12.31.2013

[film] Only Lovers Left Alive (2013)

31日 - 本日の昼間、新宿でみてきました。 お片づけはどうした。

Jim Jarmuschによる吸血鬼映画。
デトロイトに住むアダムがTom Hiddleston、その妻でタンジールに住むイブがTilda Swinton、LAに住むその妹がMia Wasikowska、タンジールに住む長老がJohn Hurt。

人目を忍んで闇夜に生きている。人は襲わずに病院から調達したO型のRHマイナスをグラスで飲み干す。武闘派ではなく、音楽とか読書とか文系の世界にしっとり暗く浸っている。
もう何百年も生きているけど絶滅危惧種で、でも自分たちで種の維持とかを考えているわけではないらしい。

別の族との抗争や共闘があったり、人間との恋愛や戦いがあったり、つらい逃避行があったりするわけではない。 冒頭のターンテーブルのシーンのように、その針(牙)が時間の溝をどこまでもぐるぐると削りながら回っていく。その様を上から俯瞰するものはおらず、その回転は永遠に続くかに見えて、曲の終り、溝の終端はやがてやってくるだろう。

その様を非情感たっぷりに描くのでも激情のエモで埋めつくすのでもなく、走っていく車とそこを流れていくデトロイトの路面(ターンテーブルのイメージ)、そこにえんえん流し込まれていく抑えこまれた憤怒を、まっかな血のしたたりと夜の光のなかに浮かびあがらせる。 木製のたった一発の銃弾と共に。

前々作"Broken Flowers" (2005)でも前作"The Limits of Control" (2009)でも、Jim Jarmuschはぶすぶすと内に向けて怒っていたが、今回はそれがより明確で、人間達を「ゾンビ」と呼んでゴミ扱いしている。そうだよねえ、彼らから見たら人間こそが肉の腐れたなれの果てだよねえ。
ゾンビが殲滅されるべきものであり吸血鬼もやがて滅びて行くものである以上、両者は永遠に相容れることはなくて、唯一言えるのは - "Only Lovers Left Alive" なのだ。 わかったか。

"Thor"でのぼんくらっぽい姿しか知らなかったTom Hiddlestonがあまりにかっこよいので驚いたが、それ以上にTilda Swintonのすばらしいこと。 あの鳥類としか思えない横顔と容姿、ふたりが変てこに絡み合って横たわる寝姿の妖艶なこと。 吸血鬼の夫婦としか言いようのないふたり。

あと、おいしい血をいただいて満足げに笑う牙付きのMia Wasikowskaがまるで猫のようでかわいい。
あと、Anton Yelchinはただのロシア人(でぶ)になりつつあるのね。

Jozef van Wissemの音楽はガレージでゴスでブルージーで、澱んだギターノイズのなかに永遠がある。 新宿武蔵野館のぜんぜんよくない音響でも、であるからこそどっしりそこに居座る、そんな質感の音。

もういっかい見たいなー。


映画を見終わって、いいかげん帰ってお片づけをしないと、なのだったがデトロイトの部屋にアナログ盤とか音楽機材一式を置いて戻らぬ旅に出てしまったアダムの潔さと力強さを見習うべく、もう一本見て帰ることにした(殴)。

シネマヴェーラの今年最後の1本。"Die Austernprinzessin (The Oyster Princess)" (1919) -『牡蠣の女王』。
2010-2011年、MOMAのワイマール映画特集 - "Weimar Cinema, 1919–1933: Daydreams and Nightmares"で見て、ほんとに大好きになった1本をふたたび見よう! ということで。

牡蠣の王様の娘の結婚のどたばた喜劇でめちゃくちゃなのだが、半裸も入浴もベッドインもあってエロくてすごいの。 リメイクするとしたら姫をLena Dunham、パパをJohn Goodmanでおねがい。

しみじみくそったれだった2013年もあと1時間をきりました。 くそったれ。
よい新年をお迎えくださいませ。

そして2013年ベストの検討に入ります。

[film] 浮城謎事 / Mystery (2010)

29日、シネマヴェーラのあと、新宿に行って見ました。 
『パリ、ただよう花』 英語題は"Mystery" とか "Love and Bruises"とか。

監督のロウ・イエの作品を見るのはこれがはじめて。

主人公の花(ホワ)がパリで、北京で知り合ったと思われるフランス人男に捨てられるところから始まり、意気消沈して歩いていると工事現場でパイプをぶつけられて、ついてないやて歩いていくとぶつけた野郎がついてきて、結局そのままその男と寝てしまう。 それがマチューで、ふたりは会ってはセックスをし、を繰り返す関係の果てに疲弊して、やっぱりあなたとは無理だわ、とホワは北京に帰って通訳として暮らすことにするのだが、マチューとの連絡が取れなくなると気になって再びパリに戻って彼と体を重ねてしまう。

セックスをしている時以外のホワとマチューの間でどんな会話がされ、どれくらいふたりは親密になっているのかいないのかまったくわからないので、画面だけを追っていくと、ふたりは会えばただ動物のように交わって、終わると辛そうに喧嘩してばかりで、マチューがホワに向かって罵倒する「あばずれ」とされてもしょうがないように見えて、映画がそういうふうに異国のパリで「ただよう花」のありようを追うことを主眼にしているのであればそうして伝わってくるきつさもわかんないことはない、と言おう。

でもそれって、例えばSMの痛みとはどうちがうのか、異国で暮らす孤独やその辛さとはどんなふうにちがうのか、このふたりの(或いはホワの)、あの部屋の空気と暗さ、あのときのふたりの声が収斂していった先にある凝り固まったなにかを示すところまで行けていたかどうか。

といってそんなものを示せたところでなんになるというのか、ということも映画は確かに言っていて、他人の不幸も痛みも快楽も知ったこっちゃないのだからほっとけ、であることも確かだから距離を置いてみたその場所に残る他人のかさぶたみたいなやつと、ホワの疲れたような諦めたような薄い笑顔の交わるところにこの映画の渡したかったものはあるのかしら、と。

そうは言ってみても落ちつきなく(たぶんわざと)至近距離で適当に動きまわるカメラとか、粗野に粗暴に振る舞いすぎるマチューを始めとする男共の傲慢さにうんざりしてこいつらの男根ぜんぶちぎり取って豚に食わしちまえ、とか思って、ようはぜんぜん好きなタイプの映画ではないのでしんどかった。

とりあえずマチューから離れたのは正解、といって北京で生きることが正解、とも思えない。
「正解」なんて、あるわけがないし、そんなものを求めることにいったいどんな意味があるというのか。

どっちも地味な女主人公ていう括りでいうと、こないだ見た「受難」のフランチェス子とは真逆のベクトルであたしの生きる道を照らしている、のかもしれない。
んでも、どっちにしても大きなお世話だろうし、どっちにしても天国は待ってくれるの。 たぶん。

12.30.2013

[film] My Man Godfrey (1936)

今年の暮れ正月も外せないシネマヴェーラの『映画史上の名作10』。
29日のお昼にまずはいっぽん、『襤褸と宝石』 -  「ぼろとほうせき」て読むの。
ほんとうにおもしろいんだから!

大恐慌の時代、マンハッタンの東の反対側のスラムに金持ち連中がやってきて、パーティの余興のscavenger huntの品物としてホームレスを拾っていく。 金持ちお嬢さんのアイリーン(Carole Lombard)が拾ったのがゴドフリー(William Powell)で、彼の物腰の柔らかさにちょっと惹かれたのと、品物扱いしてしまったお詫びと酔っ払いの勢いで彼を執事として雇うことにする。

5番街の1011というのがアイリーンのアパート(ここ、メトロポリタン美術館のまんまえだよ - 原作だと1011 Park Ave.だそう)で、家族はみんなそれぞれ身勝手なことばかりしている変人たちで、勿論お金持ちなのだが経済的に傾きかけていて、そういうおうちに入りこんだゴドフリーの奮闘とある企みと、やがて明らかにされる彼の素性と。

冷たく意地悪な姉のコーネリアと比べて、無邪気でおてんばなアイリーンはゴドフリーにめろめろになっていって、でもゴドフリーは執事でございますから、とか冷淡な調子を崩さなくて、この辺のやりとりを軸に転がっていくラブコメとして、素敵におかしい。 そしてラブコメを織りこみつつ全体が変に捩れていくファミリードラマとして、ジェーン・オースティンも少し入っているかも。

ほとんど酔っ払ってきゃーきゃー騒いでばかりのCarole Lombardがすばらしく魅力たっぷりで、彼女をアイリーン役に指名したのはつい3年前まで実際に夫をしていたWilliam Powellで、彼女との夫婦生活もあんなふうだったのだと。 ならとっても楽しそうだし、別れなくたって...(そういうもんでもないのね、きっと)

この作品、オスカーの監督、脚本、主演に助演の男優と女優、作品賞以外の主要6部門にノミネートされてて、でもいっこも取れなかったんだって。

今回の特集、他にも見たいのいっぱいあるけど、何本見れることやらー。

[film] Simon Werner A Disparu... (2010)

28日の晩、"Laurence Anyways"のあと、ユーロスペースで見ました。
『消えたシモン・ヴェルネール』。タイトル憶えられなくて、「消えたシモーヌ・ヴェイユ」とか勝手に呼んでた。

92年のパリ郊外の高校で、シモンがいなくなった、しかも教室からは彼の血痕が… と話題になるなか、シモンの周辺にいた4人 - ジェレミー、アリス、ラビエ、そしてシモンのそれぞれに絡みあった数日間の動静を追う。生徒同士のあれこれ、シモンに続けていなくなる何人か、恋人、教師、サッカーのコーチ、などなど、人々はみんなそれなりに挙動不審で怪しげで、シモンはどうなったのか、もし殺されたのだとしたら誰が…

物語のまんなかにあるのはジェレミーの誕生日の晩、彼の自宅でのパーティと彼の家の横手にある森 - そこですべてが明らかになるのだが、4人の4つのエピソードを束ねて組みあげる手つきが見事で、おもしろかった。(こういうミステリーてあんま見ないせいかしら)

郊外、森、高校、ていう微妙に不気味な舞台設定に加えて噂とか陰口とかの連鎖が生徒たちの間に疑念と猜疑の渦を生み、でもそこに警察や探偵が現れるわけでもなく、彼らは彼らのサークルでの日々を過ごしていくしかない、その身動きのとれない中途半端なかんじも含めミステリーというより学園ドラマとして見事だとおもった。
携帯もなく、音楽もまだアナログだった時代の学園に暮らした子供たちの。

音楽はSonic Youthが全面に、と宣伝文句にもあるのだが、冒頭のパーティで(更にそのあとのフラッシュバック数回で)、がんがんに響き渡るのはKilling Jokeの"Love Like Blood" (1985)で、映画全体のトーンを決めているのもこの曲の刺さるようなギターのリフのほうで、しみじみかっこいいよねえ。
この曲かけてがんがんに盛りあがるパーティ、ていうのもなんかすごいけど。
他にはTom Waitsの"Somewhere"なんかもかかる。

犯人あれじゃねえか、と思ったのが当たったのでうれしかった。


[film] Laurence Anyways (2012)

2013年のお仕事は金曜日で終わって、でも最後の最後までほんとにばたばただった。
このかんじのまま来年も行ってしまうのか、すごくやな予感がするのがいやだ。

見れていなかったあれこれを捕まえるべく、28日の夕方、Uplinkで見ました。
『わたしはロランス』。やーっと見れた。

モントリオールの作家で教師のロランス(Melvil Poupaud)は彼女のフレッド(Suzanne Clément)と仲良く同棲していて、89年、彼の30歳の誕生日の日、「女として生きたい、自分はこれまでずっと間違った体で過ごしてきた」て告白して、フレッドはなんで今更そんな... と唖然とするも彼を失いたくなかったので支えていくことにする。 それは彼の母親(Nathalie Baye)にとってもおなじで、物語はそこから10年間の彼らの魂の彷徨いを追う。

決意と宣言のあと、化粧と女装を始めた彼のそばにフレッドはずっといたのだが、彼の動揺、彼女の動揺、周囲への波紋が押しては返しでやってきて、そのストレスに耐えられなくなったフレッドは、別の男を見つけて別の場所に越していってしまう。 でもロランスにとってフレッドは"AZ" - 最初で最後のオンナ、であって、そう簡単には終わらない、終わらせることはできないの。 10年間、168分で映画は終わるが、とりあえず切ってみた、程度のものなの。

ロランスが自分のなかに見いだしたオンナ、これに対してフィジカルな事実としてあるオトコの姿、フレッドがロランスに求め続けたオトコの形、フレッドが頭では理解しようとしたオンナとしての彼、などなど、性のありようは、たったふたりの間、そこまでの2年間恋人であったふたりの間ですら複雑に多様に、当事者間ですら制御できないエモの揺れと痛みをもたらすのだが、他方でそんな程度では揺るがしえないふたりだけの魂の結託のようなものも確かにあって、この関係に、この物語にあるべき決着なんてないんだ。

ロランスの物語、というだけでなく、彼のそばにいたふたりの女性(母とフレッド)の逡巡と戦いの物語として見ることもできて、特にフレッドがカフェで給仕の応対に激怒するシーン、ママがTVばかり見ている自分の夫にぶちきれてTVをたたき壊すところは痛快だったりする。

この物語を性同一性障害の症例、事例、のように描かなかったのは正解で、それを可能にしたのは89年からの10年間、というのも大きかったのではないか。 80年代後半からの10年くらいて、普通と普通でないことの境界を絶えず自分や周囲に向かって問い続けることができた時代だったようにおもう。
最後のほうで、ロランスにインタビューする老婦人が、間もなくやってくる21世紀はだいじょうぶそう? と問うシーンがあるのだが、性同一性障害もゲイも、情報として表面に現れて均質化されるようになった反面、当事者たちのほんとうの葛藤や苦しみは蓋して隠蔽されがちな傾向が出てきているようにも思えて、きついひとにはきつくなっているのではないかしら。

そう思うとラスト、フラッシュバックされる87年のシーンがすばらしくて、ちょっと泣けるの。

映像はちょっと技巧に走り過ぎたように見えるとこもなくはなくて賛否あるかもしれないが、音楽の使い方は見事だとおもった。 Visageの"Fade to Grey"、The Cureの"The Funeral Party"、Depeche Modeの"Enjoy the Silence"、Duran Duran の"The Chauffeur"、などなどなど。

この監督、ほんとに89年生まれなの?

12.29.2013

[film] Hannah Arendt (2012)

22日の日曜日の朝、新宿で見ました。 朝早くなのに結構入っていた。 よいこと。

Film Forumでかかったときからずうーっと見たくて、岩波ホールもなかなか行けなくて、やっと行けた。 John Waters先生も2013年ベストにリストしていたし、必見なんですよ。

それにしても、前の日に同じところで見た"The Bling Ring"と続けて見ると同じ歴史ものなのに同じ地球上の出来事かよ、とかおもうわ。

アイヒマンがイスラエルに捕えられるシーンから始まり、彼の裁判がイェルサレムで行われることを知ったハンナ・アーレントが裁判を傍聴してそのレポを書くことをNew Yorker誌に申し出て現地に赴き、記事("Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil")を書いて掲載する。 その記事のなかの、アイヒマンは悪の権化ではなく上からの命令に従った平凡な歯車にすぎない、という箇所、更にはユダヤ人団体指導者たちが虐殺に加担していた、という箇所がユダヤ人社会を中心に凄まじい非難と悪罵を巻き起こし(今でいうところの「炎上」ね)、友人もみんな失って孤立する、ていう史実としてとっても有名な、誰でも知っていることを映画化しただけなのだが、このおもしろさはなんなの。

身内からも友人からも、どれだけ非難されても罵倒されても、彼女と彼女の思考は煙草の煙を吐きながら機関車のように力強く屈しない、パンクばばあの不屈さがあるの。特に最後の大学での講義の迫力ときたらすさまじく、これを演じているのがファスビンダーの『ベルリン・アレクサンダー広場』でミーツェを、『ローラ』でローラを、つまり戦後ドイツ男の間でやりたいようにやられてきた女たちを体現してきたバルバラ・スコヴァなんだから痛快ではないか。

みすず書房から出ているこの裁判記録『イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』は、過去3回取り組んだけど結局挫折して最後まで行けていない。寝っころがって簡単に読めるもんではなくて、みんなちゃんと読んだ上で文句言ってないだろ、と未だにおもう。

筑摩から出ている遺稿論集『責任と判断』に入っている『独裁体制のもとでの個人の責任』 - "Personal Responsibility under Dictatorship"ていうレクチャー原稿は、非難騒動を受けてラジオ向けに書かれた割とわかりやすい内容のものなので、読んでみませう。

元原稿はここにある。

http://memory.loc.gov/cgi-bin/ampage?collId=mharendt_pub&fileName=05/051950/051950page.db&recNum=1

映画を見てこれを読むと、いかにアーレントの論旨がいまの日本、2013年に劇的に腐食劣化と退行が進んでしまった日本に、経済効率だの絆だの無邪気で幼稚な旗印のもと国民性だの国益だのを徒に煽って凡庸な悪の道を進んでいる今の日本にはまってしまうか、しみじみわかって嫌になるから。
そして、考え抜くんだ、と。 「つながる」ことも「炎上」させることも何の解決にもならないんだよ。

とにかくもう今の首相がヒトラーに見えてしょうがない、ブッシュJr.の二期目のとき以上に気持ちわるい。

映画のなかで読者からの抗議電話をひっかぶっていたNew Yorker誌の編集長「ビル」は、リリアン・ロスの『「ニューヨーカー」とわたし―編集長を愛した四十年』(もう絶版なの? おもしろいのにー)に出てくる編集長ウィリアム・ショーンのことで、この本の中にも原稿の編集のためにハンナ・アーレントのアパートに通う彼の姿が出てくる。彼女は鬼婆のようにおっかなくて作業を終えて出てきた彼は顔面蒼白でぶるぶる震えていたという。 おっかなかったんだろうなー。

映画で映しだされる夜のマンハッタン全景は東側のからのものだし、彼女が米国に戻ったときにはBrooklyn Bridgeが出るし、窓の向こうに少しだけ見える川はEast Riverぽいので東岸のお話のように見えるのだが、彼女が住んでいたアパートは、370 Riverside Drive - 西の上のほうなの。

ここには(映画にも出てくる)メアリー・マッカーシーやジョナサン・シェルの他にスーザン・ソンタグも通っていたはずで、なんで彼女だけ出てこなかったんだろ。

12.28.2013

[film] The Bling Ring (2013)

21日の土曜日、髪切ってから新宿で見ました。

前作の"Somewhere"で、Sofia Coppolaの映画はもう見なくてもいいや、なかんじになっていたのだが、みんななんとなく話題にしているみたいだし、最近の若者はどんなだろうか… 程度で。

"Marie Antoinette" (2006)に続く実録モノ、 "The Virgin Suicides" (1999)に続く道を外してしまった若者群像モノ、ということでよいのかどうか。

西海岸のごく普通の、それなりにきちんとした家庭で育ったと思われる若者たち5人(だった?)が夜中、お散歩感覚でいろんなセレブのおうちに忍びこんで金銀財宝洋服靴鞄などなどをかっさらってみんなに自慢したり売り捌いたりしたあげくお縄になって裁判になって、けろけろ、ていうの。 それだけなの。

なんで彼らが? でも、彼らの将来は? でも、病めるなにか腐ったなにか切羽詰まったなにか、を引っぱりだしてくるのでもなく、告発も卑下もなく、フラッシュバックされる時々のスナップやニュース映像をはさみつつ、こんなことが ありましたとさ、というふうにぺったりさらっと、いっぽんのPVみたい、動物の挙動をのぞくみたいに描く。 彼らがなにを考えているのか全くわからないし、そんなのわからなくてもよいのだ、という造りになっている。

夜の犯罪の映画なのに、ノワールのかんじはゼロ、女の子が中心にいる窃盗団なのにファムフ・ァタール臭もゼロ。 さいきんのファッション誌の「~っぽく」の薄い誌面をぱらぱらしていくかんじ。
それはそれでてえしたもんじゃねえか、と言いたいひとは言うのかもしれない。

「ほんとうのあたしはこんなもんじゃないんだから」というのが最後のほう、釈放されたひとりの女の子がマイクの前でしれっと言うことで、ほんとうのあたしは、ほんとうのあたしがいる場所は、ほんとうのあたしがいる時代は、というのがSofia Coppolaがえんえん映画を通して言い続けていることのように思えて、でもそれ言ったからってどうなるもんでもないじゃん(だってそういうもんだから)、ていうのと、でもそんなことだれも言ったことないよね(だってそういうもんだから)、というのが投げやりがちに反響して、いつものように金持ちサークルでちやほやされてろおばさん、になってしまうのだった。

これが最後の作品となってしまった撮影のHarris Savidesさんに捧げられている。 秋口に彼の追悼特集がMOMAで組まれていて、こっちのほうは見たかったねえ。

音楽は冒頭のSleigh Bellsの鳴り方が見事だったのと、窃盗現場で流れるCANの"Halleluwah"、くらい。 あとはわかんなかった。 わかんなくていいも。

こういうのをデートで見たカップルって、この後どんな会話をするのかしら。
これもわかんなくていいけど。

[film] 受難 (2013)

20日、金曜日の晩に新宿でみました。 
クリスマスも近いことだし、いろいろ反省しておこうか、とか。 原作の小説は読んでいない。

フランチェス子(岩佐真悠子)はぜんぜんモテなくて、男からは「萎える女」とか言われていて、誕生日に片想いの彼に「セックスしてください」と言ったらあっさり断られてどんより帰宅すると股の間から男の声(だみ声)が聞こえてきて、覗いてみるとあそこのところに醜いおっさんの人面瘡ができていて、それはそれはひどく醜悪で、できているだけならいいが、おっさんは彼女に「このくされ〇〇〇」とかひどい罵詈雑言を浴びせてくる。 ひどいセクハラだとおもうが自分のセックスの中心にあるやつがそれを言ってくる。

もともと大志もやる気もなく自虐ぎみに日々を過ごしているフランチェス子さんはその運命を受け入れ、その喋る人面瘡を「コガさん」と呼び、たまにスカートをめくってきゅうりとかを食べさせたりしてやって、そいつとの共生がはじまり、過去にいろんな女にとりついてきたらしいコガさんはこんなにしょうもないやつは始めてだとか言いつつ、だんだんふたり(じゃないけど)は仲良くなっていく。 かんじとしては、ド根性ガエルみたいなふうなの。

あと、フランチェス子が男に触れると、そいつの男根が焼けただれてしまうこともわかるの。
男から疎まれ、触りにいくと相手を不能にし、あそこには変なのが取り憑いている、三重苦なの。
つまり自分は男とは触れあってはいけないようなやつなのだと。

こうしてフランチェス子はバイトしたり海岸で空き缶拾いしたり、ほんとに地味でなにを楽しみに生きているのかわからなくて、そのうち自分の家の部屋のベッドを知り合いのカップルとかに貸すようなことまで始める。 無償の愛、だけどこれもコガさんにはバカにされる。

設定が唖然とするくらいあほらしいし、コメディなのかもしれないのだが、画面も主人公の演技のトーンもどこまでも静かで真面目で「こんなわたしでもひとの役にたつにはどうすべきなのか」とか「こんなふうになってまでなんでひとに関わろうとするのか」とかそんなことばかり考えて悶々としている。 その逡巡は殆ど宗教家のようで、だいすきな『神の道化師、フランチェスコ』を思い起こさせたりもして、いや、そうなのだよね。 

