12.31.2019

[log] 年のおわりに

気がつけば振り向けば1年の最後の日になっていましたどうしよう、と書いて嘆いてあたふたしてみせるけど実はなんにもしない、そういうお約束のいちにちが今年もやってまいりました。

.. という昨年の文言をそっくりそのままコピーするだけで反省しないし進化もないしなんのためにこの一年は、とか愚痴悪態をついてばかりのしょうもない一日が今年もやってまいりました。

この12月はなんだかとっても慌ただしくて、11月末のロシア行きがなにかを後ろに押してしまったせいもあるのだろうが、月のまんなかに仕事でドイツに行ってクリスマスの前にパリに行って2日あけてローマに行って29日に戻ってきても頭とか目が錆びたように重くて、今日はなんにも片付かないし片付けるつもりもないそういう1日で、それは片付けるべき山がどれくらいあるのかを振り返ることすらしない - 目の前にいっぱい積まれて傾いたりしているやつもあるのに目を合わせようともしない、なんか自然現象のように書いているけどただのやる気の問題として、とにかくどうしようもないんですけどどうしましょう、って(きみはそれを誰に向かって言おうとしている?)。

とにかくこちらに来て3回目の年のおわりを迎えることができて、本来であれば2年契約のアパートの契約更改時期だったので新しいところに越してもう少し空間に余裕のある快適な暮らしを、のはずだったのだが新しいところを見つけて契約改めて引っ越して、それらを実行する時間とかお金とか体力とか、そういうのは映画とかライブとか古本とか旅行とかに使ったほうがよいのではないか、と思ってしまったので 昨年末であれこれ諦めていたゴミの山の上に、さらにいろいろ積まれて重なってしまった今があって、なんども言うように、これは自分がどうしようもなくだめでそれをこうして認めているのだからいいじゃんか、と誰に向かって言っているのだかわからないあれこれを相変わらず。

昨日、Neil Innesの訃報を聞いて、え? 9月の”The Rutles: All You Need Is Cash” (1978)のトークではふつうにお喋りしてくれたのに、というのも、昔ほどには驚かなくなった。明日にはどうなるかわからないんだな、って。とても悲しいことには変わりないけど。

大晦日、今年最後にみた映画はBloomsburyでのBi Ganの”Long Day's Journey into Night” (2018)だった。
あーそうか、今がまさにそれだわ、よくわかんない夜の微睡みのなかにあるんだわ、とも思った。 

新元号なんてほんっとどうでもいいしあんなに嫌がっていたBrexitもオリンピックも来年は始まってしまいそうなその向こうで、しぬほど嫌いな日本の首相も英国の首相も米国の大統領もあーんなにゴミより臭くて耐えられない腐臭の群を放っているのに、そのままに放置されて存続しているってどういうことだ、って、こいつらを一網打尽にして宇宙の果てに塵ゴミとしてぶっとばすことはできないものか、っていうのはいつも思いながら、でもゴキブリみたいにいるねえ、あの連中。

家のなかがこんなで、世の中もあんなで、あれこれそんなふうだからとにかく自分を維持して朝起きあがるのが精一杯で来年も持ち堪えられるかどうか、くらいなので、ごちゃごちゃ言わないで新しい年に行ってしまおう、って。

でもとにかく、まわりの人みんなによいことがありますように。
自分には - 敗けたり失ったりは常態だったとしても - 少なくともよい出会い - 本でも映画でも音楽でも人でも - があって生き延びることができますようにー。

[log] Paris

21-23の土・日・月でパリに行ってきました。 昨年もやった気がするクリスマス前の買い出し、と言いつつあれこれうろうろする(したい)だけのアレ、だったのだが、今回は交通スト、という新たな試練が眼前に立ちはだかって電車(Eurostar)も止まるんじゃないか、という懸念もあり、でもなんとか向こう岸に到達することはできそうで、それなら、行けるのであればとりあえず行ってみて、どんなもんか見てみるのもおもしろいんじゃないか程度で - とにかくその、石橋が崩れているのに見ようとしないで渡って落ちて泣く、っていいかげんやめたら? - だったのだが、とにかく行って、予定していたモノたちをしがみつくように見たりして戻ってきた。

全体の状況がどんなふうだったかと言うと、地下鉄は半端な2路線くらいしか動いていなくて、バスは間引きされてのろのろなのでいつでもどこでもぱんぱん、人々の移動は車になるのでタクシーはちっとも捕まらないし交通渋滞がひどい、という悪循環に嵌っている - なのでどこに行くにもだいたいいつもの2〜3倍の時間がかかるし、それなら歩いたほうがまだまし、なのだがお天気はぐずぐずの風ぼうぼう、こんなときはこたつでごろごろ本でも読むのがふつうのヒトのただしい営みというもの。

Degas at the Opera

21日の午前、Eurostarでパリ北駅に着いて、地下鉄ではない普通の電車とバスを乗り継いでホテルに入り、お昼を食べた後にMusée d'Orsayで見た。 チケット売り場はがらがらだった。

ドガの踊り子(っていう言い方、なんかよくないんじゃないの? ダンサーでいいよね)のシリーズって寄せ集め展覧会とかコレクションとかに2-3点混じっているだけだとちっとも面白いと思えない(ドガに限らず大抵そうよね)のだが、今回のようにバレエを中心とした舞台芸術に向かう人々の動きとかシルエットとか色模様とか、それらが固まって連なって並んでいるとドガが捕まえようとしていた瞬間と空間がよくわかるのだった。

あと、なんといっても入ってすぐのところに展示されたオペラ座ガルニエ宮のでっかい断面模型。緞帳とか地下とかミルフィーユ並みに細かくて、我々が客席から見ているのはそのほんの一層、ひらひらの瞬間だけなのだな、って。

Huysmans Art Critic : From Degas to Grünewald, in the Eye of Francesco Vezzoli

ドガの展示の反対側でやっていた。
ユイスマンス - Joris-Karl Huysmans - といえば『さかしま』に代表されるデカダン文学作家なのだが、もともとはまじめな官吏だったし、ここでは彼の目や文章が当時のアートシーンにCriticとして与えた影響・果たした役割にフォーカスして、彼の周辺にあった画家や作家の作品を集めてある。
ドガにマネにピサロ、カイユボット、ルドン、ナダールが撮ったボードレール、ヴァレリーの肖像、などなど。 ゾラあたりからの自然主義が「近代」の立ちあがりと共にぐんにゃりと歪んでいびつな影や闇がまぶされていくその像を視覚的に追っていくことができるよい展示だった。

Paris by Mouth

パリの現地レストラン情報を載っけている英語のサイト、”Paris by Mouth”は日本語によるレストラン情報よりも役に立つことがあってよく参考にしているのだが、ここが少人数でのWalking tourをやっていて、それがNY times紙の36hoursのシリーズで紹介されたりしたのでいつも人気で売り切れていて、今回は空いていそうだったので参加してみることにした。 パリで初めて参加するツアー。
地域(St Germain, Left Bank, Marais)の特徴的な食材屋をまわる”Taste of ..”のシリーズとか、フランスのCheeseとWineに的を絞ったワークショップとかもあるのだが、今回は”Taste of St Germain”ていうコース。

ストの影響でキャンセルが結構あったらしいのだが無事決行された。16時にRue de Bacの駅前に集合して、歩いて肉屋、チョコレート屋、パティスリーにパン屋、バゲットにチーズにワイン屋を巡っていく(事前に店には通知してあるみたい)。単にそのお店をおいしいよー、って紹介するだけでなく、なんでここがおいしいのか、をその場所やオーナーの歴史(ときにはパリの街の歴史や成り立ち)も込みで説明してくれるのでなるほどねー、だし、最後にはワイン屋の2階のスペースでそれぞれのお店で買っておいた食材を切り分けて、ワイン屋のワイン3本と一緒にテイスティングしつつ復習してくれて、中でもチーズとワインは壁に貼ってあるフランスの地図を指差しながらなかなか深いところまで教えてくれた。

ガイドの女性も参加した人たち - 6人くらい -もみんなアメリカの人たちでやっぱしアメリカ英語、わかりやすいよなー、って泣きそうなくらい嬉しくなったり、現在のストの背景とフランスの政治状勢 - 今後の展望について、とっても今のアメリカン・リベラルの目線が入った政治の話も入って(うんうん)、あっという間の3時間半だった。

Eiffel Tower

パリに行ってまだ凱旋門もきちんと見ていないしエッフェル塔も昇ったことがないというのはいいの?  だったので22日の午前にやっと昇ることができた。 朝から雨が断続的に降って風が強くて天辺には行けなかったのだが眺めはすばらしいし鉄模様も素敵だし、あーパリなんだわ、って。

自分の世代ってなんでか東京タワーに思い入れるひとが結構多い気がするのだが、わたしは東京タワーにはそんな来なくて、でもエッフェル塔はとっても好きになりつつある。 なんかかっこいいかも、って。 あとで凱旋門もちゃんと見ることができて、観光レベルがあがった気がした。

Charlotte Perriand: Inventing a New World

22日の午後、Frank Gehry設計の、あのLouis Vuitton Foundationで見ました。
(家具でも空間でも建物でもなんでも)デザイナーのシャルロット・ペリアン(1903-1999)の、フロア全部使ったものすごくでっかい回顧展。 20世紀のデザインの歴史に興味があったり勉強したりしているひとは必見。”Inventing a New World”とは、それをデザインで実現するというのは例えばどういうことなのか、絵画、彫刻、写真、自然、東洋、政治、教育、ジェンダー、彼女の活動を通してそれらがどんなふうに渦を巻いて形を作っていったのか、などなどをその途方もないエネルギーも込みで俯瞰することができる。

他のアーティストではル・コルビュジエとフェルナン・レジェとの生涯を通じたでっかい作品がところどころに置いてあって、そういえば彼らも生活における形 - 特に丸み - を追求していった人たちだったねえ。
政治活動との関わりでいうと、でっかい壁一面(これでも縮小版レプリカだそう)を使ったコラージュ作品 - 1936年の“La grande misère de Paris” - “The Great Poverty of Paris”の勢いがすごい。 出発点付近にはこういう怒りがあったりする、と。

日本との関わりというと、髙島屋での『選択・伝統・創造』展のポスターとか、蚊帳とか畳とかイサム・ノグチのランプとか。

あとは屋上まで出てFrank Gehryによる建物も見て眺めて触ってみる。ブローニュの森の端っこにこんな建物があるのってどうなのかしら? 帰りに夕暮れの森を歩いて抜けてみたけど、ほんとうにただの森(そこがたまんない)だったしねえ。

最終日の23日の半分は買い出しなので、午前中の買い物場近辺のをいくつかうろうろしただけ。

Musée de Cluny  国立中世美術館

『貴婦人と一角獣』に再会したかった。 中世のいろんなのもちゃんと勉強しないと、そろそろ絵を見て回ってもきつくなってきたねえ、やらないとねえ、と改めて。

ここで近くのShakespeare and Companyに寄って古本ふたつ買った。

Église Saint-Sulpice サン=シュルピス教会

ドラクロアがその壁に描いた - “Jacob Wrestling with the Angel” - “Heliodorus Driven from the Temple” - とその天井に描いた”Saint Michael Vanquishing the Demon”を見る。
絵はすばらしいのだが、教会全体の佇まいからはちょっと浮いているのではないか。

Du Douanier Rousseau à Séraphine: Les grands maîtres naïfs

23日の午後。Musée Maillolで、日本語だと「ルソーからセラフィーヌまで:素朴派の巨匠たち」。アンリ・ルソー、セラフィーヌ・ルイの他には、カミーユ・ボンボワ、ルネ・ランベール、アンドレ・ボーシャン、ルイ・ヴィヴァンなどなど。

昔からnaïfs - Naïve Art - 素朴派、あるいはアウトサイダー・アートでもよいけど、昔からあるこの括り(そして昔からあるこの議論)ってどうなのか。正規の西洋美術の教育とか誰かの弟子としての訓練とか薫陶を受けていない、とか「アウトサイダー」とか、これってたんなる批評(界)とか画壇が勝手に作りだした枠だよね、だってひとつひとつこんなにも全然ちがうし。ちがって当然のものだし。

セラフィーヌ・ルイを纏めて見れたのはよかったし、メインビジュアルになっているカミーユ・ボンボワも素敵ったらない。

こんなもんかしら。 じつはパリにはやり残したことがあって..

