハイマーだったと。なんと過酷な人生だったことだろう …

あと、ブラジル音楽に親しんだことがある人にとっては必見でもある。Caetano VelosoやGilberto GilのTropicáliaがどういう文脈で起こったのか、なぜ彼らはイギリスに亡命しなければならなかったのか、この映画を見ると当時の空気感がわかったりする。(Euniceの家に押し入った政府関係者が家にあった1971年の”Caetano Veloso”のLPジャケットをみて、「ふん」って言うとか)。 CaetanoでもTom ZéでもRoberto Carlosでも、音楽がどんなふうにあの土地に馴染んでいたのか、についても。(これは現地に行くとほんとにびっくりする。あんな土地はない)

これは全く別の国の、別の時代のお話しとも思えない –という視点と構成もきちんとある。共産主義に対する子供みたいな嫌悪とかウィシュマさんへの拷問だって、どっかの国でつい最近起こって、だれがやったかわかっているのに、だれひとり責任取ろうとしないのは大昔から。

3.06.2025

[log] Paris - Mar 01 2025

3月1日の土曜日、日帰りでパリに行ってきたのでその備忘。

一週間後には日本に行かなければならず(行きたくない)、しばらくの間、行けなくなってしまうのは悲しいから、という理由で。

ここんとこ、パリの滞在は、1泊滞在して、うまく時間を使えなかった → これなら日帰りで十分 → 日帰りだとやっぱり時間が足らなすぎ →1泊にする – のループを繰り返していて、やっぱり1カ月くらい(1週間でもいい)塩漬けになってみないとだめよね、と思い始めている。

今回は特になにがなんでも、というのはなかったのだが、こまこま見ていくとそれなりに出てくるし、なくたって本屋でも食べ物屋でもいくらでもあるし、でも引越し直後で体力あまり残ってないからー、など - こういう時はだいたいなし崩しでしょうもないことになる。 でも日帰りならいいんだ。

9:30くらいにパリ北駅について、そのままGrand Palaisの塩田千春展に行ってみる。チケットはぜんぶ売り切れていることは知っているが当日の分が出ることもある、ことも知っている。

こういうのは慣れているので、この列だろうな、というのに並んで待っていると、そのうち係員の人が来て、フランス語で何か言うのだが、それもだいたい、並んでもらっても入れる保証はありませんよ、と言っているのだ、というのもわかる。1時間くらい並んだところで何か言われて、それで列全体が崩れたので、もう本日分は終わりかー、とわかった。念のため英語で聞いてみるとやはりそうで、明日また来てね、と言われたが、明日はないんだよ。

ルーブル(だけ)は14時のチケットを取っていたので、それまで、マレ地区の方にいって本屋を見たり、MuséePicasso Parisに入って展示–“‘Degenerate’ art: Modern art on trial under the Nazis”を見たり。 いろんな画家の作品が出ていておもしろいのだが、” Modern art on trial under the Nazis”という観点だとちょっと弱いかも、というかテーマとして広すぎて難しいような。

LOUVRE COUTURE: Objets d'art, objets de mode

英語だと”LOUVRE COUTURE: Art and Fashion: Statement Piece”。 Kinoshita Groupがサポートに入っている。

ルーブル美術館初のファッション系の展示、ということで注目されているが、METやV&Aのそれとは随分違う、違うことを狙ったのだろうな、というのはわかる。
リシュリュー宮の膨大な宮廷装飾品の豊かさと分厚さを見せつけるために、現代のファッション・アートをぽつぽつと置いてみました、というかんじで、ブランドやデザイナー目当てでいくとちょっと外れるかも。ながーい宮廷・貴族文化の文脈に置いた時にモダンのクチュールがどう映えるのか、そーんなに映え映えいうならここまでやってみろ、と。

確かにこういう展示ができる美術館は限られてきてしまうかも、というのと、ルーブルのいろんな装飾品がお蔵だしのように気合入れて並べられていて、服飾よりもそっちを眺める方が楽しかったかも。

Revoir Cimabue: Aux origines de la peinture italienne

英語だと、”A New Look at Cimabue: At the Origins of Italian Painting”。

こちらの方が見たくて会場に行ったら、この展示は別にチケットがいると言われて、えー、それなら今オンラインで取ったら入れてくれる?ってスマホを出したらめんどくさそうにいいから行け、って入れてくれた。ありがとうー。

13世紀イタリアの巨匠チマブーエを再発見しよう、という企画展示。修復された”Maestà” - 『荘厳の聖母』と、2019年に台所で見つかって修復と獲得を終えた『嘲笑されるキリスト』を中心にDuccioや弟子のGiottoの『聖痕を受ける聖フランチェスコ』なども並べて、「絵画」的ななにかが地面からめりめりと立ちあがる瞬間、のようなものを沢山のキリストやマリアの目 - あの目! のなかで感じることができる。10年前だったらこういうのあんま興味なかったのだが、最近おもしろくてねえ。

カタログ、どうしようか散々悩んで、英語版がないので諦める… 5月までやっているので次来た時にたぶん買う。

そして、今週末からはNational Galleryで待望の”Siena: The Rise of Painting, 1300 ‒1350”が始まる。それでたぶん(また)簡単にイタリアに行きたくなってしまうにちがいない。

あとは、Yvon LambertとかL'INAPERÇUといった本屋でいろいろ漁っていた。引越しした直後なので当分の間は怖いものなんてなにもないの(..ちがう)。

そして最後はいつものようにLa Grande Épicerie de Parisでいろんな食べ物を買いまくり.. たかったのだが、一週間後に帰国なので最小限にせざるを得ない。引っ越して冷蔵庫も大きくなったしフリーザーまでついたのに..  って泣きながら魚屋についている食事スペースでイワシ缶とトーストを食べた。イワシ缶とトースト、F&Mのカフェにもあったのだが最強だと思う。

戻りのEurostarは - ここのとこずっと、行きも帰りもほぼ意識を失った状態で運ばれていて、昔のわくわくしたかんじが(自分のなかで)消えてしまったのが悲しい。これじゃ通勤電車と同じではないか、って。

3.04.2025

[film] Mujeres al borde de un ataque de nervios (1988)

2月17日、月曜日の晩、BFI Southbankで見ました。個別の特集とは紐づけられていない、”Big screen classics”の枠。

英語題は”Women on the Verge of a Nervous Breakdown”、邦題は『神経衰弱ぎりぎりの女たち』。 作・監督Pedro Almodóvarの名を世界に知らしめた1本で、1988年のオスカーの外国語映画賞(ノミネート)やGoya Awardや、いろいろ受賞していて、ブロードウェイのミュージカルにもなった。けど、これまで見たことはなかった。

洋画の吹き替え声優をしているPepa (Carmen Maura)が一緒に暮らしていたIván (Fernando Guillén)から別れを切りだされたところにIvánの先妻の子のCarlos (Antonio Banderas –まだぴちぴち)など一連隊が芋づるで絡んできてそれぞれが神経衰弱ぎりぎりに追い詰められていく女たちを描く。

みんな自分の伝えたいことは(直接話したくないから)留守電にもなんにでも勝手に入れたり割りこんできたりするくせに自分の大事なことはこれぽっちも伝わらず宙に浮いて、結果みんなが先回りしたり裏工作したり何やっているのかわからないところにまみれてきて、全員がいいかげんにしろよお前ら!になって小爆発が連鎖していく様を、女性の視点中心で見ていて、Altman的な男性がなぎ倒していくアンサンブルのどたばたとはちょっと違うかも。

現在のAlmodóvar作品の特徴でもあるモダンなインテリア/エクステリアなど、Pepaはペントハウスに住んでいるけど、そこまで大きな比重は占めておらず、エモや激情が前面に出ていて、でも(そういう波動の反対側にある)睡眠や昏睡、といったAlmodóvar得意のテーマは既にあったり。

とっちらかっていて変人ばっかり出てきておもしろくて、もう一回見たいかも。


La ciénaga (2001)

2月27日、木曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
特に特集に紐づけられていない。 英語題は”The Swamp”。 
脚本がSundance/NHK Awardを受賞した作品だそうで、NHKの名前がクレジットに出てくる。

“The Headless Woman” (2008)や”Zama” (2017)の、アルゼンチンのLucrecia Martelの監督デビュー作で、(やっぱり)ものすごくおもしろかった。でもなんで/なにがこんなにおもしろいのか、あんまよくわからない。

アルゼンチンの田舎の方の、結構古いお屋敷のような別荘で、中年女性のMechaとその家族がプールサイドで酒を飲んだりしながらだらだらと休暇を過ごしている。子供たちは山で沼にはまって動けなくなっている牛を見つける。Mechaは転んで血だらけになって医者に運ばれ、その息子もなんだか怪我をして血まみれになっていて、娘たちは使用人も一緒になって好き勝手に遊んでいて、TVでは屋根の上に聖母マリアが現れた、というニュースをやっている。大きい息子はダンスクラブで喧嘩して怪我をして、ボリビアに文房具を買いにいく計画があって、従姉妹たちは野山で猟銃をぶっ放して遊んでいて、万事がこの調子の、ただただいろんな物事が起こって、放置されたり、途中までいってキャンセルされたり、うまくいかなかったり、の連続で、こんなふうになった!はなくて、怪我をしたり血にまみれたりしても、ふつうにどうにかやっています、ずぶずぶ(沼)… みたいな。 監督自身の家族の記憶に基づいているそうで、なるほどなー、この落ち着きはそういうやつか。

一家は何を生業としているのかあまりよくわからない、別邸がいて使用人もいるので貧乏ではないようなのだが、ブニュエルの映画にあったようなブルジョアの「ブ」の字もなくて、生活感、みたいのとも無縁(というか垂れ流し)で、どちらかというと清水宏の映画に出てくるたくましい人たち(とそのエピソード)を思い起こさせるし、実際そこらにいそうなノラのかんじというかがたまんないのだった。


オスカーはどうでもよかったのでどうでもよいのだが、音楽賞を”The Brutalist”で受賞したDaniel Blumberg (ex. Yuck)が壇上でDalstonのCafe Otoに謝辞を述べた、というところだけちょっと嬉しかったかも。

3.03.2025

[film] Picnic at Hanging Rock (1975)

2月14日、金曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

いま公開50周年を記念した4Kリストア版が全英でリバイバルされているが、その少し前のひと晩だけの公開で、なぜかというと、映画で描かれる事件の起こったのが1900年の2月14日だったから、と。50年前と125年前。

原作はJoan Lindsayによる同名小説(1967)をCliff Greenが脚色してPeter Weirが監督した。実際に起こった出来事にインスパイアされてはいるが、元は小説で、フィクションである、と。(“Virgin Suicides” (1999)もその傾向があるけど、勘違いしたがる人が多いのはなんでなのか?)

