2月2日、月曜日の晩、Curzon Sohoで見ました。
本公開前のプレビューで、上映後に監督のAmy Bergとのトークがあった。Executive Producerには(またか、の)Brad Pitt。昨年のサンダンスでプレミアされている。
Jeff Buckleyのドキュメンタリーは数年前にも見た気がしていて、もういいんじゃないか、だったのだが – “It’s Never Over” – って10年をかけてバックリー財団(財団なんだ.. )から権利を取得して、そこから5年を制作に費やしたいうので決定版と呼べるもの、なのだろう。
17歳で彼を産んだ母のMary Guibert、彼が生まれて6ヶ月で家を出て行った父Tim Buckleyのことから入ってかつて恋人だったRebecca MooreとJoan Wasserからは、アーティストの彼が恋人としてどんなだったかを聞く。音楽的影響の紹介ではJudy Garland, Led Zeppelin, Nina Simone, Nusrat Fateh Ali Khanなどがあり、ミュージシャンとしてBen Harper, Aimee Mannなどがコメントをして、そして友人でもあったChris Cornellとの交流も。
アーカイブ映像も多くあって、特に彼が初期の活動拠点としていたカフェ - Sin-é時代の様子がどんなだったかがわかるのはうれしい。
彼の音楽、特にあのヴォーカルについては、聴いてふつうに驚嘆するしかなくて、今も何度聴いてもそうなると思うのだが、映画では映像として繋いでいくだけのこれらについて、なぜああいうちょっと歪な楽曲構成と展開になったのか、など解析したり批評したり、はほぼない。彼の声の特殊さ - どこまでも伸びてしなる - が必然としてもたらしたであろう音楽の肌理や特性について成り立ちも含めて知りたいのに。 ここにGary Lucasが出てこない、というのが全てを説明している気がする。
なので、映画は女性 - 母と恋人たちから見たJeff Buckleyがメインで、アーティストとしての彼ってどう? もあくまで彼女たちの目でのそれ、になっている。90年代中期以降、ポストグランジで顕在化したように思える、マッチョではなくフェミニンで、あたしが傍にいないとただのゴミになってしまう(と思いこませる)彼 – の典型を見るようで、これはこれで興味深かった。(ダメンズが汎用的な臭気を放つようになったのってこの頃から?) でもやはり、彼女たちがどれだけ彼を愛していたか、わたしにとってのJeff、を語れば語るほど、ちょっと引いてしまうのだった。彼がすばらしい人であったことは十分わかっているからー。
彼のライブは2回見ていて、初回は”Grace”のツアーの後半、ブルックリンのそんな大きくないライブハウスで、最後にAlex Chiltonの”Kangaroo”とかをやってぐじゃぐじゃのジャンク猿になっていった。2回目がこの映画の中でもPaul McCartneyがバックステージに来た!って紹介されているRoselandでの”Grace” Bandの最後のライブで、でも彼はメインアクトではなくJuliana Hatfieldの前座だった(当時のJulianaHは無敵だったの)。この時、バンドとしてのお別れを告げてから"Hallelujah"をやって、それがそのままThe Smithsの”I Know It’s Over”に繋がれて、みんながぼうぼうに泣いてて、後ろを振り返ったら生のPaul McCartneyが座っていたのでなんだこれ? ってなった。自分はこの時のライブのありえないかんじの衝撃をいまだに引き摺っているのかも。
映画のなかではChris Cornellとの話が興味深かった。競演していたらどんなにかすごい声の連なりを聴けたのだろう。
あと、上映後のトークで出てきたElizabeth Fraserとのデュオ – “All Flowers in Time Bend Towards The Sun” (1995-96) - YouTubeで見れるけど、これはどうしても使用に許可が下りなかったのだそう。
2.11.2026
[film] It's Never Over, Jeff Buckley (2025)
[theatre] Into the Woods
1月29日、木曜日の晩、Bridge Theatreで見ました。
音楽Stephen Sondheim、脚本James Lapineによるグリム童話のマッシュアップ・ミュージカルで、初演は1986年、2014年にはRob Marshallによって映画化されている(もちろんDisneyで)。
演出はJordan Fein。 ビジュアルはずきんを被った赤ずきんが暗闇のなかに浮かびあがっている像で、これだけだとホラー映画のように見える。
上演前の舞台には黒幕が掛かっていて、それが開くとでっかい木 - 背後は深そうな森の闇、そこに普通の会社員みたいな語り部のおじさん(Michael Gould)が現れて何かを語ろうとするが、次々と現れては消える魔物 – というより変な人たち、そしてどこからか流れてきて全員がそのメロディに飲みこまれてしまう歌に圧倒されて、魅せられているうちに、森の奥に迷いこんでしまう。
パン屋(Jamie Parker)とその妻(Katie Brayben)が父親の罪によって掛けられた呪いを解くためにシンデレラの靴、ラプンツェルの金髪、赤ずきん(Gracie McGonigal)のコート、そして豆の木Jack (Jo Foster)が大切にしていた乳白色の牛 - Milky Whiteなどを集めなければいけないのだが、みんなそれぞれいろいろ抱えて這いずりまわっているので、誰かが何かをしようとすればするほど、いろんなのが出てきて事態は錯綜し、混沌は深まっていく、そんな森のなかへようこそ。
グリム童話の世界の根底を流れている家父長制や伝統的な魔女魔物に対する無意識の恐怖とか放擲とか服従とか敵意とか、最終的には自身の運命を受けいれることを呪いとして表にだして歌にして茶化したり、森の表面(表舞台)の反対側 - 森の奥の暗闇で行われていることを示さずに、そこを抜けてきた連中がどんなやつらか – 現れるのみんなほぼ変態だったり– を示して楽しい。
キャラクターとしてはお馴染みのばかりなので、善いやつ悪いやつくらいはわかるのだが、お伽噺の線が入り混じって錯綜していくなか、単純な善い悪いなんて言えなくなって、Wolf (Oliver Savile)もWitch (Kate Fleetwood)も、誰もがいろんな事情や悩みや呪いを抱えて森を抜けてきていることが見えてくる。なんでこうなっちゃうんだろう、って頭を抱えて考え始めた個が、そうやってばらばらになった”I”が”We”になることに気づいた時、そこには歌があることを知った時、など。
あれだけのキャラクターをわらわら裏に表に出してかき混ぜて、その呟きをSondheimの歌が拾いあげて、ひとつの幹とか森に撚りあげていく、そのプロセスの複雑さを思うと森のなかで方向感覚を失ったようにくらくらするが、楽しい歌と音楽はとにかくそこにあって、重ねられていくことでひとつの森を形成しようとするかのよう。Sondheimの魔法っていうのはこれかー、って初めてわかったような(おそい)。
人を悪い方に変えてしまう象徴的な筺としての森に、存在そのものが象徴として継がれてきた御伽噺の主人公たちをくぐらせてみると、どんな変態が生まれて何を歌い出したりするのか、というびっくり箱の仕掛けというか。
キャストのアンサンブルも見事で、パン屋夫妻はもちろん、Jackを演じたJo Foster (they/them)、赤ずきんのGracie McGonigalの輪郭の強さが印象に残った。あと、Jackが抱えていたMilky Whiteのぬいぐるみが異様にかわいくてとても欲しくなった。なんで売店で売ってくれないのだろう…
映画版も公開時に見たけど、個々のキャラクターとストーリーラインを正直に追っていくので、今回のような森の奥の闇の恐ろしさ、脅威を見せつける、そういう迫力はなかったような。
あと、このシアターはものすごく音がよいのだが、今回は森の奥で響く轟音が雷鳴のようにすさまじく、客席で飛びあがっている人が結構いた。
近い将来、改変版で誰かがトトロを加えたりしないかしら?(ヒトじゃないとだめか..)
でもこの劇の森とトトロの森はちがうよね。
2.10.2026
[theatre] Dublin Gothic
1月31日、土曜日の晩、Abbey Theatreで見ました。
Abbey Theatreは1904年に建てられた(火災で1951に再建)アイルランドの国宝で、William Butler YeatsやSeán O'Caseyが設立に関わってアイルランドの文学復興運動にも貢献した場所、なのだがシアターとしてはものすごくシンプルであっさりしている。バルコニーもドレスサークルもなく、だんだんの傾斜があるだけ。でもおそらくこのサイズでのこの傾斜がものすごく見やすい、没入できる空間を作っているのだと思った。ロンドンのNational Theatreもこのサイズのがあったらなー、とか。
原作はこれが劇作デビューとなるBarbara Berginの同名戯曲(2025)。演出はCaroline Byrne。上演時間は2回の休憩を挟んで3時間半。
舞台は、三階建てのビルの断面のような、朽ちたビルの骨格だけが露わになったような構造になっていて、1830年からの約150年に渡る複数の家族の歴史を描いていくなか、その内装は時代や場面によって変わっていくが、120のキャラクターを次々に演じ分けていく19人の俳優たちは着替えで出たり入ったりする以外は、だいたいこの3層のどこかにいる。上の階での動きは(寝ていたり)少なくて下に行けば行くほど出入りは激しくなる。舞台手前の土があるところ – 地上層には、シャベルが5本くらい無造作に突きたてられている。
時代は1830年から1910年までが第一部、1910年から1950年までの戦争期が第二部、1950年から1980年までが第三部で、そこにおける負けっぱなし(Loser)の家族の歴史が、貧困、地主、階層、移民、宗教、性労働、エイズ、家父長制などの角度からショートコントのように忙しないやり取りで、やられて下に落ちたり転がったり泣いて泣かれてどこかに消えていく様が次から次に世代を伝って連鎖するように繋がれていく。”Loser”の主は、地主から虐げられる小作人からはじまり、弱いものはずっと弱いまま、ストライキや暴動、さらには独立戦争~2つの大戦を経て、その容赦ない虐めの連なりの行きつく先は常に末端の(末端と見られている)力のない女性たちで、そんなことになっても彼らとしては立ちあがって生きていくしかない。たくましい女性たちも当然出てくるが彼女たちもずっといるわけではなく、いつの間にか背後の闇に消えていく。
休憩時間には幕に出てきた家族の家系図が投影されて、最初の休憩では3世代3家族だったのが、次の休憩では確か5世代4家族になっていたり。でもそれでああそうか、ってなるところは少ない。
あまりに登場人物が多すぎて慌しく錯綜しつつ転がっていって、演じる方も大変だろうが見る方もあっぷあっぷで、とにかく各階/層で何かが起こって、誰かが殴られたり泣いたり落ちたり死んだりしていて、それらのシルエットを追っていくのが精一杯で、そこには常に地を這っていくような死や退廃のイメージがあった、という意味での”Gothic”であれば、それはそうなのだろうが、もうちょっと落ち着いて像を焼きつけられるようにしても、とか。
路地を抜けても抜けてもずっと果てなく続いていく出口なしのごじゃごじゃ、という点で、例えばLondon Gothicとはどう違うのか? Londonだと、もっと足元がきつく縛られていて身動きが取れずに埋められていく気がする。Dublinは勝手に動けてしまう分、後からのダメージとか踏み外しとか破滅がよりはっきり出て、でもなんかめげない(気がする)。
そして今はあの国がしみじみ嫌だ。あんなところに戻りたくない。
2.09.2026
[log] Dublin - Jan 31 - Feb 1
1月31日〜2月1日の一泊でアイルランドのダブリンに行ってきたので簡単なメモを。
アイルランドは2度目で、最初に行ったのは90年代の真ん中くらいだったので、ほぼ30年前 … になる。
前回はNYに住んでいた時だったので西のシャノン空港から入ってゴールウェイとかをぐるりと回って、ダブリンは終わりに1泊しただけで、ばたばた走り回って終わって、雨の夜のダブリンの湿ったイメージだけ残っている。
最近はいろいろふてくされていて、寝る前に転がってあーつまんねーなどっか行きたいなー、って演劇のチケットを取ったりする(とてもよくない)のだが、そうしている時にダブリンのAbbey Theatreでの”Dublin Gothic”が目にとまり、でも1/31が最終日だった。 チケットとか取れるのかしら? って見たらちょうどよさそうなところがひとつ空いている。 でもまあ飛行機だって取らないといかんしな、ってBAに行ってみたらぜんぜん高くなかったりして … このところの遠出はすべてがこの調子でなんか仕掛けられているとしか思えない(だとしても引っ掛かる方がバカ)。
もういっこよくないのは帰国まであと2ヶ月のお買い物モードになっていること。こういうときふつうの大人の会社員は靴とかスーツとかを買いに走るようなのだが、そんなの買うかボケ、で本とかの方に向かう。前回の帰国時はコロナ禍だったのでお店はほぼ開いておらずオンラインで買うしかなくて、そうすると古本は遠ざかってしまう(状態とかちゃんと見れないから)のだが、今回はそれがない。ヨーロッパじゅうの古本屋がばさばさ扉をひろげて呼んでいる(バカ)。
National Gallery of Ireland
ホテルに着いたのが8:30くらい、荷物だけ預けて町に出ると小雨がぱらばらだったがこんなのロンドンと変わらないので気にしない。ここは9:30には開いていた。
Picasso: From the Studio
パリのピカソ美術館の貸出が多かったように見えたが、ピカソが世界各地のスタジオで制作した絵画、彫刻、陶器などを時代別、場所別に並べていて、それだけでこれだけ楽しいものができてしまう不思議。外でライブで描いたものとスタジオに篭って描いたもの、という違いでは勿論なく、テーマが静物や子供といったインドアを向いている、というだけで、場所や土地や風土を超越した何かが見えるわけではないので、企画展としてはやや弱いかも。なのだが個々の作品は見ていておもしろいからー。いまTate Modernでやっている”Theatre Picasso”もこれと同じ視座に立ったものかも。
これ以外はNational Galleryなのですべて無料で、数点あったBonnardも1点しかなかったMorisotもよいし、WB. Yeatsの弟のJack B. Yeatsの作品をいくつか見れたのもよかった。
MoLI – Museum of Literature Ireland
アイルランド文学博物館、か。貴重な文献や史料類を網羅する、というより沢山のパネルと文字情報でアイルランドの文学者の像を多角で示す。知らない人も沢山。一番上の階にあった『ユリシーズ 』の初版、Copy No 1の威圧感がすごかった。
文学関係だとOscar Wildeの家と、『ユリシーズ 』に出てくる薬局Sweny's Pharmacy - もはや何を売っている? お店なのかすらわからないごちゃごちゃでカウンターの向こうで店主らしき人がガイドをしていた。
今回の探訪の目的には帰国前お買い物もあったので、古書店を含めて本屋を結構まわった。その中ではUlysses Rare Booksが圧倒的にやばかったかも。ここなら30分で1000万くらいかんたんに使うことができる、というくらいの質と量で、欲しいのありすぎて決められず、1時間くらい悩んでなんとか1冊選んで、日曜日は休みなので夕方にもう一回きた。天気は寒くて降ったり止んだりのぐだぐだで、それ以上に本屋にやられたかも。
この日の昼はThe Winding Stairっていう本屋の2階のレストランでかなりちゃんとしたスコッチエッグとサンドイッチを食べて、お腹がすかない状態でそのまま演劇を見て終わった。
翌2月1日は定番の(前回来た時にも行った)The Book of KellsとLong Library(改装中で半分も埋まっていない)を見て、Christ Church CathedralとSt Patrick's Cathedralを見て終わった。The Book of KellsはThe Book of Kells “Experience”となっていて、最近多い気がする“Experience”系のってどうなのか、って改めて思った。まず“Experience” 「経験」の定義が曖昧でうまく主体のすり替え(ただのコンテンツ消費を自分のかけがえのない「経験」と思いこませる )があり → ぼったくり → 後になんも残らず、なんだろうなー、等。
お昼はやはり『ユリシーズ 』にでてきたパブ - Davy Byrnesで、ゴルゴンゾーラのサンドイッチとブルゴーニュ - じゃないピノ・ノワール(原作ではブルゴーニュ)を戴いて、ワインはグラス半分も無理だったが、こういうのかー、って。
前回のNY → Dublinより、当たり前かもだけど今回のLondon → Dublinの方が、段差がなくてスムーズに見て回れてよくて、よいどころかすごく素敵で改めて好きになって、また来たくなった。初夏のビューティフルな季節に来たらいちころだろうな、とか、テムズ川もリフィー川くらいの幅ならよかったのにな、とか。
2.05.2026
[film] The History of Sound (2025)
1月30日、金曜日の晩、Barbican Cinemaで見ました。
監督は”Living” (2022)のOliver Hermanus、原作はBen Shattuckのふたつの短編を束ねて、彼自身が脚本を書いている。昨年のカンヌでプレミアされた。
ケンタッキーのLionel (Paul Mescal)が子供の頃、森のなかで音楽を色彩や味覚のように捉える能力について語られ、父親の歌うフォークソングに耳を澄ますシーンから入って、1917年、大きくなってニューイングランド音楽院に入った彼は、サロンでピアノをぽろぽろ弾いているDavid (Josh O’Connor)を出会い、自分の知っている曲だったので彼のピアノに合わせて歌うと、ふたりはそのまま恋におちる。
裕福な家に生まれ、でも先行きの不透明さに塞ぎこんでいつも孤独に見えるDavidは第一次大戦に従軍すべく軍服を着て出て行って、戦後、何もなかったようにひょっこり戻ってきて大学に就職すると、Lionelを誘って蝋管の装置一式を担いで、メイン州の田舎を歩き、いろんな階層の家庭で伝わってきた、歌われてきた、フォークソング –“Ballad Line”でも歌い継がれていたような - を録音してまわるようになる。なぜ、どうしてそんなことを始めたのかの説明はないが、歌ったりしている村人の家や軒先に装置をセットして、指示をだして歌ってもらい、終わるとまた野道を歩いて野宿して、星空の下で抱きあう。
やがて大学に戻るDavidとヨーロッパに出たいLionelは再び別の道を歩むことになり、Lionelが何通かDavidに宛てた手紙には返事もなくて、ローマで声楽家として成功したLionelはオックスフォードに渡って、裕福な社交家の娘の家に招かれて結婚手前まで行くのだが、母が病で倒れたことを聞いてアメリカに戻る。
アメリカに戻ってみると母はもう亡くなっていた - 廃墟のようになった実家に佇んでいるうちにDavidにたまらなく会いたくなって、彼の勤めていた大学に行くと、彼は…
第一次大戦前後の、アメリカを含めて世界が大きく変わろうとしていた時に、古くから継がれてきた先祖らの歌、音に向きあったふたりの若者は、その音を通してなのか歴史を通してなのか、どうして、どんなふうに互いを求めあわなければならなかったのか。
蝋管に刻まれた音、そこに封じ込められた歌をふたりがじっと見つめるシーンはあるのだが、彼らにとっての音 – フォークソングがどんな意味や重みをもって、なんで迫ってくるのか、歌うことを仕事にしたLionelにとって、冒頭にあった音と色、模様などのありようとの関わりは? などがほぼ説明されないので、あまり迫ってこなかったかも。
Paul Mescalが”All of Us Strangers” (2023)で見せたAndrew Scottとの間に瞬いていたもの、あるいはJosh O’Connorが”God's Own Country” (2017)で見せたAlec Secăreanuとの間の猛々しい情欲、どちらもイギリスのぱっとしない男の足下で瞬く火花のような恋で、とても納得できる強さと濃さをもったものだったのだが、今作にはそれ – 激しく求めあって狂った犬のようになる – がなくて、とても端正でおとなしくて、ふたりの立ち姿とか画面は美しいのだが、はっきりと弱いかも。狂ったふたりがどんな演技を見せるのか、知っているだけにもったいない、しかない。
誰もが思ったであろうが、次の組合せはJosh O’ConnorとAndrew Scottになる。なってほしい。
しかしPaul Mescal、”Gladiator II” (2024)から”Hamnet”(2025)からこれ、ってもうモダンでノーマルなNormal Peopleには戻れないよね。
[theatre] Ballad Lines
1月26日、月曜日の晩、Southwark Playhouse Elephant (Elephant and Castleにあるから)で見ました。
“A Folk Musical”とあって、コンポーザーはFinn Anderson、演出はTania Azevedo。
タイトルは声に出すと”Blood Line”と読めなくもなくて、ポスターはそれに沿うかのように草や紐やワイヤーをわし摑みする拳で、ちょっと熱い。
7人の女優(シンガー)と1人の男優、バンドは3人(+裏にドラムスがひとり)、全員が手を打ち足を踏み鳴らしたりしながら歌って踊るが、West Endのミュージカルに見られる華々しく弾けて元気いっぱいのショーの要素はそんなにない。微細なハーモニーを重ねて響かせ聴かせるのに注力しているような。
カナダから連なるアパラチア山脈の南側、ウエストバージニア州、バージニア州、ケンタッキー州、テネシー州、ノースカロライナ州に移住してきたスコットランド系アイルランド人(スコッツ=アイリッシュ - アルスター系移民)の間で歌い継がれてきた音楽 – カントリーミュージックの原型になったと言われる – についてのお話し、というかその歌の背後にはどんな(女性たちの)ドラマがあったのか。
現代のNYに住むSarah (Frances McNamee)とAlix(Sydney Sainté)のカップルのところに、死に瀕したSarahの叔母Betty (Rebecca Trehearn) から箱が送られてきて、こんなのいらなんだけどどうしよう、と言いながら箱に入っていたカセットテープをかけてみると、Bettyと一緒に歌っている子供の頃のSarahの声、Bettyを経由して彼女の先祖たちの声が聞こえてくる。
17世紀初のスコットランドで牧師の妻Cait (Kirsty Findlay) は出産を望んでいなくて、そこから5世代を経た18世紀初、アイルランドのアルスターに渡っている15歳のJean (Yma Tresvalles) は子供が欲しくて逃げるようにNYに渡ろうとしている。そしていまの時代の、SarahはAlixとの間の子供が欲しくなって、Alixと一緒に病院に行って検査を受けよう、と誘っている。
いろんな事情だったりやむにやまれぬを抱えて、海を渡って国を越えて生きながらえてきたSarahの先祖 - スコッツ=アイリッシュの民、そのなかで、彼らが海を渡った背景には男女、家族、集落、それぞれの理由や事情があったはずだが、ここでは女性の、おそらく産む(産まない)自由なんて、家を出ていく自由なんてなかった、そんなふうに掟のような何かに縛られなければならなかった彼女たちの声にフォーカスして、それが歌として、複数の声として立ちあがって、最初はひとりぼっちだった鼻歌がみんなの歌に撚りあげられていく様をダイナミックに描く。
なぜ女性なのか - 彼女たちの声が正しくとりあげられ振り返られてきたとは思えないから、だし、それは歴史の捉え方も含めて今も我々の認識の底に無意識にあるように思えるから、だし、でもなにより、彼女たちの歌は美しくて正しいからだ、それなのになんで? という螺旋の問いのなかに閉じこめて、その同じ歌がそれを開け放ってくれたりする。
歌はそんなに(自分のイメージする)フォークのかんじはなくて、ところどころメジャーなスケールで聞こえて声の重なりとか感動をもたらしてくれたりもするのだが、そう来れば来るほど、現代のSarahたちとのギャップがやや気になった。Sarahのような同性婚で精子提供を受けるようなケースがぶち当たる壁、悩みや逡巡と、彼女の先祖たちの受難の話って、同じバラッドのなかで歌ってしまってよいものだろうか - どちらも痛みを伴う選択であるとしても - とか。
今公開中の映画 - “The History of Sound” (2025)も昔の歌に耳を傾ける、というのがテーマになっていたが、これってどういうことか、を少し考える。
2.03.2026
[theatre] Guess How Much I Love You?
