5月16日、土曜日の昼、シネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。
Sturgesといえばこれ、の1本で、1941年のNew York Timesの年間ベストでは『市民ケーン』を抑えて1位になった、というのはダテではないの。 もう何度も何度も見ていて、何度見たってあきない。
原作はアイルランドの劇作家Monckton Hoffeによる19ページの短編"Two Bad Hats"をSturgesが脚色している。邦題は『レディ・イヴ』。
冒頭にヘビとリンゴのアニメーションが流れて、聖書に関わるようなお話だろうか、と思うのだがほぼまったく関係なくて(あー堕落、とか?)、おちょくっているだけ。
アメリカのビール(エール)会社の御曹司のCharles Pike (Henry Fonda)が一年間の密林での探索ツアーを終えてアメリカに戻る豪華客船に乗り込んできて、それを美貌の詐欺師Jean Harrington (Barbara Stanwyck)とその父(Charles Coburn)とお付きの3名が待ち構えて、足を引っかけて転ばせて懸けトランプに巻き込んで簡単に突き落とした、と思ったらそれ以上にJeanはCharlesに惚れてしまって、でもCharlesのお付きのMuggsy(William Demarest)が連中は詐欺師だから、ばらして船の上の恋は簡単に藻屑と消える。
いろいろ諦めきれずにめらめらしているJeanは、コネチカットの詐欺師を介してイギリス貴族の令嬢Lady Eve Sidwichとして蘇って、Charlesの実家のお屋敷を訪れる。Lady Eveは船の上と同様に彼の一族を簡単にめろめろに落として、CharlesとMuggsyは彼女があまりにあのJeanと似ているので、そんなバカなって目をこするのだが、決定打を見いだせずにずっこけてばかりで、でもEveがあまりに素敵なので結局落ちて結婚することになる。
ハネムーンの止まらない夜行列車のなか、過去の男性遍歴を連続でぶちまけてウブなCharlesを粉みじんにしてざまぁ、ってやった後、ふたりの婚姻は当然なかったことに、になるのだが、そんな簡単に終わるような恋ではないのだった…
これ、詐欺師が男性側だったら割と「痛快!」とか持ち上げられであっさり終わる気がするのだが、Barbara Stanwyckの場合、彼女が余りに堂々として見事なので、こちらもまんまと騙されて、後には痺れるような快楽しか残らないの。
The Palm Beach Story (1942)
5月16日、土曜日の夕方に同じ特集で見ました。 監督、脚本ともPreston Sturges。
日本公開(1948)当時の邦題は『結婚五年目』だったそうで... ちょっとひどい。
高速回転させたウィリアム・テルの序曲に乗って、ものすごいスピードの錐もみで大量の変な人たちが窓の向こうに流れていくスクリューボール・コメディ。
冒頭の結婚式のシーンは、何度見てもなんだこれ? ってちょっと混乱する(けど、最後にああー。って)。
そこから5年後、NYのPark Avenueのアパートに自称"Wienie King"を名乗る耳の遠い老人(Esther Howard) が妻に付き添われて内見に現れて、そこで家賃滞納で燻っていたGerry (Claudette Colbert) と出会い、老人は彼女の話を聞くとこれまでの滞納分に加えてドレス代までくれて、その晩発明家の夫のTom (Joel McCrea)と口論になった彼女は離婚手続きを進めるべくフロリダのパームビーチにひとり列車で向かうことにする。
列車に乗ろうとペンステーションに向かうGerryだったが無一文で、でも改札口で知り合ったAle and Quail Clubっていう狩猟クラブの男たちが親切で乗せて貰う。のだが、この連中がめちゃくちゃ狂ってて車内で銃を乱射しはじめたので、たまらず別の車両に逃げて、そこで出会ったのが世界的な大富豪のJohn D. Hackensacker III (Rudy Vallée) - でも相当変な - で、彼もいろいろ恵んでくれて、他方で諦めきれないTomも"Wienie King"の支援を受けて飛行機でパームビーチに向かい…
現在の貧しさと停滞する夫婦関係の縛りから逃れようとする思いと、新しい恋を見つけて落ち着きたい、という思いが道中で挟まって絡んでくる変な連中 – でもみんなお金だけは持っている – との出会いでかき回されて、でも同時に恋もノンストップの前のめりでいると、すべてが冗談みたいに都合よく落着していってしまう。
上の2作、どちらも普通じゃない大金持ちが絡んで、彼らは金儲け以外のことは無知で愚鈍で、恋にも虫のように固まって不器用だがお金は出してくれるので、うまく使っちゃえばよいのだそれが社会のためなのだ、っていうことでよいのかも。
最近の金持ちは異常者ばかりなので近寄るべからず、の方になってしまいがちだが、この頃はまだ夢があったのかも、ね。
この日、上の2本の間に、”If I Were King” (1938) – 邦題 『放浪の王者』も見たのだった。
監督はFrank Lloyd、Preston Sturgesが脚色した時代劇で、101分もあって(この特集の中では)とても長く感じた。
主人公がFrançois Villon (Ronald Colman)で、中世の詩人の、鈴木信太郎や天沢退二郎らが訳したりしてきたあのヴィヨンが、反乱軍のリーダーみたいになって大活躍するの。 ほんとかよー、って。
5.22.2026
[film] The Lady Eve (1941)
5.21.2026
[film] They Will Kill You (2026)
5月15日、金曜日の晩、ヒューマントラスト渋谷で見ました。
21時からこういうのを見ているとB級感がじっとり滲みてくる。
ロンドンからの帰国前にちょっと見たかったけど間に合わなかったやつ。向こうではこれともう一本、“Ready Or Not 2: Here I Come” (2026)がほぼ同時期に公開されていて、ジャンクだろうけど血まみれになった女の子がばさばさ殺しまくるのがちょっと気持ちよさそうで、少し惹かれた。 以下、ネタバレしているかも。
監督、共同脚本はロシアのKirill Sokolov。South Africa / US / Canada映画。
Asia (Zazie Beetz)と妹のMariaが虐待する父親から逃れようと夜のコンビニまで逃げてくるが捕まって、Asiaは父親を撃って逃げることができたが、結局Mariaとは離ればなれになってしまう。
そこから10年が過ぎて、AsiaがNYの富裕層が暮らすクラシックな高級/高層アパート”The Virgil”の門を叩いて、メイド求むの張り紙を見てやってきた彼女は怪しげな修繕管理人のLily (Patricia Arquette)に迎えられるが、Lilyの様子とロビーにいた住人数名を見ただけでなんかここは様子がおかしいぞ、ってなってしばらくすると早速黒のレインコートを着た男女の一団が現れてAsiaを襲ってきて、簡単にやられるAsiaではないのでひとりでやり返して、首をちょん切ったり連中をぼこぼこにしてやって、でも廊下に出たらかなり痛い目に合わせたはずの奴らがふつうに、首を切った奴なんか自分の首を抱えて立っている。
この地点で、姉の妹探し&タランティーノ的なふざけんなの復讐物語と思っていたのが、お屋敷ゾンビ系の怪奇&サバイバル・ストーリーに変更となってしまい、当てが少し外れた格好になる - 相手がゾンビなら、”They Will Kill You”なんて当たり前だし、生き残ったら勝ち、のゴールは明白で、Asiaは間違いなく生き残るだろうから(ちょっとつまんないかも)。
従来のゾンビものとちょっと違うのは、廃れた都市郊外の逸れ者がそうなるのではなく、高級アパートに暮らす富裕層が、悪魔との契約で自ら望んでそうなって、そんな自分たちを維持するために生贄として外から来た若いメイドを必要としている、というあたり – やがてAsiaがここに来たのも、ここで消息を絶ったMaria(Myha'la)を探すためだったことが明らかになる。
あと、ふつうのゾンビなら頭を吹っ飛ばせば動かなくなるのだが、ここのは吹っ飛ばしても切り株からなにやら生えてきて死なないし、目玉をくり抜いても神経を尻尾みたいに引き摺ったそれがぴょんぴょん跳ねていったりする – こんな小細工は割とどうでもよくて、かっこよくて不敵な面構えで血まみれの仁王立ちになったAsiaが敵を端から豪快にやっつけていく姿が見たかったのに、なんかもったいない。
妹と別れてから刑務所に入ったAsiaがそこで鍛えられて無敵になった、その成果を発揮するのがあの程度の腐れゾンビじゃねえ… あと、金持ちが悪魔と手を結んで不死の体を手にする、ということの最低最悪の外道感、その辺の現代的な意味ははっきりとあるのに、その辺を貫禄ゼロのへなちょこ俳優にやらせるもんだから、ただの雑魚ゲームみたいに見えてしまっておもしろくないの。
でも演じている人たち、Heather GrahamとかTom FeltonとかPatricia Arquetteとか、せっかくよい人たちが出ている(なんてエンドクレジットでしった)のに、勿体ないー。
あと、やっぱり最後は”The Virgil”が闇の底にがらがらと崩れ落ちるか、燃えあがるか、大爆発のどれかひとつでもしてほしかったのだが、それもなくて、ひょっとして(やっぱり)パート2狙いなのか? って。
5.20.2026
[film] L’Amour à la mer (1964)
5月11日、月曜日の晩、イメージ・フォーラムで見ました。
4月からここでやっているGuy Gille (1938-1996)特集からの1本で、これは彼の長編デビュー作。邦題は『海辺の恋』。
夏の海辺で恋に落ちたGeneviève (Geneviève Thénier)とDaniel (Daniel Moosmann)がいて、Danielはアルジェリアで兵役に就いていて、パリの休暇で更に夢のような時間を過ごした後、Danielは次の任地のブレストに向かって、あんなに熱かったのに彼からGenevièveへの手紙の数と頻度は減っていって…
後半は自分の将来とGenevièveとのこれからに悩むDanielを中心に、そこに彼の友人Guy (Guy Gille)も絡んだりするのだが、その先は時間と重力で誰にもどうすることもできないさまが、カラーとモノクロのはめ込まれたように美しい映像の、その交錯のなかで展開されていく。
