5.03.2024

[film] Víctor Erice Short

4月22日の月曜日の晩、BFI SouthbankのVíctor Erice特集で見ました。彼の短編作品特集。

今回の特集で見れなかったのはひとつ - “Erice-Kiarostami: Correspondencias” (2005-2007) -EriceとKiarostamiの間のビデオレターで、これはまたいつか。

EriceのWikiを見ると、学生時代も含めて14本の短編を撮っているのだがそのうちの5本を。 以下、かかった順で。

Alumbramiento (2002)  12分

英語題は”Lifeline” – オムニバス映画“Ten Minutes Older”(2002)の”The Trumpet”のセグメントより。

モノクロで、1940年、バスクの農家の落ち着いた、鶏とか猫もいるのどかな風景が映しだされて、そこですやすや寝ている赤ん坊のお腹のところに血のような(カラーでも撮影してみたが、血のイメージがわかりやすすぎたのでモノクロにしたそう - )しみが浮かんで、それが少しづつ – 場面が替わって戻ってくると大きくなっている。別のところにいるらしいお母さんと思われる女性も寝ていて動かないので、死んじゃうよ大変だよ、ってはらはらしていると、誰かが見つけて大声で叫び、やがてそのしみはへその緒からのだったことがわかり(すぐに切らないの?)ほっとする。静かで穏やかな農家の光景と、そのなかに突然現れるしみとの対比、その違和が見事で、”Lifeline”というタイトルにもなるほどー って。


La Morte Rouge (2006)   33分

Ericeが5歳の時、姉に付き添われて初めて見たシャーロック・ホームズの映画 - “The Scarlet Claw” (1944)、タイトルはこの映画の舞台となるケベック州の架空の町の名前だそう - この時の決定的だった映画との出会い - 6歳のAnnaがフランケンシュタインに出会ったような? - を軸に、San Sebastiánという栄えた町、港があり大きなカジノがあって、やがてカジノは劇場になり、といった町の旧いの新しいの、そこにいた人々、映画館などの古い写真が呼び覚ます幼年期の記憶と、歳を重ねてそこから離れること、などについて彼自身のナレーションで追っていく。映画~写真~記憶という『瞳をとじて』でも繰り返されるテーマとモチーフをこの頃から、いや『ミツバチのささやき』の頃からか - 練っていたのだと思った。


Ana, tres minutos (2011)  - “Ana, Three Minutes”  5分

アンソロジーフィルム“3.11 A Sense of Home”からの一篇。ドレッシングルームで、女優としてステージに向かう手前のAna Torrentが東日本大震災の被害者に追悼のメッセージを送る。Ana – 『ミツバチのささやき』で、傷ついて小屋に逃れた兵士 - やがて包囲されて撃たれてしまう彼を看病してあげたAnaが。


Vidros partidos (2012) - “Broken Windows”  34分

オムニバス映画 - “Centro histórico” -『ポルトガル、ここに誕生す ギマランイス歴史地区』からの1本。閉鎖された巨大な繊維工場で働いていた人々の肖像 - 実際の労働者たちがカメラに向かって振りかえるそこでの日々と生活 - 彼らと家族にとっては今より若かった頃 - がどんなだったかと、かつての食堂(?)を捉えた大きな全体写真(の細部)を交互に映しだしながら、そこにあって切りとられた時間と場所、そしてそこから連続して流れている今という時間、について考えさせられる。

あとこういう形で実現されていた大量生産という仕組みについても。なんだったんだろうあれは? というあたりも。

ああいう全体写真を前にするとつい固まって見入ってしまうのだが、なにを見たいの? なにを見るの? ってつい自分に問いてしまう – すごくよいので見ちゃうだけなんだけど。


Plegaria (2018)
  - “Prayer” 7分

初めはゴミのように打ち棄てられた古い写真たちがどこかに挟まったり引っかかったりしているのだと思って、カメラは引いたり寄ったりを繰り返しながらそれらをいろんな角度、距離でゆっくり少しづつ捉えていって、やがて挟まっているのは黒い岩の割れ目や隙間で、自然にではなく人為的に挟んでいることがわかって、そこは多くの人々がやってきて宗教的なお祈りを捧げる場であることがわかって、ああ、ゴミだなんて思ってしまってごめんね、という場面ていくらでもあるなあ、って。少し離れて全体を見てみることでがらりと、場のありようも含めてひっくり返る。 空間だけじゃなくて、記憶の欠片にもそういう瞬間はあるかも。

本来は地上でも水のなかでもどこでも、そういう場 - そうじゃない場所とか土地なんて、ないはずなんだよー ぜんぶ人間の都合でさー。とまでは行かずに、お祈りというのは外から見るとこんなふうに見えたりもするのかも、って。

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