10月27日、月曜日の晩、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。
Ben Stillerの監督によるドキュメンタリー作品で、こないだのNYFFでプレミアされ、Apple TV+でも配信が始まっているので、日本でも見れるのかしら?
Ben Stillerが彼の両親 - Jerry StillerとAnne Meara、60-70年代のTVを中心としたショウビズの世界で花形だった夫婦コンビの足跡を辿っていく。
まず、Benが両親が住んでいた(Anneは2015年に、Jerryは2020年に亡くなっている)NYのアパートに足を踏みいれると、膨大な量のフィルム、写真、手紙、メモラビリア等がぜんぶ遺されていて、TVのThe Ed Sullivan Show等を中心としたフッテージ - ユダヤ人の夫とアイリッシュの妻、とか - の数々、彼ら二人が遺したホームムービーなどから振りかえりつつ、彼らが辿ってきた道と、途中からBenと姉のAmyも生まれて家族ができて、セレブとして多忙だった彼らの家族として過ごすのってどういうことだったのか、等も含めて追って、そこにはBenの妻や子供たちも加わる。
Anneはコメディではなく俳優を志望していて、でもJerryと出会ってコメディの道に入って、漫才コンビとして成功して、生活も安定して、アメリカ中を転々とするような生活になって、幼いAmyやBenからするとそんなに幸せではなかったようなのだが、でも、大量の記録を通して浮かびあがってくるのは、どれだけふたりがずっと愛しあっていて、どれだけ子供たちのことを気にかけていたかで、それはこの、ここで映しだされる分も含めた記録の総量を見ればわかるし、だから”Nothing is Lost”なんだよ。彼らはいなくなってしまったけど。
ということを、Ben Stillerが自分と、自分の今の家族にも言おう、言わなければ、と思って作った作品で、それはJerryとAnneがずっとお互いに見つめ合って言い続けていたこととも重なって、ああ、ってなる。家族ってそういうものだ、って言ってしまうのは簡単だけど、こんなふうに正面きって言う – ずっとぺらぺら冗談ばかり言っていたBen Stillerがふと真顔になるあの瞬間を思いだしたり。
Benが父に今の自分ほど有名じゃなかった、って言うと横にいた母が即座にあなたおねしょしてたでしょ、ってBenを激怒させたりとか、とにかく素敵な家族なの。
Omar and Cedric: If This Ever Gets Weird (2023)
10月18日、土曜日の晩、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。
こんなの見にくる人いるのか? と思ったが結構入っていた。でもここの上映のローテーションには入っていないみたい。
Omar Rodríguez-LópezとCedric Bixler-Zavalaの80年代から、特にAt the Drive-InとMars Voltaを中心とした活動の記録。タイトルの”If This Ever Gets Weird”はその後に、すぐにやめような、が来る。
監督はNicolas Jack Daviesで、上映前にシアターに顔を見せて、トークとかできないけど、上映後も上のバーにいるからなんか聞きたいことあったら声かけて、と。
監督はいるのだが、素材の殆どはOmarがずっと撮り続けてきた膨大な量のビデオや写真で、一番古いのは80年代のプエルトリコからやってきた移民としての家族のこと。そこから、テキサスのハードコアシーンでのふたりの出会いから、あきれるくらいにぜんぶ揃っていて、そこにOmarとCedricが交互にナレーションを被せていくので、ドキュメンタリー作品としての強さはあまりなく、ふたりによる活動の回顧-総括みたいなものになっていて、このふたりについてはそれでよいのかも。 上映時間は127分だが200分にしたって見たい人は見るだろう。
At the Drive-Inが爆発して、そのピークに分裂してMars Voltaを作った頃のなぜ?についてもJeremy Wardの死についても、CedricのScientologyの件についても、Teri Gender Benderのことも、彼ら自身の言葉で率直に語られているし、おもしろい、というのとは違うのかもしれないが、バンドの活動を記録する、というのはこういうことだよね、というのがよくわかる内容になっている。 と同時にOmarのばけもののような創造の裾野、その広がりを目の当たりにして、なんてすごい、になる人はなると思う。
Kim Novak's Vertigo (2025)
10月18日、土曜日の午後、LFFをやっているBFI Southbankで見ました。少しだけ書いておく。
監督はAlexandre O Philippeで、監督自身が大ファンであるKim Novakの自宅を訪ねていろいろ昔話を聞いて記録していく。
タイトルから、彼女の名を一躍有名にしたAlfred Hitchcockの”Vertigo” (1958) - 『めまい』の撮影時のことなどが、スキャンダラスなところも含めて赤裸々に語られるのかと思ったのだが、そうではなく、彼女のキャリアを振りかえって、自分がいかに恵まれたスタッフやキャストに囲まれて「女優」として成長できたか、等について感謝を込めて語っていく。クライマックスは、ずっと箱にしまわれていた『めまい』でのグレイのスーツを出して抱きしめるところで、分裂をテーマにしていたあの映画のあれこれが幸せに統合されていくようでよかったねえ、になるのだが、他方で、(犬猿だったと言われる)Hitchcockのことがあまり出てこないのは、ちょっと残念だったかも。
11.02.2025
[film] Stiller & Meara: Nothing Is Lost (2025)
[film] Frankenstein (2025)
10月26日、日曜日の昼、BFI IMAXで見ました。
LFFでも上映されていた、Guillermo del Toroによるフランケンシュタイン。
原作はMary Shelleyの小説 – “Frankenstein; or, The Modern Prometheus” (1818)。
人間の欲とか傲慢が生みだした半(反 or 超?)自然が作りあげた「人間」になれない、なりきれない怪物、化け物が必然的に巻きおこしてしまう悲劇を、そのどうすることもできない情動と共にメロドラマとして描く、これを通して「人間」の異様なありようを逆に露わにする、というのがdel Toroが一貫してやってきたことではないか、と思っていて、今度のも怪奇ではあるけどホラーではない。ただそこから宣伝コピーにあるような”Only Monsters Play God”の領域まで行けているのか、については微妙かも。
上映前に録画されたdel Toroの挨拶があって、最初にBoris KarloffのFrankensteinを見たのは父に日曜日の教会に連れていってもらった後で、なので自分にとってのFrankensteinの記憶は、教会と共にある、と語っていた。
二部構成で、最初がVictor Frankenstein (Oscar Isaac) - 造ったひとが語るお話し、後半がFrankenstein (Jacob Elordi) - 造られたモノが語るお話し、で、冒頭、北極海で氷で動けなくなった大きな船にひとりの男と毛皮に包まった大男が現れて船員たちと暴れて騒動を起こして、結果瀕死になった男 - Victorはなんでこんなことになったのかを振り返って語り始める。
厳格かつ傲慢な父 (Charles Dance)のもとで捩れて、でも先鋭的な医学者となったVictorは学校で寄せ集めの器官から永遠の命をもつ人造人間のデモをして顰蹙をかうのだが研究を止めず、そこに叔父の武器商人Harlander (Christoph Waltz)が出資してくれて戦場から適切な屍体を調達して理想のあれを造っていく話しと、そこに優しい弟のWilliam (Felix Kammerer)と彼の婚約者のElizabeth (Mia Goth)が絡むのだが、結局は誰の話しも聞かない妄執に駆られて爆発していくVictorの野望がdel Toro得意の(やりたくてたまらない)でっかい機械装置と共にぶち上がり、その崩壊と共になし崩しで野に放たれる。
後半のFrankenstein - 怪物パートは、凶暴で言葉を持たず愛を知らなかった彼がElizabethや老人との出会いによって少しづつ獣からなにかに…
父親の冷血とネグレクトがVictorを歪な方に導いて、Victorはその最期に怪物を、っていうのは原作もそうだったっけ? というのと、結局これだと神=父、になっちゃうのはやだな、っていうのと、だから素敵なElizabeth = Mia Gothがもっと前面に出てほしかったのになーとか、ものすごいオトコの野蛮さを素直にあっさり垂れ流していて、怪物をあんなきれいな顔のにしたとこも含めてどうなのか。最近のスーパーヒーローものの設定やストーリーラインにきれいに乗っかれそうなところがちょっと嫌かも。
エジンバラの要塞のような施設とか教会とか、美術はお金かけてて荘厳ですごく圧倒的に見えるのだが、闇の深さが足らなくてちょっと軽くて紙のように見えてしまうところもある。
あと思うのだが、怪物に毛皮いらないよね。北極の海に落ちたって死なないんだから。
“Poor Things” (2023)もそうだった気がするが、人間を造る、みたいなことをやると、その監督のすべてが隅々まで出るよね - よくもわるくも。というかすべてを曝け出してわかってもらいたいちゃんがこういう人造人間モノを造るのではないか。
10.30.2025
[theatre] Every Brilliant Thing
10月24日、金曜日の晩、@sohoplace theatreで見ました。
作はDuncan Macmillan、初演は2013年で、世界80か国以上で上演されてきたのがロンドンに来た。演出はJeremy HerrinとDuncan Macmillanの共同。
ひとり芝居で、Lenny Henry, Jonny Donahoe, Ambika Mod, Sue Perkins, Minnie Driverらの各俳優の舞台が、この順番で8月から各4週間くらいかけて交替しながら上演されてきた。自分が見たのはMinnie Driverの。休憩なしの85分。
四方を囲むかたちのシアターに入ると、開演前なのにMinnie Driverさんがいて、ひとりで客席をあちこち移動しながらそこにいた観客に向かって個別に何か説明して紙を渡していて、紙には番号と、名詞だったり長めの台詞だったりが書かれていて、舞台で彼女が番号を言うと、その番号の紙を持っているひとはそこに書かれていることを聞こえるように読みあげてね、という指示をしている。端から全員に渡しているのではなくて、客席全体に満遍なく渡しているような。 番号は1番から1000000番くらいまで、連番ではなく、ランダムで、呼ぶ順番も規則も特にないようで、教室で先生に突然あてられるのを思いだしたりする。そういう客席とのインターアクションも含めて、アドリブの要素、それに瞬時に対応する機転も求められるんだろうし、大変そうかも。
メインの筋書きは、彼女が7歳の時、母親が「バカなこと」 - 自殺未遂をしてそれ以降何度か病院に運ばれて、彼女はお母さんが少しでも幸せになれるように、自分にとってBrilliantなことをリストアップして、それを母親の枕元に置いておくようになる(母は読んでくれていたらしい)。それらは母親が亡くなったあとも、人生の節目節目でいつもどこかで湧いてきて振り返ったり復唱したりすると元気になって支えてくれたり – なぜってそれらはぜったいBrilliantなものだったし、今もそうだから – というシンプルなものなのだが、これをどうやって脚本にして役者のひとり舞台に仕あげていったのか。
リストは1.がアイスクリーム!とか、他愛ないものも多いのだが、これらのリストは(月替わりの)演者によっても違うみたいだし、単に並べていくだけではなく、それにまつわる思い出とかもくっついてあるし、過去の再現場面 - 父親との会話とか初デートとか - では、何人かの客をステージにあげて即興で芝居をして貰ったりする。事前に言ってあったのだろうけど、彼らとのやり取りもすばらしく、特に靴下を脱いで手に嵌めてジョークを言うように指示されたおばあさんなんて、あなた本当に素人? になるくらいすごかった。
で、そんなふうにいろんなThingsに埋もれていっぱいになっていきつつ、最後にはCurtis Mayfieldの”Move On Up”と共にぶちあがる姿はとても感動的で、一番のBrilliant Thingはあなたでしょ、になるの。付箋だらけの本がかけがえのない一冊になったとき、そのかけがえのなさを抱きしめるあなたこそが。
だからね、床に積まれた本だって、ほら。(何がほら、だ)
Lessons on Revolution
10月25日、土曜日の晩、Barbican内の小劇場 The Pitで見ました。
4日間公演の最終日。 自由席、60分強で休憩なし。
殺風景なオフィスのような舞台には机と、その上にOHPがひとつ。背後にプロジェクションする白幕、あとはキャプションを流すディスプレイがふたつ。
2024年のEdinburgh Fringeで好評を博したらしいDocumentary Theatre(というの?)。Gabriele UbodiとSamuel Reesのふたりが書いて演じる。パフォーマンスというよりレクチャーみたいな要素もある。これも何人かの観客に紙を渡して読みあげて貰ったり、インターラクティヴに進められていったり(読んでくれた人にはお茶がふるまわれる)。
1968年、London School of Economics(LSE)を3000人の学生が占拠し、学長の辞任とアパルトヘイトの撤廃を要求した。それについて語る現代のふたりはCamdenのBTタワーが見えるフラットで一緒に暮らしながら、LSEのアーカイブに行って、なにがどうしてどうなったのか、当時の資料を掘り続ける。そうやって発見された紙切れやドキュメントをプロジェクションしながら、話は1920年代にイギリスの植民地となったローデシアから、当時世界中を吹き荒れた学生運動の嵐まで、地理と歴史を縦横に跨いで繋いで、LSEの学生運動で絶望して亡くなった学生、最後まで辞めずにナイトの称号まで貰いやがった学長、さらに家賃の値上がりでやってらんなくなっている現代の彼らまでを軽やかに結んでいく。
こんなふうにすべては繋がっている。意図的に繋げる、というよりはっきりと繋げることができて、そこには無意味なことなんてひとつもなかったし、これらの連鎖を学んでいくことって決して無駄なことではないんだから、というLessons on Revolution。
とてもおもしろくてあっという間の1時間だったのだが、敵の方もこれと同じように、改竄された歴史に基づくストーリーを紡いで、世界征服の夢を性懲りもなく膨らませているはずなので – 日本の新しい政局とかみると特に - ほんとやってらんないわくそったれ、になるのだった。
10.29.2025
[film] Too Much: Melodrama on Film
LFFが終わって、通常営業に戻ったBFI Southbankで始まったのが、特集” Too Much: Melodrama on Film”で、なんで日が目に見えて短く、午後の早めから暗くきつくなっていく季節に、わざわざ泣いて貰いましょう、みたいなのやるのだろう? - 11月終わり迄 - ってふつうに思うのだがしょうがない。
BFIのサイトの始めにはLillian Hellmanの有名な言葉 - 『もしあなたが、古代ギリシャ人のように、人間は神々のなすがままになるものと信じるなら、あなたは悲劇を書くでしょう。結末は最初から決まっているから。しかし、もしあなたが、人間は自らの問題を解決でき、誰のなすがままにもならないと信じるなら、おそらくメロドラマを書くことになるでしょう』 が引かれている。
これに倣うのであれば、メロドラマというのは『人間は自らの問題を解決でき、誰のなすがままにもならない』と信じ、これを実践しようとする女性のもの=女性映画、という気がしていて、そういう角度で見ていきたいかも、と。
Love – Obsession – Duty – Defiance – Scandal – Spectacle、のサブテーマの下に作品がキュレートされていて、日本映画からは『乳房よ永遠なれ』 (1955)と、『浮雲』 (1955)と、『西鶴一代女』 (1951)が上映されるのだが、日本なんてどろどろメロドラマの宝庫なのに、これっぽちなんてありえないわ、になるけど、こんなものなのか。”Spectacle”では『さらば、わが愛/覇王別姫』 (1993)とか”Written on the Wind” (1956)のIMAX上映があったりする。
Leave Her to Heaven (1946)
10月23日、木曜日の晩に見ました。
監督はJohn M. Stahlで、もう何度も、昨年春のGene Tierney特集でも見ているやつ。邦題は『哀愁の湖』。20世紀FOXのこの年の最大のヒット作になったそう。
テクニカラーのパーフェクトな色調のなかで描かれるアメリカの砂漠、湖、家族といったランドスケープの反対側で描かれるEllen Berent (Gene Tierney)にとっての天国と地獄。盲目的に愛していた父を亡くし、作家のRichard Harland (Cornel Wilde)と出会ってしまったばっかりに。 Ellenは彼とずっと一緒にいたい、ふたりだけでいたい、そればかりを一途に願って、彼の弟を殺して、自分も流産して、最後には自分まで殺してしまって、これだけだとなんて恐ろしい女、になると思うのだが、彼女の反対側にいるRichardはあの程度の罪で済んでしまってよいのか、彼女がああなっていったのはこいつのせいでもあるのではないか、とか。
そういう変えられなかった、どうすることもできなかったあれこれをドラマ(華やかで動かしがたい落ち着いた空気)の根底に見て感じることができる、というのがメロの基本なのだなー、って。
All That Heaven Allows (1955)
10月25日、土曜日の昼に見ました。『天はすべて許し給う』。
↑からの続きでいうと、彼女を天国に置いておけば、あとはすべてが許される、って繋がっていて、どちらも下界にHeavenがないが故に起こりうる悲劇であり、だからメロになるのか、と。
これももう何度も見ている、監督はDouglas Sirk。制作のRoss Hunter、撮影のRussell Metty、音楽のFrank Skinnerらは、こないだ見た”Portrait in Black” (1960)の面々と同じ。
Cary Scott (Jane Wyman)はニューイングランドの貴族社会で、夫を亡くして息子と娘を育てあげて、友人も言い寄ってくる男たちもいっぱいいるのだがなんかこのままでよいのか、があって、ある日庭師のRon Kirby (Rock Hudson)と出会って惹かれはじめるのだが、ふたりの間にはいろんな壁とか溝とか崖が湧いてくるのだった…
いつの時代もどんな場所でも昼メロの恰好の題材となる保守的で中に入れなくて見透しゼロの上流社会とその外側に奇跡のように現れた王子さま(あるいはその逆)の狭い世界の上がって下がって傷ついてを流麗に描いて、世間なんて知ったことかー、という状態になったところで現れる鹿も含めて、果たしてこれは地獄なのか天国なのか? 天が許したまう「すべて」って果たして誰にとってのどこからどこまで? のパーフェクトなサンプルを示す。
Enamorada (1946)
10月21日、火曜日の晩に見ました。ニュープリントの35mmフィルムでの上映。
Emilio Fernándezの監督によるメキシコ映画で、日本で公開されたのかどうかは不明。タイトルを直訳すると『愛』。とにかくおもしろいのよ。
見たことないと思っていたのだが、最初の場面で見たことある!になって、調べたら2019年にBFIで見ていた。
Cholula(チリソース)の町にやってきた傲慢で恐いものなしの革命家のJosé Juan Reyes (Pedro Armendáriz)は逆らう地元民を簡単に銃殺したりしていたのだが、町の有力者の娘Beatriz (María Félix)に一目惚れして革命どころじゃなくなり、でもBeatrizは自惚れるのもいいかげんにしろ寄ってくるんじゃねえ、の針ネズミで、教会の神父とかも巻きこんでどうなるやら… のこれ、メロドラマというよりふつうにrom-comとして楽しいのだが、どうなんだろう? 寄ってくるJosé Juanを花火屋で火まつりにしてやるところとか痛快だし、最後はハッピーエンディングみたいだし(あのままふたりで突撃して死ぬつもり?… にも見えないし)、でも、Beatriz、あんなにJosé Juanを嫌っていたのに、ああなっちゃうのはやはりちょっと謎かも。
まだこの後も泣きながら見ていくつもり。
[film] The Mastermind (2025)
10月20日、月曜日の晩、Curzon Sohoで見ました。
LFFでプレミアされたばかりで、主演のJosh O'Connorのイントロつき(この晩、彼はBarbicanでも上映後にトークをしていて、そっちの方に行きたかったのだが)。こんなに早く公開されて、トークまで付いてくるのだったら、別に映画祭で見なくても、にはなるよね。
トークは短かったが、Alice Rohrwacherの”La Chimera” (2023)でも美術品泥棒でしたけど? という問いに、自分の考えだけど”La Chimera”の彼は泥棒ではなくて、今度のはふつうにシンプルに泥棒だと思う、とか。
作・監督はKelly Reichardt、撮影は監督とずっと組んでいるChristopher Blauvelt、音楽はRob Mazurek –Chicago UndergroundでTortoiseのJeff Parkerとかと一緒にやっていた人。
Kelly Reighardtの映画、余りそんなイメージはないかもしれないけど、ずっと犯罪とか窃盗 – どす黒い本流の「クライム」というよりやむにやまれずおどおどびくびくしながら実行していくアクションの顛末などを描いていて、“Night Moves” (2013)や“First Cow” (2019)もそうだと思うが、最近のGuardian紙のインタビューによると、彼女の母は潜入捜査官、父は現場捜査官で、両親の離婚後の継父はFBI捜査官で、そういう事象・対象としての犯罪が空気のようにある家庭で育った、のだそう。
1970年のマサチューセッツの郊外で、James Blaine "JB" Mooney (Josh O’Connor)は無職で、妻のTerri (Alana Haim)とふたりの男の子がいて、実家の父(Bill Camp)は裁判官だし母(Hope Davis)もちゃんとしているのに彼だけぱっとしていなくて、でもそんなに苛立ったり困ったりしているかんじはない。
彼は地元の美術館からArthur Doveの抽象画4点を盗むことを計画して下見して、母に嘘をついてお金を借りて仲間を集めて、でも実行の日、ひとりは現れないし、残りのふたりも素人だし、子供たちは学校が休みで面倒を見なければならないし、現場にいっても盗み決行中に小学生が絡んできたり、警備員にも見つかって出る時にひと悶着あるし散々なのだが、でもどうにか盗み出すことに成功する。 ここまでが冒頭30分くらいでさっさかと描かれて、そこにはなんで強盗に踏みきったのか – しかもあんな微妙で半端な抽象画を – の説明も犯罪実行時の高揚も緊張感もまったくないの。すべてが場当たり的でいいかげんで、抜けられたのは運がよかっただけ、みたいな。 そしてそれらについてJB本人も焦りも怒りも後悔もせず、とにかく逃げて、隠して、捕まりさえしなければ(いいや)を淡々とやっていくだけ。
やがて逃げた共犯者が別の強盗をしてあっさり捕まり、JBの名前を言っちゃったので自宅にFBIがくるし(もちろんシラをきる)、ギャングにも名前が知れちゃったので盗んだ絵画も連中に持っていかれて、手ぶらの指名手配された窃盗犯となった彼は美術学校時代の仲間のところに行ったりそこからヒッチハイクで遠くに向かおうとするが結局…
前半の窃盗の場面と同様、その後の逃亡劇もぜんぜんぱっとしない、家族からも友人たちからも追われたから言われたから逃げていくだけの、しょうもない後ろ向きの立ち回りをJosh O’Connorは強い信念も動作も激情も繰りだすことなく、ひょこひょこ渡るように演じていて、そのどこまでも後ろ向きの態度と表情 - 犯罪映画の主人公としてはありえないくらいへっこんだ容姿って、悪に立ち向かうヒーローと同じくらいにすごいと思った。過去の映画だと、やはりJean-Pierre Melvilleの映画に出てくる一筋縄ではいかない、でもどこか魅力的な連中だろうか。
”La Chimera”での彼も疲れてぼろぼろだったが、そんな彼のところに欧州の神の啓示(のようなもの)がやってきた。これに対し、ここにはベトナム戦争後の米国を生きる疲弊と混沌がそのまま垂れ流されていって、神もくそもなく、ただ遠くに消えていくさまがどこか生々しい。
あと、これがアートを中心に置いた営為で、ちっともアートっぽくない構えで動いていく、というところだと監督の前作 - “Showing Up” (2022)でMichelle Williamsが演じたアーティストの姿とも重なる。周辺の雑務とかどうでもいいヒトやコトばかりがあれこれ纏わりついてきて、やりたいことのずっと手前とか周辺をぐるぐる回って出口が見えなくなって塞がっていくことの悲喜劇とか。
Kelly Reighardtの長編映画のここ数年て、男性主人公ものと女性主人公ものが交互に来ている気がして、次は女性ものになるのだろうか。Michelle WilliamsとJosh O’Connorが共演したら、とか。時代劇もよいかも。
あと、主人公の70年代ファッション(by Amy Roth)がなかなか素敵で。”The Mastermind”ブランドとかいって出してみたらよいのに(で、ぜんぜん売れないの)。
そしてさっきO2アリーナでHaimを見て帰ってきた。
この映画の唯一の不満は、ろくでなしの夫をしばきまくるAlana Haimがあまり出てこないこと、なのよね。
10.28.2025
[film] 100 Nights of Hero (2025)
10月19日、日曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
LFF最終日のクロージング作品で、この上映の1時間前に隣のRoyal Festival HallではこれのレッドカーペットとGala上映が行われていた。隣なんだからちょっとだけこっちに来てくれたってよかったのに。
作・監督はJulia Jackman(2作目の長編作品)、原作はIsabel Greenbergによる同名グラフィックノベル(2016)。タイトルからスーパーヒーローものと思いこんでいたら、ぜんぜん違った。
シェヘラザードの『千夜一夜物語』と『侍女の物語』のミックス - 他にもいろいろありそう。全体としては90分のB級で、プロダクションの完成度みたいなところからすればがたがたの穴だらけなのだが、手作りの創意工夫に溢れた楽しい作品で、とてもよいと思った、というか大好き。
月が3つあるので地球ではないかもしれないどこかの星の中世みたいな時代に、Birdman (Richard E Grant)ていう見るからに陰険邪悪なじじいっぽい鳥の神が支配している世界があって、元は彼の娘のKiddo (Safia Oakley-Green)が理想郷として描いた男女平等の世界があったのだが、Birdmanが男女平等なんて我慢できない、ってじじいの癇癪をおこしてから女性は読み書きを、それを習うことも禁じられている。
そんな世界のお屋敷に暮らす貴婦人Cherry (Maika Monroe)とそのメイドで親友のHero (Emma Corrin)のお話し。 Cherryは表面は優しそうなJerome (Amir El-Masry)と結婚するのだが、彼はCherryを妊娠させることができず、というかベッドに誘うことすらできないままでいて、後継ぎを産めなければCherryは死刑にされてしまう。彼の親友で女たらしのManfred (Nicholas Galitzine)は自分がその気になれば大抵の女なんて、って豪語するので、じゃあ自分が出張に出ていなくなる100日の間にCherryを誘惑できるか賭けをしよう、って持ちかけて自分はさっさと出ていってしまう。
こうしてCherryとHeroの前に現れたManfredはぴっかぴかのナルシスティック(でバカな)な目線と身振り - 自分が倒したでっかい鹿を上半身裸血まみれで担いできたり – でふたりをドン引きさせるのだが、あの手この手を使ってなんとかCherryをベッドに連れこもうとして、懲りずにあらゆる手口を駆使してくる。これに対抗すべく立ち塞がったHeroは、彼女の祖先の代から伝わる女たちのストーリーを、読み書きの替わりとなる不思議な能力を駆使する三姉妹 – このうちのひとりがCharli XCXだったり - の伝説を語りながら、100の夜を乗り切ろうとする。そのかわしたりかわされたりの駆け引きの日々。