光の強弱、鳴っている音、背景の明滅、表情の強い弱い、ふたりの関係の終わりに向かって、ところどころで立ち上がる淡い期待、何を見ても何かを思い出す... なども含めて、すべてが考え抜かれた末に切り取られ、適切に配置されているように思えて、なんも言いようがない、としか言いようがない。
立ちあがってなんかする気にもならないまま散らかり放題の万年床でぐだぐだの時間を過ごしてひたすら腐っていく、腐っちまえ、で実際に腐臭が漂っているような状態は、ひょっとしたらあるのかも知れないけど、パリの人にはないのかも知れない。それくらいの強さと誇りをもって別れの時間を生きている(見つめている)かんじが漲っていて、こりゃ勝てんわ、って思った。
Au pan coupé (1967)
4月18日、土曜日の午後に見ました。 見る順番が逆になってしまったが、こちらがGuy Gilleの第2作の『オー・パン・クペ』。 タイトルは恋するふたりがかつて会って生きていた場所、そのカフェの名前。
Jean (Patrick Jouané)とJeanne (Macha Méril)が恋におちて、でもどんな若者集団と関わっても今の世の中に馴染むことができないJeanは地べたに転がってさらっと天に昇ってしまい、彼が亡くなった後も彼と共に生きた記憶が、その場所に行くと自動で再生されていく – 生き残ったJeanneのなかで、というより、ここにはふたりの、ふたりだけの世界とその時間がある。 これも何を見ても何かを、のあの瞬間を捕まえようとしている映画で、モノクロが現在の死んだ時間、カラーがふたりの記憶のなかの時間で、過去こそが現在なのだ、というメッセージが強いカラーのコントラストのなかでページをめくるように展開されていく。
どちらも撮影はJean-Marc Ripert、音楽はJean-Pierre Storaで、2本合わせて一気に見た方がよいのかもしれない。 すごくかっこいいJazzトリオのアンサンブルのように自在で、でも揺るがなくて、たまにレコード棚から引っ張り出して聴くやつ。
Quatre nuits d'un rêveur (1971)
5月16日、土曜日の昼、ユーロスペースのブレッソン特集で見ました。
英語題は“Four Nights of a Dreamer”、原作はドストエフスキーの短編『白夜』(1848)で、邦題も『白夜』。
これも何度も見ていて、同じ原作でヴィスコンティによる”Le notti bianche” (1957) - Maria Schell, Marcello Mastroianni, Jean Maraisによるこてこてなメロドラマの方もすごく好き。 イタリアンと懐石くらい違うけど。
↑の”Au pan coupé”のJean役のPatrick Jouanéがちょっとだけ出演していて、どちらもふわふわ生きている若者たちの叶わなかった恋、という点では似ているのかもしれない。けど、こちらは人が死んだりしないブレッソンの映画。Pierre Lhommeの撮影がすばらしいの。
ヒッチハイクでうろついたり、ぱっとしない画家のJacques (Guillaume des Forêts)がポンヌフの橋から身投げをしようとしていたMarthe (Isabelle Weingarten)を引きとめて、そしたら自分が恋におちて、そのまま悶々と過ごして終わった4連夜のこと。
Jacquesがずっと携帯しているテープレコーダーから反復されていく彼の声の他に、ところどころフォークミュージックが演奏されるシーンや楽隊が映ったりするので、やや開放的な屋外の空気は広がっているものの、ガチで童貞のJacquesはずっとおろおろしているし、積まれていた本を手にしただけで下宿人に恋をしてしまうMartheも相当なもんな気がして、これが四晩だけのことで済んでよかった。 これ以上いったら”L'Argent”になってしまってもおかしくなかったかもしれない。
ここまでの3本、海辺、カフェ、川辺のそれぞれを舞台に男性はほぼぜんぶ自滅するかのように隅に消え、女性はつらい思いをするものの、まだ先がありそうでどうにかなりそうかも、で、全体として決して明るいものではないけどだいじょうぶかも、になるからたぶん。(なにが?)
5.19.2026
[film] The Sheep Detectives (2026)
5月12日、火曜日の晩、TOHOシネマズ日比谷で見ました。 邦題は『ひつじ探偵団』。
原作はドイツのLeonie Swannによる”Glennkill: Ein Schafskrimi” (2005) – “Three Bags Full: A Sheep Detective Story”、脚色はCraig Mazin、監督はIlluminationで”Despicable Me 3” (2017)や”Minions: The Rise of Gru” (2022)などを共同監督してきたKyle Balda。
予告を一見して”Babe” (1995)のスタイルで動物たちが英語で会話しながら人間社会を騒がせつつ横切ったり突撃したりしていくドラマで、明らかにB級だしこのスタイルはもう目新しいところないし、と思っていたのだったが、あーらびっくり人間/動物ドラマとしてものすごくよかった。 “Babe”のときもそうだったが、こいつら羊畜生の、家畜のくせによう… ってやられてしまう。
原っぱに大量のひつじがいて、Hugh Jackmanなので舞台はオーストラリアかと思ったらイギリスのDenbrookという田舎町で、そこでGeorge Hardy (Hugh Jackman)はトレイラーハウスに暮らして(肉用ではなく羊毛用の)羊飼いをしていて、仕事が終わった夕暮れにはゆったり座って羊たちに向かって推理小説を読んで聞かせている。羊たちはただ彼の朗読を聞いているわけではなく、その内容についてちゃんと理解しているし、みんな名前とキャラクターがあって品種もぜんぶ違っていて、Georgeの最愛の羊で推理小説マニアのLily (Julia Louis-Dreyfus)、なんでも記憶しているMopple (Chris O’Dowd)、一匹羊のSebastian (Bryan Cranston)、群れから仲間外れにされている冬生まれの子羊、など個性的で(声をあてている俳優たちが豪華ですばらしい)、みんな死んだら雲になると思っているし、嫌なことがあったらすぐに忘れることができる(羊いいなー)。
ある日Georgeがトレイラーの外で倒れて亡くなっているのが発見されて、地元の警官のTim (Nicholas Braun)は心臓発作による病死で片付けようとするが、取材に来ていたジャーナリストのElliot Matthews (Nicholas Galitzine)がこれは殺人事件と思われるから、と捜査するように促して、一緒に捜査を進めていくなか、アメリカ人のRebecca (Molly Gordon)が線上に浮かびあがり、弁護士のLydia (Emma Thompson)も現れてかき回したり、農場の買収話や真偽が怪しい遺言状に基づく遺産相続の話も絡んで村人も部外者も誰もがなんか怪しいぞ、になっていく。
他方でLilyを中心とした羊探偵チームは、Georgeから日々語り聞かせられていた推理小説の筋立てやプリンシプルを振り返りつつ独自にGeorgeの足跡を追って何が起こったのかを絞り込んでいって… そしてそこに迫ってくる新たな主(食肉工場)の影が。
推理・探偵ドラマとしてのプロットはどうというものではなくて、そこメインを置いたものでもなくて、いつも羊たちのことを思ってくれていたGeorgeのこと、彼と一緒に過ごした時間、その記憶がどれだけ大切なものなのか、に気づいたときに核心が見えてくる(だから思い出を忘れちゃいけないんだよ)、という極めて羊っぽい動き、エモーションのなかで反復されるGeorgeへの思いともふもふ感がたまんなくよくて。 そういえば”Babe”でも羊たちはみんなよいこだったなあ、って。
更に最後に明らかにされる名前のストーリーが追い打ちで、なんて素敵なお話なのでしょう、ってなるの。
唯一あるとしたらここまで心洗われるようなラストと(ややコミカルであるとは言え)殺人事件のギャップ、だろうか。殺人ではなく失踪とかにしてもよかったのでは、とか。
あと最初に浮かんでしまったイメージは当然のように羊の毛を刈るWolverineだったのだが、さすがにそれはなかった。
5.18.2026
[film] National Theatre Live: The Audience
5月10日、日曜日の午後、TOHOシネマズ日比谷で見ました。
最近のは除いて、NTLのリスト、きちんと見れていないのではないか、という疑念があって、これもそういう1本で、見れるのであればありがたく(ぜったい)見る。
2024年、2回目のロンドン生活が始まったとき、演劇はおもしろそうなので月3回は劇場に通うようにしよう、って目標を立てたのが、滞在の最後の方では月10回見ることになっていたのは、ふつうにライブで見る演劇がおもしろかったからで、日本に戻ってきた今、同じことができるか、というとちょっと自信がない。日本の商業演劇のチケットは変な席でもふつうに映画の10倍くらいの値段だし、それに見合う内容のものなのかどうか、俳優も演出家も舞台でどうなのか知らない(歌手とかタレントとして有名なのはわかる… ひともいる)ので、様子見で、しばらくは月1回くらいを目標にしておこうかなー、くらい。 どうなるかわかんないけど。
原作はPeter Morgan、演出はStephen Daldry、2013年にGielgud Theatreでプレミアされて、2015年にはブロードウェイにも行って、同年のWest Endでのリバイバル時に女王はKristin Scott Thomasが演じた、と。
1952年にエリザベス2世(Helen Mirren)が即位してから亡くなるまでの約60年間、毎週火曜日、バッキンガム宮殿の謁見室で歴代首相から女王に行われた謁見の様子を代々の首相が次々と入れ替わっていく – その(歴史の)順番はばらばらな - スタイルで綴っていく。対面相手の首相が変わるたび、女王の衣装も当然変わるし、衣装を変えるところまで見せたり、でもその辺も含めて女王様は余裕。 歴代首相は12人のうち3人を除いて網羅され、名前が示されなくても英国人であれば誰が誰、とすぐわかるようになっていると思われる。
実際にそこでどんなことが話されたのかの記録は残っていないし、立憲君主制だから女王が首相の語る政策に反対したり意見をしたりすることはできないしで、内容についてどこまで本当なのかなんて知る由もないのだが、それでも女王のこれまでの言葉や態度から、彼女だったらこういうのは嫌がったのでは、くらいのことはわかるし、女王の物腰や挙動を完コピしていそうなHelen Mirrenの振る舞いを見ていると7~8割は当たっているのではないか、くらいに思えてくる(今だったらAIに書かせることもできるかな)。
