7.06.2026

[film] Born to Kill (1947)

7月1日、水曜日の晩、シネマヴェーラで新たに始まった特集 - 『ヴァル・リュートンから始まるⅠ ロバート・ワイズ』で見ました。リュートンもワイズもよく知らないところなので、可能な限り見たい(いつもの)。 

邦題は『生まれながらの殺し屋』、英国でのタイトルは”Lady of Deceit”。 原作はJames Gunnによる小説 – “Deadlier Than the Male” (1942) - 『男よりもやばい』。 監督Robert Wiseにとって最初のフィルム・ノワール作品だそう。

サンフランシスコの社交家、Helen (Claire Trevor)は自分の離婚手続き待機でリノの町の下宿屋に滞在している時に知り合ったLaury (Isabel Jewell)が恋人のSam (Lawrence Tierney)を嫉妬させるために別の男とデートするんだー、って言っているのを聞いて、その晩、Lauryと男が一緒にいるところを見たSamは、嫉妬どころか相手の男とLauryを簡単に殴り殺してその場を去り、あとでその惨劇の現場を見てしまったHelenは警察には通報せずにそのままサンフランシスコに戻る。

サンフランシスコでHelenはSamとわざとらしく再会して、彼女が金持ちのFred (Phillip Terry)と婚約していることを知ったSamはHelenの義妹で新聞社を引き継いで裕福なGeorgia (Audrey Long)の方に近づいて、結婚するところまでのしあがる。

その裏ではリノの下宿屋のおかみが雇った私立探偵Arnett (Walter Slezak)が辺りを嗅ぎまわるようになり、Georgiaの夫として各方面になりふり構わぬ傲慢さをむきだしにするようになったSamと、自分が似た者同士であることを仄めかしつつ彼に近寄ったり距離を置こうとしたりするHelenの綱引き・綱渡りは果たしてどこに向かうのかー。

極悪非道のサイコパスが社交界でのしあがろうとして、彼と距離を置こうとしつつも絡まないわけにはいかない似たもの女性の複雑な思いと境遇を描いて、それはノワールの定石であるfemme fataleに寄っていく、それに翻弄されて嬉々として破滅に向かう男性ではなく、homme fataleに寄りつつ自分でもどこに行きたいのかわからなくなっていく – でも決して狂うことはない - 女性を生々しく現前させて、目が離せない。

Samのキャラクター造形にもうちょっとだけ深みを持たせることができたらなー くらい。いまの俳優に演じさせるとしたら、やっぱりGlen Powellあたりかしら。


Executive Suite (1954)

↑のに続けてみました。 邦題は『重役室』。
脚本はErnest Lehmanで、彼が手掛けた最初の映画脚本になるそう。あと、音楽が全くついていないの。
オスカーに沢山ノミネートされて、ヴェネツィアではGrand Juryを獲っている。

大手家具メーカーの社長Avery Bullard - 冒頭は彼の目線で動いていく – がNYでの商談を終えて、秘書に夕方帰るので重役会議を招集しておくように、って電報を打って道路に出たところで急に具合が悪くなって倒れて天にー。

倒れた男性が運ばれるのをビルの上から見てて、あれはうちの社長ではないか、って確信した重役が手元の株を売って儲けようと画策するが身元の公表がぜんぜんでなかったり、死亡が公表されると、社長は後継者の指名などをしていなかったこともあり、対外発表や株主の保護、そこで誰が主導権を執って進めるか、そしてなにより、誰が後継の社長になるべきか、などについて、彼は若すぎる、人望がない、など水面下での男たちのぐさぐさの攻防が始まって、焦り苛立ち失望などが止まらなくなる。

基本は老獪なじじい vs それぞれの理想に燃える若手、という男たちの成りあがり蹴落とし駆け引きサバイバル・ドラマで、そこに創業者の娘でBullardの愛人だったJulia (Barbara Stanwyck) - 議決権をもつ – が絡んで、相当にねっとりした熱いやつに盛りあがって、俳優はみんな重心低めでうまいし、緊張が途絶えないまま最後まで運ばれる。

見ごたえはあって、一般的なメッセージや教訓としてもたぶん悪いことは言っていなくて学びも多く、結末の持って行きかたも間違っていない映画だと思うのだが、会社とか経営とかそこでの仕事とかにぜんぜん興味を持てないまま生きてきてしまったので、何をやっているのか、何を言っているのかはわかるものの、これ、なにがおもしろいんだろ? の連打になってしまったのが残念だった。(そもそもなんで会社員なんかになったの? → 自分、といういつもの)

他方で、ここに出てくるような人たち(Executives)によって決定されたり執行されたりしたことが、多くの人たちの人生や生活の行方や質を決めることになる、という仕組みとか、そんな彼らに対するべらぼうな報酬とか支配/服従のありようとか、いまや世界の殆どの会社組織で行われていることとは言え、なんともグロテスクでおそろしいことだわ、って改めて思った。

[film] 急に具合が悪くなる (2026)

6月30日、火曜日の晩、ル・シネマ 渋谷宮下で見ました。
まだあれこれ考えたりしているが、なんか書いてみよう。3時間20分ある作品だが、するする見れて、軽い。

仏語題は”Soudain”(突然)、英語題は”All of a Sudden”、先のカンヌで主演のふたりが女優賞を共同受賞している。

原作は哲学者宮野真生子と文化人類学者磯野真穂による同名の往復書簡集(未読)で、映画は中心のふたり、その間で交わされるメディア(手紙→対話/演劇)、言葉も含め、舞台をパリとそこの介護施設に変えて、いろんな出会いや衝突があるなか「急に具合が悪くなる」ような事態はそこになにをもたらすのか? というその行方と結末を見せる、というより、どこまで転がっていってもどうにもならないnow/here な世界を、ロメール調のさらさら手書き日めくり方式で綴って見ようと。

パリで高齢の認知症患者向け介護施設のディレクターをしているMarie-Lou (Virginie Efira)は、老人たちを機能不全に陥った機械として扱うのではなく、人として対面して時間をかけてケア、支援していく、ユマニチュードの方法論を軸とした施設の設計や運営に反対したり疑義を抱くお役所や現場のスタッフ達と辛抱強く対話を続けていて、疲れて眠れなくなった時に誘眠剤を飲んでしまったせい(が直接の要因ではないが)で患者が亡くなって、トラムでひとり泣いていたら、丘の向こうから走ってきた智樹(黒崎煌代)と出会い、自閉スペクトラム症である彼と、その祖父で役者をしている吾朗(長塚京三)と彼の舞台を作・演出しているMari (岡本多緒)と出会い、彼らの演劇 - イタリアで精神病院を廃止した精神科医Franco Basagliaについての芝居 - “Da vicino nessuno è normale” - 『近づいてみれば、誰もまともな者はいない』 - を見に行ったMarie-Louは感銘を受けて、Mariと親交を深めていく。

Mariはステージ4の癌患者で、いつ「急に具合が悪くな」ってもおかしくない状態であること、またそうなったらもう先は長くないことをMarie-Louに告げ、Marie-Louは自分の施設での運営や指針を巡る試練や困難について語り、ふたり共なんでこんなに生きにくい状態になっているのか、等についてナンシー・フレイザーの資本主義システムの絵を白板に描いたりしながら共に対話して考えていく。

ドラマは急に具合が悪くなったMariが急遽日本に帰国し、一緒についてきたMarie-Louの求めに応じて再びパリに戻り、という展開を見せて、ふたりの抱える生き難さが周囲のいろんな人たちとの関係の移り変わりによってどんなふうに別の様相に変わっていくか、を描いて、所謂難病モノにある周囲の希望や悲嘆にフォーカスするものにはなっていかない。そういったエモを周到に回避しつつ、変わることは難しいかもしれないが、例えばこんなことも、という見せ方に向かう。

「急に具合が悪くなる」ことの「急に」が急であることを察知するためにはずっと傍にいて「いつも具合が悪い」ことを見ながら認識しておく必要がある。「急に具合が悪くなる」ことの背後には「ずっと具合が悪いまま」である/がある、ということ。 『悪は存在しない』 (2023)で、そう言いながら「悪は存在する」さまを軽く示していたように。

そしてその「急に」という事態、時間のありようは、患者ひとりひとりの時間感覚が異なるようにケアされていくなかで引き延ばされ、それが資本主義システムの求めてやまない効率や時間のお金の使い方 - 予測・計測可能ななにか、に対置、対抗されるものとしてあるように示される。ふたりの食べるカップラーメンの2.5分が、ぜったい2.5分よりも長かったように(いちばんはらはらした場面)。

そしてたぶんそこに、原作の往復書簡の宮野さんがテーマとしていた九鬼周造の「偶然性」の話も絡んでくるのだろうな、というのと、もうひとつの基調音としてあるロメールの映画とはまさにそういうchance meetingの織物としてあったよね、というのと。

ふたりが京都の山の上で語り合いながら朝を迎えるシーン、『レネットとミラベル/四つの冒険』 (1987)の"The Blue Hour"みたい、って思った。

主要な舞台を日本ではなくパリに置いたのも、ロメール、というだけでなく、日本だと雑で愚かで幼稚な資本主義がやかましく声高に進行しすぎていてドラマとして成立しないからではないか、とか。

ひとつだけ、施設の老人たちや自閉症の智樹の「演技」の描き方は、ちょっと気になった。ワークショップであれ本番であれ、彼らがあんなにきちんとコントロールされて動いてくれるわけなかろうに、って。

7.03.2026

[theatre] ハムレット

6月28日、日曜日の午後、静岡芸術劇場で見ました。 月1回は見たい演劇。

台風でどうなるんだろ? だったが新幹線は動いていた。雨風は去っていて、でもこの時期の吹きつけてくる霧雨がすごくいやで。

静岡、というと、2023年に静岡県舞台芸術公園で『Hamlet à l'impératif ! ハムレット(どうしても!)』を見ていて、静岡はなんとなく「ハムレット」を見る土地、になっている感がある。(それがどうした)

この舞台は昨年11月にここで上演されたもののリバイバルだそう。原作はシェイクスピア、河合祥一郎の翻訳をベースに、脚色・演出は上田久美子。

開場の少し前にロビーのようなところで、地元高校の芸術科演劇専攻(そんなのあるのいいなー)の生徒たちによる、ハムレットのあらすじについてのパフォーマンス 「みにみにハムレット」という5分くらいのがあった。5分でまとめて説明します、ということで、波も間合いもちゃんとしていて、これ自体は別によいのだが、劇の本編の方でも冒頭にホレイシオ(本多麻紀)が出てきて「要約します」というのをやっていて、これは最近の風潮なのだろうか、「まとめサイト」とか、「あらすじ」とか、他方でネタバレ禁とか、なんかぜんぶ繋がっているのだろうな、と思った。

そして最初に、登場人物全員が白いひらひらの衣装で登場して、全員がオフィーリアである、という。配布された縦長の冊子には、人間以外の存在を無視しないために、ということで「ノンヒューマンな存在たち」を意識した動き、という言及があり、冒頭のオフィーリア(たち)の動きは - ストーリーの本筋から排除されがちな彼女の声や目線を拾いあげるものでもあり - その方向性に倣ったもの、であるのかしら。

この世継ぎをめぐる復讐と自家撞着のどろどろと転がっていく物語は、確かに王子ハムレット(山崎皓司)を中心に据えたものなので、そこから漏れたり拾いあげられなかった声などもあるのかもしれないが、では、そうして拾われたり掬いあげられたりした声の確かさとか網羅性って、どうなのだろう? そこにおいてもまた、オルタナの「存在」によるふるいが掛けられたりしないのか? とか。 物語を作る、というのはそもそもが作者のそうした恣意の塊りを捏ねていくことなので、読みの試みとしては別の視点が導入されたりしておもしろいかもしれないけど、物語の本来のありようを薄めてしまう – それって先に書いたあらすじ、要約志向にも繋がっていくやつなのかも、とか。

なんでそんなことを? たぶん、作品の外にあるいろんなものとか関係各所などへの配慮? 見てわかってもらうための努力? でもこういうのってそもそも自分が見て取り組んで考えるなかで見いだしたり纏めたりすべきものではないのか?

舞台の上は空気でぶわぶわ自在に膨らんだり萎んだりするビニールシートで雲のように覆われ、それが天井にまで伸びていて(最後は客席まで覆いにくる)、この雲が登場人物たちの視界を遮ったり塞いだり。音楽は、此岸彼岸の境目を意識させるかのような電子音とかちりちりしたノイズと、太鼓のとんとこから最後は和太鼓まで。全体として決して元に戻すことのできない、やっちゃったどうしよう… なひりひりした感覚が充満していて、ストーリーの本筋はそれに乗って揺れずにふつうにハムレットしていたような。オフィーリア、最初はあんなにいっぱいいたのに。ホレイシオも肝心なところでは妙におとなしいし。

結局、要約とか語り部とかオフィーリアとかノンヒューマンが脇でいくらざわついてもハムレットの悲劇は動かしようがなくぶっとく天井から落ちてきたもの、というのが明らかになった、ということでよいのかしら。

演劇は舞台と客席がどちらもナマなのでいろんな化学変化や突発事故がありうるしあったらおもしろいだろうな、とは思うけど、その向こう側にはテコでも動かない、動かしえないヒューマンの領域というのが確かにあるのかも、って思ったりした。


帰り、新幹線まで少し時間があったので静岡駅の地下を通って歩いていける駅ビル?の上の静岡市美術館でやっていた『スウェーデンのうつわ グスタフスベリのある暮らし』という展覧会でうつわを見て帰った。ハムレットはデンマークだけど、彼、うつわとか興味なかったのかな… (それどころじゃな… )

7.02.2026

[film] The Man in the White Suit (1951)

6月27日、土曜日の昼、K’s Cinemaの特集 - 『英国イーリング・コメディの黄金時代』で見ました。 邦題は『白衣の男』。

この作品、英国にいた間に、もちろん見たことはあったのだが、「イーリング・コメディ」という括りでの特集ではなかった気がする。英国の戦前~戦後の映画って、Ealingだけじゃなくて、Alexander KordaのLondon FilmsとかRank OrganizationとかABPCとかMichael PowellのThe ArchersとかHammerとかGainsboroughとか、ハリウッドに対抗すべく国策でやっていたのでめちゃくちゃいろんなプロダクションがあって、どれを見たって – 少なくともいまの時代に生き残って再映されるようなやつについては – 外れがないの。

そういうのをアーカイブから引っ張り出して単発だけど35mmフィルムで上映してくれる火曜日のBFIの”Projecting the Archive”のシリーズとか、毎回痺れるおもしろさでいつも満員になって… 何が言いたいのかというと国立映画アーカイブのあれは、国策としてもぜんぜんだめで愚かで、ふざけんな、しかない、ということ。

そんななか日本で「イーリング・コメディ」がうける(結構お客入っているらしい)のは、デパートの英国展でスコーンやフィッシュアンドチップスに群がるのと同じようなものなのではないかしら。確かにとても英国らしい風味が効いてておいしいけど、英国のおいしいのってそんなんで終わるもんではぜんぜんないのよ。

イギリスの地方の繊維工場の片隅で怪しげな機械がピコぽこ変な音をたててずっと稼働していて、これ誰のものだ? ってざわざわしてようやく捕まったのがケンブリッジ出のSidney Stratton (Alec Guinness)で、彼は決して摩耗しないし汚れも一瞬で落ちる真っ白で強力な繊維の開発を続けていて、それなりのお金をかけたりしてようやく成功すると、彼はイノベーター、パイオニア、って持ちあげられるのだが、経営幹部と工場の労働者たちはこれができちゃうとやっぱり困るかも、って言いだして、追いかけっこが始まって…

最初からほーらこんなおかしいでしょ、って笑わせるのを狙っている、というよりは、自分の信ずるところに愚直に邁進していって、周囲もそれにきちんと応えているのに、なんでか全体として変な方に捩れていって、結局どうしようもなくなって、なんとも言えない気まずさが残る。そういう気まずさとかやりきれない「にがにが」をどうにかするために、パブ、っていう施設が発展したのね。

白いスーツを着て飄々と逃げ回るAlec Guinnessの姿はEP4でデス・スターの中をすり抜けていくObi-Wan Kenobiに重なっていく。この頃からああなることを予見していたのだとしか言いようがないの。


Vesna na Zarechnoy ulitse (1956)

↑のに続けて、Morc阿佐ヶ谷という行ったことのない映画館に行って、そこの『ソビエト映画特集』で見ました。

昔の映画をやってくれる館が昔より増えたのはよいこと、と思いつつ、洋画の新作はブロックバスターかジャンク系のホラーか、各国の映画祭でかかるような「佳作」ばかりで、見れていないのはほんと多いよねえ…

邦題は『ザレチナヤ通りの春』、英語題は”Spring on Zarechnaya Street”。

監督はFeliks MironerとMarlen Khutsievの共同によるソビエト映画で、ぜんぜん知らなかったがとても有名な作品らしく、ウクライナ映画ベスト100の45位になっているそう。

大学を出たばかりのTatyana Levchenko (Nina Ivanova – ちょっとAmy Adamsに似ている)が駅前で車を拾って、工場の方に向かう。ご機嫌で愛想のいい運転手は前の教師が来て帰っていったことを知っていて、車代は帰る時でいいよ、とかいう。

工場地帯に入って、そのなかにある労働者向け(?)の学校のロシア語、ロシア文学の教師として赴任してきた彼女に知り合いが下宿を調達してくれて、工場勤務をしている生徒たちを含めていろんな人たちが彼女の前に現れて、みんなの人気者Sasha (Nikolai Rybnikov)も寄ってきてちょっかいを出してくるのだが…

そびえ立つ広大な工場地帯、そこでの労働者たちの活気–すぐ歌がでる、 新任教師としての意気、そんな中でやっぱり芽をだしてくる恋への期待と立ちはだかる壁と行ったり来たりの宙ぶらりん状態が、厳しい冬から春への移り変わりと共に綴られていって、最後はやっぱり。 意外な要素も、見ていて恥ずかしくなるようなやり取りもなく、それらが気持ちよいくらいに各トラックにのってはまってアンサンブルを奏でていって、いつまでもずっと見ていても飽きない、70年前の作品であることを感じさせない王道のrom-com。なんでこんなふうにできてしまうのだろう? しかない。

この映画の殆どが撮られたウクライナのザポリージャ、この映画から70年で相当いろいろあった(今も…)のだろうなー、というのを(あまりに眩かったりするので)思ってちょっとしんみりした。

 

7.01.2026

[film] あの鷹巣町のその後 (2005)

6月25日、木曜日の晩、シネマヴェーラ渋谷の羽田澄子特集で見ました。
この特集 - 『福祉、芸術、ジェンダーを通して日本を描く』の「福祉」のパートを見ていなかった気がしたので。

180分、休憩なし。『住民が選択した町の福祉』 (1997) & 『続 住民が選択した町の福祉-問題はこれからです』(1999)から続く3つめの作品で、これの続き(↓)も含めると全4部作(上映時間8時間13分)になる。最初の2本を見ていなくても、冒頭で丁寧にここに来るまでに鷹巣町でなにが起こったのか、「あの鷹巣町」で起こった「問題」とはなんだったのか、をきちんと説明してくれる。

地方の話と福祉の話は、例えば昨今の政治の劣化とか右傾化とか分断とか格差とかを考えていくとどうしても突き当たることだし、そろそろ自分ゴトのど真ん中になりつつあるし、とりあえずどうすべきか、も大事だろうが、本当の敵はどこにいるのか、その正体はなんなのか、を見据えておくためにも。

秋田県にある人口2万3千人の鷹巣町で、1991年に若い町長が誕生すると、町民の自由参加によるワーキンググループが組まれて、福祉の先進国デンマークの福祉行政を参考に先駆的な老人保健施設「ケアタウンたかのす」の構想が立ちあがり、町議会の多数を占める前町長派に反対されながらも、どうにか可決されて、ケアタウンの施設もサービスも稼働を始めるのだが、やはり問題はいろいろ出てきましたよ、というのが前2作までのあらすじ。

その町長が4期目をかけた2003年の町長選挙で大敗し、その背景と町が今後この先どうなっていくのかを探るべく、羽田監督自身が現地に乗りこんで、関係者への聞き取りを進め、自分でナレーションもしながら全容を明らかにしていく。

無投票で再選が確実視されていた前町長の対立候補として突然現れたのは病院出身の医師で、手厚い福祉政策については評価しながらも財政を圧迫するのでまずは経済面の建て直しを、とその手段として町村合併や大病院、大規模店の誘致などを主張して、当選するとその路線に切り替わって、2005年に北秋田市が誕生する。 その裏でケアタウンの予算も、自主運営されていたサポートホームも集会所に転用されたり、ケアを取り巻く人も環境も変わっていく。

福祉のあり姿を追う/問う、のがそもそものテーマだったと思うのだが、映しだされるのは小自治体の、小汚い政治家たちのお金の使い道に関する政治の駆け引き(というより排除と押し売り)ばかりで、それはやがて地方都市(が合わさった勢力)ではどうすることもできなさそうな、中央政府の意向でもあることが見えてきて、そして地方は中央に憧れてそれに倣うもの、といういつもの茶番を見ることになってうんざりする。

財源は限られている - 人口は減っている - 使い道を絞るしかない、という出発点からのとにかく儲かること優先、というじじい共が、ハコ作ってバラ撒いてなんぼ、というこれまで散々見てきた政治の風景と、ケアする側もされる側も辛くない、遠くないはずの幸せを追求していく福祉の道とはぜんぜん別種のものなので、一方が他方を排除するのはおかしいのだが、それができてしまうのは一言でいってしまえば貧しいからで、この風潮とダウンワードスパイラルは今のこの国全体を覆っているのでどうしようもない。

あと、いまもどこにでもいるユニオンを毛嫌いするじじいが出てきて、なんかの病気だよねあれ、と改めて思った。


あの鷹巣町のその後 続編 (2006)

↑のに続けて見ました。これは59分と短い。

前回、合併で誕生した北秋田市の市会議員選挙のあと、鷹巣町が国に先駆けて制定した「高齢者安心条例」が廃止され、ケアタウンは財政支援を打ち切られて、福祉の現場はどうなっている/いくのかを関係者に取材していくのと、そもそもの発端として、なんでこんなこと - 2003年の町長選挙の大敗 – になってしまったのか、を改めて振り返っていく。

福祉は生産性とかで測ったり効率化云々でどうにかしたりすべきものではない、と思うのだがー、っていう原理原則を福祉なんてやりたいやつがやれ(自治体の責任ではない)、って思っている家父長制下で甘やかされてきたじじい共は死んでも理解できないので、連中が死んでもらうのを待つしかないのか。

なんであの選挙で負けたのか、についてはそれまで12年間続いた政権下で撒かれた利権、という話が出てきて、これも今のくそ政権に繋がるところだねえ。みんながしぶとく利権に群がって、政府はそういうところに金をバラまいて事業を興して、そうでないところからは巻きあげて、ついてこれない人々を道端に棄てて、誰も責任を取ろうとしないし、いくら弱者排除の卑怯者とか言われても軸と脳が腐っているから理解できないし。政治家だけの話ではなくて「社会」の役に立たないものはいらない、消えてよし、という方向にいろんな仕組みが囚われているところで、福祉なんて成り立たないし、育ちようがあろうか。

ここ数日起こっているしょうもない事態にも繋がっていて、どうしたらよいのかねえ、っていつもの。

これを見てから『急に具合が悪くなる』を見ると、急に具合がよくなることはないけど、よりよく理解できたかも。特に白板のところとか。

[film] Supergirl (2026)

6月26日、金曜日の晩、109シネマズの二子玉川のIMAXで見ました。

こういうのは台風が来ようが何が来ようが、基本は初日に見ることになっているので、しょうがない。
上映中に地震が来て、結構揺れたのでこれはだめかもー … って覚悟したが中断はしなかった。

昨年リブートされた”Superman” (2025)にも少しだけ出てきた”Supergirl” - Kara Zor-El (Milly Alcock)を主人公に据えたドラマで、いとこのKal-El (David Corenswet)も少しだけ出てくるが、メインの舞台は地球ではないし、宇宙の広さとか正義とか大義とかの話はあんま出てこない。

作はAna Nogueira、監督は”I, Tonya” (2017)や“Cruella” (2021)のCraig Gillespie、プロデューサーにはJames Gunnの名前がある。昨今、いろんなユニヴァースだらけでどうでもよくなっている感があるが、DC内では”Chapter One: Gods and Monsters”というのに含まれているらしい。

崩壊しかけたクリプトン星で幼いKaraとわんわんのクリプトが両親によって地球に住むいとこのKal-Elのところに送り出されたが、Supermanの彼のように地球人の両親にちゃんと手間をかけて育てられたわけではないKaraはちょっと無軌道で厭世的で、23歳になった時も、ひとりでいろんな惑星酒場をよれよれ渡りながら飲んだくれてパーティ三昧の日々を過ごしてて、Supermanは心配して電話をかけてきたりするがまあ相手にしない。

ある星に住んでいたRuthye (Eve Ridley)は盗賊団の首領Krem (Matthias Schoenaerts)に一家を皆殺しにされ、形見の刀を背負って復讐の機会を狙っていたところでKal-Elと出会って、奴らをやっつけてほしい、と頼むのだが相手にされなくて、でも連中に突っこんでいったクリプトが毒矢にやられてあと3日の命、になってしまったので、解毒剤を持っているKremを探して渋々一緒に旅をしていくことになる。敵をすぐにでも殺してやりたいと恨みに燃えるRuthyeに対して、解毒剤を手に入れたいからちょっと待て、というKaraと。

Kremの一味が若い娘を誘拐して集団花嫁として束ねて取引したりしているのを知った彼らは、やっぱりこいつらやっつけるしかない、って一匹狼のLobo (Jason Momoa)の助けも借りながら連中を追っていくのだが果たして。 そしてわんわんのクリプトは...

