5月10日、土曜日の昼、BFI Southbankで見ました。
5月のBFIは問答無用のTom Cruiseの大特集で、全出演作の回顧上映があり、BFI IMAXではMIのマラソン上映会があり(ぜったいむり。あたまおかしくなる)、BFIにやって来てトークはあるけどチケットなんて取れるわけないわ、Sight & Sound誌の表紙にはなるわ、BFI IMAXの天辺に登っちゃうわ、どうせあんたは無敵なんだから好きにしてくれ、状態なの。
嫌いな俳優ではないし尊敬しているけどものすごく好き、というわけでもないので、この特集では武器を持たないTomかな、ということでこの”Magnolia”とVanilla Sky (2001)だけチケットを取っている。
上映前のイントロによると、ここで上映されるのは今回の特集のために新たに焼かれた35mmプリントで、ほんとうは6月にここで開催されるFilm on Film Festival用 – SWの”New Hope”の改悪前のオリジナルフィルムが上映されるのもここ – に準備したものだったが、この場でもう上映しちゃうのだ、と。
デジタルでもフィルムでも、スクリーンのサイズも、もうあんまり拘りはなくなって、見れるのであればなんでも、の今日この頃なのだが、ここで見たプリントから立ち上ってくる生々しい質感はちょっと驚くレベルのものだったかも。
この作品はPaul Thomas Andersonが前作”Boogie Nights” (1997)での成功を受けて十分なファンドとなにやってもよい、という自由を貰って、思いきり3時間超えの大作を作ってしまった、というやつ。PTAのなかではこれと次の”Punch-Drunk Love” (2002)が一番好きで、“There Will Be Blood” (2007)以降は、みんなそれぞれにすごいとは思うもののなんかこわい…
人の生死なんて、ほんとになにがどうなるかわかんないもんじゃ… ていうのが昔語りの飛び降りのエピソードと共に語られてから、Aimee Mannの”One”がフルで流れて、曲のエンディングでマグノリアの花のイメージがぐるりと広がると、客席のみんなが溜息をついていた。息をのんでしまう美しさがある。
オムニバスのごった煮で、いろんな人たちのいろんなエピソードがところどころでうねって絡みあってサン・フェルナンド・ヴァレーの土地と気候を形作る。アンサンブル、とはまたちょっと違って、ひとつの歌 -“Wise Up”がキャストたちを巻きこみつつ順に歌われていく、メドレーというか。
いみないくらいおおざっぱに要約すると、警官のJim (John C. Reilly)が町を見回りしていくなかでヤク中のClaudia (Melora Walters)と出会って、彼女の父(Philip Baker Hall)は長寿クイズ番組のホストをしているが病んでいて、そのプロデューサーで高齢のEarl (Jason Robards)も病床にあって長くなくて、Earlの妻のLinda (Julianne Moore)も孤立してぼろぼろで、Earlは介護をしているPhil (Philip Seymour Hoffman)に息子のFrank (Tom Cruise)を探してほしいと頼み、Frankはオトコってさいこうー!っていうやばい系の自己啓発セミナーを主宰していて... こんなふうに全体がマグノリアの花びらを形作っていて、ものすごく悪い人もいないし邪悪な何かにやられているわけでもない、なのに誰もが疲れて傷ついて嫌になってやってらんない、ってどうにか過去から生き延びてきて、でもその先にある分かれ目とか断層とか、ほんの少しのタイミングとかちょっとしたズレに左右されるばかりで、ああもうこんなのだめかも無理かも… ってなったときに天からあれが。ぼたっと落ちるマグノリアの花のように。
最初にこれを見た前世紀末、とにかくびっくりして、あーもうこれはぜったい好きだわ、ってなった。ここには救いも希望も啓示もなんもないし。でも落ちて死ななかったら生きるし。けろけろ。
自分のなかではこれが20世紀末最後の大作で、21世紀の最初の大作は”EUREKA” (2000)なの。
”Boogie Nights”とその前の”Hard Eight” (1996)からのキャストを総動員して、見事なPTA組ができあがっていて、でもここをピークに以降の作品は少しづつばらけて、キャラクターよりヒトの業とか徳のようなものを中心に練られていく印象がある。
どこを切っても見どころだらけなのだが、Tom Cruiseに絡みまくって引っぱりだすPhilip Seymour Hoffmanの粘着(その後の”MI3” (2006)に繋がる)とか、経歴詐称がばれた瞬間のTom Cruiseの表情とか。
あと、見どころ云々以前に、まずはAimee Mannの曲ありきの映画、でもあるの。
John C. ReillyとMelora Waltersの最初のデートのシーンもすごくよくて、彼女が口を開けて顎を「かきっ」って鳴らしてわたしはこれができるの、って言うシーンでは、場内のあちこちでかきんこきんうるさくなって笑った。
終わったらみんなしみじみ拍手していた。なんでだろう? って思いつつもなんか。
5.17.2025
[film] Magnolia (1999)
5.16.2025
[film] Where Dragons Live (2024)
5月3日、土曜日の夕方、演劇”Here We Are”とThe Poguesのライブの間に、Curzon BloomsburyのDoc-Houseで見ました。
オランダ人の監督Suzanne Raesが英国のOxfordshireの一軒の家を舞台に撮ったドキュメンタリー作品。
野原の真ん中に建つ英国の典型的な昔の邸宅 - Cumnor Placeが建っていて、そこに中年の女性 - Harriet Impeyがやってくる。
この邸宅は60年代に、既に亡くなっているHarrietの母で科学者だったJane Impeyが家にあったポストカード大の絵画 – これが初期フランドル派の画家 - Rogier van der Weyden (1399-1464)の“Saint George and the Dragon”であることがわかって当時の新聞に載る大きなニュースとなった - をワシントンのNational Galleryに売った利益で購入して修理して一家で暮らし、いまは中年になったHarrietを含む彼女の子供たち(男3、女1)は、ここで子供時代を過ごした。そして今は彼らの子達- Janeの孫たちがやってきて遊んだりしている。
彼らの父、作家でAshmolean Museumのアジア美術のキュレーションをやっていたOliver Impeyは2005年に、母Janeは2021年に亡くなり、住む者のいなくなった屋敷を引き払うべく、子供たちがやってきてそこに置いてあるもの - 写真や8mmも含む – を彼らの記憶と共に並べていく。日本の下品なTVだとすぐにお宝探し、とか乗りだしそうだが、そういうトーンではなく、家に置かれ、遺された大量の遺物を掘りだし、そこから祖先の足跡〜両親との思い出、自分たちの幼少期までを巡っていく旅のようなものになっていく。
もとはコロナのロックダウン中にこの邸宅でドキュメンタリーを撮る計画があり、それがJaneの死によって急遽撮影を進める必要が出てきたらしいのだが、中心にあるのはずっとここで暮らしてきた、ついこの間まで日常を送っていた母Janeの手書きのメモや貼ってある写真など、前半部分は彼女の生活の痕跡とそれが絶えてしまったことを悼み慈しむトーンが強く出ている。
後半は、父が収集していたのか放置していたのか、家のあちこちに潜んでいるかのように置かれたDragonの絵や飾り、置物の数々とそれらに囲まれて過ごした子供たちの幼年期を追っていく。 アジアを旅してDragonばかりを集めて家に運んでいた – そこから家の購入に繋がる発見があったわけだが - 父がそうやって遺したものと子供たちが父母と過ごした夏の日の記憶、片付けられ、失われていくものへの想いが父の愛したDragonに凝固し、時間を超えて飛びたっていく様はちょっと感動的だったかも。
これ、遺されたのがDragonだからなかなかかっこよいけど、へなちょこでくたくたのぬいぐるみとかがらくたばかりだったらどうなっただろう? ってちょっとだけ思った。
Blue Road: The Edna O’Brien Story (2024)
5月11日、日曜日の晩、Curzon BloomsburyのDoc-Houseで見ました。
もうじき日本のアイルランド映画祭でもかかるようで、喜ばしい。英国では結構長く上映され続けているドキュメンタリー作品。
93歳になったEdna O’Brienのインタビュー映像 – この数か月後に彼女は亡くなる - を中心に、若い頃のTV出演時の映像とか、他の彼女の記事や発言はJessie Buckleyが力強く声をあてて、家族以外の批評家や所謂「証言者」的なコメントは殆どない。作家本人がよどみなく踏みしめるように語っていく一代記で、作品を読んだことがない人でも、家族も文壇も、全てが保守的で、「らしく」あることを求められる土壌でどんなふうに彼女 = “Girl”が周囲と戦い、道を切り開いていったのか、を鮮やかに切り取ってみせて、その恥じない動じない姿はかっこいい、しかない。
タイトルのBlue Roadは、小説に”Blue Road”と書いた彼女が、そんな青い道なんてあるか、って父親に怒られたエピソードから来ていて、でもその直後、カメラはしれっと青くなっている道(美しいったら!)を映しだしていたりー。
↑の”Where Dragons Live”もそうだったが、イギリス・アイルランドの田舎の映像の美しさと、その背後にある澱んで暗く、でも引き込まれるよくわからない業のようななにか、が浮かびあがってきて、それでもやはり美しくて見つめ直してしまうのだった。
5.15.2025
[theatre] Here We Are
5月3日、土曜日のマチネを、National TheatreのLytteltonTheatreで見ました。
2021年に亡くなったStephen Sondheimが最後に手掛けたミュージカルで、原作はDavid Ives、演出はJoe Mantello。Luis Buñuelの2本の映画 – “The Exterminating Angel” (1962) - 『皆殺しの天使』 と”The Discreet Charm of the Bourgeoisie” (1972) - 『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』 をモチーフとして置いて、最初のリーディングのワークショップは2016年くらいから行われていたものの、いろいろな経緯を経て、NYのオフ・ブロードウェイで初演されたのはSondheimの死後、2023年であった、と。
一幕と二幕でトーンも含めて結構はっきり分かれていて、登場人物はほぼ同じだが別の芝居のようで、一幕目はブルジョワジーの秘かな愉しみ』をベースに、二幕目は『皆殺しの天使』をベースにしている。 ミュージカル要素が効いているのはほぼ一幕めの方。
舞台は真っ白でぴかぴかの金持ちのモダンなリビングのようなところで、上演前から執事のような男性と掃除婦の女性が掃除機をかけたりいろいろ磨いたり、汚れがないかチェックしたり、つんつんした顔と態度で(上演を?)準備している。
そのアパートにゲストがやってくる - ホストのBrink夫妻は呼んだ憶えがないらしいのだが、同様に金持ちらしい小ぎれいなZimmer夫妻と、南米の架空の国の大使Raffaelと、ホストの妻の妹で、革命思想に傾いている若者Marianneと。そこではなんの準備も用意もしていなかったので、みんなで外にブランチに行こう!おー! って歌いながら外にでる。
一行が最初に入った – “Café Everything”では、メニューはありませんなんでも作りますよー、と言いながら、注文を受けたウェイターがいきなり銃で自殺してしまったり、そんなふうに、次のレストランに行ってもどこも同様にあれよあれよと変なことが起こり、ご飯にありつけないままの彷徨いが転がっていく。歌も入ったどたばたコメディ風で楽しいのだが、『ブルジョワジーの...』 にあった悪夢と悪意に満ちた浮ついたかんじはなくて、こんなのいまのNYなら普通にあるよねー、で終わってしまうような。
3軒目のレストランあたりで、軍の偉そうな人と若い兵隊が加わり、更に失業中の司教も加わって、Raffaelの大使館にみんなで入っていったところで、どこかで銃声が響いて、携帯もほぼ通じなくなり、大使館の執事がいきなり悪の正体を現したところで一幕目が終わる。
二幕目は、大使館の屋敷のラウンジのようなところに閉じこめられた全員 - 金持ち、軍人、聖職者、悪魔、ヒッピー、あらゆる階層と職業の人たち - が、引き続きご飯にありつけないまま嘆いたり絶望したり発作にあったり、熊にあったり、でも映画 『皆殺しの天使』にあった、超越的な何かを浮かびあがらせたり揶揄したりするような仕掛けや視点はそんなになく、次から次へと起こることが起こるべくして、なかんじの、ふつうの悲喜劇の枠から出ていなくて、おもしろいけどそれだけ?それで? になってしまっているような。
閉じこめられた彼らのやりとりは形而上から形而下まで網羅した悲劇的なものとして描写される反面、やや大仰すぎて噓っぽくも見えて、いまのガザに閉じこめられて身動き取れなくなってしまっている人々のことを考えると、なんだかちっとも笑えなくなってしまうのだった。 ”Here We Are”って言えてよかったね、とか。
Stephen Sondheimのミュージカルをきちんと見てきていないので、彼のミュージカルとしてどう、というのは書けないが、ミュージカルとしては耳に残ったり場面が浮かんだりするところが余りに少ないので、割と失敗かも。
アンサンブル劇としてはブニュエルというよりはアルトマンの方かも。だからどうした、ではあるが。
Krapp's Last Tape
5月2日、金曜日の晩、Barbican Theatreで見ました。『クラップの最後のテープ』。 約60分の一幕ものなので、簡単に。
原作 (1958) はSamuel Beckett、演出はVicky Featherstone、主演(一人芝居)のKrappをStephen Reaが演じる。
暗闇の向こうにチョッキを着て机に座って幽霊のような69歳のKrappの像が浮かびあがり、ふつうあんなところにはない机の長い引き出しを開けて、そこからバナナを取り出して食べて皮を捨てて、かつて自分が誕生日前日に吹きこんだテープを聞いていく - テープレコーダーがまだ存在しなかった時代に書かれた、人と時間、記憶のありようを巡る思索劇で、ぜんぜん古くない。むしろAIやアバターが、なりすましがふつうに話題や問題になったりするいま、こんなふうに吹きこまれて「再生」される過去の自分 or 今の自分とは、その間にあるのは、溝なのかバナナの皮なのかなんなのか? を問うてくる。
ひとによっては、で? それで? になるやつかもしれないけど、いろいろ考えさせられる。
いま、Yorkの方ではGary Oldmanが同じ芝居をやっていて、そちらも見たい…
この芝居は(「ゴドーを待ちながら」もそうだけど)、いろんなバージョンのを見るのがよい気がして、見れるものを可能な限り追っていきたい。
Future Ruins、行ったほうがよいのか.. ?
5.14.2025
[film] Julie zwijgt (2024)
5月2日、金曜日の晩、Barbican Cinemaで見ました。
ベルギー映画で、監督はこれが初監督作となるLeonardo Van Dijl、昨年のカンヌの批評家週間で上映されて、共同プロデュースにはダルデンヌ兄弟の名前が、そしてExecutiveプロデューサーにはNaomi Osakaの名前がある。 英語題は”Julie Keeps Quiet”。
ポスターは主人公Julie (Tessa Van den Broeck)が叫んでいるように見える歪んだ顔のクローズアップで、それでも“Keeps Quiet”とは?
15歳のJulieはエリート向けテニスアカデミーに通っていて、その中でも将来を見込まれて特別待遇を受けている選手で、本人もやる気十分でばりばり練習している - Julie役のTessa Van den Broeckは演技経験のないテニスプレイヤーで、撮影前に6週間のワークショップに参加しただけだそう。
ある日、同じアカデミーにいて、しばらく前に自殺したAlineという選手のコーチをしていたJeremyが協会から謹慎処分を受けてもうここには復帰できない、という連絡を受けてざわざわする。JeremyはJulieの専任コーチでもあった。
はじめのうちはふーんそうか、と独りで黙々と練習をしていくJulieだったが、そのうち何でこんなことになっているのか、Jeremyの指導がないと前に進めない、という苛立ちや焦りが彼女を追いつめていく(ように見える - ただし推測)。そしてJeremyからはJulieのスマホにちょこちょこチャットでメッセージが入ってきたりする – がそれに応えたらいけないと思うので相手にはしない(後で少し話してしまったりはする)。
何も語らないJulieは、Alineの自殺の根にあったものもおそらく知っているし、なぜJeremyが謹慎処分になったのかもわかっている。これらを吹っ切って練習を続けないと自分に選手としての将来がないこともわかっている。これらに囲まれて塞ぎこんでいる彼女のことを心配した大人たちが集まってきてカウンセリングのようなことも始まるのだが、Julieは沈黙を続ける。ここでJeremyとの間にあったことを話すと自分の今後の活動に影響するかもしれないし、最悪の場合、好きなテニスを続けられなくなってしまうかもしれない。そして大人たちは大人たちで、Julieが何かをスピークアップしまうことで自分たちの監督責任が問われてしまうかもしれない、ので無理な深掘りはせず遠くから恐々眺めるだけ。 - という状況が延々繰り返されていって、全体としては袋小路のなか、これはなんなのだろう? の不条理が浮かびあがってくる。 そしてこうして、周囲になにも言えなくなる空気や状況が形づくられていくのか、と。
少し前のテニスドラマ – “Challengers” (2024)では上位にいる女性プレイヤーとその下位の男子2名の性的なところも含めた丁々発止のやりとりがバカっぽくエネルギッシュに描かれていたが、男性と女性の位置関係が逆転すると、こうまでテーマや明度が変わってしまうものなのか。
監督は12歳の体操選手だった少女が怪我をしても周囲に言わずに我慢して無理しているのを見てこのドラマを思いついたそうだが、スポーツの場合、何故か子供たちを「大人」のように扱って(尊重して?)彼/彼女の「自主性」に任せたりする – そうすることで何か起こった場合でも責任回避できるし、うまく行ったら彼/彼女は更に成長するかもしれないし。でもやはり、彼/彼女は子供なのだから、適正に監督されてケアされなければならないし、子供たちには言いたいことをきちんと伝えられる環境が用意されるべきなのだ、と。それをずっと体育会系のカルチャーに染まってのし上がってきた協会にいる大人たちが用意できるのか? はあるけど。
この作品を集ってくるメディアに対して明確に”NO”を突きつけたNaomi Osakaがプロデュースしている、というのはとても納得がいく。
日本でも見られてほしいと思うけど、Julieの沈黙を「えらい」って勘違いするバカが大量に湧いてきそうでとてもこわい。
5.13.2025
[music] The Pogues
5月3日、土曜日の晩、O2 Academy Brixtonで見ました。
彼らの2nd “Rum Sodomy & the Lash” (1985)のリリース40周年に合わせてフルで演奏するライブで、2024年の”Red Roses for Me” (1984)の40周年記念ライブに続くシリーズなのか。
2023年のShane MacGowanの死と共にThe Poguesというバンドは無くなったのだ、と誰もが思っている。 ShaneもPhilip ChevronもDarryl Huntも亡くなり、Terry WoodsもAndrew Rankenもいない。残っているのはSpider StacyとJem FinerとJames Fearnleyの3人だけで、ゲストをいくら加えたからといってそんなのThe Poguesとは名乗れないのではないか、と。
でも、アイリッシュトラッドの野卑な獰猛さをパンクに結び付けて、それを一揆の音楽として練りあげていった彼らのスタイルはバンドがなくなったからといって塵にしてしまうのは惜しいし、それにShaneなんて生きている時から(90年代以降はずっと)ステージ上では死んでたようなもんなのだから、こういうのもありなのではないか、と。しかも会場はAcademy Brixtonなのだし。
などと思ってチケットを探そうとしたらとっくに売り切れていて、たまにリセールでフロアのスタンディングのが出てくる程度。あの会場で、Poguesのスタンディングで揉まれたら体が八つ裂きにされてしまうと思って、2階席のを追っていたらどうにか一番前のが釣れた。
直前まで映画を見ていて、開演に間に合わないかと思ったが、Brixtonの駅の近くから"Dirty Old Town"を肩を組んで歌いながら会場に向かう酔っ払いの群れを見て少し安心する。着いたのは9時少し前、そこから5分くらいで始まる。フロアを見下ろすと、既に“Rum Sodomy & the Lash”のジャケット - ジェリコーの『メデューズ号の筏』 (1818)みたいな状態のぐじゃぐじゃで。 病みあがりだったので、あそこに入っていったら簡単に死ねるな、とか。しかし40周年であるのでモッシュでべちゃべちゃになっているのって老人ばかりなのよ。
さて、”Rum Sodomy & the Lash”というアルバムは、この後の”If I Should Fall from Grace with God” (1988)でそのスタイルを完成させて世界的に成功するひとつ手前、バンドのラインナップが固まって、でもレーベルはStiffでプロデュースはElvis Costelloで、粗削りのライブの勢いをそのままもちこんで、でもトラッドもいっぱいあって、危なっかしいけどひたすら前のめりで、”If I Should Fall from...”よりも生き生きと跳ねまわっていて、よいの。
ステージ上にはアイリッシュハープもあるし、でっかい太鼓もあるし、バグパイプもある。曲によって替わる女性ヴォーカルは3人、ホーンもいるし、多いときで13人くらいがステージ上にいる。Spiderがご機嫌に客を煽って、つるっぱげのJames Fearnleyがそれに乗っかり、Jem Finerはいつものように学校の先生で、それ以外はミュージシャンみたいなミュージシャンたちが椅子に座ったりして演奏する。でも結局リズムがどんどこで、ぎゃーって雄叫びがあがったら突撃するしかないのだろうな(かわいそうに..)。
一曲目の"The Sick Bed of Cúchulainn"はスタンディングの前方からばしゃーんとかびしゃーんみたいな水が炸裂する音(要はビールの)がいっぱい聞こえて、そういう盛りあがりとは別に、音の方は細かったり荒縄いっぽんだったところが重ねられたり補強されたり、よい意味での大船になっていた。これなら旗を立てても帆をはっても飛ばされることはあるまい。音をきちんと重ねてもその勢いが削がれることはなく、客はどっちにしても幸せに突っ走っていくので、なんの不満があろうか、って何度も頷く。
曲順はアルバム通りではなくて、やはり盛りあがりを考えているのか、本編の最後は女性3人が横並びで"London Girl" – エムザ有明での初来日公演のアンコールがこの曲だったなあ、鼻からビールをぶわーってやったShaneの笑顔が忘れられないなー、とか。 アンコールの最初は“The Irish Rovers”、エンディングは”Sally MacLennane”だった。
それにしてもさー、40年だよ。「ラム酒と淫行と鞭打ちしかない」(by チャーチル)が40年って、なんで? も含めて、なんでこんなことに?/こんなふうになっているなんてー、しかない。狂っていなかったらとてもやってらんないよね。
5.11.2025
[theatre] Richard II
4月29日、火曜日の晩、Bridge Theatreで見ました。
Bridge Theatreは久々で、ここでは過去Maggie Smithの一人芝居やLaura Linneyのこれも一人芝居の”My Name Is Lucy Barton”などを見ていて、今回のは一人芝居ではないがJonathan Baileyがメインでフィーチャーされている。
原作はShakespeare、演出はNicholas Hytner。プログラムにも原作の文庫にもファミリーツリーが載っていて、これがあるといつもビビるのだが、今回はだいじょうぶ(なにが?)だった。後で振り返るのによいの。
舞台はシンプルかつダークな黒で統一され、真ん中に執務机とかベッドやシャンデリアが上から下からすーっと出てくる程度。客席を四方で囲み、裁判や演説の際は、客席やバルコニーも使う。Richard II (Jonathan Bailey)も周囲の部下たちもぱりっとした現代のスーツを着て出社(?)すると秘書から社員証のように王冠を受けとる。
王Richard IIを中心とした一族のドラマ、そのなかでも権力抗争にフォーカスして、だからQueen Isabel (Olivia Popica) の影は薄めで、硬軟いろいろのじじいたち、忠犬みたいに同じ顔した同じ動作の幹部っぽい男たち、それらに憧れていきりたい若者たちが右から左から現れては消えていく、男たちのお話し。原作を読んでいなくてもどんな話なのかはわかる - そういう話に集約してよいのかどうかは別として。
男の威厳とか人を操って言うことを聞かせる王のパワーとかオーラ - それ相当のなにかはどこでどうやって手に入れて広がってコトを起こし、それらはどうやって他の権力者 or 継承者に移って次の代にトランスフォームされていくのか。それを情緒と無常感たっぷりに”Why~??”って泣いて騒いで訴えるのではなく、権力とは、その抗争とは、その遷移とはこういうものなのだ、とドライに描いていく。弦を中心とした音楽だけは映画音楽のようにドラマチックに響いてくるが。
それでも叔父のJohn of Gaunt (Nick Sampson)の死後、Richard IIがその遺産をかっさらったり、コカインを決めながらアイルランド侵攻を決めたりしていると周囲から不満の芽が出てきてらそこに政敵、というかRichard IIの反対側に立って追放されていたHenry Bullingbrook (Jordan Kouamé - 元のRoyce Pierre sonからこの晩だけなのか替わっていた)がどこかからやってきて、彼はRichardとは反対に寡黙でなに考えているのかわからないしふてぶてしいし、スーツの他にパーカーのようなラフな格好もして、騒がしい決闘も政変もないまま気がつけば王位を奪って、側近も替わっている(ように見える)。
それでもRichardは余裕でHenryを憐れんであげたりもするのだが、周囲には響いていかない。自分の頭で叩き割ってしまった鏡は元には戻らず元の像を写すこともなく、上が替わったらすべてが入れ替わり元に戻ることはない、時間と実績とか達成の度合いとそれに纏わる合意と総意がすべてで、交替後は死体袋に入れられて滑らかな床面を滑っていくだけ、と。どこまでもドライで、でも取り巻きも含めてそういう風にしたのも彼なのだ、と。
Jonathan Baileyのそんなに大きくない身体は、とてもよく響く声(怒鳴っても痛くない)と合わさって、そのしなやかな動きは自身のエゴとパブリック・イメージを見事に統御しているかのようで、やはりかっこよいと思った。
5.10.2025
[film] 風櫃來的人 (1983)
4月30日、水曜日の晩、BFI Southbankの4月の特集 - “Myriad Voices: Reframing Taiwan New Cinema”で見ました。 侯孝賢を含めて台湾のニューシネマはこれまで全然見れていないので、いろいろ見たかったのだが、この特集もこの1本で終わってしまった。4月のばか。
邦題は『風櫃の少年』。英語題は”The Boys from Fengkuei” CINEMATEK - Royal Belgian Film Archiveによる4Kリストア版。 別の日には撮影を担当したChen Kun-hou(陳坤厚)によるイントロがあったそう(聞きたかった)。侯孝賢の半自伝的なドラマである、と。
いつの年代かの台湾の離島、ひなびた漁村の風櫃に中学生くらいのAh-chingがいて、彼の父は草野球で打球がおでこを直撃してから椅子に座ったまま動けなくなっていて、彼の他にはAh-rong, Kuo-zai, Ah-yuの3人がいて、いつも4人で浜辺でバカなことをしているか、他のガキ共に喧嘩を売ったり売られたりで逃げては集まり、女の子にちょっかいを出しては逃げたり避けられたり、だいたい退屈ですることがないのでそういうことをして、全体としてここにいてもつまんないし、ろくなことがないからここを出てどこか別のところへ行こう、になる。 若い頃(の特に男子)というのはそういうバカなことをいっぱいしたり、いろんなところに行って自分が少しはなじめそうな場所なり集まりなりを見つける動物の時期、というのはわかっていて、それが風櫃の少年たちに起こったら、それは例えばこんな日々になる、という絵を描いている。