代わるがわる登場する時の首相たちは当然のようにクセものばかりで、落ち着いた女王の前では誰もが変わった愚か者のように見えてしまうのだが、そうすることで女王の聡明さと、それ故の孤独や苛立ちが透けて見えて、しかしそれが決してかわいそうな女王に見えない、というところがこの演劇の肝、というか女王の女王たる由縁なのかしら。保守だろうが革新だろうが、政治家で上にのしあがってくる奴なんてロクなもんじゃない、ということを我々は女王の目で、Audienceとしてしっかりと目の当たりにして、直言はできないものの当時の政治の断面やありようを見ることになる。(へたなことを書いたらどちら側からも叩かれるだろうし、女王の年齢や経験にあわせて喋る内容も変わっていくだろうし、ネタ作りは相当に難しかったのではないか)
首相それぞれで飽きないのだが、やはりチャーチルとサッチャーがおもしろかったかな。あんま似ていなかったけど。
これって中心にいるのがエリザベス2世でなくても、そこらにいる女性が首相に向き合うことになったとしても... という普遍性をもたせるようなところ – そもそも政治ってなんなのかについて考えさせるようなところもあって、そういう観点でもおもしろいかも、と思った。
あと、舞台を横切っていくだけのコーギー2匹がかわいかった。もっといっぱい出せばよかったのに。
[film] L'Argent (1983)
5月9日、土曜日の昼、ユーロスペースの特集 『ロベール・ブレッソン傑作選』から続けて2本見ました。
ブレッソンのこの辺のは、絶版にならない岩波文庫の赤のクラシックと同じなので何十回でも見てよい/見るべきものなの。
L'Argent (1983)
『ラルジャン』は日本で公開された時にシネヴィヴァンで見てぶん殴られたような衝撃を受けて、日本版のLDも手に入れて、でもLDプレイヤーが壊れてしまったので見れない状態が続いている。
原作はトルストイの『にせ利札』 (1911) - “The Forged Coupon” だが、原作がトルストイだろうがドストエフスキーだろうが、原作がどうのをまったく意識させないところで作品として完結してしまっている。彼の映画のノベライズとしてトルストイを置いたってちっともおかしくないくらい。
1983年のカンヌでDirector's Prizeを受賞しているブレッソンの遺作。
遊ぶ金が欲しい青年が親に言っても聞いてくれないので腕時計を質にいれたら偽札を渡されて、それをもって写真屋に行って偽札を使う。それがばれて怒られたそこの店員が配送屋のYvon (Christian Patey) のところで偽札を使う。それに気づかないYvonがレストランでそれを使ったら見抜かれてそのまま逮捕されて、写真屋の方は裁判で嘘の証言をしてしらばっくれ、Yvonは拘留こそされなかったものの職を解雇される。
家族もいるので金に困ったYvonは雇われて強盗の逃走車の運転手を引き受けたが捕まって、今度は牢獄行きとなり、獄中で愛する娘の死を知り妻からは別れを告げられ、自殺を図るが未遂に終わる。
牢屋を出たYvonは親切な老婦人のところに滞在させて貰うが、ある晩、彼女を含めたそこの人々を斧で殺してカフェに行って自首するの。
Yvonの犯罪というより、写真屋の店員だった確信犯のLucienも最初に出てくるぼんぼんも、彼を庇おうとする家族も、偽札を介して連鎖・伝搬していく犯罪の連なりと、それらの何ひとつも救ったり治したりすることなく右から左に機械的に処理していく社会 - 処理されていく人々のありようを描く。(原作では第二部で善行の連鎖と救いが描かれるそうだが)
比較するな、なのかもしれないが、Ken Loachの映画で描かれる登場人物たちの辛苦、救いのなさ(性質は異なるとはいえ – Ken Loachはまだ人と人の繋がりやコミュニティの可能性を信じている)の百倍は重く苦しく、しかしリアルな絶望をまるごと投げてきて、40年に渡っていろいろ考えさせてくれている。 キャッシュレスになろうが関係ない - というか更にやばくなっていないだろうか。
あとは音。セザール賞の音響部門でノミネートされている、冒頭のメタリックなATMの色味とあの音だけでやられて、もうひとつ、大きな杓子が床をざーって擦っていって止まる、あの音。そして最後の夜のシーン、闇としか言いようのない闇の暗さと怖さと。
Mouchette (1967)
↑の前に、ユーロスペースの同じ特集で見ました。
原作はGeorges Bernanosの同名小説(1937)。 1967年のカンヌでOCIC Award (International Catholic Organization for Cinema and Audiovisual)を受賞している。
フランスの田舎で、虐待する父親と寝たきりの母親とずっと泣いている赤子と暮らす少女Mouchette (Nadine Nortier)がいて、どこに行っても疎まれて弾かれて、森でアル中でてんかん持ちの密猟者と会って、発作を起こした彼を助けたのにここでも虐待されて逃げて、でも結局…
これも何度か見ているが、いつもあまりにきつくてぐったりしてしまう。彼女の置かれた状況、ひっかぶる事態は、いまの世の中においても恵まれない少女が直面していることをほぼ網羅しているようで、それは恵まれない少女がいる、というだけでなく、彼女のような少女をきちんとケアできる社会になっているのか、という大人たちの意識も含めて全然変わってはいないように思えて、そういったことを知らしめるために60年前にこの作品はできたのだ、と思うことにしている。
5.15.2026
[film] The Old Oak (2023)
5月10日、日曜日の午前、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。
監督はKen Loach、脚本はPaul Laverty、製作にはWhy Not, BBC, BFIの名前がある。
2023年のカンヌでプレミアされて、英国での公開の終わりの頃にロンドンに着いたので見逃していた作品をようやく見れた。いまヒットしていることを聞くと、なんでここまで遅くしたの? ってなるがいろいろ事情はわかるし、今この作品が3年遅れの日本で、3年遅れであっても見られなければいけない状況になってしまったことは(残念ながら)間違いないの。
冒頭、イギリス北東部の小さな町、かつては炭鉱で栄えたが現在は廃れた町に、バスでシリアからの移民が到着すると町の人々は当然のように歓迎せずに冷たい目で見て、若い女性Yara (Ebla Mari)のカメラを勝手に手にとってわざと壊してしまったりする。
そうしてYaraと知り合った地元の古いパブ - “Old Oak”の主人"TJ" Ballantyne (Dave Turner)は、彼女とやりとりしながら町の歴史や炭鉱夫として亡くなった父のことなども含めて案内し、Yaraも自分の家族とアサド政権に投獄されて行方不明となっている父のことを話す。
TJのパブにたむろする白人(若いのから中高年まで)の中には地域の住宅価格の暴落と大手ディベロッパーによる近隣の買い占め、それらが招いた移民の流入(+彼らが思うところの治安の悪化)を嘆いて、町に一軒しかないこんなパブで日々の鬱憤を晴らすしかない被害者としての自分たちを強調し、移民に対するヘイトを晒して正当化するが、TJは彼らに寄り添うことはない。昔から知っている客であり友人でもあるので強い行動には出ないものの、よい顔はせず相手の話に乗ることもない。
のだが、Old Oakのカウンターの奥で長いこと打ち棄てられていたバックスペースを(常連客からの要請は断ったのに)YaraたちのFoodバンク&食堂として活用することにした辺りから常連客たちの不満が噴き出すようになって、一触即発の状態にまで転がって…
冒頭からずっと移民たちに対する酷い描写や言葉が投げられてきつくて、それがなんできついかというと、こういう現実がこの地域だけでなく、自分の身の回りにふつうにあることを自分も想像できるというより知っているから。 でもこの映画はそんな彼ら白人たちを犯罪者として描いてはいないし、画面に警察や司法が入ってくることもない。白人労働者階級の彼らもまた、80年代の炭鉱ストの頃からずっと被害者として隅に追いやられてきたのだ、ということが何度か示されて、これは僻地経済の構造的な問題であり、容易にどうこうできるものでもないこと.. なんてわかっているの。
あと、TJがYaraを地元の大聖堂に連れていって、聖歌に感動したYaraがISが永遠に破壊してしまったパルミラの神殿について語るシーンがあり、これに続くラストの葬儀のところは感動的ではあるものの、ちょっと安易かも、と思った。
結局破壊や死がないと人と人はわかりあえたりハグしたりできないのか - とまでは言っていないけど、両者の間の壁はどうやったら崩せるものなのか? もちろん、それは政治家や当事者たちが考えたり対応したりすべきことで、Ken Loachは映画作家なんだから、筋がちがうし – というあたりの苦悶が垣間見えて、現時点でこれが彼の最後の映画作品、となっているのはその辺もあるのだろうか。 排外主義ばんざいで脳が麻痺している連中はこんな映画はぜったい見ないだろうし。
“I, Daniel Blake” (2016)では給金交付に伴う老人の苦難を、“Sorry We Missed You” (2019)では休めない配送ドライバーの辛苦を、本作では移民と住民間の軋轢を描いて、そのどれもがここ数十年で見えてきた、単に生活が苦しいきついというより、目を凝らさないと見えないような社会の片隅で進行している、関係ない人たちにとっては痛くもなんともないところで進行している、でも当事者たちにとっては致命傷のように苦しくきついところを扱っていて、Ken Loachの映画はこういうのをきちんと並べようとする。見せ方はへたくそだけど、とにかく穿り出して見せようとする。
UKの今後の行方も心配だがそれ以上に日本の方だわ。政治も司法もメディアも教育も日本(人)えらいばんざい、って、それのなにがいけてないのか、なんでいけないのかぜんぜんわかっていないみたい。子供か、なのだがずっとそういう幼稚園でやってきたんだよね…
5.14.2026
[film] The Great Moment (1944)
5月4日、GWの月曜日の昼、シネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。
