6.01.2026

[film] Man with the Gun (1955)

5月27日、水曜日の晩、シネマヴェーラで新しく始まった特集 - 『眠い目をした男 ロバート・ミッチャム特集』で見ました。

東京の名画座の、邦画中心の重厚でよく考えられたプログラムってすごいなー、と思いつつ、ここがひっつかんで束にしてどかどか落としてくれる昔の海外の監督や俳優の特集はとてもありがたいしうれしいし。

監督はRichard Wilson、原作はN. B. Stone, Jr.によるSaturday Evening Postに掲載された短編(1955)- “The Deadly Peacemaker” - オルタナ・タイトルはこれだったり、UKでは”The Trouble Shooter”だったり。邦題は『街中の拳銃に狙われる男』。

冒頭、少年の犬がばうばう吠えていただけで馬に乗ったやくざがそれを銃で簡単に殺してそのまま立ち去ったり、もうじき結婚するJeff(John Lupton)が新居予定地に立ち入っていた男たちに文句をいったら撃たれたり – そんなふうに荒れて無法地帯になった町にどこかから仲裁屋のClint Tollinger (Robert Mitchum)が現れて、保安官が及び腰でなにもしないし、町民のなかでもどうする?の空気になっているなか、とりあえずClintは彼を雇う議会承認を得てそのまま副保安官になると、昼間の銃器携帯禁止とか深夜の出歩き禁止とか、ひとりで強引なルールを決めて、従わない奴とかのさばっていた奴を簡単に撃ち殺したり強引に街の浄化を進めていく。けど、Clintが「街中の拳銃に狙われる」ようになるまでには結構いろいろある。

最終的に狙うのは姿を見せない謎の巨漢黒幕Dade (Joe Barry)なのだが、そこに行く前に別れたきりになっていてこの街でキャバレーの女将をしている元妻Nelly(Jan Sterling)のこと、別れたきり会っていない娘のBethのことが気がかりだったり、Jeffの許嫁のStella (Karen Sharpe)は力強いClintに気があるようだったり。

あの眠そうな目で周囲の空気なんか知ったことか、って眺めつつ強引すぎてなんだこのやろう? なのだが銃の腕も含めて確かなので誰も文句を言えなくて、それでも家族のことだけが弱点で、ひとり自滅しそうになったところで立て直そうとしていた別の家族に助けられる。

寂れていたコミュニティを救う物語、という点ではKen Loachの50年代アメリカ西部劇版… のわけないか。


The Lusty Men (1952)

5月30日、土曜日の昼、同じくシネマヴェーラのRobert Mitchum特集で見ました。

監督はNicholas Ray、原作はClaude StanushがLife誌に書いた記事”King of the Cowpokes” (1946)、これを『彼らは廃馬を撃つ』のHorace McCoyを始めその他大勢で脚色している。 邦題は『ラスティ・メン/死のロデオ』 - 日本では劇場未公開だったの?

長年ロデオ選手でやってきたJeff McCloud (Robert Mitchum)は危険なこぶ牛のロデオで怪我をして、もう引退しようと生まれ育った田舎の家に戻ってきたが、いたのは見知らぬ欲深い老人と、その土地を買おうと近くの農場で働く若い夫婦 - Wes (Arthur Kennedy)とLouise (Susan Hayward)だった。

それまで小銭稼ぎでロデオ大会に出たりしていたWesはその世界で有名なJeffと出会って舞いあがり、彼に付いてきて貰った大会でそこそこの小銭を稼ぐことができてしまったので、地道な農夫としての道よりもロデオライダーとして稼いでいくことに決めて、Jeffを連れてトレイラーハウスで各地を転々とする生活に入る。生活は少し派手になったものの荒れて、事故で亡くなったり老後は悲惨だったりするロデオライダー達を見ると貧しい家庭から地道にやってきたLouiseはJeffに当たったりもするのだが、それなりのお金が入ってくるようになると何も言わなくなる。

JeffとLouiseが近づいていく反対側で、自信がついたWesがJeffを追い出す、もういらないって言いだすとJeffはもやもやとやけになって自ら大会にエントリーして…

ロデオという半端で危険なスポーツ&ショービズの世界に生きる男たち女たちのいろんな生き様をパノラマで描きつつ、その生と死がロデオ的に振り回されて地面に吸い込まれたり横滑りしたりして彼方に消えていくさまが、ドラマとは程遠いドライな目線で描かれて、その切り口がすばらしい。なんでこんなふうにしてまで生きなければならないのか、という吐き捨てるところと、でもどのみちずっとこんなだからー、ってどかすかパレードしていくところと。延々引き延ばされ張り巡らされていく“Endgame”のような。

