7月19日、日曜日の午後、恵比寿ガーデンシネマで見ました。
英国滞在の最後のほうで公開されていたが、時間がなくて見れないままで悔しかったやつ。
70年代に実際に起こった犯罪を元にしたサスペンス。監督はGus Van Sant。
ところで、少し前に映画会社の宣伝がSNSで話題になっていたが、あれは新人設定にしてAIに書かせたものだと思う。そして、あんなもんをAIにやらせたとしてもAIでなかったとしても、どっちにしてもレベル低すぎるし効果あるとは思えないし、こんなのがこの国の洋画配給会社の「実力」なのだろう。あーあ、になるしかない。
77年2月のインディアナポリスでのある朝、現地の実業家のTony Kiritsis (Bill Skarsgård)が車でモーゲージ会社のビルに乗りつけ、受付で社長のM.L. Hall (Al Pacino)と会いたい、と伝えるが彼は不在で、替わりに息子のRichard Hall (Dacre Montgomery)が出てきて応接室で応対していると、突然Richardを縛りあげて箱から出したショットガンを彼の首に引っかけ、抵抗したり警察が絡んできたら引き金が引かれてどん! になるからおとなしくしろ、のDead Man’s Wireを仕掛けられてしまう。
TonyはHall一族の会社 – 特にM.L.の方には商用の土地購入で自分の尊厳も含めて積みあげてきたものをめたくそにやられてふんだくられたのでふざけんじゃねえ、とにかく謝れ、賠償しろ、ってずっとテンション高くぶち切れていて(ホラーみたいに恐い)、その勢いで彼をビルの階下まで引き摺って車に乗せ、警察や報道からも隠れることなくこれ見ろ、寄ってくるな、って説明して、自分のアパートに連れこんで閉じこもる。
閉じこもってからは、報道を中心に24時間通しの大盛りあがりになり、Tonyは人命優先の当局から負債の取り下げなどを保障して貰い、お気に入りのラジオ局DJのFred Temple (Colman Domingo)に自分の話を聞いて貰ったり、やりたい放題で、でも電話が繋がって会話ができたM.L.からは謝罪を取りつけることはできなかったり - Al Pacino、ほぼ妖怪の頑迷さ。
つい間違って引き金を引いちゃった… はなさそうで、ぶつかったり詰まったり、ずっとテンションの高いTonyとのじりじりした駆け引きが続いて、人質のRichardはずっと死んだ魚の目で煮るなり焼くなり好きにしろ、になって、でも最後はやはりじりじり交渉、という熱さ冷たさの温度感が乱高下する空気をところどころ70年代映画のような粗め冷ための画質(撮影はデジタルらしい)が捉えていって、最近のこういう映画にある現場のライブ感は余りないけど、ここにはGus Van Sant映画の主人公のいつもの危なっかしい彷徨いがあって、緊張感は途絶えることなく、いろんなことを考える。
70年代を舞台にした最近の犯罪映画、でいうと”The Mastermind” (2025) – これも半分実話であるが - 辺りにも似た、生活に困窮した男があまりぱっとしない装備でコトを起こして悶えまくる、というのにも似た、なんともいえない切なさがあって、これはなんなのかしら。 “One Battle After Another” (2025) の最初期のBattleなのか。
脚本はAustin Kolodney、音楽はDanny Elfmanなのだが、挿入歌が近年稀にみるすばらしさで、エンディングに流れるGil Scott-Heronの”The Revolution Will Not Be Televised” (1970)をはじめ、最初の方のLabi Siffreの“Cannock Chase” (1972)とか、決着したときのYes - “I've Seen All Good People” (1971)とか、個人的にはHarpers Bizarreの”Witchi Tai to” (1969)かしら。これの入ったLP - ”Harpers Bizarre 4”、ジャケットがぼろぼろのを青山のパイドパイパーハウスで買ったなあ、って。
主人公が心酔するDJのColman Domingoがひとり異世界のクールネスを放っているのだが、彼が家に帰ったら”Michael”がいたとか...
3月24日にロンドンのフラットから荷出しして、4月16日に英国のサザンプトン港を出港して、6月16日にシンガポールに着いて、そこで荷物を積みかえて、6月30日に東京の港に着いた船便が、こんどの月曜日にようやくやってくる。本当にまる4カ月かかるとは。
3月の終わりに帰国して、どうせこれが来るから、ってお片付けをずっと先延ばしにしてて、その間だって2年間で買っていなかったあんな本こんな本や新刊本は考えなしに買ってそのまま積んでて、もんだいは、今いるところに20箱ぶんの本をどうやって上積むのか? で、ふつうに見ただけでどう見ても考えてもこれ以上はむり。最近の世間には積読を称賛する傾向もあるらしいが、もうどう見ても何をしても絶対むり…
7.24.2026
[film] Dead Man's Wire (2025)
7.23.2026
[film] Side Street (1949)
7月15日、水曜日の晩、シネマヴェーラのAnthony Mann特集で見ました。邦題はそのまま『サイド・ストリート』。
監督Anthony Mannにとっては最後のノワール作品で、主演はFarley GrangerとCathy O'Donnell。Nicholas Rayのデビュー作、”They Live by Night” (1948) - 『夜の人々』のふたりで、これが日本で公開された1988年に有楽町スバル座で見てぼろぼろに泣いて、映画でこんなに泣けることってあるんだーと自分でびっくりしたあの作品のあのふたりによる2作目。 ”They Live by Night”はHoward Hughesが気に入らなくてお蔵入りになりそうだったところ、MGMが今作でふたりを再フィーチャーしたのを聞いて、慌ててリリースしたものだそう。(あんなすごいデビュー作なのに..)
全編NYの街中でロケをしていて、NYを舞台にしたノワールや犯罪映画がよくやっているように冒頭にNYってこんな街なのさ、の紹介がはいる。
身重の妻Ellen (Cathy O'Donnell)を抱えて生活が苦しくて郵便配達をしているJoe (Farley Granger)は配達先の弁護士事務所でちらっと見てしまった$200くらいを盗もうとしたら思っても見なかった$30000が手に入ってしまい、黙って隠れていればよいのに息子が生まれたからって、わざわざ一部を返しに行ったりしたもんだから当然のように狙われて、金の出処や隠し場所をめぐって次々と殺人が起こって、やくざと警察の両方から追い回されて大変な目にあうの。
最後はダウンタウンで結構大がかりなカーチェイス - 通りを疾走していくのを上から撮る - があって、Trinity Churchになだれ込んでの銃撃があり、ああまたFarley Grangerは.. ってハンカチを出そうとしたら大丈夫になった。死ななくてよかった。
すごくどうでもいいことだが、今も残る3rd AvenueのP.J. Clarke's(ダイナー)が”Clarke’s Cafe”っていう名前でちょっとだけ映る。ここのハンバーガーが自分にとっては世界の3本指でー。(食べたいなー)
それにしても中心のふたりは一緒にいるだけでなんか光が浮かんでくるような。自分が何かの病気なのか。
The Tall Target (1951)
7月15日の晩、↑のに続けて見ました。 “TTT” - 邦題は『高い標的』。
1861年2月、NY市警のJohn Kennedy (Dick Powell)はかつて護衛をしたリンカーンがワシントンD.C.での就任演説に向かう途中で暗殺される、という情報を得て上に報告するが誰も相手にしてくれないので職を辞して単身列車に乗り込んで暗殺阻止に向けて動き出す... という今もふつうに、どこにでもありそうな要人警護サスペンスアクション。
実際に列車に乗りこんでみれば、周りはガチの南軍支持者だらけ、客車にいる全員がやらかしてもおかしくない状況下で、D.C.に直接向かわずボルチモアで降りて演説するという情報が入ってくるとさらにてんやわんやになって、狭い車内での乱闘で殴っては殴られて気を失ったり、でも列車はちっとも止まってくれず、車窓に書かれたメッセージなんてわかるわけないじゃん、とか思うのだが、ここでケネディががんばらなかったらリンカーンは.. って思うとやはりみんな熱くなってしまうのだろう、か。
アクションものとしては列車のなか、客室や車両が変われば人も含めて別世界、というのを主人公の徒労感も含めてうまく表現していたと思うが、遠くて果てのないかんじがちょっと疲れたかも。
最後にリンカーンも横顔だけ出てきてなんか喋るのだが、いい気なもんよね、って少しだけ思った。
そんなことよりリンカーンから代々積みあげてきた遺産を台無しにして、世界中に害悪を撒き散らしているあのでぶをどうにかしてほしい。
7.22.2026
[film] Mektoub, My Love: Canto Due (2025)
7月12日、日曜日の夕方、日仏学院の『第7回映画批評月間 批評家たちが選ぶ2024-2025ベスト』からの1本で、見ました。
邦題は『メクトーブ、マイ・ラブ:第2章』。タイトルの”Mektoub”は、アラビア語の”Maktūb”に由来する言葉で、アラブ・イスラム圏の背景も含んで、運命とか宿命とか、なるようにしかならないもの、として口語的に使われるもの、だそう。 これ、男性が女性に対して言う場合と、女性が男性に対して言う場合で、トーンが結構変わるような。
『アデル、ブルーは熱い色』 (2013)のAbdellatif Kechicheによる”Canto Uno” (2017)、“Intermezzo” (2019)に続くシリーズの3作目で、シリーズを通しての原作はFrançois Bégaudeauの小説- ”La Blessure, la vraie” (2011)。 昨年のロカルノ国際映画祭のコンペティション部門でプレミアされている。
撮影は“Intermezzo”と同時にされていたものの、同作での出演女優による告発があったり、製作会社が法的トラブルに見舞われていたこと等により6年に渡ってポストプロダクションが中断されていたこと、現在Kechicheは脳卒中で倒れて映画を撮ることができない状態になってしまったこと等々、なんとも… な状態に置かれた作品ではあるが、とりあえず見る。 最初の2作を見ていなくても何の困難もなく、ふつうに、とってもおもしろかった。
1994年の夏、南仏の港町Sèteで、カメラを抱えたAmin (Shaïn Boumedine)がOphélie (Ophélie Bau)の姿を撮ったりしていて、彼女には婚約している軍人Clémentがいて、結婚式ももうじきなのだが、AminのいとこのTony (Salim Kechiouche)の子を妊娠していて、中絶するしかないか、って将来のことも含めて少し揺れている。しばらく見ていくと、Aminはそんな周囲のいろんな人が言ってくること、やってくることを静かに見たり受けとめたりしている透明な存在であることがわかってくる。
営業を終えたレストランにTVドラマ等に出ているアメリカ人女優Jessica (Jessica Pennington)とその夫でプロデューサーのJack (Andre Jacobs)が車でやってきて、結構傲慢にかんじ悪くお腹が空いてるのでなんか食べさせておくれ、ってクスクスとかを作らせてもりもり食べてて、そんなのがきっかけで彼らと知り合ったAminは、食事と引き換えに自分の書いたSF映画の脚本 - “The Essential Elements of Universal Existence” - 『普遍的な存在の本質的な要素』を読んで貰って、そしたら数日後、Jackはいくつか注文を付けつつもまじで映画化したい、と言ってきて、将来が少し明るくなる。
どこまで本当にしてよいのか、のハリウッド行きの話と、足元でのOphélieの今後が揺れているなか、TonyとJessicaが豪邸でべたべたしているところにJackが帰ってきて – の先に広がる修羅場展開が息が詰まるくらいにおもしろく、ぜんぜん関係ないのにそこに巻き込まれて散々な目にあうAmin…
穏やかでやさしくて、周囲の欲動の行く末を間近に見ているばかりのAminにとって、Ophélieの妊娠の件でどちらにどう転ぶのか、の微細な、けど重要な選択肢と決断の行方と、突然勃発して生死の瀬戸際に立たされる痴情沙汰 - 金玉が鉛玉で… - の幅に振り回され深夜に走りまわされて、そんなんなっても”Mektoub, My Love”、なんて言うの?
ロメールの夏映画にある(例えば)夏のオープンな欲望あれこれをどこまでもぺったんこに引き延ばしてすべての登場人物を宙づり状態にして楽しむカルダーのモビールみたいな、風鈴みたいな様、とはぜんぜん別の、すべてが熱い地面の上で起こって、熱すぎて踊ったりもしながら全員が団子状態でゆっくりと茹でられていく、これもまた夏の映画だなあ、って。 過ぎ去っていく夏の寂しさや切なさなんてなくて、沸騰したらそれで終わり、のようなごった煮の、往生際の悪さ。これもまた、という。そういう状態だと、クスクスがとってもおいしくなるようなー。
それにしても日本の夏の、ここ数日の不快さ - 気候だけでなく - ときたら、ちょっともうむり。
7.21.2026
[film] The Lavender Hill Mob (1951)
7月12日、日曜日の昼、K’s CinemaのEaling Studios特集で見ました。この特集で見た最後の1本となった。
邦題は『ラベンダー・モブ・ヒル』。1999年にBFIが実施した20世紀の偉大な英国フィルムのアンケートでは17位になっているそう。
原作はEaling Studioで多くの脚本を書いたT. E. B. Clarke、監督はCharles Crichton、音楽はGeorges Auric。
Henry "Dutch" Holland (Alec Guinness)がリオデジャネイロの豪華なリゾートホテルで豪勢におらおらって振るまっていて – なにしろAudrey Hepburn(カメオ)が挨拶にくる - イギリス人相手にいかにして自分はここまで来たのか、を得意げに語り始める…
ここから1年前、Dutchは真面目な銀行員で、昇進の話も頑なに拒むくらい毎日毎日金塊を積んだ車の輸送業務を担当して、銀行とLavender Hillの下宿屋との間を行ったり来たり、これを20年間ずっと続けてきて、でもあまりに頑なすぎたところで、金塊を盗むことができたら、みたいなことを考え始めたら止まらなくなり、そこに、新たな下宿人として、土産品を卸したり売ったりしているPendlebury (Stanley Holloway)が現れて、盗んだ金塊をお土産で売っているエッフェル塔のペーパーウェイトの形に鋳造してパリに輸送すれば足がつかないじゃん、て思いついて、ふたりで計画を立てて、そしたらDutchの異動の話が出てきてしまったので、少し早めに、強奪の実行時にはさらにふたりのちんぴらを雇い入れて実行して、Dutchは強盗にやられた被害者、ということになる。
全編を通して、なにかが計画通りにきっちり実行されることはなくて、必ず横から変な、想定していなかった邪魔や障害が入って当事者が(静かに)「きゃーー」って顔をゆがめて絶叫しそうになり、しかしその邪魔も、極めて英国的な合理/不合理によって処理され流されて、結果はどうにかなってしまって、全員が普通の平顔に戻る、というのを延々とやっている。(その反復にかける律儀な執念深さもまた、英国なのである)
とにかくふたりでフェイクのエッフェル塔を受けとるべくパリに行ったら、土産物屋のおばちゃんが、女子小学生に6個売ってしまったことがわかったふたりはきゃーって飛びあがり、女子小学生を追いかけてリアルエッフェル塔の天辺から一気に駆け下りて(ここのカメラがたのし)、彼女たちがカレーの港から英国に戻る船に乗り込もうとするのだが、出国手続きでいらつく(他人事とは…)ところもおかしい。
英国に戻った彼らは小学生ひとりひとりを追っかけて順番にエッフェル塔を取り戻していくのだが、ひとりだけ仲のよい警察官への贈り物にするから嫌だ、って拒否した娘がいて、そのブツはよりによって警察学校で開催されている展示会に持ちこまれて捜査方法の紹介で化学分析にかけられるところで…
あっと驚くような仕掛けもどんでんもないけど、偶然と成り行きばかりで転がっていって止まらない軽めの犯罪コメディで、動機もそこに込められた念にも深いところはなくて、すべてがまるで他人事のように(非情に)推移して、結果も誰もどうすることができず、だからどうした? になりがちなところなのに、こんなもんなんだよ、って軽く言って超然としている、それが戦後の、爆撃された瓦礫があちこちに残る町で起こるのがとっても趣深い。
底に流れる悪意、とまでは言わないどろどろ凝り固まった何か、みたいなのは“Kind Hearts and Coronets” (1949)とか”The Ladykillers” (1955) - 『マダムと泥棒』の方が渦を巻いていた気がして、Alec Guinnessはそっちの方ではないか、と思う。 この調子で自分が消えた後に、Lukeにもずっと、うるさいくらいにべらべら喋り続ければよかったのに。
[film] Milton Bituca Nascimento (2025)
7月11日、土曜日の晩、恵比寿ガーデンシネマで見ました。
邦題は『ビトゥーカ ミルトン・ナシメント フェアウェルツアー』。
2025年に83歳で生涯を閉じたMilton Nascimentoが2022年のフェアウェル・ツアーで世界をまわった後、Belo Horizonteのスタジアムで行った最後のライブまでを追いつつ、彼の人と音楽を紹介していくドキュメンタリー。
“Bituca”というのは彼の幼時からの愛称で、タバコを吸うときのように唇をちょっと尖がらせているさまから来ているそう。その愛称のままずっと来た、というのが素敵。
フェアウェル・ツアーで曲を演奏し、歌っていく姿を追う、というよりは、彼の音楽、その歌のもつ広がりとか意義について、彼自身の言葉だけでなく、ブラジル音楽、米国のジャズやフュージョンの文脈から、いろんな人たちが彼の音楽について紹介したり語ったりしていって、そのメンツがとにかくすごい。
ブラジル音楽界からはChico Buarque, Caetano Veloso, Gilberto Gil, Toninho Horta, João Bosco, Djavan, Ivan Lins, Lô Borges, Sergio Mendes, アメリカ音楽界からはPat Metheny, Wayne Shorter, Herbie Hancock, Stanley Clarke, Quincy Jones, Paul Simon, Steve Jordan, Spike Lee(←出たがり)などなど。 人間国宝、なんてもんじゃないくらいすごい。
アメリカ音楽界からは、おそらくTom Jobimの後、のようなところを受けて、70年代のJazzやフュージョンが追及していって、でもきちんと捉えきれなかったり創ることができなかった音や声の肌理、のようなものをMiltonの音の複雑さと、彼らが他の「ワールドミュージック」の文脈で好んで取りあげる「野生」みたいな文脈で取りこもうとしたのではないか、とか。
ブラジル音楽界からは、ボサノヴァ等のわかりやすい海の音楽とも「ポピュラー」というのとも別に、彼の音楽から「みんなのうた」として魂の根底を揺さぶる、山のこだまのような何かを受けとっているような気がして、それは最初の方で紹介されたElis Reginaとの関わりからも明らかなように、彼の声の震えと滑らかさ、その広がりが根源的なところで人々を魅了した、ということなのだろうか。
わたし自身はというと、1990年のCaetano Velosoの初来日公演でブラジル音楽に結構な衝撃を受けて、かの地のレコードを手あたり次第に掘って聴いたりしていくなか、Miltonの音楽に対してはちょっと別もののとっつきにくい何かをずっと感じていて、それがたしかNYかどこかで彼のライブに触れてなんかわかってしまった気になった、くらい。そのときはPaulo Bragaの叩き出すぶっといグルーヴにやられて、おうこれなのかー、ってかなりびっくりした。
なので、このドキュメンタリーでミュージシャンたちが語る彼の音楽の特徴とかそこから広がる何か、はとてもよくわかるものだったが、その反対側で、彼の音楽に触れたことのないひとにどこまで訴えるものになっていたか、についてはやや「?」で、だからもっとライブの場面 - せめて1曲をフルで - とか、若い頃の彼のライブのフッテージも紹介してほしかった。 これだとお葬式で次々にコメントと感謝を述べている人たちの図、で終わってしまうような。
あと、彼を描いた彼の像って、ほぼ仏画みたいだな、って。そして、彼が仏様なのだとしたら彼の歌って、空也上人像みたいに、実体のある念仏として彼の口から(踊りながら)空に放たれていくのだな、って思った。 最後に彼がぽつんとしているシーンなんて、まるでお地蔵様のようだし。
[film] The Great Flamarion (1954)
7月11日、土曜日の昼、シネマヴェーラで新しく始まった特集 - 『ノワールから西部劇へ アンソニー・マン特集』で見ました。
この特集からまだ7本くらいしか見れていないのだが、とにかく何を見てもおもしろくてこの人なんなの? ってあきれている。上映時間だとどれも70〜90分くらいのものばかりなのだが、ここまでのことができるのか、って。
メキシコの見世物小屋でショーの最中、どこかで銃声が響いて、駆けつけると楽屋で女性が絞殺されていて、その夫が怪しいって逮捕されるのだが、その後に舞台の上から傷を負って落ちてきたThe Great Flamarion (Erich von Stroheim)は息も絶え絶えにこれまでのことを語り始める… というノワールの典型的なスタイルで、宿命の女と思い込んでいた彼女にやられてしまうまでのこと。
百発百中の拳銃ばんばん芸で各地のどさ回りを続けてそれなりに稼いでいるFlamarionがConnie (Mary Beth Hughes)とそのアル中のだめ夫Al (Dan Duryea)と組んでやっているうち、Connieに言い寄られて言われるままに夫から逃れて実家の方に隠れたい、でも1年後に一緒になりましょう、と言うのでそれを信じてお金を渡して待ち合わせを誓ったシカゴの豪華ホテルで待ったのにぜんぜん現れなくて、気づいたら彼女は別の自転車芸の男と一緒に興行していると聞いて…
わかりやすすぎて同情の余地があまりないロマンス詐欺事案なのだが、Erich von Stroheimの純情の痛さと怖さ、それに相性よく絡みつくヨーロッパ・ホラーの暗い粘着力とMary Beth Hughesの軽い悪女っぷりが見事な模様を描くクラシック。
The Furies (1950)
7月13日、月曜日の晩に見ました。邦題は『復讐の荒野』。Walter Hustonの最後の出演作 - にしてはあまりに見事にみっしり詰まって漲っている。Mannの作品にしては長い109分。
ニューメキシコに広大な牧場 “Furies”を経営する家父長制の権化のような親分T. C. (Walter Huston)がいて、家でもビジネスでも現地民から搾取しまくっているのに周りからは豪快ないい親父って見られていて(よく見る)、その愛娘Vance (Barbara Stanwyck)は父を尊敬しつつも貰えるものは貰うから、って負けなくて、追い出されると頭きて父を敵視する男たちと組んだりしながらやり合って自分の道を切り開くまで、を女性映画ウェスタンのように描く。わたしはBarbara Stanwyckがかっこよければそれでだいたい満足なのだが、この映画でそれ以上にかっこよかったのが、現地民側で息子たちを従えて狂喜しながら撃ちまくる豪快なママだったかも。
父に対抗すべく味方になってくれそうな男と付き合ってみるのだが、結局男なんて簡単に裏切るし父には敵うわけないか、って愛・憎・諦めで身動き取れなくなっていく自分に苛立つ彼女 - こんな複雑なエモを表現できるのは彼女くらいよね、って。
Strange Impersonation (1946)
7月13日の晩、↑のに続けて見ました。邦題は『仮面の女』。68分の作品。
化学研究者として頭角を現してきたNora (Brenda Marshall)は同じ職場の婚約者Stephen (William Gargan)から早く一緒になろう、って言い寄られているのだが仕事に熱中したいので先延ばしにしていて、同僚で助手のArline (Hillary Brooke)からはほどほどに、って言われていて、ある晩、Arlineと一緒に自分を使って麻酔薬の実験をしたら火事になって大やけどをして、顔が変わってしまい人生終わった、になっていたところに訪ねてきた女性Jane Karaski (Ruth Ford) – 車でちょっと引っかけてしまっただけなのにたちの悪い保険屋とつるんで金を巻きあげようとやってきた – とやりあううちにJaneはアパートから落ちて顔がわからない状態で死んでしまったので、Noraは西海岸で整形して名前も含めて彼女になりすまして、Stephenと結婚しているArlineのところに近づいていくと…
よくある復讐劇、だけではない、女性と仕事、お金にまで踏み込んだ深い作品で、でも最後はやはり破綻してノワールの悲劇として終わるのか、と思ったら。
しかし、Noraが家に持ち帰って実験をした理由が、研究所だと申請がめんどくさいから、って、いまだと確実にコンプラで…
7.17.2026
[film] 海灘的一天 (1983)
7月12日、日曜日の午後、シネマート新宿で見ました。
Edward Yang - 楊德昌の最初の長編劇映画、撮影のChristopher Doyleにとっても長編劇映画デビュー作、侯孝賢も登場する、記念碑的な作品のリストア版。ようやく見れた(とみんなが言う)。
英語題は”That Day, on the Beach”、邦題は『海辺の一日』。
166分、ちょっと長いけど、海辺で一日ぼーっとしている時に浮かんでくるようなことが押し寄せてきて - 押し寄せてくるかんじを体感できて - とても満ち満ちて固まった、豊かな午後の時間を過ごすことができる。これこそが自分にとってのEdward Yangのイメージかも。
ヨーロッパでずっと活動してきたピアニストの蔚青(Terry Hu)が13年ぶりに母国の台湾に還ってきてコンサートをする、というラジオのアナウンスが流れ、晩に向けた準備をしようとしている彼女のところに、旧友の佳莉(Sylvia Chang)が会って話したい、と連絡してきたので、彼女は午後の予定をキャンセルして、再会したふたりはお茶を飲みながら対面する。
ここでふたりの関係、その過去を掘り下げていくのかと思ったら、佳莉の兄の佳森(Ming-Hsiang Tseng)が父の経営する医院を継ぐべくお見合いで結婚することになり、彼が当時付きあっていた蔚青が海外に出てしまった経緯が語られ、そこからふたりのその後に向かうかと思ったら、今度は佳莉の方に向かい、彼女の方にも親からよろしくあてがわれた男が紹介されたので、大学から兵役に出るところだった徳偉(David Mao)を捕まえて家を出て一緒になる。徳偉はとてもよい人で幸せだったが、大学の金持ち友人だった阿財(Hsu Ming)の会社に就職してから忙しくなり、ふたり一緒に過ごす時間が減って、互いにぎすぎすして追い詰められていって、そういう状態で今から3年前に、徳偉が行方不明になって、彼の名前が書かれた薬瓶が海岸で見つかって、それらしい男の影も目撃されていたので捜索が進められるなか、阿財が現れて徳偉の周辺で会社のお金が無くなっていること、怪しい出張を繰り返していたこと、実は死んでいないのではないか、と語るのだが、佳莉は彼女のなかで彼の死亡認定をする。浜辺では見つかったぞ、のようなシーンも描かれるが、彼女はもう振り返らない。
最初のシーンは夕刻の海辺の捜索が一瞬だけ、彼が消えてしまったあの日、海辺で過ごした一日はどんなだったのだろうか – その場面を直接には描かず、↑のような十数年に渡って散らばったストーリーを十数年ぶりに再会したふたりの対話を通して、回想 - 回想のなかでも回想して右に左に振れまくり、起こったことはリニアではない形でとめどなく流れていって、誰にも止めることも巻き戻すこともできない時間の塊りに対する後悔や残響をもたらして、もちろん、だからどうなるというものでもない。 蔚青が海外に出るきっかけを作った佳森も数年前に寂しく病死したことが、最後に付け足されて、ふたりは別れてそれぞれのトラックに戻る。
映画の文法、のようなところで言えば、たぶんやってはいけないこと - 見る側を困惑させるし、だらだら締まりなく起こってしまったこと、を回想のがんじがらめで封じ込めていくので、どこに連れていきたいの? になるのだが、愛を求めるひと、愛から逃げるひとのシンプルな往復によるメロドラマがなんだか心地よくなっていく不思議。
なんとなく、成瀬の容赦ない『流れる』、ではなく『流れた』 みたいな(佳莉の髪型)。公開に近い年代でいうと”Love Streams” (1984)にあったある種の気持ちのよさ。 ここでとめどなく流れていったのは時間ではなく愛だったけど。
蔚青はその晩のコンサートで、どんな曲を弾いて、そのピアノはどんなふうに鳴ったのだろうか? といったことまで思ってしまったり。
7.16.2026
[film] Historias del buen valle (2025)
7月11日、土曜日の午後、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。上映後に監督José Luis Guerínとのトークつき。
英語題は”Good Valley Stories”、邦題は『よき谷の物語』。
ドキュメンタリー作品で、最後に見た彼のフィルムも確か”Correspondences: Jonas Mekas - J. L. Guerin” (2011) というドキュメンタリーだったかも。
バルセロナ近郊のVallbona地区、Besòs川と運河と鉄道の線路に挟まれた三角地帯のような場所があって、都市開発から取り残されたこのエリアに昔から住んでいる人、どこかからやってきて住み着いた人などが暮らし共存して、独特のコミュニティを形作っている、そこに暮らす人々と、開発の要請はここにも来て、という谷の物語。
冒頭はモノクロで、後のトークによると、バルセロナ現代美術館(←よいところ)からの依頼で10分程の短編をスーパー8で撮ったもの。これが良かったので、ひとりでやっていたのを広げて腰を据えて撮ることにした。ただお金がなかったので映画学校の若者たちに手伝って貰って、完成までに2年を要した。(と、後のトークで語っていた)
元気に川遊びをしたり走り回ったりする子供たちもいるが、住民の多くは高齢者で、所謂働き盛り、で漲っているような人たちはほぼ出てこない。子供たちと女性たち、老人たち、そして他国からやってきた移民、そしてアヒル。 12ヶ国語が話されていて、人との間だけでなく、植物と会話している人たちまで出てくる。
映画を撮っていると、西部劇にすべきだ、という老人がいて、決め手は風だ、なんてかっこいいことを言う人もいれば、奥さんと出会った頃の話をしながら泣いてしまう人もいる。老人の話は何を聞いてもしみるし、威勢のいいガールズトークもたまんないし、彼ら自身の言葉での会話がぜんぶ聞こえてきたらどんなに楽しいだろう、ってくらいにいろいろな人々が次々と現れる。
画面をひっきりなしに電車(こないだ大事故を起こしたやつ?)が通って(この映画のなかで40本通るって)、一度もこの地に停車することはない。列車が停まって、人々がそこから下りてくるところから始まるドラマではなく、川は昔から動かなくて、道路もそうで、そういう境界の狭間に(保護されていない)ポケットのように生まれてしまったエリア、地帯に、どこかから流れてきた人たちが集まってきてそこに暮らす、というどこにでもありそうな絵。 滞在許可は?みたいな話にはならない。
でも古い住宅は建て替えられて、さらに大きな開発が入って、住民たちは出ていかざるを得なくなり、終わりの方では警察がくるぞー、ってざわざわする場面もある。でも立ち退き拒否とか、強制執行、のような話にはならず、文明の拡張、都市の拡張、によって他所に追いやられる人々という、大きな物語の一部(よき谷の物語)として語られる。(もちろん、だからと言って体制に与するような話ではない)
変わっていかざるを得ない地域のなかで、移っていくもの変わらないもの、という代理店が喜んで制作しそうなテーマなのだが、なぜこの谷に人々は集まってくるのか、集まって暮らすというのはどんなことなのか、という根源的なことを個々の会話のなかから掬いあげようとしていて、そこから彼らを主人公にしたフィクション(John Fordのような?)まで浮かんでくる大きな風呂敷のような造りと広がりがあるの。
後のトークで、住民に演技指導のようなことはしていなくて、あえて言えば、そういう動きをしてくれそうな状況を作るべく動いたりはした、と。でも肝心なのは、いつどこで撮影するかである、と。
どんな町でも村でも、谷でも島でも、これと同じような人々のお話を編むことはできるのかもと、なんとなく先月見た羽田澄子の『早池峰の賦』 (1982)を思い起こしたり。
エンドクレジットでは、この映画に登場して亡くなられた方々の名前に並べてJonas Mekasの名が。Jonas Mekasという人もNYのロングアイランドという島に流れてきて、そこに住み着いた人として映画(日記)を撮り続けた人で、この映画の終わりに名前が載るのにまったく違和感ないような。
“Innisfree” (1990)を見たいな、見なきゃな、と言い続けて軽く10年以上かも。
7.15.2026
[theatre] バストリオ セザンヌによろしく!
