12.15.2013

[film] Walden - Diaries Notes and Sketches (1969)

part1を2日の月曜日に見て、part2を見てから纏めて書こうと思っていたのに結局part2を見る時間はつくれなかった。 ちくしょうめ、こうなりそうな気がしていたんだよ。
まとめて上映したって3時間なんだから分けなくたっていいのにさー。

正式タイトルは"Diaries Notes and Sketches"のほうで、メカスが今も続けている日記映画のスタイル、そのおおもとが現れた作品、でもある。

ナチスから逃れてヨーロッパを彷徨い祖国を失い、米国に流れて、New Yorkに身を置いた彼、身寄りのない彼が訪れた場所、家族、そこにいた人達、集まってきた人達、などなどをカメラで記録し、繋ぎあわせていく。 それだけ。
たんなる日々の記録 - 日記の代替、ではない。 邦訳の出ている『メカスの難民日記』(おもしろいようー)とか『メカスの映画日記』(古典)とか、文章のかたちで残された日記も彼には沢山あることからも、これは映画の形式で日記を綴った、というより日記の形式を取ろうとした映画、映像の実践の記録なのだとおもう。 映画のなかに切りとられそこに流しこまれる世界、そこにおいて日々のノートやスケッチはどんなかたちを取って現れうるのか? それは例えばこんなふうな。

画面も光も絶えずせわしなく揺れ、呼吸しているかのように動きを止めない、その理由を映画は1秒間24コマの速度で記録をつづけるものだからだ、という(昨年邦訳の出た『ジョナス・メカス―ノート、対話、映画』より)。 映画は1秒に24の映像を積みあげることができる音楽のような濃度と豊かさをもったメディウムで、カメラは常に光の向かうところ、ひとの声のするところに向かい、我々はそれを見ているだけでその世界のなかに入っていくことができる。 世界のなかに入っていくこと、これが難民/移民だったメカスにとって切実かつ必要なことで、そのきりきりとした思いと対象に向かうアプローチは約半世紀前のNYを描いた今作でも、その後の"Lost, Lost, Lost" (1976)でも、最近の『メカス×ゲリン 往復書簡』(2011) でも変わらない。
生き残るための作法としての、今を生きるための映画 → Walden。

という側面のほかに、きれいな女性の前ではカメラの揺れが止まりやがるし、Tony Conrad(まだぴちぴち)とかCarl Theodor DreyerとかStan Brakhageとか伝説みたいな人たちがごくふつーに出てくるし、Velvetsのライブシーンだってある(Lou Reedだっている)。 なんかとてもふわふわ軽く流れていくのに実はすごいひとがうじゃうじゃいたりする。 それはNew Yorkだからだよ、かもしれないが。

あとは音がすばらし。冒頭から鳴り続ける地下鉄の音。これってなんでNYの地下鉄ってすぐわかるんだろう、って不思議でならない。

次はなんとしても"Lost, Lost, Lost"を。 これがメカスの映画を見た最初で、四谷にあったイメージフォーラムに入った最初だったんだよなー。 全て失われてしまったねえ。

あとは初期のショートも見たい。昔のWilliamsburgの移民コミュニティを記録したのがあって、なんだかじーんとするの。

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