映画になるのであれば、最終的にどこそこに落ち着いた、か、落ち着くことができず挫折してはぐれ者になった、辺りが世の青春映画としては一般的だと思うが、この映画の主人公たちはそのぎりぎり手前、バカなことをしてふらふらしている地点、どこにも行けない吹きだまりのような場所を永遠に彷徨っているように見えて、そうしていながら4人は3人に、3人は2人になったり、父が亡くなったり、その周りで切り取らていく風景は、いつまでもあの時のまま、決着つかないまま時間ごと止まっていて、我々はそういうふうに止まった時間のありようを、あの風景を通して見る・見返す、というか。そういう印象とか残像のようにして残るなにか。
これって多分に、思いきり男子のもので、家の事情で勝手に動けなかったりする女子だと見え方も残り方も違うのだろうな、と思いつつも。
片方には家の玄関があり、片方には遠くに延びていく道路があって、バイクは画面の奥に遠ざかって消えていき、玄関の前には時間が止まって動かなくなってしまった「父」が座っていて、そのどちらにも向かえないまま乗り遅れたり(何に?)、そこにいるはずの誰か(誰?)がいなかったりした時に見える(特に見たくもない)風景、がずっとそこにあって、このパノラマはいったい何なのだ?って打ちのめされて見ていた。
とにかく風櫃には何もないので、外に出ていくしかなくて、そのきっかけとか動機は仕事か女性かしかなくて、仕事も女性も常に裏切ってくる – fitする何かなんてどこにあるのか? - ので、場所を渡って仕事を変えて、女の子には必ず振られて、を繰り返す – それが4人の男子の王兵のドキュメンタリーフィルムに出てくるような俳優顔じゃない彼らの顔と共に後ろに流れていって、それは風景と一緒にどこかに消えていく – けど消えていかずにずっと残る。
音楽はクラシックが流れて、Jia Zhangke(贾樟柯)の使うJoy Divisionがもたらす効果とはやはりぜんぜん違う。どちらもよいの。
こういうイメージを捕らえて重ねて編んでいく、って誰でも実現できそうなようで実はものすごく難しい - ゴダールの映画がそうであるように、なのかも。
5.08.2025
[film] Thunderbolts* (2025)
5月1日、木曜日の晩 - まだpreview扱いだったが - BFI IMAXで見ました。
監督は”Paper Towns” (2015)のJake Schreier、撮影はDavid LoweryとやってきたAndrew Droz Palermo、音楽はSon Luxなど、とてもMarvelフランチャイズの諸作に並べられるような粒立ちやメジャー感はなくて、それはキャストもそうで、Florence Pugh, Sebastian Stan, Julia Louis-Dreyfusを除けば有象無象すぎでヒーローものの華も勢いもなくて、しかもタイトルに雑検索用の”*”まで付いて、要は従来路線とは違うことをやろうとしている、そしてそこに間もなく公開される(やたら宣伝がうるさくなってきた)”The Fantastic Four: First Steps” (2025)のレトロフューチャー仕様を加えるともうぜんぜん違う何かに投資・変態しているようなのだが、このシリーズはずっと追っているのでしょうもなく付きあって公開初日に見てしまうのだった。
冒頭からYelena (Florence Pugh)は浮かない顔でマレーシアの高層ビルの上から飛び降りてやりたくもない請け負いの殺し仕事をやってて、雇い主のCIAのValentina (Julia Louis-Dreyfus)は弾劾裁判をくらって旗色も顔色もよくなくて、気分が晴れないYelenaはAlexei (David Harbour)を訪ねて、一緒に指令を受けた秘密施設に赴くのだが、そこに有象無象の連中がいて勝ち残りバトルをしながらこれは互いに潰しあうホイホイ系の罠だ、って気づいた時にはもう遅い。
その中にはBob (Lewis Pullman)っていうパジャマみたいな拘束衣みたいのを着た毛色の違う男がいて、のらくらぶりが気になるのだが、力をあわせてその施設を破壊して抜けだして車で逃げていくと追っ手がきて、彼らを助けるのか捕まえるのかBucky (Sebastian Stan)も現れて。
こんなふうに、明白な敵や強者が現れてそこに向かって立ちふさがる、或いはFirst Avengerのようにお国のために立ちあがる、といったポジティブな動機もなければ、スーパーパワーもそれに沿うべく積極的に獲得されたものでもない、単なる金づるだったり、AlexeiもBuckyのように過去からの柵でしかなかったり。
ストーリーラインも、集められた者同士で殺し合い、その中の突出したひとりが手に負えないので力を合わせてどうにかする、それを抜けてみると明らかな政治利用目的(と弾劾目眩し)で勝手にリプランドされて周知されて逃げようがなくなる、というもので、こないだの”Captain America: Brave New World” (2025)がそうだったように、はっきりとどーでもよいインナーポリティクスのごたごた(のエサ)を描いているだけ。
たぶんもう”New World”も新たなヒーローもこんなふうに押しつけられる形でしかやってこなくて、そんなとこで”Brave”もクソもないのだ(拡張戦略もマーケティングも)という背景の暗さと脆さが公開前から丸見えで、でもだからこそ愚連隊がやけくそでめちゃくちゃやってくれることを期待したのだが、そんなでもなかったところが苦しくて、そんなふうに置かれた苦しさや苦さも含めてわかって、というのかもしれないが、そこまで暇でもマニアでもないのよねー、とか。
寄せ集められ、束ねられて見られる、そこで期待されるやっつけ仕事の徒労感と先の見えないかんじはよーくわかるので、あと少しでおーやったやった、になれたかも知れないのに、あのラストは興醒めしてしまうし、こんなの契約違反、って椅子を蹴る人がいてもおかしくないのに。
戻りの飛行機でYelenaの姉の代の”Captain America: The Winter Soldier”(2014)を再見して、誰が本当の悪なのかわからない中、ただ正直でありたい、と語ったSteve Rogersのあのわかりやすさ明快さは政治や地政がコミックになってしまった今、望みようのないところまで行ってしまったのだろうか、とか。
こんなふうにぐだぐだどうでもよいことを考えるネタは与えてくれるのだがなー。
[film] Rich and Famous (1981)
4月30日、水曜日の晩、BFI Southbankの特集 – “The Old Man Is Still Alive”で見ました。 これがこの特集で見た最後の一本。見れてよかった。
上映前にBFIの人が出てきて、今回の上映はBFIのアーカイブにある35mmによるものです。少し退色がありますが楽しんで貰えると思います、って。うん、すごくよいプリントだった。
監督はGeorge Cukor。原作は英国のJohn Van Drutenによる戯曲 - “Old Acquaintance” (1940)をGerald Ayresが脚色したもので、オリジナルタイトルでの映画化は、1943年にBette DavisとMiriam Hopkinsの共演 - 邦題は『旧友』 - により既にある(これも見たい!)。今作の邦題は『ベストフレンズ』。
当初はRobert Mulliganの監督で撮り始めていたのだが、俳優組合のストで3ヶ月間の中断があり、彼の都合で続行不可になり、81歳でセミリタイア状態だったGeorge Cukorのところに話が行った、と。これが彼の遺作となる。
すばらしい音楽はGeorges Delerue。あと、Meg RyanがCandice Bergenの18歳の娘役でスクリーンデビューしている。80年代初のヘアスタイル。
1959年のSmith Collegeで親友だったLiz (Jacqueline Bisset)とMerry (Candice Bergen)がいて、寒そうな雪の晩、LizはMerryがBFのDoug (David Selby)と駆け落ちするのを助けて、そこから10年経った1969年、成功した作家になった(でもシングルの)Lizは、あの後Dougと結婚して一人娘がいて、西海岸の社交界で成功したセレブになっているMerryの邸宅を訪ねる。
何ひとつ不自由ない暮らしを送っているはずのMerryがLizを見ていたら自分もなんか書きたくなった - ひとつ書いてみたので作家としてLizのコメントがほしい、と言うので読んでみたら悪くないので出版社を紹介してあげたら、マリブの社交界をモデルにしたその小説は当たって、Merryは小説家としてデビューしてしまう。
こうしてずっと独身のままNYで若い青年複数も含め行き当たりばったりで相手をとっかえひっかえしつつ、こんなんでよいのか - いいや、を繰り返していくLizと、Dougとも別れ、娘のDebby (Meg Ryan)も手を離れ、作家として独り立ちしてもどこか満たされずに煩悩にまみれて落ち着かないMerryの周辺と、喧嘩してはくっついてを繰り返してなんとなく続いていく22年間の友情? を描いて悪くないの。
それは「ベストフレンズ」的な愛とプライドと確信に満ちたものではなく、ちっともふたりそれぞれのイメージしていた落ち着いた大人になれないまま、でもそうしかできないのでやりたいように過ごしていくうち、それぞれの岐路でいちいちなんかぶつかったりぶつけられたり、泣いたり呻いたりの先にいるのがやっぱりあんたか! になっていく様がひたすらおもしろかったり息を呑んだり、それだけなの。
そしてGeorge Cukorの演出は、なにがどうしたらあんなふうにおもしろくできるのかわからないが、見事に振り付けされたバレエがどんなに遠くの席からもその感情のひだひだを的確に伝え運んでくるように、ふたりの22年間をそれぞれのカットでしっかりと切り取って、そこにGeorges Delerueのスコアが絡まるとびくともしない。女性たちが言いあったり張りあったりしているのがひたすら続く”The Women” (1939)の画面から目を離せなくなってしまうのと同様の魔法、というか正しさのようなものがある。
60年代マリブのパーティーシーンではChristopher IsherwoodやPaul Morrisseyがカメオで出演していたことを後で知る。 もう一度見たい。
Frenzy (1972)
4月27日、日曜日の夕方、↑と同じ特集で見ました。
Alfred Hitchcockの終わりから2番目の作品、だけどHitchcockなもんで、おもしろくて怖くて釘づけだから。
ロンドンで、ネクタイで首を絞めて女性を殺して棄てる連続殺人事件が起こって、職を失ったばかりのRichard (Jon Finch) が犯人に仕立てあげられてどうする? の恐怖と、犯人Bob (Barry Foster) が女性に近寄って殺すシーンのどちらも(特に後者が)怖くて、これに関してはThe Old Man Is Still Alive”どころではないわ、になった。
あと、犯人が暮らしているCovent Gardenの青果市場界隈、ここには1974年まで実際に市場があって、その様子は昔のドキュメンタリーフィルムとか写真集でよく見るのであーこれがー、ってなった。
5.07.2025
[film] Sister Midnight (2024)
4月28日、月曜日の晩、JW3っていう少し北のFinchley Rdにあるカルチャーセンターみたいな施設の映画館で見ました。久々の観客自分ひとりだけ、だった。
6週間英国にいなかった間に新作としてリリースされた作品で、見たいと思っていたやつは戻ってきた時はほぼ終わって配信に移ったりしていて、それなら配信で見ればいいじゃん、なのだが配信て面倒じゃん? なのでこんなふうに地方で上映してくれていたら見にいく。
インド系英国人のKaran Kandhariが作・監督した彼の長編デビュー作で、2024年のカンヌでプレミアされ、BAFTAの最優秀新人英国映画にノミネートされた(でも”Kneecap”に敗れた)、英国 - スェーデン - インド映画。BFIも制作に関わっていて予告がおもしろそうだったの。でも予告から受けたどたばたコメディとは結構違う印象だった。
冒頭、Uma (Radhika Apte)はひとり列車に乗ってインドの田舎を旅してムンバイの町まで来て、そこの長屋の一軒にいた男と式をあげて一緒に暮らし始めるのだが、おそらく親が決めた見合い結婚の相手と思われる夫Gopal (Ashok Pathak)はほぼ喋らず顔も合わせず、TVを見て酒ばかり飲んで朝になると仕事に出て行き、夜は布団の隅で固まってUmaには触ろうともしない - たまにUmaが腕の装身具をじゃらじゃらさせて威嚇しても無反応で - といった辺りがなんのナレーションも会話もなく、アクションのスケッチのみで綴られていく。
隣のおばさんに料理を教えて貰ったりしてもおもしろくないし、Umaは歩いて4時間かかる先にあるビル清掃会社で夜間の清掃のバイトを始めて、そのビルでエレベーターを操作している老人と仲よくなって一緒に帰ったりもするのだが、それで深夜や朝にに帰宅してもGopalは何も言ってこない。
やがて深夜の帰宅中に、道端にいた山羊に寄っていって噛み殺してしまったり、そこらの鳥を捕まえて齧ったりしてている自分に気づき、ああ何をしているんだ? って慄いたりしていると、そのうち彼らはぎこちないストップモーションのアニメ(なかなかかわいい)となって蘇り、彼女の方に寄ってきて遊んでくれたりする。
新婚家庭での虐待(ネグレクト)によってゆっくりとおかしくなっていくUmaの姿を描く、というよかもう少し広い視野に立ち、ご近所界隈を含めた世界全体に向かってこれってどうなってんだふざけんな! って吠える彼女の姿を描いていて、それが女々しく痛々しいトーンではなく、鼻に絆創膏の傷だらけジャンキーのいでたちなので痛快だったりおかしかったり、その仁王立ちする像はIggy Popの”The Idiot” (1977) の収録曲 - “Sister Midnight”に見事に重なってくる。
最後には夫Gopalへの復讐へ、というシンプルなホラーの方には向かわず、我こそは夜の女王なりー、みたいに闇の中に厳かに立ちあがって、それが何? って平然としていて、結果なんかかっこよく見える。印象としてはWes Andersonのすっとぼけたトーンにガレージの錆びた臭いをまぶしたような。
音楽はInterpolのPaul Banksで、挿入曲には、The Bandの”The Weight”とか、Buddy Hollyとか、Motörhead とか、T.Rexの”Mambo Sun”とか、The Stoogesの”Gimme Danger”とか、いろんなブルーズが、インドの田舎の荒んだ景色にうまくはまっていて、よいの。
[theatre] Dear England
4月26日、土曜日の晩、マチネの”Punch”の後で、National Theatreで見ました。
これも原作は”Punch”と同じJames Grahamなのでこの日はJames Grahamの日。書かれたのは”Punch”よりも前、初演も2023年のNational Theatreなのだが、今回の再演版は一部リライトされているという。
演劇を見る時は(映画も割と)どんな話なのか頭に入れないで見ることが多くて、この”Dear England”も”Punch”もそうで、見る前のイメージとしては、イキった愛国者寄りのスキンヘッドの青年が暴走して何かをしでかしてお国のせいにする(したい)ようなやつだと思い込んでいて、ちょっと苦手な方面なのでどうしたものか → 続けて見ちゃえばよいか、になった。結果、偏見はよくない、になることが多い。
始まってからメンズ・サッカーのお話だと言うことを知り、やばいな(興味ない)、になり、更に実在するプレイヤーたちの、彼らが活躍したイングランド・サッカーチームの話であることがわかり - どうしてわかったかというと、Harry Kaneの名前くらいは知っていたから。 英国の場合、サッカーの話題はお天気と同じくらい日常の話題になるネタで、仕事の挨拶でも昨晩のゲームはーとか、どこそこのサポーターでーとかふつうだし、駐在していてサッカー場にいったことがないのはどうしたものか(と思いつつもうどうでもよくなっている)。
演出はRupert Goold、2023年の初演版はLaurence Olivier Awardsを獲って、West Endでもロングランした後、National Theatreに戻ってきて、この後も英国各地をツアーしていくらしい。
舞台は楕円形で、そのカーブに沿うように白色の太く強めのライトが低め斜めの位置にぐるりと照らしていて、スタジアムのピッチが目の前に迫ってくるかんじが表現されている。
最初にイングランド・チームの選手が大勝負どころでのPKを決められずにチームも観客もがっくりする場面から入って、それを見た協会首脳陣はなんでうち(イングランド・チーム)はいつもこうなるのか根っこのところから変えないとダメなんじゃないか(←まずあんたらからな、って言いたくなるダメなじじい共)ということでコーチのGareth Southgateが着任し、メンタルを鍛えるコーチとして女性のPippa Grangeを招き入れ、選手も当時のチームひとりひとりを紹介してから、ワールドカップやユーロといった大一番のゲームで実際の(よい)変化として起こったことが再現されていく。今回の上演版も昨年のユーロの結果を反映したものなのだそう - どこが該当するのかちっともわからんが。
観客は楽しみながら大ウケしているのだが、本当に一部の人たちしか知らない - Harry Kane以外で知っていたのはBBCでサッカー解説をしているGary Linekerとか、政治家のTheresa May (痛々しい)とかBoris Johnson (ほぼ化け物扱い)とかくらい - そんな自分にもおもしろく見れるのは、国技と呼ばれるようなスポーツが、どうして国をあげての熱狂をもたらすのか、その成り立ちとか構造が滑稽なところも含めてわかりやすく示されているからだと思った。 作者も含めて”Dear England…”と呼びかけたくなる愛すべき何かがここにはあるような。
では、これと同じようなドラマ - 例えば「拝啓日本」のようなものを作れるだろうか? というのは考えてみるとおもしろいかも、と思った。 日本の場合、自分も含めて組み入れられている組織なり空気なりに対してよくないことを言ったり茶化したりするのは失礼だ、みたいな抑圧が働きがちなので、あまりウケないのではないか →いまの政治に対する態度などを見ても。 たかがゲームなのにね。
そういうのは抜きにして、ゲームみたいに楽しめる作品だった。改めて、偏見もって遠ざけていて悪かったねえ、って。
5.04.2025
[theatre] Punch
4月26日、土曜日のマチネをYoung Vicで見ました。
この劇はこの日が最終日でチケットがなかなか取れなかったのだが、直前にどうにか取れた。
実際に起こった事件 - 当時28歳だった救命士見習いのJames Hodgkinsonを殴って殺してしまったJacob Dunneの手記を元に劇作家のJames Grahamが原作を書いて、演出はAdam Penford。JacobとJamesの育ったNottinghamのNottingham Playhouseで初演された舞台がそのまま来たもので、劇場にはJames Hodgkinsonに捧げます、という張り紙が。
19歳のJacob (David Shields)は下町のストリート・コーナー・ソサエティで片親(母親)の元で荒っぽく育って週末はなんかの試合にでも向かうような意気で仲間たちと盛り場に向かう - これはどこでもふつうにありそうなヤング不良の日々で、その日も特に違ったものになるはず… だったのだが。
Jamesの母(Julie Hesmondhalgh)と父(Tony Hirst)は深夜に突然病院から電話を受けて、それは彼が昏睡状態でもう助からないであろう、という連絡で、病院に向かうもののJamesはやはり助からなかった。死因はバーで殴られて昏倒してそのまま、でなぜ?の「?」がずっと周り続ける。
Jacobの方は監視カメラの映像から簡単に彼の「犯行」であることがわかって逮捕されるのだが、彼の方でも大量の?が湧いて止まらない。なんでたった一発のパンチで、自分に殺意なんてあるわけない、そんなつもりはなかった - こんなことになるなんて、等々。
まったく立場も事情も異なる両者の「?」と戸惑いの間にたまたまそこにいただけだったJamesの死は置かれていて、Jamesの両親は怒りと悲しみの、Jacobの方は悲嘆と絶望の縁を彷徨って果ても終わりもなくて、どちらも紹介されたケアのプログラムを通して事件と自分たちを見つめ直し、やがて直接会って話してみてはどうか、という申し出を受ける。
実際にそこに至るまでにものすごく長い時間と逡巡と対話の行き来があったのだと思うが、劇は両者の場面を容赦なく切り替え対比させ重ねていくのと、事件の背景にありそうな、なぜ若者の間で幼少期から暴力が簡単に肯定されてしまうのか? とかJamesはなんでそんな夜遅くまで働かなければならなかったのか? といった社会的な背景や事情にも目を向けて、単なる加害者 vs. 被害者の図に落としてしまおうとはしない。こういうことは昔から起こっていたのかも知れないが、片隅の「問題」ではなく、今ここの、ひとりひとりの社会、コミュニティに根差したなにかに関わるべきことなのではないか、と。
そういう土壌や文化のようなところまで掘りさげてみた上で後半はJamesの両親とJacobが対面する。最初はケアラーが間に入って、互いに会話するどころか目を合わせることすらできず、相手が何を求めているのかもわからない手探りの状態から、彼らはどうやって…
元はJacobの手記なので、多少は彼の目線に寄っているのかも知れないが、この部分のやりとりはちょっと感動的で、周りの客席の人たちはみんなぼろぼろ泣いていた。憎しみからは何も生まれない、とかいう決まり文句から離れたところにぽつん、と置かれたひょっとしたら救い…? と呼びたくなってしまう何かが。
Jacobを演じたDavid Shieldsの一気に走り抜ける集中力、Jamesのママを演じたJulie Hesmondhalghの静かな力のすばらしさも。
NTLのような形で日本でも見られるようにできないかしらー。
5.02.2025
[film] The Only Game in Town (1970)
4月25日、金曜日の晩、BFI Southbankの特集 – “The Old Man Is Still Alive”で見ました。
監督はGeorge Stevens – これが彼の最後の作品、原作はFrank D. Gilroyの同名戯曲(1968)で、撮影はHenri Decaë、音楽はMaurice Jarre。 邦題は『この愛にすべてを』。
ヴェガスでコーラスガールをして独りで暮らすFran (Elizabeth Taylor)がいて、ナイトクラブのラウンジでピアノの弾き語りをしているJoe (Warren Beatty) - ピアノは彼が実際に弾いているそう - と深夜に出会って、そのままJoeはFranのアパートにやってきて一夜を共にして朝を迎える。どちらもひと晩限りの関係だと思っているので、寝起きも朝食も素のままで、言いたいことを言ってやりたいように過ごして、そういう状態なので、なんでもおおっぴらで気にしなくて、こうしてお別れで絶たれることはなくJoeはまた寄ってくるし、Franは待つようになるし。
FranにはSan Franciscoに金持ちのTom (Charles Braswell)という男がいて、でも彼は既婚者で離婚するのをずっと待っているけど連絡も途絶えているとか、Joeはヴェガスは好きではないのでNYでピアノ弾きとして独り立ちするために5000ドルを貯める必要がある、のだが博打狂いなので貯まる端からすいすい使ってしまってずっとすっからかんのままだったり。
互いの欠点や気に食わないところを言い合ったらきりがないし、そういうことをする関係ではない/にはしないことはいい大人としてわかっているので、喧嘩らしい喧嘩にはならないし、Joeは金に困ったら野良犬のようにしょぼくれてFranのところにやってきて、彼女はしょうがない、というかんじで入れてあげて、でも彼がしばらく来ないと心配になってバーまで見に行ったり、が繰り返される。
もうそろそろこの状態を終わりにして普通にカップルとして暮らしてもよいのでは、ってなって二人で買い物に出かけて戻ってくるとTomが部屋にいて、離婚が成立したので迎えにきた一緒に来てくれ、というし、それを見て出て行ったJoeは博打でどうしようもない大負けをして…
ふつうのrom-comにあるカップルとしての幸せの探求というゴールも選択肢は最初からない状態で、むしろその罠を回避するかのようにFranのアパート、ナイトクラブ、賭場、夜中と夜明けをぐるぐると巡っていって、ようやく“The Only Game in Town”というのが結婚のことなのか、って見えてくるのだが、それで勝とうが負けようがもういいや、みたいな境地を感じさせてしまうふたりの演技 - 作りこみの果ての素、みたいな - はすごいな、って思った。
最初Joeの役はFrank Sinatraが演じる予定だったそうだが、Elizabeth Taylorの脆くて神経質なところと投げやりなところが表面に同居しているかんじと、普段は軽い、って自分で思っているのに博打に打ちこんで狂って止まらなくなっていくWarren Beattyの焦燥と憔悴のかんじ、このふたりが手をとって確かな明日を掴むなんてまったくあると思えないのに、首を傾げつつ離れてまたくっついてを繰り返す絵がものすごくよくて、なんかわかってしまう。
今の俳優でこの艶と情感をきちんと出せるのって誰かいたかしら? ってあれこれ考えたり。
最初の撮影はパリだったそうだが、Henri Decaëの人工の光を散らして明滅する画面作りの眩さ美しさと、その反対側のFranのアパートの散らかっていないのにアメリカぽく殺風景なかんじが絶妙にはまって、つまりこれがヴェガスなのよ、って。音楽も含めてこのかんじはどこかで ー、って思ったらSoderberghの”Ocean's Eleven”(2001)あたりかも。あの画面の濡れたかんじとか、男たちのすかした(でも全体として間抜けな)かんじは、全部この映画からではないか、とか。
巨匠の最後の作品にはちっとも思えないのだった。
5.01.2025
[film] Sinners (2025)
4月27日、日曜日の午後、BFI IMAXで見ました。
この作品を70mm IMAXでヨーロッパで上映しているのはここだけらしいのだが、Mark Cousinsさんも言っていたようにこの映画での70mm IMAXの迫力はとんでもなかった。 画面アスペクト比がころころ変わったりするのだが、横いっぱいに広がった時の目の前に広がる景色のぞくぞくくる気持ちよさときたら。
Black Panther (2018)のRyan Cooglerによる時代劇で、予告を見た時はどういうものなのかちっともわからなかったが、吸血鬼、というよりはゾンビホラーであり、でも中心にくるのは音楽 – Bluesなのだった。BFI IMAXでは、上映前にポスターなどがプロジェクションされるのだが、主要登場人物の名前のところには”We Are All “Sinners””とあって、そういう”Sinners”である、と。
1932年のミシシッピで、Sammie (Miles Caton)が傷だらけの血まみれになって父である教会の牧師(Saul Williams)のところに倒れこんできて、そこまでに何があったのかが、綴られていく。
その前の日、双子のSmoke (Michael B Jordan)とStack (Michael B Jordan)のふたりが車で教会の前にやってきて、クラブでひと晩のライブイベント - Juke jointをやるから、とSammieを誘い、牧師はBluesはいかんぞ… って警告するのだが、彼は無視して車に飛び乗って、畑を抜けていく道中で、ピアニストとか、歌手とか、料理人とか、食料品店の中国人夫婦とか知り合いを中心にリクルートしていくのだが、そこではSmokeの別居中の妻Annie (Wunmi Mosaku)とか亡くなった子供のこと、Stackの元カノのMary (Hailee Steinfeld)などが浮かびあがったり現れたり、みんなそれぞれいろんなものを背負っていることがわかる。
さらにその途中で、アイリッシュの吸血鬼、としか思えない目をしたRemmick (Jack O’Connell)が出てきて、傍にいた夫婦を吸血鬼にしてしまったり、その背後にはKKKがいるのが見えたり。
彼らを吸血鬼だよ、って察したAnnieは吸血鬼対策としてガーリックとかいろいろ準備して、Juke jointが始まってSammieがギターを弾きだすと過去から未来までの音楽とダンス – Bootyみたいなラメラメのギター弾きとかヒップホップから京劇まで - が天地を貫いて炸裂してどんちゃん騒ぎになるのだが、その騒ぎに引き寄せられるようにアイルランド民謡を踏み鳴らして盛りあがる吸血鬼の群れが家を囲んでいて、封をしても見張りを立ててもどうしても入りこんできて、ひとりまたひとりと..
