7.03.2026

[theatre] ハムレット

6月28日、日曜日の午後、静岡芸術劇場で見ました。 月1回は見たい演劇。

台風でどうなるんだろ? だったが新幹線は動いていた。雨風は去っていて、でもこの時期の吹きつけてくる霧雨がすごくいやで。

静岡、というと、2023年に静岡県舞台芸術公園で『Hamlet à l'impératif ! ハムレット(どうしても!)』を見ていて、静岡はなんとなく「ハムレット」を見る土地、になっている感がある。(それがどうした)

この舞台は昨年11月にここで上演されたもののリバイバルだそう。原作はシェイクスピア、河合祥一郎の翻訳をベースに、脚色・演出は上田久美子。

開場の少し前にロビーのようなところで、地元高校の芸術科演劇専攻(そんなのあるのいいなー)の生徒たちによる、ハムレットのあらすじについてのパフォーマンス 「みにみにハムレット」という5分くらいのがあった。5分でまとめて説明します、ということで、波も間合いもちゃんとしていて、これ自体は別によいのだが、劇の本編の方でも冒頭にホレイシオ(本多麻紀)が出てきて「要約します」というのをやっていて、これは最近の風潮なのだろうか、「まとめサイト」とか、「あらすじ」とか、他方でネタバレ禁とか、なんかぜんぶ繋がっているのだろうな、と思った。

そして最初に、登場人物全員が白いひらひらの衣装で登場して、全員がオフィーリアである、という。配布された縦長の冊子には、人間以外の存在を無視しないために、ということで「ノンヒューマンな存在たち」を意識した動き、という言及があり、冒頭のオフィーリア(たち)の動きは - ストーリーの本筋から排除されがちな彼女の声や目線を拾いあげるものでもあり - その方向性に倣ったもの、であるのかしら。

この世継ぎをめぐる復讐と自家撞着のどろどろと転がっていく物語は、確かに王子ハムレット(山崎皓司)を中心に据えたものなので、そこから漏れたり拾いあげられなかった声などもあるのかもしれないが、では、そうして拾われたり掬いあげられたりした声の確かさとか網羅性って、どうなのだろう? そこにおいてもまた、オルタナの「存在」によるふるいが掛けられたりしないのか? とか。 物語を作る、というのはそもそもが作者のそうした恣意の塊りを捏ねていくことなので、読みの試みとしては別の視点が導入されたりしておもしろいかもしれないけど、物語の本来のありようを薄めてしまう – それって先に書いたあらすじ、要約志向にも繋がっていくやつなのかも、とか。

なんでそんなことを? たぶん、作品の外にあるいろんなものとか関係各所などへの配慮? 見てわかってもらうための努力? でもこういうのってそもそも自分が見て取り組んで考えるなかで見いだしたり纏めたりすべきものではないのか?

舞台の上は空気でぶわぶわ自在に膨らんだり萎んだりするビニールシートで雲のように覆われ、それが天井にまで伸びていて(最後は客席まで覆いにくる)、この雲が登場人物たちの視界を遮ったり塞いだり。音楽は、此岸彼岸の境目を意識させるかのような電子音とかちりちりしたノイズと、太鼓のとんとこから最後は和太鼓まで。全体として決して元に戻すことのできない、やっちゃったどうしよう… なひりひりした感覚が充満していて、ストーリーの本筋はそれに乗って揺れずにふつうにハムレットしていたような。オフィーリア、最初はあんなにいっぱいいたのに。ホレイシオも肝心なところでは妙におとなしいし。

結局、要約とか語り部とかオフィーリアとかノンヒューマンが脇でいくらざわついてもハムレットの悲劇は動かしようがなくぶっとく天井から落ちてきたもの、というのが明らかになった、ということでよいのかしら。

演劇は舞台と客席がどちらもナマなのでいろんな化学変化や突発事故がありうるしあったらおもしろいだろうな、とは思うけど、その向こう側にはテコでも動かない、動かしえないヒューマンの領域というのが確かにあるのかも、って思ったりした。


帰り、新幹線まで少し時間があったので静岡駅の地下を通って歩いていける駅ビル?の上の静岡市美術館でやっていた『スウェーデンのうつわ グスタフスベリのある暮らし』という展覧会でうつわを見て帰った。ハムレットはデンマークだけど、彼、うつわとか興味なかったのかな… (それどころじゃな… )

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