まず、ストーリーは裏も表も伏線もくそもなくシンプルで軽い(2時間を切っている)のはよいと思った。Supermanのお話ってそもそもこんな程度のだったのだと思うし。 敵討ちと解毒薬を探して共通の敵を追っかけていく股旅もので、生真面目な娘と腕は確かだが飲んだくれのだらしない娘の組合せ、そこに絡む風来坊の狂犬男、など。革ジャンで顔中金具だらけの悪党バイカーとか、さらわれた女たちが籠に入れて売られていく話とか、宇宙の果てまできてまたそのイメージ? もう何回目? にはなるけど、わかりやすさを狙ったのだろうな、と思う。

他方で、赤い光の星で気持ちよく酔っ払い、黄色い光の星で最強になり、緑の光の星で力を失ってしまうので、最後のほうで緑の星に誘導されて絶体絶命、ってどうなのか。結局、たまたまああなってくれたからよかった、ってそんな他力本願ヒーローでよいのか? というのはある。(彼女がロメールの『緑の光線』なんて見たら最後にぐったり… っておもしろいけど)

地球ではなく、なんでもありの宇宙なのにこの定型スケールかあ、っていうのと、ふだんグランジのボロを纏って髪ぼさぼさで匂いが漂ってきそうなSupergirlがいとこがくれたからってユニフォームみたいなあの衣装をわざわざ着て戦う?っていう違和感と、あとなによりも、耳をばふばふさせる狂犬クリプトと一緒にめちゃくちゃ暴れまくってほしかったのになー、というところ。 Loboはいてもいなくてもべつに、くらい。

でも次のが来たらまた見てしまうのだろうな…

とにかくサッカーが終わってくれてなにより。 帰国してフットボールが更にとっても嫌いになった。

6.29.2026

[film] 嗚呼 満蒙開拓団 (2008)

6月22日、月曜日の晩、シネマヴェーラの羽田澄子特集で見ました。

この特集は先週で終わってしまったが、デュラスの特集などと被っていなければもっと見たかった。し、サブタイトルにあったように 『福祉、芸術、ジェンダーを通して日本を描く』 ことが今ほど求められている時はない、と思うの。ぜんぶ(体制からすれば)だめだめ系ので、誰もお金だそうとしないだろうが。

冒頭、80年代から始まった中国残留日本人孤児の国家賠償請求訴訟が棄却されて、残留孤児たち関係者が涙するなか、そもそもどうしてこんなことに、ということで、中国東北部にある「方正(ほうまさ)地区日本人公墓」にお参りをする日本人向けツアーに同行しながら、1932年の満洲国建国時から現地で、ここにやってきた日本人移民たちに何が起こっていったのか、を追っていく。

あんな場所に国を作って、作っちゃった以上は強くしないと周辺からやられてしまうので、本国からの移民の数を増やしたかった、他方で日本の農村部は昭和恐慌のあおりで食糧不足が危惧されていて、そんな両方のニーズも合致していた(最近の自衛隊の構図と変わらない)ので100万人規模の移住計画が立てられ、各都道府県には人数のノルマまで課されて、長野県などから多くの移民がハルビンに渡った。

でも映画での証言によると、旗を振られて移住したのは終戦間際の1945年の6月頃(えー)、8月になってソ連軍が満洲に侵攻してくると現地の関東軍はあっさり農民たちを棄てて退却をはじめて、残された民は飢えと寒さと襲撃とチフス、などでどんどん亡くなるか、現地の中国人に貰われるくらいしか道はなくて、そうやって20数万人が亡くなり、後になってゴミ捨て場のように放置され積み重ねられた骨々を見て憐れに思った現地の中国人が方正に共同墓地を作った、と。

まだ生き残っていた当時の人々の証言も含めて、120分ではぜんぜん足らない内容なのだが、一貫して描かれて、日中双方からの証言でそうとしか言いようがないのは誰ひとり、何ひとつ責任をとらない政府(&軍)による「棄民」政策とその全容で、水俣病でも薬害訴訟でも沖縄でも、ぜーんぶそう、いま偉そうに(恥をしれ)嬉々として戦前の施策をなぞろうとしているのはそういうことをした連中の末裔だからね。ほんとに何も振り返らないし反省しようとしないし理解する脳みそもないし罰せられることもないまま、利権と世襲でありがたや、って政権を支持して崇めて下にはふんぞり返ってきた上層の連中も含めて、どうしたらいいんだろうねこれ、って暗澹としてしまうのだった。 まったく終わっていない今の話として、ね。


女たちの証言 - 労働運動のなかの先駆的な女性たち - (1996)

6月22日の晩、上のに続けて見ました。

羽田さんのオフィスの片隅に、82年に撮られたまま10年以上、宿題のように放置されていたフィルムがあると。それは大正から昭和初期に社会主義的労働運動に参与した活動家の女性たちが一堂に会した座談会の時の記録で、そこで撮られた内容を紹介しつつ、後から改めてインタビューした内容も加えて、日本における女性解放運動とは具体的にどういうものだったのかを活動した女性ひとりひとりの歴史のなかに見る。

女性の「社会参加」すら危うくあれこれ言われ、ましてや政治参加とか労働運動なんてもってのほか - 逮捕されて当たり前だったあの時代、どれだけの迫害や虐待や村八分に見舞われようとも、パートナーの死や自身の投獄や弾圧にも負けずに信念も曲げずに淡々と自身を貫いた女性たちの像と言葉。外見こそあたりまえに老いているようだが、言葉も表情もすっきり澄み渡って、あんな老人になれたらいいな、しかなくて、しかし、他方で社会の方はいつまでたってもぜんぜん変わることができない、変わらないまま女性蔑視、労働運動や組合活動への忌避がなんとなく、でもしっかりと根づいて蔓延したままで、この辺(のもうやだ)が撮った映像をそのままに置いてしまった原因だったのではないかしら、って。


山中常盤 牛若丸と常盤御前 母と子の物語 (2004)

6月19日、金曜日の晩、日仏で”La Musica” (1966)を見てから、シネマヴェーラに移動して見ました。TGIF.

『山中常盤物語』は、義経説話に基づくお話 – 頼朝に追われて奥州へ下った牛若を訪ねて旅にでた母の常盤御前が、山中の宿で盗賊に殺され、復讐に燃える牛若が盗賊をばらばらざくざくに切り刻んでその仇を討つというお話で、浄瑠璃の演目として盛んに上演された。 『山中常盤物語絵巻』は17世紀の江戸時代の画家 - 奇想系のあれで注目された - 岩佐又兵衛(1578-1650)が『山中常盤物語』と浄瑠璃をもとに描いた全12巻、150mからなる絵巻作品(MOA美術館のコレクション)。

映画は、その浄瑠璃がべんべん唸りをあげるバックトラックとなって、カメラを右から左にスクロールさせつつ絵巻に描かれたストーリーをその場面の歌と一緒に聞いて追っていく、これを12巻ぶん。シンプルな構成ながら、絵巻と浄瑠璃の世界、それらが描こうとした牛若の怒りと悲劇が300年の時を経てダイナミックに伝わってくるものだった。

絵巻に巻かれている絵は殺しの凄惨な描写も含めて鮮やかな劇画調で、よくもここまで描いたなー、くらいに肉片血みどろ、でも人の顔はわかりやすい線と色のとぼけた漫画で、こういうのが受けたんだろうなー、って。

ただ、浄瑠璃がどんなことを歌っているのか、要約でもよいから字幕で投影してくれたらより理解が進んだのになー。外国のひとにも伝わると思うし、文化事業ってこういうのに(以下略)。

[film] Les mains négatives (1976)

6月21日、日曜日の昼、日仏のデュラス特集で見ました。18分の短編(監督作)と彼女についてのドキュメンタリーを組合せたプログラム。

“Les mains négatives” - 邦題は『陰画の手』。 英語題は”The Negative Hands”。

まだ薄暗い夜明けのパリの街に向かって、前方を向いたカメラ - 撮影はPierre Lhomme +2名 - がそれを搭載した車と共に走り出して、そこにAmi Flammer - Agnès Vardaの”Quelques veuves de Noirmoutier” (2006) 等 - の多くを語らず何かを切り裂いていくようなヴァイオリンとデュラス自身によるモノローグが被さっていく。

ゆっくりと動きだすフロントの窓がそのままスクリーンとなり、Pierre Lhomme独特の薄暗青いイメージにヴァイオリンが絡んでくるだけでたまらなくなり、このまま1時間やってくれないだろうか、とか思う。

解説によると、ルートは”From Bastille to the Champs-Elysees, by way of the Boulevard des Italiens, Avenue de l'Opera, and Rue de Rivoli”だそうで、建物に掛かっている映画の大看板を見ると”Capricorn One” (1978)とか”Convoy” (1978) の時代 - これはなんかわかる。大きな三越のパリ支店、OSAKAという日本料理店なども見える。

まだ眠っている、眠りから覚めようとしている街を浮かびあがらせつつ、デュラスが語る内容は昔彼女が見たというスペインのアルタミラ洞窟に残された3万年前の手の跡 - アルゼンチンのピントゥーラス渓谷にある「手の洞窟」のあれ、じゃないんだ? - 洞窟の暗がりにポジとネガで跡のついた/跡を遺したひとりの人物の像に向かい、「わたしはあなたより遠くのあなたを愛している」と言うの。いつもあとに遺るのは3万年の昔からのそんなふうな痕跡ばっかりで、愛はそこにしかない、そういうものなのだ、って目醒めようとしている街に向かって語る。

彼女が映画によって遺そうとしているイメージも、そのような「陰画」としてあるのだろうな、って。


Marguerite, telle qu'en elle-même (2002)

↑のに続けて見ました。邦題は『マルグリット・デュラス、あるがままの彼女』。 英語題だと”Marguerite as She Was”。

約60分のTV用に作成されたドキュメンタリー?で、作・監督は”Le camion” (1977)等で編集を手掛けたDominique Auvray。”L'Amant de la Chine du Nord” (1991) - 『北の愛人』出版の際にデュラスが彼女に献本したあたりから始まったらしい。

ピアノにのったJeanne Balibarのすばらしい歌声を背景に、デュラスの過去の写真、過去のインタビュー映像にある語り、Edgar Morin(おおー)やJean-Luc Godardのコメント、などが流れていく。メガネをしていない彼女の顔が新鮮で素敵でじっと見てしまう。

語られていくのはアジアで過ごした幼少期のこと、母や兄たちのこと、パリに出てきてからのこと、共産主義者としてあること、男と女のちがい、料理や油のこと(油は必要)など、ところどころに映りこむ黒猫、三毛猫 – やっぱり猫のひとなの? - 淡いカラーで撮られている”Nathalie Granger” (1972)の撮影時の、あの家の光景なども。 ネガティブな、ひっくり返す/返るような打ち明けや暴露話などはない。

ナレーションなどなくでも、すべての映像も声も(Jeanne Balibarの歌声さえも)、デュラスに対して抱いていたこちらのイメージやこれまで見た彼女の映画の情景、声、語りというスタイル、などなどにすんなりそのまま寄り添い、はまっていて裏切ることはない。Dominique Auvrayが愛と敬意をこめて彼女の声と映像を織りこんでいったのだろうな、というのがよくわかる、デュラスをこれから見る人にとっても最適の入門編になっているのではないかしら。

6.26.2026

[dance] Il Cimento dell’Armonia e dell’Inventione (2024)

6月21日、日曜日の午後、日仏でデュラスのプログラムをひとつ見た後、彩の国さいたま芸術劇場で見ました。

ローザス、アトラファイブ - 『和声と創意の試み』。タイトルはヴィヴァルディが1725年までに発表したヴァイオリン協奏曲(作品8)で最初の4つが『四季』として有名なやつ。 ”Il Cimento”には、試練、苦難、危険、リスク、危機といった意味もあり、このダンス作品のそれとするなら「試み」よりもうちょっと強くてもよさそうな。

ロンドンのSadlers Wellsでも5月に2日間上演されている。休憩なしの90分。
Anne Teresa De Keersmaekerのダンスは2024年11月に”EXIT ABOVE after the tempest”をSaddlers Wellsで見て以来。

Anne Teresa De KeersmaekerとRadouan Mrizigaの共同振付で、A7LA5(アトラファイブ)の 4人のダンサーたち - Boštjan Antončič, Nassim Baddag, Lav Crnčević, José Paulo dos Santosも共同創作、という位置づけ。

冒頭、真っ暗で殺風景な舞台の奥で蛍光灯のようなライティングがモールス信号のように瞬き、それが1本から2本、3本と増えて、両サイドの蛍光灯にまで広がってステージ全体が眩くなったところで暗転して、Autunno - 秋 - が鳴りだし、ダンサー1名が舞台に現れゆっくりとストレッチするような動きをしながらステップを踏んで、その数が4名迄増えて、あとは進行に合わせて増えたり減ったり、ソロとアンサンブルが交錯していく。

ダンサーたちはメッシュのベストやバスケットボールのショーツを身に着けて長いひらひらを纏ったり、おっさん風のひともいる外見はほぼストリートダンサーの太さと重心 - ブリューゲルの描いたフランドルの農夫のそれ - をもち、出番がないときは両サイドの椅子があるエリアで水分を補給したりぶらぶらしたり、モダンに近いひと、ブレイクダンスもやるひと、等ばらけていて、これまで自分が見てきたRosasのアンサンブルとソロが細やかにぶつかったりすれ違ったりの集合離散を繰り返しながら全体の流れを作っていく、そのプロセスを見せるのとは、ちょっと違うやつだったかも。 ごつごつとしたいろんな段差を見いだしつつ顕在化させていくような。

Autunnoから冬 - Invernoに行くときはタイトルの表示はなく、季節の変転はライティングの強さと色彩(黄色があつい?)、そしてダンサーの動きの組合せで表されていて、誰もが盛りあがることを期待するであろうPrimavera - 春は、音楽が始まる前にひとりのダンサーがステップ/タップであのヴァイオリンの刻みを見事に再現した(ここだけ拍手がおこった)ものの、実際の音楽が始まると、片手をあげた4人が揃って8の字を描いて蜂のようにぐるぐる回っていくだけで、え? それなの? ここってダンス観点では一番の見せ場じゃないの? だった。 無音での振り(結構多め)から音楽を付けてのアンサンブルへの移行/組合せがそれなりの効果を生むことはわかるが、この場合はちょっと微妙だったかも。みんなはヴィヴァルディが追いかけて鳴ることを知っている – 既に脳内で鳴らしているから。

この後にいかにも、で躍動する夏から再びAutunno、そして終わりの冬になると、蛍光灯が白い布で覆われていってその曇った覆いのなかで光がうっすらと消えていく。希望の春ではなく、2度目が反復される秋冬で終わる。

300年前に作られた自然を讃える音楽と、野山の自然から遥か彼方に離れてしまった都会のストリートでのリアル、その間にある様々なギャップを対照させて、歓びというより摩擦と試練、疲弊を、そしてそれでも容赦なく流れていく季節を示して容赦しない。 それを受けとめて対抗したり這いつくばってがんばる男性たち、という絵柄。

そして最後に朗読が流れる在ブリストルのAsmaa Jamaの詩- “We, the salvage” – われわれはわれわれが待ち望んでいた救い出されし者である、春を待ち望む.. 云々 と結ばれる。この”We”とは、春、とは。


一度に台風がふたつ、地震がふたつ来て、これは間違いなく国立映画アーカイブにあんなことをした天罰に違いないと思うのだが、それ以上に恐れるべきは、あの(悪い意味で)頭のおかしい連中に災害対応なんかをやられることである。ああ神さま、しかない。

6.25.2026

[film] 黒牢城 (2026)

6月21日、日曜日の夕方、TOHOシネマズ日本橋で見ました。
 
映画とは関係ないけどTOHOシネマズ、上映前の宣伝があまりに常軌を逸してやかましくてくだらなくて、目を瞑っていても吐きそうになるので今後はできるだけ行かないようにしたい(もう100回めくらい)。
 
脚本・監督は黒沢清、原作は米澤穂信による同名ミステリー時代劇小説で、今年のカンヌにも出品された。
 
時代劇にもミステリーにも疎くて、「くろろうじょう?」「こくろうじょう?」とか言うありさまだし、黒沢清監督作品も、見る機会があれば見るけど海外にいた時には見れないままだったし、国内外の黒沢マニアのような人たちには敵わないのだが、でもおもしろく見て、いろいろ考えさせられた。以下、ネタバレのようなところもあるかも。
 
登場するのは歴史上実在した人物たちで、史実としてもそんなには違っていないらしい。
 
戦国時代、織田信長の殺してしまえ戦略に叛旗を翻して自分の城に立てこもった荒木村重(本木雅弘)のところには威勢がよくて血気盛んな家来たちと優しい妻・千代保(吉高由里子)がいて、周辺国の武家も含めて一触即発の膠着状態になっていたところに信長からの使者として軍師・黒田官兵衛(菅田将暉)がやってくると、村重は彼を人質として地下牢に幽閉してしまう。
 
そんな城内で室内の少年が刺されて殺される事件が起こったり、殺した敵の武将の首が替えられていたり、宝物の壺を持たせた密使が殺されたり、不可解な事件が続いて、放っておくと士気にも響くし、村重は黒田官兵衛にこれどう思う? って助けを求める。
 
ふつうのミステリーに求められるような何故、誰が、どんなふうにそれをやったのか、という角度からの精緻でロジカルな謎解きを見せるというより、人がいっぱい死ぬ、殺されるのも殺すのも当たり前、進むも地獄/進まぬも地獄、の戦時の世になーんでわざわざそんな手のこんだことしてかき乱すの? というリーダーの苦悩と、その目線を超えたところにある宿命とか天罰のありようを描く。謎解きは誰かの恨みを晴らしたり明日への展望をもたらしてくれるもの、ではなく、だからこうするしかないのだ、という諦めに近い洞察と決意をもたらす。
 
突発的に作動して、意味不明だけど起こっちゃったことはしょうがないからどうにかしよう、という黒沢清得意のアクションの仕掛け、というかドライブは今回のような群集劇でも – 少し斜め上からの構図から黒い男たちが虫みたいにわらわら湧いて蠢いて雷に打たれたり、これだから… としか言いようのないぞわぞわが湧いてきたり。 これらの群像とそれを率いるリーダーの、後に引けなくなった姿を描く、という点では間違いなく上の意向に振り回されて身動き取れなくなる現代 or アカルイミライの話で、ここをどう見るかー。天罰ですらどうすることもできない地獄、としてあの時代を捕えることもできたのではないか、など。

あの雷があそこにいた全員を叩きのめしてくれたら、より天罰感がでたのに。
 
でも、いろんな描き方があるであろうことは承知のうえで、あの存在の薄さがひとつのメッセージとして機能していることをわかったうえで、たったひとりの女性である千代保が見た地獄を軸として戦乱の世でどんなふうに「天罰」の考え方が生まれ維持され、それを待望したり、それに向かって動いたりするようになっていったのか、を宗教映画のように描いたやつの方が見たかったかも。

あと、音楽 - 半野喜弘 - がとてもよかった。

6.24.2026

[film] Son nom de Venise dans Calcutta désert (1976)

6月20日、土曜日の午後、日仏のマグリット・デュラス特集で見ました。

英語題は“Her Venetian Name in Deserted Calcutta”、邦題は 『ヴェネツィア時代の彼女の名前』。

“India Song” (1975)のサウンドトラックをそのまま使って、映像パートだけ新たに、というか別のモノを撮りなおした作品。音の長さは同じなので上映時間も120分で同じ。

アイデアとしてはシンプルながら、このようなことをする/ができるためには、元の映画がそれなりの強い設定や形式を持っていないと難しい。1937年、モンスーンで荒れるカルカッタに駐留大使の妻としてやってきたAnne-Marie Stretter (Delphine Seyrig)を中心とした愛人Richardson、狂えるラホールの副領事(Michel Lonsdale)とのサークルでのすったもんだの果てに、その後の17年間をアジア各地を彷徨うことになる… という筋立ては知らなくてもぜんぜん構わないが。

音声を維持したリメイク、という構想のもと、撮影のBruno Nuytten以下数名のカメラが、カルカッタと言いながらパリ郊外のChâteau Rothschildを舞台に撮っていたオリジナルの場所を再訪し、人影なしのそこを撮り直している。

冒頭は、モノクロの点々の上をカメラがなめていって、空襲の焼け跡のようにも見えるそれらが庭の敷石(?)の模様だとわかるのは後のほうで、あとは建物の朽ちた外観、インテリア、エントランスからの眺め、崩れた家具や壁、それらを覆う木々や大気、そして朝の昼の夕闇の情景、かつて確かに人影が形造られた場所と時間を満遍なく。

華やかな外交の場 - レセプションが行われていた建物は人気も失せてすっかり朽ちて、元に戻る様子はない。”India Song”の登場人物たちはみなどこかに消えてしまった。それが会話に度々出てくる疫病によるものなのか、獣のように狂ってしまった副領事のせいなのか、終わりの方で語られるように彼女もRichardsonもどこかに消えてしまったからなのか、誰も知らない。 あるいは、この映像の方が正で、廃墟に戯れる様々な声とその持ち主の幽霊たちのやりとりがまずあって、“India Song”はこれを元に再構成したフィクションか、そこに映り込んでしまった霊たちの像なのかもしれない、とか。

Carlos d'Alessioによるピアノの”India Song”はどちらのバージョンでもメランコリックな土台を作ってすばらしく(本当に好き)、確かなものはこの旋律と、狂った娘による現地語の歌と、「ヴェネツィア時代の彼女の名前」 - Anne-Marie Stretterの母方の旧姓、くらいなの。

2024年の夏に、ロンドンのICAで“Let Cinema Go To Its Ruin: The Cinema of Marguerite Duras”という特集で見ていて、その時はAbsisによる短編 - デュラスがナレーションをする”Cygne I” (1975)、 Michael Lonsdaleがナレーションをする“Cygne II” (1975) との同時上映だった。いま見たらどんなふうに見えるだろうかー。


Nathalie Granger (1972)

6月20日の午後、↑のに続けてみました。 邦題には『女の館』というのが入ったりしていたの?

公園のはずれに荒れた庭と池?をもった一軒家があって、Isabelle Granger (Lucia Bosè)とまだ小さい娘ふたりと、夫があり、家族の友人と思われる女性(Jeanne Moreau)がいて、黒猫が住んでいる。

娘のうちのひとり – Natalieは学校で暴力沙汰を起こして、あんなところに行かない、でどうしたものか、になっていて、父親は早くに仕事で出て行ってしまい、近所ではやはり暴行事件が起こって犯人は捕まえられておらず逃走中、とか流れてくる。

全員が寡黙で不機嫌なのかほとんど会話がないので、なんでそこにそうしているのか、なにが起こるのか、なにをしようとしているのかがまったく見えない。全員がずーっと黙ったまま家屋の暗がりに立ったり座ったりしているし、Natalieも乳母車をがらがらしながら庭を徘徊したりするものの、なにをしているのか見えない。

途中、おしゃべりな洗濯機のセールスマン (Gérard Depardieu)が勝手に家に入ってきてべらべらべらべらかなりどーでもよいセールストークをしても、(あたりまえだが)かわいそうなくらい相手にしない – あんた誰?

なんで彼女たちはずっとそんな不愛想な態度のままで一点を見つめて、Natalieもいきなり乳母車をひっくり返したりしているのか – そんなの知るかよ、なんでわざわざご機嫌にご丁寧にストーリーとやらを語ったり担いだり会話を成り立たせたりしなきゃいけないんだよ、そっち(こっち?)こそ説明してみろおら! って言っているのだと思った。 “La Musica”や”Détruire, dit-elle”の延々引き延ばされていく繋がらない会話の変奏というか倒立というか。

そして取り囲む庭も含めての館のありよう。そこに暮らす、というよりただそこにいる、たむろする場所としての、あの家まるごと。

先に書いたICAの特集の際には、これと併映されたのがFrançois Baratによる”Gaumont-Palace”で、ここではデュラスが”Nathalie Granger”の草稿などを読みあげているのだそうだが、これは見れなかった。

ここまでくると無敵、としか言いようのない語り - 説明しない/語らない語りの強さと太さと。

6.23.2026

[film] Détruire, dit-elle (1969)

6月18日、木曜日の晩、日仏学院のマルグリット・デュラス特集で見ました。

英語題は”Destroy, She Said”、邦題は『破壊しに、と彼女は言う』。

“The Track” (1977)に続いて、自分にとってはここから今回のデュラス特集が始まったかんじなのだが、どれも震えるくらいおもしろい。ふつうに生きていそうな朗らかな人たちは出ていないし、全員なに考えているのかわかんないし、どんな設定なのかもよくわかんないし、彼らの会話はコミュニケーションとして成立しているように思えないし、でも何かが起こっている、進行していることだけはわかって、その何かとは何なのかを捕捉し追跡していくだけの時間。でも映画も小説も演劇も、アートってそもそもそういうものなのだ、という根幹に気付かされる。これがどれだけすごいことかー

デュラスの書いたものの2作目、書いたらそれを映画にする、を単独監督として実践した最初の作品。書きものの方は最初のパートナーだったDionys Mascoloに捧げられている。

テニスコートがある、広い庭もある、がらんとしたモダンなホテル - 療養院のようにもみえる – に4人のきちんとした身なりの男女がいて、出たり入ったり場所と組合せを変えたりしながらいろんなことを会話していく。

「ユダヤ人です」というStein (Michael Lonsdale)、謎めいたElisabeth (Catherine Sellers)、Max (Henri Garcin)とその妻Alissa (Nicole Hiss)、終わりのほうで、Elisabethの夫Bernard (Daniel Gélin)もやってくる。

彼らが普段なにをしているどんな人物で、なんのためにそこに滞在していて、誰となにをしたいのか、どこに向かうのか、彼らの会話はその周辺をずっと回覧板していて、互いを知るとか合意とか共感とか楽しむとか寛ぐとか、そういう姿とか志向はまったくなさそう。向こう1~2時間の暇つぶしとか、あしたあさってにどうするか、くらいしか頭にないし、近くにいる他人とどう過ごすか、夫婦であったとしても、これからなにをどうするとか、まるで表に出てこない。 ホテルというのはそういう場所だし、それのどこがいけないのか、とか。

かといって不条理劇のようなどん詰まり感や不明瞭な謎、目くらましもない。すべてはオープンで、それなりの説明はされているし、登場人物たちは意味不明のやりとりをするわけでもなく、焦ったり憎しみに燃えていたりすることもない。所謂「社会」を形づくるひとたちのように見える。

やがてAlissaが森に行きたい、と言っていた彼女はいなくなり、遠くから耳を塞ぐような轟音、爆撃のような音が… (原作では音楽だったような)

破壊しに、と言った彼女が?


