4月28日、火曜日の晩、シネマヴェーラの特集 - 『哄笑と洗練 プレストン・スタージェス レトロスペクティブ』が始まっていたのに気づかなかったなんてばかばかばか、って壁に頭をぶっつけ釘を踏みつけながら見ました。
原作はハンガリーのFerenc Molnárによる(英語にしたら)同名の戯曲 - “A jó tündér” (1930)、これをブロードウェイ用に翻案した Jane Hintonの脚本 (1931)をPreston Sturgesが更に映画用に脚色してWilliam Wylerが監督している。 邦題はそのまま『『グッド・フェアリー』。
孤児院で育ったLuisa Ginglebusher (Margaret Sullavan)がいて、そこの人材育成プログラムで実社会に出て映画館の入り口で案内係をすることになった彼女は、強引にナンパされて連れていかれそうになったところをウェイターのDetlaff (Reginald Owen)に救われ、それに続けて食肉加工業の億万長者のKonrad (Frank Morgan)から言い寄られると、自分には夫がいるから、って咄嗟に逃げて、そのウソを持続させて善きことを実践する”The Good Fairy”になるのだ、って電話帳からてきとーに弁護士のMax Sporum (Herbert Marshall)の名前をピックアップして「彼が夫です」ってKonradに伝えると、彼は自分がLuisaに会う時間を作るためにMaxのところに行って彼にものすごい肩書きと待遇を与えてしまったので、やはりこれはちゃんと説明してあげた方がいいかも、と思ったLuisaはMaxのところに赴く。
ずっと貧乏だった懐が急に豊かになって舞いあがり最新の鉛筆削り器を買ったり嬉しくてたまらないMaxのところを訪ねたLuisaは意気投合して、一緒に街に出てぴかぴかの車を買ったり、ヒゲを剃らせたり、Luisaにはデパートで見つけた「本物のフォクシン」の毛皮のストールを買ってあげたり、ふたりにとって夢のような一日を過ごして、でもやっぱりKonradにちゃんと説明しなきゃ、って思ったLuisaがホテルで男性と会う、と告げるとMaxは激怒して… LuisaとDetlaffとKonradとMaxの四角関係はぐるぐる回りながらぐじゃぐじゃになっていくのだが、すべては”The Good Fairy”であろうとしたLuisaの想いから来たものであることが見えてくると…
いろんな欲望にまみれて下衆な下心しかない男たちと、善をなすGood Fairyたらんとする純な乙女心の少女がクラッシュして巻き起こるスクリュボール・コメディで”My Man Godfrey” (1936) - 『髑髏と宝石』 - を思い起こしたりもした。相手のことをよく知りもしないところから、よくもまああんな大胆なことができてしまうものだわ、とか。でもとにかく、”The Good Fairy”であれますように、という一途な思いと共に現れたGood Fairy的ななにかがすべてをぶち抜くいい加減さと出鱈目さがすべてを支配して、でもあのラストまで含めてなんだか納得させられてしまう強さがたまんないの。
もうひとつは、ぜんぜん関係ないかもなのだが、舞台がブダペストで、Margaret SullavanとFrank Morgan が出ている、ってなったらErnst Lubitschの”The Shop Around the Corner” (1940) - 『桃色の店』のことを思わずにはいられない。どちらの映画も、あなたのことを想っている相手はあなたが考えている以上に身近な、すぐそこにいるかも知れない人なのですよ、っていう。日本にどれくらいいるかわからない『桃色の店』ファンのひとは見て損はないと思うー。
William Wylerはこの翌年には”Dodsworth” (1936) - 『孔雀夫人』を撮ってしまうわけで、すごいな、しかない。
5.03.2026
[film] The Good Fairy (1935)
5.01.2026
[film] Milestones (1975)
4月26日、日曜日の午後、日仏学院の『フランス実験映画祭2026』のなかの『ロバート・クレイマー特集』で見ました。 2025年にオリジナルの16mmネガから修復されたバージョンであると。
これは前にも見たことあって、でもあたまに残っていないもんよね。でろでろの出産シーンを除けば。
監督はRobert KramerとJohn Douglas(盲目の陶芸家役で出ているひと)- 映画製作集団Newsreelにいたふたりの共同。 3時間18分。 1975年のカンヌ国際映画祭監督週間でプレミアされている。
最初にマンハッタンで生地屋をずっとやってきたおばあさんが朝に来て店を開けて、のずっと続いてきた日々からそれがどこから始まったのか、の親たちについての語り、そこから当時 - 前のめりで盛りあがった60年代のあと、70年代のアメリカの各地で生活したり活動したりなんかやっている人々の、彼らがどんな思想に基づいて、どんな風貌でだれと暮らしたりやりとりしたり活動したりしているのかを並べていく。ふつうにふつうの会社に通って暮らしてなんの不満も問題もない人たちや家族のそれではなく、ベトナム戦争や学生運動の余波があった時代、特定の志向や目的をもった集団とかコミューンにいたり、ずっと続く人種差別の泥のなかにいる人たちもいる。そのバックグラウンドは雪に覆われた山だったり滝だったり洞窟だったり道路だったり、家は安住できる場所、というよりもまずは仮住いで、これらの間をカメラはずっと動いていって、「マイルストーン」はその動きのなかでずっと揺れ動いている or その活動・移動そのものがマイルストーンであるかのような。そしてクライマックスで描かれる「出産」の重みと啓示と。
ドキュメンタリーのような撮り方をしている箇所、現場をそのまま、もあれば明らかなフィクション - 女性が襲われそうになるところとか – もあり、でも両者は区別されることなく同じようなトーンで並べられていて、登場人物の顔立ちや挙動は誰も彼も、クラシックなアメリカ映画のきっとどこかで見た気がする誰かのそれ、だったりする。
上映前にChris Fujiwaraさん(上映後の講演はパスしてしまった)が言っていたように、これはアメリカという国をファブリックとして編みあげて広げたもので、生地の目が詰まっていたり解れていたり虫に喰われていたり棄てられていたり、でもその面積と汎用性のようなところ、そのファブリックがどう機能すべき(だったの)か(→政治)のようなところははっきりと力強く訴えてくる。「マイルストーン」とは、その布の四辺をひろげて地面に定置するための敷石であり、それが置かれて覆われたところが「アメリカ」となる。 Frederick Wisemanのドキュメンタリーとの違いでいうと、彼の作品はそのファブリックがどんな使われ方をしているのか、人々の生活のなかでどう機能しているのかを細部から凝視するように追っているのだと思った。
In the Country (1967)
↑の前に見た、これもRobert Kramer作品で、彼の最初の長編フィクション。
ベトナム戦争の最中、ずっと左翼で一旦政治活動から離れざるを得なくなっている男(William Devane)と女(Catherine Merrill)が隠遁先の田舎でぶつぶつ燻って議論などをしていて、その燻りのなかで明らかにされていく都会と田舎、イデオロギーのありよう、男女のあれこれ、など。でも結局は田舎だから中心にはいないから、に落ちて、そこから世界はひとつのでっかい田舎なのではないか、という徒労感まで。
これらがモノクロの、風景も含めて割ときれいで整った映像のなかで描かれると、そんなもんかも、になって何かがぐるぐると回りだす、気がする、と。 吉田喜重あたりが得意としているテーマのような。
公開当時は評判が悪くて、唯一評価してくれたJonas Mekasがフィルムをヨーロッパに持っていってくれた、って。
[film] 暖流 (1939)
4月25日、土曜日の昼、国立映画アーカイブの特集「発掘された映画たち2026」で見ました。
[デジタル復元・最長版]とのことで、これまで戦後に再編集された124分の短縮版が流通していたところをオークションで新たに入手したバージョンとアーカイブがもともと保有していた3つのバージョンを切って繋いで、初公開時の前後編177分だったものに近い173分の長さにまでデジタル復元した、と。 上映前にその辺のストーリーの説明があり、一挙に上映するのかと思ったら前後編の間に5分の休憩が入った。
原作は岸田國士の朝日新聞連載小説、島津保次郎が監督する予定だったが移籍しちゃったので当時新人だった吉村公三郎が指名された。なにが「暖流」なんだかよくわからないぬるい曖昧さも含めてとってもメロドラマなかんじはする(← 原作を読め)。1957年には増村保造が、1966年には野村芳太郎が映画化している。
『前篇・啓子の巻』と『後篇・ぎんの巻』に分かれている。センターの佐分利信が濃すぎてあまり(本来あるべき?)女性映画のかんじはそんなにないかも。
私立病院の大院長志摩(藤野秀夫)が病で引っ込んで、でも跡継ぎのはずの息子泰彦(斎藤達雄)はぼんくらなので、とっちらかった病院を再建するために若い実業家で監査もできる日疋(佐分利信)を雇い入れてテコ入れを図る。日疋は看護婦のぎん(水戸光子)をうまく使って情報を集め、各方面から反発をくらいながらも強引に改革を進めるなか、院長の一人娘の啓子(高峰三枝子)を好きになるのだが、彼女はそこの医師の笹島(徳大寺伸)に求婚されてて、両親もそれを認めている。
後篇になって院長が亡くなり、泰彦や笹島ら次世代ぼんくら共のしょうもなさが気になりつつもどうにか再建の目途が立ってきたところで、日疋は思い切って啓子に求婚して、彼のことを少し想っていた啓子も揺れるのだが、彼女の幼馴染のぎんが日疋を愛していることを知った啓子は悩んだ末に…
いろんな人間模様が網羅的に紹介される前篇は割とふつうに眠くなるところもある(なにしろ暖流だし)のだが、仕込んでおいた各登場人物の毒や詰まっていた泥が噴出して渦を巻きはじめる後篇がおもしろかった。特に内面の陰険などろどろを既にこんな若い頃から溜めこんでいたのかと感心する佐分利信の、高峰三枝子に求婚して断られたら水戸光子のほうに切り替えてしまう思い切り、というか結婚観 – 売ってくれなかったら売ってくれるところにいく – の魚屋みたいな潔さにややびっくりして、ラストの波打ち際からこちらを向いた高峰三枝子にじーんとくるべきなのかもしれなかったのに、そうならなかった。でもあの浜辺の景色はずっと残っているので、よい映画だったのかも。
でも、今だったら頭がきれて弁もたつコンサルみたいな役柄の日疋って、このストーリーに沿って言えば明らかに身勝手な悪い奴、のほうだと思うのだが、なんかお嬢さんに断られてかわいそう、みたいな印象を与えてしまう感があるのはどうなのか? って。
昭和10年代、戦前のまだ気候も穏やかだった頃、上流階級の覇権や恋争いはこんなふう - 暖流にのって糞もミソも大量にぷかぷか流れ込んでくるのでこれはこれで大変でしたの、というのを描いた映画、でよいのか。
4.30.2026
[film] 喜劇 にっぽんのお婆ぁちゃん (1962)
4月24日、金曜日の晩、神保町シアターの特集 『名作の陰に女性脚本家あり 田中澄江と水木洋子』の最終日の最後の回に見ました。
原作・脚本は水木洋子、監督は今井正、製作はこの作品のために立ち上げられたM.I.I.プロダクション(M.I.I.は製作の市川喜一を含めた3人の頭文字から)。
タイトルの頭には「喜劇」とあるが、上映版のタイトルクレジットに「喜劇」は入っていない。実際のところ、ちっとも「喜劇」とは思えなかったのだが。
冒頭、いろんな老人たちが暮らしていろんな人たちが介護して朝から慌ただしい老人ホームの様子が描かれるなか、くみ(北林谷栄)がどこかにいなくなったことが報告されるが、現場はそれぞれに慌しいのでそれどころではないかんじ。
その反対側、浅草のレコード屋の軒先でくみとサト(ミヤコ蝶々)が橋幸夫のシングルをかけて貰って一緒にダンスしたところで知りあって、でも特に自己紹介をしたりするわけでもなく素面で元気なく一緒にだらだら歩いていくだけで、親切な鶏めし屋の女子店員(十朱幸代)に店にあげて貰ってビールを戴いたり、親切で真面目な化粧品のセールスマン(木村功)に感心したり、面倒とか迷惑とか気にせずに気の向くままにうろうろしていって、くみが持っていた睡眠薬のことで心配になった老人ホームでは警察(渥美清)に電話を掛けたり、でもふたり共どこに行きたいというより、どうしても自分の家とかホームとかには帰りたくないらしい。やがて警察に見つかったふたりはそれぞれのところに帰されて…
威勢のよい老婆ふたりが周囲を大混乱に陥れてざまぁー、みたいな痛快コメディではなく、居場所も死に場所も見つけられないふたりがなにをどうすることもできずに浅草の町をとぼとぼ歩いていくだけのお話で、互いにどんな思いでここにいるのかはなんとなくわかっているので、深刻に話し込むようなこともなく、ただ一緒にいる。その佇まいがなんとも言えず痛ましいし、ふたりがあの後にどうなったのかもわからないし。 見る人によってはそれでも十分におもしろ、なのかもだが、立場的には彼女たちの側に近いので、ううぅ... しかない。
昭和37年の時点で老人ホームは社会ではお役御免、適応不可になって逸れた老人たちが寄せ集められる場であり、核家族化が進む集合住宅に彼らの居場所なんてないことが示されていて、これって今と比べてもそんなに変わっていない。こういうのは結局、社会や労働や権利やケアに対する意識が重なって居所として認識形成されていくものなので、戦後に制度も含めた大きな社会変動を経験していない - 自民党があのやり方でずっとやってきた施策によれば稼ぐことができない弱者には冷たくする(してよい)、という点では一貫していて、水木洋子すごいな、しかない。 あと、老人総進撃みたいに当時の名優たちがうじゃうじゃ出てくるのもたまらない。
いまは豊かな階層にいる老人たちはケアハウス(っていうの?)とかに流れて多少は幸せなのかもしれんが、いま行き場のない老人たちが向かう先は国立映画アーカイブとか神保町シアターとか、あの辺に溜ると思っていて、あの界隈に生息する性根とマナーのよくない老人(主にお爺ぃちゃん)たちをテーマに誰か撮らないかしら? (そんなのだれも見ない)
4.28.2026
[film] Köln 75 (2025)
4月23日、木曜日の晩、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。邦題は『1975年のケルン・コンサート』。
2025年のベルリン国際映画祭でプレミアされた。監督はIdo Fluk。
1975年1月24日にケルンのオペラハウスで行われたKeith Jarrettのピアノソロを収録したライブ盤 - “Köln Concert”は世界で最も売れたJazzレコードの一枚なのだそうだが、そのライブ〜収録の舞台裏ではどんなことが起こっていたのか、コンサートのプロモーターだった当時18歳のVera Brandes (Mala Emde)を中心に語られる。
最初は最近の(初老の)Varaの誕生日に現れた彼女の天敵だった実父の抑圧的な言動から10代の彼女の回想に入っていく。威勢のよいパーティガールだった彼女は地元で行われたRonnie Scottのライブの後、親しくなった彼からドイツのツアーのブッキングをやってくれないか、って頼まれて、父の病院の電話回線を使って見よう見まねで手配ごとを始めて、そういう中で触れたKeith Jarrettの音楽にこれだ! って衝撃を受けてなんとしても自分で呼びたい、とオペラハウスを押さえて、今となっては歴史に残るコンサートを実現してしまうまでのどたばたを彼女の青春ドラマとして綴っていく。
もう一人の関係者として音楽ライターのMichael Watts (Michael Chernus) がケルンに向かうKeith Jarrett (John Magaro)の車に同乗して現地まで向かい、コンサート直前の彼の様子や人となりを描写していく。腰痛で状態も機嫌もよくないアーティストは到着してすぐ、ステージに用意されているはずのピアノ - 全長10フィート、重さ半トンのBösendorfer Imperialではない、小型でおんぼろのリハーサル用ピアノを見て、こんなのではやれない、と言う。
コンサートが始まる23時半(いいなー)まであと数時間、ピアノはどうにかなるのか、ばたばたで宣伝もできていない客の方は入ってくれるのか、そんなことよりご機嫌も体調もよろしくないKeith Jarrettは演奏してくれるのか? 等が渦を巻いていくのだが、結果はみんなわかっている通りめでたし、どころかとんでもなかったよ… になる。
この晩の彼のライブの様子は当然描かれないし、それと同様になぜそんな奇跡が起こったのかも明かされないしよくわからないので、よかったよかった、と言うしかなく、だからそんな朗らかな青春もの、にならざるを得ないことはわかるのだが、音楽を扱う、音楽がドライブした何かを扱うのであればそこをもう少しだけどうにかー、とは思った。
この映画の内容についてはKeith JarrettもECM RecordsのManfred Eicherもオーソライズはしていなくて、他方でこのコンサートに関わった関係者のインタビューを中心としたドキュメンタリーフィルム - “Lost in Köln”が用意されている(公開されないのかな?)ことも知っているのだが、もういいかなー、というかんじにはなっている。
少なくともみんなの手元に残されている50年前の音楽にはジャズとか即興とか、そういうのを超えた万能の、ユニバーサルな「音楽」としか言いようのない何かが跳ねてうねっていて、それに浸ることじゃ、しかない。あの盤にはそういう磁力があると思うのだが、それはまず聴いてみないことには、だしね。
あと、ジャズ以外の音楽だと、CANの”Mother Sky”がターンテーブルに乗せるところも含めて印象的に流れてきて、時代の空気、のような使い方なのだろうが、この頃のクラウトロックをもっとがんがん流しちゃってもよかったかも。
4.27.2026
[film] 沓掛時次郎 (1929)
4月19日、日曜日の午後、国立映画アーカイブの特集『発掘された映画たち2026』で見ました。
16mmプリントから復元されたサイレントで、ピアノ伴奏は吉田詩子。
原作(1928)は長谷川伸による3幕からなる戯曲で初演は同年の帝国劇場、Wikipediaによるとこれまでに8度映画化されていて、これが最初の映画化作品で、監督は辻吉朗。
沓掛時次郎モノの映画は、シネマヴェーラができたばかりの頃(2006年)の加藤泰特集で『沓掛時次郎 遊侠一匹』(1966) - 主演中村錦之助のを見ていて、この頃はNYから戻ってきたばかり、その時いた会社を辞めちゃったところに加藤泰作品がとてもしみて、衝撃だったりしたことを思いだす。もう20年前なのかー。
画面は白黒のコントラストが強い、昔の写真のようで、冒頭に中ノ川一家の親分が島流しにあって、部下の三蔵(葛木香一)らに後を頼むぞ、って消えてなくなり、でも親分がいなくなった組を捨てて出ていく者も多くなり、そうして弱体化した三蔵のところに、3人の刺客+彼らに一宿一飯で雇われた沓掛時次郎(大河内伝次郎)が現れて、三蔵は3匹をどうにか蹴散らすのだが、背後から現れた時次郎には敵わなくてやられてしまい、息を引き取る直前に時次郎に妻のおきぬ(酒井米子)と息子の太郎吉(尾上助三郎)を頼むって言い残し、おきぬからすれば夫/父を殺した男と一緒に旅をしなければならなくなるし、やがておきぬの体は弱っていって、お金もなくなってしまったので、最後にやむなくお金稼ぎのために出入りの助っ人を引き受けるのだが、いざ行ってみるとものすごい敵陣で、向こうには最初に自分を雇った3人組とかもいて…
とにかく大河内伝次郎の輪郭がフランケンシュタインのようにぶっとくて、あんなのが通りの向こうから現れたらそれだけで逃げたくなると思うのだが、最後の出入りのシーンのぶん回しはとてつもないスピードと勢いで大量の敵をばさばさなぎ倒していくし、向こうの刃はぜんぶ逸れていくようだし、サイレントのコマの早いのとかも入っているのか、イメージとしては「うぉおおりゃああああー」みたいな勢いで一気にぶちかまして、稲妻の速さでおきぬのところに戻ったのに…
自分の夫を殺した男と身寄りもお金もなくなったので一緒になって旅をしなければならなくなり、やがて情が移って、ってどう考えても男性に都合よい視点の物語で、女性からしたら恐怖と絶望一直線しかないのでは、っていつも思うのだが、でもこのお話しは好まれて映画もTVも沢山作られて昭和を代表するような男優たちがみんな演じている。よくわかんないかも。 って思いつつそのまま正門前のデモまで歩いていった。
Karl Walser - スイス絵画の異才
↑を見る前に、東京ステーションギャラリーで見ました。
Karl Walser (1877–1943)は小説家Robert Walser (1878–1956)の兄で、ローベルトのほうはベンヤミンを経由したり、数年前に出た本『ローベルト・ヴァルザーとの散策』で知っていて、カールの方は当時の割と典型的な線の象徴主義の画家、程度の認識しかなくて、纏めて見る機会があまりなかったかも、と。
日本に行って東京や京都に滞在していたなんて知らなくて、そこで描かれた絵がなかなかよいかんじ。祭りのごちゃごちゃした色の塊りの出し方とか、滲んで見えてしまうもののかんじとか。
ちょっとびっくりしたのは会場で上映されていた「カール・ヴァルザーゆかりの地」のビデオにベルン旧市街の古書店 – Daniel Thierstein Buchantiquariatが出てきて、ここってベルンに行った時に1時間くらいはまってたとこじゃん! で、ヴァルザー兄弟の著作が多く置いてある、って説明があって、店に入ったのはたまたま、そんなことぜんぜんそんなの知らなかったのだが、そこで買ったのはヴァルザー兄弟の評伝本だったという…(ちゃんと確かめたいのだが、本たちは今頃みんなアフリカ大陸の西か南の海上にいる – はず..)
4.26.2026
[film] Song Sung Blue (2025)
4月20日、月曜日の晩、TOHO シネマズ日比谷で見ました。
これも帰国直前のどたばたでロンドンでは見れなかった1本。向こうではクリスマス映画だった。
90年代、ミルウォーキーに実在したNeil Diamondのトリビュートバンド - Lightning and Thunderで少しだけ有名になった夫婦、Mike SardinaとClaire Sardinaのお話。
2008年にGreg Kohsによる同名のドキュメンタリーが撮られていて(未見)、同年の映画祭でそれをみたCraig BrewerがGreg Kohsにコンタクトして権利一式を買い取った、と。
冒頭、Mike (Hugh Jackman)はアル中の更生施設で断酒して20年経ったよ、ってギターを抱えて体験を語りつつ”Song Sung Blue”を歌ったりするのだがその裏の実生活はどん詰まりぼろぼろの不満だらけで、そっくりさんショーのバックステージで有象無象のカバー芸人たちにまみれ、自分はこんなもんじゃないのに、って悶々としていた時にPatsy Cline のカバーをしていたClaire (Kate Hudson)と出会う。
どちらも離婚してそれぞれにシングルマザー/ファーザーだったが、互いにどこかを稲妻に撃たれて一緒にやろう! ってレパートリーをNeil Diamond一本に定め、コンビ/バンド名を”Lightning and Thunder”としてライブハウスに出るようになる。 なんといっても演るのはHugh Jackmanだもんだから評判を呼んでハコもどんどん大きくなっていくのだが、突然の不幸が次々とやってきて止まらない。
騙されたとか盗まれたとかの他者の悪意による人災ではなく - 悪い人物がひとりも出てこない珍しい映画 - Claireは突然つっこんできた車にやられて左脚を失い(もう一回突っ込まれ)、Mikeは元々心臓がよくなくて、でも”Song Sung Blue”♪でー。
彼らはなんでそこまでして - 真ん中辺りに事故の後に心を病んでしまうClaireの姿が置かれるし、Mikeだって復帰公演の準備中に頭を… ステージで歌を歌うこと、それを聴いて一緒に楽しんで貰うことにあんなに全身全霊を傾けたのか? というのが中心にきて、それが彼らの芸道であり生きる道なのだ、というところにハリウッド・スターとしてのピークを過ぎた(と思わせたい/思わないけど)Hugh JackmanとKate Hudsonの容姿が、そして何よりもNeil Diamondの歌たちが被ってきて、そのだんだら模様が素敵ったらない。中途半端に家族の絆や救いを強制するのではなく、まずは音楽があり、そこに向かってすべてが奉仕されている。
実在のLightning and Thunderのふたりにしても、この映画のふたりにしても、なんとしてもNeil Diamondの歌をちゃんと聴いて貰いたい、という強い思いに貫かれているようで、そこは全く異論がない。ショーのオープニングを”Soolaimon”にするんだって拘るところを繰り返したり、これを機にNeil Diamondの再評価に繋がらないだろうか、って少し思ったのだが、そうなるかんじが全くないのはどうしたものか。(映画内のアレンジはCarole Bayer Sager & Diane Warrenで、悪くない)
とにかく”The Greatest Showman”と”Almost Famous”のふたりなんだから、実話のタガを外して”The Blues Brothers”みたいなバディの珍道中ものにしちゃってもよかったのに (稲妻にやられるところとか同じだし)。
あとどうでもいいことだけど、この晩はEddie Vedderの東京公演があって、仕事の都合で行けなくなって泣きながらこの映画の20:50の回に駆けこんだのだが、映画のなかにEddie - あんま似てなかったけど - が現れて彼らと一緒に歌ってくれたのだった。
4.24.2026
[film] 驟雨 (1956) - etc.
