3.26.2026

[film] Hoppers (2026)

3月15日、日曜日の昼、CurzonのAldgateで見ました。

ぜんぶ問答無用の自業自得なのだが、日々ばたばた忙しいところに日帰りで行って帰ってみたいなことを繰り返しているさなか、”Ready or Not 2: Here I Come”とか”They Will Kill You”とかの予告を見るとものすごく胸が高鳴って、いやいや今そっちに行ってはいけないし、と。

Pixarのアニメーションで、地下鉄の掲示板で流れているのを見てすぐにやられた(くらい疲れている)。邦題は『私がビーバーになる時』。

作・監督はDaniel Chong、共同脚本に、”Me and Earl and the Dying Girl” (2015)や”Luca” (2021)や”Elio” (2025)のJesse Andrewsの名前がある。音楽はMark Mothersbaugh。

オレゴン州のBeaverton(ビーバー豚)の街で、Mabel (Piper Curda)はスケートボードで疾走するティーン(Bikini Killの”Rebel Girl”ががんがん)で、ずっと一緒に暮らしていた祖母から自然を愛する動物たちと共生ことの大切さなどを教わってきて、だから高速道路建設で森を潰そうとしている市長のJerry (Jon Hamm)とは事あるごとにぶつかる犬猿の仲で、家の前の空き地とその池にビーバーが現れなくなったことが気になっていて、でもJerryはもう来なくなっちゃったんだから潰したっていいだろ、という。 でも亡くなった祖母との思い出もあるのでぜったいそんなことはさせたくない。

反対運動ばかりやっているので、Mebelによい顔をしない大学の先生がラボでやっている実験 - ロボットのビーバーに遠隔でヘルメットをかぶって没入して森をうろついているのを見たMabelはこれだ! ってリアルビーバーになりすまして森のビーバーとか動物たちに会ってみると、彼らの言葉とかがぜんぶわかるし、こちらが言うことも通じるし、ふつうの生ビーバーとして認知して貰えて、King George (Bobby Moynihan)っていう哺乳類の王に会って仲良くなってしまう。これだけで10000個くらいの突っこみができそうなのだが、そんなことを言っている場合ではないの。

彼らとのやり取りを通して人間の可聴帯域ではない音波を出している装置 - これのせいでビーバーは出ていった - を突きとめてそれを壊して一件落着.. になるかと思ったら、そんな簡単ではなく、これをきっかけに昆虫、両生類、魚類、爬虫類、鳥類の代表からなる評議会と人類の、これも全方位からの突っこみ満載の、でもとにかく大戦争が始まってしまうの。

人間には見えていない別の世界があるし動物には動物の世界が、というのを想像できるようになるだけで、こういうアニメーションは十分ではないか、と思うのだが、彼らには彼らの王がいて、王がいるからにはシェイクスピアの裏切りとか敵討ちとか思いこみ勘違いの世界が広がっていて、渡っていくのはいろいろものすごく大変なの、というのをおお真面目にやっているので、こんなのぜったいビーバーたちだけで維持していくの無理じゃろ、 になるし、しばらく混乱は続きそうなのだが、いいのかしら? おもしろそうだからよいかも。

人の身体や感情をドライブする何かがその外にある、簡単にドライブされたり乗っ取られたりするくらいにそれらは脆くて弱いやつで – というのは”Inside Out” (2015)のストーリーを作ったDaniel Chongらしいし、そこがストーリーの宝庫であることもわかるし、そこに大切なことを乗せてみるのもわかるのだが、ビーバーならビーバーだけの、『ぼのぼの』みたいな(あれはラッコだけど)すっこ抜けたやつであってほしかったかも。甘ったれるな、って言われたらわかったよ、っていう。アニメーションはかわいくてたまらないんだけど。

ラストは「ニューロマンサー」みたいに没入したままにしちゃえばよかったのにな。自分だったらそうして、ずっとビーバーとして生きるだろう。

あと、ラストに流れるSZAの”Save the Day”がとてもよかった。

3.25.2026

[log] Madrid - March 14 2026

3月14日、土曜日、Madrid日帰りをしたので、簡単な備忘。

Madridはこれまでも日帰りで何度か行っていて、行っても真ん中の美術館3つをぐるっと回って、そんなにものも食べず、帰りの空港のラウンジでへたりこんで食べて終わりで、なんて勿体ない、のかも知れないが本人がそれで幸せだって言うのだからいいじゃないの、である。

本当はもう少し早い時期にしたかったのだがMadrid往復の運賃が謎に高いことがあったりして踏みきれずにここまで。

だから空港からプラド美術館まではお手のもので、着いてプラドに行ったら開館直後のとてつもない列だったの戦略を変えた。

Out of Focus. Another View of Art @ CaixaForum Madrid

CaixaForumはバルセロナのは行ったことがあって、それがマドリードにもできていた。
ボカシとか焦点ずらしとかピンぼけ、に的を絞った企画展示で、これは所謂「抽象」とは異なる視座で対象を見つめる(or 見つめない、正視しない)ことで立ち現れてくる何か、でよいのか。

Gerhard Richter, Mark Rothko, Yves Klein, Claude Monet, Thomas Ruff, Alfredo Jaar, Christian Boltanski, Bill Violaなどなど。 これらをついかっこいいー、って見てしまう傾向についても。

Hammershøi - The Eye that Listens @ Museo Nacional Thyssen-Bornemisza

これだけは時間指定のチケット取って行った。
聴く目… 窓の方に向かって、こちらに背を向けて佇む女性の像、というよく知られたイメージから広がる、彼女は何を見つめていたのか、その眼差しの先を聴きだそうとするかのような距離の取り方、それでも届きようのないかんじというか。正面や横を向いた女性の像もあるが、とにかく圧倒的に遠くにあって – でもそこにいる - その不思議というか。

ここの常設展示はそんなに数多くはないのだが、そのいつものが楽しくて、常設の理想型だなー って思う。

Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía

前回来た時はもう閉まっていて泣いたことを思い出した。

Maruja Mallo - Mask and Compass
スペインの”Generation of 27”を代表する女性画家Maruja Mallo (1902 - 1995)のレトロスペクティヴ。ものすごく広い活動の幅 - 具象も抽象もグラフィックも - と太字の大らかな強さ、輝きに圧倒される。

他の小規模の展示では、Alberto GrecoとかJuan Usléなどがおもしろくて、自分にとって未知のアーティストを教えてくれるのはいつもここだったなあ、と思いつつ、時間を過ごしてしまうのはやはり「ゲルニカ」の周りだったりする。

Museo Nacional del Prado


プラド美術館って、いつからそうなっているのか知らんがずーっとデパ地下のように混んでいて、そのせいか館内の写真撮影は一切禁止になって、それでも人で溢れている。ここが不思議なのは、そういう芋洗い状態でも絵を見始めると没入して、もっともっと、になって彷徨ってしまうことで、この特殊な高揚感は、ルーブルにもNational Galleryにもない気がする。これがコレクションの力によるのか並べ方がもたらすものなのかは不明。ルーブルだと人混みで疲れてもういいや、になるところが、やっぱりあれも見ておきたいな、になって抜けられない。

National Galleryで5月から始まる企画展示 - Zurbarán (ああ見たいよう)の「羊」などを未練たらたらで見たり。

Galería de las Colecciones Reales


英語だとRoyal Collections Gallery、Royal Palaceの向かいにある王宮博物館で2023年に再オープンされたところにまだ行っていなかった。朝から休まずに歩いていたのでもうやだ、だったのだが、プラドから25分くらい歩く。いろんな花が咲き始めていて春はすぐそこに。

Juan de FlandesからDürer、Caravaggio、BoschのタペストリーにVelázquezのすごい白馬、もちろんGoyaまで、スペインの王朝がいかにとてつもないお金を注ぎ込んでいたのかをまざまざと見せつけられる。

あと、ヴィクトリア女王の孫娘で、20世紀初にスペインに嫁いだVictoria Eugeniaの特集もあった。

やっぱり3泊くらいしないと無理だわ…


引っ越しの荷出しがおわって夕方にホテルに移ったのだが、まだゴミとかあるので何回か戻らないと、かも。
Sサイズの本のダンボールは結局23箱になった。
自分にでっかい声で言い聞かせておくと、ここから先、飛行機乗るまでは、もう大きい本は買えないんだからね。買ってもぱんぱんで持っていけないんだからね。いじょう。

3.24.2026

[theatre] American Psycho

3月13日、金曜日の晩、Almeida Theatreで見ました。 
チケットがぜんぜん取れないやつで、当日になんとか。

原作はBret Easton Ellisの1991年の同名小説で、2000年にChristian Bale主演で映画化されたものが、2013年にRoberto Aguirre-Sacasaの翻案、Duncan Sheikの詞/曲、Lynne Pageの振付によりミュージカル化され(この時のBateman役はMatt Smithで、ブロードウェイまで行った時はBenjamin Walkerが)今回はオリジナル版と同じRupert Gooldにより演出されている。

1989年、バブル絶頂期のウォール街で投資をしているヤッピー Patrick Batemanの生態を描く。ブランドの服で身を固め、Ralph Laurenのアンダーウェアを履いて、最新のWalkman - Auto-Reverseっていう新機能がすごいんだぜ - を携帯し、当時の日本にもそういうのでイキる社会人をいじる傾向はあったが、ここでははじめから”American Phycho”をそういう存在として置くのではなく、彼らの社会や周囲に向かう態度や傾向がサイコティックな情動として内面化、習慣化されていく道筋が鮮やかに描かれている。群舞も入ったミュージカルのぎんぎらのきめきめ(← 80’s)で攻めていくスタイルは、彼がそうなっていく過程を軽快にわかりやすく表して、当時を知らなくても納得できそうな。

冒頭で歌われるのが、映画”Marty Supreme” (2025)でも使われていたTFFの”Everybody Wants to Rule the World”で、やはりあの時代のメンタリティのようなものを代表している一曲なのかもしれない。あの映画の舞台は50年代で、主人公はずっと負け続けるわけだが、それでも立ちあがってSupremeになろうとするサイコっぽい挙動と佇まいはどこか繋がっているのかも。

そして、なぜいま”American Phycho”なのか、については、なにしろほんもんの”American Phycho”が大統領になって大量殺戮をしているからだし、大人気のJeffrey Epstein - 劇中で言及される - だって蘇って大人気だし、Trumpは劇中、主人公の憧れのアイコンとしてエレベーターですれ違ったりする(あまり似ていなかったけど)。まさかこんな形で表出してくるなんて。

この劇場でこれまでに見た演劇のセットって、納屋とか道端とか、雰囲気はあるけど埃っぽくぼろくてぱっとしないのが殆ど立ったのだが、この舞台はランウェイ仕様で床はばりばりの電飾で前の方にせり出して、これとプロジェクションをセンスよく組み合わせて殺しの場面の陰惨さも床の電飾をうまく使って軽くクールに見せる。

今回のBateman役はArty Froushan - こないだ見た映画”H is for Hawk” (2025)にも出ていた人で、脱いでもよし歌ってもよし、なので今後人気は上昇していくのではないか。

ブランドとかお金とかプライド - なによりも人を見下して自分だけは、自分だけがかっこよくて何をしたって許されるに決まっているのだ、という信念に捕らわれた人がシリアルキラーになっていく過程はそんなに無理なく音楽に乗って軽快に弾んで、この辺はいまの時代の方がいろんな動画も溢れていたりでわかりやすくなっているのではないか、他方でなんでこういうこと(人殺しとか)をしてはいけないのか、ということもあまりきちんと考えられなくなっている気もして、こういうの亡霊のようななにかを振り返ってみるのもよいかも、って。

それよか”Japanese Phycho”の方が陰惨でタチが悪くてどうしたものか、になる。いまの総理大臣とか。


明日は荷物をだす日で、本は結局Sサイズの箱20個でも足らないのだった。演劇のプログラム類がバカみたいに多い。どうにかなりますようにー。

3.20.2026

[theatre] Romeo and Juliet

3月12日、木曜日の晩、Shakespeare's Globe Theatreで見ました。
 
この時期の夜に野外公演はきついのでは、と思って、雨は降らなかったもののやはり時折吹いてくる風は冷たくて、椅子席はみんな体を丸めて見ていた。けどよい思い出にはなった。
 
タイトルには”Playing Shakespeare with Deutsche Bank: Romeo and Juliet”とあって、ドイツ銀行がスポンサーになって、地下鉄などの宣伝広告によると3000の学校から300000人(たしか)の学生を招待する(のか£10, £5のチケットなのか)公演で、なのでPITの立ち見コーナーは若い子たちで溢れている。このRomeo and Julietは2024年に行われたもののリバイバルだそう。 90分で休憩なし。寒くて2時間はいられないし、休憩を入れたら若者はみんな出て行ってしまうだろうからこれくらいが丁度よいのかも。
 
自分の最近のRomeo and Julietは、西部劇バージョン、半分ウェールズ語バージョン、ポーランド語手話バージョン、と見てきて、今度のはヒップホップバージョンか。舞台のあちこちはスプレーの落書きがあって荒んだどん詰まりの街角のよう、上演前は覆面をした3人の自転車乗り(プロの人達だそう)がスタンディングエリアにある台の上に乗っかって止まったりの曲乗りをして喝采を浴びている – でも劇が始まると彼らは不吉で容赦ない死神になる。 演出はLucy Cuthbertson。バルコニーにはパーカッション3人の楽隊がどんどこを。
 
中心の若い俳優たちはほぼジャージを羽織ってリズムにのって軽快に動きまわり、ゴージャスなシーンでの衣装はやくざちんぴら系のぎんぎらになり、冒頭にはストリートファイトなど路上で亡くなったと思われる若者たちへの追悼と母親たちによる暴力へ抗議のアピールがあり、それでも抗争が止まないストリートの一角には追悼の花束やぬいぐるみが置かれている。でもそんなのお構いなしに抗争と暴力は昼も夜も溢れて危険で野蛮で、そういう中、Romeo (Hayden Mampasi)とJuliet (Felixe Forde)が出会って一瞬で恋におちて、その恋がトライブ間の抗争を呼び、危険なストリートのなかで瞬いて消える。
 
ナイフによる喧嘩や抗争で人が死ぬと、それは警察の現場検証の場になり、立ち入り禁止テープが貼られ、遺体袋、医療用手袋など、ニュースに出てくる犯罪現場のそれになるし、Julietの乳母はNHSの制服を着ていて、亡くなった者の肖像がバルコニーに掲げられる。それら一連の儀式は恋にときめくふたりのすぐ横で、音もなく現れる自転車の連中の登場と共に事務のように一瞬で行われて、二度と元に戻すことはできない。ふたりの命を奪う睡眠薬も、スマホで連絡の取れなかったRomeoが手に入れたやばいストリートドラッグに替えられて.. となかなか考えられている。
 
ジャージを着ていても凛としたJulietのオーラと佇まいは素敵で、どこをどう見てもそこらのガキ(全体にオトコ共がいかに暴力的でバカであるか、がより強調されているかんじ)のRomeoが一瞬で落ちたのも納得で、周辺の暴力すらも蹴散らして無敵に思えたふたりの恋も簡単に、一瞬で消えてしまう非情さ。でもそれはこんなふうに簡単に起こりうるんだよ、っていう若者たちへのメッセージでもある。
 
これを自分が子供の頃に見ていたらどう思っただろうか?わかんねえよな、そんなの起こってみないと、だろうし、それでも自分はだいじょうぶ – だいじょうぶだよママ! ってなっちゃうんだろうな、とか。
 
根底に横たわるどうすることもできない不和、断絶に恋はどうやって立ち向かうのか、というこの悲劇の「悲」のありようを別の角度から見てみたり、これに加えて劇の展開のスピードで薄まってしまった何かがあるのかもしれないが、これはこれでよかったかも(伝わってくるものはあったから)。

Romeo and Julietは来週もうひとつある。

3.19.2026

[theatre] The Rat Trap

3月11日、水曜日の晩、Park Theatreの大きい方(PARK 200)で見ました。

間違えやすいのかもしれないが、アガサ・クリスティの有名なのは”The Mousetrap” (1952) - 『ねずみとり』で、ジャンルとかぜんぜん別のだから。

原作はNoël Cowardで、彼が1918年、18歳の時に書いた最初期の劇で、でも初演は1926年。これを書きあげて劇作家としてやっていく自信がついたそうだが、18歳でこんなの書くのか…

結婚にまつわるコメディ - タイトルも、テーマとしてもコメディになりうるようなものかと思ったのだが、あまりそんなかんじはしなくて、多くの人がイプセンやストリンドベリの結婚ドラマに言及している。

罠にはまった/かかった!のを発見した瞬間はおおってなるけど、その後の始末とか決着の面倒くささ、しんどさ..に全員が結婚てなんなのさ.. って凍りついた表情のまま考え込んでしまう、ような。

翻案はBill Rosenfield、演出はKirsty Patrick Ward。演じるのはRSCで見た”The Forsyte Saga Parts 1 and 2”を作った演劇集団Troupe。

新進作家のSheila (Lily Nichol)がルームメイトのOlive(Gina Bramhill)と話をしていて、彼女が劇作家のKeld(Ewan Miller)と婚約した話を聞くと複雑で、KeldよりもSheilaのほうが遥かに才能ありと見ているので、結婚によって彼女の才能がスポイルされてしまうのではないか、と危惧していて、でもSheilaとKeldが一緒にいるところを見る限り、とても溌剌として幸せそうで心配いらないように見えたのだが。

でも休憩後、Oliveの危惧は見事に当たり、既に結婚しているふたりの表情と態度には明らかな疲れと苛立ちと嫌悪軽蔑が見てとれて、自分のプライドが先でとにかくすることぜんぶ褒めたり慰めたりしてほしいKeldと、あんたのママでもないのになんでそんなのに付きあわなきゃならんのか、のSheilaはぶつかって、彼女の方の執筆は止まってしまい、罠にかかった2匹のネズミ(→タイトル)のように口を開けば喧嘩ばかりになって、Keldと新進女優Ruby (Zoe Goriely)の噂を聞いたSheilaは家を出て行ってしまう。

最後はSheilaとOliveがいるところに、有名になったせいもあるのか一段と天狗の嫌なやつになったKeldが現れてよりを戻してほしい、と頼んでくる。ひととおりのやりとりの間、表情を固くして、あなたを前とおなじように愛することはできない、と繰り返すSheilaだったが最後の最後で彼のところに戻る、と。理由は妊娠してしまったから、それだけで、それでもあなたとの関係を修復するつもりは一切ないから、って。 そこであっさりぽつっと終わるの。

キャラクターたちはそれぞれ出来あがってはいるものの、劇中のやりとりだけではやや画一的、表面的で生きているかんじがあまりしないあたりが「初期作」の所以なのかと思うし、結末についても、自分の頭でそれなりに補正 - ここは自分を殺して子供を生かすためにそうするしかないのか、とか、Keldにとってはこの後の日々がぜんぶ地獄になるな、とか思えるのだが、底で渦を巻いている(のが見える)憎悪が、最後っ屁のようなかたちで痛快に何かに向かって飛んでいくようなことはなかった。

結婚は相手の才能や機会を潰すこと、潰して平気でいられること、結婚するまでのときめきや楽しさは絶対に続かない、こういったことを18歳の若者が深くないとは言え見据えて劇作にしようとしていた、ってやっぱりすごいな。そういえば”The Forsyte Saga”も結婚における「所有」を巡るドラマだったような。

[film] No Other Choice (2025)

3月10日、火曜日の晩、Curzon Bloomsburyで見ました。

封切から随分時間が経ってしまい、そろそろ見れなくなりそうだったし。
韓国映画で、原題は”어쩔수가없다”、邦題は『しあわせの選択』。

監督はPark Chan-wook、原作はアメリカのDonald Westlakeの小説”The Ax” (1997)で、Costa-Gavrasの“Le couperet” (2005)に続く2度目の映画化作品で、エンドクレジットではCosta-Gavrasに捧げる、と出る。 昨年のヴェネツィアでプレミアされた。

夏の夕方、大きな家の庭でバーベキューをしている幸せそうな一家の姿が描かれる。ユ・マンス(Lee Byung-hun)は勤めている製紙工場のオーナーから送られた鰻を焼いていて、妻のミリ(Son Ye-jin)と彼女の連れ子のふたりの子供たち、ラブラドール犬の1号と2号がいて、仕事でそんなご褒美を貰えるんだからパパすごいよね、ってなっていたら、実はそれは会社を買ったアメリカ人オーナーからの送別の品で、もう会社来なくていいから、って言われてどうすることもできずに捨てられる。

製紙工場の求職は業界内のかなり狭いマーケットであるらしく、自分と同様の経験を積んでいて優秀な求職者が他にもいるので、どうしよう、って焦っているうちに家計はみるみる苦しくなり、自分ががんばって買い戻した先祖代々からの家も、犬たちも手放さなければならなくなり、これは他の求職者を始末してでも職を手に入れるしかない –“No Other Choice”になっていく過程が漫画みたいに汗をつーって垂らす主人公の顔のクローズアップと共に臨場感たっぷりに描かれていく。

前半の幸せな家庭の描写と、それらを手放したくない、という強い思いが、一気に爆発するのではなく、じりじりと小出しに積み重なったりすれ違ったり、またぶつかったり、のように捩れて煮詰まって絡まって主人公の五感を塞ぎ、やがてもうとにかくぶっ殺す - 標的を消すことが最優先の目的になって止まらなくなっていく感情の生々しさ。“No Other Choice” – そもそも選択肢の問題だったはずがリアルでファイナルの”No Other Choice”しかない、のダルマになって転がって折り重なっていく人も含めた環境の過酷さ – そして、”Choice”はどんな立場の誰にでも迫ってくるものなので、その果ての結果として、それぞれの”No Other Choice”のせめぎ合いが最後に行きついた地点とは – などが、突きつけられるように。

ああほんとうに嫌な世の中だわ、ってぜんぶ放り出す、これもまた”Choice”のバリエーションであったはずだが、画面上に現れる人たちはみんな情念の塊りのように濃くて強くて、というその構図を、至近距離と遠景と両方の視角で対置していって、でしょ? って迫る。

どうしてそこまでしなければならなかったのか – しなきゃならないんだよ!のような煮凝りのようなところは、Park Chan-wookの映画では”Stoker” (2013)の頃からずっとあって、そのSMみたいなのが見る前はきついよね(なのですぐに見にいかない)、でも見るとその設計の見事さに引き込まれる。今回だと“The Handmaiden” (2016)のお屋敷のような高いところ、低いところ、常に全体を俯瞰しながら事の顛末を追っていくようなプロダクション・デザインの見事さ。これが地を這うような出口なしの地獄から全体を救っているような。

こういうどろどろしたサスペンス・ドラマって、日本の得意分野であるような気がするのだが、やっぱり流行らないのかしら。絆とか希望とかそんなのばっかりよか、今こそこういう方に行ってほしいんだけど。


残された日数が少なくなって、送別会のようなものも入ってきて、どの日に何を見るのか、の選択がぎりぎりで決めて諦めないといかんのも沢山でてきていてしんどいし、4月以降の日付で素敵な予告や宣伝が流れてくるとあーあー、になる。いつものことではあるのだが…

3.18.2026

[theatre] Paddington: The Musical

3月9日、月曜日の晩にSavoy Theatreで見ました。

これもロングランしそうなWest Endので、帰る前に見ておかなきゃ、のリストに入れていたのだが、観光客向けにどこかが押さえちゃっているのかチケットがぜんぜん取れないし値段はバカみたいに高いし。

でもパディントンなら、ぬいぐるみもいっぱい持っているし(また袋に入った小さいの買ってしまった..)、Winee-the-Poohだっているし、どっちなんだよ、もあるけど、どっちみちクマには勝てないのだから諦めて見にいってあげるしかない。

演出はLuke Sheppard、原作はもちろんMichael Bond、脚本はJessica Swale、ストーリーは映画版の最初のをベースに2作目の要素も少しだけ。ミュージカルなので音楽はTom Fletcher、振付はEllen Kaneで、クマと一緒に踊りたくなる躍動感に溢れている。マーママままーまままマーマレード~♪ とか名曲としか言いようがない(YouTubeにあるよ)。

James Hameedがパディントンの声とアニマトロニクス技術によってリモートで操作し、遠隔じゃないところはAli Sarebani が中に入って動かしている。アニマトロニクスってなにが?なのだが、例えばクマの毛がふわーっって逆立ったりとかたぶんその辺。 見た回では技術上の問題が発生したとかで途中10分くらいの中断があった。

開演前の舞台はいろんなものが雑然と置かれた骨董屋で、それが標本類が天井まで積みあがった自然史博物館の考古学エリアに変貌したり(極めて正しくかっこよいので震える)。右と左の壁にはロンドンの名所がパノラマで描かれている – Shardの位置とかちょっと変だけど。

所詮着ぐるみ(or 人形)コメディじゃん、なのかもだし、見ることができる写真の像と顔は、映画版のともちょっと違ってやや羊の要素が入っている(少し顔が長い)気がするし、そいつが舞台上のライブで動いたからどうだというのか、というのは誰もが思うことだろう。あんな程度のに騙されてはいかん、と。 でもこれがなんでか絶妙で、でも理由はわかんない。

でもね、とにかく、彼がパディントン駅の雑踏のなかに現れた時、彼があの赤い帽子を被ったりあのダッフルコートを羽織るとき、「うわぁ..」みたいな声が客席の間から漏れて、それはもう本当にそうなってしまうの。あのもふもふの毛玉野郎に命を吹きこまれている、とか臭いことを言う前に、なんか生き物がいる – なんなんだこいつは(なかなかかわいいじゃねえか)ってふつうになる。