[theatre] Translations

16日、月曜日の晩、National Theatre内のOlivier Theatreで見ました。
ここの隣にあるBFIには学校のように会社のようにほぼ毎日のように通っているのに、こちらに来たことは未だなかった。 ので、ようやく来れてうれしかった。

アイルランドの劇作家Brian Friel の原作をIan Ricksonが演出したもの。事前の予習とか一切しないで見てみる。

19世紀初、地の果てのようなところにあるアイルランドの田舎の村Donegalの台地にHedge School - 当時アイルランドの田舎のコミュニティ毎に作られた言葉 - ラテン語とかギリシャ語とか英語とか - を学んだりする非認可の学校 - で、先生のManus (Seamus O'Hara)と、老いてぼろぼろのJimmy Jack (Dermot Crowley)とかうまく喋れないSarah (Liadán Dunlea)とかMaire (Sarah Madigan)とか個性たっぷりの生徒たちがいて、堂々とした校長のHugh (Ciarán Hinds)がいて、都会のダブリンから戻ってきた息子のOwen (Fra Fee)も来て、みんなでわいわい楽しく授業をしていると、英国軍の兵士が現れ、Owenを通訳にして、この辺一帯の地図を作りたいので協力するように、という。

英国の兵士たちは彼らがSchoolで英語を学んでいることも知らず、彼らの喋る言葉は通じないと思いこんでいて、そのやりとりがなんか滑稽なのだが、その辺からだんだん明るみにでてくる彼らの企てとは。

やがて地図を作るために駐留している英国軍のYolland中尉 (Jack Bardoe)とMarieが恋に落ちて、そのタイミングで、英国による植民地支配に向けた企みが明らかとなり、言葉の通訳 - 地名の翻訳から始まったふたつの国の関係は突然天地がひっくり返って、向こうからどす黒い恐怖が。

日々自分の国の言葉ではない言葉を使うところで暮らして、普段からこちらの映画を見たり音楽を聴いたり本を読んだりしているものとして、ものすごくいろんなことを考えさせてくれる演劇だった。 出発点は自分が慣れていない言葉を自分の言葉に変換してその文脈も含めて理解する、それだけのことなのだが、それはそれだけのことではない、例えば異文化や習慣の理解みたいなところ、そもそもそういうのって「理解」できるのか? という問いとのせめぎ合いとか、その風呂敷は習得の度合いに応じて常に大きく不透明になりがちで、それが国レベルで極大化すると侵略とか植民地化、のようなところまで行ってしまう気がする。アメリカが先住民に対して、英国がオーストラリアの先住民に対して、日本が沖縄や北海道の先住民に対してやってきたような。

翻訳って、やるやらないでいうと、やるべきだし必要なことだし、多くの可能性に満ちた作業だとは思うのだが、そこには常に翻訳をする者はどこのだれなのか、その対象(その選択)は、という問題(のようななにか)がつきまとうはずで、そこに万国共通とかスタンダード、のような理想(幻想)を持ちこもうとすると面倒なことになる。 なぜならそういうスタンダード - 汎化を持ち込もうとするのは常に「強者」に決まっているから or - とされてしまうから。 (英語教育は素人だけど、例の共通テストの件が滑稽なのは彼らの前提の置き方がどう考えても変 - 気持ちわるい - から)

コミュニケーションがすべての礎、MUST、それは正しいことなのかもしれないけど、どこからどこまで、の線引きをしておかないと、言語が死滅したり民族が絶滅することにもなりかねない、ということが19-20世紀(以降)の歴史にはあったし、あるよ。 コミュニケーションなんてやりたい奴が尻尾ふって旗ふって喜んでやっていればいいのよ。

(関係ないけど、最近よく言われる「ダイバーシティ」があんま信用ならないのは、すでに確立された単一性を前提とした物言いの匂いがぷんぷんするから。あえてそう言わなければならないくらいに傾いて歪んでしまった、ということなのだろうけど)

ということを考えていったときに、あのラストの風景には慄然とする。そうだよね、って。

こういう作品がジョイスやイェイツを生んだ国から出る、というのもおもしろいな。

12.25.2019

[film] The Belle of New York (1952)

15日、日曜日の午後、BFIのMusicals! 特集で見ました(この特集、ぜんぜん見れなかったよう)。
35mm、Technicolor dye transferプリントによる夢の1時間半 - 理想的な日曜日の午後。
日本では劇場公開はされていない?

MGM - Arthur Freedによって45年から企画はあって、でもキャスティングされていたJudy Garlandがリハーサルで降りてしまったので一旦頓挫して、それでもなんとか作りあげたやつ。Arthur Freedのなかでは”An American in Paris” (1951) や”Singin’ in the Rain” (1952)に並ぶものとしてあったものらしい。確かにシンプルで - ややシンプルすぎるかもだけど、わかりやすいし。

世紀の変わりめ(19→20ね)のNYで、成金プレイボーイのCharles Hill (Fred Astaire)は女性をひっかけては婚約して式直前にキャンセルして賠償ごめん、みたいのを繰り返しているので後見人のAunt Lettie (Marjorie Main)は嘆き悲しんでいるのだが、CharlesはAuntもよく知るSalvation Armyのバンドで歌っていたAngela (Vera-Ellen)に一目惚れして、Angelaを追っかけ始めるのだが、彼女はつれなくて、まずあなたはぷらぷらしていないでちゃんとした職につくべきです、って職安を指差したので、Charlesはいろんな仕事について、それらを歌って踊っててきとーにこなして、どんなもんだい、でめげなくて、とにかく彼女のことも歌と踊りでおっことす。

Charlesは恋に夢中になると空中浮遊してしまう特殊体質をもっていて、ふたりの恋がスパークすると、Angelaの方もふわっと浮かびあがってしまうので、とってもわかりやすくてよいの。(でもこれ、相手が浮かびあがってくれないとバカみたいでつらいな..)

場面ごとにころころ変わって行く衣装も素敵で、女性のがHelen Rose、男性のがGile Steele。

ミュージカルナンバーはJohnny Mercer(詞) - Harry Warren(曲)のコンビの軽く鼻歌調でふんふんできるのがよくて、Charlesが空中浮遊してWashington Squareのアーチの天辺で歌うのとか、砂を撒いてその上でスクラッチして踊るの(ヒップホップか)とか、Fred Astaireは撮影開始当時52歳で、とてもピークを過ぎていたとは思えない軽妙な楽しさがあるの。

あんなふうに恋愛のことだけ考えていられたら幸せだろうねえ、と思ったことだよ。

[film] Shooting the Mafia (2019)

14日、土曜日の午後、BFIで見ました。 これは最近リリースされたドキュメンタリー。

監督はこれまでいろんな女性(含. トランス)のドキュメンタリーを撮ってきたKim Longinottoさん。
イタリアのシシリーで、現在84歳になる写真家のLetizia Battagliaさんの過去からの活動を追ったもの。

今もカメラを手に街角に出ていく彼女は、いろんな人々が挨拶しに寄ってくる人気者なのだが、でも彼女を有名にしたのはマフィアに殺されて道端に横たわっているいろんな死体(子供のも)とか嘆き哀しむ家族とか、そういう暗くて痛切なイメージの写真で、彼女をそれらに向かわせたのはなんだったのか。

フィルムの前半は幸せで平穏な家庭に育った彼女が変質者を目撃したことから男性恐怖に陥って回復するまでに長い年月を要したこと、夏休みで人手がいなくて困っていた新聞社を手伝ったことからジャーナリズムの世界に足を突っ込み(当時のイタリアではほぼ最初の、だったという)、犯罪現場に取材に行っても女はひっこんでろ、の世界と戦いつつ40歳でカメラを手にして、始めは地元の家族や子供達を撮っていくうちにマフィアによる脅しや虐待、搾取が彼らの生活を沈黙の世界に押し込めていることを知り、より悲惨なマフィアの殺しの現場 - 彼らが奪っていったものと残されたものの悲しみ - にフォーカスしていくようになる。 といったことが彼女自身の口と、かつての恋人(複数)の証言から明らかにされる。

フィルムの後半は、マフィアの掟 - Code of Silence - に支配されていた世界を打ち破った80年代パレルモの「マフィア大裁判」 - 476人が裁かれた - とそこから90年代前半まで続いていく政府・市民とマフィアとの長くしんどい戦い - 92年、マフィア撲滅の先頭に立っていたファルコーネ判事 - ボルセリーノ判事の暗殺を経由して - を当時のニュースフィルムを繋いでいって、こうして市民は - 警察ではなく市民は - 勝利をもぎ取ったのだ、という経緯を描く。

彼女の活動と後半のパレルモの歴史がもう少しうまくリンクできれば、と思ったが、それでもこれはひとりの女性の意思が自分を変えて、人々になにかを訴えて、社会を変える力の一部になっていった、そういう流れにはなっているし、少なくとも黙っていてはいけないのだ、というメッセージは伝わってくると思った。 のと、彼女の恋人たち(いかにもイタリアの - )から語られる彼女自身のおおらかな強さしなやかさ - 自由、みたいのは見習いたいものだなー、って。

日本でも沈黙を強いられて魂を殺されてしまうケースが割と日常になっていると思うけど、こんなふうに変わっていけないものか、とか。

やっていることはぜんぜん違うのだが、彼女より7つ年上のAgnès Vardaさんのことを少し思った。
どちらも自分のやり方で自分のやりたいことをやって道を開いていった女性。

[music] MONO

14日、土曜日の晩、Barbican Hallで見ました。チケット発売は6月くらいで結構早くにSold outしていた。

これはMONOの20周年を祝う - 英国で祝う - アニバーサリーイベントで、関連イベントもあるらしく、チケットを買うときに、追加であと£15払えばその前の日のBorisとenvyのライブにも行けますよ、っていうので、え? そんなの行くに決まってるじゃん? て取った(あと、翌15日にもどこかでなんかやってた)。

前日の13日金曜日のはOval Spaceっていう結構でっかいスタンディングの小屋で、よいかんじで埋まってる。けど、ぜんぶで4バンド出るよ17:00 doorで17:20開始とかわけわかんない時間割で、でも場所も奥のほうの遠いところだったので19:00過ぎにようやく着いたら、envyはもう始まっていた。

envy - Boris - MONOというと、2011年に(今もやっているか不明だけど)”Leave Them All Behind”ていうイベントで3つとも見ていて、この時は順番が今回と真逆でMONO → Boris → envyだったのね。彼らの音って、メンバーが誰とかヒストリーとか、どのアルバムがとか、そういうのはほぼわからないのだが、結構聴きに行ったりしている。たぶんあのやかましさが日々の生命の維持には必要なの。

フロアの前方はぎっちりで、日本の人もいたみたいだけど、圧倒的にこっちの民がいっぱい、こんな冷たい雨の晩でも、クリスマスのパーティがぼこぼこやってくるこの季節でも、13日の金曜日でもやってくるような人たちなのだから、みんなほんとうに集中して音に浸っていた。

 envyは互いに反響しあう複数のギターの音が広がっていくかに見えて逆にねじ込まれるようにそれらが地面に叩きつけられて固化していくさまが気持ちよく、Borisは3人とは思えないぶっとい杭が大気中のすべての塵だの磁気だのを叩きつけた後に浮かびあがってくるなにかが荘厳でくすぐったくて、要はどちらも素敵だったのよ。

envyが終わったあと、物販の近くにいたので軽い気持ちで寄ってみたら日本の朝のラッシュ時のような(ややなつかしい)混雑に巻きこまれ、みんな熱心なんだねえ、って。 10inchのシングルだけ買った(みんな買っていたから)。

翌日、Barbicanでのライブは着席で年齢層は高め(日本人率薄め)、客席を見てそこから音を想像するのは難しそう。Barbicanのサイトには”MONO with The Platinum Anniversary Orchestra”とあり、バンドの機材(グランドピアノまである)の奥にはオーケストラのエリアがあり、もちろん指揮者まで出てくる。

前座のAlcest (とっても真面目なよいこの音)の後に登場したMONOは、想像していた出音以上にそのスケール(広がり)にびっくりする。 こういう音(ヘビィロックっていうの?)にオーケストラがくっついた時に容易に想像できそうな厚さ、重厚感というより、それらは当然のものとして、隅々までカラフルになっている - しょうもない言い方だけど、MONOがStereoに変貌して暴れまわっていた。

後半には背後のオーケストラの他にバンドの横にチェロ (2) が付いて引っ掻きまくる弦の粒度とダイナミズムが倍になっていて、気持ちいいったらない。

わたしは日本のバンドが海外でこんなに、のストーリーとかぜんぜん興味ないのだが、この”MONO”というバンドがこんなふうにステージ真ん中に小さく固まって愛想もふりまかず、でも周囲のオーケストラも含めてとてつもない音を雷神のようにごうごう放射し続けているのを見るのはなんかよい絵なのだった。(ストロボだけちょっとしんどかったけど)

12.24.2019

[film] Van Gogh (1991)

11日、水曜日の晩、BFIのMaurice Pialat特集で見ました。彼の作品にしては158分あって、結構長い。

今年はなんだかんだVincent van Gogh関連が続いた年で、春にはWillem Dafoe主演の”At Eternity's Gate” (2018)があり、Tate Britainで結構規模の大きな”Van Gogh and Britain”の展示があり、9月にはBFIでVincente Minnelli監督でKirk Douglasがゴッホを演じた “Lust for Life” (1956)を見ることができた。三つのそれぞれ全く異なるゴッホを見て、いろんな作風の初期作品も含めて見てみると、ゴッホに対する認識も改められることが多かった。で、Pialatのゴッホは相当違うねえ。

1890年 - Vincent van Gogh (Jacques Dutronc)は37歳で、Auvers-sur-Oiseで銃で撃たれたのか自分で撃ったのかで亡くなるまで、最後の67日間を追う。彼は列車でAuvers-sur-Oiseに着くと医師のGachet (Gérard Séty)のところを訪ねて診察してもらい、ま、こんなもんでしょう、みたいなことを言われて、旅館に宿を取って暮らし始めるのだが、いきなり筆を手にして狂ったように絵に打ち込んでばかりいるのかというとそうではなくて(そういうふうには描かれなくて)、穏やかで、そこらを歩いていそうな静かでちょっと変な人、くらいの印象でそこらにいる。

やがてGachetの娘のMarguerite (Alexandra London)と親密になって、でも彼は街の女達ともだらだら付き合ったりしていて、それは“Lust for Life”で描かれたような熱いゴッホ像とはぜんぜん違って(おそらく意識的にそうして)、精魂こめて絵に向かうというよりも、魂の抜けた状態で屋外に出ていっては絵筆を動かし(ここでの彼は絵を描くというより機械的に絵筆を動かしているだけのよう)、戻ってきてはうろうろを繰り返す。心配してやってくる弟Theo (Bernard Le Coq)の家族のあいだも基本構ってくれるな、なのでどうすることもできない。

それは『悪魔の陽の下に』(1987)でのDonissan神父のような、なにかに取り憑かれているかのような挙動で、もう先が見えているかんじもするのだが、でも異なるのはMargueriteとの関係で、これがあるからふたりでいるときの画面はとても穏やかで落ち着いている。といっても、通常の男女のそれというよりは、Margueriteがちょっかいを出しにきて、ゴッホが犬のように(時には乱暴に)応える、ようなものなのだが、なんかふたりでいるのがよいの。

と、もういっこは、La maison des bois (1971)で描かれたような昔のフランスの田舎の光景が極めてルノワール(パパのと息子のと両方)っぽく - ゴッホの映画なのに - 展開されていることで、これは見ていてひたすら快楽で、ゴッホはこの風景のなかにはいられなかったのだろうか、ということを思ったり。 彼の目は、ルノワール的な光や水のほうには向かわなかった、それらは彼の視野には入ってこなかった、ということなのかしら。