なにもかもふざけんじゃねえ、になった彼女がすっ裸で夜の街中を駆け抜けるシーンは、それゆえ感動的なのだが、お話しはそれだけでは終わらず、もういっこ別の話しが接ぎ木されてくるからおもしろい。 性ってなんて変なものなのかしら。

男で逆の設定、はこの場合ありえなくて、これは女性のための映画なのだとおもった。

12.24.2013

[music] The Roots

19日の晩、さいてーの天気のなか、渋谷でみました。
この季節が素敵なのは、みんなが忘年会だなんだで早めにオフィスから消えてくれるので、こういうのに抜けやすくなることよね。

Elvis Costello and The Rootsの"Wise Up Ghost"は、最初はなんか違和感あったものの、だんだんにはまっていって、今年の愛聴盤になりつつある。 こないだのCostelloせんせいのライブでも、旧作中心のように思えて実は結構ここからの曲もマメに挟みこまれていて、ちっとも変なふうではなかった。
来日のタイミングとしてそんなにずれていなかったから、ひょっとしたらゲストで来て1曲くらい…と少しだけ期待していたのだが、さすがにそれはなかったねえ。

The Rootsを最初に見たのは、たぶん2002年の1月(もう10年以上前なのか..)、Lincoln CenterのAvery Fisher Hallでそれはそれは圧巻で、次に見たのは2003年の1月のS.O.B.'sで、EryKah BaduのライブのアンコールでQuestloveさんとかが乱入して、このときはちっちゃいライブハウスだったのでQuestloveのでっかい背中とお尻が目の前で律動してて感動した。このライブ、Commonとかも飛び入りしてたし今から思えばすごく贅沢なやつだったかも。

んなので、今回のライブだって悪いわけがない。
ほぼ時間通りに出てきて、1時間40分くらいほぼノンストップでぶっとばして止まらない。
音の豊かさ、バリエーションも自在で、ヒップホップからR&B、ジャズにファンクにレゲエまでジグザグだったりぐるぐるまわったり、音をひきつれているのか掻き回しているのかグルーヴに引っぱられているのか、どちらにしてもわれわれはじゃぶじゃぶ波に洗われて右に左に。

鍋底が抜けたように湧いたり溢れたりでどこまでも止まらない、どこに連れていかれるかわからない愉しい恐ろしさ、これって大昔のPrinceとかGeorge Clintonとかのライブのときに襲ってくるのと同じやつがきて、すごいねえ、としみじみしつつ、いまGeorge Clinton先生(72歳なんだね…)の4時間のセットとか行ったら確実に死ぬよな、とかおもった。

全体の半分くらいは各自のだらだらとめどないソロで、特にドラムスとパーカッションの乱れ打ちの緩急がすごかった。CANのようだった。 ギターのソロはいつもよか静かめかも、と思ったらGuns N' Rosesの"Sweet Child O' Mine"が鳴りだして、やがてZepの移民の歌までがんがんに流していった。(まえのときは、"Smells Like…" とかやってたの)

"Jimmy Fallon"でやっているようなお遊びネタをやってくれないかなあ、と思ったけどそれはなくて、でも終盤で"Jimmy Fallon"のエンディングのテーマをやってこれが鳴りだすと反射的に眠くなってくるなあ(ほんとは次の"Last Call with Carson Daly"のメニュー聞いてから半自動)、と思って、そこから更にもう少し続いたのだった。

Questloveさんが爆発アフロ頭でなくなっていたのがざんねんだったが、Instagramの日本紀行がおもしろすぎたから許そう。 いいなーあんなにいっぱいDisk Unionで。


今年のクリスマスソングはあんまなくて、Cat Powerさんの"Have Yourself a Merry Little Christmas"くらいかなあ、と思っていたらAppleのCM曲なのだった。

動画だったらまちがいなくこれだ。

http://www.latenightwithjimmyfallon.com/video/iron-and-wine-and-calexico-fairytale-of-new-york/n44238/

よいクリスマスをお過ごしください。

12.22.2013

[film] Behind the Candelabra (2013)

15日、日曜日の朝9:30に新宿で見ました。 日曜の朝からこんなの見ていいのかよ、だったのだが、もうこの時間しかやっていなかったし、午後は仕事だったのよ。「恋するリベラーチェ」。

Steven Soderbergh、"Side Effects"で映画つくるの止めたと言っていたのに、これはHBOのTVだから、とでも言い訳するつもりだったのか、とか最初は思ったけど、実際には映画公開するつもりで撮り始めたものの内容が"Too Gay"ていうことでHBOに払い下げられたのだと。 なんだかんだ言ってもぜんぜん、ばりばりの映画なんですけど。

米国に実在したピアノエンターテイナー、リベラーチ(映画ではそう言ってるような)の生涯を彼に拾われ、愛されて捨てられたスコットの目線で描く。題名の"Behind the Candelabra"はその暴露本のタイトルでもある(正式には"Behind the Candelabra: My Life With Liberace")。

リベラーチがMichael Douglas、スコットがMatt Damon。 田舎でドッグトレーナーをしていたスコットがゲイの友人に誘われるままにリベラーチのライブを見てぽーっとなり、彼に紹介されてその宮殿のような家で暮らすことになり、夢のような蜜月のあとにやってくる猜疑、倦怠と修羅場、そして放擲と別れと。

アメリカの田舎の子が都会の大人の世界を知って痺れてあがいてそこを出てなにかを学ぶ、そういうラインと、彼の目からみた底知れぬエンターテイメントの、エンターテイナーの光と闇、というラインとがあって、ここにはあまり新しいものはなくて、ちょうど"Magic Mike"と同じような構造だとおもうのだが、中心のふたりがゲイで、その間には絶対的な上下関係があって、まだ世間は今ほどゲイに寛容ではなかった、というあたりが違っていて、ちょっとイビツなかんじはする。
けど、ふつーに泣ける(よね?)恋愛ドラマではないかと。 延々続く痴話喧嘩とか最後の最後に訪れる赦しとか。

そうはいっても、これはなんといっても俳優の映画で、老いて怪物のようにでろでろ変貌していくMichael Douglasと10代から20代までのスコットを「それがなにか?」という厚顔無頓着な、なんともいえない西海岸的軟度で演じきってしまったMatt Damonがすごすぎる。
Michael Douglasを後ろから攻めたてるMatt Damonの図、なんてそんなもの、見たい見たくない以前のところで、ありえるとは思えなかったわ。

かんじとしては"Boogie Nights" (1997)あたりとも近いかも。
どうしようもなく猥雑でろくでなしで自分のことばっかりで、でもなんか憎めなくて切ない衣を纏ったでぶの男たちのお話し。

[art] Josef Koudelka Retrospective - 他

13日の金曜午後、竹橋 ~ 日本橋でみたやつあれこれ。

ジョセフ・クーデルカ展
Josef Koudelka Retrospective

2011年に東京都写真美術館であった「プラハ1968」に続いて、こんどはクーデルカの全キャリアを俯瞰した展覧会。
初期の実験作から始まって「ジプシーズ」、「劇場」、「エグザイルズ」といった連作を見ることができる。「プラハ~」は「侵攻」というテーマのなかに並んでいる。
「ジプシーズ」も「劇場」も映画のスチールのように劇的でシャープでかっこよい。 その一枚のなかにドラマ的な要素を込めてつくって、というよりそういう要素が垂れ流しでぼうぼうに放射され出ている対象の前にカメラを曝す、その手癖とか流しかたが野晒しで素敵なんだとおもった。 クラインほど野暮ったくない、というか。 その傾向は「エグザイルズ」のシリーズではより顕著に奇跡を呼ぶようになって、作品のタイトルはただの地名で、道端に亀が転がっているだけの写真なのに、歩いていた亀のひっくり返る瞬間がざらざらしたストップモーションで脳内に映写されるかのようなの。 小さめのサイズ、ていうのもあるのかもしれなくて、近年の「パノラマ」のシリーズの、パノラマのでかでかしたパースペクティブになるとなんかぼやけてしまう気が、した。

カイユボット展ー都市の印象派
"Gustave Caillebotte  - Impressionist in Modern Paris"

ブリジストン美術館でカイユボット(1848-1894)の日本で初めての包括的な紹介。

水平線の位置がほんのちょっと高めで揺れたり傾いたりしていて、それだけでなんか映画っぽく、タイトルのように「都市の印象派」ぽくなってしまうのだねえ、と思った。
でぶのおじさんがごろんと横たわっている、これも映画のワンカットのように見える絵の、そいつが「マグロワール親父」っていうのって、絶妙だとおもった。 絵とは関係ないけど。
あと、「ペリソワール」における水の描きかた、粘度、というか。

それと、弟マルシャル・カイユボットの写真、ルノワールの絵それぞれのモデルとなった「ジャンとジュヌヴィエーヴ」。裕福なおうちのぼんぼんとおじょうの、なんともいえない毛並みのよさ。


政岡憲三アニメーション選集

ブリジストン美術館から100% Chocolate Cafeを経由してフィルムセンターに行ってみました。

このひとの「くもとちゅうりっぷ」 (1943)も見ていないのだが、お勉強ということで。
見たのは以下の短編4本。

「難船ス物語 第壱篇 猿ヶ嶋」 (1931) - 24分
「桜(春の幻想)」 (1946) - 8分
「すて猫トラちゃん」 (1947)  - 21分
「トラちゃんのカンカン虫」 (1950)  -10分

線が細くて端正なところは昔のひさうちみちおとかを思いだした。
なんといっても「すて猫トラちゃん」の顔の中心に全部が寄り集まった、かわいいんだかかわいくないんだかよくわからないなんともいえない丸っこいたくましさがたまらず、これがそこから少し成長した「トラちゃんのカンカン虫」になるとぜんぜんかわいくなくなっていて残酷だなあとおもった。

かわいそうといえば、ネズミさん、ミシンまで回させられてほとんど奴隷。

12.17.2013

[film] Liv & Ingmar (2012)

14日、土曜日の昼間に渋谷で見ました。土日それぞれ1本くらいしか見れなくなっちゃったのはなんで?

10月のThe New Yorker Festivalで見たNoah BaumbachとGreta Gerwigのトークでは、ふたりが訪れたベルイマンの島のことをハネムーンの思い出のようにきゃあきゃあ楽しそうに語っていて、こいつらこのふたりみたいになりたいのかしら、と思ったものだったが、それを検証するのに丁度よさそうなドキュメンタリーがリリースされた。『リヴ&イングマール ある愛の風景』。 そうかこれが彼らが語っていた島か、と。

ベルイマンの映画で監督と女優として出会ったとき、彼女は25、彼は46で、ふたりにはそれぞれ家族がいたのに燃えあがる愛を止めることはできなくて、でもあまりに激しすぎてやばくなったので離れて、でもふたりの友情 - 監督と女優という関係もは彼が亡くなるまで42年間続いたんだって。

ふたりの関係の変遷は時系列で"Love" - "Loneliness" - "Rage" - "Pain" - "Longing" - "Friendship"といった章立てで表されて、ところどころでそのときどきの彼らのありようを象徴的に示すクリップがベルイマンの映画からの抜粋(当然リヴ・ウルマンが出ているやつ)で流される。 ベルイマン本人のメモや手紙にあった言葉は、本人ではない声優の声で聞こえてくる。
そこにあるのは彼女のベルイマンに対する熱くて厚い愛でありリスペクトであり、或いはふたりの関係、過ごした時間に対する感謝でもある。
でも、それがものすごくよくわかって見えてしまうが故に、こわい、かも。

そんなふたりの「ある愛の風景」を(再)構成したのはリヴ・ウルマンで、もちろんそれをできるのは当事者である彼女だけなのだから文句ねえだろ、なのだが、ベルイマンはお墓のなかでなにも言わないし言えない。 でも自分の作った映画が自身の過去(の恋愛じたばた修羅場)をサンプル投影するようなかたちで使われる、て聞いたらあたまきて墓から出てきたりしないだろうか。 そういえば亡霊がでてくる映画もあったな、とかあまりに失礼すぎ。

それくらいに彼女の彼に対する思いは強く揺るがないのだ、ということもできるし、彼の映画はそんな紙一重の向こう側で燃え広がる情念を追い続けてどこまでも深く広いものなのだからこのくらいの利用は許容範囲なの、ということもできるだろう、けどなー。なんかなー。

ぜんぜんどろどろじゃない、狂気の愛とかじゃない、彼女が最後にさらりと「これは復讐なの」と一言でも言ってくれたらかっこいいー て痺れたかもしれない、しかし実際には輝かしいキャリアとその遺産のなかでやさしく微笑んでいるおばあさんがいるだけなの。

メモや手紙は燃やしとくべきだねえ、と思ったが電子メールだと残るからやばい - でもだーれもリヴ&イングマールにはなれないからね。

これ、ベルイマンの特集と合わせてちょうど今Lincoln CenterのFilm Societyでも公開している。
でも同じとこでやってる、George Cukorのレトロスペクティブ - "The Discreet Charm of George Cukor" のほうだよねえ。
それにそれにFilm ForumのほうではBarbara Stanwyckのレトロスペクティブ - "STANWYCK"までやってるの。 あーあ。

12.15.2013

[film] Walden - Diaries Notes and Sketches (1969)

part1を2日の月曜日に見て、part2を見てから纏めて書こうと思っていたのに結局part2を見る時間はつくれなかった。 ちくしょうめ、こうなりそうな気がしていたんだよ。
まとめて上映したって3時間なんだから分けなくたっていいのにさー。

正式タイトルは"Diaries Notes and Sketches"のほうで、メカスが今も続けている日記映画のスタイル、そのおおもとが現れた作品、でもある。

ナチスから逃れてヨーロッパを彷徨い祖国を失い、米国に流れて、New Yorkに身を置いた彼、身寄りのない彼が訪れた場所、家族、そこにいた人達、集まってきた人達、などなどをカメラで記録し、繋ぎあわせていく。 それだけ。
たんなる日々の記録 - 日記の代替、ではない。 邦訳の出ている『メカスの難民日記』(おもしろいようー)とか『メカスの映画日記』(古典)とか、文章のかたちで残された日記も彼には沢山あることからも、これは映画の形式で日記を綴った、というより日記の形式を取ろうとした映画、映像の実践の記録なのだとおもう。 映画のなかに切りとられそこに流しこまれる世界、そこにおいて日々のノートやスケッチはどんなかたちを取って現れうるのか? それは例えばこんなふうな。

画面も光も絶えずせわしなく揺れ、呼吸しているかのように動きを止めない、その理由を映画は1秒間24コマの速度で記録をつづけるものだからだ、という(昨年邦訳の出た『ジョナス・メカス―ノート、対話、映画』より)。 映画は1秒に24の映像を積みあげることができる音楽のような濃度と豊かさをもったメディウムで、カメラは常に光の向かうところ、ひとの声のするところに向かい、我々はそれを見ているだけでその世界のなかに入っていくことができる。 世界のなかに入っていくこと、これが難民/移民だったメカスにとって切実かつ必要なことで、そのきりきりとした思いと対象に向かうアプローチは約半世紀前のNYを描いた今作でも、その後の"Lost, Lost, Lost" (1976)でも、最近の『メカス×ゲリン 往復書簡』(2011) でも変わらない。
生き残るための作法としての、今を生きるための映画 → Walden。

という側面のほかに、きれいな女性の前ではカメラの揺れが止まりやがるし、Tony Conrad(まだぴちぴち)とかCarl Theodor DreyerとかStan Brakhageとか伝説みたいな人たちがごくふつーに出てくるし、Velvetsのライブシーンだってある(Lou Reedだっている)。 なんかとてもふわふわ軽く流れていくのに実はすごいひとがうじゃうじゃいたりする。 それはNew Yorkだからだよ、かもしれないが。

あとは音がすばらし。冒頭から鳴り続ける地下鉄の音。これってなんでNYの地下鉄ってすぐわかるんだろう、って不思議でならない。

次はなんとしても"Lost, Lost, Lost"を。 これがメカスの映画を見た最初で、四谷にあったイメージフォーラムに入った最初だったんだよなー。 全て失われてしまったねえ。

あとは初期のショートも見たい。昔のWilliamsburgの移民コミュニティを記録したのがあって、なんだかじーんとするの。

12.14.2013

[music] Elvis Costello & The Imposters - Dec. 13

だれのせいだとは言わない、だれのせいでもないことはわかっているけどあまりにあまりのひどすぎる日々が続いてリミットを超えた。なにもかも嫌になって金曜日の午後やすんだ。
クーデルカみて、カイユボットみて、100% ChocolateCafeでチョココロネ食べて、NFCで政岡憲三みて、晩がこれ。

六本木の新しいシアターだそうだが、日本のそういうハコには一切キタイしないことにしているので、べつにふーん、だった。 入り口とか、ちょっと品なさすぎで恥ずかしいったら。

Costelloせんせいのライブは、2010年6月、London South BankのMeltdown (キュレーションはRichard Thompson ! アンコールでは共演)以来、その前だと2009年6月、NYのBeaconでのElvis Costello & The Sugarcanes、そのまえは…  80年代からだといったい何回見ているんだろ。

今回はほんとにくたくたなので助けてもらおう、とかルーレットとかあって楽しそうだし忘年会くらいにはなるかな、程度で。

ステージむかって右手に250フィートある(ほんとだよ)特大ルーレットがあって、左手にじゃらじゃらの下がったお立ち台があってダンサーのおねえさんが踊ってくれる。

バンドで出てきて突き出し、というかんじの5曲、テレキャスターが気持ちよく鳴る。2曲目に"Heart Of The City"なんかやってくれて、ふええーだった。

そのあとでMCであるNapoleon Dynamite(映画の彼とは別だからね、ねんのため)が登場し、客席から選ばれたひとがステージにあがって250フィートのルーレットをまわして演奏する曲を決める。
当たったのは、"So Like Candy"... びみょうなとこだねえ。 その曲に続けて即興でも1〜2曲やってくれる。 全曲ルーレットしてたらライブ止まっちゃうもんね。

2回めの回しで"Tokyo Storm Warning"がでて、やった! と思ったのに気にくわなかったのかもう1回まわし、そこで出た"Girl"で曲名の"Girl"が付いく3曲 - "This Year's Girl" - "Party Girl" - "Girls Talk" - ギターはジャズマスターが炸裂してるし、鼻血もんだった。 "Girls Talk"を聴けるなんて。 そこから続けて"Tokyo Storm Warning"もやってくれた。(わーい)

3回目は"She"で、こんなのルーレットに入れとくなよ、と思って憮然としてたら、いちおうこれ、Charles Aznavourの曲だからね、てせんせいは言い訳ぽく言って、フロアに降りてきて練り歩きながら朗々と歌う。(帽子のてっぺんしか見えなかった)。

4回目で"I Want You", そこから"(I Don't Want to Go to) Chelsea" - "Walk Us Uptown" - "Pump It Up"の鉄壁を流してひっこむ。 ここまででだいたい1時間半。

アンコール1回目と呼ぶべきか第2部と呼ぶべきか、まずSteve Nieveのグランドピアノで3曲 - "Shot With His Own Gun"のとんでもないこと。
そのあとはバンドで"Oliver's Army"からはじまる7曲。がんがん。
"Shipbuilding"をやり、"Bedlam"からThe Rootsとの最新作から"Tripwire"、その終りに祈るような語りかけるような"(What's So Funny 'Bout) Peace, Love And Understanding?"を繋いでみせる。
パーティのおちゃらけモードからは全く異次元のシリアスな暗さ、しかし圧倒的な強さがあって、この辺も(この辺こそが)まぎれもなくCostelloせんせいなのだった。
ライブのテンションはこの辺あたりがピークだったかも。

アンコール2回目はふたたびルーレットから始まって、"Everyday I Write the Book" (わーい)、さらに、ルーレットからぜんぜんやってくんない、という不満の声をなだめるかのように"Alison"からはじまって6曲ほど。"High Fidelity"を聴けたのがうれしくて、ラストは通常モードの"... Peace, Love And Understanding?" でぶっとばしておわり。 3時間みっちり。

いやはや。 客に皿まわしさせて遊ばせているようで、実のところ好き放題されてきりきり舞わされているのはわれわれだったという - まあね、はじめからそんなことだろうとは思っていたけどね、またしてもやられたかんじ。

あとは、Pete ThomasもSteve Nieveも、やっぱしとんでもねえなあ、だった。

12.11.2013

[film] 盲探 (2013)

8日、日曜日の昼間、六本木で見ました。  ジョニー・トーの新しいのをこんなところでしれっとやっていた。『名探偵ゴッド・アイ』

ジョンストン(アンディ・ラウ)が盲目の探偵で、元警察で、警察だったときの同僚刑事シトの部下の女刑事ホーがアシスタントでついて、ふたりしていろんな事件を追っかけることになる。 ジョンストンは頭脳明晰で、ホーは運動神経ばつぐんで、ホーはジョンストンに自分の子供の頃の親友で、突然失踪してしまった少女の捜索を依頼する。
ジョンストンは目が見えないぶん被害者の目とか立場とか状況を想像して、頭のなかでシミュレーションして推理するの。 あんたそんなの推理じゃねえよ思いこみだろ、て突っ込めないこともないのだが、実績ベースで彼は名探偵と呼ばれていて、ホーはそんな彼に憧れてぽーってなっている。

たまに座頭市みたいになるジョンストンの動き、芝居っけたっぷりのアクションとかふたりのじたばたしたコメディぽいやりとりは、あまりにちゃらちゃら適当そうでだいじょうぶかなあ、だったりするのだが、犯人とかターゲットの正体がべろんと剥がされる瞬間にぞわぞわと空気が変わり、でも目が見えない渦中の探偵にはそれが見えなかったり、という痛くて痒いかんじが伝わってくるあたりはやっぱりジョニー・トーの世界なの。

そして、中盤でジョンストンが4年間想い続けていたダンス教室の女性が同僚のシトに取られていた、という事実により失恋し、その芋づるでホーも失恋し、物語の中心が「失恋」という心身喪失状態にシフトしてくると、失踪事件の核心に横たわる闇がずるずる画面を覆いだして異様としか言いようのない世界になってしまう。
奇天烈なふくらまし方ころがし方でいうと、おなじ監督 - 脚本家による『MAD探偵 7人の容疑者』のかんじに近いけど、とっちらかったかんじ(よくもわるくも)はこっちのが上かも。
ひょっとして変な探偵シリーズで続いていくの?

