5.26.2026

[film] Star Wars: Mandalorian and Grogu (2026)

5月22日、金曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。IMAXの2Dで。

今回のに関しては特にぜんぜん期待していなくて、Disney+のTVのシリーズは英国に行った時点で止まってしまい(”Andor”も同じく)、それでも困らなかったので、そうかスクリーンに来たか、くらいで。
でも”SW”がついているので見るの。これはしょうがないの。

監督はJon Favreau - クッキングパパなので、こんなもんかも。

Star Warsサーガは壮大で、帝国と反乱軍の延々続いていくいろんなレベルでの戦いをいろんな星やそこに住む多様な人(の形をしたのとそれ以外)たちを跨ぎながら描いていくので、文化として確立されたものも文化以前のごたごたもぜんぶ - つまり神話から民話から言い伝えまで、どんなのでもあり得る。そういうなか、すべての層を貫く共通項としての「支配」とその周辺に撚られる富と権力、それを実現する主な手段としての暴力があり、それを捉まえる軸として「正義」というのがあって、それをミクロな末端のところまで落としてきたジャンルが西部劇と股旅物 - 今回であれば賞金稼ぎと道連れの話 - で、それをとても正統的に集約するかたちで実現したのが子連れ狼なので、本作が成立する由縁、拠って立つところは揺るがないの。ただ、話のスケールとしてでっかいところまで行かないし、行かないことがよい点だったりもするので、今回のように大作として騒がれてしまうのはどうだろうか、と思ったり。ゴジラものにおけるミニラ枠みたいなもんなのに、とか。

今回のMandalorianは新共和国からお金をもらって帝国軍の軍閥を追っていて、司令官のWard (Sigourney Weaver) からCommander Coinを捕まえてくるように請われる。彼の居場所はでっかいなめくじ(対)みたいなHut Twinsが握っていて、Twinsのところに行ったら情報提供には後継者となる甥のRotta the Huttを救出して連れてこい、と。Mandalorianは渋ったが、与えられた宇宙船がなんかかっこよかったので、なんとなく請けることにして…

どこかの星で犯罪王に囚われて闇ファイトで有名になっていたRottaのところに行くと、彼はあとひとつ勝てば自由になれるしあそこには帰りたくないし、とごねて... ここから先は反乱軍と軍閥なんてどうでもよくなり、後を継ぎたくない王子のお家騒動に巻き込まれてHutのお城で戦うことになって散々のMandalorianなのだった。

たんに好き嫌いなので流してくれてよいのだが、EP6のJava the Huttの頃から思っていたのは、こいつってレイアに首絞められただけであっさり死んじゃったし、動きはごろごろなめくじの鈍重で、得意技はプレスするだけで隙だらけにみえるし、邪悪そうで喋りも怖そうなだけで、何がそんなに強くてすごくて、あんな権勢を手にしたの? だった。

あと、ちゃんばらではなく基本はガン・ファイトなので、鎧装備も含めて見せ方が難しいよね。「顔を見られたので殺す」なんて言っちゃうし – そりゃそうなんだけど、あんた主人公でしょ… 。 剣があって銃があって、飛び道具として例えばGuardians of the GalaxyのYonduが使うyaka - 口笛で操る矢みたいなのがあったらおもしろいのに。

あと戦いの場面設定、というか全体の絵は闘技場に怪獣が出てくるところなども含め、どこかのSWエピソードで見たようなのばっかりになるのはしょうがないのか... 倒れたDin Djarinを介抱する穴倉みたいのまで既視感たっぷり、繋がっている世界なのでわざとなのかも知れないけど、そこまでやらなくても、とか。

Groguについては、もういい加減に「Yodaの子供」とか言う輩はいなくなってきたようなので、もっと個性を出してくるかと思ったのだが、あんま変わっていなかったような。 戦のど真ん中でとんでもないめちゃくちゃをやらかして、ごめんやりすぎた... の場面があってほしかったかも。もう子供だから、でなにやっても許される季節は終わりかけているのか微妙だけど..

今回、(たぶん)善玉のRottaの登場によって、今後エピソードごとに珍妙な(だけど勇者の)仲間が増えていったりする予感がなんとなく。里見八犬伝みたいになっていったらおもしろいな。歩兵はもちろんEwokの連中なの。

ほんとはこんなどうでもいいことばかりだらだら書いていきたいのに、この国はしみじみ酷い。改めて(500回めくらい)亡命を考えたい。

5.25.2026

[film] The Onion Field (1979)

5月17日、日曜日の午後、『霧のごとく』に続けてシネマート新宿で見ました。
この2本、どちらも実際にあった歴史に基づいた土地を巡るドラマ、どちらも2時間越え。

監督はHarold Becker、原作・脚本はロサンゼルス市警察の巡査部長だったJoseph Wambaughによる同名のルポルタージュ(1973)。

1963年、LAPDの刑事Karl Hettinger (John Savage)とIan Campbell (Ted Danson)は同僚で、Karlは結婚して小さな娘もいる幸せな家庭を築いていて、独り身のIanはバグパイプを吹いたり落ち着いてて優秀で、母を愛するとてもふつうの若者で、そんな彼らとは対照的にストリートではふつうの西海岸チンピラであるGregory Powell (James Woods)が手下のJimmy Smith (Franklyn Seales)を従えて、すぐ沸騰暴走するやばいキャラであることを示しつつも、あーなんかつまんねえな、とこれもふつうのでかいツラ/チンピラ振る舞いをしている。

そんなある晩、お弾けモードで違法なUターンをしたGregoryとJimmyが乗った車を業務で巡回していたKarlとIanが停車させて調べようとしたら逆に押さえこまれ、車に乗せられ本道から外れたオニオン・フィールドまで走らされて、道端の降ろされたところでIanはあっさり射殺され、Karlも追われながらも月夜の闇に紛れてどうにか逃げることができ、やがて彼の証言によりGregoryとJimmyはあっさり捕まって収監される。

犯人ふたりは特になんの問題もなくストレートに第一級殺人罪で有罪 → 死刑判決を受ける。のだが、獄中で刑法を学んでJimmyと弁護士を丸めこんだGregoryは審理をだらだら引き伸ばしたり都度弁護団を替えたりして控訴を繰り返し、そこにカリフォルニア州での制度としての死刑廃止が絡まって、終身刑のまま生き長らえていく。

他方で、生き残ってしまったKarlは後悔と罪悪感に苛まれて精神状態がおかしくなっていって、家族の面倒どころか窃盗癖や自殺志向で苦しみ、裁判での証言もできなくなって警察を辞め、リハビリをしながら細々と園芸業を始めることになる。

オニオン・フィールドのあの闇夜の出来事が、加害者側をどこまでも延命・増長させ、生き残った被害者側を苦しめてどん底に叩き落す、という非情なドラマとなり、しかしその非情の裏に法的におかしなところはなくて(当時)、なんて非道でかわいそうなことだろうか、になる。ふつうだったら、そういう状態を可能にした司法の穴というか問題はどこにあったのか、を明示すべきなのかもしれないが、それをしないので、犯罪が起こったあの時、あの場所 - オニオン・フィールドのぺったんこの闇がそのまま続いていて救いのないイメージがドラマチックとは程遠いプレーンなトーンであっさり描かれて、取り残されてどうしたら… しかなくなる。

50年代のノワールにあった、人々をかき回して狂わせる、その中心にある渦とか闇のようなもの、情念とか欲動などは(描かれ)なくて、真面目な方と不真面目な方のそれぞれの挙動と弱さ(強さではなく弱さ)、それがもたらす(ひどい)結果と現実を、それぞれの側と境目のありようと共に描いて、見ている我々をその隙間に放り出す。「当事者」が見えない大きなドラマって70年代のそれ? なのかは不明だが、70年代ぽい、でっかくてどこにも行けなくてどうしよう、って立ち尽くしてしまうかんじはあるように思った。

あと、James Woodsってこの頃からあんなにからからの悪役だったのねえ。

[film] 大濛 (2025)

5月17日、日曜日の昼、シネマート新宿で見ました。
台湾映画で、邦題は『霧のごとく』、英語題 は”A Foggy Tale”。

監督・脚本は陳玉勲 (Chen Yu-Hsun)。2025年の金馬奨(ゴールデン・ホース・アワード)で最優秀作品賞を含む4部門を受賞している。

50年代、戒厳令下、国民党政権が行った政治的迫害「白色テロ」があった時代、台湾南部の田舎のとうもろこし畑で反政府運動で追われて隠れている兄と妹の阿月(Caitlin Fang -方郁婷)が会って将来のことなどについて話をしていると畑の向こうに兄を追う複数の追っ手が現れたので散り散りになり、それからしばらくして、兄は政治犯として銃殺された、という報が届く。

殺されたのが本当に兄なのか、本当だったら遺体を引き取って確認したいがそれには高額な手数料が掛かる、貧しい今の家にそんなお金はない、けどやっぱりこの目で確かめないと、と阿月は別れ際に兄から貰った腕時計と持てるだけのお金を手に、列車を乗り継いでひとり台北に向かう。

親切に声を掛けてくれた男についていったら女郎屋に売られそうになり、危なかったところを人力車の車夫・趙公道(Will Or - 柯煒林)に助けられたり、幼い頃養子に出されて別れたきりで、今は地元の歌劇団で人気歌手になっている姉の阿霞(9m88)と再会したり、通りすがりの泥棒とか、いろんな善い人悪い人怖い人、大人たちとの出会いが巡っていくなか、何度も葬儀場に足を運んで兄のことを確かめてようやく、になるまで。

いなくなった(殺された)兄の話の他に、中国から国民軍として戦争に召集され、やはり白色テロによる拷問などで仲間の殆どを失い、中国に戻ることも叶わなくなった趙公道の贖罪と復讐の物語も並行して重ねられる。テロにより失われたもの、テロから取り戻そうとしたもの、等の痛ましい傷とその痕が浮かびあがり、そこに絵本を描く夢をもっていた兄のお話が被る。それは生々流転していく水の物語で、やがて空に昇って白い雲になるのと、地に留まって地面や森を覆う霧になるのがいるのだ、と。

みんなが忘れて輝ける遠くの白雲ばかりを見ようとしている今、細かな霧として目の前に漂って潤してくれているなにか、は確かにあって、そんなふうにいてくれる水粒たちに敏感でいたいし、それらを忘れずにずっと共にありたいのだ、という明確なメッセージに基づいて組み立てられたストーリーで、キャラクター設定も含めてちょっとTVドラマ的な類型感と性急さがどうかなー、になるところはあったが、なんとしてもこのストーリーを映画にしたかったのだ、という強い意思と現在への危機感にも繋がる真剣さが感じられたので、よかった。

でもさー、NHKでもドラマとかなら戦時のひどい話や官警の暴力や弾圧は悲劇としてふつうに描かれて受け容れられているように見えるのに、日々のニュースや時事解説はあんなふうな日の丸ばんざいに、圧されるままに当時通ったやばいルートをなぞって、白い雲ばかりを追ってて平気なの? お金や会社や毎日の暮らしが… なんだろうけど霧のごとく、はどこに? って世界共通なのか。 水が巡るように歴史も巡るのだ、になってよいわけがないのにさー。

5.22.2026

[film] The Lady Eve (1941)

5月16日、土曜日の昼、シネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。

Sturgesといえばこれ、の1本で、1941年のNew York Timesの年間ベストでは『市民ケーン』を抑えて1位になった、というのはダテではないの。 もう何度も何度も見ていて、何度見たってあきない。

原作はアイルランドの劇作家Monckton Hoffeによる19ページの短編"Two Bad Hats"をSturgesが脚色している。邦題は『レディ・イヴ』。

冒頭にヘビとリンゴのアニメーションが流れて、聖書に関わるようなお話だろうか、と思うのだがほぼまったく関係なくて(あー堕落、とか?)、おちょくっているだけ。

アメリカのビール(エール)会社の御曹司のCharles Pike (Henry Fonda)が一年間の密林での探索ツアーを終えてアメリカに戻る豪華客船に乗り込んできて、それを美貌の詐欺師Jean Harrington (Barbara Stanwyck)とその父(Charles Coburn)とお付きの3名が待ち構えて、足を引っかけて転ばせて懸けトランプに巻き込んで簡単に突き落とした、と思ったらそれ以上にJeanはCharlesに惚れてしまって、でもCharlesのお付きのMuggsy(William Demarest)が連中は詐欺師だから、ばらして船の上の恋は簡単に藻屑と消える。

いろいろ諦めきれずにめらめらしているJeanは、コネチカットの詐欺師を介してイギリス貴族の令嬢Lady Eve Sidwichとして蘇って、Charlesの実家のお屋敷を訪れる。Lady Eveは船の上と同様に彼の一族を簡単にめろめろに落として、CharlesとMuggsyは彼女があまりにあのJeanと似ているので、そんなバカなって目をこするのだが、決定打を見いだせずにずっこけてばかりで、でもEveがあまりに素敵なので結局落ちて結婚することになる。

ハネムーンの止まらない夜行列車のなか、過去の男性遍歴を連続でぶちまけてウブなCharlesを粉みじんにしてざまぁ、ってやった後、ふたりの婚姻は当然なかったことに、になるのだが、そんな簡単に終わるような恋ではないのだった…

これ、詐欺師が男性側だったら割と「痛快!」とか持ち上げられであっさり終わる気がするのだが、Barbara Stanwyckの場合、彼女が余りに堂々として見事なので、こちらもまんまと騙されて、後には痺れるような快楽しか残らないの。


The Palm Beach Story (1942)

5月16日、土曜日の夕方に同じ特集で見ました。 監督、脚本ともPreston Sturges。
日本公開(1948)当時の邦題は『結婚五年目』だったそうで... ちょっとひどい。

高速回転させたウィリアム・テルの序曲に乗って、ものすごいスピードの錐もみで大量の変な人たちが窓の向こうに流れていくスクリューボール・コメディ。

冒頭の結婚式のシーンは、何度見てもなんだこれ? ってちょっと混乱する(けど、最後にああー。って)。

そこから5年後、NYのPark Avenueのアパートに自称"Wienie King"を名乗る耳の遠い老人(Esther Howard) が妻に付き添われて内見に現れて、そこで家賃滞納で燻っていたGerry (Claudette Colbert) と出会い、老人は彼女の話を聞くとこれまでの滞納分に加えてドレス代までくれて、その晩発明家の夫のTom (Joel McCrea)と口論になった彼女は離婚手続きを進めるべくフロリダのパームビーチにひとり列車で向かうことにする。

列車に乗ろうとペンステーションに向かうGerryだったが無一文で、でも改札口で知り合ったAle and Quail Clubっていう狩猟クラブの男たちが親切で乗せて貰う。のだが、この連中がめちゃくちゃ狂ってて車内で銃を乱射しはじめたので、たまらず別の車両に逃げて、そこで出会ったのが世界的な大富豪のJohn D. Hackensacker III (Rudy Vallée) - でも相当変な - で、彼もいろいろ恵んでくれて、他方で諦めきれないTomも"Wienie King"の支援を受けて飛行機でパームビーチに向かい…

現在の貧しさと停滞する夫婦関係の縛りから逃れようとする思いと、新しい恋を見つけて落ち着きたい、という思いが道中で挟まって絡んでくる変な連中 – でもみんなお金だけは持っている – との出会いでかき回されて、でも同時に恋もノンストップの前のめりでいると、すべてが冗談みたいに都合よく落着していってしまう。

上の2作、どちらも普通じゃない大金持ちが絡んで、彼らは金儲け以外のことは無知で愚鈍で、恋にも虫のように固まって不器用だがお金は出してくれるので、うまく使っちゃえばよいのだそれが社会のためなのだ、っていうことでよいのかも。

最近の金持ちは異常者ばかりなので近寄るべからず、の方になってしまいがちだが、この頃はまだ夢があったのかも、ね。


この日、上の2本の間に、”If I Were King” (1938) – 邦題 『放浪の王者』も見たのだった。
監督はFrank Lloyd、Preston Sturgesが脚色した時代劇で、101分もあって(この特集の中では)とても長く感じた。

主人公がFrançois Villon (Ronald Colman)で、中世の詩人の、鈴木信太郎や天沢退二郎らが訳したりしてきたあのヴィヨンが、反乱軍のリーダーみたいになって大活躍するの。 ほんとかよー、って。

5.21.2026

[film] They Will Kill You (2026)

5月15日、金曜日の晩、ヒューマントラスト渋谷で見ました。 
21時からこういうのを見ているとB級感がじっとり滲みてくる。

ロンドンからの帰国前にちょっと見たかったけど間に合わなかったやつ。向こうではこれともう一本、“Ready Or Not 2: Here I Come” (2026)がほぼ同時期に公開されていて、ジャンクだろうけど血まみれになった女の子がばさばさ殺しまくるのがちょっと気持ちよさそうで、少し惹かれた。 以下、ネタバレしているかも。

監督、共同脚本はロシアのKirill Sokolov。South Africa / US / Canada映画。

Asia (Zazie Beetz)と妹のMariaが虐待する父親から逃れようと夜のコンビニまで逃げてくるが捕まって、Asiaは父親を撃って逃げることができたが、結局Mariaとは離ればなれになってしまう。

そこから10年が過ぎて、AsiaがNYの富裕層が暮らすクラシックな高級/高層アパート”The Virgil”の門を叩いて、メイド求むの張り紙を見てやってきた彼女は怪しげな修繕管理人のLily (Patricia Arquette)に迎えられるが、Lilyの様子とロビーにいた住人数名を見ただけでなんかここは様子がおかしいぞ、ってなってしばらくすると早速黒のレインコートを着た男女の一団が現れてAsiaを襲ってきて、簡単にやられるAsiaではないのでひとりでやり返して、首をちょん切ったり連中をぼこぼこにしてやって、でも廊下に出たらかなり痛い目に合わせたはずの奴らがふつうに、首を切った奴なんか自分の首を抱えて立っている。

この地点で、姉の妹探し&タランティーノ的なふざけんなの復讐物語と思っていたのが、お屋敷ゾンビ系の怪奇&サバイバル・ストーリーに変更となってしまい、当てが少し外れた格好になる - 相手がゾンビなら、”They Will Kill You”なんて当たり前だし、生き残ったら勝ち、のゴールは明白で、Asiaは間違いなく生き残るだろうから(ちょっとつまんないかも)。

従来のゾンビものとちょっと違うのは、廃れた都市郊外の逸れ者がそうなるのではなく、高級アパートに暮らす富裕層が、悪魔との契約で自ら望んでそうなって、そんな自分たちを維持するために生贄として外から来た若いメイドを必要としている、というあたり – やがてAsiaがここに来たのも、ここで消息を絶ったMaria(Myha'la)を探すためだったことが明らかになる。

あと、ふつうのゾンビなら頭を吹っ飛ばせば動かなくなるのだが、ここのは吹っ飛ばしても切り株からなにやら生えてきて死なないし、目玉をくり抜いても神経を尻尾みたいに引き摺ったそれがぴょんぴょん跳ねていったりする – こんな小細工は割とどうでもよくて、かっこよくて不敵な面構えで血まみれの仁王立ちになったAsiaが敵を端から豪快にやっつけていく姿が見たかったのに、なんかもったいない。

妹と別れてから刑務所に入ったAsiaがそこで鍛えられて無敵になった、その成果を発揮するのがあの程度の腐れゾンビじゃねえ… あと、金持ちが悪魔と手を結んで不死の体を手にする、ということの最低最悪の外道感、その辺の現代的な意味ははっきりとあるのに、その辺を貫禄ゼロのへなちょこ俳優にやらせるもんだから、ただの雑魚ゲームみたいに見えてしまっておもしろくないの。

でも演じている人たち、Heather GrahamとかTom FeltonとかPatricia Arquetteとか、せっかくよい人たちが出ている(なんてエンドクレジットでしった)のに、勿体ないー。

あと、やっぱり最後は”The Virgil”が闇の底にがらがらと崩れ落ちるか、燃えあがるか、大爆発のどれかひとつでもしてほしかったのだが、それもなくて、ひょっとして(やっぱり)パート2狙いなのか? って。

5.20.2026

[film] L’Amour à la mer (1964)

5月11日、月曜日の晩、イメージ・フォーラムで見ました。
4月からここでやっているGuy Gille (1938-1996)特集からの1本で、これは彼の長編デビュー作。邦題は『海辺の恋』。

夏の海辺で恋に落ちたGeneviève (Geneviève Thénier)とDaniel (Daniel Moosmann)がいて、Danielはアルジェリアで兵役に就いていて、パリの休暇で更に夢のような時間を過ごした後、Danielは次の任地のブレストに向かって、あんなに熱かったのに彼からGenevièveへの手紙の数と頻度は減っていって…
後半は自分の将来とGenevièveとのこれからに悩むDanielを中心に、そこに彼の友人Guy (Guy Gille)も絡んだりするのだが、その先は時間と重力で誰にもどうすることもできないさまが、カラーとモノクロのはめ込まれたように美しい映像の、その交錯のなかで展開されていく。

光の強弱、鳴っている音、背景の明滅、表情の強い弱い、ふたりの関係の終わりに向かって、ところどころで立ち上がる淡い期待、何を見ても何かを思い出す... なども含めて、すべてが考え抜かれた末に切り取られ、適切に配置されているように思えて、なんも言いようがない、としか言いようがない。

立ちあがってなんかする気にもならないまま散らかり放題の万年床でぐだぐだの時間を過ごしてひたすら腐っていく、腐っちまえ、で実際に腐臭が漂っているような状態は、ひょっとしたらあるのかも知れないけど、パリの人にはないのかも知れない。それくらいの強さと誇りをもって別れの時間を生きている(見つめている)かんじが漲っていて、こりゃ勝てんわ、って思った。


Au pan coupé (1967)

4月18日、土曜日の午後に見ました。 見る順番が逆になってしまったが、こちらがGuy Gilleの第2作の『オー・パン・クペ』。 タイトルは恋するふたりがかつて会って生きていた場所、そのカフェの名前。

Jean (Patrick Jouané)とJeanne (Macha Méril)が恋におちて、でもどんな若者集団と関わっても今の世の中に馴染むことができないJeanは地べたに転がってさらっと天に昇ってしまい、彼が亡くなった後も彼と共に生きた記憶が、その場所に行くと自動で再生されていく – 生き残ったJeanneのなかで、というより、ここにはふたりの、ふたりだけの世界とその時間がある。 これも何を見ても何かを、のあの瞬間を捕まえようとしている映画で、モノクロが現在の死んだ時間、カラーがふたりの記憶のなかの時間で、過去こそが現在なのだ、というメッセージが強いカラーのコントラストのなかでページをめくるように展開されていく。

どちらも撮影はJean-Marc Ripert、音楽はJean-Pierre Storaで、2本合わせて一気に見た方がよいのかもしれない。 すごくかっこいいJazzトリオのアンサンブルのように自在で、でも揺るがなくて、たまにレコード棚から引っ張り出して聴くやつ。


Quatre nuits d'un rêveur (1971)

5月16日、土曜日の昼、ユーロスペースのブレッソン特集で見ました。
英語題は“Four Nights of a Dreamer”、原作はドストエフスキーの短編『白夜』(1848)で、邦題も『白夜』。 

これも何度も見ていて、同じ原作でヴィスコンティによる”Le notti bianche” (1957) - Maria Schell, Marcello Mastroianni, Jean Maraisによるこてこてなメロドラマの方もすごく好き。 イタリアンと懐石くらい違うけど。

↑の”Au pan coupé”のJean役のPatrick Jouanéがちょっとだけ出演していて、どちらもふわふわ生きている若者たちの叶わなかった恋、という点では似ているのかもしれない。けど、こちらは人が死んだりしないブレッソンの映画。Pierre Lhommeの撮影がすばらしいの。

ヒッチハイクでうろついたり、ぱっとしない画家のJacques (Guillaume des Forêts)がポンヌフの橋から身投げをしようとしていたMarthe (Isabelle Weingarten)を引きとめて、そしたら自分が恋におちて、そのまま悶々と過ごして終わった4連夜のこと。

Jacquesがずっと携帯しているテープレコーダーから反復されていく彼の声の他に、ところどころフォークミュージックが演奏されるシーンや楽隊が映ったりするので、やや開放的な屋外の空気は広がっているものの、ガチで童貞のJacquesはずっとおろおろしているし、積まれていた本を手にしただけで下宿人に恋をしてしまうMartheも相当なもんな気がして、これが四晩だけのことで済んでよかった。 これ以上いったら”L'Argent”になってしまってもおかしくなかったかもしれない。


ここまでの3本、海辺、カフェ、川辺のそれぞれを舞台に男性はほぼぜんぶ自滅するかのように隅に消え、女性はつらい思いをするものの、まだ先がありそうでどうにかなりそうかも、で、全体として決して明るいものではないけどだいじょうぶかも、になるからたぶん。(なにが?)

