9.30.2026

[log] London そのた

ここまでで書いてきた以外の展覧会など。10月から始まるあれこれの谷間で、数はそんなになかった。

一番の誤算だったのはBritish Museumでの”The Bayeux Tapestry”で、メンバーでも時間ごとでの予約が必須だったこと。次の予約のオープン時にどうにかするのかしないのか…


James McNeill Whistler @ Tate Britain

9月21日、月曜日の午後、Tate Britainで見ました。チケットをいちいち買うのが面倒なのでTateはメンバーシップを更新してしまった。

アメリカで生まれてイギリスで活動したJames McNeill Whistler (1834-1903)の大規模回顧展。
アメリカ人がラファエル前派と日本美術とクールベを混ぜたら限りなく印象派ぽくなった、というのがこれまでの印象だったが、印象派以上に抽象的な色や形象の配置、そのありように注意を払いつつ日本画やウィーン世紀末の様式美に近づいていったのがわかるような展示。ラスキンが激怒したのはなんとなくわかる。鳥居清長とか屏風が展示されていたり、孔雀の間の再現もあったり、が、やはり”Nocturne”のシリーズ、アムステルダムの運河とか、暗くなった水辺のもやもやが染み出してくるような色の明滅がすばらしい。

あと、この人の東洋美術への傾倒は、印象派のそれ(上っ面の印象だけの)とはかなり違うのかも、と思った。


Frida: The Making of an Icon @ Tate Modern

Tate Britainから移動して見ました。Frida Kahloの絵画作品を並べていく、というよりも彼女自身が描いた自画像も含めて、そこから”Frida”というアイコンがグローバルでどんなふうに生成発展していったのか、という観点から他アーティストの作品も含めて並べているので、Frida Kahloの作品 - 彼女の静物画とか好きなのだが – に漬かりたい人はちょっとがっくりくるかも。フェミニズムの文脈でどんなふうに、はこれまでも結構見てきた気もするので。


Anish Kapoor @ Heyward Gallery

9月22日に見ました。インドに生まれて英国で活動してきた彫刻家のでっかいオブジェ、彫刻の展示。人気があるのかTime Slotごとの予約が必要で午前に行ったら午後のスロットしか取れない、と言われたのだが、昨年のメンバーシップがまだ残っているから、と言われて入れて貰った。
ここで展示された塩田千春の時と同様、でっかい塊りやミラーを使った彫刻をフロアいっぱいに並べて、まあでっかい、すごい、しかない。

2階に血に染まったでろでろの内臓がバットに入っているようなオブジェが沢山あって、この後で見た映画”Resident Evil”に出てきたのと見事に繋がった。バルコニーの倒立するミラーのオブジェも楽しかった。


Queen Elizabeth II : Her Life in Style @ The King’s Gallery

これも”The Bayeux Tapestry”と同様、時間ごとのチケットが売り切れてどうしようもなさそうだったが、22日、朝食を食べながらスマホをいじっていたら9時過ぎに12:15の回のが釣れた(もちろん正規の)。こういうこともある。

この展示の期間だけ、名前を昔のQueen’s Galleryに戻せばいいのに。
わたしは自称パンクのくせにこのおばあさんのことはなんか好き(でも現国王はきらい)で、昔の英国Vogueの戴冠式記念号とかも持っているので、この展示は見たかった。

エリザベス女王が着ていたドレス、帽子、靴、アクセサリー、カバンなどなど全部出し。手紙とかメモの類は低めの陳列棚にあって、高齢の女性たちがみなさんきちんと列を作って丁寧に見ている – これって結構珍しい光景。
やはり50年代のNorman HartnellやHardy Amiesらのドレス、それらを覆う細部の職人技がすばらしい。遠くから見ても近くに寄っても。
カタログは会場では買わずにピカデリーのHatchardsに行ってサイン入りのを買った。


Richard Dadd - Beyond Bedlam @ Royal Academy of Arts

Richard Dadd (1817-1886)はヴィクトリア朝の頃のイギリスの画家で、20歳でRoyal Academyの美術学校に入って優秀だったが、ギリシャ、トルコ、シリアをまわるエジプト遠征の途中で精神に異常をきたして、父親を殺して、フランスに逃げる途中で捕まってベスレム王立病院(通称Bedlam – タイトル)に収容されて、ここで約20年、別の病院に移送されて亡くなるまで約20年、今回展示されたような作品たちを描いた。異常になる前の作品も展示されていて、”Puck”や”Titania Sleeping”とか、妖精など(彼の描くやつが自分にとってのシェイクスピアの妖精)テーマ面の共通性はあるものの、入院前と後ではかなり変わって、9年かけて作成された”The Fairy Feller's Master-Stroke”(1855-64) - 「お伽の樵の入神の一撃」はすさまじい。水木しげるの陰惨なところとか。Queenの名盤“Queen II”でも歌われているので、聴いてみてほしい。


今回のNational GalleryはRenoirとVan Eyckという大規模展前ということで常設展示のみだったが、それでも30分くらいは浸かれる。見にいくところはだいたい同じだけど。

レコ屋はRough Trade Eastくらい。ろくなもんを買わず。
本屋はSouth BankのBFI前の青空屋台の古ペンギン(文庫)は、やはり相当買ってしまった。こういう屋台って新刊本ではないので、実にいろんなのがあって半年ぶりだと並んでいるのもがらりと変わっている。どの屋台で買っても久しぶりだねー、って値引きしてくれてうれしい。からって買うな。

新刊本だと、John Bergerの生誕100周年(Centenary)で出版された”Four Horizons, A Visit To Le Corbusier's Chapel At Ronchamp”。まだぜんぜん見れていないが。

分厚いのだと、先のQueen Elizabeth IIのカタログ、少し前までNational GalleryでやっていたZurbarán展の図録、ドイツのエッセンでやっているGustave Courbet展の図録、など。 帰りのスーツケースは久々に30kg超えた。

出発前はスケジュールをあれこれ詰めこみすぎで、ドミノになったらやばいかも、の懸念があったのだが思っていた以上にするする行けてしまった。これがクセになったら、そっちのほうがぜったいにやばい。

で、もう今年はあと3か月とか言うのか。ふざけ..

[film] Resident Evil (2026)

9月22日、火曜日の午後、Picturehouse Centralで見ました。

ロンドン滞在最後の日、できれば、なんでもいいから映画あといっぽん見たいかも、でも2時間を超えるのはきついししんどいかも、って思っていたらちょうど1時間半くらいのがあった。

この週末にはDaisy Edgar-Jonesが主演する”Sense and Sensibility” (2026)の新版が公開予定になっていて、映画館でもバスでもでかでかと宣伝されていて死ぬほど見たいのだが、日本公開はいつになることやら…

監督は”WEAPONS” (2025)のZach Creggerで、脚本は彼とShay Hattenの共同。
これがビデオゲーム起源であるとか日本だと「バイオハザード」になるとか、帰国してから知った(それぐらいこの世界に疎い)。ポスターのビジュアルは、あまりぱっとしない青年が必死で走っているの(少しブレた姿)を正面からとらえたやつ(もうひとつは、ドアの戸口の暗がりからクモみたいにヒトの手足がじょろじょろ)で、Milla Jovovichの立ち姿なんかとはかけ離れてるし、あんなホラーとは思わないじゃん。 BFIのIMAXでも上映しているし。

宅配業をやっているBryan (Austin Abrams)は、冒頭、電話で恋人と別れる別れないの話をねちねちしていて、深夜の病院で血まみれを見ただけでびくびくするような人なのだが、カウンターで緊急のプライオリティAで別の病院に運んでほしいものがある、報酬はずむから、と言われて軽く受けて、夜中の雪道を車で走っていくと、ふらっと道に出てきた女性を轢いてしまう。急ぎの荷物があるので放っておけばいいのにどうしても放っておけない彼は、近くの家に助けを求めに行ったり、彼女を警察に託したり、でもあまりに不気味で不可解なことが起こり続けるので、悲鳴をあげながら空き家の引き出しにあった猟銃を手にして、とにかく荷物を運ぶべく病院に向かおうとする。

基本は、そんなに律儀にちゃんと相手したりしてたら、そっちに行ったら絶対だめだよ、のホラー被害者の定番の道をまっすぐ歩んで、奥に進めば進むほどありえないの – いろんな複数の胴体同士が連結されて団子になって転がっていくの – が現れたりで殺されそうに/死にそうになる。ドラマとしては、主人公のなかにヒーロー的な何かが覚醒して、Milla Jovovichだったら戦うヒロインになるのかもしれないが、ここのBryanは最後まで逃げ… 続けられるのか。

主人公の頼もしさゼロの愚直な真面目さが(だけ)、がおもしろいところ - カメラは敵として襲いかかってくる化け物やその背後にいそうな邪悪なあれこれより、それらにいちいち震えあがりながらやけくそで立ち向かって乗りきっていく哀れなBryanが見所で、肝心の恐怖の正体や出処はよくわからない。

クライマックスは既に何かにやられて地雷原のように荒れ放題の街の中心にある高層ビルで、生存者がいるかんじではないのだが、やっぱりあれこれ出てきて襲われて地下の駐車場のインターホンから(階段を使って)上に来い、って言われて…

建物の奥で人知れずに駆動している不穏ななにかがある、というのは”WEAPONS”にもあった描写で、正体はわからないまま、それらがだんだん近づいてくる(or 気がついたら近くに)、というシンプルな物理ホラー(神経はそんなに関係なし)で、現れるのはヒトというより、変態した果ての妖怪みたいなやつばかりなので、そんな怖くない。

あと、最後はちょっと意外だったかも。あんなふうにしちゃうんだ… って。

9.29.2026

[theatre] The Standard of Living

9月22日、火曜日の晩、Theatre Royal Haymarketで見ました。

オープン2日目で、これは日本でチケットを取っていた。もうひとつの候補としてやはりオープンしたばかりの、Noël Cowardの”Hay Fever” - 主演はRichard E. Grant – があって、どちらにするか悩ましかったのだが、Bloomsbury Groupが出てくるというのと、前日に見た”Virginia Woolf”とも繋がるのでこっちにする。

原作はJames Graham(新作)、演出はNicholas Hytner、イギリスのマクロ経済学の礎を築いたケインズ - John Maynard Keynes (Rory Kinnear)の1917年から1946年に亡くなるまでを、彼の愛人であったDuncan Grant (Thomas Flynn)と、42歳の彼と結婚することになるディアギレフのBallets RussesのバレリーナLydia Lopokova (Natalia Osipova)、学問上のライバルだったFriedrich Hayekらとの関係のなかに描く。

舞台上にはちょっとVanessa Bell作品の色味を思わせる四角が描かれた縦長の布が間隔を置いて下がっていて、モダンダンスの舞台セットのようにも見える。

そこにスーツ姿のKeynesがひとり立って、「よく生きる」とはどういうことかを考えてみたい、というようなことを語り、戦前の財政難の時期、彼がどんな人々と出会い、どう生きて、どんなふうに彼の経済学を打ちたてていったのか、等について。

マクロ経済学でも経済学でも、これまでまったく学んでこなかったのだが、彼がWhite Hallとの間で行き来していたロンドンから南に下ったCharleston - Bloomsbury Groupの拠点 - は大好きな場所で、今回も行きたかった(いま、Quentin Bellの企画展をやっている)のだが、ちょっと遠い。Vanessa Bellの家族や彼女のパートナーだったDuncan Grantが暮らしていたこの家には、Keynesの部屋(書斎)もあって、窓が大きな2階の見晴らしのよい場所なのだが、なんで経済学の人がここにいるの? はずっとよくわからなかった。

もともとKeynesは同性愛者でDuncan Grantと関係があったが、やがてLydia Lopokovaと知り合って結婚した。Duncan GrantはVanessa Bell(既婚)の愛人でもあったので、それでCharlestonにやってくるのだが、自由奔放なLydiaの登場はここのサークル - 舞台に登場するのはVirginia Woolf、Vanessa Bell、 Lytton Strachey、Dora Carringtonなど – 彼らも十分に変人だと思うが - を戸惑わせたりもする。

経済を安定させるためには政府の介入が不可欠であり、市場が自然に均衡するのを待つのではなく、経済不況時には政府が支出すべき – というKeynesの主張はHayek (Laurie Kynaston)が唱える、不景気は経済の膿が溜まって不健康になっている状態なので、ここで政府がお金を出して援助するとダメな会社まで生き残って市場経済が壊れていくので、政府は介入すべきではない、という主張 – こんなかんじでよいの? - と正面からぶつかって、いろんなところで波風を起こしていくのだが、彼自身は(体調は悪くなっていくものの)悠然としている。

時代背景、Keynesのクィアネスとその愛のありよう、学業/政策のあれこれ、生活におけるアート、など、彼の「よく生きる」を見据えたテーマは多岐多彩にばらけて、ところどころLydiaのバレエ - Natalia OsipovaはRoyal Balletの現Principalだし – がなだれこんできたり、これまで見てきたJames Grahamの過去作 - ”Dear England” (2023)や”Punch” (2024)と比べれば、たたみ掛けてくる勢いがなくて、やや散漫でとっ散らかったものに見えてしまうのかもしれない。

他方で、よりよく、豊かな生活を、と言った時に怒涛のなんかはそんなには必要ではなく、あれこれ顰蹙を買いまくりだったかもしれないけど、CharlestonでVanessa Bellたちが家具や調度を好きなように塗ったり壁に絵を描いたり、読書したり議論したり、の生活の方に目が向いて、ここで思い浮かべるのはCalvin TomkinsがGerald & Sara Murphyについて書いた”Living Well Is the Best Revenge” (1971) - 『優雅な生活が最高の復讐である』 のことで、Keynesが実現しようとしたこと、Charlestonでの暮らしについては、「優雅な生活」と言ってもよいのかも、と思ったり。彼はそれを中央で経済政策を考えたり議論したりしながらやっていったわけで、そこまで行くのは難しいだろうけど、”The Standard of Living”とは、そもそもなんなのか?これらを振り返るのだとしたら、いまなのではないか? とか。

終わってNational Galleryの前を抜けながら、あーあ官民の恣意的かつ傲慢な操作で完全に”Standard”の在処を失ってしまったバカで腐った国に明日は… ってしょんぼりホテルに向かったのだった。

ロンドンでの演劇はこれでおわり。

9.28.2026

[theatre] Who’s Afraid of Virginia Woolf?

