29日、シネマヴェーラのあと、新宿に行って見ました。
『パリ、ただよう花』 英語題は"Mystery" とか "Love and Bruises"とか。
監督のロウ・イエの作品を見るのはこれがはじめて。
主人公の花(ホワ)がパリで、北京で知り合ったと思われるフランス人男に捨てられるところから始まり、意気消沈して歩いていると工事現場でパイプをぶつけられて、ついてないやて歩いていくとぶつけた野郎がついてきて、結局そのままその男と寝てしまう。 それがマチューで、ふたりは会ってはセックスをし、を繰り返す関係の果てに疲弊して、やっぱりあなたとは無理だわ、とホワは北京に帰って通訳として暮らすことにするのだが、マチューとの連絡が取れなくなると気になって再びパリに戻って彼と体を重ねてしまう。
セックスをしている時以外のホワとマチューの間でどんな会話がされ、どれくらいふたりは親密になっているのかいないのかまったくわからないので、画面だけを追っていくと、ふたりは会えばただ動物のように交わって、終わると辛そうに喧嘩してばかりで、マチューがホワに向かって罵倒する「あばずれ」とされてもしょうがないように見えて、映画がそういうふうに異国のパリで「ただよう花」のありようを追うことを主眼にしているのであればそうして伝わってくるきつさもわかんないことはない、と言おう。
でもそれって、例えばSMの痛みとはどうちがうのか、異国で暮らす孤独やその辛さとはどんなふうにちがうのか、このふたりの(或いはホワの)、あの部屋の空気と暗さ、あのときのふたりの声が収斂していった先にある凝り固まったなにかを示すところまで行けていたかどうか。
といってそんなものを示せたところでなんになるというのか、ということも映画は確かに言っていて、他人の不幸も痛みも快楽も知ったこっちゃないのだからほっとけ、であることも確かだから距離を置いてみたその場所に残る他人のかさぶたみたいなやつと、ホワの疲れたような諦めたような薄い笑顔の交わるところにこの映画の渡したかったものはあるのかしら、と。
そうは言ってみても落ちつきなく(たぶんわざと)至近距離で適当に動きまわるカメラとか、粗野に粗暴に振る舞いすぎるマチューを始めとする男共の傲慢さにうんざりしてこいつらの男根ぜんぶちぎり取って豚に食わしちまえ、とか思って、ようはぜんぜん好きなタイプの映画ではないのでしんどかった。
とりあえずマチューから離れたのは正解、といって北京で生きることが正解、とも思えない。
「正解」なんて、あるわけがないし、そんなものを求めることにいったいどんな意味があるというのか。
どっちも地味な女主人公ていう括りでいうと、こないだ見た「受難」のフランチェス子とは真逆のベクトルであたしの生きる道を照らしている、のかもしれない。
んでも、どっちにしても大きなお世話だろうし、どっちにしても天国は待ってくれるの。 たぶん。
12.31.2013
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