7月12日、日曜日の昼、K’s CinemaのEaling Studios特集で見ました。この特集で見た最後の1本となった。
邦題は『ラベンダー・モブ・ヒル』。1999年にBFIが実施した20世紀の偉大な英国フィルムのアンケートでは17位になっているそう。
原作はEaling Studioで多くの脚本を書いたT. E. B. Clarke、監督はCharles Crichton、音楽はGeorges Auric。
Henry "Dutch" Holland (Alec Guinness)がリオデジャネイロの豪華なリゾートホテルで豪勢におらおらって振るまっていて – なにしろAudrey Hepburn(カメオ)が挨拶にくる - イギリス人相手にいかにして自分はここまで来たのか、を得意げに語り始める…
ここから1年前、Dutchは真面目な銀行員で、昇進の話も頑なに拒むくらい毎日毎日金塊を積んだ車の輸送業務を担当して、銀行とLavender Hillの下宿屋との間を行ったり来たり、これを20年間ずっと続けてきて、でもあまりに頑なすぎたところで、金塊を盗むことができたら、みたいなことを考え始めたら止まらなくなり、そこに、新たな下宿人として、土産品を卸したり売ったりしているPendlebury (Stanley Holloway)が現れて、盗んだ金塊をお土産で売っているエッフェル塔のペーパーウェイトの形に鋳造してパリに輸送すれば足がつかないじゃん、て思いついて、ふたりで計画を立てて、そしたらDutchの異動の話が出てきてしまったので、少し早めに、強奪の実行時にはさらにふたりのちんぴらを雇い入れて実行して、Dutchは強盗にやられた被害者、ということになる。
全編を通して、なにかが計画通りにきっちり実行されることはなくて、必ず横から変な、想定していなかった邪魔や障害が入って当事者が(静かに)「きゃーー」って顔をゆがめて絶叫しそうになり、しかしその邪魔も、極めて英国的な合理/不合理によって処理され流されて、結果はどうにかなってしまって、全員が普通の平顔に戻る、というのを延々とやっている。(その反復にかける律儀な執念深さもまた、英国なのである)
とにかくふたりでフェイクのエッフェル塔を受けとるべくパリに行ったら、土産物屋のおばちゃんが、女子小学生に6個売ってしまったことがわかったふたりはきゃーって飛びあがり、女子小学生を追いかけてリアルエッフェル塔の天辺から一気に駆け下りて(ここのカメラがたのし)、彼女たちがカレーの港から英国に戻る船に乗り込もうとするのだが、出国手続きでいらつく(他人事とは…)ところもおかしい。
英国に戻った彼らは小学生ひとりひとりを追っかけて順番にエッフェル塔を取り戻していくのだが、ひとりだけ仲のよい警察官への贈り物にするから嫌だ、って拒否した娘がいて、そのブツはよりによって警察学校で開催されている展示会に持ちこまれて捜査方法の紹介で化学分析にかけられるところで…
あっと驚くような仕掛けもどんでんもないけど、偶然と成り行きばかりで転がっていって止まらない軽めの犯罪コメディで、動機もそこに込められた念にも深いところはなくて、すべてがまるで他人事のように(非情に)推移して、結果も誰もどうすることができず、だからどうした? になりがちなところなのに、こんなもんなんだよ、って軽く言って超然としている、それが戦後の、爆撃された瓦礫があちこちに残る町で起こるのがとっても趣深い。
底に流れる悪意、とまでは言わないどろどろ凝り固まった何か、みたいなのは“Kind Hearts and Coronets” (1949)とか”The Ladykillers” (1955) - 『マダムと泥棒』の方が渦を巻いていた気がして、Alec Guinnessはそっちの方ではないか、と思う。 この調子で自分が消えた後に、Lukeにもずっと、うるさいくらいにべらべら喋り続ければよかったのに。
7.21.2026
[film] The Lavender Hill Mob (1951)
[film] Milton Bituca Nascimento (2025)
7月11日、土曜日の晩、恵比寿ガーデンシネマで見ました。
邦題は『ビトゥーカ ミルトン・ナシメント フェアウェルツアー』。
2025年に83歳で生涯を閉じたMilton Nascimentoが2022年のフェアウェル・ツアーで世界をまわった後、Belo Horizonteのスタジアムで行った最後のライブまでを追いつつ、彼の人と音楽を紹介していくドキュメンタリー。
“Bituca”というのは彼の幼時からの愛称で、タバコを吸うときのように唇をちょっと尖がらせているさまから来ているそう。その愛称のままずっと来た、というのが素敵。
フェアウェル・ツアーで曲を演奏し、歌っていく姿を追う、というよりは、彼の音楽、その歌のもつ広がりとか意義について、彼自身の言葉だけでなく、ブラジル音楽、米国のジャズやフュージョンの文脈から、いろんな人たちが彼の音楽について紹介したり語ったりしていって、そのメンツがとにかくすごい。
ブラジル音楽界からはChico Buarque, Caetano Veloso, Gilberto Gil, Toninho Horta, João Bosco, Djavan, Ivan Lins, Lô Borges, Sergio Mendes, アメリカ音楽界からはPat Metheny, Wayne Shorter, Herbie Hancock, Stanley Clarke, Quincy Jones, Paul Simon, Steve Jordan, Spike Lee(←出たがり)などなど。 人間国宝、なんてもんじゃないくらいすごい。
アメリカ音楽界からは、おそらくTom Jobimの後、のようなところを受けて、70年代のJazzやフュージョンが追及していって、でもきちんと捉えきれなかったり創ることができなかった音や声の肌理、のようなものをMiltonの音の複雑さと、彼らが他の「ワールドミュージック」の文脈で好んで取りあげる「野生」みたいな文脈で取りこもうとしたのではないか、とか。
ブラジル音楽界からは、ボサノヴァ等のわかりやすい海の音楽とも「ポピュラー」というのとも別に、彼の音楽から「みんなのうた」として魂の根底を揺さぶる、山のこだまのような何かを受けとっているような気がして、それは最初の方で紹介されたElis Reginaとの関わりからも明らかなように、彼の声の震えと滑らかさ、その広がりが根源的なところで人々を魅了した、ということなのだろうか。
わたし自身はというと、1990年のCaetano Velosoの初来日公演でブラジル音楽に結構な衝撃を受けて、かの地のレコードを手あたり次第に掘って聴いたりしていくなか、Miltonの音楽に対してはちょっと別もののとっつきにくい何かをずっと感じていて、それがたしかNYかどこかで彼のライブに触れてなんかわかってしまった気になった、くらい。そのときはPaulo Bragaの叩き出すぶっといグルーヴにやられて、おうこれなのかー、ってかなりびっくりした。
なので、このドキュメンタリーでミュージシャンたちが語る彼の音楽の特徴とかそこから広がる何か、はとてもよくわかるものだったが、その反対側で、彼の音楽に触れたことのないひとにどこまで訴えるものになっていたか、についてはやや「?」で、だからもっとライブの場面 - せめて1曲をフルで - とか、若い頃の彼のライブのフッテージも紹介してほしかった。 これだとお葬式で次々にコメントと感謝を述べている人たちの図、で終わってしまうような。
あと、彼を描いた彼の像って、ほぼ仏画みたいだな、って。そして、彼が仏様なのだとしたら彼の歌って、空也上人像みたいに、実体のある念仏として彼の口から(踊りながら)空に放たれていくのだな、って思った。 最後に彼がぽつんとしているシーンなんて、まるでお地蔵様のようだし。
[film] The Great Flamarion (1954)
7月11日、土曜日の昼、シネマヴェーラで新しく始まった特集 - 『ノワールから西部劇へ アンソニー・マン特集』で見ました。
この特集からまだ7本くらいしか見れていないのだが、とにかく何を見てもおもしろくてこの人なんなの? ってあきれている。上映時間だとどれも70〜90分くらいのものばかりなのだが、ここまでのことができるのか、って。
メキシコの見世物小屋でショーの最中、どこかで銃声が響いて、駆けつけると楽屋で女性が絞殺されていて、その夫が怪しいって逮捕されるのだが、その後に舞台の上から傷を負って落ちてきたThe Great Flamarion (Erich von Stroheim)は息も絶え絶えにこれまでのことを語り始める… というノワールの典型的なスタイルで、宿命の女と思い込んでいた彼女にやられてしまうまでのこと。
百発百中の拳銃ばんばん芸で各地のどさ回りを続けてそれなりに稼いでいるFlamarionがConnie (Mary Beth Hughes)とそのアル中のだめ夫Al (Dan Duryea)と組んでやっているうち、Connieに言い寄られて言われるままに夫から逃れて実家の方に隠れたい、でも1年後に一緒になりましょう、と言うのでそれを信じてお金を渡して待ち合わせを誓ったシカゴの豪華ホテルで待ったのにぜんぜん現れなくて、気づいたら彼女は別の自転車芸の男と一緒に興行していると聞いて…
わかりやすすぎて同情の余地があまりないロマンス詐欺事案なのだが、Erich von Stroheimの純情の痛さと怖さ、それに相性よく絡みつくヨーロッパ・ホラーの暗い粘着力とMary Beth Hughesの軽い悪女っぷりが見事な模様を描くクラシック。
The Furies (1950)
7月13日、月曜日の晩に見ました。邦題は『復讐の荒野』。Walter Hustonの最後の出演作 - にしてはあまりに見事にみっしり詰まって漲っている。Mannの作品にしては長い109分。
ニューメキシコに広大な牧場 “Furies”を経営する家父長制の権化のような親分T. C. (Walter Huston)がいて、家でもビジネスでも現地民から搾取しまくっているのに周りからは豪快ないい親父って見られていて(よく見る)、その愛娘Vance (Barbara Stanwyck)は父を尊敬しつつも貰えるものは貰うから、って負けなくて、追い出されると頭きて父を敵視する男たちと組んだりしながらやり合って自分の道を切り開くまで、を女性映画ウェスタンのように描く。わたしはBarbara Stanwyckがかっこよければそれでだいたい満足なのだが、この映画でそれ以上にかっこよかったのが、現地民側で息子たちを従えて狂喜しながら撃ちまくる豪快なママだったかも。