全体としてものすごく変で奇妙な映画。 1900年の2月14日、オーストラリアのビクトリア州の女学校で校長らしき女性が、Hanging Rockにピクニックに行きます、と宣言して、喜ぶ娘も少しいるが行けないでひとり残される娘もいる。引率の女教師を含めて白い服を来た女学生たちはみんなで馬車に乗って休憩したりしながら岩に向かう。どこが遠足の到達点なのかわからないのだが、Miranda, Marion, Irma, Edithの4人が集団から少し離れたところで英国人男子とすれ違って昼寝をして、起きあがるとちょっと夢遊病のようなかんじで3人が岩の隙間に歩いていって、それを見ていたEdithが絶叫して逃げだして – 何を見たのかなんで叫んだのかは明らかにされない - それを見た引率のMiss McCrawが彼女たちを探してやはり岩の向こうに消えて..  描かれて説明される失踪の顛末はこれだけで、あと冒頭にMirandaの声で”a dream within a dream…”という呪文のようなナレーションが入る、くらい。

その後は、地元の人たちも含めた何度かの捜索が行われて、少女たちが着ていたと思われる布の切れ端が見つかったりするが、なにも出てこない。そもそもHanging Rockがどういう土地(岩)で、なんでそこに遠足に行くことにしたのか、捜索はどこまでどんなふうに行われて十分だと言えるのか、とか失踪ものに不可欠な状況とか理由とか説明とかがあまりになさすぎて、反面、ぴょろろろーっていう笛の音とかまぶしい空とか、空のかんじ、岩のかんじは何回も出てきて、なにも説明されないホラーの黒とか赤とか闇がやたら怖くなるのと同じように、ここでの白さ、陽の光と透明さは事件の不気味さ不吉さをぐるぐるかき回していって、失踪した少女たちがとらわれたのと同質のなにかに巻きこみに来ているかのよう。

他方で、これはべつに謎解きでもなんでもなく、ただ少女たちが岩場のどこかにいなくなって見えなくなってしまった – 気がついたら125年が経っていました、というだけの話で、ちょっと気持ちわるいけど、かわいそうだけど、なにもできることはないー、という話。そうして見ると、校長も地元民も若者たちも、なにも「外側」からはどうすることもできない、理解しようがない、そういうこともある、というだけのー(無理しない)。

あと、消える側からすれば、あんなふうに消えてしまうことができたら、というのはあるかも。古本屋とか美術館であんなふうに忽然と消えてしまえたら、というのはよく思うしー。

リストア版は、例えば古いフィルムが持っていた傷みとか色褪せとかをぜんぶきれいにしてしまったので、彼女たちの着ている白が異様にまぶしい白さで迫ってきて、より非現実的な魔法のようなリアリティを実現している。David Hamiltonの、あのソフトフォーカスの世界が見事な解像度で。

で、この後にIMAXに”Captain America: Brave New World” (2025)を見に行って、とってもたいへんつかれたの。

3.02.2025

[theatre] Much Ado About Nothing

2月26日、水曜日の晩、Theatre Royal Drury Laneで見ました。
原作はこないだ映画“Anyone But You” (2023)にも翻案されていたシェイクスピア (1958-1959)の。邦題は『空騒ぎ』。

演出は年末に同じ劇場で見たSigourney Weaver主演の”The Tempest”と同じくJamie Lloyd (一部のキャスティングも被っている。どこかで繋がっているのかシリーズなのか?)。

Tom Hiddlestonの芝居を見るのは2回目で、前は2019年にHarold Pinterの”Betrayal”を見ている(この時の演出もJamie Lloydだった)。 ものすごく舞台映えのする俳優だと思うし、今回はコメディだというので。

えーでも、自分が見たいと思う演劇にみんなで歌って踊って楽しくしゃんしゃん! みたいな、温泉街の余興みたいな(←偏見)のは余り求めていなくて、でも今回のこれ、Tom HiddlestonとHayley Atwellが真ん中にいてまさかそういうのだとは思わないじゃん、でもそういうので、でもこれは許すかー、になった。

劇場の中に入るとバリバリのライティングのもとダンスミュージックががんがん掛かってて(どこかにDJもいたのか?)、でもEDMみたいにハードでごりごりのじゃなくて、お年寄りにも馴染めるエモっぽい90年代頃のダンスミュージックで、とってもあざといとこを狙っているかんじ。

巻くが開くとぎんぎらのMargaret (Mason Alexander Park - この人、”The Tempest”ではArielを演じて歌っていた)がマイクを片手に演歌歌手のように歌い出し、桜吹雪が舞って、登場人物たちも全員マイアミとかリゾートにいるようなチンピラかひらひらきらきらの衣装を纏い、この「ノリノリ」の狂躁状態の中で全員が恋をしなくちゃ踊らなきゃ! みたいなアホウになっていて、それは恋でもしなけりゃやってらんない、というのと恋だの結婚だの、そんなのばっかりやってらんない、の両方があって、その流れのなかで、Hero (Mara Huf)とClaudio (James Phoon)は簡単に恋に落ちて結婚することになり、Beatrice (Hayley Atwell)とBenedick (Tom Hiddleston)はあいつとだけはイヤだ、みたいな犬猿の仲になり、でも全体としてはみんなハッピーで、ハッピーでいるためにそうしているのだ、のヤク中のノリというかお約束の世界。

登場人物たちは全員が舞台の上に椅子を並べてずっといて、踊っているかやかましい音楽のなかで会話していて、全員がヘッドマイクを装着していて舞台の奥にいても話している内容は同じ音量レベルで聞こえて、たまに頭だけ被り物 - ワニとかパンダとかブタとかタコとかかわいい - をして、要は誰もヒトの顔と目を見て言うことなんて聞いちゃいないけど、自分がどう言われているかだけは地獄耳になっていたり。

音楽はDeee-LiteとかBackstreet Boysとか”Gonna Make You Sweat (Everybody Dance Now)”とか、懐メロであるがヒトをのせたりのせられたりのBGMとしての殺傷力はたいしたもので、そういうのにのって、ClaudioはHeroの不貞を簡単に信じてしまうし、独身を貫く! とか偉そうにほざいていたBenedickはBeatriceとあっさり恋におちてしまう。

この軽薄さのラインの際どいこと、なので下手な俳優が演じたら簡単に化けの皮、なのだが、Tom Hiddlestonは”Loki”だったのでこの辺がめちゃくちゃ巧いし、Hayley AtwellはCaptain Carterだったので - 理由になってないけど - このふたりの舞台上の相性がめちゃくちゃよくて楽しい - 一瞬ふたりのAvengers姿がハリボテで登場したり。

冒頭からノリノリで走っていった1幕目に対して、2幕目は最初から落ち着いた、やや内省モードになってそれぞれが少し立ち止まって考えたり、そしてそこからすべての収束〜一件落着に向かって弾けまくる - とてつもない量の桜吹雪エンディングまで、多幸感という言葉はあまり使いたくないけど、くやしいけどそういうのがくる。

これならフルバンド入れてかっちりとしたミュージカルにしても、と一瞬思ったが、たぶんこれくらいのスカスカでよいのかも、と。だってこれは「空騒ぎ」で、恋なんてその程度のもんでしかないのだから、って。

2.28.2025

[film] Les Années 80 (1983)

2月は引越しだのなんだのいろいろあって、ぜんぜん動けなくて呻いて嘆いてばかりだったのだが、映画に関していえば、Chantal Akermanの月、正しくはBFI Southbankの特集 – “Chantal Akerman: Adventures in Perception”の月で、これが底抜けにすごくて、時間があればぜんぶ通いたいくらいだった。

特集は3月まで続くので、まだ少し見るかも知れないが、ここまでで短編中編長編ぜんぶで30本見ていた(既見のもあるが、半分以上は未見)。BFIでかかる本特集の予告には”Complete Retrospective”とあったので、おそらく全作品を網羅しているのだろう。それならもっと気合いれて見ればよかった… (に、いっつもなる。何万回繰り返せば気が済むのか)

メモ程度になってしまうのだが、いくつか。全体として、80年代のChantalは最強ではないか、と。

Les Années 80 (1983)


ミュージカル映画”Golden Eighties” (1986)公開の3年前に、おそらくその資金集めを目的として、40時間に及ぶリハーサル映像を編集したメイキング(というか、それ以上)で、NFFの深夜枠で1回とPublic Theatreで細々と上映されただけだったので資金は集まらなかったのかもしれないが、ここで描かれた”The Eighties” – 80年代にこそ、ちっとも「ゴールデン」ではないけど、あのミュージカルに込めようとしたものがぜんぶ詰まっているように思えた。

主人公の彼や彼女が伝えようとする愛の言葉やメロディは、ミュージカルの文脈から切り離されて、ものすごく浮いて変な – でも焦りとか切実さだけがくっきりと浮かびあがってくるし、それをあの歌やダンスのパッションにあげていくものは一体なんなのか、と。えんえん耳に残って回り続けるあの主題歌をAurore Clémentが歌い続ける傍らで、壊れたみたいに指揮(というのか特殊な踊りのような)をぶん回し続けるChatalと。これを見ると”Golden Eighties”を再び見たくなる。

これとの併映で、コロナの頃、Chantalの誕生日に配信された短編 - “Family Business” (1984)も。 やはり”Golden Eighties”の資金繰りでアメリカに赴いたChatal一行の珍道中というか、なにやってんだろ、の記録。これらも併せると、ほんとあれ、なにが”Golden”やねん、になるに違いない。


L’Homme à la valise (1983)

英語題は”Man with the Suitcase”。TV用に制作されたドラマで、荒れ放題のChantalの部屋に、Henri (Jefferey Kime)という男が居候に来て、部屋は別だけどキッチンとかは共有で、一緒に暮らすのにあれこれ気を使いすぎて(しかもそれらは全て空回りして)頭がおかしくなりそうだったので、出て行って貰おうとするのだがうまく言いだせず、そのうち彼はいなくなって、というそれだけの話。

俳優としてのChantalはデビュー作の頃からずっといるのであまり驚かないのだが、ここでの殆ど喋らずにアクションだけでぜんぶわからせてしまう彼女の演技のすばらしさとおもしろさに改めて驚く。”Golden Eighties”の主題歌も歌ってくれる。

併映は大好きな傑作短編 - ”La Chambre” (1972) – “The Room” - 部屋でごろごろしているだけのChantalをゆっくり回転するカメラがとらえて、それが最後に不意に逆回転をはじめる、ただそれだけなのだが、これが宇宙だ、っていつも思う。 もう1本は、”Le Déménagement” (1992) – “Moving In”。新しい部屋に越してきたSami Freyがなにやらぶつぶつ言っているだけなのだが、この3本で、Chantalの世界観を構成する大きな要素である「部屋」が、そこで横になる、というのがどういうことか、が見えてくるような。

Demain on déménage (2004)  

英語題は、“Tomorrow We Move”。 自分が引越しの最中だったのでなんとも言えない気持ちで見る。
Aurore ClémentとSylvie Testudの母娘が、グランドピアノを吊り下げたりしつつ新居に引っ越してくるのだが、いろいろ問題が出たのでやっぱりここを出ようかと、次の住人を探すべく、オープンハウスにしたらいろんな夫婦や家族が次々にやってきて勝手なことをしたり言ったり居ついたり、騒がしくなっていくコメディ。家に染みついた記憶や匂い、住んでいた人、住んでいる人の顔や影が次々に去来して、出ていきたいような、行きたくないような、になっていくの。ものすごく楽しくて、なにより馴染んだ。

そして併映が、Portrait d’une paresseuse aka La ParesseSloth (1986) – “Portrait of a Lazy Woman” – これも動きたくないよう、って言って動かないだけのフィルムで、もうほんとうにすばらしいったらない。


Un jour Pina a demandé… (1983)
– “One day Pina asked…”

Pina Bauschを追ったドキュメンタリーで、前にも見たことはあったのだが、改めて。あの頃のTanztheaterのメンバー、なつかしー。 上映後のトークでチェロ奏者のSonia Wieder-Athertonさん(彼女の演奏を撮ったChantalのドキュメンタリー作品がある)が、ChatalはPinaに惚れこんでいて、彼女はPinaのダンスの登場人物のように騒がしい(そこにいるだけで勝手に騒がしくなってしまう)人だった、と言ってて、なるほどー、って。


Letters Home (1986)

Sylvia Plathの分厚い書簡集”Letters Home” (1975)から、母Aurelia (Delphine Seyrig)と娘Sylvia (Coralie Seyrig –Delphineの姪)の手紙のやりとりをRose Leiman Goldembergが舞台化したものをTV用に撮ったもの。離れた国に暮らす母とのやり取り、というと”News from Home”(1976)をはじめ、ママの娘としてのChantalはいろいろなところに顔を出す。そしてSylvia Plathがオーブンに頭を突っこんで自殺した5年後、自分のデビュー作”Saute ma ville” (1968)で部屋ごと自分をぶっ飛ばしてしまうChantal…

Jeanne Dielman, 23, quai du Commerce, 1080 Bruxelles(1975)

本特集を機に、4Kリストア版が全英で大々的にリバイバルされている”Jeanne Dielman…”も久々に(10年以上ぶりくらいか)見る。

3時間22分の作品なので、だいじょうぶか(寝たりしませんように)だったのだが変わらずすごいスケールの作品だと思ったわ。とにかく彼女はずっと動いていて、落ち着きなく騒がしく、屋内の静けさのなかで沈着していく狂気、みたいのとはぜんぜん違う、やかましさのなかで最初からなんかおかしいぞ、って。そしてそのやかましさが止まったとき…

まだあと少し見ると思うが、これからも時間があったらずっと追っていきたい。
あと、今度ブリュッセル行ったらぜったい“23, quai du Commerce”に行くんだ。

[film] The Seed of the Sacred Fig (2024)

2月16日、日曜日の午後、Curzon Bloomsburyで見ました。
原題は” Dāne-ye anjīr-e ma'ābed”、邦題は『聖なるイチジクの種』で、日本でも既に公開されている。