5.19.2026

[film] The Sheep Detectives (2026)

5月12日、火曜日の晩、TOHOシネマズ日比谷で見ました。 邦題は『ひつじ探偵団』。

原作はドイツのLeonie Swannによる”Glennkill: Ein Schafskrimi” (2005) – “Three Bags Full: A Sheep Detective Story”、脚色はCraig Mazin、監督はIlluminationで”Despicable Me 3” (2017)や”Minions: The Rise of Gru” (2022)などを共同監督してきたKyle Balda。

予告を一見して”Babe” (1995)のスタイルで動物たちが英語で会話しながら人間社会を騒がせつつ横切ったり突撃したりしていくドラマで、明らかにB級だしこのスタイルはもう目新しいところないし、と思っていたのだったが、あーらびっくり人間/動物ドラマとしてものすごくよかった。 “Babe”のときもそうだったが、こいつら羊畜生の、家畜のくせによう… ってやられてしまう。

原っぱに大量のひつじがいて、Hugh Jackmanなので舞台はオーストラリアかと思ったらイギリスのDenbrookという田舎町で、そこでGeorge Hardy (Hugh Jackman)はトレイラーハウスに暮らして(肉用ではなく羊毛用の)羊飼いをしていて、仕事が終わった夕暮れにはゆったり座って羊たちに向かって推理小説を読んで聞かせている。羊たちはただ彼の朗読を聞いているわけではなく、その内容についてちゃんと理解しているし、みんな名前とキャラクターがあって品種もぜんぶ違っていて、Georgeの最愛の羊で推理小説マニアのLily (Julia Louis-Dreyfus)、なんでも記憶しているMopple (Chris O’Dowd)、一匹羊のSebastian (Bryan Cranston)、群れから仲間外れにされている冬生まれの子羊、など個性的で(声をあてている俳優たちが豪華ですばらしい)、みんな死んだら雲になると思っているし、嫌なことがあったらすぐに忘れることができる(羊いいなー)。

ある日Georgeがトレイラーの外で倒れて亡くなっているのが発見されて、地元の警官のTim (Nicholas Braun)は心臓発作による病死で片付けようとするが、取材に来ていたジャーナリストのElliot Matthews (Nicholas Galitzine)がこれは殺人事件と思われるから、と捜査するように促して、一緒に捜査を進めていくなか、アメリカ人のRebecca (Molly Gordon)が線上に浮かびあがり、弁護士のLydia (Emma Thompson)も現れてかき回したり、農場の買収話や真偽が怪しい遺言状に基づく遺産相続の話も絡んで村人も部外者も誰もがなんか怪しいぞ、になっていく。

他方でLilyを中心とした羊探偵チームは、Georgeから日々語り聞かせられていた推理小説の筋立てやプリンシプルを振り返りつつ独自にGeorgeの足跡を追って何が起こったのかを絞り込んでいって… そしてそこに迫ってくる新たな主(食肉工場)の影が。

推理・探偵ドラマとしてのプロットはどうというものではなくて、そこメインを置いたものでもなくて、いつも羊たちのことを思ってくれていたGeorgeのこと、彼と一緒に過ごした時間、その記憶がどれだけ大切なものなのか、に気づいたときに核心が見えてくる(だから思い出を忘れちゃいけないんだよ)、という極めて羊っぽい動き、エモーションのなかで反復されるGeorgeへの思いともふもふ感がたまんなくよくて。 そういえば”Babe”でも羊たちはみんなよいこだったなあ、って。

更に最後に明らかにされる名前のストーリーが追い打ちで、なんて素敵なお話なのでしょう、ってなるの。
唯一あるとしたらここまで心洗われるようなラストと(ややコミカルであるとは言え)殺人事件のギャップ、だろうか。殺人ではなく失踪とかにしてもよかったのでは、とか。

あと最初に浮かんでしまったイメージは当然のように羊の毛を刈るWolverineだったのだが、さすがにそれはなかった。

5.18.2026

[film] National Theatre Live: The Audience

5月10日、日曜日の午後、TOHOシネマズ日比谷で見ました。

最近のは除いて、NTLのリスト、きちんと見れていないのではないか、という疑念があって、これもそういう1本で、見れるのであればありがたく(ぜったい)見る。

2024年、2回目のロンドン生活が始まったとき、演劇はおもしろそうなので月3回は劇場に通うようにしよう、って目標を立てたのが、滞在の最後の方では月10回見ることになっていたのは、ふつうにライブで見る演劇がおもしろかったからで、日本に戻ってきた今、同じことができるか、というとちょっと自信がない。日本の商業演劇のチケットは変な席でもふつうに映画の10倍くらいの値段だし、それに見合う内容のものなのかどうか、俳優も演出家も舞台でどうなのか知らない(歌手とかタレントとして有名なのはわかる… ひともいる)ので、様子見で、しばらくは月1回くらいを目標にしておこうかなー、くらい。 どうなるかわかんないけど。

原作はPeter Morgan、演出はStephen Daldry、2013年にGielgud Theatreでプレミアされて、2015年にはブロードウェイにも行って、同年のWest Endでのリバイバル時に女王はKristin Scott Thomasが演じた、と。

1952年にエリザベス2世(Helen Mirren)が即位してから亡くなるまでの約60年間、毎週火曜日、バッキンガム宮殿の謁見室で歴代首相から女王に行われた謁見の様子を代々の首相が次々と入れ替わっていく – その(歴史の)順番はばらばらな - スタイルで綴っていく。対面相手の首相が変わるたび、女王の衣装も当然変わるし、衣装を変えるところまで見せたり、でもその辺も含めて女王様は余裕。 歴代首相は12人のうち3人を除いて網羅され、名前が示されなくても英国人であれば誰が誰、とすぐわかるようになっていると思われる。

実際にそこでどんなことが話されたのかの記録は残っていないし、立憲君主制だから女王が首相の語る政策に反対したり意見をしたりすることはできないしで、内容についてどこまで本当なのかなんて知る由もないのだが、それでも女王のこれまでの言葉や態度から、彼女だったらこういうのは嫌がったのでは、くらいのことはわかるし、女王の物腰や挙動を完コピしていそうなHelen Mirrenの振る舞いを見ていると7~8割は当たっているのではないか、くらいに思えてくる(今だったらAIに書かせることもできるかな)。

代わるがわる登場する時の首相たちは当然のようにクセものばかりで、落ち着いた女王の前では誰もが変わった愚か者のように見えてしまうのだが、そうすることで女王の聡明さと、それ故の孤独や苛立ちが透けて見えて、しかしそれが決してかわいそうな女王に見えない、というところがこの演劇の肝、というか女王の女王たる由縁なのかしら。保守だろうが革新だろうが、政治家で上にのしあがってくる奴なんてロクなもんじゃない、ということを我々は女王の目で、Audienceとしてしっかりと目の当たりにして、直言はできないものの当時の政治の断面やありようを見ることになる。(へたなことを書いたらどちら側からも叩かれるだろうし、女王の年齢や経験にあわせて喋る内容も変わっていくだろうし、ネタ作りは相当に難しかったのではないか)

首相それぞれで飽きないのだが、やはりチャーチルとサッチャーがおもしろかったかな。あんま似ていなかったけど。

これって中心にいるのがエリザベス2世でなくても、そこらにいる女性が首相に向き合うことになったとしても... という普遍性をもたせるようなところ – そもそも政治ってなんなのかについて考えさせるようなところもあって、そういう観点でもおもしろいかも、と思った。

あと、舞台を横切っていくだけのコーギー2匹がかわいかった。もっといっぱい出せばよかったのに。

[film] L'Argent (1983)

5月9日、土曜日の昼、ユーロスペースの特集 『ロベール・ブレッソン傑作選』から続けて2本見ました。
ブレッソンのこの辺のは、絶版にならない岩波文庫の赤のクラシックと同じなので何十回でも見てよい/見るべきものなの。

L'Argent (1983)

『ラルジャン』は日本で公開された時にシネヴィヴァンで見てぶん殴られたような衝撃を受けて、日本版のLDも手に入れて、でもLDプレイヤーが壊れてしまったので見れない状態が続いている。

原作はトルストイの『にせ利札』 (1911) - “The Forged Coupon” だが、原作がトルストイだろうがドストエフスキーだろうが、原作がどうのをまったく意識させないところで作品として完結してしまっている。彼の映画のノベライズとしてトルストイを置いたってちっともおかしくないくらい。

1983年のカンヌでDirector's Prizeを受賞しているブレッソンの遺作。

遊ぶ金が欲しい青年が親に言っても聞いてくれないので腕時計を質にいれたら偽札を渡されて、それをもって写真屋に行って偽札を使う。それがばれて怒られたそこの店員が配送屋のYvon (Christian Patey) のところで偽札を使う。それに気づかないYvonがレストランでそれを使ったら見抜かれてそのまま逮捕されて、写真屋の方は裁判で嘘の証言をしてしらばっくれ、Yvonは拘留こそされなかったものの職を解雇される。

家族もいるので金に困ったYvonは雇われて強盗の逃走車の運転手を引き受けたが捕まって、今度は牢獄行きとなり、獄中で愛する娘の死を知り妻からは別れを告げられ、自殺を図るが未遂に終わる。

牢屋を出たYvonは親切な老婦人のところに滞在させて貰うが、ある晩、彼女を含めたそこの人々を斧で殺してカフェに行って自首するの。

Yvonの犯罪というより、写真屋の店員だった確信犯のLucienも最初に出てくるぼんぼんも、彼を庇おうとする家族も、偽札を介して連鎖・伝搬していく犯罪の連なりと、それらの何ひとつも救ったり治したりすることなく右から左に機械的に処理していく社会 - 処理されていく人々のありようを描く。(原作では第二部で善行の連鎖と救いが描かれるそうだが)

比較するな、なのかもしれないが、Ken Loachの映画で描かれる登場人物たちの辛苦、救いのなさ(性質は異なるとはいえ – Ken Loachはまだ人と人の繋がりやコミュニティの可能性を信じている)の百倍は重く苦しく、しかしリアルな絶望をまるごと投げてきて、40年に渡っていろいろ考えさせてくれている。 キャッシュレスになろうが関係ない - というか更にやばくなっていないだろうか。

あとは音。セザール賞の音響部門でノミネートされている、冒頭のメタリックなATMの色味とあの音だけでやられて、もうひとつ、大きな杓子が床をざーって擦っていって止まる、あの音。そして最後の夜のシーン、闇としか言いようのない闇の暗さと怖さと。


Mouchette (1967)

↑の前に、ユーロスペースの同じ特集で見ました。
原作はGeorges Bernanosの同名小説(1937)。 1967年のカンヌでOCIC Award (International Catholic Organization for Cinema and Audiovisual)を受賞している。

フランスの田舎で、虐待する父親と寝たきりの母親とずっと泣いている赤子と暮らす少女Mouchette (Nadine Nortier)がいて、どこに行っても疎まれて弾かれて、森でアル中でてんかん持ちの密猟者と会って、発作を起こした彼を助けたのにここでも虐待されて逃げて、でも結局…

これも何度か見ているが、いつもあまりにきつくてぐったりしてしまう。彼女の置かれた状況、ひっかぶる事態は、いまの世の中においても恵まれない少女が直面していることをほぼ網羅しているようで、それは恵まれない少女がいる、というだけでなく、彼女のような少女をきちんとケアできる社会になっているのか、という大人たちの意識も含めて全然変わってはいないように思えて、そういったことを知らしめるために60年前にこの作品はできたのだ、と思うことにしている。

5.15.2026

[film] The Old Oak (2023)

5月10日、日曜日の午前、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。

監督はKen Loach、脚本はPaul Laverty、製作にはWhy Not, BBC, BFIの名前がある。

2023年のカンヌでプレミアされて、英国での公開の終わりの頃にロンドンに着いたので見逃していた作品をようやく見れた。いまヒットしていることを聞くと、なんでここまで遅くしたの? ってなるがいろいろ事情はわかるし、今この作品が3年遅れの日本で、3年遅れであっても見られなければいけない状況になってしまったことは(残念ながら)間違いないの。

冒頭、イギリス北東部の小さな町、かつては炭鉱で栄えたが現在は廃れた町に、バスでシリアからの移民が到着すると町の人々は当然のように歓迎せずに冷たい目で見て、若い女性Yara (Ebla Mari)のカメラを勝手に手にとってわざと壊してしまったりする。

そうしてYaraと知り合った地元の古いパブ - “Old Oak”の主人"TJ" Ballantyne (Dave Turner)は、彼女とやりとりしながら町の歴史や炭鉱夫として亡くなった父のことなども含めて案内し、Yaraも自分の家族とアサド政権に投獄されて行方不明となっている父のことを話す。

TJのパブにたむろする白人(若いのから中高年まで)の中には地域の住宅価格の暴落と大手ディベロッパーによる近隣の買い占め、それらが招いた移民の流入(+彼らが思うところの治安の悪化)を嘆いて、町に一軒しかないこんなパブで日々の鬱憤を晴らすしかない被害者としての自分たちを強調し、移民に対するヘイトを晒して正当化するが、TJは彼らに寄り添うことはない。昔から知っている客であり友人でもあるので強い行動には出ないものの、よい顔はせず相手の話に乗ることもない。

のだが、Old Oakのカウンターの奥で長いこと打ち棄てられていたバックスペースを(常連客からの要請は断ったのに)YaraたちのFoodバンク&食堂として活用することにした辺りから常連客たちの不満が噴き出すようになって、一触即発の状態にまで転がって…

冒頭からずっと移民たちに対する酷い描写や言葉が投げられてきつくて、それがなんできついかというと、こういう現実がこの地域だけでなく、自分の身の回りにふつうにあることを自分も想像できるというより知っているから。 でもこの映画はそんな彼ら白人たちを犯罪者として描いてはいないし、画面に警察や司法が入ってくることもない。白人労働者階級の彼らもまた、80年代の炭鉱ストの頃からずっと被害者として隅に追いやられてきたのだ、ということが何度か示されて、これは僻地経済の構造的な問題であり、容易にどうこうできるものでもないこと.. なんてわかっているの。 

あと、TJがYaraを地元の大聖堂に連れていって、聖歌に感動したYaraがISが永遠に破壊してしまったパルミラの神殿について語るシーンがあり、これに続くラストの葬儀のところは感動的ではあるものの、ちょっと安易かも、と思った。

結局破壊や死がないと人と人はわかりあえたりハグしたりできないのか - とまでは言っていないけど、両者の間の壁はどうやったら崩せるものなのか? もちろん、それは政治家や当事者たちが考えたり対応したりすべきことで、Ken Loachは映画作家なんだから、筋がちがうし – というあたりの苦悶が垣間見えて、現時点でこれが彼の最後の映画作品、となっているのはその辺もあるのだろうか。 排外主義ばんざいで脳が麻痺している連中はこんな映画はぜったい見ないだろうし。

“I, Daniel Blake” (2016)では給金交付に伴う老人の苦難を、“Sorry We Missed You” (2019)では休めない配送ドライバーの辛苦を、本作では移民と住民間の軋轢を描いて、そのどれもがここ数十年で見えてきた、単に生活が苦しいきついというより、目を凝らさないと見えないような社会の片隅で進行している、関係ない人たちにとっては痛くもなんともないところで進行している、でも当事者たちにとっては致命傷のように苦しくきついところを扱っていて、Ken Loachの映画はこういうのをきちんと並べようとする。見せ方はへたくそだけど、とにかく穿り出して見せようとする。

UKの今後の行方も心配だがそれ以上に日本の方だわ。政治も司法もメディアも教育も日本(人)えらいばんざい、って、それのなにがいけてないのか、なんでいけないのかぜんぜんわかっていないみたい。子供か、なのだがずっとそういう幼稚園でやってきたんだよね…

5.14.2026

[film] The Great Moment (1944)

5月4日、GWの月曜日の昼、シネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。

原作はオーストリアのRené Fülöp-Millerによる”Triumph Over Pain” (1940)、脚色・監督はPreston Sturges。歯科・外科手術での全身麻酔のやり方を発明してあの痛みから人類を救った(諸説あり)とされるWilliam Mortonの評伝ドラマで、当初はHenry Hathawayが監督する予定で、主演はGary CooperとWalter BrennanだったがCooperが離れてその計画はなくなり、その後Preston Sturgesが手を挙げて開始するもスタジオ側といろいろあって1942年には完成していたのにリリースは44年になった、など複雑な事情を抱えているらしい。 邦題は『崇高なとき』。タイトルだけだとPaolo Sorrentinoの映画みたい。

Eben Frost (William Demarest)がWilliam Morton (Joel McCrea)の未亡人Lizzie (Betty Field)のところを訪ねて、Lizzieがかつて主人の相棒だったEbenに向かって回想する形で話が進むが、最初の方で、Mortonが自分の発見の特許を巡ってワシントンでひと悶着起こしたこと、続けて歯科医として開業したMortonが手術に伴う患者の痛みを軽減すべく大学に行ったりしながら試行錯誤していくさまと、硫酸エーテルの吸入で全身麻酔できたかも、になるも、アイデアの盗用をしたとかしないとか、利権や名声を巡るどろどろごたごたがあり、構成はやや入り組んでいるが難しくはない。

麻酔がなければ地獄の痛み、麻酔をすればすべて忘れて天国、という両極があって、それが実用に至るまでの試行錯誤の期間は天国と地獄のしゃれにならない行ったり来たりが当然あって、どたばた映画の題材としてこんなにおもしろいものはない(はず)ってSturgesは手を付けたのだと思うが、偉人(になりたい人)の評伝を描く、というのと患者たちのしゃれにならない悲喜劇を描くというのの両建ては難しかったのかもしれない。

薬を間違ってEbenが狂っておかしくなっちゃうところとか、麻酔が間にあわないからなしでやろう、になるところとか、おかしかったりきつかったり、昔はほんとに大変だったんだろうなー、ってしみじみ思ったのと、これってひとの痛みを突き放して笑っちゃえ、っていうPreston Sturgesコメディの根幹に関わるテーマなのかも、って少しだけ。


Never Say Die (1939)

5月9日、土曜日の午後、シネマヴェーラの同じ特集で見ました。 邦題は『死んでもともと』。

監督はElliott Nugent、原作はWilliam H. PostとWilliam Collier Sr.による同名戯曲(1912)で、これをPreston Sturges+2名が脚色している。当初はRaoul Walshが監督する話もあったそう。

スイスの温泉地 - Bad Gaswasser(くさいガス水)に静養にきていた富豪のJohn Kidley (Bob Hope)は彼と似た名前の犬と健診結果が取り違えられて、余命1カ月で体が縮んで死んでしまうよ、と言われてすべてがどうでもよくなり、強気の婚約者Juno (Gale Sondergaard)を突っぱね、自分と同じように婚約者から強引に言い寄られていたMickey (Martha Raye)と出会うと、軽い人助けのつもりで結婚しようよ、って結婚してしまう。Mickyにはテキサスの地元にバス運転手の婚約者Henryがいたのだが、自分はすぐ死んじゃうから、彼とは自分が死んだ後で一緒になればいいじゃん、って。

こうしてテキサスからやってきたぼんくらのHenryがくっついた変な新婚生活を送るふたりのところには当然追手がやってきて、そのうち誤診だったことも明らかになるのだが、クマだの決闘だの面倒なのが次々とやってくるので飽きない。結果はこういう、誰もなんも考えていないけど誰もが思っていそうなところにきっちり落ちる系のrom-comによくあるやつの原型のようで、とにかくぜんぶオーライ、になっておわるの。

あと、こういう山岳系の(≒ 反都会系?)rom-comって結構見た気がするのだが、どういう事情背景でできたりしたものなのだろうか。

あと、劇中で歌われる"The Tra La La and the Oom Pah Pah" – とぅらららー うーぱーぱー♪ がたまらなく楽しかった。

5.13.2026

[film] Drunken Noodles (2025)

5月9日、土曜日の夕方、ル・シネマ 渋谷宮下で見ました。

なんとなく新作も見なきゃ、にたまになる。 邦題は『ドランク・ヌードル』。 2025年のカンヌの、ACID(思っていたのとぜんぜん違う略語だった) sectionというところでプレミアされている。

監督はアルゼンチン生まれのLucio Castro。どこかで見たような、と思ったら、デビュー作の“Fin de siglo” (2019) – “End of the Century”をコロナ禍のロンドンで、Curzonの配信で見ていた。これもどこかの町にふらっと現れた男がなんとなく性的なことなどをしてだらだらと終わるだけの話だったような。でもそれが不思議と風通しよくて。

タイトルからアジアのお話かと思ったら冒頭に出てくるのはブルックリンの町(アジアは最後の方にちゃんと)で、荷物を抱えた若者Adnan (Laith Khalifeh)が一軒の家に入って暮らし始める。あとでその家は長期で家をあけている彼の叔父のものであることがわかる。家のなかにはぜんぜん近寄ってこないけど、にゃんこも生息している。

彼はアートの勉強をしている学生で、そこに滞在している間だけ路面のアート・ギャラリーで受付のバイトをしている。もの静かで落ち着いていて何を考えているのか不明、夜は宅配でご飯(べちゃべちゃ正体不明のもの)をオーダーして、自転車でやってきたデリバリーの人と公園の暗がりで秘め事(としか言いようのない描写)をしたりしている。

そうやって知り合ったYariel (Joel Isaac)がギャラリーまでやってくる。冒頭にニードル・アートでタイトル”Drunken Noodles”を編んだりしている手が映されたりするのだが、ギャラリーではそれと同じ仕様のクィア・ニードル春画がいくつも展示されていて、それに感銘を受けてしまったらしいYarielが仲間たちを連れてやってくる。こういうことが紙芝居のようなリズムで淡々と展開されていく。

あと、山を訪れたAdanの自転車がパンクして引きずって困っていたらそこにいた白髪で半裸の仙人みたいな老人が修理して歓待してくれて、かのニードル・アートは彼の作品(実際のアーティストはSal Salandraという人らしい)であることがわかるのだが、外が暗くなってくると、老人が見せたいものがある、ってAdanを外に連れだして夕闇のなかじっと座って待っていると、どこからか牧神が現れて…  このエピソードがとても素敵。

もの静かなAdanから、彼の考えや志向、欲望から夢まで、こちらに向かって語られたり示されたりすることは一切なくて、ただ幽霊のように暗がりに現れるクィアな人々の間を彷徨っているだけで、そこで浮かびあがってくるのは都会の狂気でもパラノイアックな孤独でもなく、ソーシャルにも届かないような玉突き - 半分夢を見ているようにそこにいるだけ、の状態がちょっと湿った空気感、理想的な陰多めの光の具合のなかで描かれている。この展開がリアルかリアルじゃないか、のような議論は、春画をみてその本物具合をあれこれ言うのとおなじく意味がない、というかそういうのを無粋、っていうの。

そういう彷徨いの最後にやや唐突現れる李白の酔っ払いの詩が現代のブルックリンと唐の時代をニードルの縫い縫いで結び付けて、そのスケールのありようはホラー味のないApichatpong Weerasethakulのようかも、と思った。

ニードルの編みアート、というのがよいのかも。同じニードルを使ってもタトゥーとか注射とかになるとトーンががらりと変わってしまうだろうし。

山のなか、別にいけないことはしていないが、どこか怪しく見えてしまうことをして愉しむ男たちの話、でいうと、Kelly Reichardtの”Old Joy” (2006)とか、ついこないだのIndia Donaldsonの”Good One” (2024)とか。”Drunken ~”というのもポジティブな言葉と見ておけば。

どうでもよいことだが、この日は、朝からブレッソンを2本続けてみて、スタージェスを1本みて、これをみて、その全部が90分以下の作品だった。とても丁度よくて快調なかんじ。

5.12.2026

[film] Route One/USA (1989)

5月6日、水曜日の連休最終日は、日仏のRobert Kramer特集で終わった。
この前の日が京都日帰りで、北野天神からKYOTOGRAPHIEまで、それなりの旅をした感覚があったので(2本のタイトルの並びだけ見ても)疲れないかしら、と思ったがぜんぜん、よい意味で軽くてよかった。

Doc's Kingdom (1989)

プロデューサーのひとりにPaulo Brancoがいる。音楽はBarre Phillips。
アメリカからアフリカを経由してポルトガルで医師をしているDoc (Paul McIsaac)がいて、リスボンの港湾地区の廃屋のようなところにひとりで暮らして酒に溺れて、酒場のマスターCesar (João César Monteiro)からはもう国に帰れ、とか言われるし、留守中にも住処に嫌がらせをうけて居場所がなくなりつつあるのだが、彼に戻る国はない。

NY(花火でそれとわかる)に暮らすJimmy (Vincent Gallo)は介護している母 (Roslyn Payn)の最期を看取って、彼女の遺した手紙から父親と思われるDocのところを訪ねてみることにする。

こうして対面した父と息子の会話は、よくある親子再会もののようなエモの揺れなど殆どない、互いの今の居場所と意思を確認しただけで終わって、つまりそれがDocの”Kingdom”、ということで、彼にとっての軍服のような白衣を纏って、メガネをして、酒瓶を抱えて、戦地である病院に向かうところで終わる。”In the Country” (1967)を出てから”Kingdom”へ、恋人から肉親へ、という地勢や人間関係の変遷はあるが、闘いは続いていて終わらないのだ、という持続感とその決意は漲っている、というか強い。

Paul McIsaacは、いまだとMark Ruffaloのようだし、Vincent GalloはOscar Isaacのようだし、要はいまのハリウッドのスタンダードとして通用するキャラクターの揺るぎなさのようなものが宿っているなあ、って。


Route One/USA (1989)

↑のに続けて14:30から第一部、休憩を挟んで17:30から第二部。計4時間15分。

↑とは地続き時間続きなのか、Doc (Paul McIsaac)が、医師のキャラクターのままでアメリカに戻ってくる - アフリカ経由で、と言っていてポルトガルの滞在については触れたくないのか、でも途中でJimmyに電話をしていたりする(でも出てくれない)。

Docと撮影クルーがカナダの国境付近、北の天辺から、Route 1をKey Westまで南下していく。
“Milestones” (1975)のファブリックを縦に裁断してみたとき、その断面はどんな様相だったり模様だったりするのか。これが東西(Route 66)横断だったらどんなふうになっただろうか。(たぶん取りあげなかったのではないか)