原作はオーストリアのRené Fülöp-Millerによる”Triumph Over Pain” (1940)、脚色・監督はPreston Sturges。歯科・外科手術での全身麻酔のやり方を発明してあの痛みから人類を救った(諸説あり)とされるWilliam Mortonの評伝ドラマで、当初はHenry Hathawayが監督する予定で、主演はGary CooperとWalter BrennanだったがCooperが離れてその計画はなくなり、その後Preston Sturgesが手を挙げて開始するもスタジオ側といろいろあって1942年には完成していたのにリリースは44年になった、など複雑な事情を抱えているらしい。 邦題は『崇高なとき』。タイトルだけだとPaolo Sorrentinoの映画みたい。
Eben Frost (William Demarest)がWilliam Morton (Joel McCrea)の未亡人Lizzie (Betty Field)のところを訪ねて、Lizzieがかつて主人の相棒だったEbenに向かって回想する形で話が進むが、最初の方で、Mortonが自分の発見の特許を巡ってワシントンでひと悶着起こしたこと、続けて歯科医として開業したMortonが手術に伴う患者の痛みを軽減すべく大学に行ったりしながら試行錯誤していくさまと、硫酸エーテルの吸入で全身麻酔できたかも、になるも、アイデアの盗用をしたとかしないとか、利権や名声を巡るどろどろごたごたがあり、構成はやや入り組んでいるが難しくはない。
麻酔がなければ地獄の痛み、麻酔をすればすべて忘れて天国、という両極があって、それが実用に至るまでの試行錯誤の期間は天国と地獄のしゃれにならない行ったり来たりが当然あって、どたばた映画の題材としてこんなにおもしろいものはない(はず)ってSturgesは手を付けたのだと思うが、偉人(になりたい人)の評伝を描く、というのと患者たちのしゃれにならない悲喜劇を描くというのの両建ては難しかったのかもしれない。
薬を間違ってEbenが狂っておかしくなっちゃうところとか、麻酔が間にあわないからなしでやろう、になるところとか、おかしかったりきつかったり、昔はほんとに大変だったんだろうなー、ってしみじみ思ったのと、これってひとの痛みを突き放して笑っちゃえ、っていうPreston Sturgesコメディの根幹に関わるテーマなのかも、って少しだけ。
Never Say Die (1939)
5月9日、土曜日の午後、シネマヴェーラの同じ特集で見ました。 邦題は『死んでもともと』。
監督はElliott Nugent、原作はWilliam H. PostとWilliam Collier Sr.による同名戯曲(1912)で、これをPreston Sturges+2名が脚色している。当初はRaoul Walshが監督する話もあったそう。
スイスの温泉地 - Bad Gaswasser(くさいガス水)に静養にきていた富豪のJohn Kidley (Bob Hope)は彼と似た名前の犬と健診結果が取り違えられて、余命1カ月で体が縮んで死んでしまうよ、と言われてすべてがどうでもよくなり、強気の婚約者Juno (Gale Sondergaard)を突っぱね、自分と同じように婚約者から強引に言い寄られていたMickey (Martha Raye)と出会うと、軽い人助けのつもりで結婚しようよ、って結婚してしまう。Mickyにはテキサスの地元にバス運転手の婚約者Henryがいたのだが、自分はすぐ死んじゃうから、彼とは自分が死んだ後で一緒になればいいじゃん、って。
こうしてテキサスからやってきたぼんくらのHenryがくっついた変な新婚生活を送るふたりのところには当然追手がやってきて、そのうち誤診だったことも明らかになるのだが、クマだの決闘だの面倒なのが次々とやってくるので飽きない。結果はこういう、誰もなんも考えていないけど誰もが思っていそうなところにきっちり落ちる系のrom-comによくあるやつの原型のようで、とにかくぜんぶオーライ、になっておわるの。
あと、こういう山岳系の(≒ 反都会系?)rom-comって結構見た気がするのだが、どういう事情背景でできたりしたものなのだろうか。
あと、劇中で歌われる"The Tra La La and the Oom Pah Pah" – とぅらららー うーぱーぱー♪ がたまらなく楽しかった。
5.13.2026
[film] Drunken Noodles (2025)
5月9日、土曜日の夕方、ル・シネマ 渋谷宮下で見ました。
なんとなく新作も見なきゃ、にたまになる。 邦題は『ドランク・ヌードル』。 2025年のカンヌの、ACID(思っていたのとぜんぜん違う略語だった) sectionというところでプレミアされている。
監督はアルゼンチン生まれのLucio Castro。どこかで見たような、と思ったら、デビュー作の“Fin de siglo” (2019) – “End of the Century”をコロナ禍のロンドンで、Curzonの配信で見ていた。これもどこかの町にふらっと現れた男がなんとなく性的なことなどをしてだらだらと終わるだけの話だったような。でもそれが不思議と風通しよくて。
タイトルからアジアのお話かと思ったら冒頭に出てくるのはブルックリンの町(アジアは最後の方にちゃんと)で、荷物を抱えた若者Adnan (Laith Khalifeh)が一軒の家に入って暮らし始める。あとでその家は長期で家をあけている彼の叔父のものであることがわかる。家のなかにはぜんぜん近寄ってこないけど、にゃんこも生息している。
彼はアートの勉強をしている学生で、そこに滞在している間だけ路面のアート・ギャラリーで受付のバイトをしている。もの静かで落ち着いていて何を考えているのか不明、夜は宅配でご飯(べちゃべちゃ正体不明のもの)をオーダーして、自転車でやってきたデリバリーの人と公園の暗がりで秘め事(としか言いようのない描写)をしたりしている。
そうやって知り合ったYariel (Joel Isaac)がギャラリーまでやってくる。冒頭にニードル・アートでタイトル”Drunken Noodles”を編んだりしている手が映されたりするのだが、ギャラリーではそれと同じ仕様のクィア・ニードル春画がいくつも展示されていて、それに感銘を受けてしまったらしいYarielが仲間たちを連れてやってくる。こういうことが紙芝居のようなリズムで淡々と展開されていく。
あと、山を訪れたAdanの自転車がパンクして引きずって困っていたらそこにいた白髪で半裸の仙人みたいな老人が修理して歓待してくれて、かのニードル・アートは彼の作品(実際のアーティストはSal Salandraという人らしい)であることがわかるのだが、外が暗くなってくると、老人が見せたいものがある、ってAdanを外に連れだして夕闇のなかじっと座って待っていると、どこからか牧神が現れて… このエピソードがとても素敵。
もの静かなAdanから、彼の考えや志向、欲望から夢まで、こちらに向かって語られたり示されたりすることは一切なくて、ただ幽霊のように暗がりに現れるクィアな人々の間を彷徨っているだけで、そこで浮かびあがってくるのは都会の狂気でもパラノイアックな孤独でもなく、ソーシャルにも届かないような玉突き - 半分夢を見ているようにそこにいるだけ、の状態がちょっと湿った空気感、理想的な陰多めの光の具合のなかで描かれている。この展開がリアルかリアルじゃないか、のような議論は、春画をみてその本物具合をあれこれ言うのとおなじく意味がない、というかそういうのを無粋、っていうの。
そういう彷徨いの最後にやや唐突現れる李白の酔っ払いの詩が現代のブルックリンと唐の時代をニードルの縫い縫いで結び付けて、そのスケールのありようはホラー味のないApichatpong Weerasethakulのようかも、と思った。
ニードルの編みアート、というのがよいのかも。同じニードルを使ってもタトゥーとか注射とかになるとトーンががらりと変わってしまうだろうし。
山のなか、別にいけないことはしていないが、どこか怪しく見えてしまうことをして愉しむ男たちの話、でいうと、Kelly Reichardtの”Old Joy” (2006)とか、ついこないだのIndia Donaldsonの”Good One” (2024)とか。”Drunken ~”というのもポジティブな言葉と見ておけば。
どうでもよいことだが、この日は、朝からブレッソンを2本続けてみて、スタージェスを1本みて、これをみて、その全部が90分以下の作品だった。とても丁度よくて快調なかんじ。
5.12.2026
[film] Route One/USA (1989)
5月6日、水曜日の連休最終日は、日仏のRobert Kramer特集で終わった。
この前の日が京都日帰りで、北野天神からKYOTOGRAPHIEまで、それなりの旅をした感覚があったので(2本のタイトルの並びだけ見ても)疲れないかしら、と思ったがぜんぜん、よい意味で軽くてよかった。
Doc's Kingdom (1989)
プロデューサーのひとりにPaulo Brancoがいる。音楽はBarre Phillips。
アメリカからアフリカを経由してポルトガルで医師をしているDoc (Paul McIsaac)がいて、リスボンの港湾地区の廃屋のようなところにひとりで暮らして酒に溺れて、酒場のマスターCesar (João César Monteiro)からはもう国に帰れ、とか言われるし、留守中にも住処に嫌がらせをうけて居場所がなくなりつつあるのだが、彼に戻る国はない。
NY(花火でそれとわかる)に暮らすJimmy (Vincent Gallo)は介護している母 (Roslyn Payn)の最期を看取って、彼女の遺した手紙から父親と思われるDocのところを訪ねてみることにする。
こうして対面した父と息子の会話は、よくある親子再会もののようなエモの揺れなど殆どない、互いの今の居場所と意思を確認しただけで終わって、つまりそれがDocの”Kingdom”、ということで、彼にとっての軍服のような白衣を纏って、メガネをして、酒瓶を抱えて、戦地である病院に向かうところで終わる。”In the Country” (1967)を出てから”Kingdom”へ、恋人から肉親へ、という地勢や人間関係の変遷はあるが、闘いは続いていて終わらないのだ、という持続感とその決意は漲っている、というか強い。
Paul McIsaacは、いまだとMark Ruffaloのようだし、Vincent GalloはOscar Isaacのようだし、要はいまのハリウッドのスタンダードとして通用するキャラクターの揺るぎなさのようなものが宿っているなあ、って。