4月15日、水曜日の晩、神保町シアターの特集 『名作の陰に女性脚本家あり 田中澄江と水木洋子』で見ました。
監督は成瀬巳喜男、原作は岸田国士の同名戯曲の他、いくつかをネタにして脚本は水木洋子。ここまで来ると「名作の陰」というより「名作のフロント」でよいのでは、と思う。
結婚後4年が経った亮太郎(佐野周二)と文子(原節子)の夫婦は倦怠期というのか仲がよくなくて、日曜の朝からどうでもいいことでぶつかって、互いがうっとおしくて何を言われても何かやっているのを見ても忌々しくて、そのやりとりだけ延々見せてくれてもよいのだが、こんなふたりの隣に越してきた小林佳樹と根岸明美の歳の離れた夫婦の火花とか、新婚旅行の途中で嫌になって夫を捨ててきた姪の香川京子が飛びこんできたりとか、彼らはみんな、いかに自分の相手の相手をするのが嫌で大変でやってらんないかを訴えてきたりするのだが、そんなことを心配している余裕なんてないし、そんなのよか自分らの事態の方が遥かに深刻でどうしようもないのだ子供にはわかんないだろうが、って思っている。
そういう至近距離の戦いのほかに、町内会のおばちゃん(見るからに昭和のおばちゃん)達から、軒下にやってくるノラ犬の挙動について、放し飼いにしておくのはどうしたものか? のねちねちが来て、それが生産性ゼロ、あたしの時間を返して系の臨時町内会に発展したり、この辺の民度(っていうの?)のありようはここから70年を経ても変わっていない。ということにびっくりすべき。
原節子は表面にぎりぎりの笑みを湛えつつ内側で燻るふざけんじゃねえぞクソ野郎ども、の状態を呼吸と所作のひとつひとつに心を込めて維持実践していくのが変わらずすごくて、その反対側に立つ佐野周二は、外面だけはよくてなんかできそうに見えて、実はとてつもないぼんくらで何も考えていないもんの殺傷力が変わらずにすごくて、結果は殺伐とした日曜深夜にひとり噛みしめるサザエさんみたいなかんじになる。
タイトルはこの程度の諍いは季節によってどこにでも起こる通り雨のようなもの、ということなのか、いやいや通り雨だって落雷や土砂崩れでひとが死ぬことだってあるのよ、ということを水木洋子は言っているのだと思う。
甘い汁 (1964)
4月17日、金曜日の晩、同じ特集で見ました。
これも原作・脚本は水木洋子で監督は豊田四郎、主演の京マチ子は毎日映画コンクールとキネマ旬報賞のふたつで主演女優賞を受賞している。英語題は”Sweet Sweat”。
昭和の真ん中くらい、どぶ川の周りに狭い住宅がひしめいて再開発で整理されようとしているエリアで、梅子(京マチ子)はなにが生業とも言えないようなマルチ水商売で冒頭から仕事仲間のすみ江(木村俊恵)と大げんかしたり、ちんぴらっぽいバーテンの藤井(小沢昭一)に紹介されたじじいの妾仕事をミスったり、家に戻れば母親(沢村貞子)と娘竹子(桑野みゆき)と弟(名古屋章)一家の8人が同居していて、どこに行ってもなにをしてもなんだかはみ出してすごいのだが、誰にどう言われようともへっちゃらだし、娘だってさばさばしているし、とにかく愛と金の甘い汁を求めて彷徨う.. というよりはもう少し強く、バウンドしていく様がモノクロ写真の至近距離で肉肉しく映しだされていく。「驟雨」?ふざけんな、って自らどぶ川に飛びこんでいくような威勢のよさ。でも、本当の甘い汁を吸っているのは彼女ではない別の奴らなのだ、というメッセージも底にあると思った。
かつての恋人で、いまはやくざになっている辰岡(佐田啓二)との再会シーンもロマンチックでもなんでもなく、ベッドの下にテープレコーダーを仕掛けるしたたかさ(そして簡単にばれる)で、そこには原節子の表面張力なんて微塵もないの。でもどちらも同じくらいに強くて負けることなんてないの。
4.23.2026
[theatre] 死神
4月16日、木曜日の夕方、紀伊國屋サザンシアターで見ました。
ロンドンで演劇っておもしろいかも、と思うようになり、勉強したいかも、って2年3ヶ月の滞在中に178本見た(映画の方は877本見ていた)。せっかく火がついた、と思っているので、日本でも見ようと思ってまずはこのあたりから。
オンラインでチケットを取ろうとしたところ公演は平日のマチネが多くて、夕方回の開始時間が18:00って.. でひいて、前売りで取るのは難しいか、って電話して当日券があることを確認してシアターで取ったのだが、後ろのほうはがらがらで、なんか勿体ないな、と思った。ライブもそうだけど、開始時間がこれだと(ずっとそうみたいだけど)会社勤めの人とかには根付いていかないよね。(接待とかには向いているのか?)
原作は三遊亭圓朝の古典落語「死神」。元ネタは19世紀のグリム童話とイタリアの歌劇で、どん底の主人公のやけくその行動が地べたから有頂天まで、生と死の境を跨いでいくジェットコースター芝居で、一人語りの落語としておもしろいのは言うまでもないが、演劇にしたっておもしろいに決まっている。 脚色・演出は倉持裕。
最初は通りからみた長屋の並びで、主人公たちが戸を引いて中に入るところで奥が自動でぐるっと広がったり回ったりする。長屋から地獄の入り口まで繋がっていて、語りの調子に応じて自在に滑らかに伸びたり縮んだり。
遊び人の八五郎(牧島 輝)はその日も遊んで朝帰りで、玄関で待ち伏せしていた妻のお滝(樋口日奈)といつものように口論になって、こんな状態じゃ子供も家庭もあったもんじゃないし、ってグチられて隣の子沢山の夫婦まで出てきてわーわー言うので嫌になってもう死のう、って橋のほうに歩いていくと死神(水野美紀)にぶつかって、自分のノルマ達成でうんざりの死神は死にたいって言いながら死ねない八五郎を使ってうまいことやってみるか?って持ちかける。
病に臥せった病人の枕元に死神がいたらその人はもう助からない、足元にいたら助かる見込みがある、死神を自分の目で見ることができる八五郎を使って、助かる見込みのある病人を生き返らせることができれば、死神にとってはノルマを着実にこなせるし、八五郎を医者にしちゃえば評判の名医にできるからwin-winじゃん、て、生き返らせる呪文を教えてシャバに放つ。
こうして長屋で(ニセ)医者の表札を出しておくと旦那様が病から回復してくれないという越前屋の番頭が現れて、藁にもすがる思いで、っていうので、現場に行ってみると死神が足下にいたので決めた通りにやってみたらいきなり立ちあがってウナギを食べ始めたのでおおってなり、八五郎は名医としてたちまち評判になって小金持ちになる。
でももともとの浪費好き博打好きは治らず、あっというまにすってんてんに転がり戻ってやばい、ところに再び臥せった大旦那の件が来て、でも今回ばかりは死神が枕元にいるのでどうすることもできず、でもそこをなんとか、って大金を積まれたので、ちょっと企んで死神をだましてやったらうまく生き返らせることができたのだが、あたまに来た死神が…
途中に落語家の立川志の春(複数の役も演じる)がそこまでの成りゆきを落語調でサマリーしてくれたり、歌謡曲ふうの歌唱シーンが入ったり、全体にちゃきちゃきよいテンポで楽しくわかりやすく、八五郎の転落とそれを操る死神の柔い関係を追っていく。
八五郎はもちろん、死神も万能な神というよりそれなりに苦労しているふつうの女性ぽくて、そんなふたりの軽いやり取りが生死や人の運命を軽々と操っていって、最後には自分自身が、という転換、脆い境界線にいるというおもしろさ。落語のぷつん、と切れて放り出されるオチのあっけなさもよいが、アンサンブルの果てに自分が誰それだったら..? がじんわりと来るこの劇も悪くない。
生が死神の座り位置とか蠟燭の灯で簡単にぽん、て消えてくれたりするのに、日々実際に生きて転がっていくのはなんでこんなにうまくいってくれないのかー、っていうあたりが後から。
最後の蝋燭のシーン、グローブ座のSam Wanamaker Playhouse(蝋燭シアター)でやったら臨場感が出ておもしろくなっただろうにー。
4.22.2026
[film] Sound of Falling (2025)
4月18日、土曜日の午前、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。
ドイツ映画で、原題は”In die Sonne Schauen” - 直訳すると「太陽を見つめて」なのだが、邦題は英語題の方に繋がる『落下音』。
2月にロンドンで上映されていた時に見たかったのだが、2時間半の上映時間が無理だった1本。
監督と共同脚本はMascha Schilinski。2025年のカンヌでJury Prizeを受賞している。
なんのキャプションも出ないので、最初はちょっと混乱するが、ドイツ北東部の中庭を囲む建物に暮らす一家一族の、4つの時代 - 1910年代、1940年代、1980年代、現代 - に分かれたいろんなエピソードがノンリニアで交錯していく。語り手も時代によって、エピソードによって分かれているし、映像のトーンや明度も、誰が誰を、どの地点から見つめているかによって結構ばらけていて、構成とか成りたちを把握するのにちょっと時間がかかる。他方で、そういうのを気にせずイメージをてきとーに追っていっても、なんとなくのゆらゆらした不安や怖れなどはわかったかんじになれるのかも。
冒頭、片足がない状態で松葉杖で歩くErika (Lea Drinda)が、そのままベッドでぐったり寝ている中年男のFritz(Martin Rother)の切断された片足をじっと見つめておへそに溜まった汗をなめ、その後で彼女の欠けた脚は自分で折り曲げていただけだったことがわかる。
別の時代で幼いAlma (Hanna Heckt)が経験する葬儀と昔の葬儀の写真に刻まれた一族のなかに自分に似た少女の姿を見つける話、Fritz (Filip Schnack)が両親によって片足を痛めつけられ「労災」(=兵役拒否)される話、彼を介護するメイドのTrudi (Luzia Oppermann)の話、家族の間には目に見えない掟や序列や勝手に強引に決められてしまうものがあるようだが、死んだあとはモノクロぺったんこのイメージのなかに閉じこめられてしまうことなど。
時代が新しくなったところで、溺死したErikaの妹のIrm (Claudia Geisler-Bading)には家族がいて、彼女の娘のAngelika (Lena Urzendowsky)はいとこのRainer (Florian Geißelmann)を挑発したり、トラクターの進路に横たわったり川に入っていったり死を恐れていないふうで、そのうち家族が集合したポラロイドを撮る場面で彼女は消えてしまう - 向こう側へいってしまったのか?
更にほぼ現代になった頃の姉妹と村の少女のお話しがあり、ここでも誰かは必ず家族の誰かを失って不安定なままで、でもそれがどうした、って。
家族がメガネを手にした時の会話で、目に映ってくる像、光は網膜の上で上下左右が倒立した像として結ばれて、あるポイントで消失点として失われてしまう、そんな視覚イメージの危うさと不確かさが語られて、そういう中で部屋の暗がり、半開きになった扉から覗きこむようなショット、既にいない人を定着させる写真などが沢山でてきて、これらは生死が倒立した死者の目線なのだ、と言うことに気づく。そんなでも人はころりと死んで生まれて家族もイエも続いていくし、戦争は起こるし。
イメージや視覚に関わること、なのでタイトルが「太陽を見つめて」なのだろうが、それが”Sound of Falling” – 「落下音」になるってどういうことなのか。太陽を見つめて目がしんで、落ちる – 五感に残るのはその音だけ、ということでよいの?
幽霊目線の、あるいは幽霊そのもののような個々のイメージは、切り取ってスタンダードの画面に置いてみれば悪くないのだが、ストーリーの軸がないので、それぞれの印象の強弱のようなところで止まってしまう(よくもわるくも)のと、音が弱すぎてふわふわしてて落下できない、というあたりがー。
4.21.2026
[film] 鬪ふ男 (1940) - etc.
4月12日、日曜日の午後、国立映画アーカイブの特集『発掘された映画たち2026』で見ました。
MoMAの“To Save and Project: The MoMA International Festival of Film Preservation”でも、BFIの”Film on Film Festival”でもレギュラープログラムの”Projecting the Archive”でも、古い映画を見よう/見たい、っていう熱と人気はずっと絶えない。映画史に残っていてDVDや配信で簡単にアクセスできるクラシックの他に、どこかの何某から意図的に埋められたり事情があってなかったことにされていた作品や作家は星の数ほどあって、その背後にはそれなりのストーリーがある、ということを知ってしまった。そうなった事情は写真家や他のアーティストのそれよりも複雑のようで、当時の社会や政治の事情にも割と関係があって – これって歴史を学ぶ、知るということの根幹でもあって、なんでそういうことが必要かというと(以下略)。 もちろん、シンプルに見ておもしろいのがいっぱい、っていうのが大きいのだが。
で、これが日本映画、ということになると戦時下の検閲とか家父長制下のげろげろが根こそぎたっぷり出てきて、なんだぜんぜん変わってないじゃんこの国、とか。例えば。
2022年のこの企画で『花ちりぬ』 (1938)、『夜の鳩』(1937)、『むかしの歌』 (1939)などを見てから、石田民三もっと見たいになっていた。映っているものは古い昔の情景だったり人々だったりなのに、撮り方や迫り方がとてもおもしろい。
鬪ふ男 (1940)
冒頭、当て逃げした車がざーっと逃げて、それを車で追っていくカーチェイスがあって、話はそこで逃げた男の方には行かず、そいつをぶん殴って捕まえた安吉(岡讓二)の方に行って、その顛末を横で見ていた留造(廣澤虎造)が久しぶりだなあ、って運命的な再会をして、ふたりは靴磨きをしながら一緒に暮らし始める。 そこでやくざに絡まれていた女性(花井蘭子)とその弟を守ったりしているうちに、北海道に残したまま生き別れになっている妹のことを思いだして、徴兵に出た後 - 戦争なんてなかったかのようにあっさりパスされ - 故郷に戻ってみると…(まるで西部劇のような画面構成がかっこよくて別の映画のよう)
そんな「鬪ふ男」の半生記が浪曲師になろうとしている廣澤虎造のラップみたいな唸り節と共に綴られて、廣澤(広沢)虎造(2代目)といえばマキノ雅広の『次郎長三国志』の歌い手で、あれも「鬪ふ男たち」のお話しだったねえ、とか。
男子有情 (1941)
上のに続けて見ました。
自由民権運動が活発になった明治の頃、街頭に立って民の抵抗歌「演歌」を歌って聴衆を煽ったりして日銭を稼ぐ仲良し学生3人組がいて、彼らのリーダーの島田(岡讓二)にはおなじ街角で物売りをしながら思いを寄せるしげ代(花井蘭子)がいて、島田らは勤勉で優秀で塾長からも期待されていたのに、しげ代が巻きこまれたやらしいやくざとの間で起こった殺人事件をひっかぶるかたちで島田は牢屋に入ってしまい、最後は法廷ドラマになるの。
どちらの映画でも人として正しくあれ、みたいなことが強く謳われつつも、政治や国際情勢みたいなところには一切触れない(触るべからずの)ような、なんとも微妙な目線の不均衡が感じられて、そこを地味な低声の音楽で歌ってごまかすような。ちょっと昔の、誰も文句の言えない至近距離の道徳美徳を説いて讃えてそっちに目を向けさせて、ところで日本が世界でなにをしていたか、どう見られていたか、等についてはとにかく触れない。なんかどこかで見たようなー。
2本とも、岡讓二が花井蘭子を助ける、その横で男が男を歌う熱いドラマで、うざい湿気がそんなになかったのはよかったかも。 でも石田民三は女性を描いたドラマのほうが好きかも。
4.20.2026
[film] Caught (1949) - etc.
3月31日に帰国して、4月3日の金曜日に帰国後最初のライブに行って、4月4日の土曜日に帰国後最初の映画を見た。割とゆっくりめだが、この先はゆるゆると老いて腐っていくだけなので焦らずに見たいものを粛々と見ていくの。
そういう時は、CMも予告も入らないシネマヴェーラと神保町シアターと国立映画アーカイブは(あとラピュタも?)が救いで、とにかくここに駆けこんで暗闇にうずくまって何本か見ること。 日本の映画館のCMと予告って、なんであんなにぐったりさせられるものが多いのだろう。 CM予告は英国のシネコンにもあるけど、日本のほどストレスを感じさせるものではない(言葉だけではない気がする)。
とにかくそんな時に、シネマヴェーラの特集 - 『映画は女で作られる マックス・オフュルス特集』ほどうまくゆるく嵌って救ってくれるものはないの。
Caught (1949) - 魅せられて
4月4日、土曜日の昼に見ました。
見たことないと思っていたが、最初の雑誌をめくっているシーンで、あ、ってわかる(映画のタイトルは憶えられないがファーストシーンだけは憶えているタイプ)。
原作はLibbie Blockの小説”Wild Calendar” (1945)、これをArthur Laurentsが脚色している。
モデルをしながら花嫁修業学校に通い、玉の輿を夢みるLeonora (Barbara Bel Geddes)が押しつけられたパーティ券でビリオネアのSmith Ohlrig (Robert Ryan)と出会う。セラピストとのセッションで君に結婚は無理だ、と言われてムカついていたOhlrigはそれへの反発でLeonoraにプロポーズして結婚してやって、ふたりにとってwin-win関係のはずだったのだが、夫はとてつもないDV野郎だった… (現代用語がわかりやすく簡単にはまってしまう)
ロングアイランドの豪邸を飛び出した彼女は境遇を隠してダウンタウンの貧しい地区で小児科医をやっているLarry Quinada (James Mason)の医院で事務のバイトを始めて、最初は怒られてばかりだったが努力してQuinadaとも仲良くなっていって、他方でOhlrigはLeonoraの居場所をつきとめて連れ戻し、Leonoraの正体を知ったQuinadaもロングアイランドに向かうのだが、そのとき彼女は妊娠していて…
ちっとも古くない、こてこてどろどろ、英米を代表する粘着パラノイア系男優が激突する、怪獣映画みたいなサイコメロドラマで自分の身とは一切関係ないので安心して見ていられる。Robert RyanとJames Masonが延々罵りあい殴りあうところをもっともっと見たかった。
Le Plaisir (1952) - 快楽
4月5日、日曜日の昼に見ました。
英語題は”House of Pleasure”。原作はモーパッサンの短編3つ - "Le Masque" (1889), "La Maison Tellier" (1881), "Le Modèle" (1883)をもとにした3つのエピソード。これもやはり見たことがあるやつだった。邦題がシンプルすぎるのがよくないと思うの。
Le Masque
ダンスホールで仮面を被って踊っていた男が具合悪くなって倒れて、そこにいた医師も一緒に彼の自宅までついてきてもらう。仮面を外した男はよれよれの老人で、家にいた老妻は昔はこれでもプレイボーイでしたの、って語るの。酸欠で死にそうになるまで仮面をして繕ってモテようとする男性の悲哀が妻の口から語られて、いろいろしょうもない。
La Maison Tellier
小さな海辺の町で、その町の男たちみんなが通うJulia Tellier (Madeleine Renaud)の娼館があって、ある晩から突然休業になってしまったようなので行き場を失った男たちはぶつくさ言い合うのだが、彼女は従業員たちを連れて姪の初聖体拝領式に出席するため列車で田舎に向かっていた。田舎の駅で一行を迎えたJuliaの兄Joseph (Jean Gabin)はそのなかにいたRosa (Danielle Darrieux)に夢中になるし、村人は派手でおおらかな女性たちにびっくりなのだが、メインはあくまで聖体拝領式で、その時はみんなでしみじみ聖なる何かに感動して、一行が再び町に戻ると、男性たちも大喜びで戻ってくるのだった。
Le Modèle
若い画家とモデル(Simone Simon)が恋におちて、一緒に暮らして将来を誓いあうのだが、やがて画家の心は離れて友人の家に身を寄せてしまう。そこにやってきた彼女は飛びおりる!っていって本当に飛びおりちゃって、後悔した画家はずっと車椅子の彼女の面倒を見ることになる。
若い頃の画家が絵を売りにいったサロンに、こないだオルセーで見たルノワールがあった、気がした。
最初のエピソードは老いた男性を女性が見ている話しで、最後のそれは動けなくなった女性を男性が見ている話しで、どちらも若い頃からの業を引き摺っていて、その中間のエピソードでは、聖体拝領式以降の色恋が盛っていくもようを描いていて、タイトルは「快楽」。誰ひとり悪くない。 死は見え隠れしているけど、ここにはいない。
Madame de... (1953) - たそがれの女心
4月6日、月曜日の晩に見ました。 これはさすがに見たことあった。
原作はLouise de Vilmorinの同名小説(1951)。
ベル・エポック時代のパリに関係の冷めきった夫婦 – Louise (Danielle Darrieux)と伯爵で軍の将軍でもあるAndre (Charles Boyer)がいて、遊びすぎて金がなくなったLouiseが夫から貰ったイヤリングを売ったら、それが宝石商~夫~夫の愛人を介してコンスタンティノープルまでいって、それを手に入れたイタリアの外交官であるDonati男爵(Vittorio De Sica)とLouiseとの出会いを経てぐるっと戻ってくるのだが、その軌跡が決闘沙汰にまで繋がっていく。
「呪いのイヤリング」と言いたくなるところだが、中心にいるのは自身の苗字を言えずに”...”となってしまう彼女の祈りと苦しみ、その悲劇、あとは将軍のクズっぷりと。
上の“Le Plaisir”が、死に向かう一歩手前までを描いているとするなら、こちらは死につながるチェーン(リング)に託された何かを映しだして、どっちにしても楽なことはない。なのになんで人は恋におちてしまうのか、など。
4.19.2026
[film] ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。(2026)
4月9日、木曜日の晩、TOHOシネマズ日本橋で見ました。
暇な老人たちがみんなこれを見てなんか振り返ったり語ったりしているようなのでー。
原作は写真家、地引雄一の自伝的エッセイ『ストリート・キングダム 東京パンク / インディーズ・シーンの記録』(1986)、監督は田口トモロヲ、脚本は宮藤官九郎、音楽は大友良英で、70年代後半の「東京ロッカーズ」を中心とした東京の「パンク」シーンの立ち上がりのようなところを、その場に居合わせて出会ったり記録したりしていく「ちゃんとした」人 - 写真を撮るユーイチ(峯田和伸)の目を通して綴っていく。
映画としては可もなく不可もなく、ちょっと社会の本流から外れたところに潜む危なそうなやばそうなテーマや人々をおもしろおかしいアンサンブルの人情噺に、うまく(NHKぽく)まとめていると思った。130分は長いけどそれだけ多くのバンドや集まっていた人たちをカバーしようとした結果だし、キャストもちゃんとしているようだし(知らない人たちばかりだったが)。
“Based on true events”なので、出てくるバンドや人物にはモデルがいて、わかる人にはすぐそれと特定できるようになっていて、そういうのも含めて幹になっているストーリーやメッセージのところは崩しようがないし強いし、その上であれはあんなんじゃなかった、とかあんなのもいたよあったよ、って当時を知る人たちが周りでいろんなことを語ったりしている。
映画は冒頭、80年代初、学祭でのスターリンのライブの狼藉を描いてそこに居合わせた主人公が、なんでここまでこんなことに… って回想をはじめる。70年代終わりの日本の田舎で、Sex Pistolsを聞いてこれだパンクだ! って東京に出てきてリザードのライブで開眼して、彼らの写真を撮り始めると、その流れで東京ロッカーズのシーンと出会って、いろんなことが起こっていく。
Sex Pistolsを聞いてすげー、ってなる辺りは同じだしわかるけど、それで走りだして東京に行って、リザードでおおってなるのはどうなのか? でそこから先はあまりよくわからなかったかも。はじめの頃のリザードのライブは凄かったのだ、と言われたらそうだったんですね、しかなくてそれで終わりになる。
自分にとってのパンクはまず音で、言葉なんてどうでもよくて、あの当時の日本のそれは音としてぜんぜん響いて来なかったし、「東京ロッカーズ」なんて、そんなふうなラベルを貼ってる時点で、バンドたちでわらわら寄って集っている時点でそんなのパンクでもなんでもないじゃん、て思った。ライブに通ってのめり込むにしても、東京に出てチケットを買う、それを繰り返す余裕なんてなかったし、その反対側で聴かれるのを待っている音、読まなければいけない本はいっぱい積まれていたし、歌詞のことを言うならAmnesty International Reportをそのまま曲にのせたThe Pop Groupの方に惹かれて、異文化にある彼らがどういう文脈で、どこに針を通してなにをパンクさせようとしたのか、まずそっちだったし。
あとは全体に漂うださいかんじ。「東京ロッカーズ」にしても少し後の「めんたいロック」にしても、なんでそんなふうにわざわざださくするの? 売るためのラベルなの? だったし、そこにいる人たち、みーんな揃ってずーっとタバコ吸ってて煙いしすぐアルコールに行くし、そんなのにお金と時間を使いたくなかったのよね。
最後にはアケミの言うように『自分の音を鳴らせ』で、それが正しいのかもしれないが、自分の音なんてそう簡単に見つかるものではないので、ずっと旅を続けているわけだし、そこに終着点があるとも思えないのだが、なんでそこに「キングダム」なんてものを持ちだす必要があるのか。”No Future”ではなかったのか。
いまの推し活とか承認欲求の話にまで繋がる、という話も出てきたところで、あーこれはやっぱり自分とはぜんぜん関係ない宇宙の話しだったかも、と思った。
それでもパンクはあったし、あるから。
4.17.2026
[music] Hey Mercedes, etc.