Mohammad Rasoulofが脚本・共同製作・監督を務め、昨年のカンヌではSpecial Jury Prize - 審査員特別賞を受賞し、今週末のオスカーではBest International Feature Film部門にドイツからエントリーされている。

映画を見ても大凡の感触に触れることができるであろう弾圧と言ってよいくらいの検閲、脅迫、拘束、逮捕、鞭打ち、等を乗り越えて、どうやって映画を作って外に持ちだすことに成功したのか - そんなことよりも監督と関係者がこれからも無事でいられることを祈るしかない。

という背景・事情を踏まえて見なくても十分おもしろいのだが、踏まえて見ると、よくこんな国のありように正面から噛みつくようなものを作れたな、と感嘆する。この映画を貫いている緊張感と怒りは、そのまま監督のそれと繋がっていることがわかるし、そういう情動でもって紡がれた表現がここまでの強さを持つ、ということにも。

Iman (Missagh Zareh)は弁護士としてまじめにがんばってきて、冒頭に革命裁判所の裁判官になる手前の調査官(検事)に昇進して、妻Najmeh (Soheila Golestani)も2人の娘Rezvan (Mahsa Rostami)、Sana (Setareh Maleki)も喜んでお祝いするのだが、職場=政府からはいきなり銃を支給され、家族には仕事の内容は絶対に極秘、詳細を見ずに死刑執行令にサインすることを求められ、従わないとどうなるか(前任者は解雇された)...と同僚から言われ、誇らしげな家族の裏側でそれらの重圧がゆっくりと彼を圧していく。

学生を中心に反ヒジャブの抗議活動が広がり、Imanの仕事(死刑執行状へのサイン)も増えて重くなっていくなか、娘たちはスマホに流れてくる動画とライブで友人らを含む学生たちが弾圧され酷い目にあっているのを目にして、お茶の間でImanと口論になったりするが、当然平行線で、そんな中、Rezvanの親友がデモで顔を撃たれて家に運び込まれてきて、応急手当はするものの、病院にも連れていけないしImanにも勿論言えない。

そんな火事の手前でImanの銃が突然、家のどこかに消えてしまい、家族全員に聞いても銃があることすら知らなかった、とか言われ、職場では大変なことだ、へたに騒ぐなと言われ、紹介してもらった専門家によって家族全員の個別尋問をしてもわからず、誰も信じられなくなった彼は家族を連れて生まれ故郷近くの山の方に向かって…

最初の方はごく普通にありそうなホームドラマで、居間でTVのデモの様子を見たりして大変ねえ、とか言っていたのが、そのデモの波をひっかぶったかのように父親がひとり戦争状態になって、地の果てのようなところに走りだし、ラストはまるで”The Shining” (1980)になってしまう。小説家Jack (Jack Nicholson)の孤独な/との戦い以上に、ここでのImanの孤絶感やプレッシャーは生々しく、国と家族の両方がのしかかってくるので、少しだけかわいそうになったりもするのだが、ぜんぶ国のせいにしてやめちゃえば… なんて軽々しく言えるものでもなく、だからこういうのを地獄とよぶ、というのは伝わってくる。

監督自身も対峙したであろう調査官Imanへの目線以上に、より細やかな目と共に綴られているのがNajmehとRezvan、Sanaの3人の女性たちの日常で、夫/父の仕事の内容は勿論、社会へのアクセスがTVやスマホ、その先は学校くらいと限定されていながらも、普段彼女たちが何を見て、どんなふうに日々を過ごしているのかを描いた女性映画として見ることもできる。

このふたつの目線があまりうまく嚙みあっていないので、後半の展開はややがさつでがたがたするものの、最後の方の(いつの間にそっちに行ったのか)食うか食われるかの緊張感と、あまりにすっこ抜けた終わり方はなんかよいと思った。

そしてラストはあんな父親なんか(ほっとけ)、と街頭でのデモや抗議の様子を延々と映して終わる。国からの圧を反省もせずありがたく受けとめ、その矛先を身近な家族や弱者や外国人に向ける、というのはどこかの国でもよく見る景色だが、それをここまでの映像にして曝したのは偉いな、って。
 

2.26.2025

[theatre] Cymbeline

2月15日、土曜日の晩、Shakespeare’s GlobeのSam Wanamaker Playhouseで見ました。ひどい雨の日だった。

原作はシェイクスピアの戯曲(1609-1610頃)、最初のうちは「悲劇」に分類されていたようだが、どう見てもそうには見えなかったかも。演出はJennifer Tang。

舞台はローマ帝国時代の古いブリテン王国の頃の話で、国王Cymbelineは女王(Martina Laird)で、原作とは異なる女王を中心とした女系社会、という設定で、中心のカップル - 女王の娘のInnogen (Gabrielle Brooks)と幼馴染で恋仲のPosthumus (Nadi Kemp-Sayfi)も、どちらも女性、となっている。更に - 見た目だけではあるが - 人種構成も多様でマルチカルチュラルな世界っぽく、敵味方などの識別はほぼ着ている衣装で見るしかない。大昔の話だからか、舞台には骨らしきものが飾ってあったり、音楽もガラスや打楽器の響きと生声、ハミングを中心としたシンプルかつプリミティブなもので、昇ったり降りたりが頻繁な火のついた生の蝋燭(ここのいつもの)もよいかんじ。

そろそろ結婚しようか、になっていたInnogenとPosthumusだったのに、頑固でいじわるな女王は夫Duke (Silas Carson)の連れ子でボンクラなCloten (Jordan Mifsúd)とInnogenを結婚させようとPosthumusを追放し、更にふたりを永遠に引き離そうとそれぞれに嘘を吹きこんだり、策謀とか悪党のIachimo (Perro Niel-Mee)とか、危ない影が寄っていってどうなるー? なのだが、互いの愛を信じるふたりはどうにか(というか襲う側が結構間抜けだったりして)切り抜けて、でも離れ離れにはなって、という顛末が描かれる一幕目は、薄暗いなか、目まぐるしく場面も人物も替わってごちゃごちゃ落ち着かなくていろいろ大変だなあ、というかんじ。この役は女性が演じているけど配役上は男性のはずだから… などと考える暇もないくらいばたばたする。

後半の二幕目は、男装して旅に出たInnogenが、Belaria(Madeleine Appiah)、Guiderius (Aaron Anthony) 、Arviraga (Saroja-Lily Ratnavel) の頼もしそうな3人の母子(に見えるけどそうではない)と出会って、Innogenを殺しにやってきたClotenがGuideriusと決闘して首を落とされて、眠りから目覚めたInnogenが傍に落ちている布に包まれた首をPosthumusのだと思ってパニックになって… など、すったもんだしながら新たな出会いが新たな希望を呼んでくる.. かと思ったら、今度はローマ帝国との戦争が始まり、その混沌とどさくさのなか、InnogenとPosthumusは再会して、GuideriusとArviragaは王の血を継ぐものであったことが明らかになって、新たな絆とファミリーが改めて確認されてめでたしめでたしになるの。

二幕目はつんのめるように威勢がよく、その勢いと共にどうなるのかも見えてくるし、ラストの戦がそれに火を点けてくれるかんじでなかなか盛りあがって楽しいのだが、女系を軸にファミリーを再構成した意味のようなところがやや弱かったかも。あるとしたら出てくる男たちがどいつもこいつも頭も性根も悪いのばっかしで、その辺 – だから王様になれないんだよ、の辺りだと思うが、そんなのとうにわかりきったことだしな.. になるし。突っ込みどころはたっぷりあるものの、高低差のある客席をうまく使って兵士たちが出入りしたり、どたばた楽しかったかも。

『シンベリン』のちくま文庫版の解説にあったように、これが「喜」と「悲」や「男」「女」を含む際どく危うい二項対立を軸に幾重にも組み上げられたお話しだとすると、こんなふうにごちゃごちゃ散漫なものになってしまうのはしょうがないのか、と思いつつ、でもこういうのは割と好きかもー、って。

[film] Companion (2025)

2月15日、土曜日の昼、CurzonのAldgateで見ました。
クソ彼に当たってしまったヴァレンタインの翌日に見るにはちょうどよいやつかも。

痛い系のサスペンスホラーかと思ったら違った。97分がちょうどよい。
脚本、監督はこれがデビューとなるDrew Hancock。以下、軽くネタバレしていると思う。

Iris (Sophie Thatcher)とJosh (Jack Quaid)はスーパーマーケットのオレンジ売り場で、これしかない、みたいな理想的な出会いをしてあっという間に恋人同士になって、週末に友人のレイクハウスに車で向かうところで、別荘には所有者の富豪で見るからにカタギではなさそうなSergey (Rupert Friend)、その恋人のKat (Megan Suri)、男性同士のカップルEli (Harvey Guillén)とPatrick (Lukas Gage)が集まっていて、そんな変な集団にも見えない。

翌朝、Irisが散歩しているとSergeyが寄ってきてへらへら笑いながら上に乗ってレイプしようとしたので、そこにあったナイフで首を刺して殺して、頭から血まみれになってパニックしているIrisの耳元でJoshが”Go to Sleep”っていうと彼女は白目になって停止する。ここまできて彼女はJosh(の操作するアプリ)によって動作するコンパニオン・ロボットであることが明らかにされ、冒頭のふたりの出会いのシーンも予め用意されたプログラムがIrisの脳内で再生されていただけだった、と。

椅子に縛られた状態で再起動されたIrisは隙を見てJoshのスマホを奪って森に逃げこみ、アプリを使って自分の設定を見て自分がどんな扱いのものだったかを知り、知能設定が40%だったのを100%にして復讐のために動き始める。 のだが、そんなに簡単にコトは運ばず、Eliと一緒にいたPatrickも同じコンパニオン・ロボットだったのでやや事態が面倒なことになって…

生身の人間ではなくコンパニオン・ロボットでいろいろ済ませようとする/それを誇示しようとする人が(頭だけはよい)クズ系であることは”Ex Machina” (2014)でも示されていたが、あれよりもう少し下世話にわかりやすく、こんなにもクズでゲス、のようなところ(だけ)を見せていておもしろい。そしてそのクズは他の人たちや他のロボットの間にも紛れていて、不気味で変なソサエティを作っていて、というあたりだと、こないだの”Blink Twice” (2024)とか”Don’t Worry Darling” (2022)にもあった、スタイリッシュでつるっとした(中味はありそうであんましない)サスペンスの傾向にも繋がっているのだろうか。 富豪も社交もロクなもんじゃない、という今。

そういうところから少し離れると、”After Yang”(2021)みたいな静かな世界に行ってしまう – か、”Robot Dreams” (2023)のような平和でフレンドリーなやつとか。 まあ、手元のタブレットすらきちんと操作できない人間がロボットなんかには近寄らないことよ。

更にそこから離れても、Joshみたいに女性を性処理の対象とか道具のようにしか見ない、見ようとしない男の像がロボットやAIへの対応を通してあぶり出されてくる、というおもしろさ(おもしろくない)。本当は、そんなのを通さなくたって(介さないほうのが)そこらにうじゃうじゃいるはずで、問題はそっちの方だよね。など、あーうざいねえ、とか思いながら見ていた。

Irisを演じたSophie Thatcherさんはこないだ”Heretic”(2024)でHugh Grantとも対決していた。

Joshを演じたJack QuaidはMeg RyanとDennis Quaidの息子で… ということはこいつとは昔に会ったことがある。95年くらい、Barneys New Yorkの当時地下にあった食堂(Mad 61)でランチをしていたら隣のテーブルにMeg Ryanがきて、わあぁーってなったところで彼女の連れていたガキがテーブルの下で大暴れして.. あの時の彼だったか… 大きくなりやがって。 


[log] お引越し 2025

先週はロンドン内での自分のフラットの引越しをしていた。以下はその備忘。

こちらに赴任したのが昨年の1月で、とりあえず、割と簡単かつ適当にフラットを見つけて住み始めたのだが、1年後に契約の更新がある(= 家賃がたぶんあがる)のと、住み始めてから部屋の寒さとか近隣のやかましさとかいろいろ出てきたのと、前回住んでいた時はロンドン内での引越しをやろうと思いつつできなかったので、一度くらいはやってみようか、などなど。

数えてみたら自分にとって国内海外を含めてこれが21回目の引越しで、そのうち自分の意思でやったのは14回で、そんなに多いほうだとは思っていないけど、こんな歳になっても住処を求めて不動産屋に通ったり、箱を作って出し入れしたりをするようになるとまでは思っていなかったかも。

