2025年も最後のいちにちとなってしまった。天気はここんとこ、ずっとよい。
昨日の夕方にフィレンツェから戻ってきてまだ足が痛い。
今日は起きてクリーニングに行って日々のお買い物をして、Whole Foodsに行ってHarrodsで〆さばとチーズを買って、一旦戻ってからNoël Coward Theatreでマチネの”The Importance of Being Earnest”を見て、Hatchardsで本を見て(買わず)、映画の〆で”Marty Supreme” (2025)を見て、年越しそばはこないだ戴いたどん兵衛。
昨年のこの日にもぼやいていたようだが、今年はあれを上回る最悪の、ほんとうにひどい一年であった。 なんの濁りも偽りもなくそう思うし、よく最後のお尻の日まで過ごして「最悪」とか平気な顔して書いてられるものだしその状態でへらへら新年迎えて改めて同じぶつぶつを繰り返して行くんだろこの恥知らずが! って今から言っておく。
年の終わりは反省するのではなく気分をあげて新年を迎えたほうが、という意見もあるようだが、だめなもんはだめなのだから落として放置して腐らせてザマをみなさい、ってやるくらいでよいのだと思う。どうせ世間はみんな浮かれていることだし。そう、だから、そんななかでお片付けなんてなんのいみもないんだよ(結局そこか)。
今年は生まれて初めて入院して手術というものをして、自分の体にとってよくない(ことになりそうな?)箇所を切って棄てたので、健康、健全な状態が維持されてよかったではないか(術後のチェックアップ行ってないけど)なのだが、改めて「健康」ってなんなのよ問題が浮上してきて、それって思春期にある「普通」ってなんなんだよ!問題の老人版なのかもしれない。 よそ様が見たら犬がばうばう吠えているだけのしょうもない…
自分の体はどうでもよいとして、世の中はほんとうにどうなってしまうのだろう?の連続で、その度にまだ最悪はこの後に、とか第二次ブッシュの時だって、とかとにかく持ちこたえよう、などと踏ん張って平静を保ったり映画や演劇に逃げてやり過ごすのだが、あの連中のせいで亡くなった人々が戻ってくることはない。人殺しのろくでなし共がただの人気取りの果てに権力の頂点に居座っていてどうすることもできない。
連中は倫理的、人道的な正しさをベースに政治や政策を進めている訳ではなくて、自分の「仲間」(的な集団なり組織なり)を満足させ、彼らの欲求を満たし、餌を与えてそれを維持することで自身の基盤を維持しているだけ - 要は内輪ウケと内と外の線引きに終始していて、これの何が嫌で気持ち悪いかってなにもかもが学校なり会社なりで見られる集団枠の延長のようなノリで動いていくところだ。ただのヤンキー。排除から始まったりそれ前提で成り立たせる政治なんて100年前に終わらせたはずではなかったのか。
いまのイギリスもヨーロッパも足下は問題だらけではあるが、少なくとも、歴史から学んで誤った過去に戻してはいけない、という点においては強くて安心できる(安全とは違うけど)ところがあるが、日本とアメリカはどうなっちゃうんだろうか。国籍抜けられるなら神さまお願い、ってことあるごとにお祈りしている。
でもそんなことよりもなによりも、ガザとウクライナと理不尽な差別偏見で苦しんでいる人達が少しでも、ひとりでも減ってよくなりますように。
年が明けたら年間ベストを拾っていきます。
明けた人も明けてない人も、よいお年をー。
12.31.2025
[log] 年の終わりに
12.30.2025
[film] 2000 Meters to Andriivka (2025)
12月20日、土曜日の夕方、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。
夏の公開時に見逃していたやつ。今年のGuardian紙UK版の2025年のBest Filmでは(フィクションも含めた全体の)2位、となっている。
監督は”20 Days in Mariupol” (2023)を撮ったウクライナの写真ジャーナリスト、Mstyslav Chernov。
ロシアに奪われた彼らの土地 - Andriivkaを奪還すべくウクライナ軍の3rd Assault Brigadeの一員としてヘルメットにカメラを装着して(同様にカメラを付けている兵士は他に6名、あとはドローンによる上空からの映像など)前線に立ち、自分たちの領土であるはずの地まであと約2000メートルの地点から数百メートルの単位で戦闘をしながら進んでいく、その過酷な行程を追う。
ロシア軍をAndriivkaから追い払える可能性は不明、わからない。目的地までのルートはほぼ焼き払われて焼けた木が点々と立っていて、廃墟となった家屋、足元は岩場だったり穴だらけだったり、ところどころにどちらの軍の兵士か、死体が転がったまま放置されている。
第一次大戦を描いたフィクション - で使われてもおかしくないプロット - のよう、或いは数年前に発掘された同大戦の記録映像のようでもある。でもこれはほんの数年前に実際に起こっていた戦闘の記録で、監督が撮ったインタビューしている兵士の何人かはそこから暫くして亡くなったことがナレーションで語られるし、さっきまでカメラの前で喋っていた人が少し先で倒れて動かなくなってそのまま、になっていたりする。フィクションみたいにエクストリームでなんかすごい、ではなく、こんな荒れ果てた場所でいつどこから飛んでくるかわからない銃弾に向かいながら自分たちも闇雲に撃ちまくり、「あと1000メートル」、「あと200メートル」とか司令部とやりとりしつつ前に進むしかないその様はどう見ても狂っていて(現場で心身喪失状態になっている兵士の姿も映し出される)、この狂気が第一次大戦から100年を経ても国際社会で容認されている、そのおかしさがおかしすぎて頭を抱える。ガザも間違いなくそうだけど。
兵士たちの数人は戦争が始まる前は別の職業についていて、戦争になってから兵士として戦争に参加している。ここは自分たちの土地だから、と。ここだけ見るとどっかの国のバカ右翼が、だから軍備増強徴兵しないと、って大喜びで乗っかってきそうだが、まず自国のいまの状態がどんななのか、きちんと見ることだな。という以前にこれらの映像を目にしてもなお、そっちの方に頭が向かうって頭に虫が湧いてるとしか思えないし、政治家としても人としても最低以下。
AIがそれらしいフェイク映像をいくらでも作れるようになり、カメラの小型化とドローン技術がここにあるような前線の映像を短期で送ることができる、こういう状況でこの映像がどこまで「ヴューワー」に「訴える」ことができるのか、みたいな文脈でしか語られないのだとしたら心底恐ろしいし、映画の、映像の可能性、なんて集金マシーンとしてのそれ以外にはもうないのか、って。
映画の最後、兵士が集まったところで、亡くなった兵士の名前がひとりひとり読みあげられ、その都度全員が”Presente!” と強く応えたりする反対側で「英雄は死なないというけどこんなふうにみんな死ぬ」という発言も出てくる。戦争は沢山の人をただ殺す。意味とか大義とかあるもんか。そしてこの映画の後、Andriivkaは再びロシアの側に渡って、戦闘は泥沼のまま。
瓦礫の中から怯えている猫を拾いあげてリュックに入れてあげるシーンがあって、ごめんね猫、って思った。
[theatre] End
12月17日、水曜日の晩、National TheatreのDorfman Theatreで見ました。
原作はDavid Eldridgeで、知らなかったのだが、”Beginning” - “Middle” - と続いた二人芝居、全三部作の完結編で、でもそれを知らなくてもなんの問題もなかった。演出はRachel O’Riordan。
ステージはキッチン-リビングで奥の棚にはレコード、CD、本などがほどよいサイズとヴォリューム感できちんと収められていて、主人公となる二人の職業がDJ (夫)、作家(妻)であることを考えたら少なすぎないか、なのだが当然別の部屋に書架やレコード棚はあるのだろう、客を迎える間にあんなふうにきちんと本などが並べられているってなんて素敵なことだろうか。(誰に向かって言ってる?)
Alfie (Clive Owen)は90年代のアシッドハウスの頃に名を馳せて財をなしたDJで、Julie (Saskia Reeves) もやはり成功した作家で、Alfieは杖をついて末期がんの治療中で、冒頭、爽やかな朝の空気のなか、彼は化学療法による延命治療を止めようと思う、とJulieに告げるところから芝居が始まる。
JulieはAlfieの痛み苦しみを理解しつつも、彼が自分の先祖代々の土地に埋葬されたいというと、「じゃあ私はどうすればいいの? 私はあそこには入りたくない」というし、そもそも何の話し合いもしてないところで勝手に(そのうち)死ぬから、はないだろうと。こうして、果てのない、最適解なんてどこにもない会話が始まって、どこにいくのだろうか、になっていく。
延命治療を止めるということは自分で早期に死ぬことを選んだということで、その線で彼は葬儀や埋葬も含めて自分の死に方について自分で決めてよい、決める権利があるのだと思っている。でもJulieの理屈はそうではなくて、あなたの死を看取るのも死んだ後の始末や片付けをするのも自分なのだから自分の思いだって尊重してほしい、そんなのならそもそもなんで数十年も一緒に暮らしてきたのだ? と。
たぶん、ふつう、ずっと一緒に暮らしてきたのであれば、その辺の合意とか了解はある程度できている、互いにわかっている状態にあると思うので、この芝居のふたりのやりとりはかなりぎこちなく、そんなベーシックなことも話してこなかったの?とかになるのだが、それでも彼らの会話の悲痛なトーン、でも噛み合うとは思えないそれぞれの理屈とその正しさ - どうにか(自分の思う)正しいところに持っていこうとする努力 - は伝わってきて、いろいろ考えさせられることは確か。
会話だけではなく、お茶を淹れよう、って何度も言いながら淹れられないまま問いかけや言い争いに嵌ったり、とつぜんセックスしてみよう、ってやってみたり、彼は自分の葬儀でかける曲のリストを用意しているのか、都度リモコンで気分を変えたらあげたりすべく曲を流してみたり、しかしなにをやってもしばらく先に見える決定的な別れ = 死がすべての蓋とか可能性を塞いでいってしまう。でも、いわゆる難病ものの辛さやお涙に落とさないところはよいと思った。
ふたりが納得できそうな解ってやはりひとつしかなくて、そこに彼らが気づくところで終わるのだが、難しいことだねえ。もうまったく人ごとではないねえ。
Alfieの暖かく柔らかな笑顔とJulieの曲げない芯の強さ、その組み合わせがよくて、それを見ていると、このストーリー展開って、Alfie がハウス系のDJというみんなをのせて楽しくさせる仕事をしてきた人だから成立したのではないか、という気がした。彼が元パンクのミュージシャンだったりしたらぜんぜん別の展開になったりしたのではないか、とか。
[film] The Housemaid (2025)
12月22日、月曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
監督はPaul Feig, 原作はFreida McFaddenによる2022年の同名ベストセラー小説をRebecca Sonnenshineが脚色した作品。お金持ちの邸宅で起こる少しエロチックな(という宣伝をしている)サスペンス/ホラー(はあまりないか)で、Feig作品のなかでは”A Simple Favor” (2018)のテイストに近いかもしれない。”A Simple Favor”もそうだったが、中心にいるふたりの女性の描き方がすばらしく、彼女たちを目で追って、どうなっちゃうんだろう? のサスペンスとしておもしろい。
NY州北部の邸宅 - ゲートには”W”の御紋 - にMillie (Sydney Sweeney)がひとり車でやってきて、そこの夫人Nina Winchester (Amanda Seyfried)から住み込みメイドの採用面接を受ける。仕事の内容は彼女の夫がデザインしたという邸宅の掃除と日々の料理と一人娘のCece (Indiana Elle)の世話。ひと通り話をして、NinaはMillieをとても気に入ったようだったが、履歴書には嘘の経歴を並べていたので、バックグラウンドチェックで引っかかってどうせ採用されないだろうから、とMillieは駐車場の車のなかで寝泊まりしていたら、Ninaから採用したいので、まだ他に決まっていなかったら来てほしい、と連絡が入る。
面接の時に案内された邸宅は雑誌に出てきそうなくらいぴかぴかだったのだが、勤務初日に行ってみると散らかって汚れ放題で、Ninaも前回とは随分様子が違って荒れて怒鳴り散らしたりしていて、なんなのこれ、とびくついていると、Ninaの夫のAndrew (Brandon Sklenar)が慰めてくれて少し安心する、のだが、Millieの目で世界に入っていく我々は屋根裏にある謎の部屋、なにかの病なのか薬をやっているのかいつも精神が安定せずころころ態度が変わっていくNina、両極端な両親に挟まれてなにを考えているのかわからないCece、不気味な常駐ハンディマンなど、職場としては相当にやばいなー、になって、でもいつも大変になるとAndrewが庇って助けてくれて、やがてNinaにひどく叱られたあと、彼女がいない時にAndrewとふたりでBroadwayの芝居を見にいく機会ができると…
途中から語りの中心が唐突にMillieからNinaに変わったり、Millieの隠されていた過去が明らかになったり、建てつけとしてはやや強引でどうなの? はあったりするものの、展開としてはやっぱりこうなるだろうな、になって、特にAmanda SeyfriedとSydney Sweeneyが競演するのであれば、これくらいのことはしてくれなくちゃね、というこの辺の安定感はPaul Feigならでは。
Amanda Seyfriedの普段のきらきらで愛想も行儀もよいお金持ち夫人が突然豹変してヒステリックに怒鳴り散らして止まらなくなる、その迫力と生々しさ、なにを考えているのか秘めているのか一切見えないSydney Sweeneyの図太さと不敵さが、どんなふうにぶつかって交錯して、「家族」のドラマを作っていくのか。その辺のコントラストの強弱とか捌きの手つきは”A Simple Favor”でのBlake LivelyとAnna Kendrickの組合せと同様にお見事で、それにひきかえ、というか、だから勿論、というかどっちの作品でも男性はどこまでも薄っぺらくしょうもなくて、それでまったくよいの。
そして”A Simple Favor”と同様に、まさかの続編はあったりするのか。ここはあってくれて一向に構わない - とっても見たいくらいなのだが。
12.26.2025
[film] Nineteen Eighty-Four (1984)
12月15日、月曜日の晩、BFI SouthbankのRichard Burtonの特集で見ました。
これがBurtonの最後の映画出演作となった。
原作はGeorge Orwellの同名ディストピア小説(1949)、脚色と監督はMichael Radford、撮影はRoger Deakins(彼のドライで深みのある映像はすでに)。
はて、1984年にこんな映画あったかしら? って首を傾げていたら音楽:Eurythmicsって出てあああああ、あったあった(あのレコード盤。買わなかったけど)、になる。なんてしょうもない。
全体主義国家Oceaniaに暮らして、決して表にその姿を現さないBig Brotherに監視されながらthe Ministry of Truth(真実省)で歴史の改竄の仕事をずっとしているWinston Smith (John Hurt)が主人公で、彼が同じ省で印刷機の整備をしているJulia (Suzanna Hamilton)と知り合って親密になり、反体制活動にほんの少し手をそめてみたところで捕まって、実はそこらじゅうにスパイがいたことがわかって、彼を拷問して更生させようとするO'Brien (Richard Burton)もそのひとりで、要はどこにも行けないどうしようもないし、「思想」を初期化されてみんなまっさらの状態でぼーっと見つめあうしかないの。
John Hurtがとにかくすばらしいのだが、虚ろな目で感情を一切表にださずにそこにいる老人Richard Burtonの虚無もすごくて、ここでの彼についてはイントロで、Burton自身が戦時下にこの映画に出てくるような目をした兵士を沢山見て恐ろしかった、というのが出演の動機としてあった、と紹介されていた。今回の特集で見た”A Subject of Scandal and Concern” (1960)での侮辱罪で告発される側にあった彼とは立場的には対になっているねえ、と思った。
1984年、当時はディストピア、って反ディストピアも含めてただのイデオロギーじゃん、って笑って見に行かなかった(そういう時代もあったのよ)のだが、今となっては(あーら不思議)、国を挙げての歴史改竄、罪となる一線の解釈ずらしなんて、ごくふつうのおなじみの光景(アイテムによっては風物)になってしまった。少なくとも日本とアメリカでは。 「ディストピア」って言われても「は?」になるし、ナチスはよいこともした、って平気で言ようになったし、無知であることが恥でもなんでもなくなってしまった。関わりたくないし、でもきちんと関わらないと殺されてしまうかもしれない。 とにかく恐ろしい。
Look Back in Anger (1959)
12月15日の晩、↑の上映のあとに、BFIのRichard Burton特集で見ました。
35mmフィルムでの上映。邦題は『怒りを込めて振り返れ』。
わざと↑の”Nineteen Eighty-Four”にぶつけたようではないらしいのだが、少なくともBFI界隈では、この作品近辺がRichard Burtonの代表作と見なされているようで、↑のしおしおに枯れながらも特定層を自分の支配下に置こうとする乾物の執念と、溢れかえるあらゆる情念を溜めこんで漲って、漲りすぎてどうしようもなくなっていくこの作品の主人公(のAnger)に繋がるところは少なくないように思った。kitchen sink realismからdystopiaへ。
原作はJohn Osborneの同名戯曲(1956)、脚色はNigel Kneale、監督はTony Richardson。
本編上映前におまけとして、映画公開時にRichard BurtonとClaire BloomがBBCの番組にでてインタビューに応えている映像が流れる。ふたりともあたりまえのように真面目に受け応えしている。
工業地帯の屋根裏部屋に住むJimmy (Richard Burton)とAlison (Mary Ure)の若い夫婦がいて、Jimmyと一緒にマーケットでお菓子屋台をひいて商売をしているCliff (Gary Raymond)がいて、JimmyとAlisonは喧嘩がたえないのだが、AlisonはJimmyの子を妊娠していて、ふたりの暮らすフラットにAlisonの親友のHelena (Claire Bloom)が滞在することになって…
大きな怒りや事件が暴発して走り回るようなドラマではなく、その手前で意識無意識に置かれたそれぞれの壁 - 階級とか性差とか収入格差とか - を前に溜めこまれていく何か、とはなんなのか、それはなにかをどうにかしたら解消したりするものなのか、を真面目に考えようとしている。 ドラッグも抗争も洗脳もない地点から。
クリスマスの日は交通機関も映画館も止まってしまうので、昨年と同様、午後にSt Paul’s Cathedralまで歩いて行ってFestal Evensongでお祈りをした。どうかほんの少しでよいから、よい年を迎えられますように。
戻ってきてからTVでやっていた”Home Alone 2: Lost in New York” (1992)を見た。後半のおうちで二人組がぼこぼこにされるシーンは何十回見ても最高だと思う。
明日からはフィレンツェに行って、そこを起点にアレッツオ、シエナ、ラヴェンナなどを回ってお正月前に帰ってくる予定。
あと、昨日買ってきた新しいiPhoneへのデータ移行を6時間くらいやっていたが、アカウントとかパスワードとか、例によっていろいろ忘れまくっており、うまく動いてくれない。なので旅行には2台持って行くしかないのか..