パーティで騒いでいる一軒家に夜、邪悪なものが寄っていって囲い込んで、というのはホラーでお決まりの設定と展開で、今回はそこにMichael B Jordanがふたりもいるので、マッチョな肉弾戦になるのかというと、終わりの方でアクションはそれっぽくなるもののそっちの方には余り行かない。アジア系、ブラック、ホワイト、passingの人、いろいろな人たちの坩堝を圧し潰してひとつの属性 - 吸血鬼だかゾンビといった伝染化け物に変えてしまう魔力が取り憑いた時、そこにおいて音楽は、ギターはどんなパワーを持ちうるのか、と大真面目に問う。やはりRobert Johnsonを持ち出してくるしかないのか。
B級といえばパリパリのB級で、Quentin TarantinoやRobert Rodriguezの路線をやりたかったのかも知れないがやや盛り込み過ぎだし、この人が自作で追ってきた「継承」のようなテーマもないし。でも代わりにあるのは怒り - いまのアメリカが「多様性」に対して仕掛けようとしているのってこれら(アイルランド系)ゾンビの振る舞いと大して変わらない、B級〜とか言っているうちにしゃれではなくなって、噛まれてからではもう遅い、そういうあれこれに対する、或いは自分自身に対する怒りも。30年代が舞台の話とは思えない。 となったところであんなエンドロールが。
批評家ウケはあんまよくないみたいだが、いま見るべき映画だと思った。ところどころすごく好き。
4.30.2025
[film] Goemul (2006)
4月24日、木曜日の晩、BFI Southbankの4月の特集 –“Bong Joon Ho: Power and Paradox”で見ました。 – これもぜんぜん追えないまま終わってしまったのだが1本くらいは、と。
原題は”괴물”、英語題は”The Host”、邦題は、『グエムル-漢江の怪物-』、冒頭にフィルム・クリティックで英語字幕も担当しているDarcy Paquetさんのイントロがあった。
この映画は見ていなくて、日本での公開時はアメリカから戻ってきたり、戻って会社を辞めたりいろいろあったことを思いだした。Bong Joon Hoによる怪物映画(怪獣というよりは怪物?)。
2000年頃、白衣を着たアメリカの科学者がやばそうな薬品(毒物)の瓶を部下の韓国人に強く命じて何百本もシンク→漢江に破棄をして、やがてその部下は橋から飛び降りてしまう。
2006年に、漢江の河べりの公園で露天商をやっているGang-du(Song Kang-ho)と父のHee-bong(Byun Hee-bong)がいて、川から突然現れた怪物が人々を襲い始めてパニックになり、あたふた逃げまくるのだが、Gand-duの娘のHyun-seo(Go Ah-sung)は彼が手を離した隙にさらわれてしまう。 - 他にも大量の犠牲者がでて、その共同のお葬式にGang-duの妹でアーチェリー選手のNam-joo(Bae Doona)や弟のNam-ilもやってくるのだが、突然防護服を着た政府関係者が現れて消毒液をまいて、そこにいた全員を隔離して、政府は怪物が未知のウィルスをまき散らした、と発表する。
ところがどっこい生きていたHyun-seoがどこかの下水道から携帯でGang-duにきれぎれの電話をかけてきたので、それを知ったGang-du一家は隔離先から抜けだして、どうにか彼女を見つけだそうとヤクザにコンタクトしたり手を尽くして、そこに怪物と情報を封じ込めたい政府も絡んでぐしゃぐしゃの救出と逃走の展開に - 相手は政府なのか怪物なのか大して変わんないのか – になっていくの。
Bong Joon Hoの映画って”Parasite” (2019)とこないだの”Mickey 17” (2025)くらいしか見ていないのだが、家族 - 疑似家族的な繋がりも含めて、その内と外の緊張関係が形成されいつの間にかどこかに線が引かれてて、その結線がやがて切れる・壊れる、その際のどっちにつくのか、捨てるのか、の生きるか死ぬか or 一蓮托生のような選択が、必ずしも勝ち負けだけではない何かとしてべったり残って、どうするそれでいいのか? を常に問うてくる – この辺が”Power and Paradox” ということなのか。そういう経済的なところも含めた選択 - リアル vs. フェイクの積み重ねが、結果的にあの怪物を生んだ(怪物として出てきた)、とは言えないだろうか。
怪物は明らかにCGで、そんなにお金をかけていない00年代のCGなのではっきりと残念な出来だし、アメリカの腹黒い関与を濁していたり、政府の企てもなんかぼけていたり、そういう中であの家族の過剰な暴走ばかりが浮かびあがって... などなど、怪物映画としては欠点ばかりが目につくのだが、コロナやセウォル号沈没事故や東日本大震災を経た今、怪獣の造型も都合悪いことを隠す奴らの姿かたちも相当リアルにイメージできるようになった今、リメイクしたらぜったいおもしろくなるであろうことは見えている。日韓共同ですごいやつをやってくれないものか。
河べりに立つGang-duの遠くの岸辺に怪物が上陸して人を襲い始めて、こちらにやってくるところのカメラの動きはクリップでよく見るけど、やはりすごいわ、っていうのとBae Doonaが弓を放つとこは、最初からわかっちゃいるけどかっこよいねえ、と。
後から振り返ってあれはなんだったんだろうってなりそうな、みんなで雑魚寝している時に見る悪夢のような、B級のいろんなことが怪物を中心にうまくパッケージされているような。 すぐ朧になるので後で何回でも見れるやつ、と思った。
いろいろあった4月が過ぎていく。1ヶ月前、生き延びられるとは思わなかったねえ.. ありがとう。
4.29.2025
[film] Santosh (2024)
4月23日、水曜日の晩、Curzon Sohoで見ました。
上映後に監督のSandhya SuriとRiz Ahmedのトーク付き。
これまでドキュメンタリーを撮ってきたSandhya Suriが初めて脚本を書いて監督したイギリス・インド・フランス・ドイツ共同制作で、昨年のカンヌのある視点部門に出品されている。
インド北部の地方に暮らす28歳のSantosh (Shahana Goswami)は、警官だった夫が暴動制圧の現場で殉職してしばらく悲しみにやられて空っぽになっていたのだが、インドにはそうやって残された配偶者を警官として応募採用する制度 – “compassionate appointment” - があるらしく、これに応募してうるさい義理の親たちや世間の目から抜けだそうとしてみる。あとは、夫がどんな世界を生きて、そして死んだのかを知るためにも。
警官の立場で見てみたインドの社会はこれまでとは違う形で彼女を圧倒して、そんななか、最下層カースト - ダリットの少女がレイプされ殺されて井戸に捨てられていた事件に関わっていくうち、差別(性差別、カースト差別)や貧困の過酷な現実に加えて、(被害者の側から見て)何もしてくれない警察への不信不満と緊張が膨れあがって彼女を苦しめ始めた頃、先輩の女性警官Geeta (Sunita Rajwar)が現場に現れて力強く仕切ってくれてSantoshをこの事件の副官として参加するようにしてくれる。
Geetaはどっしりしていて経験豊富で、組織内の上層や男性警官への扱いやメディアに対する対応も手馴れていて揺るぎなくて、Santoshは彼女の庇護のもと、警察のやり方、やり口も含めていろいろな「現実」を学び、実行し、周囲に「適応」していくようになる。
Santoshの根には最愛の夫を奪ったインド社会に対する怒りや絶望があり、おそらく夫がそうであったように犯人を見つけだして正義を実行する - この世の中をよくしたい、という動機があったはずなのだが、日々の仕事のなかで警察として路上に出て与えられた役割の通りに動いていくうち、Geetaの背中を見て一緒に動いていくうちに、彼女の振る舞いは自分が思っていた方ではない、よりダーティな現実に合わせる、少し前の自分を失望させていた警察のやり方を倣う方に変わっていくようで、それらに対するSantoshの惑いや困惑も生々しく描かれる。(インド版、女性版の”Training Day” (2001)と呼ばれるのも少しわかる)
正義に殉じるヒロイックな姿を描くのではなく、夫を緩く絞めていったものかもしれない同じ力 – それは警察機構や権力、その底に流れる年を経て固化した偏見や蔑視の沼の圧も含めて – にのみこまれていく意識や感情の揺れがフィクションを通して、というよりドキュメンタリーの透明な距離でもって迫ってきて、それはインドのSantoshのものだけではないと思った。 そして、それを形にしてみせる女優Shahana Goswamiさんの演技の見事さと。
イスラムフォビア、カースト差別、女性差別、警察の残虐行為などの描写を懸念したインドの映画検閲当局は本作のインドでの公開を禁止して、トーンダウンするよう数箇所のカットを要請している – というのがこの映画の正しさとありようを示しているような。
上映後の監督とRiz Ahmedさんのトークは、”I for India” (2005)のようなすばらしいドキュメンタリーを撮ったあなたが、どうしてこのようなフィクションを撮るに至ったのか、という点から入り、完全に映画作家 or 批評家としての語りに徹していて、そっちのスマートさの方に惹かれてしまうのだった。
4.28.2025
[film] Four Mothers (2024)
4月22日、火曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
昨年のLFFでも上映された新作で、イタリア映画の”Mid-August Lunch” (2008) – 未見 – をアイルランドのDarren Thorntonがリメイクすべく、舞台をローマからダブリンに移して作ったアイルランド映画。
中年のゲイでYA小説家のEdward (James McArdle)は脳梗塞で倒れて以降喋れなくなっている母のAlma (Fionnula Flanagan)の面倒を見ながらふたりで一緒に暮らしている。 彼の新しい小説は評判もよくて、次のブレークのためアメリカにプロモーション・ツアーに行く計画があって、John Greenとのトークも予定されていたり、彼の将来のためには極めて重要なイベントなので、地元メディアもプレスもうまくいくように、って手を取りあって見守っているのだが、Edwardはやはり母のことが気になるし、実際に日々いろんなことが起こるので、どうしたものか、になっている。
喋れないと言っても、AlmaはずっとiPadを抱えていて、やってほしいことなどをiPadに打つと即時で音声変換してくれる - その無機的なロボット声がなんかおかしい - のでものすごく困った事態にはなっていないものの、ずっと一緒に暮らして食事をしたりしているので、彼が少しの間でも離れて別の土地に行くのはまた別の話だと思うし。
という彼の状態を知ってか知らずか、2人のゲイ友達が、週末のカナリア諸島でのプライド・フェスに参加したいから、と彼らの母親2人を犬猫を捨てるみたいに戸口に置いて、ごめーん、とか言いつつ去っていき、更にはEdwardのセラピストで、彼のアメリカ行きを行くべき、って強く支援していたDermot (Rory O’Neill)も、フェスの広告を見ているうちにムラムラしてきて、自分の母親を置いて、旅立ってしまう。 こうして自身のに加え、よく知らない3人の母親たち - 計”Four Mothers”の面倒をみることになったかわいそうなEdward - ものすごくアメリカには行きたい、なのに - の悲喜劇が軽いタッチで描かれていく。
主役のEdwardが女性だったら、相手をするのがFour MothersではなくFour Fathersだったら、うまく成り立たないドラマのようにも見えて、過去にはいろいろあったのであろう人がよくて、頼まれたら断ることも毅然と決めて動くこともできない丸っこいEdwardのキャラを真ん中に置くと、性格(憶測)も挙動もばらばらで不敵な四人の母親たちが彼を囲んでいる – 朗らかなだけでも、叱っているふうでもない - 絵はなかなか素敵なものに見えてきて、全体としてはよいかんじかも。
他方で、映画として見た時に、こんなにあっさりお行儀よく収まってしまってよいのか? という不満はわいてくるような。一言も言葉を発しないAlmaを始め、裏にものすごくいろいろ抱えてきた/いそうな女性たち - 自分の子供たちは週末の快楽のために自分を棄てた - が一箇所に固められて、多少の騒動は持ちあがるものの、あんなに大人しくお行儀よくしていられるもの? アイルランドのおっかさんたちだよ?
ということを感じさせてくれるような面構えの、そこにいるだけでいろいろ思わせてくれる女優さんたちだったのでなんか勿体なくてー。しっとりしたメロドラマに仕上げる方もあったかも、とか。
世界各国でいろんな”Four Mothers”をやってみたらおもしろいかも。見たいかも。
4.27.2025
[film] Rozstanie (1961)
4月21日、月曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。
これもBFIの4月の特集 – “The Long Strange Trips of Wojciech Jerzy Has”からの1本で、ポーランドの映画作家Wojciech Jerzy Has (1925-2000)の生誕百年を記念した初の全作品上映のレトロスペクティブ、だそう。
この人の作品は、日本のポーランド映画祭での”The Saragossa Manuscript”(1964) - 『サラゴサ手稿』くらいしか見たことがなかったのだが、お勉強で見たい – と思ったらこれももうほぼ終わっている状態で(泣)、でも見ないよりは見たほうがだから見るの。
Harmonia (1947)
最初は13分の短編で、単独監督デビュー作。英語題は”Accordion”。音は入っているが発話や会話はない。男の子が古物屋にあったアコーディオンを欲しくなって、でも彼を雇っている主人が買ってくれるとは思えないので、隠してあった小銭をかき集めて、履いていた靴と上着も足してようやく手に入れて持ち帰ったら主人がふざけんな、って叩き壊して雨の中に放り出し、それを見た男の子は壊れたアコーディオンを拾ってひとり家を出ていくの。 小さい子の後ろ姿がしんみり哀しい。
Rozstanie (1961)
英語題は”Goodbye to the Past”。72分の作品。 サブタイトルには”A Sentimental Comedy” とある。
朗らかで軽そうな青年Olek (Wladyslaw Kowalski)が列車で上品な中年女性Magdalena (Lidia Wysocka)と出会って、同じ駅で降りてそのままサラリと別れて、Magdalenaは彼女の生家である大きなお屋敷で行われる祖父の葬儀にやってきたらしい。
女優をしているMagdalenaが実家に戻るのは数十年ぶり、地元の名士だった祖父の屋敷を含む遺産 - でも彼女が出ていってからはからから - の相続人である彼女 - ずっと不在で葬儀が済んだら都会に戻ってしまうと思われる彼女に対して、ずっと家を維持してきた家政婦を始めとする旧勢力がしらじらとよそよそしく、これを機に屋敷を手放してくれないか or 地元の誰でもいい誰かと結婚して屋敷を自分らのどうにかできるようにしてくれないものか、だってあなたがいない間こんなにがんばって維持してきたのだから、とわかりやすい悪巧みを厚塗りで仕掛けてくる。
Magdalenaは彼らのそんな思惑はすべてお見通しで、故郷への郷愁や育った家に対する思い以上に、人々がそんなふうに変わってしまったこと、或いは歳を重ねた自分への接し方が(或いは歳を重ねた自分自身が?)変わってしまったこと、に失望しつつも、言われるままに人に会ったり、寄ってくる人達に会ったり、そのどれもが - “Goodbye to the Past” - あの頃に別れを告げるきっかけや踏ん切りのようにしか効いてこない。明らかに、もうここに自分の居場所はない。
そんな中、冒頭で出会ったOlekだけはなんのしがらみも縛りもない素の温度感でMagdalenaに接してくれて、彼と過ごす時間のなかで再訪する過去や部屋のあれこれは、全く異なる表情で迫ってくるのがなんだか切ない…
それでもやはりMagdalenaは元来たところに戻ることにして、あなた達の相手をしていても無駄だし、って蓋の開いた泥沼をあっさりかわして去っていく姿も、ほんの少しの心残りのOlekとのことも振り返らずに発つところもよくて。
難しくないテーマとはいえ、エピソードの並べ方や、少しだけ揺れつつも気を取りなおして過去を棄てて去るMagdalenaの毅然とした姿がかっこよいのだった。湿り気がなく立ち姿が素敵で、かんじとしては高峰秀子、だろうか。
ロンドンに戻ってきて1週間が経った。まだお腹の穴は塞がってくれなくて、そういうことならずっと閉じなくていい、こっちにも考えがある、になってきた。
4.25.2025
[film] Such Good Friends (1971)
4月21日、月曜日の午後、”Warfare”でへとへとになった状態で、BFI Southbankに移動して見ました。
ここの4月の特集 – “You Must Remember This Presents... “The Old Man Is Still Alive””からの1本。
我々の大好物で、誰もが「名作」と讃える30~50年代ハリウッドのクラシックを作りあげた問答無用の巨匠たち – John Ford, Howard Hawks, Fritz Lang, Vincente Minnelli, Alfred Hitchcock, George Stevens, Billy Wilder, Henry Hathaway, George Cukor 等々は、彼らの「晩年」と呼ばれる60-70年代 - スタジオシステムが変わり、テクノロジーが変わり、検閲のコードやジャンルの枠組みが変わり、人種やジェンダーに対する社会の考え方が変わっていく中、どんな作品を作って「適応」したりしていたのか? 実際に見て確認してみましょう、という特集。このレベルの監督たちであれば、個々の作家論、作品論から個別に語っていくのが筋というもので、こんな特集で大括りにする意味があるとも思えないのだが、なんかおもしろそうなので見たい。
と思ったのだが、こういう特集の場合、各作品で期間中2回くらい上映があって、うち一回は専門家や批評家のひとのレクチャーがついて、でも戻ってきたのが月の後半なので、解説付きのはほぼ終わっていて、残りのも時間が…
邦題は『男と女のあいだ』、監督はOtto Preminger – これが最後から3番目の作品、原作はLois Gouldによる同名小説(1970)、脚本はEsther DaleとクレジットされているがElaine Mayのこと、更にここにはuncreditedでJoan DidionとJohn Gregory Dunneも関わっているそう。 かっこいい女性の下半身ポスターはもちろんSaul Bassによるもの。
マンハッタンに暮らす主婦のJulie (Dyan Cannon)がいて、旦那のRichard (Laurence Luckinbill)はアートディレクターで子供向けの絵本を描いたりしていて、ふたりの子供と家政婦もいて、セントラルパーク沿いのアパートで、そこそこ裕福な暮らしをしているが、ふたりでパーティに参加した時やベッドで寝る時の様子などから夫婦関係はなんとなく微妙であることがわかる。
首のほくろを除去する簡単な手術でRichardは入院して、家族の医者Timmy (James Coco)は手術はうまくいって全く問題なかった、というのだが、次の日に少しだけ輸血をした際の反応がよくなくて昏睡状態になった、と告げられ、日が経つにつれこんどは血液の全とっかえとか、更には臓器不全とか、問題ないから、を繰り返す医者の反対側で彼の容態はシリアスになっていって止まらない。
落ちこむJulieを慰めようと家族の友人Cal (Ken Howard)が会ってくれたりするのだが、彼のGFのMiranda (Jennifer O'Neill)がずっとRichardと関係を持っていた、とかいうのでうそー、ってなり実母に相談しても埒があかず、Miranda本人に会って話してみるとあっさり認めて、彼とは愛しあっているし結婚の話もしている、そこまでは行かないかもだけど、とか。
混乱したJulieはRichardの評判を貶めてやれ、ってCalと寝ようとするもうまくいかず、Timmyのところに行ってみたら、Richardの他の浮気情報がでるわでるわで、アタマきてTimmyを脱がせてやってしまおうとするがうまくいかず、あーあ、ってなったところでRichardのメモ帳を見つけたら、そこには更にいろんな女性との関係の記録なのか予定なのかが暗号や符号でわんさか記載されていて、どうしたものか... ってなったところでRichardはぷっつりと亡くなり向こう側に行ってしまう。
長年に渡って相手(夫)の女性関係などを全く知らなかった、という不条理やそれに起因する敵意や憎悪を描くというよりも、そういうことを全く知らず、或いは教えずに済んでしまっていた“Such Good Friends”のサークルの緩いありようを描いて、変なのー、と思ったがドラマとしてそんなに変なかんじはなかったかも。ただ人物の造型などは、東海岸というよりは西海岸ぽいかなー、くらい。 SATCまで行くにはここからあと30年必要だった、と。
監督はJulieの役をBarbra Streisandにやって貰いたかったようで、確かに主演よりも脇役の方が印象に残ってしまう、という弱さはあったかも。
4.24.2025
[film] Warfare (2025)
4月21日、月曜日だけどEaster Mondayの祝日だったことを知る – にCurzon Bloomsburyで見ました。
監督は”Civil War” (2024)のAlex GarlandとRay Mendozaの共同、”Civil War”は架空の(であってほしいがそうでもなくなりつつある)戦争を描いていたが、これは2006年のUSのイラク戦争時、イラクのラマディに派遣された小隊に実際に起こったことを描いていて、共同監督で”Civil War”で軍事コンサルタントをしていたRay Mendozaは、その小隊に所属して戦闘の只中にいた一人だそう。 1時間35分 – Alex Garlandの映画は2時間を超えないのがよいの。
“Civil War”の百倍ぐちゃぐちゃでこわい。エモ一切抜きで、物理で、戦争ぜったい嫌だ無理、になる。
2006年11月、アメリカのNavyの小隊が夜中、イラクのふつうの住宅街をそうっと抜けていき、一軒の住宅に入ってそこに住んでいる家族を別部屋に隔離して持ち場について何かの準備に入る。小隊のメンバーはRay Mendozaも含め全て実際の隊にいた人たちを俳優が演じている(エンドロールで各自の対比がでる)。狙撃手が設置した銃座から窓の外の何かを狙って監視する以外は、全員が床に座って計器を見たり通信したり、ぼーっとしたりの沈黙が続くが、個々の作業や通信で会話されている内容がなんなのかはほぼわからないし、そもそも彼らがどういう目的でここにいるのか/来たのかも映画の中では語られない。わかるのは何かを監視して様子をみて攻撃すべく待機している? くらい。
朝になってもその状態は続いて、でも監視をしている反対側の建物の方で少しだけ人の動きと出入りがあり、少しざわざわしてきた、と思ったら手榴弾がいっこ、からん、て部屋に投げ込まれ、そこから混乱が始まって、とにかくここを出た方がよい、と救援で呼んだ戦車が人を乗せている途中、建物の入口で爆破されてからは血みどろと叫び声で右も左も、になる。上空から周囲の人の動きが見える端末の映像もあるし通信での交信もいろいろあるのだが、建物の前の道端に人の足が転がっている、その棄てられかたが何かを語る - 向こうもこちらも動けずに固まったまま。
この上映はDolby Atmosのシアターで見たのだが、音がものすごく強くて恐い。戦争の音の恐ろしさは”The Hurt Locker” (2008)辺りで思い知ったと思うが、あれ以上に静寂とばちばちのコントラスト - 爆発音、(遠くの、近くの)銃声、叫び声、低空で飛んでくる戦闘機、散乱するホワイトノイズ、自分の中なのか映像の向こうなのかの耳鳴り、家の中で視界が限られている中、耳もまた暴力的な音で塞がれて逃げようがない。
ここには従来の戦争映画にあったようなこういう状態に置かれたことの意味や大義や正当性を問うような会話や状勢の説明は一切ない。この戦争がどういう目的のもとで為され、彼らがどういう指令のもとでここにいて、そこで敵と味方の線引きがどういうものなのか、これらがなくて、それは現場にいる彼らも同様のようで - あのイラク戦争そのものがでっちあげだったし - 映画の後半は戦うというより戦意なんて知るかになった彼らがどうやってこの状態から逃げるか、逃げることができるのか、が焦点になってくる。 自分から首を突っこんで抜けなくなる系の極限ホラー、とカテゴライズしてもよいのかも。
という状態なので、次に、では戦争 - “Warfare” - とは?戦争映画とは? という問いが来て、最近の戦争ものがアニメも含めてファンタジーやゲームみたいになっている傾向がなんかよくわかる気がする(あくまで気がする)、この乖離って、とてもよくない、危険な傾向ではないかと。
エンドロールで映画のモデルとなった兵士たちの現在 - 朗らかに出てきて再会したりするのだが、あれは別になくてもよかったのではないか。
RIP David Thomas..