ロデオでもカタギでもだめだった - すべてを達観した老人のようにも見えるRobert Mitchumがこぶ牛に踏み潰されて、ひとりで死んでいくだけの映画、にも見えて、それだけで十分って思ったり。

でもなんだかんだ言って、ロデオって動物虐待だからシンプルに因果応報、でよいのか。

[film] Victoria (2016)

5月26日、火曜日の夕方、日仏学院エスパス・イマージュ で、第七回映画批評月間のプレ・イベント&サブ企画 - 『急に具合が悪くなる』公開記念 ヴィルジニー・エフィラ特集』で見ました。

Virginie Efiraご本人がやって来てトークをする、ということで、ぱんぱんに入っていた。

監督は”Anatomie d'une chute” (2023) - 『落下の解剖学』 のJustine Triet、彼女の長編2作め。同年のカンヌ国際映画祭批評家週間に出品され、わんわんのJacquesがPalm DogのJury Prizeを受賞し、セザール賞で5部門にノミネートされている。

英語題は”In Bed with Victoria”。このタイトルで思い出すのはドキュメンタリーの”In Bed with Madonna” (1991) - 別名は”Madonna: Truth or Dare”。

法廷では辣腕の女性弁護士Victoria (Virginie Efira)は、私生活と恋はさっぱりのさんざんで、幼い2人の娘を抱えながらこのままでいいのか、これからどうするつもりだ問題を抱えてどん詰まっていって、親友のVincent (Melvil Poupaud)の結婚式に出ても、オンライン・マッチングで出会った男と寝たりしても、焦りばかりが湧いてきて、かつて弁護をしたヤクの売人Sam (Vincent Lacoste)が、法律を学びたいのでインターンで雇ってほしい、としつこく言ってくるので住み込みの子守りとして置いてあげて、いいのか? で、とにかく落ち着かないまま、結果ふつうに怪しい女性になってしまっている。

こういう設定はSATCでもBridget Jonesでも、この頃に公開された”Trainwreck” (2015)でも、世間的にはそんなおかしいところがあるとは思えないのに本人がひとり焦りまくって自分で墓穴や墓石を用意してそこに落ちたり籠ったりであーめん、てやっているもてない女性を中心に据えてその彷徨いを延々とらえてシリーズ化もできるrom-comの典型で、エピソードとしては親友のVincent (Melvil Poupaud)が妻を刺した容疑の裁判で弁護を頼まれるとか、人気ブロガーとなった元夫が自分のプライベートで淫らな過去 - 裁判官と浮気していた等 - を晒しにくるのに対抗したりとか、そういう混乱のなか、Vincentの事件の証人と接触して、6カ月間の弁護士資格停止処分を受けたり、なーにやってるんだろ自分、なことばかりが積みあがってきてとにかくぜんぶイヤになっている。

このしんどさが周囲とのずれとか軋轢のなかでばたばた折り重なってやってくる、というより、日々の自分のしんどい実存、その重さ、なんで自分はいつまでたってもこんなふう? こんなふうにいつまで? というどうしたものか、を抜けて流血するように湧いてきて止まらないなにか、として現れてくるのがよくて、全体の流れはコメディの体裁を取っているようで、受ける印象はとても深くて重い実存ドラマのように見えてくる。なので、終盤のSamとの互いを探りあうようなラブシーンがすとん、と腑に落ちるように沁みてくる。これがすべてを解決するわけではないけどね… という距離の取り方。

この辺の淵とか引っかぶりで微細に揺れ動いて、でも留まることのないエモーションの出し方は、彼女が主演した『パリの記憶』 (2022)でも見ることができるもので、上映後のトークは、ほらーやっぱりー としか言いようのない彼女の輪郭のつよさを確認できるのだった。もうじきの『急に具合が悪くなる』でも、このタイトルだけでぜったい間違いないやつ、と確信があるので、楽しみ。見ている側もぜったい引き摺られて急に具合が悪くなったりするようなやつに違いない、と思ったり。

[theatre] エンドゲーム

5月24日、日曜日の午後、新国立劇場の小劇場で見ました。

原作はSamuel Beckettの同名戯曲 “Endgame” (1955–1957, 初演はロンドンのRoyal Court Theatre,1957)。 Beckettの『ゴドーを待ちながら』(1948–1949)の次の作品。