そんな彼がリスク計算屋のパパ (Adrian Der Gregorian), アーティストのママ(Amy Ellen Richardson), 反発生意気盛りの娘Judy (Delilah Bennett-Cardy), 物識り息子Jonathan (Jasper Rowse), そしてぶっとんだMrs Bird (Bonnie Langford)の間で、最初は南米からきた異種・移民のホームレス扱いで、行く先々の内外でトラブルを起こしてばかりでかわいそうなパディントンは、自分はなんでこんなところに? って思い、家族もなんでこんなクマが自分らのところに? ってなり、でも最後には互いにとってなくてはならない大切なクマなんだ! になっていく気づきと発見の過程がすばらしいし愛おしいし。

骨董品屋のMr Gruber (Teddy Kempner)が探検家を探すところ、博物館のMillicent Clyde (Victoria Hamilton-Barritt)がクマを剥製にしようとするところは、相対的に薄めになっていて、パディントンの愛らしさとマーマレードに登場人物たち全員がやられて中毒になっていく過程がより鮮明になっていて、それは観客の方にもはっきりと伝播していく。みんな結末はわかっているので、これでよいのかもしれない。

そしてもうひとつの主役がロンドンの街で、クマがその名を貰うところから始まり、こんな人たちの暮らすこんな街だからこういうお話しになったのだ、というのがよくわかる作りになっている気がした。これがなんでロンドンでNYではないのか? よい名前になるような駅がないからかも – Columbus, Christopher, Astor, Houston.. みんな通りの名前で、どこかちょっと弱いのと、行き交うヒトがどこか違う – ここは掘っていったらきりがなくなるかも。

天気と空気の悪いなかロンドン観光とかするより、このミュージカル1本見た方がロンドンを正しく体感できる気がした。お金持ちだったら横のSavoy Hotelに泊まってアフタヌーンティーも込みにすれば完璧。

3.17.2026

[log] Palermo - Mar 5 - 8

3月5日から3月8日、木金土日とパレルモに行ってきたので、簡単な備忘。

イタリアは行きたいのにまだ行けていない街が沢山あって、シチリア/パレルモはその中でも最大のやつで、それが年末のラヴェナに行ったときのモザイク群と共に再噴火して、本当はもっと早く - 2月くらいに行きたかったのだが、パレルモへの直行便、この時期のBAは飛んでいなくて、3月のこの日のがシーズン最初ので、帰りが日曜日になったのも同じ事情による。 たぶん別の航空会社をあたればないこともなかったのだろうが、このシリーズ(?)ではBA縛りをルールのひとつにしている。(他にはタクシーを使わない、とか)

旧市街の真ん中に宿を取ったら少しざわざわしているものの辺りは史跡とか教会だらけで、歩けば勝手に出現してくれるので事前に調べて計画を練るようなことはほぼなかった。だからなんかミスしているのではないか、が常に。以下は主なやつだけで、隙間合間に小さいところに入ったり、猫を追っかけたりしていた。


Teatro Massimo di Palermo – マッシモ劇場

オペラハウスで、ヨーロッパではパリのガルニエ宮、ウィーンの歌劇場に次いで3番目の大きさで、演し物をやっていなかったのでガイドツアーで中だけ見ることにした。”The Godfather Part III” (1990)で、”Cavalleria rusticana”が流れたのはここ。 ヴェネツィアングラスのシャンデリアとか素敵だったが、併設されていた反響室のエコーがやかましくてものすごかった。拷問に使えそうなレベル。

Palazzo dei Normanni – ノルマンニ宮殿

宮殿とアート・ギャラリーと両方あって、アート・ギャラリーでは”Monet e la Normandia” - モネとノルマンディ(の海)という企画展をやっていた。

会場の雰囲気はよいのだが「エクスピリエンス」系のダイナミックなプロジェクションや照明を駆使して盛りあげてくれるやつで、ややがっかりだった。モネなんて絵のなかに光のドラマをぜんぶ盛りこもうとした画家なのに外側で台無しにしてどうするの? しかなかった。そんなのにお金かけるなら一点でも多く作品加えるか、入場料さげてほしいわ。

パラティーナ礼拝堂 - アラブ・ノルマン・ビザンティンの各様式の混合のとりあえずいろんなありがたみが全部降ってくるかんじのこの後のパレルモのいろんなところでもいくらでも出てくる仕様の最初。これって設計した人は各様式の取り纏めのようなことをしたりしたのだろうか。こんなふうでいいじゃん?くらいのノリだったのではないか.. とか。

Chiesa di San Giovanni degli Eremiti
- サン・ジョヴァンニ・デッリ・エレミティ教会

隠修士の聖ヨハネがいた古い教会の遺構で朽ちたドームや中庭の佇まいがすてきなのだが、それをつんざいて始まった猫の喧嘩と剣幕がすさまじく、そこでご飯をもらっている猫一家(だろうか?)の生々しいドラマがばりばりの威嚇とともに繰り広げられていて、でもこんなのも中世の頃から続いていたはず。

Palazzo Abatellis - シチリア州立美術館

6日の朝から。 建物は割とぼろいし地味なのだが、こんなのが州立? という収蔵品の充実ぶりに驚く。結構不穏で邪悪そうな香りのが沢山並べてあって、それがあの隙間風ぼうぼう(そう)な建物のなかにぽつぽつ置かれているのがたまんない。住んでいたら毎日でも来たくなるような。

Chiesa di Santa Maria dell'Ammiraglio - マルトラーナ教会

教会の創設者がギリシャ人提督(ammiraglio)のゲオルギオスだったのでこの名前で、そんなに大きくはないのだが、壁から天井からギリシャとアラビア、東方の要素がみっしり、その詰め合わせ感がすごい。

Duomo di Monreale - モンレアーレ大聖堂

割と満員のバスに揺られて少し離れた丘というか山の上にのぼって、2日目の午後はずっとここにいることになったくらいにでっかくて、なんでこんなところにこんな要塞みたいな教会施設があるのか – それでも大部分は失われているってなに?

ここもギリシャとカトリックの組合せで、このような様式のそこにやってくる信者にもたらした効果 – なんてあるに決まっているのだが、このずっと居ても、信者でなくても居るだけで心地よくなる感覚はどこからくるのか、って。天井みても床みても - 石のウサギが張りついていたり – なんなのこれ、って、聞いても誰も応えてくれない空気感、広がり。

Duomo di Cefalù

7日の朝は電車で少し東の方に遠出して、Cefalùっていう海辺の町にいった。本当はシラクーザまで行きたかったのだが、日帰りは厳しいって言われたので諦めた。

駅で降りて10分くらい、でっかい岩山の上にある教会(ここは閉じていた)を眺めながら歩いていくと大聖堂が現れて、入場料も取っていないし朝早めだと誰もいないし、それでも聖堂のなかは静粛に風通しよく受けいれてくれて、夏の最中にここに来たらどんなに気持ちよいだろう.. だった。

ここから海の方に出ると、転んで頭を打っても死なない程度の岩場があり、遠くには灯台が見えて、少し歩いていくと砂浜になり、天気が穏やかだったせいもあるのか理想的な海辺ランドスケープのありようで、そこに海岸沿いに並ぶ建物を加えるとパーフェクトな、死ぬんだったらこういう海がそばにあってほしいー、の場所になった。海の向こうに山と煙が見えたのだが、あれはナポリだったのか。

Palazzo Chiaramonte-Steri

14世紀にキアラモンテ家のために建てられた宮殿で、17~18世紀には異端審問所として使用されていて、そこの壁に描かれた、というより刻まれた囚人たちによる落書きが生々しく、光の殆ど入らない獄中でこんなのを延々… になった。保存されて公開されているにしても、寒くてしんどかっただろうなー、って。大広間の細かく描きこまれた天井画も見事だったが、この見事さ華やかさと壁の落書きの間にあるのがシチリアなのかも。 マフィアと闘った写真家のLetizia Battagliaを讃えるミュージアムもあったり、光と影の表裏のせめぎ合いが常にあるような。

最後の日、8日の日曜日は朝から雨で、市場に行ったりして、午後には殆どの美術館・博物館は閉まってしまったので、開いていた植物園まで歩いていってぼーっとしていた。変な鳥、時々にゃんこ、ばかでかい変な樹木とか竹林とか、あとオレンジの木が沢山あって、どれも実がいっぱいついているのだが、あれらって食べないでそのままなの?

食べ物はイワシのパスタとかイワシを丸めて焼いたのとか、どれもたまらなくおいしい。市場の屋台のも試したかったが、お腹を壊すわけにはいかないので、我慢した。 わたしは銚子っていう海辺の町で生まれて、その目で見ると、昔は海運と漁で栄えて、伝統的にやくざがいて、イワシがおいしくて、でもいまは見る影もなく寂れて廃れて、という辺りはなんだか似ている気がした。なんであんなに廃れちゃったんだろうね(日本中の地方都市の殆どがそうだと思うけど)。

あと、修道院の横で伝統菓子を作っているお菓子屋に並んでカンノーロを食べたら、めちゃくちゃどっしりパワフルで感動した。こうこなくちゃね、だった。

あと、夜遅くまで開いている古書店がホテルの近くにふたつあって、なかなかたまらなかった。遅い時間に彷徨っていたらそこに古書店が、なんて危険極まりないのだがー。

あと、ふつうの道路、車がびゅんびゅん通っているのに信号がそんなになくて、みんなちょっとごめんよ、ってかんじで軽く手をあげてぐいぐい道路を渡ってしまうのがなかなかすごかった。NYとLondonにいたのでその辺は得意のはずだったのだが、あれに馴れるのにはちょっと時間を要した。(次に行ったときはだいじょうぶ)

3.13.2026

[theatre] Double Indemnity

3月4日、水曜日の晩、Richmond Theatreで見ました。

この劇はこないだここで見た”The Constant Wife”と同様にアイルランドや英国の各地を巡回ツアーしていて、各地での上演は4~5日くらいづつ。
原作はJames M. Cainの同名小説(1943)で、Billy Wilderが映画化(1944) - 邦題は『深夜の告白』 - した作品の舞台版。

映画版はRaymond Chandlerが脚本に加わり、Barbara Stanwyck, Fred MacMurray, Edward G. Robinsonが出演しているノワールの古典で、中心の3人がとにかくすばらしくて何度でも見れる。 

原題は保険の「倍額補償」のこと - 保険契約で、被保険者が事故で死亡した場合に通常の2倍の保険金を支払うことを約束する条項のことで、自信たっぷりの保険セールスマンが豪邸に暮らす婦人にやられてつるんで高額の保険をかけて彼女の夫を殺して、保険金でとんずらを企む、という今ならどこにでも転がっていそうな三面記事ネタなのだが、映画版だとLAで空虚な日々を過ごすBarbara Stanwyckの倦怠と焦燥が逃れることのできないノワールの渦とともに金縛りにして、あのモノクロの質感は何度見ても吸いこまれて痺れる。これを最初に見たときは、こんなにありえないくらいにひどくて悲惨な世界をなんであんなに重厚にかっこよく描けるのか、って驚嘆した(ノワールの入り口)。

脚色はTom Holloway、演出はOscar Toemanで、前面には奥の方が暗めになっているグレイトーンの無機質なオフィス / リビングに切り替わり、背景にはLAの”HOLLYWOOD”の大看板を裏から見たのの一部 –“HOLL”くらいまで – が見えている。その大文字の看板の影の下で展開されるドラマである、と。 舞台劇なので仕方ないのかもしれないが、がらんと抜けた空間が広がっていて、それはノワールの息詰まる暗さや至近距離での攻防とはちょっと違った感覚かも。

今作の宣伝ポスターはPhyllis (Mischa Barton)の振り返った顔が前面に出ているのだが、主人公はやはり転落していく保険屋Walter Huff (Ciaran Owens)の方で、彼が最初からずっと舞台にいて、登場人物たちをドライブし、時にはナレーションもしたりしつつ、気がついたらPhyllisのペースと罠にはまって、うまく誘導されるがまま殺人にまで引き摺られていく。でも女性をどこか見下している自信家なので、あくまでもすべてを動かして統御しているのは自分で、そうしている限りは大丈夫だ問題ない、という線を崩そうとはしなくて、それが結果としてあの結末をもたらす。

映画版だと、Barbara Stanwyckのファム・ファタルの存在感が圧倒的でFred MacMurrayには彼女の闇と毒にやられて麻痺して視界を塞がれ身動きがとれなくなっていく息苦しさ(と共にある快楽)があった気がするが、この舞台版はPhyllisとうざったい上司Keyes (Martin Marquez)に対する見栄と自信が最後にぜんぶ跳ね返ってきて自滅する、彼の自業自得自滅のニュアンスがやや強いかも。それはそれでいい気味、なのだがそういうスケールのドラマにしてよかったのかどうか。

Mischa Barton演じるPhyllisは華やかで人を惹きつける魅力は十分なのだが、舞台が少し明るくなるかんじに見えてしまうのはどうなのかしら、って少しだけ。すごく難しい役だとは思うけど。

彼女も含めてアメリカ西海岸のドラマ、を意識した舞台の建付けだった気がするが、イギリスとかスコットランドの下町設定にしてももっとどろどろしておもしろくなったのではないか、とか。


ようやく箱詰め - 箱詰めと言えば本 - を開始して、Sサイズの箱18個までどうにか(こっちに来たときはS3個だったのに)。たぶんぎりぎり20個で収まりそうな。 だが収まったからどうだというのか。あの家のあの部屋に入ると思っているのか? あたまおかしいんじゃないか? といういつものー。

あと、気付いてしまったのだが、まだ2週間あって、最後のお買い物はこれからが佳境なのだと。来週はパリ行くし、アントワープも行くし。明日はマドリードだし…

[theatre] Stranger Things: The First Shadow

3月1日、日曜日の午後、Phoenix Theatreで見ました。

West Endでロングランしている商業演劇系(っていうの?)は余り見ていなくて、まずチケット代が高いし、しばらくやっているだろうから、というのがその理由だったのだが、帰国を前にやっぱりいくつかは見ておきたいな、になり、このシアターはいつも行く本屋Foylesの反対側にあって、本屋を出るたびに”Hawkins”の文字が目に入って見たいかも、になっていた。

NetflixのあのTVシリーズ(最後のエピソードは見れていないので帰国したら見る)、1983年から始まったあの物語の約40年前から始まる前日譚 - 冒頭に字幕で小さく”The Philadelphia Experiment”とでる – で、Duffer Brothers, Jack Thorne, Kate Trefryがオリジナルストーリーを作って、演出はStephen Daldry(!)とJustin Martinの共同。TVシリーズを見ていなくても、そんなに憶えていなくても「変なもの」は変なものとして目の前にダイナミックに迫ってくるし、知っている人には40年後の起源や登場人物がこんなところに、になる。 休憩含めて3時間、最後には映画のようなエンドロールが流れる。

暗転して闇の奥からTVシリーズのあのシンセ(もろJohn Carpenter)が湧いてくるだけで、どよめきが起こる。全体としてサウンドデザインが見事で、最後の方の光と轟音の嵐は怖いくらいだった。ところどころの古いフィルムのプロジェクションも効果的。(Ratingは12+で、日曜日の昼だからか子供もいっぱい見ていたがぜったい怖いとおもう)

冒頭が戦時中、洋上の戦艦のなかで起こった謎の出来事→大事故と失踪、そこからTV版の舞台となったインディアナ州ホーキンスに移って、そこでの平凡な学園生活と、周辺でペットが不審な死にかたをしていく事件を中心に、いくつかのエピソードが併走していく。冒頭の事故の唯一の生存者の息子で、不思議な能力をもつ少年Henry Creel (Jack Christou)、はぐれ者の彼に近づいていくPatty (Avril Maponga)を中心に、田舎の高校の平々凡々とした日々と、その裏に潜んでいるのか進行しているのか何やらおそろしい、”Strager Things”の端々をじわじわと炙りだすように描いて、でも全体像はちっともわからない。 TVシリーズを知っている人は、これらがどうなっていくのか、なんでこんなことに.. は凡そわかっているので、きたきたきた..になったり、これって、あれのこと? になったりと慌しいのだが、音とヴィジュアルの有無を言わせない説得力がすべてをなぎ倒して覆いかぶさってきて、記憶も忘却もどこかに行ってしまう。単独の舞台として見ても十分わけわかんなく錯綜していてよいと思った。

TVシリーズでWinona Ryderが演じたJoyceやDavid Harbourが演じたHopperの高校生時代の姿も出てくるが、彼らはちょっと微妙で、別になくてもよいくらいのエピソードの出し方。そして、若い頃のDr Brenner (Stewart Clarke)も当然。

この時点で誰かがどうにかしていたら、この件はどうにかなって(収束して)いたのだろうか?勿論そんなことにはならず、Stranger ThingsはStrangerのまま、だから、劇は冷たく恐ろしいままにその蓋を閉じて or 開けたままにHawkinsの80年代を用意する。しかし、この劇を見てからTVシリーズに行くと、あまりにほのぼの腑抜けで無邪気すぎるふうに見えてしまったりしないだろうか。

軍の実験と超能力と怪物と田舎を掛けあわせた超常化け物怪奇ホラーとして、とてもよくできているなあ、と改めて思ったのと、そういうのなしでも、シアター/お化け屋敷として十分機能しているように思えた。5時間くらいに引き延ばして、外に出られなくする設定を加えたらパーフェクトではないか(なにが?)。

[theatre] The Shitheads

3月3日、火曜日の晩、Royal Court Theatreのupstairsのシアター(全席自由)で見ました。

これ、2月25日のチケットを取っていたのだが、前日くらいに出演者が怪我をしたのでこの日の上演はなくなって、払い戻しするか別の日に振り替えるかどっちがいい? と聞いてきて、振り替えたい候補日をメールで送ったらこの日のチケットがきたの。

原作は詩人でもあるJack Nichollsの劇作デビューで、Royal Courtの公募作のなかから選ばれたもの、演出はAneesha SrinivasanとDavid Byrne(あのDavid Byrne氏とは同姓同名)の共同。約1時間40分で休憩なし。

場内は洞窟の中らしい赤暗い照明で、舞台奥の上の方には出入り口らしい穴が開いていて、大きな音ではないが「ジンギスカン」のディスコの音楽が流れていて、ちょっといかれたダンスフロアのように見えなくもない。

紀元前数万年前、先史・原始時代のやがて英国になると思われる土地に暮らしていた原始人たちのお話しで、「はじめ人間ギャートルズ」の世界で毛皮を羽織っていたりするのだが、主人公たちの名前はClareとかGregとか現代人のそれで、喋る英語もスラングみたいのも含めて今の英語(たぶん)だったりする。

考古学的な考証は横に置いて、自然と人工の配分とか、ムラとか家族とか近くのヒトとか恋愛とか、そういう現代の我々の前提とか縛り、目線から離れてフリーハンドでいろいろ好き勝手に思い描いて、それでも今のしがらみとかはどうしてもくっついてくるだろうから、言葉とか名前だけは現代のをコラージュのようにぶつけてみる、とどんなふうになるのか、という実験?

最初に登場人物らしき人がひとり、少しおどおどしつつ現れて、「このお話はBased on a True Storyである、と思うよ」 とか言う。そうでしょうとも。

それからいきなり3人の人形遣いに操作されたバカでかいヘラジカのパペットが現れて(ぶんぶん振り回されるツノだけでもすごい)、そいつを前にClare (Jacoba Williams)とGreg (Jonny Khan)が出会って、少し強くて狡猾そうなClareはヘラジカを倒して、無邪気でおしゃべりなGregはもうじき酷い気候になるから南に行くべきとか、ふたりの会話は噛み合っているのかいないのか、そこだけ切り取るとSNLやモンティパイソンのスケッチみたいなコメディネタの掛けあいなのだが、いきなりClareはGregを殺しちゃって(客席の笑いが凍りつく)、カチ割った頭から脳みそを食べたりするの。

後半、Gregの首をぶら下げて洞窟の家に戻ったClareを無邪気な妹のLisa (Annabel Smith)と病弱な父 (Peter Clements)が迎えて、今度は原始時代のシットコムみたいな家族ドラマが繰り広げられ、そこにGregの妻Danielle (Ami Tredrea)と歩き始めたばかりくらいの赤ん坊パペット(2人で操作して1人は赤ん坊の声も。ちょっとホラーに出てくるベイビーぽい)が現れて、Gregを見なかったか?って聞いてきて…

人間を動物の習性や挙動から隔てて「人間」にしたものはなんだったのか? 最初の方でClareがGregに何度も執拗に聞かせてほしいと請う”Story”のこと、そして自分たちとは異なる「あいつら」的に語られる”Shitheads”のこと、これらが明確な意図をもって彼らの間で使われ始めた時、あらゆるギャグは停止して殺戮が始まる、と。そしてこの温度差をどちら側からどう見るか、が今の我々に問われていることなのではないか – など、真面目に考えることもできる。

あと、折角ここまで作ったのなら、イギリス人 - ブリトン人がなんでこんなんなって、こんなままなのか、まで掘り下げてみてもよかったのではないか、とか。

送り出しでも「ジンギスカン」がじゃんじゃん流れて、しばらく頭の後ろで鳴っていた。ジンギスカン食べたくなった。

3.11.2026

[film] If I Had Legs I'd Kick You (2025)

3月2日、月曜日の晩、"The Moment"に続けて、Picturehouse Centralで見ました。

これも、なんで今これを? になるのかもしれないが、上映館が少なくてすぐ終わっちゃう気がしたのとRose Byrneが好きなので。

監督・脚本はMary Bronstein、プロデューサーにはJosh Safdieと彼の助監督で、監督の夫でもあるRonald Bronsteinなどの名前がある。Josh Safdieの終わりが見えないままずるずる、の薄ら寒い感覚ははっきりとある。

心理療法士のLinda (Rose Byrne)は摂食障害でチューブを通して栄養を摂取するしかない娘のために日々通院していて、そこのドクター(Mary Bronstein - 監督本人)からはいつも柔らかく怒られたりあなたのせいではない、って言われたりして(医者患者のどちら側も)疲れている。夫のCharlie(最後にちょっとだけ出てくるChristian Slater)は船の仕事で海に出ていて能天気でご機嫌な電話はしてくるけどずっと帰ってこない。

ある日アパートに帰ったら天井から水漏れがしていて、しばらく見ていたら大量の水と共に天井の一部が落ちてきた(これってNYではあるのよ普通に)ので、母娘はしばらくモーテルで暮らすことになり、娘が装着している栄養補給機のたてる音で眠れなくなり、外にワインを買いにでると店員とトラブルを起こしたり、それを横で見ていた管理人のJames (A$AP Rocky)に助けられたり。

もともと鬱のあった彼女は同じオフィスの同僚セラピスト(Conan O’Brien)のセラピーを受けるが鉄仮面の彼とのセッションは全く会話にもセラピーにもならず - Conan O’Brien最高 - こうして何の、誰の助けもケアも得られなくなってしまった彼女はー。

建てつけ、構成としては、どうってことのない日常のやり取りがちょっと捩れて終着点の見えない何か – ぐしゃぐしゃのホラーのように変わっていく、ひとつひとつの出来事が恐ろしいのではなく、終わらないこと、なにもかも終わらないために始まっていく感が恐ろしくて、その「責任」がすべて自分の方に向かってくる。穴の開いた天井も業者が都合でいなくなって放置されていたり、他方でチューブに繋がれた娘を放置するわけにはいかないし、自分の患者もいる反対側で自身の鬱もどうにかしないことには、とすべてクリアにわかっているのに、どこにも行けない動けない恐怖と情けなさが彼女の感覚や判断力を塞いでいって、「正気」とか「日常」に戻ることができない。

Rose Byrneの一見クールで、すべてをソツなくこなすように見えて実は、のコメディエンヌの資質を見事に反転させドロ沼に嵌って孤立して極限状態にまで突っ走っていく主婦の姿を描いて、でもこれはあなたの姿でもあるのではないか? と問う。でもそこまでシリアスで陰惨な地獄に行かないところがRose Byrneの格、というか見事さで、全体がダークなのに妙な安定感があったりするのはよいことなのかどうなのか。

そして最後まで顔が明かされずにマシーンのビープ音のみでその存在が示される「娘」のありよう、これがもたらす悪夢とは? というー。

ホームレスで、少しだけドラッグにやられている少女たちの彷徨いを描いたJosh Safdie(脚本はJosh + Ronald Bronstein)の“Heaven Knows What” (2014)にかんじとしては近いかもしれないが、あそこにあった屋根のない「自由」のようなものはなくて、寧ろ屋根がなくなったことによる「縛り」が無情に降ってきて、それでも” I'd Kick You” !っていう強さというか、ふざけんな、の勢いがあってよいの。

[film] The Moment (2026)

3月2日、月曜日の夕方、Curzon Aldgateで見ました。

いろいろばたばたで新しい映画を見る余裕がぜんぜんなく、旧作なんてもってのほかでBFI Southbankにも行けていない。こんなことがあってよいのでしょうか神さま、の状態が続いている。

そんなあれも見ないとこれも見ないとでぱんぱんな時に限って、ついこんな半端なのを見てしまったりするのはどうなのか。

監督はFKA TwigsやBillie EilishのMVを撮ったり、Timothée Chalametの映画のプロモーションに携わってきたAidan Zamiriで、これが初監督作となるが、元のアイデアなどはCharli XCXによるもの。配給はA24。

モキュメンタリーで、2024年のアルバム”Brat”のリリースに合わせたプロモーション”Brat Summer”、これの舞台裏も含めて、こんなことがあったりしてねえー、というのを彼女の位置からたっぷりの皮肉と共に描いている。全体としてはよくもまあ、っていうのとここまでやるのかー、ていうのが入り混じる。産業って… とか。