7月9日、木曜日の晩、浅草九劇で見ました。 浅草に行ったのなんて数十年ぶりではないか。
月1回は見たい演劇シリーズ。 場所も劇団もまったく知らないところだったが、せんがわ劇場演劇コンクールでグランプリとオーディエンス賞をW受賞した作品の再演である、と。「セザンヌ」がタイトルにあるのであれば、サント=ヴィクトワール山をふらふら見に行ってしまった者としては見たほうがよいのかしら、くらいで。
初演は2023年、兵庫県豊岡市の神鍋山で『セザンヌの神鍋山』(どんなところなのか見当もつかないや)という野外劇として上演されたものらしい。
会場はシアターというより服がいっぱいぶら下がっていたりステージの前に半透明のビニールが掛かっていたり、中央に水の溜まった透明な箱があったり、実生活が進行中のゴミ屋敷~大昔の雑然とした小劇場ふう、バストリオも劇団ではなくパフォーマンス・コレクティブ、というらしい。開演時間前から演者と思われる人々が舞台や仕掛けの周囲を行ったり来たりせわしなく、プロジェクターでステージ前の様子を映しだしていたり、上演前には主宰の今野裕一郎から上演時間は約60分、少しでるかも、と話があった(実際には1時間10分くらい)。
最初にドラムスの人が出てきて、使いこんでいくうちに削れて折れてしまったスティックの話をしつつ、いろんなドラムスのリズムのパターンを試して、そこからいろんな人たちがステージに上がったり下りたり回ったり、ステージ下で絵を描いているのをライブでプロジェクションしたり、サックスを吹き鳴らしたりしつつ、いろんな言葉と声、音が飛んでは消えていってとにかくせわしなく、同時性のごちゃごちゃの中で突然(のように見える)山を見つめる、山と向かいあう話が浮かびあがり、それを訴える(ようにみえる)セザンヌはプログラムの紙によるとセザンヌ1から3まで女性3名がいて、とにかくゴミだろうがなんだろうが何がどれだけ溢れかえってやかましくても死ぬまで山の肌理、壁、その硬さと向かいあって自問していろんなひとつの山を刻んでいった彼/彼女の姿があちらこちらに現れては消えていく。
いまここ、の一回性に集中して何かを表現しようとする、それを見にその時間、その場所に人が集まってくる演劇/パフォーマンスという様態とセザンヌがあのアトリエから丘を登って山が見える場所に行ってずっとひとつの山を見つめ、探求しながら描いていったその姿勢(のようなもの)は、このとっちらかったパフォーマンスが見せる80~90年代の相対主義的なバラけぶりと相容れないように見えるし、むしろただの偏屈な困った人として隅に追いやられてしまうであろうことまで示される。
セザンヌがたった一人で、それなりの時間をかけて追い求めていった事物の、対象の本質(のようなもの)を見据えて掴みとろうとする試みは、せわしない今の世の中でどこまで可能となるのか、をものすごく落ちつきのない雑踏とかお茶の間のなかから伝えようとして、その難しさに苦笑したりへらへらしそうになりつつなんとか『よろしく!』とだけは言って、最後にパレスチナ、シリアといったこの世の地獄を正面から突きつける。
とてもまじめで今できるのはこういうことなのだろうな、と思いつつ、わたしはセザンヌをパンクとして見たものなので、ここまできちきち積みあげないと突破はむずかしいのかー、たいへんだよなー現代って(そんなもんか)。
あと、このしんどさ、複雑さ、雑多さにぶつけるのであれば、セザンヌというよりキーファーあたりではないのか、とか(… とりかえしのつかないことに)。
7.14.2026
[film] Blood on the Moon (1948)
7月8日、水曜日の晩、シネマヴェーラのRobert Wise特集で見ました。この特集での最後の2本。
邦題は『月下の銃声』。 ゴスメタル系のアルバムタイトルにありそうな。
原作はLuke Shortによる小説”Gunman's Chance” (1941)をLillie Haywardが脚色している。
放浪のカウボーイJim Garry (Robert Mitchum)が友人のTate Riling (Robert Preston)に会いに行く途中で牛の大群に襲われて、近くの牧場主John Lufton (Tom Tully)のところに寄ったら彼の家族への手紙を託され、持って行ったらそこの娘2人に敵意をむきだしにされて、なんでだろう? と思っていたらRilingはインディアンの代理人と組んでLuftonの牛を買い叩いて土地から追い出そうとしている謀略が背後にあることを知る。
どうもLuftonが善玉でRilingが悪玉らしいのだが、Luftonの娘のうちひとりはRilingと繋がっていたり、全体に薄暗い照明や夜明かりのなか、主人公Garryと同じようにどっちが敵でどっちが味方なのか、誰がどうしようとしているのか明確に把握できず、主人公の思惑も含めて簡単には見えてこなくて、GarryはRilingの仲間であることをチラつかせたりしたせいで脅されたり刺されたりぼろぼろになりながら、威勢のよいLuftonの娘Amy (Barbara Bel Geddes)と一緒に戦っていくことになる。
最初に登場した頃のRobert Mitchumは無精ひげの胡散臭い風体で、狙われたり真相を知ったりするなかで、ひげはきれいになってて、でも何が正しくてどっちがどうなのか、などは薄暗くて(彼も察知しているのかどうか)見えてこなくて、謀略とか思惑に巻き込まれ、裏切りに夜討ちの連続で、これを「西部劇ノワール」と呼ぶのであればそうなのだろうな、としか言いようがない暗さと徒労感がずっと渦を巻いてつきまとい、拳銃早撃ちとか馬駆けとかで悪党をやっつけていく爽快感なんてまるでないのだが、ぼそぼそ喋って地面に転がってばかりのRobert Mitchumの重さと地味な暗さ、天井の低さのどん詰まり感がなかなかよくて、とても見ごたえがあった。
いまやっている時代劇ノワール『黒牢城』よりも、こっちかも、とか。
All That Money Can Buy (1941)
上のに続けて、シネマヴェーラで見ました。 邦題は『悪魔の金』。
監督はWilliam Dieterle、編集がRobert Wise、音楽はこれでオスカーを受賞したBernard Herrmann。 原作はStephen Vincent Benétによる短編小説"The Devil and Daniel Webster" (1936)を戯曲化したもの (1938)で、当初は同名のタイトルでリリースされる予定だったが、”The Devil and Miss Jones”っていう似た名前の映画があったので、”All That …”の方に変更された、と。 最近だと“All the Money in the World” (2017)っていうRidley Scottの映画もあったよね。あんま関係ないけど。
1840年のニューハンプシャーにJabez Stone (James Craig)という真面目な農夫が妻のMary (Anne Shirley)と敬虔な母(Jane Darwell)と一緒に暮らしていて、子供も生まれそうなのについてない、お先真っ暗なことばかりで途方に暮れていたら悪魔- Mr. Scratch (Walter Huston)が現れて、自分と契約したら楽になるよ、って金貨をちらつかせて、契約したら確かに生活は楽になって大きな家も建つのだが、Jabezの性格はどんどん嫌な方に変わってあれこれ手が付けられなくなっていく。
そこに以前から地元の貧しい者の味方として慕われていた議員で弁護士で弁のたつDaniel Webster (Edward Arnold)が現れて、Mr. Scratchは彼にも大統領にしてあげるよ、って誘惑しようとするのだがー。
監督のWilliam Dieterleにとっては『ノートルダムの傴僂男』 (1939) – これも編集はRobert Wise – に続く作品で、古くからある御伽噺ふう – というかふつうのファウスト伝説の悪魔がやってくるのをやっていて、そんなに怖くはないけど、見てすぐわかるキャラクターたち – 特にWalter Hustonうますぎ - とか舞台劇のようなセリフ回しとか、楽しいし、ヨーロッパの民話がこんなにも19世紀の腐り始めたアメリカにはまってしまうことにびっくり。
悪魔と戦う政治家、というと、そういえばゾンビと戦うリンカーンもいたし、アメリカだとやはりそうなるのか。いま、その伝統の線上に立って、政治家本人がしょうもない悪魔になってしまったら誰がどうするのか、が問われている。べつに問わなくてもいいからだれかどうにかしろあの腐れでぶを。
あと、William Dieterleと言えば大好きな“Portrait of Jennie” (1948)とか“September Affair” (1950)なのだが、あのちょっと不思議で独特なストーリーの運び、テンポは、既にあるような。
7.13.2026
[film] Höhenfeuer (1985)
7月7日、火曜日の晩、ユーロスペースで見ました。
邦題は『山の焚火』、英語題は”Alpine Fire”。 作・監督であるFredi M. Murerの「マウンテン・トリロジー」を構成する1本で、デジタルリマスター版での上映。 ロカルノ映画祭でグランプリを受賞しているし、いろんなところで必見、と言われている。 ので見る。
アルプスの山の奥のウリ州、そこの山腹に4人家族が暮らしている。家畜として豚、牛、鶏などがいて、4人それぞれ働いているが息子のBub (Thomas Nock)は聾唖で、文字は読めるようだが、ちょっとしたやり取りも難しそうで、でも家族はしっかりと強い父(Rolf Illig)と敬虔深くやさしい(何も言わない)母(Dorothea Moritz)と辛抱強く弟の面倒を見て読み書きを教えたりしている姉のBelli (Johanna Lier)がいて、父はBubを施設に預けたりはせず、躾のようなところまで含めてBelliに任せていて、学校に行きたいであろうBelliは、それを諦めてずっと家にいる。
Bubは大きくなって思春期を迎えて力仕事もこなせるようになってきた半面、挙動が荒く、思うようにいかなくなった時の反発やぶち壊しがだんだん手に負えなくなっていって、彼はとうとう自分で家族の家から出て、少し離れた山の奥に籠ってひとりで暮らして石を積んだり並べたりするようになり、Belliはそこに食料や衣類を届けたりしているのだが、そのうちBelliが妊娠していることがわかって、母はそれを察知しても黙り、でもそれを知った父親は激怒して銃を手に取って…
登場するのは家族の4人と、一度だけ少し離れたところに暮らす祖父母が出てくるくらい、外の世界(社会)との交流はほぼ描かれず、それでどうにか暮していけてしまう家族がある、あった時に、そこでの時間や季節、生活の営為はどんなふうに流れていくのか、をドキュメンタリーのように追っていく。アルプスの山でのお話だが、山の雄大でドラマチックな景色とかが映されることはなく、白い霧だか雲だかと岩と草だらけで騒がしいのは家畜ばかり、ドキュメンタリーとして見せられてもわからないかもしれない時間の流れ方、喋らない人々の表情や挙動が野生動物のように生々しい。
なので、Belliの近親相姦 - 妊娠も大問題として挙げられるのではなく、起こってしまったこと、として山中暮らしの雑事のように、せいぜい焚火を焚いて暖をとるような所作のなかで起こって、なにをどうすることもできないような事態として放置される。 『最後通告』で忽然と消えてしまう子供たち、あそこで最後に現れる謎の少年のように、言葉を発しない、あるいは発したとしても届かない距離のなかに置かれた者たちが行き交う、そこから出ていくことのない山の暮らし(最後の方でヘリに吊るされて山の向こうに飛んでいく牛だけが… )。それを過酷と思うのは都会人の勝手だが、とりあえず焚火はあったかくないと死んでしまうし。
これは悲劇であり破滅なのか? という本作への問いが反転して現れたのが『最後通告』なのかもしれないが、ストーリーを貫く意思のような力は『焚火』のほうが『満月』よりも強く効いているかも。どちらも柔らかい光で、あのラストシーンを狂ってるなんて言えるだろうか。
思い出したのはピランデルロ/タヴィアーニ兄弟の”Kaos” (1984) - 『カオス・シチリア物語』だったかも。海の物語に対する山の物語、というか。これらがどちらも80年代の中頃に出てきた、というのはー。
[film] Vollmond (1998)
7月6日、月曜日の晩、ユーロスペースのFredi M. Murer小特集で見ました。
彼の作品はこれまで見たことなかったので。 英語題は”Full Moon”、邦題は『最後通告』。35mmプリントでの上映。 作・監督はFredi M. Murerによるスイス - 仏 - 独合作映画。
山間の村に暮らすEscher家で、満月の次の日、10歳の息子が帰ってこないままになって、これは誘拐かなにかの事件かも、と通報して警察が動き出して刑事のWasser (Hanspeter Müller)が派遣されるのだが、捜査をしていくうち、この日同様に一帯の12人の子供達が突然に姿を消してしまっていたことがわかる。全員10歳の子供たちで、スイスの4つの言語圏にきれいに散らばって(各3名)いて、誰ひとり書き置きを残さず、争ったり抵抗したりした形跡も怪しい人物の目撃情報もない模様。
という、あまりに静かで穏やかな事件 - 「児童の誘拐」らしくない事件であることが消息を追っていく中で明らかになっていって親たちの焦りや苛立ちとは反対方向のみんなお手あげにならざるを得なくて、彼らが消えた1週間後、各家庭に同じ宗教的なシンボルのようなものが描かれた手紙が届き、宛名の筆跡は子供たちそれぞれのものであることがわかる。この件も含めて不穏な様子がほとんど見えないので、どこかに匿われてどうにか生きているのではないか、になる。
こうしてストーリーは、誰が何を目的にどうして子供たちを拐っていったのか、という犯罪捜査 - 領域や条件を狭めていく - から、こんな不可思議なことが起こってしまった環境や地勢の方に目を向けさせるように動いていって - あまりに手掛かりがないから - いまこの土地で神隠しのようなことが起こりうるとしたら、たぶんたとえば、というふんわりとした考察に向かっていくような – もちろん、ふんわりのはずがない。
グローバル化(云々が言われ始めた前世紀末)、という流れの反対側で言語や人種による分断と孤立化が進み、自然はいくらでも好きなように破壊され淘汰され、テロも戦争も一向になくならず、人類は反省も躊躇もしない - 劇中の子供がいなくなった母親とWasserが一夜を共にしてしまったり、もっと真剣に生きろどうにかしろ、って山の神が何かに向かって怒った - 『最後通告』 - ということでよいのか。
同様に子供たちの集団神隠しを扱った映画 - “Picnic at Hanging Rock” (1975)あたりと比べても神秘的だったり退廃的だったりの雰囲気からは遠く、例えばいまは満月の距離感で離れているだけ、欠けてもじきにまた戻ってくるから、くらいの緩やかな、より現実的に足元を見ているような感覚がある。都会で起こったことではなく、田舎の山奥なので誰も真剣に動こうとはしない、という辺りも含めて、それでも満月は不穏にあたりを照らしだして人々を惑わせる。
いまの、ここ数年の現実世界では、ガザでもイランでも数千人規模で白人たちによって子供たちが殺されていて、それに対して誰も何もどうすることもできない。ここでの『最後通告』を遥かに超えた、本当にひどいところまで来てしまっている、という。(だから半端になだらかに見えてしまうのかな?)
