7月12日、日曜日の夕方、日仏学院の『第7回映画批評月間 批評家たちが選ぶ2024-2025ベスト』からの1本で、見ました。
邦題は『メクトーブ、マイ・ラブ:第2章』。タイトルの”Mektoub”は、アラビア語の”Maktūb”に由来する言葉で、アラブ・イスラム圏の背景も含んで、運命とか宿命とか、なるようにしかならないもの、として口語的に使われるもの、だそう。 これ、男性が女性に対して言う場合と、女性が男性に対して言う場合で、トーンが結構変わるような。
『アデル、ブルーは熱い色』 (2013)のAbdellatif Kechicheによる”Canto Uno” (2017)、“Intermezzo” (2019)に続くシリーズの3作目で、シリーズを通しての原作はFrançois Bégaudeauの小説- ”La Blessure, la vraie” (2011)。 昨年のロカルノ国際映画祭のコンペティション部門でプレミアされている。
撮影は“Intermezzo”と同時にされていたものの、同作での出演女優による告発があったり、製作会社が法的トラブルに見舞われていたこと等により6年に渡ってポストプロダクションが中断されていたこと、現在Kechicheは脳卒中で倒れて映画を撮ることができない状態になってしまったこと等々、なんとも… な状態に置かれた作品ではあるが、とりあえず見る。 最初の2作を見ていなくても何の困難もなく、ふつうに、とってもおもしろかった。
1994年の夏、南仏の港町Sèteで、カメラを抱えたAmin (Shaïn Boumedine)がOphélie (Ophélie Bau)の姿を撮ったりしていて、彼女には婚約している軍人Clémentがいて、結婚式ももうじきなのだが、AminのいとこのTony (Salim Kechiouche)の子を妊娠していて、中絶するしかないか、って将来のことも含めて少し揺れている。しばらく見ていくと、Aminはそんな周囲のいろんな人が言ってくること、やってくることを静かに見たり受けとめたりしている透明な存在であることがわかってくる。
営業を終えたレストランにTVドラマ等に出ているアメリカ人女優Jessica (Jessica Pennington)とその夫でプロデューサーのJack (Andre Jacobs)が車でやってきて、結構傲慢にかんじ悪くお腹が空いてるのでなんか食べさせておくれ、ってクスクスとかを作らせてもりもり食べてて、そんなのがきっかけで彼らと知り合ったAminは、食事と引き換えに自分の書いたSF映画の脚本 - “The Essential Elements of Universal Existence” - 『普遍的な存在の本質的な要素』を読んで貰って、そしたら数日後、Jackはいくつか注文を付けつつもまじで映画化したい、と言ってきて、将来が少し明るくなる。
どこまで本当にしてよいのか、のハリウッド行きの話と、足元でのOphélieの今後が揺れているなか、TonyとJessicaが豪邸でべたべたしているところにJackが帰ってきて – の先に広がる修羅場展開が息が詰まるくらいにおもしろく、ぜんぜん関係ないのにそこに巻き込まれて散々な目にあうAmin…
穏やかでやさしくて、周囲の欲動の行く末を間近に見ているばかりのAminにとって、Ophélieの妊娠の件でどちらにどう転ぶのか、の微細な、けど重要な選択肢と決断の行方と、突然勃発して生死の瀬戸際に立たされる痴情沙汰 - 金玉が鉛玉で… - の幅に振り回され深夜に走りまわされて、そんなんなっても”Mektoub, My Love”、なんて言うの?
ロメールの夏映画にある(例えば)夏のオープンな欲望あれこれをどこまでもぺったんこに引き延ばしてすべての登場人物を宙づり状態にして楽しむカルダーのモビールみたいな、風鈴みたいな様、とはぜんぜん別の、すべてが熱い地面の上で起こって、熱すぎて踊ったりもしながら全員が団子状態でゆっくりと茹でられていく、これもまた夏の映画だなあ、って。 過ぎ去っていく夏の寂しさや切なさなんてなくて、沸騰したらそれで終わり、のようなごった煮の、往生際の悪さ。これもまた、という。そういう状態だと、クスクスがとってもおいしくなるようなー。
それにしても日本の夏の、ここ数日の不快さ - 気候だけでなく - ときたら、ちょっともうむり。
7.22.2026
[film] Mektoub, My Love: Canto Due (2025)
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