La Musica (1966)

6月19日、金曜日の夕方、日仏学院で見ました。

Paul Sebanとの共同監督で、これが彼女の映画監督第一作。 前年にStudio des Champs-Elyséesで上演された同名の劇作品をベースにしている。

カフェのテラスでスーツを着て硬く不安げな表情で固まっている男Lui (Robert Hossein)に興味をもったのか、横にいた少女(Julie Dassin)が声をかけて、いろんな周辺の土地やこれからしていく旅など、あそこはいい、あれはどう、とかの会話をしていく。少女は彼と一緒にどこかに行きたいようで、男はウジェーヌ・ブーダンの絵に描かれたトゥルーヴィルの浜と彼の 『浜辺の女たち』について語ったりするが、そこから動く意思はなさそうだったのだが、この辺の行ったりきたりの会話の末に車で移動を始めて一軒のホテルに辿り着く。

そしてその途中、路上に姿を見せるElle (Delphine Seyrig)のシャープで漲った姿 – めちゃくちゃかっこいい - と、ホテルに舞台を移して離婚の話を進めようとしているらしい、LuiとElleの繋がっているのかいないのか、の異様な会話 – その段差とか間合いは『破壊しに、と彼女は言う』のそれにも通じるような。 その果てに「いったい何が起こっているんだ?」 って呻くLui...  確かに何かが、音楽のように生起していく何かがそこに。

ディスプレイに映る黒い獣の目とか、変なふうに映りこむボヘミアの城の絵とか、ここに掛かっていたブーダンの『浜辺の女たち』なども含めて、流れていくすべてがおもしろい。 これらを通してデュラスは映画のやり口、のようなものを掴んだのではないか。

ブーダンの『浜辺の女たち』、元の絵はどこにあるやつだか探してみたのだが、彼の浜辺の絵、多すぎ。

6.22.2026

[film] 薄墨の桜 (1977)

6月16日、火曜日の晩、シネマヴェーラの羽田澄子特集で見ました。
42分の中編で、岩波映画製作所に勤務しながら4年を掛けて作りあげた彼女にとって最初の自主製作映画だそう。
印象的なギターのアルペジオは片山幹男。ナレーションは香椎くに子。

冒頭、通りの奥に制服姿の少女が何も言わずにこちらを向いていたりする絵があって、最後の方にも出てくる。
岐阜県根尾村の山あいに一本だけ立つ樹齢1400年の老桜 - 「薄墨の桜」 - と呼ばれてその地域に暮らす人々に畏れられたり愛されたりしながらずっと朽ちかけるように立っていて、春になると花をつける様子を、地域と木の歴史の紹介と四季の情景と、近くに暮らして毎日仏飯を運んだりしている6軒の家族たちを交錯させながら、とにかく千年以上。

天然記念物に指定されて、日本三大桜に数えられている有名な桜で、言い伝えによると継体天皇がこの地を去る時に苗を植えていって、そこから先、世の中のいろんな地獄を眺めたり地獄から眺められたり、ナレーションでも語られるひとの怨みを吸って育った桜、というコブだらけの凄みが、薄墨の輪郭に陰影を加えて、シンプルに「美しい」とは言えない感慨をもたらす。 幹の下から昔の人骨と思われる骨がたくさん出てきて、その骨を持ち帰って鑑定するって言った医師の家が廃墟になっている様とか。

今であれば4Kとか8Kのコントラストで華々しく映しだされるであろう桜そのものの、特に「美しい」という観点からの愛でる撫でるような描写はなくて、ぼろぼろで崩れそうになりながらずっとそこに立ってあった、近隣の家族が毎日面倒をみてきた、という薄墨の線が描く歴史と共に示す。みんなが大好きな権太のうっとおしい歴史などに眉をひそめつつ。


古代の美 (1958)

二本立てで、↑のに続けて見ました。
東京国立博物館との共同企画による22分のモノクロの短編。映される対象たちは東博で今も見ることができるし、たぶん見たことがあるものも含めて、石器や埴輪の成り立ちとか曲線とか表面の肌理を映して浮かびあがらせて、ほらこんなに美しいでしょー、というよりも、これらと当時の生活との繋がりを紹介し、なんでこれが美しいなにかとして博物館に並べられているのか、そもそもの美とは? を白黒簡潔に考えさせるような内容のものになっている。 この目線と態度は、日本の古代のそれだけでなくて、ギリシャのでもイタリアのでもそうなるよなー、というのと。


元始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯 (2001)

6月17日、水曜日の晩に、↑と同じ特集で見ました。
平塚らいてう(1886-1971)について、タイトルの有名な文言以外、実はなにも知らないかも、と思ってお勉強で。
音楽は湯浅譲二、ピアノは高橋アキ。らいてうの一人称の語りを喜多道枝、ナレーションを高橋美紀子。140分あっという間。

1911年、女性だけによる文芸誌『青鞜』を創刊するまでの、裕福な家庭に生まれて海外文化に触れて育ったのに、上からの国粋主義的な方に靡いた教育によりそれらを封じられて嫌になり、大学時代は禅を学んで、最初に書いた小説で知り合った森田草平との心中未遂事件のあたりまで、やることなすことめちゃくちゃおもしろく、詮索されたりうざいのでどこかの坊主に頼んで処女を始末したとか、夫婦別姓とうぜんとか、基本がパンクですごい。「らいてう」は”Thunder Bird” (Ptarmigan?) だし、「青鞜」なんて”Blue Stocking”だし、パンクバンドじゃん! - 面構えも含めて - とか。

動く(野生の)らいてうの映像は14秒しか残っていないそうで、基本は彼女が遺したものを語るか、関係者の証言を繋いでいくしかないのだが、太陽を直接撮ることはできない、ということもあるし、今となっては普遍的であったりめえよーなことばかりだし、彼女が照らし出した女性たちの言葉が運動に撚りあわされていく過程はふつうにおもしろかった。

他方で、この国に蔓延るこういう運動嫌い(モノ言うひとを毛嫌いする)の習性はどうにかならんものかー、って。そーんなに考えたり振り返ったりが嫌で従属して服従する奴隷根性が心地よいかー、っていつもの、身の回りについて考えてしまう。 サッカーなんて世の中から消えてなくなっちゃえ。

[film] Caprice (2015)

6月14日、日曜日の晩、日仏の『第7回映画批評月間 フランス映画の現在』のサブ企画『『急に具合が悪くなる』公開記念 ヴィルジニー・エフィラ特集』で見ました。今回の特集で上映される彼女の3作品のうち、これだけ見ていなかったので。

作・監督・主演はEmmanuel Mouret。

パリで小学校の教師をしているClément (Emmanuel Mouret)は、妻と別れて息子と暮らしていて、勤務先の校長で、妻に逃げられてしまったThomas (Laurent Stocker)と互いの悩み相談をしたりしている。この時点で、小学校の教員、ひとりは校長の立場にあるような男たちが恋の悩みでぐだぐだしていることに不安を覚えるのだが、そういう世界なのだと思うしかない。

演劇ファンであるClémentは女優Alicia Bardery (Virginie Efira)が主演する舞台を見に通っているのだが、3回めに行った際、隣に座ったCaprice (Anaïs Demoustier)からあなたのこと前にも見かけた、って話しかけられて、彼女は陽気でおしゃべりで彼と仲よくなりたいふうなのだが、彼はそんなことよりAliciaの劇に感動して涙を流している。

そんなある日、Thomasから小学生の甥の面倒を見てほしいという女性の依頼をうけて、行ってみたらその豪邸に住んでいたのはAliciaで、夢かと思うのだが話していくうちAliciaはClémentのことを気に入ってくれたようで、ふたりはそのまま倒れこんで、やがて彼は彼女の家に息子と一緒に転がりこんで暮らし始める。

そんなある日、寂しがりの校長Thomasを慰めるべく一緒に呑みに行ったClémentは、女性2人組と仲よくなって、そのうちのひとりがCapriceで、彼女のアパートで一夜を明かして朝帰りしたところをAliciaのメイドに見られてちょっと変な状態になり、Aliciaの方もThomasと一緒に劇場のオフィスで夜を明かしてしまい、互いに自分たちはこのままでいてよいのか? になっていく。

そして、一晩一緒に過ごしてしまって扉が開かれたと思ったのかCapriceは彼女の劇団の公演を見に来てほしいって頼みに来たり、Aliciaのいない時に足を骨折してギプス生活になった彼を助けてくれたり積極的で、そんなCapriceの影がAliciaにも見えてくるのだが…

ジャンルとしてはrom-comに分類されるのかもしれないが、結末、決着のつけ方でいうと自分のなかではこれはrom-comではなくて、とても軽いご都合主義たっぷりの古からあるフレンチ・コメディで、よかったねー、くらいしかない。Virginie Efiraも、ああいう役柄だからなのか、思いっきりエモに振れたりの場面もなくて、ちょっと窮屈そうだったかも。


千変万化する恋 日本のロマンチック・コメディ映画の輝き @ 早稲田大学演劇博物館

6月14日、日曜日の昼、日仏に向かう前に見た企画展。
この大学は野蛮人の巣窟、というイメージがあったのでこれまで構内に入ったことも近寄ったこともなかった。

日本のロマンチック・コメディ映画の歴史をポスターを中心に概観する。見たことある映画も見たことない映画もいっぱいあるが、タイトルやポスターの構図を見ているとやはり「日本の」ロマンチック・コメディの定義、のようなことを考えてしまう。

当事者ふたりの間にクラッシュがあって一瞬火花が散るが、そのあとで行き違ったり宙ぶらりんの状態が続いてやっぱりだめよね… ってぜんぶ潰れて諦めかけた際でのまさかの逆転/復活というのが自分にとってのrom-comの大まかな定義 – そのクラッシュの強度と範囲が階級の壁をぶち破るようなところまでアナーキーに転がっていくのがスクリューボール・コメディ – なのだが、日本の場合、やはり家制度とか男性をたてる、というのが最初からベースとしてあって、女性主人公が向こうの家族とか関係者におおっ、という竜巻や混乱を巻き起こすものの、最終的な幸せの落下地点は家族のありようや男性上位の既存圏内に収まる(彼らをたてる)かたちでどうにかする - 幸せとはそういう(家族の)ものだからー、というのが多いのかしら。 そして(例えば)高度成長期以降で、この枠とか閾のありようが変わっていった、というようなことはあったのかしら?(かんがえ中)

あと、韓国とか90年代以降のもあったが、こちらのほうは見てないやつだらけで...  時代的、地理的な段差についても考えたり。

どこかの邦画系名画座はとうぜん連動企画を考えてほしいものー。

6.19.2026

[film] L'engloutie (2025)

6月14日、日曜日の午後、日仏学院の『第7回映画批評月間 フランス映画の現在』のなかのサブ企画『批評家たちが選ぶ2024-2025ベスト』で見ました。ぜんぶ見たいけどぜんぜんまったく無理。

監督は、これまでドキュメンタリーを中心に撮ってきて、これが長編デビューとなるLouise Hémon。カンヌの監督週間に出品されて、2025年のJean-Vigo賞、André-Bazin賞を受賞している。
撮影は監督デビュー作”La Gradiva” (2026)がこないだのカンヌの批評家週間でグランプリを受賞したMarine Atlan。本作ではセザール賞にノミネートされている。

原題をそのまま訳すと「沈められたもの」?、英語題は“The Girl in the Snow”。

雪深いアルプスの山奥の村にAimée (Galatéa Bellugi)が教師として赴任してきて、雪に閉ざされて外界との交流とかなさそうな土地で、子供たちを教え、そこに住む村人と一緒に暮らしていく。彼女のほっぺたはほんのり赤く健康そうで着ているものもかわいくて、村人もそんな変な、異端な民のかんじはしない。

最初、現代の物語だと思っていたのだが、途中でもうじき年が明けると20世紀になります、というので今から100年以上前の話なのだ、ってはっとする。雪に覆われていて、彼女が暮らす校舎とか納屋も木造で、蝋燭の灯りだけだと気づかないのかも、と思いつつ、ずっと覆われたり籠ったり、の内と外の感覚の端で、さりげない村人たちの態度や挙動がなんとなく気になり始める。そんなふうに気に障る感覚が雪に覆われた屋外やそこでの(追いようがない、止まない)物音に起因しているのか、屋内の村人や子供たちとの、汎社会 - 共同体的なやりとりのなかで湧いてくるものなのか、自然光のみと思われる撮影の光の捕らえかた、なのかもしれないが、気付いたら積もっていて身動きとれなくなる雪のように絶妙、ホラーのようにのしかかってくる。

村の男たちのなかにはAiméeに近づいていく者もいて、柔らかい光のなかでふたりで親密な夜と過ごした後、次の朝には村の衆が男の名を呼びながら雪のなかを棒で突っついて探しまわる、という場面があって、それが繰り返されたりしたら、これは雪女モノ…?とか思ったりもするのだが、行方不明なんてふつうにありそうだし、って。でもそれがもう一回起こると…

雪山の奥、ずっと閉ざされた家屋の隅とか雪の塊りのなかで何が育ったり蠢いたり埋められて息の根を止められたりしているのか - タイトルの「沈められたひと」 - それらを明るみに出すことすらできないような暗く曇った世界がある – というのは我々の内側の認知なのか外側の網膜の話なのか、ということをヴィジュアルで淡々と、ひとつの閉じた世界として示しつつ、ありがちなフォーク・ホラーがぶつぶつ沸きたってくる手前のところでうまく止めているような。

でも、チャントを重ねて渦を巻いて響かせるEmile Sorninの音楽はちょっとありきたりでつまんなかったかも。 裂け目をつくって底知れない何かを暴きだすことだってできたのではないか、とか。

暗がりの隅の蝋燭とレンズ、とか撮影はさすがだと思ったが、これの前日に見た『早池峰の賦』 (1982)の舞台となった土地の情景を思い出して、ここで16mmで映しだされた40年以上前の、あの景色が強く迫ってくるものはなんだったのだろう.. って改めて思ったりした。

6.18.2026

[film] Primavera (2025)

6月14日、日曜日の午前、ユーロスペースで見ました。
邦題は『ヴィヴァルディと私』。ヴェネツィアもヴィヴァルディも好きだし、日曜の朝っぽいし、昨年は盛りあがらなかったけど『四季』の300周年だったし。

原作はTiziano Scarpaによる”Stabat Mater” (2008)、監督はオペラ演出家Damiano Michielettoの、これが監督デビュー作。暗がりの蝋燭が絵画みたいでちょっと素敵だった撮影はPaolo Sorrentino作品を撮ってきたDaria D'Antonio。

18世紀初、ヴェネツィアのピエタ孤児院 - 冒頭、院長?の女性が子猫にひどいことをするので、そういう施設だとわかる - には若い未婚の女性ばかりが収容されていて、日々音楽の訓練を受けている彼女たちは後援者たちの前で定期的にアンサンブルを披露したり、後援する金持ちの家に貰われていったり、音楽/家事か玉の輿か、くらいしか将来の選択肢はなくて、ある日後援者がここへの支援をやめて他の方に貢ぐことを聞いた館長はそいつはやばい、ってVivaldi (Michele Riondino)を教師・指揮者・作曲家として招く。

現れたVivaldiはごほごほ咳ばかりしていて具合も機嫌も悪そうで、とても仕事ができる人には見えないのだが、”La Follia variations”を演奏しているとき、Cecilia (Tecla Insolia)の弾くヴァイオリンにぴくってなって、彼女を第一ヴァイオリンに据えて、デンマーク王を迎えた式典で彼の作曲したソナタを披露演奏したらとても感動してくれて、VivaldiとCeciliaは音楽で結ばれた師と弟子としてよいかんじになる。

のだが、オスマン帝国とのコルフ島での長い戦いから戻った英雄Sanfermo総督はCeciliaとの結婚を一方的に決めてきて、それは孤児院への多額の寄付を伴うのでCeciliaにもVivaldiにもどうすることもできない。のだが、最後の手段としてCeciliaは館に出入りする八百屋の青年と強引に関係をもって婚姻資格(結婚式前に新婦が処女であることを医者がチェックしにくる)から外れようとして、それはどうにかうまくいって関係者一同は絶叫錯乱、独房に入れられてしまうものの、これで婚姻縛りから逃れることはできそう – だったのだが…

どちらかというと(いやどう考えても)Vivaldiが『四季』を作曲して磨きあげて弟子と一緒に披露するまで、のいろいろあったストーリーを描くと思っていたのだが、リハーサルで「春」の断片がちゅるりろ♪って聞こえてくるくらいで、Primaveraな完成形は結局示されないので、えー、だった。遺されたVivaldiの制作ノートの余白などからこんなことをイメージしてみました、というストーリーらしく、そこまで創作するなら、①病に倒れて瀕死になるVivaldi、懸命についていく弟子、②『四季』を完成披露して幸せに死んじゃうVivaldi、③そんな彼を看取りつつ超絶に弾きまくるCecilia、の方にいくか、ヴァイオリンの弦と弓で総督と館長を縛りあげてぐさぐさ血祭り、のサスペリア方面では、とふつうなら思うよね、なのだが、実際には『侍女の物語』(衣装) で、とってもかわいそうで出口なしで暗くて悲惨で、なのに最後、Ceciliaは不敵に微笑んだりしていて、なんで? 音楽はなくなったけど自由を手に入れたから? そんなんでいいの? になった。

テーマ的には女性映画だと思うのだが、Vivaldiが妙な位置で挟まってしまい、全体として座りのよくない、変な映画になっちゃっているかも。

あと、薄暗くて怖めの室内の描写はよいのにヴェネツィアの街は運河程度のぺたんこで、もうちょっとがんばれば、だった。

というわけで、ヴィヴァルディはこの週末のRosasで改めて。

6.17.2026

[film] 早池峰の賦 (1982)

6月13日、土曜日の午後、シネマヴェーラでこの日から始まった特集『羽田澄子 生誕百年記念 福祉、芸術、ジェンダーを通して日本を描く』で見ました。

羽田澄子も福祉も日本も、たぶん芸術も、ほぼわかっていない領域ばかりなので、これを機に勉強できれば、と。
読みかたは「はやちねのふ」。 芸術選奨文部大臣賞受賞を受賞しているドキュメンタリー。 16mmの上映、184分で、途中一回休憩が入った。 音楽は秋山邦晴。

昭和の50年代くらい、岩手県の山奥の大迫(おおはさま)町に、大償(おおつぐない)と岳(たけ)の二つの集落があり、そこに500年以上前から伝わる山伏神楽 - 1976年に国の重要無形民俗文化財に、2009年にユネスコの無形文化遺産に登録されている - とそれを継いで守り続ける人々の顔と姿を追っていく。

最初に「南部の曲屋(まがりや)」という村人一家がずっと暮らしてきた一軒の茅葺屋根の家を解体する現場が映しだされ、季節の風雪と自然の厳しさ、そのなかであれだけの家を維持してきて、それを解体しなければならない事情とか、昔に大人が62歳(!)になると飢饉のときとかいらないので棄てられたりしていた辻とかが紹介されて、背筋が凍る。 こんなきつい状態下で舞いとは、芸能とは、とか。 ← 今の世の行政目線。

厳しく、決して豊かではない土地と季節を生き抜いてきた集落の人々にとって、山伏神楽とは何なのか。それを舞う、習う、伝える集落の人々ひとりひとり - 老いたひと若いひと – といった個々のピースを紹介しつつ、衣装や道具を準備したりメンテナンスしたり、舞いを習って練習して、歩いたり車に乗りこんだりしてお呼びが掛かった行事に出掛けていって舞って踏んで戻ってきてを繰り返す日々と季節と。 

これと並行して、貧しい土地のほぼ唯一の農産物である南部葉(なんぶば) - 江戸時代に花魁などに好まれた高級葉タバコの植え付けから収穫~乾燥~出荷~値付けまでの工程が紹介されて、これも生活をすごく豊かにしてくれるものでもないし、別品種に変える話も出ていたり、大変そうだなあ、しかない。

グローバル資本主義のヤニに尻の穴まで漬けられ尻尾を捕まれて、政府や会社のいうことをへいへい聞いて身動きできなくなっている我々からすれば、山の神のオーダー(というのかなんというのか。お告げ?)をまっすぐに受けて、神のためにああいう仮面、被り物、衣装に音楽まで用意して、舞いの一式・神事として捧げる時間や労力はものすごいし、こんなの日常のあれこれと比較できるものではないな、と思いつつ、比較できないものにしてしまう要素要因とはなんなのか、等について考える。あるいは、すでに吞み込まれて「伝統行事・芸能」になってしまったことによる神様側の問題、などあったりするのだろうか?

他方で映像から伝わってくる、舞いやお面とか、ばふばふする大きな耳(?)の造形の独特さ、それが土間の暗がりや広間の床上でどかすかはためいたりするさまの特異で異様で美しいことは、見て感動するしかない類のものだと思った。

これらの美しい姿形が撮られてから40年以上が過ぎた今… というのはどうしても考えないわけにはいかないのだろうが、ここにあるのはそれら現世とか時世とかを軽く吹っ切ってしまう美や神秘への誘惑、その一番最初の姿としか言いようのないものたちだった。
あと、なつかしー、で言えばあの時代の駅・寝台車とか昔の銀座、などもまた。

ドキュメンタリーとしては、Frederick Wisemanの特定の地域を対象・題材にしたものに近いと思ったが、本作のような語りによる補足説明はこういうテーマでは必要で、しかもそれが過不足なく絶妙な按分で計算された語り(の量)になっていて、すばらしいのだった。

ちゃんと見ていこう、と決意したので全部は無理だろうけどがんばりたい。

6.16.2026

[film] Le camion (1977)

6月13日、土曜日の午後、日仏学院の『マルグリット・デュラス 没後30年 全作上映』で見ました。
(これの7月の上映分、自分のスケジュール見えないから後で取ろうって少し置いておいてたらぜんぶ売り切れていて泣)

英語題は”The Track”、UKでのタイトルは”The Lorry”。製作費は30万フラン(当時の三千数百万円)。Durasの監督としては9作目、彼女が俳優として画面に出てくる最初の作品。

同年のカンヌでパルムドールにノミネートされて、でも上映後にはブーを浴びたりの賛否があり、その後New York Film Festivalでも上映された。

撮影は”Camille Claudel”(1988)のBruno Nuytten。音楽はベートーヴェンの「ディアベリ変奏曲」が流れていく。

郊外だか田舎の方かと思われる道路で遠くにトラックがゆらゆら走っていく映像が映しだされて、運転手はヒッチハイクで年を取った女性を車に乗せる – という場面の映像はないものの、それが導きだすストーリー、のようなものを自宅の居間で向かいあって座るMarguerite Duras(彼女)とGérard Depardieu(彼)が読みあげていく(手元の本を朗読しているかんじはないが)。女性をMarguerite Durasが演じ、男性をGérard Depardieuが演じ、それぞれの台詞を読む、という分担があるようでもなく、そのための台本、にもなっていなさそうな草稿をDurasは読んでいって、たまにDepardieuが合いの手のようなコメントをぼそぼそ入れていく。 ふたりが座る場所は、殆どが暗めの居間のようなところだが、終わりのほうで少し明るい窓際に移ったりして、トラックが移動していくように、ふたりの登場人物、ふたりの語り手もそのトーンを変えていくし、終わりのほうでは運転席からのヴューも加わったりするが、ひとつの車に乗り合わせた男女が顔も風体も目的も明らかにならないままただ走っていく、という大枠に変わりはない。

ふつうの乗用車ではなく、いろんなもの(なにを?)を運ぶ大きなトラックであること、ふたりにおそらく年齢差があること、女性はなぜそんな場所でトラックを止めたのか、どんな時間帯でどこに向かおうとしているのか、運転手と女性の間に階級や貧富の差もあるかもしれない (けど最後まで映し出されない) - このストーリーに纏わりつくであろうそういった疑問や違和感一式をぜんぶ積みこむようにして、作者であり語り手であるDurasは単なる実況というより、労働とそれへの要請も含めて – どんな関連があるのか? - 運ばれて移動していく者、それら全体像を描きだそうとする彼ら - などなどを平熱状態で語っていく。なによりもDurasの声のすうっと通っていく声の深さ、すばらしさにびっくりしたり。

郊外を走っていくトラックから、そこに乗りこんだ女性、というシチュエーションからここまでのストーリー、というか大枠を描きだすこと、それを自宅の居間でゆっくりと対話するかのように語る、という形式のシンプルで、でもとんでもなく深いこと。ギター1本の弾き語りで世界の輪郭を示してしまうシンガーのような底の知れない何かを感じた。

そして、その旅の最後のほうで唐突に吐かれる「世界なんて滅びてしまえばいい」の一言がトラックと地面を大きく揺さぶる。 あのトラックは目的地までたどり着けたのかどうか。

トラックとそれに乗りこむ女、というと、Chantal Akermanの“Je Tu Il Elle” (1974) - 『私、あなた、彼、彼女』 - のふたつめのエピソードを思い出したり。

6.15.2026

[film] Sirāt (2025)

6月9日、火曜日の晩、丸の内ピカデリー Dolby CinemaのDolby Atmosで見ました。

英国での公開時(2月末)、BFI IMAXで数回上映があって、それを逃したのでいいやー、って思ってしまったまま見ていなかったやつ。邦題は『シラート』。 カンヌで審査員賞を共同受賞している。監督はスペインのOliver Laxe。

日本では当たるんだろうなー、と思ったら、やっぱりすごい評判で、みんな絶賛なんだって。ふうん。

「シラート」とは、楽園と地獄の間をつなぐ細く狭く危険な道を意味するアラビア語、と冒頭の字幕にでる。
最初に砂漠にでっかいスピーカー一式が組み上げられていって、続けてそこでレイヴして踊ったり恍惚としたりしている人々 - 今作の登場人物たちもその中に – が映し出される。 たぶんこの絵、数シーンで、この映画に没入できるかそうでないか、が分かれるのかもしれない。 野外のフェスやライブで、轟音を浴びて痺れたことは何度かあるが、レイヴの、あのどぅんどぅん(びかびか)て脳に直に響いて延々続いていく、そこに煙とアルコールが流れこんでくる世界に地獄の責め苦&偏頭痛の山脈しか感じない者にとって、異世界の人たちのお話かー、になってしまう。

