4.21.2026

[film] 鬪ふ男 (1940) - etc.

4月12日、日曜日の午後、国立映画アーカイブの特集『発掘された映画たち2026』で見ました。

MoMAの“To Save and Project: The MoMA International Festival of Film Preservation”でも、BFIの”Film on Film Festival”でもレギュラープログラムの”Projecting the Archive”でも、古い映画を見よう/見たい、っていう熱と人気はずっと絶えない。映画史に残っていてDVDや配信で簡単にアクセスできるクラシックの他に、どこかの何某から意図的に埋められたり事情があってなかったことにされていた作品や作家は星の数ほどあって、その背後にはそれなりのストーリーがある、ということを知ってしまった。そうなった事情は写真家や他のアーティストのそれよりも複雑のようで、当時の社会や政治の事情にも割と関係があって – これって歴史を学ぶ、知るということの根幹でもあって、なんでそういうことが必要かというと(以下略)。 もちろん、シンプルに見ておもしろいのがいっぱい、っていうのが大きいのだが。

で、これが日本映画、ということになると戦時下の検閲とか家父長制下のげろげろが根こそぎたっぷり出てきて、なんだぜんぜん変わってないじゃんこの国、とか。例えば。

2022年のこの企画で『花ちりぬ』 (1938)、『夜の鳩』(1937)、『むかしの歌』 (1939)などを見てから、石田民三もっと見たいになっていた。映っているものは古い昔の情景だったり人々だったりなのに、撮り方や迫り方がとてもおもしろい。

鬪ふ男 (1940)

冒頭、当て逃げした車がざーっと逃げて、それを車で追っていくカーチェイスがあって、話はそこで逃げた男の方には行かず、そいつをぶん殴って捕まえた安吉(岡讓二)の方に行って、その顛末を横で見ていた留造(廣澤虎造)が久しぶりだなあ、って運命的な再会をして、ふたりは靴磨きをしながら一緒に暮らし始める。 そこでやくざに絡まれていた女性(花井蘭子)とその弟を守ったりしているうちに、北海道に残したまま生き別れになっている妹のことを思いだして、徴兵に出た後 - 戦争なんてなかったかのようにあっさりパスされ - 故郷に戻ってみると…(まるで西部劇のような画面構成がかっこよくて別の映画のよう)

そんな「鬪ふ男」の半生記が浪曲師になろうとしている廣澤虎造のラップみたいな唸り節と共に綴られて、廣澤(広沢)虎造(2代目)といえばマキノ雅広の『次郎長三国志』の歌い手で、あれも「鬪ふ男たち」のお話しだったねえ、とか。


男子有情 (1941)


上のに続けて見ました。

自由民権運動が活発になった明治の頃、街頭に立って民の抵抗歌「演歌」を歌って聴衆を煽ったりして日銭を稼ぐ仲良し学生3人組がいて、彼らのリーダーの島田(岡讓二)にはおなじ街角で物売りをしながら思いを寄せるしげ代(花井蘭子)がいて、島田らは勤勉で優秀で塾長からも期待されていたのに、しげ代が巻きこまれたやらしいやくざとの間で起こった殺人事件をひっかぶるかたちで島田は牢屋に入ってしまい、最後は法廷ドラマになるの。

どちらの映画でも人として正しくあれ、みたいなことが強く謳われつつも、政治や国際情勢みたいなところには一切触れない(触るべからずの)ような、なんとも微妙な目線の不均衡が感じられて、そこを地味な低声の音楽で歌ってごまかすような。ちょっと昔の、誰も文句の言えない至近距離の道徳美徳を説いて讃えてそっちに目を向けさせて、ところで日本が世界でなにをしていたか、どう見られていたか、等についてはとにかく触れない。なんかどこかで見たようなー。

2本とも、岡讓二が花井蘭子を助ける、その横で男が男を歌う熱いドラマで、うざい湿気がそんなになかったのはよかったかも。 でも石田民三は女性を描いたドラマのほうが好きかも。

4.20.2026

[film] Caught (1949) - etc.

3月31日に帰国して、4月3日の金曜日に帰国後最初のライブに行って、4月4日の土曜日に帰国後最初の映画を見た。割とゆっくりめだが、この先はゆるゆると老いて腐っていくだけなので焦らずに見たいものを粛々と見ていくの。

そういう時は、CMも予告も入らないシネマヴェーラと神保町シアターと国立映画アーカイブは(あとラピュタも?)が救いで、とにかくここに駆けこんで暗闇にうずくまって何本か見ること。 日本の映画館のCMと予告って、なんであんなにぐったりさせられるものが多いのだろう。 CM予告は英国のシネコンにもあるけど、日本のほどストレスを感じさせるものではない(言葉だけではない気がする)。

とにかくそんな時に、シネマヴェーラの特集 - 『映画は女で作られる マックス・オフュルス特集』ほどうまくゆるく嵌って救ってくれるものはないの。

Caught (1949)  - 魅せられて

4月4日、土曜日の昼に見ました。
見たことないと思っていたが、最初の雑誌をめくっているシーンで、あ、ってわかる(映画のタイトルは憶えられないがファーストシーンだけは憶えているタイプ)。

原作はLibbie Blockの小説”Wild Calendar” (1945)、これをArthur Laurentsが脚色している。
モデルをしながら花嫁修業学校に通い、玉の輿を夢みるLeonora (Barbara Bel Geddes)が押しつけられたパーティ券でビリオネアのSmith Ohlrig (Robert Ryan)と出会う。セラピストとのセッションで君に結婚は無理だ、と言われてムカついていたOhlrigはそれへの反発でLeonoraにプロポーズして結婚してやって、ふたりにとってwin-win関係のはずだったのだが、夫はとてつもないDV野郎だった… (現代用語がわかりやすく簡単にはまってしまう)

ロングアイランドの豪邸を飛び出した彼女は境遇を隠してダウンタウンの貧しい地区で小児科医をやっているLarry Quinada (James Mason)の医院で事務のバイトを始めて、最初は怒られてばかりだったが努力してQuinadaとも仲良くなっていって、他方でOhlrigはLeonoraの居場所をつきとめて連れ戻し、Leonoraの正体を知ったQuinadaもロングアイランドに向かうのだが、そのとき彼女は妊娠していて…

ちっとも古くない、こてこてどろどろ、英米を代表する粘着パラノイア系男優が激突する、怪獣映画みたいなサイコメロドラマで自分の身とは一切関係ないので安心して見ていられる。Robert RyanとJames Masonが延々罵りあい殴りあうところをもっともっと見たかった。


Le Plaisir (1952)  - 快楽

4月5日、日曜日の昼に見ました。
英語題は”House of Pleasure”。原作はモーパッサンの短編3つ - "Le Masque" (1889), "La Maison Tellier" (1881), "Le Modèle" (1883)をもとにした3つのエピソード。これもやはり見たことがあるやつだった。邦題がシンプルすぎるのがよくないと思うの。

Le Masque
ダンスホールで仮面を被って踊っていた男が具合悪くなって倒れて、そこにいた医師も一緒に彼の自宅までついてきてもらう。仮面を外した男はよれよれの老人で、家にいた老妻は昔はこれでもプレイボーイでしたの、って語るの。酸欠で死にそうになるまで仮面をして繕ってモテようとする男性の悲哀が妻の口から語られて、いろいろしょうもない。

La Maison Tellier
小さな海辺の町で、その町の男たちみんなが通うJulia Tellier (Madeleine Renaud)の娼館があって、ある晩から突然休業になってしまったようなので行き場を失った男たちはぶつくさ言い合うのだが、彼女は従業員たちを連れて姪の初聖体拝領式に出席するため列車で田舎に向かっていた。田舎の駅で一行を迎えたJuliaの兄Joseph (Jean Gabin)はそのなかにいたRosa (Danielle Darrieux)に夢中になるし、村人は派手でおおらかな女性たちにびっくりなのだが、メインはあくまで聖体拝領式で、その時はみんなでしみじみ聖なる何かに感動して、一行が再び町に戻ると、男性たちも大喜びで戻ってくるのだった。

Le Modèle
若い画家とモデル(Simone Simon)が恋におちて、一緒に暮らして将来を誓いあうのだが、やがて画家の心は離れて友人の家に身を寄せてしまう。そこにやってきた彼女は飛びおりる!っていって本当に飛びおりちゃって、後悔した画家はずっと車椅子の彼女の面倒を見ることになる。

若い頃の画家が絵を売りにいったサロンに、こないだオルセーで見たルノワールがあった、気がした。

最初のエピソードは老いた男性を女性が見ている話しで、最後のそれは動けなくなった女性を男性が見ている話しで、どちらも若い頃からの業を引き摺っていて、その中間のエピソードでは、聖体拝領式以降の色恋が盛っていくもようを描いていて、タイトルは「快楽」。誰ひとり悪くない。 死は見え隠れしているけど、ここにはいない。


Madame de... (1953)  - たそがれの女心

4月6日、月曜日の晩に見ました。 これはさすがに見たことあった。

原作はLouise de Vilmorinの同名小説(1951)。
ベル・エポック時代のパリに関係の冷めきった夫婦 – Louise (Danielle Darrieux)と伯爵で軍の将軍でもあるAndre (Charles Boyer)がいて、遊びすぎて金がなくなったLouiseが夫から貰ったイヤリングを売ったら、それが宝石商~夫~夫の愛人を介してコンスタンティノープルまでいって、それを手に入れたイタリアの外交官であるDonati男爵(Vittorio De Sica)とLouiseとの出会いを経てぐるっと戻ってくるのだが、その軌跡が決闘沙汰にまで繋がっていく。

