3.08.2025

[theatre] Hadestown

3月2日、日曜日の午後のマチネを、Lyric theatreで見ました。

ふつう演劇って、日曜日は公演しないと思っていたのだが、これは日曜日のマチネがあって、今週は特に時間がないので取りたいと思ったのだが、人気があるのかリリースされる端からすいすいなくなっていくし、チケットの値段高いし。 でもしょうがないのでどうにか取る。

最初は2007年にバーモント州のD.I.Y.プロジェクトとして始まり、2019年のブロードウェイ公演はTONY賞の14部門にノミネートされ、Best Musical、Best Original Scoreを含む8部門で受賞していて、ロンドン版は2018年にNational Theatreで上演された後、2024年からここでリバイバルされている – のが今回見たバージョン。こういう人気ミュージカルって、実はあまり見たことないの(”Wicked”も”Hamilton”も”SIX”も見てないや...)。

客層はみんな若めで華やかで、物販にわいわい並んでいるし、看板のとこで記念写真撮っているし、自分がいつもいく演劇とか映画のかんじとは結構ちがう(それがどうした?)。

原作はギリシャ神話の”Orpheus and Eurydice” - 『オルペウスとエウリュディケ』を元にAnaïs Mitchellが脚色、作詞、作曲までぜんぶやっていて、この舞台の演出はRachel Chavkin。

舞台は現代の栄えているとは思えない町の居酒屋、天井高のあるサロンバーのようなところで、左右に各3名くらいのバンド、奥の扉の向こうにドラムス、その上には工場を含めてその一帯を支配しているHades (Phillip Boykin)と妻のPersephone (Amber Gray)がふんぞり返っていて、その周りをモイラ - 「運命の三女神」が歌って舞って動きまわる。 という全体図をMCにあたるHermes (André De Shields)がゴスペルの司祭の威厳と貫禄でもって紹介していく。音楽から離れた台詞や会話はなく、すべてが音楽のなかで語られ、怒り、泣き、愛もまた。

そういう雑踏のなか、仕事を求めて流れてきたEurydice(Eva Noblezada)とミュージシャンになりたいけどまだ半端なOrpheus (Reeve Carney)の若いふたりが運命の出会いをして、互いに運命の出会いであることはわかるけど、日々の生活をどうにかしなきゃ、なので、EurydiceはふらふらとHadesのブラック工場に契約して、ふたりは引き離されてしまい…

ギリシャの神々が大恐慌時代のアメリカの貧富がくっきり分かれた社会階層の断面に現れて(いて)なんかする、というのはわかるし、そこに現代の格差や労使問題を練りこむ、のもあるだろう、し、そこで貧しいけれど心のきれいな男女が出会って、純愛... になりそうなところで女性が売られて一転悲恋に、というのは昭和の労働者を描いた映画やドラマで散々に見てきたので今更、なのだが、格上の権力者に敵いようがない圧倒的な強者であるギリシャの神々を置いた、というのが(少しだけ)新しいのか。

あとは使い古されたドラマでも、歌いあげるミュージカルにすることで心に灯が(ポスターにあるような紅いバラが)ともる、のかも知れない。音楽はオーケストレーションやコーラスを多用して音の壁で盛りあげるのではなく、フォーク、ブルース、ゴスペル、R&Bなど、アコースティック寄りで、踏み鳴らす足音と耳元の歌声で切々と親密に持ちあげていくので、圧倒される、というよりもつい拳とハンカチをぎゅううっとしてしまう、というか。(すすり泣いている人が結構いたのでびっくりしたけど)

でも最後の結末が鶴の恩返し(ふう)になってしまうのは、ギリシャの神々にしてはせこすぎやしないだろうか? (いまのUSAを見ると全く笑えないけど) そしてそのせこいのに負けてしまったOrpheusもさー…

あ、でも、若いふたりはきらきらしていてとてもよかった。ちょっと疲れたPersephoneも。

このアンプラグドみたいなバージョンとは別にパンク(スチームパンク)バージョンとか作ればいいのに。

この回ではないが、フィルム撮りをしていたようなので、そのうち日本の劇場でも見れるようになるかもしれない。

3.07.2025

[film] Ainda Estou Aqui  (2024)

3月2日、日曜日の昼、Curzon Sohoで見ました。英語題は”I'm Still Here”。

この日の晩に発表されるオスカーで、外国語映画賞はこれだろうなー、と思ったので見ておいたら、ほうら当たった。

監督はWalter Salles、オリジナルスコアはWarren Ellis - これも見事なのだが、挿入されている当時のブラジルの音楽がすばらしすぎ。

1970年軍事政権下のリオで、元国会議員で技師のRubnens Paiva (Selton Mello)と妻のEunice (Fernanda Torres)と沢山の子供たちは本とか音楽とか友人たちに囲まれて、近くにはビーチもあるし楽しく幸せに暮らしていて、でも上空を軍用ヘリが飛んでいったり装甲車が走っていったり、やや不穏で、でも自分の家、家族には関係ないと思われた。

そんなある午後に、銃を持った男たちがやってきて、Rubensに支度をさせて車で連れ出し、Euniceと娘のEliana (Luiza Kosovski)も別の車に乗せられ、途中でフードを被せられ、Elianaはすぐに釈放されたようだが、Euniceは12日間監禁され尋問 - 写真を見せられてこの中にコミュニストはいるか? - されて、そんなことより夫は? 娘は? どこにいてどうなっているのか、誰に何度聞いても答えは返ってこない。

Rubensがいなくなってから先、視点はEunice中心に固まっていくが、釈放されて家に戻っても政府が差し向けたガラの悪そうな男たちが家に常駐して子供たちも含めて24時間監視している、というホラーで、どういうホラーかと言うと、すべてが突然で、何が起こっているのかこの先どうなるのか、いつまで続くのか、どんなことをされるのか全くわからないことにある。

Rubensと同時期に尋問を受けていた人から少しだけ彼の様子を聞きだしたりすることはできたものの、過ぎていく時間と共にEuniceは彼がこのまま帰ってこないこと、おそらく拷問の末亡くなってしまったことを受けいれざるを得なくなっていく。映画は彼女の悲嘆や絶望をダイレクトに映しだすのではなく、世紀を跨ぐ長い時間のなかで彼女がその事実 - もう彼はいない、会えない - をどうやって一人で受けとめ、その後を生きたか。リオにいてもしかたないので、サンパウロに引っ越すことにした際の、がらんとなったみんなで過ごした家にお別れを告げるところが痛切にくる。原作は、Euniceの息子で作家になったMarcelo Rubens Paivaの回想録に基づいていて、そこには監督のWalter Sallesも子供の頃に出入りしていたという。そういう点では”I’m Still Here”と言いつつ、みんなそこにいたのだよ、というそれぞれのパーソナルな場所と時間を刻んだものにもなっているような。

サンパウロに移ったEuniceは大学に入り直して人権弁護士として活躍して、2018年に亡くなる前、最後の15年間はアルツハイマーだったと。なんと過酷な人生だったことだろう …

あと、ブラジル音楽に親しんだことがある人にとっては必見でもある。Caetano VelosoやGilberto GilのTropicáliaがどういう文脈で起こったのか、なぜ彼らはイギリスに亡命しなければならなかったのか、この映画を見ると当時の空気感がわかったりする。(Euniceの家に押し入った政府関係者が家にあった1971年の”Caetano Veloso”のLPジャケットをみて、「ふん」って言うとか)。 CaetanoでもTom ZéでもRoberto Carlosでも、音楽がどんなふうにあの土地に馴染んでいたのか、についても。(これは現地に行くとほんとにびっくりする。あんな土地はない)

これは全く別の国の、別の時代のお話しとも思えない –という視点と構成もきちんとある。共産主義に対する子供みたいな嫌悪とかウィシュマさんへの拷問だって、どっかの国でつい最近起こって、だれがやったかわかっているのに、だれひとり責任取ろうとしないのは大昔から。

3.06.2025

[log] Paris - Mar 01 2025

3月1日の土曜日、日帰りでパリに行ってきたのでその備忘。

一週間後には日本に行かなければならず(行きたくない)、しばらくの間、行けなくなってしまうのは悲しいから、という理由で。

ここんとこ、パリの滞在は、1泊滞在して、うまく時間を使えなかった → これなら日帰りで十分 → 日帰りだとやっぱり時間が足らなすぎ →1泊にする – のループを繰り返していて、やっぱり1カ月くらい(1週間でもいい)塩漬けになってみないとだめよね、と思い始めている。

今回は特になにがなんでも、というのはなかったのだが、こまこま見ていくとそれなりに出てくるし、なくたって本屋でも食べ物屋でもいくらでもあるし、でも引越し直後で体力あまり残ってないからー、など - こういう時はだいたいなし崩しでしょうもないことになる。 でも日帰りならいいんだ。

9:30くらいにパリ北駅について、そのままGrand Palaisの塩田千春展に行ってみる。チケットはぜんぶ売り切れていることは知っているが当日の分が出ることもある、ことも知っている。

こういうのは慣れているので、この列だろうな、というのに並んで待っていると、そのうち係員の人が来て、フランス語で何か言うのだが、それもだいたい、並んでもらっても入れる保証はありませんよ、と言っているのだ、というのもわかる。1時間くらい並んだところで何か言われて、それで列全体が崩れたので、もう本日分は終わりかー、とわかった。念のため英語で聞いてみるとやはりそうで、明日また来てね、と言われたが、明日はないんだよ。

ルーブル(だけ)は14時のチケットを取っていたので、それまで、マレ地区の方にいって本屋を見たり、MuséePicasso Parisに入って展示–“‘Degenerate’ art: Modern art on trial under the Nazis”を見たり。 いろんな画家の作品が出ていておもしろいのだが、” Modern art on trial under the Nazis”という観点だとちょっと弱いかも、というかテーマとして広すぎて難しいような。

LOUVRE COUTURE: Objets d'art, objets de mode

英語だと”LOUVRE COUTURE: Art and Fashion: Statement Piece”。 Kinoshita Groupがサポートに入っている。

ルーブル美術館初のファッション系の展示、ということで注目されているが、METやV&Aのそれとは随分違う、違うことを狙ったのだろうな、というのはわかる。
リシュリュー宮の膨大な宮廷装飾品の豊かさと分厚さを見せつけるために、現代のファッション・アートをぽつぽつと置いてみました、というかんじで、ブランドやデザイナー目当てでいくとちょっと外れるかも。ながーい宮廷・貴族文化の文脈に置いた時にモダンのクチュールがどう映えるのか、そーんなに映え映えいうならここまでやってみろ、と。

確かにこういう展示ができる美術館は限られてきてしまうかも、というのと、ルーブルのいろんな装飾品がお蔵だしのように気合入れて並べられていて、服飾よりもそっちを眺める方が楽しかったかも。

Revoir Cimabue: Aux origines de la peinture italienne

英語だと、”A New Look at Cimabue: At the Origins of Italian Painting”。

こちらの方が見たくて会場に行ったら、この展示は別にチケットがいると言われて、えー、それなら今オンラインで取ったら入れてくれる?ってスマホを出したらめんどくさそうにいいから行け、って入れてくれた。ありがとうー。

13世紀イタリアの巨匠チマブーエを再発見しよう、という企画展示。修復された”Maestà” - 『荘厳の聖母』と、2019年に台所で見つかって修復と獲得を終えた『嘲笑されるキリスト』を中心にDuccioや弟子のGiottoの『聖痕を受ける聖フランチェスコ』なども並べて、「絵画」的ななにかが地面からめりめりと立ちあがる瞬間、のようなものを沢山のキリストやマリアの目 - あの目! のなかで感じることができる。10年前だったらこういうのあんま興味なかったのだが、最近おもしろくてねえ。

カタログ、どうしようか散々悩んで、英語版がないので諦める… 5月までやっているので次来た時にたぶん買う。

そして、今週末からはNational Galleryで待望の”Siena: The Rise of Painting, 1300 ‒1350”が始まる。それでたぶん(また)簡単にイタリアに行きたくなってしまうにちがいない。

あとは、Yvon LambertとかL'INAPERÇUといった本屋でいろいろ漁っていた。引越しした直後なので当分の間は怖いものなんてなにもないの(..ちがう)。

そして最後はいつものようにLa Grande Épicerie de Parisでいろんな食べ物を買いまくり.. たかったのだが、一週間後に帰国なので最小限にせざるを得ない。引っ越して冷蔵庫も大きくなったしフリーザーまでついたのに..  って泣きながら魚屋についている食事スペースでイワシ缶とトーストを食べた。イワシ缶とトースト、F&Mのカフェにもあったのだが最強だと思う。

戻りのEurostarは - ここのとこずっと、行きも帰りもほぼ意識を失った状態で運ばれていて、昔のわくわくしたかんじが(自分のなかで)消えてしまったのが悲しい。これじゃ通勤電車と同じではないか、って。

3.04.2025

[film] Mujeres al borde de un ataque de nervios (1988)

2月17日、月曜日の晩、BFI Southbankで見ました。個別の特集とは紐づけられていない、”Big screen classics”の枠。

英語題は”Women on the Verge of a Nervous Breakdown”、邦題は『神経衰弱ぎりぎりの女たち』。 作・監督Pedro Almodóvarの名を世界に知らしめた1本で、1988年のオスカーの外国語映画賞(ノミネート)やGoya Awardや、いろいろ受賞していて、ブロードウェイのミュージカルにもなった。けど、これまで見たことはなかった。

洋画の吹き替え声優をしているPepa (Carmen Maura)が一緒に暮らしていたIván (Fernando Guillén)から別れを切りだされたところにIvánの先妻の子のCarlos (Antonio Banderas –まだぴちぴち)など一連隊が芋づるで絡んできてそれぞれが神経衰弱ぎりぎりに追い詰められていく女たちを描く。

みんな自分の伝えたいことは(直接話したくないから)留守電にもなんにでも勝手に入れたり割りこんできたりするくせに自分の大事なことはこれぽっちも伝わらず宙に浮いて、結果みんなが先回りしたり裏工作したり何やっているのかわからないところにまみれてきて、全員がいいかげんにしろよお前ら!になって小爆発が連鎖していく様を、女性の視点中心で見ていて、Altman的な男性がなぎ倒していくアンサンブルのどたばたとはちょっと違うかも。

現在のAlmodóvar作品の特徴でもあるモダンなインテリア/エクステリアなど、Pepaはペントハウスに住んでいるけど、そこまで大きな比重は占めておらず、エモや激情が前面に出ていて、でも(そういう波動の反対側にある)睡眠や昏睡、といったAlmodóvar得意のテーマは既にあったり。

とっちらかっていて変人ばっかり出てきておもしろくて、もう一回見たいかも。


La ciénaga (2001)

2月27日、木曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
特に特集に紐づけられていない。 英語題は”The Swamp”。 
脚本がSundance/NHK Awardを受賞した作品だそうで、NHKの名前がクレジットに出てくる。

“The Headless Woman” (2008)や”Zama” (2017)の、アルゼンチンのLucrecia Martelの監督デビュー作で、(やっぱり)ものすごくおもしろかった。でもなんで/なにがこんなにおもしろいのか、あんまよくわからない。

アルゼンチンの田舎の方の、結構古いお屋敷のような別荘で、中年女性のMechaとその家族がプールサイドで酒を飲んだりしながらだらだらと休暇を過ごしている。子供たちは山で沼にはまって動けなくなっている牛を見つける。Mechaは転んで血だらけになって医者に運ばれ、その息子もなんだか怪我をして血まみれになっていて、娘たちは使用人も一緒になって好き勝手に遊んでいて、TVでは屋根の上に聖母マリアが現れた、というニュースをやっている。大きい息子はダンスクラブで喧嘩して怪我をして、ボリビアに文房具を買いにいく計画があって、従姉妹たちは野山で猟銃をぶっ放して遊んでいて、万事がこの調子の、ただただいろんな物事が起こって、放置されたり、途中までいってキャンセルされたり、うまくいかなかったり、の連続で、こんなふうになった!はなくて、怪我をしたり血にまみれたりしても、ふつうにどうにかやっています、ずぶずぶ(沼)… みたいな。 監督自身の家族の記憶に基づいているそうで、なるほどなー、この落ち着きはそういうやつか。

一家は何を生業としているのかあまりよくわからない、別邸がいて使用人もいるので貧乏ではないようなのだが、ブニュエルの映画にあったようなブルジョアの「ブ」の字もなくて、生活感、みたいのとも無縁(というか垂れ流し)で、どちらかというと清水宏の映画に出てくるたくましい人たち(とそのエピソード)を思い起こさせるし、実際そこらにいそうなノラのかんじというかがたまんないのだった。


オスカーはどうでもよかったのでどうでもよいのだが、音楽賞を”The Brutalist”で受賞したDaniel Blumberg (ex. Yuck)が壇上でDalstonのCafe Otoに謝辞を述べた、というところだけちょっと嬉しかったかも。

3.03.2025

[film] Picnic at Hanging Rock (1975)

2月14日、金曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

いま公開50周年を記念した4Kリストア版が全英でリバイバルされているが、その少し前のひと晩だけの公開で、なぜかというと、映画で描かれる事件の起こったのが1900年の2月14日だったから、と。50年前と125年前。

原作はJoan Lindsayによる同名小説(1967)をCliff Greenが脚色してPeter Weirが監督した。実際に起こった出来事にインスパイアされてはいるが、元は小説で、フィクションである、と。(“Virgin Suicides” (1999)もその傾向があるけど、勘違いしたがる人が多いのはなんでなのか?)

全体としてものすごく変で奇妙な映画。 1900年の2月14日、オーストラリアのビクトリア州の女学校で校長らしき女性が、Hanging Rockにピクニックに行きます、と宣言して、喜ぶ娘も少しいるが行けないでひとり残される娘もいる。引率の女教師を含めて白い服を来た女学生たちはみんなで馬車に乗って休憩したりしながら岩に向かう。どこが遠足の到達点なのかわからないのだが、Miranda, Marion, Irma, Edithの4人が集団から少し離れたところで英国人男子とすれ違って昼寝をして、起きあがるとちょっと夢遊病のようなかんじで3人が岩の隙間に歩いていって、それを見ていたEdithが絶叫して逃げだして – 何を見たのかなんで叫んだのかは明らかにされない - それを見た引率のMiss McCrawが彼女たちを探してやはり岩の向こうに消えて..  描かれて説明される失踪の顛末はこれだけで、あと冒頭にMirandaの声で”a dream within a dream…”という呪文のようなナレーションが入る、くらい。

その後は、地元の人たちも含めた何度かの捜索が行われて、少女たちが着ていたと思われる布の切れ端が見つかったりするが、なにも出てこない。そもそもHanging Rockがどういう土地(岩)で、なんでそこに遠足に行くことにしたのか、捜索はどこまでどんなふうに行われて十分だと言えるのか、とか失踪ものに不可欠な状況とか理由とか説明とかがあまりになさすぎて、反面、ぴょろろろーっていう笛の音とかまぶしい空とか、空のかんじ、岩のかんじは何回も出てきて、なにも説明されないホラーの黒とか赤とか闇がやたら怖くなるのと同じように、ここでの白さ、陽の光と透明さは事件の不気味さ不吉さをぐるぐるかき回していって、失踪した少女たちがとらわれたのと同質のなにかに巻きこみに来ているかのよう。

他方で、これはべつに謎解きでもなんでもなく、ただ少女たちが岩場のどこかにいなくなって見えなくなってしまった – 気がついたら125年が経っていました、というだけの話で、ちょっと気持ちわるいけど、かわいそうだけど、なにもできることはないー、という話。そうして見ると、校長も地元民も若者たちも、なにも「外側」からはどうすることもできない、理解しようがない、そういうこともある、というだけのー(無理しない)。

あと、消える側からすれば、あんなふうに消えてしまうことができたら、というのはあるかも。古本屋とか美術館であんなふうに忽然と消えてしまえたら、というのはよく思うしー。

リストア版は、例えば古いフィルムが持っていた傷みとか色褪せとかをぜんぶきれいにしてしまったので、彼女たちの着ている白が異様にまぶしい白さで迫ってきて、より非現実的な魔法のようなリアリティを実現している。David Hamiltonの、あのソフトフォーカスの世界が見事な解像度で。

で、この後にIMAXに”Captain America: Brave New World” (2025)を見に行って、とってもたいへんつかれたの。

3.02.2025

[theatre] Much Ado About Nothing

2月26日、水曜日の晩、Theatre Royal Drury Laneで見ました。
原作はこないだ映画“Anyone But You” (2023)にも翻案されていたシェイクスピア (1958-1959)の。邦題は『空騒ぎ』。

演出は年末に同じ劇場で見たSigourney Weaver主演の”The Tempest”と同じくJamie Lloyd (一部のキャスティングも被っている。どこかで繋がっているのかシリーズなのか?)。

Tom Hiddlestonの芝居を見るのは2回目で、前は2019年にHarold Pinterの”Betrayal”を見ている(この時の演出もJamie Lloydだった)。 ものすごく舞台映えのする俳優だと思うし、今回はコメディだというので。

えーでも、自分が見たいと思う演劇にみんなで歌って踊って楽しくしゃんしゃん! みたいな、温泉街の余興みたいな(←偏見)のは余り求めていなくて、でも今回のこれ、Tom HiddlestonとHayley Atwellが真ん中にいてまさかそういうのだとは思わないじゃん、でもそういうので、でもこれは許すかー、になった。

劇場の中に入るとバリバリのライティングのもとダンスミュージックががんがん掛かってて(どこかにDJもいたのか?)、でもEDMみたいにハードでごりごりのじゃなくて、お年寄りにも馴染めるエモっぽい90年代頃のダンスミュージックで、とってもあざといとこを狙っているかんじ。

巻くが開くとぎんぎらのMargaret (Mason Alexander Park - この人、”The Tempest”ではArielを演じて歌っていた)がマイクを片手に演歌歌手のように歌い出し、桜吹雪が舞って、登場人物たちも全員マイアミとかリゾートにいるようなチンピラかひらひらきらきらの衣装を纏い、この「ノリノリ」の狂躁状態の中で全員が恋をしなくちゃ踊らなきゃ! みたいなアホウになっていて、それは恋でもしなけりゃやってらんない、というのと恋だの結婚だの、そんなのばっかりやってらんない、の両方があって、その流れのなかで、Hero (Mara Huf)とClaudio (James Phoon)は簡単に恋に落ちて結婚することになり、Beatrice (Hayley Atwell)とBenedick (Tom Hiddleston)はあいつとだけはイヤだ、みたいな犬猿の仲になり、でも全体としてはみんなハッピーで、ハッピーでいるためにそうしているのだ、のヤク中のノリというかお約束の世界。

登場人物たちは全員が舞台の上に椅子を並べてずっといて、踊っているかやかましい音楽のなかで会話していて、全員がヘッドマイクを装着していて舞台の奥にいても話している内容は同じ音量レベルで聞こえて、たまに頭だけ被り物 - ワニとかパンダとかブタとかタコとかかわいい - をして、要は誰もヒトの顔と目を見て言うことなんて聞いちゃいないけど、自分がどう言われているかだけは地獄耳になっていたり。

音楽はDeee-LiteとかBackstreet Boysとか”Gonna Make You Sweat (Everybody Dance Now)”とか、懐メロであるがヒトをのせたりのせられたりのBGMとしての殺傷力はたいしたもので、そういうのにのって、ClaudioはHeroの不貞を簡単に信じてしまうし、独身を貫く! とか偉そうにほざいていたBenedickはBeatriceとあっさり恋におちてしまう。

この軽薄さのラインの際どいこと、なので下手な俳優が演じたら簡単に化けの皮、なのだが、Tom Hiddlestonは”Loki”だったのでこの辺がめちゃくちゃ巧いし、Hayley AtwellはCaptain Carterだったので - 理由になってないけど - このふたりの舞台上の相性がめちゃくちゃよくて楽しい - 一瞬ふたりのAvengers姿がハリボテで登場したり。

冒頭からノリノリで走っていった1幕目に対して、2幕目は最初から落ち着いた、やや内省モードになってそれぞれが少し立ち止まって考えたり、そしてそこからすべての収束〜一件落着に向かって弾けまくる - とてつもない量の桜吹雪エンディングまで、多幸感という言葉はあまり使いたくないけど、くやしいけどそういうのがくる。

これならフルバンド入れてかっちりとしたミュージカルにしても、と一瞬思ったが、たぶんこれくらいのスカスカでよいのかも、と。だってこれは「空騒ぎ」で、恋なんてその程度のもんでしかないのだから、って。

2.28.2025

[film] Les Années 80 (1983)

2月は引越しだのなんだのいろいろあって、ぜんぜん動けなくて呻いて嘆いてばかりだったのだが、映画に関していえば、Chantal Akermanの月、正しくはBFI Southbankの特集 – “Chantal Akerman: Adventures in Perception”の月で、これが底抜けにすごくて、時間があればぜんぶ通いたいくらいだった。

特集は3月まで続くので、まだ少し見るかも知れないが、ここまでで短編中編長編ぜんぶで30本見ていた(既見のもあるが、半分以上は未見)。BFIでかかる本特集の予告には”Complete Retrospective”とあったので、おそらく全作品を網羅しているのだろう。それならもっと気合いれて見ればよかった… (に、いっつもなる。何万回繰り返せば気が済むのか)