そこに明らかに場違いなナリの中年男Luis (Sergi López)と小学生くらいの息子のEsteban (Bruno Núñez Arjona)と子犬のPipaが現れて、5カ月前から消息を絶っていて、ここのレイヴに来ている可能性のある10代の娘の写真を手に消息の聞き込みをしていくのだが、とうぜん誰もしらない、という- レイヴなんてそんな世のしがらみから離れて恍惚とする目的で来るものなので、尋ね人をすること自体おかしい気がするが、それくらい必死なのだろう。

やがて軍が現れて場所を接収して踊る人々をどかし始めて、Luisたちは別のレイヴ会場に向かうというヒッピーふうの男女たち - 手が欠けていたり足がなかったり – に一緒に連れていってくれ、と頼む。彼らはその車だと危険だからやめたほうがいい、って強く拒むのだが、Luisは必死に頼みこんで、結局彼らの車2台の後についていくことになる。

自らの意思で姿を消した可能性もある娘を追って、小さい息子(&子犬)を伴って軍が出てくるような政治状況下で、多重に危険な砂漠を抜けていく旅を強行する。この時点でLuisは状況判断ができず頭がおかしくなっていると思うのだが、そういう描き方はしないで、子供思いの父親がレイヴの彼方に消えてしまったかもしれない娘を追う、そういうストーリーになって、でも周囲が指摘した通りそんな簡単にいくわけがなくて、道路や岩場が厄介なのは勿論、ほぼ人はいないし最後の方では地雷まで出てきて大変な目にあって、みんな死んだ目をして天を見あげてしまうの。それだけなの。

ここに描かれたぎりぎりの生のありようをレイヴの血流の刹那と絡めて宗教的な境地のようなところにまで結び付けて語る(→だからレイヴ万歳!)のは勝手だけど、ただの意味なしB級バカ映画 - 地雷でびっくりどーん!とかで十分な気がした。どうせ死ぬまで踊っていたいのだろうしー、くらい。(音がよいシアターだと本当にびっくりするかも。でもそれだけだよ)

そして、すでにいろんな人が指摘しているように、荒廃した台地で人がばたばた死んでいく極限状態とノイズのありよう(毒なのか薬なのか)を考察した映画としては『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』 (2005)があったの。自分にとってはあれが決定版で、あれでもう済んでいるんだけど、って。

しかしこれがカンヌの審査員賞なのかー なにをどう審査したんだろうねー

[film] Michael (2026)

6月6日、土曜日の晩、二子玉川の109シネマズで見ました。

「先行上映」とのことだったが、本国公開より1ヶ月半遅れて(ロシアよりも遅れてて)、なにが「先行」だよばーか、しかない。スピルバーグの新作の件もそうだが、もうほんと世界のど田舎のくせに、アニメのムラでイキっててほんと恥ずかしい。

Michael Jacksonのバイオピックで、監督はAntoine Fuqua (だから見た)。”Bohemian Rhapsody” (2018)のFreddieよりも更に名の知れた世界的なスターだし、その裏でいろいろ変な人として囁かされた人でもあったので、その辺をぜんぶ広げてみせるか、逆にぜんぶ包んでごまかしちゃうかどっちか、と思ったら後者のほうだったかも。 輝けるスター、偉人としての彼を前面にだしてまだまだ稼いでもらうから、というプロモーション継続宣言のように見えた。 そしてそれは勿論、これまで聴いてきてくれたファンに向けてのものでもあるので、だから映画は世界中でヒットしました、よかったね! と。

Michael (Juliano Valdi → Jaafar Jackson)は幼い頃から父Joseph (Colman Domingo)の下で兄弟揃って歌とダンス、振り付けの特訓を昼も夜も強いられていて、母Katherine (Nia Long)は優しいけど横にいて見ていることしかできなくて、でもライブを重ねてようやく当時昇り竜だったモータウンと契約することができて、彼らは大スターになり、それを父がマネージャーとして仕切っていたので家は栄えて誰もがハッピー、であるかのように見えた。

が、長年に渡る父親の圧とコントロールに耐えられなくなったMichaelは独立を画策してQuincy Jones (Kendrick Sampson)のプロデュースによる最初のソロ製作&Epicとの契約を裏で進めていって、父は案外あっさり承諾して – 但し時間外の副業でやれ – でも、やっぱりなんだかんだうざいので弁護士John Branca (Miles Teller)を雇って、父親を解雇するという最終手段にでて、でも父親もしぶとくJacksonsとしての大規模ツアーを計画して … 後半の方はそれぞれのピースが話としてでかすぎるし、それゆえに知っていることも多い(洋楽の情報がそんなにない時代に、結構大きめに喧伝されたから)のでふつうに見ているだけで終わってしまう。 彼が亡くなるところまでは描かれず、”Bad”のツアーでこれからぶちあげるぜー! っていうとこでぷつりと… 続編があるの?

いろんな謎、疑惑をぜんぶ晒してそれに応えろ、とまで言うつもりはないけど、映画のなかでも描かれている鼻の整形とか家のなかを動物園にしちゃった件とか、なによりも音楽映画であるの(違うのか?)なら、どうしてバンドではなくソロで行こうと思ったのか、そういうことをした理由とか事情とか葛藤くらいは、描いてもよかったのでは、と思う。全体として、悲しかったり辛そうだったりの時以外で、彼がなにを愛したり考えたりしながら、音楽活動の軸やイメージを作ったり据えたりしていったのかがあまり見えなくて(チャップリンはひとつ)、その見えないかんじが彼を不世出のスーパースターにしたのだ、なのかも知れないが、もう少し明らかにしたっていいんじゃないの? って。 “Thriller” (1982)のPVよろしく、とびきりどす黒いバビロンを暴き出すこともできたであろうに、いろいろ二重三重にガードされているんだろうな、というのは感じた。

父親を中心とした家族のドラマ、としてもColman Domingoの正面からの顔アップでぜんぶが決まって、従うのだ! っていうボス猿方式だけのようで、それがMichaelのその後の行動にうまくリンクしていかない、というあたりが圧倒的に弱い。兄弟間での駆け引きのようなものだってあっただろうに。

いろいろあったね、の家族アルバムとか、ひとつのでっかいPV、として楽しめばよいだけ、なのかも知れないけど、それだけ? アメリカのポピュラー音楽史に残る人なのに?

6.12.2026

[film] Undercurrent (1946)

6月6日、土曜日の午後、シネマヴェーラのRobert Mitchum特集で見ました。

ひとつ前に書いた“Secret Ceremony” (1968)のすぐ後で、すばらしく充実した2本立て(じゃないけど)となった。

原作はThelma Strabelが雑誌Woman's Home Companionに掲載した小説"You Were There" (1944-45)、脚色はEdward Chodorov、ここにノンクレジットでMarguerite RobertsとGeorge Oppenheimerが協力している。監督はVincente Minnelli、撮影はKarl Freund (!?)。 Vincente Minnelliの” The Clock” (1945)に続くドラマ・フィルム - この前はずっとミュージカル - の2作目。邦題は『底流』。

科学者である父に倣って、自身も科学者・研究者としてのキャリアを考えていたAnn Hamilton(Katharine Hepburn)は父を訪ねてきた科学者/実業家のAlan Garroway (Robert Taylor)と恋におちて、割と簡単に結婚してしまう。 ふたりは幸せで、その後ワシントンDCに越して、Annは慣れない社交界にどうにか適応しなきゃ、って苦労していたある日、手にとった田園詩集にものすごく癒されて、これ大好き! というとAlanは急に不機嫌になって、それは弟のMichael (Robert Mitchum)の本だ、という。彼とは疎遠になってもう会っていない、という。

その後、西海岸のAlanの実家に行くと、Michaelのでっかい荒馬とか、彼の影とか痕があちこちにあったり感じられたりするのがいちいち気になって、でもその都度、Alanは癇癪を起して止まらなくなり、それがあまりに強く激しいので兄弟の仲違いの原因はなんなのか、なぜ名前を出しただけであんなに不機嫌になるのかを知りたくなる。 そしてそれを確認するためにもMichael本人に直接会ってみたい.. 会うことさえできれば… がぐるぐる回りだして止まらなくなるのが”Undercurrent”。

この辺の盛りあげかたが流石で、とても他人とは思えないくらい自分と好みが合っているMichaelに惹かれていてもたってもいられない、それと並行してそうではないAlanとの関係はどうでもよいただの夫に格下げされていって、なのに彼は嫌われ妄想を過度に勝手に膨らませてぶつかったり詮索してきたりするので余計に溝が広がって距離を置きたくなる、という悪循環。

ひとつの方向として、気配ばかりで正体が見えない相手を探す/待つファンタジーの側面があり – 一度庭師を装ったMichaelとさらりと会う場面があったり、ずっと流れてきて耳から離れないブラームスのピアノとか - もうひとつにはそれを妨害したり妬んだりモンスターとしての正体を現していく夫をどうしたらよいものか、がちょっと怖いサスペンスのように描かれる。で、見ている側ははらはらしながら、AnnとMichaelの出会いとAnnとAlanの破局を待つことになるの。 夫婦の関係が壊れていくひとつの典型的なパターンが極めて精緻に、”Undercurrent”の渦を意識させつつ、抉り出すように描かれていて、たまんない。

やがてAlanの元カノで、Michaelのこともよく知るSylvia (Jayne Meadows)との会話で確信を深めたAnnだったが、その頃にはAlanも覚悟を固めてAnnのところにやってくるのだった。最後のほうはKatharine Hepburnの聡明さ vs. ノワールの狂った男の性むき出しで、どうなるかは見えているのだが、それらも含めて最後のきたきたきた感が溢れて、そこに割って入るのが眠い目をしたRobert Mitchumである、という見事さ。彼、最後の方までなかなか姿を現さないというのがとても効果的で。しかしどう見てもRobert Taylorと兄弟には見えないのだけど。

あの後、AnnとMichaelは一緒になったのだろうか? そんな簡単にいくわけない、実はMichaelは多重人格者だった... というあたりをつい期待してしまう。

あと、最初の方にでてくるわんこのRommyがものすごくかわいいの。

シネマヴェーラのRobert Mitchum特集はここまでになってしまった。 会社のバカ。だいっきらい。


RIP David Hockney..

何度も通った2017年のTate Britainでのレトロスペクティヴが思い出される。
こないだまでの英国生活の思い出の最後に買ったのが”David Hockney by David Hockney” (1976)のサイン本だった。
ありがとうございました。

6.11.2026

[film] Secret Ceremony (1968)

6月6日、土曜日の午後、”Boys Go to Jupiter”を見たあと、シネマヴェーラのRobert Mitchum特集で見ました。これだけ特別料金 - カラー作品だから?新たに字幕をつけたから?

Joseph Losey監督による英国映画、原作はアルゼンチンのMarco Deneviによる”Ceremonia secreta” (1960)をハンガリーのGeorge Taboriが脚色している。撮影はGerald Fisher。 邦題は『秘密の儀式』。

自宅で娼婦をしているLeonora (Elizabeth Taylor)はロンドンのバスで見知らぬ若い娘Cenci (Mia Farrow)に突然「ママ」って泣きながら呼びかけられ、戸惑いながら教会にいって墓参りしてもずっと娘はついてきて、不気味だし追い払いたいのだが、実は彼女の数年前に亡くなった娘にそっくりだったので混乱して泣き崩れて、その状態でCenciに引き摺られるように彼女がひとりで暮らす豪邸に連れていかれて、朝食をごちそうになると、そこにあった写真で自分も彼女の亡くなった母にそっくりであることを知り、こんなことでよいのかと思いつつここには洋服とか宝石とかいっぱいあるし居心地も悪くないのでしばらくいてもよいかも、になる。

そのうちCenciの叔母だというHannah (Peggy Ashcroft)とHilda(Pamela Brown)がやってきて、身を隠して彼女たちの会話の様子を見ていたLeonoraはこの家族の過去の事情とか、Cenciが22歳であることとか、出入りする怪しげな継父Albert (Robert Mitchum)のことなどを聞いて、お屋敷に関わる全員が裏と過去の傷を抱えた腹黒く病んだ人々であることを知り、でもなりすましでそこにいるLeonoraもまたそれに近いひと、なのだった。

そういう綻び、というよりぼろぼろの中で押しかけるように家にやってきたAlbertとCenciがべったり濃厚な時間を過ごした後、LeonoraとCenciは海辺の高級リゾートに出掛けて、そこに現れたAlbertや突然お腹が大きくなったCenciのことを巡って修羅場となって、これでもう偽母娘の関係は終わりか、になって…

ふたりの母親、ふたりの娘、ふたりの父親の影があちこちに見え隠れするお屋敷で、対の反対側に残された者たちが互いに埋めようがない穴や傷を認めて、それでもどうにか不器用に埋めたりごまかしたりしようとしたら罪とか罰が噴出して晒されてみんなだめになっていくことの救いのなさ。

Joseph Loseyの同じ年の前作が昨年BFIで見た”Boom!” (1968) で、これは外界から孤絶した島で暮らすお金持ちのElizabeth TaylorがRichard Burtonの訪問を受けてゆっくり腐って壊れていく、非現実的にも見える人と人(or 島)のサイコドラマだった。 なんでそうなってしまう/しまったのか?というよりもなにがトリガーになって、どんなふうに人の内側は崩れて壊れていくのか、その不気味な断面をこれでもか、と見せてくれる。コミュニケーション、喪失と狂気の危うい線がこちらにも浸食してきて、どうにも止めようがなくてぐったりするのだが目が離せない。(見て楽しいものではないので評判がよくないことはわかる)

しかしElizabeth Taylor、よくこんなJoseph Loseyのに2本も続けて出るねえ(褒めてる)。

この作品ではElizabeth TaylorとRobert Mitchumの踏んづけても壊れそうにない老獪さの反対側にあるガラスのMia Farrowがすばらしかった。彼女がRobert Mitchumの髭を剃るシーンとかだんだん動かなくなっていくシーンの息をのむかんじとか。

あと、このドラマがもたらす緊張感って、映画よりも演劇とかオペラの方に向いているのではないか。きんきんやかましい現代音楽の轟音のなかに置いたらとっても雰囲気でたかも。

[film] Boys Go to Jupiter (2024)

6月6日、土曜日の昼、渋谷のホワイトクイントで見ました。

ぜんぜん知らないアメリカ産のアニメーションだったが短くて軽そうだったし、どんなものかしら? くらいで。

原作、製作、監督、音楽はJulian Glander、この若者がひとり、当然低予算で作ったらしい。孤独に孤独であることの諸相、などをテーマにすっとぼけたアニメーションを描く、つくる、という点ではDon Hertzfeldtを思わせたし、声優陣には”Eighth Grade” (2018)のElsie Fisherとか、Janeane Garofaloとか、Tavi Gevinsonとか、”Sorry, Baby” (2025)のEva Victorとか、世界の片隅へなちょこ系オールスターズだし、Special ThanksにはMiranda Julyの名前があったし、これらを豪華、と言ってよいのかどうか、だろうが自分にとっては超豪華としか言いようがない。

UKでは、2025年のGlasgow Film Festival で上映されただけ – たぶん英国人にはわかんないのだろうなー のかんじ。

安っぽい、ポップと毒毒の中間地帯を無邪気に、なんも考えていないふうに埋めつくすアメリカの駄菓子の輪郭と色合いのなかに海も家も砂浜も無神経にぶよぶよと建っていて、そこにやはりすべてにおいて無頓着で頭にも身にも虫が湧いているとしか思えないふやけた若者たちが浮かぶように佇んでいて、ものすごくてきとーにラップをして遊んだりしていて、その近くには肥大した芋虫みたいなエイリアンみたいな奴らが変な音を出しながら伸びたり縮んだりしている。 この絵だけで映画館を出たくなる人がいても責めはしない。

そんなてきとーにふやけた若者たちの間にBilly 5000 (Jack Corbett)はいて、他の仲間にはFreckles (Grace Kuhlenschmidt)とか Beatbox (Elsie Fisher)とかPeanut (J.R. Phillips)がいて、Billy 5000はUber EatsライクなGrubsterっていう宅配ピザ(だけじゃない)配達サービスのバイトをしながら誰にも搾取されることなくそのアプリのバグを使って一人暮らしするための$5000を貯めようとしていて、たいへんだけどがんばる、っていいながらどこかの底辺を彷徨っているようで、でも彼の暮らす世界には底辺も頂点も存在していないかのよう。

ある日宅配に行った工場で、かつての同級生Rosario "Rozebud" Dolphin (Miya Folick)と会って、そこの工場長の娘である彼女が持っていた標本とかを持ち帰ったら、それが単なるエイリアンではないとんでもないやつで…

お金を稼ぐこと、家族である(になる)こと、旅をすること食べること泊まること、これら生活の根幹がそこらでごろごろしているエイリアンたちとの間でお茶の間的なスケールのコミュニティで進行して転がって、決して「アドベンチャー」にも「ジャーニー」にもなっていかないし、そうなることにも興味ないし、というすっからかんの実存のありよう。でもここからJupiterに飛んでいったとしてもなんの不思議もないし、たぶんいけるし。

軽めのドラッグをやってトリップしている若者たちの戯言、メッセージもくそもない、と片付けることは簡単かもしれないが、そうも言い切れないような腰の据わったLo-fiの居直り感と虚脱感がなんだか痛快で心地よい。ただぶっきらぼうに、でもそこにいるの。 なんとなく漂う宮沢賢治のかんじ、など。

シアターで貰ったBoidのペーパーで樋口さんはDinosaur Jr. ぽい、と言っていたが、あんなに洗練されてもいなくて、Sebadohあたりではないか。

6.09.2026

[log] Nara / Kyoto / Osaka - June 05 2026

6月5日、金曜日に会社を休んで奈良~京都~大阪の日帰りに行ってきたので簡単な備忘を。

前回、5月5日に京都日帰りをやって、それが思っていた以上に簡単に済んでしまった(ロンドンからパリ日帰りと比べたら – 比べるな)ので、少し範囲を広げてみよう、程度で。


神仏の山 吉野・大峯 - 蔵王権現に捧げた祈りと美  @ 奈良国立博物館


新幹線で京都に着いて、そのまま近鉄のホームまで真っすぐ行ってそこにいたのに乗って奈良へ。
日曜美術館で仏様たちの群れをえっちらおっちら山の上から降ろしているのなどを見て、どうしようかなー、だったのだが7日に終わってしまうし、終了間際の土日は混むだろうしー って5日にしたのはそういうわけ。

9:30開場で9時前に着いたら既にすごい列で唸ってしまった。

蹲った小さい仏さまなどの塊りがいっぱいごしゃごしゃ置かれているところがとてもよくて、「秘仏」の看板のかかった蔵王権現立像もその流れで。青いでっかいやつはVR表示のみだった。あれは降りてきていなかったのかー。


特別展 北野天神  @ 京都国立博物館

この企画展は5月にも来たのだが、北野天神縁起絵巻(承久本)が忘れられなくて、第八巻の展示替えなどもあったようなので、もう一回。あの絵巻の漫画みたいな展開と描かれている雷神とか魔物とか噴いて渦を巻く炎とかが素敵すぎて(道真どうでもよし)、これの全部並んだのを続けてみたいので、こういう展示ではめったに買わない図録を買ってしまった – 絵巻、もうちょっと拡大して載せてくれてもよかったのに。 今回、京都はここだけ。


MOCOコレクション オムニバス - 初公開・久々の公開 - PART2 @ 大阪市立東洋陶磁美術館

京都から電車で大阪に移動する。この近辺は地名・駅名を見てもさっぱりでGoogle Map頼りの1時間強。

今回のこれは過去寄贈を受けたりしたいろんなとこのを纏めてお蔵出し~、のようなのだが陶磁器の世界は西も東も新も旧もぜんぜんわからないので、何を見てもわあーきれいーすごいー、しかない。濱田庄司のだけ、こないだ日本民藝館で見たな、程度。


没後50年 髙島野十郎展   @ 大阪中之島美術館

もうじき渋谷にも来るらしいが、何度でも。2016年に目黒で『没後40年 髙島野十郎展 ―光と闇、魂の軌跡』を見てから、もう10年になるのかー。

蝋燭の光、陽の光、月の光、カラスウリ、さくらんぼなど、その光の明滅、その表面、真ん中の焦点をじっと、穴のあくほど見つめた前回の展示から10年…  
でもこういう絵画に「魂の」とか付けるのってなんか違うと思うのよね。ゴッホとかでもその傾向あるけど。


中西夏之 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置  @ 国立国際美術館


大阪まで来たのはこれがあったからだった。タイトルが既に中西夏之的に装置化されている。

初期の油彩から、クールにやばいハイレッドセンター期から、70年代から晩年まで、我々が「穏やかにみつめるために」「いつまでも佇む、装置」としての絵画、が、街角に置かれたサイネージディスプレイのようにそこにあって、でもそれらをじっと見ていると、あの卵たちのようになかでなにかが蠢くやつが頭のなかにシンクロするように湧いて拡がる。そのために置かれた装置。

それにしても後期作品の抽象のありようのおもしろいこと。みつめて穏やかになるのではなく、「穏やかに」が先に来てしまう不穏さから入り「みつめるためにいつまでも」が主で、どうしてその装置は「佇む」のか。装置は設置されたり作動したりするものではないのか、など。 絵画と言葉を巡ってだらだらといくらでも。

その上でやっていたコレクション - “Collection 3”も見たが、近現代アートのあまりに大阪っぽい盛り盛りでああ「国立国際」だなあ、って。


特別展:小泉八雲 - 怪談とフォークロリストのまなざし  @ 大阪歴史博物館

まだ少し時間があったので、地下鉄でここまで。しかし大阪、エスカレーターとかエレベーター少なくない?

いきなりBook of Kellsの複製本があって、八雲のインターナショナルな足跡を辿り、文学作品だけでない幅広い活動全般を。TVドラマで話題なのは知っていたが、自分が読んだのは数十年以上昔で、あの頃よかミステリアスで変なガイジン・モードが炸裂していたような。夫としてはどうだったんだろうねえ。


ここまでで、湿気も酷くて結構消耗したので新幹線の時間を少し早めにして帰った。

6.08.2026

[film] Dance First (2023)

6月2日、火曜日の晩、アイルランド映画祭2026をやっている恵比寿ガーデンシネマで見ました。

『劇作家サミュエル・ベケット ⽣誕120年記念上映』ということで、Neil Forsythが脚本、James Marshが監督したベケットの評伝映画で、イギリス・ベルギー・ハンガリー合作映画。 邦題は『まずは踊れ』。
 
併映でBeckett自身が唯一映画の脚本に携わった24分の短編 – “Film” (1965)も上映される。監督はAlan Schneider、撮影はBoris Kaufman。
モノクロで、登場人物(Buster Keaton)とカメラの視点を交互に微妙に対比、交錯させながら、見ること、見つめることのギャップとか違和を亀裂のように老人の震えのように描きだしていく。それらを定着させてしまうフィルムというものについて。
 
でも終わって残るのはBuster Keatonの掌とか指とかふっくらした老人のそれだったり。
 
同時上映で短編をやるなら、本編の方でも上演中の舞台(の一部)が映しだされる一幕もの”Play” (1963)を映画化した”Comédie” (1966)をやればよかったのに。キャストはMichael Lonsdale, Eléonore Hirt, Delphine Seyrigだよ。

Dance First (2023)
 
1969年のノーベル文学賞の授賞式で、Samuel Beckett (Gabriel Byrne)は名前が呼ばれて席を立つと「くそったれ」みたいなことを呟き、そのまま会場を後にして、そこの屋上かどこかにはもうひとりの自分(告解師?)がいて、懺悔告解をするかのように過去を吐き出しながら、ノーベル賞の賞金を誰に寄付すべきか、もうひとりの自分と対話していく。
 
幼い頃の彼は何事にも理屈っぽくてやり込めようとする母よりも優しい父のことが好きだったのだが、父は早くに亡くなり、若くに家を出て大戦前のパリに渡ったBeckett (Fionn O'Shea)は憧れのJames Joyce (Aidan Gillen)と出会って彼の家に出入りするようになるのだが、彼の娘のLucia (Gráinne Good)の世話をするのが嫌になって、Joyceとはそれきり。
 
その先は戦時下のレジスタンス活動中、いきなりナイフでフィジカルに刺されて死にそうになった事件を機に近づいていったSuzanne (Léonie Lojkine 後でSandrine Bonnaire)とのこと、活動中にナチスに拉致されて、その後ベケットが長く罪の意識で苦しむことになる親友Alfred (Robert Aramayo)のこと、後年に翻訳者として親しくなってSuzanneとの間に亀裂をもたらすBarbara Bray (Maxine Peake)とのこと、など。
 
波乱万丈、と言うほどではないものの、節目節目に常に女性がいて、ノーベル賞の賞金を誰に? とか議論できる程度にはじゅうぶん活動してるじゃん、だったが、やはり相当女性に対してはいろいろ思うところがあったのではないか、と思わせるような描き方をしている。例えばSuzanneの目線で描いてみたらどんなふうになっただろうか? そのうえでも”Dance First”とか言えるのか、とか。
 
この映画ではただの脇役でしかないBarbara BrayはHarold Pinterと活動したり、翻訳者としてMarguerite Duras、Jean Genet、Julia Kristeva、Philippe Sollersなどを英語圏に紹介したひと。みんなそれなりの足跡を遺した人たちなので、別のいろんな角度からも見てみたかった、とか思った。Shakespeare and CompanyのSylvia Beachも少しだけ出てくる。
 
ほぼフランスが舞台だったりするので、彼の前衛に対するフランス文化圏の適合ぶりはわかるのだが、他方で彼の(and Joyceも)アイルランド性(のようなもの)がどんなふうに醸成され表れてきたりひん曲がっていったりしたのか、その辺があったらよかったのに – となると、やはり彼の舞台作品を見て掘っていくしかないのか、って。
 
でも俳優がうまいからだろうか、湿っぽいところがぜんぜんなく枯れてからっから、なのはどこかベケットぽくてよかった。

[film] The Big Steal (1949)