翻訳は岡室美奈子、演出は芸術監督の小川絵梨子、キャストの4名は1,016名の応募者の中からオーディションで選ばれたそう。1時間30分、休憩なし。

この劇 – “Endgame”は、2020年2月にロンドンのOld Vicで、ショートピース“Rough For Theatre II” (circa 1960)との二本立てで見た。演出はRichard Jones、HammをAlan Cummingが、ClovをDaniel Radcliffeが演じて、これが自分にとって最初のベケット劇だったかも。コロナ禍でいろんなものが端から打ち切られていく最中で、この劇も見てしばらくしたら打ち切られたり、見てからしばらくの間も終末感ばりばりの雰囲気が繋がっていたことを思い出す。

ドーム状になった天井の縁は崩れて落ちていて、右左の上部にはくすんだ窓が2つ、向かって左側にはゴミ缶がふたつ、灰色の暗い部屋の真ん中には布で覆われた塊りが置かれている。開演に向かって室内の光の量が落ちていき、外界のノイズがシャーッと大きく広がったところで明転して、足をひょこひょこ引き摺るクロヴ(中山求一郎)が脚立で窓のところに行って外を眺めて、その仕事の流れで中央の覆いを剥がすと、そこにはサングラスをしたハム(近江谷太朗)がこちらを向いて座っている。

ふたりは主従関係にあるようで、目が見えず、椅子から動けないらしいハムがクロヴにあれをしろ、あれを持ってこい、ひっこんでろ等、傲慢で高圧的な指示をだして、クロヴはぶつぶつ言いながらもそれに従って奥の部屋から出たり入ったりを繰り返している。主従の関係は絶対的なものらしく、どんなに理不尽な要求が来ても、クロヴはそれに従うし、ハムがそれを労ったり感謝したりすることはない。ハムがクロヴにここを出ていかないのか? って聞くと、出ていくよ、って言いながらなんだかんだ留まっている。それが主従の関係というもの。情緒などは一切関係なく、そういうなかで、ひとはただ生きてて、オーダーや要求の垂れ流しとその受容~対応の反復のなかにある。

もうひとつ、缶のなかに住んでいて、クッキーモンスターみたいに顔を出すハムの父ナッグ(田中英樹)とそのパートナーのネル(佐藤直子)がいて、クッキーモンスターよろしくポリッジとかシュガー・プラムを要求するのだが、貰えるのはスプラッツ(犬用ビスケット)くらいなので不満たらたらで、こちらにも別の方に延びた(やはりどうにも終われない、断つことのできない)関係の線がある。

ハムは動けないし、クロヴは出ていこうとしない、そんなふたりが幸せかというと、とてもそうは見えなくて、互いに互いのことを、ふたりの関係のありようを、それが置かれた世界まるごとを忌み嫌って憎みあい、罵りあっている。こんな状態でふたりの関係が切れたところで事態がよくなるとはちっとも思えない。なので、詰んでいる - チェスの用語で打ち手がない状態をさす”Endgame”。 結果、勝ち負けがない、なのでそれによるエンディングもない。この状態がずるずる続いていくことについても、誰も異議を唱えない。

他方で演劇は時間が来たらなんらかの決着をつけて幕を閉じて終わらなければならないもので、その終わりをどういう形で示すべきか、という劇構造そのものにも踏み込まないわけにはいかない。 くそジョブの終わり、使役関係の終わり、親子関係の終わり、ヒトとしての終わり(死。旅立ち)など、あらゆる終わりのバリエーションを示しつつ、それらが決して終わらないことの絶望を散々晒して撒き散らして、でも終わるんだから、って劇を閉じて、劇は終わってしまう。これが「不条理」劇である由縁で、見終わった後もふつうにあたりまえに生活をして世界は続いているので、みんな大したもんだわくそったれ、って思ったり。

こんなふうに見るのが正しいのかどうか、考える隙もないくらいに今の世に嵌っててびっくりよ。 周囲の状況も(目が見えずに)見えないまま自分中心でハラスメントし放題のおやじと、出て行ってやらあ、と言いつつ円安とか諸事情を考えたら踏み出せず、おやじのブラックな庇護下にぐたぐだ留まってしまう召使とか、食べたいと請うものを与えることができず親すら飢えさせてしまうとか、血縁の外の女性はいなくなっても無視とか、これらはぜんぶ今の「詰んでる」社会で起こっている生々しいことばかりの羅列で、もうほんとに世界はこれで終わりなのかも、って思う今日この頃なので、あーあーしかなくて、どうせならもっとリアルに、目が覚めるくらいどん底に突き落としてくれてもよかったのに、と。