この映画のテーマは、Margueriteが最後にこちらに向かって言う一言に集約されている。
画業にすべてを捧げた天才でもなく、孤独で哀れな狂人でもなく ー。
そしてこれが、世のイメージとして語られるゴッホ像とどれだけ離れていたとしても、わたしにとってのゴッホはこれだわ、と思った。

[film] Star Wars: The Rise of Skywalker (2019)

19日の深夜、より正確には20日の0:30amにBFI IMAXで見ました。このシリーズの封切り(ep1以降)の際はこれまでずっとNYにわざわざ飛んで見てくるのが恒例だったのだが、今回のはなんかばたばた慌しくて、Londonでの初見やむなし、となった。 ネタはバレているかもしれないしいないかもしれないし。

この晩、これの前にはBFI Southbankの方で”Little Women”のPreviewがあり、膨らむ歓喜と共に終わったのが20時半過ぎ、一旦うちに帰ってなんか軽く食べて軽く寝て(でも寝れなくて)、23:30過ぎにWaterloo の方に向かった。終わってからどうやって帰るのかは、考えるのも面倒だったので白紙で。

78年に最初の1本- ep4を見て、これは米国では既に大ヒットしているのに日本では屑な配給会社のせい(日本の配給会社に対する不信と不満の根はこの頃から)で散々待たされ焦らされ、そのため公開された後には朝に映画館に入ったら一日中そこで見る - 当時は各回入替制なんてなかったから - ようなことをして50回くらいは見たはず。で、その頃からこのサーガの全体は3部 - 9エピソードから成ることはわかっていて、でも途中でルーカスの最後の3エピソードは作らない宣言もあったりしたので、まさか40年後にその最後の最後の1本を見ることができるとは。よく40年もぬくぬくダラダラ生きてこれたもんだわ。恥をしれ自分。

他方でこのファイナルを飾る作品に対する期待はとっても地味でlowで、なんでなのかな、と83年の”Return of the Jedi”の公開初日の晩- 新宿歌舞伎町のシアターで朝まで3回連続で見た - のヒステリックな熱狂を思い出したりしていた。

もうここまでのいろんな積み重ねと、前作”The Last Jedi”でLuke (Mark Hamill)が夕焼けにの向こうに消えてしまった後では、”Return of the Jedi”のラストにあったような爽快感なんて望めないし奇跡の大逆転なんてありえないしぜったい誰かが誰かのなんかの犠牲になって針の穴を抜けるような苦い勝利しかやってこないことはわかっていた。

それがこのサーガ全体を覆う暗い世界観 - 戦いに身を投じるものはみなダークサイドに堕ちたり直面したりして不吉で不幸な運命を辿る、という呪縛 - なのだし、ルーカスが最後の3つを一度は棄てた、というのもこの最後の落としどころに十分な確信を持てなかったからではないのか。

政治抗争の背後で揺れ動き翻弄される家族・血縁・結社の運命を描いた第一部、どん底の危機からならず者達を組織した反乱軍が新たな希望と共に奇跡的な勝利を収める第二部 - この部分がもっとも活劇の要素が大きい(ので最初に映画化した) - そしてそれでも揺り戻しつつ蘇る悪の亡霊たちとの止まない攻防のなか、試される者たちのドラマが描かれる第三部 - やっぱり最後のパートがもっとも地味で既視感に溢れてしまうのは仕方のないことなのかー。

というわけなので、どっちが勝ったからどう、とか、誰が生き残ったからどう、という筋の運びについては、スポーツのゲームではないのだし割とどうでもよくて、これまでの展開やキャラクターの造形から、ま、そうなんだろうな/こうなるよね、くらいで、いやそこはどう考えてもそっちじゃないのでは、というところはあんましなかったように思う。

ただいっこ、これはサーガ全体を通して言えることでもあると思うのだが、ルーカスも、今回のJJAにしても恋愛なんてどうでもいい、興味ゼロのなにかとして彼らの中にはあるようで、特に今回はその辺がなかなかしんどいかも。大昔の銀河系にはそもそもそんなもんなかった、としてしまえばよいのか。

あと、自分が誰であるのか、自分は誰の血を受け継ぐものなのか、その記憶や名前の喪失と獲得がテーマのひとつとしてあるよね。個の覚醒、といってしまえばそれまでだけど。

あと、Kylo Ren (Adam Driver)って、結局最後まで俺は最強だって大見得きりつつもあまりぱっとしない報われないかわいそうな位置に置かれていて、祖父はかつて帝国の支配者までやっていたのに、なんでかしらあんなことでよかったの? ていうあたり。次のはObi-Wanものになるらしいけど、そのうちKylo Ren の少年時代をRichard Linklater氏あたりに映画化してほしい。 なぜ”Ben”はKylo Renにならねばならなかったのか、を。

ラスト、タトゥイーンで自分の名前を名乗ったRey (Daisy Ridley)は、その一年後に父親のいない子供を産むことになるに違いない。こうしてサーガは反復 - 再生産されるのね。

12.21.2019

[film] Little Women (2019)

19日、木曜日の晩、BFIのPreviewで見ました。当然発売されたとたんに売り切れていた。
『若草物語』。 あの邦題にはShame on you! しかない。 Joが聞いたら顔を真っ赤にして怒るよ。

上映前のイントロでBFIの人から、今日はStar Warsの初日だというのにこちらに来られた皆さんは正しい選択をされましたね - すばらしい!て言われてみんな拍手をする。 これを見た4時間後にSWを見ることになっていたのでちょっと下を向いて体を縮めた。

Greta Gerwigの待望の新作。 前作 - デビュー作の”Lady Bird” (2017)はご近所コメディらしい手作り感が素敵だったが、今度のは原作がLouisa May Alcottのクラシック、サイレント時代から含めると計7回映画化されているど鉄板厚底ど真ん中の題材を、いけていようがいけていまいが、この世の中で女性である/女性として生きるというのはどういうことなのか、を自らのテーマのひとつとして考え、演じ、監督してきたGreta Gerwigがどう料理するのか、こんなのおもしろくならないわけがないの。

94年のGillian Armstrongによる映画化 – 4姉妹は上からTrini Alvarado - Winona Ryder - Kirsten Dunst - Claire Danes – のキャスティングは、当時としてはこれ以上ない完璧なやつとしか思えなかったのだが、あれから25年(..)経って、今回のキャストもやっぱしすごいよね伝説だよね、って思った。

冒頭は、Jo (Saoirse Ronan)がNYの出版エージェントの扉をくぐって偉そうなおやじに偉そうに原稿を添削されてもっと書いてみろ、ってはっぱかけられるところで、そこから先は7年前あたりとの間を行ったり来たりしながら、姉のMeg (Emma Watson)、下の妹Amy (Florence Pugh)、末の妹Beth (Eliza Scanlen)の4姉妹と、優しい母(Laura Dern)、ちょっと変わったAunt (Meryl Streep)の女性たちが笑って泣いて喧嘩して楽しく暮らしていて、そこに近所のMr. DashwoodとかLaurie (Timothée Chalamet)とかFriedrich (Louis Garrel)とかのメンズがいろんな角度から絡んでくる。 のをJoのお話しが読みたいな、っていうBethの思いに応えるかのように、ひとつひとつ丁寧に吹き出しとか脚注をいっぱい付けて綴っていく。

毎日そんなわいわい楽しいわけないじゃん、なのかも知れないけど映画では底抜けに楽しかった日々も底なしに悲しい時もみんなで一緒だったりふたりでいたりひとりで立っていたり、その瞬間を絵画の美しさ、小説の繊細さでもって近くから遠くから瑞々しく切り取ろうとする。絵画だとSorollaとかSargentとかWhistlerとか(NY Times紙のGreta Gerwigインタビューで名前が挙がったのはSeymour Joseph Guy, Winslow Homer, Lilly Martin Spencerといった19世紀中頃のアメリカの画家たち)。彼女たちの表情、動き、聞き取れない会話の端々に現れる秘密とか秘蹟、その瞬間が。

だからといって耽美なところばかり追った美術館になっているわけでもなくて、ところどころでバカが - だいたいオトコのまわりで - 紙風船のように炸裂したりする。JoとLaurieがダンスパーティが行われている館の外で手を取りあってとんちきな踊りをしてはしゃぐところの楽しさったらない。 (同NY Timesののインタビューで、このシーンはSNLのGilda RadnerとSteve Martinのバカ踊りからだって!)

過去の映画との繋がりは掘ればいくらでも出てくるだろうし、そもそもこの4姉妹のお話そのものがいろんな形で再生とリメークを繰り返してきているものだし、こういうのは永遠とか呼んでよいやつだと思う。

最後にJoの本が出来あがるとこは溜息しかない。本ていうのはその中身も含めてこんなふうに造られてひとりひとりの宝物になって抱きしめられるの。床に積まれていたって宝物なんだから。

Saoirse Ronanさんは改めて、何回でもいうけど、ほんとうにすごいわ。Mary Queenから「かもめ」のNinaからLittle Womenまで、そんなになんでも演じてしまえるものなの?
ここでのTimothée Chalametは、ぐにゃぐにゃとどこまでも得体が知れなくて、まるでVincent Macaigneみたいだなあ、って思った。Louis Garrelもいるしな。

音楽はAlexandre Desplatで、いつもながら凄腕の家具職人のような誂えっぷりがすごくて、Bethの柔らかいピアノの音にずっと寄り添いつつ、姉妹をダンスに誘う。

終わったら大拍手で、出てくる人みんなあったかそうな笑顔を浮かべていた。もう一回見るとおもう。
一旦おうちに戻って次のSWまで1時間くらい仮眠しようとしたのだが、なんかうれしくて全く眠れなかった。

12.18.2019

[film] Frozen II (2019)

10日、火曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。ふつうの2Dで。とっても空いてた。

前作は自身の特殊能力(氷屋)で妹を傷つけてしまったエルザが氷のお城に篭って、その後で仲よくしなきゃと元に戻る、戻っちゃうんだー(やや残念)っていうお話、だった気がする。

冒頭で姉妹の亡き父から、ふたりが聞いた北の北の方にある国で若い頃の父が経験したこと、等が語られる。そこには自分たちとぜんぜん違う民族がいたのだが、何が起こったのか突然土地も含めて深い霧の向こうにその姿を隠してしまったのだと。

ここから現在のエルザ (Idina Menzel)が自分にだけ頻繁に聞こえてくる高音の歌声のような声をなんだろ?と思っていると風が吹いてきて、彼女の国があれこれ機能停止のような状態になって、あの歌声だ!と勘づいたエルザは、妹とトナカイと雪だるまとぼんくら男 - の桃太郎みたいないつもの連中を連れて北の北の方に旅立つの。

そこから先は野を越え山を越えの困難に試練 - ほぼエルザにのみ降りかかってくる - があり、Avengersみたいな服で歯をくいしばってそれらを乗り越えてそ辿り着いてみたところにはー。

自分のパワーがなんで自分だけに? って悩んで自己と周囲を受け容れる過程が描かれたのが前作だったとすると、今作では、そのパワーがどこから来たどういうものだったのかが明らかにされて、その理由を知った彼女はアナ (Kristen Bell)にQueenの座を譲ってその土地に留まる決意をする。

社会化を経て自分の居場所を見つけてそこに落ち着く、という正しいヒトのミチをそのまま辿っているので、たぶん次は、自分のパワーはそもそもなんのために用いられるべきものだったのか、みたいな役割論ぽい話が出てくるのではないか。ディズニーだねえ。

これをもうちょっと民話伝承や歴史も踏まえて社会主義ぽくすると宮崎アニメにおける自然と民、みたいなのになる。 隠れ里とか、一帯を守っている石の魔神みたいのとか、波に逆らって立ち向かう女の子とか、ねえ。

でもなんでこういう映画ってみんな判で押したように Back to where you belong、になっちゃうのかねえ。おれはスナフキンでいい、ってギター1本でノラとして旅に出るのがかっこいいのに。

どうでもいいサイドストーリーとして、ぼんくら男がアナにプロポーズしたいでもできないが延々とあって、あまりにどうでもよすぎるのでかえってその意味を考えてしまったりするのだが、あれは単に例えばこういう生き方もあるんですよ、って示しているのかしら? あれなら”Ice Age”のシリーズでどんぐりを延々追い求めるリス(みたいなやつ)の方がよっぽど楽しいわ。

あと、「水には記憶がある」はやばいやつなのでおとぎ話に(おとぎ話ならなおのこと)導入したらやばいのではないか。 だって水に記憶はないもん。  記憶はないけど、水とか氷のビジュアルは美しくてものすごくお金かかっているかんじがすごい。

音楽は90’sバラードのパロディみたいのが流れて、エンドロールでそれのWeezer versionていうのが流れて、でもあんま笑えないとこがまた..