テニスのスコートはいた裸人と、髑髏と銃撃のところなんか、ほんとめちゃくちゃだとおもう。
そしてラストのほのぼのは、あんなんでいいのか。 ほんとなら血まみれ呪われた子供、になるべきでしょあれ。

サイコサスペンス刑事コメディ、これを器用だねえ、というか、ごった煮だねえ、というか、わかんない。 でも変てこでおもしろいことは確かかも。
でも「毒戦」のからからに救いようのない沙漠感のほうがいいなあ。

食べもの関係は久々にてんこ盛りで、食べてばっかり。MAD探偵もそうだったかも、だけど。


映画のあとで代官山に行って久々に蔦屋をまわった。
やっぱしあそこの本の並びはぜんぜんだめだわ。性にあわない。

12.09.2013

[film] The Sessions (2012)

7日の土曜日の夕方、新宿で見ました。

昨年からずううっと見たかったのがようやく。
しかしこれをR18にするかね。まあね、秘密保護法なんかできるずっと前からこういうのの検閲とかぼかしとか、ひみつで理不尽で恥をしれ、の世界だったからね。 くそったれ。

6歳の頃にかかったポリオでほぼ全身の自由がきかず(感覚はある)ずっと横になったきり、夜の間は金属の呼吸器(Iron Lung)のなかで過ごしている38歳のマーク (John Hawkes)がセックスを経験してみたい、と神父(William H. Macy)に相談して、セラピスト経由でsex surrogateのシェリル (Helen Hunt)を紹介してもらい、6回のセッションを通して性を知っていく過程を彼自身で記事にして、とそういう実話がベースなの。

こんなことを求めるのを神様はお許しになるのか、なんとなくいけないことのような気がするし、相手は嫌がるだろうし軽蔑するかもしれないし、失敗したら - よくなかったらどうする、相手を不快にさせたら、嫌われたらどうしよう - などなど、これらって気楽に求めよう/求めたいという快楽の反対側で、ちょっとでも躓いたら深淵に落ちて、自分にも相手にも二度と立ちあがれないようなダメージを与えてしまうかもしれない、そんな畏怖や恐怖を誰にも相談できないまま、本を読んだりして悶々としている。 これって、30年以上寝たきり童貞のマークだけのものではなくて、だれだってそうなんだよね、最初は。 

映画はマークとシェリルが6回のセッション(実際には4回) - お仕事上の関係を通してそこに横たわるほんとうの「障害」はなんなのか、をほぐしていくような描きかたをしている - このへんを冗談にも露悪にも自虐にもせずにたんたんと真面目に向きあっているところがよいの。

詩人であるマークはもちろん、自身の家庭内ですこし陰りがあるシェリルの落ち着きも、4回目のセッションのあとで彼女との関係をさらりと解くところもよくて、他にシェリルの前にヘルパーだったアマンダとか、シェリルのあとで出会うスーザンとか、ヘルパーのヴェラとか、彼を囲んで登場する女性がみんな素敵で、マークの思いをそれぞれに受けとめようとした女性たちの映画として見ることもできる。

例えば、「さよならを待つふたりのために」がぜんぜん難病モノではなかったのとおなじように、この作品も障害者モノなんかではなく、愛と性が、言葉が、ふたつの、ふたりの体の間で響き合うさまをそうっと掬いあげる。 その眼差しの思慮深さ、注意深さこそみんなが見て心に刻むべきもので、だーかーらーR18なんかありえないんだって。

もうちょっとユーモアがあってもよかったかも、だけどそういうのは"The 40 Year Old Virgin"あたりに任せておけばいいの。 William H. Macyはほのぼのとおかしかったけど。

12.08.2013

[film] The Saragossa Manuscript (1965)

ああもう書くじかんも見る時間も読む時間もぜんぶ - 。

1日の日曜日の昼間に見ました。 「サラゴサの写本」 - "Rekopis znaleziony w Saragossie".
昨年のポーランド映画祭で逃してほんとうにくやしかったやつで、今回はぜったい、で、ほんとは11時のアニメーションの回から詰めるべきだったのだが、前日のHostess Club Weekenderではしゃぎすぎたのでぜんぜん起きれなかったの。

ナポレオン戦争の頃の戦場でフランス兵とスペイン兵が納屋のようなとこで鉢合わせして、そこにあった古書を見ていたスペイン兵が、これはぼくの先祖の話だ! て言って、そこからその先祖 - アルフォンソが主人公である昔昔の話になる。 アルフォンソが山を越えてマドリードに向かおうとするのだが、そこには極悪な山賊兄弟とか謎の美人姉妹とかがいて、すんなり前に進めない。 召使が消えてしまったり、旅籠にたどり着いて姉妹に振るまわれた酒を呑んで気がついたら、とか、途中から割りこんできた隠者の話の世界に入りこんだり、世界が幾重にも入れ子になっていて、夢なのか現実なのか、時間軸もどうなっているのかわかんなくて(3層か4層くらいある気がするが、ひょっとしたらぜんぶフラットかもしれない)、登場するひとたちの顔も見たような見ないようなで、でも話ぜんたいがめちゃくちゃかというとそうでもなくて、それは夢というのがそんなにめちゃくちゃではなく、夢のなかでは「わかる」のと同じ程度にはわかって、映画としてひとつの物語、ひとつが起点となったいくつかの物語を描いていることはわかるの。 夢を見ている時間とすれば、182分はぜんぜん長くない。

最初は「聖アントワーヌの誘惑」みたいな話かなあ、と思っていたのだが魑魅魍魎も宗教もあんま関係なくて、マッチョな権力とか見栄とか、女女女とかでひたすら突っ走る、そんなかんじの。

やがてそこで経験している山賊兄弟とか姉妹とかがみんな本のなかに描かれていることがわかり、更にそれは写本である以上、常に新たに書き加える、書き加えつつ読むようなことも可能であることがわかると、この果てしない物語の全貌がいつまでも超えられない山の向こうに見えてきてくらくらする。

それはめんどくさくてやたら長い、けどおもしろくて止まらなくなる本をきちきちと読み進めていく快感とおなじ心地よさをもたらしてくれて、アルフォンソも隠者も狂ったひとも寝取られ貴族も童貞小僧もみんなずーっと本だか映画だかのなかで彷徨い続けている、恋をしたり決闘をしたり追っかけたり追っかけられたりを繰り返しているのが見える。

こんなふうに映画も本も世界をまるごと包みこんでしれっと存在し続けるんだねえ、ほんとうだろうが法螺だろうが、という大風呂敷感がたまんないのだった。

この作品に魅了されたというブニュエルの法螺映画と比べるととてもかっちり、スタイリッシュなかんじはして、特に次のエピソードにジャンプする瞬間、そこから戻ってくる瞬間のつなぎは素敵だとおもった。

昔、国書刊行会から出ていたJ.ポトツキによる原作(邦訳は全訳ではないらしいが)も読みたいねえ。

12.04.2013

[music] Neutral Milk Hotel

30日の午後、Hostess Club Weekenderで恵比寿に行った。
午前は、Record Store DayのBlack Fridayでぜんぜん期待せずに新宿に行った。
まったく期待はしていなくても買わなければいけないのはあって、散財したら重くてどうしようになってしまったが、ライブは行かねばならないのだった。

着いたのは3:30くらいでDeloreanの終りのほう。
でろーりあん。 かわいいかんじ。

初日のSebadoh - Okkervile River - Neutral Mild Hotelていう並びはほんと素敵で、チケットもすぐ買ったのだが、メルボルンにいたとき、ホテルの近所のホール(The Forum)で11/15,16の2日間、Neutral Milk Hotel - Superchunk - M.Ward ていうのが出ていて、この並びでもよかったなあ、とか。

前回Sebadohを見たのは2011年の11月のWilliamsburgだった。
そのときは23時に始まってだらだらだらだら1時半過ぎまで、でも音はじゅうぶんやかましく押しまくり吹きまくりでびっくりで、今回のもおなじモードだったかも。
1時間の制約がなければ、喋りも入れて3時間くらいはやりそうな勢いだった。
彼らに90年代の、くされた壊れもの - Lo-Fi - のイメージを期待しておくのは、もうとっくに誤りなの。

Okkervil Riverを初めて見たのは、2010年5月、Webster HallでRoky Ericksonのバックバンドとしてだった。
目線が終始どこかを彷徨っている樽のような御大の横にぴったりと寄り添い、尽くしている姿、それをどっしりと支える実直な音の硬さが印象的だった。  バンド単体の音はどうか。

Sebadohなんかとは別の意味で地面を這いつくばって揺らすマイナーな音、地下の音。 Roky Ericksonの昔から鳴りつづけているアメリカの音が炸裂する。
それは炸裂、としかいいようのない痛快なものでだれもが一緒にバウンドしたくなる分厚い音の奔流、そんな出だしの痛快なこと気持ちよいこと。
どかどか力強いドラムスはCursiveのCully Symingtonさん。ベースもギターも鍵盤も、そこを軸に吹き荒れるというよりはぶあつい壁とかぶっとい幹とかをつくる。

長髪髭面メガネ、というとっても60s - 70s学園紛争ぽいヴォーカルWill Sheffの扮装を含めて、どこからこんな音が、なのだが有無を言わせぬ強さに溢れている。
特に終盤、Willのソロのエモまるだしの絶唱から時間がないからって大急ぎでどんぶり飯をかっこむ勢いで突っ走った数曲のなりふり構わず感はすばらしいものがあった。  Roky Ericksonのときにはこんなに狂うひとだとは思わなかった。
REMがなくなっても、Sonic Youthがなくなっても、Okkavile RiverとWilcoがいればこの辺の音はだいじょうぶかも、とおもった。

最初のSebadohは後ろのほうで見てて、次のOkkervile Riverは真ん中より少し前のほうに出て、NMHのときには向かって右の前の前くらいまで行った。
休憩時間、普通は座ると思ったのに外国の方々はみんなまじめに立って待っていた。 そういうもんよね。めったに見れない珍獣だもんね。

Jeff Mungumのソロを見たのは、2012年の1月のBAMの3daysのまんなかだった。 ATPのキュレーターとして「復活」はしていたものの、まだまだ伝説扱いだったから、このときもそれなりの騒ぎにはなって、その理由がようくわかる規格外のライブだった。

幕が開いたらちょうど右側にいたJeff Mungumさんだったのでうれしかった … けど、なんといういでたち、なんというバンドだろう。
Jeffはだんだらのセーターみたいのに髭ぼうぼう(Jim O'RourkeかPaddy McAloonか)、反対側の奥にはホルンとかチューバの、それ自体が管楽器としかいいようのない太鼓腹の、サンタクロースのふたり、ドラムスはとっても胡散臭く、まんなかのJulian Kosterだけ青い毛糸帽でにこにこきょろきょろ楽しそうだが、バンド全体に漂う怪しいオーラがたまんなくおかしい。

ライブの構成は"In the Aeroplane Over the Sea"を1曲目から追うかんじで、寄りみちをしたりしながら、最後もそのおわりに寄りそう。

Jeffのソロのライブとは当然のように、ぜんぜんちがった。 あのときはサイドにJulianもいたしNMHの曲も同じようにやっていたのだが、こんどのはもろNMHとしか言いようがないものだった。
ヴォーカルはリミッターかけているのでは、と思うくらいバンドの音のエッジに沿ってとんがって伸び、そうはいっても最初のうちはほんとにがたがたで、公民館でやってる市民バンドか、みたいなかんじなのだが、だんだんに驚異、としかいいようのない魔法のカーテンかじゅうたんか、みたいのがおりてくる。 それは街頭のチャルメラの音色が撚り合わさって宇宙の調べに繋がっていくような、音響的になにかすごいことをやっているとはぜんぜん思えないのに、そんなふうに聞こえる。
あの音楽ノコのぽわわわぴにょーん、とかいう音にやられてしまうのか。

で、そういうアンサンブルの魔法のほかに、やはりJeffの声、それはそれでとてつもなく、そういう意味でのピークは終盤の"Oh Comely"あたりだったかも。
それと、最後の最後に音楽ノコと一緒に宙にふんわりと浮かんだ"Engine"と。
じゃらじゃらと鳴りつづける砂のギターの上に雨のように降ってくる、鐘のように割ってはいってくるJeffの声。 その声とギターのつくるダンゴが、バンドが吹き鳴らす音とおなじでっかさなのがすごいの。

で、最後はDee Dee Dee … でおわるの。

たまに演奏に入っていたあの女性はJuana Molinaさんだよね?

11.30.2013

[log] Melbourneそのた - November 2013

26日の夕方、恐怖国家になりさがってしまった自分の国に戻ってきました。やだやだ。
しかも戻ったら戻ったで仕事漬けでさいてーでやってらんねえ。
帰りの機内で見た映画は2本。

Red 2

もともとが漫画なので漫画ぽい、としか言いようがなくて、そこそこおもしろいけどなんだろ、Bruce WillisもJohn Malkovichも引退した凄腕の元スパイ達には見えなくて、かろうじてそんなふうに見えるのはHelen Mirrenくらいで、あれだけ弾を打ちまくってぜんぜん仕留めることができないイ・ビョンホンを現役最高の殺し屋とか言うのは冗談だろ、だし、横できゃーきゃー言っているだけのMary-Louise Parkerはいらないんじゃないか、とかいろいろ突っこみどころもいっぱいで、筋に集中できないまま終わってしまった。


毒戦 (Drag War)

もうじき公開されるジョニー・トーの新しいやつ、我慢できずに見てしまった。でも映画館でも見るからね。

ラリった状態で料理屋に車で突っこみ捕えられた男 - 麻薬工場の事故で家族を失い自棄になってて、このままでは死刑確実の男 - を利用して大規模な麻薬サプライチェーンへの潜入捜査を試みる麻薬捜査班の苦闘を描く。
最初のほうはじりじりはらはらの取引と駆引きの世界が続くばかりでこれのどこが、だったのに、"War"としか言いようのない銃撃戦になだれこむ終盤の展開がすばらしいー。 しかも今回は白昼の路上。 距離のとりかたがすごいねえ。
いつものように銃に撃たれたとき、続けさまに撃ちこまれたときの痛いかんじをこれでもか、と見せてくれる。

映画館で見たときにまた書きましょう。
メルボルンでのその他あれこれ。

23日の土曜日、ペンギンに行く前にQueen Victoria Marketていうでっかい市場に行った。
日用雑貨から生鮮食品、デリまでなんでもそろうでっかい市場で、食べものはどれもおいしそうで、我慢できなくなってホットドッグ(でっかい)食べて、生ガキ1ダース($12)食べて、果物屋でチェリー200g買ってたべて、ドーナツの屋台トラックが出ていたので2ヶ(いっこ$1.1)食べた。 ペンギンに備える必要があったんだよ。

魚屋はイワシもアジもマスもイカもタコもカニも、どいつもこいつもぴちぴちおいしそうだし、肉屋はすべてがぶっとくて赤身好きにはたまんないものだった。 これだけ自然産品が充実していたらそら壁作って守るよね。
オーガニックのコーナーもあったがまだ規模は小さくてこれから、のような。

24日の日曜日の午後、天気もよかったし前回のリベンジと前日のリベンジ - こっちを向いているウォンバットを見たい - にのぞむべくもういっかいメルボルン動物園に行った。
ウォンバットがだめだった件は書いたが、今回はコアラもカンガルーもエミューもだいたい見れた。けどでっかいペンギンとアシカは出ていなかった。 前日の小ペンギンは木の間でかくれんぼしていた。

おもしろかったのはミーアキャットで、いろんなポーズとって楽しませてくれて、やっぱし猫なんだこいつら、とおもった。













動物園を出てからこれも前回とおなじくGertrude St界隈に行った。
いまだに地図上のどのへんにあるのかわかっていないのだが、こんなかんじなの。

http://www.gertrudestreet.com.au/

レコード屋は新たに"The Searchers"ていう古本&古レコード屋を見っけて、なかなかすばらしかったのだが時間もあんまなかったので諦めた。

料理専門の古本/新本屋では1時間くらい遊んでいて、買ったのはそんなに古くない古本 -
Sarah Freeman "Mutton & Oysters - The Victorians and their food" ていうの。
イラストもいっぱいあっておもしろそう … だけどほんとにいっぱい、どこまでも積みあがっていくねえ今年は。

あと通り沿いのArcadiaていうカフェで食べたラザニアはなかなかびっくりのおいしさだった。

さっきNeutral Milk Hotelを見て帰ってきていつ死んでもいいくらい幸せなので、もう今年があと1ヶ月しかなくてもいいんだ。

11.29.2013

[film] The Hunger Games: Catching Fire (2013)

24日の日曜日の夕方、メルボルンの街中をうろうろしたあと、ホテルの下で見ました。
ほかにはThorとかも見たかったのだが、まずはこっちよね。

前作の監督:Gary Ross、撮影:Tom Stern、音楽監督:T-Bone Burnettといった重厚で地に足のついた製作陣と比べると、次々とリリースされたトレイラーを見ただけで安くなっちゃったかも、という気がして、それは確かにそんなふう、特に最初のほうはなんか退屈で、どうすんだこれ、のかんじが漂うのだが、後半に向かうにつれて変なふうに変貌していく。

前回のHunger Gameで勝利したKatniss (Jennifer Lawrence)とPeeta (Josh Hutcherson)を"Hope"の象徴として革命の神輿にあげようとする反乱勢力とこれを逆手にとって"Fear"の象徴に置き叩き潰そうとする権力側の戦い、という軸と、とりあえず家族の生活は保証されたし、元の恋人Gale (Liam Hemsworth)と表の恋人Peetaとの関係も問題ないし、でも権力者への憎悪はたぎりまくるKatnissのぎりぎりした日々と。

全体にぐしゃぐしゃの、べたべたのエモが漲っていて、出てくる人達はどこかしら狂っていて、それが伝染してみんな異様なテンションで走り回っているかんじ。
けっか、衣装も表情も動作もとってもB級ぽいのだが、それ故の妙な切なさと熱が襲ってきてだれもかれもをハグしてキスしたくなる、そんな映画なの。
のれるひとはのれるけど、だめなひとにはぜんぜんだめなのではないか。 わたしはたまんなくなって3本指ポーズをしたくなった。

とにかく誰彼キスしまくって、むくれて狂ってイノシシのように突っ走るJennifer Lawrenceがすごい。  Léa Seydouxの不機嫌にアメリカの荒涼と無軌道を足したようなものすごい形相でつねにぷんぷんしてて、サバイバルとはいえこんな娘に振り回されるPeetaとGelaがかわいそうになる。 Peetaなんて、結婚したらぜったい尻にしかれるに決まっているのに、それでもそんな女といたいの? なにかを握られてるの?

それでも、そんなふうに彼女が堂々傍若無人に画面上にのさばっているが故に、彼女のふくれっつらとキスがものすごくリアルにやってくるし、くそじじいのPresident Snow (Donald Sutherland)がこいつを(or 互いを)心底うっとおしいと思うのもようくわかる。
それは"Silver Linings Playbook"での混乱した危険なTiffanyそのままのようでもあり、とにかく目が離せない - こっちには寄ってこないで、と祈りつつ。

そこに今回新たに加わったJohanna (Jena Malone)のほれぼれするようなビッチぶり。 まるで杉本美樹と池玲子だよね。 恐怖女子高校じゃなくて恐怖国家で。

ラストのKatnissの怒りに燃えた目 - てめえぜったいぶっころしたる!- はどう見たってやくざ映画のそれで、そう思ったらMockingjayのピンがやくざの代紋にしか見えなくなった。
それはそれでぜんぜんよいし、革命映画とし見てもMatrixなんかよか断然おもしろいの。

エンディングで流れるThe Nationalもしみるんだねえ。

11.25.2013

[log] November 26 2013

昨日の夕方、メルボルンからシドニーに着いて、空港前のホテルで(寝れないのだが)寝るだけで、日本時間の3:30amに起きてパッキングして、なんとかシドニーの空港に着いて、ラウンジでButtermilk Pancake(いちいち作ってくれる)とホットミルクをいただいて、ふう。となったところ。 
パンケーキは生地がべっちゃりめだし、付け合せのベーコンがカナディアンベーコン(ぽい)のがちょっと、なのだがお腹はおちついたかも。

今回は、映画3、ペンギン1、動物園1、市場1、そんなかんじだった。
レコード屋は行ったけど買わなくて、Books for Cooksで古本と雑誌を買ったくらい。

牛は食べなかった。 生牡蠣は2ダースくらいたべた(控えめ)。

日曜日に"Adoration"を見たあとで前回も行ったMelbourne Zooに行ってみたのだが、今回もウォンバットはだめだった。 いたことはいたけど、前日のやつと全く同じポーズで、穴のなかで背中を向けてまるまっていた。 動物園のゲートを抜けてすぐに見にいった時がそうで、1時間半後、帰りぎわにもう一回行ってみたけどおなじだった。しんでた。
日曜の昼間だし眠いのはわかるけどさ、もうちょっとがんばってほしい。














というわけで、ウォンバットへの妄想は膨れあがるばかりだったの。
ちょっとでも姿みせて愛想ふりまいてくれたら仕事だって1000倍がんばるのにな。

今週の残りもぱんぱんなので帰ってもたのしくない。 
Thanksgivingだというのにー。

ではまた。

[film] Adoration (2013)

24日、日曜の朝10:00、よろよろとホテルの下に降りていって見ました。 まだペンギン熱が冷めない状態で。

オーストラリア/フランス映画(撮影はNew South WalesのSeals Rock)だし、原作はDoris Lessing の短編"The Grandmothers"(未読)だし。
元々のタイトルは"Two Mothers"で、米国リリース時のタイトルは"Adore"、だった。

Roz (Robin Wright)とLil (Naomi Watts)は、幼馴染で、海が見えるSeals Rockでずっと一緒に遊んで育ってきて、結婚してからもずっとこの場所に住んでいて、Rozの子はTom (James Frecheville)、Lilの子はIan (Xavier Samuel)で、彼らふたりもサーフィンしたりしながら彼女たちと同様、一緒に大きくなってきた。

冒頭でLilの夫/Ianの父の葬儀のシーンがあって、でもふたつの家族が楽しく一緒に過ごす時間は変わらず、ある日ママたちの昔のアルバムを見ていたら、そこに亡き父の姿をみつけたIanは寂しくなってRozのとこに行き、一緒に寝てしまう。  自分のママがIanの寝床からジーンズ脱いだ姿で出てくるのを目撃したTomは衝撃を受けてIanのママに言いつけると、自分だって負けるもんか、とLilと寝てしまう。 おおらかでよいこと。

ママ同盟は緊急会合を開いて一線を超えるのはよくないわ、と合意に至るも、若い彼らの性欲の前になすすべもなくやられっぱなしとなり、更に気まずくなった二回目の会合での会話; Roz「最近どうよ?」、Lil「すんごくいい」 ... 「これを止めなきゃいけない理由なんかないと思う」  ...  というわけで、4人の幸せに満ちた関係が続いて2年、ふたりの若者はとも社会人になり、Tomは父親の演劇関係の仕事を手伝うべくシドニーにいて、オーディションにきた若い娘と仲良くなり、結果Lilとは疎遠になっていく。 んで、Lilは、いつかこの日が来ると思っていたわ、と諦め、RozもおなじようにIanに、もうやめましょ、と言って突然そっけなくなり、やがて若者ふたりはそれぞれ若いお嬢さんたちと結婚し、おなじようなタイミングでそれぞれに娘が生まれて、おばあちゃんたち - 息子たち とその妻たち - 孫たち という新たなファミリーツリーができあがる。

で、こんどは成長した娘たちがお互いのパパたちと...  ていう方向に行くかと思ったら、さすがにそうはならず、もうひと悶着あってわくわくするのだが、とてもおもしろい。おもしろがるような性質のもんか? というのはあるのかもしれないけど。

でもさーこれ、海沿いの美しく穏やかな色彩と陽光があって、そこでの生活に困らない人たちと、あの4人の整ったルックスがあって初めて成り立つおはなしだよね。
どれかひとつでも欠けたら見たくなくなるかも。
特にふたりの女優 - Robin Wrightの毅然とした姿・表情とNaomi Wattsのぐんにゃり柔らかい物腰の対比が見事で、とくにNaomi Wattsの艶っぽさにはなかなかびっくりした。

なんか、ペンギンのコロニーって、こんなふうなのかも。 (←まだ冷めてない)

音楽は、みんなで酔っ払ってダンスするときにKirsty MacCollの"In These Shoes?"がかかるのがうれしい。 しかも2回も。

[log] Penguins - Nov.23 2013

先にも書いたが今回の出張は完全Awayでストレスまみれのずたぼろで、どうしてくれよう、なのだが、同行者のなかにずっとペンギン~ ペンギン~ てうわごとのように呟いているひとがいて、なんなのか聞いてみるとPhillip Islandていうとこにいくと野生のペンギンの行列が見れるのだという。
でも島とか船で行くような場所だと万が一のことが起こったときに怒られるので、うーんと困っていたら車で2時間くらいで行けるのだと。
結構有名なツアーらしいのだが知らなくて、やってらんなくなった合間にサイトとか見ていたら脳の底で暫く眠っていたワイルドライフ熱が渦を巻き妄想を呼び、やがてそれが暴走を始めて週末はぜったいこいつらに会いにいくんだ、待ってろペンギン! になってしまった。

http://www.penguins.org.au/

行くにはメルボルン発の観光ツアーに申し込むしかなくて、でもそういうのは苦手なので若いひとにやってもらい、でも観覧席はGeneralじゃなくてPenguin Plusじゃないとやだ、とか注文つけてすまないことをした。
だって、Penguin Plusの席のがよく見えるっていうんだもの。

