いっこ、書くの忘れていたやつ。 10/7の月曜日のよる10時過ぎ、NYのAngelikaで見ました。
これ、メルボルンでもシアトルでも見る機会はあったのだが、Woody Allenの新作はAngelika Film Centerで見るべし、というのが自分のなかにあったのでつい延ばし延ばしにしていた。
それにしても、公開されたのが7月末だというのに、10時過ぎのシアターにはまだ10人くらい入っていた。
前作の"To Rome with Love"、前々作の"Midnight in Paris"とか、アンサンブル中心のコメディとはちょっと違って、Cate Blanchettがほとんど一人で出張って周囲を暗黒に引きずりこむ/引きずりこもうとする。
Cate BlanchettがJasmineで、かつてはNYの社交界でぶいぶい言わせていたらしい彼女がSFの田舎にやってくるところからはじまる。ブランドものの服とバッグで装い、一見ちゃんとしたひとのように見えるのだが、終始お酒を片手に抗鬱剤らしい錠剤を飲み、いらいらぶつぶつ独り言や毒を吐き続ける彼女のそばによってくる人はあまりいない。 夫(Alec Baldwin)とは疎遠だし、音信が絶えていた妹とはまったく話が噛みあわない。再出発を目指してPC教室とかにも通ってみてもぜんぜん続かない。
NY Timesのレビューは「欲望という名の電車」の主人公BlancheとBlanchettを重ねていて、それはそれでぜんぜん正しいと思うものの、この映画でのBlanchett - Jasmineの暴走っぷりには目を見張る。
一見、愛を失ったイタい中年女のお話、ではあるものの、Cate Blanchettの「あたしを見て。相手になって」引力のぎすぎすが余りに凄まじくて目を離すことができないし、どこまでも不幸などんづまりトーンなのに笑えてしまうところがすごいの。 なんだかんだ強いんだよねあんた、とか。
ここ数作のアンサンブルものでうかがうことのできたWoody Allen的な神の手はなく、"Cassandra's Dream"や"Vicky Cristina Barcelona"にあったような二人芝居の綱引きもなく、"Match Point"の頃のようなScarlett Johanssonひとりへの偏愛とも違って、Cate Blanchettに行けるところまで行かせてみる、そんな演出をしていて、それがAllenの映画には珍しい透明感をもたらしているような。 Allenすらをもコントロール不能にしたCate Blanchettのすごみ。
邦題は「限りなく透明に近いジャスミン」でおねがい。
11.05.2013
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