5月31日、日曜日の午後、シネマヴェーラのRobert Mitchum特集で見ました。

原作はThe Saturday Evening Postに掲載されたRichard Wormserの短編小説 - “The Road to Carmichael's" (1942)、監督はDon Siegel。71分のクリスピーなトルティーヤに乗った真面目だか不真面目だかよくわからないメキシカン・ウェスタン。

ごった返すメキシコの港で米陸軍中尉のDuke Halliday (Robert Mitchum)が彼を船まで追ってきた軍の上官Vincent Blake (William Bendix)を船室で殴り倒して陸に戻ったら携えていた30万ドルの札束をJim Fiske (Patric Knowles)に奪われて、たまたま同様にJimにしてやられて頭にきているJoan Graham (Jane Greer)と一緒に車で追っかけていくことになり、更にそんな2人をふざけんな、ってぶちきれ系で沸騰したVincentが追っかけていく。

そこにメキシコ警察のGeneral Ortega (Ramon Novarro)が絡んで、これもどこまで冗談なんだかわからない玉突き追っかけずっこけ珍道中が始まり、逃げて転んで追っかけて、がぐるぐる巡って、最後は首領の本拠地(邸宅)での銃撃戦で絶体絶命、どう考えてもしぬだろ、なのに敵が考古学マニアだったおかげでどうにかなって、冗談みたいにてきとーなハッピーエンディングに落ちてしまうところがすごい。あまりに変な展開なので、よかったねえ! とかあまり言えないけど。

これの前年にRobert Mitchumはマリファナ所持で有罪判決をくらって収監されてて、これに出ることで世間から注目されて客が入るだろうからってキャスティングされた、とか、Jane Greer はRKO PicturesのオーナーだったHoward Hughesの恋人だったが別れたので彼女のキャリアを潰そうとしていた、とか、裏のストーリーも表と同様にぐしゃぐしゃだった、というあたりもおもしろいのだが、そんなの微塵も気にしていない堂々とした演出が素敵。


Crossfire (1947)

6月1日、月曜日の晩、上と同じ特集で見ました。

監督はハリウッドの赤狩りでHollywood Tenのリストに載ったEdward Dmytryk。原作は後に映画監督となるRichard Brooks が兵役期間中に書いた小説”The Brick Foxhole” (1945)。 邦題は『十字砲火』。 映画はヒットしてRKOからリリースされたB級映画なのにオスカーの作品賞、監督賞を含む5部門にノミネートされた。

冒頭、暗いホテルの一室で殴り合いの乱闘がシルエットで描かれて、翌朝に部屋で遺体となって発見されたSamuelsの殺人事件を捜査していく犯罪もの。捜査にあたる警察のFinlay警部 (Robert Young)は夜に被害者がいたホテルのバーにたむろしていた復員兵たちが怪しいと見て捜査を始める。

Finlayに近寄ってきたMontgomery軍曹 (Robert Ryan)は友人のFloyd (Steve Brodie)とバーでSamuelsを見かけたので彼の部屋に行ったら彼がMitch (George Cooper)と一緒にいるところを目撃し、しばらくしたら泥酔したMitchが出てきてどこかに消えたので、彼があやしいのはないか、という。

Mitchの友人で彼が人を殺すような奴ではないことを知っているPeter Keeley軍曹 (Robert Mitchum)が乗りだして動揺したりよく憶えていなかったりするMitchを映画館に匿って、捜査の点と線を繋いでいく。ところどころ回想が絡まったり、そこに夢だか現実だかわからないような娼婦のGinny (Gloria Grahame)とそのヒモ(Paul Kelly)が現れたり、でも最後の方は怒涛の、まごうかたなきヘイトクライムになだれ込んでしまうので、いきなりビンタされたようにしゃっきりする。いや、あそこまではっきり言われるとそれはそれで気持ちわるい(そして、Robert Ryanこわすぎ)のだが。

原作では被害者はホモセクシュアルという設定で、でも当時のヘイズ・コードは同性愛への言及不可だったので、背景が人種差別~反ユダヤ主義に変更されたという。なぜそんな代替が可能になってしまうのか、というのはあるけど。そんなふうに隠したところでぜったいいつかばれるんだし、とか。

6.04.2026

[film] Not as a Stranger (1955)

5月30日、土曜日の晩、シネマヴェーラのRobert Mitchum特集で見ました。

この日はお昼にここの特集で”The Lusty Men” (1952) - 既に書いた - を見て、そのあと茅ヶ崎の美術館で牧野邦夫の展覧会を見て、また戻ってきてこれを。

邦題は『見知らぬ人でなく』。 Wikiの日本語版のあらすじが 『医学の道を志す青年が学費を得るために金持ちの女に近づく。』 の一行なのがおもしろー。

原作はMorton Thompsonの同名小説(1954) - ベストセラーになった - をEdna & Edward Anhalt夫妻が脚色、それまでプロデューサーを仕事にしていたStanley Kramerが初監督している。

Lucas Marsh (Robert Mitchum)は勤勉で真面目な医学生 – 教室で横並びしている同期生にFrank SinatraとLee Marvinがいて冗談かと思う – で、結構アグレッシブな質問をして教授から目をつけられたりしている。その反対側で学費に困って、このままでは退学… というところで経験も貯蓄も豊富でLucasに親しくしてくれていた年上の看護婦Kristina "Kris" (Olivia de Havilland)と結婚してどうにか医学を続けられるようになるのだが、Krisの献身的な彼への愛と比べたら彼からKrisの方はそんなでも。

こうしてどうにか医師になる手前まで行くのだが、高名な教授に治療方針のことで食ってかかったり、金儲けのことばかり話している同期 – 特にAlfred (Frank Sinatra)にぶち切れたり、そんなのばかりなので卒業するときに指導教授から「医師も人間であることを忘れるな」って言われたりする。

インターンを終えて医師となったLucasはKrisと一緒にGreenvilleっていう田舎の町に移り住んでDr. Dave Runkleman (Charles Bickford) の病院で働くことになる。病棟に入院している人たちは貧しかったり、院長が無能でしょうもなかったりするのだが、Runkleman医師が力強くてよい人なので、一緒にがんばろう! になるのだが、Krisはそんな前のめりのLucasに自分が妊娠したことを言い出せない。

そのうちLucasは馬丁の怪我で往診に行った先で知り合った裕福な未亡人Harriet (Gloria Grahame)と恋におちて、それで家に帰らないのも多忙のせいにしてKrisとの間が遠くなっていくなか、深夜の長時間に渡る緊急の手術のサポートをKrisに頼んで、結果どうにかうまくいくのだが、自分に求められているのはやはり仕事面のサポートなのか、ってKrisはがっかりしたり、そんななか、Runklemanが倒れて…

医を志す学生から、結婚から、田舎に赴任した医師まで、強い大志と意思を抱えた若者が孤軍奮闘していく成長物語で、その思いに駆られてがむしゃらに前に進もうとするので周囲とはあれこれぶつかって大変なのだが、女性に関しては金づるか一夜の遊び程度にしか見ておらずー、という典型的な50-60年代にのし上がる男性の美談伝説で、最後に自分の力不足を認識したところで初めてKrisの献身的な愛に気づく、というところも含めて、よかったね、にしたいのだろうけどぜんぜんよかったとは思えない。タイトルの『見知らぬ人でなく』なんて医師を志すなら当たり前ではないのか、とか突っ込みどころもいっぱいなのだが、当時はこれでみんな納得してがんばれー、とか言っていたのだろうかー、って。

Lee Marvinはなんもしなくて、Frank Sinatraはちょっと威勢よく見えたのは最初の方だけで、あとはなんか割といい奴じゃん、みたいな小役で、贅沢な使い方だった。これもフィルム・ノワールに位置づけできたりするもの?(Wikiでは)

途中から登場して特に多くの波風も立たせずにすーっと消えるだけのGloria Grahameがクールに映えてて、彼女もどちらかというと「眠い目をした」女なので、Robert Mitchumと一緒だと余計に夢のなかのかんじが漂って、きつめの現実とのコントラストがよかったかも。

6.03.2026

[film] Elis & Tom: Só Tinha de Ser com Você (2022)

5月31日、日曜日の午前、新文芸座で見ました。帰国してから最初の、久々の池袋。異文化…

見たい、見なきゃだった映画をようやく。原題の後半部分を英語にすると”It Had To Be With You”、邦題は『エリス&トム ボサノヴァ名盤誕生秘話』。

こないだのEgberto Gismonti & Daniel Murrayのライブを逃したり、ライブ方面では気が付いたらもうその日でびっくり~既に手遅れ、というのが最近多すぎて、これはロンドンで演劇などを2~3日前とか当日に決めて行く、というのを繰り返してきたせいだと思う - 違う、怠惰で情報に鈍く疎くなっただけよ。

1974年にリリースされたElis ReginaとAntônio Carlos Jobimによる“Elis & Tom”は、ブラジル音楽、という枠を超えて誰もが認めるとんでもない名盤だと思うが、その現場の制作過程をとらえた16mmフィルムの映像を中心としたドキュメンタリー。監督はElisの当時のマネージャーだったRoberto de OliveiraとJom Tob Azulay。共同脚本にはNelson Mottaの名前がある。

最初の方の"Águas de Março" - アルバムのオープニングの『三月の水』をふたりが向かいあって掛け合いしながらレコーディングしている光景で鳥肌が立ちすぎて寒くなる。曲のなかで発せられるふたりの声の近さ、遠さ、互いに突きあう発声がリズムを刻んでそれが歌となる不思議な対流のなかで音楽が形作られていく驚異が映像として残されていて、エンディングのあの高い音がElisの声だったことを知って驚愕。鳥だったのか。

前半で、このレコーディングに来るまでのElis Reginaの軌跡、Tom Jobimの軌跡がそれぞれ紹介される。Elisは歌手としてブラジル国内では無敵となり、ヨーロッパ各国でもそれなりに人気は出たものの、キャリア10年を経てその次が見えなくて、そこで当時の軍事政権のイベントで歌ってしまったので叩かれて萎んでて、Tomは60年代にボサノヴァの旗手としてアメリカで広く知られるようになったものの、音楽の探求と洗練が人気には結びつかずにちょっと腐っていて、互いに「それはとても有意義な取り組みだと思うな」って棒読みをするだけ、もちろんキャリアの傷になることはないだろうしお金にもなるだろうし、くらい。 この時Elisは28歳でTomは47歳 - 同じくらいかと思っていたのに20歳近くの差があったとは。

今だから言うけど、という形で語られる現場でのふたりの確執 – Tomは当然自分でコンポーザー、アレンジャーを含めて全体の統括までやるつもりだったのにElisは自分の夫でピアニストでアレンジャーでもあるCésar Camargo Marianoを連れてきたので、音楽面でも簡単に衝突して、初日からマネージャーのOliveiraに「もう帰る」になるあたりはまあそうだろうなー、程度で、でも18日間かけて音楽的な落としどころをみんなで見出していった、というHélio DelmiroやPaulo Bragaといったミュージシャンたちが(彼らの証言も含めて)すばらしい、というかブラジル音楽の底の深さと恐ろしさはここにあるのだよ(どこから来るのか知らんが)、って改めてEgberto Gismontiを逃したのを悔やむ。

Tomのアコースティックに空間の拡がりを求めていくアプローチとElisの声の震えと響きでエレクトリックに世界を埋めていくアプローチをどう束ねてひとつの楽曲として構成していくのか、ジャズのエレクトリック化としてむきむき筋肉をつけていったジャズ・フュージョンの塊りとはまったく異なる可能性がここにはあったし、そういうところも含めて問答無用の名盤だったのだ、と。

この映画の中のElis Reginaは本当に楽しそうに歌っているのだが、彼女以外に映っているのはすべて男性ばかりで、こういう中でどんな思いだったのだろう、とか、タイトルも”Tom & Elis”にしたがった、というし。… というあたりで引き裂かれてあがったりさがったりしながら見ていた。

6.02.2026

[film] The Ninth Configuration (1980)

5月29日、金曜日の晩、神保町のシネマリスで見ました。
まだ行ったことがなかったここ、”Cine-malice”(悪悪シネマ)だと思っていたら、シネマのリス(齧歯目)だった。

作・脚本・監督はこれがデビューとなるWilliam Peter Blatty。彼は”The Exorcist” (1973)の原作者で、本作を”The Exorcist III” (1990)へと至る三部作の二作目として構想していた、と。

邦題は『トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン』で、この違いはなんで? と思ったら原作の小説の1966年に出版された版が“Twinkle, Twinkle, "Killer" Kane!”というタイトルで、それを作者がリライトして1978年に再出版した際に”The Ninth Configuration”というタイトルになったと。映画の方も最初は” Twinkle, Twinkle, "Killer" Kane”としてリリースされ、その後複数のバージョンがあり、原作者、制作会社それぞれにいろんな思惑や捻転があった模様(Wikiによる)。

制作者側にはそんな多様なごたごたがあって日本公開も2016年の映画祭までなかったのに、ゴールデングローブの脚本賞を受賞していたりする。

70年代初、アメリカ北西部の山奥に、ベトナム戦争等で精神を病んでしまった者たちを収容するお城のような施設 - 森もお城もアメリカのじゃないよね? と思ったらあの外観はドイツのお城らしい。更に殆どのロケはブダペストで行われたそう – があって、月面着陸飛行の発射直前に突然発狂してしまった元宇宙飛行士のBilly Cutshaw (Scott Wilson)などもそこで割と平和に過ごしている。

そこに元海兵隊の大佐で、精神科医だというHudson Kane (Stacy Keach)がやってきて、Cutshawを含む収容患者たちと「治療」のように見えるやりとりをしていく中で、露わになっていくCutshawの狂気を形作るものとかKane自身のベトナム戦争従軍時のトラウマからの彼自身が抱えこんだ狂気 - 多重人格などが明らかになり、要は治療する側もされる側も、みんなどこかおかしいのだが、管理する側はそれらも分かって押さえていて、そういう中で施設の秩序のようなものは保たれている。

そこを抜けだしたCutshawが地元のバーに行って大勢のバイカー連中に恥ずかしい元宇宙飛行士であることがバレて散々いたぶられたところに通報を受けたKaneが来て、でも彼も同様に寄ってたかってぼこぼこにされて、そのなかでKaneの別人格 - Vincent "Killer" Kaneが起動して...

基本はCutshawの傷ついて彷徨える魂の救済、そのために自らを犠牲にする(既に傷だらけの)Kane、という構図は”The Exorcist”にも連なるものなのでわからなくもないのだが、その辺の狂気と正気の相克をタイトルの”The Ninth Configuration” – 生命の起源とされるタンパク質とか構成物質の奇跡的な第9の配列組合せに連ねて語ってしまうことの危うさ、更にこの星座だかストーリーだかを形作って語るのがほぼ白人男性のみ - 映画で女性が出てくるのはバーのウェイトレスくらい - というあたりがなんだかとってもあーあー、なのよね。

Kaneの絶望~怒りからの復活(→逆襲)というストーリーは、例えばMCUのヒーロー誕生の常道(胡散臭いサイエンスもどきで説明しようとするとこも含め)であるようにも見えて、この辺の根というか(白人男性が)勝つこと、生き残ることを巡る業の深さってまるで神話のようですごいな、ってしみじみした(あんますごいと思っていない)。

あと、ベトナム戦争の後始末、という角度からは『地獄の黙示録』 (1979)にも近いのかも。
罪の意識に囚われて狂ってしまった(元は優秀だった)白人男性が最後に解き放たれるお話、として。(森の奥の収容施設はカーツの神殿みたいなもの、とか)

 

6.01.2026

[film] Man with the Gun (1955)

5月27日、水曜日の晩、シネマヴェーラで新しく始まった特集 - 『眠い目をした男 ロバート・ミッチャム特集』で見ました。

東京の名画座の、邦画中心の重厚でよく考えられたプログラムってすごいなー、と思いつつ、ここがひっつかんで束にしてどかどか落としてくれる昔の海外の監督や俳優の特集はとてもありがたいしうれしいし。

監督はRichard Wilson、原作はN. B. Stone, Jr.によるSaturday Evening Postに掲載された短編(1955)- “The Deadly Peacemaker” - オルタナ・タイトルはこれだったり、UKでは”The Trouble Shooter”だったり。邦題は『街中の拳銃に狙われる男』。

冒頭、少年の犬がばうばう吠えていただけで馬に乗ったやくざがそれを銃で簡単に殺してそのまま立ち去ったり、もうじき結婚するJeff(John Lupton)が新居予定地に立ち入っていた男たちに文句をいったら撃たれたり – そんなふうに荒れて無法地帯になった町にどこかから仲裁屋のClint Tollinger (Robert Mitchum)が現れて、保安官が及び腰でなにもしないし、町民のなかでもどうする?の空気になっているなか、とりあえずClintは彼を雇う議会承認を得てそのまま副保安官になると、昼間の銃器携帯禁止とか深夜の出歩き禁止とか、ひとりで強引なルールを決めて、従わない奴とかのさばっていた奴を簡単に撃ち殺したり強引に街の浄化を進めていく。けど、Clintが「街中の拳銃に狙われる」ようになるまでには結構いろいろある。

最終的に狙うのは姿を見せない謎の巨漢黒幕Dade (Joe Barry)なのだが、そこに行く前に別れたきりになっていてこの街でキャバレーの女将をしている元妻Nelly(Jan Sterling)のこと、別れたきり会っていない娘のBethのことが気がかりだったり、Jeffの許嫁のStella (Karen Sharpe)は力強いClintに気があるようだったり。

あの眠そうな目で周囲の空気なんか知ったことか、って眺めつつ強引すぎてなんだこのやろう? なのだが銃の腕も含めて確かなので誰も文句を言えなくて、それでも家族のことだけが弱点で、ひとり自滅しそうになったところで立て直そうとしていた別の家族に助けられる。

寂れていたコミュニティを救う物語、という点ではKen Loachの50年代アメリカ西部劇版… のわけないか。


The Lusty Men (1952)

5月30日、土曜日の昼、同じくシネマヴェーラのRobert Mitchum特集で見ました。

監督はNicholas Ray、原作はClaude StanushがLife誌に書いた記事”King of the Cowpokes” (1946)、これを『彼らは廃馬を撃つ』のHorace McCoyを始めその他大勢で脚色している。 邦題は『ラスティ・メン/死のロデオ』 - 日本では劇場未公開だったの?

長年ロデオ選手でやってきたJeff McCloud (Robert Mitchum)は危険なこぶ牛のロデオで怪我をして、もう引退しようと生まれ育った田舎の家に戻ってきたが、いたのは見知らぬ欲深い老人と、その土地を買おうと近くの農場で働く若い夫婦 - Wes (Arthur Kennedy)とLouise (Susan Hayward)だった。

それまで小銭稼ぎでロデオ大会に出たりしていたWesはその世界で有名なJeffと出会って舞いあがり、彼に付いてきて貰った大会でそこそこの小銭を稼ぐことができてしまったので、地道な農夫としての道よりもロデオライダーとして稼いでいくことに決めて、Jeffを連れてトレイラーハウスで各地を転々とする生活に入る。生活は少し派手になったものの荒れて、事故で亡くなったり老後は悲惨だったりするロデオライダー達を見ると貧しい家庭から地道にやってきたLouiseはJeffに当たったりもするのだが、それなりのお金が入ってくるようになると何も言わなくなる。

JeffとLouiseが近づいていく反対側で、自信がついたWesがJeffを追い出す、もういらないって言いだすとJeffはもやもやとやけになって自ら大会にエントリーして…

ロデオという半端で危険なスポーツ&ショービズの世界に生きる男たち女たちのいろんな生き様をパノラマで描きつつ、その生と死がロデオ的に振り回されて地面に吸い込まれたり横滑りしたりして彼方に消えていくさまが、ドラマとは程遠いドライな目線で描かれて、その切り口がすばらしい。なんでこんなふうにしてまで生きなければならないのか、という吐き捨てるところと、でもどのみちずっとこんなだからー、ってどかすかパレードしていくところと。延々引き延ばされ張り巡らされていく“Endgame”のような。

ロデオでもカタギでもだめだった - すべてを達観した老人のようにも見えるRobert Mitchumがこぶ牛に踏み潰されて、ひとりで死んでいくだけの映画、にも見えて、それだけで十分って思ったり。

でもなんだかんだ言って、ロデオって動物虐待だからシンプルに因果応報、でよいのか。

[film] Victoria (2016)

5月26日、火曜日の夕方、日仏学院エスパス・イマージュ で、第七回映画批評月間のプレ・イベント&サブ企画 - 『急に具合が悪くなる』公開記念 ヴィルジニー・エフィラ特集』で見ました。

Virginie Efiraご本人がやって来てトークをする、ということで、ぱんぱんに入っていた。

監督は”Anatomie d'une chute” (2023) - 『落下の解剖学』 のJustine Triet、彼女の長編2作め。同年のカンヌ国際映画祭批評家週間に出品され、わんわんのJacquesがPalm DogのJury Prizeを受賞し、セザール賞で5部門にノミネートされている。

英語題は”In Bed with Victoria”。このタイトルで思い出すのはドキュメンタリーの”In Bed with Madonna” (1991) - 別名は”Madonna: Truth or Dare”。

法廷では辣腕の女性弁護士Victoria (Virginie Efira)は、私生活と恋はさっぱりのさんざんで、幼い2人の娘を抱えながらこのままでいいのか、これからどうするつもりだ問題を抱えてどん詰まっていって、親友のVincent (Melvil Poupaud)の結婚式に出ても、オンライン・マッチングで出会った男と寝たりしても、焦りばかりが湧いてきて、かつて弁護をしたヤクの売人Sam (Vincent Lacoste)が、法律を学びたいのでインターンで雇ってほしい、としつこく言ってくるので住み込みの子守りとして置いてあげて、いいのか? で、とにかく落ち着かないまま、結果ふつうに怪しい女性になってしまっている。

こういう設定はSATCでもBridget Jonesでも、この頃に公開された”Trainwreck” (2015)でも、世間的にはそんなおかしいところがあるとは思えないのに本人がひとり焦りまくって自分で墓穴や墓石を用意してそこに落ちたり籠ったりであーめん、てやっているもてない女性を中心に据えてその彷徨いを延々とらえてシリーズ化もできるrom-comの典型で、エピソードとしては親友のVincent (Melvil Poupaud)が妻を刺した容疑の裁判で弁護を頼まれるとか、人気ブロガーとなった元夫が自分のプライベートで淫らな過去 - 裁判官と浮気していた等 - を晒しにくるのに対抗したりとか、そういう混乱のなか、Vincentの事件の証人と接触して、6カ月間の弁護士資格停止処分を受けたり、なーにやってるんだろ自分、なことばかりが積みあがってきてとにかくぜんぶイヤになっている。

このしんどさが周囲とのずれとか軋轢のなかでばたばた折り重なってやってくる、というより、日々の自分のしんどい実存、その重さ、なんで自分はいつまでたってもこんなふう? こんなふうにいつまで? というどうしたものか、を抜けて流血するように湧いてきて止まらないなにか、として現れてくるのがよくて、全体の流れはコメディの体裁を取っているようで、受ける印象はとても深くて重い実存ドラマのように見えてくる。なので、終盤のSamとの互いを探りあうようなラブシーンがすとん、と腑に落ちるように沁みてくる。これがすべてを解決するわけではないけどね… という距離の取り方。

この辺の淵とか引っかぶりで微細に揺れ動いて、でも留まることのないエモーションの出し方は、彼女が主演した『パリの記憶』 (2022)でも見ることができるもので、上映後のトークは、ほらーやっぱりー としか言いようのない彼女の輪郭のつよさを確認できるのだった。もうじきの『急に具合が悪くなる』でも、このタイトルだけでぜったい間違いないやつ、と確信があるので、楽しみ。見ている側もぜったい引き摺られて急に具合が悪くなったりするようなやつに違いない、と思ったり。

[theatre] エンドゲーム

5月24日、日曜日の午後、新国立劇場の小劇場で見ました。

原作はSamuel Beckettの同名戯曲 “Endgame” (1955–1957, 初演はロンドンのRoyal Court Theatre,1957)。 Beckettの『ゴドーを待ちながら』(1948–1949)の次の作品。

翻訳は岡室美奈子、演出は芸術監督の小川絵梨子、キャストの4名は1,016名の応募者の中からオーディションで選ばれたそう。1時間30分、休憩なし。

この劇 – “Endgame”は、2020年2月にロンドンのOld Vicで、ショートピース“Rough For Theatre II” (circa 1960)との二本立てで見た。演出はRichard Jones、HammをAlan Cummingが、ClovをDaniel Radcliffeが演じて、これが自分にとって最初のベケット劇だったかも。コロナ禍でいろんなものが端から打ち切られていく最中で、この劇も見てしばらくしたら打ち切られたり、見てからしばらくの間も終末感ばりばりの雰囲気が繋がっていたことを思い出す。

ドーム状になった天井の縁は崩れて落ちていて、右左の上部にはくすんだ窓が2つ、向かって左側にはゴミ缶がふたつ、灰色の暗い部屋の真ん中には布で覆われた塊りが置かれている。開演に向かって室内の光の量が落ちていき、外界のノイズがシャーッと大きく広がったところで明転して、足をひょこひょこ引き摺るクロヴ(中山求一郎)が脚立で窓のところに行って外を眺めて、その仕事の流れで中央の覆いを剥がすと、そこにはサングラスをしたハム(近江谷太朗)がこちらを向いて座っている。

ふたりは主従関係にあるようで、目が見えず、椅子から動けないらしいハムがクロヴにあれをしろ、あれを持ってこい、ひっこんでろ等、傲慢で高圧的な指示をだして、クロヴはぶつぶつ言いながらもそれに従って奥の部屋から出たり入ったりを繰り返している。主従の関係は絶対的なものらしく、どんなに理不尽な要求が来ても、クロヴはそれに従うし、ハムがそれを労ったり感謝したりすることはない。ハムがクロヴにここを出ていかないのか? って聞くと、出ていくよ、って言いながらなんだかんだ留まっている。それが主従の関係というもの。情緒などは一切関係なく、そういうなかで、ひとはただ生きてて、オーダーや要求の垂れ流しとその受容~対応の反復のなかにある。