35mmフィルムのややぼやっとした、シャープではない質感が手の施しようのない霧のかんじをうまく出していたかも。
7.10.2026
[film] Kind Hearts and Coronets (1949)
7月5日、日曜日の午前、K’s Cinemaのイーリング・コメディ特集で見ました。
映画史に残る名作、とかそういうのではないと思うが、やっているとつい見てしまう1本で、このサイトでも書いているのだが、それでもまた見てしまった。 1950年のBAFTAではBest British Filmにノミネートされていて、結果は『第三の男』の前に敗れている。
コメディにしてはかなりダークな、Oscar Wildeの系譜に連なるようなストーリーテリングで、決して明るく楽しい結末でもないのだが、踏板外しみたいなラストの見事さには、ううう、ってなる。
エドワード朝時代のイギリスの牢獄に公爵Louis D'Ascoyne Mazzini (Dennis Price)が入っていて、翌日絞首刑が執行されるというので教会からも人が来て、看守たちも公爵さまだから、ってやや緊張しているのだが、彼はずっと書き溜めていた手記を仕上げようとしていて… というところから回想がはじまる。
彼の母は公爵の末娘だったが、身分違いのイタリア人のオペラ歌手と結婚したことで放り出され、それでも夫婦にはLouisが生まれて貧しくても一家で幸せで、でも父が亡くなるとすべてが一変し、生活に困って実家に助けを求めてもすべて却下されて失意のなか母も亡くなる。こうして復讐の鬼となったLouisは、爵位継承順位で自分より上位にいるD'Ascoyne家の8人を順番に殺害していくことにする。この皆殺し計画と並行して、幼馴染のSibella (Joan Greenwood)との実らなかった恋、自分のせいで未亡人となり、やがて妻となるEdith (Valerie Hobson)とのこともあり、決して明るくはないけど、きちきち律儀に復讐を成しとげていくさまがクールにすっとぼけつつ進んでいって、とにかく爵位を取り返すの。すっとぼけと言えば、殺される側の8人をひとりで演じているAlec Guinnessの絶妙なこと。殺される側がなんだか楽しんでいるように見えてしまう巧さ。
原作はRoy Hornimanの小説“Israel Rank: The Autobiography of a Criminal” (1907)で、タイトルだけでわかる主人公 - Israel Rank - の人種はユダヤ人で、赤ん坊を毒殺したり、かなり陰惨で露骨な反ユダヤ主義小説 – という形で反ユダヤ主義を風刺しているものらしく、これをイタリア人のハーフに主人公を替えてイギリスの階級制度への風刺にひっくり返した監督Robert HamerとJohn Dightonの脚色はすごいと思った。
これ、舞台を日本にして家父長制へのどろどろした呪いと復讐を… って既にいっぱいありそうなー。
日本の皇室で38親等離れているけど継承権があると主張するやくざが… ← ちょっと生々しすぎる(そしてくそばかばかしい)
Girl, Dance, Girl (1940)
同じ5日、↑のを見たあと、日仏のデュラス特集で“Aurelia Steiner”の(Melbourne)と(Vancouver)を見て、このまま週末を終えてしまうのはどうか、ってなったので、途中で渋谷によってシネマヴェーラのRobert Wise特集で見ました。 帰れよ。
もう何回も見ているし、書いているし、でもいいの。 Dorothy Arzner監督による『恋に踊る』。この作品でRobert Wiseは編集をしていて、彼の次の編集ワークが”Citizen Kane” (1941)で、この他にもWilliam DieterleやGregory La Cavaといった監督の編集を手掛けているのね。
オハイオからNYに出てきて、ダンスで成功を目指すJudy (Maureen O'Hara)とBubbles (Lucille Ball)がいて、Bubblesは”Tiger Lily”の名でブロードウェイのバーレスクのステージに立って、途中からJudyがクラシックバレエの衣装でステージにあがると客から引っ込めーってぶうが出て、改めてTiger Lilyが出てきてやんやの喝采になる、という演出がうけて大当たりするのだが、本当か? っていつも思う。
だって、Maureen O'Haraが現れて踊るんだよ? 節穴かよ? って思うのだが、最後にやっぱり彼女に怒られるのでストーリーとしての筋は通っているのか。
とにかく必見だからー。
7.09.2026
[film] Césarée (1978)
7月4日、土曜日の午後、日仏学院のデュラス特集で見ました。
今回のこの特集で、再見するのも含めてデュラス作品を見てきて、映画としてはおもしろいのだが、感想を書くのは難しいなー、って改めて。今回の短編について言えば、映像として映しだされるものとデュラス自身の何かを語らんとするその語りは関係ない、と言えるものなのか、どこかなにかの繋がりや連関が見えてくるのではないか、と探りながら見る、というやり方もあれば、その土地と歴史、その記憶に関係するもの、それらを呼び覚ますもの、として彼女が練りあげようとしたストーリーを読もうとする、いやそもそもの映画的な語りをぶっ壊すものとして... など、映画とは、小説とは、ということよりもアートをつくる、考えるということの豊かな根幹を考えさせるもの、としか言いようがない。そういうのに対して感想もくそもないわ。ふつうに論考になっちゃうわ。
“Les Mains negatives” (1979) - 『陰画の手』と同様、Pierre Lhomme, Éric Dumage, Michel Cenetの3名が撮影し、Amy Flamerの弦が響きわたる現代の映像と音にデュラスの声が被さっていく。
古代ローマの要衝だった地中海沿岸の都市Césarée、紀元66年に始まったユダヤ戦争で、ヘロデ朝ユダヤの統治者の王女ベレニケはローマ軍司令官と密会して、やがて追放される、という愛と裏切りの悲劇が語られて、そこで映しだされる映像はパリのコンコルド広場や工事中のマイヨールの彫像、テュイルリー庭園など、なんとなく王家の残り滓っぽいあれこれ。
『陰画の手』では紀元前に遺された洞窟の手の跡(陰画)に朝の到来と共に半端に置きざりにされて目覚める現代パリの路地を重ね、そこから愛を求めるひとつの声を響かせていたが、その一年前に作成されたこの作品は、捨てられたベレニケの聞かれることのなかった声を現代の喧噪のなか - 都市と戦争の非情さのなかに放り出す。
Duras et le Cinéma (2014)
『陰画の手』の併映作品だった”Marguerite, telle qu'en elle-même” (2002) - 『マルグリット・デュラス、あるがままの彼女』と同様、Dominique Auvrayが監督したデュラス生誕100周年に向けて作られたドキュメンタリー作品。 邦題は『デュラスと映画』。
『あるがままの彼女』がデュラスの生い立ちや思想や愛がどんなふうに生まれ育まれていったのか、その背景を順に追っていったのに対して、こちらは彼女が映画に(小説ではなく映画に)向かっていった思いや考え方をストレートかつ具体的に示す。彼女の言葉だけではなく、撮影現場の記録、関係者たちの証言 - Melvil PoupaudがBruno Nuyttenの声を、Nahuel Pérez BiscayartがBenoît Jacquotの言葉をあてて、中心にある大きな空洞となったデュラス、そこに当時の関係者たちの声を響かせて彼女の不在を際立たせる。
内容からして、『陰画の手』の後に『マルグリット・デュラス、あるがままの彼女』を、”Césarée”の後に『デュラスと映画』を合わせたのは、狙ったことだったのだな、と今になって気づいた。
Le Navire Night (1978)
↑のに続けて見ました。 邦題は『船舶ナイト号』
パリのドイツ占領時代の名残である使われていない電話回線を通して偶然に知り合った、互いの顔も本名も知らない男女のやりとりが語られる(声はデュラスとBenoît Jacquot)。進行するにつれひとりは裕福な父親の別荘で暮らす白血病の女性、ひとりは電話会社で夜勤をしている男性であることがわかってくるがそれがどうしたで、最後まで彼らの姿が映しだされることはなく、かわりに屋内のインテリア(あのきらきらしたやつなに?)とか、この映画に出演する予定だったDominique Sanda, Bulle Ogier, Mathieu Carrièreらの、メークアップしたり、ただ立っていたり、ピアノを弾いていたりする背中が映しだされる。
“Le camion” (1977) - 『トラック』が運転手とそこに乗りこむ女性を映さないまま、それを遠目で見ながらデュラスとGérard Depardieuがなにやら言い合っていたのと同じように。 乗り物映画 - 車から船へ – こっちには船すら出てこない、頭のなかでとめどなく、どうとでも転がっていく、でも確かにそこにあったらしい愛の物語。
はじめから難破・破綻した映画を計画すること - 彼女は『スクリーンを覆う素材を見つけた』と言っている。なんで映画はルックスに、ヴィジュアルに従属しなければならないのか、という根源的な問い。電話回線を通してここまでの愛を描くことができるのであれば。
そして、この撮影で撮られた素材たちを使って、約2000年前の愛 - ”Césarée”、数万年前の愛 - 『陰画の手』 - が語られる。 『ヴェネツィア時代の彼女の名前』 (1976)のように、そんなの朽ちた建物の隙間からいくらでも湧いてくるのだ、って。
7.08.2026
[dance] String SAGA / 暗闇から解き放たれて
7月3日、金曜日の晩、新国立劇場の中劇場で見ました。
吉田都が芸術監督を務める新国立劇場バレエ団 – 6月に英国舞踊批評家協会賞(National Dance Awards)最優秀カンパニー賞を受賞するまで、そんなバレエ団があることすら存じませんでした。
海外からのバレエ公演は一部の貴族・富裕層のためのバカ高いチケットで、円安の流れも含めてそういうのに誰も抵抗しないようなので、国内のでもなんでも見れるやつを見ていくしかないや、になる。
ダブルビルで、同バレエ団の委嘱作品、で、”String SAGA”は世界初演、30分 – 休憩30分 - 25分、という構成。 このシアターは休憩時間に行くところがない。
String SAGA
振付は宝満直也、音楽は久石譲の「Viola Saga」 (2022)。
Twist(撚る)- Tension(張る) - Intertwine(絡まる) - Flick(弾く)- Spin(紡ぐ)- Tangle(縺れる)の6つのパートからなり、『強でしなやかな"糸"(ダンサー)と、鮮やかで豊かな"糸"(音楽)、そしてそれぞれの"性"(Saga)が撚り合い、一枚のタペストリーが織り上がるまでの道のりを描』く、とサイトの解説にはある。
冒頭、暗闇のなかにゆらゆら動く光る繭が浮かびあがり、それをダンサーがつつくとそれに応じて自在に揺らめいて、それに合わせて複数のダンサーが光る糸の周りで操り操られ、絡まり絡められ、を澱みなく繰り広げていく。光の繭は美しくて目にやさしいけど、音楽との絡み、変拍や変調も含めて、旧型モダンの典型でちょっと見たことあるかんじすぎたかも。
いまの日本で糸をテーマにやるのであれば、塩田千春のあの赤い雲に突っこんでいってぐじゃぐじゃになる、か、未だにぶっとくてうざいオトコの荒縄文化に突っこんでいって… どっちにしても突っこんでぐしゃぐしゃ…(にしたい。が見たい)
暗闇から解き放たれて - Escaping the Weight of Darkness
振付はアメリカのJessica Lang – ちなみに大女優の方はJessica Lange – ABT (American Ballet Theatre)でずっとやってきた人なのかー。 ABTはクラシックもモダンも90年代、00年代にものすごくいっぱい見たので、彼女の作品もどこかでなにかは見ているはず – ちゃんと調べろ。
2014年にこのバレエ団のために作った作品の再演。干支が一回転して暗闇のありようは、変わったのかどうか。
音楽はÓlafur Arnalds, Nils Fram, Josh Kramer, John Metcalfeなど。このなかでは、John Metcalfe – 一時期The Durutti Columnにいたよね - くらいしか知らないや。
幕があがると、ダンサーは床に寝ていて、あちこちに散らばっている白く光る雲のような救命ボートのような血小板のような楕円の塊がゆっくりと浮かんで上昇して、進行するにつれ雲は上がったり下がったり、様々な高さのそれらと絡んだり遠ざかったり、寄り添うのか邪魔をするのか。 舞台の奥のほうは腰から上くらいまでの白い仕切りで遮られて、ダンサーたちの下半身、脚たちしか見えない - 脚は宙に浮かびあがったり - 状態で推移していく。
目に見える、目を塞ぐはっきりとした「暗闇」も、そこから「解き放たれ」るような表現もない中、どのようなかたちで、なにが解き放たれ(う)るのかについての細かな接触ややりとりを通して、いくつかのグループに分かれた伸びや寝返りのような動きが同時多発で伝搬してうねりを作っていく。 暗闇を支配するものも眩い希望も見えないが、こんなふうに動いていけるのだ、という祈りにも似たステップ。一気に見せてしまうテンションの張り具合もよくて、あっという間だった。 尖がっていない、典型的なアメリカン・モダーンの様式美にあふれていて、自分にとっては居心地がよすぎてどうか、って。
新国立劇場(中)に向かう前に、国立近代美術館で見たやつを少しだけ。
杉本博司 絶滅写真
彼の写真展はいろんなところで何度も見ているのだが。
芸術の起源とその終わり、とうに死んでいるその死とその先について、銀塩写真というそれ自体が死滅に向かうメディアの上に焼きつける。 そして「焼きつける」という行為そのものも消滅に向かうそれで、どうせそのうちぜんぶ消滅しちゃうんだぞ、ということを伝えるため(だけ)に存在し、機能していく写真というアート。そんなガラクタ系をずっと集めて並べて、海辺の測候所でしぶとく延々観測する、という執念深さ。 とにかく、それでも絶滅するんだから、って延々やり続けるの。
常設展のほうにあった、彼の創作ノートの方がおもしろかった。 やはりここまで突き詰めて考える人だったか、って。
松本陽子 宵の明星を見た日
5日、日曜日の午後に、府中市美術館で見ました。
アンフォルメルからスタートした松本陽子は、杉本博司が絶滅、南無阿弥って言っている横で、まだ遠くに瞬く宵の明星を追って、見つめようとする、ここに現れる明星の若さ、瑞々しさとは、いったいなんなのか、と。
こういうのも含めて「抽象」ってなに? について改めて考えることが多くなった。「宵の明星」っていうのも抽象だよね。
あと、この美術館の常設コレクションの端に、Joseph Love先生の作品が4つ、並んでいた。
彼が「美術批評」誌に評論を書いていたことは知っていたし、作品もいくつか見たことはあったが、ここまで並べられているのを見たのは初めてだったかも。
わたしが絵画の見方(のようなもの、手口)を教わって考えたりするようになったのは先生の講義 – 「西洋美術史」を通年取ったのが大きかったの。取り上げらる絵画はクラシックが殆どだったが、休憩時間には現代音楽をカセットで流したりしていて、今思えばいろんな入口になっていたし、昨年欧州のいろんな美術館を巡っていた時も先生の講義が突然浮かんでくる場面があったり、こういう学びって本当に一生もの、ってしみじみ思うので、大学の一般教養とか文系を軽んじる声を聞くとふざけんな、っていまだに。どんな領域であろうとー。
7.07.2026
[film] Merrily We Roll Along (2025)
7月2日、木曜日の晩、Tohoシネマズ日比谷で見ました。
ところで、“Merrily We Go to Hell” (1932)っていうDorothy Arznerによる素敵な映画があるのだが、やっぱり関係はなかった。
George S. KaufmanとMoss Hartによる同名戯曲(1934)をStephen SondheimとGeorge Furthがミュージカル化、1981年にブロードウェイで初演されたこの舞台の2023年のリバイバル版で、ベースは2012年、ロンドンのMenier Chocolate Factory(すごく小さいけどすてきなシアター)で上演されたバージョンだという。 トニー賞でBest Revival of a Musicalを受賞している。演出はMaria Friedman。
映画版の制作も進行中で2019年にRichard Linklaterによって撮影が開始され、劇で流れていく20年をまるごとかけて(編集で逆回転するのか?)撮影中 - できる頃にはしんでる - で、Paul Mescal, Ben Platt, Beanie Feldsteinが出演予定、だそう。
上演している劇の舞台をそのまま撮ったものだが、National Theatre Liveとは違うプロダクション、撮影はSam Levyで、クローズアップも含めてきちんと撮っているので、これはフィルム枠になるのだと思った。演劇のステージを撮る場合って、あまり寄らず動かずに全体を俯瞰できるようにしてほしいんだけど…(個人的な好み)
1976年、映画プロデューサーのFrank Shepard (Jonathan Groff)の公開初日の成功を祝うパーティの場から始まる。大勢の関係者、知り合いでざわざわしていて、みんなFrankのことをすごい、って褒め称えて、本人も楽しそうでご満悦なのだが、古くからの友人であるらしいMary Flynn (Lindsay Mendez)は片隅で飲んだくれて燻っていて、妻のGussieもFrankがお気に入りの新人女優のことでぶちきれていて、元は作曲家だったFrankのかつての共作者Charley Kringas (Daniel Radcliffe) のことに話題が及ぶと顔を曇らせて… ここから1973 → 1968 → 1967 → 1964 → 1962 → 1960 → 1959/58 - 最後は1957まで、年を区切って逆順に遡り、中心の3人を追っていく、という構成で、ふつう人は年を重ねると人間関係も懐も豊かになっていくもの、と言われているし、主人公のFrankの成功も栄華もそんな典型的なアメリカの成功物語のように見えるし、実際そうなんだろうな、って思う。
なのだが、この逆回転劇は彼が年を経て獲得した輝かしいなにか、とか、なんで一部変な空気だったのか、の謎解きをするというより、成功と引き換えるように彼らが失っていったもの、にフォーカスして忘れ物を積みあげていく。 ので、見ていて楽しくなっていくものではない。あの時なんであんなこと言っちゃったんだろう/やってしまったんだろう/もう戻すことはできないのか… などなど。 後ろ向きにくよくよするのが好きな(ではない。けどついついやってしまう)人にとって、スケールこそ段違いに異なるものの、いろいろ思うところがあった。そしてそれを彩るミュージカル・ナンバーは、ミュージカル・ナンバーとしての華に溢れたりしていて、同じナンバーでも時代によって違う調子に聞こえてきたり、そこでそれが鳴るのか… って振り返る徒労感も重なったり。
最後の1957年、3人が下宿屋で出会うシーンの眩くて、何かが始まりそうで走りだしたくなる雰囲気、これがクライマックスに来るのはわかるのだが、でもそれはもう二度と戻ることのできない、取り返すことのできない場所と時間で、失われていてどうすることができようか?の状態にぽつんと取り残されて終わる。
そもそもは「若いパフォーマーのための舞台」として構想されたそうで、これを受け取る年齢によって印象が変わってくるのだろうが、年寄りには結構しんどいやつかも。 あーあー、で終わっちゃうのだが。
あと、忘れる、ということについて思い出したり。これらを忘れることでこれまでどうにかやってこれたのだな、って気づいた。
あと、キャストのトライアングルのすばらしさ。Jonathan Groffのつるっとした反省しないアメリカンの典型のような顔形と容姿と歌声、Daniel Radcliffeの簡単に壊れて潰れそうな、でもしぶとい不機嫌な神経系、Lindsay Mendezのぶっとい蹴りだしと重心。そのままバンドを組めそうな3人のケミストリーがあるの。
7.06.2026
[film] Born to Kill (1947)
7月1日、水曜日の晩、シネマヴェーラで新たに始まった特集 - 『ヴァル・リュートンから始まるⅠ ロバート・ワイズ』で見ました。リュートンもワイズもよく知らないところなので、可能な限り見たい(いつもの)。
邦題は『生まれながらの殺し屋』、英国でのタイトルは”Lady of Deceit”。 原作はJames Gunnによる小説 – “Deadlier Than the Male” (1942) - 『男よりもやばい』。 監督Robert Wiseにとって最初のフィルム・ノワール作品だそう。
サンフランシスコの社交家、Helen (Claire Trevor)は自分の離婚手続き待機でリノの町の下宿屋に滞在している時に知り合ったLaury (Isabel Jewell)が恋人のSam (Lawrence Tierney)を嫉妬させるために別の男とデートするんだー、って言っているのを聞いて、その晩、Lauryと男が一緒にいるところを見たSamは、嫉妬どころか相手の男とLauryを簡単に殴り殺してその場を去り、あとでその惨劇の現場を見てしまったHelenは警察には通報せずにそのままサンフランシスコに戻る。
サンフランシスコでHelenはSamとわざとらしく再会して、彼女が金持ちのFred (Phillip Terry)と婚約していることを知ったSamはHelenの義妹で新聞社を引き継いで裕福なGeorgia (Audrey Long)の方に近づいて、結婚するところまでのしあがる。
その裏ではリノの下宿屋のおかみが雇った私立探偵Arnett (Walter Slezak)が辺りを嗅ぎまわるようになり、Georgiaの夫として各方面になりふり構わぬ傲慢さをむきだしにするようになったSamと、自分が似た者同士であることを仄めかしつつ彼に近寄ったり距離を置こうとしたりするHelenの綱引き・綱渡りは果たしてどこに向かうのかー。
極悪非道のサイコパスが社交界でのしあがろうとして、彼と距離を置こうとしつつも絡まないわけにはいかない似たもの女性の複雑な思いと境遇を描いて、それはノワールの定石であるfemme fataleに寄っていく、それに翻弄されて嬉々として破滅に向かう男性ではなく、homme fataleに寄りつつ自分でもどこに行きたいのかわからなくなっていく – でも決して狂うことはない - 女性を生々しく現前させて、目が離せない。
Samのキャラクター造形にもうちょっとだけ深みを持たせることができたらなー くらい。いまの俳優に演じさせるとしたら、やっぱりGlen Powellあたりかしら。
Executive Suite (1954)
↑のに続けてみました。 邦題は『重役室』。
脚本はErnest Lehmanで、彼が手掛けた最初の映画脚本になるそう。あと、音楽が全くついていないの。
オスカーに沢山ノミネートされて、ヴェネツィアではGrand Juryを獲っている。
大手家具メーカーの社長Avery Bullard - 冒頭は彼の目線で動いていく – がNYでの商談を終えて、秘書に夕方帰るので重役会議を招集しておくように、って電報を打って道路に出たところで急に具合が悪くなって倒れて天にー。
倒れた男性が運ばれるのをビルの上から見てて、あれはうちの社長ではないか、って確信した重役が手元の株を売って儲けようと画策するが身元の公表がぜんぜんでなかったり、死亡が公表されると、社長は後継者の指名などをしていなかったこともあり、対外発表や株主の保護、そこで誰が主導権を執って進めるか、そしてなにより、誰が後継の社長になるべきか、などについて、彼は若すぎる、人望がない、など水面下での男たちのぐさぐさの攻防が始まって、焦り苛立ち失望などが止まらなくなる。
基本は老獪なじじい vs それぞれの理想に燃える若手、という男たちの成りあがり蹴落とし駆け引きサバイバル・ドラマで、そこに創業者の娘でBullardの愛人だったJulia (Barbara Stanwyck) - 議決権をもつ – が絡んで、相当にねっとりした熱いやつに盛りあがって、俳優はみんな重心低めでうまいし、緊張が途絶えないまま最後まで運ばれる。
見ごたえはあって、一般的なメッセージや教訓としてもたぶん悪いことは言っていなくて学びも多く、結末の持って行きかたも間違っていない映画だと思うのだが、会社とか経営とかそこでの仕事とかにぜんぜん興味を持てないまま生きてきてしまったので、何をやっているのか、何を言っているのかはわかるものの、これ、なにがおもしろいんだろ? の連打になってしまったのが残念だった。(そもそもなんで会社員なんかになったの? → 自分、といういつもの)
他方で、ここに出てくるような人たち(Executives)によって決定されたり執行されたりしたことが、多くの人たちの人生や生活の行方や質を決めることになる、という仕組みとか、そんな彼らに対するべらぼうな報酬とか支配/服従のありようとか、いまや世界の殆どの会社組織で行われていることとは言え、なんともグロテスクでおそろしいことだわ、って改めて思った。
[film] 急に具合が悪くなる (2026)
6月30日、火曜日の晩、ル・シネマ 渋谷宮下で見ました。
まだあれこれ考えたりしているが、なんか書いてみよう。3時間20分ある作品だが、するする見れて、軽い。
仏語題は”Soudain”(突然)、英語題は”All of a Sudden”、先のカンヌで主演のふたりが女優賞を共同受賞している。
原作は哲学者宮野真生子と文化人類学者磯野真穂による同名の往復書簡集(未読)で、映画は中心のふたり、その間で交わされるメディア(手紙→対話/演劇)、言葉も含め、舞台をパリとそこの介護施設に変えて、いろんな出会いや衝突があるなか「急に具合が悪くなる」ような事態はそこになにをもたらすのか? というその行方と結末を見せる、というより、どこまで転がっていってもどうにもならないnow/here な世界を、ロメール調のさらさら手書き日めくり方式で綴って見ようと。
パリで高齢の認知症患者向け介護施設のディレクターをしているMarie-Lou (Virginie Efira)は、老人たちを機能不全に陥った機械として扱うのではなく、人として対面して時間をかけてケア、支援していく、ユマニチュードの方法論を軸とした施設の設計や運営に反対したり疑義を抱くお役所や現場のスタッフ達と辛抱強く対話を続けていて、疲れて眠れなくなった時に誘眠剤を飲んでしまったせい(が直接の要因ではないが)で患者が亡くなって、トラムでひとり泣いていたら、丘の向こうから走ってきた智樹(黒崎煌代)と出会い、自閉スペクトラム症である彼と、その祖父で役者をしている吾朗(長塚京三)と彼の舞台を作・演出しているMari (岡本多緒)と出会い、彼らの演劇 - イタリアで精神病院を廃止した精神科医Franco Basagliaについての芝居 - “Da vicino nessuno è normale” - 『近づいてみれば、誰もまともな者はいない』 - を見に行ったMarie-Louは感銘を受けて、Mariと親交を深めていく。
Mariはステージ4の癌患者で、いつ「急に具合が悪くな」ってもおかしくない状態であること、またそうなったらもう先は長くないことをMarie-Louに告げ、Marie-Louは自分の施設での運営や指針を巡る試練や困難について語り、ふたり共なんでこんなに生きにくい状態になっているのか、等についてナンシー・フレイザーの資本主義システムの絵を白板に描いたりしながら共に対話して考えていく。
ドラマは急に具合が悪くなったMariが急遽日本に帰国し、一緒についてきたMarie-Louの求めに応じて再びパリに戻り、という展開を見せて、ふたりの抱える生き難さが周囲のいろんな人たちとの関係の移り変わりによってどんなふうに別の様相に変わっていくか、を描いて、所謂難病モノにある周囲の希望や悲嘆にフォーカスするものにはなっていかない。そういったエモを周到に回避しつつ、変わることは難しいかもしれないが、例えばこんなことも、という見せ方に向かう。
「急に具合が悪くなる」ことの「急に」が急であることを察知するためにはずっと傍にいて「いつも具合が悪い」ことを見ながら認識しておく必要がある。「急に具合が悪くなる」ことの背後には「ずっと具合が悪いまま」である/がある、ということ。 『悪は存在しない』 (2023)で、そう言いながら「悪は存在する」さまを軽く示していたように。
そしてその「急に」という事態、時間のありようは、患者ひとりひとりの時間感覚が異なるようにケアされていくなかで引き延ばされ、それが資本主義システムの求めてやまない効率や時間のお金の使い方 - 予測・計測可能ななにか、に対置、対抗されるものとしてあるように示される。ふたりの食べるカップラーメンの2.5分が、ぜったい2.5分よりも長かったように(いちばんはらはらした場面)。
そしてたぶんそこに、原作の往復書簡の宮野さんがテーマとしていた九鬼周造の「偶然性」の話も絡んでくるのだろうな、というのと、もうひとつの基調音としてあるロメールの映画とはまさにそういうchance meetingの織物としてあったよね、というのと。
ふたりが京都の山の上で語り合いながら朝を迎えるシーン、『レネットとミラベル/四つの冒険』 (1987)の"The Blue Hour"みたい、って思った。
主要な舞台を日本ではなくパリに置いたのも、ロメール、というだけでなく、日本だと雑で愚かで幼稚な資本主義がやかましく声高に進行しすぎていてドラマとして成立しないからではないか、とか。
ひとつだけ、施設の老人たちや自閉症の智樹の「演技」の描き方は、ちょっと気になった。ワークショップであれ本番であれ、彼らがあんなにきちんとコントロールされて動いてくれるわけなかろうに、って。
7.03.2026
[theatre] ハムレット
6月28日、日曜日の午後、静岡芸術劇場で見ました。 月1回は見たい演劇。
台風でどうなるんだろ? だったが新幹線は動いていた。雨風は去っていて、でもこの時期の吹きつけてくる霧雨がすごくいやで。
静岡、というと、2023年に静岡県舞台芸術公園で『Hamlet à l'impératif ! ハムレット(どうしても!)』を見ていて、静岡はなんとなく「ハムレット」を見る土地、になっている感がある。(それがどうした)
この舞台は昨年11月にここで上演されたもののリバイバルだそう。原作はシェイクスピア、河合祥一郎の翻訳をベースに、脚色・演出は上田久美子。
開場の少し前にロビーのようなところで、地元高校の芸術科演劇専攻(そんなのあるのいいなー)の生徒たちによる、ハムレットのあらすじについてのパフォーマンス 「みにみにハムレット」という5分くらいのがあった。5分でまとめて説明します、ということで、波も間合いもちゃんとしていて、これ自体は別によいのだが、劇の本編の方でも冒頭にホレイシオ(本多麻紀)が出てきて「要約します」というのをやっていて、これは最近の風潮なのだろうか、「まとめサイト」とか、「あらすじ」とか、他方でネタバレ禁とか、なんかぜんぶ繋がっているのだろうな、と思った。
そして最初に、登場人物全員が白いひらひらの衣装で登場して、全員がオフィーリアである、という。配布された縦長の冊子には、人間以外の存在を無視しないために、ということで「ノンヒューマンな存在たち」を意識した動き、という言及があり、冒頭のオフィーリア(たち)の動きは - ストーリーの本筋から排除されがちな彼女の声や目線を拾いあげるものでもあり - その方向性に倣ったもの、であるのかしら。
この世継ぎをめぐる復讐と自家撞着のどろどろと転がっていく物語は、確かに王子ハムレット(山崎皓司)を中心に据えたものなので、そこから漏れたり拾いあげられなかった声などもあるのかもしれないが、では、そうして拾われたり掬いあげられたりした声の確かさとか網羅性って、どうなのだろう? そこにおいてもまた、オルタナの「存在」によるふるいが掛けられたりしないのか? とか。 物語を作る、というのはそもそもが作者のそうした恣意の塊りを捏ねていくことなので、読みの試みとしては別の視点が導入されたりしておもしろいかもしれないけど、物語の本来のありようを薄めてしまう – それって先に書いたあらすじ、要約志向にも繋がっていくやつなのかも、とか。
なんでそんなことを? たぶん、作品の外にあるいろんなものとか関係各所などへの配慮? 見てわかってもらうための努力? でもこういうのってそもそも自分が見て取り組んで考えるなかで見いだしたり纏めたりすべきものではないのか?
