13日の月曜日の午後、「人生劇場」の後に竹橋に行ってみました。
「白き猫」(1901)とか重文の「落葉」(1909)はこの日までだというので少し慌てて。
それにしても、日本美術によくある展示替えって、なんなんだ、ていつも思う。
金と暇がいっぱいあるじじばば向けに少しでも多くの、かもしれないが、こちとらそんな暇じゃねえんだよ。 海外とかから来て一回しか見れない人のこととか考えてやれよ。 「黒き猫」と「白き猫」を一緒に見れないって、ひどすぎないか。
さて、菱田春草の絵は、竹橋とか上野でいくつかは見てきてはいたものの、纏まって見ていくとおもしろい。
日本画の空間表現、まで拡げてしまうと朦朧としてしまう(朦朧体だし)けど、絵の表面で「視線」はどこから入ってどこに抜けていくのか、そのとき地面と水平線はどこにあって、見ているわれわれはどこにいる想定なのか、この辺りが、西欧の絵画の明快さとははっきりと違っているの。 「落葉」の空間配置がいかに変で異様な印象を与えるか、については昔、岡崎乾二郎さんが溝口の映画を引き合いにしつつ論じたのがあって(Webのどこかにある)、ああこういうことなのね、て改めて思った。 フレームの下に向かって際限なく爛れるように落ちていく葉っぱたち。
そして、なぜ猫なのか問題、というのもある。 白いのは大抵丸まっていて黒いのには動きがある。でも白黒どちらの輪郭もその生の輪郭そのものとしてそこにある/いる不思議。 その特性は果たして絵画のものなのか猫のものなのか。 猫以外だと、あの鹿野郎はどこを見ていて、どこに行こうとしているのか、とか。
そいつらが動きだすまでこちらの動きも止まって凝視してしまう、そういう強さがあるの。 引き込まれる、というのとは違う、つい息を止めて睨めっこしてしまうような。
朦朧体、と言われていても絵から受けるイメージにはフレスコ画の硬質さがあり、ガラスの裏側にしっかりと塗り固められているかのようで、その濃厚な霧のなかにいる小さくて固い動物たち。 うずくまっているけど、どこかを見つめていて、それが射してくる光のように空間の濃淡と粒度を決定づけている。
そんなふうにしてそこにある靄と光とちっちゃい動物を見ているとそれだけでだらだら時間が過ぎてしまうのだった。
10.20.2014
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