ここから日本に帰国後に見たものを書いていく。のだが、いまに至るまでずっとへろへろの状態なので記憶が薄れかけたり欠けたりしているものもある、ことがわかった。
Hey Mercedes
4月3日、金曜日の晩、西永福JAMで見ました。
体力との相談もあったので当日券で、西永福ってどこ?とかぶつぶつ言いながら現地に着いて、ああまたドリンク代を強制徴収される変なシステムの日々が始まるんだわ、って憮然としつつとりあえず。
Hey Mercedesを最初に見たのは2001年のNY(911が起こる前)、“Bleed American”を出してブレークするのが誰が見たって明らかだったJimmy Eat Worldの前座で、前座ではあったが彼らはものすごくよくて、その記憶を持って数年後に手にした“Loses Control” (2003)は名盤で、今回のツアーでもオープニングで演奏される"Quality Revenge at Last"は、たまにいまだに頭の奥で鳴り響くことがある。
演奏はところどころよたったりしていたが、メロと骨格が確りしているギターバンドだし、こちらの疲労倦怠に寄り添ってくれて気持ちよかった。今だと「エモ」に分類されてしまうのかもしれないが、Jimmy Eat Worldもそうだったけど、当時はふつうにハードコア/オルタナの流れに置かれていたよね – って誰に確認してよいのかわかんないけど。
Pearl Jam: Let's Play Two (2017)
4月4日、土曜日の夕方、新宿の109シネマズで見ました。4000円… ポップコーンがついていたらしいが、そんなのいらない。 ここはやはりクラッカージャックを出すべきだった。
Eddie Vedderの来日記念(ああ20日いけないよう…)の、Pearl Jamのライブドキュメンタリーフィルム(同名のアルバムもリリースされている)。前日のライブハウスに続いての目を覚まさなきゃいかんシリーズ。 Pearl Jamのこういうのなら絶対安全確実なので。
2016年、MLBのChicago Cubsが71年ぶりにNational Leagueのチャンピオンとなり、108年ぶりにWorld Seriesの勝者となった、その年の8月20日と22日にWrigley Fieldで行われたライブを記録編集したもの。フィルムだとライブの進行とCubsの躍進が並行して進んでいって、チームの優勝の様子とライブが重ねられているように見えるが、時系列としては別でライブの方が先 – というのは見た後で気付いた。
バンドのライブフィルムというよりは、Chicago Cubsの呪いも込みの苦難の歴史と幼い頃からの球団のファンであるEddie Vedderのチームとベースボールに捧げる思いが綴られ、その強い思いが歌となって球場をまるごと揺さぶっていくさまが感動的に描かれている。それはライブの感動とはまた別の、日本にもそういう人はいるけど、野球に人生をやられてしまった人のそれで、そういうのも含めての”Let’s Play Two”だと思ったのだが、自分は野球とかスポーツにやられたことがないので、「別の」ではないのかもしれない - ぜんぶひとつに繋がっているのかもしれない、とか。
ライブの合間にCubsの野球やファンのエピソードが挟まっていくので、歌と演奏に引っ張られてのめり込んでいくタイプのライブ・フィルムではないのだが、ワールドシリーズの大逆転の盛りあがりとEddieの個人史が重ねられていくことでPearl Jamの曲の揺るぎないパワーが際立つ - “Given to Fly”とか - そういう構成になっていたような。 で、やっぱり彼らのライブに行きたくなる。
J. Robbins
4月13日、月曜日の晩、今回の彼のライブの最終日に新代田Feverで見ました。
自分も帰国して2週間が経ったので、もうリカバーできているだろう、と思うのはあまい。ぜんぜんだめだわ。
開演時間は18:30、とあって、こういうのはふざけんな、って20:00くらいに行くのがふつうなのだが、今回はオープニングがtoddleなのであればしょうがない。新代田にどうやって行くのか、とかで少し迷ったりして着いたら少し始まっていた。
これで何度目になるのか知らんが、とにかくtoddleは自分にとっては特別で、あのギターの絡みって世界一だと思う。
そしてこれに続くDirt CopyもStorm of Voidもそれぞれまったく異なる粒度硬度のやかましさで圧してきてすばらしい。
Dirt CopyはNAHTのひとのだったのかー、って気付いた途端にいろいろななつかしさがー。
最初の3バンドのすべててんでばらばらの鳴り、ルックスもチューニングもアンプもぜんぶ違うありようが素敵ったらなくて、J.Robbinsの、あの3ピースのシンプルでシャープな佇まいがフロアの人々も含めて包摂する、音の指向とは真逆のすばらしくきちんとばらけてて、でもそれがマイナスにならない、理想的な雰囲気に満ちたライブだった。
そういうなかで最後止まらなくなってあと一曲、を何度も繰り返しつつがりがり鳴らしていくJのギターが最後まで残って、それはもうFugaziのそれと同じく自分にとっては空気と同じようなものだと。(ないと死んじゃう)
Jawboxとの最初の出会いは、1994年、MTVが深夜にやっていた“120 Minutes”っていう番組で、そこで"Savory"を聴いて、翌日の会社の帰りに“For Your Own Special Sweetheart”のCDを買って帰った。この頃の新しい音って、ほぼそうやって手に入れていたねえ。
それにしてもー、Hey Mercedesは25年前、J.Robbinsは30年前の出会いになるのかー。
こんなことになるとはねえー..
でもやっぱり3時間を超えて立っているのはつらい。 老人にもやさしいライブスペースを作ってほしい。
4.16.2026
[log] London - others part 3
ロンドンの最後の方に見てまだ書いていなかったやつなど。これで終わり。
Orwell: 2+2=5 (2025)
3月29日、日曜日の晩、Barbican Cinemaで見ました。
これがロンドンで見た最後の映画で、ふつうの新作はいろいろありすぎて決められず、BFIではFlareの映画祭でそれどころじゃなさそうだし、この辺になった。映画については見ようと思えばどこでも、の感覚があるのでー。
制作、監督、脚本はJames Baldwinのドキュメンタリー”I Am Not Your Negro” (2016)のRaoul Peck。 Damian LewisがGeore Orwellの声を含めたナレーションをやっている。
George Orwellの小説“Nineteen Eighty-Four” / “1984” (1949)を執筆した当時のOrwell自身についてのドキュメンタリーと、何度か映画化されてきた小説の大枠の紹介と、その内容が予言していた現代の独裁者(いっぱいいる)、飼いならされてしまう官僚や市民たち、そのツールとしてのAIの台頭などについて、そんなに緻密に追っているようには見えないのに、あまりに今にフィットしていて戦慄、のさまを並べていく。タイトルの”2+2=5”は、上が「2+2=5だ」って言ったらそれは2+2=5になるのだ、なるよな? という管理統制の理不尽を示す例で、いまやシャレでもなんでもなくなっていることは衆知のとおり。
George Orwellって、日本では”1984”と“Animal Farm”くらいのイメージだと思うが、英国ではそれに留まらない幅広い著作がある国民的な作家であることをペンギン古書収集活動で知ったりしたのだが、幼少期の彼やビルマで警察官をしていた頃のこと、晩年のジュラ島での生活のことなども含めて紹介されると、改めて取組みたくなるのと、繰り返し挿入される過去の”1984”の映画化作品で主人公のWinston Smithを演じたPeter CushingやJohn Hurtの像と、お話しとしての怖さ – ここの怖さやばさって、相当普遍的なものになっている気がするのだが、それなのになんで? というのがぞわぞわ来て、ああ”2+2=5”をソフトに強要されて誰もなんとも思わないあの国のあの社会に戻されるんだわ、って改めてうんざりぐったりした。
Michaelina Wautier
3月29日、日曜日の午後、Royal Academy of Artsで見ました。
2020年にNational Galleryで企画展示が組まれたArtemisia Gentileschi (1593-1652)と同時代を生きたベルギー(当時スペイン領)の女性画家Michaelina Wautier (1614–1689)の特集企画。Artemisiaがそうだったように、絵描きとしての技量が優れていたが故に作品が家族の男性(Artemisiaの場合は父、Michaelinaの場合は兄)に帰属するものとされてしまい、結果として美術史のなかに埋もれていた、という。 ほかにもこんな女性たちがどれだけあるのか、って思うが、とにかくこうして見れるだけでも。
この時期の絵画の技術的な巧い下手はわからないのだが、並んでいる肖像画も話題になっている”The Triumph of Bacchus” (1655–59)も絵としての迫力は十分で、これなら男性作家の間に埋められてしまうの無理ないかも、とか、他方で肖像画の髪の膨らんだかんじとか表情の柔らかさは、やはり女性のそれかも、とか。いやそんなことより男性・女性ではなく、Michaelina Wautierという画家との出会いを歓ぼうではないか、って言いたくなった。
Rose Wylie The Picture Comes First
上でMichaelina Wautierを見た後に、2回めのRose Wylieを見る。
彼女と最初に出会ったのは2018年、Serpentine Sackler Galleryでの”Rose Wylie: Quack Quack”で、後で図録を取り寄せるくらい好きになって、昨年、ベルンの Zentrum Paul Kleeでの”Rose Wylie. Flick and Float”で再会して、今回が3度目。何度見てもなんとも言えずすばらしい後ろ頭の魔法。
Royal Academyの1回めに見にきた時に、限定でサイン入り図録を売っていたのを入手できたのは嬉しかった。
Fairy Tales
3月30日、月曜日のお昼にBritish Libraryで見ました。
British Libraryが”Fairy Tales”をテーマにした企画展示をやるのであれば、古今東西、少なくともイングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドの辺りのいろんな収蔵資料をざーっと並べてめくるめく多層多重世界のパノラマを見せてくれるに違いない、って期待して行ったら、子供と親向けに見て楽しんでもらう体験型のアトラクションに近いやつだった。 アリスとかアラジンとか竜とか魔物、それなりのスターたちと元の文献などは揃って展示されているのだが、それよりも着せ替えしたり潜りこんだり隠れたり杖を振り回したり、童話やおとぎ話の世界はこういうもんなんだよ、っていうのを一通り体験できるようになっていて、大人も子供も遊園地のように楽しんでいて、彼らにとっては遊園地だろうが、自分にとってはまるで動物園だった。
その晩に地獄に向かって飛びたつことがわかっていたので、最後にせめてファンタジーを、と思ったアテは外れて、場内にはやかましいのに疲れた人はここから抜けれます、の矢印もあったりして、そこまではしなかったけどちょっと残念だった。
最後のお買い物(でっかいの)はふたつ。どちらも古書で、古書と言っても手が届かないすごいのではないし、収集家のひとから見たらどうってことないやつなのだろうが、自分が持っているなかでは一番高価なやつでどうしようか3ヶ月くらい考えていた。 これらを含む6冊くらいの宝物は船荷には乗せずに手持ちで運んで、まだ包みを解いていない。中で腐ったりしていませんようにー。
4.15.2026
[log] London - others part 2
ロンドンの最後の日々 – でないものも含まれるが - に見たあれこれを。
Turner & Constable (2026)
3月22日、日曜日の晩、CurzonのVictoriaで見ました。
Tate Britainでの展覧会 – “Turner & Constable”の展示内容を補足してくれるドキュメンタリー映画。
どこのどなたがやっているのか知らないが、Tateとかで大きな展覧会があると、”Exhibition on Screen”という展示内容を補足してくれる1.5時間くらいのドキュメンタリーが作られて、映画館でもものすごく限定で公開されたりする – たぶんどこかの配信だとずっと見れるのかも。(日本だと日曜美術館?)
1775年生まれのターナーと1776年生まれのコンスタブル、Royal Academy of Artからほぼ同時期に世に出た19世紀初の英国風景画の巨匠、互いを意識していたに違いない同時代のふたりの作風や表象の共通点や相違をキュレーターや現代のアーティストが明らかにしていく。
展覧会の構成に沿って、最初のコーナーにあるふたりの若い頃の自画像から入って、ふたりの絵画の明らかに異なる点を強調した後に、それぞれの意匠が時代を経てどう変わって、違っていったのかを追っていく。
時代背景のようなところでは、ナポレオン戦争によってヨーロッパ、特に18世紀のグランドツアーが廃止されたことで、イギリス国内の風景に向かわざるを得なかった、それがふたりの初期の作風や方法論に影響を与えた、というキュレーターによる指摘が興味深かった。それでも、それにしてもあんなふうに違ってくるものなのかー。
これを見た上で、3/22にもう一回、Tate Britainに行って実際の展示を見たのだが、改めてコンスタブルの画面手前の傷と奥に広がっていく遠さ、ターナーの渦を巻く黄色について確かめた。
Tracey Emin - A Second Life
3月22日、Tate Modernで見ました。
新国立美術館のYBA展でも(たぶん)取りあげられているTracey Eminの回顧展。
ロンドンの美術館やギャラリーを回っていると、彼女の作品は本当にいろんな場所、テーマの企画でちょこちょこ見ることができて、どれも傷だらけのぐちゃぐちゃで痛ましいなー、と思いつつ、そんな痛みこそが彼女の作品のコアにあることはわかっていたので、今回の回顧もそれらに晒されたしんどいものになるのかも、と思っていたらそんなでもなかった。
若い頃のどろぐしゃの恋愛遍歴から中絶、がんの宣告〜治療まで自分の身体に起こったことすべてを曝け出してぶちまけるデッサン、手紙、映像、キルト、血だらけだったりほぼゴミだったりのオブジェ、散らかりまくりの部屋、そして絵画まで、ハッピーで穏やかに眺めていられる作品はほぼなく、彼女の身に降りかかった困難や苦悩に引き摺りこまれ匂いを嗅がされるような。でも他方で、それらを離れて眺めているような感覚 – それは彼女が自身に向きあっているそれでもあるような – があって、タイトルである”A Second Life”というピンクの流線形のネオンと共に、次のステージが見えてくるようだった。
90年代の、誰もが「リアル」であろうとして、べったり共時の共感を求めてきたあのうっとおしい時代を抜けてここまで来た、来させたもの、それに要した時間ってなんだったのか、ということを改めて考えたり。
Lucian Freud: Drawing into Painting
2月14日、National Portrait Galleryで見ていたやつ。
Lucian Freudの、精緻にみっしり描きこまれた肉の絵画(Painting)、その中心にあるいろんな人物の描写、構成は、どんなスケッチ、デッサン、落書き等から出来あがっていったのかを見ていく。幼少期のクレヨン画から美術館の古典絵画を模写したものまで、彼の創作のプロセス、その秘密を知る、という点では興味深いのだが、そんなに明確にBefore → Afterが示されているわけではないので、ドローイングはドローイングで雑多でおもしろく、絵画は絵画でブリリアント、でしかなかったりするのが少し残念だったかも。あと、Guardian紙のレビューにもあったように、Freudにしてはそんなにすごい絵が並べられているわけではない、というところもちょっと惜しいかも。 Freudの熱狂的なファンなら別かもしれないけど。
Catherine Opie: To Be Seen
3月30日の昼、帰国する前にNational Portrait Galleryで見ました。
アメリカの写真家Catherine Opie (1961-)の肖像写真を中心とした、イギリスでは初となる規模の企画展示。
90年代以降に撮られた陰影強め、皺や傷跡、タトゥーもはっきり深く濃く定着させる絵画の強さをもった肖像写真たちで、被写体は自分の家族や友人、ロスのクィアコミュニティやサーファー、アウトサイダーたち、彼女自身の丸い大きな背中に彫られた、子供の描いた家族の絵 – 彫り傷で血が滲んでいる “Self-Portrait/Cutting” (1993)も。彼らははぐれ者ではなく、写真の中心に、”To Be Seen” - 「見られるべき者たち」 として堂々とそこにいて、像をつくる。ダイバーシティなんて当たり前のことなのに、と明確には訴えていないがトランプ政権に対する批判として写真が、というよりそこに映りこんだ人々が強く語りかけてくるような。
写真家として彼らにできることって何かあるのか、と問いながら写真の可能性を掘っていくような。
ここでまた切る。あとひとつくらい書けるかしらん。
4.14.2026
[log] London - others part 1
ここからしばらくはロンドン最後の方の日々で見て、ぜんぜん or 十分書けていなかったのを並べていきたい。
Schiaparelli: Fashion Becomes Art
V&Aで3月28日から始まった展示で、3/29の土曜日に見てきました。 Elsa Schiaparelli (1890-1973)の回顧展。
ダリやコクトー、ピカソやリー・ミラーといった同時代のアーティストとのコラボ、ロブスターや電話機や骸骨やいろんな動物たちを服やアクセサリーに織り込んで服飾をアートやオブジェの域まで高めた、自分にとってはデザイナーというよりはアーティストに近いイメージの人で、見どころもその辺になるのか。アクセサリーやアーカイブも含めて約400点が出ている。 展示の後半には今のSchiaparelliのCreative DesignerのDaniel Roseberryによるブランドの現在をうまく散りばめて、死んでいないのだアピールもあったり。
イタリアに生まれ、20代でロンドンに来て、30代で20~30年代のパリに移り住んで、ライバルとなるCoco Chanelと出会い.. 展示ではあの時代のパリの空気感が充満する前半がすばらしいのと、彼女の服を身に着けた映画スターたち – Katherine Hepburn, Marlene Dietrich, Joan Crawford, Josephine Baker, Diana Vreelandらの肖像がたまらない。あの時代の彼女たちが着ていた、という強さ。
前の日に見た”The Antwerp Six”の対極にあるようで、Coco Chanelがやったことと並んで、これもまた革命のようなものだったのかもしれない、とか。MET Galaを始め、レッドカーペットでの奇抜さを競うあれらの素地を作った、という功績。これらって作る人、着る人は楽しそうで、見る側はよくもまあ、とか着るの面倒くさそうだな、になって、そんな風に見る - 常に纏うファッションと飾るアートの境界を考える/考えさせるような形でのファッションのありようを作った人、ということでよいのか。
Seurat and the Sea
3月22日、Courtauld Galleryで見ました。
Georges Seurat (1859-1891)は、『グランド・ジャット島の日曜日の午後』 - “A Sunday Afternoon on the Island of La Grande Jatte” (1884-1886)の、あのでっかいやつ一枚で十分と思っていたのだが、昨年9月のNational Galleryでの企画展 - “Radical Harmony - Helene Kröller-Müller's Neo-Impressionists”がすばらしく、少し認識が変わって、点描というスタイルは結構すごいのでは、って思った。
そういう流れを受けての、Seuratが描いた海、海辺の絵を集めた展示。
Seuratは31歳の若さで亡くなるまでに45点の絵画を描いていて、ここではそのうち英仏海峡の海を描いた風景画 - 23点の油彩と3点の素描が展示されている。 こうやって並べられているものを見ていくと、ポストも含めた印象派とは全く異なる視角で光や知覚に関わる可能性を追求していたことがわかる。光やモノが網膜上に置かれるその「印象」ではなく、物理的な質量感やそれを構成する粒粒として迫ってくるその力学を追っていたということが、岸壁や海面の隆起や反射と共に見えてくる。 それは印象派の「印象」としてざっと一瞬で把握できるものではなく、じーっと見ていると静かに波打つように形作ってくるようにやってきて、そんなふうに海が迫ってくるさまが圧倒的で、わーって。
時間があったらもう一回見に行きたかったのだがー。
A View of One’s Own: Landscapes by British Women Artists, 1760-1860
Courtauld Galleryの小さな展示室でやっていた小企画。
今年はTate Britainでの”Turner & Constable - Rivals & Originals”という、なかなかすごい、歴史に残るような展覧会が開かれた年でもあったが、こういう展示もあってよいの。
18世紀から19世紀にかけて、男性画家ばかりが風景画を描いていた頃、同様に風景画を追求していた女性画家もいて、そんな10人を紹介している。油彩の大きな絵はなくて、サイズも小さめの水彩画、ペン画、素描が中心だが、どれも素敵。荒ぶる自然のなかにあって迫ってくる風景、というよりは穏やかで虹が出ていたり、楽園のような広がり - 迫ってくるというより奥に広がっていく - のなかにあって、そうだよなー、っていうのと、作品がずっと息子のものとされていてこないだ改めて発見された(ひどい話)Elizabeth Battyとか。
ここで一旦きる。 だらだら書いていこう。
4.13.2026
[log] Antwerp - Mar 28 2026
3月28日、土曜日に日帰りでアントワープに行ってきました。
本帰国の前々日になーにをやっているのか、なのだが、最初、たしか1月中旬頃に”The Antwerp Six”の企画展示がある、というのを見て、あー行きたいなーってなり、でも開始日は3月27日からで、もし行けるとしたら28の土曜日だけよね、ところでEurostarだったらどんなふう? って時間と値段(変動する)を見てみたらそんな高くなかったので、えいっ、て取っちゃって、後で展覧会のチケットも取って、どうしてもだめだったらしょうがない、にしておいたら結果どうにかなった。
不安要素は、Eurostarでブリュッセルまで行って、そこから約1時間、電車でアントワープに向かうのだが、週末の電車は平気で遅延やキャンセルが起こるので、たどり着けない戻れないの事態になることだった。例えば戻りのEurostarに乗れなくなって現地一泊とかになったらまじでとってもやばい。(だからふつうの子はそんなことしないのね)
アントワープは2度目で、前回はアムステルダムから行って大聖堂とか主なところは行っていた、と思っていたのだが結果としてはやっぱり足らないかんじになったかも。
The Antwerp Six @ MoMu - ModeMuseum Antwerpen
昼の12:00のチケットを取っていて、Eurostar →電車→メトロと乗り継いで到着したのは12:15くらいだった。よかった。
アントワープ王立芸術学院のファッション学科で学んでいた6人が1986年のBritish Designer Showでインターナショナルデビューをしてその名で呼ばれるようになってから40周年を記念した、アントワープでは初となる彼らの、グループとして、というより各デザイナー全員を束ねた回顧展。今みたいにファストファッション/ハイブランドの両極のビジネス軸でしかファッションが語られなくなるより前、80年代のロンドンを向いた若者の誰も彼もがカラスの真っ黒ばっかりだった時代にThe Antwerp Sixとして、あるいはデザイナー個人の名で呼ばれた彼らは、革命などは起こさなかったのかもしれないが、とにかくかっこよかった。 あの時代にかっこいいー、って言われるのって、本当にかっこよかったんだからね。 というのが個人的な概観。
最初の方のコーナーには、ものすごくでっかいファッション年表とその頃流行ったもの、などがべたべたかつ詳細に網羅されていて、追っていったら軽く1時間使いそうだったので、この時点で図録購入をなんとなく決めて先に。
時代を概観したあとで、6人個々の展示コーナーを順に巡っていくかんじ。
Dirk Bikkembergs(スポーツ中心のメンズ)→ Walter Van Beirendonck(かわいい) → Dirk Van Saene(ぐるぐる回っていくコンベアー仕掛け)→ Dries Van Noten(やっぱりすごい)→ Marina Yee(ファッションではなく、彼女が暮らしていた部屋の再現。ちょっとしんみり) → Ann Demeulemeester(やっぱりかっこいい)、など。
よくもわるくも統一感ゼロでばらけていて、そりゃそうだろうなーになるのだが、やはり際立ったのはDries Van NotenとAnn Demeulemeesterのクラシックの風格とはまた違う、永遠のモダーンとしか言いようのない輝きなのだった。あの当時の音がいつ聴いてもいつまでも古くならないのと同じような艶と鋭さと。
始まって2日目だったせいかものすごく混んでいたが、時間に余裕のある人は1日たっぷりいられるのではないか。
図録は€70で結構重くて、船荷を出した後なのでこれを日本まで持って帰るんだぞそれでよいのか?(って後になって思った)のだが買っちゃった… (いま、ビニール剥がしてない状態で床に転がっている)
他の企画展示として、パレスチナの民族衣装を並べた”Embroidering Palestine”があった。軍服ではなく、女性や子供たちの服。こんなに素敵な布や服、これらを纏って継いできた文化のある人々を… って改めて。
そして常設展示コーナーの充実ぶりも見事だった。徒に時代を遡らず地域を広げず、現代ヨーロッパを中心としたテーマ別展示のシャープなこと。
お昼はお芋のフライをかっこんで(ここのフライはなんでおいしいの?)から、美術館ふたつ。
Koninklijk Museum voor Schone Kunsten Antwerpen
アントワープ王立美術館。前回来た時は改装中だったのか、今回が初めて。MoMuから20分くらい歩いた。
モダンサイドと古典サイドがあって、最初にJames Ensor作品が並ぶモダンの方から入って上に昇って、しかしどういう設計なのか階段だらけでなかなか古典の方にいけず消耗した。あんな入り組んだ構造、美術館にはいらないー。
古典サイドは、Rubensの諸作はもちろん、Jan van Eyck『泉の聖母』 (1439)とかJean Fouquet 『聖母子と天使たち』(1452)とか、冷たいんだかあったかいんだかわからない聖母や天使がうじゃうじゃいてたまらなかった。
Museum Plantin-Moretus
王立美術館から再び20分歩いてプランタン=モレトゥス博物館。
16世紀の出版業者クリストフ・プランタンの家屋と印刷工房、中庭など一式がプランタン=モレトゥスの家屋・工房・博物館複合体としてそのまま博物館になっていて、これらがまるごと世界遺産に指定されている。世界最古の印刷機やそこで使われた印刷用活字一式が一揃いある、と。
部屋じゅうに紙の印刷物と紙ごみを積みあげ、埋め尽くし、これらに潰されるなら死んでもよい覚悟系の(たぶん)変な宗教にやられてしまった者にとって、そういうのを世界中に広めた起源のひとつとなる館なので、お参りしないわけにはいかない。昔の家屋なのでところどころ暗く、1階2階があって不思議な形に入り組んで、木がみしみしぎしぎし鳴って、頭がおかしくなりそうになったら中庭にでて一息ついたりした、のだろうか。稀覯書もいっぱい(そりゃあるだろ)あって、これらに比べたらまだまだ、って思ったので、なんの効果もなかった。なにを期待していたんだろうか。
ここまでずっと歩いて結構疲れたので、地下鉄の駅までゆっくり歩いて戻ったのだが、途中に世界中の雑誌を集めた書店(なんておそろしい)があったり、Demianていうなかなかの古書店があったり、ブリュッセルもアントワープも書店は相当にやばいのだった。
帰りは問題なく帰れた、というか電車の椅子に座ってからの記憶がほぼないくらい。
4.12.2026
[theatre] Broken Glass
3月27日、金曜日の晩、Young Vicで見ました。
これがロンドンで見た(今のところ)最後の演劇となっている。
最後になにを見ようか、の候補はいっぱいあったのだがあんま考えても時間は過ぎていくばかりだしそもそも考えている時間ないしで、えいっ、って決める。この日はロンドンの勤務場所の最後の日でもあったので、もう少し明るいのにすれば… という声もあったのだが、そんな場合か、って。
Young Vicにしたのはここに面した通りの反対側に演劇関係の本中心の古書店(その奥にはリハーサル用のスタジオもあるみたい)があって、ここににゃんこがいるから、でもあった。猫にお別れを言いたかったの。
原作 (1994)はArthur Millerの同名戯曲で、初演も同年。舞台は客席に向かってせり出している長方形の舞台の三方を囲んで見下ろす形。奥にはドアとその向こうはブースのような廊下が通っている。メインのスペース - 事務所のような待合室のようなリビングのような - には大量の新聞や雑誌 - 当時のではなく現代の - が積みあがり、散らかっている。演出はJordan Fein。休憩なしの約1時間50分。
1938年の11月、ドイツ全土でナチスによるユダヤ人による排斥・襲撃が表面化したKristallnacht - the Night of Broken Glass - の報道記事がアメリカでも出た頃、ブルックリンに暮らすユダヤ人夫婦 - Sylvia Gellburg (Pearl Chanda)とPhillip (Eli Gelb)がいて、Sylviaは突然歩くことができなくなってしまう。
怪我をしたわけでもぶつけたわけでもなく、明らかに心因性の、おそらく一時的な障害と困難、その要因や対処を巡ってPhilipと医師 (Alex Waldmann)が互いの意見や憶測をぶつけ合い、でも正解や正しい対処法が見つかるわけでもないしSylviaは快方には向かわないのでPhilipはことあるごとに誰に向かってなのかぶち切れ激昂し、激しい怒鳴りあいにまで発展したりして、まずはそんな外面だけはよい夫の日常的な抑圧と支配がベースにあるのだな、というのは容易に推測できる。
その上でSylviaの抱えこんだ疑念や不安 - ナチスはなぜあんな酷い行動に出たのだろうか、なぜあれを誰も止められなかったのだろうか、それはアメリカのブルックリンに暮らす我々のところにも波及してこないだろうか、そうならない保証はどこにあるのか、そうなった時にどこに助けを求めるべきなのか、ユダヤ人コミュニティとして行動を起こすべきではないのか、なんで誰も何もしないで平気でいられるのか、などなどがじわじわと表に出てきて、こうして提示される不安 - 踏みだすことも、逃げることも、闘うことも、こんなふうに動けなくなることすら - できない/許されない - そのありようは彼女の身体を縛って覆って、その姿は客席という安全圏からそれを眺めている我々「観客」にもその態度や認識を問うてくるようだった。
そして当然のように頭にはガザで起こっていることが浮かんできて、それはArthur Millerが得意としてきた社会的な衣を纏いつつ顕現してくる有害で邪悪で狂った男性性、といういつものテーマをどこかで薄めてしまっているのかも知れないが、それくらいの強さで今の我々を傷つけているのだと思うし、なによりも今この時にだって人が殺され続けているのだ、ということを否応なく突きつけてくる。地理名としての「ガザ」なんて一言も出てこないのだが。
そしてその中心にいるふたりの、自分ゴトと他人ゴトの境を見境なく切り裂いていく切迫した演技はすばらしいと思った。
4.10.2026
[theatre] Les Liaisons Dangereuses
3月26日、木曜日の晩、National Theatre内のLyttelton Theatreで見ました。
まだPreview中だがそんなことは言っていられない。
ロンドンでいろんな劇場に行ったが、なんだかんだ、ここのLyttelton Theatreがサイズも含めて一番見やすくて好きだったかも、ってしみじみした。
原作はラクロによる同名の書簡体小説(1782)- 『危険な関係』。
1988年のStephen Frears監督による映画 - ”Dangerous Liaisons”の際にも使われたChristopher Hamptonによる舞台用の脚色(1985 - 初演も)をベースにMarianne Elliottが演出している。前日に続いてこれも休憩入れて約3時間。
Glenn Close, John Malkovich, Michelle Pfeiffer, Uma Thurman, Keanu Reevesらが出演した映画版は役者たちの演技が誰も彼もすばらしく展開も目が離せなくて何度でも見れるくらい好き。
今回の舞台版ではGlenn Closeが演じたメルトゥイユ侯爵夫人をLesley Manvilleが、John Malkovichが演じたヴァルモン子爵をAidan Turnerが演じている。
舞台の上方、左右奥の背景には官能的な女性の絵(日本だったら春画か)がでっかく帯のように広がり囲んでいて、その下方はミラーになって歌謡ショーのステージのよう。舞台は舞踏会のフロアだったりいろんな衝立てやドアが右左から運ばれてきたり、冒頭は正装したモデルのような男性たちがゆっくりと歩きまわる中、奥の扉からゴージャスなドレスを纏った女性たちがわらわら現れて見事な群舞を披露して、そこに先の男性たちが捕食するかのように群がる。その中心にいるのが深紅のドレスのLesley Manvilleで、見るからに女帝の貫禄で周囲を圧倒し、みんなが平伏している。
ストーリーは、メルトゥイユ侯爵夫人が、かつての愛人でもあったヴァルモン子爵を操って、貞淑なトゥルヴェル夫人(Monica Barbaro)と若くて純情なセシル (Hannah van der Westhuysen)を誘惑させて、みんな揃って転げ落ちていく様子を高みの見物して楽しもうとする。原作の書簡体小説の受けて返しての一拍入るその感覚はうまく生かされていて、場面場面の展開を追うのが楽しくて、気が付けばトゥルヴェル夫人は泥沼に落ちて、セシルは天に舞いあがって、それをどんなもんだい!って腕組みするヴァルモン子爵と、更にそれを高いところから眺めてにやにやするメルトゥイユ侯爵夫人ができあがる。
すべての立ち位置が揺るぎなく立ちあげられて彼らを身動きできないようにする前半までと、これらの縛り縛られが始めた側の思うようにはいかない「危険」なものへと変貌し、解れたり崩れたり手に負えなくなっていくさまを描くのが後半で、セシルは妊娠してしまうし、ヴァルモン子爵は狂っていくトゥルヴェル夫人を本気で恋してしまい、それを察知したメルトゥイユ侯爵夫人は嫉妬の沼に落ちて…
前日の”Romeo & Juliet”の死をも恐れずに天に昇ろうとするピュアな彼らと比べると(比べるな)、そこから約200年が経っているとは言え、なんというどろんどろの地獄絵図であろうか、って呆れてしまうのだが、これはこれで十分に生々しく、ゴージャスなセットやコスチューム、時折挿入されるダンスシーンも含めて、死と隣り合わせの恋愛遊びのデンジャラスな、でも知らんがなの刹那に溢れていてたまらなかった。
映画版でKeanuが演じたヴァルモンに決闘を申し込むセシルの許嫁の彼だけ、もうちょっとぴりっとかっこよかったらなー。
それにしても、下着1丁になって踊ったりするLesley Manvilleのものすごいこと。彼女のお芝居は2018年に”Long Day's Journey into Night” - 共演はJeremy Irons、2024年に”OEDIPUS” – 共演はMark Strong、と見てきたが、今度のが一番強烈だったかも。
4.09.2026
[theatre] Romeo & Juliet
3月25日、水曜日の晩、Harold Pinter Theatreで見ました。
今回の滞在期間中に見た演劇のうち、5本目となるRomeoとJuliet。なんか流行っているのだろうか?