見るからに頭の足らなそうなManfredの誘惑をかわしきったところで、子供ができなければCherryは死刑にされてしまうので、どっちにしても、なのだが、Heroの語り続けるストーリーは彼女たちふたりの思いと絆をしっかりと固めていって… ラストに悲壮感はまったくないの。 ”Thelma & Louise” (1991)もあるかも。
衣装とか屋敷の装飾の艶やかだったりゴスだったりの手作り感がとても素敵で、そこに迫害と漂流を余儀なくされていった女性たちの儚くて終わらない夢と物語が重ねられていく。という辺りはとてもよいのだが、もう本当に辛いばかりだし、ここに出てくるバカな男どもをいい加減どうにかしてほしい。Emma Corrinが最後に連中をぼこぼこの皆殺しにしてくれると思ったのになー。この背景設定だったらそれをやってもぜんぜん映えたはず - と思ったりもしたのだが、バカな男たちと同じ土俵に立ってやりあってはいけないのだ、という強い意思もあるのだろうな、って。
10.27.2025
[film] Roofman (2025)
10月19日、日曜日の午前10時、IslingtonのVue (シネコン)で見ました。LFFの最終日でいろいろ詰まっていたのでこの時間になる。
LFFでも上映されたやつで、ポスターはでっかい熊のぬいぐるみを肩車して黄色縁サングラスのChanning Tatumが銃を構えているやつで、その手前にKirsten Dunstがいる - こんなの絶対楽しく弾けまくるクライム・コメディだと思うじゃん。 ぜんぜん違った…
監督は”Blue Valentine “や”The Place Beyond the Pines” (2012)のDerek Cianfranceで、実話を基にしている。音楽はGrizzly BearのChristopher Bear。
00年代、Windows XPの頃のアメリカでJeffrey Manchester (Channing Tatum)は元軍人で3人の子供がいるが社会に馴染めなくて妻からは嫌われ子供たちからもちょっとひかれている。で、お金を稼ぐためにマクドナルドの屋根に穴を開けて中に侵入し(だから”Roofman”)、礼儀正しく従業員を傷つけることなく現金を強奪すること45軒、でもとうとう捕まって、でも刑務所を天才的な器用さと機転で抜けだしてしまう。
次に捕まったら永久にアウトなので軍人仲間のSteve (Lakeith Stanfield)に連絡して偽造パスポートを作って貰うまでの間、でっかいトイザらスの店舗に入り、フロアに死角のエリアを見つけると店内監視カメラのレコーディングをOFFにして、布団も髭剃りもドライヤーもM&Mとか食料もぜんぶ店内のものを調達しながら店内で生活を始める。
店長(Peter Dinklage)は厳格で陰険な奴で、彼に苛められている従業員でシングルマザーのLeigh (Kirsten Dunst)が気になったので、店長のPCのパスワードを盗んで彼女のローテーションを軽くしてあげて、彼女が通う教会にも行ってそこのコミュニティに受け入れられて、付き合いが始まる。
政府系の人には言えない仕事をしている、と嘘をついて、店内のおもちゃを沢山お土産にして、彼女のふたりの難しい娘も彼に馴染んでいって…
破綻することが見えている話なので先は書きませんが、JeffreyとLeighが親密になっていく過程と、それが儚くあっけなく壊れてしまう瞬間の切なさは実話、ということもあってかとても生々しく、それをChanning TatumとKirsten Dunstのこれ以上は望めない組み合わせが支えている。夢を追って有頂天になる姿、それが壊れたときの痛みを全身で表現できるふたりなのでー。だからどうしてもこの2人がありえないやり方で編みだすであろうハッピーエンディング - 別の結末について、つい夢想してしまうのだった。
それにしても、Jeffreyの器用さがあったらなんでもできるんじゃないか、って素朴に思う。自分は彼がさっさかできることの10%もできない気がする。
Good Fortune (2025)
10月22日、水曜日の晩、Picturehouse Centralでみました。
ポスターには背中に羽を生やしたKeanu Reeves Aziz AnsariとSeth Rogenが並んでいて、久々のバカ映画な気がした(けど実際にはそんなでもなかった)。 簡単に機内映画に行きそうなB級風味。 作・監督はAziz Ansari。
Gabriel (Keanu Reeves)は見習いの天使でTexting & Drivingをしてて危機一髪の人を救うのを - まだ見習いだから - 主にやってて、ある日、定職を持たず、車に寝泊りしてデリバリーサービスの顧客ポイントで日々食いつないでいるArj (Aziz Ansari)が目にとまってなんとかしてあげたい、と思う。
Arjは配達先の豪邸でなんでもあるけどあれこれ要領悪く暮らしているテック系の投資家Jeff (Seth Rogen)と出会って、彼の家の住みこみの小間使いとして働き始めるのだが、ちょっとしたことで解雇されて、車もなくなって、いよいよ崖っぷちになると、Gabrielは大天使Martha (Sandra Oh)が止めるのも聞かず、ArjとJeffの立場を入れ替えてやったら元に戻せなくなり、その罰として天使からふつうの人間にされてしまう。
こうして、立場がすべてひっくり返ってしまった富豪 - 極貧 - 天使はどうやってサバイブしていくのか、元に戻ることができるのか? っていう寓話、教訓話しみたいなやつで、人の運とか金まわりなんて、天使がいようがいまいが結局関係ないのだ、っていうことなのだろうが、それをこの文脈でやっても、貧乏人は諦めて努力していくしかない/そのうち回ってくるかもー、でしかなくて、それってなにがおもしろいの? になるのだった。貧乏が昔ほど笑いのネタにならなくなっている - 他にもあるけど - という事態をおちょくる、という高度な意図もあったりするのか。
あと、人間になったGabrielがナゲットとかバーガーとかタコスを、こんなに美味いものがあるなんて! って頬張るシーンは微笑ましいけど、天使って食事したことないのにどうしておいしいって言えるのか。 馬糞食べさせても歓ぶんじゃないの? とか。
『ベルリン・天使の詩』(1987)の頃、天使はヒトと恋におちるべく決意して人間になったのに、いまは罰で人間になるのかー、とか。
10.24.2025
[theatre] Entertaining Mr Sloane
10月14日、火曜日の晩、Young Vicで見ました。
原作はJohn Ortonの同名戯曲 (1964)で彼の最初の長編劇、演出は、こないだ見た映画”Brides” (2025) を監督していたNadia Fall。
9月のBFIの特集でも1968年に制作されたこれのTVドラマ版を見て、とてもおもしろかったし。
舞台は客席が囲む形の円形(デザインはPeter McKintosh)で、ベッドがある普通のリビングだが、黒で塗られたいろんな椅子、鳥カゴ、乳母車、ベビーベッド、カートなど、実物大のそれらがオブジェのように天井に向かって吊るされ撚りあげられている。古いフラットのリビングで妄想も含めて浮かんでは壊されたり棄てられたりしてきた遺物たちが燻されて吹きあがっている。
そんなややホラー設定のフラットに若いMr Sloane (Jordan Stephens - hip-hop duo Rizzle Kicksの片割れのひと) が家探しで颯爽と現れて、女主人のKath (Tamzin Outhwaite)は、そんな彼を嬉々として迎えてご機嫌取りをいっぱいして、彼がそこを借りることを決めると、嬉しくてたまらなくなり、早速彼の上にまたがって…
今であれば、家主の立場を利用したセクハラ&パワハラにできそうな話なのかもだが、何も考えていないふうのSloane本人はそれをそのまま受け入れて、Kathを自分の都合いいように利用していくので、今で言うならWin-winなのかもしれないが、そこにKathの兄で背広を着た堅気のEd (Daniel Cerqueira)と、いつも小言を呟いて徘徊している老父Kemp (Christopher Fairbank)が絡んできて、それぞれが自分のやりたいように振る舞い、言いたいことを言っていく。
セックスでどうとでもできると考えているKathがいて、地位や仕事でどうとでもできると考えているEdがいて、過去にSloanを見たことがあるEdはひたすら彼のことを嫌って、その中心にいるSloaneは、無表情に、自分の欲望の赴くままに好き勝手に振舞っていって、結果Kathは妊娠して、Kempに対しては暴力ふるって殺しちゃって、という非情で成りゆきまかせの世界が暗闇の、どぅどぅ響くリズムのなかで展開していく。
設定としてはやや古いのだろうが、狭く閉ざされた檻のなかで欲望と脅し、服従によってじっとり動物化していく老人から若者までを描く、という点において十分に生々しく、異様なリアリティがあると思った。
The Lady from the Sea
10月15日、水曜日の晩、Bridge Theatreで見ました。
原作はHenrik Ibsenの同名戯曲(1888) - 『海の夫人』、これをSimon Stoneが翻案して演出している。原作に登場するHilde Wangelは、後に”The Master Builder” (1892)にも出てくる。今年5月にWest Endで見たこれの翻案 - “My Master Builder”ではElizabeth DebickiがMathilde/Hildeを演じていたが、ここではAlicia VikanderがEllida(名前を少し変えて)を演じている。
三方から囲む形の舞台はまぶしい白で、プールサイドにある長椅子があって、白くモダンなテーブルがある夏の日のお金持ちの家、後半は、ここの中心に水が溜められてプールになったり、よりダークになって激しい雨が降り注いだりする。
裕福な神経科医のEdward (Andrew Lincoln)がいて、Ellidaは彼の2人目の妻で、家にはEdwardの自殺した先妻との間にふたりの娘 - Hilda (Isobel Akuwudike) とAsa (Gracie Oddie-James)がいて、他にEdwardの患者で余命がないことを告げられるHeath (Joe Alwyn)とか、いろんな立場の登場人物たちがそれぞれに勝手なことを言ってぶつかり合って賑やかなのだが、全体としては僕らお金持ちで生活に余裕あるし(なんて言わないけど)、という態度で強くふてぶてしく暮らしている(ように見える)。
そこにEllidaの過去に深く刺さっているらしい中年のFinn (Brendan Cowell)が現れて、はっとなるところで1幕目が終わる。
2幕目はEllidaの過去を巡って復縁を迫ってくる環境活動家のFinnとEllidaの泥まみれの愛憎劇がどしゃ降りの中で展開されて、どうなる? ってなったところで出会った当時、Ellidaは15歳でFinnは30代だったことが明かされ、それって… で何かが解けたような。
Ibsenの原作まで遡る必要があるのか、はわからないけど、”Master Builder”もこれも、現代で裕福な地位を築いた男たちが、過去を引き摺った運命の女性に揺り動かされ、”Master Builder”の場合は(Ewan McGregorを)破滅まで追いこんでしまう。ベースには再会し過去の自分との出会いによって何かに目覚めた女性がいて、この舞台の場合、いろいろあったけど/これからもあるけど、というアンサンブルとして終わって、各自が抱えたものすごくいろんな要素が絡みあった変な劇で、でもみんなそこらにいそうでありそうなかんじがよかったかも。
10.22.2025
[film] Die My Love (2025)
10月18日、土曜日の昼、LFFのRoyal Festival Hallで見ました。
前日の晩がGalaだったのでゲスト等はなし。
監督はLynne Ramsay、原作はAriana Harwiczの同名小説(2012)、脚色はAlice Birch、Enda Walsh、Lynne Ramsayの共同(すごい強力)、撮影はSeamus McGarvey、プロデュースにはMartin Scorseseの名がある。今年のカンヌではPalme d'Orにノミネートされた。画面はスタンダードサイズ。
Grace (Jennifer Lawrence)とJackson (Robert Pattinson)の夫婦が隣家のない、原っぱのなかに建つぼろめの一軒家にここでいいよね、というかんじでやってきて、しばらくはふたりで犬のようにやりたい放題、原っぱを転げまわってキスしてセックスして燃えあがる森を駆け抜けて、でもそのうち子供ができて、育児をはじめるとJacksonは家のなかにいないことが多くなり、産後鬱もあるのかGraceにおかしな行動が出てくるようになる。彼女はもとは作家だったのだが、特に育児を始めてからは書けなくなっている。書く努力をするとかそれ以前のところで止まっていて、でも引きこもるわけでもなく、絶えずどこかに出かけて徘徊して、でも何かが見つからないふう。
近くにはJacksonの母のPam (Sissy Spacek)がいて、彼女も認知症の夫のHarry (Nick Nolte)の介護でちょっとおかしくなっていつも銃を持ち歩いていたりする状態なので、Graceが訪ねていってもあまり(お互いにとって)助けにはならず、そのうちJacksonが家に犬を連れてくるのだが(Graceは猫~ っていったのに)、こいつがずーっと昼も夜もばうばう吠えているのでまったくの逆効果で、買い物に行っても、友人宅のパーティに行っても、車に乗っていても、Graceがなにをやらかすかわからず、見ている方の金縛りはものすごくなっていく。
GraceとJacksonの関係、その緊張が最大になるのはふたりが車に乗っているところ、ずっと起こりうる惨劇を待っている密室のようになっていて、でも、“Die My Love”とか言いながらこのふたりは相当にしぶとくて簡単に殺されたり死んだりしないであろうこともなんだか見えてくる。”Hunger Games”で生き残った人だし、The Twilight Sagaと”Micky 17”の人だし。 車のなかでJohn Prine & Iris Dementの”In Spite of Ourselves”がほのぼのと流れると、赤ん坊を挟んだ産後鬱の話というより、愛と憎しみでぐじゃぐじゃにまみれた、狂ったラブストーリーとしか言いようがないものが浮かびあがってくる。
惨劇に向かわない神経戦のようなところだと、やはりJohn Cassavetesの"A Woman Under the Influence" (1974) - 『こわれゆく女』のGena Rowlandsが浮かんでくる。この映画でGena Rowlandsが周囲にso-called「迷惑」をかけたり傷つけたり傷ついたりすればするほど異様に輝いていくのと同様、Jennifer Lawrenceがひと暴れすればするほど不敵なその艶は磨かれていって手をつけられなくなる、そんな女性映画として見るのがよいのか。
あるいは、Lynne Ramsayのデビュー作 - ”Ratcatcher”(1999)の頃からずっとある、呪われた家 – とどまるべきではない場所としての、牢獄としての家の延長として見ることもできるかも。Graceが原っぱや森を抜けていくシーン、彼女が見上げる空の鮮烈さは”Ratcatcher”の少年のそれに重なるような。
とにかくJennifer Lawrenceのとてつもなさに尽きる映画で、彼女の立ち姿、這いつくばったり寝っ転がったりの姿ばかりがずっと残る。目の前のLoveを呪って叩き潰し、それでもそれらしき何かを求め続ける彼女に”Love is a stream, it’s continuous, it doesn’t stop”と言い続けたGena Rowlandsが重なる。
そして最後に“Love Will Tear Us Apart”のカバーが流れる。歌っているのは監督のLynne Ramsayで、原曲よりゆっくりで、これがすごくよいの。 未確認だが、冒頭に流れるギターの鳴りがかっこよい曲を歌っているのも彼女なのかしら?
今日(10/22)はCabaret Voltaireの再結成ライブがある、と思って支度をしてて、でもチケットが来ていないのはどうして? と思ってよく見たら2026年の10月22日なのだった… (1年後なんて生きてるかどうかわかんないじゃん)
あまりについていないので、”Good Fortune” (2025) ていう映画を見にいった。
10.21.2025
[theatre] Mary Page Marlowe
10月11日、土曜日の晩、Old Vicで見ました。
原作は俳優もしている(こないだ見た映画”A House of Dynamite (2025)”にも出演していた)Tracy Letts、彼の母が亡くなってすぐに書き始め、母に捧げられている戯曲の冒頭にはJoan Didionの言葉が引用されている。ちょっと長いけどこんなの:
“I think we are all advised to keep on nodding terms with the people we used to be, whether we find them attractive company or not. Otherwise they turn up unannounced and surprise us, come hammering in the mind’s door at four a.m. of a bad night and demand to know who deserted them, who betrayed them, who is going to make amends”
初演はシカゴで2016年。休憩なしの1時間半で、11のシーン、ひとりの女性 - Mary Page Marlowe -の70年の女の一生が、5人の俳優と人形によって演じられる。演出はMatthew Warchus。
舞台はOld Vicの真ん中に円形のがあって、それを客席がぐるりと囲むかたち – ここでそういう舞台設定になっているのを始めて見た。舞台の上には簡素なテーブルがあって、あと酒瓶がいつもその辺に転がっている。最初はその上に主人公が着てきたであろう服たちが無造作に積まれている。
最初の場面はMary (Andrea Riseborough)が子供たちに離婚を告げるシーンで、そこからランダムに場面・時代は替わって、友達とのお泊り会で占いをして将来が明るい12歳のMaryも、高校生のMaryもまだ有望で、でも結婚した後からは、夫は飲んだくれのろくでなしでふざけんじゃねえよなめんな、の互いに酔っぱらってブチ切れて蹴っ飛ばしあうような喧嘩が絶えなくて、気が付いたら2回結婚していて、晩年にももうひとり傍に面倒を見てくれる男性がいたりする。
暗転して時代と設定と女優が切り替わり入れ替わりのたびに、ああそうなったのね、って思うのだが、Maryの人物としての輪郭、気性の一貫性は保たれていて、周囲の変化にええーってびっくりするようなことはない。特に老年・晩年期のMaryを演じるSusan Sarandonの柔らかさが、過去のぎすぎす、ごたごたを、傷だらけのMaryたちをすべて吸収し、赦し、それでもそれしかないような愛 - 怒りや後悔ではなく – で包もうとする姿に感動する。
これと似た形式でひとりの女性の一生を複数の女優が演じていく舞台にAnnie Ernauxの”The Years” – これの初演は2022年 - があったが、あそこまで過激に女性の「性」を追いつめて普遍的かつ圧倒的な型のように浮き彫りにして叩きつけることはなく、どこの場所にも時代にも、こんな女性いたかも、すれ違ったかも、になる。これはこれでよいのだが、それならもっと時間を掛けてもっといろんなひとりのMaryを見せてほしいな、にはなる。せっかく魅力的な像としてそこに現れたのだし、これだけ魅力があるならもっといろんなネタもあっただろうし。
Michael Rosen: Getting Through It
10月19日、日曜日の午後、Old Vicで↑と同じ舞台セットの上で行われた公演/口演?について少しだけ。
英国各地を回っていくようだが、ロンドンではこの日のこの14:00の回だけで、これを見ていたのでLFFの”Hamnet”に並ぶのが遅れて(...もう忘れようね。ついてない一日だったね)。
児童文学作家のMichael Rosen(79歳)による、2部構成、約1時間40分の講演、というほど固いものではない、腰の曲がりかけたおじいさんが紙束を抱えて椅子のところにやってきて、リラックスして座って、紙に書かれた原稿を一枚一枚ゆっくり、ユーモラスに読んでいくだけの舞台。最初のパートが”The Death of Eddie” – 1999年に当時18歳だった息子を突然失った時のこと、それからの日々について、後のパートが“Many Kinds of Love” - 2020年のコロナ禍で、48日間、NHSの集中治療室に入れられて死にかけていた際の自分の闘病記録。どちらも、誰の身にも起こりうる悲劇を題材に、どれだけ時間が経っても消えてくれずにそこにあるgriefやpainとどうつきあっていくべきなのか、自分はどう向きあってきたのか(乗りこえることも忘れることもできない)についての省察。子供に聞かせるようにやさしく穏やかに語っていく話芸(だよね、ここまでくると)に引き込まれた。
Lee
10月17日、金曜日の晩、Park Theatreの小さいほう(90)で見ました。
原作はCian Griffin、演出はJason Moore。席は自由で、休憩なしの約80分。
客席が少し見下ろすかたちで囲む舞台は主人公である抽象画家Lee Krasner (1908-1984) のアトリエを模していて、彼女の制作中の絵 – Barbicanの展覧会(2019年)にもあった”Portrait in Green” (1969)とか - が四方の壁に沢山貼ってある。あと、ランボーの『地獄の季節』からの一節("To whom shall I hire myself out? What beast should I adore? ~ )が壁に殴り書きされている。
Jackson Pollock (1912-1956)が44歳で亡くなってから13年後、という設定で、でも彼は幽霊Pollock (Tom Andrews)として現れてかつてパートナーだったLee Krasner (Helen Goldwyn) にぶつぶつ言ったりマンスプレイニングしたりして、どこかに消えていく。Leeはそんな彼にまたか、という態度で応えたりしている。別の女と勝手に事故って死んだんだからもう寄ってくるな。
いつものようにアトリエで絵を描いていると、近所のデリの、まだ高校生の小僧Hank (Will Bagnall)が仕事場に現れて、アーティストになりたい、というので彼が描いているという抽象画ぽい絵を見せてもらい、彼女が彼の絵をぼろくそに、でも真剣にけなしつつ、アートとは何か?なんで絵を描くのか? 抽象とは? といった根本的な問いを投げていく。その過程で、都度現れてくる自身の過去とそこにしつこく纏わりついてくるPollockの亡霊と。
他の女性アーティスト - Camille ClaudelでもDora Maarでも - と同様、男性パートナーの名声の影でまともに取りあげられることも顧みられることなく、それでもアートへの希望を棄てずに創作を続けていった女の立ち姿をHelen Goldwynがかっこよく演じている。決して笑わなくてずっと不機嫌だけどLee Krasnerがいる、としか言いようがないのだった。
Lee Krasnerの発言や思索は結構纏まって出ているのでそれらに沿った正しい評伝ドラマになっているのだろう、と思う反対側で、彼女がPollockを「てめーのせいでなあー」ってぼこぼこにしてやるようなのも期待していて、でもやはりそれはなかった。
[film] The Librarians (2025)
10月6日、月曜日の晩、Curzon Bloomsbury内のDocHouseで見ました。
身近に迫る危機モノ、として、今見なければいけないドキュメンタリーとしてとにかく必見だから。
監督はKim A Snyder。Executive ProducerにはSarah Jessica Parker、音楽にはNico Muhlyの名前がある。
2021年、テキサス州の上院議員が配布した本のリスト - 図書館に置くことがふさわしくないとされたLGBTQ+全般、人種、公民権運動、性教育、月経、などに関する850冊、これにフロリダやテキサスといった共和党支持の州の議員が賛同し、右派のほぼ白人の母親たちの権利団体 - Moms for Libertyが絡んで、実際に図書館からこれらの本を閲覧禁止にして、従わない図書館員(Librarian)に対して脅迫したり解雇をちらつかせるようになった。
映画はこれらの事態に立ち向かうことになったLibrarianたち(The Librarian)- 殆どが女性 - の終わらない戦いを描いていく。
昔から思想弾圧や統制のための焚書や禁書はいくらでも行われてきたので、またかよ・まだやってるのかよ、だし、それを本なんか読んだこともなさそうな、スポーツやマネーや陰謀論が大好物そうな富裕層が煽って広げているのはバカじゃねーの、しかないのだが、あまり笑えないのは、紙の本を図書館で借りて読む文化が細くなってきているところにこれが来ることで、図書館なんて行く意味も価値もない、って図書館が蓄積してきた本を中心とした知と向き合う場所と時間が削られていってしまう、そこでの出会いによって救われたり導かれたりしていた魂がその機会と行き場を失ってしまうことだ。 ネットもSNSもあるし、って言うけど、本を読むことで得られるのは情報だけじゃなくて、例えばそれを書いた人、書かれた人が辿ってきた生とその経験、めくるめくストーリーをめぐる自分との対話だったり、映画や絵画やパフォーマンスアートと同様、その形式が実現しようと、広げようとしてきた世界そのものを体験することでもあるので、そういう機会を失くして、取りあげていくことで何がよくなるのか、まったくわからない。 単に自分が目障りだから見たくないものを見れないようにしたい、というだけにしか見えない。(おれが見たくないって言ってるんだから見せるな、置くな、っていうガキのー)
もうひとつは、子供たちにとって、図書館のずっと続いていく棚とか物理的なところも含めた世界の広がりとか奥行きを目の当たりにしたり、そこでのこんな本もあるあんな本もある、って何冊も並べて開いたり閉じたり、ずっと読んでいたいけど返却しなきゃいけないのか…になったりする時間って、世界のでっかさ、底のなさ、限りある時間、などを思い知る入口だったりするので - 必要最小限の学びの場と機会を奪ってしまうことに繋がると思う。
というような、連中の懸念する「悪影響」ってなんだよ? というものすごく根源的な問い – この映画では「悪影響」を個々に掘り下げていくことはしない、あまりにバカバカしいからだと思う - を掲げてLibrarianたちは立ちあがって連帯していくのだが、SNS等による数と資金力(最後の方で化石燃料系の富豪が背後にいることがわかる)では圧倒的に弱くて負けてて、こういうドキュメンタリーの場合、終盤にある程度明るい兆し、のようなものが描かれることもあったりするのだが、それもなくて、どうなるんだろう… というお先真っ暗な状態のまま終わる。
これがバカな王の間抜けな臣下ども(の下部階層)によるご機嫌とり施策、であること、過去に有効だった試しがないこと、はわかっているのだが、もうほんとうにうざいし、恥をしれ! しかないし。
日本でも公開されますように。
[film] 遠い山なみの光(2025)
10月16日、木曜日の晩、LFFをやっているCurzon Mayfairで見ました。
今回LFFに来ている邦画はこれと『8番出口』というのがあって(他にもあったらごめん)、『8番..』はどうでもよかったのだが、こっちはなんだか見たかった。New Orderが流れるというし。
英語題は”A Pale View of Hills”、原作はKazuo Ishiguroの同名小説 (1982) – 未読。
今年のカンヌのUn Certain Regardでプレミアされた日本-UK-ポーランド合作映画。
監督・脚本は石川慶で、上映前に監督、Kazuo Ishiguro、Camilla Aiko, 吉田羊が壇上に並んだ。