Charli XCXは”Sucker” (2014)などはよく聴いた、くらい。元気があってよいなー、くらい。

“Brat”のアリーナツアーの準備を進めながらちょっと疲れてきたCharliのところにAtlanticレーベルの大物Tammy Pitman (Rosanna Arquette ..あらら)が、このツアーを歴史に遺る遺産とすべくamazonと提携したコンサートフィルムを撮影する話を持ってきて、監督Johannes Godwin (Alexander Skarsgård ..あらあら)が現れて、常にリハーサルする彼女の後ろを追っかけてうざい口を出し始めて、クリエイティブ・リードのCeleste (Hailey Benton Gates)と彼女は事あるごとに顔を見合わせることになる。あと、ツアーを後押しするプロモーション企画として、落ち目になりつつあるカード会社Howard Stirlingが発行する”Brat”クレジットカードが発表され、サインアップするとツアーチケットが付いてくるとか。

この他にもその筋では有名なのだと思うセレブが右から左から実名・カメオで湧いて画面のあちこちにいて、詳しい人にはより楽しめるのだろうが、そうでなくとも、Charliを取り巻く大量かつ多様な何をやっているのかわからない人たちによって「界隈」が形成され、どっちが先なのか知らんがコラボティヴでストラテジックな連携・提携によるプラットフォームができあがり、そこに我々のお金がじゃんじゃか自動で吸いこまれていくのだな、ということはわかる。

でもそういう中でCharliは疲れていって、もうなにもかもいやだ、というかんじで突然イビザに逃げて高級リゾートに籠ろうとするのだが、そこでも怪しげなエステティシャンが絡んできたり。

これ、エンタメの実経済を支えるバカみたいに脳みそその他が空っぽな人々を風刺するコメディ – “Spinal Tap”のクラブ・レイヴ版にすればよかったのに、と思ったのだがそちらには行かず、ひたすら疲弊して本音をぶちまけることもできないCharliの、沢山の人達が準備してリソースを出してここまで来たのだから、って全てをのんで受けいれる姿が描かれる – そういう形で示される業界への批判で、それでも最後にはamazon musicで宜しくね、って出るので失笑せざるを得ない。

ファザコンでミソジニー丸出しのJohannesをどこかでぼこぼこにしてくれると思ったのにそれはないし、音楽も殆ど流れてこないし、主人公は疲弊して浮かない顔で、そういうところで最近のメガヒットは形成されるのだな、パンクなんて異なる惑星の話としか思えないし、Morrisseyが嘆くのも無理はないわ、って。

3.10.2026

[music] Morrissey

28日、土曜日の晩、The O2 Arenaで見ました。

クラクフから戻ってフラットに着いたのが16時半くらいだったので余裕。アウシュビッツを見た後のしんどさとか、もう少しあると思っていたが、そんなでもなかった。覚悟していたからだろうか。

この人のライブは初来日の横浜の時から数えて何回めくらいになるのか、最後に見たのは2018年のLondon Palladium で、いつの間にか、なんとなく、なにがなんでも行く! の対象からは離れてしまっていた気がする。

その理由はいろいろあって、あんま深く考えたくないかんじだったなー、となっていたのはなんでだったのか、について考えさせてくれるようなライブだった(ライブの度にそんなことばかり考えてて楽しいの? って自分でも思うがうるせえよ、って)。

Morrisseyがレコードを出して貰えない、創作活動を十分にすることができなくて焦って腐って悶々としている、というのはずっと聞いていて、彼がそうやって周囲に毒を吐くのはいつものことのように思えたし、であれば「大丈夫」に違いない、とか。でも大丈夫とかそういうことでもなさそうで。いや、わかんないな、ってぐだぐだ考えが右に左に揺れまくった。

The Smithsという、もはや恐竜のように巨大な遺産と認知されているバンドのフロントにいた彼なので、ソロになってそれなりのキャリアを重ねていったにしても歳をとったりなんだりで自分の思うような活動をできず/させてもらえず壁にぶち当たって… なんてあの世界ではごく普通のことのようにも思えるのだが、彼にとってはそういうことではないのだ。曲を書いてライブで歌うという音楽活動は自身の生死を賭けたすべてであったのだ。

The O2のあるNorth Greenwichの駅は、アリーナのライブがある時は告知用のホワイトボードにそのアーティストの曲名や歌詞をびっちり散りばめた「案内」?を出してくれるのだが今回はさすがにハードルが高かったのか過去のNoel Gallagherのをそのまま置いていた。残念。

19:30くらいに客電が落ちて通常の時間であればサポートアクトになるのだが、Morrissey を「サポート」する度胸のある若い子なんていないので、Morrissey のお気に入りのアイコンとそれに合わせた曲(あるいはその逆)をじゃんじゃか掛けてくれて楽しい。それは過去、The Smithsが12inchのレコードジャケットでやっていたことと地続きの極めて教育的ななにか、でもあるの。

20:40くらいに客電が落ちて、マラカスを持って出てくるなりForeignerの”I Want to Know What Love is”のあの一節を、まあ今こんなことを世界の中心で吠えてやってサマになるひとなんていないよ。この曲で吠える人もいないだろうが。

バンドはおそらく若返っていて(終わりの方でメンバー紹介と自己紹介もあった)、アレンジもわかりやすいエレクトロが入ったりキーボードのソロもあったり、がんばっているようだったがそういうことではなくて、モルヒネを打ってそれが切れるまで、本当にそれくらいいっぱいいっぱいで大変なんだ - 助けてほしい - ってずっと、このギャングでパンクで落ちぶれて崖っぷちの老人が呻き続けている。

新譜のリリースを巡るごたごたのなか、尊大なアーティスト・エゴがどうの、という以前のところで、この人は最初のバンドの頃からずっと毒を呑んで吐いて悶絶して絶望して生死を賭けるようなところで歌を書いて歌ってきた。それがすべてで、それが十分にできない、というのは死ね、と言われているのに等しいのだ。 100文字程度で、誰もが言いたいことを好きなようにいくらでも吐きだすことができるようになった今(Make-up is a Lie)、彼のような態度や挙動がきちんと理解されない、ちゃんと通用しない、というのがあるにしても、じゃあどうしろと言うのか – というのが冒頭の叫びに繋がっていたし、“A Rush and a Push and the Land is Ours”~”Now My Heart is Full”の流れは本当に感動的に響いた。(ここでもし“Last Night I Dreamt…”までやってくれたら泣いちゃったと思う)

ただ他方で、昔のスタンダードばかり求めてくる客ばかり、という残酷な事実もあって、すんなり爽快に楽しませてくれない。The Smithsを聴いて育ったビリオネアのなかで、恩返しもかねて彼にお金をだしてきちんとしたアレンジと演奏で新譜も含めてセンスよく賄ってくれるような人はいないのか、金持ちはThe Smithsなんて聴く必要はなかったのか、とか。

この先どうなっていくのか誰にもわからないし、知りようがない、この人はそういう前人未踏の領域に首を突っこもうとしているのだ。 どうせ先にあるのはダブルデッカーバスだし、ってあの曲を最初に聞いた時の感覚が蘇ってしまったので、これがよいことなのかどうなのかはわかんないけど、いまだに蘇ってくるものがあるので、よいライブだったと思う。


あああと3週間を切ってしまった。どうしよう…
(ぜんぶあきらめろ)

[log] Kraków - Feb 26 -28

ポーランドのクラクフに行くのは初めてではなくて、2018年に仕事のコンファレンスかなんかで行っていて、でもこの時は仕事だったのでシロテンとSt. Mary's Basilicaと地下博物館くらいしか見れなくて(仕事なんだから仕事しろ、だけど)、今回は2泊あるのだからやはりいろいろ見たいかも、になった。

Romeo i Julia

26日、木曜日の晩にMałopolski Ogród Sztuki (MOS)で見ました。
滞在中に演劇とかやっていないか探していたら見つけて、でも2日間公演のどちらもずっと売り切れでほぼ諦めていたのだが、飛行機が現地に着いて繋がった時に見たら取れる状態になっていたのでまだ機内にいるうちに取った。

開演は19時で、入管に時間が掛かってホテルにはいったのが18時過ぎ、土地勘とかないのでとにかく早めに出て、お腹が空いていたので屋台でドーナツを買って食べながら(おいしいったら)、歩いてシアターに向かう。

ここは由緒あるJuliusz Słowacki Theatreの分館でよりモダンで実験的な劇を手がけているようなのだが、初演は2023年、ポーランド語手話による作劇 - 制作には聴覚障害者、健聴者双方が関わった - を起点にシェイクスピアの古典を再構成している。演じるのは男性2名、女性2名のみ、らしい。誰が演出したのか、などは探したけどよくわからず。

全席自由で開演時間丁度に開場して、席につくと女性2人が台座に固定されるように立っていて、間もなく始まるとふたりは歌、台詞の発話(ポーランド語)、ポーランド語手話を駆使して、その内容はプロジェクターにポーランド語 & 英語でリアルタイムで表示される。やがてそこに男性ふたりも加わってやり取りをしていくうちに女性ふたりはどちらもジュリエットで、男性ふたりはどちらもロミオであることがわかってくる。

強権的な家制度と過去からの因襲による縛りと、それに対する強い反発、そして恋に突き動かされた強い情動、全てを断ち切りたい思いとずっと一緒にいたい思い、これらに伴う犠牲... そこに手話という身体を使ってこれらを伝える/伝えなければならない、という与件が加わったとき、恋するふたりの身体がふたつに裂かれるように分かれてあることにそんなに違和感は感じなかったかも。

ふたりの恋によって彼らの自我も含めて引き裂かれた混沌とした状態を表すのに手話、発話、歌、振付けが駆使されて、英語の字幕もあるので伝わるものは伝わっていたように思えた。

他方で、原作のお家間ややくざの抗争や悲劇に向かっていく錯綜した駆け引きの殆どは(演者もいないので)無くなっていて、ふたりの場面、それもいちばんエモーショナルなところだけを抽出して煮詰めたものになってしまっていて、これでいいの? って思い始めた辺りの約60分でぷつりと終わってしまった。

帰りにカフェでピエロギを食べたらものすごくおいしくてびっくりした。

演し物ではもうひとつ、27日の晩にThe Cracow Philharmonic HallにKraków Philharmonic の演奏を聴きにいった。ポーランドならショパンだろう、と少し思ったが、こういうところのメインの音楽ホールを見たい、というのもあって、オンラインで当日取った。演目はベートーヴェンの第八交響曲とマーラーの「大地の歌」の2曲、オーケストラ演奏のよいわるいは判断できないのだが、オケも歌唱も力強くて、でもホールの音響はクラシックにしてはちょっと固かった気がした。

美術館関係だと、この街にはダヴィンチの「シロテン」- 『白貂を抱く貴婦人』 (1489-1490)が名物のようにあって、これだけは事前にチケットを取った方が、とAIさんに言われたので、アウシュビッツから戻ってきた夕方に駆けこむようにチャルトリスキ美術館に入って見た。シロテンは前回クラクフに来た時にも見ていて、その時はここではない国立美術館の方にあって、でも展示場所としてはこちらの方がうまくはまっていた気がした。わたしはこの絵のシロテンの腕の白くむっちりしたところがなんとも言えず好きなので改めて舐めるように見て堪能した。夕方だったからか絵の前には人がほぼいなくて、こういう場合、ふつうだったらシロテンが絵の中から飛び出してきてくれるはずだったのだが。 あと、もうじき日本に行くらしいダヴィンチの『ミラノの貴婦人の肖像』 (1490-1496)で描かれたのと同じ女性なのかどうなのか。

これ以外の朝と、最後の日の出かける前までは主に教会を回っていた。Holy Trinity Church、聖マリア聖堂、聖フランシスコ教会などなど。古い都なのでそういうのはいくらでもあって嬉しいし、扉を開けた瞬間にわーってなって、ずっといてもなぜだか飽きないし。帰る日の朝は丘の上のヴァヴェル城のカテドラルに入って、教皇ヨハネ・パウロ二世のお墓と彼の名前のついた美術館も見た。自分がキリスト教(全般)に興味を持つようになった頃の教皇だったので、いろいろ振り返ったり。

3.05.2026

[log] Auschwitz-Birkenau - Feb 27

2月27日、金曜日の昼、現地に行きました。簡単な備忘。

ヨーロッパの近代以降の文化にずっと惹かれて追ってきたものにとって、この場所に行くこと、ここの地面の上に立って何があったのかを頭に刻むことは宿題のようになっていて、前回の駐在時にも計画していたのだがコロナで行けなくなり、本当は20代30代の時に見ておくべきだったと思うのだが、ここまで時間が掛かってしまった。ここ数ヶ月であちこちに行ったりしているのは全部そうで、なにもかもしみじみだめだった、なんでもっと早く、ってどこに行って歩いていても思う。

現地を見るにはMuseum(遺構、敷地全体がMuseumとして保護・保全されている)のやっているガイド付きのツアーに参加する必要があって、日本人の方によるガイドがよいことは知っていたのだが、時間の余裕もないのでオンラインで取れる英語のツアーにして、でも1月中旬の時点で2月の後半で取れたのはここの昼間のひと枠くらいしかなくて、とりあえずそのチケットを押さえて、その後にフライトを探してみると、クラクフから当日に入るのは無理、当日に出ていくのも無理で、会社の木金を休む2泊3日にせざるを得なかった。できればこの機会にワルシャワも行きたかったのだがそれも大変そう、後で28日の晩にMorrisseyのライブを入れていたことに気づいたが、どうにかなりそうで少しほっとしたり。

着いた日からクラクフの天気はとてもよくて、この日もぽかぽかと暖かい日差しで、クラクフの町から電車で約1時間と少し、そこからほぼ一本道を歩いて約20分。公園とかもあるあまりに普通の住宅地のなかに突然Museumの施設が現れて、入口はバスで来た団体客でわらわらしていたところを助けられるように奥に入れて貰い、いろんな言語のツアーが順番に入っていくなか、開始時刻にガイドの女性に率いられて中に入る。自分の集団は20~30人くらいか。

何度も写真で見たことがある”B”が倒立した”ARBEIT MACHT FREI” – 働けば自由になる – のアーチがいきなりあって、そこから第1収容所の施設を端から見て回る。これまでプリーモ・レーヴィやフランケルで読んで、写真でも映画でも何度も見てきたそれらが目の前にあって、あたりまえだけどぜんぶここで起こったのだと。

収容所に到着した子供たち、女性たちの写真、ゾンダーコマンドが撮った火葬場の風景、これらの以前見たことのあった写真も、この場所であった/撮られたということでこれまで見知っていたのと異なる生々しさが立ち現れてくるのと、他には映画”The Zone of Interest” (2023)に出てきたRudolf Heß一家が実際に暮らしていた家を見ること、この間の演劇”Here There Are Blueberries”で撮られていたナチス幹部たちの風景を重ねてみること。

アウシュビッツを一通り見た後に、シャトルバスで20分のところにあるビルケナウに向かい、あのずーっと奥まで伸びた線路と、当初計画ではとてつもない規模になる予定だったという広大な敷地を眺めて、実際に歩く。ここまで拡張される予定でした、ってショッピングセンターやデータセンターの拡張計画のように考えていたとしか思えなくて、そういうのを得意げに語る営業担当みたいな幹部の顔が何人も浮かんでとても気分が悪くなった。

過去にいろいろな形で表象されてきた風景や情景、それらが目の前にはっきりとある、どれも恐ろしいのだが、なによりも恐ろしいのは、ここにものすごい量の人的リソースが投入されて、毎日どれだけの数を「処理」することができるのか、「集約」とか「効率」とか言いながら日々の仕事としてやっていたことだ。こんな規模の施設で「なにをやっていたのか知らなかった」なんてありえないよね。

あとは、割と最近の映画 – “A Real Pain” (2024)とか”Treasure” (2024)で、収容所で亡くなった祖先を訪ねて(ではなく、お墓があるわけではないので収容所の遺構を訪ねて)いく子供や孫の映画がいくつかあって、これらについても訪ねたくなってしまう事情はなんとなくわかった。こんなところで、っていうのがあまりに非現実的すぎるからではないか。

そして最後はやはり、いまの世界で実際に起こっている虐殺のことを考えてしまう。数日前に始まった戦争のことも。
過去のこれらからなにも学んでいない、自分たちさえ良ければそれでいい人たちが絶対安全な場所から子供たちを殺している、ということを。それを我々みんなが許してしまっている、ということを。

これ以外のクラクフでのことはまた別で。

3.04.2026

[theatre] Arcadia

2月24日、火曜日の晩、Old Vicで見ました。
原作はTom Stoppardの同名戯曲(1993 – 初演も)。演出はCarrie Cracknell。

Old Vicは昨年舞台と客席の配置をリニューアルして、舞台を前方中央の円形に、客席はそれを見下ろす or 最前列は同じ高さの地続きの床になったのだが、ずっとこのレイアウトで行くのだろうか?(上演される劇を選んでしまうような..)

1809年のイギリスの邸宅の一室で、そこに暮らす天才少女Thomasina Coverly (Isis Hainsworth)と家庭教師Septimus Hodge (Seamus Dillane)がいろんなテーマについて楽しく問答を繰り返しながら、数学や科学の理論を通して自然や宇宙の包括的な謎に迫ろうとしていくのと、登場人物ががらりと入れ替わった現代の同じ部屋で作家のHannah Jarvis (Leila Farzad)と文学教授のBernard Nightingale (Prasanna Puwanarajah)が、100年以上前、かつてこの部屋で起こっていたかもしれないことについて議論を重ねていく。

気が付くとゆっくりと回転していたりする円形の舞台には低めの棚が沢山とその上に積まれた本がいくつか。部屋の頭上には星雲のような円弧なのか原子の回転なのか、舞台と同期をとるように弧を描きながら瞬いていく光の球がある。棚のどこかには食パンくらいのサイズの亀がいて、この亀さんはどちらの時代にもいる(同じやつ?)。

1月にHempstead Theatreで見たStoppardの”Indian Ink”も過去のインドに生きた - 鮮烈に生きた英国人女性と80年代の英国を同じ舞台上に繋いで、時代を跨いで行ったり来たりする劇だった。歴史の縁に埋もれた女性の声を発掘する、ということと彼女たちがそこにいた、生きていたということを探偵のように掘り下げていくことで開かれていく我々の目、といういくつかの視点があり、それらを共時的な体験としてひとつの舞台の上に実現する – これって演劇の可能性のひとつだと思う。

19世紀の彼らは、田舎の小さな一室で幾何学や不可逆性やカオス理論、天文学の可能性や仮説について論じて、そんな夢のような理屈がこんなところでは実証できないことを知りながら、それでも語ったり議論したりしないわけにはいかない。現代の彼らはいま自分たちの住む家に出入りしていた痕跡のあるバイロン卿の謎めいた動き、その点と線を推理しながら、やはり同じところを同じように回り続けている。天と地、科学と人文、見つめる先もテーマも全く異なっているのだが、はじめからそこにある混沌に秩序と補助線を加えて見晴らしのよいアルカディアの庭園を目指そう、という思いは共通している。それが穴倉のような部屋のなかで100年以上の時を隔てて起こった、そこで起こる、瞬くかもしれなかった可能性に想いを馳せること。

19世紀の舞台と現代の舞台で、現代の方は登場人物が多いこともあってややじたばた落ち着きがなくて、両者が慌しく交錯する最後の方はもうちょっと整理してほしいと思ったが、この劇はこうなりました!という結末を提示するというよりも、とめどなく広がっていって止まらない思索のありよう、その可能性を示すものだと思うので、こんなふうでよかったのかも、と思った。舞台装置とか衣装とか、すべてのデザインが”Arcadia”!の方に向かって揃って纏まっているように見えたので。

こんなふうに自分の足下で過去に何が起こっていたのか、想像みるだけでも楽しくて、でもそれをするためには建物とか周辺の見晴らしがそれなりに残されている必要があって、英国ってそういうことができる土地でもあるよなーって。
うちのフラットのそばのテムズ川を見てるだけでも、なんか来るもの。


帰国まで1ヶ月を切ってしまったので、従来からのお買い物大会と見納め大作戦に加えて、しんどいばかりの箱詰め大会も始めないわけにはいかなくなった。ちまちま買い溜めてきたペンギンの古いの、Virginia Woolfの”Orlando”が3冊も出てきて、どれも1945年の版なのが笑えた。巷では3冊までなら許されると聞いたのでちょっと安心。

あと、備蓄食料の在庫一掃も始まっていて、これのルールはぜったいに賞味期限を見ないことなの。

3.03.2026

[log] Copenhagen - Feb 21 - 22

2月21日、22日の土日の1泊で、コペンハーゲンに行ってきたので、簡単な備忘を。

これの前、15日は日帰りでJersey島に行ったり、19日に日帰りでBrusselに行ったりして、どちらも雨でぐじゃぐじゃのひどい天気で、ジャージーの牛さんは見れなかったし、思うように動くことができなかった – そういうこともある(って思うしかない)。べつにいいの。

コペンハーゲンもデンマークも初めてで、街はやはり雪と氷で覆われて、冷たい霙みたいのが軽めに横殴りで運河は半分くらい凍っていたが、今はそういう季節なのでぜんぜん平気だもん、という顔で歩いていく、と氷の水たまりに…

Marmorkirken

フレデリック教会、大理石の教会で、刺さったり覆いかぶさってくるような荘厳さを訴える、というより、フレスコ画も壁の牛や鳥も、すべてが丸めで柔らかくそこに収まっていて、とても居心地がよい。凍える寒さのなかここに入ったらとても安心するのではないか。

Design Museum

日本のポスターと北斎の木版画展をやっていた。
60〜90年代くらいまでの、展覧会や万博、オリンピック、芝居から商業広告まで、知っているのも沢山あるのだがどれも刺激的で、目を惹かせて、次にちょっと立ち止まって考えさせる、ようなことを小賢しくこ憎らしくやっている。いまも日本の街にはクズのような宣伝広告がいっぱい溢れているが、こういうポスターが作られなくなったことと、「再開発」と称して街に醜悪な建物がずらずら並ぶようになったことはどこかで繋がっていると思っている。

北斎は彼のデザインがわかりやすく出て、いろんな線のありかがくっきりとわかる作品が多くあったような。でもデザインなら広重とかの方ではないか。

あと、日本刀の鍔のコレクションの量がすごくてびっくり。人を殺す刃物の部品があんなにいっぱいあるの? とか。

そしてこれ以外の常設展示は、布、家具、文具、陶器、有名な椅子コレクションまで、こんな? あんな? だらけの楽しい驚きがいっぱいで、デザインのコレクションをやるならこうこなくちゃ、の模範のような並べ方だった。ショップにも欲しいのがいっぱいあったが我慢した。

Rosenborg Slot

公園の池は凍っているのに鴨が何羽かいるその脇に建つ古めのお城。 これまで見てきた英国やヨーロッパのお城と比べてもはっきりしょぼめでガタがきていて寒そうなのだが、展示の仕方が工夫されていて次々となんだか飽きないのと、地下の宝物館でこれでもかって誇示される宝物財宝類のすごさにちょっとあきれた。

SMK – Statens Museum for Kunst

National Galleryなら必ず、どこにでも入ってみようのシリーズ。 クラシック絵画は割とふつう、フランス近代は何故かマティスが多め、北欧系はやはりハマースホイを始め、とても充実している。描かれる光の淡さ・深度が共通していることのおもしろさ。BrusselのRoyal Museumもそうだが、広々した二階建ての美術館が一番見やすいなー。

日曜日も同様にさらさら雪氷の横殴りだったが、Christiansborgの王宮に向かって、庭のキルケゴール先生の像にご挨拶して、地下の遺構からレセプションルームまでいろいろまわった。これまでに見てきた王宮と比べるとこぢんまり綺麗に纏まっていて、より現役っぽい印象。


Den Hirschsprungske Samling - Hirschsprung Collection

企画展示でやっていた”Hanna Hirsch Pauli – Kunsten at være fri - The Art of Being Freeがとてもよかった。

Hanna Hirsch Pauli (1864-1940) はスウェーデンの画家で、昼も夜も、人が集ったり人を待っている食卓の上の光の散りようが素敵で、肖像画は結構ムラがあるが目を離せなくする力がある。
ここのハマースホイの数点もよくて、男性の脇に描かれた白い椅子と同じ椅子が展示されて(というよりそのまま置いて)あったり。

あとは、展示系とは関係なくパンがどこでなにを食べてもすばらしくて、ここなら永遠に暮らしていける。Hartっていう、Noma系列のパン屋の穀物系のとかケシの粒のとか、いくら食べても飽きがこないの。

[film] Wuthering Heights

2月20日、金曜日の晩、Elvisの”EPiC”を見た後に続けてBFI IMAXで見ました。
 
原作はEmily Brontëの『嵐が丘』、監督、脚色は”Saltburn” (2023)のEmerald Fennell。

少し前まで、バレンタイン・デーの公開に向けた宣伝攻勢がすごくて、でもそれだけ見ると映画本編前にかかるChanel N°5 のアホみたいなCM - Margot Robbie が出ている - とほとんど同じようで、最後に主題歌 - Charli XCX ってでっかくでるところだけおおーってなったり。
 
小説の『嵐が丘』は良くも悪くもの雑多な謎、見晴らしの悪さ - というほどではない、どうとでも取ることができる茫洋とした粗さと暈しに溢れたガレージ道端雑草小説で、それは欲望なのか愛なのか、みたいなところをぐるぐるまわって果てることがない。そうなってしまった時のどうでもいいや好きにして、の自由なのか不自由なのか感覚はハワースまで行って、そこの台地でぼうぼうと四方八方から吹きつけてくる風を受けているときに感じて歪んでいく自分の五感の投げやりな喪失感に似ていて、でもその放棄の総体を愛と呼んでしまうことについてはそんなに違和感はない。
 
