少し戻って、16日の日曜日の午後、新宿で見ました。
前作、Vol. Iのラストでなにをどうやっても感じない身体になってしまい、Nymphomaniacとして絶対絶命の岐路に立たされてしまったJoe (Charlotte Gainsbourg)のそのごを描く。
少年漫画の定番でいくと、Joeは山に籠って血の滲むような修行して覚醒し、ニンフォパワーで悪いやつらをばさばさやっつける、ことになっているはずなのだが、そこまで単純ではなくて、かといってものすごく深いなにかを示してくれるわけでもなかった。 むしろ表層で変態していくNymphomaniacの横滑りを黙って見て聞いているSeligman (Stellan Skarsgård)のもこもこした不審な挙動が際立つ、程度の。
Joeがなんでそこまで性を求めて止まんないのか、感覚を取り戻したいのか、はなんで彼女がNymphomaniacになったのか、ていう問いと同様、よくわかんなくて、いや正確にいうと、そもそも彼女がNymphomaniacになったのは純粋にやりたくてたまらなかったからで、その感覚が消失した、ということは無理に求める必要がなくなったということなのだから、単にやめればいいだけじゃん? と思うのだがどうもそうではないらしい。 そこらにたむろしていた言葉の通じない連中を呼びこんでやってみる、とか、乳呑み児を置いて夜中にどS屋のところに通うとか、これはおそらく彼女の存在の根底にあるなにかに関わることにちがいない(幼少の頃の絶頂体験の項参照)、とか思って、だからどS屋稼業のJamie Bell(すごくよい)にがんばれ、もっとひっぱたけ! と声援を送ったりもするのだが、結局それが火をつけたのは彼女の母性とか自立する力とか、そういったものであったらしく、その落着っぷりがなんか食いたりなくてつまんなくて、だから冒頭、ボロ雑巾のように道端に打ち捨てられていたのはバチみたいなもんなのだ。 たぶん。
若いころに燃えあがって、歳とったら枯れる、ってごくふつうじゃん。
歳とってサトゥルヌスみたいに若いのを食いまくる図、ていうのを想像していたのにー。
と、思ったあたりで突如Seligmanが ... そうかそっちに転移するのかー、とか。
でもやっぱし”Antichrist”とか”Melancholia”みたいなごりごりの奈落の底に突き落としてほしかったかも。
音楽はTalking Headsの"Burning Down the House”がタイトルそのままに気持ちよく鳴るのと、エンディングでCharlotte Gainsbourgさんによる”Hey Joe” (produced by Beck)が。 Patti Smith版でもよかったのに。
11.27.2014
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