8.21.2026

[film] Minions & Monsters (2026)

8月10日、月曜日の晩、六本木のTohoシネマズで見ました。 ↓とおなじく、夏は怪獣映画だからー。

この夏の同じようなのとして「ちいかわ」もあって、どうしたものか… って固まっていてまだ見ていない。べつにいいかなー

監督、Minionsの声は前作と同様Pierre Coffin、共同脚本は彼とBrian Lynch、Minionsのシリーズとしては“Minions” (2015)から3つめ、”Despicable Me”も含めたシリーズだと7つめとなる。らしいのだが、中味が頭にぜんぜん残っていないところがこのフランチャイズの魅力でもある。 はずだったのだが、今回のはどうか。

最初のUniversal映画のロゴがどんどん古くなって、映画ができた頃のにまで遡り、George Lucas(本人が喋る)などが展示されているFilm MuseumでガイドのOlivia (Allison Janney)が映画産業におけるMinionsの功績について語り始める。

前世紀の初め、最凶の悪の首領を求めて世界を彷徨ううちにハリウッドに流れ着いて映画監督Max (Christoph Waltz)の撮影現場にぶつかったMinionsはやはり現場でめちゃくちゃをやって怒られて、でもBright Brothers (ふたり分Jeff Bridges) – Warners Brothers? - に見込まれたMinionsは彼らの映画に出るようになって大スターとなって、ここにリュミエールからメリエスからロイドからキートンからチャップリンまで(まだある?)、映画史上のいろんなパロディが盛りこまれ、そのうちトーキーが導入されると英語を喋れないのでクビになったりもするのだが、この辺までを盛りこんだ意味があんまよくわからなかった - 映画史の横に実はずっといた、程度でよいのか?

クビになったけどMaxから映画撮影用のカメラを貰ったMinionsのJamesとHenryは、そこに耳の聞こえないEdも加えて映画を撮り始めて、いろんなネタを求めていくなかで、やっぱりモンスター映画だ、ってなり、H. P. Lovecraftのクトゥルフ神話よろしく古文書の文字をなぞったらやはりLovecraft的な造型のタコやイカのモンスターが出現してびっくり、なのと、他のMinionsは宇宙からやってきたロボットDrot (Jesse Eisenberg)の手下になって彼が恋をしたサフラジェットの活動家Debbie (Zoey Deutch)への恋の手助けをしたりの大騒ぎになり、そして最後にはこれらもまた、という層で重ねられたてんこ盛り。

Minions共がわらわらうねりを作って意味ないことをわめきつつ大挙で押し寄せ襲いかかってすべての秩序を破壊してサラ地にしてしまう。無邪気な悪への憧憬はバナナへの愛と同じく底のぬけた無意味に貫かれていて、そのアナーキーな挙動はパンクとしか言いようがないのだが、今回はそこにモンスターの規模と破壊力が加わって更にめちゃくちゃやらかしてくれるかと思ったのに、なんでかここに映画史 – というか産業の歴史とかサフラジェットとか、人類の歩みなど積み重ねが重ねられて、書物に封じ込められていたモンスターもエイリアンロボットも、それらを蹴散らすというよりその層に厚みを持たせる方に作用してて、主演Minionたちも妙にエモーショナルでよい奴らに見えて、最後に大花火がぶちあがらないのはなんか残念だった。

Minionsなので統制なんて取れるわけないのだし、出来不出来もあるのだろうけど、もうちょっとがんばってほしかったかも。 バナナ~って欲望まっしぐらで突っこんでいくだけでよかったのに。 誰かのためになんかやる、とか考えたりしなくて(しないのが)よかったのにー。

8.20.2026

[film] The End of Oak Street (2026)

8月14日、金曜日の晩、二子玉川の109シネマのIMAXで見ました。

邦題は『オークストリートの異変』。David Robert Mitchellの8年ぶりの新作で、プロデュースはJ.J. Abrams。
撮影は“It Follows” (2014)から一緒にやっているMike Gioulakis、音楽はMichael Giacchino。

1982年のミシガン州の郊外のOak streetに、Denise Platt (Anne Hathaway)とGreg (Ewan McGregor)の夫婦、Audrey (Maisy Stella)とBrian (Christian Convery)の子供たちと犬のStarbuckが暮らしていて、冒頭からごくごく普通のアメリカン・サバービアの昼間の光景があり、Gregは家族には言っていないが職を失って副業のピザ配達でごまかしていて、Deniseは夫を捨てる女性の小説を地下に籠って細々と書いたりしていて、そういうのも含めて家族も家屋もそこらにいそうなありそうな。

Deniseが変な植物を見つけて写真を撮ったら、それは数百万年前に絶滅したようなやつだ、って言われて、へーとか言っていると夜中に雷と嵐が鳴ってざわざわって一瞬逆立って静まり、Starbuckがいなくなって、探しに出た家族の前に驚愕の光景が…

J.J. Abramsだし予告にも少し映っていたので、恐竜/怪獣ものだとは思っていたが、出し方、見せ方も含めてあまりにシンプルにストレートに隣近所一帯がJurassic Parkになっちゃったよ、をやっていて、パニックをもたらす恐怖の滲み方、出し方も過去のDavid Robert Mitchell作品と比べたら雑で凡庸で、この辺が賛否の分かれているところなのだろうか。

とりあえず家に籠って窓に板を打ち付けて厳重にして何か聞こえたり揺れたりするたびに外を見てみるとあれらはどう見ても恐竜とか怪鳥とかで、でもどこからか恐竜が近所に湧いてでた、というよりは近所一帯が恐竜のいる場所と時間にスリップしてしまったらしい - Carl Saganを読んでいたAudreyは出現したワームホールによるものだ、と言ってみるがどうしてよいのやら見当もつかない。

やはりお約束通り、いなくなっていた犬のStarbuckが一瞬現れて消えたので、それを追ってBrianとAudreyは外に出てしまい、彼らを追ってGregとDeniseも外に出て、そこで改めて家族の絆が試されるようなことになったりしたら余りにもふつうすぎてそれは… って文句言おうと思ったらGregがあっさり食べられちゃったので、そこはよかった。 

不定期にきらきら光っては消えるワームホールらしき光源に向かって行ってみて、いちかばちかで飛びこんでみて... から先は割とふつうだったかも – というか、こんな異常事態に割とふつうに驚いてふつうに対応する、それが80年代前半の、こんな世界なくなっちまえー、に対する距離のとりかただったような。 AudreyがひとりでSteve Winwoodの"Valerie"を聴くシーンがとてもよくて、昔がよかったとかちっとも思っていないのに戻ってきて、って言ってしまう妙に外した屈折した思い、というか。同様にやってらんないー、の事態なのにRoxyの”More Than This”を口ずさんでしまったりとか。

彼のデビュー作“The Myth of the American Sleepover” (2010)を公開直後にNYで見た時からずっとある、よくわかんない理不尽な、乾いた郷愁のようなものが今回のでも吹いてきて、それが半端なサバービアのありようにはまって、それらは恐竜程度の異物ではびくともしないことがわかる。Night Shyamalan(撮影が同じMike Gioulakis)は同じくプレーンな風景に異物を持ちこんでどんでんを仕込むが、David Robert Mitchellのは、いるだけ、あるだけ、見ているだけで既に十分に孤立してて不穏でおかしい。 恐竜が家に寄りかかって交尾していたり、大亀が湧いていたり、白いでっかい無表情なヘビみたいのがぬーん、て家に入ってきて、いきなりパックマンみたいに口開けたり、映画のテーマとかどうでもよくて(よくない)、これらが夏の一夜のSleepoverで起こったらどんなに素敵だったろうね、とか。

ワームホールを抜けて1982年に行きたいよう。恐竜がうようよしていても今のこんな国よりよっぽどまし。

Audrey役のMaisy Stellaは”My Old Ass” (2024)でもワームホールから落ちてきた年取った自分と会ったりしていた... よね。

David Robert Mitchellの次作、“It Follows” (2014)の続きで”They Follow”だって…

8.19.2026

[film] Arise, My Love (1940)

8月11日、火曜日の午後、シネマヴェーラのBilly Wilder特集で、”One, Two, Three” (1961)に続けて見ました。

今回のこの特集ではMitchell Leisenの監督作を(Preston Sturges特集のときの”Easy Living” (1937)や”Remember the Night” (1940)と同じように)見ることができて、これらはちゃんと追っておきたい。 これも脚本はBilly Wilder, Charles Brackett, Jacques Théry。スペイン内戦時に捕虜となって実在したパイロットHarold Edward Dahlの話をベースにしている。 邦題は『囁きの木陰』。

アメリカ人パイロットのTom(Ray Milland)がスペインの牢獄にいて、銃殺刑されるその朝になって呼ばれるとジャーナリストAugusta "Gusto" Nash (Claudette Colbert)が妻を装って泣いていて、そこで恩赦がくだってTomは釈放されて、でもやっぱりすぐに嘘がばれて追っかけられて飛行機で逃げて、どうにかパリまでたどり着く。

ジャーナリストとしての仕事でTomを助けたGustoだったが、TomはGustoに惚れちゃって、でもGustoは仕事優先で、彼女のジャーナリストとしての、Tomのパイロットとしての血と使命感が、戦時下のふたりをヨーロッパのあちこちでくっつけては引き離し、タイトルの”Arise, My Love”はフランスの森の奥で、バンビとかに囲まれながら囁く愛の誓いで、もうぜんぶやめよう! ってふたり一緒に船に乗って逃げるところでドイツの潜水艦にやられて引き離されると、結局Gustoは従軍記者に戻り、Tomはイギリス空軍に行って、パリ陥落で再会するのだが、アメリカが危ないから、って戻ることにするの。

