8.30.2026

[theatre] 映画を撮りたいゾンビの演劇

8月18日、火曜日の晩、東京芸術劇場で見ました。月一回は見たい演劇シリーズ。

同劇場の舞台芸術部門芸術監督に就任した岡田利規の作・演出による就任第1作、とのこと。

初演はドイツのハノーファー州立劇場のレパートリーで、”Sliding Away”として上演されたものを日本版スタッフ、キャストで、このタイトルで再構成したもの。

舞台のほぼ真ん中に半ば破棄されたようなぼろい車が置いてあり、映画によく出てくる道端で乗り捨てられた車 – 乗っていた人たちはどこかに消えた、喰われてしまった… ことを想像する。上部には英語字幕が投影されていく。

そこにゾンビのメイク - 崩れた青塗り顔とか - をした5人のゾンビが現れて、ゾンビ映画を撮るにあたって人間のメイクにすることの大変さ - 3時間半かかる – 等から始まるゾンビたちそれぞれの、なんで自分たちはここに、こんなふうにあらされているのか、についての苦労やら徒労やらが語られる。

その際に何度も取り上げられるのが人間とゾンビのありようの「非対称性」で、それはゾンビが人間によって創られたものである以上どこにでもついて回るものなのかもしれないが、この議論は、たんに人間 vs. ゾンビという対立項だけでなく、見るもの - 見られるもの、例えば「正常性」(のルールや規範)を定義するもの – されるもの、男性と女性、映画と演劇、等あらゆる領域に及んでいって、止まることがない。

この防ぐことのできそうにない止まらなさは、理不尽に増殖を続けていくゾンビのありように関わるのかもしれないが、そういう状態を維持しつつ、いつまでたっても映画の撮影は始まらない。まるで「ゴドー」のように待つしかない状態で、その不条理感もまた…

ゾンビが固有種のようなものとして世界に実在するとしても、彼らの形象や仕様を生みだしたものは映画だと思われるので、非対称性について云々するのであれば、まずは映画からだ! だからとにかく映画を撮るのだ、というのが今回の視点力点と思われるのだが、ゾンビ映画も、そこで描かれるゾンビも多様化の波にさらされていて、なにをもって非対称/対称の軸とすべきなのか、それを決めるのはどこの誰になるのか、など、途方に暮れないわけにはいかないあれこれが原っぱには横たわっていて、彼らと同じように立ち尽くすしかないのかもしれない。

そして、それ(非対称性)をライブで訴えられる客席にいる我々もこれらについて(へたしたらゾンビに襲われてしまうかもしれない)緊張感をもって考えることになり、いろいろ考えたり考えに晒されたり、こういうの、おもしろい人にはおもしろいのかも知れないが、演劇としてどうかと言えば、どうなのだろうか? 「映画を撮りたいゾンビ」の話を演劇でやっても、それは演劇の話になってしまう。 「映画を撮りたいゾンビの映画」(既にあったような、ヒットしたやつ。見てないけど)、あるいは「演劇をやりたいゾンビの映画」という設定にした方が、おもしろくなったのでは。

これが例えば初演されたドイツだったとしたら、リアルな移民問題や過去にはユダヤ人の話が、あるいはそれなりに可視化されている格差・貧困の話などを背景に、視点を示しやすかったのかも、とか。あるいはイギリスだったら幽霊がふつうに徘徊している土地なのでー、とか。

日本だったら思い浮かぶのは働きすぎ仕事漬けのゾンビとか.. でもそんなの仕事をやりくりして演劇を見にいく人が一番見たくないやつではないかしらん、とか。 その辺を笑い飛ばせるようなナンセンスのどたばたぐしゃぐしゃが広がってくれれば、だったのだが、そんな不真面目を許さない生真面目さ、空気も含めて演出されているようでうーむ、だったり。

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