メモ程度になってしまうのだが、いくつか。全体として、80年代のChantalは最強ではないか、と。

Les Années 80 (1983)


ミュージカル映画”Golden Eighties” (1986)公開の3年前に、おそらくその資金集めを目的として、40時間に及ぶリハーサル映像を編集したメイキング(というか、それ以上)で、NFFの深夜枠で1回とPublic Theatreで細々と上映されただけだったので資金は集まらなかったのかもしれないが、ここで描かれた”The Eighties” – 80年代にこそ、ちっとも「ゴールデン」ではないけど、あのミュージカルに込めようとしたものがぜんぶ詰まっているように思えた。

主人公の彼や彼女が伝えようとする愛の言葉やメロディは、ミュージカルの文脈から切り離されて、ものすごく浮いて変な – でも焦りとか切実さだけがくっきりと浮かびあがってくるし、それをあの歌やダンスのパッションにあげていくものは一体なんなのか、と。えんえん耳に残って回り続けるあの主題歌をAurore Clémentが歌い続ける傍らで、壊れたみたいに指揮(というのか特殊な踊りのような)をぶん回し続けるChatalと。これを見ると”Golden Eighties”を再び見たくなる。

これとの併映で、コロナの頃、Chantalの誕生日に配信された短編 - “Family Business” (1984)も。 やはり”Golden Eighties”の資金繰りでアメリカに赴いたChatal一行の珍道中というか、なにやってんだろ、の記録。これらも併せると、ほんとあれ、なにが”Golden”やねん、になるに違いない。


L’Homme à la valise (1983)

英語題は”Man with the Suitcase”。TV用に制作されたドラマで、荒れ放題のChantalの部屋に、Henri (Jefferey Kime)という男が居候に来て、部屋は別だけどキッチンとかは共有で、一緒に暮らすのにあれこれ気を使いすぎて(しかもそれらは全て空回りして)頭がおかしくなりそうだったので、出て行って貰おうとするのだがうまく言いだせず、そのうち彼はいなくなって、というそれだけの話。

俳優としてのChantalはデビュー作の頃からずっといるのであまり驚かないのだが、ここでの殆ど喋らずにアクションだけでぜんぶわからせてしまう彼女の演技のすばらしさとおもしろさに改めて驚く。”Golden Eighties”の主題歌も歌ってくれる。

併映は大好きな傑作短編 - ”La Chambre” (1972) – “The Room” - 部屋でごろごろしているだけのChantalをゆっくり回転するカメラがとらえて、それが最後に不意に逆回転をはじめる、ただそれだけなのだが、これが宇宙だ、っていつも思う。 もう1本は、”Le Déménagement” (1992) – “Moving In”。新しい部屋に越してきたSami Freyがなにやらぶつぶつ言っているだけなのだが、この3本で、Chantalの世界観を構成する大きな要素である「部屋」が、そこで横になる、というのがどういうことか、が見えてくるような。

Demain on déménage (2004)  

英語題は、“Tomorrow We Move”。 自分が引越しの最中だったのでなんとも言えない気持ちで見る。
Aurore ClémentとSylvie Testudの母娘が、グランドピアノを吊り下げたりしつつ新居に引っ越してくるのだが、いろいろ問題が出たのでやっぱりここを出ようかと、次の住人を探すべく、オープンハウスにしたらいろんな夫婦や家族が次々にやってきて勝手なことをしたり言ったり居ついたり、騒がしくなっていくコメディ。家に染みついた記憶や匂い、住んでいた人、住んでいる人の顔や影が次々に去来して、出ていきたいような、行きたくないような、になっていくの。ものすごく楽しくて、なにより馴染んだ。

そして併映が、Portrait d’une paresseuse aka La ParesseSloth (1986) – “Portrait of a Lazy Woman” – これも動きたくないよう、って言って動かないだけのフィルムで、もうほんとうにすばらしいったらない。


Un jour Pina a demandé… (1983)
– “One day Pina asked…”

Pina Bauschを追ったドキュメンタリーで、前にも見たことはあったのだが、改めて。あの頃のTanztheaterのメンバー、なつかしー。 上映後のトークでチェロ奏者のSonia Wieder-Athertonさん(彼女の演奏を撮ったChantalのドキュメンタリー作品がある)が、ChatalはPinaに惚れこんでいて、彼女はPinaのダンスの登場人物のように騒がしい(そこにいるだけで勝手に騒がしくなってしまう)人だった、と言ってて、なるほどー、って。


Letters Home (1986)

Sylvia Plathの分厚い書簡集”Letters Home” (1975)から、母Aurelia (Delphine Seyrig)と娘Sylvia (Coralie Seyrig –Delphineの姪)の手紙のやりとりをRose Leiman Goldembergが舞台化したものをTV用に撮ったもの。離れた国に暮らす母とのやり取り、というと”News from Home”(1976)をはじめ、ママの娘としてのChantalはいろいろなところに顔を出す。そしてSylvia Plathがオーブンに頭を突っこんで自殺した5年後、自分のデビュー作”Saute ma ville” (1968)で部屋ごと自分をぶっ飛ばしてしまうChantal…

Jeanne Dielman, 23, quai du Commerce, 1080 Bruxelles(1975)

本特集を機に、4Kリストア版が全英で大々的にリバイバルされている”Jeanne Dielman…”も久々に(10年以上ぶりくらいか)見る。

3時間22分の作品なので、だいじょうぶか(寝たりしませんように)だったのだが変わらずすごいスケールの作品だと思ったわ。とにかく彼女はずっと動いていて、落ち着きなく騒がしく、屋内の静けさのなかで沈着していく狂気、みたいのとはぜんぜん違う、やかましさのなかで最初からなんかおかしいぞ、って。そしてそのやかましさが止まったとき…

まだあと少し見ると思うが、これからも時間があったらずっと追っていきたい。
あと、今度ブリュッセル行ったらぜったい“23, quai du Commerce”に行くんだ。

[film] The Seed of the Sacred Fig (2024)

2月16日、日曜日の午後、Curzon Bloomsburyで見ました。
原題は” Dāne-ye anjīr-e ma'ābed”、邦題は『聖なるイチジクの種』で、日本でも既に公開されている。

Mohammad Rasoulofが脚本・共同製作・監督を務め、昨年のカンヌではSpecial Jury Prize - 審査員特別賞を受賞し、今週末のオスカーではBest International Feature Film部門にドイツからエントリーされている。

映画を見ても大凡の感触に触れることができるであろう弾圧と言ってよいくらいの検閲、脅迫、拘束、逮捕、鞭打ち、等を乗り越えて、どうやって映画を作って外に持ちだすことに成功したのか - そんなことよりも監督と関係者がこれからも無事でいられることを祈るしかない。

という背景・事情を踏まえて見なくても十分おもしろいのだが、踏まえて見ると、よくこんな国のありように正面から噛みつくようなものを作れたな、と感嘆する。この映画を貫いている緊張感と怒りは、そのまま監督のそれと繋がっていることがわかるし、そういう情動でもって紡がれた表現がここまでの強さを持つ、ということにも。

Iman (Missagh Zareh)は弁護士としてまじめにがんばってきて、冒頭に革命裁判所の裁判官になる手前の調査官(検事)に昇進して、妻Najmeh (Soheila Golestani)も2人の娘Rezvan (Mahsa Rostami)、Sana (Setareh Maleki)も喜んでお祝いするのだが、職場=政府からはいきなり銃を支給され、家族には仕事の内容は絶対に極秘、詳細を見ずに死刑執行令にサインすることを求められ、従わないとどうなるか(前任者は解雇された)...と同僚から言われ、誇らしげな家族の裏側でそれらの重圧がゆっくりと彼を圧していく。

学生を中心に反ヒジャブの抗議活動が広がり、Imanの仕事(死刑執行状へのサイン)も増えて重くなっていくなか、娘たちはスマホに流れてくる動画とライブで友人らを含む学生たちが弾圧され酷い目にあっているのを目にして、お茶の間でImanと口論になったりするが、当然平行線で、そんな中、Rezvanの親友がデモで顔を撃たれて家に運び込まれてきて、応急手当はするものの、病院にも連れていけないしImanにも勿論言えない。

そんな火事の手前でImanの銃が突然、家のどこかに消えてしまい、家族全員に聞いても銃があることすら知らなかった、とか言われ、職場では大変なことだ、へたに騒ぐなと言われ、紹介してもらった専門家によって家族全員の個別尋問をしてもわからず、誰も信じられなくなった彼は家族を連れて生まれ故郷近くの山の方に向かって…

最初の方はごく普通にありそうなホームドラマで、居間でTVのデモの様子を見たりして大変ねえ、とか言っていたのが、そのデモの波をひっかぶったかのように父親がひとり戦争状態になって、地の果てのようなところに走りだし、ラストはまるで”The Shining” (1980)になってしまう。小説家Jack (Jack Nicholson)の孤独な/との戦い以上に、ここでのImanの孤絶感やプレッシャーは生々しく、国と家族の両方がのしかかってくるので、少しだけかわいそうになったりもするのだが、ぜんぶ国のせいにしてやめちゃえば… なんて軽々しく言えるものでもなく、だからこういうのを地獄とよぶ、というのは伝わってくる。

監督自身も対峙したであろう調査官Imanへの目線以上に、より細やかな目と共に綴られているのがNajmehとRezvan、Sanaの3人の女性たちの日常で、夫/父の仕事の内容は勿論、社会へのアクセスがTVやスマホ、その先は学校くらいと限定されていながらも、普段彼女たちが何を見て、どんなふうに日々を過ごしているのかを描いた女性映画として見ることもできる。

このふたつの目線があまりうまく嚙みあっていないので、後半の展開はややがさつでがたがたするものの、最後の方の(いつの間にそっちに行ったのか)食うか食われるかの緊張感と、あまりにすっこ抜けた終わり方はなんかよいと思った。

そしてラストはあんな父親なんか(ほっとけ)、と街頭でのデモや抗議の様子を延々と映して終わる。国からの圧を反省もせずありがたく受けとめ、その矛先を身近な家族や弱者や外国人に向ける、というのはどこかの国でもよく見る景色だが、それをここまでの映像にして曝したのは偉いな、って。
 

2.26.2025

[theatre] Cymbeline

2月15日、土曜日の晩、Shakespeare’s GlobeのSam Wanamaker Playhouseで見ました。ひどい雨の日だった。

原作はシェイクスピアの戯曲(1609-1610頃)、最初のうちは「悲劇」に分類されていたようだが、どう見てもそうには見えなかったかも。演出はJennifer Tang。

舞台はローマ帝国時代の古いブリテン王国の頃の話で、国王Cymbelineは女王(Martina Laird)で、原作とは異なる女王を中心とした女系社会、という設定で、中心のカップル - 女王の娘のInnogen (Gabrielle Brooks)と幼馴染で恋仲のPosthumus (Nadi Kemp-Sayfi)も、どちらも女性、となっている。更に - 見た目だけではあるが - 人種構成も多様でマルチカルチュラルな世界っぽく、敵味方などの識別はほぼ着ている衣装で見るしかない。大昔の話だからか、舞台には骨らしきものが飾ってあったり、音楽もガラスや打楽器の響きと生声、ハミングを中心としたシンプルかつプリミティブなもので、昇ったり降りたりが頻繁な火のついた生の蝋燭(ここのいつもの)もよいかんじ。

そろそろ結婚しようか、になっていたInnogenとPosthumusだったのに、頑固でいじわるな女王は夫Duke (Silas Carson)の連れ子でボンクラなCloten (Jordan Mifsúd)とInnogenを結婚させようとPosthumusを追放し、更にふたりを永遠に引き離そうとそれぞれに嘘を吹きこんだり、策謀とか悪党のIachimo (Perro Niel-Mee)とか、危ない影が寄っていってどうなるー? なのだが、互いの愛を信じるふたりはどうにか(というか襲う側が結構間抜けだったりして)切り抜けて、でも離れ離れにはなって、という顛末が描かれる一幕目は、薄暗いなか、目まぐるしく場面も人物も替わってごちゃごちゃ落ち着かなくていろいろ大変だなあ、というかんじ。この役は女性が演じているけど配役上は男性のはずだから… などと考える暇もないくらいばたばたする。

後半の二幕目は、男装して旅に出たInnogenが、Belaria(Madeleine Appiah)、Guiderius (Aaron Anthony) 、Arviraga (Saroja-Lily Ratnavel) の頼もしそうな3人の母子(に見えるけどそうではない)と出会って、Innogenを殺しにやってきたClotenがGuideriusと決闘して首を落とされて、眠りから目覚めたInnogenが傍に落ちている布に包まれた首をPosthumusのだと思ってパニックになって… など、すったもんだしながら新たな出会いが新たな希望を呼んでくる.. かと思ったら、今度はローマ帝国との戦争が始まり、その混沌とどさくさのなか、InnogenとPosthumusは再会して、GuideriusとArviragaは王の血を継ぐものであったことが明らかになって、新たな絆とファミリーが改めて確認されてめでたしめでたしになるの。

二幕目はつんのめるように威勢がよく、その勢いと共にどうなるのかも見えてくるし、ラストの戦がそれに火を点けてくれるかんじでなかなか盛りあがって楽しいのだが、女系を軸にファミリーを再構成した意味のようなところがやや弱かったかも。あるとしたら出てくる男たちがどいつもこいつも頭も性根も悪いのばっかしで、その辺 – だから王様になれないんだよ、の辺りだと思うが、そんなのとうにわかりきったことだしな.. になるし。突っ込みどころはたっぷりあるものの、高低差のある客席をうまく使って兵士たちが出入りしたり、どたばた楽しかったかも。

『シンベリン』のちくま文庫版の解説にあったように、これが「喜」と「悲」や「男」「女」を含む際どく危うい二項対立を軸に幾重にも組み上げられたお話しだとすると、こんなふうにごちゃごちゃ散漫なものになってしまうのはしょうがないのか、と思いつつ、でもこういうのは割と好きかもー、って。

[film] Companion (2025)

2月15日、土曜日の昼、CurzonのAldgateで見ました。
クソ彼に当たってしまったヴァレンタインの翌日に見るにはちょうどよいやつかも。

痛い系のサスペンスホラーかと思ったら違った。97分がちょうどよい。
脚本、監督はこれがデビューとなるDrew Hancock。以下、軽くネタバレしていると思う。

Iris (Sophie Thatcher)とJosh (Jack Quaid)はスーパーマーケットのオレンジ売り場で、これしかない、みたいな理想的な出会いをしてあっという間に恋人同士になって、週末に友人のレイクハウスに車で向かうところで、別荘には所有者の富豪で見るからにカタギではなさそうなSergey (Rupert Friend)、その恋人のKat (Megan Suri)、男性同士のカップルEli (Harvey Guillén)とPatrick (Lukas Gage)が集まっていて、そんな変な集団にも見えない。

翌朝、Irisが散歩しているとSergeyが寄ってきてへらへら笑いながら上に乗ってレイプしようとしたので、そこにあったナイフで首を刺して殺して、頭から血まみれになってパニックしているIrisの耳元でJoshが”Go to Sleep”っていうと彼女は白目になって停止する。ここまできて彼女はJosh(の操作するアプリ)によって動作するコンパニオン・ロボットであることが明らかにされ、冒頭のふたりの出会いのシーンも予め用意されたプログラムがIrisの脳内で再生されていただけだった、と。

椅子に縛られた状態で再起動されたIrisは隙を見てJoshのスマホを奪って森に逃げこみ、アプリを使って自分の設定を見て自分がどんな扱いのものだったかを知り、知能設定が40%だったのを100%にして復讐のために動き始める。 のだが、そんなに簡単にコトは運ばず、Eliと一緒にいたPatrickも同じコンパニオン・ロボットだったのでやや事態が面倒なことになって…

生身の人間ではなくコンパニオン・ロボットでいろいろ済ませようとする/それを誇示しようとする人が(頭だけはよい)クズ系であることは”Ex Machina” (2014)でも示されていたが、あれよりもう少し下世話にわかりやすく、こんなにもクズでゲス、のようなところ(だけ)を見せていておもしろい。そしてそのクズは他の人たちや他のロボットの間にも紛れていて、不気味で変なソサエティを作っていて、というあたりだと、こないだの”Blink Twice” (2024)とか”Don’t Worry Darling” (2022)にもあった、スタイリッシュでつるっとした(中味はありそうであんましない)サスペンスの傾向にも繋がっているのだろうか。 富豪も社交もロクなもんじゃない、という今。

そういうところから少し離れると、”After Yang”(2021)みたいな静かな世界に行ってしまう – か、”Robot Dreams” (2023)のような平和でフレンドリーなやつとか。 まあ、手元のタブレットすらきちんと操作できない人間がロボットなんかには近寄らないことよ。

更にそこから離れても、Joshみたいに女性を性処理の対象とか道具のようにしか見ない、見ようとしない男の像がロボットやAIへの対応を通してあぶり出されてくる、というおもしろさ(おもしろくない)。本当は、そんなのを通さなくたって(介さないほうのが)そこらにうじゃうじゃいるはずで、問題はそっちの方だよね。など、あーうざいねえ、とか思いながら見ていた。

Irisを演じたSophie Thatcherさんはこないだ”Heretic”(2024)でHugh Grantとも対決していた。

Joshを演じたJack QuaidはMeg RyanとDennis Quaidの息子で… ということはこいつとは昔に会ったことがある。95年くらい、Barneys New Yorkの当時地下にあった食堂(Mad 61)でランチをしていたら隣のテーブルにMeg Ryanがきて、わあぁーってなったところで彼女の連れていたガキがテーブルの下で大暴れして.. あの時の彼だったか… 大きくなりやがって。 


[log] お引越し 2025

先週はロンドン内での自分のフラットの引越しをしていた。以下はその備忘。

こちらに赴任したのが昨年の1月で、とりあえず、割と簡単かつ適当にフラットを見つけて住み始めたのだが、1年後に契約の更新がある(= 家賃がたぶんあがる)のと、住み始めてから部屋の寒さとか近隣のやかましさとかいろいろ出てきたのと、前回住んでいた時はロンドン内での引越しをやろうと思いつつできなかったので、一度くらいはやってみようか、などなど。

数えてみたら自分にとって国内海外を含めてこれが21回目の引越しで、そのうち自分の意思でやったのは14回で、そんなに多いほうだとは思っていないけど、こんな歳になっても住処を求めて不動産屋に通ったり、箱を作って出し入れしたりをするようになるとまでは思っていなかったかも。

ひとつ想定していなかったのは、11月に帰国して体にしょうもないなんかが見つかり、1月の中旬にも検査のために帰国しなければならず、12月はクリスマスなどで賃貸のマーケットはほぼ動かない、とかその辺のことなど。理想としては遅くとも1月の初めまでには物件を決めて各種手配や準備ができるようにしておく、だったのだが帰国手前でオファーを出したやつに全く返事が来なくて、帰国する前日になって自分で住むことにしたからこの件なしで、とか返してきやがったので、お先真っ暗になり、最後の最後は日本からZoomで見て決めた(建物自体は内見で入ったことがあったところ)。

今回は年末で物件自体があまりなかったせいもあったのと、家賃(だけじゃなく物価全般が)上がっているのもあったのか、ぜんぜんよいのにぶつからず、結構いろんな物件をこまめに見て回った。そういうのが嫌でない人にはおもしろい経験になると思うが、それにしてもほんとにいろんな物件があるもんよね。古い建物が残っている分、東京やNYと比べるとはっきりとピンキリで、ぜんぶ何らかの訳アリ – ないほうがおかしい - なのではないか、とか。

前に住んでいたのはChelsea近辺のジョージアン様式のフラットで、今回もその線で探し始めたのだが、もう日々の階段昇降はだるすぎるのと、水道とかお湯が出る出ない弱いとか、変な音がするとか、部屋の暑い寒いで日々じたばた苦労するのは面倒になっていて、そういうのを避けるべくモダンな方にして、そうすると中心部からはやや外れてしまうのがまた難で、結局住んでいたところから地下鉄で一駅のところにしてしまった。老人はそうやって引きこもっていくんだわ。

で、引越し屋にZoom経由で見積もりしてもらって箱一式が来て、とりあえず床に積んであった本などから詰めはじめる。

こちらに来てから小さめの本棚は買って、でもそこに入らなかった分についてはどうせそのうち引っ越すから、と床に積んでおいたのがあり、これらを詰めるのは割と簡単だし早いし。

こちらに持ってきた本の船便は段ボール計3箱で、今回詰めたら+6箱の計9箱になった。あと、箱には入れずに手で運んだ大事なのが数十冊。1年間で増えた6箱は多いのか少ないのか、たぶんこんなもんなのでは、くらい。ほら、美術とか写真の本ってサイズも大きいし。でもこの調子で増えていったらぜったい日本の家は床おちる… の前に入らないかも。

あと、サイズでいうと演劇のパンフレット - 演劇は見始めたところでもあるのであったら買うようにしているのだが、サイズがてんでばらばらでいい加減におし!になった。みんなあんなのどうやって整理しているのか。

箱に入れなかった自分にとって大事な本たちは紙に包んでスーツケースに入れて、新フラットとの間を5往復した。引越しトラックがテムズ川に落ちたり炎上したりするリスクと、自分が途中で線路に落ちたり行き倒れになるリスクと、若干のお気持ちみたいなので、手で運ぶやつは決めて選んで実行した。前にマンハッタン内を引越した時は、同様にレコードをがらがら運んだことを思いだしたり。

本以外の箱は、割とどうでもよかったのだがこれはこれで面倒で、なんであんなにどうでもいい未開封の調味料の瓶とか缶詰 – 特にいろんな国のイワシ缶とサバ缶ばかり – が後から後から湧いてくるのか、など。

そして箱に詰めるのは時間かかるのに箱から出すのはあっという間すぎて、人生そんなもんよね、に改めてなる。

住み心地? 100%のおうちなんてあるわけないのよねー を改めて噛みしめているところ。まずはお片づけだわ。

どうか来年も同じことをやるはめになりませんように(なるかも)。

2.24.2025

[film] Captain America: Brave New World (2025)

2月14日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
3D上映もあったようだが2Dにした。でもいちおう公開初日には見る。

“The Falcon and the Winter Soldier” (2018)からのSam Wilson / Captain Americaを主人公に据えつつ、背景とかキャラクターはEdward Nortonが緑Hulkを演じた”The Incredible Hulk” (2008)を引き継いだりしている。

超人だったSteve RogersのCaptain Americaに自分は絶対なれないことを自覚しつつアメリカの危機を前にすると身体と翼が勝手に動いてしまうSam Wilson (Anthony Mackie)と、そんな彼を政治利用しようとする合衆国大統領のThaddeus Ross (Harrison Ford)と、Celestials で見つかった希少金属Adamantiumの権益を巡る争奪戦 - に日本も巻き込まれている - のごたごたがぜんぜんスマートじゃない - 単にごりごり押し合うばかりの政治サスペンスふうに描かれていく。”Captain America: The Winter Soldier” (2014)にあったクールネスは微塵もない。

みんながふつうに思っていることでしょうが、今のアメリカ合衆国は冗談ではなくHydraに乗っ取られてしまい、あの風船デブと成金バカのやりたい放題になっていて、こんな状態で彼らの手先としてCaptain Americaなんて動けるわけがなかろう、というアタマで見ていくと、Thaddeus Rossも軍人あがりの超タカ派、自分が一番の傲慢野郎で、最後にやっぱり衝突しているのでそれみろ、なのだが、今の合衆国にはSteve RogersもSam Wilsonもいない、という現実の方に頭が向いてしまう。犯罪者が最高権力を手にしたらどうなるか、が想定ではない現実として現れてしまった時、正義とは… 例えば、そんなアメリカを守る、とは?

Steve Rogersの時代、敵は明確にアメリカの外 - 二次大戦期のドイツ - にあって、そこからサノスとか更に外に広がっていった訳だが、Sam Wilsonの場合は、最初から自国内のプロパガンダ狙いも含めて敵はずっと内部にいる、という難しさ(この映画のマーケティングもそう?)を彼ひとりが抱えていて、CIAだってなくなっちゃうようだし、見ていて辛くなってくるのだが、それでも少しづつ彼の周りに集まってくるFalcon (Danny Ramirez)とかRuth (Shira Haas)とかすっかり善き人になってしまったBucky (Sebastian Stan)とかはいるので、次に期待する、しかないよね(それまでに「アメリカ」が少しでもよくなっていますように)。 でもいま一番期待してしまうのは”Thunderbolts*” (2025)の方かも

ホワイトハウスが下斜めからぐざーってぶっ壊される絵がなかなか見事で、これって、”Independence Day” (1996)で真上から攻撃を受けて粉々にされるのと対照的でおもしろいな、とか。

あと、ものすごく濃く強く黙って闘う男性中心に貫かれたドラマで、この辺の息苦しさはわざと狙ったものなのか。Thaddeus Rossが多様性を排除した結果こうなってしまったということなのか。この辺のみっしりと男くさいトーンを歓迎する層も間違いなくいそうだし、これはこれであーあ(…なーにが”Brave New World”か?)、だし。

いろいろ意見だの見解だのはあるのだろうが、わたしはCaptain America的な(”GREAT”に向かわない)正義は(特に今のアメリカには)必要だ(ずっと言い続けることも含め)と思っていて、だから本作も大事だとは思うものの、いろいろもどかしくて難しいよねえ、って。 そのためにも”Eternals” (2021)の続編がほしいし、Nick Furyは宇宙で遊んでないで降りてこい、ってなるし。

Harrison Fordって、これから先も赤Hulkで出てくるの? おじいちゃんだいじょうぶなの?(癇癪をおこしやすい爺、という点ではわかりやすいけど..)

