12.31.2014

[log] 年のおわりに

まだ書いていない映画とかいくつか(あと8くらい..)あるのだが、一年の最後の日になってしまったので、なんか年の瀬ぽいことでも書いてみよう。

30日は、2013年の暮れにやらなきゃと思って2014年の初めに実行する予定のまま1ヶ月が過ぎ2ヶ月が過ぎとうとうここまで来てしまったやつについに着手した。着手することをこの1年ずっと夢みていたんだからね、と、これだけは言っておく。 俗にいうところの大掃除、ていうやつね。

どうやって攻めるのか、とか、なにから始めるのか、の計画から入るとぜったい頭がしろくなったり眠くなったりして頓挫するので、まずは手を動かすこと目標で。 あと、中身を確認するのはよいが読みはじめたらぜったいだめよルール、もつくった。 
ごご12時半くらいから、Wilcoの”Alpha Mike Foxtrot” - CD4枚分をiPodに落としたやつをBGMに、やろうどもやっちまえー(... 反応なし)、てはじめた。

結果: CD4枚ぜんぶ終っても終んなかったので、4時くらいにいったん撤収。
(31日も夕方2時間くらいやった。焼け石で部屋があったまったくらいよ)

約3時間半の工程はだいたい以下のようなかんじだった;

①捨てるものを一箇所に固める → ②まとめるものを一箇所に固める → ③一箇所に固めたやつの山が増えていく → ④置き場所(作業のためのバッファ空間)がなくなる → ⑤置き場所をつくるために既存の山を崩す → ⑥更に場所がなくなる → ⑦しょうがないのでいくつかの山をマージする → ⑧山が不安定になって崩れる → ④に戻る → しばらくすると、④から⑧が散発的にループするようになって、片付けっていうのはええとあれか場所をつくることなのか山をつくることなのか、そもそもこれ、ぜんぜんお掃除になっていないんじゃないか、とかいろんな意見が噴出して収拾つかなくなったの。

あと、山が崩れてマージして積み直して、を繰り返しているとだんだんに同じサイズの雑誌とか同じ種類の本とかが寄って集まってくることがわかって、この現象になにか名前を付けてみたいのだが、どうか。

"Before"の写真はInstagramに載っけました - ただし、いちばんクリーンな界隈のみ。

ここまでで全体の半分くらいか。山の奥のほうとか深いところは来年かなあ。たぶん。

そもそもこれらの山の起源は諸説いろいろで、いちばん古くてわけわかんないのが、92年に渡米したときに運ばれた荷物が開封されないまま98年に日本に戻ってきて、その箱がなぜか再び2001年の渡米荷物に紛れこんで、同様に未開封のまま2006年に日本に戻ってきて、2011年のお引っ越しで遂に正式に箱から出された、そして積まれた、てやつ。
自分が箱のなかの本の精(or 虫か)だったらこんな持ち主ぜったい許せねえ呪ってやろうとおもう、はず。

こういうわけで、89年12月のStudio200のスケジュールとかスパイラルでのdumb typeの公演チラシみたいな、どこから湧いてでたのかわかんないのとか、入手経路はぜんぜん謎だけど、78年のMelody Maker誌とか、New York Magazineは93年頃のが出てきたりとか。
メカスの映画日記はなんで2冊もあるの? とか。

でもお片づけ、ていうのはそういう(再)発見をする機会とかイベントではないのよ。たぶん。

そもそも床に積まれてしまうやつ、ていうのは本来あるべき棚に収まりきれずに溢れたもので、そんなに沢山の本を生きている間に全て読むことができるのでせうか? (読みきれない本は処分しましょう)とか保健所の役人みたいなことをいう奴がいるけど、中指10本立ててけつまくってやれ。  死んだら読めなくなるなんて、誰が決めたんだよ? ぼくは読むもん。 (←びょうにん)

あと、でも、こんなつまんないこと書くヒマがあるのなら、塵のひとつでも拾って、埃の欠片でもぬぐうべき、ていうのは正論だとおもう。


ところで、こないだの10月で、このサイトも5年目に入り、更新の数も1000を超えたようです。
当初、顔と名前を知っている10人くらいの方々に向けたメモ、程度で始めたやつも、カウンターの数をみると、ものすごい数(自分にとっては)のいろんな方々にも見ていただいているようで、ありがたいというかごめんなさいもうしわけないというか (なぜひらがなになるのか)。

このテンプレートにも飽きてきたのでそろそろ変えたいかも、なのだが時間ないしIT疎いし。

今年は年初から仕事がすこし変わってばっかみたいに慌ただしくなってしまったので、書くペースを落とさないと、と抑えめにしていたのだが、そうしているとどんどん鬱憤が溜まってますますやってらんなくなるばかりだったので少し戻した。 どこかなんかまちがっている気がするが、他の解消策がみつからないのでしょうがない。 いやだなあこういうの、てずっと思いながら書いている1年でした。


ここまで読んでいただいた/いただいているみなさま、ありがとうございました。
よいお年をお迎えください。
来る年に少しでもよいことが起こりますようにー

12.30.2014

[film] Przypadek (1981)

20日の夕方、「現代娼婦考 制服の下のうずき」のあと、ポーランド映画祭に移動して見ました。
クシシュトフ・キェシロフスキによる「偶然」。英語題は“Blind Chance”。
やっぱり立ち見になってた。 ニッポンのひと、キェシロフスキ好きね。

81年に製作されたものの、当局の検閲にあって正式公開されたのは87年で、上映された版の途中にも「この箇所は検閲にやられて永遠に失われてしまいました」とかいう注記が出てきたりする。

主人公のヴィテク(Boguslaw Linda)が、ワルシャワに向かう列車に走って飛び乗ろうとして、①乗りこむことができた ②無理するなと駅員に制止されてつかまった ③諦めた の結果によって分岐する3通りの運命とか人間関係とか。
①では共産党員となって前途洋洋だったが、密告者として利用されて恋人を失ってあーあ、になって、②では地下出版の道に入ってキリスト教に入信するも手入れにあって周囲に疑われて居場所を失い、③では政治とは無縁の医学の道に進んで、これはうまくいきそうなかんじで飛行機で国外に飛び立つのだが、まさかこんなことになっちゃったりしてな… と思った通りのことが起こっちゃうのでびっくらして気まずい沈黙が。

3つの分岐の前、父の希望に沿って医者になることを目指してきたヴィテクは死期が近づいた父から好きにしていい、と言われて方向を見失っていて、分岐後、父のような存在による指導方向付けがなされて、後ろ盾となる組織ができて、親密で素敵な彼女もできて、でもそれらは彼の最初の選択、さらに遡ると出生みたいな地点から左右されていて、その後の行動も個人と組織/政治の間の相互干渉のなかで形作られていて、そういうのの総体として語られる「運命」のありよう、その不可思議さ微妙さが示される。

でもさー、あのときああしていればああなったかも、ていうのは後からいくらでも言うことができるし、その角度から眺めたその時の決断や選択が特殊な光を放つのはわかるけど、個人と状況が相互に影響しあうのはあたりまえのことだし、自分で決めて進む、ていうのも、運命に翻弄される、ていうのも、同じようなことの「言いよう」でしかないのだから、「運命」とか「ドラマ」における因果をそこまで強調するのってどうなのかしら、ておもった。 そういうことを思うのはポーランドの当時の「状況」の過酷さや圧力を知らないからだ、と言われればごめんなさい、なのだが。

そういうところもあってか、この作品でもっとも輝いてみえるのは、③に出てきた世界最強のお手玉使いのふたりなの。 彼らの生はいまここでどう動くべきか、のなかにしか、その瞬間にしかない。占いも総括も必要ない速度で生きること。 でもあれ、ほんとにびっくりした。すごい。

キェシロフスキ作品としては後の「トリコロール」のドライブの強さも「ふたりのベロニカ」- これがいちばんすき - の魔法もない、のだけど、彼の映画のもつ心地よい冷たさみたいのがストレートに伝わってきて、よかった。

とにかく駆け込み乗車には注意しないといけないの。

12.29.2014

[film] 現代娼婦考 制服の下のうずき (1974)

もう終ってしまったシネマヴェーラの曽根中生追悼特集より、日にちは別で見た2本を。

現代娼婦考 制服の下のうずき (1974)
21日の日曜日の昼間に見ました。

田端のほうのアパートで一緒に暮らすいとこのふたり - 真理(潤ますみ)と洋子(安田のぞみ) - 共に大学生 - がいて、真理のほうは「複雑」な育ちの娘で、母親は娼婦で孤児院から祖父のところに引き取られて、小さい頃に人を殺したこともあるという。  実家での序列 - 主従関係でいうと洋子のほうが上で、婚約者はいるわ車は持っているわ取り巻きもいるわで、反対に真理は常に蔑まれて疎まれて束縛されて、そういうなかで娼婦みたいなことをしたりされたり、真理の居場所はどこに? ていうのと、洋子のいる「場所」とはなにがどう違うんだ? ていうのと。 んで、洋子が真理を明日から自由に暮らしていいよ、て伝えた途端、真理は洋子を殺してしまうの。

こういうのを、ニッポンの血族における縛り抑圧、地方と都会、これらの境目で荒れ狂う魂や情念のドラマ(原作は荒木一郎、挿入歌は寺山修司作詞の『裏町巡礼歌』)としてべったり重厚に描くのではなく、ぽつんと建っているアパート、工場跡の廃墟、壊れたマネキン、クスリ、行きがかり手当たり次第のセックス、等々を散りばめた、二人の女子の対照図としてドライにデザインしてみせる。

ほぼ無表情 - 怒りの噴出も修羅場も居直りもない、なんの声も出せない(喘ぎ声に快楽や歓喜はない)、聞こえない状態 - 聞こえてくるのは廃墟に響くヘリの音、マネキンを引っ叩く音、飛び出しナイフの音 - ラストの殺しの音ですら洗車場の音にかき消されてしまう。
(俳優の演技力に期待できなかったのでそうせざるを得なかった、と監督の自伝本にはあったが)

で、そうして静かに進行してなにかを侵していく青春期の危うさと、性そのものが孕む主従や自由/束縛の不可視なバランスを見事にクロスさせた傑作だと思いましたわ。


性盗ねずみ小僧 (1972)
23日の昼間にシネマヴェーラで見ました。 併映の「性談 牡丹燈籠」は前に見たことがあったのでパス。

ポルノ時代劇で、脚本は長谷川和彦、セットは他作品のを転用しているので時代劇としてもちゃんとしているし、サイレントや臨時ニュースの挿入とかおもしろいところもある。「性盗」は「怪盗」にも「正統」にもひっかけてあるの。

次郎吉がおみつとやっていると御用御用の提灯が入ってきて、彼はしょっぴかれて牢獄に入れられて、そこからの回想になるの。 呉服屋の丁稚の次郎吉はからかわれて嘲笑われてばかりで、頭きておかみと娘を犯してそこを飛びだし刺青を彫って、そこからはお金持ちのおうちに押し入って寝ている女(達)を犯して黙っていてほしければ金よこせ、て脅してその金を弱者に与えるので義賊て言われる。

刺青屋で知り合ったのが金四郎で、彼は後の遠山の金さんになるのだが、こいつが実は権力の犬で、凋落していた幕府の評判を上げるために次郎吉をしょっぴいてやろう、とおみつを彼に近づけるのだが、おみつは実は次郎吉の生き別れになった妹だった、と。

虐待にレイプに強盗、肩書詐称などなど、悪行まみれなのにストーリーに暗さはなくて軽いかんじ、その展開よりもいろんなカットや仕掛けのほうがおもしろくて、自伝本のインタビューのこの映画を語る箇所で、カンディンスキー著作集の西田秀穂教授に学んだ、とあるのを読んでふうん、だった。 

もういっこ、同じく自伝本でパロディについて、安倍晋三のそっくりさんでポルノを作ればいい、て語っているところがあって、そうだよねえ、と思った。 「この道しかない!」とか「とりもろす!」とか「女性活用!」とか言って女性議員とやりまくるのに嫉妬したNHK会長が盗撮したビデオを国営放送で流しちゃうようなやつ。 ネタの宝庫なのにな。 “The Interview”は無理にしてもこれくらいのも作れないくらいみんな萎えちゃっているのかしら。

12.27.2014

[film] 女に強くなる工夫の数々 (1963)

年末休みなのに風邪ひいた。

20日土曜日の昼間、京橋の千葉泰樹特集で2本続けて見ました。
ネオ・フェミニズム勃発の2014年、改めて胸に刻んでおくべき昭和ニッポンのサブリミナル男根映画。 いや、映画としてはとってもおもしろいんだけど、ね。

女給 (1955)

真面目な会社員の順子(杉葉子)は恋人との結婚を控えてお金を貯めなきゃいけないのだが、なかなか貯まんないし、一緒に暮らしている母(旧華族の栄華に埋もれてなんもしない)の面倒もみなきゃいけないので、銀座のバー「クエール」(... うずら?)で夜のバイトを始める。 始めはただのバイトだから、て割り切れると思っていたし、割り切ろうとするのだが、根がまじめでがんばりやさんなのでついはまりこんで抜けられなくなっていくわかりやすい転落の件と、同じバーで、夫に先立たれ、ぼろアパートで一人息子を育てながら美容学校に通ってがんばっている先輩ホステス(越路吹雪)の淡い恋のおはなしと。

順子はまじめな役人を落とすために上から枕営業(溝口の「祇園囃子」とおなじような)を強要され処女を失って人工妊娠中絶、婚約は破棄となって全てがおじゃん、そこまでしたのに相手が逮捕されて稼いだお金も没収、結局なんだったのよ!!(怒)、になり、越路吹雪は亡夫の戦友だった上原謙(妻子あり)と再会してよいかんじに盛りあがるのだが、こちらもお金絡みですべて立ち消えて、最後はみんなで大喧嘩してこんな店しね! て飛びだすのだが、結局別のお店で働いていくことになるラスト。

「女給なのに」涙を拭ってたくましく生きる女性たち、を描きたかったのかもしれないし、ドラマとしてよくできているとは思うものの、やっぱしこんなのを基層に置いて「できあがっている」世界 - 21世紀になってもぜんぜん変わっていないよね - には中指を突き立ててやるべきなんだ。 

女に強くなる工夫の数々 (1963)

七光電器の宣伝部に勤める宝田明とそこの専属モデルの司葉子は恋人同士で、そこの部長が加東大介で、彼らがスポンサーになったTV番組「男性飼育コンテスト」ていうのの一回目。 エントリーした夫婦のうち夫の方が料理、洗濯、アイロンがけを時間内で並行してどこまでできるか、の出来映えを競うゲームで、結果だめだめだった男性陣 - 高島忠夫(こいつが優勝)、フランキー堺、有島一郎、加東大介(欠員が出て強制参加) - が慰労会をやっているとどこからか突然植木等が現れて、各自の夫としての、男性としての問題点を神のようにてきぱき叱って指導して、ついでに置いてあったお酒もぜんぶ戴いてすーだらすちゃらか消えて一同唖然、だったのだが、そこで指導されたことを家庭で実践してみるとあーら不思議、いろんなことが当たっていたり改善されたりびっくりで、そういうのを横で見ていた宝田くんは今後のことを考えてしまうのだった。

んでも結局、無責任やろう植木等の提言は有効だったように見えて、そんなでもなかった - つまりは妻のがいちまい上手だったり、愛っていうのはどっちかの上に立つことで成り立つようなもんではないことに気づいたり(そこに巧みに誘導したのは女性のほう)、だったりするの。

ほのぼの平穏に終っているように見えるけど、これにしたって、男は女より強くなければならないのにそうなれないのは何故じゃ? ていうオトコの鬱憤憤懣から始まっているのは問題で、やっぱしこんなのを基層に置いてできあがっている世界には(... 以下同)。

それにしても植木等が圧倒的にすごい。 ここだけでもじゅうぶん見る価値あるわ。

12.26.2014

[film] 自由が丘で (2014)

19日の金曜日、新宿で見ました。 あそこの、いつもホン・サンスをやる小さいスクリーンではなくて、公開直後だったからかでっかいスクリーンだったの。

スクリーンがでっかいと、なにかしらとんでもないものが現れるかと思いきや、まっ黄色のバックに水色のハングルがすいすい踊って、気がつくといつものホン・サンスの荒野が広がっているばかりだった。

英語題は“Hill of Freedom” ...
「三軒茶屋で」だと “Three Tea houses”、「二子玉川で」だと”Twin Ball River”になる、はずね?
前作あたりの邦題に倣って「モリーは待ちぼうけ」とかでもよかったのに。

タイトルがこれで、主演が加瀬亮だというので、てっきり自由が丘の餃子屋とかで酔っ払った加瀬亮が、そこらのむっちりしたマダムを落としまくるようなやつだと思っていた。… ちがった。

舞台は韓国で、そこのゲストハウスに日本人のモリ(加瀬亮)が滞在していて、彼は年上の韓国人の恋人に再会しにきて、でも会えないので「会いたいよう」とか「今日はこんなことをしたよ」みたいな手紙を書いては彼女に送りつけていて、「自由が丘」ていうのはモリが通う日本人が経営するカフェの名前で、へちゃむくれた犬がいて、犬は無愛想だけど女主人はひとなつこいの。

手紙を受け取ったexだか現だかわからないその彼女は無言で無表情で手紙を読んでいくのだが、途中で便箋をばらばら落としてしまって手紙の順番がわからなくなって、それに呼応するように映画のなかの話の展開も時間の順番がランダムに前後していって、それでも困惑することがないのは主人公がやけくそでだらだら無為に酔っ払ってばかりの日々を過ごしているからで、しかもその副読本が吉田健一の「時間」だったりするので、ロジックとしては鉄壁なの。 手紙のなかの時間、主人公それぞれが過ごしてきた積み重ねの時間、いま、あの界隈に流れている時間とそれに弄ばれるように抗うように酒に溺れる主人公たち、それらをすべて包括するかたちで語られる必ずしも不可逆とは限らない「時間」 - 傍らに置かれた文庫本。 67分という長さも丁度よい。

そんな待ちぼうけのモリの周辺に現れては消えるどうでもいい酒飲みの皆さん、時間の行き来に見え隠れするように酒宴のまわりを回ってだべってうだうだするばかりでものすごく非生産的で、すてきなの。 そうこなくちゃ、みたいに現れて消えて、なんの後腐れもない。 いいなあ。

ホン・サンスが吉田健一をどの程度まで読んでいるのかどうかは知らないが、なんかとっても親和性が高い両者であることはわかる。散歩、食べもの、お酒に読書、酩酊のサイクルぐるぐる。
それにしても、持っていた文庫の「時間」を「それなんの本?」て聞かれて英語ですらすら説明できてしまうモリ、なかなかのやらしい奴だわとおもった。

あとは、これはいつもだけど恋愛の予感とかざわざわ、みたいのを描くのはうまいねえ。モリがカフェの女主人と寝てしまうくだりなんか、時系列が分断されているなかで割と唐突に起こるくせに、こうなることは始めからわかっていた、みたいな感覚がぞわぞわやってくるのでしょうもない。 酒が出てきたならどうせ酔っぱらうでしょ、ていうのに近いかも。

そして、これもいつもだけど、キスシーンがエロい。 


今年のクリスマスソングは、あんましなかったかも。 これくらい。

http://video.vulture.com/video/Bob-s-Burgers-and-The-National

積ん聴き7inchの箱のなかから開封していないJohn Zornさんの2011年のクリスマスシングルが出てきた。ステッカーには”ADVISORY:  This music may cause extreme happiness, big smiles and feelings of euphoria for extended periods” てある。
A面の”The Christmas Song”、しっとりしたピアノに、それ以上に湿ったMike Pattonさんのヴォーカルが貼りついてきてたまんないやつでしたわ。

12.25.2014

[film] The Hobbit: The Battle of the Five Armies (2014)

14日の日曜日、チューリヒ美術館展のあと、六本木でみました。『ホビット 決戦のゆくえ』
3DのHFR(ハイ・フレーム・レート)ていうデジタルの仕様で、通常のが毎秒24フレームであるのに対してこれは毎秒48フレームであるという。 料金は100円高くなるの。

その効果は、あんましよくわかんなかったかも。やたら鮮明でスムーズで少しだけ疲れなかった気がした程度で、デジタル3Dで、ああいうバトル中心のものになると、どうしてもゲームみたいな仮想現実(既視)感がついてまわってしまうのは(こちらの頭んなかが原因かもだけど)しょうがないことなのか。

3部作の完結編で、1作目は見てなくて(こないだの出張のときTVでやっていたのを少しだけ見た)、2作目は見て、でも内容はもうほぼ忘れちゃったし。 復習のためにやってくれたってよいのに、前夜祭のようなオールナイトで1回やってくれた程度だったみたい。

前作のラストで目覚めちゃった極悪竜のSmaugがヒト族の町を襲ってそれをヒト族のバルドが最後の黒い矢を放って射止める、ここまでが導入で、竜の抑止力がなくなっちゃったものだから、その財宝めがけてそれは俺らのだからとりもろせ、っていろんな軍勢力が押し寄せてくるの。

それが原題の”The Battle of the Five Armies”で、5つの軍ていうのは、ドワーフと人間とエルフとどざえもんみたいな風体の邪悪なのがふたつ、の5つ、でよいのか。
その前に閉じ込められていたガンダルフが救出されたり、竜宮に残る邪念にやられて財宝に眩んじゃったドワーフの王子トーリンが面倒なことになっているうち、悪玉たちが闇の穴から大量に湧いてでて善玉軍は絶対絶命になるのだが、王子が漫画みたいに劇的に復活してじゃーん、てなるの。

戦闘シーンは地表をどかどか走って正面衝突が基本で、そのぶっとい迫力はなかなかで、それにちょっと飽きてくると空軍が加わってわーわー、てなって、クライマックスは岩山のてっぺんの氷の表と裏で、そんな動から静への移行もコントラストも悪くなくて、いろいろ考えたんだろうなあ。

でもそれぞれの軍のキャラクターとか戦いっぷりとかよりたまんなかったのは、ものすごくでっかい角のヘラジカとか鎧つけた巨豚とか兎の6羽だて兎車とか、そういう連中だったの。ぜんぶくすぐったいところを正面から突いてきて、あれにはやられた。 大ミミズも見たかったのに。

ダイバーシティ方面でいうとキーリとタウリエルの恋はかなえてあげたかったねえ。

しかしなんといっても、ヒトでいちばんすごかったのは怒りで顔面蒼白になったケイト・ブランシェットだった。 彼女と比べたらどさえもんなんて、“Blue Jasmine”なんて、数光年彼方にふっとばすようなおっかなさだった。

12.23.2014

[art] Masterpieces from the Kunsthaus Zürich

国立新美術館の「チューリヒ美術館展」、曽根中生のあとに乃木坂に移動して見ました。
東京の最終日のいちにち前、16:30くらいに入って約30分間。

見たいのはだいたい決まっていたから早いの。

セガンティーニ(Giovanni Segantini)にホドラー(Ferdinand Hodler)、といったスイス系と、
ムンク(Edvard Munch)の「エレン・ヴァーブルクの肖像」- “Ellen Warburg” (1905)にクレー(Paul Klee)に、なんといってもココシュカ(Oskar Kokoschka)の大きめの絵がいっぱいあったのでうれしかった。

「プットーとウサギのいる静物画」 - “Still Life with Putto and Rabbit” (1914) に
「恋人と猫」 - ”Amorous Couple with a Cat” (1917) に
「モンタナの風景」 - “Montana-Landscape” (1947) ... 「モンタナ...」はよかったねえ。

他にはイッテン(Johannes Itten)の「出会い」- ”The Meeting” (1916)とか、
アウグスト・ジャコメッティ(Augusto Giacometti)- がりがり君ジャコのいとこね - の「色彩のファンタジー」 - ”Chromatic Fantasy” (1914) - サイケ! とかも。

モネのでっかいのはべつにあんましー。
「ナビ派」がヴァロットンとボナールだけっておかしくないか、とか、”Post-Impressionism”が「ポスト印象派」なのはわかるけど、むかしは「後期印象派」って言ってなかったか?(←自分が古いだけでした)、とかブツブツはふつうにあったけど、全体にクールなかんじで悪くなかったかも。

それにしても、東京都美術館の「ウフィツィ美術館展」を逃したのは痛かったねえ。
年内に見ておかないといけないのは、あとどれだけ?