“Stranger Things”のSadie Sinkと映画”Hamnet” (2025)の劇中、グローブ座で上演される”Hamlet”でHamlet役を演じていたNoah Jupeの競演。 原作(1596)はShakespeare、演出はMark StrongとLesley Manvilleによる”Oedipus”がおもしろかったRobert Icke、設定やコスチュームは現代のそれになっていて、タイトルの”&”はハートマークを模していて、客層もやはりたいへん若い。それもあるのか上演前からスマホ撮影に対するチェックと指導は厳しめ。 休憩を挟んで約3時間。
配役は若いぴかぴかのふたり vs 汚れて醜い一族の大人たち、が強調されているようで、シンプルな黒の背景にふたつの勢力の対立構造がざっと紹介された後、中央に置かれた大きな白いベッドの布団からJuliet (Sadie Sink)がひょこっと顔を出してふぁーって気持ちよさそうな伸びをすると、それだけで客席から溜息がもれたりする(Paddingtonミュージカルの登場シーンと同じ)。そして少しの間を置いて、同じベッドからRomeo (Noah Jupe)も姿をあらわす。場所は別々であっても、そんなふうにどこかでなにかが同期している予感のようなものがふたりを近づけていく。
舞台の上にはデジタルの時計板が表示されていて、前日の土曜日頃~キャピュレット家でふたりが目線を交錯させる日曜の晩からふたりが遺体となって発見される水曜日の朝まで、たった4日間の時間を刻々と刻んでいく。で、場面によっては同じシーンの時間を巻き戻して、もしこの場面がこう進行していたら… という仮設定シーンも重ねて上演されたりする – 例えばもしあの晩ふたりが出会わなかったら、とか。でもこの悲劇には関しては、どれだけの「もし」を重ねたとしても、誰もが最後にああなってしまうことを知っているし、それ以外の結末なんてありえないし、みんなそれを見にくるものなので、あんなふうにもしもあの時… を重ねていくことにどんな意味があるのか、はちょっと思った。(ひとりひとりが後でしみじみ振り返って想像すればよいことでは - 実際にそうするし - とか)
ただ、これをやることで、ふたりのあの出会いがどれだけの奇跡の上に重ねられたとてつもない奇跡であったのか、はくっきりと強調されていたかも。
光と闇をコントラスト強めに交錯させていく演出とライティングは、ふたりが相対するやくざでバカでしょうもない世の中やそこに潜むガサツな大人たちを劇画のような暗さのなかに浮かびあがらせ、その反対側でまばゆい、止まらない愛を辺りかまわずぶちまけていくふたりの姿を照らして、近づいてくる最後の時までの切なさ辛さときたらたまんなくて、ふたりはそれに応えるかのように羽を目一杯広げて飛びたとうとして、その眩しいことったら。
これまで見た同作の翻案ものとしては、やはりBaz Luhrmannの映画版 - “Romeo + Juliet” (1996)のClaire DanesとLeonardo DiCaprioの、あのふたりを思い浮かべてしまう。グランジの泥のあとに現れた彼らの瑞々しさと、それに続くケミストリーと、それが壊されていく、でもぜったい壊されないが故の痛みがどこまでも伸びていって、トラウマになりかねないやつ。
あの映画ほどの悲痛なかんじはなく、他の舞台にあったような悲劇一直線の生真面目な暗さもそんなになくて、とにかくふたり一緒にいられれるのなら、あとはなにもいらない! のつんのめった明るさがふたりをたったふたりにする。それだけで十分、になってしまう、そんな舞台だった。Sadie Sinkの輝きを見てほしい。
Bruno DumontのRomeo and Julietにインスパイアされたという新作、見たいような見たくないような…
4.08.2026
[theatre] Evening All Afternoon
3月24日、火曜日の晩、Donmar Warehouseで見ました。
この日は午後から航空便と船便の荷物出しがあって、13時開始予定だったのが前のが押してるとかで3時間ほど後ろに倒れて、でも17時前にはどうにか終えて、スーツケースなどに詰めた生き残り荷物と一緒に車で西の方のホテルに移動してからCovent Gardenに行ってBleecker Burgerでバーガーとフライとシェイクを頼んでなんとか生き返って、その隣でこれを見た。
上演前は、Joni Mitchellの”Both Sides Now”が繰り返し流れていて、ステージ上は手前に椅子がある白の簡素なリビングのよう。奥に小物が並べられた棚があって斜めから照らされるモノトーンの照明が柔らかく影絵の効果を生み出している。
原作はNYのAnna Zieglerによる新作(これがプレミアとなる)の2人芝居、演出はDiyan Zora。1時間半、休憩なし。
Delilah (Erin Kellyman - こないだの映画 - “28 Years Later: The Bone Temple”(2026)での演技が印象に残った、これが彼女の演劇デビュー作)はジャマイカ生まれの母を亡くして、彼女の父は7歳年上のイギリス人女性のJennifer (Anastasia Hille)と結婚した。彼女は地味で穏やかな典型的なイギリス人で初婚で、Delilahは最初からふてくされていて、彼女のなにもかもが気にくわないらしい。
ブルックリンで育ったアメリカン娘と午後の紅茶とその時間を愛する穏健なブリティッシュ女性が最初から意気投合するはずもなく、愛する母を失ったばかりのDelilahからすれば、再婚によって父までも奪われたかのようで、でもそれらをぶつけることができる相手がいるとすれば目の前のJenniferしかいない。
Jenniferからすれば、これまでしたことがなかった結婚(生活)に加えて、自分が持つことになるとは思っていなかった子供 - 娘までついてきて、いかにもイギリス人な辛抱強さと諦念と母親的なおせっかいでもってどうにかできる、と思っているような(はっきりそう語るわけではないが、その態度物腰、眼差しと自分の知るイギリス人の範囲ではそうかな、って)。
劇は最初から敵意&憎悪丸出しのDelilahとそれをぜんぶ律儀に正面から受けながら少しでも自分のことをわかって貰おうと静かに優しく語りかけていくJenniferと、でもそれらのコミュニケーションがぜんぶ空振りしたり宙に浮いてしまったり、舞台の中央にはゆっくり回転するサークルがあって、その端と端に立ったふたりが距離を縮めることなく同じ軌道を回り続けていく姿が描かれていく。
やがて静かな語り、そのやりとりの中で明らかにされていくJenniferの過去、彼女の抱えてきた喪失と失意の物語がDelilahのなにかに触れて、めでたく分かり合えて結ばれる - そんなわけはないのだが、それぞれの影がふたりの間にひとつの、いくつかの像を切り結んでいく様が刻々と描かれていく。対話やそこに向かう姿勢がどう、という以前のところで、そこにいるひとりの人はそれぞれいろんなものを背負ってそこに座っている、その息遣い、それがもうひとりに触れて何かが起こるその不思議が舞台の上に置かれているようだった。
この静かな紛争の第三の当事者であるDelilahの父親、Jenniferの夫がここにいないことについて、人によっては違和感を感じるのかも知れないが、これは原因や和解を模索するお話しではない気がして。
客席には女性がやや多めで、最後の方はすすり泣く声があちこちから聞こえて、そうかも、って思った。アメリカで上演しても同じ反応になるのかしら?
4.07.2026
[theatre] The Tempest
3月22日、日曜日の午後、グローブ座にあるSam Wanamaker Playhouseで見ました。
船荷出し&引越し2日前、最後から2番目の日曜日、こんなとき、日曜の昼間にやってくれるマチネは大変貴重でありがたいったらない。
原作(1611–1612)はShakespeare、翻案、演出、主演はTim Crouch。
シアターに入ると、役者たちは既に床に寝転がったり、座ってぼーっと宙を眺めていたり、後でCaliban (Faizal Abdullah)であることがわかる彼なんか、蝋燭ひとつひとつに地味に火を灯したりしている(このシアターの照明はぜんぶ蝋燭なので準備がいる)のでシアターの裏方の人だと思っていた。
そんなふうに開場した時から始まっているので劇が始まる前の舞台の写真を撮ることは禁止で、始まってしばらくして、劇の途中でスマホで撮影していた客をProsperoが注意したので、客席側がはっ、となったら実はその人は役者 – Antonia (Amanda Hadingue)で、あとからステージに乗りこんできてこの劇おもしろくないよ、って文句を言ったりする。他にも客席の上のほうから鼻歌が、と思ったらそれが幻惑するコーラス組になったり、スマホ撮影禁止の立札を持って一番前で立っていたのがFerdinando (Joshua Griffin)だったり、特にナポリの連中はProsperoの島に客席のあらゆるところから勝手に現れたり戻ったりしてて楽しく、彼らは休憩時間もそのまま客席にいたり。
舞台は蝋燭の灯だけで浮かびあがる暗くて狭い船室のようで、壁には博物館のように過剰な装飾と陳列品がみっしり、床にも散乱するいろんなガラクタが転がっていて、Prosperoの船は壁に取り付けられてくるくる回転する模型で、ゴミ屋敷手前のような投げやりな散らかりようを見ると、Prospero (Tim Crouch)は復讐に燃える大公というよりとうに萎れた隠者のようで、彼の傍にいる娘のMiranda (Sophie Steer)も妖精のAriel (Naomi Wirthner)もとてもおとなしくて、異界からも魔法からも遠い、枯れたお茶の間の住人のようにしか見えない。
そういうとっ散らかった状態で、召使のTrinculo (Mercè Ribot)とStephano (Patricia Rodriguez)は語学学校の生徒で周囲と話が通じなくてずっこけてばかりだし、サッカーチームのTシャツを着たCalibanはマレー系シンガポール人の母国語で会話をしてきたり、ポスト・コロニアルというか、ま、そうなんだろうな、っていうかたちでいろいろな面倒とか地ならしが次から次へとせわしない。
原作を読んだり、原作に忠実な他の芝居を見た時に感じられるグランド・ロマン的な何か、がオタクが籠る部屋のような小宇宙へと変わって、それなりの小爆発を見せる - 巨視的な世界観と目の前のみみっちい作為や小芝居的な動き、魔法の力と投げやりでなるようにしかならん、みたいな諦念が交錯して、運命の力、囚われと赦し、のような原作のテーマはどこかに行ってしまったかのように見えるのだが、これはこれでありなのかも、って思えてしまう居座りのパワーというか。
だってそうなんだもの、という諦めたような老人の呟きの外で吹きまくる大嵐(Tempest)、いろんなノイズ、という対比がくっきりと示されて、これはこれでひとつの世界、ひとつの船の行方を追っていて、よいと思った。というかこれもまたShakespeareの広げた風呂敷のうちなんだろうなー、と。
ただ、お片付け&荷物出しの前に見るべき芝居ではなかったかも。
4.06.2026
[log] Paris - Mar 21 2026
パリ一泊の続き、3月21日、土曜日のことを少し。
Musée de Cluny - Musée national du Moyen Âge
クリュニー中世美術館は、パリの美術館の中でもずっと大好きな場所なのでちゃんとお別れしたいな、だったところにたまんない企画展示がくっついていた。
LICORNES !
もともと『貴婦人と一角獣』のタペストリーで有名な館でのユニコーン特集。古代の木彫のからイッカクの角を使った装飾、彫刻、近代の絵画まで、点数はそんなにないが、ユニコーンの特異な容姿に人は何をこめたり現したりしてきたのか、そして全体として悲劇的なトーンが感じられてしまうのはどうしてか、など。 手塚治虫の「ユニコ」はやはりないのだった。
階上の通常展示の方、イタリアの方をいろいろ周って、現地のクラシックなキリスト教美術に触れた上で接すると改めてなにやら迫ってくるコレクションになっているのではないかと思って、タペストリー以外のも含めてじっくり見てみればなんとすばらしいこと、になって抜けられなくなる。
Leonora Carrington
Musée du Luxembourgで見ました。フランスでは初となる彼女単独での回顧展とのことで、126点出ている。Carringtonは数年前に出た彼女のタロットを集めた画集ではまって、その前からRemedios Varoと並んで追ってはいたのだが、纏めて見たいとずっと思っていた。
あと、あまりきちんと想定はしていなかったのだが、↑のクリュニー美術館の中世美術とユニコーンからの流れの見事なこと(自画自賛)。 歩いていける距離なのでこれから行く人は是非(Carrington → クリュニーよりはこっちで)。
テーマ別、年代別の構成だったが、彼女が思春期の頃に出会ったイタリア古典美術やルネサンスへの傾倒から晩年のシュールレアリズムへと至る流れが極めて自然に説明されていくようで、そうするとユニコーンなんてとても架空の生き物とは思えなくなってきてしまうし、他の生き物たちだってたんに絶滅危惧種としてその辺で少し見えにくくなっているだけなのではないか、とか。
CarringtonからRenoirへ。Musée d'OrsayのRenoir展は、2018年の”Renoir père et fils: Peinture et cinéma”(単独というより父子展)以来だと思うが、今回のは大規模改修前のお蔵出しというかんじだろうか(実際にはお蔵出しを遥かに超える規模だった)。この展示だけ入口もいつものとは別で、川沿いの道をずっと歩いたところから入る。
Renoir dessinateur
企画展示は2つあって、Renoirのデッサンを集めたものがこちら。彼の丸かったり温かかったりするあの面や空間たちがどんな線の重なり、連なり、濃淡、くしゃくしゃから生まれていったのかを並べてみせる、という興味深い企画。既にほぼできあがっているようなパステル画や水彩画から、落書きのようなスケッチから線描まで、創作の秘密、というよりもあれこれ書き散らしたりしつつ、こうやって纏めて固めていったのか、というのがわかる。 というか、シンプルになにこのかわいいの? になるという。それらを嬉々として描いているのがもしゃもしゃしたおっさんである、というとこだけが少し。
Renoir et l'amour - La modernité heureuse (1865-1885)
『ルノアールと愛』。Renoirの活動の初期20年間に絞って、彼が描いた「愛」や「幸福」をテーマにした企画展示。
『デッサン展』での試行や習作がどんなふうに彼の目の奥に火をつけ、それが極彩色の「愛」として画布の上に結実していったのか、がわかる、というか、オルセーの収蔵品だけではなく、ワシントン - 『舟遊びをする人々の昼食』(1876)やボストン - 『ブージヴァルのダンス』 (1883) - などからも来ていて、そしてここに150歳を迎えるオルセーの『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』 (1876)が加わると、ちょっととんでもないというか、絵巻物のようなドラマに溢れていて、これらを貫いて司る「愛」とは... などとつい考えてしまいたくなるような、そういう密な空気に溢れているのだった。その空気のありようって、そこらの「印象派展」に必ず数点は添えられているルノアールのプランターに植ったような品のよい可愛らしさ、なんてものではなく、獰猛で猛々しく迫ってくるものなのだった - 「印象」なんて柔いものでもなく。
この『愛』の展示は、今年後半にロンドンのNational Galleryにも行くようで、でも『デッサン』展の方までは行かないのだとしたら、オルセーでやっているうちに両方見といた方がよいのかも。
図録は両方の展示で2冊あって、でもそれまでにユニコーン!のとCarringtonのも買ってしまっていたので、1冊だけにした - のをちょっと後悔している。どんなに重くても船荷に突っ込むだけなんだから買っちゃえばよかった。
この後は、午後2時くらいまでゆっくりオルセーの他の展示を見て、朝から十分お腹いっぱいになったので本屋を数軒回って、いつものLa Grande Épicerie de Paris - バターなんて買うもんか - に寄って帰った。
今回Sold outしてて諦めたのはJeu de PaumeでのMartin ParrとLa Galerie DiorでのAzzedine Alaïa's Dior Collectionだった。くやしい。
4.03.2026
[log] Paris - Mar 20 2026
3月20日から21日の間、パリに行ったのでその簡単な備忘を。
パリはとても好きな場所で、今回の2年3ヶ月の滞在中に、さっき数えたら10回行っている。でもほぼ日帰り or 1泊で、そんな短い滞在だから何度も行くことになって、そんな短い滞在だからどんどん好きになってたまらなくなっているのだと思うが、こればっかりはどうしようもない。 帰国してからも雑誌Figaroのパリ特集とか買ってるし。
今回も、時期が時期(引越し荷物出し3日前)なので日帰りでいいや、だったのだが、20日からChristophe Honoré演出による”Bovary Madame”の舞台があるのを知り、チケットを探したら取れてしまったので、1泊しないわけにはいかなくなった。
朝6時くらいの電車 – Eurostarで行くのも北駅に着いてから地下鉄に潜るのも、お手のものでまるで通勤のよう。
Nan Goldin - This Will Not End Well
Grand Palaisで見ました。 その隣の展示”Matisse: 1941 –1954”は未だやっていなかった。
写真ではなく、ビデオ作品の展示で、場内にテントのような部屋が仕切ってあって、それを回っていく、のだが全部見ている時間はないので、”Stendhal Syndrome”(2024)と代表作”The Ballad of Sexual Dependency” (1981-2022)の一部くらい。”Stendhal Syndrome”はオウィディウスの『変身物語』のモティーフをルーブル美術館の所蔵品を中心に重ねつつ、スタンダール・シンドロームを引き起こすに決まっている美の根源に迫っていく。彫刻作品等を切り取る目線、光の具合が絶妙で、Nan Goldinてこんな… って。
”The Ballad of Sexual Dependency”の方はNan Goldinの王道で、夜の光とその下での体の線とか、なんであんなに切なく映えるのだろうか、と。
Visages d'artistes - De Gustave Courbet à Annette Messager
隣のPetit Palaisで見ました。クールベから現代のアネット・メサジェまで、アーティストの顔、貌は、その捉え方はどんなふうに変わっていったのか、を追っていく企画展示。アトリエでの、社交場での、プライベートでの、女性であることによる… など狭いようで十分に広いテーマなので、ちょっと散漫になっていたかも。モダン以降に絞った方がおもしろくなったのではないか、など。
Maison Gainsbourg
パリ行きを企画するたびに、後になって思いだしたり、Sold Outで入れなかったりで宿題になっていた館へ。
Serge Gainsbourgが1969年から亡くなるまで暮らした家と通りの向かいのミュージアム。まずミュージアムの入り口でヘッドセットを貰ってから家の方に向かい、約30分、Charlotteの声に導かれて彼の暮らした痕跡を見て、その後でミュージアムに移動して、彼の業績を辿って、最後にバーがあって、ブティックがあって。
彼とCharlotteが子供の頃に暮らしたお家の中は、黒め暗めのインテリアやいろんな散らかりようも含めてそうなんだろうなー、としか言いようのないモノたちで溢れていて、Gainsbourgだなあ、しかない。住んでいた頃はタバコですごい匂いだったりしたのかしら。
Serge Gainsbourgを聴いていたのは大学生の頃で、来日公演にも行ったし最初にCDボックスセットを買ったのも彼のだったし、そこからなんとなく離れてしまったのはなんでだろうか、などを振り返りつつ考えてしまった。
Clair-obscur
Bourse de Commerceで見ました。ここが持っているPinault Collectionの中から、“Clair-obscur” - 明暗対比というテーマで、光と闇の、その対置とか境目とか変化のありようを捕まえようとしたアーティストたちとその作品群を集めている。
レンブラントやカラヴァッジョが用いた描写の技法としてのchiaroscuro、というよりも、光と闇の成り立ちそのものを見つめるというか、会場にはジョルジョ・アガンベンの『現代/同時代性とは何か』 - “What is the Contemporary?” (2009) からの引用 – 「現代/同時代人とは、自らの時代を見つめる際に、光ではなく影に目を向ける者のことである 云々」が貼られていて、Frank Bowling, Alberto Giacometti, Pierre Huyghe, Bill Viola, Bruce Nauman, Carol Rama, Wolfgang Tillmansなど、懐かしいのも含めて、でもテーマそのものはやや古いような新しいようなー。
Fondation Cartier pour l'art contemporain
移転したカルティエ財団の現代アートのデパート。移転後に初めて行った。こんなのでっかいがらくたまみれなのがルーブルの向かいにある、ってだけでなんか痛快かも。
17:00からパフォーマンスがある、ということで、混んでて座れなくて上からだけど、説明がフランス語なのでさっぱりだったけど、なんとなく見た。
Le Musée Vivant de la Mode, performance quotidienne par Olivier Saillard & invites
Olivier Saillard本人(たぶん)がマイクをもって解説しながら(←仏語でもちろんわからないので以下憶測→)ミュージアムで展示される服と身につけられて機能する服の違いについて、モデルたちの実演を交えながら、服を着る、羽織る、纏うなど、そこにおける服や布、その形、それを身に着ける際の動作、などについて微分で見ていく。動きも服もシンプルなものばかりだが、こういうのと切り離されたところで発展(少なくとも経済的な)を遂げてきたモードとかクチュールのありようについて。 これ、西洋だとまだ連続性があったり見えたりでおもしろいかもだけど、東洋のもんぺとか割烹着みたいなものから追ってみたら(or 追えない)おもしろくなるのではないか、とか。
[theatre] Bovary Madame
20日の20:00からThéâtre de la Villeで見ました。
フランス語の劇だし、英語字幕なんてつくとは思えないのだが、なんたって「ボヴァリー夫人」だし、演出はChristophe Honoréなので、なんとかなるのではないか(←まったく根拠不明)、と。詳細は追えなかったので、以下、簡単な感想だけ。
ステージはすり鉢状の客席(バルコニーなし)から見下ろす形で、初日だったせいか取れたのは一番後ろの天辺に近いところだった。 上演は2時間半で休憩なし – この長さで休憩なしは珍しい。映画だと思えばよいのか。
原作はGustave Flaubertの”Madame Bovary” (1857)、プログラム冊子はなく”Bovary Madame”のタイトルでChristophe Honoréが作者名となっているスクリプトは売っていたので、翻案もHonoréなのだろう。Emma役は、François Ozon作品によく出ているLudivine Sagnier。
中央には丸い砂場があって、左側には段になった客席のようなのがあり、右側の奥にはピアノがあり、主人公達の内面を掘り下げていく心理劇というよりは玉突きアンサンブルで、常にわいわい人がいて、プロジェクションも使ってサーカスやバーレスクの要素もあって、音楽は村人たちによる楽団の演奏もあればダンサブルなJustin Timberlake もある。 Honoréの映画にもあるミュージカルの要素や指向 - 突然歌いださないわけにはいかない - はストレートに、よいかたちで出ている。
そんななか、EmmaもCharles Bovaryもエキセントリックな加害者だったり被害者だったりで突出して対峙する、ようなことはなく、Emmaは極めてまっとうに自由を希求するひとりの女性としてまっすぐこちらを向いていて、たぶん死なないの。
ここでいったん切ります。
4.02.2026
[theatre] Summerfolk
3月16日、月曜日の晩、National TheatreのOlivier Theatreで見ました。
滞在最後の月となった3月は、演劇を14本見ていた。旅をしているか演劇を見ているか、だった気がする(仕事は..?)
