5.10.2025

[film] 風櫃來的人 (1983)

4月30日、水曜日の晩、BFI Southbankの4月の特集 - “Myriad Voices: Reframing Taiwan New Cinema”で見ました。 侯孝賢を含めて台湾のニューシネマはこれまで全然見れていないので、いろいろ見たかったのだが、この特集もこの1本で終わってしまった。4月のばか。

邦題は『風櫃の少年』。英語題は”The Boys from Fengkuei”  CINEMATEK - Royal Belgian Film Archiveによる4Kリストア版。 別の日には撮影を担当したChen Kun-hou(陳坤厚)によるイントロがあったそう(聞きたかった)。侯孝賢の半自伝的なドラマである、と。

いつの年代かの台湾の離島、ひなびた漁村の風櫃に中学生くらいのAh-chingがいて、彼の父は草野球で打球がおでこを直撃してから椅子に座ったまま動けなくなっていて、彼の他にはAh-rong, Kuo-zai, Ah-yuの3人がいて、いつも4人で浜辺でバカなことをしているか、他のガキ共に喧嘩を売ったり売られたりで逃げては集まり、女の子にちょっかいを出しては逃げたり避けられたり、だいたい退屈ですることがないのでそういうことをして、全体としてここにいてもつまんないし、ろくなことがないからここを出てどこか別のところへ行こう、になる。 若い頃(の特に男子)というのはそういうバカなことをいっぱいしたり、いろんなところに行って自分が少しはなじめそうな場所なり集まりなりを見つける動物の時期、というのはわかっていて、それが風櫃の少年たちに起こったら、それは例えばこんな日々になる、という絵を描いている。

映画になるのであれば、最終的にどこそこに落ち着いた、か、落ち着くことができず挫折してはぐれ者になった、辺りが世の青春映画としては一般的だと思うが、この映画の主人公たちはそのぎりぎり手前、バカなことをしてふらふらしている地点、どこにも行けない吹きだまりのような場所を永遠に彷徨っているように見えて、そうしていながら4人は3人に、3人は2人になったり、父が亡くなったり、その周りで切り取らていく風景は、いつまでもあの時のまま、決着つかないまま時間ごと止まっていて、我々はそういうふうに止まった時間のありようを、あの風景を通して見る・見返す、というか。そういう印象とか残像のようにして残るなにか。

これって多分に、思いきり男子のもので、家の事情で勝手に動けなかったりする女子だと見え方も残り方も違うのだろうな、と思いつつも。

片方には家の玄関があり、片方には遠くに延びていく道路があって、バイクは画面の奥に遠ざかって消えていき、玄関の前には時間が止まって動かなくなってしまった「父」が座っていて、そのどちらにも向かえないまま乗り遅れたり(何に?)、そこにいるはずの誰か(誰?)がいなかったりした時に見える(特に見たくもない)風景、がずっとそこにあって、このパノラマはいったい何なのだ?って打ちのめされて見ていた。

とにかく風櫃には何もないので、外に出ていくしかなくて、そのきっかけとか動機は仕事か女性かしかなくて、仕事も女性も常に裏切ってくる – fitする何かなんてどこにあるのか? - ので、場所を渡って仕事を変えて、女の子には必ず振られて、を繰り返す – それが4人の男子の王兵のドキュメンタリーフィルムに出てくるような俳優顔じゃない彼らの顔と共に後ろに流れていって、それは風景と一緒にどこかに消えていく – けど消えていかずにずっと残る。

音楽はクラシックが流れて、Jia Zhangke(贾樟柯)の使うJoy Divisionがもたらす効果とはやはりぜんぜん違う。どちらもよいの。

こういうイメージを捕らえて重ねて編んでいく、って誰でも実現できそうなようで実はものすごく難しい - ゴダールの映画がそうであるように、なのかも。

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