見にいかねば、となんだか焦りつつようやく行けたシネマヴェーラの「追悼特集 曽根中生伝説」。
日曜日の昼になんとか2本を。
わたしはそんなにポルノ映画を見てきたわけではないので、その角度から曽根中生を語ることはできないのだが、時代とか境遇とか土地とか家族関係とかによって醸成された人の情念 - 暗かったり荒んでいたり強かったりやけっぱちだったり - とそのほとばしりとして現れるセックスという行為、その反復横跳びとかでんぐり返りとかを描く、ということ、それを60 - 70分のプログラムピクチャーの枠のなかで量産していった、というところに関してほとんどシェイクスピアくらいにすごい、とおもうの。
で、彼の死後に出た自伝のおもしろさときたら、冗談みたいでさ。帯にある「映画=発明」としか言いようがない、映像の、エロの論理を考えながら作っていく痛快さみたいなのがある。
わたしのSEX白書 絶頂度 (1976)
羽田の近くの線路脇のアパートに弟と暮らすあけみは、病院の採血係をしていて、ちゃんとしたいいなづけもいるのに売春のアルバイトをしたり、弟を誘惑したり、いろんなことがある、お話しとしてはそんな程度のものなのだが、一日中ひとの腕に針を刺して血を抜いて、を延々繰り返している彼女は殆どなんも語らず、友人が腹痛で死にかけている弟も含めて画面に現れるあれこれがゆっくりと瓦解しかけていることはわかる。 工事現場の破壊音、突然現れるヘリ(カーテンに影が映る)の轟音、ナース服が透けて見える看護婦、しんみりしたきんたまの歌(なにあれ?)、決して斬新とは思えないのにあんぐりのショットとか変てこな間とかがてんこもりなの。
脚本を書いているのはスクリプターというお仕事を世界に広めた白鳥あかねさんで、監督は先の自伝のなかで「女の書いた映画だからわからん」とか言っているのだが、そのわからなさの炸裂が映画のテーマと見事に合致してエロを巡るひとつの像を作ってしまっている驚異ときたら。
昭和おんなみち 裸性門 (1973)
大正時代、お屋敷で島村抱月の芝居なんかやってて、そこに差しだされた娼婦が侯爵に囲われるのだが、彼女の恋人は剣豪でそのうち侯爵の護衛として出世して、やがて娼婦と侯爵の間には双子が生まれて、娼婦と娘は引き離されて地方を流浪して、娘もおなじように娼婦となって蔑まれ、学生の客として現れた兄と再会したり、剣豪は侯爵に立ち向かって、とにかく大正から昭和にまたがる血と愛欲と権力の超克と弁証法がテーマのびっくり大河ドラマなの。
脚本は大和屋竺で、狙いすぎみたいなとこもあるけど、これがちゃんとした形で(自伝のなかで監督はプロダクションに結構不満たらたら)作られていたらなあ、とも思うし、いや逆にこの雑多に散らばった断片とエロのありようこそが「歴史」として地の涯に蹴っとばしてやるべきもんなのかも。
そういえば一瞬、“Gone Girl”しているところがあったね。
とにかく、なに見たっておもしろいんだから。
12.23.2014
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