Route One/USA (1989)
↑のに続けて14:30から第一部、休憩を挟んで17:30から第二部。計4時間15分。
↑とは地続き時間続きなのか、Doc (Paul McIsaac)が、医師のキャラクターのままでアメリカに戻ってくる - アフリカ経由で、と言っていてポルトガルの滞在については触れたくないのか、でも途中でJimmyに電話をしていたりする(でも出てくれない)。
Docと撮影クルーがカナダの国境付近、北の天辺から、Route 1をKey Westまで南下していく。
“Milestones” (1975)のファブリックを縦に裁断してみたとき、その断面はどんな様相だったり模様だったりするのか。これが東西(Route 66)横断だったらどんなふうになっただろうか。(たぶん取りあげなかったのではないか)
“Milestones”のように土地や人々の間に石を置いて観測するようなアプローチではなく、ロードムービーとして過ぎ去るものは後方に去っていくものとして、そこにいた/いる人々の顔や声を自分もいなくなることを前提に視野に捕まえてフィルムに収めていく。 親と子、コミュニティ、民族、歴史、宗教、記憶、といった枠組のなかで、その土地に根をはるイギリスに対する植民地住民、北部に対する南部民、祖先や親たちからの因襲に対する従属あるいは反逆、といった歴史の諸相や断面を追って、キャラクターとしてのDoc以外は対象との出会いも含めてすべてドキュメンタリー的な生々しさと共に動いて背後に消えていく。
“Milestones”の時はFrederick Wisemanのことを思ったが、今度のはJonas Mekasのことを思った。Waldenが出てきたからだろうか。”Lost, Lost, Lost” (1976)の、亡命者としての視線と、Docの帰還したルーザーとしての視点に似たものを感じたからだろうか。そこには痛みと、ここでくたばるわけにはいかない、という燻った怒りのようなものがあるような。 それはたかだか3時間~4時間程度で描ききれるものではなかったのだろう。
何かの用事があったのか、Docは途中で消えて、Miami – Key Westで再び合流するのだが、最後に現れる南のランドスケープのトーンがこれまでのそれと結構違って開かれているように見えるのは気のせいだろうか? その先にはなんもなく誰もいなくて、ペリカンがいるだけ、みたいな。「アメリカ人」のいなくなる地点がある、というあたり前のことを言うためにあの風景を持ってきたかのような。 ファブリックのおわり、切れ目。 のはずなんだけどでも.. ここに”Doc’s Kingdom”のラスト、リスボンの港湾地区のイメージが重なって、更に”Kingdom”が。
帰り道、もうRobert KramerもJonas MekasもFrederick Wisemanもいないんだなあ、って改めて思った。
5.11.2026
[film] Christmas in July (1940)
5月4日、月曜日のお昼にシネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。
邦題は『七月のクリスマス』。原作はPreston Sturges自身が書いた戯曲 - ”A Cup of Coffee” (1931) - これ初演が1988年だって.. Preston Sturgesが作・監督をした2作目。 67分あっという間。
これは00年代、確かBrooklynで、自分が一番最初くらいに見たPreston Sturgesの映画で、一瞬で好きになって、その後も数回見ている(見ているうちにそんなでもなくなってきたが、でも変わらずに好き)。
コーヒー会社Maxford House Coffeeが毎年公募しているコーヒーのキャッチフレーズコンテストで、選考の現場は結論の一等賞が出ずに紛糾していて、決まらないのでラジオでの当選者発表は延期となり、賞金の2万5千ドルが当たったら… の夢をだらだら語っていたJimmy (Dick Powell)とBetty (Ellen Drew)のカップルはがっかりするのだが、彼の考えたちっともおもしろくないコピー"If you can't sleep at night, it's not the coffee, it's the bunk"を自信たっぷりに強引にいいよね、って言わせて勝手に将来設計をしてしまうところとか、こいつだいじょうぶかよ、になる。
翌日出社しても彼の自信は揺るがずイヤなかんじがとっても鼻につくので、同じフロアの同僚男たちが悪戯であなたのコピーが当選しましたおめでとう!のフェイク電報を渡したら舞いあがって社長まで報告に行って、コーヒー会社には小切手を取りに行って、本件で疲れ切っていたコーヒー会社の社長は憑き物を払うかのように小切手を渡しちゃって、Jimmyはその足でデパートに向かい、ママが欲しがっていたソファベッドとかどかどかでっかい買い物をやりまくり – これが7月のクリスマス – たくさんのプレゼントを積みこんだ船団で自分の家に向かい、子供たちに贈り物をばらまいて、ご近所の路地一帯が飲めや歌えのお祭り状態になったところに警察がやってきて…
全体としてはとにかくありえない夏のバカ小噺、でしかないのだが、7月のクリスマスを抜けていくうち、イヤな奴だったJimmyも、会社の偉い人たちもみんなちょっとよい人になっていくような、そんな魔法の力を感じることができる1本だと思う。Sufjan Stevensのクリスマスアルバム(最初の)に入っている”Christmas in July”は、直接の関係はないみたいなのだが、どこか似たような印象 – ものすごい名作ではないけど忘れ難い - を残すの。
Remember the Night (1939)
5月8日、金曜日の晩、シネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。
邦題は『想い出のクリスマス』。こちらの方がまだクリスマス映画っぽい。そしてこれは本当に、正真正銘の必見の名作ったらないの。
監督はMitchell Leisen、脚本がPreston Sturgesで、彼が他の監督のために脚本を書いた最後の作品、でもある。
Lee Leander (Barbara Stanwyck)は盗みの常習犯で、宝石を盗んでそれを質屋に入れようとしたところで簡単に逮捕されて、その裁判をNYの検事補のJack (Fred MacMurray)が担当することになるのだが、クリスマス直前で陪審員が被告に甘くなるのを避けるべく、強引に裁判を年明けに延期させる。
勝手に裁判を延期されたLeeはクリスマスを拘置所で過ごすことになったことを嘆いて、それを知ったJackは保釈金を積んであげるのだが、どっちにしても彼女の行き場はなくて、たまたま彼女が同じインディアナ州の出であることを知ったJackは自分の実家に帰る車に一緒に乗せていってあげることにする。
帰郷の道中でいろんな騒ぎが起こって、Leeの実家でとうに再婚していた実母に酷い仕打ちを受けた彼女をみたJackはそのまま自分の実家に連れて行って、そこでも楽しいながらもいろいろあって、そうしているうちにLeeを愛してしまったJackは彼女を裁判でどうにかしようとするのだが…
クリスマスにあってはならないような気まずいこと、居たたまれないことが次々と襲いかかってきて、でもクリスマスだからぜんぶ乗り切ることができる、と信じることになる/信じるしかないふたりが旅の途中で落っこちてしまった恋のお話で、どこの地点からか自分でもその理由がわからなくて困ったようにずっと潤んでしまって口数が減ってしまうBarbara Stanwyckの瞳を見ているだけでこちらも泣きそうになってきて、そんなに悲しいことが起こっているわけでもないのになんで? ってがんばって戦っていると最後に”Remember the Night”っていうタイトルがきて決壊する。 クリスマスの奇跡が起こる映画ではないの。クリスマスの、出会いの奇跡を信じろ、忘れるんじゃないってずっと先延ばししていく映画で、その先には永遠しかないの。それをクリスマスと呼ぶんだって。
[log] Kyoto - May 05 2026
5月5日、こどもの日の火曜日は日帰りで京都に行ったので、その簡単な備忘。
もともと京都は大好きなので大きな展覧会があると奈良や大阪も組みあわせて泊まりがけで行ったりしていたのだが、これまで日帰りしたことはなかった。
でも(でも、じゃないよ)パリだってロンドンから日帰りしていたのだから、と思ってやってみることにした。
検討を進めていくとパリ日帰りと結構似ていることがわかり、現地までだいたい電車で2時間半だし、現地のバス地下鉄に大きく左右されるものの狙いを定めていけばどうにかなりそうだし、でも食べもの関係は諦めになるしかないし、でもGWでめちゃくちゃ混んでいそうだし。でもGWが混んでて最低だったら次からはやり方を変えればよいだけ。
新幹線を見てみると朝早くの下りと夜遅くの上りはまだ空いていて、Eurostarと比べたら本数めちゃくちゃあるし、どうにかなる気がした。なにより時差なんてないし、通貨だって同じだし、言葉だって通じるんだから(たぶん)。
特別展 「北野天神」 @ 京都国立博物館
まずはこの辺から、で行ってみる。 北野天神がどこのどういうもので菅原道真公の1125年式年大祭を記念した、とか言われてもはぁ.. なのだが、目玉の国宝 - 北野天神縁起絵巻(承久本)の海に浮かんでいるいろんな変な生き物とか、地獄の描写とか、炎のぐるぐるは実に魅力的で楽しめた。あとは十一面観音立像とか。刀剣は変わらずよくわからず。 こんなふうに「北野天神」として昔から奉られてきた宝物たちの全貌、のようなものは(絵巻物的に)見渡せるのだが、ここへの信仰が時を経てここまで持ちこたえてきたそのありよう – よって立つところ、のようなものは現地で見たり感じたりしないとわからないのだろうなー、というのはこういう特別展でいつも思うこと、であった。
日本画アバンギャルド KYOTO 1948-1970 @ 京セラ美術館
戦後の京都で若い日本画家たちが「日本画」という画材やお作法の枠のなかで、それらを超えようとどんなことをやってきたのか、の記録。
展示の最初の方、戦後の上村松篁や秋野不矩などの絵がその表面に浮かびあがらせる生々しさはとてもスリリングでおおおってなるのだが、それが後半に向かってパンリアル美術協会、ケラ美術協会などを立ち上げて、表面を飛び出して乗せたり盛ったり積んだりを始めるとそんなに面白くなくなってしまったのはなんでだろうか、と。世界中で誰もが同じようなことをやりだしたから? - でも世界中で同じようなことをやっていたって生き残っているものはあるので、それってなんなのだろう? といういつもの問いが。