“Milestones”のように土地や人々の間に石を置いて観測するようなアプローチではなく、ロードムービーとして過ぎ去るものは後方に去っていくものとして、そこにいた/いる人々の顔や声を自分もいなくなることを前提に視野に捕まえてフィルムに収めていく。 親と子、コミュニティ、民族、歴史、宗教、記憶、といった枠組のなかで、その土地に根をはるイギリスに対する植民地住民、北部に対する南部民、祖先や親たちからの因襲に対する従属あるいは反逆、といった歴史の諸相や断面を追って、キャラクターとしてのDoc以外は対象との出会いも含めてすべてドキュメンタリー的な生々しさと共に動いて背後に消えていく。

“Milestones”の時はFrederick Wisemanのことを思ったが、今度のはJonas Mekasのことを思った。Waldenが出てきたからだろうか。”Lost, Lost, Lost” (1976)の、亡命者としての視線と、Docの帰還したルーザーとしての視点に似たものを感じたからだろうか。そこには痛みと、ここでくたばるわけにはいかない、という燻った怒りのようなものがあるような。 それはたかだか3時間~4時間程度で描ききれるものではなかったのだろう。

何かの用事があったのか、Docは途中で消えて、Miami – Key Westで再び合流するのだが、最後に現れる南のランドスケープのトーンがこれまでのそれと結構違って開かれているように見えるのは気のせいだろうか? その先にはなんもなく誰もいなくて、ペリカンがいるだけ、みたいな。「アメリカ人」のいなくなる地点がある、というあたり前のことを言うためにあの風景を持ってきたかのような。 ファブリックのおわり、切れ目。 のはずなんだけどでも.. ここに”Doc’s Kingdom”のラスト、リスボンの港湾地区のイメージが重なって、更に”Kingdom”が。

帰り道、もうRobert KramerもJonas MekasもFrederick Wisemanもいないんだなあ、って改めて思った。

5.11.2026

[film] Christmas in July (1940)

5月4日、月曜日のお昼にシネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。

邦題は『七月のクリスマス』。原作はPreston Sturges自身が書いた戯曲 - ”A Cup of Coffee” (1931) - これ初演が1988年だって.. Preston Sturgesが作・監督をした2作目。 67分あっという間。

これは00年代、確かBrooklynで、自分が一番最初くらいに見たPreston Sturgesの映画で、一瞬で好きになって、その後も数回見ている(見ているうちにそんなでもなくなってきたが、でも変わらずに好き)。

コーヒー会社Maxford House Coffeeが毎年公募しているコーヒーのキャッチフレーズコンテストで、選考の現場は結論の一等賞が出ずに紛糾していて、決まらないのでラジオでの当選者発表は延期となり、賞金の2万5千ドルが当たったら… の夢をだらだら語っていたJimmy (Dick Powell)とBetty (Ellen Drew)のカップルはがっかりするのだが、彼の考えたちっともおもしろくないコピー"If you can't sleep at night, it's not the coffee, it's the bunk"を自信たっぷりに強引にいいよね、って言わせて勝手に将来設計をしてしまうところとか、こいつだいじょうぶかよ、になる。

翌日出社しても彼の自信は揺るがずイヤなかんじがとっても鼻につくので、同じフロアの同僚男たちが悪戯であなたのコピーが当選しましたおめでとう!のフェイク電報を渡したら舞いあがって社長まで報告に行って、コーヒー会社には小切手を取りに行って、本件で疲れ切っていたコーヒー会社の社長は憑き物を払うかのように小切手を渡しちゃって、Jimmyはその足でデパートに向かい、ママが欲しがっていたソファベッドとかどかどかでっかい買い物をやりまくり – これが7月のクリスマス – たくさんのプレゼントを積みこんだ船団で自分の家に向かい、子供たちに贈り物をばらまいて、ご近所の路地一帯が飲めや歌えのお祭り状態になったところに警察がやってきて…

全体としてはとにかくありえない夏のバカ小噺、でしかないのだが、7月のクリスマスを抜けていくうち、イヤな奴だったJimmyも、会社の偉い人たちもみんなちょっとよい人になっていくような、そんな魔法の力を感じることができる1本だと思う。Sufjan Stevensのクリスマスアルバム(最初の)に入っている”Christmas in July”は、直接の関係はないみたいなのだが、どこか似たような印象 – ものすごい名作ではないけど忘れ難い - を残すの。


Remember the Night (1939)

5月8日、金曜日の晩、シネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。

邦題は『想い出のクリスマス』。こちらの方がまだクリスマス映画っぽい。そしてこれは本当に、正真正銘の必見の名作ったらないの。

監督はMitchell Leisen、脚本がPreston Sturgesで、彼が他の監督のために脚本を書いた最後の作品、でもある。

Lee Leander (Barbara Stanwyck)は盗みの常習犯で、宝石を盗んでそれを質屋に入れようとしたところで簡単に逮捕されて、その裁判をNYの検事補のJack (Fred MacMurray)が担当することになるのだが、クリスマス直前で陪審員が被告に甘くなるのを避けるべく、強引に裁判を年明けに延期させる。

勝手に裁判を延期されたLeeはクリスマスを拘置所で過ごすことになったことを嘆いて、それを知ったJackは保釈金を積んであげるのだが、どっちにしても彼女の行き場はなくて、たまたま彼女が同じインディアナ州の出であることを知ったJackは自分の実家に帰る車に一緒に乗せていってあげることにする。

帰郷の道中でいろんな騒ぎが起こって、Leeの実家でとうに再婚していた実母に酷い仕打ちを受けた彼女をみたJackはそのまま自分の実家に連れて行って、そこでも楽しいながらもいろいろあって、そうしているうちにLeeを愛してしまったJackは彼女を裁判でどうにかしようとするのだが…

クリスマスにあってはならないような気まずいこと、居たたまれないことが次々と襲いかかってきて、でもクリスマスだからぜんぶ乗り切ることができる、と信じることになる/信じるしかないふたりが旅の途中で落っこちてしまった恋のお話で、どこの地点からか自分でもその理由がわからなくて困ったようにずっと潤んでしまって口数が減ってしまうBarbara Stanwyckの瞳を見ているだけでこちらも泣きそうになってきて、そんなに悲しいことが起こっているわけでもないのになんで? ってがんばって戦っていると最後に”Remember the Night”っていうタイトルがきて決壊する。 クリスマスの奇跡が起こる映画ではないの。クリスマスの、出会いの奇跡を信じろ、忘れるんじゃないってずっと先延ばししていく映画で、その先には永遠しかないの。それをクリスマスと呼ぶんだって。

[log] Kyoto - May 05 2026

5月5日、こどもの日の火曜日は日帰りで京都に行ったので、その簡単な備忘。

もともと京都は大好きなので大きな展覧会があると奈良や大阪も組みあわせて泊まりがけで行ったりしていたのだが、これまで日帰りしたことはなかった。
でも(でも、じゃないよ)パリだってロンドンから日帰りしていたのだから、と思ってやってみることにした。

検討を進めていくとパリ日帰りと結構似ていることがわかり、現地までだいたい電車で2時間半だし、現地のバス地下鉄に大きく左右されるものの狙いを定めていけばどうにかなりそうだし、でも食べもの関係は諦めになるしかないし、でもGWでめちゃくちゃ混んでいそうだし。でもGWが混んでて最低だったら次からはやり方を変えればよいだけ。

新幹線を見てみると朝早くの下りと夜遅くの上りはまだ空いていて、Eurostarと比べたら本数めちゃくちゃあるし、どうにかなる気がした。なにより時差なんてないし、通貨だって同じだし、言葉だって通じるんだから(たぶん)。


特別展 「北野天神」 @ 京都国立博物館

まずはこの辺から、で行ってみる。 北野天神がどこのどういうもので菅原道真公の1125年式年大祭を記念した、とか言われてもはぁ.. なのだが、目玉の国宝 - 北野天神縁起絵巻(承久本)の海に浮かんでいるいろんな変な生き物とか、地獄の描写とか、炎のぐるぐるは実に魅力的で楽しめた。あとは十一面観音立像とか。刀剣は変わらずよくわからず。 こんなふうに「北野天神」として昔から奉られてきた宝物たちの全貌、のようなものは(絵巻物的に)見渡せるのだが、ここへの信仰が時を経てここまで持ちこたえてきたそのありよう – よって立つところ、のようなものは現地で見たり感じたりしないとわからないのだろうなー、というのはこういう特別展でいつも思うこと、であった。


日本画アバンギャルド KYOTO 1948-1970 @ 京セラ美術館

戦後の京都で若い日本画家たちが「日本画」という画材やお作法の枠のなかで、それらを超えようとどんなことをやってきたのか、の記録。

展示の最初の方、戦後の上村松篁や秋野不矩などの絵がその表面に浮かびあがらせる生々しさはとてもスリリングでおおおってなるのだが、それが後半に向かってパンリアル美術協会、ケラ美術協会などを立ち上げて、表面を飛び出して乗せたり盛ったり積んだりを始めるとそんなに面白くなくなってしまったのはなんでだろうか、と。世界中で誰もが同じようなことをやりだしたから? - でも世界中で同じようなことをやっていたって生き残っているものはあるので、それってなんなのだろう? といういつもの問いが。

ここのコレクションルームでやっていた特集「没後20年 井田照一」はなかなかよかった。版画における透明さの追求が、光の明滅とか、光そのものの構成を組み立てるようなところ向かっていくさまが。


モダン都市生活と竹久夢二―川西英コレクション @ 京都国立近代美術館

いつものキュートで安定した夢とそのパターンの世界なので、うっとりしていくだけ。千代紙とかも素敵で、あと、竹橋もそうだけどコレクション展がいつもよくて、今回は昭和100周年で京都の日本画を。隣で見てきたアバンギャルドの展示と比べると、こちらの方により「近代」を感じてしまったり。

1階でやっていた『加守田章二とIM MEN』も。土と布で、とても渋くかっこよいのだが、ここで立ち昇ってくる気がした金属のような、焦げたり枯れたりの「男くささ」のようなものとは。 竹久夢二的世界との対比で(対比するな)。


KYOTOGRAPHIE

このタイミングで京都に行くことにした理由として、これをやっている、というのもあったのだった。
KYOTOGRAPHIEを見るのは初めてで、Dayパスポートを買って、10個の展示を廻った。

Ernest ColeはPhotographer’s Galleryで見たやつだったし、Linder SterlingはHayward Galleryで見たやつだったし、Daido MoriyamaもAnton Corbijnもいろいろなところで散々見てきたので、最初の方に重信会館(緑で覆われた学生寮の廃墟)で見たYves Marchand & Romain Meffreによる「残されるもののかたち」はよかったー、くらい。

新進、あるいは大御所の写真作家の作品を京都の古い家や建物のなかに展示してみる、海外から来た人にはOpen Houseでなければ入れないような建物の内側に入って内部の採光や調度建付けを見ながら写真作品にも触れることができる、それをスタンプラリーのように繋げてより多くの人に見てもらう、というアイデアとしては一石二鳥でよいところもあるのだろうが、やはり写真作品に触れる – その写真が撮られたときのテーマ、光や対象のありようと、その写真を展示する環境のありようは当然違うのだから、後者についてはいろいろ配慮されるべきではないか、と思った。そんなの十分に配慮してキュレーションしているのだ、なのだろうが、例えば、Fatma HassonaのGazaをテーマにした写真をああいう空間で展示することについては、ふつうに違和感が残った。写真として捕らえられたテーマやその細部に集中して見たい、それだけ。 置かれた環境との間の異化効果を見る、楽しむ、というのもあるのかもしれないが、それはもう少し先の話ではないか、など。


Echoes  by Satoko Imazu @ Ace Hotel Kyoto

これはKYOTOGRAPHIEとは関係なく、Ace Hotelのラウンジでやっていた展示。
アーティスト・イン・レジデンスのプログラムで滞在した京都御所の周辺、その日常を反射(空間)ではなく反響(音)”Echoes”としてとらえようとした時、光はどんなふうに揺れたり時間を経て定まったりしていくものなのか、そして最後にあったでっかい木(反響板)にやられる。

ここのAce HotelにはStumptown Coffeeがあるんだねえーと。(飲んでる時間なし)


竹内浩一 風が迎えて @ 京都府立堂本印象美術館

動物の絵が好きなのでやや遠めだったがバスで行った。
お猿のふわふわした毛と体の丸み、山羊だか羊だかの横たわる頭部、馬の頭部、カバの全身、すべてが精緻かつ絶妙な濃彩で描かれていて、そんなふうにベースがあるところでいきなり猿があんないでたちで座っていたりするのがたまらない。猿があんなふうにしている世界があるのだ、と信じ込ませてしまう強さを、ふんわりと見せてしまうというか。


美術館関係はこんなかんじ。
あと、合間に念願のアスタルテ書房(いまはアスタルテ書茶房)に行った。靴を脱いで入った途端、これはやばいところだ(軽く3時間くらいかかる)と思ったので、とにかく抜けださねば、って目に入ったフランセス・スポールディングの『ヴァネッサ・ベル』 - 翻訳あったのかー – を掴んで買って抜けた。また今度。

帰りは20時すこし前発の新幹線にしたのだが、18時過ぎて伊勢丹に行ったら駅弁関係はなんも残っていなくて憮然としたのだった。

5.08.2026

[film] Sorda (2025)

5月4日、月曜日の午後、新宿武蔵野館で見ました(もうシネマカリテはないのね…)。
これがGW中に見た唯一の新作映画。

スペイン映画で、英語題は”Deaf”。 邦題は『幸せの、忘れもの。』...  邦題についてはずっと昔から文句言い続けているけど、とにかくセンスが悪すぎるし、それが宣伝に寄与しているとは思えないし、むしろ映画のイメージを曖昧にして結果として貶めていると思う。

作・監督はEva Libertad、聴覚障害をもつ監督の妹Miriam Garloが主演している。監督は2021年に同名の18分の短編映画(未見)を作っていて、Goya Awardsにノミネートされたこれを長編に広げたものらしい。2025年のベルリンでプレミアされている。

スペインの田舎、陶芸の工房で働いているÁngela (Miriam Garlo)には聴覚障害があって、でも健常者の夫Héctor (Álvaro Cervantes)と幸せに暮らしていて、やがて妊娠していることがわかって、周囲の友人たちは喜んでくれるが、彼女は割と複雑で、最大の懸念は子供が障害をもって生まれてくるかどうか。彼女の実父母はどちらも健常者で、でも祖父母には障害があり、後天的なものらしいが妊娠している段階でそれを確認することはできないと言われる。

出産の場面だって、普段は夫が手話で端から伝えてくれるのだが、ちょっと現場が大変になって夫が病室から出されてしまうと、彼女はひとりで奮闘せざるを得なくなる。医師はマスクをしているので口元が見えない、ので彼らの指示や声掛けされていることがわからない。

そうして生まれた女の子はOna(成長するにつれて複数の子供たちが演じていく)と名付けられて、懸念だった聴覚障害はないことがわかってひと安心して、周囲と一緒に子育てをしていくのだが、ここから展開されていく「問題」にははっとさせられることが多かった。

Onaは耳が聞こえるので、Héctorは彼女と声を使って話したりしてしまいがちだが、そこでどんなやりとりがなされたのかÁngelaにわからないのはよくないので、必ずOna相手でも手話で話すようにお願いしているのに、すぐに忘れてしまうし、子育てなのでしょうがないのかもしれないが、夫はどうしてもOna - 健常者同士のやりとりの方に向いてしまうようだし、それが続けばOnaはどうしても父親のほうばかりについていくようになるだろうし、ÁngelaとOnaのやりとりの際、母の状態をわかってもらうためにOnaにヘッドホンをつけてもすぐに嫌がって外されてしまうし、母がどんな困難を抱えてどんな思いで過ごしているのかをOnaにわかってもらうにはそれなりの手間と時間がかかるに違いない。それまでの間、OnaにとってÁngelaはどんな存在になってしまうのだろうか? など。 そして、その苛立ちが彼女を周囲から孤立させていく。その孤立や苦難は、出産前にあったそれとは明らかに異なる種類のものに見える。

Ángelaの考えすぎ、心配しすぎではないか? と思うようになってきた最後の方に映画の音声はÁngelaの聴界のそれに同期する。聞えないので補聴器を付けた際のそれ – きんきんしたノイズがうるさすぎるので外してしまうところまで含めて。この状態で母親として子供と接して、子供を守ったりしなければならない、その難しさが感覚としてやってくる。

そこに愛があれば、とか、制度がどう、とかそういう話ではまったくないの。 こんなの“Deaf”というタイトルしかありえないではないか。


Gary Lucasのライブを1週間間違えてて、ショックでもう週末なんかしらない…

5.07.2026

[film] Easy Living (1937)

4月30日、木曜日の晩にシネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。
邦題は『街は春風』 - Wikiで引くと『女は得です』っていうのも出るのだが、これだとあんまりだと思ったのか。

監督はMitchell Leisen、原作はOtto Premingerによるノワールの古典”Laura” (1944)の原作を書いたVera Caspary、Preston Sturgesはこれをもとに脚本を書いている。1949年にJacques TourneurがVictor Mature主演で同名の映画を撮っているがまったくの別物(こちらもおもしろかったけど)。

NYのFilm Forumなどで昔のNYとかスクリューボール・コメディの特集があると必ずレパートリーに加えられる1本で、もう2回くらい見ているのだが、何度見ても「いいなー」と「ばかばかしいー」の間を行ったり来たりして結果、とにかく大好き、なやつ。

在NYのアメリカで3番目に裕福な銀行家J.B. Ball (Edward Arnold)はダミ声でケチでめちゃくちゃ細かいので部下からも家族からも疎まれていて、Ball Jr.(Ray Milland –まだぴちぴち)は独り立ちしてやらあ、って出ていっちゃうし、妻は勝手に5万ドルの黒テンの毛皮を買ったりしているので口論となり、頭きたBallはコートをビルの屋上から投げ捨てると、それが通勤途中だったMary Smith (Jean Arthur)の上に落ちて、それのせいで帽子の羽を折られた彼女がBallのところに行くと、毛皮は持っていていい、って言うし、高級ブティックで帽子も新しいのを買ってくれる。

そんなMaryが新しいコートと帽子で職場 - 保守的な少年向け雑誌”Boy's Constant Companion”の編集部 - に行くと、彼女の待遇でそんな毛皮を手に入れるなんて不適切なことをやったに違いないって一方的に解雇され、他方で彼女がBallの愛人である、という噂が広がって、経営破綻寸前で、Ballの援助が欲しいホテルオーナーがMaryに高級スイートルームへの滞在を申し出て、MaryがAutomat(自販機で食事を供してくれる食堂。あんなのがNYにもあったの)で食事しようとしたらそこでバイトしていたBall Jr.がうまいこと見せようとして大パニックを巻き起こして、あれやこれや舞い降りた毛皮のコートが鉄鋼市場まで揺るがす大騒動につながっていって、でも最後はすべてがめでたしめでたしになってしまう。スクリューボール・コメディのなかでもかなり曲芸感が強いのだが、場面場面のストーリーにムリなところはそんなにないので、”Easy Living”というタイトルががっちり迫ってきてたまらない。ただ時代のせいか女性蔑視感が(相対的に男性の愚鈍感も)ものすごく強くて、その観点からの”Easy Living”ていうのもなんかわかるの。


The Beautiful Blonde from Bashful Bend (1949)

5月3日、日曜日の夕方にシネマヴェーラで見ました。

邦題は『バシュフル盆地のブロンド美人』、製作、脚本(ストーリーはEarl Felton)、監督はPreston Sturgesで、これが彼が最後に監督したアメリカ映画である、と。

再見で、何年か前に、シネマヴェーラでリバイバルのお祭りのような上映があった、ような(自信ない)。

テクニカラーの西部劇で、けばいカラーの配色で、冒頭から能天気な小唄にのってちゃらちゃら流れていって(タイトルがB.B.B.B.♪)だいじょうぶかこれ… ってなるのだが、そういうもんだと思ってみればとってもバカバカしくて楽しい(だけだ)から、いいの。

子供の頃からおじいちゃんに銃を仕込まれたFreddie (Betty Grable)は大きくなっても酒場の歌うたいとしてうだうだしていて、恋人のギャンブラーBlackie (Cesar Romero)が浮気しているところを見て頭きて発砲してやったらそれが判事のケツに命中して、審理の時にも同じケツに一発ぶちこんじゃったのでさすがにやばいと、友人のConchita (Olga San Juan)と一緒に田舎に逃げるのだが、そこでも地元の有力者とか現れたBlackieとかとしょうもない騒動を巻きおこして、簡単に人が死んだり生き返ったりめちゃくちゃだなあ... なのだが、とにかく最後は判事のケツへの3発目で落着する(いや、落着じゃないけど)。

こんなの、自分の人生にはこれっぽっちも重なってこない人たちだったり世界だったりするのだが、でもやっぱり、見てよかったなー、ってなるんだよね。

5.06.2026

[film] The Devil Wears Prada 2 (2026)

5月1日、金曜日の晩、二子玉川の109シネマズで見ました。 公開初日に見たのはファンだからでもなんでもなく、単にはやくやっつけときたかったから、くらい。

The Devil Wears Prada (2006)から主要登場人物たちの20年後の世界を描いた真っ直ぐの続編で、原作のLauren Weisberger & Aline Brosh McKennaも監督のDavid Frankelもそのまま。

20年前の前作については、911後のNYの復興という大きな枠組のなか、ファッション(と業界)のすばらしさ、ファッション業界で働くことの(大変だけど)すばらしさを讃えたものとして喧伝されて、美術館で布切れとか完成されたクチュールなどを見るのは好きだが、あの業界はいろんな偏見やハラスメントにまみれていそうだし、そんな中で働くことがすばらしい!なんて、そもそも働くことが嫌いなので口が裂けても拷問されても言えないと思うのに、Andy (Anne Hathaway) はやりがいを見いだしてしまったようなので、火星みたいに縁のない世界のことだわ、で終わっていた。

あれから20年が経ったという今作の、昨年くらいから盛りあがった続篇に対するプロモーションもとても違和感があって、20年経ったら演者だって歳をとるし業界だって変わるし、だからなんだってんだよ? しかなかった。

とにかく時代は変わって、Andyは別の雑誌社で編集者兼ライターとして働いていたが突然編集部ごと全員解雇され、その流れで古巣のRunway誌の特集の編集長をやることになって久々にMiranda (Meryl Streep)らと再会するのだが、彼女にも雑誌そのものにもマーケットにおけるパワーや影響力なんてもはや残っていないことを思い知らされる。Mirandaは言葉遣いに気をつけて、コートを自分でかけて、エコノミーで移動しなくてはならない。

健全なビジネスをビジネスとして成功させるには、かつてのような絶対権力を握るデビルであってはならない。目線も言葉遣いも、すべてが「ガイドライン」に沿った適正なものである必要があり、そんな彼女たちのビジネスそのものもそんな市場原理に則って売買される対象となる。トレンドがどう、なんて自分たちの記事でどうにかして変えたり動かしたりできるようなものではないのだ。ブランドがあってコンサルやマーケッターがいて組み立てられた宣伝戦略があり、その先には直に消費者がいるだけ。雑誌の機能は宣伝とコラボで利益を出すことのみ。コンプラと規制対応だけちゃんとしておけば、踏み外すようなことはない。

という時代のありように対する目線や感覚がきちんと機能することをおもしろおかしく描くまでで、この映画は止まってしまっている。このストーリーをドライブするビリオネアたちが鼻持ちならない中身からっぽのクソであるのと同じように、この映画はつまんなくて、それはMirandaやAndyのせいではなく、ビリオネアのクソやろうどもを支えているシステムのせいだ、と言ってしまってよくて、それ以上のことをやったり連中を痛快にぶっとばすようなことはしないし、できないし。

そんな流れと階層が見え見えなところに立って今更他人の見映えをどうこう言ったりして楽しい? ってMET Galaを見てもしみじみ思ってしまうのだった。

公開前に話題になったアジア人女性の描写の件も、この線で見てみればそうだからとしか言いようがないので製作者側は何も言わないだろう(言ってほしいけど)。アジア系はずっとあんな風に見られて使われている、という事実を反映しただけのこと。

それでも唯一見るべきところがあるとしたら、前作から20年を経た主要登場人物たちの成長、のようなものだろうか。特にMeryl StreepとEmily Blunt、彼女たちが困惑し、疲弊し、それでも十分納得できない周りからの要請に折り合いをつけて動いていこうとするその表情には見るべきものがあると思った。単に役者としてうまい、というだけなのだが。

5.05.2026

[film] Thirty Day Princess (1934)

4月29日、水曜日の晩、シネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。 邦題は『三日姫君』 - 三十日姫君じゃないの? と思ったがそうではないのか。

Preston Sturges特集は1本がそんなに長くないので仕事の終わりに引っかけて帰れるのがよいの。しかも1本£5以下だし(目をさませ)。しかも、ひとつ前の”The Good Fairy”といいこれといい、rom-comとしてとんでもなくおもしろいのがあったりする。たった74分でなんでこんな魔法が?