[theatre] Fallen Angels
12月14日、日曜日の15:00の回をMenier Chocolate Factory Theatreで見ました。
前日に”The Forsyte Saga”を見てStratford-upon-Avonに泊まって、朝の一番早いやつ(たぶん)でバス・電車を乗り継いでロンドンに戻ってきたのが11時過ぎで、荷物を置いてシャワーを置いてなんとか。 なにをやっているんだろうか… ってたまになる。
原作はNoël Cowardの同名戯曲(初演は1925年)で、当初は当局の検閲に引っかかって上演が危ぶまれたそうだが、100年経ってみるとタイトル(堕天使)も含めて何が? になるところがおもしろくて、そして実際の劇もとてもおもしろかった。 演出はChristopher Luscombe。休憩1回の約2時間。
二方を客席が囲む小さなステージはアパートのリビングで、グランドピアノと大きなラジオがあり、アールデコ~ウィーン工房ふうのインテリアで、趣味も含めてとても裕福そうな家庭らしい。そこに暮らすJulia (Janie Dee)とFred Steroll (Richard Teverson)の夫婦も最初のやり取りを見る限り、特に危なそうなところはない。新聞に載っていた離婚の報道を話題にする程度。
その日はFredが友人のBill (Christopher Hollis)とゴルフに出かけるところで、JuliaもBillの妻で若い頃からの親友Jane (Alexandra Gilbreath)と一緒に午後を過ごそうとしていて、夫ふたりが出て行った後にこのリビングでのJuliaとJaneのお話しが転がって果たして”Fallen Angels”となってしまうのかどうか。
Janeが若い頃に付き合っていて、Juliaもその傍らに一緒にいたフランス人のMauriceがロンドンに来ていてふたりに会いたいらしい。この情報がふたりの日々の不満と妄想に火をつけて、タバコを吸ってお酒を飲んで酔っ払いながら、Mouriceの像は彼女たちの倦怠をすべて掃って楽園へと救いだしてくれる(or 若い頃のふたりの万能感を呼び覚ましてくれる)神のように輝きはじめる。その待ちっぷりときたら、まるで『ゴドーを待ちながら』のそれのよう。
このふたりの暴走を横で見ながら、ちょこちょこ横から突っこみを入れまくって楽しいのがスーパーメイドのSaunders (Sarah Twomey)で、フランス語ぺらぺら、ピアノもうまくて、ダンスもできて、会話の蘊蓄もいちいちすごくて、ふたりからあんた何者? とか言われつつ結果的に彼女たちの暴走は加速していって止まらない。(このメイドのパートはNoël Cowardが1958年に書き足したものだそう)
前のめりで獣のように突撃していくJaneと、ややおとなしめにあくまで理知的に動こうとするJuliaの描き分けもちゃんとしていて、それでも日々の不満がそれだけ溜まっているのか、自分たちの将来に対する不安なのか、酔っぱらってふざけんじゃねえよ!!になって管を巻いて転がっていくふたりの姿はあっぱれで、ここに共感できない人はいないのではないか。
そして終わりのほう、夫ふたりが戻ってきたところにMaurice (Graham Vick)本人が登場する。ごく普通にいつもの社交で対応する夫たちに対して、JuliaとJaneは堕天使の状態を経て、どう彼に向かっていったのか。
スクリューボールに近いコメディなので比べるのは違うのかもだけど、見てきたばかりの”The Forsyte Saga”のことを少し思った。特にPart2は1920年代のイギリスの都市部のお金持ちの話で、どちらも若い頃に燃えあがった恋が近くに現れて再びそれを燃えあがらせようとする辺りが。
12.25.2025
[theatre] Twelfth Night
12月16日、火曜日の晩、Barbican Theatreで見ました。
今年の初めにStratford-upon-AvonでもやっていたRoyal Shakespeare Companyの制作による、これもクリスマスのお芝居だから。
原作(1601-02)はシェイクスピアで、原題は”Twelfth Night, or What You Will” - こうあってほしい、というのがどこまでもそうなってくれないクリスマスまでの12夜のお話し。
夏にShakespeare‘s Globeで見た”Twelfth Night”は、コスチュームも含めてこてこてのクラシック仕立てのでんぐり喜劇、だったが、こちらはモダン・クラシックでところどころでダークな暗がりがあって、好き嫌いはあるのかもだけど、そのバランス、躓いて暗いとこに落っこちる - それをしらーっと見ているタイミングなどはすごく好きなかんじ。
舞台は最初は背景がディスプレイのようにぼうっと光っているシンプルなセット、後で中央奥にはパイプオルガンのパイプ。たまにオルガン奏者のおじさんがひっぱりだされてとぼけた調子でぶかぶか弾いたり、あとはシンプルなピアノ。
演出はPrasanna Puwanarajah、劇中音楽をMatt Malteseが担当して、道化師のFeste (Michael Grady-Hall)が天井から吊るされながら歌ったりうろうろしていて楽しい。あと隅でペンキ塗りをしながら客席も含めて全体を見渡している人がいる。
船が難破して生き別れになり、互いに死んだと思っているViolaとSebastianの双子の兄妹がいて、Violaは男装してCesarioと名乗ってOrsino公爵に雇われて、兄をなくした伯爵令嬢Oliviaのところに行ったら彼女はCesarioに惚れちゃって、でもOliviaに求婚しているのはOrsinoで、でもOrsinoを好きなのはViolaで、実際に死んだり死んだと思いこんだりしてできた穴を埋めるように、みんなそこに吸い込まれるように勘違いの恋が転がっていって、そこでは性別も身分も関係ない。そして、当初そうだと思いこんで離れ離れになっていた生が元に戻ると、全てがあるべきところにきれいに納まってしまう。それがクリスマスの魔法(or 呪い?)なんだって。もちろん、そうはならずに自爆したりのかわいそうなMalvolio (Samuel West)とかもいる。
恋は永遠なんかじゃなくて、たった十二夜で起こったり終わったり、ペンキ塗りとオルガン弾きが背景をどうにかしてくれるし、これをよきこと、って思うか張りぼて、って思うか、でもそんなふうにしてみんなのところに等しく降りかかったり襲いかかってきたりするのがやくざなクリスマスってやつなの。
Malvolioのシリアスな演技が凄くて全体から明らかに浮きあがってて、誰かと思ったらSamuel Westだった。
客出しで素敵なクリスマス・ソングが聞こえてきて、MorrisseyとPaul Heatonを足して割ったような声なので誰だろ、と思ったらFesteをやったMichael Grady-Hallだった(顔のかんじもふたりを足して割ったような)。
The Nutcracker at Wethersfield (2025)
クリスマス関係のをもうひとつ。
12月21日、日曜日の夕方、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。
Annie Sundberg監督によるドキュメンタリー映画で、Executive producerにはAmanda Seyfriedの名前がある。
New York City Ballet & George Balanchine振付によるチャイコフスキーの”Nutcracker” - 「くるみ割り人形」は昔NYにいた時に自分でも見たしアテンドで何度も連れていったりもしたので、毎年クリスマスが来たら当たり前の、だったのだが、2020年のコロナのロックダウンで、1964年から続いてきたこの伝統が途絶えることになってしまう。まあしょうがないよね。
でもそれを聞いたTroy SchumacherとAshley Laracey - Ballet Collectiveのふたりは、コネチカットの方にあるWethersfieldのお屋敷を借り切って、お屋敷アドベンチャーとしてのNutcrackerをでっかい邸内のあれこれをフルに使って再現できないか、と考える。 家の外に出て一箇所に集まることが御法度であるなら、でっかい家の中に世界を作り直してしまえばよいではないか、と。そしてNutcrackerはそういうのをやるのにスケールも含めてちょうどよいお座敷ネタの宝庫なのだ。
こうして資金を確保し、医療専門家に相談し、New York City Balletを中心としたダンサー23名を集め、WiFi からなにからインフラを立ち上げて導線を作ったりしながらリハーサルを重ねていって、前日には大雪にやられたりしたものの、計17回の公演をやり遂げる。
家の中にバレエの舞台を作っていく過程はおもしろい - に決まっているのだが、結果がどんなふうになったのかを知りたくなって、それはまあ配信とかがあるのかー。
クリスマス・イブはKings Crossの方にバゲットを買いに行って、RegentのApple Storeで新しいiPhoneを買って、EatalyでIl Prosciutto di San Danieleを買って、Neil’s Yardでチーズを4種類買って、Manmouthでコーヒーのんで、Old Vicで”Christmas Carol”をみて、F&Mでパテとサーモンを買って、Curzonで”Sentimental Value” (2025)を見て帰って、TVでやっていた”Love Actually”をみた。ふつうすぎる。 みんなもよいクリスマスをー。
12.24.2025
[theatre] The Forsyte Saga Parts 1 & 2
12月13日の土曜日、Stratford-upon-AvonのRoyal Shakespeare Theatre内のSwan Theatre(小さい方)で見ました。
マチネで”Part 1: Irene”を、晩に”Part 2: Fleur”を。晩のが終わったらロンドンに向かう電車はないので、シアターの近くに宿をとった。こういうのは2017年にChichesterでIan McKellenのリア王を見た時にもやっていて、あの時は駅前£30くらいのところでひどい思いをしたので、今回は£70くらいのにしてみた(けどやっぱり…)。
原作は英国のノーベル賞作家John Galsworthyが1906年から1921年にかけて書いた3つの小説、2つの幕間作品からなる(その後に書かれたものを含むThe Forsyte Chroniclesまでいくと全9巻)、イギリスの新興成金一族の40年に渡る興隆を描いた大河ドラマで、映画もTVシリーズもいくつか作られていて – “Downton Abbey”みたいなもん? - この劇作は2024年にロンドンのPark Theatreでプレミアされたもの。原作は読んでいなくて、この2部が全体のスケールのなかでどんな位置とか重みとかを持つものなのか不明だったのだが、ふつうに楽しむことができた。あと、プログラムには一族の家系図も載っていて、時代を超えて結構いろんな人が出てくるのだが、頭に入れておかなくてもどうにかなった。
脚色はShaun MckennaとLin Coghlan、演出はJosh Roche。
舞台は赤いカーペットとベルベットの赤いカーテン、椅子がいくつか、のシンプルな室内で、それを囲む客席の間の通路からいろんな登場人物たちが出入りしていく。地味めのインテリアと比べるとコスチュームは華やかで貴族のドラマとして見ていて飽きない(のってなんでだろう、っていつも思うけど)。あとはサウンド・デザインが見事で空間に奥行きが。
Part1はヴィクトリア朝時代で、一家の若頭のSoames Forsyte (Joseph Millson)が妻にしたかわいそうなIrene (Fiona Hampton)のお話し、第二部で主人公となるSoamesの娘Fleur (Flora Spencer-Longhurst)が舞台の隅に立っていてところどころ解説してくれたりする。
元は農民からの成りあがりの一族なので金とか資本のことで頭は常にいっぱいで、Forsyte家の最初の3人のひとり - Jamesの息子Soamesは絵画収集と同じモノとして妻Ireneを手にして、でもIreneは子供(跡取り)をつくることしか頭にないSoamesにうんざりしていて、アートなどに関心のある別のForsyte – Jolyonの孫娘の婚約者で建築家のBosinney (Andy Rush) と意気投合して、ふたりで駆け落ちしようとするのだが、その当日にBosinneyは事故で亡くなって、Ireneはそのまま姿を消す。ヨーロッパに逃れたIreneを救ったのもForsyte家のJo(Nigel Hastings) で、やがてJoとの間にJonが生まれ、Ireneに逃げられたSoamesはフランス系のレストランで給仕をしていたAnnette(Florence Roberts)と結婚してFleurが生まれる。
Part1の中心はIreneに対して結婚したのだからお前は俺のものだ!勝手なことはさせない言うことを聞くのだ!って縛りまくって話の通じない、それのどこがいけないのかもわかっていない(既にどこかで十分いっぱい見ている)Soamesのどす黒いしょうもなさ、だろうか。
Part1の終わりに舞台はRoaring Twentiesの1920年に飛んで、ギャラリーでFleurとJon (Andy Rush)がばったりして、Part2はその地点から始まる。
FleurもJonもぼくら苗字がおなじForsyteだね、ってなり、やがてふたりは従兄妹同士であることがわかるのだが、なんで、なにが隠されて互いを知らないまま会ってはいけないと言われるのか納得いかなくていろいろ一緒に調べていくうちに、隠されていた一家の過去と秘密が明らかになり、他の家族からの反対の声も大きくなって、でも周囲がやかましくなればなるほどFleurはJonへの恋に燃えて一緒になろうとするのだが、何かが彼らを引き離し、Jonはアメリカに渡って現地で結婚し、Fleurも大戦から還ってきたMichael (Jamie Wilkes)と結婚することになる。
そこから6年が過ぎてFleurはゼネストの活動中にアメリカから妻のAnn (Florence Roberts) と一緒に戻ってきたJonと再会して、再び燃えあがる寸前まで行くのだが… (実際に燃えあがって焼け落ちたのは思い出の家の方だった)
Part1はその傲慢さで実際に支配している男性の側から、愛=縛り、というのが殆ど犯罪のような抑圧的に働くものとして、それを正面から受けた女性の側の絶望と共に描かれるのに対して、Part2はどれだけ縛られていようが愛する自由はあるし、寧ろ愛はその縛りを解くものとしてあったってよいのだ、というのが女性の側から示されているような。
Part1であれだけ強くあくどく振る舞っていたSoamesがPart2ではよぼよぼになって、最期はあんな… というのはよかった。
劇中で流れていく時間が結構早いので、次から次へと登場人物が出たり入ったりちょっと慌しく、展開の早いメロドラマを見ているようだったが、そのスピードとテンポがこの家族の儚い盛衰 – 今だからいえる – をわかりやすく的確に表現していたような。雰囲気は重厚で人物もみんなおしゃれでかっこよく、喋っては消えていくのだが、後にはあまり残らない - そういうとこも含めてTVシリーズ向けなのかしら。
12.22.2025
[film] It Was Just an Accident (2025)
12月12日、金曜日の晩、BFI Southbankで、”Mansfield Park”の後に見ました。 原題は“Yek tasadof-e sadeh”。
先日投獄されてしまったイランのJafar Panahiの作・監督によるイラン/フランス/ルクセンブルク映画。 今年のカンヌでパルム・ドールを受賞している。 ものすごい視野とスケールをもった黙示録的な作品かというとそんなことはぜんぜんない、どたばたホラー小噺みたいな作品で、でもおもしろいことはおもしろいかも。
冒頭、妊娠中の妻と幼い娘を乗せた車を運転していた男(Ebrahim Azizi)が夜の道で犬を轢いてしまったようで、その後に車が故障して、男はVahid (Vahid Mobasseri)のガレージに立ち寄る。障害があるらしい男の義足を引き摺る音を聞いたVahidは母親との電話中に、これはあの男だ!と確信して男の後をつけて殴り倒して自分の車に乗せ、砂漠に向かうと穴を掘って生き埋めにしようとする。おまえは刑務所で自分を痛めつけた”Eghbal” (=義足)だろう? と問い詰めるが埋められ中の男は、それは自分じゃない、この義足は最近つけたものだ、って必死になって否定する。
それを信じきれないVahidは、埋めかけていた男を縛りあげて目隠しして自分のバンに乗せ、彼ならこいつを特定できるかもしれない、と書店主のSalarのところを訪ねるのだが、Salarはそんなことをするもんじゃないよ、と身元確認を拒否して、かわりに結婚写真家のShiva (Mariam Afshari)を紹介する。花嫁のGoli (Hadis Pakbaten)と花婿のAli (Majid Panahi)の結婚写真を撮っているところにそいつを持ち込んでShivaに確認してもらうと、自分は目隠しをされていたので顔はわからないが匂いはこいつかも、というし、横でそれを見ていたGoliも、こいつが本当にあいつなら、自分も酷いことをされた許さねえ、って花嫁衣装のままブチ切れてのしかかる。でもそれでもまだ確証がもてないので、ShivaのパートナーだったHamid (Mohamad Ali Elyasmehr)のところに連れていったら、Hamidも見た瞬間に沸騰激昂して、まちがいないぶっ殺してやる!ってなるが、興奮すればするほど、本当にこいつがあいつなのかは確認したほうが… に全員がなっていく。
そのうち縛られている男の携帯が鳴って、何度も鳴るので出たほうがよいかも、って出たら彼の娘と思われる女の子で、妊娠中の母親が気を失っちゃったって泣いているので、彼女の家に行って母親を病院まで運んでケアを頼んで、そうして母親は無事出産を終えて、人助けはしたけど、自分らはなにをやっているんだろ… になっていく。(埋葬/生き埋め - 結婚 - 出産、というライフイベントがひと揃い)
本当にこいつが生き埋めにしてやりたいくらいの、あの憎っくき男なのか、冒頭の家族と一緒の姿から、埋められそうになった時の必死の抵抗から、そうじゃないのかもしれない、と思わせつつ、対面させた人々の反応を見るとやっぱりそうなのかも、になり、でも出産のどたばたを見てしまうと… ってバンにとりあえずいろんな格好 – 目隠し耳栓の被疑者、写真家、花嫁花婿 - で詰め込まれてジェットコースターで振り回されつつ全員がどこに向かっているのか、復讐したいのか復讐したからってどうなるのか、のぐるぐるの中にあって誰もはっきりと結論を出せない、という悲喜劇。
その上ここに、どこに行ってもサービスの対価としての賄賂を要求されて当たり前のような風土があり、Eghbalひとりを執念で問い詰めて復讐してどうしたところで、どうしようもないよね、みたいになる。結局どこにも行けない。
この落語みたいな小噺が政府当局に目を付けられたのはなんだかわかる。直截的ににどこがどう悪い、というわかりやすい批判や復讐譚ではなく、土壌として腐っているので土に埋めたくらいではどうにもならんのよ、という共通認識のようなところをあんま批判しようのないトーンで描いているから。そしてそこにあのラスト… あの音をPanahiも聞いたのだろうか、と思うとちょっとやりきれない。
[film] Mansfield Park (1999)
12月12日、金曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
Jane Austenの生誕250年とフィルムのリリース25年を祝って、上映後に監督・脚色のPatricia Rozemaと主演のFrances O’Connorを招いたQ&Aつき。35mmフィルムでの上映、見ているだけでたまんなくなる - たまにそういうことってある - 色味のフィルムだった。
もう少しJaneの生誕250年でいろんなイベントとかあってもよいと思うのだが、BFIでは、これと1940年版の”Pride and Prejudice”- 脚本にAldous Huxleyが参加して主演はGreer GarsonとLaurence Olivier - の上映があったくらい(昼間で行けず)。
Jane Austenの3作目の小説で、刊行は1814年、彼女の生きていた時期にリリースされたなかで最も売れた作品だったそう。
Fanny Price (Hannah Taylor-Gordon → Frances O'Connor)は10歳の時に叔父Sir Thomas (Harold Pinter)とLady Bertram (Lindsay Duncan)と4人の子供たち - 息子ふたり、娘ふたりが暮らすMansfield Parkの屋敷に送られて、親戚なのに実家が貧しいからって屋根裏のような部屋で女中のように扱われて、でも本好きで話しが面白い - 妹Susanへの手紙の中で語られていく - のでそこの次男のEdmund (Jonny Lee Miller)と仲良くなっていくのだが、彼女が18歳になった時、Sir Thomasと長男のTom (James Purefoy)がアンティグアに長期の仕事で行っている間にやってきた近くの牧師の親戚Henry Crawford(Alessandro Nivola)とMary Crawford (Embeth Davidtz)の兄妹の華やかさと快活さにみんな圧倒されて、Edmundはなんだか大人のMaryにぽうっとなり、FannyはHenryに押しまくられて、特にHenryときたら情熱的に実家までやってくるのでどうしたものか、になる。
勿論これだけじゃなくて、そんなにおおごとではないお家内の騒動と変わった/困った/どうしましょうな人々を的確に散りばめ、そのなかで鼻をつまみ目をあわせないようにしながらどう強く楽しくやり過ごし生き抜くべきか、という退屈させないJane Austenワールドは健在で、そのなかでもどこでどうしてそうなったのか自信だけは常に満々で懲りずにどこにでも、ぜんぜん嬉しくないタイミングでやってきてくれるHenryとハエや毒虫を払うように逃げまくるFannyの困惑がどこに向かうのか、こちらも目を離せなくて楽しい。愚鈍だからプライドしか維持できなかったのか、プライドが愚鈍さを変に磨きあげてしまったのか、どうして男ってあそこまでしょうもなく無神経になれるのか、等をFannyの目を通してしみじみ考えさせられて、そのシャープな捌きようはかっこいい魚屋さんとしか言いようがないし、彼女(世界中のあらゆる彼女)の知恵と勇気には惚れ惚れしてしまう。
そしてこれだけのいろんな要素を道端の雑草から温室の観葉植物までぜんぶ盛って見事に(いろんな意味で)香ばしい花束とかブーケとかにして差しだしてくるJane Austenのちゃきちゃきしてかっこよいこと。
上映後のトークでは、監督から本作が、あのHarvey Weinsteinからの熱いオファーを受けて起動したことが明かされ、すごいな、Janeの描いた最低最悪醜悪世界のリアル版じゃん、て改めて思った。
もうひとつ、監督が作品に折り込みたかったのは人種差別に対する目線で、幼いJaneが屋敷に向かう途中、海上の奴隷船を目にするシーンから始まり、Sir ThomasのSrとJrがやっていたことへの言及など、彼女の視線がお屋敷内のあれこれに止まるものではなく、外の政治の世界をも貫いて形成されていったのだ、というのは強調したかった、と。
そして、人の魂は簡単に売買されるようなものであってたまるか、という地点から始まっているが故に、彼女の目と言葉、行動はどこまでもぶれずに物語を超えてこちらに迫ってくるのだと思った。
12.19.2025
[theatre] A Midsummer Night's Dream
12月11日、木曜日の晩、Shakespeare’s GlobeにあるSam Wanamaker Playhouseで見ました。
この劇って、夏に野外とかでみんなでわーわー酔っぱらったりしながら見る(そして演じる側もそういう)お祭りのイメージがあったので、真冬に、しかも木造の蝋燭照明しかないような暗く閉じた空間で、なにをどんなふうに見せるのだろうか、と。
原作はShakespeareの『夏の夜の夢』 (1595–1596)、演出はHolly Race RoughanとNaeem Hayatの共同。
舞台の上のテラスには楽団が4名、きりきりした弦とどたばたした太鼓が中心の現代音楽風。
舞台とテラスの間にはぶっとい角ゴシックで“PERCHANCE TO DREAM”って看板標語のように貼ってある。季節は冬らしく舞台の上は白で統一されたインテリア。途中、テラスのところにでっかい雪だるまが現れたり(でもなにもしないでそこにいるだけ)。
最初に上は半裸のタキシード、下は純白のチュチュに白タイツの坊主頭Puck (Sergo Vares)がひとり出てきて、不敵な表情で客席を猿のように見まわしながら、バナナを一本、ゆっくり食べる。(関係ないけど数日前に見た”Twelfth Night”でも観客の方を向いてバナナを食べるシーンがあった。流行り?)
この冒頭だけでも、これが楽しい妖精たちの夏の夜の戯れではなく、ひと続きのゴスでダークな悪夢に近いもの - OberonもPuckもその産物でしかないことがわかって、以降は屋外の森ではなくどこかの屋敷(or宮殿 or精神病院かも)の蝋燭に照らされた冷たそうなディナーテーブルを中心に、いろんなのにまみれて腐った富裕層がいて、原作の職人たちは、彼らに料理を供するレストランのスタッフ – ころころのBottom (Danny Kirrane)はそこのヘッドシェフになってて、Oberon (Michael Marcus)とPuckの主従関係ときたらほぼSMの世界だし、媚薬なんて用意しなくても、全体は既に十分に浮ついて酔っ払い、さらにドラッグをきめていたりするのでしょうもない。
なので、この劇でセンターに来るはずのDemetrius (Lou Jackson)とHelena (Tara Tijani)の恋、Lysander (David Olaniregun) and Hermia (Tiwa Lade)の恋、それぞれのじたばたも妖精と媚薬の悪戯、というかわいらしいものというより、初めからずっとあって果てのない悪夢や淫夢の延長でしかないようで、でもそれでも十分生々しく官能的なので、やっぱりこれは夏の野外じゃなくて冬の屋内だよね、とか。恋というより夢のありようを描くドラマとして、その緊張感はなかなか見事で、昨年の冬(これも冬だった)Barbicanで見たRSCによる同劇 – これも現代設定で、Bottom (Mathew Baynton)は可愛かったけど、あれともやはり違うねえ、と。舞台の上で演出され供される夢のなかにどれだけ没入して抜けられない時間を過ごせるか、で評価するのであれば、ここに出てくる夢と闇の深さはなかなかのものではないか、と思った。
一番びっくりしたのは最後が突然の流血の惨劇で終わることで、そんなことしていいんだー、と思いつつ、ここもまたそんなに違和感はないのだった。こういう夢の出口には死とか、そういうのしかない、という説得力の強さ。
原作の舞台はアテネだけど、これを見て思ったのはまずRainer Werner Fassbinderの室内劇の四角四面の閉塞感と理不尽に情が荒れ狂うあの空間で、あと、とりかえ子の少女(Pria Kalsi)がきょとんとした顔で「一幕目のおわり」って静かに客席に告げたりするのを見て、これPina Bauschの世界ではないか、って思った。ところどころで踊るシーンもあるし、終わりを告げないといつまでも終わらない止まらないとか。
しかしそれにしても、シェイクスピアの沼が… 底なしすぎる。
もっと子供の頃から知っておきたかったよう。って嘆いてもしょうがないので見ていくしかない。
[theatre] Christmas Day
12月10日、水曜日の晩、Almeida Theatreで見ました。
クリスマスなので、クリスマスっぽい演劇を見たいな、と思って。でもOld Vicの”A Christmas Carol”はチケットがバカ高いので、ほぼ諦めてしまった。最近あれこれ高すぎ。
原作はSam Grabiner、演出はJames Macdonald、休憩なしの約1時間50分。
舞台は北ロンドンにあるフラットの1室 – 元オフィスだか倉庫だったかのような、だだっ広いが中央に大きなテーブルと椅子があるだけでものすごく殺風景な、物置きの中みたいなリビング、天井を金属のぶっといパイプが通って上に括りつけられた大きなヒーター?ストーブ?に繋がっていて、時折でっかいエンジンのような音をたてて突然動きだしたりする。あと、下を地下鉄のNorthern Lineが通っているらしく、時折フラット全体ががたがた振動する。
そのリビングの隅にものすごく安っぽく適当そうなクリスマスツリーがあって、でも一応電飾は点いてて、冒頭、その部屋に着いたばかりらしい父のElliot (Nigel Lindsay)がそれをなんだこれ? という冷めた目で眺めている。彼を迎えた息子でその部屋の住人Noah (Samuel Blenkin)も彼の妹のTamara (Bel Powley)もユダヤ人なので、時期はクリスマスだけど、クリスマスだからと、クリスマスを祝うつもりで集まっているわけではなさそう。(だからタイトルも)
そこにノンユダヤのMaud (Callie Cooke)やTamaraの元恋人でイスラエルから戻ってきたばかりのAaron (Jacob Fortune-Lloyd)などが加わって賑やかになって、クリスマスディナー... ではない中華のテイクアウト(意地でもクリスマスなんて祝わない)でテーブルを囲んで、あと時折フラットの住人で、明らかに挙動のおかしい隣人(Jamie Ankrah)が突然血まみれになって現れたり、前半はほぼシットコムのノリで、クリスマスという変な、彼らにとってはどうでもいいイベントに伴う家族の集いをどたばたと描いていって、突然ストーブが鳴りだしたり電気が落ちたりするタイミングも含めてアンサンブル・コメディとしてなかなかおもしろい。この辺で淡々と展開されるユダヤ人家族の像、というのはこれまでいろんな映画で描かれてきたそれに近くて、これらは単に自虐ネタのように「変」に落ちるというより、この違いはどこからくるだろうのか、を考えさせるような。
でも後半になって、ガザの件で心を痛めているTamaraがこれについて「ジェノサイド」と言ってしまった途端、Eliotはぶち切れて、折角のディナーがすべてぐじゃぐじゃになっていく。 基本はお前に(ジェノサイドの、自分たちの苦難の)なにがわかる? というどこかで聞いた話、TVの討論やインタビューでもよく見る風景だし、そうなっちゃうんだろうな、というのも良い悪いは別として納得がいく。
家族の団欒の場で、触れてはいけない話題に触れてしまった後、それぞれはどう振る舞うのか、興奮して暑くなったElliotは上着を脱いで隅でぐうぐうザコ寝してしまい、そこから起きたらなんとなく… これってユダヤ人家族でなくてもそうなりそうなことはわかって、そういう赦しやなんとなく収まってしまう場の雰囲気に希望を見るのか、こんなふうだからいつまでたっても... ってどんより暗くなるのか、そのどちらも許容するかのようにChristmas Dayの夜は過ぎていくのでした、と。
最後のほうで、例の変な隣人が「道に落ちていたから」って袋に入ったキツネの死骸を運んできて、どうするんだよ? になり、Noahが調べたらネズミはそのまま棄てていいけどキツネは当局に報告しなきゃいけないんだって、とか、そういうネタも含めて、ちょっととっ散らかって纏まりのつかない印象もあるのだが、いろんな神様が降りてきたその仕業なのだ、って思うことにしよう、でよいのか。
個人的にはガザのことは本当に辛くて、ほかにもいろいろあったのでこのクリスマスはなんもやるきにならず、しょんぼりとお祈りして終わると思う。 みんなよいクリスマスをね。
12.17.2025
