展覧会のをふたつ。
さいきん、映画を見るまとまった時間すらないってことなのよ。 かわいそうに。
菱田春草展 (後期)
3日の月曜、展示の最終日に、文句たらたらで「黒き猫」を見にふたたび竹橋にいった。
後記のみ展示のやつも結構あったし。
模本だけど「猫図」があったし、未完の「落葉」には創作途上と思われる薄線が引かれていて、ああこんなふうに導線だか補助線は引かれていたんだねえ、ていうのがわかったりするのでいくら眺めていても飽きない(線、図録ではわからない)。
「黒き猫」は猫絵が並んでいる列から離れたところに置かれていて、やはりなんだか別格。 上のほうの葉っぱのレイアウトもふくめて、あれって猫というより黒いふわふわの毛玉みたいなやつがこっちを見ている、その目力の淡いようで強いかんじと、耳のとんがりと爪の踏みこみ、といったあたりが総合されて、こいつ猫かも、黒いの、て認識されて、にらめっこが終わらないかんじがたまんなくて、更にじーっと見ていると、こいつは黒梟のようにも見えてきたりする。
同じ1910年の「黒猫」は背景のなにもなさと足のつっぱり/ふんばり具合からああネコネコ、と思わず出てしまうし、他の白い斑猫の横目でつーんとしているやつとか、鴉に毛逆立てているやつとか、あいつらは始めから猫としかいいようのないオーラに覆われていて、それらと比べると「黒き猫」のほうの吸引力はすさまじい。
他にも大観との連作にあった「秋草に鶉」とか「月下狐」のススキと狐が描く弧の流れとか、動物ものがほんとにすばらし。 おいしい鶉のローストたべたい。
ジョルジョ・デ・キリコ -変遷と回帰-
13日の閉館直前くらい、汐留ミュージアムで見ました。
キリコをこんなふうに - 特に後期の変てこなやつを纏めて見る機会はあんまない気がしたし。
1910年頃の形而上絵画から古典に回帰していくあたりまでが、おそらく我々の一番よく知るとことのキリコで、渋くて洞察とセンスに溢れてかっこよくて、それが40年代以降、この展示だと「ネオ・バロック時代」として出ているあたりから過剰で饒舌でなんかわかんなくなってくるの。
で、そこから「新形而上絵画」から晩年にかけてはもうほとんど漫画とか落書きみたいで、「ユピテルへの奉納」はメタルのジャケットみたいな雷がびかびか出ているし、「ユピテルの手と9人のミューズたち」のミューズはおばさん達にしか見えないし、妙におかしい。誰も笑わないけど。
たしかに「メタフィジカ」に「ネオ」なんて付いてしまうとそっちに行ってしまうのかも知れんし、老人の晩年の記憶の混濁が「永劫回帰」妄想に向かいがちなのもよくわかるのだが、いや、だからといってつまんないわけではぜんぜんなくて、こういうのも含めてのシュールなキリコなんだなあ、と最初のほうに置いてあった「謎めいた憂愁」の、室内の孤独を振り返りつつ思ったのだった。
キリコって19世紀に生まれて78年まで生きていたんだねえ。
晩年はあれこれめんどくさかったんだろうなあ。
11.23.2014
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