冒頭、暗い室内でソファに横になっている悦子(吉田羊)がいて、彼女の記憶として浮かんでくる終戦後の長崎の様子 - 妊娠している悦子(広瀬すず)、夫の二郎(松下洸平)、たまに訪ねてくる義父の誠二(三浦友和)の家族のこと、近所の佐知子(二階堂ふみ)、その娘の万里子(鈴木碧桜)が描かれ、改めて1982年のイギリスに切り替わる – ここでNew Orderの”Ceremony”(1981)が流れる - と、次女のNiki (Camilla Aiko)が実家に滞在して、悦子が長崎にいた時の被爆も含めた経験の記録を作りたい、と悦子にいろいろ聞いたりしていく。
小説版は悦子の一人称らしいが、映画で描かれる長崎のお話しは、悦子の記憶をそのまま映しているのか、Nikiが悦子から聞きだしたことの再現なのか、あるいはNikiが遺された写真などを見て再構成したものなのかは明らかにされない。これは混乱をもたらすが、これは意図的なものであることが追って見えてくる。
悦子はひとりになってからも長く住んでいた家を処分してどこかに越そうとしており、Nikiは不倫相手との間に子供ができたかもしれず、どちらもこれまでのことにどんより疲れていて、変わらなければ、と思っている - 長崎の場面でも佐知子が、アメリカに行って変わろう、アメリカに行けば変われる、と信じているし、教育者だった誠二も悦子に変わらないとね、と背中を押されている。(悦子と誠二のやりとりは『東京物語』 (1953)の原節子と笠智衆のそれを少し思わせた。1952年の長崎で)
時空を隔てた両側でなすりつけ合うように、本を閉じるように目を背けるように現在と過去を行き来しているうちに浮かびあがってくる、その中心にある悦子の長女の自死のこと、それに対する後悔と自責と。そういう状態のなかで、過去の記憶の正しさなんて、どんな意味があるのだろうか、自分はこれから生きていっても許されるのだろうか、等。
そして/だから佐知子はいったい誰だったのか、万里子はなぜ死を選んだのか、本当のところは最後まで明らかにされない。みんな勝手に逝って、自分はあとに遺されてしまった、という感覚がずっとある。原爆が落ちたあの日からずっと。
たぶん過去と現在の時間軸と、それぞれにおける人物関係の置かれかたや目線の変化などが、きちんと対照関係をなすように細かく寄木細工のように編集加工されていて、この辺は映像だからできることでもあるのかも。そのうえで、”A Pale View of Hills” – 向こうの丘の淡い景色、という。
New Orderの”Ceremony”は、Joy Divisionの最後に作られた曲(作詞はIan Curtis)であり、New Orderの最初にリリースされた曲でもある。こんなに明るい曲を遺してIanは死んじゃって、なんで?と誰もが思った。この曲が映画では始めと終わりの2回流れる。同じイントロなのに違って聞こえる、のではないか。
今回のLFFで見た映画で、エンディングにJoy Divisionが流れた映画がもうひとつあって、もう少ししたら書く。
上映後、監督を含む4人によるQ&Aがあったのだが、次のがあったので出てしまった。
次のは、Richard Linklaterの”Blue Moon” (2025)のガラで、悪い映画ではなかったのだが、あーこれならこっちのQ&Aに残ればよかった… と後で激しく後悔した。
[film] Screen Talk: Chloé Zhao
10月12日、日曜日の昼、BFI SouthbankでのLFFのScreen Talk。
映画祭なのでいろんなゲストが来てトークをする - 今年だとJafar PanahiとかRichard LinklaterとかYorgos LanthimosとかDaniel Day-Lewisとか - のだが、今回見てみたいと思ったのはこの人とTessa Thompsonくらい。 Lynne Ramsayは数年前に話を聞いたことあったし。 でもチケットはぜんぜん取れなくて、しょうがないので日曜の朝に並んだ。
LFFは、昨年もその前からもそうなのだが、チケット発売日にはぜんぜん取れなくて(今年はオンラインのキュー待ちで1時間半)、これだから映画祭って嫌だ、って悪態ついてるのに、始まってこういうのに並んだりしているうちにやっぱりあれも行った方がいいこれも見たいかも、になって結果キャンセル待ちに並んだり、ものすごく無駄な時間を費やしてしまう… のってやはり「お祭り」だからだろうか? (でも東京のでここまでのを感じたことはない)
あと、連日世界中から来たものすごい数のいろんな新作を上映しているのだが、こういうのを追っかける状態から自分の人生を変えてくれるような作品と出会うのってほぼ不可能だよね、って思う。べつにいいけど。
この映画祭では新作の”Hamnet” (2025)が上映されたばかりで、そりゃ見たかったけどチケットぜんぜん取れなかったのでしょうがない(最終日 - 昨日の追加上映も1時間半並んで、結局だめだった)。トークの時点ではまだ見れていない人も多いので、舞台となった本国(原作はMaggie O'Farrell)で上映できてうれしい、くらいにとどめて、過去の監督作からお気に入りのシーンを切り取ってコメントしていく、という構成。
最初は”Songs My Brothers Taught Me” (2015)の教室の、生徒たちの机にいろんな動物たちが湧いてくるシーン。
それから”The Rider” (2017) の仲間とレスリングをして本気になってしまっておいおい、になるシーン。
そして”Nomadland” (2020)からは、Frances McDormandが野宿している若者のところにサンドイッチを持っていってシェイクスピアを誦じるシーン。
“Externals”からはExternalsたちがしょうもない人間どもをどうしようか、って議論しているシーン。
そして新作からもお気に入りだというシーンのクリップが流れて、それを見ると早く見たい、しかなくなる。
“The Rider”ではmasculinity(男らしさ)について、”Nomadland”ではageismについて語ることができるわけだが、”masculinity”については身震いするくらいめちゃくちゃ大好物で、解剖台の上に大切に乗っけて突っついて切り開いて、中を覗いたり、をやるのがたまらないのだ、と。(それなら日本には「九州男児」とかいう特別に強烈な亜種がいるよ、って御招待さしあげたい - ぜんぜん美しくないけど)。
物語やテーマの選び方については、あまり自分で掘って探究していくのではなく、ある程度まで進めた上で向こうからやってくる、やってくるのを待つ、という(多分に東洋的、とも取られそうな)言い方をして、映画を作っていく上での困難について聞かれると、自身のneurodivergenceについて触れ、誰がどこでどんなふうにつっかえて難しくなっているのかが人よりよく見えたり察知したりできるので、人より現場での解決や対応はしやすい、そういうのには強いのかもって。
子供の頃から漫画にどっぷり浸かってきて、映画は親が見ていた中国映画ばかり、初めて見た洋画は”The Terminator”(1984), 次が”Ghost” (1990), その次が”Sister Act” (1992)だったと。ウーピー大好きだって。
音楽については、新作のを担当しているからかMax Richterをベタ褒めしていて、彼の音楽だけでなく音楽に対する考え方にとても共感している、と。
テーマや題材や演技にものすごく強い拘りや信念を持って引っ張っていく、というより来たもの、あるものをとりあえず受けとめて一緒に可能性を探っていく、という柔軟なやり方(プロデューサーには苦労かけてごめん、って)について何度も強調していて、こういう人は強いなー、って思った。
10.18.2025
[film] Peter Hujar's Day (2025)
10月11日、土曜日の昼、West EndのVueっていうシネコンの一部を借りて上映しているLondon Film Festival (LFF)で見ました。
LFFって自分のような一般の参加者にとってはそんなに、ぜんぜん楽しいイベントではなくて、チケットは取れないし、ガラのチケットは高い(£30)し、ふだんだらだら過ごしているBFIのロビーが人でいっぱいになってうるさいし、新作はすぐシアターでかかるものも多いので、目的はスターを見たり会ったり、になるのだろうが、もうそんなに見たい人なんていないし。 はやく通常営業&特集の普段の暮らしに戻らないかなー、ばかり思っている。
監督はIra Sachs、出てくるのはPeter Hujarを演じるBen Whishawと彼にインタビューするLinda Rosenkrantzを演じるRebecca Hallのふたりだけ。76分。
1974年の12月18日、マンハッタンの94thにあるLinda Rosenkrantzのアパートを訪ねた写真家のPeter Hujarは彼女から一日インタビューを受けて、そのテープはどこかに消えたと思われていたのだが、原稿は出てきて、2019年に同タイトルの本として出版された。これを元にIra Sachsが16mmフィルムのこじんまりして暖かい質感でもって撮影した - 撮ったのはデジタルだと思うが。
彼の写真を見たのは10年代にNYのどこかのギャラリーで、写真集も買って、2019年にパリのJeu de Paumeの展覧会にも行って、イギリスに来てからもいくつかのギャラリーの展示に行った。肖像写真が多くて、対象となった人の本質を深い陰影のなかに捉える、というよりも乾いた画面上にぺたりと、ただの影と輪郭として貼っていくイメージがある。Robert Mapplethorpeの(狙ったわけではないだろうが)反対側にいるような。
このフィルムでの彼もそんなふうで、ありきたりの世間話 - お金のこと(お金ない)、健康のこと(まだエイズ禍前なので平穏)、睡眠不足の心配、New York TimesのためにAllen Ginsbergの写真を撮りに行った時のこと、Fran Lebowitzのこと、などを独り言のようにとりとめなく喋っていて、合間にお茶を淹れたりレコードをかけたり、ダンスをしたり、ずっとタバコを吸ってて、ふたりで屋上に行って喋ったり、服はふたりとも何回か替えたりしていた? そんなふうに流れていったある一日のこと。
ふたりが屋上に行った時の風景はロウワ―マンハッタンのようで、でも後の方ではハドソン川に向かう風景もあって微妙に一貫していないのだが、室内の撮影はLinda Rosenkrantzが暮らすアパートをそのまま使ったらしく、インテリアなどはさすが、だった。
そうやってちょっと不思議な彼と一緒にいた時間、ある一日の濃くも薄くもない、でもこんなふうに刻まれた一日がありました、って。
あと、エピソードとして出てくるNYにいた頃のAllen Ginsbergの奇行、変人ぶりって、むかしHal Willnerからも聞いたけど、ほんとひどいな(褒めてる)。
上映後に寝起きみたいに髪ぼさぼさのBen Whinshawのトークがあって、Peter Hujarの動くフッテージがないので – たしかに見たことないかも - 彼がどんなふうに動いたり喋ったりするのかは自分で考えた、と。ものすごく自然に見えて、本当にあんなふうだったのではないか。
Dry Leaf (2025)
10月11日、土曜日の午後、↑のに続けて同じシアターで見ました。
ジョージア・ドイツ合作映画で、ジョージア語にすると”ხმელი ფოთოლი”。
監督は”What Do We See When We Look at the Sky?”(2016)のAlexandre Koberidze。
ロカルノ映画祭でプレミアされてSpecial Mentionを受賞している。186分。
スポーツ写真家をしている娘Lisaが撮影でしばらく旅に出るが探さないでほしい、という謎の手紙を遺して消息を絶ってしまったので、父のIrakli (David Koberidze - 監督の実父)がLisaの仕事仲間のジャーナリストのLevani - 都合がわるいらしく透明人間になっているので声だけ - と共に車に乗って旅に出る、ミステリーぽい導入からのドキュメンタリーのようにも見えるロードムービーで、スタジアムのある辺り、サッカー場のある辺り、を村人とか通りすがりの人に聞きこんで、そこに着くとそこの人や子供にLisaの写真を見せて知らないか? って聞くけど知っている人も手ごたえもなくて、を延々と繰り返す。
映像は昔のVHSの画質 – つまりずっとボケボケで、その見通し、視界の悪さがIrakliのそれと重なって合わないメガネをかけた時のような不安と苛立ちをもたらす。ここには”What Do We See When We Look at the Sky?”にあったのと同じような「見晴らしのよさ」についての考察があり、ヒトだけでなくいろんな動物、牛馬豚ロバ、猫、鶏、などと共に、幽霊のような赤い影が映っていたりする(Apichatpong Weerasethakulぽいかも)。
最後も含めて、彼の旅は結局どうだったのか、ということよりも、生きていくってこんなようなことなのかも、って見えてきたところで枯れ葉(Dry Leaf)が。
10.17.2025
[theatre] (the) Woman
10月8日、水曜日の晩、Park Theatreの大きい方(200)で見ました。
原作はJane Uptonの戯曲、演出はAngharad Jones。90分休憩なし。客層は8割くらいが女性。
ポスターはピンクを背景にペンを手にしてノートを開いた女性がなんなのこれ? っていう困惑の表情でこちらを向いて何かを訴えようとしている。彼女の周りには日常のいろんなものがぐしゃぐしゃに飛び回っている。
最初は薄いピンクの衝立がある病室で、主人公のM (Lizzy Watts)が出産して赤子を抱えてベッドから立ち上がり、ここからいろいろ始まる。背後にはLEDの掲示板があって、Mの頭に浮かんだこととかシーンのタイトル、テーマらしきものが都度吹き出しのように投影されては消えていく。
劇作家でもあるMは次作(戯曲)の相談をしに出版社に向かうと、応対してくれた編集者(男性2名)はやたら丁寧に気を遣ってくれる - “sorry”って言うの禁止ね、とか - のだが、彼女がmotherhood - 「母性」をテーマにしようと思う、というと微妙に様子が変わって、それはすばらしい… けど犯罪とか憑依された赤ん坊とかミュージカル設定を入れよう、とかよくわからない条件 - ちょっと怖そうな要素 - をつけられてなんだそれ? になるとか、赤子と一緒にいても、仕事の会議中でも、友人とNight Outしてても、夫とセックスしていても、どんなシーンでも、自分の中から他人の態度からとても微妙な形で立ち昇ってきてケアされるのを待っているんだか嫌忌されているのかわかんない厄介なmotherhoodのこと - 所与としての子供のケアから面倒から、それに関わる自分のアップダウンに(初めてだから当然の)余計な懸念に心配、そんな自分を気遣ってくれたり触らないようにしてくれる周囲の人たち、など、カッコつき小文字の(the)としてデフォルトでついてくるあれこれをスケッチしていって止まらない。やろうと思えば3時間くらいのネタはあるのではないか(やってほしい)。
こんなふうに、「当事者」である母親ですら困惑して立ち尽くしてしまうmotherhoodについて、ふざけんじゃねえよどうにかしろ! って怒鳴るというより、こういうことになってしまうのはなぜ?なんで? を投げてきて、その困惑の深さ故に控えめに見えてしまうが、どうにかしないと、ってみんなが思っている - ということは客席の反応を見ていても感じた。
これ、育休とか制度の導入とか、”work–life balance”のようなバランスでどうにかできるようなことではなくて、基層とか前提に近いところ(を変えないとどうにもならない)のお話しなのだと思った。それくらい大変だから近寄らない、のではなく。
プログラムはなくて、スクリプトを買ったら冒頭にDeborah Levy, Miranda July, Virginia Woolfらの見事な引用があってそうだよねえ、になった。
Romans: A Novel
10月9日、木曜日の晩、Almeida Theatreで見ました。
原作は”Lady Macbeth” (2016)を書いたAlice Birch、スクリプトは人気なのか売り切れていた。
前日はMotherhoodのお話しだったが、この日はMasculinity - 男らしさ - がテーマとなる。演出はSam Pritchard。舞台の背景はシンプルな黒で、でも漆黒ではなく、見ているとカビのような星雲のようなものがうっすらと浮かびあがり形を変えていく。後半に入るとプールができたり回転したりする。
Victoria朝の時代から現代まで約150年間、男が生まれることを強く望んでいたごりごり家父長制の家長のもとに生まれた3兄弟 - Jack (Kyle Soller) , Marlow (Oliver Johnstone), Edmund (Stuart Thompson)がどんな生涯を送ることになったのかを寓話風に描いていく。
寄宿学校に送られて虐めに耐え抜いて強い兵士となり、二度の世界大戦を経てニューエイジ風カルト教団の教祖になって失墜するJack、虐待によっておかしくなって苛める側に立ってビリオネアのサディストになってしまうMarlow、最後まで自身のジェンダーも含めて馴染めないまま閉じこもっていくEdmund。
モダンからポストモダンまで、どのキャラクターも、映画なり小説なりでいくらでも描かれてきた、今のアメリカの政権にもうじゃうじゃいるような「男」として現れて、造型も含めて違和感ないのだが、でもこれって根っこから腐ってておかしいんじゃないの? 彼らは互いを支配し、苦しみ、愛し合い、最後は被害者ヅラして悲愴感たっぷりでかわいそうに見えるけどなんでそんなことになってしまうの? という根底に見えてくる、劇中では言及されることのないmasculinityについて。それらに対するばっかじゃねーの? として。
もうひとつ、これも指摘言及されることはないのだが近代小説における「男」像がmasculinity のvehicleとして機能・媒介してきたよね、という仮説 〜 コンラッド、ヘミングウェイ、フィッツジェラルドなどの作品で勝者/敗者として選別色分けされてきた男たちのイメージが再生される。今だとここに漫画やアニメやMCUも入ってくるのかも。
これ、日本の家族に設定を置いてもめちゃくちゃわかりやすくはまると思うので誰か翻案しないだろうか。(それを見たくなるかどうかは別)
一見ふつうの家族の年代ドラマふうに見えてしまう、見れてしまうところはあるのだが、とてもおもしろかったのでもう一度見たい。
10.15.2025
[music] Patti Smith
10月13日、月曜日の晩、London Palladiumで見ました。
彼女のデビュー作、“Horses”(1975)の50th Anniversary tourで、英国~ヨーロッパを回ってアメリカにも行くツアーのロンドン2 daysの2日め。
40th Anniversary tourのライブも見たので、50thも行かなきゃ、と思ってどうにかチケットを手に入れたのだが、後になって掘っていくと40thを見た、というのは思いこみで、自分が見たのは2005年の30thの時のライブ(日付は11/30)であることがわかって慄いてしまった。 20年前… この時の場所はBAM (Brooklyn Academy of Music)で、ベースはFleaで、ギターにはゲストでTom Verlaine(椅子に座った状態だった)が参加していた。
会場にはRamonesからPistolsからDamnedからJohnny ThundersからSiouxsie Siouxまで、パンクのスタンダードががんがんかかっている。 前座なしで20時過ぎに始まって、まずは”Horses”の全曲通しから。 ドラムスは当初アナウンスされていたオリジナルレコーディングメンバーのJay Dee DaughertyからPolar BearのSeb Rochfordに替わっていて、アンサンブルはよりタイトに締まった印象。2023年のライブの時は過去の写真を背後にいろいろ映しだしたりしていたのだが、今回はシンプルな黒で、なんもない。
Patti Smithのライブを最初に見たのは1994年だったか95年だったかのCentral Park(おうちのどこかにポスターがある、はず)で、そこから年末のBowery Ballroomでのお誕生日ライブにも通ったり、しばらく空いた後、2023年は、The NationalのサポートをしたMSGのも見たのだが、おそろしいのは声の厚みというかでっかさがどんどん増して、ダミ声みたいな強さになってきていることだろう。 作家として本も書いて、写真集も出して、じゅうぶん隠居しておかしくない歳と容貌なのに(←偏見)、いったいどういうことなのか。
おもしろかったのは、前もやっていたかどうか定かではないのだが、1曲目の"Gloria"のエンディングを割とあっさり終わらせて、それを”Land”の最後に繋げて延々ぶちかましていたことだろうか。 (レコードのエンディングの”Elegie”は、”Land”の前にもってくる)
50年前、喪失と生への不安を抱えて、自分と世界の間にあるなにか/すべてを奮い立たせるべく解き放った”Horses”が、未だにこれだけの震えと畏れをもたらし、未だに何かを駆動し放出し続けている、その強さしぶとさの驚異をどう受けとめるべきなのか。 伝統芸ぽい落ち着きや風格なんて洗練なんて、微塵もないんだからー。
ここでいったん休憩に入って、20分後、Pattiを除いたバンドが出てきて、75年、CBGBで2ヶ月間一緒にやっていたバンドへのトリビュート、ということで、Televisionの”See No Evil”~”Friction”~”Marquee Moon”をカバーする。ヴォーカルはTony Shanahanがとって、”Marquee Moon”はヴォーカルを抜いた短縮版、ギターはJackson Smithががんばっていたが、うー。
“So You Want to Be a Rock 'n' Roll Star”から再びPattiが入って彼女のスタンダードを。エンディングの”Because the Night”の前には2003年に作った”Peaceable Kingdom”をパレスチナに捧げる(”Free Palestine!” コールが)。
アンコールはJohnny Deppがギターで加わり、Pattiの娘のJessieも入って定番の”People Have the Power”を。 それにしても、JohnnyDはなんであんな得体の知れないくそじじいになってしまったのか。
Refused
10月3日、金曜日の晩、O2 Academy Brixtonで見ました。 パンクで繋げてみる。
あまりきちんと追ってきたバンドではなかったが、解散するというし、サポートがQuicksandだというので。
なのだが嵐が来ていてバスが動いてくれなくて会場に着いた時にはQuicksandは始まっていて、どうにか数曲は見れた。ベースなしで、右左をえんえん引っ掻いて止まらない音の塊りで、こういうのは一日聴いていられる。
Refusedのメンバーは、1993年にオスロに来たLiving Colourを見にいった際、前座をしていたQuicksandを見てほれた、って後で言っていた(そうでしょうとも)。
PAにはパレスチナの旗が貼られて、セットを変えている間、ずっと”Free Palestine!”のコールがかかっている。Pattiのライブもそうだったが、ロンドンは割とずっとこんなふうなんだよ。 背後には極太ゴシック大文字で”THIS IS WHAT OUR RULING CLASS HAS DECIDED WILL BE NORMAL”と書かれたでっかい垂れ幕 - 昨年2月、D.C.のイスラエル大使館前で抗議の焼身自殺をした25歳の軍人Aaron Bushnellが最後に遺した言葉である。
思っていたより複雑によくしなる音構成で、真ん中くらいに”Old School Hardcore”って自嘲ぎみの枠でやった“Circle Pit”とか”Burn It”とかが軽やかに浮いていて、でもどっちもよいのだった。なんでもいいのか? なのだが、これに関してはなんでもいいんだと思う。総力戦、という意味で。
ヴォーカルのDennisが言っていた、学校でも職場でも世の中でおかしい、間違っていると思うことがあったり、辛いことがあったりしたら、声をあげていい、声をあげるべきなんだ、そのために僕たちの音があるってことを忘れないでほしい、っていう辺りが沁みた(”Free Palestine!”の声がさらにでっかくなる)。 改めて「政治的なこと」を嫌忌する「音楽ファン」なんて消えちまえ、って強く思った。
最後の方、背後の垂れ幕が”Umeå HARDCORE REFUSED 1991-2025”に替わって、緩急自在に爆発を繰り返す”New Noise”でのモッシュの荒れっぷりはバルコニーから見ていると壮観で、こればっかりは最後だから許してあげてよいのかも、って思った。
もうRATMもRefusedもいなくなった。でも、戦いは続く。
[film] Portrait in Black (1960)
10月2日、木曜日の晩、BFI SouthbankのAnna May Wong特集で見ました。前に書いたシリーズの続き。
邦題は『黒い肖像』。35mmプリントでのフィルム上映。
これがAnna May Wongの生前最後の映画出演作で、彼女の出演作でカラーだったのは、主演デビュー作の”The Toll of the Sea” (1922)とこの最後の作品だけだった、というのは興味深い。
原作はIvan Goff、Ben Robertsによる同名戯曲で、彼らが脚本も書いている。
監督はMichael Gordon、プロデュースはRoss Hunter、撮影のRussell Metty、編集のMilton Carruth、音楽のFrank Skinner、主演のLana Turnerという布陣は、これの前年に彼がプロデュースしたDouglas Sirkの”Imitation of Life”(1959)のをそのまま持ってきている、って。 見比べてみたくなる。
サンフランシスコで裕福な暮らしをしているSheila (Lana Turner)は、海運会社を営む傲慢な寝たきり夫(Lloyd Nolan)の介護をしながら、嫌になって疲れきっていて、そのうち彼の往診にやってくる医師のDavid (Anthony Quinn)と恋におちて、ふたりでうざい夫の殺害を計画して… すべてはうまくいったように見えたのだが、変な手紙が届いたり、運転手や家政婦(Anna May Wong)も何かを知っているようで、面倒そうなやつを消し始めたらいよいよ事態が悪い方にこじれてきて大変になるの。
お話しとしてはつんのめってて間抜けで他愛ないのだが、中心のふたりの何をやってもうまくいかない焦りと苛立ち、浮かびあがる殺意が、端正な社交生活のなかでノワール的に瞬いて膨れあがっていく様がおもしろくて目を離せなかった。Sheilaの意識の外にあった異世界(東洋のそれを含む)からの視線が波状で刺さってきて、その不安が彼女を駆りたてていくの。
Anna May Wongはいつもでっかい猫を抱えていて、それだけで絵になって素敵だった。
Shanghai Express (1932)
9月28日、日曜日の午後に見ました。
Josef von Sternberg監督、Marlene Dietrich主演による問答無用のクラシックなのだが、一番大きいシアターがほぼ埋まっていて、終わったら余裕で大拍手がでて、みんなでおもしろかったねえ、って言いあっている。
わけのわかんないものを大量に積みこんでがたがた走っていく列車に乗りあわせた得体の知れない乗客たちが楽しくて、見ているこちらもそこに乗り合わせてしまったような感覚がくる。 Anna May Wongは、ふつうにシャープでかっこよい。
Dangerous to Know (1938)
10月4日、土曜日の午後に見ました。 35mmフィルム上映。
監督はRobert Florey、原作はEdgar Wallaceの戯曲”On the Spot” (1930)、(共同)脚本をHorace McCoyが書いている。劇のほうはBroadwayで上演されて、Anna May Wongは同じ役で舞台に立ったそうな。見たかったな。
警察にも目をつけられている地元ギャングの親分Recka(Akim Tamiroff)は市長とか銀行を押さえて、やりたい放題ができる闇の王で、うるさそうな次の市長候補だって自殺に見せかけて窓から落としてしまう。そんな彼が社交界のふつうの女性Margaret (Gail Patrick)を好きになって自分のものにしようと彼女の恋人の証券マンを陥れようとしたところでいろいろ失敗して、それらをぜんぶ横で見ながら彼を静かに愛していたMadame Lan Ying (Anna May Wong)が最後に…
非情でわがままで、どこがよいのだかぜんぜんわからない男が自分の知らない、そもそも立ち入るべきではなかった世界にこじ開けて入ろうとしたら破滅して、そんなバカのためにさらに奥の隅の隅でひっそりと犠牲になってしまう彼女がかわいそうすぎて、当時のアジア人女性の位置ってそんなものだったのだろうか、とか。