あのトカゲの子はもうちょっと大きくなるとドラゴンになって、次の3では”How to Train Your Dragon”のシリーズにマージされるのだと思う。 氷 → 水 → 火 (じゅぅ)。

12.17.2019

[film] Ponette (1996)

9日、月曜日の晩、BFIのMaurice Pialat特集で見ました。もうじき日本でも4Kレストア Blu-ray&DVDが発売されるらしいJacques Doillon監督作。

これは公開された当時 - まだJacques Doillonの名前くらいしか知らなかった頃にNYで見て(評判になっていたから)、こんなのかわいそうすぎるよう、ってぼろかすに泣いたことだけ思いだす。もう20年以上たって枯れたしだいじょうぶかも、と思って見てみたけどだめだった。 一応構えていたので前ほどではなかったけど。

Ponette (Victoire Thivisol)は交通事故でママを失ったところで、その横にいた彼女自身も怪我をしてギプスから出た指をしゃぶったりしていて、パパ (Xavier Beauvois)もつらくてたまらず、とにかくママはもう帰ってこないんだから頼むから泣くな、くらいしか言えなくて、いとこ達がいるおばさんのClaire (Claire Nebout)のところに彼女を預けて仕事でいなくなってしまう。 そのうちずっと大人が見ているわけではないBoarding Schoolにいとこと一緒に送られたPonetteは。

大人たちがいくらママの死を、もう戻ってこないの、もう会えないの、と語りかけてもPonetteにはわからない。まず死がどういうものなのか - 反対側のここにある生ですらどういうものかもわかっていないから、理解できなくて、だから大人たちが「死」という言葉を使ってこのことを説明しても、それはなんでママが自分の見える世界からいなくなって、突然自分と会えなくなってしまったのか、という問いには繋がらない(「神様」についても同様)。 なので今は無理かもしれないけどいつかどこかで会えるに違いないと信じているし、なんとかすれば、よいこにしていれば会えるはずなのだ、だってあたしのママなんだから、ママがこんなふうにあたしを捨てて消えてしまうなんてありえないし。

ここの純粋さは人間のそれというより忠犬ハチ公とか、動物の世界に近いやつの気がして、とにかく頑固で揺るがないのでいたたまれなくて、唯一なんとかできる道があるとしたら、ママがちゃんと言い聞かせることしかないのだな、と。 時間が解決してくれる、とか、しっかり言い聞かせれば、とかいうものではないの。「死」にしても「神」にしてもなにひとつとしてこの小さな子を救ってくれはしない(という大人の世界への批判)。 自分だって夏のお盆になればおじいちゃんは戻ってくるから、とかふつうに信じていたし、それのどこがいけないのか、なんでそれがありえないことだと言えるのか、誰も説明してくれなかったし。

Maurice Pialatの初期作品での子供たちの描き方もこれに近いかんじがして、デビュー作の”L'Enfance Nue” (1968)では孤児院から引き取られて悪いことばかりするFrançoisに対して、あるいは”La maison des bois” (1971)では疎開してきた母のいないHervéに対しても、単に手が付けられない困った子、というだけではなく、善い悪いとか、会える会えないの区別がつかない – それは教育、という仕込みで片付くようなことではなく、そういう子供たちはいるのだ。し、もちろんいてよいのだし、「大人」は彼らと共に生きていく必要があるのだと。こういう生や共生に関わる根源的な問い(あと、神? とか)を投げてくるところが今回のPialat特集に集められた90年代のフランス映画たちにはあるかんじがした。

ということをわかっていてもPonetteの泣き声と泣き顔はつらいわ。

12.14.2019

[talk] Phoebe Waller-Bridge - Fleabag: The Scriptures

もうなにもかも嫌になっているのだが、よくよく振り返ってみればそういう状態がずっと続いているし、それすらももう嫌になっているので、もうどうでもいいや。

8日、日曜日の晩、この日は昼から”Motherless Brooklyn”を見て、”The Cave”を見て、この世の中のすべてが嫌になった状態で、できれば布団被って泣いていたかったのだがそうもいかず(師走は慌しいよね)、SouthbankのRoyal Festival Hallで見ました。

Southbank Centreは毎年秋のLondon Literature Festival - 今年はBrett AndersonとかAnthony Daniels (C-3PO)とか、自分には未知の人が大勢 - を始めとしてトークのプログラムをいっぱいやっていて、ついこの前はHillary Rodham Clinton & Chelsea Clintonが出ていたし、丁度一年前はRoxane Gayが来ていたし、行きたいやつは割といっぱいある。 問題は自分が知っているくらいの有名度の作家だと、チケット発売日にがんばらないとすぐに売り切れてしまうことで、今回のこれもメンバー優先の発売当日にほぼ売り切れてしまい、公演直前に少しだけリリースされたのをなんとか拾いあげた。対話形式のトークだけだが、手話と字幕も付いている。

Phoebe Waller-BridgeさんのFleabagが日本ではどれくらい人気があるのかないのか、ちっともわからない(たぶんぜんぜん、ではないかしら?)のだが、英国ではエミー賞受賞後にさらに跳ねあがって、舞台版を収録したNational Theatre Liveはいまだにぽつぽつ上映されている – なぜかクリスマス映画特集の枠にも入っていたり。

ここにきて”Fleabag: The Scriptures”ていうハードカバーの聖書みたいな本 - トークでもあんたこれホテルの各部屋に置いてもらおうとしてるでしょ、って突っ込まれていた - がリリースされ、このトークはそれの販促もあると思うのだが、会場ではチケットを見せれば本を貰えるようになっていた。 買わないでおいてよかった。

トークの聞き手は”The Guilty Feminist”のDeborah Frances-Whiteさんで、ふたりは2011年の丁度この日(12/8)に初めて対面で出会ったのだそうな。
で、Phoebe Waller-BridgeさんがDeborahさんのやっていたコメディショーで10分のスタンダップのスケッチをやってみたらウケたので、今度はエジンバラ(Edinburgh Fringe festival)に持っていってみたらそこで爆発した、と。

日々の地下鉄や食堂や職場でひとりでボーっとしている時に見えたり出会ったり絡んだり絡まれたりするいろんなヒトやコトをグズグズだらだらいろんな妄想も含めて垂れ流し、その全体を自虐に落とすと見せかけてその手前で掬いあげ、こんなもんだけどそれがなにか? べつにいいよな? っていう。これが言いようのない破壊力と爽快感を呼ぶところがこの人の芸というか”Mind Your Own Business” (Delta 5)というか。

最初に話題に上ったのは、TV版の”Fleabag” – やっていたら見る、程度でしか見ていない - のSeries 2の終わりで、The Priest (Andrew Scott)が最後に言ったセリフについて – あれは友達とみんなで見ていたら全員が凍り付いたんだけど、あれってどういうことだったの? から。

Phoebe Waller-Bridgeさんの印象は思っていたとおりの、ものすごく考えて考えて考えてから書いているので、個々の質問に対する受け答えはクリアではっきりしていて、でもぜんぶ説明しきれるものではないのであわわ、ってなりそうになるとDeborahさんがそれってこういうことよね、って絶妙のフォローを入れる。

いっこ印象深かったのは、2011年から12年くらいにかけて、フェミニズムの動きに今のそれに繋がる大きな変化があって、それまでカウンターカルチャーに近い扱いだったところがより女性の生き方近くに寄ったかんじになって、Fleabagはその流れにはまったのでは? と。 彼女の答えはそこまでストレートなものではないがEveryday lifeに近いところで溜まったあれこれを出す、ってあたりは意識している、と。

今はFleabagのSeries 2の直後に思いついたプロジェクトに妹とふたりで掛かりきりになっていて、それが楽しくてしょうがない、と。 あと、次の007の映画にもちょっと関わっていて、脚本を少し滑らかにしたりとかそういうのをやっている、って(Daniel Craigとも会ったわよふふふん)。

みんなからの質問では、もう成功しちゃったからPizzaExpress(ロンドンでもUKでもそこらじゅうにあるピザのチェーンレストラン)とかには行かなくなっちゃったのでしょうか? と聞かれて、PizzaExpressは大好きだから行く、あそこに行くと誰も他人のことを気にしていないのがすばらしいのだ、と。 こんどPizzaExpress行ってみよう(まだ行ったことないの.. )。

12.12.2019

[film] The Cave (2019)

8日、日曜日の午後、”Motherless Brooklyn”の後に、Picturehouse Centralで見ました。

9月に見た”For Sama” (2019)と同様、市民への爆撃が続くシリアの医療の現場を取材したドキュメンタリー。
監督は、”Last Men in Aleppo” (2017)のFeras Fayyad。場所はダマスカス東にあるGhoutaで、冒頭、街の全景を映し出した静かな映像に突然ミサイルが3つ撃ち込まれて煙にまみれる。

これが日常なので常に怪我人が運び込まれてくる病院は、その地下にCaveと呼ばれるネットワーク状のトンネル穴を掘って深く広く張り巡らせて、子供たちをここに避難させるし、爆撃がひどくなると医師も患者もここに逃げられるようになっている。主人公はここの病院の責任者である医師Amaniで、フィルムの中での誕生会のシーンでは30歳、と言っているので少し驚くのだが、医師全員の選挙を通してきちんと選ばれているのだ - と、こんな女の医者になにができる?女は家で家事をやるもんだろ、といちゃもんをつけてきた男に男性の医師が説明したりする。 

飛行機の音がすると戦闘機? といちいち怯え、爆撃のたびに運び込まれてくる病人怪我人で床は血まみれで鳴き声叫び声が止まない、でも医師は冷静にならなきゃだし患者さんも落ち着いてね、とiPhoneでクラシックを流しながら手術をしていたり。

Amaniはいつも落ち着いていてもの静かなのだが飛行機の音で怯えるし涙もぽろぽろ流すし、戦争が終わったらマスカラ買うんだーとか言っていたり。彼女が誰もいない夜の通りをひとりで歩いていくシーンは本当に寂しそうでつらくて。

もう一人、料理担当の看護婦のおばちゃんがいて、彼女の料理の失敗成功 - 食材が乏しいから - が楽しくて少しだけ場が解れる。(”For Sama”にもそういう人がいた)

でもやはり病院は収容される人が増えれば食べ物も薬も足らなくなるし、衛生状態は悪化し、特にずっと暗いところにいる子供たちは栄養失調に..  など問題はいっぱい出てきて、最後の方に投下されるロシアの化学兵器のところは、恐怖しかない。「怪我をしていないのになんでそんなに苦しんでいるの?」から始まる地獄は、どんなホラー映画もふっとぶくらいにただ怖ろしい。

大人でも子供でも、人に対して(動物に対してだって)なんでそんなことができるのか。石を投げることだっておそろしいのに、鉄の塊とか爆弾とかで殺傷する、それでも足らずにナチスのガス室と同様のことをオープンエアでやる(人だけじゃない、犬も猫もみんな死んじゃうんだよ)。

見ていてとにかくつらいばかりだし、そんなの現地の人たちが見ているそれと比べられるものではないけど、これは見なければいけない。お金を払って見て、その内容を書いて広めて、少しでも映画を作った人のところに支援がいくように、日本のロシア寄り利権がこの地獄に加担していることを少しでも知ってもらうためにも。 日本もアメリカも既にじゅうぶん酷いものだしそこここにいろんな地獄が溢れている今の世の中でも、ここまで酷くて惨いのはないと思うし、アウシュヴィッツや原爆を経てもなおもこういうことは起こりうるのだ、ということ。

最後は”For Sama”と同様、これ以上ここにいることはできない、と病院を出ていくことになるのだが、出ていったから助かる、というものでもないし、こういう場所で病院がなくなる、ということはそこにはもう生はないのだ、と。

エンドロールで、映画の製作中に亡くなられたスタッフの名前(複数)も出てくる。 洞窟の奥からそこまでして届けられたなにかなのだと。  日本でも公開されますように。


UKの選挙、結果を見て吐きそう..  あーあ ...

[film] Sous le soleil de Satan (1987)

4日、水曜日の晩、BFIのMaurice Pialat特集で見ました。

英語題は”Under the Sun of Satan”、邦題は『悪魔の陽の下に』。原作は1926年のGeorges Bernanosの同名小説  。 カンヌのパルム・ドールを受賞している、誰に聞いてもPialatの代表作のひとつ、と言うであろう1本(かな)。

フランスの北のカレーにあるカトリック教会に若くて修行に励む司祭のDonissan (Gérard Depardieu)がいて、彼の上の司祭(Maurice Pialat)も一生懸命に彼を教育しようとするしDonissanもそれに応えてがんばるのだが、なにが悪いのかなにかが変なふうに捩れていって止めることができない。道端で悪魔と会って取引をして、恋人を殺してしまったMouchette (Sandrine Bonnaire)を救おうとするのだが彼女は自殺して、修道院で修行しなおして戻ってくると奇跡を起こしたりするのだが、それが誰の手によるものなのかわかっているので、悶々どんより疲れて亡くなっているところを発見されるの。

救いとはどういう状態をいうのか、救われさえすれば善も悪もどうでもよいのか、そこにおいて祈りとは、聖性とは、宗教者による規律とか修行とか宗教活動とはどういう意味を持つのか。 Bernanos作品を2本映画化しているRobert Bresson、あるいはIngmar Bergmanのように登場人物の会話や動作が宗教的なシンボルやその顕現に直結する – なので映画を通して神や悪魔の存在とかその意味について考えることができる - そういう描き方をしていないかんじがした。 

殺人も自殺も復活も、すべてはただ生と死の境目を超えて起こってしまった/起こってしまうことであり、そこに神や悪魔は、あるいはDonissanの修業や苦悶その成果は絡んでいるのかいないのか、神様仏様悪魔様などの実存(あんまいそうにない)も含めてよくわからなくて、それは信じている人にはかわいそうとしか言いようがないのだが、だってそうなんだからしょうがないよね、となる。

それがPialatの人の、人と人の間の行為を描くときの基本的な位置というか視座で、だから、かわいそうな人、とか嘆き悲しむ人とか、或いは向こうに遠ざかっていってしまう人、とかは出てくるものの、絶対的な悪とか善、そのありようが傷のようにして刻まれたり膿のように噴き出したりすることは最後までない気がする。どこまで行っても相対的な距離をとることがベースとしてあって、そこに彼の優しさをみるのか、厳しさをみるのかは人それぞれで。 ここまでPialatの作品を見てきて思うのはものすごい斑模様だけど(触らないけど見つめる)優しさがあって、同様の線で見てみるとR.W. Fassbinderはその辺がとても厳しくてきつい、とか。.. そんな気がする、くらいだけど。 (Serge Toubiana氏は”intimidation”(脅し)ではなく数少ない”remorse”(自責)の作家としてPialatを定義していて、その辺かも)

“Loulou“ (1980)でのGérard Depardieu、“À nos amours“(1983)でのSandrine Bonnaire、これらの映画で自由奔放の独尊で生きる主人公を演じていたふたりが、がんじがらめの宗教や愛に殉じる役を演じる、っていうところもなんだかおもしろい。どちらも我々が暮らしている世界の、すぐそこに生きている人たちなの。

12.10.2019

[film] Motherless Brooklyn (2019)

8日、日曜日の昼にPicturehouse Centralで見ました。Jonathan Lethem原作、Edward Norton監督・主演による探偵もの。今年のNYFFのClosing pieceとなった作品で、Opening – “The Irishman”、Centerpiece – “Marriage Story”と比べると上映後の反応がやや静かめだったので大丈夫かしら? だったのだがとてもおもしろかった。 “The Irishman”より好きかも。

