11日の土曜日の昼、渋谷でみました。
役者をやっているルイ(Louis Garrel)はかわいい娘シャーロットがいるのに家を出て、やはり役者をやっているクローディア(Anna Mouglalis)と同棲してて、クローディアの方もいろいろあって、ぜんぜんうまくいかない家族とかふたりとかのやりとりが延々続く。
だれがどうしてどうなった、はあまり重要ではなくて、ジェラシー - 嫉妬が動かしていくなにか。
家族とかその繋がり、 とかよりも血、のようなものを描いているというか。
ついこないだ見たガレルの映画が「救いの接吻」(1989)だったので、どうしてもあそこで壊れてどんづまっていた家族のお話し - 自分を映画の妻役に起用してくれない、とぶち切れる妻 - を思いおこさせる。 あそこで主人公の映画監督を演じていたのは監督本人で、妻は当時の妻Brigitte Syで、息子はまだ洟たれのLouis Garrelだった。
今回のは、ルイが30歳だった頃の実祖父Maurice Garrelを演じているという。 監督ガレルにとってみれば自分の父を自分の息子が演じているわけで - 自分の父の過去の挙動を息子に映像として刷りこんでいるように見える。 それは教育なんてものではもちろんなくて、父の彷徨いと母の嫉妬と悲しみを反復させる - それをフィルムに落としこむことでなにがどうなるというのだろうか。
これが嫉妬なんです - こわいですねえやばいですねえ、みたいな書き方はしていなくて、嫉妬は目に見えない空気のようにそこにあって、彼女から彼へと伝染していく。 どちらが悪い、とかそういうことではなくて、ふたりの間に空気がある以上、感染は避けられないの。 子供だけが無垢で無防備で、子供だけは誰からも等しく愛されなくてはいけないから。
ガレルの描く修羅場って、まったく修羅場に見えない。 それは画面がきれいだからとかそういうことよりも、そういうのが乗り越えるべきもの、隠蔽されるべきもの、として登場人物たちの内面に落ちていない、というか。 そういうのを諦めてしまっている、ていうのともちがって、ただエモの嵐のなかに曝されて流されていて、それでいいの、というシンプルな愛のお話。 だってそういうもんだから、ていう。
その反対側にあるのが死とか別れとかで、死は確かに辛くて最悪で、ガレルは亡くなったひとのことを大切に大切に描く(今回父をモデルにしたのはその辺か?)、でもその反対側にある今回のは、なんかからからと(比較的) 明るい、ように見えてならない。
音楽はTéléphoneのJean-Louis Aubert。 “Hurt”のような、”Heart-Shaped Box”のような愛の呪文が。
あんま関係ないけど、フランス人と「嫉妬」というと大学の頃に読んだマドレーヌ・シャプサル(インタビュアー)による「嫉妬」(サンリオ文庫)が決定的で、だからフランス人て嫉妬するひとたち、と思いこんでいるところがあるかも、とか。
10.17.2014
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