「呪いのイヤリング」と言いたくなるところだが、中心にいるのは自身の苗字を言えずに”...”となってしまう彼女の祈りと苦しみ、その悲劇、あとは将軍のクズっぷりと。

上の“Le Plaisir”が、死に向かう一歩手前までを描いているとするなら、こちらは死につながるチェーン(リング)に託された何かを映しだして、どっちにしても楽なことはない。なのになんで人は恋におちてしまうのか、など。

4.19.2026

[film] ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。(2026)

4月9日、木曜日の晩、TOHOシネマズ日本橋で見ました。
暇な老人たちがみんなこれを見てなんか振り返ったり語ったりしているようなのでー。

原作は写真家、地引雄一の自伝的エッセイ『ストリート・キングダム 東京パンク / インディーズ・シーンの記録』(1986)、監督は田口トモロヲ、脚本は宮藤官九郎、音楽は大友良英で、70年代後半の「東京ロッカーズ」を中心とした東京の「パンク」シーンの立ち上がりのようなところを、その場に居合わせて出会ったり記録したりしていく「ちゃんとした」人 - 写真を撮るユーイチ(峯田和伸)の目を通して綴っていく。

映画としては可もなく不可もなく、ちょっと社会の本流から外れたところに潜む危なそうなやばそうなテーマや人々をおもしろおかしいアンサンブルの人情噺に、うまく(NHKぽく)まとめていると思った。130分は長いけどそれだけ多くのバンドや集まっていた人たちをカバーしようとした結果だし、キャストもちゃんとしているようだし(知らない人たちばかりだったが)。

“Based on true events”なので、出てくるバンドや人物にはモデルがいて、わかる人にはすぐそれと特定できるようになっていて、そういうのも含めて幹になっているストーリーやメッセージのところは崩しようがないし強いし、その上であれはあんなんじゃなかった、とかあんなのもいたよあったよ、って当時を知る人たちが周りでいろんなことを語ったりしている。

映画は冒頭、80年代初、学祭でのスターリンのライブの狼藉を描いてそこに居合わせた主人公が、なんでここまでこんなことに… って回想をはじめる。70年代終わりの日本の田舎で、Sex Pistolsを聞いてこれだパンクだ! って東京に出てきてリザードのライブで開眼して、彼らの写真を撮り始めると、その流れで東京ロッカーズのシーンと出会って、いろんなことが起こっていく。

Sex Pistolsを聞いてすげー、ってなる辺りは同じだしわかるけど、それで走りだして東京に行って、リザードでおおってなるのはどうなのか? でそこから先はあまりよくわからなかったかも。はじめの頃のリザードのライブは凄かったのだ、と言われたらそうだったんですね、しかなくてそれで終わりになる。

自分にとってのパンクはまず音で、言葉なんてどうでもよくて、あの当時の日本のそれは音としてぜんぜん響いて来なかったし、「東京ロッカーズ」なんて、そんなふうなラベルを貼ってる時点で、バンドたちでわらわら寄って集っている時点でそんなのパンクでもなんでもないじゃん、て思った。ライブに通ってのめり込むにしても、東京に出てチケットを買う、それを繰り返す余裕なんてなかったし、その反対側で聴かれるのを待っている音、読まなければいけない本はいっぱい積まれていたし、歌詞のことを言うならAmnesty International Reportをそのまま曲にのせたThe Pop Groupの方に惹かれて、異文化にある彼らがどういう文脈で、どこに針を通してなにをパンクさせようとしたのか、まずそっちだったし。

あとは全体に漂うださいかんじ。「東京ロッカーズ」にしても少し後の「めんたいロック」にしても、なんでそんなふうにわざわざださくするの? 売るためのラベルなの? だったし、そこにいる人たち、みーんな揃ってずーっとタバコ吸ってて煙いしすぐアルコールに行くし、そんなのにお金と時間を使いたくなかったのよね。

最後にはアケミの言うように『自分の音を鳴らせ』で、それが正しいのかもしれないが、自分の音なんてそう簡単に見つかるものではないので、ずっと旅を続けているわけだし、そこに終着点があるとも思えないのだが、なんでそこに「キングダム」なんてものを持ちだす必要があるのか。”No Future”ではなかったのか。

いまの推し活とか承認欲求の話にまで繋がる、という話も出てきたところで、あーこれはやっぱり自分とはぜんぜん関係ない宇宙の話しだったかも、と思った。

それでもパンクはあったし、あるから。

4.17.2026

[music] Hey Mercedes, etc.

ここから日本に帰国後に見たものを書いていく。のだが、いまに至るまでずっとへろへろの状態なので記憶が薄れかけたり欠けたりしているものもある、ことがわかった。

Hey Mercedes

4月3日、金曜日の晩、西永福JAMで見ました。
体力との相談もあったので当日券で、西永福ってどこ?とかぶつぶつ言いながら現地に着いて、ああまたドリンク代を強制徴収される変なシステムの日々が始まるんだわ、って憮然としつつとりあえず。

Hey Mercedesを最初に見たのは2001年のNY(911が起こる前)、“Bleed American”を出してブレークするのが誰が見たって明らかだったJimmy Eat Worldの前座で、前座ではあったが彼らはものすごくよくて、その記憶を持って数年後に手にした“Loses Control” (2003)は名盤で、今回のツアーでもオープニングで演奏される"Quality Revenge at Last"は、たまにいまだに頭の奥で鳴り響くことがある。

演奏はところどころよたったりしていたが、メロと骨格が確りしているギターバンドだし、こちらの疲労倦怠に寄り添ってくれて気持ちよかった。今だと「エモ」に分類されてしまうのかもしれないが、Jimmy Eat Worldもそうだったけど、当時はふつうにハードコア/オルタナの流れに置かれていたよね – って誰に確認してよいのかわかんないけど。


Pearl Jam: Let's Play Two (2017)

4月4日、土曜日の夕方、新宿の109シネマズで見ました。4000円… ポップコーンがついていたらしいが、そんなのいらない。 ここはやはりクラッカージャックを出すべきだった。

Eddie Vedderの来日記念(ああ20日いけないよう…)の、Pearl Jamのライブドキュメンタリーフィルム(同名のアルバムもリリースされている)。前日のライブハウスに続いての目を覚まさなきゃいかんシリーズ。 Pearl Jamのこういうのなら絶対安全確実なので。

2016年、MLBのChicago Cubsが71年ぶりにNational Leagueのチャンピオンとなり、108年ぶりにWorld Seriesの勝者となった、その年の8月20日と22日にWrigley Fieldで行われたライブを記録編集したもの。フィルムだとライブの進行とCubsの躍進が並行して進んでいって、チームの優勝の様子とライブが重ねられているように見えるが、時系列としては別でライブの方が先 – というのは見た後で気付いた。

バンドのライブフィルムというよりは、Chicago Cubsの呪いも込みの苦難の歴史と幼い頃からの球団のファンであるEddie Vedderのチームとベースボールに捧げる思いが綴られ、その強い思いが歌となって球場をまるごと揺さぶっていくさまが感動的に描かれている。それはライブの感動とはまた別の、日本にもそういう人はいるけど、野球に人生をやられてしまった人のそれで、そういうのも含めての”Let’s Play Two”だと思ったのだが、自分は野球とかスポーツにやられたことがないので、「別の」ではないのかもしれない - ぜんぶひとつに繋がっているのかもしれない、とか。

ライブの合間にCubsの野球やファンのエピソードが挟まっていくので、歌と演奏に引っ張られてのめり込んでいくタイプのライブ・フィルムではないのだが、ワールドシリーズの大逆転の盛りあがりとEddieの個人史が重ねられていくことでPearl Jamの曲の揺るぎないパワーが際立つ - “Given to Fly”とか - そういう構成になっていたような。 で、やっぱり彼らのライブに行きたくなる。


J. Robbins

4月13日、月曜日の晩、今回の彼のライブの最終日に新代田Feverで見ました。
自分も帰国して2週間が経ったので、もうリカバーできているだろう、と思うのはあまい。ぜんぜんだめだわ。

開演時間は18:30、とあって、こういうのはふざけんな、って20:00くらいに行くのがふつうなのだが、今回はオープニングがtoddleなのであればしょうがない。新代田にどうやって行くのか、とかで少し迷ったりして着いたら少し始まっていた。 

これで何度目になるのか知らんが、とにかくtoddleは自分にとっては特別で、あのギターの絡みって世界一だと思う。
そしてこれに続くDirt CopyもStorm of Voidもそれぞれまったく異なる粒度硬度のやかましさで圧してきてすばらしい。
Dirt CopyはNAHTのひとのだったのかー、って気付いた途端にいろいろななつかしさがー。

最初の3バンドのすべててんでばらばらの鳴り、ルックスもチューニングもアンプもぜんぶ違うありようが素敵ったらなくて、J.Robbinsの、あの3ピースのシンプルでシャープな佇まいがフロアの人々も含めて包摂する、音の指向とは真逆のすばらしくきちんとばらけてて、でもそれがマイナスにならない、理想的な雰囲気に満ちたライブだった。

そういうなかで最後止まらなくなってあと一曲、を何度も繰り返しつつがりがり鳴らしていくJのギターが最後まで残って、それはもうFugaziのそれと同じく自分にとっては空気と同じようなものだと。(ないと死んじゃう)

Jawboxとの最初の出会いは、1994年、MTVが深夜にやっていた“120 Minutes”っていう番組で、そこで"Savory"を聴いて、翌日の会社の帰りに“For Your Own Special Sweetheart”のCDを買って帰った。この頃の新しい音って、ほぼそうやって手に入れていたねえ。

それにしてもー、Hey Mercedesは25年前、J.Robbinsは30年前の出会いになるのかー。
こんなことになるとはねえー..