ここのコレクションルームでやっていた特集「没後20年 井田照一」はなかなかよかった。版画における透明さの追求が、光の明滅とか、光そのものの構成を組み立てるようなところ向かっていくさまが。
モダン都市生活と竹久夢二―川西英コレクション @ 京都国立近代美術館
いつものキュートで安定した夢とそのパターンの世界なので、うっとりしていくだけ。千代紙とかも素敵で、あと、竹橋もそうだけどコレクション展がいつもよくて、今回は昭和100周年で京都の日本画を。隣で見てきたアバンギャルドの展示と比べると、こちらの方により「近代」を感じてしまったり。
1階でやっていた『加守田章二とIM MEN』も。土と布で、とても渋くかっこよいのだが、ここで立ち昇ってくる気がした金属のような、焦げたり枯れたりの「男くささ」のようなものとは。 竹久夢二的世界との対比で(対比するな)。
KYOTOGRAPHIE
このタイミングで京都に行くことにした理由として、これをやっている、というのもあったのだった。
KYOTOGRAPHIEを見るのは初めてで、Dayパスポートを買って、10個の展示を廻った。
Ernest ColeはPhotographer’s Galleryで見たやつだったし、Linder SterlingはHayward Galleryで見たやつだったし、Daido MoriyamaもAnton Corbijnもいろいろなところで散々見てきたので、最初の方に重信会館(緑で覆われた学生寮の廃墟)で見たYves Marchand & Romain Meffreによる「残されるもののかたち」はよかったー、くらい。
新進、あるいは大御所の写真作家の作品を京都の古い家や建物のなかに展示してみる、海外から来た人にはOpen Houseでなければ入れないような建物の内側に入って内部の採光や調度建付けを見ながら写真作品にも触れることができる、それをスタンプラリーのように繋げてより多くの人に見てもらう、というアイデアとしては一石二鳥でよいところもあるのだろうが、やはり写真作品に触れる – その写真が撮られたときのテーマ、光や対象のありようと、その写真を展示する環境のありようは当然違うのだから、後者についてはいろいろ配慮されるべきではないか、と思った。そんなの十分に配慮してキュレーションしているのだ、なのだろうが、例えば、Fatma HassonaのGazaをテーマにした写真をああいう空間で展示することについては、ふつうに違和感が残った。写真として捕らえられたテーマやその細部に集中して見たい、それだけ。 置かれた環境との間の異化効果を見る、楽しむ、というのもあるのかもしれないが、それはもう少し先の話ではないか、など。
Echoes by Satoko Imazu @ Ace Hotel Kyoto
これはKYOTOGRAPHIEとは関係なく、Ace Hotelのラウンジでやっていた展示。
アーティスト・イン・レジデンスのプログラムで滞在した京都御所の周辺、その日常を反射(空間)ではなく反響(音)”Echoes”としてとらえようとした時、光はどんなふうに揺れたり時間を経て定まったりしていくものなのか、そして最後にあったでっかい木(反響板)にやられる。
ここのAce HotelにはStumptown Coffeeがあるんだねえーと。(飲んでる時間なし)
竹内浩一 風が迎えて @ 京都府立堂本印象美術館
動物の絵が好きなのでやや遠めだったがバスで行った。
お猿のふわふわした毛と体の丸み、山羊だか羊だかの横たわる頭部、馬の頭部、カバの全身、すべてが精緻かつ絶妙な濃彩で描かれていて、そんなふうにベースがあるところでいきなり猿があんないでたちで座っていたりするのがたまらない。猿があんなふうにしている世界があるのだ、と信じ込ませてしまう強さを、ふんわりと見せてしまうというか。
美術館関係はこんなかんじ。
あと、合間に念願のアスタルテ書房(いまはアスタルテ書茶房)に行った。靴を脱いで入った途端、これはやばいところだ(軽く3時間くらいかかる)と思ったので、とにかく抜けださねば、って目に入ったフランセス・スポールディングの『ヴァネッサ・ベル』 - 翻訳あったのかー – を掴んで買って抜けた。また今度。
帰りは20時すこし前発の新幹線にしたのだが、18時過ぎて伊勢丹に行ったら駅弁関係はなんも残っていなくて憮然としたのだった。
5.08.2026
[film] Sorda (2025)
5月4日、月曜日の午後、新宿武蔵野館で見ました(もうシネマカリテはないのね…)。
これがGW中に見た唯一の新作映画。
スペイン映画で、英語題は”Deaf”。 邦題は『幸せの、忘れもの。』... 邦題についてはずっと昔から文句言い続けているけど、とにかくセンスが悪すぎるし、それが宣伝に寄与しているとは思えないし、むしろ映画のイメージを曖昧にして結果として貶めていると思う。
作・監督はEva Libertad、聴覚障害をもつ監督の妹Miriam Garloが主演している。監督は2021年に同名の18分の短編映画(未見)を作っていて、Goya Awardsにノミネートされたこれを長編に広げたものらしい。2025年のベルリンでプレミアされている。
スペインの田舎、陶芸の工房で働いているÁngela (Miriam Garlo)には聴覚障害があって、でも健常者の夫Héctor (Álvaro Cervantes)と幸せに暮らしていて、やがて妊娠していることがわかって、周囲の友人たちは喜んでくれるが、彼女は割と複雑で、最大の懸念は子供が障害をもって生まれてくるかどうか。彼女の実父母はどちらも健常者で、でも祖父母には障害があり、後天的なものらしいが妊娠している段階でそれを確認することはできないと言われる。
出産の場面だって、普段は夫が手話で端から伝えてくれるのだが、ちょっと現場が大変になって夫が病室から出されてしまうと、彼女はひとりで奮闘せざるを得なくなる。医師はマスクをしているので口元が見えない、ので彼らの指示や声掛けされていることがわからない。
そうして生まれた女の子はOna(成長するにつれて複数の子供たちが演じていく)と名付けられて、懸念だった聴覚障害はないことがわかってひと安心して、周囲と一緒に子育てをしていくのだが、ここから展開されていく「問題」にははっとさせられることが多かった。
Onaは耳が聞こえるので、Héctorは彼女と声を使って話したりしてしまいがちだが、そこでどんなやりとりがなされたのかÁngelaにわからないのはよくないので、必ずOna相手でも手話で話すようにお願いしているのに、すぐに忘れてしまうし、子育てなのでしょうがないのかもしれないが、夫はどうしてもOna - 健常者同士のやりとりの方に向いてしまうようだし、それが続けばOnaはどうしても父親のほうばかりについていくようになるだろうし、ÁngelaとOnaのやりとりの際、母の状態をわかってもらうためにOnaにヘッドホンをつけてもすぐに嫌がって外されてしまうし、母がどんな困難を抱えてどんな思いで過ごしているのかをOnaにわかってもらうにはそれなりの手間と時間がかかるに違いない。それまでの間、OnaにとってÁngelaはどんな存在になってしまうのだろうか? など。 そして、その苛立ちが彼女を周囲から孤立させていく。その孤立や苦難は、出産前にあったそれとは明らかに異なる種類のものに見える。
Ángelaの考えすぎ、心配しすぎではないか? と思うようになってきた最後の方に映画の音声はÁngelaの聴界のそれに同期する。聞えないので補聴器を付けた際のそれ – きんきんしたノイズがうるさすぎるので外してしまうところまで含めて。この状態で母親として子供と接して、子供を守ったりしなければならない、その難しさが感覚としてやってくる。
そこに愛があれば、とか、制度がどう、とかそういう話ではまったくないの。 こんなの“Deaf”というタイトルしかありえないではないか。
Gary Lucasのライブを1週間間違えてて、ショックでもう週末なんかしらない…
5.07.2026
[film] Easy Living (1937)
4月30日、木曜日の晩にシネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。
邦題は『街は春風』 - Wikiで引くと『女は得です』っていうのも出るのだが、これだとあんまりだと思ったのか。
監督はMitchell Leisen、原作はOtto Premingerによるノワールの古典”Laura” (1944)の原作を書いたVera Caspary、Preston Sturgesはこれをもとに脚本を書いている。1949年にJacques TourneurがVictor Mature主演で同名の映画を撮っているがまったくの別物(こちらもおもしろかったけど)。
NYのFilm Forumなどで昔のNYとかスクリューボール・コメディの特集があると必ずレパートリーに加えられる1本で、もう2回くらい見ているのだが、何度見ても「いいなー」と「ばかばかしいー」の間を行ったり来たりして結果、とにかく大好き、なやつ。
在NYのアメリカで3番目に裕福な銀行家J.B. Ball (Edward Arnold)はダミ声でケチでめちゃくちゃ細かいので部下からも家族からも疎まれていて、Ball Jr.(Ray Milland –まだぴちぴち)は独り立ちしてやらあ、って出ていっちゃうし、妻は勝手に5万ドルの黒テンの毛皮を買ったりしているので口論となり、頭きたBallはコートをビルの屋上から投げ捨てると、それが通勤途中だったMary Smith (Jean Arthur)の上に落ちて、それのせいで帽子の羽を折られた彼女がBallのところに行くと、毛皮は持っていていい、って言うし、高級ブティックで帽子も新しいのを買ってくれる。
そんなMaryが新しいコートと帽子で職場 - 保守的な少年向け雑誌”Boy's Constant Companion”の編集部 - に行くと、彼女の待遇でそんな毛皮を手に入れるなんて不適切なことをやったに違いないって一方的に解雇され、他方で彼女がBallの愛人である、という噂が広がって、経営破綻寸前で、Ballの援助が欲しいホテルオーナーがMaryに高級スイートルームへの滞在を申し出て、MaryがAutomat(自販機で食事を供してくれる食堂。あんなのがNYにもあったの)で食事しようとしたらそこでバイトしていたBall Jr.がうまいこと見せようとして大パニックを巻き起こして、あれやこれや舞い降りた毛皮のコートが鉄鋼市場まで揺るがす大騒動につながっていって、でも最後はすべてがめでたしめでたしになってしまう。スクリューボール・コメディのなかでもかなり曲芸感が強いのだが、場面場面のストーリーにムリなところはそんなにないので、”Easy Living”というタイトルががっちり迫ってきてたまらない。ただ時代のせいか女性蔑視感が(相対的に男性の愚鈍感も)ものすごく強くて、その観点からの”Easy Living”ていうのもなんかわかるの。