監督はMarion Gering、原作は雑誌Ladies' Home Journalに掲載されたClarence Budington Kellandの同名の短編(1933)をPreston Sturges他大勢で脚色している。

ヨーロッパの小国、タロニア王国は貧しくて..って王様が嘆いていたら、そこに静養に来ていた金融やってる
お金持ちのRichard Gresham (Edward Arnold)がアメリカで国債を発行して売ればいいんですよ、ってその広告塔としプリンセス"Zizzi" Catterina (Sylvia Sidney)にNYに来させて、それに乗っかって一儲けできないかを企むのだが、その反対側でRichardを敵対視する新聞社のプリンス - Porter Madison III (Cary Grant - まだぴちぴち)がいて、そんな中やってきたZiziは着くなりおたふく風邪でダウンして30日間要安静、になってしまう。

なんとしてもこのビジネス機会を逃したくないRichardは、替え玉になりそうなZiziのそっくり娘を探すべく部下を街に放って、ほぼ失業状態だった貧乏女優Nancy Lane (Sylvia Sidney二役)を見つけだし、プリンセスの役を演じること、なにかと突っかかってきてうざいPorterを骨抜きにしたいんだができるか?というオファーをして、だいじょうぶか? って聞いてみると、あたしは女優だなめんな、って返ってきて、フェイク・プリンセスとして街に出た彼女は早速くらいついてきたPorterに初めてのNYを案内をさせたり、そうやって楽しく過ごしていたら互いの意に反して互いをどうしようもなく好きになっちゃうの。

恋におちてしまったらしいPorterの相手は本物のプリンセスではなくてNancyが演じたプリンセスで、彼の恋が実るとしたらそれは虚像に対してでしかないので詐欺みたいなもんで、でもそうやってはしゃいでいる彼を見ているNancyもまた彼のことを好きになっちゃって…

そうしているうちにタロニア王国からプリンセスの婚約者だという男(まったくいけてない)がお見舞いにやってきたり、30日なんてあっという間に過ぎてオリジナル・プリンセスも回復して… Richardの策謀はどっちに転ぶのか、Porterの一途な恋は、Nancyのこんがらがったぐしゃぐしゃな思いは果たして…

『ローマの休日』 (1953)はオリジナル・プリンセスが期間限定で平民に化けて新聞記者(Gregory Peck)と会って恋におちる話だったが、こっちは期間限定で登場したフェイク・プリンセスが新聞社の男 (Cary Grant) と会って恋におちてしまう話で、どちらも女性の側は(『ローマ..』は男性側も)時が来たら終わってしまう、叶わない恋であることを知っているが故の切なさがだんだん…

オリジナルとフェイクのふたりが対話する場面もあったり、全体としてものすごくよくバランスのとれたrom-comでびっくりした。5人の脚本家がうまく突つきあった結果なのだろうか。

Sylvia Sidney はこれの少し前の”Merrily We Go to Hell” (1932)もよかったけど、事態が複雑になればなるほどその輝きを増していくところが素敵ったらないの。
 

5.03.2026

[film] The Good Fairy (1935)

4月28日、火曜日の晩、シネマヴェーラの特集 - 『哄笑と洗練 プレストン・スタージェス レトロスペクティブ』が始まっていたのに気づかなかったなんてばかばかばか、って壁に頭をぶっつけ釘を踏みつけながら見ました。

原作はハンガリーのFerenc Molnárによる(英語にしたら)同名の戯曲 - “A jó tündér” (1930)、これをブロードウェイ用に翻案した Jane Hintonの脚本 (1931)をPreston Sturgesが更に映画用に脚色してWilliam Wylerが監督している。 邦題はそのまま『『グッド・フェアリー』。

孤児院で育ったLuisa Ginglebusher (Margaret Sullavan)がいて、そこの人材育成プログラムで実社会に出て映画館の入り口で案内係をすることになった彼女は、強引にナンパされて連れていかれそうになったところをウェイターのDetlaff (Reginald Owen)に救われ、それに続けて食肉加工業の億万長者のKonrad (Frank Morgan)から言い寄られると、自分には夫がいるから、って咄嗟に逃げて、そのウソを持続させて善きことを実践する”The Good Fairy”になるのだ、って電話帳からてきとーに弁護士のMax Sporum (Herbert Marshall)の名前をピックアップして「彼が夫です」ってKonradに伝えると、彼は自分がLuisaに会う時間を作るためにMaxのところに行って彼にものすごい肩書きと待遇を与えてしまったので、やはりこれはちゃんと説明してあげた方がいいかも、と思ったLuisaはMaxのところに赴く。

ずっと貧乏だった懐が急に豊かになって舞いあがり最新の鉛筆削り器を買ったり嬉しくてたまらないMaxのところを訪ねたLuisaは意気投合して、一緒に街に出てぴかぴかの車を買ったり、ヒゲを剃らせたり、Luisaにはデパートで見つけた「本物のフォクシン」の毛皮のストールを買ってあげたり、ふたりにとって夢のような一日を過ごして、でもやっぱりKonradにちゃんと説明しなきゃ、って思ったLuisaがホテルで男性と会う、と告げるとMaxは激怒して… LuisaとDetlaffとKonradとMaxの四角関係はぐるぐる回りながらぐじゃぐじゃになっていくのだが、すべては”The Good Fairy”であろうとしたLuisaの想いから来たものであることが見えてくると…

いろんな欲望にまみれて下衆な下心しかない男たちと、善をなすGood Fairyたらんとする純な乙女心の少女がクラッシュして巻き起こるスクリュボール・コメディで”My Man Godfrey” (1936) - 『髑髏と宝石』 - を思い起こしたりもした。相手のことをよく知りもしないところから、よくもまああんな大胆なことができてしまうものだわ、とか。でもとにかく、”The Good Fairy”であれますように、という一途な思いと共に現れたGood Fairy的ななにかがすべてをぶち抜くいい加減さと出鱈目さがすべてを支配して、でもあのラストまで含めてなんだか納得させられてしまう強さがたまんないの。

もうひとつは、ぜんぜん関係ないかもなのだが、舞台がブダペストで、Margaret SullavanとFrank Morgan が出ている、ってなったらErnst Lubitschの”The Shop Around the Corner” (1940) - 『桃色の店』のことを思わずにはいられない。どちらの映画も、あなたのことを想っている相手はあなたが考えている以上に身近な、すぐそこにいるかも知れない人なのですよ、っていう。日本にどれくらいいるかわからない『桃色の店』ファンのひとは見て損はないと思うー。

William Wylerはこの翌年には”Dodsworth” (1936) - 『孔雀夫人』を撮ってしまうわけで、すごいな、しかない。

5.01.2026

[film] Milestones (1975)

4月26日、日曜日の午後、日仏学院の『フランス実験映画祭2026』のなかの『ロバート・クレイマー特集』で見ました。 2025年にオリジナルの16mmネガから修復されたバージョンであると。

これは前にも見たことあって、でもあたまに残っていないもんよね。でろでろの出産シーンを除けば。
監督はRobert KramerとJohn Douglas(盲目の陶芸家役で出ているひと)- 映画製作集団Newsreelにいたふたりの共同。 3時間18分。 1975年のカンヌ国際映画祭監督週間でプレミアされている。

最初にマンハッタンで生地屋をずっとやってきたおばあさんが朝に来て店を開けて、のずっと続いてきた日々からそれがどこから始まったのか、の親たちについての語り、そこから当時 - 前のめりで盛りあがった60年代のあと、70年代のアメリカの各地で生活したり活動したりなんかやっている人々の、彼らがどんな思想に基づいて、どんな風貌でだれと暮らしたりやりとりしたり活動したりしているのかを並べていく。ふつうにふつうの会社に通って暮らしてなんの不満も問題もない人たちや家族のそれではなく、ベトナム戦争や学生運動の余波があった時代、特定の志向や目的をもった集団とかコミューンにいたり、ずっと続く人種差別の泥のなかにいる人たちもいる。そのバックグラウンドは雪に覆われた山だったり滝だったり洞窟だったり道路だったり、家は安住できる場所、というよりもまずは仮住いで、これらの間をカメラはずっと動いていって、「マイルストーン」はその動きのなかでずっと揺れ動いている or その活動・移動そのものがマイルストーンであるかのような。そしてクライマックスで描かれる「出産」の重みと啓示と。

ドキュメンタリーのような撮り方をしている箇所、現場をそのまま、もあれば明らかなフィクション - 女性が襲われそうになるところとか – もあり、でも両者は区別されることなく同じようなトーンで並べられていて、登場人物の顔立ちや挙動は誰も彼も、クラシックなアメリカ映画のきっとどこかで見た気がする誰かのそれ、だったりする。

上映前にChris Fujiwaraさん(上映後の講演はパスしてしまった)が言っていたように、これはアメリカという国をファブリックとして編みあげて広げたもので、生地の目が詰まっていたり解れていたり虫に喰われていたり棄てられていたり、でもその面積と汎用性のようなところ、そのファブリックがどう機能すべき(だったの)か(→政治)のようなところははっきりと力強く訴えてくる。「マイルストーン」とは、その布の四辺をひろげて地面に定置するための敷石であり、それが置かれて覆われたところが「アメリカ」となる。 Frederick Wisemanのドキュメンタリーとの違いでいうと、彼の作品はそのファブリックがどんな使われ方をしているのか、人々の生活のなかでどう機能しているのかを細部から凝視するように追っているのだと思った。


In the Country (1967)

↑の前に見た、これもRobert Kramer作品で、彼の最初の長編フィクション。

ベトナム戦争の最中、ずっと左翼で一旦政治活動から離れざるを得なくなっている男(William Devane)と女(Catherine Merrill)が隠遁先の田舎でぶつぶつ燻って議論などをしていて、その燻りのなかで明らかにされていく都会と田舎、イデオロギーのありよう、男女のあれこれ、など。でも結局は田舎だから中心にはいないから、に落ちて、そこから世界はひとつのでっかい田舎なのではないか、という徒労感まで。

これらがモノクロの、風景も含めて割ときれいで整った映像のなかで描かれると、そんなもんかも、になって何かがぐるぐると回りだす、気がする、と。 吉田喜重あたりが得意としているテーマのような。
公開当時は評判が悪くて、唯一評価してくれたJonas Mekasがフィルムをヨーロッパに持っていってくれた、って。

[film] 暖流 (1939)

4月25日、土曜日の昼、国立映画アーカイブの特集「発掘された映画たち2026」で見ました。

[デジタル復元・最長版]とのことで、これまで戦後に再編集された124分の短縮版が流通していたところをオークションで新たに入手したバージョンとアーカイブがもともと保有していた3つのバージョンを切って繋いで、初公開時の前後編177分だったものに近い173分の長さにまでデジタル復元した、と。 上映前にその辺のストーリーの説明があり、一挙に上映するのかと思ったら前後編の間に5分の休憩が入った。

原作は岸田國士の朝日新聞連載小説、島津保次郎が監督する予定だったが移籍しちゃったので当時新人だった吉村公三郎が指名された。なにが「暖流」なんだかよくわからないぬるい曖昧さも含めてとってもメロドラマなかんじはする(← 原作を読め)。1957年には増村保造が、1966年には野村芳太郎が映画化している。

『前篇・啓子の巻』と『後篇・ぎんの巻』に分かれている。センターの佐分利信が濃すぎてあまり(本来あるべき?)女性映画のかんじはそんなにないかも。

私立病院の大院長志摩(藤野秀夫)が病で引っ込んで、でも跡継ぎのはずの息子泰彦(斎藤達雄)はぼんくらなので、とっちらかった病院を再建するために若い実業家で監査もできる日疋(佐分利信)を雇い入れてテコ入れを図る。日疋は看護婦のぎん(水戸光子)をうまく使って情報を集め、各方面から反発をくらいながらも強引に改革を進めるなか、院長の一人娘の啓子(高峰三枝子)を好きになるのだが、彼女はそこの医師の笹島(徳大寺伸)に求婚されてて、両親もそれを認めている。

後篇になって院長が亡くなり、泰彦や笹島ら次世代ぼんくら共のしょうもなさが気になりつつもどうにか再建の目途が立ってきたところで、日疋は思い切って啓子に求婚して、彼のことを少し想っていた啓子も揺れるのだが、彼女の幼馴染のぎんが日疋を愛していることを知った啓子は悩んだ末に…

いろんな人間模様が網羅的に紹介される前篇は割とふつうに眠くなるところもある(なにしろ暖流だし)のだが、仕込んでおいた各登場人物の毒や詰まっていた泥が噴出して渦を巻きはじめる後篇がおもしろかった。特に内面の陰険などろどろを既にこんな若い頃から溜めこんでいたのかと感心する佐分利信の、高峰三枝子に求婚して断られたら水戸光子のほうに切り替えてしまう思い切り、というか結婚観 – 売ってくれなかったら売ってくれるところにいく – の魚屋みたいな潔さにややびっくりして、ラストの波打ち際からこちらを向いた高峰三枝子にじーんとくるべきなのかもしれなかったのに、そうならなかった。でもあの浜辺の景色はずっと残っているので、よい映画だったのかも。

でも、今だったら頭がきれて弁もたつコンサルみたいな役柄の日疋って、このストーリーに沿って言えば明らかに身勝手な悪い奴、のほうだと思うのだが、なんかお嬢さんに断られてかわいそう、みたいな印象を与えてしまう感があるのはどうなのか? って。

昭和10年代、戦前のまだ気候も穏やかだった頃、上流階級の覇権や恋争いはこんなふう - 暖流にのって糞もミソも大量にぷかぷか流れ込んでくるのでこれはこれで大変でしたの、というのを描いた映画、でよいのか。

4.30.2026

[film] 喜劇 にっぽんのお婆ぁちゃん (1962)

4月24日、金曜日の晩、神保町シアターの特集 『名作の陰に女性脚本家あり 田中澄江と水木洋子』の最終日の最後の回に見ました。

原作・脚本は水木洋子、監督は今井正、製作はこの作品のために立ち上げられたM.I.I.プロダクション(M.I.I.は製作の市川喜一を含めた3人の頭文字から)。

タイトルの頭には「喜劇」とあるが、上映版のタイトルクレジットに「喜劇」は入っていない。実際のところ、ちっとも「喜劇」とは思えなかったのだが。

冒頭、いろんな老人たちが暮らしていろんな人たちが介護して朝から慌ただしい老人ホームの様子が描かれるなか、くみ(北林谷栄)がどこかにいなくなったことが報告されるが、現場はそれぞれに慌しいのでそれどころではないかんじ。

その反対側、浅草のレコード屋の軒先でくみとサト(ミヤコ蝶々)が橋幸夫のシングルをかけて貰って一緒にダンスしたところで知りあって、でも特に自己紹介をしたりするわけでもなく素面で元気なく一緒にだらだら歩いていくだけで、親切な鶏めし屋の女子店員(十朱幸代)に店にあげて貰ってビールを戴いたり、親切で真面目な化粧品のセールスマン(木村功)に感心したり、面倒とか迷惑とか気にせずに気の向くままにうろうろしていって、くみが持っていた睡眠薬のことで心配になった老人ホームでは警察(渥美清)に電話を掛けたり、でもふたり共どこに行きたいというより、どうしても自分の家とかホームとかには帰りたくないらしい。やがて警察に見つかったふたりはそれぞれのところに帰されて…

威勢のよい老婆ふたりが周囲を大混乱に陥れてざまぁー、みたいな痛快コメディではなく、居場所も死に場所も見つけられないふたりがなにをどうすることもできずに浅草の町をとぼとぼ歩いていくだけのお話で、互いにどんな思いでここにいるのかはなんとなくわかっているので、深刻に話し込むようなこともなく、ただ一緒にいる。その佇まいがなんとも言えず痛ましいし、ふたりがあの後にどうなったのかもわからないし。 見る人によってはそれでも十分におもしろ、なのかもだが、立場的には彼女たちの側に近いので、ううぅ... しかない。

昭和37年の時点で老人ホームは社会ではお役御免、適応不可になって逸れた老人たちが寄せ集められる場であり、核家族化が進む集合住宅に彼らの居場所なんてないことが示されていて、これって今と比べてもそんなに変わっていない。こういうのは結局、社会や労働や権利やケアに対する意識が重なって居所として認識形成されていくものなので、戦後に制度も含めた大きな社会変動を経験していない - 自民党があのやり方でずっとやってきた施策によれば稼ぐことができない弱者には冷たくする(してよい)、という点では一貫していて、水木洋子すごいな、しかない。 あと、老人総進撃みたいに当時の名優たちがうじゃうじゃ出てくるのもたまらない。

いまは豊かな階層にいる老人たちはケアハウス(っていうの?)とかに流れて多少は幸せなのかもしれんが、いま行き場のない老人たちが向かう先は国立映画アーカイブとか神保町シアターとか、あの辺に溜ると思っていて、あの界隈に生息する性根とマナーのよくない老人(主にお爺ぃちゃん)たちをテーマに誰か撮らないかしら? (そんなのだれも見ない)

4.28.2026

[film] Köln 75 (2025)

4月23日、木曜日の晩、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。邦題は『1975年のケルン・コンサート』。
2025年のベルリン国際映画祭でプレミアされた。監督はIdo Fluk。

1975年1月24日にケルンのオペラハウスで行われたKeith Jarrettのピアノソロを収録したライブ盤 - “Köln Concert”は世界で最も売れたJazzレコードの一枚なのだそうだが、そのライブ〜収録の舞台裏ではどんなことが起こっていたのか、コンサートのプロモーターだった当時18歳のVera Brandes (Mala Emde)を中心に語られる。

最初は最近の(初老の)Varaの誕生日に現れた彼女の天敵だった実父の抑圧的な言動から10代の彼女の回想に入っていく。威勢のよいパーティガールだった彼女は地元で行われたRonnie Scottのライブの後、親しくなった彼からドイツのツアーのブッキングをやってくれないか、って頼まれて、父の病院の電話回線を使って見よう見まねで手配ごとを始めて、そういう中で触れたKeith Jarrettの音楽にこれだ! って衝撃を受けてなんとしても自分で呼びたい、とオペラハウスを押さえて、今となっては歴史に残るコンサートを実現してしまうまでのどたばたを彼女の青春ドラマとして綴っていく。

もう一人の関係者として音楽ライターのMichael Watts (Michael Chernus) がケルンに向かうKeith Jarrett (John Magaro)の車に同乗して現地まで向かい、コンサート直前の彼の様子や人となりを描写していく。腰痛で状態も機嫌もよくないアーティストは到着してすぐ、ステージに用意されているはずのピアノ - 全長10フィート、重さ半トンのBösendorfer Imperialではない、小型でおんぼろのリハーサル用ピアノを見て、こんなのではやれない、と言う。

コンサートが始まる23時半(いいなー)まであと数時間、ピアノはどうにかなるのか、ばたばたで宣伝もできていない客の方は入ってくれるのか、そんなことよりご機嫌も体調もよろしくないKeith Jarrettは演奏してくれるのか? 等が渦を巻いていくのだが、結果はみんなわかっている通りめでたし、どころかとんでもなかったよ… になる。

この晩の彼のライブの様子は当然描かれないし、それと同様になぜそんな奇跡が起こったのかも明かされないしよくわからないので、よかったよかった、と言うしかなく、だからそんな朗らかな青春もの、にならざるを得ないことはわかるのだが、音楽を扱う、音楽がドライブした何かを扱うのであればそこをもう少しだけどうにかー、とは思った。

この映画の内容についてはKeith JarrettもECM RecordsのManfred Eicherもオーソライズはしていなくて、他方でこのコンサートに関わった関係者のインタビューを中心としたドキュメンタリーフィルム - “Lost in Köln”が用意されている(公開されないのかな?)ことも知っているのだが、もういいかなー、というかんじにはなっている。

少なくともみんなの手元に残されている50年前の音楽にはジャズとか即興とか、そういうのを超えた万能の、ユニバーサルな「音楽」としか言いようのない何かが跳ねてうねっていて、それに浸ることじゃ、しかない。あの盤にはそういう磁力があると思うのだが、それはまず聴いてみないことには、だしね。

あと、ジャズ以外の音楽だと、CANの”Mother Sky”がターンテーブルに乗せるところも含めて印象的に流れてきて、時代の空気、のような使い方なのだろうが、この頃のクラウトロックをもっとがんがん流しちゃってもよかったかも。

4.27.2026

[film] 沓掛時次郎 (1929)

4月19日、日曜日の午後、国立映画アーカイブの特集『発掘された映画たち2026』で見ました。
16mmプリントから復元されたサイレントで、ピアノ伴奏は吉田詩子。

原作(1928)は長谷川伸による3幕からなる戯曲で初演は同年の帝国劇場、Wikipediaによるとこれまでに8度映画化されていて、これが最初の映画化作品で、監督は辻吉朗。

沓掛時次郎モノの映画は、シネマヴェーラができたばかりの頃(2006年)の加藤泰特集で『沓掛時次郎 遊侠一匹』(1966) - 主演中村錦之助のを見ていて、この頃はNYから戻ってきたばかり、その時いた会社を辞めちゃったところに加藤泰作品がとてもしみて、衝撃だったりしたことを思いだす。もう20年前なのかー。

画面は白黒のコントラストが強い、昔の写真のようで、冒頭に中ノ川一家の親分が島流しにあって、部下の三蔵(葛木香一)らに後を頼むぞ、って消えてなくなり、でも親分がいなくなった組を捨てて出ていく者も多くなり、そうして弱体化した三蔵のところに、3人の刺客+彼らに一宿一飯で雇われた沓掛時次郎(大河内伝次郎)が現れて、三蔵は3匹をどうにか蹴散らすのだが、背後から現れた時次郎には敵わなくてやられてしまい、息を引き取る直前に時次郎に妻のおきぬ(酒井米子)と息子の太郎吉(尾上助三郎)を頼むって言い残し、おきぬからすれば夫/父を殺した男と一緒に旅をしなければならなくなるし、やがておきぬの体は弱っていって、お金もなくなってしまったので、最後にやむなくお金稼ぎのために出入りの助っ人を引き受けるのだが、いざ行ってみるとものすごい敵陣で、向こうには最初に自分を雇った3人組とかもいて…

とにかく大河内伝次郎の輪郭がフランケンシュタインのようにぶっとくて、あんなのが通りの向こうから現れたらそれだけで逃げたくなると思うのだが、最後の出入りのシーンのぶん回しはとてつもないスピードと勢いで大量の敵をばさばさなぎ倒していくし、向こうの刃はぜんぶ逸れていくようだし、サイレントのコマの早いのとかも入っているのか、イメージとしては「うぉおおりゃああああー」みたいな勢いで一気にぶちかまして、稲妻の速さでおきぬのところに戻ったのに…

自分の夫を殺した男と身寄りもお金もなくなったので一緒になって旅をしなければならなくなり、やがて情が移って、ってどう考えても男性に都合よい視点の物語で、女性からしたら恐怖と絶望一直線しかないのでは、っていつも思うのだが、でもこのお話しは好まれて映画もTVも沢山作られて昭和を代表するような男優たちがみんな演じている。よくわかんないかも。 って思いつつそのまま正門前のデモまで歩いていった。


Karl Walser  - スイス絵画の異才 

↑を見る前に、東京ステーションギャラリーで見ました。
Karl Walser (1877–1943)は小説家Robert Walser (1878–1956)の兄で、ローベルトのほうはベンヤミンを経由したり、数年前に出た本『ローベルト・ヴァルザーとの散策』で知っていて、カールの方は当時の割と典型的な線の象徴主義の画家、程度の認識しかなくて、纏めて見る機会があまりなかったかも、と。

日本に行って東京や京都に滞在していたなんて知らなくて、そこで描かれた絵がなかなかよいかんじ。祭りのごちゃごちゃした色の塊りの出し方とか、滲んで見えてしまうもののかんじとか。

ちょっとびっくりしたのは会場で上映されていた「カール・ヴァルザーゆかりの地」のビデオにベルン旧市街の古書店 – Daniel Thierstein Buchantiquariatが出てきて、ここってベルンに行った時に1時間くらいはまってたとこじゃん! で、ヴァルザー兄弟の著作が多く置いてある、って説明があって、店に入ったのはたまたま、そんなことぜんぜんそんなの知らなかったのだが、そこで買ったのはヴァルザー兄弟の評伝本だったという…(ちゃんと確かめたいのだが、本たちは今頃みんなアフリカ大陸の西か南の海上にいる – はず..)

4.26.2026

[film] Song Sung Blue (2025)

4月20日、月曜日の晩、TOHO シネマズ日比谷で見ました。

これも帰国直前のどたばたでロンドンでは見れなかった1本。向こうではクリスマス映画だった。
90年代、ミルウォーキーに実在したNeil Diamondのトリビュートバンド - Lightning and Thunderで少しだけ有名になった夫婦、Mike SardinaとClaire Sardinaのお話。

2008年にGreg Kohsによる同名のドキュメンタリーが撮られていて(未見)、同年の映画祭でそれをみたCraig BrewerがGreg Kohsにコンタクトして権利一式を買い取った、と。

冒頭、Mike (Hugh Jackman)はアル中の更生施設で断酒して20年経ったよ、ってギターを抱えて体験を語りつつ”Song Sung Blue”を歌ったりするのだがその裏の実生活はどん詰まりぼろぼろの不満だらけで、そっくりさんショーのバックステージで有象無象のカバー芸人たちにまみれ、自分はこんなもんじゃないのに、って悶々としていた時にPatsy Cline のカバーをしていたClaire (Kate Hudson)と出会う。

どちらも離婚してそれぞれにシングルマザー/ファーザーだったが、互いにどこかを稲妻に撃たれて一緒にやろう! ってレパートリーをNeil Diamond一本に定め、コンビ/バンド名を”Lightning and Thunder”としてライブハウスに出るようになる。 なんといっても演るのはHugh Jackmanだもんだから評判を呼んでハコもどんどん大きくなっていくのだが、突然の不幸が次々とやってきて止まらない。

騙されたとか盗まれたとかの他者の悪意による人災ではなく - 悪い人物がひとりも出てこない珍しい映画 - Claireは突然つっこんできた車にやられて左脚を失い(もう一回突っ込まれ)、Mikeは元々心臓がよくなくて、でも”Song Sung Blue”♪でー。

彼らはなんでそこまでして - 真ん中辺りに事故の後に心を病んでしまうClaireの姿が置かれるし、Mikeだって復帰公演の準備中に頭を… ステージで歌を歌うこと、それを聴いて一緒に楽しんで貰うことにあんなに全身全霊を傾けたのか? というのが中心にきて、それが彼らの芸道であり生きる道なのだ、というところにハリウッド・スターとしてのピークを過ぎた(と思わせたい/思わないけど)Hugh JackmanとKate Hudsonの容姿が、そして何よりもNeil Diamondの歌たちが被ってきて、そのだんだら模様が素敵ったらない。中途半端に家族の絆や救いを強制するのではなく、まずは音楽があり、そこに向かってすべてが奉仕されている。

実在のLightning and Thunderのふたりにしても、この映画のふたりにしても、なんとしてもNeil Diamondの歌をちゃんと聴いて貰いたい、という強い思いに貫かれているようで、そこは全く異論がない。ショーのオープニングを”Soolaimon”にするんだって拘るところを繰り返したり、これを機にNeil Diamondの再評価に繋がらないだろうか、って少し思ったのだが、そうなるかんじが全くないのはどうしたものか。(映画内のアレンジはCarole Bayer Sager & Diane Warrenで、悪くない)

とにかく”The Greatest Showman”と”Almost Famous”のふたりなんだから、実話のタガを外して”The Blues Brothers”みたいなバディの珍道中ものにしちゃってもよかったのに (稲妻にやられるところとか同じだし)。

あとどうでもいいことだけど、この晩はEddie Vedderの東京公演があって、仕事の都合で行けなくなって泣きながらこの映画の20:50の回に駆けこんだのだが、映画のなかにEddie - あんま似てなかったけど - が現れて彼らと一緒に歌ってくれたのだった。

4.24.2026

[film] 驟雨 (1956) - etc.