ひとつ想定していなかったのは、11月に帰国して体にしょうもないなんかが見つかり、1月の中旬にも検査のために帰国しなければならず、12月はクリスマスなどで賃貸のマーケットはほぼ動かない、とかその辺のことなど。理想としては遅くとも1月の初めまでには物件を決めて各種手配や準備ができるようにしておく、だったのだが帰国手前でオファーを出したやつに全く返事が来なくて、帰国する前日になって自分で住むことにしたからこの件なしで、とか返してきやがったので、お先真っ暗になり、最後の最後は日本からZoomで見て決めた(建物自体は内見で入ったことがあったところ)。

今回は年末で物件自体があまりなかったせいもあったのと、家賃(だけじゃなく物価全般が)上がっているのもあったのか、ぜんぜんよいのにぶつからず、結構いろんな物件をこまめに見て回った。そういうのが嫌でない人にはおもしろい経験になると思うが、それにしてもほんとにいろんな物件があるもんよね。古い建物が残っている分、東京やNYと比べるとはっきりとピンキリで、ぜんぶ何らかの訳アリ – ないほうがおかしい - なのではないか、とか。

前に住んでいたのはChelsea近辺のジョージアン様式のフラットで、今回もその線で探し始めたのだが、もう日々の階段昇降はだるすぎるのと、水道とかお湯が出る出ない弱いとか、変な音がするとか、部屋の暑い寒いで日々じたばた苦労するのは面倒になっていて、そういうのを避けるべくモダンな方にして、そうすると中心部からはやや外れてしまうのがまた難で、結局住んでいたところから地下鉄で一駅のところにしてしまった。老人はそうやって引きこもっていくんだわ。

で、引越し屋にZoom経由で見積もりしてもらって箱一式が来て、とりあえず床に積んであった本などから詰めはじめる。

こちらに来てから小さめの本棚は買って、でもそこに入らなかった分についてはどうせそのうち引っ越すから、と床に積んでおいたのがあり、これらを詰めるのは割と簡単だし早いし。

こちらに持ってきた本の船便は段ボール計3箱で、今回詰めたら+6箱の計9箱になった。あと、箱には入れずに手で運んだ大事なのが数十冊。1年間で増えた6箱は多いのか少ないのか、たぶんこんなもんなのでは、くらい。ほら、美術とか写真の本ってサイズも大きいし。でもこの調子で増えていったらぜったい日本の家は床おちる… の前に入らないかも。

あと、サイズでいうと演劇のパンフレット - 演劇は見始めたところでもあるのであったら買うようにしているのだが、サイズがてんでばらばらでいい加減におし!になった。みんなあんなのどうやって整理しているのか。

箱に入れなかった自分にとって大事な本たちは紙に包んでスーツケースに入れて、新フラットとの間を5往復した。引越しトラックがテムズ川に落ちたり炎上したりするリスクと、自分が途中で線路に落ちたり行き倒れになるリスクと、若干のお気持ちみたいなので、手で運ぶやつは決めて選んで実行した。前にマンハッタン内を引越した時は、同様にレコードをがらがら運んだことを思いだしたり。

本以外の箱は、割とどうでもよかったのだがこれはこれで面倒で、なんであんなにどうでもいい未開封の調味料の瓶とか缶詰 – 特にいろんな国のイワシ缶とサバ缶ばかり – が後から後から湧いてくるのか、など。

そして箱に詰めるのは時間かかるのに箱から出すのはあっという間すぎて、人生そんなもんよね、に改めてなる。

住み心地? 100%のおうちなんてあるわけないのよねー を改めて噛みしめているところ。まずはお片づけだわ。

どうか来年も同じことをやるはめになりませんように(なるかも)。

2.24.2025

[film] Captain America: Brave New World (2025)

2月14日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
3D上映もあったようだが2Dにした。でもいちおう公開初日には見る。

“The Falcon and the Winter Soldier” (2018)からのSam Wilson / Captain Americaを主人公に据えつつ、背景とかキャラクターはEdward Nortonが緑Hulkを演じた”The Incredible Hulk” (2008)を引き継いだりしている。

超人だったSteve RogersのCaptain Americaに自分は絶対なれないことを自覚しつつアメリカの危機を前にすると身体と翼が勝手に動いてしまうSam Wilson (Anthony Mackie)と、そんな彼を政治利用しようとする合衆国大統領のThaddeus Ross (Harrison Ford)と、Celestials で見つかった希少金属Adamantiumの権益を巡る争奪戦 - に日本も巻き込まれている - のごたごたがぜんぜんスマートじゃない - 単にごりごり押し合うばかりの政治サスペンスふうに描かれていく。”Captain America: The Winter Soldier” (2014)にあったクールネスは微塵もない。

みんながふつうに思っていることでしょうが、今のアメリカ合衆国は冗談ではなくHydraに乗っ取られてしまい、あの風船デブと成金バカのやりたい放題になっていて、こんな状態で彼らの手先としてCaptain Americaなんて動けるわけがなかろう、というアタマで見ていくと、Thaddeus Rossも軍人あがりの超タカ派、自分が一番の傲慢野郎で、最後にやっぱり衝突しているのでそれみろ、なのだが、今の合衆国にはSteve RogersもSam Wilsonもいない、という現実の方に頭が向いてしまう。犯罪者が最高権力を手にしたらどうなるか、が想定ではない現実として現れてしまった時、正義とは… 例えば、そんなアメリカを守る、とは?

Steve Rogersの時代、敵は明確にアメリカの外 - 二次大戦期のドイツ - にあって、そこからサノスとか更に外に広がっていった訳だが、Sam Wilsonの場合は、最初から自国内のプロパガンダ狙いも含めて敵はずっと内部にいる、という難しさ(この映画のマーケティングもそう?)を彼ひとりが抱えていて、CIAだってなくなっちゃうようだし、見ていて辛くなってくるのだが、それでも少しづつ彼の周りに集まってくるFalcon (Danny Ramirez)とかRuth (Shira Haas)とかすっかり善き人になってしまったBucky (Sebastian Stan)とかはいるので、次に期待する、しかないよね(それまでに「アメリカ」が少しでもよくなっていますように)。 でもいま一番期待してしまうのは”Thunderbolts*” (2025)の方かも

ホワイトハウスが下斜めからぐざーってぶっ壊される絵がなかなか見事で、これって、”Independence Day” (1996)で真上から攻撃を受けて粉々にされるのと対照的でおもしろいな、とか。

あと、ものすごく濃く強く黙って闘う男性中心に貫かれたドラマで、この辺の息苦しさはわざと狙ったものなのか。Thaddeus Rossが多様性を排除した結果こうなってしまったということなのか。この辺のみっしりと男くさいトーンを歓迎する層も間違いなくいそうだし、これはこれであーあ(…なーにが”Brave New World”か?)、だし。

いろいろ意見だの見解だのはあるのだろうが、わたしはCaptain America的な(”GREAT”に向かわない)正義は(特に今のアメリカには)必要だ(ずっと言い続けることも含め)と思っていて、だから本作も大事だとは思うものの、いろいろもどかしくて難しいよねえ、って。 そのためにも”Eternals” (2021)の続編がほしいし、Nick Furyは宇宙で遊んでないで降りてこい、ってなるし。

Harrison Fordって、これから先も赤Hulkで出てくるの? おじいちゃんだいじょうぶなの?(癇癪をおこしやすい爺、という点ではわかりやすいけど..)

2.20.2025

[film] Bridget Jones: Mad About the Boy (2025)

2月13日、木曜日の晩、CurzonのAldgateで見ました。こんなの公開初日に見るわ。

11日の晩がCyndi Lauperのライブで、12日の晩が”The Last Showgirl” (2024)で、この日がこれで、ぜんぶこれで終わりのLast Showgirlみたいな話として連なっていたかも。

Bridget Jonesの4つめので、原作(2013に出た)は勿論Helen Fieldingで、共同脚本にも関わっている。

こういう続きもので、結構長い時間が経って、やると思っていなかったようなのがリリースされた時って、最初は懐かしいのもあって、変わってないなー、って笑ったりしているのだが、だんだんいたたまれなくなって – 所謂「イタい」状態を感じて、なんでか? など振り返りつつ結局もやもやと現実世界に戻る、というのが割とある - 3作目の”Bridget Jones's Baby” (2016)で既にそれはあったので、今回もそれなりに覚悟して見る(ほかになにができよう?)

現在のBridget Jones (Renée Zellweger)はHampstead Heathの一軒家(いいなー)に住んで、小学校に通うBillyとMabelのふたりの子のママとして暮らしていて。夫のMark Darcy (Colin Firth)は4年前、スーダンでの人道支援活動中に亡くなっていて、その替わりではないがDaniel Cleaver (Hugh Grant)がベビーシッターで来てくれていたり、でも全体としては学校の送り迎えだけで十分へとへとで、他のきらきら系のママからは素敵なパジャマねえ(でもあのペンギンのかわいいな)、とか嫌味を言われたりして、でもそんなのどうでもいいくらい大変で日々慌しくて、それどころじゃないのだ、になっている。
でも、健診でDr Rawlings (Emma Thompson)から励まされたりしたので、昔の職場 – TVプロデューサーに戻ってみることにする。

それと並行して若くて筋肉たっぷりのRoxster (Leo Woodall)が木から降りられなくなった彼女を助けてから近くに寄ってくるようになり、若者みたいなデートをしてみたり、Billyの学校の理科の先生Mr Wallaker(Chiwetel Ejiofor)も気になり始めたりする。恋も仕事も、のセカンドチャンスが彼女のところにようやく、のようでそんな簡単にいくはずもないことはわかっていて、ポイントはどうやって若い頃と同じように失敗して痛い目にあって、同じようにへらへら笑って立ちあがるのか。

なのだと思っていた。Bridget Jonesとはそういうキャラクターで、そういうキャラクターであるが故にColin FirthとHugh Grantの両方から言い寄られ、このふたりにずぶ濡れ殴りあいの喧嘩をさせてしまったりする。実はとんでもない女性なのだ。

でもそういった過去を、キャラクターをなぞるようなところには向かわない – いや、向かうのだけどそうではないところに目が流れていってふつうに感動して暖かいかんじになって、最初はJohn Lewis(デパート)のクリスマスのCMかよ、とか思ってしまうのだが、でもよかったんだから、に落ちてしまう。彼女のパパ(Jim Broadbent)も最愛のMarkももう亡くなっている、でもパパの思い出は手の届くところにあるし、Markはちょこちょこ幽霊のように出てくるし、Danielも心臓がよくなくて入院したりして、みんなが同じように年をとって、ぼろぼろだったりするけど、互いのことをずっと気にかけてて、かつての飲み友達も、職場仲間もみんなそこにいて思いだしてくれたり笑いかけてくれたり。これらを成熟とか克服とか共感の物語に落とさなかったところがよかったのかも。

湖水地方に遠足に行ったBillyが夜中、Mr Wallakerに自分はそのうちパパのことを忘れてしまいそうでとても怖い、って相談するの。それに対する答えが全体を貫いていて、あまりに想定していなさすぎてつい星を探してしまう…

エンドロールで、過去のスチールとか名場面が流れていって、客はみんな帰ってしまったのだが、なんかひくひくしながらあったねー って見ていた。

シリーズを見ていない人がいきなりこれを見たらどう思うのか... はまったくわからないけど、映画的なよさとは別の何かかもしれないけど、とにかくとってもよかったの。


引越しは、明日から本気だすことにした。

2.19.2025

[film] The Last Showgirl (2024)

2月12日、水曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

まだ正式公開前のPreviewで、上映後に主演のPamela Andersonのトークがあった。ここの一番大きいシアターが満員になって、ロンドンの他の映画館でも別の日にトークがあって、週末のBAFTA授賞式ではプレゼンターとして登場した。そこにいるだけで場が明るく、暖かくなるかんじの人だった。

監督はGia Coppola、脚本はKate Gersten、たった$2millionの予算で、18日間で撮られた、と。

Shelly Gardner (Pamela Anderson)はラスベガスの場末のダンス小屋Le Razzle Dazzleで30年間ショーガールを務めてきて、でも突然プロデューサーのEddie (Dave Bautista)が、ショーはあと2週間で閉じる、次はない、と告げてきて、若い子たちは別のとこを探さなきゃ、ってざわざわ始めるのだが、30年間ここで踊ってきたShellyはどうしよう… ってこれまでのことも含めて考え始めてしまう。

こうしてかつての同僚で親友で、今はカジノのバーでウェイトレスをしているAnnette (Jamie Lee Curtis) - 恐るべしJamie Lee Curtis - と会ってつるんで話したり、若い踊り子たちと話したり(でもまったくついていけず)、突然現れた疎遠だった娘のHannah (Billie Lourd)とも話したり、そして過去に当然いろいろあったであろうEddieとのディナーがあり。でもいくら相談しても話してもなにひとつ解決することはない。この仕事が好きで、ずっとこれだけをやってきて、ここでの自分は誰よりもうまく踊れる自信がある、その場所、機会を奪われるというのは自分にとって何を意味するのか。

なので新しいところにオーディションに行ってみたりもするのだが、そこの監督(Jason Schwartzman)はどこまでも(彼女からすれば)意地悪すぎて彼女を見てくれなくて、やってられない。

好きな仕事を失う - 奪われる、というバックステージものによくある残酷な運命を描きつつ、ぎりぎりでそちらの波にはのまれない。こないだの”The Substance” (2024)のように若い娘に取って替わられる悔しさと妬みと執着を前に出すのでもなく、これしか残っていない自分を最後の最後に肯定して抱きしめようとする。もちろん、それにしたって先はないのかも、だけど。

これはもうPamela AndersonにしかできないShowで芝居で、そんな一世一代の、最後の見得というのがどういうものか、それを見とどけるだけの映画、でよいの。Pat Benatarの”Shadows Of The Night”があんなにかっこよく鳴る瞬間、つい拳を握ってしまう日がくるなんて誰が想像しただろう?