9月21日、月曜日の晩、West Endの@sohoplaceで見ました。
この日が初日で、最初からぜんぜんチケット取れなかったのだが、渡英直前にどうにか取れた。

原作はEdward Albeeの同名戯曲 (1962) - 1966年にMike Nichols/ Elizabeth Taylor/ Richard Burtonにより映画化もされている。 今回の演出はMarianne Elliott。公演時間は休憩1回を入れて3時間10分くらい(Act1で約2時間、Act2 & 3で約1時間)。
 
この劇場は舞台が円形で客が取り囲んで - 1階席だと家政婦が見るような位置から見守る形式、ミッドセンチュリーのゆったりモダンな家具、レコードプレーヤー、バーカウンタ、本棚にソファ、流れているのは当然ラウンジジャズ。Act1の後、Act2では家具などの配置が180度変わっていて、Act3では、ものすごくゆっくりと床が回転していることがわかる。
 
開演前、客席の向かい側に誰がどうみてもJudi Denchさま(と隣にいたのは誰?)が姿を現し、周囲がざわざわしだす。そりゃ初日だもの。
 
大学で歴史学を教えている初老のGeorge (Billy Crudup)とMartha (Gillian Anderson)の夫婦が夜中の2時にぐでんぐでんのご機嫌状態でなだれ込むように帰宅して、それぞれバカなことを言ったりやったりしていると玄関のベルが鳴って、新任で生物学を教えるNick (Josh Dylan)と新妻のHoney (Phoebe Horn)のふたりが、さっきの会で誘われたので来ました、って。もう夜遅いし悪いし、と遠慮がちなふたりに対して、酔っぱらってサディスティックな方にスイッチが入ってしまったGeorgeとMarthaは飛んで火にいるウブなふたりを餌食にすべく容赦なく襲いかかるのだが。
 
基本は社会的にも優位な位置に立つGeorgeたち夫婦が結婚して間もないのでいろいろ努力したり苦労したりしていそうなNickとHoneyを夫婦のこととか仕事のことなどについておもしろおかしく、そのうちこんなんなっちゃうんだぞ、って自虐もこめて脅したり吹かしたり、その反応を見て楽しむ - 日本社会にもよくある – あれだと思うのだが、若いふたりに向かったそれらのネタが、自分たちの方に、ネタによっては数倍でっかいブーメランになって返ってきて、酔いもあるのでその打突のインパクトも倍以上、どういうことだよこれ? ってわめきだしたり。
 
「ヴァージニアウルフなんてこわくない!」って童歌のように振りをつけて歌うことで、おもしろおかしく茶化していたネタのいくつかが、彼らがシリアスに秘密にしていた「息子」にまで及んだことで、隠されていた穴に落ちて戻れなくなってしまうGeorgeと、そうなることなんてわかっていただろうがー、のMarthaと。
 
Martha役のGillian Andersonは思っていた通りの強さとしなやかさで酷くやられたかに見えても立ちあがって薄ら笑いを浮かべて反撃し、George役のBilly Crudupはインテリ風のメガネをかけ、動きは今にも一線を越えてしまいそうなDavid Byrne(”Burning Down the House”)か”Falling Down” (1993)でブチ切れてしまうMichael Douglas(になる手前)のようにも見える。リングサイドで見た限りでは、Gillianやや優勢、でもBillyは不気味にまだなにかありそう.. といったかんじ。 そして若いふたりも若さゆえの無知を前に出して簡単には引き下がらないで蘇って… というアンサンブルがスリリングで3時間あっという間だったことは確か。
 
これ、コンプラやハラスメントが今ほど言われるようになる前、それに伴うトラウマや乗り越えるべき壁がはっきりとあり、これらにぶち当たったり克服したりすることがある種の「成長」と見做されたり、これらを(タイトルのような)呪文を唱えて乗り切っちゃえ、の暗黒時代の話ではあるので、冷静に振り返るとなんで酔っぱらっているとは言えこんな怖いことになっちゃってるの? はあるかも。(Production TeamにはちゃんとMovement & Intimacy Directorがいる)
 
それにしても3日前に見た映画”Teenage Sex and Death at Camp Miasma” (2026)に続いてGillian Andersonはすさまじく、著書も2年前の”Want”に続く最新刊”More”が書店に並んでいて絶好調なのかも。

そして、見た目は朗らか爽やかで賢そうながら、ねちねちどす黒く変容していく - 最近の腐れた日本の首長がそうであるような - Billy Crudupもはっきり今を体現する人としてそこにいるのだった。

[log] Glasgow - Sept. 20

9月20日、日曜日から月曜日の朝にかけて、スコットランドのグラスゴーに行った。
いちおうSaint Etienneのファイナル・ツアーに合わせてThe Pastelsを見る、という目的なのだがそれだけではない。

これまで自分が聴いてきた音楽のうまれた土地に向かって旅をする、というのを地味にずっとやっていて、なのでNYとロンドンで暮らせたのをよいことに90年代にはアイルランドに行って、ジャマイカに行って、リオに行ってサルバドールに行ってブエノスアイレスに行って、ヨーロッパ各地各国は音楽というよりそれぞれが楽器のようだわ、って思って、でもイギリスの地方都市はぜんぜん行けてなくて、マンチェスターもシェフィールドもリバプールもまだ。これから。

ただグラスゴーの音、というのに明確なローカル色や土地の特徴があるかというとそんなでもない気がしていて、いつも思い浮かべるのはスコットランドのハイランド・カウのもしゃもしゃの輪郭とか、Postcard Records (The Glasgow School)の太鼓を叩く猫の絵だったり、視覚的にこんなかんじの、って思ったり。

最初は朝早くに電車で行こうと思っていたのだが、この日曜の午前は北方に電車が走っていないようで仕方なく飛行機にした。10時くらいにGatwickから飛び立って昼くらいに着く便で、空港からはバスであっという間。

そんなに観光している時間もないので、とりあえず大聖堂に行って、その向こうの高台にかっこよく見えたThe Glasgow Necropolis(お墓)を散策する - William Millerのお墓などがあった。

そのまま歩いて聖地のひとつ、The PastelsのMonorail Musicに向かう。入り口にカフェ/食堂があって、奥にレコード屋。Jack WhiteのThird Man Recordsのポップアップが入っていていつもと違ったかも知れないが、地元のよいレコード屋の典型のようなとこだった(今回は買わず)。 食堂ではMac & Cheeseをたべた。おいしい。

日曜の午後のグラスゴーの街中は、通り沿いに開け放たれたパブから酔っぱらったようなバンドの演奏とかそれと一緒に歌う酔っ払いの歌声とかところどころわんわん響いてきて、日曜からご機嫌だねえ、なのだが、それがお祭りではなく常態化している殺伐とした様がよくて、あと、たまたまではあるが、デリで盗みをして逃げようと走りだした青年のところにパトカーが現れて追っかける、という映画みたいなシーンまで目撃した日曜の午後。

もうひとつの聖地は、Postcard Records “The Glasgow School” - のオフィスがあった場所、だったのだが、ふつうの住宅街のなかにあるだけ、のようだったので諦める。

そしてもうひとつの聖地が、この晩のライブがあるヴェニュー、Barrowland Ballroomで、きらきらのネオンサインが華やかなんだかもの哀しいのか微妙な大看板のついたワンダーランド風のライブハウスで、NYの”Roseland”や”Bowery”と同様、Ballroomがつく小屋には伝説がおりてくることになっている。こんなところでThe Smithsの”Meat is Murder”のツアーにぶつかったら即死だろうなー。 今後のスケジュールには、Friends Againの告知などが貼ってあって二度見したり。

こうして20:00からThe Pastelsのライブを見る。バンドはホーンも含む6人編成で、ゆったり茫洋に、”Check My Heart”とかJamの”Something’s Gone”とか、思っていた通りの不穏なパステルたちでたまんなかった。たぶん10年後も同じタッチで画布に擦りつけているにちがいない、と。

Saint Etienneはキーボード2人が後ろの高台、まんなかにSarah Cracknell、ドラムスはRideのLoz Colbert、ギター/ベースがひとり、バックヴォーカルはThe Dolly MixtureのDebsey Wykesで、物販に彼女の本”Teenage Daydream: We Are the Girls Who Play in a Band”のペーパーバック(サイン入り)があったので買ってしまった。出版された時のおまけ&サイン入りハードカバーも持っているのに。

Saint Etienneのライブはたぶんはじめてで、背後のスクリーンのヴィジュアル – たぶん20年くらい前のカラフルなかんじ - がどれも素敵で、デジタルの音のみっしり度合いもそんな最新のバチバチくるやつではなくて年寄りにやさしく、みんな気持ちよさそうに踊っていて、特に終わりのほうの”Only Love Can Break Your Heart”から先は温度が上がって、みんなが笑顔ではねていて楽しかった。 「またフェスとかで再結成はするかもねー」って軽く言っていたので、またやることでしょう。

帰りはホテルまでバスにしたのだが、地図が示したのと違うルートを走っていると思ったら故障していたらしく、途中でバスごと別のに移るように指示されて、ああこのままどこかに… って暗く(どうでもよく)なったが大丈夫だった。

翌朝、8:55発のフライトで戻るべく空港に行ったら、管制トラブルとかで飛ばないまま待たされる。一時はWebでロンドン到着16:00以降とか表示されて、これじゃこの日の予定ぜんぶ消えるので、祈る思いで町に戻って電車で向かう検討も始めたのだが、1時間半の遅延で済んだ – それでも映画1本分なのでじゅうぶん痛い – のはよかったかも。


また行きたいなー。

[film] Pulp: What Do You Do for an Encore? (2026)

9月19日、土曜日の夜中、22:40からBFI IMAXで見ました。たぶんこの日この1回きりの上映。

OASISのライブフィルムもまだやっているようだったが、そんなのよかこっちだろう、って。製作・配給はMUBIなので、もう配信で見れるのだろうか。 監督はアニメーション”Sing” (2016) などのGarth Jennings。

マチネで見た”Man to Man”に続けてこの日の晩も演劇を狙って、その後でこれを見に移動するつもりだった。候補はふたつ、Josh O'Connor主演の”Golden Boy”かMark Rylance 主演の”Tartuffe (Remixed)”か、だったのだが、オンラインで座席に一瞬の空きが出たタイミングは確認できたものの移動中だったりして(ロンドンの一部地下鉄ではいまだに通信が)うまく繋がらないままどちらもダメになって、仕方がないので、BFI Southbankで18:40くらいからClaude Chabrolの – BFIでもChabrol特集をやっている - ”L'Œil du malin” (1962) – “The Third Lover”を見て、22時過ぎにIMAXの方に移動した。

Pulpの2025年のツアーのロンドンO2アリーナでのライブ映像を中心に、バンドヒストリーを網羅したもの。バンドは2024年の再起動の際に愛に溢れた分厚い歴史本も出していたし、こういうのまで追っかけて見たいPulpのファンであれば全て知っているようなことだらけだろうし、と思ったらやはり客席はそんなに埋まっていなかった。予告でかかった”George Michael: The Faith Tour”にみんな立ちあがって熱狂していた。

ライブで披露されていく代表曲の合間にいろんな過去のエピソードや映像、インタビューが挟まっていく構成の98分で、最初の方で紹介された結成前のJarvisの”MASTERPLAN”が楽しい。髪の毛はIan McCulloch、顎はHugh Cornwell、眼鏡はElvis Costelloを目指す(しかない)、だって。

わたしはPulpのそんなによい聴き手だったわけではなくて、Britpopの流れのなかで出てきたバンドのひとつ、くらいに軽く見ていたのだがバンド結成は1978年のシェフィールド… ということは、おおCabaret VoltaireとHuman Leagueと同期(CabsとHLの間)なのかー、とあの妙に下世話にこてこて作り込んだ - あえて100%から外す - かんじに納得して、そしたらこの映画の彼の言葉や振る舞いあれこれがいちいち腑に落ちてたまんなくなって、O2のライブも少し無理して行けばよかったかな、って。前年のバルセロナのPrimaveraのステージ - あれはすばらしかった - で思い知ったからよいか、って思ってしまったのばか。

後半はライブ映像の比重が増して、2023年に亡くなったベーシストSteve Mackeyへの追悼と、これから.. みたいなことも語られるのだが、思春期のこと、大人になっても続いていくもやもや、知らない向こう側のこと、いわゆるアートと社会のこと、イギリスの社会で生きる - 危なっかしく、でもどうにか渡るようにやっていくこと、そんなみんなCommon Peopleへの思いがぐじゃぐじゃのダンゴで固まって転がっていく - 編集が面倒で結果的にそうなっただけなのかもだが、なんておもしろく唯一無二のバンドなのでしょう、と唸らないわけにはいかず、そこまで来てから”What Do You Do for an Encore?”って尋ねられるの。そんなの「最初からやり直し! 校庭10周!」しかないよね。

終わったら当然地下鉄はきれいに終わっていて、雨も降っていて、バスを乗り継いで帰った。じっとりした雨のなか深夜に乗り継ぐバスから見えるロンドンの景色もまた懐かしくてー。

9.25.2026

[theatre] Man to Man

9月19日、土曜日のマチネを、Royal Court Theatreの地下のシアターで見ました。

原作はManfred Kargeによる戯曲で、ドイツ語の原題は”Jacke wie Hose” – 「上着だろうとズボンだろうと(どちらもおなじ)」。Tilda Swintonによる一人芝居。演出(+英語翻案)はStephen Unwin。休憩なしの1時間25分。

そんなに大きなシアターではないので、チケットは最初からぜんぜん取れなくて、ほぼ諦めかけていた公演の2日くらい前、いきなり前から3列目が取れた。これでCate Blanchettに続けてTilda Swintonまで見ることができて今年の運はぜんぶ使い果たしたかも、になった。