Daughter of the Dragon (1931)
10月4日、土曜日の夕方、↑のに続けて見ました。 これも35mmフィルム上映。
監督はLloyd Corrigan。 邦題は『龍の娘』。
ロンドンが舞台で、20年前に死んだと考えられていたFu Manchu(Warner Oland – “Shanghai Express”でもアジア人キャラをやっていた)が、実は生きていて義和団事件で殺された家族の復讐に燃えていて、その血を継いだ娘で、エキゾチックダンサーのPrincess Ling Moy (Anna May Wong)は彼の子分から父が生きていることを知らされ、敵の屋敷にいる父を訪ねていって、そこにスコットランドヤードのAh Kee(Sessue Hayakawa)などが絡んでお屋敷の捕り物アクションになっていくの。よくわかんないけど、おもしろそうならいいや、のこてこてB級東洋伝奇アクション。
早川雪洲がなかなかかっこよいのだが、あんな高いところから落ちても死ななかったのにはちょっと驚いた。
Anna May Wong、これの次に出演したのが“Shanghai Express”で、彼女のキャラクター的には繋がっているような。
Piccadilly (1929)
10月5日、日曜日の午後に見ました。
監督はドイツのE.A. Dupont、原作はArnold Bennettによるサイレントのイギリス映画。
ロンドンのナイトクラブ”Piccadilly Circus”が舞台で、人気踊り子組のMabel (Gilda Gray)とVic (Cyril Ritchard)がいて、でもふたりの人気も陰ってきたところで、経営者のValentine (Jameson Thomas)は地下で皿洗いをしていたShosho(しょーしょー)(Anna May Wong)と出会って、試しに彼女に出て貰ったらこれが当たって、でもそれが次の悲劇を呼ぶことに… ピカデリーにはこんなナイトクラブがあったんだなー、あったんだろうなー、って。 Charles Laughtonが変な客としていたり、Ray Millandがエキストラでいたり。
Anna May Wongのダンスシーンが有名で、確かにすごくうまい、ということではないのだが、横で伴奏している男も含めて目を離せなくなる不思議な磁力があるの。
上映が始まって30分くらい経ったところで突然火災報知器が鳴って、他のシアターの人たちも全員外に出なければならず、ちょっと集中力を削がれてしまった。
今回のこの特集、フィルム上映やサイレント伴奏だけでなく、イントロやレクチャーが沢山ついて、アメリカ西海岸からも研究者を呼んだり、とても熱が篭っていてよかった。メインストリームとはちょっと違う位置や属性の下に置かれた彼女の出演作品を通して見ていくことで見えてくるものって確かにあるなー、って改めて。
10.13.2025
[film] Tron: Ares (2025)
10月10日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。久々なので3Dにしてみた。
最初の“Tron” (1982)も次の”Tron: Legacy” (2005)も実は見ていない。
コンピューターの向こう側に別の世界があったり別の人格が潜んでいたりする、というのは、もうコンピューターができて50年くらいになるのだからもういい加減諦めたらどうか、と思うのだが、ひとは夢みることをやめないし、最近はAIなどもあるので、まだ諦めていないらしい。でもあれらはものすごい労力と奴隷仕事の積み重ねでできあがった - 大半はゴミみたいな – ただのコードの羅列でしかない。 という認識は80年代からあったので、それを甘ったるくて超ださいコンピューターグラフィックスで包んで「SF」の名のもとに商品化したディズニーにはあーあ、しかなくて、いや、あれはアニメーションのようなものだから、というのであれば、アニメにしてもやっぱりださいし、でしかなかった。
今回見ることにしたのは音楽がNINだったから。 ディズニー側も早い時期からNINのロゴを入れて宣伝しまくっていたので、ちょっとは違って見えるのかしら、くらい。なので音もでっかいIMAXにしたのだが、あんまし変わんなかったかも。 ていうか、Trentは自分の音のバックがあんな程度のリンゴ飴みたいなグラフィックスで満足しちゃうわけ? 昔の君だったら絶対採用しなかったでしょ?
ENCOMとDillinger Systemsの2大グリッド企業があって、Dillinger Systemsの世襲のCEO – Julian (Evan Peters)は3Dプリンターを使って兵器とか29分で消える(なんで?)最強の使い捨て兵士Ares (Jared Leto)をリリースして、ENCOMのCEOのEve (Greta Lee)はそのデジタルの生成物を永遠に存続させることができるコードをアラスカの山奥から発掘して、それを知ったJulianはそいつを手にいれるべくENCOMのメインフレームに襲撃をかけて、Aresなどを総動員してEveをさらってこようとするのだが。
競争相手の新技術をかっさらうためにロボットを投入したらそのロボットが寝返ってひどい目にあいました、ママ(Gillian Anderson)にも怒られたけど、ママも死んじゃいました、っていうそれだけの話で、一企業があそこまでめちゃくちゃやっても許されるのだからなんだって許される、っていう、ここだけ今と繋がっていそうなディストピア。
そもそもなにをしたいのかが(説明されていたのかも知れないけど)よくわかんなくて、兵器市場の寡占化?世界征服?それで? とか、永遠に存続させるコード(不老不死の薬みたいな?)もネットから隔絶された山中に保存されていて、引っぱりだしたばっかりに大騒ぎになって、こっちもよくわかんない、みんな落ち着け!ほんとうにやりたいことはなんなの? って聞きたくなる。(ディズニーに聞け)
テック・ビリオネアって、なんでこんなふうに碌なことしないの?そういうバカがなれる世界なの?バカだからなれるの? 地球とか学術の世界にまともなことをしてくれる正義の味方の極左のビリオネアっていないの?
あとはあれよね。なんでデジタル生成物に髭を生やさせたり左利きにさせたりする必要があるのか、とか。そんな生成物がなんでDepeche Modeを80’s popで一番だと思うのか、とか、なんでJeff BridgesはCGじゃなくてリアルに歳をとった姿をしてみせるのか、とか。
まだまだ続きそうなかんじなのがこわい...
NINの音としては、(NIN名義ではないが)“Challengers” (2024)のサントラのゴムみたいに打ち返していく弾力が効いてて、本体の中味がない –“Challengers”も割とそうだった - ことを考えるとゴスでダークなとぐろ巻きにしなかったのは懸命だったかも。Nine Inch Noizeの流れもあるので当分はリズム方面を追求していくのかしら。
All of You (2024)
9月28日、日曜日の晩にCurzonのVictoriaで見ました。
これも近未来っぽい設定のだったので、メモ程度で書いておく。
作/監督はWilliam Bridges。
舞台は近未来らしいロンドン。大学の頃からつきあっていたSimon (Brett Goldstein)とLaura (Imogen Poots)がいて、町には100%の相手を見つけることができるよ、テストを受けましょう!っていう勧誘の広告が溢れていて、Lauraは悩んだ末にテストを受ける/受けたい、って言ってSimonもそれに同意する。
で、Lauraはテストの結果でマッチングされた男性と一緒になって結婚して、子供ももうけて、でもテストを受けていないSimonはずっとLauraのことを想っていて、別の女性とつきあってもしっくりこなくて、Lauraもそれを知っててたまにデートをしたりして、でも今の家族と別れるかというとそこまではいかなくて、ふたりでずっとうだうだしているの。それだけなの。
なんでそこまでテストの結果に縛られるのかわからなくて、それが「幸せ」を予測してくれているから、なのだとしたら悩むな、しかないと思うのだが、彼らはずっと悩んでいてあんま幸せには見えなくて、そんなの知らんがな、になるの。
最後までどんよりめそめそしているImogen Pootsは素敵なのだが、設定がありえないくらい陳腐で、なんで?ばっかりだった。某宗教団体の合同結婚式に科学をまぶしただけの、そんな未来を描いたディストピアもの、として見るべきなの? 表面はrom-comだと思ったのに?
[film] Thelma & Louise (1991)
10月5日、日曜日の夕方、BFI Southbankの特集 - “Ridley Scott: Building Cinematic Worlds”で見ました。上映前に監督Ridley Scottのトークつき。
短編からMezzanineを使った企画展示から過去作品のclapperboard(カチンコ)を壁にずらりと並べた展示とか、BFIの売店では彼のサイン入り赤ワインの大きいボトル(£300)を売っていたり - なども含めた総括的な回顧で、この中で自分は”Boy and Bicycle” (1965) + “The Duellists” (1977)の二本立てとか”Someone to Watch Over Me” (1987)を見たくらい。
今や世界的な巨匠であることは確かなのだろうし、新作がリリースされたらふつうに見るのだが、昔から映画ファンだったわけではない(今だってそう)ので、”Alien” (1979)とか”Hannibal” (2001)とか、怖そうなのは見ていなくて、この”Thelma & Louise”も見ていなかった。トークの際に「見たことない人?」で手を挙げた1/3くらいに入っていて呆れられたが、公開当時は”Bonnie and Clyde”の女性版、という紹介のされ方(つまり最後は死んじゃうので悲しい)で、今みたいにフェミニズムやLGBTQ+文脈で語られることなんてなかったの(←言い訳になっていない)。
監督のトークは、よく話題になるメインの2人のキャスティングについて、既にいろんな名前があったりするが、今回はMeryl StreepとMichelle Pfeifferの名前が出て、他にはHans Zimmerのどうやって作ったのかわからん音楽の凄みとか、ロケはどこをどう切っても絵になるので楽しかった、とか、割とふつうで、翌日一部で話題になったらしいこの日の別枠のトークでの、「今の映画は殆どがクソ」発言も見ればわかるごりごりの頑固じじいぶりが素敵だった。
フィルムは今回の特集のために焼かれた35mmのニュープリント。最初の方のごちゃごちゃしてもうやだ! の鬱屈して湿った空気が後半に向かってどんどん晴れて風景と一緒に視界が広がっていく(彼女たちが広げていく)のが爽快なロードムービーで、男たちは全員が揃いも揃ってバカで腐ったろくでなしで、”The Blues Brothers (1980)のふたりは生き延びたのに彼女たちはなぜ死ななければならなかったのか、なぜあそこでLouise (Susan Sarandon)は、死のう!ってThelma (Geena Davis)に言ったのか、等について少し考える。
いまリメイクするとしたらメインのふたりは誰がよいかしら? とか(暇つぶし)。
Boy and Bicycle (1965)
9月4日、木曜日の晩に見ました。
27分の短編でRidley Scott自身がカメラを回して、弟のTony Scottが主演して、音楽はJohn Barryに格安でやってもらったデビュー作。地表の横線の置き方とかそこに向かって乗り物(ここでは自転車)が走っていく姿には既に彼の特徴が表れているように思ったが、それよりも彼のフィルモグラフィーが熊のぬいぐるみのアップから始まっている(エンディングも)ことはちゃんと記憶しておきたいかも。 ↑の週末にはこの二本立て上映に合わせた監督のトークもあったので、この辺、だれか質問したのかしら?
The Duellists (1977)
↑のに続けて見ました。邦題は『デュエリスト/決闘者』。
BFIアーカイブからの35mmのフィルム上映で、色味とか光のかんじも含めて70年代のヨーロッパ映画にしか見えない。原作はJoseph Conradの”The Duel” (1908)、19世紀初のフランスの、ナポレオン軍に従軍する二人の兵士 - Keith CarradineとHarvey Keitelによる30年に及ぶ決闘の歴史を描く。
ぜんぜんやられない懲りないねちっこいのに妙に爽やかに時間を超えて追っかけてくるHarvey Keitelがよい味で、ここは”Thelma & Louise”の彼の役にも引き継がれているような。
この最初の2本にあった軽妙な軽さがいつの頃からかどこかに行ってしまった気がして、それは何がそう見せているのか、ただの気のせいか、とか。
10.11.2025
[film] Islands (2025)
10月4日、土曜日の昼、BFI Southbankで見ました。
新作で、監督はドイツのJan-Ole Gerster。
Tom (Sam Riley)はカナリア諸島のホテルリゾートで専属のテニスコーチをしていて、昼は滞在客の子供や老人相手にレッスンをして、夜は地元のクラブに出かけて踊って酔っぱらってビーチで目覚める、みたいなことを繰り返している。
ある日、泊まりにきたイギリス人の裕福そうな夫婦のAnne (Stacy Martin)とDave (Jack Farthing)から彼らの息子の個人レッスンを頼まれて、ついでに彼らの部屋を裏でアップグレードしてあげたりしたことから親しくなって、一緒に食事をしたり観光したりラクダに乗ったりするようになる。 AnneとDaveは二人目の子供ができないことでちょっとぎすぎすしていて、互いの話を聞いてあげたりして、TomがDaveをクラブに連れていって呑んで騒いだ翌朝、Daveが消えてしまったことを知る。最初は酔っぱらってどこかに、と思っていたのだが現れないので警察に届けて本格的な捜査が始まって、そうしてAnneとTomは一緒にいるうちに親密になっていって、Daveのほうはぜんぜん出てこないのでどこかでもう亡くなっているに違いないし、それでもいいか、と思っていると…
捜査中に浮かびあがるAnneの怪しい挙動とか、ちょっとミステリーぽいところもあるのだが、そこにTomの日差しは強いのにいつまでもどんより投げやりの日々 - Daveと同じようにいつ消えてもおかしくない、むしろ消えちゃえって思っているTomの澱んだ姿に、何を予知しているのか飼育場からの脱走を繰り返す観光用ラクダの姿が重なっていく。Daveの捜索で、海からこのラクダの死体があがるシーンはなかなか素敵。
全体に70年代のアントニオーニみたいな、ブルジョアの腐っていく世界に漂う焦燥と倦怠がゆったりとクールに描かれていて、ちょっと長いけどそのリズムも含めて悪くなかったかも。Sam Rileyがすばらしくよいし。
Brides (2025)
10月3日、金曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
これも新作で、監督はNadia Fall - ずっと演劇畑でやってきた人で、National TheatreでNicholas HytnerのADをしていたり、今はYoung Vicで上演中の”Entertaining Mr Sloane”の演出をしている - の長編映画デビュー作。 予告にイスタンブールと猫が出てきたので見た。
2015年、15歳で家出してシリアのISに入隊したShamima Begumの事件を元にしたドラマ。
同じ学校に通うDoe (Ebada Hassan)とMuna (Safiyya Ingar)の親友同士がいて、冒頭はふたりがばたばたと電車で空港に向かい、出国審査を済ませて飛行機に乗ってイスタンブールに向かうところから。ここまではふたりの冒険が始まるどきどきがあるのだが、トルコの空港に着くと、来ているはずの迎えはいないし来ないし、とりあえずバスで国境近くまで行くしかないか、って、まずイスタンブールに向かうのだが、そこでDoeはパスポートなど一式を失くして…
無口で内気なDoeと強くて奔放なMunaのコンビは素敵で無敵のようなのだが、旅の途中で英国での彼らの家族や学校での辛くしんどくうんざりの日々が重ねられて、旅先での困難を支えるのはもう二度とあそこには戻りたくない、って家を出た強い意思、というその部分は普遍的に伝わってくるものだが、そこから彼女たちがどこに向かって何をしようとしているのか、は伏せられている。困っている彼らを助けて親切に泊めてくれたバスターミナルの女性とその家族を裏切るようなことまでしたり、最後に車に乗せてくれたパパと娘たちの幸せそうな姿を置いても、ずっとママから電話とメッセージがくるDoeのスマホを壊してまで彼女たちの国境を超えようという決意は揺るがず、絶望の深さが知れて、それはもうほとんど自殺のようなものに見えるのだが、最後に描かれるDoeとMunaの最初の出会いのシーンを見ると、それしかなかったのだろうな、って。後からいくらでも言うことはできる、というー
女の子ふたりの友情、を甘く切なく描くようなやり方ではなく、特に真面目なDoeの苦悶の表情を見るとどこかにたどり着いたから決着するものでもないのだろうな、って思えて、ふたりの女性の映画として成立させようとしているように見えて、そうするとタイトルの”Brides”が。
10.10.2025
[film] A House of Dynamite (2025)
10月5日、日曜日の昼、BFI Southbankで見ました。
公開直後のイベントで上映後に監督Kathryn Bigelow他とのQ&Aがある。
この週末のBFIはRidley Scott一色で、監督本人が来て、彼の代表作いろいろの上映(ほぼ35mmフィルム上映)の前にイントロしたりQ&Aしたりトークしたり、彼のサインを求める人たちでざわざわしていて、自分もこの日の夕方に”Thelma & Louise” (1991)とじじいを見た(そのうち書く)。
脚本はNoah Oppenheimで、監督とふたりでいろいろ練りあげて行ったことが後のトークでわかった。
映画は112分あるが、対象となる出来事は18分間で、この18分を3つのセグメント、いろんな登場人物視点や立場に分けたり引き伸ばして見せる。彼女の得意な突発的なアクションや爆発で人や建物が吹き飛んだり、は今回はない。登場人物たちは、仕事場の端末、スマホの画面、会議室のモニターに向かって苛立ったり怒鳴ったりしている動きが殆どで、明確な敵はいない、見えない – 誰が仕掛けたものなのか明確にはわからない、という点では”The Hurt Locker” (2008)の怖さに近いのかもしれない。
アラスカの米軍基地で発射を確認されていないで飛んでいる大陸間弾道ミサイルが発見され、最初は何かのテストかと思っていたのがどうもそうではなく、シカゴに向かっている本物らしい、ということがわかってくる。ホワイトハウスではOlivia Walker (Rebecca Ferguson)がいつものように出社してオフィスで各担当と繋いだところで、ミサイルの情報が来て、彼女たちも最初はなにかのドリルではないかと疑うのだがそうではなくて、脅威レベルが引き上げられて、アラスカの軍が迎撃に向かうものの失敗して、数分後には間違いなく米国領内に飛んでくることがわかる。
パニックになることを承知で市民に伝えるべきか、報復すべきなのか、するとしたらそのタイミングは、などが渦巻く中、ホワイトハウス関係者にも避難勧告が出て、Oliviaにも家族がいるしどうしよう.. の辛さとどうすることもできないもどかしさが受けとめ難い事実としてのしかかってくる、けどどうしようもない。
続くセグメントでは、USSTRATCOM(アメリカ戦略軍)のAnthony Brody (Tracy Letts)将軍が即時報復すべきかどうかについて大統領のセキュリティアドバイザーのJake Baerington (Gabriel Basso)と衝突して、議論が宙に浮く。ロシア外相は関与を否定し、北朝鮮についてエキスパート(Greta Lee)に聞くと発射できる可能性はある、という。でも確実な情報は得られないまま、で、どうする? に戻る。
最後のパートは、合衆国大統領(Idris Elba)で、女子バスケットボールのイベントに出ていたところを緊急で呼びだされ、こういう有事のアドバイザーであるRobert (Jonah Hauer-King)から分厚いマニュアルをもとに打つべき手について説明されて判断を求められるのだが、決められない。困ってRobertに聞いても、自分は取りうるオプションについて説明するだけですから、と返される(そりゃそうよね)。
事態に直面する職員から最終決定をくだす大統領まで、3つのレイヤーで上に昇っていくものの、限られた時間で判断するには情報が足らなすぎるし、でもそれに伴う犠牲と被害は大きすぎるし、責任の重さだけでなく、みんなそれぞれ愛する家族がいて、という明日にでも十分に起こりうる渦の緊迫を描いて、そうなんだろうな、そうなるよな、しかない。(シナリオ作りにはそれなりの中枢の人たちが参画しているので相当にリアルなものだ、と後のトークで)
だからー、抑止力とか言って核を持って広げるのは簡単だけど、それがもたらす事態って現場レベルに来ると具体的にはこうなるのだよ、って。 あと、“Oppenheimer”(2023)でもそうだったが、核がもたらすリアルな災禍については、この映画でも触れられない。この辺には巧妙な狡さを感じる。実際に起こったことなのに。かつてアメリカが起こしたことなのに。という、結果としては隅から隅までアメリカの前線で戦っている人々を讃える、それだけの映画でしかなくて、ここから核を失くすべき - 失くそう、の議論には行きそうにないのが。
あとそうよね、この映画は美しいくらいの統制と緊張に貫かれているのだが、現実のいまの大統領の下でこれが起こったら一瞬で世界は灰になるのが見える。Tomでもムリ。
映画の”Independence Day” (1996)だったら大統領が戦闘機に乗って突撃にいくし、ここの大統領はIdris Elbaなのでやってくれるか、と思ったがやっぱりそれはなかった。
上映後のQ&AはKathryn Bigelowだけでなく、脚本のNoah Oppenheim、Rebecca Ferguson、 Tracy Letts、Jonah Hauer-King、撮影のBarry Ackroyd、音楽のVolker Bertelmannが並んだ。監督だけだと思っていたのに、Rebecca Fergusonさんまで見れてうれしい。
質問コーナーで印象に残ったのは、ゲティスバーグの戦いを祝うイベントとかリンカーンの像とかが映しだされる場面があって、その意味を問われて、まあ普通の答えだったのだが、Tracy Letts(”Lady Bird” (2017)のパパだった人だよ)が手をあげて、もうひとつある - ここで描かれているようなことが起こったらこんなレガシーなんてなんの意味もなくなる、ということだ。いまのアメリカを見ろ、って。(拍手)
Tracy Lettsさんは、彼の書いた舞台、”Mary Page Marlowe” – 主演Susan SarandonをOld Vicでやっているので見に行く。
あと、撮影のBarry Ackroydの、どこにカメラを置いているのかわからないくらい多くのカメラを置いて撮っていくやり方とか。Ken Loachに学んだそうな。
10.09.2025
[theatre] Titus Andronicus
9月29日、月曜日の晩、Hampstead Theatreで見ました。
もとはStratford-upon-Avonで演っていたRSCの舞台がLondonに来たもの。
原作はシェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス
』(1593-94)、演出はDavid Tennantの”Macbeth”を演出していたMax Webster。音楽はMatthew Herbert。
Titusを演じていたSimon Russell Bealeが健康上の理由で降板してJohn Hodgkinsonが演じることになった。 元のポスターにあった、血まみれになって叫んでいる丸っこい熊みたいなSimon Russell Bealeを見たかったのでちょっと残念。
なぜか舞台を囲む席のうち一番前のが取れてしまったのだが、席に着く前に、「あなたの席の下にはブランケットがあります。シーンによっては血しぶきが飛んでくることがあるので、それでガードしてください。飛んでくる可能性がある箇所は3つあるのですが、知りたいですか?」と聞かれて、(そんなの知ってたらおもしろくないじゃん)だいじょうぶ、と返した。のだが、横の人たちを見ると、みんな首までしっかり被っているのでちょっと不安になる。そうやって首まで巻いているとぽかぽかしてきて眠気が…
舞台はモダンでモノクロームで殺風景で、金属の格子があったり上から拷問器具の鎖がさがっていたり屠殺場のように冷え冷えしていて、床は大理石の薄白で、表面にうっすらと墓碑銘のような文字が掘ってあることがわかる。
黒のタイトな服を着たダンサーのような男性たちが数名出てきて、くねくねざわざわ、っていうかんじの不吉っぽい舞いをして、消える。以降、彼らは場面転換のたびに現れたり、死体を舞台(石盤)の下に埋葬(落と)したりする。
ゴート族との戦いに勝利し凱旋したローマ軍将軍Titus(John Hodgkinson)の運命を追う血みどろの史劇で、復讐と憎悪に燃える側とその炎に焼かれる側で、互いの家族の妻や娘や息子が強姦される舌を切られる両手を切られる、自分で腕を切る、人肉パイにされる、など残酷陰惨な場面が延々続いて大変で、これらがモダンでクリーンな空間でしらじらと(ライブで見るとどたばた音は恐いくらいやかましく)展開される。 だから戦いや復讐は虚しい、とか、だからやっぱり家族は大切、とかそういうところにも向かわず、こんな諍いなんて屠殺場のin-outとなにが違うのか、って。それだけで、Titus Andronicusの将軍としての威厳や悲愁もないことはないが、そんなことより、これは不可視なところでの拷問や虐殺が正当化されて、膨れあがる憎悪の裏側でぴかぴかの表面だけがもてはやされる現代の権力者たちのしょうもなさを指しているんだろうな、って。
血しぶきはずっと来なかったのだが、ちょっと油断した – Tamora (Wendy Kweh)が刺殺されるところ - でばしゃーって飛んできて顔にかかった(冷たい。絵具の匂い)。
Troilus and Cressida
9月30日、火曜日の晩、Shakespeare’s Globe Theatreで見ました。
二日間続けてShakespeareの史劇を見ようと思ったわけではなくて(Shakespeareはなにを見てもおもしろいことがわかってきたので、なんにしても可能な限り見る)、もう野外で見る劇は日が短いし、天気も安定してないし寒いしで、気候が崩れないところを狙ってて、たまたまこの日はよさそうだったので、昼間に空いているところを取った。休憩をいれて約3時間の野外劇は、夜になるとやっぱり冷えて寒くて、休憩時間に帰ってしまう人も結構いた。
原作はシェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』 (1602)、演出はOwen Horsley。
舞台の右手には半分壊れたでっかい張りぼての足が無造作に置かれて、金メッキが剥がれていて、その少し上には”TROY”っていう矢印の看板がやはり棄てられたようにかかっていて、いまは錆びれてしまったかつての繁華街の趣き。舞台の上の階にいるバンドもブラスと太鼓が中心の気の抜けたちんどん屋風情。
最初はトロイ側(8人)とギリシャ側(9人)のそれぞれの見得の張りあいで、トロイ側は金を塗ったむきむきの筋肉鎧をつけていて威勢も景気もよくて、でもそのギャップはあくまで冗談のように機能していて、最初に舞台の下から現れた道化のThersites (Lucy McCormick)がいろいろやさぐれで案内してくれる。もうひとつのテーマであるTroilus (Kasper Hilton-Hille)とCressida (Charlotte O’Leary)の恋も、大阪のおばちゃんみたいな(←すみません偏見です)Pandarus (Samantha Spiro) によってかき回されてばかりで落ち着かない。
Cressidaがギリシャ側に売られた後の顛末も、あまり悲劇的なトーンはなく、だからどうしろっていうのよ、みたいなふてくされと共に語られて、あまりにしょうもないので笑ったり歌ったり騒いだりするくらいしかないじゃん、になってしまって、とにかく神々も含めていろんな連中がわらわら出たり入ったりしつつコントやミュージカルみたいなのをやっていくので、飽きないことは確かで、よく言えば戦乱期の混沌と落ち着きのなさ、みたいのは表現できていると思ったが、そもそもこういう劇なのかしら?
