7日の日曜日、「暖春」のあとにそのまま横ずれしてみました。「グレート・ビューティー/追憶のローマ」
冒頭で日本人観光客のおじさんがローマ観光中にぽっくり死んじゃって、以降、いろんな死が。
主人公のジェップは65歳で、若い頃に書いた小説が評価されただけ、それ以降小説は書けなくなってジャーナリストをしながらセレブ相手にパーティ三昧の無為な日々を過ごしていて、死からもそんなに遠くなくなった彼に去来するいろんな想いがローマの町並み、昼と夜の光、自身の過去と現在のなか、だんだらに描かれる。 それだけなの。 冒頭にセリーヌの引用が出て、フローベールも出てくる。
そんなら書けよ、おっさん、とか。
Paolo Sorrentinoの前作 “This Must Be the Place” (2011)も、人生のピークを既に過ぎてアイルランドでぼんやり暮らしている男(Sean Penn)がアメリカに渡って父と「ホーム」を探しあてる、そんなようなお話だった。 こんどのは父も「ホーム」も既に手元・地元ローマにあって、そんな彼が見い出すなにかは、かつての恋人が遺した日記とか、親友の娘の踊り子との出会いとか、よぼよぼのシスターといった、既に亡くなったり朽ちかけているもの、そしてそれらを包みこむ巨大な廃墟であるローマを流れる時間のなかにあって、それをLa Grande Bellezza - The Great Beauty - とよぶ。
まあそうなんでしょうね、としか言いようがなくて、ローマはそういう場所なんだろうな、というのもわかるのだが、それがなんであのおやじなのか、というあたりがあんまよくわからない。あのシスターであってもよいのではないか、とか。 いや主人公はローマという都市そのもので彼らはそこに暮らす鳥なのです、というのならわかるし、エンドロールの河のショットは本当にすばらしくて、あれだけあればいい、というかんじにもなったので、よいか。
監督の若さもあるのか、なんか甘くて野暮なのよね。 ヴィスコンティやアントニオーニだったら”Great Beauty”なんてこと絶対言わなかったと思うし。
あとこれは映画とは関係ないけど、見にきた文化村おばさんの横でぐーぐー寝ているおっさん衆とか、HPの「著名人」編集者のクソみたいなコメントを見ていると、こういうのを宣伝に使えると思っている時点で、日本て腐敗を通り越して終ってるとおもう。
9.27.2014
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。