父に対抗すべく味方になってくれそうな男と付き合ってみるのだが、結局男なんて簡単に裏切るし父には敵うわけないか、って愛・憎・諦めで身動き取れなくなっていく自分に苛立つ彼女 - こんな複雑なエモを表現できるのは彼女くらいよね、って。
Strange Impersonation (1946)
7月13日の晩、↑のに続けて見ました。邦題は『仮面の女』。68分の作品。
化学研究者として頭角を現してきたNora (Brenda Marshall)は同じ職場の婚約者Stephen (William Gargan)から早く一緒になろう、って言い寄られているのだが仕事に熱中したいので先延ばしにしていて、同僚で助手のArline (Hillary Brooke)からはほどほどに、って言われていて、ある晩、Arlineと一緒に自分を使って麻酔薬の実験をしたら火事になって大やけどをして、顔が変わってしまい人生終わった、になっていたところに訪ねてきた女性Jane Karaski (Ruth Ford) – 車でちょっと引っかけてしまっただけなのにたちの悪い保険屋とつるんで金を巻きあげようとやってきた – とやりあううちにJaneはアパートから落ちて顔がわからない状態で死んでしまったので、Noraは西海岸で整形して名前も含めて彼女になりすまして、Stephenと結婚しているArlineのところに近づいていくと…
よくある復讐劇、だけではない、女性と仕事、お金にまで踏み込んだ深い作品で、でも最後はやはり破綻してノワールの悲劇として終わるのか、と思ったら。
しかし、Noraが家に持ち帰って実験をした理由が、研究所だと申請がめんどくさいから、って、いまだと確実にコンプラで…
7.17.2026
[film] 海灘的一天 (1983)
7月12日、日曜日の午後、シネマート新宿で見ました。
Edward Yang - 楊德昌の最初の長編劇映画、撮影のChristopher Doyleにとっても長編劇映画デビュー作、侯孝賢も登場する、記念碑的な作品のリストア版。ようやく見れた(とみんなが言う)。
英語題は”That Day, on the Beach”、邦題は『海辺の一日』。
166分、ちょっと長いけど、海辺で一日ぼーっとしている時に浮かんでくるようなことが押し寄せてきて - 押し寄せてくるかんじを体感できて - とても満ち満ちて固まった、豊かな午後の時間を過ごすことができる。これこそが自分にとってのEdward Yangのイメージかも。
ヨーロッパでずっと活動してきたピアニストの蔚青(Terry Hu)が13年ぶりに母国の台湾に還ってきてコンサートをする、というラジオのアナウンスが流れ、晩に向けた準備をしようとしている彼女のところに、旧友の佳莉(Sylvia Chang)が会って話したい、と連絡してきたので、彼女は午後の予定をキャンセルして、再会したふたりはお茶を飲みながら対面する。
ここでふたりの関係、その過去を掘り下げていくのかと思ったら、佳莉の兄の佳森(Ming-Hsiang Tseng)が父の経営する医院を継ぐべくお見合いで結婚することになり、彼が当時付きあっていた蔚青が海外に出てしまった経緯が語られ、そこからふたりのその後に向かうかと思ったら、今度は佳莉の方に向かい、彼女の方にも親からよろしくあてがわれた男が紹介されたので、大学から兵役に出るところだった徳偉(David Mao)を捕まえて家を出て一緒になる。徳偉はとてもよい人で幸せだったが、大学の金持ち友人だった阿財(Hsu Ming)の会社に就職してから忙しくなり、ふたり一緒に過ごす時間が減って、互いにぎすぎすして追い詰められていって、そういう状態で今から3年前に、徳偉が行方不明になって、彼の名前が書かれた薬瓶が海岸で見つかって、それらしい男の影も目撃されていたので捜索が進められるなか、阿財が現れて徳偉の周辺で会社のお金が無くなっていること、怪しい出張を繰り返していたこと、実は死んでいないのではないか、と語るのだが、佳莉は彼女のなかで彼の死亡認定をする。浜辺では見つかったぞ、のようなシーンも描かれるが、彼女はもう振り返らない。
最初のシーンは夕刻の海辺の捜索が一瞬だけ、彼が消えてしまったあの日、海辺で過ごした一日はどんなだったのだろうか – その場面を直接には描かず、↑のような十数年に渡って散らばったストーリーを十数年ぶりに再会したふたりの対話を通して、回想 - 回想のなかでも回想して右に左に振れまくり、起こったことはリニアではない形でとめどなく流れていって、誰にも止めることも巻き戻すこともできない時間の塊りに対する後悔や残響をもたらして、もちろん、だからどうなるというものでもない。 蔚青が海外に出るきっかけを作った佳森も数年前に寂しく病死したことが、最後に付け足されて、ふたりは別れてそれぞれのトラックに戻る。
映画の文法、のようなところで言えば、たぶんやってはいけないこと - 見る側を困惑させるし、だらだら締まりなく起こってしまったこと、を回想のがんじがらめで封じ込めていくので、どこに連れていきたいの? になるのだが、愛を求めるひと、愛から逃げるひとのシンプルな往復によるメロドラマがなんだか心地よくなっていく不思議。
なんとなく、成瀬の容赦ない『流れる』、ではなく『流れた』 みたいな(佳莉の髪型)。公開に近い年代でいうと”Love Streams” (1984)にあったある種の気持ちのよさ。 ここでとめどなく流れていったのは時間ではなく愛だったけど。
蔚青はその晩のコンサートで、どんな曲を弾いて、そのピアノはどんなふうに鳴ったのだろうか? といったことまで思ってしまったり。
7.16.2026
[film] Historias del buen valle (2025)
7月11日、土曜日の午後、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。上映後に監督José Luis Guerínとのトークつき。
英語題は”Good Valley Stories”、邦題は『よき谷の物語』。
ドキュメンタリー作品で、最後に見た彼のフィルムも確か”Correspondences: Jonas Mekas - J. L. Guerin” (2011) というドキュメンタリーだったかも。
バルセロナ近郊のVallbona地区、Besòs川と運河と鉄道の線路に挟まれた三角地帯のような場所があって、都市開発から取り残されたこのエリアに昔から住んでいる人、どこかからやってきて住み着いた人などが暮らし共存して、独特のコミュニティを形作っている、そこに暮らす人々と、開発の要請はここにも来て、という谷の物語。
冒頭はモノクロで、後のトークによると、バルセロナ現代美術館(←よいところ)からの依頼で10分程の短編をスーパー8で撮ったもの。これが良かったので、ひとりでやっていたのを広げて腰を据えて撮ることにした。ただお金がなかったので映画学校の若者たちに手伝って貰って、完成までに2年を要した。(と、後のトークで語っていた)
元気に川遊びをしたり走り回ったりする子供たちもいるが、住民の多くは高齢者で、所謂働き盛り、で漲っているような人たちはほぼ出てこない。子供たちと女性たち、老人たち、そして他国からやってきた移民、そしてアヒル。 12ヶ国語が話されていて、人との間だけでなく、植物と会話している人たちまで出てくる。
映画を撮っていると、西部劇にすべきだ、という老人がいて、決め手は風だ、なんてかっこいいことを言う人もいれば、奥さんと出会った頃の話をしながら泣いてしまう人もいる。老人の話は何を聞いてもしみるし、威勢のいいガールズトークもたまんないし、彼ら自身の言葉での会話がぜんぶ聞こえてきたらどんなに楽しいだろう、ってくらいにいろいろな人々が次々と現れる。
画面をひっきりなしに電車(こないだ大事故を起こしたやつ?)が通って(この映画のなかで40本通るって)、一度もこの地に停車することはない。列車が停まって、人々がそこから下りてくるところから始まるドラマではなく、川は昔から動かなくて、道路もそうで、そういう境界の狭間に(保護されていない)ポケットのように生まれてしまったエリア、地帯に、どこかから流れてきた人たちが集まってきてそこに暮らす、というどこにでもありそうな絵。 滞在許可は?みたいな話にはならない。
でも古い住宅は建て替えられて、さらに大きな開発が入って、住民たちは出ていかざるを得なくなり、終わりの方では警察がくるぞー、ってざわざわする場面もある。でも立ち退き拒否とか、強制執行、のような話にはならず、文明の拡張、都市の拡張、によって他所に追いやられる人々という、大きな物語の一部(よき谷の物語)として語られる。(もちろん、だからと言って体制に与するような話ではない)
変わっていかざるを得ない地域のなかで、移っていくもの変わらないもの、という代理店が喜んで制作しそうなテーマなのだが、なぜこの谷に人々は集まってくるのか、集まって暮らすというのはどんなことなのか、という根源的なことを個々の会話のなかから掬いあげようとしていて、そこから彼らを主人公にしたフィクション(John Fordのような?)まで浮かんでくる大きな風呂敷のような造りと広がりがあるの。
後のトークで、住民に演技指導のようなことはしていなくて、あえて言えば、そういう動きをしてくれそうな状況を作るべく動いたりはした、と。でも肝心なのは、いつどこで撮影するかである、と。
どんな町でも村でも、谷でも島でも、これと同じような人々のお話を編むことはできるのかもと、なんとなく先月見た羽田澄子の『早池峰の賦』 (1982)を思い起こしたり。
エンドクレジットでは、この映画に登場して亡くなられた方々の名前に並べてJonas Mekasの名が。Jonas Mekasという人もNYのロングアイランドという島に流れてきて、そこに住み着いた人として映画(日記)を撮り続けた人で、この映画の終わりに名前が載るのにまったく違和感ないような。
“Innisfree” (1990)を見たいな、見なきゃな、と言い続けて軽く10年以上かも。
7.15.2026
[theatre] バストリオ セザンヌによろしく!