でもやっぱり3時間を超えて立っているのはつらい。 老人にもやさしいライブスペースを作ってほしい。

4.16.2026

[log] London - others part 3

ロンドンの最後の方に見てまだ書いていなかったやつなど。これで終わり。

Orwell: 2+2=5 (2025)

3月29日、日曜日の晩、Barbican Cinemaで見ました。

これがロンドンで見た最後の映画で、ふつうの新作はいろいろありすぎて決められず、BFIではFlareの映画祭でそれどころじゃなさそうだし、この辺になった。映画については見ようと思えばどこでも、の感覚があるのでー。

制作、監督、脚本はJames Baldwinのドキュメンタリー”I Am Not Your Negro” (2016)のRaoul Peck。 Damian LewisがGeore Orwellの声を含めたナレーションをやっている。

George Orwellの小説“Nineteen Eighty-Four” / “1984” (1949)を執筆した当時のOrwell自身についてのドキュメンタリーと、何度か映画化されてきた小説の大枠の紹介と、その内容が予言していた現代の独裁者(いっぱいいる)、飼いならされてしまう官僚や市民たち、そのツールとしてのAIの台頭などについて、そんなに緻密に追っているようには見えないのに、あまりに今にフィットしていて戦慄、のさまを並べていく。タイトルの”2+2=5”は、上が「2+2=5だ」って言ったらそれは2+2=5になるのだ、なるよな? という管理統制の理不尽を示す例で、いまやシャレでもなんでもなくなっていることは衆知のとおり。

George Orwellって、日本では”1984”と“Animal Farm”くらいのイメージだと思うが、英国ではそれに留まらない幅広い著作がある国民的な作家であることをペンギン古書収集活動で知ったりしたのだが、幼少期の彼やビルマで警察官をしていた頃のこと、晩年のジュラ島での生活のことなども含めて紹介されると、改めて取組みたくなるのと、繰り返し挿入される過去の”1984”の映画化作品で主人公のWinston Smithを演じたPeter CushingやJohn Hurtの像と、お話しとしての怖さ – ここの怖さやばさって、相当普遍的なものになっている気がするのだが、それなのになんで? というのがぞわぞわ来て、ああ”2+2=5”をソフトに強要されて誰もなんとも思わないあの国のあの社会に戻されるんだわ、って改めてうんざりぐったりした。


Michaelina Wautier

3月29日、日曜日の午後、Royal Academy of Artsで見ました。

2020年にNational Galleryで企画展示が組まれたArtemisia Gentileschi (1593-1652)と同時代を生きたベルギー(当時スペイン領)の女性画家Michaelina Wautier (1614–1689)の特集企画。Artemisiaがそうだったように、絵描きとしての技量が優れていたが故に作品が家族の男性(Artemisiaの場合は父、Michaelinaの場合は兄)に帰属するものとされてしまい、結果として美術史のなかに埋もれていた、という。 ほかにもこんな女性たちがどれだけあるのか、って思うが、とにかくこうして見れるだけでも。

この時期の絵画の技術的な巧い下手はわからないのだが、並んでいる肖像画も話題になっている”The Triumph of Bacchus” (1655–59)も絵としての迫力は十分で、これなら男性作家の間に埋められてしまうの無理ないかも、とか、他方で肖像画の髪の膨らんだかんじとか表情の柔らかさは、やはり女性のそれかも、とか。いやそんなことより男性・女性ではなく、Michaelina Wautierという画家との出会いを歓ぼうではないか、って言いたくなった。

Rose Wylie The Picture Comes First

上でMichaelina Wautierを見た後に、2回めのRose Wylieを見る。

彼女と最初に出会ったのは2018年、Serpentine Sackler Galleryでの”Rose Wylie: Quack Quack”で、後で図録を取り寄せるくらい好きになって、昨年、ベルンの Zentrum Paul Kleeでの”Rose Wylie. Flick and Float”で再会して、今回が3度目。何度見てもなんとも言えずすばらしい後ろ頭の魔法。

Royal Academyの1回めに見にきた時に、限定でサイン入り図録を売っていたのを入手できたのは嬉しかった。


Fairy Tales

3月30日、月曜日のお昼にBritish Libraryで見ました。

British Libraryが”Fairy Tales”をテーマにした企画展示をやるのであれば、古今東西、少なくともイングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドの辺りのいろんな収蔵資料をざーっと並べてめくるめく多層多重世界のパノラマを見せてくれるに違いない、って期待して行ったら、子供と親向けに見て楽しんでもらう体験型のアトラクションに近いやつだった。 アリスとかアラジンとか竜とか魔物、それなりのスターたちと元の文献などは揃って展示されているのだが、それよりも着せ替えしたり潜りこんだり隠れたり杖を振り回したり、童話やおとぎ話の世界はこういうもんなんだよ、っていうのを一通り体験できるようになっていて、大人も子供も遊園地のように楽しんでいて、彼らにとっては遊園地だろうが、自分にとってはまるで動物園だった。

その晩に地獄に向かって飛びたつことがわかっていたので、最後にせめてファンタジーを、と思ったアテは外れて、場内にはやかましいのに疲れた人はここから抜けれます、の矢印もあったりして、そこまではしなかったけどちょっと残念だった。


最後のお買い物(でっかいの)はふたつ。どちらも古書で、古書と言っても手が届かないすごいのではないし、収集家のひとから見たらどうってことないやつなのだろうが、自分が持っているなかでは一番高価なやつでどうしようか3ヶ月くらい考えていた。 これらを含む6冊くらいの宝物は船荷には乗せずに手持ちで運んで、まだ包みを解いていない。中で腐ったりしていませんようにー。

4.15.2026

[log] London - others part 2

ロンドンの最後の日々 – でないものも含まれるが - に見たあれこれを。

Turner & Constable (2026)

3月22日、日曜日の晩、CurzonのVictoriaで見ました。
Tate Britainでの展覧会 – “Turner & Constable”の展示内容を補足してくれるドキュメンタリー映画。
どこのどなたがやっているのか知らないが、Tateとかで大きな展覧会があると、”Exhibition on Screen”という展示内容を補足してくれる1.5時間くらいのドキュメンタリーが作られて、映画館でもものすごく限定で公開されたりする – たぶんどこかの配信だとずっと見れるのかも。(日本だと日曜美術館?)

1775年生まれのターナーと1776年生まれのコンスタブル、Royal Academy of Artからほぼ同時期に世に出た19世紀初の英国風景画の巨匠、互いを意識していたに違いない同時代のふたりの作風や表象の共通点や相違をキュレーターや現代のアーティストが明らかにしていく。

展覧会の構成に沿って、最初のコーナーにあるふたりの若い頃の自画像から入って、ふたりの絵画の明らかに異なる点を強調した後に、それぞれの意匠が時代を経てどう変わって、違っていったのかを追っていく。

時代背景のようなところでは、ナポレオン戦争によってヨーロッパ、特に18世紀のグランドツアーが廃止されたことで、イギリス国内の風景に向かわざるを得なかった、それがふたりの初期の作風や方法論に影響を与えた、というキュレーターによる指摘が興味深かった。それでも、それにしてもあんなふうに違ってくるものなのかー。

これを見た上で、3/22にもう一回、Tate Britainに行って実際の展示を見たのだが、改めてコンスタブルの画面手前の傷と奥に広がっていく遠さ、ターナーの渦を巻く黄色について確かめた。


Tracey Emin - A Second Life

3月22日、Tate Modernで見ました。
新国立美術館のYBA展でも(たぶん)取りあげられているTracey Eminの回顧展。

ロンドンの美術館やギャラリーを回っていると、彼女の作品は本当にいろんな場所、テーマの企画でちょこちょこ見ることができて、どれも傷だらけのぐちゃぐちゃで痛ましいなー、と思いつつ、そんな痛みこそが彼女の作品のコアにあることはわかっていたので、今回の回顧もそれらに晒されたしんどいものになるのかも、と思っていたらそんなでもなかった。

若い頃のどろぐしゃの恋愛遍歴から中絶、がんの宣告〜治療まで自分の身体に起こったことすべてを曝け出してぶちまけるデッサン、手紙、映像、キルト、血だらけだったりほぼゴミだったりのオブジェ、散らかりまくりの部屋、そして絵画まで、ハッピーで穏やかに眺めていられる作品はほぼなく、彼女の身に降りかかった困難や苦悩に引き摺りこまれ匂いを嗅がされるような。でも他方で、それらを離れて眺めているような感覚 – それは彼女が自身に向きあっているそれでもあるような – があって、タイトルである”A Second Life”というピンクの流線形のネオンと共に、次のステージが見えてくるようだった。

90年代の、誰もが「リアル」であろうとして、べったり共時の共感を求めてきたあのうっとおしい時代を抜けてここまで来た、来させたもの、それに要した時間ってなんだったのか、ということを改めて考えたり。


Lucian Freud: Drawing into Painting

2月14日、National Portrait Galleryで見ていたやつ。

Lucian Freudの、精緻にみっしり描きこまれた肉の絵画(Painting)、その中心にあるいろんな人物の描写、構成は、どんなスケッチ、デッサン、落書き等から出来あがっていったのかを見ていく。幼少期のクレヨン画から美術館の古典絵画を模写したものまで、彼の創作のプロセス、その秘密を知る、という点では興味深いのだが、そんなに明確にBefore → Afterが示されているわけではないので、ドローイングはドローイングで雑多でおもしろく、絵画は絵画でブリリアント、でしかなかったりするのが少し残念だったかも。あと、Guardian紙のレビューにもあったように、Freudにしてはそんなにすごい絵が並べられているわけではない、というところもちょっと惜しいかも。 Freudの熱狂的なファンなら別かもしれないけど。


