12月3日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
メロドラマ特集で、11月15日にあったイベントMelo-dramaramaの補足番外編として、”Beyond Camp: The Queer Life and Afterlife of the Hollywood Melodrama”というパネルトークがあった。
ハリウッドの「女性映画」やメロドラマが長年クィア文化に深く結びついてきた - Bette DavisやJoan Crawfordなどがゲイ・アイコンとして崇拝されているのはなぜなのか? R.W.Fassbinder, Almodóvar, Todd HaynesらがDouglas Sirk のスタイルを継承・変奏しているのはなぜなのか? などについて、”The Heiress” (1949)や(いつもの)”Written on the Wind” (1956)のクリップを映しながら議論をしていく。
男性中心社会/至上主義の目には見えない過酷さがあり、その過酷さを生き抜こうとしてモンスター(or 犠牲者)となるメロドラマの主人公にクィアが接続されていくのはものすごくふつうの、そうだよね、しかなくて、それをそうだよね、にしてしまっては何も変わらないので、これはOne Battle After Anotherなのだ、と改めて。
今回はネタの起源を40〜50年代の米国ハリウッド映画にしていたが、英国であればこれの根は階級制度に、日本であれば家父長制起源のものになって、でもこれはネタがどう、とかいう話ではなくてそれだけこの野蛮な人でなしの世の中で苦しんでいる人がいる、というのと、その中で、他からどう見られても蔑まれてもいい、とにかく生き抜く術と姿をください、という祈りのなかでメロドラマというアートが立ちあがってきた、と。
これの終わりに特別上映として:
Bourbon Street Blues (1979)
Douglas Sirkの最後の監督作品とされている25分の短編で、原作はTennessee Williamsの一幕戯曲”The Lady of Larkspur Lotion”(1946 and 1953)を基にした作品。
酔っ払って全てを失い明日がないぞって更に酔っ払う女性と彼女に文句を言い続ける女性、その口論の終わりの方にぬうっと現れるR.W.Fassbinderの生きているのか死んでいるのか瀬戸際の異様なオーラ。たぶん彼女たちの口論の中身がわからなくても、ここに晒された呪いのように臭ってくる酩酊とアートのありようはずっと。
Tea and Sympathy (1956)
12月3日、↑の企画の後に、参考作品として上映されたのを見ました。企画テーマに見事にはまる一本。
35mmフィルムのテクニカラーで、フィルム上映で見るDeborah KerrやMaureen O'Haraって、なんであんなに美しいのか。これって美術館でもシネコンでも絶対見ることのできない美のひとつではないか。
原作はRobert Andersonによる1953年の同名戯曲で、メインキャストはブロードウェイの舞台からそのまま(舞台、見たかったなー)。監督はVincente Minnelli、撮影はJohn Alton、音楽はAdolph Deutsch。邦題は『お茶と同情』 … 「同情」じゃないよね。
Tom Robinson Lee (John Kerr)が同窓会で高校を訪れて、17歳の自分が暮らしていた下宿屋の自分の部屋に行ってみると、いろいろ蘇ってきて…
そこでは大勢の男子学生が家主でスポーツのコーチでもあるBill (Leif Erickson)の家で体育会ど真ん中の集団生活の日々(隅から隅まで吐きそう)を送っていて、でもTomはBillの妻Laura (Deborah Kerr)と庭先でお茶をしたりお花とか縫い物とか本の話をする方が好きで、Lauraも彼のことを大切に思うようになって、でもそうしていると同級生たちにLady Boyってバカにされて虐められて、尊敬していた父親 - Billの親友でもある - からもそんなことじゃいかん、て言われ、その虐めはエスカレートして地元の娼婦Ellie (Norma Crane)のところに夜に行ってこい、っていう酷いことを強いて、無理をしたTomは自殺をはかって…
全体の殆どが、流血こそなくても愚かで幼稚でバイオレントな描写に溢れていてしんどいのだが、最後に森に逃げこんだTomとLauraの、というかDeborah Kerrのあまりの美しさにびっくりして涙が引っこんでしまう。こんな美しいのってあるのか、この美しさと共に生きよう - ってTomも思ったのだと思う。
12.15.2025
[film] Tea and Sympathy (1956)
12.12.2025
[log] Prospect Cottage - Dec. 6th 2025
12月6日、土曜日、Kent州、Dungenessにある – “Dungeness”というとまずはアメリカの蟹なのだが、蟹のいるアメリカのワシントン州のDungenessは、ここのDungenessから取った、ということを知った – Prospect Cottageに行きました。英国に来てからずっと行かねばリストに入っていた地点。Vanessa BellのCharleston、Virginia WoolfのMonk’s House、HaworthのBrontë home、などに続くシリーズ。
映画監督Derek Jarmanが父の死後1987年に購入して、1994年に亡くなるまで暮らして、彼の死後はパートナーのKeith Collinsが暮らして維持して、彼が2018年に亡くなった後は、売りに出されたり維持のための寄付活動があったりしたのだが、いまは落ち着いて一般公開されるようになっている。
のだが、夏だとチケットがすぐ売り切れていたりでなかなか行く機会がなくて、どうせ行くなら一番暗くてきつい時期にしてやれ、って決めて、ついに、ようやく。
ロンドンのSt Pancras Internationalから電車で40分、そこからバスで約1時間、そこから歩いて15分、というアクセスの面倒くささも遠ざけていた要因か。やはりふつうは車で行くらしい。
天気予報ではずっと雨95%くらいだったので、ずぶ濡れ上等バケツでもタライでも、だったのだが、雨はこなかった。かわりに風がとんでもなく強くて、久々に飛ばされそうになった。
バス停を降りると廃線になった線路が海まで伸びていて、それ以外は地の果てまで砂利の荒野 – としか言いようがない – がずっと広がっていて、廃れた漁師小屋のようなの、棄てられた木の船がぽつぽつあって所々で鳥が群れて(たぶんなにかの死骸をつついて)いる。このランドスケープだけである種の映画が好きなひとはやられてしまうに違いなくて、Derek Jarmanもそうだったのだと思う。
Prospect Cottageもそういうなかの一軒で、窓枠が黄色い以外は真っ黒で特に大きくもなく、柵とか門に向かう小道とかもなく、砂利と砂漠の植物みたいのとオブジェがぽつぽつと置いてあるのか並べられているのか。南側の壁にはジョン・ダンの詩が彫って.. じゃない浮かびあがっている。
時間 - 確か30分間隔くらいでスロットが切られていた - になると中から案内係の青年が出てきて小屋内ツアーの説明 - だいたい40分、中の撮影は禁止、聞きたいことはなんでもその場で聞いて、など - をする。自分の他には3人の家族らしき人達 + 赤ん坊で、この子は見事なリズムでずーっとえへえへ唸っていた。
部屋は決して広くない客間、書斎、書棚のある部屋、寝室、キッチン、後から足された部屋など、どの部屋にも彼の描いた/作ったアートが並んでいて、ぶっとい木の重そうな木と合わせると、あまりアーティストのお部屋には見えない、木樵のような無骨なやりかけのかんじ、そこがなんだか彼らしい。
冬は厳しそうだけど、キッチンの窓はとても広くて光が入っていて、これなら・ここなら暮らせる、暮らしたいな、になった。
ガイドの人からは、彼の晩年のキリスト教の宗教画への傾倒のなかで、John Boswellの名前が出てきて、へー、ってなったり。
あっという間に終わって、でも平原の向こうにあるはずの海を見ないで帰るわけにはいかず、風に逆らって20分くらい歩いて、クールベの絵のそれみたいにぼうぼうと愛想のない海と砂しかない浜辺を眺めて帰った。
戻りのバスは30分遅れて乗る予定だった電車にも乗れず、いろいろその日の予定が。
パリではDerek Jarman特集をやっているのかー… 随分と見ていないかも。
Turner & Constable Rivals & Originals
↑ので荒野を歩いて風と光に晒されていたら数日前に見たこれを思い出したので。
11月30日、日曜日の午前にTate Britainで見ました。まだ始まったばかりの企画展。
1775年生まれのJ.M.W. Turnerと1776年生まれのJohn Constable、どちらもRoyal Academy of Artで学んで英国の風景画の世界を刷新した彼らの生誕250年を記念した展覧会。たいへんおもしろい。
風景画なのだが、このふたりのそれは英国の光(と暗さ)、雲、海、雨、湿気、これらが刻々ぱらぱらと変化していく様も込みであわさったそれで、写真のように切り取られた断面、というより絶えまない変化のなかにある光と水に晒され覆われた景色をどうにか平面に転写しようとして、実際に画面は焼けたり湿ったりで、いつも触ってみたくなって、こういうことが起こりうるのは英国だから、としか言いようがないかも。
場内ではふたりが競演した”Mr. Turner” (2014)の一部が上映され、そこで展示されていたWaterlooの絵の現物もあったり。
結構な数が出ていたので、Tate BritainのTurner常設コーナーはがらがらではないか、と思って行ってみたら、そこに並べられたConstableまで含めて、いつもと全く変わっていないのだった。
12.10.2025
[theatre] The Maid
11月29日、土曜日のマチネを、Donmar Warehouseで見ました。公演の最後の回で、見逃すところだった。
原作はJean Genetの”Les Bonnes” (1947) - 『女中たち』。脚色・演出はSarah Snook による一人芝居“The Picture of Dorian Gray”を成功させたKip Williams。 1時間40分、休憩なし。
舞台は明るくて3つの背面がでっかいミラー(後でディスプレイ)になってて、スライドされるその向こうはなんでも出てくるクローゼットで、白系のきらきらで統一されたバブリー(死語)で豪勢なリビングルームがあって、開演前~開演後もしばらくはガーゼ仕様の薄幕カーテンで覆われていて(その向こうでなにが行われているかはわかる)、あげあげ系のR&B&ハウス系の音楽がそんなに大音量ではなく流れていて、そこにメイドの恰好をしたメイドと思われる女性が現れて音楽に合わせてふんふんしたり踊ったりしながらスマホを見たり化粧台のコスメを試したり、そこらにある服を試着したりを始める。
この最初に現れたメイドがClaire (Lydia Wilson)で、そこにSolange (Phia Saban)が入ってきてご主人様としてClaireを虐めたり辱めたりして、でもそのうちSolangeも同じメイドであることが明らかになって、ふたりは姉妹で、要は支配と服従の「ごっこ」をおもしろがってやっているのだが、そのうちに本物のMadame (Yerin Ha)お嬢さまのインフルエンサーでもある - が入ってくると、彼女の我儘で傲慢な振る舞いは「ごっこ」のレベルではない、エクストリームなものであることが見えてくる。なにがエクストリームかというと、仕事や契約上の規約なんてないに等しく、自分は上でお前は下なんだからとにかく従え文句や口出し一切無用とっととやれ、が徹底されていて、誰もその掟を破ることができない、その手段がない、ということ。
登場する3人の女性たちは、全員がずっとスマホを手にしてSNSにポストしたりライブストリーミングしたり、その画像も声もエフェクトをかけてアニメ風にしたり老婆にしたり、リモートも含めてやりたい放題でそれがそのまま背後の大きなミラーに映しだされていく。メイドとしてクソのような仕事をしていても、どんな酷いことを強いられても、ストリーミングでは主人のドレスを羽織ってお花畑の女王のような姿を演出することができて、そこで身分の上下なんて気にしている人は誰もいなくて、要は本当の正体はなんなのか、本当に起こっていることはなんなのか、を誰も知ることができない/知らなくたって構わない、という反転した地獄絵がある。この支配・服従構造の不可視化(による重層の支配)は、もろ現代のテーマでもある。
この状態をどうにかしたいClaireとSolangeのMadameのお茶に毒を盛って飲ませる計画もなかなかうまくいかないまま、Madameの暴走は誰も止められなくなっていって…
誰かに支配されている、という言い方は(ちょっと恥ずかしいので)したくないが、自分の時間や労力を常に誰かや誰かや誰かに奪われている、という終わらない感覚はあって、それを終わらせるには特定の誰かやチェーンをどうにかすれば済む、という話でもなく、ではどうしたら? ということについて「自由」とか「解放」とかの言葉を言わず使わずに考えさせる – かなりごちゃごちゃ騒々しくて疲れるけど – よい舞台だと思った。女優3人共自身の演技に加えてエモの延伸のようにデバイスとか自在にコントロールしていてすごい。
原作者のジュネが作品のなかで表現しようとした服従や拘束のありようとは違うのかも知れないが、誰もが止むことのない憎悪と蔑視に囚われて中毒のようになっていて、そこから抜けられないまま団子になって転がっていって、でも結果としてどこにも行けないどん詰まり状態、はうまく表現されていたのではないか。
全体をあと少しだけ落ち着かせてみたら、日本の会社の風景にも近くなる気がした。
12.09.2025
[film] The Last Days of Dolwyn (1949)
12月2日、月曜日の晩、“Imitation of Life” (1934)のあと、BFI Southbankで見ました。
12月のここの特集で生誕100周年を祝う特集”Muse of Fire: Richard Burton”が始まって、いろいろ見始めている。彼のフィルモグラフィは膨大なので1ヶ月の特集でカヴァーしきれるものではないのだが、この特集でかかるセレクションは35mmフィルムで上映されるものも多くてなんかよいの。
作、監督はウェールズのEmlyn Williamsで、彼が監督したのはこれ1本(俳優としてのキャリアが殆ど)。35mmフィルムでの上映。
これがRichard Burtonが23歳の時の映画デビュー作で、上映前のイントロをした娘のKate Burton(この方も女優)によると、彼女の母Sybil Williamsは19歳で映画女優になりたくて監督のところに直談判に行って、そうしてこの映画で端役を貰って - どこに出ていたのか確認できず - Richard Burtonと出会って結婚して、自分が生まれた。なので監督のEmlyn Williamsは自分にとって祖父のような人でした、と。
19世紀の終わりに、ウェールズの山奥にあるDolwynの村がダム建設によって水没した – タイトル通り、そこに暮らす村人たちの最後の数日間を描いて、架空の村のフィクションだが当時いくつかあったこれに近い実話を基にしているそう。
土地を買収するために地元の人たちにうまい話 - リバプールの方に移住させて仕事も与えて - をしに小賢しい役人みたいなRob (Emlyn Williams - 監督本人)がやって来て、村人たちの多くは言いくるめられて引越しの準備を始めるが、先祖からのお墓もあるし離れたくないMerri (Edith Evans)のような女性もいて、彼女の里子のGareth (Richard Burton)は、一帯の土地の永代所有権を証明する文書を発見して、何がなんでも立ち退かせたいRobと対立していって…
Richard Burtonは村の外から村をダムの底に沈めに来た悪者と対峙する若者、という役柄で、ブチ切れたら怖いけど、貴族の女性にぼーっとなっていたり隙だらけで、でもこの映画で最もすばらしいのはMerriを演じたEdith Evansで、迷いながらも村に留まることを決意していくひとりの女性を見事な情感と哀しみのなか浮かびあがらせていた。
My Cousin Rachel (1952)
12月5日、金曜日の晩、Richard Burton特集で見ました。
ここでもKate Burtonさんがイントロで登場して、これが彼のハリウッドデビュー作で、アカデミー賞にノミネートされた最初の作品です、と。
原作はDaphne du Maurierの同名小説(1951)で、Rachel WeiszとSam Claflinが主演した2017年のリメイク作の方はまだ記憶に新しいかも。
監督はHenry Kosterで、彼になる前はGeorge Cukor監督で企画が進んでいて、原作者との芸術観の相違などで流れた、と。Cukorの企画ではGreta GarboかVivien LeighがRachelを演じる想定だったようで、あーそっちも見たかったなあ、って。
コーンウォールの海岸沿いでPhilip (Richard Burton)は従兄弟のAmbroseに育てられて、彼が健康上の理由で滞在していたフィレンツェから、現地で結婚した従妹のRachelのこと、彼女からひどい扱いを受けているというぐしゃぐしゃの字体の手紙を受けとって、不安になったPhilipが現地に行ってみるとAmbroseは脳腫瘍で亡くなっていて、でもRachelは不在だったので、彼はRachelがAmbroseを殺したに違いないと思いこむ。
数か月後にコーンウォールに戻ったPhilipはRachel (Olivia de Havilland)の訪問を受けて、思いっきり文句言って虐めてやろうと思っていたのに簡単に彼女の佇まいや物腰にやられてめろめろになって、一族代々の宝石をあげちゃったり、25歳の誕生日に全財産を彼女に譲ってしまう。彼女はいちいち喜んでくれたので、その流れで当然結婚してくれると思っていたのだが…
Burtonは手練れの悪女に簡単にやられてしまうバカで純朴な田舎の青年 - ↑のフィルムデビュー作でもそういう系だった – をフレッシュに演じていて微笑ましいのだが、それ以上にOlivia de Havilland(Burtonより9歳上)の放つオーラがとんでもなく、これならやられちゃうだろうな、ってあっさり納得できてしまうのだった。
運命に抗いながらも半分くらいは自業自得で勝手に潰れていく、そういう立ち居振る舞いをものすごく自然にやってのける、彼のシェイクスピア俳優としての素地はこんなふうに最初から運命のように定められ形づくられていったのだろうか、って。
[film] Imitation of Life (1959)
12月1日、月曜日の晩、BFI Southbankのメロドラマ特集で見ました。
原作はFannie Hurstの同名小説 (1933)。Frannie Hurstは、女性とアフリカン・アメリカンの地位向上に貢献した活動家 - 女性が旧姓を保持できるようにしたLucy Stone Leagueの最初のメンバーでもあった。
監督はDouglas Sirk、プロデュースはRoss Hunter – なので、いつものように撮影はRussell Metty、音楽はFrank Skinner。Sirkの最後のハリウッドでの監督作となった。 邦題は『悲しみは空の彼方に』。
女優を目指しているシングルマザーのLola (Lana Turner)が混雑するコニーアイランドのビーチで娘のSusieを見失っていたところで、黒人のAnnie (Juanita Moore)とその娘で一見黒人には見えないSarah Janeと出会って、やはりシングルマザーで、家と仕事を探していたAnnie母娘をメイドとして自分のアパートに住ませることにする。
Lolaはコニーアイランドで出会った駆け出しの写真家Steve (John Gavin)に少し惹かれつつ、お芝居の世界でのエージェントのLoomisや劇作家のDavidとの出会いが彼女を成功に導いて、そこから10年後、彼女はブロードウェイの人気スターとなって、Davidからのプロポーズを断り、それでも彼女の地位は揺るがないし、Annieとの仲も変わらず、メイドだけでなく日々の相談相手としてもずっと一緒にいる。
でもAnnieの娘のSarah Janeは母が黒人だと知れたら突然白人BFに殴られたり、黒人として見られてしまう自分が嫌で家出をして、Annieは体を弱らせて…
Imitation of Life (1934)
12月2日、火曜日の晩、BFI Southbankのメロドラマ特集で見ました。
↑と同じ原作が出たすぐ後に、John M. Stahl監督によって映画化された作品で、脚本にはWilliam J. Hurlbutの他にアンクレジットでPreston Sturgesの名前がある。 こちらのバージョンの方が原作にはより近いのだそう。
Bea Pullman (Claudette Colbert)はやはりシングルマザーで、土砂降りの日、彼女のアパートに求人広告を読み違えたDelilah(Louise Beavers)が訪れて、浴槽におちたBeaの娘Jessieを助けてあげたりして、母娘ふたりだと大変だろうし、Delilahと彼女の娘Peolaが一緒に住んでBeaの家事を助けていくことができたら、って暮らし始めたら、Delilahの作るパンケーキがとんでもなくおいしくて、それならこれをビジネスにしよう、と店舗を借りてリフォームして、その場で焼いたのを食べてもらうレストランにしたらこれが当たって、Beaはお金もちになる。
女優業とパンケーキ屋と、どちらもぜんぜん違う世界をとりあげつつ、女性(シングルマザー)が、自分で仕事を見つけてやっていくことがどれだけ大変なことか、そんな彼女を支えたのが黒人のシングルマザーで1934年版ではパンケーキのレシピを持っているのはDelilahなのにフロントにいるのはBeaだったり、両バージョンのAnnieの娘Sarah JaneとDelilahの娘Peolaは自分のせいでもなんでもないのに、肌が白くて黒人に見えない、というだけで酷い差別を受けたりする。
こんなふうに登場人物や展開をいくら並べてもこのストーリーが持つ渦の強さ、業の深さを表わすことはできない。その根底にあるのは原作者の怒りなのだと思う。
Imitation of Life – というとき、”Imitation”ではない”Real”なLifeはどこにあるのか?
そのありようはLola/Bea, Annie/Delilah, Sarah Jane/Peola, Susie/Jessieでそれぞれ違う。Lola/Beaは裕福な庇護者の男性なしではのし上がれかなったし、Annie/DelilahはLola/Beaがいなかったらどこにも行けなかったろうし、Sarah Jane/Peolaが生きるためには親の存在を消し去らなければならなかったし、Susie/Jessieは母に寄ってきた男を自分のものにしようとする - ここの母親が苦労して勝ち取った男を娘が横取りしようとする構図は”Mildred Pierce“ (1945)にも出てくる。 “Imitation”と”Real”の境界とか構図を決めているのは男性優位と人種差別を基軸に成り立っている白人男性中心の世の中でそんなのどう考えてもおかしい。丸ごとImitation ではないか、と。
そしてラスト、Annie/Delilahの葬儀が荘厳に執り行われてみんなが泣き崩れることの皮肉。”Life”が失われてからようやくみんなに認知される/だからこんなの”Imitation”ではないか、という…
(そして改めて邦題 - 『悲しみは空の彼方に』はだめだと思った。「彼方」にしちゃだめなんだよ日本人)
Sirk版だけ見ていたらたぶん見えなかったであろうことが1934年版を見たらよくわかった。
12.07.2025
[film] Pillion (2025)
11月29日、土曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
原作はAdam Mars-Jonesの小説”Box Hill”、監督はこれが長編デビューとなる英国のHarry Lighton。
封切を記念してなのか、この上映の前になにやらイベントがあったようで、革ジャンでじゃらじゃら金物を身に付けたライダーのおじさん(若い子いなかった気が..)達が歓声をあげて映画の看板の前で記念撮影などをしていて、いつものBFIとはぜんぜん違う雰囲気だった。
入り口にはStrictly18禁、とあって、米国公開版では更にカットされるようなのだが何が/どこがそんなに? くらい。
白のライダージャケットでぎんぎんにキメたAlexander SkarsgårdとハリポタでDudley Dursleyを演じたHarry Mellingの共演なので、”The Bikeriders”(2023)よりもダークでサイコでヴァイオントなホラーになってもおかしくないのに、クリスマスの(クリスマス映画だよ)ちょっと切ない青春rom-comだった。真ん中のふたりがとにかくものすごくよい。
“pillion”って、ぜんぜん知らなかったのだが、バイクの後ろの席に乗る人のことを指すのだそう。なんだかかわいいかんじだが、この映画の彼はもろそんなかんじ。
Colin (Harry Melling)は違反駐車切符を切る仕事をしながらパブの寄せ集めバンドで合唱したり、やさしく見守ってくれる両親と暮らす内気な子で、ある晩ライダーのグループでパブにやってきたRay (Alexander Skarsgård)を見て電気にうたれていたら彼からメモを渡され、裏の駐車場に行ったら強引にされてぼうっとなって、でもその後は何度連絡しても無視されて、諦めかけた頃に彼の家に呼ばれて夢の時間を過ごして、やがて彼に採寸されて自分のライダージャケットと首輪を作って貰い、髪も長髪から五部刈りにして、ライダーの集まりにも参加して、充実した日々を過ごしていく。
Colinのママは末期癌の治療中で長くないので嫌がるRayを家に招いてみんなで食事(当然気まずさの嵐が)をしたり、そういうことをやって少しづつ仲良くなっていっても彼の家に泊まるときはいつも床に寝かされて、彼の横で一緒に寝るのは許されなかったりするので、ある日いきなりブチ切れたColinは彼のバイクに跨って彼のところを飛び出して…
男女のカップルのお話しだったらネタにもならなさそうなことが、無頼のライダー集団の寡黙な男と家族に大切に育てられてきた真面目な青年の間だとこんなにも謎めいておもしろく手に汗握ったり切ないロマンスのようになってしまうのはなんでか? バイクの走りが時空の何かを歪めてしまうのだろうか。あの終わり方にしてもライダーならしょうがないのか… になる(なる?)