舞台の上は空気でぶわぶわ自在に膨らんだり萎んだりするビニールシートで雲のように覆われ、それが天井にまで伸びていて(最後は客席まで覆いにくる)、この雲が登場人物たちの視界を遮ったり塞いだり。音楽は、此岸彼岸の境目を意識させるかのような電子音とかちりちりしたノイズと、太鼓のとんとこから最後は和太鼓まで。全体として決して元に戻すことのできない、やっちゃったどうしよう… なひりひりした感覚が充満していて、ストーリーの本筋はそれに乗って揺れずにふつうにハムレットしていたような。オフィーリア、最初はあんなにいっぱいいたのに。ホレイシオも肝心なところでは妙におとなしいし。
結局、要約とか語り部とかオフィーリアとかノンヒューマンが脇でいくらざわついてもハムレットの悲劇は動かしようがなくぶっとく天井から落ちてきたもの、というのが明らかになった、ということでよいのかしら。
演劇は舞台と客席がどちらもナマなのでいろんな化学変化や突発事故がありうるしあったらおもしろいだろうな、とは思うけど、その向こう側にはテコでも動かない、動かしえないヒューマンの領域というのが確かにあるのかも、って思ったりした。
帰り、新幹線まで少し時間があったので静岡駅の地下を通って歩いていける駅ビル?の上の静岡市美術館でやっていた『スウェーデンのうつわ グスタフスベリのある暮らし』という展覧会でうつわを見て帰った。ハムレットはデンマークだけど、彼、うつわとか興味なかったのかな… (それどころじゃな… )
7.02.2026
[film] The Man in the White Suit (1951)
6月27日、土曜日の昼、K’s Cinemaの特集 - 『英国イーリング・コメディの黄金時代』で見ました。 邦題は『白衣の男』。
この作品、英国にいた間に、もちろん見たことはあったのだが、「イーリング・コメディ」という括りでの特集ではなかった気がする。英国の戦前~戦後の映画って、Ealingだけじゃなくて、Alexander KordaのLondon FilmsとかRank OrganizationとかABPCとかMichael PowellのThe ArchersとかHammerとかGainsboroughとか、ハリウッドに対抗すべく国策でやっていたのでめちゃくちゃいろんなプロダクションがあって、どれを見たって – 少なくともいまの時代に生き残って再映されるようなやつについては – 外れがないの。
そういうのをアーカイブから引っ張り出して単発だけど35mmフィルムで上映してくれる火曜日のBFIの”Projecting the Archive”のシリーズとか、毎回痺れるおもしろさでいつも満員になって… 何が言いたいのかというと国立映画アーカイブのあれは、国策としてもぜんぜんだめで愚かで、ふざけんな、しかない、ということ。
そんななか日本で「イーリング・コメディ」がうける(結構お客入っているらしい)のは、デパートの英国展でスコーンやフィッシュアンドチップスに群がるのと同じようなものなのではないかしら。確かにとても英国らしい風味が効いてておいしいけど、英国のおいしいのってそんなんで終わるもんではぜんぜんないのよ。
イギリスの地方の繊維工場の片隅で怪しげな機械がピコぽこ変な音をたててずっと稼働していて、これ誰のものだ? ってざわざわしてようやく捕まったのがケンブリッジ出のSidney Stratton (Alec Guinness)で、彼は決して摩耗しないし汚れも一瞬で落ちる真っ白で強力な繊維の開発を続けていて、それなりのお金をかけたりしてようやく成功すると、彼はイノベーター、パイオニア、って持ちあげられるのだが、経営幹部と工場の労働者たちはこれができちゃうとやっぱり困るかも、って言いだして、追いかけっこが始まって…
最初からほーらこんなおかしいでしょ、って笑わせるのを狙っている、というよりは、自分の信ずるところに愚直に邁進していって、周囲もそれにきちんと応えているのに、なんでか全体として変な方に捩れていって、結局どうしようもなくなって、なんとも言えない気まずさが残る。そういう気まずさとかやりきれない「にがにが」をどうにかするために、パブ、っていう施設が発展したのね。
白いスーツを着て飄々と逃げ回るAlec Guinnessの姿はEP4でデス・スターの中をすり抜けていくObi-Wan Kenobiに重なっていく。この頃からああなることを予見していたのだとしか言いようがないの。
Vesna na Zarechnoy ulitse (1956)
↑のに続けて、Morc阿佐ヶ谷という行ったことのない映画館に行って、そこの『ソビエト映画特集』で見ました。
昔の映画をやってくれる館が昔より増えたのはよいこと、と思いつつ、洋画の新作はブロックバスターかジャンク系のホラーか、各国の映画祭でかかるような「佳作」ばかりで、見れていないのはほんと多いよねえ…
邦題は『ザレチナヤ通りの春』、英語題は”Spring on Zarechnaya Street”。
監督はFeliks MironerとMarlen Khutsievの共同によるソビエト映画で、ぜんぜん知らなかったがとても有名な作品らしく、ウクライナ映画ベスト100の45位になっているそう。
大学を出たばかりのTatyana Levchenko (Nina Ivanova – ちょっとAmy Adamsに似ている)が駅前で車を拾って、工場の方に向かう。ご機嫌で愛想のいい運転手は前の教師が来て帰っていったことを知っていて、車代は帰る時でいいよ、とかいう。
工場地帯に入って、そのなかにある労働者向け(?)の学校のロシア語、ロシア文学の教師として赴任してきた彼女に知り合いが下宿を調達してくれて、工場勤務をしている生徒たちを含めていろんな人たちが彼女の前に現れて、みんなの人気者Sasha (Nikolai Rybnikov)も寄ってきてちょっかいを出してくるのだが…
そびえ立つ広大な工場地帯、そこでの労働者たちの活気–すぐ歌がでる、 新任教師としての意気、そんな中でやっぱり芽をだしてくる恋への期待と立ちはだかる壁と行ったり来たりの宙ぶらりん状態が、厳しい冬から春への移り変わりと共に綴られていって、最後はやっぱり。 意外な要素も、見ていて恥ずかしくなるようなやり取りもなく、それらが気持ちよいくらいに各トラックにのってはまってアンサンブルを奏でていって、いつまでもずっと見ていても飽きない、70年前の作品であることを感じさせない王道のrom-com。なんでこんなふうにできてしまうのだろう? しかない。
この映画の殆どが撮られたウクライナのザポリージャ、この映画から70年で相当いろいろあった(今も…)のだろうなー、というのを(あまりに眩かったりするので)思ってちょっとしんみりした。
7.01.2026
[film] あの鷹巣町のその後 (2005)
6月25日、木曜日の晩、シネマヴェーラ渋谷の羽田澄子特集で見ました。
この特集 - 『福祉、芸術、ジェンダーを通して日本を描く』の「福祉」のパートを見ていなかった気がしたので。
180分、休憩なし。『住民が選択した町の福祉』 (1997) & 『続 住民が選択した町の福祉-問題はこれからです』(1999)から続く3つめの作品で、これの続き(↓)も含めると全4部作(上映時間8時間13分)になる。最初の2本を見ていなくても、冒頭で丁寧にここに来るまでに鷹巣町でなにが起こったのか、「あの鷹巣町」で起こった「問題」とはなんだったのか、をきちんと説明してくれる。
地方の話と福祉の話は、例えば昨今の政治の劣化とか右傾化とか分断とか格差とかを考えていくとどうしても突き当たることだし、そろそろ自分ゴトのど真ん中になりつつあるし、とりあえずどうすべきか、も大事だろうが、本当の敵はどこにいるのか、その正体はなんなのか、を見据えておくためにも。
秋田県にある人口2万3千人の鷹巣町で、1991年に若い町長が誕生すると、町民の自由参加によるワーキンググループが組まれて、福祉の先進国デンマークの福祉行政を参考に先駆的な老人保健施設「ケアタウンたかのす」の構想が立ちあがり、町議会の多数を占める前町長派に反対されながらも、どうにか可決されて、ケアタウンの施設もサービスも稼働を始めるのだが、やはり問題はいろいろ出てきましたよ、というのが前2作までのあらすじ。
その町長が4期目をかけた2003年の町長選挙で大敗し、その背景と町が今後この先どうなっていくのかを探るべく、羽田監督自身が現地に乗りこんで、関係者への聞き取りを進め、自分でナレーションもしながら全容を明らかにしていく。
無投票で再選が確実視されていた前町長の対立候補として突然現れたのは病院出身の医師で、手厚い福祉政策については評価しながらも財政を圧迫するのでまずは経済面の建て直しを、とその手段として町村合併や大病院、大規模店の誘致などを主張して、当選するとその路線に切り替わって、2005年に北秋田市が誕生する。 その裏でケアタウンの予算も、自主運営されていたサポートホームも集会所に転用されたり、ケアを取り巻く人も環境も変わっていく。
福祉のあり姿を追う/問う、のがそもそものテーマだったと思うのだが、映しだされるのは小自治体の、小汚い政治家たちのお金の使い道に関する政治の駆け引き(というより排除と押し売り)ばかりで、それはやがて地方都市(が合わさった勢力)ではどうすることもできなさそうな、中央政府の意向でもあることが見えてきて、そして地方は中央に憧れてそれに倣うもの、といういつもの茶番を見ることになってうんざりする。
財源は限られている - 人口は減っている - 使い道を絞るしかない、という出発点からのとにかく儲かること優先、というじじい共が、ハコ作ってバラ撒いてなんぼ、というこれまで散々見てきた政治の風景と、ケアする側もされる側も辛くない、遠くないはずの幸せを追求していく福祉の道とはぜんぜん別種のものなので、一方が他方を排除するのはおかしいのだが、それができてしまうのは一言でいってしまえば貧しいからで、この風潮とダウンワードスパイラルは今のこの国全体を覆っているのでどうしようもない。
あと、いまもどこにでもいるユニオンを毛嫌いするじじいが出てきて、なんかの病気だよねあれ、と改めて思った。
あの鷹巣町のその後 続編 (2006)
↑のに続けて見ました。これは59分と短い。
前回、合併で誕生した北秋田市の市会議員選挙のあと、鷹巣町が国に先駆けて制定した「高齢者安心条例」が廃止され、ケアタウンは財政支援を打ち切られて、福祉の現場はどうなっている/いくのかを関係者に取材していくのと、そもそもの発端として、なんでこんなこと - 2003年の町長選挙の大敗 – になってしまったのか、を改めて振り返っていく。
福祉は生産性とかで測ったり効率化云々でどうにかしたりすべきものではない、と思うのだがー、っていう原理原則を福祉なんてやりたいやつがやれ(自治体の責任ではない)、って思っている家父長制下で甘やかされてきたじじい共は死んでも理解できないので、連中が死んでもらうのを待つしかないのか。
なんであの選挙で負けたのか、についてはそれまで12年間続いた政権下で撒かれた利権、という話が出てきて、これも今のくそ政権に繋がるところだねえ。みんながしぶとく利権に群がって、政府はそういうところに金をバラまいて事業を興して、そうでないところからは巻きあげて、ついてこれない人々を道端に棄てて、誰も責任を取ろうとしないし、いくら弱者排除の卑怯者とか言われても軸と脳が腐っているから理解できないし。政治家だけの話ではなくて「社会」の役に立たないものはいらない、消えてよし、という方向にいろんな仕組みが囚われているところで、福祉なんて成り立たないし、育ちようがあろうか。
ここ数日起こっているしょうもない事態にも繋がっていて、どうしたらよいのかねえ、っていつもの。
これを見てから『急に具合が悪くなる』を見ると、急に具合がよくなることはないけど、よりよく理解できたかも。特に白板のところとか。
[film] Supergirl (2026)
6月26日、金曜日の晩、109シネマズの二子玉川のIMAXで見ました。
こういうのは台風が来ようが何が来ようが、基本は初日に見ることになっているので、しょうがない。
上映中に地震が来て、結構揺れたのでこれはだめかもー … って覚悟したが中断はしなかった。
昨年リブートされた”Superman” (2025)にも少しだけ出てきた”Supergirl” - Kara Zor-El (Milly Alcock)を主人公に据えたドラマで、いとこのKal-El (David Corenswet)も少しだけ出てくるが、メインの舞台は地球ではないし、宇宙の広さとか正義とか大義とかの話はあんま出てこない。
作はAna Nogueira、監督は”I, Tonya” (2017)や“Cruella” (2021)のCraig Gillespie、プロデューサーにはJames Gunnの名前がある。昨今、いろんなユニヴァースだらけでどうでもよくなっている感があるが、DC内では”Chapter One: Gods and Monsters”というのに含まれているらしい。
崩壊しかけたクリプトン星で幼いKaraとわんわんのクリプトが両親によって地球に住むいとこのKal-Elのところに送り出されたが、Supermanの彼のように地球人の両親にちゃんと手間をかけて育てられたわけではないKaraはちょっと無軌道で厭世的で、23歳になった時も、ひとりでいろんな惑星酒場をよれよれ渡りながら飲んだくれてパーティ三昧の日々を過ごしてて、Supermanは心配して電話をかけてきたりするがまあ相手にしない。
ある星に住んでいたRuthye (Eve Ridley)は盗賊団の首領Krem (Matthias Schoenaerts)に一家を皆殺しにされ、形見の刀を背負って復讐の機会を狙っていたところでKal-Elと出会って、奴らをやっつけてほしい、と頼むのだが相手にされなくて、でも連中に突っこんでいったクリプトが毒矢にやられてあと3日の命、になってしまったので、解毒剤を持っているKremを探して渋々一緒に旅をしていくことになる。敵をすぐにでも殺してやりたいと恨みに燃えるRuthyeに対して、解毒剤を手に入れたいからちょっと待て、というKaraと。
Kremの一味が若い娘を誘拐して集団花嫁として束ねて取引したりしているのを知った彼らは、やっぱりこいつらやっつけるしかない、って一匹狼のLobo (Jason Momoa)の助けも借りながら連中を追っていくのだが果たして。 そしてわんわんのクリプトは...
まず、ストーリーは裏も表も伏線もくそもなくシンプルで軽い(2時間を切っている)のはよいと思った。Supermanのお話ってそもそもこんな程度のだったのだと思うし。 敵討ちと解毒薬を探して共通の敵を追っかけていく股旅もので、生真面目な娘と腕は確かだが飲んだくれのだらしない娘の組合せ、そこに絡む風来坊の狂犬男、など。革ジャンで顔中金具だらけの悪党バイカーとか、さらわれた女たちが籠に入れて売られていく話とか、宇宙の果てまできてまたそのイメージ? もう何回目? にはなるけど、わかりやすさを狙ったのだろうな、と思う。
他方で、赤い光の星で気持ちよく酔っ払い、黄色い光の星で最強になり、緑の光の星で力を失ってしまうので、最後のほうで緑の星に誘導されて絶体絶命、ってどうなのか。結局、たまたまああなってくれたからよかった、ってそんな他力本願ヒーローでよいのか? というのはある。(彼女がロメールの『緑の光線』なんて見たら最後にぐったり… っておもしろいけど)
地球ではなく、なんでもありの宇宙なのにこの定型スケールかあ、っていうのと、ふだんグランジのボロを纏って髪ぼさぼさで匂いが漂ってきそうなSupergirlがいとこがくれたからってユニフォームみたいなあの衣装をわざわざ着て戦う?っていう違和感と、あとなによりも、耳をばふばふさせる狂犬クリプトと一緒にめちゃくちゃ暴れまくってほしかったのになー、というところ。 Loboはいてもいなくてもべつに、くらい。
でも次のが来たらまた見てしまうのだろうな…
とにかくサッカーが終わってくれてなにより。 帰国してフットボールが更にとっても嫌いになった。
6.29.2026
[film] 嗚呼 満蒙開拓団 (2008)
6月22日、月曜日の晩、シネマヴェーラの羽田澄子特集で見ました。
この特集は先週で終わってしまったが、デュラスの特集などと被っていなければもっと見たかった。し、サブタイトルにあったように 『福祉、芸術、ジェンダーを通して日本を描く』 ことが今ほど求められている時はない、と思うの。ぜんぶ(体制からすれば)だめだめ系ので、誰もお金だそうとしないだろうが。
冒頭、80年代から始まった中国残留日本人孤児の国家賠償請求訴訟が棄却されて、残留孤児たち関係者が涙するなか、そもそもどうしてこんなことに、ということで、中国東北部にある「方正(ほうまさ)地区日本人公墓」にお参りをする日本人向けツアーに同行しながら、1932年の満洲国建国時から現地で、ここにやってきた日本人移民たちに何が起こっていったのか、を追っていく。
あんな場所に国を作って、作っちゃった以上は強くしないと周辺からやられてしまうので、本国からの移民の数を増やしたかった、他方で日本の農村部は昭和恐慌のあおりで食糧不足が危惧されていて、そんな両方のニーズも合致していた(最近の自衛隊の構図と変わらない)ので100万人規模の移住計画が立てられ、各都道府県には人数のノルマまで課されて、長野県などから多くの移民がハルビンに渡った。
でも映画での証言によると、旗を振られて移住したのは終戦間際の1945年の6月頃(えー)、8月になってソ連軍が満洲に侵攻してくると現地の関東軍はあっさり農民たちを棄てて退却をはじめて、残された民は飢えと寒さと襲撃とチフス、などでどんどん亡くなるか、現地の中国人に貰われるくらいしか道はなくて、そうやって20数万人が亡くなり、後になってゴミ捨て場のように放置され積み重ねられた骨々を見て憐れに思った現地の中国人が方正に共同墓地を作った、と。
まだ生き残っていた当時の人々の証言も含めて、120分ではぜんぜん足らない内容なのだが、一貫して描かれて、日中双方からの証言でそうとしか言いようがないのは誰ひとり、何ひとつ責任をとらない政府(&軍)による「棄民」政策とその全容で、水俣病でも薬害訴訟でも沖縄でも、ぜーんぶそう、いま偉そうに(恥をしれ)嬉々として戦前の施策をなぞろうとしているのはそういうことをした連中の末裔だからね。ほんとに何も振り返らないし反省しようとしないし理解する脳みそもないし罰せられることもないまま、利権と世襲でありがたや、って政権を支持して崇めて下にはふんぞり返ってきた上層の連中も含めて、どうしたらいいんだろうねこれ、って暗澹としてしまうのだった。 まったく終わっていない今の話として、ね。
女たちの証言 - 労働運動のなかの先駆的な女性たち - (1996)
6月22日の晩、上のに続けて見ました。
羽田さんのオフィスの片隅に、82年に撮られたまま10年以上、宿題のように放置されていたフィルムがあると。それは大正から昭和初期に社会主義的労働運動に参与した活動家の女性たちが一堂に会した座談会の時の記録で、そこで撮られた内容を紹介しつつ、後から改めてインタビューした内容も加えて、日本における女性解放運動とは具体的にどういうものだったのかを活動した女性ひとりひとりの歴史のなかに見る。
女性の「社会参加」すら危うくあれこれ言われ、ましてや政治参加とか労働運動なんてもってのほか - 逮捕されて当たり前だったあの時代、どれだけの迫害や虐待や村八分に見舞われようとも、パートナーの死や自身の投獄や弾圧にも負けずに信念も曲げずに淡々と自身を貫いた女性たちの像と言葉。外見こそあたりまえに老いているようだが、言葉も表情もすっきり澄み渡って、あんな老人になれたらいいな、しかなくて、しかし、他方で社会の方はいつまでたってもぜんぜん変わることができない、変わらないまま女性蔑視、労働運動や組合活動への忌避がなんとなく、でもしっかりと根づいて蔓延したままで、この辺(のもうやだ)が撮った映像をそのままに置いてしまった原因だったのではないかしら、って。
山中常盤 牛若丸と常盤御前 母と子の物語 (2004)
6月19日、金曜日の晩、日仏で”La Musica” (1966)を見てから、シネマヴェーラに移動して見ました。TGIF.