[film] 昭和おんなみち 裸性門 (1973)

見にいかねば、となんだか焦りつつようやく行けたシネマヴェーラの「追悼特集 曽根中生伝説」。
日曜日の昼になんとか2本を。

わたしはそんなにポルノ映画を見てきたわけではないので、その角度から曽根中生を語ることはできないのだが、時代とか境遇とか土地とか家族関係とかによって醸成された人の情念 - 暗かったり荒んでいたり強かったりやけっぱちだったり - とそのほとばしりとして現れるセックスという行為、その反復横跳びとかでんぐり返りとかを描く、ということ、それを60 - 70分のプログラムピクチャーの枠のなかで量産していった、というところに関してほとんどシェイクスピアくらいにすごい、とおもうの。

で、彼の死後に出た自伝のおもしろさときたら、冗談みたいでさ。帯にある「映画=発明」としか言いようがない、映像の、エロの論理を考えながら作っていく痛快さみたいなのがある。

わたしのSEX白書 絶頂度 (1976)


羽田の近くの線路脇のアパートに弟と暮らすあけみは、病院の採血係をしていて、ちゃんとしたいいなづけもいるのに売春のアルバイトをしたり、弟を誘惑したり、いろんなことがある、お話しとしてはそんな程度のものなのだが、一日中ひとの腕に針を刺して血を抜いて、を延々繰り返している彼女は殆どなんも語らず、友人が腹痛で死にかけている弟も含めて画面に現れるあれこれがゆっくりと瓦解しかけていることはわかる。 工事現場の破壊音、突然現れるヘリ(カーテンに影が映る)の轟音、ナース服が透けて見える看護婦、しんみりしたきんたまの歌(なにあれ?)、決して斬新とは思えないのにあんぐりのショットとか変てこな間とかがてんこもりなの。

脚本を書いているのはスクリプターというお仕事を世界に広めた白鳥あかねさんで、監督は先の自伝のなかで「女の書いた映画だからわからん」とか言っているのだが、そのわからなさの炸裂が映画のテーマと見事に合致してエロを巡るひとつの像を作ってしまっている驚異ときたら。


昭和おんなみち 裸性門 (1973)

大正時代、お屋敷で島村抱月の芝居なんかやってて、そこに差しだされた娼婦が侯爵に囲われるのだが、彼女の恋人は剣豪でそのうち侯爵の護衛として出世して、やがて娼婦と侯爵の間には双子が生まれて、娼婦と娘は引き離されて地方を流浪して、娘もおなじように娼婦となって蔑まれ、学生の客として現れた兄と再会したり、剣豪は侯爵に立ち向かって、とにかく大正から昭和にまたがる血と愛欲と権力の超克と弁証法がテーマのびっくり大河ドラマなの。

脚本は大和屋竺で、狙いすぎみたいなとこもあるけど、これがちゃんとした形で(自伝のなかで監督はプロダクションに結構不満たらたら)作られていたらなあ、とも思うし、いや逆にこの雑多に散らばった断片とエロのありようこそが「歴史」として地の涯に蹴っとばしてやるべきもんなのかも。

そういえば一瞬、“Gone Girl”しているところがあったね。

とにかく、なに見たっておもしろいんだから。

12.21.2014

[film] Rok spokojnego slonca (1984)

13日の午後、ポーランド映画祭の二本目で見ました。
『太陽の年』。 英語題は“A Year of the Quiet Sun”。

二次大戦後、廃墟と化したポーランドの町、そこのぼろアパートに戻ってきた中年の女性エミリア(Maja Komorowska)と脚を病んだその母のふたり。 エミリアの夫は戦死しているらしい。

同じ頃、戦犯調査団の一員としてその地に入った米軍の兵士ノーマン(Scott Wilson)がいて、彼は誰も自分を待っていない故郷には帰りたくない、という。

原っぱでひとり絵を描いていたエミリアとそこに小便をしようとてくてく歩いてきたノーマン、そんなふうに偶然出会った二人、でも言葉は全く通じない。 なのにノーマンはまめに彼女と母の暮らすぼろいアパートに立ち寄るようになって、クッキーを売りに出る彼女についていったり、通訳を連れていって仲介してもらおうとしたりするのだが、どれも半端に気まずく終わってばかりのようで、でも互いに吸い寄せられるように惹かれていく。

言葉が通じない状態で恋愛は成立するのか? 成立する(らしい)。 生活に疲れて絶望していたから、愛に飢えていたから、理由はいろいろあるのかもしれないが、そんな理由では片付けられない変な地点にそれが現れることを映画は示す。 地中から発掘される黒こげの遺体の理不尽さと同じふうにそれは降りて浮かんできて、とりあえず、のようにその流れに身を置いてみる。
こうしてとにかくふたりは出会って、恋に落ちた。 激しく、燃えるようにではなく、静かに朽ちるように。

どちらも若くなく、疲弊してて、恋の主人公にはなれそうにないふたりなのに、その渦に巻きこまれてなすすべもなくなっていくふたりの戸惑いも含めた彷徨いと歓びがしんみり伝わってきてとってももよいの。 どこかしら成瀬巳喜男の映画みたいな。

暴漢に押し入られて荒らされたり、隣部屋の娼婦は騙されたり、もうこの土地にはいられないとエミリアは出国を決意するのだが、出て行くにはブローカーにお金を払わないといけなくて、でもお金はなくて、自分を犠牲とするかたちで最愛の母は亡くなってしまい、最後の最後に彼女は諦める。 向こう側で彼が待っていることを知っているのにその地に留まることにしてしまうの。

どこかで聞いた戦争が絡んだ悲恋モノ、のようでありながら、時代や状況がそれを許さなかったごめんなさい、ふうには描いていない。 出会ったところから既にふたりの恋は失われていて、成り立ちようのない危ういものであることを知っていて、その脆弱な状態のままそこに留まって潮の干満に身を置いたかのような。 ふたりが出会った年、それは月というより静かな太陽の年だったのだ、と。

... Love will Tear Us Apart (again)

そしてラスト、あんな場所に飛んでいったのにはびっくりした。 恋の立ち現れや消滅はどうすることもできないのかもしれないが、その情の強さは例えばこんなことをやってのけたりするんだねえ。

12.20.2014

[film] Pora umierać (2007)

ポーランド映画祭2014からの一本。 13日の14:00からの。
上映前、受付の方に大声で文句を言っている男性客がいたけど、なんでこの映画祭って毎年そういういきりたったひとが現れるのかしら?

『木洩れ日の家で』。英語題は”Time to Die” - 原題のニュアンスもそっちのほう - 「死んだほうがまし」だという。 ぜんぶモノクロの映画。

ワルシャワ郊外、森の奥の古くてでっかい一軒家に暮らす老婆アニェラ(Danuta Szaflarska)と犬のフィラデルフィアの日々。 それは木漏れ日のなかでの長閑でほんわかした毎日を描く、というよりはいろんな隣人とか自分と同じように壊れかけた大きな家のなかでどんづまりを実感して悪態ついてばかり、みたいな。 「木洩れ日の家で」のタイトルでこれがジブリのアニメだったりすると、気難しい老人のそばに寄り添ってくる子供とかなんかの精とかが現れて毎日をありがたやにしてくれたり奇跡を起こしてくれたりするのだろうが、そんなことはちっとも起こらなくて、つまりは”Time to Die” じゃろ、ていう呟きとかボヤキががらんとした家のなかに響く。

老年に差し掛かった息子は早く母に施設に入ってもらって家を売り払うことしか考えていないし、孫は祖母の指輪くらいにしか興味がない、他にも怪しげな連中とかガキ(ドストエフスキーていう名前)とかが来て、フィラデルフィアが追い払ってくれるのだが気が抜けない。

時折、恋人と出会った頃とかバレエの衣装を纏った少女の頃の自分が映し出されて、その美しさときたら息を息を呑むくらいなのだが、それは彼女が見ている白日夢なのか、家の隅々にある過去の遺物の投影の連鎖なのか、ただそれらの記憶が輝ける光となって暖かく彼女を包んでくれるかというとそんなことはなくて、古くなった家具みたいにそこに置いてあるだけのようなの。

でもそれでも古くでっかく建っているお家、その大きな窓ガラスから射してくる光はそれだけで圧倒的で、その光が多少歪んでいようが狂っていようがアニェラの生そのものであるかのようにそこにある。 そこにあった時間も含めてだれにも渡せるもんではないし、渡すもんか。

さいご、彼女は隣で子供のための音楽教室をやっていたカップルにこの家を譲ってしまってざまあみろなのだが、それを言っているのはアニェラのようでもあるしお家のようでもある。

やかましいくらいの鳥の声、樹や調度のきしみ、雨に雷、庭先のブランコ、等々がとても丁寧に撮られていて、それだけで十分だったくらい。 あの家、ほしいかも。

あとはわんわんのフィラデルフィア。 あんた文句なしの名犬よ。

12.19.2014

[film] Alive Inside (2014)

13日の土曜日、イメージフォーラムで見ました。ポーランド映画祭のチケット買って、14:00の上映まで時間が空いたのでなんとなくー。

邦題は「パーソナル・ソング」。でも映画のなかでは「パーソナル・ミュージック」て言われていたような。 2014年のサンダンスで観客賞を受賞したドキュメンタリー、だそう。

認知症で塞ぎこんでいる老人にiPodで音楽を聴かせたら突然記憶が蘇ったり元気になったりしたのを見たソーシャルワーカーのおじさんが、そういうケースを紹介しながら音楽と記憶、老いの不思議な関係を追っかけつつアルツハイマーの治療に音楽を、ていう運動を始める。

Oliver SacksとかBobby McFerrinといった有名人の解説に、じいちゃんばあちゃんたちの愛する懐メロがいっぱい。 そんなにおもしろくなくはないけど。 ふうん、程度だけど。

音楽が、ふと耳にした音楽の欠片が頭の底の記憶を呼び覚ます、或いはいつか、どこかの記憶に到達しそうなもどかしい何かを喚起する、それってボケていなくても割と普通に起こる - 歳とるとそんなのばっかしになる(はぁ…)、のは十分にわかっている。 
あるいは数年前、寝たきりになった祖母の耳元で、娘(自分の母)が昔一緒に歌ったうたを歌ってあげると自分も楽しそうにずっと歌って元気になるとか、そういう話もふつうに聞いていたので、今更そんなこと言わなくても、とか。

なんかね、映画のなかでも少し触れられているけど、音楽の力はすごい、認知症の治療に役立つ、とかいうことよりも、問題とすべきは老いやボケ問題を介護施設の向こうに追いやって介護ワーカーとか薬物療法とかの方に投げしてしまおうとする - 臭いものにはフタばっかし - の構造(社会の、コミュニティの、我々の頭の - )のほう、じゃないのか。 なんて言っているうちに介護予算を更に削減とか、ふざけんじゃねえよ!のこの国の —

音楽とヒトの変な関係、みたいなところだったらこないだ文庫で出たOliver Sacksの「音楽嗜好症」とかのがおもしろいと思うし。

あと、ここで使われるのはBeatlesとかBeach BoysとかLouis Armstrongとか誰もが知ってる筋金入りの名曲ばっかしだけど、そうじゃない微妙な曲だったらどんな反応になるのか、或いは曲の喚起する記憶がその人にとっておぞましいものだったらどうなるのか、とか。 それと、じゃあ音楽ずっと聴いているひとはボケないか、ていうとそんなことないと思うし。

音楽って、聴くひとを幸せにしたり元気にしたりする、そんな単純な美しさのなかに鎮座しているだけのやさしいやつなんかでは決してない、と思うわけです。 だからこそずっと囚われて、でも抜けられなくて、が続いている。

自分が認知症になったら。 高校の頃、周囲に鉄壁をつくってくれたTGとかCabsとかSPKとかを大音量で聴かせてやってほしい(誰に言っているの?)、そのとき自分はどんな反応をするのか、見てみたい。
メタル聴いてきてボケちゃったひとに聴かせたら突然ヘッドバンギングはじめて失神して昇天、とか。
そんなくだんないことばっかし浮かんでしまうのだった。

音楽以外だと、食べものとか香り、もきっとあるよね。
なんにせよ、“Alive Inside”である、と。

12.18.2014

[film] Fargo (1996)

いっことばしてた。 8日、月曜日の晩、日本橋で見ました。
昔、米国でTVで見たきりだったので。 BD上映だけど、冬の映画だしいいかも、て。

凍てつくアメリカの田舎で、お金に困ったWilliam H. Macyが妻の誘拐をやくざに依頼して身代金の半分を分け前として貰うのを企んで、おしゃべりでやかましくて女好きのSteve Buscemiと無口で煙草ばかりふかしていて不気味なPeter Stormareの2人組に車ごと託して、連中はやかましい妻をなんとか誘拐するのだが、妻を運ぶ途中の雪道で警察に止められて面倒になったのでそいつを殺して、更にそこを目撃されたもんだからそいつらを追っかけて殺しちゃうの。 その捜査にあたったのが身重のFrances McDormandで、だんだんに追いつめていって、誘拐を企画したWilliam H. Macyは身代金の受け渡しをどうするかで金を出すのは俺なんだから俺がいく、ていう義父ともめてぐだぐだして、結局義父が引き替えに行くことになるのだが、Steve Buscemiと撃ち合いになって義父はしんじゃって、血まみれになったSteve Buscemiが隠れ家に戻ると人質は殺されてて、なにやってんだバカって喧嘩したらうるせえこのタコ、ってPeter StormareはSteve Buscemiをミンチにしちゃうの。 こんなおはなし。

真っ白でみんな凍えて荒んでいる田舎で間抜け共が起こした滑稽で陰惨な事件と、寒すぎるので丸くなってぬくぬく朗らかな大食いの警察のおねえさんがやんわりとぶつかって、とりあえず事件は解決するのだが、解決ってなんなんだ寒くてしゃあねえやい、ていう。

しかもこの、冗談みたいになし崩しで転がっていく(見られたら殺しちゃう、やかましかったら殺しちゃう)おはなしが実話(登場人物の名前は変えてある)だっていうんだからなんというか。
何人もの人が殺された事件で正常異常言ってもしょうがないのはわかっているけど、誰になに言ってよいのかわからない全身が雪で埋まっていくようなかんじときたらなんだろ。

この前の日に見た”Devil’s Knot”とおなじような「現実」世界の救いようのなさ、がちがちに寒いんだからどっちにしたって救いようなんてないのよ、って。

がちがちの冷たい世界をフレームにおさめたのはRoger Deakinsさん。ぜったいあの土地の上に立って風に吹かれたくなんかない。

今年からFX TVで始まったTVシリーズの”Fargo”も見たいなあ。(Joel & Ethan Coenはexecutive producer)

12.15.2014

[film] Gone Girl (2014)

あーつまんねえ国。ぜんぶなくなっちゃえ。

12日の金曜日の晩、六本木で見ました。 初日にしては割とがらがらだったかも。
前日の「スガラムルディの魔女」に続いて、女性恐怖症モノ。 「スガラムルディ...」がおっかないようー、て逃げまくるのに対して、こっちはおっかないようー、て半泣きしながら追っかけるの。

以下はたぶんネタばれみたいなところもある。けど、別にネタばれたからどう、ていうもんでもないもんなのこの映画は。  ちょっと引きつったラブコメみたいに見ることだって。

ある朝、Nick (Ben Affleck)が家に戻ると居間のテーブルが壊され、血痕みたいのがある状態で妻のAmy (Rosamund Pike)がいなくなっていた。警察を呼んで双子の妹のところに身を寄せて、記者会見して公開捜査に踏みきり、遺された手掛かりを手繰りつつAmyの足跡を辿っていくのだが、いろんなことが明らかになればなるほど、Nickにとって不利な - 実は夫が妻を殺して隠したんじゃないか - 証拠とか証言とか事実(彼女は妊娠していた)ばかりがぞろぞろ出てくるの。

二人の出会いから年ごとの関係の変化を追いながら、彼女の過去と現在、彼女にはなにがあって、今はどうなっているのか、どうなっているはずなのか、を想像してみろ(→ 男共)、ていう。

幼い頃から”Amazing Amy”として育てられてきたAmyにとって自分よりバカで愚鈍な男ていうのはありえない、常に機転のきいた会話とかイベントを提供してくれるもの、結婚生活もその延長でなくてはならなくて、相手がその集中力を保てなくなり鈍化の兆候を示しはじめたところで、じゃあ消えてみるか、になる。ほんもんのバカだったらどうせついてこれないし、それで終るんだったらそれだけのもんにすぎなかったってことよねさようなら。
他方、Nickにとって女は自分が楽しませてあげなきゃいけない対象で、相手が求めてくるんだったらそりゃがんばるけど、でもなにやってもついてきてくれなくて的が外れるのだったら、もうそんなのいらんわやめるわ、になる。

Amyていう”Girl”が求めてやまなかった「大事にしてね」、が履行不能になったときに例えばこんなことが起こる、こんなことを起こすことができる、その極端な一例がここにあって、でもAmazing Amyだったらやりかねない。 でもさあ、このふたりみたいな二人って、わりとどこにでもいるよね? 時間が経てばだれでもそうなるんじゃないの?  ちがうの、そうじゃないの、Girlっていうのは。 だからこその”Girl”なの。なめんなよ。

Nickがきちんと理解できなかったのはこのあたりのところで、そもそもの愛が醒めてるんだから理解なんて無理だろ、て言いたいのかもしれないが、理解できなかった/しようとしなかったばかりにこんなひどい目にあった。 残念ながら、裁判して勝てるようなお話しでもないし。

こうして最初から最後まで「なに考えているんだかわからない」Amyの頭蓋の奥にあるものの不気味さと恐ろしさ(ママはそんなこと教えてくれなかったよう)を涙目で訴える男映画になった。
でも、そんなに性差の線引きを強いるようなもんでもなくて、Nickの双子の妹Margo(Carrie Coon)は彼と彼女の中間にいるし、高校の頃からAmyを慕っているNeil Patrick Harrisは、これもまた別の生態系にいる特異な生き物としていたりする。

そして、そんなふうに世界は頭蓋の中と外とできれいに閉じて分かれていなくて、もっともっと猥雑で雑多なもんだったことがじわじわと曝されてくる後半のドライブはなかなかすごくて、しかしAmyはそれを超えてPowerfulでAmazingだったという。
では果たして、”Gone Boy”のお話は成立するのか? たぶんしない気がする。

Rosamund Pikeさんはすばらしい。 めちゃくちゃ堅い頭蓋と顔の皮と、そのひんやりと。
Ben Affleckさんは、我々のイメージのなかにあるBen Affleckさんで、それはつまり"Chasing Amy" (1997)とか"Jersey Girl" (2004) とかに出てくる、Jersey Boyとしての彼どまんなかで、だからこの物語をKevin Smith氏が撮っていたらどうなっていたか、とかちょっと夢想する。

あるいは、Richard Linklaterが”Before... ”ではなく”After... ”の物語として撮るとか。

音楽に関していうと、"The Social Network" (2010) -> "The Girl with the Dragon Tattoo" (2011) -> “Gone Girl” (2014) ときたDavid Fincher & Trent Reznorの連携を仮に「想いを遂げられない」3部作とすると、今作においてその可聴帯域の境界を彷徨うノイズの圧迫感、幻聴感、は最高のレベルにあって、もはや誰にも真似できるものではない。 この二人に撮影のJeff Cronenweth(62年生まれ、DFも62年生まれ、TRは65年)も加えると、彼らの構築した世界がいかに独特で、隔絶された変なやつかが、見えてくるのではないか。
フィクションとして遥か彼方にあるようで、実はまぶたの裏側のひたひたのなかにあって、すぐそこに潜んでいるような(どの作品でも水中のイメージが象徴的に使われていたり)。

ああ、消えちまいたい。

12.14.2014

[film] Las brujas de Zugarramurdi (2013)

10日木曜日の晩、どうしようもなくジャンクでバカみたいやつ(でも流血とか気持ち悪いのはいや)が見たくなって、たまたま渋谷でやっていたので見ました。 
「スガラムルディの魔女」。 英語題だと “Witching & Bitching”  <- これすてき。

冒頭、どうみても魔女、みたいな3世代の女たちが山奥で鍋をつついて救世主がやってくるわ、とか言ってて、それに続き、賑わっている街中で、着ぐるみをつけた偽キャラとか全身金塗り(キリスト)緑塗り(ソルジャー)の連中がなんか目配せして金モノ買いますの店に押し入って、金メッキされた指輪とかをいっぱい強奪して警察との銃撃戦のあげく(哀れスポンジボブ…)、これも強引にジャックしたタクシーでなんとか吹っきることに成功する。

車に居合わせたのは運転手の他に、でぶはげの親父と金塗りキリストと彼の息子、緑塗り男の5人で、みんなそれぞれ訳ありで女を恐れていて、特に金塗り野郎は、Ex-妻を病的に恐れていて、実際にニュースで息子を奪われたと思った彼女は怒りまくって彼らを追っかけてくる。 ついでに参考人の彼女に逃げられた警察2人も後から追っかけ始める。

で、車は途中、怪しげな居酒屋の検問をパスしたあと、スガラムルディの森の奥に入っていくとそこはお待ちかね魔女の巣窟で、全員総出でヒヒヒ、って宴の準備してて宴には生贄が必要だから、ごきぶりホイホイなの。追っかけてきたExも警察も同様。 で、ここからは定番の血まみれサバイバルか、とか思ったらそんなでもないの。
最初は警察と妻から逃れて、次は魔女たちから逃れる、とにかくひーひー逃げまくってばかりで、でも絶対死ななくて、生きて帰るぞ、て言ってて、その振り返らない潔さとやけくそのスピード感がなかなか心地よい。

スペインのマッチョな男達が終始べらべら喋ったり泣いたり叫んだりせわしなくて、でも要は、そーんなに女が怖いか、おっかないか? ていうことなの。 最後に奥からでーんと登場する「母」なんて、まあ予測はできたけど、あれじゃフランシス・ベーコンの絵だか、ユビュ王だよね。 

そしてまさかの、冗談みたいなハッピーエンディング…  そういうのも含めての悪趣味。だけどあんま嫌いじゃないかも。エンドロールで流れるスカパンクみたいのもはまっている。

特殊効果とか雑でいまいちだったからハリウッドでちゃんとリメイクしたの見たいかも。
魔女人材はいくらでもいるしー。 監督はやっぱしJohn Watersさんあたりで。

12.13.2014

[film] Devil's Knot (2013)

7日、日曜日の夕方、新宿で見ました。

93年、アーカンソー州で起こった"West Memphis Three"と呼ばれる3人の男児惨殺事件の実話を元にしたドラマ。
この事件については既にいろんなドキュメンタリーとか証言録とかが出ていて、この映画の原作もそういう実録本のうちのひとつで、今更これが真相だ、とか、見えなかった闇をえぐりだす、みたいな「濃い」ものにはなっていない。 事件の発生から20年経って、あれはなんだったんだろう、と全容の不可思議さを振り返ってみるかんじが強い。

93年、5月の午後から夕方にかけて、自転車に乗った3人の男の子が森の奥に行って、夜になっても帰ってこなくて、やがて両手両足を縛られた全裸の状態で沼の底から見つかる。 やがて黒ずくめのメタル聴きを筆頭とする10代の青年3人が捕まって、陪審員裁判が始まるのだが、検察 - 警察側の証言や証拠には怪しいところが沢山でてきて、でも3人は有罪(死刑1, 終身刑2)となる。 このへんは"West Memphis Three"で検索するといくらでも出てくる。

映画は、事件が起こってから突然現れた証人とか証言の唐突感、その感覚を引きずりつつやはり突然容疑者として特定されてしょっぴかれた3人の青年の困惑した姿を捉えつつ、やがてこれは現代の魔女狩りではないか、と感じ始めた弁護士側の調査員(Colin Firth)、事件で息子を失って悲嘆に暮れる母親(Reese Witherspoon)のふたりの目を通して決して一筋縄ではいかない事件の、審議の様相を表にだす。

なんであんな陰惨な事件が起こったのか、でも、なにが犯人をそうさせたのか、でも、これら不可解な事件の謎謎あれこれを無責任にばらまく、のでもなく、なんで警察は軽々と犯人を特定できたのか? - 特定するためにはなにが必要だったのか? みたいなところを、なぜ? なぜ? なぜ? と掘っていく。

平気な顔でその証拠は失くした、残っていない、とかいう警察、思考停止して連中は悪魔だ、しか言わない被害者の親たち、事件が発生した時間帯にレストランに現れてどこかに消えた血まみれの男、などなど、こんなふうで容疑者をあげられたことのほうが不思議だし、捜査の過程で恣意的な誘導が行われたとしか思えなくて、もちろん、この映画も逆向きの誘導である可能性もないとは言えないものの、未だにこれだけの疑義や検証モノが立ち上がってくるところを見ると、やっぱし変だよね、と誰もが思う。
映画は、そういうどん詰まり感と不寛容、無念さ、全体としてそれらを許容してしまう生ぬるく気持ちわるい湿気をこちらに吹かせてくる。

んでね、言うまでもなくこれは今の、アメリカだけではなく日本のお話でもあるの。Another Knot of Devils.
あんな法案が施行されてしまった以上、対岸の火事でもなんでもなくなるし、もうなくなっている。
そんな暴挙を、腐れたじじばばの傲慢を許してしまったのは、間違いなく自分たちのせいでもあるのだから、投票には行け。  この先は絶望か亡命かしかないのかもしれなくて、最後っ屁かも知れないけど、それでも。

93年というと、丁度NYで暮らし始めたばかりの頃で、この騒動があったことはよく憶えている。既に何度も繰り返された、なんでいっつもメタル聴きとかSlayerとかばかりが悪者にされてしまうのか? 論争のリプレイで、またかよ、と思いつつも文化ってなんなの? を考えるよい機会にはなる。 どうやってあの連中と戦うべきなのか、とかね。

12.10.2014

[film] The Double (2013)

7日の日曜日の昼間、渋谷で見ました。「嗤う分身」

これも終わっちゃいそうだったし、だが、なにがなんでも見たい、というのでもなく、Richard Ayoadeで、Jesse Eisenbergで、Mia Wasikowskaだから、程度の。

原作はドストエフスキーの「二重人格」もしくは「分身」。  邦題についている「嗤う- 」がどこのなにを示そうとしているのかは不明。
分身が現れるはずのないようなところに現れる、という不条理劇として描くか、そいつが現れるべくして現れるその背景心境も含めて丁寧に描くかで結構変わってくると思って、ドストエフスキーの原作はどちらかというと後者で、でもこの映画はあれこれ端折って前者みたいなかんじになってしまっているような。 安易にカフカ、と言うべきではないのだろうが。

「大佐」がすべてを支配している官僚機構のなかで、通勤も仕事もなにもかも縛られて囲われてぜんぜんぱっとしない主人公の脇をすり抜けるように突然現れたそいつは、みんなの人気もさらうし、女の子も持っていっちゃうし、自分のやるはずだった仕事の手柄も持っていっちゃうし、とにかく自分と同じように見えるそいつはいつもへらへら笑っていて楽しそうで気にくわないったら。