Rayは自宅のエレピでへたくそなサティを弾いたり、Karl Ove Knausgård の”My Struggle”を読んだりしているのだが、その割に本棚は空っぽだったりしてちょっと不思議、というかRayが日々何を考えているどういうオトコなのか、(おそらくColinにも)最後までわからない感が残って、ライダーっていうのはそういう種族なのだろうか? とか。
日本だとゲイ・レズビアン映画祭の枠になってしまうのかもしれないが、これはふつうに(18禁)一般公開されてほしいな。
最近は訃報があまりに多すぎていちいち打ちのめされていたらこっちがやられてしまうので、1分くらい黙祷しておわり、にしているのだが、Martin Parrはちょっと驚いた。ついこの間、彼のドキュメンタリー映画で挨拶に来ていたし、新作のサイン本、まだふつうに出ているのに…
ありがとうございました。あなたの撮った天国の写真を見たいよう。
12.06.2025
[film] Wake Up Dean Man: A Knives Out Mystery (2025)
11月27日、木曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。
Rian Johnsonの作・監督によるKnives Outミステリーシリーズの3作目、例によって探偵Benoit Blanc (Daniel Craig)を囲むオールスター・キャストで、楽しい。
元ボクサーでリングで人を殺してしまって司祭となったJud Duplenticy (Josh O’Connor)の回想から入って、彼はJeffrey Wright演じる司祭によってJefferson Wicks (Josh Brolin)が司祭を務めるニューヨーク北部の教会(撮影で使われた教会はエセックスのEpping Forestの近くだって)に送られる。過去の遺産相続をめぐるごたごたで教会は荒れ放題になっていて、Jeffersonは人格もひどい - Josh Brolinが演じてきた悪役そのまま - けど扇動カルトっぽいかなりやばい説教をしてて、反発する人も多いが、彼を囲んで個別のセッションをしている熱い信者たちもいて、Judからすればあれもこれもなんだこれは?なのだが、JeffersonはGood Fridayの説教の合間、沢山の人達がいるところで、一瞬物陰に入った、と思ったら殺されているのが見つかる。
容疑者は全員、凶器の持ち主だとしたらJudだし、他に教会の家政婦のMartha (Glenn Close)、庭師Samson Holt (Thomas Haden Church)、車椅子のチェロ奏者Simone Vivane (Cailee Spaeny)、売れないSF小説家Lee Ross (Andrew Scott)、アル中の医師Nat Sharp (Jeremy Renner)とか、どいつもこいつもで、よくわからない経緯でどこかから突然現れたBenoitがJohn Dickson Carrの”The Hollow Man” (1935)なんかを見せながら嬉々として犯人捜しを始める。
それにしても、人が死んでいるというのに、このわくわくする楽しさはなんなのか?最初にJeffrey Wrightが出てきたのでまるでWes Andersonの世界みたい、とか思ったのだが、恨みや妄執や狂気をカラフルなとっちらかった世界に散らして奇人変人のパラダイスにしてしまうあの世界にちょっと近いのかもしれない。あれよりは落ち着いた、でもトラッドで英国的な端正さ(じゅうぶんに狂って腐ってしまったそれ)を感じさせる世界の。
それと並んで、これって謎解きものって言えるのだろうか?と。たしかに最後には探偵Benoitのひらめきや推理に導かれて犯人も事件の全容も明らかになるのだが、彼の推理は彼のまわりの変な人(容疑者)たちのアンサンブルに巻きこまれるかたちでぐるぐる振り回されていて、その回転のなかで弾きだされるようにあの結末に、なるべくしてなっているようで、彼の推理がなにかを串刺して鮮やかに明るみに出してきたわけではないような気がする。
それにしてもJosh O’Connor、こないだの”The Mastermind” (2025)でも泥棒になりきれない半端な泥棒を演じ、ここでも司祭になりきれない司祭を見事に演じている.. というのか「演じている」の境界をがたがたにするやばい生々しさに溢れていて、要は目を離せなくするなにかがあるねえ、と思った。
Zootopia 2 (2025)
11月29日、土曜日の午前に、West EndのVueで見ました。
わりとどうでもよい新作は週末の早い時間にでっかいシネコンで見るとちょっと安かったりする(座席によってちがう)ので、よく行くのだが、安いかわりにマナーなんてないに等しい無法地帯で、みんなふつうにスマホをみたりスクリーンの写真撮ったりしててひどい。この先どんどんああなっていっちゃうんだろうな。
前作”Zootopia” (2016)から9年、ここに出てくる動物たちにこれだけの時間が経ったらみんなよぼよぼではないのか、と思ったのだが、みんな変わっていなくて、前回の事件のあと、表彰されたふたり(ウサギとキツネ)が正式にパートナーになってすぐの辺りから始まっている。
Zootopiaという国(or 街?)の起源をめぐるヤマネコ族とヘビ(&爬虫類)族の改竄&隠蔽されていた過去をめぐるお話しで、種の多様性と共存、そこで蓋をされていた政治や陰謀をめぐる、ものすごく現在に根差したよいお話しだった。今のアメリカでこういうのを出せた、ってそれだけで少し安心したり(こんなとこで安心するのはどうか、ってなるくらい今がひどいってこと)。
昔ならアニマル共にそんなこと教えて貰いたくねえよ、になったであろうことが、動物さんにそこまでがんばらせちゃってごめんね、になるような。
動物好きなひとは見ているだけで楽しくなるので、見に行ったほうがいいよ。” Ratatouille” (2007)のネズミくんも一瞬出てくるよ。
12.03.2025
[film] La Tour de glace (2025)
11月25日、火曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
LFFでもかかっていたフランス/イタリア/ドイツ映画の新作で、英語題は”The Ice Tower”。
監督はLucile Hadžihalilović、脚本は監督とGeoff Coxの共同。
70年代のフランスの田舎町で、10代のJeanne (Clara Pacini)がいて、薄暗い部屋のなかで辛そうにしていて、小さな妹に大事にしている石のビーズの欠片を渡して家を出ていく。事情はわからないけど、表情を見ると決意は固そうで、ずっと夜道を歩いて、ヒッチハイクをして、でも運転手がやばそうだったので車を降りて、スケートリンクの傍で友達と話している女の子が素敵そうで、彼女の落とした鞄から身分証とBiancaっていう名前だと知り、寝る場所を探して彷徨っていたところで、映画の撮影をしているらしい倉庫だかスタジオだかに迷い込んでしまう。
その場所で映画を撮影中のCristina (Marion Cotillard) –が”The Snow Queen” - 『雪の女王』の銀白に包まれた姿で暗がりの向こうから現れて、そのお話しが大好きなJeanneは息を吞む。
翌日、そのまま野宿をしたその場所で目を覚まして、なんとなく成りゆきで、エキストラとして撮影の現場に入ることになったJeanne - 名前を”Bianca”にした – は、他の子がうまくできなかったシーンに代役で出たら、立っているだけだったのにうまくいったりして、Cristinaから「あなたはわたしのラッキーチャーム」と言われて、Jeanneは夢ではないか、ってぼうっとする。
暗くて寒くて先の見えない絶望の淵で、この世のものとは思えない美しいなにかと出会って、これはすぐに終わる夢だから嵌ってはいけない、とわかっていても抜けられない世界を映画の撮影現場に置いて、そこで撮影しているのが『雪の女王』 - 日本だったら『雪女』か – というのが設定としてうまくて、Marion Cotillardの女王のメイクと、現場から離れた素の – ちょっとギラっとして疲れている - 状態の二重の層が怪奇とは言わないまでも、Jeanneから見れば大人の世界の謎めいた沼の方に招いていて、いけないと思いつつ寄っていってしまう。
Jeanneを演じた新人Clara Paciniの外界のなにを見ても凍りついてしまう透明な瞳と表情、Marion Cotillardの若い頃からのいろんな依存や欠乏から抜けられず、誰かに憑りついてその血を吸ってしまうモンスターの相性が素敵で、『ミツバチのささやき』(1973)で、野原のまんなかの掘っ立て小屋のフランケンシュタインに会いにいって手を差しだしてしまうアナを思わせる。互いにどうしても必要な誰か、としてというより引き寄せられて、触れて、そして… となるその危うさと甘さのせめぎ合いとその先に待っている澱み。 Guillermo del Toroが絶賛したのもわかる。
画面はずっと夕暮れから夜の暗いままで寒そうで、そういうなかから浮かびあがるCristinaの表情と立ち尽くして途方に暮れるJeanneの姿がどちらも氷柱のようで、背後に浮かびあがる氷の塔も今の季節にちょうどよくて、バレエの演目にしたら映えるのではないか、って思った。
Perspectives: Balanchine, Marston, Peck
11月28日、金曜日の晩、Royal Opera Houseで見ました。
この時期になるとなんとなくバレエが見たくなって、でも『くるみ割り..』はNYで何度も見たのでそれ以外のを - と思ったがいま『くるみ割り..』そもそもやってないし。 3演目で、35分 - 35分 - 40分で間に25分の休憩2回。
最初がBalanchineの”Serenade” (1935)で、これは昔見たことがあった。優雅で透明(としか言いようがない)な軽さとしなやかさがあって、何度見てもうっとりの美しさで、Balanchineのなかでも一番好きかも。
次のがCathy Marston振付による”Against the Tide”。海岸のような岩場で、Benjamin BrittenのViolin Concertoにのってシャツとチノパンの男たちがぶつかったり組み合ったりしていく。なにを表現したいのか、なんとなくわかるけどあんま深くわかりたくないようななにか。
最後のがJustin Peck振付、音楽はSufjan Stevensによる”Everywhere We Go” - これを見たくてきた。
Justin PeckはブロードウェイでSufjanの”Illinoise”(2023)をダンス・ミュージカルにした人でもあるので、まったく心配いらない。男性は胸下までの黒タイツ、女性は太い横縞シャツで、オーケストラアレンジは別の人によるものだが、彼のところどころつんのめったり小爆発したりしながら花が咲いて広がっていくお茶目な世界が、幾何学模様で変化していくプレ=モダン〜モダンの照明と”Everywhere We Go”のフレーズと共に浮かびあがってくる。00年代のステージで、チアリーディングを入れてわいわい盛りあげていた頃を思い出した。
彼の山盛りあるクリスマス音楽でバレエやったらおもしろいと思うのに。
12.02.2025
[film] Testimony (2025)
11月27日、木曜日の晩、Curzon Bloomsbury内のドキュメンタリー上映専門のシアター - DocHouseで見ました。
Claire Keegan原作(2021)、Cillian Murphyが制作、主演した映画 - ”Small Things like These” (2024)で、そのエンディングで捧げられていたMagdalene laundriesの犠牲者たち – これ以外にも多くの映画で取りあげられている - その事件の全容をまだ存命している被害者たちと明らかにしていくのと国(アイルランド)への責任追及と謝罪を求めて奔走するJustice For Magdalene (JFM)の女性たちを追ったドキュメンタリー。 監督はAiofe Kelleher。ナレーションはImelda Staunton。
1765年にChurch of Irelandによって設立されて1994年に閉鎖されるまで数万人(少なくとも1万人)規模の女性、女児が監禁され、無給労働を強いられていたMagdalene laundriesについて、2013年、アイルランド政府は国として運営に関与していたことをようやく認めたものの、関与した女性たちへの正式な謝罪や補償を怠っていたので、女性たちが立ちあがり、Justice For Magdalene (JFM) を組織してその証拠、証跡を求めて各地で実態を調査していく。映画は生き残った被害者の女性たちの声を拾いながら、歴史学者、法学者、調査団の中心となった弁護士Maeve O’Rourkeたちの活動を追って、ボストン、国連、アイルランド、へと広がっていく。(施設で生まれた子供たちは引き離されてアメリカに里子に出されたりしていた)
実際の被害の地獄のような恐ろしさ - 脱走しても行くところがないので教会に助けを求めても、同じ教会だからって元来たところに戻されるとか - もさることながら、それ以上に、200年に渡って国による強制収容、拷問がふつうに行われていたことの恐ろしさがくるのと、その証拠を束にして提出して漸くその非を認めて謝罪したとか、国が取ってきた(こうして押されなければなにもしなかったであろう)行動の異様さのほうに目がいく。
後半は、これもものすごく気持ちわるいのだが、1993年ゴールウェイのSt Mary’s mother and baby homeで、796人の乳児と子供の遺体が棄てられていた件の真相を追っていく。このような遺棄が宗教施設で宗教の名のもとに行われていた、ということと、これも、こうして暴かれ晒されなければそのままで放置されて誰も何もしなかったであろう、というのと。
Testimonyを重ね合わせていくところから始まり、行動に駆られて連携していく女性たち、謝罪を勝ち取って祝福を受ける被害者の女性たちを静かに追って、カメラの前で前を見つめて証言していく女性たちは力強く、その勇気も含めて讃えられるべきだと思うが、それよりも、どこかにいるはずの(最大)796人の父親たちはどこで何をしていた奴らなのか、いまはどこでどうしているのか、ってそっちの方が気になる – 彼女たちの辛苦、失われた人生のことなんてまったく考えることなく、日々楽しく酔っぱらってげへげへしていたのだろう、とか想像するとうんざり。DNA鑑定して片っ端から公表しちゃえ、くらいのことは思う。
あと、国って基本碌なことをしないし止めないし、捏造だってするし、過去の政権がやったことなんて出向いて証拠ぜんぶ突きつけて要求しない限り絶対謝罪なんてしない、そういうクズ(が運用しているの)だから、とにかく信用しないこった。いまの政府がまさにそれ。
[theatre] Hamlet
11月22日、土曜日のマチネを、National TheatreのLyttelton Theatreで見ました。
この日の晩が最終で、見逃すところだった。
10月に見た”Bacchae”は、National Theatreの新芸術監督に就任したIndhu RubasinghamのNTでの初演出作だったが、これは彼女と同じタイミングで副芸術監督に就任したRobert HastieのNational Theatre演出デビュー作。原作(1601)はもちろんシェイクスピア。休憩を挟んで全2時間50分。
これ、もうじきNational Theatre Liveでやるし、来年春にはBrooklyn Academy of Musicにもいくのかー。
最初に”Hamlet”と大書きされた黒の幕が掛かっていて、幕があがると割とモダン、ところどころ(背景の絵とか)クラシック。登場人物たちの服装もスーツだったりジャージ姿だったり、一応モダン劇の体裁だが、6月にRSCで見た”Hamlet Hail to The Thief”のようにばりばりに外側から固めたイメージはない。会話のやりとりを中心に人が動いて動かされて、その範囲で視界や舞台がばたばたと変わっていって留まるところがない、どこに連れていかれるかわからない、そんなイメージ。
デンマークの王子Hamlet (Hiran Abeysekera)が父王の死にそれにまつわる陰謀を聞いて、復讐を誓って、王室を中心にいろんな人たちが動きだしていくなか、みんな狂ったり殺したり殺されたり、だんだん人がいなくなっていく様が描かれていく。
ものすごく沢山上演されているこの有名な悲劇について、まだ見始めたばかりなので、これからいろんなのを見ながら所謂「スタンダード」なところ、外してはいけないところ、悲劇の「悲」とか、ドラマチックと言うときの「ドラマ」とはなんなのか、などを中心に考えていけたら、と思ったりするのだが、シェイクスピアの劇のおもしろさって、そのひとつ上(or 下?)の段から、なんでこの人(たち)はここでこんなことをしたり、笑ったり嘆いたりキスしたりしているのか、というような、ヒトの根本的な挙動とか受け応え、それらが積み重なって渦を巻いて「事件」や「劇」の相をなしていくところまでの異様さ不可思議さにまで踏みこんでいる気がして、ああ(ドラマの)沼というのはこういうのなのかも、って今更ながらに思ったりしている。
この劇については、まずHamletがそんなに狂っている、ある考えに憑りつかれているようには見えない、というのがある。(なんとなく挙動とか謎めいた笑みとか、どこかPrinceを思わせたり - Princeの話だし) 狂っているのか狂っていないのかが量れなくて、後半冒頭の”To Be or Not to Be”のところも、心ここにあらずの呟きで、他の台詞も少しどんよりしていて普通に喋っているだけなのだが、周囲もハレものに触るようにいちいちびくびくしていたり、ピストルを撃つのも、フェンシングをやるのも、死んでいくのも、感情を表に出さず、ぼやけた無関心のなかなのかすべてを悟ってしまっているのか、諦めているのか、それでも劇の時間が止まることはない。
そんな彼と対照的なのが、Ophelia (Francesca Mills)で、体の小さな彼女は目一杯走りまわり、歌をうたい、声をあげ、届かないからそうしているのか、そうしないと届かないのか、その痛切さが最後まで残る - エモーショナルになるとこはこれくらい。
あとは会社員のように銀行員のようにきちきちと動きまわって機械のようなRosencrantz (Hari Mackinnon)とGuildenstern (Joe Bolland)のふたりとか。 あまり喋らないけど最後までHamletの傍に付き添っている母のようなHoratio (Tessa Wong)とか。
この悲劇から劇的な振る舞いや言動をそぎ落としてプレーンな - それでもそこそこ十分に通じる - ドラマにしてみた時、そこにある悲しみや怒りはいったいどんなふうに見える - 伝わるものなのか。という実験? 血族の諍いとか普遍的な何かに通さずに見た時にどう見えるのか - それでも十分に変で不気味でなんだかおもしろいのだった。
12.01.2025
[film] Jay Kelly (2025)
11月24日、月曜日の番、 Curzon SoHoで見ました。
ものすごーく評判が悪いことも、その理由もだいたいわかっていて、でもNoah Baumbachの新作だから、と。
脚本はBaumbachとEmily Mortimerの共同。LFFでも上映されてなにやら盛りあがっていた。
George Clooneyがハリウッドのトップクラスのスター俳優Jay Kellyで、新作を撮り終えたばかりだが、疎遠になっていた下の娘(Grace Edwards)からは煙たがられ、自分を育ててくれた監督(Jim Broadbent)は亡くなり、その葬儀で駆け出し時代のライバルだった友人(Billy Crudup)と再会したら殴りあいになり、トスカーナの映画祭で生涯功労賞を授与したいので来てほしい、という依頼も突っぱねようとしたらずっと傍にいるマネージャーのRon (Adam Sandler)から説得されて、丁度娘のヨーロッパ旅行を追っかけるかたちでパリからトスカーナへの普通列車に乗りこむ。その旅の顛末を通して彼に去来する過去のいろんな後悔から感動の授賞式まで、という映画で、George Clooney主演のこんなお話しを見たいと思うのはNespressoのCMも含めて彼のことが大好きな人なのだろうな、と思って見ていた。
George Clooney的なキリッとした二枚目風が面倒な事態を解決してくれる物語が万人にもてはやされた時代の終焉を、NYでもロンドンでもない、トスカーナの田舎まで運んで告げようとしているのか、などとも思ったのだが、ラストの方はどうみても感動的なところに落とそうとしているのでうーむ、ってなる。
こういう設定の映画であるなら、例えフィクションであっても、主演を演じるスター俳優はそれなりの実績と人気のある人がやるべきだと思うのだが、そもそもGeorge Clooneyって、そういうレベルの人なの?(別に嫌いではないよ) いろんなプロモーションとか、マネジメントはしっかりしている印象はあるけど、それだけなんじゃないの? これの主演も、その延長でしかないんじゃないの? とか。うまくこなせているならよかったね、だけど、こっちの先入観のせいか、それらも含めてぜんぶが冗談のようなGeorge Clooneyプロモーション映像にしか見えない。
それよりもさー、主演以外にはAdam Sandlerがいて、Laura Dernがいて、Greta Gerwigまで出てくるのに、イタリアからAlba Rohrwacherまで出ているのに、なんでストレートにコメディにしないの? “While We're Young” (2014) でも”Mistress America” (2015)でも、居場所とか立ち居振る舞いがわかんなくなった主人公が意地になって散らかして転げ回って大変!って、得意だったじゃん? なんで主人公を中心にした”This is 60”をやらないのだろうか?
それとかさー、映画 - パーフェクトで完結した世界 - を作る/作ってきた当事者の精神の危機、はこれまでも映画のテーマにはなってきて、別の夢の世界に逃げこんだり、外部からなんらかの助けや啓示があったりだったと思うのだが、ここでは、彼がおかしくなりすぎて信頼してきたスタッフがだんだん離れていって、さてどうするのか、ってなっているところで、授賞式での編集されたレガシー映像みたら自分で自分に感動して治っちゃう、ってどういうこと? そんなんで解決できるなら、ただ周囲を振り回しているだけの我儘ナルシストでしかないし。パワハラ上司とかがちょっと優しくされたら和んじゃうようなよくある話? とか。
勘違い系のじじいがそのまま勘違いしそうな内容のところも含めて、あーあ、になるのだった。
11.28.2025
[film] Wicked: For Good (2025)
11月22日、土曜日の午前、BFI IMAXで見ました。
“Part I”を見たのが昨年の12月1日だったので、もうほぼ1年前、というのにびっくりする。
関係ないけど、最近リリースされた映画で、昔なら必ず(見なければ、と思って)見ていたようなのを見なくなってしまった。Ali Asterの”Eddington”とか、Luca Guadagninoの”After the Hunt”とか、Yorgos Lanthimosの”Bugonia”とか。 演劇とか他に見る/見たいのがいっぱいある、というのもあるけど、現実がじゅうぶんひどく、気持ちわるくなっているので、べつに彼らの映画に教えてもらっていちいちぐったりうんざりしなくてもいいや、って(なんか疲れている)。
公開後2日目、土曜日の午前なのだが、結構入っていて、子供連れも多いけど、みんな真面目に静かに見て、曲が終わるごとに拍手していた。10月のLFFでも期間中にギャラリーで”Wicked”のパネル展があったのだが、映画のキャンセル待ちよりもすごい行列が会場の外まで続いていて、熱心なファンに支えられているんだなー、って思った。やはりミュージカルのファンが多いのかしら?