自分のこれまでの記憶にある一番のペンギンモーメントは、95年頃、ガラパゴスのBartholomew Islandの海でシュノーケリングしていたら横にぴゅん、て寄ってきて一緒に泳いでくれたやつ(ほんとよ)と、同じ島の尖り岩の横でたったひとり、天を仰いで「あー」って相手を切なく呼んでいたやつで、それらを思いだしたらここのLittle Penguinsを見ないで帰るなんてありえない、とおもった。 

というわけで23日の土曜日、丸一日潰して行く。
朝起きたら窓に雨の水玉が見えて死にたくなったが、9時頃にはあがっていた。たまに小雨がきたりする程度。

1時くらいにバスに乗ってちょこちょこ寄り道しつつ、ペンギンが待っているとこ(べつにあんたなんか待ってねえよ)に向かう。
パレードが始まるのは日没から、昼間海の沖合に遠出してご飯を食べていた彼らは日没に合わせて陸にあがって、海岸沿いの草地とか灌木地にある巣に戻ってくるの。今の時期は繁殖期で、戻ってくる群れのなかには既に子供(ルーキー)も含まれているそうな。
なんで日没まで待っているのかというと陸にいる天敵 - 狐とか鷹とか - を闇に紛れて避けるためなの。
ちなみに22日の日没は20:41、この日は1134匹が海から上がってきたのだと。
彼らはこういうのをずうううっと、毎日土日もなしに何百年も(たぶん)続けているんだよ。 えらいねえ。

途中寄り道した牧場みたいなとこにはタスマニアデビルとカンガルーとコアラと羊とロバと馬とエミューとクジャクとトカゲがいた。 カンガルーの餌($2)を買って、食べさせてあげようとしたのだが、カンガルーくんは飽食していたのかそっぽ向いてて、ロバのところに置いてみたら容器ごと持っていかれてしまった。 ロバなんかだいっきらいだ。

あと、ウォンバットさんもいたのだが、穴のなかでふてくされて丸まっていた。あんなふうに丸まられてしまうと猫でも犬でも豚でもウォンバットもでおなじただの毛玉だよね。

それからNobbiesていう岬にも少し止まった。カモメも繁殖期とかで丘の斜面にヒナがうじゃうじゃいてうるさかった。そこに行くまでの野っぱらがワラビーの保護区になっていて、草の間に何匹か頭をだしていた。

19:30くらいにペンギンセンターに着いて、チケット貰っておみあげ屋をのぞいたりしたあと、遊歩道を抜けて観覧席のあるとこに向かい、闇に暮れようとしている海に相対して座る。 あたりまえのように寒いったら。これ、風が強かったらしぬかも。

20:30頃、波打ち際のところにもそもそ動くいくつかの黒い点が確認できて、それらが揺れたり固まったり離れたりしながらペンギンぽいシルエットの塊を作り、それが次第に大きくなる - つまりこちらにだんだんと近寄ってくるのがわかる。 たくさんのペンギンがこちらに向かって歩いてくる - いや、こちらではなく、それぞれ自分ちに帰ろうとしているだけなのだが - それだけでなんでこんなにぞくぞくわくわくしてしまうのか。 宇宙人とか変な怪物とか、むこうからこちらへ、意思が通じるとは思えないなにかがやってくるのとおなじようなイメージなのね。

観覧席の前にはちいさい丘みたいのがあり、丘を下りたところに海のほうに流れていく浅い水路があって、その水路を渡ったあとは各自家路に向かうだけ。道はいくつかあって、緩やかな上り坂になっているパス(ペンギン達が何十年もかけて踏み固めていったものだという)を通っていくのもいれば、整備された通路を抜けてセンターの周囲の森に行くものいる。歩く距離はだいたい1kmだって。 30cmの背丈の彼らにとっての1kmって。

で、20:38頃、近寄ってきた彼らの影がしばらく消えた、と思ったら丘の上にひしめく一団となって現れてそこで暫く待機か、とおもったら最初の5~6羽がよたよたと丘を下りはじめる(客席全員溜息 ~ サイレントの悲鳴)。 つんのめって転がり落ちるようなやつ(ごめんね期待して)はいなくて、下まで着いたらこんどは水路を渡る - ぴちゃぴちゃぱたぱたぺたぺた ていう水音も愛おしく、その渡りを終えると、ふたたび止まってえーとどっちだったっけ、とか固まって考えてて、じゃあねーまたあしたー、というかんじでそれぞれが自分たちの巣に帰っていく。2羽一緒のが多いが、1匹単独のもいる。 最初のグループにいたうちの3羽は、斜面沿いのペンギンパスをふたたびよろよろ登り始め、ものすごくゆっくり、でも3羽一緒にがんばってて、そんな後ろ姿もたまんないのだった。

最初のが下りたあとは次から次へ、でも決して怒濤のレミングとかヌーになることはないペンギンパレードで、だもんだからいくら見ていてもまったく飽きないの。 たまに逆方向に戻っていくやつとか、丘から離れた草むらでぼーっとしているやつとか、丘の中腹の盛り土の上でぐるぐる回転しているやつとか、いろんなのがいるの。 

完全に日が落ちて暗くなると(観覧席のところは薄暗い照明あり)、丘に上がったあとにパートナーを呼び合う声がやかましくなる。ぽぽぽぽぽみゃーみゃーにゃーにゃー、とかそんなふうで、その声が重なりあい、暗い灌木の茂みのなかからサラウンドでわんわん響いてきてすごい。グレムリンのギズモの、あんなふうな声よ。 こいつらがグレムリンだったらおもしろいのになー。 海に浸かって増殖したやつらが人を襲いはじめるの。

途中から雨が来たこともあって21:10くらいから客は退けはじめ、われわれも21:20くらいには遊歩道を抜けて戻る。 戻る途中もペンギンさんたちと一緒に帰るかんじで楽しいの。

センターに戻ったとき、体は冷えきっているのでみんな暖かい飲み物(おまけ)を貰うのだが、かんぜんに頭がオーバーヒートしていたのでアイスキャンデーを食べた。 気味悪がられたが、気持ちよかった。

で、9:45にバスに乗り込んで、ホテルに着いたのは23:40くらいだったか。
眠かったが仕事のメールとかが入ってきたのでむかむかと対抗しつつ、車中で流していたBBCのドキュメンタリーシリーズ - "Penguin Island"ていうのを見て復習していた。 ペンギン博士にでもなってやろうか。

ちなみに写真撮影は厳禁なの。 映画とおなじく目に焼きつけて帰るしかないの。

また見たい。こんどは1月か2月に。仕事ぬきで。
それか、パタゴニアか南アフリカで。

11.24.2013

[film] Sister (2012)

今回の出張は、ほんとまじで動けなくて死にそうで、二度とこんなとこ来るもんか状態なのだが、それでも木曜の晩に抜けだして見ました。
ホテルが入っているコンプレックスの1階にあるシネコン。 9月に来たときはここで"Frances Ha"を見た。 上映されたのはそのときと同じ部屋(ちっちゃい)だった。

原題は"L'enfant d'en haut" (そのままか)のフランス/スイス映画。
Léa Seydouxが主演、音楽はJohn Parish & PJ Harveyときたら見ないわけにはいかないの。

スキーリゾート地の麓に暮らすSimon (Kacey Mottet Klein)は、小学校高学年かせいぜい中1か中2くらいのガキで、スキー場の更衣室とかに忍びこんでリュックとかゴーグルとか手袋とかスキーとかを盗みだし、それを周りの子供とか大人とかに売り捌いてお金を稼いでいる。

彼の姉と思われるLouise (Léa Seydoux)はSimonの目の前で男と喧嘩して別れて、そのまま木の陰で座りションするというあっぱれな登場の仕方からもわかるように、典型的なダメ女で、仕事も男もぜんぜん続かなくて、生活費はSimonの腕に頼りっぱなしなの。 SimonはそんなLouiseに呆れたり悪態ついたり、しょうがねえなあ、とか言いつつも養ってあげてて、彼の商売だって紙一重で危ない目にあっているのにLouiseにはなにも言わない。

物語はクリスマスの直前からスキーシーズンが終わり、つまりSimonの稼ぎブチがなくなる春前までのふたりの喧嘩したりくっついたり大喧嘩したり、でも結局離れられなかったり、そういう日々を追う。 突然事態が好転したり王子様とか一攫千金とか、そういうのはなくて、寒そうな冬の光景とひりひりした生活、暖かくない家庭、憎んでは憎まれのずるずるした関係が続いていくばかりで見ていて胃が痛くなるのだが、でも野良猫Louiseと野良犬Simonの面構え - 不機嫌に怒ったり泣いたりいがみあったり - がどこまでもすばらしく、つまり一匹と一匹のお話の力強さ、突き放した冷たさ硬さ、は徹底していて目を離すことができない。

ラストのケーブルカーのとこなんて、なんと言ったらよいのか。

あと、このタイトルはね。

音楽はそんなに鳴らないのだが、John Parish & PJ Harveyの"Girl"の、あのちりちりしたギターとポーリーの擦れ声が遠くに聞こえるのと、John Parishのインスト - ケーブルカーのワイアーの軋みにピアノが被さってくるとことか、この2人の音、あの音の肌理以上にふさわしいものがあるとは思えない。

Simonを演じた彼もすばらしいのだが、Léa Seydouxの凄さを改めて。
いま一番見たい映画は"Blue Is the Warmest Color"なの。

11.23.2013

[film] À Nos Amours (1983)

10日の日曜日の夕方、上野をうろうろした後、イメージ・フォーラムのピアラ特集で見ました。 時間も体力も尽きていて泣きそうだった。

「愛の記念に」。 英語題は"To Our Loves"。

Suzanne(Sandrine Bonnaire)はLucていうそれなりに素敵な男の子と仲良かったのだが彼とはうまくいかず、友達とつるんで男をとっかえひっかえして、家にも寄りつかなくなり母親はヒステリックに怒鳴りつけたり引っぱたいたりするし、兄も「このビッチ!」とかぶんなぐったりするし、どこにも行き場がなくてうろうろすればするほど家庭は壊れていって、婚約パーティでも離れていた父親(Maurice Pialat)の登場でさらに場が崩れてしょうもなくなるのだが、翌日彼女は別の男とからから旅立って、父もそれを暖かく見まもるの。

この作品が作られた80年代初の岡崎京子的な、命短し恋せよ乙女的な文脈で読むこともできるのかもしれないが、それとは違う気がした。
そこまでべたべたに愛を求めていないようで、でもそれは水や空気とおなじで、それが尽きたらすぐに死んだっていい、そういう潔さと激しさが裏側に、彼女の血としてある。

そんな娘を体現する、冒頭の演技のリハーサルシーンからだんだんに眼差しが座って力強さを増していくSandrine Bonnaireさんがすばらしい。

パーティに現れた父親が、ピアラが、ゴッホのことを言う。  ゴッホが実際には言わなかったかもしれないが、言ったはずのこと、として。
「侘しさだけがいつまでも残る」と。「侘しさとは他者のことだ」と。
ゴッホがテオ宛の手紙でそんなようなことを言っていたのは芸術についてだったとおもうが、芸術を愛に置き換えてもまったくおかしくない。

そしてここまで来ると、ラストのSuzanneの清々しさと、"Van Gogh"のラスト、喪服姿のMargueriteの力強い目ははっきりと繋がることがわかる。
侘しさを突き抜けて、愛を自分のものとした彼女たちの美しいこと。美しくあれ、と。

それにしても、画面に登場するピアラの存在感の強いこと臭いこと。
小汚く、うさんくさいおやじ臭さときたらファスビンダー級なのだが、フランス風のよりうさんくさいかんじがたまんない。

音楽はPurcellのオペラ「アーサー王」から"The Cold Song"、これをKlaus Nomiが歌っている。

あなたにはわたしがどれほど硬くしなびて老いて寒さに脆く、息をするのもきついかわかっているのかしら?
いっそのこと凍死させて。させて。させて。

というようなことを歌うの。

11.22.2013

[film] Carrie (2013)

6日の水曜日の晩、有楽町でみました。

De Palmaのオリジナル版(1976)も見ていないし、キングの原作も読んでいない。
オリジナル版のビジュアルは、当時の自分にはあまりにおそろしすぎて、こんなの見たらしんじゃうに決まっている、だったの。

歳とっていろんな映画を見れるようになったし、Chloë Grace Moretzさんは、この娘はなんでこんなに血でびたびたの映画ばかりに出るんだろうねえ、というのが気になってしょうがなかったので、行った。

Julianne Mooreの出産シーンから始まって、血塗られた子供なんだねえ、というのはわかるのだが、そのあとでその赤ん坊はChloë Grace Moretzさんになっていて、呪われたかんじはぜんぜんしなくて、ごくふつうにふっくらかわいいのに突然いじめられるのでよくわかんなくなる。 まあいじめというのはそもそもが理不尽なものであるしな、と思っているとこんどはさらに理不尽な超能力、ていうのが出てきて、すべてはそういうもんである、というトーンで運んでしまうので、ホラーというよりはSFみたいなかんじがしてしまうのだった。

半端な学園ドラマに重心を置くより、折角がんばって目を剥いてふぅふぅ言っている(自傷癖ありの)Julianne MooreとCarrieの親子関係に的を絞って掘りさげて積みあげていったらもうちょっと怖いものにできた気がする。  怖くなくていいの、哀れなかわいそうなCarrieを描くの、であればなにも言わないけど。

"This is the End"とか"The Cabin in the Woods"にあったような最後の審判、天の裁き、みたいのがあればまだすっきり収まったのかもなのに、ごめんね、ごめんね、って言いながらずぶずぶ地中に潜っていってしまうので、こっちこそなにもしてあげられなくてごめんね、になってしまうのだった。

既にみんなが突っこんでいるであろうが、Carrieをプロムに連れていったTommy、天罰かもしれないけど落ちてきたバケツにあたまぶつけて死んじゃうって、まぬけすぎてすごい。 そんなバケツ男の子供(娘)を身籠ってしまったSueも、これからどうするのか。  続編はその娘がCarrieを地の底から蘇らせて対決することになるのだろう。

それにしても、あのPromのパニックシーン、あんなクソもミソも一緒、みたいな描き方しなくても、と思うし、こういうときは誰かひとりくらい知恵を絞って対抗する子が出てくるもんだと思うし。

音楽はふつうに学園ドラマぽく、ざくざくしててよかった。

[log] November 19 2013 - Mel

火曜日の午後からメルボルンで仕事を始めています。 けど今回はほんとうにびっちりできつい。 外は20時半まで明るくて、街中はクリスマスの準備が始まっていてとっても楽しそうなのにずうっと建物のなかで缶詰状態。

行きの機内で見たのは2本。

"Grown Ups 2"
どうせまたDVDスルーに決まっている、いやそれすらもなしかもしれぬ、という危機感に煽られてまっさきに見ました。
1のほうがまだ、恩師のお葬式ていう大義があったけど、今度のは自分ちの近所周辺でぐだぐだ遊んでいるばかり、しょうもない下ネタとか変顔とか変人とか、そんなのを垂れ流しているだけで、しまりのないことおびただしい。

それでもいいのだ、Adam Sandlerの世界は、というひとはいうのだろうが、でもここまでくるとさすがにかも... と思って、いややっぱしいいんだ、と思い直す。
Adam Sandlerなら許される世界というのは、たしかにある。 それはなんとしても守られなければならないものだ、ととりあえず言っておく。

内容なんて書くのもばからしいのだが、あーなんかつまんねえー楽しくぱーっとやりてえなー、といつもの仲間が言いだして、じゃあパーティーをやろう! しかも80'sで!
ていうのと、地元でぶいぶい言わせている大学生たち("Twilight Saga"のTaylor Lautnerなど)との戦争、が絡むの。 その程度なの。

前作にあった"Grown Ups"ていう要素はあんまなくて、せいぜい子供と家族と地元愛とか、そんな程度、そしていつもの変な人(達)のオンパレード。
あとは得意の80'sネタで、J.Geils Bandが(ホームパーティーなのに)来て庭で演奏してくれて、みんな仮装パーティみたいのして楽しそうでいいなー。
日本でも最近、80'sを懐かしむパーティがあるようだが、ああいう醜悪な光景とは違うのね。

今回はRob SchneiderとNorm MacDonaldが出ていないのが寂しかったが、 久々にCheri Oteriを見れたのがうれしかった。(Steve Buscemiの妻、という設定)
"Twilight"であれだけきゃーきゃー言われていた(狼)Taylor Lautnerは、あんなんでいいのか。

エンディングはREO Speedwagonの"Live Every Moment"で、ぜんぜんもんだいないよね。

"2 Guns"

麻薬の潜入捜査をしているDenzel WashingtonとMark Wahlbergが麻薬王の金を銀行からふんだくろうとするのだが、じつはこのふたり、お互い覆面で別々の組織の指揮下で動いていて、盗んだ金の処理と盗んだあとの動作もそれぞれの指示で動こうとしたら当たり前に衝突して、てめえぶっころしてやる!になるのだが、盗んだお金も実はぜんぜん別のところの覆面で、結果三つ巴くらいで命を狙われてどうしよ? になるの。

もともとはコミックらしく、ふつうの人だったら10回分殺されて塵も残らないであろうはずなのに、DenzelとMarkだと死なないんだねえ。
元恋人を殺されたDenzelの怒りが沸騰する(はずの)とことか、もうすこしくっきり出たらなー。

テーマ的にはもろジョニー・トーの世界なのだが、でも舞台はメキシコで、たしかにメキシコのが雰囲気はよく出ていたかも。

で、帰りの便で"Drag War"を見るべきか、あと少し我慢して映画館でみるべきか、悩んでいる。(映画館でも見るけど)


11.18.2013

[log] November 18 2013

暑さもようやくどっかの彼方に行ってくれて、これから文化の秋だわと喜んだのもつかの間、仕事がどかどか落ちてきて平日の晩の寄り道なんてありえない世界になってしまい、けっか土日にぜんぶしわ寄せがくる、これもまったくありえない、とぶうたれていたら、メルボルンに行くのがきまった。こないだの金曜日のことよ。 あみだくじ、よりはもうちょっとましな屁理屈みたいなやつのせいで、誰ひとりなっとくしていない、けどわるいのが自分じゃないこともたしかだ。たぶん。

寒いところからあっついところへの移動、って体調くるうんだよね。 毛穴が文句いうの。

決まってからみっかで出張、ってやはり短くて、行った先でのことは諦めるけど(いやあんまし諦めない、じたばたするのは諦める)、行かなかったときに見ようとしていたやつの落とし前をどこでどうつけるのか、の練りなおし、みたいのが面倒くさい。どっちみち諦めだけど。どうせ。
オーディトリウム渋谷の酒井耕・濱口竜介とか森崎東とか、まだ2本残っているビアラとか。
フィルメックスのグレミヨンだけは、なんとしてもー。

今回は突貫工事なので人もいっぱい連れていて、好き勝手はできない。できないったらできない。 けど土日があるからなあー。 ちょっとくらい無理かなあ。ウォンバットに会いたいなあ。

ファーストのラウンジでカレー出すのやめて。 チーズもキャンディみたいにくるまった安いかんじのプロセスチーズでよかったのに、半端な切れっぱをお皿に乗っけなくていいのに。

では。いってきま。

11.17.2013

[film] Van Gogh (1991)

10日の日曜日、イメージ・フォーラムのモーリス・ピアラ特集で見ました。

冒頭、画布の上をさーっと横切る青のブラシが素敵で、それは「荒れ模様の空の麦畑」- "Wheat field under a stormy sky" の青い空で、荒れ模様の空なのにあんなに鮮やかに澄んだ青 - ゴッホにはそういうふうに見えていた世界のお話である、と。

アルルの日々も過ぎ、サン=レミの精神病院も退院したあと、37歳のゴッホが最後の2ヶ月を過ごしたオヴェール=シュル=オワーズでの日々を描く。 出来事も登場人物も史実のだいたいには合っている、ふう。

村の飲み屋兼宿屋に滞在し、風景や身辺の絵を描きながらガシェ医師宅に通い、娘のマルグリットと仲良くなり、娼婦のカティとか弟テオの家族とか昔からの付き合いも続いている。
病院から出たばかりの不安定な様子が露わに画面を揺らすようなところもなく、一見ふつうの職業画家として日々は淡々と過ぎていく。 かに見える。

けど、彼が画布に向かう風景、彼が窓越しに対象(マルグリット)をじっと見つめる姿と、彼の背中の向こうに広がる野原や畑を遠くから捉えるカメラ(いいんだねえ)の確かさに対して、彼を中心とした人々との会話ややりとりは酒場の喧噪、窓の向こうを通過する汽車とか馬車とかのがたごとで中断されて中途半端なところに留まり、やりきれないかんじが残る。常に。 

その対照のなかに曝されていた彼のシーソーゲームが終盤、弟テオの住むパリに出かけたところでぷつんと糸の切れた凧になり、どんちゃん騒ぎを経てそのままオヴェールに朝帰りしたあと、朝帰り後の目が眩んだ状態のままにくらった(誰から?)よくわからない銃創がもとでころん、と死んでしまう。

その死によってオーヴェルの、パリの世界が閉じてしまうわけではなくて、これまでと同じように世界は流れていく、その流れのなかに冒頭の「荒れ模様の空の麦畑」の青を、左から右に滑っていくブラシを置いてみる、と。

壁に向かいあい丸まった状態で硬くなってしんじゃったゴッホ。
これだけではなく、ゴッホを演じるJacques Dutroncの佇まいの背丈、立ち姿、目つき口もと、肩、その存在の硬さと強さがすばらしく、実在のゴッホがどうであったにせよ、彼を間違いなくひとりの、たったひとりでぐるぐるの世界と対峙していたゴッホたらしめている。

このひと、"Moonrise Kingdom"で家出した女の子が抱えてきたFrançoise Hardyのレコード、"Le temps de l'amour"を作ったひとだったのね。 家出物語である"Moonrise Kingdom"が永遠の家出人ゴッホとこんなふうに繋がったのは、ただの偶然にせよ、なんかよいねえ。

もうひとつはマルグリットを演じたAlexandra Londonで、彼女のなんともいえない柔らかさ、ふくれっつらでゴッホにぶつかるさまが素敵で、白のドレスで出てきて黒のドレスで終わる。
ゴッホの死、ではなく彼女の活きた強い目で終わる、そういう映画でもあるの。

テオの家にあった「花咲くアーモンドの木の枝」の前でピアノを弾いたのは誰だったのかしらん?