4月15日、水曜日の晩、神保町シアターの特集 『名作の陰に女性脚本家あり 田中澄江と水木洋子』で見ました。

監督は成瀬巳喜男、原作は岸田国士の同名戯曲の他、いくつかをネタにして脚本は水木洋子。ここまで来ると「名作の陰」というより「名作のフロント」でよいのでは、と思う。

結婚後4年が経った亮太郎(佐野周二)と文子(原節子)の夫婦は倦怠期というのか仲がよくなくて、日曜の朝からどうでもいいことでぶつかって、互いがうっとおしくて何を言われても何かやっているのを見ても忌々しくて、そのやりとりだけ延々見せてくれてもよいのだが、こんなふたりの隣に越してきた小林佳樹と根岸明美の歳の離れた夫婦の火花とか、新婚旅行の途中で嫌になって夫を捨ててきた姪の香川京子が飛びこんできたりとか、彼らはみんな、いかに自分の相手の相手をするのが嫌で大変でやってらんないかを訴えてきたりするのだが、そんなことを心配している余裕なんてないし、そんなのよか自分らの事態の方が遥かに深刻でどうしようもないのだ子供にはわかんないだろうが、って思っている。

そういう至近距離の戦いのほかに、町内会のおばちゃん(見るからに昭和のおばちゃん)達から、軒下にやってくるノラ犬の挙動について、放し飼いにしておくのはどうしたものか? のねちねちが来て、それが生産性ゼロ、あたしの時間を返して系の臨時町内会に発展したり、この辺の民度(っていうの?)のありようはここから70年を経ても変わっていない。ということにびっくりすべき。

原節子は表面にぎりぎりの笑みを湛えつつ内側で燻るふざけんじゃねえぞクソ野郎ども、の状態を呼吸と所作のひとつひとつに心を込めて維持実践していくのが変わらずすごくて、その反対側に立つ佐野周二は、外面だけはよくてなんかできそうに見えて、実はとてつもないぼんくらで何も考えていないもんの殺傷力が変わらずにすごくて、結果は殺伐とした日曜深夜にひとり噛みしめるサザエさんみたいなかんじになる。

タイトルはこの程度の諍いは季節によってどこにでも起こる通り雨のようなもの、ということなのか、いやいや通り雨だって落雷や土砂崩れでひとが死ぬことだってあるのよ、ということを水木洋子は言っているのだと思う。


甘い汁 (1964)

4月17日、金曜日の晩、同じ特集で見ました。
これも原作・脚本は水木洋子で監督は豊田四郎、主演の京マチ子は毎日映画コンクールとキネマ旬報賞のふたつで主演女優賞を受賞している。英語題は”Sweet Sweat”。

昭和の真ん中くらい、どぶ川の周りに狭い住宅がひしめいて再開発で整理されようとしているエリアで、梅子(京マチ子)はなにが生業とも言えないようなマルチ水商売で冒頭から仕事仲間のすみ江(木村俊恵)と大げんかしたり、ちんぴらっぽいバーテンの藤井(小沢昭一)に紹介されたじじいの妾仕事をミスったり、家に戻れば母親(沢村貞子)と娘竹子(桑野みゆき)と弟(名古屋章)一家の8人が同居していて、どこに行ってもなにをしてもなんだかはみ出してすごいのだが、誰にどう言われようともへっちゃらだし、娘だってさばさばしているし、とにかく愛と金の甘い汁を求めて彷徨う.. というよりはもう少し強く、バウンドしていく様がモノクロ写真の至近距離で肉肉しく映しだされていく。「驟雨」?ふざけんな、って自らどぶ川に飛びこんでいくような威勢のよさ。でも、本当の甘い汁を吸っているのは彼女ではない別の奴らなのだ、というメッセージも底にあると思った。

かつての恋人で、いまはやくざになっている辰岡(佐田啓二)との再会シーンもロマンチックでもなんでもなく、ベッドの下にテープレコーダーを仕掛けるしたたかさ(そして簡単にばれる)で、そこには原節子の表面張力なんて微塵もないの。でもどちらも同じくらいに強くて負けることなんてないの。

4.23.2026

[theatre] 死神

4月16日、木曜日の夕方、紀伊國屋サザンシアターで見ました。

ロンドンで演劇っておもしろいかも、と思うようになり、勉強したいかも、って2年3ヶ月の滞在中に178本見た(映画の方は877本見ていた)。せっかく火がついた、と思っているので、日本でも見ようと思ってまずはこのあたりから。

オンラインでチケットを取ろうとしたところ公演は平日のマチネが多くて、夕方回の開始時間が18:00って.. でひいて、前売りで取るのは難しいか、って電話して当日券があることを確認してシアターで取ったのだが、後ろのほうはがらがらで、なんか勿体ないな、と思った。ライブもそうだけど、開始時間がこれだと(ずっとそうみたいだけど)会社勤めの人とかには根付いていかないよね。(接待とかには向いているのか?)

原作は三遊亭圓朝の古典落語「死神」。元ネタは19世紀のグリム童話とイタリアの歌劇で、どん底の主人公のやけくその行動が地べたから有頂天まで、生と死の境を跨いでいくジェットコースター芝居で、一人語りの落語としておもしろいのは言うまでもないが、演劇にしたっておもしろいに決まっている。 脚色・演出は倉持裕。

最初は通りからみた長屋の並びで、主人公たちが戸を引いて中に入るところで奥が自動でぐるっと広がったり回ったりする。長屋から地獄の入り口まで繋がっていて、語りの調子に応じて自在に滑らかに伸びたり縮んだり。

遊び人の八五郎(牧島 輝)はその日も遊んで朝帰りで、玄関で待ち伏せしていた妻のお滝(樋口日奈)といつものように口論になって、こんな状態じゃ子供も家庭もあったもんじゃないし、ってグチられて隣の子沢山の夫婦まで出てきてわーわー言うので嫌になってもう死のう、って橋のほうに歩いていくと死神(水野美紀)にぶつかって、自分のノルマ達成でうんざりの死神は死にたいって言いながら死ねない八五郎を使ってうまいことやってみるか?って持ちかける。

病に臥せった病人の枕元に死神がいたらその人はもう助からない、足元にいたら助かる見込みがある、死神を自分の目で見ることができる八五郎を使って、助かる見込みのある病人を生き返らせることができれば、死神にとってはノルマを着実にこなせるし、八五郎を医者にしちゃえば評判の名医にできるからwin-winじゃん、て、生き返らせる呪文を教えてシャバに放つ。

こうして長屋で(ニセ)医者の表札を出しておくと旦那様が病から回復してくれないという越前屋の番頭が現れて、藁にもすがる思いで、っていうので、現場に行ってみると死神が足下にいたので決めた通りにやってみたらいきなり立ちあがってウナギを食べ始めたのでおおってなり、八五郎は名医としてたちまち評判になって小金持ちになる。

でももともとの浪費好き博打好きは治らず、あっというまにすってんてんに転がり戻ってやばい、ところに再び臥せった大旦那の件が来て、でも今回ばかりは死神が枕元にいるのでどうすることもできず、でもそこをなんとか、って大金を積まれたので、ちょっと企んで死神をだましてやったらうまく生き返らせることができたのだが、あたまに来た死神が…

途中に落語家の立川志の春(複数の役も演じる)がそこまでの成りゆきを落語調でサマリーしてくれたり、歌謡曲ふうの歌唱シーンが入ったり、全体にちゃきちゃきよいテンポで楽しくわかりやすく、八五郎の転落とそれを操る死神の柔い関係を追っていく。

八五郎はもちろん、死神も万能な神というよりそれなりに苦労しているふつうの女性ぽくて、そんなふたりの軽いやり取りが生死や人の運命を軽々と操っていって、最後には自分自身が、という転換、脆い境界線にいるというおもしろさ。落語のぷつん、と切れて放り出されるオチのあっけなさもよいが、アンサンブルの果てに自分が誰それだったら..? がじんわりと来るこの劇も悪くない。

生が死神の座り位置とか蠟燭の灯で簡単にぽん、て消えてくれたりするのに、日々実際に生きて転がっていくのはなんでこんなにうまくいってくれないのかー、っていうあたりが後から。

最後の蝋燭のシーン、グローブ座のSam Wanamaker Playhouse(蝋燭シアター)でやったら臨場感が出ておもしろくなっただろうにー。

4.22.2026

[film] Sound of Falling (2025)

4月18日、土曜日の午前、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

ドイツ映画で、原題は”In die Sonne Schauen” - 直訳すると「太陽を見つめて」なのだが、邦題は英語題の方に繋がる『落下音』。
2月にロンドンで上映されていた時に見たかったのだが、2時間半の上映時間が無理だった1本。

監督と共同脚本はMascha Schilinski。2025年のカンヌでJury Prizeを受賞している。

なんのキャプションも出ないので、最初はちょっと混乱するが、ドイツ北東部の中庭を囲む建物に暮らす一家一族の、4つの時代 - 1910年代、1940年代、1980年代、現代 - に分かれたいろんなエピソードがノンリニアで交錯していく。語り手も時代によって、エピソードによって分かれているし、映像のトーンや明度も、誰が誰を、どの地点から見つめているかによって結構ばらけていて、構成とか成りたちを把握するのにちょっと時間がかかる。他方で、そういうのを気にせずイメージをてきとーに追っていっても、なんとなくのゆらゆらした不安や怖れなどはわかったかんじになれるのかも。

冒頭、片足がない状態で松葉杖で歩くErika (Lea Drinda)が、そのままベッドでぐったり寝ている中年男のFritz(Martin Rother)の切断された片足をじっと見つめておへそに溜まった汗をなめ、その後で彼女の欠けた脚は自分で折り曲げていただけだったことがわかる。

別の時代で幼いAlma (Hanna Heckt)が経験する葬儀と昔の葬儀の写真に刻まれた一族のなかに自分に似た少女の姿を見つける話、Fritz (Filip Schnack)が両親によって片足を痛めつけられ「労災」(=兵役拒否)される話、彼を介護するメイドのTrudi (Luzia Oppermann)の話、家族の間には目に見えない掟や序列や勝手に強引に決められてしまうものがあるようだが、死んだあとはモノクロぺったんこのイメージのなかに閉じこめられてしまうことなど。

時代が新しくなったところで、溺死したErikaの妹のIrm (Claudia Geisler-Bading)には家族がいて、彼女の娘のAngelika (Lena Urzendowsky)はいとこのRainer (Florian Geißelmann)を挑発したり、トラクターの進路に横たわったり川に入っていったり死を恐れていないふうで、そのうち家族が集合したポラロイドを撮る場面で彼女は消えてしまう - 向こう側へいってしまったのか?

更にほぼ現代になった頃の姉妹と村の少女のお話しがあり、ここでも誰かは必ず家族の誰かを失って不安定なままで、でもそれがどうした、って。

家族がメガネを手にした時の会話で、目に映ってくる像、光は網膜の上で上下左右が倒立した像として結ばれて、あるポイントで消失点として失われてしまう、そんな視覚イメージの危うさと不確かさが語られて、そういう中で部屋の暗がり、半開きになった扉から覗きこむようなショット、既にいない人を定着させる写真などが沢山でてきて、これらは生死が倒立した死者の目線なのだ、と言うことに気づく。そんなでも人はころりと死んで生まれて家族もイエも続いていくし、戦争は起こるし。 

イメージや視覚に関わること、なのでタイトルが「太陽を見つめて」なのだろうが、それが”Sound of Falling” – 「落下音」になるってどういうことなのか。太陽を見つめて目がしんで、落ちる – 五感に残るのはその音だけ、ということでよいの?

幽霊目線の、あるいは幽霊そのもののような個々のイメージは、切り取ってスタンダードの画面に置いてみれば悪くないのだが、ストーリーの軸がないので、それぞれの印象の強弱のようなところで止まってしまう(よくもわるくも)のと、音が弱すぎてふわふわしてて落下できない、というあたりがー。

 

4.21.2026

[film] 鬪ふ男 (1940) - etc.

4月12日、日曜日の午後、国立映画アーカイブの特集『発掘された映画たち2026』で見ました。

MoMAの“To Save and Project: The MoMA International Festival of Film Preservation”でも、BFIの”Film on Film Festival”でもレギュラープログラムの”Projecting the Archive”でも、古い映画を見よう/見たい、っていう熱と人気はずっと絶えない。映画史に残っていてDVDや配信で簡単にアクセスできるクラシックの他に、どこかの何某から意図的に埋められたり事情があってなかったことにされていた作品や作家は星の数ほどあって、その背後にはそれなりのストーリーがある、ということを知ってしまった。そうなった事情は写真家や他のアーティストのそれよりも複雑のようで、当時の社会や政治の事情にも割と関係があって – これって歴史を学ぶ、知るということの根幹でもあって、なんでそういうことが必要かというと(以下略)。 もちろん、シンプルに見ておもしろいのがいっぱい、っていうのが大きいのだが。

で、これが日本映画、ということになると戦時下の検閲とか家父長制下のげろげろが根こそぎたっぷり出てきて、なんだぜんぜん変わってないじゃんこの国、とか。例えば。

2022年のこの企画で『花ちりぬ』 (1938)、『夜の鳩』(1937)、『むかしの歌』 (1939)などを見てから、石田民三もっと見たいになっていた。映っているものは古い昔の情景だったり人々だったりなのに、撮り方や迫り方がとてもおもしろい。

鬪ふ男 (1940)

冒頭、当て逃げした車がざーっと逃げて、それを車で追っていくカーチェイスがあって、話はそこで逃げた男の方には行かず、そいつをぶん殴って捕まえた安吉(岡讓二)の方に行って、その顛末を横で見ていた留造(廣澤虎造)が久しぶりだなあ、って運命的な再会をして、ふたりは靴磨きをしながら一緒に暮らし始める。 そこでやくざに絡まれていた女性(花井蘭子)とその弟を守ったりしているうちに、北海道に残したまま生き別れになっている妹のことを思いだして、徴兵に出た後 - 戦争なんてなかったかのようにあっさりパスされ - 故郷に戻ってみると…(まるで西部劇のような画面構成がかっこよくて別の映画のよう)

そんな「鬪ふ男」の半生記が浪曲師になろうとしている廣澤虎造のラップみたいな唸り節と共に綴られて、廣澤(広沢)虎造(2代目)といえばマキノ雅広の『次郎長三国志』の歌い手で、あれも「鬪ふ男たち」のお話しだったねえ、とか。


男子有情 (1941)


上のに続けて見ました。

自由民権運動が活発になった明治の頃、街頭に立って民の抵抗歌「演歌」を歌って聴衆を煽ったりして日銭を稼ぐ仲良し学生3人組がいて、彼らのリーダーの島田(岡讓二)にはおなじ街角で物売りをしながら思いを寄せるしげ代(花井蘭子)がいて、島田らは勤勉で優秀で塾長からも期待されていたのに、しげ代が巻きこまれたやらしいやくざとの間で起こった殺人事件をひっかぶるかたちで島田は牢屋に入ってしまい、最後は法廷ドラマになるの。

どちらの映画でも人として正しくあれ、みたいなことが強く謳われつつも、政治や国際情勢みたいなところには一切触れない(触るべからずの)ような、なんとも微妙な目線の不均衡が感じられて、そこを地味な低声の音楽で歌ってごまかすような。ちょっと昔の、誰も文句の言えない至近距離の道徳美徳を説いて讃えてそっちに目を向けさせて、ところで日本が世界でなにをしていたか、どう見られていたか、等についてはとにかく触れない。なんかどこかで見たようなー。

2本とも、岡讓二が花井蘭子を助ける、その横で男が男を歌う熱いドラマで、うざい湿気がそんなになかったのはよかったかも。 でも石田民三は女性を描いたドラマのほうが好きかも。

4.20.2026

[film] Caught (1949) - etc.

3月31日に帰国して、4月3日の金曜日に帰国後最初のライブに行って、4月4日の土曜日に帰国後最初の映画を見た。割とゆっくりめだが、この先はゆるゆると老いて腐っていくだけなので焦らずに見たいものを粛々と見ていくの。

そういう時は、CMも予告も入らないシネマヴェーラと神保町シアターと国立映画アーカイブは(あとラピュタも?)が救いで、とにかくここに駆けこんで暗闇にうずくまって何本か見ること。 日本の映画館のCMと予告って、なんであんなにぐったりさせられるものが多いのだろう。 CM予告は英国のシネコンにもあるけど、日本のほどストレスを感じさせるものではない(言葉だけではない気がする)。

とにかくそんな時に、シネマヴェーラの特集 - 『映画は女で作られる マックス・オフュルス特集』ほどうまくゆるく嵌って救ってくれるものはないの。

Caught (1949)  - 魅せられて

4月4日、土曜日の昼に見ました。
見たことないと思っていたが、最初の雑誌をめくっているシーンで、あ、ってわかる(映画のタイトルは憶えられないがファーストシーンだけは憶えているタイプ)。

原作はLibbie Blockの小説”Wild Calendar” (1945)、これをArthur Laurentsが脚色している。
モデルをしながら花嫁修業学校に通い、玉の輿を夢みるLeonora (Barbara Bel Geddes)が押しつけられたパーティ券でビリオネアのSmith Ohlrig (Robert Ryan)と出会う。セラピストとのセッションで君に結婚は無理だ、と言われてムカついていたOhlrigはそれへの反発でLeonoraにプロポーズして結婚してやって、ふたりにとってwin-win関係のはずだったのだが、夫はとてつもないDV野郎だった… (現代用語がわかりやすく簡単にはまってしまう)

ロングアイランドの豪邸を飛び出した彼女は境遇を隠してダウンタウンの貧しい地区で小児科医をやっているLarry Quinada (James Mason)の医院で事務のバイトを始めて、最初は怒られてばかりだったが努力してQuinadaとも仲良くなっていって、他方でOhlrigはLeonoraの居場所をつきとめて連れ戻し、Leonoraの正体を知ったQuinadaもロングアイランドに向かうのだが、そのとき彼女は妊娠していて…

ちっとも古くない、こてこてどろどろ、英米を代表する粘着パラノイア系男優が激突する、怪獣映画みたいなサイコメロドラマで自分の身とは一切関係ないので安心して見ていられる。Robert RyanとJames Masonが延々罵りあい殴りあうところをもっともっと見たかった。


Le Plaisir (1952)  - 快楽

4月5日、日曜日の昼に見ました。
英語題は”House of Pleasure”。原作はモーパッサンの短編3つ - "Le Masque" (1889), "La Maison Tellier" (1881), "Le Modèle" (1883)をもとにした3つのエピソード。これもやはり見たことがあるやつだった。邦題がシンプルすぎるのがよくないと思うの。

Le Masque
ダンスホールで仮面を被って踊っていた男が具合悪くなって倒れて、そこにいた医師も一緒に彼の自宅までついてきてもらう。仮面を外した男はよれよれの老人で、家にいた老妻は昔はこれでもプレイボーイでしたの、って語るの。酸欠で死にそうになるまで仮面をして繕ってモテようとする男性の悲哀が妻の口から語られて、いろいろしょうもない。

La Maison Tellier
小さな海辺の町で、その町の男たちみんなが通うJulia Tellier (Madeleine Renaud)の娼館があって、ある晩から突然休業になってしまったようなので行き場を失った男たちはぶつくさ言い合うのだが、彼女は従業員たちを連れて姪の初聖体拝領式に出席するため列車で田舎に向かっていた。田舎の駅で一行を迎えたJuliaの兄Joseph (Jean Gabin)はそのなかにいたRosa (Danielle Darrieux)に夢中になるし、村人は派手でおおらかな女性たちにびっくりなのだが、メインはあくまで聖体拝領式で、その時はみんなでしみじみ聖なる何かに感動して、一行が再び町に戻ると、男性たちも大喜びで戻ってくるのだった。

Le Modèle
若い画家とモデル(Simone Simon)が恋におちて、一緒に暮らして将来を誓いあうのだが、やがて画家の心は離れて友人の家に身を寄せてしまう。そこにやってきた彼女は飛びおりる!っていって本当に飛びおりちゃって、後悔した画家はずっと車椅子の彼女の面倒を見ることになる。

若い頃の画家が絵を売りにいったサロンに、こないだオルセーで見たルノワールがあった、気がした。

最初のエピソードは老いた男性を女性が見ている話しで、最後のそれは動けなくなった女性を男性が見ている話しで、どちらも若い頃からの業を引き摺っていて、その中間のエピソードでは、聖体拝領式以降の色恋が盛っていくもようを描いていて、タイトルは「快楽」。誰ひとり悪くない。 死は見え隠れしているけど、ここにはいない。


Madame de... (1953)  - たそがれの女心

4月6日、月曜日の晩に見ました。 これはさすがに見たことあった。

原作はLouise de Vilmorinの同名小説(1951)。
ベル・エポック時代のパリに関係の冷めきった夫婦 – Louise (Danielle Darrieux)と伯爵で軍の将軍でもあるAndre (Charles Boyer)がいて、遊びすぎて金がなくなったLouiseが夫から貰ったイヤリングを売ったら、それが宝石商~夫~夫の愛人を介してコンスタンティノープルまでいって、それを手に入れたイタリアの外交官であるDonati男爵(Vittorio De Sica)とLouiseとの出会いを経てぐるっと戻ってくるのだが、その軌跡が決闘沙汰にまで繋がっていく。

「呪いのイヤリング」と言いたくなるところだが、中心にいるのは自身の苗字を言えずに”...”となってしまう彼女の祈りと苦しみ、その悲劇、あとは将軍のクズっぷりと。

上の“Le Plaisir”が、死に向かう一歩手前までを描いているとするなら、こちらは死につながるチェーン(リング)に託された何かを映しだして、どっちにしても楽なことはない。なのになんで人は恋におちてしまうのか、など。

4.19.2026

[film] ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。(2026)

4月9日、木曜日の晩、TOHOシネマズ日本橋で見ました。
暇な老人たちがみんなこれを見てなんか振り返ったり語ったりしているようなのでー。

原作は写真家、地引雄一の自伝的エッセイ『ストリート・キングダム 東京パンク / インディーズ・シーンの記録』(1986)、監督は田口トモロヲ、脚本は宮藤官九郎、音楽は大友良英で、70年代後半の「東京ロッカーズ」を中心とした東京の「パンク」シーンの立ち上がりのようなところを、その場に居合わせて出会ったり記録したりしていく「ちゃんとした」人 - 写真を撮るユーイチ(峯田和伸)の目を通して綴っていく。

映画としては可もなく不可もなく、ちょっと社会の本流から外れたところに潜む危なそうなやばそうなテーマや人々をおもしろおかしいアンサンブルの人情噺に、うまく(NHKぽく)まとめていると思った。130分は長いけどそれだけ多くのバンドや集まっていた人たちをカバーしようとした結果だし、キャストもちゃんとしているようだし(知らない人たちばかりだったが)。

“Based on true events”なので、出てくるバンドや人物にはモデルがいて、わかる人にはすぐそれと特定できるようになっていて、そういうのも含めて幹になっているストーリーやメッセージのところは崩しようがないし強いし、その上であれはあんなんじゃなかった、とかあんなのもいたよあったよ、って当時を知る人たちが周りでいろんなことを語ったりしている。

映画は冒頭、80年代初、学祭でのスターリンのライブの狼藉を描いてそこに居合わせた主人公が、なんでここまでこんなことに… って回想をはじめる。70年代終わりの日本の田舎で、Sex Pistolsを聞いてこれだパンクだ! って東京に出てきてリザードのライブで開眼して、彼らの写真を撮り始めると、その流れで東京ロッカーズのシーンと出会って、いろんなことが起こっていく。

Sex Pistolsを聞いてすげー、ってなる辺りは同じだしわかるけど、それで走りだして東京に行って、リザードでおおってなるのはどうなのか? でそこから先はあまりよくわからなかったかも。はじめの頃のリザードのライブは凄かったのだ、と言われたらそうだったんですね、しかなくてそれで終わりになる。

自分にとってのパンクはまず音で、言葉なんてどうでもよくて、あの当時の日本のそれは音としてぜんぜん響いて来なかったし、「東京ロッカーズ」なんて、そんなふうなラベルを貼ってる時点で、バンドたちでわらわら寄って集っている時点でそんなのパンクでもなんでもないじゃん、て思った。ライブに通ってのめり込むにしても、東京に出てチケットを買う、それを繰り返す余裕なんてなかったし、その反対側で聴かれるのを待っている音、読まなければいけない本はいっぱい積まれていたし、歌詞のことを言うならAmnesty International Reportをそのまま曲にのせたThe Pop Groupの方に惹かれて、異文化にある彼らがどういう文脈で、どこに針を通してなにをパンクさせようとしたのか、まずそっちだったし。

あとは全体に漂うださいかんじ。「東京ロッカーズ」にしても少し後の「めんたいロック」にしても、なんでそんなふうにわざわざださくするの? 売るためのラベルなの? だったし、そこにいる人たち、みーんな揃ってずーっとタバコ吸ってて煙いしすぐアルコールに行くし、そんなのにお金と時間を使いたくなかったのよね。

最後にはアケミの言うように『自分の音を鳴らせ』で、それが正しいのかもしれないが、自分の音なんてそう簡単に見つかるものではないので、ずっと旅を続けているわけだし、そこに終着点があるとも思えないのだが、なんでそこに「キングダム」なんてものを持ちだす必要があるのか。”No Future”ではなかったのか。

いまの推し活とか承認欲求の話にまで繋がる、という話も出てきたところで、あーこれはやっぱり自分とはぜんぜん関係ない宇宙の話しだったかも、と思った。

それでもパンクはあったし、あるから。

4.17.2026

[music] Hey Mercedes, etc.