[film] The Comedians (1967)
BFI Southbankの12月の特集、”Muse of Fire: Richard Burton”がどれもおもしろくて、いろいろ見ているのだが、いちいちきちんと書いている時間がない。備忘のために感想をメモ程度で。
The Comedians (1967)
12月7日、日曜日の午後に見ました。邦題は『危険な旅路』。
原作はGraham Greeneの同名小説(1966)、映画化を前提に書かれて、脚本も彼。
監督はPeter Glenvilleで、彼の最後の監督作品となった。撮影はHenri Decaë、キャストも含めてもろ英国、ヨーロッパぽいのだが、アメリカ映画。 35mmフィルムでの上映。
ハイチでNYから戻ってきたホテル経営者のMr. Brown(Richard Burton)と武器商人のMr.Jones (Alec Guinness)とMr & Mrs Smith (Paul Ford, Lillian Gish) の名前も含めて極めて典型的な白人のお金持ちが、野蛮でなにされるかわからないハイチの政権中枢の人たちと関わって脅迫、監禁、暴行など大変な目にあって逃げ回っていくお話し。
あとはMr. Brownとハイチ駐在の南米大使の妻Martha(Elizabeth Taylor)の不倫関係とその夫の大使(Peter Ustinov)とか。 とにかく当時のスターがたっぷり出て来て、でも彼らはハイチ側からするとただの金づるのコメディアン程度にしか認知されていない、ってひどい。っていうのと、状況としてものすごく悲惨で危機的なのにコメディアンのような振る舞いをすること(or Die)くらいしかできない、とか。
当時の政治情勢からすればそれなりに意味のあるメッセージが込められていたのではないか。
Alec Guinnessはこの後タトゥイーンに逃げて、ここで殺されたJames Earl Jonesは(いつものように)蘇って、10年後にあの映画で再会して対決することになるのだな、と。
Boom! (1968)
12月8日、月曜日の晩に見ました。
iMDBでの表記は”Boom”なのだが、”!”を付けるのが英国では欠かせないらしい。邦題は『夕なぎ』 ← やるきなし。
原作はTennessee Williamsの”The Milk Train Doesn't Stop Here Anymore” (1963)で、原作者は自分の映画化作品のなかでは一番よい、と言っていたらしい(本当か?)。監督はJoseph Losey、音楽はJohn Barry。 35mmフィルムでの上映。
John Waters先生が熱狂的に愛する1本なのだそう。なるほど。
イタリアの孤島の一軒しかない大邸宅に暮らすFlora(Elizabeth Taylor)のところにChristopher (Richard Burton)という謎の男が現れていきなり犬に襲われてぼろぼろになり、彼は彼女を知っているようだが、彼女は知らなくて、そんなふたりが会話を重ねていって、なぞの男The Witch of Capri (Noël Coward – 本物)が絡んできたりするが、基本は不治の病で身勝手に暴れまくる富豪のFloraと彼女を迎えにきた死神であるらしいChristopherのやり取りが殆どで、タイトルの”Boom!”は波が岩にぶつかった時にたてる音をChristopherが何度か言うときに出てくる。
当時人気に陰りが出始めていたElizabeth Taylorの復活を狙った一発だったが、興行的には大失敗に終わるという伝説をつくった1本で、でも展開もキャラクター造型も、相当散文調のめちゃくちゃなのに、なんだかおもしろく見れてしまったのはさすがJoseph Losey、というべきか、このふたりの輪郭の強さがもたらす何かなのか。
The Night of the Iguana (1964)
12月5日、金曜日の晩に見ました。
原作は、これもTennessee Williamsによる同名戯曲(1961)で、監督はJohn Huston。
教会の牧師(Richard Burton)は説教中に錯乱して教会を追いだされて、テキサスの旅行会社でバスのツアーガイドをしていて、メキシコへのツアーで彼に言い寄ってくる少女Charlotte (Sue Lyon)の親から目をつけられて、母娘ともにあまりにうっとおしいので、旧知のワイルドなMaxine(Ava Gardner)が経営する海沿いの丘の上の安ホテルに全員を滞在させたり、そこにやってきた自称画家のHannah (Deborah Kerr)と車椅子の彼女の父親(Cyril Delevanti) - 彼は詩人だという - と出会ったり。
ぜんぜん身寄りでもなく互いに関係もない4人+その他大勢が中米の孤島のようなところでなんとなく縛りつけられて自由不自由があまりわからないまま捕らえられたイグアナのように暮らした数日間を描いて、京マチ子のようなAva Gardnerと(父をケアする)原節子のようなDeborah Kerrが生きているかんじがしてよかった。
A Subject of Scandal and Concern (1960)
12月7日、日曜日の午後に見ました。
今回の特集のなかでも珍品扱いされていた1本で、John OsborneがTV放映用に書いた60分のドラマ。監督はTony Richardson。BFI Archiveに保存されている35mmフィルムでの上映。
BBCのSunday-Night Playという60分のドラマ番組枠で、当時16mmフィルムで撮影されたドラマがなんで35mmフィルムとしてアーカイブに保存されているのか、その事情などはっきりとはわかっていないらしいのだが、90年代のどこかで大量にフィルムプリントとして焼かれた形跡があるそう。(えらいなー、それにひきかえNHK…)
1842年、実際にあった冒涜罪(blasphemy)をめぐる裁判で、社会改革家の教師George Holyoake (Richard Burton)は、教会は国から年間2000万ポンド貰っているのだから牧師の給料は半分でよい、と発言して捕まって裁判にかけられる。その裁判の様子を追ったもので、ここでのRichard Burtonにいつもの威勢のよさはなく、おとなしく、ちょっとやつれた丸メガネでおどおどと自分の主張を述べていて、でも固い信念で決して曲げないし譲らない。
“Look Back in Anger” (1959)を作った翌年に同じ脚本家、同じ監督でこれを撮っているのってなんかすごい。ただ、どちらも根底には社会のありように対するはっきりと表には出てこない、表しきれない怒り、があるような。
12.16.2025
[theatre] All My Sons
12月6日、土曜日の晩、Wyndham's Theatreで見ました。
原作はArthur Millerのクラシック(1947)、演出はIvo van Hove、2時間15分で休憩なし(2時間超えで休憩なしって珍しい?)。
2019年の6月にOld VicでJeremy Herrin演出、Sally FieldとBill Pullman主演によるこの劇は見ていて、これもすばらしかったのだが、今度のはやはりぜんぜん違って、現代劇で、こうも違うふうにできるものかー、と。
冒頭、真っ暗になったと思ったらジジジとか電気系統のノイズととてつもない雷鳴と暴風雨と共に大きな木が突然めりめりと倒されて、その巨木の死骸が最後までステージにでかでかと、お墓のように横たわっている。正面奥の壁上部には丸くくり抜かれた大きな窓なのか穴なのかがあって、太陽や満月のように輝いたり、たまにこの窓から登場人物が孤独に舞台を見下ろしたりしている。
自分の知っているIvo van Hoveの技巧を凝らして劇空間をメタに浮かびあがらせ俯瞰の目線を絶えず動かして刷新していくような仕掛けは導入されていない。むしろ真ん中に横たわった木が断固そういうのを拒んで邪魔しているような。
裕福な実業家のJoe Keller (Bryan Cranston)がいて、飛行機のエンジン製造に関わっていた彼の会社は欠陥部品を供給して、それが原因となり21名のパイロットが命を落として、糾弾されたものの責任を直近の部下Steveに押しつけて自分は服役を免れている。
Joeの妻のKate (Marianne Jean-Baptiste)は戦時下で行方不明になったままの次男Larryの生存と帰還をずっと信じていて、でも他の家族はもう彼は… と思っていて、長男のChris (Paapa Essiedu)はLarryの婚約者で、Steveの娘のAnn (Hayley Squires)と結婚できないか、と考えている。Joe以外の家族周辺の人たちはみんな人生のことを真面目に考えて真っ直ぐに生きようとしている。Joeだって暴力を振るったりするわけではなく、近所の人たちからは話し好きのよいおじいさん、と見られている。
でもその裏側には複雑な事情が絡みあっている。ChrisとAnnの結婚はすばらしいことだが、それを祝福することはLarryの死を家族として認めることに繋がり、更には彼の死がJoeの戦時中の不正に結びついていることを認めることにも繋がって、それはいまの家族のよってたつ地面をがたがたにしかねない(→木が倒れたこと)。そして、家族の誰もがそのことをわかっている。元凶が誰なのか、なんで黙らざるを得ない、触れない箇所があったりするのか、なんでどんなにあがいてがんばっても幸せに届かないのか。
その緊張を維持して持ちこたえているところにある情報を掴んだらしいAnnの兄George (Tom Glynn-Carney)が怒りを湛えて飛びこんできて…
俳優のアンサンブルがすばらしくよくて、Bryan Cranstonは典型的な白人男性、妻役のMarianne Jean-BaptisteとChris役のPaapa Essieduは黒人で、戯曲の上に書かれてはいないが、ひとつの家族内での人種間の差異がもたらすであろう何か、もそれとなく示唆されていたのではないか。
誰もが気づいていて、今や誰もがうんざりしているアメリカの(家族、白人男性の)理想主義が孕む毒、欺瞞や危うさ、それが絶妙な形で集約されて”All My Sons”という呼び声のもとで上書き形成されてきた家族の像。 これをそれ見たことかみたいに暴きたてるのではなく、診療台の上でどうしたらよいと思う? って問いかけてくるのがArthur Millerの劇で、この内容が書かれてから80年くらい、ってさすがにすごいな – “All My Sons”から”All My Grandsons”までいっちゃってるだろうに。
そして、これらがあった後になってもなお、”MAGA”なんて能天気に言えてしまうあの神経の腐れようときたら。
そしてそして、ここで維持されようとした「アメリカの理想」は、日本では家長を中心に据えた同心円状の「イエ」としてやはり絶対的な求心力を維持してのさばっている。こっちは”All My Sons”ではなく「ご先祖様〜」とかになるのかしら?
[film] Is This Things On? (2025)
12月4日、木曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
NYFFでプレミアされてLFFでもかかっていた新作。
これの上映の前には、ICAで始まっていたLuc Moulletの特集から80年代の短編3つと、上映後に監督とのオンラインでのQ&Aがあった。 短編はどれもめちゃくちゃおもしろかった。
監督はBradley Cooper、30年来の友人であるWill Arnett(この上映の前に彼の1時間のトークがあったが、そちらは行けず)を主演に、脚本はBradley Cooper, Will Arnett, Mark Chappellの共同、Will Arnettが話していた英国のスタンダップ・コメディアンJohn Bishopの話を基にしているそう。撮影は”A Star is Born” (2018)~”Maestro”(2023)の頃からのMatthew Libatique。 ショービズの世界に生きる主人公を追ってきた過去の作品とはちょっと毛色が違う。
10歳の男の子がふたりいてずっと一緒に過ごしてきたAlex (Will Arnett)とTess (Laura Dern)の夫婦は離婚に合意して、AlexはNYのダウンタウンの殺風景なアパートに引っ越して一人暮らしを始めている。友人で俳優のBalls(Bradley Cooper) – もじゃもじゃ - や妻のChristine(Andra Day)にも余りちゃんと話していないし、健在で仲のよい両親はそのことを知っているけど、面と向かって話そうとはしないし、子供たちも多分知っているけど、こちらも同様、自分たちが間に入ることで家族の溝を広げてしまうかもしれないことをわかっている。そして、そもそも当事者たちですらきちんと議論して決着つけて次に、ということをやらずに互いに目をそらしているような。“Marriage Story” (2019)でばりばりの訴訟担当弁護士をやっていたLaura Dernの姿とはぜんぜん違う。
互いが嫌で、一緒に暮らして顔を見るのも嫌なのでとにかく別れる、がまず第一にあった“Marriage Story”ではなく、別れた後にどこにどう踏みだしたらよいのかわからないし、自信が持てない、それを認めたくないので互いに顔を合わせないようにして避けまくっている、というかんじ。
そんなある晩、酔っぱらってどん詰まりの状態でコメディをやっているクラブの前にきたAlexは、なんとなく中に入ろうとしたら$15って言われて、それは払いたくなかったので、出演者の方(Freeで入れる)にサインアップして、とりあえず並んで自分の順番が来たので舞台に立ってなにやら喋ってみる。まったく用意していなかったのでうけるうけない以前にぜんぜんダメだったのだが、彼は何かの光とか感触をそこに見出してしまったらしく、空いている時間にネタを書いてみたりひとり練習してみたりすると、2回めのステージはそこそこうけて、常連たちからもやるじゃないか、とか言われて有頂天になっていく。
話しはそこからコメディに目覚めて、コメディアンへの道を歩んでいくAlexの姿を追う..わけではなく – それでもおもしろくなったのかもだけど - 元オリンピックの女子バレー選手だったTessのコーチへの復帰というお話しも絡まって、やがてTessと彼女の新彼(候補)がふたりでコメディクラブに入ったら、そこそこの人気があるらしいAlexの漫談を聞くはめになる、とか。しかもネタはふたりの末期の性生活に関する一方的なもので… Laura Dernが“Blue Velvet” (1986)での「あの顔」と同じくらい絶妙の表情を見せてくれるので、これだけでも。
監督の過去作のように何かを極めて頂点に立った主人公の姿(~その後)ではなく、そこに向かって歩き出す彼らでもなく、「それ」が見つかるか見つからないか - “Is this things on?” の微妙におどおどした状態を行ったり来たりし続ける彼らの彷徨いを描いて、賞を貰えるような納得できる落としどころとか完成度とかからは遠いやつなのだが、とてもよいの。
ラスト、子供たちがずっと練習していたQueenの”Under Pressure”が学芸会で披露されて、そのたどたどしい刻みが空に昇っていって、そこに… (ここだけでも)
あと、出てくるわんこが、どれもすごーくかわいいので、犬好きはぜったいに見たほうが。
12.15.2025
[film] Tea and Sympathy (1956)
12月3日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
メロドラマ特集で、11月15日にあったイベントMelo-dramaramaの補足番外編として、”Beyond Camp: The Queer Life and Afterlife of the Hollywood Melodrama”というパネルトークがあった。
ハリウッドの「女性映画」やメロドラマが長年クィア文化に深く結びついてきた - Bette DavisやJoan Crawfordなどがゲイ・アイコンとして崇拝されているのはなぜなのか? R.W.Fassbinder, Almodóvar, Todd HaynesらがDouglas Sirk のスタイルを継承・変奏しているのはなぜなのか? などについて、”The Heiress” (1949)や(いつもの)”Written on the Wind” (1956)のクリップを映しながら議論をしていく。
男性中心社会/至上主義の目には見えない過酷さがあり、その過酷さを生き抜こうとしてモンスター(or 犠牲者)となるメロドラマの主人公にクィアが接続されていくのはものすごくふつうの、そうだよね、しかなくて、それをそうだよね、にしてしまっては何も変わらないので、これはOne Battle After Anotherなのだ、と改めて。
今回はネタの起源を40〜50年代の米国ハリウッド映画にしていたが、英国であればこれの根は階級制度に、日本であれば家父長制起源のものになって、でもこれはネタがどう、とかいう話ではなくてそれだけこの野蛮な人でなしの世の中で苦しんでいる人がいる、というのと、その中で、他からどう見られても蔑まれてもいい、とにかく生き抜く術と姿をください、という祈りのなかでメロドラマというアートが立ちあがってきた、と。
これの終わりに特別上映として:
Bourbon Street Blues (1979)
Douglas Sirkの最後の監督作品とされている25分の短編で、原作はTennessee Williamsの一幕戯曲”The Lady of Larkspur Lotion”(1946 and 1953)を基にした作品。
酔っ払って全てを失い明日がないぞって更に酔っ払う女性と彼女に文句を言い続ける女性、その口論の終わりの方にぬうっと現れるR.W.Fassbinderの生きているのか死んでいるのか瀬戸際の異様なオーラ。たぶん彼女たちの口論の中身がわからなくても、ここに晒された呪いのように臭ってくる酩酊とアートのありようはずっと。
Tea and Sympathy (1956)
12月3日、↑の企画の後に、参考作品として上映されたのを見ました。企画テーマに見事にはまる一本。
35mmフィルムのテクニカラーで、フィルム上映で見るDeborah KerrやMaureen O'Haraって、なんであんなに美しいのか。これって美術館でもシネコンでも絶対見ることのできない美のひとつではないか。
原作はRobert Andersonによる1953年の同名戯曲で、メインキャストはブロードウェイの舞台からそのまま(舞台、見たかったなー)。監督はVincente Minnelli、撮影はJohn Alton、音楽はAdolph Deutsch。邦題は『お茶と同情』 … 「同情」じゃないよね。
Tom Robinson Lee (John Kerr)が同窓会で高校を訪れて、17歳の自分が暮らしていた下宿屋の自分の部屋に行ってみると、いろいろ蘇ってきて…
そこでは大勢の男子学生が家主でスポーツのコーチでもあるBill (Leif Erickson)の家で体育会ど真ん中の集団生活の日々(隅から隅まで吐きそう)を送っていて、でもTomはBillの妻Laura (Deborah Kerr)と庭先でお茶をしたりお花とか縫い物とか本の話をする方が好きで、Lauraも彼のことを大切に思うようになって、でもそうしていると同級生たちにLady Boyってバカにされて虐められて、尊敬していた父親 - Billの親友でもある - からもそんなことじゃいかん、て言われ、その虐めはエスカレートして地元の娼婦Ellie (Norma Crane)のところに夜に行ってこい、っていう酷いことを強いて、無理をしたTomは自殺をはかって…
全体の殆どが、流血こそなくても愚かで幼稚でバイオレントな描写に溢れていてしんどいのだが、最後に森に逃げこんだTomとLauraの、というかDeborah Kerrのあまりの美しさにびっくりして涙が引っこんでしまう。こんな美しいのってあるのか、この美しさと共に生きよう - ってTomも思ったのだと思う。
12.12.2025
[log] Prospect Cottage - Dec. 6th 2025
12月6日、土曜日、Kent州、Dungenessにある – “Dungeness”というとまずはアメリカの蟹なのだが、蟹のいるアメリカのワシントン州のDungenessは、ここのDungenessから取った、ということを知った – Prospect Cottageに行きました。英国に来てからずっと行かねばリストに入っていた地点。Vanessa BellのCharleston、Virginia WoolfのMonk’s House、HaworthのBrontë home、などに続くシリーズ。
映画監督Derek Jarmanが父の死後1987年に購入して、1994年に亡くなるまで暮らして、彼の死後はパートナーのKeith Collinsが暮らして維持して、彼が2018年に亡くなった後は、売りに出されたり維持のための寄付活動があったりしたのだが、いまは落ち着いて一般公開されるようになっている。
のだが、夏だとチケットがすぐ売り切れていたりでなかなか行く機会がなくて、どうせ行くなら一番暗くてきつい時期にしてやれ、って決めて、ついに、ようやく。
ロンドンのSt Pancras Internationalから電車で40分、そこからバスで約1時間、そこから歩いて15分、というアクセスの面倒くささも遠ざけていた要因か。やはりふつうは車で行くらしい。
天気予報ではずっと雨95%くらいだったので、ずぶ濡れ上等バケツでもタライでも、だったのだが、雨はこなかった。かわりに風がとんでもなく強くて、久々に飛ばされそうになった。
バス停を降りると廃線になった線路が海まで伸びていて、それ以外は地の果てまで砂利の荒野 – としか言いようがない – がずっと広がっていて、廃れた漁師小屋のようなの、棄てられた木の船がぽつぽつあって所々で鳥が群れて(たぶんなにかの死骸をつついて)いる。このランドスケープだけである種の映画が好きなひとはやられてしまうに違いなくて、Derek Jarmanもそうだったのだと思う。
Prospect Cottageもそういうなかの一軒で、窓枠が黄色い以外は真っ黒で特に大きくもなく、柵とか門に向かう小道とかもなく、砂利と砂漠の植物みたいのとオブジェがぽつぽつと置いてあるのか並べられているのか。南側の壁にはジョン・ダンの詩が彫って.. じゃない浮かびあがっている。
時間 - 確か30分間隔くらいでスロットが切られていた - になると中から案内係の青年が出てきて小屋内ツアーの説明 - だいたい40分、中の撮影は禁止、聞きたいことはなんでもその場で聞いて、など - をする。自分の他には3人の家族らしき人達 + 赤ん坊で、この子は見事なリズムでずーっとえへえへ唸っていた。
部屋は決して広くない客間、書斎、書棚のある部屋、寝室、キッチン、後から足された部屋など、どの部屋にも彼の描いた/作ったアートが並んでいて、ぶっとい木の重そうな木と合わせると、あまりアーティストのお部屋には見えない、木樵のような無骨なやりかけのかんじ、そこがなんだか彼らしい。
冬は厳しそうだけど、キッチンの窓はとても広くて光が入っていて、これなら・ここなら暮らせる、暮らしたいな、になった。
ガイドの人からは、彼の晩年のキリスト教の宗教画への傾倒のなかで、John Boswellの名前が出てきて、へー、ってなったり。
あっという間に終わって、でも平原の向こうにあるはずの海を見ないで帰るわけにはいかず、風に逆らって20分くらい歩いて、クールベの絵のそれみたいにぼうぼうと愛想のない海と砂しかない浜辺を眺めて帰った。
戻りのバスは30分遅れて乗る予定だった電車にも乗れず、いろいろその日の予定が。
パリではDerek Jarman特集をやっているのかー… 随分と見ていないかも。
Turner & Constable Rivals & Originals
↑ので荒野を歩いて風と光に晒されていたら数日前に見たこれを思い出したので。
11月30日、日曜日の午前にTate Britainで見ました。まだ始まったばかりの企画展。
1775年生まれのJ.M.W. Turnerと1776年生まれのJohn Constable、どちらもRoyal Academy of Artで学んで英国の風景画の世界を刷新した彼らの生誕250年を記念した展覧会。たいへんおもしろい。
風景画なのだが、このふたりのそれは英国の光(と暗さ)、雲、海、雨、湿気、これらが刻々ぱらぱらと変化していく様も込みであわさったそれで、写真のように切り取られた断面、というより絶えまない変化のなかにある光と水に晒され覆われた景色をどうにか平面に転写しようとして、実際に画面は焼けたり湿ったりで、いつも触ってみたくなって、こういうことが起こりうるのは英国だから、としか言いようがないかも。
場内ではふたりが競演した”Mr. Turner” (2014)の一部が上映され、そこで展示されていたWaterlooの絵の現物もあったり。
結構な数が出ていたので、Tate BritainのTurner常設コーナーはがらがらではないか、と思って行ってみたら、そこに並べられたConstableまで含めて、いつもと全く変わっていないのだった。
12.10.2025
[theatre] The Maid
11月29日、土曜日のマチネを、Donmar Warehouseで見ました。公演の最後の回で、見逃すところだった。
原作はJean Genetの”Les Bonnes” (1947) - 『女中たち』。脚色・演出はSarah Snook による一人芝居“The Picture of Dorian Gray”を成功させたKip Williams。 1時間40分、休憩なし。
舞台は明るくて3つの背面がでっかいミラー(後でディスプレイ)になってて、スライドされるその向こうはなんでも出てくるクローゼットで、白系のきらきらで統一されたバブリー(死語)で豪勢なリビングルームがあって、開演前~開演後もしばらくはガーゼ仕様の薄幕カーテンで覆われていて(その向こうでなにが行われているかはわかる)、あげあげ系のR&B&ハウス系の音楽がそんなに大音量ではなく流れていて、そこにメイドの恰好をしたメイドと思われる女性が現れて音楽に合わせてふんふんしたり踊ったりしながらスマホを見たり化粧台のコスメを試したり、そこらにある服を試着したりを始める。
この最初に現れたメイドがClaire (Lydia Wilson)で、そこにSolange (Phia Saban)が入ってきてご主人様としてClaireを虐めたり辱めたりして、でもそのうちSolangeも同じメイドであることが明らかになって、ふたりは姉妹で、要は支配と服従の「ごっこ」をおもしろがってやっているのだが、そのうちに本物のMadame (Yerin Ha)お嬢さまのインフルエンサーでもある - が入ってくると、彼女の我儘で傲慢な振る舞いは「ごっこ」のレベルではない、エクストリームなものであることが見えてくる。なにがエクストリームかというと、仕事や契約上の規約なんてないに等しく、自分は上でお前は下なんだからとにかく従え文句や口出し一切無用とっととやれ、が徹底されていて、誰もその掟を破ることができない、その手段がない、ということ。
登場する3人の女性たちは、全員がずっとスマホを手にしてSNSにポストしたりライブストリーミングしたり、その画像も声もエフェクトをかけてアニメ風にしたり老婆にしたり、リモートも含めてやりたい放題でそれがそのまま背後の大きなミラーに映しだされていく。メイドとしてクソのような仕事をしていても、どんな酷いことを強いられても、ストリーミングでは主人のドレスを羽織ってお花畑の女王のような姿を演出することができて、そこで身分の上下なんて気にしている人は誰もいなくて、要は本当の正体はなんなのか、本当に起こっていることはなんなのか、を誰も知ることができない/知らなくたって構わない、という反転した地獄絵がある。この支配・服従構造の不可視化(による重層の支配)は、もろ現代のテーマでもある。
この状態をどうにかしたいClaireとSolangeのMadameのお茶に毒を盛って飲ませる計画もなかなかうまくいかないまま、Madameの暴走は誰も止められなくなっていって…
誰かに支配されている、という言い方は(ちょっと恥ずかしいので)したくないが、自分の時間や労力を常に誰かや誰かや誰かに奪われている、という終わらない感覚はあって、それを終わらせるには特定の誰かやチェーンをどうにかすれば済む、という話でもなく、ではどうしたら? ということについて「自由」とか「解放」とかの言葉を言わず使わずに考えさせる – かなりごちゃごちゃ騒々しくて疲れるけど – よい舞台だと思った。女優3人共自身の演技に加えてエモの延伸のようにデバイスとか自在にコントロールしていてすごい。
原作者のジュネが作品のなかで表現しようとした服従や拘束のありようとは違うのかも知れないが、誰もが止むことのない憎悪と蔑視に囚われて中毒のようになっていて、そこから抜けられないまま団子になって転がっていって、でも結果としてどこにも行けないどん詰まり状態、はうまく表現されていたのではないか。
全体をあと少しだけ落ち着かせてみたら、日本の会社の風景にも近くなる気がした。
12.09.2025
[film] The Last Days of Dolwyn (1949)
12月2日、月曜日の晩、“Imitation of Life” (1934)のあと、BFI Southbankで見ました。
12月のここの特集で生誕100周年を祝う特集”Muse of Fire: Richard Burton”が始まって、いろいろ見始めている。彼のフィルモグラフィは膨大なので1ヶ月の特集でカヴァーしきれるものではないのだが、この特集でかかるセレクションは35mmフィルムで上映されるものも多くてなんかよいの。
作、監督はウェールズのEmlyn Williamsで、彼が監督したのはこれ1本(俳優としてのキャリアが殆ど)。35mmフィルムでの上映。
これがRichard Burtonが23歳の時の映画デビュー作で、上映前のイントロをした娘のKate Burton(この方も女優)によると、彼女の母Sybil Williamsは19歳で映画女優になりたくて監督のところに直談判に行って、そうしてこの映画で端役を貰って - どこに出ていたのか確認できず - Richard Burtonと出会って結婚して、自分が生まれた。なので監督のEmlyn Williamsは自分にとって祖父のような人でした、と。
19世紀の終わりに、ウェールズの山奥にあるDolwynの村がダム建設によって水没した – タイトル通り、そこに暮らす村人たちの最後の数日間を描いて、架空の村のフィクションだが当時いくつかあったこれに近い実話を基にしているそう。
土地を買収するために地元の人たちにうまい話 - リバプールの方に移住させて仕事も与えて - をしに小賢しい役人みたいなRob (Emlyn Williams - 監督本人)がやって来て、村人たちの多くは言いくるめられて引越しの準備を始めるが、先祖からのお墓もあるし離れたくないMerri (Edith Evans)のような女性もいて、彼女の里子のGareth (Richard Burton)は、一帯の土地の永代所有権を証明する文書を発見して、何がなんでも立ち退かせたいRobと対立していって…
Richard Burtonは村の外から村をダムの底に沈めに来た悪者と対峙する若者、という役柄で、ブチ切れたら怖いけど、貴族の女性にぼーっとなっていたり隙だらけで、でもこの映画で最もすばらしいのはMerriを演じたEdith Evansで、迷いながらも村に留まることを決意していくひとりの女性を見事な情感と哀しみのなか浮かびあがらせていた。
My Cousin Rachel (1952)
12月5日、金曜日の晩、Richard Burton特集で見ました。
ここでもKate Burtonさんがイントロで登場して、これが彼のハリウッドデビュー作で、アカデミー賞にノミネートされた最初の作品です、と。