“Everything Everywhere All at Once” (2022)があったので何も驚く必要はないかも - のJamie Lee Curtisもすげえなー、なのだが、それよりDave Bautistaって、あんな演技ができるのか、と。

ヴェガスのくすんだ空気、靄のかかったような、Deborah Turbevilleの写真の世界が少しあるものの、カメラの動きがあんまりよくないのが少し難で、あと少しでRobert Altmanがやったような西海岸のドラマになれたかも、なのに。

エンドロールのSpecial ThanksにはCoppolaファミリーはもちろん、Dita Von TeeseやSam Bakerの名前が流れていった。

上映後のトークで印象に残ったのは、もう残っていないヴェガスのショーガールの世界は、していいことしてはいけないことが厳格に定められた規律の厳しい世界だった、というところ。誇りをもてる仕事ってよいなー、って羨ましくなった時にはもう遅すぎ…

2.17.2025

[film] 秋刀魚の味 (1962)

2月10日、月曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
なんの特集とも紐づいていない、”Big screen classics”っていう、名作を大画面で見よう、の枠で。 英語題は”An Autumn Afternoon”。

小津の作品は、超クラシックの『東京物語』とかよりもこれとか、『晩春』 (1949)とか、『秋日和』 (1960)とかの方が、こちらでは好まれている気がする。感覚だけど。

あと、どうでもいいけど、”An Autumn Afternoon”なので、『秋日和』と混同しがちかも。英語でいきなり「秋刀魚」とか言われてもわかんないのだろうが。

大企業の重役の笠智衆は妻に先立たれた後、長女の路子(岩下志麻)と次男と一軒家に3人で暮らしていて、長男の佐田啓二は岡田茉莉子と結婚して別のところいる。中村伸郎と北竜二の同窓生たちからは、若い奥さんを貰ったりして自立しないと路子ちゃんがいつまでも結婚できなくてかわいそうだ、と言われ、クラス会に呼んだ恩師の東野英治郎と娘の杉村春子を見てそれはそうかも、って思って路子に縁談をもちかけてみるのだが、彼女はあまり考えていなかったようでー。

いつもの、毎度の – この時代の日本映画なんてぜんぶそういうものなのかもだけど - セクハラ、パワハラがしぶとく全開すぎて感嘆する。

女性はある年齢になったら結婚しないと、どこかに「貰われ」ないと、貰い手がなくなって、寂しく孤独な老後を送ることになって、老いた男性も同じで身の回りの世話をしてくれる若い女性でも見つけないとみじめな老後を送ることになって、などなど(あくまで一例)。 主人公たちは、この流れというか周囲からの善意かつ気持ちよくないお節介を「ちがう」、ってなんとなく思いつつも、そうかそういうものか、って受けいれて、でも最後はHappily Ever Afterとは遠いところに立ってしょんぼりして終わる。

だってこの時代の日本社会ぜんぶがそうだったんだからしょうがないじゃん、はそうなのかもしれない。でも例えば、戦争映画の悲惨さは戦争という事態が招いた悲惨なのでその描写も含めた過去として受けいれることができるものの、この映画が描いている家庭や会社や飲み会でのいろんな言動は、あの時代のものである、とわかっていても見事に今のそれと繋がって微動だにしない、誰もそれをおかしいと思っていないかんじがある。映画に罪はないにしても、小津はすばらしい、って手放しで賞賛できないのは、映画を見てこの頃からずっとこうだったのか、なんで変われないのか… って絶句してどんよりしてしまうからなのだろう。

もちろん溝口にも成瀬にもあるけど、小津の場合は、家のなかの端正な格子模様や奥や横手に抜けるパスとか、すたすた歩いていく廊下とか、路地のデザインとか、テンポが軽快なので構成とか様式のようなところで、すごーいおもしろー、ってなりつつも、語ったりやり取りされている言葉はほんとうにどす黒くてひどいThe 家父長制で、コンプラ委員(not映倫)がチェックしていったらノート3冊くらいあっという間に埋まってしまうに違いない。これはこういう文脈で19xx年頃まで使うことを許されていた言葉の用法なのです、とか、上映前に不適切かつ差別的な言動がありますが… 等の注記やレーティングがほしい(だってほぼ暴力みたいなもんだよ)のだが、残念なことにぜんぶ投げられたり言われたりした心当たりがありすぎて、またか… って悲しくなる。だれに怒りをぶつけてよいのかわかんないし、好きにすれば、だけど、少子化なんて、酒のんでこういうのを垂れ流してなんの反省もない、ちやほやされ続けて自分が一番、って腐敗腐乱した老人たちをどうにかしないとぜったい解消しないよ。 こんな国潰れちゃえ、って思っているけど。

というような角度から小津(というか野田高梧の?)作品における家父長制と、それが高度成長期の一般家庭の意識形成にどう馴染み、影響を与えたのか、を分析した論文とかがあったら読みたい。

[theatre] Oedipus

2月8日、土曜日にOld Vicのマチネで見ました。

昨年末に見た”Oedipus”は、Robert Icke演出、Lesley ManvilleとMark Strong主演だったが、こちらの演出はHofesh Shechter (振付も)& Matthew Warchus、翻案はElla Hickson、主演はRami MalekとIndira Varmaで、話題の舞台であることは確かなのだが、それよりも、この後、同日の晩に見た”Elektra”と合わせて、なんで今、こんなにもギリシャ悲劇なのか、は考えてみる価値があるかも。1時間40分、休憩なし。

現代都市における選挙戦〜キャンペーンというイベントを軸に市民大衆とのやりとりを背景に置いたRobert Icke版に対して、時代も地域も昔のギリシャっぽく、民衆はOedipusを熱狂的に支持しつつも干魃に苦しんでいて、よき施政者であるOedipusもその対応に頭を痛めている。

でもこれ、上演時間の半分(ほどでもないか)くらいがダンス、というか舞踏とか群舞のパフォーマンスなのよね。民衆の怒り、苦しみ、歓び、などをダイレクトに表現する様式としてダンスがあるのはわかる。わかるけど見たいのはそこではないわ、になる。パフォーマンスとしてのダンス、という点では、群衆の勢いを示す舞いなので一糸乱れぬ完成度とかスペクタクルとして見せるものではなくて、ライティングもバックの音楽もそこらで拾ってきたかのように雑でてきとーで、これなら映像を使ったりした方がマシだったのでは、とか。

なので、肝心のOedipusとJocastaが「がーん」てなるシーンもやや薄まってしまった感があり、でも最後は恵みの大雨が来てみんな歓んでいるのだからそれでよいのか、になってしまう。それでよい - 権力者の悩みなんてどうでもいい、のドラマなのだ - と言ってしまってよいの?

ただ、真ん中にいて悩んだり立ちすくんだりするRami Malekの表情 - 冒頭は彫刻のような彼の顔が背景に大写し - 立ち姿はやはり見事なものであった。


Elektra

2月8日の晩、↑の後にDuke of York’s theatreで見ました。

Captain Marvel = Brie LarsonのWest Endデビュー作。原作はSophokles* (原作者名もタイトルも”c”にxをして”k”に置き換えている)、翻案はカナダのAnne Carson 、演出はDaniel Fish。休憩なしの75分 - パンクだから短い。お芝居のハシゴをして休憩なしが続くのは珍しいかも。

会場に入ると、ステージ上では掃除機みたいな投光機みたいな、複数の機械がゆっくり同じ方向にぐるぐる回っていて止まらない - 止めることができない。

ステージに現れたElektra (Brie Larson)は七部刈りくらいのショートでBikini Killのタンクトップを着てハンドマイクを手にしたパンクシンガーで、ずっとマイクを手に客席に向かって吠え続け、たまに足下のエフェクターを踏みこんでその叫びを爆裂させる。声が彼女の武器となる。特に感情 - 特に怒りの。

初めの方は父が殺されたことについて、舞台の少し奥の方で揃ってなにやらひそひそ歌っている女性たちに対して、やがては陰謀に加担していると思われる母Clytemnestra (Stockard Channing)や弟Orestes (Patrick Vaill)や妹Chrysothemis (Marième Diouf)に対して、死の真相やだれがどうして裏切ったのかなんてことよりも裏だの陰だのでやらしくごちゃごちゃ言いやがって、おとなしく黙ってると思うなよ - 表に出てこいざけんな、って。結局、これらに対する物言いは権力とか女性とか家父長制とか、自動で動いていって止められない「システム」のようなところに集約されていって止まらなくて、そういうのに対するいいかげんにしろ!をぶちまけて終わる。

Brie Larsonさんは、先週土曜日朝のBBCのSaturday Kitchenていうお料理番組(大好き)にゲスト出演していて、お料理の腕前はふつうっぽかった(包丁を握るところまで)が、今回のWest End出演については、最初は毎日同じセリフの同じ舞台を何カ月も繰り返すのなんてありえない、と思ったけど、いまはものすごく楽しい、って。また演じに来てほしい。


どちらの劇も「ギリシャ悲劇」というかんじはあまりなくて、悲劇の土壌となる権力とか民衆の居場所、のようなところにフォーカスしたメタ悲劇のようで、今ってそういうものが求められているのかも、というのは演劇を見るようになってからずっと感じている。

2.15.2025

[music] Cyndi Lauper

2月11日、火曜日の晩、O2 Arenaで見ました。これが今年最初のライブになるのか(なんということ…)。

Cyndi Lauperがライブパフォーマンスはこれで終わり、と宣言している”Girls Just Wanna Have Fun Farewell Tour”のロンドン公演。アリーナツアーは1987年以来だそうで、最後は4月の武道館になるって。

彼女に対しては、最初の”Girls Just Wanna Have Fun”からまったく異議なし!よね、のまま、ずっときちんと向き合ってこなかった気がして、一度くらいライブに行かねばと思っていたところに今回の告知がきて、でも直前になっていたしチケットの値段が高かったら.. だったのだがそんな高くもなかったので取った。

“True Colors” (1986)がリリースされたときのレコード屋で、隣にMadonnaの”True Blue”並べられていて、散々迷って悩んで、結局決められずにNew Orderの”Brotherhood”を買ったことを昨日のことのように思いだす(記憶なんてこんなゴミの集積)。

会場であるO2アリーナの最寄り駅のNorth Greenwichの掲示板(遅延が出たりした時に書きこまれる)には、いつもライブに行く人向けに、これからライブするアーティストのことが書いてあったりするのだが、今回は彼女の曲のタイトルが小さな手書きでびっちり埋めてあって感嘆する。 あれ、誰かに書いて貰っているのかしら?