ドイツでの初演は1982年、それを彼女が最初に演じたのは1987年のエジンバラのフェスティバル、その後、ここRoyal Courtで上演されて、今回のが39年ぶりの再演となる。その間、これを映像に残したい、と1992年にJohn Maybury監督 - Derek Jarman繋がり - Tilda Swinton主演により映画化もされている。

忘れもしない2020年の初め頃、BFIでTilda Swintonの特集上映があって、彼女が毎日挨拶にやってくるので毎日のように通っていたのだが、コロナのパンデミックでロンドンの美術館や劇場、映画館が一斉にクローズしたのが3月17日から18日にかけて。 この映画版の上映があったのは3月16日、映画館通いもTildaさまを拝むのもここから暫くできなくなったのだった。

この時は彼女の初期の主演作”Caprice” (1986)との併映で、ロックダウンで来れなくなったJohn Mayburyの替わりに、”Caprice”の監督のJoanna Hoggがゲストで登場して、学生の頃からずっと一緒にやってきたふたりの漫才のような会話がものすごく楽しかったことを思い出す。

1930年代、ナチスの台頭により(その前から)不穏で物騒になってきた東ドイツの町、ぼろそうな電化製品や家具、生活のいろんなものが散らばっているのが明るく照らしだされてゴミ屋敷手前くらいになっている部屋の真ん中にElla Gericke (Tilda Swinton)が短パン、網々のランニングシャツ一丁、髪はぼうぼうに逆立って顔半分に白ペイント(数日前のCate Blanchettも白塗り仕様だった。なにこれ)、の鬼婆のように仁王立ちして、客席の方を睨んですごい勢いで喋りだす。これだけだと威勢のよい貧乏パンクスのように見えなくもない。彼女は夫のMaxを病気で失い、でも生きていくために彼のクレーン・オペレーターとしての仕事を引き継いで、男として生きていかなければならない。

彼女には悲嘆している余裕なんてなくて、男として働く(=生き残る)ために言葉遣いや態度はもちろん、パンツの下に詰め物をして女であることがばれないようにしたり、これらがどんなに愚かしくてばっからしいことか、などを室内の冷蔵庫からいろんな食べ物を引っ張り出して齧ったり、ケチャップの瓶を振り回したりしながら嘲り、怒り、目に留まる端からぶちまけていく。女性が男性になろうとする話ではない、はじめから男性として認知された男性が男性として機能しないとやっていけない、そんな社会のふざけたさまを呪い続けて止まらない。

Swintonの初演時に全26シーンで構成されていた劇は2015年の再演時にベルリンの壁崩壊を材にしたテーマが追加され、今回あらたにナチズムの再興というテーマが追加され28シーンとなった - 劇を見ている間はそれぞれのシーンが圧巻、というか彼女を見ているだけでおもしろくて – おもしろがってはいけないのだろうが - あっという間に終わってしまう。28曲を1時間半で突っ走るギグ。

Tilda Swintonという女優のキャリアを見たとき、ハリウッドの超大作からB級からアート系まで、社会の除け者、異物、消えゆくものに対する目線(いろいろ)、というのは常に一貫してあって、そこではジェンダー、国家や階層、イデオロギー、がどのような形であれ俎上にあげられて、この劇作は、ドイツだろうが30年代だろうが関係ない、むしろ、だからこそライフワークのように取り組んでいるのだろうな、と思った。

しかしこれを昼と夜2回公演って、体力的にすごいな。

[film] Teenage Sex and Death at Camp Miasma (2026)

9月18日、金曜日の昼、CurzonのSohoで見ました。平日の昼間なので客席には数名しか。

作・監督は”I Saw the TV Glow”(2024)のJane Shoenbrun - この人(sheではなくthey/them)はいま出ているSight and Sound誌の表紙 - ちなみに先月号の表紙はChristopher Nolan – になっていたので、すごいかも、と。公開は先月だったので大きいスクリーンでの上映はなくなっていたが、公開直後はBFI IMAXでの上映もあったらしい。 タイトルから成人映画指定かと思ったがR15だった。実際そんな怖くなかったからだいじょうぶ – というかふつうのティーンホラーを期待していくと頭にくるかも。

”I Saw the TV Glow”でカルト的な人気を博したテレビ番組シリーズを題材に、それに決定的な影響を受けた(かつての)子供たちの生態、「成長」を追ったように、ここでは(あまり詳しくないのだが)『13日の金曜日』や『ハロウィン』や『エルム街』など、80年代のスラッシャー映画の伝説に連なる”Camp Miasma”のシリーズを置いて、防火服を着て頭に天井の通気口カバーを仮面のように被ったトランスジェンダーの殺人鬼”Little Death”が湖の底から現れて湖畔のキャンプでいちゃいちゃしている若者たちを槍で串刺しにしたり腕や首を切断したりしていて、爆発的な人気を得てシリーズ化されるものの、(よくある話)みるみる失速していった様子が冒頭で描かれて、かつてティーンとしてこの作品に浸っていたインディー系の映画監督Kris (Hannah Einbinder)のところに、同シリーズのリブート企画としてOrigin Storyを描く、という依頼が舞い込んで、舞いあがって伝説の撮影現場に向かうことになる。

その場所はGPS圏からも微妙に外れた、でも映画シリーズを何度も見てきたKrisにとっては間違いなく約束の地としか思えないような場所で、そこで彼女は第一作のFinal Girlで、同作出演後に映画界から引退して彼女自身が伝説となっているBilly Presley (Gillian Anderson)に会いに行く – 彼女は第一作の撮影現場のすぐそばの山荘に、”What Ever Happened to Baby Jane?” (1962)のBette Davisのように謎めいた振る舞いで籠って、ひとりジャンクフード(KFC)とアメリカン駄菓子にまみれて暮らしていた...

Krisはそんな彼女に自分がティーンの頃にこの映画からどれほどの影響を受けたのか、この映画の起源と成り立ちを掘りさげていくことが自分にとってどれだけ重要なことなのかを語って、それを横で聞いていくBillyはわかっているのかわかっていないのか、Krisを挑発するような怪しげな行動 – 不愛想だが嫌われてはいないらしい - をとって、そんなふうに近寄っていくと湖水の奥からLittle Deathが…

幼い頃の自分に決定的な影響を与えた映画なり文学なりを掘り下げていくことに伴う痛み、幼年期の終わり、いくつかの死、それらを打ち棄てられた対象 - 生きているものであれ死んでいるものであれ - のなかに見て語っていくことで蘇ってくるなにかって、なんなのか。 ”I Saw the TV Glow”ではそのメディウムとして古いブラウン管TVが置かれていたが、ここではBillyの家にある古い映写室がそういうのが湧きだす場所・洞窟として機能していて、それよりもなによりも山姥のようなBilly - Gillian Andersonがすばらしいの。

ある文化と共に育つ、それに没入していくことで自身の世界(観)を形づくること、それによって周囲との段差や痛みが広がったとしても – ふつうにでる – その痛みの正体をここまでメタ・ホラーのような形で映像化したこと、それがFinal Girl – ぼろぼろになりながらも生き残った最後のひとりとの対峙を通して現れてくることなど、ちょっと感動してしまった。

あと、思春期の呪い、世界なんて終わってしまえ、という祈りを描く、という点ではRichard Kellyからの連なりも。

9.24.2026

[thatre] A Month in the Country

9月18日、金曜日の晩、Donmar Warehouse で見ました。

チケットはこっちに来てから複数の舞台(どれも既に売り切れている)の状態を時間をあけてチェックしつつ諦めたり絞りこんだり、の繰り返しのなか、これは前日の晩に飛び降りるようにして取った。Donmarでやる演目はだいたい外れないから。

原作はツルゲーネフの戯曲(1855/1872)、翻案はBrian Friel、演出はLyndsey Turnerand。

舞台の上にはでっかい水槽のようにガラスで囲われた箱 - 家? があり、その内側は樹が生い茂っているのか葉っぱがびっしり覆って奥に光はありそうだがうちがはまったく見えなくて、客電が落ちてそのガラス檻が上にあがる直前、主人公の主婦Natalya (Sophie Okonedo) が苦しそうに水槽のガラスに顔を押し当てるのが一瞬見える。

17歳の養女Vera (Rachelle Diedericks)の家庭教師として住み込みでやってきた純朴な好青年 Aleksey (Patrick Gibson) と、その反対にある田舎の、田舎としか言いようのない周囲の言葉や態度にうんざり飽き飽き窒息しそうになっているNatalyaの、誰がみても人のよい - 実際悪いところが見当たらない夫Arkady (Thomas Arnold)との生活に不足不満があるわけでもなく、カード遊びばかりしている姑Anna (Susan Brown)がうっとおしくて嫌で、というわけでもないのに、自分でもなんでそんなことを、の行動や言動が飛びだして、自分はあんなにも若いAleksey を好きになってしまったどうしよう… の顛末、その表情を追っていく。 使用人たちも含めた人物の配置や彼らの珍妙な会話や行動がところどころ絶妙におかしくて、そういうショートコントの重ね合わせのなかから、なんで自分はこんなところで… の焦りと苛立ちが搾りだされ、どこかから降ってきたようなAlekseyへの思いに対する戸惑いがあり、Alekseyもまじめにそれを打ち返してくるもんだからメロドラマの渦がまわりだす。

ちゃぶ台がひっくり返されたり、誰かが刺されたり自殺したり、のおおごとはなくて、建て付けはちょっと疲れているどこにでもいそうな大家族の中間層である主婦の日常を貫いた - 半ば妄想も込みの脱出願望 or 破壊衝動を起点としたクラシックで切ない恋のお話しなのだが、夫Arkadyとのそれまで見えなかったような段差とか、どちら側も恋仇になるなんて思いもしなかったVeraとの衝突とか、なんで? これが? 自分に? おこる? という幾重もの惑いのなかで、ところどころコミカルだったりほろ苦かったりのなんか切ない、という思い。これが19世紀半ばのロシアの演劇界にもたらした波紋 - 数ヶ月間上演できなかった - とか、この後に登場するチェーホフに与えたであろう影響はよくわかる。いま見てもこんなにもおもしろいのだし。

真ん中ですべてをきりきりと仕切っていくNatalya役のSophie Okonedoの表情 - 基本は鉄の無表情で、苦々しいなにかをとにかく飲みこんで吹っ切ってタスクをこなそうとする強さがところどころ何かとせめぎ合って、それが続いていくのでもうなんでもいいや、って疲れていく彼女の存在感がすばらしいの。成瀬の映画に必ずでてきそうな女性たち← 雑すぎ。

こういう題材の映画、昔から好きではあるのだが、演劇の舞台で演じられるとライブ感がたまらないなあ、と思った。床をどんどんどつきながら「ストーリーを!」とか吠えるようなのとは別の。

今回の滞在は、前に住んでいたフラットと同じ駅のところにしたのだが、劇が終わって劇場から帰るのにあまりにすたすたふつうに歩いて帰れてしまい、もう少し懐かしがるべきではないか、と少し反省したり。

[theatre] Electra / Persona

9月17日の木曜日から夏休みを取ってイギリスに行って、24日、木曜日の朝に戻ってきた。
6日間で演劇5本、映画4本、ライブ1本、美術館いっぱい。疲れて放心状態だが置いておくと端から消えていってしまうので書けるのから書いていきたい。

始まりはまだイギリスにいた頃で帰国が決まっていたんだかいなかったんだか、St. Etienneのフェアウェル・ツアーが発表されて、グラスゴーのライブのサポートがThe Pastelsだったので、グラスゴー行ってなかったしPastelsも見てなかったなー、と軽い気持ちでチケットを取って、その後に帰国が決まって、ちょうど日本はこの時連休だから休暇で戻ってくればよいのではないか、って円安がひどくなりそうだったので飛行機も押さえて、そしたらNational Theatreの演目でこれが発表になったのでついでに押さえて、身動き取れない状態に追い込んでいったのだが、そんなのではまだまだ甘かったことを後でしる。

(同じようにチケットを取ってしまっていて諦めざるを得ないやつに10月のCabaret Voltaire とかもあるの)

決めてからもグラスゴーはライブが終わった後に日帰りできるわけないので現地の宿を確保して、電車で行けると思っていたらその日曜日には電車がないので飛行機を手配することになり、そういうのが好きで得意な人ではないので、これはなんかの呪いだ、とかぶつぶつ言っているともう当日になっている。

飛行機がヒースローに着陸したのが17日の15:30、地下鉄を乗りついでホテルに入ったのが17:30、身支度整えて地下鉄でNational Theatreに向かって着いたのが18:10 - ここの本屋にはおもしろいのがいろいろあるのでざーっと見て買って、席についたのが、18:25。 開演は18:30、休憩なしで2時間。 飛行機が30分遅れたらアウトだった…

舞台は白木の段々が上に伸びていく様式で、真ん中にキラキラ輝くハンマー(ふつうのサイズの)が置いてある。

翻案・演出はBenedict Andrews。主演はCate BlanchettとNina Hoss。二本立て?で、”Electra”は演劇の定番 - ソフォクレスの悲劇、”Persona”はIngmar Bergmanの1966年の映画で、”Electra”を舞台で上演していて突然喋れなくなってしまった女優Elisabethと彼女を看る看護婦のAlmaのお話。古代劇と現代(心理)劇はどこでどんなふうに接続しうるのか、だけでなく、劇のありよう(古代と現代、映画と演劇)の対称性も視野に入ってきて、風呂敷はややでっかいかも。

開演時間になると最前列に座っていたCateとNinaが立ち上がって客席の方を向き、コイントスでどっちがどっちを演じるか決める、と。結果、この晩はElectra / ElizabethをNina Hossが、Electraの母Clytemnestra / Alma をCate Blanchettが演じることになった。(この配役がものすごくはまっていたので、最初から決まっているのでは、逆の組み合わせなんて用意されていないのでは、と少しだけ)

階段ステージに上がる時はシンプルな黒のシャツとジャージ姿で、どの登場人物も舞台の下に置いてあるバケツの白い顔料を自分の顔に塗りたくってから階段のステージを上がって、Electraは真ん中に置いてあるハンマーを手にすると、それを振り回しながら父の死に対する、そして父Agamemnonを殺した高慢な母Clytemnestraに対する怒りをぶちまけ続けて、母は貫禄でのろのろかわし続けて、そこに無垢な妹のChrysothemis (Ella Lily Hyland)が絡んで。