1月24日、土曜日のマチネをRoyal Court Theatreで見ました。
同シアターの70周年を迎えるシリーズのオープニングを飾る作品。
インスタで流れてきた予告だと、男女のどたばたコメディのように見えたのだが、とても重いテーマを扱っていることをシアターに入ってから知る。場内にはContent Guidance and Warningsの張り紙がある。 確かに人によっては重いテーマかも。
原作は(俳優でもある)Luke Norris、演出はJeremy Herrin、1時間35分(休憩なし)のShe (Rosie Sheehy)とHe (Robert Aramayo)によるほぼふたり芝居。
最初は妊娠20週目の超音波検査にやってきた夫婦の会話で、ふたりはおそらく日々の会話そのままのノリで、生まれてくる子の名前について、候補を並べつつ冗談を言ったり小突きあったりしながら結果を待っている。彼はおしゃべりで陽気で、放っておくといくらでも喋っているようなタイプで、彼女はそんな彼を巧みに統御しつつ時折感情を爆発させて黙らせる、そういうパワーを持っている。 いつもそうなのであろうふたりの会話のテンポは卓球のように速く緩急自在で、喧嘩のように声を荒げることはあっても、いつもこんなだから、っていう安定感のようなものが軸にある、そんなふたり。
全体は6つのシーンから構成されていて、最初の病室からふたりだけの寝室まで、シーンごとに中の建付けはがらりと変わるが、暗いなか、その暗転と共にふたりの姿だけ、その思いだけがぽつんと浮かびあがるようなデザインになっている。
ネタバレにならざるを得ないが、テーマは若いカップルが経験する彼らの子の(思いもしなかった)死産と、その悲しみ辛さがどんなふうにやってきて、それをふたりは、ふたりでどう乗り越えるのか、等。 まったくの偶然だけど前日の晩が”I Do”という結婚式当日のドラマだったのと、この日の夕方に見た映画 - ”The Chronology of Water”にもそういうシーンが出てきたので、なんなんだこれは… に少しだけなった。
子を失った悲しみ、その表し方は男女それぞれで当然違う。それぞれがあなたには/君にはわからないだろうけど、と言いながら互いと自分の両方に向かって感情を爆発させて、どれだけ爆発させても相手に響くことはない。彼女は、これはわたしの身体のこと、このおなかで起こったことだ、前と後で自分の体は変わってしまったんだわかるか? といい、そんなのわかるわけないけど、こっちだって辛いに決まってるだろ、って命懸けの口喧嘩、みたいになって、どっちも折れない。折れたところでどうなるものでもないし、どう収拾をつけるのか、つくようなものなのかもわからない。けど、それをぶつけることができる相手は目の前の彼と彼女しかいない。
当然ながら、カップルによってその痛みの重さ、受けとめ方から立ち直りまで、それぞれだと思うものの、この舞台で描かれたふたりについては、思ってもいなかった事態に向きあい、押し寄せる怒涛の悲しみと混乱を引き受けつつもふたりの受けた痛みの重さ、その総量をダイレクトにぶつけ合い、ぶつけあうことで互いを確かめていく(しかない)過程がむき出しで生々しく描かれていて、辛いけど目を離せなかった。
どちらが正しいとか、どちらが勝つとか負けるとか、そういう話ではなく、でもぶつかって吐き出さないことには次に進めない、そんな話をシーンごとに少しずつトーンを変えて解していく。
最後、どうやって終わるのだろう、って思ったが、そうかー って。 改めてタイトルを振りかえるの。
[film] H is for Hawk (2025)
1月24日、土曜日の晩、”The Chronology of Water” (2025)を見た後にCurzon Mayfairで見ました(21:00の回、ちょっと疲れた)。
昨年のLFFでも上映されていた一本で、ドキュメンタリーではないが、実話ベースのお話し。
監督はPhilippa Lowthorpe、原作はSamuel Johnson Prize等を受賞したHelen MacDonaldの同名メモワール(2014)、脚本はEmma Donoghueと監督の共同。
”The Chronology of Water”も女性のメモワールが原作だったが、ずいぶんちがう。”The Chronology…”は父親の虐待から始まる話で、こちらは父親の突然の死から始まっている。
冒頭、Hawk(タカ)の全身/部分がクローズアップで映しだされて、そのトトロみたいに丸っこい体とその曲線とか羽根のふわふわとか、なに考えているかわからない目とか、ここだけでいいや、になる。猛禽類好きは必見。(自分はそうでもなかったが、見たら好きになった)
2007年、Helen (Claire Foy)はケンブリッジで科学史を専攻するリサーチ・フェローで、ベルリンでの招聘研究に向けた準備をしようとしていたところで、報道写真家で、大好きだった父Alisdair Macdonald (Brendan Gleeson)を突然失い、喪失状態の中、突然彼女はGoshawk(オオタカ)を飼いたい、と思い立ち、友人をつたって手に入れて、Mabel、と名付けて飼い始める。
もちろん最初はおっかなびっくりで簡単にいかなくて、食事を食べてくれないし、手に乗せてもばたばた羽ばたいて大騒ぎになるし、でも互いにだんだん近付いていって、そうなっていくのに合わせてHelenは外に出なくなり人と会わなくなっていく。それがMabelの世話によるものなのか、父の不在が改めてのしかかってきたのか、明確には語られない。ただMabelの獰猛な – でも繋がれたままの野性がHelenのどんよりとした日々に影響を与えたことはわかる。
MableがふつうにHelenの手からお肉を食べるようになると、HelenはMabelと一緒に外に出て、短い距離を飛ばして戻ってこさせたり、野に放って野ウサギやキジを捕まえたり、をするようになる。そんなふうに野生を取り戻していくMabelと、掃除もしない部屋に籠って居留守をつかうようになっていく - これも野生がもたらすなにか? - Helenのコントラスト。
鷹を抱えてキャンパスを歩くHelenに、それはEagle(ワシ)かHawk(タカ)か? って聞く人がいて、それに対して、ふたつは犬と猫くらいちがうんだよ、って返すシーンがあって、そうか犬と猫なのかー。トラとライオンくらいかと思っていたけど、随分違うのね。でもなんでタカなのか? ワシだとでっかすぎて手に負えないから?
Helenの近くにいる親友のChristina (Denise Gough)も、母(Lindsay Duncan)も籠るようになったHelenを心配して家にやってくるようになるのだが、Helen自身がタカになってしまったかのようにぴりぴりしていて抱きしめてあげることができない。主人公がタカに憑依される話、ではもちろんない(そうしてもおもしろかったかも)。なんでHelenはMabelと一緒にいるうちにああなってしまったのか、結果としてMabelはHelenに癒しを与えることができたのか、Helenはどんなふうに変わって、それはよかったのか悪かったのか、原作にはあるのかもしれないが、映画だとその辺が見えにくかったのがちょっと。動物がなにかどこかを癒してくれました、のような単純な話でないのはよいのだけど。
でもタカを腕に乗っけてちょっと浮かない顔で野道をすたすた歩いていくClaire Foyの姿はそれだけでなんだかよくて、ケンブリッジの曇った空と木と原っぱが不思議と映えているのと、タカはそんなの知ったこっちゃない、みたいな顔でいるのが素敵で。
いま絶賛公開中の”Hamnet”では、Agnes (Jessie Buckley)の飼っていたタカの死が、彼女をより家族のほうに向かわせる、そういう描写があったような。
2.01.2026
[film] The Chronology of Water (2025)
1月24日、土曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。
“Woman with a Movie Camera”というシリーズ企画のなかでのPreviewで、イントロで主演のImogen Pootsさんの挨拶があった。水泳のおかげで腹筋がたっぷりついた、とか。
原作はLidia Yuknavitch (1963- )の同名メモワールをベースとした、Kristen Stewartの初監督作。脚本は原作者と監督の共同。音楽はParis Hurley。
Lidia Yuknavitchは、水泳で奨学金を得てアメリカのオリンピックの代表候補になるほどのところまで行ったのに薬物依存などで道を断たれて、その後大学で勉強し直して作家となった。映画を見ればわかるのだが、幼時から実父による性的なそれを含む虐待に晒されつきまとわれ、妹も同様、母はアル中、という凄惨な家庭で育って、本人も死産を経験したり男を次々に変えたり逃げられたり、どこまでも荒んでいって出口らしきものがない。
しかしこの話は、そうやって人生の危機や困難を乗り越えて二の足で立つ所謂「サバイバー」としての彼女の強さを描くのではなく、タイトルにあるように中心にくるのは「水」 - 変幻自在で一箇所に一形態に留まらず、クロノロジカルな変転や総括を許さないで絶えず流れて移ろっていく水のことを描こうとしている。
歯を食いしばって耐えて泣き叫んで血だらけになったり酒や薬でらりらりになって踏みとどまる主人公の姿も、彼女を虐待したり彼女から遠ざかっていった男達も、その結果として周囲から認知される「サバイバー」の輪郭からも遠ざかるように断続的に現れる「水」のイメージ、クロノロジー。 「水に流す」「お茶を濁す」まで含めて、水と共にあることで彼女はとにかく生きる - 死なずにあることができた、ということについての映画なのだと思った。女性の強さ - 最近言われるレジリエンスや元気を貰える系、の話ではまったくない。
なので時系列もばらばらで泳いでいく、重力や支点を失って浮遊していく主人公のイメージ、血も涙も涎も体液も混ざって薄まったり広がったり澱んだりしていく水として常に溢れては流れて消えて、映画の時間もこれらの水面を眺めているうちに終わってしまうような。
監督のKristen Stewartが描こう、捕えようとしたのがこのような水のイメージなのだとしたら、それははっきりうまくいっているように思えた。2時間を超える、結構しんどいテーマを扱う作品なのに、水と水を透過して流れこむ光の、そこで歪んだり屈折したりする身体や表情の捕まえかたが、アートフィルムのようでもあるがいつまでも見ていられるし、そうあることで安易な結論に落ち着くことを許さない。人の、女の一生を勝手に簡単に総括されてたまるか、という原作者と監督の決意表明のようにも思えたり。
デビュー作でこんなものを出してきたKristen Stewartに新人らしからぬ、とかいうのは失礼も甚だしく、狼男に惚れられて吸血鬼との間に子供を産んだときから、Personal ShopperからDianaまで演じていくなかで既に形成されていった何かだったのではないか。 (だから年代記じゃないって何度言えば)
でももう”Charlie's Angels” (2019) みたいのはやってくれないのかな… (少しだけ)
Kim Gordonが一瞬出てきて、そこにいるだけで電気が流れているようにかっこいい。
最後にPJ Harveyの”Down by the Water”でも流れてくれたら最高なんだけど、と思ったがさすがにそれはなかった。
週末にダブリンに行っていて、さっき帰ってきた。
2日間で9万歩以上歩いていて、こんなの週末じゃない、って自分に文句をいった。
1.30.2026
[film] Nouvelle Vague (2025)
1月25日、日曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
本公開の1週間前なので”Preview”マークが付いていたが、ここでは1月の特集として”Ensemble: The Filmmakers from Richard Linklater’s Nouvelle Vague”というのもやっていて、”À bout de souffle” (1960) - 『勝手にしやがれ』はもちろん、元旦に見た” The 400 Blows” (1959)から2日間に分けて上映された”Out 1: Noli me tangere” (1971)まで、よい意味で教科書的に網羅していて、もちろん見たいのだけどとにかくぜんぜんまったく時間がない。
Richard Linklaterが『勝手にしやがれ』の撮影、映画を作っていく過程を通してJean-Luc Godardを中心とした”Nouvelle Vague”シーン、それを作ったCahiers du Cinéma誌の中心にいた若者たちの青春群像を描いた、ということでよいのか。昨年のカンヌに出品されて、LFFでも上映されていた。
モノクロで、主要な登場人物たちは最初にカメラを見つめるとその彼/彼女の名前が字幕でちゃんと出るし(名前が出るたびに「うぅ」とか唸るうざいじじいが必ずでるよ)、劇中では個々のやりとりもちゃんと名前を付けて呼びあうし、ご丁寧にリールの切り替えのキューマークも出るし、あの時代の若者たちや映画制作周辺の雰囲気を小学生にもわかるように伝えようとしている、ことはわかる。
誰もがお金がなかったあの時代、映画に飢えていた若者たちはどんなふうに寄り集まって自分たちで映画を撮っていったのか、という、あの時代のあれらの映画を見て、かっこいいー!って痺れた人なら取り組んでみたいテーマであり題材なのだと思う。それは稀代のならずもの集団映画、“Slacker” (1990) - 今回の特集でも再上映されている – をデビュー作で撮ったLinklaterなら猶のこと、なのかも。
Godardは新人のGuillaume Marbeckがとても小ぎれいにかわいらしく演じ、Jean-Paul BelmondoをAubry Dullinが、Jean SebergをZoey Deutchが演じているが、Godardの突飛でなにを考えているのかわからない演出に戸惑いながら役を演じる「彼ら」を演じる彼らは、なんだかとても辛そう。アドリブの演技をきちんとカバーする、って難しいことだろうし、それはこういう撮り方をしてこういうことになった、ということ(も説明されている)を知っていればわからないでもないのだろうが、ご苦労なこった、って変な心配をしてしまう。
全体にものすごく整然と綺麗に整っていて、ちょっとコミカルでおしゃれなTVドラマのようにも見えて、自分が山田宏一の『友よ映画よ、 わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』などを通して感じた絶望と貧困のなかから立ちあがってタバコの煙とヤニと男くささにまみれた(と想像する)あれこれとのギャップがありすぎるし、この違いを「冒涜」とまでは思わないものの、どこか別の世界の別の時代のなにか、と考えた方がよいのかも。 JLGがこれを見たらどう思うか – そのうちできるであろうAI JLG(もうあるのかな?)に聞いてみたい。 あと3回くらい自死したくなるのではないか。
あの時代のパリがどんなふうで、あの世界でどんな映画が作られていたのか、は今回の特集で上映されている作品群を見れば十分で、それでも今回のようにたっぷりのお金をかけてきちんと描いてみたい、伝えたい何か、ってなんなのか? がよくわからないし、きちんと伝わってくるとも思えないし。
アメリカ人だから、アメリカ人の見た/イメージする”Nouvelle Vague”像、でよいのかも、とか思わないでもないのだが、それって誰にとってどういう意味があるの? っていつもなるし。 当時と同額(現時点換算)の予算規模で、当時と同じ機材を使ってやってみる、の方がまだ伝わるものがあったのではないか、とか。
Richard Linklaterは同時期にこれも実在の人物を中心においた”Blue Moon” (2025)をリリースしていて、Ethan HawkeがLorenz Hartを演じている。これはLFFで見たのだが、こちらもなんだか微妙だった。Ethan Hawkeはすばらしかったのだが。
同様のバイオピックでだいじょうぶかなー、ってちょっと心配(っていうほどじゃないけど)なのはSam MendesのThe Beatlesのやつ。
[film] The Voice of Hind Rajab (2025)
1月24日、土曜日の昼、Curzon Bloomsburyで見ました。
作、監督はチュニジアのKaouther Ben Haniaでチュニジア/フランス映画。
Executive ProducerとしてBrad Pitt, Joaquin Phoenix, Rooney Mara, Jonathan Glazer, Alfonso Cuarón, Spike Lee, Michael Mooreらの名前が並ぶ。
昨年のヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門でプレミアされ、審査員大賞を受賞している。
まだ日本公開が決まっていないのだとしたら、こんなに恥ずかしいことはない。BBDの件といい、どこまで内輪の利益とか目線優先の幼稚な国であろうとしているのか。
事実に基づく話で、Red Crescentの人々は俳優が演じている - 一部実際の彼らも映る - が、彼らがやりとりするHindの声は彼女がかけてきた時に録音されたものをそのまま使っている。
2024年1月29日、パレスチナのRed Crescentの緊急コールセンターで電話を受けているOmar (Motaz Malhees)のところに、ドイツの男性から、いとこのHind Rajabがガザ地区のガソリンスタンドのところで車内に閉じこめられている、という通報を受けて彼女の番号に掛けてみると、背後に銃声が響くなか、6歳の彼女が出て、一緒にいる大人たちもいとこもみんな動いていない、すぐ助けに来て、という。
彼らのセンターからHindのいるところまでは40数マイル、でもガソリンスタンドから8分のところに救急車がいることがわかり、急行してもらおうとするのだが、コーディネーターのxxからは許可が出るまで動けない、動くなと言われる。これまで何人の救命士が命を落としたと思っているんだ、プロトコルには従え、と内輪で小競り合いしている間にHindとの連絡が途絶えて、でも何度か繋がり直して、でも夜になって偉い人(イスラエル軍側の許可もいるって)の承認を得るのが難しくなってくると、最後の手として、彼女の助けを求める声をソーシャルメディアにポストして拡散することをやってみる(監督もそれを聞いて映画にしようと思ったと)。
映画の予告篇は火事場から彼女を救出することができるのか? というサスペンス調で、フィクションであれば危機一髪の救出劇、に仕立てるところだろうが、これはそうではないので結果は最悪で(ネタバレ? ネタ扱いするなんて最低)、後の調査結果によると彼女が乗っていた車にはイスラエルの戦車から335発の銃弾が撃ち込まれ、彼女の遺体は6人のいとこ達のそれと共に一週間放置され、現場に向かった2人の救命士も殺されてしまった。殺されたのだ。我々は彼女たちを見殺しにした側に立っている。
こんなふうに見る人を金縛りにして感情に訴えるフィクションのような作りにしたことに対する賛否があるのはわかる。素材はあるのだから関係者の証言や時系列を重ねて整えて普通のドキュメンタリーとして作った方が、なぜこんなことが起こったのか、起こらないようにするにはどうすべきだったのか、の検証はしやすいし、それは必要なことなのかも知れない。でも今のイスラエルはそんなの聞こうともしないだろう。 それなら助けを求める彼女の声とその悲劇を前面に出して… こうしてあれだけの映画人が集まったのだし、ヴェネツィアでは上映後のスタンディングオベーション23分の記録を作ったのだそう。
でもそんなことより、彼女の他にこの2年間でイスラエルによって約20000人の子供たちが殺されて、停戦合意の後も殺され続けていて、我々はそれを救うことも手を打つこともできないままでいる、ということの重さと異様さに吐き気がする。 こんな状態のなかオスカーもBAFTAもなんの意味があるのか。やめちまえって思う。
A Grain of Sand