11.14.2013

[film] CRASS: There Is No Authority But Yourself (2006)

9日の土曜日の晩、"Trance"のあと、同じ新宿で横ずれして見ました。

チラシには日本プレミア上映て書いてあるし、売り切れたらどうしようとはらはらして、「椿姫」のあと(2:00くらい)に駆けこんだら番号は一桁台だった。
やっぱし日本のパンクなんてこんなもんよね、けっ、とおもった。

CRASSのドキュメンタリー、映画の冒頭にもでてくるが、Clashじゃないよ、CRASSだよ。
ぜったいコモディティ化しない、産業化しないパンク、ていうのはこっちの。
英国のパンクバンドというか集団というか、バンドとしての活動は84年に一旦止まっているが元メンバーたちは影に日向に当初の強い目線とアティチュードを保ち続けていて、その様を確認して、うむ。 て深く頷いて反省する、それだけで十分なの。

中核メンバー、Penny Rimbaud、Steve Ignorant、Gee Vaucherの証言と、活動の拠点であるDial Houseと、Permacultureとか、その思想の核心と、それらを通してパンクとはなにか、パンクであるというのはどういうことか、をバンド結成当初から掘りおこしていく。 彼ら3人だけで十分といえるのか、とか、捕捉しきれるわけないだろ、とかいろいろあるのだろうが、いいからだまってみろ、ていう。

つい最近まで、レコードと本(こないだ翻訳がでたジョージ・バーガー 著『CRASS』は必須)くらいしかなくて、それでもぜんぜんよかったのだが、やはり動いて喋っている姿とか結成直後の街頭ライブを見るとおおー、とか思うし。 全裸のPenny Rimbaudによるコンポスト便器での実演(一歩手前)まで見ることができるし。

筋金入りの活動家であり思想家であり詩人でもあるPenny Rimbaud(じじい)と直情型のパンク小僧Steve Ignorantが出会い、そこにデザイナーのGee VaucherやDave Kingが加わり、そこに拠点、基地としてのDial Houseがあったことでバンド、というより活動集団、としての色合いを強めていく、けどあの時代のセクト的な匂いはあまりない(当時、現地、ではどうだったか、はあるのかしら)。 まず相手の話を聞いてそれを受け容れる、ということが基本にある人達だからー。 

"There Is No Authority But Yourself"は"Yes Sir, I Will"のトラック7 の最後にあるフレーズ。
その少し前のパートはこんなふう。

You are being used and abused
And will be discarded as soon as they've bled what they want from you.
You must learn to live with
your own conscience,
your own morality,
your own decision,
your own self.
You alone can do it.
There is no authority but yourself.

『自分を支配できるのは自分だけだ』 やっぱし日本ではむずかしい、かねえ。

ちなみにデビュー盤の1曲目"Asylum"にある"Jesus died for his Own sins. not MINE"は、Patti Smithの"Gloria"の"Jesus died for somebody's sins but not mine" から来たもの。  
彼らの詩はとてもシンプルでわかりやすくて、でもほんとに深くてかっこいいったらない。
(画面上では白抜きのタイプ字体でばりばり連射される)

音楽映画だけど、爆音上映にはたぶん馴染まない。ザラ紙に鉛筆でがりがり叩きつけている、そんな音がずっと鳴り続けていて、それは通常音量でもじゅうぶん耳について離れない強さなの。

彼らの音を最初に聞いたのは、むかーし、徳間ジャパンからRough Tradeの7inchが国内盤で纏めてリリースされたことがあって、そのときに渋谷陽一のサウンド・ストリート(ていうラジオ番組があったんだよ)で彼らの"Reality Asylum"がかかったのね。あんときの衝撃ときたら、それはそれはすごくて、風景がかわった。(昔語り)
あのとき、他にはTelevision Personalitiesの"I Know Where Syd Barrett Lives"なんかもかかったのだったねえ。

パンクはどうもな... ていうひとにはJeffrey Lewisの"12 Crass Songs" (2007)をおすすめしたい。 こいつも、ユニークといえばユニークで。

11.12.2013

[film] Trance (2013)

9日の土曜日、椿姫のあと、新宿に移動して見ました。 
夕方のパンクまでまだ時間があったのでそれまでの穴埋め、というかんじ。

Danny Boyleってこれまできちんと見ていなくて、特に好きというわけでもなくて、みんなが騒いだ"Trainspotting" (1996) のどこがよいのか、まったくぴんと来なかったのね。
あそこに出てきた「英国」の「若者群像」みたいのが、ぜんぶ嫌いで、これまで英国音楽を聴いてこなかったような連中が「最高の音楽映画だ!」とか褒めているように思えてならず(偏見です)、彼がロンドン五輪の式の総監督をやる、と聞いたときもそらみろやっぱし、てかんじだった(ええ、偏見ですよ)。

なのでまったく期待せずに見て、その割にはよかったかも。 短かったし。 James McAvoyもRosario Dawsonもすきだし。

オークションハウスに勤めるSimon (James McAvoy)とFrank (Vincent Cassel)率いる強盗団(4名)がグルになって、出品されたゴヤの"Witches' Flight" - 「魔女たちの飛翔」(1798) をセリの途中に強奪しようとする。のだが運び出す手前でSimonとFrankの間で小競り合いがあって、結果絵はどこかに消えてしまう。 ありかを知っているのはSimonのはずだが、彼は記憶がない、と言い張り拷問しても出てこないところをみると、どうも頭を殴られてしまったのが原因らしい。

催眠療法でなんか引き出せるかも、と療法士としてSimonが選んだのがElizabeth (Rosario Dawson)で、雇われた彼女がトランス状態の彼のあたまからひっぱりだしてきたものは。

失われた名画とかいうのは、消滅したわけではなくて、どっかに必ずあって、誰かがどこかに隠しているはずだし、失われた記憶も同様で、どっかに必ずある、どこかに誰かが隠した、ということも考えられる。 トランス(状態)、というのはそういう場所ぜんぶに光をあて、瞳を全開にしてオールアクセス可にするその状態とその時間で、そうすることでみんな幸せになれるのかしら、というのはテーマのひとつで、それって犬みたいにいろんなとこを嗅ぎまわる依存症とかなんとかフェチとかストーカーとかを喜ばせるだけじゃないの? とか。 あと、その状態のトリガーをひくのは誰なのか、なんなのか、とか。 それがもたらすのは快楽なのか、服従なのか。 服従なのだとしたら、それを強いるのは誰なのか、なんなのか、とか。 三つ巴のSM、とか。

「魔女たちの飛翔」をなにがなんでも手に入れる/取り戻す、というのがいつの間にかテーマから外れて、失われてしまったなにかを見つけるゲーム、にひっくり返ってから、物語は変な具合にどんどん捩れていって、その転がりっぷりがおもしろいといえばおもしろい、のかもしれない。 
そもそも「魔女たちの飛翔」っていう絵はさ。

James McAvoyもRosario Dawsonも、裏の裏まであるような得体のしれないキャラクターをしれっと演じるとうまいし、こわいよねえ。
剃毛の件とか、そういうものかー、とすこしびっくりした。

音楽(Rick Smith)はさすがにこなれていて、おもしろい。 捩れたまま上滑りしていくサイケなエレクトロ。 もうすこしダークなゴスっぽいクラシックでもよかったかも。

11.11.2013

[film] Traviata et nous (2012)

9日の土曜日の昼、ユーロスペースで見ました。
この日はオペラで始まってパンクで終わった。

『椿姫ができるまで』。英語題は"Becoming Traviata"。

2011年春のエクサン・プロヴァンス音楽祭で上演されたヴェルディのオペラ、La Traviata - 椿姫 - これのリハーサルから本番直前までのヴィオレッタ(Natalie Dessay)、演出家(Jean-François Sivadier)、指揮者(Louis Langrée)などなどを中心した完成までの総力戦を描く。

椿姫のおはなしはいいよね。奔放な高級娼婦だったヴィオレッタがアルフレードの一途な愛にやられて一緒に暮らし始めるもののアルフレードの父にねちねち言われて身をひいて、その後もいろんな巡り合わせがわるくて一緒になることは適わなくて、ヴィオレッタはつのる想いを抱えこんだまま結核でしんじゃうの。 とってもかわいそうなの。

舞台装置も登場人物もそれらの関係も背景もシンプルながら、驚き、葛藤、興奮、一途、疑念、企み、失望、未練、絶望、喪失などなど、愛のまわりで渦を巻いて噴きあがる感情のあれこれを丹念に拾いあげて歌いあげる、そんなやつで、だから演出も演技も音楽も、それぞれにものすごくいろんなヴァリエーションがクラシックなやつからモダンなやつまで - あるに決まっている。

Jean-François SivadierとNatalie Dessayは、モノトーンでシンプルなセット上で、ヴィオレッタとアルフレードの感情の触れあうその瞬間、なにかが崩れおちるその瞬間にのみフォーカスしているようで、そこまでこまこま切って詰めて仕上げていくんだねえ、と当たり前ながら感銘を受ける。
音楽とかコーラスの練習もそうで、ピアノの彼女の弾きながら解説が楽しかった。

映画のメイキングだと完成したのを見ることができるが、こっちはライブの上演バージョンを見ることができないのがつまんないよね、と思っていた。 けど、幾度となく反復されるリハーサルのやりとりを通して、重なりあい積みあがっていくふたりの感情の分厚さが波としてこちらに強く確かに押し寄せてくるようで、これに関しては、ライブを一回見るよりよかったかも。もちろん両方見れるならすばらしいのだが。

オペラは、93年から96年くらいまでの間、METに通っていた頃に所謂古典演目はだいたい見た。
演出もこてこてでよいから、とほとんどがFranco Zeffirelliのをわざと選んだ。
当時はインターネットなんてまだろくなもんでなかったから予習もできず、今みたいに座席の背の電光字幕もなかったので、開演30分前にパンフを貰ってそこにある粗筋を頭に叩き込んで臨んだ。
終わるとへろへろになったが、オペラおそるべし、てうっすらこわくなって疎遠になった。
"La Traviata"もこの時代に見たのだったが、あのときはこんなにも濃厚で細やかな愛の地雷が仕込まれた舞台だとは思いもしなかった。

オペラ入門としてもよいかも。

11.07.2013

[film] Sign 'O' the Times (1987) - 爆音

3日のごご、「天国の門」でへろへろになった後、しばらく新宿を彷徨い、6時過ぎに吉祥寺に着いた。 Princeを爆音で。夢のような。

この作品は、公開当時に(確か)新宿で見たし、LDも買って何回も見た。 けど、映像に向き合うのはたぶん20年以上ぶり。

"Parade"(1986) のあと、The Revolutionを解散してソロになり、当時まちがいなく絶頂期にあったPrinceのライブフィルム。
半端な寸劇みたいのが入るし、ステージ上のパフォーマンスも8割はLive音源にあわせたRe-shootだというし、"U Got the Look"はPVの転用だし、穴だらけだけど、いいの。
すでに山ほどあったヒット曲は"Little Red Corvette"のほんのさわりしか入れず、ほかにCharlie Parkerのカバーが入るだけ、あとはぜんぶ"Sign o' the Times"の曲のみ、つまり映画ぜんぶが同アルバムの プロモの仕様なのだが、ノンストップでダイナミックでアバンギャルドなFunk道に思いっきり踏みこもうとしていた、その道が正しいことを信じて疑わなかった(彼も。 われわれも)Princeの87年がまるごとぶちこまれている。

これのあと、未リリースにおわったごりごりの"The Black Album"を経由して、開き直ったかのような極彩色ポップに転がった"Lovesexy" (1988)まで、この時期のPrinceの音というのは、すべてが総倒れ的に腐れていく80年代末期のシーンにおいて最後の最後の希望だったの。 よいこはみんな知っているはなしだけど。

ほとんどがFairlight CMIとLinn Drumによる宅録仕様なのに、古びていないよねえ。 "Sign o' the Times"の冒頭のエレクトロがどれだけ衝撃的に空気を震わせたか、を改めて思いだした。  当時のLP2枚組であるが、所謂トータルアルバムではなく、個々の曲はばらけていて、でも密閉感といかがわしさ、親密さと性急さが同居している、という点、鼓膜にぶつかってくる音の肌理、触感というところでは統一されている。  要はとっても濃いPrinceがのたくっている、と。

この映画の音もみっしり、霧のように豆腐のように均質な音の壁を作っていて、爆音上映の快楽のまんなかに求められる暴発感とはちょっと違うのだが、こんなライブの音もそんなにはない。

ここから暫く経ったNPGの頃のライブは、もうほとんど王族で、最近の(いちばん最後にみたのは2010年)ライブはギミックも変なギターもなし、圧倒的なオーラの乱反射のみで持っていってしまうかんじなので、やはりこの時期の、王子が王子のままにがむしゃらに暴れ、欲望をたれながしまくる姿は貴重だと思う。

バンドはメンバーそれぞれに怪しくてバカみたい(褒めてる)で素敵なのだが、なんといってもSheila Eのかっこよさにしびれる。
John Bonhamがその熊みたいな風体から熊みたいなキックを蹴りだすのと同じく、Sheila Eはそのしなやかな姿態そのままにびゅんびゅんしなるリズムを叩きだして、そういう彼女の動きと音がきれいに同期するさまが美しくて、それだけで快感なの。

Shiela EとCatのコンビネーションもいいよねえ。 このふたり見ているとMiley Cyrusなんてただの遅れてきたガキ、だよね。

このツアーメンバーと同じ陣容で行われた"Lovesexy"ツアーも素晴らしかったのだった。東京ドームの初日に行って、あまりによかったので翌日も行った。 ドームであんなきれいな音を聴いたのははじめてだった。(昔語り)

あと、観客はだれも写真撮っていないから客席は当然のように暗くて、キャンドルくらい。 最近のライブ風景は携帯の画面でちかちか明るいんだろうな。


もうじきのLou Reedの爆音、"A Night with Lou Reed" (1983)が見たかったなー。この時期の音がいちばん好きなんだけどなー。

11.05.2013

[film] Heaven's Gate (1980)

ぜんぜんぱっとしなかった連休の二日目、3日日曜日の昼に新宿で見ました。
『天国の門 - デジタル修復完全版』

新宿シネマートにあんなでっかいスクリーンがあるの知らなかった。 (これまで小さいほうしか行ったことなかった...)

この作品は、2004年に219分版をNYのFilm Forumで見ている(メモ見たら2004年10月11日)。 資料にある2005年のMOMAでのお披露目って、これの後だったのかなあ?。
今回とは違って、途中で一回休憩が入った(あの字体ででっかく"INTERMISSION"てでるの)。 色味は今回のほうが衣装の白とか血の赤がより鮮やかに出ている、気がした。 最後の戦闘の砂ほこりは、前のほうがよりもうもうでわけわかんなくてよかったかも。

ここに書くのを忘れていたが、6月の爆音祭のとき、実は一本だけ見ていて、それが"The Deer Hunter" (1978) だった。
Deer Hunterは、テアトル東京で公開時に見て以来で、当時はまだああいう映画を見たことがなくて、それはそれは怖いくらいに突き刺さってきたのだった。
アメリカのどこにあるかわからない地方の若者の、日本に住む自分たちとは一切関係ないはずのヴェトナム戦争で - しかも10年以上前に- 起こった、まったく無縁の題材を扱った映画が、なんでこんなにも怖く、切なく眼前に迫ってくるのか、映画の中味もさることながら、そういうかたちで揺さぶりをかけてくる映画がある、映画というのはそういうかたちで感情に作用しうるものだ  - 例えば文学の古典を読む、というのとはまったく別の - ということを知った、これが最初のほうの経験だった。

で、その映画と再会したうえで2004年の「天国の門」を振りかえり、改めて2012年の「天国の門」をくぐってみると、いろいろ思うところはある、というか頭がパンクするくらいいろんなことが襲いかかってくるのだった。

Harvard、Class of 1870の卒業式の高揚と寂寥といろんな感情がぐるぐる円舞を続けるその果ての、20年後のワイオミング、この地に保安官として赴任したJim (Kris Kristofferson)と彼が直面した東欧系移民への虐待 - 牧場主協会だけでなく州や国も加担している - という事態と、これらにまったく無力なまま、愛する人たちを守れないまま戦いに向かわざるを得ない、そのずるずるしたやりきれなさが全体を覆う。 そのやりきれなさと徒労感はそこから更に数年を経た、東部のエスタブリッシュメントとして暮らす彼の姿にも影を落とす。 

卒業式のスピーチで総代のBilly (John Hurt)は自分達は"well-arranged"である、と言った。言ったけど、実際には支配階級の落ちこぼれとして酒に溺れてどうすることもできずに自壊していく、それはおそらく社会に巻きこまれた時点(東部 → 西部、というのもあったかどうか)からずっとそうで、数時間前、数日前、日々の悔恨を抱えながら、誰にも、どうすることもできないなにかが眼前に聳えていて、その崩しようのない大きな建物の入り口を、あるひとは「天国の門」と、希望と皮肉を込めて呼んだ、のかもしれない。

劇中での"Heaven's Gate"は移民たちが集う娯楽施設 - スケートリンクの看板にあって、そこで移民のみんなが輪になって踊る、あるいはJimとEllaがふたりで舞う、そんな場所で、遊興施設を"Wonderland"とか"Paradise"と呼ぶのと同じことなのかもしれないが、この映画での"Heaven's Gate"は、すでにその門の前に滑りでたときにはもう遅いのだ - 死は目の前にあるということだから - という、軽いんだか重いんだかわからない絶望をめぐるゲーム。 ゲームの伴奏曲。 ライブで伴奏するのはディランのバックにいた人たちで、だから、"Heaven's Gate"というよりは"Heaven's Door"なのかもしれないが。

「なんでこんなことになっちゃったんだろう」という後悔の只中に引き摺りこんで、それはJimやBillyのものではなく、我々のものでもあるのだ、という焦りと確信が3時間半をあっという間のものに、19世紀アメリカの事件を21世紀の我々のものにする。 映画のなかで呼ばれる固有名が、Michael Kovach、Nate Champion、Ella Watson、その他処刑リスト上で読みあげられる125名の実在した名前たちが、亡霊となって目の前に現れる。 そういう強い磁場と磁力をもった映画なの。 (それはバジェット超過でスタジオを潰した「呪われた映画」とかいうのとは全く別のいみでね)

この映画を、たんなる洋画マニアのものに留めてしまうのは本当にもったいない。青春の輝きが泥沼の暴力に押しつぶされていく様とその諦念を底の底まで、ありえないような美しさとリアリズムで描き切った、その力強さときたら稀有のものだから。 それはあの大画面と共に椅子に縛り付けられないことには見えてこないものだから。

あと、Deer Hunterもそうだったけど、どこまでもオトコの世界の映画なんだよね。 アメリカ合衆国はオトコが作ったんだ文句あるか、と言われたらそれまでなんだけど。ああそうですか、なんだけど。 つくづく、Jimのあほんだら、なんだよ。 肝心なときにだらだら酔っぱらって寝っころがってばかりで、ブーツなんてどうでもいいんだよ、働け! 走れ! なの。

Isabelle Huppertは、まだぷっくらしていてかわいい。 これが30年後、3人のアンヌに分裂してしまうんだから、人生わかんないもんよね。

Vilmos Zsigmondのカメラもほんとうにすごい。そして今は "McCabe & Mrs. Miller" (1971)をとっても見たい。

「マイケル・チミノ読本」はおもしろいようー。 30分でするする読めてとっても勉強になる。

[film] Blue Jasmine (2013)

いっこ、書くの忘れていたやつ。 10/7の月曜日のよる10時過ぎ、NYのAngelikaで見ました。
これ、メルボルンでもシアトルでも見る機会はあったのだが、Woody Allenの新作はAngelika Film Centerで見るべし、というのが自分のなかにあったのでつい延ばし延ばしにしていた。

それにしても、公開されたのが7月末だというのに、10時過ぎのシアターにはまだ10人くらい入っていた。

前作の"To Rome with Love"、前々作の"Midnight in Paris"とか、アンサンブル中心のコメディとはちょっと違って、Cate Blanchettがほとんど一人で出張って周囲を暗黒に引きずりこむ/引きずりこもうとする。

Cate BlanchettがJasmineで、かつてはNYの社交界でぶいぶい言わせていたらしい彼女がSFの田舎にやってくるところからはじまる。ブランドものの服とバッグで装い、一見ちゃんとしたひとのように見えるのだが、終始お酒を片手に抗鬱剤らしい錠剤を飲み、いらいらぶつぶつ独り言や毒を吐き続ける彼女のそばによってくる人はあまりいない。 夫(Alec Baldwin)とは疎遠だし、音信が絶えていた妹とはまったく話が噛みあわない。再出発を目指してPC教室とかにも通ってみてもぜんぜん続かない。

NY Timesのレビューは「欲望という名の電車」の主人公BlancheとBlanchettを重ねていて、それはそれでぜんぜん正しいと思うものの、この映画でのBlanchett - Jasmineの暴走っぷりには目を見張る。

一見、愛を失ったイタい中年女のお話、ではあるものの、Cate Blanchettの「あたしを見て。相手になって」引力のぎすぎすが余りに凄まじくて目を離すことができないし、どこまでも不幸などんづまりトーンなのに笑えてしまうところがすごいの。 なんだかんだ強いんだよねあんた、とか。

ここ数作のアンサンブルものでうかがうことのできたWoody Allen的な神の手はなく、"Cassandra's Dream"や"Vicky Cristina Barcelona"にあったような二人芝居の綱引きもなく、"Match Point"の頃のようなScarlett Johanssonひとりへの偏愛とも違って、Cate Blanchettに行けるところまで行かせてみる、そんな演出をしていて、それがAllenの映画には珍しい透明感をもたらしているような。   Allenすらをもコントロール不能にしたCate Blanchettのすごみ。

邦題は「限りなく透明に近いジャスミン」でおねがい。

11.04.2013

[film] Violet & Daisy (2011)

26日の土曜日の夕方、新宿で見ました。『天使の処刑人』。

Violet (Alexis Bledel)とDaisy (Saoirse Ronan)が殺し屋さんコンビで、尼さんの宅配ピザ(そんなんあるか)の格好して押し入ってばりばり殺しまくるのがオープニング。
ふたりはその後しばらく休暇をほしかったのだが、アイドル歌手Barbie Sunday (Cody Horn..)のドレス欲しさにもういっこ楽勝ぽい仕事を引き受けることにする。

やくざから金を奪ったから殺してくださいと言わんばかりのそのターゲットのアパートに入ったものの、まだ客人は帰っていなくて、待っているうちにふたりは眠ってしまい(ねるなよ..)、起きたらその男(James Gandolfini)が こっちを見ている。 彼は殺し屋さんが来ることも承知していて、むしろ来るように仕向けていたことがわかり、彼の身の上聞いたり、彼が焼いてくれたクッキー食べたり(たべるなよ…)しているうちに、いろんなタイミングがずれて調子がくるって、やがて他の殺し屋チームもやってきたりで、なかなかトドメを刺せないの。

屠殺される予定の家畜と遊んでいるうちに情が移って、みたいなかんじもして、でも家畜はやがて君に殺してほしいんだよ、とか言いだすもんだから変なかんじに転がっていく童話みたいな。

女の子ふたりの殺し屋メルヘン、というよりはJames Gandolfiniを間に挟んだ擬似父娘(or家畜)ドラマで、これを通してふたりはまたひとつ成長するのだった、ていうふうに見てしまうの。

それにしても、こないだの"Enough Said"でもそうだったけど、妻に逃げられて年頃の娘とも疎遠になっている寂しい中年男、という設定がはまりすぎるJames Gandolfini。
ソファにどっしり座り、じっとこっちの目を見据える彼に「いいからはやく片付けてくれ」、て言われたらどうする? 