2.20.2025

[film] Bridget Jones: Mad About the Boy (2025)

2月13日、木曜日の晩、CurzonのAldgateで見ました。こんなの公開初日に見るわ。

11日の晩がCyndi Lauperのライブで、12日の晩が”The Last Showgirl” (2024)で、この日がこれで、ぜんぶこれで終わりのLast Showgirlみたいな話として連なっていたかも。

Bridget Jonesの4つめので、原作(2013に出た)は勿論Helen Fieldingで、共同脚本にも関わっている。

こういう続きもので、結構長い時間が経って、やると思っていなかったようなのがリリースされた時って、最初は懐かしいのもあって、変わってないなー、って笑ったりしているのだが、だんだんいたたまれなくなって – 所謂「イタい」状態を感じて、なんでか? など振り返りつつ結局もやもやと現実世界に戻る、というのが割とある - 3作目の”Bridget Jones's Baby” (2016)で既にそれはあったので、今回もそれなりに覚悟して見る(ほかになにができよう?)

現在のBridget Jones (Renée Zellweger)はHampstead Heathの一軒家(いいなー)に住んで、小学校に通うBillyとMabelのふたりの子のママとして暮らしていて。夫のMark Darcy (Colin Firth)は4年前、スーダンでの人道支援活動中に亡くなっていて、その替わりではないがDaniel Cleaver (Hugh Grant)がベビーシッターで来てくれていたり、でも全体としては学校の送り迎えだけで十分へとへとで、他のきらきら系のママからは素敵なパジャマねえ(でもあのペンギンのかわいいな)、とか嫌味を言われたりして、でもそんなのどうでもいいくらい大変で日々慌しくて、それどころじゃないのだ、になっている。
でも、健診でDr Rawlings (Emma Thompson)から励まされたりしたので、昔の職場 – TVプロデューサーに戻ってみることにする。

それと並行して若くて筋肉たっぷりのRoxster (Leo Woodall)が木から降りられなくなった彼女を助けてから近くに寄ってくるようになり、若者みたいなデートをしてみたり、Billyの学校の理科の先生Mr Wallaker(Chiwetel Ejiofor)も気になり始めたりする。恋も仕事も、のセカンドチャンスが彼女のところにようやく、のようでそんな簡単にいくはずもないことはわかっていて、ポイントはどうやって若い頃と同じように失敗して痛い目にあって、同じようにへらへら笑って立ちあがるのか。

なのだと思っていた。Bridget Jonesとはそういうキャラクターで、そういうキャラクターであるが故にColin FirthとHugh Grantの両方から言い寄られ、このふたりにずぶ濡れ殴りあいの喧嘩をさせてしまったりする。実はとんでもない女性なのだ。

でもそういった過去を、キャラクターをなぞるようなところには向かわない – いや、向かうのだけどそうではないところに目が流れていってふつうに感動して暖かいかんじになって、最初はJohn Lewis(デパート)のクリスマスのCMかよ、とか思ってしまうのだが、でもよかったんだから、に落ちてしまう。彼女のパパ(Jim Broadbent)も最愛のMarkももう亡くなっている、でもパパの思い出は手の届くところにあるし、Markはちょこちょこ幽霊のように出てくるし、Danielも心臓がよくなくて入院したりして、みんなが同じように年をとって、ぼろぼろだったりするけど、互いのことをずっと気にかけてて、かつての飲み友達も、職場仲間もみんなそこにいて思いだしてくれたり笑いかけてくれたり。これらを成熟とか克服とか共感の物語に落とさなかったところがよかったのかも。

湖水地方に遠足に行ったBillyが夜中、Mr Wallakerに自分はそのうちパパのことを忘れてしまいそうでとても怖い、って相談するの。それに対する答えが全体を貫いていて、あまりに想定していなさすぎてつい星を探してしまう…

エンドロールで、過去のスチールとか名場面が流れていって、客はみんな帰ってしまったのだが、なんかひくひくしながらあったねー って見ていた。

シリーズを見ていない人がいきなりこれを見たらどう思うのか... はまったくわからないけど、映画的なよさとは別の何かかもしれないけど、とにかくとってもよかったの。


引越しは、明日から本気だすことにした。

2.19.2025

[film] The Last Showgirl (2024)

2月12日、水曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

まだ正式公開前のPreviewで、上映後に主演のPamela Andersonのトークがあった。ここの一番大きいシアターが満員になって、ロンドンの他の映画館でも別の日にトークがあって、週末のBAFTA授賞式ではプレゼンターとして登場した。そこにいるだけで場が明るく、暖かくなるかんじの人だった。

監督はGia Coppola、脚本はKate Gersten、たった$2millionの予算で、18日間で撮られた、と。

Shelly Gardner (Pamela Anderson)はラスベガスの場末のダンス小屋Le Razzle Dazzleで30年間ショーガールを務めてきて、でも突然プロデューサーのEddie (Dave Bautista)が、ショーはあと2週間で閉じる、次はない、と告げてきて、若い子たちは別のとこを探さなきゃ、ってざわざわ始めるのだが、30年間ここで踊ってきたShellyはどうしよう… ってこれまでのことも含めて考え始めてしまう。

こうしてかつての同僚で親友で、今はカジノのバーでウェイトレスをしているAnnette (Jamie Lee Curtis) - 恐るべしJamie Lee Curtis - と会ってつるんで話したり、若い踊り子たちと話したり(でもまったくついていけず)、突然現れた疎遠だった娘のHannah (Billie Lourd)とも話したり、そして過去に当然いろいろあったであろうEddieとのディナーがあり。でもいくら相談しても話してもなにひとつ解決することはない。この仕事が好きで、ずっとこれだけをやってきて、ここでの自分は誰よりもうまく踊れる自信がある、その場所、機会を奪われるというのは自分にとって何を意味するのか。

なので新しいところにオーディションに行ってみたりもするのだが、そこの監督(Jason Schwartzman)はどこまでも(彼女からすれば)意地悪すぎて彼女を見てくれなくて、やってられない。

好きな仕事を失う - 奪われる、というバックステージものによくある残酷な運命を描きつつ、ぎりぎりでそちらの波にはのまれない。こないだの”The Substance” (2024)のように若い娘に取って替わられる悔しさと妬みと執着を前に出すのでもなく、これしか残っていない自分を最後の最後に肯定して抱きしめようとする。もちろん、それにしたって先はないのかも、だけど。

これはもうPamela AndersonにしかできないShowで芝居で、そんな一世一代の、最後の見得というのがどういうものか、それを見とどけるだけの映画、でよいの。Pat Benatarの”Shadows Of The Night”があんなにかっこよく鳴る瞬間、つい拳を握ってしまう日がくるなんて誰が想像しただろう?

“Everything Everywhere All at Once” (2022)があったので何も驚く必要はないかも - のJamie Lee Curtisもすげえなー、なのだが、それよりDave Bautistaって、あんな演技ができるのか、と。

ヴェガスのくすんだ空気、靄のかかったような、Deborah Turbevilleの写真の世界が少しあるものの、カメラの動きがあんまりよくないのが少し難で、あと少しでRobert Altmanがやったような西海岸のドラマになれたかも、なのに。

エンドロールのSpecial ThanksにはCoppolaファミリーはもちろん、Dita Von TeeseやSam Bakerの名前が流れていった。

上映後のトークで印象に残ったのは、もう残っていないヴェガスのショーガールの世界は、していいことしてはいけないことが厳格に定められた規律の厳しい世界だった、というところ。誇りをもてる仕事ってよいなー、って羨ましくなった時にはもう遅すぎ…

2.17.2025

[film] 秋刀魚の味 (1962)

2月10日、月曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
なんの特集とも紐づいていない、”Big screen classics”っていう、名作を大画面で見よう、の枠で。 英語題は”An Autumn Afternoon”。

小津の作品は、超クラシックの『東京物語』とかよりもこれとか、『晩春』 (1949)とか、『秋日和』 (1960)とかの方が、こちらでは好まれている気がする。感覚だけど。

あと、どうでもいいけど、”An Autumn Afternoon”なので、『秋日和』と混同しがちかも。英語でいきなり「秋刀魚」とか言われてもわかんないのだろうが。

大企業の重役の笠智衆は妻に先立たれた後、長女の路子(岩下志麻)と次男と一軒家に3人で暮らしていて、長男の佐田啓二は岡田茉莉子と結婚して別のところいる。中村伸郎と北竜二の同窓生たちからは、若い奥さんを貰ったりして自立しないと路子ちゃんがいつまでも結婚できなくてかわいそうだ、と言われ、クラス会に呼んだ恩師の東野英治郎と娘の杉村春子を見てそれはそうかも、って思って路子に縁談をもちかけてみるのだが、彼女はあまり考えていなかったようでー。

いつもの、毎度の – この時代の日本映画なんてぜんぶそういうものなのかもだけど - セクハラ、パワハラがしぶとく全開すぎて感嘆する。

女性はある年齢になったら結婚しないと、どこかに「貰われ」ないと、貰い手がなくなって、寂しく孤独な老後を送ることになって、老いた男性も同じで身の回りの世話をしてくれる若い女性でも見つけないとみじめな老後を送ることになって、などなど(あくまで一例)。 主人公たちは、この流れというか周囲からの善意かつ気持ちよくないお節介を「ちがう」、ってなんとなく思いつつも、そうかそういうものか、って受けいれて、でも最後はHappily Ever Afterとは遠いところに立ってしょんぼりして終わる。

だってこの時代の日本社会ぜんぶがそうだったんだからしょうがないじゃん、はそうなのかもしれない。でも例えば、戦争映画の悲惨さは戦争という事態が招いた悲惨なのでその描写も含めた過去として受けいれることができるものの、この映画が描いている家庭や会社や飲み会でのいろんな言動は、あの時代のものである、とわかっていても見事に今のそれと繋がって微動だにしない、誰もそれをおかしいと思っていないかんじがある。映画に罪はないにしても、小津はすばらしい、って手放しで賞賛できないのは、映画を見てこの頃からずっとこうだったのか、なんで変われないのか… って絶句してどんよりしてしまうからなのだろう。

もちろん溝口にも成瀬にもあるけど、小津の場合は、家のなかの端正な格子模様や奥や横手に抜けるパスとか、すたすた歩いていく廊下とか、路地のデザインとか、テンポが軽快なので構成とか様式のようなところで、すごーいおもしろー、ってなりつつも、語ったりやり取りされている言葉はほんとうにどす黒くてひどいThe 家父長制で、コンプラ委員(not映倫)がチェックしていったらノート3冊くらいあっという間に埋まってしまうに違いない。これはこういう文脈で19xx年頃まで使うことを許されていた言葉の用法なのです、とか、上映前に不適切かつ差別的な言動がありますが… 等の注記やレーティングがほしい(だってほぼ暴力みたいなもんだよ)のだが、残念なことにぜんぶ投げられたり言われたりした心当たりがありすぎて、またか… って悲しくなる。だれに怒りをぶつけてよいのかわかんないし、好きにすれば、だけど、少子化なんて、酒のんでこういうのを垂れ流してなんの反省もない、ちやほやされ続けて自分が一番、って腐敗腐乱した老人たちをどうにかしないとぜったい解消しないよ。 こんな国潰れちゃえ、って思っているけど。

というような角度から小津(というか野田高梧の?)作品における家父長制と、それが高度成長期の一般家庭の意識形成にどう馴染み、影響を与えたのか、を分析した論文とかがあったら読みたい。

[theatre] Oedipus

2月8日、土曜日にOld Vicのマチネで見ました。

昨年末に見た”Oedipus”は、Robert Icke演出、Lesley ManvilleとMark Strong主演だったが、こちらの演出はHofesh Shechter (振付も)& Matthew Warchus、翻案はElla Hickson、主演はRami MalekとIndira Varmaで、話題の舞台であることは確かなのだが、それよりも、この後、同日の晩に見た”Elektra”と合わせて、なんで今、こんなにもギリシャ悲劇なのか、は考えてみる価値があるかも。1時間40分、休憩なし。

現代都市における選挙戦〜キャンペーンというイベントを軸に市民大衆とのやりとりを背景に置いたRobert Icke版に対して、時代も地域も昔のギリシャっぽく、民衆はOedipusを熱狂的に支持しつつも干魃に苦しんでいて、よき施政者であるOedipusもその対応に頭を痛めている。

でもこれ、上演時間の半分(ほどでもないか)くらいがダンス、というか舞踏とか群舞のパフォーマンスなのよね。民衆の怒り、苦しみ、歓び、などをダイレクトに表現する様式としてダンスがあるのはわかる。わかるけど見たいのはそこではないわ、になる。パフォーマンスとしてのダンス、という点では、群衆の勢いを示す舞いなので一糸乱れぬ完成度とかスペクタクルとして見せるものではなくて、ライティングもバックの音楽もそこらで拾ってきたかのように雑でてきとーで、これなら映像を使ったりした方がマシだったのでは、とか。

なので、肝心のOedipusとJocastaが「がーん」てなるシーンもやや薄まってしまった感があり、でも最後は恵みの大雨が来てみんな歓んでいるのだからそれでよいのか、になってしまう。それでよい - 権力者の悩みなんてどうでもいい、のドラマなのだ - と言ってしまってよいの?

ただ、真ん中にいて悩んだり立ちすくんだりするRami Malekの表情 - 冒頭は彫刻のような彼の顔が背景に大写し - 立ち姿はやはり見事なものであった。


Elektra

2月8日の晩、↑の後にDuke of York’s theatreで見ました。

Captain Marvel = Brie LarsonのWest Endデビュー作。原作はSophokles* (原作者名もタイトルも”c”にxをして”k”に置き換えている)、翻案はカナダのAnne Carson 、演出はDaniel Fish。休憩なしの75分 - パンクだから短い。お芝居のハシゴをして休憩なしが続くのは珍しいかも。

会場に入ると、ステージ上では掃除機みたいな投光機みたいな、複数の機械がゆっくり同じ方向にぐるぐる回っていて止まらない - 止めることができない。

ステージに現れたElektra (Brie Larson)は七部刈りくらいのショートでBikini Killのタンクトップを着てハンドマイクを手にしたパンクシンガーで、ずっとマイクを手に客席に向かって吠え続け、たまに足下のエフェクターを踏みこんでその叫びを爆裂させる。声が彼女の武器となる。特に感情 - 特に怒りの。

初めの方は父が殺されたことについて、舞台の少し奥の方で揃ってなにやらひそひそ歌っている女性たちに対して、やがては陰謀に加担していると思われる母Clytemnestra (Stockard Channing)や弟Orestes (Patrick Vaill)や妹Chrysothemis (Marième Diouf)に対して、死の真相やだれがどうして裏切ったのかなんてことよりも裏だの陰だのでやらしくごちゃごちゃ言いやがって、おとなしく黙ってると思うなよ - 表に出てこいざけんな、って。結局、これらに対する物言いは権力とか女性とか家父長制とか、自動で動いていって止められない「システム」のようなところに集約されていって止まらなくて、そういうのに対するいいかげんにしろ!をぶちまけて終わる。

Brie Larsonさんは、先週土曜日朝のBBCのSaturday Kitchenていうお料理番組(大好き)にゲスト出演していて、お料理の腕前はふつうっぽかった(包丁を握るところまで)が、今回のWest End出演については、最初は毎日同じセリフの同じ舞台を何カ月も繰り返すのなんてありえない、と思ったけど、いまはものすごく楽しい、って。また演じに来てほしい。


どちらの劇も「ギリシャ悲劇」というかんじはあまりなくて、悲劇の土壌となる権力とか民衆の居場所、のようなところにフォーカスしたメタ悲劇のようで、今ってそういうものが求められているのかも、というのは演劇を見るようになってからずっと感じている。

2.15.2025

[music] Cyndi Lauper

2月11日、火曜日の晩、O2 Arenaで見ました。これが今年最初のライブになるのか(なんということ…)。

Cyndi Lauperがライブパフォーマンスはこれで終わり、と宣言している”Girls Just Wanna Have Fun Farewell Tour”のロンドン公演。アリーナツアーは1987年以来だそうで、最後は4月の武道館になるって。

彼女に対しては、最初の”Girls Just Wanna Have Fun”からまったく異議なし!よね、のまま、ずっときちんと向き合ってこなかった気がして、一度くらいライブに行かねばと思っていたところに今回の告知がきて、でも直前になっていたしチケットの値段が高かったら.. だったのだがそんな高くもなかったので取った。

“True Colors” (1986)がリリースされたときのレコード屋で、隣にMadonnaの”True Blue”並べられていて、散々迷って悩んで、結局決められずにNew Orderの”Brotherhood”を買ったことを昨日のことのように思いだす(記憶なんてこんなゴミの集積)。

会場であるO2アリーナの最寄り駅のNorth Greenwichの掲示板(遅延が出たりした時に書きこまれる)には、いつもライブに行く人向けに、これからライブするアーティストのことが書いてあったりするのだが、今回は彼女の曲のタイトルが小さな手書きでびっちり埋めてあって感嘆する。 あれ、誰かに書いて貰っているのかしら?

客層は圧倒的に中高年の民で、グループというよりはカップルだったり友達同士、のような。みんなきれいに着飾って、肩組んで手を繋いで、ラメ率が高くて、バッグとか靴も当時からの、みたいな。フェアウェルだけど、お別れじゃないことはみんなわかってる、今宵はとにかく楽しもうと。

前座はDJのひとで、まったく悪くないのだが、客席はみんなお年寄りなのでそう簡単には動かない。

登場前にBlondieの”One Way Or Another”(邦題「どうせ恋だから」)ががんがん流れて、おうおう、ってみんな立ちあがる(...立つのか)。

で、”She Bop”から始まって、”The Goonies 'R' Good Enough” – スクリーンにGooniesの映画のスナップがいっぱい – をやって、Princeのカバーの“When you were mine”~ ”I Drove All Night”〜 あたりまでは、(自分に)ものすごく馴染む音。バンドは、ドラムス、パーカッション、ギター、キーボード、ベース、バックコーラス2 - 80年代サウンドの王道の、きらきら分離して、リズムが跳ねて、性急でも緩慢でもなくうねりがあって、を見事に再現してくれる。打楽器のコンビネーションがよくて、ドラムスはRufusやBowieのバックにいたSterling Campbellであった。

声はものすごくしっかり、やかましいくらいに(←これこれ)よく出ていて、ここでやめてひっこむ理由がぜんぜんわからないくらいだし、曲間のお喋りはこれが最後なんてどうでもいいような軽くて楽しいお喋りばかり、難点があるとしたらこれくらいか - お喋りしすぎで曲たちの勢いが止まってしまうところ(リストにあった1曲を飛ばしちゃった、って)。曲間の衣装直しでメイク室にまでカメラがいって、メイクしている間もずーっと喋っていたのには笑った。でもこのかんじなんだなー、と思ったよ。こんなふうに身の回りの出来事などを延々喋ったり、この衣装はChristian Sirianoなのよー、とか言ったりしながら、ずっと傍にいて一緒に歌ってくれた。だから、やろうと思えばいくらでもエモに感動的に盛りあげることができるはずの”Time After Time”も、客席のみんなにスマホのライトを点けさせて、ほらきれいでしょーとか言いながら(本当にきれいだった)、すっきりあっさり終わって( - 終わらない)。

アンコールの”True Colors”ではアリーナの真ん中くらいまで下りてきて、Daniel Wurtzelのインスタレーション”Air Fountain”を靡かせながらの”True colors are beautiful ~ Like a rainbow”がとっても沁みて、虹色のあとは… ってステージに向かうとスクリーンになぜか草間彌生が大写しになり、全員が白赤の水玉衣装になっていて、“Girls Just Wanna Have Fun”をぶちまけるのだが、ステージ上にはこれもなぜかBoy Georgeがいて、GirlsにBoyなのか... と。

なんか、よくもわるくもちっともFarewellのかんじのしないパリパリによく揚がったライブだった。音楽はなくてもトークライブみたいなのはこれからもやっていくのではないかしら(トークのついでにギターを取りだし…)、とか。

2.14.2025

[film] Duel at Diablo (1966)

2月7日、金曜日の晩、BFI Southbankの特集 – “Black Rodeo: A History of the African American Western”、で見ました。

これも35mmフィルムを米国から取り寄せての上映だよ、とのこと。邦題は『砦の25人』。
監督はRalph Nelson、原作はベストセラーになったというMarvin H. Albertによる1957年の小説 - ”Apache Rising”。

Sidney Poitierの初の西部劇、ということで、でも彼は主演ではないし、”African American Western”というカテゴリもちょっと違うかも。

敵も味方も沢山人を殺したり殺されたり、(いっぱい人が亡くなってほぼなんも残らん、という点では)惨い映画で、でもなんで? なにがそんなに惨いのか、をいろんな角度から考えさせる内容のものだった。決してつまんない、というのではなく、ごちゃごちゃ深くてすごい、という。

焼き殺された死体が吊るされている砂漠を馬で渡っているJess (James Garner)がいて、彼は遠くのほうに馬で砂漠を渡りながら馬と一緒に死にそうになっていた女性とその向こうに彼女を追っているアパッチを見て、アパッチを追い払って彼女を助けて町に連れて帰る。

その女性Ellen (Bibi Andersson)はその町の実業家である夫のところに戻るのだが、アパッチにさらわれて彼らの子供を産んだらしい彼女に夫も世間も冷たくて、Jess自身もその直後に自身のアパッチの妻を殺されたことを知り愕然とする。ひとりになったJessは再会した旧知の陸軍中尉のScotty (Bill Travers)から、砂漠で孤立している部隊に水を届けるミッションに誘われるのだが、とてもそんな気分にはなれない。無理やり砂漠に出されたScottyの部隊は25人の兵しかいなくて、でも砂漠を行くなかアパッチの襲撃は当然来て、そこに元軍人で馬商人のToller (Sidney Poitier)が加勢したり、アパッチから赤ん坊を奪い返した後のEllenとJessも加わるのだが、土地をよく知っているアパッチのが断然有利で水を断たれた部隊は次々にやられていって…

砂漠のなかでの戦いの過酷さや虚しさもあるのだが、それ以上にアパッチやTollerに対する差別偏見、Ellenに対するミソジニーなどが目の前にきて、それらがだんだら模様になって、銃撃もあるのだが、背後からすとんって弓矢でやられてお尻や背中に刺さってくる痛さ、がやってくる。砂漠の熱さと喉が渇いてからからのなか、なんのために戦うのか、という問いがやってきて、虚しいというよりこんなのに勝ったところでどうする、になる。(人によってはとにかく勝ったんだからぜんぶ自分のもん、て喜ぶかもだけど…)

TollerとJessのコンビは素敵だし、EllenとJessはやがて一緒になるのだろうが、60年代の西部劇で単なる原住民 vs. 開拓者・征服者の構図以上の、ベースにある(内側に当然あったはずの)他者への偏見や蔑視の構図を串刺しで見せていた、というのはすごいな、と思った。


The Learning Tree (1969)

2月5日、水曜日の晩、”Architecton”を見た後に、BFIの上と同じ特集で見ました。 邦題は『知恵の木』。

写真家として知られる(ずっと写真家だと思っていたわ)Gordon Parksが、自分で書いた半自伝小説を元に脚本を書いて監督してプロデュースもして、音楽まで自分でやってしまった作品。
アフリカン・アメリカンの監督が最初にメジャースタジオ(ワーナー)と契約して作った映画でもある、と。

1920年代のカンサスの田舎町で、主人公の少年Newt (Kyle Johnson)は勉強もできるよいこだったが、仲間達と一緒に近所のリンゴ園の木からリンゴを盗ってそこの主人を少し痛めつけたりしたら、差別主義まるだしの警官に仲間が簡単に撃ち殺されたり、別の仲間は牢屋に入れられたり、いろんなことを経験し(散々な辛い目にあっ)て少しづつ大人になっていく。きれいな構図と風景と、大人になるにつれて見えてくる人種差別の泥沼のコントラストと、それでも前に歩もうとする主人公の強い眼差しと。

時代もトーンもぜんぜん違うけど、これが50年以上経つと”Nickel Boys” (2024)のようになるのか。
共通しているのは、アフリカン・アメリカンの子供の命なんて簡単にどうとでもできる、と思う白人男たちの救いようのない軽さ、傲慢さ。

これがいままた復活しようとしている…(吐)

2.13.2025

[film] Architecton (2024)

2月5日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

豚さんのドキュメンタリー(ぽい)”Gunda” (2020)がとても好きだったロシアのVictor Kossakovskyの監督作。

“Gunda”がナレーションとか特になくても、なんとなくどんなものか(どんなものだ?)わかったのと同じように、流れていく画面を追って見ているだけであっさり終わってしまう。