戦時下だから許されるものでもないと思うが、朝ドラみたいに(←見たことないくせに)流れが目まぐるしく変わって、会ってははぐれてを繰り返すなかで、愛はどんなふうに可能となるのかを延々(こちらに向かって)問うて試していくドラマで、戦意昂揚の裏返しバージョンのように見えなくもないのだが、Claudette Colbertの一瞬燃えあがるけどすぐ冷める、の繰り返しがたまんない人にはたまんないのかも。 ここまで引き離されてばっかりだとそういう運命なのかもさよなら、ってならないのかしら。


Hold Back the Dawn (1941)

8月12日、水曜日の晩、シネマヴェーラのWilder特集で見ました。
これも監督はMitchell Leisenで、Ketti Fringsの同名小説(1940)をCharles BrackettとBilly Wilder他が脚色している。 邦題は『国境の南』。

やつれて小汚い身なりのGeorges Iscovescu (Charles Boyer)がハリウッドのスタジオに現れてどうしてもお金が必要なので自分にこれまでに起こったことを聞いてほしい、と語り始める。(関係ないけどスタジオにVeronica Lakeがいるのが見える)

ルーマニア生まれのごろつきのGeorgesがアメリカに入国をすべくメキシコの国境の町にやってきて、でもルーマニアの割当枠だと8年くらい待つことになると聞いて絶望して、でも他に行きようがないので、同様に入国を待つ移民たちと国境のそばのEsperanza Hotelに滞在していると、かつてダンスのパートナーだったAnita (Paulette Goddard)と再会して、彼女がアメリカ人と一瞬結婚してすぐ離婚したけど市民権は残ったよ、と聞いてこれだ、ってなる。 そこに丁度子供たちを連れて遠足にきていた教師のEmmy (Olivia de Havilland)が現れたので、ちょっと彼女の車に細工をして、彼女たちご一行をホテルに足止めして、その夜更けにアプローチすると彼女はあっという間に落ちて、ふたりは結婚するの。

引率している子供たちがいたEmmyは一旦帰国して、家族たちに結婚の報告をして、車ごときらきらになってすぐに戻ってくるのだが、背後に移民局の手が伸びてきたのでGeorgesは彼女を連れて海辺の町を旅していくうちに彼女を好きになってしまう。 それを察したAnitaはそんなの許さん、てEmmyに真実を告げると、Emmyは車で飛びだして行って、ハイウェイで事故にあって、それを国境をぶち抜いてGeorgesが追いかけて…

タイトルはGerogeが浜辺でEmmyを口説くときの殺し文句 - ”We can't change our course, any more than we can hold back the dawn”からで、どこを切っても昼メロに(←見たことないくせに)なりそうな、国境跨ぎのこてこてロマンス詐欺事案で、最後まで目を離せないのだが、こんな話をGeorgesから聞かされてハリウッドがはいよ、ってお金を出すかというと出来すぎていてちょっと、になるようなー。

Charles BoyerとOlivia de Havillandがメキシコを舞台にしたアメリカの映画に出ていて、Charles Boyerはアメリカに入国したいって悶えていて、ふたり共そんな無理せずヨーロッパにいればよいのに、って…

これらMitchell Leisenの戦時下の2本、最後はどちらも(ヨーロッパから)アメリカを目指す、で終わるのね。

8.18.2026

[film] One, Two, Three (1961)

8月11日、祝日の火曜日の昼、シネマヴェーラのBilly Wilder特集で見ました。

今回の特集チラシの表紙のスチール(カラーだけど、映画はモノクロ)に載ってて、特別料金が設定されていて、立ち見で通路に座るひとがでた。久しぶりすぎてこわくなる(まったく想定しておらず)。 邦題はWikiだと『ワン、ツー、スリー/ラブハント作戦』だって。

原作はハンガリーの劇作家Ferenc Molnárの一幕劇 - ”Egy, kettő, három” (1929)をI. A. L. DiamondとBilly Wilderが脚色している。 撮影中にベルリンの壁ができてしまったり、James Cagneyはこれを最後に暫く映画から離れてしまったりいろいろあったことを後から知る。そういう事情を知らなくても怒涛の高速・高濃度で撹拌されていくので特別料金はしょうがないな、って思ったり。

"Mac" MacNamara (James Cagney)は西ベルリンに駐在するコカ・コーラ社の幹部で、中東の事業失敗を挽回して、西ヨーロッパの統括拠点であるロンドンに赴任することを目指してずっと士気もテンションも高くて、秘書もお付きもそれに乗って(もともとナチス式に馴染んでいるので)職場は軍隊みたいに統率されている。

ある日、アトランタ本社の重役W.P. Hazeltine (Pamela Tiffin)から、17歳の娘Scarlettが西ベルリンに滞在するのでアテンド等よろしく、と言われる。

ところが現れたScarlettは東ドイツの極左共産主義者の若者Otto Piffl (Horst Buchholz)と結婚していて彼の反米思想に感化され、そのうち妊娠までしていること、さらに二人でモスクワに亡命しようとしていることが明らかになり、ふたりの結婚証明書を東ドイツで盗んで無効にし、それでもふたり一緒にいたいのなら、とOttoを浚って拘束して逆洗脳しようとして、そうしている間に親のHazeltineもベルリンにやってくると言うので、Ottoをまともに見える花婿にでっちあげようと、床屋靴屋帽子屋仕立て屋などを一式、期限の切られた戒厳令下の大パニックに膨れあがっていく。

次から次へと明らかになっていく驚愕の事実と、その反対にいる当事者たちの天然ぶりと、Macの怒涛のテンションにぶっとばされていく部下たち、ビジネス関係者たち、もうついていけない、って出ていこうとするMacの家族、などが東西ベルリンの溝をまたいで騙しあい引っぱりあい渦を巻いていって止まらない。恋愛要素はないのでrom-comのスクリューボールではなくて、ノリだけだと日本の無責任男モノのそれを冷戦間近の前線でぶちかましていて、なにしろヤンキーの無責任なのでびくともしない展開の強さがある。

これはやはりJames Cagneyのとてつもないパワーぶっぱなしの為せる技、としか言いようがなくて、それでもまだ余力あるみたいに見えるし、ラストのあのオチは、競合飲料メーカーのボードにいたJoan Crawfordに配慮したものだったのだろうか、とか。

どうでもいいけど、昔の駐在員はこれくらい大変だったんだろうなー、っていうのは想像できるのでそんなに荒唐無稽な話でもない、かんじがした。


Mauvaise Graine (1934)

8月10日、月曜日の平日だけど休日、シネマヴェーラのBilly Wilder特集で見ました。
英語題は”Bad Seed”、邦題は『ろくでなし』。

Alexander Eswayとの共同だが、これがWilderの初監督作となる。フランス映画。

1930年代のパリで、お金持ちの放蕩息子のHenri (Pierre Mingand)が父親に車を売られて勘当されて行き場がなくなり、売られた車を盗んじゃったことから修理工場の裏で暗躍する自動車窃盗団に加わることになって、そこにいたJean (Raymond Galle)とJeannette (Danielle Darrieux)の姉妹と仲良くなるのだが、窃盗団内でも目をつけられて、逃げ出そうとした時のごたごたですべてを失いそうになるが、最後は結局パパに助けてもらうろくでなし、と。

家族、仲間、恋人、親友、それぞれの間での情が絡んだ引っ張り合いと小競り合いが思いもよらない方に転がっていってあらら、になる辺りはWilderなのかも。でもまだ自然派、というか流されがちで、大ゴトなのか小ゴトなのか、イキっているけどちょっと弱い、かわいいかんじ。 おもちゃの車に付けられていたナンバープレートから居場所が知れてしまうところとか。

8.17.2026

[film] A Window of Memories (2023)

8月10日、平日だけど休日にした月曜日の午後、ル・シネマの9Fで見ました。

監督は清原惟で、彼女の監督作はこれまで見たことなかったかも。
昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭2025でインターナショナル・コンペティションに選出されている。

手法は聞き書きを中心としたドキュメンタリー、テーマは個人史 - 特異な運命をたどったり特殊な境遇にあったりしたそれではなく、祖母が孫に聞かせる昔話のようなものでしかない。のだが、ものすごくおもしろくて、これはなんだろうか、どうしてこんなに引き込まれるのか、になっている。

構成は4レイヤーくらいからなっていて、監督のふたりの祖母 – 父方のと母方のそれぞれの日常があり、彼らに監督が話を聞いている場面があり、その内容をテキストに起こしたものを祖母たちと一緒に編集する – ここは削った方が「らしく」なる、とか – があり、そうして出来あがったテキストをふたりの舞台俳優、パフォーマー(小山薫子、坂藤加菜)が朗読するところ - 個別に読み進めていくのではなく、同じ場所と時間を共有するかたちで - があり、これらがランダムに紡がれていく。

最終的に浮かびあがってくるのは、祖母たちがどこでどんなふうに育って、仕事につき、結婚し、子供が生まれ、彼らの戦後があり、ここまでやってきて今どんなふうに暮らしているのか、というそれだけのこと。そこにあっと驚くようなこと、隠されていたようなこと、があって、これまで生きてきた自分の足元が揺れたりすることもない。それだけなのに、あかの他人の人生なのに、なんでこんなに(以下略)。