Violetの前の相棒の話とか、殺し屋内の序列とか掟とか、煮えきらないとこも一杯だったので、ついJames Gandolfiniの方ばかり気になってしまうのだった。
ふたりともキュートだし、Saoirse Ronanさんはほんとにうまいねえ、とは思うのだが。
君たちふたりなら殺し屋じゃなくても十分食べていけるんじゃないの、とか。

サントラはRoberta FlackとかNat King Coleとか古くて甘いのと、10,000 ManiacsとかSarah McLachlanとかなんとも言えない半過去のとが混ざっていて、ここももうちょっとがんばればなあ、だった。

死体の上に乗っかってぐしゅぐしゅ足踏みするとこはなかなか。葡萄の収穫みたいだったねえ。

11.03.2013

[film] Elysium (2013)

23日の水曜日、日比谷でみました。終わっちゃいそうだったので少し慌てて。

同じ監督さん(Neill Blomkamp)による"District 9"は、貧困問題とグローバリゼーションに異星人侵略と人体変容SFを正面衝突させて追いかけっこ活劇にして、最後はとほほ… のしんみりテイストで終わる、渾身の世界観ぶちこみ具合が気持ちよいやつだった。

こんどのは近未来で、異星人は来ないけど、今の世界から100年後くらいの同一線上にある。
"District 9"で宙に浮かんでいた禍々しい宇宙船はそのまま選りすぐられた金持ちが暮らすステーション - "Elysium"に変わる。 前作で天空に浮かんでいた制御不能で貧しく汚いやつらは、そのままぐるりと天地がひっくり返り、今や地球の表面ぜんぶが"District 9"化している。

前科者のMax (Matt Damon)は工場で意地悪された挙げ句に致死量の光線を浴び余命5日といわれ、全身に機械を装着してElysiumへの特攻ミッションに身を投じることにする。 Elysiumの支配者 (Jodie Foster)の刺客(District9の彼ね)とかと小競り合いをしつつ空の上を目指す。

ここも前作とおなじ巻き込まれで、自分の思うようにならない(自分が思っている以上に強い)身体にされ、結果的にでっかい何かと戦う羽目になるのだが、その敵って、実は同じ人類の奴らで、なんだよそれ、て思うの。
他方、前作で彼のあたまに常にあった愛しい家族との思い出に相当するのが、自身と幼馴染の彼女との子供時代の記憶で、前作で家族はいなくなってしまったが、記憶はずっと彼と共にあり、記憶だけが彼を支え続ける。 それだけを抱えて、宙に浮かぶ象徴に向かって突っこんでいく。

矢継ぎ早なアクションの展開と主人公のエモががたがた噛みあわないまま、とりあえずやっちまえいっちまえ、の性急さがパンクでいかった。

つるっぱげでメカを装着したMatt Damonのスチールを見たときはうわあ、と思ったがぜんぜん悪くなかった。でっかいひとだし、ああいうアクションは(かっこいいとは別に)よいのね。 Jodie Fosterの鬼婆は、見かけ以上にやわで、もっともっと鬼畜で行けたはず。

Elysium本体も、もうちょっと強くてもよかったんではないか。OS再起動かけたらIDの属性がぜんぶ落っこちちゃう、ってあんましだよね。

この状態があと少し進むと、地球上にひとは住めなくなって、"WALL·E"とか"Oblivion"のほうに行くんだねえ。 そういえば、"Oblivion"のコマンダーも鬼婆だったねえ。

11.02.2013

[film] Moonrise Kingdom (2012) - 爆音

もう11月になってしまったよう。 どうするんだよう。
書けるやつからぱらぱら書いていきます。

31日の木曜日の晩、爆音収穫祭で見ました。
6月の本爆音は出張だのなんだのでぜんぜん行けなくて、ほんと久々のバウスと爆音。

ロンドンで昨年の5月に見て以来。 あのときはロンドン到着直後で頭のなかがぼうぼうの嵐だった。

ボーイスカウトからはみ出した男の子とゴスの女の子が出会って恋に落ちるお話。
Summer's Endという場所、夏の終りに、夏の終りの大嵐がやってくるお話。

双眼鏡で遠くのものをなんでも近くで捉えようとする女の子と、近くのものからできるだけ遠くに遠ざかろうとする男の子のお話。月の満ち欠け、潮の満ち引き。 彼女の家のなかの様子も彼らが移動する島の距離も、すべての縮尺が狂っていて、響いてくる音楽のレンジもめちゃくちゃで、それらをひっくり返して錯乱に導く恋が、さらにそれを追っかけて台風と鉄砲水がやってくる。

60年代の中頃、アメリカの北のほうの入り江、かつて先住民が切り開いたパスを抜けて、すべてが捩れて孤絶した土地で暮らすボーイスカウト(集団)とか家族とかひとりの男(Bruce Bruce Willis)とか。

男の子はボーイスカウトのサバイバル道具一式を、女の子は双眼鏡と6冊の本とアナログと携帯アナログプレイヤーと子猫を持参して、駆け落ちする。
ロマンチックなガキ同士の恋のおとぎ話ではない。 男の子は里親にも捨てられ、女の子の母は浮気している。 わんわんは矢で殺されちゃうし、ハサミによる殺傷沙汰もあるし、ピアスの穴あけまである。ふたりが互いを求めてべたべたするシーンは、どう見たってエロすぎる。

いかがわしさと抑圧、生々しさと礼儀正しさと、これらは全て生きのこりを掛けた作戦に欠かせないもの。
前作の狐もそうだったし、Wes Anderson映画の主人公はみんな生き残るために必死なの。

最後、ぶらさがって「絶対手を離さないからな」というBruce WillisがLou Reedに被ってならなかった。

爆音の暴発、暴れっぷりはすばらしいものだったが、映像が35mmフィルムだったらなあ。はっきりとデジタルのだめさが出てしまう、わかってしまうような、色の美しさを殺してしまうデジタルだったの。

10.28.2013

[music] RIP Lou Reed

今月の8日にThe PoguesのPhilip Chevronが亡くなって、もう"Thousands Are Sailing"を一緒に歌うことはできないんだなあ、としょんぼりしていたら、更に寂しくなるお知らせが届いた。

こんなに素敵な秋日和、Perfect Dayだというのに。 
きっと今週のHalloweenに合わせたんだね("Halloween Parade")。

最後に姿を見たのは、2011年2月のThe Stoneで、Hal WillnerとPhilip Glassのデュオの観客としてだった(2列前にいた)。
たまにうとうとしてて、終わると立ちあがって喝采してた。
ライブで最後に見たのは、Bowery Ballroomでの"The Raven"のお披露目だったか。
NYにいると割といろんなとこに出没していて、一見すると変な服を着たおじいちゃん、だった(晩年はね)。


「ぼくはきみの鏡だ」("I'll be your mirror")と歌い、「ぼくは接着剤みたいに、きみにずっとずっとくっついていくよ」("I'm Sticking with you")と歌い、「きみが扉を締めちゃったら、ずっと夜のままになる」("After Hours")と歌い、「きみだけがぼくを繋ぎとめていてくれる」("Perfect Day")と歌った。

そんな彼は「大御所」でも「多大な影響を与えた」ひと、でもなかった。 彼の歌は常に鏡として朝も晩も自分の目の前にあり、"Sweet Jane"も"Rock & Roll"も"Walk on the Wild Side"も最高の鼻歌で、街中をスキップするときにあんなに軽やかに、爽快に鳴る音はなかった。

Bowieが欧州人の閉塞と悲愴感をもって一緒に心中しよう!と叫んだのに対し、彼はアメリカ人の軽さと人懐こさでいろんなところに我々を誘い、鏡の裏側を、扉の向こう側を見せてくれた。ちょっと苦い、窪んだ目に悪戯っぽい笑みを湛えて、そこに立っていてくれた。 それがWild Side - ドラッグだろうがSMだろうが退廃だろうが悪徳だろうが - にあったとしてもちっとも怖くないし、気にならなかった。 彼の詩には過去の偉大な文学作品と同様の真理を貫こうとする意志と光があり、題材はどうあれどこまでいってもパーソナルできわめて倫理的なものだった。

そして、ナイーブな詩の向こう側には、奈落の底から鳴り響く、アヴァンギャルドな音の雲への志向があり、ごりごりと強く硬くしなるギターアンサンブル(Robert QuineやMike Rathkeとのコンビネーションの凄まじさはもっときちんと評価されるべき)があった。

そういう世界を、欲望と愛が轟音をたててぶつかりあい、エクスタシーをもたらす何か、そういう強く深く震える音 - そこにリアルな世界まるごとが含まれるような音を - 彼は求め、そこにわれわれを誘導した。 
Perfect Dayを過ごすきみとぼくがぶらさがっているしょうもない世界が抱える光と闇、そこに吹く風と熱とはこんなふうだよ、と教えてくれた。

彼がいま一番我々に聴かせたい音は、彼がいまいる場所で鳴っている音なのだとおもう。白い光と白い熱の溢れるところ。
すごく聴かせたがっているとおもうし、我々もそれをほんとうに聴きたい。 聴けないのがさびしいよう。

ご冥福をお祈りいたします。

10.27.2013

[log] New Yorkそのた - October 2013

NYのそのたあれこれ。

買ったアナログの新譜はこんなの。

- Mazzy Star "Seasons Of Your Day"
漆黒にちかい紫の2枚組、やっぱしぜんぜん、Mazzy Starだった。 すごいかも。

- "CBGB" OST
透け透けピンクの2枚組、スタンダードばっかし入っててお得。

- Molly Drake
Nick Drakeのママの宅録盤。Other Musicのレジのおにいさんが「これ、ほんとに泣けるんだよねー」としみじみ言ってた。ママが毎日こんなのを台所で歌ってくれるとNick Drakeができあがるんだね。

- Jesu "Everyday I Get Closer To The Light From Which I Came"
盤の色は渋いグレイ。

あと、Quasiの"Mole City"はアナログが売切れてて残念で、カバー集のおまけがついたCDのほうを買った。

さて、WilliamsburgからGreenpointに引っ越したAcademy Record Annex、14日に行ってみた。 天井が高くてだだっ広くて、中古7inchはまだ準備中のようだった。
店猫のTiggerはまだ着いていなくて翌日に到着予定だと。替わりに隣の店のわんわんがいた。
次行ったときにはすごくなっていそうな予感たっぷり。
ご祝儀に中古3枚くらい買った。 Allen GinsbergがWilliam Blakeを詠っているやつとか、Melvinsの"Eggnog" (1991)とか。

Greenpoint行ったついでに、こないだのBrutusの特集に出ていたレコ屋2軒にも行ってみた。
それぞれに個性があって、それなりにあった(Guided by VoicesのデビューEP $120はどうか)のだけど、レコード屋って古本屋とおなじで、陳列のレイアウトから値札の付け方まで、いちどある店のやり方に馴染んでしまうとなかなか他には移れないのよねー。

本は、いっぱい買いすぎ積み過ぎなのでもう買わないことにしてた。
GreenpointのWordでも買うのなんてないのだが、ひとつだけおみあげに"We Killed: The Rise of Women in American Comedy"ていうのを買った。

Lorimer Street / Metropolitan Avenueの地下鉄通路本屋はやってなかった。
つまんないので、Williamsburgの猫書店(Spoonbill and Sugartown)にも行った。
ここで売っていた来年のカレンダー。 まだまだ行くとこはいっぱいあるな。

http://spoonbillevents.files.wordpress.com/2013/10/bookstoresofbrooklyncalendar2014.pdf

あとT MagazineふたつとMetroと。

食べものかんけい。

6日の晩は、久々にPorsenaに行った。相変わらずシンプルで、でも力強い。

定番のEscarole SaladもParmigiano Reggianoの塊にバルサミコ掛けただけのも。
デザートのLemon Olive Oil Cakeもほんとうに驚異で脅威で。

12日、久々にChelsea Marketへ。
新しめのジェラート屋がおいしそうだったが、既にRonnybrookのミルクシェイク(盤石の定番)を戴いていたので、あきらめ。

ここのホットドッグ($5)はおいしかった。

http://www.dicksonsfarmstand.com/

12日の晩、The Meatball Shop 行った。(ほんとはUmami Burgerに行ったのだが一杯で、ここもずっと行きたかったし)
基本のは4個で$7。 牛、豚、鶏、ベジ、日替り、とかの団子のネタを選んで、ソースを選んで、オプション($5)で下に敷くやつ(スパゲティとかリゾットとか)、横に置くやつ(付け合せの野菜とか)を選ぶの。 はずれるわけない。ここの料理本、どうしようかな。

そういえば、アッパーイーストのお肉屋、Lobelのお惣菜屋がBloomingdale'sの少し上のとこにできていた。ここのトマトソースに浸かったお惣菜ミートボールも殺人的においしいんだよう。

http://www.lobelskitchen.com/

13日の朝はStandard HotelのGrillでパンケーキ。相変わらず混んでいた。
前とは少し味が変わっていたけど、おいしいったら。
食べたあとで少しHigh Lineをお散歩したが、空気が澄んでて、秋の変な草花がいっぱい、変な鳥が鳴いてて、今年のベストお散歩決まり(他に行かないだろうし)だった。 ぜんぜんわかんないのだが、あれって空中英国庭園をやろうとしているの?

High Line Hotel内のIntelligentsia Coffeeも飲んでみる。レジ対応がすごくあぶなっかし、だったがコーヒーはほんわかまろやかに香り、すうっと消える後味が見事だった。最近のこういう系のコーヒー屋さんとは違う方向かも。

14日の昼、Greenpoint散策で行ったのは、Le Gaminていうフレンチカフェみたいなとこ。
地元にこういうのがあったらなあ。 Wordで本買ってここに運んできてだらだら、まる一日読む。

14日の晩、NINのライブの前に行ったRoman's、ここもいつ来てもすばらしい。

Porsenaと同じような天然系、メカス先生言うところの「ほんもんのイタリアン」なのだが、例えばね、Radicchioとゴルゴンゾーラと胡桃とリンゴと赤タマネギ、これらをぶつ切りにして少しのバルサミコとオリーブオイルで和えただけ(推測)で、なんでこんなふうになってしまうのか、宇宙の謎としか言いようがなくて、そいつに向かっておいしけりゃいいんだ、と言い切ってよいものかどうか。

あと、ここでもMeatballたべた。 これもねえ、Meatball Shopとはちがうやつでさあ。

まだなんかあったはず。

10.26.2013

[film] Muscle Shoals (2013)

13日の晩、"Beau Travail"が終わったのが20:30くらい、これは「お休み」なんだからまだまだ休むのはもったいないし、Denis Lavantのあんなダンスを見たあとでじっとしているなんてできるわけないのだった。 なので、地下鉄でクイーンズからSOHOに出て、Aquagrillで生牡蠣12種類を12個流しこみ、40分かそこらで出て、22:20からIFCで見ました。

アラバマのMuscle ShoalsにあるFAMEスタジオ、とその周辺に関するドキュメンタリー。
Muscle Shoalsサウンズ、て呼ばれているものってどういうの?  をきちんと押さえておきたい、というお勉強で。

冒頭にBonoが出てきてしゃべりだしたのでなんだよ、とかおもう。
こないだの"20 Feet from Stardom"もそうだったけど、こういう、ちょっとマニア向けのドキュメンタリーの掴みに大御所が出てきて偉そうになんか喋る、てどうなのかしら。

FAME(Florence Alabama Music Enterprises)スタジオのオーナーであるRick Hallを主な語り部にここでのレコーディングの歴史となんでああいう音なのか、の秘密に迫る。 
こないだの"Sound City"の場合だと、Neveのコンソールとかスタジオの仕様とかが肝にあった気がするが、ここの場合そういうのはなくて、スタジオを囲むMuscle Shoalsという土地、川、沼、そういった風土とかスピリチュアルぽいなんかとか、年代も60年代まで遡るので割と「伝説」ぽい昔語りに寄りがちで、この辺は賛否あるところかもしれない。

でも個人的には最初期のAretha Franklinのレコーディング風景をうかがうことができただけでも十分だった。
あの”I Never Loved a Man (The Way I Love You)”のイントロのピアノリフが発明されたくだりとそのリフを、おじいさんになったSpooner Oldhamが実際に弾いてくれる、それだけで痺れた。
この頃のArethaの外見てほとんどアイドル仕様なのだが、それのあとに今のたぷんたぷんの彼女の全身を映してしまう残酷さもまた。

Roger Hawkinsがドラムを叩く映像が少し。初めて見た気がした。
Jerry WexlerもTom Dowdももういないんだねえ。

あとはEtta JamesとかJimmy Cliffとか、Stonesのふたり(Keith Richards、なにいってるかぜんぜんわかんね)、Dan PennとかSteve Winwoodとか、優等生Alicia Keysとかいっぱい。

締めはLynyrd Skynyrdによる"Sweet Home Alabama"、この曲のなかでMuscle Shoals Rhythm Section - The Swampersのことは歌われていたんだねえ。

日本で公開するならピーター・バラカン先生にナレーションを。ナレーションなかったかもだけど。

10.24.2013

[film] Beau Travail (1999)

気圧がひどすぎてしんでる。 いーくらなんでもひどすぎる。

13日の19:00、AstoriaのMuseum of Moving Imageで見ました。 MOMAで"10 Rillington Place"を見たあとに。

ここでは9月からずっと"The Complete Howard Hawks"をやっていて、この日も16:30から"A Song Is Born" (1948)がかかったのだが、MOMAからここまでの移動を考えると危なそうだったのでここは諦めて、MOMAから一旦ダウンタウンに降りてOther MusicとMcNary Jacksonをまわったのだが、つい5日前くらいにも来ているのであんましないよね。 アナログ2枚買ったくらい。

Museum of Moving Imageでは、NYFFで彼女の新作"Bastards (Les salauds)"がかかったことを受けてか、この日から"Five by Claire Denis"ていう小特集があって、5本ていうのは、デビュー作の"Chocolat" (1988)と、これと、"Trouble Every Day"(2001)と、"The Intruder" (2004) と、
"Bastards"で、"Trouble Every Day"はBAMでも上映されて、なぜか局所的に盛りあがっていた。

10/5のNew Yorker FestivalでのNoah BaumbachとGreta Gerwigのトークのなかで、"Frances Ha"でFrancesがBowieの"Modern Love"に併せて疾走するシーンが流れて、てっきりそれに続けて、『汚れた血』での"Modern Love"にいくかと思ったらこの"Beau Travail"のラストのDenis Lavantのひとりダンスシーンに行って、それでもみんな唸らされて、すごく気になったの。

原作、というほどのものではない、ベースはメルヴィルの短編 「ビリー・バッド」。 ちなみに(配布されていたレジュメにあったのだが)同年に公開されたカラックスの"Pola X"の原作もメルヴィルである、と。 たぶん偶然だけど、と。

軍をクビになったオフィサーGaloup(Denis Lavant)が軍にいた当時 - アフリカのジブチに駐留するフランス外人部隊の訓練と待機、移動の日々を回顧する。
血なまぐさい戦闘シーンがあるわけではなく、どちらかというとなにも起こらない静かで退屈な日々 - ダンスとか訓練とか水泳とか - なのだが、そこに入ってきた美しい新兵(Grégoire Colin)と彼の確執を描く。 

ここも激情まみれのどろどろの愛憎劇、というよりはそれぞれの目線や動きの交錯のなかのストップモーションとして静かに描かれて、それはそれで鮮烈に残ってすばらしい。 ありあまるエネルギー、美しい自然のなか、仕事(戦争、戦闘)の向かうところが宙に浮いてしまったとき、中立地帯に放りだされて目が彷徨ってしまったとき、例えばヒトはこんな動きをしたりする。
新兵はGaloupを殴って、Galoupは彼をぼこぼこにして車で運び、砂漠のまんなかに置き去りにして、それがばれてクビになって、ちぇ、と。

アフリカにいるフランス人、ジャングルではなく沙漠と海、学校ではなくて軍隊で、というのはあるのかないのか。

んで、夜中の屋外(クラブの外?)、タバコを片手に持つGaloupが"The Rhythm of the night"にあわせて身をくねらせるラストになるのだが、これはなんなのか。 ダンス?
あらゆる目的、過去からも未来からフリーとなってしまった野性と野蛮と肉と魂が、なにかを求めてなのか、なにかを解放するためか封じ込めるためなのか、冷たい夜の闇のなか、動きはじめる(まさに動きはじめる、ような動き)。 今にも爆発しそうで、でも同時に完全に統御されているようでもある。

客席からどよめきと歓声が起こって、最後はみんなわーわー拍手だった。 それくらいすごいの。
(You Tubeにもあるから見てみてね)

10.20.2013

[film] 10 Rillington Place (1971)

13日の日曜日の午後2時、MOMAで見ました。
短い「お休み」の2日目、すばらしい秋晴れの日で、そんな日にこんな映画もまた。

邦題は『10番街の殺人』。

MOMAで毎年開催される修復フィルムお披露目祭り - "To Save and Project: The 11th MoMA International Festival of Film Preservation"、今年のゲストセレクション担当はNYFFで"Nebraska"が好評だったAlexander PayneさんとChantal Akermanさんで、この映画も9日の上映時にはAlexander Payneさんが紹介していた。

ロンドンの実録犯罪モノ。 タイトルは犯行現場の住所で、撮影もそこで行われたと。
1942年、Christie (Richard Attenborough)が自宅を尋ねてきた女性にガスを吸わせて首を締め、屍体を裏庭に捨てる描写があり、次が44年、彼と妻が住む部屋の上に部屋を間借りしたいとTimothy Evans (John Hurt) とその妻、幼子がやってくる。

Timは貧しくて読み書きもできないから仕事も大変で、でも妻が身籠ってしまって生活どうするの?で夫婦喧嘩も絶えなくて、そこにChristieが相談に乗りましょうか医療の心得もありますし、と声をかけてくるの。

Christieはでぶではげでメガネで、しゅーしゅー言いながらゆっくり囁くように喋るのが不気味で怖くて、Timはぎすぎす落ちつかない、すぐ頭に血が上るロンドン子で、やがてTimはChristieにはめられて脅されて、冤罪で首吊りになってしまう。

ロンドンのくすんだ建物の壁の色、室内の色、空の灰色、全体の色感はどこまでも暗くしけてて(リストアされたフィルムの見事なこと)、そこに畳みかけるように陰湿で救いようのない事件がずるずると垂れ流されて、誰もどうすることもできない悲惨さをカメラは緩慢な動きの単調さで追い続ける。 Christieが捕まるまでの7年間、呪われた館とその裏庭はほんとに、ただそこにあったという恐ろしさ。

はっきりとカツラとわかるRichard Attenboroughの決して狂気を見せない故の怖さ、がりがりの、すれっからしのパンクJohn Hurtのぎすぎすしたきつさと、どちらもこびりついて抜けない。

あまりの救われなさに見終わったあと、誰もが"So creepy…"と肩を落としてつぶきながら場外に出たのだった。

それにしても、Richard Fleischerはこれのあとに"The Last Run" (1971)を撮っているのね。
最強だねえ。

[art] Magritte: The Mystery of the Ordinary, 1926–1938

Metropolitanを出てからバスで5thを下り、MOMAで見ました。お昼になったかならないかのあたり。

http://www.moma.org/interactives/exhibitions/2013/magritte/

マグリットのシュルレアリストとしての画業にフォーカスした26年から38年までの絵画たち。
マグリットって、たいてい小学生の頃に読むシュルレアリスム入門みたいな本で読んで知って、なんか子供っぽいかも(←子供はおめーだ)とか思って、その後はエルンストとかキリコとかデュシャンとかに行ってしまったので、実物をきちんと見たことがなかった気がした。 のでちゃんと見る。

教科書アートだねえ、と改めて思ったがこれだけごっそり有名なのが揃っているとやっぱし盛りあがるし、ひとつひとつのイメージが鏡の奥のほうに反射し、広がって延びていく。 まさに「平凡さに潜む謎」。

"The Lovers"も“Treachery of Images” - 『さよならを待つ二人のために」でヘイゼルが着てたTシャツ - も“The False Mirror”も"The Rape"も“On the Threshold of Liberty”も"The Grand Family"も、タイトルだけだとわかんないかもだけど、絵を見たらみんなすぐあーあれかぁ、なやつ。