最後は吉本小喜劇?(←すみません見たことないです)みたいにみんなで踊ってまわってええじゃないかー、みたいになるのだが、やはりどうしても、はて何を見たのか? にちょっとだけなったかも。
10.08.2025
[film] Arena Legacy
10月1日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
9月の特集だったTV局 - Associated-Rediffusionのシリーズとは別で、BBCのドキュメンタリーTVシリーズ - ”Arena”の放送開始(第一回放送が1975年10月1日)から50周年を記念して、アーカイブから2番組を上映して、シリーズ全体の制作責任者だったAnthony Wallから話を聞く、という企画。
アートや文化に関する人やトピックを取りあげて掘り下げていって、どんなエピソードが放映されたかはWikiにもあるし、BBCのサイトにもあって、(英国内なら)配信でほぼ見れるようになっている。Dylan ThomasとかHarold PinterとかJorge Luis BorgesとかJean GenetとかEvelyn WaughとかEdward Saidとか、作家についてのもの、Edward HopperやFrancis Baconといった画家についてのもの、史跡から建物まで、なんでもあって、とても見たいのだが、ロックダウンでも起こらない限り、いまあれこれ見ている時間はないや…
この日上映されたのは2プログラム。番組のオープニングは海を漂うボトルのなかにネオン文字の”Arena”が浮かびあがり、音楽はBrian Enoの"Another Green World”だったりする。
My Way (1979) 37min
誰もが知っているスタンダードの曲”My Way”について、Frank SinatraからElvis PresleyからSid Viciousまで、なんでこの曲がそんな世界のスタンダードになったのか、楽理とか歌詞とかいろんな角度から掘り下げたり、あなたにとっての”My Way”とは? をイギリスの保守系政治家に聞いてみたり、そのアプローチがおもしろい。
元はフランスの"Comme d'habitude"っていう曲で、それをPaul AnkaがSinatraが歌う用に英訳してリリースしたら爆発的にあたって、それ以前だとDavid Bowieがフランスのオリジナルに強引に英詞を被せるようなことをしていたり – これが後に”Life on Mars”になった、と。
みんながどんなにこの曲を愛しているか、というよりいかに誰もが自分の”My Way”を叫んだり歌ったり訴えたがっているのか、がよくわかる内容で、とてもおもしろい。ある人が”My Way”を歌って叫ぶことで犬の遠吠えみたいにわんわん広がっていくその効果のありようとか。応援歌というよりやはり遠吠えに近いものなのかしら。
ラストはSid Viciousの“My Way”で、真ん中で反転させるようにSinatraのを被せて、最後ふたたびSidのに戻って、それでも曲のぎらぎらしてて、実はクールに見えてしまったりのイメージは揺るがない、というのを示す。
こんなふうに、結構作りこんだところも含めて単なるドキュメンタリーに留まっていないような。
日本のスタンダード演歌とかでやってもおもしろくなるかも。
Chelsea Hotel (1981) 55min
NYのランドマーク建物 - 建物がすごいとかではなく、そこに引き寄せられた人々がすごかった - Chelsea Hotelについて、ホテル内に観光ツアーの一団がぞろぞろ入っていくのを横目に、当時の住人などにインタビューしたり、Stanley Kubrickの”The Shining” (1980)よろしく、三輪車に乗った子供がホテル内を走り抜け抜けていったりする。
そうやって子供が走っていった先 - Arthur C. Clarkeが”2001: A Space Odyssey” (1968)を書いた部屋で、ヘッドホンをしたAndy WarholとWilliam Burroughsが一緒にウサギを食べてて、BurroughsがWarholにサインして絵まで描いてあげた自著をプレゼントするとか。そういうのを筆頭に、大昔から文化人や(文化人=)変態が滞在したり居住していたりしたホテルの謎に迫る -
のはずだったと思うのだが、あんな人もいる、こんな人もいた、をやっているうちに住み心地とかインスピレーションの起源とか、そういう知りたい本題などから外れていってしまうのがおもしろい。作曲家のVirgil Thomsonが語るGertrude Steinとの思い出とか、Alice B. ToklasのCook Bookでアメリカ版の初版から削除されたレシピのこととか、幽霊みたいに歩いていくQuentin Crispとか、屋上の家(? あんなのあるの?)でピアノを弾くJobriathとか、”Chelsea Girls”を歌うNico(横でギターを弾いているのはだれ?)とか、ホテルを舞台にしたホラーよりもわけのわからない人々が幽霊のように現れては消えていく。
そしてこれが撮られたのが44年前であることを考えると、ここに写っている多くの人たちもみんなほぼ亡くなっていて、どっちみち幽霊屋敷、じゃないホテルなんだなー、って気づいて、マンハッタンのほぼ真ん中にこれだけいろんな化け物が跋扈する場所があったのか、と(まだあるけど)。
本当なら2時間くらいの内容になってもおかしくなかったし、してほしかった。
今回上映された2本の共通項、というとSid Viciousだと思うのだが、そこは意図したものだったのか? をちょっと聞きたかった。
数ヶ月前の特集でやっていた”Moviedrome”のシリーズにしても、こういうのがTVを点けたら流れてくる、っていうのが「文化」を作ったのだろうなー .. 今と昔ではTVの位置も文化も変わってしまっている、とは言えいいなー、しかなかった。
10.06.2025
[theatre] The Land of the Living
9月27日、土曜日のマチネをNational TheatreのDorfman Theatreで見ました。
原作はDavid Lanの新作戯曲、演出は(映画監督としても知られた)Stephen Daldry。
Dorfman TheatreはPitをいろいろ加工リフォームできるのだが、今回は舞台をランウェイのように縦に長くぶちぬいて、突き当りに重そうな扉と、本棚とピアノ。反対側には扉と簡素なキッチン、現在のRuthが座る揺り椅子。ステージの下、客見えるところにも書類棚が沢山並んでいる。舞台に本棚があって本が詰まっていたり書類が積んであったりすると(自分が)嬉しくなることに気づいた。客席のA列とB列の間も兵士たちが通り抜ける狭い道になっていたりする。
第二次大戦の頃、ナチスがスラブ系の子供たちを家族から引き離して誘拐し、遺伝的要件を満たしていればドイツ人家庭に入れてドイツ人として育てる、というLebensborn計画(の後始末)を巡るドラマ。連れ去られた子供の数は数十万人、ヨーロッパ全土で1100万人に及んだ避難民が収容されていたキャンプからRuthのいたUNRRA(the United Nations Relief and Rehabilitation Administration)は本国送還などを支援して軍と一緒に欧州各地を転々としていた。
1990年のロンドン、戦後から45年経って、Thomas (Tom Wlaschiha)がRuth (Juliet Stevenson)の家を訪ねてきて、ピアノを弾いたり、昔話をしていく中、幼い頃のThomas (Artie Wilkinson-Hunt)のこと、そして戦後処理をする国連のUNRRAとしてやってきて、引き取られた子供たちをドイツ人家庭から再び引きはがして故郷に返す活動をしていたあの頃のRuthと子供たちのことが蘇ってくる。Thomasにとってはあの時の自分に何が起こったのかを知ること、Ruthにとっては、あの時の自分に何ができなかったのかを掘りさげること – どちらにとっても楽しく懐かしい振りかえりの旅ではない。
現代のRuthの部屋と当時に繋がる長い廊下を行ったり来たりしながら、戦時下の銃声が鳴り響く中での混乱、母たちの声と嘆き、子供たちからすれば引き離される不安と恐怖のなかに置かれた孤独、どれだけ手を尽くしても終わりの見えないRuthたちの疲弊、これらが縦長の舞台を目一杯使って延々描かれていって、客席の背後の闇からはThomasだけではない多くの子供たちの声や気配がずっとしている。
これらは勿論、いまの移民、難民政策にも繋がる話で、”The Land of the Living”とは何なのか、国境の右左だけでなく、家族が一緒に安心していられる・暮らせる場所ではないのか、ということを改めて。いまの時代であれば尚更に。
劇としてはメッセージも含めてものすごくいろんなことを詰め込み過ぎの印象があって、戦中と戦後を繋いで次から次へといろんなことが起こって、俳優陣もいくつかの役をかけ持ちしつつ舞台を代わる代わる駆け回って大変そうだったが、見ている方も咀嚼している暇がなくてちょっとしんどかったかも。これなら映画にした方が... とか。
Creditors
9月25日、木曜日の晩、Orange Tree Theatreで見ました。
原作はスウェーデンのAugust Strindberg(画家でもある)による同名戯曲 “Fordringsägare” - (1889) - 邦題だと『債権者』。英訳はHoward Brenton、演出はTom Littler。 休憩なしの約90分。
ホテルの一室に画家のAdolf (Nicholas Farrell)が療養のため長期滞在していて、そこに滞在している友人のGustav (Charles Dance)が訪ねてきて、Gustavに勧められてAdolfは粘土彫刻をやってみたが女性像はあまりうまくいかなかったり、ふたりでAdolfの妻で小説家のTekla (Geraldine James) – Gustavの元妻でもある – を待って彼女のことを話題にしながら、Teklaをどうしてやろうか – のようなことをそれぞれが考えているよう。やがてTeklaがやってきて、
“Creditors”は3人が互いのことを言う際に使ったりする言葉で、過去の関係においてそれぞれが何らかの負債のようなものを負ったり負われたりしつつ、自分が相手のことをそれぞれのやり方で上に立ってやりこめたりどうにかできるのではないかと踏んでいる、そんな三つ巴のやり取りが続いて最後には..
内に何かを秘めて煮込んだ一筋縄ではいかない初老の男女たちのドラマで、全員めちゃくちゃ自然のようで、でも裏があって怪しくてうまいのだが、やはりCharles Danceの老いた蛇のような佇まいがものすごい。実生活で絡まれたりしたら絶対にいやだと思うが、目の前3メートルくらいのところにいる彼の存在感は痺れるような強さがあったの。
[music] Edwyn Collins
10月4日、土曜日の晩、Royal Festival Hallで見ました。
“The Testimonial Tour”と題されたEdwyn Collinsお別れのライブ。2005年に梗塞で体の自由を失ってからもライブは続けていたがもう.. ということなのだろう。本当にありがとう、おつかれさまでした、しかない。
これの前日はRefusedの解散ツアーのライブだったし、いろいろ終わりの季節の予感。
チケットは5月か6月に発売になって、でも発売日にミスしたら前方は簡単に埋まってしまい、それから数ヶ月間、辛抱強く毎日チェックしていたら前から2列目が釣れた。こういうこともある。
さて、Orange Juiceとの出会いというと亡くなられた渋谷陽一氏のサウンドストリートで”Simply Thrilled Honey”が流れたのが最初だった記憶がある(いや、その前に買って聴いていたか?)。徳間からでたRough Tradeのコンピレーション盤”Clear Cut”の紹介で、他にはThe Fall、The Raincoats, Delta 5なども流れた(NHK FMで)。しばらくして輸入盤の7inchを買って、イルカが飛んでいる1st “You Can't Hide Your Love Forever” (1982)も買って、これは同じプロデューサーAdam KidronによるScritti Polittiの1stと並んで、自分の恋愛に対する基本の態勢を決定づける1枚となる - よくもわるくも、たぶん相当だいぶわるい方に。あと更にはスタックス・ソウルへのゲートウェイにもなったのよ。
そんなふうに聴きこんでいながら、彼の初来日のクラブチッタは用事があって行けず、ようやく見ることができたのは2010年頃の100 clubで、今回が2回目で最後のライブとなる。
物販にはPostcard Recordsのシンボル猫のTシャツ、トート、プリント、コップなどが並んでいて、珍しくバカ買いしてしまった。2018年にエジンバラで”Rip It Up: The Story of Scottish Pop” っていう企画展示があった時に行って買っただろ(と、今になって思いだす)。
バンドはG2, B, D, Key (+Sax)の5人、知っている人がいない若い編成だったがギターの刻みと弾みが気持ちよかったので十分。Edwynは杖でマイクスタンドまで歩いていって座って歌うのだが、まったく問題なく、本人もだいじょうぶだろ?って何度も客席に確認していたが、よい声が出ていた。
1曲目で”Falling and Laughing”〜”Dying Day”をやる。「1980年の、ちょっとインディーぼいやつね」だって。”The Wheels of Love”ではDennis Bovellとデュエットして、本編ラストの”A Girl Like You”ではPaul Cook御大がドラムスで入り、コーラスにはなんとVic Goddard - もうほんとおじいさんだねえ - が入る。
いちばんよかったのは”Intuition Told Me (Part 1)” 〜 “Simply Thrilled Honey” 〜 “Consolation Prize”の流れだろうか。ぜんぶばりばりに歌えていろいろ蘇って涙ぐんでしまえる曲たち。これに続いた2ndからの”I Can’t Help Myself” 〜 “Rip It Up”も悪くはないのだが、いつもあのバカにしたような邦題がチラついて今だに腹立たしさが。
アンコール、ソロから2曲やった後、バンドメンバー紹介をして、ここで再びゲストがはいる。なんとOrange JuiceのオリジナルメンバーのJames Kirkがギターに、Steven Dalyがドラムスに。まったく予想もしていなかったのであわあわする。フリッパーズギターの2人が突然同じステージに立つようなもん、と言ったら通じるだろうか。彼らが入って”Felicity” - Jamesの曲と、”Blue Boy”を。”Blue Boy”のミドルで炸裂するギターをJamesが思いっきりためてがしゃーんてやっているのをみてじーんとした。
人が亡くなるのと同じく、自分が大好きだったバンドもいつかは活動を停止したり解散したり消滅したりって、まあ当たり前のことではあるのだが、こういう形で終わりを見ることができてネコ土産も買って帰れて、って40年前の自分には想像できることではなかったねえ。 それがどうした? だけど。
[film] Happyend (2024)
9月28日、日曜日の昼、Curzon Bloomsburyで見ました。
いくつかのシアターで『何かが大きく変わる予感がする』 - “Something big is about to change”というコピーのついた自動車のひっくり返った看板(ポスターではなく立体の)が置いてある。
監督は”Ryuichi Sakamoto | Opus” (2023)を撮った空音央。邦題も『HAPPYEND』。
幼馴染でずっと親友できたユウタ(栗原颯人)とコウ(日高由起刀)は高校でもつるんで18禁のクラブイベントに行ったりEDMやったり仲間と楽しく過ごしていたのだが偉いんだぞって顔して頭の悪そうな校長(佐野史郎)とか学校にはうんざりしていて、ある晩、校長が自慢している(それしか自慢できるものがなさそうな)車にいたずらしたら激昂して全校にバカみたいな名前(パノプティコンから)の監視システムを敷いてますますやってらんねー、になっていく、そうやって消耗させて支配しようとする大人たちとの終わらない戦いの日々。
学校の外では頻繁に繰り出されるフェイクの地震アラートとそいつをネタに緊急事態条項を成立させようとするやらしい政府(また復活しちゃうね)やそれを下支えする外国人排斥の空気とか、どこかで見た(まだ消えてない)おなじみのうんざりがぷんぷんで、ユウタとコウの周囲にもそれらに同調する連中、反対する連中それぞれがいて、でも目の前の校長のアレだけはカタをつけないといけなくて。
彼らがハッピーエンドになろうがどん底に落ちようがそんなことは割とどうでもよくて、いまの空気や問題の並べかた、それらがどんなふうに日々べったり張りついてきて気持ち悪いものなのか、はよく描けているように思った。けど、他方で、彼らの青春のお話だからしょうがないのかもしれないが、これを彼らの世代の、仲間や友達がいる前提で成り立つようなお話にしてしまってはいけないのではないか。「彼らの物語」にした途端にそれは、というかそれこそが連中の思う壺なんだってば。
思い出したのは、ここから20年ほど遡る『アカルイミライ』 (2003)で、あれも同じように若者たちのどん詰まりを描きつつも、それでも周辺の大人たちも巻きこむ世の中の不穏さ、気持ち悪さに溢れてはいなかっただろうか。あの頃ぜんぜんアカルく見えなかったミライが、あれから20年経ってどうなった?( ⤵︎ )
Breakfast Club (1985)
9月20日、土曜日の晩、Stratford-upon-Avonから戻ってきて、BFI Southbankで見ました。
シアターに入るとSimple Mindsの”Life in a Day” (1979)が流れていてちょっと動揺して倒れそうになる。 高校に通う時いつも聴いていた曲、40数年ぶりに聞いたかも。映画の主題歌の”Don't You (Forget About Me)”と同じバンドのだから、くらいで流していたのだろうが、Simple Mindsの初期はほんとによい曲だらけなんだから。
たぶん見るのは公開当時と、00年代のNYと、今回のが3回目くらいで、今回が一番しみたかも。
折角の土曜日に学校から呼び出しをくらい、親に連れられて学校にきて、"who you think you are"というテーマでエッセイを書くことになった互いをよく知らない 5人の一日を描く。
境遇もばらばら、共通の話題もそんなになく、一致しているのはそんなことをした教師への恨みと学校への嫌悪だけ。 やけくそになっていろいろ吐き出したりぶちまけたり、彼らみんな誰もが自分を理解してくれるとも、理解してほしいとも思っていない。そこから何が起こりうるというのか。最初に見た当時は、なんてスイートな結末、だったが、今見ると彼らがああなっていく過程の不思議なリアルさと、それを実現してしまった脚本、若者たちの演技の見事さに打たれる。
そして、"who you think you are"を改めていまの自分に。
10.04.2025
[theatre] Invasive Species
9月21日、日曜日の晩、King's Head Theatreで見ました。
原作は主演もしているMaia Novi、演出はMichael Breslin。NYのOff-Broadwayで上演されて評判になっていた舞台を持ってきたもの。スクリプトには”A True Story”とある。 休憩なしの約75分。
アルゼンチンからNYの演劇学校にやってきて女優を目指しているMaia (Maia Novi)がいて、パラマウント映画のオープニングのあの音楽を全身に浴びて、わたしはやれる!絶対にスターになる!って意気揚々で張りきっているのだが、気が付いたら病院のベッドに寝かされてて、ここはどこ? わたしは? になっている。
そんな彼女の周りにいろんな怪物とか変な人などが次々に現れて彼女を上げたり下げたり一緒にダンスしたり、全体としてはなにがなんでも有名になるんだ妄想に憑りつかれてしまった彼女に襲いかかる終わりのない悪夢を4人のパフォーマーがいろんな役 - 医師、病院の他の収容者、演劇学校の仲間、マイアミにいる母 - 等を代わる代わる演じたりして、そのうちのひとつがポスターになっているいろんなチューブを纏ったみど蚊みたいな虫だったり。
彼女はこんなInvasive Species(外来種)が媒介するなにかにやられてしまったのか、ひょっとして彼女自身が外来種だったりするのか、そもそもこれって病気とか害悪だったりするのか、でも今ってこんな人ふつうにいるじゃん? とか。
舞台はめまぐるしく、強いテンションで照明や音楽を変えながらMaiaが辿っていくジェットコースターのぐるぐる旅と敵のようにやってくる困難をノンストップで見せて – でも舞台は小さいただのフロアなので転換は工夫していて飽きることはない。 のだが、後半に向かうにつれて見る方も演じる方もちょっと疲れて内省的になってくるような – それはそれであって当然のことだとしても。
なのでそれらが飽和した状態でのあのラストはとてもよくわかるかんじだった。ちょっと凡庸かも、とは思ったが。
Cow | Deer
9月22日、月曜日の晩、Royal Court Theatre(の上のシアター)で見ました。
演劇というよりは音の実験パフォーマンスのような。ポスターは牛の顔左半分、鹿の顔右半分の合成写真で、動物好きなので見る。生きた彼らは出てこなかった。
演出Katie Mitchell, 台本Nina Segal, サウンドアーティストのMelanie Wilsonの3名 +National Theatre of Greeceの共同制作。休憩なしの約60分。
会場は暗くて、舞台のところは大きな作業机が3つ並んでいて、そこに草の俵のようなものとか土が積まれて盛られて、水槽もあって、奥にはブースもあって、鳥の声や水の音がしていて、机の前にはマイクロフォンが9本、刺さるように立っている。(撮影厳禁)
そこに黒い服を来た4人の奏者というべきなのかパフォーマーが現れて、牛と鹿のそれぞれの一日を音で描いていく。バックグラウンドで流れるField recordingで録った音の様子から、これは牛のそれ、これは鹿のあれ、はなんとなくわかる – それだけでもすごいが、スクリプトを読むと、結構細かく牛と鹿のそれぞれの動きが書かれていて、パフォーマーたちは、いろんな道具(濡れた布、布袋、石、木の枝、いろんな葉っぱ、じょうろ、スイカとか果物、砂とか砂利とか)を机の上の塊りの上で叩いたり鳴らしたり潰したり散らしたり指でくりぬいたりして音を出して、場面によってはそれらをミックスさせながら音のランドスケープとしか言いようのないものを見せてくれて、牛と鹿が最後にどうなってしまうのかもはっきりわかるし、とにかくこれらの音を通して牛の、鹿の一日 and/or 一生を。
あらかじめ録ってある音とライブで出す音の境界(の決め)ってなんなのだろう、とか、エレクトロニクス系のライブで机の上に箪笥シンセとか機材が積んであって演奏するのと違いがあるとしたら、とか。
日本には江戸家猫八っていうのがいて(自分がよく知るのは三代目だった)、彼がひとりいたらこれらの音はだいたい賄えてしまうのだけど、って少し思った(ちがうだろ)。
10.03.2025
[music] The Life and Songs of Martin Carthy
9月27日、土曜日の晩、HackneyのEartH Theatreで見ました。
ブリティッシュ・フォーク界のもはや人間国宝といってよいMartin Carthyは84歳で、こないだの5月に新譜を出したりしているすごい人で、そんな彼へのトリビュートライブで、ものすごい人数が出演して演奏するのだが、ロックの世界からはBilly BraggとかGraham Coxonくらい。彼のライブは2017年にCafé OTOでも見ているのだが、本当に不思議な歌を歌うすてきなおじいさんなんだよ。
会場オープンが17:00でライブは18:00から、というのを知ったのがBFIで映画を見終わった17:30くらいで、まあ最初の方は見逃してもいいか、と思って軽くご飯などを食べて会場に19時過ぎに着いたらずっと前からSold outしていた会場はとうにぱんぱんで、オープニングのJoe Boydのスピーチも、続くBilly BraggもMartin CarthyもGraham Coxonも - それぞれ弾き語りだと思うが - 既に終わっていた(ことを後で知る。底なしのおおバカ)。
全体は3部構成で、ACT1がFolk Troubador、ACT2がInnovator & Collaborator、ACT3がJust Don’t Call Him a Legend、終演は23:00、と。席は指定ではなくて、入った時には上までびっちり埋まってて、立ってるひとも大勢いて、3時間以上そうしているのはしんどいので下におりて階段通路に座る。
ステージ上にはパブ”North Country Maid”(彼の曲名でもある)ができていて、どういうことかというと、出演者はほぼ全員そこの椅子に座ってパブのカウンターで頼んだのを呑んだりくつろいだりしてて、自分の出番がくるとあいよ、ってかんじで真ん中に出て行って演奏するの。壁っぽい衝立にはポスターやチラシが貼ってあって、レコードも貼ってあって、主賓のMartinは前方にちょこんと座らされて、演者と会話したり、曲によっては(ほぼぜんぶ彼の曲だから)強引に歌わされたりギターを弾いたり一緒に口ずさんだりしている。 ぼろいパブの隅によくいそう、ずっと鎮座している神様的な存在というか。
演奏はギターを抱えた弾き語りだけでなく、ハルモニアとかアコーディオンとかダルシマーとか、アカペラだけとか、鈴がついた服とドタ靴でダンスをする男集団とか、バンドもあったし、人によって曲によって無限にありそう。
第一部の休憩後、第二部に入る前に各界からのお祝いのメッセージビデオが流れて、これがまた冗談みたいな。
KT Tunstall → Paul Brady → Jools Holland → Van Dyke Parks → Paul Weller → Robert Plant → Bob Dylan、だよ。 これだけの広がりのおおもとにこの小さなおじいさんがちょこん、て座ってて、みんなが行けなくてごめん、って言うの。
個人的にはMaddy Priorを見て聴けたのがよかった。Graham Coxonはずっとステージ上で寛いでいて、歌をうたう女性にGの音だしてくれる? ってこき使われていたりした。
酔っ払いのお話しが長くなっていくのと同じように、どの曲もお話しを語り聞かせる調子なので一曲がかなり長めで、でもどれも気持ちよく入ってくる。誰の話だったか忘れてしまったが子供の頃にギターを練習していて、ギターのコードってメジャーかマイナーか、くらいだったところに、Martinの曲からそれだけじゃない、こんな(実際にいくつか弾く)のがあるんだって知って、そこから深みにはまった、みたいな話がおもしろかった。 音楽史的にはVilla-LobosとかJoão Gilbertoのようなところに位置付けられるのかしら。
最後は出演者全員の合唱で何曲かやって、”Hard Times of Old England”から”England Half English”に繋いだBilly Braggは(やっぱり)力強く”Free Palestine!” を叫んでくれた。
Gina Birch & The Unreasonables
9月24日、水曜日の晩、100 Clubで見ました。
この日はお芝居を見に行く予定だったのだが、彼女のライブの予告が来たので演劇はキャンセルしてこっちにする。
こないだ出たAudrey GoldenによるThe Raincoatsの評伝本”Shouting Out Loud: Lives of the Raincoats”は当然全員のサイン入り、トートバッグとバッジがついた特装版を予約して手に入れた。見たことのない写真とか関係者証言が山盛りで、いつでもどこからでも読める。カートが亡くなった晩のNY Academyでのライブ(Liz Phairの前座、自分がRaincoatsのライブを最初に見たとき)のバックステージがどんなだったかが綴られていたり、興味深い。