自分の場合、親の話はずっと傍にいたし怒られたりするたびに散々聞かされたりしてきたのもあるので、わかる。でも、休みや法事の時くらいしか会う機会のなかった祖母たちの話は、断片を聞いたことがあるだけ、戦時とか大変だったんだろうなあ、くらいでしかなかった。でも彼女たちの記憶は当然そんな断片のわけがなくてすべては繋がり連なって今になっているのだ、もちろん当人でなければすべてをわかることなんてできないのだが、なにがどうなっておばあちゃんはそこにいるの?/きたの? ということくらいは聞いておくべきだったな… から始まる”A Window”。

すべての物語はどこかのだれかの記憶から始まる、のであれば、ここにある”A Window”はそのためにあるものだ、ということをその手続きとか構造のようなところも含めて具体的に明らかにしてくれる。見る - 聞く - 書く - 読む - 話す、という基本の要素ぜんぶのなかに。いまならテクノロジーもくっついてくる(スマホで録って文字起こしかんたんー、とか)。

そうしてこうしてひとつの窓から浮かびあがって掬いだされた思い出たちは、いろんな光や色を纏って彼女たちの像を、織物を形づくるだろう。どうしてそんなことをするのか?って、おばあちゃんの話を聞くのが大好きだったからだよ。「私が聞かなかったら、この話はどこに行くんだろう」が起点にあったそうだが、そういうこと。ドキュメンタリー映画を見る理由もだいたいこれ。

演劇でも同様のことはできるかも知れないが、映画の場合は視野・視角が固定されて見渡しやすいのと、祖母たちの像と語り手を同じ距離感で見つめることができるような。 裁縫された黄色いワンピースのお話とか、話によってはイメージが浮かびあがりやすいものもあるのかも。

テキストを第三者が読みあげることでそれなりの効果を出せる同様のジャンルとしては「怪談」があるかも。これも映画と親和性が高いよね。

[film] The African Queen (1951)

8月8日、土曜日の昼、StrangerのJohn Huston特集で見ました。

ここしばらくは、HustonとWilderが続きそうな予感の夏。もうちょっと軽くしたいなー。

原作はC. S. Foresterの同名小説(1935)をJames AgeeとHustonが脚色している。撮影はJack Cardiff。Humphrey Bogartがオスカーの主演男優賞を獲ったアメリカ・イギリス合作映画。邦題は『アフリカの女王』。

1914年、ドイツ領東アフリカでメソジスト派の宣教師として暮らしながら統制不能な現地人に向かって布教をしているイギリス人Samuel (Robert Morley) と妹Rose (Katharine Hepburn)がいて、イギリスとドイツの間で戦争が勃発するとドイツ植民地軍が現れて村を焼き払って村人たちを連れ去って、これに抗議したSamuelは殴られて倒れた後、高熱であっさりと亡くなってしまう。

小型蒸気船”The African Queen”を使って現地への配達屋をしていたCharlie Allnut (Humphrey Bogart)はSamuelの埋葬を手伝うと、周辺の情勢が危なくなっていくばかりなので、RoseをAfrican Queen号に乗せて一緒に出ていくことにする。

イギリス人とカナダ人のふたりの間には一目瞭然の階級とか国とかそれに対する意識(と外見でも)の段差があり、でもこういう状況なので同じ側にいる敵ではない、ドイツ軍憎し、という最低線だけは合意してそれ以上はそれぞれのゾーンをキープしようとする。 のだが小さな蒸気船と川の激流とアフリカの野生とドイツ軍が容赦なく襲ってきてふたりの脳を強めにシェイクして、あるべき出立ちや振る舞いをばらばらと解して、なにかと酒に溺れて逃げるCharlie vs. それを諫めつつタンクに火薬詰めてドイツ軍にお見舞いしたれ、とかめちゃくちゃ言いだすRoseという構図に変わっていく。

でもこの映画の最大の魅力はそんなふたりの荒れた旅/冒険の行く末を追う - というところにはなく、傍若無人なCharlieや自然に洗われて自身を取り戻す、というよりもっと強く - 殻を取り払って美しくなって - この言い方には注意が必要だと思うが - どう見ても強くかっこよくなっていくRoseの変容、蒸気船「アフリカの女王」がばらばらにされた後、新たな女王として蘇り即位するまでのRoseのお話し、女性映画なのだと思う。

Humphrey Bogartにオスカーをあげたのはぼろぼろになるまで小姓としてよくがんばりましたね、ていう程度のことだったのではないか。ヘミングウェイ的な男らしさを狙ったのかもしれないが、結果的に際立って前にくるのはKatharine Hepburnの”Holiday” (1938)の彼女が大きくなったようなイメージかも(設定はイギリス人になったけど)。

船底の様子を見た後、川の表面から鳥のように細い片脚を上に持ちあげ船の縁に引っかけて這いあがろうとするあのぴーんと張った脚の動きがバレエのように見事で素敵で何度も見たくなってしまうのだが、あそこで脱皮のようなことが起こったのではないか。

最後のあれも、くるぞくるぞ、ってわかっているし、めちゃくちゃスローなのに何度見てもわくわくする、SWの痛快さと同じようなのがある。のと、「ルイーゼ王妃号」だからなんだってんだ、こちとらボロいけど「アフリカの女王」なんだぞ、っていう気高さのようなものも保たれてつつのどかーんが素敵なの。

8.14.2026

[film] Rhythm on the River (1940)

8月6日、木曜日の晩、シネマヴェーラのBilly Wilder特集で見ました。

監督はVictor Schertzinger、楽曲はVictor Youngによるミュージカル・コメディでBilly Wilderは共同脚本で参加している。 邦題は『愉快なリズム』。 とっても愉快だった。

Bob Sommers (Bing Crosby)とピアノのBilly Starbuck (Oscar Levant)は、名前だけは有名でセレブな作曲家Oliver Courtney (Basil Rathbone)に楽曲を提供しているゴーストライターで、その場でさらっと作ってくれたりするのでOliverはBobに感謝しまくっているのだが、Bobはずっとこれを続けていくつもりはなく、郊外のTarrytown(よい町)で叔父が経営する宿屋に戻ってボートを買いたいのだ、という。

やはりゴーストだった作詞家が亡くなった後、Courtneyのところに面接にやってきたCherry Lane (Mary Martin)は採用の際の条件 – ぜったい表に自分(Cherry)の名前を出さないこと – などに少し躊躇するが受け容れて、彼のための作詞仕事に集中するためにTarrytownのBob叔父の宿に滞在することになるのだが、ずっとすれ違っててなんか互いが気に障って衝突しているばかりのふたりが、同じ雇い主のところで飼われていたことを知るまでのすったもんだの楽しさ(ちょっとルビッチの”The Shop Around the Corner” (1940)ぽい)、知って仲直りして一緒にCourtneyのところを離れるのだが売れるアテがなくて、バンドを組んで営業を始めるのだが、これも売れなくて... という広義だとバンド・音楽業界もの、今の時代にも適用できそうなミュージカルになっていて、とにかく楽しくて目が離せない。

ただBing Crosbyのぴかぴかのオーラと歌声が素敵すぎて、あんたなら最初から簡単に自前でデビューできるよ、ってみんなが思ってしまうであろうところがなー。


The Major and the Minor (1942)

8月8日、土曜日の午後、↑と同じ特集でシネマヴェーラで見ました。  

Billy Wilderのアメリカでの初監督作で、原作はFannie Kilbourneの小説” Sunny Goes Home” (1921)をEdward Childs Carpenterが戯曲化した”Connie Goes Home” (1923)をBilly Wilder & Charles Brackettが脚色している(Sunny → Connie → Susan)。
邦題は『少佐と少女』だが、日本では劇場未公開だって?(ありえない..)

頭皮マッサージの派遣仕事でNYのホテルの一室に滞在する顧客のところをSusan Applegate (Ginger Rogers)が訪れたらそこの中年おやじに堂々とセクハラされたので都会はもうムリ、って故郷のアイオワ州に帰ることにするのだが、Grand Central駅の切符売り場で、運賃が値上がりしていて帰郷用に握りしめてきた切符代金では帰れないことがわかって、うーん、て考えて駅の女子トイレでメイクを落として着替えて12歳の少女Su-Suになりすまし、子供運賃でどうにか列車に乗りこむことに成功する。

この時点からおいおい、なのだが列車内でも当然怪しまれて、タバコを吸っているのを見られて、逃げ込んだ先が士官学校のPhilip Kirby少佐(Ray Milland)の客室で、びっくりしたことに彼はSu-Suを迷子の12歳とふつうに思い込んで彼女を匿ってくれて、そのまま士官学校に連れ帰って候補生たち、軍の関係者に紹介するのだが、そこには彼の婚約者のPamela (Rita Johnson)がいて、なんだあの娘は、って騒ぎが広がっていくの。

撮影当時だいたい30歳だったGinger Rogersが12歳の少女を演じる滑稽さ以上に、Philip Kirbyほか士官候補生全員が彼女が12歳であることを疑わないところから始まってしまう男女間のごたごたについて、勘違いより根深い無意識レベルの思い込みが軍の士官ぜんぶを覆ってしまうしょうもなさ、気持ち悪さがあって、そこをとりあえず放置して最後にSusanが正体を明かしても、Pamelaの策謀が明らかにされてもなんかもやもやが残ってしまう。 それぞれの小ネタやキャラクターの設定は十分におもしろいのでそちらを見てしまうのだが。

Wilderのおもしろさのコアには、社会の無意識のようなところにある気持ち悪い何かを晒しつつもそれらを無視して成立させるギャグ、あるいは、ギャグを形成する過程でそういうのが見えているのに、それらをとりあえず置いて(or わざと晒して)ストーリーとして立ちあげてしれっと示してしまう、ようなところがあって、その辺がなんか。ストーリーとしておもしろければそれでよいのか、ってなりがちかも。(そんな単純な話ではないと思うのでもう少し考える)