風景全体とか岩場まるごととか、スケール大きめ、って思わせる画面が続いていくからか、IMAXでも上映される回があった(これなら行けばよかった)。

岩石とか瓦礫とか廃墟とか廃材とか、そんなのばかりが流れていく。「自然」の光景というよりは、岩を切りだしたり積みあげたり、山肌を爆破したり、戦争で部分部分が穴だらけで人影のない建物(ウクライナだそう)とか、地震災害で破壊された建物(トルコだそう)もあり、自然を眺めるのと同じスケールで(視界まるごとを支配するように)そこにある、でっかい人工物(のなれの果て) - でも人間はほぼ映らない - がナレーションも字幕もなしに、次々と映しだされて、それだけなのに、スペクタクル!というか、よくもまあ… みたいなかんじにはなる。

もうひとつは仙人みたいなおじいさん(イタリアの建築家/デザイナーのMichele de Lucchiだそう)が、どこかの遺跡を見ていったり、自宅の庭に石を円形に並べてストーンサークルのようなものを作っていく(実際に作るのは大工のような人たち)様子も描かれる。

最近の映画だと”The Brutalist”があったし、あとJóhann Jóhannssonの”Last and First Men” (2020)とか、でっかくてブルータルな建造物の映画とか、爆破シーン(好きな人は必見)はMichelangelo Antonioniの”Zabriskie Point”(1970)の飛び散るとこを思わせたりするのだが、あれらよりはとても穏やかに厳かに、なんで人はあんな重い石を掘って、切り出して、運んで、積んで、賞賛したりうっとりしたりして、それをまたぶっ壊したりするのか/してきたのか、を考えさせる。それらはほぼ黒と灰色と茶色で、とても男性的な力強い何かを思わせる - 自分だけか? あと、木造建築についてはまったく別種のなにか、であることもなんとなく確認できてしまう不思議。

これらの建造物(or廃墟)は、少なくとも始めは人間のために造られ、建てられたものであったはず、なのに、(特に壊された後のほうは)人が立ち入ることを頑なに拒んで閉じてそこにある、建っているように見える。そこでは人が亡くなっているのかもしれない。ただの遺物、墓石、ランドアート? アートでよかったの? とか、アートとは?みたいなところまで考えがとぶ。

最後のエピローグで、監督とMichele de Lucchiがストーンサークルの前で対話をする。人はなんでつまらない、醜くしょうもない建築を建ててしまうのでしょうか?と。

これは本当にそうで、でも人はしょうもない映画も、しょうもない料理もいっぱい作るし、そういうのに嬉々として向かっていく人もいるし – でも映画は見なければよいし食べ物は食べなければよいだけ。 建築は見たくなくても目に入ってくるし、ものすごいお金と時間と人手をかけて作っていくもので、そういうのも含めて考えるとうんざりするくらい嫌になる建物ってあるよね。ロンドンにもあるけど、東京のゼネコンの建てるのとかって、なにあれ、みたいなのがあまりに多い。紙とか板とかをベースに考えているから? など。

[film] Becoming Led Zeppelin (2025)

2月6日、木曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
“Preview”とあったのだが、一日に何回も上映しているし、一般公開とどこが違うのかは不明。

Led Zeppelin初のオフィシャル・ドキュメンタリーだそうで、晩20:30過ぎの回でも結構埋まっていた。どうせならでっかい音で見たいし。

生き残っているメンバー – Rober Plant, Jimmy Page, John Paul Jonesの3人から話を聞いていくのと、亡くなったJohn Bonhamについては過去のインタビュー音声から生い立ちとか、使えそうなところに注記を入れてあてている。3人全員が一堂に会して顔を合わせて会話する場面はなくて、各自が好きなこと(自分に見えていたこと)を好きに語っているだけのようにも見える。

3人の生い立ちについては、ものすごく普通で、両親がドサ周りのボードヴィル芸人だったというJohn Paul Jonesを除けば、ふつうの家庭でふつうに音楽に囲まれてギターも買ってもらえて、自然と人前で歌ったり演奏したりするようになり、そうして既に十分に実力がついていた彼らが集まったのだから、そしてそれなりに努力してアメリカでもがんばったのだから、ああなるのは当然、みたいな描き方で、そりゃそうでしょうよ、しかないし、この程度ならふつうのファンなら知っていたのでは、くらいの薄くぺったんこな流れ。

彼らに酷いことをされた女性や関係者の証言、飲んだくれてホテルをぐじゃぐじゃにした、などいろんな狼藉に武勇伝、闇に葬りたいであろう過去のあれこれはきれいにクレンズされてこれぽっちも触れられず(なるほど「オフィシャル」)、とてもクリーンに齢を重ねた善良なお爺さんたちから輝かしい昔話を聞いていくかんじ。そんなはずねーだろ、と思う人には物足りないかも。

長さは2時間くらいで、半分を経過してもまだ1stの話をしているのでこの先だいじょうぶか? になったのだが、途中でそうかこれはドキュメンタリーの最初の1発なのか(Becoming..)、って。 なので、本作は2ndのアメリカでの成功と、それを受けてのRoyal Albert Hallの凱旋公演までで終わっている。たぶんこの後にあと2~3本続くことになるのではないか。さーすーがーにせこいジェイムズくん、だな。

Led Zeppelinについてはものすごい好き、というわけでもなく、LPもぜんぶ持っているわけでもないし、1番好きなのは1stと”Presence” (1976)くらいで、渋谷陽一があんなにわーわー騒がなかったらな、というか70年代ハードロックを聴いてうんちくたれてたうざいおやじ達(もう、じじいか..)がものすごく嫌で嫌いで、あれらがなければもう少し素直に向き合えたのかも、くらい。ほんとあの連中、なんだったんだろうか(いまだとシネフィル気取りのおやじ達になるのかな)。

でもとにかく、”Good Times Bad Times”のイントロはかっこよいと思って、この映画の予告でもがんがんかかるのでうれしい。

でっかいスクリーンで見て改めて思ったのは、ほんとに当時のメンバーはきらきら白人男性の典型で(いまのメンバーはしおしおで)それであんな音を出していたのだから冗談みたい、それこそ青池保子のあの漫画そのまま - 久々に読みたくなったかも。 なので、ディランのよりもビートルズのよりも、今の旬の男優たちを集めてバイオピック作ったらぜったいに客を呼べるネタになると思うのだが、やらないのかなあ?

2.10.2025

[film] Sergeant Rutledge (1960)

2月2日、日曜日の午後、BFI Southbankで見ました。

今月から始まった特集 – “Black Rodeo: A History of the African American Western”からの1本。BFI、今月はChantal Akerman特集だけでお腹いっぱいなのに、これに加えて、”The Films of Edward Yang: Conversations with a Friend”ていう特集もある。あれこれ忙しいってのに、いいかげんにしてほしい。 

監督は問答無用のJohn Ford、邦題は『バファロー大隊』 - 原題の「ラトレッジ軍曹」でよいのに… 黒人俳優を主役に据えた最初のハリウッド西部劇 – らしいがオープニングタイトル上は、主役扱いではなかったような。

35mmフィルムでの上映で、米国から来るはずだったフィルムが、クオリティがあまりよくなかったので、急遽スウェーデンからの手配に変わった – スウェーデン語字幕が入っているけど許してね、と冒頭に説明があった。ものすごくきれいなテクニカラーだった。どうでもよいけど、西部劇とかカンフー映画の上映素材って、適切なプリントで上映するためなら命がけ(ではないけど)でなんとか海を越えて運んできたりするよね – 米州X欧州の場合。

舞台は1881年の、西部劇というよりは法廷劇で、第9騎兵隊のBraxton Rutledge1等軍曹(Woody Strode)の軍法会議を中心に展開していって、証言に基づくフラッシュバックで法廷の場と過去の現場を行ったり来たりする。Rutledgeの弁護に立つのは同騎兵隊の将校でもある若いTom Cantrell (Jeffrey Hunter)で、野外の掘っ立て小屋のような議場は、暑くて騒がしい村人たちや着飾ってお喋りするご婦人たちで溢れていて、そのだれた雰囲気に苛立つ判事たち - 水の代わりに酒を飲んだりしてる - も含めて、きちんとした裁きが行われるとは思えないかんじ。

Rutledgeは白人の少女をレイプして殺し、更にその父親で指揮官も殺した容疑で連れてこられていて、まずはMary Beecher (Constance Towers)が証人として立って、Rutledgeに命を救ってもらった、と証言するものの、全体としては殆ど喋らず不動で弱さを見せようとしない(親しかった彼らにそんなことをするわけないではないか、と無言の)Rutledgeに疑念が向かい、この雰囲気を覆すことは難しいように思われて..

フラッシュバックで犯行時の現場の映像も出てくるものの、全体に夜の闇のなかで事件は起こるので、見ている我々にも実際にあったこと -彼がやっていない証拠 - が明確に示されるわけではなく、他方で、Rutledgeを犯人として見ている(別の可能性を頑なに考えようとしない)白人たちの、犯人は彼に決まっている、から、どうしても彼に犯人であってほしい/彼でなくてはならない、の確信を固めて深めて同意を得ようとする、その意識の流れのなかに見ている我々をも引きずりこんで、結果として人種偏見や差別のありようを、少なくともその構成要素のようなものを見せる。それは、公民権運動が盛りあがり始めた当時のアメリカに向けた(それどころかいまの我々の社会にも十分、嫌になるくらいに通じる)過去の他人事にはさせない作劇で、今回は決定的な証拠が見つかったので落着するのだが、それがなかったらどうなっていたか、も含めて考えさせて、最近のだと”Juror #2” (2024)と同じくらいの難しさと手元の緊張をもたらす。

法の裁きの必要性と正当性を示しつつも、そこまでで、裁きの場に来る前に闇で消されてしまった可能性だってあった、そんなような正しさ、正義、という点ではまだ弱いのかもしれないが、John Fordがこういうのを作って、あるべき道のようなものを示した、というのは決して小さくなかったのではないか。

そういうのとは別に、軽くもなく重くもない、立ち止まって考える隙を与えない、手に汗握るおもしろさ、というのはあって、あれはなんなのだろう、って。

[film] Chantal Akerman par Chantal Akerman (1997)

2月1日、土曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

2月〜3月は、ここを中心にChantal Akermanの大規模な回顧特集 - “Chantal Akerman: Adventures in Perception”があって、その最初の上映。

BFIの大看板は本特集のChantal - 基調色はJeanne Dielmanのガウンとカーディガンと部屋の色 - になるわ、Sight and Sound誌のChantal特集号は過去のインタビューやレビュー(J. HobermanがVillage Voiceに寄稿したのとかJonathan Rosenbaumの過去の論考とか)を網羅して大充実だわ、Soho のマガジンスタンドのウィンドウが一面これの表紙で埋まっているわ、”Jeanne Dielman, 23, quai du Commerce, 1080 Bruxelles” (1975)は公開50周年記念で全英でリバイバルされるは、このBFIの特集もフルではないが英国をツアーするそう。 この裏で何が進行しているのか(しねーよ)知らんが、ありがたく見ていきたい。

でもこの初回の上映も含めてあまり盛況とはいえない - Sold-outしたのはないかも - という客の入りで、それはそれで納得かも(満員だったらちょっと変)。

コロナでロックダウンしていた頃、Chantal(とAgnesの)は配信で結構見たので今回はそんなに行かなくてもよいか、と思っていたのだが、中編〜2時間いかない作品の上映にはおまけのようにTV放映されただけの短編作品などの併映がついていて、これらって見ていたかしら? というのも多くて、結局見てしまうことになるのだった。 以下、上映された順番で。


Akerman – Examen d’entrée INSAS – Knokke 1967 (Films 1-2)
Akerman – Examen d’entrée INSAS – Bruxelles 1967 (Films 1-2)

Chantal Akermanが国立の映画学校(INSAS)の入学用にモノクロの8mmフィルムで撮って提出してAcceptされた作品、というか全部で4つ、ぜんぶ足しても14分程の断片。Chantalの友人の女性が夏の町を歩いたり靴屋に入ったり花火を眺めたり、の昔のアルバム。一瞬だけ写っているのはChantalのお母さんなの?


Saute ma ville (1968)

↑で入学した学校をさっさと中退して、18歳のとき、いきなり撮りたいんだ!と思いたち35mmで一気に撮ってしまった彼女のデビュー作 - 13分。 英語題は”Blow Up my Town”。

しゃかしゃかしゃかどっどっどぅーとか口の中でせわしなく音をたてたり呟いたりしながらChantalがアパートらしき建物に駆けこんで、そのままリフトで上にあがって(おそらく)自分の部屋に入って入り口をテープでとめて、花を飾ってスパゲッティを食べて靴を磨いて掃除をして、ガス栓を開いてどっかーん。

世界で最初かつもっともパンクな〜 パンクなんてなかった頃だけど、こういうもん、ということを示した映画だと思う。ゴダールみたいに臭くないし。 最初にこうして自分を粉みじんに吹っ飛ばしてしまったので、この後の彼女(たち)はどこにだって行ける、現れるようになった。


Chantal Akerman par Chantal Akerman (1997)

↑から更に30年が過ぎて、Janine BazinとAndré S. Labartheによる”Cinema of Our Times”というTVシリーズ?の要請を受けて彼女が自分で自分を紹介していく。(このシリーズ、すごい面々が出てくるのね)。

最初にカメラに向きあったChantalが自己紹介をして、そこから自身で編集したと思われる自作品を繋いでいく。

改めて彼女の作品の主人公たちのカメラとの距離について - カメラはあくまでChantalの目とボディとなって、その距離を保ちつつ被写体に接していく。その距離のルール、法則のようなものはずっと維持されているような。あとは光に対する/向かう態度 ~ いろんなスイッチのオンオフとか、窓を開ける動作とか。

抜粋映像集でおもしろかったのは、”Les Années 80”(1983)でブースで歌うAurore Clémentの前で腕をぶんぶん振りまわしながら指揮(?)をしている姿と、”Jeanne Dielman”の靴磨きのシーンと”Saute ma ville”のそれを繋いでみせたところ、とか。 なんでそれが - それをどうしておもしろいとおもってしまうのか、を考えさせてくれる、自分はそういう映画を好きなのだな、と改めて思った。 のと、それと関係しているのかもしれないが、何度でも見たくなる。それは記憶の答え合わせをする、というよりも、別の新たな出会いがあることを期待しているかのような。そしてそれは間違いなくやってくるの。

あと、彼女のどの映画にも共通したやかましさ - 絶えず落ち着かずにがちゃがちゃなんか鳴っていたり騒がしかったり、それは彼女自身がそういう人だったから - という辺りはじっくりと見ていきたい - もう見てる。

2.07.2025

[theatre] The Years

2月1日、土曜日のマチネをHarold Pinter Theatreで見ました。 
昨年Almeida theatreで上演されて、Guardian紙の2024年演劇ベストとなった作品のリバイバル(?)。

原作は2022年にノーベル文学賞を受賞したAnnie Ernauxの小説、”Les Années” (2008) - 「歳月」(未訳?) - マルグリット・デュラス賞、フランソワ・モーリアック賞を受賞している。脚色・演出はオランダのEline Arboで初演もオランダ。彼女はこれの前にはMichael Cunninghamの”The Hours” (1998)の劇作もしている(見たい…)。 

小説では「彼女」とされているErnaux自身を世代の異なる5人の女優が演じていて、各自が名前で呼ばれることはない。第二次大戦の少女時代から00年代初まで、約70年間を彼女(たち)はどんな顔、貌で過ごして、生きてきたのか。彼女たち全員、ずっとステージ上にいて、男優はひとりも出てこない。

時代の切れ目には白いシーツを背景にその時代の主人公となる「彼女」の肖像写真を撮るシーンがはさまる。彼女はどんな表情、姿勢で世界に向かっていったのか - そして、その背後にある世界は大戦後の混乱期から、アルジェリア紛争、60年代の学生運動、ヒッピーの自由、新しい技術、バブル、結婚、倦怠、など、激動ではないが変わるものは変わる - 時代時代の空気を反映して、当然年齢と共に彼女(たち)の服装も態度も表情も変わっていく。 その時代の纏い方、文化や音楽の使い方、その相互に変わっていく姿に違和感はなくて、それが彼女(たち)の像と歳月(The Years)と共にどう変わっていったのか、変わらないもの、忘れられたもの、忘れられなかったものはなんだったのか、彼女(たち)はどう向かいあっていったのか、など。 肖像写真の背景となった白いシーツはドラマのなかで汚れたり汚されたり落書きされたりして、それらは時代ごとに幟のように掲げられ、あるいは壁の落書きのように貼られてそこにずっとある。

これのひとつ前に見た映画”Here” (2024)も、こんなふうに描かれるべきものだったのかも知れない。(タイトルは”There”、かな)

Annie Ernauxの別の小説 -『事件』を映画化した”L'evénement” (2021) -『あのこと』でも描かれた(当時違法だったので闇で実行した)堕胎のシーンはこの舞台にも出てきて、やはり怖くて凄惨で、気分が悪くなってしまった客がでた、ということで急遽15分くらいの中断があった。それくらい血まみれの息がとまる場面で、中断後に止まったところからすんなりそのまま再開したのを見て俳優さんってすごいな、って改めて思ったり。

それぞれの時代における彼女(たち)の「生きざま」を問うようなものではないの(そんなの問うてどうする?あんた誰?だれが何の資格があってよいとかわるいとかいうの?)。 彼女は例えばこんなふうにしてあった、ということ、人間関係や社会や歴史がどうあろうと、数十年かけて、彼女は自分の足で立って歩いて舞って、こんなふうに生きたのだ、わかるか? って。 最後、汚れてくたびれた布に、彼女たちひとりひとりの顔がモノクロで投影され、それがステージ上をゆっくりと回っていく。そうやって語られる”The Years”。 個人史と社会史は、例えばこんなふうに交錯しうるし、影響を与えあうのだ、と。20世紀の真ん中から21世紀にかけて、だけじゃなくて、実はずっとそうだったんだよ、何を恐れることがあろうか、って。 日本でも上演されてほしい。とても強く、でもぜったい正しい - 時間が流れていく、その正しさとは例えばどうやって示されるのか、を考えさせる舞台。

ラスト、主演の5人の表情と立ち姿がすばらしくよくて、もう一回見たい。

2.06.2025

[film] Here (2024)

2月1日、土曜日の昼、IslingtonのVueっていうシネコンで見ました。

英国の公開日は1/17だったのに、もうロンドンの中心部ではない少し外れたシネコンで朝と晩の2回くらいしかやっていないのだった。

監督はRobert Zemeckis、共同脚本にEric Roth、原作はRichard McGuireの同名グラフィック・ノベル(2014)。原作本は出てすぐの頃にNYで買って転がして遊んだりした。

ううむやはりそうか(ちょっと安易すぎない?)、というかんじで、画面(スクリーン)はひとつの家のリビングの窓に向かって固定で、最後までほぼ動かない(最後の最後に少し..)。その固定の枠のなかに小さな窓ができたり開いたり、その窓が広がって画面全体を覆ったり縮んで消えたり、でも視野の枠はあくまで変えず変わらず。その枠のなかで先史の、古生物や恐竜がいて、隕石が降ってきて焼き尽くして氷河期がきて、原始人が現れて、ネイティブ・アメリカンがきて、独立戦争の時代になって、正面に邸宅ができて、大きなリビングをもつこの家が建って、リニアだとこんな流れになっていく景色を伸縮自在の小窓経由でランダムに行ったり来たりしていく。 恐竜や原始人の家族までカバーするわけにはいかない(なんでか?)ので、飛行士とその妻、リクライニングチェアを発明した男と陽気なその妻、主人公の2世帯の後に入居するアフリカン・アメリカンの家族(コロナが来て家族が亡くなる)、そしてメインに来るのは戦後、この家を買ったAl Young (Paul Bettany)とRose (Kelly Reilly)の夫婦と、その息子のRichard (Tom Hanks)、大きくなったRichardが連れてくる妻Margaret (Robin Wright)、間を置いてよぼよぼになったRichardが家を買い戻しにやってくるシーン、同様に老いてすべてを忘れてしまったMargaretを連れてくるシーンもあったりして、彼らがCGなのか特殊メイクなのか(… AIなんだって)、若い頃から老いた頃まで演じ分けて、でも別にこんなのを見せたいわけじゃないよね。

Alも息子のRichardも、家族のために自分の夢を捨てて、ふたりの妻たちはそんな夫たちに泣いたり振り回されたり、典型的な戦後のメロドラマ、家族ドラマのテンプレが展開される - その背景には不眠不屈のアメリカン・リビングがあり、そのリビングではサンクスギビングで家族親族が集まるディナーが懲りずに繰り返され、そういう最大公約数のようなところに集約されるアメリカの”Here”。みんなの記憶が集積される想い出アルバムのような造りで、でもそうやって懐かしまれる、あったあったねえー、ではなく、そういうページ、レイアウトされた歴史のありように気付く → 自分の”Now”に思いあたる、ということが原作本のコアにあったはずで、それは映像で説くのは難しいから、こっちのわかりやすい方に落としたのか、とか。

この導線ってやはり物理的な、キューブみたいな本だったからおおー、ってなったのではないか。

これが日本のだったら、溝口の格子模様(畳と障子)のなかに展開される、家父長制がちがちの金太郎飴的に明白なのができあがったはず(見たくない)。
これがイギリスのだったら、“Here”に幽霊から妖精からいろんなのが湧いてきてわけのわかんない、でも300年くらいそのまま同じ景色になるのではないか(見えるわ)。

Christopher Nolanがやったらどうなっただろう? まちがいなくあの本棚が”Here”になって、過去と未来は繋がっているので、いつまでどこまでいっても“Here”のままで止まってしまうの。でも本がいっぱいあるならずっとそこで過ごせるよ。

Tom Hanksのおうちネタといったら”The Money Pit”(1986)で、あれと同じことをやってくれるかと思ったのにー。

2.04.2025

[film] Saturday Night (2024)

1月31日、金曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

この作品は、昨年のLFFのシークレット上映(直前までタイトルが発表されない)枠で公開されて、発表直後にはみんなわーってなったのだが、その後に急に静かになったので、あれかな.. と思ったらやっぱり評判は散々なのだった。監督はJason Reitman。

でも、Saturday Night Live (SNL) ~当初は”Saturday Night” - は大好きでずっと見てきたので、公開初日に見る。 予告を見るまでもなく、つまんなくなるのはわかっていたのだが…

1975年の10月11日、土曜日の晩、生放送のコメディーショウの本番の数時間前の、プロデューサーLorne Michaels (Gabriel LaBelle)の経験した地獄のような底なしの混沌をライブで追っていく。ロックフェラーセンターの下で(Finn Wolfhardが)客寄せをしても客はちっとも寄ってこない、局の重役(Willem Dafoe)はがみがみうるさい、リハーサルはできているのかいないかぐじゃぐじゃ、John Belushi (Matt Wood)は契約書にサインすらしないでぼーっとしている、等、いろいろどうしようもない状態で本番の時が近づいて... をじりじり逐次で追っていく。

この日が失敗に終わっていたら、現在のSNLは存在していないのだが、番組もLorne Michaelsもいまだに健在なので、この晩はどうにか切り抜けたのだ、ということはわかっている - だとしたらそこにどんな魔法や奇跡があったのか起こったのか。この映画を見る限り、魔法なんて起こらなくて、ごちゃごちゃの中、なし崩しで放映が始まって、そのまま50年間続いてしまった、ということになる。それはそれで痛快なことのだろうが、映画としてこの描き方はどうなのか。

映画を見る前から感じていた、つまんないだろうな、というのは、この番組の、何が起こるのか飛びだしてくるのかわからない、そのはらはらをうまく再現できるとは思えないし、それらはアドリブ芸しかないような神経と瞬発力を持ったコメディアンたちが綱渡りの曲芸で渡ってきた - そんなライブの醍醐味を後付けで再現しようとしても… ということ。70年代の伝説のライブを、「伝説」だから、って別のミュージシャンを連れてきてカバーして見せてもしらーってなるであろうのと同じで。

わたしがSNLにはまったのは90年代初のNYで、Chris FarleyがいてAdam SandlerがいてDavid SpadeがいてNorm Macdonaldがいて、次のは00年代のはじめのWill FerrellがいてJimmy FallonがいてTina FeyがいてMaya Rudolphがいて、そういう頃で、どのスケッチも英語なんてわかんなくても異様におもしろくて、それでもやはりこういったスタイルと構成を編みだした初代メンバーの恐ろしさとリスペクトはあちこちに感じることができたし、いまアーカイブを見てもすごいな、ってなるし。

でもこの映画では、本番開始前なんてそんなもん、なのかもしれないけど、John Belushiはただのむっつりした変人だし、Andy Kaufmanはどこがおもしろいのかちっともわからないし、Chevy ChaseもDan AykroydもGilda Radnerもいるかいないか、ものすごく薄いし、現場がパニックになっていくなか、Lorne Michaelsはひとり涙目になったり開き直ったり、そんな程度で、なんでどうして本番にGoを出せたのかぜんぜんわからないただの修羅場、しかないの。

なにか新しいことを始める時って、だいたいそんなものだ、なんてしたり顔の言い草は聞きたくないしー。いや、そんなことよりも何よりも、SNLへの愛をあまり感じることができないのがどうにもしんどい。

SNLがどういうサークルだったのか、だったらこないだリリースされたドキュメンタリー“Will & Harper” (2024)のがよりよくわかるかも。


建物の前の人工の小さい池に落ちて、膝を切った。ライブハウスに行く時に転んだ時の膝の反対側。あれこれダメすぎる。

[film] A Warm December (1973)