7月9日、木曜日の晩、浅草九劇で見ました。 浅草に行ったのなんて数十年ぶりではないか。
月1回は見たい演劇シリーズ。 場所も劇団もまったく知らないところだったが、せんがわ劇場演劇コンクールでグランプリとオーディエンス賞をW受賞した作品の再演である、と。「セザンヌ」がタイトルにあるのであれば、サント=ヴィクトワール山をふらふら見に行ってしまった者としては見たほうがよいのかしら、くらいで。
初演は2023年、兵庫県豊岡市の神鍋山で『セザンヌの神鍋山』(どんなところなのか見当もつかないや)という野外劇として上演されたものらしい。
会場はシアターというより服がいっぱいぶら下がっていたりステージの前に半透明のビニールが掛かっていたり、中央に水の溜まった透明な箱があったり、実生活が進行中のゴミ屋敷~大昔の雑然とした小劇場ふう、バストリオも劇団ではなくパフォーマンス・コレクティブ、というらしい。開演時間前から演者と思われる人々が舞台や仕掛けの周囲を行ったり来たりせわしなく、プロジェクターでステージ前の様子を映しだしていたり、上演前には主宰の今野裕一郎から上演時間は約60分、少しでるかも、と話があった(実際には1時間10分くらい)。
最初にドラムスの人が出てきて、使いこんでいくうちに削れて折れてしまったスティックの話をしつつ、いろんなドラムスのリズムのパターンを試して、そこからいろんな人たちがステージに上がったり下りたり回ったり、ステージ下で絵を描いているのをライブでプロジェクションしたり、サックスを吹き鳴らしたりしつつ、いろんな言葉と声、音が飛んでは消えていってとにかくせわしなく、同時性のごちゃごちゃの中で突然(のように見える)山を見つめる、山と向かいあう話が浮かびあがり、それを訴える(ようにみえる)セザンヌはプログラムの紙によるとセザンヌ1から3まで女性3名がいて、とにかくゴミだろうがなんだろうが何がどれだけ溢れかえってやかましくても死ぬまで山の肌理、壁、その硬さと向かいあって自問していろんなひとつの山を刻んでいった彼/彼女の姿があちらこちらに現れては消えていく。
いまここ、の一回性に集中して何かを表現しようとする、それを見にその時間、その場所に人が集まってくる演劇/パフォーマンスという様態とセザンヌがあのアトリエから丘を登って山が見える場所に行ってずっとひとつの山を見つめ、探求しながら描いていったその姿勢(のようなもの)は、このとっちらかったパフォーマンスが見せる80~90年代の相対主義的なバラけぶりと相容れないように見えるし、むしろただの偏屈な困った人として隅に追いやられてしまうであろうことまで示される。
セザンヌがたった一人で、それなりの時間をかけて追い求めていった事物の、対象の本質(のようなもの)を見据えて掴みとろうとする試みは、せわしない今の世の中でどこまで可能となるのか、をものすごく落ちつきのない雑踏とかお茶の間のなかから伝えようとして、その難しさに苦笑したりへらへらしそうになりつつなんとか『よろしく!』とだけは言って、最後にパレスチナ、シリアといったこの世の地獄を正面から突きつける。
とてもまじめで今できるのはこういうことなのだろうな、と思いつつ、わたしはセザンヌをパンクとして見たものなので、ここまできちきち積みあげないと突破はむずかしいのかー、たいへんだよなー現代って(そんなもんか)。
あと、このしんどさ、複雑さ、雑多さにぶつけるのであれば、セザンヌというよりキーファーあたりではないのか、とか(… とりかえしのつかないことに)。
7.14.2026
[film] Blood on the Moon (1948)
7月8日、水曜日の晩、シネマヴェーラのRobert Wise特集で見ました。この特集での最後の2本。
邦題は『月下の銃声』。 ゴスメタル系のアルバムタイトルにありそうな。
原作はLuke Shortによる小説”Gunman's Chance” (1941)をLillie Haywardが脚色している。
放浪のカウボーイJim Garry (Robert Mitchum)が友人のTate Riling (Robert Preston)に会いに行く途中で牛の大群に襲われて、近くの牧場主John Lufton (Tom Tully)のところに寄ったら彼の家族への手紙を託され、持って行ったらそこの娘2人に敵意をむきだしにされて、なんでだろう? と思っていたらRilingはインディアンの代理人と組んでLuftonの牛を買い叩いて土地から追い出そうとしている謀略が背後にあることを知る。
どうもLuftonが善玉でRilingが悪玉らしいのだが、Luftonの娘のうちひとりはRilingと繋がっていたり、全体に薄暗い照明や夜明かりのなか、主人公Garryと同じようにどっちが敵でどっちが味方なのか、誰がどうしようとしているのか明確に把握できず、主人公の思惑も含めて簡単には見えてこなくて、GarryはRilingの仲間であることをチラつかせたりしたせいで脅されたり刺されたりぼろぼろになりながら、威勢のよいLuftonの娘Amy (Barbara Bel Geddes)と一緒に戦っていくことになる。
最初に登場した頃のRobert Mitchumは無精ひげの胡散臭い風体で、狙われたり真相を知ったりするなかで、ひげはきれいになってて、でも何が正しくてどっちがどうなのか、などは薄暗くて(彼も察知しているのかどうか)見えてこなくて、謀略とか思惑に巻き込まれ、裏切りに夜討ちの連続で、これを「西部劇ノワール」と呼ぶのであればそうなのだろうな、としか言いようがない暗さと徒労感がずっと渦を巻いてつきまとい、拳銃早撃ちとか馬駆けとかで悪党をやっつけていく爽快感なんてまるでないのだが、ぼそぼそ喋って地面に転がってばかりのRobert Mitchumの重さと地味な暗さ、天井の低さのどん詰まり感がなかなかよくて、とても見ごたえがあった。
いまやっている時代劇ノワール『黒牢城』よりも、こっちかも、とか。
All That Money Can Buy (1941)
上のに続けて、シネマヴェーラで見ました。 邦題は『悪魔の金』。
監督はWilliam Dieterle、編集がRobert Wise、音楽はこれでオスカーを受賞したBernard Herrmann。 原作はStephen Vincent Benétによる短編小説"The Devil and Daniel Webster" (1936)を戯曲化したもの (1938)で、当初は同名のタイトルでリリースされる予定だったが、”The Devil and Miss Jones”っていう似た名前の映画があったので、”All That …”の方に変更された、と。 最近だと“All the Money in the World” (2017)っていうRidley Scottの映画もあったよね。あんま関係ないけど。
1840年のニューハンプシャーにJabez Stone (James Craig)という真面目な農夫が妻のMary (Anne Shirley)と敬虔な母(Jane Darwell)と一緒に暮らしていて、子供も生まれそうなのについてない、お先真っ暗なことばかりで途方に暮れていたら悪魔- Mr. Scratch (Walter Huston)が現れて、自分と契約したら楽になるよ、って金貨をちらつかせて、契約したら確かに生活は楽になって大きな家も建つのだが、Jabezの性格はどんどん嫌な方に変わってあれこれ手が付けられなくなっていく。
そこに以前から地元の貧しい者の味方として慕われていた議員で弁護士で弁のたつDaniel Webster (Edward Arnold)が現れて、Mr. Scratchは彼にも大統領にしてあげるよ、って誘惑しようとするのだがー。
監督のWilliam Dieterleにとっては『ノートルダムの傴僂男』 (1939) – これも編集はRobert Wise – に続く作品で、古くからある御伽噺ふう – というかふつうのファウスト伝説の悪魔がやってくるのをやっていて、そんなに怖くはないけど、見てすぐわかるキャラクターたち – 特にWalter Hustonうますぎ - とか舞台劇のようなセリフ回しとか、楽しいし、ヨーロッパの民話がこんなにも19世紀の腐り始めたアメリカにはまってしまうことにびっくり。
悪魔と戦う政治家、というと、そういえばゾンビと戦うリンカーンもいたし、アメリカだとやはりそうなるのか。いま、その伝統の線上に立って、政治家本人がしょうもない悪魔になってしまったら誰がどうするのか、が問われている。べつに問わなくてもいいからだれかどうにかしろあの腐れでぶを。
あと、William Dieterleと言えば大好きな“Portrait of Jennie” (1948)とか“September Affair” (1950)なのだが、あのちょっと不思議で独特なストーリーの運び、テンポは、既にあるような。
7.13.2026
[film] Höhenfeuer (1985)
7月7日、火曜日の晩、ユーロスペースで見ました。
邦題は『山の焚火』、英語題は”Alpine Fire”。 作・監督であるFredi M. Murerの「マウンテン・トリロジー」を構成する1本で、デジタルリマスター版での上映。 ロカルノ映画祭でグランプリを受賞しているし、いろんなところで必見、と言われている。 ので見る。
アルプスの山の奥のウリ州、そこの山腹に4人家族が暮らしている。家畜として豚、牛、鶏などがいて、4人それぞれ働いているが息子のBub (Thomas Nock)は聾唖で、文字は読めるようだが、ちょっとしたやり取りも難しそうで、でも家族はしっかりと強い父(Rolf Illig)と敬虔深くやさしい(何も言わない)母(Dorothea Moritz)と辛抱強く弟の面倒を見て読み書きを教えたりしている姉のBelli (Johanna Lier)がいて、父はBubを施設に預けたりはせず、躾のようなところまで含めてBelliに任せていて、学校に行きたいであろうBelliは、それを諦めてずっと家にいる。
Bubは大きくなって思春期を迎えて力仕事もこなせるようになってきた半面、挙動が荒く、思うようにいかなくなった時の反発やぶち壊しがだんだん手に負えなくなっていって、彼はとうとう自分で家族の家から出て、少し離れた山の奥に籠ってひとりで暮らして石を積んだり並べたりするようになり、Belliはそこに食料や衣類を届けたりしているのだが、そのうちBelliが妊娠していることがわかって、母はそれを察知しても黙り、でもそれを知った父親は激怒して銃を手に取って…