あと、Kirby役はCary Grantを想定して書いていたって、これはそうだよねー、と。

8.13.2026

[film] Moulin Rouge (1952)

8月7日、金曜日の晩、帰国後はじめて、ひさびさとなった菊川のStrangerで見ました。

『生誕120年 ジョン・ヒューストン特集』として4Kリストアなどをされた4作品が上映される。

ジョン・ヒューストンの映画もビリー・ワイルダーのと同じように長いのが多いのだが、ワイルダーは2時間かけて「ストーリー」を描こうとしたのに対して、ヒューストンは同じ時間で登場人物たちが置かれた状況とか「シーン」を、(例えば)そこで負け続ける男たちなどを描こうとしていて、「ストーリー」は最後まで一緒にいてあげないとどうなるのかわからない面倒くささがあるのに対して、「シーン」の方はどうせ負ける or 最初から負けてることがわかっているので、安心して見ていられて長さもそんなに気にならない、のかもしれない。

今回の4作品がどんな観点からピックアップされたのかしらんが、見事にどうしようもなく、しかし堂々としょうもなく狂ったり消えていったりの男たち - がどんなにしょうもないかを細々と - のドラマが並んでいて、これらは勝ち負け以前のクズだらけの男風景ばかりを見せられてうんざりの日々にうまくはまる.. のかどうか。

邦題は『赤い風車』。 原作はPierre La Mureによる同名小説(1950)、脚本はHustonとAnthony Veillerの共同、撮影はOswald Morris、音楽はGeorges AuricとWilliam Engvickによる英国映画。

パリのMoulin Rougeを舞台に画家Henri de Toulouse-Lautrec(1864-1901)の生涯を回想含めて振り返っていく評伝ドラマ。

冒頭、Moulin Rougeの片隅で黙々と踊り子たちの絵 - みんなよく知るあのシルエット - を描き続けるHenriの姿があって、店が終わって立ち上がったところで貴族の家に生まれながら階段から落ちる事故と遺伝的要因により脚の成長が止まってしまった姿が明らかになり、そこからの帰りに警察から逃れようとしていた威勢のいい娼婦Marie Charlet (Colette Marchand)を助けて家に連れ帰って面倒をみてあげようとするのだが、荒くれ野良猫の彼女はHenriの思いなんて知るか、ってどこかに消えてしまったり、橋から身投げしようとしているかに見えたMyriamme Hyam (Suzanne Flon)に声をかけたら思っていたよりずっとしっかりした女性だったり。

報われそうにない歪な片思いの思いを絵にぶつけて、それなりに絵は評価されていくものの、リアルライフでは次々と見捨てられて気が付けばひとり、を繰り返してどんより壊れていくHenriと、赤い風車をぐるぐる回しながら見守っているMourin Rougeの覆いを、彼の絵の色調、ゆるゆるの輪郭線のなかに描いていく。

彼はなんでMarieにあんなにひどい目にあったのに、どこまでも彼女を求めていったのだろう? という一番どろどろしていそうなあたりが一番残ったかも。

アーティストの見た夢、ヴィジョン、色彩の格子のなかに彼の(あまりぱっとしなかった)人生を封じこめてしまうこと、なぜならそこにこそ彼の(生きる)世界はある/あったのだから – そう思うとVincente MinnelliがVincent van Goghを描いた” Lust for Life” (1956)を見直してみたいなー、と思いつつ、やはり見比べるべきは、同じヴェニューを描いた(とは思えないけど)Jean Renoirによる”French Cancan” (1955)のPierre-Auguste Renoirだろうか。

どちらもそれぞれに見事で、『風車』はHenri de Toulouse-Lautrecという画家個人が見つめていた(光というよりは)底とか床で渦をまく闇を、『カンカン』はPierre-Auguste Renoir - Jean Renoirが夢想した集団の狂騒とその果てのユートピアまで掴まえようとしていて、どちらも総合芸術的なスケールで迫ってくるその強さ。(今、ここからBaz Luhrmannの”Moulin Rouge!” (2001)とかを見ると結構陳腐なものに見えてしまう - あれは青春バカ映画でよいのだが)

8.12.2026

[film] Vie privée (2025)

8月5日、水曜日の晩、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。
邦題は『プライベート・ケース』、英語題は”A Private Life”。

監督は(共同脚本も)Rebecca Zlotowski。 Jodie Fosterが流暢なフランス語でフランスの映画の情景に見事に溶けこんでいる。

パリに暮らすアメリカ人の精神分析医Lilian Steiner (Jodie Foster)がいて、冒頭、ずっと彼女の治療を受けていた患者のPierreが催眠療法士の施術により一瞬で治った、もうここには来ないしこれまでの治療費を裁判所で請求させて貰う、って帰っていって、その晩、患者のPaula (Virginie Efira)が自殺したという知らせに衝撃を受ける。信じられない状態で葬儀の場に向かうと彼女の夫Simon (Mathieu Amalric)からは憎しみを込めた目と態度で非難されて、でも長年彼女を看てきた側からすると彼女が自殺するとは思えなくて、やがてPaulaの娘のValérie (Luàna Bajrami)の訪問を受けると処方箋の紙に何か追記されていることを知って、やはりPaulaは何者かに殺されたのではないか、と思うようになる。

Lilianには関係がうまくいっていない息子のJulien (Vincent Lacoste)がいて、治療内容を記録するMiniDisc(なんで?)を注文して貰ったりしているのだが、その辺りから泣いていないのに涙が止まらなくなって別居している眼医者の元夫Gabriel (Daniel Auteuil)のところに行ったり、でも禁煙を一発で治した催眠療法士のところにいったら、変な夢を見て(見せられて)、とりあえず涙は止まる。

Gabrielの協力を得ながら、不可解な事件の周りを探っていくのと並行して彼女のオフィスが荒らされて本件のカギを握ると思われるPaulaとの最後のセッションの記録が無くなっていたり、無言電話が頻繁にかかってきたりするようになって、やっぱりSimonが怪しいかも、になっていくと、Paulaの亡くなった叔母からの多額の相続金のことを知ったり、Paulaの死後に女性用ヘアアイロンが注文されていたり、Simonを追ってその周辺を探っていくと…

本格推理モノ、というよりパリに暮らすユダヤ系アメリカ人女性が抱えて溜めこんだ家族に対する、自身の老後に対する、愛と孤独に対するいろんな思いが、自殺を装ったのか自殺だったのか親友に起こった事件の周辺と真相を巡ってぐるぐる回って結局は自分に還ってくるような女性のドラマで、全体としては老いを、これまでの罪を受け容れるとは、というのを極めてフランスぽく解消しようとして(がんばるアメリカ人を見て)いるかんじ。 心理療法や催眠療法に対する距離の取り方も、そこで現れてくる夢の置き場などについても、フランス映画だねえ、って思って、フランス映画を見たかんじにはなった。

一番わあ、ってびっくりしたのはLilianが相談にいく師匠の精神科医として出てきたFrederick Wisemanで、彼はLilianがやってはいけないことをした罪悪感の裏返しで変な夢を見るのだ、とさらりと語って彼女を怒らせたりしていて、なんだかとてもWiseman先生ぽいな、って思った。

あと、日仏のVirginie Efira小特集で見た”Victoria” (2016)でもそうだったけど、Vincent Lacosteって、家に籠ってなにをやっているのかよくわからない怪しく変な若者/おじさん、をやらせたら天下一品だなあ、って思った。

[film] Ball of Fire (1941)

8月4日、火曜日の晩、シネマヴェーラで新しく始まった特集 - 『ワイルダーならこうする! ビリー・ワイルダー特集』で見ました。邦題は『教授と美女』。

Billy Wilderはそんなに好物な監督ではなくて、主な理由は長いから。映画なら100分、ポップソングなら2分30秒以内、が理想で – だからこの前のAnthony Mannはとってもよかった。 Wilderの書くストーリーの指し示す教えとかビジョンがそうさせてしまうことはわかるのだが、長いお話にはそこまで盛らなくても語らなくてもいいから、っていつも。 「ワイルダーならこうする!」について考えることは意味あると思うけど、創作でこれを実践することにどんな意味があるのか(について考えてみること)。

今回の特集は彼の監督作だけでなく、初期の脚本仕事も多く含まれていて、どちらかというとそちらの方を。

『教授と美女』はこのサイトで何度も書いているが、80年代の終わりに日本未公開状態でVHSのみでリリースされたのを買って見て痺れて、そこからの約40年間、Film Forumで見てBAMで見てBFIで見てシネマヴェーラでも見てリメイクされた”A Song Is Born” (1948)も見て、ずっと見続けているのだが、まったく飽きることがないスクリューボールの火の玉の王。

原作はThomas MonroeとBilly Wilderによる短編小説” From A to Z”、脚本はCharles BrackettとBilly Wilderの共同、監督はHoward Hawks、撮影はGregg Tolandで、主演はGary CooperとBarbara Stanwyck。 何度見たって無敵で最強。

マンハッタンの83rdの西の邸宅で共同生活を送りながらエンサイクロペディアの編纂をしている教授たち8人のところにキャバレー歌手でギャングの情婦Sugarpuss (Barbara Stanwyck)が転がりこんできて、元はと言えばスラング研究をしているPotts (Gary Cooper)教授の研究材料のはずだったのが、サツに追われるギャング団 vs. 教授たち、の構図に転がっていって、女性に初めてぽーっとなってどうしたらよいのやらのPottsとはじめはバカにしていたのに彼を忘れられなくなっていくSugarpussの恋の行方はいかに? なの。