客層は圧倒的に中高年の民で、グループというよりはカップルだったり友達同士、のような。みんなきれいに着飾って、肩組んで手を繋いで、ラメ率が高くて、バッグとか靴も当時からの、みたいな。フェアウェルだけど、お別れじゃないことはみんなわかってる、今宵はとにかく楽しもうと。

前座はDJのひとで、まったく悪くないのだが、客席はみんなお年寄りなのでそう簡単には動かない。

登場前にBlondieの”One Way Or Another”(邦題「どうせ恋だから」)ががんがん流れて、おうおう、ってみんな立ちあがる(...立つのか)。

で、”She Bop”から始まって、”The Goonies 'R' Good Enough” – スクリーンにGooniesの映画のスナップがいっぱい – をやって、Princeのカバーの“When you were mine”~ ”I Drove All Night”〜 あたりまでは、(自分に)ものすごく馴染む音。バンドは、ドラムス、パーカッション、ギター、キーボード、ベース、バックコーラス2 - 80年代サウンドの王道の、きらきら分離して、リズムが跳ねて、性急でも緩慢でもなくうねりがあって、を見事に再現してくれる。打楽器のコンビネーションがよくて、ドラムスはRufusやBowieのバックにいたSterling Campbellであった。

声はものすごくしっかり、やかましいくらいに(←これこれ)よく出ていて、ここでやめてひっこむ理由がぜんぜんわからないくらいだし、曲間のお喋りはこれが最後なんてどうでもいいような軽くて楽しいお喋りばかり、難点があるとしたらこれくらいか - お喋りしすぎで曲たちの勢いが止まってしまうところ(リストにあった1曲を飛ばしちゃった、って)。曲間の衣装直しでメイク室にまでカメラがいって、メイクしている間もずーっと喋っていたのには笑った。でもこのかんじなんだなー、と思ったよ。こんなふうに身の回りの出来事などを延々喋ったり、この衣装はChristian Sirianoなのよー、とか言ったりしながら、ずっと傍にいて一緒に歌ってくれた。だから、やろうと思えばいくらでもエモに感動的に盛りあげることができるはずの”Time After Time”も、客席のみんなにスマホのライトを点けさせて、ほらきれいでしょーとか言いながら(本当にきれいだった)、すっきりあっさり終わって( - 終わらない)。

アンコールの”True Colors”ではアリーナの真ん中くらいまで下りてきて、Daniel Wurtzelのインスタレーション”Air Fountain”を靡かせながらの”True colors are beautiful ~ Like a rainbow”がとっても沁みて、虹色のあとは… ってステージに向かうとスクリーンになぜか草間彌生が大写しになり、全員が白赤の水玉衣装になっていて、“Girls Just Wanna Have Fun”をぶちまけるのだが、ステージ上にはこれもなぜかBoy Georgeがいて、GirlsにBoyなのか... と。

なんか、よくもわるくもちっともFarewellのかんじのしないパリパリによく揚がったライブだった。音楽はなくてもトークライブみたいなのはこれからもやっていくのではないかしら(トークのついでにギターを取りだし…)、とか。

2.14.2025

[film] Duel at Diablo (1966)

2月7日、金曜日の晩、BFI Southbankの特集 – “Black Rodeo: A History of the African American Western”、で見ました。

これも35mmフィルムを米国から取り寄せての上映だよ、とのこと。邦題は『砦の25人』。
監督はRalph Nelson、原作はベストセラーになったというMarvin H. Albertによる1957年の小説 - ”Apache Rising”。

Sidney Poitierの初の西部劇、ということで、でも彼は主演ではないし、”African American Western”というカテゴリもちょっと違うかも。

敵も味方も沢山人を殺したり殺されたり、(いっぱい人が亡くなってほぼなんも残らん、という点では)惨い映画で、でもなんで? なにがそんなに惨いのか、をいろんな角度から考えさせる内容のものだった。決してつまんない、というのではなく、ごちゃごちゃ深くてすごい、という。

焼き殺された死体が吊るされている砂漠を馬で渡っているJess (James Garner)がいて、彼は遠くのほうに馬で砂漠を渡りながら馬と一緒に死にそうになっていた女性とその向こうに彼女を追っているアパッチを見て、アパッチを追い払って彼女を助けて町に連れて帰る。

その女性Ellen (Bibi Andersson)はその町の実業家である夫のところに戻るのだが、アパッチにさらわれて彼らの子供を産んだらしい彼女に夫も世間も冷たくて、Jess自身もその直後に自身のアパッチの妻を殺されたことを知り愕然とする。ひとりになったJessは再会した旧知の陸軍中尉のScotty (Bill Travers)から、砂漠で孤立している部隊に水を届けるミッションに誘われるのだが、とてもそんな気分にはなれない。無理やり砂漠に出されたScottyの部隊は25人の兵しかいなくて、でも砂漠を行くなかアパッチの襲撃は当然来て、そこに元軍人で馬商人のToller (Sidney Poitier)が加勢したり、アパッチから赤ん坊を奪い返した後のEllenとJessも加わるのだが、土地をよく知っているアパッチのが断然有利で水を断たれた部隊は次々にやられていって…

砂漠のなかでの戦いの過酷さや虚しさもあるのだが、それ以上にアパッチやTollerに対する差別偏見、Ellenに対するミソジニーなどが目の前にきて、それらがだんだら模様になって、銃撃もあるのだが、背後からすとんって弓矢でやられてお尻や背中に刺さってくる痛さ、がやってくる。砂漠の熱さと喉が渇いてからからのなか、なんのために戦うのか、という問いがやってきて、虚しいというよりこんなのに勝ったところでどうする、になる。(人によってはとにかく勝ったんだからぜんぶ自分のもん、て喜ぶかもだけど…)

TollerとJessのコンビは素敵だし、EllenとJessはやがて一緒になるのだろうが、60年代の西部劇で単なる原住民 vs. 開拓者・征服者の構図以上の、ベースにある(内側に当然あったはずの)他者への偏見や蔑視の構図を串刺しで見せていた、というのはすごいな、と思った。


The Learning Tree (1969)

2月5日、水曜日の晩、”Architecton”を見た後に、BFIの上と同じ特集で見ました。 邦題は『知恵の木』。

写真家として知られる(ずっと写真家だと思っていたわ)Gordon Parksが、自分で書いた半自伝小説を元に脚本を書いて監督してプロデュースもして、音楽まで自分でやってしまった作品。
アフリカン・アメリカンの監督が最初にメジャースタジオ(ワーナー)と契約して作った映画でもある、と。

1920年代のカンサスの田舎町で、主人公の少年Newt (Kyle Johnson)は勉強もできるよいこだったが、仲間達と一緒に近所のリンゴ園の木からリンゴを盗ってそこの主人を少し痛めつけたりしたら、差別主義まるだしの警官に仲間が簡単に撃ち殺されたり、別の仲間は牢屋に入れられたり、いろんなことを経験し(散々な辛い目にあっ)て少しづつ大人になっていく。きれいな構図と風景と、大人になるにつれて見えてくる人種差別の泥沼のコントラストと、それでも前に歩もうとする主人公の強い眼差しと。

時代もトーンもぜんぜん違うけど、これが50年以上経つと”Nickel Boys” (2024)のようになるのか。
共通しているのは、アフリカン・アメリカンの子供の命なんて簡単にどうとでもできる、と思う白人男たちの救いようのない軽さ、傲慢さ。

これがいままた復活しようとしている…(吐)

2.13.2025

[film] Architecton (2024)

2月5日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

豚さんのドキュメンタリー(ぽい)”Gunda” (2020)がとても好きだったロシアのVictor Kossakovskyの監督作。

“Gunda”がナレーションとか特になくても、なんとなくどんなものか(どんなものだ?)わかったのと同じように、流れていく画面を追って見ているだけであっさり終わってしまう。

風景全体とか岩場まるごととか、スケール大きめ、って思わせる画面が続いていくからか、IMAXでも上映される回があった(これなら行けばよかった)。

岩石とか瓦礫とか廃墟とか廃材とか、そんなのばかりが流れていく。「自然」の光景というよりは、岩を切りだしたり積みあげたり、山肌を爆破したり、戦争で部分部分が穴だらけで人影のない建物(ウクライナだそう)とか、地震災害で破壊された建物(トルコだそう)もあり、自然を眺めるのと同じスケールで(視界まるごとを支配するように)そこにある、でっかい人工物(のなれの果て) - でも人間はほぼ映らない - がナレーションも字幕もなしに、次々と映しだされて、それだけなのに、スペクタクル!というか、よくもまあ… みたいなかんじにはなる。

もうひとつは仙人みたいなおじいさん(イタリアの建築家/デザイナーのMichele de Lucchiだそう)が、どこかの遺跡を見ていったり、自宅の庭に石を円形に並べてストーンサークルのようなものを作っていく(実際に作るのは大工のような人たち)様子も描かれる。

最近の映画だと”The Brutalist”があったし、あとJóhann Jóhannssonの”Last and First Men” (2020)とか、でっかくてブルータルな建造物の映画とか、爆破シーン(好きな人は必見)はMichelangelo Antonioniの”Zabriskie Point”(1970)の飛び散るとこを思わせたりするのだが、あれらよりはとても穏やかに厳かに、なんで人はあんな重い石を掘って、切り出して、運んで、積んで、賞賛したりうっとりしたりして、それをまたぶっ壊したりするのか/してきたのか、を考えさせる。それらはほぼ黒と灰色と茶色で、とても男性的な力強い何かを思わせる - 自分だけか? あと、木造建築についてはまったく別種のなにか、であることもなんとなく確認できてしまう不思議。

これらの建造物(or廃墟)は、少なくとも始めは人間のために造られ、建てられたものであったはず、なのに、(特に壊された後のほうは)人が立ち入ることを頑なに拒んで閉じてそこにある、建っているように見える。そこでは人が亡くなっているのかもしれない。ただの遺物、墓石、ランドアート? アートでよかったの? とか、アートとは?みたいなところまで考えがとぶ。

最後のエピローグで、監督とMichele de Lucchiがストーンサークルの前で対話をする。人はなんでつまらない、醜くしょうもない建築を建ててしまうのでしょうか?と。

これは本当にそうで、でも人はしょうもない映画も、しょうもない料理もいっぱい作るし、そういうのに嬉々として向かっていく人もいるし – でも映画は見なければよいし食べ物は食べなければよいだけ。 建築は見たくなくても目に入ってくるし、ものすごいお金と時間と人手をかけて作っていくもので、そういうのも含めて考えるとうんざりするくらい嫌になる建物ってあるよね。ロンドンにもあるけど、東京のゼネコンの建てるのとかって、なにあれ、みたいなのがあまりに多い。紙とか板とかをベースに考えているから? など。

[film] Becoming Led Zeppelin (2025)

2月6日、木曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
“Preview”とあったのだが、一日に何回も上映しているし、一般公開とどこが違うのかは不明。

Led Zeppelin初のオフィシャル・ドキュメンタリーだそうで、晩20:30過ぎの回でも結構埋まっていた。どうせならでっかい音で見たいし。

生き残っているメンバー – Rober Plant, Jimmy Page, John Paul Jonesの3人から話を聞いていくのと、亡くなったJohn Bonhamについては過去のインタビュー音声から生い立ちとか、使えそうなところに注記を入れてあてている。3人全員が一堂に会して顔を合わせて会話する場面はなくて、各自が好きなこと(自分に見えていたこと)を好きに語っているだけのようにも見える。

3人の生い立ちについては、ものすごく普通で、両親がドサ周りのボードヴィル芸人だったというJohn Paul Jonesを除けば、ふつうの家庭でふつうに音楽に囲まれてギターも買ってもらえて、自然と人前で歌ったり演奏したりするようになり、そうして既に十分に実力がついていた彼らが集まったのだから、そしてそれなりに努力してアメリカでもがんばったのだから、ああなるのは当然、みたいな描き方で、そりゃそうでしょうよ、しかないし、この程度ならふつうのファンなら知っていたのでは、くらいの薄くぺったんこな流れ。

彼らに酷いことをされた女性や関係者の証言、飲んだくれてホテルをぐじゃぐじゃにした、などいろんな狼藉に武勇伝、闇に葬りたいであろう過去のあれこれはきれいにクレンズされてこれぽっちも触れられず(なるほど「オフィシャル」)、とてもクリーンに齢を重ねた善良なお爺さんたちから輝かしい昔話を聞いていくかんじ。そんなはずねーだろ、と思う人には物足りないかも。

長さは2時間くらいで、半分を経過してもまだ1stの話をしているのでこの先だいじょうぶか? になったのだが、途中でそうかこれはドキュメンタリーの最初の1発なのか(Becoming..)、って。 なので、本作は2ndのアメリカでの成功と、それを受けてのRoyal Albert Hallの凱旋公演までで終わっている。たぶんこの後にあと2~3本続くことになるのではないか。さーすーがーにせこいジェイムズくん、だな。

Led Zeppelinについてはものすごい好き、というわけでもなく、LPもぜんぶ持っているわけでもないし、1番好きなのは1stと”Presence” (1976)くらいで、渋谷陽一があんなにわーわー騒がなかったらな、というか70年代ハードロックを聴いてうんちくたれてたうざいおやじ達(もう、じじいか..)がものすごく嫌で嫌いで、あれらがなければもう少し素直に向き合えたのかも、くらい。ほんとあの連中、なんだったんだろうか(いまだとシネフィル気取りのおやじ達になるのかな)。

でもとにかく、”Good Times Bad Times”のイントロはかっこよいと思って、この映画の予告でもがんがんかかるのでうれしい。

でっかいスクリーンで見て改めて思ったのは、ほんとに当時のメンバーはきらきら白人男性の典型で(いまのメンバーはしおしおで)それであんな音を出していたのだから冗談みたい、それこそ青池保子のあの漫画そのまま - 久々に読みたくなったかも。 なので、ディランのよりもビートルズのよりも、今の旬の男優たちを集めてバイオピック作ったらぜったいに客を呼べるネタになると思うのだが、やらないのかなあ?