Cathy (Margot Robbie)の家に薄汚れたHeathcliff (Jacob Elordi) が貰われたんだか拾われたんだかやってきて、いつも綺麗につんとしている彼女と粗暴な雑種の彼はずっと一緒に遊んだりしているうちに離れられなくなっていくのだが、実家が傾いたのでCathyは近所の金持ちのところに嫁いでいって、Heathcliffはどこかに消えて、小綺麗な成金になって戻ってきて、Cathyのところに顔を見せるようになる。もともと望んだ結婚相手ではなかったCathyはHeathcliffを追いかけるのだが… というのを原作の語り手で裏でふたりの関係を操る家政婦のNelly (Hong Chau) を挟んで、ほうれ見たことか、みたいに描いていく。
 
CathyとHeathcliffの他に、HeathcliffとIsabella (Alison Oliver)のいけないお話しもサブで絡んで、でも物語としての底の知れなさや制御不能の業、これらの狂える嵐や暴風のどろどろを畳みかけるところまでは行かなくて、女子であればかっこよい衣装 - by Jacqueline Durran - で映える背景でキメたい、男子であればかっこよく変態してのしかかって見返してやりたい、ふたり共通の欲としてえんえんセックスに溺れて乱れてなにもかも忘れてしまいたい、これらを強い要請とかなしにパラパラ無駄なく並べていってIMAXの大画面で浴びていると何かを見た気になってしまうのかも知れない。けど後にはなんも残らなくて、それでよいのか。もっと不純で汚れていてもやもやした何かが残る、嵐が常駐して彼方に去っていかない、のが原作の魅力だったのではないか、とか。
 
不穏さと想像していた以上のちゃらい感じ、というのは”Saltburn”が割とそれに近い印象を残した作品だったので、ちょっと期待したのだったが、真ん中のふたりがあまりにふつうの美男美女できらきら余裕と自信がありすぎててそういうのが見えないのよね。見る方もなんか綺麗だからそれでいいか、になってしまう。で、そうなることで物語の舞台としての「嵐が丘」は殆ど意味を持たない、雨風を防ぐお屋敷かすべて筒抜けの廃墟 - セックスするための場所でしかなくなる、というー。 ポルノ映画のタイトルとしてあっておかしくない「嵐が丘 - もっと吹かせて」など。

2.26.2026

[film] EPiC: Elvis Presley in Concert (2025)

2月18日、金曜日の夕方、BFI IMAXで見ました。

公開前のPreviewをIMAXのみでやっていて、どの回もチケットの売れ方がすごい。老人たちがツアーのように押し寄せてノヴェルティとして配られているElvisの旗を持っている。英国のElvis狂いがすごい、というのは知っていたがこの人たちかー、って。

Baz Luhrmann監督による“Elvis” (2022)に続くElvisものの第二弾。最初のは評伝ドラマだったが、今回はコンサート・フィルムで - 監督はコンサート・フィルムでもドキュメンタリーでもない、と言っているらしいが – “Elvis”で使う用に過去のコンサート・フィルムの未公開フッテージを探していたらカンザス州の岩塩鉱山にあるワーナー・ブラザースの映画アーカイブで、35mmと8mmの映像が入った68箱の箱が発見され、でもそこには音声が付いていなかったので、別の、既存の音声ソースをあてるのにPeter Jacksonの”The Beatles: Get Back” (2021)の修復スタッフの力も借りて、ぎんぎんの装飾まみれの、Baz Luhrmann印 – あのばかばかしいエンドロールも含めて - の堂々たる”Elvis”フィルムが出来あがった、と。

Elvis Presleyその人の紹介は兵役とか映画でのキャリアを繋いで紹介するくらいで軽く、あとはラスベガスのInternational Hotelでの公演に向けたリハーサルから本番まで、曲の合間にインタビューで喋る映像も挟まるが、ほぼコンサートの怒涛の勢いと迫力が前面に出ていて、これだからIMAXで、というのは納得できる重量感。

こういうライブ・フィルムはリハーサルのも含めて大好きで、まずはバンドの方に目がいってしまうのだが、とにかくバックのTCB (Taking Care of Business) Band - James Burton, Jerry Scheff, Ron Tuttらの音がばさばさでっかくてウォールオブサウンドのオーケストラですばらしくて痺れて、でもそれ以上にそこに乗っかるElvisの声もまた波のように自在で、全体としてモンスター大戦争みたいな隙間のない重量感。 しなやかなんだか垂れ流しなんだかわからないが、どんな歌でも彼が声を発すれば、それはどんなぐだぐだでもとにかく歌になって流れてくる不思議さ。

歌っているシーン以外のインタビューや語りの部分もあるが、それらは全体としてはあまりに軽くてバカっぽくて - 「わたしはただのエンターテイナーです」「わかりません言えません」を本当になんも考えてなさそうな顔でいうので、この辺は”Elvis”にも出てきたマネージャーTom Parkerによる圧力、抑圧があったのだろう、と思って、ただそんなことも歌が始まればどうでもよくなる、そういう闇雲で破天荒な抱擁力があって、あの場にいた女性たちはこれにやられたのだろう、と。これらの熱狂的な女性たちの間に、一瞬Priscillaと娘も映ったりするのだが、誰という言及はなくて、はいはいKingなのね、って思った。終わったら当たり前に拍手喝采だし。

こんなライブを多いときは1日10回、数千回までこなして、その間北米から外には一切出なかった、と。化け物みたいな – よくわかんないけどなんかすごい、音楽フィルムとしては”Becoming Led Zeppelin” (2025)に並ぶやつだと思うが、ショウビズという衣を纏っている分、こっちの方が異様でわけわかんなくてびっくりする。

こういうライブ映像を見る時って、かっこいいー!っていうのがまず来るかそうでないか、が結構大きいと思うのだが、このフィルムに関してはもちろんそういうのはなくて、でも音楽の強さ – 特にスタンダード - “You Don’t Have to Say You Love Me”とか“You’ve Lost That Loving Feeling”とか”Always On My Mind”などを歌うときに津波のように押し寄せてくるあれらは何なのか、これらが本能に近いところ、動物的ななにかを突いて襲いかかってくるの。

日本のIMAXでこれをどこまで上映できるのか、はわかんないけど、日本なら樋口さんの爆音があるのでそこでかかってくれることを祈りたい。

Elvisと同じようなことをやって/やれてしまう歌手がこの世界にはまだひとりいて、Morrisseyっていうのだが、今週末に見れる.. だろうか。明日からクラクフに飛んで、アウシュヴィッツに行くのだが…

2.24.2026

[dance] Tanztheater Wuppertal Pina Bausch "Sweet Mambo"

2月11日、水曜日の晩、Sadler’s Wellsで見ました。

Pina Bauschが亡くなった後のTanztheaterの公演は2020年にSadler’s Wellで” Blaubart”(青髭)(1977)の再演を見て、彼女の作ったものは今後もこんなふうに伝統芸能的に遺され継承されていくのかと、それって、なくなってしまうよりはましであるが、やはりちょっと寂しいな、と思ったものだった。

90年代からBrooklyn Academy of Music (BAM)でPinaの作品 - 新作も再演もずっと見てきたので、この2008年の最晩年の作品も再演にあたっては何等かの手が加えられて、上演後のカーテンコールの最後に彼女がちょっとだけ顔を見せてお辞儀をする、そこまでが彼女の作品だったんだよなー、って。

でも見ていないものがあればやはり見たいし、タイトルが"Sweet Mambo"なんて、80年代初の”Bandoneon”や”Walzer”など、タイトルに音楽が入っているのは外れないという確信がある。2007年の”Bamboo Blues”と並行して制作が進められ、2008年の初演時から7人のダンサーが今回の舞台に立つ。昨年日本で上演されたものと同じキャストなのかは不明。

セットデザインはPinaとずっと一緒にやってきたPeter Pabst、舞台上はシンプルなでっかいカーテンがぶあんぶあん風に靡いて膨らんでいて、そこに輝ける笑顔のNaomi Britoが大股でのっしのしと入ってきて、グラスの淵をふぁーんて撫でて鳴らしながら四方八方を挑発して、その甘さに吸い寄せられた男たちが虫のように群がって、愛と憎の、支配と服従のドラマが切れ目なく流れていって、愛における自由と束縛の止まらない追いかけっこが。そこに音楽がある限り、どんなに辛くてしんどそうな修羅場でも、甘いMamboのリズムに彩られて、実際に流れていくのはHope Sandoval, Portishead, 三宅純、坂本龍一、Cluster & Eno、などアンビエントでエレクトロニカでラウンジーでサイケでフォーキーで恨み節、呪い節もたっぷりなのに、ぜんぶしゃかしゃかのMamboになってしまう魔法。

背後で投影されていた映画は、Viktor Tourjansky監督、Zarah Leander主演の“Der Blaufuchs” (1938) – 英語題“The Blue Fox” - 女性が夫から離れて別の男と駆け落ちすることを考えるコメディで、男性による虐待の裏側でこれが流れていること、等。

昔彼女の舞台を見にいくのって、世界の都市シリーズではないが、見たことがない世界の葉っぱの裏側に触れる/見てしまう、そういうどきどきと少しの怖さがあったのだが、今回のこの舞台には堂々とした普遍的な愛憎ドラマの風格と完成度があって、とても満足して、でもやはり少しだけ寂しい気がして、それは冒頭に書いたのと同じ何かなのかも…


Pierrot Lunaire


2月17日、火曜日の晩、Royal Opera House内のLinburyTheatreで見ました。

アメリカの振付師Glen Tetley (1926-2007)の生誕100周年を記念した公演 - 『月に憑かれたピエロ』。初演は1962年。Arnold Schoenbergの同名曲(1912)にインスパイアされたモダン・ダンス創世期の作品。45分で休憩なし。

舞台には縦長三角の足場が組まれているだけ。小編成のアンサンブルとソプラノによる歌をバックに、無邪気なPierrot (Marcelino Sambé)が足場に絡まって無邪気に踊っていると、妖艶で掴みどころのないColumbine (Mayara Magri)が現れて彼を誘惑したりくすぐったりしていると、そこにちょっと悪賢そうなBrighella (Matthew Ball)がやってきて、ピエロの服をはがして三角関係をずたずたにして、これらのドラマをとってもSchoenbergな無調の音楽が、煽って倒立させて底に落っことしていく。

これらが足場の三角、関係の三角、倒立する三角などの鋭角的なデザインにあわせてわかりやすく組み立てられ展開されていって、それはまさに初期のMartha Grahamのダンスに感じるのと同じもので、ポストモダンてなに?っていうくらい無邪気で無防備なモダンのモードに溢れているのだがぜんぜん悪くないのだった。これと同じキャラクターと衣装を使って、Wayne McGregorが振り付けたらどんなふうになるのか、ちょっと見てみたいかも。

[film] The President's Cake (2025)

2月14日、土曜日の昼、Curzon Bloomsburyで見ました。

イラク/カタール/アメリカ映画で、原題は“Mamlaket al-qasab”。
作・監督はこれがデビューとなるイラクのHasan Hadi。Executive ProducerにはChris ColumbusとEric Rothの名前がある。昨年のカンヌのDirectors' Fortnightでプレミアされて、Audience AwardとCaméra d'Orを受賞している。

90年代初、サダム・フセインの独裁政権下のイラクで、国民の祝日であり国民全員が彼の生誕を祝わなければならない日に向けて、学校の教室のクジで、彼の誕生日のケーキを焼いて持ってくる係(でもそれを食べるのは先生)に当たってしまった9歳の少女Lamia (Baneen Ahmed Nayyef)がいて、こんな光栄なことはない、ってみんなは言うのだが、そんなわけあるか、って口には出さないけど彼女の顔は言ってて、でも拒否したり持っていかなかったりすると罰せられるのでしょうがない。祖母Bibi (Waheed Thabet Khreibat)と雄鶏のHindiと一緒に湿地帯の脇の家で暮らす彼女は、家に帰ってBibiにそのことを言うと、Bibiはぶつぶつ言いながら卵、小麦粉、砂糖、のリストを作ってくれて、では材料を買いに行こうと車に乗せて貰ったりしながら町にでる。でも町で最初に入った家で、Bibiがそこの女性と里親の相談らしきことをしているのを聞いて、たまらずそこを飛びだして、町でスリとかをしている同じ教室のSaeed (Sajad Mohamad Qasem) – 彼もクジで外れてフルーツ担当にされた - と一緒になってケーキを作る材料を集めはじめるが経済制裁下なので調達は容易ではない。

これだけだとの世間知らず怖いもの知らずの子供ふたりのほんわかしたサバイバル冒険話に見えてしまうし、自分も軽くそんなものか、と思っていたのだが実際にはとても暗くて重い – Lamiaの将来についても、家族についても、この先幸せになれそうな要素なんて欠片も出てこないし、どこに行ってもサダム・フセインの肖像だらけで、なんなのこいつ?になって落ち着かない。そんな心配が山のように溢れてくるなか、Saeedに助けられたりしつつ粉を探していくと、Hindiがどこかに消えてしまったり、Bibiが動けなくなってしまったり。

どこの町にも良い人はいるし悪い人もいるし、サダム・フセインみたいに、なんであんなに祭りあげられて騒がれているのかわからない人もいるし – それくらいの知識でもって人混みを渡って大人たちとケーキの材料の交渉をしていかなければならないLamiaとSaeedの不安ときたらとてつもないだろうと思うし、自分がBabiの立場にあったらその倍たまらなくなると思うし、Babiはきっとそうなっているだろうなと思うだけでいたたまれなくなるし、要はサダムがどう、という以前に、ここで生まれた不安と感情の渦の広がりに胸が痛くなるばかり。

で、こういう子供(冒険)映画の定番として、必ずどこからか頼りになれそうなおじさんおばさんが現れてどうにかしてくれる、という流れがあったりして、この映画でも実際そういうところもあるのだが、戦時下なので最後までどうなるかわからないし、実際にあの終わり方には目の前が真っ暗になる。 けど実際のところだと、あんなふうだったのだろうな、と思う。90年代初のイラクで子供時代を過ごした監督の発言などを読んだりすると。

Lamiaを演じるBaneen Ahmed Nayyefの素人のすばらしさを讃えるのは簡単だが、それ以上に、あんな世の中だったら、演技だなんだ以前にあんなふうに子供たちを縛ったり凍りつかせたりしてしまうであろう寒々しさのことを思ってしまう。

タイトルの『大統領のケーキ』の後に続くのは「のために犠牲にされる子供たち」なのか。

さいごにネタバレになってしまうが、オンドリはぶじ、ということだけはー。

2.21.2026

[theatre] Dance of Death

2月13日、金曜日の晩、Orange Tree Theatreで見ました。

ここのところずっとばたばただからかなんなのか、映画をまったく見れていなくて、時間ができると演劇のチケットを取ってしまって、映画館に行けていない。どういうわけでこうなっているのか自分でもあまりよくわからないのだが、ライブでじたばた、というあたりが地続きなので(楽しいの?)はないか、とか。

原作はAugust Strindbergの同名戯曲 – “Dödsdansen”(1901)、脚色と演出はRichard Eyre。昨年9月にこのシアターで見たCharles Danceらが出演した”Creditors”もStrindbergが原作の3人(老人)芝居で、この時も画家Strindbergの絵画がモチーフの色模様で天井などが彩られていて、今回も。でも、舞台の上は古くて陰鬱で雑然としたリビングで、タイプライターや無線の受信機(唯一の外との交信手段)があって、やや重苦しいかんじ。

陸軍大尉Edgar (Will Keen)と彼の妻Alice (Lisa Dillon)がそのリビングに姿を現して、病弱であちこちにガタがきているEdgarとそんな奴の面倒をみるのも面倒っぽいAliceが激しくはないが刺々しい言い争いを繰りひろげていって、その刺々しさがなんだかおかしい。軍人だけどまったく出世できずに、でも軍人なので愚直に制服を着て外に出ていくEdgarと、結婚しなければ女優として成功していたはずというAliceは、互いに本当にあんたなんかいなくなっちゃえ死んじまえ、って全力全霊そう思っているようで、その言いようがストレートすぎて、それぞれ言われれば言われるほどふざけんな、って膨れて力を蓄えてくような、全体としては不条理劇の体裁でこちらに迫ってくる。 映画であればベルイマンあたりが撮りそうな。

時代設定はオリジナルの1900年初からスペイン風邪が流行した1918年頃に変えていて、ふたりの様子を見にきたAliceの従兄弟のKurt (Geoffrey Streatfeild)は最初にマスクをしていたりする。パンデミックで閉じこめられたなかでの夫婦の不和、という話は古い話に聞こえないし、すぐそこにいくらでも転がっている死、という背景がドラマをより生々しいものにしている。

そして、この閉ざされた空間で、憎み合い文句を言いあう彼らの背後に見えてくるのは本当の虚無、というか孤独で、それが第三者であるKurtの登場によってより明確になっていく。あんたなんか死んじまえ、と言ったその先、それが実現された後に、待っているのはどんな世界なのか、そうやって自分はひとりになった時に何が起こってどうなるのか、どうするのか、等々。これらが”Dance of Death”というタイトルのもとで形を作っていく、コレオグラフされていく過程がスリリングで、それを振りつけていくのは誰なのか、等。

一度Kurtが動かなくなって、あ、本当に死んじゃったんだ.. ってなるシーンがあるのだが、その時に見せるAliceの表情や挙動がすごくて、そこで自身の存在の境目(のようなもの)や重みを改めて測って見極めようとしているかのようで、こういうことは確かに起こることかも、って誰もが思わされるに違いないのと、あと、ここで問われているのは愛ではなくて、愛なんてなくて、ではなにがあるのか、と。なにが我々を、どこに向かって動かすことになるのだろうか、と。

 

[theatre] Beautiful Little Fool

2月12日、木曜日の晩、Southwark Playhouse Boroughで見ました。

脚本はMona Mansour、演出はブロードウェイのMichael Greif、ミュージカルで歌詞とスコアをアメリカ人のHannah Corneauが書いて4人編成のバンドがライブでバッキングして、アンサンブルの2人はコーラスも兼ねる。90分間、休憩なし。

舞台は暗い倉庫のようなアーカイブのなかで、ファイルや本や書類が山積みになっている2階建て、そこにScottie (Lauren Ward)がひとりで現れ、父は44歳で亡くなって、母は47歳で亡くなって、今日、48歳の誕生日を迎えるわたしは父母の亡くなった歳を越えてしまった!って嘆いたり叫んだりするとどこからかZelda Fitzgerald (Amy Parker)とF Scott (David Hunter)が蘇って、ふたりの出会いから先を歌って踊って綴っていく。

音楽は当時(1910-20年代)のジャズ等を使うわけではなくて、ずっと極めてプレーンなポップス・ロック調で主にZeldaが中心で歌って、ScottもScottieもソロを取る場面もあるが、やはりメインはZaldaの歌。18歳で地元アラバマのMontgomery Country ClubでScottと出会ってから盛りあがっていく恋、そこにScottの作家としての成功が加わって、奔放かつ最強のパワーカップルが生まれていくところ、やがてScottieが生まれて、ふたりの関係が壊れていって... という史実として知られているところをなぞりつつ、やはり中心は歌いあげるZelda、それを背後で見ているしかなかったScottieの嘆息、ということになるだろうか。

“This Side of Paradise”や”The Beautiful and Damned”といったScottの小説名が曲に織りこまれていたりもするが、文芸ドラマとしてはあくまでも控えめで、Scott自身が歌う場面も何かを訴えたり押しだしたり、という場面は殆どなくて、ふたりの関係の破綻についても、ScottによるZeldaの書いたものの盗用とか、精神病院に送ったり、の虐待に近い史実については十分に掘り下げられていなくて、強いふたりの個性がぶつかった帰結のような – すべてはどうすることもできなかった、なトーンで、真ん中と最後に歌われる”Call It Love”として貫かれていて、それを恋と呼ぶのであれば、そりゃなんでもそうなっちゃうよね、なのだった。

タイトルの”Beautiful Little Fool”はZeldaがScottieを産んだ時に呟いた言葉で、後にScottが” The Great Gatsby”で引用したりしているのだが、すべての女の子に”Beautiful Little Fool”であってほしいと願ったScottとあの時代のアメリカの男たち、それに対する毒なり批評なりが少しはあるかと思ったのだが、結局あのときの愛はほんものだったー 程度で終わってしまっているのはどうにも残念だしおめでたすぎるし、父母の歳を過ぎてしまったScottieも、せっかく資料庫にいるのだから改竄するくらいの勢いで何かを見つけ出して叩きつけてくれてもよいのに、結局思い出に溺れてしんみりしたまま終わってしまう。

ふたりが20年代、欧州で過ごした日々のことは、Gertrude Steinの肖像が舞台の袖に置かれて少しだけ出てくるのだが、『優雅な生活が最高の復讐である』のテーマにフォーカスしてZeldaに思う存分語って歌って暴れてもらう、という構成にした方が内容的にもおもしろくなったのではないか。

3人のアンサンブルは歌も含めて固まっていてうまいし楽しくて、でも個人的にはZeldaを壊して潰したのはScott、くらいに思っているので、このトリオネタでそんな楽しいミュージカルになるわけが… という違和感がずっと残ってしまうのだった。

2.18.2026

[theatre] Chiten Theatre: The Gambler

2月10日、火曜日の晩、Coronet Theatreで見ました。

原作はドストエフスキーの『賭博者』(1866)(亀山郁夫訳)、演出は三浦基、音楽は空間現代、初演は2021年。 90分間休憩なし。
地点の演劇は2017年、英国に渡る直前に早稲田大学大隈記念講堂で『ロミオとジュリエット』を見たのが最初で、それ以来。

舞台の上にはルーレットの上方で(or それ自体がルーレットなのか)LEDネオン付きで回転するがらがら、真ん中に長方形のテーブル(これも回転していく)、床もルーレットの色模様に色分けされている。舞台の左手にギター、左手奥にドラムス、右手にベースが入って、バンドがステージの周囲を固めてカウントして音楽が始まると、それに乗っかるようにして俳優たちがテーブルの各自の位置につくと同時にテーブルが回転を始めて、やはりものすごいテンションと速さで台詞が放たれて英語字幕上に映しだされていく。

ふだん字幕があったら字幕のほうを見る習慣がついているのでつい字幕を見て、ああこれは日本語の劇だった、と思い直すのだが、日本語であったとしてもラップのような強さと切れ目のなさで矢継ぎ早に繰りだされるので、字幕で確認したり補強したり、とにかくせわしない。途切れることのない空間現代の音楽は昔のパチンコ屋の軍艦マーチで、ルーレットの回転に油を注いでいって止まらないしこの輪から逸れることを許さない。依存症をかき混ぜて攪拌してもう一回固めて溶かして、の繰り返し。

とまらない、やめられない、というのがギャンブルに向かう、ギャンブラーの基本的な態度で、完全に中毒で自分で自転車をこぎ続けてしまう家庭教師アレクセイ、彼が恋するポリーナ、彼女の義父のロシア人「将軍」、彼が恋するマドモワゼル・ブランシュ、英国人のミスター・アストリー、フランス人のデ・グリュー、何度も死にかけては蘇る「将軍」の「おばあさま」など、このテーブルの上とか脇にこうしているいろんな人たちも何かの縁で、ギャンブルだって何かの縁に違いないし、って熱狂的に喋りまくり賭けまくる彼らはここでこんなことをしていて幸せなはずで、ひょっとしたら誰かの何かを救っているのかも知れなくて、その欲望のありよう – 絶望~ひょっとしたら~まだまだいけるかも – の循環を反復されるポーズとかフレーズなどで繋いで端から端に叩きつけていく。

ただ近年の日本のお笑いなどで顕著になった(ように思う)、キメのポーズとかそれに合わせた掛け声とか台詞とか、それにみんなの声を重ねたりとか、どこがおもしろいんだかぜんぜんわからない、運動会の幼稚さを思わせるあれらが延々重ねられていくのはちょっと苦痛で、これって海外(あ、こっちが海外だが)の客にはどう見えているのかしら、とか、でもこの子供っぽい集団の熱狂と喧騒こそがギャンブラーを焚きつけて90分間をノンストップで走らせてギャンブラーたらしめる、ということはわかる。

やはりこの装置の外側で、なんでこんなことになっちゃったのか?とか、これらがなくなったらこの人たちは? などはあってもよかったかも – 有り金への言及はあったけど。これだけだと90分のトチ狂ったパフォーマンス(異国の)、にされて「なんかすごいねー」で終わっちゃうだけなのではないか、って。

[theatre] The Constant Wife

2月9日、月曜日の晩、Richmond Theatreで見ました。
Richmondって、ロンドンからは電車で1時間くらいかかるくらい遠くにある場所なのに、Orange Tree Theatreとかこれとか、なんで素敵な劇場があったりするのか?