階級・階層の対立・対比の構図がかっちりと区切られていて、それゆえのスクリューボールなのだが、今だったらエンサイクロペディアはないのでウィキペディアで編纂作業もオンラインで、そこにやってくる彼女もSNSくらいはやっていて、でもちょっとした口出しや指導でもコンプラ案件になりかねないし対価報酬も頂きます、のでたぶん火の玉が発生したりぶち抜いたりすることは難しいのだろうな、などと思った。


Der Mann, der seinen Mörder sucht (1931)

8月4日の晩、↑のの前に見ました。 オリジナル版は97分だったそうだが上映されたのは現存する53分版。ドイツのUFAの制作・配給。 英語題は”The Man in Search of His Murderer”、邦題は『人間廃業』。

監督はRobert Siodmak、Ernst Neubachの戯曲を元に、Billy Wilder他が脚本を書いている。

真面目で暗そうなHans (Heinz Rühmann)は借金だるまで自殺しようと思って、スーツに弾を撃ち抜く✕印を描いたりしていたところで、ちょうど泥棒にきたOtto (Raimund Janitschek)が現れたので自分を撃ってくれ、って頼むと間抜けかつ慎重な彼は自分の組織に相談して、懲役3年をくらう可能性があるので年額5000でどうかとか、準備するので時間をくれ、ってあれこれ面倒くさい。

実行までの空いた時間にバーにいったHansはしつこい男に言い寄られていたKitty (Lien Deyers)と知り合って、彼女とダンスして身の上を打ち明けているうちに、死に向かいたいという自分の思いとその意に反して死から逃れていってしまう自分の境遇があほらしくなっていって…

いかにもドイツ人らしい死への欲望が、死神がなんでもかんでも狙いを外してくれることで滑稽になっていく様が描かれて、ほんとうに死んじゃうぞ? いいのか?になったところでやっぱり死にたくないかも、となって、やっぱごめん遅かった… になるのかどうか。

死をめぐって/死に向かった時に複雑に変転していく思い、そのヨーロッパ的なありようはWilderが後に監督する”Double Indemnity” (1944)にも繋がっていくなあ – あれの原作はJames M. Cainだけど、とか思った。

[film] A Future History Of: The Elephant 6 Recording Co. (2022)

8月3日、月曜日の晩、こんなん誰が見るねん、月曜日からなんやねん(関西弁)とかぼやきつつ、シネマート新宿で見ました。

邦題は『エレファント6レコーディング・カンパニー』。 客席はぱんぱん、のわけがなかった。
監督・制作・撮影その他をChad Stockflethがひとりでやっている、自主制作のような作品で確かにふつうに見ることは難しかったのかも。しかしなぜいま?

80年代後半にルイジアナ州ラストン辺りで渦を巻いていたバンドでもムーブメントでもレーベルとも違う変てこ共同体… より少し弱めのコレクティブ - ”The Elephant 6” - Max Ernstの絵画『セレベスの象』 (1921)から取られたのかー - の活動の全貌を追うドキュメンタリー。「全貌」と呼べるほど強い輪郭を示してくるメッセージやストーリーがあるわけではない。残っていた映像の断片をつなぎ合わせていくことで見えてくるシュールな愛すべき変人たちの蠢き。虫たちの生態。

The Apples in StereoのRobert Schneider、Olivia Tremor ControlのBill DossにWill Hart、Neutral Milk HotelのJeff MangumにJulian Kosterらの動いたり演奏したりコメントしたりする姿が見れて - でもJeff Mangumのコメントはない - 音楽関係の外からはElijah WoodとかDavid Crossが(いかにも)。

そこではとびきり痺れる、知られざる名曲やライブ映像が晒されるわけではなく、どれも誰かの鼻歌から始まって部屋の壁を伝って反響したそれらが束ねられ、団子となってガレージやベッドルームの床を転がって揺らすように広がっていったやつ。決してみんなの歌にもなろうとはせず「アート」としての熟成を目ざすこともなく、ジャンクとポップの間をぬっていくマイナーな、でも止めることのできない石蹴りのような。

代表のような形で前面に出てくるのはRobert SchneiderのThe Apples in StereoとOlivia Tremor Controlで、ここにNeutral Milk Hotelが混ざるとあまりに雑多で多様すぎてレコード棚の同じ分類で括ることなんてできそうにない、という良くも悪くもばらけたそれぞれの。

出てきたバンドの中で見たことがあったのは2013年のHostess Club Weekender(..あったねえ)でのNeutral Milk Hotel(あと、これの前年にBrooklynでJeff Mangumのソロも見ている)と、もうひとつ、2001年のElf Powerがいた。この時の彼らはWilcoの”Yankee Hotel Foxtrot” (2001)のリリース前ツアーの前座のひとつで、NYのTown Hallで911直後の、まだきちんと音楽に向き合うことも難しいような状態の我々を前に、Wilcoはすばらしい音を鳴らしてくれて、その前のElf Powerも素敵でキュートで、画面にも出てくるLaura CarterさんからTシャツを買ったのを憶えている。

90年代以降のインディペンデント・レーベルを中心としたコレクティブぽい動きで言うと、Merge Recordsの創設が1989、Saddle Creek Recordsが1993、Barsuk Recordsが1998、Asthmatic Kittyが1999で、どれもローカルのlo-fiの共同体でどかすかやっていくやり口(のような?)がおもしろくて、これらも当時言われていたオルタナとして括れてしまうものだったのかどうか。

しかし、登場するバンドのなかで、やはりNeutral Milk Hotelだけは別格の風貌と特異さで空気を震わせて - というかJeff Mangumの唸って響きわたる声がすべてなのよね、って改めて思った。

たぶんアメリカ音楽史的には箸にも棒にも、のようなものかも知れないが、こうして映像として残されていることがどれだけ貴重な獣道となっていることか、というのも改めて。配信で届くような(届くことを前提に作られる)やつとは全く異なるノイズまみれの奴らの。

8.07.2026

[film] Contes de juillet (2017)

7月22日、水曜日の晩、ユーロスペースのGuillaume Brac特集で見ました。

この夏の気候も湿気もあまりに酷いし、こんな状態で夏休みもくそもないし、これまでの生涯とかなんでこんな職業とかなんでこんなに積んであるんだとか、なにもかも呪って悪態つきまくりの状態のなか、Guillaume Bracの映画をちょこちょこ見たりしているとなんか落ち着く。彼の小噺映画で小爆発を繰り返す居心地の悪さと響きあう何かがあるのだろうか?(ロメールだとこうはいかない)

邦題は『7月の物語』 - 英語題だと”July Tales”、「日曜日の友だち」と「ハンネと革命記念日」の二部構成。

タイトルの“Contes” – Talesというと、Eric Rohmerの四季の物語に代表されるあれらが浮かんで、もちろん大好物なのだが、あれよりも少しだけとっつきやすいジャンクフードぽい風味がある。 Rohmerの方はちゃんとしたお茶菓子というか。

L'Amie du Dimanche - 「日曜日の友だち」

会社でちょっとしょんぼりしていたLucie (Lucie Grunstein)を同僚のMiléna (Miléna Csergo)が誘って、日曜日にふたりでウォータースポーツのできる大きなレジャーセンターに行くのだが、Milénaは声をかけてきた男性に惹かれたのか、そっちばかり向くようになったので、もういい、ってLucieはひとりで過ごしていたらフェンシングの素振り(?)をしている男性と出会って、Milénaの方は男の彼女が挟まってきて修羅場になって、帰りにふたりはまた一緒になる。

こんなこともあったね/あるよね、の典型的な、いきなり大雨に降られました、のようなだれにもどうすることのできない夏の一日。

Hanne et la fête nationale - 「ハンネと革命記念日」

7月14日、革命記念日のパリ。国際大学都市の寮に暮らす女子留学生のHanne (Hanne Mathisen Haga)は、朝、友人のAndrea (Andrea Romano)が自分の横でマスターベーションしているところに遭遇し(さいてー)ふざけんな!ってキレて、記念日のパレードに行ったところでRoman (Roman Jean-Elie)に声をかけられて、夜になって寮にHanneを迎えにきた彼にAndreaがひどいことをして – Andreaほんとろくでもない - 救急の人を呼んだりして、結局パレードに行けなくなった連中みんなで宴会になって、でも楽しく進んでいったその宴も…   で、朝になってHannaはすたすた寮を出ていくの。

パリ滞在の最後の日、革命記念日のパレードもあるし、記念に残るものになる/するはずだったのに、これもどうすることもできない – とも言い切れない微妙な力がどこかで働いてあーあ、になってしまう。

きっとみんなそれぞれパーフェクトな7月のイメージはあるのだと思うのだが、なんでこうなってしまうのか。でも反省はしないの。


L'Île au trésor (2018)

↑と同じ7月22日に見ました。 邦題は『宝島』。

ドキュメンタリーで↑の「日曜日の友だち」の舞台となったパリ近郊のセルジー゠ポントワーズにあるレジャーアイランドにやってくる人々、管理したり対応したりする窓口の人々の姿を追う。最初が未成年なのに自分たちでどうにか中に入りこみたいガキ共と係員との攻防で、こういうのも含めて、いろんな世代、いろんな民族間で毎日繰り広げられているであろう光景を次々と映しだしつつ、終わりのほうでシーズンがしょんぼり終わっていくさまも映されて、これが毎日だけでなく一年のこの時期に延々繰り広げられ、積み重ねられてきたんだろうなー、って思って、そこから改めて「日曜日の友だち」を振り返ってみる。彼女たちの間で起こったような小さな諍いが幾重にも多重に折り重なっていく現場の厚み – そこにあるそんな宝の島のこと。