Catherine Opie: To Be Seen


3月30日の昼、帰国する前にNational Portrait Galleryで見ました。

アメリカの写真家Catherine Opie (1961-)の肖像写真を中心とした、イギリスでは初となる規模の企画展示。

90年代以降に撮られた陰影強め、皺や傷跡、タトゥーもはっきり深く濃く定着させる絵画の強さをもった肖像写真たちで、被写体は自分の家族や友人、ロスのクィアコミュニティやサーファー、アウトサイダーたち、彼女自身の丸い大きな背中に彫られた、子供の描いた家族の絵 – 彫り傷で血が滲んでいる “Self-Portrait/Cutting” (1993)も。彼らははぐれ者ではなく、写真の中心に、”To Be Seen” - 「見られるべき者たち」 として堂々とそこにいて、像をつくる。ダイバーシティなんて当たり前のことなのに、と明確には訴えていないがトランプ政権に対する批判として写真が、というよりそこに映りこんだ人々が強く語りかけてくるような。

写真家として彼らにできることって何かあるのか、と問いながら写真の可能性を掘っていくような。


ここでまた切る。あとひとつくらい書けるかしらん。

4.14.2026

[log] London - others part 1

ここからしばらくはロンドン最後の方の日々で見て、ぜんぜん or 十分書けていなかったのを並べていきたい。

Schiaparelli: Fashion Becomes Art

V&Aで3月28日から始まった展示で、3/29の土曜日に見てきました。 Elsa Schiaparelli (1890-1973)の回顧展。

ダリやコクトー、ピカソやリー・ミラーといった同時代のアーティストとのコラボ、ロブスターや電話機や骸骨やいろんな動物たちを服やアクセサリーに織り込んで服飾をアートやオブジェの域まで高めた、自分にとってはデザイナーというよりはアーティストに近いイメージの人で、見どころもその辺になるのか。アクセサリーやアーカイブも含めて約400点が出ている。 展示の後半には今のSchiaparelliのCreative DesignerのDaniel Roseberryによるブランドの現在をうまく散りばめて、死んでいないのだアピールもあったり。

イタリアに生まれ、20代でロンドンに来て、30代で20~30年代のパリに移り住んで、ライバルとなるCoco Chanelと出会い..  展示ではあの時代のパリの空気感が充満する前半がすばらしいのと、彼女の服を身に着けた映画スターたち – Katherine Hepburn, Marlene Dietrich, Joan Crawford, Josephine Baker, Diana Vreelandらの肖像がたまらない。あの時代の彼女たちが着ていた、という強さ。

前の日に見た”The Antwerp Six”の対極にあるようで、Coco Chanelがやったことと並んで、これもまた革命のようなものだったのかもしれない、とか。MET Galaを始め、レッドカーペットでの奇抜さを競うあれらの素地を作った、という功績。これらって作る人、着る人は楽しそうで、見る側はよくもまあ、とか着るの面倒くさそうだな、になって、そんな風に見る - 常に纏うファッションと飾るアートの境界を考える/考えさせるような形でのファッションのありようを作った人、ということでよいのか。


Seurat and the Sea

3月22日、Courtauld Galleryで見ました。

Georges Seurat (1859-1891)は、『グランド・ジャット島の日曜日の午後』 - “A Sunday Afternoon on the Island of La Grande Jatte” (1884-1886)の、あのでっかいやつ一枚で十分と思っていたのだが、昨年9月のNational Galleryでの企画展 - “Radical Harmony - Helene Kröller-Müller's Neo-Impressionists”がすばらしく、少し認識が変わって、点描というスタイルは結構すごいのでは、って思った。

そういう流れを受けての、Seuratが描いた海、海辺の絵を集めた展示。
Seuratは31歳の若さで亡くなるまでに45点の絵画を描いていて、ここではそのうち英仏海峡の海を描いた風景画 - 23点の油彩と3点の素描が展示されている。 こうやって並べられているものを見ていくと、ポストも含めた印象派とは全く異なる視角で光や知覚に関わる可能性を追求していたことがわかる。光やモノが網膜上に置かれるその「印象」ではなく、物理的な質量感やそれを構成する粒粒として迫ってくるその力学を追っていたということが、岸壁や海面の隆起や反射と共に見えてくる。 それは印象派の「印象」としてざっと一瞬で把握できるものではなく、じーっと見ていると静かに波打つように形作ってくるようにやってきて、そんなふうに海が迫ってくるさまが圧倒的で、わーって。

時間があったらもう一回見に行きたかったのだがー。


A View of One’s Own: Landscapes by British Women Artists, 1760-1860

Courtauld Galleryの小さな展示室でやっていた小企画。
今年はTate Britainでの”Turner & Constable - Rivals & Originals”という、なかなかすごい、歴史に残るような展覧会が開かれた年でもあったが、こういう展示もあってよいの。

18世紀から19世紀にかけて、男性画家ばかりが風景画を描いていた頃、同様に風景画を追求していた女性画家もいて、そんな10人を紹介している。油彩の大きな絵はなくて、サイズも小さめの水彩画、ペン画、素描が中心だが、どれも素敵。荒ぶる自然のなかにあって迫ってくる風景、というよりは穏やかで虹が出ていたり、楽園のような広がり - 迫ってくるというより奥に広がっていく - のなかにあって、そうだよなー、っていうのと、作品がずっと息子のものとされていてこないだ改めて発見された(ひどい話)Elizabeth Battyとか。


ここで一旦きる。 だらだら書いていこう。
 

4.13.2026

[log] Antwerp - Mar 28 2026

3月28日、土曜日に日帰りでアントワープに行ってきました。

本帰国の前々日になーにをやっているのか、なのだが、最初、たしか1月中旬頃に”The Antwerp Six”の企画展示がある、というのを見て、あー行きたいなーってなり、でも開始日は3月27日からで、もし行けるとしたら28の土曜日だけよね、ところでEurostarだったらどんなふう? って時間と値段(変動する)を見てみたらそんな高くなかったので、えいっ、て取っちゃって、後で展覧会のチケットも取って、どうしてもだめだったらしょうがない、にしておいたら結果どうにかなった。

不安要素は、Eurostarでブリュッセルまで行って、そこから約1時間、電車でアントワープに向かうのだが、週末の電車は平気で遅延やキャンセルが起こるので、たどり着けない戻れないの事態になることだった。例えば戻りのEurostarに乗れなくなって現地一泊とかになったらまじでとってもやばい。(だからふつうの子はそんなことしないのね)

アントワープは2度目で、前回はアムステルダムから行って大聖堂とか主なところは行っていた、と思っていたのだが結果としてはやっぱり足らないかんじになったかも。

The Antwerp Six @ MoMu - ModeMuseum Antwerpen

昼の12:00のチケットを取っていて、Eurostar →電車→メトロと乗り継いで到着したのは12:15くらいだった。よかった。

アントワープ王立芸術学院のファッション学科で学んでいた6人が1986年のBritish Designer Showでインターナショナルデビューをしてその名で呼ばれるようになってから40周年を記念した、アントワープでは初となる彼らの、グループとして、というより各デザイナー全員を束ねた回顧展。今みたいにファストファッション/ハイブランドの両極のビジネス軸でしかファッションが語られなくなるより前、80年代のロンドンを向いた若者の誰も彼もがカラスの真っ黒ばっかりだった時代にThe Antwerp Sixとして、あるいはデザイナー個人の名で呼ばれた彼らは、革命などは起こさなかったのかもしれないが、とにかくかっこよかった。 あの時代にかっこいいー、って言われるのって、本当にかっこよかったんだからね。 というのが個人的な概観。

最初の方のコーナーには、ものすごくでっかいファッション年表とその頃流行ったもの、などがべたべたかつ詳細に網羅されていて、追っていったら軽く1時間使いそうだったので、この時点で図録購入をなんとなく決めて先に。

時代を概観したあとで、6人個々の展示コーナーを順に巡っていくかんじ。
Dirk Bikkembergs(スポーツ中心のメンズ)→ Walter Van Beirendonck(かわいい) → Dirk Van Saene(ぐるぐる回っていくコンベアー仕掛け)→ Dries Van Noten(やっぱりすごい)→ Marina Yee(ファッションではなく、彼女が暮らしていた部屋の再現。ちょっとしんみり) → Ann Demeulemeester(やっぱりかっこいい)、など。

よくもわるくも統一感ゼロでばらけていて、そりゃそうだろうなーになるのだが、やはり際立ったのはDries Van NotenとAnn Demeulemeesterのクラシックの風格とはまた違う、永遠のモダーンとしか言いようのない輝きなのだった。あの当時の音がいつ聴いてもいつまでも古くならないのと同じような艶と鋭さと。

始まって2日目だったせいかものすごく混んでいたが、時間に余裕のある人は1日たっぷりいられるのではないか。

図録は€70で結構重くて、船荷を出した後なのでこれを日本まで持って帰るんだぞそれでよいのか?(って後になって思った)のだが買っちゃった… (いま、ビニール剥がしてない状態で床に転がっている)

他の企画展示として、パレスチナの民族衣装を並べた”Embroidering Palestine”があった。軍服ではなく、女性や子供たちの服。こんなに素敵な布や服、これらを纏って継いできた文化のある人々を… って改めて。

そして常設展示コーナーの充実ぶりも見事だった。徒に時代を遡らず地域を広げず、現代ヨーロッパを中心としたテーマ別展示のシャープなこと。

お昼はお芋のフライをかっこんで(ここのフライはなんでおいしいの?)から、美術館ふたつ。


Koninklijk Museum voor Schone Kunsten Antwerpen

アントワープ王立美術館。前回来た時は改装中だったのか、今回が初めて。MoMuから20分くらい歩いた。
モダンサイドと古典サイドがあって、最初にJames Ensor作品が並ぶモダンの方から入って上に昇って、しかしどういう設計なのか階段だらけでなかなか古典の方にいけず消耗した。あんな入り組んだ構造、美術館にはいらないー。

古典サイドは、Rubensの諸作はもちろん、Jan van Eyck『泉の聖母』 (1439)とかJean Fouquet 『聖母子と天使たち』(1452)とか、冷たいんだかあったかいんだかわからない聖母や天使がうじゃうじゃいてたまらなかった。