元のミュージカル版(2003)を見ていなくて、更にもうひとつの映画版“The Wizard of Oz” (1939)も昔に見たきり - これの公開に合わせてBFIでは何度か上映されていたのだが、逃してしまった。“The Wizard of Oz”のオリジンに触れているところもあるので、1939年版は見直しておいたほうがよいかも。
以下、相当とんちんかんになっていると思うが、ざっくりとした感想を。ネタバレとか、もういいよね。
前作の終わりに帝国によって悪い魔女、の烙印を押されたElphaba (Cynthia Erivo)は森の隠れ家で虐待されている動物たちのためにひとりでゲリラ的に戦っていてかっこよいのだが、Galinda (Ariana Grande)は、割と落ち着いて彼女は彼女だから、みたいに眺めながらFiyero (Jonathan Bailey)との婚礼の準備を進めている。 Elphabaの妹のNessa (Marissa Bode)が帝国の外に勝手にでることを禁じたあたりから拗れてきて、それを魔法の重ね塗りでどうにかしようとするので、あれこれおかしくなって嵐になって…
魔法はなにかを実現したい、世界をこうしたい、っていう思いの延長にあり、それらはヒトの上下や種の間でぶつかったりして当たり前で、そこには学園から始まる強い弱いとか序列もあって、それらのバランスで人はWickedになるし竜巻だって起こるし、という混沌とした様が、Part Iよりも強く、ドミノ倒しで、どうなっちゃうんだろう… というトーンで描かれていって、最後に落ち着く先も、結局わたしがこうなればいいんだね/こうするしかないのね、というところで、こんなふうに成り立っている世界は間違っているからぶっ壊そう、一緒に戦おう! という方にはいかない。世界は世界が求めている落ち着きを取り戻して”There's no place like home!" っていう家父長制&帝国万歳ワールドに戻ってしまう。よいこはそうでなくちゃいけないのか。 声を重ねて調和をはかるミュージカルだと、こうなるしかないのか。
「オズの魔法使い」のライオン、カカシ、ブリキ男のオリジン、事情がわかったのはへー、だったけど、そういうのなくたって、ただそこにいたから、とかで一緒に、仲間になったってよいのに、というのはちょっと思った。バックグラウンドチェックがそんなに大切か。ライオンもカカシもブリキ男も、みんな中味が空っぽのスカスカだから一緒になったんだと思っていたのに、それぞれにあんなシガラミがあったなんて…
自分の結婚式の当日にGalindaではなくElphabaのところに行ってしまうFiyeroの件、昨日ここに書いた”The Wicked Lady” (1945)を思いだした。男女逆だけど、ここでも”Wicked”が使われている。
いっぱい出てきた動物たちにもっと動いて、大暴れしてほしかったのに。ヤギ先生には思いっきり語ってほしかったし、空飛ぶ猿も含めて、みんなおとなしすぎないか – それが本来の世界だから、そこに戻ったのだから、だったらつまんなすぎるし。
もちろん、おおもとのL. Frank Baum原作の“The Wonderful Wizard of Oz” (1900)は子供のために書かれたのだし、映画版は第二次世界大戦が勃発した1939年に出たものだし、ミュージカル版の出た2003年は、911の直後で、世界の分断が始まろうとしていた - なので、まずとにかく「世界」は維持されなければならないものだったのだ、ということはわかるけど。正義 = 波風を立てないこと、ではないよね。
でもElphabaの飛ぶ姿はかっこよかったし、ElphabaとGalindaが一緒にいる絵も歌もよいから、いいか... くらい。
[film] Madame X (1966)
11月23日、日曜日の午後、この午後はずっとBFI Southbankのメロドラマ特集に浸かった。
この特集のビジュアル - シャンパングラスの上で赤い涙を流している女性はLana Turnerで、特集を見ていくと、やっぱりLana Turnerしかないな、と思ってしまう。
原作はフランスのAlexandre Bissonによる同名戯曲(1908)、Turner自身が映画化権を買い取って、プロデューサーのRoss Hunterのところに持ちこみ、Douglas Sirkに監督して貰おうとしたが、彼の健康上の理由で不可となり、テレビ畑のDavid Lowell Richが監督することになった。それ以外の撮影Russell Mettyや音楽Frank Skinnerは、この時期のRoss Hunter組。これをSirkが監督していたらどんなにか… って震えがくるくらいにすばらしいやつだった。 邦題は『母の旅路』 - これはぜんぜんだめよね。
Holly Parker (Lana Turner)がコネチカットの富豪のところに嫁いできて、夫のClayton (John Forsythe)は外交官で海外を飛び回っていて、姑のEstelle (Constance Bennett)はHollyを見下して監視している。やがて男の子も生まれて幸せだったのだが、夫がいないところで、遊び人のPhil (Ricardo Montalbán)から頻繁に誘われるようになっていて、でも夫が昇進してワシントンDCに行くことになったので、関係を終わらせるべくPhilのところに行ったら押し問答になり、跳ねのけたら彼は階段から落ちてあっさり死んでしまう。動転したHollyは逃げるようにその場から立ち去るのだが、現場にローブを置いてきてしまった。
姑Estelleはこれの前からHollyの挙動を怪しいと思って追跡していたので、事件のことも当然把握していて、これが公になったらClaytonの将来はなくなる、とHollyを脅迫して偽りのパスポート一式と当座のお金を渡して家から追放してしまう。こうして別人にされた彼女はデンマーク~メキシコへと流れて、お金もなくなって酒に溺れて体を壊して、メキシコの酒場で知り合ったアメリカ人に自分の身の上をつい喋ってしまったら、それをネタに今や州知事になっているClaytonを脅迫したろか、って言うので頭にきてそいつを撃ち殺してしまう。
あっさり逮捕されたHollyは、取り調べの際にも名前を明かすことを断固拒んで(だからMadame “X”)、どこからどう見ても有罪だし、裁判所が選んだ弁護士は、正義感しかないような新人の若造(Keir Dullea)で、しかしこいつは生き別れとなっていたHollyの息子であったことがわかってきて、法廷にはClaytonやEstelleもやってきて…
最初にクラス(階級)のテーマが出てきて、最後はかわいそうなママの話で終わる、こないだのMelo-dramaramaでの講義展開そのままで、名前を奪われてぼろぼろになって路頭を彷徨う彼女の姿だけで十分かわいそうなのに、最後にあんなの、予想もしていなかったし周囲の人々はみんなずるずるに泣いていた。
しかしこの後、陪審員に向かって激烈に正義を説いていたClayton Jrが、実母をあんなふうにした元凶が自分の祖母であったことを知ったら… の方に興味が向いてしまう。
“Leave Her to Heaven” (1945)と同じく豪邸で始まって法廷で終わるドラマでもあるな。
The Wicked Lady (1945)
↑のに続いてBFI Southbankで見ました。次の2本は英国のフィルム・スタジオGainsborough Picturesの2本立て。当時大ヒットを記録した作品だそう。邦題は『妖婦』。
原作は1945年のMagdalen King-Hallによる小説“Life and Death of the Wicked Lady Skelton” – どうもそういう人が実際にいたらしい説がある。
17世紀の英国の田舎で、Carolineが自分とSir Ralph Skeltonの結婚式に親友のBarbara (Margaret Lockwood)を招いたら、彼女はSkeltonに一目惚れしてその場で誘惑して、みんなのいる前で花婿を略奪して、Skelton夫人となる - これだけでもびっくり - のだが、田舎の生活は退屈で、友人と賭けをしてブローチを失った彼女は、有名な路上の盗人Jerry Jackson(James Mason)に倣って覆面して路上で待ち伏せして馬車を襲って奪い返す、これがうまくいったのでその快感で盗賊をやめられなくなり、やがて本物のJerry Jacksonとつるんでいろいろやらかすようになって.. この後も自分の正体を知った屋敷の使用人を簡単に殺したり、Jerry Jacksonを売って絞首刑台まで運んでいったり、波乱万丈の昼メロの数倍アクの強いドラマがごろんごろん展開していってみんなで唸りながら見ているのだが、イギリスの田舎ならこんな人が出てきてもおかしくないかも、くらいのかんじにはなる。
Gainsboroughの看板女優となったMargaret Lockwoodは、実際にはとても素敵な人だったそうな。
Madonna of the Seven Moons (1945)
↑のに続けて見ました。これもGainsborough Picturesので、邦題は『七つの月のマドンナ』。
Margery Lawrenceによる1931年の同名小説が原作で、監督はArthur Crabtree。
Maddalena (Phyllis Calvert)は修道院にいた10代の頃にレイプされて、その後で請われて結婚してフィレンツェに渡って、お金もちのお屋敷で幸せに暮らしていたが、しばらく離れていた娘が戻ってきたある晩に突然失踪してしまう。夫によると以前も突然消えてしまった時期があったという。
彼女は地元のギャングのNino (Stewart Granger)と一緒に、以前とはぜんぜん違う風体と振る舞いで暮らしていて(でも名前はおなじ)、やがて必死になって彼女を探す元の家族は…
レイプのショックで多重人格者になっていた、ということが後の方で明らかになっていくのだが、最初の方はなにがなんだかわからず、でも最後の方はかわいそうでしんみりと終わる。キリスト教のマグダレーナのことかな、とも思ったが、教会が出てくるのは最初と最後だけだしー。
メロドラマ特集は、12月も続くんだよ。
11.26.2025
[theatre] Hedda
11月20日、木曜日の晩、Orange Tree Theatreで見ました。
原作は1891年に初演されたHenrik Ibsenの”Hedda Gabler”、英国のアングロ・インディアン系の映画女優Merle Oberon(1911-1979)の話に着想を得て、Tanika Guptaが脚色したもの。 演出はTV版の”Howards End”(2017)や”Normal People” (2020)を監督したHettie Macdonald。
舞台は1948年のロンドン、チェルシーのお屋敷(かフラット)のリビングで、白いふかふかのカーペットが敷かれていて、それを囲む最前列の客とその前を渡って奥の席に向かう人はカーペットを踏まないでね、って注意されている。
早々に引退を発表した映画女優のHedda (Pearl Chanda)が三度めの結婚相手となる映画監督の夫のGeorge (Joe Bannister)とのハネムーンから帰ってきたところ。まるまる堂々としたメイドのShona (Rina Fatania)がまずGeorgeと彼の叔母を迎えて、彼らとの会話から、ShonaとHeddaのインドにいた頃からの古い付き合いが明らかにされる。HeddaとGeorgeの仲はよさげに見えるが、ひとのよいGeorgeが気づいていないだけで、彼女はとうに冷めているような。
パーティに向かう途中でHeddaのところに寄った大物映画プロデューサーのBrack (Milo Twomey)が、アル中で一線から退いていた脚本家Leonard (Jake Mann)が戻ってきた、と告げると、Heddaの表情がちょっと曇って、更にパーティでLeonardが皆の前で読みあげたという書きかけのスクリプトの内容を聞くと、真っ青になる。インドでOutcastとして生まれ(インドでの名前は”Hema”だった)、その出自を隠して英国で女優になる女性のお話しで、それはHeddaのこと - インドで彼女と幼馴染として育ち、一時は恋人でもあったLeonardだから書き得るようなお話しで、BrackとGeorgeはすごいお話しになると思う - これは映画化せねば、って盛りあがっているのだが、Heddaにしてみれば冗談じゃない、とGeorgeが持ち帰ってきたスクリプトの紙束をテーブルの下に隠してしまう。
パーティからぐでんぐでんになって戻ってきたLeonardと対峙したHeddaは、スクリプトを失くしたと嘆くLeonardになんであんな酷いことを書くのか、って責め、更に酒を飲ませて、彼にピストルを渡して…
戦後のイギリスの映画産業がとても盛りあがっていたことはBFIで何度も聞いていて、そういう勢いの中で自身の出自をなんとしても隠さなければならなかったMerle Oberonのような人がいたことは容易に想像がつく。ふつうの人からは一切見えない(でも本人にはいろいろ見えてしまう)ところで人種差別や男たちの愚鈍さと戦わなければならなかったHeddaの苦しみ、葛藤、絶望、怒りがラストに向かって、どっちに押しても引いても、どうしようもなくなっていくさまは痛ましく、ラストはとても説得力がある。(原作とはちょっと違って、彼女はもうひとり道連れに..)
MeTooのように覆い隠されてしまう加害もあれば、Heddaのように自分で自分を隠さなければ動けなくなる空気圧のようなものもあって、前者の敵は明確にそこにいるけど、後者のは、誰も意識しないところに浸透しているので当人でなければ感知できない秘密となり、それを間接的に暴いて目を覚まさせようとしたLeonardも、それでお金を儲けようとしているBrackも、男だからそういうことができる/言えるのだ、という二重三重に縒りあわされた社会の格子のきつさ。
それを正面からずっとひっかぶってきて、既になんでもなくなっている堂々としたShonaが対照的だった。(そして、誰もがああなれるわけではない)
誰かを傷つけたり、黙らせたり抑圧しているかもしれないことを薄めて空気化して、みんなでそこに乗っかって笑ってごまかすのが得意な、揃って美白・痩身大好きな日本村でも見られてほしい、と思った。
[log] Paris - Nov.21 2025
11月21日、金曜日に会社を休んでパリ日帰りをやってきました。
前回日帰りしたのは6月で、次は1泊で行きたい(ああ1週間いられたら)と言っていたはずなのだが、1泊するとなるとホテルとか荷物とか、考えなければいけないこともいろいろ出てきて、面倒だし結局いいや… って日帰りになる。
日帰りのリスクは、なんといってもユーロスターが動かなくなって、その影響で一日の予定がずるっと後ろに倒れることで、これで前回もやられて、でも当日駅まで行ってみないことにはわからないのがきつい。で、行きたいのか行きたくないのかどうするんだ? っていうとやっぱり行くのね。日帰りならいつも下げている袋に頭痛薬とスマホのチャージャーとクッキー(食べてる時間ないので)を詰めるくらいで出れる。最近ちょっと悩ましいのはカメラ兼こういう文を入力している端末のiPhoneが酷使しすぎてきたせいか鈍くなってきたことなの。
Gerhard Richter @ Fondation Louis Vuitton
これのある森に向かうまでの道が朝11:00くらいなのにとにかく凍える寒さだった。
Richterは、これまでドイツでも竹橋でもNYでもロンドンでも、いろんなのを見てきたが、現時点での最大規模のレトロスペクティヴとのこと。展示点数は270点、竹橋での展示が110点だったので、軽く倍以上で、それでも軽く「全体」は網羅しきれていない。
いちおう年代順、テーマ別という括りはあるようなのだが、風景画、ポートレート、ほぼ写真、抽象画、抽象画の抽象画、デッサン、オブジェ、題材としても家族、ニュース(Baader-Meinhof paintings)、歴史、動物、音(John Cage)、見る/見えること、など、表象芸術のあつかうすべてのもの、それらが表象として立ちあがるあらゆる局面を捕らえようとしているようで、そしてそれらが立ちあがってこれだけの物量でどかどか並べられていると、ひとりの画家の絵画展というより集合知のような何かが埋まったり詰まったりのでっかい遺跡とか構造物のようなもの - 彼はまだ死んでいないけど - の内部を巡っているような感覚になる。
階段をあがっていった最後の部屋にユベルマンの『イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』の、あの4枚と灰色の鏡 - greyed mirrorsがあって、まだ描けるものと描きえないものとの間の果てのない闘いは続いているのだ、と思った。
Luc Delahaye - Le bruit du monde @ Jeu de Paume
“The Echo of the World” – そしていまのリアル世界はこんなふうなのだ、とRichterの後に見ると迫ってくるものはある。マグナムに所属して戦場のフォトジャーナリズムにいた時期以降の作品らしいが、それでも十分に痛ましくて辛い。
本当はここでやっている映画 - Luis García Berlangaの特集も見たかったのだが、まあ無理。
Gabrielle Hébert - Amour fou at the Villa Medici @ Muséed'Orsay
Gabrielle Hébert (1853-1934)は夫で画家のErnest Hébert (1817-1908)を支えつつ、Villa Mediciで独学で写真を学んで日常のいろんなスナップなど(風景から女性のヌード等まで)いろいろ撮って日記と共に遺していて、それらを纏めて彼女が暮らしていた部屋のように展示している。夫やSarah Bernhardtの寛いだポートレートが素敵。
John Singer Sargent - Éblouir Paris @ Musée d'Orsay
Sargentは、こないだのTate Britainでの“Sargent and Fashion”もまだ記憶に新しいが、今度のは「幻惑のパリ」。Sargentはなんでも、どんな角度からでもネタにできて、並べれば並べるほど、絵を見たなーってかんじになれてしまうお得なー。
METとの共同企画で、フランスでのSargentの単独展はこれが初めて(ほんと?)だそう。
1874年、18歳でパリに渡って画家として修業をして、“Madame X” (1883-1884)が問題になった後、ロンドンに向かう1880年代半ばまでの作品が網羅されていて、“Madame X”の習作数点がおもしろいのと、ボストンから”The Daughters of Edward Darley Boit” (1882)が来ていた。あのでっかい花瓶と、その間にいる子供たちのなんとも言えない不気味さ - “The Shining”のような。
Bridget Riley - Point de depart @ Musée d'Orsay
Bridget Rileyの線描と彼女のスタイルを大きく変える「Point de depart - 出発点」となったGeorges Seuratの点描を並べてみると、彼女の絵を見るときと同じような視界の揺らぎが波動でやってきて、そうだったのかー、になる。
いま、National Galleryでやっている企画展“Radical Harmony - Helene Kröller-Müller's Neo-Impressionists”もすごくよくて、わーきれいー、なだけではない点描画の幅と可能性を見ることができるの。
Jacques-Louis David @ Musée du Louvre
オルセーからルーブルに移動する。ルーブルは盗難事件もあったし(←関係ないだろ)、今回は行かなくてもよいかな、だったのだが、この企画展をやっているのならしょうがない、と。
Jacques-Louis David (1748-1825)のでっかい作品たちはルーブルに行くと嫌でも目に入って、でもあまりちゃんと見たことなかったかも、というころで没後200年を機としたたぶんここでしかできない規模の回顧展。でっかくて移動できない作品 - “The Coronation of Napoleon” (1807)などは、無理して移動しないで、ここですよ!の白い幟が立っている。
彼の使う紅~薄い赤の折り重なったようなコントラストと描き方が好きで、そこだけ見れれば、くらいだったのだが、ナポレオンのお抱えで、革命の猛々しさを自然主義や古典のなかに織り込んで炸裂させる強烈なプロパガンダ画家であったことが見えてきて、こうやって通して見るのって大事だなあ、って改めて思った。Richterを見てこれを見ると、アートと政治がどれだけ切り離せない形の表現としてあるのか/あったのか、浸みるようにわかるよ。
METからやってきた“The Death of Socrates”(1787)、ベルギーから来た数バージョンある“The Death of Marat”(1793)の腕と血の生々しさ。有名な“Madame Récamier”(1800)に始まる女性像の、おなじ画家とは思えない豊かさ、多様さとか。
Rêveries de pierres : Poésie et minéraux de Roger Caillois @ L'École des Arts Joailliers
3年前に再版されて一部の熱狂をよんだRoger Cailloisの『石が書く』でも紹介されていたカイヨワの石たちの展示。時間指定だけど無料(石だし)で、チケットを取って行ったが、時間は関係なくすぐ入れてくれた。
そこらの自然史博物館に展示されている宝石の類よりは、もうちょっと鉱物っぽく、そこらに転がっている石のようで、でもその表面や断面や形象が放つオーラだか磁力だかは眺めれば眺めるほどサイケにきそうな危険なやつで、いくらでも見ていられるし、昔の人はこれを見て何を思ったのか、とか想像がいくらでも転がっていって止まらない。 こういう石ころ、貝殻とか葉っぱとかきのことかも含め、これらに対する驚き(に対する目線)が自然科学と人文科学の起点だと思っていて、この感覚は忘れてはいけないなー、って。
あ、日本の石コーナーもあったよ。
ルーブルを出てからここに来るまでのバスがぜんぜん来ないので地下鉄にして、戻りもバスを待ったのだがやはりぜんぜん来なくて、寒いからバスにしたい → けどぜんぜん来ない → しかたなく歩く、を繰り返す、移動に関しては時間を無駄にした非常に効率のよくない一日だった。そしてここからパリ装飾美術館に行ってみたら、アール・デコ100年の展示もPaul Poiretもぜんぶ売り切れていて、今回はここまでで諦めておわる。
Cinémathèque françaiseのOrson Wells展も見れなかったし、もう一日行かないとだめかも... だからやっぱり一泊にー。
そういえばフランスからイギリスへの乳製品持ちこみ禁の件は… (略)。
11.24.2025
[theatre] John C. Reilly is Mister Romantic
11月19日、水曜日の晩、WalthamstowのSoho Theatreで見ました。
いつも行っているSoho TheatreはSohoの繁華街にあるのだが、今回のWalthamstowっていうのは地下鉄のVictoria Lineの終点で、結構遠いところで、間違えるところだった。大昔に建てられたクラシックなシアターを買い取ったものなのか、大きさも含めて雰囲気はとても素敵。 ここでの3日間公演の最終日。
チケットは随分昔にアナウンスを見てすぐ取って(あっという間に売り切れていた)、でもこのお題で何をやるのかは謎だった。
場内が暗くなると、客席の後ろの方から楽隊 - アコーディオンにラッパ、バイオリン、バラの花を抱えた人等、縦一列で正装した4人が演奏しながら入ってきて、ゆっくりと通路をぬってステージ上にあがる。ちんどん屋風だが、みんなぱっとしない浮かない顔でしんみりしていて、仕事だからしょうがない or 葬列のようにも見える。彼らがよく映画に出てくる宝物が入っているような木箱をどん、ってステージに置いて適当に演奏をはじめると箱の中からJohn C. Reillyが出てくる。燕尾服を着て、頭髪は爆発してて、頬には薄っすら紅で、演奏を始めたバンド – ピアノ(たまにアコギ)、ウッドベース、アコーディオン&ラッパ、バイオリンにあわせてスタンダードを歌ってステップをふんだり舞ったりしていく。
John C. Reillyの歌については、映画版”Chicago” (2002)でも歌っていたし、“Walk Hard: The Dewey Cox Story” (2007)だってあったし、Third ManからJack Whiteプロデュースで7inchも出したりしていたし、ヴォードヴィル風の、ということであれば、”Stan & Ollie” (2018)のOliver Hardy役が記憶に新しくて、要はこういう演し物についてはなにも心配することはなくて、実際そうだった。なにが飛びだして、どこでどうタガが外れて、どんなふうに襲いかかってくるのか、どきどきして見ていればよいだけ。
曲の合間には来てくれたみんなをさんざん揚げて讃えてバラの花束をぶんまわして、数曲やってそこからバラの花のついたマイクを手にすると客席に降りてきてやあやあ、ってひとりひとりいじりながら通路の間をぐいぐい入っていって、事前の仕込みがしてあるのかどうかわからないけど、女性の客にマイクを向けて名前からいろいろ聞きだし、最初の人はステージ上まで連れていって、「これからずっと僕についてきてくれるかい?」ってプロポーズをする。言われた方は「ごめんなさい」って返すと、そうかそういうことか、って拗ねてステージに戻ってきてやけくそ半分で歌を、というフーテンの寅みたいなやりとりを4回くらい、女性だけじゃなくて男性客にも同じようにやる。返しは全員「ごめんなさい」だったのだが、これに”Yes”って応えたらこの後どう展開していったのか、はちょっと興味がある。
でもとにかく彼は”Mister Romantic”なのでそんな程度では凹まなくて、まずは客を笑わせて楽しませて幸せになって貰おう!だし、”Chicago”ではRenée Zellwegerの旦那だったし、“The Hours” (2002) ではJulianne Mooreの、“We Need to Talk About Kevin” (2011)ではTilda Swintonの旦那だったんだから、すごいんだから(相手はみんな幸せになって… ない?)。
彼の芸って、名作“Step Brothers” (2008)でも、”Stan & Ollie”でも、よい相方 - バカであればあるほどよき - がいるところで加速して爆発するものなので、今回の客席に突っこんでいくやりかたはよいのだが、相手の応答がふつうであればあるほどつまんなくなっちゃうのがなー、いや、つまんなくはないんだけど、ふつうの芸人のそれになっちゃうんだよね。
終わりは現れた時の箱に飛びこんで箱がそのまま運ばれていって終わり、バンドは元きた道を演奏しながら帰ったのでした。カーテンコールとかはなし。1時間20分くらい。 でも彼を目の前で見れたのでよかったことにした。
11.23.2025
[theatre] Porn Play
11月15日、土曜日の晩、Royal Court TheatreのUpstairsで見ました。
シアターのあるSloane Square周辺は始まったばかりのクリスマスマーケットできらきらのぐしゃぐしゃだった。
座席指定ではなく全席自由なのだが、A4サイズバッグより大きい荷物は預けるように、というのと、入る前に入り口に置いてあるソフトカバーで靴を包むように、という指示があって、中に入ると客席が四方を囲む形で全体が乳白色のふかふかので覆われたソファのようになっていて中央は大きな楕円の2段くらいのすり鉢型 - たぶん女性器を模している - に凹んでいる。
タイトルだけでもはっきりと18禁なのだが、ポルノがダイレクトにプレイされるわけではもちろんなくて、いろいろ考えさせてくれるとてもよい内容のものだった。
プレイテキストの最初にはMiltonの引用と、もうひとつ、”All paradises are defined by who is not there, by the people who are not allowed in.”というToni Morrisonの言葉が引いてある。
原作はSophia Chetin-Leuner、演出はJosie Rourke、休憩なしの約75分。冒頭、女性 - イヴ? - が現れて無言のマイムをして誘惑の世界に誘ってくる。
大学の修士を出て講師としてJohn Milton (1608-1674)を教えているAni (Ambika Mod)は学業は優秀で学界で有望な若手と言われいて、彼Liam (Will Close) もいるし、彼との仲がうまくいっていないわけでもないのだが、インターネットポルノに嵌っていて、彼と会った(やった)後の寝る前とかにPCとかスマホを出して(セットのクッションの隙間に挟みこんであってすぐに取り出せるようになっている)サイトにアクセスして、マスタベーションをするのがふつうの癖のようになっていて止められない。Liamもそれを知っているのでやめてくれない? と頼むのだが、Aniはなんで? 浮気しているわけじゃないし、あなたに満足していない、ってことでもないし、酒とかドラッグみたいに習慣化によって体によくないことになるわけでもないし、嫌なのはわかるけど誰にも迷惑かけてもいないし、個人的な愉しみなんだからほっといてほしい、ってつっぱねている。
その習慣はやがて真面目な父にも見つかって器具を取りあげられてしまったり、Liamからも距離を置かれるようになったり、どこかおかしいのかも、って産婦人科に行ってみたりするが、どうにもならない。やめられない。これって悲劇なのか喜劇なのか?