という物語がドイツ表現主義ふう、「メトロポリス」ふう、「オーウェル」ふう、の陰影の濃い、どんづまった空気感、BGMで流れてくる音楽(なぜか昭和歌謡)は「上を向いて歩こう」とかいうけど日本語だから意味わからず - などなどと共に描かれていてわかりやすい。 「これはあなたのお話し、かもしれない」的な教育的誘導もたっぷり。

こんなふうに破綻して壊れていく若者のお話が破綻なくきっちり描かれていて、うまいねえ、と思う一方で、絶望とか恐怖とか、そういうのの底の底までを掬いきれていないかも、というあたりがなんか。 最後に主人公が「これで本当の自分に戻れる」みたいにつぶやくとことか、原作は置いておくにしても、基本はやさしいんだねえ。

ただ、Jesse Eisenbergの演技のすばらしさは誰もが認めなければなるまい。 "The Social Network"で業界のてっぺんに立つことになるITやくざの顔と、その裏でRooney Maraに未練たらたらの萎れ顔と、その切り返しの鮮やかさと変わり身(とは違うけどね)の速さはこのひとならでは、だと思った。

Mia Wasikowskaさんの使い方は、ちょっともったいなかったかも。 "Stoker"にあった、ばっさり殺っちゃう刃物の凄味が見られると思ったのに。

でも分身事件よか、いちばん謎で気になったのは、あんなところでJ. Mascisさんはなにをしていたのか、ということだ。 (しかも、2回くらい出てくる)

12.08.2014

[film] Interstellar (2014)

6日、京橋のあと、有楽町で見ました。
なんで有楽町かというと、ここでは35mmプリントで上映してて、監督本人もデジタルよりはこっち、と言っていた気がしたので、そうした。 (NYでも、BAMとか、ちゃんとした上映館は35mmです! って上映していたの)

冒頭でやわらかく舞う塵とか、ディスプレイのくすんで滲んだ青とか、これはどうでもよいけど字幕の浮いたかんじとか、デジタルよかこっちの方がよいの。すきなの。

Christopher Nolanの"The Dark Knight"にしても"Inception"にしても、個人的にはあんまし感心していなくて、"Inception"で夢がどれだけ入れ子になっていようが、"The Dark Knight"でどれだけ悪と倫理がせめぎあおうが、まじめだねえあんた、とは思うものの、結局どうでもええ、勝手に眉間に皺して悩んでろ問題、ということにつきたの。  今度のはそういう袋小路がなくて、風通しのよいかんじがした。 それはどっかの学者のなんとかいう理論のおかげ、というよりは、Matthew McConaugheyのせい、というのは誰もが思い当たるところではないか。 こいつがどれだけべらべら喋りつつ泣こうが叫ぼうがなにかを変えることはない、けどこいつは、確実になにかを地点Aから地点Bに向かって動かしてしまうのである。

近い将来、地球は飢えるか窒息するかで、サステイナブルではなくなることがわかっていて、農家をやっているCooper (Matthew McConaughey) もそんな気はしているものの、どうすることもできなくて、娘のMurphの部屋のポルターガイストだか幽霊だかのメッセージみたいのを手繰っていったら、とうに潰されたはずのNASAに行きついて、Michael Caineから人類の将来に関わるある計画を告げられる。 人類をまるごと別の星に移住させるか(Plan A)、人類の種をどっかの星に移植するか(Plan B)。 下調べのための先行隊はすでに飛んでいって、土星の近くのワームホールの先に3つの候補星があることはわかっていて、Plan A実現のためにはある方程式を解かなきゃいけないんだけど、たぶんあとちょっとで解けそうな気がする。 で、元飛行士だったCooperくん、飛んでくれたまえ、とか言ってくる。

まともな神経の持ち主ならこんな依頼受けるわけないのだが、Matthew McConaugheyは受けてたって、人類のためというよりは娘のために宇宙にとんでいって、さて。

ここから先の冒険は見たほうがおもしろいと思うのであんま書かないけど、ワームホールの先にはブラックホール(ガルガンチュア、だって)があるし、重力のきつい星で波乗りしたら地球では23年過ぎちゃってなんてこった、て悲しんだり、人類じゃなくて結局は身内が大事なんじゃねえか問題とかいろいろ噴出して大変なの。

そんなの最初の想定にいれとけ、とかそんなの事前にディスカッションとか洗脳とかやっとけ、みたいなのがてんこもりなんだが、みんな大変だったんだろうな、と許す。 結局はCooperが捨て身、ていうか馬に乗るみたいにひょい、てひとり(+ロボ一体)で突っこんでいってなんかをなんとかしちゃうの。 (本人にも事情がわかっているようには見えないけど)

未知のなんかに遭遇したり体験したりした人類が次のレベルに進化する/もしくは破滅する、ていうのがこういうSFに求められるドラマのありようだと思うのだが、Matthew McConaugheyの場合、そういうのはあんまし関係なさそうなの。興味もなさそうなの。

「2001年宇宙の旅」との比較で語るひともいるようだが、どっちかっていうと「銀河ヒッチハイクガイド」のほうだとおもう。 ぜんぜんコメディではないのだが、スラップスティックでスクリューボールで。 恒星間で自分が投げたスクリューボールに自分で巻きこまれて死にそうになって、でも死なない。

最後の最後、あそこで待っていたAnne Hathawayが特大のビンタをくらわせたはずで、その音だけでも聞きたかったなあ。

あと、Matt Damonあの顔で「人類はもうだめなんだ」、とかいうのは笑えたけど、あそこに登場するのがGeorge Clooneyでもおもしろかったのに。

そしてHans Zimmerの音楽、すばらしいねえ。宇宙に響き渡る鍵盤のおと。
Dylan Thomasの詩はどうなのかしら。 繰り返されればされるほどちがうかんじが。


時折、部屋に積んである本がなんもしていないのに崩れることがあるのだが、これはなんかの信号かもしれないので、お片づけしないほうがよいのだね、と改めておもった。

[film] 空想部落 (1939)

6日の土曜日、京橋の千葉泰樹特集で見ました。 ひとつくらいは見ておきたくて。

Webの解説文によると「1939年、映画国策を提唱した代議士・岩瀬亮により南旺映画が設立され、その第1回作品として本作が製作された」ということで、国策、とかいわれると引いてしまうのだが、その「国策」の「第1回作品」という割にはなんかほんわか気の抜けたやつだった。

原作は新聞の夕刊に連載された尾崎士郎の同名小説。
馬込文士村と呼ばれた村に暮らしていた作家たち - 尾崎士郎本人の他に、宇野千代、川端康成、萩原朔太郎をモデルにした人物も出てくるらしい。 読んでみたいかも。

きれいな月夜の晩に5人くらいのべろんべろんの酔っ払いが与太話をしながら歩いて自分たちの村に帰ろうとしているようで、村長を呼び出せとか、誰それを呼べとか言って、みんなでわあわあ集まっておまえの文学はなってない、とか取っ組み合いしたりして、そこで名指しされた横川太助(千田是也)のところに怪しげな女が訪ねてきて、しばらく姿を消したと思って再会したら立派な格好してアジアのどっかにある安南国の独立運動に関わっていたとか言って、べらべら顛末をしゃべるのだが怪しくて、またどっか消えて、こんどは豪邸にみんなを招待して御馳走くれて、でも結局ぜーんぶ法螺なのよねー、ていう。

そういうのが起こってしまうのが馬込文士村で、時の経過と共に村は町へと大きくなって、各自もそれぞれ一見立派な人物になっているように見えて、でも肝心なところになると、法螺を言うほうも聞くほうもふらふら浮ついているので、すげえなあ、とか、あいつらしいよなあ、とかで終わってしまう。  誰も傷ついていないみたいだし、妄想のなかで遊んで幸せそうだからいいんじゃないの? くらいの。

でもさあ、なんのためにそこまでやるの?  が最後まで引っかかってきて、結局「空想部落」なんだからいいのだ、とか断言されてしまいそうで、ぐだぐだになってしまうのだった。
やっぱし酔っぱらいにはかなわん、とか。

12.06.2014

[film] Tom à la Ferme (2013)

3日水曜日の晩、新宿で見ました。 終っちゃいそうだったし。

冒頭、ちり紙に青色のペンで「ぼくの半分は死んだ」とかなぐり書きする手があって、車でどこかに向かう途中、嗚咽している男の子がいて、彼は携帯も繋がらないようなとこにある一軒家に着いて、でも誰もいないのでその家のテーブルで寝てしまう。
目覚めると少し窶れた老女が立っていて、彼女と彼の会話から彼は彼女の息子の葬儀のために来たらしいことがわかる。 寝ていると亡くなった彼の兄(老女の息子)と思われる男に叩き起こされ、きちんと弔辞読めよ、とか脅されて、なんか歓待されていない不穏なかんじが伝わってくる。

亡くなったのはトム(Xavier Dolan)の恋人だったギョームで、ギョームの母親のアガット(Lise Roy)と兄フランシス(Pierre-Yves Cardinal)はトムとギョームの深い仲なんて知らず、つまりトムがどれだけの喪失感と絶望のなかにいるかなんて知らず構わず、フランシスはトムに、母親を悲しませたらただじゃおかねえからな、てトイレの個室でぐいぐい脅しつけてくる。

そのあまりに粗野で乱暴な扱いにあたまきたトムは車でおさらばしようとするのだが、なんでか戻ることにして、フランシスの農場で牛の世話とかしながら一緒に暮らすことになる。 フランシスはママのいないところではどこまでも野蛮なくそ野郎で、トムはぼこぼこの傷だらけになったり自分の車を潰されて逃亡できなくなったりするのだが、ギョームとの過去にけりをつけるためか、ギョームの育った環境に浸りたいためか、フランシスの暴力になにかを感じてしまったのか、或いはフランシスにやり返してやるためか、なんともいえない無表情とか薄ら笑いとかを浮かべてフランシス、アガットとの変な3人暮らしにはまっていって、さて。

トムとギョームとの関係はどんなだったのか、ギョームはなんで、どんなふうにして死んだのかは明らかにされないのだが、果たしてそれを愛と呼んでよいのか他人にはわからない、がんじがらめになってずるずる抜けられなくなってしまう関係の典型がそこにもここにもあって、その不可視で不気味なかんじがサスペンスとしてもたまんなくて、それは虐めっ子フランシスひとりが悪いともいいきれない、トム、あんたもさあ、それを言うならギョームだってさあ、とか。

なんだみんな性悪なのか。 でも愛は。あのキスは。

前作『わたしはロランス』でもオトコとオンナの身体と精神のモンダイに仮託しつつ当事者同士にしかわかりえないような強くしぶとい愛の絆をねっちり描いていたが、これも人里離れた農場で互いが互いを探りあい罪の意識に苛まれつつも三つ巴の団子になって転がり落ちていく、その底なし感が、なんだろ、気持ちよいんだかわるいんだか。

エンディングでRufus Wainwrightの”Going to a Town”が流れだしたので驚いて、それが実にはまってしまうことに更にびっくりした。
“Making my own way home, ain't gonna be alone” と言いながら既にそれにうんざりしてしまっている自分、とか。

これ、シリーズ化すればよいのに。 酒場のトム、墓場のトム、学校のトム、海辺のトム … あれ? トムのファミリーネームって、リプリー?

はやく次の”Mommy”、みたいねえ。

12.05.2014

[film] Boyhood (2014)

今宵(12/5)はとってもすてきなお月さまがいらした。

30日の日曜日の午後、日比谷で見ました。

邦題はまじで最低である。冒瀆、と言っていいくらいよ。
「6才のボク」は語り手でもなければ、自分を「ボク」呼ばわりするわけでもなければ、周囲の大人がこいつのことを「ボク」と呼んでいるわけでもない。そして彼の「大人になるまで」が描かれているわけでもない。「ボク」とか「大人」といった幼稚な呼び名や区分から遠く離れたところで彼と家族の傍を流れる時間、そのありようを示している。 だからこその「12年間」(当初のタイトル)であり"Boyhood"であるのにさ。 

6歳のMason (Ellar Coltrane)はママ(Patricia Arquette)と姉 (Lorelei Linklater)と暮らしていて、バイオロジカル・パパ(Ethan Hawke)とは別居してて、大学で心理学の勉強を続けながら2人を育てるママは、パートナーを割ところころと変えて、そのたびに住む場所も家も変えて、そういう環境でMasonは利発で快活な少年としてすくすく… なわけはなくて、どちらかというと内向的でなに考えているかわからないような子供になる。 彼の内面の声が外に出ることはなく、それを代弁したり理解してくれたりする「かけがえのない」誰かが現れるわけでもない。 こういう少年~青年映画に求められがちな誰かとの死別とか離別とか暴力とか虐待とか辛酸とか性体験とかが、劇的な転換点として描写されることは一切なくて、家族が変わったり土地が変わったり、みんな(家族、友人たち)で集まったり、のような場面ばかりが淡々と続いていく。 語りも字幕(x年後...とか)も一切なくて、たまに登場するおしゃべりパパ - Ethan Hawke がいろんなことを勝手にべらべらと総括してくれる、程度。 そんなふうにして6歳から18歳までの12年間が、165分で描かれる。 

同じ登場人物たち - 特に主演の少年は変化が激しい - を12年間に渡って追った、しかもフィクションの世界で - ということばかりが話題として強調されがちだが、Richard Linklater &  Ethan Hawke組の場合、そんなに驚く必要はないの。 こいつらは、"Before Sunrise" (1995) ~ "Before Sunset" (2004) ~ "Before Midnight" (2013) の三部作で一組の男女の出会いから瓦解までの18年間を294分でしゃべり倒している前科があるので、今度のはその変奏、と見てよいのかもしれない。 もちろん、"Before"3部作はJulie DelpyとEthan Hawkeという卓越した二人の俳優がいたから、というのがあったにせよ、"Before Sunset"のときのトークで、「ぼくらは文芸おたくだから、こういうのを練り上げるのは大好きだしぜんぜん苦にならない」と威張っていたRichard LinklaterとEthan Hawke組からすると、今度のはとても楽しいネタだったに違いない。 とくに頭のなかにいろんな言葉がとぐろを巻いている思春期のガキのあれこれを眼差しや挙動も含めて表に引っ張りだそうとするのって。

そういう彼らの「手口」みたいなのが表に出るところが最後の方の、パパとMasonの会話にあって。
べらべらいろんなことをしゃべりまくるEthan Hawkeに向かってMasonは「その話のポイントってなんなの?」- パパ「ポイント、ってなんだ?」 - Mason「なんでも。ぜんぶ(Everything)とか」 - パパ「ぜんぶ、なんてないんだ。いいか、こんなの勢いでしゃべってるだけだ .. 」 とかいうの。 このへんにRichard Linklaterの映画のコアと拡がりがあるのね、てみんな膝をうつの。

そしてラストの、女の子とMasonのふたりのカット。 まさにここから次の”Before”サーガが始まる(The Force Awakens… )、恋が呼吸を始めようとする、光を放とうそするその瞬間の、ぞくぞくくる生々しさと共におわるの。 

MasonのBoyhood、それは同時にある時代/アメリカの中西部に暮らす家族のありようも映しだしていて、911からブッシュ政権のイラク派遣のうんざりした混乱と疲弊を抜けてオバマ政権誕生のあたりまでの割とどんよりした季節からすこしだけ光が見えたあたり、もバックグランドには確かにある。 ブッシュ憎し、でがんがんオバマを支援していたパパが、再婚したら相手の父は猟銃ラブのごりごりじじいだった、とかいかにもありそうで笑える。

音楽も同様でねえ。 ものすごいメジャーでどまんなかの曲は避けて、あの頃の苦笑するしかないような微妙なやつを流しまくるから、ところどころたまんなくなるの。

というわけで、ついこないだ発表されたNew York Film Critics Circle Awardsの作品賞も監督賞も、当然だとおもった。 まだまだいっぱい貰っても不思議じゃない。


それにしても、American Football来日はとってもうれしいけど、日にちが2015年6/29て。
(そのころまで生きていられるか... )

12.02.2014

[film] Crimes of the Future (1970)

29日の土曜日、フィルメックスのDavid Cronenbergの初期作品集の2本目。

『クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立』 63分。制作費は$20,000だって。

“The House of Skin”ていう皮膚科医院をやっているTripod (Ronald Mlodzik)が語り手となって彼らが崇拝していたAntoine Rougeていう皮膚科医と、彼の施術がもたらしたあれこれ(耳とかからなんかでろでろ垂らしてしんじゃう)とその周辺で蠢く変な人たちを追ったり説明したりする。

“Stereo”と比べるとこっちはカラーだし、ナレーション以外に効果音(グースの鳴き声みたいのとかノイズとか)も入るのだが基本的なとこは同じような感触。 感触の映画で、ちりちり神経に触ってくる。

前者はコミュニケーション(テレパシー)、後者はスキンケアで、どっちも気持ちよくて夢中になって中毒になりがちなやつで、でもテーマになるのは中毒になることそれ自体にあるのではなく、中毒の快楽をその裏側に入りこんで統御・コントロールしようとする機構とかメカニズムとかのほうで、ナレーションはねちねちこまこま、うさんくさくその由来だの正当性だのを云々するのだが、でもその声もまた、なんかべったりと張りついてきて気持ちよいんだかわるいんだか。

割と遠くから被験者達の挙動を追った“Stereo”のモノクロのもこもこした感じ(がもたらす不可視感と不達感)と比べると、こっちはクリアなカラーで割と近くから語り手のTripodの馬づら、なかなか気持ちわるい表情や動きを追っかける。メガネのグラスをぺろりと舐めるとことか、たまんないひとにはきっと。

そして最後に現れる世界の破綻と終端と。 とつぜん馬男の前に立ちはだかる5歳のガキ娘。
転移なのかリインカーネーションなのか、この異様さもなんかすごいったら。

12.01.2014

[film] Stereo (1969)

29日、土曜日の昼間、フィルメックスでDavid Cronenbergの初期の2本。
前売りを買っていなかったので、10時過ぎにまず当日券買いにきて、そこから新宿のDisk Unionに走ってRSDに並んでレコード買って、上映前にふたたび有楽町に戻る、とかバカなことをやっていた。

「ステレオ/均衡の遺失」 63分。制作費は$3500だって。

近未来の大学だか研究所だかのような建物に若者が降りたって、彼がこれから参加するらしい実験の目的とか能書きとかがナレーションで被さる。 音はこのナレーションの声(単数ではなく複数の声)だけで、画面に登場する被験者と思われる人たちの会話や物音は一切聞こえてこない。 音楽もなし。

実験ていうのは7人の若い男女の被験者を同じ実験棟に軟禁してテレパシー能力の強化が個体間のコミュニケーションとか恋愛行動とか集団生活に何をもたらすかを観察する、ていうやつで、テレパシー能力強化のために喋れないようにされた被験者たちの行動(あんまし変なことはしない)を監視カメラみたいなカメラ(撮影はCronenberg自身)が追っていく。

この研究の理論と仮説はLuther Stringfellow博士によって立てられて、筋立て=ナレーションは研究報告ふうに仮説と被験者に行われたこと観察されたこと、などを機械的に叙述していく。 ところどころえらくうさんくさいのだが、これ、映画だし。そういうもんだし。

理路整然とかっこよく統御され展開されてきたかに見えた世界が予期せぬ暴力とか陰険さとか想定外のなんかによって突然に攪乱されたり分断されたりしておじゃんになって(あーあ)(ざまみろ)ていうのがCronenberg的世界の基調にあるのだとしたら、その要素はすでにこのデビュー作のなか、あの迷宮のような建物のなかで既に現れていた、ということになる。

テレパシーっていうのは言語とかメディウムを介さずにダイレクトに、しかも共時かつ即時に情報や指令が行きわたるからすごい、とか、でもそこには相互の愛と信頼がないといかん、とか、つまりは、つまりは、とかいろんな前提とか論理の積みあげからなる仮説とその実験は、ホモヘテロ関係なしの乱交状態とか、二名の自殺者をだして、暴動とか革命とかに至ることもなく、結果はうーんまだわかんないかも、ていう失敗とも成功とも言い切れない微妙なところにおちて、つまりだれも断罪されないままこの世界は続いていく(らしい)(あーあ)。

最近の若者のLINEで繋がっている、しかも四六時中繋がっている(繋がっていないとしんじゃう)世界とかグループとかのありようって、この世界に近いよねえ、とかおもって見てた。
コミュニケーションて、そんなにしたいか?  だいじか? とか。 

でもおもしろかったねえ。 これで69年かー。

11.30.2014

[music] Pauline Murray And The Invisible Girls (1980)

たまにはライブ以外の音盤の紹介とかもしてみる。
再興されたLes Disques du Crépusculeから10月に再発されたこれ。

http://www.lesdisquesducrepuscule.com/pauline_murray_and_the_invisible_girls_twi016.html

大学の頃に国内盤のアナログを買って何度も何度も聴いていたので、うわぁーって最初にアナログ2枚組のを買ったら、ライブ音源が入っていなかったのでCDのほうも買った。 CDだと一度93年に再発されていたらしいのだがそっちは知らなかった。

The Invisible GirlsはJohn Cooper ClarkeのバックとしてMartin HannettとSteve Hopkinsを中心に編成されたマンチェスターの不定形バンドで、この盤ではそこに元PenetrationのRobert BlamireやThe Durutti ColumnのVini Reillyがギターで参加していて、わたしにとってMartin Hannettの最高傑作はこれとThe Durutti Columnの”LC”、なの。

ちなみにThe Invisible GirlsはNicoの12inch single - ”Procession" / "All Tomorrow's Parties" (1982)でもバッキングをしている。(これもすばらしいので探して聴いてみてね)

音はMartin Hannett特有の固いパーカッションの上を浮遊するシンセとViniのギターが光となって乱反射して、その上をPauline Murrayさんの甲高いヴォーカルが走っていく。曲名にもある”Dream Sequence”としか言いようのないポップでドリーミーな音で、でも、弾けて跳ねまわりながらも確信に溢れたパンクでもあるという。

たとえばこの数年後、The Sugarcubes - Björk が出てきたときも、自分はPauline Murrayの流れに置いて聴いていた。

今回追加されたライブ音源のほうも興味深い。特に数回出てくる”Time Slipping”から”Dream Sequence”の流れ、歌が奔放に飛びまわってすばらしいこと。 Vini Reillyがバックに入った音源もあるのだが、ギターの音だけ妙に浮いてて、やはりバンドにはあまり向いていないことがわかる。

あと、音楽とは関係ないけど、わたしにとってショートカットの女の子って、音楽だとこの時期のPauline Murrayさんで、映画だと”Some Kind of Wonderful” (1987) のMary Stuart Mastersonさんなのです。


ところで、28日のBlack Fridayは、約31年ぶりにMillennium Falconが正しい姿で(ああ、あの中にいるのが魚星人でありませんように)飛翔した(鳥肌ぶるぶるの)日として歴史に刻まれることになるのであろうが、RSDのBlack Fridayでもあって、一日遅れの土曜日に買いに走った。

今回のリリース分は、なんのチェックもマークもしていなかった(除 - The Afghan Whigsの”Gentlemen at 21”) のだが、行くとやっぱしいろいろあるのだった。
Game Theoryのデモ音源が10inchで2枚も出ているし、Sneakersのデビュー盤もなんでか10inchで出ている。 今の日本でこんなのを買うひとがいるとは思えないので拾ってあげる。

(Game Theoryのは、やっぱしGame Theoryで、実に才気に溢れていて惜しかったなあ、て改めて思った)

他にもLizzy Mercier Desclouxの7inchとかFaith No Moreの18年ぶりの新作7inchとか、くすぐったいのがいっぱいあって、結局散財する。 今年最後の。 たぶん。

“Guardians of the Galaxy”の、あのカセットは、未だに悩みちゅう。
あと、Fantomasの箱はもう売り切れちゃったのかなあ。

[music] Ben Watt - Nov.27 2014

27日の晩、渋谷のクアトロで見ました。

もうぜんぜんライブに行けない体になってしまい、でも行きたくてしょうがなくて、たまたま空いた日があったので当日券で入る。 Napalm Deathは行きたかったけど、行ったらたぶんしんじゃう、あとでこの日、Fennesz - O’Rourkeがあったのを知ってちょっと悔しかったが、でもいい。

7:30きっかりに客電が落ちたのでわーい、と思ったら前座だった。 確認しなかったこっちも悪いけどさ、チケットに書いておいてほしい。 時間削って体力も削られて死にそうで這うようにして来てるんだから。

Ben Wattを見るのは97年頃(たぶん) - “Walking Wounded”時のEBTGのライブ - チェルシーの西のはじっこにあったクラブ(たしか)- 以来か。
今年の春、”North Marine Drive”以来30年ぶりとなるソロ -”Hendra”でギターを、しかもエレクトリックギターを抱えて戻ってきてくれたのは本当に嬉しかった。
聴いたらものすごく腰の据わった落ちついた男っぽい音でなんというか、いろいろ考えてしまったのだが、そのはなしはあとで。

メンバーは3人、ベースレスで、力強くうねるギターのリードはBernard Butlerさんでアンサンブルとしては申し分ない。 ギターの他に、Ben自身によるWurlitzerのエレピも美しい。 “Hendra”から始まって3曲目で”North Marine Drive”から”Some Things Don't Matter”を。 Everlasting Loveを求めてひとり外界を眺めていた“This boy”の30年後、その声のトーン、その声の落ち着きはどうだろうか。