Museum Plantin-Moretus

王立美術館から再び20分歩いてプランタン=モレトゥス博物館。

16世紀の出版業者クリストフ・プランタンの家屋と印刷工房、中庭など一式がプランタン=モレトゥスの家屋・工房・博物館複合体としてそのまま博物館になっていて、これらがまるごと世界遺産に指定されている。世界最古の印刷機やそこで使われた印刷用活字一式が一揃いある、と。

部屋じゅうに紙の印刷物と紙ごみを積みあげ、埋め尽くし、これらに潰されるなら死んでもよい覚悟系の(たぶん)変な宗教にやられてしまった者にとって、そういうのを世界中に広めた起源のひとつとなる館なので、お参りしないわけにはいかない。昔の家屋なのでところどころ暗く、1階2階があって不思議な形に入り組んで、木がみしみしぎしぎし鳴って、頭がおかしくなりそうになったら中庭にでて一息ついたりした、のだろうか。稀覯書もいっぱい(そりゃあるだろ)あって、これらに比べたらまだまだ、って思ったので、なんの効果もなかった。なにを期待していたんだろうか。

ここまでずっと歩いて結構疲れたので、地下鉄の駅までゆっくり歩いて戻ったのだが、途中に世界中の雑誌を集めた書店(なんておそろしい)があったり、Demianていうなかなかの古書店があったり、ブリュッセルもアントワープも書店は相当にやばいのだった。

帰りは問題なく帰れた、というか電車の椅子に座ってからの記憶がほぼないくらい。

4.12.2026

[theatre] Broken Glass

3月27日、金曜日の晩、Young Vicで見ました。
これがロンドンで見た(今のところ)最後の演劇となっている。

最後になにを見ようか、の候補はいっぱいあったのだがあんま考えても時間は過ぎていくばかりだしそもそも考えている時間ないしで、えいっ、って決める。この日はロンドンの勤務場所の最後の日でもあったので、もう少し明るいのにすれば… という声もあったのだが、そんな場合か、って。

Young Vicにしたのはここに面した通りの反対側に演劇関係の本中心の古書店(その奥にはリハーサル用のスタジオもあるみたい)があって、ここににゃんこがいるから、でもあった。猫にお別れを言いたかったの。

原作 (1994)はArthur Millerの同名戯曲で、初演も同年。舞台は客席に向かってせり出している長方形の舞台の三方を囲んで見下ろす形。奥にはドアとその向こうはブースのような廊下が通っている。メインのスペース - 事務所のような待合室のようなリビングのような - には大量の新聞や雑誌 - 当時のではなく現代の - が積みあがり、散らかっている。演出はJordan Fein。休憩なしの約1時間50分。

1938年の11月、ドイツ全土でナチスによるユダヤ人による排斥・襲撃が表面化したKristallnacht - the Night of Broken Glass - の報道記事がアメリカでも出た頃、ブルックリンに暮らすユダヤ人夫婦 - Sylvia Gellburg (Pearl Chanda)とPhillip (Eli Gelb)がいて、Sylviaは突然歩くことができなくなってしまう。

怪我をしたわけでもぶつけたわけでもなく、明らかに心因性の、おそらく一時的な障害と困難、その要因や対処を巡ってPhilipと医師 (Alex Waldmann)が互いの意見や憶測をぶつけ合い、でも正解や正しい対処法が見つかるわけでもないしSylviaは快方には向かわないのでPhilipはことあるごとに誰に向かってなのかぶち切れ激昂し、激しい怒鳴りあいにまで発展したりして、まずはそんな外面だけはよい夫の日常的な抑圧と支配がベースにあるのだな、というのは容易に推測できる。

その上でSylviaの抱えこんだ疑念や不安 - ナチスはなぜあんな酷い行動に出たのだろうか、なぜあれを誰も止められなかったのだろうか、それはアメリカのブルックリンに暮らす我々のところにも波及してこないだろうか、そうならない保証はどこにあるのか、そうなった時にどこに助けを求めるべきなのか、ユダヤ人コミュニティとして行動を起こすべきではないのか、なんで誰も何もしないで平気でいられるのか、などなどがじわじわと表に出てきて、こうして提示される不安 - 踏みだすことも、逃げることも、闘うことも、こんなふうに動けなくなることすら - できない/許されない - そのありようは彼女の身体を縛って覆って、その姿は客席という安全圏からそれを眺めている我々「観客」にもその態度や認識を問うてくるようだった。

そして当然のように頭にはガザで起こっていることが浮かんできて、それはArthur Millerが得意としてきた社会的な衣を纏いつつ顕現してくる有害で邪悪で狂った男性性、といういつものテーマをどこかで薄めてしまっているのかも知れないが、それくらいの強さで今の我々を傷つけているのだと思うし、なによりも今この時にだって人が殺され続けているのだ、ということを否応なく突きつけてくる。地理名としての「ガザ」なんて一言も出てこないのだが。

そしてその中心にいるふたりの、自分ゴトと他人ゴトの境を見境なく切り裂いていく切迫した演技はすばらしいと思った。

4.10.2026

[theatre] Les Liaisons Dangereuses

3月26日、木曜日の晩、National Theatre内のLyttelton Theatreで見ました。
まだPreview中だがそんなことは言っていられない。

ロンドンでいろんな劇場に行ったが、なんだかんだ、ここのLyttelton Theatreがサイズも含めて一番見やすくて好きだったかも、ってしみじみした。

原作はラクロによる同名の書簡体小説(1782)- 『危険な関係』。

1988年のStephen Frears監督による映画 - ”Dangerous Liaisons”の際にも使われたChristopher Hamptonによる舞台用の脚色(1985 - 初演も)をベースにMarianne Elliottが演出している。前日に続いてこれも休憩入れて約3時間。

Glenn Close, John Malkovich, Michelle Pfeiffer, Uma Thurman, Keanu Reevesらが出演した映画版は役者たちの演技が誰も彼もすばらしく展開も目が離せなくて何度でも見れるくらい好き。
今回の舞台版ではGlenn Closeが演じたメルトゥイユ侯爵夫人をLesley Manvilleが、John Malkovichが演じたヴァルモン子爵をAidan Turnerが演じている。

舞台の上方、左右奥の背景には官能的な女性の絵(日本だったら春画か)がでっかく帯のように広がり囲んでいて、その下方はミラーになって歌謡ショーのステージのよう。舞台は舞踏会のフロアだったりいろんな衝立てやドアが右左から運ばれてきたり、冒頭は正装したモデルのような男性たちがゆっくりと歩きまわる中、奥の扉からゴージャスなドレスを纏った女性たちがわらわら現れて見事な群舞を披露して、そこに先の男性たちが捕食するかのように群がる。その中心にいるのが深紅のドレスのLesley Manvilleで、見るからに女帝の貫禄で周囲を圧倒し、みんなが平伏している。

ストーリーは、メルトゥイユ侯爵夫人が、かつての愛人でもあったヴァルモン子爵を操って、貞淑なトゥルヴェル夫人(Monica Barbaro)と若くて純情なセシル (Hannah van der Westhuysen)を誘惑させて、みんな揃って転げ落ちていく様子を高みの見物して楽しもうとする。原作の書簡体小説の受けて返しての一拍入るその感覚はうまく生かされていて、場面場面の展開を追うのが楽しくて、気が付けばトゥルヴェル夫人は泥沼に落ちて、セシルは天に舞いあがって、それをどんなもんだい!って腕組みするヴァルモン子爵と、更にそれを高いところから眺めてにやにやするメルトゥイユ侯爵夫人ができあがる。

すべての立ち位置が揺るぎなく立ちあげられて彼らを身動きできないようにする前半までと、これらの縛り縛られが始めた側の思うようにはいかない「危険」なものへと変貌し、解れたり崩れたり手に負えなくなっていくさまを描くのが後半で、セシルは妊娠してしまうし、ヴァルモン子爵は狂っていくトゥルヴェル夫人を本気で恋してしまい、それを察知したメルトゥイユ侯爵夫人は嫉妬の沼に落ちて…

前日の”Romeo & Juliet”の死をも恐れずに天に昇ろうとするピュアな彼らと比べると(比べるな)、そこから約200年が経っているとは言え、なんというどろんどろの地獄絵図であろうか、って呆れてしまうのだが、これはこれで十分に生々しく、ゴージャスなセットやコスチューム、時折挿入されるダンスシーンも含めて、死と隣り合わせの恋愛遊びのデンジャラスな、でも知らんがなの刹那に溢れていてたまらなかった。

映画版でKeanuが演じたヴァルモンに決闘を申し込むセシルの許嫁の彼だけ、もうちょっとぴりっとかっこよかったらなー。

それにしても、下着1丁になって踊ったりするLesley Manvilleのものすごいこと。彼女のお芝居は2018年に”Long Day's Journey into Night” - 共演はJeremy Irons、2024年に”OEDIPUS” – 共演はMark Strong、と見てきたが、今度のが一番強烈だったかも。

4.09.2026

[theatre] Romeo & Juliet

3月25日、水曜日の晩、Harold Pinter Theatreで見ました。
今回の滞在期間中に見た演劇のうち、5本目となるRomeoとJuliet。なんか流行っているのだろうか?