最後にライブを見たのは2018年8月のNYだった (その前だと90年代のNY)。
自分の中ではMark E. Smithと並ぶ唯一無二のヴォーカリストだった。マンチェスター vs. クリーブランドと、どちらも地方都市のバンドでありながらバンド名の起源はどちらもフランスの文人(Albert CamusとAlfred Jarry)だったり、バンドだけどメンバーはちっとも固定していなかったり、しかしそのライブが外れだったことはなかった。
ありがとうございました。
4.23.2025
[film] Vale Abraão (1993)
4月19日、土曜日の昼、ル・シネマ渋谷宮下で見ました。
離日前に見た最後の映画。 ここでのManoel de Oliveira特集、あと一週間早く始まってくれていたら…なのだが文句は言わない。見ることができてよかった。 203分のディレクターズカット版。
邦題は『アブラハム渓谷』、英語題は”Abraham's Valley”、プロデュースはPaulo Branco。原作はAgustina Bessa-Luísの同名小説 (1991)で、その底にはフローベールの”Madame Bovary” (1857)がある。Manoel de OliveiraはAgustina Bessa-Luísの小説を他にも多く映画化しているのね。
上映時間も含めて渓谷のように深い谷の底まで時間と共に掘ったり刻んだりの大河ドラマのようにでっかい作品かと思っていたらそんなでもない – だからつまんない、なんてことは勿論なく、"Bovarinha"と呼ばれたひとりの女性の生涯を描いて、これはこれで谷底を覗く冷んやりした感覚がやってくる。
20世紀中頃のポルトガル、ドウロ川沿いを列車が走っていく映像と共にナレーションの声(Mário Barroso)が「アブラハム渓谷」について語ったりするものの、どこからどこまでがその渓谷を指すのか、全容はよくわからなかったりして、以下、このナレーションの声が、誰がなにをしてこうなった、などについて無表情に語っていく。
父(Ruy de Carvalho)に連れられて食事をしていた14歳のEma (Cécile Sanz de Alba)が医師のCarlos (Luís Miguel Cintra)と出会う。幼い頃に母を亡くしたEmaは裕福な家庭で父の他に叔母と家政婦と耳の聞こえない洗濯女Ritinha (Isabel Ruth)と猫(すごくかわいい)と暮らしていた。
叔母の葬儀で20歳になったEma (Leonor Silveira)と再会したCarlosはその美しさに打たれて彼女と結婚することにするが、先妻と死別していてずっと多忙な彼がいつもEmaの傍にいてくれるわけではないし、彼の姉たちも揃っていじわるだし、Ritinhaは出ていってしまうし、娘がふたり産まれるものの、なんかつまんねーな、になっていく。
こうして社交がEmaのほぼ唯一の娯楽になり、Luminares家の舞踏会で旅行家のOsório (Diogo Dória)と出会って、そのあたりから彼に誘われるままに彼の屋敷や庭園に出入りし、着飾っていろんな男と出会う端から逢瀬を重ねていくようになり、それらはCarlosの耳にも入ってくるし、それらが夫の耳に入っていることもEmaは知っているけど、彼女の日々の関心や足取りが変わったり揺らいだりすることはない。あの家の誰それがいなくなった、どこそこにいるらしい、でもEmaは渓谷の外に踏みだすことはできず、足を半端にぶらぶらさせることしかー。
家を出て遊んでばかりのEmaの浪費で投機に手を出して負債を負って老いて落ちぶれたCarlosをかつての執事から成りあがったCaires (José Pinto)が救い、彼がEmaに昔からお慕いしておりました、と求婚してきたのでそこまで堕ちちゃいねえわ、って家を出ることにするのだが..
ドウロ川を真ん中に置いた『流れる』(成瀬)のようなイメージもあるが、映画はそこをどんより流れていくEmaの状態を作りだした川と谷のランドスケープ – 「渓谷」をタイトルにして、『ボヴァリー夫人』のEmaに落としこもうとする世間に抗おうとしていて、それが当時の~現代の、少し前の大奥様まで含めた女性のありようにまで広がっていくところ、そして人生は美しい、とまで言ってしまう(誰が?誰に?) とこはすごいと思った。彼女は腐った板を踏みぬいて落ちたのではなく、よりでっかい渓谷の冒険に自ら乗りだしていったのではないか。
それにしても、ふたりのEma - Cécile Sanz de AlbaとLeonor Silveiraのすばらしい目の強さ、衣装の、特に色彩の美しさ、それを捉えた瞬間の背景の鮮やかさときたら。4時間でも5時間でも、あと2〜3回は軽く見れると思った。
なのにこの後は最後のお買物とパッキングがー。
[music] Beck with Live Orchestra
4月20日、日曜日の晩、Royal Albert Hallで見ました。
13時間半のフライトを経て飛行機がヒースロー空港に着いたのが、15時半くらい、おうちに着いたのが17時過ぎ、窓を開けて荷物を広げて少し片づけて、お腹の穴からなにかはみ出していないかを確認して、前座の始まる19時半丁度に会場に着く。
チケットはなんとか帰英できそうな状態であることを確認でき.. そうになれたライブの2週間前くらいに、アリーナの前から2列目のが取れた(リセールじゃない定価の)。入院中に本を読むのがきついときはスマホをいじるわけだが、いろんなチケットを頻繁にチェックしたり軽く取ってしまったりしがちなので、こういうのも起こったりする。いま恐いと思っているのは、そうやって深く考えずに取ってしまったやつがどこかで埋もれてダブルブッキングしたりしていないか、ということだわ。
前座はMolly Lewisという女性のWhistler(口笛吹き)で、きらきらしゃらんのドレスに手ぶらで登場し、オケにあわせて気持ちよさそうに口笛を吹く。これがテルミンのようにしなやかで吹かれる側も気持ちよくて素敵だった。拍手はよいけど口笛でヒューヒューするのは営業妨害になるのでやめてよね、って。
今回のライブのタイトルは”Beck with Live Orchestra”となっていて、19日-20日の2days、伴奏はBBC Concert Orchestraで指揮者はTroy Miller - 事情はわからないけど、二日間で指揮者は別々だったりしている。オーケストラの他にはJason Falkner、Roger Joseph Manning Jr.、Joey Waronkerといういつもの(見た目は地味だけどめちゃくちゃうまい)トリオがステージ左手に固まっている。
Beckのライブを見るのは2002年の”Sea Change”の時のBeacon Theatre以来で(20年以上…)、この時バックを務めたのはThe Flaming Lipsで、このライブがものすごくよかったので”Sea Change”はいまだによく聴く一枚で、今回のオーケストラとの競演でまずイメージしたのも”Sea Change”の波のようにゆったりとうねる音のカーテンで、実際演奏された殆どの曲は”Sea Change”と”Morning Phase”(2014)からのものだった。
オーケストラが”Cycle”で入口を優しく流しこんだ後、ギターを抱えたBeckが出てきて”The Golden Age”から、続いてギターを置いてサントラでカバーしたThe Kogisの“Everybody's Got to Learn Sometime”を。サントラで聴いたときは、冷たいところ温かいところが共存する微妙なかんじだったのだが、このライブではマイクを抱えて艶歌のように切なく歌いあげてくれて、この感じだわ、って納得した。以降、ギターありとなしを交互に繰り返しつつ、まずは歌に集中しているような。
MCでも語っていたがバンドアレンジの外側にオーケストラアレンジした楽曲を被せる、のではなく両者が一体となって新しいイメージを生んでくれるようなアレンジを目指した、ということで、その参考としたのが2曲のカバーを披露したScott Walkerであり、”We Live Again”を捧げたFrançoise Hardyであり、「ゴスになりたかったけどうまくいかなかった」と言ってカバーしたThis Mortal Coil(原曲はColourbox)の"Tarantula"であり、ゆらぎながら内側にゆっくりと崩れていく世界に、この人の声はとてもよくはまる、というか声と世界が対峙して移ろういろんな模様を見せてくれる。 声以外だとJoey Waronkerのばちばちに切れるドラムスに背後から襲いかかるティンパニーなどの打楽器群がとてつもない音の深淵を。
どの断面で切っても見事だったが、中盤の“Tarantula”~”It's Raining Today” (Scott Walker)~”Round the Bend”のあたりは、旅の疲れにまっすぐ沁みて撫でてくれる気持ちよさがあった。
“Where It's At”まででオーケストラの人々は去って、バンドはステージに残って”Devils Haircut”から”Loser”まで4曲。その間、がらんとしたオーケストラ席を酔っ払いのように動きまわり、上の方にあるパイプオルガンを弾かせろ、とか、打楽器を手にしてこれはなに? って銅鑼を鳴らしたりとか、子供か…
それにしても、とても失礼かもだけど、1993年の”Loser”から30年かけて、彼がこんなふうになるなんて誰が想像できただろうか? メインストリームかオルタナか、でいうといまだにオルタナとしか言いようがない音を出しているところもすごいし。
4.19.2025
[film] Three on a Match (1932)
4月17日、木曜日の夕方、シネマヴェーラのプレコード映画特集で見ました。
邦題は『歩道の三人女』。監督は”Five Star Final” (1931)もなかなか陰惨でよかったMervyn LeRoy。コロナでロックダウンされていた時にCriterion Channelで見ていたことがわかったが、いいの。63分という長さなのに、ものすごく濃くて恐ろしい。ホラー、といっても通用しそうな地に足のついた残酷さがある。
NYのパブリックスクール(P.S.62)で、3人の女の子 - Mary, Ruth, Vivianがいて、ふつーに不良の子、男付き合いのうまい子、ふつーのよい子、それぞれがいて、大きくなったMary(Joan Blondell)は少年院に入れられたりしていたがどうにかそこを抜けて更生していて、Ruth (Bette Davis)は速記者としてまじめに社会人していて、Vivian (Ann Dvorak)は成功した弁護士Robert Kirkwood (Warren William)と結婚してお屋敷に暮らし、小さい息子Robert Jr. (Buster Phelps)がいてなにひとつ不自由ないように見えるのだが、漠然となにかを抱えこんでいるような。
この3人が町中で久々に再会して、お茶でも飲みましょう、ってテーブルを囲んで談笑して、3人で一本のマッチの火を分けあう – これが第一次世界大戦下、兵士の間で流れた迷信 = 3人でマッチの火を分け合うとその最後に火を点けた人がしばらくすると亡くなる – に繋がっていく。それは戦場という特殊な状況下での出来事ではなく、画面に紙芝居のように流れていく当時の社会の世相や出来事の間、そこにふつうに暮らす我々の間に起こりうる災禍としてあるような。この辺、”Five Star Final”にもあったように、降りかかってくる悲劇というより始めから避けられない運命の溝として見せるのがうまい。
日々どんよりのVivianはRobertを連れてクルーズの旅に出ようとするのだが、見送りタイムにMaryとその仲間が現れて楽しく盛りあげてくれて、Maryの傍にいたちんぴらのMichael (Lyle Talbot)のねっちりした口説きに動かされてしまったVivianとRobert Jr.は出港直前に姿を消してしまう。
妻と息子に失踪されたKirkwoodはMaryの助けを借りて捜索するのだが、次にMaryの前に現れたVivianは明らかにやつれた薬物中毒になって金をタカリにきて、Maryが恵んでくれたお金$80をボスのところに運んだヒモのMichaelは、兄貴のHarve (Humphrey Bogart)とボスから借金は$2000じゃなめとんのかおらー、って怒られシバかれて、もうあれしかない、とセントラルパークで遊んでいたRobert Jr.をさらって身代金$25000を要求する。
お金持ちのKirkwoodは、こっちもふざけんな、って金とパワーにものいわせてすごい捜査網を敷かせて、網はあと一歩のところに迫り、追い詰められたギャングはガキを殺して逃げるしかない、って決めて隠れアパートに向かい、渋るMichaelをあっさり殺し、そのやりとりを聞いていた扉の向こうのVivianはRobert Jr.を隠して、扉を叩く連中の反対側で鏡に向かって必死に何かやってて、そこから…
その先になにが起こるのか、そのショットの連なりも含めてあっという間で結構衝撃的で、迷信がどうしたとかどうでもよくなるくらいなのだが、最後はMary とRuthのふたりがマッチに火を点けて終わるの。
ませたガキ、少年院、不貞、児童虐待、ドラッグ、自殺など、社会的によろしくないものがぜんぜんありうる束として世相に絡まって走馬灯のてんこ盛りで、これぞプレコード、しかない。
あとは極悪冷血のギャングを演じたHumphrey Bogart、あんたはこっちの方に行くべきだったな。
シネマヴェーラの特集、今回はここまで。
昨日、滞在の最後に『アブラハム渓谷』 (1993)を見れたので思い残すことはないの。
3週間前の日曜日に入院して、というのが今思うと遠い夢のようだが、これから英国に戻ります。まだ穴がいっこ塞がってなくて、機内でここから何か出てきたりして… なのだががんばる。
いろいろ考えさせられたよい旅だったかも。
4.17.2025
[film] Ex-Lady (1933)
4月13日、シネマヴェーラで、『特集社会面』に続けて見ました。 邦題は『ふしだらな結婚』。
1日に3本見るのは久々で、これもリハビリと。
プレコード、というと、先に書いた2本のように世の中や世渡りが過酷で酷くて辛い(のでおおっぴらにしたくない)系と、この邦題みたいにふしだらで卑猥なので見せたくない(広げたくない)系のがあり(もっと他にもあるか)、これは後者で、現世のひどいのは変わっていないので、見て楽しくて勉強になるのはこっちの方であることが多かったりする。
監督はRobert Florey、原作はEdith Fitzgerald & Robert Riskinによる戯曲で、 Barbara Stanwyck主演の映画”Illicit” (1931)のリメイクでもある(どちらも原作は同じ)。
雑誌の表紙イラストなどを描いて売れっ子のHelen (Bette Davis)には広告作家で恋人のDon (Gene Raymond)がいて、ふたりは頻繁に互いのアパートに泊まったりしているもののHelenに結婚する意思はなくて、今の付き合い方でよいと思っているのだが、移民の父親からなんか言われたり、パーティの後で(お開きになってからこそこそ戻ってくる)Donにぶつぶつ言われたりして、いろいろ面倒なので結婚しようか、って結婚する。
でもこれが間違いで、新婚旅行に行ったらその間に商談を取られたり、HelenがDonの会社を通さないでライバル会社と仕事をしていたり、仕事と恋の間でトラブルが起こってばかりで、HelenはプレイボーイでDonの仕事上のライバルのNick (Monroe Owsley)と会ったり、Donは仕事の顧客で既婚のPeggy (Kay Strozzi)と会ったり、さや当てのようなことを始めて、で、一触即発でやばいぞ、ってなるといつも酔っぱらってすっとぼけているVan (Frank McHugh)が、絶妙なタイミングで挟まってくるのがほのぼのおかしい(そもそもあんた誰?)。
離れても、なんだかんだ相手を意識してて、これはこれでやっぱり疲れるし、やっぱりお互い恋しいので戻ろうか、みたいになるお話しで、今だったら箸にも棒にも系の小話程度のもんだと思うが、結婚していない男女が一緒に寝たりしていて、避妊みたいなことも話題にする、というのは当時としてはネタにしてはいけないことだったのか。これを割とふつうにあること、として見るか、あるかもしれないけど映画にするほどのことか、として見るか、で分かれるのかしら。
なんと言ってもBette Davisが艶っぽくて素敵で、彼女に絡むGene Raymondのぜんぜん凡人でぬるっとしててどこがよいんだかわからない続いていくとは思えない(が故に.. の)組み合わせもよいの。
Bombshell (1933)
4月15日、火曜日の午後、シネマヴェーラのプレコード特集で見ました。
邦題は『爆弾の頬紅』 - ↑の『ふしだらな結婚』と並んで邦題がなんか素敵で見たくなる。
映画界の"It girl”だったClara Bow(と、ここで彼女を演じたJean Harlowも )の全盛期の豪勢なはちゃめちゃぶりを描いていて、他の登場人物もClaraの周辺にいた家族や関係者を模していて、更に監督のVictor Flemingは1926頃、Clara Bowと婚約していた、と。
銀幕の大スターLola Burns (Jean Harlow)はスタジオの広報担当”Space" Hanlon (Lee Tracy)が繰り出してくるいろんな取材や宣伝のスケジュールに追い回されててうんざりで、傍にいてくれるのは家政婦とでっかい犬3匹くらい。父 (Frank Morgan)は競馬狂いだし兄 (Ted Healy)はなにもしないで飲んだくれで、どちらも彼女を金づるとしてタカリに寄ってくるだけだし、そろそろ結婚してふつうの家庭を持ちたい、って思っている。
そんな時に現れたGifford Middleton (Franchot Tone)は風貌からしてなんか貴族っぽくロマンチックで、話してみれば彼女の仕事も業界のこともあまり知らないようなので、こいつだ! って思って彼の両親と会ってみることにするのだが、その場に現れたLolaの父と兄がわかりやすく一瞬で全てをおじゃんにしてくれて、更にMiddleton一家が裏で金を貰っているのを見てしまう。これもまたHanlonの工作で、結局すべてはLolaを自分のものにしたいという彼の策謀なのだった..
全体にずっとばたばた騒がしく落ち着かない映画で、まあ見ていて飽きないし、すべてが彼女を中心に回っている - これが”It Girl”の勢いだったのだろうな、とは思うものの、恋すらも宣伝担当のいいように操られているのだった.. という男性仕掛けのどす黒い支配欲がはっきりと見えてしまい、あまり笑えなかったかも。最後にLolaがHanlonをぶっ飛ばしてくれたら別だったのだろうが。
ただ、こんなふうにしてスターシステムは成り立って維持されているのだ、という全体の俯瞰図を示してしまった、という辺りがセンサーに引っかかったのかしら?
4.16.2025
[film] Heroes for Sale (1933)
4月13日、日曜日の昼、シネマヴェーラで新しく始まっている特集 - 『プレコード・ハリウッドⅡ』で見ました。
前回のプレコード特集の時はもう海外にいたので見れなかったのだが、プレコード時代の映画特集はNYのFilm Forumとかで結構あったりしたのでおもしろいのがおもしろい、ことはわかっている。ヘイズ・コードという規制で検閲をかけなければならない程、映画が興行面も含めて大きなパワーを持ち始めていた頃の作品たち。自分が好きなだけ映画史を勉強する時間を持てるとしたら、一番やってみたい時代とテーマがこの辺のかも。
監督はWilliam A. Wellman。長さは72分で、76分のオリジナル版は失われているそう。
第一次大戦下のドイツの戦場で、ドイツ軍の人質をさらってくる危険な任務で、勇敢なTom (Richard Barthelmess)は、なんとかドイツ兵を捕まえることに成功して、恐くて穴に隠れていた仲間のRoger (Gordon Westcott)にそいつを託したところで撃たれてドイツ側の捕虜になる。
Rogerは勲章を貰って帰国後にヒーローとなってパレードまでしてもらい、死んだと思われたがなんとか生きていたTomはドイツでの治療によりモルヒネ中毒になっていて、帰国後、薬代の横領容疑で療養施設に収容され、すっからかんの無職でシカゴの街に放り出される。
ダイナー兼下宿屋をやっているMary (Aline MacMahon)に拾われたTomは、同じ下宿屋にいたRuth (Loretta Young)に洗濯屋の仕事を紹介してもらい、もともと優秀だったので頭角を表してRuthとも結婚して、更に同じ下宿屋の極左のドイツ人発明家 (Robert Barrat)が発明した洗濯乾燥機の導入が洗濯工場の劇的な効率改善と収益をもたらす。
発明家は機械のパテントにまつわる収益を半分Tomに入るようにしてくれたのだが、Tomはそんなことより機械の導入が工場で働く労働者たちの職を奪わないように経営者に念を押していて、でもその経営者が亡くなって会社経営が他に移ると仲間たちは皆んな解雇され、それが暴動に発展して、それに巻き込まれたRuthは亡くなり、Tomは扇動の罪で逮捕されて5年間刑務所に。
刑務所を出ると大恐慌の只中で、職を求めて旅をするTomは同様に家が潰れてぼろぼろのRogerと再会して、でもTomが通帳 - 洗濯乾燥機のパテント代が貯まっている - を預けていたMaryのダイナーは人で溢れていて、Tomはこんなにも多くの人を救っているのでした、って。
今のドラマだったら軽く3時間かけそうなネタを80分以内に収めて、泣かせそうなところはぜんぶドライに飛ばして、こんな時代にヒーローであることなんて、どんな/なんの価値があろうか、ってストレートに突きつける。
あと、ガチの共産主義者だったドイツ人発明家が、貧困から抜け出した途端、貧乏人は社会のゴミだ、とか堂々と言いだすところ(→ナチス)の生々しいこと。
Five Star Final (1931)
4月13日、↑のを見たあと、2本置いて同じ特集で見ました。
天気がよくて体力があったら合間に美術館でも行くのに、どっちも酷すぎた。最後の日曜日だったのにー。
邦題は『特集社会面』。監督はMervyn LeRoy、原作はLouis Weitzenkornによる同名戯曲 (1930)、タイトルは一晩に何度も刷られる新聞の最終(勝負)刷のこと。オスカーの作品賞にノミネートされて”Grand Hotel”に負けているが、タブロイド・ジャーナリズムの世界を描いて、すばらしい緊張感と現代にも通じる残酷さが正面から。
タブロイド紙New York Evening Gazetteの編集長のJoseph W. Randall (Edward G. Robinson)は売れる紙面を作れ、っていう上からのプレッシャーにずっと押されていて、社主が20年前の殺人事件 - 結婚の約束を無視しようとした上司を射殺したが妊娠していたので無罪となったNancy Voorhees (Frances Starr) - の今を取材しろ、っていう案にしぶしぶ同意する。
結婚して名前をNancy Townsendと変え、夫Michael (H. B. Warner)と事件当時に身籠っていた娘Jenny (Marian Marsh)と平穏かつ幸せに暮らし、良家のぼんPhillip (Anthony Bushell)との結婚も控えている一家に、牧師になりすましたGazette紙の記者Isopod (Boris Karloff)が乗りこんで情報を聞きだし写真まで持ちだして記事としてセンセーショナルに掲載してしまう。そしたら翌朝にはJennyとPhillipが婚姻登録で不在の時、当然Phillipの両親が乗りこんできて、この結婚はなかったことに、と強く訴えてきたので、Nancyは彼らが帰った後に自殺、それを発見したMichaelもすぐに後を追って、ふたりを発見して一瞬で絶望の底に叩き落とされたJennyは銃を手に新聞社へ…
そもそもは被害者であったNancyを犯人/加害者呼ばわりし、更に平穏に暮らしていた彼女の家族も含めて不幸のどん底に突き落とす、これらを新聞を売るための手段として世間にぶちまけて何ひとつ悪いと思わない傲慢さ、見ていて胸が悪くなる無神経かつ無責任な加害とミソジニーがあり、更にこれらがふつうの慣行のように通用・流通してしまう今の時代も貫いてきて、しんどい。「オールド・メディア」でもなんでもいいけど、100年くらいこの体質って変わっていないことは確か。
それにしてもEdward G. Robinsonのすごいこと。ずっと仕事がたまらなく嫌そうで、なにかあると石鹸で手をごしごし洗って、最後に思いっきりぶちかまして何の不自然もない。彼をずっと横で見ている秘書のMiss Taylor (Aline MacMahon)の落ち着きもよいかんじで。 あと、もっとなんかしでかすと思われたBoris Karloffはおどおどしてばかりなのが趣き深かった。
4.14.2025
[film] Peindre ou faire l'amour (2005)
4月12日、土曜日の夕方、日仏のラリユー兄弟特集で見ました。邦題は『描くべきか愛を交わすべきか』。
前日の『パティーとの二十一夜』が素敵だったので、他のも見たくなり、でも『運命のつくり方』 (2002)以降、翌日曜日上映の回はどれも売り切れで取れないのだった。
Madeleine (Sabine Azéma)が田舎のほうにひとりで絵を描きに原っぱを降りて、森の方に向かっていくと、奥の方からサングラスをした熊みたいな男がよろよろやってきて、彼 – Adam (Sergi López)は目が見えないようだったが、ここの市長をやっていると言い、原っぱの外れにある売り出し中の一軒家を案内してくれる。
都会の自宅に戻ってリタイア目前の夫William (Daniel Auteuil)に家のことを話してみると興味を持ってくれて、見にいってみよう、って実際に見たら気に入って、ここを買おうよ、になって、暮らし始める(いいなー)。
新しい家にはAdamと彼の妻のEva (Amira Casar)も訪ねてきて、MadeleineとWilliamも、AdamとEvaの家を訪れて、二組四人の交流が深まっていく。
展開としては裕福な初老の夫婦が田舎の古民家を買って暮らし始めて、歩いていける距離の隣人夫婦と親交を深めていって、というそれだけなのだが、原っぱに建つ家の描写とかちっとも落ち着いているようには見えないし、夜中、灯りのない中、Adamに手を引かれて4人でMadeleineの家に戻るところ(画面まっくら)とか、EvaがMadeleineの絵のモデルになるところとか、ミステリアスななにかを暗示しているようで、この辺は『パティーとの二十一夜』にもあった、見えないところで蠢くなにかがこちらにやってきそうな光と空気が。
ある晩、AdamとEvaの家が火事になって全焼して、住処を失ってしまった彼らに、うちに来れば、とMadeleineとWilliamは誘って、4人での暮らしが始まるのだが… これが全ての過ちだった.. というほど劇的なことが起こるわけではなく、妙な空気になって夫婦の相手がなんとなく替わってて、気が付いたらなんてことを.. って狼狽して、MadeleineとWilliamはとにかく家を出て都会に宿を取ったりするのだが、自分たちが(も)やったことだし懺悔したり悔い改めたりもなんか違うかも.. ってなり、そうっと家に戻ってみるとAdamもEvaももういなくなっている。
原因はどこにあるのか、結果として許されるのか、とかそういう話ではなくて、『パティーとの… 』でも語られる「おおらかさ」みたいな話とも違う気がして、欲望というのは掴みどころがなくどこから現れてなにをしでかすのかわからないもの、というのが夫婦の取り替え、という犯罪とかスキャンダルになるほどのものではない(相手方がAdamとEvaというのが趣深い)愛のかたちを通して描かれていて、この後に現れる別の夫婦との出来事も含めて、そういうもんよね、って最後にはハッピーエンディングでよいのかどうかー みたいなトーンでさらりと描いていて、なんかよいの。
タイトルの「描くべきか愛を交わすべきか」については、どちらも交歓(何度か流れる”Nature Boy”の”The greatest thing you’ll ever learn is just to love and be loved in return“ )だし、「どちらもー」 しかない。『パティーとの… 』は、「語る(or書く)べきか愛を交わすべきか」っていうお話しだったのかも。
ニルヴァーナ 『イン・ユーテロ』 研究 ~アルビニ・オリジナル・ミックスを検証する~
↑の映画を見る前、新宿のRock Cafe Loftで音楽ライター鈴木善之さんのお話しを聞いて『イン・ユーテロ』の盤を聴いた。
入院していて一番飢えて困ったのががりがりやかましくでっかい音で、でも入院中も出所後も耳にはなにも装着したくなくて、でもライブに行くのはしんどいし、そういえばこの日はRSDだったのにどうしようもないし、せめてどこかででっかい音をー(涙)っていう要請にぴたりと応えてくれたイベント。
『イン・ユーテロ』 (1993)の”Heart-Shaped Box”と”All Apologies”はSteve Albiniのプロデュースで録られた後、Bob LudwigとScott Littによって「お化粧」されていた、そのお化粧の度合いが経緯は不明なるも2003年にリリースされた欧州盤(+更にその数年後のリリース)にしれっと差し替え?収録されていたAlbiniのオリジナル・ミックス(かどうかは不明)らしきものによって明らかにされていて、その2つを実際に聴き比べてみましょう、という試み。
この2曲のミックス関してはPC上の音源でもはっきりそれとわかるくらい違っていて、その後にお化粧なしの『イン・ユーテロ』を1曲目からフルで、今度はちゃんとしたオーディオのでっかい音で流してみる。(この後に1993年リリース盤の通しもあったのだがそれまではいられず..)