1月30日、木曜日の晩、BFI Southbankの特集 – “Sidney Poitier: His Own Person”で見ました。

もう1月は終わってしまったので、この特集からは2本しか見れなかったことになる。残念。 上映後に主演女優のEsther Andersonとのトークつき。

Sidney Poitierは主演のほかに、監督 – これが初の単独監督 - もしている。 邦題は『12月の熱い涙』。

アメリカで、Dr.と呼ばれているのでなにかの医者と思われるMatt (Sidney Poitier)は、一人娘のStefanie (Yvette Curtis)とモーターバイクと一緒にイギリスに長めの休暇に出る。現地で友人とも楽しく再会したあたりで、怪しげな男たちに追われて困っている女性を体で隠して助けたあたりから彼女のことが気になり始めて、そしたら行く先々で何度も怪しい連中こみで見かけたり会ったりすることになって、きちんとした形で会ってみると彼女はCatherine (Esther Anderson)という名の、アフリカのどこかの国の大使の姪で、彼女を追っかけていたのは彼女の御付きの連中であったことがわかる。

Catherineは語学に堪能で、特にアフリカの文化には造詣が深くて、一緒にパーティなどに出たり楽しく過ごしていくと、早くに妻を亡くしているMattはあっという間(あんなあっさり簡単でよいのか)にCatherineと寝てしまい、彼女付きの連中に睨まれながらも馴染んでいって、Stefanieとも一緒に出かけたりするのだが、ヘリコプターに乗った時にCatherineの様子がおかしくなったことに気付いて、医師なので更に細かく調べてみると難病であることがわかって…

そうか難病モノだったか、と思ったのだが、ここでの難病のありようは、ふたりで楽しく過ごそうとしていた時間を壊してしまってどうしよう.. ってあたふたするその繰り返しが主で、それって子供の頃にTVでやっていた山口百恵主演のシリーズ(親に見せて貰えなかったけど)と似た70年代テイストの、いなくなったら辛くて死んじゃう、というよりも、とにかくなんとかしなきゃ、という焦りが前に後ろにつんのめっていくような類のやつで、そんなに怖くなくて悲しくもならなくて、国にとって大切な王妃のようなお嬢さまがそんなふうに野放しでよいのか、って最初の問いに戻ったりするものの、とにかく大変そうなかんじは伝わってきて、でもそこまでなの。

『ローマの休日』 (1953)+『ある愛の詩』 (1970)から影響を受けた、とあって、このふたつの映画の合成となると、どっちにしてもすごく大変な事態(当事者たちにとって)だと思うのだが、真ん中のふたり - Sidney PoitierもEsther Andersonも - それらをなんか、なぜか超然と受けとめていて、最後も無事を祈る、みたいに飛行機でふわっと飛んで帰っていっちゃうので、見ている側としてもとにかく無事を祈る、しかないのだった…  

あと、これはこの映画に限った話ではないのだが、70~80年代のロンドンが舞台だったりすると、これどこだろ?ってきょろきょろして落ち着いて見ていられなくなるのはよくない。

上映後のEsther Andersonさんのトークは、映画のCatherineがそのまま活動していったら、と思わせるようなエピソードだらけでびっくりした。

1943年のジャマイカに生まれてChris Blackwellと共にIsland Recordsの設立に関わり、Bob MarleyやJimmy Cliffといったレゲエ・ミュージシャンの紹介をして彼らの写真を撮って.. えーとつまり、この人がいなかったらジャマイカの音楽がイギリスのパンクとぶつかってあんなふうになったりすることもなかったかも… とか? あと3時間くらい話を聞きたかったかも。

Sidney Poitierの撮影現場はとても楽しくて、彼はあのイメージ通りのすてきな人だった、っていやそんな知ってることよりもー。

トークが終わって、彼女のところに挨拶に来た人に「ラスタファーライ」ってものすごくナチュラルに挨拶してて、おお! っていちいち。

2.03.2025

[theatre] The Little Foxes

1月29日、水曜日の晩、Young Vicで見ました。

原作 (1939)はLillian Hellman。彼女の戯曲が上演され、俳優の声と共に演じられるとどんな形になるのかを見たい - 演劇を見始めておもしろいと思うようになったのはこの辺で、原作の(今の時代における)位置づけ以上に、そこには演出家による解釈があり、過去からの上演の歴史があり、主演俳優(の選定)による重みづけがあり、時代の要請のようなものもあり、それらの交点として、今ここの舞台ってあるのか、など。演出はLyndsey Turner。

過去の舞台で主人公のReginaは、Anne Bancroft、Geraldine Page、Tallulah Bankhead、Elizabeth Taylor、Stockard Channingといった錚々たる女優たちによって演じられてきたのね。

あと、1941年にはWilliam Wylerによって映画版も制作され、Lillian Hellmanはその脚本も書いている(一部でDorothy Parkerが協力)。映画版でReginaを演じたのはBette Davis、夫のHorace 役はHerbert Marshall、撮影はGregg Toland … ものすごく見たい(1930〜40年代のWilliam Wyler監督作品はぜんぶ見たい)。IMDbにはリリース直後の『市民ケーン』が当たらなかったので、これと二本立てで再リリースされた、なんて書いてある…

舞台は横に長くのびているリビング、奥にスライドするドアがありその向こうにもう一つの部屋があって、その中で男たちがひそひそ打合せ(悪だくみ)などをしたりしている。

20世紀初めのアラバマ、南部の裕福な家庭に生まれながらも、その富や栄誉を享受しているのは Regina (Anne-Marie Duff)の兄たち - Ben (Mark Bonnar)とOscar (Steffan Rhodri)で、彼らが特に腹黒いわけではないのだが、Reginaからすれば彼女がどれだけがんばっても得られないものを、男性であるというだけで当然のものとして手にして/手にできるものと何の迷いもなく信じていて、彼女は自分の言いなりにできそうな脚が不自由で車椅子のHorace (John Light)と結婚して歯を食いしばって耐え、株の買い占め、政略結婚などによる強引な財産(だけでなく精神的なところも含め)の寡占に抵抗すべく、誰にも頼らずひとり策謀を練って実行しようとする。親族にはBenの妻であるBirdie (Anna Madeley)や自分の娘Alexandra (Eleanor Worthington-Cox)といった女性たちもいるが、もはや自分しか信用できなくなっている。

Anne-Marie Duffの演技は十分にふてぶてしく邪悪で力強いのだが、なんで彼女がそうなって、そこまで酷い仕打ち - 夫の心臓発作を放置とか - をするまでになってしまったのか、の背景 - アメリカ南部の男性中心社会の(相続なども含めた)圧倒的な理不尽・不均衡 - がきちんとかつ十分に語られないので、ただのぺったりした悪女もので終わってしまっているようなー。積もり積もった愛の不在と無意識的なところも含めた集団的な女性卑下・蔑視がずっとあったから、という女性の入り込めない土壌をはっきりと示して、その上で/それでもー というところに繋げないとReginaの悪は生きたものにならない、よね。

Lillian Hellmanの原作が戦後の復興期に出されたこと、それを善悪の境界を突き抜けた強さ・存在感をもつ女優たちが演じてきたことには意味があったし、それがいま(だけじゃなく)再演されることにもはっきりと意味はある、はずなんだけどー。というような難しさを抱えた舞台になってしまうのだなー、というのはわかったかも。


2.01.2025

[film] A Complete Unknown (2024)

1月27日、月曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

帰英したら真っ先に見ようと思っていたのだが、いまこちらの映画館で一番に掛かっているのは“The Brutalist”で、他には”Maria”とか”Emilia Pérez”とか、オスカーに向けて横並び状態なので、そんなに騒がれていないかも。

監督はJames Mangold、脚本は彼とJay Cocksの共同、原作はElijah Waldによる2015年のBob Dylanの評伝本 - ”Dylan Goes Electric!”。 あの邦題はよくわかんない。これは断じて「名前」や名声を巡る話ではない(そこもひっくるめての、なのか)と思う。

Dylanを演じるTimothée Chalametについては、先のSNLのパフォーマンスで嫌になり、その後の彼の露出の仕方、売り方を見て、あーこういう人なのか、と距離を置くようになった。

1961年にNYにやってきたBob Dylan (は、まず病院でほぼ寝たきりのWoody Guthrie (Scoot McNairy)と彼の面倒を見ているPete Seeger (Edward Norton)と会って、ギターで一曲弾いて聞かせて、それからNYのフォークシーンに出入りするようになって、いろんな人々と出会って、そこから我々の知るいろんな伝説が渦を巻いていくわけだが、それらすべては、まず彼が手にするギターと歌によって導かれて、まずは彼の音楽を起点とする、というルールが場面を貫いて掟のようにある、という点でこれは紛れもない音楽映画で、音楽が途中でぶちっと切られて次のシーンへ、のようなのが殆どないのはよかった。いい曲だねえ、って首を振っているうちに140分経っている。

最初のガールフレンドが、あのジャケット写真で有名なSylvie Russo (Elle Fanning) - 実際の名前から変えてある –で、そこから既にシーンのスターになっていたJoan Baez (Monica Barbaro)のところにも入り浸って行ったり来たり。あとはManagerとなるAlbert Grossman (Dan Fogler)がいて、Johnny Cash (Boyd Holbrook)がいて、Bob Neuwirth (Will Harrison)、Al Kooper、Mike Bloomfield、などが順番に現れる。 テープレコーダーをいじっているAlan Lomax (Norbert Leo Butz)が映ったのがうれしかった。 朝ドラの枠(15分)で、一日一曲、彼らとの出会いをずっと繰りひろげていくのが見たい。

こんなふうに彼を求めて周囲にいろんな人物がひしめいていく反対側で、Dylan本人はほぼ何も語らず、思わせぶりに微笑んだり殴られたり、いつの間にかできあがっているような曲を場面場面で歌って去っていくだけ。もちろん、歌うことで何かが明らかになったり解決したりするわけではなく、聴かされた人々はその場で痺れて動けなくなる、それはそれで恐いと思うが、そういうかたちで伝説が練られていった - Dylan本人に対する謎と、その重ね着と、その上に積もっていく人気と売り上げ、これらに埋もれてどんどん見えなくなっていく彼 – これが”A Complete Unknown”というもので、彼に恋をした女性たちからすれば地獄だと思うが、それらも含めて”A Complete Unknown”で、かっこよくて、曲がよければよいの? など、そういう形で示されていく彼の周囲の文化のありよう、その蓄積? 変容? のようなもの。

Newport Folk FestivalでDylanがエレクトリックを鳴らすかもしれない、となった時の周囲の混乱と困惑がクライマックスで描かれて、ずっと父親のように彼を見てきたPete Seegerは、これまでのフェスが培ってきたよき「伝統」が壊されてしまう懸念を表明するのだが、結果はみんな知っているとおり。 この音楽映画に欠けているものがあるとすれば、そんな全方位からの抵抗に抗ってもなお、彼をエレクトリックに向かわせたものは - 苛立ちなのか懐疑なのか嫌悪なのか、単なる好奇なのか - 何だったのか、を彼の視野 - 彼が当時見たり聞いたりしたもの – から拾いあげることで、それがないので、これらはぜんぶ彼の勝手で、それは彼が天才だったから、で終わってしまう。それは事実なのかもしれないけど、そうでもないことも知っている。 だって当時の音楽はフォークもエレクトリックもとんでもなく豊かだったのだから。

もっとエレクトリックのビリビリしたかんじ、スネアの炸裂があったら、なぜフォークの人たちはあんなにもこういうのを忌み嫌ったのか、などもわかったかも。

この映画のTimothée Chalametは確かにかっこよいのかもしれないが、当時の実物のDylanはこれを遥かに上回って素敵だった(はず)、ってこれは年寄りが言い続けるしかないのか。というか若い子にDylanを聞かせるにはこうすればよいの、って。

これを見ておおー、ってなった人は3月のCat Powerの来日公演、行ったほうがいいよ!

1.31.2025

[film] Presence (2024)

1月28日、火曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

Steven Soderberghの新作、脚本をDavid Koeppが書いていて、昨年のSundanceでプレミアされた。
びゅうびゅう吹いてくるだけの予告がなかなか怖そうで、幽霊ホラーぽかったが、実際にはそんなに、ぜんぜん怖くなかったかも。85分。

冒頭、どこか(NJらしい)の古い、木造の大きめの家のなかの描写 – がらんとしていて引っ越された後なのか引っ越してくる前なのか、やがてそこに不動産屋と思われる女性が入ってきて、その後に物件を見に来たと思われる家族がやってきて、部屋や備え付けの家具 – 大きな楕円の鏡がある – を見て、夫と妻はローンのことなどで少し議論するが、次のシーンでその家族はそこに越してきて暮らしている。

カメラは家のなかをスムーズに動きまわり、窓辺に立って外を眺めたりするものの、家の外に出ることはない。その動き – 立ち止まるところ、その高さ、視点 - 目がとまるところ - などが一貫していることから、これはこの家にずっといる何か、誰かひとり、何かひとつの目線なのだな、というのがわかって、更にはタイトルとか既に知っている情報から、ふつうにずっとこの家にいる幽霊のそれだ、というのは簡単に導きだせる。

家族は力強いRebecca (Lucy Liu)と優しく受けとめるChris (Chris Sullivan)の夫婦と、水泳をやっていて学校の人気者らしいTyler (Eddy Maday)とちょっと不安定にみえるChloe (Callina Liang)の子供たちの4人で、RebeccaはTylerを溺愛していて、ChrisはChloeのことを気にかけている。 特に異様なところがある、そういうのが出たり取り憑いたりする - とは思えないごくふつーの人たちのようで、やがてカメラ(それ)は自分の部屋にいるChloeのことをよく見ていることがわかってくる。

そのうちChloeの部屋で、ベッドの上に置いておいたものがシャワーから出たら片付けられていたり、ものが突然ぜんぶ落ちたり、といったことが頻発して、Chrisの伝手で幽霊が見えるらしい女性に来てもらったりするのだが、彼女は家に入るなり... で、家族もこの家にはなんかがいてやばいかも、ということを意識するようになる。

でもTylerの同級生で下心ぷんぷんの不良のRyan (West Mulholland)が家に来た時、Chloeの飲み物に薬を入れたのを「それ」が妨害するシーンがあって、住人に悪さをする幽霊のようではなく、どちらかというと見守り系、そこにいるだけの奴なのかも、とか。

やがて週末に泊まりで父母が出て行ってしまうと、兄妹のところに好き勝手やったれ、って悪いRyanが泊まりにやってきて…

そこによくわからない何かが写っている、とか、なにかがいる/いた気配がある、ってそれだけで十分怖いものにすることができると思うのだが、あんまり怖いかんじがしないのは何故なのだろうか? あまり怖がらない、っていうのもあるけど、無理に怖がらせようとしていない、悪意殺意があるわけでもないし、ただそこにいる - Presenceだけ、その透明なありようを示して、それだけ。それでよいのかもね… ってなったところであの終わりが来たので少しびっくりしたり。

ただいるだけ系の幽霊話だとDavid Loweryの“A Ghost Story” (2017)を思いだしたけど、あの、変に切なく迫ってくるものもないし。

これ、Lucy Liuを真ん中にした方がおもしろいものになったのではないか? とか。

これ、おなじ予算(2百万ドル)を黒沢清に渡して同じ設定でなんかやらせたら、簡単にこれの百倍怖いのができると思うけどなー(ってみんな思う)。


R.I.P. Marianne Faithfull..  “Faithfull: An Autobiography” (1994)が出た時、まだ57thにあったRizzoli Bookstoreでサイン会があって、サインしてもらった。すごく柔らかくて素敵な人だった。ありがとうございました。

1.30.2025

[film] Cloud クラウド (2024)

1月26日、日曜日の、羽田からロンドンに戻る便の機内で見ました。

これ、日本に向かう便でも当然やっていたのだが、日本に向かう時にこんなのを見てしまうとあまりに不穏で不吉なことが起こりそうな気がして怖くて、なので戻りの便にした。戻りの方にすると、あの雲から抜けてよかったわ - さよならにっぽんー、っていうかんじになる。

監督&脚本は黒沢清。 もう、これだよね、しかないかんじ、懐かしいのとも少し違って、この爛れて錆びて腐れていく強い酸のような揺るぎなさ、どうにもたまらない。

冒頭、吉井(菅田将暉)が町工場に入っていってなにかの機具を安値で束で買い叩いて家に帰るとそれを撮影してネットにあげて、PC上のそれら商品がぜんぶ売り切れになっていくのを眺める。彼は「ラーテル」のハンドルネームで転売屋をしていて、この商売がおもしろくなってきたので数年間勤めていた工場を辞めてこれ一本でやっていこうとする。彼の上司で彼の昇格を考えていた滝本(荒川良々)は引き留めるが、吉井の意志は固い、というかそっちの仕事には興味を持てない。

郊外の一軒家に恋人の秋子(古川琴音)と移り住んで、バイトとして雇った佐野(奥平大兼)も加えて専業の転売屋を始めるのだが、思っていたように売れなかったり、不審者ぽい影や荒らしが出てきたりよくない空気になってきて…  ここまででよいか。

あまりカタギの商売とは思えない転売屋だが、日常にはふつうにあるし、誰もすごく悪い何かとは思っていないし、そういう土壌の上で、昔だと「一線を越える」のような表現で言われていた向こう側に行ってしまう行為や様相が、雲 – クラウドに覆われるようにじわじわと、気がつけばあらら、の状態として描かれていく。線から面への変容。

後半は転売屋「ラーテル」をやっちまえ、の声のもとに集まってきたどう見ても怪しい、けどふつうのようにも見える連中がわらわらと、これも雲のように湧いてきて、廃れた工場のような場所(絶妙)でがしゃがしゃした殺し合いが始まってしまう。各自が最初は殺っちゃった(どうしよ…)だったのがなんの躊躇いもなくぶっぱなすようになっていく過程が雪だったり雨だったり安定しない不気味な光のなかで描かれる。ノワールのがまだわかりやすい、だんだらのくすんだ模様と空気のなかでの、殺されないために殺す、自分の命を転売する、決断の重さとは反対側のぶっきらぼうで投げやりな軽さもあって、これもまたクラウドの?

登場人物たちの顔も全員一様につるっとプレーンで、なにかに憑りつかれたような声や威力を、その黒さ悪さを誇示強調する画面の動きや発声はない。やっていることはやくざ映画やギャング映画のそれと大して変わらないのだが。

これらはどれも、黒沢清の映画に特徴的な、(綿密に計算したうえでの)画面に写りこんでしまった何か、のような輝度と濃度、そのはみ出した影たちと共に語られていくので、ああこれだわ、と思いつつも凝視せざるを得なくて、凝視していると祟られたり後ろからばっさりされたり。

そしてこれはまたものすごく的確な、今のにっぽんの、富裕層ではない側の人々の働きながらおかしくなっていく姿を描いた映画にもなっていると思った。富裕層が腐って禄でもないのは当然として。


Space Cadet (2024)


↑と同じ機内で、にっぽんの暗い映画を見てしまったので、反対にアメリカの明るいのでも見てみようか、と。

フロリダで日々明るくパーティ暮らしをしているRex (Emma Roberts)は、幼い頃は優秀でいろんな発明したり、Georgia Techにも合格していたのだが母の病気~死で進学は諦めて、そこからは日々てきとーに遊び暮らしていたのだが、NASAの訓練生募集の広告をみた友達が、宇宙飛行士、夢だったじゃん! て偽の経歴で応募したらパスしちゃって、持ち前の度胸と軽さで他の候補生を蹴落としていくのだが、やっぱりあと少しのとこでバレて追いだされ、でも宇宙に行ったかつてのライバルのいる宇宙ステーションが何かの衝突で機能不全になって、このままでは全員窒息死という危機にRexは…

実話ベース… のわけがない、相当にめちゃくちゃで、いいかげんにしなはれ、の展開なのだが、その適当さ加減はとても21世紀の映画とは思えないのだった(半分ほめてる)。

[log] Tokyo Jan.13-26

今回の滞在は約2週間だったのだが、真ん中の土日が病院だったので美術館も映画館もあったりまえに行けず、その他の日々、病院に行っていない時はふつうに会社で仕事をしていたし、ロンドンのオフィスが開く日本の夕方18時頃はあっち側とリモートでの打合せがあったりしたので動けなくて、夕方のだるくてとっとと帰りたくてたまらない頃にロンドン側は朝なのでみんな元気いっぱいで、そのやり取りの後で映画に向かう気にもなれず、体調に対する意識(たんに気持ちの問題)もあったのだと思うが、ほぼなんとなくもういいやー この次で、になってしまうのだった。 以下、見たもの感じたことなどの備忘。

『現れる場 消滅する像』 @ ICC

音のインスタレーションの方は割と普通だったけど、予約して入った無響室がおもしろかった。音が聞こえる、というのは反射してくるその響きを聞くことであって、間に響きの媒介がなくなると音は直接おのれの頭蓋骨を叩きにくるのだな、と。頭の上というか裏というか、その辺でぽかぽこ鳴ってくるのですごく変なかんじで、確かにひとによっては気持ち悪い、ってなるかも。
ここでふつうのロック - NINとか聴いたらどんなかんじになるのかしら? とか。


鳥展 @ 国立科学博物館

24日、金曜日の昼、検査と検査の間に3時間の空きができて、映画でも.. と思ったもののうまくはまるのがなさそうで、東京現代美術館の坂本龍一のは、次に来たときもやっているようだったのでパスして、上野に行けばきっとなにか、と思った.. 程度で。

途中で西洋美術館のモネの行列を見てげーっとなってこっちにした。鳥は見るのも遊ぶのも食べるのも好き。ちょうどこないだまでロンドンの自然史博物館でも鳥展やってて - “Birds: Brilliant and Bizarre” - でももう終わってしまった。サブタイトルにゲノム解析云々、とあったものの、飛べない状態で大量に並べられたり転がったりしている剥製たちを見ると、ゲノムだの系統だの、そんなのなんになるのだろう、くらいにはなる、くらいに鳥が群れて並んでいるのはざわざわくる。飛ばしてあげたい。


オーガスタス・ジョンとその時代—松方コレクションから見た近代イギリス美術 @ 国立西洋美術館 

モネ展はどうでもよかったのだが、常設展示のなかの小企画でやっていたこれは見たかった。こっち(常設展)のチケットなら4秒で買える。
SargentやSickertといった有名どころからChristopher Richard Wynne Nevinsonの「波」とか、おもしろい。

一点、Laura Knightの油彩があって、海岸の海辺で立っている女性の絵、Tate Britainの企画展 - ”Now You See Us: Women Artists in Britain 1520-1920”にあったのやつの連作だろうか、とか。 近代イギリス美術って、いろんな流派とかSchoolがあって、ほんとおもしろいのよ。

どうでもよいけど、わかんないけど、モネを好きな人って、アートに政治を持ちこみたくない系の人たちが多い気がする。


須田悦弘 @ 渋谷区立松濤美術館

帰国前日の25日土曜日の昼に見た。ちっちゃくてどれも素敵だったが、展示はここよりも駒場の日本民藝館とかのがよかったかも。
そんなふうに展示会場を選んでしまう作品たちだったかも。

Has Anybody Seen My Gal (1952) @ シネマヴェーラ

もし日本にずっといたのだったら、この特集と京橋のメキシコ映画特集はずっと入り浸りだったはず。新作だったら”Dicks: The Musical”と『オークション..』のと清原惟監督特集は見たかったのだがぜんぜん時間が。

せめてシネマヴェーラのあの空気に触れたくて、空いた時間に1本だけ。『僕の彼女はどこ?』
Douglas Sirkはこんな軽いコメディも作っていたのねえ、だった。
Rock Hudsonとかも出てくるけど、メインは富豪役のCharles Coburnで、どたばたおとぎ話みたいなやつだったがところどころでなんなのこのカメラの変な動き? みたいのが。


今回、レコード屋は行かなくて、新宿の紀伊国屋書店に2回くらい行っただけだった。

ロメールの鈍器本と、ジョン・バージャーの美術史2冊と、あと『図書館を建てる、図書館で暮らす―本のための家づくり―』。
日本で本を買ってもそのまま置いて(積んで)くるだけなのだが、これだけはこっちに持ってきて少しづつ読んでいる。

本はふつうに溜まる、でも片付けたり「処分」することなんてありえない、それらは等しく手に取れるところで並んでいてほしい(それが本というもの)、というベース、基本中の基本、に立ったときに、どんな現実解・選択肢がありうるのか、を正攻法で詰めてひとつひとつ実現していく過程は、いいなーしかない。

うちはレコードもあるしな、なによりそんなに先がないしなー、とか。

1.27.2025

[film] The Wild Robot (2024)

1月12日、日曜日の夕方、羽田に向かって発ったJALの機内で見たのを2本。

それにしても機内映画って、昔と比べると本当につまんなくなった、というか見るものがなくなってしまった。
昔は日本でリリースされていない映画を見る割とよい機会だったのに、もう殆ど見てしまったやつか、どうでもよさそうなC級のばかりで、見ても時間のムダっぽいけど他に見るものもないし... って悩むことになる。いまは機内で仕事をする人も増えたし、自分のPCやタブレットに入れている人もいるし、TVのドラマシリーズとかバラエティとか視聴の選択肢も増えたし、ということなのだろう。 これは日系の航空会社に限ったことでもなくて、BAなどに乗っても同様だし。


Jackpot! (2024)

監督がPaul Feigなので見た、けどAmazon Prime Videoで配信リリースのみっぽい。

2030年、財政逼迫で首が回らなくなったカリフォルニア州は、宝くじ収入頼りになって、より多くのお金を集めるために、賞金当選者を当選者発表日の日没までに殺したら、それをやった人がその賞金を丸ごと手に入れることができる、ただし銃の使用は不可 - という追加ルールを設定。これにより当選者は逃げ回り、一般市民が当選者を追い回し、という図が冒頭、逃げ回るSeann William Scott – 最後におばちゃんにやられる - を使って描かれる。

ショービジネス界での成功を夢見てカリフォルニアにやってきた元子役のKatie (Awkwafina)が自分では望んでいないのに36億ドルのJackpotに当たってしまい、見ず知らずの大量の市民から追い回されることになってあわあわしていると、Noel (John Cena)が現れて、日没まで彼女のボディガードをやるので生き延びることができたら成功報酬として賞金の10%を、ていうのをオファーしてきて、しょうがないので彼と契約して一緒に逃げることにする。

警察まで殺しにやってくるし、Noelがかつて所属していたエージェント会社のトップ(Simu Liu)とかいろいろ絡んでくるし、KatieとNoelは生き延びることができるのか、と。

昔(70~80年代)の荒唐無稽なお笑いB級アクションを思い起こさせるし、たぶんその辺を狙ったのだろうけど、もうちょっとちゃんと作ればー になった。アクションとかあまりに雑で適当で、笑えるところもないし、やる気がなさすぎるように見えた。


The Wild Robot (2024)

日本でももうじき『野生の島のロズ』のタイトルで公開される?”How to Train Your Dragon” (2010)のChris Sandersによるアニメーション。

この作品、LFFでも少し話題になっていたのだが、あんま見る気になれなかった。だってこういうでっかいロボットものって、最後はぜったい飼い主のために自分を犠牲にして決着つけようとしない? 見るからにそういう顔をしたロボットだし。

嵐でどこかの島に打ちあげられて動かなくなっていたロボットのRozzum Unit 7134 – Roz (Lupita Nyong'o) が立ちあがって、自分に割り当てられたタスクを実行すべく周囲にご用件を聞いてまわるのだが、そこにいるのは野生動物ばかりで、でもタスク実行ロボットで、タスクを実行して相手に満足してもらうことが至上命題である彼女(でいいの? 女性キャラなのがちょっと嫌なんだけど)にとって森の動物たちはタスクを与えてくれるお客様なので、ひとつひとつ彼らの問題や悩みを解決して共生していくうちによい関係ができてくるのだが、ものすごいストームがやってきて…

互いに解りえない、敵対関係だったりもする言葉の通じない相手とどうしたら解りあっていくことができるのか、というのは”How to Train Your Dragon”でもテーマだったと思うのだが、この映画のRozにとっては理解=タスクの実行→完了だし、でも言葉の異なる種の間で競合しうるタスクの落とし前(そこを「愛」でごまかすな)とか、機械学習などでどうにかできそうな域を越えていたりしない? 漫画だからよいの?とかいろいろ思った。

このお話しの教訓て、なんになるのだろう? どんな依頼でもとにかく引き受けてマルチタスク管理ができるようになりなさい、ではないだろうし、ロボットはうまく接してきちんと使ってあげることが肝心、も違うし、ビーバーみたいに人からバカにされても愚直にひとつのことをやり続けるのです、かなあ?