“Stranger Things”のSadie Sinkと映画”Hamnet” (2025)の劇中、グローブ座で上演される”Hamlet”でHamlet役を演じていたNoah Jupeの競演。 原作(1596)はShakespeare、演出はMark StrongとLesley Manvilleによる”Oedipus”がおもしろかったRobert Icke、設定やコスチュームは現代のそれになっていて、タイトルの”&”はハートマークを模していて、客層もやはりたいへん若い。それもあるのか上演前からスマホ撮影に対するチェックと指導は厳しめ。 休憩を挟んで約3時間。

配役は若いぴかぴかのふたり vs 汚れて醜い一族の大人たち、が強調されているようで、シンプルな黒の背景にふたつの勢力の対立構造がざっと紹介された後、中央に置かれた大きな白いベッドの布団からJuliet (Sadie Sink)がひょこっと顔を出してふぁーって気持ちよさそうな伸びをすると、それだけで客席から溜息がもれたりする(Paddingtonミュージカルの登場シーンと同じ)。そして少しの間を置いて、同じベッドからRomeo (Noah Jupe)も姿をあらわす。場所は別々であっても、そんなふうにどこかでなにかが同期している予感のようなものがふたりを近づけていく。

舞台の上にはデジタルの時計板が表示されていて、前日の土曜日頃~キャピュレット家でふたりが目線を交錯させる日曜の晩からふたりが遺体となって発見される水曜日の朝まで、たった4日間の時間を刻々と刻んでいく。で、場面によっては同じシーンの時間を巻き戻して、もしこの場面がこう進行していたら… という仮設定シーンも重ねて上演されたりする – 例えばもしあの晩ふたりが出会わなかったら、とか。でもこの悲劇には関しては、どれだけの「もし」を重ねたとしても、誰もが最後にああなってしまうことを知っているし、それ以外の結末なんてありえないし、みんなそれを見にくるものなので、あんなふうにもしもあの時… を重ねていくことにどんな意味があるのか、はちょっと思った。(ひとりひとりが後でしみじみ振り返って想像すればよいことでは - 実際にそうするし - とか)

ただ、これをやることで、ふたりのあの出会いがどれだけの奇跡の上に重ねられたとてつもない奇跡であったのか、はくっきりと強調されていたかも。

光と闇をコントラスト強めに交錯させていく演出とライティングは、ふたりが相対するやくざでバカでしょうもない世の中やそこに潜むガサツな大人たちを劇画のような暗さのなかに浮かびあがらせ、その反対側でまばゆい、止まらない愛を辺りかまわずぶちまけていくふたりの姿を照らして、近づいてくる最後の時までの切なさ辛さときたらたまんなくて、ふたりはそれに応えるかのように羽を目一杯広げて飛びたとうとして、その眩しいことったら。

これまで見た同作の翻案ものとしては、やはりBaz Luhrmannの映画版 - “Romeo + Juliet” (1996)のClaire DanesとLeonardo DiCaprioの、あのふたりを思い浮かべてしまう。グランジの泥のあとに現れた彼らの瑞々しさと、それに続くケミストリーと、それが壊されていく、でもぜったい壊されないが故の痛みがどこまでも伸びていって、トラウマになりかねないやつ。

あの映画ほどの悲痛なかんじはなく、他の舞台にあったような悲劇一直線の生真面目な暗さもそんなになくて、とにかくふたり一緒にいられれるのなら、あとはなにもいらない! のつんのめった明るさがふたりをたったふたりにする。それだけで十分、になってしまう、そんな舞台だった。Sadie Sinkの輝きを見てほしい。


Bruno DumontのRomeo and Julietにインスパイアされたという新作、見たいような見たくないような…

4.08.2026

[theatre] Evening All Afternoon

3月24日、火曜日の晩、Donmar Warehouseで見ました。

この日は午後から航空便と船便の荷物出しがあって、13時開始予定だったのが前のが押してるとかで3時間ほど後ろに倒れて、でも17時前にはどうにか終えて、スーツケースなどに詰めた生き残り荷物と一緒に車で西の方のホテルに移動してからCovent Gardenに行ってBleecker Burgerでバーガーとフライとシェイクを頼んでなんとか生き返って、その隣でこれを見た。

上演前は、Joni Mitchellの”Both Sides Now”が繰り返し流れていて、ステージ上は手前に椅子がある白の簡素なリビングのよう。奥に小物が並べられた棚があって斜めから照らされるモノトーンの照明が柔らかく影絵の効果を生み出している。

原作はNYのAnna Zieglerによる新作(これがプレミアとなる)の2人芝居、演出はDiyan Zora。1時間半、休憩なし。

Delilah (Erin Kellyman - こないだの映画 - “28 Years Later: The Bone Temple”(2026)での演技が印象に残った、これが彼女の演劇デビュー作)はジャマイカ生まれの母を亡くして、彼女の父は7歳年上のイギリス人女性のJennifer (Anastasia Hille)と結婚した。彼女は地味で穏やかな典型的なイギリス人で初婚で、Delilahは最初からふてくされていて、彼女のなにもかもが気にくわないらしい。

ブルックリンで育ったアメリカン娘と午後の紅茶とその時間を愛する穏健なブリティッシュ女性が最初から意気投合するはずもなく、愛する母を失ったばかりのDelilahからすれば、再婚によって父までも奪われたかのようで、でもそれらをぶつけることができる相手がいるとすれば目の前のJenniferしかいない。

Jenniferからすれば、これまでしたことがなかった結婚(生活)に加えて、自分が持つことになるとは思っていなかった子供 - 娘までついてきて、いかにもイギリス人な辛抱強さと諦念と母親的なおせっかいでもってどうにかできる、と思っているような(はっきりそう語るわけではないが、その態度物腰、眼差しと自分の知るイギリス人の範囲ではそうかな、って)。

劇は最初から敵意&憎悪丸出しのDelilahとそれをぜんぶ律儀に正面から受けながら少しでも自分のことをわかって貰おうと静かに優しく語りかけていくJenniferと、でもそれらのコミュニケーションがぜんぶ空振りしたり宙に浮いてしまったり、舞台の中央にはゆっくり回転するサークルがあって、その端と端に立ったふたりが距離を縮めることなく同じ軌道を回り続けていく姿が描かれていく。

やがて静かな語り、そのやりとりの中で明らかにされていくJenniferの過去、彼女の抱えてきた喪失と失意の物語がDelilahのなにかに触れて、めでたく分かり合えて結ばれる - そんなわけはないのだが、それぞれの影がふたりの間にひとつの、いくつかの像を切り結んでいく様が刻々と描かれていく。対話やそこに向かう姿勢がどう、という以前のところで、そこにいるひとりの人はそれぞれいろんなものを背負ってそこに座っている、その息遣い、それがもうひとりに触れて何かが起こるその不思議が舞台の上に置かれているようだった。

この静かな紛争の第三の当事者であるDelilahの父親、Jenniferの夫がここにいないことについて、人によっては違和感を感じるのかも知れないが、これは原因や和解を模索するお話しではない気がして。

客席には女性がやや多めで、最後の方はすすり泣く声があちこちから聞こえて、そうかも、って思った。アメリカで上演しても同じ反応になるのかしら?

4.07.2026

[theatre] The Tempest

3月22日、日曜日の午後、グローブ座にあるSam Wanamaker Playhouseで見ました。

船荷出し&引越し2日前、最後から2番目の日曜日、こんなとき、日曜の昼間にやってくれるマチネは大変貴重でありがたいったらない。

原作(1611–1612)はShakespeare、翻案、演出、主演はTim Crouch。
シアターに入ると、役者たちは既に床に寝転がったり、座ってぼーっと宙を眺めていたり、後でCaliban (Faizal Abdullah)であることがわかる彼なんか、蝋燭ひとつひとつに地味に火を灯したりしている(このシアターの照明はぜんぶ蝋燭なので準備がいる)のでシアターの裏方の人だと思っていた。

そんなふうに開場した時から始まっているので劇が始まる前の舞台の写真を撮ることは禁止で、始まってしばらくして、劇の途中でスマホで撮影していた客をProsperoが注意したので、客席側がはっ、となったら実はその人は役者 – Antonia (Amanda Hadingue)で、あとからステージに乗りこんできてこの劇おもしろくないよ、って文句を言ったりする。他にも客席の上のほうから鼻歌が、と思ったらそれが幻惑するコーラス組になったり、スマホ撮影禁止の立札を持って一番前で立っていたのがFerdinando (Joshua Griffin)だったり、特にナポリの連中はProsperoの島に客席のあらゆるところから勝手に現れたり戻ったりしてて楽しく、彼らは休憩時間もそのまま客席にいたり。

舞台は蝋燭の灯だけで浮かびあがる暗くて狭い船室のようで、壁には博物館のように過剰な装飾と陳列品がみっしり、床にも散乱するいろんなガラクタが転がっていて、Prosperoの船は壁に取り付けられてくるくる回転する模型で、ゴミ屋敷手前のような投げやりな散らかりようを見ると、Prospero (Tim Crouch)は復讐に燃える大公というよりとうに萎れた隠者のようで、彼の傍にいる娘のMiranda (Sophie Steer)も妖精のAriel (Naomi Wirthner)もとてもおとなしくて、異界からも魔法からも遠い、枯れたお茶の間の住人のようにしか見えない。

そういうとっ散らかった状態で、召使のTrinculo (Mercè Ribot)とStephano (Patricia Rodriguez)は語学学校の生徒で周囲と話が通じなくてずっこけてばかりだし、サッカーチームのTシャツを着たCalibanはマレー系シンガポール人の母国語で会話をしてきたり、ポスト・コロニアルというか、ま、そうなんだろうな、っていうかたちでいろいろな面倒とか地ならしが次から次へとせわしない。

原作を読んだり、原作に忠実な他の芝居を見た時に感じられるグランド・ロマン的な何か、がオタクが籠る部屋のような小宇宙へと変わって、それなりの小爆発を見せる - 巨視的な世界観と目の前のみみっちい作為や小芝居的な動き、魔法の力と投げやりでなるようにしかならん、みたいな諦念が交錯して、運命の力、囚われと赦し、のような原作のテーマはどこかに行ってしまったかのように見えるのだが、これはこれでありなのかも、って思えてしまう居座りのパワーというか。

だってそうなんだもの、という諦めたような老人の呟きの外で吹きまくる大嵐(Tempest)、いろんなノイズ、という対比がくっきりと示されて、これはこれでひとつの世界、ひとつの船の行方を追っていて、よいと思った。というかこれもまたShakespeareの広げた風呂敷のうちなんだろうなー、と。

ただ、お片付け&荷物出しの前に見るべき芝居ではなかったかも。

4.06.2026

[log] Paris - Mar 21 2026

パリ一泊の続き、3月21日、土曜日のことを少し。

Musée de Cluny - Musée national du Moyen Âge

クリュニー中世美術館は、パリの美術館の中でもずっと大好きな場所なのでちゃんとお別れしたいな、だったところにたまんない企画展示がくっついていた。

LICORNES !