登場するのは家族の4人と、一度だけ少し離れたところに暮らす祖父母が出てくるくらい、外の世界(社会)との交流はほぼ描かれず、それでどうにか暮していけてしまう家族がある、あった時に、そこでの時間や季節、生活の営為はどんなふうに流れていくのか、をドキュメンタリーのように追っていく。アルプスの山でのお話だが、山の雄大でドラマチックな景色とかが映されることはなく、白い霧だか雲だかと岩と草だらけで騒がしいのは家畜ばかり、ドキュメンタリーとして見せられてもわからないかもしれない時間の流れ方、喋らない人々の表情や挙動が野生動物のように生々しい。
なので、Belliの近親相姦 - 妊娠も大問題として挙げられるのではなく、起こってしまったこと、として山中暮らしの雑事のように、せいぜい焚火を焚いて暖をとるような所作のなかで起こって、なにをどうすることもできないような事態として放置される。 『最後通告』で忽然と消えてしまう子供たち、あそこで最後に現れる謎の少年のように、言葉を発しない、あるいは発したとしても届かない距離のなかに置かれた者たちが行き交う、そこから出ていくことのない山の暮らし(最後の方でヘリに吊るされて山の向こうに飛んでいく牛だけが… )。それを過酷と思うのは都会人の勝手だが、とりあえず焚火はあったかくないと死んでしまうし。
これは悲劇であり破滅なのか? という本作への問いが反転して現れたのが『最後通告』なのかもしれないが、ストーリーを貫く意思のような力は『焚火』のほうが『満月』よりも強く効いているかも。どちらも柔らかい光で、あのラストシーンを狂ってるなんて言えるだろうか。
思い出したのはピランデルロ/タヴィアーニ兄弟の”Kaos” (1984) - 『カオス・シチリア物語』だったかも。海の物語に対する山の物語、というか。これらがどちらも80年代の中頃に出てきた、というのはー。
[film] Vollmond (1998)
7月6日、月曜日の晩、ユーロスペースのFredi M. Murer小特集で見ました。
彼の作品はこれまで見たことなかったので。 英語題は”Full Moon”、邦題は『最後通告』。35mmプリントでの上映。 作・監督はFredi M. Murerによるスイス - 仏 - 独合作映画。
山間の村に暮らすEscher家で、満月の次の日、10歳の息子が帰ってこないままになって、これは誘拐かなにかの事件かも、と通報して警察が動き出して刑事のWasser (Hanspeter Müller)が派遣されるのだが、捜査をしていくうち、この日同様に一帯の12人の子供達が突然に姿を消してしまっていたことがわかる。全員10歳の子供たちで、スイスの4つの言語圏にきれいに散らばって(各3名)いて、誰ひとり書き置きを残さず、争ったり抵抗したりした形跡も怪しい人物の目撃情報もない模様。
という、あまりに静かで穏やかな事件 - 「児童の誘拐」らしくない事件であることが消息を追っていく中で明らかになっていって親たちの焦りや苛立ちとは反対方向のみんなお手あげにならざるを得なくて、彼らが消えた1週間後、各家庭に同じ宗教的なシンボルのようなものが描かれた手紙が届き、宛名の筆跡は子供たちそれぞれのものであることがわかる。この件も含めて不穏な様子がほとんど見えないので、どこかに匿われてどうにか生きているのではないか、になる。
こうしてストーリーは、誰が何を目的にどうして子供たちを拐っていったのか、という犯罪捜査 - 領域や条件を狭めていく - から、こんな不可思議なことが起こってしまった環境や地勢の方に目を向けさせるように動いていって - あまりに手掛かりがないから - いまこの土地で神隠しのようなことが起こりうるとしたら、たぶんたとえば、というふんわりとした考察に向かっていくような – もちろん、ふんわりのはずがない。
グローバル化(云々が言われ始めた前世紀末)、という流れの反対側で言語や人種による分断と孤立化が進み、自然はいくらでも好きなように破壊され淘汰され、テロも戦争も一向になくならず、人類は反省も躊躇もしない - 劇中の子供がいなくなった母親とWasserが一夜を共にしてしまったり、もっと真剣に生きろどうにかしろ、って山の神が何かに向かって怒った - 『最後通告』 - ということでよいのか。
同様に子供たちの集団神隠しを扱った映画 - “Picnic at Hanging Rock” (1975)あたりと比べても神秘的だったり退廃的だったりの雰囲気からは遠く、例えばいまは満月の距離感で離れているだけ、欠けてもじきにまた戻ってくるから、くらいの緩やかな、より現実的に足元を見ているような感覚がある。都会で起こったことではなく、田舎の山奥なので誰も真剣に動こうとはしない、という辺りも含めて、それでも満月は不穏にあたりを照らしだして人々を惑わせる。
いまの、ここ数年の現実世界では、ガザでもイランでも数千人規模で白人たちによって子供たちが殺されていて、それに対して誰も何もどうすることもできない。ここでの『最後通告』を遥かに超えた、本当にひどいところまで来てしまっている、という。(だから半端になだらかに見えてしまうのかな?)
35mmフィルムのややぼやっとした、シャープではない質感が手の施しようのない霧のかんじをうまく出していたかも。
7.10.2026
[film] Kind Hearts and Coronets (1949)
7月5日、日曜日の午前、K’s Cinemaのイーリング・コメディ特集で見ました。
映画史に残る名作、とかそういうのではないと思うが、やっているとつい見てしまう1本で、このサイトでも書いているのだが、それでもまた見てしまった。 1950年のBAFTAではBest British Filmにノミネートされていて、結果は『第三の男』の前に敗れている。
コメディにしてはかなりダークな、Oscar Wildeの系譜に連なるようなストーリーテリングで、決して明るく楽しい結末でもないのだが、踏板外しみたいなラストの見事さには、ううう、ってなる。
エドワード朝時代のイギリスの牢獄に公爵Louis D'Ascoyne Mazzini (Dennis Price)が入っていて、翌日絞首刑が執行されるというので教会からも人が来て、看守たちも公爵さまだから、ってやや緊張しているのだが、彼はずっと書き溜めていた手記を仕上げようとしていて… というところから回想がはじまる。
彼の母は公爵の末娘だったが、身分違いのイタリア人のオペラ歌手と結婚したことで放り出され、それでも夫婦にはLouisが生まれて貧しくても一家で幸せで、でも父が亡くなるとすべてが一変し、生活に困って実家に助けを求めてもすべて却下されて失意のなか母も亡くなる。こうして復讐の鬼となったLouisは、爵位継承順位で自分より上位にいるD'Ascoyne家の8人を順番に殺害していくことにする。この皆殺し計画と並行して、幼馴染のSibella (Joan Greenwood)との実らなかった恋、自分のせいで未亡人となり、やがて妻となるEdith (Valerie Hobson)とのこともあり、決して明るくはないけど、きちきち律儀に復讐を成しとげていくさまがクールにすっとぼけつつ進んでいって、とにかく爵位を取り返すの。すっとぼけと言えば、殺される側の8人をひとりで演じているAlec Guinnessの絶妙なこと。殺される側がなんだか楽しんでいるように見えてしまう巧さ。
原作はRoy Hornimanの小説“Israel Rank: The Autobiography of a Criminal” (1907)で、タイトルだけでわかる主人公 - Israel Rank - の人種はユダヤ人で、赤ん坊を毒殺したり、かなり陰惨で露骨な反ユダヤ主義小説 – という形で反ユダヤ主義を風刺しているものらしく、これをイタリア人のハーフに主人公を替えてイギリスの階級制度への風刺にひっくり返した監督Robert HamerとJohn Dightonの脚色はすごいと思った。
これ、舞台を日本にして家父長制へのどろどろした呪いと復讐を… って既にいっぱいありそうなー。
日本の皇室で38親等離れているけど継承権があると主張するやくざが… ← ちょっと生々しすぎる(そしてくそばかばかしい)
Girl, Dance, Girl (1940)
同じ5日、↑のを見たあと、日仏のデュラス特集で“Aurelia Steiner”の(Melbourne)と(Vancouver)を見て、このまま週末を終えてしまうのはどうか、ってなったので、途中で渋谷によってシネマヴェーラのRobert Wise特集で見ました。 帰れよ。
もう何回も見ているし、書いているし、でもいいの。 Dorothy Arzner監督による『恋に踊る』。この作品でRobert Wiseは編集をしていて、彼の次の編集ワークが”Citizen Kane” (1941)で、この他にもWilliam DieterleやGregory La Cavaといった監督の編集を手掛けているのね。
オハイオからNYに出てきて、ダンスで成功を目指すJudy (Maureen O'Hara)とBubbles (Lucille Ball)がいて、Bubblesは”Tiger Lily”の名でブロードウェイのバーレスクのステージに立って、途中からJudyがクラシックバレエの衣装でステージにあがると客から引っ込めーってぶうが出て、改めてTiger Lilyが出てきてやんやの喝采になる、という演出がうけて大当たりするのだが、本当か? っていつも思う。
だって、Maureen O'Haraが現れて踊るんだよ? 節穴かよ? って思うのだが、最後にやっぱり彼女に怒られるのでストーリーとしての筋は通っているのか。
とにかく必見だからー。
7.09.2026
[film] Césarée (1978)
7月4日、土曜日の午後、日仏学院のデュラス特集で見ました。
今回のこの特集で、再見するのも含めてデュラス作品を見てきて、映画としてはおもしろいのだが、感想を書くのは難しいなー、って改めて。今回の短編について言えば、映像として映しだされるものとデュラス自身の何かを語らんとするその語りは関係ない、と言えるものなのか、どこかなにかの繋がりや連関が見えてくるのではないか、と探りながら見る、というやり方もあれば、その土地と歴史、その記憶に関係するもの、それらを呼び覚ますもの、として彼女が練りあげようとしたストーリーを読もうとする、いやそもそもの映画的な語りをぶっ壊すものとして... など、映画とは、小説とは、ということよりもアートをつくる、考えるということの豊かな根幹を考えさせるもの、としか言いようがない。そういうのに対して感想もくそもないわ。ふつうに論考になっちゃうわ。
“Les Mains negatives” (1979) - 『陰画の手』と同様、Pierre Lhomme, Éric Dumage, Michel Cenetの3名が撮影し、Amy Flamerの弦が響きわたる現代の映像と音にデュラスの声が被さっていく。
