5月28日、水曜日の晩、Theatre Royal Haymarketで見ました。
原作は英国の劇作家Terence Rattiganの1952年の戯曲。1955年にAnatole Litvakが、2011年にはTerence Daviesが、同じタイトルで映画化している。日本語版は小田島雄志訳で『深い青い海』という題で出版されている(1968)。
この舞台の演出はLindsay Posner。オリジナルは一年前にバースで上演されて評判になっていた舞台だそう。
幕があがると、古くて薄暗い部屋がゆっくりと浮かびあがる。重くいろんなものを吸っていそうなカーテン、光は全て均等に柔らかく、曇って色あせた壁、そこに掛かった何枚もの絵画など – ここが”The Deep Blue Sea”なのだ、というのは想像がついて、その部屋の片隅に布に包まれた人が倒れていて、隣人と思われる人たちがばたばた現れると彼女を奥のベッドに運んで医師を呼んできて面倒を見ると彼女 - Hester (Tamsin Greig)は立ちあがって、大丈夫だというがあまり大丈夫そうではなくて、ガス自殺を図ったものの、お金がなくてガスが供給されなかった(お金を入れるとガスが出てくる仕組み)ことがわかる。
もう大丈夫だからと人々を帰しても、夜になってやはり心配になった彼らみんなが – みんなが入れ替わり立ち替わりなのが妙におかしい - Hesterの様子をこわごわ見にやってきて、その中には別居している夫で判事のWilliam(Nicholas Farrell)がいるし、彼女の若い恋人でパイロットだったFreddie Page (Oliver Chris)もやってくる。Hesterの彼らとの個別の会話、話題の拾い方とかその温度感から、彼女がなぜこの薄暗い部屋 – The Deep Blue Seaにずっとひとりでいるのか、彼女がなにを求めているのか、なんで死のうと思ったのか、などが照らしだされてくる。
それは一見して他人が容易に入りこめない(入りこんではいけない)領域のように思えるし、最初のうち、ああこれはしんどそう、って思うのだが彼らひとりひとりに対する彼女の振る舞いや会話のトーン、彼らが彼女に対するときの態度など、過去に遡ったりしながら廻っていく細かな会話の積み重ねから、部屋のように固定された彼女の孤独と痛みがぼんやりと浮かびあがってくる。Hesterは彼らの今の都合や用事を妨げたり遮ったりしてはいけないことはわかっているけど、でもやっぱりFreddieとは一緒にいたいし、男たちの方もHesterの思いや辛さ、気遣いはわかっているので、これまで通りに振るまわねば、と思いつつも、また自殺されても困るので、どちらもなかなか動けなくて、その状態をどうにかするのにお酒の力を借りようとすると、それはそれで、別方向にドライブがかかってしまったり…
ヤマはHesterとFreddieの関係をどうするかどうなるのか、それがどっちみち続かずに壊れてしまうことは誰が見たって明らかで、それがわかっているWilliamや医師が最後のほうに現れて部屋と彼女をほんのり温めてくれるのだが、痛みの総量はそんなに変わらないようで、ああこれがKitchen sink realismか、と改めて。確かにリアリズムなんだけど、どうやってその粒度と明度に到達できたのか、は魔法に近いなにかのような。
50年代の闇、とまではいかない日々の生の薄暗さがどうしてこんなに生々しく迫ってくるのか。やはり思いだしてしまうのは杉村春子の『晩菊』 (1954)で、女たちはみな命をかけるくらいにずっと必死に生きて恋をしていて、その反対側の男たちはどいつもこいつもぼんくらのダメであることが明らかな奴ばっかりなのか。ちゃんと探求したらおもしろいテーマになると思うなー。
ここのシアター、次の7月にかかるのはミュージカルで、原作はJudith Kerrの“The Tiger Who Came to Tea”なの。見たいけど、子供向けなんだろうな…
6.06.2025
[theatre] The Deep Blue Sea
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