原作はDaphne du Maurierの同名小説(1951)で、Rachel WeiszとSam Claflinが主演した2017年のリメイク作の方はまだ記憶に新しいかも。
監督はHenry Kosterで、彼になる前はGeorge Cukor監督で企画が進んでいて、原作者との芸術観の相違などで流れた、と。Cukorの企画ではGreta GarboかVivien LeighがRachelを演じる想定だったようで、あーそっちも見たかったなあ、って。
コーンウォールの海岸沿いでPhilip (Richard Burton)は従兄弟のAmbroseに育てられて、彼が健康上の理由で滞在していたフィレンツェから、現地で結婚した従妹のRachelのこと、彼女からひどい扱いを受けているというぐしゃぐしゃの字体の手紙を受けとって、不安になったPhilipが現地に行ってみるとAmbroseは脳腫瘍で亡くなっていて、でもRachelは不在だったので、彼はRachelがAmbroseを殺したに違いないと思いこむ。
数か月後にコーンウォールに戻ったPhilipはRachel (Olivia de Havilland)の訪問を受けて、思いっきり文句言って虐めてやろうと思っていたのに簡単に彼女の佇まいや物腰にやられてめろめろになって、一族代々の宝石をあげちゃったり、25歳の誕生日に全財産を彼女に譲ってしまう。彼女はいちいち喜んでくれたので、その流れで当然結婚してくれると思っていたのだが…
Burtonは手練れの悪女に簡単にやられてしまうバカで純朴な田舎の青年 - ↑のフィルムデビュー作でもそういう系だった – をフレッシュに演じていて微笑ましいのだが、それ以上にOlivia de Havilland(Burtonより9歳上)の放つオーラがとんでもなく、これならやられちゃうだろうな、ってあっさり納得できてしまうのだった。
運命に抗いながらも半分くらいは自業自得で勝手に潰れていく、そういう立ち居振る舞いをものすごく自然にやってのける、彼のシェイクスピア俳優としての素地はこんなふうに最初から運命のように定められ形づくられていったのだろうか、って。
[film] Imitation of Life (1959)
12月1日、月曜日の晩、BFI Southbankのメロドラマ特集で見ました。
原作はFannie Hurstの同名小説 (1933)。Frannie Hurstは、女性とアフリカン・アメリカンの地位向上に貢献した活動家 - 女性が旧姓を保持できるようにしたLucy Stone Leagueの最初のメンバーでもあった。
監督はDouglas Sirk、プロデュースはRoss Hunter – なので、いつものように撮影はRussell Metty、音楽はFrank Skinner。Sirkの最後のハリウッドでの監督作となった。 邦題は『悲しみは空の彼方に』。
女優を目指しているシングルマザーのLola (Lana Turner)が混雑するコニーアイランドのビーチで娘のSusieを見失っていたところで、黒人のAnnie (Juanita Moore)とその娘で一見黒人には見えないSarah Janeと出会って、やはりシングルマザーで、家と仕事を探していたAnnie母娘をメイドとして自分のアパートに住ませることにする。
Lolaはコニーアイランドで出会った駆け出しの写真家Steve (John Gavin)に少し惹かれつつ、お芝居の世界でのエージェントのLoomisや劇作家のDavidとの出会いが彼女を成功に導いて、そこから10年後、彼女はブロードウェイの人気スターとなって、Davidからのプロポーズを断り、それでも彼女の地位は揺るがないし、Annieとの仲も変わらず、メイドだけでなく日々の相談相手としてもずっと一緒にいる。
でもAnnieの娘のSarah Janeは母が黒人だと知れたら突然白人BFに殴られたり、黒人として見られてしまう自分が嫌で家出をして、Annieは体を弱らせて…
Imitation of Life (1934)
12月2日、火曜日の晩、BFI Southbankのメロドラマ特集で見ました。
↑と同じ原作が出たすぐ後に、John M. Stahl監督によって映画化された作品で、脚本にはWilliam J. Hurlbutの他にアンクレジットでPreston Sturgesの名前がある。 こちらのバージョンの方が原作にはより近いのだそう。
Bea Pullman (Claudette Colbert)はやはりシングルマザーで、土砂降りの日、彼女のアパートに求人広告を読み違えたDelilah(Louise Beavers)が訪れて、浴槽におちたBeaの娘Jessieを助けてあげたりして、母娘ふたりだと大変だろうし、Delilahと彼女の娘Peolaが一緒に住んでBeaの家事を助けていくことができたら、って暮らし始めたら、Delilahの作るパンケーキがとんでもなくおいしくて、それならこれをビジネスにしよう、と店舗を借りてリフォームして、その場で焼いたのを食べてもらうレストランにしたらこれが当たって、Beaはお金もちになる。
女優業とパンケーキ屋と、どちらもぜんぜん違う世界をとりあげつつ、女性(シングルマザー)が、自分で仕事を見つけてやっていくことがどれだけ大変なことか、そんな彼女を支えたのが黒人のシングルマザーで1934年版ではパンケーキのレシピを持っているのはDelilahなのにフロントにいるのはBeaだったり、両バージョンのAnnieの娘Sarah JaneとDelilahの娘Peolaは自分のせいでもなんでもないのに、肌が白くて黒人に見えない、というだけで酷い差別を受けたりする。
こんなふうに登場人物や展開をいくら並べてもこのストーリーが持つ渦の強さ、業の深さを表わすことはできない。その根底にあるのは原作者の怒りなのだと思う。
Imitation of Life – というとき、”Imitation”ではない”Real”なLifeはどこにあるのか?
そのありようはLola/Bea, Annie/Delilah, Sarah Jane/Peola, Susie/Jessieでそれぞれ違う。Lola/Beaは裕福な庇護者の男性なしではのし上がれかなったし、Annie/DelilahはLola/Beaがいなかったらどこにも行けなかったろうし、Sarah Jane/Peolaが生きるためには親の存在を消し去らなければならなかったし、Susie/Jessieは母に寄ってきた男を自分のものにしようとする - ここの母親が苦労して勝ち取った男を娘が横取りしようとする構図は”Mildred Pierce“ (1945)にも出てくる。 “Imitation”と”Real”の境界とか構図を決めているのは男性優位と人種差別を基軸に成り立っている白人男性中心の世の中でそんなのどう考えてもおかしい。丸ごとImitation ではないか、と。
そしてラスト、Annie/Delilahの葬儀が荘厳に執り行われてみんなが泣き崩れることの皮肉。”Life”が失われてからようやくみんなに認知される/だからこんなの”Imitation”ではないか、という…
(そして改めて邦題 - 『悲しみは空の彼方に』はだめだと思った。「彼方」にしちゃだめなんだよ日本人)
Sirk版だけ見ていたらたぶん見えなかったであろうことが1934年版を見たらよくわかった。
12.07.2025
[film] Pillion (2025)
11月29日、土曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
原作はAdam Mars-Jonesの小説”Box Hill”、監督はこれが長編デビューとなる英国のHarry Lighton。
封切を記念してなのか、この上映の前になにやらイベントがあったようで、革ジャンでじゃらじゃら金物を身に付けたライダーのおじさん(若い子いなかった気が..)達が歓声をあげて映画の看板の前で記念撮影などをしていて、いつものBFIとはぜんぜん違う雰囲気だった。
入り口にはStrictly18禁、とあって、米国公開版では更にカットされるようなのだが何が/どこがそんなに? くらい。
白のライダージャケットでぎんぎんにキメたAlexander SkarsgårdとハリポタでDudley Dursleyを演じたHarry Mellingの共演なので、”The Bikeriders”(2023)よりもダークでサイコでヴァイオントなホラーになってもおかしくないのに、クリスマスの(クリスマス映画だよ)ちょっと切ない青春rom-comだった。真ん中のふたりがとにかくものすごくよい。
“pillion”って、ぜんぜん知らなかったのだが、バイクの後ろの席に乗る人のことを指すのだそう。なんだかかわいいかんじだが、この映画の彼はもろそんなかんじ。
Colin (Harry Melling)は違反駐車切符を切る仕事をしながらパブの寄せ集めバンドで合唱したり、やさしく見守ってくれる両親と暮らす内気な子で、ある晩ライダーのグループでパブにやってきたRay (Alexander Skarsgård)を見て電気にうたれていたら彼からメモを渡され、裏の駐車場に行ったら強引にされてぼうっとなって、でもその後は何度連絡しても無視されて、諦めかけた頃に彼の家に呼ばれて夢の時間を過ごして、やがて彼に採寸されて自分のライダージャケットと首輪を作って貰い、髪も長髪から五部刈りにして、ライダーの集まりにも参加して、充実した日々を過ごしていく。
Colinのママは末期癌の治療中で長くないので嫌がるRayを家に招いてみんなで食事(当然気まずさの嵐が)をしたり、そういうことをやって少しづつ仲良くなっていっても彼の家に泊まるときはいつも床に寝かされて、彼の横で一緒に寝るのは許されなかったりするので、ある日いきなりブチ切れたColinは彼のバイクに跨って彼のところを飛び出して…
男女のカップルのお話しだったらネタにもならなさそうなことが、無頼のライダー集団の寡黙な男と家族に大切に育てられてきた真面目な青年の間だとこんなにも謎めいておもしろく手に汗握ったり切ないロマンスのようになってしまうのはなんでか? バイクの走りが時空の何かを歪めてしまうのだろうか。あの終わり方にしてもライダーならしょうがないのか… になる(なる?)
Rayは自宅のエレピでへたくそなサティを弾いたり、Karl Ove Knausgård の”My Struggle”を読んだりしているのだが、その割に本棚は空っぽだったりしてちょっと不思議、というかRayが日々何を考えているどういうオトコなのか、(おそらくColinにも)最後までわからない感が残って、ライダーっていうのはそういう種族なのだろうか? とか。
日本だとゲイ・レズビアン映画祭の枠になってしまうのかもしれないが、これはふつうに(18禁)一般公開されてほしいな。
最近は訃報があまりに多すぎていちいち打ちのめされていたらこっちがやられてしまうので、1分くらい黙祷しておわり、にしているのだが、Martin Parrはちょっと驚いた。ついこの間、彼のドキュメンタリー映画で挨拶に来ていたし、新作のサイン本、まだふつうに出ているのに…
ありがとうございました。あなたの撮った天国の写真を見たいよう。
12.06.2025
[film] Wake Up Dean Man: A Knives Out Mystery (2025)
11月27日、木曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。
Rian Johnsonの作・監督によるKnives Outミステリーシリーズの3作目、例によって探偵Benoit Blanc (Daniel Craig)を囲むオールスター・キャストで、楽しい。
元ボクサーでリングで人を殺してしまって司祭となったJud Duplenticy (Josh O’Connor)の回想から入って、彼はJeffrey Wright演じる司祭によってJefferson Wicks (Josh Brolin)が司祭を務めるニューヨーク北部の教会(撮影で使われた教会はエセックスのEpping Forestの近くだって)に送られる。過去の遺産相続をめぐるごたごたで教会は荒れ放題になっていて、Jeffersonは人格もひどい - Josh Brolinが演じてきた悪役そのまま - けど扇動カルトっぽいかなりやばい説教をしてて、反発する人も多いが、彼を囲んで個別のセッションをしている熱い信者たちもいて、Judからすればあれもこれもなんだこれは?なのだが、JeffersonはGood Fridayの説教の合間、沢山の人達がいるところで、一瞬物陰に入った、と思ったら殺されているのが見つかる。
容疑者は全員、凶器の持ち主だとしたらJudだし、他に教会の家政婦のMartha (Glenn Close)、庭師Samson Holt (Thomas Haden Church)、車椅子のチェロ奏者Simone Vivane (Cailee Spaeny)、売れないSF小説家Lee Ross (Andrew Scott)、アル中の医師Nat Sharp (Jeremy Renner)とか、どいつもこいつもで、よくわからない経緯でどこかから突然現れたBenoitがJohn Dickson Carrの”The Hollow Man” (1935)なんかを見せながら嬉々として犯人捜しを始める。
それにしても、人が死んでいるというのに、このわくわくする楽しさはなんなのか?最初にJeffrey Wrightが出てきたのでまるでWes Andersonの世界みたい、とか思ったのだが、恨みや妄執や狂気をカラフルなとっちらかった世界に散らして奇人変人のパラダイスにしてしまうあの世界にちょっと近いのかもしれない。あれよりは落ち着いた、でもトラッドで英国的な端正さ(じゅうぶんに狂って腐ってしまったそれ)を感じさせる世界の。
それと並んで、これって謎解きものって言えるのだろうか?と。たしかに最後には探偵Benoitのひらめきや推理に導かれて犯人も事件の全容も明らかになるのだが、彼の推理は彼のまわりの変な人(容疑者)たちのアンサンブルに巻きこまれるかたちでぐるぐる振り回されていて、その回転のなかで弾きだされるようにあの結末に、なるべくしてなっているようで、彼の推理がなにかを串刺して鮮やかに明るみに出してきたわけではないような気がする。
それにしてもJosh O’Connor、こないだの”The Mastermind” (2025)でも泥棒になりきれない半端な泥棒を演じ、ここでも司祭になりきれない司祭を見事に演じている.. というのか「演じている」の境界をがたがたにするやばい生々しさに溢れていて、要は目を離せなくするなにかがあるねえ、と思った。
Zootopia 2 (2025)
11月29日、土曜日の午前に、West EndのVueで見ました。
わりとどうでもよい新作は週末の早い時間にでっかいシネコンで見るとちょっと安かったりする(座席によってちがう)ので、よく行くのだが、安いかわりにマナーなんてないに等しい無法地帯で、みんなふつうにスマホをみたりスクリーンの写真撮ったりしててひどい。この先どんどんああなっていっちゃうんだろうな。
前作”Zootopia” (2016)から9年、ここに出てくる動物たちにこれだけの時間が経ったらみんなよぼよぼではないのか、と思ったのだが、みんな変わっていなくて、前回の事件のあと、表彰されたふたり(ウサギとキツネ)が正式にパートナーになってすぐの辺りから始まっている。
Zootopiaという国(or 街?)の起源をめぐるヤマネコ族とヘビ(&爬虫類)族の改竄&隠蔽されていた過去をめぐるお話しで、種の多様性と共存、そこで蓋をされていた政治や陰謀をめぐる、ものすごく現在に根差したよいお話しだった。今のアメリカでこういうのを出せた、ってそれだけで少し安心したり(こんなとこで安心するのはどうか、ってなるくらい今がひどいってこと)。
昔ならアニマル共にそんなこと教えて貰いたくねえよ、になったであろうことが、動物さんにそこまでがんばらせちゃってごめんね、になるような。
動物好きなひとは見ているだけで楽しくなるので、見に行ったほうがいいよ。” Ratatouille” (2007)のネズミくんも一瞬出てくるよ。
12.03.2025
[film] La Tour de glace (2025)
11月25日、火曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
LFFでもかかっていたフランス/イタリア/ドイツ映画の新作で、英語題は”The Ice Tower”。
監督はLucile Hadžihalilović、脚本は監督とGeoff Coxの共同。
70年代のフランスの田舎町で、10代のJeanne (Clara Pacini)がいて、薄暗い部屋のなかで辛そうにしていて、小さな妹に大事にしている石のビーズの欠片を渡して家を出ていく。事情はわからないけど、表情を見ると決意は固そうで、ずっと夜道を歩いて、ヒッチハイクをして、でも運転手がやばそうだったので車を降りて、スケートリンクの傍で友達と話している女の子が素敵そうで、彼女の落とした鞄から身分証とBiancaっていう名前だと知り、寝る場所を探して彷徨っていたところで、映画の撮影をしているらしい倉庫だかスタジオだかに迷い込んでしまう。
その場所で映画を撮影中のCristina (Marion Cotillard) –が”The Snow Queen” - 『雪の女王』の銀白に包まれた姿で暗がりの向こうから現れて、そのお話しが大好きなJeanneは息を吞む。
翌日、そのまま野宿をしたその場所で目を覚まして、なんとなく成りゆきで、エキストラとして撮影の現場に入ることになったJeanne - 名前を”Bianca”にした – は、他の子がうまくできなかったシーンに代役で出たら、立っているだけだったのにうまくいったりして、Cristinaから「あなたはわたしのラッキーチャーム」と言われて、Jeanneは夢ではないか、ってぼうっとする。
暗くて寒くて先の見えない絶望の淵で、この世のものとは思えない美しいなにかと出会って、これはすぐに終わる夢だから嵌ってはいけない、とわかっていても抜けられない世界を映画の撮影現場に置いて、そこで撮影しているのが『雪の女王』 - 日本だったら『雪女』か – というのが設定としてうまくて、Marion Cotillardの女王のメイクと、現場から離れた素の – ちょっとギラっとして疲れている - 状態の二重の層が怪奇とは言わないまでも、Jeanneから見れば大人の世界の謎めいた沼の方に招いていて、いけないと思いつつ寄っていってしまう。
Jeanneを演じた新人Clara Paciniの外界のなにを見ても凍りついてしまう透明な瞳と表情、Marion Cotillardの若い頃からのいろんな依存や欠乏から抜けられず、誰かに憑りついてその血を吸ってしまうモンスターの相性が素敵で、『ミツバチのささやき』(1973)で、野原のまんなかの掘っ立て小屋のフランケンシュタインに会いにいって手を差しだしてしまうアナを思わせる。互いにどうしても必要な誰か、としてというより引き寄せられて、触れて、そして… となるその危うさと甘さのせめぎ合いとその先に待っている澱み。 Guillermo del Toroが絶賛したのもわかる。
画面はずっと夕暮れから夜の暗いままで寒そうで、そういうなかから浮かびあがるCristinaの表情と立ち尽くして途方に暮れるJeanneの姿がどちらも氷柱のようで、背後に浮かびあがる氷の塔も今の季節にちょうどよくて、バレエの演目にしたら映えるのではないか、って思った。
Perspectives: Balanchine, Marston, Peck
11月28日、金曜日の晩、Royal Opera Houseで見ました。
この時期になるとなんとなくバレエが見たくなって、でも『くるみ割り..』はNYで何度も見たのでそれ以外のを - と思ったがいま『くるみ割り..』そもそもやってないし。 3演目で、35分 - 35分 - 40分で間に25分の休憩2回。
最初がBalanchineの”Serenade” (1935)で、これは昔見たことがあった。優雅で透明(としか言いようがない)な軽さとしなやかさがあって、何度見てもうっとりの美しさで、Balanchineのなかでも一番好きかも。
次のがCathy Marston振付による”Against the Tide”。海岸のような岩場で、Benjamin BrittenのViolin Concertoにのってシャツとチノパンの男たちがぶつかったり組み合ったりしていく。なにを表現したいのか、なんとなくわかるけどあんま深くわかりたくないようななにか。
最後のがJustin Peck振付、音楽はSufjan Stevensによる”Everywhere We Go” - これを見たくてきた。
Justin PeckはブロードウェイでSufjanの”Illinoise”(2023)をダンス・ミュージカルにした人でもあるので、まったく心配いらない。男性は胸下までの黒タイツ、女性は太い横縞シャツで、オーケストラアレンジは別の人によるものだが、彼のところどころつんのめったり小爆発したりしながら花が咲いて広がっていくお茶目な世界が、幾何学模様で変化していくプレ=モダン〜モダンの照明と”Everywhere We Go”のフレーズと共に浮かびあがってくる。00年代のステージで、チアリーディングを入れてわいわい盛りあげていた頃を思い出した。
彼の山盛りあるクリスマス音楽でバレエやったらおもしろいと思うのに。
12.02.2025
[film] Testimony (2025)
11月27日、木曜日の晩、Curzon Bloomsbury内のドキュメンタリー上映専門のシアター - DocHouseで見ました。
Claire Keegan原作(2021)、Cillian Murphyが制作、主演した映画 - ”Small Things like These” (2024)で、そのエンディングで捧げられていたMagdalene laundriesの犠牲者たち – これ以外にも多くの映画で取りあげられている - その事件の全容をまだ存命している被害者たちと明らかにしていくのと国(アイルランド)への責任追及と謝罪を求めて奔走するJustice For Magdalene (JFM)の女性たちを追ったドキュメンタリー。 監督はAiofe Kelleher。ナレーションはImelda Staunton。
1765年にChurch of Irelandによって設立されて1994年に閉鎖されるまで数万人(少なくとも1万人)規模の女性、女児が監禁され、無給労働を強いられていたMagdalene laundriesについて、2013年、アイルランド政府は国として運営に関与していたことをようやく認めたものの、関与した女性たちへの正式な謝罪や補償を怠っていたので、女性たちが立ちあがり、Justice For Magdalene (JFM) を組織してその証拠、証跡を求めて各地で実態を調査していく。映画は生き残った被害者の女性たちの声を拾いながら、歴史学者、法学者、調査団の中心となった弁護士Maeve O’Rourkeたちの活動を追って、ボストン、国連、アイルランド、へと広がっていく。(施設で生まれた子供たちは引き離されてアメリカに里子に出されたりしていた)
実際の被害の地獄のような恐ろしさ - 脱走しても行くところがないので教会に助けを求めても、同じ教会だからって元来たところに戻されるとか - もさることながら、それ以上に、200年に渡って国による強制収容、拷問がふつうに行われていたことの恐ろしさがくるのと、その証拠を束にして提出して漸くその非を認めて謝罪したとか、国が取ってきた(こうして押されなければなにもしなかったであろう)行動の異様さのほうに目がいく。
後半は、これもものすごく気持ちわるいのだが、1993年ゴールウェイのSt Mary’s mother and baby homeで、796人の乳児と子供の遺体が棄てられていた件の真相を追っていく。このような遺棄が宗教施設で宗教の名のもとに行われていた、ということと、これも、こうして暴かれ晒されなければそのままで放置されて誰も何もしなかったであろう、というのと。
Testimonyを重ね合わせていくところから始まり、行動に駆られて連携していく女性たち、謝罪を勝ち取って祝福を受ける被害者の女性たちを静かに追って、カメラの前で前を見つめて証言していく女性たちは力強く、その勇気も含めて讃えられるべきだと思うが、それよりも、どこかにいるはずの(最大)796人の父親たちはどこで何をしていた奴らなのか、いまはどこでどうしているのか、ってそっちの方が気になる – 彼女たちの辛苦、失われた人生のことなんてまったく考えることなく、日々楽しく酔っぱらってげへげへしていたのだろう、とか想像するとうんざり。DNA鑑定して片っ端から公表しちゃえ、くらいのことは思う。
あと、国って基本碌なことをしないし止めないし、捏造だってするし、過去の政権がやったことなんて出向いて証拠ぜんぶ突きつけて要求しない限り絶対謝罪なんてしない、そういうクズ(が運用しているの)だから、とにかく信用しないこった。いまの政府がまさにそれ。
[theatre] Hamlet
11月22日、土曜日のマチネを、National TheatreのLyttelton Theatreで見ました。
この日の晩が最終で、見逃すところだった。
10月に見た”Bacchae”は、National Theatreの新芸術監督に就任したIndhu RubasinghamのNTでの初演出作だったが、これは彼女と同じタイミングで副芸術監督に就任したRobert HastieのNational Theatre演出デビュー作。原作(1601)はもちろんシェイクスピア。休憩を挟んで全2時間50分。
これ、もうじきNational Theatre Liveでやるし、来年春にはBrooklyn Academy of Musicにもいくのかー。
最初に”Hamlet”と大書きされた黒の幕が掛かっていて、幕があがると割とモダン、ところどころ(背景の絵とか)クラシック。登場人物たちの服装もスーツだったりジャージ姿だったり、一応モダン劇の体裁だが、6月にRSCで見た”Hamlet Hail to The Thief”のようにばりばりに外側から固めたイメージはない。会話のやりとりを中心に人が動いて動かされて、その範囲で視界や舞台がばたばたと変わっていって留まるところがない、どこに連れていかれるかわからない、そんなイメージ。
デンマークの王子Hamlet (Hiran Abeysekera)が父王の死にそれにまつわる陰謀を聞いて、復讐を誓って、王室を中心にいろんな人たちが動きだしていくなか、みんな狂ったり殺したり殺されたり、だんだん人がいなくなっていく様が描かれていく。
ものすごく沢山上演されているこの有名な悲劇について、まだ見始めたばかりなので、これからいろんなのを見ながら所謂「スタンダード」なところ、外してはいけないところ、悲劇の「悲」とか、ドラマチックと言うときの「ドラマ」とはなんなのか、などを中心に考えていけたら、と思ったりするのだが、シェイクスピアの劇のおもしろさって、そのひとつ上(or 下?)の段から、なんでこの人(たち)はここでこんなことをしたり、笑ったり嘆いたりキスしたりしているのか、というような、ヒトの根本的な挙動とか受け応え、それらが積み重なって渦を巻いて「事件」や「劇」の相をなしていくところまでの異様さ不可思議さにまで踏みこんでいる気がして、ああ(ドラマの)沼というのはこういうのなのかも、って今更ながらに思ったりしている。
この劇については、まずHamletがそんなに狂っている、ある考えに憑りつかれているようには見えない、というのがある。(なんとなく挙動とか謎めいた笑みとか、どこかPrinceを思わせたり - Princeの話だし) 狂っているのか狂っていないのかが量れなくて、後半冒頭の”To Be or Not to Be”のところも、心ここにあらずの呟きで、他の台詞も少しどんよりしていて普通に喋っているだけなのだが、周囲もハレものに触るようにいちいちびくびくしていたり、ピストルを撃つのも、フェンシングをやるのも、死んでいくのも、感情を表に出さず、ぼやけた無関心のなかなのかすべてを悟ってしまっているのか、諦めているのか、それでも劇の時間が止まることはない。
そんな彼と対照的なのが、Ophelia (Francesca Mills)で、体の小さな彼女は目一杯走りまわり、歌をうたい、声をあげ、届かないからそうしているのか、そうしないと届かないのか、その痛切さが最後まで残る - エモーショナルになるとこはこれくらい。
あとは会社員のように銀行員のようにきちきちと動きまわって機械のようなRosencrantz (Hari Mackinnon)とGuildenstern (Joe Bolland)のふたりとか。 あまり喋らないけど最後までHamletの傍に付き添っている母のようなHoratio (Tessa Wong)とか。
この悲劇から劇的な振る舞いや言動をそぎ落としてプレーンな - それでもそこそこ十分に通じる - ドラマにしてみた時、そこにある悲しみや怒りはいったいどんなふうに見える - 伝わるものなのか。という実験? 血族の諍いとか普遍的な何かに通さずに見た時にどう見えるのか - それでも十分に変で不気味でなんだかおもしろいのだった。
12.01.2025
[film] Jay Kelly (2025)
11月24日、月曜日の番、 Curzon SoHoで見ました。
ものすごーく評判が悪いことも、その理由もだいたいわかっていて、でもNoah Baumbachの新作だから、と。
脚本はBaumbachとEmily Mortimerの共同。LFFでも上映されてなにやら盛りあがっていた。
George Clooneyがハリウッドのトップクラスのスター俳優Jay Kellyで、新作を撮り終えたばかりだが、疎遠になっていた下の娘(Grace Edwards)からは煙たがられ、自分を育ててくれた監督(Jim Broadbent)は亡くなり、その葬儀で駆け出し時代のライバルだった友人(Billy Crudup)と再会したら殴りあいになり、トスカーナの映画祭で生涯功労賞を授与したいので来てほしい、という依頼も突っぱねようとしたらずっと傍にいるマネージャーのRon (Adam Sandler)から説得されて、丁度娘のヨーロッパ旅行を追っかけるかたちでパリからトスカーナへの普通列車に乗りこむ。その旅の顛末を通して彼に去来する過去のいろんな後悔から感動の授賞式まで、という映画で、George Clooney主演のこんなお話しを見たいと思うのはNespressoのCMも含めて彼のことが大好きな人なのだろうな、と思って見ていた。
George Clooney的なキリッとした二枚目風が面倒な事態を解決してくれる物語が万人にもてはやされた時代の終焉を、NYでもロンドンでもない、トスカーナの田舎まで運んで告げようとしているのか、などとも思ったのだが、ラストの方はどうみても感動的なところに落とそうとしているのでうーむ、ってなる。
こういう設定の映画であるなら、例えフィクションであっても、主演を演じるスター俳優はそれなりの実績と人気のある人がやるべきだと思うのだが、そもそもGeorge Clooneyって、そういうレベルの人なの?(別に嫌いではないよ) いろんなプロモーションとか、マネジメントはしっかりしている印象はあるけど、それだけなんじゃないの? これの主演も、その延長でしかないんじゃないの? とか。うまくこなせているならよかったね、だけど、こっちの先入観のせいか、それらも含めてぜんぶが冗談のようなGeorge Clooneyプロモーション映像にしか見えない。
それよりもさー、主演以外にはAdam Sandlerがいて、Laura Dernがいて、Greta Gerwigまで出てくるのに、イタリアからAlba Rohrwacherまで出ているのに、なんでストレートにコメディにしないの? “While We're Young” (2014) でも”Mistress America” (2015)でも、居場所とか立ち居振る舞いがわかんなくなった主人公が意地になって散らかして転げ回って大変!って、得意だったじゃん? なんで主人公を中心にした”This is 60”をやらないのだろうか?
