12.28.2013

[film] 受難 (2013)

20日、金曜日の晩に新宿でみました。 
クリスマスも近いことだし、いろいろ反省しておこうか、とか。 原作の小説は読んでいない。

フランチェス子(岩佐真悠子)はぜんぜんモテなくて、男からは「萎える女」とか言われていて、誕生日に片想いの彼に「セックスしてください」と言ったらあっさり断られてどんより帰宅すると股の間から男の声(だみ声)が聞こえてきて、覗いてみるとあそこのところに醜いおっさんの人面瘡ができていて、それはそれはひどく醜悪で、できているだけならいいが、おっさんは彼女に「このくされ〇〇〇」とかひどい罵詈雑言を浴びせてくる。 ひどいセクハラだとおもうが自分のセックスの中心にあるやつがそれを言ってくる。

もともと大志もやる気もなく自虐ぎみに日々を過ごしているフランチェス子さんはその運命を受け入れ、その喋る人面瘡を「コガさん」と呼び、たまにスカートをめくってきゅうりとかを食べさせたりしてやって、そいつとの共生がはじまり、過去にいろんな女にとりついてきたらしいコガさんはこんなにしょうもないやつは始めてだとか言いつつ、だんだんふたり(じゃないけど)は仲良くなっていく。 かんじとしては、ド根性ガエルみたいなふうなの。

あと、フランチェス子が男に触れると、そいつの男根が焼けただれてしまうこともわかるの。
男から疎まれ、触りにいくと相手を不能にし、あそこには変なのが取り憑いている、三重苦なの。
つまり自分は男とは触れあってはいけないようなやつなのだと。

こうしてフランチェス子はバイトしたり海岸で空き缶拾いしたり、ほんとに地味でなにを楽しみに生きているのかわからなくて、そのうち自分の家の部屋のベッドを知り合いのカップルとかに貸すようなことまで始める。 無償の愛、だけどこれもコガさんにはバカにされる。

設定が唖然とするくらいあほらしいし、コメディなのかもしれないのだが、画面も主人公の演技のトーンもどこまでも静かで真面目で「こんなわたしでもひとの役にたつにはどうすべきなのか」とか「こんなふうになってまでなんでひとに関わろうとするのか」とかそんなことばかり考えて悶々としている。 その逡巡は殆ど宗教家のようで、だいすきな『神の道化師、フランチェスコ』を思い起こさせたりもして、いや、そうなのだよね。 

なにもかもふざけんじゃねえ、になった彼女がすっ裸で夜の街中を駆け抜けるシーンは、それゆえ感動的なのだが、お話しはそれだけでは終わらず、もういっこ別の話しが接ぎ木されてくるからおもしろい。 性ってなんて変なものなのかしら。

男で逆の設定、はこの場合ありえなくて、これは女性のための映画なのだとおもった。

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