1月27日、火曜日の晩、Arcola theatreで見ました。
これも今のパレスチナを生きる、生きなければならない、あるいは生きることの叶わなかった子供たちの声、語りを纏めた劇。元になったのはLeila BoukarimとAsaf Luzonが纏めたブックレット”Million Kites: Testimonies and Poems from the Children of Gaza”。 ここからElias Matarが脚本を書き、Sarah Aghaが一人芝居として何人かを演じていく。
舞台は客席の一番前と繋がっている床上で客席が見下ろすかたち、真ん中に砂場のように砂が盛ってある。
中心にいるのはガザに暮らす11歳のRenadで、家族とおばあちゃんも大きな家で一緒に幸せに暮らしていたのだが、今はみんなどこかに行ってしまった。
Renadは自分のおばあちゃんがそうだったようにストーリーテラーになりたくて、おばあちゃんが語ってくれたガザの昔話のなかで、彼女は想像力の翼 – パレスチナの太古の伝説の鳥Anqaの - をひろげて、どうにか生きて、どこかに行ってしまった家族を探すことができないか、と。
Renadの話に加えて、スクリーンに名前と年齢が表示されてから、それぞれの子供たちの詩や言葉がRenadを通して語られていく。家族はどこに行っちゃったんだろう? なんで病院は(学校は、教会は)安全て聞いたのに爆撃されて燃えているんだろう? この痛みや辛さはいつかどこかに行ってくれるんだろうか?などなど。子供たちが必死で、言葉にできないなにかを言葉にしようとしていることがわかって胸が痛くなる。
それは浜辺で流されて盛られたり崩されたり遊ばれたり、いろんな意味でただの小さい砂粒なのかもしれないけど、消滅することはない、流されて消えてなくなってよいものではない。最後、背後のスクリーンに子供たちの名前がものすごい数、砂の細かさで集められ映しだされて見えなくなってしまう。Hind Rajabのかき消された声のように。絶対そうはさせないから、という意思に貫かれている舞台だった。
1.28.2026
[theatre] Dante or Die: I Do
1月23日、金曜日の晩、Malmaisson Hotelで見ました。
演劇で、主催はBarbican、劇団名がDante or Die(英国の劇団)、会場はBarbicanの裏手にあるシティーホテル。金曜日は18:15の回と20:45の回の上演があって、見たのは20:45の回。
制作はDaphna Attias + Terry O’Donovan、脚本はChloë Moss、演出はDaphna Attias、初演は2013年で、今回のロンドン公演の後は、ReadingやManchesterの同じホテルチェーンをツアーしていくらしい。
最初はどういうものかよくわからなかったのだが、ホテル(通常営業もしている)のロビーにある受付にいくと、色分けされたバラの造花一輪(自分はRoyal Blueだった)を渡されて、その色別グループの担当ガイドの人がいるグループに合流する。会場(部屋)が狭いので荷物やコートはクロークに預ける。
そうやってグループ分けされた全6組(かな?)は、ガイドの案内に従ってロビーのひとつ上の階の6つの部屋のそれぞれで展開される15分くらいのドラマを見て、次の部屋(のエピソード)に移って、を繰り返していく。部屋に入ったら演者の演技の邪魔にならない限りはどこに立ってもベッドに座ってもよいし、ドラマの進行を妨げないようにちょこちょこ自分の居場所を変える必要もあったり。全体のストーリー(的なもの)はどの部屋のどのエピソードから見てもわかるようになっている(プレイテキストを買ったら、付箋で自分の見る順番をタグしてくれた)。
Georgie (Carla Langley)とTunde (Dauda Ladejobi)の結婚式当日、式が始まる15分くらい前の各部屋の混乱や狂騒やじたばたを観客は目の当たりにしていく。見ていく順番は組によって違うが、各部屋(の演者)は式の15分前に時間を正確に合わせる必要がある(部屋の外で聞こえる掃除機や誰かの叫び声も含めタイミングは計算されている)ので、ガイドの人が部屋をノックしてそこに入るときはせーの、で全てのグループが同期をとる。終わると観客は誘導されて避難訓練や健康診断のように次の部屋の前 - ホテルの廊下に一列に並んで次のエピソードが用意されるのを待つの。
最初の部屋に入ると、半裸の老人(男)(Geof Atwell) が車椅子に座っていて、体が不自由で言葉も喋れないようなのだが、彼に服を着せたり薬を飲ませたりしている妻と思われる女性や慌しく出入りする親族らしき人の発言から彼は花嫁の祖父であるらしいことがわかる。でも彼は終始ほぼ動かず表情も変えられず、その様子を見てケアをする女性は涙ぐんでしまったり。 これも光景としてはありそうだしわかるし。
次の部屋は、洗面所の化粧台のところでベストマン(Manish Gandhi)が鏡を見ながらスピーチの練習をしていて、このエピソードはどうかな? って花婿のほうに電話でお伺いをたてると「それはなし」とか素っ気ない返事が返ってきたり、着替えをしていると列席者でゲイの恋人らしき男が現れてキスしたり、緊張とテンションでぐしゃぐしゃになっていく。
次の部屋は、入ると電話がじゃんじゃん鳴るなか花婿がパンツ一枚で天井をぼーっと眺めていて… こんなふうに部屋の散らかりよう、人物の表情と動き、部屋に駆けこんでくる人々の様子を見ただけで、そして残された時間が15分しかないことで、そういうことね… ってどんな事態になっているのかは想像・把握できる。他には昔に別れて招待されていない花嫁の実父が元妻と娘にこっそり会いに来ていたり。
ホテルは四つ星、モダンで小ぎれいなのだが、ロンドンなので部屋によってはとても小さくて、そこに10人くらいの観客が入るので結構ぱんぱんで、俳優の演技とか彼らが見ているスマホの画面まで含めてものすごく間近で見ることになるし、式の開始までに残された時間を思うと修羅場の真っ只中に居合わせていることになる、その臨場感と緊迫感はなかなかすごい。各エピソードの終わり近くには”Trainee”の名札をつけた清掃員らしき女性が現れて”Sea of Love”を小さな音で流しながら少し片づけなどをして、エピソードの合間 - 客が廊下に出ている間の彼女は時間を巻き戻すべく逆の動きをして、”Sea of Love”も逆回転で流れたり、いろいろ細かく作りこんである。
結婚式手前のこの場、この時間に他人の不幸を願ったり幸せを呪ったりする者はいない。”I Do”の一言を言う/聞くためにそこにいる誰もが自分のやり方で目の前の幸せを掴もう、掴んでもらおうとしている10数分間、だからこそこれだけのドラマが生まれて、うまくいっていない場合にはどうにか収まる兆しとか意思を見せる、その微細な瞬間を掴まえるのって、こうでもしないと難しいのかも。
そして俳優の人たちも、一回の上演で、同じ演技のセットを6回繰り返すことになるので、大変よね。
客も廊下に出て並んで入って、緊迫のドラマを見て、を繰り返すので結構疲れて、自分の回では客のひとりのひとが廊下で倒れて一時期的に全員ロビーに戻されたり、があった。(これも仕込み? って誰かが言っていたが違った)
エンディングはというと、式そのものをクライマックスとして見せてハッピーな方にはもっていかず、混沌のままで放置して解散となるのも素敵。あの登場人物たちが、それぞれの部屋で、幽霊のようにずっとああしている絵を想像したりもした。
終わって外に出たら23時を過ぎていて、うー、ってなった。
これを見る前はBFI SouthbankのDavid Lynch特集で、彼の初期の短編作品6本を見ていた。(だから疲れたのか?)
一番古いのは”Six Men Getting Sick” (1967)で、これらのって、NINと一緒にやっていた” Came Back Haunted” (2013)のテイストに近いなー、って。
1.26.2026
[theatre] Natalie Palamides: WEER
1月22日、木曜日の晩、WalthamstowのSoho Theatre – 昨年11月にJohn C. Reillyを見たとこ - で見ました。
Natalie PalamidesはLAをベースとするコメディ女優で、2017年にEdinburgh Comedy Awardsの最優秀新人賞を、2018年のひとり芝居”Nate”はEdinburgh Fringe FestivalのTotal Theatre Awardを受賞して、Netflixでも配信されたそう。
この”WEER”は、2024年のEdinburgh Fringeで上演され、A24が買い取って話題になったNYのオフ・ブロードウェイのシアター - Cherry Lane Theatreのこけら落としとしても上演された。 90’sの"one-woman romcom"ということで、このテーマなら行かないと、ってチケットを取っつ見に行ったのだが、すさまじかった。怒涛としか言いようのない90分で、終わった直後の嵐のようなスタンディングオベーションは当然かも。
会場に着くと、90’sの半端なラブソングが次々と流れていって、これだけで背筋に何かが走る。Backstreet BoysとかSpice Girlsはあたりまえ、曲名もアーティスト名もすぐには出てこないが、しょうもないPVの断片がチラついてくる方が気になって、そういうのが止まらない。舞台の奥にはチープな「1999」の板といろんな仕掛けらしきガラクタなどが散らばっている。
彼女がふたり分を演じるひとり芝居で、舞台の右手を向いている彼女の右半分は無精ひげ(口の周りをダークに塗ってる)でファッションに興味ないことがわかるチェックのシャツを着てすこしダミ声で何言っているかあまりよくわからないMarkになり、舞台の左手を向いている彼女の左半分は90’sのピンクのドレスを着たちゃきちゃきのChristinaになる。こうやってひとりコマのようにくるくる回転・反転して声を演じ分けながら90分もたせるのか、もつのか? と最初は思うのだが、これで激しい喧嘩も激しいキスもセックスもなんでもこなしてしまう。うまいとかそういうことではなくて - 腕の使い方とかよく考えたなーって思うけど、言葉にできないままエモの奔流できりきりとぶっ壊れていくカップルのじたばたや修羅場の混沌を見事に表現してしまう。
大筋は前世紀のおわり、1999年のカウントダウンを前にパーティで外出しようとしているMarkとChristinaが、彼が浮気したしない別れる別れないで喧嘩になって、でもとにかく車で外に出てみたら飛びだしてきた鹿(タイトルはDEERをもじったもの。はりぼてだけど実物大くらいの鹿)にぶつかって瀕死の重傷を負って、そしたら“1999”の右端の9がひっくり返って”1996”になり、ふたりが出会った頃からの走馬灯が回りはじめるの。
Natalieはブロードウェイで”The Notebook” - 『きみに読む物語』の舞台の雨の中のキスを見て、熱く愛しあっているふたりはどうしていつもあれこれ苦難や辛苦に見舞われて大変なことになるのか、っていう辺りからこれを思いついたらしいのだが、確かに90’sのrom-comって滑稽なほど、いろんな災難が降りかかってふたりの愛を壊したり試したりしにくるところがある。それをこれも典型的なGen Xのキャラクター設定 – ガサツですぐ熱くなるけど根は憎めない男、と過剰な思いこみであっという間に沸点に達する女、の組合せ、その切り返しのなかで描くとどうなるのか。 そんなキャラクター(の組合せ)が嵐を呼ぶのか、社会の荒波が彼らをあんなふうにしたのかしらんが、ひとこと愛してるって、ストレートに言ってキスしてハグして終わり、になる程度のことを延々遠回りして周囲を巻きこんで出口なしで繰り返していて懲りない(のはなんで?)。
客席にもちょこちょこ下りてきて浮気相手の役をやらせたり、ステージにあげて踊らせたり、右手の水溜はシャワーになったり土砂降りになったり、直立したベッドでやることなんて決まっているし、舞台でやってはいけない/でもやっちゃいそうなことはだいたい網羅して、終わりのほうはほぼパンツ一丁、右左で色模様の異なる変な動物になっていたような。 あんなこと毎日やっていて体はもつのだろうか、とか。公演が終わった後のステージ上にあれこれぶちまけられた惨状ときたらものすごいし。
90年代がどう、とかY2Kが、とか知らなくても十分に笑って楽しめる(というかこの人、1990年生まれって…)。
ただこんなふうな爆発の繰り返しのなかで見ると、改めてあの頃ってなんだったのか、になるねえ。
SohoにあるSoho Theatreでも女性(コメディアン?)によるひとり芝居、結構見たのだが、どれもみんなよく考えて練られていてすごいなー、になる。みんなどうやって思いついたり構成したりするのだろうか。
[film] Twin Peaks – original US pilot episode (1990)
1月19日、月曜日の晩、BFI SouthbankのDavid Lynch特集で見ました。
昨年の6月、”Star Wars” (1977)のオリジナル35mm版の上映で一部の話題を呼んだ作品をすべてレアなフィルムで上映する”Film on Film” Festivalのクロージングで上映され、Kyle MacLachlanとのQ&Aもあったのでチケットぜんぜん取れなかったやつ、が再び35mmフィルムで上映された。
BBC2では1990年の10月に放映され、本国アメリカでは 最初のエピソード”Northwest Passage"としてABCで同年4月に放映されたもの。日本ではWOWWOWが開局記念で放映したんだったか(この局はこういうことをしたので最初からイメージよくない)。WOWWOWも何も、当時はTVをほぼ見ていなかったので掠りもしないまま、自分にとっては今回が初めてのTwin Peaks体験となった。遅すぎ。
David LynchとMark Frostが脚本を書いて、このエピソードはDavid Lynchが監督している。
最初のパイロットで、その後のプロダクションへの出資や人気を左右する試金石となるものなので、ものすごく丁寧に慎重に作っている感じで、人気爆発後の映画版に見られるような過激な人物の登場、過剰な描写やエフェクトは抑えて、普通のアメリカの地方都市のドラマに見せようと、でもそうしようとすればするほど殊更にその異様さを炙りだし不安を煽ってしまう - ここまで計算しているのだろうが、終映後、客席ではみんな酸欠の金魚のようにため息をついて深呼吸をしていた。
そして、これを有料ケーブル放送にして金持ち層にしか見せないようにした日本の連中を改めて呪う。「サブカル」というしょうもないジャンルの囲い込みと共に文化全般の衰退と陳腐化が始まったのはこの頃からではなかったか。
Twin Peaksの町の川べりでプラスティック袋に包まれたLaura Palmer (Sheryl Lee)の死体が発見され、FBIから特別捜査官のDale Cooper (Kyle MacLachlan)がやってきて捜査を開始するのだが、両親家族も男友達も女友達も彼女の周囲にいた連中はぜんぶ怪しい。Laura自身も相当。この事件に関して、とかLauraとの関わりにおいて怪しい、というより、ふつうの人、コミュニティの一員としてなんだか捩れてておかしくて、そうやって近寄って見てみるとコンパスもそもそもの地図も狂ってくるようで、それにCooperだってなんかおかしいし、どうするのこれ? になっていく。
こうして映画のテーマは誰がLaura Palmerを殺したのか? というよりも、なんでどいつもこいつもこんなに変で怪しいのか? に集約されていくかのようで、というかそこから解きほぐしていかないと説明つきそうにないようなことがありすぎて、それは動物の行動や生態の謎を明らかにするために地層を掘って進化の謎と順番から探っていかなければならなるのと同じようなー。
そして、町の人々はそうされて然るべきの風貌と臭気をフルで装備しつつ、その異様さを自分たちの意識無意識下の夢とか糧のような形で絶えず吸収し循環(エロとグロと聖と昼と夜と)させたりしながらずっと生き永らえている。そうやって維持される出口なしの機構のことをLynchは後に、最後に”Inland Empire”と名づけたのではないか。
この後、1月21日の晩に同じLynchの特集で”Twin Peaks: Fire Walk with Me” (1992) - 『ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最期の7日間』と”Twin Peaks: The Missing Pieces” (2014)を続けて見たのだが、このUSパイロットの強さ確かさを超えるものではなかったような。俳優陣が異様に豪華だったのはおかしかったけど。
ここのエピソードって結局すべてが、最初から”Missing Pieces”なのではないか、とか。
1.24.2026
[theatre] The Playboy of the Western World
1月17日、土曜日の晩、National Theatre内のLyttelton Theatreで見ました。
宣伝のポスターを見ると、現代風の顔立ちの青年が正面を向いてどんなもんだい、みたいな顔をしていて、その背後には”Bridgerton”のNicola Coughlanがいて、それでこのタイトルなので、ちょっとこじゃれたrom-comなのかと思ったらぜんぜん違った。
原作はアイルランドのJohn Millington Synge (1871-1909) による同名戯曲(1907)、彼がW. B. Yeatsらと立ちあげたダブリンのAbbey Theatreでの初演時には劇の内容に怒った観客たちが暴動を起こしたそう(ちゃんと勉強しような)。今回の演出はAbbey Theatreの現芸術監督であるCaitríona McLaughlinによるもの。アイルランド訛りの英語がややきつかったので、次は字幕でちゃんと見たい(NTLでやる模様)。
最初、舞台には幕がかかっていて、その幕には真っ赤なスカートで力士のように大股を開いた(たぶん女性の?)下半身がでーん、と広がっていて、それがあがるとトタン屋根のある納屋のようにも見えるが、奥のほうには空と原っぱが広がっているオープンエアの酒場で、奥の原っぱをとんがり藁帽子と藁衣装を纏った楽隊が弦と太鼓でアイリッシュ民謡を奏でながらゆっくりと行進していく – 劇の節目に何度か出てくるこのイメージがとてもすてき。
舞台はアイルランドの西(タイトルの”Western World”はアメリカ、とかではなくアイルランドの西部)のメイヨー、ここのバーでメイドをしているPegeen (Nicola Coughlan)には婚約者のShawn (Marty Rea)がいるものの、飲んだくれてぐだぐだしてばかり、なんかぱっとしないのでどうしたものか、になっていたある日、Christy (Éanna Hardwicke)というひょろっとした若者が逃げるように駆け込んできて、必死の形相で父親を殺してきた、という。
村の酔っ払いダメ男ばかり見てきたPegeenも他の村娘たちにとっても、なんかすごいことをしでかした若者がきたぞ!って、妄想も含めて彼への注目と好意が高まって、Pegeenも未亡人のQuin (Siobhán McSweeney)も彼に近寄っていって、そうしていくなかで田舎の村でずっと燻っている自分たち、今とこれからについての不安や不満が前に出てくる。
他方で、逃げこんできたChristyはずっと蒼い顔でぜーぜーはーはー言ってて、でもなんだかちやほやされるので徐々にご機嫌になっていたら、頭から出血しているもののそう簡単には死ぬようには見えない父親が酒場に現れたので一同唖然として、また諍いが始まって、周囲の手前もあるので改めて父親を追っかけて対決して(この場面は見えず)今度こそやったったぜ、って戻ってくるのだが…
男性観点ではよくあるどこまでも逃れられない父性の呪縛とか悪夢を描いているように見えて、初演時の暴動は父親殺しというテーマがそもそも許せん、ということだったようなのだが、この劇で中心にくるのはChristyよりも彼に恋をしてしまうPegeenとQuinの方で、前半でろくでなしばかりに囲まれてこのままロクな恋もできずに老いていく焦りが、後半は外から少しだけ現れた希望があっけなく潰れてしまった悲嘆が描かれて、そうして擦りきれてしまったそれぞれの思いを楽隊の音楽が撫でたり転がしたりしていくの。