The Beautiful Blonde from Bashful Bend (1949)
5月3日、日曜日の夕方にシネマヴェーラで見ました。
邦題は『バシュフル盆地のブロンド美人』、製作、脚本(ストーリーはEarl Felton)、監督はPreston Sturgesで、これが彼が最後に監督したアメリカ映画である、と。
再見で、何年か前に、シネマヴェーラでリバイバルのお祭りのような上映があった、ような(自信ない)。
テクニカラーの西部劇で、けばいカラーの配色で、冒頭から能天気な小唄にのってちゃらちゃら流れていって(タイトルがB.B.B.B.♪)だいじょうぶかこれ… ってなるのだが、そういうもんだと思ってみればとってもバカバカしくて楽しい(だけだ)から、いいの。
子供の頃からおじいちゃんに銃を仕込まれたFreddie (Betty Grable)は大きくなっても酒場の歌うたいとしてうだうだしていて、恋人のギャンブラーBlackie (Cesar Romero)が浮気しているところを見て頭きて発砲してやったらそれが判事のケツに命中して、審理の時にも同じケツに一発ぶちこんじゃったのでさすがにやばいと、友人のConchita (Olga San Juan)と一緒に田舎に逃げるのだが、そこでも地元の有力者とか現れたBlackieとかとしょうもない騒動を巻きおこして、簡単に人が死んだり生き返ったりめちゃくちゃだなあ... なのだが、とにかく最後は判事のケツへの3発目で落着する(いや、落着じゃないけど)。
こんなの、自分の人生にはこれっぽっちも重なってこない人たちだったり世界だったりするのだが、でもやっぱり、見てよかったなー、ってなるんだよね。
5.06.2026
[film] The Devil Wears Prada 2 (2026)
5月1日、金曜日の晩、二子玉川の109シネマズで見ました。 公開初日に見たのはファンだからでもなんでもなく、単にはやくやっつけときたかったから、くらい。
The Devil Wears Prada (2006)から主要登場人物たちの20年後の世界を描いた真っ直ぐの続編で、原作のLauren Weisberger & Aline Brosh McKennaも監督のDavid Frankelもそのまま。
20年前の前作については、911後のNYの復興という大きな枠組のなか、ファッション(と業界)のすばらしさ、ファッション業界で働くことの(大変だけど)すばらしさを讃えたものとして喧伝されて、美術館で布切れとか完成されたクチュールなどを見るのは好きだが、あの業界はいろんな偏見やハラスメントにまみれていそうだし、そんな中で働くことがすばらしい!なんて、そもそも働くことが嫌いなので口が裂けても拷問されても言えないと思うのに、Andy (Anne Hathaway) はやりがいを見いだしてしまったようなので、火星みたいに縁のない世界のことだわ、で終わっていた。
あれから20年が経ったという今作の、昨年くらいから盛りあがった続篇に対するプロモーションもとても違和感があって、20年経ったら演者だって歳をとるし業界だって変わるし、だからなんだってんだよ? しかなかった。
とにかく時代は変わって、Andyは別の雑誌社で編集者兼ライターとして働いていたが突然編集部ごと全員解雇され、その流れで古巣のRunway誌の特集の編集長をやることになって久々にMiranda (Meryl Streep)らと再会するのだが、彼女にも雑誌そのものにもマーケットにおけるパワーや影響力なんてもはや残っていないことを思い知らされる。Mirandaは言葉遣いに気をつけて、コートを自分でかけて、エコノミーで移動しなくてはならない。
健全なビジネスをビジネスとして成功させるには、かつてのような絶対権力を握るデビルであってはならない。目線も言葉遣いも、すべてが「ガイドライン」に沿った適正なものである必要があり、そんな彼女たちのビジネスそのものもそんな市場原理に則って売買される対象となる。トレンドがどう、なんて自分たちの記事でどうにかして変えたり動かしたりできるようなものではないのだ。ブランドがあってコンサルやマーケッターがいて組み立てられた宣伝戦略があり、その先には直に消費者がいるだけ。雑誌の機能は宣伝とコラボで利益を出すことのみ。コンプラと規制対応だけちゃんとしておけば、踏み外すようなことはない。
という時代のありように対する目線や感覚がきちんと機能することをおもしろおかしく描くまでで、この映画は止まってしまっている。このストーリーをドライブするビリオネアたちが鼻持ちならない中身からっぽのクソであるのと同じように、この映画はつまんなくて、それはMirandaやAndyのせいではなく、ビリオネアのクソやろうどもを支えているシステムのせいだ、と言ってしまってよくて、それ以上のことをやったり連中を痛快にぶっとばすようなことはしないし、できないし。
そんな流れと階層が見え見えなところに立って今更他人の見映えをどうこう言ったりして楽しい? ってMET Galaを見てもしみじみ思ってしまうのだった。
公開前に話題になったアジア人女性の描写の件も、この線で見てみればそうだからとしか言いようがないので製作者側は何も言わないだろう(言ってほしいけど)。アジア系はずっとあんな風に見られて使われている、という事実を反映しただけのこと。
それでも唯一見るべきところがあるとしたら、前作から20年を経た主要登場人物たちの成長、のようなものだろうか。特にMeryl StreepとEmily Blunt、彼女たちが困惑し、疲弊し、それでも十分納得できない周りからの要請に折り合いをつけて動いていこうとするその表情には見るべきものがあると思った。単に役者としてうまい、というだけなのだが。
5.05.2026
[film] Thirty Day Princess (1934)
4月29日、水曜日の晩、シネマヴェーラのPreston Sturges特集で見ました。 邦題は『三日姫君』 - 三十日姫君じゃないの? と思ったがそうではないのか。
Preston Sturges特集は1本がそんなに長くないので仕事の終わりに引っかけて帰れるのがよいの。しかも1本£5以下だし(目をさませ)。しかも、ひとつ前の”The Good Fairy”といいこれといい、rom-comとしてとんでもなくおもしろいのがあったりする。たった74分でなんでこんな魔法が?
監督はMarion Gering、原作は雑誌Ladies' Home Journalに掲載されたClarence Budington Kellandの同名の短編(1933)をPreston Sturges他大勢で脚色している。
ヨーロッパの小国、タロニア王国は貧しくて..って王様が嘆いていたら、そこに静養に来ていた金融やってる
お金持ちのRichard Gresham (Edward Arnold)がアメリカで国債を発行して売ればいいんですよ、ってその広告塔としプリンセス"Zizzi" Catterina (Sylvia Sidney)にNYに来させて、それに乗っかって一儲けできないかを企むのだが、その反対側でRichardを敵対視する新聞社のプリンス - Porter Madison III (Cary Grant - まだぴちぴち)がいて、そんな中やってきたZiziは着くなりおたふく風邪でダウンして30日間要安静、になってしまう。
なんとしてもこのビジネス機会を逃したくないRichardは、替え玉になりそうなZiziのそっくり娘を探すべく部下を街に放って、ほぼ失業状態だった貧乏女優Nancy Lane (Sylvia Sidney二役)を見つけだし、プリンセスの役を演じること、なにかと突っかかってきてうざいPorterを骨抜きにしたいんだができるか?というオファーをして、だいじょうぶか? って聞いてみると、あたしは女優だなめんな、って返ってきて、フェイク・プリンセスとして街に出た彼女は早速くらいついてきたPorterに初めてのNYを案内をさせたり、そうやって楽しく過ごしていたら互いの意に反して互いをどうしようもなく好きになっちゃうの。
恋におちてしまったらしいPorterの相手は本物のプリンセスではなくてNancyが演じたプリンセスで、彼の恋が実るとしたらそれは虚像に対してでしかないので詐欺みたいなもんで、でもそうやってはしゃいでいる彼を見ているNancyもまた彼のことを好きになっちゃって…
そうしているうちにタロニア王国からプリンセスの婚約者だという男(まったくいけてない)がお見舞いにやってきたり、30日なんてあっという間に過ぎてオリジナル・プリンセスも回復して… Richardの策謀はどっちに転ぶのか、Porterの一途な恋は、Nancyのこんがらがったぐしゃぐしゃな思いは果たして…
『ローマの休日』 (1953)はオリジナル・プリンセスが期間限定で平民に化けて新聞記者(Gregory Peck)と会って恋におちる話だったが、こっちは期間限定で登場したフェイク・プリンセスが新聞社の男 (Cary Grant) と会って恋におちてしまう話で、どちらも女性の側は(『ローマ..』は男性側も)時が来たら終わってしまう、叶わない恋であることを知っているが故の切なさがだんだん…
オリジナルとフェイクのふたりが対話する場面もあったり、全体としてものすごくよくバランスのとれたrom-comでびっくりした。5人の脚本家がうまく突つきあった結果なのだろうか。
Sylvia Sidney はこれの少し前の”Merrily We Go to Hell” (1932)もよかったけど、事態が複雑になればなるほどその輝きを増していくところが素敵ったらないの。
5.03.2026
[film] The Good Fairy (1935)
4月28日、火曜日の晩、シネマヴェーラの特集 - 『哄笑と洗練 プレストン・スタージェス レトロスペクティブ』が始まっていたのに気づかなかったなんてばかばかばか、って壁に頭をぶっつけ釘を踏みつけながら見ました。