ふたつの劇の合間 - 本来休憩が入りそうなところは、掃除する人たちが殺されたAegisthus (Patrick Robinson)の血をモップでぬぐったり階段を掃除して、女優たちは階段のところどころで勝手に座ってメイクをし直して、何事もなかったかのように次の”Persona”が始まる。

“Electra”で怒りと共にあらゆる言葉をぶちまけ当たり散らしていたElectraはElisabethとなって沈黙と自閉のなかにあり、それを看護するAlmaは、先ほどの邪悪な役柄から離れて一見穏やかで優しく、そうしながらライブカメラ(映像はモノクロ)を持ち出して降りてきた小スクリーンに客席の我々の顔、彼女の、自分たちふたりの顔を投影していって、映画の浜辺の場面は舞台裏に消えたふたり、として表現される。

ベルイマンの映画にあったようなふたつの自我の融合 〜 ペルソナへの回帰(らしきもの)はここでも起こるのだが、映画のように強烈な印象を与えることはない。Electra を演じていたElizabethはなぜ沈黙のなかに籠ってしまったのか? なぜライブカメラなのか? Almaのやったことによって、なぜElizabethは治ったと言えるのか、これらの問いに明確な答えが用意されることはない。

これは演劇であり、演劇は舞台の上で、ライブで起こるイベントである、ということを明確に意識し、そこから始まってテーマ(問い)を置いていくというやり方。なので、なんとなくそうなのかも、くらいの答えを自分で見つけるしかないかも。ベルイマンの映画を見ていない人にはどう映るのだろう、とか。

ただ、ふたりの女優 - Cate BlanchettとNina Hoss - がライブでぶつかりあう演技、その迫力はすばらしかったのでそれだけでもー。

9.16.2026

[film] Mirakelet i Gullspång (2023)

9月10日、木曜日の晩、シネマート新宿で見ました。

ドキュメンタリーで、英語題は”The Gullspång Miracle”、邦題は『グルスポングの奇跡』。
作・監督はMaria Fredriksson、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク合作映画。2023年のTribeca Film Festivalでプレミアされている。

ノルウェー北部に暮らす老婦人のMayがスウェーデン南部のグルスポングに暮らす妹のKariを訪ねていて、長期滞在者向けのアパートを探している場面が冒頭、彼女が見にいった家にかけてあった果物の静物画を見て、こういう絵が欲しかったのよ! ってこの場所に決めて、家主(?)のOlaugに会ったらびっくり。彼女は1988年に自殺した彼女たちの姉、Astrid – 愛称”Lita”に瓜二つで、誕生日もOlaugと同じ年の同じ日で、彼女も若い頃はLitaと呼ばれていた、と。

MayとKariが調査を進めてみると、Litaは実は双子で、更に家族に突っこんだ聞き込みをしてみると、当時ノルウェーに侵攻してきたナチスに人体実験のため誘拐される恐れがあったのでOlaugだけを家族から引き離したことがわかり、更にDNA検査をするとOlaugとLitaはMariとKariの姉妹とは異母姉妹であることがわかって、Olaugは先祖代々の家族が暮らす農場に行って、自分がこれまで知らなかった沢山の親族と会う。全員とても信心深くて、よい人たちっぽい。

ここまでは、TVにもありそうな感動再会ファミリーヒストリーとして見ていけて、大変だったんだなー、なのだが、その先、自殺だったはずのLitaの死因が警察の記録と検視報告では心不全だったこと、更にその場所が人里離れた田舎の湖畔だったことがわかる(そういう場所まで行って自殺、ならわかるけど)。敬虔なキリスト教徒である姉妹は死因が自殺でないのがわかっただけでもよかった、って安堵するのだが、かつて軍の中尉まで昇進して、あの人たちとは知的レベルが違うのよ、と自分でいうOlaugは、これは他殺だ、Litaは殺されたのだ、と主張し、Litaが亡くなった晩に彼女と車を目撃した近隣の人の証言や、Litaに3種の保険がかけられていたこと、いかにも怪しいLitaの前夫のインタビュー等も被されると、ここから先、Mayたち家族とOlaugの仲は急速に悪化していって。 とどめを刺すように2回目のDNAテストの結果として、Olaugと姉妹たち、Litaの娘とは血縁関係がある可能性は殆どない、と出て… (監督もお手あげ)。

互いが互いを憎みあうところまで来てしまったので(Mayたちは縁を切りたかったOlaugが検査結果を改竄したのだ、とまで言う)、最後はもう二度と会わないわさよならー、で終わって、表面上は元に戻るようなのだが。

他人の家族、の話だし、かわいそうなLitaを除けば誰かが嘘をついている、明らかに邪悪な人がいる、というわけでもなさそうなので、映画はそのままあっさり終わってしまう。 フィクションであれば、北欧の大家族、その底に渦を巻いた陰謀と憎悪の顛末を凍てつく湖の景色と共に描けたのだろうなー、とか夢想しつつ、そういうネタの在処が暴かれた、というか、そんなようなネタはこんなふうに表向き奇跡みたいな顔をして眠っているものなのかも、と思ったりした。

あと、ドキュメンタリーにしては全員の顔とかツブが揃いすぎている気がしたので、そのままOlaugを探偵役にしてミステリー仕立てのドラマにしちゃえばおもしろくなったのに(シャレにならず)。

あと、同じようなことが自分の身内に起こったら、結構嫌なかんじになるかも。 猫とかフグとかの話のほうがいいかも。


明日から夏休みをとって少しいなくなります。

9.15.2026

[film] 25 Cats from Qatar (2025)

9月7日、月曜日の晩、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。

ドキュメンタリーで、邦題は『猫たちと7000マイルの旅』。監督はMye Hoang。
カタールの町には人口100万人と同じくらいの数の捨て猫がいて街中に溢れている。異国から働きに来た人たちが帰国する際にそのまま捨てていったりするからだと(怒)。

最初は夜中に、そうやって道路際に捨てられている野良猫たちのご飯とか病のケアをして、場合によっては医者に連れていったりしているおじさん、その他ボランティアの人たちの日常が描かれる。

そこからアメリカのミルウォーキーで猫カフェを経営しているKaty(元CA)の活動が紹介される。彼女は地元の猫カフェに猫を集めて紹介しながら猫の里親も募っていて、今回はカタールに飛んで、現地の猫25匹を連れ帰ろうと冒頭のおじさんたちに連絡を取って、カゴなどを揃えて - 手続きとか気が遠くなるくらいに大変そう - いくぜ! って飛んでいく。

現地に着いてからは、いろんな人たちと猫たちに会って、連れ帰る候補猫を選んでいくのだが、健康でかわいいの、というよりは大きな傷があったり片目だったり脚がなかったり、の猫たちを拾うように集めていく。ぼろぼろでも人が好きな子、とか。フライトで病が悪化しそうな子は外すのだが、本当に様々なぼろ猫が揃っていて、痛くない? 辛くない? とか思いつつも猫好きなので見ているだけで。

結局運ぶ猫の数は28匹くらいになって、飛行機での移動もこれまた大変で(シカゴでワンストップ – 乗り継ぎ)、でもどうにかミルウォーキーまでたどり着いて、猫たちは元気で、このこは… と思った猫はやはりあっという間に里親が見つかったりする。よかったね。

猫ってなんでこんなぼろぼろになってしまってもかわいいのだろうー、っていう猫好きは見て損はないけど、同時に、彼女が救うことができる猫なんてほんのひと握りだし、なんで捨てるのか世話できないなら飼うな、の怒りも結構わいてきたり、アップダウンが激しかった。


GUN FISH  あなたの知らないフグの世界 (2026)

9月11日、金曜日の晩、テアトル新宿で見ました。

これもドキュメンタリーで、猫とおなじく、かわいかったりおいしかったりで死に至るかもしれないのに死んでもいいや、ってやめられない動物を相手に、それに憑りつかれたしょうもない人間たちを描く。

フグって、”pufferfish”(英語字幕ではこれ)とか”blowfish”だと思っていたのだが、ここでは”GUN FISH”で、要は命中したら死ぬから、って。

ものすごくきちんと作ってあるドキュメンタリーで、フグの調理師免許取得を目指す若い女性ふたりの奮闘を通して、なんで免許が必要なのか→毒があってふつうに食べたら死ぬから→毒と向き合ってきたこれまでの歴史とか、地域ごとの調理法などの幅と広がりまで、とても勉強になることがいっぱい。

フグって財界人とか偉い大物とか自民党などが、密談のようなことをするために料亭に入って、だいじなことを決める際に供される(場合によってはその毒で..)、という重いイメージ(GUN)があり、ふつうの人が簡単に食卓に並べて食べれるものではないし、調理法も刺身とか鍋とか皮とかいろいろあって面倒そうだし、そもそもの話として、これは何なのか? なんで当たったら簡単に死ぬようなものを歓待の場で重宝して用いるのか? そもそもそんなの食うなよ、ではないのか? と思いつつ、たぶん自分はフグの本当のおいしさ、底の深さを知らないのだろう、ってなって、これってものすごく境界のくっきりした、境界を際立たせる形で機能するひとつの文化のありようなのだろう、と思った。

養殖のフグには毒がない可能性がある、と科学者が検証を進めて、毒なしフグのリリースに向かおうとしたところで湧いてくる反対の声とか、どこかでいくらでも見てきたような。 これもまた日本の風景だよね。(ほめてない)

というように、ところどころとても男臭くヤニ臭くどす黒くて、これはこれで見事に日本文化を語っているように思った。ウナギやクジラも同じ世界なのだろうか。動物はちっとも悪くないのにね。

9.14.2026

[film] La cérémonie (1995)

9月6日、日曜日の夕方、恵比寿ガーデンシネマのクロード・シャブロル傑作選で見ました。

英語題は”The Ceremony”、邦題は『沈黙の女』と、webでは『ロウフィールド館の惨劇』ていうのも出てくる(どちらもなんか違う)。

原作はイギリスのRuth Rendellによる小説”Judgement in Stone” (1977) – これの翻訳タイトルが『ロウフィールド館の惨劇』なのね - をChabrolとCaroline Eliacheffが脚色している。この原作からは映画化がふたつ出て、ひとつはこれ、最初の映画化は1986年にRita Tushingham主演で”A Judgement in Stone”のタイトルで。 あと、1992年にはイギリスでミュージカルになっているらしい。

おとなしそうなSophie (Sandrine Bonnaire)が画廊を経営するCatherine Lelièvre (Jacqueline Bisset)と面接してブルターニュの田舎にある彼女の邸宅にメイドとして雇われる。 田舎のお屋敷には主人のGeorges (Jean-Pierre Cassel)と、Catherineの前夫との間の息子Gilles (Valentin Merlet)とGeorgesの前妻との間の娘で大学生のMélinda (Virginie Ledoyen)がいて、Catherineが忙しくて家事が大変だし、推薦状も問題なさそうだったので住みこみで来てもらうことになる。

家族は全員ふつうのよい人たちからなるよい家族ぽくて、Sophieの仕事ぶり、特に料理にはみんな満足しているようだったが、近くの町の郵便局員Jeanne (Isabelle Huppert)に対しては一家向けの郵便物を故意に汚した疑惑があったり、過去には無罪になったものの実娘の事故死の容疑者とされていたり、なによりも無礼だし、って顰蹙で、そんなJeanneはSophieに近づいていって、一緒に教会の慈善活動(バザー)に行ったりして仲良くなっていく。 その反対側で一家から毛嫌いされているJeanneとの付き合いは雇い主とSophieの間に溝をつくって、孤立した彼女はひとり自室でTVを見ることが多くなっていく。

Sophieは文字の読み書きができなくて、でも一家には目が悪いから(メガネを買う)、ということにしていたのだが、BFの子を妊娠して揺れて近寄ってきたMélindaとのやりとりでそれがばれちゃって、その報復に彼女の電話を盗み聞きして妊娠をネタに(読み書きの件を)黙っているように脅したら逆に父親に泣きつかれて、一発で解雇、一週間でここから出ていくように通告されてしまう。

教会の方でもバザーの品物回収でふたりの態度があまりにひどい(こんなゴミばかり出してくるんじゃねーよ、って投げ返す)ので教会から出入り禁止を言い渡されて、いよいよ行き場のなくなったふたりは、引き払うSophieの荷物をまとめている時にGeorgesの猟銃を発見して…

1933年に雇い主の妻と娘を惨殺したフランス人メイドの実話があり、それをもとにしたJean Genetの戯曲 “The Maid” (1947) – この演劇はロンドンでみた – もあったりするので、ネタとしてはフィクションでもノンフィクションでも人気のものなのかもしれないのだが、原作の方に少しはあったであろう復讐のやったれ!な押していくかんじは殆どなくて、あらゆる温かいものを撥ねのける冬の旅のSophie - Sandrine Bonnaireと、あらゆる攻撃をそのまま反射で打ち返すJeanne - Isabelle Huppertの組合せ、ふたりの間には絆のようなものも希薄、というか必要としていないし、なので結末もどん詰まりで明るく楽しいものではなくて、でもそれがつまんなさに繋がっているかというとそんなことは全くなくて、Sophieはあのまま”Vagabond”になっていったのだろうな、とか。

オペラ”Don Giovanni”ががんがん流れる中での殺戮って、スコセッシあたりが演出したら随分違ったものになったろうなー、と思いつつ、こちらのあっけない切り捨て方も悪くないかも、と思った。

[film] Backrooms (2026)

9月6日、日曜日の昼、池袋のグランドシネマサンシャインのDolby-Atmosのシアターで見ました。
前日にみた”The Odyssey”と共に今年を代表する作品たちであるのかどうか、など。

監督はYouTuberだったKane Parsons、これが長編映画デビューで低予算で大ヒットした(やっぱり)A24の。

ホラー、というふれ込みだったが表面だけだとぜんぜん怖さはなくて思弁SFのようなものとして入ってくるのかも。画面は意図的に30年前のビデオ映像の粗い画質と当時のアメリカのオフィスの滅入るようなのっぺりした薄黄色系で統一されていて、怪物やバイオレンス、血だまりの欠片やその気配はごく僅か - 音だけが全方位で圧してくるAtmosなので余計に、かもしれないが - 壁や通路を見つめて考えざるを得ない、という。