これからの(今の)ロボットって壊れない、壊れても自動修復されるしIDもデータも復元できるし、常に復旧・代替可能で「万能」であることが前提、となったときに、そこからどんなドラマを作ることができるのかしら? って。ストーリーのなかに置いてもかえってつまんなくなる気がした。 あと、ロボットにとって野生とは、ノラであることの意味とは? とか。

など、考えるネタあれこれを提供してくれるのだったが、お話としてはきれいに纏まり過ぎてかえってすっきりしないかんじが。


関係ないけど、機材のA-350のビジネスってぜんぶキューブ型の個室で仕切られてて、遠くからみると「畜舎」ってかんじがとってもするの。

1.26.2025

[film] Babygirl (2024)

1月12日、日曜日の昼、CurzonのAldgateで見ました。

日本に発った日で、夕方の出発まで少し時間があったので。
冒頭から喘ぐNicole Kidmanで、終わりもそうで、設定も含めて全体としてはNicoleさまフロントのゴージャスな調教ポルノ、みたいなかんじ。

監督・脚本は女優でもあり小説も書いているオランダのHalina Reijn。

Romy Mathis (Nicole Kidman)は革新的なロボティクス倉庫会社のCEO & Founderで、マンハッタンにかっこいいアパート(1245 Broadwayって出る。もうちょっとよい場所にしても.. )と郊外にプール付きの別荘を持ち、舞台演出家の夫Jacob (Antonio Banderas)と2人の娘に囲まれて幸せそうに見えるのだが、冒頭のセックスで喘いだ(相手はJacob)すぐ後に別部屋でノートPCを開いて自慰をしていて、要は満足していないらしい。

ある日Romyが会社に向かう途中、路上で暴れてあわや、になった犬を一瞬でおとなしくさせてしまった青年にでくわし、その彼 - Samuel (Harris Dickinson)は彼女の会社にインターンとしてやってきて、彼女が彼のことを意識しているのをわかっているかのようにメンターに指名して、強引に彼女とふたりきりになる時間を作ろうとする。 でも彼女は忙しいし一番偉いんだから、ってつーんとすればするほど、敵の穴にはまって and/or 自ら落ちてやめられなくなっていくのだった。

それと並行してJacobとの関係とか家族との関わりは薄く、というかこれまでと違うものになってきたことが家族の側から指摘され、でもSamuelに”Babygirl”- よいこよいこ - って調教されて別世界へと連れていかれてしまったRomyには戻ってくることが難しく…

こういうドラマの場合、嵌った穴から抜けようとするRomy、自分の穴に引き摺りこもうとするSamuelの間でなんらかのアクションが取られて、それが失敗して惨事を引き起こすか、うまくいってリセットされるか、場合によっては全てがちゃらになってしまうか、だと思うのだが、この辺が、え? こんなもん? ていうくらい弱いかも。ストレスからドラッグに嵌ったけどなんとか更生しました、程度でよいのか?

これは女性ドラマでもあるので、女性の目からすればこれはこれでとても重い決断がなされたのだ、と言えるのかもしれないけど、やっぱりストーリーとして、そこなの? それでよいの? はあるような。Jacobの演出している舞台『ヘッダ・ガブラー』や娘の名前 - Nora (人形の家)から読み解け、はちょっと難しいかも。

あとは最後の方でおろおろ泣きだしてしまうAntonio Banderas。俺だって昔は狂犬のよう… って呼ばれた季節もあったんだ、ってSamuelを縛りあげてその口に機関銃を… にはならなかったねえ。昔は泣く子も黙るだったのに、いまはPaddingtonにすら勝てない(そういえばNicoleもあの熊には負けてたな…)。

せっかく彼女はロボット倉庫会社のトップにいるのだから、Samuelを始末してアクセス不可のブロックに隠して鍵かけちゃえばよかったのに、とか。

でもとにかく、いろんな点で - 特に自ら誘って堕ちるような役をやらせた時には - Nicole改めて最強、であることを知らしめた映画、ではあるかも。

あと、「川崎」は「東京」じゃないからね。


戻ってきましたー。さむいー

1.25.2025

[log] January 26 2025

今回の日本滞在は何度も書いたり叫んだりしたようにぜんぜん楽しくないものになったのだが、生まれて初めて入院(一泊だけど)したり、全身麻酔をしたり(されたり、か)、いろいろあったので備忘として書いておきたい。不愉快に感じられる方もいると思うので、申し訳ありませんがそうなったら読まないで。

これが「手術」と呼ばれるようなものなのか、「検査入院」と言われたのでただの「検査」なのかも知れず、もし「手術」なのだとしたらそれも生まれて初めて、になる。 そんなのそれがどうした、ではあるが。

土曜日の午前に病院に行って手続きをして、連帯保証人について確認されたのでそんな人おりません、と言ったら替わりにごっそり保証金を取られる - 後で引かれて返ってきたけど。

入院する部屋に連れていかれてしばらく放置され、部屋にひとりにされるのは喜ばしいことのはずなのに、病室にこうして放っておかれると、みんな忙しいんだろうな、とか、手続きに誤りがあったのでは、と不安でそわそわしてくる不思議。 刑務所でもこんなかんじになるのかしら?

そのうち手術の準備をします - 「手術」って言った! 手術なんだわ…. と着替えさせられ、点滴(これは何度かやったことある)の管に繋ぐべく、結構長めの針をぶっ刺そうと右左の腕をとんとん始めるのだが、よい場所が見つからないらしく看護の方がもうひとり来て、左の手首の近くに刺してみたもののなんかはずれた、とかで引っこぬかれて改めてその近くに刺し直される。割と泣きたくなる痛さだったがこんな入り口の手前で泣いてはいけない。

予定していた時間から1時間くらい早まりましたので行きましょう、と言われ、こころのじゅんびが.. なんて恥ずかしくて言えない状態でベッドごとがらがら運びだされ、いろんな計器類で沸きたっている部屋に入れられて、ああきっとこのままなんか改造されちゃうんだわ、って10分後に計器ケーブルをずたずたに破壊しつくす絵とか… 浮かぶわけない。

さて、実はこれまで失神というのも経験したことがなくて、他からの力によって意識を落とされる、というのがどんなものなのかを知る、よい機会だとは思っていて、でも口に軽めのカップみたいのを被せられ、はい始めまーす、と言われ頭のなかで、1. 2. 3. 4. 5.. くらいまでカウントしたあたりで、視覚でいうと右左上くらいから立ちのぼって下りてくる何かを感じる、と思ったら落ちた。落ちた、ということすら思い起こせず。

次に気づいたのは「終わりましたよー 起きてくださーい」という声で、目覚めのぼけぼけとは明らかに違うケミカルな靄が目の前に広がっていて、この状態で病室まで運ばれたのだが、去り際の手術室の揺れとか流れていく天井のうねりとか、ああこれが医療ドラマとかでよく見るあの映像なんだわ、って。

部屋に戻り、魚市場の魚としてひと通りのチェックを施されて、問題なさそうですがどうでしょう? と問われたので痛いです、と本当に痛かったので訴えると、じゃあ痛み止めしておきましょうかね、ってホコリを払うみたいに坐薬をぽんっ!て突っ込むとさーっといなくなられて、こっちも眠りに落ちた。

そうやって起きたら晩ご飯の時間で、なんだか普通にハッシュドビーフなどを食べることができてしまい、夜中はいろいろあったものの、朝ご飯も - 普段は食べれないのに - フルの洋食ブレックファーストなどを食べることができて、血圧だのなんだのも正常で、午前中にあっさり退院できて、そんなの病院からすれば当たり前なのかもしれないが、組織をちょきちょき切り取られて血も結構でてしんどかったのにこんなふつうに歩いて活動できるものなのか、って残念に(思うな)。

そんなしょうもない感想よか、そもそも総合病院というのはそういうものなのだろうが、ものすごい数のスタッフや機械が24時間ずっとフルで稼働してて、それらのリソースをすべての人が生き延びられるように、って使って、使えるように配備していて、その歴史と世界規模の蓄積でここまでのものができあがったのだ、というスケールを少しでも実感してしまうと、ガザでの病院への爆撃がどれだけ酷いことであったか、とか、高齢者は自らお引取りをなんて、そんな考えがどうしてありうるのだろうか、とか。

少なくとも、病院と学校は効率化を追求してどうにかなる領域ではないよねえ、とか少し考える。全方位からのケアって、指標などで定量化して比較評価できる部分なんてほんの一部なのだ、って改めて実感した。健康であるに越したことはないのだろうが、こういう議論ができる土壌 - 哲学と想像力、広義の人文学を養える場が、恣意的・政治的にであろうが - 奪われている。それは本当に恐ろしいこと。

検査の結果は見込みどおりのバツで、3月にまた戻ってくること - こんどは正真正銘の手術だよ - になってしまったのだった。 あーあー。

1.24.2025

[film] Se7en (1995)

1月11日、土曜日の晩、BFI IMAXで見ました。"Seven"

公開30周年を記念しての1回きりの上映で、売り切れてはいなかったが席は前から2列目で、見あげるかたちになってしまったが思っていたほど悪くなかったかも。

監督はDavid Fincher、少し後の“Fight Club” (1999)と並んで、90年代の暗く荒んだ、擦り切れた空気感を代表する「名画」「古典」、のように紹介されることも、現在活躍するいろんな「クリエイター」が影響を受けた映画としてあげることも多いみたいだが、自分はなんとこれまで見たことがなかった。

だって、95年頃なんて、音楽のが断然ものすごくおもしろかったので、映画行くならライブ行くわ、だったから。
上映前、客席に向かってこれまで見たことない人~?って手をあげさせたら半分くらいから手があがったので、見てない若い子も増えているんだろうな、って。

オープニングのタイトルバックが、90年代の雑誌 – Ray Gunとか - のエディトリアルのルックス(というか、こっちが影響与えたほう?)でなんだかとっても懐かしいったら。

ストーリーはいいよね。ずっと雨が降っててくすんでて滅入るNY - のように見えるが明示はされないどこかの都市 - で、Seven Deadly Sin - 七つの大罪をテーマにしていると思われる死体ぐさぐさ、肉塊陳列系の惨殺事件が月曜日から順番に起こっていく。担当するのはもう定年を前にしたSomerset (Morgan Freeman)と若くて漲っているMills (Brad Pitt)のお互い気にくわないし合わないし合わせようとしないふたりで、これは七つの大罪起因だ、って推理して絞り込んでいくのは読書家っぽいSomersetで、その反対側で当然姿を見せようとしない犯人John Doeも相当に暗くて闇が深そうだねえ、って。

ただの犯罪推理サスペンスで終わるのではなく、どちらかというとどれだけ日を重ねても働いても働いても先が見えない雨ばっかりに降られる刑事たちのどんよりと重い日々、殺されていく人々の死体になる前からそうと推測されるなんとも.. としか言いようのない様相と、そんな中でのああいう殺人(のやり口)を晒して狙って挑戦・挑発してくる犯人と、部屋にも扉にも、すべてに横たわってこびりついて離れない閉塞感、疲弊感、怨念のようなの、ってなんなのだろう?から、なんかどうもそういうもんかも… に変わっていって、その状態であの結末がくる。最後まで終着点としての罪がべったりと横たわって床にこびりついて、ヒトの善なんてありえない、勝てる余地のない世界が大きく広がって、最後にヘミングウェイの引用があったりするけど、それにしても..

そしてこれははっきりと当時の時代の空気のようなものとして、あった気がして、それを現場の塵やノイズ込みで映像に落とした。地獄はすぐそこ、ではなく、いまの、ここの、これが、あなたが、地獄なのだという目覚めとかお手あげとか。

Trent Reznor絡みで引き合いにだすわけではないが、David Lynch (RIP) のほうが、悲惨を彼岸のほうにあえて置いてみようとするかんじがあった。というか彼岸には狂って箍の外れたすべてを用意できるので地獄だって天国になるし紙一重だよ - あとは渡るか留まるか - という描き方をするのがLynchで、Fincherはどこまでもこの現世に留まって、その痛み鈍痛ひと揃えを解剖台の上に並べてみせる。

どっちがどう、って比べられるものではないが、80年代に出てきたLynch、90年代に出てきたFincher、って置いてみるとなんか分かりやすいかも。


結局時差ボケが半端に解消しない状態のまま、滞在24時間を切ろうとしている。映画ぜんぜん見れなかったよう。

1.21.2025

[theatre] Natasha, Pierre and the Great Comet of 1812

1月11日、土曜日のマチネ、Donmar Warehouseで見ました。
ここのいつものように売り切れていて、開始の3時間前くらいにどうにか当日の1枚が取れた。

トルストイの『戦争と平和』をモチーフにしたDave Malloyによるミュージカルで、すべてノンストップの音楽で綴られていく - Act Iで13曲、Act IIで14曲。 初演は2012年、NYのOff-Broadway、2016年のBroadway公演を経て、Londonにやってきた(日本でも2019年に上演されている) 。London公演の演出はTimothy Sheader。

Donmar Warehouseは広い会場ではないので客席が三方を囲む形、基本はパーティ会場仕様で、バンドが上段と、登場人物たちと同じ高さの壁際にも数名いる。上部にプラスティックなミラーで輝くイタリック大文字の”M-SCOW”があり、”O”は? というとでっかい電飾がついた可動式の楕円が円盤のように上から吊り下がって昇ったり降りたりする – ひょっとしてこいつがCometだったりもする? 登場人物たちは四方 - 客席の裏とかからばたばた登場したり去ったり、その出入りの振動がもたらす臨場感はちょっと戦争ぽくてよかったかも。

トルストイの『戦争と平和』を読んだのなんて大昔すぎてもう憶えてないわ - でもプログラムには人物相関図が描いてあるし、最初の1曲で歌いながら全員が全員の人物紹介をしてくれる - ここが楽しくてすばらしいのだが、楽しすぎてあまり残らなかったり。タイトルにある1812年だと原作本の第三巻から四巻めまでの、ナポレオンがロシアに侵攻してロシアがモスクワを放棄した後、ナポレオン軍もモスクワからの退却を決めて敗走して、そんな波にもまれて廃墟まみれの荒れたモスクワと、そこで散り散りになった恋人たちが引き裂かれたり諦めたり絶望したり、それら1812年のハレー彗星が予告した世界の終わりに人々の愛と思いはどんなふうに瞬き、流され、そこに留まろうとしたのか、等。

未見だけどモスフィルムが制作した映画版(1965-67)-全四部からなる大作と描かれた時代と人物は割と重なっているようなのだが、参考にしていたり関連していたりするのだろうか?

タイトルには二人の登場人物の名前があるが、全体としてはアンサンブルで、中心にいるのはぱりっとしたNatasha (Chumisa Dornford-May)と仲良しのSonya (Maimuna Memon)など女性たち - ファッションも含めてとてもかっこよい彼女たちの力強さと比べると男たち - Andrey (Eugene McCoy), Anatole (Jamie Muscato), Pierre (Declan Bennett)等 - はどいつもこいつも戦争で疲弊してぼろぼろで、大仰に嘆いては倒れたり死んだり、みんな暗い顔でだいじょうぶかよ? - だいじょうぶじゃない - くらいなのだが、こんな男たちの勝手な思いだの欲望だのに引きまわされて世界の果てだか終わりだかに向き合わされてしまう彼女たちがなんだか不憫なのと、それでも断固として続いていってしまう狭いんだか広いんだかの廃れた世界のありようはかつてどこかで見たような知っているような。

このお話、このエモ具合なら、どちらかというと『アンナ・カレーニナ』のほうが相応しいのではないか、って少し思ったりもしたが、やはり「戦争」を描きたかった、ということなのかしら。いまもすぐそこにある戦争の悲惨に繋げることも含めて。

音楽はエモ+スラブ民謡ぽいつんのめった旋律+(なんとなく)90年代ダンステリア風の躁状態を行ったり来たりしつつ、とにかくだれることなく、物語を運んでいってくれて楽しくて、ミュージカルだなあ、って思った。筋や人物を追わなくても楽しめたかも。


日本に来て時差ボケがようやく消えてきたと思った頃に検査入院がきて、寝たり寝させられたりで元に戻ってしまったような。常にどこでもひたすら眠い…

1.19.2025

[film] Il gattopardo (1963)

1月10日、金曜日の晩、BFI SouthbankのLuchino Visconti特集で見ました。

英語題は”The Leopard”、邦題は『山猫』。原作はGiuseppe Tomasi di Lampedusaによる同名小説(1958)。上映前にAdrian Wootton - Chief Executive, Film London and British Film Commission - 大御所っぽい - からプレゼンテーション込みのイントロがあった。

アメリカのFoxが刈り込んで公開した最悪版を含めていろんなバージョンのが存在するが、今回のは2010年にカンヌでお披露目された4Kリストア版 - 186分 - 分のデジタル上映。自分が初めて見たのは2003年くらいのNY- Film Forumだったような。

BFIでの上映は2005年のViscontiレトロスペクティヴ以来だそうで、イントロではその際にトークでやってきたClaudia Cardinaleのお話しするシーンなども投影された。 ぜんぶ本物に、本物であることに拘って湯水のように時間とお金をかけて構築した世界があり、それはViscontiが本物の貴族だったからできたことだった、云々。

19世紀半ばのシチリアの貴族、Don Fabrizio Corbera (Burt Lancaster)のお屋敷の様子から始まる。邸内の厳かな雰囲気に対して、外からは喧しくいろんな音が聞こえてきて不穏で、全体としては貴族のお屋敷環境とは言えないようなきな臭さたっぷりで、やがてイタリア統一戦争になり、Fabrizioの甥で軽そうなTancredi (Alain Delon)は赤服のガリバルディの軍に参戦して調子よくやり合い、ついでに新興勢力の俗物Sedara (Paolo Stoppa)の娘Angelica (Claudia Cardinale)の美貌にやられて、叔父に彼女との結婚を認めてほしいと。

もう貴族の時代ではなくなった - 騒がしく浅ましく野蛮なものばかりがもてはやされ、それだけではなく自分たちの領土に軽々しく侵入してきて恥を知らない - どいつもこいつも! というFabrizioからすればすべてが忌々しい、新旧がせめぎ合い、一方が他方に侵食されて腐っていく事態・状態の連続を少し離れて俯瞰する目で捉えていく。ほぼそれだけなのに画面から目を離すことができないのは、あらゆるエピソードや人物や家具調度まで、あらゆる描写が極めて具体的かつ優れて正確だったから - Viscontiと彼のチームがやったから - としか言いようがない。

これが戦争だったら、もっと白黒つけやすいのだろうか - 邸内に響き渡る騒音とか教会前の通りの雑踏とかそれらを抜けていく人々の表情ややり取りの重ね合わせで編みこんでいく構成の見事さと、原作者も含めた貴族の最後の意地のようなものが漲っていて見入ってしまう。単線の、軸となる出来事や事件を巡って展開していくのではなく、この時点の社会まるごとを絵巻として広げてみせる。時間は掛かるけど、とにかく止まらない。

それが極まるのが延々と続くクライマックスの舞踏会で、Angelicaの社交界デビューとかAngelicaとTancrediの婚約披露とかいろいろあるのに蒸し暑くて騒がしくて何をどう眺めてもやれやれ、のなかでのAngelicaとFabrizioのダンスのとてつもない緊張感と滲み出てくる愛憎が描く油のような軌跡、その重奏感。映画というよりでっかいタペストリーを眺めていくかんじ。

Angelica というと、どうしてもManoel de Oliveiraの”O Estranho Caso de Angélica” (2010) - 『アンジェリカの微笑み』を思いだしてしまう。死んでいるのに手を引いてくる彼女。そして自身の死を見つめつつステップを踏みだすFabrizio。

Claudia Cardinaleはあのコルセットで腰回りが血まみれになったって.. あの細さはありえないわ。

[theatre] The Invention of Love

1月9日、木曜日の晩、Hampstead theatreで見ました。

原作はTom Stoppardの1997年の戯曲、演出はBlanche McIntyre。休憩入れてほぼ3時間。

舞台は一番下の客席と同じレベルの底にあって多くは同じ目の高さか見下ろす形、ぺったんこに黒の渦巻きが描いてあってなにもなくて、背後の壁が突然開いたり、ゆるやかな川になったりひとつ上のレベルの通路を人が通っていったりディスプレイになって投影されたり。

冒頭、舞台が明るくなると真ん中にクラシックな背広を着た丸っこいSimon Russell Bealeが立っていて、そこに(三途の川を渡る?)ボートと黒づくめの使者がやってきて、これに乗って死の世界に向かうことはわかっていて、彼は余裕でそれに乗り込んでゆっくり移動しつつ過去を振り返っていく。

英国の古典学者で詩人のA. E. Housman (1859-1936)の生涯や世界観、人々との出会いと成長について、老いて亡くなろうとしている彼をSimon Russell Bealeが、Oxfordに入学して間もない、まだぴちぴちの彼をMatthew Tennysonが演じて、19世紀の終わり頃の英国で、出会った人々との対話、大学での進路をめぐるあれこれ、成長と挫折、Moses Jackson (Ben Lloyd-Hughes)との儚い恋、などと共に追っていく。

実在の人物も沢山でてきて - 知っているのはJohn RuskinとかWalter PaterとかOscar Wildeとかくらい - 彼らが自身の知見や学説を当時の社会・政治情勢も含めて語るところもあったりするので英文学やラテン語や古典をある程度知っていないときついのかー、という気もするのだが、劇中で登場人物が語ったり議論したりする内容はそんなに厳密なものではないらしいので(←いや、わかんないけど)、ややひねくれて難しめの学園青春ドラマ、のように見ることもできるのか、な?