ここから日本に帰国後に見たものを書いていく。のだが、いまに至るまでずっとへろへろの状態なので記憶が薄れかけたり欠けたりしているものもある、ことがわかった。

Hey Mercedes

4月3日、金曜日の晩、西永福JAMで見ました。
体力との相談もあったので当日券で、西永福ってどこ?とかぶつぶつ言いながら現地に着いて、ああまたドリンク代を強制徴収される変なシステムの日々が始まるんだわ、って憮然としつつとりあえず。

Hey Mercedesを最初に見たのは2001年のNY(911が起こる前)、“Bleed American”を出してブレークするのが誰が見たって明らかだったJimmy Eat Worldの前座で、前座ではあったが彼らはものすごくよくて、その記憶を持って数年後に手にした“Loses Control” (2003)は名盤で、今回のツアーでもオープニングで演奏される"Quality Revenge at Last"は、たまにいまだに頭の奥で鳴り響くことがある。

演奏はところどころよたったりしていたが、メロと骨格が確りしているギターバンドだし、こちらの疲労倦怠に寄り添ってくれて気持ちよかった。今だと「エモ」に分類されてしまうのかもしれないが、Jimmy Eat Worldもそうだったけど、当時はふつうにハードコア/オルタナの流れに置かれていたよね – って誰に確認してよいのかわかんないけど。


Pearl Jam: Let's Play Two (2017)

4月4日、土曜日の夕方、新宿の109シネマズで見ました。4000円… ポップコーンがついていたらしいが、そんなのいらない。 ここはやはりクラッカージャックを出すべきだった。

Eddie Vedderの来日記念(ああ20日いけないよう…)の、Pearl Jamのライブドキュメンタリーフィルム(同名のアルバムもリリースされている)。前日のライブハウスに続いての目を覚まさなきゃいかんシリーズ。 Pearl Jamのこういうのなら絶対安全確実なので。

2016年、MLBのChicago Cubsが71年ぶりにNational Leagueのチャンピオンとなり、108年ぶりにWorld Seriesの勝者となった、その年の8月20日と22日にWrigley Fieldで行われたライブを記録編集したもの。フィルムだとライブの進行とCubsの躍進が並行して進んでいって、チームの優勝の様子とライブが重ねられているように見えるが、時系列としては別でライブの方が先 – というのは見た後で気付いた。

バンドのライブフィルムというよりは、Chicago Cubsの呪いも込みの苦難の歴史と幼い頃からの球団のファンであるEddie Vedderのチームとベースボールに捧げる思いが綴られ、その強い思いが歌となって球場をまるごと揺さぶっていくさまが感動的に描かれている。それはライブの感動とはまた別の、日本にもそういう人はいるけど、野球に人生をやられてしまった人のそれで、そういうのも含めての”Let’s Play Two”だと思ったのだが、自分は野球とかスポーツにやられたことがないので、「別の」ではないのかもしれない - ぜんぶひとつに繋がっているのかもしれない、とか。

ライブの合間にCubsの野球やファンのエピソードが挟まっていくので、歌と演奏に引っ張られてのめり込んでいくタイプのライブ・フィルムではないのだが、ワールドシリーズの大逆転の盛りあがりとEddieの個人史が重ねられていくことでPearl Jamの曲の揺るぎないパワーが際立つ - “Given to Fly”とか - そういう構成になっていたような。 で、やっぱり彼らのライブに行きたくなる。


J. Robbins

4月13日、月曜日の晩、今回の彼のライブの最終日に新代田Feverで見ました。
自分も帰国して2週間が経ったので、もうリカバーできているだろう、と思うのはあまい。ぜんぜんだめだわ。

開演時間は18:30、とあって、こういうのはふざけんな、って20:00くらいに行くのがふつうなのだが、今回はオープニングがtoddleなのであればしょうがない。新代田にどうやって行くのか、とかで少し迷ったりして着いたら少し始まっていた。 

これで何度目になるのか知らんが、とにかくtoddleは自分にとっては特別で、あのギターの絡みって世界一だと思う。
そしてこれに続くDirt CopyもStorm of Voidもそれぞれまったく異なる粒度硬度のやかましさで圧してきてすばらしい。
Dirt CopyはNAHTのひとのだったのかー、って気付いた途端にいろいろななつかしさがー。

最初の3バンドのすべててんでばらばらの鳴り、ルックスもチューニングもアンプもぜんぶ違うありようが素敵ったらなくて、J.Robbinsの、あの3ピースのシンプルでシャープな佇まいがフロアの人々も含めて包摂する、音の指向とは真逆のすばらしくきちんとばらけてて、でもそれがマイナスにならない、理想的な雰囲気に満ちたライブだった。

そういうなかで最後止まらなくなってあと一曲、を何度も繰り返しつつがりがり鳴らしていくJのギターが最後まで残って、それはもうFugaziのそれと同じく自分にとっては空気と同じようなものだと。(ないと死んじゃう)

Jawboxとの最初の出会いは、1994年、MTVが深夜にやっていた“120 Minutes”っていう番組で、そこで"Savory"を聴いて、翌日の会社の帰りに“For Your Own Special Sweetheart”のCDを買って帰った。この頃の新しい音って、ほぼそうやって手に入れていたねえ。

それにしてもー、Hey Mercedesは25年前、J.Robbinsは30年前の出会いになるのかー。
こんなことになるとはねえー..

でもやっぱり3時間を超えて立っているのはつらい。 老人にもやさしいライブスペースを作ってほしい。

4.16.2026

[log] London - others part 3

ロンドンの最後の方に見てまだ書いていなかったやつなど。これで終わり。

Orwell: 2+2=5 (2025)

3月29日、日曜日の晩、Barbican Cinemaで見ました。

これがロンドンで見た最後の映画で、ふつうの新作はいろいろありすぎて決められず、BFIではFlareの映画祭でそれどころじゃなさそうだし、この辺になった。映画については見ようと思えばどこでも、の感覚があるのでー。

制作、監督、脚本はJames Baldwinのドキュメンタリー”I Am Not Your Negro” (2016)のRaoul Peck。 Damian LewisがGeore Orwellの声を含めたナレーションをやっている。

George Orwellの小説“Nineteen Eighty-Four” / “1984” (1949)を執筆した当時のOrwell自身についてのドキュメンタリーと、何度か映画化されてきた小説の大枠の紹介と、その内容が予言していた現代の独裁者(いっぱいいる)、飼いならされてしまう官僚や市民たち、そのツールとしてのAIの台頭などについて、そんなに緻密に追っているようには見えないのに、あまりに今にフィットしていて戦慄、のさまを並べていく。タイトルの”2+2=5”は、上が「2+2=5だ」って言ったらそれは2+2=5になるのだ、なるよな? という管理統制の理不尽を示す例で、いまやシャレでもなんでもなくなっていることは衆知のとおり。

George Orwellって、日本では”1984”と“Animal Farm”くらいのイメージだと思うが、英国ではそれに留まらない幅広い著作がある国民的な作家であることをペンギン古書収集活動で知ったりしたのだが、幼少期の彼やビルマで警察官をしていた頃のこと、晩年のジュラ島での生活のことなども含めて紹介されると、改めて取組みたくなるのと、繰り返し挿入される過去の”1984”の映画化作品で主人公のWinston Smithを演じたPeter CushingやJohn Hurtの像と、お話しとしての怖さ – ここの怖さやばさって、相当普遍的なものになっている気がするのだが、それなのになんで? というのがぞわぞわ来て、ああ”2+2=5”をソフトに強要されて誰もなんとも思わないあの国のあの社会に戻されるんだわ、って改めてうんざりぐったりした。


Michaelina Wautier

3月29日、日曜日の午後、Royal Academy of Artsで見ました。

2020年にNational Galleryで企画展示が組まれたArtemisia Gentileschi (1593-1652)と同時代を生きたベルギー(当時スペイン領)の女性画家Michaelina Wautier (1614–1689)の特集企画。Artemisiaがそうだったように、絵描きとしての技量が優れていたが故に作品が家族の男性(Artemisiaの場合は父、Michaelinaの場合は兄)に帰属するものとされてしまい、結果として美術史のなかに埋もれていた、という。 ほかにもこんな女性たちがどれだけあるのか、って思うが、とにかくこうして見れるだけでも。

この時期の絵画の技術的な巧い下手はわからないのだが、並んでいる肖像画も話題になっている”The Triumph of Bacchus” (1655–59)も絵としての迫力は十分で、これなら男性作家の間に埋められてしまうの無理ないかも、とか、他方で肖像画の髪の膨らんだかんじとか表情の柔らかさは、やはり女性のそれかも、とか。いやそんなことより男性・女性ではなく、Michaelina Wautierという画家との出会いを歓ぼうではないか、って言いたくなった。

Rose Wylie The Picture Comes First

上でMichaelina Wautierを見た後に、2回めのRose Wylieを見る。

彼女と最初に出会ったのは2018年、Serpentine Sackler Galleryでの”Rose Wylie: Quack Quack”で、後で図録を取り寄せるくらい好きになって、昨年、ベルンの Zentrum Paul Kleeでの”Rose Wylie. Flick and Float”で再会して、今回が3度目。何度見てもなんとも言えずすばらしい後ろ頭の魔法。

Royal Academyの1回めに見にきた時に、限定でサイン入り図録を売っていたのを入手できたのは嬉しかった。


Fairy Tales

3月30日、月曜日のお昼にBritish Libraryで見ました。

British Libraryが”Fairy Tales”をテーマにした企画展示をやるのであれば、古今東西、少なくともイングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドの辺りのいろんな収蔵資料をざーっと並べてめくるめく多層多重世界のパノラマを見せてくれるに違いない、って期待して行ったら、子供と親向けに見て楽しんでもらう体験型のアトラクションに近いやつだった。 アリスとかアラジンとか竜とか魔物、それなりのスターたちと元の文献などは揃って展示されているのだが、それよりも着せ替えしたり潜りこんだり隠れたり杖を振り回したり、童話やおとぎ話の世界はこういうもんなんだよ、っていうのを一通り体験できるようになっていて、大人も子供も遊園地のように楽しんでいて、彼らにとっては遊園地だろうが、自分にとってはまるで動物園だった。

その晩に地獄に向かって飛びたつことがわかっていたので、最後にせめてファンタジーを、と思ったアテは外れて、場内にはやかましいのに疲れた人はここから抜けれます、の矢印もあったりして、そこまではしなかったけどちょっと残念だった。


最後のお買い物(でっかいの)はふたつ。どちらも古書で、古書と言っても手が届かないすごいのではないし、収集家のひとから見たらどうってことないやつなのだろうが、自分が持っているなかでは一番高価なやつでどうしようか3ヶ月くらい考えていた。 これらを含む6冊くらいの宝物は船荷には乗せずに手持ちで運んで、まだ包みを解いていない。中で腐ったりしていませんようにー。

4.15.2026

[log] London - others part 2

ロンドンの最後の日々 – でないものも含まれるが - に見たあれこれを。

Turner & Constable (2026)

3月22日、日曜日の晩、CurzonのVictoriaで見ました。
Tate Britainでの展覧会 – “Turner & Constable”の展示内容を補足してくれるドキュメンタリー映画。
どこのどなたがやっているのか知らないが、Tateとかで大きな展覧会があると、”Exhibition on Screen”という展示内容を補足してくれる1.5時間くらいのドキュメンタリーが作られて、映画館でもものすごく限定で公開されたりする – たぶんどこかの配信だとずっと見れるのかも。(日本だと日曜美術館?)

1775年生まれのターナーと1776年生まれのコンスタブル、Royal Academy of Artからほぼ同時期に世に出た19世紀初の英国風景画の巨匠、互いを意識していたに違いない同時代のふたりの作風や表象の共通点や相違をキュレーターや現代のアーティストが明らかにしていく。

展覧会の構成に沿って、最初のコーナーにあるふたりの若い頃の自画像から入って、ふたりの絵画の明らかに異なる点を強調した後に、それぞれの意匠が時代を経てどう変わって、違っていったのかを追っていく。

時代背景のようなところでは、ナポレオン戦争によってヨーロッパ、特に18世紀のグランドツアーが廃止されたことで、イギリス国内の風景に向かわざるを得なかった、それがふたりの初期の作風や方法論に影響を与えた、というキュレーターによる指摘が興味深かった。それでも、それにしてもあんなふうに違ってくるものなのかー。

これを見た上で、3/22にもう一回、Tate Britainに行って実際の展示を見たのだが、改めてコンスタブルの画面手前の傷と奥に広がっていく遠さ、ターナーの渦を巻く黄色について確かめた。


Tracey Emin - A Second Life

3月22日、Tate Modernで見ました。
新国立美術館のYBA展でも(たぶん)取りあげられているTracey Eminの回顧展。

ロンドンの美術館やギャラリーを回っていると、彼女の作品は本当にいろんな場所、テーマの企画でちょこちょこ見ることができて、どれも傷だらけのぐちゃぐちゃで痛ましいなー、と思いつつ、そんな痛みこそが彼女の作品のコアにあることはわかっていたので、今回の回顧もそれらに晒されたしんどいものになるのかも、と思っていたらそんなでもなかった。

若い頃のどろぐしゃの恋愛遍歴から中絶、がんの宣告〜治療まで自分の身体に起こったことすべてを曝け出してぶちまけるデッサン、手紙、映像、キルト、血だらけだったりほぼゴミだったりのオブジェ、散らかりまくりの部屋、そして絵画まで、ハッピーで穏やかに眺めていられる作品はほぼなく、彼女の身に降りかかった困難や苦悩に引き摺りこまれ匂いを嗅がされるような。でも他方で、それらを離れて眺めているような感覚 – それは彼女が自身に向きあっているそれでもあるような – があって、タイトルである”A Second Life”というピンクの流線形のネオンと共に、次のステージが見えてくるようだった。

90年代の、誰もが「リアル」であろうとして、べったり共時の共感を求めてきたあのうっとおしい時代を抜けてここまで来た、来させたもの、それに要した時間ってなんだったのか、ということを改めて考えたり。


Lucian Freud: Drawing into Painting

2月14日、National Portrait Galleryで見ていたやつ。

Lucian Freudの、精緻にみっしり描きこまれた肉の絵画(Painting)、その中心にあるいろんな人物の描写、構成は、どんなスケッチ、デッサン、落書き等から出来あがっていったのかを見ていく。幼少期のクレヨン画から美術館の古典絵画を模写したものまで、彼の創作のプロセス、その秘密を知る、という点では興味深いのだが、そんなに明確にBefore → Afterが示されているわけではないので、ドローイングはドローイングで雑多でおもしろく、絵画は絵画でブリリアント、でしかなかったりするのが少し残念だったかも。あと、Guardian紙のレビューにもあったように、Freudにしてはそんなにすごい絵が並べられているわけではない、というところもちょっと惜しいかも。 Freudの熱狂的なファンなら別かもしれないけど。


Catherine Opie: To Be Seen


3月30日の昼、帰国する前にNational Portrait Galleryで見ました。

アメリカの写真家Catherine Opie (1961-)の肖像写真を中心とした、イギリスでは初となる規模の企画展示。

90年代以降に撮られた陰影強め、皺や傷跡、タトゥーもはっきり深く濃く定着させる絵画の強さをもった肖像写真たちで、被写体は自分の家族や友人、ロスのクィアコミュニティやサーファー、アウトサイダーたち、彼女自身の丸い大きな背中に彫られた、子供の描いた家族の絵 – 彫り傷で血が滲んでいる “Self-Portrait/Cutting” (1993)も。彼らははぐれ者ではなく、写真の中心に、”To Be Seen” - 「見られるべき者たち」 として堂々とそこにいて、像をつくる。ダイバーシティなんて当たり前のことなのに、と明確には訴えていないがトランプ政権に対する批判として写真が、というよりそこに映りこんだ人々が強く語りかけてくるような。

写真家として彼らにできることって何かあるのか、と問いながら写真の可能性を掘っていくような。


ここでまた切る。あとひとつくらい書けるかしらん。

4.14.2026

[log] London - others part 1

ここからしばらくはロンドン最後の方の日々で見て、ぜんぜん or 十分書けていなかったのを並べていきたい。

Schiaparelli: Fashion Becomes Art

V&Aで3月28日から始まった展示で、3/29の土曜日に見てきました。 Elsa Schiaparelli (1890-1973)の回顧展。

ダリやコクトー、ピカソやリー・ミラーといった同時代のアーティストとのコラボ、ロブスターや電話機や骸骨やいろんな動物たちを服やアクセサリーに織り込んで服飾をアートやオブジェの域まで高めた、自分にとってはデザイナーというよりはアーティストに近いイメージの人で、見どころもその辺になるのか。アクセサリーやアーカイブも含めて約400点が出ている。 展示の後半には今のSchiaparelliのCreative DesignerのDaniel Roseberryによるブランドの現在をうまく散りばめて、死んでいないのだアピールもあったり。

イタリアに生まれ、20代でロンドンに来て、30代で20~30年代のパリに移り住んで、ライバルとなるCoco Chanelと出会い..  展示ではあの時代のパリの空気感が充満する前半がすばらしいのと、彼女の服を身に着けた映画スターたち – Katherine Hepburn, Marlene Dietrich, Joan Crawford, Josephine Baker, Diana Vreelandらの肖像がたまらない。あの時代の彼女たちが着ていた、という強さ。

前の日に見た”The Antwerp Six”の対極にあるようで、Coco Chanelがやったことと並んで、これもまた革命のようなものだったのかもしれない、とか。MET Galaを始め、レッドカーペットでの奇抜さを競うあれらの素地を作った、という功績。これらって作る人、着る人は楽しそうで、見る側はよくもまあ、とか着るの面倒くさそうだな、になって、そんな風に見る - 常に纏うファッションと飾るアートの境界を考える/考えさせるような形でのファッションのありようを作った人、ということでよいのか。


Seurat and the Sea

3月22日、Courtauld Galleryで見ました。

Georges Seurat (1859-1891)は、『グランド・ジャット島の日曜日の午後』 - “A Sunday Afternoon on the Island of La Grande Jatte” (1884-1886)の、あのでっかいやつ一枚で十分と思っていたのだが、昨年9月のNational Galleryでの企画展 - “Radical Harmony - Helene Kröller-Müller's Neo-Impressionists”がすばらしく、少し認識が変わって、点描というスタイルは結構すごいのでは、って思った。

そういう流れを受けての、Seuratが描いた海、海辺の絵を集めた展示。
Seuratは31歳の若さで亡くなるまでに45点の絵画を描いていて、ここではそのうち英仏海峡の海を描いた風景画 - 23点の油彩と3点の素描が展示されている。 こうやって並べられているものを見ていくと、ポストも含めた印象派とは全く異なる視角で光や知覚に関わる可能性を追求していたことがわかる。光やモノが網膜上に置かれるその「印象」ではなく、物理的な質量感やそれを構成する粒粒として迫ってくるその力学を追っていたということが、岸壁や海面の隆起や反射と共に見えてくる。 それは印象派の「印象」としてざっと一瞬で把握できるものではなく、じーっと見ていると静かに波打つように形作ってくるようにやってきて、そんなふうに海が迫ってくるさまが圧倒的で、わーって。

時間があったらもう一回見に行きたかったのだがー。


A View of One’s Own: Landscapes by British Women Artists, 1760-1860

Courtauld Galleryの小さな展示室でやっていた小企画。
今年はTate Britainでの”Turner & Constable - Rivals & Originals”という、なかなかすごい、歴史に残るような展覧会が開かれた年でもあったが、こういう展示もあってよいの。

18世紀から19世紀にかけて、男性画家ばかりが風景画を描いていた頃、同様に風景画を追求していた女性画家もいて、そんな10人を紹介している。油彩の大きな絵はなくて、サイズも小さめの水彩画、ペン画、素描が中心だが、どれも素敵。荒ぶる自然のなかにあって迫ってくる風景、というよりは穏やかで虹が出ていたり、楽園のような広がり - 迫ってくるというより奥に広がっていく - のなかにあって、そうだよなー、っていうのと、作品がずっと息子のものとされていてこないだ改めて発見された(ひどい話)Elizabeth Battyとか。


ここで一旦きる。 だらだら書いていこう。
 

4.13.2026

[log] Antwerp - Mar 28 2026

3月28日、土曜日に日帰りでアントワープに行ってきました。

本帰国の前々日になーにをやっているのか、なのだが、最初、たしか1月中旬頃に”The Antwerp Six”の企画展示がある、というのを見て、あー行きたいなーってなり、でも開始日は3月27日からで、もし行けるとしたら28の土曜日だけよね、ところでEurostarだったらどんなふう? って時間と値段(変動する)を見てみたらそんな高くなかったので、えいっ、て取っちゃって、後で展覧会のチケットも取って、どうしてもだめだったらしょうがない、にしておいたら結果どうにかなった。

不安要素は、Eurostarでブリュッセルまで行って、そこから約1時間、電車でアントワープに向かうのだが、週末の電車は平気で遅延やキャンセルが起こるので、たどり着けない戻れないの事態になることだった。例えば戻りのEurostarに乗れなくなって現地一泊とかになったらまじでとってもやばい。(だからふつうの子はそんなことしないのね)

アントワープは2度目で、前回はアムステルダムから行って大聖堂とか主なところは行っていた、と思っていたのだが結果としてはやっぱり足らないかんじになったかも。

The Antwerp Six @ MoMu - ModeMuseum Antwerpen

昼の12:00のチケットを取っていて、Eurostar →電車→メトロと乗り継いで到着したのは12:15くらいだった。よかった。

アントワープ王立芸術学院のファッション学科で学んでいた6人が1986年のBritish Designer Showでインターナショナルデビューをしてその名で呼ばれるようになってから40周年を記念した、アントワープでは初となる彼らの、グループとして、というより各デザイナー全員を束ねた回顧展。今みたいにファストファッション/ハイブランドの両極のビジネス軸でしかファッションが語られなくなるより前、80年代のロンドンを向いた若者の誰も彼もがカラスの真っ黒ばっかりだった時代にThe Antwerp Sixとして、あるいはデザイナー個人の名で呼ばれた彼らは、革命などは起こさなかったのかもしれないが、とにかくかっこよかった。 あの時代にかっこいいー、って言われるのって、本当にかっこよかったんだからね。 というのが個人的な概観。

最初の方のコーナーには、ものすごくでっかいファッション年表とその頃流行ったもの、などがべたべたかつ詳細に網羅されていて、追っていったら軽く1時間使いそうだったので、この時点で図録購入をなんとなく決めて先に。

時代を概観したあとで、6人個々の展示コーナーを順に巡っていくかんじ。
Dirk Bikkembergs(スポーツ中心のメンズ)→ Walter Van Beirendonck(かわいい) → Dirk Van Saene(ぐるぐる回っていくコンベアー仕掛け)→ Dries Van Noten(やっぱりすごい)→ Marina Yee(ファッションではなく、彼女が暮らしていた部屋の再現。ちょっとしんみり) → Ann Demeulemeester(やっぱりかっこいい)、など。

よくもわるくも統一感ゼロでばらけていて、そりゃそうだろうなーになるのだが、やはり際立ったのはDries Van NotenとAnn Demeulemeesterのクラシックの風格とはまた違う、永遠のモダーンとしか言いようのない輝きなのだった。あの当時の音がいつ聴いてもいつまでも古くならないのと同じような艶と鋭さと。

始まって2日目だったせいかものすごく混んでいたが、時間に余裕のある人は1日たっぷりいられるのではないか。

図録は€70で結構重くて、船荷を出した後なのでこれを日本まで持って帰るんだぞそれでよいのか?(って後になって思った)のだが買っちゃった… (いま、ビニール剥がしてない状態で床に転がっている)

他の企画展示として、パレスチナの民族衣装を並べた”Embroidering Palestine”があった。軍服ではなく、女性や子供たちの服。こんなに素敵な布や服、これらを纏って継いできた文化のある人々を… って改めて。

