6.24.2026

[film] Son nom de Venise dans Calcutta désert (1976)

6月20日、土曜日の午後、日仏のマグリット・デュラス特集で見ました。

英語題は“Her Venetian Name in Deserted Calcutta”、邦題は 『ヴェネツィア時代の彼女の名前』。

“India Song” (1975)のサウンドトラックをそのまま使って、映像パートだけ新たに、というか別のモノを撮りなおした作品。音の長さは同じなので上映時間も120分で同じ。

アイデアとしてはシンプルながら、このようなことをする/ができるためには、元の映画がそれなりの強い設定や形式を持っていないと難しい。1937年、モンスーンで荒れるカルカッタに駐留大使の妻としてやってきたAnne-Marie Stretter (Delphine Seyrig)を中心とした愛人Richardson、狂えるラホールの副領事(Michel Lonsdale)とのサークルでのすったもんだの果てに、その後の17年間をアジア各地を彷徨うことになる… という筋立ては知らなくてもぜんぜん構わないが。

音声を維持したリメイク、という構想のもと、撮影のBruno Nuytten以下数名のカメラが、カルカッタと言いながらパリ郊外のChâteau Rothschildを舞台に撮っていたオリジナルの場所を再訪し、人影なしのそこを撮り直している。

冒頭は、モノクロの点々の上をカメラがなめていって、空襲の焼け跡のようにも見えるそれらが庭の敷石(?)の模様だとわかるのは後のほうで、あとは建物の朽ちた外観、インテリア、エントランスからの眺め、崩れた家具や壁、それらを覆う木々や大気、そして朝の昼の夕闇の情景、かつて確かに人影が形造られた場所と時間を満遍なく。

華やかな外交の場 - レセプションが行われていた建物は人気も失せてすっかり朽ちて、元に戻る様子はない。”India Song”の登場人物たちはみなどこかに消えてしまった。それが会話に度々出てくる疫病によるものなのか、獣のように狂ってしまった副領事のせいなのか、終わりの方で語られるように彼女もRichardsonもどこかに消えてしまったからなのか、誰も知らない。 あるいは、この映像の方が正で、廃墟に戯れる様々な声とその持ち主の幽霊たちのやりとりがまずあって、“India Song”はこれを元に再構成したフィクションか、そこに映り込んでしまった霊たちの像なのかもしれない、とか。

Carlos d'Alessioによるピアノの”India Song”はどちらのバージョンでもメランコリックな土台を作ってすばらしく(本当に好き)、確かなものはこの旋律と、狂った娘による現地語の歌と、「ヴェネツィア時代の彼女の名前」 - Anne-Marie Stretterの母方の旧姓、くらいなの。

2024年の夏に、ロンドンのICAで“Let Cinema Go To Its Ruin: The Cinema of Marguerite Duras”という特集で見ていて、その時はAbsisによる短編 - デュラスがナレーションをする”Cygne I” (1975)、 Michael Lonsdaleがナレーションをする“Cygne II” (1975) との同時上映だった。いま見たらどんなふうに見えるだろうかー。


Nathalie Granger (1972)

6月20日の午後、↑のに続けてみました。 邦題には『女の館』というのが入ったりしていたの?

公園のはずれに荒れた庭と池?をもった一軒家があって、Isabelle Granger (Lucia Bosè)とまだ小さい娘ふたりと、夫があり、家族の友人と思われる女性(Jeanne Moreau)がいて、黒猫が住んでいる。

娘のうちのひとり – Natalieは学校で暴力沙汰を起こして、あんなところに行かない、でどうしたものか、になっていて、父親は早くに仕事で出て行ってしまい、近所ではやはり暴行事件が起こって犯人は捕まえられておらず逃走中、とか流れてくる。

全員が寡黙で不機嫌なのかほとんど会話がないので、なんでそこにそうしているのか、なにが起こるのか、なにをしようとしているのかがまったく見えない。全員がずーっと黙ったまま家屋の暗がりに立ったり座ったりしているし、Natalieも乳母車をがらがらしながら庭を徘徊したりするものの、なにをしているのか見えない。

途中、おしゃべりな洗濯機のセールスマン (Gérard Depardieu)が勝手に家に入ってきてべらべらべらべらかなりどーでもよいセールストークをしても、(あたりまえだが)かわいそうなくらい相手にしない – あんた誰?

なんで彼女たちはずっとそんな不愛想な態度のままで一点を見つめて、Natalieもいきなり乳母車をひっくり返したりしているのか – そんなの知るかよ、なんでわざわざご機嫌にご丁寧にストーリーとやらを語ったり担いだり会話を成り立たせたりしなきゃいけないんだよ、そっち(こっち?)こそ説明してみろおら! って言っているのだと思った。 “La Musica”や”Détruire, dit-elle”の延々引き延ばされていく繋がらない会話の変奏というか倒立というか。

そして取り囲む庭も含めての館のありよう。そこに暮らす、というよりただそこにいる、たむろする場所としての、あの家まるごと。

先に書いたICAの特集の際には、これと併映されたのがFrançois Baratによる”Gaumont-Palace”で、ここではデュラスが”Nathalie Granger”の草稿などを読みあげているのだそうだが、これは見れなかった。

ここまでくると無敵、としか言いようのない語り - 説明しない/語らない語りの強さと太さと。

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