5月23日、金曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
クラシックを大きい画面で見よう、の枠で、John Frankenheimer監督作を2本やっていた。
原作はDavid Elyの同名小説(1963)、撮影はJames Wong Howe、音楽はJerry Goldsmith、オープニングのタイトルバック - 顔や頭部のいろんな部分の歪んだクローズアップ - はSaul Bass。
邦題は『セコンド/アーサー・ハミルトンからトニー・ウィルソンへの転身』。
NYの郊外スカースデイルに妻と暮らす銀行員のArthur Hamilton (John Randolph)はグランドセントラル(66年の駅!)への通勤も含めて日々ぼんやり疲れていて、ある日の帰宅時、見知らぬ男からダウンタウンの住所を書いた紙を手渡され、その晩には死んだと思っていた幼馴染のCharlieから電話が掛かってきてその住所に来るべきだ、と強く言われる。
Arthurがその住所に行って見ると食肉加工工場で、その奥にはカフカぽい迷宮が広がっていて、帰ろうと思った時にはもう遅くて、改造手術を受けた彼はAntiochus "Tony" Wilson (Rock Hudson)として生まれ変わり、元のAuthurはどこかでだれかの焼死体として処理されている。
こうしてRock Hudsonの容姿を持つ西海岸の現代美術家として生まれ変わったTonyは用意されていたかのようなマリブの海沿いの邸宅とアトリエをそのまま貰って、なに不自由ないセレブの暮らしを満喫できるはずだった、のだが。
過去や家族を捨て、別人として生まれ変わったはずの人がうまくいかなくて破滅するよくあるお話、ではあるのだが、そこに含意されがちな教訓とか戒めのような要素はあまりなくて、なぜ自分は自分でないといけないのか、自分を自分たらしめているのはなんなのか、を考えさせて不安と不条理の底に突き落とす。”First”や”Second”の「自分」- そのコアを決めるのは自分なのか、どこの誰なのか、がわからなくなってくる実存レベルの恐怖がある。
The Manchurian Candidate (1962)
5月24日、土曜日の昼、BFI Southbankで見ました。
↑の3つ前に作られたJohn Frankenheimer監督作品。原作はRichard Condonの同名小説 (1959)。
Jonathan Demmeが同名”The Manchurian Candidate” (2004)としてリメイクした方も有名かも。 邦題は『影なき狙撃者』。
朝鮮戦争に従軍していたアメリカ軍の小隊が罠に嵌って敵方に捕えられ、でも帰国すると英雄として迎えられる。特に帰還兵のひとり、Raymond Shaw (Laurence Harvey)は上院議員の父と選対長母Eleanor(Angela Lansbury)によって選挙キャンペーンのネタにされ、誰もが”he is the kindest, bravest, warmest, most wonderful human being”とかいうけどそんなのもちろん嘘だし、彼と同じ隊にいて捕えられていた上官のMarco (Frank Sinatra)は異様な悪夢を見るようになって。
やがてそれが捕虜となった際に行われた洗脳によるものであることがわかってきて、アカ狩りに夢中だったアメリカはきたきた! って燃えあがる - そんな単純なドラマではなく洗脳が洗いあげてしまう価値観とか記憶の危うさ、深層とか表層で括ってしまううさん臭さを暴いているのだと思って、それは↑の”Seconds”がとらえようとした自己の基盤のようなところにも繋がっていくところが興味深い。
でもこれっていくら映画としておもしろくても現実はなあー、になりがちだったところに、最近のAIのバイアスの話とか、すぐ右左を分別したがる「ふつうの日本人」の傾向などを重ねてみると実はぜんぜん古くない - 退行してきているのではないか、って思ったりした。
出てくる人たちの顔が、ほんと典型的なアメリカ人顔だったり東洋人顔だったりなのもおもしろかった。
6.01.2025
[film] Seconds (1966)
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