それとかさー、映画 - パーフェクトで完結した世界 - を作る/作ってきた当事者の精神の危機、はこれまでも映画のテーマにはなってきて、別の夢の世界に逃げこんだり、外部からなんらかの助けや啓示があったりだったと思うのだが、ここでは、彼がおかしくなりすぎて信頼してきたスタッフがだんだん離れていって、さてどうするのか、ってなっているところで、授賞式での編集されたレガシー映像みたら自分で自分に感動して治っちゃう、ってどういうこと? そんなんで解決できるなら、ただ周囲を振り回しているだけの我儘ナルシストでしかないし。パワハラ上司とかがちょっと優しくされたら和んじゃうようなよくある話? とか。
勘違い系のじじいがそのまま勘違いしそうな内容のところも含めて、あーあ、になるのだった。
11.28.2025
[film] Wicked: For Good (2025)
11月22日、土曜日の午前、BFI IMAXで見ました。
“Part I”を見たのが昨年の12月1日だったので、もうほぼ1年前、というのにびっくりする。
関係ないけど、最近リリースされた映画で、昔なら必ず(見なければ、と思って)見ていたようなのを見なくなってしまった。Ali Asterの”Eddington”とか、Luca Guadagninoの”After the Hunt”とか、Yorgos Lanthimosの”Bugonia”とか。 演劇とか他に見る/見たいのがいっぱいある、というのもあるけど、現実がじゅうぶんひどく、気持ちわるくなっているので、べつに彼らの映画に教えてもらっていちいちぐったりうんざりしなくてもいいや、って(なんか疲れている)。
公開後2日目、土曜日の午前なのだが、結構入っていて、子供連れも多いけど、みんな真面目に静かに見て、曲が終わるごとに拍手していた。10月のLFFでも期間中にギャラリーで”Wicked”のパネル展があったのだが、映画のキャンセル待ちよりもすごい行列が会場の外まで続いていて、熱心なファンに支えられているんだなー、って思った。やはりミュージカルのファンが多いのかしら?
元のミュージカル版(2003)を見ていなくて、更にもうひとつの映画版“The Wizard of Oz” (1939)も昔に見たきり - これの公開に合わせてBFIでは何度か上映されていたのだが、逃してしまった。“The Wizard of Oz”のオリジンに触れているところもあるので、1939年版は見直しておいたほうがよいかも。
以下、相当とんちんかんになっていると思うが、ざっくりとした感想を。ネタバレとか、もういいよね。
前作の終わりに帝国によって悪い魔女、の烙印を押されたElphaba (Cynthia Erivo)は森の隠れ家で虐待されている動物たちのためにひとりでゲリラ的に戦っていてかっこよいのだが、Galinda (Ariana Grande)は、割と落ち着いて彼女は彼女だから、みたいに眺めながらFiyero (Jonathan Bailey)との婚礼の準備を進めている。 Elphabaの妹のNessa (Marissa Bode)が帝国の外に勝手にでることを禁じたあたりから拗れてきて、それを魔法の重ね塗りでどうにかしようとするので、あれこれおかしくなって嵐になって…
魔法はなにかを実現したい、世界をこうしたい、っていう思いの延長にあり、それらはヒトの上下や種の間でぶつかったりして当たり前で、そこには学園から始まる強い弱いとか序列もあって、それらのバランスで人はWickedになるし竜巻だって起こるし、という混沌とした様が、Part Iよりも強く、ドミノ倒しで、どうなっちゃうんだろう… というトーンで描かれていって、最後に落ち着く先も、結局わたしがこうなればいいんだね/こうするしかないのね、というところで、こんなふうに成り立っている世界は間違っているからぶっ壊そう、一緒に戦おう! という方にはいかない。世界は世界が求めている落ち着きを取り戻して”There's no place like home!" っていう家父長制&帝国万歳ワールドに戻ってしまう。よいこはそうでなくちゃいけないのか。 声を重ねて調和をはかるミュージカルだと、こうなるしかないのか。
「オズの魔法使い」のライオン、カカシ、ブリキ男のオリジン、事情がわかったのはへー、だったけど、そういうのなくたって、ただそこにいたから、とかで一緒に、仲間になったってよいのに、というのはちょっと思った。バックグラウンドチェックがそんなに大切か。ライオンもカカシもブリキ男も、みんな中味が空っぽのスカスカだから一緒になったんだと思っていたのに、それぞれにあんなシガラミがあったなんて…
自分の結婚式の当日にGalindaではなくElphabaのところに行ってしまうFiyeroの件、昨日ここに書いた”The Wicked Lady” (1945)を思いだした。男女逆だけど、ここでも”Wicked”が使われている。
いっぱい出てきた動物たちにもっと動いて、大暴れしてほしかったのに。ヤギ先生には思いっきり語ってほしかったし、空飛ぶ猿も含めて、みんなおとなしすぎないか – それが本来の世界だから、そこに戻ったのだから、だったらつまんなすぎるし。
もちろん、おおもとのL. Frank Baum原作の“The Wonderful Wizard of Oz” (1900)は子供のために書かれたのだし、映画版は第二次世界大戦が勃発した1939年に出たものだし、ミュージカル版の出た2003年は、911の直後で、世界の分断が始まろうとしていた - なので、まずとにかく「世界」は維持されなければならないものだったのだ、ということはわかるけど。正義 = 波風を立てないこと、ではないよね。
でもElphabaの飛ぶ姿はかっこよかったし、ElphabaとGalindaが一緒にいる絵も歌もよいから、いいか... くらい。
[film] Madame X (1966)
11月23日、日曜日の午後、この午後はずっとBFI Southbankのメロドラマ特集に浸かった。
この特集のビジュアル - シャンパングラスの上で赤い涙を流している女性はLana Turnerで、特集を見ていくと、やっぱりLana Turnerしかないな、と思ってしまう。
原作はフランスのAlexandre Bissonによる同名戯曲(1908)、Turner自身が映画化権を買い取って、プロデューサーのRoss Hunterのところに持ちこみ、Douglas Sirkに監督して貰おうとしたが、彼の健康上の理由で不可となり、テレビ畑のDavid Lowell Richが監督することになった。それ以外の撮影Russell Mettyや音楽Frank Skinnerは、この時期のRoss Hunter組。これをSirkが監督していたらどんなにか… って震えがくるくらいにすばらしいやつだった。 邦題は『母の旅路』 - これはぜんぜんだめよね。
Holly Parker (Lana Turner)がコネチカットの富豪のところに嫁いできて、夫のClayton (John Forsythe)は外交官で海外を飛び回っていて、姑のEstelle (Constance Bennett)はHollyを見下して監視している。やがて男の子も生まれて幸せだったのだが、夫がいないところで、遊び人のPhil (Ricardo Montalbán)から頻繁に誘われるようになっていて、でも夫が昇進してワシントンDCに行くことになったので、関係を終わらせるべくPhilのところに行ったら押し問答になり、跳ねのけたら彼は階段から落ちてあっさり死んでしまう。動転したHollyは逃げるようにその場から立ち去るのだが、現場にローブを置いてきてしまった。
姑Estelleはこれの前からHollyの挙動を怪しいと思って追跡していたので、事件のことも当然把握していて、これが公になったらClaytonの将来はなくなる、とHollyを脅迫して偽りのパスポート一式と当座のお金を渡して家から追放してしまう。こうして別人にされた彼女はデンマーク~メキシコへと流れて、お金もなくなって酒に溺れて体を壊して、メキシコの酒場で知り合ったアメリカ人に自分の身の上をつい喋ってしまったら、それをネタに今や州知事になっているClaytonを脅迫したろか、って言うので頭にきてそいつを撃ち殺してしまう。
あっさり逮捕されたHollyは、取り調べの際にも名前を明かすことを断固拒んで(だからMadame “X”)、どこからどう見ても有罪だし、裁判所が選んだ弁護士は、正義感しかないような新人の若造(Keir Dullea)で、しかしこいつは生き別れとなっていたHollyの息子であったことがわかってきて、法廷にはClaytonやEstelleもやってきて…
最初にクラス(階級)のテーマが出てきて、最後はかわいそうなママの話で終わる、こないだのMelo-dramaramaでの講義展開そのままで、名前を奪われてぼろぼろになって路頭を彷徨う彼女の姿だけで十分かわいそうなのに、最後にあんなの、予想もしていなかったし周囲の人々はみんなずるずるに泣いていた。
しかしこの後、陪審員に向かって激烈に正義を説いていたClayton Jrが、実母をあんなふうにした元凶が自分の祖母であったことを知ったら… の方に興味が向いてしまう。
“Leave Her to Heaven” (1945)と同じく豪邸で始まって法廷で終わるドラマでもあるな。
The Wicked Lady (1945)
↑のに続いてBFI Southbankで見ました。次の2本は英国のフィルム・スタジオGainsborough Picturesの2本立て。当時大ヒットを記録した作品だそう。邦題は『妖婦』。
原作は1945年のMagdalen King-Hallによる小説“Life and Death of the Wicked Lady Skelton” – どうもそういう人が実際にいたらしい説がある。
17世紀の英国の田舎で、Carolineが自分とSir Ralph Skeltonの結婚式に親友のBarbara (Margaret Lockwood)を招いたら、彼女はSkeltonに一目惚れしてその場で誘惑して、みんなのいる前で花婿を略奪して、Skelton夫人となる - これだけでもびっくり - のだが、田舎の生活は退屈で、友人と賭けをしてブローチを失った彼女は、有名な路上の盗人Jerry Jackson(James Mason)に倣って覆面して路上で待ち伏せして馬車を襲って奪い返す、これがうまくいったのでその快感で盗賊をやめられなくなり、やがて本物のJerry Jacksonとつるんでいろいろやらかすようになって.. この後も自分の正体を知った屋敷の使用人を簡単に殺したり、Jerry Jacksonを売って絞首刑台まで運んでいったり、波乱万丈の昼メロの数倍アクの強いドラマがごろんごろん展開していってみんなで唸りながら見ているのだが、イギリスの田舎ならこんな人が出てきてもおかしくないかも、くらいのかんじにはなる。
Gainsboroughの看板女優となったMargaret Lockwoodは、実際にはとても素敵な人だったそうな。
Madonna of the Seven Moons (1945)
↑のに続けて見ました。これもGainsborough Picturesので、邦題は『七つの月のマドンナ』。
Margery Lawrenceによる1931年の同名小説が原作で、監督はArthur Crabtree。
Maddalena (Phyllis Calvert)は修道院にいた10代の頃にレイプされて、その後で請われて結婚してフィレンツェに渡って、お金もちのお屋敷で幸せに暮らしていたが、しばらく離れていた娘が戻ってきたある晩に突然失踪してしまう。夫によると以前も突然消えてしまった時期があったという。
彼女は地元のギャングのNino (Stewart Granger)と一緒に、以前とはぜんぜん違う風体と振る舞いで暮らしていて(でも名前はおなじ)、やがて必死になって彼女を探す元の家族は…
レイプのショックで多重人格者になっていた、ということが後の方で明らかになっていくのだが、最初の方はなにがなんだかわからず、でも最後の方はかわいそうでしんみりと終わる。キリスト教のマグダレーナのことかな、とも思ったが、教会が出てくるのは最初と最後だけだしー。
メロドラマ特集は、12月も続くんだよ。
11.26.2025
[theatre] Hedda
11月20日、木曜日の晩、Orange Tree Theatreで見ました。
原作は1891年に初演されたHenrik Ibsenの”Hedda Gabler”、英国のアングロ・インディアン系の映画女優Merle Oberon(1911-1979)の話に着想を得て、Tanika Guptaが脚色したもの。 演出はTV版の”Howards End”(2017)や”Normal People” (2020)を監督したHettie Macdonald。
舞台は1948年のロンドン、チェルシーのお屋敷(かフラット)のリビングで、白いふかふかのカーペットが敷かれていて、それを囲む最前列の客とその前を渡って奥の席に向かう人はカーペットを踏まないでね、って注意されている。
早々に引退を発表した映画女優のHedda (Pearl Chanda)が三度めの結婚相手となる映画監督の夫のGeorge (Joe Bannister)とのハネムーンから帰ってきたところ。まるまる堂々としたメイドのShona (Rina Fatania)がまずGeorgeと彼の叔母を迎えて、彼らとの会話から、ShonaとHeddaのインドにいた頃からの古い付き合いが明らかにされる。HeddaとGeorgeの仲はよさげに見えるが、ひとのよいGeorgeが気づいていないだけで、彼女はとうに冷めているような。
パーティに向かう途中でHeddaのところに寄った大物映画プロデューサーのBrack (Milo Twomey)が、アル中で一線から退いていた脚本家Leonard (Jake Mann)が戻ってきた、と告げると、Heddaの表情がちょっと曇って、更にパーティでLeonardが皆の前で読みあげたという書きかけのスクリプトの内容を聞くと、真っ青になる。インドでOutcastとして生まれ(インドでの名前は”Hema”だった)、その出自を隠して英国で女優になる女性のお話しで、それはHeddaのこと - インドで彼女と幼馴染として育ち、一時は恋人でもあったLeonardだから書き得るようなお話しで、BrackとGeorgeはすごいお話しになると思う - これは映画化せねば、って盛りあがっているのだが、Heddaにしてみれば冗談じゃない、とGeorgeが持ち帰ってきたスクリプトの紙束をテーブルの下に隠してしまう。
パーティからぐでんぐでんになって戻ってきたLeonardと対峙したHeddaは、スクリプトを失くしたと嘆くLeonardになんであんな酷いことを書くのか、って責め、更に酒を飲ませて、彼にピストルを渡して…
戦後のイギリスの映画産業がとても盛りあがっていたことはBFIで何度も聞いていて、そういう勢いの中で自身の出自をなんとしても隠さなければならなかったMerle Oberonのような人がいたことは容易に想像がつく。ふつうの人からは一切見えない(でも本人にはいろいろ見えてしまう)ところで人種差別や男たちの愚鈍さと戦わなければならなかったHeddaの苦しみ、葛藤、絶望、怒りがラストに向かって、どっちに押しても引いても、どうしようもなくなっていくさまは痛ましく、ラストはとても説得力がある。(原作とはちょっと違って、彼女はもうひとり道連れに..)