すぐそこで人が動いて交錯して会話をして泣いたり笑ったり抱きあったり殺したり、設定はどうあれ何かが生起している、それで空気が動いてこちらに靡いて場合によっては感動してしまったりする。それはNational Theatre Liveでも映画でも確認できるものるのかもしれないが、いまそこにあって巻き戻しのきかない何かに囚われてしまう、という感覚。(20年前はたしか音楽のライブについて同じようなことを)
原作はMaxim Gorkyの同名戯曲(1904)で、初演も同年。 これをNina RaineとMoses Raineの兄妹(彼らってパステルナークの大姪甥なんだって)が翻案し、演出はRobert Hastie。約3時間で休憩一回。
1898年、まだ駆け出しだったゴーリキーはチェーホフにファンレターを送って、チェーホフは彼に戯曲を書くように勧めて、ゴーリキーは『桜の園』へのオマージュとしてこれを書いた、と。チェーホフが亡くなった1904年を舞台に、チェーホフの世界の住人としか思えないようなひとくせふたくせもある「田舎」のひとたちが動きまわっていく、ある季節。
Olivier Thatreの広いステージを目一杯に使って、大きな柱が巨木のように立っていて、奥のほうには暗い森が広がっている大きな別荘のような邸宅(の骨組)があって、客席からはその全容を見渡せるかんじ。この周りを森の地元民のような銃を抱えた不穏な連中が通り過ぎたり、使用人たちがいたり、そこに泊まりにきた貴族たちとその友人たちが賑やかに、というアンサンブルドラマで、とても全員の顔と名前は憶えていけないが、衣装(かわいくて素敵)と言葉の粗さやトーンで、誰がどんなふうとかエピソードの推移はわかって、その区分けの内側とか複数のつなぎ目でいろんなことが起こったり語られたりしていく。
休憩を挟んだ後半は、小川(本当に水が張ってある)が流れる気持ちよさそうな夏の風景 - まるでマネの『草上の昼食』の景色のなか、貴族たちは変わらずご機嫌で飲んで騒いで叶わぬことがわかっている愛を囁いたり嘆いたり、『真夏の夜の夢』が上演されたり、チェーホフの『かもめ』や『桜の園』のように、消えてしまう、失われるであろうことがわかっている何かを、繋ぎとめることなんてできるわけないので、ひたすら儚いそれらの周りでじたばたしてとほほ、ってなるばかり。当時の紛争やきな臭い話題や雰囲気も漂ってくるが、そういうのは見たくないし、見ない。そんなことより、詩を! 愛を! と訴える。
このような緩い態度が最後に悲劇を… にはならないものの、そういう雰囲気を散らしながら、彼らの夏は、Summerfolkはどこかに去っていって、今がよければそれでいいのか、これが最後の夏になってしまうのではないか。なんてことも誰も気にしない。
未来なんて誰も予測できないのだからきな臭いのからは離れて目を逸らして、今を楽しんじゃってよいのだ、は前世紀末にそういう時期があったからわかるし、今もあれとは違うトーン(戦前)で、正にそんなふうになっているのだと思うが、彼らをそういう態度に向かわせるものはなんなのか、を考えさせる - そこに向かわせるようなセットや衣装やアンサンブルのデザインがすばらしい。彼らの過ぎていった夏が、こんがらがったままいつまでも残る。
みんなどこに行っちゃったんだろうね?
4.01.2026
[film] Project Hail Mary (2026)
もう日本に戻って、仕事も始まっているのだが、しばらくの間は籠の鳥で、体力的にも動きようがないしあらゆるやるきが失せている。しばらくは向こうで見たものでまだ書いていないのがいっぱいあるので、それらを書きながらじめじめめそめそしていきたい。
3月19日、金曜日の夕方、BFI IMAXで見ました。
公開初日ということで早めにこの日のチケットを取っていたのだが、実際には1週間くらい前からどこでもプレビューをやっていて、なんだよそれ?になった。
IMAX 70mmによる上映で、北米以外のヨーロッパで見られるのはここだけ、と。 本編開始前に監督Phil LordとChris Millerによる短い挨拶が流れて、IMAXの70mmってほんとにすごいんだよう、って映画の内容にはほぼ触れずに中学生みたいにふたりで盛りあがるので、少しだけ不安になった。
原作はAndy Weirによる同名SF小説(2021)、脚色はDrew Goddard。音楽はDaniel Pemberton。原作は日本の家に置いてあることは知っていて、けど読んでいない。この作品についてはまず原作から読むべし、みたいなのがあるらしいのだが、そうだったのかどうかは自信がない。
Grace (Ryan Gosling)が宇宙船のなかで目覚めると、他の乗組員は死んでいて、自分も髪と髭ぼうぼうで、でも自分がなんでそこでそんなことをしているのかさっぱり憶えていなくて混乱して死にそうになる。彼が宇宙船のなかを彷徨いながら、自分がなんでこんなことになっているのか、徐々に浮かんでくる過去の断片を繋いでこのミッションのおおもとを探っていくのと、それと並行して航行中に出会ったエイリアンとの交流と、彼とそいつと地球はどうなっちゃうのか、などを行ったり来たりしつつ追っていく。
いろんなテーマがありそうで、人によっていろんな捉え方ができると思うが、同じ原作者で、Matt Damon主演で映画化された”The Martian”と同じように宇宙をたったひとりでサバイヴしていくドラマ、と見た。
どう見ても他から勝手に不条理に押しつけられた運命を受け容れて、できることをがんばって、それをやりとげる - それをどん底からの復活とか危機一髪の大逆転とか、歯をくいしばる仰々しいドラマにしないで淡く柔らかい笑顔でたまに泣いたり空を仰いだりしつつも、どうにか最悪を回避してしまう男がいて、それがRyan Gosling、というのがよくて、ほぼそれだけなのかも。岩蜘蛛みたいなエイリアンは何考えているのかわからないし、「プロジェクトいちかばちか」のプロジェクトを率いるEva (Sandra Hüller)もほぼ感情を表にださないし、そんなノンエモの砂漠でとにかくがんばる男の話。
SF(映画)としてどうなのかはよくわかんなくて、主人公がああいうことになった経緯とか解決に至る道筋に科学的な、SF-空想科学っぽい理屈がまぶしてあれば、だったのだがそれらしいのはなくて、どっちみち死ぬんだからって、特攻隊のように昏睡状態のまま宇宙船に乗せられるし、理屈なんて別になくてもよくて、エイリアンとの意思疎通もすごくいい加減で、すべてはそういうものなのだ/どうにかなっちゃったのだ、で進んで、そこに彼の笑顔が見事にはまって調和して、みんな幸せになるので、それでよいのかも、とか。
音楽は全体にしんみり湿った70年代のようで、たまたま映りこんでしまったかのようなSandra Hüllerがカラオケで歌う”Sign of the Times”になんだかじーんとなった。
3.30.2026
[log] March 30 2026
戻りのヒースローまで来ました。
自分の中で世界が終わる日、として置いていたこの日がついに来てしまったあーあー、しかない。
24日の荷物出しは前のスロットのが押して3時間遅れで始まって、本の箱はSサイズが23個になって、人が詰めたり運び出しを始めるとすべての計画がなし崩しにどうでもよくなっていくのはいつも通りで、全ての運び出しが終わってからDonmar Warehouseに行って演劇を見て、夜に演劇を見るのはこの後27日まで、Harold Pinter Theatre → National Theatre → Young Vicと続いた。28日の土曜日は日帰りでアントワープに”Antwerp Six”の展示を見に行って、日曜日、月曜日(今日)は美術館へのお別れとお買い物で走り回った。
前回の駐在 - やはり英国から帰国した時はコロナ禍の真っただ中で、空港はがらんがら、飛行機も数名しか乗っていない非現実的な世界で、しかもその後に隔離される先がすごく嫌なホテル、というより収容所であることがほぼわかっていたので、なにもかもまっくらで沈んでいた。
今回、すべては元に戻り、街は活気に溢れていて楽しいことばかりらしいのだが、帰る先はコロナ禍の時以上に酷く壊れて腐った独裁国家で、これこれこんなだから嫌だと書くことすらうんざりのあんなところに首に縄をされて引かれていく気分で、でもすべてはこれまでの行状の報いなのだし、殺すならとっとと殺しやがれ、とかたいへん殺伐としている。
1年を過ぎたあたり、手術で帰国したりしていた頃もあったが2年と3ヶ月の間ロンドンにいて、いろんな映画をみて、演劇をみて、音楽のライブにいって、バレエやダンスを見て、新旧のアートに触れ、古書店とか遺跡とか聖堂を回って、その活動は英国の外にも広がって日帰りなどするようになり、そういうのを見たり触れたりそれらに向かって動いている間だけ自分は生かされているのだと思うようになった。 人によってはそれがスポーツだったり仕事だったりするのかもしれない没入できる何かが、これなのかも、って。
休みの日は何をしていますか? とか趣味は? と聞かれた時に、映画でも演劇でも絵画でも、それらの「鑑賞」でも小旅行でもない、いろんなアートを渡りながら自分がこれまで見たり読んだりしてきたあれこれと結んだりどこかで繋がっていたことに気づいたりするのがおもしろく、そのおもしろさに目覚めて没頭している。いちばん近い例えでいえば料理 - 自分で作って自分で食べるを繰り返す - あたりなのかも。うまくいかないこともあるが、うまく纏まったり収まったりしたときの気持ちよさとおいしいかんじったらない。
そしてあの国に帰るのがとっても嫌な理由のひとつは、食材を集めたり新鮮なのに触れる機会がものすごく限定されたり難しかったりできなかったり、輸入する人に勝手に前処理されてしまったりするからなのかも、って。なにこのわけわかんないのは? ってリアルタイムでどきどきしながら毛が逆立っていく感覚はなくて、チケットを手に入れる時点でおおよそわかっていたり、これはぜったい! みたいなのはとうに売り切れてて手に入らなかったり。
そしてロンドンというのは、アメリカからやってくる下品なやつに鼻をつまんだり、ヨーロッパからやってくるものに距離を取りつつも食べようとしたり、そういう放流放牧みたいなことをずっと鷹揚にやってきた場所である、というのが大きかったかも。 そういうところにいられた、というのは幸運だったかも。
幸運といえば、これだけいろんなところ - 最後の方なんてほぼやけくそだったが - を行ったり来たり周ったりして、大きな怪我も病気もなく、階段から落ちたり転んだり倒れたりもなく、パスポートやスマホをなくしたり盗られたりもなく、体が常にぼろぼろである以外はどうにか飛行機に乗れそう、というところまではこれた。ぜったいなにかあると思ったのに。 まだわかんないけど。
今日は晴れて強い日差しのあとに曇って通り雨がきて、寒かったり寒くなかったりの全部盛りで、でもお花はいろんなところで既に、緑たちはこうしたら輝くってうっすらわかりはじめたところ。こんな素敵な季節なのになー。
4月からの新たな年度の新たな仕事、についてはまったくわかんないしどうでもいいし、つまんなかったらこれまでと同様にうろうろするし、忙しくて大変だったら、やっぱり逃げて外に出ていくと思うし。ただどっちにしても数は減ることでしょう。
あーあー
ではまた。
3.28.2026
[film] The Bride! (2026)
3月15日、日曜日の晩、CurzonのAldgateで見ました。
この日は、ビーバー → 塩田千春 → ブラジル → フランケンシュタイン、と流れてめちゃくちゃだった。一日の終わりはこれくらいのにしないと気を失う気がした。ただこのパターン(映画3、美術館2)くらいが自分にとって一番ふつうの土日ぽかったりして、そういうのの最後、でもあった。
脚本、監督はMaggie Gyllenhaal。IMAXで撮られたというのでIMAXで見たかったのだが間に合わなかった。 評判わるくて入っていない、と聞いたのだがどこが悪いのかぜんぜんわからない。
映画”Bride of Frankenstein” (1935)をベースに、その原作であるMary Shelley の小説” Frankenstein; or, The Modern Prometheus” (1818)も当然参照している。音楽はHildur Guðnadóttir。
最初に冥界にいるっぽいMary Shelley (Jessie Buckley)が、シカゴの酒場でギャングのLupino (Zlatko Burić)配下の男たちに囲まれて嫌な思いをしているIda (Jessie Buckley)に目をつけて、彼女に憑りついてめちゃくちゃをしたら、彼女は階段から突き落とされて死んでしまう。(わざとだろうけど、ギャングとヒロインの名前をつなげるとIda Lupinoになる)
他方で銀幕のスターRonnie Reed (Jake Gyllenhaal)に夢中になっているFrankenstein (Christian Bale)は、自分を作ってくれたDr Euphronious (Annette Bening)に花嫁がほしいよう、って頼んで、わかったよ、ってふたりで墓に向かうとIdaの死体を掘り起こして持ち帰り、管に繋いで液体とか電気とかを流し込むとIdaは蘇って、でも自分の名前も含めていろいろ憶えていないらしい。
こうしてふたりというのか二体というのかは、町中でBonnie & Clydeよろしく大暴れ&狼藉を繰り返して、それを警察のJake Wiles (Peter Sarsgaard)とMyrna Mallow (Penélope Cruz)が追っていくのだが…
人造のモンスター(たち)による復讐スプラッターホラー、みたいにすることもできたと思うのだが、そちらには行かずに、出てくる全員が自分はなにをやっているんだろう、みたいな顔で戸惑いつつ暴れて殺しまわる - 評判があまりよくないのだとしたら、この辺の思いきりの悪さ、にあるのではないか。Christian Baleのフランケンシュタインは、こないだのGuillermo del Toroのそれと比べるとシリアスさを欠いておとなしくてぼんくらふうで、The Addams FamilyのLurchのように見えなくもない。Patrick BatemanでありBatmanだった男がJacob Elordiなんぞに負けるわけがないのだが、どうせ僕なんか... って拗ねているようにも見える。
エクスクラメーションマーク付きの”The Bride!” – まず男たちに殺されて埋められて、男の怪物に欲しい、って言われたから勝手に生き返らせられて、よくわかんないけど何? って思ったら「花嫁」だって。”The Bride” ... はなよめだぁ? 本気で言ってんのかてめえ、という怒り、ふざけんじゃねえよ、は尤もだし、爆発頭のDr Euphroniousはおろおろしてばかりだし、Jessie Buckleyひとりが仁王立ちになって吠えていてかっこよい。
同様に人工で再生されて壊れて壊していく女性でいうと”Poor Things” (2023)のBella (Emma Stone)がいたけど、あれよりも原初的でパンク、というか。女は女として生まれるというより女にさせられて、そこでいったん殺されたあとにどこに向かうのか、というとー。
たしかGuardian紙にも書かれていたが、できれば結婚式とか、初夜とか、結婚にまつわるしょうもないあれこれぜんぶを表に出して、制度も含めてぜんぶぼこぼこに叩き潰してほしかったし、Maggie Gyllenhaalが、そしてMary Shelleyがそもそもやりたかったのもその辺だったのではないか、と。
そして、だから、男性客からははっきりと嫌われそうなー (よいこと)。
3.26.2026
[film] O Agente Secreto (2025)
3月15日、日曜日の午後、CurzonのBloomsburyで見ました。
英語題は”The Secret Agent”。もっと早くに見たかったのだが、上映時間がほぼ3時間で、この季節に3時間はやめて、だったのだが、これがオスカーの外国語映画賞を獲る予感もあったし(後で、そうか”Sentimental Value”があったか)、みんながそう思ったのか小さめのシアターは一杯になっていた。
作、監督は”Aquarius” (2016), “Bacurau” (2019) - 共同監督 - のKleber Mendonça Filho。昨年のカンヌでプレミアされて主演のWagner MouraがBest Actor、監督賞やFIPRESCI賞などいっぱい獲っている。
1977年、軍事独裁政権下のブラジルが舞台で、オープニングのモノクロ写真のなかに当時のCaetano VelosoとMaria Bethâniaが一緒に写っている一枚がでてきて、おおーってなったり。
黄色のフォルクスワーゲンのビートルに乗ったArmando(Wagner Moura)が死体の転がっている不吉なガソリンスタンドを抜けたりして、カーニバルで湧くレシフェの街で、義理の両親の下で暮らしている息子に会う。Armandoの母は亡くなっていて、そこには家主のDona Sebastiana (Tânia Maria – あのTânia Maria!)のもと、いろいろ裏がありそうな人達が匿われるように暮らしていて、でも最初のうちは彼がなにをする/してきたどういう人物なのか等は一切明かされず、カーニバル前の熱くて不穏な空気と現れるひと全員がやばい風に見える建物の中と外、通りの様子を映しだしていく。
雰囲気としてはほぼ同じ時代(こちらは1971年)の失踪を描いた”I’m Still Here” (2025)に近いが、具体的な事故や事件をきっかけに動いていくわけでもないので、あれよりも敵味方の見分けがつかないし、カーニバルなので何がどこから飛んでくるのかわからない異様で濃密な空気感に溢れている。
もうひとつ、当時公開されたばかりの映画”JAWS”の怖さが海辺の街をざわつかせ、Armandoの息子も映画を見たくてじたばたしているなか、実際に仕留められたサメの腹から毛むくじゃらのヒトの脚が出てきて更に恐怖を煽っていたり。
やがてArmandoは元研究者で、Marceloという偽名で市のID管理をする部署で仕事をしながら、反体制のネットワークの人々と会っていくなか、傲慢な企業オーナーによって職を追われた自身の過去、それに絡んで腐敗した警察署長とその部下たちが自分を追っていること、等が明かされていって、最後の方は殺し屋が。
約50年前の歴史、というよりある人物が本当のところ何者で、どういう目的をもって、どこで何をしていたのか、それだけを追うだけなのに、の難しさが、母の消息を追うArmandoだけでなく、現代からArmandoの消息を辿っていく学生の目も加わって現代の歴史、というほどのものではない消息とか痕跡、のようなものはどうやってあぶりだされるのか、或いは独裁政権下で反体制だった人達はそんな扱いとならざるを得ないものなのか、などを、カーニバルと”JAWS”の熱量、湿気のなか、ひとつひとつ置いていって、でっかいタペストリーが作られるのを見るようだった。
最後の方で、殺し屋がArmandoを追っていくシーンの街角や屋内や床の様子の恐ろしく息が詰まる描写のすごいこと。
90年代の中頃、リオとサルバドールのカーニバルに行ったことがあって、リオでひと晩見た後で寝ないでサルバドールの方に移動して、いまあれをやったら簡単にしぬと思うが、その時に感じた祝祭の勢いの裏側にあるひんやりとした狂った何か、暗闇に潜む止まらないなにかが少し写っている気がした。カーニバルの頃の街って、そんなふうで。
あと、でも、当時のブラジルがどんなだったか、一切知らない人が見たらどう見えるのだろうか、とか。
[film] Hoppers (2026)
3月15日、日曜日の昼、CurzonのAldgateで見ました。
ぜんぶ問答無用の自業自得なのだが、日々ばたばた忙しいところに日帰りで行って帰ってみたいなことを繰り返しているさなか、”Ready or Not 2: Here I Come”とか”They Will Kill You”とかの予告を見るとものすごく胸が高鳴って、いやいや今そっちに行ってはいけないし、と。
Pixarのアニメーションで、地下鉄の掲示板で流れているのを見てすぐにやられた(くらい疲れている)。邦題は『私がビーバーになる時』。
作・監督はDaniel Chong、共同脚本に、”Me and Earl and the Dying Girl” (2015)や”Luca” (2021)や”Elio” (2025)のJesse Andrewsの名前がある。音楽はMark Mothersbaugh。
オレゴン州のBeaverton(ビーバー豚)の街で、Mabel (Piper Curda)はスケートボードで疾走するティーン(Bikini Killの”Rebel Girl”ががんがん)で、ずっと一緒に暮らしていた祖母から自然を愛する動物たちと共生ことの大切さなどを教わってきて、だから高速道路建設で森を潰そうとしている市長のJerry (Jon Hamm)とは事あるごとにぶつかる犬猿の仲で、家の前の空き地とその池にビーバーが現れなくなったことが気になっていて、でもJerryはもう来なくなっちゃったんだから潰したっていいだろ、という。 でも亡くなった祖母との思い出もあるのでぜったいそんなことはさせたくない。
反対運動ばかりやっているので、Mebelによい顔をしない大学の先生がラボでやっている実験 - ロボットのビーバーに遠隔でヘルメットをかぶって没入して森をうろついているのを見たMabelはこれだ! ってリアルビーバーになりすまして森のビーバーとか動物たちに会ってみると、彼らの言葉とかがぜんぶわかるし、こちらが言うことも通じるし、ふつうの生ビーバーとして認知して貰えて、King George (Bobby Moynihan)っていう哺乳類の王に会って仲良くなってしまう。これだけで10000個くらいの突っこみができそうなのだが、そんなことを言っている場合ではないの。
彼らとのやり取りを通して人間の可聴帯域ではない音波を出している装置 - これのせいでビーバーは出ていった - を突きとめてそれを壊して一件落着.. になるかと思ったら、そんな簡単ではなく、これをきっかけに昆虫、両生類、魚類、爬虫類、鳥類の代表からなる評議会と人類の、これも全方位からの突っこみ満載の、でもとにかく大戦争が始まってしまうの。
人間には見えていない別の世界があるし動物には動物の世界が、というのを想像できるようになるだけで、こういうアニメーションは十分ではないか、と思うのだが、彼らには彼らの王がいて、王がいるからにはシェイクスピアの裏切りとか敵討ちとか思いこみ勘違いの世界が広がっていて、渡っていくのはいろいろものすごく大変なの、というのをおお真面目にやっているので、こんなのぜったいビーバーたちだけで維持していくの無理じゃろ、 になるし、しばらく混乱は続きそうなのだが、いいのかしら? おもしろそうだからよいかも。
人の身体や感情をドライブする何かがその外にある、簡単にドライブされたり乗っ取られたりするくらいにそれらは脆くて弱いやつで – というのは”Inside Out” (2015)のストーリーを作ったDaniel Chongらしいし、そこがストーリーの宝庫であることもわかるし、そこに大切なことを乗せてみるのもわかるのだが、ビーバーならビーバーだけの、『ぼのぼの』みたいな(あれはラッコだけど)すっこ抜けたやつであってほしかったかも。甘ったれるな、って言われたらわかったよ、っていう。アニメーションはかわいくてたまらないんだけど。
ラストは「ニューロマンサー」みたいに没入したままにしちゃえばよかったのにな。自分だったらそうして、ずっとビーバーとして生きるだろう。
あと、ラストに流れるSZAの”Save the Day”がとてもよかった。
3.25.2026
[log] Madrid - March 14 2026
3月14日、土曜日、Madrid日帰りをしたので、簡単な備忘。
Madridはこれまでも日帰りで何度か行っていて、行っても真ん中の美術館3つをぐるっと回って、そんなにものも食べず、帰りの空港のラウンジでへたりこんで食べて終わりで、なんて勿体ない、のかも知れないが本人がそれで幸せだって言うのだからいいじゃないの、である。
本当はもう少し早い時期にしたかったのだがMadrid往復の運賃が謎に高いことがあったりして踏みきれずにここまで。
だから空港からプラド美術館まではお手のもので、着いてプラドに行ったら開館直後のとてつもない列だったの戦略を変えた。
Out of Focus. Another View of Art @ CaixaForum Madrid
CaixaForumはバルセロナのは行ったことがあって、それがマドリードにもできていた。
ボカシとか焦点ずらしとかピンぼけ、に的を絞った企画展示で、これは所謂「抽象」とは異なる視座で対象を見つめる(or 見つめない、正視しない)ことで立ち現れてくる何か、でよいのか。
Gerhard Richter, Mark Rothko, Yves Klein, Claude Monet, Thomas Ruff, Alfredo Jaar, Christian Boltanski, Bill Violaなどなど。 これらをついかっこいいー、って見てしまう傾向についても。
Hammershøi - The Eye that Listens @ Museo Nacional Thyssen-Bornemisza
これだけは時間指定のチケット取って行った。
聴く目… 窓の方に向かって、こちらに背を向けて佇む女性の像、というよく知られたイメージから広がる、彼女は何を見つめていたのか、その眼差しの先を聴きだそうとするかのような距離の取り方、それでも届きようのないかんじというか。正面や横を向いた女性の像もあるが、とにかく圧倒的に遠くにあって – でもそこにいる - その不思議というか。
ここの常設展示はそんなに数多くはないのだが、そのいつものが楽しくて、常設の理想型だなー って思う。
Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía
前回来た時はもう閉まっていて泣いたことを思い出した。
Maruja Mallo - Mask and Compass
スペインの”Generation of 27”を代表する女性画家Maruja Mallo (1902 - 1995)のレトロスペクティヴ。ものすごく広い活動の幅 - 具象も抽象もグラフィックも - と太字の大らかな強さ、輝きに圧倒される。
他の小規模の展示では、Alberto GrecoとかJuan Usléなどがおもしろくて、自分にとって未知のアーティストを教えてくれるのはいつもここだったなあ、と思いつつ、時間を過ごしてしまうのはやはり「ゲルニカ」の周りだったりする。