懲りない人たち、というのも少し思ったのだが、ヴァケーション、ヴァカンスっていうのがそもそもそういう志向をもったろくでもないものなのよね。たぶん。


À l'abordage (2020)

7月29日、水曜日の晩に見ました。 邦題は『みんなのヴァカンス』、英語題は”All Hands on Deck”。
始まってから前に見たことあったのに気づいたが、おもしろいからいいんだ。

セーヌ川のほとりの公園で、Félix (Eric Nantchouang)はAlma (Asma Messaoudene)と出会って楽しく朝まで過ごして、Almaがヴァカンスで両親と一緒に南フランスの田舎町ディーに行くというので、そこを訪れてサプライズで驚かしてやろう、って相棒のChérif (Salif Cissé)を誘って、出発の日に相乗りアプリで車を出してきたÉdouard (Édouard Sulpice)にぶつぶつ言われつつ現地に着いたら、彼の(母親の)車が壊れて、故障が直るまでの1週間、Chérifのテントで一緒に暮らすことに。気楽でいいな。

でもAlmaに会いに行ったFélixは露骨に嫌がられて散々になるし、Chérifは赤ん坊を連れたHéléna (Ana Blagojevic)と知り合って子守りその他を任されているうちに…

それぞれのキャラクター(アグレッシブ、まったり、ぼんくら、等)をベースに、彼らがヴァカンスに行ったときに起こりそうなことが、いかにも出会いそうな人たちとの出会いや喧嘩や泣き言も含めて、ヴァカンスの陽のもとに晒されて、そこには感動も奇跡もまったくない、むしろ折角のヴァカンスなのに… なストーリーが無軌道に際限なく転がっていって、それらのブレンド具合があまりに絶妙なので、これこそが求めていたヴァカンス映画だ! …のわけないよね、って改めて看板を見てしまうことになるの。

とにかく、人生の役に立ちそうな、養分になりそうな感動的なあれとか、微塵もないのがよいんだってば!(100回でも言う)
 

8.06.2026

[film] Spider-Man: Brand New Day (2026)

7月31日、金曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAXで見ました。
まだぎりぎり初日に見ようとする気力は残っているらしい。(暑さを逃れたいだけかも)

ただ、あまり乗り気はしなくて、予告とかどう見ても暗そうだし、監督は前3作のJon Wattsから”Shang-Chi and the Legend of the Ten Rings” (2021)のDestin Daniel Crettonに変わっているし、前作で”No Way Home”となった後の”Brand New Day”で、新しいスタートなのだろうが、前作の終わりに保護者であるMayおばさん(Marisa Tomei)を亡くし、Dr Strangeに頼んで親友のNed (Jacob Batalon) と最愛のMJ (Zendaya)を含む世界から自分の記憶を消してしまった後の、ほんとうに初期化された”Brand New”なので、そこに痛みや苦しみがないわけがなくて、でもその痛みの中心にいるのは彼だけで。

これまでよりもカメラがPeter Parker (Tom Holland)の至近に寄って、彼の筋肉も骨格も太く肉肉しくなっていて、この点でももう子供ではない – Brand Newということなのだろうが、最初の2つのコミックみたいに軽いハイスクールのノリを愛していたので、きついとまでは言わないけど、やだな、くらい。筋肉増量の件に加えて糸が手首から出る出ないでじるじるしたり、クモの話だからしょうがないのか。でも興行的には当たったらしい。

そんな彼が動き回るNYの町も3Dでぐるぐる迫って遠くなったり近くに来たりが慌ただしく、アストリア近辺の萎びた町のかんじは殆どなくて - デリの店頭くらい - ほぼ近代都市NYのビルの奥行き、深さが解像度高めで迫ってくるくらい。(でもそれならNYでなくても)

そうやって犯罪や犯罪者を追いかけていつもの捕り物をやっていくうち、市のDamage Control局を中心に近くにいる人の人格を一瞬乗っ取って渡っていく正体の見えない敵が現れて、今回”Black Widow”を襲名したBlack Widow(Florence Pugh)に教えて貰ったり、おかしくなった自分のパワーのコントロールについてDr Bruce Banner (Mark Ruffalo)に聞いたり、どうしたんだ自分? て言いながら敵を追っていく。

のと、もうひとつは永遠に失われてしまったNedとMJの周りを諦めきれずにずっとうろついて怪しまれて、特にMJとのことは離れることができないままめそめそしている。今作で見るべきところがあるとしたら、唯一MJとの間の失われた手紙をめぐるやり取りで、これはもう”Challengers” (2024)に続いて Zendayaすごいや、としか言いようがない。

あと、後半になって尻尾を捕まえた変幻自在の敵がJean Grey (Sadie Sink)だったのにはちょっと驚いて、あのJean GreyならPeter勝てないよね、と思ったらあんなやり方で責めるとは。Marisa Tomei最強(そして、Marisa TomeiとNaomi Wattsに操られるばかりのPeter Parker)。

自分が自分だったからみんな遠くにいってしまった、Saraは消えてしまった、と嘆く彼らに対してMayおばさんは“They love you not because you're special, we love you because you're you.”と語って肩を抱く。20数年前の“With great power comes great responsibility”をめぐる箴言が今回のこれで割ときれいな弧を。

こういうのはわかるし別にいいんだけど、でも全体としてなんか楽しくないんだよ。ビルの間を渡って悪いのをとっちめていくすかっとした感覚がないの。Peter ParkerはSpider Manを本当に職業とかミッションにしちゃったんだなー、っていうコトの重圧とか運命の大変さばかりがやってきて。そりゃ大変でしょうとも、がんばってね、なんだけど。

あと、今回から登場した威勢のいいFrank Castle - “Punisher” (Jon Bernthal)、”The Accountant 2” (2025)でのキャラとほぼ同じなので、兄弟のBen Affleckも連れてくればよいのに。NJあたりにいるんだろうし。

あと、今回の音楽はどこも、どれも見事に引っかからなかったかも。自分がもうついていけなくなっているだけなんだろうなー、って思った。

8.05.2026

[film] Monk in Pieces (2025)

7月29日、水曜日の晩、ユーロスペースで見ました。

邦題は『メレディス・モンク 踊る声、歌う身体』。
Billy ShebarとDavid C. Robertsの共同作・監督によるアメリカのパフォーミング・アーティスト、Meredith Monkを追ったドキュメンタリーで、昨年のベルリン国際映画祭でプレミアされている。

紐のような三つ編みの、ひょろっと質素な恰好で、トライベッカのロフトに陸ガメのNeutronと暮らす彼女の佇まいを挟みつつ、60年代からヴォイス、ダンスを中心としたパフォーマンスの領域をひとり淡々と切り開いてきた彼女のいろんなPiecesを拾い集めてモザイクとして並べたり散らしたり(声なので)伸ばしたりしながら、BjörkやDavid Byrneをはじめとした現代アートへの影響、その広がりを示す。

90年代のNYで、BAMに通っていた自分の感覚からすると、彼女はBill T. JonesやTrisha Brown、Lucinda Childs、Yvonne Rainerといったダンス系のパフォーマーの流れにあって、Merce Cunninghamの影響下、60年代のJudson Dance Theaterの裾野からきた人、というイメージがあったので、”Voice”(踊る声)というこの映画の軸に据えられたテーマというか構図はふーんなるほどー、だった。 

映画にも出てくるが活動初期、60年代の批評ではめちゃくちゃ叩かれていたのがここまで来たのは、やはり映画にあるようにBjörkやDavid Byrneの影響力なのか、彼らのような可聴帯域をぶちぬく変態パフォーマーが注目されだした90年代の文化とかテクノロジーの辺りから掘り下げていった方がおもしろいのかも、と思った。(昔はパフォーマンスの現場にいかないと触れられなかったものによりアクセスしやすくなった、とか)

という外からの見方云々から離れて、Monk自身はずっと声と身体に関わる表現を追求してきた、というところで、最後に残るのは、ひとりロフトで世界と向き合っているような像だったり。 とにかく、きちんと評価されてしかるべきだった人がきちんと紹介されているので、見に行った方がよいの。


Elis Island (1982)

7月26日、日曜日の夕方、ユーロスペースで見ました。
船便到着の前日にこんなの見ていてよいのか、だったのだがこれは公開日が限られているのでしょうがないの。

共同監督としてBob Rosen。

移民の受け入れ口だったエリス島を舞台に、観光客が集まる現代の様子と、モノクロのサイレントのように映し出される当時の移民たちの姿を交互に対照させつつ、異国・異文化に適応すること、その様式に体を合わせること、自国の言葉を使わないこと、等を求められた彼らが歌っていた歌、舞っていた舞い、その表情や振る舞いはどんなふうだったのか、を幽霊のように呼び寄せてみる29分。

当時のリアルな状況やストーリーを追ってきちんと再現するのではなく、自分の頭のなかの、あるいはその場所にこびりついた単一の、集団の記憶や残像は失われた廃墟の隅でどんな声を、音を持ちうるのか、どんなふうに聞こえてくるのかに耳をすませてみよう… というイマジナティヴな控えめな実験。 Monk自身による音楽がとてもよいの。


Book of Days (1989)


↑のに続けて見ました。こちらはMonkの単独監督作で、75分の中編。
New York Film Festivalでも上映されている。 35mmプリントでの上映。

中世フランスの小さな村に暮らすユダヤ人の少女に導かれながら、ユダヤ人差別や迫害、疫病(ペスト)、終末への恐怖が支配した時代の暮らし、家族やコミュニティを描いて、それらが日々の本(Book of Hours - 時祷書ではなく)として積みあがっていくさまを。 