Ben Wattさんは一曲一曲丁寧に、その曲の成り立ちや背景を説明してくれて、こうして我々は”North Marine Drive”がどんな場所にあるのか、EBTGの”The Road”が、”The Levels"が、本編最後に歌われる”The Heart Is A Mirror”がどういう意味やストーリーをもつ歌なのかを知ることができて、それなりに興味深かった(特に80年代のThe Apartments, the Go-Betweensといったオーストラリア勢の関わりとか)のだが、そのしっとり丁寧で、確信に満ちた喋りになんか違和感を覚えてしまったことも確かで、それが”Hendra”を最初に聴いたときに感じたなにかだったのかもしれない。

30年という時間 - 一度ギターから離れて皿回しになり、再びギターを手にする - の帰結としての“This boy”の「成熟」について云々したってしょうがないし、ライブとして、音楽として素晴らしかったことは確かであるので、別にいいんだけどね、自分のこともあわせていろいろ考えてしまったことであるよ。 あの彼(This boy)はどこに行ってしまったのだろう、とかね。

もちろん、そんな無垢な”This boy”幻想なんてこっちが勝手な思い込みでしかないので無視していいんだけど、そういえば”North Marine Drive”が出た当時、洒落た格好してあのレコードを見せびらかしているのにろくな奴いなかったよね、とか。 
わたしはEPの”Summer Into Winter”がいちばん好きです。

で、結局、ひょっとしたら面倒なやつかもしれないBen Wattをここまで見守ってきたTracyえらい! に落ちつくのだった。 アンコールの最後は”25th December”だったが、Tracyの”Tinsel and Lights”もそろそろ引っぱりだす季節になりましたね。

11.28.2014

[film] Tonnerre (2013)

23日、日曜日の昼間に渋谷で見ました。

待望の、という割にはなかなか見にいけなかったGuillaume Bracの長編第一作。「やさしい人」

原題は、舞台となるフランスの田舎のトネールのこと。
パリで音楽をやっていて、なんか疲れて父の住むトネールの実家に戻ってきたMaxime (Vincent Macaigne) は、宅録みたいなことをしながらぼんやり過ごしていて、ある日地元紙の取材にきたMélodie (Solène Rigot)と知り合って仲良くなって、家に泊まったり、スキーに行ったり、恋人同士になる。

Mélodieには地元サッカーチームの元カレがいて、ちょっと未練あるふうな彼女がなんか変かも、と思ったら連絡が取れなくなって、しつこく電話していたらよりを戻したらしい元カレから「引っこめ、ロリコン野郎!」とかメッセージが来たりして、だんだん冷静じゃなくなっていく。 知り合いが持っていた拳銃を手にした彼はふたりを待ち伏せして駐車場で。

中年にさしかかったどんより冴えない男が久々の恋に目覚めて正気を失っていく - というと、たんなるロリコン野郎のストーカー話、に見えてしまうのかもしれないが、そういうのではないの。ぜんぜん。
(ネタバレかもだけど)暗くやりきれない話ではない。ひとは死なないし、血がでるのはほんのちょっとだけだから。

凍てつく田舎町で、唇以外はまっしろでふるふるしている男(ちょっとRobert Smithぽい)と女が出会って、会話と逢瀬とキスを重ねて恋仲になっていくやわらかく暖かい過程と、それが突然途絶えてしまったときの困惑と混乱と絶望、刻々と過ぎ去り失われていく、ほんとうはそこになければならなかった時間と瞬間をカメラはMaximeに親密に寄りそって生々しく拾いあげていく。 恋愛に落ちたときのとりかえしのつかない、でもそこにしかない麻薬が運んできたかのような時間がここにはある、それだけでなんかたまんなくて、だからMaximeが意を決してそれを取り戻そうとするのはちっとも病んだ行為には見えない。

そのMaximeのきまじめな追いつめられっぷりを「やさしい人」と呼ぶのに違和感はなくて、でも驚くべきなのはその彼の突撃にやんわり同調しちゃうMélodieで、彼女もまたしょうもなく「やさしい人」なのだった。 それをいうならパパもそう。 わんわんも。 みんなやさしいんだよ。
或いは、その手ぶらで無防備なさまを子供、と呼んでしまうこともできるだろう。

やさしい人と大人になりきれない子供たちが巻き起こす騒動を描く、というとやっぱしJudd Apatowの世界に近いんだねえ、とか。(Maximeは”Superbad”のTシャツ着てるし)
ちなみにGuillaume Bracが影響を受けた5人* -  Maurice Pialat, Eric Rohmer, James Gray, Judd Apatow, Jacques Rozier、ってなんかわかりやすいねえ。  *Libérationのインタビューより

しかしVincent Macaigne、『ソルフェリーノの戦い』(2013)でも中編の”Kingston Avenue” (2013)でもそうだったけど、恋に狂ってなりふり構わず突進していく薄気味悪いやつ、のイメージが定着しちゃうのかしら。 このひとはPSHみたいにもSeth Rogenみたいにもなれるすごい可能性を持っていると思うんだけどなー。

11.27.2014

[film] Nymphomaniac: Vol. II (2013)

少し戻って、16日の日曜日の午後、新宿で見ました。

前作、Vol. Iのラストでなにをどうやっても感じない身体になってしまい、Nymphomaniacとして絶対絶命の岐路に立たされてしまったJoe (Charlotte Gainsbourg)のそのごを描く。

少年漫画の定番でいくと、Joeは山に籠って血の滲むような修行して覚醒し、ニンフォパワーで悪いやつらをばさばさやっつける、ことになっているはずなのだが、そこまで単純ではなくて、かといってものすごく深いなにかを示してくれるわけでもなかった。 むしろ表層で変態していくNymphomaniacの横滑りを黙って見て聞いているSeligman (Stellan Skarsgård)のもこもこした不審な挙動が際立つ、程度の。 

Joeがなんでそこまで性を求めて止まんないのか、感覚を取り戻したいのか、はなんで彼女がNymphomaniacになったのか、ていう問いと同様、よくわかんなくて、いや正確にいうと、そもそも彼女がNymphomaniacになったのは純粋にやりたくてたまらなかったからで、その感覚が消失した、ということは無理に求める必要がなくなったということなのだから、単にやめればいいだけじゃん? と思うのだがどうもそうではないらしい。 そこらにたむろしていた言葉の通じない連中を呼びこんでやってみる、とか、乳呑み児を置いて夜中にどS屋のところに通うとか、これはおそらく彼女の存在の根底にあるなにかに関わることにちがいない(幼少の頃の絶頂体験の項参照)、とか思って、だからどS屋稼業のJamie Bell(すごくよい)にがんばれ、もっとひっぱたけ! と声援を送ったりもするのだが、結局それが火をつけたのは彼女の母性とか自立する力とか、そういったものであったらしく、その落着っぷりがなんか食いたりなくてつまんなくて、だから冒頭、ボロ雑巾のように道端に打ち捨てられていたのはバチみたいなもんなのだ。 たぶん。

若いころに燃えあがって、歳とったら枯れる、ってごくふつうじゃん。
歳とってサトゥルヌスみたいに若いのを食いまくる図、ていうのを想像していたのにー。
と、思ったあたりで突如Seligmanが ...  そうかそっちに転移するのかー、とか。
でもやっぱし”Antichrist”とか”Melancholia”みたいなごりごりの奈落の底に突き落としてほしかったかも。

音楽はTalking Headsの"Burning Down the House”がタイトルそのままに気持ちよく鳴るのと、エンディングでCharlotte Gainsbourgさんによる”Hey Joe” (produced by Beck)が。 Patti Smith版でもよかったのに。

11.26.2014

[film] Sharing (2014)

24日は朝からずっと仕事で缶詰めの箱詰めでしんでいたのだが、夕方になんとか終わって、Filmexに開場ぎりぎりで駆けこんだら当日券があったので、みました。

いまの政権下でTV CMをやっているような邦画は見ないことにしているし、首相がやってくるようなTIFFなんてだーれが行くもんか、だったのだが、「あれから」の監督の次回作であるのであれば、更に公開が決まっていないということであれば、なにがなんでも見ねばなるまい。

「あれから」は震災後、神経を病んでしまった恋人の元に主人公が走っていくお話しだった。
この映画は震災後、いろんなのがこちら側にやってくるお話し。
「あれから」とは登場人物の一部が重なっていて、つまりおなじ世界で、それは今、この、腐れた世界とも当然のように繋がっている。

冒頭の女学生との対話のなかで、「こちら側」が明らかになる。
こちら側、というのは、未だに収束しないような大事故を起こした「東京電力福島第一原子力発電所」に怒りつつものほほんと日々を過ごしてしまっている我々のほうのことで、その女学生はあの辺に特に身内や親戚がいるわけでもないのになんか苦しくて、311より前に原発が爆発する夢を見たのだという。

その女学生と対話して予知夢の情報採取をしていたのが瑛子(山田キヌヲ)で、映画の主な舞台となる学校で社会心理学を教えていて、彼女は311の際、たまたま現地に行っていた彼を失って、それ以来彼の幻影とか変な夢を頻繁に見るようになって苦しんでいる。

もうひとり、自身の卒業公演で311をテーマとした演劇を上演しようとしている薫(樋井明日香)がいて、彼女も芝居に取り組むようになってから、津波にあって子供を失い、板に乗って漂流している女性のヴィジョンを見るようになる。 冒頭の女学生と同様、現地に親戚もだれもいないのに、それを頻繁に見るようになって、だから苦しい、というのではないし、芝居をやめるつもりもない、寧ろその像に取りつかれていって、共演者はついていけなくなって離脱していく。

なぜ彼が逝かなければいけなかったのか、という問いが瑛子を予知夢の研究に向かわせ、なぜその像が私に現れるのか、という問いが薫を芝居に向かわせる。 そして両者は共に嘆き苦しんでいて、互いにその苦しみを共有し、癒すことができるとは思っていない。

その二人が正面からぶつかりあうシーンは息を呑むくらいすさまじいのだが、心理的な衝突や葛藤がドライブするドラマ、ではない、という点でこれは心理劇ではない。むしろ彼女たちの心はほんとうにまっすぐで、自身の目に入ってくる像(夢だろうが幽霊だろうが)にできるだけ寄り添おうとする。

・自分はこうなることを、これが起こることを知っていたはずだ。(でも、なんにもしなかった)
・満開の桜を、満天の星空を一緒に見たかったのにー。(また会いたいよう)

このふたつの思い(だけ)が貫いていて、揺るぎなくて、だからせつない。

予知夢、ていうのはそれが現実に起こったことがわかった時点で予知夢になる。予知夢が予知夢であることがわかったときには、もう遅くて、なにをどうすることもできない。 予知夢を見るひと、というのはそのどうしようもなく後ろめたい夢の世界を生きるしかない。

自分の辛さ寂しさを誰かと共有したい繋がりたいというのではなく、彼らは自分の頭の奥をずっとひとりで掘って彷徨っているばかりで、繋がりたいと思う相手はこの世にはいない - 死者だけだ。
でも震災後を生きる、というのはそういうことなのではないか、と。(そういう言い方はだいっきらいだけど)

あとは、自身が分裂しながらドフトエフスキーの「分身」と爆弾を抱えて校内をうろついている怪しい学生とかもいる。 わかるなー。

くそったれ選挙の前にぜったい見るべき、再稼働なんて言ってる厚顔のバカ共に向けた最大級のくそったれ映画、でもあるの。
きちんとしたかたちで公開されることを祈りたい。

11.24.2014

[film] The Hundred-Foot Journey (2014)

9日の日曜日の午後、京橋から新宿に移動してみました。 
邦題は、えーと、なんか市販調味料の商品名みたいなやつ。

フレンチ vs インディアンのお料理バトルみたいのを想像していたらぜんぜんちがった。

幼いころからムンバイで、料理人のママの元で舌を鍛えられたハッサンとパパと兄妹たちは、地元の政治暴動で母を失って英国に渡り、その後、オランダ経由でフランスに来る。 車が故障して動かなくなった地点をなにかのご縁に違いないと、そこのボロ家を買い取って自分たちのレストランにする。 が、通りの反対側にはミシュランひとつ星のフレンチがあって、夫の死後、そこをひとりで仕切っているマダム・マロリー(Helen Mirren)がいる。

最初のほうにはお決まりの異文化衝突、お隣家衝突があって、その後に、フレンチを学び始めたハッサンとハッサンのオムレツにやられちゃったマダムの間、あるいは傲慢なパパと頑固なマダムの間でなにかが溶けはじめて、ハッサンはマダムのレストランに雇われて、そこからスターシェフに成りあがっていくの。

お料理の基本はママの味、おいしいお料理は(愛とおなじように)すべてを救う、ていう論調はもういいかげんにして、なのだが、今回のはフランスとインドの間であまりに溝が深すぎる気がして、それでもしぶとく乗り越えるのね、というところに割と感心した。 でも、どうせならえんえん食材合戦、ソース対決みたいのをやってくれたほうがおもしろかったのにな。 最初からフュージョンを謳ったり狙ったりする料理にろくなのないじゃん。

おいしけりゃいいのだ、ていうのもあれで、ハッサンの料理が最初は?ん? だったのにだんだん鍛えられて馴染んでよくなってくる、ていうプロセスがあってもよかったし、フレンチの料理本を読んだだけで基本のソースをマスターできてしまう、ていうのもどうかなあ、だった。

おなじように、恋愛の要素もあんましいらないよね。
ていうか、料理も恋愛もそれなりの時間が必要だったり錯誤がいっぱいあったりするもんなのに、描き方として簡単すぎやしないだろうか。 料理のうまいひとは恋愛も上手に決まっているのだろうか。

最後にハッサンがマルグリットに作る、って言ってた必殺の一皿を明らかにすべきだった(冒頭で大量のウニを投げこんでいたあれだよね)。  

あと、Helen Mirrenさんをフランス人のマダムに仕立てるのは無理だよね。 どっから見たってばりばりの英国女(しかもDame付き)なのにさ。

見終えて、フレンチを食べたくなるかインディアンを食べたくなるかどっちかか、というとどっちもあんま食べたくならなかったの。 あの鴨もったいなかったなあー、くらい。

[film] Panic in the Streets (1950)

9日、日曜日の昼間、京橋で最後のMOMA特集、短編ひとつ、長編ひとつ。

Interior N. Y. Subway, 14th Street to 42nd Street (1905)
「ニューヨークの地下鉄」

4分間の短編だが、個人的にはこっちがメインだった。

1904年に開通したニューヨークの地下鉄の、Union Square (14th)からGrand Central (42nd)までを進んでいくさま - お尻の車両 - を電車の先頭に置いたカメラが追っかける。追う、といっても電車が止まると止まるし、動くと動く、それだけ。 照明は横の同じ速度で隣の線路を並走している地下鉄から貰ったって。
途中で止まる駅があったりするので、④とか⑤のExpressではなくて、いまの⑥と思われるのだが、全ての駅に止まるわけではなくスルーしている駅もあって、よくわからない。同じく、今の⑥と同じ線路の上を走っているのかも、あれこれ調べたり探したりしてみたけどあんまよくわからず。

それにしても、NYの地下鉄って、なんでこんなにも記憶に残って気になるんだろう。

あの轟音と振動、臭気、夏の暑さ、ネズミ、水たまり、物乞い、変な、いろんな乗客たち、さんざんな目にあったことも沢山あるし、使いやすさとか便利具合でいうと日本のほうがだんぜん上だと思うが、日本のなんてなくなろうが変わろうがどうでもいい、けどNYの地下鉄のあの音のトーンがちょっとでも変わったりしたらとてもとても悲しくなるはず。

ていうようなことを今から約110年前の映像を見ながら思ったりした。
110年前の地下鉄のお尻はまったく無言だったけど。

Panic in the Streets (1950)
「暗黒の恐怖」

深夜のニューオリーンズのバーで賭博のテーブルを囲んでいる連中がいて、そのうちのひとりが具合悪いから帰るわ、て言うのだが、勝ち逃げは許さねえ、て揉めて港のあたりで殺されちゃうの。
港で死体が見つかった翌日、検屍をした衛星局のひとはこいつは肺ペストでやばい、て直観して警部と一緒に彼の入国ルートとか接触した連中を片っ端から調べはじめる。 

当局は肺ペストの可能性なんて漏れたらパニックになる、て極秘で捜査を進めようとするのだが、しょっぴかれて調べられる側は、びびりつつ冗談じゃねえ知らねえ、て言い張るし、新聞記者とかはなんかこの動きは怪しいって、探りはじめるし簡単に進まずに、時間が経つにつれて病人がぽつぽつ出はじめる。

昨今のエボラ熱とかの対応と照らし合わせて考えてみるといろいろおもしろい。
この映画だと、肺ペストの危険性とか蔓延の可能性は極秘情報で、状況がひどくなるのと情報が広がっていくのの追いかけっこがテーマで、だからスリリングなのだが、今の世の中だと、やばそうな情報は基本、開示した上で当局はやれることをやって、市民は各自守れるものは守ってもらう、ていうやり方で、でもこれをやったからと言って拡散の抑止力になるかというと、そんなでもない気がする。 いつから、なにをきっかけにこの辺の対策って変わっていったのか、とか。

闇の奥でうごめくペスト菌とか、その更に向こうにいる地元のギャング達、むんむんの密航船の連中とか、これらを白昼の路上に引っ張りだそうとする当局との攻防、そのコントラストがかっこよくて、最後の港湾倉庫での追っかけっこはすばらしかった。 特にちんぴらの親玉のWalter Jack Palanceのきれっぷり悪っぷりときたら、デビュー作だから張り切っているのかもしれんが、なんかすごい。

またきてねMOMA。

11.23.2014

[art] Giorgio de Chirico: De la Metafisica à la Metafisica

展覧会のをふたつ。
さいきん、映画を見るまとまった時間すらないってことなのよ。 かわいそうに。

菱田春草展 (後期)

3日の月曜、展示の最終日に、文句たらたらで「黒き猫」を見にふたたび竹橋にいった。
後記のみ展示のやつも結構あったし。

模本だけど「猫図」があったし、未完の「落葉」には創作途上と思われる薄線が引かれていて、ああこんなふうに導線だか補助線は引かれていたんだねえ、ていうのがわかったりするのでいくら眺めていても飽きない(線、図録ではわからない)。

「黒き猫」は猫絵が並んでいる列から離れたところに置かれていて、やはりなんだか別格。 上のほうの葉っぱのレイアウトもふくめて、あれって猫というより黒いふわふわの毛玉みたいなやつがこっちを見ている、その目力の淡いようで強いかんじと、耳のとんがりと爪の踏みこみ、といったあたりが総合されて、こいつ猫かも、黒いの、て認識されて、にらめっこが終わらないかんじがたまんなくて、更にじーっと見ていると、こいつは黒梟のようにも見えてきたりする。

同じ1910年の「黒猫」は背景のなにもなさと足のつっぱり/ふんばり具合からああネコネコ、と思わず出てしまうし、他の白い斑猫の横目でつーんとしているやつとか、鴉に毛逆立てているやつとか、あいつらは始めから猫としかいいようのないオーラに覆われていて、それらと比べると「黒き猫」のほうの吸引力はすさまじい。

他にも大観との連作にあった「秋草に鶉」とか「月下狐」のススキと狐が描く弧の流れとか、動物ものがほんとにすばらし。 おいしい鶉のローストたべたい。


ジョルジョ・デ・キリコ -変遷と回帰-

13日の閉館直前くらい、汐留ミュージアムで見ました。
キリコをこんなふうに - 特に後期の変てこなやつを纏めて見る機会はあんまない気がしたし。

1910年頃の形而上絵画から古典に回帰していくあたりまでが、おそらく我々の一番よく知るとことのキリコで、渋くて洞察とセンスに溢れてかっこよくて、それが40年代以降、この展示だと「ネオ・バロック時代」として出ているあたりから過剰で饒舌でなんかわかんなくなってくるの。

で、そこから「新形而上絵画」から晩年にかけてはもうほとんど漫画とか落書きみたいで、「ユピテルへの奉納」はメタルのジャケットみたいな雷がびかびか出ているし、「ユピテルの手と9人のミューズたち」のミューズはおばさん達にしか見えないし、妙におかしい。誰も笑わないけど。
たしかに「メタフィジカ」に「ネオ」なんて付いてしまうとそっちに行ってしまうのかも知れんし、老人の晩年の記憶の混濁が「永劫回帰」妄想に向かいがちなのもよくわかるのだが、いや、だからといってつまんないわけではぜんぜんなくて、こういうのも含めてのシュールなキリコなんだなあ、と最初のほうに置いてあった「謎めいた憂愁」の、室内の孤独を振り返りつつ思ったのだった。

キリコって19世紀に生まれて78年まで生きていたんだねえ。
晩年はあれこれめんどくさかったんだろうなあ。

11.21.2014

[film] If I Stay (2014)

6日の晩に新宿でみました。 夏休みのLAでさんざん宣伝しているのを見ていたし。

ポートランドで子供の頃からチェロをやっているMia (Chloë Grace Moretz)は、憧れのジュリアードにいくか、地元でロックバンドをやっているKat (Mireille Enos)のところに残るのかで悩んでいて、そんなある日、家族で車に乗って出かけたところで事故にあう。

その直後、Miaの身体は幽体離脱していて、動かない自分の身体とか一緒に事故にあったパパとママと弟、なかよしの家族のこと、これまでの自分の生涯のいろんなのがまわっていくのを眺めていく。

大好きになったチェロをパパに買ってもらってKatと出会って恋をして将来のことでぶつかって落ちこんで、ていう青春絵巻があって、他方でママもパパも弟も亡くなって、自分の身体だって医者によると自分のがんばり次第だというのだが、こんな状態で生き返ったところでお先真っ暗だし、あんまぱっとしない人生だったし、どうしよう、どうでもいいや、もういいか、になっていくの。

事故にあわなくたって若いころには誰だって考えてぶちあたって思い患うようなことをわかりやすく並べて、そのナイーヴさと凡庸さについてしょうもねえ、ていうのはたやすいのだが、他人から見ればなんでそんなことがとか、異性とのどうでもいいけどきゅんとくるやりとりとかが自分にとってどれほど大切でかけがえのないもの、自分を生かしてくれるものだったか、というのをMiaの動かなくなった身体と空中に浮いた魂は大真面目に切々と訴えていて、その点については全く異議ない。

そういうもどかしさや切なさを表現するときのChloë Grace Moretzの表情と身体はほんとうにすばらしくて、彼女がこれまでの役柄であらゆる血にまみれて戦ってきたのもそういうことなんだな、と改めておもった。 感情移入して泣かせりゃいいってもんじゃないの。

Miaが取り組むのはクラシックだけど、彼女のパパはちょっと名の知れたバンドでドラムスをやってて(Miaのチェロのためにリタイアして自分のドラムキットを売る)、KatのローカルバンドはThe Shinsの前座に呼ばれたり、Merge Recordsからオファーが来たりもする(ふうん、あれで?)。
流れていく音も90年代以降のいろんなの、BeckとかHope SandovalとかThe Long Wintersとかで、ガーデンパーティーではみんなでSmashing Pumpkinsの"Today"を合唱したりする。

80年代の男の子の叫びとしてあった"If You Leave"からまじめな女の子のつぶやきである"If I Stay"へ、或いはみんなの歌としての"Today"へ。  クラシカルな調和や調性のリアルに80年代魂が負けてしまうおはなし、として見てしまうのはだめか?

ラストはやっぱしあれしかないと思うけど、横に弦之丞みたいなのがいてもよかったのになあ。

あと、あの字幕はなに? キム・ヴォーデンてだれ?

11.19.2014

[film] Kentucky Pride (1925)

2日、京橋での3本目。 「譽れの一番乗」の終わり、音楽が終わるか終らないかのうちに突如アイリッシュに豹変した狂乱のじじいどもが次のに並ぶために出口に殺到し、そういうのはほんとに嫌いなので帰ろうと思ったのだが、一応みんな並んでいるしだめでもよいから並んでおこう、て並んでみて、そうしたら最後の最後ほうで座れてしまった。

「香も高きケンタッキー」

「譽れの一番乗」でとってもさわやかに泣いてしまったので、もうこれを上回るもんはそうあるまい、て余裕だったの。 だってさー、解説読むと馬が語り手だとか書いてあるじゃん、サイレントだから馬が語ろうが猫がしゃべろうが勝手だけど、馬の自分語りに泣くほどおひとよしじゃねえよ、とか。 でも、びーびー泣いて、泣かされた。しかも馬なんかに。  ソープオペラじゃなくて、ホースオペラ。

ケンタッキーに、お馬(♀)のVirginia's Futureが生まれてすくすく育って、速かったのに勝利の一歩手前で怪我をしてレースはできなくなって、殺されるはずのところをぎりぎり救われて娘を生んで、更に主人の賭博のカタに売られちゃって、いろんなドラマがあって、その娘のConfederacyがんばれーって、Confederacyはすべてを失ったママやみんなの夢と希望を乗っけて風のように走っていくの。

馬のドラマはさわやかでうつくしいのに、ヒトのほうはどろどろと暗くて陰惨で、馬主の妻は隣人と結託しておうちを乗っ取るし、Virginia's Futureを買い取ったろくでなし3人組はひどくて、でも結局は馬の勝ち負けですべてがひっくり返る。 最初のレースで脚を折ってから転がり落ちていった運命が、最後のレースの大勝利で修復されて戻ってくる。 それはもうほんとうにすべてが許される、で、語り馬であるVirginia's Futureのラストの語りで、みんな大泣きする。 馬なのに、あんた文章うますぎ。

ラストだけじゃなくて、荷物馬に堕ちたVirginia's Futureが同じように落ちぶれたかつての馬主に街角ですれちがう一瞬、あそこも思いだしただけで胸が痛くなる。 あんた馬なのになんて…

当時の伝説の名馬Man o’ Warも実名で登場する。 あんたでっかすぎ。

こんなふうに馬がとんでもないのはしょうがないとして、更にとんでもないのはそんな馬たちを馬として撮りあげてしまったJohn Fordなのよね。

“Babe” (1995)(豚の映画だよ、ねんのため)もさあ、こんなふうなサイレントにすればもっと泣けたかも。


並んで大変だった、とかいう自慢話とは関係なく、この2本のサイレントを見たことは、「映画体験」としか言いようのない類いのもので、約90年前に作られたこいつらを、まだ「知らなかった」ことにびっくりしましたよ。 こんなのふつうに見れないとさあ...(以下同)

[film] The Shamrock Handicap (1926)

2日土曜日の2本目。 今回の京橋MOMA特集で、ここからのJohn Fordの2本が、大騒ぎになっているらしいことはいろんなところからうかがわれたのだが、それが実際どれくらいすごくて画期的で価値のあることなのか、はマニアではないのであんまよくわからず、わからないのでとりあえず見てみるしかない。
John Fordて外れたことがないから、きっと外れないよね、くらいで(強殴)。

「譽れの一番乗」

アイルランドの片田舎で、裕福な農場主と娘がいて、小作人とその息子がいて、息子は馬乗りで、娘さんとは素朴によいかんじで、みんな仲良く平和に暮らしていたのだが、農場主は生活が苦しくなって馬とか売っちゃって、小作人親子はアメリカに渡らざるを得なくなる。 息子はアメリカでジョッキーとしてうまくいけそうだった矢先、怪我をして馬に乗れなくなってしまい暗くなるのだが、やがて農場主もアメリカにやってきて、みんなでアイリッシュ魂でがんばるの。 で、大きなレースがきて、息子は怪我をしているのにいちかばちか、アイルランドから連れてきた必殺の名馬Dark Rosaleenaに跨がって...   彼女の一途な想いとアイリッシュ魂を背負った運命のお馬は走って走って...