なんでそれをしてはいけないのか、の方よりも、どうしてそれが彼らからよろしくないこととみなされてしまうのか、の方にどちらかと言うと力点が置かれ、それは彼女の研究テーマである『失楽園』の方にも及んでいく。他方で、彼女が見ているサイトの映像は抽象化され(見えた範囲ではりんごみたいのが映っていたり)てて、喘ぎ声とか、音声のみが聞こえてくる。あと、ここで商業コンテンツとして提供されているポルノ業界がその根に孕んでいそうな暴力や虐待についても触れられてはいない。
性の快楽に根差したことは決定的な答え、ありようとして説明しにくい気がするし、逆に汎化しすぎるとわけがわからなくなるだろうし、そのバランスをうまくとって、全体としてはどうしたもんかねえ… みたいな途方に暮れる系の軽めのコメディに仕上がっているような。
あと、こないだの”Every Brilliant Thing”にも出演していたAni役のAmbika Modのさばさばした態度と軽妙な受け応えのトーンが絶妙で、彼女なしには成り立たなかった気がする。
これを見た後で、既に書いた映画 - ”The Choral”を見たのだが、世界があまりに違いすぎて変なかんじになった。
11.22.2025
[film] The Choral (2025)
11月15日、土曜日の晩、Curzon Victoriaで見ました。
監督はNicholas Hytner、脚本はAlan Bennett - このふたりによる新作は”The Lady in the Van” (2015)以来だそう。
1916年、第一次大戦中のヨークシャーの架空の町で、郵便配達の青年が戦死の通知を家族に届けたりして暗くなっているところで、コミュニティのコーラス団が団員を募集しているので行ってみよう、って見に行ったらなんとなくテストを受けさせられて気がつけば団員になっている。そんななか、指揮者が戦争に行ってしまったので新たにリーダー/指揮者として採用されたDr Guthrie (Ralph Fiennes)と寄せ集められた個性的な団員たちとのやり取りとどうなることやら、等を描いていく。
Dr Guthrieは敵国であるドイツに長く暮らし芸術を愛する、という点から始めはバッハの『マタイ受難曲』を採りあげていたのだが反ドイツの声も強くあったのでエルガーの『ジェロンティウスの夢』を歌うことにする。あと掘り下げられることはないが彼はゲイで、つまりあらゆる点で(この時代には)不適格な属性の人なのだが、音楽に対する思いと情熱、指導力は確かなのでみんな彼の言うことを聞いて練習に励んでいく。
団員の方も個性豊かで、元からいたメンバーに加えてDr Guthrieが軍の病院やパン屋からスカウトした面々がいて、団員同士の男女の恋があり、よいかんじになったところで戦地から片腕を失った彼が帰還してきたり、本当にいろいろあって、エピソードが散りすぎていることはしょうがないのか、とりあえずエルガーを歌うクライマックスに向けて… となったところで本番の日に現れたエルガー(Simon Russell Beale)本人は結構嫌な奴だったり。
やがて楽団メンバーにも招集がかかるようになり、戦地に赴く前の晩、ひとりは憧れていた娼婦のところに行って、ひとりは憧れていた彼女のところに行くが無事に戻ってきたらね、ってやんわり拒まれたり。ラストの出征のシーンも、あまり盛りあがるような、感動的な描き方はしていなくて、そこはよいかも。
全体としてものすごくいろんな人、エピソードが散らばっていて朝ドラみたい - 朝ドラほぼ見たことないけど - なのだが、Ralph Fiennesひとりがずっとしかめ面のすごい重力で全体を繋ぎとめるべく指揮棒を振っているのだった。そこはまるでこないだの『教皇選挙』のようだったかも。
Move Ya Body: The Birth of House (2025)
11月6日、木曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
毎年やっている音楽ドキュメンタリーフィルムの祭典 - Doc’n Roll Festivalからの1本で、このフェスはいろんな映画館に散らばってランダムに上映があるので、気付いたら見逃していた、のものも多くて、今年のではButthole SurfersのとCoilのが痛かったよう。
上映前に監督Elegance Brattonの録画されていたイントロが流れて、自身のハウスミュージック体験の初めは90年代初のNYのLimelightっていう元教会の建物だったところだ、って語っていて、おー、あたしはあそこでGang of FourとかGeneを見たよ、ってなった。
70年代後半、ディスコ・ブームが馬鹿な白人たちによって潰されて行き場を失ったシカゴのアンダーグラウンド・シーンで、数キロ先でも聴こえるような強い輪郭と断線されたって途切れることのないぶっとさをもったリズムを生みだすこと。それは当時のシカゴのまるでアパルトヘイトの人種隔離された居住区画と常態化した人種差別からの解放を担う革命の音楽でもあった、と。
当時その突端にいて、とにかくシンセで音を作りたかったVince Lawrenceとその周辺の仲間たちに話しを聞きながら、当時の革命の様子をダイナミックに描いて、それもやがては白人に搾取されてしまうことになるのだが、とてもおもしろかった。ここからどうやってNYやUKに飛び火していったのか、とか。主人公も編集も、そんなにドラマチックに盛りあげる方にいかないところもよくて、この淡々とした静けさが今も続いている大きなジャンルのベースを作ったのだねえ、って。
11.20.2025
[theatre] The Weir
11月13日、木曜日の晩、Harold Pinter theatreで見ました。
事情はよくわかんないけど、チケット代高すぎ。Stallの後ろの方で£200くらい、それでもびっちり埋まっている(ずっと)。
7月にOld Vicで見た”Girl From the North Country”のConor McPhersonが1997年に書いて初演した劇の再演で、アイルランド公演からのツアー。今回も彼自身が演出を手掛けている。休憩なしの1時間40分。
アイルランドの田舎のバーで、時代設定は明示されていないのだが、登場人物が酔っぱらってFairground Attractionの”Perfect”を口ずさんだりするので、80年代末か90年代初ではないか。
オープニング、幕があがると古くて暗いバーで、向かって右側にカウンターがあり、左奥にドアがあって、椅子がいくつか。そこにJack (Brendan Gleeson)が立っていて、ひとりでカウンターの中に入ってコップを出して、何を飲みたいのか蛇口をがちゃがちゃやってうまくいかず、そうやっているところにバーテンダーのBrendan (Owen McDonnell)が入ってきて灯りをつけて、ふたりのやりとりからJackは常連中の常連で、BrendanはJackのすることも求めているものもぜんぶわかっているのでなにも気にしないで放っておいている。
そこから別の常連らしいJim (Sean McGinley)が現れて、彼も自宅の居間にいるかのように自然にそこに溶けこんで、更に男女ふたり – ちょっとお喋りで騒がしいFinbar (Tom Vaughan-Lawlor)と地元民ではなさそうな女性のValerie (Kate Phillips)が現れる。別にバーなんだから誰が来たっておかしくないのだが、ふたりの登場によって少しだけいつもと違う雰囲気になったよう – に見えて、でも誰もそんなこと気に留めず、騒ぎもしないでいつもの会話のトーン、リズム、間合いを維持していく、それを可能にしている仄暗いバーのセット、外で微かに鳴っている風音、なによりも俳優たち、が見事。”Girl From the North Country”の大きな家もそんなかんじで維持しているなにかがあったような。
他所からきたValerieがいたせいもあるのか、それぞれにこの土地に古くから伝わる変な話や怪談をしていって、みんな知っている話のようで、ほぼどれも酔っ払いの独り言戯れ言で、合間合間にFinbarがバカなことを突っこんで、やがてValerieの番になると、彼女の話は幼い娘を失った実話に基づく悲しいそれで、みんながちょっと静まりかえってしまったところで、Jackがある話を始める…
それは喪失のこわさ、哀しさを語るというよりも、その不在がずっと自分の身に纏わりついて、自分自身になって、ずっとそこから逃れられないのだ、という根源的な底についてのもので、それがあの薄暗い穴のような場所で、Brendan Gleesonの口から語られると、この人はもうこの世にいない何者かなのではないか、このバーは向こうの世界との間の堰(Weir)としてあるのか、など。あるいは、こういう人の語りが堰のように別の世界の何かをこの世と繋ぎ留めたりしているのか、とか。
勿論、話はその奥に向かっていくことはなく、みんなはぽつりぽつりと帰り支度をして抜けて行って、最後に冒頭と同じようにJackとBrendanがのこる。それだけなのだが、なんとまあ、しかない。こうやって、こんなふうにアイルランドのいろんなお話し(と歌)はずっと語り継がれてきたのだろうな、と思うし、だからみんなあんなに酔っぱらっちゃうんだな、っていうのも感覚としてわかってしまうような。
1時間40分という時間はたぶん丁度よくて、これ以上続いたら戻って来れなくなる可能性があったかも。
でももう一回見て浸かりたくなる、濃厚な時間だった。Brendan Gleesonの立ち姿がとにかくすごすぎ。
あと、こんなふうに特定の場所の周りに渦のように巻かれて浸かって流れる時間て、映画を見ている時のそれとは明らかに違うと思って、それがなんなのかを掘りたくて演劇に通っているのだわ、って。
Playing Burton
11月16日、日曜日の昼にOld Vicで見ました。
Welsh National Theatreの制作で、ロンドンではこの日の昼と夜の2公演のみ。
作はMark Jenkins、演出はBartlett Sher、Matthew Rhysのひとり芝居で、彼がWales出身の名優Richard Burtonを演じる。 1時間40分くらいだけど1回休憩が入る。
ステージ上には簡素なテーブルと椅子があるだけ。スーツにタイ姿で登場するなりコップに酒をぐいぐい注いでがぶがぶ飲んで、壊れた機械のような勢いでウェールズのPontryhdyfenの炭鉱夫の極貧家庭で生まれた幼少の頃からのことを語っていく。
後半は、まず新聞に載った自分の訃報を読みあげ、ちゃんちゃらおかしいわ、みたいに自身の名声やElizabeth Taylorとのこと、KennedyやChurchillと会った時のこと、要は俳優として頂点にあった自分のキャリアを高いところから喋り倒していく。
Richard Burtonは、12月のBFI Southbankの特集でかかるので、そこで作品を見ながら考えていきたいのだが、あんな高い声でべらべら喋っていく人だったのかしら、というのが少しだけ気になった。
11.19.2025
[film] The Running Man (2025)
11月14日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
監督はEdgar Wright、原作はStephen King(Richard Bachman名義)の近未来SF小説(1982)。1987年にもPaul Michael Glaser監督、Arnold Schwarzenegger主演で映画化がされている(未見)。
Ben Richards (Glen Powell)は病気の子供を抱えた状態で無職になって、妻Sheila (Jayme Lawson) にホステスのようなことをやって貰って暮らすしかなくて、絶望してネットワークTVの人気リアリティ番組 – “The Running Man”に応募してしまう。プロの殺し屋(本当に殺すよ)たちから30日間逃げ続けることができたら10億ドル貰える、というので、サインしたらいろいろ話がちがう、があったりしたものの逃げることができないまま番組が始まって、最初は3人いた候補のうち2人は簡単に消されて、ものすごく悪い奴 - ほぼ凶悪犯 - としてターゲットにされて追われる身となる。
番組のプロデューサーのDan Killian (Josh Brolin)も大人気TVホストのBobby T Thompson (Colman Domingo)もまるで漫画のキャラクターで、ディストピアでのリアリティ・ショウの怖さ、とかよりヤクザに借金をして妻子を人質に取られて逃げ回る構図とそんなに変わらない気もするのだが、ポイントはどこにも逃げようがない状態のなか逃げまわって、本人は必死なのにそれがお茶の間のエンターテインメントになってしまう、という徒労感と辛さだろうか。
変装してNYに行って、そこからボストンに逃げて、追ってきたハンターたちをビルごとぶっ飛ばしたら、彼は多くの警備隊を皆殺しにした極悪テロリストの扱いにされて、いやそうじゃないんだ、というTV局側の手口の非道について収録ビデオで伝えても、TV側が放映時にフェイクの映像に差し替えてしまう。そんなふうにフェイクに置き換えられるんだったら局側はなんだってできちゃうし、賞金渡さずに闇に葬っちゃうとこだってできるだろうし、「リアリティ」もくそもないじゃん、と思うのだが、それこそが監視社会のやること - ストーリー作りなんだろうな、となる。ぜんぶがこの調子の仕込まれたどん詰まり感のなか動いていくのでしんどい – なにがしんどいかって、まさに今の監視社会とメディアがやろうとしている囲い込みのお祭りを直に思い起こさせてくれるから。
というジャンクで重い空気を吹っ切るかのように走り抜けていくGlen Powellのアクション(といかにもEdgar Wrightぽいつんのめって転がっていく勢い)はちょっとじたばたして重いけど、痛快なところもそんなにないけど、悪くはないし、彼を助けたり匿ったりする反体制のグループも出てきたりするのだが、全体としては今あんまり見たくないものを横並びで見せられているかんじがどうしても。もちろん、これはホラーなのだから、って言われたら黙るしかない。
80年代にこれを見ても、近未来は大変そうだなあ、で終わっちゃうのかもだが、いまこれを見ても思い当るところがありすぎて、それがきつい。いまのアメリカや日本の政府(とメディア&マス)が向かっている方向とわかりやす過ぎるくらいに同期している。 だからすごい! と言うひともいるのだろうが、わかっているけどさ… のしんどさが先にくるというか。
昨晩、”One Battle After Another” (2025)の2回目をBFI IMAXで見て、監督のPaul Thomas AndersonとLeonardo DiCaprioのイントロが付いていて、これも体制側に追われて追い詰められていくお話しなんだけど、いま欲しいのはこの、こっちの軽さなんだよねー、と。
[film] Melo-dramarama
11月15日、土曜日の昼から午後にかけて、BFI Southbankでのイベントで見たり聞いたりした。
この月の特集”Too Much: Melodrama on Film”の方も見てきているのだが、この日は目一杯メロに浸かって頂きましょう、という催し。 NFT3という中サイズのシアターでランチやティーブレイクを挟んで夕方まで、トークを中心としたいろんな発表があって、久々にメモを取ったりしながら見てしまった(が、いつものように何が書いてあるのか、きったなすぎてほぼ読めない。いいかげんにしろ)。
時間割りはこんなかんじ –
① 11:00-12:00: The Many Faces of Melodrama: Christine Gledhill and Laura Mulvey in Conversation
② 12:00-12:50: To Have (or Have Not): Class Representation in Britain and Hollywood
③ 13:30-14:15: Mommy Dearest: The Evolution of the Maternal Melodrama
④ 14:15-14:50: Bylines and Backlots: Fan Magazines and How They Saved Film History
⑤ 14:50-15:30: In Glorious Technicolor: Costume Design in Hollywood Melodrama
⑥ 15:40-16:20: Small Screen, Big Emotions: 40 Years of EastEnders and Beyond
⑦ 16:20-17:00: The Future of Melodrama: Tears in the 21st Century
用事もあったので、①から⑤までしかいられなかったのだが、どれもおもしろいったらなかった。
The Many Faces of Melodrama: Christine Gledhill and Laura Mulvey in Conversation
まず全体の導入のような位置づけで、イギリスにおけるメロドラマへの着目がどこからどう、のような話。
Douglas Sirkの”Sirk on Sirk”が出版されたのが1972年、これをフォローするかたちでエジンバラの映画祭でSirk作品のレトロスペクティブが組まれ、それがロンドンにも来て、まだFilm Studyが学として立ちあがる前くらいのタイミングだったがこの辺りからいろいろ始まったのだ、とLaura Mulvey先生が。
バルザックやヘンリージェイムズの小説の頃からドラマのなかにあったギルティ、イノセント、ヴィランといった角度からの揺さぶりと、19世紀フランスのシアターでのステレオタイプなステージングがドラマチックな音楽と共に映画の方に流れていって、そこではHighly Stylizedなかたちでゴミ(trashes)- マスキュリニティの危機、Fem、自分が何をやっているのか考えようとしない - 等が、過剰に強調されて”motion”が”emotion”へと変容していった、と。他ジャンルからはグランドオペラやバレエのコレオグラフからの影響もあった、と。
こんなふうな汎用化によってぼんやりしてしまう危険もあるのだが、クリップとしては”Written on the Wind” (1956)、“The Bourne Supremacy” (2004), “A Cottage on Dartmoor” (1929)等が参照された。このイベントでは、”Written on the Wind”と”Leave Her to Heaven” (1946)からの引用が圧倒的で説得力あったような。
To Have (or Have Not): Class Representation in Britain and Hollywood
まずはHollywoodのクラス表現として、”Working Class Melodrama” – “Middle Class Melodrama” –“Victorian Melodrama” – “Street Melodrama”などの切り口からいくつかの例を示して、そこからドラマとしてクローズアップされがちな階層間の移動(mobility)については、Mobility with Nobility の例として、”Stella Dallas” (1925, 1937)が、Mobility without Nobilityの例として"Mildred Pierce" (1945)が参照される。ここらで使われる階段(階段おち)についても。
Britainのクラス表現は、当然これとはぜんぜん違ってディケンズから入って、邪悪さを象徴する悪い男 – 特に“Man in Grey” (1943)でのJames MasonのプレゼンスとMargaret Lockwoodの話し方(Posh)の違いとか、クラスを抜けて成りあがりを求めていくGainsborough Picturesのヒロインたち。あとはこの特集で80周年を迎える”Brief Encounter” (1945) - 『逢びき』のこと。成り立ちも傾向も異なる相容れないふたつの、ふたりの世界を描きつつ、Unifyさせようとする何かを描いてきた、とか。
Mommy Dearest: The Evolution of the Maternal Melodrama
Fatherhoodの不在によって起動されるMotherhoodのありよう – ふつうの家族とは異なる、より複雑な事情が強調したり導いたりする弱さとそれを乗り越えよう(or 抑えよう)とする力とか愛、ここに挟まってくる教会、犠牲を払う、という考え方とか、こうして書いているだけでもいろいろ迫ってくるので、相当に熱い。
この特集ですばらしい音楽と共に再見した”Stella Dallas” (1925)の時にも思ったのだが、時代も境遇もまったく異なって共感なんてできようがないはずのこんなドラマに揺さぶられてみんな揃ってびーびー泣いて(泣かされて)しまう、その動力の根源にあるものってなんなのか、なのよ。
ここで挙げられていたイタリアのメロドラマ –“Maddalena” (1954)は見たい。
現代のドラマとして参照されていたのは”We Need to Talk About Kevin” (2011)、Joan Crawfordが体現していたある時代のアメリカの母親像、あとPre-Code時代のシングルマザー像と、Post-Code時代のそれの違い、変化など。
Bylines and Backlots: Fan Magazines and How They Saved Film History
ファン・マガジンの存在は、映画の初期から観客と映画会社を結ぶ大きな架け橋となっていて、それがメロドラマの変遷 - 観客は何を求めているのか - にも大きく寄与していったことを資料と共に見せていく。 最初期にはFlorence LawrenceやMary Pickfordといった女性の存在が大きかったと。
いまは「マーケティング」とか「ファンダム」とか素人の手でどうこうできるようなものではなくなっている気がするが、初めの頃はこんなふうにやっていました、と。
In Glorious Technicolor: Costume Design in Hollywood Melodrama
映画の初期から、映画のなかの人々がリアルに生きているものであることを知らしめるべく、コスチューム・ディレクターはプロデューサーや監督とずっと一緒に動いて、色がないモノクロフィルムの頃ですら赤いドレスを赤く感じられるようにするための生地の工夫をしたりしていたのだそう。
カラーの時代に入ってからの具体例としては”Leave Her to Heaven” (1946)でのコスチュームを担当したKay NelsonがGene Tierneyの衣装を場面ごとに、ガウンのイニシャルとか壁紙との調和とかも含めてどう見せようとしていたか、とか。
“All That Heaven Allows” (1955)のヒロインJane Wymanの衣装の色調の変化を彼女のエモーショナル・ジャーニーとして捉えて、最初と最後の場面で同じ衣装を着ていることの意味とか。 “Written on the Wind”でのLauren Bacallの着ていたグレイの意味とか。あたりまえなのだが、ぜんぶに意味があって、それはプロデューサーも含めて作る側はすべて把握して、きちんとコントロールしていた、と。
最近の映画だと”Far From Heaven” (2002)のSandy Powellがやったキャラクタリゼーションと個々の色調を同期させるやり方とか。
斯様にコスチュームの世界は映画のテーマの中心を貫いて緻密な職人芸でデザインされてきたのに、なんでクレジット上では”Gowns by ..”くらいしかないのか。資料がなくて調べるのが大変すぎるんだよ! と発表者は嘆いて終わっていた。 けど、ものすごくおもしろかった。
これらのテーマをクラシックな日本映画にはめて考えてみても、相当におもしろいものができる気がした。
材料も人もありそうだから、誰かやらないかしら。
全体を通して、なぜメロドラマを見るべきなのか、がなんとなくわかった気がした。いま自分がここにこうしてあらされているありよう、ガサツさ無神経さに対する抵抗、ふざけんじゃねえよの裏返しとしてそれは組織されて、風に書かれた暗号として散っていったのだ。なんて。
あと、久々にこういうのに漬かって、ああどうしてこういう道に進まなかったのだろうか、なにがいけなかったのだろうか、ってメロドラマっぽく天を仰いで自分で自分を殴打するのだった。(そういう季節)
11.17.2025
[film] Laura Mulvey
BFI Southbankの11月の特集に”Laura Mulvey: Thinking Through Film”というのがあって、恥ずかしながらこの人のことは知らなかったので、勉強してみようと思って見ている。
彼女の論文 - “Visual Pleasure and Narrative Cinema” - 『視覚的快楽と物語映画』(1975) - 翻訳はフィルムアート社の『新映画理論集成① 歴史/人種/ジェンダー』(1998)所収 - の出版50周年 + これ以降の膨大な著作等、を讃えて彼女にBFI Fellowshipの称号が与えられ、今回の特集では彼女が共同制作した8作品を上映したり、シンポジウムが開かれたり、上映前のトークにも頻繁に顔を出して、12月には彼女がセレクトしたクラシックの特集も組まれている。
Laura Mulvey in Conversation
11月4日、火曜日の晩、BFI Fellowshipの受賞記念を兼ねた彼女の業績紹介と本人によるスピーチがあった。
BFI Fellowshipというのはフィルム・TVの世界で多大な貢献を認められた個人に贈られる最高の位で俳優とか監督とか、彼女の直前にこれを受賞したのはTom Cruiseだったりするので、素朴な「?」が浮かんだりするものの、過去の受賞者のリスト(Wikiにある)を見てもなかなかすごい賞であることはわかる。
スピーチの前に彼女を讃える関係者のビデオが流れたのだが、最初がTodd Haynesだし、Joanna Hoggは客席にいたようだし、以降、日々自分がBFIに通って映画を見ていく時にお世話になっている(とこちらが勝手に思っている)プログラマーやキュレーターの人たちがほぼ全員登場して、彼女の論文や映画の見方にいかに影響を受けたかを感謝をこめて語っていくので、つまり自分が映画を見る際の軸にもたぶん相当影響しているのだろうな、と壇上の小さく丸っこいおばあさんを見て思った。
こんにちの我々がクラシックを含むいろんな映画を見るにあたって、その制作物を構成する視覚的な物語が提供する快楽やカタルシスが主にいかに白人男性(The male gaze)のそれに資するものとなるべくいろんなシステム込みで組みあげられてきたのか、これって今や映画だけではなくてTVでも広告でも、基盤とか常識に近いところで根をはっていることだと思っているのだが、これを50年前に提起したのが先に挙げた彼女の論文であった、と。
映画なんて理屈ぬきでおもしろけりゃいいじゃん、とか、これで泣けないなんて人間じゃない、とかいう宣伝も込みの「理屈」がいかに傲慢な思いあがりに基づく乱暴なものか、はずっと感じていて、それを確かめるため、くらいの意識で見ていくとすんなりはまったり思い当ったりするところがいっぱいあって、この理屈って文化全般に渡って蔓延してきたなにかで、自分がメジャーではないマイナーな何かを追っていくその根にあるものにも繋がるのだが、そういうところを踏みしめながら見ていきたい。
Riddles of the Sphinx (1977)
11月4日の晩、↑のセレモニーが終わったあとに同じ会場(NFT1)で見ました。16ミリフィルムでの上映。
Laura MulveyとPeter Wollenによる2本目の共同監督作品で、実験映画の範疇にカテゴライズされるのだろうが、あまりそういう堅苦しさ、込み入った構築された難解さは感じされなくて、映っているものをするする見れる(その分、あまり残らなかったり..)。
いくつかのパートに別れていて、Laura Mulvey自身がカメラに向かってオイディプスとスフィンクスの神話を語るシーン、主人公の女性が暮らす家庭生活のいろんな局面を映しだしたり。 後者は定点に置かれたカメラがゆっくり回転していったり戻ったり、その動きはChantal Akermanの”La chambre” (1972) のぐるーん、を思い起こさせる。
ずっとぴろぴろ鳴り続けて頭に張りつく電子音楽はSoft MachineのMike Ratledgeによるものだった。
Crystal Gazing (1982)
11月10日、月曜日の晩、”Predator: Badlands” (2025)を見る前に。これも16mmでの上映。
最初と最後に水晶が映し出される。丸くてまっすぐに光と像を通してくれない水晶。
サッチャー政権下(この特集が始まって、彼女のトークを聞いていくと、サッチャー政権下のUKがどれほどひどいダメージを受けて変わったかが何度も語られていて、やはりそうだったのか、になった)のロンドン市民の生活を3人の主人公を中心に描いていくのだが、うちひとりのKimを演じるのがX-Ray Spex~Essential LogicのLora Logicで、映画のタイトルもバンド解散後の彼女のソロ” Pedigree Charm”のなかの曲名から採られている。(レコードは実家にあるので確認しようがないわ)
彼女がライブをしている映像もでてきて、ここでドラムスを叩いているのはCharles Haywardだったり、彼女がレコード屋に入るシーンがあって、そこはやっぱりオリジナルのRough Trade(1982年の!)だったり、いろいろ興味深い(いやそっちじゃないだろ)。
この翌日にかかった短編”AMY!” (1979)でも、主人公の女性がこちらに向かって下地からメイクをしていくシーンで、X-Ray Spexの”Identity” (1978)が轟音でフルで流れていったり、彼女の問題意識に当時のパンク/ポストパンクシーンの女性バンドなどがどんなふうに関わって影響を受けたり受けなかったりしたのかについて – どこかに纏まっているかもだけど - 聞いてみたいと思った。
まだ続いている特集で、これからも見ていくので、振り返りながら書けるものがあったらまた。
[film] Predator: Badlands (2025)
11月10日、月曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
チケットを取った回が3D上映だったので、3Dになった。
Terrence MalickともBruce Springsteenとも関係ないのだった。
監督はDan Trachtenberg。Predatorのシリーズで言うと、Arnold Schwarzeneggerが出ていた頃のは見ていなくて、最近の数本はなんとなく見ているが、積極的に見たくて見るというより、なんなのこいつら? の得体の知れない薄気味悪さに触れて楽しむ、というか。今回のは予告を見たら怪獣映画のようだったのでそれでもいいか、って。
これまで雑に見てきたPredatorの特徴は、とにかく喧嘩と殺し合いが好きで、相手が強かろうが弱かろうがまずやっつけることが第一で、宇宙船とか武闘方面の技術はあって言葉があって会話もできて、種のなかでの序列とか掟とか家族はあって名前もあるって。今回の主人公はDek (Dimitrius Schuster-Koloamatangi)っていうある家族の落ちこぼれで、冒頭の兄との喧嘩に負けて、その流れで兄は強権的な父によって殺されて、父に対して実力を示すためにある星の化け物退治に向かうことになる。
ここまでで、これなら人間のドラマと変わんないじゃん、ていうのと、いま大量に予告が出ててうんざりの”Avatar”のことを思ったりした。あの物語設定にもんのすごい大金をつぎこんで「映画」としてでかでかとリリースすることの意味がずっとわかんなくて、いや映画というのはそもそもなんでもありの雑多なジャンルだから、という括りも可能なのだろうが、そういう設定がルールのような基底前提として存立しうるゲームやアニメの世界ならまだしも、映画として、これまでの映画の世界がもたらしてきたのと同等の「感動」や「共感」を強いてくるのだとしたら、日々の人間関係ですらきちんとできずに苦しみ続けてその解に近いなにかを過去の映画に求めたりしている側としては勘弁しておくれ、になる。なんで別の星に暮らす生物(と呼んでよいかどうかも不明な)連中の挙動や行動の意味や理由を地球人の基準水準から推して把握したり理解したりしなきゃいけないのか。その正しさは誰が決めて汎用化した/されたものなのか。それらは測定不能な未知の脅威・恐怖としてあったからこそ、エイリアンの映画は成立したのではなかったか。
とにかく、その化け物がいる星に飛んで退治して父を見返してやりたいDekはそこに着いてもやっぱりうまくいかずに苦闘していると、上半身だけで転がっていたレプリカント?のThia (Elle Fanning)に愛想よく英語で声をかけられて、教えて貰ったりしながら一緒に戦っていくのとThiaにはコピーだけど気質は真逆で冷酷非道なTessa (Elle Fanning)がいて、彼女と彼女に操作された男の戦闘ロボットみたいのがわんさかやってくる。あと、外見は緑のオランウータンで顔がパグの変な生き物がついてきたり。言葉や意思は互いにふつうに通じていて、襲ってくるかそうじゃないかで敵味方はきれいに分かれて、もろに仲間の獲得と学習〜鍛錬が基本のゲームの世界になってしまう… のってわかりやすいけどつまんないよね。(Wolf .. Pack.. ) とか。ゴジラが仲間と一緒に闘いだした時と同じで。
DekがThia(半分)を背負っているのを見て、子連れ狼にすればいいのに、ってちょっと思ったのだが、あれはもうMandalorianでやっちゃっているのか…
人間が一切でてこないのはよいこと、と思ったが最後に現れるあれが… このシリーズはぜんぶ次があるように見せかけて、中途半端に終わっていくのが恒例なのでこれもそうでありますように。
11.15.2025
[theatre] Romeo a Juliet
11月5日、水曜日の晩、Shakespeare’s Globe内にあるSam Wanamaker Playhouseで見ました。
このシアターの舞台照明は蝋燭で、俳優が演じながら燭台の沢山の蝋燭に火を灯したり消したりして、売店では使い終わったちびた蝋燭をお土産として売っていたり(最初なんだこれ?って思った)。
制作はグローブ座と提携したウェールズのTheatr Cymruで、4日間公演の初日。グローブ座でウェールズ語の芝居がかかるのは初めてだという。原作はWilliam Shakespeare (1597)、翻訳はJ.T. Jonesによるもの(1983年)、演出はSteffan Donnelly。
高さのあるこのシアターで、舞台上の細工は特にしていなくて、楽隊もシンプルに3名。蠟燭の灯り(によって浮かびあがるもの)を際だたせていくクラシックな演出- 悲劇に向かうにつれて明度が落ちていく - がとても素敵。服装は革ジャンを着ていたり現代のそれだが、特に凝ったものではなくて、ごく普通の。
英語とウェールズ語が混じる劇、ということで、事前に英語キャプションを通訳表示するスマホアプリの案内がきて、シアターにもダウンロード用のQRがあって、一応念のためダウンロードはしておいたのだが使わなかった。客席から見ていてもスマホを見ながらの人はそんなにいなくて、やっぱり舞台の上の動きと発声に集中したいし、こういうエモがぶつかりあうような劇であれば尚更かも、って。
Romeo (Steffan Cynnydd)のいるMontaguesは主にウェールズ語を話し、Juliet (Isabella Colby Browne)のいるCapuletsは主に英語を話すのだが、当然両家が会話をする際にふたつの言語は混ざりあい、両家が衝突する場合にはその違いが強く際立って、ふたりが愛を交わす部分では衣服のように取り除ける柔らかい覆いになったりして、なるほどなー、にはなる。他方で、言語の違いによる違和やギャップなんて、ごく普通にそこらにあることでもあり、言語間の差異と分断がこの悲劇に(誰もが期待するであろう)決定的ななにかを持ちこんだりもたらしたりしているか、というと、そこまでではなかったかも。
でもそれは置いて、殺しの場面の凄惨さや、愛を語る場面のとろけるような甘さ、もちろん最後の悲劇は、ストレートに生々しく伝わってきて、センターの、特に際立って強いなにかをぶちまけないRomeoとJulietの柔らかく寄り添う姿が最後まで残る。ふつうにそこらにいそうな素の若者たちで、それがなんかよくて。
日本でも家父長制が強く残っていて互いにぜんぜん通じない方言を使って譲らない両家をモデルにやってみたらおもしろいかも。(まじでどうしようもなく通じないやつ)。もうすでにやっている?