そして常設展示コーナーの充実ぶりも見事だった。徒に時代を遡らず地域を広げず、現代ヨーロッパを中心としたテーマ別展示のシャープなこと。

お昼はお芋のフライをかっこんで(ここのフライはなんでおいしいの?)から、美術館ふたつ。


Koninklijk Museum voor Schone Kunsten Antwerpen

アントワープ王立美術館。前回来た時は改装中だったのか、今回が初めて。MoMuから20分くらい歩いた。
モダンサイドと古典サイドがあって、最初にJames Ensor作品が並ぶモダンの方から入って上に昇って、しかしどういう設計なのか階段だらけでなかなか古典の方にいけず消耗した。あんな入り組んだ構造、美術館にはいらないー。

古典サイドは、Rubensの諸作はもちろん、Jan van Eyck『泉の聖母』 (1439)とかJean Fouquet 『聖母子と天使たち』(1452)とか、冷たいんだかあったかいんだかわからない聖母や天使がうじゃうじゃいてたまらなかった。


Museum Plantin-Moretus

王立美術館から再び20分歩いてプランタン=モレトゥス博物館。

16世紀の出版業者クリストフ・プランタンの家屋と印刷工房、中庭など一式がプランタン=モレトゥスの家屋・工房・博物館複合体としてそのまま博物館になっていて、これらがまるごと世界遺産に指定されている。世界最古の印刷機やそこで使われた印刷用活字一式が一揃いある、と。

部屋じゅうに紙の印刷物と紙ごみを積みあげ、埋め尽くし、これらに潰されるなら死んでもよい覚悟系の(たぶん)変な宗教にやられてしまった者にとって、そういうのを世界中に広めた起源のひとつとなる館なので、お参りしないわけにはいかない。昔の家屋なのでところどころ暗く、1階2階があって不思議な形に入り組んで、木がみしみしぎしぎし鳴って、頭がおかしくなりそうになったら中庭にでて一息ついたりした、のだろうか。稀覯書もいっぱい(そりゃあるだろ)あって、これらに比べたらまだまだ、って思ったので、なんの効果もなかった。なにを期待していたんだろうか。

ここまでずっと歩いて結構疲れたので、地下鉄の駅までゆっくり歩いて戻ったのだが、途中に世界中の雑誌を集めた書店(なんておそろしい)があったり、Demianていうなかなかの古書店があったり、ブリュッセルもアントワープも書店は相当にやばいのだった。

帰りは問題なく帰れた、というか電車の椅子に座ってからの記憶がほぼないくらい。

4.12.2026

[theatre] Broken Glass

3月27日、金曜日の晩、Young Vicで見ました。
これがロンドンで見た(今のところ)最後の演劇となっている。

最後になにを見ようか、の候補はいっぱいあったのだがあんま考えても時間は過ぎていくばかりだしそもそも考えている時間ないしで、えいっ、って決める。この日はロンドンの勤務場所の最後の日でもあったので、もう少し明るいのにすれば… という声もあったのだが、そんな場合か、って。

Young Vicにしたのはここに面した通りの反対側に演劇関係の本中心の古書店(その奥にはリハーサル用のスタジオもあるみたい)があって、ここににゃんこがいるから、でもあった。猫にお別れを言いたかったの。

原作 (1994)はArthur Millerの同名戯曲で、初演も同年。舞台は客席に向かってせり出している長方形の舞台の三方を囲んで見下ろす形。奥にはドアとその向こうはブースのような廊下が通っている。メインのスペース - 事務所のような待合室のようなリビングのような - には大量の新聞や雑誌 - 当時のではなく現代の - が積みあがり、散らかっている。演出はJordan Fein。休憩なしの約1時間50分。

1938年の11月、ドイツ全土でナチスによるユダヤ人による排斥・襲撃が表面化したKristallnacht - the Night of Broken Glass - の報道記事がアメリカでも出た頃、ブルックリンに暮らすユダヤ人夫婦 - Sylvia Gellburg (Pearl Chanda)とPhillip (Eli Gelb)がいて、Sylviaは突然歩くことができなくなってしまう。

怪我をしたわけでもぶつけたわけでもなく、明らかに心因性の、おそらく一時的な障害と困難、その要因や対処を巡ってPhilipと医師 (Alex Waldmann)が互いの意見や憶測をぶつけ合い、でも正解や正しい対処法が見つかるわけでもないしSylviaは快方には向かわないのでPhilipはことあるごとに誰に向かってなのかぶち切れ激昂し、激しい怒鳴りあいにまで発展したりして、まずはそんな外面だけはよい夫の日常的な抑圧と支配がベースにあるのだな、というのは容易に推測できる。

その上でSylviaの抱えこんだ疑念や不安 - ナチスはなぜあんな酷い行動に出たのだろうか、なぜあれを誰も止められなかったのだろうか、それはアメリカのブルックリンに暮らす我々のところにも波及してこないだろうか、そうならない保証はどこにあるのか、そうなった時にどこに助けを求めるべきなのか、ユダヤ人コミュニティとして行動を起こすべきではないのか、なんで誰も何もしないで平気でいられるのか、などなどがじわじわと表に出てきて、こうして提示される不安 - 踏みだすことも、逃げることも、闘うことも、こんなふうに動けなくなることすら - できない/許されない - そのありようは彼女の身体を縛って覆って、その姿は客席という安全圏からそれを眺めている我々「観客」にもその態度や認識を問うてくるようだった。

そして当然のように頭にはガザで起こっていることが浮かんできて、それはArthur Millerが得意としてきた社会的な衣を纏いつつ顕現してくる有害で邪悪で狂った男性性、といういつものテーマをどこかで薄めてしまっているのかも知れないが、それくらいの強さで今の我々を傷つけているのだと思うし、なによりも今この時にだって人が殺され続けているのだ、ということを否応なく突きつけてくる。地理名としての「ガザ」なんて一言も出てこないのだが。

そしてその中心にいるふたりの、自分ゴトと他人ゴトの境を見境なく切り裂いていく切迫した演技はすばらしいと思った。

4.10.2026

[theatre] Les Liaisons Dangereuses

3月26日、木曜日の晩、National Theatre内のLyttelton Theatreで見ました。
まだPreview中だがそんなことは言っていられない。

ロンドンでいろんな劇場に行ったが、なんだかんだ、ここのLyttelton Theatreがサイズも含めて一番見やすくて好きだったかも、ってしみじみした。

原作はラクロによる同名の書簡体小説(1782)- 『危険な関係』。

1988年のStephen Frears監督による映画 - ”Dangerous Liaisons”の際にも使われたChristopher Hamptonによる舞台用の脚色(1985 - 初演も)をベースにMarianne Elliottが演出している。前日に続いてこれも休憩入れて約3時間。

Glenn Close, John Malkovich, Michelle Pfeiffer, Uma Thurman, Keanu Reevesらが出演した映画版は役者たちの演技が誰も彼もすばらしく展開も目が離せなくて何度でも見れるくらい好き。
今回の舞台版ではGlenn Closeが演じたメルトゥイユ侯爵夫人をLesley Manvilleが、John Malkovichが演じたヴァルモン子爵をAidan Turnerが演じている。

舞台の上方、左右奥の背景には官能的な女性の絵(日本だったら春画か)がでっかく帯のように広がり囲んでいて、その下方はミラーになって歌謡ショーのステージのよう。舞台は舞踏会のフロアだったりいろんな衝立てやドアが右左から運ばれてきたり、冒頭は正装したモデルのような男性たちがゆっくりと歩きまわる中、奥の扉からゴージャスなドレスを纏った女性たちがわらわら現れて見事な群舞を披露して、そこに先の男性たちが捕食するかのように群がる。その中心にいるのが深紅のドレスのLesley Manvilleで、見るからに女帝の貫禄で周囲を圧倒し、みんなが平伏している。

ストーリーは、メルトゥイユ侯爵夫人が、かつての愛人でもあったヴァルモン子爵を操って、貞淑なトゥルヴェル夫人(Monica Barbaro)と若くて純情なセシル (Hannah van der Westhuysen)を誘惑させて、みんな揃って転げ落ちていく様子を高みの見物して楽しもうとする。原作の書簡体小説の受けて返しての一拍入るその感覚はうまく生かされていて、場面場面の展開を追うのが楽しくて、気が付けばトゥルヴェル夫人は泥沼に落ちて、セシルは天に舞いあがって、それをどんなもんだい!って腕組みするヴァルモン子爵と、更にそれを高いところから眺めてにやにやするメルトゥイユ侯爵夫人ができあがる。

すべての立ち位置が揺るぎなく立ちあげられて彼らを身動きできないようにする前半までと、これらの縛り縛られが始めた側の思うようにはいかない「危険」なものへと変貌し、解れたり崩れたり手に負えなくなっていくさまを描くのが後半で、セシルは妊娠してしまうし、ヴァルモン子爵は狂っていくトゥルヴェル夫人を本気で恋してしまい、それを察知したメルトゥイユ侯爵夫人は嫉妬の沼に落ちて…

前日の”Romeo & Juliet”の死をも恐れずに天に昇ろうとするピュアな彼らと比べると(比べるな)、そこから約200年が経っているとは言え、なんというどろんどろの地獄絵図であろうか、って呆れてしまうのだが、これはこれで十分に生々しく、ゴージャスなセットやコスチューム、時折挿入されるダンスシーンも含めて、死と隣り合わせの恋愛遊びのデンジャラスな、でも知らんがなの刹那に溢れていてたまらなかった。

映画版でKeanuが演じたヴァルモンに決闘を申し込むセシルの許嫁の彼だけ、もうちょっとぴりっとかっこよかったらなー。

それにしても、下着1丁になって踊ったりするLesley Manvilleのものすごいこと。彼女のお芝居は2018年に”Long Day's Journey into Night” - 共演はJeremy Irons、2024年に”OEDIPUS” – 共演はMark Strong、と見てきたが、今度のが一番強烈だったかも。

4.09.2026

[theatre] Romeo & Juliet

3月25日、水曜日の晩、Harold Pinter Theatreで見ました。
今回の滞在期間中に見た演劇のうち、5本目となるRomeoとJuliet。なんか流行っているのだろうか?

“Stranger Things”のSadie Sinkと映画”Hamnet” (2025)の劇中、グローブ座で上演される”Hamlet”でHamlet役を演じていたNoah Jupeの競演。 原作(1596)はShakespeare、演出はMark StrongとLesley Manvilleによる”Oedipus”がおもしろかったRobert Icke、設定やコスチュームは現代のそれになっていて、タイトルの”&”はハートマークを模していて、客層もやはりたいへん若い。それもあるのか上演前からスマホ撮影に対するチェックと指導は厳しめ。 休憩を挟んで約3時間。

配役は若いぴかぴかのふたり vs 汚れて醜い一族の大人たち、が強調されているようで、シンプルな黒の背景にふたつの勢力の対立構造がざっと紹介された後、中央に置かれた大きな白いベッドの布団からJuliet (Sadie Sink)がひょこっと顔を出してふぁーって気持ちよさそうな伸びをすると、それだけで客席から溜息がもれたりする(Paddingtonミュージカルの登場シーンと同じ)。そして少しの間を置いて、同じベッドからRomeo (Noah Jupe)も姿をあらわす。場所は別々であっても、そんなふうにどこかでなにかが同期している予感のようなものがふたりを近づけていく。

舞台の上にはデジタルの時計板が表示されていて、前日の土曜日頃~キャピュレット家でふたりが目線を交錯させる日曜の晩からふたりが遺体となって発見される水曜日の朝まで、たった4日間の時間を刻々と刻んでいく。で、場面によっては同じシーンの時間を巻き戻して、もしこの場面がこう進行していたら… という仮設定シーンも重ねて上演されたりする – 例えばもしあの晩ふたりが出会わなかったら、とか。でもこの悲劇には関しては、どれだけの「もし」を重ねたとしても、誰もが最後にああなってしまうことを知っているし、それ以外の結末なんてありえないし、みんなそれを見にくるものなので、あんなふうにもしもあの時… を重ねていくことにどんな意味があるのか、はちょっと思った。(ひとりひとりが後でしみじみ振り返って想像すればよいことでは - 実際にそうするし - とか)

ただ、これをやることで、ふたりのあの出会いがどれだけの奇跡の上に重ねられたとてつもない奇跡であったのか、はくっきりと強調されていたかも。

光と闇をコントラスト強めに交錯させていく演出とライティングは、ふたりが相対するやくざでバカでしょうもない世の中やそこに潜むガサツな大人たちを劇画のような暗さのなかに浮かびあがらせ、その反対側でまばゆい、止まらない愛を辺りかまわずぶちまけていくふたりの姿を照らして、近づいてくる最後の時までの切なさ辛さときたらたまんなくて、ふたりはそれに応えるかのように羽を目一杯広げて飛びたとうとして、その眩しいことったら。

これまで見た同作の翻案ものとしては、やはりBaz Luhrmannの映画版 - “Romeo + Juliet” (1996)のClaire DanesとLeonardo DiCaprioの、あのふたりを思い浮かべてしまう。グランジの泥のあとに現れた彼らの瑞々しさと、それに続くケミストリーと、それが壊されていく、でもぜったい壊されないが故の痛みがどこまでも伸びていって、トラウマになりかねないやつ。

あの映画ほどの悲痛なかんじはなく、他の舞台にあったような悲劇一直線の生真面目な暗さもそんなになくて、とにかくふたり一緒にいられれるのなら、あとはなにもいらない! のつんのめった明るさがふたりをたったふたりにする。それだけで十分、になってしまう、そんな舞台だった。Sadie Sinkの輝きを見てほしい。


Bruno DumontのRomeo and Julietにインスパイアされたという新作、見たいような見たくないような…

4.08.2026

[theatre] Evening All Afternoon

3月24日、火曜日の晩、Donmar Warehouseで見ました。

この日は午後から航空便と船便の荷物出しがあって、13時開始予定だったのが前のが押してるとかで3時間ほど後ろに倒れて、でも17時前にはどうにか終えて、スーツケースなどに詰めた生き残り荷物と一緒に車で西の方のホテルに移動してからCovent Gardenに行ってBleecker Burgerでバーガーとフライとシェイクを頼んでなんとか生き返って、その隣でこれを見た。

上演前は、Joni Mitchellの”Both Sides Now”が繰り返し流れていて、ステージ上は手前に椅子がある白の簡素なリビングのよう。奥に小物が並べられた棚があって斜めから照らされるモノトーンの照明が柔らかく影絵の効果を生み出している。

原作はNYのAnna Zieglerによる新作(これがプレミアとなる)の2人芝居、演出はDiyan Zora。1時間半、休憩なし。

Delilah (Erin Kellyman - こないだの映画 - “28 Years Later: The Bone Temple”(2026)での演技が印象に残った、これが彼女の演劇デビュー作)はジャマイカ生まれの母を亡くして、彼女の父は7歳年上のイギリス人女性のJennifer (Anastasia Hille)と結婚した。彼女は地味で穏やかな典型的なイギリス人で初婚で、Delilahは最初からふてくされていて、彼女のなにもかもが気にくわないらしい。

ブルックリンで育ったアメリカン娘と午後の紅茶とその時間を愛する穏健なブリティッシュ女性が最初から意気投合するはずもなく、愛する母を失ったばかりのDelilahからすれば、再婚によって父までも奪われたかのようで、でもそれらをぶつけることができる相手がいるとすれば目の前のJenniferしかいない。

Jenniferからすれば、これまでしたことがなかった結婚(生活)に加えて、自分が持つことになるとは思っていなかった子供 - 娘までついてきて、いかにもイギリス人な辛抱強さと諦念と母親的なおせっかいでもってどうにかできる、と思っているような(はっきりそう語るわけではないが、その態度物腰、眼差しと自分の知るイギリス人の範囲ではそうかな、って)。

劇は最初から敵意&憎悪丸出しのDelilahとそれをぜんぶ律儀に正面から受けながら少しでも自分のことをわかって貰おうと静かに優しく語りかけていくJenniferと、でもそれらのコミュニケーションがぜんぶ空振りしたり宙に浮いてしまったり、舞台の中央にはゆっくり回転するサークルがあって、その端と端に立ったふたりが距離を縮めることなく同じ軌道を回り続けていく姿が描かれていく。

やがて静かな語り、そのやりとりの中で明らかにされていくJenniferの過去、彼女の抱えてきた喪失と失意の物語がDelilahのなにかに触れて、めでたく分かり合えて結ばれる - そんなわけはないのだが、それぞれの影がふたりの間にひとつの、いくつかの像を切り結んでいく様が刻々と描かれていく。対話やそこに向かう姿勢がどう、という以前のところで、そこにいるひとりの人はそれぞれいろんなものを背負ってそこに座っている、その息遣い、それがもうひとりに触れて何かが起こるその不思議が舞台の上に置かれているようだった。

この静かな紛争の第三の当事者であるDelilahの父親、Jenniferの夫がここにいないことについて、人によっては違和感を感じるのかも知れないが、これは原因や和解を模索するお話しではない気がして。

客席には女性がやや多めで、最後の方はすすり泣く声があちこちから聞こえて、そうかも、って思った。アメリカで上演しても同じ反応になるのかしら?

4.07.2026

[theatre] The Tempest

3月22日、日曜日の午後、グローブ座にあるSam Wanamaker Playhouseで見ました。

船荷出し&引越し2日前、最後から2番目の日曜日、こんなとき、日曜の昼間にやってくれるマチネは大変貴重でありがたいったらない。

原作(1611–1612)はShakespeare、翻案、演出、主演はTim Crouch。
シアターに入ると、役者たちは既に床に寝転がったり、座ってぼーっと宙を眺めていたり、後でCaliban (Faizal Abdullah)であることがわかる彼なんか、蝋燭ひとつひとつに地味に火を灯したりしている(このシアターの照明はぜんぶ蝋燭なので準備がいる)のでシアターの裏方の人だと思っていた。

そんなふうに開場した時から始まっているので劇が始まる前の舞台の写真を撮ることは禁止で、始まってしばらくして、劇の途中でスマホで撮影していた客をProsperoが注意したので、客席側がはっ、となったら実はその人は役者 – Antonia (Amanda Hadingue)で、あとからステージに乗りこんできてこの劇おもしろくないよ、って文句を言ったりする。他にも客席の上のほうから鼻歌が、と思ったらそれが幻惑するコーラス組になったり、スマホ撮影禁止の立札を持って一番前で立っていたのがFerdinando (Joshua Griffin)だったり、特にナポリの連中はProsperoの島に客席のあらゆるところから勝手に現れたり戻ったりしてて楽しく、彼らは休憩時間もそのまま客席にいたり。

舞台は蝋燭の灯だけで浮かびあがる暗くて狭い船室のようで、壁には博物館のように過剰な装飾と陳列品がみっしり、床にも散乱するいろんなガラクタが転がっていて、Prosperoの船は壁に取り付けられてくるくる回転する模型で、ゴミ屋敷手前のような投げやりな散らかりようを見ると、Prospero (Tim Crouch)は復讐に燃える大公というよりとうに萎れた隠者のようで、彼の傍にいる娘のMiranda (Sophie Steer)も妖精のAriel (Naomi Wirthner)もとてもおとなしくて、異界からも魔法からも遠い、枯れたお茶の間の住人のようにしか見えない。

そういうとっ散らかった状態で、召使のTrinculo (Mercè Ribot)とStephano (Patricia Rodriguez)は語学学校の生徒で周囲と話が通じなくてずっこけてばかりだし、サッカーチームのTシャツを着たCalibanはマレー系シンガポール人の母国語で会話をしてきたり、ポスト・コロニアルというか、ま、そうなんだろうな、っていうかたちでいろいろな面倒とか地ならしが次から次へとせわしない。

原作を読んだり、原作に忠実な他の芝居を見た時に感じられるグランド・ロマン的な何か、がオタクが籠る部屋のような小宇宙へと変わって、それなりの小爆発を見せる - 巨視的な世界観と目の前のみみっちい作為や小芝居的な動き、魔法の力と投げやりでなるようにしかならん、みたいな諦念が交錯して、運命の力、囚われと赦し、のような原作のテーマはどこかに行ってしまったかのように見えるのだが、これはこれでありなのかも、って思えてしまう居座りのパワーというか。

だってそうなんだもの、という諦めたような老人の呟きの外で吹きまくる大嵐(Tempest)、いろんなノイズ、という対比がくっきりと示されて、これはこれでひとつの世界、ひとつの船の行方を追っていて、よいと思った。というかこれもまたShakespeareの広げた風呂敷のうちなんだろうなー、と。

ただ、お片付け&荷物出しの前に見るべき芝居ではなかったかも。

4.06.2026

[log] Paris - Mar 21 2026

パリ一泊の続き、3月21日、土曜日のことを少し。

Musée de Cluny - Musée national du Moyen Âge

クリュニー中世美術館は、パリの美術館の中でもずっと大好きな場所なのでちゃんとお別れしたいな、だったところにたまんない企画展示がくっついていた。

LICORNES !

もともと『貴婦人と一角獣』のタペストリーで有名な館でのユニコーン特集。古代の木彫のからイッカクの角を使った装飾、彫刻、近代の絵画まで、点数はそんなにないが、ユニコーンの特異な容姿に人は何をこめたり現したりしてきたのか、そして全体として悲劇的なトーンが感じられてしまうのはどうしてか、など。 手塚治虫の「ユニコ」はやはりないのだった。

階上の通常展示の方、イタリアの方をいろいろ周って、現地のクラシックなキリスト教美術に触れた上で接すると改めてなにやら迫ってくるコレクションになっているのではないかと思って、タペストリー以外のも含めてじっくり見てみればなんとすばらしいこと、になって抜けられなくなる。

Leonora Carrington

Musée du Luxembourgで見ました。フランスでは初となる彼女単独での回顧展とのことで、126点出ている。Carringtonは数年前に出た彼女のタロットを集めた画集ではまって、その前からRemedios Varoと並んで追ってはいたのだが、纏めて見たいとずっと思っていた。

あと、あまりきちんと想定はしていなかったのだが、↑のクリュニー美術館の中世美術とユニコーンからの流れの見事なこと(自画自賛)。 歩いていける距離なのでこれから行く人は是非(Carrington → クリュニーよりはこっちで)。

テーマ別、年代別の構成だったが、彼女が思春期の頃に出会ったイタリア古典美術やルネサンスへの傾倒から晩年のシュールレアリズムへと至る流れが極めて自然に説明されていくようで、そうするとユニコーンなんてとても架空の生き物とは思えなくなってきてしまうし、他の生き物たちだってたんに絶滅危惧種としてその辺で少し見えにくくなっているだけなのではないか、とか。

CarringtonからRenoirへ。Musée d'OrsayのRenoir展は、2018年の”Renoir père et fils:  Peinture et cinéma”(単独というより父子展)以来だと思うが、今回のは大規模改修前のお蔵出しというかんじだろうか(実際にはお蔵出しを遥かに超える規模だった)。この展示だけ入口もいつものとは別で、川沿いの道をずっと歩いたところから入る。

Renoir dessinateur

企画展示は2つあって、Renoirのデッサンを集めたものがこちら。彼の丸かったり温かかったりするあの面や空間たちがどんな線の重なり、連なり、濃淡、くしゃくしゃから生まれていったのかを並べてみせる、という興味深い企画。既にほぼできあがっているようなパステル画や水彩画から、落書きのようなスケッチから線描まで、創作の秘密、というよりもあれこれ書き散らしたりしつつ、こうやって纏めて固めていったのか、というのがわかる。 というか、シンプルになにこのかわいいの? になるという。それらを嬉々として描いているのがもしゃもしゃしたおっさんである、というとこだけが少し。

Renoir et l'amour  - La modernité heureuse (1865-1885)

『ルノアールと愛』。Renoirの活動の初期20年間に絞って、彼が描いた「愛」や「幸福」をテーマにした企画展示。

『デッサン展』での試行や習作がどんなふうに彼の目の奥に火をつけ、それが極彩色の「愛」として画布の上に結実していったのか、がわかる、というか、オルセーの収蔵品だけではなく、ワシントン - 『舟遊びをする人々の昼食』(1876)やボストン - 『ブージヴァルのダンス』 (1883) - などからも来ていて、そしてここに150歳を迎えるオルセーの『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』 (1876)が加わると、ちょっととんでもないというか、絵巻物のようなドラマに溢れていて、これらを貫いて司る「愛」とは... などとつい考えてしまいたくなるような、そういう密な空気に溢れているのだった。その空気のありようって、そこらの「印象派展」に必ず数点は添えられているルノアールのプランターに植ったような品のよい可愛らしさ、なんてものではなく、獰猛で猛々しく迫ってくるものなのだった - 「印象」なんて柔いものでもなく。

この『愛』の展示は、今年後半にロンドンのNational Galleryにも行くようで、でも『デッサン』展の方までは行かないのだとしたら、オルセーでやっているうちに両方見といた方がよいのかも。

図録は両方の展示で2冊あって、でもそれまでにユニコーン!のとCarringtonのも買ってしまっていたので、1冊だけにした - のをちょっと後悔している。どんなに重くても船荷に突っ込むだけなんだから買っちゃえばよかった。

この後は、午後2時くらいまでゆっくりオルセーの他の展示を見て、朝から十分お腹いっぱいになったので本屋を数軒回って、いつものLa Grande Épicerie de Paris - バターなんて買うもんか - に寄って帰った。

今回Sold outしてて諦めたのはJeu de PaumeでのMartin ParrとLa Galerie DiorでのAzzedine Alaïa's Dior Collectionだった。くやしい。

4.03.2026

[log] Paris - Mar 20 2026

3月20日から21日の間、パリに行ったのでその簡単な備忘を。

パリはとても好きな場所で、今回の2年3ヶ月の滞在中に、さっき数えたら10回行っている。でもほぼ日帰り or 1泊で、そんな短い滞在だから何度も行くことになって、そんな短い滞在だからどんどん好きになってたまらなくなっているのだと思うが、こればっかりはどうしようもない。 帰国してからも雑誌Figaroのパリ特集とか買ってるし。