もうひとつ、缶のなかに住んでいて、クッキーモンスターみたいに顔を出すハムの父ナッグ(田中英樹)とそのパートナーのネル(佐藤直子)がいて、クッキーモンスターよろしくポリッジとかシュガー・プラムを要求するのだが、貰えるのはスプラッツ(犬用ビスケット)くらいなので不満たらたらで、こちらにも別の方に延びた(やはりどうにも終われない、断つことのできない)関係の線がある。

ハムは動けないし、クロヴは出ていこうとしない、そんなふたりが幸せかというと、とてもそうは見えなくて、互いに互いのことを、ふたりの関係のありようを、それが置かれた世界まるごとを忌み嫌って憎みあい、罵りあっている。こんな状態でふたりの関係が切れたところで事態がよくなるとはちっとも思えない。なので、詰んでいる - チェスの用語で打ち手がない状態をさす”Endgame”。 結果、勝ち負けがない、なのでそれによるエンディングもない。この状態がずるずる続いていくことについても、誰も異議を唱えない。

他方で演劇は時間が来たらなんらかの決着をつけて幕を閉じて終わらなければならないもので、その終わりをどういう形で示すべきか、という劇構造そのものにも踏み込まないわけにはいかない。 くそジョブの終わり、使役関係の終わり、親子関係の終わり、ヒトとしての終わり(死。旅立ち)など、あらゆる終わりのバリエーションを示しつつ、それらが決して終わらないことの絶望を散々晒して撒き散らして、でも終わるんだから、って劇を閉じて、劇は終わってしまう。これが「不条理」劇である由縁で、見終わった後もふつうにあたりまえに生活をして世界は続いているので、みんな大したもんだわくそったれ、って思ったり。

こんなふうに見るのが正しいのかどうか、考える隙もないくらいに今の世に嵌っててびっくりよ。 周囲の状況も(目が見えずに)見えないまま自分中心でハラスメントし放題のおやじと、出て行ってやらあ、と言いつつ円安とか諸事情を考えたら踏み出せず、おやじのブラックな庇護下にぐたぐだ留まってしまう召使とか、食べたいと請うものを与えることができず親すら飢えさせてしまうとか、血縁の外の女性はいなくなっても無視とか、これらはぜんぶ今の「詰んでる」社会で起こっている生々しいことばかりの羅列で、もうほんとに世界はこれで終わりなのかも、って思う今日この頃なので、あーあーしかなくて、どうせならもっとリアルに、目が覚めるくらいどん底に突き落としてくれてもよかったのに、と。

5.28.2026

[theatre] Love and Information

5月23日、土曜日の夕方、KAAT 神奈川芸術劇場の大スタジオで見ました。

開演は17:00で、前売りが取れなくて、でも当日券が出る、とあったので早めに行ったらチケットは16:15に抽選です、って…
どういう「公平性」?を狙ったものなのか知らんけど、こういうのは見たい人がその思いの強さに応じて見たければ早くから並んでチケットを買って見る、そういうもんだと思っていた。 神奈川まで出かけて行って抽選外れたらさよなら、なんて二度と行きたくなくなる。マチネ中心の時間割とかパンフレット2500円とか、日本の演劇興行界ってものすごく「ムラ」な感じがして引いている。「関係者」はそれでよいと思って頷きあって変わることができない典型的な「ムラ」社会。

抽選開始時には沢山(50人くらい?)の人が並んでいたので、こんなの絶対外れる、と思って中華街で遊んで帰る計画を立て始めたのだが、当たってしまったので、抽選制度に対する怒りを鎮めながら会場に入る。

原作はCaryl Churchillの同名戯曲(2012)、プレミアは2012年9月にRoyal Court Theatreで、演出はJames Macdonald。その後にNY他にも行っている。

今回のKAAT版、翻訳は髙田曜子、演出は桐山知也、キャストは2チームあって、Mainチームには8人、Nextチームには10人。自分が見た回は、Mainチームの方の。 休憩なしの80分で、公演後にアフタートーク付き。

全体は7つのセクションに分かれていて、そのセクションの中には短いのから長めのまで、数分間のコントのようなエピソード小噺が入っていてそれが全部で60くらい、7つのセクションの進行順は決まっているが、その枠内のエピソードの順番は演出家が決められるようになっている。登場人物の配役も自由で、原作では100人以上の登場人物がいるが、どのキャラクターをどう束ねて(同一化して)どの俳優に重ねたり委ねたりするのかは任されていて、演出の自由度が高い。英国のプレミア時の俳優は16人だったそう。

舞台設定はシンプルで、まんなかを横切って奥からのライティングできらきらする玉すだれのようなのが複数層下がっていて、その奥は暗くて椅子が8つ横に並ぶ。セクションとエピソードのタイトルが英語(日本語)で上部に字幕で出ると、それの演者が玉すだれの奥からフロントに出てきて横一列に立って並び、各自がタブレットを読みあげていくリーディング公演形式。エピソードによっては奥の暗がりで座っている演者が加わるものもある。

セクションはそこで扱われる”Information”の中味によって登場人物がどういう行動をするのか、で大まかに分けられているようで、その下の各エピソードのタイトルは「神」とか「ピアノ」とか「セックス」とか一言でわかりやすいものが多い。「謝ることを知らない子供」とかいうのもあった。

演者各自が読みあげる内容は他の演者と会話になっているものもあれば、そうでないものもあって、ただ、そうして発する台詞の重ねあいが彼らの事情や状況を説明したり次の行動を促したり、始めから与えられているエピソードのタイトルと合わさって、こういうことを言わんとしているのか(も?)、というのがわかる - ものもあれば、状況や人物の特性がもう少し明らかにならないと(or あえてボカしていて)よくわからないものもあって - 演じている人々にもよくわからず、こういう状態の人ではないか、と当てはめたら見えた! というのもアフタートークで語られた - その辺の見えないかんじをおもしろいと思うか、わかんなくていらいらするか、がのめり込める/こめないの分かれ目になるのかも。

“Information”が状況やコンテキストによって、なんらかの意味を担ったり、意味を被せられたりしていく様子と経緯、それが時と場合によっては”Love”というなんだか柔らかいふわふわしたものに変わる、あるいは刃のように研ぎ澄まされていくさまが解体ショーのように生々しくドキュメントされていくところがおもしろかった。

ありがちな”Love and Communication”ではなく、”Love and Information”としていることのおもしろさ。”Communication”なんてはなから期待していないような。

他方で、その辺の「建て付け」のようなところがわからないと、単なるショートコントの羅列、とかリハーサルの延伸、のように見えてしまうのかも、って。

あと、情報量の多さというのも、おそらくひとつのテーマとしてあって、次から次へといろんなのが来て溢れかえって大変、というその経験もまたこの劇を構成する要素なのではないか。リーディング形式、というのが明確な意味をもってくる劇、であるような。

5.27.2026

[film] Ihmiset suviyössä (1948)

5月21日、木曜日の晩、『EUフィルムデーズ2026─クラシック・セレクション』を国立映画アーカイブで見ました。

クラシックの方もイメージ・フォーラムでやっているモダンの方も、見たことないのが多くて世界のでっかさを痛感する。

邦題は『夏の夜の人々』 - 英語題は”People in the Summer Night”。

フィンランド映画で、監督はValentin Vaala、原作はフィンランドで最初にノーベル文学賞を受賞(1939)したFrans Eemil Sillanpääの同名小説(1934)。 2017年にユーロスペースの特集上映『アキ・カウリスマキが愛するフィンランドの映画』でも上映されている。

北欧の夏を描いた映画というとベルイマンの”Smiles of a Summer Night” (1955) - 『夏の夜は三たび微笑む』がまず思い浮かんで、短い、けど輝ける夏の夜に悶々と玉突きをしていく人々の恋模様のイメージがあったので、夜に向かっていくその空気、雰囲気というかトーンの違い、によい意味で驚いて引き込まれる。

原っぱがあって小川があって、家畜の豚さんがそこらいたり、という陽の光に溢れているところは同じだが、人々は割と素のかんじで、もうじき赤ん坊が生まれそうな夫婦がいたり、都会からBFを連れてきてちょっとどきどきしている娘がいたり、飲み屋の暗がりでは男たちが気怠そうにたむろしていたり、イメージしていた/するであろう田舎の姿、夏の晩とはちょっと違うかんじなので、これ?こんなふう? っていう段差にはじめはやや戸惑う。

陽の長さ明るさも人間界とはまるで関係ないかのように動かず、でもやっぱり過ぎていく時間のなか、赤ん坊は生まれるべくして生まれようとして、飲み屋の粗暴な男が口論の末に傍にいた男を刺して、死んじゃったんじゃないか?生きているのか? という問いの脇で、あっさりひとつの命が消えて、ひょっこりひとつの命が生まれて、その間に挟まれた医者は死亡の瞬間にも誕生の瞬間にも間に合わず、でもまあ生まれた方にはとりあえずめでたいかも、とかいう。

こんなふうに更けていく夜の間に生と死、愛と憎が日が切り替わるのと同じようにめくられて、冒頭の田園の場面に戻って - という世界の暗くも明るくもない不思議なありようが描かれる。誰の上にも降ってくる夏の夜。

思ったのは(フィンランドだから)トーベ・ヤンソンのムーミンの世界で、あれも40年代に彗星のように、果てのような場所に姿を現した、決してユートピアではない、いろいろ雑多な人たちがじたばたして暮らす谷のお話だったかも。


Gražuolė (1969)

5月20日、水曜日の晩、↑と同じ特集で国立映画アーカイブで見ました。

監督はリトアニアのArūnas Žebriūnas。 英語題は”The Beauty”、邦題は『ビューティフル・ガール』。

9歳の女の子Inga (Inga Mickytė)がこちら(カメラ)の方を向いて音楽に合わせて楽しそうに踊っている、というか踊っている自分の姿を世界のみんなに見せていて、あたしはこんなにかわいいんだから〜かわいいでしょ?という目つきと振る舞いで一生懸命、Ingaは自分でそう思っているし周りの母親も男の子友達もそう思っているのだと信じて疑わない。

その思い込みがどこか外からやってきた見知らぬおかっぱ頭の変な男の子(か?)の、「べつに、そんなかわいくもないよ」の一言でがらがらと崩されて、彼女の世界が大きく揺れだして、彷徨いが始まるの。

そんなどうってことない話…が決してそうはならない大問題になってしまうところが子供の世界で、その揺らぎと問題の大きさにIngaの目線で正面から取り組もうとしたのはえらいな、と思いつつ、縁もゆかりもない世界なので、がんばってね、くらいしか言うことがない(のか?)。 とにかく残酷で野蛮な世の中なので、誰だってそんなの直視したくないし、大人が知った顔して寄り添うなんてのもずうずうしい、って思うと簡単にお手あげだし、みんな大変なのよ、って。

こんなふうにいたたまれなくなった時、頭の奥で鳴りだすのがBowieの”What in the World”なの。

5.26.2026

[film] Star Wars: Mandalorian and Grogu (2026)

5月22日、金曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。IMAXの2Dで。

今回のに関しては特にぜんぜん期待していなくて、Disney+のTVのシリーズは英国に行った時点で止まってしまい(”Andor”も同じく)、それでも困らなかったので、そうかスクリーンに来たか、くらいで。
でも”SW”がついているので見るの。これはしょうがないの。

監督はJon Favreau - クッキングパパなので、こんなもんかも。

Star Warsサーガは壮大で、帝国と反乱軍の延々続いていくいろんなレベルでの戦いをいろんな星やそこに住む多様な人(の形をしたのとそれ以外)たちを跨ぎながら描いていくので、文化として確立されたものも文化以前のごたごたもぜんぶ - つまり神話から民話から言い伝えまで、どんなのでもあり得る。そういうなか、すべての層を貫く共通項としての「支配」とその周辺に撚られる富と権力、それを実現する主な手段としての暴力があり、それを捉まえる軸として「正義」というのがあって、それをミクロな末端のところまで落としてきたジャンルが西部劇と股旅物 - 今回であれば賞金稼ぎと道連れの話 - で、それをとても正統的に集約するかたちで実現したのが子連れ狼なので、本作が成立する由縁、拠って立つところは揺るがないの。ただ、話のスケールとしてでっかいところまで行かないし、行かないことがよい点だったりもするので、今回のように大作として騒がれてしまうのはどうだろうか、と思ったり。ゴジラものにおけるミニラ枠みたいなもんなのに、とか。

今回のMandalorianは新共和国からお金をもらって帝国軍の軍閥を追っていて、司令官のWard (Sigourney Weaver) からCommander Coinを捕まえてくるように請われる。彼の居場所はでっかいなめくじ(対)みたいなHut Twinsが握っていて、Twinsのところに行ったら情報提供には後継者となる甥のRotta the Huttを救出して連れてこい、と。Mandalorianは渋ったが、与えられた宇宙船がなんかかっこよかったので、なんとなく請けることにして…

どこかの星で犯罪王に囚われて闇ファイトで有名になっていたRottaのところに行くと、彼はあとひとつ勝てば自由になれるしあそこには帰りたくないし、とごねて... ここから先は反乱軍と軍閥なんてどうでもよくなり、後を継ぎたくない王子のお家騒動に巻き込まれてHutのお城で戦うことになって散々のMandalorianなのだった。

たんに好き嫌いなので流してくれてよいのだが、EP6のJava the Huttの頃から思っていたのは、こいつってレイアに首絞められただけであっさり死んじゃったし、動きはごろごろなめくじの鈍重で、得意技はプレスするだけで隙だらけにみえるし、邪悪そうで喋りも怖そうなだけで、何がそんなに強くてすごくて、あんな権勢を手にしたの? だった。

あと、ちゃんばらではなく基本はガン・ファイトなので、鎧装備も含めて見せ方が難しいよね。「顔を見られたので殺す」なんて言っちゃうし – そりゃそうなんだけど、あんた主人公でしょ… 。 剣があって銃があって、飛び道具として例えばGuardians of the GalaxyのYonduが使うyaka - 口笛で操る矢みたいなのがあったらおもしろいのに。

あと戦いの場面設定、というか全体の絵は闘技場に怪獣が出てくるところなども含め、どこかのSWエピソードで見たようなのばっかりになるのはしょうがないのか... 倒れたDin Djarinを介抱する穴倉みたいのまで既視感たっぷり、繋がっている世界なのでわざとなのかも知れないけど、そこまでやらなくても、とか。

Groguについては、もういい加減に「Yodaの子供」とか言う輩はいなくなってきたようなので、もっと個性を出してくるかと思ったのだが、あんま変わっていなかったような。 戦のど真ん中でとんでもないめちゃくちゃをやらかして、ごめんやりすぎた... の場面があってほしかったかも。もう子供だから、でなにやっても許される季節は終わりかけているのか微妙だけど..

今回、(たぶん)善玉のRottaの登場によって、今後エピソードごとに珍妙な(だけど勇者の)仲間が増えていったりする予感がなんとなく。里見八犬伝みたいになっていったらおもしろいな。歩兵はもちろんEwokの連中なの。

ほんとはこんなどうでもいいことばかりだらだら書いていきたいのに、この国はしみじみ酷い。改めて(500回めくらい)亡命を考えたい。

5.25.2026

[film] The Onion Field (1979)

5月17日、日曜日の午後、『霧のごとく』に続けてシネマート新宿で見ました。
この2本、どちらも実際にあった歴史に基づいた土地を巡るドラマ、どちらも2時間越え。

監督はHarold Becker、原作・脚本はロサンゼルス市警察の巡査部長だったJoseph Wambaughによる同名のルポルタージュ(1973)。

1963年、LAPDの刑事Karl Hettinger (John Savage)とIan Campbell (Ted Danson)は同僚で、Karlは結婚して小さな娘もいる幸せな家庭を築いていて、独り身のIanはバグパイプを吹いたり落ち着いてて優秀で、母を愛するとてもふつうの若者で、そんな彼らとは対照的にストリートではふつうの西海岸チンピラであるGregory Powell (James Woods)が手下のJimmy Smith (Franklyn Seales)を従えて、すぐ沸騰暴走するやばいキャラであることを示しつつも、あーなんかつまんねえな、とこれもふつうのでかいツラ/チンピラ振る舞いをしている。

そんなある晩、お弾けモードで違法なUターンをしたGregoryとJimmyが乗った車を業務で巡回していたKarlとIanが停車させて調べようとしたら逆に押さえこまれ、車に乗せられ本道から外れたオニオン・フィールドまで走らされて、道端の降ろされたところでIanはあっさり射殺され、Karlも追われながらも月夜の闇に紛れてどうにか逃げることができ、やがて彼の証言によりGregoryとJimmyはあっさり捕まって収監される。

犯人ふたりは特になんの問題もなくストレートに第一級殺人罪で有罪 → 死刑判決を受ける。のだが、獄中で刑法を学んでJimmyと弁護士を丸めこんだGregoryは審理をだらだら引き伸ばしたり都度弁護団を替えたりして控訴を繰り返し、そこにカリフォルニア州での制度としての死刑廃止が絡まって、終身刑のまま生き長らえていく。

他方で、生き残ってしまったKarlは後悔と罪悪感に苛まれて精神状態がおかしくなっていって、家族の面倒どころか窃盗癖や自殺志向で苦しみ、裁判での証言もできなくなって警察を辞め、リハビリをしながら細々と園芸業を始めることになる。

オニオン・フィールドのあの闇夜の出来事が、加害者側をどこまでも延命・増長させ、生き残った被害者側を苦しめてどん底に叩き落す、という非情なドラマとなり、しかしその非情の裏に法的におかしなところはなくて(当時)、なんて非道でかわいそうなことだろうか、になる。ふつうだったら、そういう状態を可能にした司法の穴というか問題はどこにあったのか、を明示すべきなのかもしれないが、それをしないので、犯罪が起こったあの時、あの場所 - オニオン・フィールドのぺったんこの闇がそのまま続いていて救いのないイメージがドラマチックとは程遠いプレーンなトーンであっさり描かれて、取り残されてどうしたら… しかなくなる。

50年代のノワールにあった、人々をかき回して狂わせる、その中心にある渦とか闇のようなもの、情念とか欲動などは(描かれ)なくて、真面目な方と不真面目な方のそれぞれの挙動と弱さ(強さではなく弱さ)、それがもたらす(ひどい)結果と現実を、それぞれの側と境目のありようと共に描いて、見ている我々をその隙間に放り出す。「当事者」が見えない大きなドラマって70年代のそれ? なのかは不明だが、70年代ぽい、でっかくてどこにも行けなくてどうしよう、って立ち尽くしてしまうかんじはあるように思った。

あと、James Woodsってこの頃からあんなにからからの悪役だったのねえ。

[film] 大濛 (2025)

5月17日、日曜日の昼、シネマート新宿で見ました。
台湾映画で、邦題は『霧のごとく』、英語題 は”A Foggy Tale”。

監督・脚本は陳玉勲 (Chen Yu-Hsun)。2025年の金馬奨(ゴールデン・ホース・アワード)で最優秀作品賞を含む4部門を受賞している。

50年代、戒厳令下、国民党政権が行った政治的迫害「白色テロ」があった時代、台湾南部の田舎のとうもろこし畑で反政府運動で追われて隠れている兄と妹の阿月(Caitlin Fang -方郁婷)が会って将来のことなどについて話をしていると畑の向こうに兄を追う複数の追っ手が現れたので散り散りになり、それからしばらくして、兄は政治犯として銃殺された、という報が届く。

殺されたのが本当に兄なのか、本当だったら遺体を引き取って確認したいがそれには高額な手数料が掛かる、貧しい今の家にそんなお金はない、けどやっぱりこの目で確かめないと、と阿月は別れ際に兄から貰った腕時計と持てるだけのお金を手に、列車を乗り継いでひとり台北に向かう。

親切に声を掛けてくれた男についていったら女郎屋に売られそうになり、危なかったところを人力車の車夫・趙公道(Will Or - 柯煒林)に助けられたり、幼い頃養子に出されて別れたきりで、今は地元の歌劇団で人気歌手になっている姉の阿霞(9m88)と再会したり、通りすがりの泥棒とか、いろんな善い人悪い人怖い人、大人たちとの出会いが巡っていくなか、何度も葬儀場に足を運んで兄のことを確かめてようやく、になるまで。

いなくなった(殺された)兄の話の他に、中国から国民軍として戦争に召集され、やはり白色テロによる拷問などで仲間の殆どを失い、中国に戻ることも叶わなくなった趙公道の贖罪と復讐の物語も並行して重ねられる。テロにより失われたもの、テロから取り戻そうとしたもの、等の痛ましい傷とその痕が浮かびあがり、そこに絵本を描く夢をもっていた兄のお話が被る。それは生々流転していく水の物語で、やがて空に昇って白い雲になるのと、地に留まって地面や森を覆う霧になるのがいるのだ、と。

みんなが忘れて輝ける遠くの白雲ばかりを見ようとしている今、細かな霧として目の前に漂って潤してくれているなにか、は確かにあって、そんなふうにいてくれる水粒たちに敏感でいたいし、それらを忘れずにずっと共にありたいのだ、という明確なメッセージに基づいて組み立てられたストーリーで、キャラクター設定も含めてちょっとTVドラマ的な類型感と性急さがどうかなー、になるところはあったが、なんとしてもこのストーリーを映画にしたかったのだ、という強い意思と現在への危機感にも繋がる真剣さが感じられたので、よかった。

でもさー、NHKでもドラマとかなら戦時のひどい話や官警の暴力や弾圧は悲劇としてふつうに描かれて受け容れられているように見えるのに、日々のニュースや時事解説はあんなふうな日の丸ばんざいに、圧されるままに当時通ったやばいルートをなぞって、白い雲ばかりを追ってて平気なの? お金や会社や毎日の暮らしが… なんだろうけど霧のごとく、はどこに? って世界共通なのか。 水が巡るように歴史も巡るのだ、になってよいわけがないのにさー。

5.22.2026

[film] The Lady Eve (1941)

5月16日、土曜日の昼、シネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。

Sturgesといえばこれ、の1本で、1941年のNew York Timesの年間ベストでは『市民ケーン』を抑えて1位になった、というのはダテではないの。 もう何度も何度も見ていて、何度見たってあきない。

原作はアイルランドの劇作家Monckton Hoffeによる19ページの短編"Two Bad Hats"をSturgesが脚色している。邦題は『レディ・イヴ』。

冒頭にヘビとリンゴのアニメーションが流れて、聖書に関わるようなお話だろうか、と思うのだがほぼまったく関係なくて(あー堕落、とか?)、おちょくっているだけ。

アメリカのビール(エール)会社の御曹司のCharles Pike (Henry Fonda)が一年間の密林での探索ツアーを終えてアメリカに戻る豪華客船に乗り込んできて、それを美貌の詐欺師Jean Harrington (Barbara Stanwyck)とその父(Charles Coburn)とお付きの3名が待ち構えて、足を引っかけて転ばせて懸けトランプに巻き込んで簡単に突き落とした、と思ったらそれ以上にJeanはCharlesに惚れてしまって、でもCharlesのお付きのMuggsy(William Demarest)が連中は詐欺師だから、ばらして船の上の恋は簡単に藻屑と消える。

いろいろ諦めきれずにめらめらしているJeanは、コネチカットの詐欺師を介してイギリス貴族の令嬢Lady Eve Sidwichとして蘇って、Charlesの実家のお屋敷を訪れる。Lady Eveは船の上と同様に彼の一族を簡単にめろめろに落として、CharlesとMuggsyは彼女があまりにあのJeanと似ているので、そんなバカなって目をこするのだが、決定打を見いだせずにずっこけてばかりで、でもEveがあまりに素敵なので結局落ちて結婚することになる。

ハネムーンの止まらない夜行列車のなか、過去の男性遍歴を連続でぶちまけてウブなCharlesを粉みじんにしてざまぁ、ってやった後、ふたりの婚姻は当然なかったことに、になるのだが、そんな簡単に終わるような恋ではないのだった…

これ、詐欺師が男性側だったら割と「痛快!」とか持ち上げられであっさり終わる気がするのだが、Barbara Stanwyckの場合、彼女が余りに堂々として見事なので、こちらもまんまと騙されて、後には痺れるような快楽しか残らないの。


The Palm Beach Story (1942)

5月16日、土曜日の夕方に同じ特集で見ました。 監督、脚本ともPreston Sturges。
日本公開(1948)当時の邦題は『結婚五年目』だったそうで... ちょっとひどい。

高速回転させたウィリアム・テルの序曲に乗って、ものすごいスピードの錐もみで大量の変な人たちが窓の向こうに流れていくスクリューボール・コメディ。

冒頭の結婚式のシーンは、何度見てもなんだこれ? ってちょっと混乱する(けど、最後にああー。って)。

そこから5年後、NYのPark Avenueのアパートに自称"Wienie King"を名乗る耳の遠い老人(Esther Howard) が妻に付き添われて内見に現れて、そこで家賃滞納で燻っていたGerry (Claudette Colbert) と出会い、老人は彼女の話を聞くとこれまでの滞納分に加えてドレス代までくれて、その晩発明家の夫のTom (Joel McCrea)と口論になった彼女は離婚手続きを進めるべくフロリダのパームビーチにひとり列車で向かうことにする。

列車に乗ろうとペンステーションに向かうGerryだったが無一文で、でも改札口で知り合ったAle and Quail Clubっていう狩猟クラブの男たちが親切で乗せて貰う。のだが、この連中がめちゃくちゃ狂ってて車内で銃を乱射しはじめたので、たまらず別の車両に逃げて、そこで出会ったのが世界的な大富豪のJohn D. Hackensacker III (Rudy Vallée) - でも相当変な - で、彼もいろいろ恵んでくれて、他方で諦めきれないTomも"Wienie King"の支援を受けて飛行機でパームビーチに向かい…

現在の貧しさと停滞する夫婦関係の縛りから逃れようとする思いと、新しい恋を見つけて落ち着きたい、という思いが道中で挟まって絡んでくる変な連中 – でもみんなお金だけは持っている – との出会いでかき回されて、でも同時に恋もノンストップの前のめりでいると、すべてが冗談みたいに都合よく落着していってしまう。