古代ローマの要衝だった地中海沿岸の都市Césarée、紀元66年に始まったユダヤ戦争で、ヘロデ朝ユダヤの統治者の王女ベレニケはローマ軍司令官と密会して、やがて追放される、という愛と裏切りの悲劇が語られて、そこで映しだされる映像はパリのコンコルド広場や工事中のマイヨールの彫像、テュイルリー庭園など、なんとなく王家の残り滓っぽいあれこれ。
『陰画の手』では紀元前に遺された洞窟の手の跡(陰画)に朝の到来と共に半端に置きざりにされて目覚める現代パリの路地を重ね、そこから愛を求めるひとつの声を響かせていたが、その一年前に作成されたこの作品は、捨てられたベレニケの聞かれることのなかった声を現代の喧噪のなか - 都市と戦争の非情さのなかに放り出す。
Duras et le Cinéma (2014)
『陰画の手』の併映作品だった”Marguerite, telle qu'en elle-même” (2002) - 『マルグリット・デュラス、あるがままの彼女』と同様、Dominique Auvrayが監督したデュラス生誕100周年に向けて作られたドキュメンタリー作品。 邦題は『デュラスと映画』。
『あるがままの彼女』がデュラスの生い立ちや思想や愛がどんなふうに生まれ育まれていったのか、その背景を順に追っていったのに対して、こちらは彼女が映画に(小説ではなく映画に)向かっていった思いや考え方をストレートかつ具体的に示す。彼女の言葉だけではなく、撮影現場の記録、関係者たちの証言 - Melvil PoupaudがBruno Nuyttenの声を、Nahuel Pérez BiscayartがBenoît Jacquotの言葉をあてて、中心にある大きな空洞となったデュラス、そこに当時の関係者たちの声を響かせて彼女の不在を際立たせる。
内容からして、『陰画の手』の後に『マルグリット・デュラス、あるがままの彼女』を、”Césarée”の後に『デュラスと映画』を合わせたのは、狙ったことだったのだな、と今になって気づいた。
Le Navire Night (1978)
↑のに続けて見ました。 邦題は『船舶ナイト号』
パリのドイツ占領時代の名残である使われていない電話回線を通して偶然に知り合った、互いの顔も本名も知らない男女のやりとりが語られる(声はデュラスとBenoît Jacquot)。進行するにつれひとりは裕福な父親の別荘で暮らす白血病の女性、ひとりは電話会社で夜勤をしている男性であることがわかってくるがそれがどうしたで、最後まで彼らの姿が映しだされることはなく、かわりに屋内のインテリア(あのきらきらしたやつなに?)とか、この映画に出演する予定だったDominique Sanda, Bulle Ogier, Mathieu Carrièreらの、メークアップしたり、ただ立っていたり、ピアノを弾いていたりする背中が映しだされる。
“Le camion” (1977) - 『トラック』が運転手とそこに乗りこむ女性を映さないまま、それを遠目で見ながらデュラスとGérard Depardieuがなにやら言い合っていたのと同じように。 乗り物映画 - 車から船へ – こっちには船すら出てこない、頭のなかでとめどなく、どうとでも転がっていく、でも確かにそこにあったらしい愛の物語。
はじめから難破・破綻した映画を計画すること - 彼女は『スクリーンを覆う素材を見つけた』と言っている。なんで映画はルックスに、ヴィジュアルに従属しなければならないのか、という根源的な問い。電話回線を通してここまでの愛を描くことができるのであれば。
そして、この撮影で撮られた素材たちを使って、約2000年前の愛 - ”Césarée”、数万年前の愛 - 『陰画の手』 - が語られる。 『ヴェネツィア時代の彼女の名前』 (1976)のように、そんなの朽ちた建物の隙間からいくらでも湧いてくるのだ、って。
7.08.2026
[dance] String SAGA / 暗闇から解き放たれて
7月3日、金曜日の晩、新国立劇場の中劇場で見ました。
吉田都が芸術監督を務める新国立劇場バレエ団 – 6月に英国舞踊批評家協会賞(National Dance Awards)最優秀カンパニー賞を受賞するまで、そんなバレエ団があることすら存じませんでした。
海外からのバレエ公演は一部の貴族・富裕層のためのバカ高いチケットで、円安の流れも含めてそういうのに誰も抵抗しないようなので、国内のでもなんでも見れるやつを見ていくしかないや、になる。
ダブルビルで、同バレエ団の委嘱作品、で、”String SAGA”は世界初演、30分 – 休憩30分 - 25分、という構成。 このシアターは休憩時間に行くところがない。
String SAGA
振付は宝満直也、音楽は久石譲の「Viola Saga」 (2022)。
Twist(撚る)- Tension(張る) - Intertwine(絡まる) - Flick(弾く)- Spin(紡ぐ)- Tangle(縺れる)の6つのパートからなり、『強でしなやかな"糸"(ダンサー)と、鮮やかで豊かな"糸"(音楽)、そしてそれぞれの"性"(Saga)が撚り合い、一枚のタペストリーが織り上がるまでの道のりを描』く、とサイトの解説にはある。
冒頭、暗闇のなかにゆらゆら動く光る繭が浮かびあがり、それをダンサーがつつくとそれに応じて自在に揺らめいて、それに合わせて複数のダンサーが光る糸の周りで操り操られ、絡まり絡められ、を澱みなく繰り広げていく。光の繭は美しくて目にやさしいけど、音楽との絡み、変拍や変調も含めて、旧型モダンの典型でちょっと見たことあるかんじすぎたかも。
いまの日本で糸をテーマにやるのであれば、塩田千春のあの赤い雲に突っこんでいってぐじゃぐじゃになる、か、未だにぶっとくてうざいオトコの荒縄文化に突っこんでいって… どっちにしても突っこんでぐしゃぐしゃ…(にしたい。が見たい)
暗闇から解き放たれて - Escaping the Weight of Darkness
振付はアメリカのJessica Lang – ちなみに大女優の方はJessica Lange – ABT (American Ballet Theatre)でずっとやってきた人なのかー。 ABTはクラシックもモダンも90年代、00年代にものすごくいっぱい見たので、彼女の作品もどこかでなにかは見ているはず – ちゃんと調べろ。
2014年にこのバレエ団のために作った作品の再演。干支が一回転して暗闇のありようは、変わったのかどうか。
音楽はÓlafur Arnalds, Nils Fram, Josh Kramer, John Metcalfeなど。このなかでは、John Metcalfe – 一時期The Durutti Columnにいたよね - くらいしか知らないや。
幕があがると、ダンサーは床に寝ていて、あちこちに散らばっている白く光る雲のような救命ボートのような血小板のような楕円の塊がゆっくりと浮かんで上昇して、進行するにつれ雲は上がったり下がったり、様々な高さのそれらと絡んだり遠ざかったり、寄り添うのか邪魔をするのか。 舞台の奥のほうは腰から上くらいまでの白い仕切りで遮られて、ダンサーたちの下半身、脚たちしか見えない - 脚は宙に浮かびあがったり - 状態で推移していく。
目に見える、目を塞ぐはっきりとした「暗闇」も、そこから「解き放たれ」るような表現もない中、どのようなかたちで、なにが解き放たれ(う)るのかについての細かな接触ややりとりを通して、いくつかのグループに分かれた伸びや寝返りのような動きが同時多発で伝搬してうねりを作っていく。 暗闇を支配するものも眩い希望も見えないが、こんなふうに動いていけるのだ、という祈りにも似たステップ。一気に見せてしまうテンションの張り具合もよくて、あっという間だった。 尖がっていない、典型的なアメリカン・モダーンの様式美にあふれていて、自分にとっては居心地がよすぎてどうか、って。
新国立劇場(中)に向かう前に、国立近代美術館で見たやつを少しだけ。
杉本博司 絶滅写真
彼の写真展はいろんなところで何度も見ているのだが。
芸術の起源とその終わり、とうに死んでいるその死とその先について、銀塩写真というそれ自体が死滅に向かうメディアの上に焼きつける。 そして「焼きつける」という行為そのものも消滅に向かうそれで、どうせそのうちぜんぶ消滅しちゃうんだぞ、ということを伝えるため(だけ)に存在し、機能していく写真というアート。そんなガラクタ系をずっと集めて並べて、海辺の測候所でしぶとく延々観測する、という執念深さ。 とにかく、それでも絶滅するんだから、って延々やり続けるの。
常設展のほうにあった、彼の創作ノートの方がおもしろかった。 やはりここまで突き詰めて考える人だったか、って。
松本陽子 宵の明星を見た日
5日、日曜日の午後に、府中市美術館で見ました。
アンフォルメルからスタートした松本陽子は、杉本博司が絶滅、南無阿弥って言っている横で、まだ遠くに瞬く宵の明星を追って、見つめようとする、ここに現れる明星の若さ、瑞々しさとは、いったいなんなのか、と。
こういうのも含めて「抽象」ってなに? について改めて考えることが多くなった。「宵の明星」っていうのも抽象だよね。
あと、この美術館の常設コレクションの端に、Joseph Love先生の作品が4つ、並んでいた。
彼が「美術批評」誌に評論を書いていたことは知っていたし、作品もいくつか見たことはあったが、ここまで並べられているのを見たのは初めてだったかも。
わたしが絵画の見方(のようなもの、手口)を教わって考えたりするようになったのは先生の講義 – 「西洋美術史」を通年取ったのが大きかったの。取り上げらる絵画はクラシックが殆どだったが、休憩時間には現代音楽をカセットで流したりしていて、今思えばいろんな入口になっていたし、昨年欧州のいろんな美術館を巡っていた時も先生の講義が突然浮かんでくる場面があったり、こういう学びって本当に一生もの、ってしみじみ思うので、大学の一般教養とか文系を軽んじる声を聞くとふざけんな、っていまだに。どんな領域であろうとー。
7.07.2026
[film] Merrily We Roll Along (2025)
7月2日、木曜日の晩、Tohoシネマズ日比谷で見ました。
ところで、“Merrily We Go to Hell” (1932)っていうDorothy Arznerによる素敵な映画があるのだが、やっぱり関係はなかった。
George S. KaufmanとMoss Hartによる同名戯曲(1934)をStephen SondheimとGeorge Furthがミュージカル化、1981年にブロードウェイで初演されたこの舞台の2023年のリバイバル版で、ベースは2012年、ロンドンのMenier Chocolate Factory(すごく小さいけどすてきなシアター)で上演されたバージョンだという。 トニー賞でBest Revival of a Musicalを受賞している。演出はMaria Friedman。
