3日水曜日の晩、新宿で見ました。 終っちゃいそうだったし。
冒頭、ちり紙に青色のペンで「ぼくの半分は死んだ」とかなぐり書きする手があって、車でどこかに向かう途中、嗚咽している男の子がいて、彼は携帯も繋がらないようなとこにある一軒家に着いて、でも誰もいないのでその家のテーブルで寝てしまう。
目覚めると少し窶れた老女が立っていて、彼女と彼の会話から彼は彼女の息子の葬儀のために来たらしいことがわかる。 寝ていると亡くなった彼の兄(老女の息子)と思われる男に叩き起こされ、きちんと弔辞読めよ、とか脅されて、なんか歓待されていない不穏なかんじが伝わってくる。
亡くなったのはトム(Xavier Dolan)の恋人だったギョームで、ギョームの母親のアガット(Lise Roy)と兄フランシス(Pierre-Yves Cardinal)はトムとギョームの深い仲なんて知らず、つまりトムがどれだけの喪失感と絶望のなかにいるかなんて知らず構わず、フランシスはトムに、母親を悲しませたらただじゃおかねえからな、てトイレの個室でぐいぐい脅しつけてくる。
そのあまりに粗野で乱暴な扱いにあたまきたトムは車でおさらばしようとするのだが、なんでか戻ることにして、フランシスの農場で牛の世話とかしながら一緒に暮らすことになる。 フランシスはママのいないところではどこまでも野蛮なくそ野郎で、トムはぼこぼこの傷だらけになったり自分の車を潰されて逃亡できなくなったりするのだが、ギョームとの過去にけりをつけるためか、ギョームの育った環境に浸りたいためか、フランシスの暴力になにかを感じてしまったのか、或いはフランシスにやり返してやるためか、なんともいえない無表情とか薄ら笑いとかを浮かべてフランシス、アガットとの変な3人暮らしにはまっていって、さて。
トムとギョームとの関係はどんなだったのか、ギョームはなんで、どんなふうにして死んだのかは明らかにされないのだが、果たしてそれを愛と呼んでよいのか他人にはわからない、がんじがらめになってずるずる抜けられなくなってしまう関係の典型がそこにもここにもあって、その不可視で不気味なかんじがサスペンスとしてもたまんなくて、それは虐めっ子フランシスひとりが悪いともいいきれない、トム、あんたもさあ、それを言うならギョームだってさあ、とか。
なんだみんな性悪なのか。 でも愛は。あのキスは。
前作『わたしはロランス』でもオトコとオンナの身体と精神のモンダイに仮託しつつ当事者同士にしかわかりえないような強くしぶとい愛の絆をねっちり描いていたが、これも人里離れた農場で互いが互いを探りあい罪の意識に苛まれつつも三つ巴の団子になって転がり落ちていく、その底なし感が、なんだろ、気持ちよいんだかわるいんだか。
エンディングでRufus Wainwrightの”Going to a Town”が流れだしたので驚いて、それが実にはまってしまうことに更にびっくりした。
“Making my own way home, ain't gonna be alone” と言いながら既にそれにうんざりしてしまっている自分、とか。
これ、シリーズ化すればよいのに。 酒場のトム、墓場のトム、学校のトム、海辺のトム … あれ? トムのファミリーネームって、リプリー?
はやく次の”Mommy”、みたいねえ。
12.06.2014
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