ほんとうにわかりやすい、ストレートな感動を呼ぶドラマで、家族愛にじんわりして、アイリッシュ魂に熱くなって、馬レースに手に汗を握って、最後はよかったねえ、て皆で肩を抱きあって涙する。 それ以外の見かた楽しみかたなんていらないの。   
サイレントなのに、馬の蹄の音とかティン・ホイッスルがずっと頭のなかを回っていて、最後に四葉のクローバーが菊の御紋のようにでーんと映し出される(まんなかにDirected by John Ford)と、"The Irish Rover"かなんかが高らかに鳴りだして、くるくる踊りだしたくなる。

白い帽子を被った少女がでっかい馬の隣にいてただ立っているとことか、村の大きな樹の下で少年と少女がお別れをして、戻ってきたあとにふたりで永遠の愛を誓うとことか、唖然とするくらい美しいの。
あと、馬だけじゃなくて鵞鳥だかアヒルだかもいるの。

こんなのがたった2回しか公開されないんだから庶民が殺到するのとうぜんだわ。
こんなのが伝説の名画みたいになっちゃうのって、正真正銘の名画だからしょうがないんだけど、ぜったいおかしい。
永遠の児童文学とか古典みたいに、そこらじゅうの図書館に常備されてしかるべきだとおもった。

11.18.2014

[film] It Should Happen to You (1954)

2日の日曜日、午前から京橋で、この日は3本続けてMOMAのに浸かった。
日仏のジャック・ドゥミ特集は出遅れの連続で入れず、トリュフォー特集(のJ-PL)は最初から諦めで、せめてこれくらいは、とものすごくがんばった。 だれのためだかなんのためだか、しらん。

「有名になる方法教えます」

New Yorkに出てきて2年くらいになるGladys Glover (Judy Holliday)は、ぱっとしない下着モデルで、セントラルパークをうろついていたら、ドキュメンタリー映画を撮っているPete (Jack Lemmon)と出会って仲良くなって、とにかく有名になりたくてしょうがない、コロンバスサークルのあそこの看板に自分の名前を載っけたい、という。 PeteはGladysに一目惚れするのだが、とりあえずそこは別れて、そこからGladysはひとりで代理店に出かけて行って、ほんとに看板を借り切って自分の名前をでかでかと載っけちゃうの。 へんな女。

代理店側は看板貸したあとで、あんないい場所渡すんじゃねえよ、て借り戻しにかかって、その交換条件でいろんな場所に名前の看板出してあげるから、ていう。  Gladysはそれに乗って、そしたらほんとに有名になっていろんな広告とかTVとかから声がかかるようになって、代理店のお金持ち野郎も寄ってきてくれて舞いあがるのだが、Peteのこころはなんとなく離れていって。

有名になってみんなにちやほやされたい、ていうのとあなただけのわたしでありたい/あってほしい、ていうのの間で揺れる恋、ていう今のラブコメでも普遍的なテーマに、映画作家としてまずフレームのなかの彼女に恋をした彼、ていうのを被せるなんて、なんてうまいのかしら。 諦めた彼女に向けてパーソナルなフィルムレターを残すとこなんかも(あれ、映写機ごと持って帰るしかないよね)。  決してお伽噺や夢物語じゃないところ、ひとは輝くから恋するのか恋をするから輝くのか、そのぱたぱたした切り返しのなかにすべてはあるんだ文句あるか、みたいなふうがとってもよいの。

それにしても、George Cukor、この同じ54年にめくるめくお伽噺の大伽藍(極北)、みたいな大作"A Star Is Born"をリリースしているんだからすごいねえ。

Gladysが看板を借りにいく代理店の住所 - 383のMadisonて、いまはJ.P.Morganの悪趣味なビルが建っているところなの。

11.17.2014

[film] A Most Wanted Man (2014)

1日の土曜日の夕方、いちんち京橋でみっつ連続はきつい気がしたので、ちょっと変えてみた。
「誰よりも狙われた男」 京橋から日比谷に歩いていって見ました。

ル・カレの原作は文庫が出たときに買ってすぐ読んだ。いちおう。
彼の小説を読むのはほんとうに久しぶりで、冷戦がとうに終わった911以降の世界と彼が英国情報機関を中心に描いてきた過酷なスパイ戦の世界との間には大きな乖離があって、テーマとしてきついのはわかるけど、やはりストーリー展開は少し散漫な気がした。

ハンブルグに突然現れ、トルコ移民の家に衰弱して保護を求めてきたイッサという若者 - イスラム系、言葉もよく通じない、チェチェンから来たらしい - が何者で、彼の狙いはなんなのか、ロシアからの怪しい金を預かる英国の銀行家、移民や亡命者の支援保護団体の弁護士、そしてドイツ、英国、米国、それぞれの情報機関を巻きこみつつ展開していくイッサを捕捉、もしくは保護しようとする企てのあれこれと最後に持っていっちゃうのはどこのどいつなのか、について。

どこかの町でふつうに暮らしている人のところに奇妙なことが起こって、それがその人、もしくはその人の周辺の集団とか組織とかの記憶とか無意識の底にあった何かを揺らし、その揺れの連鎖がより大きな事件とか行動に繋がって関わった人たち全員に刻印とか影響とか余韻とかを残す。 ひとの動機や決断はそのひとの出自、過去、家族、大文字の歴史、今昔の恋、エモなどなどと複雑に絡みあっていて決してリニアに一筋縄ではいかない、というところと厳格に隔たりと識別を求める国(境)という場所(溝)、もしくはそこでの歴史上の一点、その狭間で、ぐじゃぐじゃに絡み合ったガラス線の上で展開するドラマを微細にやさしく拾いあげる、というル・カレの小説の基調がリニアに流れざるを得ない時間のアートである映画にはそぐわないものであることは、こないだの"Tinker Tailor Soldier Spy" (2011) でもじゅうぶんにわかったの。

であるからして、ル・カレ作品の映画化は俳優のドラマとして追うのが正しい気がして、だから今回見に行ったのもPhilip Seymour Hoffmanがドイツ諜報機関のBachmannを演じていたから、それについてル・カレが書いていたから、なの。

http://www.nytimes.com/2014/07/20/movies/john-le-carre-on-philip-seymour-hoffman.html?_r=0

筋としてはハンブルグという地勢、ロシア、イギリス、アメリカ、それぞれの過去の傷とか負債とか威信とか、そういうのをぐるぐるまわるにしても、イッサという辺境の孤児を扱う物語としても(原作と比べると)中途半端で、監督のAnton Corbijnは、ひとつ前のも含めこういうのをやりたいのかもしれないが、ちょっとむずかしいかも、とか思った。

Philip Seymour Hoffmanについては、申し分なくて、最後にF言葉満載でぶちきれてあたりちらすところなんてたまんないひとにはたまんないの。 ここだけ見とけばよい。

PSH以外のキャストは確認しないで行ったのだが、Rachel McAdamsの弁護士も、Willem Dafoeの銀行家もなんかちがうのよねー。

11.16.2014

[film] Italianamerican (1974)

1日の土曜日、京橋のMOMA特集でのふたつめ。
D.W. Griffithの短編二本と、Martin Scorseseの中編ひとつ。

The Lonedale Operator (1911)
邦題は「女の叫び」。17分。
電信技師の娘さんがどっしりした給料袋を受け取った部屋に強盗二人組が押し入ろうとして、娘は鍵かけて電信で彼にSOSをだして、彼は機関車で駆けつけて強盗を引っ捕らえるの。 か弱い娘のか細い電信が機関車の力強い彼を呼んでくれてよかったね、ていうお話で、彼女が電信を知らなくて、彼が機関車乗りじゃなかったら成立しないねえ、とかおもった。 あと強盗たち余りにも弱すぎ。

Friends (1912)
邦題は「男の友情」。 13分。
西部の金鉱町で、みんなに好かれている孤児の少女(Mary Pickford)はDandy Jackが好きで、でも彼は別の金鉱町を探して出て行っちゃって、入れ替わるように別の男(Lionel Barrymore)がやってきて、彼はJackの親友で、みんなどうする/どうしたい? なの。

どちらの短編も100年以上前に撮られているのに、Home Alone 〜 ぎりぎりの救出劇とか、友情に結ばれた男ふたりと女ひとりの三角関係とか、ごく最近の映画でも繰り返されているテーマはとっくにあったんだねえ、て。

Italianamerican (1974)
続いて「イタリアナメリカン」 48分。

Martin Scorseseが自分の実家で両親にインタビューしたドキュメンタリー映画。
出てくるのは彼のパパとママだけ。  でもホームビデオみたいのとはちがう。 たぶん。

さて、New Yorkにおける映画の語り部といえば、Martin ScorseseさんとPeter Bogdanovichさんのふたりで、昔の名作のリストア上映会とかがあると、この二人は割と頻繁に登場して楽しくおしゃべりをしてくれるの。 Peter氏はこないだのTIFFで来日した際、”It Should Happen to You”の上映時にトークをしてくれたそうで(いいなぁぁ)、彼のトークは彼の周囲にいた映画人のことを喋らせたら絶品(John Cassavetesの思い出とか、おもしろいんだよー)であるのに対し、Martin氏のはひたすらじぶんちの家族話に還っていくという特徴がある。 自分の家では、近所では、パパやママはどうだったのか、とかね。 この映画もその線でまたかよ、みたいなふう、ていうか映画まで撮ってたのね、とか。

この映画におけるMartin氏のほんとうの狙いはママのミートボールとそのトマトソースがなんであんなにおいしいのか、ママじゃないとできないのか、その秘密を聞き出すことにあったと思われるのだが、ぜんぜんうまくいかずに、ママのお喋り(パパは横でほとんどうんうん言うだけ)は脱線に脱線を繰り返してとどまることを知らず、結局引きだすことはできないまま映画は終る。

自分も勝手に脱線させていただくと、わたしにとって生涯のベスト・ミートボール&トマトソースはかつての職場にいたイタリア系のおばさんの家で腰のまがった彼女のママが作ったやつで、あれってもうまじ驚愕のありえないレベルのやつで、帰るまでになんとかレシピを聞きだしたくてがんばったのだが、だらだら昔語りに終始してぜんぜん教えてくれなかった、その記憶が蘇ってしまい、だからMartinがんばれ、と手に汗握っていたのだが、やっぱり失敗したのね。 おそるべしイタリアンばばあ。

しかーし、すばらしいことにエンドクレジットでそのレシピが流れるの。えらいぞMartin!
でも謎は謎なのよね。 「いくつかの豚ソーセージ」と「羊の脛骨」あたりがなんか怪しいのだが、肝心なところの分量も配合も時間もよくわかんなくて、聞いたって、うーんあるものをてきとうに、なんだよね。

というわけで、後半は来るべきレシピがちらついて映画を見ているかんじにはならなかったの。

たぶん、生まれた国を捨てて別の国に渡ってその国の人になる、そこで想像される苦難とか受苦とかあれこれとかも、こんなふうにてんでばらばらで、一筋縄ではいかないなにかがあるんだろうが、それがほんとにどんなもんかは、決して明らかにされないんだ、とか。

[film] Flushing Meadows (1965)

1日の土曜日の昼間、京橋のMOMA特集で見ました。
8分の短編のあとに98分のやつ、2本だて。

箱アーティストとして知られるJoseph Cornellが映像作家Larry Jordanの協力を得て撮影した作品、1995年に発見されて2003年に復元され、当時はGramercy TheatreにあったMOMAの映像部門で上映された。 (これ、ひょっとしたらGramercyで見ていたかも。あの頃なら) 
現時点までに確認されている中ではCornellの最後の映像作品とされる。

クイーンズでウェイトレスをしていた友人Joyce Hunterの死を悼んで撮影した、と解説にはあるが、映像を見ている限りではそれはわからない。 彼女が埋葬されているFlushing Cemetery(Flushing MeadowsのそばにあるMount Hebron Cemeteryの方ではないのね)の、おそらく初秋から初冬の晴れた日の光景がぽつぽつと置かれているだけで、でもバラの花の周りの淡い光とか佇んでいる子供とかを見るとなんとも言えない寂しさが湧きあがってきて、それはCornellの小箱を覗いたときの印象そのものなのだった。

で、これに続けて上映されたのが ー

Sweet Sweetback's Baadasssss Song (1971)
“Flushing Meadows”が白人社会の端っこに遺棄・放擲されたひとりの老人 〜 ひとりの少女の孤独な呟きだとすると、こっちは白人社会にはめられてざけんじゃねえ、と立ちあがったひとりの黒人男の孤独な戦いを描く。 ていう比較もやろうと思えばできないことはないけど、この二本を一緒に見るのは相当に変なかんじ、食べ合わせはあんまし、だったかも。 MOMAは骨董品みたいなアート作品ばっかしを扱うわけではなくて、こういうB級やくざジャンキーなのもやるのよ、ということで。

Melvin Van Peeblesが自己資金とBill Cosbyから借りた5万ドルで書いて監督して製作して編集して音楽も作って主演した、殆どひとりでぜんぶやった世界最初のブラックスプロイテーション映画で、それはそれは強烈に激烈にねちっこく、沸騰する怒りと恨みが渦を巻いて、そのにおいたつ飛沫がこっちに向かってとんでくる、そんなやつ。

Melvin Van PeeblesがSweetbackで、悪い白人警官にはめられて追われて、逃げて、生きる。それだけ。
白人警官がいかに悪くて酷いか、ということよりも、いかに彼は逃げて、戦って、生き延びて、負けなかったか、屈服しなかったか、というその圧倒的な強さ、その粘ってうねる腰と尻の動きのしなやかさ、その歌の力強さに重心は置かれている。それゆえのSweetbackであり、Baadasssss Song、なの。 

それにしても、子供の頃の彼が娼婦から手ほどきを受けてSweetbackとなる冒頭のシーンのボカシのひどさにはあきれた。 国の機関だから? あんたらがいま規制すべきなのはこれじゃないでしょ?

11.11.2014

[film] Love Affair (1939)

31日金曜日の晩、帰国直後であたまも身体も使い物にならないもんだから京橋のMOMA特集でみました。

「邂逅」で(めぐりあい)とよむの。
Leo McCareyで、"An Affair to Remember" (1957)のおおもと(両作とも監督はLeo McCarey)だと聞いたら行かないわけにいかないわ。

ヨーロッパからNew Yorkへ向かう客船に金持ちのプレイボーイのMichel (Charles Boyer)が乗ってて、しかも婚約したばかりだというので大騒ぎで、そこでたまたま出会ったTerry (Irene Dunne)にも婚約者がいて、それで安心したせいか会話はころころ楽しく弾んで、途中で立ち寄ったMichelのおばあちゃんの家でもしんみり楽しく、かけがえのないひとときを過ごしてしまったものだから、とっても別れ難いかんじになってしまい、船を降りるときに6ヶ月後にまだ未練があるんだったらエンパイアステートの天辺で逢いませう、て別れるの。 ほんとに運命とか縁とかがあるんだったらぜったい巡りあうはずよね、て互いの連絡先も告げずに。

6ヶ月後のその日、浮かれてよそ見していたTerryは車に轢かれて病院送りになっちゃって、Michelはずっと屋上で待っていたのに結局彼女と会うことはできなくて、さあふたりはこれきりになってしまうのか? なの。

いっときでも、本当に好きになったひとを諦めることってできるのか、諦めさせないなにかって、なんなのか、とか。 で、だんことして諦めないのは映画を見ている我々のほうなんだよね。

最後のとこ、クリスマスの晩、TerryとMichaelが彼女の部屋で再会してお話しするとこは、最初のたどたどしく、しらじらしいところから頭が爆発しそうになって最後の最後でやっぱし決壊して泣いてしまうの。 おばあちゃんの礼拝堂での本当に美しいお祈りのシーン(あそこ、ほんとにきれいでさあ)が蘇ると、もうだめ。 神様なんてやっぱしいるんじゃねえかなんの魔法だこれ、とか思うの。 

"An Affair to Remember"の時のCary GrantとDeborah Kerrが神々しいくらいに決まっていたので、こっちのふたりはどうかしら、とか始めは思ったし、疲れもあったのかIrene DunneがたまにAmy Poehlerに見えてしまったりもしたのだが、ぜんぜんだいじょうぶだった。 Cary GrantとDeborah Kerrじゃないみんなにだって、クリスマスには起こることが起こるんだよ、て。


あーあ。John Greaves, 行きたかったよう。
“The Song”とか、やったのかなあー。

11.10.2014

[log] New Yorkそのた2 - October 2014

NYでの食べものとか本とかレコードとかばらばら。

25日の土曜日、天気がとっても良かったので、まずGreenpointに行った。(週末、⑦の地下鉄が止まってやがって… ) フィガロのNY特集にも出ていたベーカリー、”Bakeri”。 Greenpoint周辺にはポーランド系のおいしそうなパン屋さんがいっぱいあるのだが、これはこれで。
エントランスから花園状態でそこから繋がる内装もチャーミングで朝の光に満ちていてレジの脇に奥の焼き場からどんどんいろんなパンが並べられていってzineとかもあって、近所にこんなのがあったらぜったい毎日通う、の見本みたいなところなの。 パン焼きの前のカウンターから見ていると、お揃いの作業着のおねえさんたちがパンをがさがさ積みあげたり粉玉を仕込んだり測ったり焼きあがりを突っついていたり、見ているだけでかっこいいの。 サヴォイパイもチーズサンドイッチもチョコクロもどれもシンプルで、力強いこと。

そこから歩いてAcademy Record Annexに行って何枚か。 世界最強の店猫だったTiggerのいなくなったお店。 正午の開店直後に入ったら、Jack Bruceの“Harmony Row”が大音量で流れていてなんでだろ、と思ったらお亡くなりになられたことを知る。
レコードはあんまなかったけど、Mission of Burmaの”Academy Fight Song” (1980)の7inchがあって、帰って聴いてみたら自分が知っているミックスではないかんじがした。

あとはWord BookstoreでRookie Yearbook Threeのサイン本とかTim Kinsellaの小説”Let Go and Go On and On”のサイン本とか。 Tim Kinsellaのは副題に”A Novel Based on the roles of Laurie Bird”とあって、さらに裏表紙には”Two-Lane Blacktop + Cockfighter + Annie Hall + Bad Timing = Let Go and Go On and On”とあって、ああ、しぬほど読みたいのに読む時間なんてあるわけないのに。

Stephin Merrittさんの本、”101 Two-Letter Words”は、あたり前のように買う。

他のレコード屋だとOther MusicとかRough Trade NYCとかいつもの。 Starsの新譜のサインつき色つきとか。 前作はちょっと地味だったけど、今度のはカラフルなジャケットそのままでとってもよいの。

日曜日の夕方に行ったRough Tradeでは奥のライブスペースで晩にライブをやるThurston Mooreのバンドのリハの音ががんがん響いてきて、ああ無理してチケット取っておけばよかったねえ、てがっかりした。

他の本屋だと、イーストヴィレッジのどまんなかから少し東に移転したSt. Mark's Bookshopに行った。
前よか少し小さくなって、棚を伝っていくと気がついたら元の地点にいる、という三角スペースの不思議感は薄まっていたけど、これから馴染んでいくことでしょう。

あとはAvenue Aにできたアート系の古書店、Mast Books - この記事にも出ている。
http://www.vulture.com/2014/10/thurston-moore-on-kim-gordon-split-new-album.html

ここにも出てくる。
http://www.nytimes.com/2014/11/09/fashion/jason-schwartzman-and-his-latest-movie-listen-up-philip.html?_r=0

ここ、価格はやや高めだが、状態がよくておもしろいのが沢山あって、そうとう危険。 こわい。
あとここの隣のマガジンスタンドの雑誌量がはんぱなかった。 あんなにぶっこまなくても。

ダウンタウンの本屋散歩は、McNally Jacksonから始まって、HoustonのUnion Market(本屋じゃないけど)を経由してSt. Mark's ~ Mast Books、最後にTompkins Square Parkでひと息、ていう流れになるのかも。

日曜日のTompkins Square Parkは秋のバラがきれいで気持ちよかった。 ここって冬になったらほんとに過酷なのだが。

本屋だと、Strandのヴァイナルコーナーにも寄った。 まだ2箱くらい。 これからみたい。

雑誌、T Magazineの預かってもらっていた分を受け取った。
10周年記念号の表紙はChanning Tatumのだった。

この雑誌、おもしろかった。インタビュー中心だけど。
https://thegreatdiscontent.com/magazine

食べ物かんけい;

日曜のブランチにめでたく15周年を迎えたPruneに、久々に。
カルボナーラがあったので頼んでみた。 相変わらず器用に、なんでもうまく(おいしく)やるねえ。

あと、Costataに行った。 イタリアンのMichael Whiteによるステーキハウス。
オリーブオイルやハーブを使っているふうなので、噛みついた瞬間にやや軽い、さらりとしたかんじはするものの、結局はお肉の塊、としてお腹に落ちてくるのだった。 後からずぶずぶと。 
隣に牡蠣屋のAqua Grillがあって、この近辺、エリアとしてはものすごく濃いものになるかんじ。

最後の晩はTorrisiのグループがやっているCarboneに行った。 晩の22時に予約が取れたの。
Houstonの上のThompson stで、なんとLupaの反対側にある。
照明はやや薄暗くて、ぜんたいにざわざわがやがや、そのうえに60~70年代ソウルが鳴っていて楽しげで、でもなにかあると奥からじゃらじゃらと黒服の恐いひとたちが現れてどこかに連れ去られてNJの埠頭とかにぷかー、てなる系のとこ。
お料理はべったべたこてこて、底なしに脂っこくて、でも中毒性があって、おいしいとしか言いようがなくて、おいしいって言わないと奥から黒服の...(以下略) 
大皿なので大人数で行って皿数を制覇しないことにはいつまでも満足成仏できなくて、だから次も多分いくことになって、こういう王道の、有無を言わせない系のイタリアンをロケーションとかも含めて戦略的に作った、ていうあたりがえらいのだと思った。

同じイタリアンでもLupaとは大きく異なるタイプ。 Lupaも大好きなんだけど。

27日の夜おそくにRuss & Daughters Cafeに行った。 夜に行ったのははじめて。
ここのボルシェが冷たいやつだったことを忘れていた。 じゅうぶんおいしかったけど。
Holland Herring (オランダ鰊)がなかったのが悲しかった。
あと、サワークリームがおいしすぎておそろしかったこと。

ボルシェのあったかいのは、いつものVeselkaでいただいた。 ほんとにあったまるの。

あとは、Lafayetteとか。 ムール貝とかパテもよいけど、やっぱしデザートなんだねえ、あそこ。

ほかにもなんかあった。 はずだけど。

11.08.2014

[log] New Yorkそのた1 - October 2014

NY間の行き帰りの機内でみた映画とか。

L'Extravagant voyage du jeune et prodigieux T.S. Spivet (2013)

英語題は"The Young and Prodigious T.S. Spivet"、邦題もおんなじようなふう(忘れた)。

T.S.スピヴェット君モノの原作は読んでない。

モンタナの田舎で幸せに暮らしていたスピベット家 - カウボーイの父、昆虫学者の母(Helena Bonham Carter)、カウボーイ子供の弟、科学者子供のT.S. - 殆ど天才バカボン一家なのだが、T.S.の書いた永久機関に関する論文がスミソニアンで表彰されることになり、突然死んでしまった弟のこともあっていろいろ悶々していた彼は家出してワシントンDCに向かう。 その道中のいろんな大人たちとの出会いとか、権威って、とか大人って、とか。

大人からみた不思議子供のT.S.と子供から見た大人の変てこ世界を不可思議に怪しげに描くのはJean-Pierre Jeunetの得意なところなのかも。 だけどもうちょっとおもしろくできたかも。 Wes Andersonがやったら、とか少し思ったけど、やらないだろうな。

Helena Bonham Carterのママがすんごくよかった。

The Lunchbox (2013)

原題は”Dabba”。邦題は「めぐり逢わせのお弁当」...