『山中常盤物語』は、義経説話に基づくお話 – 頼朝に追われて奥州へ下った牛若を訪ねて旅にでた母の常盤御前が、山中の宿で盗賊に殺され、復讐に燃える牛若が盗賊をばらばらざくざくに切り刻んでその仇を討つというお話で、浄瑠璃の演目として盛んに上演された。 『山中常盤物語絵巻』は17世紀の江戸時代の画家 - 奇想系のあれで注目された - 岩佐又兵衛(1578-1650)が『山中常盤物語』と浄瑠璃をもとに描いた全12巻、150mからなる絵巻作品(MOA美術館のコレクション)。
映画は、その浄瑠璃がべんべん唸りをあげるバックトラックとなって、カメラを右から左にスクロールさせつつ絵巻に描かれたストーリーをその場面の歌と一緒に聞いて追っていく、これを12巻ぶん。シンプルな構成ながら、絵巻と浄瑠璃の世界、それらが描こうとした牛若の怒りと悲劇が300年の時を経てダイナミックに伝わってくるものだった。
絵巻に巻かれている絵は殺しの凄惨な描写も含めて鮮やかな劇画調で、よくもここまで描いたなー、くらいに肉片血みどろ、でも人の顔はわかりやすい線と色のとぼけた漫画で、こういうのが受けたんだろうなー、って。
ただ、浄瑠璃がどんなことを歌っているのか、要約でもよいから字幕で投影してくれたらより理解が進んだのになー。外国のひとにも伝わると思うし、文化事業ってこういうのに(以下略)。
[film] Les mains négatives (1976)
6月21日、日曜日の昼、日仏のデュラス特集で見ました。18分の短編(監督作)と彼女についてのドキュメンタリーを組合せたプログラム。
“Les mains négatives” - 邦題は『陰画の手』。 英語題は”The Negative Hands”。
まだ薄暗い夜明けのパリの街に向かって、前方を向いたカメラ - 撮影はPierre Lhomme +2名 - がそれを搭載した車と共に走り出して、そこにAmi Flammer - Agnès Vardaの”Quelques veuves de Noirmoutier” (2006) 等 - の多くを語らず何かを切り裂いていくようなヴァイオリンとデュラス自身によるモノローグが被さっていく。
ゆっくりと動きだすフロントの窓がそのままスクリーンとなり、Pierre Lhomme独特の薄暗青いイメージにヴァイオリンが絡んでくるだけでたまらなくなり、このまま1時間やってくれないだろうか、とか思う。
解説によると、ルートは”From Bastille to the Champs-Elysees, by way of the Boulevard des Italiens, Avenue de l'Opera, and Rue de Rivoli”だそうで、建物に掛かっている映画の大看板を見ると”Capricorn One” (1978)とか”Convoy” (1978) の時代 - これはなんかわかる。大きな三越のパリ支店、OSAKAという日本料理店なども見える。
まだ眠っている、眠りから覚めようとしている街を浮かびあがらせつつ、デュラスが語る内容は昔彼女が見たというスペインのアルタミラ洞窟に残された3万年前の手の跡 - アルゼンチンのピントゥーラス渓谷にある「手の洞窟」のあれ、じゃないんだ? - 洞窟の暗がりにポジとネガで跡のついた/跡を遺したひとりの人物の像に向かい、「わたしはあなたより遠くのあなたを愛している」と言うの。いつもあとに遺るのは3万年の昔からのそんなふうな痕跡ばっかりで、愛はそこにしかない、そういうものなのだ、って目醒めようとしている街に向かって語る。
彼女が映画によって遺そうとしているイメージも、そのような「陰画」としてあるのだろうな、って。
Marguerite, telle qu'en elle-même (2002)
↑のに続けて見ました。邦題は『マルグリット・デュラス、あるがままの彼女』。 英語題だと”Marguerite as She Was”。
約60分のTV用に作成されたドキュメンタリー?で、作・監督は”Le camion” (1977)等で編集を手掛けたDominique Auvray。”L'Amant de la Chine du Nord” (1991) - 『北の愛人』出版の際にデュラスが彼女に献本したあたりから始まったらしい。
ピアノにのったJeanne Balibarのすばらしい歌声を背景に、デュラスの過去の写真、過去のインタビュー映像にある語り、Edgar Morin(おおー)やJean-Luc Godardのコメント、などが流れていく。メガネをしていない彼女の顔が新鮮で素敵でじっと見てしまう。
語られていくのはアジアで過ごした幼少期のこと、母や兄たちのこと、パリに出てきてからのこと、共産主義者としてあること、男と女のちがい、料理や油のこと(油は必要)など、ところどころに映りこむ黒猫、三毛猫 – やっぱり猫のひとなの? - 淡いカラーで撮られている”Nathalie Granger” (1972)の撮影時の、あの家の光景なども。 ネガティブな、ひっくり返す/返るような打ち明けや暴露話などはない。
ナレーションなどなくでも、すべての映像も声も(Jeanne Balibarの歌声さえも)、デュラスに対して抱いていたこちらのイメージやこれまで見た彼女の映画の情景、声、語りというスタイル、などなどにすんなりそのまま寄り添い、はまっていて裏切ることはない。Dominique Auvrayが愛と敬意をこめて彼女の声と映像を織りこんでいったのだろうな、というのがよくわかる、デュラスをこれから見る人にとっても最適の入門編になっているのではないかしら。
6.26.2026
[dance] Il Cimento dell’Armonia e dell’Inventione (2024)
6月21日、日曜日の午後、日仏でデュラスのプログラムをひとつ見た後、彩の国さいたま芸術劇場で見ました。
ローザス、アトラファイブ - 『和声と創意の試み』。タイトルはヴィヴァルディが1725年までに発表したヴァイオリン協奏曲(作品8)で最初の4つが『四季』として有名なやつ。 ”Il Cimento”には、試練、苦難、危険、リスク、危機といった意味もあり、このダンス作品のそれとするなら「試み」よりもうちょっと強くてもよさそうな。
ロンドンのSadlers Wellsでも5月に2日間上演されている。休憩なしの90分。
Anne Teresa De Keersmaekerのダンスは2024年11月に”EXIT ABOVE after the tempest”をSaddlers Wellsで見て以来。
Anne Teresa De KeersmaekerとRadouan Mrizigaの共同振付で、A7LA5(アトラファイブ)の 4人のダンサーたち - Boštjan Antončič, Nassim Baddag, Lav Crnčević, José Paulo dos Santosも共同創作、という位置づけ。
冒頭、真っ暗で殺風景な舞台の奥で蛍光灯のようなライティングがモールス信号のように瞬き、それが1本から2本、3本と増えて、両サイドの蛍光灯にまで広がってステージ全体が眩くなったところで暗転して、Autunno - 秋 - が鳴りだし、ダンサー1名が舞台に現れゆっくりとストレッチするような動きをしながらステップを踏んで、その数が4名迄増えて、あとは進行に合わせて増えたり減ったり、ソロとアンサンブルが交錯していく。
ダンサーたちはメッシュのベストやバスケットボールのショーツを身に着けて長いひらひらを纏ったり、おっさん風のひともいる外見はほぼストリートダンサーの太さと重心 - ブリューゲルの描いたフランドルの農夫のそれ - をもち、出番がないときは両サイドの椅子があるエリアで水分を補給したりぶらぶらしたり、モダンに近いひと、ブレイクダンスもやるひと、等ばらけていて、これまで自分が見てきたRosasのアンサンブルとソロが細やかにぶつかったりすれ違ったりの集合離散を繰り返しながら全体の流れを作っていく、そのプロセスを見せるのとは、ちょっと違うやつだったかも。 ごつごつとしたいろんな段差を見いだしつつ顕在化させていくような。
Autunnoから冬 - Invernoに行くときはタイトルの表示はなく、季節の変転はライティングの強さと色彩(黄色があつい?)、そしてダンサーの動きの組合せで表されていて、誰もが盛りあがることを期待するであろうPrimavera - 春は、音楽が始まる前にひとりのダンサーがステップ/タップであのヴァイオリンの刻みを見事に再現した(ここだけ拍手がおこった)ものの、実際の音楽が始まると、片手をあげた4人が揃って8の字を描いて蜂のようにぐるぐる回っていくだけで、え? それなの? ここってダンス観点では一番の見せ場じゃないの? だった。 無音での振り(結構多め)から音楽を付けてのアンサンブルへの移行/組合せがそれなりの効果を生むことはわかるが、この場合はちょっと微妙だったかも。みんなはヴィヴァルディが追いかけて鳴ることを知っている – 既に脳内で鳴らしているから。
この後にいかにも、で躍動する夏から再びAutunno、そして終わりの冬になると、蛍光灯が白い布で覆われていってその曇った覆いのなかで光がうっすらと消えていく。希望の春ではなく、2度目が反復される秋冬で終わる。
300年前に作られた自然を讃える音楽と、野山の自然から遥か彼方に離れてしまった都会のストリートでのリアル、その間にある様々なギャップを対照させて、歓びというより摩擦と試練、疲弊を、そしてそれでも容赦なく流れていく季節を示して容赦しない。 それを受けとめて対抗したり這いつくばってがんばる男性たち、という絵柄。
そして最後に朗読が流れる在ブリストルのAsmaa Jamaの詩- “We, the salvage” – われわれはわれわれが待ち望んでいた救い出されし者である、春を待ち望む.. 云々 と結ばれる。この”We”とは、春、とは。
一度に台風がふたつ、地震がふたつ来て、これは間違いなく国立映画アーカイブにあんなことをした天罰に違いないと思うのだが、それ以上に恐れるべきは、あの(悪い意味で)頭のおかしい連中に災害対応なんかをやられることである。ああ神さま、しかない。
6.25.2026
[film] 黒牢城 (2026)
6月21日、日曜日の夕方、TOHOシネマズ日本橋で見ました。
映画とは関係ないけどTOHOシネマズ、上映前の宣伝があまりに常軌を逸してやかましくてくだらなくて、目を瞑っていても吐きそうになるので今後はできるだけ行かないようにしたい(もう100回めくらい)。
脚本・監督は黒沢清、原作は米澤穂信による同名ミステリー時代劇小説で、今年のカンヌにも出品された。
時代劇にもミステリーにも疎くて、「くろろうじょう?」「こくろうじょう?」とか言うありさまだし、黒沢清監督作品も、見る機会があれば見るけど海外にいた時には見れないままだったし、国内外の黒沢マニアのような人たちには敵わないのだが、でもおもしろく見て、いろいろ考えさせられた。以下、ネタバレのようなところもあるかも。
登場するのは歴史上実在した人物たちで、史実としてもそんなには違っていないらしい。
戦国時代、織田信長の殺してしまえ戦略に叛旗を翻して自分の城に立てこもった荒木村重(本木雅弘)のところには威勢がよくて血気盛んな家来たちと優しい妻・千代保(吉高由里子)がいて、周辺国の武家も含めて一触即発の膠着状態になっていたところに信長からの使者として軍師・黒田官兵衛(菅田将暉)がやってくると、村重は彼を人質として地下牢に幽閉してしまう。
そんな城内で室内の少年が刺されて殺される事件が起こったり、殺した敵の武将の首が替えられていたり、宝物の壺を持たせた密使が殺されたり、不可解な事件が続いて、放っておくと士気にも響くし、村重は黒田官兵衛にこれどう思う? って助けを求める。
ふつうのミステリーに求められるような何故、誰が、どんなふうにそれをやったのか、という角度からの精緻でロジカルな謎解きを見せるというより、人がいっぱい死ぬ、殺されるのも殺すのも当たり前、進むも地獄/進まぬも地獄、の戦時の世になーんでわざわざそんな手のこんだことしてかき乱すの? というリーダーの苦悩と、その目線を超えたところにある宿命とか天罰のありようを描く。謎解きは誰かの恨みを晴らしたり明日への展望をもたらしてくれるもの、ではなく、だからこうするしかないのだ、という諦めに近い洞察と決意をもたらす。
突発的に作動して、意味不明だけど起こっちゃったことはしょうがないからどうにかしよう、という黒沢清得意のアクションの仕掛け、というかドライブは今回のような群集劇でも – 少し斜め上からの構図から黒い男たちが虫みたいにわらわら湧いて蠢いて雷に打たれたり、これだから… としか言いようのないぞわぞわが湧いてきたり。 これらの群像とそれを率いるリーダーの、後に引けなくなった姿を描く、という点では間違いなく上の意向に振り回されて身動き取れなくなる現代 or アカルイミライの話で、ここをどう見るかー。天罰ですらどうすることもできない地獄、としてあの時代を捕えることもできたのではないか、など。
あの雷があそこにいた全員を叩きのめしてくれたら、より天罰感がでたのに。
でも、いろんな描き方があるであろうことは承知のうえで、あの存在の薄さがひとつのメッセージとして機能していることをわかったうえで、たったひとりの女性である千代保が見た地獄を軸として戦乱の世でどんなふうに「天罰」の考え方が生まれ維持され、それを待望したり、それに向かって動いたりするようになっていったのか、を宗教映画のように描いたやつの方が見たかったかも。
あと、音楽 - 半野喜弘 - がとてもよかった。
6.24.2026
[film] Son nom de Venise dans Calcutta désert (1976)
6月20日、土曜日の午後、日仏のマグリット・デュラス特集で見ました。
英語題は“Her Venetian Name in Deserted Calcutta”、邦題は 『ヴェネツィア時代の彼女の名前』。
“India Song” (1975)のサウンドトラックをそのまま使って、映像パートだけ新たに、というか別のモノを撮りなおした作品。音の長さは同じなので上映時間も120分で同じ。
アイデアとしてはシンプルながら、このようなことをする/ができるためには、元の映画がそれなりの強い設定や形式を持っていないと難しい。1937年、モンスーンで荒れるカルカッタに駐留大使の妻としてやってきたAnne-Marie Stretter (Delphine Seyrig)を中心とした愛人Richardson、狂えるラホールの副領事(Michel Lonsdale)とのサークルでのすったもんだの果てに、その後の17年間をアジア各地を彷徨うことになる… という筋立ては知らなくてもぜんぜん構わないが。
音声を維持したリメイク、という構想のもと、撮影のBruno Nuytten以下数名のカメラが、カルカッタと言いながらパリ郊外のChâteau Rothschildを舞台に撮っていたオリジナルの場所を再訪し、人影なしのそこを撮り直している。
冒頭は、モノクロの点々の上をカメラがなめていって、空襲の焼け跡のようにも見えるそれらが庭の敷石(?)の模様だとわかるのは後のほうで、あとは建物の朽ちた外観、インテリア、エントランスからの眺め、崩れた家具や壁、それらを覆う木々や大気、そして朝の昼の夕闇の情景、かつて確かに人影が形造られた場所と時間を満遍なく。
華やかな外交の場 - レセプションが行われていた建物は人気も失せてすっかり朽ちて、元に戻る様子はない。”India Song”の登場人物たちはみなどこかに消えてしまった。それが会話に度々出てくる疫病によるものなのか、獣のように狂ってしまった副領事のせいなのか、終わりの方で語られるように彼女もRichardsonもどこかに消えてしまったからなのか、誰も知らない。 あるいは、この映像の方が正で、廃墟に戯れる様々な声とその持ち主の幽霊たちのやりとりがまずあって、“India Song”はこれを元に再構成したフィクションか、そこに映り込んでしまった霊たちの像なのかもしれない、とか。
Carlos d'Alessioによるピアノの”India Song”はどちらのバージョンでもメランコリックな土台を作ってすばらしく(本当に好き)、確かなものはこの旋律と、狂った娘による現地語の歌と、「ヴェネツィア時代の彼女の名前」 - Anne-Marie Stretterの母方の旧姓、くらいなの。
2024年の夏に、ロンドンのICAで“Let Cinema Go To Its Ruin: The Cinema of Marguerite Duras”という特集で見ていて、その時はAbsisによる短編 - デュラスがナレーションをする”Cygne I” (1975)、 Michael Lonsdaleがナレーションをする“Cygne II” (1975) との同時上映だった。いま見たらどんなふうに見えるだろうかー。
Nathalie Granger (1972)
6月20日の午後、↑のに続けてみました。 邦題には『女の館』というのが入ったりしていたの?
公園のはずれに荒れた庭と池?をもった一軒家があって、Isabelle Granger (Lucia Bosè)とまだ小さい娘ふたりと、夫があり、家族の友人と思われる女性(Jeanne Moreau)がいて、黒猫が住んでいる。
娘のうちのひとり – Natalieは学校で暴力沙汰を起こして、あんなところに行かない、でどうしたものか、になっていて、父親は早くに仕事で出て行ってしまい、近所ではやはり暴行事件が起こって犯人は捕まえられておらず逃走中、とか流れてくる。
全員が寡黙で不機嫌なのかほとんど会話がないので、なんでそこにそうしているのか、なにが起こるのか、なにをしようとしているのかがまったく見えない。全員がずーっと黙ったまま家屋の暗がりに立ったり座ったりしているし、Natalieも乳母車をがらがらしながら庭を徘徊したりするものの、なにをしているのか見えない。
途中、おしゃべりな洗濯機のセールスマン (Gérard Depardieu)が勝手に家に入ってきてべらべらべらべらかなりどーでもよいセールストークをしても、(あたりまえだが)かわいそうなくらい相手にしない – あんた誰?
なんで彼女たちはずっとそんな不愛想な態度のままで一点を見つめて、Natalieもいきなり乳母車をひっくり返したりしているのか – そんなの知るかよ、なんでわざわざご機嫌にご丁寧にストーリーとやらを語ったり担いだり会話を成り立たせたりしなきゃいけないんだよ、そっち(こっち?)こそ説明してみろおら! って言っているのだと思った。 “La Musica”や”Détruire, dit-elle”の延々引き延ばされていく繋がらない会話の変奏というか倒立というか。
そして取り囲む庭も含めての館のありよう。そこに暮らす、というよりただそこにいる、たむろする場所としての、あの家まるごと。
先に書いたICAの特集の際には、これと併映されたのがFrançois Baratによる”Gaumont-Palace”で、ここではデュラスが”Nathalie Granger”の草稿などを読みあげているのだそうだが、これは見れなかった。
ここまでくると無敵、としか言いようのない語り - 説明しない/語らない語りの強さと太さと。
6.23.2026
[film] Détruire, dit-elle (1969)
6月18日、木曜日の晩、日仏学院のマルグリット・デュラス特集で見ました。
英語題は”Destroy, She Said”、邦題は『破壊しに、と彼女は言う』。
“The Track” (1977)に続いて、自分にとってはここから今回のデュラス特集が始まったかんじなのだが、どれも震えるくらいおもしろい。ふつうに生きていそうな朗らかな人たちは出ていないし、全員なに考えているのかわかんないし、どんな設定なのかもよくわかんないし、彼らの会話はコミュニケーションとして成立しているように思えないし、でも何かが起こっている、進行していることだけはわかって、その何かとは何なのかを捕捉し追跡していくだけの時間。でも映画も小説も演劇も、アートってそもそもそういうものなのだ、という根幹に気付かされる。これがどれだけすごいことかー
デュラスの書いたものの2作目、書いたらそれを映画にする、を単独監督として実践した最初の作品。書きものの方は最初のパートナーだったDionys Mascoloに捧げられている。
テニスコートがある、広い庭もある、がらんとしたモダンなホテル - 療養院のようにもみえる – に4人のきちんとした身なりの男女がいて、出たり入ったり場所と組合せを変えたりしながらいろんなことを会話していく。
「ユダヤ人です」というStein (Michael Lonsdale)、謎めいたElisabeth (Catherine Sellers)、Max (Henri Garcin)とその妻Alissa (Nicole Hiss)、終わりのほうで、Elisabethの夫Bernard (Daniel Gélin)もやってくる。
彼らが普段なにをしているどんな人物で、なんのためにそこに滞在していて、誰となにをしたいのか、どこに向かうのか、彼らの会話はその周辺をずっと回覧板していて、互いを知るとか合意とか共感とか楽しむとか寛ぐとか、そういう姿とか志向はまったくなさそう。向こう1~2時間の暇つぶしとか、あしたあさってにどうするか、くらいしか頭にないし、近くにいる他人とどう過ごすか、夫婦であったとしても、これからなにをどうするとか、まるで表に出てこない。 ホテルというのはそういう場所だし、それのどこがいけないのか、とか。
かといって不条理劇のようなどん詰まり感や不明瞭な謎、目くらましもない。すべてはオープンで、それなりの説明はされているし、登場人物たちは意味不明のやりとりをするわけでもなく、焦ったり憎しみに燃えていたりすることもない。所謂「社会」を形づくるひとたちのように見える。
やがてAlissaが森に行きたい、と言っていた彼女はいなくなり、遠くから耳を塞ぐような轟音、爆撃のような音が… (原作では音楽だったような)
破壊しに、と言った彼女が?
La Musica (1966)
6月19日、金曜日の夕方、日仏学院で見ました。
Paul Sebanとの共同監督で、これが彼女の映画監督第一作。 前年にStudio des Champs-Elyséesで上演された同名の劇作品をベースにしている。
カフェのテラスでスーツを着て硬く不安げな表情で固まっている男Lui (Robert Hossein)に興味をもったのか、横にいた少女(Julie Dassin)が声をかけて、いろんな周辺の土地やこれからしていく旅など、あそこはいい、あれはどう、とかの会話をしていく。少女は彼と一緒にどこかに行きたいようで、男はウジェーヌ・ブーダンの絵に描かれたトゥルーヴィルの浜と彼の 『浜辺の女たち』について語ったりするが、そこから動く意思はなさそうだったのだが、この辺の行ったりきたりの会話の末に車で移動を始めて一軒のホテルに辿り着く。
そしてその途中、路上に姿を見せるElle (Delphine Seyrig)のシャープで漲った姿 – めちゃくちゃかっこいい - と、ホテルに舞台を移して離婚の話を進めようとしているらしい、LuiとElleの繋がっているのかいないのか、の異様な会話 – その段差とか間合いは『破壊しに、と彼女は言う』のそれにも通じるような。 その果てに「いったい何が起こっているんだ?」 って呻くLui... 確かに何かが、音楽のように生起していく何かがそこに。
ディスプレイに映る黒い獣の目とか、変なふうに映りこむボヘミアの城の絵とか、ここに掛かっていたブーダンの『浜辺の女たち』なども含めて、流れていくすべてがおもしろい。 これらを通してデュラスは映画のやり口、のようなものを掴んだのではないか。
ブーダンの『浜辺の女たち』、元の絵はどこにあるやつだか探してみたのだが、彼の浜辺の絵、多すぎ。
6.22.2026
[film] 薄墨の桜 (1977)
6月16日、火曜日の晩、シネマヴェーラの羽田澄子特集で見ました。
42分の中編で、岩波映画製作所に勤務しながら4年を掛けて作りあげた彼女にとって最初の自主製作映画だそう。
印象的なギターのアルペジオは片山幹男。ナレーションは香椎くに子。
冒頭、通りの奥に制服姿の少女が何も言わずにこちらを向いていたりする絵があって、最後の方にも出てくる。
岐阜県根尾村の山あいに一本だけ立つ樹齢1400年の老桜 - 「薄墨の桜」 - と呼ばれてその地域に暮らす人々に畏れられたり愛されたりしながらずっと朽ちかけるように立っていて、春になると花をつける様子を、地域と木の歴史の紹介と四季の情景と、近くに暮らして毎日仏飯を運んだりしている6軒の家族たちを交錯させながら、とにかく千年以上。
天然記念物に指定されて、日本三大桜に数えられている有名な桜で、言い伝えによると継体天皇がこの地を去る時に苗を植えていって、そこから先、世の中のいろんな地獄を眺めたり地獄から眺められたり、ナレーションでも語られるひとの怨みを吸って育った桜、というコブだらけの凄みが、薄墨の輪郭に陰影を加えて、シンプルに「美しい」とは言えない感慨をもたらす。 幹の下から昔の人骨と思われる骨がたくさん出てきて、その骨を持ち帰って鑑定するって言った医師の家が廃墟になっている様とか。
今であれば4Kとか8Kのコントラストで華々しく映しだされるであろう桜そのものの、特に「美しい」という観点からの愛でる撫でるような描写はなくて、ぼろぼろで崩れそうになりながらずっとそこに立ってあった、近隣の家族が毎日面倒をみてきた、という薄墨の線が描く歴史と共に示す。みんなが大好きな権太のうっとおしい歴史などに眉をひそめつつ。
古代の美 (1958)
二本立てで、↑のに続けて見ました。
東京国立博物館との共同企画による22分のモノクロの短編。映される対象たちは東博で今も見ることができるし、たぶん見たことがあるものも含めて、石器や埴輪の成り立ちとか曲線とか表面の肌理を映して浮かびあがらせて、ほらこんなに美しいでしょー、というよりも、これらと当時の生活との繋がりを紹介し、なんでこれが美しいなにかとして博物館に並べられているのか、そもそもの美とは? を白黒簡潔に考えさせるような内容のものになっている。 この目線と態度は、日本の古代のそれだけでなくて、ギリシャのでもイタリアのでもそうなるよなー、というのと。
元始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯 (2001)
6月17日、水曜日の晩に、↑と同じ特集で見ました。
平塚らいてう(1886-1971)について、タイトルの有名な文言以外、実はなにも知らないかも、と思ってお勉強で。
音楽は湯浅譲二、ピアノは高橋アキ。らいてうの一人称の語りを喜多道枝、ナレーションを高橋美紀子。140分あっという間。
1911年、女性だけによる文芸誌『青鞜』を創刊するまでの、裕福な家庭に生まれて海外文化に触れて育ったのに、上からの国粋主義的な方に靡いた教育によりそれらを封じられて嫌になり、大学時代は禅を学んで、最初に書いた小説で知り合った森田草平との心中未遂事件のあたりまで、やることなすことめちゃくちゃおもしろく、詮索されたりうざいのでどこかの坊主に頼んで処女を始末したとか、夫婦別姓とうぜんとか、基本がパンクですごい。「らいてう」は”Thunder Bird” (Ptarmigan?) だし、「青鞜」なんて”Blue Stocking”だし、パンクバンドじゃん! - 面構えも含めて - とか。
動く(野生の)らいてうの映像は14秒しか残っていないそうで、基本は彼女が遺したものを語るか、関係者の証言を繋いでいくしかないのだが、太陽を直接撮ることはできない、ということもあるし、今となっては普遍的であったりめえよーなことばかりだし、彼女が照らし出した女性たちの言葉が運動に撚りあわされていく過程はふつうにおもしろかった。
他方で、この国に蔓延るこういう運動嫌い(モノ言うひとを毛嫌いする)の習性はどうにかならんものかー、って。そーんなに考えたり振り返ったりが嫌で従属して服従する奴隷根性が心地よいかー、っていつもの、身の回りについて考えてしまう。 サッカーなんて世の中から消えてなくなっちゃえ。
[film] Caprice (2015)
6月14日、日曜日の晩、日仏の『第7回映画批評月間 フランス映画の現在』のサブ企画『『急に具合が悪くなる』公開記念 ヴィルジニー・エフィラ特集』で見ました。今回の特集で上映される彼女の3作品のうち、これだけ見ていなかったので。
作・監督・主演はEmmanuel Mouret。
パリで小学校の教師をしているClément (Emmanuel Mouret)は、妻と別れて息子と暮らしていて、勤務先の校長で、妻に逃げられてしまったThomas (Laurent Stocker)と互いの悩み相談をしたりしている。この時点で、小学校の教員、ひとりは校長の立場にあるような男たちが恋の悩みでぐだぐだしていることに不安を覚えるのだが、そういう世界なのだと思うしかない。
演劇ファンであるClémentは女優Alicia Bardery (Virginie Efira)が主演する舞台を見に通っているのだが、3回めに行った際、隣に座ったCaprice (Anaïs Demoustier)からあなたのこと前にも見かけた、って話しかけられて、彼女は陽気でおしゃべりで彼と仲よくなりたいふうなのだが、彼はそんなことよりAliciaの劇に感動して涙を流している。
そんなある日、Thomasから小学生の甥の面倒を見てほしいという女性の依頼をうけて、行ってみたらその豪邸に住んでいたのはAliciaで、夢かと思うのだが話していくうちAliciaはClémentのことを気に入ってくれたようで、ふたりはそのまま倒れこんで、やがて彼は彼女の家に息子と一緒に転がりこんで暮らし始める。
そんなある日、寂しがりの校長Thomasを慰めるべく一緒に呑みに行ったClémentは、女性2人組と仲よくなって、そのうちのひとりがCapriceで、彼女のアパートで一夜を明かして朝帰りしたところをAliciaのメイドに見られてちょっと変な状態になり、Aliciaの方もThomasと一緒に劇場のオフィスで夜を明かしてしまい、互いに自分たちはこのままでいてよいのか? になっていく。