映画版の制作も進行中で2019年にRichard Linklaterによって撮影が開始され、劇で流れていく20年をまるごとかけて(編集で逆回転するのか?)撮影中 - できる頃にはしんでる - で、Paul Mescal, Ben Platt, Beanie Feldsteinが出演予定、だそう。
上演している劇の舞台をそのまま撮ったものだが、National Theatre Liveとは違うプロダクション、撮影はSam Levyで、クローズアップも含めてきちんと撮っているので、これはフィルム枠になるのだと思った。演劇のステージを撮る場合って、あまり寄らず動かずに全体を俯瞰できるようにしてほしいんだけど…(個人的な好み)
1976年、映画プロデューサーのFrank Shepard (Jonathan Groff)の公開初日の成功を祝うパーティの場から始まる。大勢の関係者、知り合いでざわざわしていて、みんなFrankのことをすごい、って褒め称えて、本人も楽しそうでご満悦なのだが、古くからの友人であるらしいMary Flynn (Lindsay Mendez)は片隅で飲んだくれて燻っていて、妻のGussieもFrankがお気に入りの新人女優のことでぶちきれていて、元は作曲家だったFrankのかつての共作者Charley Kringas (Daniel Radcliffe) のことに話題が及ぶと顔を曇らせて… ここから1973 → 1968 → 1967 → 1964 → 1962 → 1960 → 1959/58 - 最後は1957まで、年を区切って逆順に遡り、中心の3人を追っていく、という構成で、ふつう人は年を重ねると人間関係も懐も豊かになっていくもの、と言われているし、主人公のFrankの成功も栄華もそんな典型的なアメリカの成功物語のように見えるし、実際そうなんだろうな、って思う。
なのだが、この逆回転劇は彼が年を経て獲得した輝かしいなにか、とか、なんで一部変な空気だったのか、の謎解きをするというより、成功と引き換えるように彼らが失っていったもの、にフォーカスして忘れ物を積みあげていく。 ので、見ていて楽しくなっていくものではない。あの時なんであんなこと言っちゃったんだろう/やってしまったんだろう/もう戻すことはできないのか… などなど。 後ろ向きにくよくよするのが好きな(ではない。けどついついやってしまう)人にとって、スケールこそ段違いに異なるものの、いろいろ思うところがあった。そしてそれを彩るミュージカル・ナンバーは、ミュージカル・ナンバーとしての華に溢れたりしていて、同じナンバーでも時代によって違う調子に聞こえてきたり、そこでそれが鳴るのか… って振り返る徒労感も重なったり。
最後の1957年、3人が下宿屋で出会うシーンの眩くて、何かが始まりそうで走りだしたくなる雰囲気、これがクライマックスに来るのはわかるのだが、でもそれはもう二度と戻ることのできない、取り返すことのできない場所と時間で、失われていてどうすることができようか?の状態にぽつんと取り残されて終わる。
そもそもは「若いパフォーマーのための舞台」として構想されたそうで、これを受け取る年齢によって印象が変わってくるのだろうが、年寄りには結構しんどいやつかも。 あーあー、で終わっちゃうのだが。
あと、忘れる、ということについて思い出したり。これらを忘れることでこれまでどうにかやってこれたのだな、って気づいた。
あと、キャストのトライアングルのすばらしさ。Jonathan Groffのつるっとした反省しないアメリカンの典型のような顔形と容姿と歌声、Daniel Radcliffeの簡単に壊れて潰れそうな、でもしぶとい不機嫌な神経系、Lindsay Mendezのぶっとい蹴りだしと重心。そのままバンドを組めそうな3人のケミストリーがあるの。
7.06.2026
[film] Born to Kill (1947)
7月1日、水曜日の晩、シネマヴェーラで新たに始まった特集 - 『ヴァル・リュートンから始まるⅠ ロバート・ワイズ』で見ました。リュートンもワイズもよく知らないところなので、可能な限り見たい(いつもの)。
邦題は『生まれながらの殺し屋』、英国でのタイトルは”Lady of Deceit”。 原作はJames Gunnによる小説 – “Deadlier Than the Male” (1942) - 『男よりもやばい』。 監督Robert Wiseにとって最初のフィルム・ノワール作品だそう。
サンフランシスコの社交家、Helen (Claire Trevor)は自分の離婚手続き待機でリノの町の下宿屋に滞在している時に知り合ったLaury (Isabel Jewell)が恋人のSam (Lawrence Tierney)を嫉妬させるために別の男とデートするんだー、って言っているのを聞いて、その晩、Lauryと男が一緒にいるところを見たSamは、嫉妬どころか相手の男とLauryを簡単に殴り殺してその場を去り、あとでその惨劇の現場を見てしまったHelenは警察には通報せずにそのままサンフランシスコに戻る。
サンフランシスコでHelenはSamとわざとらしく再会して、彼女が金持ちのFred (Phillip Terry)と婚約していることを知ったSamはHelenの義妹で新聞社を引き継いで裕福なGeorgia (Audrey Long)の方に近づいて、結婚するところまでのしあがる。
その裏ではリノの下宿屋のおかみが雇った私立探偵Arnett (Walter Slezak)が辺りを嗅ぎまわるようになり、Georgiaの夫として各方面になりふり構わぬ傲慢さをむきだしにするようになったSamと、自分が似た者同士であることを仄めかしつつ彼に近寄ったり距離を置こうとしたりするHelenの綱引き・綱渡りは果たしてどこに向かうのかー。
極悪非道のサイコパスが社交界でのしあがろうとして、彼と距離を置こうとしつつも絡まないわけにはいかない似たもの女性の複雑な思いと境遇を描いて、それはノワールの定石であるfemme fataleに寄っていく、それに翻弄されて嬉々として破滅に向かう男性ではなく、homme fataleに寄りつつ自分でもどこに行きたいのかわからなくなっていく – でも決して狂うことはない - 女性を生々しく現前させて、目が離せない。
Samのキャラクター造形にもうちょっとだけ深みを持たせることができたらなー くらい。いまの俳優に演じさせるとしたら、やっぱりGlen Powellあたりかしら。
Executive Suite (1954)
↑のに続けてみました。 邦題は『重役室』。
脚本はErnest Lehmanで、彼が手掛けた最初の映画脚本になるそう。あと、音楽が全くついていないの。
オスカーに沢山ノミネートされて、ヴェネツィアではGrand Juryを獲っている。
大手家具メーカーの社長Avery Bullard - 冒頭は彼の目線で動いていく – がNYでの商談を終えて、秘書に夕方帰るので重役会議を招集しておくように、って電報を打って道路に出たところで急に具合が悪くなって倒れて天にー。
倒れた男性が運ばれるのをビルの上から見てて、あれはうちの社長ではないか、って確信した重役が手元の株を売って儲けようと画策するが身元の公表がぜんぜんでなかったり、死亡が公表されると、社長は後継者の指名などをしていなかったこともあり、対外発表や株主の保護、そこで誰が主導権を執って進めるか、そしてなにより、誰が後継の社長になるべきか、などについて、彼は若すぎる、人望がない、など水面下での男たちのぐさぐさの攻防が始まって、焦り苛立ち失望などが止まらなくなる。
基本は老獪なじじい vs それぞれの理想に燃える若手、という男たちの成りあがり蹴落とし駆け引きサバイバル・ドラマで、そこに創業者の娘でBullardの愛人だったJulia (Barbara Stanwyck) - 議決権をもつ – が絡んで、相当にねっとりした熱いやつに盛りあがって、俳優はみんな重心低めでうまいし、緊張が途絶えないまま最後まで運ばれる。
見ごたえはあって、一般的なメッセージや教訓としてもたぶん悪いことは言っていなくて学びも多く、結末の持って行きかたも間違っていない映画だと思うのだが、会社とか経営とかそこでの仕事とかにぜんぜん興味を持てないまま生きてきてしまったので、何をやっているのか、何を言っているのかはわかるものの、これ、なにがおもしろいんだろ? の連打になってしまったのが残念だった。(そもそもなんで会社員なんかになったの? → 自分、といういつもの)
他方で、ここに出てくるような人たち(Executives)によって決定されたり執行されたりしたことが、多くの人たちの人生や生活の行方や質を決めることになる、という仕組みとか、そんな彼らに対するべらぼうな報酬とか支配/服従のありようとか、いまや世界の殆どの会社組織で行われていることとは言え、なんともグロテスクでおそろしいことだわ、って改めて思った。
[film] 急に具合が悪くなる (2026)
6月30日、火曜日の晩、ル・シネマ 渋谷宮下で見ました。
まだあれこれ考えたりしているが、なんか書いてみよう。3時間20分ある作品だが、するする見れて、軽い。
仏語題は”Soudain”(突然)、英語題は”All of a Sudden”、先のカンヌで主演のふたりが女優賞を共同受賞している。
原作は哲学者宮野真生子と文化人類学者磯野真穂による同名の往復書簡集(未読)で、映画は中心のふたり、その間で交わされるメディア(手紙→対話/演劇)、言葉も含め、舞台をパリとそこの介護施設に変えて、いろんな出会いや衝突があるなか「急に具合が悪くなる」ような事態はそこになにをもたらすのか? というその行方と結末を見せる、というより、どこまで転がっていってもどうにもならないnow/here な世界を、ロメール調のさらさら手書き日めくり方式で綴って見ようと。
パリで高齢の認知症患者向け介護施設のディレクターをしているMarie-Lou (Virginie Efira)は、老人たちを機能不全に陥った機械として扱うのではなく、人として対面して時間をかけてケア、支援していく、ユマニチュードの方法論を軸とした施設の設計や運営に反対したり疑義を抱くお役所や現場のスタッフ達と辛抱強く対話を続けていて、疲れて眠れなくなった時に誘眠剤を飲んでしまったせい(が直接の要因ではないが)で患者が亡くなって、トラムでひとり泣いていたら、丘の向こうから走ってきた智樹(黒崎煌代)と出会い、自閉スペクトラム症である彼と、その祖父で役者をしている吾朗(長塚京三)と彼の舞台を作・演出しているMari (岡本多緒)と出会い、彼らの演劇 - イタリアで精神病院を廃止した精神科医Franco Basagliaについての芝居 - “Da vicino nessuno è normale” - 『近づいてみれば、誰もまともな者はいない』 - を見に行ったMarie-Louは感銘を受けて、Mariと親交を深めていく。