男のほう、俺はやったぜ!ってイキっても簡単に後で潰されたり、敵にトドメを刺したって思っても実はぜんぜん効いてなかったり、今のソーシャルでもいくらでも見ることができる間抜けの光景なので古さは感じなくて、女のほうはとにかくこういうのに騙されないようにしないと、ひとりでもどうにかできるようにしないと、という辺りだろうか。
酒場を舞台にこういう普遍的ななにかが語られて(語られるような出来事が起こって)、それが風にのって漂っていくようで、そこに静かに溜まって人を動けなくさせる、という酒場ドラマとして”The Weir”のことを思ったり。
1.23.2026
[film] 28 Years Later: The Bone Temple (2026)
1月18日、日曜日の夕方、Curzon Sohoで見ました。
終末ものとゾンビものは苦手なので、Alex Garlandの構想による最初の”28 Days Later” (2002)も次の”28 Weeks Later” (2007)も、このあいだの”28 Years Later” (2025)も見ていない、というかそんな20年に及ぶシリーズになっていて、これが4つめ、ということすらわかっていなかった。
これは予告を見て、なんかバカっぽいやつかも、って思って軽い気持ちで日曜日の夕方に行ったら、やっぱり怖くて何度か帰ろうかと思った。けど、前のを見ていなくてもどうにかなったし、怖いけど考えされられるところがいっぱいあったので、よかったと思う。
監督はDanny BoyleではなくNia DaCosta。音楽はアイスランドのHildur Guðnadóttir - 2017年にSunn O)))のサポートで見たひと。
Sir Lord Jimmy Crystal (Jack O’Connell)が率いるJimmiesっていう金髪のかつらをして全員がJimmy xxxを名乗るカルトのギャング団みたいな少年少女たちがいて、集団で民家を襲ったり、仲間内で決闘をさせたり、そうして冒頭に少年Spike (Alfie Williams)が対決を強いられて、でっかい相手の太腿を刺したらそいつは出血多量で死んじゃったり、でもSpikeはその暴力集団から抜けたくて、その様子を凶暴だけどお姉さん的なKelli (Erin Kellyman)が見守ったりしている。
山奥で白骨の神殿を築いて顔も含めて全身が赤茶色で半裸の異様な医師Dr Ian Kelson (Ralph Fiennes)は、ゴリラみたいにでっかい野良ゾンビを拾って、少しづつ治療しながら彼を”Samson”と名付けて様子を見ていくと、彼から少しづつ凶暴さが消えて、人間だった頃の記憶を少しづつ取り戻していくような。Ianは医師としてそれらの記録を録りながら、自室のレコードプレイヤーにDuran Duranをのせて"Ordinary World"や"Girls on Film"を聞いてひとり静かに舞ったりしている。
Spikeが狂ったギャング団から必死に抜け出そうとする話と、Ianが“Samson”を人間に戻そうとする話は、どちらも無理や跳躍なくクライマックスのJimmy CrystalとIanの対決へと導いていくのだが、ここでIanのレコードプレイヤーにいきなりIron Maidenの”The Number of the Beast”が乗っかって火花とともにRalph Fiennesのテンプルが立ちあがるシーンは、そこだけでも十分すごくて盛りあがる。Iron Maidenがかつてあんなにかっこよく鳴り響いたことがあっただろうか? ヴォルデモート卿なのでしょうがないのかもしれないけど、この人、こないだまでは教皇選挙なんかをやってたし、”The Choral” (2025)ではクラシックの歌の先生だったのに…
終末なんて知るかよ、という態度でふっきってきた80年代人の目線からすると、「終わり」のありようを仰々しく展開される終末モノほどうざくてうんざりのものはなかったのだが、こんなふうな変人奇人のアンサンブルとして、割と正気な側からほぼ人間じゃない動物–ゾンビまでのレンジのなかで、治癒と宗教をくっつけて語ろうとするのはとても説得力がある。そこで鳴っているのがDuran DuranとIron Maidenであるというあたりも。他にRadioheadの”Everything in Its Right Place“も挿入曲として流れたりするのだが、ふつーにはまりそうなこの曲が浮いて聞こえてくるおかしさ。(あと、Depeche Modeをもってきたこないだの”Tron: Ares”と比べてみるとか)
Spikeの子供の目、Kelliの無頼のはぐれ者の目、Jimmiesの澱んで狂った目、Ianの医師と宗教者の間を行き来する目、Samsonの治療の進行と共に変わっていく目の色、いろんな目、眼差しがドラマのなかでダイナミックに交錯していくのがよくて、これがあったので前のシリーズを見ていなくてもわかる部分があったのではないか。
そして一番最後に、もうひとつの目 - Cillian Murphyのそれが加わると空気の流れがざわーっと変わる。
機会があったら前のほうの作品も見てみる… か。
1.22.2026
[theatre] The Spy Who Came in from the Cold
1月16日、金曜日の晩、@sohoplaceで見ました。 Chichesterでの上演後、West Endに来たもの。
原作はJohn le Carréの同名小説(1963)、脚色はDavid Eldridge、演出はJeremy Herrin。
John le Carréが生前は許可しなかった自作小説の舞台化が彼の死後に実現されて、これが最初の舞台作品となる。
原作を最後に読んだのは前世紀だが、舞台化にはやはり大丈夫かな? ってなる。le Carréのスパイ小説の醍醐味 – 小さな町の小さな出来事がいろんなものを引き摺ってグローバルに転がっていく、そうして狂った世界全体を見せるスケールと、その反対側で万能でもなんでもない主人公達が苦悩し逡巡しやがて破滅的な行動に出る、背負ったものや宿命を巡る押したり引いたりの微細なせめぎ合いを舞台上できちんと表現できるとは思えなかったし。
今作に関していうと、やはりそれなりに単純化したり、George Smiley (John Ramm)をある種の(典型的なスパイの)象徴のように - 高いところにサーチライトで照らされ、無言で、銅像のように立っているだけ - 描いたりすることで、テーマである冷戦時代のスパイの過酷さ/に対する非情、など、いろんな落差も含めてある程度は表現できていたのではないか。
上演前の舞台上には自転車が無造作に転がっていて、床の上には矢印で国境の向き → UKとかが描いてある。
冷戦時代のベルリンでスパイ活動をしてきたAlec Leamas (Rory Keenan)は、部下の情報提供者が自転車で国境を跨ぐ手前で射殺され、うんざりして飲んだくれてロンドンに戻されて干されて、どん底で入った図書館で司書のLiz (Agnes O’Casey)と出会って、少しだけ上向いたようになる。
粗暴なアル中でだらしなくてゴミ溜めの底まで落ちた男が、そこで出会った女性と恋に落ちて、その恋に囚われて最後は破滅する – 恋は何かのはじまりではなく、Endを後押しし、視界を塞いで破滅に導くものでしかない、というのはle Carréのスパイ小説でも繰り返し現れる風習のようなものなので、わからなくはないのだが、舞台上の流れの中でやはりちょっとこのパートは浮きあがって見えた。
なのでこの後、終盤にかけて、Leamasに与えられた任務の入り組んだ、敵方との間で罠のように仕組まれた罠と、その必然でやってくる最後の悲劇をどう見せるか、のところも相当あっさりに見えた。じゃあ、あっさりじゃない風ってどんななのか? って考えるとどれも違うかも、になるので、この見せ方しかないのかー、って。
The Spy Who Came in From the Cold (1965)
こちらは60年前に作られた映画版。
少し前だが、昨年12月8日、月曜日の晩にBFI SouthbankのRichard Burton特集で見ました。
Richard Burtonの孫娘の方がイントロで紹介していた。
監督はMartin Ritt、脚色はPaul Dehn、Guy Trosper、撮影はOswald Morrisで、アメリカでブラックリストに入って撮れなくなったアメリカ人たちが多く参加して作ったイギリス映画でもある、と。あと、ヒロインの名前が原作から変えられてNan Perryになっているのは原作の”Liz”だとRichard Burtonの妻と混同される恐れがあったため、とか、トリヴィアがいろいろある。
モノクロで、割と原作に忠実 – であろうとしすぎてスパイ映画としてはやや複雑で暗くて難しく見えてしまう感もあるが、こういう裏とか陰がいっぱいある役をやらせるとRichard Burtonはさすがにうまいなー、しかない。うますぎてサスペンスの流れのなかで彼ひとりが浮きあがってしまう – ほんとは屑として葬られる役なのだが過剰で、かっこよすぎる。同様にヒロインのClaire Bloomもきれいすぎて、le Carréの最初のチョイスはRita Tushinghamだった、とか。
あと、Globe座にある蝋燭照明の大好きなシアター、Sam Wanamaker PlayhouseのSam Wanamakerが出演していて、この人だったのかー、って思った。アメリカ人だったのね。
1.20.2026
[film] Sotto le unvole (2025)
1月14日、水曜日の晩、ICAで見ました。
英語題は”Below the Clouds”。昨年のヴェネツィアでプレミアされてSpecial Jury Prizeを受賞したGianfranco Rosiによるナポリの町とそこに暮らす人々を3年に渡って撮影して作ったモノクロ、ナレーションも字幕もなく進んでいくドキュメンタリー作品。音楽はDaniel Blumberg。 ローマ郊外を描いた”Sacro GRA” (2013) – ランペドゥーザ島を描いた“Fire at Sea”(2016)に続くイタリアの町シリーズ。前2作は見ていないが、これはすばらしくよかった。
冒頭、タイトルはコクトーの“Vesuvius makes all the clouds in the world”から来ていることがわかり、ポンペイを灰の下に埋めてしまったヴェスヴィオ山のもと、いまも頻繁に地震が起こっている町と人々の様子を紹介していく。
市内をゆっくり走っていく電車、人のいない映画館(ロッセリーニの『イタリア旅行』がかかったり)、夜とか地震の度に緊急コールセンターにかかってくる電話(いま揺れたよね?ね? 程度でかけてくるのがすごい)、夜のコールセンター宛にかかってくるその他の電話(家人の暴力とか)、過去に墓泥棒が入って根こそぎ持っていったりしたその跡地、博物館の学芸員の活動 - というか彫刻を眺めてほれぼれする、日本から遺跡の発掘にきたチームの活動、シリアからの労働者のこれからどうする、の会話、などなど。
ナポリは近くにポンペイ遺跡があって、観光客で賑わっていて、自分も行ったことはあるが、こんななだらかな地形の穏やかそうな土の上で、突然に自分たちの築いてきたものが一瞬で灰で埋まり、家族も親族もぜんぶ亡くなる、消滅する - そういうことが起こった、地政も含めて、そういう脆く危うい脅威やリスクにずっと曝されながら暮らしてきたんだな、というのがだんだん見えてくる。ここで、モノクロの鉛のような質感のなかで描きだされる町の情景は静かで深くて、終わりの見えている閉塞感のなかにあり、どこにも動けないまま止まっているような。
日本も地震はいっぱいあるし、経済的にも安定していないので、同じような風景が見えてきてもおかしくない気がするのだが、そうならないのは家長を含めた共同体ががっちりといろいろガードして固まって異質な空気や不安を排除してしまうから、だろうか。あと、子供みたいに落ち着きなくずっとちゃかちゃか… (これはこれでいやだ)
イタリアの、ナポリの陽光溢れる陽気で華やかなイメージはまったくなくて、どちらがよい正しいとかいう話でもなく、山の上に雲がでて、それが広く町を覆っている時、その下で人々はこんなふうに生きて活動している、してきたのだよ、と。ここに年末に行ったフィレンツェとか他の町の聖堂の暗がりに浮かびあがったフレスコとかモザイクの擦りきれた影や跡 - とその彼方に広がる宇宙、噴火の火砕流で固められてしまった人々、墓泥棒がフレスコのあった壁ごと剥いでしまった石室、そしてほぼ人がいない状態で走っていく夜の電車、映画館、博物館のぼわーっと浮かびあがる - ”Below the Clouds”というかんじがすばらしい。
ナレーションや説明の入らない世界について、Frederick Wisemanの描こうとしているのが所謂「社会」であるとすると、Gianfranco Rosiの描こうとしているのはその土地を流れていく、その土地をつくってきた雲とそれができるまでの「時間」のありようなのではないか、と思った。
[theatre] When We Are Married
1月12日、月曜日の晩、Donmar Warehouseで見ました。
原作はJ. B. Priestley (1894-1984)の同名戯曲 (1934)で1943年にはLance Comfortによって同じタイトルで映画化されている。演出はTim Sheader。なかなかチケットが取れなかった。
舞台はクラシカルでゆったりとしたリビング、中央にソファがあり、端にはピアノがあり、鉢植えの植物だけ異様にでっかい。
1908年、ヨークシャーの中流階級家庭で、25年前の同じ日、同じ場所で結婚式をあげた3組の夫婦が仲良くみんなで銀婚式を祝おうと集まってくる。
ホストとなる家の家政婦は見るからに聞き耳たてる詮索好きで、記念写真を撮りにきた写真家はべろべろに酔っぱらっていて、中心の夫婦は一見まともふう、一組は夫ががみがみ内気な妻を怒鳴りつけていて、もう一組は逆に妻が夫を尻に敷いていて、そんなテーブルを囲む手前で、25年前に式を執りしきった神父が現れて、ごめん、君らの結婚ちゃんと手続きしてなかったかも、という。いやいやいや、それはとーんでもないことだしなんで今日のこの日にそんなこと言うわけ? なので聞かなかったことにしましょうか、にしようとしたのだが、家政婦が全員にばらしちゃったのでざわざわし始めて止まらなくなる。
まずは全員が体面体裁もあるので穏やかで、でもそのうちずっと尻に敷かれていた側のそれぞれの妻と夫が、おうおうそれってどういうことだよ~こういうことか? って立ちあがってこれまでの恨みも含めてとにかく散々やってくれたよなあー もう関係ないってことよね? っていきなり逆の態度で反乱を起こすし、夜の繁華街からやってきたそれっぽいレディーまで絡んできて…
結婚なんて紙切れ一枚のー というのが事実だとしたら、紙切れの拘束が解けたらこんなふうになる、なにやったっていいんだよね他人だし、というのを普遍性をもってわかりやすく描いていて、とにかくおもしろいったら。切れ目にどかどか流れるBeyoncéの”Single Ladies”なども違和感なく溶けこんでいて、俳優みんなすごくうまくて楽しいし。
戸籍とかマイナンバーとかがあると、こういうおもしろいことも起こらなくなるので、みんな気をつけようね、って。
The Rivals
1月13日、火曜日の晩、Orange Tree Theatreで見ました。
これもなかなかチケットが取れなかったやつで、テーマ的には結婚制度のばかばかしさを嗤う系のが連日偶然重なったかも。(月曜日のが事後、火曜日のが事前、というか)
原作はアイルランドの劇作家Richard Brinsley Sheridan(1751-1816)の同名戯曲 (1775)、これが彼の最初の作品だそう。ここから250年を記念した公演で、演出はTom Littler。舞台の床上には18世紀バースの古い地図が描かれている - 上の席だったので、この地図とGoogle Mapを重ねてみたけどよくわかんなかった。
舞台上にはマイクスタンドがあって、最初のアナウンスから大勢でセット(リビングからお風呂から食堂から)を置いたり組んだり、それを振付や場合によっては歌もダンスも込みの一連の動作として、目まぐるしくレビュー・ショーのように移し替えていく。囲み型の結構狭いシアターなのによくあそこまで、ちゃきちゃきと、って感心する。
そんな慌しい交錯のなかに浮かびあがる若い貴族のJack Absolute (Kit Young)が貧しいけど聡明なLydia (Zoe Brough)に恋をして、彼女を落とすべく、階級が下のBeverley軍曹になりすまして近寄っていく話と、もう一組、Jackの友人の“Faulty” Faulkland (James Sheldon)とJulia (Boadicea Ricketts)のうまくいっているのかいっていないのか一部壊れたような付き合いが進行して、息子の恋愛→結婚にやきもきするJackの父Sir Anthony (Robert Bathurst)とLydiaの後見人で叔母のMrs Malaprop (Patricia Hodge)の言い間違いなどが混乱に拍車をかけて、それぞれが思いこみも含めたいろんなライバルたちに翻弄されつつも、最後にはどうにかなる、というかなってしまう。そうさせたパワーってなんだったのかしら? というすっとぼけた、でも勢いにあふれたコメディ。
舞台とか回転しないかわりにセットを人力で目まぐるしく回転させていくせわしない演出で、それがこの劇のテーマ – 身分階級なんていいから、恋は自分で勝ちとれ、みたいなのにうまくはまっているようで、よかった。
それにしても、自分が知らないだけだし、考えてみればあたりまえなんだけど、いろんな劇作家がいてまだまだ知らないことだらけだなー、って。
[film] Moss Rose (1947)
1月6日、火曜日の晩、BFI Southbankの古いやつをアーカイブから引っ張りだす”Projecting the Archive” のシリーズで見ました。90年代にオリジナルのナイトレートから焼かれた35mmフィルムでの上映で、一般公開用の上映で使われるのは初めてのプリントだって。
主演のPeggy Cumminsの生誕100年を祝う上映でもある。Joseph H. Lewisの”Gun Crazy” (1950) - 『拳銃魔』でのぶっとんだ役が有名だが、元はイギリスの女優さんで、晩年はBFIのイベントによく来てくれたり地域のボランティアに参加したり、とても素敵な方だったそう。
「霧のロンドン」をたっぷり見せたいアメリカ映画で、監督は、俳優としてもいろいろ出ているGregory Ratoff、原作はJoseph Shearing aka Marjorie Bowenの1934年の小説。ヴィクトリア朝の頃、実際にあった事件を元にした小説。IMDBには邦題『モス・ローズ』とあるので、日本でも公開されたのかしら。
ミュージック・ホールで踊り子をしているBelle aka Rose (Peggy Cummins)が、仕事仲間のDaisyがフラットで殺されているのを発見して、亡くなる直前まで彼女と一緒にいたRoseは現場近くにいて怪しかった男Michael (Victor Mature)を追っかけて、あんたやったでしょ?あたし見たんだからね、 って脅迫してお金ではなく田舎にある彼の屋敷に滞在させてもらうことにする。
連れていかれた貴族のお屋敷と生活にはほぇーってなるものの、そこには彼を溺愛する母親(Ethel Barrymore)がいて、彼の婚約者もいるし、なにやってんだろあたし、になったりするのだが、そこに次の殺人が起こって…
現場に残されているMoss Rose(和名マツバボタン)が意味するところは、とか、肝心なところでかき乱してくる警部Clinner (Vincent Price)とか、犯罪推理モノっぽいところはあるものの、犯人捜しの建付けと謎解きはどうってことなくて、なんにでもクビを突っ込みたがりのキュートなRoseのスクリューボール・コメディのように見ることもできるかも。でも興行的には惨敗だったって..