Royal Shakespeare Companyの制作で昨年Stratford upon AvonのSwan Theatreでプレミアされたのがキャストを替えて英国中のツアーを始めて、それがロンドンに来て、ロンドン公演は一週間だけ、英国ツアーの後は、Queen Mary 2のクルーズに乗りこむんだって。

原作はW. Somerset Maughamの同名戯曲(1926)- 1929年にはアメリカでWilliam Powell主演、”Charming Sinners”のタイトルで映画化されている - 翻案はLaura Wade、演出はTamara Harvey、ジャジーでラウンジ―で素敵な音楽はJamie Cullumのオリジナル。 舞台は淡い幾何学模様の壁紙から淡い照明から風にゆらぐカーテンまで、ものすごくおしゃれな一軒家のリビングで、冒頭に執事Bentley(Philip Rham)が現れて、ピアノをじゃんじゃか鳴らしてからドラマがはじまる。

36才の主婦Constance Middleton (Kara Tointon)は医師のJohn (Tim Delap)と結婚してだいぶ経っても幸せそうで、颯爽と誰の心配もいらないふうに暮らしているように見えて、最初の方の母(Sara Crowe)や妹Martha (Amy Vicary-Smith)とのやりとりもコミカルで揺るぎなくて、将来にわたって何の不安も心配もいらないかんじであることがわかるのだが、そのうち - 気づいていたのかいないのか、親友Marie-Louise(Gloria Onitiri)と夫が不倫関係にあることを知り、家に乗りこんできたMarie-Louiseの夫Mortimer (Jules Brown)がわめきたてたことで、夫の嘘や裏切りが決定的に晒されてみんなお手上げ、になってしまう。

お話しはそれを知ったConstanceの揺らぎ、失望や怒り、あるいはどん底からめらめらの復讐やリカバリ、立ち直りにフォーカスしていくのかと思いきや、ぜんぜんあっさりさばさばとひとりで生きていくためにインテリアデザインの職を身につける - その準備を1年くらいかけて着々と進めて行って、それによって却ってじたばたする周囲の愚かさ、いろんな恥ずかしさが露呈していく、その工程を描いていって、そこにおまけのように献身的な恋人Bernard (Alex Mugnaioni)まで付いてくるので、いろいろご心配頂きありがとうー、って爽やかに旅立っていくConstantなConstanceの肖像を描いてかっこよいったらない。

経済的自立がすべて、誰にもやりこめられない、のようなやり方を貫いてとにかく感情に流されない/訴えない、誰の味方もしない、そういう地点から時間をかけて自分を磨いていくと、結局は周りに誰もいなくなっちゃったり、みたいな人間関係における乾いたシニカルな認識 - 原作者Maughamの時代にはちょっと皮肉に映ったかもしれない女性のありようが、今の時代だったらどんなふうに見えるだろうか、という実験? これが皮肉でもなんでもなく極めてまっとうで健全に見えてしまう、というのは一体どう捉えるべきなのか?

お勉強とか備えとか、そんなのやる余裕すらない、とかその間も一緒に暮らしたりしているんだろうし、実際のところは? とか横から意地悪く突っ込まれそうで、でも少なくともこの舞台のConstanceの態度にはブレとかなくて、あたふたするのは周囲の方で。

とにかくConstanceを演じるKara Tointonの颯爽としたしなやかさが突出していて、彼女が約100年前の舞台の世界にいることが勿体ない、そればっかりだった。

2.17.2026

[log] Amsterdam - Feb 6 - 7

2月6日金曜日から7日土曜日まで、1泊でアムステルダムに行ってきたので、その簡単なメモを。

アムステルダムは前回赴任していた時に2回くらい行っていて、大好きなところなのでいつでも何度でも行きたいのだが、今回の駐在ではまだ行っていなくて、行かなきゃなー、になっていたところで、Eye FilmmuseumでのTilda Swintonさまの展示が終わりそうだったのと、Rijksmuseumで新しい企画展 - “Metamorphoses”が始まったところだったので、このふたつをメインにして。

Anne Frank House

これまでいつ行っても予約いっぱいで入れなかったところなので、やはり見ておかないと、と。

やはり前夜に見た演劇 – “Here There Are Blueberries”のこと、少し前に見た演劇 – “A Grain of Sand”を考えてしまう。Anneがこんな狭い棚の裏側で、家族と共に息を潜めて暮らしていた、その反対側で党の幹部たちはカメラの前であんな笑顔を晒して何も考えない善人のふりをして暮らしていた。そしてエプスタイン・ファイルの醜悪さやガザの件は今、目の前にある。記録はもちろん大事だけど、想像力と、なんのためにこの建物が残されているのか、ということと。

Nijntje Museum

これまでアムステルダムに行くと、少しだけ遠出してMauritshuis(美術館)に行ったりしていたのだが、今回もそのシリーズでユトレヒトのミッフィーミュージアムに行った。ミッフィーは去年の5月に松屋銀座で見たではないか、なのだが、ミュージアムがあるのであれば、そりゃ見にいくよね。

小雨でずっと寒くて暗くて、駅から結構歩いたが、入口に合羽を羽織ったミッフィーがいたのでぜんぶ赦された(バカ)。

館内はミッフィーだけじゃないいろんな動物たちが壁とか物陰に張りついていて、もう少し博物館的に、起源とか書誌とか世界的な広がりとか、あるいはDick Brunaそのひとについて、彼のヴィジョンとかミッフィーに託したものとか、説明があったりするのかと思ったのだが、そんなの一切なくて(あったのかな?)、壁とか階段とか扉の裏とかにいろんなのがいたり空中に光って浮かんでいたりするので、わー、っていちいち小さく叫びながら写真撮ったりしているうちに終わってしまった。

炸裂するcutenessの嵐のなか、ミッフィーとはこういうやつ、いつもこんなふう、というのは十分に伝わってきたし、子供たちはみんな楽しそうに遊んでいたので、(これぞエクスペリエンス? で)これでいいのよね、だった。

ユトレヒト、といえば本屋の町、でもあるので古本屋も含めて何軒か回ってみて、何軒か、でこれならば相当やばいな、って小さく呟いて早々に深入りしないようにした。アムステルダムでも、着いた日にオランダニシンの屋台に行ったら広場で古本市をやってて、雨の金曜日なのになんてことだ? って見ないようにしたのだが、あんなふうにいろんな本が目に入るようになっているのって、素敵ではないか。神保町でもないのに。

Metamorphoses

7日の朝、まだ雨がぱらぱら霧がぼうぼうだったが、行ってあたりまえのRijksmuseum Amsterdamに。
“Metamorphoses” – 『変身』をテーマに内外からクラシックを持ってきた企画展。

ギリシャ神話のオウィディウスの『変身物語』 - レダからナルシスから馴染みの変わり身神話を起源とする、それをテーマにしたり着想を得たりした古今の絵画から彫刻から現代の映像作品まで、ワシントンからMETからNational Galleryから幅広く集めていて、底なしに深くておもしろい。変身、移り身への誘惑、というのは定着させたり固着させたりが主、の彫刻や絵画にとって格好、というか基本中の基本、ひょっとしたら唯一のテーマであって、Bernini, Rodin, Brâncușあたりの彫刻作品のいまにも変身/変態を始めそうな生々しく艶かしいツヤときたら。

カタログの英語版が出るのは3月中旬頃、というのでそんなの待てるか、ってオランダ語版を…

常設展示もざーっと見たが、天気のよくない土曜の朝だからか、フェルメールもレンブラントも、あんながらがらだったの初めてだったかも。

Tilda Swinton – Ongoing

2020年初め、コロナ禍で中断してしまったBFIでのTilda Swintonの特集はあれ以降の自分の俳優観/映画観にものすごい影響を及ぼしていて、そんな彼女の「回顧」 –ではない”Ongoing”展であれば見にいかないわけにはいかない。カタログの方はロンドンでサイン入りのを買った(紙質がすてき)。

カタログの表紙は刈りあげた後ろ頭、この展覧会のメインビジュアルはCasper Sejersenによるチョビ髭、青緑のシャドウでぼけぼけの詐欺師ふうの肖像(2023)で、簡単に正体を明かされてたまるか、という点では一貫している。今回の展示もDerek Jarmanに始まり、Joanna Hogg、Jim Jarmusch、Apichatpong Weerasethakul 、Pedro Almodóvar、Luca Guadagnino、Tim Walkerらによる過去の出演作や写真をプロジェクションしているのはもちろん、一番つきあいの古いJoanna Hoggの作品 “Flat 19, 2025”は、半開きに重ねられた扉や部屋の向こうから声が聞こえてくるインスタレーションだったり、一応彼女が過去の出演作で着た衣装なども並べられているのだが、ぜんぜん所謂「女優」の展示になっていないのがおかしい。演じるということ、配役の人生を生きるということ、他者になるということ、それでも自分は自分であること、という循環を体現し、そこを抜けていくスリルと歓びをずーっと自分の身体に問うて実践してきた人の現在形がこれ、という。

この後はここの常設展示(映写機とか映写の原理とか)を少し見て、フェリーで戻ってから古い教会 - Oude kerkとか、考古学のAllard Pierson Museumなどをまわった。

1泊でじたばたするのはもう慣れつつあって、そんななかホテルのロビーにいたにゃんこが異様にかわいくて、別れが惜しまれるのだった。

[theatre] Here There Are Blueberries

2月5日、木曜日の晩、Theatre Royal Stratford Eastで見ました。

開演前の舞台には宣伝なのかなんなのか、カメラのLeicaのロゴが大きく投影されていて、幕が開くと最初に20世紀初のポータブルカメラの発明〜登場は当時の人々の生活を記録するのにいかに革新的なことだったのかが説明される。

2007年、ワシントンのHolocaust Memorial Museumに一冊の古いフォトアルバムが送られてくる。そこにはアウシュビッツを記録した写真が多く収められていたが、これまでにここに送られて確認されてきた写真たちと大きく異なったのは被写体が収容所の収容者 - ユダヤ人たちのそれではなく、Rudolf Höss, Josef Mengele, Richard Baer, といった収容所の設立や運用に大きく関わっていた大物ナチス幹部や医師の写真、彼らが集まって仕事をしている場面が多く含まれていたことだった。写真の調査を進めていく中で、これらはRichard Baer の右腕だったKarl Höckerによって撮られたものであることがわかってきて、舞台はそこから、20世紀でもっとも凄惨な大量虐殺が行われていた「現場」、そこで働くナチスの幹部やその下の党員たちはどんな日々を過ごし「仕事」をしていたのか、と、このアルバムをホロコーストの被害者たちの実態にフォーカスしてきたMuseumの職員たちはどう扱ったのか、更にこのアルバムの存在がMuseumによって世界に晒された後、現代に生きる幹部の子孫たち & 我々はこれらをどう受けとめるべきなのか、について訴える、というより一緒に考えていく。

写真に写っていたのは仕事をしている彼らだけでなく、パーティーをしたり、余暇を楽しんでいたり、現地で働く女性職員たちは野外で楽しそうにブルーベリーを頬張っていたり - 劇のタイトルはここから - 多くの人は映画- “The Zone of Interest” (2023) -『関心領域』のことを思い浮かべると思う(Martin Amisによる映画の原作は2014年)。彼らは囚人たちを日々大量に虐待したり虐殺したりしながら、現代の我々と同じようにそのプロセスの「効率化」とか「改善」とかに取り組み、仕事と家庭と余暇とをはっきり意識して区別して暮らしていたことが見えてくる。このグロテスクさについて今の我々が云々することは簡単だが、もし我々がここに実際にいたとしたらどうなっていただろうか?

原作はMoisés KaufmanとAmanda Gronichの共同で演出はMoisés Kaufman。アルバムの写真を背後に投影しながら男女8人の俳優達が入れ替わり立ち替わりナチスの当事者たち、Museumの職員、写真の被写体だったナチス党員の子孫たち、などを代わる代わる演じていく。休憩なしの1時間30分。

少しづつ真相を明らかにしていく形式のドキュメンタリーフィルムでも実現可能なことのようにも思うかも、だが、舞台上での役柄を都度変えながら演じる、という方式を取ることで、立場役柄が変わった場合、そこにおいて自分に求められた役割を拒否したり立ち止まって考えたりすることは可能だろうか? という異なる角度からの問いを提起しているようで、これって演劇という形式だから持ち込めた何か、でもあるのかも、と思った。

上演後のパネルでもアーレントの「悪の凡庸さ」を緩用しつつ(アーレントのこの発想の汎用的な解釈には要注意と断りつつ)、これと同じ過去を繰り返さないためには、という角度でのトークが行われていたが、自分の知識の及ばないところで社会のどこかで進行している明らかな悪や加害に加担している可能性について考える、ということが今ほど重い意味を持ってきているのってないかも、と思った。 逃れることのできない何かがあることを明確に意識しつつ、他方で中立でいる、政治的でないままでいることなんてありえないのだ、ということを踏まえつつ、どこまで疑義や抵抗や異議申し立てをできるのか、というー。(政治的な何かから遠ざかろうとする態度や挙動を取れば取るほど、その怪しさが露わになる、いまの日本の気持ち悪さなど)。

2.14.2026

[theatre] High Noon

2月4日、水曜日の晩、Noël Coward Theatreで見ました。

1952年の西部劇映画 – 監督Fred Zinnemann, Gary CooperとGrace Kelly主演による『真昼の決闘』の舞台への翻案。 演出はThea Sharrock。脚本を(なんと)Eric Rothが書いている。

舞台は三方が板張りのサルーンのようになっていて、真ん中の上には丸い針時計があって、最初は10:15くらいを指していて、上演時間1時間40分(休憩なし)の間、出来事はリアルタイムのシーケンシャルで進んでいって(たまに早めたりしている気がしたので時計は手動ではないか)終わりのクライマックスの頃に丁度正午(High Noon)を迎える。

冒頭が保安官Will Kane (Billy Crudup)と敬虔なクエーカー教徒のAmy Fowler (Denise Gough)の結婚式で、みんなが祝福してとても盛りあがるしふたりは愛しあっているようだし、Willは保安官のバッジと銃を置いて、ふたりで安泰平和に生きていこうとしている – ところに、昔Willが牢屋送りにした悪党のFrank Miller (James Doherty)が釈放されて正午の列車で町に戻ってくる、という知らせが入る。

これを受けて悩みながらも再び銃を手にするWillと、もうあっちの暴力の世界には戻らないって約束したよね? と彼を引き留めて、でも彼の決意は固いのでこりゃだめだ、と彼の元から離れようとするAmyと、ここに絡んでくる飲んだくれの副保安官Harvey (Billy Howle)とかメキシコ人実業家の女性Helen (Rosa Salazar)とか、ただ誰も正午に向かって流れていく時間を止めることはできないし、Willの責任感とAmyの宗教に根差した決意を変えることはできなさそうだし。

WillにしてみればAmyは自分がこういう男だとわかっていて結婚したんじゃないのか、だしAmyからすれば、結婚というのはそんなことよりまずは相手を尊重するものではないのか、だし、犬も喰わない平行線で、町の衆にとってはそんなふたりの仲よりも自分たちの身の安全なので、こんな身内でがたがたしている保安官に任せられるのか? になっていく。でも結婚式から決裂まで最初の1時間くらいでこれらのことが立て続けに起こるのって列車が来ちゃうからにせよどうしても浅く薄く見えてしまう。

50年代のGary Cooperも今回のWillも、自分の言葉できちんと説明することが苦手なよう(旧型の男設定)なので、黙って行動に移そうとすると、そこで余計にいろいろ疑われて怪しまれて人を遠ざけてしまって、というよくない循環のなか、人はどうやって向こうからやってくる悪に立ち向かうべきなのか? それってなんのために? ということを問いてくる。

50年代の映画版はマッカーシズムの脅威のなかで作られてその評判もmixedだったように、今回の舞台版が突きつけてくるのは今のあの国の迎合主義や排外主義、だろうか。 どちらも根はおなじで、自分(たち)を守ろうとする過剰な要求(or 自分たちは責められているという被害妄想)が他を排除して暴力の連鎖を生んでいって止まらないやつ。

ここで問われるのは「自分たち」とは誰か、というのと、自分たちが守るべき「町」などは何を意味するのか、ということで、そんなときに流れてきたり登場人物たちが歌ったりするのが、Bruce Springsteenの何曲かで、特に”I’m on Fire”は何回も。構図としてはやや図式的すぎてわかりやすすぎて、でもそれは今だから、というのと、でもこれだけやってもまだなの?(あのバカは)、というのが交互にきてどうしても熱くなれない(よくない - 自分が)。

(これ、日本の家父長制がちがちの漁師町とかでやっても… 気持ち悪いだけか)

ステージ上で最後の銃撃戦をどう描くのか、と思ったら割とシンプルで、あんなもんしかないのかなあ。

でもBilly CrudupとDenise Goughの笑顔と抱き合う姿がとても素敵だったのでよいか。でもそんな笑顔に惚れたんだろうに、つまんない喧嘩はやめなよ、ってどうしてもなるわ。

2.12.2026

[film] The Testament of Ann Lee (2025)

2月8日、日曜日の昼、Curzon Sohoで見ました。
公開前のプレビューで、上映後に監督Mona Fastvoldと主演Amanda Seyfriedのトークつき。

昨年末にBFIでプレビューされた時は70mmフィルムで上映され、アメリカの各地でも70mmで上映されたりしてて、今回のここのは35mmフィルムでの上映。(撮影は35mmフィルムだったそう)。

監督はパートナーのBrady Corbetと共に”The Brutalist” (2024)の脚本とプロデュースを手掛け(本作の脚本も監督と彼との共同)、音楽のDaniel Blumbergも”The Brutalist”とおなじ。 昨年のヴェネツィアでプレミアされている。

18世紀イギリスで原理主義的なシェーカー運動を立ちあげ、アメリカに渡って宗教的迫害に立ち向かったAnn Leeの像を描いた歴史ドラマ。

冒頭、Ann Lee (Amanda Seyfried)を中心とした女性たちが森のなかで歌って踊っている(振付はCelia Rowlson-Hall)。時折引き攣るような震えを見せる舞いと止まらないハミングと彼女たちの固まった表情からカルト集団のそれを思わせるのだが、この場面はこの後も何度も繰り返され、映画はどうして彼女たちがこうして集って舞うようになったのかまでを描いて、やばいカルトでは? という問いからは距離を置いている。

18世紀のマンチェスターで、Ann Leeは弟のWilliamと綿工場で働いていて、ある晩両親の性行為を目撃してからそれを罪であると思うようになり、近所のクエーカー教徒の夫婦を訪ねたりしていくうち、クエーカー教徒のAbraham (Christopher Abbott)と結婚するが、生まれてきた4人の子を次々と失くして性に対する不信とキリストに対する視座をクエーカー教のそれが確たるものにしていく。

やがてシェーカー教の前身の団体に入った彼女は逮捕・投獄された際に、空中浮遊してイエスの幻影を見た、って周囲に伝えると、彼女こそが待望の救世主だ - “Mother Ann”と呼ばれるようになるのだが、迫害も激しくなってきたので、ニューヨークに渡る。

ニューヨークで弟のWilliam (Lewis Pullman) たちはシェーカー教のコミュニティのための土地を探して北に発って、やがて安息の地を見つけるものの逮捕や迫害の手は止まなくて…

ちょっと間違えたら教団の布教ビデオになってもおかしくない開眼~伝道~受難の道のりが歌と踊りを挟みながら綴られていくのだが、内容は結構暗く血みどろの宗教ホラーすれすれのところを行って、イメージとして一番近いのはやはりLars von Trierのどろどろだろうか。ただ出産のシーンにしても監督とAmandaが相当に力を入れたそうで、男性目線のはいった仰々しく目をそむけたくなるようなそれではなく、ふつうにまっすぐに見ることができるのと、なぜAnn Leeがセックスを否定し男女同等であることをあそこまで訴えたのか、はストーリーのなかで納得できるように作られている。

他方、シェーカー教で有名な家具とか質素な生活などについては描写としてはあるものの、全体の流れのなかではやや浮いていて、シェーカー教とは、を伝える映画ではないのでしょうがないのだろうが、ちょっと詰め込みすぎてしまったのかも。バイオレントで血みどろで、でも聖なるかんじは残る、不思議な…

Martin Scorseseの”Silence” (2016) にあったような信仰のありようを示す、というよりひとりの女性がどうやって信仰を自分のものにしていったのか、を描いて、その角度からだとその混乱ぶりもなんとなくわかる気がした。 


The Testament of Ann Lee with Daniel Blumberg & special guests

この日の晩20:00から、BarbicanのMilton Court Concert Hallでコンサートがあった。

“The Testament of Ann Lee”の映画音楽を作曲したDaniel Blumbergと映画でも歌っていたAmanda Seyfriedと6人の楽隊が演奏する。映画内の音楽はフルコーラスのフルオーケストラ仕様だったので、全部ではなく抜粋しての1時間くらいの会だったが、とてもスリリングでおもしろかった。

Amanda Seyfriedさんはこの日、↑のCurzonでのトークの後に、Barbican Cinemaでもトークをしていて、最後にこのライブ、大変だねえ。

バックはパーカッション1名、弦2名と、voice - コーラスではなく、ヴォイスや息を吹きかけたりする男女3名。左端に座ってエレキギターとハーモニカを下げたDaniel Blumbergと、やはり座ってマイクをもったAmanda Seyfried。

そもそもDaniel Blumbergって、ダルストンのCaféOTOの常連で、イメージでいうと吉祥寺のStar Pine's Caféで細々やっていた人がいきなりオスカーを獲ってびっくり、みたいなかんじだったのだが、今回のメンバーで中央に座るMaggie NicolsとPhil MintonもCafé OTO系 - Lindsay Cooperの楽団にいた筋金入りの前衛ジャズシーンの人たちで、そこにAmanda Seyfriedの歌がどんなふうに絡むのか。

AmandaについてはLate Showでダルシマーを弾きながらJoni Mitchelの”California”を歌うビデオが拡散されていたので知っている人も多いと思うが、ものすごく安定していて巧いので心配いらない。

音楽としてはパーカッションのからころちゃかぽこ、にきりきりさーさーした弦が絡み、そこにけったいで素っ頓狂な声とか息とか(巻上さんふう)が振りまかれ – 少しだけ「太陽と戦慄」ふうの土台の上に、Arto Lindsayふうアヒルギターが乗っかって、そこにとても艶のある、アメリカンポップスど真ん中のようなAmandaの歌が。 といういくら聴いても飽きないやつで、映画で流れていたのとはぜんぜん違うのでそれでよいのか、はあるかもだけど、あっという間に終わってしまったのが残念だったねえ。

前世紀だったらスタジオ200でやっていたようなやつ。
Hans Zimmerとかのコンサートよか断然おもしろいと思うよ。

2.11.2026

[film] It's Never Over, Jeff Buckley (2025)

2月2日、月曜日の晩、Curzon Sohoで見ました。

本公開前のプレビューで、上映後に監督のAmy Bergとのトークがあった。Executive Producerには(またか、の)Brad Pitt。昨年のサンダンスでプレミアされている。

Jeff Buckleyのドキュメンタリーは数年前にも見た気がしていて、もういいんじゃないか、だったのだが – “It’s Never Over” – って10年をかけてバックリー財団(財団なんだ.. )から権利を取得して、そこから5年を制作に費やしたいうので決定版と呼べるもの、なのだろう。

17歳で彼を産んだ母のMary Guibert、彼が生まれて6ヶ月で家を出て行った父Tim Buckleyのことから入ってかつて恋人だったRebecca MooreとJoan Wasserからは、アーティストの彼が恋人としてどんなだったかを聞く。音楽的影響の紹介ではJudy Garland, Led Zeppelin, Nina Simone, Nusrat Fateh Ali Khanなどがあり、ミュージシャンとしてBen Harper, Aimee Mannなどがコメントをして、そして友人でもあったChris Cornellとの交流も。

アーカイブ映像も多くあって、特に彼が初期の活動拠点としていたカフェ - Sin-é時代の様子がどんなだったかがわかるのはうれしい。

彼の音楽、特にあのヴォーカルについては、聴いてふつうに驚嘆するしかなくて、今も何度聴いてもそうなると思うのだが、映画では映像として繋いでいくだけのこれらについて、なぜああいうちょっと歪な楽曲構成と展開になったのか、など解析したり批評したり、はほぼない。彼の声の特殊さ - どこまでも伸びてしなる - が必然としてもたらしたであろう音楽の肌理や特性について成り立ちも含めて知りたいのに。 ここにGary Lucasが出てこない、というのが全てを説明している気がする。

なので、映画は女性 - 母と恋人たちから見たJeff Buckleyがメインで、アーティストとしての彼ってどう? もあくまで彼女たちの目でのそれ、になっている。90年代中期以降、ポストグランジで顕在化したように思える、マッチョではなくフェミニンで、あたしが傍にいないとただのゴミになってしまう(と思いこませる)彼 – の典型を見るようで、これはこれで興味深かった。(ダメンズが汎用的な臭気を放つようになったのってこの頃から?) でもやはり、彼女たちがどれだけ彼を愛していたか、わたしにとってのJeff、を語れば語るほど、ちょっと引いてしまうのだった。彼がすばらしい人であったことは十分わかっているからー。

彼のライブは2回見ていて、初回は”Grace”のツアーの後半、ブルックリンのそんな大きくないライブハウスで、最後にAlex Chiltonの”Kangaroo”とかをやってぐじゃぐじゃのジャンク猿になっていった。2回目がこの映画の中でもPaul McCartneyがバックステージに来た!って紹介されているRoselandでの”Grace” Bandの最後のライブで、でも彼はメインアクトではなくJuliana Hatfieldの前座だった(当時のJulianaHは無敵だったの)。この時、バンドとしてのお別れを告げてから"Hallelujah"をやって、それがそのままThe Smithsの”I Know It’s Over”に繋がれて、みんながぼうぼうに泣いてて、後ろを振り返ったら生のPaul McCartneyが座っていたのでなんだこれ? ってなった。自分はこの時のライブのありえないかんじの衝撃をいまだに引き摺っているのかも。

映画のなかではChris Cornellとの話が興味深かった。競演していたらどんなにかすごい声の連なりを聴けたのだろう。

あと、上映後のトークで出てきたElizabeth Fraserとのデュオ – “All Flowers in Time Bend Towards The Sun” (1995-96) - YouTubeで見れるけど、これはどうしても使用に許可が下りなかったのだそう。

[theatre] Into the Woods

1月29日、木曜日の晩、Bridge Theatreで見ました。

音楽Stephen Sondheim、脚本James Lapineによるグリム童話のマッシュアップ・ミュージカルで、初演は1986年、2014年にはRob Marshallによって映画化されている(もちろんDisneyで)。

演出はJordan Fein。 ビジュアルはずきんを被った赤ずきんが暗闇のなかに浮かびあがっている像で、これだけだとホラー映画のように見える。

上演前の舞台には黒幕が掛かっていて、それが開くとでっかい木 - 背後は深そうな森の闇、そこに普通の会社員みたいな語り部のおじさん(Michael Gould)が現れて何かを語ろうとするが、次々と現れては消える魔物 – というより変な人たち、そしてどこからか流れてきて全員がそのメロディに飲みこまれてしまう歌に圧倒されて、魅せられているうちに、森の奥に迷いこんでしまう。