MeTooのように覆い隠されてしまう加害もあれば、Heddaのように自分で自分を隠さなければ動けなくなる空気圧のようなものもあって、前者の敵は明確にそこにいるけど、後者のは、誰も意識しないところに浸透しているので当人でなければ感知できない秘密となり、それを間接的に暴いて目を覚まさせようとしたLeonardも、それでお金を儲けようとしているBrackも、男だからそういうことができる/言えるのだ、という二重三重に縒りあわされた社会の格子のきつさ。
それを正面からずっとひっかぶってきて、既になんでもなくなっている堂々としたShonaが対照的だった。(そして、誰もがああなれるわけではない)
誰かを傷つけたり、黙らせたり抑圧しているかもしれないことを薄めて空気化して、みんなでそこに乗っかって笑ってごまかすのが得意な、揃って美白・痩身大好きな日本村でも見られてほしい、と思った。
[log] Paris - Nov.21 2025
11月21日、金曜日に会社を休んでパリ日帰りをやってきました。
前回日帰りしたのは6月で、次は1泊で行きたい(ああ1週間いられたら)と言っていたはずなのだが、1泊するとなるとホテルとか荷物とか、考えなければいけないこともいろいろ出てきて、面倒だし結局いいや… って日帰りになる。
日帰りのリスクは、なんといってもユーロスターが動かなくなって、その影響で一日の予定がずるっと後ろに倒れることで、これで前回もやられて、でも当日駅まで行ってみないことにはわからないのがきつい。で、行きたいのか行きたくないのかどうするんだ? っていうとやっぱり行くのね。日帰りならいつも下げている袋に頭痛薬とスマホのチャージャーとクッキー(食べてる時間ないので)を詰めるくらいで出れる。最近ちょっと悩ましいのはカメラ兼こういう文を入力している端末のiPhoneが酷使しすぎてきたせいか鈍くなってきたことなの。
Gerhard Richter @ Fondation Louis Vuitton
これのある森に向かうまでの道が朝11:00くらいなのにとにかく凍える寒さだった。
Richterは、これまでドイツでも竹橋でもNYでもロンドンでも、いろんなのを見てきたが、現時点での最大規模のレトロスペクティヴとのこと。展示点数は270点、竹橋での展示が110点だったので、軽く倍以上で、それでも軽く「全体」は網羅しきれていない。
いちおう年代順、テーマ別という括りはあるようなのだが、風景画、ポートレート、ほぼ写真、抽象画、抽象画の抽象画、デッサン、オブジェ、題材としても家族、ニュース(Baader-Meinhof paintings)、歴史、動物、音(John Cage)、見る/見えること、など、表象芸術のあつかうすべてのもの、それらが表象として立ちあがるあらゆる局面を捕らえようとしているようで、そしてそれらが立ちあがってこれだけの物量でどかどか並べられていると、ひとりの画家の絵画展というより集合知のような何かが埋まったり詰まったりのでっかい遺跡とか構造物のようなもの - 彼はまだ死んでいないけど - の内部を巡っているような感覚になる。
階段をあがっていった最後の部屋にユベルマンの『イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』の、あの4枚と灰色の鏡 - greyed mirrorsがあって、まだ描けるものと描きえないものとの間の果てのない闘いは続いているのだ、と思った。
Luc Delahaye - Le bruit du monde @ Jeu de Paume
“The Echo of the World” – そしていまのリアル世界はこんなふうなのだ、とRichterの後に見ると迫ってくるものはある。マグナムに所属して戦場のフォトジャーナリズムにいた時期以降の作品らしいが、それでも十分に痛ましくて辛い。
本当はここでやっている映画 - Luis García Berlangaの特集も見たかったのだが、まあ無理。
Gabrielle Hébert - Amour fou at the Villa Medici @ Muséed'Orsay
Gabrielle Hébert (1853-1934)は夫で画家のErnest Hébert (1817-1908)を支えつつ、Villa Mediciで独学で写真を学んで日常のいろんなスナップなど(風景から女性のヌード等まで)いろいろ撮って日記と共に遺していて、それらを纏めて彼女が暮らしていた部屋のように展示している。夫やSarah Bernhardtの寛いだポートレートが素敵。
John Singer Sargent - Éblouir Paris @ Musée d'Orsay
Sargentは、こないだのTate Britainでの“Sargent and Fashion”もまだ記憶に新しいが、今度のは「幻惑のパリ」。Sargentはなんでも、どんな角度からでもネタにできて、並べれば並べるほど、絵を見たなーってかんじになれてしまうお得なー。
METとの共同企画で、フランスでのSargentの単独展はこれが初めて(ほんと?)だそう。
1874年、18歳でパリに渡って画家として修業をして、“Madame X” (1883-1884)が問題になった後、ロンドンに向かう1880年代半ばまでの作品が網羅されていて、“Madame X”の習作数点がおもしろいのと、ボストンから”The Daughters of Edward Darley Boit” (1882)が来ていた。あのでっかい花瓶と、その間にいる子供たちのなんとも言えない不気味さ - “The Shining”のような。
Bridget Riley - Point de depart @ Musée d'Orsay
Bridget Rileyの線描と彼女のスタイルを大きく変える「Point de depart - 出発点」となったGeorges Seuratの点描を並べてみると、彼女の絵を見るときと同じような視界の揺らぎが波動でやってきて、そうだったのかー、になる。
いま、National Galleryでやっている企画展“Radical Harmony - Helene Kröller-Müller's Neo-Impressionists”もすごくよくて、わーきれいー、なだけではない点描画の幅と可能性を見ることができるの。
Jacques-Louis David @ Musée du Louvre
オルセーからルーブルに移動する。ルーブルは盗難事件もあったし(←関係ないだろ)、今回は行かなくてもよいかな、だったのだが、この企画展をやっているのならしょうがない、と。
Jacques-Louis David (1748-1825)のでっかい作品たちはルーブルに行くと嫌でも目に入って、でもあまりちゃんと見たことなかったかも、というころで没後200年を機としたたぶんここでしかできない規模の回顧展。でっかくて移動できない作品 - “The Coronation of Napoleon” (1807)などは、無理して移動しないで、ここですよ!の白い幟が立っている。
彼の使う紅~薄い赤の折り重なったようなコントラストと描き方が好きで、そこだけ見れれば、くらいだったのだが、ナポレオンのお抱えで、革命の猛々しさを自然主義や古典のなかに織り込んで炸裂させる強烈なプロパガンダ画家であったことが見えてきて、こうやって通して見るのって大事だなあ、って改めて思った。Richterを見てこれを見ると、アートと政治がどれだけ切り離せない形の表現としてあるのか/あったのか、浸みるようにわかるよ。
METからやってきた“The Death of Socrates”(1787)、ベルギーから来た数バージョンある“The Death of Marat”(1793)の腕と血の生々しさ。有名な“Madame Récamier”(1800)に始まる女性像の、おなじ画家とは思えない豊かさ、多様さとか。
Rêveries de pierres : Poésie et minéraux de Roger Caillois @ L'École des Arts Joailliers
3年前に再版されて一部の熱狂をよんだRoger Cailloisの『石が書く』でも紹介されていたカイヨワの石たちの展示。時間指定だけど無料(石だし)で、チケットを取って行ったが、時間は関係なくすぐ入れてくれた。
そこらの自然史博物館に展示されている宝石の類よりは、もうちょっと鉱物っぽく、そこらに転がっている石のようで、でもその表面や断面や形象が放つオーラだか磁力だかは眺めれば眺めるほどサイケにきそうな危険なやつで、いくらでも見ていられるし、昔の人はこれを見て何を思ったのか、とか想像がいくらでも転がっていって止まらない。 こういう石ころ、貝殻とか葉っぱとかきのことかも含め、これらに対する驚き(に対する目線)が自然科学と人文科学の起点だと思っていて、この感覚は忘れてはいけないなー、って。
あ、日本の石コーナーもあったよ。
ルーブルを出てからここに来るまでのバスがぜんぜん来ないので地下鉄にして、戻りもバスを待ったのだがやはりぜんぜん来なくて、寒いからバスにしたい → けどぜんぜん来ない → しかたなく歩く、を繰り返す、移動に関しては時間を無駄にした非常に効率のよくない一日だった。そしてここからパリ装飾美術館に行ってみたら、アール・デコ100年の展示もPaul Poiretもぜんぶ売り切れていて、今回はここまでで諦めておわる。
Cinémathèque françaiseのOrson Wells展も見れなかったし、もう一日行かないとだめかも... だからやっぱり一泊にー。
そういえばフランスからイギリスへの乳製品持ちこみ禁の件は… (略)。
11.24.2025
[theatre] John C. Reilly is Mister Romantic
11月19日、水曜日の晩、WalthamstowのSoho Theatreで見ました。
いつも行っているSoho TheatreはSohoの繁華街にあるのだが、今回のWalthamstowっていうのは地下鉄のVictoria Lineの終点で、結構遠いところで、間違えるところだった。大昔に建てられたクラシックなシアターを買い取ったものなのか、大きさも含めて雰囲気はとても素敵。 ここでの3日間公演の最終日。
チケットは随分昔にアナウンスを見てすぐ取って(あっという間に売り切れていた)、でもこのお題で何をやるのかは謎だった。
場内が暗くなると、客席の後ろの方から楽隊 - アコーディオンにラッパ、バイオリン、バラの花を抱えた人等、縦一列で正装した4人が演奏しながら入ってきて、ゆっくりと通路をぬってステージ上にあがる。ちんどん屋風だが、みんなぱっとしない浮かない顔でしんみりしていて、仕事だからしょうがない or 葬列のようにも見える。彼らがよく映画に出てくる宝物が入っているような木箱をどん、ってステージに置いて適当に演奏をはじめると箱の中からJohn C. Reillyが出てくる。燕尾服を着て、頭髪は爆発してて、頬には薄っすら紅で、演奏を始めたバンド – ピアノ(たまにアコギ)、ウッドベース、アコーディオン&ラッパ、バイオリンにあわせてスタンダードを歌ってステップをふんだり舞ったりしていく。
John C. Reillyの歌については、映画版”Chicago” (2002)でも歌っていたし、“Walk Hard: The Dewey Cox Story” (2007)だってあったし、Third ManからJack Whiteプロデュースで7inchも出したりしていたし、ヴォードヴィル風の、ということであれば、”Stan & Ollie” (2018)のOliver Hardy役が記憶に新しくて、要はこういう演し物についてはなにも心配することはなくて、実際そうだった。なにが飛びだして、どこでどうタガが外れて、どんなふうに襲いかかってくるのか、どきどきして見ていればよいだけ。
曲の合間には来てくれたみんなをさんざん揚げて讃えてバラの花束をぶんまわして、数曲やってそこからバラの花のついたマイクを手にすると客席に降りてきてやあやあ、ってひとりひとりいじりながら通路の間をぐいぐい入っていって、事前の仕込みがしてあるのかどうかわからないけど、女性の客にマイクを向けて名前からいろいろ聞きだし、最初の人はステージ上まで連れていって、「これからずっと僕についてきてくれるかい?」ってプロポーズをする。言われた方は「ごめんなさい」って返すと、そうかそういうことか、って拗ねてステージに戻ってきてやけくそ半分で歌を、というフーテンの寅みたいなやりとりを4回くらい、女性だけじゃなくて男性客にも同じようにやる。返しは全員「ごめんなさい」だったのだが、これに”Yes”って応えたらこの後どう展開していったのか、はちょっと興味がある。
でもとにかく彼は”Mister Romantic”なのでそんな程度では凹まなくて、まずは客を笑わせて楽しませて幸せになって貰おう!だし、”Chicago”ではRenée Zellwegerの旦那だったし、“The Hours” (2002) ではJulianne Mooreの、“We Need to Talk About Kevin” (2011)ではTilda Swintonの旦那だったんだから、すごいんだから(相手はみんな幸せになって… ない?)。
彼の芸って、名作“Step Brothers” (2008)でも、”Stan & Ollie”でも、よい相方 - バカであればあるほどよき - がいるところで加速して爆発するものなので、今回の客席に突っこんでいくやりかたはよいのだが、相手の応答がふつうであればあるほどつまんなくなっちゃうのがなー、いや、つまんなくはないんだけど、ふつうの芸人のそれになっちゃうんだよね。
終わりは現れた時の箱に飛びこんで箱がそのまま運ばれていって終わり、バンドは元きた道を演奏しながら帰ったのでした。カーテンコールとかはなし。1時間20分くらい。 でも彼を目の前で見れたのでよかったことにした。
11.23.2025
[theatre] Porn Play
11月15日、土曜日の晩、Royal Court TheatreのUpstairsで見ました。
シアターのあるSloane Square周辺は始まったばかりのクリスマスマーケットできらきらのぐしゃぐしゃだった。
座席指定ではなく全席自由なのだが、A4サイズバッグより大きい荷物は預けるように、というのと、入る前に入り口に置いてあるソフトカバーで靴を包むように、という指示があって、中に入ると客席が四方を囲む形で全体が乳白色のふかふかので覆われたソファのようになっていて中央は大きな楕円の2段くらいのすり鉢型 - たぶん女性器を模している - に凹んでいる。
タイトルだけでもはっきりと18禁なのだが、ポルノがダイレクトにプレイされるわけではもちろんなくて、いろいろ考えさせてくれるとてもよい内容のものだった。
プレイテキストの最初にはMiltonの引用と、もうひとつ、”All paradises are defined by who is not there, by the people who are not allowed in.”というToni Morrisonの言葉が引いてある。
原作はSophia Chetin-Leuner、演出はJosie Rourke、休憩なしの約75分。冒頭、女性 - イヴ? - が現れて無言のマイムをして誘惑の世界に誘ってくる。
大学の修士を出て講師としてJohn Milton (1608-1674)を教えているAni (Ambika Mod)は学業は優秀で学界で有望な若手と言われいて、彼Liam (Will Close) もいるし、彼との仲がうまくいっていないわけでもないのだが、インターネットポルノに嵌っていて、彼と会った(やった)後の寝る前とかにPCとかスマホを出して(セットのクッションの隙間に挟みこんであってすぐに取り出せるようになっている)サイトにアクセスして、マスタベーションをするのがふつうの癖のようになっていて止められない。Liamもそれを知っているのでやめてくれない? と頼むのだが、Aniはなんで? 浮気しているわけじゃないし、あなたに満足していない、ってことでもないし、酒とかドラッグみたいに習慣化によって体によくないことになるわけでもないし、嫌なのはわかるけど誰にも迷惑かけてもいないし、個人的な愉しみなんだからほっといてほしい、ってつっぱねている。
その習慣はやがて真面目な父にも見つかって器具を取りあげられてしまったり、Liamからも距離を置かれるようになったり、どこかおかしいのかも、って産婦人科に行ってみたりするが、どうにもならない。やめられない。これって悲劇なのか喜劇なのか?
なんでそれをしてはいけないのか、の方よりも、どうしてそれが彼らからよろしくないこととみなされてしまうのか、の方にどちらかと言うと力点が置かれ、それは彼女の研究テーマである『失楽園』の方にも及んでいく。他方で、彼女が見ているサイトの映像は抽象化され(見えた範囲ではりんごみたいのが映っていたり)てて、喘ぎ声とか、音声のみが聞こえてくる。あと、ここで商業コンテンツとして提供されているポルノ業界がその根に孕んでいそうな暴力や虐待についても触れられてはいない。
性の快楽に根差したことは決定的な答え、ありようとして説明しにくい気がするし、逆に汎化しすぎるとわけがわからなくなるだろうし、そのバランスをうまくとって、全体としてはどうしたもんかねえ… みたいな途方に暮れる系の軽めのコメディに仕上がっているような。
あと、こないだの”Every Brilliant Thing”にも出演していたAni役のAmbika Modのさばさばした態度と軽妙な受け応えのトーンが絶妙で、彼女なしには成り立たなかった気がする。
これを見た後で、既に書いた映画 - ”The Choral”を見たのだが、世界があまりに違いすぎて変なかんじになった。
11.22.2025
[film] The Choral (2025)
11月15日、土曜日の晩、Curzon Victoriaで見ました。
監督はNicholas Hytner、脚本はAlan Bennett - このふたりによる新作は”The Lady in the Van” (2015)以来だそう。
1916年、第一次大戦中のヨークシャーの架空の町で、郵便配達の青年が戦死の通知を家族に届けたりして暗くなっているところで、コミュニティのコーラス団が団員を募集しているので行ってみよう、って見に行ったらなんとなくテストを受けさせられて気がつけば団員になっている。そんななか、指揮者が戦争に行ってしまったので新たにリーダー/指揮者として採用されたDr Guthrie (Ralph Fiennes)と寄せ集められた個性的な団員たちとのやり取りとどうなることやら、等を描いていく。
Dr Guthrieは敵国であるドイツに長く暮らし芸術を愛する、という点から始めはバッハの『マタイ受難曲』を採りあげていたのだが反ドイツの声も強くあったのでエルガーの『ジェロンティウスの夢』を歌うことにする。あと掘り下げられることはないが彼はゲイで、つまりあらゆる点で(この時代には)不適格な属性の人なのだが、音楽に対する思いと情熱、指導力は確かなのでみんな彼の言うことを聞いて練習に励んでいく。
団員の方も個性豊かで、元からいたメンバーに加えてDr Guthrieが軍の病院やパン屋からスカウトした面々がいて、団員同士の男女の恋があり、よいかんじになったところで戦地から片腕を失った彼が帰還してきたり、本当にいろいろあって、エピソードが散りすぎていることはしょうがないのか、とりあえずエルガーを歌うクライマックスに向けて… となったところで本番の日に現れたエルガー(Simon Russell Beale)本人は結構嫌な奴だったり。
やがて楽団メンバーにも招集がかかるようになり、戦地に赴く前の晩、ひとりは憧れていた娼婦のところに行って、ひとりは憧れていた彼女のところに行くが無事に戻ってきたらね、ってやんわり拒まれたり。ラストの出征のシーンも、あまり盛りあがるような、感動的な描き方はしていなくて、そこはよいかも。
全体としてものすごくいろんな人、エピソードが散らばっていて朝ドラみたい - 朝ドラほぼ見たことないけど - なのだが、Ralph Fiennesひとりがずっとしかめ面のすごい重力で全体を繋ぎとめるべく指揮棒を振っているのだった。そこはまるでこないだの『教皇選挙』のようだったかも。
Move Ya Body: The Birth of House (2025)
11月6日、木曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
毎年やっている音楽ドキュメンタリーフィルムの祭典 - Doc’n Roll Festivalからの1本で、このフェスはいろんな映画館に散らばってランダムに上映があるので、気付いたら見逃していた、のものも多くて、今年のではButthole SurfersのとCoilのが痛かったよう。
上映前に監督Elegance Brattonの録画されていたイントロが流れて、自身のハウスミュージック体験の初めは90年代初のNYのLimelightっていう元教会の建物だったところだ、って語っていて、おー、あたしはあそこでGang of FourとかGeneを見たよ、ってなった。
70年代後半、ディスコ・ブームが馬鹿な白人たちによって潰されて行き場を失ったシカゴのアンダーグラウンド・シーンで、数キロ先でも聴こえるような強い輪郭と断線されたって途切れることのないぶっとさをもったリズムを生みだすこと。それは当時のシカゴのまるでアパルトヘイトの人種隔離された居住区画と常態化した人種差別からの解放を担う革命の音楽でもあった、と。
当時その突端にいて、とにかくシンセで音を作りたかったVince Lawrenceとその周辺の仲間たちに話しを聞きながら、当時の革命の様子をダイナミックに描いて、それもやがては白人に搾取されてしまうことになるのだが、とてもおもしろかった。ここからどうやってNYやUKに飛び火していったのか、とか。主人公も編集も、そんなにドラマチックに盛りあげる方にいかないところもよくて、この淡々とした静けさが今も続いている大きなジャンルのベースを作ったのだねえ、って。
11.20.2025
[theatre] The Weir
11月13日、木曜日の晩、Harold Pinter theatreで見ました。
事情はよくわかんないけど、チケット代高すぎ。Stallの後ろの方で£200くらい、それでもびっちり埋まっている(ずっと)。
7月にOld Vicで見た”Girl From the North Country”のConor McPhersonが1997年に書いて初演した劇の再演で、アイルランド公演からのツアー。今回も彼自身が演出を手掛けている。休憩なしの1時間40分。
アイルランドの田舎のバーで、時代設定は明示されていないのだが、登場人物が酔っぱらってFairground Attractionの”Perfect”を口ずさんだりするので、80年代末か90年代初ではないか。
オープニング、幕があがると古くて暗いバーで、向かって右側にカウンターがあり、左奥にドアがあって、椅子がいくつか。そこにJack (Brendan Gleeson)が立っていて、ひとりでカウンターの中に入ってコップを出して、何を飲みたいのか蛇口をがちゃがちゃやってうまくいかず、そうやっているところにバーテンダーのBrendan (Owen McDonnell)が入ってきて灯りをつけて、ふたりのやりとりからJackは常連中の常連で、BrendanはJackのすることも求めているものもぜんぶわかっているのでなにも気にしないで放っておいている。
そこから別の常連らしいJim (Sean McGinley)が現れて、彼も自宅の居間にいるかのように自然にそこに溶けこんで、更に男女ふたり – ちょっとお喋りで騒がしいFinbar (Tom Vaughan-Lawlor)と地元民ではなさそうな女性のValerie (Kate Phillips)が現れる。別にバーなんだから誰が来たっておかしくないのだが、ふたりの登場によって少しだけいつもと違う雰囲気になったよう – に見えて、でも誰もそんなこと気に留めず、騒ぎもしないでいつもの会話のトーン、リズム、間合いを維持していく、それを可能にしている仄暗いバーのセット、外で微かに鳴っている風音、なによりも俳優たち、が見事。”Girl From the North Country”の大きな家もそんなかんじで維持しているなにかがあったような。
他所からきたValerieがいたせいもあるのか、それぞれにこの土地に古くから伝わる変な話や怪談をしていって、みんな知っている話のようで、ほぼどれも酔っ払いの独り言戯れ言で、合間合間にFinbarがバカなことを突っこんで、やがてValerieの番になると、彼女の話は幼い娘を失った実話に基づく悲しいそれで、みんながちょっと静まりかえってしまったところで、Jackがある話を始める…
それは喪失のこわさ、哀しさを語るというよりも、その不在がずっと自分の身に纏わりついて、自分自身になって、ずっとそこから逃れられないのだ、という根源的な底についてのもので、それがあの薄暗い穴のような場所で、Brendan Gleesonの口から語られると、この人はもうこの世にいない何者かなのではないか、このバーは向こうの世界との間の堰(Weir)としてあるのか、など。あるいは、こういう人の語りが堰のように別の世界の何かをこの世と繋ぎ留めたりしているのか、とか。
勿論、話はその奥に向かっていくことはなく、みんなはぽつりぽつりと帰り支度をして抜けて行って、最後に冒頭と同じようにJackとBrendanがのこる。それだけなのだが、なんとまあ、しかない。こうやって、こんなふうにアイルランドのいろんなお話し(と歌)はずっと語り継がれてきたのだろうな、と思うし、だからみんなあんなに酔っぱらっちゃうんだな、っていうのも感覚としてわかってしまうような。
1時間40分という時間はたぶん丁度よくて、これ以上続いたら戻って来れなくなる可能性があったかも。
でももう一回見て浸かりたくなる、濃厚な時間だった。Brendan Gleesonの立ち姿がとにかくすごすぎ。
あと、こんなふうに特定の場所の周りに渦のように巻かれて浸かって流れる時間て、映画を見ている時のそれとは明らかに違うと思って、それがなんなのかを掘りたくて演劇に通っているのだわ、って。
Playing Burton
11月16日、日曜日の昼にOld Vicで見ました。
Welsh National Theatreの制作で、ロンドンではこの日の昼と夜の2公演のみ。
作はMark Jenkins、演出はBartlett Sher、Matthew Rhysのひとり芝居で、彼がWales出身の名優Richard Burtonを演じる。 1時間40分くらいだけど1回休憩が入る。