2.10.2025

[film] Sergeant Rutledge (1960)

2月2日、日曜日の午後、BFI Southbankで見ました。

今月から始まった特集 – “Black Rodeo: A History of the African American Western”からの1本。BFI、今月はChantal Akerman特集だけでお腹いっぱいなのに、これに加えて、”The Films of Edward Yang: Conversations with a Friend”ていう特集もある。あれこれ忙しいってのに、いいかげんにしてほしい。 

監督は問答無用のJohn Ford、邦題は『バファロー大隊』 - 原題の「ラトレッジ軍曹」でよいのに… 黒人俳優を主役に据えた最初のハリウッド西部劇 – らしいがオープニングタイトル上は、主役扱いではなかったような。

35mmフィルムでの上映で、米国から来るはずだったフィルムが、クオリティがあまりよくなかったので、急遽スウェーデンからの手配に変わった – スウェーデン語字幕が入っているけど許してね、と冒頭に説明があった。ものすごくきれいなテクニカラーだった。どうでもよいけど、西部劇とかカンフー映画の上映素材って、適切なプリントで上映するためなら命がけ(ではないけど)でなんとか海を越えて運んできたりするよね – 米州X欧州の場合。

舞台は1881年の、西部劇というよりは法廷劇で、第9騎兵隊のBraxton Rutledge1等軍曹(Woody Strode)の軍法会議を中心に展開していって、証言に基づくフラッシュバックで法廷の場と過去の現場を行ったり来たりする。Rutledgeの弁護に立つのは同騎兵隊の将校でもある若いTom Cantrell (Jeffrey Hunter)で、野外の掘っ立て小屋のような議場は、暑くて騒がしい村人たちや着飾ってお喋りするご婦人たちで溢れていて、そのだれた雰囲気に苛立つ判事たち - 水の代わりに酒を飲んだりしてる - も含めて、きちんとした裁きが行われるとは思えないかんじ。

Rutledgeは白人の少女をレイプして殺し、更にその父親で指揮官も殺した容疑で連れてこられていて、まずはMary Beecher (Constance Towers)が証人として立って、Rutledgeに命を救ってもらった、と証言するものの、全体としては殆ど喋らず不動で弱さを見せようとしない(親しかった彼らにそんなことをするわけないではないか、と無言の)Rutledgeに疑念が向かい、この雰囲気を覆すことは難しいように思われて..

フラッシュバックで犯行時の現場の映像も出てくるものの、全体に夜の闇のなかで事件は起こるので、見ている我々にも実際にあったこと -彼がやっていない証拠 - が明確に示されるわけではなく、他方で、Rutledgeを犯人として見ている(別の可能性を頑なに考えようとしない)白人たちの、犯人は彼に決まっている、から、どうしても彼に犯人であってほしい/彼でなくてはならない、の確信を固めて深めて同意を得ようとする、その意識の流れのなかに見ている我々をも引きずりこんで、結果として人種偏見や差別のありようを、少なくともその構成要素のようなものを見せる。それは、公民権運動が盛りあがり始めた当時のアメリカに向けた(それどころかいまの我々の社会にも十分、嫌になるくらいに通じる)過去の他人事にはさせない作劇で、今回は決定的な証拠が見つかったので落着するのだが、それがなかったらどうなっていたか、も含めて考えさせて、最近のだと”Juror #2” (2024)と同じくらいの難しさと手元の緊張をもたらす。

法の裁きの必要性と正当性を示しつつも、そこまでで、裁きの場に来る前に闇で消されてしまった可能性だってあった、そんなような正しさ、正義、という点ではまだ弱いのかもしれないが、John Fordがこういうのを作って、あるべき道のようなものを示した、というのは決して小さくなかったのではないか。

そういうのとは別に、軽くもなく重くもない、立ち止まって考える隙を与えない、手に汗握るおもしろさ、というのはあって、あれはなんなのだろう、って。

[film] Chantal Akerman par Chantal Akerman (1997)

2月1日、土曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

2月〜3月は、ここを中心にChantal Akermanの大規模な回顧特集 - “Chantal Akerman: Adventures in Perception”があって、その最初の上映。

BFIの大看板は本特集のChantal - 基調色はJeanne Dielmanのガウンとカーディガンと部屋の色 - になるわ、Sight and Sound誌のChantal特集号は過去のインタビューやレビュー(J. HobermanがVillage Voiceに寄稿したのとかJonathan Rosenbaumの過去の論考とか)を網羅して大充実だわ、Soho のマガジンスタンドのウィンドウが一面これの表紙で埋まっているわ、”Jeanne Dielman, 23, quai du Commerce, 1080 Bruxelles” (1975)は公開50周年記念で全英でリバイバルされるは、このBFIの特集もフルではないが英国をツアーするそう。 この裏で何が進行しているのか(しねーよ)知らんが、ありがたく見ていきたい。

でもこの初回の上映も含めてあまり盛況とはいえない - Sold-outしたのはないかも - という客の入りで、それはそれで納得かも(満員だったらちょっと変)。

コロナでロックダウンしていた頃、Chantal(とAgnesの)は配信で結構見たので今回はそんなに行かなくてもよいか、と思っていたのだが、中編〜2時間いかない作品の上映にはおまけのようにTV放映されただけの短編作品などの併映がついていて、これらって見ていたかしら? というのも多くて、結局見てしまうことになるのだった。 以下、上映された順番で。


Akerman – Examen d’entrée INSAS – Knokke 1967 (Films 1-2)
Akerman – Examen d’entrée INSAS – Bruxelles 1967 (Films 1-2)

Chantal Akermanが国立の映画学校(INSAS)の入学用にモノクロの8mmフィルムで撮って提出してAcceptされた作品、というか全部で4つ、ぜんぶ足しても14分程の断片。Chantalの友人の女性が夏の町を歩いたり靴屋に入ったり花火を眺めたり、の昔のアルバム。一瞬だけ写っているのはChantalのお母さんなの?


Saute ma ville (1968)

↑で入学した学校をさっさと中退して、18歳のとき、いきなり撮りたいんだ!と思いたち35mmで一気に撮ってしまった彼女のデビュー作 - 13分。 英語題は”Blow Up my Town”。

しゃかしゃかしゃかどっどっどぅーとか口の中でせわしなく音をたてたり呟いたりしながらChantalがアパートらしき建物に駆けこんで、そのままリフトで上にあがって(おそらく)自分の部屋に入って入り口をテープでとめて、花を飾ってスパゲッティを食べて靴を磨いて掃除をして、ガス栓を開いてどっかーん。

世界で最初かつもっともパンクな〜 パンクなんてなかった頃だけど、こういうもん、ということを示した映画だと思う。ゴダールみたいに臭くないし。 最初にこうして自分を粉みじんに吹っ飛ばしてしまったので、この後の彼女(たち)はどこにだって行ける、現れるようになった。


Chantal Akerman par Chantal Akerman (1997)

↑から更に30年が過ぎて、Janine BazinとAndré S. Labartheによる”Cinema of Our Times”というTVシリーズ?の要請を受けて彼女が自分で自分を紹介していく。(このシリーズ、すごい面々が出てくるのね)。

最初にカメラに向きあったChantalが自己紹介をして、そこから自身で編集したと思われる自作品を繋いでいく。

改めて彼女の作品の主人公たちのカメラとの距離について - カメラはあくまでChantalの目とボディとなって、その距離を保ちつつ被写体に接していく。その距離のルール、法則のようなものはずっと維持されているような。あとは光に対する/向かう態度 ~ いろんなスイッチのオンオフとか、窓を開ける動作とか。

抜粋映像集でおもしろかったのは、”Les Années 80”(1983)でブースで歌うAurore Clémentの前で腕をぶんぶん振りまわしながら指揮(?)をしている姿と、”Jeanne Dielman”の靴磨きのシーンと”Saute ma ville”のそれを繋いでみせたところ、とか。 なんでそれが - それをどうしておもしろいとおもってしまうのか、を考えさせてくれる、自分はそういう映画を好きなのだな、と改めて思った。 のと、それと関係しているのかもしれないが、何度でも見たくなる。それは記憶の答え合わせをする、というよりも、別の新たな出会いがあることを期待しているかのような。そしてそれは間違いなくやってくるの。

あと、彼女のどの映画にも共通したやかましさ - 絶えず落ち着かずにがちゃがちゃなんか鳴っていたり騒がしかったり、それは彼女自身がそういう人だったから - という辺りはじっくりと見ていきたい - もう見てる。

2.07.2025

[theatre] The Years

2月1日、土曜日のマチネをHarold Pinter Theatreで見ました。 
昨年Almeida theatreで上演されて、Guardian紙の2024年演劇ベストとなった作品のリバイバル(?)。

原作は2022年にノーベル文学賞を受賞したAnnie Ernauxの小説、”Les Années” (2008) - 「歳月」(未訳?) - マルグリット・デュラス賞、フランソワ・モーリアック賞を受賞している。脚色・演出はオランダのEline Arboで初演もオランダ。彼女はこれの前にはMichael Cunninghamの”The Hours” (1998)の劇作もしている(見たい…)。 

小説では「彼女」とされているErnaux自身を世代の異なる5人の女優が演じていて、各自が名前で呼ばれることはない。第二次大戦の少女時代から00年代初まで、約70年間を彼女(たち)はどんな顔、貌で過ごして、生きてきたのか。彼女たち全員、ずっとステージ上にいて、男優はひとりも出てこない。

時代の切れ目には白いシーツを背景にその時代の主人公となる「彼女」の肖像写真を撮るシーンがはさまる。彼女はどんな表情、姿勢で世界に向かっていったのか - そして、その背後にある世界は大戦後の混乱期から、アルジェリア紛争、60年代の学生運動、ヒッピーの自由、新しい技術、バブル、結婚、倦怠、など、激動ではないが変わるものは変わる - 時代時代の空気を反映して、当然年齢と共に彼女(たち)の服装も態度も表情も変わっていく。 その時代の纏い方、文化や音楽の使い方、その相互に変わっていく姿に違和感はなくて、それが彼女(たち)の像と歳月(The Years)と共にどう変わっていったのか、変わらないもの、忘れられたもの、忘れられなかったものはなんだったのか、彼女(たち)はどう向かいあっていったのか、など。 肖像写真の背景となった白いシーツはドラマのなかで汚れたり汚されたり落書きされたりして、それらは時代ごとに幟のように掲げられ、あるいは壁の落書きのように貼られてそこにずっとある。

これのひとつ前に見た映画”Here” (2024)も、こんなふうに描かれるべきものだったのかも知れない。(タイトルは”There”、かな)

Annie Ernauxの別の小説 -『事件』を映画化した”L'evénement” (2021) -『あのこと』でも描かれた(当時違法だったので闇で実行した)堕胎のシーンはこの舞台にも出てきて、やはり怖くて凄惨で、気分が悪くなってしまった客がでた、ということで急遽15分くらいの中断があった。それくらい血まみれの息がとまる場面で、中断後に止まったところからすんなりそのまま再開したのを見て俳優さんってすごいな、って改めて思ったり。

