1月24日、土曜日の昼、Curzon Bloomsburyで見ました。
作、監督はチュニジアのKaouther Ben Haniaでチュニジア/フランス映画。
Executive ProducerとしてBrad Pitt, Joaquin Phoenix, Rooney Mara, Jonathan Glazer, Alfonso Cuarón, Spike Lee, Michael Mooreらの名前が並ぶ。
昨年のヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門でプレミアされ、審査員大賞を受賞している。
まだ日本公開が決まっていないのだとしたら、こんなに恥ずかしいことはない。BBDの件といい、どこまで内輪の利益とか目線優先の幼稚な国であろうとしているのか。
事実に基づく話で、Red Crescentの人々は俳優が演じている - 一部実際の彼らも映る - が、彼らがやりとりするHindの声は彼女がかけてきた時に録音されたものをそのまま使っている。
2024年1月29日、パレスチナのRed Crescentの緊急コールセンターで電話を受けているOmar (Motaz Malhees)のところに、ドイツの男性から、いとこのHind Rajabがガザ地区のガソリンスタンドのところで車内に閉じこめられている、という通報を受けて彼女の番号に掛けてみると、背後に銃声が響くなか、6歳の彼女が出て、一緒にいる大人たちもいとこもみんな動いていない、すぐ助けに来て、という。
彼らのセンターからHindのいるところまでは40数マイル、でもガソリンスタンドから8分のところに救急車がいることがわかり、急行してもらおうとするのだが、コーディネーターのxxからは許可が出るまで動けない、動くなと言われる。これまで何人の救命士が命を落としたと思っているんだ、プロトコルには従え、と内輪で小競り合いしている間にHindとの連絡が途絶えて、でも何度か繋がり直して、でも夜になって偉い人(イスラエル軍側の許可もいるって)の承認を得るのが難しくなってくると、最後の手として、彼女の助けを求める声をソーシャルメディアにポストして拡散することをやってみる(監督もそれを聞いて映画にしようと思ったと)。
映画の予告篇は火事場から彼女を救出することができるのか? というサスペンス調で、フィクションであれば危機一髪の救出劇、に仕立てるところだろうが、これはそうではないので結果は最悪で(ネタバレ? ネタ扱いするなんて最低)、後の調査結果によると彼女が乗っていた車にはイスラエルの戦車から335発の銃弾が撃ち込まれ、彼女の遺体は6人のいとこ達のそれと共に一週間放置され、現場に向かった2人の救命士も殺されてしまった。殺されたのだ。我々は彼女たちを見殺しにした側に立っている。
こんなふうに見る人を金縛りにして感情に訴えるフィクションのような作りにしたことに対する賛否があるのはわかる。素材はあるのだから関係者の証言や時系列を重ねて整えて普通のドキュメンタリーとして作った方が、なぜこんなことが起こったのか、起こらないようにするにはどうすべきだったのか、の検証はしやすいし、それは必要なことなのかも知れない。でも今のイスラエルはそんなの聞こうともしないだろう。 それなら助けを求める彼女の声とその悲劇を前面に出して… こうしてあれだけの映画人が集まったのだし、ヴェネツィアでは上映後のスタンディングオベーション23分の記録を作ったのだそう。
でもそんなことより、彼女の他にこの2年間でイスラエルによって約20000人の子供たちが殺されて、停戦合意の後も殺され続けていて、我々はそれを救うことも手を打つこともできないままでいる、ということの重さと異様さに吐き気がする。 こんな状態のなかオスカーもBAFTAもなんの意味があるのか。やめちまえって思う。
A Grain of Sand
1月27日、火曜日の晩、Arcola theatreで見ました。
これも今のパレスチナを生きる、生きなければならない、あるいは生きることの叶わなかった子供たちの声、語りを纏めた劇。元になったのはLeila BoukarimとAsaf Luzonが纏めたブックレット”Million Kites: Testimonies and Poems from the Children of Gaza”。 ここからElias Matarが脚本を書き、Sarah Aghaが一人芝居として何人かを演じていく。
舞台は客席の一番前と繋がっている床上で客席が見下ろすかたち、真ん中に砂場のように砂が盛ってある。
中心にいるのはガザに暮らす11歳のRenadで、家族とおばあちゃんも大きな家で一緒に幸せに暮らしていたのだが、今はみんなどこかに行ってしまった。
Renadは自分のおばあちゃんがそうだったようにストーリーテラーになりたくて、おばあちゃんが語ってくれたガザの昔話のなかで、彼女は想像力の翼 – パレスチナの太古の伝説の鳥Anqaの - をひろげて、どうにか生きて、どこかに行ってしまった家族を探すことができないか、と。
Renadの話に加えて、スクリーンに名前と年齢が表示されてから、それぞれの子供たちの詩や言葉がRenadを通して語られていく。家族はどこに行っちゃったんだろう? なんで病院は(学校は、教会は)安全て聞いたのに爆撃されて燃えているんだろう? この痛みや辛さはいつかどこかに行ってくれるんだろうか?などなど。子供たちが必死で、言葉にできないなにかを言葉にしようとしていることがわかって胸が痛くなる。
それは浜辺で流されて盛られたり崩されたり遊ばれたり、いろんな意味でただの小さい砂粒なのかもしれないけど、消滅することはない、流されて消えてなくなってよいものではない。最後、背後のスクリーンに子供たちの名前がものすごい数、砂の細かさで集められ映しだされて見えなくなってしまう。Hind Rajabのかき消された声のように。絶対そうはさせないから、という意思に貫かれている舞台だった。
1.30.2026
[film] The Voice of Hind Rajab (2025)
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