Museo Nacional del Prado
プラド美術館って、いつからそうなっているのか知らんがずーっとデパ地下のように混んでいて、そのせいか館内の写真撮影は一切禁止になって、それでも人で溢れている。ここが不思議なのは、そういう芋洗い状態でも絵を見始めると没入して、もっともっと、になって彷徨ってしまうことで、この特殊な高揚感は、ルーブルにもNational Galleryにもない気がする。これがコレクションの力によるのか並べ方がもたらすものなのかは不明。ルーブルだと人混みで疲れてもういいや、になるところが、やっぱりあれも見ておきたいな、になって抜けられない。
National Galleryで5月から始まる企画展示 - Zurbarán (ああ見たいよう)の「羊」などを未練たらたらで見たり。
Galería de las Colecciones Reales
英語だとRoyal Collections Gallery、Royal Palaceの向かいにある王宮博物館で2023年に再オープンされたところにまだ行っていなかった。朝から休まずに歩いていたのでもうやだ、だったのだが、プラドから25分くらい歩く。いろんな花が咲き始めていて春はすぐそこに。
Juan de FlandesからDürer、Caravaggio、BoschのタペストリーにVelázquezのすごい白馬、もちろんGoyaまで、スペインの王朝がいかにとてつもないお金を注ぎ込んでいたのかをまざまざと見せつけられる。
あと、ヴィクトリア女王の孫娘で、20世紀初にスペインに嫁いだVictoria Eugeniaの特集もあった。
やっぱり3泊くらいしないと無理だわ…
引っ越しの荷出しがおわって夕方にホテルに移ったのだが、まだゴミとかあるので何回か戻らないと、かも。
Sサイズの本のダンボールは結局23箱になった。
自分にでっかい声で言い聞かせておくと、ここから先、飛行機乗るまでは、もう大きい本は買えないんだからね。買ってもぱんぱんで持っていけないんだからね。いじょう。
3.24.2026
[theatre] American Psycho
3月13日、金曜日の晩、Almeida Theatreで見ました。
チケットがぜんぜん取れないやつで、当日になんとか。
原作はBret Easton Ellisの1991年の同名小説で、2000年にChristian Bale主演で映画化されたものが、2013年にRoberto Aguirre-Sacasaの翻案、Duncan Sheikの詞/曲、Lynne Pageの振付によりミュージカル化され(この時のBateman役はMatt Smithで、ブロードウェイまで行った時はBenjamin Walkerが)今回はオリジナル版と同じRupert Gooldにより演出されている。
1989年、バブル絶頂期のウォール街で投資をしているヤッピー Patrick Batemanの生態を描く。ブランドの服で身を固め、Ralph Laurenのアンダーウェアを履いて、最新のWalkman - Auto-Reverseっていう新機能がすごいんだぜ - を携帯し、当時の日本にもそういうのでイキる社会人をいじる傾向はあったが、ここでははじめから”American Phycho”をそういう存在として置くのではなく、彼らの社会や周囲に向かう態度や傾向がサイコティックな情動として内面化、習慣化されていく道筋が鮮やかに描かれている。群舞も入ったミュージカルのぎんぎらのきめきめ(← 80’s)で攻めていくスタイルは、彼がそうなっていく過程を軽快にわかりやすく表して、当時を知らなくても納得できそうな。
冒頭で歌われるのが、映画”Marty Supreme” (2025)でも使われていたTFFの”Everybody Wants to Rule the World”で、やはりあの時代のメンタリティのようなものを代表している一曲なのかもしれない。あの映画の舞台は50年代で、主人公はずっと負け続けるわけだが、それでも立ちあがってSupremeになろうとするサイコっぽい挙動と佇まいはどこか繋がっているのかも。
そして、なぜいま”American Phycho”なのか、については、なにしろほんもんの”American Phycho”が大統領になって大量殺戮をしているからだし、大人気のJeffrey Epstein - 劇中で言及される - だって蘇って大人気だし、Trumpは劇中、主人公の憧れのアイコンとしてエレベーターですれ違ったりする(あまり似ていなかったけど)。まさかこんな形で表出してくるなんて。
この劇場でこれまでに見た演劇のセットって、納屋とか道端とか、雰囲気はあるけど埃っぽくぼろくてぱっとしないのが殆ど立ったのだが、この舞台はランウェイ仕様で床はばりばりの電飾で前の方にせり出して、これとプロジェクションをセンスよく組み合わせて殺しの場面の陰惨さも床の電飾をうまく使って軽くクールに見せる。
今回のBateman役はArty Froushan - こないだ見た映画”H is for Hawk” (2025)にも出ていた人で、脱いでもよし歌ってもよし、なので今後人気は上昇していくのではないか。
ブランドとかお金とかプライド - なによりも人を見下して自分だけは、自分だけがかっこよくて何をしたって許されるに決まっているのだ、という信念に捕らわれた人がシリアルキラーになっていく過程はそんなに無理なく音楽に乗って軽快に弾んで、この辺はいまの時代の方がいろんな動画も溢れていたりでわかりやすくなっているのではないか、他方でなんでこういうこと(人殺しとか)をしてはいけないのか、ということもあまりきちんと考えられなくなっている気もして、こういうの亡霊のようななにかを振り返ってみるのもよいかも、って。
それよか”Japanese Phycho”の方が陰惨でタチが悪くてどうしたものか、になる。いまの総理大臣とか。
明日は荷物をだす日で、本は結局Sサイズの箱20個でも足らないのだった。演劇のプログラム類がバカみたいに多い。どうにかなりますようにー。
3.20.2026
[theatre] Romeo and Juliet
3月12日、木曜日の晩、Shakespeare's Globe Theatreで見ました。
この時期の夜に野外公演はきついのでは、と思って、雨は降らなかったもののやはり時折吹いてくる風は冷たくて、椅子席はみんな体を丸めて見ていた。けどよい思い出にはなった。
タイトルには”Playing Shakespeare with Deutsche Bank: Romeo and Juliet”とあって、ドイツ銀行がスポンサーになって、地下鉄などの宣伝広告によると3000の学校から300000人(たしか)の学生を招待する(のか£10, £5のチケットなのか)公演で、なのでPITの立ち見コーナーは若い子たちで溢れている。このRomeo and Julietは2024年に行われたもののリバイバルだそう。 90分で休憩なし。寒くて2時間はいられないし、休憩を入れたら若者はみんな出て行ってしまうだろうからこれくらいが丁度よいのかも。
自分の最近のRomeo and Julietは、西部劇バージョン、半分ウェールズ語バージョン、ポーランド語手話バージョン、と見てきて、今度のはヒップホップバージョンか。舞台のあちこちはスプレーの落書きがあって荒んだどん詰まりの街角のよう、上演前は覆面をした3人の自転車乗り(プロの人達だそう)がスタンディングエリアにある台の上に乗っかって止まったりの曲乗りをして喝采を浴びている – でも劇が始まると彼らは不吉で容赦ない死神になる。 演出はLucy Cuthbertson。バルコニーにはパーカッション3人の楽隊がどんどこを。
中心の若い俳優たちはほぼジャージを羽織ってリズムにのって軽快に動きまわり、ゴージャスなシーンでの衣装はやくざちんぴら系のぎんぎらになり、冒頭にはストリートファイトなど路上で亡くなったと思われる若者たちへの追悼と母親たちによる暴力へ抗議のアピールがあり、それでも抗争が止まないストリートの一角には追悼の花束やぬいぐるみが置かれている。でもそんなのお構いなしに抗争と暴力は昼も夜も溢れて危険で野蛮で、そういう中、Romeo (Hayden Mampasi)とJuliet (Felixe Forde)が出会って一瞬で恋におちて、その恋がトライブ間の抗争を呼び、危険なストリートのなかで瞬いて消える。
ナイフによる喧嘩や抗争で人が死ぬと、それは警察の現場検証の場になり、立ち入り禁止テープが貼られ、遺体袋、医療用手袋など、ニュースに出てくる犯罪現場のそれになるし、Julietの乳母はNHSの制服を着ていて、亡くなった者の肖像がバルコニーに掲げられる。それら一連の儀式は恋にときめくふたりのすぐ横で、音もなく現れる自転車の連中の登場と共に事務のように一瞬で行われて、二度と元に戻すことはできない。ふたりの命を奪う睡眠薬も、スマホで連絡の取れなかったRomeoが手に入れたやばいストリートドラッグに替えられて.. となかなか考えられている。
ジャージを着ていても凛としたJulietのオーラと佇まいは素敵で、どこをどう見てもそこらのガキ(全体にオトコ共がいかに暴力的でバカであるか、がより強調されているかんじ)のRomeoが一瞬で落ちたのも納得で、周辺の暴力すらも蹴散らして無敵に思えたふたりの恋も簡単に、一瞬で消えてしまう非情さ。でもそれはこんなふうに簡単に起こりうるんだよ、っていう若者たちへのメッセージでもある。
これを自分が子供の頃に見ていたらどう思っただろうか?わかんねえよな、そんなの起こってみないと、だろうし、それでも自分はだいじょうぶ – だいじょうぶだよママ! ってなっちゃうんだろうな、とか。
根底に横たわるどうすることもできない不和、断絶に恋はどうやって立ち向かうのか、というこの悲劇の「悲」のありようを別の角度から見てみたり、これに加えて劇の展開のスピードで薄まってしまった何かがあるのかもしれないが、これはこれでよかったかも(伝わってくるものはあったから)。
Romeo and Julietは来週もうひとつある。
3.19.2026
[theatre] The Rat Trap
3月11日、水曜日の晩、Park Theatreの大きい方(PARK 200)で見ました。
間違えやすいのかもしれないが、アガサ・クリスティの有名なのは”The Mousetrap” (1952) - 『ねずみとり』で、ジャンルとかぜんぜん別のだから。
原作はNoël Cowardで、彼が1918年、18歳の時に書いた最初期の劇で、でも初演は1926年。これを書きあげて劇作家としてやっていく自信がついたそうだが、18歳でこんなの書くのか…
結婚にまつわるコメディ - タイトルも、テーマとしてもコメディになりうるようなものかと思ったのだが、あまりそんなかんじはしなくて、多くの人がイプセンやストリンドベリの結婚ドラマに言及している。
罠にはまった/かかった!のを発見した瞬間はおおってなるけど、その後の始末とか決着の面倒くささ、しんどさ..に全員が結婚てなんなのさ.. って凍りついた表情のまま考え込んでしまう、ような。
翻案はBill Rosenfield、演出はKirsty Patrick Ward。演じるのはRSCで見た”The Forsyte Saga Parts 1 and 2”を作った演劇集団Troupe。
新進作家のSheila (Lily Nichol)がルームメイトのOlive(Gina Bramhill)と話をしていて、彼女が劇作家のKeld(Ewan Miller)と婚約した話を聞くと複雑で、KeldよりもSheilaのほうが遥かに才能ありと見ているので、結婚によって彼女の才能がスポイルされてしまうのではないか、と危惧していて、でもSheilaとKeldが一緒にいるところを見る限り、とても溌剌として幸せそうで心配いらないように見えたのだが。
でも休憩後、Oliveの危惧は見事に当たり、既に結婚しているふたりの表情と態度には明らかな疲れと苛立ちと嫌悪軽蔑が見てとれて、自分のプライドが先でとにかくすることぜんぶ褒めたり慰めたりしてほしいKeldと、あんたのママでもないのになんでそんなのに付きあわなきゃならんのか、のSheilaはぶつかって、彼女の方の執筆は止まってしまい、罠にかかった2匹のネズミ(→タイトル)のように口を開けば喧嘩ばかりになって、Keldと新進女優Ruby (Zoe Goriely)の噂を聞いたSheilaは家を出て行ってしまう。
最後はSheilaとOliveがいるところに、有名になったせいもあるのか一段と天狗の嫌なやつになったKeldが現れてよりを戻してほしい、と頼んでくる。ひととおりのやりとりの間、表情を固くして、あなたを前とおなじように愛することはできない、と繰り返すSheilaだったが最後の最後で彼のところに戻る、と。理由は妊娠してしまったから、それだけで、それでもあなたとの関係を修復するつもりは一切ないから、って。 そこであっさりぽつっと終わるの。
キャラクターたちはそれぞれ出来あがってはいるものの、劇中のやりとりだけではやや画一的、表面的で生きているかんじがあまりしないあたりが「初期作」の所以なのかと思うし、結末についても、自分の頭でそれなりに補正 - ここは自分を殺して子供を生かすためにそうするしかないのか、とか、Keldにとってはこの後の日々がぜんぶ地獄になるな、とか思えるのだが、底で渦を巻いている(のが見える)憎悪が、最後っ屁のようなかたちで痛快に何かに向かって飛んでいくようなことはなかった。
結婚は相手の才能や機会を潰すこと、潰して平気でいられること、結婚するまでのときめきや楽しさは絶対に続かない、こういったことを18歳の若者が深くないとは言え見据えて劇作にしようとしていた、ってやっぱりすごいな。そういえば”The Forsyte Saga”も結婚における「所有」を巡るドラマだったような。
[film] No Other Choice (2025)
3月10日、火曜日の晩、Curzon Bloomsburyで見ました。
封切から随分時間が経ってしまい、そろそろ見れなくなりそうだったし。
韓国映画で、原題は”어쩔수가없다”、邦題は『しあわせの選択』。
監督はPark Chan-wook、原作はアメリカのDonald Westlakeの小説”The Ax” (1997)で、Costa-Gavrasの“Le couperet” (2005)に続く2度目の映画化作品で、エンドクレジットではCosta-Gavrasに捧げる、と出る。 昨年のヴェネツィアでプレミアされた。
夏の夕方、大きな家の庭でバーベキューをしている幸せそうな一家の姿が描かれる。ユ・マンス(Lee Byung-hun)は勤めている製紙工場のオーナーから送られた鰻を焼いていて、妻のミリ(Son Ye-jin)と彼女の連れ子のふたりの子供たち、ラブラドール犬の1号と2号がいて、仕事でそんなご褒美を貰えるんだからパパすごいよね、ってなっていたら、実はそれは会社を買ったアメリカ人オーナーからの送別の品で、もう会社来なくていいから、って言われてどうすることもできずに捨てられる。
製紙工場の求職は業界内のかなり狭いマーケットであるらしく、自分と同様の経験を積んでいて優秀な求職者が他にもいるので、どうしよう、って焦っているうちに家計はみるみる苦しくなり、自分ががんばって買い戻した先祖代々からの家も、犬たちも手放さなければならなくなり、これは他の求職者を始末してでも職を手に入れるしかない –“No Other Choice”になっていく過程が漫画みたいに汗をつーって垂らす主人公の顔のクローズアップと共に臨場感たっぷりに描かれていく。
前半の幸せな家庭の描写と、それらを手放したくない、という強い思いが、一気に爆発するのではなく、じりじりと小出しに積み重なったりすれ違ったり、またぶつかったり、のように捩れて煮詰まって絡まって主人公の五感を塞ぎ、やがてもうとにかくぶっ殺す - 標的を消すことが最優先の目的になって止まらなくなっていく感情の生々しさ。“No Other Choice” – そもそも選択肢の問題だったはずがリアルでファイナルの”No Other Choice”しかない、のダルマになって転がって折り重なっていく人も含めた環境の過酷さ – そして、”Choice”はどんな立場の誰にでも迫ってくるものなので、その果ての結果として、それぞれの”No Other Choice”のせめぎ合いが最後に行きついた地点とは – などが、突きつけられるように。
ああほんとうに嫌な世の中だわ、ってぜんぶ放り出す、これもまた”Choice”のバリエーションであったはずだが、画面上に現れる人たちはみんな情念の塊りのように濃くて強くて、というその構図を、至近距離と遠景と両方の視角で対置していって、でしょ? って迫る。
どうしてそこまでしなければならなかったのか – しなきゃならないんだよ!のような煮凝りのようなところは、Park Chan-wookの映画では”Stoker” (2013)の頃からずっとあって、そのSMみたいなのが見る前はきついよね(なのですぐに見にいかない)、でも見るとその設計の見事さに引き込まれる。今回だと“The Handmaiden” (2016)のお屋敷のような高いところ、低いところ、常に全体を俯瞰しながら事の顛末を追っていくようなプロダクション・デザインの見事さ。これが地を這うような出口なしの地獄から全体を救っているような。
こういうどろどろしたサスペンス・ドラマって、日本の得意分野であるような気がするのだが、やっぱり流行らないのかしら。絆とか希望とかそんなのばっかりよか、今こそこういう方に行ってほしいんだけど。
残された日数が少なくなって、送別会のようなものも入ってきて、どの日に何を見るのか、の選択がぎりぎりで決めて諦めないといかんのも沢山でてきていてしんどいし、4月以降の日付で素敵な予告や宣伝が流れてくるとあーあー、になる。いつものことではあるのだが…
3.18.2026
[theatre] Paddington: The Musical
3月9日、月曜日の晩にSavoy Theatreで見ました。
これもロングランしそうなWest Endので、帰る前に見ておかなきゃ、のリストに入れていたのだが、観光客向けにどこかが押さえちゃっているのかチケットがぜんぜん取れないし値段はバカみたいに高いし。
でもパディントンなら、ぬいぐるみもいっぱい持っているし(また袋に入った小さいの買ってしまった..)、Winee-the-Poohだっているし、どっちなんだよ、もあるけど、どっちみちクマには勝てないのだから諦めて見にいってあげるしかない。
演出はLuke Sheppard、原作はもちろんMichael Bond、脚本はJessica Swale、ストーリーは映画版の最初のをベースに2作目の要素も少しだけ。ミュージカルなので音楽はTom Fletcher、振付はEllen Kaneで、クマと一緒に踊りたくなる躍動感に溢れている。マーママままーまままマーマレード~♪ とか名曲としか言いようがない(YouTubeにあるよ)。
James Hameedがパディントンの声とアニマトロニクス技術によってリモートで操作し、遠隔じゃないところはAli Sarebani が中に入って動かしている。アニマトロニクスってなにが?なのだが、例えばクマの毛がふわーっって逆立ったりとかたぶんその辺。 見た回では技術上の問題が発生したとかで途中10分くらいの中断があった。
開演前の舞台はいろんなものが雑然と置かれた骨董屋で、それが標本類が天井まで積みあがった自然史博物館の考古学エリアに変貌したり(極めて正しくかっこよいので震える)。右と左の壁にはロンドンの名所がパノラマで描かれている – Shardの位置とかちょっと変だけど。
所詮着ぐるみ(or 人形)コメディじゃん、なのかもだし、見ることができる写真の像と顔は、映画版のともちょっと違ってやや羊の要素が入っている(少し顔が長い)気がするし、そいつが舞台上のライブで動いたからどうだというのか、というのは誰もが思うことだろう。あんな程度のに騙されてはいかん、と。 でもこれがなんでか絶妙で、でも理由はわかんない。
でもね、とにかく、彼がパディントン駅の雑踏のなかに現れた時、彼があの赤い帽子を被ったりあのダッフルコートを羽織るとき、「うわぁ..」みたいな声が客席の間から漏れて、それはもう本当にそうなってしまうの。あのもふもふの毛玉野郎に命を吹きこまれている、とか臭いことを言う前に、なんか生き物がいる – なんなんだこいつは(なかなかかわいいじゃねえか)ってふつうになる。
そんな彼がリスク計算屋のパパ (Adrian Der Gregorian), アーティストのママ(Amy Ellen Richardson), 反発生意気盛りの娘Judy (Delilah Bennett-Cardy), 物識り息子Jonathan (Jasper Rowse), そしてぶっとんだMrs Bird (Bonnie Langford)の間で、最初は南米からきた異種・移民のホームレス扱いで、行く先々の内外でトラブルを起こしてばかりでかわいそうなパディントンは、自分はなんでこんなところに? って思い、家族もなんでこんなクマが自分らのところに? ってなり、でも最後には互いにとってなくてはならない大切なクマなんだ! になっていく気づきと発見の過程がすばらしいし愛おしいし。
骨董品屋のMr Gruber (Teddy Kempner)が探検家を探すところ、博物館のMillicent Clyde (Victoria Hamilton-Barritt)がクマを剥製にしようとするところは、相対的に薄めになっていて、パディントンの愛らしさとマーマレードに登場人物たち全員がやられて中毒になっていく過程がより鮮明になっていて、それは観客の方にもはっきりと伝播していく。みんな結末はわかっているので、これでよいのかもしれない。
そしてもうひとつの主役がロンドンの街で、クマがその名を貰うところから始まり、こんな人たちの暮らすこんな街だからこういうお話しになったのだ、というのがよくわかる作りになっている気がした。これがなんでロンドンでNYではないのか? よい名前になるような駅がないからかも – Columbus, Christopher, Astor, Houston.. みんな通りの名前で、どこかちょっと弱いのと、行き交うヒトがどこか違う – ここは掘っていったらきりがなくなるかも。
天気と空気の悪いなかロンドン観光とかするより、このミュージカル1本見た方がロンドンを正しく体感できる気がした。お金持ちだったら横のSavoy Hotelに泊まってアフタヌーンティーも込みにすれば完璧。
3.17.2026
[log] Palermo - Mar 5 - 8
3月5日から3月8日、木金土日とパレルモに行ってきたので、簡単な備忘。
イタリアは行きたいのにまだ行けていない街が沢山あって、シチリア/パレルモはその中でも最大のやつで、それが年末のラヴェナに行ったときのモザイク群と共に再噴火して、本当はもっと早く - 2月くらいに行きたかったのだが、パレルモへの直行便、この時期のBAは飛んでいなくて、3月のこの日のがシーズン最初ので、帰りが日曜日になったのも同じ事情による。 たぶん別の航空会社をあたればないこともなかったのだろうが、このシリーズ(?)ではBA縛りをルールのひとつにしている。(他にはタクシーを使わない、とか)
旧市街の真ん中に宿を取ったら少しざわざわしているものの辺りは史跡とか教会だらけで、歩けば勝手に出現してくれるので事前に調べて計画を練るようなことはほぼなかった。だからなんかミスしているのではないか、が常に。以下は主なやつだけで、隙間合間に小さいところに入ったり、猫を追っかけたりしていた。
Teatro Massimo di Palermo – マッシモ劇場
オペラハウスで、ヨーロッパではパリのガルニエ宮、ウィーンの歌劇場に次いで3番目の大きさで、演し物をやっていなかったのでガイドツアーで中だけ見ることにした。”The Godfather Part III” (1990)で、”Cavalleria rusticana”が流れたのはここ。 ヴェネツィアングラスのシャンデリアとか素敵だったが、併設されていた反響室のエコーがやかましくてものすごかった。拷問に使えそうなレベル。
Palazzo dei Normanni – ノルマンニ宮殿
宮殿とアート・ギャラリーと両方あって、アート・ギャラリーでは”Monet e la Normandia” - モネとノルマンディ(の海)という企画展をやっていた。
会場の雰囲気はよいのだが「エクスピリエンス」系のダイナミックなプロジェクションや照明を駆使して盛りあげてくれるやつで、ややがっかりだった。モネなんて絵のなかに光のドラマをぜんぶ盛りこもうとした画家なのに外側で台無しにしてどうするの? しかなかった。そんなのにお金かけるなら一点でも多く作品加えるか、入場料さげてほしいわ。
パラティーナ礼拝堂 - アラブ・ノルマン・ビザンティンの各様式の混合のとりあえずいろんなありがたみが全部降ってくるかんじのこの後のパレルモのいろんなところでもいくらでも出てくる仕様の最初。これって設計した人は各様式の取り纏めのようなことをしたりしたのだろうか。こんなふうでいいじゃん?くらいのノリだったのではないか.. とか。
Chiesa di San Giovanni degli Eremiti - サン・ジョヴァンニ・デッリ・エレミティ教会
隠修士の聖ヨハネがいた古い教会の遺構で朽ちたドームや中庭の佇まいがすてきなのだが、それをつんざいて始まった猫の喧嘩と剣幕がすさまじく、そこでご飯をもらっている猫一家(だろうか?)の生々しいドラマがばりばりの威嚇とともに繰り広げられていて、でもこんなのも中世の頃から続いていたはず。
Palazzo Abatellis - シチリア州立美術館
6日の朝から。 建物は割とぼろいし地味なのだが、こんなのが州立? という収蔵品の充実ぶりに驚く。結構不穏で邪悪そうな香りのが沢山並べてあって、それがあの隙間風ぼうぼう(そう)な建物のなかにぽつぽつ置かれているのがたまんない。住んでいたら毎日でも来たくなるような。
Chiesa di Santa Maria dell'Ammiraglio - マルトラーナ教会
教会の創設者がギリシャ人提督(ammiraglio)のゲオルギオスだったのでこの名前で、そんなに大きくはないのだが、壁から天井からギリシャとアラビア、東方の要素がみっしり、その詰め合わせ感がすごい。
Duomo di Monreale - モンレアーレ大聖堂
割と満員のバスに揺られて少し離れた丘というか山の上にのぼって、2日目の午後はずっとここにいることになったくらいにでっかくて、なんでこんなところにこんな要塞みたいな教会施設があるのか – それでも大部分は失われているってなに?