舞台は原作の90年代から50年代のNYに移されて、結果探偵ノワールぽくなる。
トゥレット症候群と映像記憶を抱えているLionel Essrog (Edward Norton)は、彼と同僚3人を孤児院から拾いあげてくれたFrank Minna (Bruce Willis)の探偵事務所にいるのだが、ある日Frankとクライアントの駆け引きの場が紛糾して彼は車で連れ去られ、追っていったLionelの前で彼は撃たれて亡くなってしまう。

Frankへの恩に報いるため、彼のコートと帽子を被ったLionelは彼が何を調査していたのか誰とトラブルになっていたのかを追い始めて、Frankが出入りしていたハーレムのJazzクラブの女性Laura Rose (Gugu Mbatha-Raw)と彼女の属する市民グループ、彼らが抗議する先にいる市当局の大物Moses Randolph (Alec Baldwin) - 都市再開発の名の元に古い建物を荒っぽく巻きあげて隔離政策を進めようとしている - に行き当たり、Lauraの父Billy (Robert Wisdom)、Mosesに反発している弟Paul (Willem Dafoe)とも会って調べを進めていくときな臭いことがあれこれ起こって、Lionelもぶん殴られたり脅されたり駆け引きされたり。

Lionelには先天性の障害があって、思ったこと閃いたことがそのまま反射的に口に出てしまったりして、それが彼の捜査の進行に独特のリズムというか拍を持ちこんで、そこに50年代のハーレムのJazzが絡んでいくとやばさ気まずさ後ろめたさも含めたクールネスが際立って、(こういう言い方が正しいのかどうか、だけど)よいの。

ノワールとしてどうか、というと背後にある奴がでっかくて間抜けでみっともないので、そういうドラマにはあんまり向いていない題材だったかも。Alec Baldwinは彼のTrump芸をほぼそのままのように流していて、それが違和感なく整合してしまう。そういう時代、でいいのかしら? (Moses RandolphのモデルってRobert Mosesなのね。ふうむ)

感触としては、Wes Andersonの“The Grand Budapest Hotel” (2014)とか“Isle of Dogs” (2018)の辺りとか(俳優も結構重なっている)。Motherlessで傷を負った子供や犬達が過去の恩義を背負って大きな陰謀や歴史の流れに挑んだり「父親」に抗おうとするドラマ。 背景を50年代のNYに置いた作り込み感(高い場所とか隠し札とか)もこの辺を意識したのではないかしら。 原作があるのでしょうがないけど、もっと変な人がいっぱい出てきたり、マジック・リアリズム的な出来事が降ってきたりするともっとおもしろくなったかも。

という見方もできるし、”The Irishman”と同様にいまのアメリカ(の都市)はこんなふうにできていった – 表社会と裏社会のせめぎ合い - その対流を生んだ理念とか起源を辿る旅の映画、として見ることもできるのかもしれない。そういうテーマと時代を追ったものがなぜ今、というのは...

Thom YorkeとFleaによるテーマ曲はふつうにJazzしててよいのだが、Daniel Pembertonによるサントラも悪くないの。 こないだの“The Cool World“ (1963) のように、背後でずっとバンドが演奏していて切れ目になんか喋る、くらいでもよかったかも。

俳優はみんなうまいしアンサンブルも含めて申し分ない。けど、(これはWes Anderson映画でも感じることだが)基本的に男の(男の子の)世界の物語なんだよね。

12.09.2019

[film] N'oublie pas que tu vas mourir (1995)

7日、土曜日の夕方、BFIのMaurice Pialat特集で見ました。英語題は“Don't Forget You're Going to Die”。
”Les gardiennes” (2017) - “The Guardians” - 『田園の守り人たち』 - がすばらしかったXavier Beauvoisの監督/主演作で、同年のカンヌの審査員賞とジャン・ヴィゴ賞を受賞している。撮影はCaroline Champetier。
これ、ものすごくおもしろいのに日本公開はされていないの? 

大学で美術史を教えたりしているBenoit (Xavier Beauvois)はどん詰まりで精神科医(Pascal Bonitzer)から薬を貰ったりしているけどだめで、母(Bulle Ogier)も心配しているので軍隊に入ってみたりするが逆効果で馴染めなくて錯乱して、トイレで腕を切って自殺しようとしても失敗して病室で横になっていると医者が来て君はHIVウィルスに感染している、といわれる。それで自棄にドライブがかかって、警察に持っていかれた車を取り返そうとして留置場に送られ、そこでヤクの売人のOmar (Roschdy Zem)と知り合って仲良くなり、ヤクがもたらす快楽の世界にはまり込んでいく(変な着物を着たやくざの大親分役で先日亡くなったJean Douchetが..)。 深入りして更に稼ぐためにオランダにまで足を延ばしてそこそこの金を得るのだが親の顔を見たら恥ずかしくなってまた逃げて、ローマで絵を見ているとClaudia (Chiara Mastroianni)と出会って恋に落ちて、夢のような時間を過ごすのだがやっぱり無理、って電車に乗って国連軍が駐留している土地に行って軍に雇われて銃撃戦で突撃してしんじゃうの。

基本は先行きのどん詰まりとその少し先にはっきりと見えてしまった崖底の死があり、やけくそで落ちたり揚がったり錯綜した行動のありようは自閉してアンストッパブルになった「気狂いピエロ」のようでもある。

「どうせ死んじゃうんだってことを忘れるな」って言われたり自分に言い聞かせたりするとき、そこで取りうる行動は、周囲の迷惑を省みずにやりたい放題やるか、周囲から遠ざかって誰にも知られないところに消えるか、だと思うのだが、Benoitはそのバランスをうまくとって、顰蹙と内省を繰り返しながら時の経過と共にどんどん透明になっていくように見える。

彼が美術史の講義で、バイロン(の”Sardanapalus”(1821))を参照しつつドラクロアの”La Mort de Sardanapale” (1827-28)  - 『サルダナパールの死』の画面と色彩を通してロマン派における死を解説しながら、もうやってらんねーわ、ていうかんじで途中で止めてしまうところとか、なんかよくわかる。

そして同じ映画か、というくらいトーンが変わって陽の光に溢れるローマで紡がれていく生の瞬き、教会の絵もひまわりもパスタも、そしてClaudiaも、すべてが眩しくておいしくて、Benoitはあそこに浸ることでロマン派的な死の影から抜けだすことができて、自由を獲得できたのではないかしら。

音楽はJohn Cale。前半は静かなピアノソロで、ローマのシーンでは弦が全面に出てくる、その並走していくさまも素敵で。

あのフラットはJean Douchetさんの自宅なのかしら?

90年代初のHIVに感染した大学生、というと昨年見た”120 battements par minute“ (2017)が思い起こされるのだが、あの映画とはトーンも雰囲気もぜんぜんちがう。あたりまえかもだけど。

[film] Charlie's Angels (2019)

3日、火曜日の晩、Leicester Squareのシネコンで見ました。

監督・脚本は出演もしているElizabeth Banksさん。楽しそうに撮っているかんじ。
巷のレビューは全然よくなさそうなのだがElizabeth BanksだしKristen Stewartだし、見るよね。

冒頭が顔見世的なリオでの活劇で、このどんぱちをもっていろんなAngelsを育ててきたJohn Bosley (Patrick Stewart)は引退して、世界中にいるいろんなBosleyから祝福されている。(Bill Murrayでいいのに)

この時点でAngelsはSabina (Kristen Stewart)とMI6あがりのJane (Ella Balinska)のふたりで、Calistoっていう人類を壊滅させる可能性をもったやばいデバイスの行方を巡って大企業の悪い奴らと、それを開発したエンジニアのひとりElena (Naomi Scott) & Angelsとの間で駆け引きが始まるのだが、John Bosleyの後任のBosleyはすぐ殺されて、次のBosleyとして Rebekah Bosley (Elizabeth Banks)がきて、みんなで戦うの。それだけなの。 Mission Impossibleなかんじはあんまない。やりゃあいいんだろ、くらい。

70年代に始まったこのドラマはCharlieっていう顔の見えない司令官(男)とその命を受けた現場の指揮官Bosley(男)とその下で「男勝りの」活躍をするAngels、がいて、「女なのに」やるねえ痺れるねえ(鼻の下)、ていうのが伝統的な構図として延々あった気がするのだが、こんなのは今の時代には通用しねえんだよハゲ、っていうの。

Bosleyは世界中にいっぱい生息していて代替可能だし、Angelsにしてもそうだし、先代のAngels - Drew Barrymore, Cameron Diaz, Lucy Liuのトリオにあったような見て見て!の愛嬌みたいのはゼロなの。 Sabinaはずっとぶすっとして腹減ったーばっかり言っているし、Janeはトレーニングばっかりやっているし。ドラマは上に言われるままに技術を追っていたエンジニアのElenaがAngelsたちと接していく過程であたしもAngelsになって悪い奴らをやっつける! って目覚めるまでを描いていて、そういう女の子たち全員へのメッセージになっていて、それでぜんぜんよいし、もっとやっちゃえ、くらいに思った。

あとは、The Saintっていう007のQみたいなテクと癒し担当の男子がいて、執事というか下僕というかでなんでもケアしてくれるから、いいなーしかない。

Kristen Stewartは笑っちゃうくらいにKristen Stewartなので彼女のファンは必見。彼女の前職はPersonal Shopperだったんだって。

男性評論家どもはこんなの僕ら(こいつらがよく言う「僕ら」ってなんなの?だれ?)のエンジェルじゃない、とか言って酷い点を付けるのだろうが、構うもんか、シリーズにならないかもしれないけど、気にすんな、でよいと思う。

こないだTVでDrew Barrymore - Cameron Diaz - Lucy Liuの時代のをやっていたので久々に見てみたけど、これはこれで悪くないの。00年代のおめでたさバカバカしさがよくもわるくも全開(フルスロットル - フルスロットルが許された時代)で。

あと、夢企画としては、彼女たちとWild Speedの連中を戦わせてみたいな。

12.08.2019

[film] Romance on the High Seas (1948)

2日、月曜日の晩にBFIの”Musicals!”特集のなかでやっているDoris Day小特集、で見ました。 とってもきれいな35mm - Technicolor dye transferプリントでの上映。

英国での上映タイトルは劇中の挿入歌が既にヒットしていたので、”It's Magic”になっている。邦題は『洋上のロマンス』。
これがDoris Dayのデビュー作で、今回の特集では彼女の“Calamity Jane”(1953)のシンガロング上映とかもあって、これはどうしてなのかわからないけど、あっという間に売り切れていたり。

主演女優は、初めにMGMからJudy Garlandを借りようとしていたのだが、彼女は「個人的な事情」で出ることができず、次にBetty Huttonのところに行ったのだが、彼女はご懐妊していることがわかり、最後にバンドで歌っていた23歳のDoris Dayのところにオーディションの依頼が行ったそう。

冒頭は社交家Elvira (Janis Paige)と実業家Michael (Don DeFore)の結婚式で、互いにこいつそのうち浮気しそうだよな、て呟いたりしている。と、1回目のアニバーサリーの旅行も2回目のアニバーサリーの旅行も延期されたりキャンセルされたりで、3回目もか、と思ってElviraが彼のオフィスに行ってみるとMichaelはぱりっとした秘書と仲よさそうにしていて、そしたら案の定仕事の事情で延期とか言ってきたので、頭きた彼女は今度の旅行は自分ひとりで行くからって宣言して、NYに残ってこっそりMichaelを監視することにする。

というわけで、彼女はクラブで歌っていたGeorgia (Doris Day)をスカウトして、自分のなりすましとして南米へのクルーズに行ってほしい、費用は全部持つしお金もドレスもいくら使ってもいい(いいなー)けど、あたしの名前を使うんだからできるだけ部屋からは出ないで評判を落とすようなことはぜったいにしないでね、って。

他方で、Michaelの方も妻がひとりで旅行に行っちゃうなんておかしい誰か相手がいるに違いない、と私立探偵のPeter (Jack Carson)を雇ってクルーズ船に潜りこませて、妻 =実はGeorgia を監視するように依頼する。

こうして、豪華客船と停泊地のハバナ 〜 トリニダード 〜 リオと南の海をまたいでとんちんかんな監視・追跡劇が始まるのだが、そこに歌とダンスがあれば勝手に体が動いて歌いだすことを止められなくなる根っからの歌い手Georgiaと、彼女を監視対象として追っていたPeterが恋におちてしまい(互いにそれだけはぜったいやってはあかん、ってわかっている)、更にはクラブ時代からGeorgiaに想いを寄せていたピアノ弾きのOscar (Oscar Levant)も彼女を追っかけてきて、Peter→Michaelの、Georgia→Elviraの電話報告の様子がとってもあやしくめちゃくちゃになり、MichaelもElviraも別々に現地(リオ)に乗りこむことにしたものだから、クライマックスは関係者がぜんぶ揃ってなかなかとんでもない事態になる。もちろんハッピーエンドなの。

筋だけ書いていても十分おもしろいけど、これはミュージカルなので歌も踊りも楽しめて(ミュージカルパートの監督はBusby Berkeleyなんだよ)、船のバンドとか停泊地の楽隊に(言葉はわからなくても)Georgiaが寄っていって押したり引いたりしつつ緩やかに歌いだすところは素晴らしすぎるし、”It’s Magic”なんてタイトルそのままに見張っている探偵だって簡単に落ちてしまうのは当然。

彼女の歌のロマンティックな時には優しくゆるゆるに揺らしてとろけさせて、攻める時にはどーんとぶち込んでくる緩急がてんこ盛りで、デビューの頃からとうにDoris Dayなのだった。これじゃ人気でるよね。

12.07.2019

[film] The Nightingale (2018)

1日、日曜日の午後にCurzonのBloomsburyで見ました。

監督は“The Babadook” (2014)のJennifer Kentさんで、ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を受賞している。
”The Babadook”の数千倍こわくてきつくてどんよりする。

