7.17.2026

[film] 海灘的一天 (1983)

7月12日、日曜日の午後、シネマート新宿で見ました。

Edward Yang - 楊德昌の最初の長編劇映画、撮影のChristopher Doyleにとっても長編劇映画デビュー作、侯孝賢も登場する、記念碑的な作品のリストア版。ようやく見れた(とみんなが言う)。

英語題は”That Day, on the Beach”、邦題は『海辺の一日』。
166分、ちょっと長いけど、海辺で一日ぼーっとしている時に浮かんでくるようなことが押し寄せてきて - 押し寄せてくるかんじを体感できて - とても満ち満ちて固まった、豊かな午後の時間を過ごすことができる。これこそが自分にとってのEdward Yangのイメージかも。

ヨーロッパでずっと活動してきたピアニストの蔚青(Terry Hu)が13年ぶりに母国の台湾に還ってきてコンサートをする、というラジオのアナウンスが流れ、晩に向けた準備をしようとしている彼女のところに、旧友の佳莉(Sylvia Chang)が会って話したい、と連絡してきたので、彼女は午後の予定をキャンセルして、再会したふたりはお茶を飲みながら対面する。

ここでふたりの関係、その過去を掘り下げていくのかと思ったら、佳莉の兄の佳森(Ming-Hsiang Tseng)が父の経営する医院を継ぐべくお見合いで結婚することになり、彼が当時付きあっていた蔚青が海外に出てしまった経緯が語られ、そこからふたりのその後に向かうかと思ったら、今度は佳莉の方に向かい、彼女の方にも親からよろしくあてがわれた男が紹介されたので、大学から兵役に出るところだった徳偉(David Mao)を捕まえて家を出て一緒になる。徳偉はとてもよい人で幸せだったが、大学の金持ち友人だった阿財(Hsu Ming)の会社に就職してから忙しくなり、ふたり一緒に過ごす時間が減って、互いにぎすぎすして追い詰められていって、そういう状態で今から3年前に、徳偉が行方不明になって、彼の名前が書かれた薬瓶が海岸で見つかって、それらしい男の影も目撃されていたので捜索が進められるなか、阿財が現れて徳偉の周辺で会社のお金が無くなっていること、怪しい出張を繰り返していたこと、実は死んでいないのではないか、と語るのだが、佳莉は彼女のなかで彼の死亡認定をする。浜辺では見つかったぞ、のようなシーンも描かれるが、彼女はもう振り返らない。

最初のシーンは夕刻の海辺の捜索が一瞬だけ、彼が消えてしまったあの日、海辺で過ごした一日はどんなだったのだろうか – その場面を直接には描かず、↑のような十数年に渡って散らばったストーリーを十数年ぶりに再会したふたりの対話を通して、回想 - 回想のなかでも回想して右に左に振れまくり、起こったことはリニアではない形でとめどなく流れていって、誰にも止めることも巻き戻すこともできない時間の塊りに対する後悔や残響をもたらして、もちろん、だからどうなるというものでもない。 蔚青が海外に出るきっかけを作った佳森も数年前に寂しく病死したことが、最後に付け足されて、ふたりは別れてそれぞれのトラックに戻る。 

映画の文法、のようなところで言えば、たぶんやってはいけないこと - 見る側を困惑させるし、だらだら締まりなく起こってしまったこと、を回想のがんじがらめで封じ込めていくので、どこに連れていきたいの? になるのだが、愛を求めるひと、愛から逃げるひとのシンプルな往復によるメロドラマがなんだか心地よくなっていく不思議。

なんとなく、成瀬の容赦ない『流れる』、ではなく『流れた』 みたいな(佳莉の髪型)。公開に近い年代でいうと”Love Streams” (1984)にあったある種の気持ちのよさ。 ここでとめどなく流れていったのは時間ではなく愛だったけど。

蔚青はその晩のコンサートで、どんな曲を弾いて、そのピアノはどんなふうに鳴ったのだろうか? といったことまで思ってしまったり。

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