上の2作、どちらも普通じゃない大金持ちが絡んで、彼らは金儲け以外のことは無知で愚鈍で、恋にも虫のように固まって不器用だがお金は出してくれるので、うまく使っちゃえばよいのだそれが社会のためなのだ、っていうことでよいのかも。

最近の金持ちは異常者ばかりなので近寄るべからず、の方になってしまいがちだが、この頃はまだ夢があったのかも、ね。


この日、上の2本の間に、”If I Were King” (1938) – 邦題 『放浪の王者』も見たのだった。
監督はFrank Lloyd、Preston Sturgesが脚色した時代劇で、101分もあって(この特集の中では)とても長く感じた。

主人公がFrançois Villon (Ronald Colman)で、中世の詩人の、鈴木信太郎や天沢退二郎らが訳したりしてきたあのヴィヨンが、反乱軍のリーダーみたいになって大活躍するの。 ほんとかよー、って。

5.21.2026

[film] They Will Kill You (2026)

5月15日、金曜日の晩、ヒューマントラスト渋谷で見ました。 
21時からこういうのを見ているとB級感がじっとり滲みてくる。

ロンドンからの帰国前にちょっと見たかったけど間に合わなかったやつ。向こうではこれともう一本、“Ready Or Not 2: Here I Come” (2026)がほぼ同時期に公開されていて、ジャンクだろうけど血まみれになった女の子がばさばさ殺しまくるのがちょっと気持ちよさそうで、少し惹かれた。 以下、ネタバレしているかも。

監督、共同脚本はロシアのKirill Sokolov。South Africa / US / Canada映画。

Asia (Zazie Beetz)と妹のMariaが虐待する父親から逃れようと夜のコンビニまで逃げてくるが捕まって、Asiaは父親を撃って逃げることができたが、結局Mariaとは離ればなれになってしまう。

そこから10年が過ぎて、AsiaがNYの富裕層が暮らすクラシックな高級/高層アパート”The Virgil”の門を叩いて、メイド求むの張り紙を見てやってきた彼女は怪しげな修繕管理人のLily (Patricia Arquette)に迎えられるが、Lilyの様子とロビーにいた住人数名を見ただけでなんかここは様子がおかしいぞ、ってなってしばらくすると早速黒のレインコートを着た男女の一団が現れてAsiaを襲ってきて、簡単にやられるAsiaではないのでひとりでやり返して、首をちょん切ったり連中をぼこぼこにしてやって、でも廊下に出たらかなり痛い目に合わせたはずの奴らがふつうに、首を切った奴なんか自分の首を抱えて立っている。

この地点で、姉の妹探し&タランティーノ的なふざけんなの復讐物語と思っていたのが、お屋敷ゾンビ系の怪奇&サバイバル・ストーリーに変更となってしまい、当てが少し外れた格好になる - 相手がゾンビなら、”They Will Kill You”なんて当たり前だし、生き残ったら勝ち、のゴールは明白で、Asiaは間違いなく生き残るだろうから(ちょっとつまんないかも)。

従来のゾンビものとちょっと違うのは、廃れた都市郊外の逸れ者がそうなるのではなく、高級アパートに暮らす富裕層が、悪魔との契約で自ら望んでそうなって、そんな自分たちを維持するために生贄として外から来た若いメイドを必要としている、というあたり – やがてAsiaがここに来たのも、ここで消息を絶ったMaria(Myha'la)を探すためだったことが明らかになる。

あと、ふつうのゾンビなら頭を吹っ飛ばせば動かなくなるのだが、ここのは吹っ飛ばしても切り株からなにやら生えてきて死なないし、目玉をくり抜いても神経を尻尾みたいに引き摺ったそれがぴょんぴょん跳ねていったりする – こんな小細工は割とどうでもよくて、かっこよくて不敵な面構えで血まみれの仁王立ちになったAsiaが敵を端から豪快にやっつけていく姿が見たかったのに、なんかもったいない。

妹と別れてから刑務所に入ったAsiaがそこで鍛えられて無敵になった、その成果を発揮するのがあの程度の腐れゾンビじゃねえ… あと、金持ちが悪魔と手を結んで不死の体を手にする、ということの最低最悪の外道感、その辺の現代的な意味ははっきりとあるのに、その辺を貫禄ゼロのへなちょこ俳優にやらせるもんだから、ただの雑魚ゲームみたいに見えてしまっておもしろくないの。

でも演じている人たち、Heather GrahamとかTom FeltonとかPatricia Arquetteとか、せっかくよい人たちが出ている(なんてエンドクレジットでしった)のに、勿体ないー。

あと、やっぱり最後は”The Virgil”が闇の底にがらがらと崩れ落ちるか、燃えあがるか、大爆発のどれかひとつでもしてほしかったのだが、それもなくて、ひょっとして(やっぱり)パート2狙いなのか? って。

5.20.2026

[film] L’Amour à la mer (1964)

5月11日、月曜日の晩、イメージ・フォーラムで見ました。
4月からここでやっているGuy Gille (1938-1996)特集からの1本で、これは彼の長編デビュー作。邦題は『海辺の恋』。

夏の海辺で恋に落ちたGeneviève (Geneviève Thénier)とDaniel (Daniel Moosmann)がいて、Danielはアルジェリアで兵役に就いていて、パリの休暇で更に夢のような時間を過ごした後、Danielは次の任地のブレストに向かって、あんなに熱かったのに彼からGenevièveへの手紙の数と頻度は減っていって…
後半は自分の将来とGenevièveとのこれからに悩むDanielを中心に、そこに彼の友人Guy (Guy Gille)も絡んだりするのだが、その先は時間と重力で誰にもどうすることもできないさまが、カラーとモノクロのはめ込まれたように美しい映像の、その交錯のなかで展開されていく。

光の強弱、鳴っている音、背景の明滅、表情の強い弱い、ふたりの関係の終わりに向かって、ところどころで立ち上がる淡い期待、何を見ても何かを思い出す... なども含めて、すべてが考え抜かれた末に切り取られ、適切に配置されているように思えて、なんも言いようがない、としか言いようがない。

立ちあがってなんかする気にもならないまま散らかり放題の万年床でぐだぐだの時間を過ごしてひたすら腐っていく、腐っちまえ、で実際に腐臭が漂っているような状態は、ひょっとしたらあるのかも知れないけど、パリの人にはないのかも知れない。それくらいの強さと誇りをもって別れの時間を生きている(見つめている)かんじが漲っていて、こりゃ勝てんわ、って思った。


Au pan coupé (1967)

4月18日、土曜日の午後に見ました。 見る順番が逆になってしまったが、こちらがGuy Gilleの第2作の『オー・パン・クペ』。 タイトルは恋するふたりがかつて会って生きていた場所、そのカフェの名前。

Jean (Patrick Jouané)とJeanne (Macha Méril)が恋におちて、でもどんな若者集団と関わっても今の世の中に馴染むことができないJeanは地べたに転がってさらっと天に昇ってしまい、彼が亡くなった後も彼と共に生きた記憶が、その場所に行くと自動で再生されていく – 生き残ったJeanneのなかで、というより、ここにはふたりの、ふたりだけの世界とその時間がある。 これも何を見ても何かを、のあの瞬間を捕まえようとしている映画で、モノクロが現在の死んだ時間、カラーがふたりの記憶のなかの時間で、過去こそが現在なのだ、というメッセージが強いカラーのコントラストのなかでページをめくるように展開されていく。

どちらも撮影はJean-Marc Ripert、音楽はJean-Pierre Storaで、2本合わせて一気に見た方がよいのかもしれない。 すごくかっこいいJazzトリオのアンサンブルのように自在で、でも揺るがなくて、たまにレコード棚から引っ張り出して聴くやつ。


Quatre nuits d'un rêveur (1971)

5月16日、土曜日の昼、ユーロスペースのブレッソン特集で見ました。
英語題は“Four Nights of a Dreamer”、原作はドストエフスキーの短編『白夜』(1848)で、邦題も『白夜』。 

これも何度も見ていて、同じ原作でヴィスコンティによる”Le notti bianche” (1957) - Maria Schell, Marcello Mastroianni, Jean Maraisによるこてこてなメロドラマの方もすごく好き。 イタリアンと懐石くらい違うけど。

↑の”Au pan coupé”のJean役のPatrick Jouanéがちょっとだけ出演していて、どちらもふわふわ生きている若者たちの叶わなかった恋、という点では似ているのかもしれない。けど、こちらは人が死んだりしないブレッソンの映画。Pierre Lhommeの撮影がすばらしいの。

ヒッチハイクでうろついたり、ぱっとしない画家のJacques (Guillaume des Forêts)がポンヌフの橋から身投げをしようとしていたMarthe (Isabelle Weingarten)を引きとめて、そしたら自分が恋におちて、そのまま悶々と過ごして終わった4連夜のこと。

Jacquesがずっと携帯しているテープレコーダーから反復されていく彼の声の他に、ところどころフォークミュージックが演奏されるシーンや楽隊が映ったりするので、やや開放的な屋外の空気は広がっているものの、ガチで童貞のJacquesはずっとおろおろしているし、積まれていた本を手にしただけで下宿人に恋をしてしまうMartheも相当なもんな気がして、これが四晩だけのことで済んでよかった。 これ以上いったら”L'Argent”になってしまってもおかしくなかったかもしれない。


ここまでの3本、海辺、カフェ、川辺のそれぞれを舞台に男性はほぼぜんぶ自滅するかのように隅に消え、女性はつらい思いをするものの、まだ先がありそうでどうにかなりそうかも、で、全体として決して明るいものではないけどだいじょうぶかも、になるからたぶん。(なにが?)

5.19.2026

[film] The Sheep Detectives (2026)

5月12日、火曜日の晩、TOHOシネマズ日比谷で見ました。 邦題は『ひつじ探偵団』。

原作はドイツのLeonie Swannによる”Glennkill: Ein Schafskrimi” (2005) – “Three Bags Full: A Sheep Detective Story”、脚色はCraig Mazin、監督はIlluminationで”Despicable Me 3” (2017)や”Minions: The Rise of Gru” (2022)などを共同監督してきたKyle Balda。

予告を一見して”Babe” (1995)のスタイルで動物たちが英語で会話しながら人間社会を騒がせつつ横切ったり突撃したりしていくドラマで、明らかにB級だしこのスタイルはもう目新しいところないし、と思っていたのだったが、あーらびっくり人間/動物ドラマとしてものすごくよかった。 “Babe”のときもそうだったが、こいつら羊畜生の、家畜のくせによう… ってやられてしまう。

原っぱに大量のひつじがいて、Hugh Jackmanなので舞台はオーストラリアかと思ったらイギリスのDenbrookという田舎町で、そこでGeorge Hardy (Hugh Jackman)はトレイラーハウスに暮らして(肉用ではなく羊毛用の)羊飼いをしていて、仕事が終わった夕暮れにはゆったり座って羊たちに向かって推理小説を読んで聞かせている。羊たちはただ彼の朗読を聞いているわけではなく、その内容についてちゃんと理解しているし、みんな名前とキャラクターがあって品種もぜんぶ違っていて、Georgeの最愛の羊で推理小説マニアのLily (Julia Louis-Dreyfus)、なんでも記憶しているMopple (Chris O’Dowd)、一匹羊のSebastian (Bryan Cranston)、群れから仲間外れにされている冬生まれの子羊、など個性的で(声をあてている俳優たちが豪華ですばらしい)、みんな死んだら雲になると思っているし、嫌なことがあったらすぐに忘れることができる(羊いいなー)。

ある日Georgeがトレイラーの外で倒れて亡くなっているのが発見されて、地元の警官のTim (Nicholas Braun)は心臓発作による病死で片付けようとするが、取材に来ていたジャーナリストのElliot Matthews (Nicholas Galitzine)がこれは殺人事件と思われるから、と捜査するように促して、一緒に捜査を進めていくなか、アメリカ人のRebecca (Molly Gordon)が線上に浮かびあがり、弁護士のLydia (Emma Thompson)も現れてかき回したり、農場の買収話や真偽が怪しい遺言状に基づく遺産相続の話も絡んで村人も部外者も誰もがなんか怪しいぞ、になっていく。

他方でLilyを中心とした羊探偵チームは、Georgeから日々語り聞かせられていた推理小説の筋立てやプリンシプルを振り返りつつ独自にGeorgeの足跡を追って何が起こったのかを絞り込んでいって… そしてそこに迫ってくる新たな主(食肉工場)の影が。

推理・探偵ドラマとしてのプロットはどうというものではなくて、そこメインを置いたものでもなくて、いつも羊たちのことを思ってくれていたGeorgeのこと、彼と一緒に過ごした時間、その記憶がどれだけ大切なものなのか、に気づいたときに核心が見えてくる(だから思い出を忘れちゃいけないんだよ)、という極めて羊っぽい動き、エモーションのなかで反復されるGeorgeへの思いともふもふ感がたまんなくよくて。 そういえば”Babe”でも羊たちはみんなよいこだったなあ、って。

更に最後に明らかにされる名前のストーリーが追い打ちで、なんて素敵なお話なのでしょう、ってなるの。
唯一あるとしたらここまで心洗われるようなラストと(ややコミカルであるとは言え)殺人事件のギャップ、だろうか。殺人ではなく失踪とかにしてもよかったのでは、とか。

あと最初に浮かんでしまったイメージは当然のように羊の毛を刈るWolverineだったのだが、さすがにそれはなかった。

5.18.2026

[film] National Theatre Live: The Audience

5月10日、日曜日の午後、TOHOシネマズ日比谷で見ました。

最近のは除いて、NTLのリスト、きちんと見れていないのではないか、という疑念があって、これもそういう1本で、見れるのであればありがたく(ぜったい)見る。

2024年、2回目のロンドン生活が始まったとき、演劇はおもしろそうなので月3回は劇場に通うようにしよう、って目標を立てたのが、滞在の最後の方では月10回見ることになっていたのは、ふつうにライブで見る演劇がおもしろかったからで、日本に戻ってきた今、同じことができるか、というとちょっと自信がない。日本の商業演劇のチケットは変な席でもふつうに映画の10倍くらいの値段だし、それに見合う内容のものなのかどうか、俳優も演出家も舞台でどうなのか知らない(歌手とかタレントとして有名なのはわかる… ひともいる)ので、様子見で、しばらくは月1回くらいを目標にしておこうかなー、くらい。 どうなるかわかんないけど。

原作はPeter Morgan、演出はStephen Daldry、2013年にGielgud Theatreでプレミアされて、2015年にはブロードウェイにも行って、同年のWest Endでのリバイバル時に女王はKristin Scott Thomasが演じた、と。

1952年にエリザベス2世(Helen Mirren)が即位してから亡くなるまでの約60年間、毎週火曜日、バッキンガム宮殿の謁見室で歴代首相から女王に行われた謁見の様子を代々の首相が次々と入れ替わっていく – その(歴史の)順番はばらばらな - スタイルで綴っていく。対面相手の首相が変わるたび、女王の衣装も当然変わるし、衣装を変えるところまで見せたり、でもその辺も含めて女王様は余裕。 歴代首相は12人のうち3人を除いて網羅され、名前が示されなくても英国人であれば誰が誰、とすぐわかるようになっていると思われる。

実際にそこでどんなことが話されたのかの記録は残っていないし、立憲君主制だから女王が首相の語る政策に反対したり意見をしたりすることはできないしで、内容についてどこまで本当なのかなんて知る由もないのだが、それでも女王のこれまでの言葉や態度から、彼女だったらこういうのは嫌がったのでは、くらいのことはわかるし、女王の物腰や挙動を完コピしていそうなHelen Mirrenの振る舞いを見ていると7~8割は当たっているのではないか、くらいに思えてくる(今だったらAIに書かせることもできるかな)。

代わるがわる登場する時の首相たちは当然のようにクセものばかりで、落ち着いた女王の前では誰もが変わった愚か者のように見えてしまうのだが、そうすることで女王の聡明さと、それ故の孤独や苛立ちが透けて見えて、しかしそれが決してかわいそうな女王に見えない、というところがこの演劇の肝、というか女王の女王たる由縁なのかしら。保守だろうが革新だろうが、政治家で上にのしあがってくる奴なんてロクなもんじゃない、ということを我々は女王の目で、Audienceとしてしっかりと目の当たりにして、直言はできないものの当時の政治の断面やありようを見ることになる。(へたなことを書いたらどちら側からも叩かれるだろうし、女王の年齢や経験にあわせて喋る内容も変わっていくだろうし、ネタ作りは相当に難しかったのではないか)

首相それぞれで飽きないのだが、やはりチャーチルとサッチャーがおもしろかったかな。あんま似ていなかったけど。

これって中心にいるのがエリザベス2世でなくても、そこらにいる女性が首相に向き合うことになったとしても... という普遍性をもたせるようなところ – そもそも政治ってなんなのかについて考えさせるようなところもあって、そういう観点でもおもしろいかも、と思った。

あと、舞台を横切っていくだけのコーギー2匹がかわいかった。もっといっぱい出せばよかったのに。

[film] L'Argent (1983)

5月9日、土曜日の昼、ユーロスペースの特集 『ロベール・ブレッソン傑作選』から続けて2本見ました。
ブレッソンのこの辺のは、絶版にならない岩波文庫の赤のクラシックと同じなので何十回でも見てよい/見るべきものなの。

L'Argent (1983)

『ラルジャン』は日本で公開された時にシネヴィヴァンで見てぶん殴られたような衝撃を受けて、日本版のLDも手に入れて、でもLDプレイヤーが壊れてしまったので見れない状態が続いている。

原作はトルストイの『にせ利札』 (1911) - “The Forged Coupon” だが、原作がトルストイだろうがドストエフスキーだろうが、原作がどうのをまったく意識させないところで作品として完結してしまっている。彼の映画のノベライズとしてトルストイを置いたってちっともおかしくないくらい。

1983年のカンヌでDirector's Prizeを受賞しているブレッソンの遺作。

遊ぶ金が欲しい青年が親に言っても聞いてくれないので腕時計を質にいれたら偽札を渡されて、それをもって写真屋に行って偽札を使う。それがばれて怒られたそこの店員が配送屋のYvon (Christian Patey) のところで偽札を使う。それに気づかないYvonがレストランでそれを使ったら見抜かれてそのまま逮捕されて、写真屋の方は裁判で嘘の証言をしてしらばっくれ、Yvonは拘留こそされなかったものの職を解雇される。

家族もいるので金に困ったYvonは雇われて強盗の逃走車の運転手を引き受けたが捕まって、今度は牢獄行きとなり、獄中で愛する娘の死を知り妻からは別れを告げられ、自殺を図るが未遂に終わる。

牢屋を出たYvonは親切な老婦人のところに滞在させて貰うが、ある晩、彼女を含めたそこの人々を斧で殺してカフェに行って自首するの。

Yvonの犯罪というより、写真屋の店員だった確信犯のLucienも最初に出てくるぼんぼんも、彼を庇おうとする家族も、偽札を介して連鎖・伝搬していく犯罪の連なりと、それらの何ひとつも救ったり治したりすることなく右から左に機械的に処理していく社会 - 処理されていく人々のありようを描く。(原作では第二部で善行の連鎖と救いが描かれるそうだが)

比較するな、なのかもしれないが、Ken Loachの映画で描かれる登場人物たちの辛苦、救いのなさ(性質は異なるとはいえ – Ken Loachはまだ人と人の繋がりやコミュニティの可能性を信じている)の百倍は重く苦しく、しかしリアルな絶望をまるごと投げてきて、40年に渡っていろいろ考えさせてくれている。 キャッシュレスになろうが関係ない - というか更にやばくなっていないだろうか。

あとは音。セザール賞の音響部門でノミネートされている、冒頭のメタリックなATMの色味とあの音だけでやられて、もうひとつ、大きな杓子が床をざーって擦っていって止まる、あの音。そして最後の夜のシーン、闇としか言いようのない闇の暗さと怖さと。


Mouchette (1967)

↑の前に、ユーロスペースの同じ特集で見ました。
原作はGeorges Bernanosの同名小説(1937)。 1967年のカンヌでOCIC Award (International Catholic Organization for Cinema and Audiovisual)を受賞している。

フランスの田舎で、虐待する父親と寝たきりの母親とずっと泣いている赤子と暮らす少女Mouchette (Nadine Nortier)がいて、どこに行っても疎まれて弾かれて、森でアル中でてんかん持ちの密猟者と会って、発作を起こした彼を助けたのにここでも虐待されて逃げて、でも結局…

これも何度か見ているが、いつもあまりにきつくてぐったりしてしまう。彼女の置かれた状況、ひっかぶる事態は、いまの世の中においても恵まれない少女が直面していることをほぼ網羅しているようで、それは恵まれない少女がいる、というだけでなく、彼女のような少女をきちんとケアできる社会になっているのか、という大人たちの意識も含めて全然変わってはいないように思えて、そういったことを知らしめるために60年前にこの作品はできたのだ、と思うことにしている。

5.15.2026

[film] The Old Oak (2023)

5月10日、日曜日の午前、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。

監督はKen Loach、脚本はPaul Laverty、製作にはWhy Not, BBC, BFIの名前がある。

2023年のカンヌでプレミアされて、英国での公開の終わりの頃にロンドンに着いたので見逃していた作品をようやく見れた。いまヒットしていることを聞くと、なんでここまで遅くしたの? ってなるがいろいろ事情はわかるし、今この作品が3年遅れの日本で、3年遅れであっても見られなければいけない状況になってしまったことは(残念ながら)間違いないの。

冒頭、イギリス北東部の小さな町、かつては炭鉱で栄えたが現在は廃れた町に、バスでシリアからの移民が到着すると町の人々は当然のように歓迎せずに冷たい目で見て、若い女性Yara (Ebla Mari)のカメラを勝手に手にとってわざと壊してしまったりする。

そうしてYaraと知り合った地元の古いパブ - “Old Oak”の主人"TJ" Ballantyne (Dave Turner)は、彼女とやりとりしながら町の歴史や炭鉱夫として亡くなった父のことなども含めて案内し、Yaraも自分の家族とアサド政権に投獄されて行方不明となっている父のことを話す。

TJのパブにたむろする白人(若いのから中高年まで)の中には地域の住宅価格の暴落と大手ディベロッパーによる近隣の買い占め、それらが招いた移民の流入(+彼らが思うところの治安の悪化)を嘆いて、町に一軒しかないこんなパブで日々の鬱憤を晴らすしかない被害者としての自分たちを強調し、移民に対するヘイトを晒して正当化するが、TJは彼らに寄り添うことはない。昔から知っている客であり友人でもあるので強い行動には出ないものの、よい顔はせず相手の話に乗ることもない。

のだが、Old Oakのカウンターの奥で長いこと打ち棄てられていたバックスペースを(常連客からの要請は断ったのに)YaraたちのFoodバンク&食堂として活用することにした辺りから常連客たちの不満が噴き出すようになって、一触即発の状態にまで転がって…

冒頭からずっと移民たちに対する酷い描写や言葉が投げられてきつくて、それがなんできついかというと、こういう現実がこの地域だけでなく、自分の身の回りにふつうにあることを自分も想像できるというより知っているから。 でもこの映画はそんな彼ら白人たちを犯罪者として描いてはいないし、画面に警察や司法が入ってくることもない。白人労働者階級の彼らもまた、80年代の炭鉱ストの頃からずっと被害者として隅に追いやられてきたのだ、ということが何度か示されて、これは僻地経済の構造的な問題であり、容易にどうこうできるものでもないこと.. なんてわかっているの。 

あと、TJがYaraを地元の大聖堂に連れていって、聖歌に感動したYaraがISが永遠に破壊してしまったパルミラの神殿について語るシーンがあり、これに続くラストの葬儀のところは感動的ではあるものの、ちょっと安易かも、と思った。

結局破壊や死がないと人と人はわかりあえたりハグしたりできないのか - とまでは言っていないけど、両者の間の壁はどうやったら崩せるものなのか? もちろん、それは政治家や当事者たちが考えたり対応したりすべきことで、Ken Loachは映画作家なんだから、筋がちがうし – というあたりの苦悶が垣間見えて、現時点でこれが彼の最後の映画作品、となっているのはその辺もあるのだろうか。 排外主義ばんざいで脳が麻痺している連中はこんな映画はぜったい見ないだろうし。

“I, Daniel Blake” (2016)では給金交付に伴う老人の苦難を、“Sorry We Missed You” (2019)では休めない配送ドライバーの辛苦を、本作では移民と住民間の軋轢を描いて、そのどれもがここ数十年で見えてきた、単に生活が苦しいきついというより、目を凝らさないと見えないような社会の片隅で進行している、関係ない人たちにとっては痛くもなんともないところで進行している、でも当事者たちにとっては致命傷のように苦しくきついところを扱っていて、Ken Loachの映画はこういうのをきちんと並べようとする。見せ方はへたくそだけど、とにかく穿り出して見せようとする。

UKの今後の行方も心配だがそれ以上に日本の方だわ。政治も司法もメディアも教育も日本(人)えらいばんざい、って、それのなにがいけてないのか、なんでいけないのかぜんぜんわかっていないみたい。子供か、なのだがずっとそういう幼稚園でやってきたんだよね…

5.14.2026

[film] The Great Moment (1944)

5月4日、GWの月曜日の昼、シネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。

原作はオーストリアのRené Fülöp-Millerによる”Triumph Over Pain” (1940)、脚色・監督はPreston Sturges。歯科・外科手術での全身麻酔のやり方を発明してあの痛みから人類を救った(諸説あり)とされるWilliam Mortonの評伝ドラマで、当初はHenry Hathawayが監督する予定で、主演はGary CooperとWalter BrennanだったがCooperが離れてその計画はなくなり、その後Preston Sturgesが手を挙げて開始するもスタジオ側といろいろあって1942年には完成していたのにリリースは44年になった、など複雑な事情を抱えているらしい。 邦題は『崇高なとき』。タイトルだけだとPaolo Sorrentinoの映画みたい。

