24日は朝からずっと仕事で缶詰めの箱詰めでしんでいたのだが、夕方になんとか終わって、Filmexに開場ぎりぎりで駆けこんだら当日券があったので、みました。
いまの政権下でTV CMをやっているような邦画は見ないことにしているし、首相がやってくるようなTIFFなんてだーれが行くもんか、だったのだが、「あれから」の監督の次回作であるのであれば、更に公開が決まっていないということであれば、なにがなんでも見ねばなるまい。
「あれから」は震災後、神経を病んでしまった恋人の元に主人公が走っていくお話しだった。
この映画は震災後、いろんなのがこちら側にやってくるお話し。
「あれから」とは登場人物の一部が重なっていて、つまりおなじ世界で、それは今、この、腐れた世界とも当然のように繋がっている。
冒頭の女学生との対話のなかで、「こちら側」が明らかになる。
こちら側、というのは、未だに収束しないような大事故を起こした「東京電力福島第一原子力発電所」に怒りつつものほほんと日々を過ごしてしまっている我々のほうのことで、その女学生はあの辺に特に身内や親戚がいるわけでもないのになんか苦しくて、311より前に原発が爆発する夢を見たのだという。
その女学生と対話して予知夢の情報採取をしていたのが瑛子(山田キヌヲ)で、映画の主な舞台となる学校で社会心理学を教えていて、彼女は311の際、たまたま現地に行っていた彼を失って、それ以来彼の幻影とか変な夢を頻繁に見るようになって苦しんでいる。
もうひとり、自身の卒業公演で311をテーマとした演劇を上演しようとしている薫(樋井明日香)がいて、彼女も芝居に取り組むようになってから、津波にあって子供を失い、板に乗って漂流している女性のヴィジョンを見るようになる。 冒頭の女学生と同様、現地に親戚もだれもいないのに、それを頻繁に見るようになって、だから苦しい、というのではないし、芝居をやめるつもりもない、寧ろその像に取りつかれていって、共演者はついていけなくなって離脱していく。
なぜ彼が逝かなければいけなかったのか、という問いが瑛子を予知夢の研究に向かわせ、なぜその像が私に現れるのか、という問いが薫を芝居に向かわせる。 そして両者は共に嘆き苦しんでいて、互いにその苦しみを共有し、癒すことができるとは思っていない。
その二人が正面からぶつかりあうシーンは息を呑むくらいすさまじいのだが、心理的な衝突や葛藤がドライブするドラマ、ではない、という点でこれは心理劇ではない。むしろ彼女たちの心はほんとうにまっすぐで、自身の目に入ってくる像(夢だろうが幽霊だろうが)にできるだけ寄り添おうとする。
・自分はこうなることを、これが起こることを知っていたはずだ。(でも、なんにもしなかった)
・満開の桜を、満天の星空を一緒に見たかったのにー。(また会いたいよう)
このふたつの思い(だけ)が貫いていて、揺るぎなくて、だからせつない。
予知夢、ていうのはそれが現実に起こったことがわかった時点で予知夢になる。予知夢が予知夢であることがわかったときには、もう遅くて、なにをどうすることもできない。 予知夢を見るひと、というのはそのどうしようもなく後ろめたい夢の世界を生きるしかない。
自分の辛さ寂しさを誰かと共有したい繋がりたいというのではなく、彼らは自分の頭の奥をずっとひとりで掘って彷徨っているばかりで、繋がりたいと思う相手はこの世にはいない - 死者だけだ。
でも震災後を生きる、というのはそういうことなのではないか、と。(そういう言い方はだいっきらいだけど)
あとは、自身が分裂しながらドフトエフスキーの「分身」と爆弾を抱えて校内をうろついている怪しい学生とかもいる。 わかるなー。
くそったれ選挙の前にぜったい見るべき、再稼働なんて言ってる厚顔のバカ共に向けた最大級のくそったれ映画、でもあるの。
きちんとしたかたちで公開されることを祈りたい。
11.26.2014
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