90年代の頭 - の日付が入ったビデオ映像が冒頭に流れるので、現代から90年代を振り返るようなお話? かと思ったらずっと90年代のままで推移していく - アメリカ西海岸の郊外で”Captain Clark’s Ottoman Empire”という格安家具店を経営しているClark (Chiwetel Ejiofor) は元建築家だが失敗して妻とも離婚して、お店の家具で寝泊まりしている自分に絶望して、セラピストのMary (Renate Reinsve)のところに通ったりしているのだが、怪しい自己啓発ビデオを出している彼女自身が相当いろいろ抱えていそうな。

郊外のぶっとんだ家具屋、というと”Punch-Drunk Love” (2002)でPhilip Seymour Hoffmanがやっていた役とか、半壊したセラピストというと、間もなく最低の邦題で”If I Had Legs I'd Kick You” (2025)がリリースされるRose Byrneを思い起こしたりするので、ぜったいになんか起こりそうなことは確か。

家具屋の調子のよくない電気系統を見にきた電気屋が、変なふうに取り付けられたブレーカーを見つけて、夜間に室内の明かりが妙な動作をしだしたのでClarkが調べていると、ドアもなにもない壁に光の輪郭が瞬いていて、そこを押したら壁の向こう側に行けてしまう。壁の向こう側には延々と続く空間 - 標識が裏返っていたり椅子が半分埋まっていたり下に抜けていたり、できそこないのモダンアートのような不気味なBackroomsのネットワークがあって、そこから元のオフィス/家具屋/住処に戻れることを確認したClarkは熱中してそことの行き来を繰り返して地図を作って、仕事場の社員ふたりを呼び出してビデオで撮ってみようとする。

彼らがビデオを持って入った先から展開される映像と顛末は”The Blair Witch Project” (1999) - 見たことないけど - の世界のようになってびくびくなのだが、そこにあったもの、なのか見出されたもの、なのか、これらの異物にMaryと、更にはAsync Research Instituteなる怪しい機関の科学者らしきPhil (Mark Duplss)が絡んで、フランシス・ベーコンの身体とか、なんでこんなことになってしまったのか、この先なにが起こるのか、等が続編以降で語られていく? のだろうか。

日本のオフィスビルはそもそも小さいのでそんなかんじはないのかもしれないが、アメリカの郊外の箱として深く考えずにでーんと建てられただけ、のような建物(箱)のだだっ広いばかりで奥に広がっていくバックルームの深い意味があるとは思えない配置とか広さとか殺伐さって、なんで? どうして? と陰謀めいた何かを想起させないわけにはいかなくて、そこに目をつけたのはうまいかも。例えばDavid Lynchだとどうしてもヒトの脳奥の病理や妄執に向かいそうなところを、空間の方になんかした? 起こった? って問うて、その返事の返し方が変だぞ、とか。

あと、80年代の終わりから90年代ってインターネットの登場でオフィス内の配線とかサーバー用の部屋の確保とかレイアウトを抜本的に見直すことが割とあって、北中南米の古めのビルでそれをやると、これなに? みたいな器具とか機械が発掘されて、そのまま棄ててなんか起こったらやなので放置、みたいなのばかりだったのを思い出したり。

もういっこは、オフィスの延長(書庫スペース廃棄)のような流れでクラウド等が登場して仮想でマルチのBackspaceが立ちあがって、これらが相当に入り組んで同期異常などが起こると例えばー。

でも、Clarkが壁をぬるりと抜けて向こう側にいく描写だけちょっとなー。あくまで即物的な行き来の世界のなかでしかありえない、とんでもないことを表現してほしかったかも。 向こう側に行った後はあれでよいけど。

既にいろんな人が言っているのだろうが、”The Odyssey”は神々の世界のBackroomsに迷いこんで20年間彷徨って還ってきた昔の人類のお話、だとか、少し前の”The End of Oak Street” (2026)もこれだろう、とか。

でも映画ってそもそも、単層的なBackroomsを繋いでそれらしく見せる詐術として発展してきたものよね?

9.11.2026

[film] The Odyssey (2026)

9月5日、土曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。

先行上映とか偉そうに謳っているが、グローバルでみたら断トツの後行で恥ずかしいばかり。
原作はホメロスの叙事詩。監督はChristopher Nolan、脚本もChristopher Nolan(とホメロス)。撮影はHoyte van Hoytema。

全編IMAXで撮影されて、上映/再現もIMAX 70mmが最適なのだろうが、最適な上映設備を選んでしまうような映画、そういうのがあってもよいのだろうし、そうした理由についてNolan自身がいくらでも説明しているようだが、ここまでくると遊園地の世界だよね。体験至上の罠。お金は使って貰いますよって。

冒頭、吟遊詩人のようなTravis Scottがラップの強さでいいか「ストーリー」ってのはこういうもんだヤツの話をとにかく聞いてみ、ってオデュッセウスとトロイア戦争について語り始める。この調子でおらおらって最後まで行ってくれるかと思ったのだが、どこかで飲みこまれてしまったような。

王の中の王アガメムノン (Benny Safdie)によってイタカからトロイア戦争に派遣されたオデュッセウス(Matt Damon)が妻ペネロペ(Anne Hathaway)に自分が死んだら再婚するように言い残して出ていって、彼女と息子のテレマコス(Tom Holland)の館にはむさい求婚者とかよからぬ企みを持つ連中が詰めかけて毎晩飲めや歌えを延々繰り広げている。

映画はオデュッセウスが前線に立ったトロイア戦争に向かって10年、だらだらしんみり過ごしてイタカに帰還するまでの10年、計20年の旅と、その間待ち続けていたペネロペの周辺と、パパを待ちきれずに探しに出たテレマコスの3つくらいの間を時間の前後無視で行ったり来たりしていく。誰もが知るエピソードが多いのでこれがあれか、って思ったり、その辺なんも考えずに見ていてもどかーんとでっかいのが来たりするので、その辺の混乱はあまり気にならない。戦乱の世なのでどうせ混乱まみれということでよいのか。そんなふうにほぼ3時間はあっという間に過ぎてしまう。アトラクションだから。

怪物はポリュフェモスとかライストリュゴネスとか見てすぐわかるのだが、神々は女神アテナ(Zendaya)もニンフのカリュプソ(Charlize Theron)も魔女キルケ(Samantha Morton)も、人間とあまり見分けがつかない世界のすぐ横にいて、ゼウスの法が、とか言われてもそんな重く響かないし誰も聞いてない。会社の偉い人が社内規定とかコンプラについてなんか言ってるよ、くらいのかんじかも。

クライマックスはオデュッセウスが乞食に身をやつして宮殿に戻って、狡猾なアンティノオス(Robert Pattinson)などを懲らしめてペネロペとの再会を果たすシーン、なのだろうが、”Interstellar” (2014)でのふたりの逆のを思い浮かべてしまったり(とにかくぜんぜんよかったね、の感動が来ない)、そんなに盛りあがらなくて、やはりトロイの木馬とか怪物とのバトルとか、そういう戦乱あれこれを描いたアクションドラマ、に見えてしまう。

IMAXででっかく重々しく描かれるぺったんこな海の表面と、その縁でぎりぎりまでひたすら耐えて待って最後に爆心地に向かって実際にふっとんで粉になって消える兵士、という構図(例えば”Dunkirk” (2017))はNolan映画定番のスペクタクルで、でもこの地味なかんじをスペクタクルと言ってよいのかはちょっと考える。

この叙事詩は人間の愚かさとか狡さに対する戒めとしてずっとあって、シノン(Elliot Page)に対する後悔とかオデュッセウスの苦渋も多少は描かれるものの、基本的にはこいつの表に出てこない傲慢や狡猾さを、故郷に戻るとか家族との再会とかで美化してしまっていないか。冒頭の「ストーリー」賛美もその流れのなかで見ると、これって圧政者が金を撒いて進めるプロパガンダの手法と同じようなものになっていないか、と(そこまで狙っている?)

もちろん性格が悪くても頭はよさそうなNolanはこの辺を十分わかっていて、音楽は重心低めでドラマチックなところをできる限り抑えて、「本当に起こったこと」のような地続きの低空を慎重に這ってくる。 ロケ地となった西サハラの問題や外部の者(移民)への歓待など、眺めてふーんとなる箇所は結構あるかも。

でも、これらぜんぶを俯瞰して、ああ人類はこんなところまで来てしまったのか、って嘆きたいのであれば、IMAXに行くよりも今のホワイトハウスを見ればじゅうぶん、ではある。


あの日から25年。まだぜんぜん過去の事件になってくれない。あの粉塵の匂い、どんよりした通りの向こう、戦闘機の音…  

9.10.2026

[film] Reinas (2024)

9月5日、土曜日の昼、K‘sシネマで見ました。
邦題は『マイ・リトル・クイーンズ』、英語題は”Queens”。

監督はKlaudia Reynicke、脚本はKlaudia ReynickeとDiego Vegaの共作。スイス、ペルー、スペインの共同制作映画。2024年のベルリン国際映画祭の青少年向けのGeneration Kplus部門で最優秀作品賞を受賞している。

90年代初のペルーで、社会経済が落ち込んでインフラもがたがた、夜間外出禁止令が出て治安も不安定になってばかりなので、シングルマザーのElena (Jimena Lindo)は Aurora (Luana Vega)とLucia (Abril Gjurinovic)の娘ふたりを連れて国を出ることを決意し、苦労してアメリカのミネソタに職を見つけて、パスポートとか為替とか引っ越しとかの準備を進めている。 のだが、最大の難関は別れてどこにいるかもわからない - つかまることはつかまるけど - の夫で娘たちの父Carlos (Gonzalo Molina)の渡航同意書(へのサイン)が必要となることだった。

タクシー運転手らしきことをしているCarlosはお気楽で、今回のことでElenaに呼ばれてわかったサインするよ、と口では言うものの信用できなくて、彼に懐いている娘たち(タイトルの”Queens”)を車で海の方に連れだして、アメリカなんか行きたくないな、パパと一緒がいいな、の雰囲気を作ろうとする。既に恋人がいて、彼との間に妊娠の疑いが出てきた姉のAuroraは特に揺れだして、渡航前にきりきりしてきた母から逃げるように優しくてどこにでも連れていってくれる父の方を向くようになる。根がてきとーなCarlosは、Luciaに対して政府の諜報機関で仕事をしている、ってホラを吹きまくったり。そして渡航の日も近くなりサインの期限も迫ってきて親族でのお別れ会が開かれた晩に…

ファミリードラマの割と普遍的なところと、当時のペルーという土地の事情がもたらす混乱や困惑、でもどうにかしなきゃ! のはらはらがうまくミックスされたとてもきちんと作られたコメディで、すごくおもしろいのになんであまり上映されていなかったのかしら。

96年末に起こった在ペルー日本大使公邸占拠事件の前で、あの事件の後に数回ペルーのリマに仕事で行ったことがあるのだが、この画面に映された町のかんじとか、浜辺の風景とか、当時のままのような気がして、ずっと手つかずのままだったのかしら。それってよいこと… にしよう。


Ready or Not 2: Here I Come (2026)

9月2日、水曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。

↑のとジャンルはちょっと違うが、姉妹が手をとりあってひどい環境から抜けだそうとがんばるお話、というところは似ている… のかも…(こじつけ)

前作 – “Ready or Not” (2019)は見ていなくて、ここから製作に7年かかっているのだが、お話としては前作が終わった地点から始まる – 焼けただれたお屋敷を出たところに主人公のGrace (Samara Weaving)がぼろぼろの状態で座っていて、ここまででどんなことがあったのかを駆けつけた救急隊員に丁寧に説明してくれるので、だいじょうぶ。

結婚式の直後に引いたカードから始まった生贄儀式で、嫁いだ先の一家を全滅させてひとり生き残ったGraceと、それを知らされた評議会(というのがあるらしい)の若頭の双子(うちひとりがSarah Michelle Gellar)が評議会のリーダーである父(David Cronenberg ...なにやってんの?)を枕で押し殺して全権を握り、Graceの持っている指輪を奪うべく世界中から一族郎党を彼らの屋敷に召集して、新たな殺し合いが始まるの。(全体を統括する司祭が指輪繋がりのFrodo - Elijah Woodというのが実にどうでもよくて素敵)

Graceが病院に収容されたところから既に殺し屋は現れて、そこにやってきたのがずっと生き別れていた妹のFaith (Kathryn Newton)で、なにこれーとか叫んだり逃げたり戦ったりしていくのだが、ふたりともスーパーパワーがあるわけでも、ふたり揃うとなんかすごくなるわけでもなくて、妹は姉に見捨てられたことをずっと根にもっていたり小競り合いもあって、とても彼女らに生き残れる要素があるとは思えなくて、他方で襲う側も変態や異常者ばかりなので、かなり緩めでしょうもないバトルが展開されて、最後はゴキブリホイホイみたいに…

アメリカのどこかにいそうでありそうな、カルトで懲りない富裕層の所業振る舞いと、やはりどこにでもいそうな仲が良いのやら悪いのやら、の姉妹をぶつけて、ものすごく痛快なことが起こるわけでもないのだが、さくさく流れていくのがなんかよかった。


こういうのでもエンドロールぜんぶ終わるまで出ていっちゃいけないの? こんなの(っていうよりどんな映画だって)上映の途中で入って途中で出たりしても、ぜんぜんよいし、映画に失礼になるものでもない。誰かのためとかじゃなくて、見るのは自分なんだよ。映画館でもライブハウスでも、この国って、ほーんとばっかみたいになっててうんざり。

9.09.2026

[film] 近松物語 (1954)

9月1日、火曜日の晩、神保町シアターの特集 - 『没後70年 映画監督・溝口健二の世界』で見ました。

国立映画アーカイブで企画展示などもやっているが、没後70年にしては静かで地味すぎないか、と思いつつ、見たいものは何度でも見よう。 80年のときにはこの世にいないだろうし。