そして、一晩一緒に過ごしてしまって扉が開かれたと思ったのかCapriceは彼女の劇団の公演を見に来てほしいって頼みに来たり、Aliciaのいない時に足を骨折してギプス生活になった彼を助けてくれたり積極的で、そんなCapriceの影がAliciaにも見えてくるのだが…
ジャンルとしてはrom-comに分類されるのかもしれないが、結末、決着のつけ方でいうと自分のなかではこれはrom-comではなくて、とても軽いご都合主義たっぷりの古からあるフレンチ・コメディで、よかったねー、くらいしかない。Virginie Efiraも、ああいう役柄だからなのか、思いっきりエモに振れたりの場面もなくて、ちょっと窮屈そうだったかも。
千変万化する恋 日本のロマンチック・コメディ映画の輝き @ 早稲田大学演劇博物館
6月14日、日曜日の昼、日仏に向かう前に見た企画展。
この大学は野蛮人の巣窟、というイメージがあったのでこれまで構内に入ったことも近寄ったこともなかった。
日本のロマンチック・コメディ映画の歴史をポスターを中心に概観する。見たことある映画も見たことない映画もいっぱいあるが、タイトルやポスターの構図を見ているとやはり「日本の」ロマンチック・コメディの定義、のようなことを考えてしまう。
当事者ふたりの間にクラッシュがあって一瞬火花が散るが、そのあとで行き違ったり宙ぶらりんの状態が続いてやっぱりだめよね… ってぜんぶ潰れて諦めかけた際でのまさかの逆転/復活というのが自分にとってのrom-comの大まかな定義 – そのクラッシュの強度と範囲が階級の壁をぶち破るようなところまでアナーキーに転がっていくのがスクリューボール・コメディ – なのだが、日本の場合、やはり家制度とか男性をたてる、というのが最初からベースとしてあって、女性主人公が向こうの家族とか関係者におおっ、という竜巻や混乱を巻き起こすものの、最終的な幸せの落下地点は家族のありようや男性上位の既存圏内に収まる(彼らをたてる)かたちでどうにかする - 幸せとはそういう(家族の)ものだからー、というのが多いのかしら。 そして(例えば)高度成長期以降で、この枠とか閾のありようが変わっていった、というようなことはあったのかしら?(かんがえ中)
あと、韓国とか90年代以降のもあったが、こちらのほうは見てないやつだらけで... 時代的、地理的な段差についても考えたり。
どこかの邦画系名画座はとうぜん連動企画を考えてほしいものー。
6.19.2026
[film] L'engloutie (2025)
6月14日、日曜日の午後、日仏学院の『第7回映画批評月間 フランス映画の現在』のなかのサブ企画『批評家たちが選ぶ2024-2025ベスト』で見ました。ぜんぶ見たいけどぜんぜんまったく無理。
監督は、これまでドキュメンタリーを中心に撮ってきて、これが長編デビューとなるLouise Hémon。カンヌの監督週間に出品されて、2025年のJean-Vigo賞、André-Bazin賞を受賞している。
撮影は監督デビュー作”La Gradiva” (2026)がこないだのカンヌの批評家週間でグランプリを受賞したMarine Atlan。本作ではセザール賞にノミネートされている。
原題をそのまま訳すと「沈められたもの」?、英語題は“The Girl in the Snow”。
雪深いアルプスの山奥の村にAimée (Galatéa Bellugi)が教師として赴任してきて、雪に閉ざされて外界との交流とかなさそうな土地で、子供たちを教え、そこに住む村人と一緒に暮らしていく。彼女のほっぺたはほんのり赤く健康そうで着ているものもかわいくて、村人もそんな変な、異端な民のかんじはしない。
最初、現代の物語だと思っていたのだが、途中でもうじき年が明けると20世紀になります、というので今から100年以上前の話なのだ、ってはっとする。雪に覆われていて、彼女が暮らす校舎とか納屋も木造で、蝋燭の灯りだけだと気づかないのかも、と思いつつ、ずっと覆われたり籠ったり、の内と外の感覚の端で、さりげない村人たちの態度や挙動がなんとなく気になり始める。そんなふうに気に障る感覚が雪に覆われた屋外やそこでの(追いようがない、止まない)物音に起因しているのか、屋内の村人や子供たちとの、汎社会 - 共同体的なやりとりのなかで湧いてくるものなのか、自然光のみと思われる撮影の光の捕らえかた、なのかもしれないが、気付いたら積もっていて身動きとれなくなる雪のように絶妙、ホラーのようにのしかかってくる。
村の男たちのなかにはAiméeに近づいていく者もいて、柔らかい光のなかでふたりで親密な夜と過ごした後、次の朝には村の衆が男の名を呼びながら雪のなかを棒で突っついて探しまわる、という場面があって、それが繰り返されたりしたら、これは雪女モノ…?とか思ったりもするのだが、行方不明なんてふつうにありそうだし、って。でもそれがもう一回起こると…
雪山の奥、ずっと閉ざされた家屋の隅とか雪の塊りのなかで何が育ったり蠢いたり埋められて息の根を止められたりしているのか - タイトルの「沈められたひと」 - それらを明るみに出すことすらできないような暗く曇った世界がある – というのは我々の内側の認知なのか外側の網膜の話なのか、ということをヴィジュアルで淡々と、ひとつの閉じた世界として示しつつ、ありがちなフォーク・ホラーがぶつぶつ沸きたってくる手前のところでうまく止めているような。
でも、チャントを重ねて渦を巻いて響かせるEmile Sorninの音楽はちょっとありきたりでつまんなかったかも。 裂け目をつくって底知れない何かを暴きだすことだってできたのではないか、とか。
暗がりの隅の蝋燭とレンズ、とか撮影はさすがだと思ったが、これの前日に見た『早池峰の賦』 (1982)の舞台となった土地の情景を思い出して、ここで16mmで映しだされた40年以上前の、あの景色が強く迫ってくるものはなんだったのだろう.. って改めて思ったりした。
6.18.2026
[film] Primavera (2025)
6月14日、日曜日の午前、ユーロスペースで見ました。
邦題は『ヴィヴァルディと私』。ヴェネツィアもヴィヴァルディも好きだし、日曜の朝っぽいし、昨年は盛りあがらなかったけど『四季』の300周年だったし。
原作はTiziano Scarpaによる”Stabat Mater” (2008)、監督はオペラ演出家Damiano Michielettoの、これが監督デビュー作。暗がりの蝋燭が絵画みたいでちょっと素敵だった撮影はPaolo Sorrentino作品を撮ってきたDaria D'Antonio。
18世紀初、ヴェネツィアのピエタ孤児院 - 冒頭、院長?の女性が子猫にひどいことをするので、そういう施設だとわかる - には若い未婚の女性ばかりが収容されていて、日々音楽の訓練を受けている彼女たちは後援者たちの前で定期的にアンサンブルを披露したり、後援する金持ちの家に貰われていったり、音楽/家事か玉の輿か、くらいしか将来の選択肢はなくて、ある日後援者がここへの支援をやめて他の方に貢ぐことを聞いた館長はそいつはやばい、ってVivaldi (Michele Riondino)を教師・指揮者・作曲家として招く。
現れたVivaldiはごほごほ咳ばかりしていて具合も機嫌も悪そうで、とても仕事ができる人には見えないのだが、”La Follia variations”を演奏しているとき、Cecilia (Tecla Insolia)の弾くヴァイオリンにぴくってなって、彼女を第一ヴァイオリンに据えて、デンマーク王を迎えた式典で彼の作曲したソナタを披露演奏したらとても感動してくれて、VivaldiとCeciliaは音楽で結ばれた師と弟子としてよいかんじになる。
のだが、オスマン帝国とのコルフ島での長い戦いから戻った英雄Sanfermo総督はCeciliaとの結婚を一方的に決めてきて、それは孤児院への多額の寄付を伴うのでCeciliaにもVivaldiにもどうすることもできない。のだが、最後の手段としてCeciliaは館に出入りする八百屋の青年と強引に関係をもって婚姻資格(結婚式前に新婦が処女であることを医者がチェックしにくる)から外れようとして、それはどうにかうまくいって関係者一同は絶叫錯乱、独房に入れられてしまうものの、これで婚姻縛りから逃れることはできそう – だったのだが…
どちらかというと(いやどう考えても)Vivaldiが『四季』を作曲して磨きあげて弟子と一緒に披露するまで、のいろいろあったストーリーを描くと思っていたのだが、リハーサルで「春」の断片がちゅるりろ♪って聞こえてくるくらいで、Primaveraな完成形は結局示されないので、えー、だった。遺されたVivaldiの制作ノートの余白などからこんなことをイメージしてみました、というストーリーらしく、そこまで創作するなら、①病に倒れて瀕死になるVivaldi、懸命についていく弟子、②『四季』を完成披露して幸せに死んじゃうVivaldi、③そんな彼を看取りつつ超絶に弾きまくるCecilia、の方にいくか、ヴァイオリンの弦と弓で総督と館長を縛りあげてぐさぐさ血祭り、のサスペリア方面では、とふつうなら思うよね、なのだが、実際には『侍女の物語』(衣装) で、とってもかわいそうで出口なしで暗くて悲惨で、なのに最後、Ceciliaは不敵に微笑んだりしていて、なんで? 音楽はなくなったけど自由を手に入れたから? そんなんでいいの? になった。
テーマ的には女性映画だと思うのだが、Vivaldiが妙な位置で挟まってしまい、全体として座りのよくない、変な映画になっちゃっているかも。
あと、薄暗くて怖めの室内の描写はよいのにヴェネツィアの街は運河程度のぺたんこで、もうちょっとがんばれば、だった。
というわけで、ヴィヴァルディはこの週末のRosasで改めて。
6.17.2026
[film] 早池峰の賦 (1982)
6月13日、土曜日の午後、シネマヴェーラでこの日から始まった特集『羽田澄子 生誕百年記念 福祉、芸術、ジェンダーを通して日本を描く』で見ました。
羽田澄子も福祉も日本も、たぶん芸術も、ほぼわかっていない領域ばかりなので、これを機に勉強できれば、と。
読みかたは「はやちねのふ」。 芸術選奨文部大臣賞受賞を受賞しているドキュメンタリー。 16mmの上映、184分で、途中一回休憩が入った。 音楽は秋山邦晴。
昭和の50年代くらい、岩手県の山奥の大迫(おおはさま)町に、大償(おおつぐない)と岳(たけ)の二つの集落があり、そこに500年以上前から伝わる山伏神楽 - 1976年に国の重要無形民俗文化財に、2009年にユネスコの無形文化遺産に登録されている - とそれを継いで守り続ける人々の顔と姿を追っていく。
最初に「南部の曲屋(まがりや)」という村人一家がずっと暮らしてきた一軒の茅葺屋根の家を解体する現場が映しだされ、季節の風雪と自然の厳しさ、そのなかであれだけの家を維持してきて、それを解体しなければならない事情とか、昔に大人が62歳(!)になると飢饉のときとかいらないので棄てられたりしていた辻とかが紹介されて、背筋が凍る。 こんなきつい状態下で舞いとは、芸能とは、とか。 ← 今の世の行政目線。
厳しく、決して豊かではない土地と季節を生き抜いてきた集落の人々にとって、山伏神楽とは何なのか。それを舞う、習う、伝える集落の人々ひとりひとり - 老いたひと若いひと – といった個々のピースを紹介しつつ、衣装や道具を準備したりメンテナンスしたり、舞いを習って練習して、歩いたり車に乗りこんだりしてお呼びが掛かった行事に出掛けていって舞って踏んで戻ってきてを繰り返す日々と季節と。
これと並行して、貧しい土地のほぼ唯一の農産物である南部葉(なんぶば) - 江戸時代に花魁などに好まれた高級葉タバコの植え付けから収穫~乾燥~出荷~値付けまでの工程が紹介されて、これも生活をすごく豊かにしてくれるものでもないし、別品種に変える話も出ていたり、大変そうだなあ、しかない。
グローバル資本主義のヤニに尻の穴まで漬けられ尻尾を捕まれて、政府や会社のいうことをへいへい聞いて身動きできなくなっている我々からすれば、山の神のオーダー(というのかなんというのか。お告げ?)をまっすぐに受けて、神のためにああいう仮面、被り物、衣装に音楽まで用意して、舞いの一式・神事として捧げる時間や労力はものすごいし、こんなの日常のあれこれと比較できるものではないな、と思いつつ、比較できないものにしてしまう要素要因とはなんなのか、等について考える。あるいは、すでに吞み込まれて「伝統行事・芸能」になってしまったことによる神様側の問題、などあったりするのだろうか?
他方で映像から伝わってくる、舞いやお面とか、ばふばふする大きな耳(?)の造形の独特さ、それが土間の暗がりや広間の床上でどかすかはためいたりするさまの特異で異様で美しいことは、見て感動するしかない類のものだと思った。
これらの美しい姿形が撮られてから40年以上が過ぎた今… というのはどうしても考えないわけにはいかないのだろうが、ここにあるのはそれら現世とか時世とかを軽く吹っ切ってしまう美や神秘への誘惑、その一番最初の姿としか言いようのないものたちだった。
あと、なつかしー、で言えばあの時代の駅・寝台車とか昔の銀座、などもまた。
ドキュメンタリーとしては、Frederick Wisemanの特定の地域を対象・題材にしたものに近いと思ったが、本作のような語りによる補足説明はこういうテーマでは必要で、しかもそれが過不足なく絶妙な按分で計算された語り(の量)になっていて、すばらしいのだった。
ちゃんと見ていこう、と決意したので全部は無理だろうけどがんばりたい。
6.16.2026
[film] Le camion (1977)
6月13日、土曜日の午後、日仏学院の『マルグリット・デュラス 没後30年 全作上映』で見ました。
(これの7月の上映分、自分のスケジュール見えないから後で取ろうって少し置いておいてたらぜんぶ売り切れていて泣)
英語題は”The Track”、UKでのタイトルは”The Lorry”。製作費は30万フラン(当時の三千数百万円)。Durasの監督としては9作目、彼女が俳優として画面に出てくる最初の作品。
同年のカンヌでパルムドールにノミネートされて、でも上映後にはブーを浴びたりの賛否があり、その後New York Film Festivalでも上映された。
撮影は”Camille Claudel”(1988)のBruno Nuytten。音楽はベートーヴェンの「ディアベリ変奏曲」が流れていく。
郊外だか田舎の方かと思われる道路で遠くにトラックがゆらゆら走っていく映像が映しだされて、運転手はヒッチハイクで年を取った女性を車に乗せる – という場面の映像はないものの、それが導きだすストーリー、のようなものを自宅の居間で向かいあって座るMarguerite Duras(彼女)とGérard Depardieu(彼)が読みあげていく(手元の本を朗読しているかんじはないが)。女性をMarguerite Durasが演じ、男性をGérard Depardieuが演じ、それぞれの台詞を読む、という分担があるようでもなく、そのための台本、にもなっていなさそうな草稿をDurasは読んでいって、たまにDepardieuが合いの手のようなコメントをぼそぼそ入れていく。 ふたりが座る場所は、殆どが暗めの居間のようなところだが、終わりのほうで少し明るい窓際に移ったりして、トラックが移動していくように、ふたりの登場人物、ふたりの語り手もそのトーンを変えていくし、終わりのほうでは運転席からのヴューも加わったりするが、ひとつの車に乗り合わせた男女が顔も風体も目的も明らかにならないままただ走っていく、という大枠に変わりはない。
ふつうの乗用車ではなく、いろんなもの(なにを?)を運ぶ大きなトラックであること、ふたりにおそらく年齢差があること、女性はなぜそんな場所でトラックを止めたのか、どんな時間帯でどこに向かおうとしているのか、運転手と女性の間に階級や貧富の差もあるかもしれない (けど最後まで映し出されない) - このストーリーに纏わりつくであろうそういった疑問や違和感一式をぜんぶ積みこむようにして、作者であり語り手であるDurasは単なる実況というより、労働とそれへの要請も含めて – どんな関連があるのか? - 運ばれて移動していく者、それら全体像を描きだそうとする彼ら - などなどを平熱状態で語っていく。なによりもDurasの声のすうっと通っていく声の深さ、すばらしさにびっくりしたり。
郊外を走っていくトラックから、そこに乗りこんだ女性、というシチュエーションからここまでのストーリー、というか大枠を描きだすこと、それを自宅の居間でゆっくりと対話するかのように語る、という形式のシンプルで、でもとんでもなく深いこと。ギター1本の弾き語りで世界の輪郭を示してしまうシンガーのような底の知れない何かを感じた。
そして、その旅の最後のほうで唐突に吐かれる「世界なんて滅びてしまえばいい」の一言がトラックと地面を大きく揺さぶる。 あのトラックは目的地までたどり着けたのかどうか。
トラックとそれに乗りこむ女、というと、Chantal Akermanの“Je Tu Il Elle” (1974) - 『私、あなた、彼、彼女』 - のふたつめのエピソードを思い出したり。
6.15.2026
[film] Sirāt (2025)
6月9日、火曜日の晩、丸の内ピカデリー Dolby CinemaのDolby Atmosで見ました。
英国での公開時(2月末)、BFI IMAXで数回上映があって、それを逃したのでいいやー、って思ってしまったまま見ていなかったやつ。邦題は『シラート』。 カンヌで審査員賞を共同受賞している。監督はスペインのOliver Laxe。
日本では当たるんだろうなー、と思ったら、やっぱりすごい評判で、みんな絶賛なんだって。ふうん。
「シラート」とは、楽園と地獄の間をつなぐ細く狭く危険な道を意味するアラビア語、と冒頭の字幕にでる。
最初に砂漠にでっかいスピーカー一式が組み上げられていって、続けてそこでレイヴして踊ったり恍惚としたりしている人々 - 今作の登場人物たちもその中に – が映し出される。 たぶんこの絵、数シーンで、この映画に没入できるかそうでないか、が分かれるのかもしれない。 野外のフェスやライブで、轟音を浴びて痺れたことは何度かあるが、レイヴの、あのどぅんどぅん(びかびか)て脳に直に響いて延々続いていく、そこに煙とアルコールが流れこんでくる世界に地獄の責め苦&偏頭痛の山脈しか感じない者にとって、異世界の人たちのお話かー、になってしまう。
そこに明らかに場違いなナリの中年男Luis (Sergi López)と小学生くらいの息子のEsteban (Bruno Núñez Arjona)と子犬のPipaが現れて、5カ月前から消息を絶っていて、ここのレイヴに来ている可能性のある10代の娘の写真を手に消息の聞き込みをしていくのだが、とうぜん誰もしらない、という- レイヴなんてそんな世のしがらみから離れて恍惚とする目的で来るものなので、尋ね人をすること自体おかしい気がするが、それくらい必死なのだろう。
やがて軍が現れて場所を接収して踊る人々をどかし始めて、Luisたちは別のレイヴ会場に向かうというヒッピーふうの男女たち - 手が欠けていたり足がなかったり – に一緒に連れていってくれ、と頼む。彼らはその車だと危険だからやめたほうがいい、って強く拒むのだが、Luisは必死に頼みこんで、結局彼らの車2台の後についていくことになる。
自らの意思で姿を消した可能性もある娘を追って、小さい息子(&子犬)を伴って軍が出てくるような政治状況下で、多重に危険な砂漠を抜けていく旅を強行する。この時点でLuisは状況判断ができず頭がおかしくなっていると思うのだが、そういう描き方はしないで、子供思いの父親がレイヴの彼方に消えてしまったかもしれない娘を追う、そういうストーリーになって、でも周囲が指摘した通りそんな簡単にいくわけがなくて、道路や岩場が厄介なのは勿論、ほぼ人はいないし最後の方では地雷まで出てきて大変な目にあって、みんな死んだ目をして天を見あげてしまうの。それだけなの。
ここに描かれたぎりぎりの生のありようをレイヴの血流の刹那と絡めて宗教的な境地のようなところにまで結び付けて語る(→だからレイヴ万歳!)のは勝手だけど、ただの意味なしB級バカ映画 - 地雷でびっくりどーん!とかで十分な気がした。どうせ死ぬまで踊っていたいのだろうしー、くらい。(音がよいシアターだと本当にびっくりするかも。でもそれだけだよ)
そして、すでにいろんな人が指摘しているように、荒廃した台地で人がばたばた死んでいく極限状態とノイズのありよう(毒なのか薬なのか)を考察した映画としては『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』 (2005)があったの。自分にとってはあれが決定版で、あれでもう済んでいるんだけど、って。
しかしこれがカンヌの審査員賞なのかー なにをどう審査したんだろうねー
[film] Michael (2026)
6月6日、土曜日の晩、二子玉川の109シネマズで見ました。
「先行上映」とのことだったが、本国公開より1ヶ月半遅れて(ロシアよりも遅れてて)、なにが「先行」だよばーか、しかない。スピルバーグの新作の件もそうだが、もうほんと世界のど田舎のくせに、アニメのムラでイキっててほんと恥ずかしい。
Michael Jacksonのバイオピックで、監督はAntoine Fuqua (だから見た)。”Bohemian Rhapsody” (2018)のFreddieよりも更に名の知れた世界的なスターだし、その裏でいろいろ変な人として囁かされた人でもあったので、その辺をぜんぶ広げてみせるか、逆にぜんぶ包んでごまかしちゃうかどっちか、と思ったら後者のほうだったかも。 輝けるスター、偉人としての彼を前面にだしてまだまだ稼いでもらうから、というプロモーション継続宣言のように見えた。 そしてそれは勿論、これまで聴いてきてくれたファンに向けてのものでもあるので、だから映画は世界中でヒットしました、よかったね! と。
Michael (Juliano Valdi → Jaafar Jackson)は幼い頃から父Joseph (Colman Domingo)の下で兄弟揃って歌とダンス、振り付けの特訓を昼も夜も強いられていて、母Katherine (Nia Long)は優しいけど横にいて見ていることしかできなくて、でもライブを重ねてようやく当時昇り竜だったモータウンと契約することができて、彼らは大スターになり、それを父がマネージャーとして仕切っていたので家は栄えて誰もがハッピー、であるかのように見えた。
が、長年に渡る父親の圧とコントロールに耐えられなくなったMichaelは独立を画策してQuincy Jones (Kendrick Sampson)のプロデュースによる最初のソロ製作&Epicとの契約を裏で進めていって、父は案外あっさり承諾して – 但し時間外の副業でやれ – でも、やっぱりなんだかんだうざいので弁護士John Branca (Miles Teller)を雇って、父親を解雇するという最終手段にでて、でも父親もしぶとくJacksonsとしての大規模ツアーを計画して … 後半の方はそれぞれのピースが話としてでかすぎるし、それゆえに知っていることも多い(洋楽の情報がそんなにない時代に、結構大きめに喧伝されたから)のでふつうに見ているだけで終わってしまう。 彼が亡くなるところまでは描かれず、”Bad”のツアーでこれからぶちあげるぜー! っていうとこでぷつりと… 続編があるの?
いろんな謎、疑惑をぜんぶ晒してそれに応えろ、とまで言うつもりはないけど、映画のなかでも描かれている鼻の整形とか家のなかを動物園にしちゃった件とか、なによりも音楽映画であるの(違うのか?)なら、どうしてバンドではなくソロで行こうと思ったのか、そういうことをした理由とか事情とか葛藤くらいは、描いてもよかったのでは、と思う。全体として、悲しかったり辛そうだったりの時以外で、彼がなにを愛したり考えたりしながら、音楽活動の軸やイメージを作ったり据えたりしていったのかがあまり見えなくて(チャップリンはひとつ)、その見えないかんじが彼を不世出のスーパースターにしたのだ、なのかも知れないが、もう少し明らかにしたっていいんじゃないの? って。 “Thriller” (1982)のPVよろしく、とびきりどす黒いバビロンを暴き出すこともできたであろうに、いろいろ二重三重にガードされているんだろうな、というのは感じた。
父親を中心とした家族のドラマ、としてもColman Domingoの正面からの顔アップでぜんぶが決まって、従うのだ! っていうボス猿方式だけのようで、それがMichaelのその後の行動にうまくリンクしていかない、というあたりが圧倒的に弱い。兄弟間での駆け引きのようなものだってあっただろうに。
いろいろあったね、の家族アルバムとか、ひとつのでっかいPV、として楽しめばよいだけ、なのかも知れないけど、それだけ? アメリカのポピュラー音楽史に残る人なのに?
6.12.2026
[film] Undercurrent (1946)
6月6日、土曜日の午後、シネマヴェーラのRobert Mitchum特集で見ました。
ひとつ前に書いた“Secret Ceremony” (1968)のすぐ後で、すばらしく充実した2本立て(じゃないけど)となった。
原作はThelma Strabelが雑誌Woman's Home Companionに掲載した小説"You Were There" (1944-45)、脚色はEdward Chodorov、ここにノンクレジットでMarguerite RobertsとGeorge Oppenheimerが協力している。監督はVincente Minnelli、撮影はKarl Freund (!?)。 Vincente Minnelliの” The Clock” (1945)に続くドラマ・フィルム - この前はずっとミュージカル - の2作目。邦題は『底流』。
科学者である父に倣って、自身も科学者・研究者としてのキャリアを考えていたAnn Hamilton(Katharine Hepburn)は父を訪ねてきた科学者/実業家のAlan Garroway (Robert Taylor)と恋におちて、割と簡単に結婚してしまう。 ふたりは幸せで、その後ワシントンDCに越して、Annは慣れない社交界にどうにか適応しなきゃ、って苦労していたある日、手にとった田園詩集にものすごく癒されて、これ大好き! というとAlanは急に不機嫌になって、それは弟のMichael (Robert Mitchum)の本だ、という。彼とは疎遠になってもう会っていない、という。
その後、西海岸のAlanの実家に行くと、Michaelのでっかい荒馬とか、彼の影とか痕があちこちにあったり感じられたりするのがいちいち気になって、でもその都度、Alanは癇癪を起して止まらなくなり、それがあまりに強く激しいので兄弟の仲違いの原因はなんなのか、なぜ名前を出しただけであんなに不機嫌になるのかを知りたくなる。 そしてそれを確認するためにもMichael本人に直接会ってみたい.. 会うことさえできれば… がぐるぐる回りだして止まらなくなるのが”Undercurrent”。
この辺の盛りあげかたが流石で、とても他人とは思えないくらい自分と好みが合っているMichaelに惹かれていてもたってもいられない、それと並行してそうではないAlanとの関係はどうでもよいただの夫に格下げされていって、なのに彼は嫌われ妄想を過度に勝手に膨らませてぶつかったり詮索してきたりするので余計に溝が広がって距離を置きたくなる、という悪循環。
ひとつの方向として、気配ばかりで正体が見えない相手を探す/待つファンタジーの側面があり – 一度庭師を装ったMichaelとさらりと会う場面があったり、ずっと流れてきて耳から離れないブラームスのピアノとか - もうひとつにはそれを妨害したり妬んだりモンスターとしての正体を現していく夫をどうしたらよいものか、がちょっと怖いサスペンスのように描かれる。で、見ている側ははらはらしながら、AnnとMichaelの出会いとAnnとAlanの破局を待つことになるの。 夫婦の関係が壊れていくひとつの典型的なパターンが極めて精緻に、”Undercurrent”の渦を意識させつつ、抉り出すように描かれていて、たまんない。
やがてAlanの元カノで、Michaelのこともよく知るSylvia (Jayne Meadows)との会話で確信を深めたAnnだったが、その頃にはAlanも覚悟を固めてAnnのところにやってくるのだった。最後のほうはKatharine Hepburnの聡明さ vs. ノワールの狂った男の性むき出しで、どうなるかは見えているのだが、それらも含めて最後のきたきたきた感が溢れて、そこに割って入るのが眠い目をしたRobert Mitchumである、という見事さ。彼、最後の方までなかなか姿を現さないというのがとても効果的で。しかしどう見てもRobert Taylorと兄弟には見えないのだけど。
あの後、AnnとMichaelは一緒になったのだろうか? そんな簡単にいくわけない、実はMichaelは多重人格者だった... というあたりをつい期待してしまう。
あと、最初の方にでてくるわんこのRommyがものすごくかわいいの。
シネマヴェーラのRobert Mitchum特集はここまでになってしまった。 会社のバカ。だいっきらい。
RIP David Hockney..
何度も通った2017年のTate Britainでのレトロスペクティヴが思い出される。
こないだまでの英国生活の思い出の最後に買ったのが”David Hockney by David Hockney” (1976)のサイン本だった。
ありがとうございました。
6.11.2026
[film] Secret Ceremony (1968)
6月6日、土曜日の午後、”Boys Go to Jupiter”を見たあと、シネマヴェーラのRobert Mitchum特集で見ました。これだけ特別料金 - カラー作品だから?新たに字幕をつけたから?