ウェールズ語って、音だけ聞いているとポルトガル語みたいに聞こえるところがあった気がしたが、ぜんぜん関係ないのだった。
Ragdoll
11月3日、月曜日の晩、Jermyn Street Theatreで見ました。
1974年のPatricia Hearst誘拐事件(過激派組織シンバイオニーズ解放軍に誘拐・監禁されたが、その後犯人と行動を共にしていることが明らかとなって大騒ぎになり、やがて有罪判決を受ける)に着想を得て、Katherine Moarが書いた劇が原作。演出はJosh Seymour。 休憩なしの75分。
事件から数十年が過ぎた2017年(には何が起こった年か?)、同事件で「被害者」とされたHolly (Abigail Cruttenden)が、かつて彼女を担当した弁護士Robert (Nathaniel Parker)のオフィスを訪ねてくる。 Robertは彼女の弁護で脚光を浴びてセレブ弁護士となったが今はちょっと疲れた顔で、事務所を畳もうとしているらしい。舞台の真ん中にはものすごく豪華(そう)なソファが置かれていて、彼のかつての栄華を伺わせるが、そもそもなんでHollyは彼のところに現れたのか。
HollyとRobertの間に懐かし気な、親密な雰囲気はなく、かといって刺々しい喧嘩腰でもなく、会話のやりとりを通して皮を剥くように過去の記憶を取り出して転がしていくと、若い頃のふたり – Holly (Katie Matsell)とRobert (Ben Lamb) – が舞台上に現れるようになり、最初のうちは過去のふたりと現在のふたりが交互にスイッチしたりしていたのが、最後のほうでは4人一緒に出ているようになり、この多層化がとてもおもしろい効果を生む。
Hollyは誘拐されて犯人達に脅迫されてレイプされてその後の強盗に失敗して捕まって、Robertが弁護した裁判に負けて収監されて、Robertはセレブ弁護士としてぶいぶいだったのだが… 過去は変えられないけど、過去にあったことはあったことで消えることなんてなく、それは間違いなく現在に繋がっているので現在のことなんだ、逃げられると思うなよカス、というのと、抱かれたらぐんにゃりする猫(ragdoll)だって生きてるんだしなめんな、って掘り返されるべき昔のケースはいっぱいあるんだと思う。 まさに今の合衆国大統領だってな…
11.14.2025
[log] Alhambra - Nov. 7th - 8th
11/7(金)~ 8(土)の一泊でアルハンブラ宮殿に行ってきたので、簡単なメモを。
9月にはイスタンブールで、トプカプ宮殿やアヤソフィアを見たので、その続きの宮殿シリーズ、もあるし、前回UKにいた時も計画していて、でもCovidで頓挫していたやつ。
ロンドンから行くルートはガトウィック空港からマラガに飛んで、そこからバスか電車でグラナダ、になる(探せばもっとよいルートはあるのかも)。
BAの便は朝6:10発で、バスと電車を乗り継いであの空港まで行くには、午前3:00に家を出るしかなくて、空港には4:30くらいに着いたのだがラウンジはまだ開いていないし。
マラガ空港のイミグレーションは朝で到着便が集中していたのか、近年ちょっと見ないぐじゃぐじゃぶりで、抜けるのに1時間強、予約しておいたバスにはどうにか間に合い、乾いた岩山を抜けてグラナダのバスターミナルまで約2時間、更にそこからホテルがある中心部までバスで30分。ホテルに入ったのが15:00少し前だったので、家を出てから12時間かかったことになる。近いようでじゅうぶん遠い。
Catedral de Granada
18世紀初に建てられたこういう聖堂は、とりあえずなんでも入るべし、の原則で入って、当然素敵なのだが、堂内で場所を区切ってやっていたJosé de Moraの彫刻展がすばらしくてずっと見ていた。生々しい、というのとはちょっと違って。濡れたような涙の跡とか顔の歪みとか、信仰が固化しているとしか言いようがない。 売店で結構分厚いカタログを買ってしまった。
そこからDarro川に沿ってアルハンブラの方に歩いていくと下の方、反対側の草の茂っているところににゃんこが気持ちよさそうにごろごろしていて、その近くにもう一匹いて、その生息しているさまはベルンの熊公園を思い起こさせるのだったが、ネコさんがあんなふうにいられるのであれば、この地はよいところに違いないと思った。
川沿いの考古学博物館を見て少し歩いていたらヘネラリフェ庭園への矢印があって、アルハンブラは翌日の昼なのだが、ここだけ先に見ておいてもよいかも、と思ってその方角に行ってみたらものすごい階段と上り坂で死にそうになり、やっと上に着いたら当日チケットは売り切れでどうしようもなかった。態勢を立て直すべくバスでいったんホテルに戻って、アルバイシン(Albaicín)に向かう。
Albaicín
丘陵地帯に白壁と石畳がずっと続く城塞都市としてできあがった住宅地で世界遺産で、さっきと全く同じく一番高そうなところまでへろへろになって登って、だらだら降りて、それだけでも、ただ歩いているだけでじゅうぶん楽しい(坂がなければ)。こういうところで人が暮らしていて(今も)、過去には城塞だったここには籠って戦うために暮らす人たちがいたのだ、そして今はそれが観光名所になっている、といういろんな時間も含めた段差について。
てっぺんの高台にも夕日で有名なサン・ニコラス教会の展望台にも夕日を待つ人たちが溢れていて、サン・ニコラスの方ではサンバみたいな音楽をじゃんじゃか打ち鳴らしていたのだが、ああいうのってほんといらない。
帰りは幸せに路地を歩きまわっていたらなんとなくホテルに着いてしまった。
8日はアルハンブラの日だったのだが、前日の夕方にメールが来て、予定していたガイドが病気で来れなくなったので、ガイド分の金額はあとで返す。チケットはWhatsappを持っているのであれば送るよ、というのだが(... 怪しい)そんなものないよ、って返したらメールでチケットが来た。ガイド付のツアーは12:00開始だったのだが、ナスル宮殿(Palacios Nazaríes)の入場時間が10:30に変わった(ここだけ厳守しろ、と)。
10:30の前にカルロス 5 世宮殿 - Palacio de Carlos Vとか、その上にあるMuseo de Bellas Artes de Granadaとか、並びにあるキリスト教の教会を見る。これらが無料って割とすごい。
Palacios Nazaríes
ここが今回のメイン。
最初の部屋のタイルとか床の紋様、そこに射してくる日の光だけでやられて、天井を仰いでもどの壁に向かってもめちゃくちゃ細かいし目のやり場だらけでお手あげになった。こないだのトプカプ宮殿もよかったのだが、あちらはまだ見せ方並べ方に博物館的な配慮があった気がしたのに対して、こちらは素でイスラム文化と芸術の凄みを鑑賞というより体験として否応なしに叩きつけてくるような、モスクがそっくり裏返って被さってくるような凄みがある。これらをデザインしたり作ったり組みあげたり嵌めこんだり整えたりするのに、どれだけの手数と時間が費やされたのか、そしてそれらが信仰の名のもとに為されただとしたら宗教って… に改めて立ち返る、立ち返らざるを得ない、それもまた狙いのひとつで、そんなのがすべてこんな辺鄙な山のなかに一式揃って遺されていて、なんてすごいことよ、しかなかった。
気づいたら2時間くらい経っていて、結果的にガイド付のにしなくてよかった、って思った。
そこから他の建物 - 要塞 – Alcazabaの上にのぼって、昨日行けなかったヘネラリフェ庭園にも行って、それぞれ眺めとかは当然よかったのだが、Palacios Nazaríesの金縛りに襲われるような妖気はちょっとなかったかも。あと、庭園に向かう途中の野道にも猫がいてよかった。
とにかくこうして数年ごしの野望をどうにかした。
Capilla Real de Granada
前日に行った大聖堂の隣というかその一部の礼拝堂が博物館になっていて、絵とか王家の黄金の宝物などがあって(撮影禁止)、改めてイスラムとの対比でいろいろ思う。こんな違うのが、歴史的な段差はあるにせよ、よく近くに並んでこれたものだなー、というか宗教ってそういうものでもあるのよね。
空港に向かうバスに乗る前に帰り - 19:30発のBA便が遅れて22:30になるかも、ってメッセージが入り、こんなことならもっとゆっくりしたのにー、って嘆いても遅い。この空港にはラウンジもないし、スマホをチャージするとこもないし、ああ3時間あったら映画いっぽん見れたのに。
ガトウィックに着いたのは午前0時半くらい、1時過ぎの電車に乗っておうちには3時くらいに着いた。ちょうど丸二日間の旅になった。
11.11.2025
[film] Palestine 36 (2025)
11月2日、日曜日の昼、Curzon Sohoで見ました。 東京国際映画祭でも上映されていたやつ。
日曜の11:00始まりで、この時間帯の上映はがらがらであることが多いのだが結構入っていて、今になっても配給もしているCurzonでの上映館数は増え続けている - 多くの人に見られているということで、これはよいこと。
パレスチナ–UK–フランス–デンマークーカタールーサウジーヨルダンの共同制作で、UKはBBCとBFIがお金を出している。このふたつがお金を出している映画にはイギリス人に見てもらいたいものがある、というのが多い。当時のイギリスの曖昧な態度が今のガザの元凶としてある、というのを明確に描いていて、これはイギリス人でなくても見るべき。
作・監督はパレスチナのAnnemarie Jacir。
1936年に始まったアラブ反植民地蜂起を描いているが、冒頭には「あなたが生まれた年」と表示される。あなたがどの年に生まれていようが、1917年にイギリス軍がパレスチナに入り、同年のバルフォア宣言でパレスチナにおけるユダヤ人国家樹立を目指すシオニスト運動への支持を表明してからずーっとこの状態のままできているのだ、と。
いろんな人が出てくる - 政治家の曖昧な態度が人々の生活を動かしたり脅かしていく、それに抵抗して立ちあがる人々が出てくる、そういうドラマだが、難しいものではない、かといって単純なヒーローが現れて民衆が蜂起する、みたいなものでもない。パレスチナはイギリスの植民地としてあり、ついこの間、イギリスはパレスチナを国家として承認した。それまでの間、イギリスはイスラエルが入植して、そこに代々暮らしていたパレスチナ人の土地や仕事や命を奪うのを100年に渡って容認してきた、という異常な、狂った背景がまずある。
イギリスの一番上は高等弁務官のArthur Wauchope(Jeremy Irons)で、なにもしない彼の周辺にはよいイギリス人もいれば悪いイギリス人もいて、特に英国軍の大尉Orde Wingate (Robert Aramayo)は残忍で容赦ないのだが、上がなにもしないし、はっきり言わないので現地に暮らすパレスチナ人は虐待され、追い詰められていく。「なぜ?」に対する明確な答えがない状態、平気でダブルスタンダードをかざす言い逃ればかりで、結果的にパレスチナの住民はされるがままに弾圧され、土地は接収されてユダヤの国ができあがっていく。
この状態をおかしいと思ったジャーナリストのKholoud (Yasmine Al Massri)は、いろいろ書き始めるが、夫のAmir (Dhafer L’Abidine)はシオニスト団体から裏でお金を受けとっていることを知ったり。
パレスチナ側でフロントにくるのはKholoudのところに出入りしていたYusuf (Karim Daoud Anaya)で、彼も最初は穏やかに見ているものの、家族も含めて犠牲があまりに広がっていくし、黙っていれば拘束される、抵抗すればあっさり殺される、のどちらかのなか立ちあがるしかない、という瀬戸際の選択がいろいろな場面で起こるのだが、映画はどちらかというと居場所と家族を次々と失っていく女性や子供たちの姿を際立たせている。堪忍袋で勇ましく立ちあがる男たちの姿ではなく、立ち尽くすしかない彼女たちの姿を – ここははっきりと今と繋がって、お先真っ暗になるというより、なんとかしてあげられないか、になって、だから今見るべきだし、見たら焦点がはっきりと定まる、そういう映画だと思った。
あと、イギリス人のものすごく礼儀正しいし、ちゃんと返答してくれるけど、相手を下と見ると譲らないところは頑として譲らないでのらくらを続ける、あのいやらしい態度のことを思ったりした。
11.10.2025
[theatre] The Assembled Parties
11月1日、土曜日のマチネをHempstead Theatreで見ました。
原作はRichard Greenberg、2013年にBroadwayで初演された舞台が長い時間をかけてようやくロンドンに来た。ものすごくローカルくさい – NYのアッパーウェストに暮らす裕福なユダヤ人家族のお話しがなんで10年以上かけてロンドンの、West Endじゃないところで上演されるのか、わかんないけどおもしろそうだったので。演出はBlanche McIntyre。
舞台上には大きなソファ、背後に大きなクリスマスツリー、大きなダイニングテーブルなど、見ただけで家族親族のクリスマスの集いを待っているセット。ユダヤ人家族だけどクリスマスを祝おうとしている、そういう家庭の。
1980年の暮れ。そこのアパートのJulie (JenniferWestfeldt)が慌しくパーティの準備 - 鵞鳥とか - を進めているところに、みんなの期待の星、長男Scotty (Alexander Marks)のハーバードの友人Jeff (Sam Marks)が現れて、どちらかというと外から来たJeffの目で幸せそうな – でもよく見ていくとやっぱり解れたり壊れたりしている家族の面々とその関係を見ていくことになる。Julieの夫は裕福なBen (Daniel Abelson)で、Benの妹のFaye (Tracy-Ann Oberman)と、彼女の夫Mort (David Kennedy)と不機嫌そうなティーンの娘Shelley (Julia Kass)も現れて騒がしくなっていく。大学を卒業したばかりのScottyは見るからに疲れてあれこれどうでもよいかんじになっていて、小さい弟のTimmyはインフルエンザでみんなのところに行けないのでぐずっている。
ここまでで、不穏な関係とか誰かの邪悪な企てが明らかにされたり、誰かが誰かの追及の的になったり、関係の綻びが前面に出るようなことはなく、会話はどこにでもある普通の家庭の(部屋が多すぎて迷うんだけど、とかは除いて)レーガンの時代の(良くも悪くも)朗らか穏やかな家庭内の会話劇が展開されていって、そこにはなんの違和感もなくて、ふつうに楽しく流れていく。
休憩を挟んだ後半は、2000年、ここから20年後の同じアパートのクリスマスになる。
成功した弁護士になったJeffがやってきて、病気で弱っているJulieとの会話からBenもScottyも亡くなっていて、やがて現れたFayeからはMortも亡くなっていることを知る。 小さかったTimmyはTim(Scottyを演じていたAlexander Marksが二役)になって、大学を中退してレストランで働いていて生活は厳しそう。 時の流れを経て世間的には凋落した、と言うのかも知れないがそういうトーンのお話しではなくて、FayeとJulieの会話は変わらずに(変わっていないことがわかる温度感で)楽しく(伝わっていようがいまいが)転がっていくし、電話を通して意地悪してくるShelleyですらいかにも、だし。
20年間で変わったこと、失われてしまったものにフォーカスするというより、変わらずに or 変わっちゃったけどそこにあるものってなんだろうね? をぶつかったり確かめたりしあいながらassembleしていく、撚りあわせていく、そんなアプローチで、この先どうなっちゃうんだろう?… の閉塞感はあまりなくて、そうだよね、やっぱりそこに行くよね、が待っている。毎年のクリスマスがBing Crosbyの歌と共にそういうとこに落ち着くのと同じように。アンサンブル・ドラマとして、設定も含めてよくできている、というかこれしかないでしょ? みたいな出しかた。でも絆を確かめにいく系のくさいやつでもないの。
20年間の変化を示すのに、例えば長髪だったJeffの髪は短くなっていて、80年代の方のJeffはカツラを被っていたのか - でもあの髪型だと80年代は違和感ないな、って変なとこに感心したり。
あと、アッパーウェストのアパートの、パークアベニュー沿いのそれとはまた異なるクラシックな堅さというかどっしり根を張っているかんじ、がもたらす「ホーム」のありよう。Scottyが出たがっていたのも、Jeffがあんなふうに戻ってきてしまうのもわかるの。
11.09.2025
[film] Office Killer (1997)
10月31日、金曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
特に宣伝していたわけではないが、BFIでは地味にこの日だけのハロウィン特集をやっていて、ここの2本と、BFI IMAXでは23時過ぎから”The Rocky Horror Picture Show” (1975)などを上映していた。ドキュメンタリーも上映されていたし、後楽園シネマ以来見ていないし行こうかな、って少し思ったがひとりで行っても楽しくないのでやめた。
Cindy Shermanの最初の、今のところ唯一の長編映画監督作品で、見たことなかった。よいかんじの35mmフィルムでの上映。
脚本はCindy Shermanを含めて4人、うちひとりはダイアログ監修としてTodd Haynes。音楽はEvan Lurieで、ちょっとつんのめったラテン、タンゴ風味で軽快に(ホラーのサウンドトラックではないかも)。
舞台はアメリカのどこかの都市 - NYではないような - の雑誌の編集部で、Kim (Molly Ringwald)とかNorah (Jeanne Tripplehorn)とかいきのいい若手が火花を散らしているものの売り上げはよくないので、オフィスの隅っこにいて地味でちょっと気味悪がられているDorine (Carol Kane)は総務のようなところに異動+在宅にされて、そんなある晩にPCの修理で電源をいじっていた若者♂がDorineの目の前で感電してコロリと死んじゃって、それを見ていたDorineは彼の死体を自宅に運んで地下に安置して、オフィスの上司名で社員宛に彼は出社していないけど大丈夫だから、とかメールを出す(昔のメールシステムは割とこういうことができたの)。
この件がきっかけになったのか、Dorineの殺人→死体を自宅の地下に運ぶ - は職場の同僚だけでなく頻繁に、しかも自分から積極的に殺しにいくようになっていくのだが、誰にも - 自宅には体の不自由で口うるさい母がいるのだが彼女にも - ばれないし、会社のみんなは突然消えちゃったけどおかしいなー、くらいで、家の猫だけが死体をがりがりしたりしている。
殺しの場面が生々しく描かれず、死体が滑稽な格好をして並べられているだけだし、なによりもDorineがそんなことをする動機がわからないのであまりホラー映画としての怖さは感じられなくて、その表層の晒しの微妙な異様さだけで何かを語らせようとするのは、彼女の写真と同じところを指向しているような印象があったかも。彼女のポートレートはDorineのやっていることと同じようなものだ、とまでは言わないけど。
The Hunger (1983)
↑のに続けてBFI Southbankで見ました。
これは恥ずかしながらこれまで見たことがなくて、この頃のBowieには、こんな映画にでてないで、”Let’s Dance”とか言ってないで、ちゃんとした音楽作って、ってずっと思っていた。ことを思いだした。
最初は兄のRidley Scottのところに話が行って、でも兄は”Blade Runner” (1982)で忙しく、マネジメントが同じでCM業界にいた弟、Tony Scottに振って、これが彼の監督デビュー作となった。原作はWhitley Strieberの同名小説を緩く翻案している。
冒頭、いきなりBauhausの”Bela Lugoshi's Dead”が聴こえてきて(イントロですぐわかる)、あらあら? と思っているとPeter Murphyの顔が大写しになるのでなんだこれは? になった。(エンドクレジットでは、Disco Band … Bauhaus と出るので場内爆笑..)