あーこれだよなー、って痺れたのは勿論なのだが、”Heart-Shaped Box”がリリースされた当時、Anton CorbijnのあのカラフルなPVに感じた微妙な違和感 - こっちに行っちゃうのか? - はこのミックスにも起因していたのかもしれないな、とか。
Scott LittはThe dB’sの2nd(名盤)を作った後にREMをメジャーにのしあげた名プロデューサーだし、彼は悪くなくて、当時のレコード会社がろくでもなかったのだと思う。
ということよりも、久々に全曲通して聴くと、ああこれだわ、これで生きてきたんだわ、ってしみじみ思って、それだけでも。
4.13.2025
[film] Vingt et une nuits avec Pattie (2015)
4月11日、金曜日の晩、日仏学院の特集 - 『アラン・ギロディ&アルノー&ジャン=マリー・ラリユー特集 欲望の領域』で見ました。
シネマヴェーラの成瀬特集でリハビリを3回やって、そろそろ次のステージを、となった時、やはりこの辺かな - というか元気だったら全部通ってるし - となる。自分のなかで邦画 - 洋画(そのなかでも英語圏-非英語圏とか)、クラシックか最近のものか、など、もっと細かいいくつかの区分けがあって、元気であれば手当たり次第に見ていくのだが、そうでない時にはどういう順番で、なぜそれを見る/見たいのか、を自分に聞いて、でも本当に行けるかは自分の体との相談になるので、前売りのチケットを取ったのは割と直前だった。
邦題は『パティーとの二十一夜』、英語題は”21 Nights with Pattie”。
Arnaud Larrieu & Jean-Marie Larrieuの監督作品、これまで見たことなかったかも。
疎遠だった母が亡くなったと聞いてオード山脈の山間の村にやってきたCaroline (Isabelle Carré)が「秘泉荘」 - 母はここでひとり暮らしていた - にやってくると、よく知らない男たちがそこのプールで水浴びをしていて、管理人のPattie (Karin Viard)は気さくでよい人っぽいのだが、いきなり自分の性体験(気持ちよい系の)をあけっぴろげに語りだすのでちょっと引いたり。
光を遮って風を入れている部屋に安置されていた母の遺体と向き合っても激しい感情が湧いてくることはなく、葬儀を済ませたら帰ろうか、くらい。この部屋だけではないけど、室内の光の捉え方がすごくよい。
その晩、言葉(だけじゃなくいろいろ)のあまり通じない、でもみんな陽気で楽しそうな村の人々と会って戻ってきたら母の遺体が消えていた… 村の警察、ではない憲兵隊を呼んで調査を始めてもらうと、憲兵のPierre (Laurent Poitrenaux)は屍体愛好家が持ち去ったのかもしれない、などという。とにかく予定していた葬儀は延期するしかない、とCarolineは夫と娘たちに電話で伝える。
翌日に外見はきちんとしたJean (André Dussollier)と名乗る初老の男性が現れて、その思い出を語る様子とか母の遺体が消えたことを告げた時の反応から生前の母とは相当親しかったと思われ、山荘にある「作家の部屋」の「作家」とは彼のことではないか? さらにこの人、作家ル・クレジオその人ではないか? と思って本人に聞いてみてもふふん、と肯定も否定もしない。
ずっと続く村の祭りが迫っていて、Pattiは変わらず猥談ばかり、彼女の相手として聞かされる淫力野人のAndré (Denis Lavant)の「ばんばん!」とか、いつも上半身裸の彼女の息子のKamil (Jules Ritmanic)とか、森に生えている卑猥茸とか、淫らな風が吹きまくっても、自分はもう死んでいるのだというCarolineだったが、変な人たち、変な大気に触れて少しだけ… となったところに母が戻ってくる、というか部屋の暗がりに置かれている。
母(の遺体)が戻ってきてよかった、という話(or その謎解き)でも、Carolineが自分を取り戻してよかったね、という話でもなく、明るい昼間から夜になり、夜が朝に変わっていく時間に、ちょっと淫らな欲望の風に吹かれて何かが何かに伝染して、死者もゆらーりと踊りだすよ、ってそんなお話し。
タイトルはPattiが生前の母にいつも猥談を聞かせていたら、いつかそれらの話を本に纏めましょう、と母に言われた、その本のタイトル、でもある。Pattiの言葉がそれを聞く人(≒死者)に吹きこみ、もたらす茸の胞子的な活力に満ちた、森に蠢く不思議な何かが千夜でも三六五夜でもなく、二十一夜くらいやってくる、と。 月が絡んだらもっと素敵になったかも。
音楽もはまってくるし、ものすごく好きなやつだった。
4.11.2025
[film] 鰯雲 (1958)
4月10日、木曜日の夕方、シネマヴェーラの成瀬特集で見ました。
日々のリハビリというかエクササイズで通っているのだが、まだボディに塞がってくれない穴があるし痛いし、でもずっとごろごろしているのもよくないと思うし、なんか難しいことだ。
まずカラーだったのでびっくりした。成瀬作品として初のTOHO Scopeによるカラー作品。原作は農村に関する小説や著作を遺した和田傳、脚本は橋本忍、同時上映は『おトラさんの公休日』 - なんかおもしろそう。 成瀬作品のタイトルとしては、『稲妻』 (1952)、『浮雲』 (1955)、『驟雨』 (1956)、『乱れ雲』 (1967)などに並ぶ気象シリーズ(全体に影響を及ぼすどうすることもできない現象に近い何か、及びその予兆?)としてよいのか。
戦後、農地改革後の神奈川の方の農村で八重(淡島千景)が新聞記者大川(木村功)のインタビューを受けているのが冒頭で、これからの農家や家、女性/嫁のありかたについて、自分の言葉で澱みなく語り、その様子に感銘を受けた大川と八重はちょっといいかんじになり、その後はひたすら地面に向かっていく農作業も含めたどろどろの、綺麗ゴトもくそもない実情が並べられていく。
八重の夫は戦争で亡くなっていて一人息子を育てつつ姑ヒデ(飯田蝶子)の面倒を見ていて、本家の方では八重の兄・和助(中村鴈治郎)の長男、初治(小林桂樹)の縁談が立ちあがり、その嫁候補として名の挙がったみち子(司葉子)に会いに大川とふたりでその農村に赴いたらなんかよいかんじになって一晩を共にしてしまい、みち子の継母、とよ(杉村春子)は和助に追い出された最初の妻だったことがわかり、どんな勝手な酷い目にあわされたのかがわかるのだが、この家に嫁がせるんだーとか、この辺、少し複雑でこんがらがっててくらくらする。(外国の人からしたら??になるよ)
他には分家の娘の高校生浜子(水野久美)が大学に行きたいと言ったら、婿貰うしかないお前が大学に行ってどうする? って和助に一喝却下されて、でも彼女は駅前に部屋を借りて出て行った本家次男で銀行勤めの信次(太刀川洋一)と仲良くなって妊娠したり、和助が初治とみち子の式の費用をどうにかしたい、けど田んぼは売りたくない、でフリーズしたりとか。本家ファースト、家中心で問答無用の和助のこれまでのやり方と、それが経済的にも成り立たなくなったから家を出て独立するよ、の子供勢の間で建前と恥と本音が炸裂して誰にとってもどうにもならない状態になっていく。
ここに出てくる全員がそれぞれのバージョンで不幸になる予兆しか見えなくて、描かれる恋模様だって親たちが決めた初治とみち子のあれに(無邪気で幸せそうだけど)恋はないし、八重と大川のも浜子と信次のも許されない系のでどんよりしている。のだが、そんな彼らが部屋の暗がりでよりそう絵のなんと艶かしく美しいことか。
これが近代化がもたらした災厄なのだ、っていうのは簡単だけどその根は代々意識の隅々にまで浸透しちゃっている(とみんな思い込んでいる)し、いまの夫婦別姓に反対しているのもこの勢力だし、いまの地方の過疎化だって制度・政策的なもの以上にイエの延長としてのムラ意識の充溢だと思うし、鴈治郎が黙れば済む話ではないの。
なんか全体としてはチェーホフのやりきれないかんじに溢れていたような。
それにしても中村鴈治郎 (2代目)、すごいよね。『浮草』 (1959)でも『小早川家の秋』 (1961)でも、いやらしくてくたばらない嫌なじじいの典型をやらせたら右に出るものなしで、しかもその裏に弱さ辛さ優しさも滲ませて … 騙されちゃいかんー、なのに。
今回の成瀬はここまで。
もうじきNYのMetrographでもレトロスペクティヴがあるのね。
わたしが成瀬に出会ったのは2005年のFilm Forumでの特集だったなー。ロンドンにも回ってきますように。
4.10.2025
[film] あらくれ (1957)
4月9日、水曜日の午後、シネマヴェーラの成瀬特集で見ました。
前の日にリハビリ(言い訳)で『女の歴史』を見にいって生還して、まだ会社への通勤はしんどいかなー、と思いつつ、リハビリを一日でやめてしまうのはよくないな、と再びのこのこやってくる。階段はしんどいので可能な限りエレベーター/エスカレーターを使うのだが、日本のバリアフリー、まだまだよね。
『流れる』 (1956)の次の成瀬監督作品。原作は徳田秋声の同名新聞連載小説(1915)を水木洋子が脚色している。500%理解できないが公開時には成人映画指定されて18禁になったのだそう。そりゃヘイズ・コードには引っかかりそうだが。
大正時代の末期の東京、お島 (高峰秀子)は最初の結婚でごたごたして嫌だと実家に逃げて出戻った後に缶詰屋の鶴(上原謙)の後妻として入るのだが彼から日々着るものから態度振る舞いまで散々叱言と嫌味を言われ、その延長で堂々と浮気され、妊娠すれば早すぎないかと疑われ、いいかげん頭きて大喧嘩したら階段から落ちて流産して、そのまま離縁する。
続いて兄 (宮口精二)に連れられて山奥の旅館に下働きに出され、そこの暗くねっとりした主人の浜屋 (森雅之)から言い寄られて関係をもってしまうのだが彼には寝たきりの妻がいたのでお島は更に奥地の温泉宿に飛ばされて、島送りのような暮らしは父 (東野英治郎)が連れ戻しにくるまで続く。のだが浜屋との関係はその後もなんだかんだだらだらと。
続いて伯母 (沢村貞子)のところに預けられたお島は出入りしていた裁縫屋の小野田 (加東大介)のところで働き始め、仕事のできない怠け者で不細工な彼の尻を叩いているうちに仕事がおもしろくなり一緒になって洋装屋を興すことにして、何度か失敗を繰り返しながらどうにかなってきたところで、浜屋の病のことを聞いて駆けつけると彼は亡くなっているわ戻ってみると小野田は浮気しているわ、ブチ切れ、というよりすべてを吹っ切るべく洋装屋のできる若手の木村(仲代達矢)ともうひとりの若造に声をかけて飛び出していくのだった。
なす術もなく運命に翻弄されきりきりしていくこれまでの高峰秀子とは違い、言いなりになると思ったら大間違いだ、って毛を逆立てて突っかかっていく「あらくれ」で、あの後もぜったい仲代達矢となんかあって泣くことになるかもしれないのに勝ち負けじゃねえんだよ、って動じない。品行方正とか、そういうのを貫くというのでもなく、なーんで男はろくでもないのばっかしなのに、なーんで女ばっかりあれこれ言われり後ろ指さされたりなんだよ? って、その説得力は確かにある。水木洋子の脚色でどれくらい変わったのだろうか。
その反対側でハラスメント野郎(上原謙)に、いいかっこしいのむっつりすけべ(森雅之)に、働きたくない怠け者(加東大介)と、あとこいつの父親も酷いし、男の方もよく揃えたもんだ、こんなそもそものクズ連中に向かってあらくれても、と思ったりもするが、こんなのがそこらじゅうに吐いて捨てるほどいた(今もか…)のだとしたら… といううんざりの徒労感も見えたり。高峰秀子があと1000人いたら。
『流れる』からの流れでいうと、彼女がミシンを2階に引っ張りあげるところから何かが始まる、ような。ミシンは抵抗への狼煙になるのかー。
4.09.2025
[film] 女の歴史 (1963)
4月8日、火曜日の午後、シネマヴェーラの成瀬特集で見ました。
退院後、最初の1本で、これをなにがなんでも見たいから、というよりは地下鉄に乗って渋谷の町に出て2時間強の映画を見て帰ってくる、という活動がどれくらい体力的にしんどい負荷をもたらすのかを試す目的。これが無理なら会社に行くのはもっと無理だろうし、ね。
入院前の最後に見たのが『女の座』 (1961)だったので、次は『女の歴史』 (1963)かー、くらいだったのだが、こちらの原作(着想)はモーパッサンの『女の一生』 (1883)だという - けどモーパッサンのとは随分ちがう(脚本は笠原良三)。 公開時の同時上映は岡本喜八の『江分利満氏の優雅な生活』だったと(あれこれなかなかの段差)。
東京の下町で小さな美容室を切り盛りする信子(高峰秀子)がいて、姑の君子(賀原夏子)と自動車会社に勤める息子の功平 (山﨑努)と暮らしているのだが、功平はあまり家に帰ってこない。ものすごく幸せでもなく、 ものすごく辛くて不幸でもないこの現在地点から、いろんな過去が信子の語りと共に切り取られて行ったり来たりしつつ、現在もまた流れていく… という構成。
時間の流れには抗えない戻れないという『流れる』や『女の座』にあった語り口(なるようになる、しかない)ではなく、こんなこともあんなこともあったという「歴史」を振り返ることで「現在」を変えるなにかは見えてくるのか、というこれまでとは少し異なる視点。 あるいは「座」という空間的な切り口から「歴史」という時間的な切り口に変えてみたところで、女性の生き辛さの総量はそんなに変わらないよね、と言うことか。
木場の材木屋の跡取りだった幸一 (宝田明)からお見合いで見そめられて割と強引にもっていかれる婚礼から新婚旅行の初夜、相場で失敗して愛人と無理心中をした幸一の父のこと、幸一に召集令状が来て彼を戦地に送って空襲にあって疎開して、そこで幸一の戦死の報が届き、生活苦を玉枝(淡路恵子)に助けてもらったり、夫の親友だった秋本隆 (仲代達矢)に言い寄られたり、周囲が目まぐるしく変わっていく反対側で生活は直線で苦しくなっていく中、姑と幼い息子と3人で懸命に生きていく姿が描かれる。
現在の時間軸ではキャバレーで働いていたみどり(星由里子)と出会って親密な仲になった功平が彼女との結婚を信子に伝えたら反対されたので家を出て、郊外の団地でみどりと暮らし始めた - と思ったら自動車事故で突然亡くなってしまい、信子はどん底に。ひとりで信子のところを訪ねてきたみどりは功平の子を妊娠している、と言うのだが…
『女の座』との対比でいうと、しっかりした家に嫁いだ高峰秀子が戦争で夫を失い、拠り所のように大切に育てていた一人息子も失って家のなかで一人孤立してしまう、というところは同じ。婚前婚後の違いはあるが宝田明から言い寄られるのも同じ。最後にアカの他人と3人で残されてしまう、というところも同じ。あとはなんと言っても、自分はそんな悪いことしたわけでもないのになんでこんな目に? という不幸絵巻も。これらってぜんぶ彼女が女性だから起こったことだよね。 でもあのラストは素敵。
なぜ成瀬の映画で高峰秀子ばかり(他の女性も割とそうか)がこんな酷い仕打ちに遭ってしまうのか、についてはもう少し他の作品も見た上で書ければー。
あと、何度も映し出される美容室のある路地の佇まいが素敵なのと、終戦後の闇市の混沌を切り取った美術がどこを切り取ってもすごい。本棚の奥からリュミエール叢書『成瀬巳喜男の世界へ』 (2005)が出てきたので美術監督の中古智のインタビューを読んでみよう。
4.07.2025
[film] 女の座 (1962)
3月29日、土曜日の昼、シネマヴェーラの成瀬特集で見ました。
入院前日、まだ健康(でもないか)だった頃に見た最後の1本。フィルムの状態がよくない、という注意があったがそんなに気にはならなかった。始まってすぐ、見たことあったやつじゃん、になったがこれも気にすることはない。
オールスター・キャストによる正月映画、だそうで、こんな暗いのを正月に… と思ったが当時の「女の座」を基軸に見てみればこれでもじゅうぶん「よかった」ほうに入る「喜劇」なのかも知れない。
家長の父、金次郎 (笠智衆)危篤の報を受けて集まってくる家族たちが紹介される。金次郎の後妻あき(杉村春子)、戦死した長男の嫁芳子(高峰秀子)は高校生の息子健と一緒に同居して家にくっついた荒物雑貨店+家事全般を切り盛りし、長女の松代(三益愛子)は家を出て下宿屋をやっていてそのダメ夫が良吉(加東大介)で、次女で結婚していない梅子(草笛光子)は家の敷地内に別棟を建てて暮らしていて、次男の次郎(小林桂樹)は家を出て町の中華料理店をやっていて、三女の路子(淡路恵子)は正明(三橋達也)と結婚して九州にいたが今回の騒ぎで戻ってきて、そのまま居着こうとしていて、四女は夏子(司葉子)で、五女は雪子(星由里子)で… という大家族模様をわざとらしい形でなく紹介しつつ、そのまま満遍なく家族の出来事 - どんな昔のことも現在のことも家族の姿、ありように繋がっていく - のなかで展開させつつ見せていくやり方がすごすぎて目を離すことができない。
あの時期、おそらくどこにでもあった家長を中心としつつも核家族化の流れと共に解れるべくして解れつつあった大家族の、崩落でも没落でもない、誰も中心にいる家長の思う通りにはならないし、させないし、勝手に生きていこうとしていた家族の断面を『流れる』的な屈辱や自嘲のなかに描くのではなく、「仕方ない、けど私は」的な近代的自我の立ちあがりの中にばらばらと置いて、家族同士がその喧騒で騒がしくなっていくなか、これも同様にできあがりつつあった学歴社会の厳しさにひとり向き合って悩んでいた健は…
他にも独り身だった梅子のところに現れた(あきの先夫との間の子)六角谷甲(宝田明)が実はとんでもない詐欺師であることがわかったり、夏子は中華料理店の客で気象庁に勤める青山豊(夏木陽介)をちょっと好きになるものの結局は見合いをした相手とブラジルに駐妻として行くことにしたり、誰も彼も家族のことより自分のことばかり、の果てにぽつんと残されてしまったことに気づく金次郎とあきと芳子がいて、この辺が『東京物語』 (1953) と対比されるところなのだろう。
子供たちに置いていかれた老親と嫁として嫁いできただけの女性(他人)が心を通わせるこれらのお話しって、近代化と家父長制の軋轢、というか、これらをかわいそう、って思わせ泣かせてしまう甘さが、家父長制を精神的にも制度的にも支え、のさばらせてきたのだ、というところまで分からせてくれる視野の広がりがあるような。
あの荒物雑貨店ってセットなのかしら? ああいうお店ってあったよね。すばらしい臨場感。
4.06.2025
[film] BAUS 映画から船出した映画館 (2024)
3月23日、日曜日の昼、テアトル新宿で見ました。
これの次の回だと舞台挨拶もあったのだが、自分に残された時間はもうそんなにないのだった。
当初青山真治が脚本を用意して企画していたものが彼の急逝により弟子の甫木元が引き継いで完成させたもの。プロデューサーには仙頭武則に樋口泰人の名前もある。当然。
“BAUS”というだけでそれは2014年に閉館した吉祥寺のバウスシアターであることは最初からわかっていて、原作はバウスシアターの元館主・本田拓夫による経営者家族の年代記であるらしいのだが、そもそもこの映画の中心は「爆音映画祭」という特殊な映画の上映形態を編みだしてしまったその場所、あのシアターのなぜ? と核心に迫り、それを総括するはずのものであったのではないか。
本来なら「映画館から船出した映画」であってもおかしくないタイトルの転倒や、ちっとも船出なんかしないでひとつの土地にずっと停泊していることとか、ぜんぶ目眩しの照れ隠しで、あの時のバウスシアターがどうしてあんなふうでありえたのか、をストレートに掘って語ることをわざわざ回避している気もした。青山真治と樋口泰人によるドキュメンタリー『June12,1998 at the edge of chaos カオスの縁』(2000)のタイトルを引き摺る - 「カオスの縁」にあった場所なのに。
1927年、青森から流れてきたハジメ(峯田和伸)とサネオ(染谷将太)の兄弟が吉祥寺の映画館で巻き込まれるように働き始めて、サネオはハマ(夏帆)と結婚して家族ができて、でも戦争が近づいてきて.. という戦前〜戦後に跨る家族の物語を井の頭公園に佇む老人 - サネオの息子タクオ(鈴木慶一)が踏みしめていく。テンポが速くてサクサク進んで、音楽が大友良英だったりするので朝ドラっぽく見えてしまったりする(←見たことないくせに)のだが、それらは全て鈴木慶一の後ろ頭に収斂され、土地と興業、そして時の流れ、消えていった者たちの方へと意識は向かう。
この辺、『はるねこ』 (2006)の甫木元空の幻燈画のような人と景色の描き方が見事にはまっているのだが、他方で青山真治がやっていたら『サッド ヴァケイション』 (2007)の、あのなんとも言えないノラ家族の姿が見られたのかもなー、とか。
映画館の最初の季節には弁士が入っていたし、映画だけでなく落語などもやっていた。なにをやるか、よりもどう見せて、その向こう側の世界の作りだす渦にどれだけ囲い込むか、没入できるか、が試されていた、というあたりに爆音の話には繋げられそう。(だけど、その基点である吉祥寺という土地について、自分はよく知らない)。
映画の聴覚に訴えてくるところ全てをサウンドボード上で再構成し、コンサート用のPAでライブ音響として鳴らすことで娯楽パッケージとしての映画体験をライブのそれに変えてしまえ、という試み。そこには当然映画の歴史、興業の歴史、更にはそもそも映画って何? にまで踏みこんだ問いと答えが求められるし、それが可能となる/それを可能とする個々の映画作品の、更にその映画のジャンルやテーマにまで踏みこんだキュレーションのセンスが必要となる訳だが我々には樋口泰人(斉藤陽一郎)がいたのだ、と。(樋口泰人伝にしてもよかったのでは)
ここまで行って初めて”BAUS”がBAUSであった意義とか戦前からのならず者ストーリーが繋がってくると思うのだがそこまでは届かず、敢えてブランクにしているかのよう。映画館のインフラがどこでも平準化され、配給されなくても配信で入ってくるからいいや、がスタンダードになりつつある今こそ、映画・映像を爆音で体験することの意義を問うべき - とか言ってもなー。それはもう船出しているのだ、とか?
など.. というのもあるが、やはりこれは映画からどこかに船出していった青山真治の、家族や歴史や文化、人々への眼差し、洞察に対する敬意に溢れた作品としか言いようがない、と思った。
最後に流れた1曲がものすごく沁みて、誰これ? と思ったら(やはり)Jim O'Rourkeだった。
[film] Underground アンダーグラウンド (2024)
3月22日、朝にシネマヴェーラでその日のチケットを確保した後、ひとつ下の階のユーロスペースで朝一の回を見ました。
小田香監督の前作『セノーテ』 (2019)はパンデミックでロックダウンしているロンドンで見て、あの水脈というか水路というか、それ以上に地下の洞窟にあんな光景がある、ということを未知未開の驚異映像のように取りあげるのではなく、昔からずっと積み重ねられてきた現地の人々の歴史と生活の合間に - こういう地層、というか水と共にうねる何かがあるのだ、とマップしてみせるその手つき、というか接し方と、その映像たちがその土地の成り立ちに重なりながら形成されていくような様がとてもよかったの。
『鉱 ARAGANE』 (2015) - 未見、『セノーテ』 に連なる地下三部作(となるのか?)の最新作が今作で舞台は日本、タイトル通りに日本の”Underground”を追っている。
では、日本の”Underground”とは、いったい何を指し示すことになるのか?