パン屋(Jamie Parker)とその妻(Katie Brayben)が父親の罪によって掛けられた呪いを解くためにシンデレラの靴、ラプンツェルの金髪、赤ずきん(Gracie McGonigal)のコート、そして豆の木Jack (Jo Foster)が大切にしていた乳白色の牛 - Milky Whiteなどを集めなければいけないのだが、みんなそれぞれいろいろ抱えて這いずりまわっているので、誰かが何かをしようとすればするほど、いろんなのが出てきて事態は錯綜し、混沌は深まっていく、そんな森のなかへようこそ。

グリム童話の世界の根底を流れている家父長制や伝統的な魔女魔物に対する無意識の恐怖とか放擲とか服従とか敵意とか、最終的には自身の運命を受けいれることを呪いとして表にだして歌にして茶化したり、森の表面(表舞台)の反対側 - 森の奥の暗闇で行われていることを示さずに、そこを抜けてきた連中がどんなやつらか – 現れるのみんなほぼ変態だったり– を示して楽しい。

キャラクターとしてはお馴染みのばかりなので、善いやつ悪いやつくらいはわかるのだが、お伽噺の線が入り混じって錯綜していくなか、単純な善い悪いなんて言えなくなって、Wolf (Oliver Savile)もWitch (Kate Fleetwood)も、誰もがいろんな事情や悩みや呪いを抱えて森を抜けてきていることが見えてくる。なんでこうなっちゃうんだろう、って頭を抱えて考え始めた個が、そうやってばらばらになった”I”が”We”になることに気づいた時、そこには歌があることを知った時、など。

あれだけのキャラクターをわらわら裏に表に出してかき混ぜて、その呟きをSondheimの歌が拾いあげて、ひとつの幹とか森に撚りあげていく、そのプロセスの複雑さを思うと森のなかで方向感覚を失ったようにくらくらするが、楽しい歌と音楽はとにかくそこにあって、重ねられていくことでひとつの森を形成しようとするかのよう。Sondheimの魔法っていうのはこれかー、って初めてわかったような(おそい)。

人を悪い方に変えてしまう象徴的な筺としての森に、存在そのものが象徴として継がれてきた御伽噺の主人公たちをくぐらせてみると、どんな変態が生まれて何を歌い出したりするのか、というびっくり箱の仕掛けというか。

キャストのアンサンブルも見事で、パン屋夫妻はもちろん、Jackを演じたJo Foster (they/them)、赤ずきんのGracie McGonigalの輪郭の強さが印象に残った。あと、Jackが抱えていたMilky Whiteのぬいぐるみが異様にかわいくてとても欲しくなった。なんで売店で売ってくれないのだろう…

映画版も公開時に見たけど、個々のキャラクターとストーリーラインを正直に追っていくので、今回のような森の奥の闇の恐ろしさ、脅威を見せつける、そういう迫力はなかったような。

あと、このシアターはものすごく音がよいのだが、今回は森の奥で響く轟音が雷鳴のようにすさまじく、客席で飛びあがっている人が結構いた。

近い将来、改変版で誰かがトトロを加えたりしないかしら?(ヒトじゃないとだめか..)
でもこの劇の森とトトロの森はちがうよね。

2.10.2026

[theatre] Dublin Gothic

1月31日、土曜日の晩、Abbey Theatreで見ました。

Abbey Theatreは1904年に建てられた(火災で1951に再建)アイルランドの国宝で、William Butler YeatsやSeán O'Caseyが設立に関わってアイルランドの文学復興運動にも貢献した場所、なのだがシアターとしてはものすごくシンプルであっさりしている。バルコニーもドレスサークルもなく、だんだんの傾斜があるだけ。でもおそらくこのサイズでのこの傾斜がものすごく見やすい、没入できる空間を作っているのだと思った。ロンドンのNational Theatreもこのサイズのがあったらなー、とか。

原作はこれが劇作デビューとなるBarbara Berginの同名戯曲(2025)。演出はCaroline Byrne。上演時間は2回の休憩を挟んで3時間半。

舞台は、三階建てのビルの断面のような、朽ちたビルの骨格だけが露わになったような構造になっていて、1830年からの約150年に渡る複数の家族の歴史を描いていくなか、その内装は時代や場面によって変わっていくが、120のキャラクターを次々に演じ分けていく19人の俳優たちは着替えで出たり入ったりする以外は、だいたいこの3層のどこかにいる。上の階での動きは(寝ていたり)少なくて下に行けば行くほど出入りは激しくなる。舞台手前の土があるところ – 地上層には、シャベルが5本くらい無造作に突きたてられている。

時代は1830年から1910年までが第一部、1910年から1950年までの戦争期が第二部、1950年から1980年までが第三部で、そこにおける負けっぱなし(Loser)の家族の歴史が、貧困、地主、階層、移民、宗教、性労働、エイズ、家父長制などの角度からショートコントのように忙しないやり取りで、やられて下に落ちたり転がったり泣いて泣かれてどこかに消えていく様が次から次に世代を伝って連鎖するように繋がれていく。”Loser”の主は、地主から虐げられる小作人からはじまり、弱いものはずっと弱いまま、ストライキや暴動、さらには独立戦争~2つの大戦を経て、その容赦ない虐めの連なりの行きつく先は常に末端の(末端と見られている)力のない女性たちで、そんなことになっても彼らとしては立ちあがって生きていくしかない。たくましい女性たちも当然出てくるが彼女たちもずっといるわけではなく、いつの間にか背後の闇に消えていく。

休憩時間には幕に出てきた家族の家系図が投影されて、最初の休憩では3世代3家族だったのが、次の休憩では確か5世代4家族になっていたり。でもそれでああそうか、ってなるところは少ない。

あまりに登場人物が多すぎて慌しく錯綜しつつ転がっていって、演じる方も大変だろうが見る方もあっぷあっぷで、とにかく各階/層で何かが起こって、誰かが殴られたり泣いたり落ちたり死んだりしていて、それらのシルエットを追っていくのが精一杯で、そこには常に地を這っていくような死や退廃のイメージがあった、という意味での”Gothic”であれば、それはそうなのだろうが、もうちょっと落ち着いて像を焼きつけられるようにしても、とか。

路地を抜けても抜けてもずっと果てなく続いていく出口なしのごじゃごじゃ、という点で、例えばLondon Gothicとはどう違うのか? Londonだと、もっと足元がきつく縛られていて身動きが取れずに埋められていく気がする。Dublinは勝手に動けてしまう分、後からのダメージとか踏み外しとか破滅がよりはっきり出て、でもなんかめげない(気がする)。


そして今はあの国がしみじみ嫌だ。あんなところに戻りたくない。

2.09.2026

[log] Dublin - Jan 31 - Feb 1

1月31日〜2月1日の一泊でアイルランドのダブリンに行ってきたので簡単なメモを。

アイルランドは2度目で、最初に行ったのは90年代の真ん中くらいだったので、ほぼ30年前 … になる。
前回はNYに住んでいた時だったので西のシャノン空港から入ってゴールウェイとかをぐるりと回って、ダブリンは終わりに1泊しただけで、ばたばた走り回って終わって、雨の夜のダブリンの湿ったイメージだけ残っている。

最近はいろいろふてくされていて、寝る前に転がってあーつまんねーなどっか行きたいなー、って演劇のチケットを取ったりする(とてもよくない)のだが、そうしている時にダブリンのAbbey Theatreでの”Dublin Gothic”が目にとまり、でも1/31が最終日だった。 チケットとか取れるのかしら? って見たらちょうどよさそうなところがひとつ空いている。 でもまあ飛行機だって取らないといかんしな、ってBAに行ってみたらぜんぜん高くなかったりして … このところの遠出はすべてがこの調子でなんか仕掛けられているとしか思えない(だとしても引っ掛かる方がバカ)。

もういっこよくないのは帰国まであと2ヶ月のお買い物モードになっていること。こういうときふつうの大人の会社員は靴とかスーツとかを買いに走るようなのだが、そんなの買うかボケ、で本とかの方に向かう。前回の帰国時はコロナ禍だったのでお店はほぼ開いておらずオンラインで買うしかなくて、そうすると古本は遠ざかってしまう(状態とかちゃんと見れないから)のだが、今回はそれがない。ヨーロッパじゅうの古本屋がばさばさ扉をひろげて呼んでいる(バカ)。

National Gallery of Ireland

ホテルに着いたのが8:30くらい、荷物だけ預けて町に出ると小雨がぱらばらだったがこんなのロンドンと変わらないので気にしない。ここは9:30には開いていた。

Picasso: From the Studio

パリのピカソ美術館の貸出が多かったように見えたが、ピカソが世界各地のスタジオで制作した絵画、彫刻、陶器などを時代別、場所別に並べていて、それだけでこれだけ楽しいものができてしまう不思議。外でライブで描いたものとスタジオに篭って描いたもの、という違いでは勿論なく、テーマが静物や子供といったインドアを向いている、というだけで、場所や土地や風土を超越した何かが見えるわけではないので、企画展としてはやや弱いかも。なのだが個々の作品は見ていておもしろいからー。いまTate Modernでやっている”Theatre Picasso”もこれと同じ視座に立ったものかも。

これ以外はNational Galleryなのですべて無料で、数点あったBonnardも1点しかなかったMorisotもよいし、WB. Yeatsの弟のJack B. Yeatsの作品をいくつか見れたのもよかった。

MoLI – Museum of Literature Ireland

アイルランド文学博物館、か。貴重な文献や史料類を網羅する、というより沢山のパネルと文字情報でアイルランドの文学者の像を多角で示す。知らない人も沢山。一番上の階にあった『ユリシーズ 』の初版、Copy No 1の威圧感がすごかった。

文学関係だとOscar Wildeの家と、『ユリシーズ 』に出てくる薬局Sweny's Pharmacy - もはや何を売っている? お店なのかすらわからないごちゃごちゃでカウンターの向こうで店主らしき人がガイドをしていた。

今回の探訪の目的には帰国前お買い物もあったので、古書店を含めて本屋を結構まわった。その中ではUlysses Rare Booksが圧倒的にやばかったかも。ここなら30分で1000万くらいかんたんに使うことができる、というくらいの質と量で、欲しいのありすぎて決められず、1時間くらい悩んでなんとか1冊選んで、日曜日は休みなので夕方にもう一回きた。天気は寒くて降ったり止んだりのぐだぐだで、それ以上に本屋にやられたかも。

この日の昼はThe Winding Stairっていう本屋の2階のレストランでかなりちゃんとしたスコッチエッグとサンドイッチを食べて、お腹がすかない状態でそのまま演劇を見て終わった。

翌2月1日は定番の(前回来た時にも行った)The Book of KellsとLong Library(改装中で半分も埋まっていない)を見て、Christ Church CathedralとSt Patrick's Cathedralを見て終わった。The Book of KellsはThe Book of Kells “Experience”となっていて、最近多い気がする“Experience”系のってどうなのか、って改めて思った。まず“Experience” 「経験」の定義が曖昧でうまく主体のすり替え(ただのコンテンツ消費を自分のかけがえのない「経験」と思いこませる )があり → ぼったくり → 後になんも残らず、なんだろうなー、等。

お昼はやはり『ユリシーズ 』にでてきたパブ - Davy Byrnesで、ゴルゴンゾーラのサンドイッチとブルゴーニュ - じゃないピノ・ノワール(原作ではブルゴーニュ)を戴いて、ワインはグラス半分も無理だったが、こういうのかー、って。

前回のNY → Dublinより、当たり前かもだけど今回のLondon → Dublinの方が、段差がなくてスムーズに見て回れてよくて、よいどころかすごく素敵で改めて好きになって、また来たくなった。初夏のビューティフルな季節に来たらいちころだろうな、とか、テムズ川もリフィー川くらいの幅ならよかったのにな、とか。

2.05.2026

[film] The History of Sound (2025)

1月30日、金曜日の晩、Barbican Cinemaで見ました。

監督は”Living” (2022)のOliver Hermanus、原作はBen Shattuckのふたつの短編を束ねて、彼自身が脚本を書いている。昨年のカンヌでプレミアされた。

ケンタッキーのLionel (Paul Mescal)が子供の頃、森のなかで音楽を色彩や味覚のように捉える能力について語られ、父親の歌うフォークソングに耳を澄ますシーンから入って、1917年、大きくなってニューイングランド音楽院に入った彼は、サロンでピアノをぽろぽろ弾いているDavid (Josh O’Connor)を出会い、自分の知っている曲だったので彼のピアノに合わせて歌うと、ふたりはそのまま恋におちる。

裕福な家に生まれ、でも先行きの不透明さに塞ぎこんでいつも孤独に見えるDavidは第一次大戦に従軍すべく軍服を着て出て行って、戦後、何もなかったようにひょっこり戻ってきて大学に就職すると、Lionelを誘って蝋管の装置一式を担いで、メイン州の田舎を歩き、いろんな階層の家庭で伝わってきた、歌われてきた、フォークソング –“Ballad Line”でも歌い継がれていたような - を録音してまわるようになる。なぜ、どうしてそんなことを始めたのかの説明はないが、歌ったりしている村人の家や軒先に装置をセットして、指示をだして歌ってもらい、終わるとまた野道を歩いて野宿して、星空の下で抱きあう。

やがて大学に戻るDavidとヨーロッパに出たいLionelは再び別の道を歩むことになり、Lionelが何通かDavidに宛てた手紙には返事もなくて、ローマで声楽家として成功したLionelはオックスフォードに渡って、裕福な社交家の娘の家に招かれて結婚手前まで行くのだが、母が病で倒れたことを聞いてアメリカに戻る。

アメリカに戻ってみると母はもう亡くなっていた - 廃墟のようになった実家に佇んでいるうちにDavidにたまらなく会いたくなって、彼の勤めていた大学に行くと、彼は…

第一次大戦前後の、アメリカを含めて世界が大きく変わろうとしていた時に、古くから継がれてきた先祖らの歌、音に向きあったふたりの若者は、その音を通してなのか歴史を通してなのか、どうして、どんなふうに互いを求めあわなければならなかったのか。

蝋管に刻まれた音、そこに封じ込められた歌をふたりがじっと見つめるシーンはあるのだが、彼らにとっての音 – フォークソングがどんな意味や重みをもって、なんで迫ってくるのか、歌うことを仕事にしたLionelにとって、冒頭にあった音と色、模様などのありようとの関わりは? などがほぼ説明されないので、あまり迫ってこなかったかも。

Paul Mescalが”All of Us Strangers” (2023)で見せたAndrew Scottとの間に瞬いていたもの、あるいはJosh O’Connorが”God's Own Country” (2017)で見せたAlec Secăreanuとの間の猛々しい情欲、どちらもイギリスのぱっとしない男の足下で瞬く火花のような恋で、とても納得できる強さと濃さをもったものだったのだが、今作にはそれ – 激しく求めあって狂った犬のようになる – がなくて、とても端正でおとなしくて、ふたりの立ち姿とか画面は美しいのだが、はっきりと弱いかも。狂ったふたりがどんな演技を見せるのか、知っているだけにもったいない、しかない。

誰もが思ったであろうが、次の組合せはJosh O’ConnorとAndrew Scottになる。なってほしい。

しかしPaul Mescal、”Gladiator II” (2024)から”Hamnet”(2025)からこれ、ってもうモダンでノーマルなNormal Peopleには戻れないよね。

[theatre] Ballad Lines

1月26日、月曜日の晩、Southwark Playhouse Elephant (Elephant and Castleにあるから)で見ました。

“A Folk Musical”とあって、コンポーザーはFinn Anderson、演出はTania Azevedo。
タイトルは声に出すと”Blood Line”と読めなくもなくて、ポスターはそれに沿うかのように草や紐やワイヤーをわし摑みする拳で、ちょっと熱い。

7人の女優(シンガー)と1人の男優、バンドは3人(+裏にドラムスがひとり)、全員が手を打ち足を踏み鳴らしたりしながら歌って踊るが、West Endのミュージカルに見られる華々しく弾けて元気いっぱいのショーの要素はそんなにない。微細なハーモニーを重ねて響かせ聴かせるのに注力しているような。

カナダから連なるアパラチア山脈の南側、ウエストバージニア州、バージニア州、ケンタッキー州、テネシー州、ノースカロライナ州に移住してきたスコットランド系アイルランド人(スコッツ=アイリッシュ - アルスター系移民)の間で歌い継がれてきた音楽 – カントリーミュージックの原型になったと言われる – についてのお話し、というかその歌の背後にはどんな(女性たちの)ドラマがあったのか。

現代のNYに住むSarah (Frances McNamee)とAlix(Sydney Sainté)のカップルのところに、死に瀕したSarahの叔母Betty (Rebecca Trehearn) から箱が送られてきて、こんなのいらなんだけどどうしよう、と言いながら箱に入っていたカセットテープをかけてみると、Bettyと一緒に歌っている子供の頃のSarahの声、Bettyを経由して彼女の先祖たちの声が聞こえてくる。

17世紀初のスコットランドで牧師の妻Cait (Kirsty Findlay) は出産を望んでいなくて、そこから5世代を経た18世紀初、アイルランドのアルスターに渡っている15歳のJean (Yma Tresvalles) は子供が欲しくて逃げるようにNYに渡ろうとしている。そしていまの時代の、SarahはAlixとの間の子供が欲しくなって、Alixと一緒に病院に行って検査を受けよう、と誘っている。

いろんな事情だったりやむにやまれぬを抱えて、海を渡って国を越えて生きながらえてきたSarahの先祖 - スコッツ=アイリッシュの民、そのなかで、彼らが海を渡った背景には男女、家族、集落、それぞれの理由や事情があったはずだが、ここでは女性の、おそらく産む(産まない)自由なんて、家を出ていく自由なんてなかった、そんなふうに掟のような何かに縛られなければならなかった彼女たちの声にフォーカスして、それが歌として、複数の声として立ちあがって、最初はひとりぼっちだった鼻歌がみんなの歌に撚りあげられていく様をダイナミックに描く。

なぜ女性なのか - 彼女たちの声が正しくとりあげられ振り返られてきたとは思えないから、だし、それは歴史の捉え方も含めて今も我々の認識の底に無意識にあるように思えるから、だし、でもなにより、彼女たちの歌は美しくて正しいからだ、それなのになんで? という螺旋の問いのなかに閉じこめて、その同じ歌がそれを開け放ってくれたりする。

歌はそんなに(自分のイメージする)フォークのかんじはなくて、ところどころメジャーなスケールで聞こえて声の重なりとか感動をもたらしてくれたりもするのだが、そう来れば来るほど、現代のSarahたちとのギャップがやや気になった。Sarahのような同性婚で精子提供を受けるようなケースがぶち当たる壁、悩みや逡巡と、彼女の先祖たちの受難の話って、同じバラッドのなかで歌ってしまってよいものだろうか - どちらも痛みを伴う選択であるとしても - とか。

今公開中の映画 - “The History of Sound” (2025)も昔の歌に耳を傾ける、というのがテーマになっていたが、これってどういうことか、を少し考える。

2.03.2026

[theatre] Guess How Much I Love You?

1月24日、土曜日のマチネをRoyal Court Theatreで見ました。
同シアターの70周年を迎えるシリーズのオープニングを飾る作品。

インスタで流れてきた予告だと、男女のどたばたコメディのように見えたのだが、とても重いテーマを扱っていることをシアターに入ってから知る。場内にはContent Guidance and Warningsの張り紙がある。 確かに人によっては重いテーマかも。

原作は(俳優でもある)Luke Norris、演出はJeremy Herrin、1時間35分(休憩なし)のShe (Rosie Sheehy)とHe (Robert Aramayo)によるほぼふたり芝居。

最初は妊娠20週目の超音波検査にやってきた夫婦の会話で、ふたりはおそらく日々の会話そのままのノリで、生まれてくる子の名前について、候補を並べつつ冗談を言ったり小突きあったりしながら結果を待っている。彼はおしゃべりで陽気で、放っておくといくらでも喋っているようなタイプで、彼女はそんな彼を巧みに統御しつつ時折感情を爆発させて黙らせる、そういうパワーを持っている。 いつもそうなのであろうふたりの会話のテンポは卓球のように速く緩急自在で、喧嘩のように声を荒げることはあっても、いつもこんなだから、っていう安定感のようなものが軸にある、そんなふたり。

全体は6つのシーンから構成されていて、最初の病室からふたりだけの寝室まで、シーンごとに中の建付けはがらりと変わるが、暗いなか、その暗転と共にふたりの姿だけ、その思いだけがぽつんと浮かびあがるようなデザインになっている。

ネタバレにならざるを得ないが、テーマは若いカップルが経験する彼らの子の(思いもしなかった)死産と、その悲しみ辛さがどんなふうにやってきて、それをふたりは、ふたりでどう乗り越えるのか、等。 まったくの偶然だけど前日の晩が”I Do”という結婚式当日のドラマだったのと、この日の夕方に見た映画 - ”The Chronology of Water”にもそういうシーンが出てきたので、なんなんだこれは… に少しだけなった。

子を失った悲しみ、その表し方は男女それぞれで当然違う。それぞれがあなたには/君にはわからないだろうけど、と言いながら互いと自分の両方に向かって感情を爆発させて、どれだけ爆発させても相手に響くことはない。彼女は、これはわたしの身体のこと、このおなかで起こったことだ、前と後で自分の体は変わってしまったんだわかるか? といい、そんなのわかるわけないけど、こっちだって辛いに決まってるだろ、って命懸けの口喧嘩、みたいになって、どっちも折れない。折れたところでどうなるものでもないし、どう収拾をつけるのか、つくようなものなのかもわからない。けど、それをぶつけることができる相手は目の前の彼と彼女しかいない。

当然ながら、カップルによってその痛みの重さ、受けとめ方から立ち直りまで、それぞれだと思うものの、この舞台で描かれたふたりについては、思ってもいなかった事態に向きあい、押し寄せる怒涛の悲しみと混乱を引き受けつつもふたりの受けた痛みの重さ、その総量をダイレクトにぶつけ合い、ぶつけあうことで互いを確かめていく(しかない)過程がむき出しで生々しく描かれていて、辛いけど目を離せなかった。

どちらが正しいとか、どちらが勝つとか負けるとか、そういう話ではなく、でもぶつかって吐き出さないことには次に進めない、そんな話をシーンごとに少しずつトーンを変えて解していく。

最後、どうやって終わるのだろう、って思ったが、そうかー って。 改めてタイトルを振りかえるの。

[film] H is for Hawk (2025)

1月24日、土曜日の晩、”The Chronology of Water” (2025)を見た後にCurzon Mayfairで見ました(21:00の回、ちょっと疲れた)。

昨年のLFFでも上映されていた一本で、ドキュメンタリーではないが、実話ベースのお話し。
監督はPhilippa Lowthorpe、原作はSamuel Johnson Prize等を受賞したHelen MacDonaldの同名メモワール(2014)、脚本はEmma Donoghueと監督の共同。

”The Chronology of Water”も女性のメモワールが原作だったが、ずいぶんちがう。”The Chronology…”は父親の虐待から始まる話で、こちらは父親の突然の死から始まっている。

冒頭、Hawk(タカ)の全身/部分がクローズアップで映しだされて、そのトトロみたいに丸っこい体とその曲線とか羽根のふわふわとか、なに考えているかわからない目とか、ここだけでいいや、になる。猛禽類好きは必見。(自分はそうでもなかったが、見たら好きになった)

2007年、Helen (Claire Foy)はケンブリッジで科学史を専攻するリサーチ・フェローで、ベルリンでの招聘研究に向けた準備をしようとしていたところで、報道写真家で、大好きだった父Alisdair Macdonald (Brendan Gleeson)を突然失い、喪失状態の中、突然彼女はGoshawk(オオタカ)を飼いたい、と思い立ち、友人をつたって手に入れて、Mabel、と名付けて飼い始める。

もちろん最初はおっかなびっくりで簡単にいかなくて、食事を食べてくれないし、手に乗せてもばたばた羽ばたいて大騒ぎになるし、でも互いにだんだん近付いていって、そうなっていくのに合わせてHelenは外に出なくなり人と会わなくなっていく。それがMabelの世話によるものなのか、父の不在が改めてのしかかってきたのか、明確には語られない。ただMabelの獰猛な – でも繋がれたままの野性がHelenのどんよりとした日々に影響を与えたことはわかる。

MableがふつうにHelenの手からお肉を食べるようになると、HelenはMabelと一緒に外に出て、短い距離を飛ばして戻ってこさせたり、野に放って野ウサギやキジを捕まえたり、をするようになる。そんなふうに野生を取り戻していくMabelと、掃除もしない部屋に籠って居留守をつかうようになっていく - これも野生がもたらすなにか? - Helenのコントラスト。

鷹を抱えてキャンパスを歩くHelenに、それはEagle(ワシ)かHawk(タカ)か? って聞く人がいて、それに対して、ふたつは犬と猫くらいちがうんだよ、って返すシーンがあって、そうか犬と猫なのかー。トラとライオンくらいかと思っていたけど、随分違うのね。でもなんでタカなのか? ワシだとでっかすぎて手に負えないから?

