1日の土曜日、京橋のMOMA特集でのふたつめ。
D.W. Griffithの短編二本と、Martin Scorseseの中編ひとつ。
The Lonedale Operator (1911)
邦題は「女の叫び」。17分。
電信技師の娘さんがどっしりした給料袋を受け取った部屋に強盗二人組が押し入ろうとして、娘は鍵かけて電信で彼にSOSをだして、彼は機関車で駆けつけて強盗を引っ捕らえるの。 か弱い娘のか細い電信が機関車の力強い彼を呼んでくれてよかったね、ていうお話で、彼女が電信を知らなくて、彼が機関車乗りじゃなかったら成立しないねえ、とかおもった。 あと強盗たち余りにも弱すぎ。
Friends (1912)
邦題は「男の友情」。 13分。
西部の金鉱町で、みんなに好かれている孤児の少女(Mary Pickford)はDandy Jackが好きで、でも彼は別の金鉱町を探して出て行っちゃって、入れ替わるように別の男(Lionel Barrymore)がやってきて、彼はJackの親友で、みんなどうする/どうしたい? なの。
どちらの短編も100年以上前に撮られているのに、Home Alone 〜 ぎりぎりの救出劇とか、友情に結ばれた男ふたりと女ひとりの三角関係とか、ごく最近の映画でも繰り返されているテーマはとっくにあったんだねえ、て。
Italianamerican (1974)
続いて「イタリアナメリカン」 48分。
Martin Scorseseが自分の実家で両親にインタビューしたドキュメンタリー映画。
出てくるのは彼のパパとママだけ。 でもホームビデオみたいのとはちがう。 たぶん。
さて、New Yorkにおける映画の語り部といえば、Martin ScorseseさんとPeter Bogdanovichさんのふたりで、昔の名作のリストア上映会とかがあると、この二人は割と頻繁に登場して楽しくおしゃべりをしてくれるの。 Peter氏はこないだのTIFFで来日した際、”It Should Happen to You”の上映時にトークをしてくれたそうで(いいなぁぁ)、彼のトークは彼の周囲にいた映画人のことを喋らせたら絶品(John Cassavetesの思い出とか、おもしろいんだよー)であるのに対し、Martin氏のはひたすらじぶんちの家族話に還っていくという特徴がある。 自分の家では、近所では、パパやママはどうだったのか、とかね。 この映画もその線でまたかよ、みたいなふう、ていうか映画まで撮ってたのね、とか。
この映画におけるMartin氏のほんとうの狙いはママのミートボールとそのトマトソースがなんであんなにおいしいのか、ママじゃないとできないのか、その秘密を聞き出すことにあったと思われるのだが、ぜんぜんうまくいかずに、ママのお喋り(パパは横でほとんどうんうん言うだけ)は脱線に脱線を繰り返してとどまることを知らず、結局引きだすことはできないまま映画は終る。
自分も勝手に脱線させていただくと、わたしにとって生涯のベスト・ミートボール&トマトソースはかつての職場にいたイタリア系のおばさんの家で腰のまがった彼女のママが作ったやつで、あれってもうまじ驚愕のありえないレベルのやつで、帰るまでになんとかレシピを聞きだしたくてがんばったのだが、だらだら昔語りに終始してぜんぜん教えてくれなかった、その記憶が蘇ってしまい、だからMartinがんばれ、と手に汗握っていたのだが、やっぱり失敗したのね。 おそるべしイタリアンばばあ。
しかーし、すばらしいことにエンドクレジットでそのレシピが流れるの。えらいぞMartin!
でも謎は謎なのよね。 「いくつかの豚ソーセージ」と「羊の脛骨」あたりがなんか怪しいのだが、肝心なところの分量も配合も時間もよくわかんなくて、聞いたって、うーんあるものをてきとうに、なんだよね。
というわけで、後半は来るべきレシピがちらついて映画を見ているかんじにはならなかったの。
たぶん、生まれた国を捨てて別の国に渡ってその国の人になる、そこで想像される苦難とか受苦とかあれこれとかも、こんなふうにてんでばらばらで、一筋縄ではいかないなにかがあるんだろうが、それがほんとにどんなもんかは、決して明らかにされないんだ、とか。
11.16.2014
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