7.15.2026

[theatre] バストリオ セザンヌによろしく!

7月9日、木曜日の晩、浅草九劇で見ました。 浅草に行ったのなんて数十年ぶりではないか。

月1回は見たい演劇シリーズ。 場所も劇団もまったく知らないところだったが、せんがわ劇場演劇コンクールでグランプリとオーディエンス賞をW受賞した作品の再演である、と。「セザンヌ」がタイトルにあるのであれば、サント=ヴィクトワール山をふらふら見に行ってしまった者としては見たほうがよいのかしら、くらいで。

初演は2023年、兵庫県豊岡市の神鍋山で『セザンヌの神鍋山』(どんなところなのか見当もつかないや)という野外劇として上演されたものらしい。

会場はシアターというより服がいっぱいぶら下がっていたりステージの前に半透明のビニールが掛かっていたり、中央に水の溜まった透明な箱があったり、実生活が進行中のゴミ屋敷~大昔の雑然とした小劇場ふう、バストリオも劇団ではなくパフォーマンス・コレクティブ、というらしい。開演時間前から演者と思われる人々が舞台や仕掛けの周囲を行ったり来たりせわしなく、プロジェクターでステージ前の様子を映しだしていたり、上演前には主宰の今野裕一郎から上演時間は約60分、少しでるかも、と話があった(実際には1時間10分くらい)。

最初にドラムスの人が出てきて、使いこんでいくうちに削れて折れてしまったスティックの話をしつつ、いろんなドラムスのリズムのパターンを試して、そこからいろんな人たちがステージに上がったり下りたり回ったり、ステージ下で絵を描いているのをライブでプロジェクションしたり、サックスを吹き鳴らしたりしつつ、いろんな言葉と声、音が飛んでは消えていってとにかくせわしなく、同時性のごちゃごちゃの中で突然(のように見える)山を見つめる、山と向かいあう話が浮かびあがり、それを訴える(ようにみえる)セザンヌはプログラムの紙によるとセザンヌ1から3まで女性3名がいて、とにかくゴミだろうがなんだろうが何がどれだけ溢れかえってやかましくても死ぬまで山の肌理、壁、その硬さと向かいあって自問していろんなひとつの山を刻んでいった彼/彼女の姿があちらこちらに現れては消えていく。

いまここ、の一回性に集中して何かを表現しようとする、それを見にその時間、その場所に人が集まってくる演劇/パフォーマンスという様態とセザンヌがあのアトリエから丘を登って山が見える場所に行ってずっとひとつの山を見つめ、探求しながら描いていったその姿勢(のようなもの)は、このとっちらかったパフォーマンスが見せる80~90年代の相対主義的なバラけぶりと相容れないように見えるし、むしろただの偏屈な困った人として隅に追いやられてしまうであろうことまで示される。

セザンヌがたった一人で、それなりの時間をかけて追い求めていった事物の、対象の本質(のようなもの)を見据えて掴みとろうとする試みは、せわしない今の世の中でどこまで可能となるのか、をものすごく落ちつきのない雑踏とかお茶の間のなかから伝えようとして、その難しさに苦笑したりへらへらしそうになりつつなんとか『よろしく!』とだけは言って、最後にパレスチナ、シリアといったこの世の地獄を正面から突きつける。

とてもまじめで今できるのはこういうことなのだろうな、と思いつつ、わたしはセザンヌをパンクとして見たものなので、ここまできちきち積みあげないと突破はむずかしいのかー、たいへんだよなー現代って(そんなもんか)。

あと、このしんどさ、複雑さ、雑多さにぶつけるのであれば、セザンヌというよりキーファーあたりではないのか、とか(… とりかえしのつかないことに)。

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