ここもギリシャとカトリックの組合せで、このような様式のそこにやってくる信者にもたらした効果 – なんてあるに決まっているのだが、このずっと居ても、信者でなくても居るだけで心地よくなる感覚はどこからくるのか、って。天井みても床みても - 石のウサギが張りついていたり – なんなのこれ、って、聞いても誰も応えてくれない空気感、広がり。
Duomo di Cefalù
7日の朝は電車で少し東の方に遠出して、Cefalùっていう海辺の町にいった。本当はシラクーザまで行きたかったのだが、日帰りは厳しいって言われたので諦めた。
駅で降りて10分くらい、でっかい岩山の上にある教会(ここは閉じていた)を眺めながら歩いていくと大聖堂が現れて、入場料も取っていないし朝早めだと誰もいないし、それでも聖堂のなかは静粛に風通しよく受けいれてくれて、夏の最中にここに来たらどんなに気持ちよいだろう.. だった。
ここから海の方に出ると、転んで頭を打っても死なない程度の岩場があり、遠くには灯台が見えて、少し歩いていくと砂浜になり、天気が穏やかだったせいもあるのか理想的な海辺ランドスケープのありようで、そこに海岸沿いに並ぶ建物を加えるとパーフェクトな、死ぬんだったらこういう海がそばにあってほしいー、の場所になった。海の向こうに山と煙が見えたのだが、あれはナポリだったのか。
Palazzo Chiaramonte-Steri
14世紀にキアラモンテ家のために建てられた宮殿で、17~18世紀には異端審問所として使用されていて、そこの壁に描かれた、というより刻まれた囚人たちによる落書きが生々しく、光の殆ど入らない獄中でこんなのを延々… になった。保存されて公開されているにしても、寒くてしんどかっただろうなー、って。大広間の細かく描きこまれた天井画も見事だったが、この見事さ華やかさと壁の落書きの間にあるのがシチリアなのかも。 マフィアと闘った写真家のLetizia Battagliaを讃えるミュージアムもあったり、光と影の表裏のせめぎ合いが常にあるような。
最後の日、8日の日曜日は朝から雨で、市場に行ったりして、午後には殆どの美術館・博物館は閉まってしまったので、開いていた植物園まで歩いていってぼーっとしていた。変な鳥、時々にゃんこ、ばかでかい変な樹木とか竹林とか、あとオレンジの木が沢山あって、どれも実がいっぱいついているのだが、あれらって食べないでそのままなの?
食べ物はイワシのパスタとかイワシを丸めて焼いたのとか、どれもたまらなくおいしい。市場の屋台のも試したかったが、お腹を壊すわけにはいかないので、我慢した。 わたしは銚子っていう海辺の町で生まれて、その目で見ると、昔は海運と漁で栄えて、伝統的にやくざがいて、イワシがおいしくて、でもいまは見る影もなく寂れて廃れて、という辺りはなんだか似ている気がした。なんであんなに廃れちゃったんだろうね(日本中の地方都市の殆どがそうだと思うけど)。
あと、修道院の横で伝統菓子を作っているお菓子屋に並んでカンノーロを食べたら、めちゃくちゃどっしりパワフルで感動した。こうこなくちゃね、だった。
あと、夜遅くまで開いている古書店がホテルの近くにふたつあって、なかなかたまらなかった。遅い時間に彷徨っていたらそこに古書店が、なんて危険極まりないのだがー。
あと、ふつうの道路、車がびゅんびゅん通っているのに信号がそんなになくて、みんなちょっとごめんよ、ってかんじで軽く手をあげてぐいぐい道路を渡ってしまうのがなかなかすごかった。NYとLondonにいたのでその辺は得意のはずだったのだが、あれに馴れるのにはちょっと時間を要した。(次に行ったときはだいじょうぶ)
3.13.2026
[theatre] Double Indemnity
3月4日、水曜日の晩、Richmond Theatreで見ました。
この劇はこないだここで見た”The Constant Wife”と同様にアイルランドや英国の各地を巡回ツアーしていて、各地での上演は4~5日くらいづつ。
原作はJames M. Cainの同名小説(1943)で、Billy Wilderが映画化(1944) - 邦題は『深夜の告白』 - した作品の舞台版。
映画版はRaymond Chandlerが脚本に加わり、Barbara Stanwyck, Fred MacMurray, Edward G. Robinsonが出演しているノワールの古典で、中心の3人がとにかくすばらしくて何度でも見れる。
原題は保険の「倍額補償」のこと - 保険契約で、被保険者が事故で死亡した場合に通常の2倍の保険金を支払うことを約束する条項のことで、自信たっぷりの保険セールスマンが豪邸に暮らす婦人にやられてつるんで高額の保険をかけて彼女の夫を殺して、保険金でとんずらを企む、という今ならどこにでも転がっていそうな三面記事ネタなのだが、映画版だとLAで空虚な日々を過ごすBarbara Stanwyckの倦怠と焦燥が逃れることのできないノワールの渦とともに金縛りにして、あのモノクロの質感は何度見ても吸いこまれて痺れる。これを最初に見たときは、こんなにありえないくらいにひどくて悲惨な世界をなんであんなに重厚にかっこよく描けるのか、って驚嘆した(ノワールの入り口)。
脚色はTom Holloway、演出はOscar Toemanで、前面には奥の方が暗めになっているグレイトーンの無機質なオフィス / リビングに切り替わり、背景にはLAの”HOLLYWOOD”の大看板を裏から見たのの一部 –“HOLL”くらいまで – が見えている。その大文字の看板の影の下で展開されるドラマである、と。 舞台劇なので仕方ないのかもしれないが、がらんと抜けた空間が広がっていて、それはノワールの息詰まる暗さや至近距離での攻防とはちょっと違った感覚かも。
今作の宣伝ポスターはPhyllis (Mischa Barton)の振り返った顔が前面に出ているのだが、主人公はやはり転落していく保険屋Walter Huff (Ciaran Owens)の方で、彼が最初からずっと舞台にいて、登場人物たちをドライブし、時にはナレーションもしたりしつつ、気がついたらPhyllisのペースと罠にはまって、うまく誘導されるがまま殺人にまで引き摺られていく。でも女性をどこか見下している自信家なので、あくまでもすべてを動かして統御しているのは自分で、そうしている限りは大丈夫だ問題ない、という線を崩そうとはしなくて、それが結果としてあの結末をもたらす。
映画版だと、Barbara Stanwyckのファム・ファタルの存在感が圧倒的でFred MacMurrayには彼女の闇と毒にやられて麻痺して視界を塞がれ身動きがとれなくなっていく息苦しさ(と共にある快楽)があった気がするが、この舞台版はPhyllisとうざったい上司Keyes (Martin Marquez)に対する見栄と自信が最後にぜんぶ跳ね返ってきて自滅する、彼の自業自得自滅のニュアンスがやや強いかも。それはそれでいい気味、なのだがそういうスケールのドラマにしてよかったのかどうか。
Mischa Barton演じるPhyllisは華やかで人を惹きつける魅力は十分なのだが、舞台が少し明るくなるかんじに見えてしまうのはどうなのかしら、って少しだけ。すごく難しい役だとは思うけど。
彼女も含めてアメリカ西海岸のドラマ、を意識した舞台の建付けだった気がするが、イギリスとかスコットランドの下町設定にしてももっとどろどろしておもしろくなったのではないか、とか。
ようやく箱詰め - 箱詰めと言えば本 - を開始して、Sサイズの箱18個までどうにか(こっちに来たときはS3個だったのに)。たぶんぎりぎり20個で収まりそうな。 だが収まったからどうだというのか。あの家のあの部屋に入ると思っているのか? あたまおかしいんじゃないか? といういつものー。
あと、気付いてしまったのだが、まだ2週間あって、最後のお買い物はこれからが佳境なのだと。来週はパリ行くし、アントワープも行くし。明日はマドリードだし…
[theatre] Stranger Things: The First Shadow
3月1日、日曜日の午後、Phoenix Theatreで見ました。
West Endでロングランしている商業演劇系(っていうの?)は余り見ていなくて、まずチケット代が高いし、しばらくやっているだろうから、というのがその理由だったのだが、帰国を前にやっぱりいくつかは見ておきたいな、になり、このシアターはいつも行く本屋Foylesの反対側にあって、本屋を出るたびに”Hawkins”の文字が目に入って見たいかも、になっていた。
NetflixのあのTVシリーズ(最後のエピソードは見れていないので帰国したら見る)、1983年から始まったあの物語の約40年前から始まる前日譚 - 冒頭に字幕で小さく”The Philadelphia Experiment”とでる – で、Duffer Brothers, Jack Thorne, Kate Trefryがオリジナルストーリーを作って、演出はStephen Daldry(!)とJustin Martinの共同。TVシリーズを見ていなくても、そんなに憶えていなくても「変なもの」は変なものとして目の前にダイナミックに迫ってくるし、知っている人には40年後の起源や登場人物がこんなところに、になる。 休憩含めて3時間、最後には映画のようなエンドロールが流れる。
暗転して闇の奥からTVシリーズのあのシンセ(もろJohn Carpenter)が湧いてくるだけで、どよめきが起こる。全体としてサウンドデザインが見事で、最後の方の光と轟音の嵐は怖いくらいだった。ところどころの古いフィルムのプロジェクションも効果的。(Ratingは12+で、日曜日の昼だからか子供もいっぱい見ていたがぜったい怖いとおもう)
冒頭が戦時中、洋上の戦艦のなかで起こった謎の出来事→大事故と失踪、そこからTV版の舞台となったインディアナ州ホーキンスに移って、そこでの平凡な学園生活と、周辺でペットが不審な死にかたをしていく事件を中心に、いくつかのエピソードが併走していく。冒頭の事故の唯一の生存者の息子で、不思議な能力をもつ少年Henry Creel (Jack Christou)、はぐれ者の彼に近づいていくPatty (Avril Maponga)を中心に、田舎の高校の平々凡々とした日々と、その裏に潜んでいるのか進行しているのか何やらおそろしい、”Strager Things”の端々をじわじわと炙りだすように描いて、でも全体像はちっともわからない。 TVシリーズを知っている人は、これらがどうなっていくのか、なんでこんなことに.. は凡そわかっているので、きたきたきた..になったり、これって、あれのこと? になったりと慌しいのだが、音とヴィジュアルの有無を言わせない説得力がすべてをなぎ倒して覆いかぶさってきて、記憶も忘却もどこかに行ってしまう。単独の舞台として見ても十分わけわかんなく錯綜していてよいと思った。
TVシリーズでWinona Ryderが演じたJoyceやDavid Harbourが演じたHopperの高校生時代の姿も出てくるが、彼らはちょっと微妙で、別になくてもよいくらいのエピソードの出し方。そして、若い頃のDr Brenner (Stewart Clarke)も当然。
この時点で誰かがどうにかしていたら、この件はどうにかなって(収束して)いたのだろうか?勿論そんなことにはならず、Stranger ThingsはStrangerのまま、だから、劇は冷たく恐ろしいままにその蓋を閉じて or 開けたままにHawkinsの80年代を用意する。しかし、この劇を見てからTVシリーズに行くと、あまりにほのぼの腑抜けで無邪気すぎるふうに見えてしまったりしないだろうか。
軍の実験と超能力と怪物と田舎を掛けあわせた超常化け物怪奇ホラーとして、とてもよくできているなあ、と改めて思ったのと、そういうのなしでも、シアター/お化け屋敷として十分機能しているように思えた。5時間くらいに引き延ばして、外に出られなくする設定を加えたらパーフェクトではないか(なにが?)。
[theatre] The Shitheads
3月3日、火曜日の晩、Royal Court Theatreのupstairsのシアター(全席自由)で見ました。
これ、2月25日のチケットを取っていたのだが、前日くらいに出演者が怪我をしたのでこの日の上演はなくなって、払い戻しするか別の日に振り替えるかどっちがいい? と聞いてきて、振り替えたい候補日をメールで送ったらこの日のチケットがきたの。
原作は詩人でもあるJack Nichollsの劇作デビューで、Royal Courtの公募作のなかから選ばれたもの、演出はAneesha SrinivasanとDavid Byrne(あのDavid Byrne氏とは同姓同名)の共同。約1時間40分で休憩なし。
場内は洞窟の中らしい赤暗い照明で、舞台奥の上の方には出入り口らしい穴が開いていて、大きな音ではないが「ジンギスカン」のディスコの音楽が流れていて、ちょっといかれたダンスフロアのように見えなくもない。
紀元前数万年前、先史・原始時代のやがて英国になると思われる土地に暮らしていた原始人たちのお話しで、「はじめ人間ギャートルズ」の世界で毛皮を羽織っていたりするのだが、主人公たちの名前はClareとかGregとか現代人のそれで、喋る英語もスラングみたいのも含めて今の英語(たぶん)だったりする。
考古学的な考証は横に置いて、自然と人工の配分とか、ムラとか家族とか近くのヒトとか恋愛とか、そういう現代の我々の前提とか縛り、目線から離れてフリーハンドでいろいろ好き勝手に思い描いて、それでも今のしがらみとかはどうしてもくっついてくるだろうから、言葉とか名前だけは現代のをコラージュのようにぶつけてみる、とどんなふうになるのか、という実験?
最初に登場人物らしき人がひとり、少しおどおどしつつ現れて、「このお話はBased on a True Storyである、と思うよ」 とか言う。そうでしょうとも。
それからいきなり3人の人形遣いに操作されたバカでかいヘラジカのパペットが現れて(ぶんぶん振り回されるツノだけでもすごい)、そいつを前にClare (Jacoba Williams)とGreg (Jonny Khan)が出会って、少し強くて狡猾そうなClareはヘラジカを倒して、無邪気でおしゃべりなGregはもうじき酷い気候になるから南に行くべきとか、ふたりの会話は噛み合っているのかいないのか、そこだけ切り取るとSNLやモンティパイソンのスケッチみたいなコメディネタの掛けあいなのだが、いきなりClareはGregを殺しちゃって(客席の笑いが凍りつく)、カチ割った頭から脳みそを食べたりするの。
後半、Gregの首をぶら下げて洞窟の家に戻ったClareを無邪気な妹のLisa (Annabel Smith)と病弱な父 (Peter Clements)が迎えて、今度は原始時代のシットコムみたいな家族ドラマが繰り広げられ、そこにGregの妻Danielle (Ami Tredrea)と歩き始めたばかりくらいの赤ん坊パペット(2人で操作して1人は赤ん坊の声も。ちょっとホラーに出てくるベイビーぽい)が現れて、Gregを見なかったか?って聞いてきて…
人間を動物の習性や挙動から隔てて「人間」にしたものはなんだったのか? 最初の方でClareがGregに何度も執拗に聞かせてほしいと請う”Story”のこと、そして自分たちとは異なる「あいつら」的に語られる”Shitheads”のこと、これらが明確な意図をもって彼らの間で使われ始めた時、あらゆるギャグは停止して殺戮が始まる、と。そしてこの温度差をどちら側からどう見るか、が今の我々に問われていることなのではないか – など、真面目に考えることもできる。
あと、折角ここまで作ったのなら、イギリス人 - ブリトン人がなんでこんなんなって、こんなままなのか、まで掘り下げてみてもよかったのではないか、とか。
送り出しでも「ジンギスカン」がじゃんじゃん流れて、しばらく頭の後ろで鳴っていた。ジンギスカン食べたくなった。
3.11.2026
[film] If I Had Legs I'd Kick You (2025)
3月2日、月曜日の晩、"The Moment"に続けて、Picturehouse Centralで見ました。
これも、なんで今これを? になるのかもしれないが、上映館が少なくてすぐ終わっちゃう気がしたのとRose Byrneが好きなので。
監督・脚本はMary Bronstein、プロデューサーにはJosh Safdieと彼の助監督で、監督の夫でもあるRonald Bronsteinなどの名前がある。Josh Safdieの終わりが見えないままずるずる、の薄ら寒い感覚ははっきりとある。
心理療法士のLinda (Rose Byrne)は摂食障害でチューブを通して栄養を摂取するしかない娘のために日々通院していて、そこのドクター(Mary Bronstein - 監督本人)からはいつも柔らかく怒られたりあなたのせいではない、って言われたりして(医者患者のどちら側も)疲れている。夫のCharlie(最後にちょっとだけ出てくるChristian Slater)は船の仕事で海に出ていて能天気でご機嫌な電話はしてくるけどずっと帰ってこない。
ある日アパートに帰ったら天井から水漏れがしていて、しばらく見ていたら大量の水と共に天井の一部が落ちてきた(これってNYではあるのよ普通に)ので、母娘はしばらくモーテルで暮らすことになり、娘が装着している栄養補給機のたてる音で眠れなくなり、外にワインを買いにでると店員とトラブルを起こしたり、それを横で見ていた管理人のJames (A$AP Rocky)に助けられたり。
もともと鬱のあった彼女は同じオフィスの同僚セラピスト(Conan O’Brien)のセラピーを受けるが鉄仮面の彼とのセッションは全く会話にもセラピーにもならず - Conan O’Brien最高 - こうして何の、誰の助けもケアも得られなくなってしまった彼女はー。
建てつけ、構成としては、どうってことのない日常のやり取りがちょっと捩れて終着点の見えない何か – ぐしゃぐしゃのホラーのように変わっていく、ひとつひとつの出来事が恐ろしいのではなく、終わらないこと、なにもかも終わらないために始まっていく感が恐ろしくて、その「責任」がすべて自分の方に向かってくる。穴の開いた天井も業者が都合でいなくなって放置されていたり、他方でチューブに繋がれた娘を放置するわけにはいかないし、自分の患者もいる反対側で自身の鬱もどうにかしないことには、とすべてクリアにわかっているのに、どこにも行けない動けない恐怖と情けなさが彼女の感覚や判断力を塞いでいって、「正気」とか「日常」に戻ることができない。
Rose Byrneの一見クールで、すべてをソツなくこなすように見えて実は、のコメディエンヌの資質を見事に反転させドロ沼に嵌って孤立して極限状態にまで突っ走っていく主婦の姿を描いて、でもこれはあなたの姿でもあるのではないか? と問う。でもそこまでシリアスで陰惨な地獄に行かないところがRose Byrneの格、というか見事さで、全体がダークなのに妙な安定感があったりするのはよいことなのかどうなのか。
そして最後まで顔が明かされずにマシーンのビープ音のみでその存在が示される「娘」のありよう、これがもたらす悪夢とは? というー。
ホームレスで、少しだけドラッグにやられている少女たちの彷徨いを描いたJosh Safdie(脚本はJosh + Ronald Bronstein)の“Heaven Knows What” (2014)にかんじとしては近いかもしれないが、あそこにあった屋根のない「自由」のようなものはなくて、寧ろ屋根がなくなったことによる「縛り」が無情に降ってきて、それでも” I'd Kick You” !っていう強さというか、ふざけんな、の勢いがあってよいの。
[film] The Moment (2026)
3月2日、月曜日の夕方、Curzon Aldgateで見ました。
いろいろばたばたで新しい映画を見る余裕がぜんぜんなく、旧作なんてもってのほかでBFI Southbankにも行けていない。こんなことがあってよいのでしょうか神さま、の状態が続いている。
そんなあれも見ないとこれも見ないとでぱんぱんな時に限って、ついこんな半端なのを見てしまったりするのはどうなのか。
監督はFKA TwigsやBillie EilishのMVを撮ったり、Timothée Chalametの映画のプロモーションに携わってきたAidan Zamiriで、これが初監督作となるが、元のアイデアなどはCharli XCXによるもの。配給はA24。
モキュメンタリーで、2024年のアルバム”Brat”のリリースに合わせたプロモーション”Brat Summer”、これの舞台裏も含めて、こんなことがあったりしてねえー、というのを彼女の位置からたっぷりの皮肉と共に描いている。全体としてはよくもまあ、っていうのとここまでやるのかー、ていうのが入り混じる。産業って… とか。
Charli XCXは”Sucker” (2014)などはよく聴いた、くらい。元気があってよいなー、くらい。
“Brat”のアリーナツアーの準備を進めながらちょっと疲れてきたCharliのところにAtlanticレーベルの大物Tammy Pitman (Rosanna Arquette ..あらら)が、このツアーを歴史に遺る遺産とすべくamazonと提携したコンサートフィルムを撮影する話を持ってきて、監督Johannes Godwin (Alexander Skarsgård ..あらあら)が現れて、常にリハーサルする彼女の後ろを追っかけてうざい口を出し始めて、クリエイティブ・リードのCeleste (Hailey Benton Gates)と彼女は事あるごとに顔を見合わせることになる。あと、ツアーを後押しするプロモーション企画として、落ち目になりつつあるカード会社Howard Stirlingが発行する”Brat”クレジットカードが発表され、サインアップするとツアーチケットが付いてくるとか。
この他にもその筋では有名なのだと思うセレブが右から左から実名・カメオで湧いて画面のあちこちにいて、詳しい人にはより楽しめるのだろうが、そうでなくとも、Charliを取り巻く大量かつ多様な何をやっているのかわからない人たちによって「界隈」が形成され、どっちが先なのか知らんがコラボティヴでストラテジックな連携・提携によるプラットフォームができあがり、そこに我々のお金がじゃんじゃか自動で吸いこまれていくのだな、ということはわかる。
でもそういう中でCharliは疲れていって、もうなにもかもいやだ、というかんじで突然イビザに逃げて高級リゾートに籠ろうとするのだが、そこでも怪しげなエステティシャンが絡んできたり。
これ、エンタメの実経済を支えるバカみたいに脳みそその他が空っぽな人々を風刺するコメディ – “Spinal Tap”のクラブ・レイヴ版にすればよかったのに、と思ったのだがそちらには行かず、ひたすら疲弊して本音をぶちまけることもできないCharliの、沢山の人達が準備してリソースを出してここまで来たのだから、って全てをのんで受けいれる姿が描かれる – そういう形で示される業界への批判で、それでも最後にはamazon musicで宜しくね、って出るので失笑せざるを得ない。
ファザコンでミソジニー丸出しのJohannesをどこかでぼこぼこにしてくれると思ったのにそれはないし、音楽も殆ど流れてこないし、主人公は疲弊して浮かない顔で、そういうところで最近のメガヒットは形成されるのだな、パンクなんて異なる惑星の話としか思えないし、Morrisseyが嘆くのも無理はないわ、って。
3.10.2026
[music] Morrissey
28日、土曜日の晩、The O2 Arenaで見ました。
クラクフから戻ってフラットに着いたのが16時半くらいだったので余裕。アウシュビッツを見た後のしんどさとか、もう少しあると思っていたが、そんなでもなかった。覚悟していたからだろうか。
この人のライブは初来日の横浜の時から数えて何回めくらいになるのか、最後に見たのは2018年のLondon Palladium で、いつの間にか、なんとなく、なにがなんでも行く! の対象からは離れてしまっていた気がする。
その理由はいろいろあって、あんま深く考えたくないかんじだったなー、となっていたのはなんでだったのか、について考えさせてくれるようなライブだった(ライブの度にそんなことばかり考えてて楽しいの? って自分でも思うがうるせえよ、って)。
Morrisseyがレコードを出して貰えない、創作活動を十分にすることができなくて焦って腐って悶々としている、というのはずっと聞いていて、彼がそうやって周囲に毒を吐くのはいつものことのように思えたし、であれば「大丈夫」に違いない、とか。でも大丈夫とかそういうことでもなさそうで。いや、わかんないな、ってぐだぐだ考えが右に左に揺れまくった。
The Smithsという、もはや恐竜のように巨大な遺産と認知されているバンドのフロントにいた彼なので、ソロになってそれなりのキャリアを重ねていったにしても歳をとったりなんだりで自分の思うような活動をできず/させてもらえず壁にぶち当たって… なんてあの世界ではごく普通のことのようにも思えるのだが、彼にとってはそういうことではないのだ。曲を書いてライブで歌うという音楽活動は自身の生死を賭けたすべてであったのだ。