Joseph Losey監督による英国映画、原作はアルゼンチンのMarco Deneviによる”Ceremonia secreta” (1960)をハンガリーのGeorge Taboriが脚色している。撮影はGerald Fisher。 邦題は『秘密の儀式』。
自宅で娼婦をしているLeonora (Elizabeth Taylor)はロンドンのバスで見知らぬ若い娘Cenci (Mia Farrow)に突然「ママ」って泣きながら呼びかけられ、戸惑いながら教会にいって墓参りしてもずっと娘はついてきて、不気味だし追い払いたいのだが、実は彼女の数年前に亡くなった娘にそっくりだったので混乱して泣き崩れて、その状態でCenciに引き摺られるように彼女がひとりで暮らす豪邸に連れていかれて、朝食をごちそうになると、そこにあった写真で自分も彼女の亡くなった母にそっくりであることを知り、こんなことでよいのかと思いつつここには洋服とか宝石とかいっぱいあるし居心地も悪くないのでしばらくいてもよいかも、になる。
そのうちCenciの叔母だというHannah (Peggy Ashcroft)とHilda(Pamela Brown)がやってきて、身を隠して彼女たちの会話の様子を見ていたLeonoraはこの家族の過去の事情とか、Cenciが22歳であることとか、出入りする怪しげな継父Albert (Robert Mitchum)のことなどを聞いて、お屋敷に関わる全員が裏と過去の傷を抱えた腹黒く病んだ人々であることを知り、でもなりすましでそこにいるLeonoraもまたそれに近いひと、なのだった。
そういう綻び、というよりぼろぼろの中で押しかけるように家にやってきたAlbertとCenciがべったり濃厚な時間を過ごした後、LeonoraとCenciは海辺の高級リゾートに出掛けて、そこに現れたAlbertや突然お腹が大きくなったCenciのことを巡って修羅場となって、これでもう偽母娘の関係は終わりか、になって…
ふたりの母親、ふたりの娘、ふたりの父親の影があちこちに見え隠れするお屋敷で、対の反対側に残された者たちが互いに埋めようがない穴や傷を認めて、それでもどうにか不器用に埋めたりごまかしたりしようとしたら罪とか罰が噴出して晒されてみんなだめになっていくことの救いのなさ。
Joseph Loseyの同じ年の前作が昨年BFIで見た”Boom!” (1968) で、これは外界から孤絶した島で暮らすお金持ちのElizabeth TaylorがRichard Burtonの訪問を受けてゆっくり腐って壊れていく、非現実的にも見える人と人(or 島)のサイコドラマだった。 なんでそうなってしまう/しまったのか?というよりもなにがトリガーになって、どんなふうに人の内側は崩れて壊れていくのか、その不気味な断面をこれでもか、と見せてくれる。コミュニケーション、喪失と狂気の危うい線がこちらにも浸食してきて、どうにも止めようがなくてぐったりするのだが目が離せない。(見て楽しいものではないので評判がよくないことはわかる)
しかしElizabeth Taylor、よくこんなJoseph Loseyのに2本も続けて出るねえ(褒めてる)。
この作品ではElizabeth TaylorとRobert Mitchumの踏んづけても壊れそうにない老獪さの反対側にあるガラスのMia Farrowがすばらしかった。彼女がRobert Mitchumの髭を剃るシーンとかだんだん動かなくなっていくシーンの息をのむかんじとか。
あと、このドラマがもたらす緊張感って、映画よりも演劇とかオペラの方に向いているのではないか。きんきんやかましい現代音楽の轟音のなかに置いたらとっても雰囲気でたかも。
[film] Boys Go to Jupiter (2024)
6月6日、土曜日の昼、渋谷のホワイトクイントで見ました。
ぜんぜん知らないアメリカ産のアニメーションだったが短くて軽そうだったし、どんなものかしら? くらいで。
原作、製作、監督、音楽はJulian Glander、この若者がひとり、当然低予算で作ったらしい。孤独に孤独であることの諸相、などをテーマにすっとぼけたアニメーションを描く、つくる、という点ではDon Hertzfeldtを思わせたし、声優陣には”Eighth Grade” (2018)のElsie Fisherとか、Janeane Garofaloとか、Tavi Gevinsonとか、”Sorry, Baby” (2025)のEva Victorとか、世界の片隅へなちょこ系オールスターズだし、Special ThanksにはMiranda Julyの名前があったし、これらを豪華、と言ってよいのかどうか、だろうが自分にとっては超豪華としか言いようがない。
UKでは、2025年のGlasgow Film Festival で上映されただけ – たぶん英国人にはわかんないのだろうなー のかんじ。
安っぽい、ポップと毒毒の中間地帯を無邪気に、なんも考えていないふうに埋めつくすアメリカの駄菓子の輪郭と色合いのなかに海も家も砂浜も無神経にぶよぶよと建っていて、そこにやはりすべてにおいて無頓着で頭にも身にも虫が湧いているとしか思えないふやけた若者たちが浮かぶように佇んでいて、ものすごくてきとーにラップをして遊んだりしていて、その近くには肥大した芋虫みたいなエイリアンみたいな奴らが変な音を出しながら伸びたり縮んだりしている。 この絵だけで映画館を出たくなる人がいても責めはしない。
そんなてきとーにふやけた若者たちの間にBilly 5000 (Jack Corbett)はいて、他の仲間にはFreckles (Grace Kuhlenschmidt)とか Beatbox (Elsie Fisher)とかPeanut (J.R. Phillips)がいて、Billy 5000はUber EatsライクなGrubsterっていう宅配ピザ(だけじゃない)配達サービスのバイトをしながら誰にも搾取されることなくそのアプリのバグを使って一人暮らしするための$5000を貯めようとしていて、たいへんだけどがんばる、っていいながらどこかの底辺を彷徨っているようで、でも彼の暮らす世界には底辺も頂点も存在していないかのよう。
ある日宅配に行った工場で、かつての同級生Rosario "Rozebud" Dolphin (Miya Folick)と会って、そこの工場長の娘である彼女が持っていた標本とかを持ち帰ったら、それが単なるエイリアンではないとんでもないやつで…
お金を稼ぐこと、家族である(になる)こと、旅をすること食べること泊まること、これら生活の根幹がそこらでごろごろしているエイリアンたちとの間でお茶の間的なスケールのコミュニティで進行して転がって、決して「アドベンチャー」にも「ジャーニー」にもなっていかないし、そうなることにも興味ないし、というすっからかんの実存のありよう。でもここからJupiterに飛んでいったとしてもなんの不思議もないし、たぶんいけるし。
軽めのドラッグをやってトリップしている若者たちの戯言、メッセージもくそもない、と片付けることは簡単かもしれないが、そうも言い切れないような腰の据わったLo-fiの居直り感と虚脱感がなんだか痛快で心地よい。ただぶっきらぼうに、でもそこにいるの。 なんとなく漂う宮沢賢治のかんじ、など。
シアターで貰ったBoidのペーパーで樋口さんはDinosaur Jr. ぽい、と言っていたが、あんなに洗練されてもいなくて、Sebadohあたりではないか。
6.09.2026
[log] Nara / Kyoto / Osaka - June 05 2026
6月5日、金曜日に会社を休んで奈良~京都~大阪の日帰りに行ってきたので簡単な備忘を。
前回、5月5日に京都日帰りをやって、それが思っていた以上に簡単に済んでしまった(ロンドンからパリ日帰りと比べたら – 比べるな)ので、少し範囲を広げてみよう、程度で。
神仏の山 吉野・大峯 - 蔵王権現に捧げた祈りと美 @ 奈良国立博物館
新幹線で京都に着いて、そのまま近鉄のホームまで真っすぐ行ってそこにいたのに乗って奈良へ。
日曜美術館で仏様たちの群れをえっちらおっちら山の上から降ろしているのなどを見て、どうしようかなー、だったのだが7日に終わってしまうし、終了間際の土日は混むだろうしー って5日にしたのはそういうわけ。
9:30開場で9時前に着いたら既にすごい列で唸ってしまった。
蹲った小さい仏さまなどの塊りがいっぱいごしゃごしゃ置かれているところがとてもよくて、「秘仏」の看板のかかった蔵王権現立像もその流れで。青いでっかいやつはVR表示のみだった。あれは降りてきていなかったのかー。
特別展 北野天神 @ 京都国立博物館
この企画展は5月にも来たのだが、北野天神縁起絵巻(承久本)が忘れられなくて、第八巻の展示替えなどもあったようなので、もう一回。あの絵巻の漫画みたいな展開と描かれている雷神とか魔物とか噴いて渦を巻く炎とかが素敵すぎて(道真どうでもよし)、これの全部並んだのを続けてみたいので、こういう展示ではめったに買わない図録を買ってしまった – 絵巻、もうちょっと拡大して載せてくれてもよかったのに。 今回、京都はここだけ。
MOCOコレクション オムニバス - 初公開・久々の公開 - PART2 @ 大阪市立東洋陶磁美術館
京都から電車で大阪に移動する。この近辺は地名・駅名を見てもさっぱりでGoogle Map頼りの1時間強。
今回のこれは過去寄贈を受けたりしたいろんなとこのを纏めてお蔵出し~、のようなのだが陶磁器の世界は西も東も新も旧もぜんぜんわからないので、何を見てもわあーきれいーすごいー、しかない。濱田庄司のだけ、こないだ日本民藝館で見たな、程度。
没後50年 髙島野十郎展 @ 大阪中之島美術館
もうじき渋谷にも来るらしいが、何度でも。2016年に目黒で『没後40年 髙島野十郎展 ―光と闇、魂の軌跡』を見てから、もう10年になるのかー。
蝋燭の光、陽の光、月の光、カラスウリ、さくらんぼなど、その光の明滅、その表面、真ん中の焦点をじっと、穴のあくほど見つめた前回の展示から10年…
でもこういう絵画に「魂の」とか付けるのってなんか違うと思うのよね。ゴッホとかでもその傾向あるけど。
中西夏之 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置 @ 国立国際美術館
大阪まで来たのはこれがあったからだった。タイトルが既に中西夏之的に装置化されている。
初期の油彩から、クールにやばいハイレッドセンター期から、70年代から晩年まで、我々が「穏やかにみつめるために」「いつまでも佇む、装置」としての絵画、が、街角に置かれたサイネージディスプレイのようにそこにあって、でもそれらをじっと見ていると、あの卵たちのようになかでなにかが蠢くやつが頭のなかにシンクロするように湧いて拡がる。そのために置かれた装置。
それにしても後期作品の抽象のありようのおもしろいこと。みつめて穏やかになるのではなく、「穏やかに」が先に来てしまう不穏さから入り「みつめるためにいつまでも」が主で、どうしてその装置は「佇む」のか。装置は設置されたり作動したりするものではないのか、など。 絵画と言葉を巡ってだらだらといくらでも。
その上でやっていたコレクション - “Collection 3”も見たが、近現代アートのあまりに大阪っぽい盛り盛りでああ「国立国際」だなあ、って。
特別展:小泉八雲 - 怪談とフォークロリストのまなざし @ 大阪歴史博物館
まだ少し時間があったので、地下鉄でここまで。しかし大阪、エスカレーターとかエレベーター少なくない?
いきなりBook of Kellsの複製本があって、八雲のインターナショナルな足跡を辿り、文学作品だけでない幅広い活動全般を。TVドラマで話題なのは知っていたが、自分が読んだのは数十年以上昔で、あの頃よかミステリアスで変なガイジン・モードが炸裂していたような。夫としてはどうだったんだろうねえ。
ここまでで、湿気も酷くて結構消耗したので新幹線の時間を少し早めにして帰った。
6.08.2026
[film] Dance First (2023)
6月2日、火曜日の晩、アイルランド映画祭2026をやっている恵比寿ガーデンシネマで見ました。
『劇作家サミュエル・ベケット ⽣誕120年記念上映』ということで、Neil Forsythが脚本、James Marshが監督したベケットの評伝映画で、イギリス・ベルギー・ハンガリー合作映画。 邦題は『まずは踊れ』。
併映でBeckett自身が唯一映画の脚本に携わった24分の短編 – “Film” (1965)も上映される。監督はAlan Schneider、撮影はBoris Kaufman。
モノクロで、登場人物(Buster Keaton)とカメラの視点を交互に微妙に対比、交錯させながら、見ること、見つめることのギャップとか違和を亀裂のように老人の震えのように描きだしていく。それらを定着させてしまうフィルムというものについて。
でも終わって残るのはBuster Keatonの掌とか指とかふっくらした老人のそれだったり。
同時上映で短編をやるなら、本編の方でも上演中の舞台(の一部)が映しだされる一幕もの”Play” (1963)を映画化した”Comédie” (1966)をやればよかったのに。キャストはMichael Lonsdale, Eléonore Hirt, Delphine Seyrigだよ。
Dance First (2023)
1969年のノーベル文学賞の授賞式で、Samuel Beckett (Gabriel Byrne)は名前が呼ばれて席を立つと「くそったれ」みたいなことを呟き、そのまま会場を後にして、そこの屋上かどこかにはもうひとりの自分(告解師?)がいて、懺悔告解をするかのように過去を吐き出しながら、ノーベル賞の賞金を誰に寄付すべきか、もうひとりの自分と対話していく。
幼い頃の彼は何事にも理屈っぽくてやり込めようとする母よりも優しい父のことが好きだったのだが、父は早くに亡くなり、若くに家を出て大戦前のパリに渡ったBeckett (Fionn O'Shea)は憧れのJames Joyce (Aidan Gillen)と出会って彼の家に出入りするようになるのだが、彼の娘のLucia (Gráinne Good)の世話をするのが嫌になって、Joyceとはそれきり。
その先は戦時下のレジスタンス活動中、いきなりナイフでフィジカルに刺されて死にそうになった事件を機に近づいていったSuzanne (Léonie Lojkine 後でSandrine Bonnaire)とのこと、活動中にナチスに拉致されて、その後ベケットが長く罪の意識で苦しむことになる親友Alfred (Robert Aramayo)のこと、後年に翻訳者として親しくなってSuzanneとの間に亀裂をもたらすBarbara Bray (Maxine Peake)とのこと、など。
波乱万丈、と言うほどではないものの、節目節目に常に女性がいて、ノーベル賞の賞金を誰に? とか議論できる程度にはじゅうぶん活動してるじゃん、だったが、やはり相当女性に対してはいろいろ思うところがあったのではないか、と思わせるような描き方をしている。例えばSuzanneの目線で描いてみたらどんなふうになっただろうか? そのうえでも”Dance First”とか言えるのか、とか。
この映画ではただの脇役でしかないBarbara BrayはHarold Pinterと活動したり、翻訳者としてMarguerite Duras、Jean Genet、Julia Kristeva、Philippe Sollersなどを英語圏に紹介したひと。みんなそれなりの足跡を遺した人たちなので、別のいろんな角度からも見てみたかった、とか思った。Shakespeare and CompanyのSylvia Beachも少しだけ出てくる。
ほぼフランスが舞台だったりするので、彼の前衛に対するフランス文化圏の適合ぶりはわかるのだが、他方で彼の(and Joyceも)アイルランド性(のようなもの)がどんなふうに醸成され表れてきたりひん曲がっていったりしたのか、その辺があったらよかったのに – となると、やはり彼の舞台作品を見て掘っていくしかないのか、って。
でも俳優がうまいからだろうか、湿っぽいところがぜんぜんなく枯れてからっから、なのはどこかベケットぽくてよかった。
[film] The Big Steal (1949)
5月31日、日曜日の午後、シネマヴェーラのRobert Mitchum特集で見ました。
原作はThe Saturday Evening Postに掲載されたRichard Wormserの短編小説 - “The Road to Carmichael's" (1942)、監督はDon Siegel。71分のクリスピーなトルティーヤに乗った真面目だか不真面目だかよくわからないメキシカン・ウェスタン。
ごった返すメキシコの港で米陸軍中尉のDuke Halliday (Robert Mitchum)が彼を船まで追ってきた軍の上官Vincent Blake (William Bendix)を船室で殴り倒して陸に戻ったら携えていた30万ドルの札束をJim Fiske (Patric Knowles)に奪われて、たまたま同様にJimにしてやられて頭にきているJoan Graham (Jane Greer)と一緒に車で追っかけていくことになり、更にそんな2人をふざけんな、ってぶちきれ系で沸騰したVincentが追っかけていく。
そこにメキシコ警察のGeneral Ortega (Ramon Novarro)が絡んで、これもどこまで冗談なんだかわからない玉突き追っかけずっこけ珍道中が始まり、逃げて転んで追っかけて、がぐるぐる巡って、最後は首領の本拠地(邸宅)での銃撃戦で絶体絶命、どう考えてもしぬだろ、なのに敵が考古学マニアだったおかげでどうにかなって、冗談みたいにてきとーなハッピーエンディングに落ちてしまうところがすごい。あまりに変な展開なので、よかったねえ! とかあまり言えないけど。
これの前年にRobert Mitchumはマリファナ所持で有罪判決をくらって収監されてて、これに出ることで世間から注目されて客が入るだろうからってキャスティングされた、とか、Jane Greer はRKO PicturesのオーナーだったHoward Hughesの恋人だったが別れたので彼女のキャリアを潰そうとしていた、とか、裏のストーリーも表と同様にぐしゃぐしゃだった、というあたりもおもしろいのだが、そんなの微塵も気にしていない堂々とした演出が素敵。
Crossfire (1947)
6月1日、月曜日の晩、上と同じ特集で見ました。
監督はハリウッドの赤狩りでHollywood Tenのリストに載ったEdward Dmytryk。原作は後に映画監督となるRichard Brooks が兵役期間中に書いた小説”The Brick Foxhole” (1945)。 邦題は『十字砲火』。 映画はヒットしてRKOからリリースされたB級映画なのにオスカーの作品賞、監督賞を含む5部門にノミネートされた。
冒頭、暗いホテルの一室で殴り合いの乱闘がシルエットで描かれて、翌朝に部屋で遺体となって発見されたSamuelsの殺人事件を捜査していく犯罪もの。捜査にあたる警察のFinlay警部 (Robert Young)は夜に被害者がいたホテルのバーにたむろしていた復員兵たちが怪しいと見て捜査を始める。
Finlayに近寄ってきたMontgomery軍曹 (Robert Ryan)は友人のFloyd (Steve Brodie)とバーでSamuelsを見かけたので彼の部屋に行ったら彼がMitch (George Cooper)と一緒にいるところを目撃し、しばらくしたら泥酔したMitchが出てきてどこかに消えたので、彼があやしいのはないか、という。
Mitchの友人で彼が人を殺すような奴ではないことを知っているPeter Keeley軍曹 (Robert Mitchum)が乗りだして動揺したりよく憶えていなかったりするMitchを映画館に匿って、捜査の点と線を繋いでいく。ところどころ回想が絡まったり、そこに夢だか現実だかわからないような娼婦のGinny (Gloria Grahame)とそのヒモ(Paul Kelly)が現れたり、でも最後の方は怒涛の、まごうかたなきヘイトクライムになだれ込んでしまうので、いきなりビンタされたようにしゃっきりする。いや、あそこまではっきり言われるとそれはそれで気持ちわるい(そして、Robert Ryanこわすぎ)のだが。
原作では被害者はホモセクシュアルという設定で、でも当時のヘイズ・コードは同性愛への言及不可だったので、背景が人種差別~反ユダヤ主義に変更されたという。なぜそんな代替が可能になってしまうのか、というのはあるけど。そんなふうに隠したところでぜったいいつかばれるんだし、とか。
6.04.2026
[film] Not as a Stranger (1955)
5月30日、土曜日の晩、シネマヴェーラのRobert Mitchum特集で見ました。
この日はお昼にここの特集で”The Lusty Men” (1952) - 既に書いた - を見て、そのあと茅ヶ崎の美術館で牧野邦夫の展覧会を見て、また戻ってきてこれを。
邦題は『見知らぬ人でなく』。 Wikiの日本語版のあらすじが 『医学の道を志す青年が学費を得るために金持ちの女に近づく。』 の一行なのがおもしろー。
原作はMorton Thompsonの同名小説(1954) - ベストセラーになった - をEdna & Edward Anhalt夫妻が脚色、それまでプロデューサーを仕事にしていたStanley Kramerが初監督している。
Lucas Marsh (Robert Mitchum)は勤勉で真面目な医学生 – 教室で横並びしている同期生にFrank SinatraとLee Marvinがいて冗談かと思う – で、結構アグレッシブな質問をして教授から目をつけられたりしている。その反対側で学費に困って、このままでは退学… というところで経験も貯蓄も豊富でLucasに親しくしてくれていた年上の看護婦Kristina "Kris" (Olivia de Havilland)と結婚してどうにか医学を続けられるようになるのだが、Krisの献身的な彼への愛と比べたら彼からKrisの方はそんなでも。
こうしてどうにか医師になる手前まで行くのだが、高名な教授に治療方針のことで食ってかかったり、金儲けのことばかり話している同期 – 特にAlfred (Frank Sinatra)にぶち切れたり、そんなのばかりなので卒業するときに指導教授から「医師も人間であることを忘れるな」って言われたりする。
インターンを終えて医師となったLucasはKrisと一緒にGreenvilleっていう田舎の町に移り住んでDr. Dave Runkleman (Charles Bickford) の病院で働くことになる。病棟に入院している人たちは貧しかったり、院長が無能でしょうもなかったりするのだが、Runkleman医師が力強くてよい人なので、一緒にがんばろう! になるのだが、Krisはそんな前のめりのLucasに自分が妊娠したことを言い出せない。
そのうちLucasは馬丁の怪我で往診に行った先で知り合った裕福な未亡人Harriet (Gloria Grahame)と恋におちて、それで家に帰らないのも多忙のせいにしてKrisとの間が遠くなっていくなか、深夜の長時間に渡る緊急の手術のサポートをKrisに頼んで、結果どうにかうまくいくのだが、自分に求められているのはやはり仕事面のサポートなのか、ってKrisはがっかりしたり、そんななか、Runklemanが倒れて…
医を志す学生から、結婚から、田舎に赴任した医師まで、強い大志と意思を抱えた若者が孤軍奮闘していく成長物語で、その思いに駆られてがむしゃらに前に進もうとするので周囲とはあれこれぶつかって大変なのだが、女性に関しては金づるか一夜の遊び程度にしか見ておらずー、という典型的な50-60年代にのし上がる男性の美談伝説で、最後に自分の力不足を認識したところで初めてKrisの献身的な愛に気づく、というところも含めて、よかったね、にしたいのだろうけどぜんぜんよかったとは思えない。タイトルの『見知らぬ人でなく』なんて医師を志すなら当たり前ではないのか、とか突っ込みどころもいっぱいなのだが、当時はこれでみんな納得してがんばれー、とか言っていたのだろうかー、って。
Lee Marvinはなんもしなくて、Frank Sinatraはちょっと威勢よく見えたのは最初の方だけで、あとはなんか割といい奴じゃん、みたいな小役で、贅沢な使い方だった。これもフィルム・ノワールに位置づけできたりするもの?(Wikiでは)
途中から登場して特に多くの波風も立たせずにすーっと消えるだけのGloria Grahameがクールに映えてて、彼女もどちらかというと「眠い目をした」女なので、Robert Mitchumと一緒だと余計に夢のなかのかんじが漂って、きつめの現実とのコントラストがよかったかも。
6.03.2026
[film] Elis & Tom: Só Tinha de Ser com Você (2022)
5月31日、日曜日の午前、新文芸座で見ました。帰国してから最初の、久々の池袋。異文化…
見たい、見なきゃだった映画をようやく。原題の後半部分を英語にすると”It Had To Be With You”、邦題は『エリス&トム ボサノヴァ名盤誕生秘話』。
こないだのEgberto Gismonti & Daniel Murrayのライブを逃したり、ライブ方面では気が付いたらもうその日でびっくり~既に手遅れ、というのが最近多すぎて、これはロンドンで演劇などを2~3日前とか当日に決めて行く、というのを繰り返してきたせいだと思う - 違う、怠惰で情報に鈍く疎くなっただけよ。
1974年にリリースされたElis ReginaとAntônio Carlos Jobimによる“Elis & Tom”は、ブラジル音楽、という枠を超えて誰もが認めるとんでもない名盤だと思うが、その現場の制作過程をとらえた16mmフィルムの映像を中心としたドキュメンタリー。監督はElisの当時のマネージャーだったRoberto de OliveiraとJom Tob Azulay。共同脚本にはNelson Mottaの名前がある。
最初の方の"Águas de Março" - アルバムのオープニングの『三月の水』をふたりが向かいあって掛け合いしながらレコーディングしている光景で鳥肌が立ちすぎて寒くなる。曲のなかで発せられるふたりの声の近さ、遠さ、互いに突きあう発声がリズムを刻んでそれが歌となる不思議な対流のなかで音楽が形作られていく驚異が映像として残されていて、エンディングのあの高い音がElisの声だったことを知って驚愕。鳥だったのか。
前半で、このレコーディングに来るまでのElis Reginaの軌跡、Tom Jobimの軌跡がそれぞれ紹介される。Elisは歌手としてブラジル国内では無敵となり、ヨーロッパ各国でもそれなりに人気は出たものの、キャリア10年を経てその次が見えなくて、そこで当時の軍事政権のイベントで歌ってしまったので叩かれて萎んでて、Tomは60年代にボサノヴァの旗手としてアメリカで広く知られるようになったものの、音楽の探求と洗練が人気には結びつかずにちょっと腐っていて、互いに「それはとても有意義な取り組みだと思うな」って棒読みをするだけ、もちろんキャリアの傷になることはないだろうしお金にもなるだろうし、くらい。 この時Elisは28歳でTomは47歳 - 同じくらいかと思っていたのに20歳近くの差があったとは。
今だから言うけど、という形で語られる現場でのふたりの確執 – Tomは当然自分でコンポーザー、アレンジャーを含めて全体の統括までやるつもりだったのにElisは自分の夫でピアニストでアレンジャーでもあるCésar Camargo Marianoを連れてきたので、音楽面でも簡単に衝突して、初日からマネージャーのOliveiraに「もう帰る」になるあたりはまあそうだろうなー、程度で、でも18日間かけて音楽的な落としどころをみんなで見出していった、というHélio DelmiroやPaulo Bragaといったミュージシャンたちが(彼らの証言も含めて)すばらしい、というかブラジル音楽の底の深さと恐ろしさはここにあるのだよ(どこから来るのか知らんが)、って改めてEgberto Gismontiを逃したのを悔やむ。
Tomのアコースティックに空間の拡がりを求めていくアプローチとElisの声の震えと響きでエレクトリックに世界を埋めていくアプローチをどう束ねてひとつの楽曲として構成していくのか、ジャズのエレクトリック化としてむきむき筋肉をつけていったジャズ・フュージョンの塊りとはまったく異なる可能性がここにはあったし、そういうところも含めて問答無用の名盤だったのだ、と。
この映画の中のElis Reginaは本当に楽しそうに歌っているのだが、彼女以外に映っているのはすべて男性ばかりで、こういう中でどんな思いだったのだろう、とか、タイトルも”Tom & Elis”にしたがった、というし。… というあたりで引き裂かれてあがったりさがったりしながら見ていた。
6.02.2026
[film] The Ninth Configuration (1980)
5月29日、金曜日の晩、神保町のシネマリスで見ました。
まだ行ったことがなかったここ、”Cine-malice”(悪悪シネマ)だと思っていたら、シネマのリス(齧歯目)だった。
作・脚本・監督はこれがデビューとなるWilliam Peter Blatty。彼は”The Exorcist” (1973)の原作者で、本作を”The Exorcist III” (1990)へと至る三部作の二作目として構想していた、と。
邦題は『トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン』で、この違いはなんで? と思ったら原作の小説の1966年に出版された版が“Twinkle, Twinkle, "Killer" Kane!”というタイトルで、それを作者がリライトして1978年に再出版した際に”The Ninth Configuration”というタイトルになったと。映画の方も最初は” Twinkle, Twinkle, "Killer" Kane”としてリリースされ、その後複数のバージョンがあり、原作者、制作会社それぞれにいろんな思惑や捻転があった模様(Wikiによる)。
制作者側にはそんな多様なごたごたがあって日本公開も2016年の映画祭までなかったのに、ゴールデングローブの脚本賞を受賞していたりする。
70年代初、アメリカ北西部の山奥に、ベトナム戦争等で精神を病んでしまった者たちを収容するお城のような施設 - 森もお城もアメリカのじゃないよね? と思ったらあの外観はドイツのお城らしい。更に殆どのロケはブダペストで行われたそう – があって、月面着陸飛行の発射直前に突然発狂してしまった元宇宙飛行士のBilly Cutshaw (Scott Wilson)などもそこで割と平和に過ごしている。
そこに元海兵隊の大佐で、精神科医だというHudson Kane (Stacy Keach)がやってきて、Cutshawを含む収容患者たちと「治療」のように見えるやりとりをしていく中で、露わになっていくCutshawの狂気を形作るものとかKane自身のベトナム戦争従軍時のトラウマからの彼自身が抱えこんだ狂気 - 多重人格などが明らかになり、要は治療する側もされる側も、みんなどこかおかしいのだが、管理する側はそれらも分かって押さえていて、そういう中で施設の秩序のようなものは保たれている。
そこを抜けだしたCutshawが地元のバーに行って大勢のバイカー連中に恥ずかしい元宇宙飛行士であることがバレて散々いたぶられたところに通報を受けたKaneが来て、でも彼も同様に寄ってたかってぼこぼこにされて、そのなかでKaneの別人格 - Vincent "Killer" Kaneが起動して...