Housmanが学友たちと遊んだり議論したりする時は脚にコロコロの付いた木枠の乗りものに乗った彼らひとりひとりが軽快に滑り出てきて、3人くらいでそれらを金具で合体させると一艘のボートのようになって(楽しそう)、それに乗って議論したりする … Oxfordだからか。

そうやって学業の道に進むべく研鑽を積んでいくのだが、常に厳格さ厳密さ、真摯な探究を求められるアカデミアの世界の他に、彼は精神の自由や柔らかさが求められる詩作も愛して、書き綴ったものを冊子に纏めていて、このどちらも続けたいし止められない、ある意味真逆の方向性を持った世界をどうやって渡って、もしくはどちらかを選んだりしていけばよいのか? - で、ひょっとして、こういう分裂した魂のありようをどうにかするのって、それこそが愛、なのでは.. そんなInvention of Love?

そして、そんな統合を成し遂げて生き延びているスターのような人物として最後の方に現れるOscar Wilde (Dickie Beau)の貫禄、というかオーラ - ちょっと少女漫画ふうに美化しすぎでは、と少しだけ思った。

構成がやや平板で長く感じられて、もうちょっと波とうねりとか、啓示のようなものがあっても、と少しだけ思ったが、Simon Russell Bealeの立ち姿、ホビットのようななんとも言えない丸さと落ち着き、貫禄がすばらしく、それを見れただけでもよいか、って。

できれば、字幕つきので倍の時間をかけてもう一回見たい。

1.16.2025

[film] Nightbeat (1948)

1月8日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

“Projecting the Archive”っていう上映される機会のあまりなかった映画をアーカイブから拾いあげてフィルム上映で紹介していく試み。 特集上映でも映画祭でも取りあげられる機会のない映画って、実はものすごく沢山あると思うので、こういうのは嬉しいし、実際毎回売切れたりしているし。

タイトル、なんかフィッシュマンズの曲みたいかも、と思ったのだが『ナイトクルージング』と『バックビートにのっかって』を勝手に混ぜていたことに後で気づく。

“Brit Noir”と呼ばれる、戦中~戦後の混沌期 – 街は瓦礫の山、復員兵で溢れてぐじゃぐじゃのなんでも起こりうる -にあった英国の都市部で人々の闇(&社会)や犯罪、その背後にある狂気をあぶりだす米国ノワールの亜種のようなジャンルがあって - 前回このシリーズで見た”The Brighton Strangler” (1945)もそうだったかも - そこでキャリアは短かったものの英国産Vampとして強烈な印象を残した女優Christine Nordenの生誕100周年を記念して、彼女のフィルムデビュー作を上映する、と。

監督はHarold Huth、制作はAlexander KordaのLondon Films – だけど、Kordaは本作のリリースに結構難色を示していたらしい(なんかわかる)。あと、やはり日本では公開されていないみたい。

戦争を終えてロンドンに還ってきた復員兵で親友同士のAndy (Ronald Howard)とDon (Hector Ross)は喧嘩っ早くて威勢がよくて、警察官になるべく揃って警察学校に入って、DonはAndyの姉でかつて恋人だったJulie (Anne Crawford)と再会するのだが、彼女はSohoのナイトクラブを仕切るギャングのFelix (Maxwell Reed)に囲われていてうそー、ってなってFelixを睨んでぎりぎりしつつ近づいて対立を深めていくのと、Andyはやがて登場するFelixのナイトクラブで歌うブロンドのJackie (Christine Norden)に惚れてしまい、そしたら彼女もまたFelixに囲われていて、そのうちFelixとJulieが結婚することになると…

親友ふたりのどちら側にとっても、Felixの奴はうざいな、邪魔だな、になっていくのでふたりで団結して片づけてしまえばー、になるのだがやっぱりJulieを悲しませることになるし、Jackieの圧もすごいし、そうしているうちに思いもよらない方向に転がって、Andyが殺人の容疑で追われることになったりする。 この辺の展開は結構強引なのだが、登場人物の重ね方やひとりひとりの線の太さで、これってあってもおかしくないかも、になるとあれよあれよ、で気づいてみれば結末はノワールのなすすべもなし – 目が覚めて、あれはなんだったんだろう.. になっていたりする。

ノワールで言われるところの闇とか非情さが、アメリカのそれほど、狂って箍の外れたアナーキーななにかによってドライブされていない、よりかっちりしたマナーとか登場人物たちの境遇の枠で説明できてみんなが納得できる地点にもっていこうとするところがあるような、そういう点では日本のやくざ映画のそれに近いかも、と思った。あ、けど、やっぱり「仁義」とかそういうのはないから、違うか.. でも、FelixみたいのもJackieみたいのもああいうクラブも、夜のロンドンにいたりあったりしたかんじはすごくわかる。今のロンドンでもたまにそれらしいのを見かける。街からパブがなくならないように、ああいうのもなくなるとは思えないしー。

やはり強烈なのは(主役でもないのに一番像として残る)Jackieを演じたChristine Nordenで、IMDbには”Britain first notorious post-war sex siren in films”とあって、なるほどー、なのだが今だとこういう枠で括られるひとっていたりする?とか。 実際の彼女はBFIにもよく足を運んでくれるとても素敵な女性だったそうな。

1.15.2025

[film] Le notti bianche (1957)

1月7日、火曜日の晩、BFI SouthbankのLuchino Visconti特集で見ました。

4Kリストア版のUKプレミアだそう。 前回にこの作品を見たのもBFIだったかも。同じドストエフスキー原作 (1848)で、もうじき4Kリストア版が日本でもリバイバルされるブレッソンのも(ぜんぜん別物だけど)よいが、こちらも大好きで、これまでに見た(大して見てないけど)Visconti作品のなかで一番好きかも。英語題は”White Nights”、邦題は『白夜』、イタリア=フランス合作で、ヴェネツィアで銀獅子を受賞している。音楽は Nino Rota。

原作の19世紀ペテルブルク、ではなくイタリアの港町リヴォルノ(場所はほとんど動かず、全編スタジオ撮影だそう)の、寒そうな冬の夜、町に来たばかりらしいMario (Marcello Mastroianni)が、人(含.犬)恋しそうに誰かを探していると、橋の袂でしくしく泣いているNatalia (Maria Schell)を見つけて、声をかけようとしたら彼女は逃げだし、しばらくはその追いかけっこ - なんで彼はそんなに彼女に執着するのか、なんで彼女はあんな懸命に逃げようとするのか、こんなに凍える晩に - がひたすらおもしろかったり謎だったり。

バイクに乗って彼女をひっかけようとしたちんぴら二人組をMarioが追い払ってから、Nataliaは少し打ち解けて、Marioに自分はなんでそんなことをしているのかを話し始める。下宿屋をしている自分ちの戸口に突然現れた運命の男 - Jean Maraisに彼女は一瞬でやられて運命の人だ! って恋におちて、彼が同じ屋根の下にいる間はすべてが夢のようで、でもやがて彼はここを出ていかなければならない、1年待ってほしい、1年したら戻ってくるから、と告げていなくなり、彼女は約束した橋のところで毎晩彼が帰ってくるのを待っているのだと。

Jean Maraisの忠犬ハチ公のようになってしまった彼女をかわいそうに、って笑ってあげることは簡単だが、Marioにはそれができないの。なぜなら彼もまたNataliaと同様に、彼女にやられてしまって、彼女の泣き笑いする一挙一動から目を離せなくなってしまったから。こればっかりはもうどうしようもないし、Marioにできることと言ったら聞きたくもないNataliaの信仰にも近い止まらない愛の吐露を傍で聞いてあげることで、でもそうやっているうちに彼女が少しづつMarioの方を見てくれるようになってきて..

そうやって凍える夜の追いかけっこも含めてなにをやっているんだろ?の愛のどうしようもなさと面倒さが極まったところで突然降ってくる雪の奇跡 – ほらね、でも、そらみろ、でもないただふわふわと降り注いでくる白い光の渦に歓喜する彼女の姿を見ると、もう結末がどうであろうが、彼女があんなふうに笑ってくれただけで十分ではないか、になるの。 主人公たちそれぞれの境遇と来るべき運命をこねくりまわすViscontiぽいドラマのありようから離れて、すべてをもうお手あげ! きれいすぎる! にしてしまう白い夜の白い雪。

登場人物の序列でいうと明らかに神のように威圧的に(最後にすべてかっさらっていく)天辺にいるJean Maraisがいて、彼に振り回されるMaria Schellがいて、おろおろ落ち着きのない青年Marcello Mastroianniが底辺にいて、でもこの映画のまん中にいて、この世界を作って持ちこたえさせているのはどう見てもMaria Schellで、それだけで”It’s a Wonderful Life”になってしまうのだった。

あとね、事情もなにも告げないで1年間どこかに消えてしまうような男はやくざに決まっているのでついていかないほうが、って誰か彼女に言ってあげて。


東京に来ているのですが、なにもかもつまんなくてしんでる。

[theatre] Julia Masli: ha ha ha ha ha ha ha

1月6日、月曜日の晩、Soho Theatreで見ました。
“HA”が7つ。 今年最初のシアターもの。

上演が21時からだったので、その前に映画”Nickel Boys”を突っ込んだらこれが(よい意味で)重くて、演劇だかパフォーマンスだか、そんなの見る気力体力ないわ、になったのだが、チケットを取ってしまっていたので、とりあえず行ってみる。

Julia Masli というのが人の名前なのか、なにかの組織なのかなんなのかまったく知らないで、後になってこの女性はエストニアから来たCrownである、と知る。

なんで見ようと思ったかというと、2023年のエジンバラのフリンジ - 演芸フェス - で評判になった、とあったから、程度。 前の方の座席に座ると彼女にいじられる可能性があります、と注意書きがあったのでそうではない上の方の席にしたのだが、割とすぐ横に来たよ。

ステージは暗め、マネキンの脚が転がっていたりややゴスっぽい、怪しげな占い師や祈祷師の部屋のイメージで、片手にマネキンの脚を装着して自分の顔を青でライティングして、ゆっくりと動きながら客の顔を見て、ひとりひとりに”HA HA HA HA…”って声をかけていく。最初は何をやろうとしているのかわからないのだが、ひとりがそれに応えて”HA HA”とかやると、それそれ、というかんじで個々の対面のやり取りが始まる。

ただの”HA HA HA.. ?”でも人によって返し方は本当にそれぞれでおもしろいのだが、その返しがなんか彼女のお気に召さなかった客は突っ込まれたり、彼女に椅子を取り上げられ、さらにそれをステージ上で粉々に叩き壊されたりしている。これだけ延々やっていても十分おもしろいのだが、これは挨拶で、続けて同様に「プローブレーム?」ってひとりひとりに聞き始める。そのイントネーションがちょっと東欧風にとぼけていてまたおかしいの。

返しはなんでもよくて「将来が暗い」とか言うと、仕事はなにをしてるの? って続いて、これがテンション高めだったりマツコみたいに突っ込むやつだったりすると微妙な空気になってしまうのかも知れないが、Juliaのやりとりは絶妙に客を真ん中に持っていく。

身体の調子があまり.. というと客席にお医者さんはいませんか? って声をかけるし(医者いた)、Exelが.. とか言うと会計士の人はいませんか? って手を挙げた男性をステージにあげてアドバイスをさせるし、眠れない、っていう人もステージにあげて簡易ベッドに寝かせてアイマスクにヘッドホンつけてリラクゼーションの音楽を流したり。 さっき椅子を壊されたひとは「椅子がない」ということだったので、彼もステージにあげて椅子の破片と工具一式を与えて自分で直しなさい、って - 結局彼は最後までずっと壊された椅子をとんかんしていた。プロブレームが解決するとよかったね、って2階席にいるスタッフがラッパを吹いて祝福してくれる。

たぶん事前の仕込みみたいのを少しはしているのかも知れないが、それにしても、あれだけの多様で雑多なプロブレームにあんなふうに咄嗟かつ絶妙に応答できるのとか、すごいなー、だったのと、あと、ひょっとしたらほとんどのプロブレームって”HA HA HA?”と同じくらいの重み/軽みでどうにかできてしまう - できた気になってしまう - ものなのかもね、ってそんな気づきのおもしろさと、悩みなんてさー、って。

約60分、ちょうどよい長さで年初のうざいあれこれをきれいに祓ってくれて、少しだけ気持ち楽になったかも。

1.11.2025

[film] Nickel Boys (2024)

1月6日、月曜日の夕方、Curzon Aldgateで見ました。
LFFでかかった時に見たくてずっと粘ったのだが見れなかった1本。クリスマスの様子が描かれたりもするのでもう少し早く公開してくれてもよかったのに。

原作はColson Whiteheadの2019年の同名小説、監督はドキュメンタリーともフィクションともつかない”Hale County This Morning, This Evening” (2018)が印象的だったRaMell Ross - 見終えてからこれを撮った人だったか! って(気づくの遅い)。

あの映画がそうだったように最初のうちは何がどうして映っているのかよくわからなかったりする。ぼんやりノイズが入ったような、過去の記憶を引き出そうとするときの断片やそれらが繋がっていかないもどかしさが、地面とか木になったオレンジとか、その色とかに現れてくる。

やがてそれはElwood (Ethan Herisse)という少年の視線 - 一人称のものであることがわかってきて - だから初めの方で彼の顔はわからない - Martin Luther Kingや公民権運動に関心があって、彼の視界に入り込んでくる彼の優しそうなグランマ(Aunjanue Ellis-Taylor)の様子から彼がよいこであることが見えてきたところで、好意で乗せてもらった車が盗難車だったことからNickel Academyという矯正施設 - フロリダに別の名前で実在したに入れられて、そこでTurner (Brandon Wilson)と知りあって友人になる経緯が綴られる。

そこからカメラ、というか目線はTurnerのそれに変わっていったり、現代でPCを前に頭を抱えている男性の後ろ姿になったりして、それらを繋いでいくと複数の視線でNickel Academyで起こったことを静かに追っていることが見えてくる。

施設に入れられている白人の子と黒人の子の間には明確な待遇の違い - 差別があり、黒人の子は別の場所に呼びだされ連れ出されて性的なのを含む虐待と暴力が茶飯事で、ボクシングの試合で八百長に応じなかった子は目配せひとつでどこかにやられ、現代では施設の跡地から大量の子供たちの骨が発掘されている、というニュース映像が流れている。

虐めにまみれ辛かった日々を懸命に生きた(涙)、というドラマではなく、なんで? という不条理に慣れないながらもElwoodとTurner、その他の子供たちもとにかく生きていた - それしかできなかった - その果てが掘り出された無名の骨たちで、彼らは”Nickel Boys”としか呼ばれなくて、それってどういうことかわかる? というお話し。

あの視線、というか人称が転移・転生していくようなカメラの動きはそういうことだったのか、というのと、それを語る主体、そういうリレーをさせている想いは、とかいろんなことを思う。何万といたであろうElwoodとTurnerたち。ごめんね。自分は君らの側に立つから。誰になんと言われようとも。

人種差別の歴史ははっきりとあったし今だに続いているし、これらをどう語って繋いでいくのか、まだこんなふうに語ることができる、そしてどれだけ語っても彼らの痛みや無念には届くことがないのだ、というのに気づかせてくれる作品だった。監督は、それをさせたのはElwoodとTurner - Nickel Boysだ、というのだろうが。

日本も遊廓からヨットスクールから精神病棟から、昔から同じように親の勝手な恥都合で犠牲にされてしまった少年少女は山ほどいたはずなのに、いまだに社会としてなにひとつの謝罪も反省もしようとしない、いまだに闇の中にあるのでそれらがどれくらい酷いことなのか見えないのね。

そのうち書くかも知れませんが、新年からなんだかんだ慌しくて、明日の夕方から約2週間日本に戻ります。ぜんぜんうれしくないわ。

[film] No Way Out (1950)

1月1日、元旦の18:40からの上映で、前の“Ossessione”(1943)の後に見ました。

BFIももうちょっとお正月ぽい明るめの映画とかやればいいのに。
前の映画が終わってから次までの約4時間、がらんとしたBFIのロビーの椅子にだらしなく座って、スマホで2024年のベストなどを打っていた。そんな素敵なお正月。BFIのロビーに炬燵とか置いてくれたらよいのにな。

これも今月から始まる特集 – “Sidney Poitier: His Own Person”の最初の1本。なぜSidney Poitierなのか、は昨年末にここであったJames Baldwin特集から繋がってくるものなのか、公開された”Nickel Boys”で彼への言及があるからか。

監督はJoseph L. Mankiewicz、邦題は『復讐鬼』 - でも主人公は復讐鬼に狙われる側なのでこの邦題はよくないと思う。 Sidney Poitierの長編映画デビュー作。オスカーのBest Story and Screenplayにノミネートされたが『サンセット大通り』に敗れた、って(こっちの方が断然すごいと思うけど)。

Dr. Luther Brooks (Sidney Poitier)は郡の大きめの病院で研修医から常勤の医師になったばかりで、上司のDr. Dan Wharton (Stephen McNally)も彼の実力には太鼓判を押しているのだが、本人はまだ十分な自信を持てないでいる。

そんなある晩、併設されている刑務所病棟に、抗争で足を撃たれた兄弟 – Johnny (Dick Paxton)とRay (Richard Widmark)の二人が搬送されてきて、Rayは口だけは達者でLutherに差別的な言葉を浴びせて、こんな奴にかかりたくない、とか騒ぐのだが、それに動じず隣に横たわるJonnyの様子がおかしいことに気付いたLutherが脊椎を調べようとしたところでJonnyは亡くなってしまう(ここのシーンは映らない)。足を撃たれただけなのに突然死んでしまったのは診ていたLutherが殺したからだ、とRayは騒いで、Lutherの上司のDanはLutherの初期の治療対応は間違っていなかった、と言うものの実際には検視をするしかない、となって、でもRayはそれで証拠を潰すつもりだ許さないというし、病院側も騒ぎを広げたくないので静観、になってしまう。

どうしようもなくなったLutherとDanはJohnnyの別れた元妻のEdie (Linda Darnell)に会いにいってRayを説得してもらうようにするのだが、これが逆効果で、彼らの育った白人の貧民街に根をおろしているヘイト感情を思いっきり煽ることになって、黒人居住区を襲撃してやれ、にまで膨れあがる。

この経緯と並行して、疲れて帰ったLutherの実家で、苦労と努力で医者にまでなったLutherをどんな家族が囲んでいたのかが描かれて、でもそんな彼らも白人たちの襲撃計画を知ると先制攻撃を仕掛けてやる、って揃って出て行って大騒ぎになって怪我人が沢山…

そんなごたごたを通して、いろんなことに疲れ切ってしまったEdieをDanのところの黒人メイドがやさしく介抱してくれて、よいかんじになるのだが、突然Lutherは自首してしまう - 自首すれば証拠を確認するために検視をせざるを得なくなるから、と…

最初は平等でなければならない医療の現場に差別の問題が絡んでくる、程度のお話しかと思ったら、差別と貧困に苦しむコミュニティの実情と根深い対立構造にまで踏み込み、更には暴動まで巻き起こし、そこから更に、それでも静まろうとしない憎悪の塊りをえぐってあぶりだす。最後にLutherがRayに言うことの重み。 デビュー当時のSpike Leeがやっていたことを既に軽々と。

ほぼ狂犬のようになってヘイトをまき散らすRichard Widmarkがすごいのは簡単に想像できると思うのだが、それを(内臓を沸騰させつつも)静かに受けとめて持ちこたえて、最後にあんなことを言えるSidney Poitierの佇まいがすばらしい。このかんじ、正しく今のDenzel Washingtonではないか、とか。

終わって、半分くらいは埋まっていた客席から強い拍手がわいた。年の初めによいものを見たわ、って。

1.10.2025

[film] Ossessione (1943)

1月1日、水曜日 - 元旦の正午、BFI Southbankで見ました。
今月の特集 - ”Luchino Visconti: Decadence & Decay”からの最初の1本で、今年最初の1本。なんでいまVisconti? はわかんないわ。

Viscontiのデビュー作で、原作はJames M. Cainの1934年の小説 – “The Postman Always Rings Twice”、なので邦題も『郵便配達は二度ベルを鳴らす』なのだが、映画は郵便配達とは関係ない話になっている – ので欧米でのタイトルも”Obsession” - 「妄執」で。

イタリアン・ネオレアリズモの最初の1本とされることもあるようだが、そこはよくわからず。
ファシスト政権下の検閲が入ってやりたいことができない状況のなか、30年代のフランスでJean Renoirから貰った原作小説の仏語版が彼を救ったと。ローカル・ネタのようでイタリア-フランス-アメリカの連合が背後にあったりするというか。 ファシズムから逃れた先 – この世の涯で男女の欲望を軸に空回りして壊れる三角形。お話しはぜんぜん違うけどルノワールの『浜辺の女』 (1943)を思いだしたりもする。

車の荷台に乗って埃っぽい道を抜けて、どこからかやってきたGino (Massimo Girotti)がポー川沿いの食堂/ドライブインに立ち寄って、そこにはやや疲れた/でもどこかが漲っているGiovanna (Clara Calamai)と動物のようなその亭主のGiuseppe (Juan de Landa)がいて、食事の後に追い払われたGinoをGiovannaは強引に呼び戻して、Giuseppeが車の部品を買いに行っている隙に近づいて関係をもって、そこからGinoはうまくGiuseppeに気に入られ、そのままそこで手伝いなどをしながら暮らしていくことになる。

いまの生活と亭主が嫌で嫌ですべて蹴っ飛ばしたいけど、家の外に踏みだすことまではできないGiovannaと、元が根無し草なのでどこにでもいける – なのでずっと縛られるのはごめんのGinoと、酒と歌が大好きでお人好しのGiuseppeの3G - 今でもどこの世界にでもいそうなこの三人が行き場のない、逃げ勝ちなんてありえないごたごたに首を突っこんだり突っ込まれたり。

Ginoはあのまま、途中で出会う大道芸人のように宿無しの旅を続けていけばよかったのに、Giovannaはあと少し我慢していれば夫は勝手に膨れて潰れて自由になれたかもしれないのに、どこかで何かがおかしくなった – それが”Ossessione”、というものなのか。一度憑りついてしまうと自動で動きだして止められない、取返しのつかないことを引き起こす、それが”Ossessione”。誰が誰に向かってそれを引き起こしたか、というよりその根源にある愛と欲望と自由をめぐる”Ossessione”についての犯罪スリラー。

ただ3人のなかで、もっとも先の自由を奪われて押し潰されて、しかも子供まで… でかわいそうすぎるのがGiovannaであることは確かで、そんな彼女の表情の移り変わりとありようを描いて、そこを基点として、まずGiuseppeがああなって、続けて彼女とGinoがあのような運命を辿る、ということについては、主人公たちの思惑を超えて明確な意図というか構図があって、それが当時のファシスト政権を苛立たせたのはよくわかる。単なる個々の「妄執」がなにかをしでかした、という話ではないの。

Giovanna役が当初想定されていたAnna Magnaniだったらどんなふうになっていただろうか? とか。

こういう一本から始まってしまう一年がどんなものになるのか - どっちにしたって碌なものにはならないだろうから、いいんだー。


1.09.2025

[film] We Live in Time (2024)

1月2日、木曜日の午後、Picturehouse Centralで見ました。

これまでの慣習で、新年最初の1本は昔の映画を見ることにしていて、だから1月1日はBFI Southbankで過ごしたのだが、2日は新作を見ようと思って、でも新作の一本目が”Nosferatu”(2024)なのはなんか嫌かも、だったので、その前にこれを無理やり突っこんだ。なのでこれが今年最初に見た新作映画となる。

監督は”Brooklyn” (2015), “The Goldfinch” (2019)のJohn Crowley、脚本はNick Payne。音楽はBryce Dessner、Executive ProducerにはBenedict Cumberbatchの名前がある。

主演のふたりが結構仲良く楽しそうにプロモーションしていたので、明るいrom-comかと思ったら難病ものだった.. けどそんなに暗くないし辛くならないのでだいじょうぶ(かな?)。

Weetabix - シリアルの会社を経営するTobias (Andrew Garfield)とレストランを経営するシェフのAlmut (Florence Pugh)が出会って - 夜の道路上でバスロープ一枚で道路を歩いていたTobiasをAlmutが車で轢いてしまう - 少しづつ仲良くなって、彼女の病気がわかって、化学療法で髪を切って、赤ん坊ができて、出産して、娘Ella (Grace Delaney)が大きくなって、など、どうってことなさそうな細切れが、過去現在の脈絡なし順序の行ったり来たりでえんえん重ねられていく。最初はこの調子で最後まで行ってだいじょうぶかなあ? なのだが、すぐ涙目になって柔らかく受けとめてばかりのTobiasとなにかと突っかかって負けないのが基本のAlmutの(誰もが想像できるであろう)ケミストリーがすばらしくよいので、あまり気にならない。 いつのどの断面で切ってもふたりはふたりで連なっていて互いに目を離すことができなくて、そのうち大きめのイベント - 料理のコンペティションに英国代表として出るんだって踏んばっていくところ、そして、ガススタンドの身障者用トイレで娘を出産してしまうところ – めちゃくちゃおもしろい - など、ずっと一緒の時間のなかにいたふたり。

思えば、Andrew Garfieldの“The Amazing Spider-Man”シリーズの最大の失敗は“2”でEmma StoneのGwen Stacyを亡くしてしまったことだった(私見)。彼があの後に悲しみでぐだぐだの用なしになってしまうことは十分に見えていて、実際にそうなった。 今回も同じなのかもしれない。そんなにAndrew Garfieldの嘆き悲しむ姿はよいのか?(悪くはない。あんなふうに泣けるひとはあまりいない)とか。

Tobiasがどこまでも彼女を受けとめてベソをかきながら見守ってついていくのに対して、Almutは周囲を吹っ切ってでも前を向いて進行方向を変えない。元からなのか、かつてフィギュアスケートの選手になるのを諦めてしまった過去があるからなのか、どちらにしても絶対に振り返らず、後悔もしようとしない – この組み合わせは特に新しくはないと思うし奇跡も起こらないけど、この2人だから、という途方もない根拠もない確信と強さに貫かれているのでなんかよいなー、になって、でもほんとそれだけなの。

Almutの病は間違いなく幸せな家族を引き裂いて残された者をどん底に叩き落とすだろう、その決定的な別れとか最期の時からどこまでも離れて目を逸らそうとする - それがTobiasの取った態度で、映画はそれに倣うように中心にある病と死から離れようとして、この映画はそれでよいのだな、って思った。

1.07.2025

[film] Nosferatu (2024)

1月2日、木曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
2日だとお正月でもなんでもなく、みんな普通に動いている。

Robert EggersによるF.W. Murnauの1922年のサイレント –“Nosferatu: A Symphony of Horror”のリメイク。音響は確かにものすごいのでIMAXで見るのはよいかも。

12月31日の夕方にBFI IMAXでこれは見ていて(2024年の最後の上映)、サイレントだけど何度見てもどう見ても怖い。「恐怖のシンフォニー」、であるので遠隔の呪いはあるわ拘束の恐怖はあるわ祟りに感染の危険は溢れてくるわ全てが逃れようなくこれでもか、の中心にいるのがMax Schreckの - 水木しげるの漫画に出てきそうなシンプルな線顔(でもなかなかいないよ)のノスフェラトゥで、個人的にはWerner Herzogによる“Nosferatu, Phantom der Nacht”(1972)のKlaus KinskiとIsabelle Adjaniの濃厚さに敵うやつはいない、のだが今回のはどうか?