昨年のTate Britainの企画展示”Women in Revolt ! Art and Activism in the UK 1970-1990”の会場でもちょこちょこライブをしていたらしい彼女が、バンドでライブをやるって。それにしてもすばらしいバンド名よね – “The Unreasonables” - 理不尽やろうども。
会場はもちろん埋まっているわけなくて、入ると物販のところにもう彼女が立っていて、なんでもサインするよー、って。客層は老人ばかりでみんな椅子を求めてフロアを彷徨っている。
前座はTaliableっていうDJつきの、白覆面をした女性ラッパーで、元気があってよかった。
Gina Birch & The UnreasonablesはGinaを入れた3人組で、彼女以外の二人はギターだったりベースだったり、場合によってはキーボードと太鼓だったり。Ginaもベースだったりギターだったりで、曲によって細かく持ち替えたりしていたので、もう纏めてなにかをリリースできるところまで来ているのかもしれない。曲のかんじは後期Raincoatsにも通じる風通しのよいがしゃがしゃで、背後のプロジェクターからはTateの展示でもリピートされていた70~80年代の彼女の映像が流れていく。
ラストはもちろん”Lola”で、みんなでぴょんぴょん合唱して終わって、またねー ってかんじで別れる。
10.01.2025
[film] One Battle After Another (2025)
9月26日、金曜日(公開初日)の晩、BFI IMAXで見ました。
IMAX 70mmのフィルム上映で、北米以外でこのプリントを見れるのはここだけだそうで、後半の車の追っかけっこのところとかめちゃくちゃすごいよ。IMAX 70mmの映像がもたらす驚異、を初めてちゃんと思い知ったかも。
Paul Thomas Anderson (PTA)の新作で、あんまりかっこよいとは思えないLeonardo DiCaprioがおろおろしまくるだけの予告ががんがんかかりまくり、公開週末の全米興行収入では一位になってしまったという…
原作はThomas Pynchonの” Vineland” (1990)(を緩く)、音楽はJonny Greenwood、撮影はMichael Bauman。
Wes Andersonの世界に出てくる変人たちよりはもう少しリアルっぽい変人たち – 特に男はいっつもぜったい変態 - が、2009年から現在までの、16年に渡るアメリカ合衆国と思われる国で機関銃を撃ちまくったりの「バトル」を繰りひろげていくのだが、架空の組織や体制を扱いながらも、その崩れっぷりも含めてとてもPTAぽい。DiCaprioばかりがクローズアップされがちだが、彼はひたすら逃げまくっているだけ、Robert Altman的にぶっこわれた(ていく)集団活劇、として見たほうがよいのかも。 162分、あっという間。
カリフォルニアの移民収容施設に、Perfidia Beverly Hills (Teyana Taylor)とGhetto (Leonardo DiCaprio)のいる極左組織 – French75が乗りこんで拘留されていた移民たちを解放する。その際にPerfidiaは軍のLockjaw (Sean Penn)を縛りあげて辱めて、Lockjawはその快楽にやられてPerfidiaに粘着して彼女に会うようになり、French75周辺の情報を聞きだしてそれを元に組織を壊滅状態に追いこんで、その間にPerfidiaは女の子を出産するが、彼女はその子をずっと恋人だったGhettoに託して消えてしまう。
そこから16年経って、Ghettoは名前をBobに変えて、娘のWilla (Chase Infiniti)と身を潜めて小さな町に暮らしているのだが、白人至上主義の極右秘密結社に勧誘されたLockjawが過去のPerfidiaとの関わりを消すべく(純血主義だから)Willaを捕らえて、French75の壊滅に動きだして(ここに先住民の殺し屋が挟まるとかめちゃくちゃ)。
学校のダンスパーティに向かう寸前にFrench75のDeandra(Regina Hall)に救われたWillaは修道院に匿われて、Bobのところにも追っ手が迫って、空手のSenseiのSergio (Benicio del Toro)に助けられながら一緒に逃げるのだが。
後半は半分らりらりで組織の合言葉も思いだせず、ひとり勝手に錯乱して大騒ぎなのに「トム・クルーズでいけ!」ってSergioに車から放り出されてしまうBobと、修道院にやってきたLockjawとのやり取りのあとに殺し屋に引き渡されたWillaの戦いと、そしてLockjawにも刺客が…
極右に極左、移民コミュニティに修道院に軍に警察、これらがぐちゃぐちゃに入り乱れるOne After Anotherの殺し合いに潰し合いの顛末について70年代を舞台にCoppolaやScorseseが描いてきたギャング映画とも、復讐ファーストのTarantinoのそれともまったく異なる色調とアスペクト比で広げてみせて、それはいまのランドスケープに見事に繋がってしまう。 みんなそれぞれに高慢と偏見と陰謀論で人々をより分けたり分断したりしつつ、誰もが自分はトム・クルーズなんだと思っていて、知らないところで誰かが誰かに簡単に殺されていく – と、そこまで悲惨なトーンではないのだが、そういう腐れて錯綜した(特に白人男たちの)気持ち悪さ、に溢れている。
PTAはこんなふうに何かに憑りつかれて捩れておかしくなってしまった男たちをずっと描いてきたので、これもそのバージョンなのかもしれないし偶然なのかもしれないけど、あまりに今のあれが支配する世界に近いところに来てしまっていて、結果として笑えたかも知れないところで笑えない。それでよいのかも、だけど。 あの極右の白い男たちのつるっとしたゴムの顔の光沢とか、ああいうのってほんとうにいるんだよ。
音楽はピアノがぽんぽんずっと鳴っているかんじなのだが、ところどころの腑抜けモーメントで、あ、Jon Brion?って聞こえるところがあって、後で確かめたらやはりそうだった。変態の世界を優しく覆ってくれるJon Brionの音の毛布。 最後に来るのはTom Petty & The Heartbreakersの”American Girl” 〜 Gil Scott-Heronの”The Revolution Will Not Be Televised”だよ(どちらもこのドラマが動いていた時代に亡くなった闘士である)。こんなの嫌いになれるわけがない。
それにしても、90年代にLeonardo DiCaprioとSean Pennがこんな映画でこんな形でやりあうことになるなんて、誰が想像したであろうか。
そして、男優たちの反対側にいる女優陣は全員がすばらしいったらない。尼さんたちの銃撃戦を見れたらもっとよかったのにな。(そしてPaddingtonはこっちに来るべきだった)
プロモーションのひどさとか上映館数の少なさとか、左翼アレルギーも含めた日本の映画配給のしょうもない幼稚さ、これもまたOne After Anotherの戦いということで。(他人事)
[theatre] Measure for Measure
9月20日、土曜日昼のマチネを、Stratford-upon-AvonのRoyal Shakespeare Theatreで見ました。
ロンドンからStratford-upon-Avonは電車で2時間以上かかるのでお芝居に行って戻ってくると一日潰れてしまうのだが、これは予告見てすぐ見たい!と思ってチケット取って、行きの電車が途中で止まって乗り継ぎに失敗して(次の電車は1時間後..)、現地で遊ぶ余裕もぜんぜんなくなってしまったのだったが、それでも見てよかった。
原作はシェイクスピアの『尺には尺を』 (1603-04)。 演出はEmily Burns。
舞台はクローム、メタル、ガラスでモダンに仕切られた現代のオフィスのような空間 - 牢獄はガラスで覆われたケースが下りてくる仕掛けだったり。 前回ここで見た”Hamlet Hail to The Thief”もモダンな舞台だったので、このシアターで見るシェイクスピアは自分にとってすっかり現代劇になっている。
冒頭、舞台奥のでっかい三面プロジェクターにMonica Lewinsky/ClintonのスキャンダルからTrump、Harvey Weinstein, Jeffrey Epstein, Prince Andrewまで、現代の権力者による性加害の映像がずらっと並べられて壮観(吐気)。
ぱりっとした背広を着た公爵Vicentio(Adam James)がしばらく身を隠すから宜しく、と周囲に告げて後任にAngelo (Tom Mothersdale)を指名して自分は僧院の修道士に姿を変える。
恋人のJuliet (Miya James)を結婚前に妊娠させた罪で拘留されているClaudio (Oli Higginson)にAngeloは絞首刑のオーダーを出して、その官僚的な身振りと手つきに揺るぎはなくて、Claudioの妹Isabella (Isis Hainsworth)は絶望しつつ減刑を求めて彼のところに通って、を続けていると、ひと晩付き合ってくれたら考えよう、というところまで来て、でもそんなの絶対嫌だしおかしいし、なのでClaudioの友人のLucio (Douggie McMeekin)に相談したりしつつ泣いていたら公爵がAngeloに婚約を破棄されたMariana (Emily Benjamin)の件を持ちだして罠を仕掛けたらどうか、と。
こうしてAngeloのところに怯えながらやってきたIsabella、それとは逆に闇の向こうから救世主として堂々と現れるMariana、欲望と体裁の間でどきどきしつつ目隠しをされて縛られてされるがままのAngeloの前で「すり替え」が行われる「現場」の生々しい臨場感 - 流れている曲はElvis Presleyの”Can’t Help Falling in Love”。
当然このトリックは事後にばれて、だまされて意固地になったAngeloはClaudioの刑を取り下げようとしない(レコーディングして脅迫しちゃえばよかったのに)。 最後の裁きのシーンでは、リアルタイムのカメラが登場人物たちの表情と挙動をプロジェクターにでかでかと映しだし(Ivo van Hove風)、誰もどこにも逃げられない緊迫の様がドキュメントされるのだが、ドラマの構造としては遠山の金さんなので、やや陳腐(おもしろいけど)。それでも女性たちの証言が重ねられて皮が剥がれていくところは力強くスリリングな現代の法廷劇になっていて、冒頭の腐った権力者たちの像ともここで連なってくるのか、と思った。
婚姻制度のもつ奇妙な(まるで罰と表裏一体の)力と、それに多かれ少なかれ起因したスキャンダルのありようは現代のそれとしか言いようがないのだが、” Measure for Measure” - 『尺には尺を』の、ここでの尺と尺って互いが見合ったものになっていないような。でも、最後に一緒になろうと公爵から言われたIsabellaの少しの困惑からの最後の行動はすばらしくて(という言い方でよいのかな)、まだ目に焼き付いている。公爵からあんなこと言われて、この上なき幸せ、だと思われた(少なくとも公爵はそう思った – 救いあげてやっただろ、とか)のに、彼女にしてみれば、なんだこの地獄は、でしかなかった、という…(尺には尺って、ひょっとしてこっち?)
雨音のようにずっと鳴っているAsaf Zoharの音楽もすごくよかった。
このあと、ロンドンに戻ってBFI SouthbankでRe-releaseされた”Breakfast Club” (1995)を見ました。
9.29.2025
[film] Der Anschlag (1984)
9月19日、金曜日の晩、ICAで見ました。
ドイツの女性映画監督、Pia Frankenbergの特集で3日間で5本の上映がある、と。
彼女のことは殆ど知らなくて、Ulrike Ottingerの” Freak Orlando” (1981)にScript Supervisorとして参加していたり、写真家のElliott Erwittと結婚していたり、いろいろあるようなのだが、本人も来てトークをするようだし、見てみようかな、くらいで。
Der Anschlag (1984)
彼女の2番目の短編で、英語題は”The Assault”。 8分くらいのモノクロで、Pia Frankenberg自身も登場する。今回は35mmプリントでの上映。歩いている男性が、そこにいた女性を突然ビンタしてそのまますーっと立ち去って、女性はなんてこと? ってやり返せないまま絶句してしまうのだが、しばらくすると、彼女がそこらにいた人をビンタしていて、気がつくとその振る舞いが街中に伝播して、みんなでわーわー大変なことになってしまう。というのを遠くからとらえている。
これ、後のトークでも言われていたが、いまのSNSの状況がまさにこれなんだよね。物理的な痛みがこないだけで、ぜんぜん知らない通りすがりの人に文句言ったり傷つけたりを平気でする/やり返すようになってしまって、みんながそれに熱中して、そんなのが常態化してしまっている。
まだ映画を撮り始める前、ヴェネツィアの映画祭に行って、あまりに退屈でつまんないので友人とうだうだしている時に思いついた話だそう。
Nicht nichts ohne Dich (1985)
長編デビュー作で、英語題は”Ain’t Nothin’ Without You”、ヴェネツィアでプレミアされてMax Ophüls Prize for the best German-languageを受賞している。モノクロのThomas Mauchによる撮影が素敵。
映画監督のMartha (Pia Frankenberg)と建築を学んでいるAlfred (Klaus Bueb) - 天辺はげでメガネで無精ひげ - がいて、割と裕福なMarthaと貧乏なAlfredのそれぞれのいろんな人たち – ポルトガル移民とか - との出会いやいざこざと、他人はよいとして自分の明日はどっちだ、の政治やフェミニズムを巡る葛藤と彷徨いの日々を寒くてしんどそうなドイツの風景のなかに描いて、とてもおもしろかった。 80年代の最初の方、何をやっているのかよくわかんない人たちの、なんかできる、やれそう、っていうだけで転がっていって、気がつけばどこかに散ってしまってあれってなんだったのか... こんな話って、割とそこら中にあったような。
Sehnsucht nach dem ganz Anderen (1981)
19日の上映がおもしろかったので、23日の晩の上映にも行ってみた。
英語題は”Longing for Something Completely Different” – これが彼女の監督短編デビュー作。14分で、会話とかはなしで背後をジャズが流れていく。
ドイツのどこかの駅で、夜の列車に乗りこもうとしている若い女性がいて、掲示板を見たりしつつ、どれに乗ろうか決めかねているようで、でも決めて乗りこんで、何をするかと思ったら、寝込んでいる乗客の横に座って、そうっと荷物を開けて中にあるものを取り出して、を始める。盗んだり壊したり持ち主に何かしたりするわけではなく、単にかばんとかお弁当箱とか、なにが入っているのかを確かめて、その周りにブツを広げていくの。やがて、それを遠くから見ていた謎の女性(監督本人)が横に来て…
上の“Der Anschlag”もそうだったが、実際にあまり起こるとは思えないような出来事を描いて、でもそれが起こったとしたらどんなふうに見えるのか、どうなってしまうのかを想像力でもって捉えようとする、アート、パフォーマンス系の作家のアプローチなのだが、へんな臭みがなく、全体を俯瞰して斜め上から眺めているようなクールネスがある。 いまの作家だとMiranda Julyだろうか(なんとなく雰囲気も似ている)。
Nie wieder schlafen (1992)
これが現時点で彼女の最後の映画作品となっている(いまは執筆活動が主だそう)。英語題は”Never Sleep Again”。
Rita (Lisa Kreuzer – ヴェンダース映画の常連), Roberta (Gabi Herz), Lilian (Christiane Carstens)の3人の女性がベルリンに車で着いて、誰かの結婚式に参列して船の上のパーティのあたりからつまんなくなって、そこを抜けて、ベルリンの壁(崩壊)の痕がまだ残っている街を彷徨ったり語ったり呑んだりいろんな人と出会ったりしていくさま – だるいけど、いつまでも起きてこんなふうに喋ったりうろついたりしていたいんだ – の終わらない日を描いていて、とてもよかった。 このモードがNYに行くと例えば”Sex and the City”になっていったりしたのかも。
都市があって、あまり明確な目的はなさそうだけど、じたばた生きている人たちがいて、それぞれのこんがらがった像や事情をこんがらがったままに置いておもしろく見せるのって、結構むずかしい気がするのだが、彼女の90数分間はそれがうまく示せている気がした。
今回、特集の2日目に上映されて見れなかった”Brennende Betten” (1988)は、撮影がRaoul Coutardで、Piaの相手役としてIan Duryが登場するスクリューボール・コメディだと… 見たかったよう。
9.26.2025
[film] Anna May Wong: The Art of Reinvention
BFI Southbankの9月の(正確にはLFFが始まる10月頭までの)特集で、”Anna May Wong: The Art of Reinvention”をやっている。
1905年にアメリカ西海岸で中国系移民3世として生まれ、サイレントの頃からヨーロッパ、ハリウッドで活躍した彼女のことは何本かの映画で見てきたものの、彼女はいつも脇役だったり、時として悪役だったり、あまりセンターに置かれて朗らかで幸せな役を演じることはなくて、それらを通して見えてくるのは、当時の観客がどんなふうにアジアの若い移民の女性を見ていたのか、ストーリーにおける彼女の表情、振る舞いや役柄に何を求めていたのか、などで、それを見て感じるなにかは同じアジア人として心地よいものばかりではないのだが、でも彼女はそれらを自身の身体で演じることを通して、はっきりと何かと戦っていたのだ、ということが見えてくるのだし、これらを作ったりこれらに触れたりしてきた欧米人の感覚が当時からものすごく変わったようにも見えないので、彼女の戦いは今を生きる我々のそれにも通じてくるに違いない、と。
この特集で彼女の映画が上映されるホールの前にはだいたい”Content warning: Contains sexist and racist attitudes, language and images”という注意書きが貼ってある。
あと、今回の特集のすごいのは、最近リストアされたもの以外を除いて、ほぼBFIのアーカイブにある35mmフィルムで上映されて、サイレントの場合はライブのピアノ演奏が付くこと。
The Toll of the Sea (1922)
9月1日、月曜日の晩に見ました。サイレントで、テクニカラーのフィルム。テクニカラーの最初期の1本で、当時技術的に可能だった赤と緑の色素だけで作られたカラーなのだそう。よくわかんないけど。
Anna May Wongが17歳だった頃、最初期の主演作。監督はChester M. Franklin。
「マダム・バタフライ」の舞台を日本から中国に替えただけの、溺れていた白人を助けて恋仲になって結婚の約束までしたのに彼は帰国して、戻ってきた時には結婚していて、彼女は.. っていうありがちな悲恋もの。
Großstadtschmetterling: Ballade einer Liebe (1929)
9月6日、土曜日の昼に見ました。
ドイツで撮られた彼女の最後のサイレントフィルムで、監督はRichard Eichberg。英語題は”Pavement Buttefly”。これは前に見たことがあるやつだった。
見世物小屋のダンサーだった彼女がそこを抜けだして若い画家と出会って恋に落ちるのだが、彼は画商の娘と出会ったらそちらに行っちゃって、見世物小屋から粘着してくる奴もいて、以降は転落してぼろぼろになっていって、かわいそうったらないの。
パーティのシーンで日本の提灯がかかっていたりする。
Die Liebe eines armen Menschenkindes (1928)
9月7日、日曜日の午後に見ました。月1回のサイレント特集の日で、市民の携帯に警報のテストアラームが来る、ということで開始を5分遅らせていたのだが、めちゃくちゃやかましいのがわんわん鳴りだして、サイレントを上映するのになんてこと!ってみんなで怒っていた。
これも監督はRichard Eichberg – 彼と組んだ最初の作品で、彼女にとって最初のドイツ映画 - で、英語題は”Song” - 主演の彼女の名前。貰ったプログラムノートには、この映画の撮影でベルリンに滞在した時にベンヤミンと出会って、彼は彼女に魅了されて、とか書いてある。
イスタンブールの磯で生きた蟹を彼女が齧っていたら(...おいおい)、2人組の男に襲われて、それを救ってくれた通りすがりのナイフ投げ芸人のところに付いていって、彼と暮らし始めるのだが、彼は前に付きあっていた歌手のことをずっと想っていて。バカな男にとって極めて便利で都合のよい一途なアジア人女性の典型をこれでもか、っていう波乱万丈のメロのなかで見せられて、あーあ、ってなった。
Peter Pan (1924)
9月21日、日曜日の昼に見ました。
監督はHerbert Brenon。 サイレントで、(後から買われたものだと思うが)ディズニーのお城の上に星が降りそそぐオープニングのすごく古いのが。親子連れもいっぱい。
Anna May WongはTiger Lily役。 犬のNanaが着ぐるみだったり、ワニも着ぐるみでかわいいし(でも海にいるのか?)、引き込まれて見てしまった。
Tinker Bellが弱って死にそうになるところでは、Peter Panが客席に向かって「みんなの力が必要なんだ!力をくれ!」っていうので、日曜の昼間だし、みんなで懸命に拍手して、Tinker Bellを救ってあげたりした。
The Thief of Bagdad (1924)
9月21日、日曜日の午後に見ました。
監督は問答無用のRaoul Walsh、主演はDouglas Fairbanks。彼女はモンゴル人の奴隷役。 あっという間の154分。
彼女の扱いも含めて、典型的なオリエンタル、アジア描写が満載なのだが、全体がおとぎ話の大噓ホラ噺風味を豪快に貫いてあまりにバカバカしいので、しょうがないか(なにが?)になってしまう。それらを浮かびあがらせずに納得させてしまう、セットや演技の堂々として力強いこと。
Hai-Tang (1930)
9月23日、火曜日の晩に見ました。
別の英語題は”The Flame of Love”。彼女の最初のサウンド映画で、声だけ別テイクにすればよいのに、英語版、ドイツ語版、フランス語版、それぞれ別に男性の主役を置いて、言語別に撮影された - フランス語版は、英語/ドイツ語版のプレミアの後にパリに渡って撮られたのだそう。で、彼女はひとり特訓して、ドイツ語もフランス語もぜんぶ自分の声で喋って演じている、って。一番メジャーなのはドイツ版だそうだが、今回上映されたのは英語版。
ロシア人中尉が踊り子Hai-Tang (Anna May Wong)に恋をして部屋で会ったりしていて、でも彼の上官からHai-Tangと夜に食事をさせろ、って厳命がくだって… 今だとセクハラ、パワハラの教材ネタにしかならないくらいにしょうもないお話しなのだが、彼女のリアル歌声はすばらしかった。
まだ特集は続いていて、あと2本くらいは見ると思うので、また書くかも。続けて見ていった時に見えてくるものがメインストリームの大女優の特集のそれとはぜんぜんちがう。 ごくシンプルに、嫌な社会だ、って思う。
9.25.2025
[theatre] The Bride and The Goodnight Cinderella
9月18日、木曜日の晩、South BankのQueen Elizabeth Hallで見ました。2日間公演の2日目。
ブラジル生まれでアムステルダムで活動するアーティストCarolina Bianchiと彼女が率いるパフォーマンスグループthe Cara de Cavalo(馬の顔)による公演 - 演目は”Cadela ForçaTrilogy”のChapter-1で、18禁。休憩なしの2時間半。 2023年にアヴィニョンの演劇祭でプレミアされ、ヨーロッパ中をツアーしてきた舞台で、英国でも2023年にグラスゴーのフェスで上演されている。
“The Bride”というのは、イタリアの女性アーティスト/パフォーマーのPippa Baccaによるパフォーマンス”Brides on Tour”で、ウエディングドレスを着て花束を手にした彼女がヒッチハイクするのを記録していくパフォーマンスだったのだが、彼女は2008年の国際女性デーに、ミラノからエルサレムに向かう旅をしていた途中、イスタンブール近郊で、レイプされて殺されて道端に棄てられているのを発見された。
“Good Night, Cinderella”はブラジル人が使うお酒に入れて眠らせて.. のレイプドラッグの隠語で、Carolina Bianchi自身もこれの被害にあったことがあるという。
舞台上には簡素なデスクの上に書類の束、と背後にはプロジェクターがあり、前半はCarolina Bianchiがひとりで登場して客席に向けてレクチャーをしていく。最初がダンテの『神曲』からの引用、女性がどこまでも追われる姿を描いたボッティチェリの絵画たち、女性によるパフォーミングアートの歴史を踏まえつつ、特に”The Bride”のパフォーマンスについて、なんでこんなことになったのか、「女性側の落ち度」として片づけられがちであることを十分に承知したうえで、古来からずっと、揺るぎなくあって変わることのない男性による性加害やフェミサイドの歴史 – もうひとつピックアップされたのは、ブラジルのサッカー選手が恋人を仲間に殺させて、事件発覚後も選手を続けていた件 – などを紹介していくのと、ドラッグについてはMarina Abramović等によるパフォーマンスの例を示しつつ、自分で錠剤(たぶん本物じゃないだろうが)を砕いて飲んで、もし薬が効かなかったら数時間かけてレクチャーの残りをやりますが... と言ったりしているとぐったりして机の上に崩れ落ちて、ここから後半に移る。
前半のイメージは白で、BrideでもCinderellaでも祝福されたもの(白)としてあるはずだった女性のイメージは、男性の快楽のために消費され穢されるべきものとして初めからあったこと、女性によるアートがいかにそこに自覚的であったかを示して、後半は対照的に黒づくめの衣装(黒というだけで仕様は各自ばらばら)を纏った男女8人くらいが黒子のように出てきて、Carolinaを隅に運んで服を替えさせたりして、ぐったりしている彼女の脇でレイプドラッグがもたらす悪夢のような光景 - 外側だけでなく内側も - を本物の車を使ったりしつつ展開していって、前半のクリーンで整然としたレクチャーとは真逆の、リアルな地獄めぐりのような絵を見せてくれる。
ここで何度か言及されていたのがRoberto Bolañoの名前、特に”2666” (2004)で、なるほどいくらでも出てくる失踪者の件、それが至るところに埋められてうやむやになってきた歴史はあるかも。
2時間半で、ものすごくいろんなものが出てくるのでついていくのが大変だったが、それでも相手にしているものの始末に負えないどす黒いどうしようもなさ、その歴史も含めた巨大さは十分にわかってうんざりした(このパフォーマンスに対して、じゃないよ)。18禁でよいのかも。
性加害の罪がどこまでも軽くて、警察すらそこに加担して許してしまうような自分の国を見ても、容易にどうこうできるものではないことはわかる(いや、わからないよ - なんであんなに野放しで寛容なままで許されているのか) - が、だからこそ上演されてほしい。
9.24.2025
[film] Steve (2025)
9月17日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
Previewで、上映後に監督、原作者とメインキャストとのQ&Aがあった。 Netflixなので日本でも見れるのかしら?