初めにダンサーの吉開菜央が日本家屋のような建物のなかで起きてトイレに行って窓を開けてストレッチして、という朝の始まりの光景や野菜を切って味噌汁をつくったり - のルーティーンが描かれる。 何気なくそこにある一日、晴れても曇ってもいない光の射してくる場所。オーバーグラウンドとアンダーグラウンドの中間にあるような。
日本のアンダーグラウンドには何があるのか? 掘ったら何が出てくるのか? のっぺりなんの面白みもなさそうな商業目的で開発された新興住宅地とかニュータウンといった「オーバーグラウンド」のB面として、遺骨とかお墓とか遺跡とかは必ず「先祖代々の」みたいな文句と共にやってくるものの、その正体がなんであるのかはわかっていてもあまり語られないことが多い。それははっきりと死骸で、でもかつて生きて喋ったり動いたりしていた者たち、時によっては殺されてしまった人々であったり、今は姿を変えて棄てられたりなかったことにされ埋められたりしている、それらの記憶を、声をつかみ取る、(下に澱んでいるそれらを)掬いあげようとする試みが16mmフィルムに収められている。
それを単なる紀行ドキュメンタリーにするのではなく吉開菜央(「演じる」ではない、「操られる」「同化する」というか)の「影」がひっそりと射していくかのように沖縄戦の現場のひとつ - ガマやダムで沈んだ村や大きな雨水菅や半地下の映画館など、各地の地下空間を巡っていく。 その影の形に沖縄戦体験者の声を紡ぐガイド松永光雄や読経の声が重ねられて記憶は多層となり鹿の骨やサンゴに固化していく - そんなふうに時間をかけて繰り広げられていく地下世界の循環、連なり。
「影」の日常と彼女の向かっていくアンダーグラウンドとの対比が興味深くて、例えば、自分の部屋でごろごろだらだらし続けるChantal Akermanの姿と、その反対側で彼女の向かっていったホテルや「東」や「南」の姿のことを思った。単純に両者を比較できるものではないが、なぜそれを撮るのか、撮り続けようとするのか、の問いの起点には部屋や家、基調として流れる日常の時間が必ずどこかにあるのだと思う。
あとは、Edward Hopperのシアターや映画館の暗がりに佇む女性の像なども。重ねられた記憶の間でどう動くのか、そこから外? どこ? に出ていくのか。
ひとつの「影」の出どころ、ありようを特定するのに目を凝らす必要があるのと同じように、この映画が映しだしているイメージたちも一度で見て終われるものではないような。それくらいこの作品に映しだされるイメージと音の豊かさ、多様さは半端ではないので、どこかでもう一回見たい。英国ではもう上映されたのかしら?
[log] March 30 - April 6 (3)
そしてずっと繋がれて動けないまま時間の感覚が歪んでくるのか、痛みの感覚 - 麻痺のような何かが広がってくるのか、単なる鎮痛剤のおかげ ←たぶんこれ - なのか、状態が変わってきた気がしたのは2日目くらいからで、痛いけど食べるし痛いけど寝るし、が常態となり、そうしながら点滴の管の数が減っていき、あとは自分内でどうにかしなはれ、になる、その跳躍というのか切断というのか、はちょっと怖い。生まれた時がまさにそうだったわけだが。
ここから先の生活はひたすらだらだらするばかりであまりおもしろくなくなるのだが、ひとつだけ、執刀した先生にお願いして自分の手術の映像を見せてもらったの。自分の顔や体が映っているわけではないので本当にそれが自分のかはわからないのだが、じょきじょき切り刻んでいって患部に到達してより分けて摘んで切り取って結んで、の一連の小さい箇所に対するマイクロな作業を、ロボットの3本の手なのか指なのか、がさっさか捌いていくのを倍速で見せて貰って、テクノロジー! って思った。でもそれ知らずに映像だけみたら鶏や魚捌いてるの(のを100倍拡大したの)とそんな違わないかも。
手術後2日過ぎて、点滴による鎮痛剤投与がなくなったあたりから歩く練習をしましょう、って管の繋がったガラガラに掴まって病棟内のサーキット(ただの通路、一周30mくらい?)をゆっくりぐるぐる歩く - だけなのにすごくしんどい。こんなんではエレベーターのまだ動いていない時間帯のシネマヴェーラに並べない! になってしまうのでがんばる。病と戦うとか、リハビリで歯を食いしばってなどという態度は個人的に嫌なのでそういうんじゃないんだ、という顔をつくって歩くのだが誰もわかってくれない。
既に少し書いた朝昼晩のお食事は、一日のトータルが1800Kカロリーを超えないように、各食200gのご飯とメインおかず、副菜1〜2でコントロールされつつ、質も量ももう飽きた嫌だになりそうでならない絶妙な線を維持し続けて、部屋からほぼ出れないのでお腹減らないはずなのに少しは減ってやってくる半端な欠落感をどうにかー、をどうにかしてくれる。で、それでもなんかー、とかパン食べたい、とか言う場合は追加料金での特別メニューを事前予約できる。楽しみがないので晩一回、朝一回、洋食をやってみたのだが、ロールパンとか別皿サラダとか、なんとなく昭和のゴージャス感たっぷりのやつだった。お年寄りにはうけるかも。
5日の土曜日の午前に最後の管が抜かれて - あれらを引っこ抜く瞬間のにゅるん、とくる痛覚ってなんかCronenbergだよね、とか思いつつ、抜かれた後の虚脱感 - いや、抜かれた抜かれないに関係あるのかないのかどうでもよくなるくらいとにかくだるいのってなんなの? 今回、切り取って体外に出されたのなんてせいぜい数十グラムくらい、手術の日から退院するまでに約6〜7日じっと転がっていた、それだけなのになんでこんなに力が入らないの、って?
でもとにかくこの状態から動き始めるしかないわけね、とこれから退院する。 当分スポーツ・運動はだめ(やるかそんなもん)らしいがじっとしている映画館はべつによい(好きにすれば)らしいので、がんばる。
あととにかくケアしてくれたナースの皆さんには本当に感謝しかない。すばらしい人たち。ありがとうございました。
[log] March 30 - April 6 (2)
この先、0時からは断食で、水分摂取は午前6時までとのこと、5時56分くらいに看護師のひとが来て、この先飲めなくなるので思いっきり飲んでおいてくださーい、というので飲んだのだが、飲んでおかないとどんなリスクや危機が待ち受けているのかがわからないのでいまいち腑に落ちてこないまま、胴はたぷたぷに。
手術は8:30からで、管を入れる場所にパッチを貼ったり線を引いたり、前回のよりは明らかに大掛かりっぽく、手術用の服と紙パンツで待機して、時間になったら連れられて手術室まで歩いて向かう。前回はベッドに横たわった状態で運ばれてかっこよかったのに今回は何故? と思ったら手術をするロボットのある部屋が奥の方でごちゃごちゃ入り組んでいてベッドが通れないからではないか、と。沢山の手術室のあるフロアの湯気のあがる現場っぽい臨場感 - SWに出てくる整備庫みたいな - がなかなかかっこよくてそのまま機器とか配線とか見たかったのだが、そんな場合ではないのだった。
まずは麻酔医の人々が(いつもずっとものすごく丁寧でてきぱきなのすごい)、これまで説明してきた手順通りに声を掛けあって指示をして一発で管を通して、点滴から麻酔が入りますー深呼吸してー、と言われ今度は負けないと思って天井を睨んで、いまその絵は残像として残っているのに意識が戻ったのは病室に戻った14:30なのだった。その間自分はなにをされていたのか? の変なかんじ。戻ってこれたので手術は「成功」と言ってよいのか? こんな管まみれで動けない状態での「成功」ってなに? など。
その先はいろんな管に繋がれて動けないまま2時間置きにいろんな人たちがやってきて体温脈拍血圧などのデータをとったりガーゼを替えたり点滴を替えたり痛み止めをくれたり、なにかお困りのことは〜? などあらゆる方角からよってたかって生かされている状態とそれを維持する活動 - この人たちがいなくなったら簡単に死んじゃうんだろうな - が深夜0時くらいまで続いて、その0時になってはじめて水を飲んだ。
痛みについてはどう言ったらよいのだろうか? 胸から下のお腹の全面がじんわり小針で刺されながらロースターでゆっくり回転しているような、走っている時の脇腹の痛みと腹筋の筋肉痛がカラフルに炸裂しているような、これらが体を起こしたりくしゃみしたり、立った状態からベッドに横になる、という動きをするだけで一斉に猛々しく立ちあがって内臓を食い破ろうとする - こんなに騒々しい痛みの感覚は初めてかも。痛みについては考えない、というのがそれを回避するひとつの方法なのかも知れないが、ここまで影のようにひっついてくるとなんなの? って。
こういう入院・手術って大きな流れのなかでは大凡これで「死ぬことはないから」って片付けているし、それだからここまでのこのこやってきたわけだが、実際にその最中に入ってみるとこれはやばいかも、ってなってくるのはこんなふうにずっと「痛い」からではないか。痛いのが止んでくれないとなんかおかしい、とんでもないなにかが降りかかってきているのではないか、が反射していってそればかり考えるようになる(→ カルト)、とか。
[log] March 30 - April 6 (1)
このたびはこれのために日本に来たので、逃げたり隠れたり蒸発したりするわけにもいかず、着陸して3週間、どんより冴えない悶々の日々を過ごしてきて、ついにこの日、というかこの週、が来てしまった。
治療してよくなる、健康になるのだから、という大義はあるものの、これまでの日々の暮らしで具体的に痛みや苦痛や不便を感じてきたわけではなく、手術の後もはっきりとよくなった、万事快調! と感じることができる類いのものでもなさそうなのだが、でもその真ん中の手術と術後しばらくの間ははっきりと痛いし気持ち悪いし辛くしんどいものになるであろうことは前回の検査入院でようくわかっていたので、体感レベルでは高いお金を払って泊まりがけで痛いめにあいにいくようなもので、なにひとつおもしろくないし、でもだからと言って泣いたり騒いだり逃亡したりするのは子供のすること、というのもわかっている。
あとはこの先、もう老いたぽんこつなので、これと同様のことが別の部位で起こらないとも限らず、多かれ少なかれそんな痛みが裏に表に本人にはどうすることもできないオセロみたいな陣地とりを繰り広げていくことになるであろうことを思うと、せめてきちんと記録くらいはとっておこうかな、という備忘を。
病院は10時に入院受付ということでその時間に入った。周りには開いた桜がぽつぽつ。
病室は667で、666だったら素敵だったのになー、ちぇっ、など。
サインしたいろんな誓約書を渡して、引き換えにいろんなルールの説明を受けて(ここまで来たんだからじたばたしないで観念して言うこと聞け)体重血圧測って採血されて(針6回刺してやっと)、パジャマを借りて、本日はそのまま病室でお過ごしください、って言われたのがお昼前。
最初のお昼は天ぷらそばで、昔の給食のソフト麺みたいに温かい蕎麦つゆを蕎麦の容器に入れる方式で、翌日の手術以降しばらくは食べれなくなるらしいのでありがたく頂くのだが、量が少ない… のと、あと12時間くらい、映画館にも美術館にもお花見にもいかず、静かにこの部屋で過ごせと? (だからあんたは病人だって言ってるだろ)
でも見張られているわけではないので、外に出て近くの古い教会を見たり桜を見たり駅の方のお店に行ってみたのだがどこも日曜日で閉まっていて、あんまりにもつまんないので下のコンビニで「金のアイス あずき最中」を買って部屋で食べたり。
今回、あまり選ぶ時間がなかったものの、本は『目白雑録Ⅲ 日々のあれこれ』(中公文庫版)と『ショットとは何か 歴史編』と『灯台へ』(文庫版)を突っ込んできていて、個室にはTVもDVDプレイヤーもあるのだがちっとも見る気にはならないのでだらだらうとうとしながら読む。「目白雑録..」には老いと病と病院についていろいろ書いてあってリアル病室で読むと枯れた臨場感がたまらない。
晩ご飯は18:00に来て、翌日からは点滴になるのでこれがラストフィジカルご飯、なのだが鮭の切り身と粉ふき芋となめこおろしとご飯、って少なすぎてこれだと夜中にわなわなが来てしまう気がしたので、パジャマから普段着に替えて下のコンビニに降りたら日曜日は17:00で閉まっていてこんなのコンビニじゃないじゃん、って泣きながらそういえば4階に食べ物の自販機があった気がしたのでそこに行ってシュークリームとフルーツヨーグルトを買って食べた。
3.28.2025
[film] 舞姫 (1951)
3月22日、土曜日の午後、↑の『流れる』に続けてシネマヴェーラで見ました。
上映後に岡田茉莉子さんのトーク、聞き手は蓮實重彦、ということで、今回の日本滞在中、ほぼ唯一のイベントっぽいやつ。立ち見になるかどうかのぎりぎりくらいだったが座れた。
原作は川端康成の新聞連載小説(1950-51)、脚色は新藤兼人。当時18歳の岡田茉莉子の、これがデビュー作である、と。
元バレリーナで、現在はバレエ教師をしている波子(高峰三枝子)が銀座で竹原(二本柳寛)とバレエを見ていて、そこを出てから波子は彼を引っぺがすようにして別れて、娘の品子(岡田茉莉子)と会って食事をしていると波子のマネージャーの沼田(見明凡太朗)が現れてねちねち絡んできて、ここまででどんな人物配置になっているのかが見えてくる。
波子には考古学者の地味な夫 - 八木(山村聰)がいて、彼との間に高男(片山明彦)と品子が生まれて約20年くらい、でも竹原とは結婚するずっと前から付きあってきて、子供が大きくなって手を離れそうで、自分がこれからどう生きていくか、を考えたときに、いろいろ内面とか良心の呵責などが湧いてきて悩ましく、それを察した八木は波子に意地悪く嫌味を言ったりぶつかってきて、それに高男が加担して、そうなると品子は母親の方について、家庭内の不和分断が染み渡って誰にも止められない。
そんななか、品子は高校時代のバレエの恩師香山(大川平八郎)が怪我をしてからバスの運転手をしていると聞いて穏やかではいられなくなり..
谷桃子バレエ団が協力したバレエのシーンはやや遠くからではあるがちゃんと撮られていて、バレエで表現される舞姫の魔界や煩悩、エモの奔流など、女性たちの揺れや狂いようが高峰三枝子と岡田茉莉子の見事な演技と共に精緻に重ねられていく反対側で、それらをドライブする(できると思いこんでいる)男性たちの一本調子の愚鈍さ、ろくでもなさはもう少しどうにかできなかったのか。 と思うのは、結局男たちがどれだけしょうもないクソ野郎であっても、表面の和解の後、のさばってなんのダメージも受けずに社会を渡っていける(と彼らは確信できるであろう)から。原作と脚本が「彼ら」だからか。それにしても山村聰って、教養もあって育ちもよいのに爽やかに粘着して相手を潰す、みたいな役をやらせるとしみじみうまいよね。
あと、バレエの公演中、見ている横から割りこんでなんか言ったりしても当然、と思っている(そういう脚本を書ける)神経がなんかいや。どうせ女子供の、って思っていて、自分はどこまでも冷静に事態を見渡せるんだ、って無意識的ななにかが。
全体としては暗くてブラックで舞姫がじんわり絞められていくお話しだったが、反対側の男たちの薄っぺらさが鼻についてどうにもバランスがよくなかったかも。
上映後、岡田茉莉子さんのトークは、これまで、吉田喜重と一緒のも含めて結構聞いてきて、でも今回の聞き手の人のは初めてで、どうなるんだろ? と思ったがなんだかんだいつもよりややつんのめった(つまり)いつもの蓮實重彦だったかも。
それにしても、東宝演技研究所に入所して2週間くらいでこれに出演して、演技について成瀬から特になにも言われなかった、っておそろしいし、実際高峰三枝子とのやりとりの滑らかなことったらすごい。『坊っちゃん』 (1953)は見なくては。
あさって日曜日から収容されてしまうのでしばらく更新はとまります。やだなあー。
3.27.2025
[film] 流れる (1956)
3月22日、土曜日の午後、シネマヴェーラ渋谷でこの日から始まった特集 - 『初めての成瀬、永遠の成瀬』で見ました。
「初めて」と「永遠」の間に「久々の」と入れたくなるような成瀬。特集の初日で、トークもあるので少し早めに行って、9:20くらいに列の終わりに着いたらカチカチを持った映写のおじさんが現れてこの辺から立見になる可能性ありますー、とかいうのでびっくり。レオス・カラックスがすぐ売り切れたのはわかるけど、こっちは… そうかーネットに行けない老人がぜんぶこっちに流れる、のかー。
『流れる』は本当に好きでこれまで何回も見ていて、日本映画のなかで一番好き、というくらい好きかも。理由はよくわかんないけどとにかく見ろ、流されろ、こんなにすごいんだから、しかないの。
原作は幸田文の同名小説 (1955)で、ラジオドラマにも舞台にもなっている。映画版の脚本は田中澄江と井手俊郎。フィルム上映だったのもうれしい。デジタルで見るよか断然の、あのしなびた風情。
川べりの下町にある置屋「つたの屋」に女中の仕事を求めて梨花(田中絹代)- 呼びにくいから「お春」でいいだろ、って勝手に変えられてしまう – がやってきて、彼女の目を通して、ではなく、つたの屋にいる芸者たち - つた奴(山田五十鈴)、染香(杉村春子)、なな子(岡田茉莉子)、芸者ではないがつた奴の娘の勝代(高峰秀子)、つた奴の妹で幼い娘を育てている米子(中北千枝子)らが紹介され、つた屋のある路地、その界隈がちょっと困った顔で彷徨う田中絹代と共に描かれて、ここで背後に鳴っているどーん、どーんという音がまるで西部劇のようなテンションで空気を震わせる。 こんなふうに「流れる」が流れ始める。
いきなりすごい事件が勃発したり凶悪なキャラが登場するわけではなく、つた奴の姉のおとよ(賀原 夏子)が訪ねてきてずっと滞留しているらしい借金のことをねちねち話したり、冒頭にいてどこかに出て行ってしまう芸者の叔父だという鋸山(宮口精二)がどうしてくれるんでえ、って家までユスリに来たり、お春が買い物に行ってもおたくは払いが溜まっているから、とよい顔をされなかったり、全体としてお金に困っていて、でもそれはこれまでもずっと続いてきたことだし、と言いつつも見ての通り商売として繁盛しているわけではないので、いろんなコネと資金に恵まれているかつての同僚のお浜(栗島すみ子)に助けて貰ったりして、「流れる」というよりは「沈む」ような。
それでも沈まずに流れていくのは、事態を柔く受けとめてばかりの母への苛立ちとともに冷静に見つめる勝代とか、他人事のどこ吹く風で呼ばれない芸者としての日々をへらへら過ごす染香やなな子がいるからで、彼女たちの言葉や行動は大勢を打開したりすることはないものの湿気の多い暗めのメロドラマにすることから救って、ものすごく豊かでおもしろい(おもしろいのよ)女性映画になっている。元気を貰える、とかそういうものではないが。
反対に男性の方はというと、薄くて弱くて、米子の元夫で体面はねちねち気にするけど圧倒的に力になってくれない加東大介とか、今でもそこらじゅうにいそうなクレーマー鋸山とか、なに考えているのかわからない官僚タイプの仲谷昇とか、借金のカタによく知らんじじいと一緒になってほしいとか、なにもかもうっとおしくていなくてもいい存在ばかり、余りのどうでもよさに感嘆するばかり。
なので見事に恋愛なんて出てこないの。染香が逃げられた、って少し泣くくらいで現在形の恋愛はまったく別世界のことのような潔さがある。
こうして、誰もがそれぞれに流れていってしまうその先で大海にでるとか、大船に拾われるとか、そういうことはなく、冒頭とあまり変わらない光を柔らかく反射する川があるだけなの。今後の生活もあるから、と(母からはやめておくれ、と言われた)ミシンの下請けを始めた勝代のたてる機械音と、向かい合って稽古をするつた奴と染香のツイン三味線が重なりあってひとつの音楽に聞こえてくるラストのすばらしさときたら。
そして、この後の『舞姫』上映後のトークで明かされた染香となな子の「じゃじゃんがじゃん..」がその場で楽しくなってやってしまったふたりのアドリブで、それがそのまま無言で採用されてしまったという驚異も…
3.25.2025
[film] Scandal Sheet (1952)
3月20日、木曜日の春分の日、シネマヴェーラのSamuel Fuller特集で見ました。
監督はPhil Karlson、原作はまだスクリーンライターだった時代のSamuel Fullerが書いた小説”The Dark Page”(1944)。 この頃の彼は第二次大戦の歩兵だったと。
やり手の編集長Mark Chapman(Broderick Crawford)の下、ケバケバのスキャンダル記事をメインに据えたら部数を伸ばして快調なNew York Express紙が勢いに乗って独身者向けのパーティ(ここで出会って結婚したら家電を!など)を開いて盛りあがっていると、会場にいた初老の女性がMarkに声をかけてきて、Markはかつて妻だったらしい彼女を捨てて名前を変えて現在の地位にのしあがったことがわかり、揉めてもみ合っているうちに彼女は頭をぶつけて死んじゃって、彼は指輪を処分して彼女の持っていた質札も処分しようとするのだが、それが飲んだくれの元新聞記者 - でも推理は冴えている - に渡ってしまったので、取り返すべく次の殺人が起こって…
うちが主催のパーティで起こったこんなネタ、部数伸ばすのに恰好かつ最適じゃん、とMarkに育てられた若い記者Steve (John Derek)と社の方針についていけなくて辞めようと思っているJulie (Donna Reed)が動きだし、亡くなった女性の持っていた写真に写っていた男(若い頃のMark)の正体を割り出していくと…
部下が事件を掘り下げて、容疑者特定に近づけば近づく程、部数は伸びて株主も(配当があるから)盛りあがって、その反対側で追い詰められたMarkの焦りはじりじりと焦げて広がっていって…
あんま期待していなかったのだがすごくおもしろかった。前の週に見た”Park Row” (1952)と併せてジャーナリズムとは、で突っこんでいくとここまで行ってしまう、という暗黒篇というか。どっちにしても泥まみれで楽な仕事ではなさそうだけど。
パーティの雑踏とか、酒場のごちゃごちゃの捉え方がよくて、これらとラストシーンの夜のオフィスのだだっ広い空間の対比とか。
あと、やはりDonna Reedが素敵。
Underworld U.S.A. (1961)
3月16日、↑のに続けて見ました。邦題は『殺人地帯U・S・A』。
The Saturday Evening Postの1956年の記事を元にSamuel Fullerが脚色・監督したもの。彼特有の粗さ、暗さ、猛々しさがノンストップでぶちまけられていく。
14歳のTolly Devlinは街をふらふらしている時に父親が4人のギャングに殺されるとこに出くわして、その中心にいたVic Farrarが刑務所にいることを知ると自ら犯罪を繰り返して刑務所に入り、そうして大きくなったTolly (Cliff Robertson)は、終身刑をくらっているFarrarに近づいて、彼が亡くなる直前に残りのギャング3人の名前を聞きだして、シャバに出てからギャングの内部に入りこんで大物になっている3人に近づいていって、他方で警察にもコネを作って両方からの情報を掴んでうまく捌いて、ひとりまたひとりと消していくのだが…
復讐を誓ったものが、それを実現するために地下に潜って、時間をかけて裏社会でのし上がっていくお話しで、でも結局はコネと人脈とそれらの使いよう(あと努力)、みたいなところにおちて、そういう点ではUnderworldもOverworldもそんなに変わらないのかも。母親的な存在のSandy(Beatrice Kay)も、情婦的な存在のCuddles (Dolores Dorn)のモデルのようなありようも含めて。
その説得力の強さ、迷いのないTollyの輪郭の太さは末尾に”U.S.A.”って付けても違和感のない汎用性普遍性を湛えている、と思う反面、あんまりにも極太ゴシックの男社会絵巻なのでちょっとしんどい気はした。昔のヤクザ映画なんてみんなこんなんじゃん、と言われればそうなのだが。そして、どっちみち破綻してほれみろ、なのだが。
他方で悪も正義もなく(見えない映さない)、復讐/敵討ちの情念でなんでも突破しようとする、それが万能で、説得力をもって認められ許されてしまう世界ってずーっと今に続いていて、これってなあー。
Samuel Fuller特集のはここまで。 ちょっと物足りなかったのだが、どれもぜんぜん古いかんじがしなかったのはさすが。何回見ても新しい。
3.24.2025
[film] Quatre nuits d'un rêveur (1971)
3月16日の午後、Alain Resnaisの↑のに続けて角川シネマ有楽町で見ました。
邦題は『白夜』、英語題だと”Four Nights of a Dreamer”、原作はドストエフスキーの短編、監督はRobert Bresson、撮影はPierre Lhomme、音楽はF. R. Davidが聞こえてくるのがうれしい。
4Kリストアされた版で、その色合い – モデルたちの顔とか頭よりも、首から少し下に纏っている服装の赤とか青の、くっきりではなく滲んだようにしみてくるその重なりよう、夜の河べりの雑踏など - の美しいこと、それを見てうっとりするだけでもよいの。暴力や激しい修羅場が出てくるわけではなく、夢見る者たちの四夜、でもあるので。
他方で、Robert Bressonの映画はシネマではなくシネマトグラフで、動いているのは俳優ではなくモデル、というところから始まっている。 例えば料理をお皿として、食材を原料として置き直したところで(ちょっとちがうか)、お料理の味が変わるのか(結構変わると思うよ)、というと、Bressonの映画の場合、映画の見方を根本から変えてくれるくらいにおもしろく変化してくれるので、とりあえずパンフレットだけでも買って読んでみると深まるのでは、とか。
画家志望のJacques (Guillaume des Forêts)はヒッチハイクで郊外に出かけて、発散というより悶々として戻ってきた晩、ポンヌフの橋のたもとで靴を脱いで身投げしようとしているMarthe (Isabelle Weingarten)を見かけて助けて、明日の晩もまたここで会おうって約束して、そこから始まる四夜のお話し。
Jacquesは携帯型のテープレコーダーに自分にとっての理想の出会い、みたいのをぼそぼそ語って、それを再生しながら絵を描いたりしているのだが、友人をアパートに招いて絵を見てもらっても、自分の絵や出会いのイメージを理解してくれる人なんて現れそうにない。
Martheは、離婚してひとりの母親の家に母と暮らして、そのうち一部屋を下宿人に貸しているのだが、新しく来た下宿人の部屋に積んである本をみたり、彼に映画に誘われて、最初はそんなでもなかったのだが、段々惹かれていって、互いに離れ難くなってきた頃に、下宿人はアメリカに留学するので1年待ってほしい、必ず戻ってくるから、と告げて消えてしまう。