インドで、朝に各家庭からお弁当をピックアップしてオフィスのひとりひとりにデリバリーして食べ終わったのを回収して戻す、ていう配送サービスがあって、そこでお弁当の誤配が起こって、まだ若い子連れの奥さん(夫は冷たくて相手にしてくれない)のお弁当が、妻を亡くした初老の男のところに届いて、それがきっかけで二人の間でメモのような手紙のやりとりが始まってほんわかするのだが、ぎりぎり恋に発展しそうでしなくて、しんみり終わるの(めぐり逢わないの..)だが、それはそれでよいの。 こういうので「ちぃさな奇蹟が」(キラキラ)みたいのはもううんざりなの。

上の階に住んでてこまこま料理指導をするダミ声のおばさん(決して姿を見せない)とか、会社にいる威勢がよくてうざいばかりの新入りとか、そういうのもなんかいそうでありそうでよい。

その若者が結構混んでいる電車の中で晩御飯の野菜を切りはじめたのにはびっくりして、更にそのまな板が会社の書類だったのが後でわかったところも更にびっくりした。

お弁当のお料理はおいしそうなようで、なかなか微妙なのだった(絶対おなか壊す)。

帰りの便はもう見たいの残っていないし、眠かったのでほとんどねてた。

けど、久々に”Little Miss Sunshine” (2006)とか見ていた。
Steve CarellもPaul Danoもみんな若いー。 そして何度か予告で見た"Foxcatcher"のSteve Carellの不気味さを思い出してふるえあがった。

更に時間があったので「観相師」ていうのを見た。 (ねえねえ、なんで邦画はみないの?)

韓国の時代劇で顔をじっと見る(観相)だけでそのひとの人生とか運命とかを読むことのできる男が朝廷に連れてこられて、王様の下にいたNo.2の虎と狼の覇権争いに巻きこまれて大変なことになるの。

この顔は王となるにふさわしい、とかこいつは逆賊とか、血も涙もないとか、顔じっと見られて、言われるってやなかんじ、なのだが戦の世には必要な技だったのかもしれないねえ。
けど、ひとを見かけで判断しちゃいけませんって義務教育の時代にさんざん言われたしー。

観相師にいまの政権の全員みてもらいたいわ。 どいつもこいつもペテン師のクズ以下、にきまってる。

ここでいったん切りませう。

[film] Whiplash (2014)

NYの最後の晩、28日にUnion SquareのRegalで見ました。

前日の”Low Down”がジャズピアニストのお話しで、こっちはジャズドラマーのお話し。偶然だけど。
前日の主人公は枯れすすきで、こっちのは昇り龍だった。 これも偶然。
どっちも女っ気はまったくなし。 これも偶然。 たぶん。

大学のコンクールで何度も優勝している伝統あるジャズバンドにドラマーとして入ったAndrew (Miles Teller)と名物鬼教官Fletcher (J.K. Simmons) との間のあれこれを描く。

あれこれ、と言っても殆どが練習とかリハーサルでの軍隊か、みたいなすさまじいSMしごきと、手を血だらけにし歯をくいしばりながら必死の形相でついていくAndrewのドラムスにかける青春が殆どで、和解とか勝利とか、ものすごい感動のフィナーレを期待しているとちょっとちがう。

Bret Easton Ellisが「Oliver Stoneがリメイクした"Fame"みたい」、と呟いていたが、まさにそんなかんじよ。

青春なので若干の浮き沈みとか彼女との別れとか落ち込みとか挫折とかは当然あって、とんでもない大事故(あまりにすごいので笑っちゃう)を起こしていったんはぜんぶ諦めて清算してしまうのだが、再びスティックを手にする。  そういったもしゃもしゃまるごと、握りしめたスティックと止まんないストロークにぶちまけるラストは感動、とは違うけどなかなかに盛りあがってすごい。
画面が暗転すると誰もがライブと同じように拍手してしまうの。

全員に絶対の統制と服従を強いてひたすらストイックに練習に没入する、ところなんかを見ると、ジャズってスポーツなのかなあと思うのだが、最後はスポーツから殴り合いの喧嘩みたいのになっていく。 しかもカーネギーホールの大舞台で。 このあたりがたぶん言いたかったところなのかも。

Miles Tellerくんは、こないだの"Divergent"以降、どんなにひどい目にあって痛めつけられてもあんまし可哀そうに見えない系の急先鋒に浮上した。(元祖はJohn Cusakあたりか) 15歳からドラムスをやってて、Jimmy FallonではThe Rootsと競演したところも見たけど、まあまあ、くらい。 でも歯くいしばるのが絵になることはたしか。

あとはちょっとのズレとかブレが全体を台無しにしてしまうジャズとかクラシックの美とかその時間とか(それがぜんぶではないけど構成要素のひとつではある)て、大変なんだねえ、とか。

こういう世界ってほんとうにあるの? とジュリアードの先生に聞いてみた結果がこれ。

http://www.vulture.com/2014/10/ask-an-expert-juilliard-professor-whiplash.html

関係ないけど、上映前に予告宣伝やってたJames FrancoとSeth Rogenの北朝鮮コメディ - "The Interview" - 大看板だしたりしててすごいんだけど、あれ、だいじょうぶだろうか。

11.05.2014

[film] Low Down (2014)

27日月曜日の晩、Sunshine Landmark Theaterでみました。

館内でなんかイベントがあるらしく、入り口にカメラのひとがいっぱい来ていた。
そこらじゅうに角をはやしたDaniel Radcliffeのポスターがいっぱい貼ってあったので、もう少し待っていたらハリー・ポッターに会えたのかしら。
(これね →  http://youtu.be/98hTPftXo6M

60-70年代に実在した米国のジャズピアニスト、Joe Albanyについて、彼の娘Amy Albanyの手記を元に映画化したもので、彼女は映画のExecutive Producerもやっている。(他のExecutive ProdにはAnthony Kiedis、Fleaなど)

始まったところからJoe Albany (John Hawkes)は既によれよれのピアノ弾きで、周辺に出入りしているのは薬売りぽい怪しげな連中とか、壊れたような人たちばかりで、ふらっとヨーロッパに行っちゃって、またふらっと戻ってくる、そんなやくざな父をやさしく見守る愛らしい娘(Elle Fanning)がいて、時間が進むにつれてJoeはどんどんやつれて荒んでいって、全体としては暗くよどんだトーンなのだが、おばあちゃん(Glenn Close)とか娘が出てくるとこだけ、なんかよいの。

RHCPのFleaさんがトランぺッターの役で出ていて、ふたりでセッションしたりするとこもあるのだが、セッションしたりライブしたりの音楽そのものはあんまし出てこなくて、あの時代の音楽を取りまいていたいろんなのをジャズみたいな散文調、いろんな煙のむこう側に浮かびあがらせてみる。 でもそういう光景と埃っぽいバーに打ち捨てられたようなピアノの音が合っていて、すてき。

最後まで悲惨な修羅場がやってくることはなくて、ずっとこのトーンのままでしんみり終るの。

監督のJeff PreissさんはBruce Weberの"Let's Get Lost" (1988)の撮影をしていたひとで、まさにあそこのChet Bakerみたいな、壊れて石のように固化していくミュージシャンの立ち姿を美しくもなく生々しくもないふうに撮っている。

John Hawkesの野良犬のぎすぎすさ加減はいつも通りでよいのだが、Elle Fanningさんのほうは、ろくでなしの父親に振りまわされるかわいそうな娘、の呪縛からいいかげん解放されるべきだと思った。 不憫でならねえ。
彼女とボーイフレンドがじゃれあうとこで流れるボウイの”Golden Years”のとこだけ別世界になったり。

11.03.2014

[film] Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance) (2014)

26日日曜日の晩、Angelikaで見ました。(30分おきに上映してた)
午後に“This Is Our Youth”を結構真剣にみて、割とへろへろになったのでちょっと軽めで笑えるのを、て思った。
けどそんなに軽くも笑えるのでもなかったのだった。 おもしろかったけど。

Riggan (Michael Keaton)はかつて映画でBirdmanていうスーパーヒーローを演じていたものの失敗して転落して、ブロードウェイ演劇で新たなキャリアを築こうとしているもののいろいろ問題が噴出して大変なの。
映画の冒頭、彼は胡座をかいて宙にふんわり浮いていて、つまりは超人的な力を持っているかのような描写があるのだが、それがフィクションの世界でスーパーヒーローだった彼の妄執なのか、ほんとうにそういう力を持っているのかは明らかにされない。

Rigganに見えている世界、彼がコントロールしようとしている世界と周囲とのギャップ、軋轢、場合によっては和解と融解、というのは彼が舞台で演出しようとして難航しまくるレイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」(どの短編だったのかしら)の世界にも通じているようで、あらゆる無知(Ignorance)や不寛容が舞台の上でも下でも裏でも、俳優たち(Edward Norton, Naomi Watts)の間にも家族(娘 - Emma Stone)の間にも静かにあたりまえのように拡がっていくばかりで、超人の力くらいでどうすることもできそうにない。 でも彼には。

ていうようなあれこれが、Alejandro González Iñárrituのステージ上からバックステージまで延々のびていく長回し(の多用)と共に描かれて、そこにこれまでのIñárrituの画面作りと同様の小賢しさを感じてうざいと思うかどうかは人それぞれだと思う。

が、今度のに関してはMichael Keatonがあまりにすばらしいので、よいの。 主人公の切羽詰まり具合としては”21 Grams” (2003)のSean Pennあたりに近いのだが、Times Squareをおむつ一丁で走りまわるMichael Keatonのかっこよさのが上をいく。 映画を見る誰もがかつて彼がBatmanだったことを知っている。 迷宮のようにとぐろをまいていくフィクションのなかで銃を手にするMichael Keatonの眼差しと凄みと。  誰かClint Eastwood翁でリメイクして。

Birdmanが悪党を退治するお話ではないにも関わらずそれがタイトルにある、というあたりも含めて、メタフィクションの解りやすく、しかし面倒くさい例示 - “The Unexpected Virtue of Ignorance”というのは果たしてどちら側の ー とか。

そしてEmma Stoneさんもとっても素敵なんだよ。

でも、Bryant Parkをあの角度から見下ろせるところに病院なんてないからね。

11.02.2014

[theater] This Is Our Youth

26日の日曜日のマチネで見ました。 ようやく。 これも日本でチケット買っていった。
場所は48thのCort Theatre。

キャストは3人 - Kieran “Igby” Culkin, Michael “Scott Pilgrim” Cera, Tavi “Rookie Mag” Gevinson, 原作はあのすばらしい“Margaret” (2011) - Kieran Culkinも出ている - を監督したKenneth Lonergan, オリジナル音楽はVampire WeekendのRostam Batmanglij、設定は82年の3月のNY、こんなの絶対見ないわけにはいかん。

でもチケット受け取り窓口で、今日はKieran Culkinお休みごめんー、ていわれて思いっきり凹む。
あーあ、Igby見たかったのによう。(代演はNick Lehane)

1982年の3月、場所は大学シニア(21歳の設定)のDennis Ziegler(Nick Lehane)のUpper Westにあるアパート - 壁にはZappaとRichard Pryorのポスター、レコード棚にもZappaのレコードジャケットが見える - で深夜ひとり床上のTVを見ているところにドアベルが鳴って、後輩(19歳の設定)のWarren(Michael Cera)がスーツケース抱えて家出してくる。彼はもうあんな家耐えらんない、といい父親からガメてきた$15000を使っちまおうぜ、てやけくそになっていう。裏でヤクの取引きとかをしているDennisはバカかおめーは、とか呆れながらもいくつかの電話をかけて深夜の街中に出ていく、ていうのと、Warrenが気になっているFITの学生Jessica(Tavi Gevinson - 設定は19歳)を呼びだしてものにしたい(今夜こそ)、ていうのもあって、そしたら彼女がやってきたので舞いあがって、ふたりでプラザのスイートにでも泊まろうよ、て飛びだしていく。  ここまでが1幕めで、その翌日の昼間、ふたたび同じところに戻ってきた3人は、ていうのが2幕め。

まだネットもスマホも携帯もない時代、若者たちは何に苛立ったり困惑したり焦ったり動かされたりたむろしたりしていたのか、果たしてここにある情動や痙攣を大文字で"THIS IS OUR YOUTH"と呼んでしまってよいものか、議論はあるのかも知れないけど、少なくとも自分にとってはぜんぜん違和感なかった。

遠いようですぐそばにある/あった死(このテーマは“Margaret”でも反復される)、たったひと晩ですべてがひっくり返ってしまう世界、おっかない奴がいて、お調子者がいて、臆病者がいて、そこには守られるべきなにかがあって、決定的に相容れないなにかがあって、でもそれらがなんなのか誰も明言できず、でも肩肘はって見栄はって強がりばかり言ってる。

(ここで岡崎京子の名前を出してしまうのは反則だろうか)

そして3人の俳優たち。 天才としか言いようのない冴え(という形容は果たして妥当なのか)を見せるMichael Ceraのぼんくらの挙動 - Jessicaを前にしたおろおろおたおた、高価なドラッグの粉を床にぶちまけてしまうときの一連の動きのとり返しのつかないかんじ。 
そしてBroadwayデビューとなるTavi Gevinsonの眉間の皺と上目遣い、なにが不安でなににあたまきているのか自分でわかんない不快さを丸飲みにしたような表情、上滑ってつんのめった喋りかた、Zappaの"Mystery Roach"に合わせて弾けたように狂ったように踊りだすそのしなやかなバネ。
この娘はやはりただもんではない。

(ここでMolly Ringwaldの名前を出してしまうのは反則だろうか)

ちなみに96年の初演時、Warrenを演じたのはMark Ruffalo - これも見たかったかも。

映画でも演劇でも、若者をテーマにしたときに必ず議論される「リアルさ」から離れて、それでも若さというリアルに迫ってくるドラマの不思議と、それを可能にしたのが成熟とか到達とかから無縁な(ふりをできる)稀有な俳優達のアンサンブルであったという、そういう点では見事な俳優さんの演劇だったとおもう。 10年後、これをどんな連中が演じることになるのか ー。

11.01.2014

[film] Too Much Johnson [work print] (1938)

25日、”Laggies”を見た後、MOMAの映画部門に移動して見ました。
これだけはチケットを事前に取っておいた。

京橋でもMOMA所蔵の古いのが話題だが(だよね?)、こっちでも毎年恒例の“To Save and Project: The 12th MoMA International Festival of Film Preservation”が24日から始まっていた。
これ、いろんなのが日替りで出てきて本当におもしろいんだよ。

今回、日本映画だと溝口健二の「虞美人草」(1935) - 英語題は”Poppy” - と高島達之助の「お嬢お吉」(1935) - 英語題は”Miss Okichi”とかが上映されるし、京橋でも上映される(今日見てきた)Joseph Cornellの新たに発見されたピース - “Untitled Joseph Cornell Film (The Wool Collage)” - とか、古いのばかりでもなくて、Derek Jarmanの”Caravaggio” (1986) - なつかしー - なんかもやるの。

会場はさすがに結構埋まっていて、かつてFilm ForumとかMuseum of Moving ImageとかFilm SocietyとかMOMAで古い映画がかかるときに何処からか必ず現れる常連の古老たちを久々に見る。まだ生きていたんだねえ、じいちゃんたち。

さて、Orson Wellesがメジャーデビュー作「市民ケーン」に先立つこと3年前に撮っていた”Too Much Johnson”、元々1894年の William Gilletteの戯曲を舞台上演する際の幕間上映用に製作され、これまで存在を確認されていたのは40分版のみ、完成版(といっても劇場で単独公開されることを目的に作られた作品ではない)はWellesのマドリッドの自宅が焼けたときに失われたとされていた。 イタリアの田舎の倉庫で怪しげなフィルム缶が見つかった(なんでそんなとこにこんなものが? - はまったく謎だって)のが70年代、これの復元が始まったのが2005年、これが”Too Much Johnson”の66分版であることが確認されたのが2012年でした、と。

サイレントで、ピアノは名手Donald Sosin先生(00年代、Film Forumとかでサイレントの楽しさを教えてくれたのはこの人の伴奏だった)。 ピアノの他に、復元を担当したGeorge Eastman Houseのおじさんがフィルムの進行にあわせて解説してくれる。

ストーリーは単純で、妻がJohnson(Joseph Cotten - これがデビュー作らしい)と浮気をしているのを見っけた夫が怒り狂ってJohnsonを追っかけまわして、最後は南米の方まで行っちゃう、っていうドタバタで、とにかく延々追っかけていくだけで、めちゃくちゃおかしいの。
音楽で言うとデモ音源みたいなもので、未編集で、同じシーンのリテイクもそのまま繋がっているのだが、元がおかしいので何回やられてもよくて、むしろもっともっと、になる。

男ふたりが追っかけっこをして逃げまわるのはマンハッタンのWest VillageとかMeatpacking Districtの一帯らしく、解説のおじさんが映っている通りの名前や番地から「この建物は現存しています」とか「今はすっかり変わってしまいましたがここはそもそも」とか丁寧に教えてくれる。
で、そんなビルの屋上を忍者みたいに追っかけっこしたり市場の大量の木桶や木箱の間でいないいないばあしたり、抱腹絶倒なんだよ。

しかしここから「市民ケーン」に行くか…

あと、最後におまけ上映として、変てこな葉っぱの冠を付けてこの映画を監督するOrson Wellesの姿をとらえた3分間の映像も流されたの。

このフィルム缶を発見したのは映画研究者でも映画史家でも批評家でもない、ただただ映画を愛していたMario Cattoていう地元の若者で、彼はあの缶には絶対なんかあるから、と言いながらもその中身がOrson Wellesであることを知らないまま、30代で亡くなってしまったという。 この上映会はそんな彼の魂に捧げられて終ったのだった。

しかし、終ったといいながらステージ前方での質疑応答はその後30分以上続いて、横で聞いていたのだが半分以上ちんぷんかんぷんでした。 みんな真剣なのね。

10.31.2014

[film] Laggies (2014)

25日土曜日の午後、Greenpointから戻ってきて、Astor Placeのシネコンで見ました。
リリース直後の週末だというのに、4人くらいしか入っていなかったけど。

最初に昔の粗いビデオ映像でプロムかなんかの後に、深夜のプールにはしゃぎながら女子連中が忍び込むところが流れて(音楽は"Such Great Heights"で、そんな昔じゃねえだろ、と思ったけど10年前なのね...)、今はそこから10年後、Megan (Keira Knightley)はお気楽で定職につくこともなく、父親の会計事務所の「税金申告書つくりますー」の宣伝看板を持って道端に立ったりしている。

今度結婚するという同窓生との集いに行っても、自分ひとりなんか浮いてて、あーなんかやばいかも、と思ったり、同棲している彼(Mark Webber)とはプロムのベストカップルに選ばれた相手だし特に不満もないのだが結婚を意識しだした彼のことを、えーそういうもんか、とぼんやり考え始めたりしている。

で、同窓生の結婚パーティに出てみたらいろいろ噴出するものがあって、たまんなくなって会場を飛びだした彼女は深夜の駐車場でスケボーでうだうだ遊んでいるAnnika (Chloë Grace Moretz)とその仲間の高校生に「酒買ってきてくんない?」て頼まれて、うんあたしも昔そうやって頼んもんだし、てやってあげて、一緒に遊んだら楽しくて、彼らと遊ぶようになって、その流れでAnnikaのとこに居候することになったらそこにはシングルファーザーのSam Rockwellとか亀とかがいたりして、そのうちSam Rockwellと寝ちゃったり。

そんな彼女らがLaggiesなの。 亀みたいな。

成長とか結婚とか気になりだした20代後半の女子の迷いとか惑いとか、なんでもぐちゃぐちゃ悩みにまみれる10代の女子のそれが散りばめられたラブコメで、それを世代間ギャップの話で茶化さずに、プロム幻想への訣別と、それでも小娘はプロムへいけ!ていうのの両面から真摯に丁寧に描こうとしていて、なかなかよかった。 好きな男ができたらそこにまっすぐ走れ、ていうだけのことかもしれんが。

こういう映画で等身大、とか言うのは嫌なのだが、Keira KnightleyもChloë Grace Moretzも本当によいの。 ヒステリアにも血まみれにもならない。

音楽はDeath Cab for Cutie - The Postal ServiceのBenjamin Gibbardさんで、でもそんなにきらきら青春していなくて、これも素敵だった。

10.30.2014

[film] Listen Up Philip (2014)

24日の金曜日の晩、IFCで見ました。 たまたま空いたときにやっていた、程度で。

Jason SchwartzmanがPhilipで、2冊目の本を出そうとがんばっている作家で、気難し屋でひねくれてて自惚れが強くて自分以外はみんなバカだと思っている、そんな揺るがないキャラクターをやらせたときのJason Schwartzmanの黒光りする凄味ときたら、たまんないひとにはたまんないかも。

彼のいまの彼女はAshley (Elisabeth Moss)で、当然のようにつんけん喧嘩ばっかりしている。
そんな彼の崇拝する老作家がIke Zimmerman (Jonathan Pryce)で、彼の前では少しだけ従順になるのだが、まあどっちも世間からずれている同種の大人子供なので、どこにも行きようがなくて、本人達はそれでよいらしいので、ほっとけ、みたいな。

そのずれたまま、かけちがえられたボタンがどこに向かうのか。 「いいから聞いてよ、フィリップ」ていくら頼んでも彼は自分に興味のあるとこにしか反応してこなくて、でもそのうちこっちも嫌になってきて、というやりとりが延々、クローズアップの切り返しのなかぴりぴりと描かれるのだが、とにかく本人はちっとも悪いと思っていないので話は一向に転がらない。

で、それでつまんないかというと、そんなことはなくて、おもしろいの、なんともいえない磁場が。
画面の雰囲気としては70年代のアレンの映画ぽいのだが、あれよか少し尖ったかんじ。

こないだ見た”The One I Love”でもそうだったが、こういう頭でっかちの独りよがり男に立ち向かうときのElisabeth Mossさんのかっこよさったらないの。 今回のだとシェルターで拾ってきた黒白のでか猫を抱えてぶつかっていく。 (予告で見れます)

あと、エンドロールで彼らの本の表紙デザイン(架空)が出てきてなんだかとっても読みたくなる。

http://www.slate.com/blogs/browbeat/2014/10/21/listen_up_philip_ike_zimmerman_books_in_the_movie_satirize_philip_roth_and.html


昨晩、日本に戻ってきました。 あーあ。つまんないったら。

10.29.2014

[log] October 29 2014

車酔いでげろげろになりつつ、なんとか帰りのJFKまできました。
大人になったら車には酔わなくなる、ていった当時の大人たちは出てきて謝罪してほしい。

仕事は例によってさいてーだったが、土日があったので救われた。 仕事は決して救われないが。
今回、美術館2、映画6、演劇1、本屋5、レコード屋3。 音楽のライブはだめだった。
でも、渡る前に見たいなーと思っていたのはだいたい見れたからよかったかも。
”Gone Girl”は結局みなかった。 この時期の2時間半はちょっときつい。

あとは秋の食べものまっさかり、どこでなに食べてもおいしいったらなかった。
で、おいしいもの食べると眠くなるの。 でも眠っているわけにはいかないの。だって外にはあんなにも。

夜になると薄手のコートがいるくらいのちょうどよい晩秋の陽気で、日中は陽射しが気持ちよくて外を歩いているのが楽しい。散歩させられている犬の気分だったかも。

ブライアントパークのスケートリンクはもうオープンしていた。真ん中付近の氷は融けていたけど。
で、あさってはもうハロウィンなんだねえ。 このぶん(てなに?)だと、盛りあがるねえ。

帰りたくないなー。 帰ったらもう今年はおわりみたいなもんよね。

日本ではNFCでやっているMOMAのがくやしいったら。
しばらくはそれに首つっこんで、日本を忘れることにする。

[art] Egon Schiele: Portraits

到着した23日木曜日のごご、雨のなか地下鉄で86thまで行って、Neue Galerieに行ったら外に行列が出来ていたのでびっくりした。 最初はCafé Sabarskyの列かと思ったらそうじゃなくて展示のだと。 木曜の夕方近く、雨なのに。 狭いところだからかしら、とにかく並んで入った。

Egon Schieleの肖像画を中心にした展示としては米国では初だという。
1907年頃の真面目な画学生の自画像 - 当然のようにお上手 - が、1909年あたりを境にあのぎすぎすした画風に突如変貌してしまうのがおもしろい。
展示作品のなかではなんといっても、“Portrait of the Artist’s Wife, Standing (Edith Schiele in Striped Dress)” (1915) がキュートですばらしい。こんな絵もあるんだなー。

あとは「エロス」のコーナーのいつものかんじとか、人物画以外では拘留されていた頃に描いた刑務所内の風景とか。

カタログはちょっと分厚かったので諦めた。

それからMetropolitan Museumに小走りしていくつか。雨はあがっていた。
美術館の前の広場、ずーっと工事していたやつが綺麗になっていた。(あんまおもしろみはない)

Thomas Struth : Photographs
写真におけるでっかさとは、サイズとは、ていうのをでっかい写真を前に考える。

Grand Design : Pieter Coecke van Aelst and Renaissance Tapestry

布好きとして見ないわけにはいかなかった。
ルネサンス期のタペストリー作家(ていうのかしら)、Pieter Coecke van Aelstの作品を圧倒的な規模で展開している。 新国立での「貴婦人と一角獣」も見事だったが、あの時代よかちょっと後。 とにかくばかでっかいのがどかどか沢山ぶら下がっているのでそれだけで感嘆する。
構図のかっこよいのと、でっかいくせにやたら精緻なこと、そしてよく見ていると生首とか死体とか生々しいのがごろごろ描いてあって、目を逸らすことができない。 あと1時間でも見ていられる。