Claire Keegan原作の”Small Things Like These” (2024)の監督Tim Mielantsと主演のCillian Murphyが再び組んだ(あと、Emily Watsonも再び)作品。原作はMax Porterの小説”Shy” (2023)で、彼はExecutive Producerとして制作にも関わり、映画化にあたりタイトルを”Shy”(登場人物の名前)から”Steve”(Cillianが演じる登場人物の名前)に変更している。
音楽は“Ex Machina” (2014)を担当したBen SalisburyとGeoff Barrow組。(つまり)
Steve (Cillian Murphy)は攻撃的な行動や言動で周囲に適応できない問題を抱える児童- といっても中高生くらいの男子を全寮制で収容・教育している田舎の施設の校長をしていて、他には副校長のAmanda (Tracey Ullman)、セラピストのJenny (Emily Watson)、新米教師役でLittle Simzがいたりする。
生徒たちは凶暴、といってよいくらいにみんな強そうでずっと興奮してイキっていて、校内では野放しなので、互いに脅しあったりとか、喧嘩とかラップバトルみたいのばかりやってて、殴りあいも茶飯事で、仕事とはいえよくこんなところで... と思っているとSteveはしょっちゅう建物の奥とか裏に行ってよくわからない薬とかドリンクとか明らかに酒をあおったりしていて、周囲もそれを黙認しているような。
映画はその施設の撮影と生徒を含む関係者にインタビュー – 6歳下の自分に、今なら何を言いますか?とか - にきた地元TV局のクルーとそこで撮影された映像、映画の冒頭 はSteveへのインタビュー映像で、なにかに堪えきれずに泣きだしてしまう場面から遡り、他方でそんなの構わずやりたい放題言いたい放題の生徒たちの様子、たまたま視察にきた地元の議員もいじられて憮然としていたり、生徒の中でもおとなしめのShy (Jay Lycurgo)の様子、そして、突然施設の売却に伴う閉鎖を言い渡された日の出来事を、画面の隅にタイムスタンプを表示したりしつつ追っていく。
”Small Things Like These”でも全体に漂う不穏できつくて暗いイメージがあったが、ここではそれに手持ちカメラがもたらすホラーっぽい揺れが加わり、更にSteveの挙動も表情もよりとろんとして怪しくなり、タイムスタンプもあるので、そうやって過ぎていく時間と、次になにが起こるのか、なにが待っているのか、わからないことだらけで怖い。特に終盤、不可避に広がって消火しようがなくなっていく暴力の連鎖の描写はどうやって撮っているのかもわからないくらいの混沌のなかを抜けていく。なによりも怖いのはなんのためにこんなことになっているのか誰も考えていないことではないか。
やがて施設の売却に伴う閉鎖を一歩的に通告されてしまうSteveと、母からもう連絡してくるな、と電話で一方的に言われてしまったShy、それぞれの絶望とテンションが最大になったところで…
教訓とか救いとか庇護者のない世界で、自分ひとりでなんとかやってきたふたりの男 - 中年と青年が、その最後の拠り所を失ってしまう、しまいそうになった時、どうなってしまうのか。ああいう場所と土地で、恒常的な暴力や怒号にずっと晒されてきた人が、その糸が切れてひとりになる、というのはどういうことなのか、等。
最後のほうで、AmandaがSteveを押さえこむように抱きしめて「あなたは悪くない」って何度も何度も繰り返していう場面がとてもよい。(後のトークで、あれはアドリブだったって) あと、これも終わりのほうで、Tracey UllmanとEmily WatsonがCillian Murphyを挟んで立っているシーン。このふたりが同じ画面内に一緒にいる絵って、たまんない人にはたまんないのではないか。
上映後のトークは、監督のTim Mielants、原作者+Executive ProducerのMax Porter、真ん中にいたCillian Murphy, Tracey Ullman, Jay Lycurgoが参加して、予想はしていたが、一番落ち着いて理知的に返していたのは、やはりCillian MurphyとJay Lycurgoだった。この後全員がBarbican Cinemaの同じイベントの方に移動していた。
こういうどこまでも閉じた学園ものって苦手だった(だって知らんし関係ないし)のだが、これは割とすんなりと見ることができたのはなんでだったのか。
どうでもよいけど、無精ひげぼうぼうのCillian MurphyってRufus Wainwrightにそっくりになるよね。
9.23.2025
[film] Spinal Tap II: The End Continues (2025)
9月16日、火曜日の晩、Curzon Aldgateで見ました。
“This Is Spinal Tap” (1984)から、監督Rob Reinerも中心のバンドメンバー3人も進行役のMarty(Rob Reiner)もすべて引き継がれ、全員がプロデュースにも関わっていて、準備段階から世界の片隅でいろいろ囁かれていた待望の続編。 と言いつつ誰もそんなにものすごく待望しているわけでも、というところまで含めてすべて計算に入っている。
パート1が登場した当時、ロックはもうとっくに脳死していて、メタルはただの冗談でしかなかった。冗談として冗談をやっている、という点でこの作品はタチが悪いやと思って、なので公開当時には見ていない(見たのは00年代に入ってからだったかも)。 ただ不思議なことに、この作品の評価はどんどん上がって伝説のような神話のようなものになり、DVDはCriterion Collectionからリリースされ、National Film Registryに登録(2002)までされる問答無用のクラシックになってしまった。
そして今日、メタルは収益でいうとライブ産業(コンテンツ)のメインストリームとなり、先のOzzyのライブでもはっきりしたように感動などを呼んでしまうものにもなって、リブートもフランチャイズもあって当たり前の世界なので、すべてはSpinal Tapのために、くらいの凱旋リリースとなってもおかしくないくらいなのだが、そこまで堂々としていなくて、あえて外しているように見えて/見せてしまうところがいかにもこのバンドの世界らしい。
冒頭、今世紀の伝説となること間違いなしの再結成&ファイナルライブのカウントダウンが始まったバックステージでのメンバーの表情をとらえて、全員が浮かない顔をしていて、そこから遡ってバンドにあと1回ライブする契約が残っていたことを確認した監督/語り部のMartyが、生き残った伝説のメンバー3人を訪ねていくところから。
Nigel (Christopher Guest)は妻と一緒にギターとチーズのお店 - ギターとチーズを交換もできる – をやっているし、David (Michael McKean)はpodcast用の音楽を作ったりしているし、Derek (Harry Shearer)は接着剤博物館を運営していて、それぞれ音楽とは細々と関わりを続けているものの、典型的な元セレブの「余生」を送っていて、でもたぶんできるかもやれるかも、って周囲を睨み合いながら最後となるライブに合意する。
こうして音楽をまったく理解できないプロモーター(Chris Addison) - あの、韓国の踊るボーイズみたいのはできないのか?とか言う - と契約し、会場はStormy Danielsがキャンセルしたので空いていたニューオーリンズのアリーナに決まり、空いていたドラムスにはQuestlove, Chad Smith, Lars Ulrichらにオファーが行く - 画面で彼らとちゃんとやり取りしたりする - ものの「残念ながら」、って断られて若い女性のDidi (Valerie Franco)に決まって、リハーサルが始まると、Paul McCartneyやElton Johnが顔を出したり、復活に向けたよい雰囲気は確実に作られていくのだが、もちろん、メンバー全員は浮かない顔をしてメンバー間とスタッフと小競り合いのようなことばかりしている…
モキュメンタリーなので、こういう復活劇にありがちなこと全部が隅々まで盛られていて、それをわかった上で楽しむ、のが正しいことはわかっているのだが、すべてがあまりにどこかで見てきた馴れ合い、倦怠、失望などにリンクしていて、メンバーはずっと冴えない表情で、でもライブの演奏シーンのところだけほんの少し神が降りてきて、その神が次なる惨劇を呼んで、” The End Continues”と… 作品としては40年を費やして彼らとおなじように萎れてしまった前作からのファンの思いにもきちんと応えるものになっている、とは思うものの、その間のドキュメンタリー/モキュメンタリーの多様化とか深化も踏まえると、とてつもなくばかばかしいことだねえ… って返すのが正しい反応、でよいのか。
彼らのことを一切知らない若者たちが見たらどう見えるのかしら? とか。
9.22.2025
[film] The Golden Spurtle (2025)
9月12日、金曜日の晩、ダウントンを見た後に、そのまま隣にあるCurzonのDocHouseで見ました。
ポリッジ(porridge)の世界選手権についてのドキュメンタリー。監督はオーストラリアのConstantine Costi、英国/オーストラリア映画で配給はDogwoof。
Spurtleというのはポリッジをかき混ぜるのに使う木製の匙で、優勝者にはこれをかたどった黄金のトロフィーが贈られる。たぶん本物の金ではないと思うが、外したら武器にするくらいはできるかも。
イギリスの朝食メニューとしてあるポリッジは日本だと「オートミール」と呼ばれてしまうのかも知れないが、お米とお粥くらいの違いがある。朝のBAの飛行機に乗るののなにがよいかというと、ここのラウンジにはポリッジがあるからで、これに蜂蜜をかけて食べるとああ飛行機に乗るんだわ、ってなるくらい脳はポリッジ状に腐りはじめている気がする。
スコットランドのCarrbridgeという小さな町で毎年行われているポリッジチャンピオンシップのある年の様子、特に世界中から集まってくる選手たちを追っていく。で、今年のはずっとこのイベントを主宰して引っ張ってきたCharlie Millerの最後の年になるのだと。 この人がどんなにすごい人かというと... 割とそこらにいそうなただのおじさんで、それがまたよいの。
世界にはいろんな料理があるので、なんの料理を対象としたどんな選手権があってもよいとは思うが、ポリッジにしたのはうまいな、って思った。「パン」みたいに汎用性があるように見える反面、朝のぼーっとした頭と身体にしみるようなシンプルさ、かつ微妙な匙加減が求められて、作り込みすぎても素(す)すぎてもだめだと思うし、プリンと同じように硬め柔めの議論だってあるし、どんな蜂蜜かメープルシロップかとか、あとは供される温度だって重要な要素になるだろうし ← うるさいよ。
映画はCarrbridgeの町並み – ほんとにただのふつうのスコットランドの地方都市 - を紹介してから過去2回優勝している地元の女性とか、参加してくるオーストラリアの人、ニューヨークの人、などを紹介する。ふだんはタコスを作ったりしているが、ポリッジを専門にやっているわけではない人たち。 というかパン屋があるみたいにポリッジ屋があるかというとそうではないし、どちらかというとグラノーラあたりに近いのかも。(もちろん、グラノーラにもなめてはいけない世界のようなもの、はある)
選手権の日は豪雨で、審査員の紹介もそんなになくて、審査の基準も調理の際のルールもあんまわかんなくて(たぶんてきとーなんだと思う)、優勝したポリッジも、どこにどんな秘密やこだわりがあったのかはわからなくて、おいしいポリッジの秘密を探りたい人にはううーってなるのだが、世界の果て、というほどでもないほどほどの田舎で、毎年こんな変なチャンピオンシップをやっているんだよ、というドキュメンタリー映像の纏まりとしてはよくできていたかも。
日本からも秘伝のタレとか味噌とか麹とかを持参して参加すればそこそこのところには行けるのではないか。
Istanbul
で、これの翌朝にフラットを出て、9月13日から15日まで、トルコのイスタンブールに行った。
フライトが朝6:15発で、ラウンジが開いたのが5:00だったので今回のポリッジは駆けこみでかっこむこととなった。
トルコは初めてで、見たいところはいろいろあるものの、カッパドキアとか考えだしたらきりがなくなりそうなので、まずはイスタンブール2泊から。いつものように美術館・博物館、というより街とか建物を見よう、の方で、グランバザール、地下宮殿、アヤソフィア、トプカプ宮殿、ブルーモスク、くらいを回れればいいや、くらいで。
天気もよくて、これらはどれもすばらしかったの – 特にトプカプのカリグラフィーと衣装展示、考古学博物館 – だが、街を歩いていくなかで想定していなかったのが、にゃんこだった。あんなにうじゃうじゃいて、手を出したら寄ってきたりして転がってくれたり(噛んでも引っ掻いても許す)してくれるので、全然次のに行けない。みんなあの寄ってくる猫たちをどうにかしながらあんな建物を建てたり街を作ったりしていったのだろうか。いやそもそも戦争なんかできんよね(猫のために戦ったとか)。
美術館だと、Istanbul ModernでAli Kazmaと塩田千春を見た程度で終わってしまった。屋上のテラスも気持ちよいし、ここの地下の映画館、なかなかよい特集をやっているみたい。
グランバザールの古書店は、英語と仏語の古本もふつうにあって、でも古本は今の自分のとこをいい加減にしないと状態になっているので目を逸らして掘らないことにした。
サバサンド(Fish Wrap - Balık Dürüm)はもちろん、今回の旅の大きな目的のひとつであった。サバとイワシをそれなりに食べてきた者として、サバの可能性がどのような形で、しかも「ストリート・フード」としてどう実現されるのか。サバのやや尖った風味はスパイスやハーブ系の野菜によく合って馴染む、ただ問題は断片として散らばりがちなこれらをどう口内でまとめあげるか – なのでサバカレーのアプローチはわかる – だったわけだが、ここではこれらをトルティーヤの皮で包んで、巻かれたそいつを転がして焼きあげる、というすごいこと - 内側は蒸されるし外側はかりっとなるし – をやっていてこんなのをストリートでやっちゃうのは反則ではないか、って思った。骨とってくれるのはいいけど、皮はつけておいてくれても、とか。 トッピングのたれには醤油とかコチュジャンとかカレーとか.. だーかーらーストリート・フードなんだって。 野良になって食ってろ。
あと、一瞬思ったのだが、ロブスターロールって… 以下略。
ポリッジよりもこれの選手権やっているのであれば見たい。
というわけでまた行きたいよう。
9.21.2025
[film] Downton Abbey: The Grand Finale (2025)
9月12日、金曜日の夕方、Curzon Bloomsburyで見ました。
公開初日だがそんなに入っていないし、すごい宣伝をしているわけでもない。そのうち入ってくるだろうから気にしない、なかんじで堂々としてる。
“The Grand Finale”というタイトルからもわかるように、たぶんこれで終わりの。これまでもずっと「もうこれで終わり」を言い続けてきた気もするが、Dame Maggie Smithの死があり、戦争の時代に入ったらムリ、というのもあったのか。サザエさんみたいに永遠に続くもんだと思っていたのに。
監督は前作の”Downton Abbey: A New Era” (2022)と同じくSimon Curtis。しかし”A New Era”って言った3年後に“The Grand Finale”って。パチンコ屋じゃないんだから。
冒頭、1930年のロンドンでGuy Dexter (Dominic West)主演でNoël Coward (Arty Froushan)作の”Bitter Sweet” (1929)を上演していて、バックステージでRobertたちはNoël Cowardと会ったりする。前作ではサイレント映画の制作がサイドストーリーとしてあったが、今回はそれがミュージカル、というかNoël Cowardになっている。後半、彼があんなに前に出てくるとは思わなかった。
それに続けて、王室のメンバーが来るような格式の舞踏会に来ていたLady Mary (Michelle Dockery)、the Earl of Grantham - Robert (Hugh Bonneville)、the Countess of Grantham - Cora (Elizabeth McGovern)は法的に離婚したLady Maryが王族のやってくる宴に同席することは許されない、といきなり退場を命じられて社交界がざわざわするのと、ダウントンの方にはLady Granthamの弟のHarold (Paul Giamatti)と彼の財務アドバイザーというGus (Alessandro Nivola)がアメリカからやってきて、大恐慌は乗り切ったとか言っているのだがどうにも怪しい。
Maryは滞在していたGusと酔っ払って寝てしまったりするのだが、その辺から雲行きが怪しくなり、やがてHaroldがGusに騙されてダウントンの資産の大部分を投資で失ってしまったこととか、そのためにロンドンの屋敷を売るしかないかもとか、Noël CowardとGuy Dexterがダウントンにやって来るというのでみんなで張り切ったりとか、郡のお祭りで堅物のSir Hector Moreland (Simon Russell Beale)と女性たちが対立したりとか、Daisy (Sophie McShera)が料理長に昇格したりとか、四方八方てんこ盛りで、結末は代が替わってMaryがダウントンの新たな当主になって、Violet (Maggie Smith)の肖像がそれを見守る、というそれだけなのだが、ものすごくいろいろ詰めこんであって、危機が訪れてもぜったいどこかから誰かが現れてどうにかしてくれる、という魔法の館。 Maggie Smithが生前何度も語っていた「長すぎるのよ… 自分がなにをやっているかぜんぜんわからないのよ…」と途方に暮れていた状態は正しく維持されている、というべきか。
こういう家族一族を描いたドラマで、みんなで一丸となって歯をくいしばってがんばって生きた、みたいのが死ぬほど嫌いなので、ダウントンの各自が自分の持ち分をこなしてたらどうにかなったよ、っていうのがよくて、それは究極には家父長制か階級制か、みたいなところに行くのかも知れず、どっちも嫌だけどドラマとして見るなら断然こっちかも。ほぼ関係ないし。
おもしろかったのはロンドンのお屋敷を売るというのでRoyal Albert Hallの近くのフラットを見にきたRobertとCoraが屋内の物音を聞いて、「あの音はなんだ? ひとつの建物の中に別の知らない家族がいるということか?」ってびっくりしたように言うところ。
でもやっぱりこれで終わりって勿体なくない? この一家がどうやって戦争の時代を乗り切ったのかって、やっぱ見たいよねえ。
9.20.2025
[film] Drama 1: The Entertaining Mr Orton
9月7日、日曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。
ここの9月の特集、でっかいのは”Ridley Scott: Building Cinematic Worlds”で、これは割とどうでもよくて、もうひとつは”Anna May Wong: The Art of Reinvention”で、がんばって見ているけどここに書けていなくて、あとひとつ、日程がぜんぜん合わずに泣いているのが”Associated-Rediffusion: The UK’s First Groundbreaking TV Franchise”という特集。
最初は何なのかわからなかったのだが、英国で商用TV放送は1955年、Associated-RediffusionとABCの2局による夜間番組の放送から始まって、国営のBBCとは別にドラマ、時事番組、討論番組、ドキュメンタリー、子供向け番組、コメディなどをかけて、TV CMの導入も含めて後の商用TV放送の先駆となったそう。Associated-Rediffusionが存続したのは1955年から1968年までで、その中からBFI National Archiveに保存されているものを紹介していく特集で、ComedyだとComedy1, Comedy2, Comedy3のようにオムニバスとして組み合わせたり、人気のあった連続ドラマだと数エピソードを纏めたり。
このDrama1は、Joe Ortonの書いた劇作をドラマ化したもの3本を束ねていて、Drama2は、Harold Pinter特集、Drama3は、Oscar WildeとAnton Chekhov。2は終わっちゃって3は予定があって見れない。 あーくやしいったら。
3本のトータルの上映時間は191分で、途中1回休憩が入った。しかしこんなのをTVで見れていたなんて。
Entertaining Mr Sloane (1968)
80分で、月曜の22:30に放映されたそうで、3幕の合間にはCMが入ったという。原作は1963年で1970年にはDouglas Hickox監督により映画化もされている。
若者Sloane (Clive Francis)が下宿先を探して中年女性Kath (Sheila Hancock)の家を訪ねてきて、同居している彼女の父Kemp (Arthur Lovegrove)は噛みついて、兄のEd (Edward Woodward)も眉をひそめるのだが、若いSloaneのことを気にいってしまったKathは、なんとしても彼に住んでほしくて1幕の終わりにはセクシーな寝間着姿で現れて。 2幕以降、出ていこうとするSloneと妊娠をほのめかしてなだめたり留めようとするKath、ろくなもんじゃない奴だ、って追い出そうとするKempとEdとの攻防が続いて、留守の隙にSloneはKempを殺してしまうのだが、その死の扱い/報告を巡ってKathと事実を握るEdが対立して…
まずは誰かの欲望とか野望があって、その後に続く終わりのないせめぎ合いと駆け引きをすごく狭いスペースと関係 - 「英国」的な? - のなかで描きながら、セクシャリティとか老いとか普遍的な、時として宇宙的に広がるなにか(の端っこ)を見せてくれる、というのが自分にとってのJoe Ortonで、モノクロで、小さな家のダイニングから断固として外に出ていかないカメラは、これだなー、というものだった。
いまYoung Vicで本作を上演しているので、そのうち見にいく。
The Erpingham Camp (1966)
“Seven Deadly Sins”という全7話からなるシリーズの一篇。Deadly Sinsは”Pride”, “Gluttony”, “Sloth”, “Avarice”, “Lust”, “Envy”, “Wrath”で、その回がこのうちの何をテーマにしていたのかは最後に明かされる。監督はJames Ormerod。 53分。
いつもきちんとして威厳たっぷりのMr. Erpingham(Reginald Marsh)が経営する伝統あるHoliday Campがあって、そこの従業員も彼の指揮下で軍隊のように教育され統率されているのだが、その晩のパーティの責任者に任命された若者がちょっと間抜けで張り切り過ぎたら何かのタガが外れ、客が暴走を始めて止められなくなって…
この日のテーマは”Pride”でした。
エウリピデスによる『バッコスの信女』 - The Bacchaeのペンテウスの悲劇を元にしているそうだが、あまりよくわからなかった。けど暴動のシーンの転がりかたはすごいと思った。 “Bacchae”もNational Theatreで上演が始まったのでそのうち行きたい。
The Good and Faithful Servant (1967)
“Seven Deadly Virtues”のシリーズからの一篇。書かれたのは1964年。これも監督はJames Ormerod。 53分。ここでテーマとなっているVirtueは”Faith”。
工場のドアマンとして50年間勤めてそこを退職することになったGeorge (Donald Pleasance)がいて、辞めることになっても自分のことなんて誰も気にしていないし覚えていないし贈り物もつまんないものだし、でも最後の日にそこで掃除婦をしていたかつての恋人Edith (Hermione Baddeley)と再会して、彼女の家で孫だという子供とも会うのだが...