現代のNYに暮らすMiriam Blaylock (Catherine Deneuve)は古代エジプトの頃からずっと不死でやってきているバンパイヤで、パートナーらしいJohn (David Bowie)と一緒にBauhausが演奏していたクラブで若者を引っかけて、Johnと暮らすタウンハウスに連れこんで吸血してポイ、をしたりしている。
と、Johnが急に老けこんできて、病院に行っても医師のSarah (Susan Sarandon)は忙しくて相手をしてくれなくて、そうしているうちなJohnはどんどんよぼよぼのおじいさんになっていって(ここ、シリアスな描写なのだろうがなんかみんな笑ってしまうのだった)、やがてMiriamはSarahと恋仲になって…
まだとんがったCM表現がハイアートとみなされていた時代のビジュアルは見事なのだが、彼ら全員が美しく磨かれて映しだされればされるほど、なんとなく笑いが滲んできてしまう。この傾向はTwilight Sagaにもある気がするのだが、なんなのだろうねー、って思った。不老不死って、どこか滑稽に見えてしまう要件があるのだろうか。
それだけかー、なのかもしれんがハロウィンなんてこの程度でよいのだ、って夜道を(振り返らずに)小走りで帰った。
11.06.2025
[theatre] Bacchae
10月25日、土曜日のマチネを、National TheatreのOlivier Theatreで見ました。
この春にNational Theatreの新たな芸術監督に就任したIndhu Rubasinghamによる最初の舞台演出で、ギリシャ悲劇エウリピデスの『バッコスの信女』を俳優でラップアーティストでもあるNima Taleghaniが劇作家デビュー作として翻案したもの。 いろいろ元気があって威勢はよいことはたしか。
Olivier Theatreの楕円形のでっかい照明が月のように威圧的に宙に浮いていて、傾斜のある平な岩がそれに沿うように層をなして積みあがっていて、なかなかアポカリプスなふう。場面によって岩岩がぐぉーってゆっくり回転していったりする。
神デュオニソス (Ukweli Roach)が傲慢な人間の王様ペンテウス (James McArdle)によってバカにされたので頭にきて山中に囲っているバッコスの信女たちを率いて人間の世界に乗りこんでいく。いろいろ姿を変えていくデュオニソスは金ラメの衣装でイキるラッパー(たぶん歯にはダイヤモンド)で、彼に山中に連れてこられた信女たちにはVida (Clare Perkins)っていうリーダーがいて、毛皮や襤褸をまとった裸族のよう(でもメイクとかはして髪の毛もちゃんとしている)で、全員がふた昔くらい前のミュージックビデオに出てくるようなおらおらした威勢のよいヒップホップのナリで、どうせ浮世離れした現実世界の話ではないから好きにやっちゃえ、ということなのだろうが、どうなんだろうか? 預言者テーセウス (Simon Startin)はガンダルフみたいな世捨て人のナリでおろおろしているし、全体に漫画というか、ミュージカルにできそうな、することを狙ったエンタメっぽい雰囲気。9月末にShakespeare’s Globeで見た”Troilus and Cressida”に雰囲気はやや近くて、ふたつの勢力がぶつかり合うために(ちょっと楽しそうに)ぶつかっていくような。
ギリシャ悲劇の現代演劇化、というのが過去からどんな形で変遷してきたのか、今度のこれがどれくらいとんがったものなのか、はわからないのだが、タイトルであるBacchae(信女たち)の偏見込みで人からも神からも虐げられ、男たちの好きにされて岩山に追いやられた女性たちの吹き溜まった怒りが互いにどつきあいながら渦巻いていくかんじはなかなかよくて、それが女装してのこのこやってきたペンテウスを八つ裂きにしてしまうところは楽しめる - 楽しんでしまってよいのか、は少しあるが、でももっといまの世の中の虐待を受けたり疎外されたりしてきた女性たちのふざけんじゃねえよ、の怒りをぶちまけて狼煙をたくようなものにしてもよかったのでは、とか。 同様にアガウエー (Sharon Small)が嬉々としてぶらさげていた首が我が子のペンテウスのものであることを知った時の悲嘆も、そんなに響いてこない気がした。 ドラマチックであり、エモが炸裂するシーンであることはわかるのだが、なにかが薄まってしまっているような。 それが音楽によるものなのか衣装や舞台装置によるものなのかはよくわからなくて、うんとラディカルな、すごいことをやっているかんじが来ない。神々(と人間)の物語に込めるもの、込められていてほしいもの、のギャップだろうか。これだと神も人も、どっちも割としょうもないな - 実際そうであるにしても - で終わってしまうし、Bacchaeもずっと世に放たれずにあの岩山に残されたままなのかな、って。
11.05.2025
[film] The House of Mirth (2000)
10月26日、日曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。
ここの11月の特集で、”Love, Sex, Religion, Death: The Complete Films of Terence Davies”というTerence Daviesのレトロスペクティヴが始まっていて、これもMelodrama特集と並んで重いったらないのだが、英国にいるなら見ないと、ということで見始めている。特集の予告にはPet Shop Boysの"Paninaro"が流れたりして、なかなかよいの。
で、これはリリース25年周年を記念してBFIがリマスターしたものを特集と並行してリバイバル公開していて、全体にあまりに美しい絵が続くのでびっくりした。なんでこれが日本で公開されていないの?
原作はEdith Whartonの同名小説(1905)。翻訳のタイトルは『歓楽の家』。映画化されたWharton作品というと”Age of Innocense”(1920) - 映画版は1993 年 - が有名だが、これも負けていなくてすごくよい。監督・脚色はTerence Davies、撮影は”Elizabeth” (1998)のRemi Adefarasin。
UK - Germany - US合作で、20世紀初頭のNew Yorkが舞台だが撮影の殆どはグラスゴーで行われている。つまり、2000年のグラスゴーは100年前のNYであった、と。
20世紀初のNYの社交界で、Lily Bart (Gillian Anderson)は強い財力やバックがいるわけではないのだが、派手で華やかなのでそれなりの人気はあって、いつも話をする弁護士Lawrence (Eric Stoltz)をちょっとよいと思って頻繁に会ってはいるのだが、彼の収入が少ないので結婚相手としては考えていなくて、でもそうすると金融をやっている金持ちのSimon (Anthony LaPaglia)かただの金持ちのPercy (Pearce Quigley)くらいしか現実的な選択肢はなく、でも何度か誘いをすっぽかしたらPercyからは見向きもされなくなり、Simonは見るからにただの金持ちで中味なさそうだし、と、将来がいろいろ不安になってきたので友人の夫でやはりお金持ちのGus (Dan Aykroyd)に相談してみると投資のためのお金を出してくれて、でもその見返りとしてオペラの帰りに屋敷に連れこまれたので拒否したり、Simonからもプロポーズされるのだが、やっぱり嫌なものは嫌で、あれこれもうやだ! になっていたところで、友人のBertha (Laura Linney)夫妻からヨーロッパクルーズに誘われて行ってみるのだが、Berthaの不貞の噂話で疑われて結局孤立してひとり帰らされてしまう。
こんなふうにどこに行っても十分な財力も後ろ盾(男)もいないし、それを求めてもろくな選択肢も見返りもなくしょうもないのに当たったり勘違いされたり裏目に出てばかり、そうしているうちに友人がひとりまたひとりと離れていって結果的に社交界から孤立して脱がされるように借金まみれになり、職にも住む場所にも困るようになっていくさまを絵巻もののように淡々と描いていく。
抜けられない愛憎劇があるわけではないし、運命の急転をドラマチックに怖ろしげに描くものでもないし、そんな社会の非情を訴えるわけでもなく(少しはあるけど)、すべては壁のように動かし難いものとして巌としてあるだけで、カメラはもう少し将来のことを考えて人生設計すればよかったのに自業自得 - と指さされているかもしれないLily = Gillian Andersonの表情を正面からずっと捉えていって、でもそうされてもどれだけ落ちても揺るがずに正面を見据えているLilyがすごいの。最後にひとりめそめそ泣いてしまうのはLawrenceの方だったり。
Gillian Anderson、こんなにすごい人だったんだー、って。こないだ見た”The Salt Path” (2024)で、無一文になっても超然と山歩きと野宿を繰り返していた主人公の姿が重なるし。
11.04.2025
[film] Springsteen: Deliver Me from Nowhere (2025)
10月27日、月曜日の晩、Curzon Bloomsburyでみました。
監督はScott Cooper、脚本は監督とThe Del Fuegosのギタリスト - Warren Zaneの共同、撮影はMasanobu Takayanagi。
“A Complete Unknown”でTimothée Chalametが周囲から眉をひそめられつつエレクトリックに向かうBob Dylanの像を演じたように、Jeremy Allen Whiteが絶頂期に周囲の困惑を振り切ってアコースティックに向かっていくBruce Springsteenを演じている。
“A Complete Unknown”に”Deliver Me from Nowhere”と、どちらのタイトルも謎めいていて本当のところは? みたいにぼかしているものの、本作はBruce本人がNYFFにもLFFにもやってきて直にプロモーションしているので、”Deliver Me from Anywhere”にしたってよいくらいかも。
冒頭はモノクロで描かれるBruceの幼少期の姿で、酒浸りで暴力的な父(Stephen Graham)の下で母(Gaby Hoffmann)と怯えながら固まって暮らしていて、そこから成功した”The River” (1981)のツアーで”Born to Run”を熱唱するBruce Springsteen (Jeremy Allen White)の姿にジャンプして、誰もが金字塔となるであろう次作での大爆発/大儲けを期待するのだが、彼はColts Neckに一軒家を借りて、Flannery O’Connorの本を横に置いたりしつつ、Mike Batlan (Paul Walter Hauser)にマルチトラックのカセットレコーダーを持ってこさせて、アコギ1本で録音を始める。
町をうろついて、シングルマザーでウェイトレスのFaye (Odessa Young)と仲良くなったりするものの、どこに向かっているのかは本人にもわからないまま彷徨っているようで、都度子供の頃の虐待の記憶が蘇ったり、昔の殺人事件のニュースが目に入ってきたり、外から眺めれば成功の後のスランプ… のように見えるのだが、レコード会社の上の連中はそんなの理解できなくて、プロデューサーのJon Landau (Jeremy Strong)だけが静かに彼を見守っている。
やがてBruceはギター一本でカセット録りしたデモの音そのままの状態のをどうしてもリリースしたい、ってゴネて、これがやがて”Nebraska” (1982)になるわけだが、これくらいのことは当時のインタビューでも語られていた気がするし、彼のような音楽をつくる人のドラマとしてそんなにおもしろいものでもないような - 湿った質感の映像はとても素敵なのだが。
むしろ”Nebraska” の後、”Born in the U.S.A.”(1984)の最初のシングルが、ぱりぱりの”Dancing in the Dark”で、アルバム全体もBob Clearmountainミックスのプラスチックな質感になった/してしまったことの事情とかの方を知りたい。時代?
あと、これを音楽映画とするなら、ライブや演奏シーンの映像が圧倒的に少ないのが不満としてはある。アメリカのストーリーテラーとしての彼もあるけど、80年代から3時間超えのライブをずっと続けてきている、そっちの方のパワーの謎と驚異を描くことだってできたのではないか。ドキュメンタリー “Asubury Park: Riot, Redemption, Rock & Roll” (2019)で描かれたあの時代の海辺の町を舞台に。
わたしがはじめて”Born to Run”を聞いたときは既にJohnny Thundersの”Born To Lose”を聞いた後だったのでBruceには乗れず、一番聴いたのは”Darkness on the Edge of Town”だったが、この辺りから、彼の聴き手周辺ってミュージシャンも含めて走るんだぜ、みたいなバカが大量発生して(うんざりするくらいいっぱいいたのよ)ひどかったのでちょっと距離を置いてしまったまま。 みんなまだ走ってるのかな?
ニュージャージー関連でもうひとつ、10月25日の土曜日の昼、Charing Crossの書店Foylesで、”Jon Bon Jovi in Conversation”っていうトークイベントがあった。イベントの2日前くらいに告知がきて、お代は£70(うちサイン本が£60)もしたのだが、なんとなくどんな人なのか見たくて取った。11時開始の先着順の入場で9:30に行ったら既にすごい列だった。
今回リリースされた本”Bon Jovi: Forever”、本として値段は結構高いのだが、80年代からのライブの記録やチケットの半券まで、ものすごい細かさと物量で見てて飽きなくて、ファンの熱がこもるとこういうことになる、よいサンプルだと思った。
トークは、本当に率直に語るよい人で、アスリートかアストロノーツかロックミュージシャンになるしか抜け出すことができないニュージャージーの荒野からどうやって、について、裏か表かわかんないけど、Bruceの話にも繋がるような気がしたのと、闘病の話になったら(ケアしてくれた人への感謝で)声を詰まらせてしまったり。
オーストラリアから来ている人、80年代からずっと追っかけしている人(彼に指さされてた)、よいファンに囲まれてきたんだなー、って。
11.02.2025
[film] Stiller & Meara: Nothing Is Lost (2025)
10月27日、月曜日の晩、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。
Ben Stillerの監督によるドキュメンタリー作品で、こないだのNYFFでプレミアされ、Apple TV+でも配信が始まっているので、日本でも見れるのかしら?
Ben Stillerが彼の両親 - Jerry StillerとAnne Meara、60-70年代のTVを中心としたショウビズの世界で花形だった夫婦コンビの足跡を辿っていく。
まず、Benが両親が住んでいた(Anneは2015年に、Jerryは2020年に亡くなっている)NYのアパートに足を踏みいれると、膨大な量のフィルム、写真、手紙、メモラビリア等がぜんぶ遺されていて、TVのThe Ed Sullivan Show等を中心としたフッテージ - ユダヤ人の夫とアイリッシュの妻、とか - の数々、彼ら二人が遺したホームムービーなどから振りかえりつつ、彼らが辿ってきた道と、途中からBenと姉のAmyも生まれて家族ができて、セレブとして多忙だった彼らの家族として過ごすのってどういうことだったのか、等も含めて追って、そこにはBenの妻や子供たちも加わる。
Anneはコメディではなく俳優を志望していて、でもJerryと出会ってコメディの道に入って、漫才コンビとして成功して、生活も安定して、アメリカ中を転々とするような生活になって、幼いAmyやBenからするとそんなに幸せではなかったようなのだが、でも、大量の記録を通して浮かびあがってくるのは、どれだけふたりがずっと愛しあっていて、どれだけ子供たちのことを気にかけていたかで、それはこの、ここで映しだされる分も含めた記録の総量を見ればわかるし、だから”Nothing is Lost”なんだよ。彼らはいなくなってしまったけど。
ということを、Ben Stillerが自分と、自分の今の家族にも言おう、言わなければ、と思って作った作品で、それはJerryとAnneがずっとお互いに見つめ合って言い続けていたこととも重なって、ああ、ってなる。家族ってそういうものだ、って言ってしまうのは簡単だけど、こんなふうに正面きって言う – ずっとぺらぺら冗談ばかり言っていたBen Stillerがふと真顔になるあの瞬間を思いだしたり。
Benが父に今の自分ほど有名じゃなかった、って言うと横にいた母が即座にあなたおねしょしてたでしょ、ってBenを激怒させたりとか、とにかく素敵な家族なの。
Omar and Cedric: If This Ever Gets Weird (2023)
10月18日、土曜日の晩、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。
こんなの見にくる人いるのか? と思ったが結構入っていた。でもここの上映のローテーションには入っていないみたい。
Omar Rodríguez-LópezとCedric Bixler-Zavalaの80年代から、特にAt the Drive-InとMars Voltaを中心とした活動の記録。タイトルの”If This Ever Gets Weird”はその後に、すぐにやめような、が来る。
監督はNicolas Jack Daviesで、上映前にシアターに顔を見せて、トークとかできないけど、上映後も上のバーにいるからなんか聞きたいことあったら声かけて、と。
監督はいるのだが、素材の殆どはOmarがずっと撮り続けてきた膨大な量のビデオや写真で、一番古いのは80年代のプエルトリコからやってきた移民としての家族のこと。そこから、テキサスのハードコアシーンでのふたりの出会いから、あきれるくらいにぜんぶ揃っていて、そこにOmarとCedricが交互にナレーションを被せていくので、ドキュメンタリー作品としての強さはあまりなく、ふたりによる活動の回顧-総括みたいなものになっていて、このふたりについてはそれでよいのかも。 上映時間は127分だが200分にしたって見たい人は見るだろう。
At the Drive-Inが爆発して、そのピークに分裂してMars Voltaを作った頃のなぜ?についてもJeremy Wardの死についても、CedricのScientologyの件についても、Teri Gender Benderのことも、彼ら自身の言葉で率直に語られているし、おもしろい、というのとは違うのかもしれないが、バンドの活動を記録する、というのはこういうことだよね、というのがよくわかる内容になっている。 と同時にOmarのばけもののような創造の裾野、その広がりを目の当たりにして、なんてすごい、になる人はなると思う。
Kim Novak's Vertigo (2025)
10月18日、土曜日の午後、LFFをやっているBFI Southbankで見ました。少しだけ書いておく。
監督はAlexandre O Philippeで、監督自身が大ファンであるKim Novakの自宅を訪ねていろいろ昔話を聞いて記録していく。
タイトルから、彼女の名を一躍有名にしたAlfred Hitchcockの”Vertigo” (1958) - 『めまい』の撮影時のことなどが、スキャンダラスなところも含めて赤裸々に語られるのかと思ったのだが、そうではなく、彼女のキャリアを振りかえって、自分がいかに恵まれたスタッフやキャストに囲まれて「女優」として成長できたか、等について感謝を込めて語っていく。クライマックスは、ずっと箱にしまわれていた『めまい』でのグレイのスーツを出して抱きしめるところで、分裂をテーマにしていたあの映画のあれこれが幸せに統合されていくようでよかったねえ、になるのだが、他方で、(犬猿だったと言われる)Hitchcockのことがあまり出てこないのは、ちょっと残念だったかも。
[film] Frankenstein (2025)
10月26日、日曜日の昼、BFI IMAXで見ました。
LFFでも上映されていた、Guillermo del Toroによるフランケンシュタイン。
原作はMary Shelleyの小説 – “Frankenstein; or, The Modern Prometheus” (1818)。
人間の欲とか傲慢が生みだした半(反 or 超?)自然が作りあげた「人間」になれない、なりきれない怪物、化け物が必然的に巻きおこしてしまう悲劇を、そのどうすることもできない情動と共にメロドラマとして描く、これを通して「人間」の異様なありようを逆に露わにする、というのがdel Toroが一貫してやってきたことではないか、と思っていて、今度のも怪奇ではあるけどホラーではない。ただそこから宣伝コピーにあるような”Only Monsters Play God”の領域まで行けているのか、については微妙かも。
上映前に録画されたdel Toroの挨拶があって、最初にBoris KarloffのFrankensteinを見たのは父に日曜日の教会に連れていってもらった後で、なので自分にとってのFrankensteinの記憶は、教会と共にある、と語っていた。
二部構成で、最初がVictor Frankenstein (Oscar Isaac) - 造ったひとが語るお話し、後半がFrankenstein (Jacob Elordi) - 造られたモノが語るお話し、で、冒頭、北極海で氷で動けなくなった大きな船にひとりの男と毛皮に包まった大男が現れて船員たちと暴れて騒動を起こして、結果瀕死になった男 - Victorはなんでこんなことになったのかを振り返って語り始める。
厳格かつ傲慢な父 (Charles Dance)のもとで捩れて、でも先鋭的な医学者となったVictorは学校で寄せ集めの器官から永遠の命をもつ人造人間のデモをして顰蹙をかうのだが研究を止めず、そこに叔父の武器商人Harlander (Christoph Waltz)が出資してくれて戦場から適切な屍体を調達して理想のあれを造っていく話しと、そこに優しい弟のWilliam (Felix Kammerer)と彼の婚約者のElizabeth (Mia Goth)が絡むのだが、結局は誰の話しも聞かない妄執に駆られて爆発していくVictorの野望がdel Toro得意の(やりたくてたまらない)でっかい機械装置と共にぶち上がり、その崩壊と共になし崩しで野に放たれる。
後半のFrankenstein - 怪物パートは、凶暴で言葉を持たず愛を知らなかった彼がElizabethや老人との出会いによって少しづつ獣からなにかに…
父親の冷血とネグレクトがVictorを歪な方に導いて、Victorはその最期に怪物を、っていうのは原作もそうだったっけ? というのと、結局これだと神=父、になっちゃうのはやだな、っていうのと、だから素敵なElizabeth = Mia Gothがもっと前面に出てほしかったのになーとか、ものすごいオトコの野蛮さを素直にあっさり垂れ流していて、怪物をあんなきれいな顔のにしたとこも含めてどうなのか。最近のスーパーヒーローものの設定やストーリーラインにきれいに乗っかれそうなところがちょっと嫌かも。
エジンバラの要塞のような施設とか教会とか、美術はお金かけてて荘厳ですごく圧倒的に見えるのだが、闇の深さが足らなくてちょっと軽くて紙のように見えてしまうところもある。
あと思うのだが、怪物に毛皮いらないよね。北極の海に落ちたって死なないんだから。
“Poor Things” (2023)もそうだった気がするが、人間を造る、みたいなことをやると、その監督のすべてが隅々まで出るよね - よくもわるくも。というかすべてを曝け出してわかってもらいたいちゃんがこういう人造人間モノを造るのではないか。
10.30.2025
[theatre] Every Brilliant Thing
10月24日、金曜日の晩、@sohoplace theatreで見ました。
作はDuncan Macmillan、初演は2013年で、世界80か国以上で上演されてきたのがロンドンに来た。演出はJeremy HerrinとDuncan Macmillanの共同。
ひとり芝居で、Lenny Henry, Jonny Donahoe, Ambika Mod, Sue Perkins, Minnie Driverらの各俳優の舞台が、この順番で8月から各4週間くらいかけて交替しながら上演されてきた。自分が見たのはMinnie Driverの。休憩なしの85分。
四方を囲むかたちのシアターに入ると、開演前なのにMinnie Driverさんがいて、ひとりで客席をあちこち移動しながらそこにいた観客に向かって個別に何か説明して紙を渡していて、紙には番号と、名詞だったり長めの台詞だったりが書かれていて、舞台で彼女が番号を言うと、その番号の紙を持っているひとはそこに書かれていることを聞こえるように読みあげてね、という指示をしている。端から全員に渡しているのではなくて、客席全体に満遍なく渡しているような。 番号は1番から1000000番くらいまで、連番ではなく、ランダムで、呼ぶ順番も規則も特にないようで、教室で先生に突然あてられるのを思いだしたりする。そういう客席とのインターアクションも含めて、アドリブの要素、それに瞬時に対応する機転も求められるんだろうし、大変そうかも。
メインの筋書きは、彼女が7歳の時、母親が「バカなこと」 - 自殺未遂をしてそれ以降何度か病院に運ばれて、彼女はお母さんが少しでも幸せになれるように、自分にとってBrilliantなことをリストアップして、それを母親の枕元に置いておくようになる(母は読んでくれていたらしい)。それらは母親が亡くなったあとも、人生の節目節目でいつもどこかで湧いてきて振り返ったり復唱したりすると元気になって支えてくれたり – なぜってそれらはぜったいBrilliantなものだったし、今もそうだから – というシンプルなものなのだが、これをどうやって脚本にして役者のひとり舞台に仕あげていったのか。
リストは1.がアイスクリーム!とか、他愛ないものも多いのだが、これらのリストは(月替わりの)演者によっても違うみたいだし、単に並べていくだけではなく、それにまつわる思い出とかもくっついてあるし、過去の再現場面 - 父親との会話とか初デートとか - では、何人かの客をステージにあげて即興で芝居をして貰ったりする。事前に言ってあったのだろうけど、彼らとのやり取りもすばらしく、特に靴下を脱いで手に嵌めてジョークを言うように指示されたおばあさんなんて、あなた本当に素人? になるくらいすごかった。
で、そんなふうにいろんなThingsに埋もれていっぱいになっていきつつ、最後にはCurtis Mayfieldの”Move On Up”と共にぶちあがる姿はとても感動的で、一番のBrilliant Thingはあなたでしょ、になるの。付箋だらけの本がかけがえのない一冊になったとき、そのかけがえのなさを抱きしめるあなたこそが。
だからね、床に積まれた本だって、ほら。(何がほら、だ)
Lessons on Revolution
10月25日、土曜日の晩、Barbican内の小劇場 The Pitで見ました。
4日間公演の最終日。 自由席、60分強で休憩なし。
殺風景なオフィスのような舞台には机と、その上にOHPがひとつ。背後にプロジェクションする白幕、あとはキャプションを流すディスプレイがふたつ。
2024年のEdinburgh Fringeで好評を博したらしいDocumentary Theatre(というの?)。Gabriele UbodiとSamuel Reesのふたりが書いて演じる。パフォーマンスというよりレクチャーみたいな要素もある。これも何人かの観客に紙を渡して読みあげて貰ったり、インターラクティヴに進められていったり(読んでくれた人にはお茶がふるまわれる)。
1968年、London School of Economics(LSE)を3000人の学生が占拠し、学長の辞任とアパルトヘイトの撤廃を要求した。それについて語る現代のふたりはCamdenのBTタワーが見えるフラットで一緒に暮らしながら、LSEのアーカイブに行って、なにがどうしてどうなったのか、当時の資料を掘り続ける。そうやって発見された紙切れやドキュメントをプロジェクションしながら、話は1920年代にイギリスの植民地となったローデシアから、当時世界中を吹き荒れた学生運動の嵐まで、地理と歴史を縦横に跨いで繋いで、LSEの学生運動で絶望して亡くなった学生、最後まで辞めずにナイトの称号まで貰いやがった学長、さらに家賃の値上がりでやってらんなくなっている現代の彼らまでを軽やかに結んでいく。
こんなふうにすべては繋がっている。意図的に繋げる、というよりはっきりと繋げることができて、そこには無意味なことなんてひとつもなかったし、これらの連鎖を学んでいくことって決して無駄なことではないんだから、というLessons on Revolution。
とてもおもしろくてあっという間の1時間だったのだが、敵の方もこれと同じように、改竄された歴史に基づくストーリーを紡いで、世界征服の夢を性懲りもなく膨らませているはずなので – 日本の新しい政局とかみると特に - ほんとやってらんないわくそったれ、になるのだった。
10.29.2025
[film] Too Much: Melodrama on Film
LFFが終わって、通常営業に戻ったBFI Southbankで始まったのが、特集” Too Much: Melodrama on Film”で、なんで日が目に見えて短く、午後の早めから暗くきつくなっていく季節に、わざわざ泣いて貰いましょう、みたいなのやるのだろう? - 11月終わり迄 - ってふつうに思うのだがしょうがない。