もともと『貴婦人と一角獣』のタペストリーで有名な館でのユニコーン特集。古代の木彫のからイッカクの角を使った装飾、彫刻、近代の絵画まで、点数はそんなにないが、ユニコーンの特異な容姿に人は何をこめたり現したりしてきたのか、そして全体として悲劇的なトーンが感じられてしまうのはどうしてか、など。 手塚治虫の「ユニコ」はやはりないのだった。

階上の通常展示の方、イタリアの方をいろいろ周って、現地のクラシックなキリスト教美術に触れた上で接すると改めてなにやら迫ってくるコレクションになっているのではないかと思って、タペストリー以外のも含めてじっくり見てみればなんとすばらしいこと、になって抜けられなくなる。

Leonora Carrington

Musée du Luxembourgで見ました。フランスでは初となる彼女単独での回顧展とのことで、126点出ている。Carringtonは数年前に出た彼女のタロットを集めた画集ではまって、その前からRemedios Varoと並んで追ってはいたのだが、纏めて見たいとずっと思っていた。

あと、あまりきちんと想定はしていなかったのだが、↑のクリュニー美術館の中世美術とユニコーンからの流れの見事なこと(自画自賛)。 歩いていける距離なのでこれから行く人は是非(Carrington → クリュニーよりはこっちで)。

テーマ別、年代別の構成だったが、彼女が思春期の頃に出会ったイタリア古典美術やルネサンスへの傾倒から晩年のシュールレアリズムへと至る流れが極めて自然に説明されていくようで、そうするとユニコーンなんてとても架空の生き物とは思えなくなってきてしまうし、他の生き物たちだってたんに絶滅危惧種としてその辺で少し見えにくくなっているだけなのではないか、とか。

CarringtonからRenoirへ。Musée d'OrsayのRenoir展は、2018年の”Renoir père et fils:  Peinture et cinéma”(単独というより父子展)以来だと思うが、今回のは大規模改修前のお蔵出しというかんじだろうか(実際にはお蔵出しを遥かに超える規模だった)。この展示だけ入口もいつものとは別で、川沿いの道をずっと歩いたところから入る。

Renoir dessinateur

企画展示は2つあって、Renoirのデッサンを集めたものがこちら。彼の丸かったり温かかったりするあの面や空間たちがどんな線の重なり、連なり、濃淡、くしゃくしゃから生まれていったのかを並べてみせる、という興味深い企画。既にほぼできあがっているようなパステル画や水彩画から、落書きのようなスケッチから線描まで、創作の秘密、というよりもあれこれ書き散らしたりしつつ、こうやって纏めて固めていったのか、というのがわかる。 というか、シンプルになにこのかわいいの? になるという。それらを嬉々として描いているのがもしゃもしゃしたおっさんである、というとこだけが少し。

Renoir et l'amour  - La modernité heureuse (1865-1885)

『ルノアールと愛』。Renoirの活動の初期20年間に絞って、彼が描いた「愛」や「幸福」をテーマにした企画展示。

『デッサン展』での試行や習作がどんなふうに彼の目の奥に火をつけ、それが極彩色の「愛」として画布の上に結実していったのか、がわかる、というか、オルセーの収蔵品だけではなく、ワシントン - 『舟遊びをする人々の昼食』(1876)やボストン - 『ブージヴァルのダンス』 (1883) - などからも来ていて、そしてここに150歳を迎えるオルセーの『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』 (1876)が加わると、ちょっととんでもないというか、絵巻物のようなドラマに溢れていて、これらを貫いて司る「愛」とは... などとつい考えてしまいたくなるような、そういう密な空気に溢れているのだった。その空気のありようって、そこらの「印象派展」に必ず数点は添えられているルノアールのプランターに植ったような品のよい可愛らしさ、なんてものではなく、獰猛で猛々しく迫ってくるものなのだった - 「印象」なんて柔いものでもなく。

この『愛』の展示は、今年後半にロンドンのNational Galleryにも行くようで、でも『デッサン』展の方までは行かないのだとしたら、オルセーでやっているうちに両方見といた方がよいのかも。

図録は両方の展示で2冊あって、でもそれまでにユニコーン!のとCarringtonのも買ってしまっていたので、1冊だけにした - のをちょっと後悔している。どんなに重くても船荷に突っ込むだけなんだから買っちゃえばよかった。

この後は、午後2時くらいまでゆっくりオルセーの他の展示を見て、朝から十分お腹いっぱいになったので本屋を数軒回って、いつものLa Grande Épicerie de Paris - バターなんて買うもんか - に寄って帰った。

今回Sold outしてて諦めたのはJeu de PaumeでのMartin ParrとLa Galerie DiorでのAzzedine Alaïa's Dior Collectionだった。くやしい。

4.03.2026

[log] Paris - Mar 20 2026

3月20日から21日の間、パリに行ったのでその簡単な備忘を。

パリはとても好きな場所で、今回の2年3ヶ月の滞在中に、さっき数えたら10回行っている。でもほぼ日帰り or 1泊で、そんな短い滞在だから何度も行くことになって、そんな短い滞在だからどんどん好きになってたまらなくなっているのだと思うが、こればっかりはどうしようもない。 帰国してからも雑誌Figaroのパリ特集とか買ってるし。

今回も、時期が時期(引越し荷物出し3日前)なので日帰りでいいや、だったのだが、20日からChristophe Honoré演出による”Bovary Madame”の舞台があるのを知り、チケットを探したら取れてしまったので、1泊しないわけにはいかなくなった。

朝6時くらいの電車 – Eurostarで行くのも北駅に着いてから地下鉄に潜るのも、お手のものでまるで通勤のよう。


Nan Goldin - This Will Not End Well

Grand Palaisで見ました。 その隣の展示”Matisse: 1941 –1954”は未だやっていなかった。
写真ではなく、ビデオ作品の展示で、場内にテントのような部屋が仕切ってあって、それを回っていく、のだが全部見ている時間はないので、”Stendhal Syndrome”(2024)と代表作”The Ballad of Sexual Dependency” (1981-2022)の一部くらい。”Stendhal Syndrome”はオウィディウスの『変身物語』のモティーフをルーブル美術館の所蔵品を中心に重ねつつ、スタンダール・シンドロームを引き起こすに決まっている美の根源に迫っていく。彫刻作品等を切り取る目線、光の具合が絶妙で、Nan Goldinてこんな… って。
”The Ballad of Sexual Dependency”の方はNan Goldinの王道で、夜の光とその下での体の線とか、なんであんなに切なく映えるのだろうか、と。


Visages d'artistes - De Gustave Courbet à Annette Messager

隣のPetit Palaisで見ました。クールベから現代のアネット・メサジェまで、アーティストの顔、貌は、その捉え方はどんなふうに変わっていったのか、を追っていく企画展示。アトリエでの、社交場での、プライベートでの、女性であることによる… など狭いようで十分に広いテーマなので、ちょっと散漫になっていたかも。モダン以降に絞った方がおもしろくなったのではないか、など。


Maison Gainsbourg

パリ行きを企画するたびに、後になって思いだしたり、Sold Outで入れなかったりで宿題になっていた館へ。

Serge Gainsbourgが1969年から亡くなるまで暮らした家と通りの向かいのミュージアム。まずミュージアムの入り口でヘッドセットを貰ってから家の方に向かい、約30分、Charlotteの声に導かれて彼の暮らした痕跡を見て、その後でミュージアムに移動して、彼の業績を辿って、最後にバーがあって、ブティックがあって。

彼とCharlotteが子供の頃に暮らしたお家の中は、黒め暗めのインテリアやいろんな散らかりようも含めてそうなんだろうなー、としか言いようのないモノたちで溢れていて、Gainsbourgだなあ、しかない。住んでいた頃はタバコですごい匂いだったりしたのかしら。

Serge Gainsbourgを聴いていたのは大学生の頃で、来日公演にも行ったし最初にCDボックスセットを買ったのも彼のだったし、そこからなんとなく離れてしまったのはなんでだろうか、などを振り返りつつ考えてしまった。


Clair-obscur

Bourse de Commerceで見ました。ここが持っているPinault Collectionの中から、“Clair-obscur” - 明暗対比というテーマで、光と闇の、その対置とか境目とか変化のありようを捕まえようとしたアーティストたちとその作品群を集めている。

レンブラントやカラヴァッジョが用いた描写の技法としてのchiaroscuro、というよりも、光と闇の成り立ちそのものを見つめるというか、会場にはジョルジョ・アガンベンの『現代/同時代性とは何か』 - “What is the Contemporary?” (2009) からの引用 – 「現代/同時代人とは、自らの時代を見つめる際に、光ではなく影に目を向ける者のことである 云々」が貼られていて、Frank Bowling, Alberto Giacometti, Pierre Huyghe, Bill Viola, Bruce Nauman, Carol Rama, Wolfgang Tillmansなど、懐かしいのも含めて、でもテーマそのものはやや古いような新しいようなー。


