12.30.2013

[film] Laurence Anyways (2012)

2013年のお仕事は金曜日で終わって、でも最後の最後までほんとにばたばただった。
このかんじのまま来年も行ってしまうのか、すごくやな予感がするのがいやだ。

見れていなかったあれこれを捕まえるべく、28日の夕方、Uplinkで見ました。
『わたしはロランス』。やーっと見れた。

モントリオールの作家で教師のロランス(Melvil Poupaud)は彼女のフレッド(Suzanne Clément)と仲良く同棲していて、89年、彼の30歳の誕生日の日、「女として生きたい、自分はこれまでずっと間違った体で過ごしてきた」て告白して、フレッドはなんで今更そんな... と唖然とするも彼を失いたくなかったので支えていくことにする。 それは彼の母親(Nathalie Baye)にとってもおなじで、物語はそこから10年間の彼らの魂の彷徨いを追う。

決意と宣言のあと、化粧と女装を始めた彼のそばにフレッドはずっといたのだが、彼の動揺、彼女の動揺、周囲への波紋が押しては返しでやってきて、そのストレスに耐えられなくなったフレッドは、別の男を見つけて別の場所に越していってしまう。 でもロランスにとってフレッドは"AZ" - 最初で最後のオンナ、であって、そう簡単には終わらない、終わらせることはできないの。 10年間、168分で映画は終わるが、とりあえず切ってみた、程度のものなの。

ロランスが自分のなかに見いだしたオンナ、これに対してフィジカルな事実としてあるオトコの姿、フレッドがロランスに求め続けたオトコの形、フレッドが頭では理解しようとしたオンナとしての彼、などなど、性のありようは、たったふたりの間、そこまでの2年間恋人であったふたりの間ですら複雑に多様に、当事者間ですら制御できないエモの揺れと痛みをもたらすのだが、他方でそんな程度では揺るがしえないふたりだけの魂の結託のようなものも確かにあって、この関係に、この物語にあるべき決着なんてないんだ。

ロランスの物語、というだけでなく、彼のそばにいたふたりの女性(母とフレッド)の逡巡と戦いの物語として見ることもできて、特にフレッドがカフェで給仕の応対に激怒するシーン、ママがTVばかり見ている自分の夫にぶちきれてTVをたたき壊すところは痛快だったりする。

この物語を性同一性障害の症例、事例、のように描かなかったのは正解で、それを可能にしたのは89年からの10年間、というのも大きかったのではないか。 80年代後半からの10年くらいて、普通と普通でないことの境界を絶えず自分や周囲に向かって問い続けることができた時代だったようにおもう。
最後のほうで、ロランスにインタビューする老婦人が、間もなくやってくる21世紀はだいじょうぶそう? と問うシーンがあるのだが、性同一性障害もゲイも、情報として表面に現れて均質化されるようになった反面、当事者たちのほんとうの葛藤や苦しみは蓋して隠蔽されがちな傾向が出てきているようにも思えて、きついひとにはきつくなっているのではないかしら。

そう思うとラスト、フラッシュバックされる87年のシーンがすばらしくて、ちょっと泣けるの。

映像はちょっと技巧に走り過ぎたように見えるとこもなくはなくて賛否あるかもしれないが、音楽の使い方は見事だとおもった。 Visageの"Fade to Grey"、The Cureの"The Funeral Party"、Depeche Modeの"Enjoy the Silence"、Duran Duran の"The Chauffeur"、などなどなど。

この監督、ほんとに89年生まれなの?

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