Eben Frost (William Demarest)がWilliam Morton (Joel McCrea)の未亡人Lizzie (Betty Field)のところを訪ねて、Lizzieがかつて主人の相棒だったEbenに向かって回想する形で話が進むが、最初の方で、Mortonが自分の発見の特許を巡ってワシントンでひと悶着起こしたこと、続けて歯科医として開業したMortonが手術に伴う患者の痛みを軽減すべく大学に行ったりしながら試行錯誤していくさまと、硫酸エーテルの吸入で全身麻酔できたかも、になるも、アイデアの盗用をしたとかしないとか、利権や名声を巡るどろどろごたごたがあり、構成はやや入り組んでいるが難しくはない。

麻酔がなければ地獄の痛み、麻酔をすればすべて忘れて天国、という両極があって、それが実用に至るまでの試行錯誤の期間は天国と地獄のしゃれにならない行ったり来たりが当然あって、どたばた映画の題材としてこんなにおもしろいものはない(はず)ってSturgesは手を付けたのだと思うが、偉人(になりたい人)の評伝を描く、というのと患者たちのしゃれにならない悲喜劇を描くというのの両建ては難しかったのかもしれない。

薬を間違ってEbenが狂っておかしくなっちゃうところとか、麻酔が間にあわないからなしでやろう、になるところとか、おかしかったりきつかったり、昔はほんとに大変だったんだろうなー、ってしみじみ思ったのと、これってひとの痛みを突き放して笑っちゃえ、っていうPreston Sturgesコメディの根幹に関わるテーマなのかも、って少しだけ。


Never Say Die (1939)

5月9日、土曜日の午後、シネマヴェーラの同じ特集で見ました。 邦題は『死んでもともと』。

監督はElliott Nugent、原作はWilliam H. PostとWilliam Collier Sr.による同名戯曲(1912)で、これをPreston Sturges+2名が脚色している。当初はRaoul Walshが監督する話もあったそう。

スイスの温泉地 - Bad Gaswasser(くさいガス水)に静養にきていた富豪のJohn Kidley (Bob Hope)は彼と似た名前の犬と健診結果が取り違えられて、余命1カ月で体が縮んで死んでしまうよ、と言われてすべてがどうでもよくなり、強気の婚約者Juno (Gale Sondergaard)を突っぱね、自分と同じように婚約者から強引に言い寄られていたMickey (Martha Raye)と出会うと、軽い人助けのつもりで結婚しようよ、って結婚してしまう。Mickyにはテキサスの地元にバス運転手の婚約者Henryがいたのだが、自分はすぐ死んじゃうから、彼とは自分が死んだ後で一緒になればいいじゃん、って。

こうしてテキサスからやってきたぼんくらのHenryがくっついた変な新婚生活を送るふたりのところには当然追手がやってきて、そのうち誤診だったことも明らかになるのだが、クマだの決闘だの面倒なのが次々とやってくるので飽きない。結果はこういう、誰もなんも考えていないけど誰もが思っていそうなところにきっちり落ちる系のrom-comによくあるやつの原型のようで、とにかくぜんぶオーライ、になっておわるの。

あと、こういう山岳系の(≒ 反都会系?)rom-comって結構見た気がするのだが、どういう事情背景でできたりしたものなのだろうか。

あと、劇中で歌われる"The Tra La La and the Oom Pah Pah" – とぅらららー うーぱーぱー♪ がたまらなく楽しかった。

5.13.2026

[film] Drunken Noodles (2025)

5月9日、土曜日の夕方、ル・シネマ 渋谷宮下で見ました。

なんとなく新作も見なきゃ、にたまになる。 邦題は『ドランク・ヌードル』。 2025年のカンヌの、ACID(思っていたのとぜんぜん違う略語だった) sectionというところでプレミアされている。

監督はアルゼンチン生まれのLucio Castro。どこかで見たような、と思ったら、デビュー作の“Fin de siglo” (2019) – “End of the Century”をコロナ禍のロンドンで、Curzonの配信で見ていた。これもどこかの町にふらっと現れた男がなんとなく性的なことなどをしてだらだらと終わるだけの話だったような。でもそれが不思議と風通しよくて。

タイトルからアジアのお話かと思ったら冒頭に出てくるのはブルックリンの町(アジアは最後の方にちゃんと)で、荷物を抱えた若者Adnan (Laith Khalifeh)が一軒の家に入って暮らし始める。あとでその家は長期で家をあけている彼の叔父のものであることがわかる。家のなかにはぜんぜん近寄ってこないけど、にゃんこも生息している。

彼はアートの勉強をしている学生で、そこに滞在している間だけ路面のアート・ギャラリーで受付のバイトをしている。もの静かで落ち着いていて何を考えているのか不明、夜は宅配でご飯(べちゃべちゃ正体不明のもの)をオーダーして、自転車でやってきたデリバリーの人と公園の暗がりで秘め事(としか言いようのない描写)をしたりしている。

そうやって知り合ったYariel (Joel Isaac)がギャラリーまでやってくる。冒頭にニードル・アートでタイトル”Drunken Noodles”を編んだりしている手が映されたりするのだが、ギャラリーではそれと同じ仕様のクィア・ニードル春画がいくつも展示されていて、それに感銘を受けてしまったらしいYarielが仲間たちを連れてやってくる。こういうことが紙芝居のようなリズムで淡々と展開されていく。

あと、山を訪れたAdanの自転車がパンクして引きずって困っていたらそこにいた白髪で半裸の仙人みたいな老人が修理して歓待してくれて、かのニードル・アートは彼の作品(実際のアーティストはSal Salandraという人らしい)であることがわかるのだが、外が暗くなってくると、老人が見せたいものがある、ってAdanを外に連れだして夕闇のなかじっと座って待っていると、どこからか牧神が現れて…  このエピソードがとても素敵。

もの静かなAdanから、彼の考えや志向、欲望から夢まで、こちらに向かって語られたり示されたりすることは一切なくて、ただ幽霊のように暗がりに現れるクィアな人々の間を彷徨っているだけで、そこで浮かびあがってくるのは都会の狂気でもパラノイアックな孤独でもなく、ソーシャルにも届かないような玉突き - 半分夢を見ているようにそこにいるだけ、の状態がちょっと湿った空気感、理想的な陰多めの光の具合のなかで描かれている。この展開がリアルかリアルじゃないか、のような議論は、春画をみてその本物具合をあれこれ言うのとおなじく意味がない、というかそういうのを無粋、っていうの。

そういう彷徨いの最後にやや唐突現れる李白の酔っ払いの詩が現代のブルックリンと唐の時代をニードルの縫い縫いで結び付けて、そのスケールのありようはホラー味のないApichatpong Weerasethakulのようかも、と思った。

ニードルの編みアート、というのがよいのかも。同じニードルを使ってもタトゥーとか注射とかになるとトーンががらりと変わってしまうだろうし。

山のなか、別にいけないことはしていないが、どこか怪しく見えてしまうことをして愉しむ男たちの話、でいうと、Kelly Reichardtの”Old Joy” (2006)とか、ついこないだのIndia Donaldsonの”Good One” (2024)とか。”Drunken ~”というのもポジティブな言葉と見ておけば。

どうでもよいことだが、この日は、朝からブレッソンを2本続けてみて、スタージェスを1本みて、これをみて、その全部が90分以下の作品だった。とても丁度よくて快調なかんじ。

5.12.2026

[film] Route One/USA (1989)

5月6日、水曜日の連休最終日は、日仏のRobert Kramer特集で終わった。
この前の日が京都日帰りで、北野天神からKYOTOGRAPHIEまで、それなりの旅をした感覚があったので(2本のタイトルの並びだけ見ても)疲れないかしら、と思ったがぜんぜん、よい意味で軽くてよかった。

Doc's Kingdom (1989)

プロデューサーのひとりにPaulo Brancoがいる。音楽はBarre Phillips。
アメリカからアフリカを経由してポルトガルで医師をしているDoc (Paul McIsaac)がいて、リスボンの港湾地区の廃屋のようなところにひとりで暮らして酒に溺れて、酒場のマスターCesar (João César Monteiro)からはもう国に帰れ、とか言われるし、留守中にも住処に嫌がらせをうけて居場所がなくなりつつあるのだが、彼に戻る国はない。

NY(花火でそれとわかる)に暮らすJimmy (Vincent Gallo)は介護している母 (Roslyn Payn)の最期を看取って、彼女の遺した手紙から父親と思われるDocのところを訪ねてみることにする。

こうして対面した父と息子の会話は、よくある親子再会もののようなエモの揺れなど殆どない、互いの今の居場所と意思を確認しただけで終わって、つまりそれがDocの”Kingdom”、ということで、彼にとっての軍服のような白衣を纏って、メガネをして、酒瓶を抱えて、戦地である病院に向かうところで終わる。”In the Country” (1967)を出てから”Kingdom”へ、恋人から肉親へ、という地勢や人間関係の変遷はあるが、闘いは続いていて終わらないのだ、という持続感とその決意は漲っている、というか強い。

Paul McIsaacは、いまだとMark Ruffaloのようだし、Vincent GalloはOscar Isaacのようだし、要はいまのハリウッドのスタンダードとして通用するキャラクターの揺るぎなさのようなものが宿っているなあ、って。


Route One/USA (1989)

↑のに続けて14:30から第一部、休憩を挟んで17:30から第二部。計4時間15分。

↑とは地続き時間続きなのか、Doc (Paul McIsaac)が、医師のキャラクターのままでアメリカに戻ってくる - アフリカ経由で、と言っていてポルトガルの滞在については触れたくないのか、でも途中でJimmyに電話をしていたりする(でも出てくれない)。

Docと撮影クルーがカナダの国境付近、北の天辺から、Route 1をKey Westまで南下していく。
“Milestones” (1975)のファブリックを縦に裁断してみたとき、その断面はどんな様相だったり模様だったりするのか。これが東西(Route 66)横断だったらどんなふうになっただろうか。(たぶん取りあげなかったのではないか)

“Milestones”のように土地や人々の間に石を置いて観測するようなアプローチではなく、ロードムービーとして過ぎ去るものは後方に去っていくものとして、そこにいた/いる人々の顔や声を自分もいなくなることを前提に視野に捕まえてフィルムに収めていく。 親と子、コミュニティ、民族、歴史、宗教、記憶、といった枠組のなかで、その土地に根をはるイギリスに対する植民地住民、北部に対する南部民、祖先や親たちからの因襲に対する従属あるいは反逆、といった歴史の諸相や断面を追って、キャラクターとしてのDoc以外は対象との出会いも含めてすべてドキュメンタリー的な生々しさと共に動いて背後に消えていく。

“Milestones”の時はFrederick Wisemanのことを思ったが、今度のはJonas Mekasのことを思った。Waldenが出てきたからだろうか。”Lost, Lost, Lost” (1976)の、亡命者としての視線と、Docの帰還したルーザーとしての視点に似たものを感じたからだろうか。そこには痛みと、ここでくたばるわけにはいかない、という燻った怒りのようなものがあるような。 それはたかだか3時間~4時間程度で描ききれるものではなかったのだろう。

何かの用事があったのか、Docは途中で消えて、Miami – Key Westで再び合流するのだが、最後に現れる南のランドスケープのトーンがこれまでのそれと結構違って開かれているように見えるのは気のせいだろうか? その先にはなんもなく誰もいなくて、ペリカンがいるだけ、みたいな。「アメリカ人」のいなくなる地点がある、というあたり前のことを言うためにあの風景を持ってきたかのような。 ファブリックのおわり、切れ目。 のはずなんだけどでも.. ここに”Doc’s Kingdom”のラスト、リスボンの港湾地区のイメージが重なって、更に”Kingdom”が。

帰り道、もうRobert KramerもJonas MekasもFrederick Wisemanもいないんだなあ、って改めて思った。

5.11.2026

[film] Christmas in July (1940)

5月4日、月曜日のお昼にシネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。

邦題は『七月のクリスマス』。原作はPreston Sturges自身が書いた戯曲 - ”A Cup of Coffee” (1931) - これ初演が1988年だって.. Preston Sturgesが作・監督をした2作目。 67分あっという間。

これは00年代、確かBrooklynで、自分が一番最初くらいに見たPreston Sturgesの映画で、一瞬で好きになって、その後も数回見ている(見ているうちにそんなでもなくなってきたが、でも変わらずに好き)。

コーヒー会社Maxford House Coffeeが毎年公募しているコーヒーのキャッチフレーズコンテストで、選考の現場は結論の一等賞が出ずに紛糾していて、決まらないのでラジオでの当選者発表は延期となり、賞金の2万5千ドルが当たったら… の夢をだらだら語っていたJimmy (Dick Powell)とBetty (Ellen Drew)のカップルはがっかりするのだが、彼の考えたちっともおもしろくないコピー"If you can't sleep at night, it's not the coffee, it's the bunk"を自信たっぷりに強引にいいよね、って言わせて勝手に将来設計をしてしまうところとか、こいつだいじょうぶかよ、になる。

翌日出社しても彼の自信は揺るがずイヤなかんじがとっても鼻につくので、同じフロアの同僚男たちが悪戯であなたのコピーが当選しましたおめでとう!のフェイク電報を渡したら舞いあがって社長まで報告に行って、コーヒー会社には小切手を取りに行って、本件で疲れ切っていたコーヒー会社の社長は憑き物を払うかのように小切手を渡しちゃって、Jimmyはその足でデパートに向かい、ママが欲しがっていたソファベッドとかどかどかでっかい買い物をやりまくり – これが7月のクリスマス – たくさんのプレゼントを積みこんだ船団で自分の家に向かい、子供たちに贈り物をばらまいて、ご近所の路地一帯が飲めや歌えのお祭り状態になったところに警察がやってきて…

全体としてはとにかくありえない夏のバカ小噺、でしかないのだが、7月のクリスマスを抜けていくうち、イヤな奴だったJimmyも、会社の偉い人たちもみんなちょっとよい人になっていくような、そんな魔法の力を感じることができる1本だと思う。Sufjan Stevensのクリスマスアルバム(最初の)に入っている”Christmas in July”は、直接の関係はないみたいなのだが、どこか似たような印象 – ものすごい名作ではないけど忘れ難い - を残すの。


Remember the Night (1939)

5月8日、金曜日の晩、シネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。

邦題は『想い出のクリスマス』。こちらの方がまだクリスマス映画っぽい。そしてこれは本当に、正真正銘の必見の名作ったらないの。

監督はMitchell Leisen、脚本がPreston Sturgesで、彼が他の監督のために脚本を書いた最後の作品、でもある。

Lee Leander (Barbara Stanwyck)は盗みの常習犯で、宝石を盗んでそれを質屋に入れようとしたところで簡単に逮捕されて、その裁判をNYの検事補のJack (Fred MacMurray)が担当することになるのだが、クリスマス直前で陪審員が被告に甘くなるのを避けるべく、強引に裁判を年明けに延期させる。

勝手に裁判を延期されたLeeはクリスマスを拘置所で過ごすことになったことを嘆いて、それを知ったJackは保釈金を積んであげるのだが、どっちにしても彼女の行き場はなくて、たまたま彼女が同じインディアナ州の出であることを知ったJackは自分の実家に帰る車に一緒に乗せていってあげることにする。

帰郷の道中でいろんな騒ぎが起こって、Leeの実家でとうに再婚していた実母に酷い仕打ちを受けた彼女をみたJackはそのまま自分の実家に連れて行って、そこでも楽しいながらもいろいろあって、そうしているうちにLeeを愛してしまったJackは彼女を裁判でどうにかしようとするのだが…

クリスマスにあってはならないような気まずいこと、居たたまれないことが次々と襲いかかってきて、でもクリスマスだからぜんぶ乗り切ることができる、と信じることになる/信じるしかないふたりが旅の途中で落っこちてしまった恋のお話で、どこの地点からか自分でもその理由がわからなくて困ったようにずっと潤んでしまって口数が減ってしまうBarbara Stanwyckの瞳を見ているだけでこちらも泣きそうになってきて、そんなに悲しいことが起こっているわけでもないのになんで? ってがんばって戦っていると最後に”Remember the Night”っていうタイトルがきて決壊する。 クリスマスの奇跡が起こる映画ではないの。クリスマスの、出会いの奇跡を信じろ、忘れるんじゃないってずっと先延ばししていく映画で、その先には永遠しかないの。それをクリスマスと呼ぶんだって。

[log] Kyoto - May 05 2026

5月5日、こどもの日の火曜日は日帰りで京都に行ったので、その簡単な備忘。

もともと京都は大好きなので大きな展覧会があると奈良や大阪も組みあわせて泊まりがけで行ったりしていたのだが、これまで日帰りしたことはなかった。
でも(でも、じゃないよ)パリだってロンドンから日帰りしていたのだから、と思ってやってみることにした。

検討を進めていくとパリ日帰りと結構似ていることがわかり、現地までだいたい電車で2時間半だし、現地のバス地下鉄に大きく左右されるものの狙いを定めていけばどうにかなりそうだし、でも食べもの関係は諦めになるしかないし、でもGWでめちゃくちゃ混んでいそうだし。でもGWが混んでて最低だったら次からはやり方を変えればよいだけ。

新幹線を見てみると朝早くの下りと夜遅くの上りはまだ空いていて、Eurostarと比べたら本数めちゃくちゃあるし、どうにかなる気がした。なにより時差なんてないし、通貨だって同じだし、言葉だって通じるんだから(たぶん)。


特別展 「北野天神」 @ 京都国立博物館

まずはこの辺から、で行ってみる。 北野天神がどこのどういうもので菅原道真公の1125年式年大祭を記念した、とか言われてもはぁ.. なのだが、目玉の国宝 - 北野天神縁起絵巻(承久本)の海に浮かんでいるいろんな変な生き物とか、地獄の描写とか、炎のぐるぐるは実に魅力的で楽しめた。あとは十一面観音立像とか。刀剣は変わらずよくわからず。 こんなふうに「北野天神」として昔から奉られてきた宝物たちの全貌、のようなものは(絵巻物的に)見渡せるのだが、ここへの信仰が時を経てここまで持ちこたえてきたそのありよう – よって立つところ、のようなものは現地で見たり感じたりしないとわからないのだろうなー、というのはこういう特別展でいつも思うこと、であった。


日本画アバンギャルド KYOTO 1948-1970 @ 京セラ美術館

戦後の京都で若い日本画家たちが「日本画」という画材やお作法の枠のなかで、それらを超えようとどんなことをやってきたのか、の記録。

展示の最初の方、戦後の上村松篁や秋野不矩などの絵がその表面に浮かびあがらせる生々しさはとてもスリリングでおおおってなるのだが、それが後半に向かってパンリアル美術協会、ケラ美術協会などを立ち上げて、表面を飛び出して乗せたり盛ったり積んだりを始めるとそんなに面白くなくなってしまったのはなんでだろうか、と。世界中で誰もが同じようなことをやりだしたから? - でも世界中で同じようなことをやっていたって生き残っているものはあるので、それってなんなのだろう? といういつもの問いが。

ここのコレクションルームでやっていた特集「没後20年 井田照一」はなかなかよかった。版画における透明さの追求が、光の明滅とか、光そのものの構成を組み立てるようなところ向かっていくさまが。


モダン都市生活と竹久夢二―川西英コレクション @ 京都国立近代美術館

いつものキュートで安定した夢とそのパターンの世界なので、うっとりしていくだけ。千代紙とかも素敵で、あと、竹橋もそうだけどコレクション展がいつもよくて、今回は昭和100周年で京都の日本画を。隣で見てきたアバンギャルドの展示と比べると、こちらの方により「近代」を感じてしまったり。

1階でやっていた『加守田章二とIM MEN』も。土と布で、とても渋くかっこよいのだが、ここで立ち昇ってくる気がした金属のような、焦げたり枯れたりの「男くささ」のようなものとは。 竹久夢二的世界との対比で(対比するな)。


KYOTOGRAPHIE

このタイミングで京都に行くことにした理由として、これをやっている、というのもあったのだった。
KYOTOGRAPHIEを見るのは初めてで、Dayパスポートを買って、10個の展示を廻った。

Ernest ColeはPhotographer’s Galleryで見たやつだったし、Linder SterlingはHayward Galleryで見たやつだったし、Daido MoriyamaもAnton Corbijnもいろいろなところで散々見てきたので、最初の方に重信会館(緑で覆われた学生寮の廃墟)で見たYves Marchand & Romain Meffreによる「残されるもののかたち」はよかったー、くらい。

新進、あるいは大御所の写真作家の作品を京都の古い家や建物のなかに展示してみる、海外から来た人にはOpen Houseでなければ入れないような建物の内側に入って内部の採光や調度建付けを見ながら写真作品にも触れることができる、それをスタンプラリーのように繋げてより多くの人に見てもらう、というアイデアとしては一石二鳥でよいところもあるのだろうが、やはり写真作品に触れる – その写真が撮られたときのテーマ、光や対象のありようと、その写真を展示する環境のありようは当然違うのだから、後者についてはいろいろ配慮されるべきではないか、と思った。そんなの十分に配慮してキュレーションしているのだ、なのだろうが、例えば、Fatma HassonaのGazaをテーマにした写真をああいう空間で展示することについては、ふつうに違和感が残った。写真として捕らえられたテーマやその細部に集中して見たい、それだけ。 置かれた環境との間の異化効果を見る、楽しむ、というのもあるのかもしれないが、それはもう少し先の話ではないか、など。


Echoes  by Satoko Imazu @ Ace Hotel Kyoto

これはKYOTOGRAPHIEとは関係なく、Ace Hotelのラウンジでやっていた展示。
アーティスト・イン・レジデンスのプログラムで滞在した京都御所の周辺、その日常を反射(空間)ではなく反響(音)”Echoes”としてとらえようとした時、光はどんなふうに揺れたり時間を経て定まったりしていくものなのか、そして最後にあったでっかい木(反響板)にやられる。

ここのAce HotelにはStumptown Coffeeがあるんだねえーと。(飲んでる時間なし)


竹内浩一 風が迎えて @ 京都府立堂本印象美術館

動物の絵が好きなのでやや遠めだったがバスで行った。
お猿のふわふわした毛と体の丸み、山羊だか羊だかの横たわる頭部、馬の頭部、カバの全身、すべてが精緻かつ絶妙な濃彩で描かれていて、そんなふうにベースがあるところでいきなり猿があんないでたちで座っていたりするのがたまらない。猿があんなふうにしている世界があるのだ、と信じ込ませてしまう強さを、ふんわりと見せてしまうというか。


美術館関係はこんなかんじ。
あと、合間に念願のアスタルテ書房(いまはアスタルテ書茶房)に行った。靴を脱いで入った途端、これはやばいところだ(軽く3時間くらいかかる)と思ったので、とにかく抜けださねば、って目に入ったフランセス・スポールディングの『ヴァネッサ・ベル』 - 翻訳あったのかー – を掴んで買って抜けた。また今度。

帰りは20時すこし前発の新幹線にしたのだが、18時過ぎて伊勢丹に行ったら駅弁関係はなんも残っていなくて憮然としたのだった。

5.08.2026

[film] Sorda (2025)

5月4日、月曜日の午後、新宿武蔵野館で見ました(もうシネマカリテはないのね…)。
これがGW中に見た唯一の新作映画。

スペイン映画で、英語題は”Deaf”。 邦題は『幸せの、忘れもの。』...  邦題についてはずっと昔から文句言い続けているけど、とにかくセンスが悪すぎるし、それが宣伝に寄与しているとは思えないし、むしろ映画のイメージを曖昧にして結果として貶めていると思う。

作・監督はEva Libertad、聴覚障害をもつ監督の妹Miriam Garloが主演している。監督は2021年に同名の18分の短編映画(未見)を作っていて、Goya Awardsにノミネートされたこれを長編に広げたものらしい。2025年のベルリンでプレミアされている。

スペインの田舎、陶芸の工房で働いているÁngela (Miriam Garlo)には聴覚障害があって、でも健常者の夫Héctor (Álvaro Cervantes)と幸せに暮らしていて、やがて妊娠していることがわかって、周囲の友人たちは喜んでくれるが、彼女は割と複雑で、最大の懸念は子供が障害をもって生まれてくるかどうか。彼女の実父母はどちらも健常者で、でも祖父母には障害があり、後天的なものらしいが妊娠している段階でそれを確認することはできないと言われる。

出産の場面だって、普段は夫が手話で端から伝えてくれるのだが、ちょっと現場が大変になって夫が病室から出されてしまうと、彼女はひとりで奮闘せざるを得なくなる。医師はマスクをしているので口元が見えない、ので彼らの指示や声掛けされていることがわからない。

そうして生まれた女の子はOna(成長するにつれて複数の子供たちが演じていく)と名付けられて、懸念だった聴覚障害はないことがわかってひと安心して、周囲と一緒に子育てをしていくのだが、ここから展開されていく「問題」にははっとさせられることが多かった。

Onaは耳が聞こえるので、Héctorは彼女と声を使って話したりしてしまいがちだが、そこでどんなやりとりがなされたのかÁngelaにわからないのはよくないので、必ずOna相手でも手話で話すようにお願いしているのに、すぐに忘れてしまうし、子育てなのでしょうがないのかもしれないが、夫はどうしてもOna - 健常者同士のやりとりの方に向いてしまうようだし、それが続けばOnaはどうしても父親のほうばかりについていくようになるだろうし、ÁngelaとOnaのやりとりの際、母の状態をわかってもらうためにOnaにヘッドホンをつけてもすぐに嫌がって外されてしまうし、母がどんな困難を抱えてどんな思いで過ごしているのかをOnaにわかってもらうにはそれなりの手間と時間がかかるに違いない。それまでの間、OnaにとってÁngelaはどんな存在になってしまうのだろうか? など。 そして、その苛立ちが彼女を周囲から孤立させていく。その孤立や苦難は、出産前にあったそれとは明らかに異なる種類のものに見える。

Ángelaの考えすぎ、心配しすぎではないか? と思うようになってきた最後の方に映画の音声はÁngelaの聴界のそれに同期する。聞えないので補聴器を付けた際のそれ – きんきんしたノイズがうるさすぎるので外してしまうところまで含めて。この状態で母親として子供と接して、子供を守ったりしなければならない、その難しさが感覚としてやってくる。

そこに愛があれば、とか、制度がどう、とかそういう話ではまったくないの。 こんなの“Deaf”というタイトルしかありえないではないか。


Gary Lucasのライブを1週間間違えてて、ショックでもう週末なんかしらない…