あと、まとめて見て思ったのはベルギーの冷たさと暗さ、クールネスってあるなあ、とか。
ブルトンとはぜんぜん合わなかったよねえ、これじゃ。

ほかに見た展示は:

American Modern: Hopper to O'Keeffe

タイトル通り、George Bellows、Edward HopperからCharles Sheeler、Georgia O’Keeffe、Andrew Wyethあたりまで、期間でいうと1915から1950あたりまでのアメリカの絵や写真を並べたもの。 でっかい絵はなくて、その絵の小ささとその小ささ故のナイーブさというか神経症なところもまたアメリカの近代、なのだった。 地味だけどどれも素敵な絵画たち。でっかいアリーナではなくて、カフェやライブハウスでかかる音のような。

Soundings: A Contemporary Score

MOMAで最初のSound Artを集約した展示(ほんとなの?)らしい。
16のアーティストによるいろんな作品をいろんな小部屋に展示、というか音と一緒のインスタレーションとして垂れ流していて、クリック音とか電子音とかじゃーじゃーノイズとか、それらに連動して点滅するストロボとかLEDとか、かたかた回る機械とか、そんなのばっかしが延々。 なんでこうなっちゃうんだろ、なっちゃうもんなのかしら? と少しだけおもった。

会場でずっと立って見張りしているおじさんたちがしんどそうでかわいそうになった。

で、ここを出てからバスでLincoln Centerに向かい、NYFFの"Inside Llewyn Davis" - 以降のを。
(もう書いたやつね)

10.19.2013

[art] Balthus : Cats and Girls—Paintings and Provocations

4日の晩にシアトルを発って、5日の朝6:50くらいにどんよりしたJFKに着いて、到着したTerminal4にはShake Shackができたはずなので、もし開いていたら… だったのだが見当たらなかったので諦めてホテルに向かい、運よく部屋に入れたのでシャワー浴びて少し寝なければと布団にもぐったものの結局眠れず、10時過ぎに地下鉄でMetropolitanに行ってみました。

「バルテュス 猫と少女 絵画と挑発」

これだけはなにがなんでも見たかった。 今年の展覧会のベストかも。

"The King of Cats" (1935)
入り口にあるのが、猫を足下に侍らせてポーズをきめる若きバルテュスで、要するに挑発しているの。

わたしはここの常設にある「夢みるテレーズ」(1938)がこの美術館ぜんぶのなかで一番好きくらいで、それがあるのは当然なのだが、他にも同様の猫モノ、少女モノがずらずら。

しかしどの猫もひと目で「にゃー」となじりたくなるくらい不細工で、少女もそんなに美しいとは言えなくて、アウトサイダーアートみたいに見えないこともないのだが、少女、そして猫それぞれの姿態が四角の構図のなかにパーフェクトな陰影と共に納まっているのでなんも言えなくなる。
すべてがGame of Patienceの産物、ていうか。

"The Week of Four Thursdays" (1949)とか"Nude with Cat" (1949)、
"The Game of Patience" (1954)とか"The Girl at a Window" (1955)とかのあたりね。

あとは、なにこれ? みたいな、見れば見るほど吸いこまれていく幻視系、"The Golden Days" (1944-46)、"Girl with Goldfish" (1948)とか"The Cat of La Méditerranée" (1949)とか。

40年代の充実ぶりがすごいねえ、と思ったところで突然"Mitsou" (1919)の全40枚が現れたので少し驚く。
11歳のバルテュスによるこれも、猫だったんだ、と。

リルケのテキストはないのだが、一枚一枚を追っていくだけでじーんとくるの。
終りのほうでぐすぐす泣いているおばあさんがいたが、そんな切実な絵で、バルテュス見て泣かされるとは。 これも挑発か。

あと、あの有名な"The Room" (1952-54)はなかった。
別のいみで有名な"The Guitar Lesson" (1934)もなかった。

カタログ買った。Mitsouのトートも買った。

ここの隣で、もういっこ見た展示がこれ。


Interwoven Globe : The Worldwide Textile Trade, 1500–1800

キルトとかタペストリーとか、16世紀から19世紀にかけて世界各地で編み込まれたいろんな布、いろんな柄あれこれ。 

六本木の一角獣も素敵だったが、あれとは別のスケールがあってこれもまたすばらし。 布フェチ編みフェチはぜったい行くべし。

アジアの文様もヨーロッパの文様もいろんな草花柄、いろんな動物柄も互いに重なりあい混じりあい、幾重もの「撚り合わされた地球」をつくっていく。アジアのかと思えばヨーロッパのだし、逆もまたありだし。 数百年の、何億のひと、何億の針と気の遠くなるようなちくちくの営為と。  ほんとにさあ、こんなにも針と糸で繋がっているのに、繋がってきたことがありありなのに、なんで国と国、種族と種族は鉄と火薬で戦争ばっかしするのさ?

世界中の小学生にむりやり見せて感想文書かせるべき。

10.18.2013

[film] Enough Said (2013)

すこし前に戻って3日の晩、Seattleでの二日目の晩、夕食が早く終わったので、7:30頃、裏のシネコンに走りこんで見ました。

James Gandolfini の遺作… ではない最後から二番目の作品。

Eva(Julia Louis-Dreyfus)はシングルで、高校生の娘と暮らしていて、でっかいマッサージ台を運んで訪問マッサージ師をしてて、ある日友人(Toni Collette ..さいこう)に誘われたパーティで詩人のMarianne (Catherine Keener) と会って、更にばついちでTVプログラムのアーカイブの仕事をしているAlbert(James Gandolfini)とも会って、Marianneのおうちに呼ばれてマッサージしに行ったり、Albertとは食事をしたりして仲良くなる。

そうしているうちにAlbertの娘を介してMarianneはAlbertのex妻で、Marianneからさんざん愚痴を聞かされていたex夫ていうのはEvaが好きになろうとしていたAlbertのことだったことがわかって、びっくりして、そうこうしているうちにMarianneの家で全員が鉢合わせして、みんなすんごく気まずくなって、あーあ、になるの。

というだけの話なのだが、EvaとAlbertがだんだんに仲良くなっていくところとか、しょうがないなあ、ていうかんじでよりを戻すところとかが、ふたりの笑顔のゆっくりゆるやかな切り返しだけで、とてもよく描けていてよいの。
大人の恋、とかぜんぜん信じたくないし見たくもないのだが、ここにあるのがそういうのだと言われたら、そうかも、て素直に納得する。

James Gandolfiniが玄関脇のテラスのとこに熊みたいに立って少し目を細め、怒っているような笑っているような、まったく... みたいな顔をしてこっちを見ているとこ、ほんとうに惜しいひとを亡くした、ておもう。
彼の代表作は"The Sopranos"じゃなくて、こっちにしたい。

エンドロールの最初に、小さな文字で"For Jim"とだけ、画面の真ん中にぽつんと出る。 
バックに流れるのがEELSの"I Like the Way This Is Going"なの。

Evaの娘の友人役でTavi Gevinson さんが出てて、用もないのにEvaの家のソファでごろごろ寝てばかりの役で、なかなか素敵だった。


これの後に"Gravity"にはしごしたの。  とてつもない段差をかんじた。 

10.17.2013

[music] Nine Inch Nails - Oct 14 2013

14日のBarclay Centerのライブ。 New YorkではあるがロケーションはBrooklynで、BAMのすぐ隣で、この新しいアリーナを見ておきたい、というのもあった。
これまでのMadison Square Gardenと比べると、飲食関係は明らかに充実していて、近所のFort Greenのおいしいレストラン(いくらでもある)で食事してからライブに行く、という贅沢ができるようになったの(MSGだと隣のKorean街の焼肉くらいしかなかった...)。

そういうわけで、夕闇に沈んでいくRoman'sでNilssonを聞きながらおいしいイタリアン(別に書きます)を戴いていたらこのまま世界なんてなくなっていいや、のかんじにいってしまい、会場に辿り着いたのは8時過ぎ、前座のGYBEの最後の轟音が消えていくところだった...

会場内の食べもの屋群もすばらしくて、Fatty 'CueとかElbow Room(Mac and Cheeseの店)とかを眺めていいなー、とか言っていたら、20:50くらいに突然"Copy of A"が聴こえてきたので慌てて席に戻る。 あんな突然はじめなくたって。

復活初日の、しかも悪天候下の苗場と比べるのはよくないのかもしれないが、もう音の硬さ、圧力、風速、ぜんぶがちがう。 もちろん手で装置動かしたりしない。
タンバリンなし。 3曲目の終わりででギターを後ろのほうにおもちゃみたいに放り投げ、続く”March of the Pigs”では客席に突っこんでいった。
あとは山海塾というか、ビルドアップした僧侶みたいな佇まいになってしまった彼のくねくねした踊り - あれはなにかの意志をもって踊ろうとしているような踊りだった -  よね。

苗場にはいなかったPino Palladinoのベースは、The Whoのライブではあんま感心しなかったのだが(ま、あのポジションはだれがやったって...)、すばらしい太ゴシックと細やかさでのたくり、Ilan Rubinの爆裂どしゃばしゃドラムスと絶妙のコンビネーションを見せる。

サックスがぶりぶり鳴り響くアンコールでの"While I'm Still Here"も含め、このラインナップははっきりと新譜の緻密な電子音とぐるぐるまわるグルーヴを最適なかたちで再現するためのものなのだな、とおもった。
更に女性ヴォーカルふたり(うちひとりはもうじき日本でも公開される"20 Feet from Stardom"にも登場するLisa Fisherさん)が音に加えた幅の広さ、とくにアンコールの"Even Deeper"の間奏部なんて、Pink Floydみたいな浮遊感をもたらす。

「ぼくはコピーのコピーのコピー」ではじまって「ぼくがここにいる間だけそばにいて」と呟き、どす黒く渦を巻く"Black Noise"で終わるライブ。 べったりとした何かが残ることは確か。

ライティングは、毎回の度肝ではあるのだが、今回もすさまじい光量とコントロールの嵐と。 新譜の音との連携はよりくっきりと出ている。

あとはクラシックとの共存、というか再演のところで、"Somewhat Damaged"とか"The Day the World Went Away"とか、聴いたことのないアレンジで来るのもあれば、"Wish"や"Burn"のごりごりのハードコアでぶちかますものもあり、様式としてはまったくもんだいなく、すばらしい。

但し、これはNY Timesのレビューでも指摘されていたが、これらの曲が作成された当時に渦巻いていた怒りとか自己破壊とかゴミだのジャンクだのいろんな衝動の殆どが90 - 00年代の約20年をサバイブしてしまった40代、こういうライブに来れるくらい経済的に安定した生活を送っている40代であるファンの間ではもうほんとうに「クラシック」 - もちろん弩級のではあるが - としてしか機能しないかもしれない、という点はどうなるのか。 ハイアートとして緻密に構築された新譜との乖離(我々のあたまの中にある)はどこに向かうのか。

萎れたじじい達の間で愛玩されるビートルズやストーンズだったらわかる、ファッションとして消費されるパンクもしょうがない、けど、今回の新譜のようなかたちで進化し続けるバンドの音を、かつてぼろかすでヤスリのように聴いていた我々はどう受けとめていくべきなのか、これはTrent Reznorがむきむき悩んで考える、というよりはかつてのインダストリアルやグランジの今を、どうやって生きるのか、聴くのか、という自分の問題なのだねえ、と少しおもった。 "TENSION"ツアーで溢れまくるいろんなTension。

というようなことをぜんぜん若者がいない会場を見ながら考えていた。やっぱしチケット代かしら。

あーでもよかった。何回でもみたい。

10.15.2013

[log] October 15 2013

というわけでバスでマンハッタンからJFKまできました。

今回の旅はタクシーを使わないことにしたので、自宅から渋谷駅までも電車だったし、JFKからホテルもAirTrainとAラインを乗り継いでいった。 いいの。お天気よかったし、お休みなんだもの。

NY行きの飛行機は久々にエコノミーで、ビジネスがいっぱいでとれなかったからなのだが、しんどいなあ、だった。でもねたけど。 帰りもビジネスは取れなくてプレミアムエコノミー。 どうせ寝るだけだし。

日本は台風らしいが、とりあえず飛行機は飛ぶみたい。よかった。

2日半なんて、ほんと冗談みたいにあっというまだねえ。
先週末と比べると天気は毎日すばらしい秋晴れだった。
こんなによい天気のヴァケーションなので無理をして押し込むのはやめにして、だから映画は4本、ライブ1本だけ。 当初の目的は達成できたし。

ほんとはNINの後、Mercury LoungeでQuasiがあって、ここだけちょっと心残りだったかも。
映画だとJames Francoの劇場リリースが見送られたけど限定公開されている"As I Lay Dying"とか、Film ForumのJacques Demy特集とか、なぜか単館でしかやっていない"CGGB"(これは日本でもやるじゃろ)とか、少しだけ未練あるけど、でもいいの。 お休みなの。

飛行機で見た映画のことをすこし。

こないだの出張からの帰り、水曜日の便で見たのは2本。

"The Lone Ranger"
タランティーノがベスト10に入れている、てみんな騒いでいたのでみる。(それにしてもなんで彼のベスト10でそんなにさわぐの? あてになんないよ彼の)

長くてどうでもいいとこがいっぱいあるのを除けば、そんなに悪くなかったかも。 バカな白馬と肉食ウサギが出てくるだけで許してしまうかも。 もともとほんとガキむけの三文活劇をやろうとしたけどあれもこれも入れすぎて収拾つかなくなったかんじ。ヘレナ・ボナム=カーターがもっと暴れて、インディアンの呪いとか魔術がいっぱい出てきたらおもしろくなったのかも。

"Upside Down"
お金持ちが住む「上」の世界に住む彼女と貧乏人が住む「下」の世界の彼との恋物語なのだが、すんごくよかった。
1時間40分では足らなくて、ほんとは3時間くらい掛けるべきだった。ピンクミツバチの謎とか、なにが最終的な共存をもたらしたのか、とか。それに赤ん坊はどっち側になるのか、とか。

ベースがこてこてのラブロマンスだから背景はどんなだって構うもんか、なの。ふたりが最初にデートをする山の光景なんて、まるでフリードリヒの絵なの。ロマン派なの。

NY行きの飛行機で見たのは。

"Now You See Me"
4人のマジシャンが集められてFour Horsemanていうグループをつくってベガスでショーをやる。客の1人をパリの銀行の金庫に瞬間移動させてそこにあった札束を会場にばら撒く、ていうのをやったらFBIとインターポールが動きだし、次のショーがニューオーリンズで、その次のがクイーンズの5 Pointzなの。
イリュージョン系のマジックのなにがどうおもしろいのかまったくわからないのでよくわかんなかった。
要するにどんだけうまく人をだませるのか、ていう(だけの)はなしでしょ?
あれ、ああいうオチでいいの? あのオチこそがイリュージョン、てことなの?

あと、なんとなく目があいて、チーズパンがでてきたとこで"The Heat"をもう一回みた。

 Melissa McCarthyさんの動きでいちばんおもしろいのが車のドアがつっかえて出られなくなって窓からずるずる落ちる、ていうのはもうちょっとなんとかしたかったかも。あれだけ武装したっていうのに。

更に、なんとなく目が開いてしまったので、"Star Trek Into Darkness"を途中まで。
"Gravity"を見たあとなので、なんかやわい気がした。 いつも思うのだが、あんなに船内穴ぼこだらけにされて、平気なのか、とか。

ではまた。

[film] Her (2013)

まだだらだら引きずりながら考えているのだが、とりあえず書いてしまおう。
NYFFのクロージングピース、ワールドプレミア、13日の夕方6時から。4時過ぎに地下鉄から上ってみたらStand-byの列に既に10人くらい並んでいたので、とりあえず並ぶ。 風がすこし吹いてて肌寒いけど我慢できないほどじゃない。

Stand-byの場合、直前まで発売にならないしひとりづつ呼ばれて窓口にいくし席の指定はまったくできないのでいつもはらはらなのだが、15分くらい前に金持ちそうなおじさんが定価($50)で売るけどいらない?と言ってきて、列を見たらJ列だったので買ってしまった(現金、ぎりぎりで$50もってた)。 (リンカーンセンターのどの劇場も、だいたいJ列のあたりで椅子がちょっとだけ高くなるんですよ)

最初のNYFF全体のトレイラーとこないだから始まったゴダールのレトロスペクティブのトレイラー(かっこいい!)の後、主催者側でKent Jones、そして監督のSpike Jonzeの挨拶。

少しだけ近未来のLA。 みんなイアピースして携帯端末に小声で話しかけながら歩いている。
Theodore (Joaquin Phoenix) は、手紙の代筆会社に勤務していて、それも端末に声でぜんぶ指示を出すような仕事。妻(Rooney Mara)とは離婚調停中で、高層マンションにひとりで住んでて、同じアパートの住人にAmy Adamsさんがいる。

ある日、彼はなんかの見本市で新しい人工知能OS(OS1だって)を手にして、試しに使ってみることにする。
最初に簡単なインタビューがあって(相手は男がいいか女がいいか? 母親との関係は?とか)、Activateされたそれはサマンサ(声はScarlett Johansson)と言い、彼にとってとっても相性がよくて、ふたりはだんだん親密になっていく。

サマンサはSiriみたいなオンライン秘書、というだけでなく彼の過去のローカルデータも含めてあらゆるプロファイルにアクセスして、更に背後のビッグデータ(けっ)とパターンマッチングした上で彼の声の強弱、トーン、ご機嫌、お好み、すべてに連動、連携、微調整しつつ常に(感情の揺らぎとかも含めて)最適解を返すように仕組まれているので、どんよりしていた彼の日常が安定してポジティブふうになっていくのは当然なのだが、その当然の帰結として恋愛の領域まで踏みこんでいくことになる。

始めはサマンサが見つけてきた相手(Olivia Wilde)とブラインドデートしたりしてみるのだが、なんかうまくいかなくて、結局彼女を、彼女の声や彼女の言ってくることを深く愛していることに気づきはじめる。 なかなかサインできなかった離婚届けも凸凹はあったけどサインできたし。

まあそうだよねー、いまオンラインゲームでやっているようなことを行けるとこまでカスタマイズしていったらできることだよねー。 で、AIポルノとかAI 3P(笑える)とかを経由し、そういうののよいわるいも含めて、とりあえずフィジカルであろうがヴァーチャルであろうが恋愛てなんなんだろうね、みたいなとこまでいく。 まあみんなで考えて元気になったり落ちこんだりしてみよう。

彼とサマンサのやりとり、そこで交わされる感情の奥深くに潜っていくような対話がもたらすいろんな洞察や気づきはふうむ、と思うものの、やっぱり生身の人間との絆、繋がり、やりとりが必要なんだ(げろげろ)とか、そういう方向に誘導しやすいふうにまとまっている、ように見えたのね。
(自分に変なバイアスがかかっていることは認めるけど)

どこにでもいそうな、人並みの浮き沈みを経験し、そこそこ成功している会社員、という設定。Joaquin演じるTheodoreはチョビ髭に丸メガネに明るい色のシャツで、あなたでもわたしでもありうる、アバターみたいな、アバターみたいにふるまう自我とIDと。

ほんとうに、そんな絆とか、自分をわかってくれる存在とか、必要なのか。そこまでしてモテたいのか、認めてもらいたい、認めてもらう必要があるのか。

画面は色彩も含めてどこまでもきれいに抜け目なく近未来のランドスケープとしてデザインされている。 メインテーマはArcade Fire、その他の音はOwen Pallett、これもみごと。俳優さんは誰もまったく、もうしぶんない。 声だけのScarlett Johanssonなんて、ほんとうに凄まじい。
けどこんなの、ほんとうに映画として必要なんだろうか、PVでいいんじゃないか。

かいじゅうたちのいないところ。(あの森みたいなところも出てくる)
かいじゅうたちのいないところを映すことで「いるところ」を指し示しているかというと少し微妙かも。
ここには例えば、"The Immigrant"の身を切るような煩悶も、"Punch Drunk Love"の荒れ狂う暴発も、"Frances Ha"のあっかんべーも、ないの。

みんな村上春樹の小説の登場人物みたいで、彼の小説を好きなひとは好きかもしれないね、とか。

エンドロールに以下の4人の名前があって、みんなであぁ、て拍手した。

James Gandolfini
Harris Savides
Maurice Sendak
Adam Yauch

上映後のバルコニーには、監督、Joaquin、Rooney Mara、Olivia Wildeさんがいた。
外のレッドカーペットでRooneyさんとOliviaさんがそばに寄ってきていた。Rooneyさんは幽霊のように美しく、OliviaさんはDrinking Buddies(TIFFで見てね!)そのままのかんじだった。

[music] Nine Inch Nails - Oct. 14 : photo

とりいそぎ。 苗場よか、これまでのどのライブよかすごい。 




10.12.2013

[log] October 12 2013

10日の木曜日の夕方に帰国して、金曜日は夜中までふつーに仕事して、今朝は7時に起きて成田まできて、これからNYにとぶんだ。 二日ぶり。わーい。

ばかみたいなので会社のひととかに行き先とか言えなかったけど、これはれっきとした、誰も文句を言ってはならない、堂々ととって構わないはずの正規のお休みで、夏休みで、今の体の状態で「お休み」になるとはぜんぜん思えないのだが、とにかく行くんだから。

ひょっとしたら、というかんじで計画を練りはじめたのがFRFのあとくらい、やがてNYFFの日程が出てクロージングピースが発表になったあたりでやっぱし行こうかしら、とひとり勝手に決めた。

お金も地位も友達もないけどマイレージだけはしぬほどあるのでそれを使って、と申し込んだのだが行きも帰りもずっと空席待ちのまま動かず、そのうち仕事もばたばたになって忘れてしまっていて、最終的にFixしたのはシアトルからNYに渡る直前だった。

フライトを決めたら決めたでお宿がどこも冗談みたいなお値段で(向こうも三連休だし)すったもんだして、でも自分へのご褒美とかなんとかゆってとりあえず決めたのがつい昨日のこと。

火曜日の昼には向こうを発つので正味2.5日ぽっちの滞在なのにあまりにいろんなのをやっていすぎて悲惨だ。 どうしよう..

