6月1日、日曜日の午後、BFI Southbankで見ました。
6月のBFIの特集にはふたつ大きいのがあって、ひとつが” Wanda and Beyond: The World of Barbara Loden”、もうひとつがこの”Complicit: The Films of Michael Haneke”で、なんで一年のうち一番日照時間が伸びてみんなが歓びに溢れかえる月(英国の場合)に、こんなに過酷な特集を(ふたつも)ぶつけてくるのか? って思ったのだが、秋冬にこれをやるとまじで死にたくなってしまう人が出てくるからではないか。
特集のうち、Barbara Lodenの方は今のところできるだけ見に行っているのだが、Michael Hanekeの方は見れる機会に、くらいで、まだこれくらい。
これはMichael HanekeがTV用に制作した作品で、“Lemmings, Part 1 – Arcadia”(英語題)が113分、続く”Lemmings, Part 2 – Injuries”(英語題)が107分、纏めて上映されたのではなく、別枠で、日曜日の後半がレミングの大群にのまれた。 こんな際どくもやもやして暗いの、よくTVで放映したものだわ。
Lemmings, Part 1 – Arcadia
第二次大戦後、1959年、ウィーン南部の町の若者たち – Hanekeの世代、彼の生まれ育った町 - と親たちの衝突、というかそこまでいかないただの断絶、溝が横たわっていて、そこに向かってレミングが – その行動については登場人物たちの口からもヒトゴトのように語られる。
当時のPaul Ankaとかのポピュラー音楽が流れるなか、夜に自転車をのりまわしたり自動車を壊したりしている男性ティーンを中心にふたつくらいの家族があり、強権的な父親がいたり、寝たきりの母がいたり、中年の女教師と関係を持っていたり、学校やサークルもあるが、若者それぞれになにをやってもの無力感~絶望があって、それがある日、糸が切れるように自殺に至る - 何故?についてはわからないし語られない。残された者の辛さと他にも伝播していく可能性が等しく並べられていって、先の大戦を止められなかったように、それはどうにも止められるようなものではないのだ、という灰色の壁とか空気が映しだされる – そんなArcadia(理想郷)のありよう。
50年代という時代やオーストリアの郊外の町、という背景の特殊性はあまり強調されておらず、若者たちの不安や不満の根源に迫ったり掘ったりしていくアプローチも取らない。ここに描かれたような普遍ぽく平坦な環境下では、交通事故のようにそういう事態がある/おこる、ということを淡々と描いて、そこに救いや解決策のようなものはないんだから、ってそれらの方は触れない ~ これが/だからレミング。
Lemmings, Part 2 – Injuries
Part1から20年後、ここに出てきた人物たち- 同一人物設定 - は中年になっていて、でも痛みや病の総量はあまり変わっていない。
冒頭、原っぱの木に車が突っ込むところが描かれて、そこに至るまでの成りゆきが綴られていく - けど、明確な因果関係などはここでも描かれることはない。
疎遠だった父が亡くなったとの連絡を受けて、数十年ぶりに実家に戻った女性ががらんとした家でいろいろ思ったり、旧友と再会したり、新たな恋人を作ってみようとするのだが、どれも最初は大丈夫ぽいのに途中からなんでこんなことしてるんだろう… に襲われて、その傷(Injuries)のようなものが広がって自分でもよくわからないまますべてを壊してしまおうとする。 日本だと万能薬のように使われる「絆」なんて微塵もない。
Part1にあった成長のようなテーマから継承とか後始末、のようなところに移って、画面や人物の挙動の不透明度と不可視なかんじはPart1より増しているのだが、わかるわからないでいうとものすごくよくわかって、わかるから怖さもより増している。どっちにしても止められないけど。
これ、Part1と同じく女性ではなく男性を主人公にすべきだったのでは、というのは少し思った。これだと女性特有のあれ、で片付けられておわり、になったりしない?(そこも狙い?)
レミングについては、止められない、なんでそうするのかわからない、でもみんな突っこんでいく ←これが自然現象なの? というありようから何から、Hanekeが描くのはヒトではなくすべてレミング(の仲間)、というのが既に表明されているかのようだった。全部はとても追えそうにないけど。
6.11.2025
[film] Lemminge (1979)
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。