それにしても“Gun Crazy”でめちゃくちゃぶっとばしてしまう前にこんなことを、相当度胸のあるあれだと思うが、とにかく彼女の軽くてとっぽい仏頂面などがたまらなくよいのだった。
High Treason (1929)
1月18日、日曜日の午後、BFI Southbankで見ました。
1月の特集に、”Magic Rays of Light: Early Television”という特集があって、初期のTVプログラムを集めて上映している。時間があれば見てもおもしろいだろうな、と思うものの、知識としてはなんも持っていない世界なので、見れる範囲で、くらい。
これは1950年頃の世界を舞台にしたサイレントで、トーキーの到来を意識した音声付きバージョンも作られたらしいが、今回の上映は35mmフィルム上映でピアノ伴奏がつく。なんでこれをEarly Televisionの特集でやるかというと、劇中にTV電話のようなディスプレイ機械が出てくるからで、工夫された未来描写はなかなか楽しかった。
第一次世界大戦は終わっていて、世界は"United States of Europe" vs アメリカを中心とした"Empire of the Atlantic States"のように分かれていて、このふたつが国境でのしょうもない小競合いの果てに一触即発になり、イギリス海峡の海中地下トンネル – Eurostarぽい豪華列車が走っている - が爆破されて次の大戦まであと一歩、のところでイギリスの平和連盟が動きだして… という政治サスペンスなのだが、筋書きやキャラクター造型以上に、TV通話とか、シャワー(シャワーシーンがあるの)の後の全身ドライヤー(拭いたほうがぜったい早い)とか、どうでもいいところに目が向いてしまう。
女性のぴっちりした衣装とか、Fritz Langの”Metropolis”(1927)に影響を受けたことは見ればわかるのだが、それ以上に絶対平和を唱える平和大臣(ヒロインの父)が戦争をしたくてたまらない偉ぶった大臣を撃ち殺しちゃうとか、なかなかリアルでよかったかも。全ヨーロッパ vs アメリカなんていままさに。(とにかくあのバカほんとどうにかして)
1.19.2026
[log] Athens - Corfu - Jan.08 -11 2026
1月8日の木曜日から1月11日の日曜日の晩まで、ギリシャのアテネとコルフ島に行ってきた。
あと残り3ヶ月でどこまで行けるか、を考えたとき、行ったことないとこで行けるところから行っちゃえモードになっていて – でもそういうのを「考えた」とは言わない。
まずはアテネで、ギリシャというのはヨーロッパ文明の源流みたいなとこ(あくまでイメージです)があるし、どうせ見るところなんて死ぬほどあるだろうし、アクロポリスだけでも、程度で。実際には見るところいっぱいで途方に暮れた。
細かく書いていったら終わらなくなることがこないだのイタリアのでわかったので、簡単に。
着いた日の午後はベナキ博物館とかキクラデス博物館とかを見て宿の近くを散策して終わり、アクロポリスとかの本丸(いかにも本丸ってかんじ)は、9日にまわった。アクロポリスとスロープも、少し歩いたところにあるゼウス神殿も、世界遺産だし有名な遺跡なのだが、でっかい怪獣の死骸のようにやたらでっかくて見あげるしかない。なんであんな山の上に建てるのか - 山の上だからか。 絵葉書で見るのともTVで見るのとも当然のように違って、偉い人たちは日々ここでなにをしていたのか、と。猫がいてカササギがいた。コルフでは「カカサギ」になるやつ。
遺跡以上にそれらからの出土品を集めたAcropolis MuseumとNational Archaeological Museumのふたつのてんこ盛りがとんでもなくて、特に部屋を渡っても壁を超えてもずらずらきりがなくやってくる彫刻群が圧巻で、ずっと見ていた。お寺で仏像がいっぱい並んでいるときに来る壮観さとかありがたみ、みたいのはあまりなくて、なんでこんなに - 胸像から女神から獣から家具みたいのから - いろんなのがあるのか、なにをしたい?しろというのか? など。
この後に、先日15:30で閉まっていたByzantine and Christian Museumに入って、年末のイタリア旅行も振り返りつつ、ビザンティンいいなー、って回る。あんなカサブタみたいなのばかりなのに、暗いなかに浮かんでいるだけで、素敵で。ここの庭にはみかんの木があって、人懐こいネコが2匹いるの。
10日は日帰りで、コルフ島に行った。飛行機で片道1時間、この時期は朝に一便、戻りは夜の一便のみ。
元々ギリシャに行くならコルフ島はぜったい、の決意があった。
子供の頃、市の交通標語かなんかのコンクールで当たって(当たって、じゃない)、ご褒美に図書券を貰って - 自分で稼いだ最初のお金(相当)で - 近所の本屋でジェラルド・ダレル(池沢夏樹訳)の『鳥とけものと親類たち』を買ったの。当時は動物生態学者になりたいという夢があって、そのためのお勉強をしようと思ったのだが、この本は動物は出てくるもののそういう類のではなくて、動物たちよりヒトの方がめちゃくちゃ変でおかしくて、これがきっかけでロレンス・ダレルを知り、そこからヘンリー・ミラーを知り、あとはしょうもない変態の道を転げ落ちたのだったが、その土壌となったコルフ島については、ずっと自分のBucket Listに入っていた。
ダレル家は、TVシリーズの” The Durrells”もあったので、英国人には人気で、ゆかりの地を巡るツアーもいくつかあるようだったが、いまはシーズンオフであちこち閉まっていて、小さな島なのでレンタカーして周るのがお勧め、と言われたのだが、それも無理だし、公共バスでの移動もできないことはないが、時刻表通りに動いている可能性は低い.. などなどをAIさんと話して、空港到着から4時間分、タクシーをチャーターして行きたいところに連れていって貰うことにした。AIさんはチャーターしても仲間で割れば安くなりますよ、とか言うのだったが、仲間ってなんだよ。そんなのいねえよ。
空港でタクシーの運転手の人が待っていて、Durrells知ってる? と聞いたら知らん、というので不安になったが、行き先として告げてあった場所はふつうに有名なところらしく、すいすい連れていってくれた。
アテネはよい天気だったが、コルフは雲が厚くて風が吹いてて、晴れて曇って雨が来て、まるでいつものロンドンだった。最初に東の北の海辺の彼らが住んでいた家 - The White Houseを見て(もちろん開いていないので外側だけ)、荒れた岩場の海を見てから西の方に横断して夏だったら素敵に違いなくて、ボートでいっぱいになるという入り江と砂のビーチを眺める。酔っ払った船長のせいで船がひどいことになってラリーが死にかけたとこ。
あとは風のせいか低いところでよれてぶっとく捻れ捻れたオリーブの樹のしぶとそうでかっこよいその輪郭。入り江を見渡せる高台にも登って、荒れた海と風に痺れた。海のごうごう呻くような様が昔行ったアイルランドのようだ、と思ったら運転手の人が「コルフは緑の島なんだよ」って言うのでおおー、って。
4時間なんてあっという間で、お昼頃にコルフの旧市街で降ろして貰ってから魚市場などを覗く。海が荒れていたせいかそんなに並んではいなかったが、シャコやイカタコはさすがにぴかぴか。運転手さんに教えてもらったシーフードの食堂でBourdettoっていう郷土料理をいただいた。サソリ魚などを辛めのトマトソースで煮込んだ - たしかジェラルドの本にもあったやつ。
世界遺産にもなっている旧市街は潮と風に曝された建物の色合いと寂れ具合が極上で、ダレルの世界以上にやられてしまったかも。美術館 - Byzantine Museum of Antivouniotissa - 15世紀からヴェネツィア共和国の支配下にありビザンツ帝国との交易の要でもあった - 19世紀には英国の統治下だった島なので、要塞のがっちりしたかんじとかビザンティンのコレクションは見事で、考古学博物館にも行ったのだが、お店も含めて16時前に閉まるところが殆どで、天気も回復しないし寒いしで、早めに空港に行って寝てた(空港にもなんもないし)。
空港に並んでいたコルフのお土産に金柑があって、ジャムの他に個別包装された甘露煮みたいのがあったので買ってみたら、これがほぼ和菓子のおいしさで、飛行機を待っている間に袋の半分くらい食べてしまった。
でも行ってよかったー。ちゃんとしたシーズンにまた行けたらなー。
11日の最終日は、National Gallery に行って常設展示を見て、Basil & Elise Goulandris Foundationに行って印象派を中心としたモダン・アートを見て - ずっと古代〜中世中心に浸かってきたのでなんか新鮮 - その後にその近くのLyceumに行った。野外の原っぱ - 遺跡の発掘現場なのだが、ここにアリストテレスの哲学の学校があったの。自分が初めて読んだ(気がした)哲学の本は『ニコマコス倫理学』だったので頭の奥で何かが燃えあがって、個人的にはアクロポリスより盛りあがったかも。
この後はNational Gardenをふらふらして、いろんな鳥とかヤギとか鯉とか金魚とか亀とか(ノラ?)猫とかいっぱいいるので和んだ。セントラルパーク、ハイドパークみたいな市民の憩いの場なのだと思うが、ここなら毎週来てだらだらしたい。
食べものはGreekのつくサラダもヨーグルトもとてもおいしかった。滞在していた界隈、華やかな表通りから外れると怪しげなアジア系の飲食店、レコード屋が並んでいて、緩めの坂があって、まるで前世紀末の渋谷のようだった。
ネコはちょっと気をつけていれば町角にいくらでも見つけることができて、でもイスタンブールの奴らよか人懐こくはなかった。古代からずっとああしていたんだろうな、と思わせる威厳と温度感で媚びることなく歩いていてかっこよかった。
こんなものかなー。まだあったようなー。
1.16.2026
[theatre] Indian Ink
1月5日、月曜日の晩、Hempstead Theatreで見ました。
原作は昨年11月に亡くなったTom Stoppard (1937-2025)の同名戯曲(1995)で、その元はラジオ劇の”In the Native State” (1991)だそう。当初は初演から30周年を記念して上演されるはずのものだった。 演出はJonathan Kent。
舞台の右手にはいろんな植物が植わった小屋のようなものが建っていて、左手の方にも植物はあるのだが、少し植栽が違うような、と思ったら理由は後でわかった。
1930年、エドワード朝時代のインドを旅する詩人Flora Crewe (Ruby Ashbourne Serkis)がいて、ひとり旅でも平気な奔放さと物怖じしない強さがあって、小屋 - コテージを借りて、そこで出会った地元の若い画家Nirad Das (Gavi Singh Chera)に肖像画を描いてもらいながらいろんな話をしていく。
舞台の左手は80年代の英国で、とうに亡くなったFloraの妹Eleanor Swan (Felicity Kendal)がアメリカ人の学者Eldon Pike (Donald Sage Mackay)からFloraのインドでの足跡について聞かれて話していく。30年のインド - 舞台の右手でお話しが進行しているときは、左手が少し暗くなり、でも俳優はそのままいて、スイッチが切り替わるように80年代のイギリスに移った場合も同様。 Floraは自分が話したりやったりしていることが80年代のEleanorに影響を及ぼしているなんて思っていないし、Eleanorがそんなことを話しているなんてFloraにとってはまさか、でしかない。 でもそんなふうに思いがけないかたちで時間と場所は明滅しながら繋がっている。
Niradは(当時としては)モダーンなイギリスの女性Floraにインドのラサについて教えて、それは9つあって、色彩、雰囲気、そして音階と結びついていて云々、Floraはふーん、くらいなのだが、Niradと一緒の時間を過ごしていろんなことを楽しく突っ込みあいながら話していくうちに、西洋の描き方で絵を描いているNiradとインドの陽気や空気に触れているFloraはだんだん近寄っていく。 タイトルの“Indian Ink”はエロティックな愛のラサであるShringaraを示していて、でも右手の舞台の上で話を続けていくふたりがこの後どうなったのかは示されない。
こういうことだったんじゃないか、ということが見えてくるのは80年代のEleanorの方で、でもそれも遺されたものを辿って、でしかない。FloraとNiradの間に愛は生まれたりしたのだろうか? でも確かなものはなにも、遺されていたのはNiradが描いた肖像画くらいで…
異なる人種、言葉、文化、歴史、育った環境などなどを跨いで、人はどんなふうに、どこまで近くなって恋に落ちるものなのか、そんなの人によってだし、場所によってだし、互いの思いこみであることだってあるし、でもそれでも、例えばこんなふうに恋がありえたことを描くのはできるのではないかと、二重三重のロマンチックとしか言いようのない妄想のようなものが、インドとイギリスの30年代と80年代をピンポンしながら広がっていく。植民地時代の縛りや不幸を超えて何かが見えてきそうなこれとか、80年代のMerchant Ivory (films)のようなケースを思ったり。
チェコに生まれてナチスから逃れて幼少期をインドで過ごしたTom Stoppardが90年代初、この作品の元となったラジオドラマの”In the Native State”のFlora役に当時のパートナーだったFelicity Kendalを起用し、彼女はそのまま”Indian Ink”の初演時にもFloraを演じ、今回はElenorの役で舞台に帰ってきた。彼女自身も7歳でインドに移住し、“Shakespeare Wallah” (1965) – Tom Stoppardはこの映画が好きでFelicity Kendalのためにこれ-“Indian Ink”を書いた、とプログラムにはあった。それはそうとこの映画おもしろいんだよ – に出演していて、インドに関わってきた彼女のドラマとして見てもよいと思う。
同じくTom Stoppardの生前のインタビューが載っているプログラムで、FloraのモデルはEdith Sitwellか? と聞かれて明確にNo. と返している。特にモデルはいないんだって。
[film] Hamnet (2025)
1月7日、水曜日の晩、Curzon Bloomsburyで見ました。
イギリスでの本公開日は1月9日、旅に出る予定だったので、あーあになっていたが出発の前夜にPreviewをやってくれた。
LFFでいくらがんばってもチケット取れなかった1本、でもある。
監督はChloé Zhao、原作はMaggie O’Farrellの2020年の同名小説、脚本はChloé ZhaoとMaggie O’Farrellの共同。音楽はMax Richter、撮影は”Ida” (2013)などを撮ったポーランドのLukasz Zal。ProducerにはSteven SpielbergやSam Mendesらの名前がある。
最初に”Hamnet” - ”Hamlet”という名前には互換性がある、という字幕がでる。William Shakespeareの息子Hamnetは1596年に11歳で亡くなり、Shakespeareの悲劇”Hamlet”は1599年から1601年にかけて書かれた。彼の息子の死と彼の代表作となる悲劇の間には関連があったのではないか、という想定に基づいて書かれたドラマで、あくまで想定なので学術的にどう、とかリンクや謎を明らかにしていくような話ではない。両者の間に関係はあったのかなかったのか、は横に置いて、悲劇”Hamlet”上演の背後には、William Shakespeare (Paul Mescal)と妻Agnes (Jessie Buckley)の間にはどんなドラマがあったのか、を描いてみる。ここでももちろん、ふたりの人物像、その造型は、ふたりの女性による創作である。
最初はStratford-upon-Avonの森の奥で鷹を操ってジブリのアニメの主人公のようにノラに自由奔放に生きているAgnesの姿が描かれて、その姿を見たWilliamは魅了されて近づいていく。彼は粗暴な父親(David Wilmot)の虐待とやはり強い母Mary (Emily Watson)に囲まれて家業の手袋作りをやらされていて、Agnesの鷹匠用の手袋を新しいのにしてあげるところから扉を叩いて、野生の彼女と一緒になる。
やがてAgnesは森の中で長女Susannaを出産し、続いて屋内で、難産の末に双子JudithとHamnetを出産し、演劇の仕事が当たり始めたWilliamはロンドンでの仕事が多くなるがStratford-upon-Avonに大きな家(New Place)を持つこともできて、幸せが見え始めたころ、Agnesの鷹が亡くなり、双子にペストの病が…
Judithが危篤と聞いてロンドンから馬で駆けつけたWilliamはJudithの姿を見て安堵するが、Hamnetが... 悲嘆の後、あっさり慌しくロンドンに戻ってしまったWilliamにAgnesは激怒するが、ロンドンで上演される彼の新しい芝居のチラシ – “Hamlet”を見た彼女は、弟Bartholomew (Joe Alwyn)を連れてロンドンに行ってみる。
最初の方は森のおとぎ話のように、Chloé Zhaoの過去作のように社会の柵から離れて自由に生きようとする人々を描いて謎めいていて、結婚して家族ができたところで、その幸せがあっけなく崩れ落ちて、どうして? なぜ彼が? というとてつもないエモの渦に飲みこまれる。向こう側に行ってしまうのがなぜ自分ではなく、彼なのか?亡くなるべきなのは彼ではないはず、という強い思いが劇作のHamlet”をあんなふうにした – という解釈の是非すらなぎ倒して、父は真剣に息子を蘇らせようとする。
最後のグローブ座のシーンは、ものすごく臭くなってしまう可能性もあったがぎりぎりでそうなっていない気がした。舞台の上で甦る、鏡の向こう側に転生する生を見あげるAgnesの姿は宗教画のようで、”Eternal”のようでもあった。ここでのJessie BuckleyとPaul Mescalは視線も会話も交わさないけど、彼らの演技はやっぱりすごい。物語というより俳優の映画だと思った。
Stratford-upon-Avonもグローブ座も、Shakespeareの劇も、ここ1年ずっと追いかけるように触れてきたもので、でもそういうのとは切り離して見ないと、と思っても、やっぱりこれはShakespeareのお話しなのだと思ってしまうと、この映画での彼とあれだけのいろんななんでもありの劇たちを書き散らかしていった彼とがあまりうまく繋がらなくて、もう少し勉強しようか、って思った。
後日談というかこれに続く劇、Williamと舞台でHamletを演じた彼(Noah Jupe)が恋仲になってしまってAgnesを含めて周辺パニック、というコメディはどうだろうか?