JacquesがMartheに出会ったのは、下宿人が戻ったということを知っても連絡がないのでもう先はないのか、ってMartheが死のうとした晩で、JacquesはMartheに諦めないで手紙を書いてみれば、と言って励ましたりするのだが、そうしているうちにJacquesはMartheを好きになってしまったことに気づく。
最初の晩で出会ってすくいあげて、2日めの晩で過去からを振りかえって今がどうなのか、なんでそうなのかを確認して、3日めの晩で好きになっちゃったかも、になり、4日めの晩でMartheはJacquesの想いを受けいれる…と思ったら、のどんでんがあって夢から醒める、そんな4日間のふわふわ落ち着かない橋の上の日々、橋の下では船が楽しそうに流れていく。
Martheは戻ってきた彼のところに駆け寄ってキスをして、その後Jacquesの方にも戻ってきてキスをしてそのまま向こうに行ってしまう。
Jacquesについてはその後のことも少しだけ描かれて、彼は変わらずテープレコーダーにぶつぶつ吹きこんでいて、夢から醒めていないのかもしれない – でも勿論、醒めていようがいまいが、恋は続いているように見え、でもその恋が、どんなものなのかは描かれずに多分くすぶった状態のまま、それはBressonの他の映画で主人公たちが抱えこんでいる色を失った/黒めの何かと同じようなー。この映画はその際どい境い目のようなところを捕えようとしているような。
「俳優」ではなく「モデル」なので、この辺の「魂がこもって」いない、浮ついて彷徨っていくかんじがとてもよいの。
Jonathan Rosenbaum氏がエキストラとして映っているそうで - “Two Nights of an Extra: Working with Bresson” - エキストラとして夢のなかを彷徨う、というのがどんなかんじなのか、などがわかっておもしろい。
[film] Je t'aime, je t'aime (1968)
3月16日、日曜日の昼、角川シネマ有楽町で見ました。
Alain Resnaisの映画はおおおー昔に日仏でレトロスペクティヴがあった時にひと通り見て、この映画もその際に見た記憶があるのだが、今回見てみたら記憶から落ちている気がして、そういうこともこの映画のテーマではあるのかー。 原作はJacques Sternberg。
ベルギーに暮らすClaude (Claude Rich)は自殺未遂で病院に運ばれて、退院できるようになったところでよくわからない研究施設かなにかの人たちから声を掛けられ、よくわからないまま彼らの車に乗せられて、郊外の施設に運ばれる。 もう少し用心したら、とか思うがどうでもよかったのかも。
彼らがいうには過去の時間に戻る実験をしていて、ネズミを使って1分間向こう(過去)に滞在して戻ってくるのに成功した(どうやって検証確認したのだろう?)ので、次はヒトで確かめてみたい協力してくれないか、と言われて、自分はどっちみち死のうとした人間なのでやけくそで協力することを期待されているのだろうな、と察してやってみることにする。
お話しはその科学的な建て付けとかその確かさについて突っ込んだり暴いたりするのではなく、その実験用のブースに成功済みのネズミさんと一緒に入れられて、トランスポート用のフォームマットに転がって実験台となるClaudeの姿と、その様子を別棟からモニターする - でもなんもしようとしない科学者たちを追うのと、あとはClaudeの目だか意識だかに入ってくる過去(だからどうしてそこに映っている「過去」を、「過去の記憶」ではなく「過去の時間」そのものである、と外側から言い切れるのか?)を並べていく。
まずは海の中をこちらに向かって泳いでくるClaudeがいて、浜辺には恋人のCatrin (Olga Georges-Picot)がいて、サメがいたとか他愛ない会話をしたり、その先は寝たり覚めたりを繰り返しつつ、彼女との出会いとか会話の断片、寝起き - 寝室の壁のマグリット、何度か同じイメージ、その断片が繰り返されつつ、その繰り返しのなかに彼が後悔しているのかずっと痛みとして抱えているのか、その地点、その記憶の周辺に戻って(戻されて?)いくことがわかり、Claudeもしょっちゅう現在時に戻りつつも、実験をやめるのではなく、目覚める前の地点になんとか戻ろうとする。
覚める直前の夢に戻りたいからもう一回寝る、って単に眠いから、も含めてふつうにあることだし、そんなふうにうだうだしていると、隣にいたネズミさんも過去時点に現れたりするので、これ夢じゃないんだ、とか思いつつ、でも彼は一番スイートなところではなく、一番痛切だったあの地点に吸い寄せられていって…
記憶って、それが甘くせつないものであればあるほど、そこに吸い寄せられて身の破滅を招く、ってこれまで何度も描かれてきたようなテーマをSF(ただしヌーヴェル・ヴァーグのそれ)っぽい時間旅行という設定 – 実はねちねちとストーカーのように寄っていくのと変わらない – のなかで展開して、つまり人は愛のなかで何度でも死ぬのだ、ってちょっとロマンチックなところに落ちて、それはベルギー郊外の殺風景な研究施設の穴のなかであっても変わらない。 “Je t'aime”は2回どころか、何度でも重ね塗りされて繰り返されていくのだ、と。
Alain Resnaisの記憶や時間に対する執着というか世界観って、これだけではなく何本か続けて見ていくとはっきりと見えてくるので、やはり特集で立て続けに見たいなー。
3.22.2025
[film] Park Row (1952)
ここからは日本/東京の備忘。たぶんそのうちネタが尽きる。
平日は朝からオフィス行って仕事、夕方からはロンドンともやりとりがあるので早めに抜けることができないし、なんか体力なくてすぐ疲れてしまうので映画は週末にならざるを得なくて、要は何ひとつ大変におもしろくない日々。
シネマヴェーラ、会員のを更新しても5回くらい見ればモトが取れそうだったのでそっちにしてこの日の3回分を買う。いま手元のカードには来店回数は245回、累積:0ポイント って打ってあるのだが、ポイントでは見れないのか - ポイントってよくわかんないわ。
Park Row (1952)
3月15日、土曜日の昼、シネマヴェーラの特集『映画は戦場だ! サミュエル・フラーの映画魂』で見ました。Samuel Fullerの映画は基本ぜんぶ、映っていなくても戦争ものなので体が弱っているときに見るのはちょっとしんどいのだが、でも見る。
作・監督・プロデュース、ぜんぶSamuel Fuller。
これとか”The Bowery”(1933)とか”Crossing Delancey” (1988)とか、ローワーイーストの通りの名前が入っているとなんか見たくなってしまうのはどうしてなのか? (あの通り界隈にはなにかある、って思うから)
1886年のNYで新聞記者のPhineas Mitchell (Gene Evans)が社の方針を批判して解雇され、その隣に仲間を集めて自分たちのやり方で新しい新聞社を立ち上げよう、って奮闘する。そこに横から口や手を挟んできて目障りな隣の旧来型新聞社のCharity Hackett (Mary Welch)との熾烈な戦いを通してジャーナリズムとは、を叩きつける。それを演説とか長台詞とか涙で訴えるのではなく、せかせかしたアクションと過去の先達の紹介の対比で一気に見せて、例えば新聞社を作る、っていうのがどんなかんじのものなのか、がバンドをくんでいくみたいなわくわくする痛快さの中で描かれていてかっこいいー しかないの。
Pickup on South Street (1953)
前に見たことあるやつだった。マンハッタンの犯罪、みたいな特集があると”The Naked City” (1948)と並んで必ず入ってくる一本。 邦題が『拾った女』って… 女を拾う話でも、女が拾う話でもないよ。
NYのラッシュ時の地下鉄で、スリのSkip (Richard Widmark) がCandy (Jean Peters)の鞄から財布をスったらそこに彼女が運搬を頼まれた極秘情報入りのマイクロフィルムが入っていて、警察と送付元の両方とCandyがそれぞれにSkipを追い始めるのと、自分が盗ったブツの価値を知ったSkipも動き始めて…
土地の闇をぜんぶ掌握しているかのような情報屋のMoe (Thelma Ritter)の存在感が彼らを交錯させ、かき混ぜ、それでもすべては元に戻っていくようなー。
Skipが住んでいる河の上の小屋、洗濯とかどうしているのだろう、っていつも。
コミュニストから国を守れ、っていう当時のお題目はあるものの、それをスリに言わせているのでじゅうぶんに軽くて怪しそうで、J. Edgar Hooverのお気には召さなかったらしい。
Margin for Error (1943)
この日の三本目、邦題は『演説の夜』。なにを見ても楽しくなってくる。
監督はOtto Preminger(出演も)で、原作はClare Boothe Luceによる同名戯曲 (1939)、脚色にLillie HaywardとクレジットなしでSamuel Fuller。
NYのユダヤ人の警官Moe (Milton Berle)がドイツ領事館の領事Karl Baumer (Otto Preminger)の公邸での警護を命じられて、あんなナチ野郎の護衛なんてまっぴら御免、って嫌がるのだが、説得されて任務につくと、Karl Baumerは秘書のMax (Carl Esmond)にも妻のSophiaにもめちゃくちゃ忌み嫌われていて、その事情も尤もで、他方でデモによるナチスへの抗議が渦を巻くNYではヒトラーのラジオ演説の晩に破壊工作が計画されていて…
邸内で息詰まる攻防が.. と思ったら領事は割とあっさり盛られて刺されて撃たれて死んじゃって、いなくなったのはよいけど後始末と爆破計画の阻止をどうする? の方でじたばたしていくのがほんのりおかしい。
この辺、どことなくルビッチの”To Be or Not to Be” (1942)にもある、ナチスなんてちーっとも怖くなんかないもん! が少しあるかも。こっちの方がやや堅くて真面目だけど。
3.20.2025
[film] Wolfs (2024)
ロンドンから日本行きの機内で見た映画ふたつを。
作・監督は”Spider-Man”シリーズのJon Watts。
バスにでっかい広告まで乗せて結構宣伝していたのに劇場公開直前になって(1週間は公開されていた?)配信にされて”?”になったやつ。
高級ホテルで地方検事の女性が夜中、部屋に招き入れた若い男が突然死んじゃった、ってパニックになり、なんかあったら使え、って言われていた番号に電話したら闇の仕事人George Clooneyが現れて男の死亡を確認し、片付けるからどいてて、となったところに別のルートから派遣されたらしいBrad Pittが現れて、互いに、お前は誰だ? お前の依頼主は誰だ? になるのだが、いまここで揉めても意味ないのでまずはこの依頼を片付けよう、って死体を包んで地下の駐車場の車まで運び、George Clooneyの車に積んだところで若い男が生きていることがわかって、とりあえずトランクに押し込んでチャイナタウンの闇医者のところに向かい…
仕事の内容が死体の片付けではなくなってしまったので、仕事人としては生き返ったその若者を始末して死体に戻って頂くしかないのだが、こいつがすごい勢いで逃げ出したので、彼を捕まえてそもそもなんであのホテルに行ったのかも含めて聞きだすと、こいつが運ぶのを依頼されたドラッグの怪しいルートまで遡らないとまずいかんじになってきて…
呼び出された仕事人が思いもよらなかったやばい方に巻き込まれて悪夢のような一晩を過ごすことになる、というクライム・コメディで、監督が好きだという”After Hours” (1985)っぽくもあるのだが、真ん中のふたりはやはりミスキャストだったのではないか。
George ClooneyもBrad Pittもそれなりの場数を踏んできて腕は確かなのだろうが、「オレはできる男」のナル臭が強すぎて鼻につくし、これに近いやり取りは”Ocean's -“ (2001-)のシリーズなどで既に見てるし、もうわかったよ、になる。
どうせならあの若者をモンスターかエイリアンかミュータントにでもしちゃえばよかったのに、とか。
Quiz Lady (2023)
制作会社がGloria Sanchez - Will FerrellとAdam McKayの - だったのでよいかも、になる。
監督はJessica Yu。 全世界で配信のみだったのかー。
Anne (Awkwafina) は子供の頃から長寿クイズ番組 - “Can't Stop the Quiz”に浸かって内に籠り、父は家出蒸発し、ギャンブル狂の母は借金を背負ったままマカオに高飛びして、姉のJenny (Sandra Oh)も夢を追うんだ、って家を出て、最後にはAnneと老パグのリングイネが残されて、彼女は勤務先の会計事務所と家を行き来するだけ、毎日のクイズ番組だけを楽しみに生きているので、クイズならいくらでも答えられる。
でも破産して車上で暮らすJennyが戻ってきて、母親の借金のカタでリングイネが誘拐されて身代金を要求されて、最後に残された道はAnneが“Can't Stop the Quiz”に出演して賞金を稼ぐことしかなくて、後半はWill Ferrellが司会で、陰険なJason Schwartzmanがずっと挑戦者を退けて勝ち続けている番組にJennyと一緒に臨むのだった…
例によってまともな人がひとりも出てこないドタバタコメディで、アジア人、女性、借金、等々のネガをはねのけるの。大好きなクイズ番組とパグのために。
パグがかわいいからぜんぶ許す。
3.19.2025
[film] Portrait d’une jeune fille de la fin des années 60 à Bruxelles(1994)
3月8日、土曜日の夕方 – いよいよ時間がない – Park Theatreで演劇を見たあと、移動してBFI SouthbankのChantal Akerman特集で見ました。 これはなんか見逃せない気がした。 上映前にAnother Gaze誌のDaniella Shreirさんによるイントロがあり。
英語題は”Portrait of a Young Girl at the End of the 1960s in Brussels”。63分の中編で、元はTV局Arteが9つからなるシリーズとして企画した”Tous les garcons et les filles de leur âge” (All the Boys and Girls of Their Age)のなかの1編。他に委託された監督たちはAndré Téchiné, Olivier Assayas, Claire Denis, Cédric Kahnなどなかなかすごくて、Assayasの”Cold Water” (1994) はこの企画から劇場公開されたものだそう。
舞台は1968年4月のブリュッセル – 「1968年5月のパリ」でないところがポイント – 15歳のMichelle (Circe Lethem)は親友のDanielle (Joelle Marlier)とつるんでうだうだしていて、Michelleの髪はショートでずっと洗っていないようなボーダーを着ていて、Danielleの髪はロングで身なりはややちゃんとした学生ふうで、ふたりとも学校なんてどうでもよくて頭にあるのはパーティのこととかばかり、そのうちMichelleは街中でスーツを着ているけどどう見てもちょろくてあやしい若者Paulと出会って映画館でキスをして、よい雰囲気になってきて、街をうろついてから彼のいとこのアパートに行くのだがだれもいなくて、”Suzanne”をふたりで踊ってからー。
MichelleとDanielleと一緒にいった夜のパーティでは「ラ・バンバ」などをみんなで踊るのだが、あんまりおもしろくなくて– 微塵もおもしろそうでなさすぎておかしい - 結局ふたりで手をつないで帰るの。
街をふらふらしている時のどこにも行きつけないすっからかんのかんじ、パーティがろくでもないものになりそうな感触がある時の夜道の冷たいかんじ、ふたりになった部屋ですることがなくなった時に吹いてくる風、などのものすごくよくわかる空気や湿気、明度は彼女のいつもの。
Michelleのキャスティング、スタイリングは68年当時のChantalそのものを狙ったそうで、ただ年齢だけみると、Chatalの方がMichelleより3歳上で、更にこの年に彼女はデビュー作”Saute ma Ville” (1968)を撮って、自分ごとフラットを吹っ飛ばしてしまうわけだが、そういうことを平気な顔でやってのけそうなへっちゃらなやばい佇まいはこのMichelleにも既にあるかも。
それにしても、同じボーダーでも『なまいきシャルロット』 (1985)のきらきらしたそれとはぜんぜん違うし、ふたりの少女ものとしては、あと少しで『レネットとミラベル/四つの冒険』 (1987)にも行きそうなのだが、男性の監督が撮ったこれらの少女映画とは、なんか次元が違う。彼女たちの野良なかんじも含めて、当たり前のように地に足がついて生きている、というか。
“Cold Water”との二本立てで見たいかも。
Hôtel des Acacias (1982)
↑のと同じ枠で、先に上映された42分の中編。
INSAS (the Brussels film school)のワークショップで、学生たちに制作させた作品で、Co-directedのクレジットはMichèle BlondeelとChantal Akermanの2名。 彼らの書いたスクリプトを元に4名の学生(?)が16mmのカラーで撮った作品。
町中のホテルに女性が泊まりにやってきて、部屋を取って、その辺りから始まる客室、フロント、フロアと昼夜を貫いてホテルの従業員たちと宿泊客たち、彼らのかつての恋人たちをも巻きこんだ恋のぶちあたり/ばちあたり大会が始まってどうにも止まらない宴になっていく。
“Golden Eighties” (1986)のショッピングモールの縦横を目一杯使って恋にやられて魂がとんでしまった人々が歌って踊って交差していった画面の背景を“Hotel Monterey” (1972)で切り取った四角四面のホテルの格子上に置いてみたプロト、のような。 とても学生とのワークショップで作ったものとは思えないクオリティで、たまんなかった。
“Les années 80” (1983), “Golden Eighties” (1986)との三本立てで見たい。
この後、なんかものたりなかったので、公開されたばかりのSZAとかが出ているコメディ - “One of Them Days” (2025)を見にいこうとしたのだが、途中で地下鉄が動かなくなったりしてくれたので、諦めて帰ってパッキングなどした。
3.18.2025
[theatre] One Day When We Were Young
3月8日、土曜日の午後、Finsbury ParkにあるPark Theatreで見ました。
翌日には旅立ってしまうので、夜の部とか、あまり長くて重いのは見れない、けどやっぱりなんか見たい、で休憩なしの約80分のこれを。シアターが2つあって、Park90っていう小さい方のシアターで、座席はすべて自由。ほぼ埋まっていた。
原作はこないだ見た映画”We Live in Time” (2024)とか、未見だが劇作の”Constellations”を書いたNick Payneによる2011年の作品(初演も同年)、演出はJames Haddrell。 男女のふたり芝居。
1942年のバースで、ホテルの客室のベッドにふたりの男女 - Leonard (Barney White)とViolet (Cassie Bradley)がいて、彼と彼女は結婚はしていないようで、彼の方は翌日に戦地に赴くので、これがふたりで一緒にいられる最後の晩になるかもしれない、ということで立ったり座ったり窓辺に行ったり着たり脱いだり落ち着かなくて、どちらも将来に孤独と不安を抱えていて、互いに思いを決めて飛び降りるように「やっぱり…」ってなったところで窓の外で爆発が起こって、これが後の歴史に残るベデカー爆撃であった、と。
次のシーンは、The Beatlesの”Love Me Do”が流れてくるのでそこから約20年後、遊んでいる子供たちの声が響いてくる公園のベンチで、ふたりとも少し歳をとって、ふたりの子供がいるというVioletはしきりに電報のことを気にして立ったり座ったりを繰り返す。気にしなければいけない家族がいるけど、こちらの方も気にしたい/気になってしまうふたりが、どこにも行けないまま、子供のように遊ぶこともできないまま、公園でじりじりした時間 – そのまま離れてしまいたいような/でもずっとそこに残っていたいような – を過ごしていく。
次のシーンは、流れてくる音楽で年代がわかるのだが、Tears for Fearsが聞こえた、と思ったらBlurとかまで行って、2002年頃、前のシーンから約40年後、最初のシーンから60年後で、場所は老人Leonardがひとりで危なっかしく暮らす殺風景なフラットで、そこにVioletがひとりで訪ねてくる。始めのうちはよく来たねーとか、互いの健康のこととか近況とかをぼそぼそ言い合ったりするだけなのだが、ふたりでジャファケーキを食べた辺りから、ヒューズがとんで部屋が真っ暗になった辺りから、ふたりのなかで、或いはふたりの間に、何かが立ちあがったように見えて、ふたりとも言葉を失ったり濁したりして、何が起こったのかよくわからないまま立ちすくんでいる、という…
戦時下に出会って愛しあい一緒になる手前まで行ったふたりに、そこからの20年、40年、計60年間でどんなことが起こったのか、詳細が綴られることは勿論ないし、その間ずっと互いが互いのことを強く思っていたとも思えない。ただの断面でも、それでもふたりが再会して顔を合わせた時に蘇ってくる、現れてくる何かは確かにあって、それって何なのだろうか、と。
そういう経験をしたことがなくても、ふたりの繊細な演技と会話からそういうのってきっと起こる、というのはわかるし、そうなんだろうな、って思う(根拠ないけど)。”One Day When We Were Young” – 振りかえった「ある日」のふたりはいつも(今よりは)若い。 考えてみれば当たり前のことなんだけど、そんなある日があるだけで、なにが、どんなふうに違って見えるのかしら? という振りかえり、というのか、その先を見てしまうのか、いや、見つめてしまうのは時間ではなくてあなたなのだ、と。
難病や死によってぷつんと断ち切られてしまう関係ではなく、ずっと微妙な思いを抱えたまま延びて続いていく、そういう関係、とも呼べないような優しい眼差し、そこに浸る時間、ってなにがどうなるものでもないけど、灯りとしてある。
ふたりともぜんぜん知らない俳優さんだったが、若い頃から老いた頃まで丁寧に演じていてすばらしかった。
ああPJ Harvey行けなかったよう…
3.17.2025
[film] Mickey 17 (2025)
3月8日、土曜日の昼、BFI IMAXで見ました。
この日は帰国の前日で、あれこればたばたの中、見ようかどうしようか直前まで迷っていた。
世界中でものすごくお金かけていっぱい宣伝しているし、”Parasite” (2020)でオスカー作品賞監督となったBong Joon-hoが世界にうってでる英語作品 - でも内容は予告を見る限りどう見たってB級アクションだし、でもそこは本人が一番よくわかってやっているのだろうし、公開が一年延期となったのはなんかあるのか、などなど。
原作はEdward Ashtonの2022年の小説”Mickey7”をBong Joon-ho自身が脚色、撮影はDarius Khondji。
舞台は今から30年後、2054年で、宇宙移住計画を推進するキャンペーン中の政治家Kenneth Marshall (Mark Ruffalo)がいて、借金で首が回らず将来になんの希望も持てないMickey (Robert Pattinson)と友人のTimo (Steven Yeun)はこの計画のコアとなる宇宙船の乗員に応募して別の星に移住しようと考える。ただ、応募が殺到していたこともありMickeyの身分は"Expendable"という、生体情報と記憶をぜんぶコピーされて、何度でもリプリント可能な人体を提供する、地球では禁止されているやつ – 要は放射能で焼かれたり大気中のウィルスの耐性を試されたり、危険なミッションを遂行するためのブルシットの使い捨てで、そうやって何度死んでも何度でも再生されて、彼のバージョンは17人目まで行って、Timoを含めていろんな人から「死ぬのってどんなかんじ?」って聞かれるのだが、Mickeyはへらへらしている。のだが、そうしながらも乗組員のNasha (Naomi Ackie)と恋におちたり。
4年間航行して、船はNiflheimっていう雪に覆われた星に着いて、その地表にはクマムシ – ダンゴムシ - ナウシカの王蟲みたいな”Creeper”って呼ばれる生物がうようよいて、そこの探索中に17人目のMickeyは谷底に落ちて死んだ.. と思われたのだが彼はCreeperに救われて船室に戻ってきて、そうしたらそこには(17は死んだとみなされて)リプリントされたMickey18がいたので大騒ぎになるの。
まずクローンの"Multiples"は御法度で見つけたら殺す、ってMarshallが公言しているからか、Mickey18は17を殺そうとするし、Nashaに対してふたりは恋敵になるし、でもどっちかが生き残ったところで、そこにどんな差とか意味があるというのか、だし。
TrumpとMuskを足して割ったような低能傲慢ファシストとその妻で性悪の妻Ylfa (Toni Collette)が、彼らを支援するインチキ宗教団体と一緒になってクローズドな宇宙船内でやりたい放題している、というわかりやすく生々しいディストピアを背景に、生と共生(or 寄生)、アイデンティティ、できれば愛の可能性も探る、なんていうテーマを設定できないこともなさそうだが、それって地球から隔離された宇宙船の中、という設定の段階でどうすることもできない暗箱になっている(or うんざりするくらい「今」すぎて嫌だし見たくないし)ので、実際には壊れたロボットみたいにぼそぼそ喋るMikeyの佇まいとか、できれば小さめのを一匹ほしいなCreeperとか、そっちの方に目が向いて、なんの深い感慨もなしに終わってしまう。正しいB級、にできるかどうかすらわからないジャンクなのだが、雪原の中もじょもじょ動いていくCreeperの大群の影はなんかよかった。
人体破壊→リプリント、のようなテーマであれば、David Cronenbergがあたりがもっと生理的にねちゃねちゃリアルにやってくれるものだと思うのだが、この作品の視点はどちらかというと、使い捨てOKで代替可能な身体とか、Creeperとか(昔だと)Okjaみたいな生贄にされる異形生物のありよう、みたいな、どちらかと言うと社会寄りのところにあったりするのでどうかしら?