BFIのサイトの始めにはLillian Hellmanの有名な言葉 - 『もしあなたが、古代ギリシャ人のように、人間は神々のなすがままになるものと信じるなら、あなたは悲劇を書くでしょう。結末は最初から決まっているから。しかし、もしあなたが、人間は自らの問題を解決でき、誰のなすがままにもならないと信じるなら、おそらくメロドラマを書くことになるでしょう』 が引かれている。
これに倣うのであれば、メロドラマというのは『人間は自らの問題を解決でき、誰のなすがままにもならない』と信じ、これを実践しようとする女性のもの=女性映画、という気がしていて、そういう角度で見ていきたいかも、と。
Love – Obsession – Duty – Defiance – Scandal – Spectacle、のサブテーマの下に作品がキュレートされていて、日本映画からは『乳房よ永遠なれ』 (1955)と、『浮雲』 (1955)と、『西鶴一代女』 (1951)が上映されるのだが、日本なんてどろどろメロドラマの宝庫なのに、これっぽちなんてありえないわ、になるけど、こんなものなのか。”Spectacle”では『さらば、わが愛/覇王別姫』 (1993)とか”Written on the Wind” (1956)のIMAX上映があったりする。
Leave Her to Heaven (1946)
10月23日、木曜日の晩に見ました。
監督はJohn M. Stahlで、もう何度も、昨年春のGene Tierney特集でも見ているやつ。邦題は『哀愁の湖』。20世紀FOXのこの年の最大のヒット作になったそう。
テクニカラーのパーフェクトな色調のなかで描かれるアメリカの砂漠、湖、家族といったランドスケープの反対側で描かれるEllen Berent (Gene Tierney)にとっての天国と地獄。盲目的に愛していた父を亡くし、作家のRichard Harland (Cornel Wilde)と出会ってしまったばっかりに。 Ellenは彼とずっと一緒にいたい、ふたりだけでいたい、そればかりを一途に願って、彼の弟を殺して、自分も流産して、最後には自分まで殺してしまって、これだけだとなんて恐ろしい女、になると思うのだが、彼女の反対側にいるRichardはあの程度の罪で済んでしまってよいのか、彼女がああなっていったのはこいつのせいでもあるのではないか、とか。
そういう変えられなかった、どうすることもできなかったあれこれをドラマ(華やかで動かしがたい落ち着いた空気)の根底に見て感じることができる、というのがメロの基本なのだなー、って。
All That Heaven Allows (1955)
10月25日、土曜日の昼に見ました。『天はすべて許し給う』。
↑からの続きでいうと、彼女を天国に置いておけば、あとはすべてが許される、って繋がっていて、どちらも下界にHeavenがないが故に起こりうる悲劇であり、だからメロになるのか、と。
これももう何度も見ている、監督はDouglas Sirk。制作のRoss Hunter、撮影のRussell Metty、音楽のFrank Skinnerらは、こないだ見た”Portrait in Black” (1960)の面々と同じ。
Cary Scott (Jane Wyman)はニューイングランドの貴族社会で、夫を亡くして息子と娘を育てあげて、友人も言い寄ってくる男たちもいっぱいいるのだがなんかこのままでよいのか、があって、ある日庭師のRon Kirby (Rock Hudson)と出会って惹かれはじめるのだが、ふたりの間にはいろんな壁とか溝とか崖が湧いてくるのだった…
いつの時代もどんな場所でも昼メロの恰好の題材となる保守的で中に入れなくて見透しゼロの上流社会とその外側に奇跡のように現れた王子さま(あるいはその逆)の狭い世界の上がって下がって傷ついてを流麗に描いて、世間なんて知ったことかー、という状態になったところで現れる鹿も含めて、果たしてこれは地獄なのか天国なのか? 天が許したまう「すべて」って果たして誰にとってのどこからどこまで? のパーフェクトなサンプルを示す。
Enamorada (1946)
10月21日、火曜日の晩に見ました。ニュープリントの35mmフィルムでの上映。
Emilio Fernándezの監督によるメキシコ映画で、日本で公開されたのかどうかは不明。タイトルを直訳すると『愛』。とにかくおもしろいのよ。
見たことないと思っていたのだが、最初の場面で見たことある!になって、調べたら2019年にBFIで見ていた。
Cholula(チリソース)の町にやってきた傲慢で恐いものなしの革命家のJosé Juan Reyes (Pedro Armendáriz)は逆らう地元民を簡単に銃殺したりしていたのだが、町の有力者の娘Beatriz (María Félix)に一目惚れして革命どころじゃなくなり、でもBeatrizは自惚れるのもいいかげんにしろ寄ってくるんじゃねえ、の針ネズミで、教会の神父とかも巻きこんでどうなるやら… のこれ、メロドラマというよりふつうにrom-comとして楽しいのだが、どうなんだろう? 寄ってくるJosé Juanを花火屋で火まつりにしてやるところとか痛快だし、最後はハッピーエンディングみたいだし(あのままふたりで突撃して死ぬつもり?… にも見えないし)、でも、Beatriz、あんなにJosé Juanを嫌っていたのに、ああなっちゃうのはやはりちょっと謎かも。
まだこの後も泣きながら見ていくつもり。
[film] The Mastermind (2025)
10月20日、月曜日の晩、Curzon Sohoで見ました。
LFFでプレミアされたばかりで、主演のJosh O'Connorのイントロつき(この晩、彼はBarbicanでも上映後にトークをしていて、そっちの方に行きたかったのだが)。こんなに早く公開されて、トークまで付いてくるのだったら、別に映画祭で見なくても、にはなるよね。
トークは短かったが、Alice Rohrwacherの”La Chimera” (2023)でも美術品泥棒でしたけど? という問いに、自分の考えだけど”La Chimera”の彼は泥棒ではなくて、今度のはふつうにシンプルに泥棒だと思う、とか。
作・監督はKelly Reichardt、撮影は監督とずっと組んでいるChristopher Blauvelt、音楽はRob Mazurek –Chicago UndergroundでTortoiseのJeff Parkerとかと一緒にやっていた人。
Kelly Reighardtの映画、余りそんなイメージはないかもしれないけど、ずっと犯罪とか窃盗 – どす黒い本流の「クライム」というよりやむにやまれずおどおどびくびくしながら実行していくアクションの顛末などを描いていて、“Night Moves” (2013)や“First Cow” (2019)もそうだと思うが、最近のGuardian紙のインタビューによると、彼女の母は潜入捜査官、父は現場捜査官で、両親の離婚後の継父はFBI捜査官で、そういう事象・対象としての犯罪が空気のようにある家庭で育った、のだそう。
1970年のマサチューセッツの郊外で、James Blaine "JB" Mooney (Josh O’Connor)は無職で、妻のTerri (Alana Haim)とふたりの男の子がいて、実家の父(Bill Camp)は裁判官だし母(Hope Davis)もちゃんとしているのに彼だけぱっとしていなくて、でもそんなに苛立ったり困ったりしているかんじはない。
彼は地元の美術館からArthur Doveの抽象画4点を盗むことを計画して下見して、母に嘘をついてお金を借りて仲間を集めて、でも実行の日、ひとりは現れないし、残りのふたりも素人だし、子供たちは学校が休みで面倒を見なければならないし、現場にいっても盗み決行中に小学生が絡んできたり、警備員にも見つかって出る時にひと悶着あるし散々なのだが、でもどうにか盗み出すことに成功する。 ここまでが冒頭30分くらいでさっさかと描かれて、そこにはなんで強盗に踏みきったのか – しかもあんな微妙で半端な抽象画を – の説明も犯罪実行時の高揚も緊張感もまったくないの。すべてが場当たり的でいいかげんで、抜けられたのは運がよかっただけ、みたいな。 そしてそれらについてJB本人も焦りも怒りも後悔もせず、とにかく逃げて、隠して、捕まりさえしなければ(いいや)を淡々とやっていくだけ。
やがて逃げた共犯者が別の強盗をしてあっさり捕まり、JBの名前を言っちゃったので自宅にFBIがくるし(もちろんシラをきる)、ギャングにも名前が知れちゃったので盗んだ絵画も連中に持っていかれて、手ぶらの指名手配された窃盗犯となった彼は美術学校時代の仲間のところに行ったりそこからヒッチハイクで遠くに向かおうとするが結局…
前半の窃盗の場面と同様、その後の逃亡劇もぜんぜんぱっとしない、家族からも友人たちからも追われたから言われたから逃げていくだけの、しょうもない後ろ向きの立ち回りをJosh O’Connorは強い信念も動作も激情も繰りだすことなく、ひょこひょこ渡るように演じていて、そのどこまでも後ろ向きの態度と表情 - 犯罪映画の主人公としてはありえないくらいへっこんだ容姿って、悪に立ち向かうヒーローと同じくらいにすごいと思った。過去の映画だと、やはりJean-Pierre Melvilleの映画に出てくる一筋縄ではいかない、でもどこか魅力的な連中だろうか。
”La Chimera”での彼も疲れてぼろぼろだったが、そんな彼のところに欧州の神の啓示(のようなもの)がやってきた。これに対し、ここにはベトナム戦争後の米国を生きる疲弊と混沌がそのまま垂れ流されていって、神もくそもなく、ただ遠くに消えていくさまがどこか生々しい。
あと、これがアートを中心に置いた営為で、ちっともアートっぽくない構えで動いていく、というところだと監督の前作 - “Showing Up” (2022)でMichelle Williamsが演じたアーティストの姿とも重なる。周辺の雑務とかどうでもいいヒトやコトばかりがあれこれ纏わりついてきて、やりたいことのずっと手前とか周辺をぐるぐる回って出口が見えなくなって塞がっていくことの悲喜劇とか。
Kelly Reighardtの長編映画のここ数年て、男性主人公ものと女性主人公ものが交互に来ている気がして、次は女性ものになるのだろうか。Michelle WilliamsとJosh O’Connorが共演したら、とか。時代劇もよいかも。
あと、主人公の70年代ファッション(by Amy Roth)がなかなか素敵で。”The Mastermind”ブランドとかいって出してみたらよいのに(で、ぜんぜん売れないの)。
そしてさっきO2アリーナでHaimを見て帰ってきた。
この映画の唯一の不満は、ろくでなしの夫をしばきまくるAlana Haimがあまり出てこないこと、なのよね。
10.28.2025
[film] 100 Nights of Hero (2025)
10月19日、日曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
LFF最終日のクロージング作品で、この上映の1時間前に隣のRoyal Festival HallではこれのレッドカーペットとGala上映が行われていた。隣なんだからちょっとだけこっちに来てくれたってよかったのに。
作・監督はJulia Jackman(2作目の長編作品)、原作はIsabel Greenbergによる同名グラフィックノベル(2016)。タイトルからスーパーヒーローものと思いこんでいたら、ぜんぜん違った。
シェヘラザードの『千夜一夜物語』と『侍女の物語』のミックス - 他にもいろいろありそう。全体としては90分のB級で、プロダクションの完成度みたいなところからすればがたがたの穴だらけなのだが、手作りの創意工夫に溢れた楽しい作品で、とてもよいと思った、というか大好き。
月が3つあるので地球ではないかもしれないどこかの星の中世みたいな時代に、Birdman (Richard E Grant)ていう見るからに陰険邪悪なじじいっぽい鳥の神が支配している世界があって、元は彼の娘のKiddo (Safia Oakley-Green)が理想郷として描いた男女平等の世界があったのだが、Birdmanが男女平等なんて我慢できない、ってじじいの癇癪をおこしてから女性は読み書きを、それを習うことも禁じられている。
そんな世界のお屋敷に暮らす貴婦人Cherry (Maika Monroe)とそのメイドで親友のHero (Emma Corrin)のお話し。 Cherryは表面は優しそうなJerome (Amir El-Masry)と結婚するのだが、彼はCherryを妊娠させることができず、というかベッドに誘うことすらできないままでいて、後継ぎを産めなければCherryは死刑にされてしまう。彼の親友で女たらしのManfred (Nicholas Galitzine)は自分がその気になれば大抵の女なんて、って豪語するので、じゃあ自分が出張に出ていなくなる100日の間にCherryを誘惑できるか賭けをしよう、って持ちかけて自分はさっさと出ていってしまう。
こうしてCherryとHeroの前に現れたManfredはぴっかぴかのナルシスティック(でバカな)な目線と身振り - 自分が倒したでっかい鹿を上半身裸血まみれで担いできたり – でふたりをドン引きさせるのだが、あの手この手を使ってなんとかCherryをベッドに連れこもうとして、懲りずにあらゆる手口を駆使してくる。これに対抗すべく立ち塞がったHeroは、彼女の祖先の代から伝わる女たちのストーリーを、読み書きの替わりとなる不思議な能力を駆使する三姉妹 – このうちのひとりがCharli XCXだったり - の伝説を語りながら、100の夜を乗り切ろうとする。そのかわしたりかわされたりの駆け引きの日々。
見るからに頭の足らなそうなManfredの誘惑をかわしきったところで、子供ができなければCherryは死刑にされてしまうので、どっちにしても、なのだが、Heroの語り続けるストーリーは彼女たちふたりの思いと絆をしっかりと固めていって… ラストに悲壮感はまったくないの。 ”Thelma & Louise” (1991)もあるかも。
衣装とか屋敷の装飾の艶やかだったりゴスだったりの手作り感がとても素敵で、そこに迫害と漂流を余儀なくされていった女性たちの儚くて終わらない夢と物語が重ねられていく。という辺りはとてもよいのだが、もう本当に辛いばかりだし、ここに出てくるバカな男どもをいい加減どうにかしてほしい。Emma Corrinが最後に連中をぼこぼこの皆殺しにしてくれると思ったのになー。この背景設定だったらそれをやってもぜんぜん映えたはず - と思ったりもしたのだが、バカな男たちと同じ土俵に立ってやりあってはいけないのだ、という強い意思もあるのだろうな、って。
10.27.2025
[film] Roofman (2025)
10月19日、日曜日の午前10時、IslingtonのVue (シネコン)で見ました。LFFの最終日でいろいろ詰まっていたのでこの時間になる。
LFFでも上映されたやつで、ポスターはでっかい熊のぬいぐるみを肩車して黄色縁サングラスのChanning Tatumが銃を構えているやつで、その手前にKirsten Dunstがいる - こんなの絶対楽しく弾けまくるクライム・コメディだと思うじゃん。 ぜんぜん違った…
監督は”Blue Valentine “や”The Place Beyond the Pines” (2012)のDerek Cianfranceで、実話を基にしている。音楽はGrizzly BearのChristopher Bear。
00年代、Windows XPの頃のアメリカでJeffrey Manchester (Channing Tatum)は元軍人で3人の子供がいるが社会に馴染めなくて妻からは嫌われ子供たちからもちょっとひかれている。で、お金を稼ぐためにマクドナルドの屋根に穴を開けて中に侵入し(だから”Roofman”)、礼儀正しく従業員を傷つけることなく現金を強奪すること45軒、でもとうとう捕まって、でも刑務所を天才的な器用さと機転で抜けだしてしまう。
次に捕まったら永久にアウトなので軍人仲間のSteve (Lakeith Stanfield)に連絡して偽造パスポートを作って貰うまでの間、でっかいトイザらスの店舗に入り、フロアに死角のエリアを見つけると店内監視カメラのレコーディングをOFFにして、布団も髭剃りもドライヤーもM&Mとか食料もぜんぶ店内のものを調達しながら店内で生活を始める。
店長(Peter Dinklage)は厳格で陰険な奴で、彼に苛められている従業員でシングルマザーのLeigh (Kirsten Dunst)が気になったので、店長のPCのパスワードを盗んで彼女のローテーションを軽くしてあげて、彼女が通う教会にも行ってそこのコミュニティに受け入れられて、付き合いが始まる。
政府系の人には言えない仕事をしている、と嘘をついて、店内のおもちゃを沢山お土産にして、彼女のふたりの難しい娘も彼に馴染んでいって…
破綻することが見えている話なので先は書きませんが、JeffreyとLeighが親密になっていく過程と、それが儚くあっけなく壊れてしまう瞬間の切なさは実話、ということもあってかとても生々しく、それをChanning TatumとKirsten Dunstのこれ以上は望めない組み合わせが支えている。夢を追って有頂天になる姿、それが壊れたときの痛みを全身で表現できるふたりなのでー。だからどうしてもこの2人がありえないやり方で編みだすであろうハッピーエンディング - 別の結末について、つい夢想してしまうのだった。
それにしても、Jeffreyの器用さがあったらなんでもできるんじゃないか、って素朴に思う。自分は彼がさっさかできることの10%もできない気がする。
Good Fortune (2025)
10月22日、水曜日の晩、Picturehouse Centralでみました。
ポスターには背中に羽を生やしたKeanu Reeves Aziz AnsariとSeth Rogenが並んでいて、久々のバカ映画な気がした(けど実際にはそんなでもなかった)。 簡単に機内映画に行きそうなB級風味。 作・監督はAziz Ansari。
Gabriel (Keanu Reeves)は見習いの天使でTexting & Drivingをしてて危機一髪の人を救うのを - まだ見習いだから - 主にやってて、ある日、定職を持たず、車に寝泊りしてデリバリーサービスの顧客ポイントで日々食いつないでいるArj (Aziz Ansari)が目にとまってなんとかしてあげたい、と思う。
Arjは配達先の豪邸でなんでもあるけどあれこれ要領悪く暮らしているテック系の投資家Jeff (Seth Rogen)と出会って、彼の家の住みこみの小間使いとして働き始めるのだが、ちょっとしたことで解雇されて、車もなくなって、いよいよ崖っぷちになると、Gabrielは大天使Martha (Sandra Oh)が止めるのも聞かず、ArjとJeffの立場を入れ替えてやったら元に戻せなくなり、その罰として天使からふつうの人間にされてしまう。
こうして、立場がすべてひっくり返ってしまった富豪 - 極貧 - 天使はどうやってサバイブしていくのか、元に戻ることができるのか? っていう寓話、教訓話しみたいなやつで、人の運とか金まわりなんて、天使がいようがいまいが結局関係ないのだ、っていうことなのだろうが、それをこの文脈でやっても、貧乏人は諦めて努力していくしかない/そのうち回ってくるかもー、でしかなくて、それってなにがおもしろいの? になるのだった。貧乏が昔ほど笑いのネタにならなくなっている - 他にもあるけど - という事態をおちょくる、という高度な意図もあったりするのか。
あと、人間になったGabrielがナゲットとかバーガーとかタコスを、こんなに美味いものがあるなんて! って頬張るシーンは微笑ましいけど、天使って食事したことないのにどうしておいしいって言えるのか。 馬糞食べさせても歓ぶんじゃないの? とか。
『ベルリン・天使の詩』(1987)の頃、天使はヒトと恋におちるべく決意して人間になったのに、いまは罰で人間になるのかー、とか。
10.24.2025
[theatre] Entertaining Mr Sloane
10月14日、火曜日の晩、Young Vicで見ました。
原作はJohn Ortonの同名戯曲 (1964)で彼の最初の長編劇、演出は、こないだ見た映画”Brides” (2025) を監督していたNadia Fall。
9月のBFIの特集でも1968年に制作されたこれのTVドラマ版を見て、とてもおもしろかったし。
舞台は客席が囲む形の円形(デザインはPeter McKintosh)で、ベッドがある普通のリビングだが、黒で塗られたいろんな椅子、鳥カゴ、乳母車、ベビーベッド、カートなど、実物大のそれらがオブジェのように天井に向かって吊るされ撚りあげられている。古いフラットのリビングで妄想も含めて浮かんでは壊されたり棄てられたりしてきた遺物たちが燻されて吹きあがっている。
そんなややホラー設定のフラットに若いMr Sloane (Jordan Stephens - hip-hop duo Rizzle Kicksの片割れのひと) が家探しで颯爽と現れて、女主人のKath (Tamzin Outhwaite)は、そんな彼を嬉々として迎えてご機嫌取りをいっぱいして、彼がそこを借りることを決めると、嬉しくてたまらなくなり、早速彼の上にまたがって…
今であれば、家主の立場を利用したセクハラ&パワハラにできそうな話なのかもだが、何も考えていないふうのSloane本人はそれをそのまま受け入れて、Kathを自分の都合いいように利用していくので、今で言うならWin-winなのかもしれないが、そこにKathの兄で背広を着た堅気のEd (Daniel Cerqueira)と、いつも小言を呟いて徘徊している老父Kemp (Christopher Fairbank)が絡んできて、それぞれが自分のやりたいように振る舞い、言いたいことを言っていく。
セックスでどうとでもできると考えているKathがいて、地位や仕事でどうとでもできると考えているEdがいて、過去にSloanを見たことがあるEdはひたすら彼のことを嫌って、その中心にいるSloaneは、無表情に、自分の欲望の赴くままに好き勝手に振舞っていって、結果Kathは妊娠して、Kempに対しては暴力ふるって殺しちゃって、という非情で成りゆきまかせの世界が暗闇の、どぅどぅ響くリズムのなかで展開していく。
設定としてはやや古いのだろうが、狭く閉ざされた檻のなかで欲望と脅し、服従によってじっとり動物化していく老人から若者までを描く、という点において十分に生々しく、異様なリアリティがあると思った。
The Lady from the Sea
10月15日、水曜日の晩、Bridge Theatreで見ました。
原作はHenrik Ibsenの同名戯曲(1888) - 『海の夫人』、これをSimon Stoneが翻案して演出している。原作に登場するHilde Wangelは、後に”The Master Builder” (1892)にも出てくる。今年5月にWest Endで見たこれの翻案 - “My Master Builder”ではElizabeth DebickiがMathilde/Hildeを演じていたが、ここではAlicia VikanderがEllida(名前を少し変えて)を演じている。
三方から囲む形の舞台はまぶしい白で、プールサイドにある長椅子があって、白くモダンなテーブルがある夏の日のお金持ちの家、後半は、ここの中心に水が溜められてプールになったり、よりダークになって激しい雨が降り注いだりする。
裕福な神経科医のEdward (Andrew Lincoln)がいて、Ellidaは彼の2人目の妻で、家にはEdwardの自殺した先妻との間にふたりの娘 - Hilda (Isobel Akuwudike) とAsa (Gracie Oddie-James)がいて、他にEdwardの患者で余命がないことを告げられるHeath (Joe Alwyn)とか、いろんな立場の登場人物たちがそれぞれに勝手なことを言ってぶつかり合って賑やかなのだが、全体としては僕らお金持ちで生活に余裕あるし(なんて言わないけど)、という態度で強くふてぶてしく暮らしている(ように見える)。
そこにEllidaの過去に深く刺さっているらしい中年のFinn (Brendan Cowell)が現れて、はっとなるところで1幕目が終わる。
2幕目はEllidaの過去を巡って復縁を迫ってくる環境活動家のFinnとEllidaの泥まみれの愛憎劇がどしゃ降りの中で展開されて、どうなる? ってなったところで出会った当時、Ellidaは15歳でFinnは30代だったことが明かされ、それって… で何かが解けたような。
Ibsenの原作まで遡る必要があるのか、はわからないけど、”Master Builder”もこれも、現代で裕福な地位を築いた男たちが、過去を引き摺った運命の女性に揺り動かされ、”Master Builder”の場合は(Ewan McGregorを)破滅まで追いこんでしまう。ベースには再会し過去の自分との出会いによって何かに目覚めた女性がいて、この舞台の場合、いろいろあったけど/これからもあるけど、というアンサンブルとして終わって、各自が抱えたものすごくいろんな要素が絡みあった変な劇で、でもみんなそこらにいそうでありそうなかんじがよかったかも。
10.22.2025
[film] Die My Love (2025)
10月18日、土曜日の昼、LFFのRoyal Festival Hallで見ました。
前日の晩がGalaだったのでゲスト等はなし。
監督はLynne Ramsay、原作はAriana Harwiczの同名小説(2012)、脚色はAlice Birch、Enda Walsh、Lynne Ramsayの共同(すごい強力)、撮影はSeamus McGarvey、プロデュースにはMartin Scorseseの名がある。今年のカンヌではPalme d'Orにノミネートされた。画面はスタンダードサイズ。
Grace (Jennifer Lawrence)とJackson (Robert Pattinson)の夫婦が隣家のない、原っぱのなかに建つぼろめの一軒家にここでいいよね、というかんじでやってきて、しばらくはふたりで犬のようにやりたい放題、原っぱを転げまわってキスしてセックスして燃えあがる森を駆け抜けて、でもそのうち子供ができて、育児をはじめるとJacksonは家のなかにいないことが多くなり、産後鬱もあるのかGraceにおかしな行動が出てくるようになる。彼女はもとは作家だったのだが、特に育児を始めてからは書けなくなっている。書く努力をするとかそれ以前のところで止まっていて、でも引きこもるわけでもなく、絶えずどこかに出かけて徘徊して、でも何かが見つからないふう。
近くにはJacksonの母のPam (Sissy Spacek)がいて、彼女も認知症の夫のHarry (Nick Nolte)の介護でちょっとおかしくなっていつも銃を持ち歩いていたりする状態なので、Graceが訪ねていってもあまり(お互いにとって)助けにはならず、そのうちJacksonが家に犬を連れてくるのだが(Graceは猫~ っていったのに)、こいつがずーっと昼も夜もばうばう吠えているのでまったくの逆効果で、買い物に行っても、友人宅のパーティに行っても、車に乗っていても、Graceがなにをやらかすかわからず、見ている方の金縛りはものすごくなっていく。
GraceとJacksonの関係、その緊張が最大になるのはふたりが車に乗っているところ、ずっと起こりうる惨劇を待っている密室のようになっていて、でも、“Die My Love”とか言いながらこのふたりは相当にしぶとくて簡単に殺されたり死んだりしないであろうこともなんだか見えてくる。”Hunger Games”で生き残った人だし、The Twilight Sagaと”Micky 17”の人だし。 車のなかでJohn Prine & Iris Dementの”In Spite of Ourselves”がほのぼのと流れると、赤ん坊を挟んだ産後鬱の話というより、愛と憎しみでぐじゃぐじゃにまみれた、狂ったラブストーリーとしか言いようがないものが浮かびあがってくる。
惨劇に向かわない神経戦のようなところだと、やはりJohn Cassavetesの"A Woman Under the Influence" (1974) - 『こわれゆく女』のGena Rowlandsが浮かんでくる。この映画でGena Rowlandsが周囲にso-called「迷惑」をかけたり傷つけたり傷ついたりすればするほど異様に輝いていくのと同様、Jennifer Lawrenceがひと暴れすればするほど不敵なその艶は磨かれていって手をつけられなくなる、そんな女性映画として見るのがよいのか。
あるいは、Lynne Ramsayのデビュー作 - ”Ratcatcher”(1999)の頃からずっとある、呪われた家 – とどまるべきではない場所としての、牢獄としての家の延長として見ることもできるかも。Graceが原っぱや森を抜けていくシーン、彼女が見上げる空の鮮烈さは”Ratcatcher”の少年のそれに重なるような。
とにかくJennifer Lawrenceのとてつもなさに尽きる映画で、彼女の立ち姿、這いつくばったり寝っ転がったりの姿ばかりがずっと残る。目の前のLoveを呪って叩き潰し、それでもそれらしき何かを求め続ける彼女に”Love is a stream, it’s continuous, it doesn’t stop”と言い続けたGena Rowlandsが重なる。
そして最後に“Love Will Tear Us Apart”のカバーが流れる。歌っているのは監督のLynne Ramsayで、原曲よりゆっくりで、これがすごくよいの。 未確認だが、冒頭に流れるギターの鳴りがかっこよい曲を歌っているのも彼女なのかしら?