1.15.2026
[film] Menus-plaisirs - Les Troisgros (2023)
1月2日、金曜日の晩、BFI Southbankで見ました。 “Anaconda” (2025)を見た後、今年最初のドキュメンタリー作品。
1月のBFI Southbankでは、この作品のニューリリースに合わせてFrederick Wisemanの特集があって、Curzon BloomsburyのDocHouseでも小特集がある。 フランスにパートで住んでいるらしい監督本人が来てもおかしくなさそうなのに、これらの特集に顔は出さないみたい。
日本では『至福のレストラン 三ツ星トロワグロ』という邦題で既に公開されていた作品。上映時間4時間。
90年代からLa Comédie-Française、パリオペラ座、Crazy Horse等を対象に撮り始めたフランス文化シリーズの流れ、でよいのか。
ロワール地方にあるレストラン数軒 - Troisgros家が経営するビストロから高級なのまで、マーケットでの食材調達から仕込み、レシピやメニュー、ワインの検討など内部の議論から、調理の現場とそれを供するテーブルのセッティング、皿の仕上げ、客の嗜好やアレルギー対応、接客を経たあとの客の反応まで、更には食材 – はっぱ、きのこ、チーズなどを提供する農家のあれこれまで、ナレーションも字幕による説明もほぼなく、でも画面上でなにが起こっているのか、どうなったのか、は見ればわかるようになっている。
レストランのドキュメント – 特に三ツ星を獲ったりしているところの裏側などは、TVなどでいくらでも紹介されるようになっているので、だいたい何をやっているのか、どうなるのかはわかって、TVのそれと違うのは、それを食べたひとが「おいしいー」とか聞きたくもないようなことを言わないこととか、大失敗や問題が起こって解決のために偉い人がやってきてざわざわしたりの緊迫した盛りあがりもない。食べた人がテーブルで微笑んでいるシーンはあるが、何を食べてそうなったかはわからないし。すべてがそれに関わる集団作業の流れ、個々の分担作業として確立され、客を迎えて食事を終えて帰るまでが流れるようなサービスとして供され、それがどんなふうにして実現されるのかを細部まで静かに追っていく。
レストランの世界は特殊なものではなく、世界のどこにでもあって、それは監督がこれまで描いてきたいろんなビジネス、職場、裁判所、美術館、図書館、地方自治体、などと変わらない、それなりの普遍性をもった何かを追求していく世界である、ということ – でもひとつ気になったのは、これがフランスにあるフランス料理のレストランである、ということ。 指導された若いシェフが分厚いエスコフィエかなんかの料理書を見る場面があった(そんなの読んでないの?って思った)が、フランス料理の食材やソース、味付けや盛り付けに関する伝統を伝統芸的に継承してやっている側面もあって、つまり中華料理の現場とフランス料理のそれとでは、違ってくるところも多くあるはずで、それってどうして、どこからくるものなのか?というのを細かい分岐のなかで考えさせてくれる - これもまたいつものWisemanの映画なのだが。
自分の味覚の基礎は90年代のNYのフレンチ - Lutèce, Cirque, Montrachet, Chanterelle, Bouley, Danielなどで作られたので、ああーおいしそうだなーいいなー、ばかりだった。イノヴェイティブなんてジャンルも概念もなくて、ひたすらバターとクリームまみれだったけど、お腹が破裂しそうになることも多かったけど、なんだこれは、の連続だったし。でももうほとんど残っていない。あれらを味わってお腹にいれることはもうできないのかー っていうのも思った。
イギリスのフレンチは、そんなに数は行っていないのだが、やはりNYのそれとはまったく違っておもしろい。特にチーズとか、スティルトンのすごいのってめちゃくちゃすごかったし。
最近のWisemanの取りあげる世界、彼が3~4時間かけて映しだす世界って、美術館でも図書館でもバレエでも、今回のフレンチレストランでも、自分が好きなところ(逃げこむ先)ばかりなので、ここで静かに淡々とがんばっている人たちの世界に触れてしまうと、世界ってそんなに悪くない、とてもよい場所のように見えてしまう。
でも実際にはなんでこんな… って打ちのめされてばかりなのよね。
1.14.2026
[film] Anaconda (2025)
1月2日、金曜日の午後、Curzon Aldgateで見ました。
新年で、新作は見たかったのはだいたい見てしまっていて、”Avatar-“は長いからいいや、と同じ”A”始まりでこれにした。
元のアニマル・パニック・サスペンス・ホラーから随分離れて、Jack BlackとPaul Ruddが主演なので、しょうもないコメディなのだろうな、と思ったら正にそうで、でもなかなかおもしろかったかも。
Jennifer Lopez, Ice Cube, Jon Voightなどが出ていた“Anaconda” (1997)のメタ・リブートというのだそうで、”Anaconda”シリーズとしては6つめ、とのこと。監督、共同脚本はTom Gormican。
アメリカ、バッファローの凍える田舎町でウェディングビデオを撮るスタジオをやっているDoug (Jack Black)と彼の幼馴染でLAで端役ばかりのいけてない俳優をしているGriff (Paul Rudd)がいて、Dougの誕生日にGriffを含めてかつて一緒に映画を作っていた仲間たちが集まり、当時自主制作した作品のビデオを見て盛りあがり、Griffが実は”Anaconda”のリメイク権を買ったので、また一緒にやらないか、とDougを誘う。
こんな冒頭から十分に怪しいのだが、DougとGriff、撮影担当のKenny (Steve Zahn)、女優のClaire (Thandiwe Newton)はアマゾンに飛んで、現地で十分に怪しいけどヘビには詳しいSantiago (Selton Mello)を雇い、地元のやばい事件に巻き込まれているらしいAna (Daniela Melchior)を船長としてジャングルの奥地に進んでいく。
Jack BlackとPaul Ruddの競演なので、テンション高くギャグをぶちかましながら襲いかかってくるヘビとか危機とかを乗り越えていくような作品かと思ったら、あまりそういうところはなくて、ふたり共中年を過ぎて、このままでよいのか、こんな半端な作品のリメイクなんかして、自分たちはもう終わりではないか、ってうじうじうだうだ自問自答と小競り合いばかりしていて、実際の撮影の現場もあまりぱっとしないでしょうもない議論や衝突ばかりしている、と、自分たちより遥かにすごい規模と設備を携えた本物っぽい撮影チームとすれ違い、あーあ、ってなっているところでやっぱり出てきたよ(ストーリー上では本物、もちろん機械かCGであることはすぐわかる)アナコンダ、と。
ここでのアナコンダは秘境に現れる謎の驚異的な生物、というよりも、彼らが実現したい夢の象徴であり、同時に彼らの夢をばらばらにする怪物のようにも機能して、ヘビがどんなふうに襲ってくるので怖い、とか、どんなふうにこのモンスターと戦うかについては、あまり、ぜんぜんきちんと描かれていなくて、そんなんでよく現地に行って撮るな、なのだが、それでもなんだかおもしろいのは、真ん中のふたりが捨て身で必死でなにかを取り戻そうとしているから、だろうか。そういう状態になった時のPaul Ruddの輝きというのはいつも通りすばらしくて。
あと、いちおうリスペクトというのか、Ice Cubeと、ラストにあの人まで出てくるし。
Blue Velvet (1986)
1月4日、日曜日の昼、BFI IMAXで見ました。
BFI Southbankの1月の特集はDavid Lynchのレトロスペクティブ – “David Lynch: The Dreamer”で、そのうちいくつかの作品はIMAXの大画面でも上映されている。
この作品は封切りの時に渋谷のシネマライズで見て、ものすごい怖くおどろおどろしたのを想像していったら、なんだこの変態どものパレード、みたいな感触で、でもそれはそれで新鮮だった。もう少し大人になったら見えてくるものもあるのかも、って今世紀に入ってからたしかNYの映画館で見てみたのだが、変わらずよくわかんなかった。そのわからない大人の世界を覗きに行ってひどい目にあうJeffrey (Kyle MacLachlan)と彼に引っ張られるSandy (Laura Dern)も、最後までなんだったんだろう.. みたいな顔をしているし。
なんらかのよからぬコトが夜の世界、古いアパートの一室で行われている。原っぱの隅で切り取られて虫が集っているヒトの耳を見つけたJeffreyはよせばいいのに首をつっこんで、でも結局、Dorothy (Isabella Rossellini)もFrank (Dennis Hopper)も闇夜に蠢く動物として奇怪で異様で残忍なだけで、なんであんなことをしたり、あんなことになってしまったのか、1951年のタイトル曲がもつ意味なども含めてわからなくて、わかったところでなにかがどうなるというわけでもないし、というあたりをぐるぐる回っていく。
その落ちつきのないぐるぐるを一瞬で叩き潰すのが、ほぼ静止した状態でドアを開けられたあの部屋の断面 - 立っている人、座っている人 - で、あの画を目にした時、目に焼きつけられてしまった時のうわあぁーは、未だに鮮烈に残っていて、あれを見てしまったらこれ以上のことは知らなくていいや、ってドアを閉めて去るしかない。この衝撃がIMAXのサイズでやってくるの。
この後に、IMAXではないふつうのスクリーンで”Lost Highway” (1997)も見た。これも再見だったが、この作品の困ったところは内容が変すぎて、見た後に何も残らないことだろうか。まさに”Lost Highway”。時間ができたら書いてみるかも。
1.13.2026
[log] Paris - Jan.03 2026
1月3日、土曜日、日帰りでパリに行ってきたのでその備忘。
前回の日帰りが11月の終わりだったので、ほうら言わんこっちゃない、なのだがいつでもどこでも見逃しは常にあるし、寒くて動けなくなったりしたし、新年に行くのって縁起よいのかもしれないし(そんなことはない)。
1925-2025. Cent ans d’Art déco @ Musée des Arts Décoratifs
パリ装飾美術館での、1925年に開かれたパリ万博(アール・デコ博覧会とも呼ばれた)の100年を記念して1910年頃から1925年頃までの約1000点を並べた総括的な展示。アール・デコなんて結局金持ちの道楽~大衆化に向かう堕落じゃん、って、この時代のアートについて自分が見てきたのは別の、どちらかというと反対の方角のものだったのだが、そんなにきれいにジャンルとして切れるものではないし、背後に金持ちがいないアートなんてないしで、まずは見てみようかと。
個々の作家やブランド(カルチェ等)に特化していろんな側面を見せていく、というのもあるが、これらがどれだけ現代のデザインや意匠の原型や型紙のようなものを100年に渡って提供〜再生産してきたか、その艶でてかてかじっとりとした工芸のパワーを圧倒的な物量で見せつけてくるものだった。貧乏な田舎者としては、どの部屋に行っても、コーナーに寄っても、ひぇぇーしか出てこない燦然とした輝きとその迫力。その究極が展示の終わり、地上階にあったオリエント急行の客車内部の再現だろうか。これと比べたら今の飛行機のファーストクラスなんて厩でしかない、くらいの細部へのこだわりとそれが地点Aから地点Bへの列車の移動の間にだけ現れて、今はもう(まだあるのかな?) というまさに夢のような。 全体の図録は買わなかったけど、オリエント急行の冊子だけ買ってしまった。
Paul Poiret, la mode est une fête
ファッション・デザイナーPaul Poiret (1879-1944)の企画展示 - 「ファッションは饗宴である」。
コルセットを解放し、ファッション業界の近代化、ブランドを持つファッション・デザイナーとして家具から香水まであれこれど派手に(いまから見れば十分地味だけど)手掛けたマルチ・アーティストとしての側面を強調した総合的な展示で、おじさんなんでもやってきたのね、という印象が強い。沢山の彼の肖像画、彼自身の絵画などは御愛嬌。
Georges de La Tour - Entre ombre et lumière @ Musée Jacquemart-André
フレンチ・バロックの画家Georges de La Tour(1593-1652)の企画展で、ふだんあまり見れない(何かの企画展で、ひとつ出ていたりすると嬉しい)作家なので、ふつうにうれしい、けどめちゃくちゃ混んでいた。蝋燭の光が、どんなふうに聖と俗+その他を光と影のなかに対置するのか – 光は影ではないということ、特にその白め淡めの蠟燭の光が、何を照らして浮かびあがらせるのか - その何かが浮かびあがる様がそのまま絵となり、絵を描くこと、見ることの根源にある何か – 映画でも同じかも – の驚異が迫ってくるようで、それはなぜ我々は光を必要としてきた/いるのか、というところまで向かうようだった。我々の目をそのシンプルさによって光のもつ柔らかさに導くというか。絵を見るとき、闇や暗い影のところに何がいるのか、を見てしまいがちだが、それとは逆の方に目を向かわせる力があるというか。
いま丁度ロンドンのNational Galleryで”Wright of Derby: From the Shadows”という小企画展をやっていて、イギリスの画家Joseph Wright of Derby (1734-1797)のこれも光と影をどう描いたのか、を見せていて、場所も時代もジャンルもぜんぜん違うのだが、比べてみるとおもしろい。産業革命期の光と闇が作りだす劇画のように太くて力強いドラマ性 - 光があることで安堵する、というより光に照らされ浮かびあがったものを畏怖する、それらが宗教とは別のパワーやドラマによって強いられる - これってde La Tourの頃にはなかったやつかも。
Rick Owens, Temple of Love @ Palais Galliera
Rick Owens (1961- )の回顧展、というよりは”Temple of Love”というテーマに沿って彼のデザインしたファッションが祭壇上にずらっと並べられて神々しく、でもゴスというほど漆黒でグロくもなく、グレイにそびえ立つ像はなかなかかっこよい。服以外だとIggy Pop、Klaus Nomi、David Bowieのレコードジャケットがトリオで並んでいて(Iggy Popは”The Idiot”のレコードを売店で売ってた)、彼の本棚まで展示されているのだが、そこまでやるとわかりやすくなりすぎてつまんなかったかも。
Tisser, broder, sublimer. Les savoir-faire de la mode
同じPalais Gallieraでやっていた、英訳すると”Weaving, Embroidering, Embellishing, The Crafts and Trades of Fashion” - 『織り、刺繍、装飾、ファッションの工芸と交易』。
18世紀から現代までのファッション史をクラフト - 工芸のテーマ、技術・技法の観点から因数分解して振り返ってみよう、という展示で、完成された服や装飾品も並んでいるが、それらがそうなっていく過程や経緯がわかる、イメージできる形に並べてあり、これらはみんなパリがThe Crafts and Tradesの集積地であったから浮かびあがった何か、なのだろうか。
自分がこういう技術に触れただけですべてを一瞬で破壊してしまう不器用の鬼だからか、こういう世界には憧れしかなくて、釘付け頻度がすごくて、いようと思えば3時間くらいいられたかも。職人の技、すごいんだから、みたいな展示にしていないところが却って凄みを感じさせたり。
この後はGaleries Lafayetteに行ってクリスマスの飾りを見て、食材売り場で悩んで、でも買うのはやめて、いつものLa Grande Épicerie de Parisに移動して、チェリーとかイチジクとかお菓子いろいろと、帰りの電車で食べるバゲットサンドなどを買って帰った。
あーあと何回行けるだろうかー。
[theatre] Ballet Shoes
1月1日、元旦の晩、National TheatreのOlivier Theatreで見ました。さすがに満員御礼ではなかったけど、十分に埋まっていた。
これの前には隣のBFI Southbankで『大人は判ってくれない』を見て、続けて”All About Eve” (1950)を見て、『大人は.. 』はいつもの、でよいのだが、”All About Eve”に充満するどろどろに改めてやられて - ずっとげらげら笑っている人が何人もいたんだけど、そういうもの? - これで新たな年が始まってしまうのは… にちょっとなったので、それだけでも。
Noel Streatfeildによる子供向け同名小説 (1936)をKendall Feaverが脚色し、Katy Ruddが演出している。
2025年の初めにNational Theatreの別のシアターで上演していた作品で、評判がよかったからか、子供向けとしてクリスマス〜年越しによいと思ったのか、シアター内の宣伝飾りも力が入っていて、プログラムにはクイズや切り絵がついていたり、でもそんなに子供向けでも、ホリデイ向けでもなかったような。
開演前に座席への案内をしたりする係の(制服を着た)人たちが、あちこちの客席を回って簡単なストレッチとかエクササイズみたいなことをして、はーいみんなよくできましたぱちぱち、とかやってて、ちょっと苦手だなやだな、と思っていたら自分の両隣りの人達がそういうのには乗らない、っていう態度だったので助かった。
舞台は中央手前に恐竜かなにかのでっかい頭の骨が置いてあり、背面にはナチュラル・ヒストリー系の骨格標本や剥製などが、上から下までびっちりと積みあがっていて壮観で、これをここの大きなステージで組んでみたかった、というのはわかる。かっこいいし。
時は1930年代、お屋敷はChelseaのCromwell Road(昔、南方熊楠もあの辺にいたはず)にあって、その標本たちを世界中から集めてきたのは、古生物学者のMatthew、通称Gum (Justin Salinger)で、世界の辺境に行って、研究対象の古生物系に加えて現地で身寄りのない女の子を保護して一緒に連れてきて養子として迎えて、こうしてできあがった3人姉妹のPauline (Nina Cassells)、Petrova (Sienna Arif-Knights)、Posy (Scarlett Monahan)、彼女たちを束ねてほぼ母親として世話する婆やのNana (Lesley Nicol)、Gumの姪として最初に家にやってきたお姉さん的な役割のSylvia (Anoushka Lucas) 、大家族でばらばらだったり力を合わせたりしながらの日々を追う(でもGumはほぼ家にいなくて、最後にやあやあって現れてどうした? って虫がよすぎない?)