Cubism: The Leonard A. Lauder Collection
コレクションの元になったLeonard A. LauderていうひとはEstee Lauderの一族で、Neue Galarieを作ったRonald Lauderの兄。 なんにせよおお金もち。

Cubismて、昔からそんなに興味を惹かれる分野でもなかったのだが、Juan Grisのが纏まって展示されていて、ここだけじっくり見る。
“Pears and Grapes on a Table” (1913)とか”Still Life with Checked Tablecloth” (1915)とか。
キュビズムにおける空間と物体 - 平面云々、というよかグラフィックとしてまずかっこよくて、色鮮やかにそこにある果物たちの静かな威厳があって。

Death Becomes Her : A Century of Mourning Attire

ほんとうはこれが一番見たかったThe Costume Instituteの秋冬もの。
19世紀初から20世紀初頭頃までの欧米の喪服あれこれを展示。
照明は薄暗めで、点数はそんなにないものの喪服はほとんどまっ黒(Queen VictoriaとQueen Alexandraが着たのだけ別)だし、鎮魂歌とか葬送曲みたいのが厳かに流れていてとっても地味で、それ故に生者が死者に向かう/死者を送るときの装いについてしんみり考えさせられる内容の展示で、よかった。 なぜ黒で、なぜ静かでなければならないのか? ”Death Becomes Her”。

あと、喪服の未亡人、みたいな妄想はいったいどこから湧いてきたのか、とか不謹慎ながら。


今回、MOMAは行かなかった。”Henri Matisse: The Cut-Outs”(こないだまでTateでやっていたやつね?)とか”Robert Gober: The Heart Is Not a Metaphor”とか、見たいのはいろいろあったのだが、なんとなく。

10.25.2014

[log] October 25 2014

発つときは低気圧でぐったりで着いてからも低気圧で雨びしゃびしゃ、空港からの道路はいつものようにありえない渋滞でみるみる頭痛が襲ってきて、車酔いも波状攻撃でやってきて、しんだ。
ホテルに入って、これもいつものようにお水買って、Eli'sでドーナツ買って、こいつをRonnybrookのミルクで戴いて、頭痛薬も流しこんで、これで落ち着くわけではないけど、とりあえずだいじょうぶ、て思いこむ。 で、3時過ぎに外にでた。

晩御飯食べて部屋に戻ったらTVがおおさわぎで、NYで最初のエボラ+の方がBellevueの病院に収容されたという。 聞けば、LでWilliamsburgに行ってボーリングしたり、Meatball Shop行ったりしたという。なんかいい人じゃないか。 だいじょうぶです落ち着いて、と市長とかは言っていて、そんなの当たり前だしLの地下鉄なんて乗らないわけにはいかないし。 どうか快方に向かわれますように。

昔の炭疽菌のときとおなじよね。 どうしろっていうのさ。

しかし、あんなふうに直近の行動ぜんぶ露わにされちゃったらたまんないねえ。映画館のどの椅子とか、レコ屋のどの棚とか、言わなきゃなんなくなったら、やだな。

というわけで土日がきた。 よい天気。 いかねば。

10.23.2014

[log] October 23 2014

低気圧頭痛でげろげろになりながらもなんとか成田まで来ました。
これからお仕事でNYに行って、木曜日に戻ってくる。
今度のは他の国とか他の大陸にはいかない。 JFKに飛んでって、JFKから戻ってくる。シンプル。
いつも通り、打合せはびっちり濃くて嫌でたまんないのだが、とりあえず、少なくとも土日は、ある。  土曜日と日曜日の48時間は。

前回、9月の始めに行ったときは、完全な敗北、作戦ぜんぶ失敗して、あらゆる隙間も突破口も退路すべて塞がれ絶たれて10回くらい悶死して憤死して脳死して、やるきをもがれた芋虫状態のままドナドナと次の土地に運ばれていったのだった。

今回はこの失敗と屈辱を胸に刻んで、ぜったいなんとかせねば、と誓った。 自分の時間を自分で使えないでどうするのよ。  まあそんなのいいから仕事しような。

でもさあ、いくらあがいて小細工したって土日しかないわけだし、スケジュール確定が直前だとどうしようもない。 とくにこんなふうな季節ときたらー。

CMJ Music Marathonが始まっている。 Slowdive (前座にLow)とか、取れるわけないし。
Wilcoだってやってるけど手も足も。

The StoneではResidenciesでMAKIGAMI KOICHI weekが始まるし。

MOMAでは毎年恒例の”To Save and Project: The 12th MoMA International Festival of Film Preservation” もはじまる。
MOMAといえば、京橋で始まるほうに突撃できないのもくやしい。

Lincoln Centerでは、”Goodbye to Language 3D”が29日(... 帰る日)から。

とかいっても、結局は頭とかお腹とかがぱんぱんになるか、ぐだぐだ時間切れで適当なところで落ちてしまったりするの。地図が常に描き換えられてて本屋とレコ屋になにが待っているかわかんない以上、しょうがないの。
でもそれでも失望や落胆に回収されることはない。NYていうのはそういう場所で、こうして永遠に満たされることがないまま気がつくとこんなふうな。

そうか、Strandがヴァイナルの扱いをはじめたか。

ではまた。

10.22.2014

[film] Dawn of the Planet of the Apes (2014)

低気圧のゔ ...

18日の土曜日、「あゝ青春」のあとで、あゝそういえば見てなかったかも、と六本木に出て、見ました。

元々すごい思い入れのあるシリーズでもなくて、最初の「猿の惑星」のラストの衝撃 - 「猿の惑星」は実は地球だった! の背景とか諸事情とかを遡って説明してくれるやつ。

小学校のときにTVで「猿の惑星」がかかった翌日、みんなで見たかすげえな、てざわざわしていたものだが猿ならいいじゃん、虫とかタコとかじゃなくてよかったじゃん、と思ってしまったくらいだし、近年はとくに、人間なんていらねえんじゃねえか感が強くなっているので、筋の運びも含めてまったく違和感ない。 X-Menは少しはらはらするけど、猿のほうは安心して見ていられるの。

前作の後、San Franciscoの山中でオーガニックでピースフルなコミュニティを育んでいたシーザー(Andy Serkis)たちのところに突然人間数名が現れて、人間界で電気が足らなくなったので、森の奥にある水力発電ダムを動かしたい、ていう。 そこでひと悶着あったので人間には出ていってもらうのだが、人間代表(Jason Clarke)は、シーザーは悪い奴じゃなかった、てもう一回お願いに行って、なんとか許可をもらう。 けど、猿のなかにはヘイト人間の武闘派がいて、クーデターを起こして山を下りて人間界に突進していくの。 迎え撃つのはGary Oldmanで、でもBatmanは出てきてくれない。

前作で猿達は山に逃げこんで、そこで人間とは切れたはずだった。 今作で先にちょっかい出してきたのは人間だけど、それを受けて攻め込んでいったのは猿で、結果的には猿が戦を仕掛けたようになってしまった、だから後戻りできない、もう戦うしかないのだ、とシーザーが決意をしてJason Clarkeと訣別するところで終わるのだが、これって近代のテロとか戦争が勃発するメカニズムそのもので、あーあ、だった。 薬物で進化した猿でもそこは無理なのか。

あとはリーダーの資質みたいなとこもシーザーと、クーデターを起こすコバとの間で問われたりするものの、ここも結局わかりやすいパワーゲームなのね、とか。 シーザーがふたたび王として君臨するところは「地獄の黙示録」みたいでおもしろかったけど。

人間くたばれ、シーザーがんばれ、目線で見ているので、お猿さん達には一生懸命がんばってほしいのだが、彼らって人間とおんなじエモと倫理と論理で動いていくので危なっかしくて、その危うさがおもしろいと思うひとにはおもしろいのかもしれない。 でも今回のに関して言うとヒトの人種間の紛争ものとそんなに変わらないよね。

次のでどれくらい猿要素が噴出してくるのか、に期待したい。 猿が勝つにしても。
James Francoが再登場してくれたりしないだろうか。 "This is The End"ぽいし。

Keri Russellさんもお母さん役なんだねえ ...

10.21.2014

[film] Jersey Boys (2014)

19日の日曜日の昼間、六本木で見ました。 ようやく。

オリジナルのブロードウェイのは、オープンした頃にNYのオフィスにいたおばさん(典型的なイタリア系の、口やかましいおばさん)がやや興奮ぎみにやってきて、いいか、あれこそがあたしの青春どまんなかのお話しなんだ、せったいよいからだまされたと思って見てこい、て散々煽られ、でもあんたの青春にはあんま興味ないから、て結局行かなかったのだった。
おばさんの青春はともかく、行っておけばよかったねえ。

冒頭、"December 1963 (Oh What a Night)"が鳴りだしただけで、うぅ(やばい)、てなって、最後のほうはぼろぼろに泣いてた。 特にFrankieの娘が亡くなってBob Gaudioがあの曲のスコアを持ってきて、スタジオのリハで曲の旋律の一部がぽろぽろりと聞こえたあたり、それが(わかっちゃいるのに)、きたきたきた(もうぜったいだめ)ってなって堤防が決壊してからはいっきに最後まで、画面がまっくらになるまでは滝のようだった。

音楽がいかに人の生を照らしだし、その同じ灯りが愛しいひとの顔と瞳を映しだし、それがどんなふうに救いと希望と安堵をもたらしてくれるのか、そのありさま ー 3ピースバンドが4ピースバンドとなり、やがてホーンやストリングスの奔流を巻きんでエモの洪水として襲いかかってくる、その数十年に渡る愛の絵巻を、そいつを3分間にパッケージしてしまう魔法。 魔法だからね。 抗っても分析してもしょうがないのよ。

どこにでもある/あった、使い古されたローカルバンドの成功譚。 大成功のあとで、メンバーの使い込みがばれて、でもそれを歯をくいしばって自力で返済しようとする。 拾いあげてくれた仲間だから。 Jerseyの少年達だから。 
もういっこ、裏の旋律としてイタリア系ギャングのうんたら、ていうのもある。
一度その目線を交わして掌を合わせたら、その契りはぜったいで、決して目をそらしてはならないの - Can't Take Your Eyes Off Me.

でもだからといってべったりしていない。 浪花節にも根性節にもならなくて、ひたすら音楽に、ハーモニーに向かっていくの。 バンドのバイオグラフィを音楽が追っかけるのでも、音楽の連鎖のなかにストーリーを浮かべる(ミュージカル)でもなく、そこには最初から音楽しかない。63年の12月のあの夜のことしかない。

“Oh, what a night
Hypnotizing, mesmerizing me
She was everything I dreamed she'd be
Sweet surrender, what a night”

ここでの”She”が音楽なんだ。 たとえば。

Clint Eastwoodの映画作法とか傷痕みたいのを掘るのは別にやりたいひとがやればいいけど、今回のに関してはBob Crewe & Bob Gaudio組の驚異とか、Frankie Valliの奇跡とか、そっちのほうだから。
ブロードウェイのプロダクションとしてあった、ていうのもあるけど、作家性のはなしなんてなくてもぜんぜん。

とか思うものの、画面の黒とか赤紫とか、素敵だよねえ。 (撮影はTom Stern)

小学生のとき、BCRの"Bye Bye Baby (Baby Goodbye)"があって、大学生のときは、Boys Town Gangの"Can't Take My Eyes Off You"があって、これらはいつどこに行っても流れていたので、なんか刷りこまれている、というのを改めておもった。 この映画が音楽好きの子供たちによい形で刷りこまれますようにー。

関係ないけど。 Rainer Mariaが復活し、Cursiveの”The Ugly Organ"が再リリースされ、The Afghan Whigsの"Gentlemen"が21歳記念で再リリースされ、更にはSleater-Kinney までもが!  なんというか、きっとふつうじゃない、よくないことがおこる。

これも関係ないけど、この映画のイタリア系移民の英語、とってもなじんでてわかりやすい。
自分の英語脳はイタリア系とプエルトリコ系なのね…  てしみじみした。

10.20.2014

[film] あゝ青春 (1951)

18日の午前、シネマヴェーラの佐分利信特集でみました。 
これも佐分利信監督 + 出演によるどまんなかの青春映画。

戦後、アプレゲールの若者たち。 峰子(高峰三枝子)は学費も滞納しがちでずっとバイト先を探していて、他にも夜中に人力車を引いている同級生とか同棲している友達とかいて、みんな大変だし、知性と肉体は別なのよ割り切れるわよ、て歓楽街のダンスクラブみたいなとこで夜のバイトを始める。 ぶあつくお化粧したり派手な洋服着たり踊りたくないのに踊らされたりいろいろあるけど、家族も周囲もがんばっているからがんばらなきゃ、なの。

リベラル寄りの佐竹教授(佐分利信)とか、大金持ちの会社員(河津清三郎)とかの大人の世界があり、教授んちのように裕福で幸せそうな家庭があれば、同棲している友達みたいに、理想と現実のギャップもろかぶり、みたいなとこもある。 世の中って。 大人って。

大学野球かなんかで勝ったお祝いのどんちゃん騒ぎの波に呑まれて酔っ払って、「おんなの命より大切なもの」をどうやら奪われてしまったらしい、て深刻に真剣に泣いたり、同棲していた友達は妊娠して(させられて)どうしよう、て泣いたりしていて、ほんとうにいろいろある。

公金を使いこんでやばくなったらしい河津清三郎に一緒にしんでくれ、て迫られるあたりがヤマなのだが、これがなくても十分目がまわるくらい忙しくて苦悶してばっかしだしお勉強もしなきゃならんし、息絶え絶えに「あゝ青春」ていった後に、ばっきゃろー、のひとつくらいは吠えたくなる。

結局、苦難を乗り越えて成長できたのかできなかったのか、幸せになれたのか、みたいなところでいうと、たぶん「成長」はできたのかもしれない、けど成長ってなんだよ? ていう問いの元に再びえんえんループが始まる。 で、これもまたお決まりの「あゝ青春」の変奏、ではあるのね。 真面目だからって幸せになれるのか、ていうと峰子ちゃんには難しいかも。

あと、結局貧困が、貧しさがいけないのか、諸悪の根源なのか? ていうところは今の世のと同じなのか違うのか、もし同じだとしたらこの辺の呪縛って、戦後からずーっと深くに根を張ったままで、相当ひどいよねえ。

高峰三枝子が学生には見えないくらい落ち着いてみえたので調べたら、映画公開当時はすでに30超えているのだった。 やっぱし。

[art] 菱田春草展

13日の月曜日の午後、「人生劇場」の後に竹橋に行ってみました。
「白き猫」(1901)とか重文の「落葉」(1909)はこの日までだというので少し慌てて。

それにしても、日本美術によくある展示替えって、なんなんだ、ていつも思う。
金と暇がいっぱいあるじじばば向けに少しでも多くの、かもしれないが、こちとらそんな暇じゃねえんだよ。 海外とかから来て一回しか見れない人のこととか考えてやれよ。 「黒き猫」と「白き猫」を一緒に見れないって、ひどすぎないか。

さて、菱田春草の絵は、竹橋とか上野でいくつかは見てきてはいたものの、纏まって見ていくとおもしろい。
日本画の空間表現、まで拡げてしまうと朦朧としてしまう(朦朧体だし)けど、絵の表面で「視線」はどこから入ってどこに抜けていくのか、そのとき地面と水平線はどこにあって、見ているわれわれはどこにいる想定なのか、この辺りが、西欧の絵画の明快さとははっきりと違っているの。 「落葉」の空間配置がいかに変で異様な印象を与えるか、については昔、岡崎乾二郎さんが溝口の映画を引き合いにしつつ論じたのがあって(Webのどこかにある)、ああこういうことなのね、て改めて思った。 フレームの下に向かって際限なく爛れるように落ちていく葉っぱたち。

そして、なぜ猫なのか問題、というのもある。 白いのは大抵丸まっていて黒いのには動きがある。でも白黒どちらの輪郭もその生の輪郭そのものとしてそこにある/いる不思議。 その特性は果たして絵画のものなのか猫のものなのか。  猫以外だと、あの鹿野郎はどこを見ていて、どこに行こうとしているのか、とか。
そいつらが動きだすまでこちらの動きも止まって凝視してしまう、そういう強さがあるの。 引き込まれる、というのとは違う、つい息を止めて睨めっこしてしまうような。

朦朧体、と言われていても絵から受けるイメージにはフレスコ画の硬質さがあり、ガラスの裏側にしっかりと塗り固められているかのようで、その濃厚な霧のなかにいる小さくて固い動物たち。 うずくまっているけど、どこかを見つめていて、それが射してくる光のように空間の濃淡と粒度を決定づけている。

そんなふうにしてそこにある靄と光とちっちゃい動物を見ているとそれだけでだらだら時間が過ぎてしまうのだった。

10.19.2014

[film] Under the Skin (2013)

17日の金曜日の晩、新宿で見ました。 なかなかふつーの時間帯に上映してくれなくてさ。

すばらしくおもしろくて刺激的。 そしてすんばらしいScarlett Johanssonのお尻。

最初に宇宙だか瞳だかの空間イメージがあって、上空から夜の山間を疾走するバイクがとらえられて、そのバイクから降りた男が茂みの奥から女性を担いで車に押しこんで、その動かない女性の服を脱がせて自分のものにするもう一人の女性がScarlett Johanssonで、彼女はスコットランドの町中をひとりで車を運転して車の中から男に声を掛けて道を訊いて、場合によっては男を車に乗せてあげる。

そういうのが数回繰り返されていくだけで、彼女がどこから来てどこに向かっていてなにをやっているのか、やろうとしているのか、一緒にいた男性達がどこに消えてしまったのかはあんましよくわからない。

邦題とか日本の映画の宣伝文句によると彼女はエイリアンで男性は捕食された、ということのようなのだが、そんなの画面を見る限りどこにも示されてはいない。 (原作にはあったのかもしれないけど)

むしろ映画が掘り下げていくのはタイトルにもある”Under the Skin” - 皮膚の表面とその下/裏側にあるなにか、感覚と非感覚の境界とかその間にあるギャップとか、さらにそれらの総体 - 肉の塊として歩いたり動いたりしていくヒトの身体とか、そういうところにあるような。

彼女が車に乗せた男たち - 食べられちゃった?  最初のふたりは割と均整のとれた肉体を持っていて自ら喜んで脱いだりするのだが、3人目に乗せた男は、実はFrancis Baconで(見ればわかる)、彼については服を脱がせても手をださないの。 それはなぜだったのか、がこの映画のテーマとするところで、それはそのままFrancis Bacon論になる、というかこの映画の原作はBaconの絵画なのかもしれない、とか。 スコットランドに南下してきたBacon。

そしてもうひとつ、なぜScarlett Johanssonだったのか?  ということ。

ストリングスをシュレッダーに掛けて散らして叩いて固めたような音楽はMicachu & The ShapesのMica Levi。 音響も含めてすばらしいので爆音でほしいよう。

[film] 人生劇場 第一部 / 第二部 (1952 - 1953)

シネマヴェーラの特集「日本のオジサマⅡ 佐分利信の世界」で11日の朝に「第一部 青春愛欲篇」を、12日の朝に「第二部 残侠風雲篇」を見ました。
これはもちろん、前の日に見た”Nymphomaniac”のVol. IとVol. IIにも時代を超えて呼応しているのである。(おおうそ)

尾崎士郎の原作は読んでいないし、この原作を元に作られた沢山の映画のどれも見ていない。
とにかく「人生劇場」的なもののすべてから全力で逃げてきたこれまでの人生だったわけだがそろそろ向きあってみてはどうか、とか思ってしまったわけだ。 もうどうせ手遅れだし。 台風とかきてるし。

父の死により郷里に戻った青成瓢吉(舟橋元)がいて、その帰省の電車には幼馴染の初恋のひとで新橋のセレブ芸者となったおりん(高峰三枝子)がいて、地元の侠客だった父(監督の佐分利信が演じてて、やたらかっこいい)は借金と立派な男になるべしていう手紙を遺しただけで逝ってしまい、瓢吉はわかったよ父ちゃん立派な男になるよ、てがんばるの。 それだけなの。

大学(早稲田)で総長夫人像の建設反対の学生運動とかを通して知り合った仲間との話とか、お袖(島崎雪子)を始め知りあったいろんな女性達とか、郷里で父の傍にいた侠客の吉良常(月形龍之介)に飛車角(片岡千恵蔵)といった強くかっこいい男達とか、いつも酔っ払ってズボンを脱いでご機嫌の黒馬先生(笠智衆)とか、そういう人達が次々に登場する劇場で人生が展開する、というか、人生とはそういう劇場とかドラマとかロマンとかを作っていくもんなのである、とか。

で、そんななか、主人公は気がつけば作家として有名になってて生活にも困ることなく、沢山の女も昔の仲間もやくざさん達も現れたり消えたりしつつもずっと傍にいてくれて、父の面影は頻繁に脳裏に蘇ってくるものの、何かすごい修羅場とか勝負に直面していちかばちかの決断を強いられ煩悶呻吟する、ような局面が映画ではあんま描かれていないので、なんかそつなくやってるじゃん、みたいに見えてしまうの。 そんなもんなんだから適当にやっとけ、ていうあたりが狙いなのだとしたら、おもしろいけど。

ヒトの人生についてとやかく言うつもりはないけど、この映画のなかで展開流転されていく要素って、特集のタイトルでもある「日本のオジサマ」が飲み屋とかで得意げに自慢しそうなあれこれそのまま、今だとギャグにしかならないようないろいろ、なのよね。  
で、最後にはママンのところに還る、ていう。

ストーリーはともかく、映画としてはやや強引に(おりんとの回想シーンがいきなり父の自殺につながるとことか、なに?)すたこら流れていって「愛欲」も「風雲」もあんまなくて、銅像の西郷さんが笑ったりしてお茶目なところもあるし、ぱっとしない系の青春映画としてはよいかんじだったかも。 

10.18.2014

[film] Nymphomaniac: Vol. I (2013)

11日の午後、「ジェラシー」の後、そのまま渋谷で見ました。 この日が初日だったのかしら。

薄暗くじっとり陰鬱で錆ついた路地のようなところをカメラがゆっくり動いていって、そこにRammsteinががんがん鳴りだすオープニング。 もろメタルのPVみたい。

地べたにJoe (Charlotte Gainsbourg)が行き倒れてて、それを通りすがりのおじいさん - Seligman (Stellan Skarsgård)が拾って自分のアパートの一室に連れていく。
介抱されたJoeは老人に警戒しつつも、彼に促されるままに身の上と生い立ちを語りはじめる。

Joeは子供の頃からやらしいことが大好きで止められなくて、何かに憑かれたように「道」としてのセックスを究めようとしているかのようで、そういうのを聞かされるSeligmanはあんまよくわからないながらも、おおこれはウォルトンの「釣魚大全」の毛針じゃ、とかフィボナッチ数列じゃ、とかバッハのコラールじゃ、とかいちいち頷いて興奮する(そっちか? みたいな)。 JoeとSeligmanの間に共通のプロトコルみたいのはなくて、Joe自身の語る自身の過去にも、なんでそんなんなっているのか、の解はないし、解を探しているわけでもない。 解とか和解/理解のないところで、精神分析とか家族問題に深入りすることもなく、でもセックス道は究めなくていけない、みたいに若いJoe(若いときだけ、演じているのはStacy Martin)は突っ走っていく。 

”Antichrist” (2009)で神を殺し、”Melancholia” (2011)では地球を壊したLars von Trierの根拠不明の不機嫌が、根拠不明の色狂いを追うことで少しだけ笑いの方に傾いているかのような。 わかんないけどね。 Vol. IIだってあるし、いつ臓物が、とか結構はらはら緊張していたし。

メタルに求められる映像のイメージをある程度集約可能なように、ポルノ映像 - 他人の肉を求めたり求められたり - に期待されるイメージやシンボルも集約可能で、さらにそれを(Vol. I では)求道の物語のなかに置く、しかもそれを枯れた老人が聞く物語としてしまうことで、全体が標本箱のなかに精緻に並べられた虫たちのように宙に浮かんでいるような。 生のコンテクストから切り離された、まったくそそられない、ホルマリン液のなかに浮かぶ「性」の世界。

そして少年ジャンプかよ、みたいなVol. I の終り方ときたら。 これだとVol. IIには公開前夜から並ばないわけにはいかなくなるよね。 

ボカシがうざくて見ていられなくなることを心配していたが、そういう箇所自体があんましないのだった。 でも、それでもボカシはあったけどね。 まったく意味わかんないけどね。
あと、エンドクレジットの終りのほうにでてきたdisclaimer。 まあそうでしょうよ。

10.17.2014

[film] La jalousie (2013)

11日の土曜日の昼、渋谷でみました。

役者をやっているルイ(Louis Garrel)はかわいい娘シャーロットがいるのに家を出て、やはり役者をやっているクローディア(Anna Mouglalis)と同棲してて、クローディアの方もいろいろあって、ぜんぜんうまくいかない家族とかふたりとかのやりとりが延々続く。
だれがどうしてどうなった、はあまり重要ではなくて、ジェラシー - 嫉妬が動かしていくなにか。

家族とかその繋がり、 とかよりも血、のようなものを描いているというか。

ついこないだ見たガレルの映画が「救いの接吻」(1989)だったので、どうしてもあそこで壊れてどんづまっていた家族のお話し - 自分を映画の妻役に起用してくれない、とぶち切れる妻 - を思いおこさせる。 あそこで主人公の映画監督を演じていたのは監督本人で、妻は当時の妻Brigitte Syで、息子はまだ洟たれのLouis Garrelだった。