少女の見透して描いたTVや飛行機の絵が、現代(当時)のエイズ禍や人種やジェンダー差別で揺れるNYに浮かびあがってきて、“Elis Island”と同様、こちらにも現代の描写はあるが、入口よりもっと奥に入りこんで当時の生活や雑踏に寄り添おうとしているような。

一回性の舞台でのパフォーマンスから反復可能な再帰性のある映像表現を経て、改めて彼女のパフォーマンスは、過去のそれも含めてその在処とその声が向かう先を見出したのではないか。 ”Book of Days”という土台の上に改めて彼女の”Pieces”を置いて、置きなおしてみること。断片しか聴いたことはないのだが、彼女のオペラ”Atlas” (1991)の旅は、ここでの試みから始まっているのではないか、とか。

8.04.2026

[film] Desperate (1947)

7月24日、金曜日の晩、シネマヴェーラのAnthony Mann特集で見ました。 邦題は『必死の逃避行』。

トラックで貨物の運送をしているSteve Randall (Steve Brodie)は結婚4カ月の妻Anne (Audrey Long) とのアニバーサリーでおうちに帰ったところで知り合いから荷物の配達を頼まれ、記念日だから、って断ったのだが金額を積まれたので受けることにして荷物を取りにいったらそれはヤバい案件の盗品で、そんなの嫌だ、ってどうにか逃げようと近くにいた警察に合図したら銃撃戦となって、警官は撃たれて亡くなり、替わりに弟をしょっぴかれたギャングのボス(Raymond Burr)は激怒してSteveを捕まえて、お前がやったと警察に自首して弟を連れ戻せ、そうしないと妻を… って暴力で脅してくる。

隙をみてなんとかAnneをピックアップして逃げようとするが、Steveの名前と写真は警官殺しで指名手配されていて、列車~トラックなどを乗り継いでどきどきしながら逃げて、どうにか親戚のおうちに寄ったらちゃんとした結婚式を挙げなきゃだめじゃんって、いきなり結婚式になったり、でもボスの弟の絞首刑の時間が迫ってきて焦るギャングたちも必死で追ってきて…

怖いとか暗いとかいう以前に、追跡と逃走のDesperateな緊張感のなかだけで勝負していくあっという間の73分で、最初の方のゆらゆら揺れて明滅する部屋の照明の中で圧してくる暴力の濃さ、ラストのアパートの狭い階段を使った銃撃戦も、瞼の裏に残る生々しさですばらしかった。


Winchester '73 (1950)

7月28日、火曜日の晩、シネマヴェーラで見ました。 邦題は『ウィンチェスター銃'73』
昔は(今も?)Anthony Mannといえばこれ、だった1本で、さすがにむかし見たことがあった。

Anthony MannとJames Stewartが組んだ8作のうちの最初の1作。俳優が報酬として興行収入の一定割合を受け取るRevenue Shareの仕組みが初めて採用された映画だそう。

1876年、カンサスのある町にLin McAdam (James Stewart)と相棒の"High Spade" (Millard Mitchell)が流れてきて、LinはDutch Henry Brown (Stephen McNally)を追ってきたのだが、保安官のWyatt Earp (Will Geer)に銃を預けなければいけなくてどうすることもできない。

ふたりは町のお祭りの建国100周年記念射撃大会に参加して、その賞品は名高いウィンチェスターM1873ライフルという1000挺に1挺の、伝説の名刀みたいな銃で、大会はLinとDutchの接戦でLinが勝って銃を手にするのだが、Linが町を去ろうとしたところでDutchに持ち逃げされてしまう。

これ以降、伝説的なパワーを持つ(or 与える)Winchester銃とその所有者をめぐって因果応報のストーリーとか呪いのような何かが伝搬して転がっていくのかと思いきや、単に銃は撃ったり撃たれたりで持ち主を替えて渡っていくだけ、奪い奪われる宝物がふつうの銃に替わっただけのようなあっさり味のお話で、ただ銃=火器を奪い合うので当然死人は増えるよ、っていう当たり前のことを描いて、通常の西部劇にある復讐、憎悪、裏切り、のようなどろどろした念のようなものは後退して、単なる人殺しの道具としての銃と、それを扱うアクションの光と影のみが前に出てきている。

そういう劇構成をおもしろい、と思えるかどうか、なのかしら?


He Walked by Night (1948)


7月28日、火曜日の晩、↑のに続けて見ました。 今回のAnthony Mann特集はこれでおわり。 邦題は『夜歩く男』。

監督はAlfred L. Werkerで、Anthony Mannはノンクレジットでの参加だそう。ここでも見事な撮影はJohn Alton。

実在した退役軍人の凶悪犯Erwin "Machine-Gun" Walkerの事件を元にしていて、冒頭のパトロール中の警官を撃つシーンも、ただの「夜歩く男」のなんてことのないシルエットが突然銃を向けて、そこから噴きだしてくる恐怖の絵から始まって、犯人(Richard Basehart)の無表情なごくふつうの佇まい(同居している犬がかわいい)とか、それを追う警察側も型破りな強引で個性的な誰かが出張ってくることもなく、追う側 – 追われる側の駆け引きを光と影の収縮のなかで追っていて、それが最後、地下水道で視野も含めて狭まっていく逃走/追跡シーンで炸裂する。犯人のキャラクターとか犯行の動機とか事情背景に入り込まずに、ただ「誰かが夜に」のイメージの断面とどこにいてなにをしているのかを追うだけ。

こんなにシンプルで、なのにこんなにおもしろくできるのか、って。

8.03.2026

[film] Capricorn One (1977)

7月20日、祝日の月曜日の昼、TOHOシネマズシャンテの、午前10時のなんたら、で見ました。

邦題は『カプリコン・1』。 作・監督はPeter Hyams。
これまで見たことはなかったが、筋はようく知っている、という年寄りも多かったのではないか。

日本での公開は1977年末で、この頃、ぜんぜん公開してくれないけど、既に世界中で大きな話題となっていた”Star Wars” (1977)の情報を求めて、その唯一の情報源である映画雑誌(『スクリーン』と『ロードショー』があって、自分は『スクリーン』派だった)を隅から隅まで何度も読みふけっていたので、この当時の洋画情報は文字で随分入っていた。なかでもこの映画は、全米公開に先がけて、って得意気に宣伝していたのだが、ばかにすんなそれならなんでSWを公開しないんだよ? って相当頭にきていたのも憶えている。配給会社への不信はこの頃からずっと、いまだにあって、文句を言ってもどうしようもない、という今の政治に対する無力感に近いものを感じた最初期、でもあったのだが、この映画にはそんな罪はないのかも、って漸く。 あと最近だと、Marguerite Durasの『陰画の手』 (1979)でも、パリの街角を映していくなか、この映画のパネルが目に入ったり。

人類初の火星有人探査ミッションである”Capricorn One”の3人の宇宙飛行士(James Brolin, Sam Waterston, O. J. Simpson)がロケット発射直前にこっそり外に連れ出されて別施設に移送されて缶詰になって、火星着陸シーンはそこに用意されたセットで特殊撮影~放映されて、でもそうして入ってきた通信の経路がおかしいことに気付いて上に報告した管制官(Robert Walden)が友人のTVジャーナリストRobert (Elliott Gould)にそれを話した直後に姿を消して、Robert自身も姿の見えない誰かに狙われるようになる。

他方で家族を人質にされて身動きの取れない3人の宇宙飛行士たちも隙をついて飛行機で脱出して、どこかの砂漠に不時着してから、追手が来ることはわかっていたので、それぞれ別方角に逃げることにするがひとりひとりヘリコプターに追われて消されていって、政府からの対外向けでは大気圏突入時の事故で全員死亡、ということにされて、全米が悲しみに暮れる葬儀の最中に…

70年代サスペンスのひとつの典型で、世界に対する見栄張りのために政府はどんな茶番でも人殺しでも平気でやる、という権力のありようを示す格好のサンプルとして、張りぼての着陸シーンはパロディ映画で何度も反復されているのだが、こんな映画の「先行」が日本だったって、なかなか笑えないわ。

しかし、あのラストのストップモーション、これも当時は感動的だったのかもしれないが、今はパロディやられすぎてなんだか笑えてしまうやつかも。


Catchfire (1990)

7月20日の午後、↑のを見てふらふらした後、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。

邦題は『ハートに火をつけて』。Jodie Fosterの新作”Vie privée” (2025)の公開にあわせての小規模限定公開(DVD上映だけど)らしい。

劇場公開時には"Alan Smithee"名義でリリースされたが、最終版のリリースにより(最初から関わっていた)Dennis Hopperの監督作となった。脚本にはD.H. Lawrenceという名前でAlex Cox(いいかげんにしろ)も関わっている。

冒頭、夜霧の奥から典型的な90年代サスペンスの音が鳴って、ネオン・アーティストのAnne (Jodie Foster)が車で帰宅途中、高速でタイヤがパンクして仕方なく歩いていたらマフィアが敵だか味方だかを射殺している現場を目撃して警察に行ったら、警察署内にその関係者がいたのでこれはやられる、と直感して逃げて、他方でマフィアは凄腕の殺し屋Milo (Dennis Hopper)を雇って彼女の殺害を命じるのだが、Anneの部屋を引っかき回しながら彼女のポラロイド写真とかを見たMiloは彼女に惚れてしまい、彼女を捕まえてからも簡単に殺せたはずなのにハートに火をつけられちゃって、なんと彼女の方もMiloを… わざとやっているとしか思えないちゃらい銃撃シーンとか80年代ぽいご都合主義の嵐が吹き荒れて、この主演ふたりの激突から想像できそうな糸をひく神経〆やゴス・ノワール沼からは程遠いお花畑展開になって、最後はほんとうに手を取り合って彼方に消えていっちゃうの。