19世紀の前半、冒頭でEllen Hutter (Lily-Rose Depp)に何かが取り憑いて、そこから数年後、彼女と結婚したThomas Hutter (Nicholas Hoult)が出世のため(=彼女のため)に危険な遠くへの商談出張のオファーを受けて、彼女が行かないでと頼んでいるのに勝手に親友のHarding夫妻(Aaron Taylor-Johnson & Emma Corrin)のところに預けて野山を越えてたどり着いたのがCount Orlok (Bill Skarsgård)の館で、パンナイフで指を切って血を見せてしまったものだから、起きて気がついてみると何かの噛み痕が。

Count Orlok - 最初からどう見ても得体の知れない化け物 - はEllenのいる街に向かって棺桶に入った形で旅に出て、容態がおかしくなっていく彼女を診るProf. Albin(Willem Dafoe)と医師(Ralph Ineson)がやってきて、船内にペストを撒き散らしたCountがペストごと上陸して。全体としては何かの扉が開かれて山から下りてきた災厄としか言いようのないやばいのが飛び散って収拾がつかなくなっていくモンスターパニック映画のようで、美術にお金をいっぱいかけていることはわかるのだが、このお話しにそこまでのものは期待していない、というか、宗教民俗ホラーとしてみんな狂っていって、CountとEllen、Countと僕(Simon McBurney)、CountとProf. Albinの関係がきちんと描かれていればよかったのだが、なんか薄まって(or 不要に濃くなって?)しまったような。

音も含めて全体のおどろおどろしく嫌で気持ち悪い雰囲気は十分に満ち満ちていて、ストーリーを知らなくてもどうなっちゃうかはだいたいわかって、でもRobert Eggers って”Lighthouse” (2019)の時にも思ったのだが、最後になんであんなにどろどろぐちゃぐちゃの鍋にしてしまうのだろうか、あそこまでやらないと気が済まないのかしら… とか。

あと、Count Orlokがあまりにモンスターの魔人みたいで、出会いがしらにあんなのが出てきたらその場でふざけんな、ってやっつけてしまうべきだったし、最期にこんな化け物とやりあって(揃って言うこと聞かない間抜けな男たちの)犠牲になってしまうEllenがかわいそうすぎる。 原作なんて無視してやっちゃえばよかったのに。

敵があまりに化け物化け物していて無敵っぽいので、こっちにはX-MenのBeastだって、こないだのKravenだって、こないだのCassandra Novaだって、Green Goblinだっているんだからな、くらいのことを思ってしまうのだが、本当はそんなこと思わせてはいけないよね。

Nicholas Houltはこないだの”Juror #2” (2024)もだったが、生真面目さ故にはまって後戻りできなくなり、やばいどうしよ… にじりじりなっていく弱い男を演じさせたらうまいねえ。

これなら音楽はごりごりのゴスメタルみたいのを流しちゃって台詞が聞こえないくらいにしてもよかったのではないか(結果サイレント)。そういう上映会をやってみても。

あとの見どころはネズミだろうか - あれCG?
猫もいたので対決シーンが見られるかと思ったのになー。

1.06.2025

[theatre] The Tempest

12月30日、月曜日の晩、Theatre Royal Drury Lane で見ました。

2024年最後に見た演劇で、ここんとこ自分の中で続いているシェイクスピア劇を見ていこう、のシリーズ、でもある。

Sigourney WeaverのWest Endデビューで演出はJamie Lloyd。 男性役のProsperoを女優が演じる、という点では、偶然だけど2日前に見た「ベニスの商人」のShylockをTracy-Ann Obermanが演じたのに続く。こういうジェンダー逆転シェイクスピアって昔からふつうにあったものなのだろうか?

上演前から宇宙っぽいダークでスペーシーな音が渦を巻くように埋めていて、幕が開くとどこかの星の上のような黒い崖のような岩が寒々しくでっかく横たわっていて、それらを覆ったり吹き飛ばしたりするようにでっかいシルク布が渦を巻いたり嵐を巻き起こしたり、ライティングはところどころで雷のように瞬いて強い残像を残す。シアターが大きいのでしょうがないのかもだが、ヘッドマイクを通した俳優の声はすべて均質に仰々しく響き渡ってしまうので、先の舞台セットも含めて「大規模プロダクション/アトラクション」の仕様がずっとあって、この辺の違和感は最後まで。(こういうセットでやってもよいスケールの劇である、というのはわかるけど)

Prospero (Sigourney Weaver)は最後の方を除いて大きな動きはせず見せず、裃(かみしも)のような衣装を纏って最後の場面でそれを変えるまでずっと舞台上にいて、ひとり呟いたり、登場人物たちとの個々のやりとりは十分に力強く真ん中にいるのだが、大枠では静かに全体を眺めつつ統御しているかんじ。

怪物Caliban (Forbes Masson)は傷だらけのお相撲さんかプロレスラーとしか思えない格好で舞台下の水中から顔をだしてやくざな酔っ払いとして暴れ、妖精Ariel (Mason Alexander Park)はマリリン・マンソンのメイクで空から降りてきて - この人が一番かっこよくて素敵だったかも 、Calibanと結託するTrinculo (Mathew Horne)とStephano (Jason Barnett)は漫才ピエロで、Prosperoの娘Miranda (Mara Huf)とナポリ王子Ferdinand (James Phoon)の恋は、立ち居振る舞いも含めてディズニー映画のようにきらきらしていて、要は各キャラクターが好きなように暴れたりそこらをうろつくばかり(ただし境界は守りつつ)で、宇宙の真ん中でこれか… みたいな纏まりのなさすぎる感があって、本来であれば、大嵐 - Tempestの荒ぶるなにかが力技でごたごたを収めたりどうにかしてくれるのだと思うが、ここでの女性Prosperoはなにかを静かに待っているようになにもしないふうで座っているのがほとんど。それを母性的な大らかさで包みこもうとするなにか、と見るのがよいのか、彼女の当たり役であるRipleyのように最後にとてつもないパワーを発揮するものとして置いておくべきなのか、おそらく後者なのかも。

魔界と人間界の間に立つ、って映画“Alien”のテーマにも通じるなにかのようにも思えて、せっかくSFぽい舞台セットにしたのだから、転移や寄生に近いところで、あるいは呪いや魔法を解くというところでなんかでるかも(でてきて)、と思ったのだが、割とストレートでふつうだったのはやや残念だったか。(Sigourney Weaverのふたつの顔がぼんやりと結ばれているポスターはそれっぽかったのに)

でもやっぱりSigourney Weaverはものすごく素敵な人ではないか、と思ったり。

1.05.2025

[log] Vienna Dec 26-27

12月26日から27日にかけて(のはずだったが戻ってこれたのは28日)、ウィーンに行ってきた。以下、簡単な備忘。
 
Rembrandt – Hoogstraten: Colour and Illusion

 
着いて、ホテルに荷物を置いてからKunsthistorischesMuseum Vienna(美術史美術館)に向かって、まずこれを見ることは決めていた。
Rembrandt van Rijn (1606-1669)と弟子のSamuel van Hoogstraten (1627-1678)のふたりの画家(当然、Rembrandt多め)が何を目指そうとしていたか、等についての美術史観点での考察。

2019年、アムステルダムのThe RijksmuseumでRembrandtの全版画展があった時に見に行った辺りかその前から展示の中にRembrandtの名前があればとりあえず、なんとなく見ようか、になっている。
 
サブタイトルに”Colour and Illusion”とあるように、色が微細できれいで写実性の高い – 騙し絵のように見えるくらい精巧な作品たちを世界中から集めてきていて(見たことあるのも結構あった)、それがRembrandt個人の才能による、というよりは工房のなかでもきちんと受け継がれる手法のような何かとして確立され伝授されていたのだ、というのがHoogstratenの作品から窺うことができる。描かれた人が絵画のフレームに手をかけている、絵のなかの木枠が実際の額縁に引き延ばされていて、絵画に描かれたものとこちらの見ている、見ようとする世界と連なっているようなイメージの見せ方。

あと、Rembrandtの宗教画に現れる聖性、とシンプルに呼びたくなる光の美しさ、あれはいったい何なのか。あの光の籠ったような眩さって彼独特のものだと思う。
 
美術史美術館は常設もほんとにすばらしくておもしろくて、ギリシャ彫刻のとこも含めて久々にぐるぐるだらだら回って見てまわる。
 

Medardo Rosso: Inventing Modern Sculpture @ museum moderner kunst stiftung ludwig wien (mumok)
 
美術史美術館の前の通りの向こう側にポスターがあって、おもしろそうだったので入ってみたら当たった。
イタリア系フランス人の彫刻家 - Medardo Rosso(1858-1928)のレトロスペクティブ。
同時代のロダンの滑っていく滑らかさとは別の、崩れて溶けていく、或いは固化していくような近代の身体や顔相を更に溶かそうとしたのか固めようとしたのか。

彼の作品と共に、ドガやブランクーシ、ジャコメッティ、モランディ、ベーコンなどなどの二次元作品も並べて、なんだか知らないうちに身体や顔が瓦解融解して、手の施しようがなくなっていくさまをいろんな角度から写真も含めて並べていって、彫刻における美とは何で、いかにしてありうるのか、を強く、何度でも問う。

今年、圧巻だったルーブルの展覧会 - ”Torlonia Collection”の、あの漲るかんじからここまで来る、来れてしまうものなのかー - 同じ固体でも塊りでも - って。

カタログ、分厚かったので諦めてしまったのだが、買っておけばよかった…

 
Alfred Kubin @ Albertina modern

27日の朝一に美術館の前に行って、見た。
今回は、Rembrandt展とこれがあったのでウィーンに来ることにしたの。高校くらいのとき、Slapp HappyのPeter BlegvadがAlfred Kubin (1877-1959)からの影響を切々と語っているのをどこかで読んで、画集があれば手に入れたりしてきたのだが、大きめの規模の展示でようやくじっくり見ることができた。いろんな頭のなかの、捩れた肉の奥の、実際の地獄、チャコールの、砂の地続き、で決してその動きを停めることも完結することもない呪いや懺悔の歌とか像とか。

絵の合間に彼自身の言葉などが貼ってある。

- Maybe this is what life is: a dream and a fear.

彼のだけじゃなくて次のようなムンクの言葉も。

- My path has led along an abyss, a bottomless depth. I have been forced to jump from stone to stone. The fear of life has accompanied me for as long as I can remember

Edvard Munch (1863-1944) はやはり近いのかも。

カタログは売り切れていて悲しかったのだが、翌々日、ブリュッセルの書店Tropismesに行ったらあった。


Listening to Love with Schönberg


Kubinを見たらSchönbergも、ということで近くにあったArnold Schönberg Centre も行ってみる。年末だからかもう誰もいない暗いオフィスビルのようなとこの2階で、人も殆どいない状態だったが、かれの描いた絵画作品や、ブーレーズやラトルが彼の曲を指揮するビデオを見たりしてちょっと休む。


Modernではない方のAlbertinaでは、Robert Longo, Jim Dine, Chagall、あとは常設も。Chagallは、前にCentre Pompidouで見たときより、ちょっと感動したかも。動物たちがより迫ってきた。

他には”Before Sunrise” (1995) にでてきた Kleines Caféでお茶をしてお菓子を食べる。 すんごくよい雰囲気の茶店。

最後にはやはり食材屋に、ということでJulius Meinl am Grabenに向かって少しだけ食べものを買い、Demelでどうしようか、ってやっているところにロンドン行きの飛行機キャンセル、の報がきてBAと徒労まみれのぐだぐだ交渉にー。


1.03.2025

[theatre] The Merchant of Venice 1936

12月28日、土曜日の晩、Trafalgar Theatreで見ました。

英国各地をツアーしてきた舞台の、ロンドン公演(再演?)の初日。この日、本当は朝から日帰りでベルギーに行っているはずだったのだが、ウィーンからの戻りの便がテクニカルなんたらで突然キャンセルになり、交渉して直行便がなかったので深夜にマドリードに向かい、そこから28日の朝にロンドンに戻ってきて、ベルギー行きはどうにか翌日に移すことができたものの、なんかつまんないので当日にチケットを取った。

原作はシェイクスピア、演出はBrigid Larmour。タイトルにもある通り、1936年、舞台は英国・ロンドン、その東側に暮らすユダヤ人の金貸しShylockを女性のTracy-Ann Obermanが演じており(これに合わせてLauncelot も女性に置き換えられている)、いくつかのエピソードは彼女のGreat grandmother(曽祖母)のものだという。(Obermanは舞台のAssociate Directorでもある)

第二次大戦に向かうなか、英国でもイギリス・ファシスト連合を率いるOswald Mosleyを中心にユダヤ人排斥の動きが出てきて、貿易商のAntonio (Raymond Coulthard)も、黒服短髪のそれに倣ったいかにもの挙動と傲慢さで金貸しのShylockのところにお金を借りにきて、彼にとっては屈辱ぽい取引条件 - 返せなかったらお前の肉を1ポンド - をのんで出ていく。

キャストがざわざわと舞台に出入りしていくのは客席の右左からで、昔の他人事として静観することを許さない。いろんな取り引き/駆け引きの浮ついて根拠のないこと、でもそこに嵌って縛られてしまうこと、など。

そんなAntonioとPortia (Hannah Morrish)を中心とした上の階層の人々(ロンドンの西側)の恋の駆け引き、というより、その裏側で裕福だった家や居場所を奪われ投石され、Shylockに至っては裁判を経てキリスト教に改宗させられ、それでも誇りを失わずに踏みとどまって戦ったユダヤ人、が前面にでていて、最後には1936年のBattle of Cable Street - “They shall not pass!”まで描かれる。 (Cable Streetの戦いは昨年サザークの劇場でミュージカルになっていたが、いまだにヴィヴィッドなテーマらしい) こういう終わり方と繋げ方でよいのか、はあると思うが、シェイクスピアの風呂敷はここまで広げてしまうことだってできるのだな、と。

ちょっとだけ言うと、Shylock 役のTracy-Ann Oberman以外のキャラクターがやや浅くて中身があまりなさそうに見えてしまうのがなー、くらい。

あの有名な台詞 - “If you prick us, do we not bleed? If you tickle us, do we not laugh? If you poison us, do we not die?” は当然でてくるのだが、思い出したのはルビッチのコメディ - “To Be or Not to Be” (1942)でシェイクスピア劇団の役者Greenberg (Felix Bressart)がこの台詞で切々と訴える忘れがたいシーンで、そういえばこの映画もポーランドに侵攻してきたナチスのファシズムと戦う(というか、おちょくってやる)やつだったなー、って。

Shylockのような人々がこうやって生き延びてきた、はわかるのだが、Antonioのような極右の連中もしぶとくいまだにヘイトを撒き散らし続けて100年くらい、そこらじゅうの世界で平気な顔をしているわけで、そっちの方が根深くて興味深いかも。社会史学方面など、いろいろ言えるのはわかるけど、ごくふつうになんなの? って。

1.01.2025

[log] Best before 2024

新年あけましておめでとうございます。
昨年の今頃は1月3日の英国出発に向けたパッキングでお正月も含めてそれどころじゃなかったのと比べるとだいぶ穏やかな気がする。

元旦の朝、起きたら珍しく10時を過ぎていて(ふだんは寝れなくて8時前に起きる)、前の滞在時のお正月がそうだったようにBBCのウィーンの新年コンサート(いつか行きたい)を聴きながら日本で買ってきたチーかま等を頬張って、冷たい小雨の降るなかBFI Southbankに向かい、今日から始まるLuchino Visconti特集の最初の一本 - “Ossessione” (1943)と、同じく今日からのSidney Poitier特集から”No Way Out” (1950)を見た、だけ。いつもの週末と1ミリも変わらないの。

今年もよい旅をしてよい作品を見ることができれば、なのだが治療とかありそうで今年ほど好き勝手できないかも。

以下、順位はなくてすべて見た順。10本とか絞れないので、適当に。

[film]

2024年は中短編含めて411本見ていた。なんと配信は1本も見ていない。うちBFI Southbankで219本…

映画は、Sight and Sound誌のベスト50のうち36本を、Guardian紙のUKベスト50のうち40本を見ていた。この本数、日本にいると本当に減ってしまうのよね...
 
[新しいの]

▪️ The End We Start From (2023)
▪️ All of Us Strangers (2023)
▪️ Anyone But You (2023)
▪️ Love Lies Bleeding (2024)
▪️ Baltimore (2023)
▪️ Cerrar los ojos (2023) - Close Your Eyes
▪️ The Sweet East (2023)
▪️ Hoard (2023)
▪️ La chimera (2023)
▪️ Here (2023)
▪️ Crossing (2024)
▪️ Kuru Otlar Üstüne (2023)  - About Dry Grasses
▪️ Janet Planet (2023)
▪️ Kneecap (2024)
▪️ His Three Daughters (2023)
▪️ Megalopolis (2024)
▪️ Grand Tour (2024)
▪️ The Room Next Door (2024)
▪️ Blitz (2024)
▪️ Christmas Eve in Miller's Point (2024)
▪️ Bird (2024)
▪️ ナミビアの砂漠 (2024)
▪️ The Brutalist (2024)
▪️ All We Imagine as Light (2024)

[ドキュメンタリー]
 
▪️ The Disappearance of Shere Hite (2023)
▪️ Your Fat Friend (2023)
▪️ Occupied City (2023)
▪️ Copa 71 (2023)
▪️ Merchant Ivory (2024)
▪️ Sex is Comedy: la révolution des coordinatrices d'intimité (2024)
▪️ Strike: An Uncivil War (2024)
▪️ Bye Bye Tibériade (2023)
▪️ Dahomey (2024)
▪️ A Sudden Glimpse to Deeper Things (2024)
▪️ No Other Land (2024)

[ふるいの]

▪️ “A League of Her Own: The Cinema of Dorothy Arzner” - でかかったの全て
▪️ Kaos (1984)
▪️ La notte di San Lorenzo (1982)  - The Night of the Shooting Stars
▪️ Leave Her to Heaven (1945)
▪️ The Sugarland Express (1974)
▪️ “Martin Scorsese Selects Hidden Gems of British Cinema” - でかかったの全て
▪️ The Talk of the Town (1942)
▪️ Silent Sherlock (1921-1923)
▪️ The Train (1964)
▪️ Point Break (1991)
▪️ The Bishop's Wife (1947)


[art]

やけくそのようにいっぱい見た。何を見ても楽しい。
セザンヌのアトリエやアッシジのサン・フランチェスコ大聖堂とか、ずっと行きたかったところにも行けた。

▪️ Impressionists on Paper : Degas to Toulouse-Lautrec  @ Royal Academy of Arts
▪️ Nicolas de Staël  @ Musée d'Art Moderne de Paris
▪️ Viva Varda ! @ La Cinémathèque française
▪️ Sargent and Fashion @ Tate Britain
▪️ Women in Revolt !  Art and Activism in the UK 1970-1990 @ Tate Britain
▪️ Yoko Ono: Music of the Mind  @ Tate Modern
▪️ Isabel Quintanilla's intimate realism @ Thyssen-Bornemisza Museo Nacional
▪️ Frank Auerbach. The Charcoal Heads @ The Courtauld Gallery
▪️ Klimt Landscapes @Neue Galerie NY
▪️ Francesca Woodman and Julia Margaret Cameron: Portraits to Dream In @ National Portrait Gallery
▪️ Expressionists: Kandinsky, Münter and The Blue Rider @ Tate Modern
▪️ Now You See Us : Women Artists in Britain 1520–1920. @ Tate Britain
▪️ Preraffaelliti - Rinascimento Moderno @Musei di San Domenico
▪️ Paris 1874. Inventing Impressionism @ musée d'Orsay
▪️ Chefs-d'œuvre de la collection Torlonia @ Musée du Louvre
▪️ Francis Bacon: Human Presence @ National Portrait Gallery
▪️ Deborah Turbeville: Photocollage @ The Photographers' Gallery
▪️ Medieval Women: In Their Own Words @ British Library
▪️ Surrealism @ Centre Pompidou
▪️ Chantal Akerman: Traveling @ Jeu de Paume
▪️ 志村ふくみ 100 歳記念 ―《秋霞》から《野の果て》まで― @ 大倉集古館
▪️ Olga de Amaral @ Fondation Cartier pour l'art contemporain
▪️ Pierre Bonnard - Bonnard au Cannet @ Musée d'Art Moderne de Paris
▪️ Ribera - Shadows and Light @ Petit Palais
▪️ Mon ours en peluche @ Musée des Arts Décoratifs
▪️ Vanessa Bell - A World of Form and Colour @ MK Gallery
▪️ Rembrandt – Hoogstraten : Colour and Illusion @ Kunsthistorisches Museum
▪️ Medardo Rosso: Inventing Modern Sculpture @ museum moderner kunst stiftung ludwig wien
▪️ Alfred Kubin @ Albertina modern
▪️ Ghent Altarpiece @ St Bavo's Cathedral, Ghent


[theatre]

44本見ていた。今年は演劇のおもしろさに目覚めてしまった年かも知れない。音楽のライブに近い位置づけなのかも。

▪️ Dear Octopus (24. Feb) @ National Theatre
▪️ The Motive and The Cue (21. Mar) @ Noël Coward Theatre
▪️ London Tide (24. April) @ National Theatre
▪️ The Cherry Orchard (18.May) @ Donmar Warehouse
▪️ Skelton Crew (16. July) @ Donmar Warehouse
▪️ Illinoise (31.July) @ St. James Theatre
▪️ Slave Play (13. Aug) @ Noël Coward Theatre
▪️ The Other Place (12.Oct) @ National Theare
▪️ Macbeth (26. Oct) @ Harold Pinter Theatre
▪️ The Fear of 13 (02.Nov) @ Donmar Warehouse
▪️ All’s Well That Ends Well (05.Dec) @ Sam Wanamaker Playhouse
▪️ The Importance of Being Earnest (14. Dec) @ National Theatre


[music]

CDもレコードも買わなくなり(その分が本に流れ)、ライブは体力的に無理なく、チケットが取れる範囲で、になった。見たのは43本。 でも音楽はずっと変わらず、とても大切。

▪️ Caetano Veloso (4. April) @ Brooklyn Academy of Music
▪️ The Magnetic Fields: 69 Love Songs 25th Anniversary (5-6. April) @Town Hall
▪️ Cat Power Sings Dylan: The 1966 Royal Albert Hall Concert (1. May) @ London Palladium
▪️ Primavera Sound Barcelona 2024 (30.May - 1.June)
▪️ Anohni and the Johnsons (2.July) @ Barbican Centre
▪️ I Want Absolute Beauty (24.Aug) @ Jahrhunderthalle
▪️ Elvis Costello & Steve Nieve + the Brodsky Quartet (22.Sep) @ London Palladium
▪️ The The (01. Oct) @ O2 Academy Brixton
▪️ Laura Marling (29. Oct) @ Hackney Church
▪️ 50th Anniversary of Radio City (31. Oct) @ Hackney Church
▪️ Víkingur Ólafsson & Yuja Wang: Two Pianos (01.Nov) @ Royal Festival Hall


そして帰宅したら冷蔵庫が動かなくなっている…
今年もよい作品に出会うことがらできますようにー。