基本はCutshawの傷ついて彷徨える魂の救済、そのために自らを犠牲にする(既に傷だらけの)Kane、という構図は”The Exorcist”にも連なるものなのでわからなくもないのだが、その辺の狂気と正気の相克をタイトルの”The Ninth Configuration” – 生命の起源とされるタンパク質とか構成物質の奇跡的な第9の配列組合せに連ねて語ってしまうことの危うさ、更にこの星座だかストーリーだかを形作って語るのがほぼ白人男性のみ - 映画で女性が出てくるのはバーのウェイトレスくらい - というあたりがなんだかとってもあーあー、なのよね。
Kaneの絶望~怒りからの復活(→逆襲)というストーリーは、例えばMCUのヒーロー誕生の常道(胡散臭いサイエンスもどきで説明しようとするとこも含め)であるようにも見えて、この辺の根というか(白人男性が)勝つこと、生き残ることを巡る業の深さってまるで神話のようですごいな、ってしみじみした(あんますごいと思っていない)。
あと、ベトナム戦争の後始末、という角度からは『地獄の黙示録』 (1979)にも近いのかも。
罪の意識に囚われて狂ってしまった(元は優秀だった)白人男性が最後に解き放たれるお話、として。(森の奥の収容施設はカーツの神殿みたいなもの、とか)
6.01.2026
[film] Man with the Gun (1955)
5月27日、水曜日の晩、シネマヴェーラで新しく始まった特集 - 『眠い目をした男 ロバート・ミッチャム特集』で見ました。
東京の名画座の、邦画中心の重厚でよく考えられたプログラムってすごいなー、と思いつつ、ここがひっつかんで束にしてどかどか落としてくれる昔の海外の監督や俳優の特集はとてもありがたいしうれしいし。
監督はRichard Wilson、原作はN. B. Stone, Jr.によるSaturday Evening Postに掲載された短編(1955)- “The Deadly Peacemaker” - オルタナ・タイトルはこれだったり、UKでは”The Trouble Shooter”だったり。邦題は『街中の拳銃に狙われる男』。
冒頭、少年の犬がばうばう吠えていただけで馬に乗ったやくざがそれを銃で簡単に殺してそのまま立ち去ったり、もうじき結婚するJeff(John Lupton)が新居予定地に立ち入っていた男たちに文句をいったら撃たれたり – そんなふうに荒れて無法地帯になった町にどこかから仲裁屋のClint Tollinger (Robert Mitchum)が現れて、保安官が及び腰でなにもしないし、町民のなかでもどうする?の空気になっているなか、とりあえずClintは彼を雇う議会承認を得てそのまま副保安官になると、昼間の銃器携帯禁止とか深夜の出歩き禁止とか、ひとりで強引なルールを決めて、従わない奴とかのさばっていた奴を簡単に撃ち殺したり強引に街の浄化を進めていく。けど、Clintが「街中の拳銃に狙われる」ようになるまでには結構いろいろある。
最終的に狙うのは姿を見せない謎の巨漢黒幕Dade (Joe Barry)なのだが、そこに行く前に別れたきりになっていてこの街でキャバレーの女将をしている元妻Nelly(Jan Sterling)のこと、別れたきり会っていない娘のBethのことが気がかりだったり、Jeffの許嫁のStella (Karen Sharpe)は力強いClintに気があるようだったり。
あの眠そうな目で周囲の空気なんか知ったことか、って眺めつつ強引すぎてなんだこのやろう? なのだが銃の腕も含めて確かなので誰も文句を言えなくて、それでも家族のことだけが弱点で、ひとり自滅しそうになったところで立て直そうとしていた別の家族に助けられる。
寂れていたコミュニティを救う物語、という点ではKen Loachの50年代アメリカ西部劇版… のわけないか。
The Lusty Men (1952)
5月30日、土曜日の昼、同じくシネマヴェーラのRobert Mitchum特集で見ました。
監督はNicholas Ray、原作はClaude StanushがLife誌に書いた記事”King of the Cowpokes” (1946)、これを『彼らは廃馬を撃つ』のHorace McCoyを始めその他大勢で脚色している。 邦題は『ラスティ・メン/死のロデオ』 - 日本では劇場未公開だったの?
長年ロデオ選手でやってきたJeff McCloud (Robert Mitchum)は危険なこぶ牛のロデオで怪我をして、もう引退しようと生まれ育った田舎の家に戻ってきたが、いたのは見知らぬ欲深い老人と、その土地を買おうと近くの農場で働く若い夫婦 - Wes (Arthur Kennedy)とLouise (Susan Hayward)だった。
それまで小銭稼ぎでロデオ大会に出たりしていたWesはその世界で有名なJeffと出会って舞いあがり、彼に付いてきて貰った大会でそこそこの小銭を稼ぐことができてしまったので、地道な農夫としての道よりもロデオライダーとして稼いでいくことに決めて、Jeffを連れてトレイラーハウスで各地を転々とする生活に入る。生活は少し派手になったものの荒れて、事故で亡くなったり老後は悲惨だったりするロデオライダー達を見ると貧しい家庭から地道にやってきたLouiseはJeffに当たったりもするのだが、それなりのお金が入ってくるようになると何も言わなくなる。
JeffとLouiseが近づいていく反対側で、自信がついたWesがJeffを追い出す、もういらないって言いだすとJeffはもやもやとやけになって自ら大会にエントリーして…
ロデオという半端で危険なスポーツ&ショービズの世界に生きる男たち女たちのいろんな生き様をパノラマで描きつつ、その生と死がロデオ的に振り回されて地面に吸い込まれたり横滑りしたりして彼方に消えていくさまが、ドラマとは程遠いドライな目線で描かれて、その切り口がすばらしい。なんでこんなふうにしてまで生きなければならないのか、という吐き捨てるところと、でもどのみちずっとこんなだからー、ってどかすかパレードしていくところと。延々引き延ばされ張り巡らされていく“Endgame”のような。
ロデオでもカタギでもだめだった - すべてを達観した老人のようにも見えるRobert Mitchumがこぶ牛に踏み潰されて、ひとりで死んでいくだけの映画、にも見えて、それだけで十分って思ったり。
でもなんだかんだ言って、ロデオって動物虐待だからシンプルに因果応報、でよいのか。
[film] Victoria (2016)
5月26日、火曜日の夕方、日仏学院エスパス・イマージュ で、第七回映画批評月間のプレ・イベント&サブ企画 - 『急に具合が悪くなる』公開記念 ヴィルジニー・エフィラ特集』で見ました。
Virginie Efiraご本人がやって来てトークをする、ということで、ぱんぱんに入っていた。
監督は”Anatomie d'une chute” (2023) - 『落下の解剖学』 のJustine Triet、彼女の長編2作め。同年のカンヌ国際映画祭批評家週間に出品され、わんわんのJacquesがPalm DogのJury Prizeを受賞し、セザール賞で5部門にノミネートされている。
英語題は”In Bed with Victoria”。このタイトルで思い出すのはドキュメンタリーの”In Bed with Madonna” (1991) - 別名は”Madonna: Truth or Dare”。
法廷では辣腕の女性弁護士Victoria (Virginie Efira)は、私生活と恋はさっぱりのさんざんで、幼い2人の娘を抱えながらこのままでいいのか、これからどうするつもりだ問題を抱えてどん詰まっていって、親友のVincent (Melvil Poupaud)の結婚式に出ても、オンライン・マッチングで出会った男と寝たりしても、焦りばかりが湧いてきて、かつて弁護をしたヤクの売人Sam (Vincent Lacoste)が、法律を学びたいのでインターンで雇ってほしい、としつこく言ってくるので住み込みの子守りとして置いてあげて、いいのか? で、とにかく落ち着かないまま、結果ふつうに怪しい女性になってしまっている。
こういう設定はSATCでもBridget Jonesでも、この頃に公開された”Trainwreck” (2015)でも、世間的にはそんなおかしいところがあるとは思えないのに本人がひとり焦りまくって自分で墓穴や墓石を用意してそこに落ちたり籠ったりであーめん、てやっているもてない女性を中心に据えてその彷徨いを延々とらえてシリーズ化もできるrom-comの典型で、エピソードとしては親友のVincent (Melvil Poupaud)が妻を刺した容疑の裁判で弁護を頼まれるとか、人気ブロガーとなった元夫が自分のプライベートで淫らな過去 - 裁判官と浮気していた等 - を晒しにくるのに対抗したりとか、そういう混乱のなか、Vincentの事件の証人と接触して、6カ月間の弁護士資格停止処分を受けたり、なーにやってるんだろ自分、なことばかりが積みあがってきてとにかくぜんぶイヤになっている。
このしんどさが周囲とのずれとか軋轢のなかでばたばた折り重なってやってくる、というより、日々の自分のしんどい実存、その重さ、なんで自分はいつまでたってもこんなふう? こんなふうにいつまで? というどうしたものか、を抜けて流血するように湧いてきて止まらないなにか、として現れてくるのがよくて、全体の流れはコメディの体裁を取っているようで、受ける印象はとても深くて重い実存ドラマのように見えてくる。なので、終盤のSamとの互いを探りあうようなラブシーンがすとん、と腑に落ちるように沁みてくる。これがすべてを解決するわけではないけどね… という距離の取り方。
この辺の淵とか引っかぶりで微細に揺れ動いて、でも留まることのないエモーションの出し方は、彼女が主演した『パリの記憶』 (2022)でも見ることができるもので、上映後のトークは、ほらーやっぱりー としか言いようのない彼女の輪郭のつよさを確認できるのだった。もうじきの『急に具合が悪くなる』でも、このタイトルだけでぜったい間違いないやつ、と確信があるので、楽しみ。見ている側もぜったい引き摺られて急に具合が悪くなったりするようなやつに違いない、と思ったり。
[theatre] エンドゲーム
5月24日、日曜日の午後、新国立劇場の小劇場で見ました。
原作はSamuel Beckettの同名戯曲 “Endgame” (1955–1957, 初演はロンドンのRoyal Court Theatre,1957)。 Beckettの『ゴドーを待ちながら』(1948–1949)の次の作品。
翻訳は岡室美奈子、演出は芸術監督の小川絵梨子、キャストの4名は1,016名の応募者の中からオーディションで選ばれたそう。1時間30分、休憩なし。
この劇 – “Endgame”は、2020年2月にロンドンのOld Vicで、ショートピース“Rough For Theatre II” (circa 1960)との二本立てで見た。演出はRichard Jones、HammをAlan Cummingが、ClovをDaniel Radcliffeが演じて、これが自分にとって最初のベケット劇だったかも。コロナ禍でいろんなものが端から打ち切られていく最中で、この劇も見てしばらくしたら打ち切られたり、見てからしばらくの間も終末感ばりばりの雰囲気が繋がっていたことを思い出す。
ドーム状になった天井の縁は崩れて落ちていて、右左の上部にはくすんだ窓が2つ、向かって左側にはゴミ缶がふたつ、灰色の暗い部屋の真ん中には布で覆われた塊りが置かれている。開演に向かって室内の光の量が落ちていき、外界のノイズがシャーッと大きく広がったところで明転して、足をひょこひょこ引き摺るクロヴ(中山求一郎)が脚立で窓のところに行って外を眺めて、その仕事の流れで中央の覆いを剥がすと、そこにはサングラスをしたハム(近江谷太朗)がこちらを向いて座っている。
ふたりは主従関係にあるようで、目が見えず、椅子から動けないらしいハムがクロヴにあれをしろ、あれを持ってこい、ひっこんでろ等、傲慢で高圧的な指示をだして、クロヴはぶつぶつ言いながらもそれに従って奥の部屋から出たり入ったりを繰り返している。主従の関係は絶対的なものらしく、どんなに理不尽な要求が来ても、クロヴはそれに従うし、ハムがそれを労ったり感謝したりすることはない。ハムがクロヴにここを出ていかないのか? って聞くと、出ていくよ、って言いながらなんだかんだ留まっている。それが主従の関係というもの。情緒などは一切関係なく、そういうなかで、ひとはただ生きてて、オーダーや要求の垂れ流しとその受容~対応の反復のなかにある。
もうひとつ、缶のなかに住んでいて、クッキーモンスターみたいに顔を出すハムの父ナッグ(田中英樹)とそのパートナーのネル(佐藤直子)がいて、クッキーモンスターよろしくポリッジとかシュガー・プラムを要求するのだが、貰えるのはスプラッツ(犬用ビスケット)くらいなので不満たらたらで、こちらにも別の方に延びた(やはりどうにも終われない、断つことのできない)関係の線がある。
ハムは動けないし、クロヴは出ていこうとしない、そんなふたりが幸せかというと、とてもそうは見えなくて、互いに互いのことを、ふたりの関係のありようを、それが置かれた世界まるごとを忌み嫌って憎みあい、罵りあっている。こんな状態でふたりの関係が切れたところで事態がよくなるとはちっとも思えない。なので、詰んでいる - チェスの用語で打ち手がない状態をさす”Endgame”。 結果、勝ち負けがない、なのでそれによるエンディングもない。この状態がずるずる続いていくことについても、誰も異議を唱えない。
他方で演劇は時間が来たらなんらかの決着をつけて幕を閉じて終わらなければならないもので、その終わりをどういう形で示すべきか、という劇構造そのものにも踏み込まないわけにはいかない。 くそジョブの終わり、使役関係の終わり、親子関係の終わり、ヒトとしての終わり(死。旅立ち)など、あらゆる終わりのバリエーションを示しつつ、それらが決して終わらないことの絶望を散々晒して撒き散らして、でも終わるんだから、って劇を閉じて、劇は終わってしまう。これが「不条理」劇である由縁で、見終わった後もふつうにあたりまえに生活をして世界は続いているので、みんな大したもんだわくそったれ、って思ったり。
こんなふうに見るのが正しいのかどうか、考える隙もないくらいに今の世に嵌っててびっくりよ。 周囲の状況も(目が見えずに)見えないまま自分中心でハラスメントし放題のおやじと、出て行ってやらあ、と言いつつ円安とか諸事情を考えたら踏み出せず、おやじのブラックな庇護下にぐたぐだ留まってしまう召使とか、食べたいと請うものを与えることができず親すら飢えさせてしまうとか、血縁の外の女性はいなくなっても無視とか、これらはぜんぶ今の「詰んでる」社会で起こっている生々しいことばかりの羅列で、もうほんとに世界はこれで終わりなのかも、って思う今日この頃なので、あーあーしかなくて、どうせならもっとリアルに、目が覚めるくらいどん底に突き落としてくれてもよかったのに、と。
5.28.2026
[theatre] Love and Information
5月23日、土曜日の夕方、KAAT 神奈川芸術劇場の大スタジオで見ました。
開演は17:00で、前売りが取れなくて、でも当日券が出る、とあったので早めに行ったらチケットは16:15に抽選です、って…
どういう「公平性」?を狙ったものなのか知らんけど、こういうのは見たい人がその思いの強さに応じて見たければ早くから並んでチケットを買って見る、そういうもんだと思っていた。 神奈川まで出かけて行って抽選外れたらさよなら、なんて二度と行きたくなくなる。マチネ中心の時間割とかパンフレット2500円とか、日本の演劇興行界ってものすごく「ムラ」な感じがして引いている。「関係者」はそれでよいと思って頷きあって変わることができない典型的な「ムラ」社会。
抽選開始時には沢山(50人くらい?)の人が並んでいたので、こんなの絶対外れる、と思って中華街で遊んで帰る計画を立て始めたのだが、当たってしまったので、抽選制度に対する怒りを鎮めながら会場に入る。
原作はCaryl Churchillの同名戯曲(2012)、プレミアは2012年9月にRoyal Court Theatreで、演出はJames Macdonald。その後にNY他にも行っている。
今回のKAAT版、翻訳は髙田曜子、演出は桐山知也、キャストは2チームあって、Mainチームには8人、Nextチームには10人。自分が見た回は、Mainチームの方の。 休憩なしの80分で、公演後にアフタートーク付き。
全体は7つのセクションに分かれていて、そのセクションの中には短いのから長めのまで、数分間のコントのようなエピソード小噺が入っていてそれが全部で60くらい、7つのセクションの進行順は決まっているが、その枠内のエピソードの順番は演出家が決められるようになっている。登場人物の配役も自由で、原作では100人以上の登場人物がいるが、どのキャラクターをどう束ねて(同一化して)どの俳優に重ねたり委ねたりするのかは任されていて、演出の自由度が高い。英国のプレミア時の俳優は16人だったそう。
舞台設定はシンプルで、まんなかを横切って奥からのライティングできらきらする玉すだれのようなのが複数層下がっていて、その奥は暗くて椅子が8つ横に並ぶ。セクションとエピソードのタイトルが英語(日本語)で上部に字幕で出ると、それの演者が玉すだれの奥からフロントに出てきて横一列に立って並び、各自がタブレットを読みあげていくリーディング公演形式。エピソードによっては奥の暗がりで座っている演者が加わるものもある。
セクションはそこで扱われる”Information”の中味によって登場人物がどういう行動をするのか、で大まかに分けられているようで、その下の各エピソードのタイトルは「神」とか「ピアノ」とか「セックス」とか一言でわかりやすいものが多い。「謝ることを知らない子供」とかいうのもあった。
演者各自が読みあげる内容は他の演者と会話になっているものもあれば、そうでないものもあって、ただ、そうして発する台詞の重ねあいが彼らの事情や状況を説明したり次の行動を促したり、始めから与えられているエピソードのタイトルと合わさって、こういうことを言わんとしているのか(も?)、というのがわかる - ものもあれば、状況や人物の特性がもう少し明らかにならないと(or あえてボカしていて)よくわからないものもあって - 演じている人々にもよくわからず、こういう状態の人ではないか、と当てはめたら見えた! というのもアフタートークで語られた - その辺の見えないかんじをおもしろいと思うか、わかんなくていらいらするか、がのめり込める/こめないの分かれ目になるのかも。
“Information”が状況やコンテキストによって、なんらかの意味を担ったり、意味を被せられたりしていく様子と経緯、それが時と場合によっては”Love”というなんだか柔らかいふわふわしたものに変わる、あるいは刃のように研ぎ澄まされていくさまが解体ショーのように生々しくドキュメントされていくところがおもしろかった。
ありがちな”Love and Communication”ではなく、”Love and Information”としていることのおもしろさ。”Communication”なんてはなから期待していないような。
他方で、その辺の「建て付け」のようなところがわからないと、単なるショートコントの羅列、とかリハーサルの延伸、のように見えてしまうのかも、って。
あと、情報量の多さというのも、おそらくひとつのテーマとしてあって、次から次へといろんなのが来て溢れかえって大変、というその経験もまたこの劇を構成する要素なのではないか。リーディング形式、というのが明確な意味をもってくる劇、であるような。
5.27.2026
[film] Ihmiset suviyössä (1948)
5月21日、木曜日の晩、『EUフィルムデーズ2026─クラシック・セレクション』を国立映画アーカイブで見ました。
クラシックの方もイメージ・フォーラムでやっているモダンの方も、見たことないのが多くて世界のでっかさを痛感する。
邦題は『夏の夜の人々』 - 英語題は”People in the Summer Night”。
フィンランド映画で、監督はValentin Vaala、原作はフィンランドで最初にノーベル文学賞を受賞(1939)したFrans Eemil Sillanpääの同名小説(1934)。 2017年にユーロスペースの特集上映『アキ・カウリスマキが愛するフィンランドの映画』でも上映されている。
北欧の夏を描いた映画というとベルイマンの”Smiles of a Summer Night” (1955) - 『夏の夜は三たび微笑む』がまず思い浮かんで、短い、けど輝ける夏の夜に悶々と玉突きをしていく人々の恋模様のイメージがあったので、夜に向かっていくその空気、雰囲気というかトーンの違い、によい意味で驚いて引き込まれる。
原っぱがあって小川があって、家畜の豚さんがそこらいたり、という陽の光に溢れているところは同じだが、人々は割と素のかんじで、もうじき赤ん坊が生まれそうな夫婦がいたり、都会からBFを連れてきてちょっとどきどきしている娘がいたり、飲み屋の暗がりでは男たちが気怠そうにたむろしていたり、イメージしていた/するであろう田舎の姿、夏の晩とはちょっと違うかんじなので、これ?こんなふう? っていう段差にはじめはやや戸惑う。
陽の長さ明るさも人間界とはまるで関係ないかのように動かず、でもやっぱり過ぎていく時間のなか、赤ん坊は生まれるべくして生まれようとして、飲み屋の粗暴な男が口論の末に傍にいた男を刺して、死んじゃったんじゃないか?生きているのか? という問いの脇で、あっさりひとつの命が消えて、ひょっこりひとつの命が生まれて、その間に挟まれた医者は死亡の瞬間にも誕生の瞬間にも間に合わず、でもまあ生まれた方にはとりあえずめでたいかも、とかいう。
こんなふうに更けていく夜の間に生と死、愛と憎が日が切り替わるのと同じようにめくられて、冒頭の田園の場面に戻って - という世界の暗くも明るくもない不思議なありようが描かれる。誰の上にも降ってくる夏の夜。
思ったのは(フィンランドだから)トーベ・ヤンソンのムーミンの世界で、あれも40年代に彗星のように、果てのような場所に姿を現した、決してユートピアではない、いろいろ雑多な人たちがじたばたして暮らす谷のお話だったかも。
Gražuolė (1969)
5月20日、水曜日の晩、↑と同じ特集で国立映画アーカイブで見ました。
監督はリトアニアのArūnas Žebriūnas。 英語題は”The Beauty”、邦題は『ビューティフル・ガール』。
9歳の女の子Inga (Inga Mickytė)がこちら(カメラ)の方を向いて音楽に合わせて楽しそうに踊っている、というか踊っている自分の姿を世界のみんなに見せていて、あたしはこんなにかわいいんだから〜かわいいでしょ?という目つきと振る舞いで一生懸命、Ingaは自分でそう思っているし周りの母親も男の子友達もそう思っているのだと信じて疑わない。
その思い込みがどこか外からやってきた見知らぬおかっぱ頭の変な男の子(か?)の、「べつに、そんなかわいくもないよ」の一言でがらがらと崩されて、彼女の世界が大きく揺れだして、彷徨いが始まるの。
そんなどうってことない話…が決してそうはならない大問題になってしまうところが子供の世界で、その揺らぎと問題の大きさにIngaの目線で正面から取り組もうとしたのはえらいな、と思いつつ、縁もゆかりもない世界なので、がんばってね、くらいしか言うことがない(のか?)。 とにかく残酷で野蛮な世の中なので、誰だってそんなの直視したくないし、大人が知った顔して寄り添うなんてのもずうずうしい、って思うと簡単にお手あげだし、みんな大変なのよ、って。
こんなふうにいたたまれなくなった時、頭の奥で鳴りだすのがBowieの”What in the World”なの。