NYFFのほかにMOMAで"To Save and Project: The 11th MoMA International Festival of Film Preservation"が始まったし、よくわかんないCBGB Festivalてのもやってる。(劇映画の"CBGB"もはじまった)   Greenpointに引っ越したAcademy Record Annexは12日にオープンするし、秋はきのこがおいしいし。

お仕事抜きで行くのは久々なのであたまのなかがお祭りてわんわんうるさくて、3日くらいがちょうどよかったのかも。これ以上いたら元に戻れなくなるかも。

というわけでいってきますー

[film] The Wizard of Oz (1939) - IMAX 3D

少し昔の。
シアトルの頃に戻って、2日の水曜日、シアトルについてホテルに入ったのがごご7時過ぎ、裏のシネコンの時刻表みたらこれやっていて、7:20くらいの回のがあったから走りこんだ。

IMAXのでっかいとこに客は4人くらい。 子供は一匹もいない。

公開75周年記念かなんかで3D化されたやつを限定公開していた、らしい。
ついこないだ、シネマヴェーラの映画史上の名作シリーズで見た気がするが、あれはたしか16mmだった。 なんかえらい違うねえ、とほんものみたいに浮かびあがるMGMのライオン見ておもった。

全体として、巨大な透明の立方体の水槽が空中に浮いていてそのなかでJudyが、じゃないDorothyが動きまわる。それこそがOzの魔法なの。 はじめに"Over the Rainbow"と歌い、おわりに"There's No Place Like Home"と歌って、彼女は結局虹の彼方に行けたのか行けなかったのか。 行かなくてもはじめからそこにあった、とは言いたくない。

さすがに色はすごくみずみずしい、けど画面の肌理がリアルに細かすぎて、Lionとかの肌のつなぎ目が改造人間みたいでこわかったかも。

で、これを見た翌日の晩、この同じ箱で"Over the Rainbow"どころか宇宙の涯にふっとばされてもがき苦しむ"Gravity"を見たのだった。 George ClooneyがOzなんだな。

10.11.2013

[film] The Immigrant (2013)

6日の日曜日、この日はごご、NYFFで映画一本だけ。 
James Grayの新作もぜったい見たいやつだったが、すでにとっくにStand-byしかなかったの。
recetteでお昼食べてからLincoln Centerに移動して、列ができ始めた頃に並んで1時間くらい。

いちおうNorth Americanプレミアなので、上映前に監督挨拶とJoaquin Phoenixが出てくる。
ホアキン、長髪で(今週のNew York Magazineの表紙参照)、ほぼ普段着で、マイクの周りを怪しくうろついただけで、何も言わずに去る。

1921年、ポーランドから来たEwa (Marion Cotillard)とMagdaの姉妹がエリス島に降りたち移民審査を受けるところから始まり、Magdaは肺を病んでいるからと診療所に隔離されてしまい、Ewaは訪ねる先のおばの住所が存在しないから、と強制送還の列に並ばされる。

途方に暮れたところに手を差しのべたのがBruno(Joaquin Phoenix)で、妹のためにも帰国するわけにはいかない彼女が彼についていくとそこはダウンタウンの怪しげな共同安宿みたいなとこで、いろんな女達がいて、彼女たちはバーレスクをやったりしてて、夜には体を売ったりもしていて、Brunoはそこの元締めだったの。
Ewaはひどいって怒りをぶつけるのだが、Brunoも逆ギレして、わかっているのか? 妹のためだ、こうでもしないと他に行き場なんてないぞ、ていうの。
そんなある日、マジシャンのOrlando(Jeremy Renner)が現れて、彼女を救おうとBrunoと衝突して…

James Grayの前作"Two Lovers"も切ない片思いの映画だったが、これもどん詰まりの片思いのお話(そもそも移民て、片思い以外のなにものでもない)で、三角関係というよりはまったく噛みあわないまますれ違い痛みをこらえて歯ぎしりするほんとにかわいそうなBrunoのお話しなの。

Grayの作品をずっと担当しているChristopher Spelmanのスコアが見事で、今回はこれにプッチーニが加わる。 上映前も、上映後のQ&Aでも、オペラをやりたかった、とGrayは言い、そこでいうオペラはMartin Scorseseが大仰な構えでぶちかますスペクタクルとしてのオペラ(ref. "Gang of New York")ではなく、がんじがらめになって互いに縛りあう感情が呻きあう、震えたむきだしの声が織りなすそれで、そういう意味では彼の意図はみごとに反映されていたのではないか。

そしてこの作品もまた、これまでの彼のと同じようにNew Yorkが舞台で、それはたんにエリス島が出てくるから、ということではなく、マンハッタンという場所がそれぞれの片思いを抱えこんで成り立つ猥雑な島だったから、と。

あんなにも切なく悲しくぶつかって擦れあって、でもどうすることもできないエモの塊はラスト、再びエリス島に戻り、カモメの声と共に忘れ難い余韻を残す。 ラストショットがほんとうにすばらしいったら。

Joaquinはいつもの彼なのだが、ぐいぐいに抑えこんでいるのがわかって、それはそれでたまんないかも。 Jeremy Rennerも、いつもの凶犬というよりはどこからか流れてきたマジシャン。ひくひく戦くばかりのMarion Cotillardがうまいのは毎度のこと。

上映後のQ&Aも楽しくて、James Grayがあんな饒舌なひとだとは思わなかった。

10.09.2013

[log] October 09 2013

なんとか帰りのJFKに来ました。 ねむいしだるいし。

4日しかなくて、うち2日仕事、だとやはりどうしようもないわ。ずうっとねむかった。
天気もシアトルから続けてぱっとしなくて、もやもや霧で暗くて、日曜はずっと霧雨がぱらぱらしていて、要はばりばり動けるかんじではなかったの。

NYでは映画5、トーク1、美術館2、とかそんな程度。 お買い物だってしなきゃいけないし、Cronutだって食べなきゃいけない。

Cronut、いちおう火曜日の5時半に起きて行きましたけど、もう暗いし寒いし、夏頃のお祭り感はなくなっていたかも。でも10月のフレイバー、Apple creme fraicheはよかったし、他にPerfect Little Egg SandwichとMagic SouffléとDKA (Dominique’s Kouign Amann)もいただいた。 夜までお腹いっぱいだった。

食べものはいつものようにPorsenaに行ったのと、ようやくBlue Ribbon Fried Chickenに行った。 米国にふつうにあるButtermilk Fried Chickenとはちょっと違ってややあっさりめ、すこしぴりっとしていていくらでも食べられそうなとこがこわい。

本屋はMcNally JacksonとSt.Marksしか行けなかったが、New Yorker Festivalの直後だったのでサイン本がいっぱいあった。とりあえずJonathan LethemとJonathan FranzenとRookie Yearbook Twoのサイン本かった。

写真はMetropolitanの"Balthus: Cats and Girls"展で売ってた「ミツ」のトート。
「ミツ」の原画がよくてねえ ...













ではまた。 機内でいっぱいねる。

[talk] Noah Baumbach and Greta Gerwig

6日の土曜日の晩、Walter Readeで"They Live by Night"を見たあと、次の"The Lusty Man" (1952)はパスして、8時過ぎに23rdの西のほう、The New Yorker Festivalの会場に行った。  10時開始のこのイベントのStand-byに並ぼうと思ったのだが、列はそんなたいしたことなくて、9時に当日券がでてそれを持って別の列に並ぶ。 チケットは$40。

New Yorker Festivalは数年ぶりで、毎年見たいのはそれなりにあって、今年もそうで、これの他にももうじき公開される(の?)Bergdorf Goodmanのドキュメンタリーに出てきたPersonal Shopperのおばあちゃんに Lena Dunhamが話を聞く"Betty Knows Best"(チケット$200でStand-byなし...)とか、いっぱいあって、同じシアターの隣の部屋ではMichelle Williamsが出ていたし、NYFFの3時からの"Inside Llewyn Davis"の裏ではTavi Gavinsonが出ていたり、とにかく大変なんだってば。

Noah Baumbachは"The Squid and the Whale" (2005)のプロモーションのときに結構見ていて(よく憶えているのはLaura Linneyさんとの対話で、ブルックリンの離婚した中流家庭で青少年時代を過ごした80年代についてやたら共感していたこと)、でも生Greta Gerwigさんは見たことなかったし。 鶴(?)のプリントのロングドレスがかっこよくて、きれいだねえ。あたりまえだけど。
客席は圧倒的に女の子が多い。やはり。

出てきたはなしを箇条書きでだらだら書きます。

最初は"Frances Ha"のプロモーションで訪れたスウェーデンでIngmar Bergmanの持っている小島に行った話から始まって、船とか車をいっぱい乗り継いで行くよくわかんないところにあるその島には、"Persona" (1966)に出てきた浜辺があって、家にはVHSが山のようにあって、すごかった、と。 あと、"Fanny and Alexander" (1982)の男の子(もう大人で子供もいて、役者はやっていないんだって)に会って感激して泣いちゃったとか。 「ファニーとアレクサンデル」、好きそうだよねー彼。

ふたりの共作である“Frances Ha”は、最初にGretaさんが落書きのようにFrancesにこんなことがあった、あんなことを言った/言われた、とかいうのをNoahさんにちょこちょこメールして、彼がそれをまとめたりつないだり彼女に送り返して、それがやがてひとりの女の子の、ひとつの物語に組みあがって、そうしているうちにふたりは恋におちた、と。 なんてすてきな。
で、最初にあった個々のエピソードはいけてない女の子がどんづまるダークなトーンだったのに、ふたりでそういうふうにまとめてみたらコメディふうになっていた、と。

クリップでは、"Frances Ha"のFrancesがChina Townを"Modern Love"にのって疾走するシーンに続けて、Claire Denisの"Beau travail" (1999)のラスト, "Rhythem of the Night"に合わせてダンスをするDenis Lavantが流れて、とにかくDenis Lavantはすごすぎるよね、と全員で合意した。

"Frances Ha"との比較を少しということで、"Jules et Jim" (1961)のオープニングも流れた。

あと、Robert Altmanの"The Long Goodbye"(1973)のオープニングと"Greenberg"のBen StillerがGreta Gerwigの家に行ってビールを飲むとこが対比される。 ロスという場所の特性をよく現わしているシーンとして。 そこから、同じようにNYをあらわしているクリップとしてMartin Scorseseの"After Hours" (1985)でGriffin Dunne がタクシーに乗ってて$20札を飛ばされちゃうシーンが流れる。 Noah曰く、"Desperately Seeking Susan"(1985)と"After Hours"の2本によって80年代のブルックリンの子はマンハッタンがいかにおっかない場所か、というイメージを植え付けられたのだ、と。 (この2本て、80年代の千葉にいた子にも同様に効いたんだよ!)

あと、LCD Soundsystemの"New York, I Love You but You're Bringing Me Down"に深く感銘をうけたNoahが"Greenberg"のサントラを依頼して仲良くなって作ったという“All My Friends”のクリップも流れた。

"Frances Ha"を書いているときGretaさんが参考にしつつ読んでいたのがJoseph Conradの短編"The Shadow Line"。 どっちの主人公も27歳だし、とのこと。 そのうち読んでみる。

終わりの客席とのQ&AではとにかくFrancesに自分自身をIdentifyしてしまう、という女子(男子までも)が続いておもしろかったが、そういう質問に身振り手振り、あちこちつっかえたりぶつかったりしながら懸命に答えようとするGretaさんは、Francesそのものでおもしろかったのだが、そのなかで、なんで映画でもTVでもあんなに恋愛ばっかし、恋におちたとか失恋したとか取りあげるのか、それがそんなに特別で大事なことのように語られるのか、ていう話になって、彼女が"That’s not good enough!" - 気にくわないんだよ! て大きな声で言って、みんなが拍手した。

Gretaさんは自身の監督作を準備しているそうで、期待したい。 Noahさんの進行中のプロジェクト“Motherfucking Times Square” - 「だいっきらいなんだよあの場所」だって - にも期待したい。

"Greenberg"も"Lola Versus"も"This is 40"もぜんぶDVDスルーにして屑みたいな邦題つけて喜んでて頭のなかに藁と糞が詰まっているとしか思えない配給業者の方々には一切なんも期待しない、中指をつきたてるしかないが、とにかく、"Frances Ha"が日本で公開されないことには話にならないのね。

約90分、終わってシアターの外にでたら開いている隣のシアターの扉のむこうにMichelle Williamsさんが少しだけ見えて、おー、だった。女優としてのオーラはこっちのが。

シアターの外ではスポンサーのハーゲンダッツがタダでアイスクリームを配っていたのだが、微妙にあったかいようなさむいような微妙な陽気だったので貰わなかった。


[film] They Live by Night (1948)

5日の夕方6時、"Inside Llewyn Davis"のあと、おなじNYFFの"Revivals"ていう枠で上映されたNicholas Rayのデビュー作。 これだけは日本から前売り買っていった。
これの後に"The Lusty Men"もあったがこちらはざんねんながら。

この裏、まったく同じ時間に"The Secret Life of Walter Mitty"のワールドプレミアをやっていて、Stand-byのありえない行列ができていたが、やはりこっちでしょう。

WarnerとFilm Foundation、Nicholas Ray Foundationがリストレーションしたもの。

この「夜の人々」は、最初に三百人劇場で見て、そのあと有楽町でも見て、NYに来てからもFilm Forumで2〜3回は見て、そのたびにびーびー泣いている。 絶対に泣く絶対の映画で、わたしは「この映画を見て泣かないやつは人間じゃない」という言葉ゆえにトリュフォーが好きで、彼を信じている。

最近公開された"We Can't Go Home Again (1973)"からNicholas Rayに入ったひとがこれを見たらどう思うんだろ、というのに少し興味があった。
のだが、冒頭のスピーチでSusan Rayさんが84年(だった、たしか)にAlan LomaxがNicholas Rayと共同作業をした際に残したというメモを読みあげる。アメリカの田舎に入りこんで、そこに暮らす人々のあいだで語られる言葉、音楽、冗談、などを拾いあげて正しく紹介する仕事の必要性、重要さに触れたあとで、Nicholas Rayが最後にやろうとしていた"We Can't Go Home Again"もそういうことだったのです、と言って、ここですべてが繋がった。

映画の冒頭、幸せそうに向いあって横たわるBowieとKeechieに被さる字幕;
"This boy and This girl were never properly introduced to the world we live in."

これのすぐ後の、映画史上最初のヘリ空撮シーンばかりが話題になりがちだが、ここのとこで全ては宣言されていたのだった。

これまでのバージョンの粗くささくれだった白黒もよかったが、リストア版は全体に画面がしっとり濡れたようになっていて、ふたりがバスを降りてインスタントウェディングに向かうシーンの生々しさとか、ラスト、ふたりの頬をつたう涙もしっかりと映っていてすばらしいんだよ。

Bowie (Farley Granger)もKeechie (Cathy O'Donnell)も奇跡としか言いようのない輝きを見せる。

筋なんて書いたら泣いちゃうので書きませんけど、日本でももう一度上映されますように。
恋人が病気になったり死んじゃったり秘密があったり、そんなので泣かされてばかりのかわいそーな日本の若者たちに是非見てもらいたい。

[film] Inside Llewyn Davis (2013)

ちぎっては投げ、で書いていかないと、ぜんぜんじかんが。

5日の土曜日、美術館をうろうろしたあとで、3:15から見る。 NYFFでは既に2回目くらいの上映なので当日券が買えた。 でも挨拶ゲストはなし。

9/29にTown Hallで、この映画を掘りさげるべく、"ANOTHER DAY, ANOTHER TIME: CELEBRATING THE MUSIC OF “INSIDE LLEWYN DAVIS”"ていうコンサートがあって、映画のなかの曲を映画に出てきた人たちが歌うだけでなく、以下のような方々が代わる代わる出てきて60年代初の音楽をやったりした、らしい。(チケット、とれるわけないや)

The Avett Brothers, Joan Baez, Rhiannon Giddens of the Carolina Chocolate Drops, Lake Street Dive, Colin Meloy of The Decemberists, The Milk Carton Kids, Marcus Mumford, Conor Oberst, Punch Brothers, Dave Rawlings Machine, The Secret Sisters, Patti Smith, Gillian Welch, Willie Watson, and Jack White...

音楽全体のプロデュースはT-Bone Burnett、音楽助監督がMarcus Mumford (Carey Mulliganのだんなね)

Ethan & Joel Coenの新作。 61年のグリニッジ・ヴィレッジのフォークシーン。 カフェで歌ったりスタジオに行ったりしつつも、既成曲やトラッドを歌う寄席の余興芸としてのフォークではなく、自作曲を歌うSSWとして立ちあがろうとする Llewyn Davis (Oscar Isaac)の苦闘の日々を描く。
Coen兄弟の世界であるが、今回は犯罪も殺しもサスペンスもない。 変人はいっぱい出てくるけど。 ほのぼのとしたおかしさが全面にただよう。

みごとな音楽映画であると同時にたまんない猫映画でもあって、不思議の国よろしく猫に翻弄されたLlewyn Davisが自身の内面への旅を強いられて呆然としたり歯ぎしりしたり、そうしているうちに外側の世界が内側になだれこんでくる、そんな内容の映画でもある。

Dave Van Ronkのメモワールをベースにしていて、当時のフォークシンガーの根城だったGaslight Cafeも出てくるが、そんな時代劇要素よりどちらかというと冬の街の寒さとかシカゴへの道中の不気味な暗さとかそっちのほうが沁みてきて、そこにギターの弦のきりきりした響きが重なってくる。

髪をのばしてほとんどすっぴんで出てくるCarey Mulliganさんがとても生々しくて、歌を歌うとこもよいのね。 "Shame" (2011)の歌うとこを思いだした。

あと、主演のOscar Issacが実にみごとで、勝ちも負けもない、悩んだり戦ったりしてもしょうがない世の中にたったひとりで立って、歌って、ギターを弾く。
そしてJohn Goodmanの、例によってわけのわかんないかんじ。 全員が"…"になってしまうすごさ。

かんじとしては、Wim Wendersの"Don't Come Knocking" (2005)なんかにも近いかも。 あれもT-Bone Burnettだったけど。 音楽が必要とされている世界、音楽を必要としている人々のいた時代がすばらしい音楽と共にやってくる。
そしてラスト、あの男の登場によって転がりはじめたなにかはあったのかなかったのか。

しかし当時のグリニッジ・ヴィレッジとか、地下鉄とかどうやって再現したんだろ。 セットなのかなあ。

これ、Coen兄弟がフィルムで撮影する最後の作品になるのだそうな。

10.05.2013

[film] Gravity (2013) - IMAX 3D

こっちから先に書きます。
3日の晩の22:00、ホテルの裏のシネコンで、最初の回に見ました。

冒頭、画面の右端からシャトルが現れ、やがて3人の宇宙飛行士が船外活動をしているのが見えて、そこに衛星同士の衝突の連鎖で飛び散った破片が散弾銃となって襲いかかり、船外で修理をしていたエンジニアのRyan (Sandra Bullock)の命綱がぷつんと切れて宇宙のまんなかに放り出される - ここまで、何分あったのかしらんがワンカット(たぶん)。

重力から解き放たれて360度ぐるんぐるんに回ることができるカメラがやってくれる曲芸 - このへんの技術が可能になるまで4年待った - てNew York誌には書いてあったが - にまずあっけにとられるのだが、ここから先は、計90分の、怒濤のローラーコースターだった。

音はない、重力もない、温度はうんと暑いか寒いか、でも時間は流れるし、軌道上で暴走をはじめた機器の破片はびゅんびゅん飛んでくるし、ヒトは生きていていずれは死ぬかもしれないけど、宇宙のまんなかでは死にたくない、そんなRyanの死にものぐるいのたたかいがぐるぐるまわり続けるカメラと、Ryanのヘルメット越しの目線と視界(よくない)を中心に描かれる。

無重力が怖いひと、無音に耐えられないひと、暗闇がだめなひと、ヘルメットの密閉感がだめなひと、ひとり取り残されるのがだめなひと、パニックの波状攻撃がだめなひと、はたぶんほんとうにほんとうに怖いと思うし、宇宙飛行士なんてなりたくなくなるよねえ、とおもう。 これと比べたら"Space Cowboys" (2000) のTommy Lee Jonesのがまだ幸せだったほうかも。

博物館とか学術機関が作る科学映画とは違って、これはやはり映画のどまんなかで、中盤以降、ほんとにやばくなったあたりからのほとばしるエモはすばらしい。ただ、Sandra Bullockがどんなにいきんでエモっても、たったひとりなの。

そしてGeorge Clooneyも見事で、これがGeorge Clooneyとしかいいようがないすばらしさなの。 見ればわかる。

それにしても、へんてこエモ/エロ映画 - "Y Tu Mamá También" (2001)を作ったAlfonso Cuarónがなんでこんな映画を撮りたいと思ったのだろう、おもしろいねえ。

エンドロールのThanksのとこにGuillermo del Toroの名前があった。 "Pacific Rim"のエンドロールにはCuarónの名前があったし、なかよしなんだろうな。

あと、どうでもいいけど、衛星の機器パネルは英語で統一しよう -- ロシアと中国の関係者のひと。

これからNYに飛びます。 とにかくねむいったら。

10.04.2013

[log] October 04 2013

2日の6時くらい、ロス経由でシアトルに着いて、雨が降っていてとっても寒くて、いまは4日の朝で今晩の11時くらいに夜行でNYに向かうの。

2日間なんてあっというま。 レコード屋も本屋も今回はぜんぜん。 天気わるいし寒いし。

ロスまでの飛行機でみたやつ。

"The Heat" (2013)
監督が"Bridesmaids"のPaul Feigで、Sandra BullockとMelissa McCarthyによる女刑事ものなんて、おもしろいにきまっている。

Sandra Bullockが、優秀だけどみんなに嫌われてて昇進が微妙なFBIのエージェントで、麻薬捜査に行った先のボストンで、地場警察のMelissa McCarthyとぶつかって、喧嘩しながらも同じ敵を追っかけていくの。Melissa McCarthyはでぶで(見りゃわかるか)口が悪くて凶暴で力任せで、まあいつもの役回りで、同じく口は悪いけど知力に頼ってやってきた潔癖性のSandra Bullockとは対照的で、ふたりのやりとりだけで十分おもしろい。 ふたりで力を合わせて、というよりそれぞれ勝手に暴れているうちに片がついてしまうようなところも。 悪役がもうちょっと悪悪だったら最高だったのだが、あの終わらせかたなら文句いわない。 続編もこの調子でいってほしい。

"This is The End" (2013)
本国では既にDVDの宣伝がじゃんじゃん流れているこれをもういっかい。何回終われば気がすむのか。
やっぱしおもしろいよね。止まらないでがんがん流れていくところ。
生首目線のカメラとか変なところもいっぱいあるのだった。

シアトルでは、夜中に3本みました。 ホテルの裏のシネコンで。
だんだんに書いていきますけど(いつになることやら...)、とりあえず"Gravity"のIMAX 3Dはとんでもなかった。
飛行機はすきだけど、宇宙へは行かなくていい。

10.02.2013

[log] October 02 2013

たいぷーが銚子の東のほうにいる状態で空の色もどろどろんでふんとに飛ぶのか飛べるのかわかんないけど、ロス経由でシアトルに行って、金曜の晩に赤目でNYに渡って、来週の木曜に戻る、ていうのをやろうとしているの。

さっきまで最大の懸念だったのは飛行機よりもひ弱なNEXくんで、これが動いていてくれたのでもうなんか達成した気分になっているようだが、遊びではなくて仕事の旅なのでちっともおもしろくないんだ。

こんかい、シアトルの日程は割と早めに決まっていたのだが、NYのほうが直前までごーが出ず、とってもたいへん消耗してうんざりだった。

なぜなら、この土日ときたらNYFFとNew Yorker Festivalのどどどまんなかで、みんなが見たい行きたいようなやつのチケットなんかとっくに売り切れていやがって、じゃあ諦めるのかというとそんなのできるわけないからStand-byに並ぶのだろうが、見れる保証なんてどこにもないし、ハズレたときのプランBも考えておかねばならず、でもそのプランだってふくざつに分岐したりして悩ましいったらなくて、そんなら寝てれば、といろんな声がいう。  そんなら寝てれば。

でも(なにが、でも?)東京にいたって、「天国の門」とか曽根中生とか始まるし、「さよならを待つふたりのために」はせっかくいいとこまできたのに置いてきてしまった。
しかも今日は豆腐の日だというのに、食べてくるのわすれた。

NYFFとNYFいがいのところだと、ライブとかはないかんじ。  Sleigh Bellsは、あっというまになくなっちゃったし、Goblinとか売り切れてるし、Previewがはじまったピンターの「背信」は$348のチケットしか空きがなかったし。

WilliamsburgのAcademyは閉まっちゃってGreenpointのお店は10/12オープンみたいだし。

でもけっきょく、なんだかんだあるわけよね、まいどのことながら。

シアトルのほうは、またダウンタウンじゃないとこで缶詰なのでどうしようもない。
こないだ見た"Chronicle"でぼろぼろに破壊されていた傷跡がしんぱい。 バラードのあたりってレコード屋もいっぱいあるのに。

ではまた。