2.17.2026

[theatre] Here There Are Blueberries

2月5日、木曜日の晩、Theatre Royal Stratford Eastで見ました。

開演前の舞台には宣伝なのかなんなのか、カメラのLeicaのロゴが大きく投影されていて、幕が開くと最初に20世紀初のポータブルカメラの発明〜登場は当時の人々の生活を記録するのにいかに革新的なことだったのかが説明される。

2007年、ワシントンのHolocaust Memorial Museumに一冊の古いフォトアルバムが送られてくる。そこにはアウシュビッツを記録した写真が多く収められていたが、これまでにここに送られて確認されてきた写真たちと大きく異なったのは被写体が収容所の収容者 - ユダヤ人たちのそれではなく、Rudolf Höss, Josef Mengele, Richard Baer, といった収容所の設立や運用に大きく関わっていた大物ナチス幹部や医師の写真、彼らが集まって仕事をしている場面が多く含まれていたことだった。写真の調査を進めていく中で、これらはRichard Baer の右腕だったKarl Höckerによって撮られたものであることがわかってきて、舞台はそこから、20世紀でもっとも凄惨な大量虐殺が行われていた「現場」、そこで働くナチスの幹部やその下の党員たちはどんな日々を過ごし「仕事」をしていたのか、と、このアルバムをホロコーストの被害者たちの実態にフォーカスしてきたMuseumの職員たちはどう扱ったのか、更にこのアルバムの存在がMuseumによって世界に晒された後、現代に生きる幹部の子孫たち & 我々はこれらをどう受けとめるべきなのか、について訴える、というより一緒に考えていく。

写真に写っていたのは仕事をしている彼らだけでなく、パーティーをしたり、余暇を楽しんでいたり、現地で働く女性職員たちは野外で楽しそうにブルーベリーを頬張っていたり - 劇のタイトルはここから - 多くの人は映画- “The Zone of Interest” (2023) -『関心領域』のことを思い浮かべると思う(Martin Amisによる映画の原作は2014年)。彼らは囚人たちを日々大量に虐待したり虐殺したりしながら、現代の我々と同じようにそのプロセスの「効率化」とか「改善」とかに取り組み、仕事と家庭と余暇とをはっきり意識して区別して暮らしていたことが見えてくる。このグロテスクさについて今の我々が云々することは簡単だが、もし我々がここに実際にいたとしたらどうなっていただろうか?

原作はMoisés KaufmanとAmanda Gronichの共同で演出はMoisés Kaufman。アルバムの写真を背後に投影しながら男女8人の俳優達が入れ替わり立ち替わりナチスの当事者たち、Museumの職員、写真の被写体だったナチス党員の子孫たち、などを代わる代わる演じていく。休憩なしの1時間30分。

少しづつ真相を明らかにしていく形式のドキュメンタリーフィルムでも実現可能なことのようにも思うかも、だが、舞台上での役柄を都度変えながら演じる、という方式を取ることで、立場役柄が変わった場合、そこにおいて自分に求められた役割を拒否したり立ち止まって考えたりすることは可能だろうか? という異なる角度からの問いを提起しているようで、これって演劇という形式だから持ち込めた何か、でもあるのかも、と思った。

上演後のパネルでもアーレントの「悪の凡庸さ」を緩用しつつ(アーレントのこの発想の汎用的な解釈には要注意と断りつつ)、これと同じ過去を繰り返さないためには、という角度でのトークが行われていたが、自分の知識の及ばないところで社会のどこかで進行している明らかな悪や加害に加担している可能性について考える、ということが今ほど重い意味を持ってきているのってないかも、と思った。 逃れることのできない何かがあることを明確に意識しつつ、他方で中立でいる、政治的でないままでいることなんてありえないのだ、ということを踏まえつつ、どこまで疑義や抵抗や異議申し立てをできるのか、というー。(政治的な何かから遠ざかろうとする態度や挙動を取れば取るほど、その怪しさが露わになる、いまの日本の気持ち悪さなど)。

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