フィクションではあるが、Jennifer Kentさんは英国の植民地政策時代のタスマニアで原住民のアボリジニや本国から連れてこられた囚人に対して英国軍が何をしたのか何がなされたのか、リサーチを重ねた上で作っているので実際にあった可能性の高い or それらの組み合わせ、として見てもよいのではないか。

1825年、Black Warの時代のタスマニアで、囚人としてアイルランドから連れてこられたClare (Aisling Franciosi)は夫と赤子ときついながらも下働きや歌うたいをしながらなんとか暮らしていて、でも軍の中尉Hawkins (Sam Claflin)からは性的嫌がらせを頻繁に受けていて(夫には言えず)、でも刑期を終えても国に戻してくれる気配がないので文句を言ったりしたら、酔っ払った軍の連中に夫の前でレイプされて夫も赤子もその場で殺されて自身も気を失った状態で放り出されてしまう。

Clareが目覚めると連中は既に本隊の方に向けて旅立っていたので、復讐に燃えるClareは彼らを追うべくそこにいたアボリジニのBilly (Baykali Ganambarr)をガイドとして雇って、ふたりは森の中を野宿したり食べ物を盗んで追われたりぶつぶつ喧嘩ばかりしながらHawkinsの小隊を追っていく。はじめは互いに嫌悪と憎悪の塊になっていて会話にならないくらいだったのだが、Billyの家族も全員殺されていること、Clareはアイルランドから連れてこられていること等を話していくと、ふたりの距離は少し縮まり、レイプと殺し(含. 子供)を繰り返しながら進んでいく鬼畜のHawkinsの小隊との距離も狭まっていって..  でもClareは近くに寄っても銃を撃つことができなかったりいろいろ新たな苦しみも重なってきて、果たしてClareとBillyは連中に復讐することができるのか。

でもここでは復讐は(Trantinoがやるような)メインのテーマではないの。 自分たちの土地を追われ、家族や民族全てを失い、自分たちの言葉すらも絶滅する手前にあるBillyと、自分たちの土地から引き剥がされ未開の地に連れてこられ、家族を殺され、ゲール語を話すClareという国の政策に全てを奪われすり潰されている彼らがどんな目をしてこちらにいる我々を見つめるのか、それでも彼らは共に戦うことができるのだろうか、という映画なの。 彼らはあの後どうなったのか?

”The Babadook”にも出てきた、この世に確実に存在して決してなくなることなく襲ってくる邪悪でどす黒い、すぐそこにいるなにか(悪)、をこれでもかと塗りたくりつつ、反対側で歌うたいでもあるClareの澄んだ歌声や楽しかった頃の家族の思い出を挟んで、救われなさがどこまでも際立つ。

侵略戦争なんて、植民地化なんて元からこういうもの、他の国でも、いつの時代でも行われてきたこと、あるいはClareやBillyに復讐しても家族は戻ってこないよ、という言い方をすれば許されたり、何かを言った気になるのであればこんなおめでたいことはない。これは間違いなく今の世の中でもなかったこと見なかったことにされ(歴史を改竄され)、思考すらも放棄され放置され続けていることで、こんなことが許されていいはずがあろうか、ということを容赦なく叩きつけてくるの。

最初に書いたように見終わるとほんとうにぐったりするのだが、でも見た方がよいとおもう。

12.05.2019

[film] The Shop Around the Corner (1940)

11月30日、土曜日のお昼、毎年恒例のクリスマス映画特集が始まったPrince Charles Cinemaで見ました。 これもその特集からの1本。 35mmフィルムでの上映。邦題は『桃色の店』(もういっこあるらしいけど、こっちでいい)。

何回でも何回でも見返したくなるErnst Lubitschの名作で、VHSも持っていてもう何回も見ているのだが、クリスマスが近づくとなんだか見たくなる。”Meet Me in St. Louis” (1944) なんかもそういう1本かも。 昨年は”It’s A Wonderful Life” (1946)の4Kリストア版で盛りあがっていたが今年はそういうのあるのかしら?

ブタペストの街角にある革製品のギフトショップで働くAlfred (James Stewart)はやかましい店主のMatuschek(Frank Morgan)の下でなんとかやっていて、強引に店に雇われにきたKlara (Margaret Sullavan)とか他の店員との仕事上のあれもこれもまったくもう!なことばかりなのだが、唯一の希望は文通している彼女のことで、彼女との手紙のやりとりの中でのみ自分はほんとうの自分になれて、彼女のほうもそうなんだろうな、と感じることができるし、それがあるからたぶんそのうち(もうじきクリスマスだし)彼女に会えるし会いたいから、そこをめざしてなんとかやっていくんだ、って。

それにひきかえさー、といちいちカチンとくるKlaraの態度とか見るたびにあーあ、になって、でもなんとか文通の彼女と対面すべくやってきたカフェで妄想のなかにいた彼女がKlaraであることがわかった時のAlfredの挙動とかほんとうにおかしくて、James Stewartうまいなー、って。このカフェの場面の期待が気球のように膨れあがってクラッシュしてそれでもなんとか持ちこたえて.. の彼の乱高下と彼女の平熱応対のところ、映画史上に残るくらいすごい場面だと思うんだけど。

こうしてクリスマスなのに、クリスマスに向けた大作戦は失敗に終わり、でもクリスマスだから起こることは起こるべくして起こる。それがふたりだけでなくてブタペストの街角の小さなお店ぜんぶの、みんなに向かって起こる。それこそがクリスマスというやつのスーパーパワーで、このテーマを宇宙規模にまで拡げてみせたのが”It’s A Wonderful Life”なの。

この辺、昨今だと誰かと会う – 特にデートとかの – 時って互いのプロファイルを全開にして事前情報として押さえて- 知っておかないとやっぱ怖いし危ないし – だからこういうことが起こりにくいのかも知れないけど、ほんの20年前、“You've Got Mail” (1998) の頃だとまだこういう大冒険みたいなスリル満点のでんぐりが起こる可能性はあったのよね。 “You've Got Mail”はこの映画のリメイクというほどではないが影響下にあると言われていて、公開当時はそりゃないよ、て思ったものだが、最近TVで見直したら、そんな悪いかんじはしなかったかも。

これSNS禁制となった近未来でリメイクするとしたら主役のふたりは誰かなあ、とか考えることがあって、男性はほぼAdam Driverではないか、と思うのだが、女性のほうは誰かしら? って。 やはりMeg Ryan 的な女優の不在って大きいねえ。Daisy Ridleyでもいいけどさ(ずっと仲がいいのか悪いのかわかんないままのあのふたり)。

ところで、“Fairytale of New York”がUKでもっともポピュラーなクリスマスソングだったという記事。 “Last Christmas”じゃないのか..?   そしてSladeが入るのもすごい。

https://www.theguardian.com/music/2019/dec/04/fairytale-of-new-york-uk-most-popular-christmas-song-pogues-accusations-homophobic-slur

あと、このリストの1位はあんま納得いかない。 2位と3位はなっとく。

https://www.theguardian.com/music/2019/dec/05/the-50-greatest-christmas-songs-ranked

12.04.2019

[film] Knives Out (2019)

11月30日、土曜日の午後、CurzonのBloomsburyで見ました。”Looper”(2012)、“Star Wars: The Last Jedi” (2017)のRian Johnsonの新作。 邦題は子供向け探偵アニメみたいなのが付いててバカっぽいけど、ああいうのとはぜんぜん違う。名探偵が鮮やかに謎を解いてみせましょう、みたいなのではないの。

大金持ちの犯罪小説作家 - Harlan Thrombey (Christopher Plummer)が自分の邸宅で85歳の誕生パーティを祝った翌朝、屋根裏のような自室で首を切って亡くなっているのが見つかった。果たして自殺なのか他殺なのか? 自殺ならなんで? 他殺ならだれが?

その時に屋敷内にいた主な人々(多くはその屋敷内に暮らしている)は、娘のLinda (Jamie Lee Curtis)とその夫のRichard (Don Johnson)、その息子で不良孫のRansom (Chris Evans)、亡くなった息子の妻/義娘のJoni (Toni Collette)、末息子でHarlanの出版元を管理経営しているWalt (Michael Shannon)、Harlanの身の回りの世話をしているナースのMarta (Ana de Armas) 、あと"Great Nana”と呼ばれて殆ど動かない地蔵のようなHarlanの母がいる。

で、ここにどこからか探偵のBenoit Blanc (Daniel Craig) – 彼は誰が自分を雇ったのか知らない、郵便受けに札束が放り込んであったから、という - と警部2名が現れてひとりひとりからその晩になにがあったのか聞き取り調査をはじめる。

それぞれの供述と、探偵に語られているのかいないのか定かでないのだが見たこと聞いたことに基づいたその晩の出来事が順番に映像として流され組み合わされて、通常の推理ものだと、それぞれで映し出された記録がどこかで食い違っていたり辻褄が合わなくなったりしてきて、ではここを掘ってみましょうか、になると思うのだが、この映画の場合にはそれがなくて、全員の語ること見たもの聞いたものはどれも整合しているようで、それが時間の経過と共に順番に明らかにされていく、探偵はそのひとつひとつを追って検証していく、勿論それらを見渡す深さとかその先を見たり峻別したりする目はあるようなのだが、所謂名探偵による謎解き、とはちょっと違う展開のやつ、というかんじはする。

どちらかと言うと屋敷内にいる雑多な人々が当主の死とそれに続く遺産相続を巡って各々の本性を徐々にむき出しにしてどろどろ喧嘩を始める、そのどたばたのアンサンブルを描く、アルトマン映画のようなところを狙ったのではないか。というふうに見てみると、一代で財をなしたワンマン経営者とその傘の下で同様に肥大して腐ってしまった一族の面々、その家に雇われて大事にされている献身的な(不法滞在)移民の娘、って、奴隷制の時代から余り変わっていないありそうな構図が見えてきて、そういう中で浮かんでくる犯人像もまあそうだろうな、くらいなので、飛びだしナイフのようなショッキングな結末とか、そういうのは来ないの。ちょっとしたツイストが入るくらい。 隔絶された異世界のからくり迷宮屋敷を舞台にしたどんでんミステリー、というより割とそこらに転がっていそうなありそうなご家族抗争物語、みたいな。

でもご覧のようにキャスティングはド豪華なので、それぞれの演技合戦をお正月映画のように眺める、だけでじゅうぶん楽しむことはできるからよいのか。 欲を言えば一族内部のぐさぐさした憎み合い刺し合いがもっとねちねちかつやかましく表に出てきたらおもしろくなったのに、というかそういうとこをもっと見たかった。

お屋敷のからくりはそんなに大したことなかったけどインテリアとか小物類は素敵なやつがいっぱいで欲しくなる。老作家(しかも犯罪小説作家)絡みのミステリーなのだから積んである本の奥からいろいろ湧いてきてほしかったなー。

12.03.2019

[film] Passe ton bac d'abord… (1978)

11月10日、日曜日の午後、BFIのMaurice Pialat特集で見ました。 英語題は“Graduate First”。(今回のPialat特集のタイトルはすべて仏語の原題なの。CMもなくていきなり始まる)

タイトルは小津の『大学は出たけれど』(1929)を意識したのでは、と配布されたノートにはあったけど、どうかしら?

ランスの町で卒業を前に今度どうするのか、地元で就職するか、ここにはなにもないのでパリに働きに出るか、無理だろうけど勉強してバカロレア受けてみるか、しょうもないけど結婚するか、などなどの選択を前にうだうだ集まっては飲んでだらけてくっついたり離れたりを繰り返すティーンの若者たちを追う。親たちの方も自分の娘が連れてくる彼とかにはらはらしたり、そう簡単に開けたり収束したりするわけのないひとりひとりの今後や境遇を拾いあげていく。 卒業に向かう開放感や将来への希望なんて彼ら全員に聞いても「ない」だろうし、でもだからといって絶望して犯罪とか自殺とか、そっちの方にも行かない。好きに動いたり動かしたりしてほっといているかんじ。

その辺の子供に対する距離の取り方はデビュー作の”L'Enfance Nue” (1969)の頃から変わっていないようで、結果的に薄らと(ほんとは)みんなよいこ、って感じる。

浜辺で馬を連れていたお金持ちの女の子、パンクが好きだと言って下着が豹だか虎だかになってて、素敵ったら。

La gueule ouverte (1974)

11月2日、土曜日の夕方、BFIのMaurice Pialat特集で見ました。 英語題は“The Mouth Agape”。

上のひとつ前に撮っている作品。撮影はNéstorAlmendros(やはりすばらしいわ)。

Monique (Monique Mélinand)は病院に通っていて、息子のPhilippe (Philippe Léotard)とは普通に会話していたのに突然倒れて、医者からは長くは続かないでしょうと言われ、始めは病院のベッドで看病して、延命は無理、となってからは自宅に戻っての介護になる。自宅は洋装雑貨を売っているお店で、夫のRoger (Hubert Deschamps)はぶつぶつ看病しながらも店に来る女性に手を出そうとしたり、Philippeも妻のNathalie (Nathalie Baye)がいない隙に浮気したりしてて、彼らの隣で死にゆくMoniqueはほぼ死体のように横たわってそのまま静かに亡くなっていく。一見、ここまでのPialat作品 - 家族のなかで彼らを引っ掻き回そうとする子供がいたり、夫婦間で終わりのない喧嘩ばかりしていたり、といった騒々しさと比べると余りに静かでちょっと異質に見えるのだが、ホラー映画の形相で横たわりながらもMoniqueは家族のひとりとして間違いなくそこにいて、そういう形で引っ掻き回しているのだな、というのがわかってきて、亡くなった後のしんみり静かなお別れも、車で去っていくところも、生者も死者も変わらないような落ちついた空気がある。

車で去っていくラストシーンって、Pialatの映画ではよく見られるのだが、この映画のそれがいちばん沁みたかも。

11月のPialat特集はここまで、12月からのPialat特集は後期の、巨匠と呼ばれるようになってからの有名なのばかりなのだが、行けたら行くよ。行きたいよ。

[film] La fille seule (1995)

11月26日、火曜日の晩、BFIのMaurice Pialat特集で見ました。英語題は” A Single Girl”。
これはPialatの監督作ではなくて、監督はBenoît Jacquot、撮影はCaroline Champetier。