今回のは、ルイが30歳だった頃の実祖父Maurice Garrelを演じているという。 監督ガレルにとってみれば自分の父を自分の息子が演じているわけで - 自分の父の過去の挙動を息子に映像として刷りこんでいるように見える。 それは教育なんてものではもちろんなくて、父の彷徨いと母の嫉妬と悲しみを反復させる - それをフィルムに落としこむことでなにがどうなるというのだろうか。

これが嫉妬なんです - こわいですねえやばいですねえ、みたいな書き方はしていなくて、嫉妬は目に見えない空気のようにそこにあって、彼女から彼へと伝染していく。 どちらが悪い、とかそういうことではなくて、ふたりの間に空気がある以上、感染は避けられないの。 子供だけが無垢で無防備で、子供だけは誰からも等しく愛されなくてはいけないから。

ガレルの描く修羅場って、まったく修羅場に見えない。 それは画面がきれいだからとかそういうことよりも、そういうのが乗り越えるべきもの、隠蔽されるべきもの、として登場人物たちの内面に落ちていない、というか。 そういうのを諦めてしまっている、ていうのともちがって、ただエモの嵐のなかに曝されて流されていて、それでいいの、というシンプルな愛のお話。 だってそういうもんだから、ていう。

その反対側にあるのが死とか別れとかで、死は確かに辛くて最悪で、ガレルは亡くなったひとのことを大切に大切に描く(今回父をモデルにしたのはその辺か?)、でもその反対側にある今回のは、なんかからからと(比較的) 明るい、ように見えてならない。

音楽はTéléphoneのJean-Louis Aubert。 “Hurt”のような、”Heart-Shaped Box”のような愛の呪文が。

あんま関係ないけど、フランス人と「嫉妬」というと大学の頃に読んだマドレーヌ・シャプサル(インタビュアー)による「嫉妬」(サンリオ文庫)が決定的で、だからフランス人て嫉妬するひとたち、と思いこんでいるところがあるかも、とか。

10.13.2014

[film] A Million Ways to Die in the West (2014)

ようやく追いついてきたかも。
すべてに疲れきってどうでもよくなっていた10日の金曜日の晩、日比谷で見ました。
Million Waysで殺していっそのこと、とか。

血なまぐさい西部の町でナードの羊飼いとして暮らしていたAlbert (Seth MacFarlane)はガールフレンドのLouise (Amanda Seyfried)と幸せだったのにムスターシュ野郎 (Neil Patrick Harris)に寝取られて、しかもそいつと決闘することになってどうしよう、てなったところにかっこいいおねえさん(Charlize Theron)が現れて特訓してくれて、憧れてぽーっとなるのだが彼女は盗賊団の首領 (Liam Neeson)の妻だった、ていう。

“Ted”の監督による西部劇、設定を19世紀後半に置いてみても基本はあんまし変わらない。 じゅうぶん大人になりきれない主人公がちょっと変な仲間とかの助けを借りて成長する、そういうお話。

誰もがいつどんなふうに死んでも/殺されてもおかしくない非情・無法の西部でナードはどんなふうに生きるべきなのか、生きられるのかという成長譚なので、ものすごい悪い奴とか絶体絶命とか復讐とか裏切りとか、そういう要素は薄い。 舞台をそのまま21世紀アメリカの田舎の高校とか大学に置いてもまったく違和感なくて、違うところは人がころころ死んでいく、とかそのへん。

というわけでドリフのギャグのように死にネタ下ネタ下痢ネタのオンパレードで、PTAには確実に評判よろしくない、であろうが別に構うもんか。 西部なんだし。
残念なのは音響というか、会話も含めて全体に音がクリアできんきんしていて、現代ドラマのそれと変わんないの。 TVでSNL見ているんならわかるけど、西部劇でこれはないよねー。

あと、これは完全に好みだろうけどSeth MacFarlaneの顔がさあ、Mike Myers のようでありRyan Reynoldsのようでもあり、のっぺりぺったりしすぎていてつまんないのよね。 西部にいないよねあの顔。 で、Sarah Silvermanならまだしも、Charlize Theronはあんなのに惹かれないだろ、とか。

[film] Ghost Busters (1984)

ずっと昔に見たやつで書くの忘れていた。 少しだけ。

9月5日の金曜日の晩、六本木で見ました。
30周年でBlu-Rayだか4Kリストアされたのを1週間限定公開する、というのを聞いて、日本でやらないのなら米国に行くしかあるまい、くらいに思っていたら日本でもやってくれた。

もちろん映画館でも公開時に2~3回は見ているし(昔は入替制なんてなかったから一日でも見ていられたんだよ)、TVでも数十回は見ている。

最高のNYバビロン映画であるだけでなく、Bill MurrayにDan AykroydにHarold Ramisの3人組が見事に拮抗していて、彼らの絡みにへらへらしていると、最後にマシュマロマンがぜんぶ持っていってしまう。最初にあれが建物の合間に現れたときの衝撃ときたらとんでもないものがあったの。

今回のリストレーションの画質というとなかなか微妙で、ゴーストをやっつける光線のウルトラヴィヴィッドな色味がばりばりに出過ぎて浮いていて、あんましだったかも。くすんでぼやけたフィルムの向こうでびかびかなにかが点滅する、くらいでちょうどよいのかも、て思った。

とにかくでっかい画面ででっかい音で見て聞ければそれでよかったのに (六本木のはArt screenだった)。 音もちょっと小さかったかも。 アパートのてっぺんから落ちてくるマシュマロの轟音を浴びたかったのになー。

そしてついこの前の、ぜんぜん進まなかったリブート版(part3)がPaul Feig監督により、主要キャストを女性にしてはじまるというニュース。 今度こそはじまってほしい。 どこかの誰かが予測していたような最強の4人のほかに誰がいるだろうか。  Melissa McCarthyとKristen Wiigはふつうに入るべきだとおもうし、リーダー格はCameron DiazとかKirsten Dunstにやらせてもよいとおもうし、戦闘員としてJennifer Lawrence, Shailene Woodley, Jena Maloneあたりがいても構わないとおもうし、喜んで血をかぶるChloë Grace MoretzとかSaoirse Ronanみたいな娘がいても素敵だとおもうし、大巫女としてYoko Onoとかがいても、とかいくらでも夢想してあそべるねえ。

で、主題歌はアナコンダのひととか?

10.12.2014

[art] Félix Vallotton - Le feu sous la glace

『ヴァロットン展 ―冷たい炎の画家』

展覧会最終日の23日、慌てて駆けこんだ。 チケット買うのに並ぶのが20分。見るのに30分。そんなもん。

あまり予習してこなかったので最初のほうでナビ派の名前が出てきたときには少し驚いた。
ナビ派、といって必ず名前の出てくる3人 - Édouard Vuillard, Pierre Bonnard, Maurice Denis - あれらのいじくりたおして爛れた色彩が照らしだす世界とはぜんぜんちがうし。

のっぺりと平坦に捉えた視野を少し歪ませてその球面に申し訳程度に人を置いてみるような「ボール」(1899)、「白い砂浜、ヴァスイ」(1913)といった風景画、「貞節なシュザンヌ」(1922)からうかがうことのできるひんやりした、悪意たっぷりの視線、あえて背後を、てかるハゲ頭を狙ってくる構図の室内画、ぜんせんエロくない裸体画、ぜんぜん神々しく見えない、みっともない人体ばかりの神話画、などなど。

簡単に連想できるのは、例えばEdward Hopper、ヨーロッパの辺境スイスで独特に捩れてしまったHopper、みたいな。 でも彼みたいに絵の世界にはまりこんでいるのでもなさそうな。
(Alex Katzの名前も出るようだが、そうかなあ… )

木版画も、線はくっきり出してくるけど彫りの情念、みたいのはあんましない。
「怠惰」 (1898) - うつ伏せの白い裸婦に白猫、とかのだらだらしたやつらがすばらしい。

「臀部の習作」 (1884)とか「赤ピーマン」(1915)とか、技術はしっかりしているふうなのだが、その情熱の向かう先がお尻 - 特に魅力たっぷりのお尻というわけでもない - というあたりが、「冷たい炎の画家」だの「裏側の視線」だの、ていうことになるのかしら。
でも裏側行ってみると実はなんもない、みたいな。 

1900年代以降のあの構図から抽象に向かわなかったというのもおもしろいねえ。

10.11.2014

[film] ソニはご機嫌ななめ

出張にでる前の日、27日の土曜日、新宿でみました。

やっと見れた。 「恋愛日記」と「ご機嫌ななめ」だったらどっちを取るか。 
「ご機嫌ななめ」のほうを取ってしまうのがいまのじぶん。

英語題は”Our Sunhi”。

オープニング、まっきいろのバックに手書きみたいなハングル、放課後の小学校で鳴っているようなピアノがぶかぶかと被って、「なめてんのか?」のかんじがやってくるとそこにはもうホン・サンスの世界が拡がっている。

ソニは大学の構内でかつての先生に米国留学の推薦状を書いてもらうためにやってきて、久しぶりだったし先生は今後のことも含めて当然いろんなことを聞いてくるのだがソニにはなんかそれが気にくわない。

なんかもやもやしてチキン屋に入ったら窓の外に元カレが歩いていたのでそいつを呼びこんで、でも彼はソニにまだ未練たらたらであれこれ言ってきて、彼とはもうおわったと思っているソニはめんどくせえ、ておもう。

元カレは未練たらたらの延長で先輩に会って、居酒屋でチキンを取ったりしつつぐだぐだ飲んで泣き言を垂れ流してみっともないのだが、まあよくあるはなし。 今度はその先輩がソニに偶然会って、また同じ居酒屋で同じような展開になって、妻と別居しているらしい先輩はソニのことが気になってくる。

ソニの推薦状を作る先生もソニに会っているうちになんか仲良くなって、この娘をなんとかしてあげなければ - なんとかしてあげられるのはこの自分だけだ - みたいになってくる。

そしてクライマックスは、前のなんかのホン・サンス作品(金太郎飴なので題名わすれた)にあったように公園での息を呑むすれ違いで、かといってぜんぜん盛りあがらないまま、誰が幸せになって誰が地獄に堕ちるのか不明のままにぷつん、と途切れてあの4人の像はあの公園のなかに永遠にとどまって彷徨っているの。 すてき。

恋愛がないからご機嫌ななめなのか、ご機嫌ななめだから恋愛がやってくるのか、ご機嫌まっすぐだったら恋愛はいらないのか、そんなような戯言の向こう側で、それぞれがそれぞれのご機嫌ななめを抱えこんですたすた歩いてすれ違って、それだけの映画。
恋愛なんてチキンみたいなもんだ。 食いたいやつが食えばいいだろ、とか。

10.10.2014

[film] Promised Land (2012)

前の前、米国-メキシコ-英国-オランダ-ドイツの出張から戻った翌々日の21日、日比谷でみました。

監督がGus Van Sant、原作はDave Eggers、これをMatt DamonとJohn Krasinskiが脚色して、エネルギー利権に絡む環境問題(ていうほどじゃない。その行方、くらい)を慌てず騒がずどっしりと描いた愛と正義のいっぽん。 まったく嫌いじゃない。

シェール採掘会社の営業屋 Matt Damonが君には期待しているから、と上に言われて部下のおばさん - Frances McDormand と共に田舎町に送り出される。 土地の農家にかけあってお金と引き換えにガスの採掘権をもらう、そういう契約を結ぶ。 地権者は高く売りたいし、買うほうは叩いて安くしたい、けど農民には金がいるし町にも金がいるし、大筋ではお金のほうに流れてくるはず、買い側が楽勝のはず、だった。

けど環境へのリスクがある、と地元の老人がひとり立ち上がり、はいはいじいさん、て嘗めていたら実は引退したばりばりの科学者でエンジニアだった、とか、どこからか環境保護団体のJohn Krasinskiが降りたち、先祖代々から続いていた土地をシェールはぼろぼろにした、後にはなにも残らなかった、止めなければいけない、て人なつこくキャンペーンを始めるとか、あとは土地の娘にぽーっとなってしまったりして、だんだんに揺らぎはじめる。

これを単なるビジネス戦記のように描くのでも、正義と悪の対立のなかに描くのでもなく、アメリカの田舎に流れるほんわかした空気と共に、いろんなひとがいていろんな考えかたもあるしお天気だって変わるよね、とうぜんよね、みたいに醒めて描いているのがよいの。 契約書ていう紙っきれのために大企業はものすごい時間と労力をつぎ込んで、その紙っきれが地面に穴をあけて、そいつが別の紙っきれ(札束)を呼びこみ、それらが(一部の)ひとを幸せにする、という近現代の異常さがとてもわかりやすく暴かれている、というか。

ある土地に生まれてそこで育ってそれを引き継いでそこに暮らして次に渡す、それは契約うんぬんとは全く異なる世界のはなし、そのサイクルを司るなにかにあーめん、て手を合わせるのは好き好きだとおもうが、でもそれらはやっぱしPromised Landと呼ばれる目に見えない契りのなかにあって、われわれが生かされるのはこちらのほうなのだ、という。 
決して「連中」の運んでくる紙束に置換しうるものではないのだ、と。

要するに金じゃねえんだよ坊主、ていうだけなんだけど、殴り合いにも殺しあいにもならない、勝者なんてどこにもいない原っぱのまんなかでそれを呟くのが素敵なの。

Matt Damonの最後のほうの顔がすばらしくよいねえ。
苦渋、というより悶々とした表情の果てに、静かになにかを見つけたとき/なにかを捨てたときの顔。

あとは大企業って、えげつないのよね、ほんと。 国もそうだけど。 よいこはくれぐれも気をつけないとね。

10.09.2014

[log] SFそのた - Sept 2014

土曜日の晩22時すぎに帰国して、風邪と低気圧でしんでた。

出張した週の後半から咳が止まらなくなってきて、いつも秋口に来るやつか、出張先で夜遊びするとばちが当たって出るやつかのどっちかで、飛行機に乗ってすぐ機内食も一切パスしてぐーぐー寝て、で日曜日起きたら声が出なくなっていた。 台風のせいにしておく。

しかし今回のはきつかった。 最後のラウンジまで報告書いて会議しているかんじだった。
そりゃあね、お仕事なんだからやりますけどね。 集団行動てむいてない。(いくつだ)

というわけで、San Franciscoあれこれはあんましないの。

行きの機内は、乗って座ったらすぐに落ちて、起きても機内映画でもう見てないのは残っていなかったから”Chef”とかもういっかい見ていた。 帰り便は10月になってプログラムが変わっていたのだがあんましなくて、目が開いて熱でぼーっとなった状態で”22 Jump Street”を見て(Ice Cubeがぶち切れるとこだけおかしい)、更に時間があまったので”Love Actually”とか見た。 これ、いつ見てもぜんぜんだめだねえ、と思うのだが、男の子が空港内で疾走するところと”God Only Knows”が流れるとこだけ泣いちゃうねえ。

月曜日のごご、仕事でSFのダウンタウン(Twitterの本社がある建物とか)に行ったあとで晩ご飯までの2時間くらいが空いた。 ので、これは行くしかない、と地下鉄でMission地区に走ってBi-Rite MarketとTartine Bakeryに向かった。

Bi-Riteでは、gâté comme des fillesのチョコレートがあったのでいくつか。
meyer lemon chocolate、驚愕のおいしさ。

http://www.gatecommedesfilles.fr/

Tartineは、ちょうどHuckleberryを使ったお菓子お料理のレシピ本の発売記念で、著者のひとが片隅のテーブルでサインしていて、午後4時なのにごったがえしていた。 折角なので、特別メニューのHuckleberry Mini Briocheを食べてみよう、て注文したら売り切れてて、替わりにHuckleberryが上に散らされたタルトを戴いたら、すばらしいさくさくの後からHuckleberryの滋味が襲ってきたので身震いした。 ハックルベリーすごし。

本、どうしようかなー、だったが日本でHuckleberryの入手は難しいよねえ、と諦めた。
でも本書いたひとのCafe、いつか行きたい。 Lupaにもいたひとなのね。

http://www.huckleberrycafe.com/

Tartineの日本進出はもちろん歓迎なのだがちょっと複雑かも。 Le Pain QuotidienもCity Bakeryも日本に来た途端になんかスケールダウンして普通のパンカフェみたいになってしまった気がするのは気のせいだろうか。 自分はそこにパンだけではないなにかを求めているのかも知れないが。

このあと、Valencia stに渡ってCraftsman and WolvesとかAquarius Recordsにも… と悩んだのだが、時間的にどうか、だったので諦めて電車のって帰った。

本関係は、着いたときのCity Lightsのみ、Chris Markerの英語による紹介本といろんなとこで話題の"Women In Clothes" - これおもしろいねえ - とかいくつか。 あと、帰りの空港内の本屋で"Not That Kind of Girl"かった。  いちばん欲しかったのはStephin Merrittの本だったのだが、なかった。

NYFFの動勢をずーっと横目で見てて、見てたからと言ってどうなるもんでもないのだが、シークレット上映作品がNoah Baumbachの"While We're Young" と聞いたときには、あーあ見たかったよう、てがっくりした。

Late Showの音楽で残っているのはBleachersくらい。 おおまじで80年代のスプリングスティーンをやろうとしているかのようにみえた。 そうかー、とか。

こんなもんかしらー。

10.03.2014

[film] The Skeleton Twins (2014)

うううねむいよう。
30日の火曜日の晩、SFのダウンタウンのシネコンで見ました。
ここ、2月に”Winter’s Tale”を見たのと同じとこで、デパートが入っているビルの5階にぽつんとある変なとこで、”Winter’s Tale”のとき、途中で画面がハングして上映が中断して、そのお詫びにタダ券をくれたときのを窓口で出したらすんなり入れてくれた。 

Milo (Bill Hader)とMaggie (Kristen Wiig)が姉弟ということなので”Step Brothers” (2008)みたいなどたばたコメディを期待していたらぜーんぜん違った。

冒頭でMiloはBlondieの“Denis”を大音量で流して、バスタブで手首を切って死のうとしていて、その失敗した自殺の知らせを受けたMaggieは10年ぶりくらいに弟と再会して、自分ちに引き取ることにする。

Maggieは夫(Luke Wilson)とふたり暮らしで、健康でなんも考えていないふうの夫とは距離を置いてて、ダイビングスクールの講師にぼーっと憧れたりしていて、突発的にセックスしてしまい頭を抱えて、でもそこから発展するわけでもなくて、疲れている。

Miloはゲイで、自殺未遂後、昔の恋人 - 高校の頃の英語教師(Ty Burrell)と会ったりしてみるが、既に家庭のある彼からは煙たがられてこちらもぱっとしない。

どっちもどんより腐れているふたりが励ましあったり奮起したりして前を向く、なんて話しではぜんぜんなくて、互いに顔をみてもうんざり、互いに互いをしょうもないと思っていて、どちらも昔の思い出とかにしがみついてばかりで、最後まで輝ける瞬間は訪れないのだが、でもなんかよいの。そんなもんだよねー、とか。

そんなふたりがStarshipの“Nothing’s Gonna Stop Us Now”でリップシンクするところとか、着飾ってハロウィンパレードに行くとことか、どこにも行けない彼らが身を寄せあってぼーっとしているところなんか、すばらしくよいの。

それにしても、Bill Haderもよいのだが、Kristen Wiigがとんでもなくすごい。
"The Secret Life of Walter Mitty”で”A Space Oddity”を歌うとこも泣きそうになったが、今度のはそんな瞬間ばっかし。 険しい顔、しょんぼり顔、寄ってくるな顔、消えてしまいたい顔、クッションに顔を埋めて叫ぶとこ、ぜんぶが素敵すぎる。 


ほんとうであれば、22:00から公開される”Gone Girl”にとつげきしたかったのだが、今日から空港前からより奥地の、周囲になんもないようなとこに移送されてしまったので動きようがない。
ほんとくやしいったら。

9.29.2014

[log] September 29 2014

San Franciscoに着きました。 けどなんもすることがない。 San Franciscoなのに。 ちぇ。

ホテルの窓からは広がる浜辺と空港がようく見渡せる。
飛行機が行ったり来たりするのを見るのは飽きないけど、本屋とかレコ屋の棚のほうが飽きないの。

今日はNational Coffee Dayなのでホテルのロビーのスタバでコーヒー買った。
Tartine BakeryではHuckleberry祭りだというのにどうすることもできないこの悔しさ。
無理にでも朝早く起きて電車に乗るべきだったか。

昨晩、20:30くらいに夕食が終ったのでダウンタウンに行ってみることにした。
ホテルからの定期シャトルで空港に行って、そこからBARTで40分くらい。Powellの駅からタクシーで、と思ったけどつかまらないのでCity Lightsまでそのまま歩いた。
NY Timesの日曜版が置いてあったので嬉しかった(T Magazineの日だったの。あとSF/ARTSていう月刊の冊子が入っていた)。

約1時間だらだら過ごして、またBARTに乗ってシャトルに乗って、0:30くらいに戻ってきた。
戻ってこれるんだね、というのをとりあえず確認。 

そんな、NYの新聞の日曜版を買いに町に出たSFの日曜の晩。

では、そろそろ出るかー。

9.28.2014

[log] September 28 2014

あきれる、というよか何が起こっているのかまったくわからないまま9月がどこかに去っていこうとしていて、とりあえずテーブルをばん! とか叩いて抗議してみたい今日この頃なのだが、日曜の晩だというのにここは羽田で、これからSan Franciscoに飛ぼうとしている。
ますます9月がどこかに飛んでいってしまうよう。飛ばされているのはこっちなわけだが。

SFはだいすきな街なので行くのはよいのだが、今週はどっかのIT企業がでかいイベントをやるとかでホテルがどこもぱんぱん、ようやく取れたのは空港前のしょぼいとこでそれでも一泊軽く$400を超える。 ばからしいったらないの。

それなら無理してSFてやることないのに、東側のNYでやれば、NYFFだって、もう終っちゃったけどPS1でArt Book Fairだって、もう終わっちゃったけどBrooklyn FleaでRecord Fairだってあったのにさ。 て、だれに訴えてやるべきなのか。

だからあんま乗れなくて、ここんとこさえてない。 前の旅から戻った翌日の土曜日は"Model Shop"だけでもと日仏のジャック・ドゥミに突撃するもハエみたいにはたき落とされ、翌日曜日はずっとお仕事で夕方に一本(日仏じゃない)行けただけ、お彼岸の日は最終日のヴァロットン行っただけでなんか疲れてしまい、昨日の土曜日は今年になって最初のお片づけをやってみようと床の上のいろんなのに取り組んでみたものの二つの山をひとつの山とひとつのゴミ山に分けたあたり、約1時間で挫折、ご機嫌ななめになったところで「ソニはご機嫌ななめ」をみた。

今朝はiPhone6がきた、というので取りにいって、時間があいたのでアライグマ映画をもう一回みて元気を貰い、でも昼寝して支度のために起きたらうーどんよりめんどくさい、になったのだった。

ね、なんかさえてないよね。

今度のは前回以上のがちがち団体行動でしかもホテルがあんな場所なので、なにをどうすることもできやしない。 せいぜい夜遅くにBARTで町に出て、深夜0時までやってるCity Lightでうろうろして夜中に戻ってくる、そんなかんじかなあ。 ああかみさま。

では。 よい9月の終りとなりますようにー。

9.27.2014

[film] La Grande Bellezza (2013)

7日の日曜日、「暖春」のあとにそのまま横ずれしてみました。「グレート・ビューティー/追憶のローマ」

冒頭で日本人観光客のおじさんがローマ観光中にぽっくり死んじゃって、以降、いろんな死が。

主人公のジェップは65歳で、若い頃に書いた小説が評価されただけ、それ以降小説は書けなくなってジャーナリストをしながらセレブ相手にパーティ三昧の無為な日々を過ごしていて、死からもそんなに遠くなくなった彼に去来するいろんな想いがローマの町並み、昼と夜の光、自身の過去と現在のなか、だんだらに描かれる。 それだけなの。 冒頭にセリーヌの引用が出て、フローベールも出てくる。

そんなら書けよ、おっさん、とか。

Paolo Sorrentinoの前作 “This Must Be the Place” (2011)も、人生のピークを既に過ぎてアイルランドでぼんやり暮らしている男(Sean Penn)がアメリカに渡って父と「ホーム」を探しあてる、そんなようなお話だった。 こんどのは父も「ホーム」も既に手元・地元ローマにあって、そんな彼が見い出すなにかは、かつての恋人が遺した日記とか、親友の娘の踊り子との出会いとか、よぼよぼのシスターといった、既に亡くなったり朽ちかけているもの、そしてそれらを包みこむ巨大な廃墟であるローマを流れる時間のなかにあって、それをLa Grande Bellezza - The Great Beauty - とよぶ。

まあそうなんでしょうね、としか言いようがなくて、ローマはそういう場所なんだろうな、というのもわかるのだが、それがなんであのおやじなのか、というあたりがあんまよくわからない。あのシスターであってもよいのではないか、とか。 いや主人公はローマという都市そのもので彼らはそこに暮らす鳥なのです、というのならわかるし、エンドロールの河のショットは本当にすばらしくて、あれだけあればいい、というかんじにもなったので、よいか。

監督の若さもあるのか、なんか甘くて野暮なのよね。 ヴィスコンティやアントニオーニだったら”Great Beauty”なんてこと絶対言わなかったと思うし。

あとこれは映画とは関係ないけど、見にきた文化村おばさんの横でぐーぐー寝ているおっさん衆とか、HPの「著名人」編集者のクソみたいなコメントを見ていると、こういうのを宣伝に使えると思っている時点で、日本て腐敗を通り越して終ってるとおもう。