Helenの近くにいる親友のChristina (Denise Gough)も、母(Lindsay Duncan)も籠るようになったHelenを心配して家にやってくるようになるのだが、Helen自身がタカになってしまったかのようにぴりぴりしていて抱きしめてあげることができない。主人公がタカに憑依される話、ではもちろんない(そうしてもおもしろかったかも)。なんでHelenはMabelと一緒にいるうちにああなってしまったのか、結果としてMabelはHelenに癒しを与えることができたのか、Helenはどんなふうに変わって、それはよかったのか悪かったのか、原作にはあるのかもしれないが、映画だとその辺が見えにくかったのがちょっと。動物がなにかどこかを癒してくれました、のような単純な話でないのはよいのだけど。

でもタカを腕に乗っけてちょっと浮かない顔で野道をすたすた歩いていくClaire Foyの姿はそれだけでなんだかよくて、ケンブリッジの曇った空と木と原っぱが不思議と映えているのと、タカはそんなの知ったこっちゃない、みたいな顔でいるのが素敵で。

いま絶賛公開中の”Hamnet”では、Agnes (Jessie Buckley)の飼っていたタカの死が、彼女をより家族のほうに向かわせる、そういう描写があったような。

2.01.2026

[film] The Chronology of Water (2025)

1月24日、土曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。

“Woman with a Movie Camera”というシリーズ企画のなかでのPreviewで、イントロで主演のImogen Pootsさんの挨拶があった。水泳のおかげで腹筋がたっぷりついた、とか。

原作はLidia Yuknavitch (1963- )の同名メモワールをベースとした、Kristen Stewartの初監督作。脚本は原作者と監督の共同。音楽はParis Hurley。

Lidia Yuknavitchは、水泳で奨学金を得てアメリカのオリンピックの代表候補になるほどのところまで行ったのに薬物依存などで道を断たれて、その後大学で勉強し直して作家となった。映画を見ればわかるのだが、幼時から実父による性的なそれを含む虐待に晒されつきまとわれ、妹も同様、母はアル中、という凄惨な家庭で育って、本人も死産を経験したり男を次々に変えたり逃げられたり、どこまでも荒んでいって出口らしきものがない。

しかしこの話は、そうやって人生の危機や困難を乗り越えて二の足で立つ所謂「サバイバー」としての彼女の強さを描くのではなく、タイトルにあるように中心にくるのは「水」 - 変幻自在で一箇所に一形態に留まらず、クロノロジカルな変転や総括を許さないで絶えず流れて移ろっていく水のことを描こうとしている。

歯を食いしばって耐えて泣き叫んで血だらけになったり酒や薬でらりらりになって踏みとどまる主人公の姿も、彼女を虐待したり彼女から遠ざかっていった男達も、その結果として周囲から認知される「サバイバー」の輪郭からも遠ざかるように断続的に現れる「水」のイメージ、クロノロジー。 「水に流す」「お茶を濁す」まで含めて、水と共にあることで彼女はとにかく生きる - 死なずにあることができた、ということについての映画なのだと思った。女性の強さ - 最近言われるレジリエンスや元気を貰える系、の話ではまったくない。

なので時系列もばらばらで泳いでいく、重力や支点を失って浮遊していく主人公のイメージ、血も涙も涎も体液も混ざって薄まったり広がったり澱んだりしていく水として常に溢れては流れて消えて、映画の時間もこれらの水面を眺めているうちに終わってしまうような。

監督のKristen Stewartが描こう、捕えようとしたのがこのような水のイメージなのだとしたら、それははっきりうまくいっているように思えた。2時間を超える、結構しんどいテーマを扱う作品なのに、水と水を透過して流れこむ光の、そこで歪んだり屈折したりする身体や表情の捕まえかたが、アートフィルムのようでもあるがいつまでも見ていられるし、そうあることで安易な結論に落ち着くことを許さない。人の、女の一生を勝手に簡単に総括されてたまるか、という原作者と監督の決意表明のようにも思えたり。

デビュー作でこんなものを出してきたKristen Stewartに新人らしからぬ、とかいうのは失礼も甚だしく、狼男に惚れられて吸血鬼との間に子供を産んだときから、Personal ShopperからDianaまで演じていくなかで既に形成されていった何かだったのではないか。 (だから年代記じゃないって何度言えば)

でももう”Charlie's Angels” (2019) みたいのはやってくれないのかな… (少しだけ)

Kim Gordonが一瞬出てきて、そこにいるだけで電気が流れているようにかっこいい。

最後にPJ Harveyの”Down by the Water”でも流れてくれたら最高なんだけど、と思ったがさすがにそれはなかった。


週末にダブリンに行っていて、さっき帰ってきた。
2日間で9万歩以上歩いていて、こんなの週末じゃない、って自分に文句をいった。

1.30.2026

[film] Nouvelle Vague (2025)

1月25日、日曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

本公開の1週間前なので”Preview”マークが付いていたが、ここでは1月の特集として”Ensemble: The Filmmakers from Richard Linklater’s Nouvelle Vague”というのもやっていて、”À bout de souffle” (1960) - 『勝手にしやがれ』はもちろん、元旦に見た” The 400 Blows” (1959)から2日間に分けて上映された”Out 1: Noli me tangere” (1971)まで、よい意味で教科書的に網羅していて、もちろん見たいのだけどとにかくぜんぜんまったく時間がない。

Richard Linklaterが『勝手にしやがれ』の撮影、映画を作っていく過程を通してJean-Luc Godardを中心とした”Nouvelle Vague”シーン、それを作ったCahiers du Cinéma誌の中心にいた若者たちの青春群像を描いた、ということでよいのか。昨年のカンヌに出品されて、LFFでも上映されていた。

モノクロで、主要な登場人物たちは最初にカメラを見つめるとその彼/彼女の名前が字幕でちゃんと出るし(名前が出るたびに「うぅ」とか唸るうざいじじいが必ずでるよ)、劇中では個々のやりとりもちゃんと名前を付けて呼びあうし、ご丁寧にリールの切り替えのキューマークも出るし、あの時代の若者たちや映画制作周辺の雰囲気を小学生にもわかるように伝えようとしている、ことはわかる。

誰もがお金がなかったあの時代、映画に飢えていた若者たちはどんなふうに寄り集まって自分たちで映画を撮っていったのか、という、あの時代のあれらの映画を見て、かっこいいー!って痺れた人なら取り組んでみたいテーマであり題材なのだと思う。それは稀代のならずもの集団映画、“Slacker” (1990) - 今回の特集でも再上映されている – をデビュー作で撮ったLinklaterなら猶のこと、なのかも。

Godardは新人のGuillaume Marbeckがとても小ぎれいにかわいらしく演じ、Jean-Paul BelmondoをAubry Dullinが、Jean SebergをZoey Deutchが演じているが、Godardの突飛でなにを考えているのかわからない演出に戸惑いながら役を演じる「彼ら」を演じる彼らは、なんだかとても辛そう。アドリブの演技をきちんとカバーする、って難しいことだろうし、それはこういう撮り方をしてこういうことになった、ということ(も説明されている)を知っていればわからないでもないのだろうが、ご苦労なこった、って変な心配をしてしまう。

全体にものすごく整然と綺麗に整っていて、ちょっとコミカルでおしゃれなTVドラマのようにも見えて、自分が山田宏一の『友よ映画よ、 わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』などを通して感じた絶望と貧困のなかから立ちあがってタバコの煙とヤニと男くささにまみれた(と想像する)あれこれとのギャップがありすぎるし、この違いを「冒涜」とまでは思わないものの、どこか別の世界の別の時代のなにか、と考えた方がよいのかも。 JLGがこれを見たらどう思うか – そのうちできるであろうAI JLG(もうあるのかな?)に聞いてみたい。 あと3回くらい自死したくなるのではないか。

あの時代のパリがどんなふうで、あの世界でどんな映画が作られていたのか、は今回の特集で上映されている作品群を見れば十分で、それでも今回のようにたっぷりのお金をかけてきちんと描いてみたい、伝えたい何か、ってなんなのか? がよくわからないし、きちんと伝わってくるとも思えないし。

アメリカ人だから、アメリカ人の見た/イメージする”Nouvelle Vague”像、でよいのかも、とか思わないでもないのだが、それって誰にとってどういう意味があるの? っていつもなるし。 当時と同額(現時点換算)の予算規模で、当時と同じ機材を使ってやってみる、の方がまだ伝わるものがあったのではないか、とか。

Richard Linklaterは同時期にこれも実在の人物を中心においた”Blue Moon” (2025)をリリースしていて、Ethan HawkeがLorenz Hartを演じている。これはLFFで見たのだが、こちらもなんだか微妙だった。Ethan Hawkeはすばらしかったのだが。

同様のバイオピックでだいじょうぶかなー、ってちょっと心配(っていうほどじゃないけど)なのはSam MendesのThe Beatlesのやつ。

[film] The Voice of Hind Rajab (2025)

1月24日、土曜日の昼、Curzon Bloomsburyで見ました。

作、監督はチュニジアのKaouther Ben Haniaでチュニジア/フランス映画。
Executive ProducerとしてBrad Pitt, Joaquin Phoenix, Rooney Mara, Jonathan Glazer, Alfonso Cuarón, Spike Lee, Michael Mooreらの名前が並ぶ。

昨年のヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門でプレミアされ、審査員大賞を受賞している。

まだ日本公開が決まっていないのだとしたら、こんなに恥ずかしいことはない。BBDの件といい、どこまで内輪の利益とか目線優先の幼稚な国であろうとしているのか。

事実に基づく話で、Red Crescentの人々は俳優が演じている - 一部実際の彼らも映る - が、彼らがやりとりするHindの声は彼女がかけてきた時に録音されたものをそのまま使っている。

2024年1月29日、パレスチナのRed Crescentの緊急コールセンターで電話を受けているOmar (Motaz Malhees)のところに、ドイツの男性から、いとこのHind Rajabがガザ地区のガソリンスタンドのところで車内に閉じこめられている、という通報を受けて彼女の番号に掛けてみると、背後に銃声が響くなか、6歳の彼女が出て、一緒にいる大人たちもいとこもみんな動いていない、すぐ助けに来て、という。

彼らのセンターからHindのいるところまでは40数マイル、でもガソリンスタンドから8分のところに救急車がいることがわかり、急行してもらおうとするのだが、コーディネーターのxxからは許可が出るまで動けない、動くなと言われる。これまで何人の救命士が命を落としたと思っているんだ、プロトコルには従え、と内輪で小競り合いしている間にHindとの連絡が途絶えて、でも何度か繋がり直して、でも夜になって偉い人(イスラエル軍側の許可もいるって)の承認を得るのが難しくなってくると、最後の手として、彼女の助けを求める声をソーシャルメディアにポストして拡散することをやってみる(監督もそれを聞いて映画にしようと思ったと)。

映画の予告篇は火事場から彼女を救出することができるのか? というサスペンス調で、フィクションであれば危機一髪の救出劇、に仕立てるところだろうが、これはそうではないので結果は最悪で(ネタバレ? ネタ扱いするなんて最低)、後の調査結果によると彼女が乗っていた車にはイスラエルの戦車から335発の銃弾が撃ち込まれ、彼女の遺体は6人のいとこ達のそれと共に一週間放置され、現場に向かった2人の救命士も殺されてしまった。殺されたのだ。我々は彼女たちを見殺しにした側に立っている。

こんなふうに見る人を金縛りにして感情に訴えるフィクションのような作りにしたことに対する賛否があるのはわかる。素材はあるのだから関係者の証言や時系列を重ねて整えて普通のドキュメンタリーとして作った方が、なぜこんなことが起こったのか、起こらないようにするにはどうすべきだったのか、の検証はしやすいし、それは必要なことなのかも知れない。でも今のイスラエルはそんなの聞こうともしないだろう。 それなら助けを求める彼女の声とその悲劇を前面に出して… こうしてあれだけの映画人が集まったのだし、ヴェネツィアでは上映後のスタンディングオベーション23分の記録を作ったのだそう。

でもそんなことより、彼女の他にこの2年間でイスラエルによって約20000人の子供たちが殺されて、停戦合意の後も殺され続けていて、我々はそれを救うことも手を打つこともできないままでいる、ということの重さと異様さに吐き気がする。 こんな状態のなかオスカーもBAFTAもなんの意味があるのか。やめちまえって思う。


A Grain of Sand

1月27日、火曜日の晩、Arcola theatreで見ました。

これも今のパレスチナを生きる、生きなければならない、あるいは生きることの叶わなかった子供たちの声、語りを纏めた劇。元になったのはLeila BoukarimとAsaf Luzonが纏めたブックレット”Million Kites: Testimonies and Poems from the Children of Gaza”。 ここからElias Matarが脚本を書き、Sarah Aghaが一人芝居として何人かを演じていく。

舞台は客席の一番前と繋がっている床上で客席が見下ろすかたち、真ん中に砂場のように砂が盛ってある。
中心にいるのはガザに暮らす11歳のRenadで、家族とおばあちゃんも大きな家で一緒に幸せに暮らしていたのだが、今はみんなどこかに行ってしまった。

Renadは自分のおばあちゃんがそうだったようにストーリーテラーになりたくて、おばあちゃんが語ってくれたガザの昔話のなかで、彼女は想像力の翼 – パレスチナの太古の伝説の鳥Anqaの - をひろげて、どうにか生きて、どこかに行ってしまった家族を探すことができないか、と。

Renadの話に加えて、スクリーンに名前と年齢が表示されてから、それぞれの子供たちの詩や言葉がRenadを通して語られていく。家族はどこに行っちゃったんだろう? なんで病院は(学校は、教会は)安全て聞いたのに爆撃されて燃えているんだろう? この痛みや辛さはいつかどこかに行ってくれるんだろうか?などなど。子供たちが必死で、言葉にできないなにかを言葉にしようとしていることがわかって胸が痛くなる。

それは浜辺で流されて盛られたり崩されたり遊ばれたり、いろんな意味でただの小さい砂粒なのかもしれないけど、消滅することはない、流されて消えてなくなってよいものではない。最後、背後のスクリーンに子供たちの名前がものすごい数、砂の細かさで集められ映しだされて見えなくなってしまう。Hind Rajabのかき消された声のように。絶対そうはさせないから、という意思に貫かれている舞台だった。

1.28.2026

[theatre] Dante or Die: I Do

1月23日、金曜日の晩、Malmaisson Hotelで見ました。

演劇で、主催はBarbican、劇団名がDante or Die(英国の劇団)、会場はBarbicanの裏手にあるシティーホテル。金曜日は18:15の回と20:45の回の上演があって、見たのは20:45の回。

制作はDaphna Attias + Terry O’Donovan、脚本はChloë Moss、演出はDaphna Attias、初演は2013年で、今回のロンドン公演の後は、ReadingやManchesterの同じホテルチェーンをツアーしていくらしい。

最初はどういうものかよくわからなかったのだが、ホテル(通常営業もしている)のロビーにある受付にいくと、色分けされたバラの造花一輪(自分はRoyal Blueだった)を渡されて、その色別グループの担当ガイドの人がいるグループに合流する。会場(部屋)が狭いので荷物やコートはクロークに預ける。

そうやってグループ分けされた全6組(かな?)は、ガイドの案内に従ってロビーのひとつ上の階の6つの部屋のそれぞれで展開される15分くらいのドラマを見て、次の部屋(のエピソード)に移って、を繰り返していく。部屋に入ったら演者の演技の邪魔にならない限りはどこに立ってもベッドに座ってもよいし、ドラマの進行を妨げないようにちょこちょこ自分の居場所を変える必要もあったり。全体のストーリー(的なもの)はどの部屋のどのエピソードから見てもわかるようになっている(プレイテキストを買ったら、付箋で自分の見る順番をタグしてくれた)。

Georgie (Carla Langley)とTunde (Dauda Ladejobi)の結婚式当日、式が始まる15分くらい前の各部屋の混乱や狂騒やじたばたを観客は目の当たりにしていく。見ていく順番は組によって違うが、各部屋(の演者)は式の15分前に時間を正確に合わせる必要がある(部屋の外で聞こえる掃除機や誰かの叫び声も含めタイミングは計算されている)ので、ガイドの人が部屋をノックしてそこに入るときはせーの、で全てのグループが同期をとる。終わると観客は誘導されて避難訓練や健康診断のように次の部屋の前 - ホテルの廊下に一列に並んで次のエピソードが用意されるのを待つの。

最初の部屋に入ると、半裸の老人(男)(Geof Atwell) が車椅子に座っていて、体が不自由で言葉も喋れないようなのだが、彼に服を着せたり薬を飲ませたりしている妻と思われる女性や慌しく出入りする親族らしき人の発言から彼は花嫁の祖父であるらしいことがわかる。でも彼は終始ほぼ動かず表情も変えられず、その様子を見てケアをする女性は涙ぐんでしまったり。 これも光景としてはありそうだしわかるし。

次の部屋は、洗面所の化粧台のところでベストマン(Manish Gandhi)が鏡を見ながらスピーチの練習をしていて、このエピソードはどうかな? って花婿のほうに電話でお伺いをたてると「それはなし」とか素っ気ない返事が返ってきたり、着替えをしていると列席者でゲイの恋人らしき男が現れてキスしたり、緊張とテンションでぐしゃぐしゃになっていく。

次の部屋は、入ると電話がじゃんじゃん鳴るなか花婿がパンツ一枚で天井をぼーっと眺めていて… こんなふうに部屋の散らかりよう、人物の表情と動き、部屋に駆けこんでくる人々の様子を見ただけで、そして残された時間が15分しかないことで、そういうことね… ってどんな事態になっているのかは想像・把握できる。他には昔に別れて招待されていない花嫁の実父が元妻と娘にこっそり会いに来ていたり。

ホテルは四つ星、モダンで小ぎれいなのだが、ロンドンなので部屋によってはとても小さくて、そこに10人くらいの観客が入るので結構ぱんぱんで、俳優の演技とか彼らが見ているスマホの画面まで含めてものすごく間近で見ることになるし、式の開始までに残された時間を思うと修羅場の真っ只中に居合わせていることになる、その臨場感と緊迫感はなかなかすごい。各エピソードの終わり近くには”Trainee”の名札をつけた清掃員らしき女性が現れて”Sea of Love”を小さな音で流しながら少し片づけなどをして、エピソードの合間 - 客が廊下に出ている間の彼女は時間を巻き戻すべく逆の動きをして、”Sea of Love”も逆回転で流れたり、いろいろ細かく作りこんである。

結婚式手前のこの場、この時間に他人の不幸を願ったり幸せを呪ったりする者はいない。”I Do”の一言を言う/聞くためにそこにいる誰もが自分のやり方で目の前の幸せを掴もう、掴んでもらおうとしている10数分間、だからこそこれだけのドラマが生まれて、うまくいっていない場合にはどうにか収まる兆しとか意思を見せる、その微細な瞬間を掴まえるのって、こうでもしないと難しいのかも。

そして俳優の人たちも、一回の上演で、同じ演技のセットを6回繰り返すことになるので、大変よね。
客も廊下に出て並んで入って、緊迫のドラマを見て、を繰り返すので結構疲れて、自分の回では客のひとりのひとが廊下で倒れて一時期的に全員ロビーに戻されたり、があった。(これも仕込み? って誰かが言っていたが違った)

エンディングはというと、式そのものをクライマックスとして見せてハッピーな方にはもっていかず、混沌のままで放置して解散となるのも素敵。あの登場人物たちが、それぞれの部屋で、幽霊のようにずっとああしている絵を想像したりもした。

終わって外に出たら23時を過ぎていて、うー、ってなった。


これを見る前はBFI SouthbankのDavid Lynch特集で、彼の初期の短編作品6本を見ていた。(だから疲れたのか?)
一番古いのは”Six Men Getting Sick” (1967)で、これらのって、NINと一緒にやっていた” Came Back Haunted” (2013)のテイストに近いなー、って。

1.26.2026

[theatre] Natalie Palamides: WEER

1月22日、木曜日の晩、WalthamstowのSoho Theatre – 昨年11月にJohn C. Reillyを見たとこ - で見ました。

Natalie PalamidesはLAをベースとするコメディ女優で、2017年にEdinburgh Comedy Awardsの最優秀新人賞を、2018年のひとり芝居”Nate”はEdinburgh Fringe FestivalのTotal Theatre Awardを受賞して、Netflixでも配信されたそう。

この”WEER”は、2024年のEdinburgh Fringeで上演され、A24が買い取って話題になったNYのオフ・ブロードウェイのシアター - Cherry Lane Theatreのこけら落としとしても上演された。 90’sの"one-woman romcom"ということで、このテーマなら行かないと、ってチケットを取っつ見に行ったのだが、すさまじかった。怒涛としか言いようのない90分で、終わった直後の嵐のようなスタンディングオベーションは当然かも。 

会場に着くと、90’sの半端なラブソングが次々と流れていって、これだけで背筋に何かが走る。Backstreet BoysとかSpice Girlsはあたりまえ、曲名もアーティスト名もすぐには出てこないが、しょうもないPVの断片がチラついてくる方が気になって、そういうのが止まらない。舞台の奥にはチープな「1999」の板といろんな仕掛けらしきガラクタなどが散らばっている。

彼女がふたり分を演じるひとり芝居で、舞台の右手を向いている彼女の右半分は無精ひげ(口の周りをダークに塗ってる)でファッションに興味ないことがわかるチェックのシャツを着てすこしダミ声で何言っているかあまりよくわからないMarkになり、舞台の左手を向いている彼女の左半分は90’sのピンクのドレスを着たちゃきちゃきのChristinaになる。こうやってひとりコマのようにくるくる回転・反転して声を演じ分けながら90分もたせるのか、もつのか? と最初は思うのだが、これで激しい喧嘩も激しいキスもセックスもなんでもこなしてしまう。うまいとかそういうことではなくて - 腕の使い方とかよく考えたなーって思うけど、言葉にできないままエモの奔流できりきりとぶっ壊れていくカップルのじたばたや修羅場の混沌を見事に表現してしまう。

大筋は前世紀のおわり、1999年のカウントダウンを前にパーティで外出しようとしているMarkとChristinaが、彼が浮気したしない別れる別れないで喧嘩になって、でもとにかく車で外に出てみたら飛びだしてきた鹿(タイトルはDEERをもじったもの。はりぼてだけど実物大くらいの鹿)にぶつかって瀕死の重傷を負って、そしたら“1999”の右端の9がひっくり返って”1996”になり、ふたりが出会った頃からの走馬灯が回りはじめるの。

Natalieはブロードウェイで”The Notebook” - 『きみに読む物語』の舞台の雨の中のキスを見て、熱く愛しあっているふたりはどうしていつもあれこれ苦難や辛苦に見舞われて大変なことになるのか、っていう辺りからこれを思いついたらしいのだが、確かに90’sのrom-comって滑稽なほど、いろんな災難が降りかかってふたりの愛を壊したり試したりしにくるところがある。それをこれも典型的なGen Xのキャラクター設定 – ガサツですぐ熱くなるけど根は憎めない男、と過剰な思いこみであっという間に沸点に達する女、の組合せ、その切り返しのなかで描くとどうなるのか。 そんなキャラクター(の組合せ)が嵐を呼ぶのか、社会の荒波が彼らをあんなふうにしたのかしらんが、ひとこと愛してるって、ストレートに言ってキスしてハグして終わり、になる程度のことを延々遠回りして周囲を巻きこんで出口なしで繰り返していて懲りない(のはなんで?)。

客席にもちょこちょこ下りてきて浮気相手の役をやらせたり、ステージにあげて踊らせたり、右手の水溜はシャワーになったり土砂降りになったり、直立したベッドでやることなんて決まっているし、舞台でやってはいけない/でもやっちゃいそうなことはだいたい網羅して、終わりのほうはほぼパンツ一丁、右左で色模様の異なる変な動物になっていたような。 あんなこと毎日やっていて体はもつのだろうか、とか。公演が終わった後のステージ上にあれこれぶちまけられた惨状ときたらものすごいし。

90年代がどう、とかY2Kが、とか知らなくても十分に笑って楽しめる(というかこの人、1990年生まれって…)。
ただこんなふうな爆発の繰り返しのなかで見ると、改めてあの頃ってなんだったのか、になるねえ。

SohoにあるSoho Theatreでも女性(コメディアン?)によるひとり芝居、結構見たのだが、どれもみんなよく考えて練られていてすごいなー、になる。みんなどうやって思いついたり構成したりするのだろうか。

[film] Twin Peaks – original US pilot episode (1990)

1月19日、月曜日の晩、BFI SouthbankのDavid Lynch特集で見ました。

昨年の6月、”Star Wars” (1977)のオリジナル35mm版の上映で一部の話題を呼んだ作品をすべてレアなフィルムで上映する”Film on Film” Festivalのクロージングで上映され、Kyle MacLachlanとのQ&Aもあったのでチケットぜんぜん取れなかったやつ、が再び35mmフィルムで上映された。

BBC2では1990年の10月に放映され、本国アメリカでは 最初のエピソード”Northwest Passage"としてABCで同年4月に放映されたもの。日本ではWOWWOWが開局記念で放映したんだったか(この局はこういうことをしたので最初からイメージよくない)。WOWWOWも何も、当時はTVをほぼ見ていなかったので掠りもしないまま、自分にとっては今回が初めてのTwin Peaks体験となった。遅すぎ。

David LynchとMark Frostが脚本を書いて、このエピソードはDavid Lynchが監督している。

最初のパイロットで、その後のプロダクションへの出資や人気を左右する試金石となるものなので、ものすごく丁寧に慎重に作っている感じで、人気爆発後の映画版に見られるような過激な人物の登場、過剰な描写やエフェクトは抑えて、普通のアメリカの地方都市のドラマに見せようと、でもそうしようとすればするほど殊更にその異様さを炙りだし不安を煽ってしまう - ここまで計算しているのだろうが、終映後、客席ではみんな酸欠の金魚のようにため息をついて深呼吸をしていた。

そして、これを有料ケーブル放送にして金持ち層にしか見せないようにした日本の連中を改めて呪う。「サブカル」というしょうもないジャンルの囲い込みと共に文化全般の衰退と陳腐化が始まったのはこの頃からではなかったか。