でも生活が苦しいので、下宿屋をやろう、って元気で華やかなダンスの先生とか、自動車整備工のひととか、いかにもで厳しそうな英文学教授などが同じ屋根の下にやってくると、3人の少女たちは彼らの影響をもろにひっ被って将来なりたい自分たちを意識し始めて、みんなそれぞれ楽しそうだからいいけど、いいのか。
やがて、それでもやっぱりお金がなくなって家を売らなければならなくなって、娘たちが力を合わせてどうにかするところでPosyのやってきたバレエの話になり、バレエそのものはよいのだけど、そういうふうに出してくるのかー、って。
(家族ではないけど)家族的な繋がりの中で結ばれた彼女たちの苦難と歓び(労働の苦役の話はない)、他者を受け容れるということ、一緒にやっていくこと、そうして流れてきた時間、それをずっと見守ってきたみんなの家、その家がなくなる、というときに、救ってくれるのは例えばこんな… っていうめくるめくファンタジー - 子供たちにとっては特に - に近いお話しだと思った。古生物の世界を追って旅を続けるGumの情熱、Posyのロシアのダンスの先生の輝ける過去の栄光のことなど、子供たちの反対側にいる大人たちのファンタジーも物語に深みをもたらしている。
話の転がし方はおもしろく、役柄も多彩でばらけていて、みんな元気にめでたしめでたしよかったね、なのだがでもやっぱり、こうなってしまった原因を作ったのは採集旅行ばかり行って不在にしていたGumなんだから、あったもっと反省してなんかやりなさいよ、サンタさんはいないんだよ、って思ってしまうのだった。 彼がサラリーマンだったら許されなかったに決まってる。- と、汚れて歪んだ大人が見たらこうなってしまうのかも。
1.07.2026
[film] Marty Supreme (2025)
12月31日、大みそかの夕方、Curzon Sohoで見ました。 これが2025年最後に見た映画。
年末はいつも怖めのホラーとかを見ていたのだが、今年は適当なのがなくて、これを年明けに見るのはなんか違うかも、程度で。
監督はJosh Safdie、実在した卓球プレイヤーMarty “The Needle” Reismanの話にインスパイアされて、Ronald Bronsteinと監督が共同で脚本を書いて、すばらしいProduction Designは多くのTerrence Marick作品を手掛けたJack Fisk。音楽はDaniel Lopatin - Oneohtrix Point Never。Timothée Chalamet自身もプロデュースに関わったA24作品。 149分、ずっとスクリューボールで振り回され続ける卓球ゲームのような。
冒頭、なにも映っていない画面にTears for Fearsの”Change”のあのイントロが流れる。(イントロがこれだとエンディングはあれではないか、と思ったらあたった) 以降、舞台は50年代なのに80年代の音楽の断片 –サビではなく絶妙に切り取られた断片 – がちょこちょこ流れてくるので気が散ってしょうがなかった。(誰の趣味だろ?)
1952年のNY、ユダヤ人のMarty (Timothée Chalamet)はメガネにチョビ髭で、そのままだと「~ざんす」とか言いそうで、親戚の靴屋で働きながら、既婚のRachel (Odessa A’zion)と関係をもちつつ、卓球で世界制覇することを夢みていて、実際に卓球は強いようで曲芸みたいなプレーで勝ちあがって、ロンドンでの世界大会に向かう。
ロンドンにやってきた彼は順調に勝ちあがっていくのだが、同様に不気味なサーブで敵を寄せ付けないのが日本人選手のEndo (Koto Kawaguchi)で、決勝でMartyは彼に惨敗して、この辺りからケチがつきはじめて止まらなくなっていく。
ロンドンで見かけたセレブ女優のKay Stone (Gwyneth Paltrow)に一目惚れして追いかけて、でも彼女はペン会社の社長Milton (Kevin O’Leary)の妻で、Kayと付きあいたい、日本に行ってEndoと再戦したい、でもその反対側で、妊娠したRachelはお腹の子の父親はMartyだと言ってくるし、自分の家からは追いだされるし、唯一スポンサーになってくれそうなMiltonからは屈辱的なオファーを受けるし、どんな球を打ち返しても必ず返されて棒立ちで居場所もなくなっていく。 誰が、どっちが悪いとか、反省するのかしないのか、とかそういうのをすっとばして、とにかく目の前の事態、飛んでくる球を打ち返しつつジェットコースターで逃げていくのが精一杯で疲弊してぼろぼろになっていく。 “Marty Supreme”っていうのはMartyが考えて特許申請したいと思っていたオレンジ色のピンポン球のことなのだが、最後のほうのやけくそで、これらのSupremeがぜんぶ...
“Good Time” (2017)にも”Uncut Gems” (2019)にもあった、ユダヤ人の主人公によるどこを走っているのか、どこに連れていかれるのかわからない闇の怖さがひたひたずっと畳みかけるように襲ってきて、画面はずっと暗めで湿っている。だれが卓球起因でこんなことになるって思うだろうか。
本来のスポーツドラマであれば、日本での宿敵Endoとの対決がクライマックスになるのだろうし、実際そうなるものの、何ひとつ安心できないし、ずっと反復横跳びを繰り返していくような疲労感がずっと残って、これはスポーツドラマではないのかも。なんで卓球なのか、なんでチョビ髭なのか、なんの説明もないし、主人公の行動は明らかにちんぴらのそれで思い入れできるものではなくて、でもとにかく球を追っかけていく。
卓球のアクロバットもお尻も、Timothée Chalametは安定して見事で、こっちの方を”A Complete Unknown”と呼んでもよかったのかも、とか。
日本のあの応援(チャチャチャ)ってやっぱり恥ずかしいよね。子供の頃からずっと思っていたけど。
どうでもよいことだが、ロンドンの場面でMiltonがHatchards(本屋)でサイン会があって、と言う場面があって、丁度そのHatchardsに寄ってから映画館に来たので、おおーすれ違ったよ、って。
明日からギリシャのアテネとコルフ島に行ってきます。(ほぼやけくそ)
[theatre] Petty Men
12月18日、木曜日の晩、Acola TheatreのStudio2(たぶん小さい方)で見ました。
初めて行ったシアターだったが、これまで何度も通っていたライブ小屋Café OTOの隣なのだった。
殺風景な物置きのようなだだっ広い楽屋 – 萎れた花とか、小さいギターアンプとギター、上には字幕のスクリーンがあって、台詞が流れていく。そこにアンダースタディの二人の俳優がやってきて着替えて支度をする。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』 (1599)のウェスト・エンド公演で、この日は公演100回めを数えて、そこそこ成功しているらしい。Caesar役は大物俳優(けど嫌なやつ)がやっていて、暗殺者となるBrutusとCassiusのアンダースタディ(控え)のふたり - Brutus (John Chisham)とCassius (Adam Goodbody) - 劇の役名がそのまま - にはまだ出番が来たことはなく、でもスタンバイはしておかなければならない。
ふたりのうち、真面目そうなCassiusは準備体操をしっかりやって、日々やっているらしい台詞の暗唱(Brutusがチャプターかなにかの番号をランダムにいうとその箇所の台詞を機械のように喋る。すごい)をやって、万が一の出番が来た時に備えるのに対して、Brutusの方はぶらぶらつまんねー、というかんじでおもむろにギターをかき鳴らしたり紅茶にウイスキーを入れて飲んだりしている。ふたりの沈黙の合間にはシアターの方の劇の開始を告げるアナウンスが聞こえてきたりする。
待ちながらのぐだぐだをやりすごしていって、決して出番はやってこない – その時間のありようは『ゴドーを待ちながら』のようでもあり、シーザー暗殺のタイミングをねらう元の劇そのもののようでもある。
そのうちシアターの方からなにかざわざわ聞こえてきて、どうやらCassius役の人が倒れてしまったらしく、シアターからも指名が入る。ついにこの時が来たか、とCassiusは出番が来たスポーツ選手のように出ていくのだが…
こんなバックステージのありふれた光景を描いて、それでも/だから芝居はすばらしい!ってやるのではなく、なんかしょうもない時間とリソースの無駄で変すぎる… みたいな目線がおもしろいと思った。
Cassius役のAdam Goodbodyが設立したBuzz Studioの最初の公演で、脚本はJohn Chisham, Júlia Levai, Adam Goodbodyの共同、演出はJúlia Levai。本作はAdam Goodbodyの叔母、RSC初の女性演出家でStratford-upon-AvonにThe Other Placeというシアターを立ちあげてフリンジや実験演劇の先駆けをつくり - Patrick StewartもCharles Danceもここから出てきた - イギリス演劇界の性差別とも戦ったBuzz Goodbody (1946-1975)に捧げられている。
The Importance of Being Earnest
12月31日、水曜日のマチネ(これが2025年の終わり公演)をNoël Coward Theatreで見ました。
2024年の終わりにNational TheatreでやっていたMax Webster演出によるプロダクションを、キャストの一部を変え - Algernon役がNcuti GatwaからOlly Alexanderに、Lady BracknellをStephen Fry(え?)が演じている。
舞台はNational Theatreの時より幅も奥行きもやや狭くなって、その分全体のちゃきちゃきしたやかましさ、かしましさは増大したかんじで、そこにOlly Alexanderのおきゃんな魅力が炸裂して楽しくて、でもその上に鯨のようにばしゃーんて覆いかぶさってくるStephen Fryがぜんぶ持っていくような。 前のバージョンの舞台は華麗でゴージャスで貴族ぽいチャームに溢れていたが、こんどのは下町喜劇のごちゃごちゃが前面に出ていてたまんない。”Earnest”というただの名前をめぐるGwendolen (Kitty Hawthorne)とCecily (Jessica Whitehurst)のばちばちの掛け合いもたまらなくおかしいし。
Oscar Wildeぽさ、でいうと前のプロダクションの方なのかもしれないが、これもありなのでは、って垂れ流される下世話なかんじもよくて、でもどっちもおもしろいから。
日本人だったら誰もがマツコ・デラックスを思い浮かべるに違いないStephen Fryは、現れるだけで歓声が湧いてくる貫禄で楽しくて、前に”All My Son”を見終わってシアターを出たら、隣のシアターで終演後に外で待っていたファンと一緒に写真を撮ったり楽しそうにわいわいしてて、よい人なんだなー、と思った。
これもNTLにして、2本を一気にみて舞台のピンクに染まってみたい。
1.06.2026
[film] Train Dreams (2025)
12月23日、火曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
原作はDenis Johnsonの同名中編小説(2011 - 初出はThe Paris Review誌で2002年)、監督はClint Bentley。 2025年のSundanceでプレミアされて、Netflixなので日本でも見れている?
20世紀の初め、アイダホの山中に木こりのRobert Grainier (Joel Edgerton)がいて、寡黙でひたすら森のなかで木を切って倒して当時真っ盛りだった鉄道事業の開発に関わっているのだが、現場で仲間が中国人労働者に対する差別と暴行(突き落として殺す)を目にして、それ - 中国人の幽霊のような - がトラウマのように何度も出てくる(原作では彼が差別に加担した描写もあるそう)。
仕事の様子は差別のパートを除いても過酷で、爆発物を扱うArn (William H. Macy)とかお喋りなFrank (Paul Schneider)とか、印象に残る仕事仲間も出てくるが、みんなころころ落ちたり簡単に亡くなったりしてて、墓のかわりに木の幹に彼らの靴がぶら下げられるだけで次の現場に移っていく。これらの流れや経緯については、主人公は喋らないのでナレーターのWill Pattonがゆっくり訥々と語っていく。音楽はBryce Dessnerで、終わりの方でNick Cave & Bryce Dessnerによる挿入歌が流れる。
やがてRobertは美しいGladys (Felicity Jones)と出会って冗談のように夢のような恋におちて、何度か仕事の旅で離れては戻り、を繰り返していくうち、小川のほとりに一軒家が建って、一人娘が生まれて、家族といるときはとても幸せそうで、家族から離れて仕事をしている時はとても辛そうで、でも家族のためには仕事をするしかないのでひたすら働いて家に戻ろうとする。
しかしそのうち大きな山火事で家族を失うと、彼の悲しみの底が抜けて、この辺から監督自身も認めているし崇拝しているというTerrence Malickそっくりの、宙に浮いたような画面になるの。いつも微笑んでいてこちらに手を振ったり手を差し伸べてくるもういない、手の届かない彼女たちの、家族の像、キスして抱擁する像。それはいつも、いつまでも美しく弧を描いて彼のまわりにあって、そうでしょうとも、としか言いようがないのだが、見ている方はどうしたものか、に少しなる。
思い出の中ではすべてが美しい。失われてしまった、二度と戻ってこないものであれば猶更、Robertのように転々と場所を移動し、放浪のなかで仕事をして稼ぐしかなかった男にとっては、というのはその通りなのだろうが、そこにただでさえくどく残るTerrence Malickの光景はやはりどうも… で、でもRobertはずっとそのまま、アポロの月着陸の頃まで生きたのだ、ってなると彼にとってのGladysの像はほぼ信仰の対象のようになっていたのだろうな、って。
Joel Edgertonの黙ってずっとそこにいて、ただただ切ったり運んだりをしているだけの、少しだけ一緒にいた家族をひたすら愛しただけの、長く伸びたレールの上をまっすぐ走っていくしかなかった人生が、最後の最期に、いきなり飛行機に乗るところまでくる。TrainからAirplaneへ。 飛行機の上、レールなんて関係ない、上下の感覚が失われる状態を通して、彼はようやくGladysを。
邦画がこういう映画でぜったいにぶっこまないと気が済まない「幸せ」みたいなのを微塵も感じさせないJoel Edgertonの熊みたいな仏頂面がただよくて、彼でなければ成り立たない話だったかも。
ぜんぜん、真逆といってよいくらい違うタイプの人と映画ではあるが、“The Life of Chuck” (2024)で描かれたChuck (Tom Hiddleston)の生涯のことを少し思った。 自分とひとつの家の内側にすべてを反転させて抱えこみ、その周縁を軽やかにステップを踏みつつ駆け抜けていったChuckの一生。おなじ宇宙でも、おなじアメリカの近代でもこうも違ってくるものかと。
ヴェネズエラのカラカスは90年代に仕事で行ったことがある。とても綺麗な街だった。ブッシュも相当バカだと思ったが今度のはあまりに酷すぎて恐ろしい。あんなことが許されてはいけない。
1.04.2026
[log] Firenze, Arezzo, Siena, Ravenna
12月26日の金曜日から30日の火曜日まで、フィレンツェ & その他に行っていた、その備忘。
フィレンツェは2018年のクリスマスの後にもほぼ同じ日程で行っていて、この時にはミラノも少し混ぜていたので改めてもっとフィレンツェを、と思ったのだが、アレッツォ、シエナ、ラヴェンナを突っこんでしまったので結果的には薄まってしまったかも。
子供の頃からなんでか惹かれていたイギリスやヨーロッパの音楽とか美術とか小説とかの背後に見え隠れするキリスト教というものについて、サルトルから入ってしまったので洗礼こそ受けなかったものの大学はそれ系のに入って学んでいくとその広がりはとてつもないものであることがわかり、それが最初の英国駐在で少し再び燃え広がって、行った先々に寺院や聖堂があれば入ったりするようになり、これではないか、と思ったのが昨年の(MET →)National Galleryでの企画展示 - “Siena: The Rise of Painting, 1300 ‒1350”で、やっぱり現地に行って見たいかも、になった。丁度Beato Angelicoの2箇所を使った大規模な展覧会もあることだし。
以下、細かく書いていったら終わらないのでポイントだけ。
フィレンツェに着いた日は前回見ていなかったSanta Maria Novellaを見てから夕方にUffizi Galleriesに行って、ものすごい混雑のなかひと通り見て、セットで買っていたCorridoio Vasarianoに行ったらもう時間切れでCloseしましたごめんね、と言われて泣いた。あのびっちりの混雑をどうにかしてほしい。ルーブルよか酷い。Vasarianoは次回。
Beato Angelico
27日の午前はPalazzo Strozziでの展示で、まあすごかったこと。
昔からこの人の絵を前にしたときに襲ってくる至福感がなんなのか、よくわからなかったのだがこうして纏めて見せられると、天使が特に微笑んだりしているわけでもないのに何かを訴えてくる - 彼がSNSをやっていたら❤️をばちばちに飛ばして来そうなチャームがあり、それが僧でもあったこの人の技術(徳)として練り込まれていたのだろうな、と思った。なにを見ても拝みたくなる、というより祝福されている感が先にきて絵の前で手をあわせてしまう。
今回、有名な『受胎告知』等、移動不可の作品はもうひとつの展示会場 - もともとの置き場所 - Museo di San Marcoでやっていて、でもそちらのチケットは既に一杯で、この予約をなんとかメジャーなツアー会社経由でゲットして、29日の朝8:30に門前に行ったら時間になっても開くかんじがなくて、同じように待っていた人から、月曜日は休みってあるねえ.. って言われてみれば確かにそうで、後でツアー会社には文句言って返金して貰い、でもこの程度で諦められるわけないので、最終日30日の朝に行って並んだら割と簡単に入れた。
ここは2018年にも来ていたのだが、『受胎告知』の他の展示あるし、『受胎告知』は何度見てもすごいのでじっくりと見る。最後に、やはり図録は買うしかないか、になったのだがかなり重くて€80って。でもこれ、印刷がすごくよくて、開いているだけでありがたみが湧いてくるのでぜんぜん損しないよ(… 勧誘か)。
27日のお昼は、ドゥオモの前の洗礼堂のモザイク修復サイトのツアーというのに参加して、普段は修復工事している現場に土曜日だから入れてもらい、ヘルメットを被って工事用の足場を伝って(写真撮影不可)、修復しているモザイクの壁を前にいろいろ教わった。モザイクはどういう素材でできていてどこから来て、2029年頃に終わる予定の修復が日々どんなふうに行われているのか、などなど。タイルの総数は約10mil、総修復費用も約€10mil。どれだけ大変な作業であるかはよくわかったが、それよりもこんなものを創りあげて後に遺してくれた昔の人達だよね、という感覚はこの後もずっと。
Arezzo
27日の午後は電車でArezzoに行った。目的はGiorgio Vasariの家 - Casa VasariとBasilica di San Francesco。Casa Vasariはフィレンツェにもあって、こちらは個人向けの公開はしていなくて不定期に開催されるツアーに入るしかなくて、それが29日にあったので窓口の人とコンタクトはしていた - 結局時間割りが無理で諦めたので次回に。
Piero della Francescaの描いたBasilica di San Francescoのフレスコ画は褪せた色まで込みのコントラストが圧倒的で、色同士の境界と褪せて面が消えていくとこも含めすべてが動き出しそうな構図に溢れていてたまらない。どうやって描いていったのか、その形跡を辿れない魔法をかけられたかのように全体が浮かびあがってシュールリアリズムの絵のように見えた。こないだNational Galleryでやっていた”The Baptism of Christ”(1437-1445)とDavid Hockneyの繋がりのこととか。
本当はこの後、Piero della Francescaの故郷のSansepolcro - 市立美術館にいくつかある - にも行ってみたかったのだが、電車の本数がなくて開館時間中に辿り着けないことがわかって諦めた。これも次な。
Pisa
28日の日曜日は、朝からSienaに向かうはずで、8:00発のバスを予約していた。トラムに乗ってフィレンツェの中心から少し離れたところにあるバスターミナルに8:00少し前に着いたら、そこにいたバスは1台だけで、人々はそこに群れていて、運転手らしきおじさんにこれシエナに行く? と聞いたら行くよ、というので乗って出発して暫くしてmapを開いたらどう見てもぜんぜん違う方角に向かっているので、どこに向かっているの? と聞いたらPisaであると。そんなの知らない聞いてない。
というわけで、旅の計画段階では一応候補に入っていた(最終的にここではなくArezzoを選んだ)Pisaで降ろされて、ものすごーく頭にきていたのだが、目の前のPisaの斜塔は本当に傾いてて、ほーらこんな斜めになっても立ってるんだよー、ってご機嫌をなおしてくれた。あんなんで倒れないってすごい。勿論ついでに大聖堂とサン・ジョヴァンニ洗礼堂には入ってみた。
PisaからSienaはバスで鉄道の駅まで行って、直行でいく電車はなかったので1回乗り換えて12時過ぎに着いて、そこから更にバスでいろんな史跡があるエリアに向かう - これくらいルートとしては面倒くさいのでバスを予約したのにばかばかばか(って誰に)。
Siena
バスを降りて大聖堂の方に向かうところからそこは既に起伏たっぷり中世の城塞都市で、途端にご機嫌なおる。このような坂とか段々とか壁とか屋根の見晴らしの中でシエナ展にあったような絵たちが祈りと共に立ちあがって神のような獣のような丸みとでこぼこをもったあれらを形作っていったのだな、というのが見えてくるようで、そしてその中心に建っていた大聖堂はやはりすばらしかった。すべてを支える本丸としてある、というより宇宙の網目の一部の、見えない真ん中付近にあって隅々まで照らしている、というか。あと、大理石の敷石に彫られた絵? が素敵で、それについての本を買ってしまった。