Mariはステージ4の癌患者で、いつ「急に具合が悪くな」ってもおかしくない状態であること、またそうなったらもう先は長くないことをMarie-Louに告げ、Marie-Louは自分の施設での運営や指針を巡る試練や困難について語り、ふたり共なんでこんなに生きにくい状態になっているのか、等についてナンシー・フレイザーの資本主義システムの絵を白板に描いたりしながら共に対話して考えていく。
ドラマは急に具合が悪くなったMariが急遽日本に帰国し、一緒についてきたMarie-Louの求めに応じて再びパリに戻り、という展開を見せて、ふたりの抱える生き難さが周囲のいろんな人たちとの関係の移り変わりによってどんなふうに別の様相に変わっていくか、を描いて、所謂難病モノにある周囲の希望や悲嘆にフォーカスするものにはなっていかない。そういったエモを周到に回避しつつ、変わることは難しいかもしれないが、例えばこんなことも、という見せ方に向かう。
「急に具合が悪くなる」ことの「急に」が急であることを察知するためにはずっと傍にいて「いつも具合が悪い」ことを見ながら認識しておく必要がある。「急に具合が悪くなる」ことの背後には「ずっと具合が悪いまま」である/がある、ということ。 『悪は存在しない』 (2023)で、そう言いながら「悪は存在する」さまを軽く示していたように。
そしてその「急に」という事態、時間のありようは、患者ひとりひとりの時間感覚が異なるようにケアされていくなかで引き延ばされ、それが資本主義システムの求めてやまない効率や時間のお金の使い方 - 予測・計測可能ななにか、に対置、対抗されるものとしてあるように示される。ふたりの食べるカップラーメンの2.5分が、ぜったい2.5分よりも長かったように(いちばんはらはらした場面)。
そしてたぶんそこに、原作の往復書簡の宮野さんがテーマとしていた九鬼周造の「偶然性」の話も絡んでくるのだろうな、というのと、もうひとつの基調音としてあるロメールの映画とはまさにそういうchance meetingの織物としてあったよね、というのと。
ふたりが京都の山の上で語り合いながら朝を迎えるシーン、『レネットとミラベル/四つの冒険』 (1987)の"The Blue Hour"みたい、って思った。
主要な舞台を日本ではなくパリに置いたのも、ロメール、というだけでなく、日本だと雑で愚かで幼稚な資本主義がやかましく声高に進行しすぎていてドラマとして成立しないからではないか、とか。
ひとつだけ、施設の老人たちや自閉症の智樹の「演技」の描き方は、ちょっと気になった。ワークショップであれ本番であれ、彼らがあんなにきちんとコントロールされて動いてくれるわけなかろうに、って。
7.03.2026
[theatre] ハムレット
6月28日、日曜日の午後、静岡芸術劇場で見ました。 月1回は見たい演劇。
台風でどうなるんだろ? だったが新幹線は動いていた。雨風は去っていて、でもこの時期の吹きつけてくる霧雨がすごくいやで。
静岡、というと、2023年に静岡県舞台芸術公園で『Hamlet à l'impératif ! ハムレット(どうしても!)』を見ていて、静岡はなんとなく「ハムレット」を見る土地、になっている感がある。(それがどうした)
この舞台は昨年11月にここで上演されたもののリバイバルだそう。原作はシェイクスピア、河合祥一郎の翻訳をベースに、脚色・演出は上田久美子。
開場の少し前にロビーのようなところで、地元高校の芸術科演劇専攻(そんなのあるのいいなー)の生徒たちによる、ハムレットのあらすじについてのパフォーマンス 「みにみにハムレット」という5分くらいのがあった。5分でまとめて説明します、ということで、波も間合いもちゃんとしていて、これ自体は別によいのだが、劇の本編の方でも冒頭にホレイシオ(本多麻紀)が出てきて「要約します」というのをやっていて、これは最近の風潮なのだろうか、「まとめサイト」とか、「あらすじ」とか、他方でネタバレ禁とか、なんかぜんぶ繋がっているのだろうな、と思った。
そして最初に、登場人物全員が白いひらひらの衣装で登場して、全員がオフィーリアである、という。配布された縦長の冊子には、人間以外の存在を無視しないために、ということで「ノンヒューマンな存在たち」を意識した動き、という言及があり、冒頭のオフィーリア(たち)の動きは - ストーリーの本筋から排除されがちな彼女の声や目線を拾いあげるものでもあり - その方向性に倣ったもの、であるのかしら。
この世継ぎをめぐる復讐と自家撞着のどろどろと転がっていく物語は、確かに王子ハムレット(山崎皓司)を中心に据えたものなので、そこから漏れたり拾いあげられなかった声などもあるのかもしれないが、では、そうして拾われたり掬いあげられたりした声の確かさとか網羅性って、どうなのだろう? そこにおいてもまた、オルタナの「存在」によるふるいが掛けられたりしないのか? とか。 物語を作る、というのはそもそもが作者のそうした恣意の塊りを捏ねていくことなので、読みの試みとしては別の視点が導入されたりしておもしろいかもしれないけど、物語の本来のありようを薄めてしまう – それって先に書いたあらすじ、要約志向にも繋がっていくやつなのかも、とか。
なんでそんなことを? たぶん、作品の外にあるいろんなものとか関係各所などへの配慮? 見てわかってもらうための努力? でもこういうのってそもそも自分が見て取り組んで考えるなかで見いだしたり纏めたりすべきものではないのか?
舞台の上は空気でぶわぶわ自在に膨らんだり萎んだりするビニールシートで雲のように覆われ、それが天井にまで伸びていて(最後は客席まで覆いにくる)、この雲が登場人物たちの視界を遮ったり塞いだり。音楽は、此岸彼岸の境目を意識させるかのような電子音とかちりちりしたノイズと、太鼓のとんとこから最後は和太鼓まで。全体として決して元に戻すことのできない、やっちゃったどうしよう… なひりひりした感覚が充満していて、ストーリーの本筋はそれに乗って揺れずにふつうにハムレットしていたような。オフィーリア、最初はあんなにいっぱいいたのに。ホレイシオも肝心なところでは妙におとなしいし。
結局、要約とか語り部とかオフィーリアとかノンヒューマンが脇でいくらざわついてもハムレットの悲劇は動かしようがなくぶっとく天井から落ちてきたもの、というのが明らかになった、ということでよいのかしら。
演劇は舞台と客席がどちらもナマなのでいろんな化学変化や突発事故がありうるしあったらおもしろいだろうな、とは思うけど、その向こう側にはテコでも動かない、動かしえないヒューマンの領域というのが確かにあるのかも、って思ったりした。
帰り、新幹線まで少し時間があったので静岡駅の地下を通って歩いていける駅ビル?の上の静岡市美術館でやっていた『スウェーデンのうつわ グスタフスベリのある暮らし』という展覧会でうつわを見て帰った。ハムレットはデンマークだけど、彼、うつわとか興味なかったのかな… (それどころじゃな… )
7.02.2026
[film] The Man in the White Suit (1951)
6月27日、土曜日の昼、K’s Cinemaの特集 - 『英国イーリング・コメディの黄金時代』で見ました。 邦題は『白衣の男』。
この作品、英国にいた間に、もちろん見たことはあったのだが、「イーリング・コメディ」という括りでの特集ではなかった気がする。英国の戦前~戦後の映画って、Ealingだけじゃなくて、Alexander KordaのLondon FilmsとかRank OrganizationとかABPCとかMichael PowellのThe ArchersとかHammerとかGainsboroughとか、ハリウッドに対抗すべく国策でやっていたのでめちゃくちゃいろんなプロダクションがあって、どれを見たって – 少なくともいまの時代に生き残って再映されるようなやつについては – 外れがないの。
そういうのをアーカイブから引っ張り出して単発だけど35mmフィルムで上映してくれる火曜日のBFIの”Projecting the Archive”のシリーズとか、毎回痺れるおもしろさでいつも満員になって… 何が言いたいのかというと国立映画アーカイブのあれは、国策としてもぜんぜんだめで愚かで、ふざけんな、しかない、ということ。
そんななか日本で「イーリング・コメディ」がうける(結構お客入っているらしい)のは、デパートの英国展でスコーンやフィッシュアンドチップスに群がるのと同じようなものなのではないかしら。確かにとても英国らしい風味が効いてておいしいけど、英国のおいしいのってそんなんで終わるもんではぜんぜんないのよ。
イギリスの地方の繊維工場の片隅で怪しげな機械がピコぽこ変な音をたててずっと稼働していて、これ誰のものだ? ってざわざわしてようやく捕まったのがケンブリッジ出のSidney Stratton (Alec Guinness)で、彼は決して摩耗しないし汚れも一瞬で落ちる真っ白で強力な繊維の開発を続けていて、それなりのお金をかけたりしてようやく成功すると、彼はイノベーター、パイオニア、って持ちあげられるのだが、経営幹部と工場の労働者たちはこれができちゃうとやっぱり困るかも、って言いだして、追いかけっこが始まって…
最初からほーらこんなおかしいでしょ、って笑わせるのを狙っている、というよりは、自分の信ずるところに愚直に邁進していって、周囲もそれにきちんと応えているのに、なんでか全体として変な方に捩れていって、結局どうしようもなくなって、なんとも言えない気まずさが残る。そういう気まずさとかやりきれない「にがにが」をどうにかするために、パブ、っていう施設が発展したのね。
白いスーツを着て飄々と逃げ回るAlec Guinnessの姿はEP4でデス・スターの中をすり抜けていくObi-Wan Kenobiに重なっていく。この頃からああなることを予見していたのだとしか言いようがないの。
Vesna na Zarechnoy ulitse (1956)
↑のに続けて、Morc阿佐ヶ谷という行ったことのない映画館に行って、そこの『ソビエト映画特集』で見ました。
昔の映画をやってくれる館が昔より増えたのはよいこと、と思いつつ、洋画の新作はブロックバスターかジャンク系のホラーか、各国の映画祭でかかるような「佳作」ばかりで、見れていないのはほんと多いよねえ…
邦題は『ザレチナヤ通りの春』、英語題は”Spring on Zarechnaya Street”。
監督はFeliks MironerとMarlen Khutsievの共同によるソビエト映画で、ぜんぜん知らなかったがとても有名な作品らしく、ウクライナ映画ベスト100の45位になっているそう。