Fondation Cartier pour l'art contemporain

移転したカルティエ財団の現代アートのデパート。移転後に初めて行った。こんなのでっかいがらくたまみれなのがルーブルの向かいにある、ってだけでなんか痛快かも。

17:00からパフォーマンスがある、ということで、混んでて座れなくて上からだけど、説明がフランス語なのでさっぱりだったけど、なんとなく見た。

Le Musée Vivant de la Mode, performance quotidienne par Olivier Saillard & invites 

Olivier Saillard本人(たぶん)がマイクをもって解説しながら(←仏語でもちろんわからないので以下憶測→)ミュージアムで展示される服と身につけられて機能する服の違いについて、モデルたちの実演を交えながら、服を着る、羽織る、纏うなど、そこにおける服や布、その形、それを身に着ける際の動作、などについて微分で見ていく。動きも服もシンプルなものばかりだが、こういうのと切り離されたところで発展(少なくとも経済的な)を遂げてきたモードとかクチュールのありようについて。 これ、西洋だとまだ連続性があったり見えたりでおもしろいかもだけど、東洋のもんぺとか割烹着みたいなものから追ってみたら(or 追えない)おもしろくなるのではないか、とか。


[theatre] Bovary Madame

20日の20:00からThéâtre de la Villeで見ました。
フランス語の劇だし、英語字幕なんてつくとは思えないのだが、なんたって「ボヴァリー夫人」だし、演出はChristophe Honoréなので、なんとかなるのではないか(←まったく根拠不明)、と。詳細は追えなかったので、以下、簡単な感想だけ。

ステージはすり鉢状の客席(バルコニーなし)から見下ろす形で、初日だったせいか取れたのは一番後ろの天辺に近いところだった。 上演は2時間半で休憩なし – この長さで休憩なしは珍しい。映画だと思えばよいのか。

原作はGustave Flaubertの”Madame Bovary” (1857)、プログラム冊子はなく”Bovary Madame”のタイトルでChristophe Honoréが作者名となっているスクリプトは売っていたので、翻案もHonoréなのだろう。Emma役は、François Ozon作品によく出ているLudivine Sagnier。

中央には丸い砂場があって、左側には段になった客席のようなのがあり、右側の奥にはピアノがあり、主人公達の内面を掘り下げていく心理劇というよりは玉突きアンサンブルで、常にわいわい人がいて、プロジェクションも使ってサーカスやバーレスクの要素もあって、音楽は村人たちによる楽団の演奏もあればダンサブルなJustin Timberlake もある。 Honoréの映画にもあるミュージカルの要素や指向 - 突然歌いださないわけにはいかない - はストレートに、よいかたちで出ている。

そんななか、EmmaもCharles Bovaryもエキセントリックな加害者だったり被害者だったりで突出して対峙する、ようなことはなく、Emmaは極めてまっとうに自由を希求するひとりの女性としてまっすぐこちらを向いていて、たぶん死なないの。


ここでいったん切ります。

4.02.2026

[theatre] Summerfolk

3月16日、月曜日の晩、National TheatreのOlivier Theatreで見ました。

滞在最後の月となった3月は、演劇を14本見ていた。旅をしているか演劇を見ているか、だった気がする(仕事は..?)

すぐそこで人が動いて交錯して会話をして泣いたり笑ったり抱きあったり殺したり、設定はどうあれ何かが生起している、それで空気が動いてこちらに靡いて場合によっては感動してしまったりする。それはNational Theatre Liveでも映画でも確認できるものるのかもしれないが、いまそこにあって巻き戻しのきかない何かに囚われてしまう、という感覚。(20年前はたしか音楽のライブについて同じようなことを)

原作はMaxim Gorkyの同名戯曲(1904)で、初演も同年。 これをNina RaineとMoses Raineの兄妹(彼らってパステルナークの大姪甥なんだって)が翻案し、演出はRobert Hastie。約3時間で休憩一回。

1898年、まだ駆け出しだったゴーリキーはチェーホフにファンレターを送って、チェーホフは彼に戯曲を書くように勧めて、ゴーリキーは『桜の園』へのオマージュとしてこれを書いた、と。チェーホフが亡くなった1904年を舞台に、チェーホフの世界の住人としか思えないようなひとくせふたくせもある「田舎」のひとたちが動きまわっていく、ある季節。

Olivier Thatreの広いステージを目一杯に使って、大きな柱が巨木のように立っていて、奥のほうには暗い森が広がっている大きな別荘のような邸宅(の骨組)があって、客席からはその全容を見渡せるかんじ。この周りを森の地元民のような銃を抱えた不穏な連中が通り過ぎたり、使用人たちがいたり、そこに泊まりにきた貴族たちとその友人たちが賑やかに、というアンサンブルドラマで、とても全員の顔と名前は憶えていけないが、衣装(かわいくて素敵)と言葉の粗さやトーンで、誰がどんなふうとかエピソードの推移はわかって、その区分けの内側とか複数のつなぎ目でいろんなことが起こったり語られたりしていく。

休憩を挟んだ後半は、小川(本当に水が張ってある)が流れる気持ちよさそうな夏の風景 - まるでマネの『草上の昼食』の景色のなか、貴族たちは変わらずご機嫌で飲んで騒いで叶わぬことがわかっている愛を囁いたり嘆いたり、『真夏の夜の夢』が上演されたり、チェーホフの『かもめ』や『桜の園』のように、消えてしまう、失われるであろうことがわかっている何かを、繋ぎとめることなんてできるわけないので、ひたすら儚いそれらの周りでじたばたしてとほほ、ってなるばかり。当時の紛争やきな臭い話題や雰囲気も漂ってくるが、そういうのは見たくないし、見ない。そんなことより、詩を! 愛を! と訴える。

このような緩い態度が最後に悲劇を… にはならないものの、そういう雰囲気を散らしながら、彼らの夏は、Summerfolkはどこかに去っていって、今がよければそれでいいのか、これが最後の夏になってしまうのではないか。なんてことも誰も気にしない。

未来なんて誰も予測できないのだからきな臭いのからは離れて目を逸らして、今を楽しんじゃってよいのだ、は前世紀末にそういう時期があったからわかるし、今もあれとは違うトーン(戦前)で、正にそんなふうになっているのだと思うが、彼らをそういう態度に向かわせるものはなんなのか、を考えさせる - そこに向かわせるようなセットや衣装やアンサンブルのデザインがすばらしい。彼らの過ぎていった夏が、こんがらがったままいつまでも残る。

みんなどこに行っちゃったんだろうね?

4.01.2026

[film] Project Hail Mary (2026)

もう日本に戻って、仕事も始まっているのだが、しばらくの間は籠の鳥で、体力的にも動きようがないしあらゆるやるきが失せている。しばらくは向こうで見たものでまだ書いていないのがいっぱいあるので、それらを書きながらじめじめめそめそしていきたい。

3月19日、金曜日の夕方、BFI IMAXで見ました。
公開初日ということで早めにこの日のチケットを取っていたのだが、実際には1週間くらい前からどこでもプレビューをやっていて、なんだよそれ?になった。

IMAX 70mmによる上映で、北米以外のヨーロッパで見られるのはここだけ、と。 本編開始前に監督Phil LordとChris Millerによる短い挨拶が流れて、IMAXの70mmってほんとにすごいんだよう、って映画の内容にはほぼ触れずに中学生みたいにふたりで盛りあがるので、少しだけ不安になった。

原作はAndy Weirによる同名SF小説(2021)、脚色はDrew Goddard。音楽はDaniel Pemberton。原作は日本の家に置いてあることは知っていて、けど読んでいない。この作品についてはまず原作から読むべし、みたいなのがあるらしいのだが、そうだったのかどうかは自信がない。

Grace (Ryan Gosling)が宇宙船のなかで目覚めると、他の乗組員は死んでいて、自分も髪と髭ぼうぼうで、でも自分がなんでそこでそんなことをしているのかさっぱり憶えていなくて混乱して死にそうになる。彼が宇宙船のなかを彷徨いながら、自分がなんでこんなことになっているのか、徐々に浮かんでくる過去の断片を繋いでこのミッションのおおもとを探っていくのと、それと並行して航行中に出会ったエイリアンとの交流と、彼とそいつと地球はどうなっちゃうのか、などを行ったり来たりしつつ追っていく。

いろんなテーマがありそうで、人によっていろんな捉え方ができると思うが、同じ原作者で、Matt Damon主演で映画化された”The Martian”と同じように宇宙をたったひとりでサバイヴしていくドラマ、と見た。

どう見ても他から勝手に不条理に押しつけられた運命を受け容れて、できることをがんばって、それをやりとげる - それをどん底からの復活とか危機一髪の大逆転とか、歯をくいしばる仰々しいドラマにしないで淡く柔らかい笑顔でたまに泣いたり空を仰いだりしつつも、どうにか最悪を回避してしまう男がいて、それがRyan Gosling、というのがよくて、ほぼそれだけなのかも。岩蜘蛛みたいなエイリアンは何考えているのかわからないし、「プロジェクトいちかばちか」のプロジェクトを率いるEva (Sandra Hüller)もほぼ感情を表にださないし、そんなノンエモの砂漠でとにかくがんばる男の話。

SF(映画)としてどうなのかはよくわかんなくて、主人公がああいうことになった経緯とか解決に至る道筋に科学的な、SF-空想科学っぽい理屈がまぶしてあれば、だったのだがそれらしいのはなくて、どっちみち死ぬんだからって、特攻隊のように昏睡状態のまま宇宙船に乗せられるし、理屈なんて別になくてもよくて、エイリアンとの意思疎通もすごくいい加減で、すべてはそういうものなのだ/どうにかなっちゃったのだ、で進んで、そこに彼の笑顔が見事にはまって調和して、みんな幸せになるので、それでよいのかも、とか。

音楽は全体にしんみり湿った70年代のようで、たまたま映りこんでしまったかのようなSandra Hüllerがカラオケで歌う”Sign of the Times”になんだかじーんとなった。