原作は近松門左衛門作の人形浄瑠璃『大経師昔暦』 (1715) を元に川口松太郎が書いた戯曲『おさん茂兵衛』と西鶴の『好色五人女』 (1686)の「おさん茂右衛門」、これらを合わせて依田義賢が脚本を。

遊びの金で困っている兄(田中春男)の金策依頼で主人(進藤英太郎)の妻おさん(香川京子)から相談を受けた手代のもへい(茂兵衛)(長谷川一夫)だが、意地悪な主人に直談判してもどうしようもなく、店の金をどうにかしようとしてばれそうになったところを女中のお玉(南田洋子)に救われて、それがお玉に気があった主人を逆撫でして軟禁状態となるのだが、そこから転がったあれこれで目覚めてしまったのかもへいとおさん、騒がれて余計に確信してしまったのか、不義密通の罪で追われる身となったふたりは、もう死のうと誓ったところで更に燃えあがってしまう。なのに実親も含めた世間の格子はただただ冷たくて非情でー。

どこまでも身勝手で悲惨で内向きで、あれこれ非対称な家父長制 - 男中心社会のありようと、その不条理に正面から愛をもって激突して静かに微笑んで犠牲となる女性の聖性と - 近世の物語、悲劇としてものすごくよくできていて、ああとんでもない、っていつものように痺れつつ、そんなおさんの「美しさ」もまた男性側(のシステム)が都合よく練りあげたものなんだからね、って。コンプラで追い詰められた男たちが最後にすがろうとするのもこの辺だから、気をつけなくては、とか。

それにしても香川京子のとてつもないことったら。


赤線地帯 (1956)

9月4日、金曜日の晩、神保町シアターで見ました。 英語題は”Street of Shame”。

これを最初に見たのは00年代のNYのFilm Forumで、ものすごい衝撃で、そこから3回目くらい。
これも↑のもフィルム上映で、やっぱりなんだかんだフィルムがいいなー、説明めんどくさいけど、になる。

上映前からスクリーンの脇の小部屋にある機器がぴーぴー間歇的に変なノイズを出し続けていて、上映前にシアターから謝罪があって、上映後には無料の招待券をもらったのだが、このリアルタイムノイズ、劇中の黛敏郎のぴょーんていう変な音楽と妙に調和したりしていて悪くなかったかも。

売春防止法制定前夜の社会情勢を回想などなしでまっすぐ描いた現代劇で、溝口の遺作。

吉原の特殊飲食店「夢の里」で働く三益愛子、若尾文子、木暮実千代、町田博子ら娼婦たちの姿、そこに大阪からやってきた京マチ子、新たに働きに出ようとする少女、病気の夫と息子がいたり、一人息子と一緒に暮らすことを夢見ていたり、貢いできた男に殺されかけたり、病の夫は自殺しようとしたり、ほんとにいろいろで、全体としてはこんな制度、こんな社会、こんな男たちのせいでこんなにも … なのだが、同じ酷さでも『近松物語』のように迫害される側を恣意的に持ちあげたり賛美したりするのではなく、自分たち自らが強くしぶとく、場合によってはしなやかにしたたかに悪賢く生きる、生き延びようとする女性たちの姿を叩きつけて、やれるもんならやってみ上等だおらー、くらいの啖呵を切ってみせて、誰もがかっこいいったらない。

もちろん全体としては酷い話で、「日本すごい」が大好物でたまらない人たちにとっては正視できない光景だらけなのだろうが、こんなのを制度の変わり目に、「郷愁をこめて」ぽい目線なしで、ドキュメンタリーのようにしれっと作ってしまった(感がある)溝口(そしてこれを最後に消えてしまった)はすごいな、しかない。実際に笑う人はもっと笑っていただろうし、泣く人狂う人はこんなもんじゃなく悲惨だったのだろうが、娯楽映画でも犯罪映画でもないリアルを目指したすばらしいアンサンブルドラマだと思う。

9.08.2026

[theatre] 夢去りて、オルフェ

8月30日、日曜日の午後、東京芸術劇場のウェストの方で見ました。

ロンドンで演劇を見るのがとても好きになったので、帰国してからも続けたい、って月1回は見るようにしてきたのだが、なかなかしんどい。 人気の演目はすぐに売り切れていて、ロンドンだと当日の戻りやキャンセル分をオンラインで簡単に買えたのにそれがないし、当日券がある、といってもどんな席が何枚、すらわからないからリスクを冒してまで行く気にはなれないし、なによりもなによりも肝心の劇の中味が、サイトを見ただけだとイメージとかポエムみたいのでしかわからないの! わかる人にはわかるのだろうし、それで回ってきた世界なのかもしれないが、そんなにムラを作りたいのか。小劇場の時代から何ひとつ変わってないのね。以上グチ。

というわけなので、どうしても名前を知っている作家の劇などに向かってしまう。
原作は清水邦夫の戯曲(1986)、初演も同年の紀伊國屋ホール、演出は清水邦夫、劇団は木冬社。38年ぶりの再演となるらしい今回の演出は大河内直子。
舞台の上には焼け崩れたような回転木馬の残骸があって、かつては遊園地かあったらしい。手前には萎れた草、遠くに海鳴り、夜空には月。

前口上のあと、昭和14年(1939)の冬近くの日本海側(最近、日本海側おおめ)のどこかで、北一輝はまだどこかで生きていると信じる桂木一機(大石継太)が東京で役者をしている血の繋がらない妹のぎん(朝海ひかる)を呼び出す。 大日本帝国陸軍所属の小桜大尉(佐奈宏紀)の妻夢野(平体まひろ)と一機がよからぬ仲にある、という噂がたってしまい、最悪姦通罪で引ったてられる可能性があるので、子供の頃に芝居ごっこをやったように、ひと芝居うってくれないか、というのがぎんを呼び出した理由。

一機の親友だった中原源三(加納幸和)とか夢野の家族、官警なども総動員で駆けつけてばたばたするなか、サル芝居はうまくいくかと思えたのに、静かにしていた夢野が唐突に想定外のことを言い始めて、そこに夢野のことを密かに想っていた義弟の青年将校が挟まってきて大混乱のシャレではなくなりー。

口上で語られていたように、既に崩れてとうに終わってしまった廃墟の上の、どこまで嘘でどこまで本当だったのか確かめようもない、かつて夢であったような話、であるので、どんな修羅場も、どんな悲劇も、誰のどんな妄想であれ、すべては脱線した回転木馬、風と共にどこかに、夢去りて、の上に積みあげられた、例えばこんなごたごたが。 オルフェのように一瞬で消えてしまったがその残骸はいまだにー、なのか?

舞台となった1939年から約50年後の1986年に書かれた芝居、そこから約40年後の再演(脚本は変えていないとのこと)なので、2段階でいろんなことが言えるのだろうか。バブル前夜の好況に浮かれて、全共闘は過去のものとなり、軽薄や表層が尊ばれた86年に北一輝を理想とする主人公の不倫どろどろの軽くない修羅場や殺傷沙汰を持ち出すのは、ものすごく場違いかつアナクロで、そのギャップゆえの「夢去りて」感を見せることの意義はあったのかも、と想像がついて、では、今回の再演はというと、この程度の修羅場ならリアリティドラマなどでふつうに見慣れているし、北一輝のような思想もいちコンテンツでしかなく、タイトルだってアニメのそれ?になりそうなくらいの軽さで、焼け跡も壊れた木馬も絵として映えればよし、だし - 80年代のクッションを介さなくても違和感なくふつうのドラマとして流れていってしまいそうな。

初演当時は、それでも愛を、失われたものを届かない場所と時間を経て語る、というロマンがありえた気もするのだが、いまはどうなのだろうか? 割とエモ抜きで走っていく主人公たちにどこまでついていけるのか、辺りだろうか。割とあっさり受けとめることができてしまったのだが、最近の若いひとたちがこれ見てどう思うのかは不明。

時代の段差を前提としたような劇なので、ここまで時代が隔てられてしまうと夢の効力も薄まってしまうのでは、と少し思った。Tom Stoppardの”Arcadia” (1993) のようにひとつの場所、ふたつの時代を交錯させた方が「夢去りて」のかんじは出たかも。

あと、家族–軍人-北一輝という同心円の体裁、80年代には「右傾化」で茶化していれば済んでいたあれこれが、近年はシャレにならなくなっていて、しらんぞー、しかない。 軍は簡単に去ってはくれないよ。

9.07.2026

[film] Útóipe Cheilteach (2026)

8月27日、木曜日の晩、ユーロスペースで見ました。

英語題は”Celtic Utopia”、邦題は『ケルト・ユートピア』。
上映後に監督のひとりDennis HarveyとPeter Barakanのトークと、更に現地と画面を繋いで映画にも出てきたThe DeadliansのSean Fitzgeraldが数曲歌ってくれた。

関係ないけど、Peter Barakanさんをライブで見た最後はいつだったか、Linton Kwesi Johnsonのライブ(っていつ?)以来だったのではないか。

冒頭、色褪せていていつのフィルムだかわからないが、女の子がアコーディオンを抱えて弾こうとして、でも音がでない・聞こえない? もうひとつは、道がない入り組んだ入り江に降りていったら岩の間に耳にタブのついた山羊だか羊だかの腐乱死体が挟まっていて、くっさーいー、ってなる。 どちらもなんだかとてもアイルランドなかんじがした。

ただ、この「アイルランド」についても「ケルト」についても、イメージとしてはなんとなく笛の音とか渦巻模様とか、わかるものの、もう少し具体的に、例えばケルトの文化を生きる、ってどういうことなのか、を見ようとした時、どんなものが見えてくるのか - について、現在のアイルランドのミュージシャンたちの演奏とインタビューを次々と映しながら、「こんなかんじ」のようなところを見せてくれる。

そこにはふたつの言語(ゲール語、英語)のこと、宗教対立から始まった分断と紛争の歴史、マグダレン・ランドリーでの虐待のこと、などの史実や事実があり、それでもor それ故に故郷に対する思い、ユートピア的な地に対する思いは強くあって揺るがない、というのが、インタビューや音楽を通して見えてくることで、そこに自分自身が聴いてきたアイルランドの音楽とか、現地に行って触れてきたアイルランドの食べ物とか街角とかいろんな文化の様子とかが重なって、やっぱりアイルランドいいなー、になる。この「いいなー」、は例えばフランスやイタリアに対するそれとははっきりと異なるやつで。

ただ単純で楽観的なアイルランド万歳! にはなっていないところがよくて、インタビュー対象となった若いミュージシャンたちの考えや見えているものも含めると、ぼろぼろでどうにかここまで来たし、わからないことだらけだけど、ここまで来れたんだから、あとは酒と歌があればどうにか、くらいかも、という平熱感。 単純なユートピアを目指すんだ!でも アイルランドはユートピアだ!でもなく、またケルトとは、ケルトであることとは?もはっきりと示されない(示しようがない)まま、子供の頃から歌い伝われてきたような歌をうたう、歌うこととは、等について、政治家でも歴史家でも批評家でもなく、若いミュージシャンたちが自分の言葉でぼそぼそ語ろうとする。 そういう中から光として現れたKneecapとかFontaines D.C.がそもそも抱えこんでいる豊かさ、分厚さについて。

まったく事情も背景も異なるとは言え、自分の国についても振り返ってしまう。そもそも他の国のことを眺めていられる余裕あるのか?はあるけど。 余裕とかじゃなくて、過去・歴史との向き合い方、文化の複雑さや分断に対する目線、接し方、等も含めて、学ぶべきところは多いし。 政治と音楽は別、なーんて幼稚でお子様な言い草だろうか、って思ってしまうし。(もうほぼ諦め)

登場したミュージシャンのなかで見たことがあったのはバルセロナのPrimaveraで見たLankumくらいだったが、Lankum、すごくよい意味でモダンでよかったの。

映画のなかで何度か言及されていたマグダレン・ランドリーについては、“The Magdalene Sisters” (2002)が有名だが、最近のドキュメンタリーではAoife Kelleher監督による“Testimony” (2025)がすばらしくよかったので、公開されてほしい。まだ生存している当事者たちの証言をいかに歴史のなかに刻む、刻みうるのか、という国境を越えた試み、そのなかで改めて露わにされる彼女たちの痛みについて。

[film] The Dog Stars (2026)

8月31日、月曜日の晩、Tohoシネマズ日本橋で見ました。

監督はRidley Scott、Peter Hellerによる同名小説 (2012)を原作にMark L. Smithが脚色して、撮影はErik Messerschmidt。主人公はラストサバイバーでもなんでもないのだが邦題は、『ラスト・サバイバー』。

2035年、グローバルパンデミックで人類の殆どがやられてしまったらしいアメリカのコロラドの山奥の元飛行場だったようなところで元整備工だったHig (Jacob Elordi)と犬のJasperはセスナに乗って誰もいない街まで飛んでいって生活の必要物質をかき集めたり、かつて住んでいたところに行って亡くなった妻の幽霊と会ったり、Mennonitesのコミュニティに物質を届けたり、を淡々をやっていて、住処に戻ると主人公とどういう関係かは不明だが元軍人らしいBangley (Josh Brolin)がいる。

飛行中にGrand Junctionからの無線信号のようなものを受け取ったHigはそこに行ってみたい、というのだがBangleyは反対で、そうしているうちに敷地に侵入してきた連中によってJasperは殺されてしまい、悲しくてやけくそになったHigは止めるBangleyを振り切ってGrand Junctionへと向かう。

のだが途中で飛行機が壊れてPops (Guy Pearce)とCima (Margaret Qualley)の親子が暮らす農場に落ちて、最初は警戒されながら彼らと、特にCimaとは少しずつ仲良くなっていくのだがそこも襲撃されたので、どうにか修理が間に合った飛行機で3人で憧れのGrand Junctionに向かって、だがしかしそこも組織された変態の巣窟なのだった… (ここでAliensが出てくるかと思ったのに)

出てくる人たちが全員見事に(白系)犬顔でタイトルも「犬星たち」なのでしょうがないのだろうが、全員が犬的な温もりを求めている & 襲ってくる方も全て狂犬 - のようで、予告でかかっていたブラピの新作もそれっぽいかんじだったし、なんなの? ポストアポカリプスには犬がいないと生きていけないの? みんなそんなの見たいの?