完全無欠で最強のヴァンパイアをやっていたRobert Pattinsonが、ここまで廃れてへたれた底辺労働者をやる - どちらも不死であること、あと社会的に不可視である、というところが同じ - というのはなんかおもしろいかも。”Parasite”から続く無産者たちのお話し。
日本のキャンペーンでは、あの人工肉プレート試食は必須。あとCreeperのぬいぐるみほしい。
3.16.2025
[film] We Are Fugazi from Washington, D.C. (2022)
3月5日、木曜日の夕方、Picturehouse Centralで見ました。
どういう事情、背景によるものかは知らぬが、Doc’n Roll Filmsが主催しているイベント?で、この日の夕方一回きりの上映が英国各地のPicturehouse のチェーン館で同じ時刻に行われて、今後も5月くらいまでかけて単発の上映はしていくらしい。Fugaziの(現時点での)最後のライブである2002年のD.C.でのそれから20年後に制作された96分のこの記録(non-documentaryである、とのこと)が、なぜ今、突然にリリースされたのか、収益はチャリティー団体に行く、等の点も含めてわかんないけど、とにかく見る。
一回きりの上映だからといって、Fugaziだからといって、20年以上活動を停止しているバンドのライブ映像上映に客が殺到することなんて勿論なく、中サイズのシアターはいっぱいにならなくて、客席は中年以上の年寄りだらけではあったが、そんな程度のことでうだうだ言うやつはIan MacKayeに言いつけてやる。
ファンが各々勝手に撮った(このバンドはライブでの録音録画を禁止していない)ライブフッテージを寄せ集めて繋いだだけのもので、だから”directed by xxx”ではなく、”curated by” Joe Gross, Joseph Pattisall, Jeff Krulikとなっている。
なので最初は映像を撮った各撮影者へのインタビューなどがあって、どうしてライブの映像を撮るようになったのか、とか、Figaziに対する思いとかを語って貰ったり、撮影者の中にはD.C. パンクシーンのドキュメンタリー - “Salad Days” (2014)を撮ったJim Saahなどもいて、撮影者も素材もばらばらなのに全体のクオリティはじゅうぶん、見事に保たれている。
というか、そもそものFugaziというバンドが、そのライブが、突出しているので真横から、真下から、どこからどう撮られようがFugazi、としか言いようのない強さ粗さで迫ってきて、その紙ヤスリに削りとられていく鼓膜の感触だけでたまらない。Sex PistolsもRamonesもClashも、自分にとってパンクでもなんでもなくなってしまったいま、ノスタルジーもなんもなく擦れっからしのコンクリの床を、その足下を見つめさせてくれる。SNSや配信で流れては消えていく泡みたいなライブ映像とは、その感触もトーンもやはりぜんぜん違う。
ライブの日付は初期の80年代末から90年代初のD.C.近辺のものがやはり多く、ラストは2002年の、今のところ最後となっているライブで閉まる。客席やステージの端から固定で捉えているせいもあるのか、バンド4人 - Brendan Canty, Joe Lally, Ian MacKaye, Guy Picciotto - の輪郭がぶっとく、ギターアンプが飛んでも、会場全体の電源が落ちても、平気な顔で演奏を続けるし、モッシュで客の頭を踏んづけたガキに延々説教してるし、ああぜんぶFugaziだわ、しか出てこない。あと1曲だけ、Dischord Records仲間のAmy Pickeringさんがヴォーカルをとっている映像があり、異様にかっこよいったら。
あとこれもファンの撮った映像でライブ後にIan MacKayeが喋っているの(インタビューという程のものでもないか)があって、その隣に彼のママ - もかっこよし - がいたり。
アメリカの政治が、文化が、かつてない危機を迎えている今(じつはずっとそうだし、どの国だってそうだけどね)、音楽に政治をぶちこんで全面戦争に持ち込まないとだめよね、という危機感を思いっきり煽ってくれてよかった。
I Am Martin Parr (2024)
少し前になるが、2月19日、水曜日の晩、CurzonのSohoで見ました。 ↑とタイトルが似てるかなって。
Martin Parr (1952-)は英国の写真家で、Magnumのメンバーで、英国の田舎や郊外に暮らすそこらの人々の日常をぺったんこのカラーで撮らせたら流石で、その写真は、誰もがどこかで目にしたことあるのではないか。彼の写真と出会ったのはNational Maritime Museumで2018年にあった”The Great British Seaside”っていうイギリスの海辺風景を撮った集合展で、それがすごく面白かったの。最近だとパリのL'INAPERÇUっていう本屋で彼のキュレーションによる英国・アイルランドの写真集を特集していて、すてきなのがいっぱいあった。
公開日前のプレビューで、夕方の早い方の回には監督と一緒のトークとQ&Aが付いていたのだが、自分が見た夜遅い方の回はイントロだけ。それでも椅子に座って結構お話ししてくれた。
68分の長さで、Martin氏によると、90分を超える映画なんて自分には耐えられないから、と。映画はそんな彼が日々街中で撮影していく姿を追っていて、それだけなのにおもしろかった。街中をふつうに杖をついてよれよれ歩いていて、被写体を見つけると後ろから寄っていってパチリ、ってやるだけで、その姿だけでフィクションになりそうな妙なおもしろさがあるの。(やばくない)素敵なおじいさんだった。
時差ぼけの最終調整段階 = 眠くなったら寝る = いつもと同じ - に低気圧が襲ってきていいかげんにしろ、になっている。
3.14.2025
[theatre] The Seagull
3月7日、金曜日の晩、Barbican Theatreで見ました。
4月に戻ってくるまでに終わっちゃう演劇のなかで、これは特に見たかったのだがチケットが高くてどうしよう... だったのを飛び降りて取ってしまった。
この週2本目のチェーホフ劇。昨年からだと5月にDonmar Warehouseで”The Cherry Orchard”、2023年9月にAndrew Scottの“Vanya”を見たので四大戯曲ぜんぶライブで見たことになる。でもまだまだ。
脚色はThomas OstermeierとDuncan Macmillanの共同、演出はThomas Ostermeier。休憩1回の全3時間。
舞台の真ん中に背の高いトウモロコシだか葦だかの草が”Interstellar” (2014)とか”Signs” (2002)みたいに壁のように植わっていて、登場人物たちはその叢の向こうから現れる。叢の前にはビーチのようなてきとーなデッキチェアがいくつか。ステージ中央から客席の真ん中くらいまで花道のような通路が延びていて、マイクスタンドが3箇所くらいに置いてある。 設定は現代、だけど田舎。
最初に作業着姿のSimon Medvedenko (Zachary Hart)が小型の4輪トラクターのような乗り物ですーっと軽快に現れて、おもむろにテレキャスターを手にしてアンプに繋ぎ、「チェーホフやるんだってな?」なんて言いながらBilly Braggの“The Milkman of Human Kindness”をじゃかじゃか歌いだしたのでおいおい、って。合間合間に彼はこうして現れてBilly Braggもあと2曲くらいやる(なかなかうまい)。 Billy Braggにチェーホフ… ありかも。 音楽ではもうひとつ、The Stranglersの”Golden Brown”のあのシンセのひょこひょこがところどころで。
そこからMarsha (Tanya Reynolds)と彼の寸劇のようなやりとりのあと、Irina Arkádina (Cate Blanchett)が現れると、彼女のテンションとオーラが舞台のすべてを支配してしまう。
誰もが認める大女優でスターで、声も態度もでかくて誰も逆らえない、そんな彼女の周りによれよれ死にそうな兄のSorin (Jason Watkins)とか彼女に引き摺られている有名作家のAlexander Trigorin (Tom Burke)とか、壊れそうなくらいナイーブな作家志望の息子 – というよりそこらの宅録少年みたいなKonstantin (Kodi Smit-McPhee)、彼が思いを寄せる女優志望のNina (Emma Corrin)などが現れて、みんながいる前でKonstantin自作の詩劇みたいのが披露される.. がデバイスを装着して没入させてくれるはずのそれは自滅に近い大惨事で終わって、演劇界の先輩として偉そうにコメントしたつもりのIrinaは深く息子を傷つけて、母子だけでなくNinaとの間にも溝を作ってしまい …
一連の出来事が連鎖したりドライブしていく、というよりは、ひと夏、湖畔のどこかに集まって退屈でうんざりしている金持ちセレブの一族が織りなすアンサンブルで、若者たちを除けば誰も痛みや悩みを抱えていない – というかなんも抱えていない、抱える心配もなく心身腐っていくだけの大人たちと、その反対側で煩悩にまみれてひっそり殻を閉じていく若者たちのギャップ – 簡単に剥製にされてしまうカモメなど - が叢を挟んで見え隠れしていくドラマで、なにか大声でみんなに伝えたい事が出てきたひとはマイクスタンドのとこに行ってわめくとか、でも全体としては豪華なだけであまりすっきりしないコメディとしてフェードアウトしそうになったところに銃声が。
いろんな人たち、都会のどこかで会ったことがありそうな人たちが、田舎でうだうだしつつ例えば演劇を、例えば文学を語る、そこにどんな意味があるのか? そんなことしてなんになるのか? という近代における根源的かつ致命的な問い、をMarvel Cinematic Universeに出てくる超人たちがライブで仰々しく問いかけてくる。
キャストでCate BlanchettとTom Burkeは当然知っていたが、この劇は若者たちがみんなよくて、黒づくめにメガネのゴス– Marsha役のTanya Reynolds、Kodi Smit-McPhee、Emma Corrin、みんなX-Menの新キャラとして出れそうな危ういエッジが、と思ったら既にこいつらみんな。
ジャンプスーツとか、ジャンプスーツの上からビキニとか、ファッションでも大阪のオバハンふうに大暴れしてくれるCate Blanchettは言うまでもなく、ぼさぼさの無精ひげで外見がチェーホフそのものに見えてしまうTom Burkeの威圧感もすばらし – 映画 - “The Souvenir” (2019)で彼が演じた作家キャラにも通じる、そこにいて見つめるだけで誰かを蝕んでしまう毒男。 3mくらい先で身悶えするCate Blanchettを見れたのでそれだけでいいわ。
2018年のMichael Mayerによる映画版も思い出した。IrinaがAnnette Bening、KonstantinがBilly Howle、NinaがSaoirse Ronan、MarshaがElisabeth Mossで、キャスティングは悪くなかったのだが、なんか弱かったかなー。
3.13.2025
[theatre] BACKSTROKE
3月6日、木曜日の晩、Donmar Warehouseで見ました。
原作・演出はAnna Mackmin、主人公のふたりも、彼女らの周りの看護婦たち3人もすべて女性だった。 前々日に見た”Otherland”もすべて女性による舞台だったのは偶然か。
舞台の中央には病院にあるような大きい介護用ベッド、手前の方にはテーブルとかリビング、キッチン(オーブン?)のセットなどが並んでいる。
そのベッドにBeth (Celia Imrie)が動かないで横たわっていて、病院の看護婦の様子から彼女はずっとそこに寝たきりのまま、先がそんなに長くないように見えて、そこに彼女の娘のBo (Tamsin Greig)が現れると、Bethのことを一番よくわかっているのは自分、と言わんばかりに食べ物へのダメだしとかいろんな指示をしだして、それがやや強引で支離滅裂であることに自分で気付いてはっとしたり。 ここまでで、この母娘の関係がどれだけ深く互いを縛る - 逃れようのない強めのものであったことが暗示される。
Bethはずっと寝たまま動けないままではなくて、Boとの間の過去の場面の再現、になると舞台手前のリビングとかキッチンにさーっと出てきて母娘のやりとりを繰りひろげていく。それがどちら側の記憶によるものなのかは明示されず、その再現の順番も時系列ではなくランダムのようで、場合によってはベッドの背後のスクリーンに映像(ドリーミーな昔の8ミリのような)が映しだされたり、ベッドに縛られて動けない母とその傍らでやはり動けなくなり(なにもできなくて)焦りを抱えている娘の歴史を明らかにしていく。 あとスクリーン上にはちょっとノイジーでとげとげしい、トラウマのようなイメージも - 思い出したように繰り返し映しだされたりする。
70年代の奔放な時代を生きたBethはすべてにオープンかつアナーキーで、自身の性生活や男性遍歴も含めてなんでも娘に語り、その調子で豪快にBoの背を押すのだが、そういうことをされた娘の常として、Boはストイックで注意深く疑り深く、脚本家としての仕事を得て自立はしているものの攻撃的すぎていろいろ失って、中絶を通して母となる機会を失い、養子を貰って母になろうとするがそれもうまくいかないようで、言いようのないこの「母」に対する敗北感というか複雑な思いを常に抱えていて落ち着かない。柔の母と剛の娘、それぞれのいろんな思いとエピソードが錯綜して転がってややとっちらかっている感もあるのだが、ふたりの演技がものすごく巧くてキャラクターとしてのブレがないので、きちんと伝わって - 情景として浮かんでくる。そうであればあるほど、口にすることのできない別れの痛みが。
タイトルのBackstroke – 背泳ぎ – は、Boが子供の頃、水を怖がってなかなか泳ぎの上達しない彼女に一緒に水に入ったBethがBoの頭をやさしく支えて全身を浮かべてあげて、こうやって浮くんだよ大丈夫だよ、って教えるすばらしいシーンからで、今は横たわって動けなくなったBethにBoが同じようにー。
こういうの、母娘関係って自分にはわかるものではないのに、国も言葉も違うのに、なんだか何かが見えてくる不思議、というのが昔からあり、それはなんなのだろうか? と。 (そして頭のなかには矢野顕子の”GREENFIELDS” – これも大文字 - が流れてくるの)
ほらね、ちょっと留守にしただけでEBTGがライブやるとかいうし… あーあー
3.12.2025
[theatre] Otherland
3月4日、火曜日の晩、Almeida Theatreで見ました。
原作はミュージカル”Standing at the Sky’s Edge” –未見- を書いたChris Bush、演出はAnn Yee – どちらも女性。キャストの8名もすべて女性。
冒頭、Jo (Jade Anouka)とHarry (Fizz Sinclair)のふたりが友人たちに見守られて結婚しようとしている。元気いっぱいのJoと落ち着いてしなやかなHarry - どちらも輝いていて、誰もがふたりは最強のカップル、と称えて歌って踊るのだが、そこから5年後、彼女たちは別れの支度をして一緒に暮らした住処を出ていこうとしている。 劇はその原因を掘り下げるのではなく、ふたりのその後を描いていくことで、何が起こったのか、というよりどうしてこうなってしまったか、を追っていく。
Harryはトランス女性で、パスポートの性と名前もHarrietに書き替えようとしていて、でもそれに伴う様々な困難 - 手続きにかかる手間と時間以上のものだけでなく、肉親であり同性である母親からも無理しないでやめれば? と言われたりで疲弊して、性のトランジションを巡る抑圧や差別偏見は本当に身近な人々からも来ることが明らかにされる。わかって貰える人が誰もいない、という孤絶感。
Joは、南米のマチュピチュのあたりをトレッキングしていて、Gabby (Amanda Wilkin)と出会って恋におちて、大好きなGabbyのためならなんでもしよう、と思うのだが、Gabbyが子供がほしいな、と言いだして…
どちらも女性ひとりではどうすることもできない問題がやってきて、どうするのかー、って。
次の幕では、ここの円形のステージの真ん中に水が溜められていて、そこに半魚人のような姿のHarryが打ちあげられるのと、Joはお腹に機械を埋めこまれたサイボーグで、その電流がばりばり流れていく機械のなかでGabbyの赤ん坊を育てている、という近未来(ぽい)設定になっていて、例えばふたりの置かれた世界(Otherland)がこんな設定であったら、というオルタナ世界が描かれていく。ただもちろん、これがバラ色の決定版/ユートピア!のような描き方ではなく、ここまで極端な方に振れ(振らさ)ないと解決の行方って見えないものなのか、ってちょっと下を向きたくなるかんじ(ひとによると思うけど)になるものでもある。
最初の幕の問題提起と次の幕の近未来での解決策の間のギャップを示すことで、今の女性が置かれたジェンダーと出産のあり(あらされ)ようを、それが特定の社会に止まるものではない、とてもパーソナルな次元での厳しさ難しさをもたらすものなのだ、ということを伝えようとしていて、それはGuardian紙にあったChris Bushのインタビューを読んだらより理解が深まった。30代になってようやくカミングアウトできたトランス女性であるChrisが、どうしてこの話を書く必要があったのか、彼女にとって演劇とはどういうものなのか、の洞察も含む、とてもよい内容なので読んでみてほしい。
という背景を知らなくても(知らなかったよ)、結末は – まったく逆のディストピアに落っことすこともできたであろうに - とても感動的なものになっている。その持っていき方に無理や強引さがないとは言わない - ケチをつける人は沢山いるだろう – けど、逆にここにある希望や暖かさは確かにあってよいものだし、こんなふうにして舞台と現実は繋がりうるものなのか、ということもわかったのはよかったかも。 男性に見てほしいものだわ。
日本に来ているのだが、花粉と湿気と低気圧でずっとしんどくて、今日の窓の外なんてどんより灰色のまるでロンドンで、楽しいことがひとつもないのでびっくりしている。
[theatre] Three Sisters
3月3日、月曜日の晩、Shakespeare's GlobeのSam Wanamaker Playhouseで見ました。雛祭りの日なので三人官女(ではない)。
これ、2月に見た”Cymbeline”と同じシアターで交互に? 週替わりくらいで上演していて、セットとか結構違うのに大変では、と思ったのだが、シアターの仕様が特殊すぎるのでそんなに難しくないのかも - わかんないけど。
原作はチェーホフ(1900)で、理由は知らぬがここでチェーホフが上演されるのは初めてだそう。演出はCaroline Steinbeis、翻訳/脚本はRory Mullarkey、チェロを中心としたシンプルな演奏は3名構成。
”Cymbeline”のセットには骨が貼られたりしていたが、こっちは花で、特に1幕目は正面上部に花文字で”IRINA”ってでっかく掲げられていて、”IRINA”の結婚が彼女たちにとってひとつのテーマであることがわかる。
上演開始前からMasha (Shannon Tarbet)は黒い服を着て舞台の隅にじっと座って本を読んだりしていて、長女のOlga (Michelle Terry)はいかにも教師、という緑と白のかっちりした衣装で、冊子を抱えててきぱき行ったり来たりしている。そして末妹のIrina (Ruby Thompson)は白を纏って彼女が登場するだけで場が明るくなる、そんな三姉妹で、まずこのばらばらに見えるけど素敵に色分けされた衣装の3人が並んで舞台にいるだけで、ちょっとかっこいいバンドを見ているかんじになる。
他には姉妹から大事にされている兄弟Andrei (Stuart Thompson)とか彼の妻でOlgaとは別の意味できりきりしゃきしゃきしているNatalya Ivanovna (Natalie Klamar)とか、唯一結婚しているMashaの夫Fyodor Kulygin (Keir Charles)の - 教師だからしょうがないのか - しょうもない凡庸さとか、なにを言ってもやっても怒られたり無視されたりちょっとかわいそうな老家政婦のAnfisa (Ishia Bennison)とか、なんだかんだ三姉妹の傍にいたがる馴染みの老医師Ivan Chebutykin (Peter Wight)とか、あとはなにがしたいのか家にずっと居たり出入りしたりしている兵隊たちのよくわからない挙動とか。
みんなが今の暮らしに満たされていないもやもやを抱えつつ、Irinaの結婚(がもたらす何か)に僅かな望みを繋いでいて、それは過去の一家の栄華とモスクワでの暮らしに繋がっていて、「モスクワ」の単語が出るだけでその場が少し明るくなる不思議、があったりするのだが、そんな期待が内側外側それぞれの事情でどんよりと曇っていく、それと共に舞台上の蝋燭 – このシアターの照明で、本当に火が点いている – の火が消されていって、幕の終わりの方はこれまで見たことないような暗さ、暗がりに向かう中で劇が進行していく。
2幕目は、一家の屋根裏部屋のようなところにいる姉妹たちの周りで、それぞれに家庭に絶望しているAleksandr Vershinin (Paul Ready)とMashaが近づいて – いややっぱりだめだわ、になり、Andreiの賭博が問題になり、近くで火事が起こって、Irinaの結婚問題も夢や理想を追っても.. の辺りに落ちて、人々はばたばた動きまわるのだが、全体としては停滞と諦めの霧が次第に濃くなっていって、最後はIrinaの婚約者が決闘で亡くなってしまうのだが、もちろん誰にもどうすることはできないことばかりで、やっぱ自分たちでどうにかしていくしかないよね、って決意して終わる。
いろんな人が現れては消えてつつ勝手にいろんなことを言って、でも全体としては停滞したまま丸ごと沈んでいく… というチェーホフの芝居をシェイクスピア的な小世界の空間に展開してみたら、ということなのか… と思ったが、ショートコントみたいな芝居が次から次へ流れていくばかりでやや落ち着きはよくなかったかも。3姉妹はとても素敵で魅力的で、見ていて楽しかったのだが。
3.09.2025
[log] March 09 2025
朝4:30の車でヒースローに来て、これから朝のフライトに乗って日本にもどる (いつもの夕方の便は取れなかった)。朝のフライトでよいのはBAのラウンジのPorridge (おかゆ)で、今回の旅の歓びのピークはここまで。
これまでの人生、いつでもどんなときも日本に戻るフライトが楽しみ(!)になったことなんてなかったのだが、今回のは断トツの格別、1ミリも微塵も楽しくなれそうなことが出てこない。
日本には昨年11月にも、こないだの1月にも帰っているのだが、今回の滞在はものすごく長い。お彼岸に向かって、日に日に陽の沈むゆらゆらが遅く長く延びていく、ただの自然現象なのに、桜が咲くのよりもなによりも、なんともいえない虫の感覚でもって喜ばしく解れていくロンドンののろい春をライブで実感できないなんて、とてつもない大損をしている気がする。
前回の帰国のときは、それでも初めての検査入院とか、興味本位の前向きになれそうなことも少しはあった。
でも入院も検査も、最初はわああー、とか喜んでいたけど、あんなしんどくて辛くてぐったりするの、1泊で十分だと思ったのに今度のはー。(やっぱり健康がいちばん)
いまとなって不思議なのは、人間ドックでなんか見つかった時、前から怪しかったとはいえ、医師の勧めとか聞かずに知らんぷりで帰国してそのままにしちゃえば普段通りにできてよかったのに、どうしてそうしなかったのか? 根はまじめなよいこってことか、手術とかやってみたかったのか、どうせやるなら早いほうが、とか思ったのか。
もう少し若い頃であれば、どうせ死ぬなら早い方が、とか思っていたのだが、今はそっちの方に考えが向かない。というあたりが老いた(結果)と見るのか、だから老いたのだ(原因)と見るのか。
滞在が延びたり、戻ってこれなくなったら、お部屋に積んであれらの本はどうなっちゃうのだろう、とか、殆どがロンドンで手に入れたものなのでできればロンドンで捌きたいのだが、どこにどうやって、とかどうでもよいことばかり考えてしまう。
戻るのに気がのらないので、日本で何をやっているのか、何を見たいかとか、ぜんぜんチェックしていなくて、どちらかというと、こちらで最後に何を見ておくべきか、ばかり追っていた。
映画は生き延びていられればそのうちいつかどこかで、とあまーく思っているのだが(でももうじきのBFI Flareに行けないのは残念)、生ものに近い演劇はその時のライブだから、って思うことが多くなって、だからこの一週間は4月で終わってしまいそうな演劇ばかり見ていたのだが(あと、昨日の初日に見たNational Galleryの”SIENA”はすばらしかった)、改めて映画を見るのとは別の体力とか神経を使うものだねえ。
いまの東京だと、坂本龍一のがまだ間にあったら、と、ヒルマ・アフ・クリントと、目黒?でやっている黄金テンペラ画のと、映画はレオス・カラックスが来るらしいけどチケットは無理そうだし、『白夜』と成瀬とオリヴェイラと ← なんだかんだチェックしているではないか。
ただこれらも病院の検査とメンタル含めた体調次第だし、そうでない間はふつうに仕事できるはずよね、とされているのでひと揃え面倒くさい。これなら人里離れたサナトリウムのようなところ(なんてもうないか)でひとり読書でもできたら、なのだが、身体ばかりはどうしようも & 身体を動かさないことにはどこにも、の間でフリーズしてしまう。とにかく健康がいちばん。て言うのは簡単だけど老化は自然現象だし。
というものすごくしょんぼりの日々になってしまいそうですが、なんか書けたら書いていきまー。
3.08.2025
[theatre] Hadestown
3月2日、日曜日の午後のマチネを、Lyric theatreで見ました。
ふつう演劇って、日曜日は公演しないと思っていたのだが、これは日曜日のマチネがあって、今週は特に時間がないので取りたいと思ったのだが、人気があるのかリリースされる端からすいすいなくなっていくし、チケットの値段高いし。 でもしょうがないのでどうにか取る。
最初は2007年にバーモント州のD.I.Y.プロジェクトとして始まり、2019年のブロードウェイ公演はTONY賞の14部門にノミネートされ、Best Musical、Best Original Scoreを含む8部門で受賞していて、ロンドン版は2018年にNational Theatreで上演された後、2024年からここでリバイバルされている – のが今回見たバージョン。こういう人気ミュージカルって、実はあまり見たことないの(”Wicked”も”Hamilton”も”SIX”も見てないや...)。
客層はみんな若めで華やかで、物販にわいわい並んでいるし、看板のとこで記念写真撮っているし、自分がいつもいく演劇とか映画のかんじとは結構ちがう(それがどうした?)。
原作はギリシャ神話の”Orpheus and Eurydice” - 『オルペウスとエウリュディケ』を元にAnaïs Mitchellが脚色、作詞、作曲までぜんぶやっていて、この舞台の演出はRachel Chavkin。
舞台は現代の栄えているとは思えない町の居酒屋、天井高のあるサロンバーのようなところで、左右に各3名くらいのバンド、奥の扉の向こうにドラムス、その上には工場を含めてその一帯を支配しているHades (Phillip Boykin)と妻のPersephone (Amber Gray)がふんぞり返っていて、その周りをモイラ - 「運命の三女神」が歌って舞って動きまわる。 という全体図をMCにあたるHermes (André De Shields)がゴスペルの司祭の威厳と貫禄でもって紹介していく。音楽から離れた台詞や会話はなく、すべてが音楽のなかで語られ、怒り、泣き、愛もまた。
そういう雑踏のなか、仕事を求めて流れてきたEurydice(Eva Noblezada)とミュージシャンになりたいけどまだ半端なOrpheus (Reeve Carney)の若いふたりが運命の出会いをして、互いに運命の出会いであることはわかるけど、日々の生活をどうにかしなきゃ、なので、EurydiceはふらふらとHadesのブラック工場に契約して、ふたりは引き離されてしまい…
ギリシャの神々が大恐慌時代のアメリカの貧富がくっきり分かれた社会階層の断面に現れて(いて)なんかする、というのはわかるし、そこに現代の格差や労使問題を練りこむ、のもあるだろう、し、そこで貧しいけれど心のきれいな男女が出会って、純愛... になりそうなところで女性が売られて一転悲恋に、というのは昭和の労働者を描いた映画やドラマで散々に見てきたので今更、なのだが、格上の権力者に敵いようがない圧倒的な強者であるギリシャの神々を置いた、というのが(少しだけ)新しいのか。
あとは使い古されたドラマでも、歌いあげるミュージカルにすることで心に灯が(ポスターにあるような紅いバラが)ともる、のかも知れない。音楽はオーケストレーションやコーラスを多用して音の壁で盛りあげるのではなく、フォーク、ブルース、ゴスペル、R&Bなど、アコースティック寄りで、踏み鳴らす足音と耳元の歌声で切々と親密に持ちあげていくので、圧倒される、というよりもつい拳とハンカチをぎゅううっとしてしまう、というか。(すすり泣いている人が結構いたのでびっくりしたけど)
でも最後の結末が鶴の恩返し(ふう)になってしまうのは、ギリシャの神々にしてはせこすぎやしないだろうか? (いまのUSAを見ると全く笑えないけど) そしてそのせこいのに負けてしまったOrpheusもさー…
あ、でも、若いふたりはきらきらしていてとてもよかった。ちょっと疲れたPersephoneも。
このアンプラグドみたいなバージョンとは別にパンク(スチームパンク)バージョンとか作ればいいのに。
この回ではないが、フィルム撮りをしていたようなので、そのうち日本の劇場でも見れるようになるかもしれない。