冒頭、カフェでピンボールとかしながら不機嫌そうにだれかを待っているRémi (Benoît Magimel) がいて、そこに現れたのはやはり電車が遅れて不機嫌そうなValérie (VirginieLedoyen)で、ふたりの会話からRémiは職がなくてぷらぷらしていることがわかり、なんだか険悪なかんじなのだが、Valérieは彼の子を妊娠していることを彼に告げると、すたすた小走りで職場に向かってしまう。

その職場はホテル(結構大きめのチェーン系の)で、制服に着替えてルームサービスを担当するセクションに行くと、この日が彼女の勤務初日であることがわかるのだが、そこから先は職場の同僚との摩擦に衝突 - 味方になってくれる人にセクハラしてくる男、やさしいと思ったら突然切れたりしてめんどうな人、食事を運んで行った先での客とのいろんなやりとり – “The Chambermaid” (2018)を思いだして少しはらはら - があり、契約書にサインするときの女性上司からのカチンとくる言われっぷり、などなどが続いていくのだが、彼女はタフでへっちゃらで何をどう言われたって構うもんか、客もサービスもどうでもいいわ、なの。でも唯一、気にしているのが自分の母親のことで、客がいない部屋に入ってそこからこっそり電話して話をしたりする – でもその会話はお母さんもう構わないで心配しないでだいじょうぶだから、ていうのばかり。 これらがホテルの四角く曲がっていく廊下や部屋や階段やエレベーターを目まぐるしく通過しながら(惨劇の予感も少し孕みつつ – なんもないけど)転がっていって慌しい。

90年代に割とあった気がするなにがあっても負けないもん、系のドラマのようだがウェットな場面とか、がんばれ、みたいな説教臭い場面は一切なくて、Valérieのつーんとした佇まいとまっすぐな眼差しがいろんなゲスを蹴散らしていくのが心地よくてかっこいいと思う。

勤務先をちょっとだけ抜けてのRémiとのやりとり(彼は結局ずっとだらだらカフェにいる)も、とにかくあんたの子だけど、あたしは生むから、ってそれだけ。うだうだ言ってるんじゃねえよ、行くよ、って。

最後の公園の場面、髪をばっさり切ったValérieと突然その横に現れる彼女の赤ん坊と、これもやや唐突な彼女の母親とのやりとりの爽やかなことときたら別の映画のようで、ここにきて”A Single Girl”ていう言葉がそのイメージと共にすーっと入ってくる、のがよいの。

ここにべつにフェミニズムとか置かなくても(もちろん置いてもいいけどさ)、彼女は彼女ですたすた行っちゃっていいんだから、いいのかな、って。

12.02.2019

[film] The Cool World (1963)

11月25日、月曜日の晩、BFIで見ました。BFIでは10-11月にShirley Clarkeの小特集 “American Independent: A Focus on Shirley Clarke” : “The Connection” (1961)とか “Portrait of Jason” (1967) とか“Ornette: Made in America” (1985)とかその他中短編たくさん - をやっていて、自分としては何が何でも必見、のはずだったのだがいちいちしょうもない予定とぶつかってどうしようもなくて、結局見れたのはこの1本だけだった。

6月にBarbican Cinemaで行われた特集- “Bebop New York”でも当然のようにかかっていたShirley Clarkeの代表作。 上映前に彼女の娘のWendy Clarkeさんによるイントロがあった。 この作品は映画のことがまだ何もわからなかった自分(まだ10代だったそう)にとってキャスティングから撮影終了まで映画製作のプロセスに一通り関わることができた最初の作品で、キャスティングで地元の子供たちといろんなやりとりをして遊んだのはよい思い出だった、と。(でもあの子たちってみんな地元のギャングの子供たちだって後から聞かされた..  とか)

The Library of Congressのとてもきれいな35mmフィルムによる上映。プロデュースにはFrederick Wisemanの名前がある。原作は59年のWarren Millerによる同名小説で、翌年にMillerとRobert Rossenによって舞台化されてフィラデルフィアとNYで上演されている。

60年代のハーレムで、そこの通り沿いに暮らす若者たちのいろいろ - バスで遠足に行ったり、ギャングになりたくて偉そうなのに寄っていったり、銃を手にしたり、ストリートとアパートの屋内を行ったり来たりしつつ、大勢の若者が集まると粋がりの諍いが始まってやかましくて -  といった片隅のドラマがcinema veritéスタイルのライブ感たっぷりで活写されていて、そこにMal Waldron – Dizzy Gillespie 演奏による楽曲が重ねられると、バカみたいだけど”The Cool World”としか言いようのない世界だわこれ、とか思う。 原作が書かれた59年にこんなふうに形容される”Cool”って既にあったのだろうか?   ジャズがかかっているところ以外の喋りのパートは声が後からあてられていて、たまにぷつぷつ鳴る音も入って、そういう突っかかりも含めてリズムが刻まれて、そのリズムの向こう側に世界が広がっているかんじ。そこの湿度はどれくらいで風が吹くとどんな匂いがしてどんな音が聞こえてきたのか、夜が近づくにつれて季節が変わるにつれてそれらはどう変わっていったのか、アパート長屋は水漏れとか断水とか停電とかそういうのはなかったのかしら、とか、そんな想像の世界に連れていってくれるかどうか、が自分にとってのThe Cool Worldになるかどうかの境目で、それらも含めてかっこいいとしか言いようがない。30代前半でこんなのをさくっと(そんな気がする)作ってしまったところも含めて。あと、“Bebop New York”でも取り上げられた当時の監督たち、アーティストとの交流とか、どんなだっただろうねえ。

あと、アイスクリーム・トラックのチャイムって、この頃から既にあの音だったのね.. とか。

[film] Making Waves: The Art of Cinematic Sound (2019)

11月17日、日曜日の午後にCurzon Bloomsburyのドキュメンタリー小屋で見ました。映画における音/音響の製作に関わるドキュメンタリー。めちゃくちゃおもしろかった。

人間の知覚で最初に生まれるのは聴覚なのです、胎児は聴覚(≠視覚)を通して最初に世界はこういうもの、という感触を掴むのです、音はそれくらい重要な要素なのです、という導入。

映画で使われる音はどんなふうに作られたり加工されたりあてられたりしているのか。この分野の大御所のWalter MurchやBen Burtt、SpielbergのSound Effect担当のGary Rydstrom等の代表作(監督の側からのコメントもあり)で、彼らが作って被せた音のいくつかを紹介しつつ、それらがいかに映画のダイナミズムと不可分でその迫力とか雰囲気作りに貢献しているか、等が紹介されていく。”Saving Private Ryan”(1998)の冒頭20分の音はあそこだけで2週間掛けているとか。

映画から聞こえてくる音の構成要素をVoice, Special Effect, Musicに分けて、更にVoiceをProduction Recording, Dialog Editing, ADR (Automated Dialogue Replacement)に分解して、Special EffectをSFX, Foley, Ambienceに分解して、それぞれでこんなことを、こんなふうにやっています/やってきました、という例示がいっぱい。もちろんMusicは当然あって、最後にこれらをオーケストレートするMixingのことも忘れないでね、と。

個人的に映画の音を最初に明確に意識したのはもちろん77年の”Star Wars”で、Ben Burttさんの名前はこの頃から知っていて、やっぱりああいう人だったのね、とわかって嬉しかったし、あとはいろんなネタがたっぷりで感心することばかり。 “Top Gun”(1986)のジェット機の音は実際の音はうるさくて使えないので、動物園で録ってきた音を使ったとか、劇場でずっとモノラル再生のみだったのをステレオ再生式に変えたのは”A Star Is Born” (1976)の時で、Barbra Streisandはこれのために$1 Milを自分のお財布から出してて、でもお金は返してもらってない、とか。

“Apocalypse Now” (1979)のサウンドスケープに大きな影響を与えたのが富田勲の『惑星』(1976)だった、と。冒頭のあのヘリの音の遷移はあれだったのかー! とか。『惑星』って出た頃に聴いて再生はしょぼいラジカセだったけど夜中、すごく怖くて気持ち悪くなったのよね。

映画の映像を通して目に見えるもの、についてはこれはセット、これはロケ、これはCG/SFXって目に見えるけど(勿論、見えるからわかる、それってなぜ? っていうのはそれでいっこのテーマだとは思うけど)、音については目に見えない分、背後ですごいアーティスティックな努力と労力が注がれているのはわかって、今回紹介されたのはその一端の数例で。

もう少し知りたかったところは、少しだけ触れられていたDolbyとかの音響技術やデジタル化がどこでどんなふうに適用されて、どの辺がブレークスルーになったりしたのか、とかそのへん。

あと、日本の映画でも特撮を始め音への執着は相当にあったはずなので、同様の歴史を追ったものがあったら見たいな。

12.01.2019

[film] Sorry We Missed You (2019)

12月だねえ。
11月28日、水曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。 今年のカンヌでパルムドールを獲った作品。 邦題は..  外れていないとは思うもののそれを言ったら終わりじゃないの、だと思う。ストレートに「ごめん我々にあなたは見えなかった」とかでもよかったのでは。

“I, Daniel Blake” (2016)に続いて、監督Ken Loach、脚本Paul Lavertyによる今の英国社会のどん詰まり諸問題を描いていて、見ていてとても辛い。 “I, Daniel Blake”と同様、はじめは真っ黒の画面の奥から会話だけが聞こえてくる。夢から目覚めるときのような。これは夢じゃないから、と言われているような。

冒頭、イギリスの郊外に暮らすRicky (Kris Hitchen)は宅配ドライバーになろうとしていて、フランチャイズだから雇用契約はないよ、定額の給与も年金も保障もない、機器類は貸し出し、でも働けば働くだけ収入になる、それでいいか? と言われて、そのオファーを受ける。彼の妻Abbie (Debbie Honeywood)はパートで訪問介護の仕事をしていて、Rickyが仕事用の車を買うので彼女は自分の移動用の車を売らなければならなくて、バスでの移動はしんどいけど、がんばるしかない。 ふたりにはストリートアーティストになりたいらしい息子のSebとよい娘のLisaがいて、子供達は苦労している両親のことはわかっているものの、そういう年頃でもあるSebはなんでそんなに無理して苦労してるんだ?..  って素行が悪くなっていく。行動の選択に幅があってそうなるのではなく、他に動きようがない状態で身動きがとれなくなっていく、ということ。

2008年の金融恐慌以降、社会の隅々にまで広がっていった自己責任型の社会意識が生み出す泥沼地獄の具体的なさまをこれでもか、と描きだす。 時間とコストの効率化を際限なく強いるサービス化社会の末端で、サービスを買った人とそれを提供する人の間で(どっちも人間なんだから起こって当たり前の)いろんな摩擦に衝突が、(それがそのまま収入にはねるので)人々を疲弊させ、結果として家族を壊していく。 そういうシステムの元で回っている経済、それを回している社会、そうやって隣の人たちを羊みたいに叩いて追って囲いこんでいく社会って、いいのこのままで?

“I, Daniel Blake”にもあったし、この作品では襲われて怪我をしたRickyが病院に行くシーンにもあるけど、このシステムは人間のベースを壊れない機械(壊れるのは自分の責任)と想定しているので、いったん自身の体が壊れてしまうとどうしようもない(代替を据えておわり) - そして本来ならそこを支えてくれるはずのシステムとしてのNHSもまた..  いくら家族の絆が..  とか想いが.. とか言ったってどうすることもできないんだよ、わかってる? にっぽんの「絆」が大好物なにっぽんじんたち?

あまりに生々しいしきついし、これってそういう境遇にある人たちを取材してドキュメンタリーとして纏めた方がよかったのでは、と思うかもしれないけど、ここでKen Loachが描きたかったのは単なる距離やギャップの問題ではなく、それでも傍に立って寄り添おうとするひとりひとりの姿や眼差しだったのではないか。だから老婆の皺だらけの指がAbbieの髪を梳くところとか、最後車を運転しながら子供のように泣きだしてしまうRickyとか、Lizaの心配そうな顔、底抜けの笑顔を見るべきなの。 その辺がシネフィルの人たちからは甘さとかくどさに見えてしまうのかもだけど、でももうそんなこと言ってもしょうがないくらい、今の厳しさって感傷込みでも抜きでもとにかく広げていかないといけない - 特にカンヌに来るような連中にはね - 性質のものなのではなかろうか、って。

あと、にっぽんの場合ここに、親の言うことには従え、とか、大黒柱、とか、世間の目、とか、トラッドに刷り込まれた地獄が重なって襲ってくるので更にしんどくなるよね。

例えば10年前と比べて、世界は本当によくなっていると言えるのかしら? “Sorry We Missed You”の”We”が意味するところの多層化・多重化などなども含め、2010年代の終わりに考えてみるのに丁度よい題材ではなかろうか。

11.30.2019

[film] Jay and Silent Bob Reboot (2019)

27日、水曜日の晩、小津の『晩春』を見た後に続けて同じシアターで見ました。小津のUniverseからKevin SmithのUniverseへ。
公開前のプレビューで、チケットはあっという間に売り切れ、翌日もPrince Charles Cinemaでも同様の集いがある。 『晩春』を見終えて外に出ると、廊下で囲まれたKevin Smithがサインしていて、その周りに彼とかJayのコスプレ(っていうの?)をした連中がうじゃうじゃ歩いている。英国で彼(ら)がこんなに人気があるなんて誰が想像できようか。

前作 - “Jay and Silent Bob Strike Back” (2001)から18年ぶりの続き、最初に話を聞いたときは、前作なんてもう憶えてねーよ、ていうのと、憶えてなくても、ま、かんけーねえよな、というのが同時に来て、でも見た後で、まったく予測していなかったのだがこれってひょっとして傑作って言ってよいできではないか、とか。(..と書いておいて少し自信なくなり)傑作と言わないまでも、Kevin Smithの25年間が凝縮されたスケールのでっかいやつで、”Reboot”の名に相応しいやつ、というか。

でもにっぽんに、Kevin SmithとかView Askewniverseのことを書いてうんうん喜んでくれる人って何人くらいいるのだろう? 
100人くらい?