キャストがなかなかすごくて、Dean Stockwell, Joe Pesci, John Turturro, Fred Ward, Vincent Price, カメオで出てくるのがCharlie Sheen, Catherine Keener, Toni Basil, そしてそこに立っているだけで変なオーラのBob Dylanとか…

あと、AnneのネオンアートはJenny Holzerのだって。やっぱり。

あと、↑のとの繋がりでいうと、どっちもクライマックスがヘリコプター・チェイスだった。 そういえば、ヘリコプターを使ったアクションてなくなってきているような。
 

8.02.2026

[dance] 私は海をだきしめていたい

7月25日、土曜日の午後、彩の国さいたま芸術劇場で見ました。
(船便到着の2日前に 〜 以下略。だってチケット取っちゃっていたんだもの)

開演は午後3時で、とにかく駅から劇場までのあの距離がだいじょうぶか(熱波) だったのだがどうにか。(次からはちゃんと備えるようにしたい)

日本のダンスカンパニーのも見ていったほうがよいのかも、くらいで。
Noism Company NiigataはNoism0とか1とか2とかあって、NDCみたいなやつ? と思ったらそうみたいだった。演出・振付は金森穣による2本立て。

私は海をだきしめていたい

原作(?)は今年生誕120年を迎える新潟の坂口安吾の同名短編(青空文庫で読める)、音楽はエリック・サティで、暑さから退避すべく暗めの会場に入ると生誕160年であるサティのピアノ - 『ジュ・トゥ・ヴ』(Je te veux / あなたがほしい: 1902)が不機嫌に鳴り響いていて気もちよい。

短編の『私は海を~』がどんなやつかというと、例えば 『この女の不具な肉体が変に好きになってきた。真実というものから見捨てられた肉体 ~ 私の孤独な肉慾に応ずる無限の影絵であって欲しい ~ 私の肉慾も、あの海の暗いうねりにまかれたい』(雑な切り貼り)というような、役立たずの毒男がひとりでぶつぶつ呟きつつ空中をぐるぐる回ってやっぱり独りでどうしようもないわ、って片隅に追いやられていく、それを離れて見ているような感覚の絵で、サティのピアノの定点をぐるぐる陰険に回っていく虚無・無常の図にうまくはまる。

最初に客席側の階段を燕尾服で黒の傘をさした男がひとり静かに下りていって、ゆっくりとステージにあがり、ステージの奥には赤を纏った女性がひとり光を浴びるように立っていて、背景には淀んで曇った海(日本海?)、ステージ上の男は影がいくつかに分裂してそのいくつかが交互に静かに不穏に回りながら女性に絡みついていって、でも最後にはひとりにもどる。 海を抱きしめていたい、のだろうが言ってみただけ or うまく言語化できず - でどうあがいてもひとり… という静かに煩悶して崩れていく肉のさまが生々しく描かれていたような。

なんとなくPina Bauschの“Café Müller” (1978) - 音楽はPurcellだったが... を思い出してしまったのは、次のが「春の祭典」だったからだろうか。


改訂版 春の祭典

初演はコロナ禍にあった2020年で、ここからダンサーの人数を減らし(20数名→たしか12名)、舞台装置もよりシンプルなものになったそう。 照明も衣装もスリムな白系、小道具として、人数分の四角い椅子(デザイン:須長檀)が縦横斜めに置かれ、これらがダンサーたちによって組み合わされるとベッドにもバリケードにも要塞にもなって、有機的なところ無機的なところが絡み合い、2名の生贄を生んでしまう生々しいニンゲンたちの春のドラマが展開されていく。

私小説的だった「私は海を~」に比べるといきなりダイナミックな神話の世界に飛びこんでいくような明確な変化~ 個の虚しい呟きから集団の暴力・狂騒へ(黒→白)、があって、今回の「改訂」は前半部分からの流れのなかに置こうとすると必要だったのだろうな、と思われた。(それかあるいは、コロナ禍に要請されたものとポスト・コロナで要請されるもの、のちがい? とか)

ストラヴィンスキーなので、聴いているだけでそれなりに盛りあがることはできてしまう、という点を差っ引いてしまうと、割とふつうのモダンの群舞に見えてしまったのがやや残念だったかも。 海を抱きしめようとしたら嵐がきて落ちて溺れて死にそうになった、とかそんなめちゃくちゃに狂ったのを見たかったかも。

8.01.2026

[film] Sois belle et tais-toi! (1981)

7月26日、日曜日の午後、ル・シネマ 渋谷宮下の7Fで見ました。

英語題は”Be Pretty and Shut Up!”、邦題は『美しく、黙りなさい』(「黙りなさい」に赤の取り消し線)。

翌日の船便到着を前に、お片付けはよいのか? という声もあったが、『美しく、黙りなさい』って言われた。(美しくない)

制作から50年を記念しての劇場公開で、今後パッケージ化される予定はなく劇場上映と自主上映のみに限定されているそうなので、とにかく見に行くしかないのよ。

監督であるDelphine Seyrigが1976年に23名のフランス人、アメリカ人の女優、映画人たちに対して実施したインタビューをCarole Roussopoulosが撮影して、編集をCaroleとIoana Wiederがして、1981年に公開されている。

ボーヴォワール視聴覚センターとフランス国立図書館が主導して、2022年に修復~公開したもの、とのことで、でもどこかでなんか見た記憶が、と思ったら、2020年の初め、マドリードのMuseo Nacional Centro de Arte Reina Sofíaでの企画展 - ”Defiant Muses: Delphine Seyrig and the Feminist Video Collectives in France in the 1970s and 1980s”で7つのモニターを横並びにしたインスタレーション作品として流れていたことを思い出した。他には同じモニターでChantal Akermanの”Woman Sitting after Killing” (2001) - Jeanne Dielmanがあの後に座っているシーンを延々 – も流れていた。

質問はふたつ、「もしあなたが男性だったとしても、この職業(女優業)を選びましたか?」、「他の女優と友好的な場面を演じたことがありますか?」 - これは誘導のようなもので、最初の問いに対しては「いいえ、男性だったらもっといろんな選択肢があったはず」になるし、次の質問に対しては「いいえ、求められるのは常に男性とのインターアクションばかりだった」になることは容易に想像がつく。なぜなら我々が商業映画として接する殆どの映画は、「男優との間で」女優として輝く – その存在を最大化、最適化する形でその姿を表に出してくるものだったからで、この聞き方は動物園の動物にもし野生にいる別の動物だったら… って聞いているのと同じではないかと。

なので、殆どの女優が、それは面白い質問ね! と言ってから質問の答え以外のあんなことこんなことを嬉々としてとめどなく喋りまくるのがとにかくおもしろくて、でもそれらのおもしろい語りの背後に見える各自の業のようなものが固化していく「女性」という型の周辺に、あるいはこれに抗するかたちで立ちあがってくる何かが見えてくる。

あと、ここから、この50年で変わったこと、依然として変わっていないことについても考えないわけにはいかない。

あと、映画のなかで、Ellen Burstyn(..正確に覚えていない)だったかが語っていたEleanor Perryが夫のFrank Perryと作った映画 – ひとりの少女と4人の男が出てきて少女がレイプされてしまうやつ – って、2025年にBFIのFilm on Film Festivalで発掘上映された”Last Summer” (1969)のことだ! って少し自分内で盛りあがった。


Delphine et Carole, insoumuses (2019)

7月19日、日曜日の昼、日仏学院で見ました。

邦題は『デルフィーヌとキャロル』、タイトルを直訳すると『デルフィーヌとキャロル:反逆のミューズたち』、であり、”insoumuses”は、Caroleが立ち上げたビデオグループ “Les Insoumuses”にも繋がる。 68分の中編。

監督はCallisto Mc Nulty。 スイス生まれのCarole Roussopoulosが、1970年にJean Genetの勧めを受けて当時発売されたばかりのVideo Cameraを購入 – これを最初に買ったのはゴダール、次に彼女が、フランスの女性として初めて買った – して、Angera Davisのドキュメンタリーを制作、その後も人権擁護運動の様子をカメラに撮っていくなかで1976年にDelphine Seyrigと出会い、そこからは↑を含む女性の権利やフェミニズムをテーマにしたドキュメンタリー作品を沢山残した。 あと、↑を復元したボーヴォワール視聴覚センターもこれらの活動を通して彼女たちが設立したもの。

とにかく、デルフィーヌとキャロルのふたりが現地で、女性たちと一緒になって戦ったり議論したりしつつ記録していった70年代以降のデモの記録、TV討論の様子などが、げろげろになる点も含めてものすごくおもしろくて、↑にも書いたけど、この50年で変わったこと、変わらないことについて考えてしまう。

昨年、BFIで行われたLaura Mulveyの企画特集も、結構人が入っていたしすごくおもしろかったし、割とそういうとこに足を運んで見ているほうだと思うのだが、足元を見るとぜんぜん、なにひとつ変わっていないのでは… ってものすごく暗澹として、例えば、日本の映画女優にいま、”Sois belle et tais-toi!”の質問を投げたらどうなるだろうか? とか。

この国が得意としている「ガラパゴス」なのかもしれないが、ガラパゴス(の動物たち)だって環境に合わせて進化はしていくもので、これは適応する先を愚かなことに完全に誤ってどうにも動けなくなっているような…

でもとにかく、そういうのとは別に、見ていると不思議と明るくなれる映画だからー
渋谷宮下の特集上映でももうじきかかるらしいので、この機会にぜひ。