それぞれの時代における彼女(たち)の「生きざま」を問うようなものではないの(そんなの問うてどうする?あんた誰?だれが何の資格があってよいとかわるいとかいうの?)。 彼女は例えばこんなふうにしてあった、ということ、人間関係や社会や歴史がどうあろうと、数十年かけて、彼女は自分の足で立って歩いて舞って、こんなふうに生きたのだ、わかるか? って。 最後、汚れてくたびれた布に、彼女たちひとりひとりの顔がモノクロで投影され、それがステージ上をゆっくりと回っていく。そうやって語られる”The Years”。 個人史と社会史は、例えばこんなふうに交錯しうるし、影響を与えあうのだ、と。20世紀の真ん中から21世紀にかけて、だけじゃなくて、実はずっとそうだったんだよ、何を恐れることがあろうか、って。 日本でも上演されてほしい。とても強く、でもぜったい正しい - 時間が流れていく、その正しさとは例えばどうやって示されるのか、を考えさせる舞台。

ラスト、主演の5人の表情と立ち姿がすばらしくよくて、もう一回見たい。

2.06.2025

[film] Here (2024)

2月1日、土曜日の昼、IslingtonのVueっていうシネコンで見ました。

英国の公開日は1/17だったのに、もうロンドンの中心部ではない少し外れたシネコンで朝と晩の2回くらいしかやっていないのだった。

監督はRobert Zemeckis、共同脚本にEric Roth、原作はRichard McGuireの同名グラフィック・ノベル(2014)。原作本は出てすぐの頃にNYで買って転がして遊んだりした。

ううむやはりそうか(ちょっと安易すぎない?)、というかんじで、画面(スクリーン)はひとつの家のリビングの窓に向かって固定で、最後までほぼ動かない(最後の最後に少し..)。その固定の枠のなかに小さな窓ができたり開いたり、その窓が広がって画面全体を覆ったり縮んで消えたり、でも視野の枠はあくまで変えず変わらず。その枠のなかで先史の、古生物や恐竜がいて、隕石が降ってきて焼き尽くして氷河期がきて、原始人が現れて、ネイティブ・アメリカンがきて、独立戦争の時代になって、正面に邸宅ができて、大きなリビングをもつこの家が建って、リニアだとこんな流れになっていく景色を伸縮自在の小窓経由でランダムに行ったり来たりしていく。 恐竜や原始人の家族までカバーするわけにはいかない(なんでか?)ので、飛行士とその妻、リクライニングチェアを発明した男と陽気なその妻、主人公の2世帯の後に入居するアフリカン・アメリカンの家族(コロナが来て家族が亡くなる)、そしてメインに来るのは戦後、この家を買ったAl Young (Paul Bettany)とRose (Kelly Reilly)の夫婦と、その息子のRichard (Tom Hanks)、大きくなったRichardが連れてくる妻Margaret (Robin Wright)、間を置いてよぼよぼになったRichardが家を買い戻しにやってくるシーン、同様に老いてすべてを忘れてしまったMargaretを連れてくるシーンもあったりして、彼らがCGなのか特殊メイクなのか(… AIなんだって)、若い頃から老いた頃まで演じ分けて、でも別にこんなのを見せたいわけじゃないよね。

Alも息子のRichardも、家族のために自分の夢を捨てて、ふたりの妻たちはそんな夫たちに泣いたり振り回されたり、典型的な戦後のメロドラマ、家族ドラマのテンプレが展開される - その背景には不眠不屈のアメリカン・リビングがあり、そのリビングではサンクスギビングで家族親族が集まるディナーが懲りずに繰り返され、そういう最大公約数のようなところに集約されるアメリカの”Here”。みんなの記憶が集積される想い出アルバムのような造りで、でもそうやって懐かしまれる、あったあったねえー、ではなく、そういうページ、レイアウトされた歴史のありように気付く → 自分の”Now”に思いあたる、ということが原作本のコアにあったはずで、それは映像で説くのは難しいから、こっちのわかりやすい方に落としたのか、とか。

この導線ってやはり物理的な、キューブみたいな本だったからおおー、ってなったのではないか。

これが日本のだったら、溝口の格子模様(畳と障子)のなかに展開される、家父長制がちがちの金太郎飴的に明白なのができあがったはず(見たくない)。
これがイギリスのだったら、“Here”に幽霊から妖精からいろんなのが湧いてきてわけのわかんない、でも300年くらいそのまま同じ景色になるのではないか(見えるわ)。

Christopher Nolanがやったらどうなっただろう? まちがいなくあの本棚が”Here”になって、過去と未来は繋がっているので、いつまでどこまでいっても“Here”のままで止まってしまうの。でも本がいっぱいあるならずっとそこで過ごせるよ。

Tom Hanksのおうちネタといったら”The Money Pit”(1986)で、あれと同じことをやってくれるかと思ったのにー。

2.04.2025

[film] Saturday Night (2024)

1月31日、金曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

この作品は、昨年のLFFのシークレット上映(直前までタイトルが発表されない)枠で公開されて、発表直後にはみんなわーってなったのだが、その後に急に静かになったので、あれかな.. と思ったらやっぱり評判は散々なのだった。監督はJason Reitman。

でも、Saturday Night Live (SNL) ~当初は”Saturday Night” - は大好きでずっと見てきたので、公開初日に見る。 予告を見るまでもなく、つまんなくなるのはわかっていたのだが…

1975年の10月11日、土曜日の晩、生放送のコメディーショウの本番の数時間前の、プロデューサーLorne Michaels (Gabriel LaBelle)の経験した地獄のような底なしの混沌をライブで追っていく。ロックフェラーセンターの下で(Finn Wolfhardが)客寄せをしても客はちっとも寄ってこない、局の重役(Willem Dafoe)はがみがみうるさい、リハーサルはできているのかいないかぐじゃぐじゃ、John Belushi (Matt Wood)は契約書にサインすらしないでぼーっとしている、等、いろいろどうしようもない状態で本番の時が近づいて... をじりじり逐次で追っていく。

この日が失敗に終わっていたら、現在のSNLは存在していないのだが、番組もLorne Michaelsもいまだに健在なので、この晩はどうにか切り抜けたのだ、ということはわかっている - だとしたらそこにどんな魔法や奇跡があったのか起こったのか。この映画を見る限り、魔法なんて起こらなくて、ごちゃごちゃの中、なし崩しで放映が始まって、そのまま50年間続いてしまった、ということになる。それはそれで痛快なことのだろうが、映画としてこの描き方はどうなのか。

映画を見る前から感じていた、つまんないだろうな、というのは、この番組の、何が起こるのか飛びだしてくるのかわからない、そのはらはらをうまく再現できるとは思えないし、それらはアドリブ芸しかないような神経と瞬発力を持ったコメディアンたちが綱渡りの曲芸で渡ってきた - そんなライブの醍醐味を後付けで再現しようとしても… ということ。70年代の伝説のライブを、「伝説」だから、って別のミュージシャンを連れてきてカバーして見せてもしらーってなるであろうのと同じで。

わたしがSNLにはまったのは90年代初のNYで、Chris FarleyがいてAdam SandlerがいてDavid SpadeがいてNorm Macdonaldがいて、次のは00年代のはじめのWill FerrellがいてJimmy FallonがいてTina FeyがいてMaya Rudolphがいて、そういう頃で、どのスケッチも英語なんてわかんなくても異様におもしろくて、それでもやはりこういったスタイルと構成を編みだした初代メンバーの恐ろしさとリスペクトはあちこちに感じることができたし、いまアーカイブを見てもすごいな、ってなるし。

でもこの映画では、本番開始前なんてそんなもん、なのかもしれないけど、John Belushiはただのむっつりした変人だし、Andy Kaufmanはどこがおもしろいのかちっともわからないし、Chevy ChaseもDan AykroydもGilda Radnerもいるかいないか、ものすごく薄いし、現場がパニックになっていくなか、Lorne Michaelsはひとり涙目になったり開き直ったり、そんな程度で、なんでどうして本番にGoを出せたのかぜんぜんわからないただの修羅場、しかないの。

なにか新しいことを始める時って、だいたいそんなものだ、なんてしたり顔の言い草は聞きたくないしー。いや、そんなことよりも何よりも、SNLへの愛をあまり感じることができないのがどうにもしんどい。

SNLがどういうサークルだったのか、だったらこないだリリースされたドキュメンタリー“Will & Harper” (2024)のがよりよくわかるかも。


建物の前の人工の小さい池に落ちて、膝を切った。ライブハウスに行く時に転んだ時の膝の反対側。あれこれダメすぎる。

[film] A Warm December (1973)

1月30日、木曜日の晩、BFI Southbankの特集 – “Sidney Poitier: His Own Person”で見ました。

もう1月は終わってしまったので、この特集からは2本しか見れなかったことになる。残念。 上映後に主演女優のEsther Andersonとのトークつき。

Sidney Poitierは主演のほかに、監督 – これが初の単独監督 - もしている。 邦題は『12月の熱い涙』。

アメリカで、Dr.と呼ばれているのでなにかの医者と思われるMatt (Sidney Poitier)は、一人娘のStefanie (Yvette Curtis)とモーターバイクと一緒にイギリスに長めの休暇に出る。現地で友人とも楽しく再会したあたりで、怪しげな男たちに追われて困っている女性を体で隠して助けたあたりから彼女のことが気になり始めて、そしたら行く先々で何度も怪しい連中こみで見かけたり会ったりすることになって、きちんとした形で会ってみると彼女はCatherine (Esther Anderson)という名の、アフリカのどこかの国の大使の姪で、彼女を追っかけていたのは彼女の御付きの連中であったことがわかる。

Catherineは語学に堪能で、特にアフリカの文化には造詣が深くて、一緒にパーティなどに出たり楽しく過ごしていくと、早くに妻を亡くしているMattはあっという間(あんなあっさり簡単でよいのか)にCatherineと寝てしまい、彼女付きの連中に睨まれながらも馴染んでいって、Stefanieとも一緒に出かけたりするのだが、ヘリコプターに乗った時にCatherineの様子がおかしくなったことに気付いて、医師なので更に細かく調べてみると難病であることがわかって…

そうか難病モノだったか、と思ったのだが、ここでの難病のありようは、ふたりで楽しく過ごそうとしていた時間を壊してしまってどうしよう.. ってあたふたするその繰り返しが主で、それって子供の頃にTVでやっていた山口百恵主演のシリーズ(親に見せて貰えなかったけど)と似た70年代テイストの、いなくなったら辛くて死んじゃう、というよりも、とにかくなんとかしなきゃ、という焦りが前に後ろにつんのめっていくような類のやつで、そんなに怖くなくて悲しくもならなくて、国にとって大切な王妃のようなお嬢さまがそんなふうに野放しでよいのか、って最初の問いに戻ったりするものの、とにかく大変そうなかんじは伝わってきて、でもそこまでなの。

『ローマの休日』 (1953)+『ある愛の詩』 (1970)から影響を受けた、とあって、このふたつの映画の合成となると、どっちにしてもすごく大変な事態(当事者たちにとって)だと思うのだが、真ん中のふたり - Sidney PoitierもEsther Andersonも - それらをなんか、なぜか超然と受けとめていて、最後も無事を祈る、みたいに飛行機でふわっと飛んで帰っていっちゃうので、見ている側としてもとにかく無事を祈る、しかないのだった…  

あと、これはこの映画に限った話ではないのだが、70~80年代のロンドンが舞台だったりすると、これどこだろ?ってきょろきょろして落ち着いて見ていられなくなるのはよくない。

上映後のEsther Andersonさんのトークは、映画のCatherineがそのまま活動していったら、と思わせるようなエピソードだらけでびっくりした。

1943年のジャマイカに生まれてChris Blackwellと共にIsland Recordsの設立に関わり、Bob MarleyやJimmy Cliffといったレゲエ・ミュージシャンの紹介をして彼らの写真を撮って.. えーとつまり、この人がいなかったらジャマイカの音楽がイギリスのパンクとぶつかってあんなふうになったりすることもなかったかも… とか? あと3時間くらい話を聞きたかったかも。

Sidney Poitierの撮影現場はとても楽しくて、彼はあのイメージ通りのすてきな人だった、っていやそんな知ってることよりもー。

トークが終わって、彼女のところに挨拶に来た人に「ラスタファーライ」ってものすごくナチュラルに挨拶してて、おお! っていちいち。