今回も、時期が時期(引越し荷物出し3日前)なので日帰りでいいや、だったのだが、20日からChristophe Honoré演出による”Bovary Madame”の舞台があるのを知り、チケットを探したら取れてしまったので、1泊しないわけにはいかなくなった。

朝6時くらいの電車 – Eurostarで行くのも北駅に着いてから地下鉄に潜るのも、お手のものでまるで通勤のよう。


Nan Goldin - This Will Not End Well

Grand Palaisで見ました。 その隣の展示”Matisse: 1941 –1954”は未だやっていなかった。
写真ではなく、ビデオ作品の展示で、場内にテントのような部屋が仕切ってあって、それを回っていく、のだが全部見ている時間はないので、”Stendhal Syndrome”(2024)と代表作”The Ballad of Sexual Dependency” (1981-2022)の一部くらい。”Stendhal Syndrome”はオウィディウスの『変身物語』のモティーフをルーブル美術館の所蔵品を中心に重ねつつ、スタンダール・シンドロームを引き起こすに決まっている美の根源に迫っていく。彫刻作品等を切り取る目線、光の具合が絶妙で、Nan Goldinてこんな… って。
”The Ballad of Sexual Dependency”の方はNan Goldinの王道で、夜の光とその下での体の線とか、なんであんなに切なく映えるのだろうか、と。


Visages d'artistes - De Gustave Courbet à Annette Messager

隣のPetit Palaisで見ました。クールベから現代のアネット・メサジェまで、アーティストの顔、貌は、その捉え方はどんなふうに変わっていったのか、を追っていく企画展示。アトリエでの、社交場での、プライベートでの、女性であることによる… など狭いようで十分に広いテーマなので、ちょっと散漫になっていたかも。モダン以降に絞った方がおもしろくなったのではないか、など。


Maison Gainsbourg

パリ行きを企画するたびに、後になって思いだしたり、Sold Outで入れなかったりで宿題になっていた館へ。

Serge Gainsbourgが1969年から亡くなるまで暮らした家と通りの向かいのミュージアム。まずミュージアムの入り口でヘッドセットを貰ってから家の方に向かい、約30分、Charlotteの声に導かれて彼の暮らした痕跡を見て、その後でミュージアムに移動して、彼の業績を辿って、最後にバーがあって、ブティックがあって。

彼とCharlotteが子供の頃に暮らしたお家の中は、黒め暗めのインテリアやいろんな散らかりようも含めてそうなんだろうなー、としか言いようのないモノたちで溢れていて、Gainsbourgだなあ、しかない。住んでいた頃はタバコですごい匂いだったりしたのかしら。

Serge Gainsbourgを聴いていたのは大学生の頃で、来日公演にも行ったし最初にCDボックスセットを買ったのも彼のだったし、そこからなんとなく離れてしまったのはなんでだろうか、などを振り返りつつ考えてしまった。


Clair-obscur

Bourse de Commerceで見ました。ここが持っているPinault Collectionの中から、“Clair-obscur” - 明暗対比というテーマで、光と闇の、その対置とか境目とか変化のありようを捕まえようとしたアーティストたちとその作品群を集めている。

レンブラントやカラヴァッジョが用いた描写の技法としてのchiaroscuro、というよりも、光と闇の成り立ちそのものを見つめるというか、会場にはジョルジョ・アガンベンの『現代/同時代性とは何か』 - “What is the Contemporary?” (2009) からの引用 – 「現代/同時代人とは、自らの時代を見つめる際に、光ではなく影に目を向ける者のことである 云々」が貼られていて、Frank Bowling, Alberto Giacometti, Pierre Huyghe, Bill Viola, Bruce Nauman, Carol Rama, Wolfgang Tillmansなど、懐かしいのも含めて、でもテーマそのものはやや古いような新しいようなー。


Fondation Cartier pour l'art contemporain

移転したカルティエ財団の現代アートのデパート。移転後に初めて行った。こんなのでっかいがらくたまみれなのがルーブルの向かいにある、ってだけでなんか痛快かも。

17:00からパフォーマンスがある、ということで、混んでて座れなくて上からだけど、説明がフランス語なのでさっぱりだったけど、なんとなく見た。

Le Musée Vivant de la Mode, performance quotidienne par Olivier Saillard & invites 

Olivier Saillard本人(たぶん)がマイクをもって解説しながら(←仏語でもちろんわからないので以下憶測→)ミュージアムで展示される服と身につけられて機能する服の違いについて、モデルたちの実演を交えながら、服を着る、羽織る、纏うなど、そこにおける服や布、その形、それを身に着ける際の動作、などについて微分で見ていく。動きも服もシンプルなものばかりだが、こういうのと切り離されたところで発展(少なくとも経済的な)を遂げてきたモードとかクチュールのありようについて。 これ、西洋だとまだ連続性があったり見えたりでおもしろいかもだけど、東洋のもんぺとか割烹着みたいなものから追ってみたら(or 追えない)おもしろくなるのではないか、とか。


[theatre] Bovary Madame

20日の20:00からThéâtre de la Villeで見ました。
フランス語の劇だし、英語字幕なんてつくとは思えないのだが、なんたって「ボヴァリー夫人」だし、演出はChristophe Honoréなので、なんとかなるのではないか(←まったく根拠不明)、と。詳細は追えなかったので、以下、簡単な感想だけ。

ステージはすり鉢状の客席(バルコニーなし)から見下ろす形で、初日だったせいか取れたのは一番後ろの天辺に近いところだった。 上演は2時間半で休憩なし – この長さで休憩なしは珍しい。映画だと思えばよいのか。

原作はGustave Flaubertの”Madame Bovary” (1857)、プログラム冊子はなく”Bovary Madame”のタイトルでChristophe Honoréが作者名となっているスクリプトは売っていたので、翻案もHonoréなのだろう。Emma役は、François Ozon作品によく出ているLudivine Sagnier。

中央には丸い砂場があって、左側には段になった客席のようなのがあり、右側の奥にはピアノがあり、主人公達の内面を掘り下げていく心理劇というよりは玉突きアンサンブルで、常にわいわい人がいて、プロジェクションも使ってサーカスやバーレスクの要素もあって、音楽は村人たちによる楽団の演奏もあればダンサブルなJustin Timberlake もある。 Honoréの映画にもあるミュージカルの要素や指向 - 突然歌いださないわけにはいかない - はストレートに、よいかたちで出ている。

そんななか、EmmaもCharles Bovaryもエキセントリックな加害者だったり被害者だったりで突出して対峙する、ようなことはなく、Emmaは極めてまっとうに自由を希求するひとりの女性としてまっすぐこちらを向いていて、たぶん死なないの。


ここでいったん切ります。

4.02.2026

[theatre] Summerfolk

3月16日、月曜日の晩、National TheatreのOlivier Theatreで見ました。

滞在最後の月となった3月は、演劇を14本見ていた。旅をしているか演劇を見ているか、だった気がする(仕事は..?)

すぐそこで人が動いて交錯して会話をして泣いたり笑ったり抱きあったり殺したり、設定はどうあれ何かが生起している、それで空気が動いてこちらに靡いて場合によっては感動してしまったりする。それはNational Theatre Liveでも映画でも確認できるものるのかもしれないが、いまそこにあって巻き戻しのきかない何かに囚われてしまう、という感覚。(20年前はたしか音楽のライブについて同じようなことを)

原作はMaxim Gorkyの同名戯曲(1904)で、初演も同年。 これをNina RaineとMoses Raineの兄妹(彼らってパステルナークの大姪甥なんだって)が翻案し、演出はRobert Hastie。約3時間で休憩一回。

1898年、まだ駆け出しだったゴーリキーはチェーホフにファンレターを送って、チェーホフは彼に戯曲を書くように勧めて、ゴーリキーは『桜の園』へのオマージュとしてこれを書いた、と。チェーホフが亡くなった1904年を舞台に、チェーホフの世界の住人としか思えないようなひとくせふたくせもある「田舎」のひとたちが動きまわっていく、ある季節。

Olivier Thatreの広いステージを目一杯に使って、大きな柱が巨木のように立っていて、奥のほうには暗い森が広がっている大きな別荘のような邸宅(の骨組)があって、客席からはその全容を見渡せるかんじ。この周りを森の地元民のような銃を抱えた不穏な連中が通り過ぎたり、使用人たちがいたり、そこに泊まりにきた貴族たちとその友人たちが賑やかに、というアンサンブルドラマで、とても全員の顔と名前は憶えていけないが、衣装(かわいくて素敵)と言葉の粗さやトーンで、誰がどんなふうとかエピソードの推移はわかって、その区分けの内側とか複数のつなぎ目でいろんなことが起こったり語られたりしていく。

休憩を挟んだ後半は、小川(本当に水が張ってある)が流れる気持ちよさそうな夏の風景 - まるでマネの『草上の昼食』の景色のなか、貴族たちは変わらずご機嫌で飲んで騒いで叶わぬことがわかっている愛を囁いたり嘆いたり、『真夏の夜の夢』が上演されたり、チェーホフの『かもめ』や『桜の園』のように、消えてしまう、失われるであろうことがわかっている何かを、繋ぎとめることなんてできるわけないので、ひたすら儚いそれらの周りでじたばたしてとほほ、ってなるばかり。当時の紛争やきな臭い話題や雰囲気も漂ってくるが、そういうのは見たくないし、見ない。そんなことより、詩を! 愛を! と訴える。

このような緩い態度が最後に悲劇を… にはならないものの、そういう雰囲気を散らしながら、彼らの夏は、Summerfolkはどこかに去っていって、今がよければそれでいいのか、これが最後の夏になってしまうのではないか。なんてことも誰も気にしない。

未来なんて誰も予測できないのだからきな臭いのからは離れて目を逸らして、今を楽しんじゃってよいのだ、は前世紀末にそういう時期があったからわかるし、今もあれとは違うトーン(戦前)で、正にそんなふうになっているのだと思うが、彼らをそういう態度に向かわせるものはなんなのか、を考えさせる - そこに向かわせるようなセットや衣装やアンサンブルのデザインがすばらしい。彼らの過ぎていった夏が、こんがらがったままいつまでも残る。

みんなどこに行っちゃったんだろうね?

4.01.2026

[film] Project Hail Mary (2026)

もう日本に戻って、仕事も始まっているのだが、しばらくの間は籠の鳥で、体力的にも動きようがないしあらゆるやるきが失せている。しばらくは向こうで見たものでまだ書いていないのがいっぱいあるので、それらを書きながらじめじめめそめそしていきたい。

3月19日、金曜日の夕方、BFI IMAXで見ました。
公開初日ということで早めにこの日のチケットを取っていたのだが、実際には1週間くらい前からどこでもプレビューをやっていて、なんだよそれ?になった。

IMAX 70mmによる上映で、北米以外のヨーロッパで見られるのはここだけ、と。 本編開始前に監督Phil LordとChris Millerによる短い挨拶が流れて、IMAXの70mmってほんとにすごいんだよう、って映画の内容にはほぼ触れずに中学生みたいにふたりで盛りあがるので、少しだけ不安になった。

原作はAndy Weirによる同名SF小説(2021)、脚色はDrew Goddard。音楽はDaniel Pemberton。原作は日本の家に置いてあることは知っていて、けど読んでいない。この作品についてはまず原作から読むべし、みたいなのがあるらしいのだが、そうだったのかどうかは自信がない。

Grace (Ryan Gosling)が宇宙船のなかで目覚めると、他の乗組員は死んでいて、自分も髪と髭ぼうぼうで、でも自分がなんでそこでそんなことをしているのかさっぱり憶えていなくて混乱して死にそうになる。彼が宇宙船のなかを彷徨いながら、自分がなんでこんなことになっているのか、徐々に浮かんでくる過去の断片を繋いでこのミッションのおおもとを探っていくのと、それと並行して航行中に出会ったエイリアンとの交流と、彼とそいつと地球はどうなっちゃうのか、などを行ったり来たりしつつ追っていく。

いろんなテーマがありそうで、人によっていろんな捉え方ができると思うが、同じ原作者で、Matt Damon主演で映画化された”The Martian”と同じように宇宙をたったひとりでサバイヴしていくドラマ、と見た。

どう見ても他から勝手に不条理に押しつけられた運命を受け容れて、できることをがんばって、それをやりとげる - それをどん底からの復活とか危機一髪の大逆転とか、歯をくいしばる仰々しいドラマにしないで淡く柔らかい笑顔でたまに泣いたり空を仰いだりしつつも、どうにか最悪を回避してしまう男がいて、それがRyan Gosling、というのがよくて、ほぼそれだけなのかも。岩蜘蛛みたいなエイリアンは何考えているのかわからないし、「プロジェクトいちかばちか」のプロジェクトを率いるEva (Sandra Hüller)もほぼ感情を表にださないし、そんなノンエモの砂漠でとにかくがんばる男の話。

SF(映画)としてどうなのかはよくわかんなくて、主人公がああいうことになった経緯とか解決に至る道筋に科学的な、SF-空想科学っぽい理屈がまぶしてあれば、だったのだがそれらしいのはなくて、どっちみち死ぬんだからって、特攻隊のように昏睡状態のまま宇宙船に乗せられるし、理屈なんて別になくてもよくて、エイリアンとの意思疎通もすごくいい加減で、すべてはそういうものなのだ/どうにかなっちゃったのだ、で進んで、そこに彼の笑顔が見事にはまって調和して、みんな幸せになるので、それでよいのかも、とか。

音楽は全体にしんみり湿った70年代のようで、たまたま映りこんでしまったかのようなSandra Hüllerがカラオケで歌う”Sign of the Times”になんだかじーんとなった。

3.30.2026

[log] March 30 2026

戻りのヒースローまで来ました。
自分の中で世界が終わる日、として置いていたこの日がついに来てしまったあーあー、しかない。

24日の荷物出しは前のスロットのが押して3時間遅れで始まって、本の箱はSサイズが23個になって、人が詰めたり運び出しを始めるとすべての計画がなし崩しにどうでもよくなっていくのはいつも通りで、全ての運び出しが終わってからDonmar Warehouseに行って演劇を見て、夜に演劇を見るのはこの後27日まで、Harold Pinter Theatre → National Theatre → Young Vicと続いた。28日の土曜日は日帰りでアントワープに”Antwerp Six”の展示を見に行って、日曜日、月曜日(今日)は美術館へのお別れとお買い物で走り回った。

前回の駐在 - やはり英国から帰国した時はコロナ禍の真っただ中で、空港はがらんがら、飛行機も数名しか乗っていない非現実的な世界で、しかもその後に隔離される先がすごく嫌なホテル、というより収容所であることがほぼわかっていたので、なにもかもまっくらで沈んでいた。

今回、すべては元に戻り、街は活気に溢れていて楽しいことばかりらしいのだが、帰る先はコロナ禍の時以上に酷く壊れて腐った独裁国家で、これこれこんなだから嫌だと書くことすらうんざりのあんなところに首に縄をされて引かれていく気分で、でもすべてはこれまでの行状の報いなのだし、殺すならとっとと殺しやがれ、とかたいへん殺伐としている。

1年を過ぎたあたり、手術で帰国したりしていた頃もあったが2年と3ヶ月の間ロンドンにいて、いろんな映画をみて、演劇をみて、音楽のライブにいって、バレエやダンスを見て、新旧のアートに触れ、古書店とか遺跡とか聖堂を回って、その活動は英国の外にも広がって日帰りなどするようになり、そういうのを見たり触れたりそれらに向かって動いている間だけ自分は生かされているのだと思うようになった。 人によってはそれがスポーツだったり仕事だったりするのかもしれない没入できる何かが、これなのかも、って。

休みの日は何をしていますか? とか趣味は? と聞かれた時に、映画でも演劇でも絵画でも、それらの「鑑賞」でも小旅行でもない、いろんなアートを渡りながら自分がこれまで見たり読んだりしてきたあれこれと結んだりどこかで繋がっていたことに気づいたりするのがおもしろく、そのおもしろさに目覚めて没頭している。いちばん近い例えでいえば料理 - 自分で作って自分で食べるを繰り返す - あたりなのかも。うまくいかないこともあるが、うまく纏まったり収まったりしたときの気持ちよさとおいしいかんじったらない。

そしてあの国に帰るのがとっても嫌な理由のひとつは、食材を集めたり新鮮なのに触れる機会がものすごく限定されたり難しかったりできなかったり、輸入する人に勝手に前処理されてしまったりするからなのかも、って。なにこのわけわかんないのは? ってリアルタイムでどきどきしながら毛が逆立っていく感覚はなくて、チケットを手に入れる時点でおおよそわかっていたり、これはぜったい! みたいなのはとうに売り切れてて手に入らなかったり。

そしてロンドンというのは、アメリカからやってくる下品なやつに鼻をつまんだり、ヨーロッパからやってくるものに距離を取りつつも食べようとしたり、そういう放流放牧みたいなことをずっと鷹揚にやってきた場所である、というのが大きかったかも。 そういうところにいられた、というのは幸運だったかも。

幸運といえば、これだけいろんなところ - 最後の方なんてほぼやけくそだったが - を行ったり来たり周ったりして、大きな怪我も病気もなく、階段から落ちたり転んだり倒れたりもなく、パスポートやスマホをなくしたり盗られたりもなく、体が常にぼろぼろである以外はどうにか飛行機に乗れそう、というところまではこれた。ぜったいなにかあると思ったのに。 まだわかんないけど。

今日は晴れて強い日差しのあとに曇って通り雨がきて、寒かったり寒くなかったりの全部盛りで、でもお花はいろんなところで既に、緑たちはこうしたら輝くってうっすらわかりはじめたところ。こんな素敵な季節なのになー。

4月からの新たな年度の新たな仕事、についてはまったくわかんないしどうでもいいし、つまんなかったらこれまでと同様にうろうろするし、忙しくて大変だったら、やっぱり逃げて外に出ていくと思うし。ただどっちにしても数は減ることでしょう。

あーあー

ではまた。

3.28.2026

[film] The Bride! (2026)

3月15日、日曜日の晩、CurzonのAldgateで見ました。

この日は、ビーバー → 塩田千春 → ブラジル → フランケンシュタイン、と流れてめちゃくちゃだった。一日の終わりはこれくらいのにしないと気を失う気がした。ただこのパターン(映画3、美術館2)くらいが自分にとって一番ふつうの土日ぽかったりして、そういうのの最後、でもあった。

脚本、監督はMaggie Gyllenhaal。IMAXで撮られたというのでIMAXで見たかったのだが間に合わなかった。 評判わるくて入っていない、と聞いたのだがどこが悪いのかぜんぜんわからない。

映画”Bride of Frankenstein” (1935)をベースに、その原作であるMary Shelley の小説” Frankenstein; or, The Modern Prometheus” (1818)も当然参照している。音楽はHildur Guðnadóttir。

最初に冥界にいるっぽいMary Shelley (Jessie Buckley)が、シカゴの酒場でギャングのLupino (Zlatko Burić)配下の男たちに囲まれて嫌な思いをしているIda (Jessie Buckley)に目をつけて、彼女に憑りついてめちゃくちゃをしたら、彼女は階段から突き落とされて死んでしまう。(わざとだろうけど、ギャングとヒロインの名前をつなげるとIda Lupinoになる)

他方で銀幕のスターRonnie Reed (Jake Gyllenhaal)に夢中になっているFrankenstein (Christian Bale)は、自分を作ってくれたDr Euphronious (Annette Bening)に花嫁がほしいよう、って頼んで、わかったよ、ってふたりで墓に向かうとIdaの死体を掘り起こして持ち帰り、管に繋いで液体とか電気とかを流し込むとIdaは蘇って、でも自分の名前も含めていろいろ憶えていないらしい。

こうしてふたりというのか二体というのかは、町中でBonnie & Clydeよろしく大暴れ&狼藉を繰り返して、それを警察のJake Wiles (Peter Sarsgaard)とMyrna Mallow (Penélope Cruz)が追っていくのだが…

人造のモンスター(たち)による復讐スプラッターホラー、みたいにすることもできたと思うのだが、そちらには行かずに、出てくる全員が自分はなにをやっているんだろう、みたいな顔で戸惑いつつ暴れて殺しまわる - 評判があまりよくないのだとしたら、この辺の思いきりの悪さ、にあるのではないか。Christian Baleのフランケンシュタインは、こないだのGuillermo del Toroのそれと比べるとシリアスさを欠いておとなしくてぼんくらふうで、The Addams FamilyのLurchのように見えなくもない。Patrick BatemanでありBatmanだった男がJacob Elordiなんぞに負けるわけがないのだが、どうせ僕なんか... って拗ねているようにも見える。

エクスクラメーションマーク付きの”The Bride!” – まず男たちに殺されて埋められて、男の怪物に欲しい、って言われたから勝手に生き返らせられて、よくわかんないけど何? って思ったら「花嫁」だって。”The Bride” ... はなよめだぁ? 本気で言ってんのかてめえ、という怒り、ふざけんじゃねえよ、は尤もだし、爆発頭のDr Euphroniousはおろおろしてばかりだし、Jessie Buckleyひとりが仁王立ちになって吠えていてかっこよい。

同様に人工で再生されて壊れて壊していく女性でいうと”Poor Things” (2023)のBella (Emma Stone)がいたけど、あれよりも原初的でパンク、というか。女は女として生まれるというより女にさせられて、そこでいったん殺されたあとにどこに向かうのか、というとー。

たしかGuardian紙にも書かれていたが、できれば結婚式とか、初夜とか、結婚にまつわるしょうもないあれこれぜんぶを表に出して、制度も含めてぜんぶぼこぼこに叩き潰してほしかったし、Maggie Gyllenhaalが、そしてMary Shelleyがそもそもやりたかったのもその辺だったのではないか、と。

そして、だから、男性客からははっきりと嫌われそうなー (よいこと)。

3.26.2026

[film] O Agente Secreto (2025)

3月15日、日曜日の午後、CurzonのBloomsburyで見ました。

英語題は”The Secret Agent”。もっと早くに見たかったのだが、上映時間がほぼ3時間で、この季節に3時間はやめて、だったのだが、これがオスカーの外国語映画賞を獲る予感もあったし(後で、そうか”Sentimental Value”があったか)、みんながそう思ったのか小さめのシアターは一杯になっていた。

作、監督は”Aquarius” (2016), “Bacurau” (2019) - 共同監督 - のKleber Mendonça Filho。昨年のカンヌでプレミアされて主演のWagner MouraがBest Actor、監督賞やFIPRESCI賞などいっぱい獲っている。

1977年、軍事独裁政権下のブラジルが舞台で、オープニングのモノクロ写真のなかに当時のCaetano VelosoとMaria Bethâniaが一緒に写っている一枚がでてきて、おおーってなったり。

黄色のフォルクスワーゲンのビートルに乗ったArmando(Wagner Moura)が死体の転がっている不吉なガソリンスタンドを抜けたりして、カーニバルで湧くレシフェの街で、義理の両親の下で暮らしている息子に会う。Armandoの母は亡くなっていて、そこには家主のDona Sebastiana (Tânia Maria – あのTânia Maria!)のもと、いろいろ裏がありそうな人達が匿われるように暮らしていて、でも最初のうちは彼がなにをする/してきたどういう人物なのか等は一切明かされず、カーニバル前の熱くて不穏な空気と現れるひと全員がやばい風に見える建物の中と外、通りの様子を映しだしていく。

雰囲気としてはほぼ同じ時代(こちらは1971年)の失踪を描いた”I’m Still Here” (2025)に近いが、具体的な事故や事件をきっかけに動いていくわけでもないので、あれよりも敵味方の見分けがつかないし、カーニバルなので何がどこから飛んでくるのかわからない異様で濃密な空気感に溢れている。

もうひとつ、当時公開されたばかりの映画”JAWS”の怖さが海辺の街をざわつかせ、Armandoの息子も映画を見たくてじたばたしているなか、実際に仕留められたサメの腹から毛むくじゃらのヒトの脚が出てきて更に恐怖を煽っていたり。

やがてArmandoは元研究者で、Marceloという偽名で市のID管理をする部署で仕事をしながら、反体制のネットワークの人々と会っていくなか、傲慢な企業オーナーによって職を追われた自身の過去、それに絡んで腐敗した警察署長とその部下たちが自分を追っていること、等が明かされていって、最後の方は殺し屋が。

約50年前の歴史、というよりある人物が本当のところ何者で、どういう目的をもって、どこで何をしていたのか、それだけを追うだけなのに、の難しさが、母の消息を追うArmandoだけでなく、現代からArmandoの消息を辿っていく学生の目も加わって現代の歴史、というほどのものではない消息とか痕跡、のようなものはどうやってあぶりだされるのか、或いは独裁政権下で反体制だった人達はそんな扱いとならざるを得ないものなのか、などを、カーニバルと”JAWS”の熱量、湿気のなか、ひとつひとつ置いていって、でっかいタペストリーが作られるのを見るようだった。

最後の方で、殺し屋がArmandoを追っていくシーンの街角や屋内や床の様子の恐ろしく息が詰まる描写のすごいこと。

90年代の中頃、リオとサルバドールのカーニバルに行ったことがあって、リオでひと晩見た後で寝ないでサルバドールの方に移動して、いまあれをやったら簡単にしぬと思うが、その時に感じた祝祭の勢いの裏側にあるひんやりとした狂った何か、暗闇に潜む止まらないなにかが少し写っている気がした。カーニバルの頃の街って、そんなふうで。

あと、でも、当時のブラジルがどんなだったか、一切知らない人が見たらどう見えるのだろうか、とか。