ステージ上には簡素なテーブルと椅子があるだけ。スーツにタイ姿で登場するなりコップに酒をぐいぐい注いでがぶがぶ飲んで、壊れた機械のような勢いでウェールズのPontryhdyfenの炭鉱夫の極貧家庭で生まれた幼少の頃からのことを語っていく。
後半は、まず新聞に載った自分の訃報を読みあげ、ちゃんちゃらおかしいわ、みたいに自身の名声やElizabeth Taylorとのこと、KennedyやChurchillと会った時のこと、要は俳優として頂点にあった自分のキャリアを高いところから喋り倒していく。
Richard Burtonは、12月のBFI Southbankの特集でかかるので、そこで作品を見ながら考えていきたいのだが、あんな高い声でべらべら喋っていく人だったのかしら、というのが少しだけ気になった。
11.19.2025
[film] The Running Man (2025)
11月14日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
監督はEdgar Wright、原作はStephen King(Richard Bachman名義)の近未来SF小説(1982)。1987年にもPaul Michael Glaser監督、Arnold Schwarzenegger主演で映画化がされている(未見)。
Ben Richards (Glen Powell)は病気の子供を抱えた状態で無職になって、妻Sheila (Jayme Lawson) にホステスのようなことをやって貰って暮らすしかなくて、絶望してネットワークTVの人気リアリティ番組 – “The Running Man”に応募してしまう。プロの殺し屋(本当に殺すよ)たちから30日間逃げ続けることができたら10億ドル貰える、というので、サインしたらいろいろ話がちがう、があったりしたものの逃げることができないまま番組が始まって、最初は3人いた候補のうち2人は簡単に消されて、ものすごく悪い奴 - ほぼ凶悪犯 - としてターゲットにされて追われる身となる。
番組のプロデューサーのDan Killian (Josh Brolin)も大人気TVホストのBobby T Thompson (Colman Domingo)もまるで漫画のキャラクターで、ディストピアでのリアリティ・ショウの怖さ、とかよりヤクザに借金をして妻子を人質に取られて逃げ回る構図とそんなに変わらない気もするのだが、ポイントはどこにも逃げようがない状態のなか逃げまわって、本人は必死なのにそれがお茶の間のエンターテインメントになってしまう、という徒労感と辛さだろうか。
変装してNYに行って、そこからボストンに逃げて、追ってきたハンターたちをビルごとぶっ飛ばしたら、彼は多くの警備隊を皆殺しにした極悪テロリストの扱いにされて、いやそうじゃないんだ、というTV局側の手口の非道について収録ビデオで伝えても、TV側が放映時にフェイクの映像に差し替えてしまう。そんなふうにフェイクに置き換えられるんだったら局側はなんだってできちゃうし、賞金渡さずに闇に葬っちゃうとこだってできるだろうし、「リアリティ」もくそもないじゃん、と思うのだが、それこそが監視社会のやること - ストーリー作りなんだろうな、となる。ぜんぶがこの調子の仕込まれたどん詰まり感のなか動いていくのでしんどい – なにがしんどいかって、まさに今の監視社会とメディアがやろうとしている囲い込みのお祭りを直に思い起こさせてくれるから。
というジャンクで重い空気を吹っ切るかのように走り抜けていくGlen Powellのアクション(といかにもEdgar Wrightぽいつんのめって転がっていく勢い)はちょっとじたばたして重いけど、痛快なところもそんなにないけど、悪くはないし、彼を助けたり匿ったりする反体制のグループも出てきたりするのだが、全体としては今あんまり見たくないものを横並びで見せられているかんじがどうしても。もちろん、これはホラーなのだから、って言われたら黙るしかない。
80年代にこれを見ても、近未来は大変そうだなあ、で終わっちゃうのかもだが、いまこれを見ても思い当るところがありすぎて、それがきつい。いまのアメリカや日本の政府(とメディア&マス)が向かっている方向とわかりやす過ぎるくらいに同期している。 だからすごい! と言うひともいるのだろうが、わかっているけどさ… のしんどさが先にくるというか。
昨晩、”One Battle After Another” (2025)の2回目をBFI IMAXで見て、監督のPaul Thomas AndersonとLeonardo DiCaprioのイントロが付いていて、これも体制側に追われて追い詰められていくお話しなんだけど、いま欲しいのはこの、こっちの軽さなんだよねー、と。
[film] Melo-dramarama
11月15日、土曜日の昼から午後にかけて、BFI Southbankでのイベントで見たり聞いたりした。
この月の特集”Too Much: Melodrama on Film”の方も見てきているのだが、この日は目一杯メロに浸かって頂きましょう、という催し。 NFT3という中サイズのシアターでランチやティーブレイクを挟んで夕方まで、トークを中心としたいろんな発表があって、久々にメモを取ったりしながら見てしまった(が、いつものように何が書いてあるのか、きったなすぎてほぼ読めない。いいかげんにしろ)。
時間割りはこんなかんじ –
① 11:00-12:00: The Many Faces of Melodrama: Christine Gledhill and Laura Mulvey in Conversation
② 12:00-12:50: To Have (or Have Not): Class Representation in Britain and Hollywood
③ 13:30-14:15: Mommy Dearest: The Evolution of the Maternal Melodrama
④ 14:15-14:50: Bylines and Backlots: Fan Magazines and How They Saved Film History
⑤ 14:50-15:30: In Glorious Technicolor: Costume Design in Hollywood Melodrama
⑥ 15:40-16:20: Small Screen, Big Emotions: 40 Years of EastEnders and Beyond
⑦ 16:20-17:00: The Future of Melodrama: Tears in the 21st Century
用事もあったので、①から⑤までしかいられなかったのだが、どれもおもしろいったらなかった。
The Many Faces of Melodrama: Christine Gledhill and Laura Mulvey in Conversation
まず全体の導入のような位置づけで、イギリスにおけるメロドラマへの着目がどこからどう、のような話。
Douglas Sirkの”Sirk on Sirk”が出版されたのが1972年、これをフォローするかたちでエジンバラの映画祭でSirk作品のレトロスペクティブが組まれ、それがロンドンにも来て、まだFilm Studyが学として立ちあがる前くらいのタイミングだったがこの辺りからいろいろ始まったのだ、とLaura Mulvey先生が。
バルザックやヘンリージェイムズの小説の頃からドラマのなかにあったギルティ、イノセント、ヴィランといった角度からの揺さぶりと、19世紀フランスのシアターでのステレオタイプなステージングがドラマチックな音楽と共に映画の方に流れていって、そこではHighly Stylizedなかたちでゴミ(trashes)- マスキュリニティの危機、Fem、自分が何をやっているのか考えようとしない - 等が、過剰に強調されて”motion”が”emotion”へと変容していった、と。他ジャンルからはグランドオペラやバレエのコレオグラフからの影響もあった、と。
こんなふうな汎用化によってぼんやりしてしまう危険もあるのだが、クリップとしては”Written on the Wind” (1956)、“The Bourne Supremacy” (2004), “A Cottage on Dartmoor” (1929)等が参照された。このイベントでは、”Written on the Wind”と”Leave Her to Heaven” (1946)からの引用が圧倒的で説得力あったような。
To Have (or Have Not): Class Representation in Britain and Hollywood
まずはHollywoodのクラス表現として、”Working Class Melodrama” – “Middle Class Melodrama” –“Victorian Melodrama” – “Street Melodrama”などの切り口からいくつかの例を示して、そこからドラマとしてクローズアップされがちな階層間の移動(mobility)については、Mobility with Nobility の例として、”Stella Dallas” (1925, 1937)が、Mobility without Nobilityの例として"Mildred Pierce" (1945)が参照される。ここらで使われる階段(階段おち)についても。
Britainのクラス表現は、当然これとはぜんぜん違ってディケンズから入って、邪悪さを象徴する悪い男 – 特に“Man in Grey” (1943)でのJames MasonのプレゼンスとMargaret Lockwoodの話し方(Posh)の違いとか、クラスを抜けて成りあがりを求めていくGainsborough Picturesのヒロインたち。あとはこの特集で80周年を迎える”Brief Encounter” (1945) - 『逢びき』のこと。成り立ちも傾向も異なる相容れないふたつの、ふたりの世界を描きつつ、Unifyさせようとする何かを描いてきた、とか。
Mommy Dearest: The Evolution of the Maternal Melodrama
Fatherhoodの不在によって起動されるMotherhoodのありよう – ふつうの家族とは異なる、より複雑な事情が強調したり導いたりする弱さとそれを乗り越えよう(or 抑えよう)とする力とか愛、ここに挟まってくる教会、犠牲を払う、という考え方とか、こうして書いているだけでもいろいろ迫ってくるので、相当に熱い。
この特集ですばらしい音楽と共に再見した”Stella Dallas” (1925)の時にも思ったのだが、時代も境遇もまったく異なって共感なんてできようがないはずのこんなドラマに揺さぶられてみんな揃ってびーびー泣いて(泣かされて)しまう、その動力の根源にあるものってなんなのか、なのよ。
ここで挙げられていたイタリアのメロドラマ –“Maddalena” (1954)は見たい。
現代のドラマとして参照されていたのは”We Need to Talk About Kevin” (2011)、Joan Crawfordが体現していたある時代のアメリカの母親像、あとPre-Code時代のシングルマザー像と、Post-Code時代のそれの違い、変化など。
Bylines and Backlots: Fan Magazines and How They Saved Film History
ファン・マガジンの存在は、映画の初期から観客と映画会社を結ぶ大きな架け橋となっていて、それがメロドラマの変遷 - 観客は何を求めているのか - にも大きく寄与していったことを資料と共に見せていく。 最初期にはFlorence LawrenceやMary Pickfordといった女性の存在が大きかったと。
いまは「マーケティング」とか「ファンダム」とか素人の手でどうこうできるようなものではなくなっている気がするが、初めの頃はこんなふうにやっていました、と。
In Glorious Technicolor: Costume Design in Hollywood Melodrama
映画の初期から、映画のなかの人々がリアルに生きているものであることを知らしめるべく、コスチューム・ディレクターはプロデューサーや監督とずっと一緒に動いて、色がないモノクロフィルムの頃ですら赤いドレスを赤く感じられるようにするための生地の工夫をしたりしていたのだそう。
カラーの時代に入ってからの具体例としては”Leave Her to Heaven” (1946)でのコスチュームを担当したKay NelsonがGene Tierneyの衣装を場面ごとに、ガウンのイニシャルとか壁紙との調和とかも含めてどう見せようとしていたか、とか。
“All That Heaven Allows” (1955)のヒロインJane Wymanの衣装の色調の変化を彼女のエモーショナル・ジャーニーとして捉えて、最初と最後の場面で同じ衣装を着ていることの意味とか。 “Written on the Wind”でのLauren Bacallの着ていたグレイの意味とか。あたりまえなのだが、ぜんぶに意味があって、それはプロデューサーも含めて作る側はすべて把握して、きちんとコントロールしていた、と。
最近の映画だと”Far From Heaven” (2002)のSandy Powellがやったキャラクタリゼーションと個々の色調を同期させるやり方とか。
斯様にコスチュームの世界は映画のテーマの中心を貫いて緻密な職人芸でデザインされてきたのに、なんでクレジット上では”Gowns by ..”くらいしかないのか。資料がなくて調べるのが大変すぎるんだよ! と発表者は嘆いて終わっていた。 けど、ものすごくおもしろかった。
これらのテーマをクラシックな日本映画にはめて考えてみても、相当におもしろいものができる気がした。
材料も人もありそうだから、誰かやらないかしら。
全体を通して、なぜメロドラマを見るべきなのか、がなんとなくわかった気がした。いま自分がここにこうしてあらされているありよう、ガサツさ無神経さに対する抵抗、ふざけんじゃねえよの裏返しとしてそれは組織されて、風に書かれた暗号として散っていったのだ。なんて。
あと、久々にこういうのに漬かって、ああどうしてこういう道に進まなかったのだろうか、なにがいけなかったのだろうか、ってメロドラマっぽく天を仰いで自分で自分を殴打するのだった。(そういう季節)
11.17.2025
[film] Laura Mulvey
BFI Southbankの11月の特集に”Laura Mulvey: Thinking Through Film”というのがあって、恥ずかしながらこの人のことは知らなかったので、勉強してみようと思って見ている。
彼女の論文 - “Visual Pleasure and Narrative Cinema” - 『視覚的快楽と物語映画』(1975) - 翻訳はフィルムアート社の『新映画理論集成① 歴史/人種/ジェンダー』(1998)所収 - の出版50周年 + これ以降の膨大な著作等、を讃えて彼女にBFI Fellowshipの称号が与えられ、今回の特集では彼女が共同制作した8作品を上映したり、シンポジウムが開かれたり、上映前のトークにも頻繁に顔を出して、12月には彼女がセレクトしたクラシックの特集も組まれている。
Laura Mulvey in Conversation
11月4日、火曜日の晩、BFI Fellowshipの受賞記念を兼ねた彼女の業績紹介と本人によるスピーチがあった。
BFI Fellowshipというのはフィルム・TVの世界で多大な貢献を認められた個人に贈られる最高の位で俳優とか監督とか、彼女の直前にこれを受賞したのはTom Cruiseだったりするので、素朴な「?」が浮かんだりするものの、過去の受賞者のリスト(Wikiにある)を見てもなかなかすごい賞であることはわかる。
スピーチの前に彼女を讃える関係者のビデオが流れたのだが、最初がTodd Haynesだし、Joanna Hoggは客席にいたようだし、以降、日々自分がBFIに通って映画を見ていく時にお世話になっている(とこちらが勝手に思っている)プログラマーやキュレーターの人たちがほぼ全員登場して、彼女の論文や映画の見方にいかに影響を受けたかを感謝をこめて語っていくので、つまり自分が映画を見る際の軸にもたぶん相当影響しているのだろうな、と壇上の小さく丸っこいおばあさんを見て思った。
こんにちの我々がクラシックを含むいろんな映画を見るにあたって、その制作物を構成する視覚的な物語が提供する快楽やカタルシスが主にいかに白人男性(The male gaze)のそれに資するものとなるべくいろんなシステム込みで組みあげられてきたのか、これって今や映画だけではなくてTVでも広告でも、基盤とか常識に近いところで根をはっていることだと思っているのだが、これを50年前に提起したのが先に挙げた彼女の論文であった、と。
映画なんて理屈ぬきでおもしろけりゃいいじゃん、とか、これで泣けないなんて人間じゃない、とかいう宣伝も込みの「理屈」がいかに傲慢な思いあがりに基づく乱暴なものか、はずっと感じていて、それを確かめるため、くらいの意識で見ていくとすんなりはまったり思い当ったりするところがいっぱいあって、この理屈って文化全般に渡って蔓延してきたなにかで、自分がメジャーではないマイナーな何かを追っていくその根にあるものにも繋がるのだが、そういうところを踏みしめながら見ていきたい。
Riddles of the Sphinx (1977)
11月4日の晩、↑のセレモニーが終わったあとに同じ会場(NFT1)で見ました。16ミリフィルムでの上映。
Laura MulveyとPeter Wollenによる2本目の共同監督作品で、実験映画の範疇にカテゴライズされるのだろうが、あまりそういう堅苦しさ、込み入った構築された難解さは感じされなくて、映っているものをするする見れる(その分、あまり残らなかったり..)。
いくつかのパートに別れていて、Laura Mulvey自身がカメラに向かってオイディプスとスフィンクスの神話を語るシーン、主人公の女性が暮らす家庭生活のいろんな局面を映しだしたり。 後者は定点に置かれたカメラがゆっくり回転していったり戻ったり、その動きはChantal Akermanの”La chambre” (1972) のぐるーん、を思い起こさせる。
ずっとぴろぴろ鳴り続けて頭に張りつく電子音楽はSoft MachineのMike Ratledgeによるものだった。
Crystal Gazing (1982)
11月10日、月曜日の晩、”Predator: Badlands” (2025)を見る前に。これも16mmでの上映。
最初と最後に水晶が映し出される。丸くてまっすぐに光と像を通してくれない水晶。
サッチャー政権下(この特集が始まって、彼女のトークを聞いていくと、サッチャー政権下のUKがどれほどひどいダメージを受けて変わったかが何度も語られていて、やはりそうだったのか、になった)のロンドン市民の生活を3人の主人公を中心に描いていくのだが、うちひとりのKimを演じるのがX-Ray Spex~Essential LogicのLora Logicで、映画のタイトルもバンド解散後の彼女のソロ” Pedigree Charm”のなかの曲名から採られている。(レコードは実家にあるので確認しようがないわ)
彼女がライブをしている映像もでてきて、ここでドラムスを叩いているのはCharles Haywardだったり、彼女がレコード屋に入るシーンがあって、そこはやっぱりオリジナルのRough Trade(1982年の!)だったり、いろいろ興味深い(いやそっちじゃないだろ)。
この翌日にかかった短編”AMY!” (1979)でも、主人公の女性がこちらに向かって下地からメイクをしていくシーンで、X-Ray Spexの”Identity” (1978)が轟音でフルで流れていったり、彼女の問題意識に当時のパンク/ポストパンクシーンの女性バンドなどがどんなふうに関わって影響を受けたり受けなかったりしたのかについて – どこかに纏まっているかもだけど - 聞いてみたいと思った。
まだ続いている特集で、これからも見ていくので、振り返りながら書けるものがあったらまた。
[film] Predator: Badlands (2025)
11月10日、月曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
チケットを取った回が3D上映だったので、3Dになった。
Terrence MalickともBruce Springsteenとも関係ないのだった。
監督はDan Trachtenberg。Predatorのシリーズで言うと、Arnold Schwarzeneggerが出ていた頃のは見ていなくて、最近の数本はなんとなく見ているが、積極的に見たくて見るというより、なんなのこいつら? の得体の知れない薄気味悪さに触れて楽しむ、というか。今回のは予告を見たら怪獣映画のようだったのでそれでもいいか、って。
これまで雑に見てきたPredatorの特徴は、とにかく喧嘩と殺し合いが好きで、相手が強かろうが弱かろうがまずやっつけることが第一で、宇宙船とか武闘方面の技術はあって言葉があって会話もできて、種のなかでの序列とか掟とか家族はあって名前もあるって。今回の主人公はDek (Dimitrius Schuster-Koloamatangi)っていうある家族の落ちこぼれで、冒頭の兄との喧嘩に負けて、その流れで兄は強権的な父によって殺されて、父に対して実力を示すためにある星の化け物退治に向かうことになる。
ここまでで、これなら人間のドラマと変わんないじゃん、ていうのと、いま大量に予告が出ててうんざりの”Avatar”のことを思ったりした。あの物語設定にもんのすごい大金をつぎこんで「映画」としてでかでかとリリースすることの意味がずっとわかんなくて、いや映画というのはそもそもなんでもありの雑多なジャンルだから、という括りも可能なのだろうが、そういう設定がルールのような基底前提として存立しうるゲームやアニメの世界ならまだしも、映画として、これまでの映画の世界がもたらしてきたのと同等の「感動」や「共感」を強いてくるのだとしたら、日々の人間関係ですらきちんとできずに苦しみ続けてその解に近いなにかを過去の映画に求めたりしている側としては勘弁しておくれ、になる。なんで別の星に暮らす生物(と呼んでよいかどうかも不明な)連中の挙動や行動の意味や理由を地球人の基準水準から推して把握したり理解したりしなきゃいけないのか。その正しさは誰が決めて汎用化した/されたものなのか。それらは測定不能な未知の脅威・恐怖としてあったからこそ、エイリアンの映画は成立したのではなかったか。
とにかく、その化け物がいる星に飛んで退治して父を見返してやりたいDekはそこに着いてもやっぱりうまくいかずに苦闘していると、上半身だけで転がっていたレプリカント?のThia (Elle Fanning)に愛想よく英語で声をかけられて、教えて貰ったりしながら一緒に戦っていくのとThiaにはコピーだけど気質は真逆で冷酷非道なTessa (Elle Fanning)がいて、彼女と彼女に操作された男の戦闘ロボットみたいのがわんさかやってくる。あと、外見は緑のオランウータンで顔がパグの変な生き物がついてきたり。言葉や意思は互いにふつうに通じていて、襲ってくるかそうじゃないかで敵味方はきれいに分かれて、もろに仲間の獲得と学習〜鍛錬が基本のゲームの世界になってしまう… のってわかりやすいけどつまんないよね。(Wolf .. Pack.. ) とか。ゴジラが仲間と一緒に闘いだした時と同じで。
DekがThia(半分)を背負っているのを見て、子連れ狼にすればいいのに、ってちょっと思ったのだが、あれはもうMandalorianでやっちゃっているのか…
人間が一切でてこないのはよいこと、と思ったが最後に現れるあれが… このシリーズはぜんぶ次があるように見せかけて、中途半端に終わっていくのが恒例なのでこれもそうでありますように。
11.15.2025
[theatre] Romeo a Juliet
11月5日、水曜日の晩、Shakespeare’s Globe内にあるSam Wanamaker Playhouseで見ました。
このシアターの舞台照明は蝋燭で、俳優が演じながら燭台の沢山の蝋燭に火を灯したり消したりして、売店では使い終わったちびた蝋燭をお土産として売っていたり(最初なんだこれ?って思った)。
制作はグローブ座と提携したウェールズのTheatr Cymruで、4日間公演の初日。グローブ座でウェールズ語の芝居がかかるのは初めてだという。原作はWilliam Shakespeare (1597)、翻訳はJ.T. Jonesによるもの(1983年)、演出はSteffan Donnelly。
高さのあるこのシアターで、舞台上の細工は特にしていなくて、楽隊もシンプルに3名。蠟燭の灯り(によって浮かびあがるもの)を際だたせていくクラシックな演出- 悲劇に向かうにつれて明度が落ちていく - がとても素敵。服装は革ジャンを着ていたり現代のそれだが、特に凝ったものではなくて、ごく普通の。
英語とウェールズ語が混じる劇、ということで、事前に英語キャプションを通訳表示するスマホアプリの案内がきて、シアターにもダウンロード用のQRがあって、一応念のためダウンロードはしておいたのだが使わなかった。客席から見ていてもスマホを見ながらの人はそんなにいなくて、やっぱり舞台の上の動きと発声に集中したいし、こういうエモがぶつかりあうような劇であれば尚更かも、って。
Romeo (Steffan Cynnydd)のいるMontaguesは主にウェールズ語を話し、Juliet (Isabella Colby Browne)のいるCapuletsは主に英語を話すのだが、当然両家が会話をする際にふたつの言語は混ざりあい、両家が衝突する場合にはその違いが強く際立って、ふたりが愛を交わす部分では衣服のように取り除ける柔らかい覆いになったりして、なるほどなー、にはなる。他方で、言語の違いによる違和やギャップなんて、ごく普通にそこらにあることでもあり、言語間の差異と分断がこの悲劇に(誰もが期待するであろう)決定的ななにかを持ちこんだりもたらしたりしているか、というと、そこまでではなかったかも。
でもそれは置いて、殺しの場面の凄惨さや、愛を語る場面のとろけるような甘さ、もちろん最後の悲劇は、ストレートに生々しく伝わってきて、センターの、特に際立って強いなにかをぶちまけないRomeoとJulietの柔らかく寄り添う姿が最後まで残る。ふつうにそこらにいそうな素の若者たちで、それがなんかよくて。
日本でも家父長制が強く残っていて互いにぜんぜん通じない方言を使って譲らない両家をモデルにやってみたらおもしろいかも。(まじでどうしようもなく通じないやつ)。もうすでにやっている?
