『ヴァロットン展 ―冷たい炎の画家』
展覧会最終日の23日、慌てて駆けこんだ。 チケット買うのに並ぶのが20分。見るのに30分。そんなもん。
あまり予習してこなかったので最初のほうでナビ派の名前が出てきたときには少し驚いた。
ナビ派、といって必ず名前の出てくる3人 - Édouard Vuillard, Pierre Bonnard, Maurice Denis - あれらのいじくりたおして爛れた色彩が照らしだす世界とはぜんぜんちがうし。
のっぺりと平坦に捉えた視野を少し歪ませてその球面に申し訳程度に人を置いてみるような「ボール」(1899)、「白い砂浜、ヴァスイ」(1913)といった風景画、「貞節なシュザンヌ」(1922)からうかがうことのできるひんやりした、悪意たっぷりの視線、あえて背後を、てかるハゲ頭を狙ってくる構図の室内画、ぜんせんエロくない裸体画、ぜんぜん神々しく見えない、みっともない人体ばかりの神話画、などなど。
簡単に連想できるのは、例えばEdward Hopper、ヨーロッパの辺境スイスで独特に捩れてしまったHopper、みたいな。 でも彼みたいに絵の世界にはまりこんでいるのでもなさそうな。
(Alex Katzの名前も出るようだが、そうかなあ… )
木版画も、線はくっきり出してくるけど彫りの情念、みたいのはあんましない。
「怠惰」 (1898) - うつ伏せの白い裸婦に白猫、とかのだらだらしたやつらがすばらしい。
「臀部の習作」 (1884)とか「赤ピーマン」(1915)とか、技術はしっかりしているふうなのだが、その情熱の向かう先がお尻 - 特に魅力たっぷりのお尻というわけでもない - というあたりが、「冷たい炎の画家」だの「裏側の視線」だの、ていうことになるのかしら。
でも裏側行ってみると実はなんもない、みたいな。
1900年代以降のあの構図から抽象に向かわなかったというのもおもしろいねえ。
10.12.2014
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