映画のなかでは、外見はともかく俺はぜったい外には行かないって踏みとどまったBangleyだけが猫か。
猫と一緒に滅びるのを待つ(だけの)映画を見たい。

Ridley Scott、こんなに緩いやつでいいの?


Shelter (2026)

9月3日、木曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。 邦題は『シェルター』。

監督はRic Roman Waugh、Jason Statham自身がプロデュースに参加している。
こちらも犬系のアクションだが、いまのこの時期、イギリス任侠B級(ハゲ)映画としてGuy Ritchieの新作とこれがかかっていて、どうしようかなー、でこっちにした。なんとなく。

スコットランドの孤島のもう使われていない灯台の根本の小屋にMason (Jason Statham)とわんわんがひっそり隠れるように暮らしていて、たまに少女Jessie (Bodhi Rae Breathnach)とそのおじさんが小さい船でやってきて食料などを置きにくるのだが彼はずーっと喋らず無愛想の隠者のようで、でも嵐の日に彼らの船がやられてJessieだけを助けることができて、怪我をして孤児になった彼女の面倒を見ることになるのだが、対岸に薬を買いに出たところで町の監視カメラに映った彼の顔からアラートが出て、MI6の強硬派でトップから後ろに退いたManafort (Bill Nighy)が、こいつは… って近くにいた腕のよい刺客を送るとか、Masonを殺しにエージェントとか一連隊を送ったり越権で勝手にやりだして、なんかおかしいぞって気付いたMI6のRoberta (Naomi Ackie)が調べてみたらMasonはMI6のエージェントの中でも過去最強のやばいやつだった、と。

出だしは結構スローで島に留まり、また犬が亡くなったりしてだいじょうぶかな?なのだが、基本はなんだこのハゲどいてろ、って言われたStathamが実はとんでもない狂犬で返り討ちにあってぼろぼろ、のいつものパターン(少女とか弱いやつには弱くて、強いやつには強い)は不変で、Jessieを守ったり彼女に怒られたりしながら車でロンドンまで行って、Jessieの安全を確保したナイトクラブでManafort の刺客エージェント全員撃ち殺したってぜんぜんへっちゃらで、最後にはManafortと向かいあう。

最後にStathamとBill Nighyが正面から激突(銃撃よりは肉弾で)してくれたら最高だったのになー。

9.06.2026

[film] Violette Nozière (1978)

8月30日、日曜日の昼、恵比寿ガーデンシネマで見ました。 

『クロード・シャフロル傑作選 vol.2』として上映される3本のうちのひとつ。傑作選のvol.1は見れていないのだが、とにかく見る。邦題は『ヴィオレット・ノジエール』。Isabelle Huppertはこの作品でカンヌの女優賞を獲っている。こんなのが、これまで日本未公開だったの?

監督はClaude Chabrol 、撮影はJean Rabier、音楽はPierre Jansen、スタッフの名前をいくら並べてもこの映画全体を覆うみっしりとしたプロダクションの濃さ固さは説明できない気がする。 1930年代パリのあのアパート、ホテル、くしゃくしゃしたベッド、それらが目の前にあって、それは「再現」とか「体感」なんてレベルではなくそこに、ただ目の前にあるのを撮っているような。 タイパとかコスパとか「世界線」とか、バカのひとつ覚えのように唱える「関係者」どもを2時間映画館の暗闇に閉じこめてやりたくなるが、連中にはもったいなさすぎか、って。

実在した女性 - Violette Nozière (1915-1966)が実際に起こした犯罪を元に、どんなふうに事件が起こったのかを追っていく。なんで、どうして彼女が、は台詞等も含めて一切説明されないが、見ていれば経緯と連関はぜんぶ見えてきて、そうして画面上に示されたものが説明してくれるかというと、やれるもんならいくらでもどうぞと、そういう角度からの澄んで醒めた見通しのよさがある。謎のようなものはひとつもない。

10代のViolette Nozière (Isabelle Huppert)は売春をして小銭を稼いで、仕事仲間も顧客もお気に入りの学生もいて、きちきちに狭そうなアパートに帰ると列車の機関士をしている父Baptiste (Jean Carmet)と母Germaine (Stéphane Audran)がいて、ふたりの仲は悪くなさそうだが、どちらもVioletteには厳しく鬱陶しそうで、でもVioletteの実の父はBaptisteではないことを母と娘は共有していて、なのでVioletteは金がありそうな実父のところにたかりに行ったり、それに加えてアパートの金が隠してあるところからしょっちゅうくすねたりやりたい放題なのだが、医者からは梅毒がやばいところまで来ている、と言われて、自分は処女なのでこれは遺伝であんたたちから来たのだ、と薬(毒)を盛ってあっさり殺してしまう。

こういうお話にひっついてきそうな苦労や苦渋や愛憎など、こんなわたしに誰がしたなど、べたべたした湿気や目線を一切排除して、アパートとホテルとカフェの描写と行き来と簡単な会話のやり取り、親の娘に対する干渉の具合とそれに対する反応などで、どの辺に向かうどんな話なのか - 少なくともメロドラマとは違うし、サスペンスのように何かに抗うわけでもないし - はわかってしまう。Violette Nozièreはこんなことをしました。というのだけで、これだけのものができてしまう驚異。

運転する列車から元気よく手を振る父の思い出も何度か出てくるが、それでも揺るがない、というか吹っ切る、断ち切るための小道具のように浮かんできて、決まっていたことをやるだけ、のような。

それにしても、今から振り返ればなんの違和感もなくいつもの当たり前の彼女、としか言いようがないのだが、Isabelle Huppertの鉄面の、ちょっと歪んで、微笑んでいるのか怒っているのかの口元と、すべてをばちばちにはね返してしまう目の強さはとうにあって、Huppert = Nozièreの映画、それ以上でもそれ以下でもないの。

9.03.2026

[film] 恐怖份子 (1986)

8月25日、火曜日の晩、ル・シネマ 渋谷宮下の9Fで見ました。
邦題は『恐怖分子』、英語題は”Terrorizers” – かっこいい。

2015年にデジタルリマスターされた際にもイメージフォーラムで見ているのだが、これは何度でも。
監督は楊徳昌(Edward Yang)、脚本は楊徳昌と小野(Hsiao Yeh)、撮影は張展(Chang Chan)。

スラムのようなアパートで銃声が響き、それを写真家になりたい青年シャオチェン(馬邵君)がカメラで追い、飛び降りて足を怪我した不良少女シューアン(王安)を更に追いかけて撮って、大病院の出世競争のなかにいる医師リーチュン(李立群)とその妻 - 小説家で鬱病を患うイーフェン(繆騫人)のそれぞれの葛藤とすれ違いが旧知の編集者と彼女を結びつけ、カメラをもった青年はシューアンとアパートでぶつかり、足の怪我で動けないシューアンのいたずら電話が小説家たちをあちこちに動かし散らして、物理的な彷徨いと妄想に近い思いこみが粉塵のような「恐怖」の種とか粉 - 「恐怖分子」を捲きあげてあたり構わず散らしていって止まらない。

これらすべてが偶然の出合い頭の事故のように起こって、説明やストーリーを排するかのように配置されていって、撮られた写真を寄せ集めて並べて貼ってばらして、のような作業の果てに、引き裂かれた男(たち)は妄想もろとも自殺する、というお話。 

ここはやはり7月に見た 『海灘的一天』 (1983) - 『海辺の一日』を思い起こさないわけにはいかない。
どちらも最後に(or最初から)主人公の夫である男性が(or 『海辺..』では主人公の兄の医師も)亡くなる話で、どちらも妻の方を向いてくれない/本心を明らかにしてくれない夫の振る舞いに傷ついている妻の話で、その先にどうなるのか - 幸せを掴めたのだろうか – までは示されない。

『海辺の一日』は残された妻の回想(語り)という形式を取るので、すべては夫の消えたあの海に集約されていく、一枚の絵の枠に収まっていく印象があったが、こちらは中心のふたりの外側(社会的には下層・周辺)にいる男女がアナーキーに彼らの足場足元を揺さぶってきて、不安と恐怖の種を散らしていく。彼らの不幸や不安とは関係ないはずなのに、目に耳に入れたくないのに否応なく挟まってくる – Terrorizers.

ふつうストーリーに挟まってこないノイズのようなこれらは、実際には存在したり活動したりしているものだし、これらを排除したところで成立するメロドラマなんてありえない(し、そもそもばっかじゃないの?)、という原理的な問いから始まったものとはいえ、これらの粒(分子)が連なって重なって並べられるその配置があまりにスタイリッシュで、こんなきれいでかっこよくてよいのか、にはなる。

90年代になるとここで見られた混濁が更に加速して味噌も糞ものぐじゃぐじゃ模様を描き、そこになんでもかんでも「世界」というラベルが貼られたりして、これはこれでうっとおしくなっていくのだが、そうなる前の、まだ都市や世の中をそれなりに整った(壊されるべき)ものとして、そこからこぼれ落ちる偶然も含めて(恐怖を恐怖として)掴まえて並べようとしていた時代の記念碑的なランドスケープになっているのではないか。

ランドスケープについて、これらの世紀が変わると、隣の国にホン・サンスという人が現れて、Edward Yangが都市の格子のなかに置いた痛みやノイズを酔いと偶発性のなかにぺったんこに散らして、フィクションとは?のようなところに連れていってくれた、のかしらー。

9.02.2026

[film] A Hora da Estrela (1985)

8月23日、日曜日の昼、新宿武蔵野館で見ました。

Suzana Amaral監督によるブラジル映画、原作はユダヤ人の両親のもとウクライナに生まれてブラジルで育ったClarice Lispector (1920-1977)の同名小説(1977-生前最後の小説)。英語題は”Hour of the Star”、邦題は『星の時』。

ベルリンのコンペティションに出品され、銀熊賞(最優秀女優賞)を受賞している。

原作(文庫本は部屋のどこかに積まれている)と映画では、原作の方には「ぼく」という男性の語り手がいること、舞台が原作ではリオデジャネイロ、映画ではサンパウロだったり、いろいろ違いもあるようで、別もの、と見ても構わないのかも。

時報を告げたりするラジオからは、ハエのスピードはxxで地球を一周するにはxx日掛かります、など、かなりどーでもいい森羅万象の豆知識みたいなのがゆっくりとしたナレーションでどこまでも流れていく。そういう空気のなかに19歳のMacabea (Marcélia Cartaxo)がいて、町工場のようなところのオフィスでタイピストをしているのだが、指いっぽんいっぽんでタイプしてて、仕上がりも汚れていてひどい、と上から文句を言われていて、わかった、わかっているけどがんばる、と返すしかない。

ブラジルの北の方からひとりで働きに来て、貧乏長屋のような共同下宿に暮らし、トイレはベッドの下に置かれた洗面器で、化粧もせず、着るものもどうでもよく、ホットドッグとコカ・コーラが好きで、休日もなにもせず地下鉄に乗るくらい、たまに話をするのは職場の同僚と同じ下宿にいる人たちくらい。でも困っていないしそんな辛くもないし、ただ生きてる。 どうすればもっとよりよく生きられるのか、みたいな考えはないし、言われたってなにをどうしたらよいのやら。

そんな彼女が公園でOlimpico (José Dumont)と出会って、彼は今は貧乏で、教育も後ろ盾もないけど国会議員になりたい、とかひとりで喋ってばかりなのだが、うんうん、て聞いているだけで自分からほぼ何も言わないMacabeaを気に入ったのか、一緒に出歩くようになる。のだが、Macabeaは彼の好きなように扱われていて、彼に小銭を渡して職場に電話してほしい、って言ってもしてくれなくて、これを付きあっているというのか、自分は恋におちているのかどうか、それすらもわかっていなくて、でも総合的にはいいかー って日々を流していく。

Macabeaの同僚のGloria (Tamara Taxman)は派手でとっかえひっかえいろんな男性とデートと別れ(ふられ)を繰り返していて、結婚相談所の魔女のような占い師(Fernanda Montenegro)から友人の男を奪えば理想の男性と出会える、って言われたので、MacabeaのOlimpicoを横取りして、Olimpicoはほいほいついてくるのだが、けっか理想の男性と出会えてしまったGloriaはあっさりOlimpicoを捨てて、同じ占い師からメルセデスに乗った裕福な外国人とすばらしい出会いがあるよ、と言われたMacabeaの方は…

なんの抑揚もなくさーっと最後まで流れていってしまう、表面的に眺めればひどい話なのだが、Macabeaは幸せだったのだろうか? 悪趣味かつ意地悪なキャラクターの置き方やストーリーの展開、全体に漂う非情なかんじはR. W. Fassbinderだなあ、としか言いようがない乾いた暗さに満ちていて、なのに彼女の態度はFassbinderのミソジニー光線から逃れるべくして逃れ、とても穏やかにラジオを流れていく声のようにプレーンな均衡を保っているように見える。 知ったこっちゃねえだろ、ほっとけ! というような。 そんな女性像を底辺にも頂点にも置かずに輝かせることもせずに示し、そこになんのドラマも持ちこまず、ただそこにあろうとした(そして実際にそうしている!)Marcélia Cartaxoはすばらしいと思った。

日本の女優でこういう境地のようなところまで行ったのは、やはり田中絹代だろうか。
あと、こんな「女性像」を映画でさらさらと一筆書きで描けてしまう、というところがブラジル(南米)であり日本である、ということ。

9.01.2026

[film] Fire in Water 永田康祐映像作品集

ポレポレ東中野で、8月25日、火曜日の晩にProgram Aを、26日、水曜日の晩にProgram Bを見ました。

永田康祐という人もその作品も初めてでよく知らない状態で、どちらも中短編のドキュメンタリーを3本ずつ。Program Aが割と最近の作品群で、Program Bがそれよりすこし前の作品群、なのかしら。

特定のテーマを見つけて掘り下げていくにあたって、現地に飛んでフィールドワークをしたり関係者にインタビューを重ねながら事象の本質や根源に迫っていくやり方が、作家自身の内側の対話を反映するような近めのところを転がっていく。そのペースが見ている自分の思考の流れと同期するところが沢山あり、それがなんだか読書をしている時の感覚と快楽に近くて、とてもおもしろいと思った。 以下、いくつかの作品の感想を。


