5月21日、木曜日の晩、『EUフィルムデーズ2026─クラシック・セレクション』を国立映画アーカイブで見ました。
クラシックの方もイメージ・フォーラムでやっているモダンの方も、見たことないのが多くて世界のでっかさを痛感する。
邦題は『夏の夜の人々』 - 英語題は”People in the Summer Night”。
フィンランド映画で、監督はValentin Vaala、原作はフィンランドで最初にノーベル文学賞を受賞(1939)したFrans Eemil Sillanpääの同名小説(1934)。 2017年にユーロスペースの特集上映『アキ・カウリスマキが愛するフィンランドの映画』でも上映されている。
北欧の夏を描いた映画というとベルイマンの”Smiles of a Summer Night” (1955) - 『夏の夜は三たび微笑む』がまず思い浮かんで、短い、けど輝ける夏の夜に悶々と玉突きをしていく人々の恋模様のイメージがあったので、夜に向かっていくその空気、雰囲気というかトーンの違い、によい意味で驚いて引き込まれる。
原っぱがあって小川があって、家畜の豚さんがそこらいたり、という陽の光に溢れているところは同じだが、人々は割と素のかんじで、もうじき赤ん坊が生まれそうな夫婦がいたり、都会からBFを連れてきてちょっとどきどきしている娘がいたり、飲み屋の暗がりでは男たちが気怠そうにたむろしていたり、イメージしていた/するであろう田舎の姿、夏の晩とはちょっと違うかんじなので、これ?こんなふう? っていう段差にはじめはやや戸惑う。
陽の長さ明るさも人間界とはまるで関係ないかのように動かず、でもやっぱり過ぎていく時間のなか、赤ん坊は生まれるべくして生まれようとして、飲み屋の粗暴な男が口論の末に傍にいた男を刺して、死んじゃったんじゃないか?生きているのか? という問いの脇で、あっさりひとつの命が消えて、ひょっこりひとつの命が生まれて、その間に挟まれた医者は死亡の瞬間にも誕生の瞬間にも間に合わず、でもまあ生まれた方にはとりあえずめでたいかも、とかいう。
こんなふうに更けていく夜の間に生と死、愛と憎が日が切り替わるのと同じようにめくられて、冒頭の田園の場面に戻って - という世界の暗くも明るくもない不思議なありようが描かれる。誰の上にも降ってくる夏の夜。
思ったのは(フィンランドだから)トーベ・ヤンソンのムーミンの世界で、あれも40年代に彗星のように、果てのような場所に姿を現した、決してユートピアではない、いろいろ雑多な人たちがじたばたして暮らす谷のお話だったかも。
Gražuolė (1969)
5月20日、水曜日の晩、↑と同じ特集で国立映画アーカイブで見ました。
監督はリトアニアのArūnas Žebriūnas。 英語題は”The Beauty”、邦題は『ビューティフル・ガール』。
9歳の女の子Inga (Inga Mickytė)がこちら(カメラ)の方を向いて音楽に合わせて楽しそうに踊っている、というか踊っている自分の姿を世界のみんなに見せていて、あたしはこんなにかわいいんだから〜かわいいでしょ?という目つきと振る舞いで一生懸命、Ingaは自分でそう思っているし周りの母親も男の子友達もそう思っているのだと信じて疑わない。
その思い込みがどこか外からやってきた見知らぬおかっぱ頭の変な男の子(か?)の、「べつに、そんなかわいくもないよ」の一言でがらがらと崩されて、彼女の世界が大きく揺れだして、彷徨いが始まるの。
そんなどうってことない話…が決してそうはならない大問題になってしまうところが子供の世界で、その揺らぎと問題の大きさにIngaの目線で正面から取り組もうとしたのはえらいな、と思いつつ、縁もゆかりもない世界なので、がんばってね、くらいしか言うことがない(のか?)。 とにかく残酷で野蛮な世の中なので、誰だってそんなの直視したくないし、大人が知った顔して寄り添うなんてのもずうずうしい、って思うと簡単にお手あげだし、みんな大変なのよ、って。
こんなふうにいたたまれなくなった時、頭の奥で鳴りだすのがBowieの”What in the World”なの。
5.27.2026
[film] Ihmiset suviyössä (1948)
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