日曜日のせいか早く閉まってしまう施設もあり、見れなかったところもあったが、大聖堂の一部の美術館の収蔵品は充実していていくらでも見ていられた。
ここは朝から晩まで過ごすことで見えてくるものもあるに違いない、と思ったので、次は満月の晩とかに行ってみたいな。
Ravenna
29日、月曜日の朝は先に書いたようにSan MarcoのBeato Angelicoでいきなり打撃をくらって、気を取り直してRavennaに向かうべく電車の駅に向かったら電光掲示板の遅延表示が大変なことになっていて、Roma行きのなんて130分の遅れとか出ていて、それってもうキャンセルではないのか、なのだがみんな割と平気な顔してて、確かにヨーロッパの鉄道圏ではこんなの屁でもないのだが、自分の乗るボローニャに行くやつも25分遅れででて、やっぱり乗り継ぎに失敗して1時間以上ロスした。無理して走れば間に合ったのかも知れないのだが、昨年行ったボローニャの駅の複雑怪奇な構造を走り回っているうちに思い出してこんなに毎日宗教画を見て聖堂でお祈りしているのになんのバチでしょうか神様? ってなった。
Ravennaは初心者なので5箇所を回れるRavenna Mosaics Passというのにして、それに従って歩いて回った。ここ以外のは年末の月曜日で閉まっているところが殆どだったが、半日間なので丁度よかったかも。
前々日にモザイクについて少しだけレクチャーを受けていたのですごいものであろうことは覚悟していったのだが、やはりBasilica of San Vitaleとその横のMausoleo di Galla Placidiaのスケールと強度は度肝で、上を見あげた途端にうわぁぁー(これはなんだ?)になる。部分は全体であり全体は部分である、という万物のありようについての素朴な、であるが故に打ち破れない強固な意思(世界観というよりは意思)が宇宙をまるごと貫いて実現されて、そんな宇宙が外から見れば茶色の地味な建物の内部で炸裂して数世紀に渡って膨張を続けていて、どんなプロジェクション・アートもこのフィジカルの前ではクズだな、って思った。
あと、ここにはダンテのお墓と、バイロン卿が住んでいたところがあり、ダンテ博物館は閉まっていたが一応お祈りしておいた(なにを?)。
30日、火曜日の出発の日は、San MarcoでのBeato Angelico展を見るために早めに並んで、その後はロレンツォ・メディチ図書館を見て、やっぱりもっと見たいかも、と橋を渡ってPalatine Galleryに並んでRaphaelを拝んで、おわり。
食べ物関係は今回まったくどうでもなんでもよくて、Tagliatelle → Spaghetti → burger → Pizza → Pici → burger → Fettuccine → risotto など。時間なさすぎて持っていったビスケットでしのいだり。もったいないー、って思わないでもなかったが、優先順位で。だってどこに入ったって外れないんだもの。
寒かったけど寒さは感じなかった。また行きたいな。行けますようにー。
1.03.2026
[film] Sentimental Value (2025)
12月24日、クリスマス・イブの水曜日の晩、Curzon Sohoで見ました。
監督は”The Worst Person in the World” (2021)のJoachim Trierで、脚本も同作と同じくEskil Vogtとの共同、主演のRenate Reinsveも同じく。
昨年のカンヌでプレミアされてグランプリを受賞して、来年のオスカーの外国語映画賞にもノルウェー代表でエントリーされている。
高名だけどキャリアとしては下がりめ、と周囲から見られている映画監督のGustav Borg (Stellan Skarsgård)が妻でサイコセラピストのSisselと暮らした一軒家がオスロにあり、Sisselが娘たちを育てて亡くなった後、Gustavはここを出ていって、今は次女のAgnes (Inga Ibsdotter Lilleaas)が夫と息子とそこに住んでいて、長女のNora (Renate Reinsve)は有名な舞台女優になっているが、冒頭では本番前に舞台恐怖症になっていたり、既婚の男性Jakobと関係を持ったり、不安定ながらどうにか乗り切ったりしている。
母への虐待を間近で見てきたNoraにとってGustavはずっと天敵で顔も見たくない関係にあったが、彼が突然コンタクトしてきて、準備している次の映画に出てくれないか、という。オファーされた役は戦時下のナチスによる拷問がトラウマとなってあの家で自殺した母(Noraたちにとっては祖母)Karinを元にしたキャラクター = 主人公で、Agnesが暮らして、自分も沢山の思い出があるあの家で撮影するという。
ずっと父に不信感と嫌悪を抱いてきたNoraは受け取った脚本を読まずに拒否して、子供の頃Gustavの映画に出演させられてあまりよい思いをしなかったAgnesも理解を示すが、オスロの家がいまだにGustavの所有になっていることに憤慨して、もともとあった父と娘たちの間の溝と不信は深くなっていく。
でも、Noraが拒否したGustavの映画の方はハリウッドの昇り龍女優Rachel Kemp (Elle Fanning)が興味を示して、彼女がNetflixとかにも声を掛けて動いてくれそうで、Rachelは撮影現場となる家にもやってきて、Gustavとの仕事をとても楽しんでいるようで、娘たちはそれをしらーっと眺める。
やがてNoraのJakobとの関係は破綻し、Rachelは自分にこの役は相応しくないと降板し、結果映画への出資の話もなくなって、もともと酒飲みで体を壊していたGustavは外で酔っぱらって倒れて…
父と娘たちの間の溝を埋める話、というよりは、あの家で祖母はどうして亡くなったのか、そんな家と高圧的な父の元でNoraは何を見ていたのか、そして父の用意した脚本には何が書かれていたのか - 父はなぜこれをNoraに演じてほしいと思ったのか、これらをNoraとAgnesのふたりの関係のなかに紐解いて、姉妹ふたりの抱擁のなかに浮かびあがったものとは。
rationalでもlogicalでもない “sentimental” valueというと情緒的な、まあいいじゃないか(小津の映画にも出てくるアレ)的なものとして捉えられてしまうのかも知れないが、それよりは、「あの時どうして...」の思いを姉妹が紡いでいくようなものだと思って、Gustavはもうどうでもいいか、と。(日本だと勘違いした親父たちが大量発生して大絶賛しそうなのがちょっと嫌)
もっと強いトーンで、父と娘の対決を正面から描くことも、Gustavをもっと嫌な奴として描くこともできたはずだが、そうはしなかった。とてもやさしい、北欧的なドラマなのかも。
“Rois et reine” (2004) – “Kings & Queen”を撮ったArnaud Desplechinだったら、この家族をどう描いただろうか。(あの映画も主人公の名前はNoraだった)
予告ではFacesの”Ooh La La”が爽やかに流れてきて、冒頭にTerry Callierが聞こえてきたり、音楽のセンスは変わらずよい。 Gustavが老いぼれた制作スタッフに会いにいくシーンで唐突に飛びこんでくるRoxyの”Same Old Scene”とか。 “Same Old Scene”が聞こえてくると、わけもわからず動揺してしまう自分にはなんとかしたい。
新年最初の新作映画は、Jack BlackとPaul Ruddの”Anaconda” (2025)でした。
新年最初のドキュメンタリーは、”Menus-Plaisirs Les Troisgros” (2023)をようやく。4時間で2Lくらいよだれがでた。
この状態で明日はパリ日帰りしてくる。
1.01.2026
[log] Best before 2025
新年あけましておめでとうございます。
元旦の朝は、いつものようにBBCのウィーンの新年コンサート(いつか行きたい)を流しながら、昨日買ってきた〆さばと、ついでに買ったマグロの赤身(50gだけ)をヅケにしようと思ったのだが日本酒がなくて、マデラ酒とシェリー酒を混ぜて煮切りを作ってみた(悪くなかった)。
BFI Southbankに向かい、元旦はクラシックなので、”Les Quatre Cents Coups” (1959) - 『大人は判ってくれない』を見て、”All About Eve” (1950)を見て、晩にNational Theatreの”Ballet Shoes”を見た。
元旦になにをしようが今年もどうせろくなことはないに決まっているので、好きにする。
以下、順位はなくてすべて見た順。10本とか絞れないので、適当に。
[film]
2025年は中短編含めて408本見ていた。やはり配信は1本も見ていない。うちBFI Southbankで251本…
映画は、Sight and Sound誌のベスト50のうち20本を、Guardian紙のUKベスト50のうち24本を見ていた。無理して新作を見なくてもいいや、にしてしまったので、数は少なくなっている。全て見た順で。
[新しいの]
▪️ Nickel Boys (2024)
▪️ Here (2024)
▪️ Companion (2025)
▪️ Ainda Estou Aqui (2024) - “I’m Still Here”
▪️ Santosh (2024)
▪️ Sinners (2025)
▪️ Sister Midnight (2024)
▪️ Julie zwijgt (2024) - “Julie Keeps Quiet”
▪️ M3GAN 2.0 (2025)
▪️ Materialists (2025)
▪️ Weapons (2025)
▪️ Sorry, Baby (2025)
▪️ Jeunes mères (2025) - Young Mothers
▪️ Kaj ti je deklica (2025) - “Little Troubled Girls”
▪️ Dead of Winter (2025)
▪️ Peter Hujar's Day (2025)
▪️ Dry Leaf (2025)
▪️ Die My Love (2025)
▪️ 100 Nights of Hero (2025)
▪️ The Mastermind (2025)
▪️ One Battle After Another (2025)
▪️ Is This Things On? (2025)
▪️ Sentimental Value (2025)
▪️ Marty Supreme (2025)
[ドキュメンタリー]
▪️ Architecton (2024)
▪️ I Am Martin Parr (2024)
▪️ We Are Fugazi from Washington, D.C. (2022)
▪️ Underground アンダーグラウンド (2024)
▪️ Where Dragons Live (2024)
▪️ Blue Road: The Edna O’Brien Story (2024)
▪️ Marlee Matlin: Not Alone Anymore (2025)
▪️ The Librarians (2025)
▪️ Testimony (2025)
▪️ 2000 Meters to Andriivka (2025)
[ふるいの]
▪️ Le notti bianche (1957) - 白夜
▪️ Nightbeat (1948)
▪️ Sergeant Rutledge (1960)
▪️ 特集”Chantal Akerman: Adventures in Perception” - でかかったの全て
▪️ La ciénaga (2001) - “The Swamp”
▪️ Margin for Error (1943)
▪️ Quatre nuits d'un rêveur (1971) - 白夜
▪️ Vingt et une nuits avec Pattie (2015) - パティーとの二十一夜
▪️ Five Star Final (1931)
▪️ Three on a Match (1932)
▪️ Vale Abraão (1993) - アブラハム渓谷
▪️ Such Good Friends (1971)
▪️ Rozstanie (1961)
▪️ Rich and Famous (1981)
▪️ The Green Man (1956)
▪️ Flickorna (1968) - “The Girls”
▪️ Star Wars (1977) *original
▪️ Unfinished Business (1941)
▪️ Strongroom (1962)
▪️ Westward the Women (1951)
▪️ 特集”Wanda and Beyond: The World of Barbara Loden” - でかかったの全て
▪️ Marry Me (1949)
▪️ The Swimmer (1968)
▪️ Il Grande Silenzio (1968) - “The Great Silence”
▪️ 特集”Anna May Wong: The Art of Reinvention” - でかかったの全て
▪️ Entertaining Mr Sloane (1968) (TV)
▪️ ”Too Much: Melodrama on Film” - でかかったの全て
▪️ Boy and Bicycle (1965)
▪️ The House of Mirth (2000)
▪️ Tea and Sympathy (1956)
▪️ 特集”Muse of Fire: Richard Burton” - でかかったの全て
▪️ Mansfield Park (1999)
[theatre]
ぜんぶで丁度100本見ている。映画を見る本数が少し減ったのは演劇を見るようになったから。
自分はこういうのが好きなのか、とか、なぜこれをよいと思うのか、などがわかってきたのでおもしろくてしょうがない期に入ってきた。でも高いのであまり行けない。 以下は見た順。
▪️ The Invention of Love @ Hempstead Theatre
▪️ The Years @ Harold Pinter Theatre
▪️ Elektra @ Duke of York's Theatre
▪️ Much Ado About Nothing @ Theatre Royal Drury Lane
▪️ Otherland @ Almeida Theatre
▪️ The Seagull @ Barbican Theatre
▪️ Punch @ Young Vic
▪️ The Brightening Air @ Old Vic
▪️ Hamlet Hail to The Thief @ Royal Shakespeare Theatre
▪️ 1536 @ Almeida Theatre
▪️ Stereophonic @ Duke of York's Theatre
▪️ The Fifth Step @ @sohoplace
▪️ Inter Alia @ National Theatre Lyttelton Theatre
▪️ A Moon for the Misbegotten @ Almeida Theatre
▪️ Every Brilliant Thing @ @sohoplace
▪️ (the) Woman @ PARK 200
▪️ Romans: A Novel @ Almeida Theatre
▪️ Measure for Measure @ Royal Shakespeare Theatre
▪️ The Weir @ Harold Pinter Theatre
▪️ Porn Play @ Royal Court Theatre - Jarwood Theatre Upstairs
▪️ Hedda @ Orange Tree Theatre
▪️ The Assembled Parties @ Hempstead Theatre
▪️ The Maid @ Donmar Warehouse
▪️ All My Sons @ Wyndham's Theatre
▪️ A Midsummer Night's Dream @ Sam Wanamaker Playhouse
▪️ Twelfth Night @ Barbican Theatre
▪️ The Importance of Being Earnest @ Noël Coward Theatre
[music]
CDもレコードもすっかり買わなくなった。ライブは39本。ライブハウスは体力的にもうしんどい。
音のとんでもなさでは、Swansが突出していた。
▪️ Beck with Live Orchestra (4/25) @ Royal Albert Hall
▪️ The Pogues (5/3) @ O2 Academy Brixton
▪️ Nine Inch Nails (6/18) @ O2 Arena
▪️ LCD Soundsystem (6/19) @ O2 Academy Brixton
▪️ Little Simz & Chineke! Orchestra (6/22) @ Royal Festival Hall
▪️ The Messthetics and James Brandon Lewis (7/7) @ Cafe OTO
▪️ Neil Young (7/11) @ Hyde Park
▪️ BBC Proms: Ravel's Piano Concerto for the Left Hand (7/20) @ Royal Albert Hall
▪️ BBC Proms - Late Night : Arvo Pärt at 90 (7/31) @ Royal Albert Hall
▪️ BBC Proms - From Dark Till Dawn (8/8) @ Royal Albert Hall
▪️ The Melvins (8/12) @ Electric Ballroom
▪️ Michael Shannon & Jason Narducy (8/22) @ The Garage
▪️ St Vincent (9/3) @ Royal Albert Hall
▪️ The Life and Songs of Martin Carthy (9/27) @ EartH theatre
▪️ Refused + Quicksand (10/3) @ O2 Academy Brixton
▪️ Edwyn Collins (10/4) @ Royal Festival Hall
▪️ Eiko Ishibashi (11/9) @ EartH theatre
▪️ Swans (11/11) @ Electric Brixton
[art]
企画展が殆どで、聖堂とか寺院など - インスタンブールのとかアルハンブラとかフィレンツェやラヴェンナのは入れていない。National Galleryの”Siena: The Rise of Painting, 1300 ‒1350”とフィレンツェの”Beato Angelico”が圧倒的だった。 あとは、Prospect Cottage。
▪️ Peter Hujar: Eyes Open in the Dark @ Raven Row
▪️ LOUVRE COUTURE: Art and Fashion: Statement Piece @ Musée du Louvre
▪️ A New Look at Cimabue: At the Origins of Italian Painting @ Musée du Louvre
▪️ Siena: The Rise of Painting, 1300 ‒1350 @ National Gallery
▪️ Leigh Bowery! @ Tate Modern
▪️ José María Velasco : A View of Mexico @ National Gallery
▪️ Wolfgang Tillmans - Nothing could have prepared us – Everything could have prepared us @ Centre Pompidou
▪️ Gabriele Münter - Painting to the point @ Musée d’ArtModerne de Paris
▪️ Agnès Varda’s Paris - from here to there @ MuséeCarnavalet
▪️ Emily Kam Kngwarray @ Tate Modern
▪️ Suzanne Duchamp Retrospective @ Kunsthaus Zürich
▪️ Félix Vallotton - Illusions perdues @ Kunst Museum Winterthur
▪️ Rose Wylie. Flick and Float @ Zentrum Paul Klee
▪️ Vija Celmins @ Fondation Beyeler
▪️ 記録をひらく 記憶をつむぐ @ 国立近代美術館
▪️ Luigi Ghirri - Infinite Landscape 終わらない風景 @ 東京都写真美術館
▪️ BLITZ - The club that shaped the 80s @ Design Museum
▪️ Radical Harmony - Helene Kröller-Müller's Neo-Impressionists @ National Gallery
▪️ Wayne Thiebaud. Delights @ The Courtauld Gallery
▪️ Cecil Beaton’s Fashionable World @ National Portrait Gallery
▪️ Gerhard Richter @ Fondation Louis Vuitton
▪️ Jacques-Louis David @ Musée du Louvre
▪️ John Singer Sargent - Éblouir Paris @ Musée d'Orsay
▪️ Turner & Constable Rivals & Originals @ Tate Britain
▪️ Beato Angelico @ Palazzo Strozzi + Museo di San Marco
春には帰国することになってしまったので、あとどれだけ見れるか。
今年もよい作品に出会うことができますように。