The O2のあるNorth Greenwichの駅は、アリーナのライブがある時は告知用のホワイトボードにそのアーティストの曲名や歌詞をびっちり散りばめた「案内」?を出してくれるのだが今回はさすがにハードルが高かったのか過去のNoel Gallagherのをそのまま置いていた。残念。
19:30くらいに客電が落ちて通常の時間であればサポートアクトになるのだが、Morrissey を「サポート」する度胸のある若い子なんていないので、Morrissey のお気に入りのアイコンとそれに合わせた曲(あるいはその逆)をじゃんじゃか掛けてくれて楽しい。それは過去、The Smithsが12inchのレコードジャケットでやっていたことと地続きの極めて教育的ななにか、でもあるの。
20:40くらいに客電が落ちて、マラカスを持って出てくるなりForeignerの”I Want to Know What Love is”のあの一節を、まあ今こんなことを世界の中心で吠えてやってサマになるひとなんていないよ。この曲で吠える人もいないだろうが。
バンドはおそらく若返っていて(終わりの方でメンバー紹介と自己紹介もあった)、アレンジもわかりやすいエレクトロが入ったりキーボードのソロもあったり、がんばっているようだったがそういうことではなくて、モルヒネを打ってそれが切れるまで、本当にそれくらいいっぱいいっぱいで大変なんだ - 助けてほしい - ってずっと、このギャングでパンクで落ちぶれて崖っぷちの老人が呻き続けている。
新譜のリリースを巡るごたごたのなか、尊大なアーティスト・エゴがどうの、という以前のところで、この人は最初のバンドの頃からずっと毒を呑んで吐いて悶絶して絶望して生死を賭けるようなところで歌を書いて歌ってきた。それがすべてで、それが十分にできない、というのは死ね、と言われているのに等しいのだ。 100文字程度で、誰もが言いたいことを好きなようにいくらでも吐きだすことができるようになった今(Make-up is a Lie)、彼のような態度や挙動がきちんと理解されない、ちゃんと通用しない、というのがあるにしても、じゃあどうしろと言うのか – というのが冒頭の叫びに繋がっていたし、“A Rush and a Push and the Land is Ours”~”Now My Heart is Full”の流れは本当に感動的に響いた。(ここでもし“Last Night I Dreamt…”までやってくれたら泣いちゃったと思う)
ただ他方で、昔のスタンダードばかり求めてくる客ばかり、という残酷な事実もあって、すんなり爽快に楽しませてくれない。The Smithsを聴いて育ったビリオネアのなかで、恩返しもかねて彼にお金をだしてきちんとしたアレンジと演奏で新譜も含めてセンスよく賄ってくれるような人はいないのか、金持ちはThe Smithsなんて聴く必要はなかったのか、とか。
この先どうなっていくのか誰にもわからないし、知りようがない、この人はそういう前人未踏の領域に首を突っこもうとしているのだ。 どうせ先にあるのはダブルデッカーバスだし、ってあの曲を最初に聞いた時の感覚が蘇ってしまったので、これがよいことなのかどうなのかはわかんないけど、いまだに蘇ってくるものがあるので、よいライブだったと思う。
あああと3週間を切ってしまった。どうしよう…
(ぜんぶあきらめろ)
[log] Kraków - Feb 26 -28
ポーランドのクラクフに行くのは初めてではなくて、2018年に仕事のコンファレンスかなんかで行っていて、でもこの時は仕事だったのでシロテンとSt. Mary's Basilicaと地下博物館くらいしか見れなくて(仕事なんだから仕事しろ、だけど)、今回は2泊あるのだからやはりいろいろ見たいかも、になった。
Romeo i Julia
26日、木曜日の晩にMałopolski Ogród Sztuki (MOS)で見ました。
滞在中に演劇とかやっていないか探していたら見つけて、でも2日間公演のどちらもずっと売り切れでほぼ諦めていたのだが、飛行機が現地に着いて繋がった時に見たら取れる状態になっていたのでまだ機内にいるうちに取った。
開演は19時で、入管に時間が掛かってホテルにはいったのが18時過ぎ、土地勘とかないのでとにかく早めに出て、お腹が空いていたので屋台でドーナツを買って食べながら(おいしいったら)、歩いてシアターに向かう。
ここは由緒あるJuliusz Słowacki Theatreの分館でよりモダンで実験的な劇を手がけているようなのだが、初演は2023年、ポーランド語手話による作劇 - 制作には聴覚障害者、健聴者双方が関わった - を起点にシェイクスピアの古典を再構成している。演じるのは男性2名、女性2名のみ、らしい。誰が演出したのか、などは探したけどよくわからず。
全席自由で開演時間丁度に開場して、席につくと女性2人が台座に固定されるように立っていて、間もなく始まるとふたりは歌、台詞の発話(ポーランド語)、ポーランド語手話を駆使して、その内容はプロジェクターにポーランド語 & 英語でリアルタイムで表示される。やがてそこに男性ふたりも加わってやり取りをしていくうちに女性ふたりはどちらもジュリエットで、男性ふたりはどちらもロミオであることがわかってくる。
強権的な家制度と過去からの因襲による縛りと、それに対する強い反発、そして恋に突き動かされた強い情動、全てを断ち切りたい思いとずっと一緒にいたい思い、これらに伴う犠牲... そこに手話という身体を使ってこれらを伝える/伝えなければならない、という与件が加わったとき、恋するふたりの身体がふたつに裂かれるように分かれてあることにそんなに違和感は感じなかったかも。
ふたりの恋によって彼らの自我も含めて引き裂かれた混沌とした状態を表すのに手話、発話、歌、振付けが駆使されて、英語の字幕もあるので伝わるものは伝わっていたように思えた。
他方で、原作のお家間ややくざの抗争や悲劇に向かっていく錯綜した駆け引きの殆どは(演者もいないので)無くなっていて、ふたりの場面、それもいちばんエモーショナルなところだけを抽出して煮詰めたものになってしまっていて、これでいいの? って思い始めた辺りの約60分でぷつりと終わってしまった。
帰りにカフェでピエロギを食べたらものすごくおいしくてびっくりした。
演し物ではもうひとつ、27日の晩にThe Cracow Philharmonic HallにKraków Philharmonic の演奏を聴きにいった。ポーランドならショパンだろう、と少し思ったが、こういうところのメインの音楽ホールを見たい、というのもあって、オンラインで当日取った。演目はベートーヴェンの第八交響曲とマーラーの「大地の歌」の2曲、オーケストラ演奏のよいわるいは判断できないのだが、オケも歌唱も力強くて、でもホールの音響はクラシックにしてはちょっと固かった気がした。
美術館関係だと、この街にはダヴィンチの「シロテン」- 『白貂を抱く貴婦人』 (1489-1490)が名物のようにあって、これだけは事前にチケットを取った方が、とAIさんに言われたので、アウシュビッツから戻ってきた夕方に駆けこむようにチャルトリスキ美術館に入って見た。シロテンは前回クラクフに来た時にも見ていて、その時はここではない国立美術館の方にあって、でも展示場所としてはこちらの方がうまくはまっていた気がした。わたしはこの絵のシロテンの腕の白くむっちりしたところがなんとも言えず好きなので改めて舐めるように見て堪能した。夕方だったからか絵の前には人がほぼいなくて、こういう場合、ふつうだったらシロテンが絵の中から飛び出してきてくれるはずだったのだが。 あと、もうじき日本に行くらしいダヴィンチの『ミラノの貴婦人の肖像』 (1490-1496)で描かれたのと同じ女性なのかどうなのか。
これ以外の朝と、最後の日の出かける前までは主に教会を回っていた。Holy Trinity Church、聖マリア聖堂、聖フランシスコ教会などなど。古い都なのでそういうのはいくらでもあって嬉しいし、扉を開けた瞬間にわーってなって、ずっといてもなぜだか飽きないし。帰る日の朝は丘の上のヴァヴェル城のカテドラルに入って、教皇ヨハネ・パウロ二世のお墓と彼の名前のついた美術館も見た。自分がキリスト教(全般)に興味を持つようになった頃の教皇だったので、いろいろ振り返ったり。
3.05.2026
[log] Auschwitz-Birkenau - Feb 27
2月27日、金曜日の昼、現地に行きました。簡単な備忘。
ヨーロッパの近代以降の文化にずっと惹かれて追ってきたものにとって、この場所に行くこと、ここの地面の上に立って何があったのかを頭に刻むことは宿題のようになっていて、前回の駐在時にも計画していたのだがコロナで行けなくなり、本当は20代30代の時に見ておくべきだったと思うのだが、ここまで時間が掛かってしまった。ここ数ヶ月であちこちに行ったりしているのは全部そうで、なにもかもしみじみだめだった、なんでもっと早く、ってどこに行って歩いていても思う。
現地を見るにはMuseum(遺構、敷地全体がMuseumとして保護・保全されている)のやっているガイド付きのツアーに参加する必要があって、日本人の方によるガイドがよいことは知っていたのだが、時間の余裕もないのでオンラインで取れる英語のツアーにして、でも1月中旬の時点で2月の後半で取れたのはここの昼間のひと枠くらいしかなくて、とりあえずそのチケットを押さえて、その後にフライトを探してみると、クラクフから当日に入るのは無理、当日に出ていくのも無理で、会社の木金を休む2泊3日にせざるを得なかった。できればこの機会にワルシャワも行きたかったのだがそれも大変そう、後で28日の晩にMorrisseyのライブを入れていたことに気づいたが、どうにかなりそうで少しほっとしたり。
着いた日からクラクフの天気はとてもよくて、この日もぽかぽかと暖かい日差しで、クラクフの町から電車で約1時間と少し、そこからほぼ一本道を歩いて約20分。公園とかもあるあまりに普通の住宅地のなかに突然Museumの施設が現れて、入口はバスで来た団体客でわらわらしていたところを助けられるように奥に入れて貰い、いろんな言語のツアーが順番に入っていくなか、開始時刻にガイドの女性に率いられて中に入る。自分の集団は20~30人くらいか。
何度も写真で見たことがある”B”が倒立した”ARBEIT MACHT FREI” – 働けば自由になる – のアーチがいきなりあって、そこから第1収容所の施設を端から見て回る。これまでプリーモ・レーヴィやフランケルで読んで、写真でも映画でも何度も見てきたそれらが目の前にあって、あたりまえだけどぜんぶここで起こったのだと。
収容所に到着した子供たち、女性たちの写真、ゾンダーコマンドが撮った火葬場の風景、これらの以前見たことのあった写真も、この場所であった/撮られたということでこれまで見知っていたのと異なる生々しさが立ち現れてくるのと、他には映画”The Zone of Interest” (2023)に出てきたRudolf Heß一家が実際に暮らしていた家を見ること、この間の演劇”Here There Are Blueberries”で撮られていたナチス幹部たちの風景を重ねてみること。
アウシュビッツを一通り見た後に、シャトルバスで20分のところにあるビルケナウに向かい、あのずーっと奥まで伸びた線路と、当初計画ではとてつもない規模になる予定だったという広大な敷地を眺めて、実際に歩く。ここまで拡張される予定でした、ってショッピングセンターやデータセンターの拡張計画のように考えていたとしか思えなくて、そういうのを得意げに語る営業担当みたいな幹部の顔が何人も浮かんでとても気分が悪くなった。
過去にいろいろな形で表象されてきた風景や情景、それらが目の前にはっきりとある、どれも恐ろしいのだが、なによりも恐ろしいのは、ここにものすごい量の人的リソースが投入されて、毎日どれだけの数を「処理」することができるのか、「集約」とか「効率」とか言いながら日々の仕事としてやっていたことだ。こんな規模の施設で「なにをやっていたのか知らなかった」なんてありえないよね。
あとは、割と最近の映画 – “A Real Pain” (2024)とか”Treasure” (2024)で、収容所で亡くなった祖先を訪ねて(ではなく、お墓があるわけではないので収容所の遺構を訪ねて)いく子供や孫の映画がいくつかあって、これらについても訪ねたくなってしまう事情はなんとなくわかった。こんなところで、っていうのがあまりに非現実的すぎるからではないか。
そして最後はやはり、いまの世界で実際に起こっている虐殺のことを考えてしまう。数日前に始まった戦争のことも。
過去のこれらからなにも学んでいない、自分たちさえ良ければそれでいい人たちが絶対安全な場所から子供たちを殺している、ということを。それを我々みんなが許してしまっている、ということを。
これ以外のクラクフでのことはまた別で。
3.04.2026
[theatre] Arcadia
2月24日、火曜日の晩、Old Vicで見ました。
原作はTom Stoppardの同名戯曲(1993 – 初演も)。演出はCarrie Cracknell。
Old Vicは昨年舞台と客席の配置をリニューアルして、舞台を前方中央の円形に、客席はそれを見下ろす or 最前列は同じ高さの地続きの床になったのだが、ずっとこのレイアウトで行くのだろうか?(上演される劇を選んでしまうような..)
1809年のイギリスの邸宅の一室で、そこに暮らす天才少女Thomasina Coverly (Isis Hainsworth)と家庭教師Septimus Hodge (Seamus Dillane)がいろんなテーマについて楽しく問答を繰り返しながら、数学や科学の理論を通して自然や宇宙の包括的な謎に迫ろうとしていくのと、登場人物ががらりと入れ替わった現代の同じ部屋で作家のHannah Jarvis (Leila Farzad)と文学教授のBernard Nightingale (Prasanna Puwanarajah)が、100年以上前、かつてこの部屋で起こっていたかもしれないことについて議論を重ねていく。
気が付くとゆっくりと回転していたりする円形の舞台には低めの棚が沢山とその上に積まれた本がいくつか。部屋の頭上には星雲のような円弧なのか原子の回転なのか、舞台と同期をとるように弧を描きながら瞬いていく光の球がある。棚のどこかには食パンくらいのサイズの亀がいて、この亀さんはどちらの時代にもいる(同じやつ?)。
1月にHempstead Theatreで見たStoppardの”Indian Ink”も過去のインドに生きた - 鮮烈に生きた英国人女性と80年代の英国を同じ舞台上に繋いで、時代を跨いで行ったり来たりする劇だった。歴史の縁に埋もれた女性の声を発掘する、ということと彼女たちがそこにいた、生きていたということを探偵のように掘り下げていくことで開かれていく我々の目、といういくつかの視点があり、それらを共時的な体験としてひとつの舞台の上に実現する – これって演劇の可能性のひとつだと思う。
19世紀の彼らは、田舎の小さな一室で幾何学や不可逆性やカオス理論、天文学の可能性や仮説について論じて、そんな夢のような理屈がこんなところでは実証できないことを知りながら、それでも語ったり議論したりしないわけにはいかない。現代の彼らはいま自分たちの住む家に出入りしていた痕跡のあるバイロン卿の謎めいた動き、その点と線を推理しながら、やはり同じところを同じように回り続けている。天と地、科学と人文、見つめる先もテーマも全く異なっているのだが、はじめからそこにある混沌に秩序と補助線を加えて見晴らしのよいアルカディアの庭園を目指そう、という思いは共通している。それが穴倉のような部屋のなかで100年以上の時を隔てて起こった、そこで起こる、瞬くかもしれなかった可能性に想いを馳せること。
19世紀の舞台と現代の舞台で、現代の方は登場人物が多いこともあってややじたばた落ち着きがなくて、両者が慌しく交錯する最後の方はもうちょっと整理してほしいと思ったが、この劇はこうなりました!という結末を提示するというよりも、とめどなく広がっていって止まらない思索のありよう、その可能性を示すものだと思うので、こんなふうでよかったのかも、と思った。舞台装置とか衣装とか、すべてのデザインが”Arcadia”!の方に向かって揃って纏まっているように見えたので。
こんなふうに自分の足下で過去に何が起こっていたのか、想像みるだけでも楽しくて、でもそれをするためには建物とか周辺の見晴らしがそれなりに残されている必要があって、英国ってそういうことができる土地でもあるよなーって。
うちのフラットのそばのテムズ川を見てるだけでも、なんか来るもの。
帰国まで1ヶ月を切ってしまったので、従来からのお買い物大会と見納め大作戦に加えて、しんどいばかりの箱詰め大会も始めないわけにはいかなくなった。ちまちま買い溜めてきたペンギンの古いの、Virginia Woolfの”Orlando”が3冊も出てきて、どれも1945年の版なのが笑えた。巷では3冊までなら許されると聞いたのでちょっと安心。
あと、備蓄食料の在庫一掃も始まっていて、これのルールはぜったいに賞味期限を見ないことなの。
3.03.2026
[log] Copenhagen - Feb 21 - 22
2月21日、22日の土日の1泊で、コペンハーゲンに行ってきたので、簡単な備忘を。
これの前、15日は日帰りでJersey島に行ったり、19日に日帰りでBrusselに行ったりして、どちらも雨でぐじゃぐじゃのひどい天気で、ジャージーの牛さんは見れなかったし、思うように動くことができなかった – そういうこともある(って思うしかない)。べつにいいの。
コペンハーゲンもデンマークも初めてで、街はやはり雪と氷で覆われて、冷たい霙みたいのが軽めに横殴りで運河は半分くらい凍っていたが、今はそういう季節なのでぜんぜん平気だもん、という顔で歩いていく、と氷の水たまりに…
Marmorkirken
フレデリック教会、大理石の教会で、刺さったり覆いかぶさってくるような荘厳さを訴える、というより、フレスコ画も壁の牛や鳥も、すべてが丸めで柔らかくそこに収まっていて、とても居心地がよい。凍える寒さのなかここに入ったらとても安心するのではないか。
Design Museum
日本のポスターと北斎の木版画展をやっていた。
60〜90年代くらいまでの、展覧会や万博、オリンピック、芝居から商業広告まで、知っているのも沢山あるのだがどれも刺激的で、目を惹かせて、次にちょっと立ち止まって考えさせる、ようなことを小賢しくこ憎らしくやっている。いまも日本の街にはクズのような宣伝広告がいっぱい溢れているが、こういうポスターが作られなくなったことと、「再開発」と称して街に醜悪な建物がずらずら並ぶようになったことはどこかで繋がっていると思っている。
北斎は彼のデザインがわかりやすく出て、いろんな線のありかがくっきりとわかる作品が多くあったような。でもデザインなら広重とかの方ではないか。
あと、日本刀の鍔のコレクションの量がすごくてびっくり。人を殺す刃物の部品があんなにいっぱいあるの? とか。
そしてこれ以外の常設展示は、布、家具、文具、陶器、有名な椅子コレクションまで、こんな? あんな? だらけの楽しい驚きがいっぱいで、デザインのコレクションをやるならこうこなくちゃ、の模範のような並べ方だった。ショップにも欲しいのがいっぱいあったが我慢した。
Rosenborg Slot
公園の池は凍っているのに鴨が何羽かいるその脇に建つ古めのお城。 これまで見てきた英国やヨーロッパのお城と比べてもはっきりしょぼめでガタがきていて寒そうなのだが、展示の仕方が工夫されていて次々となんだか飽きないのと、地下の宝物館でこれでもかって誇示される宝物財宝類のすごさにちょっとあきれた。
SMK – Statens Museum for Kunst
National Galleryなら必ず、どこにでも入ってみようのシリーズ。 クラシック絵画は割とふつう、フランス近代は何故かマティスが多め、北欧系はやはりハマースホイを始め、とても充実している。描かれる光の淡さ・深度が共通していることのおもしろさ。BrusselのRoyal Museumもそうだが、広々した二階建ての美術館が一番見やすいなー。
日曜日も同様にさらさら雪氷の横殴りだったが、Christiansborgの王宮に向かって、庭のキルケゴール先生の像にご挨拶して、地下の遺構からレセプションルームまでいろいろまわった。これまでに見てきた王宮と比べるとこぢんまり綺麗に纏まっていて、より現役っぽい印象。
Den Hirschsprungske Samling - Hirschsprung Collection
企画展示でやっていた”Hanna Hirsch Pauli – Kunsten at være fri - The Art of Being Freeがとてもよかった。
Hanna Hirsch Pauli (1864-1940) はスウェーデンの画家で、昼も夜も、人が集ったり人を待っている食卓の上の光の散りようが素敵で、肖像画は結構ムラがあるが目を離せなくする力がある。
ここのハマースホイの数点もよくて、男性の脇に描かれた白い椅子と同じ椅子が展示されて(というよりそのまま置いて)あったり。
あとは、展示系とは関係なくパンがどこでなにを食べてもすばらしくて、ここなら永遠に暮らしていける。Hartっていう、Noma系列のパン屋の穀物系のとかケシの粒のとか、いくら食べても飽きがこないの。
[film] Wuthering Heights
2月20日、金曜日の晩、Elvisの”EPiC”を見た後に続けてBFI IMAXで見ました。
原作はEmily Brontëの『嵐が丘』、監督、脚色は”Saltburn” (2023)のEmerald Fennell。
少し前まで、バレンタイン・デーの公開に向けた宣伝攻勢がすごくて、でもそれだけ見ると映画本編前にかかるChanel N°5 のアホみたいなCM - Margot Robbie が出ている - とほとんど同じようで、最後に主題歌 - Charli XCX ってでっかくでるところだけおおーってなったり。
小説の『嵐が丘』は良くも悪くもの雑多な謎、見晴らしの悪さ - というほどではない、どうとでも取ることができる茫洋とした粗さと暈しに溢れたガレージ道端雑草小説で、それは欲望なのか愛なのか、みたいなところをぐるぐるまわって果てることがない。そうなってしまった時のどうでもいいや好きにして、の自由なのか不自由なのか感覚はハワースまで行って、そこの台地でぼうぼうと四方八方から吹きつけてくる風を受けているときに感じて歪んでいく自分の五感の投げやりな喪失感に似ていて、でもその放棄の総体を愛と呼んでしまうことについてはそんなに違和感はない。
Cathy (Margot Robbie)の家に薄汚れたHeathcliff (Jacob Elordi) が貰われたんだか拾われたんだかやってきて、いつも綺麗につんとしている彼女と粗暴な雑種の彼はずっと一緒に遊んだりしているうちに離れられなくなっていくのだが、実家が傾いたのでCathyは近所の金持ちのところに嫁いでいって、Heathcliffはどこかに消えて、小綺麗な成金になって戻ってきて、Cathyのところに顔を見せるようになる。もともと望んだ結婚相手ではなかったCathyはHeathcliffを追いかけるのだが… というのを原作の語り手で裏でふたりの関係を操る家政婦のNelly (Hong Chau) を挟んで、ほうれ見たことか、みたいに描いていく。
CathyとHeathcliffの他に、HeathcliffとIsabella (Alison Oliver)のいけないお話しもサブで絡んで、でも物語としての底の知れなさや制御不能の業、これらの狂える嵐や暴風のどろどろを畳みかけるところまでは行かなくて、女子であればかっこよい衣装 - by Jacqueline Durran - で映える背景でキメたい、男子であればかっこよく変態してのしかかって見返してやりたい、ふたり共通の欲としてえんえんセックスに溺れて乱れてなにもかも忘れてしまいたい、これらを強い要請とかなしにパラパラ無駄なく並べていってIMAXの大画面で浴びていると何かを見た気になってしまうのかも知れない。けど後にはなんも残らなくて、それでよいのか。もっと不純で汚れていてもやもやした何かが残る、嵐が常駐して彼方に去っていかない、のが原作の魅力だったのではないか、とか。
不穏さと想像していた以上のちゃらい感じ、というのは”Saltburn”が割とそれに近い印象を残した作品だったので、ちょっと期待したのだったが、真ん中のふたりがあまりにふつうの美男美女できらきら余裕と自信がありすぎててそういうのが見えないのよね。見る方もなんか綺麗だからそれでいいか、になってしまう。で、そうなることで物語の舞台としての「嵐が丘」は殆ど意味を持たない、雨風を防ぐお屋敷かすべて筒抜けの廃墟 - セックスするための場所でしかなくなる、というー。 ポルノ映画のタイトルとしてあっておかしくない「嵐が丘 - もっと吹かせて」など。