ウェールズ語って、音だけ聞いているとポルトガル語みたいに聞こえるところがあった気がしたが、ぜんぜん関係ないのだった。
Ragdoll
11月3日、月曜日の晩、Jermyn Street Theatreで見ました。
1974年のPatricia Hearst誘拐事件(過激派組織シンバイオニーズ解放軍に誘拐・監禁されたが、その後犯人と行動を共にしていることが明らかとなって大騒ぎになり、やがて有罪判決を受ける)に着想を得て、Katherine Moarが書いた劇が原作。演出はJosh Seymour。 休憩なしの75分。
事件から数十年が過ぎた2017年(には何が起こった年か?)、同事件で「被害者」とされたHolly (Abigail Cruttenden)が、かつて彼女を担当した弁護士Robert (Nathaniel Parker)のオフィスを訪ねてくる。 Robertは彼女の弁護で脚光を浴びてセレブ弁護士となったが今はちょっと疲れた顔で、事務所を畳もうとしているらしい。舞台の真ん中にはものすごく豪華(そう)なソファが置かれていて、彼のかつての栄華を伺わせるが、そもそもなんでHollyは彼のところに現れたのか。
HollyとRobertの間に懐かし気な、親密な雰囲気はなく、かといって刺々しい喧嘩腰でもなく、会話のやりとりを通して皮を剥くように過去の記憶を取り出して転がしていくと、若い頃のふたり – Holly (Katie Matsell)とRobert (Ben Lamb) – が舞台上に現れるようになり、最初のうちは過去のふたりと現在のふたりが交互にスイッチしたりしていたのが、最後のほうでは4人一緒に出ているようになり、この多層化がとてもおもしろい効果を生む。
Hollyは誘拐されて犯人達に脅迫されてレイプされてその後の強盗に失敗して捕まって、Robertが弁護した裁判に負けて収監されて、Robertはセレブ弁護士としてぶいぶいだったのだが… 過去は変えられないけど、過去にあったことはあったことで消えることなんてなく、それは間違いなく現在に繋がっているので現在のことなんだ、逃げられると思うなよカス、というのと、抱かれたらぐんにゃりする猫(ragdoll)だって生きてるんだしなめんな、って掘り返されるべき昔のケースはいっぱいあるんだと思う。 まさに今の合衆国大統領だってな…
11.14.2025
[log] Alhambra - Nov. 7th - 8th
11/7(金)~ 8(土)の一泊でアルハンブラ宮殿に行ってきたので、簡単なメモを。
9月にはイスタンブールで、トプカプ宮殿やアヤソフィアを見たので、その続きの宮殿シリーズ、もあるし、前回UKにいた時も計画していて、でもCovidで頓挫していたやつ。
ロンドンから行くルートはガトウィック空港からマラガに飛んで、そこからバスか電車でグラナダ、になる(探せばもっとよいルートはあるのかも)。
BAの便は朝6:10発で、バスと電車を乗り継いであの空港まで行くには、午前3:00に家を出るしかなくて、空港には4:30くらいに着いたのだがラウンジはまだ開いていないし。
マラガ空港のイミグレーションは朝で到着便が集中していたのか、近年ちょっと見ないぐじゃぐじゃぶりで、抜けるのに1時間強、予約しておいたバスにはどうにか間に合い、乾いた岩山を抜けてグラナダのバスターミナルまで約2時間、更にそこからホテルがある中心部までバスで30分。ホテルに入ったのが15:00少し前だったので、家を出てから12時間かかったことになる。近いようでじゅうぶん遠い。
Catedral de Granada
18世紀初に建てられたこういう聖堂は、とりあえずなんでも入るべし、の原則で入って、当然素敵なのだが、堂内で場所を区切ってやっていたJosé de Moraの彫刻展がすばらしくてずっと見ていた。生々しい、というのとはちょっと違って。濡れたような涙の跡とか顔の歪みとか、信仰が固化しているとしか言いようがない。 売店で結構分厚いカタログを買ってしまった。
そこからDarro川に沿ってアルハンブラの方に歩いていくと下の方、反対側の草の茂っているところににゃんこが気持ちよさそうにごろごろしていて、その近くにもう一匹いて、その生息しているさまはベルンの熊公園を思い起こさせるのだったが、ネコさんがあんなふうにいられるのであれば、この地はよいところに違いないと思った。
川沿いの考古学博物館を見て少し歩いていたらヘネラリフェ庭園への矢印があって、アルハンブラは翌日の昼なのだが、ここだけ先に見ておいてもよいかも、と思ってその方角に行ってみたらものすごい階段と上り坂で死にそうになり、やっと上に着いたら当日チケットは売り切れでどうしようもなかった。態勢を立て直すべくバスでいったんホテルに戻って、アルバイシン(Albaicín)に向かう。
Albaicín
丘陵地帯に白壁と石畳がずっと続く城塞都市としてできあがった住宅地で世界遺産で、さっきと全く同じく一番高そうなところまでへろへろになって登って、だらだら降りて、それだけでも、ただ歩いているだけでじゅうぶん楽しい(坂がなければ)。こういうところで人が暮らしていて(今も)、過去には城塞だったここには籠って戦うために暮らす人たちがいたのだ、そして今はそれが観光名所になっている、といういろんな時間も含めた段差について。
てっぺんの高台にも夕日で有名なサン・ニコラス教会の展望台にも夕日を待つ人たちが溢れていて、サン・ニコラスの方ではサンバみたいな音楽をじゃんじゃか打ち鳴らしていたのだが、ああいうのってほんといらない。
帰りは幸せに路地を歩きまわっていたらなんとなくホテルに着いてしまった。
8日はアルハンブラの日だったのだが、前日の夕方にメールが来て、予定していたガイドが病気で来れなくなったので、ガイド分の金額はあとで返す。チケットはWhatsappを持っているのであれば送るよ、というのだが(... 怪しい)そんなものないよ、って返したらメールでチケットが来た。ガイド付のツアーは12:00開始だったのだが、ナスル宮殿(Palacios Nazaríes)の入場時間が10:30に変わった(ここだけ厳守しろ、と)。
10:30の前にカルロス 5 世宮殿 - Palacio de Carlos Vとか、その上にあるMuseo de Bellas Artes de Granadaとか、並びにあるキリスト教の教会を見る。これらが無料って割とすごい。
Palacios Nazaríes
ここが今回のメイン。
最初の部屋のタイルとか床の紋様、そこに射してくる日の光だけでやられて、天井を仰いでもどの壁に向かってもめちゃくちゃ細かいし目のやり場だらけでお手あげになった。こないだのトプカプ宮殿もよかったのだが、あちらはまだ見せ方並べ方に博物館的な配慮があった気がしたのに対して、こちらは素でイスラム文化と芸術の凄みを鑑賞というより体験として否応なしに叩きつけてくるような、モスクがそっくり裏返って被さってくるような凄みがある。これらをデザインしたり作ったり組みあげたり嵌めこんだり整えたりするのに、どれだけの手数と時間が費やされたのか、そしてそれらが信仰の名のもとに為されただとしたら宗教って… に改めて立ち返る、立ち返らざるを得ない、それもまた狙いのひとつで、そんなのがすべてこんな辺鄙な山のなかに一式揃って遺されていて、なんてすごいことよ、しかなかった。
気づいたら2時間くらい経っていて、結果的にガイド付のにしなくてよかった、って思った。
そこから他の建物 - 要塞 – Alcazabaの上にのぼって、昨日行けなかったヘネラリフェ庭園にも行って、それぞれ眺めとかは当然よかったのだが、Palacios Nazaríesの金縛りに襲われるような妖気はちょっとなかったかも。あと、庭園に向かう途中の野道にも猫がいてよかった。
とにかくこうして数年ごしの野望をどうにかした。
Capilla Real de Granada
前日に行った大聖堂の隣というかその一部の礼拝堂が博物館になっていて、絵とか王家の黄金の宝物などがあって(撮影禁止)、改めてイスラムとの対比でいろいろ思う。こんな違うのが、歴史的な段差はあるにせよ、よく近くに並んでこれたものだなー、というか宗教ってそういうものでもあるのよね。
空港に向かうバスに乗る前に帰り - 19:30発のBA便が遅れて22:30になるかも、ってメッセージが入り、こんなことならもっとゆっくりしたのにー、って嘆いても遅い。この空港にはラウンジもないし、スマホをチャージするとこもないし、ああ3時間あったら映画いっぽん見れたのに。
ガトウィックに着いたのは午前0時半くらい、1時過ぎの電車に乗っておうちには3時くらいに着いた。ちょうど丸二日間の旅になった。
11.11.2025
[film] Palestine 36 (2025)
11月2日、日曜日の昼、Curzon Sohoで見ました。 東京国際映画祭でも上映されていたやつ。
日曜の11:00始まりで、この時間帯の上映はがらがらであることが多いのだが結構入っていて、今になっても配給もしているCurzonでの上映館数は増え続けている - 多くの人に見られているということで、これはよいこと。
パレスチナ–UK–フランス–デンマークーカタールーサウジーヨルダンの共同制作で、UKはBBCとBFIがお金を出している。このふたつがお金を出している映画にはイギリス人に見てもらいたいものがある、というのが多い。当時のイギリスの曖昧な態度が今のガザの元凶としてある、というのを明確に描いていて、これはイギリス人でなくても見るべき。
作・監督はパレスチナのAnnemarie Jacir。
1936年に始まったアラブ反植民地蜂起を描いているが、冒頭には「あなたが生まれた年」と表示される。あなたがどの年に生まれていようが、1917年にイギリス軍がパレスチナに入り、同年のバルフォア宣言でパレスチナにおけるユダヤ人国家樹立を目指すシオニスト運動への支持を表明してからずーっとこの状態のままできているのだ、と。
いろんな人が出てくる - 政治家の曖昧な態度が人々の生活を動かしたり脅かしていく、それに抵抗して立ちあがる人々が出てくる、そういうドラマだが、難しいものではない、かといって単純なヒーローが現れて民衆が蜂起する、みたいなものでもない。パレスチナはイギリスの植民地としてあり、ついこの間、イギリスはパレスチナを国家として承認した。それまでの間、イギリスはイスラエルが入植して、そこに代々暮らしていたパレスチナ人の土地や仕事や命を奪うのを100年に渡って容認してきた、という異常な、狂った背景がまずある。
イギリスの一番上は高等弁務官のArthur Wauchope(Jeremy Irons)で、なにもしない彼の周辺にはよいイギリス人もいれば悪いイギリス人もいて、特に英国軍の大尉Orde Wingate (Robert Aramayo)は残忍で容赦ないのだが、上がなにもしないし、はっきり言わないので現地に暮らすパレスチナ人は虐待され、追い詰められていく。「なぜ?」に対する明確な答えがない状態、平気でダブルスタンダードをかざす言い逃ればかりで、結果的にパレスチナの住民はされるがままに弾圧され、土地は接収されてユダヤの国ができあがっていく。
この状態をおかしいと思ったジャーナリストのKholoud (Yasmine Al Massri)は、いろいろ書き始めるが、夫のAmir (Dhafer L’Abidine)はシオニスト団体から裏でお金を受けとっていることを知ったり。
パレスチナ側でフロントにくるのはKholoudのところに出入りしていたYusuf (Karim Daoud Anaya)で、彼も最初は穏やかに見ているものの、家族も含めて犠牲があまりに広がっていくし、黙っていれば拘束される、抵抗すればあっさり殺される、のどちらかのなか立ちあがるしかない、という瀬戸際の選択がいろいろな場面で起こるのだが、映画はどちらかというと居場所と家族を次々と失っていく女性や子供たちの姿を際立たせている。堪忍袋で勇ましく立ちあがる男たちの姿ではなく、立ち尽くすしかない彼女たちの姿を – ここははっきりと今と繋がって、お先真っ暗になるというより、なんとかしてあげられないか、になって、だから今見るべきだし、見たら焦点がはっきりと定まる、そういう映画だと思った。
あと、イギリス人のものすごく礼儀正しいし、ちゃんと返答してくれるけど、相手を下と見ると譲らないところは頑として譲らないでのらくらを続ける、あのいやらしい態度のことを思ったりした。
11.10.2025
[theatre] The Assembled Parties
11月1日、土曜日のマチネをHempstead Theatreで見ました。
原作はRichard Greenberg、2013年にBroadwayで初演された舞台が長い時間をかけてようやくロンドンに来た。ものすごくローカルくさい – NYのアッパーウェストに暮らす裕福なユダヤ人家族のお話しがなんで10年以上かけてロンドンの、West Endじゃないところで上演されるのか、わかんないけどおもしろそうだったので。演出はBlanche McIntyre。
舞台上には大きなソファ、背後に大きなクリスマスツリー、大きなダイニングテーブルなど、見ただけで家族親族のクリスマスの集いを待っているセット。ユダヤ人家族だけどクリスマスを祝おうとしている、そういう家庭の。
1980年の暮れ。そこのアパートのJulie (JenniferWestfeldt)が慌しくパーティの準備 - 鵞鳥とか - を進めているところに、みんなの期待の星、長男Scotty (Alexander Marks)のハーバードの友人Jeff (Sam Marks)が現れて、どちらかというと外から来たJeffの目で幸せそうな – でもよく見ていくとやっぱり解れたり壊れたりしている家族の面々とその関係を見ていくことになる。Julieの夫は裕福なBen (Daniel Abelson)で、Benの妹のFaye (Tracy-Ann Oberman)と、彼女の夫Mort (David Kennedy)と不機嫌そうなティーンの娘Shelley (Julia Kass)も現れて騒がしくなっていく。大学を卒業したばかりのScottyは見るからに疲れてあれこれどうでもよいかんじになっていて、小さい弟のTimmyはインフルエンザでみんなのところに行けないのでぐずっている。
ここまでで、不穏な関係とか誰かの邪悪な企てが明らかにされたり、誰かが誰かの追及の的になったり、関係の綻びが前面に出るようなことはなく、会話はどこにでもある普通の家庭の(部屋が多すぎて迷うんだけど、とかは除いて)レーガンの時代の(良くも悪くも)朗らか穏やかな家庭内の会話劇が展開されていって、そこにはなんの違和感もなくて、ふつうに楽しく流れていく。
休憩を挟んだ後半は、2000年、ここから20年後の同じアパートのクリスマスになる。
成功した弁護士になったJeffがやってきて、病気で弱っているJulieとの会話からBenもScottyも亡くなっていて、やがて現れたFayeからはMortも亡くなっていることを知る。 小さかったTimmyはTim(Scottyを演じていたAlexander Marksが二役)になって、大学を中退してレストランで働いていて生活は厳しそう。 時の流れを経て世間的には凋落した、と言うのかも知れないがそういうトーンのお話しではなくて、FayeとJulieの会話は変わらずに(変わっていないことがわかる温度感で)楽しく(伝わっていようがいまいが)転がっていくし、電話を通して意地悪してくるShelleyですらいかにも、だし。
20年間で変わったこと、失われてしまったものにフォーカスするというより、変わらずに or 変わっちゃったけどそこにあるものってなんだろうね? をぶつかったり確かめたりしあいながらassembleしていく、撚りあわせていく、そんなアプローチで、この先どうなっちゃうんだろう?… の閉塞感はあまりなくて、そうだよね、やっぱりそこに行くよね、が待っている。毎年のクリスマスがBing Crosbyの歌と共にそういうとこに落ち着くのと同じように。アンサンブル・ドラマとして、設定も含めてよくできている、というかこれしかないでしょ? みたいな出しかた。でも絆を確かめにいく系のくさいやつでもないの。
20年間の変化を示すのに、例えば長髪だったJeffの髪は短くなっていて、80年代の方のJeffはカツラを被っていたのか - でもあの髪型だと80年代は違和感ないな、って変なとこに感心したり。
あと、アッパーウェストのアパートの、パークアベニュー沿いのそれとはまた異なるクラシックな堅さというかどっしり根を張っているかんじ、がもたらす「ホーム」のありよう。Scottyが出たがっていたのも、Jeffがあんなふうに戻ってきてしまうのもわかるの。
11.09.2025
[film] Office Killer (1997)
10月31日、金曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
特に宣伝していたわけではないが、BFIでは地味にこの日だけのハロウィン特集をやっていて、ここの2本と、BFI IMAXでは23時過ぎから”The Rocky Horror Picture Show” (1975)などを上映していた。ドキュメンタリーも上映されていたし、後楽園シネマ以来見ていないし行こうかな、って少し思ったがひとりで行っても楽しくないのでやめた。
Cindy Shermanの最初の、今のところ唯一の長編映画監督作品で、見たことなかった。よいかんじの35mmフィルムでの上映。
脚本はCindy Shermanを含めて4人、うちひとりはダイアログ監修としてTodd Haynes。音楽はEvan Lurieで、ちょっとつんのめったラテン、タンゴ風味で軽快に(ホラーのサウンドトラックではないかも)。
舞台はアメリカのどこかの都市 - NYではないような - の雑誌の編集部で、Kim (Molly Ringwald)とかNorah (Jeanne Tripplehorn)とかいきのいい若手が火花を散らしているものの売り上げはよくないので、オフィスの隅っこにいて地味でちょっと気味悪がられているDorine (Carol Kane)は総務のようなところに異動+在宅にされて、そんなある晩にPCの修理で電源をいじっていた若者♂がDorineの目の前で感電してコロリと死んじゃって、それを見ていたDorineは彼の死体を自宅に運んで地下に安置して、オフィスの上司名で社員宛に彼は出社していないけど大丈夫だから、とかメールを出す(昔のメールシステムは割とこういうことができたの)。
この件がきっかけになったのか、Dorineの殺人→死体を自宅の地下に運ぶ - は職場の同僚だけでなく頻繁に、しかも自分から積極的に殺しにいくようになっていくのだが、誰にも - 自宅には体の不自由で口うるさい母がいるのだが彼女にも - ばれないし、会社のみんなは突然消えちゃったけどおかしいなー、くらいで、家の猫だけが死体をがりがりしたりしている。
殺しの場面が生々しく描かれず、死体が滑稽な格好をして並べられているだけだし、なによりもDorineがそんなことをする動機がわからないのであまりホラー映画としての怖さは感じられなくて、その表層の晒しの微妙な異様さだけで何かを語らせようとするのは、彼女の写真と同じところを指向しているような印象があったかも。彼女のポートレートはDorineのやっていることと同じようなものだ、とまでは言わないけど。
The Hunger (1983)
↑のに続けてBFI Southbankで見ました。
これは恥ずかしながらこれまで見たことがなくて、この頃のBowieには、こんな映画にでてないで、”Let’s Dance”とか言ってないで、ちゃんとした音楽作って、ってずっと思っていた。ことを思いだした。
最初は兄のRidley Scottのところに話が行って、でも兄は”Blade Runner” (1982)で忙しく、マネジメントが同じでCM業界にいた弟、Tony Scottに振って、これが彼の監督デビュー作となった。原作はWhitley Strieberの同名小説を緩く翻案している。
冒頭、いきなりBauhausの”Bela Lugoshi's Dead”が聴こえてきて(イントロですぐわかる)、あらあら? と思っているとPeter Murphyの顔が大写しになるのでなんだこれは? になった。(エンドクレジットでは、Disco Band … Bauhaus と出るので場内爆笑..)
現代のNYに暮らすMiriam Blaylock (Catherine Deneuve)は古代エジプトの頃からずっと不死でやってきているバンパイヤで、パートナーらしいJohn (David Bowie)と一緒にBauhausが演奏していたクラブで若者を引っかけて、Johnと暮らすタウンハウスに連れこんで吸血してポイ、をしたりしている。
と、Johnが急に老けこんできて、病院に行っても医師のSarah (Susan Sarandon)は忙しくて相手をしてくれなくて、そうしているうちなJohnはどんどんよぼよぼのおじいさんになっていって(ここ、シリアスな描写なのだろうがなんかみんな笑ってしまうのだった)、やがてMiriamはSarahと恋仲になって…
まだとんがったCM表現がハイアートとみなされていた時代のビジュアルは見事なのだが、彼ら全員が美しく磨かれて映しだされればされるほど、なんとなく笑いが滲んできてしまう。この傾向はTwilight Sagaにもある気がするのだが、なんなのだろうねー、って思った。不老不死って、どこか滑稽に見えてしまう要件があるのだろうか。
それだけかー、なのかもしれんがハロウィンなんてこの程度でよいのだ、って夜道を(振り返らずに)小走りで帰った。
11.06.2025
[theatre] Bacchae
10月25日、土曜日のマチネを、National TheatreのOlivier Theatreで見ました。
この春にNational Theatreの新たな芸術監督に就任したIndhu Rubasinghamによる最初の舞台演出で、ギリシャ悲劇エウリピデスの『バッコスの信女』を俳優でラップアーティストでもあるNima Taleghaniが劇作家デビュー作として翻案したもの。 いろいろ元気があって威勢はよいことはたしか。
Olivier Theatreの楕円形のでっかい照明が月のように威圧的に宙に浮いていて、傾斜のある平な岩がそれに沿うように層をなして積みあがっていて、なかなかアポカリプスなふう。場面によって岩岩がぐぉーってゆっくり回転していったりする。
神デュオニソス (Ukweli Roach)が傲慢な人間の王様ペンテウス (James McArdle)によってバカにされたので頭にきて山中に囲っているバッコスの信女たちを率いて人間の世界に乗りこんでいく。いろいろ姿を変えていくデュオニソスは金ラメの衣装でイキるラッパー(たぶん歯にはダイヤモンド)で、彼に山中に連れてこられた信女たちにはVida (Clare Perkins)っていうリーダーがいて、毛皮や襤褸をまとった裸族のよう(でもメイクとかはして髪の毛もちゃんとしている)で、全員がふた昔くらい前のミュージックビデオに出てくるようなおらおらした威勢のよいヒップホップのナリで、どうせ浮世離れした現実世界の話ではないから好きにやっちゃえ、ということなのだろうが、どうなんだろうか? 預言者テーセウス (Simon Startin)はガンダルフみたいな世捨て人のナリでおろおろしているし、全体に漫画というか、ミュージカルにできそうな、することを狙ったエンタメっぽい雰囲気。9月末にShakespeare’s Globeで見た”Troilus and Cressida”に雰囲気はやや近くて、ふたつの勢力がぶつかり合うために(ちょっと楽しそうに)ぶつかっていくような。
ギリシャ悲劇の現代演劇化、というのが過去からどんな形で変遷してきたのか、今度のこれがどれくらいとんがったものなのか、はわからないのだが、タイトルであるBacchae(信女たち)の偏見込みで人からも神からも虐げられ、男たちの好きにされて岩山に追いやられた女性たちの吹き溜まった怒りが互いにどつきあいながら渦巻いていくかんじはなかなかよくて、それが女装してのこのこやってきたペンテウスを八つ裂きにしてしまうところは楽しめる - 楽しんでしまってよいのか、は少しあるが、でももっといまの世の中の虐待を受けたり疎外されたりしてきた女性たちのふざけんじゃねえよ、の怒りをぶちまけて狼煙をたくようなものにしてもよかったのでは、とか。 同様にアガウエー (Sharon Small)が嬉々としてぶらさげていた首が我が子のペンテウスのものであることを知った時の悲嘆も、そんなに響いてこない気がした。 ドラマチックであり、エモが炸裂するシーンであることはわかるのだが、なにかが薄まってしまっているような。 それが音楽によるものなのか衣装や舞台装置によるものなのかはよくわからなくて、うんとラディカルな、すごいことをやっているかんじが来ない。神々(と人間)の物語に込めるもの、込められていてほしいもの、のギャップだろうか。これだと神も人も、どっちも割としょうもないな - 実際そうであるにしても - で終わってしまうし、Bacchaeもずっと世に放たれずにあの岩山に残されたままなのかな、って。
11.05.2025
[film] The House of Mirth (2000)
10月26日、日曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。
ここの11月の特集で、”Love, Sex, Religion, Death: The Complete Films of Terence Davies”というTerence Daviesのレトロスペクティヴが始まっていて、これもMelodrama特集と並んで重いったらないのだが、英国にいるなら見ないと、ということで見始めている。特集の予告にはPet Shop Boysの"Paninaro"が流れたりして、なかなかよいの。
で、これはリリース25年周年を記念してBFIがリマスターしたものを特集と並行してリバイバル公開していて、全体にあまりに美しい絵が続くのでびっくりした。なんでこれが日本で公開されていないの?
原作はEdith Whartonの同名小説(1905)。翻訳のタイトルは『歓楽の家』。映画化されたWharton作品というと”Age of Innocense”(1920) - 映画版は1993 年 - が有名だが、これも負けていなくてすごくよい。監督・脚色はTerence Davies、撮影は”Elizabeth” (1998)のRemi Adefarasin。
UK - Germany - US合作で、20世紀初頭のNew Yorkが舞台だが撮影の殆どはグラスゴーで行われている。つまり、2000年のグラスゴーは100年前のNYであった、と。
20世紀初のNYの社交界で、Lily Bart (Gillian Anderson)は強い財力やバックがいるわけではないのだが、派手で華やかなのでそれなりの人気はあって、いつも話をする弁護士Lawrence (Eric Stoltz)をちょっとよいと思って頻繁に会ってはいるのだが、彼の収入が少ないので結婚相手としては考えていなくて、でもそうすると金融をやっている金持ちのSimon (Anthony LaPaglia)かただの金持ちのPercy (Pearce Quigley)くらいしか現実的な選択肢はなく、でも何度か誘いをすっぽかしたらPercyからは見向きもされなくなり、Simonは見るからにただの金持ちで中味なさそうだし、と、将来がいろいろ不安になってきたので友人の夫でやはりお金持ちのGus (Dan Aykroyd)に相談してみると投資のためのお金を出してくれて、でもその見返りとしてオペラの帰りに屋敷に連れこまれたので拒否したり、Simonからもプロポーズされるのだが、やっぱり嫌なものは嫌で、あれこれもうやだ! になっていたところで、友人のBertha (Laura Linney)夫妻からヨーロッパクルーズに誘われて行ってみるのだが、Berthaの不貞の噂話で疑われて結局孤立してひとり帰らされてしまう。
こんなふうにどこに行っても十分な財力も後ろ盾(男)もいないし、それを求めてもろくな選択肢も見返りもなくしょうもないのに当たったり勘違いされたり裏目に出てばかり、そうしているうちに友人がひとりまたひとりと離れていって結果的に社交界から孤立して脱がされるように借金まみれになり、職にも住む場所にも困るようになっていくさまを絵巻もののように淡々と描いていく。
抜けられない愛憎劇があるわけではないし、運命の急転をドラマチックに怖ろしげに描くものでもないし、そんな社会の非情を訴えるわけでもなく(少しはあるけど)、すべては壁のように動かし難いものとして巌としてあるだけで、カメラはもう少し将来のことを考えて人生設計すればよかったのに自業自得 - と指さされているかもしれないLily = Gillian Andersonの表情を正面からずっと捉えていって、でもそうされてもどれだけ落ちても揺るがずに正面を見据えているLilyがすごいの。最後にひとりめそめそ泣いてしまうのはLawrenceの方だったり。
Gillian Anderson、こんなにすごい人だったんだー、って。こないだ見た”The Salt Path” (2024)で、無一文になっても超然と山歩きと野宿を繰り返していた主人公の姿が重なるし。
11.04.2025
[film] Springsteen: Deliver Me from Nowhere (2025)
10月27日、月曜日の晩、Curzon Bloomsburyでみました。
監督はScott Cooper、脚本は監督とThe Del Fuegosのギタリスト - Warren Zaneの共同、撮影はMasanobu Takayanagi。
“A Complete Unknown”でTimothée Chalametが周囲から眉をひそめられつつエレクトリックに向かうBob Dylanの像を演じたように、Jeremy Allen Whiteが絶頂期に周囲の困惑を振り切ってアコースティックに向かっていくBruce Springsteenを演じている。
“A Complete Unknown”に”Deliver Me from Nowhere”と、どちらのタイトルも謎めいていて本当のところは? みたいにぼかしているものの、本作はBruce本人がNYFFにもLFFにもやってきて直にプロモーションしているので、”Deliver Me from Anywhere”にしたってよいくらいかも。
冒頭はモノクロで描かれるBruceの幼少期の姿で、酒浸りで暴力的な父(Stephen Graham)の下で母(Gaby Hoffmann)と怯えながら固まって暮らしていて、そこから成功した”The River” (1981)のツアーで”Born to Run”を熱唱するBruce Springsteen (Jeremy Allen White)の姿にジャンプして、誰もが金字塔となるであろう次作での大爆発/大儲けを期待するのだが、彼はColts Neckに一軒家を借りて、Flannery O’Connorの本を横に置いたりしつつ、Mike Batlan (Paul Walter Hauser)にマルチトラックのカセットレコーダーを持ってこさせて、アコギ1本で録音を始める。
町をうろついて、シングルマザーでウェイトレスのFaye (Odessa Young)と仲良くなったりするものの、どこに向かっているのかは本人にもわからないまま彷徨っているようで、都度子供の頃の虐待の記憶が蘇ったり、昔の殺人事件のニュースが目に入ってきたり、外から眺めれば成功の後のスランプ… のように見えるのだが、レコード会社の上の連中はそんなの理解できなくて、プロデューサーのJon Landau (Jeremy Strong)だけが静かに彼を見守っている。
やがてBruceはギター一本でカセット録りしたデモの音そのままの状態のをどうしてもリリースしたい、ってゴネて、これがやがて”Nebraska” (1982)になるわけだが、これくらいのことは当時のインタビューでも語られていた気がするし、彼のような音楽をつくる人のドラマとしてそんなにおもしろいものでもないような - 湿った質感の映像はとても素敵なのだが。
むしろ”Nebraska” の後、”Born in the U.S.A.”(1984)の最初のシングルが、ぱりぱりの”Dancing in the Dark”で、アルバム全体もBob Clearmountainミックスのプラスチックな質感になった/してしまったことの事情とかの方を知りたい。時代?
あと、これを音楽映画とするなら、ライブや演奏シーンの映像が圧倒的に少ないのが不満としてはある。アメリカのストーリーテラーとしての彼もあるけど、80年代から3時間超えのライブをずっと続けてきている、そっちの方のパワーの謎と驚異を描くことだってできたのではないか。ドキュメンタリー “Asubury Park: Riot, Redemption, Rock & Roll” (2019)で描かれたあの時代の海辺の町を舞台に。
わたしがはじめて”Born to Run”を聞いたときは既にJohnny Thundersの”Born To Lose”を聞いた後だったのでBruceには乗れず、一番聴いたのは”Darkness on the Edge of Town”だったが、この辺りから、彼の聴き手周辺ってミュージシャンも含めて走るんだぜ、みたいなバカが大量発生して(うんざりするくらいいっぱいいたのよ)ひどかったのでちょっと距離を置いてしまったまま。 みんなまだ走ってるのかな?
ニュージャージー関連でもうひとつ、10月25日の土曜日の昼、Charing Crossの書店Foylesで、”Jon Bon Jovi in Conversation”っていうトークイベントがあった。イベントの2日前くらいに告知がきて、お代は£70(うちサイン本が£60)もしたのだが、なんとなくどんな人なのか見たくて取った。11時開始の先着順の入場で9:30に行ったら既にすごい列だった。
今回リリースされた本”Bon Jovi: Forever”、本として値段は結構高いのだが、80年代からのライブの記録やチケットの半券まで、ものすごい細かさと物量で見てて飽きなくて、ファンの熱がこもるとこういうことになる、よいサンプルだと思った。
トークは、本当に率直に語るよい人で、アスリートかアストロノーツかロックミュージシャンになるしか抜け出すことができないニュージャージーの荒野からどうやって、について、裏か表かわかんないけど、Bruceの話にも繋がるような気がしたのと、闘病の話になったら(ケアしてくれた人への感謝で)声を詰まらせてしまったり。
オーストラリアから来ている人、80年代からずっと追っかけしている人(彼に指さされてた)、よいファンに囲まれてきたんだなー、って。