原作はハンガリーのFerenc Molnárによる(英語にしたら)同名の戯曲 - “A jó tündér” (1930)、これをブロードウェイ用に翻案した Jane Hintonの脚本 (1931)をPreston Sturgesが更に映画用に脚色してWilliam Wylerが監督している。 邦題はそのまま『『グッド・フェアリー』。
孤児院で育ったLuisa Ginglebusher (Margaret Sullavan)がいて、そこの人材育成プログラムで実社会に出て映画館の入り口で案内係をすることになった彼女は、強引にナンパされて連れていかれそうになったところをウェイターのDetlaff (Reginald Owen)に救われ、それに続けて食肉加工業の億万長者のKonrad (Frank Morgan)から言い寄られると、自分には夫がいるから、って咄嗟に逃げて、そのウソを持続させて善きことを実践する”The Good Fairy”になるのだ、って電話帳からてきとーに弁護士のMax Sporum (Herbert Marshall)の名前をピックアップして「彼が夫です」ってKonradに伝えると、彼は自分がLuisaに会う時間を作るためにMaxのところに行って彼にものすごい肩書きと待遇を与えてしまったので、やはりこれはちゃんと説明してあげた方がいいかも、と思ったLuisaはMaxのところに赴く。
ずっと貧乏だった懐が急に豊かになって舞いあがり最新の鉛筆削り器を買ったり嬉しくてたまらないMaxのところを訪ねたLuisaは意気投合して、一緒に街に出てぴかぴかの車を買ったり、ヒゲを剃らせたり、Luisaにはデパートで見つけた「本物のフォクシン」の毛皮のストールを買ってあげたり、ふたりにとって夢のような一日を過ごして、でもやっぱりKonradにちゃんと説明しなきゃ、って思ったLuisaがホテルで男性と会う、と告げるとMaxは激怒して… LuisaとDetlaffとKonradとMaxの四角関係はぐるぐる回りながらぐじゃぐじゃになっていくのだが、すべては”The Good Fairy”であろうとしたLuisaの想いから来たものであることが見えてくると…
いろんな欲望にまみれて下衆な下心しかない男たちと、善をなすGood Fairyたらんとする純な乙女心の少女がクラッシュして巻き起こるスクリュボール・コメディで”My Man Godfrey” (1936) - 『髑髏と宝石』 - を思い起こしたりもした。相手のことをよく知りもしないところから、よくもまああんな大胆なことができてしまうものだわ、とか。でもとにかく、”The Good Fairy”であれますように、という一途な思いと共に現れたGood Fairy的ななにかがすべてをぶち抜くいい加減さと出鱈目さがすべてを支配して、でもあのラストまで含めてなんだか納得させられてしまう強さがたまんないの。
もうひとつは、ぜんぜん関係ないかもなのだが、舞台がブダペストで、Margaret SullavanとFrank Morgan が出ている、ってなったらErnst Lubitschの”The Shop Around the Corner” (1940) - 『桃色の店』のことを思わずにはいられない。どちらの映画も、あなたのことを想っている相手はあなたが考えている以上に身近な、すぐそこにいるかも知れない人なのですよ、っていう。日本にどれくらいいるかわからない『桃色の店』ファンのひとは見て損はないと思うー。
William Wylerはこの翌年には”Dodsworth” (1936) - 『孔雀夫人』を撮ってしまうわけで、すごいな、しかない。
5.01.2026
[film] Milestones (1975)
4月26日、日曜日の午後、日仏学院の『フランス実験映画祭2026』のなかの『ロバート・クレイマー特集』で見ました。 2025年にオリジナルの16mmネガから修復されたバージョンであると。
これは前にも見たことあって、でもあたまに残っていないもんよね。でろでろの出産シーンを除けば。
監督はRobert KramerとJohn Douglas(盲目の陶芸家役で出ているひと)- 映画製作集団Newsreelにいたふたりの共同。 3時間18分。 1975年のカンヌ国際映画祭監督週間でプレミアされている。
最初にマンハッタンで生地屋をずっとやってきたおばあさんが朝に来て店を開けて、のずっと続いてきた日々からそれがどこから始まったのか、の親たちについての語り、そこから当時 - 前のめりで盛りあがった60年代のあと、70年代のアメリカの各地で生活したり活動したりなんかやっている人々の、彼らがどんな思想に基づいて、どんな風貌でだれと暮らしたりやりとりしたり活動したりしているのかを並べていく。ふつうにふつうの会社に通って暮らしてなんの不満も問題もない人たちや家族のそれではなく、ベトナム戦争や学生運動の余波があった時代、特定の志向や目的をもった集団とかコミューンにいたり、ずっと続く人種差別の泥のなかにいる人たちもいる。そのバックグラウンドは雪に覆われた山だったり滝だったり洞窟だったり道路だったり、家は安住できる場所、というよりもまずは仮住いで、これらの間をカメラはずっと動いていって、「マイルストーン」はその動きのなかでずっと揺れ動いている or その活動・移動そのものがマイルストーンであるかのような。そしてクライマックスで描かれる「出産」の重みと啓示と。
ドキュメンタリーのような撮り方をしている箇所、現場をそのまま、もあれば明らかなフィクション - 女性が襲われそうになるところとか – もあり、でも両者は区別されることなく同じようなトーンで並べられていて、登場人物の顔立ちや挙動は誰も彼も、クラシックなアメリカ映画のきっとどこかで見た気がする誰かのそれ、だったりする。
上映前にChris Fujiwaraさん(上映後の講演はパスしてしまった)が言っていたように、これはアメリカという国をファブリックとして編みあげて広げたもので、生地の目が詰まっていたり解れていたり虫に喰われていたり棄てられていたり、でもその面積と汎用性のようなところ、そのファブリックがどう機能すべき(だったの)か(→政治)のようなところははっきりと力強く訴えてくる。「マイルストーン」とは、その布の四辺をひろげて地面に定置するための敷石であり、それが置かれて覆われたところが「アメリカ」となる。 Frederick Wisemanのドキュメンタリーとの違いでいうと、彼の作品はそのファブリックがどんな使われ方をしているのか、人々の生活のなかでどう機能しているのかを細部から凝視するように追っているのだと思った。
In the Country (1967)
↑の前に見た、これもRobert Kramer作品で、彼の最初の長編フィクション。
ベトナム戦争の最中、ずっと左翼で一旦政治活動から離れざるを得なくなっている男(William Devane)と女(Catherine Merrill)が隠遁先の田舎でぶつぶつ燻って議論などをしていて、その燻りのなかで明らかにされていく都会と田舎、イデオロギーのありよう、男女のあれこれ、など。でも結局は田舎だから中心にはいないから、に落ちて、そこから世界はひとつのでっかい田舎なのではないか、という徒労感まで。
これらがモノクロの、風景も含めて割ときれいで整った映像のなかで描かれると、そんなもんかも、になって何かがぐるぐると回りだす、気がする、と。 吉田喜重あたりが得意としているテーマのような。
公開当時は評判が悪くて、唯一評価してくれたJonas Mekasがフィルムをヨーロッパに持っていってくれた、って。
[film] 暖流 (1939)
4月25日、土曜日の昼、国立映画アーカイブの特集「発掘された映画たち2026」で見ました。
[デジタル復元・最長版]とのことで、これまで戦後に再編集された124分の短縮版が流通していたところをオークションで新たに入手したバージョンとアーカイブがもともと保有していた3つのバージョンを切って繋いで、初公開時の前後編177分だったものに近い173分の長さにまでデジタル復元した、と。 上映前にその辺のストーリーの説明があり、一挙に上映するのかと思ったら前後編の間に5分の休憩が入った。
原作は岸田國士の朝日新聞連載小説、島津保次郎が監督する予定だったが移籍しちゃったので当時新人だった吉村公三郎が指名された。なにが「暖流」なんだかよくわからないぬるい曖昧さも含めてとってもメロドラマなかんじはする(← 原作を読め)。1957年には増村保造が、1966年には野村芳太郎が映画化している。
『前篇・啓子の巻』と『後篇・ぎんの巻』に分かれている。センターの佐分利信が濃すぎてあまり(本来あるべき?)女性映画のかんじはそんなにないかも。
私立病院の大院長志摩(藤野秀夫)が病で引っ込んで、でも跡継ぎのはずの息子泰彦(斎藤達雄)はぼんくらなので、とっちらかった病院を再建するために若い実業家で監査もできる日疋(佐分利信)を雇い入れてテコ入れを図る。日疋は看護婦のぎん(水戸光子)をうまく使って情報を集め、各方面から反発をくらいながらも強引に改革を進めるなか、院長の一人娘の啓子(高峰三枝子)を好きになるのだが、彼女はそこの医師の笹島(徳大寺伸)に求婚されてて、両親もそれを認めている。
後篇になって院長が亡くなり、泰彦や笹島ら次世代ぼんくら共のしょうもなさが気になりつつもどうにか再建の目途が立ってきたところで、日疋は思い切って啓子に求婚して、彼のことを少し想っていた啓子も揺れるのだが、彼女の幼馴染のぎんが日疋を愛していることを知った啓子は悩んだ末に…
いろんな人間模様が網羅的に紹介される前篇は割とふつうに眠くなるところもある(なにしろ暖流だし)のだが、仕込んでおいた各登場人物の毒や詰まっていた泥が噴出して渦を巻きはじめる後篇がおもしろかった。特に内面の陰険などろどろを既にこんな若い頃から溜めこんでいたのかと感心する佐分利信の、高峰三枝子に求婚して断られたら水戸光子のほうに切り替えてしまう思い切り、というか結婚観 – 売ってくれなかったら売ってくれるところにいく – の魚屋みたいな潔さにややびっくりして、ラストの波打ち際からこちらを向いた高峰三枝子にじーんとくるべきなのかもしれなかったのに、そうならなかった。でもあの浜辺の景色はずっと残っているので、よい映画だったのかも。
でも、今だったら頭がきれて弁もたつコンサルみたいな役柄の日疋って、このストーリーに沿って言えば明らかに身勝手な悪い奴、のほうだと思うのだが、なんかお嬢さんに断られてかわいそう、みたいな印象を与えてしまう感があるのはどうなのか? って。
昭和10年代、戦前のまだ気候も穏やかだった頃、上流階級の覇権や恋争いはこんなふう - 暖流にのって糞もミソも大量にぷかぷか流れ込んでくるのでこれはこれで大変でしたの、というのを描いた映画、でよいのか。