Fire in Water (2025)

『韓国語で酒を意味する「スル」は、「水(ス)」と「火(プル)」に由来するという説がある』 という(仮)説から入って、この「水の中の火」(タイトル)が示す発酵のありよう(劇中、背後でずっとぶつぶつぶつと発酵が進む音が鳴っている)、そのイメージから、日本統治下の朝鮮半島における稲作と酒造の歴史へと分け入って、食料増産と税収確保の名目で、こんなふうにそれまであった伝統文化、その根幹にあった食は変えられて、それが酵母や微生物のレベルまで徹底して浸透し変容と同化を促していったことを示す。戦争は単に人を殺して領土を奪うだけでなく、ここまでのことを徹底してやってしまうのだ、と。

これと同様のことは古のヨーロッパ大陸でも、シルクロードでもいくらでも起こってきたのだろうなー、というのと、主に男たちが飲んでいい気になって暴れたり憂さ晴らしするための「酒」や主食である米や麦を押さえる、のは基本なんだろうな、と。

だからこそ国を守らなきゃいけないんだ(→軍備、徴兵)、というのではなく、だから、こういうことが起こっちゃうから、日々の食や農について、自分が何を口にしているのか、それがどこから来たどのくらい貴重(食料はぜんぶ貴重)なものなのか、等に注意すべきだし、それらを支える農家へのケアをきちんとしなきゃ、になる。 「安くて旨けりゃなんでもいい(もってこい)は絶対ちがうし、やってはならんし。


このプログラムの他の2本 – “Fish of Empire” (2025), “Suddenly This Overview” (2026)も、小さな、でもどこかで目にとまったような場所や地点から戦時の記憶や歴史を掘り下げていって、それが今も物理的にそこにある、自分の足場と共振していることを示すものだった。過去や歴史は、常にどんなとこにでも、地理的に消滅したりしない限りいくらでもある - 見えない(or 見たくないから見ない)状態になっているだけ – を表に出すこと。映像表現とは。


Purée (2020)

それまで手掴みで、手で掴めるものをそのまま口に運んでがしがし食べたりしていた料理が、17世紀フランスで登場した「ピュレ」によって、どんなふうに変わり、その後のなにを変えていったのか、を実際にピュレを調理していく(顔は映らないが監督本人がやっているって)過程の映像– ふつうの料理の煮る焼く蒸す、とはちょっと違う実験みたいに見える - を通して調理すること、食べること、そのありようがどんなふうに変わっていったのか。

から始まって、作る人食べる人、作らせる人(権力側、富裕層)の構造や段差、それを支えた組織や共同体とその変遷まで文献を掘ったりしながら。 ピュレもムースもシロップもお粥もポリッジも豆腐もソフトクリームでも、うまうま、ってなんでも口にしてあんま咀嚼せずに食べてるけど、口のなかでもぐもぐ飲みこんでりゃいいってもんじゃないのよ。ちょっとは考えろ、実はそこにはこんなにもいろんな歴史や労働や権力がなだれ込んできて、ここから広がるなにかを示してくれる。 目をつむって口に入れたピュレ状のなにかが、口内で解けて広がって、これは何だなんの風味だ?って1000のスレッドが自動で立ち上がっていくのと同じように。


Translation Zone (2019)

実際に調理場でチャーハンを作りながら(最後のいただきまーす、まで)、料理のレシピや料理用語がどんなふうに翻訳されたり、あるいは食材そのものがどう代用されたりすり替えられたりして、その結果として「料理」が変容して(あるいは「定番化」して)きたのかをミクロにマクロに、その”Zone”の幅も含めて追っていって、例の「おいしけりゃなんでも..」というのとは異なる料理に向かう態度のようなものを考えさせる。 

海外にいたので、現地の食材を使って現地の料理をどこまで「らしく」作れるか、とか日本の料理を現地の食材を使ってどこまで「らしく」作れるか、その「らしさ」はどこまで(だれが?)許容できるものなのか、等については相当試行錯誤とか失敗とかした(とても楽しかった)ものだが、そういうことを数万、数千万人のレベルでやっていくこと、そこに貿易や現地の流通事情やコミュニティの情報交換などが関わったりして、こんなふうにして大なり小なりの「レシピ」はできあがっていくのだなー(これって政治に近いよね)とか。 同じ民族の同じ系の料理でもマジョリティとマイノリティでもこれって起こりうるよな、とか、なにをもってスタンダードはスタンダードになるのか、とか、考えがいくらでも広がっていく。のが楽しい。

のこり1本の『鮭になる』 (2024)は太い朴訥な線の手書きアニメーション(作画:山本悠)で、養殖場で寄生虫に感染した鮭と老人の、どちらも用なしとなった彼らの行く末を描いて、とても他人事ではないので、しょんぼりした。 少しだけDon Hertzfeldtのアニメを思いだしたり。

[film] The Gold Diggers (1983)

8月22日、土曜日の午後、ユーロスペースで見ました。

個人的にはこの夏の最大映画イベント。80年代初のロンドンの空気を見事に切り取った女性映画監督ふたりによる2本。なんで今なのか、はよくわかんないけど、それでも必見。BFIのマークが見えるだけでうれしい。

監督はSally Potter、これが彼女の長編映画デビュー作。脚本はSally Potter, Lindsay Cooper, Rose Englishの共同、音楽はHenry CowのLindsay Cooper、撮影は”Jeanne Dielman, 23 quai du Commerce, 1080 Bruxelles” (1975)を始め、Chantal Akerman作品を手がけたBabette Mangolte、全スタッフが女性による作品。 (ちなみに同じ頃のアメリカだと、Susan Seidelmanの”Desperately Seeking Susan” (1985)もすべて女性スタッフによるもの)

Sally Potterその人については、この翌日にユーロスペースでトークもあったようなので、よいか。
音楽面でも今回のサントラで1曲歌っているし、Fred Frithとの共演などもあるし、ソロを2作出しているし、実弟はVDGGのNic Potterだし、70~80年代の英国左翼音楽のど真ん中にいた(いる)人でもあるの。

元ネタ(のひとつ)はMervyn LeRoy監督、Busby Berkeley振付によるアメリカ映画“Gold Diggers of 1933” (1933)と見ることもできて、大恐慌の最中のアメリカで、あるところにはあるはずのお金を富裕層からふんだくろうと金策に駆け回った女性たちの姿を描いたあれから丁度50年後、やはり景気がよくないイギリスで、ふんだくるもなにも、そもそもお金の起源と流通、金づるはどこに? を女優のRuby (Julie Christie)、でっかいコンピューターのオペレーターCeleste (Colette Laffont)の女性ふたりの眼と行動を通して、政治、経済、地勢、ジェンダー、エンターテインメントなどの観点から暴きたてて世界をぐるりと掘って見渡す政治経済アドベンチャー映画なの。

これらを氷河が横たわるアイスランドの台地から現代ロンドンのコンピュータールーム~劇場までを繋いで、金を掘ったり追ったりしていく者たちの様々なイメージと足跡を結んで懲りない滅びない星座として描きだす。

さらにこのありさまを金を掘ったり追ったりする者たちの汗と涙の狂騒のなかに刻むのではなく、あんたら何やってんの?いつまでもご苦労なこった、というしらーっとした目で突き放す。そういう時のJulie ChristieとColette Laffontの顔、馬に乗って去っていく姿がしらじらとかっこいいったらないの。


Nightshift (1981)

8月23日、日曜日の晩、ユーロスペースで見ました。

監督はRobina Rose、作は舞台となったPortobello Hotelで実際に夜勤していたRobina RoseとNicola Lane、撮影は当時Robinaとパートナー関係にあったJon Jost(ちょっとだけ顔も出す)、音楽はPenguin Cafe OrchestraのSimon Jeffes、など。

ロンドンのNotting Hill - 最初にジャマイカ系移民が入って、世界で最初のサウンドシステムが組まれて、最初期のパンクが鳴らされたグラウンド・ゼロの近くに建つPortobello Hotel(まだホテルとして稼働中)の玄関口に16mmカメラを添えて、フロントで夜勤する女性(Jordan / Pamela Rooke)と彼女の傍らを行き来していく夜の人々の生態(& 変態)を、獣道を抜けていく夜の動物たちのように捕らえて見ているだけでたまんない。これは大昔にBFIで見たことがあって、何度見てもとにかく飽きないの。

同様の変な人々の巣窟としてのホテルとしては、NYのChelsea Hotelが有名だが、あちらの「ほらほら見て見て」の騒々しさ、顕示欲の塊とは全く異なる、海の底の静けさと巻きあげられた泥の滑らかな軌跡が残像のように残る。そこに静かに浮かぶJordanの能面の無表情が怖さと妙な安心感の両方をくれる。奥/裏の方に引き摺りこまれるような禍々しさは感じられない。(いや。ああいう手動リフトの付いたフラットにずっと住んでいたことがあったので、単に落ち着くだけなのかも、と後で思った)

定住する場所ではないホテルで、人はパーティの支度をしたり、帰ってきて横になったり、パーティや仕事の続きをやったりする。なんにしても寝る以外ではせいぜい2~3時間くらいの勝負で歓んだり悲しんだりして、朝になると出ていく。 そこにやってくる人たちのために寝ないで働いた人たちが迎える朝とは。

クラブやパンクで華々しく騒々しい表とは別に、静かで淫靡でどこか歪んだ洞窟と繋がったこんな空間は確かにあって、しかしこれもまた紛れもなくシーンの一部だった。Penguin Cafeもおそらくそんな場所にあった。

これの併映はDerek Jarmanの”Jubilee” (1978)でもよかったかも。Jordanの異なるもう一つの顔を見ることができるし。音楽もBrian Eno(Penguin Cafeの元締め)だし。

[film] The Drama (2026)

8月22日、土曜日の昼、ヒューマントラストシネマの渋谷で見ました。 邦題は『ドラマなふたり』。

監督はノルウェーのKristoffer Borgli。 ベースはカップルの会話(&心理)劇で、物理的な流血はそんなにないものの、神経を無駄に刺して引っ張って逆撫でしてくるあたりはやっぱりA24かも。 以下、ネタばれっぽいところも含む。

Charlie (Robert Pattinson)はイギリスから来てNYのCambridge Art Museum(もちろんそんなの存在しない)でキュレーターを務めていて、ある日カフェでひとり読書をしていたEmma (Zendaya)を見かけて、話しかけるために、彼女が読んでいた本をサーチして、その本いいよね、って声をかけて、そこで彼女は片耳が聞こえないことがわかり、ちょっとばたばたするのだが、それをきっかけに仲良くなって、一緒に暮らし始めて、結婚するところまでくる。 この出会いのなんてことはないやりとりが、結構血圧がきゅーってあがるかんじで撮られていて、この後の流れを象徴していたような。 

結婚式が近づいて、ふたりは親友のRachel (Alana Haim)とMike (Mamoudou Athie)とディナーをして、そのテーブルで、これまでに自分がした一番ひどいことを暴露してみよう、というのを始めて、Emmaは14歳のとき、父親の持っていたライフルを使って学校で銃乱射事件をしようとしたけど、実行には移せなかった、という話をする。 それはいくらなんでもひどすぎる、シャレにならん、一体どういうこと? って一同震えて、回想シーンも入って掘り下げていくと、校内でいじめられっ子だった彼女はそんな日々にブチ切れて計画を立ててひとり射撃の訓練とかも始めて、そのせいで片耳が聞こえなくなった。いよいよ実行まで行こうとしたとき、地元のショッピングモールでリアル乱射事件が起こって友人が犠牲となり計画はなくなって、彼女は銃規制派のほうに転じることになった、と。

今はもう大丈夫だから、というEmmaを他の3人も信じてくれる、というのは甘くてそうもいかなくて、そこまで思いつめて銃を手にしようと思った人が、そう簡単に - 後で規制派に転じたとは言え、いや簡単に転じてしまったが故に- 彼女のことを信じられるだろうか、って特に花嫁の付き添い人をするはずだったRachelは敵意を顕わにするようになり、もちろんCharlieも、がたがたに揺れ始めて神経症のようになり、オフィスの秘書とひと悶着起こしてしまったり、それでもとにかく結婚式を吹っ飛ばすところまではいかずに当日を迎える。

従来のハリウッドの結婚式コメディにもよくあったような、直前にいろんな不安が湧いてでてじたばた、の体裁をとりつつ、ここに銃乱射事件という誰もが目を背けたい「現実」を繋ぐことで、全体をホラーに近い心理的な極限状態に引き摺りこむ – ここで焦点があてられているのは『ドラマなふたり』というよりは、ドラマのありようそのものだとも思うのだが – そんな試みで、あなたの婚約者が突然こんなことを言い出したら... って挑発してくるような。その挑発の仕方、作法って流血ホラーのそれとどんなふうに違うのか同じなのか。

たぶん、結局のところ、いや大丈夫だから、って大抵のひとはなると思うのだが、そんなのは自分で自分を騙しているだけで、本当はぜんぜん大丈夫だなんて言えない、妄想で銃を手にとってバリバリ、なんて妄想であればいくらでもある、その手前までの人だっているだろうし、そこでなんで踏みとどまれているかなんて、単なる環境に恵まれているだけなのかもしれないし。でもそこに求める安心て、そもそもなに? などなど。

というぐるぐるに囚われて従来であれば狭くてみみっちいやつ、として蔑まれそうな男(像)、を”Die My Love” (2025)に続いて、いや消費され続けるゴミ男、にまでスコープを延ばせば”Mickey 17” (2025)の頃から演じ続けているRobert Pattinsonはすごいなー、って思った。

ラスト、やっぱりRachelは銃を手にして… になったら最高だったのに。”One Battle After Another” (2025)の時と同様、Alana Haimはあっさり。

あと、NYの美術館の上級キュレーターで、マンハッタンのタウンハウスに住んでいるような男が、若い頃とは言えあんなふうにカフェでナンパしてどぎまぎしたりするものだろうか、とか。