しょぼくれの、失われた生の究極を描いたような作品で、自分のことに照らしてもしゃれになっていなくてうぅ、しかないのだが、Joe Ortonにとってはもっとも自伝的な作品でもあるそうで、これが放映されてしばらくして、彼は殺されてしまった、と…
9.19.2025
[film] Dead of Winter (2025)
9月8日、月曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
主演のEmma ThompsonとGaia Wiseのトーク付きのPreviewで、Emma Thompsonを見たくて取った。
監督はBrian Kirkで、今年のロカルノでプレミアされている。
上映前の挨拶でEmma Thompsonと娘のGaia Wise(映画で若い頃のEmma Thompson/主人公を演じている)が登場。母娘の共演は初めてだが、Emma Thompsonが初めて母のPhyllida Law(この晩の客席にいたそう)と共演した“The Winter Guest” (1997)でもタイトルに”Winter”が入っていたのはなにか因縁めいたものを感じる、と。 Gaia WiseはこないだRe-releaseで見た”Sense and Sensibility” (1995)のJohn Willoughby (Greg Wise)とElinorとの間にできた娘ってことね。
でも映画はコメディではなく、凍てつく氷の上でのアクション・スリラーだった。
“Fargo”の舞台となった(要するにめちゃくちゃ寒い)ミネソタの山奥で、Barb (Emma Thompson)がひとり、車で凍った湖にやってきて、氷の上に小さな小屋とかを設営して穴をあけて釣りをしたりする。そこに蘇る若い頃の記憶 - 若い頃のBarb (Gaia Wise)とやがて結婚することになるKarl (Cúán Hosty-Blaney)との最初のデートの場所がここで、後のほうで彼女はここにKarlの遺灰を撒きにきたことがわかる。
その湖に向かう途中で、道を尋ねようと車を停めたところで薪を割っている怪しい男(Marc Menchaca)がいて、道に血痕があったりして(鹿のだ、って男は返す)、なんか気になった彼女が帰りに寄ってみると、声が聞こえて若い女性(Laurel Marsden)が地下に監禁されているのを見つけ、なんとかしなきゃ/助けるからね、になったところでさっきの男より更に凶暴な女(Judy Greer)が突然現れて銃をぶっ放してきて、撃たれて怪我をしたBarbはいったん引っ込んで、傷口を釣り針で縫ったりしつつ、まちがいなく自分を殺しにきそうな連中とどう対峙すべきかを考える。
ここまでで、いろんな思い出を抱えたBarbが凍った湖にわざわざやってきた理由はなんとなくわかったが、ヒルビリーぽく荒れた男女 - 夫婦らしい - がなんでこんなところにいて、なんで若い女性を誘拐・監禁して、なにをしようとしているのか、はちっともわからない。中盤の湖の氷の上と監禁されている山小屋、その中間にある自分の車などを行ったり来たりの闘い - 手近にある使えそうなものを全部使って若い女性を救いだし、自分を殺しにくる敵との闘い、敵側からすれば知られてはならない自分たちがやろうとしていることを邪魔しようとするBarbを片付けないことには前に進めないのだ、という闘い - はとにかく寒そうで辛そうで、なのだが目を離すことができない。
そのきつい闘いのなかで、きつい闘いのなかだからこそ、なのか都度蘇ってくる彼女とKarlのいろんな思い出、流産したり彼が痴呆症になったり、その後の死別まで、それらを思い起こした時にEmma Thompsonが見せる表情はこれまでのおしゃべりで相手をきりきりさせるそれとは全く異なっていて、ぎすぎすした中でもなにかを包みこもうとするような暖かさがある。
そして、彼女の反対側に立つ悪漢Judy Greer、彼女も割とrom-com系に多く出ていたイメージがあったのだが、ここでの鬼婆っぷりときたら、なんでそこまで… というくらいすり切れて毛羽だっててものすごくて、夢に出てきそうなくらい。
クライマックスは書きませんが、スタントなし(だったそう)で結構すごいことをやっているので日本で公開されたら(地味すぎるので配信かなー)、見てあげて。
上映後のトークで印象に残ったのは、Emma Thompsonが語っていた、この映画には男性中心のこういうアクションもので描かれる闘いのマナー(怒りとか義憤とかがトリガー)とは全く異なる、何も持っていないところから知恵と近くにあるものを総動員して闘っていく、フェミニンなそれがある、ってとこ。 簡単にできることではなさそうだけど。
9.18.2025
[theatre] Juniper Blood
9月6日の晩、Barbicanで”Good Night, Oscar”を見て、そこのギャラリーでGiacomettiなどを見たあとの晩、Donmar Warehouseで見ました。
演劇を昼と夜ではしごする、というのは映画のそれとも音楽のそれとも違って、ちょっと疲れるけどものすごくおもしろい経験だなあ、と改めて思った。
原作はMike Bartlett、演出はJames Macdonald。
場内に入るとものすごく明るい照明で昼間のようで、ステージがあるところには本物の盛り土がしてあって本物の草が雑に生えていて、鳥とか虫の声が響いていて – 鳥はいないが実際に虫が湧いたりしたらしい - 要は日が照っている昼間、畑がある一帯、のようなところらしい。土と草の匂いがなんだか新鮮。
そこに農作業をしているらしいLip (Sam Troughton) – 髪も髭も手入れしてない無表情で浮浪者一歩手前に見える- がぼーっと現れて、虚ろな目でタバコを手で巻いてどんより吸っていると、その光景とは明らかに場違いなバカンスの恰好をした若者男女ふたり - Femi (Terique Jarrett)とMilly (Nadia Parkes) – が現れる。あまりのギャップにお呼びでない、になるかと思ったら、MillyはLipのパートナーRuth (Hattie Morahan)のex連れ子で、Femiはオックスフォードで現代農村経済みたいのを学んでて、口だけは達者でぺらぺらぺらずっと喋っている。Z世代の若いふたりは休暇ついで&手伝いでやってきて、そんなに深く考えずに農業しんどいーむりー、とか好き勝手にいう。
Lip(とRuth)はRuthの相続した土地があったのでNYの北の方にオーガニック&サステイナブルな農業の実現を求めてやってきて、日々土を耕したりしてはいるものの、Lipの顔と態度、あと舞台上に散らばった土の山とか掘られた穴とかを見る限りうまく回っているようには見えない。隣家のお気軽な農家のおっさんTony (Jonathan Slinger)は、オーガニック農業なんて金持ちの道楽でできっこない、とか言うし、若者たちも横から勝手な適当なことばかり言うのでLipは宴のテーブルの上から土を落としたりする。それでも時間は経つし日は暮れていくし。(照明は幕の終わり頃には夕暮れの明るさ程度まで落ちてくる)
弁のたつFemiがサッチャー政権当時に生まれたLip達の世代が、どんな文化的バックグラウンドを背負ってどんな思想傾向を持つに至ったか、他方でグローバル経済の進展がいかに都市と農村の地域間、国家間の経済格差を生んで結果的に誰も儲からない、おいしくない仕組みを組みあげてしまったか、この世代が正面からぶつかってこんなふうな総どん詰まり状態を生んでしまった今について爽やかに得意げに語り、だがしかーし、AIをはじめとするテクノロジーの進展がどうにかしてくれるに違いないのだ、みたいなお子様の議論を展開して(結果、泥ざばーん)、この辺はなかなかおもしろかった。
真面目にやろうとした正直者がバカを見る、儲けるのだけは得意なバカばかりがデカい顔をする、こんなのは農業だけじゃなく世界の至る所で見ることができて、どう生きるべきか、みたいな話はするだけ無駄、みたいになってしまった今の世の中で、でも生きないわけにはいかないのでー、ってなにもかもうんざりの今の中高年にははまるところも多かったのではないか。
こういうドラマだとは思っていなかったので、ややびっくりした。職業格差に関わる話なのか世代間のそれなのか、それらの複合でどっちにしたって相容れないまま滅んでいくしかないのか。
もちろん解決策なんかなくて、最後はチェーホフみたいな黄昏がやってきてどんよりするしかないのだが、でもあのラストはどうだろうか? ちょっと甘すぎやしないか、とか。
9.17.2025
[theatre] Good Night, Oscar
9月6日、土曜日のマチネをBarbican Theatreで見ました。
原作はDoug Wright、2022年にシカゴで初演され、翌年ブロードウェイに来て当たって、主演のSean HayesはTONY AwardsでBest Leading Actor in a Playを受賞して、今回のLondon公演でも彼がそのまま主演している。演出はLisa Peterson。 休憩なしの1時間40分。
1958年、NBCで放映されていたThe Tonight Showで、ホストのJack PaarがゲストにOscar Levantを呼んだ際に裏で起こっていたどたばた(とても本物ぽいがこのエピソードはフィクション)を描いたバックステージもの。
アメリカのトークショー – 今だとCBS (はもうじきなくなっちゃうみたいだけど)やNBCで夜の23:30頃から1時間くらい、ホストは今だとStephen ColbertとJimmy Fallon、ひとつ前だとDavid LettermanとJay Lenoとか、この舞台の時代だとJohnny CarsonやDavid Frostなどがいて、ゲストが2~3、アトラクションみたいのがあって、最後に音楽ゲストが歌ったり演奏したり、ハウスバンドもいて、寝る前のだらだらした時間に丁度よい娯楽を提供してくれるもので、番組によってはホストとの相性がよくて常連になるゲストとか企画もあって、これって十分にアメリカン・カルチャーの一翼だと思う(イギリスにもあるけど、あまりおもしろいと思ったことはない。のはなぜ?)。 TVがこのような番組の可能性を模索していた最初期に起こった - 起こっていてもおかしくなかったエピソードを綴ったもの。
Oscar Levant (1906-1972)については、”An American in Paris” (1951)でも”The Band Wagon” (1953)でも、脇にいるけどなんだか目について離れなくなるピアニストとして、名前は知らなくてもあああの!ってなる人、だと思う。
舞台は50年代のモダンな家具で整えられたTV局のドレッシングルームで、これが後半になると放送スタジオやステージに伸び縮みしたりして変わっていく。 NBCがLAで(西海岸発として最初に)放映するショーで、Jack Paar (Ben Rappaport)はOscar Levant (Sean Hayes)をゲストに呼ぼうと準備を進めていたが、オンエア直前になって彼が精神病院に入院していて薬を飲んでいることを知る。(生前Oscarは病気があることを公言していた)
それを知ったJackの上にいるNBCの幹部はOscarの出演をなんとしても阻止しようとして – 視聴者が寝る前に落ち着いた時間を過ごしてもらうのが番組のコンセプトなのにそんな病人を – って結構危ういことを言ったりする - でもどうにかして出演させたいJackと、Oscarを精神病院に入れて、でも心配になって見にきた妻June (Rosalie Craig)、使いっ走りの番組のAD(なのかな?)の若者、そして薬の飲み過ぎでぐったり動けなくなったOscarを診る医師などが絡んで騒ぎの輪が広がっていく。
後半、見切りで番組が始まって、明らかに具合がよくない、よれよれして綱渡りで、でもそれなりに笑えてしまうOscarとJackのトークを観客全員が見守るようにして見た後に披露されるSean Hayes自身によるスタンウェイ(舞台のスポンサー)のグランドピアノの爆発的な演奏 & すばらしくよい鳴りで大喝采になって、確かに演奏は見事なのでうおぉぉーってなるのだが。
結果おもしろければ(事故さえ起きなければ)、と芸と芸人を消費しようとするTVの傾向はこの頃からすでにあったのだなー、と思って、これはお芝居なのでわからないでもないけど、それでも終わったあと、ここにタイトルの”Good Night, Oscar”を被せてみると、ちょっと複雑なかんじにはなるかも。あと、舞台セットも含めてとても西海岸的な、よい意味での寛容さとわるい意味での放置する冷たさが同居していて、そこら辺も狙ったものなのだろうなー、って。
9.15.2025
[film] The Thursday Murder Club (2025)
9月5日、金曜日の晩、”Highest 2 Lowest”を見る前にPicturehouse Centralで見ました。
Netflixに入っていれば見れるやつなのかも知れないが、今のフラットに引っ越した際に契約するのを忘れてしまって、別に困っていない - 他に見るのがいくらでもあるのでそれでいいや、になっている。
原作は2020年のRichard Osmanによるベストセラー、監督はChris Columbus。
田舎に建つ引退した裕福な高齢者向けの養老施設Coopers Chaseに暮らす過去に輝かしい経歴をもって恥じることがない元MI6の諜報員Elizabeth (Helen Mirren), 元組合運動のリーダーRon (Pierce Brosnan), 元精神科医のIbrahim (Ben Kingsley)の3人(他に昏睡状態の女性ひとり)の老人たちが、新聞記事などから実際に起こった殺人事件をピックアップしていろんな角度から推理していく「木曜殺人クラブ」を作って、そこには医学の素養がある人が必要だ、って入居してきたばかりの元ナースのJoyce (Celia Imrie)を引き入れて興味深い事件を、ってなったところでCoopers Chaseの地権者のリアル殺人事件がすぐ近くで起こり、これは出番だっ、て警察から内部情報を入手すべく若い警官Donna de Freitas (Naomi Ackie)を仲間に加えて捜査を進めていくのと、殺人事件が自分たちの住処を中心とした一帯の再開発計画に絡んでいそうなので住民たちの間で反対運動が起こり、そんななか第二の殺人が.. とか。
老人たちは癖のある4人とその周辺(Elizabethの夫役のJonathan Pryceとか)も含めてよい人生を送ってきた善良な人たちばかりで、かたや悪い方はDavid TennantとかRichard E Grantとか見るからにー の連中で、その間でじたばたする警察は冴えない上司にしっかり者のDonnaという凸凹コンビで、登場人物すべてがこちらの期待した通りの役割と振る舞いをしてくれる、という点ではベストセラーになるのも納得だし、お年寄りを中心とした主役陣はみんな上手いし、すべてにおいてなんのひねりもないったらない。もっと老人達が悪い奴らを物理的にこてんぱんにする - Helen Mirrenの”Red”(2010) にあったような - のも期待したのだが、それもないし。
最初にタイトルだけ聞いた時は引退した老人達が完全犯罪を計画するようなドラマかと思ったのたが、そっちの方がおもしろくなったのではないか。
あと、お菓子作りが趣味のJoyceが焼くVictoria sponge(ケーキ)がおいしそうでー。
Honey Don’t! (2025)
9月7日、日曜日の昼、Curzon Soho で見ました。
Ethan Coenが妻のTricia Cookeと組んで、昨年の“Drive-Away Dolls” (2024)に続けて放つB級犯罪もの。Carter Burwellの音楽が冒頭からすばらしい。その音楽にのったタイトルバックで、カリフォルニアの寂れた町を車で抜けていくと、そのネオンとか落書きとか曲がりくねったパイプなどにスタッフやキャストの名前が浮かびあがってきておもしろい。
Honey O’Donahue (Margaret Qualley)はそんな町でひとりで私立探偵をしていて、ものすごく儲かっているわけでもかつかつでもなく、人探しの依頼が来ればふつうに警察なども使いながらクールに対応していって隙がない。
冒頭、崖下に落ちた車に乗っていた男女 - 当然怪我をして動けない - が誰かに車ごと焼かれて、以降その町できな臭い殺人事件が続いていくのと、その横でカルトっぽい新興宗教の牧師Drew (Chris Evans) - PTAの”Magnolia”(1999)のTom Cruiseぽい - がいつも信者の女性とやっていて、その周辺でどうも殺しは起こっているらしいぞ、なのだが、Honeyがその件に脚を突っ込んで冴えた推理や機転のきいた捜査を繰り広げていくようなやつかというと、そんなでもなく、そのカルトの中身に触れるか触れないかくらいのところでころころ簡単に人がいなくなったり殺されたりしていって、推理や捜査よりもとにかく数として溢れてくるきな臭いなにかにぶつかった、というくらいの描き方。
ナンバープレートが”Honey Dont”の車に乗って足取り軽く町を抜けていく彼女の内面に入りこんでいくような場面はそんなになくて、レズビアンの彼女がAubrey Plaza演じる不機嫌で不穏な警察官MGと恋仲になったりするくらいで、スタイリッシュではあるが、その反対側、町はずれで起こった陰惨なことを並べて、クールな女性探偵はそれにどう対応 - ほぼしてない - をしたのか、を淡々と追っていくだけ。怒りとか慟哭とか、そういうのに突き動かされて動いていくようなキャラではない。
唐突な残酷さとか喜劇的なくらいの救いのなさ、という点ではCoen兄弟の諸作っぽいかんじもなくはないのだが、すべてのピースが繋がって奇怪なランドスケープを描きだすようなところまでは行かず、いろんな一発芸を脈絡なく繋いでいくしまりのない、腑抜けた印象が残る。その腑抜け感 - ここはどうせそんな土地なのさ、のような投げやり感で転がっていくタンブルウィードの。
“The Substance”(2024)でのMargaret QualleyとDemi Moore との喧嘩はなかなかすごかったが、ここでのAubrey Plazaとの喧嘩もなかなかだったかも。
9.12.2025
[film] Highest 2 Lowest (2025)
9月5日、金曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
Spike Leeが、黒澤明の『天国と地獄』 (1963) - 英語題は”High and Low” - を現代のNYを舞台にリメイクした結構な話題作だと思うのだが、UKでの公開も宣伝もものすごく地味でどうみてもやるきないっぽい(初日なのでスクリーンだけはでっかくしてくれた)。
日本の若者たちが黒澤のオリジナル版を見ていないことについて、Spike Leeが日本のジャーナリストを責めた(彼のいつものあれよ)そうだが、だって日本で黒澤を見ろ、って言ってくるおやじって、ぜったい上から目線の黒澤の映画に出てくる脂ぎった悪役みたいなじじいばっかりだったんだもの。(だから見てないよ。お金も時間も限りがあるんだよ)
原作はEd McBainの小説” King's Ransom” (1959) – これがそもそもNYをモデルにした架空の都市が舞台だったのだが、冒頭、イーストリバーを中心にブルックリン側から映しだされるダイナミックなNYのスカイラインも、自分にとってはあんまリアルには見えない(変わりすぎてしまって)。そういうところまで含めた嘘っぽさ、絵空事のかんじがでかでかと。
主人公は音楽業界の伝説的なプロデューサーDavid King (Denzel Washington)で、冒頭のシーンは彼のWilliamsburgあたりの高層アパートのペントハウスから、その内部は高そうなアートとかレコードコレクションとか、彼にとってのアイコンとか、自分が表紙になった雑誌のカバーとかで覆われている。妻のPam (Ilfenesh Hadera)はブラックカルチャーを支援する慈善家で、息子のTrey (Aubrey Joseph)はバスケットボール選手で、問答無用で今の過剰な富裕層の典型。
Treyを車で学校に送っていったその晩に彼が誘拐されたという報が入り、アパートに捜査本部が置かれ、何をしても、どれだけ払ってもいいから彼を取り戻せ、と伝えてしばらくしたら、Treyは戻ってきて誘拐されたのはKyleではなくDavidの親友で運転手のPaul (Jeffrey Wright)の息子Kyle (Elijah Wright) であることがわかる。
自分の息子じゃなくても親友のKyleを救ってくれるよね? とTreyはパパにお願いするのだが、ビジネスでも岐路に立たされて迷っている最中に膨大な身代金の出費は痛くて、でもすぐに返事を出せないDavidにSNSはざわざわし始めるし、警察はPaul自身が仕組んでいる可能性も視野に入れていたり、いろんなことが立ちあがって出口が見えなくなる。
結局Davidは取引に応じることにして、自ら身代金を担いで④の地下鉄でBorough Hallから試合で人々がごったがえすYankee Studiumまで乗っていって(停車駅にいちいち思い出が)、更におそろしいことに球場の外ではPuerto Rican Day Paradeが行われててごった返す、なんてもんじゃない修羅場になっている。人混みが嫌いな人だったら秒で失神してもおかしくない、NYが一年で一番やかましくなる一日に、いくら荷物にGPSを仕込んでいたからと言って、犯人を捕まえることなんてできるだろうか? - いやぜったいむり。(これ、単独犯のように描かれているけど組織で動いているよね?)
でもDenselだから。 “The Taking of Pelham 123” (2009)でも、”Unstoppable” (2010)でも、やってきたことなのでまたしても、はあるけど、彼が電車に乗りこんだら解決しないことなんてないから。無敵だから。
そして今回もまた、なのだが、最後は結局Yung Felon(ASAP Rocky)とのラップ対決で - 殴りあいでも銃でもなく – 負かしちゃって、伝説上の人物なのでそういうもんなのかもしれないけど、すべてを取り戻してしまって、お手あげになる。
Spike Leeはたぶんこれを過去から連なるNYのドラマ(音楽、野球、移民、ダンス、アート等) – Highest/Lowestも社会階層に加えてNYの地理 - マンハッタンだとUpper/Lowerだけど – にしようと思っていたのかもしれないが、とにかくDenselがでっかすぎてどうしようもない。 ここはもういっかいマンハッタンにゴジラを上陸させるくらいしかないのではないか。