大学を出たばかりのTatyana Levchenko (Nina Ivanova – ちょっとAmy Adamsに似ている)が駅前で車を拾って、工場の方に向かう。ご機嫌で愛想のいい運転手は前の教師が来て帰っていったことを知っていて、車代は帰る時でいいよ、とかいう。
工場地帯に入って、そのなかにある労働者向け(?)の学校のロシア語、ロシア文学の教師として赴任してきた彼女に知り合いが下宿を調達してくれて、工場勤務をしている生徒たちを含めていろんな人たちが彼女の前に現れて、みんなの人気者Sasha (Nikolai Rybnikov)も寄ってきてちょっかいを出してくるのだが…
そびえ立つ広大な工場地帯、そこでの労働者たちの活気–すぐ歌がでる、 新任教師としての意気、そんな中でやっぱり芽をだしてくる恋への期待と立ちはだかる壁と行ったり来たりの宙ぶらりん状態が、厳しい冬から春への移り変わりと共に綴られていって、最後はやっぱり。 意外な要素も、見ていて恥ずかしくなるようなやり取りもなく、それらが気持ちよいくらいに各トラックにのってはまってアンサンブルを奏でていって、いつまでもずっと見ていても飽きない、70年前の作品であることを感じさせない王道のrom-com。なんでこんなふうにできてしまうのだろう? しかない。
この映画の殆どが撮られたウクライナのザポリージャ、この映画から70年で相当いろいろあった(今も…)のだろうなー、というのを(あまりに眩かったりするので)思ってちょっとしんみりした。
7.01.2026
[film] あの鷹巣町のその後 (2005)
6月25日、木曜日の晩、シネマヴェーラ渋谷の羽田澄子特集で見ました。
この特集 - 『福祉、芸術、ジェンダーを通して日本を描く』の「福祉」のパートを見ていなかった気がしたので。
180分、休憩なし。『住民が選択した町の福祉』 (1997) & 『続 住民が選択した町の福祉-問題はこれからです』(1999)から続く3つめの作品で、これの続き(↓)も含めると全4部作(上映時間8時間13分)になる。最初の2本を見ていなくても、冒頭で丁寧にここに来るまでに鷹巣町でなにが起こったのか、「あの鷹巣町」で起こった「問題」とはなんだったのか、をきちんと説明してくれる。
地方の話と福祉の話は、例えば昨今の政治の劣化とか右傾化とか分断とか格差とかを考えていくとどうしても突き当たることだし、そろそろ自分ゴトのど真ん中になりつつあるし、とりあえずどうすべきか、も大事だろうが、本当の敵はどこにいるのか、その正体はなんなのか、を見据えておくためにも。
秋田県にある人口2万3千人の鷹巣町で、1991年に若い町長が誕生すると、町民の自由参加によるワーキンググループが組まれて、福祉の先進国デンマークの福祉行政を参考に先駆的な老人保健施設「ケアタウンたかのす」の構想が立ちあがり、町議会の多数を占める前町長派に反対されながらも、どうにか可決されて、ケアタウンの施設もサービスも稼働を始めるのだが、やはり問題はいろいろ出てきましたよ、というのが前2作までのあらすじ。
その町長が4期目をかけた2003年の町長選挙で大敗し、その背景と町が今後この先どうなっていくのかを探るべく、羽田監督自身が現地に乗りこんで、関係者への聞き取りを進め、自分でナレーションもしながら全容を明らかにしていく。
無投票で再選が確実視されていた前町長の対立候補として突然現れたのは病院出身の医師で、手厚い福祉政策については評価しながらも財政を圧迫するのでまずは経済面の建て直しを、とその手段として町村合併や大病院、大規模店の誘致などを主張して、当選するとその路線に切り替わって、2005年に北秋田市が誕生する。 その裏でケアタウンの予算も、自主運営されていたサポートホームも集会所に転用されたり、ケアを取り巻く人も環境も変わっていく。
福祉のあり姿を追う/問う、のがそもそものテーマだったと思うのだが、映しだされるのは小自治体の、小汚い政治家たちのお金の使い道に関する政治の駆け引き(というより排除と押し売り)ばかりで、それはやがて地方都市(が合わさった勢力)ではどうすることもできなさそうな、中央政府の意向でもあることが見えてきて、そして地方は中央に憧れてそれに倣うもの、といういつもの茶番を見ることになってうんざりする。
財源は限られている - 人口は減っている - 使い道を絞るしかない、という出発点からのとにかく儲かること優先、というじじい共が、ハコ作ってバラ撒いてなんぼ、というこれまで散々見てきた政治の風景と、ケアする側もされる側も辛くない、遠くないはずの幸せを追求していく福祉の道とはぜんぜん別種のものなので、一方が他方を排除するのはおかしいのだが、それができてしまうのは一言でいってしまえば貧しいからで、この風潮とダウンワードスパイラルは今のこの国全体を覆っているのでどうしようもない。
あと、いまもどこにでもいるユニオンを毛嫌いするじじいが出てきて、なんかの病気だよねあれ、と改めて思った。
あの鷹巣町のその後 続編 (2006)
↑のに続けて見ました。これは59分と短い。
前回、合併で誕生した北秋田市の市会議員選挙のあと、鷹巣町が国に先駆けて制定した「高齢者安心条例」が廃止され、ケアタウンは財政支援を打ち切られて、福祉の現場はどうなっている/いくのかを関係者に取材していくのと、そもそもの発端として、なんでこんなこと - 2003年の町長選挙の大敗 – になってしまったのか、を改めて振り返っていく。
福祉は生産性とかで測ったり効率化云々でどうにかしたりすべきものではない、と思うのだがー、っていう原理原則を福祉なんてやりたいやつがやれ(自治体の責任ではない)、って思っている家父長制下で甘やかされてきたじじい共は死んでも理解できないので、連中が死んでもらうのを待つしかないのか。
なんであの選挙で負けたのか、についてはそれまで12年間続いた政権下で撒かれた利権、という話が出てきて、これも今のくそ政権に繋がるところだねえ。みんながしぶとく利権に群がって、政府はそういうところに金をバラまいて事業を興して、そうでないところからは巻きあげて、ついてこれない人々を道端に棄てて、誰も責任を取ろうとしないし、いくら弱者排除の卑怯者とか言われても軸と脳が腐っているから理解できないし。政治家だけの話ではなくて「社会」の役に立たないものはいらない、消えてよし、という方向にいろんな仕組みが囚われているところで、福祉なんて成り立たないし、育ちようがあろうか。
ここ数日起こっているしょうもない事態にも繋がっていて、どうしたらよいのかねえ、っていつもの。
これを見てから『急に具合が悪くなる』を見ると、急に具合がよくなることはないけど、よりよく理解できたかも。特に白板のところとか。
[film] Supergirl (2026)
6月26日、金曜日の晩、109シネマズの二子玉川のIMAXで見ました。
こういうのは台風が来ようが何が来ようが、基本は初日に見ることになっているので、しょうがない。
上映中に地震が来て、結構揺れたのでこれはだめかもー … って覚悟したが中断はしなかった。
昨年リブートされた”Superman” (2025)にも少しだけ出てきた”Supergirl” - Kara Zor-El (Milly Alcock)を主人公に据えたドラマで、いとこのKal-El (David Corenswet)も少しだけ出てくるが、メインの舞台は地球ではないし、宇宙の広さとか正義とか大義とかの話はあんま出てこない。
作はAna Nogueira、監督は”I, Tonya” (2017)や“Cruella” (2021)のCraig Gillespie、プロデューサーにはJames Gunnの名前がある。昨今、いろんなユニヴァースだらけでどうでもよくなっている感があるが、DC内では”Chapter One: Gods and Monsters”というのに含まれているらしい。
崩壊しかけたクリプトン星で幼いKaraとわんわんのクリプトが両親によって地球に住むいとこのKal-Elのところに送り出されたが、Supermanの彼のように地球人の両親にちゃんと手間をかけて育てられたわけではないKaraはちょっと無軌道で厭世的で、23歳になった時も、ひとりでいろんな惑星酒場をよれよれ渡りながら飲んだくれてパーティ三昧の日々を過ごしてて、Supermanは心配して電話をかけてきたりするがまあ相手にしない。
ある星に住んでいたRuthye (Eve Ridley)は盗賊団の首領Krem (Matthias Schoenaerts)に一家を皆殺しにされ、形見の刀を背負って復讐の機会を狙っていたところでKal-Elと出会って、奴らをやっつけてほしい、と頼むのだが相手にされなくて、でも連中に突っこんでいったクリプトが毒矢にやられてあと3日の命、になってしまったので、解毒剤を持っているKremを探して渋々一緒に旅をしていくことになる。敵をすぐにでも殺してやりたいと恨みに燃えるRuthyeに対して、解毒剤を手に入れたいからちょっと待て、というKaraと。
Kremの一味が若い娘を誘拐して集団花嫁として束ねて取引したりしているのを知った彼らは、やっぱりこいつらやっつけるしかない、って一匹狼のLobo (Jason Momoa)の助けも借りながら連中を追っていくのだが果たして。 そしてわんわんのクリプトは...
まず、ストーリーは裏も表も伏線もくそもなくシンプルで軽い(2時間を切っている)のはよいと思った。Supermanのお話ってそもそもこんな程度のだったのだと思うし。 敵討ちと解毒薬を探して共通の敵を追っかけていく股旅もので、生真面目な娘と腕は確かだが飲んだくれのだらしない娘の組合せ、そこに絡む風来坊の狂犬男、など。革ジャンで顔中金具だらけの悪党バイカーとか、さらわれた女たちが籠に入れて売られていく話とか、宇宙の果てまできてまたそのイメージ? もう何回目? にはなるけど、わかりやすさを狙ったのだろうな、と思う。
他方で、赤い光の星で気持ちよく酔っ払い、黄色い光の星で最強になり、緑の光の星で力を失ってしまうので、最後のほうで緑の星に誘導されて絶体絶命、ってどうなのか。結局、たまたまああなってくれたからよかった、ってそんな他力本願ヒーローでよいのか? というのはある。(彼女がロメールの『緑の光線』なんて見たら最後にぐったり… っておもしろいけど)
地球ではなく、なんでもありの宇宙なのにこの定型スケールかあ、っていうのと、ふだんグランジのボロを纏って髪ぼさぼさで匂いが漂ってきそうなSupergirlがいとこがくれたからってユニフォームみたいなあの衣装をわざわざ着て戦う?っていう違和感と、あとなによりも、耳をばふばふさせる狂犬クリプトと一緒にめちゃくちゃ暴れまくってほしかったのになー、というところ。 Loboはいてもいなくてもべつに、くらい。
でも次のが来たらまた見てしまうのだろうな…
とにかくサッカーが終わってくれてなにより。 帰国してフットボールが更にとっても嫌いになった。