Twin Peaksの町の川べりでプラスティック袋に包まれたLaura Palmer (Sheryl Lee)の死体が発見され、FBIから特別捜査官のDale Cooper (Kyle MacLachlan)がやってきて捜査を開始するのだが、両親家族も男友達も女友達も彼女の周囲にいた連中はぜんぶ怪しい。Laura自身も相当。この事件に関して、とかLauraとの関わりにおいて怪しい、というより、ふつうの人、コミュニティの一員としてなんだか捩れてておかしくて、そうやって近寄って見てみるとコンパスもそもそもの地図も狂ってくるようで、それにCooperだってなんかおかしいし、どうするのこれ? になっていく。

こうして映画のテーマは誰がLaura Palmerを殺したのか? というよりも、なんでどいつもこいつもこんなに変で怪しいのか? に集約されていくかのようで、というかそこから解きほぐしていかないと説明つきそうにないようなことがありすぎて、それは動物の行動や生態の謎を明らかにするために地層を掘って進化の謎と順番から探っていかなければならなるのと同じようなー。

そして、町の人々はそうされて然るべきの風貌と臭気をフルで装備しつつ、その異様さを自分たちの意識無意識下の夢とか糧のような形で絶えず吸収し循環(エロとグロと聖と昼と夜と)させたりしながらずっと生き永らえている。そうやって維持される出口なしの機構のことをLynchは後に、最後に”Inland Empire”と名づけたのではないか。

この後、1月21日の晩に同じLynchの特集で”Twin Peaks: Fire Walk with Me” (1992) - 『ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最期の7日間』と”Twin Peaks: The Missing Pieces” (2014)を続けて見たのだが、このUSパイロットの強さ確かさを超えるものではなかったような。俳優陣が異様に豪華だったのはおかしかったけど。

ここのエピソードって結局すべてが、最初から”Missing Pieces”なのではないか、とか。

1.24.2026

[theatre] The Playboy of the Western World

1月17日、土曜日の晩、National Theatre内のLyttelton Theatreで見ました。

宣伝のポスターを見ると、現代風の顔立ちの青年が正面を向いてどんなもんだい、みたいな顔をしていて、その背後には”Bridgerton”のNicola Coughlanがいて、それでこのタイトルなので、ちょっとこじゃれたrom-comなのかと思ったらぜんぜん違った。

原作はアイルランドのJohn Millington Synge (1871-1909) による同名戯曲(1907)、彼がW. B. Yeatsらと立ちあげたダブリンのAbbey Theatreでの初演時には劇の内容に怒った観客たちが暴動を起こしたそう(ちゃんと勉強しような)。今回の演出はAbbey Theatreの現芸術監督であるCaitríona McLaughlinによるもの。アイルランド訛りの英語がややきつかったので、次は字幕でちゃんと見たい(NTLでやる模様)。

最初、舞台には幕がかかっていて、その幕には真っ赤なスカートで力士のように大股を開いた(たぶん女性の?)下半身がでーん、と広がっていて、それがあがるとトタン屋根のある納屋のようにも見えるが、奥のほうには空と原っぱが広がっているオープンエアの酒場で、奥の原っぱをとんがり藁帽子と藁衣装を纏った楽隊が弦と太鼓でアイリッシュ民謡を奏でながらゆっくりと行進していく – 劇の節目に何度か出てくるこのイメージがとてもすてき。

舞台はアイルランドの西(タイトルの”Western World”はアメリカ、とかではなくアイルランドの西部)のメイヨー、ここのバーでメイドをしているPegeen (Nicola Coughlan)には婚約者のShawn (Marty Rea)がいるものの、飲んだくれてぐだぐだしてばかり、なんかぱっとしないのでどうしたものか、になっていたある日、Christy (Éanna Hardwicke)というひょろっとした若者が逃げるように駆け込んできて、必死の形相で父親を殺してきた、という。

村の酔っ払いダメ男ばかり見てきたPegeenも他の村娘たちにとっても、なんかすごいことをしでかした若者がきたぞ!って、妄想も含めて彼への注目と好意が高まって、Pegeenも未亡人のQuin (Siobhán McSweeney)も彼に近寄っていって、そうしていくなかで田舎の村でずっと燻っている自分たち、今とこれからについての不安や不満が前に出てくる。

他方で、逃げこんできたChristyはずっと蒼い顔でぜーぜーはーはー言ってて、でもなんだかちやほやされるので徐々にご機嫌になっていたら、頭から出血しているもののそう簡単には死ぬようには見えない父親が酒場に現れたので一同唖然として、また諍いが始まって、周囲の手前もあるので改めて父親を追っかけて対決して(この場面は見えず)今度こそやったったぜ、って戻ってくるのだが…

男性観点ではよくあるどこまでも逃れられない父性の呪縛とか悪夢を描いているように見えて、初演時の暴動は父親殺しというテーマがそもそも許せん、ということだったようなのだが、この劇で中心にくるのはChristyよりも彼に恋をしてしまうPegeenとQuinの方で、前半でろくでなしばかりに囲まれてこのままロクな恋もできずに老いていく焦りが、後半は外から少しだけ現れた希望があっけなく潰れてしまった悲嘆が描かれて、そうして擦りきれてしまったそれぞれの思いを楽隊の音楽が撫でたり転がしたりしていくの。

男のほう、俺はやったぜ!ってイキっても簡単に後で潰されたり、敵にトドメを刺したって思っても実はぜんぜん効いてなかったり、今のソーシャルでもいくらでも見ることができる間抜けの光景なので古さは感じなくて、女のほうはとにかくこういうのに騙されないようにしないと、ひとりでもどうにかできるようにしないと、という辺りだろうか。

酒場を舞台にこういう普遍的ななにかが語られて(語られるような出来事が起こって)、それが風にのって漂っていくようで、そこに静かに溜まって人を動けなくさせる、という酒場ドラマとして”The Weir”のことを思ったり。

1.23.2026

[film] 28 Years Later: The Bone Temple (2026)

1月18日、日曜日の夕方、Curzon Sohoで見ました。

終末ものとゾンビものは苦手なので、Alex Garlandの構想による最初の”28 Days Later” (2002)も次の”28 Weeks Later” (2007)も、このあいだの”28 Years Later” (2025)も見ていない、というかそんな20年に及ぶシリーズになっていて、これが4つめ、ということすらわかっていなかった。

これは予告を見て、なんかバカっぽいやつかも、って思って軽い気持ちで日曜日の夕方に行ったら、やっぱり怖くて何度か帰ろうかと思った。けど、前のを見ていなくてもどうにかなったし、怖いけど考えされられるところがいっぱいあったので、よかったと思う。

監督はDanny BoyleではなくNia DaCosta。音楽はアイスランドのHildur Guðnadóttir - 2017年にSunn O)))のサポートで見たひと。

Sir Lord Jimmy Crystal (Jack O’Connell)が率いるJimmiesっていう金髪のかつらをして全員がJimmy xxxを名乗るカルトのギャング団みたいな少年少女たちがいて、集団で民家を襲ったり、仲間内で決闘をさせたり、そうして冒頭に少年Spike (Alfie Williams)が対決を強いられて、でっかい相手の太腿を刺したらそいつは出血多量で死んじゃったり、でもSpikeはその暴力集団から抜けたくて、その様子を凶暴だけどお姉さん的なKelli (Erin Kellyman)が見守ったりしている。

山奥で白骨の神殿を築いて顔も含めて全身が赤茶色で半裸の異様な医師Dr Ian Kelson (Ralph Fiennes)は、ゴリラみたいにでっかい野良ゾンビを拾って、少しづつ治療しながら彼を”Samson”と名付けて様子を見ていくと、彼から少しづつ凶暴さが消えて、人間だった頃の記憶を少しづつ取り戻していくような。Ianは医師としてそれらの記録を録りながら、自室のレコードプレイヤーにDuran Duranをのせて"Ordinary World"や"Girls on Film"を聞いてひとり静かに舞ったりしている。

Spikeが狂ったギャング団から必死に抜け出そうとする話と、Ianが“Samson”を人間に戻そうとする話は、どちらも無理や跳躍なくクライマックスのJimmy CrystalとIanの対決へと導いていくのだが、ここでIanのレコードプレイヤーにいきなりIron Maidenの”The Number of the Beast”が乗っかって火花とともにRalph Fiennesのテンプルが立ちあがるシーンは、そこだけでも十分すごくて盛りあがる。Iron Maidenがかつてあんなにかっこよく鳴り響いたことがあっただろうか? ヴォルデモート卿なのでしょうがないのかもしれないけど、この人、こないだまでは教皇選挙なんかをやってたし、”The Choral” (2025)ではクラシックの歌の先生だったのに…

終末なんて知るかよ、という態度でふっきってきた80年代人の目線からすると、「終わり」のありようを仰々しく展開される終末モノほどうざくてうんざりのものはなかったのだが、こんなふうな変人奇人のアンサンブルとして、割と正気な側からほぼ人間じゃない動物–ゾンビまでのレンジのなかで、治癒と宗教をくっつけて語ろうとするのはとても説得力がある。そこで鳴っているのがDuran DuranとIron Maidenであるというあたりも。他にRadioheadの”Everything in Its Right Place“も挿入曲として流れたりするのだが、ふつーにはまりそうなこの曲が浮いて聞こえてくるおかしさ。(あと、Depeche Modeをもってきたこないだの”Tron: Ares”と比べてみるとか)

Spikeの子供の目、Kelliの無頼のはぐれ者の目、Jimmiesの澱んで狂った目、Ianの医師と宗教者の間を行き来する目、Samsonの治療の進行と共に変わっていく目の色、いろんな目、眼差しがドラマのなかでダイナミックに交錯していくのがよくて、これがあったので前のシリーズを見ていなくてもわかる部分があったのではないか。

そして一番最後に、もうひとつの目 - Cillian Murphyのそれが加わると空気の流れがざわーっと変わる。
機会があったら前のほうの作品も見てみる… か。

 

1.22.2026

[theatre] The Spy Who Came in from the Cold

1月16日、金曜日の晩、@sohoplaceで見ました。 Chichesterでの上演後、West Endに来たもの。

原作はJohn le Carréの同名小説(1963)、脚色はDavid Eldridge、演出はJeremy Herrin。
John le Carréが生前は許可しなかった自作小説の舞台化が彼の死後に実現されて、これが最初の舞台作品となる。

原作を最後に読んだのは前世紀だが、舞台化にはやはり大丈夫かな? ってなる。le Carréのスパイ小説の醍醐味 – 小さな町の小さな出来事がいろんなものを引き摺ってグローバルに転がっていく、そうして狂った世界全体を見せるスケールと、その反対側で万能でもなんでもない主人公達が苦悩し逡巡しやがて破滅的な行動に出る、背負ったものや宿命を巡る押したり引いたりの微細なせめぎ合いを舞台上できちんと表現できるとは思えなかったし。

今作に関していうと、やはりそれなりに単純化したり、George Smiley (John Ramm)をある種の(典型的なスパイの)象徴のように - 高いところにサーチライトで照らされ、無言で、銅像のように立っているだけ - 描いたりすることで、テーマである冷戦時代のスパイの過酷さ/に対する非情、など、いろんな落差も含めてある程度は表現できていたのではないか。

上演前の舞台上には自転車が無造作に転がっていて、床の上には矢印で国境の向き → UKとかが描いてある。

冷戦時代のベルリンでスパイ活動をしてきたAlec Leamas (Rory Keenan)は、部下の情報提供者が自転車で国境を跨ぐ手前で射殺され、うんざりして飲んだくれてロンドンに戻されて干されて、どん底で入った図書館で司書のLiz (Agnes O’Casey)と出会って、少しだけ上向いたようになる。

粗暴なアル中でだらしなくてゴミ溜めの底まで落ちた男が、そこで出会った女性と恋に落ちて、その恋に囚われて最後は破滅する – 恋は何かのはじまりではなく、Endを後押しし、視界を塞いで破滅に導くものでしかない、というのはle Carréのスパイ小説でも繰り返し現れる風習のようなものなので、わからなくはないのだが、舞台上の流れの中でやはりちょっとこのパートは浮きあがって見えた。

なのでこの後、終盤にかけて、Leamasに与えられた任務の入り組んだ、敵方との間で罠のように仕組まれた罠と、その必然でやってくる最後の悲劇をどう見せるか、のところも相当あっさりに見えた。じゃあ、あっさりじゃない風ってどんななのか? って考えるとどれも違うかも、になるので、この見せ方しかないのかー、って。


The Spy Who Came in From the Cold (1965)  


こちらは60年前に作られた映画版。
少し前だが、昨年12月8日、月曜日の晩にBFI SouthbankのRichard Burton特集で見ました。
Richard Burtonの孫娘の方がイントロで紹介していた。

監督はMartin Ritt、脚色はPaul Dehn、Guy Trosper、撮影はOswald Morrisで、アメリカでブラックリストに入って撮れなくなったアメリカ人たちが多く参加して作ったイギリス映画でもある、と。あと、ヒロインの名前が原作から変えられてNan Perryになっているのは原作の”Liz”だとRichard Burtonの妻と混同される恐れがあったため、とか、トリヴィアがいろいろある。

モノクロで、割と原作に忠実 – であろうとしすぎてスパイ映画としてはやや複雑で暗くて難しく見えてしまう感もあるが、こういう裏とか陰がいっぱいある役をやらせるとRichard Burtonはさすがにうまいなー、しかない。うますぎてサスペンスの流れのなかで彼ひとりが浮きあがってしまう – ほんとは屑として葬られる役なのだが過剰で、かっこよすぎる。同様にヒロインのClaire Bloomもきれいすぎて、le Carréの最初のチョイスはRita Tushinghamだった、とか。

あと、Globe座にある蝋燭照明の大好きなシアター、Sam Wanamaker PlayhouseのSam Wanamakerが出演していて、この人だったのかー、って思った。アメリカ人だったのね。

1.20.2026

[film] Sotto le unvole (2025)

1月14日、水曜日の晩、ICAで見ました。

英語題は”Below the Clouds”。昨年のヴェネツィアでプレミアされてSpecial Jury Prizeを受賞したGianfranco Rosiによるナポリの町とそこに暮らす人々を3年に渡って撮影して作ったモノクロ、ナレーションも字幕もなく進んでいくドキュメンタリー作品。音楽はDaniel Blumberg。 ローマ郊外を描いた”Sacro GRA” (2013) – ランペドゥーザ島を描いた“Fire at Sea”(2016)に続くイタリアの町シリーズ。前2作は見ていないが、これはすばらしくよかった。

冒頭、タイトルはコクトーの“Vesuvius makes all the clouds in the world”から来ていることがわかり、ポンペイを灰の下に埋めてしまったヴェスヴィオ山のもと、いまも頻繁に地震が起こっている町と人々の様子を紹介していく。

市内をゆっくり走っていく電車、人のいない映画館(ロッセリーニの『イタリア旅行』がかかったり)、夜とか地震の度に緊急コールセンターにかかってくる電話(いま揺れたよね?ね? 程度でかけてくるのがすごい)、夜のコールセンター宛にかかってくるその他の電話(家人の暴力とか)、過去に墓泥棒が入って根こそぎ持っていったりしたその跡地、博物館の学芸員の活動 - というか彫刻を眺めてほれぼれする、日本から遺跡の発掘にきたチームの活動、シリアからの労働者のこれからどうする、の会話、などなど。

ナポリは近くにポンペイ遺跡があって、観光客で賑わっていて、自分も行ったことはあるが、こんななだらかな地形の穏やかそうな土の上で、突然に自分たちの築いてきたものが一瞬で灰で埋まり、家族も親族もぜんぶ亡くなる、消滅する - そういうことが起こった、地政も含めて、そういう脆く危うい脅威やリスクにずっと曝されながら暮らしてきたんだな、というのがだんだん見えてくる。ここで、モノクロの鉛のような質感のなかで描きだされる町の情景は静かで深くて、終わりの見えている閉塞感のなかにあり、どこにも動けないまま止まっているような。

日本も地震はいっぱいあるし、経済的にも安定していないので、同じような風景が見えてきてもおかしくない気がするのだが、そうならないのは家長を含めた共同体ががっちりといろいろガードして固まって異質な空気や不安を排除してしまうから、だろうか。あと、子供みたいに落ち着きなくずっとちゃかちゃか… (これはこれでいやだ)

イタリアの、ナポリの陽光溢れる陽気で華やかなイメージはまったくなくて、どちらがよい正しいとかいう話でもなく、山の上に雲がでて、それが広く町を覆っている時、その下で人々はこんなふうに生きて活動している、してきたのだよ、と。ここに年末に行ったフィレンツェとか他の町の聖堂の暗がりに浮かびあがったフレスコとかモザイクの擦りきれた影や跡 - とその彼方に広がる宇宙、噴火の火砕流で固められてしまった人々、墓泥棒がフレスコのあった壁ごと剥いでしまった石室、そしてほぼ人がいない状態で走っていく夜の電車、映画館、博物館のぼわーっと浮かびあがる - ”Below the Clouds”というかんじがすばらしい。

ナレーションや説明の入らない世界について、Frederick Wisemanの描こうとしているのが所謂「社会」であるとすると、Gianfranco Rosiの描こうとしているのはその土地を流れていく、その土地をつくってきた雲とそれができるまでの「時間」のありようなのではないか、と思った。

[theatre] When We Are Married

1月12日、月曜日の晩、Donmar Warehouseで見ました。

原作はJ. B. Priestley (1894-1984)の同名戯曲 (1934)で1943年にはLance Comfortによって同じタイトルで映画化されている。演出はTim Sheader。なかなかチケットが取れなかった。

舞台はクラシカルでゆったりとしたリビング、中央にソファがあり、端にはピアノがあり、鉢植えの植物だけ異様にでっかい。
1908年、ヨークシャーの中流階級家庭で、25年前の同じ日、同じ場所で結婚式をあげた3組の夫婦が仲良くみんなで銀婚式を祝おうと集まってくる。

ホストとなる家の家政婦は見るからに聞き耳たてる詮索好きで、記念写真を撮りにきた写真家はべろべろに酔っぱらっていて、中心の夫婦は一見まともふう、一組は夫ががみがみ内気な妻を怒鳴りつけていて、もう一組は逆に妻が夫を尻に敷いていて、そんなテーブルを囲む手前で、25年前に式を執りしきった神父が現れて、ごめん、君らの結婚ちゃんと手続きしてなかったかも、という。いやいやいや、それはとーんでもないことだしなんで今日のこの日にそんなこと言うわけ? なので聞かなかったことにしましょうか、にしようとしたのだが、家政婦が全員にばらしちゃったのでざわざわし始めて止まらなくなる。

まずは全員が体面体裁もあるので穏やかで、でもそのうちずっと尻に敷かれていた側のそれぞれの妻と夫が、おうおうそれってどういうことだよ~こういうことか? って立ちあがってこれまでの恨みも含めてとにかく散々やってくれたよなあー もう関係ないってことよね? っていきなり逆の態度で反乱を起こすし、夜の繁華街からやってきたそれっぽいレディーまで絡んできて…

結婚なんて紙切れ一枚のー というのが事実だとしたら、紙切れの拘束が解けたらこんなふうになる、なにやったっていいんだよね他人だし、というのを普遍性をもってわかりやすく描いていて、とにかくおもしろいったら。切れ目にどかどか流れるBeyoncéの”Single Ladies”なども違和感なく溶けこんでいて、俳優みんなすごくうまくて楽しいし。

戸籍とかマイナンバーとかがあると、こういうおもしろいことも起こらなくなるので、みんな気をつけようね、って。


The Rivals

1月13日、火曜日の晩、Orange Tree Theatreで見ました。
これもなかなかチケットが取れなかったやつで、テーマ的には結婚制度のばかばかしさを嗤う系のが連日偶然重なったかも。(月曜日のが事後、火曜日のが事前、というか)

原作はアイルランドの劇作家Richard Brinsley Sheridan(1751-1816)の同名戯曲 (1775)、これが彼の最初の作品だそう。ここから250年を記念した公演で、演出はTom Littler。舞台の床上には18世紀バースの古い地図が描かれている - 上の席だったので、この地図とGoogle Mapを重ねてみたけどよくわかんなかった。 

舞台上にはマイクスタンドがあって、最初のアナウンスから大勢でセット(リビングからお風呂から食堂から)を置いたり組んだり、それを振付や場合によっては歌もダンスも込みの一連の動作として、目まぐるしくレビュー・ショーのように移し替えていく。囲み型の結構狭いシアターなのによくあそこまで、ちゃきちゃきと、って感心する。

そんな慌しい交錯のなかに浮かびあがる若い貴族のJack Absolute (Kit Young)が貧しいけど聡明なLydia (Zoe Brough)に恋をして、彼女を落とすべく、階級が下のBeverley軍曹になりすまして近寄っていく話と、もう一組、Jackの友人の“Faulty” Faulkland (James Sheldon)とJulia (Boadicea Ricketts)のうまくいっているのかいっていないのか一部壊れたような付き合いが進行して、息子の恋愛→結婚にやきもきするJackの父Sir Anthony (Robert Bathurst)とLydiaの後見人で叔母のMrs Malaprop (Patricia Hodge)の言い間違いなどが混乱に拍車をかけて、それぞれが思いこみも含めたいろんなライバルたちに翻弄されつつも、最後にはどうにかなる、というかなってしまう。そうさせたパワーってなんだったのかしら? というすっとぼけた、でも勢いにあふれたコメディ。

舞台とか回転しないかわりにセットを人力で目まぐるしく回転させていくせわしない演出で、それがこの劇のテーマ – 身分階級なんていいから、恋は自分で勝ちとれ、みたいなのにうまくはまっているようで、よかった。

それにしても、自分が知らないだけだし、考えてみればあたりまえなんだけど、いろんな劇作家がいてまだまだ知らないことだらけだなー、って。

[film] Moss Rose (1947)

1月6日、火曜日の晩、BFI Southbankの古いやつをアーカイブから引っ張りだす”Projecting the Archive” のシリーズで見ました。90年代にオリジナルのナイトレートから焼かれた35mmフィルムでの上映で、一般公開用の上映で使われるのは初めてのプリントだって。

主演のPeggy Cumminsの生誕100年を祝う上映でもある。Joseph H. Lewisの”Gun Crazy” (1950) - 『拳銃魔』でのぶっとんだ役が有名だが、元はイギリスの女優さんで、晩年はBFIのイベントによく来てくれたり地域のボランティアに参加したり、とても素敵な方だったそう。

「霧のロンドン」をたっぷり見せたいアメリカ映画で、監督は、俳優としてもいろいろ出ているGregory Ratoff、原作はJoseph Shearing aka Marjorie Bowenの1934年の小説。ヴィクトリア朝の頃、実際にあった事件を元にした小説。IMDBには邦題『モス・ローズ』とあるので、日本でも公開されたのかしら。

ミュージック・ホールで踊り子をしているBelle aka Rose (Peggy Cummins)が、仕事仲間のDaisyがフラットで殺されているのを発見して、亡くなる直前まで彼女と一緒にいたRoseは現場近くにいて怪しかった男Michael (Victor Mature)を追っかけて、あんたやったでしょ?あたし見たんだからね、 って脅迫してお金ではなく田舎にある彼の屋敷に滞在させてもらうことにする。

連れていかれた貴族のお屋敷と生活にはほぇーってなるものの、そこには彼を溺愛する母親(Ethel Barrymore)がいて、彼の婚約者もいるし、なにやってんだろあたし、になったりするのだが、そこに次の殺人が起こって…

現場に残されているMoss Rose(和名マツバボタン)が意味するところは、とか、肝心なところでかき乱してくる警部Clinner (Vincent Price)とか、犯罪推理モノっぽいところはあるものの、犯人捜しの建付けと謎解きはどうってことなくて、なんにでもクビを突っ込みたがりのキュートなRoseのスクリューボール・コメディのように見ることもできるかも。でも興行的には惨敗だったって..

それにしても“Gun Crazy”でめちゃくちゃぶっとばしてしまう前にこんなことを、相当度胸のあるあれだと思うが、とにかく彼女の軽くてとっぽい仏頂面などがたまらなくよいのだった。


High Treason (1929)

1月18日、日曜日の午後、BFI Southbankで見ました。
1月の特集に、”Magic Rays of Light: Early Television”という特集があって、初期のTVプログラムを集めて上映している。時間があれば見てもおもしろいだろうな、と思うものの、知識としてはなんも持っていない世界なので、見れる範囲で、くらい。

これは1950年頃の世界を舞台にしたサイレントで、トーキーの到来を意識した音声付きバージョンも作られたらしいが、今回の上映は35mmフィルム上映でピアノ伴奏がつく。なんでこれをEarly Televisionの特集でやるかというと、劇中にTV電話のようなディスプレイ機械が出てくるからで、工夫された未来描写はなかなか楽しかった。

第一次世界大戦は終わっていて、世界は"United States of Europe" vs アメリカを中心とした"Empire of the Atlantic States"のように分かれていて、このふたつが国境でのしょうもない小競合いの果てに一触即発になり、イギリス海峡の海中地下トンネル – Eurostarぽい豪華列車が走っている - が爆破されて次の大戦まであと一歩、のところでイギリスの平和連盟が動きだして… という政治サスペンスなのだが、筋書きやキャラクター造型以上に、TV通話とか、シャワー(シャワーシーンがあるの)の後の全身ドライヤー(拭いたほうがぜったい早い)とか、どうでもいいところに目が向いてしまう。

女性のぴっちりした衣装とか、Fritz Langの”Metropolis”(1927)に影響を受けたことは見ればわかるのだが、それ以上に絶対平和を唱える平和大臣(ヒロインの父)が戦争をしたくてたまらない偉ぶった大臣を撃ち殺しちゃうとか、なかなかリアルでよかったかも。全ヨーロッパ vs アメリカなんていままさに。(とにかくあのバカほんとどうにかして)