今日(10/22)はCabaret Voltaireの再結成ライブがある、と思って支度をしてて、でもチケットが来ていないのはどうして? と思ってよく見たら2026年の10月22日なのだった… (1年後なんて生きてるかどうかわかんないじゃん)
あまりについていないので、”Good Fortune” (2025) ていう映画を見にいった。
10.21.2025
[theatre] Mary Page Marlowe
10月11日、土曜日の晩、Old Vicで見ました。
原作は俳優もしている(こないだ見た映画”A House of Dynamite (2025)”にも出演していた)Tracy Letts、彼の母が亡くなってすぐに書き始め、母に捧げられている戯曲の冒頭にはJoan Didionの言葉が引用されている。ちょっと長いけどこんなの:
“I think we are all advised to keep on nodding terms with the people we used to be, whether we find them attractive company or not. Otherwise they turn up unannounced and surprise us, come hammering in the mind’s door at four a.m. of a bad night and demand to know who deserted them, who betrayed them, who is going to make amends”
初演はシカゴで2016年。休憩なしの1時間半で、11のシーン、ひとりの女性 - Mary Page Marlowe -の70年の女の一生が、5人の俳優と人形によって演じられる。演出はMatthew Warchus。
舞台はOld Vicの真ん中に円形のがあって、それを客席がぐるりと囲むかたち – ここでそういう舞台設定になっているのを始めて見た。舞台の上には簡素なテーブルがあって、あと酒瓶がいつもその辺に転がっている。最初はその上に主人公が着てきたであろう服たちが無造作に積まれている。
最初の場面はMary (Andrea Riseborough)が子供たちに離婚を告げるシーンで、そこからランダムに場面・時代は替わって、友達とのお泊り会で占いをして将来が明るい12歳のMaryも、高校生のMaryもまだ有望で、でも結婚した後からは、夫は飲んだくれのろくでなしでふざけんじゃねえよなめんな、の互いに酔っぱらってブチ切れて蹴っ飛ばしあうような喧嘩が絶えなくて、気が付いたら2回結婚していて、晩年にももうひとり傍に面倒を見てくれる男性がいたりする。
暗転して時代と設定と女優が切り替わり入れ替わりのたびに、ああそうなったのね、って思うのだが、Maryの人物としての輪郭、気性の一貫性は保たれていて、周囲の変化にええーってびっくりするようなことはない。特に老年・晩年期のMaryを演じるSusan Sarandonの柔らかさが、過去のぎすぎす、ごたごたを、傷だらけのMaryたちをすべて吸収し、赦し、それでもそれしかないような愛 - 怒りや後悔ではなく – で包もうとする姿に感動する。
これと似た形式でひとりの女性の一生を複数の女優が演じていく舞台にAnnie Ernauxの”The Years” – これの初演は2022年 - があったが、あそこまで過激に女性の「性」を追いつめて普遍的かつ圧倒的な型のように浮き彫りにして叩きつけることはなく、どこの場所にも時代にも、こんな女性いたかも、すれ違ったかも、になる。これはこれでよいのだが、それならもっと時間を掛けてもっといろんなひとりのMaryを見せてほしいな、にはなる。せっかく魅力的な像としてそこに現れたのだし、これだけ魅力があるならもっといろんなネタもあっただろうし。
Michael Rosen: Getting Through It
10月19日、日曜日の午後、Old Vicで↑と同じ舞台セットの上で行われた公演/口演?について少しだけ。
英国各地を回っていくようだが、ロンドンではこの日のこの14:00の回だけで、これを見ていたのでLFFの”Hamnet”に並ぶのが遅れて(...もう忘れようね。ついてない一日だったね)。
児童文学作家のMichael Rosen(79歳)による、2部構成、約1時間40分の講演、というほど固いものではない、腰の曲がりかけたおじいさんが紙束を抱えて椅子のところにやってきて、リラックスして座って、紙に書かれた原稿を一枚一枚ゆっくり、ユーモラスに読んでいくだけの舞台。最初のパートが”The Death of Eddie” – 1999年に当時18歳だった息子を突然失った時のこと、それからの日々について、後のパートが“Many Kinds of Love” - 2020年のコロナ禍で、48日間、NHSの集中治療室に入れられて死にかけていた際の自分の闘病記録。どちらも、誰の身にも起こりうる悲劇を題材に、どれだけ時間が経っても消えてくれずにそこにあるgriefやpainとどうつきあっていくべきなのか、自分はどう向きあってきたのか(乗りこえることも忘れることもできない)についての省察。子供に聞かせるようにやさしく穏やかに語っていく話芸(だよね、ここまでくると)に引き込まれた。
Lee
10月17日、金曜日の晩、Park Theatreの小さいほう(90)で見ました。
原作はCian Griffin、演出はJason Moore。席は自由で、休憩なしの約80分。
客席が少し見下ろすかたちで囲む舞台は主人公である抽象画家Lee Krasner (1908-1984) のアトリエを模していて、彼女の制作中の絵 – Barbicanの展覧会(2019年)にもあった”Portrait in Green” (1969)とか - が四方の壁に沢山貼ってある。あと、ランボーの『地獄の季節』からの一節("To whom shall I hire myself out? What beast should I adore? ~ )が壁に殴り書きされている。
Jackson Pollock (1912-1956)が44歳で亡くなってから13年後、という設定で、でも彼は幽霊Pollock (Tom Andrews)として現れてかつてパートナーだったLee Krasner (Helen Goldwyn) にぶつぶつ言ったりマンスプレイニングしたりして、どこかに消えていく。Leeはそんな彼にまたか、という態度で応えたりしている。別の女と勝手に事故って死んだんだからもう寄ってくるな。
いつものようにアトリエで絵を描いていると、近所のデリの、まだ高校生の小僧Hank (Will Bagnall)が仕事場に現れて、アーティストになりたい、というので彼が描いているという抽象画ぽい絵を見せてもらい、彼女が彼の絵をぼろくそに、でも真剣にけなしつつ、アートとは何か?なんで絵を描くのか? 抽象とは? といった根本的な問いを投げていく。その過程で、都度現れてくる自身の過去とそこにしつこく纏わりついてくるPollockの亡霊と。
他の女性アーティスト - Camille ClaudelでもDora Maarでも - と同様、男性パートナーの名声の影でまともに取りあげられることも顧みられることなく、それでもアートへの希望を棄てずに創作を続けていった女の立ち姿をHelen Goldwynがかっこよく演じている。決して笑わなくてずっと不機嫌だけどLee Krasnerがいる、としか言いようがないのだった。
Lee Krasnerの発言や思索は結構纏まって出ているのでそれらに沿った正しい評伝ドラマになっているのだろう、と思う反対側で、彼女がPollockを「てめーのせいでなあー」ってぼこぼこにしてやるようなのも期待していて、でもやはりそれはなかった。
[film] The Librarians (2025)
10月6日、月曜日の晩、Curzon Bloomsbury内のDocHouseで見ました。
身近に迫る危機モノ、として、今見なければいけないドキュメンタリーとしてとにかく必見だから。
監督はKim A Snyder。Executive ProducerにはSarah Jessica Parker、音楽にはNico Muhlyの名前がある。
2021年、テキサス州の上院議員が配布した本のリスト - 図書館に置くことがふさわしくないとされたLGBTQ+全般、人種、公民権運動、性教育、月経、などに関する850冊、これにフロリダやテキサスといった共和党支持の州の議員が賛同し、右派のほぼ白人の母親たちの権利団体 - Moms for Libertyが絡んで、実際に図書館からこれらの本を閲覧禁止にして、従わない図書館員(Librarian)に対して脅迫したり解雇をちらつかせるようになった。
映画はこれらの事態に立ち向かうことになったLibrarianたち(The Librarian)- 殆どが女性 - の終わらない戦いを描いていく。
昔から思想弾圧や統制のための焚書や禁書はいくらでも行われてきたので、またかよ・まだやってるのかよ、だし、それを本なんか読んだこともなさそうな、スポーツやマネーや陰謀論が大好物そうな富裕層が煽って広げているのはバカじゃねーの、しかないのだが、あまり笑えないのは、紙の本を図書館で借りて読む文化が細くなってきているところにこれが来ることで、図書館なんて行く意味も価値もない、って図書館が蓄積してきた本を中心とした知と向き合う場所と時間が削られていってしまう、そこでの出会いによって救われたり導かれたりしていた魂がその機会と行き場を失ってしまうことだ。 ネットもSNSもあるし、って言うけど、本を読むことで得られるのは情報だけじゃなくて、例えばそれを書いた人、書かれた人が辿ってきた生とその経験、めくるめくストーリーをめぐる自分との対話だったり、映画や絵画やパフォーマンスアートと同様、その形式が実現しようと、広げようとしてきた世界そのものを体験することでもあるので、そういう機会を失くして、取りあげていくことで何がよくなるのか、まったくわからない。 単に自分が目障りだから見たくないものを見れないようにしたい、というだけにしか見えない。(おれが見たくないって言ってるんだから見せるな、置くな、っていうガキのー)
もうひとつは、子供たちにとって、図書館のずっと続いていく棚とか物理的なところも含めた世界の広がりとか奥行きを目の当たりにしたり、そこでのこんな本もあるあんな本もある、って何冊も並べて開いたり閉じたり、ずっと読んでいたいけど返却しなきゃいけないのか…になったりする時間って、世界のでっかさ、底のなさ、限りある時間、などを思い知る入口だったりするので - 必要最小限の学びの場と機会を奪ってしまうことに繋がると思う。
というような、連中の懸念する「悪影響」ってなんだよ? というものすごく根源的な問い – この映画では「悪影響」を個々に掘り下げていくことはしない、あまりにバカバカしいからだと思う - を掲げてLibrarianたちは立ちあがって連帯していくのだが、SNS等による数と資金力(最後の方で化石燃料系の富豪が背後にいることがわかる)では圧倒的に弱くて負けてて、こういうドキュメンタリーの場合、終盤にある程度明るい兆し、のようなものが描かれることもあったりするのだが、それもなくて、どうなるんだろう… というお先真っ暗な状態のまま終わる。
これがバカな王の間抜けな臣下ども(の下部階層)によるご機嫌とり施策、であること、過去に有効だった試しがないこと、はわかっているのだが、もうほんとうにうざいし、恥をしれ! しかないし。
日本でも公開されますように。
[film] 遠い山なみの光(2025)
10月16日、木曜日の晩、LFFをやっているCurzon Mayfairで見ました。
今回LFFに来ている邦画はこれと『8番出口』というのがあって(他にもあったらごめん)、『8番..』はどうでもよかったのだが、こっちはなんだか見たかった。New Orderが流れるというし。
英語題は”A Pale View of Hills”、原作はKazuo Ishiguroの同名小説 (1982) – 未読。
今年のカンヌのUn Certain Regardでプレミアされた日本-UK-ポーランド合作映画。
監督・脚本は石川慶で、上映前に監督、Kazuo Ishiguro、Camilla Aiko, 吉田羊が壇上に並んだ。
冒頭、暗い室内でソファに横になっている悦子(吉田羊)がいて、彼女の記憶として浮かんでくる終戦後の長崎の様子 - 妊娠している悦子(広瀬すず)、夫の二郎(松下洸平)、たまに訪ねてくる義父の誠二(三浦友和)の家族のこと、近所の佐知子(二階堂ふみ)、その娘の万里子(鈴木碧桜)が描かれ、改めて1982年のイギリスに切り替わる – ここでNew Orderの”Ceremony”(1981)が流れる - と、次女のNiki (Camilla Aiko)が実家に滞在して、悦子が長崎にいた時の被爆も含めた経験の記録を作りたい、と悦子にいろいろ聞いたりしていく。
小説版は悦子の一人称らしいが、映画で描かれる長崎のお話しは、悦子の記憶をそのまま映しているのか、Nikiが悦子から聞きだしたことの再現なのか、あるいはNikiが遺された写真などを見て再構成したものなのかは明らかにされない。これは混乱をもたらすが、これは意図的なものであることが追って見えてくる。
悦子はひとりになってからも長く住んでいた家を処分してどこかに越そうとしており、Nikiは不倫相手との間に子供ができたかもしれず、どちらもこれまでのことにどんより疲れていて、変わらなければ、と思っている - 長崎の場面でも佐知子が、アメリカに行って変わろう、アメリカに行けば変われる、と信じているし、教育者だった誠二も悦子に変わらないとね、と背中を押されている。(悦子と誠二のやりとりは『東京物語』 (1953)の原節子と笠智衆のそれを少し思わせた。1952年の長崎で)
時空を隔てた両側でなすりつけ合うように、本を閉じるように目を背けるように現在と過去を行き来しているうちに浮かびあがってくる、その中心にある悦子の長女の自死のこと、それに対する後悔と自責と。そういう状態のなかで、過去の記憶の正しさなんて、どんな意味があるのだろうか、自分はこれから生きていっても許されるのだろうか、等。
そして/だから佐知子はいったい誰だったのか、万里子はなぜ死を選んだのか、本当のところは最後まで明らかにされない。みんな勝手に逝って、自分はあとに遺されてしまった、という感覚がずっとある。原爆が落ちたあの日からずっと。
たぶん過去と現在の時間軸と、それぞれにおける人物関係の置かれかたや目線の変化などが、きちんと対照関係をなすように細かく寄木細工のように編集加工されていて、この辺は映像だからできることでもあるのかも。そのうえで、”A Pale View of Hills” – 向こうの丘の淡い景色、という。
New Orderの”Ceremony”は、Joy Divisionの最後に作られた曲(作詞はIan Curtis)であり、New Orderの最初にリリースされた曲でもある。こんなに明るい曲を遺してIanは死んじゃって、なんで?と誰もが思った。この曲が映画では始めと終わりの2回流れる。同じイントロなのに違って聞こえる、のではないか。
今回のLFFで見た映画で、エンディングにJoy Divisionが流れた映画がもうひとつあって、もう少ししたら書く。
上映後、監督を含む4人によるQ&Aがあったのだが、次のがあったので出てしまった。
次のは、Richard Linklaterの”Blue Moon” (2025)のガラで、悪い映画ではなかったのだが、あーこれならこっちのQ&Aに残ればよかった… と後で激しく後悔した。
[film] Screen Talk: Chloé Zhao
10月12日、日曜日の昼、BFI SouthbankでのLFFのScreen Talk。
映画祭なのでいろんなゲストが来てトークをする - 今年だとJafar PanahiとかRichard LinklaterとかYorgos LanthimosとかDaniel Day-Lewisとか - のだが、今回見てみたいと思ったのはこの人とTessa Thompsonくらい。 Lynne Ramsayは数年前に話を聞いたことあったし。 でもチケットはぜんぜん取れなくて、しょうがないので日曜の朝に並んだ。
LFFは、昨年もその前からもそうなのだが、チケット発売日にはぜんぜん取れなくて(今年はオンラインのキュー待ちで1時間半)、これだから映画祭って嫌だ、って悪態ついてるのに、始まってこういうのに並んだりしているうちにやっぱりあれも行った方がいいこれも見たいかも、になって結果キャンセル待ちに並んだり、ものすごく無駄な時間を費やしてしまう… のってやはり「お祭り」だからだろうか? (でも東京のでここまでのを感じたことはない)
あと、連日世界中から来たものすごい数のいろんな新作を上映しているのだが、こういうのを追っかける状態から自分の人生を変えてくれるような作品と出会うのってほぼ不可能だよね、って思う。べつにいいけど。
この映画祭では新作の”Hamnet” (2025)が上映されたばかりで、そりゃ見たかったけどチケットぜんぜん取れなかったのでしょうがない(最終日 - 昨日の追加上映も1時間半並んで、結局だめだった)。トークの時点ではまだ見れていない人も多いので、舞台となった本国(原作はMaggie O'Farrell)で上映できてうれしい、くらいにとどめて、過去の監督作からお気に入りのシーンを切り取ってコメントしていく、という構成。
最初は”Songs My Brothers Taught Me” (2015)の教室の、生徒たちの机にいろんな動物たちが湧いてくるシーン。
それから”The Rider” (2017) の仲間とレスリングをして本気になってしまっておいおい、になるシーン。
そして”Nomadland” (2020)からは、Frances McDormandが野宿している若者のところにサンドイッチを持っていってシェイクスピアを誦じるシーン。
“Externals”からはExternalsたちがしょうもない人間どもをどうしようか、って議論しているシーン。
そして新作からもお気に入りだというシーンのクリップが流れて、それを見ると早く見たい、しかなくなる。
“The Rider”ではmasculinity(男らしさ)について、”Nomadland”ではageismについて語ることができるわけだが、”masculinity”については身震いするくらいめちゃくちゃ大好物で、解剖台の上に大切に乗っけて突っついて切り開いて、中を覗いたり、をやるのがたまらないのだ、と。(それなら日本には「九州男児」とかいう特別に強烈な亜種がいるよ、って御招待さしあげたい - ぜんぜん美しくないけど)。
物語やテーマの選び方については、あまり自分で掘って探究していくのではなく、ある程度まで進めた上で向こうからやってくる、やってくるのを待つ、という(多分に東洋的、とも取られそうな)言い方をして、映画を作っていく上での困難について聞かれると、自身のneurodivergenceについて触れ、誰がどこでどんなふうにつっかえて難しくなっているのかが人よりよく見えたり察知したりできるので、人より現場での解決や対応はしやすい、そういうのには強いのかもって。
子供の頃から漫画にどっぷり浸かってきて、映画は親が見ていた中国映画ばかり、初めて見た洋画は”The Terminator”(1984), 次が”Ghost” (1990), その次が”Sister Act” (1992)だったと。ウーピー大好きだって。
音楽については、新作のを担当しているからかMax Richterをベタ褒めしていて、彼の音楽だけでなく音楽に対する考え方にとても共感している、と。
テーマや題材や演技にものすごく強い拘りや信念を持って引っ張っていく、というより来たもの、あるものをとりあえず受けとめて一緒に可能性を探っていく、という柔軟なやり方(プロデューサーには苦労かけてごめん、って)について何度も強調していて、こういう人は強いなー、って思った。