映画館でのKevin Smithの上映前挨拶 - これまで彼の挨拶はSkypeで何度か見たことあったのだが実物は初めてだったかも。どっちにしてもものすごい勢いでべらべらべらべら。これまで米国での公開では初日から後ろに座って客の反応をずっと見てきたので今度のは最高だって十分確信している、みんな見ろ! これが90’s だ!!(大拍手)。 はいはい。

Kevin Smithが現れただけで熱狂する観客、場面ごとで登場するひとりひとりにおおー、とかわー、とかいちいち拍手してばかり、そんな観客が喜ぶネタ満載なので、どこまで書いてよいのか悩ましいのだが、これはMarvel Universeと同じような(一応Stan Leeも出てくるの。ほんとはちゃんとした役があったらしいのだが..)、View Askewniverseていう世界の話で、冒頭は“Clerks” (1994)のあれだし、Mallrats (1995)もあるし、更にびっくりしたことには”Chasing Amy”(1997) まで..

大筋は権利関係でだまされてJay and Silent Bobの名前を使えなくなったふたりが勝手に使われるのを阻止すべくNJからLAで開かれるコンベンション- Chronic-Conに向かおうとして、その途中に立ち寄ったシカゴで、Jay (Jason Mewes)は前の彼女からMillennium Faulken (Harley Quinn Smith – Kevinの実娘)ていう娘がいることを知らされ、その娘(彼女はJayが父であることを知らない)からは彼女の友達 – みんな父親を知らない女の子たちで移民の子だったり – も一緒にLAに行くようにせがまれてみんなで一緒にLAに。

で、この流れにView Askewniverseの面々、誰がCameoなのかそうじゃないのかなんてどうでもいいかんじで、Ben AffleckにMatt Damonはもちろん、Method Man and Redman, Craig Robinson,  Justin Long, Chris Hemsworth, Val Kilmer, Rosario Dawson, Fred Armisen, Molly Shannon, Jason Biggsなどなど、90’sオールスターみたいにゴージャス(見るひとが見れば)なお祭りが。

映画で語られるキャラクター(スーパーヒーロー)とか善悪の彼岸がクロニクルとかサーガといったでっかい物語単位とその数年おきのRebootで回転する仕組み(& マーケティングの場としてのコンベンション)になっているここ数年と、足下におけるレイシズムやヘイト、カルトや移民の問題の顕在化はどこかで繋がっているのではないか、て思ったりしていたら見事にその辺をぜんぶ盛ってきて、そこに既に亡霊なのかもしれない90’sのオタクのメンタリティをしらーっとぶつけてみる、と。(彼のホラー”Red State” (2011)で既にそういう方向性はあったけど)

音楽は基本90’sの、でも思いだせる出せないの境目にあるものすごく微妙なのががんがん流れてきて、あーこれ何だったっけ、て呻いていると次に行ってしまう。ラストに流れるPearl Jamの”Daughter” (1993)がとっても生々しくてよくて。

上映後のKevin SmithとのQ&Aはひとつの質問について10分くらいべらべら喋りまくり、結果的に で、質問はなんだっけ? になってしまうのが3回くらい。

とにかく最初は”Clerks III”を作ろうとして、更に”Mallrats 2”も作ろうとしたのだがどっちも頓挫したのでこれを作ったのだ、と(その経緯が森のようにこんがらがっててものすごい)。なので冒頭のシーンとかは”Clerks III”に使うはずのものだったそう。 でも次はぜったい”Clerks III”だから、それから”Mallrats 2”もやるから、とのこと。

昨年の春にHeart Attackをくらってveganになって体重も減らして、いまは蘇って絶好調らしいのでがんがん行ってほしいわ。

今年はもうあと1ヶ月でいってしまうのねえ。

[film] 晩春 (1949)

27日、水曜日の夕方、BFIで見ました。英語題は”Late Spring”。
ここではたまに、思いだしたように『秋刀魚の味』(1962)とかをやっていて、大きいシアターがほぼいっぱいだったりするので人気はあるみたい。 イントロでKings Collegeの先生から紹介があった。 これ、"Noriko Trilogy"っていうのかー。

小津の映画を見るのって、溝口や成瀬を見るのとは全く違う経験で、そんなのあたり前じゃんか、なのかも知れないが、小津のはテーマとか題材の取り方置き方とは別の、表面に近いところの、なんでここにこんなものが映っているのか、とかなんでこの場面の次にこれが来るのか、それはどう繋がるのか(沢庵の皮)、とかそういうレベルの感覚に来るやつで、だからまったく油断ならなくて緊張感にまみれてしまうの。

ただ一見はものすごく静かな、禅なかんじだから寝ちゃう人だっているだろうし、若者だったらスマホを弄ってしまうのだろうし、でもこの回のお客はそんな寝ていなくて、笑いもいっぱい起こっていた。

大学教授の曾宮周吉(笠智衆)と娘の紀子(原節子)は妻/母がいない状態でふたりでずっとやってきて、周囲は紀子の婚期(もうそろそろ)が気掛かりなのだが本人はへっちゃらよ、このままでいい、というのだがそうはいかなくなってきて..  太古からあって現在も謎の呪縛のように刷り込まれている早く結婚しないと、とか、結婚したら子供つくらないと、とか。その圧力強制力がどんなふうに機能して、そこでひとが泣いたり笑ったり怒ったりする、それってなんなのかしら、って本当にいろいろ自分にもあったこと - 親だけじゃなくて親戚とか友人とか、社会ぜんぶから(礼儀に近いかんじで)わらわら来るやつ - として考えさせられること津波のよう。

おばさん(杉村春子)は、みんなあんたのことが心配なのよ、と繰り返すのだが、「みんな」って誰なのか、「心配」ってなにがどうだから心配だというのか、じゃあその逆と思われる「安心」とはどういう状態をいうのか? あるいは、紀子が後妻をもらった父の友人小野寺(三島雅夫)に対していう「不潔よ」(英語字幕では”impure”)でも、友人のアヤ(月丘夢路)が紀子をせっついて言う「だいじょうぶよ」でも、そうではないパーフェクトな結婚・夫婦を中心とした関係のありよう、ってどんなやつなの? とか。春が晩いからってなんだっていうのか? とか。 これって戦前戦後から続く日本の家族(観)を考えるのに丁度よいやりとりの温度で、その流れの中に挟みこまれる木々とか海とか駅とかのぺったんこな、波風のたたない風景のありようがこれまた。てめーらてきとーに凪いだりそよいだりしてんじゃねえよ、って。

イントロで先生も言っていたが、こういうテーマを映画のなかで示した小津も原節子も生涯独身を通した、というのはおもしろいことです、って。そうだねえ。

あと、こんなの気にしてもしょうがないのだろうけど、映画のなかの能の場面とかも含めて、英国の観客にはどんなふうに見えて、咀嚼されるのだろうか、って。日本人でもうーむなんだろこれ、ってなったり、考えたりするようなシーンとかあるのに。こういうの、読書会じゃないけど見た後にいろいろ言いあう会があったら入ってみたいな。

笠智衆、この映画の役の上では56歳って言ってるけど、映画に出た時点では45歳だったのね..

11.28.2019

[log] Saint Petersburg

22日の朝7時発の電車で11時に着いた。外が明るい夏だったらすばらしい車窓になったであろうに。 モスクワよりもほんの少し暖かい。それでもマイナス3℃くらいだけど。

Hermitage Museum

絵を見るのが好きであれば、それも自分の目で直に見つめるのが好きなのであれば、エルミタージュ美術館というのはたとえ浦島太郎になっても最後の約束の地であり向かうべき御殿であったので、どれだけ体調を崩していようが目が開いててなんか見えるのだったら行く、だったの。 散々並ぶだの混むだの聞かされていたのでオンラインで -  1日ではぜったい見切れるわけないと思ったので、2日券を取った(実際そうだった。2日あってもぜんぶは見れない)。

ネットでチケット買ったひとの入り口は別の裏口みたいなとこで、列なんて欠片もなくて、プリントした紙のバーコードかざすだけですぐに入れてしまう。そこから倉庫みたいなところを抜けて遠足の児童みたいな連中の間を抜けるとばーん、てでっかい宮殿みたいな(いや、宮殿だったんだけど)階段が現れて、こいつかぁー、になる。

むかし見たソクーロフの『エルミタージュ幻想』(2002)で、美術館なのになんで絵を見ないでぐるぐるやっているんだろ?  と思ったが、通ってみてなんとなく理由がわかった。ここのなだらかな回廊の、迷宮というほど混みいっていない導線のありようはおもしろくて、絵を見ていく快楽とは別の気持ちよさが湧いてくる。視界のすべてをアートに囲まれて塞がれて、そこを抜けていく快感と抜けられない誘惑のせめぎ合い。建物を作ったひとが偉いのかも。

新しいホールや部屋に入るたびにわぁ、廊下を抜けてはうぅ、ばかりで、ウィーンのシェーンブルン宮殿に行ったときのようで、あの宮殿仕様にすばらしい古典の絵画がいっぱい付いてくる、みたいな。 部屋に入ると天井みて窓とその向こう側を見て、装飾品とかみて、最後に絵(落ち着け)、になるので慌しいのと、部屋の調光はもうちょっと絵に優しいのにしてほしいなー。反射して見難いのがいっぱいあったし。

でもとにかく、絵はすばらし。 ダヴィンチは例のルーブルのに行ってしまっていたし(まってろ)、ラファエロの”The Conestabile Madonna”も貸し出されていたし(まってろ)、でも替わりにUffizi Galleryからボッティチェリの”Madonna Della Loggia”が来ていた。
あと、ユベール・ロベールもいっぱいあった。

Alexander Pushkin Museum and Memorial Apartment

暗くなるまでずっとエルミタージュにいるのもあれなかんじだったので、そこの近所のプーキシンが決闘の後に亡くなるまで住んでいたアパートに行った。そこがそのまま博物館になっているの。 オーディオガイドをもれなく持たされ、ヘッドセットを付けて部屋ごとに回っていく。

妻と子供との生活以上に、決闘の前後とやがて訪れる死までが、結構生々しく説明されて部屋とか家具とか日用品と一緒に説明されるとなかなかしんみりしてしまうのだった。でも彼の書斎はとても居心地よさそうで、いいなー、って。

晩はプーキシンが決闘前に食事したLiterary Café にも行った(明るくてちょっとイメージちがう)ので、数時間でプーキシンがとっても身近になった。

Saint Isaac's Cathedral

23日の午前に行った。聖イサク聖堂。 今も普通に使われている聖堂で、入った時もお祈りの時間だった。でっかいお堂に天井までびっちり、は同じなのだがやや端正でモダンなかんじも。お堂の天辺に昇っていくチケットも買っていて、寒いのにバカ、だったのだが段数は180くらいでベルリンやフィレンツェのやばさはなかった。 眺めはよかったけどやっぱり寒かった。

Dostoevsky

サンクトペテルブルクには猫のいるドーナツ屋 –Pyshechnaya - があって、猫もドーナツもどちらも好きなので行ってみたのだが、その近辺に『罪と罰』のK橋とかラスコーリニコフの家とかソーニャのアパートとかいろいろあったので、ざーっと歩いてみた。あまりぱっとしない川があって、川辺で鴨が震えてて、ここ、天気が悪かったら滅滅してあんなふうになるよね、のかんじは十分。

猫には会えなかったのだが、リングドーナツ1種類しかないここのドーナツは劇物で、これ、Café du Mondeのベニエよかやばいやつかもしれない。昔の揚げパンのかんじ。 子供とかみんな10個くらい粉砂糖まみれになって食べていて、確かにこれなら.. だった。

Church of the Savior on Blood


午後に『血の上の救世主教会』。外側が修復中で玉ねぎが隠されてロケットみたいになっていたが中は普通に見れた。 光が十分に入ってこないせいもあったのか、血の上のかんじがなかなか。ここ、夜にひとりでいたらぜったいこわい。

Hermitage Museum


別ビルディングにある近代絵画たちを見ていなかったので、再び戻る。
こちらの建物はややモダンで、見れたのは3フロアのうち、これらが固まっている1フロアだけ。

カンディンスキーがあって、マレーヴィチの『黒の正方形』(1915)があって、大量のマティスがあって、ナヴィ派もいて、ドガもルノワールもたっぷりなのと、セザンヌの静物の時期を隔てた4点は、とってもおもしろかった。 あと5時間だっていられたかも。

この後はバレエだったので、観光はここまで。 ペテルゴーフもエカテリーナ宮殿(TVドラマ “Catherine The Great”、おもしろい)も行けなかったので、また来るしかない。

翌日は朝9:00の電車でモスクワに戻って、モスクワ着いたら空港にそのまま向かった。

電車の窓からの光景は半凍りの河と枯れ木のコントラストがタルコフスキーの世界になっていて、痺れた。

[dance] Bolshoi - Mariinsky

Giselle
21日の晩、Bolshoi Theaterで見ました。

そもそも今回の旅の目的はマイリンスキー劇場に行きたいな、だったのでこれのチケットが取れた時点で準備は止めにすればよかったのに、モスクワの晩にはなんかないか、モスクワにきたらボリショイにはお参りすべきじゃないの、って見ていたら丁度これをやるのがわかった。

でもAlexei Ratmanskyによる新振付の初日、ということでずっとsold-outしてて取れそうにない。でもなー、なんかなーって未練たらたらたまにサイトを見に行ったりしていたら上演の一週間前、空きがあるのを見っけて、取った。ドバイからスマホでロシアのチケットを取る、ってやればできてしまうもんなのね。

劇場内部は昨年のスカラ座に匹敵するくらいぎんぎんのお城みたいなやつでボックスのセンターの王様席なんてすごいし、それ以上にお客たちときたら.. (省略)。帰りのクロークルームなんて過敏なわんわんがいたら即死したであろうくらい多様な濃い匂いが充満していた。

Giselle役はOlga Smirnova、Albrecht役はArtemy Belyakov。

ABTのGiselle(振付はJean Coralli - Jules Perrot - Marius Petipa)との対比でいうと、1幕の背景、遠くのお城がある山が雪景色になっていたり(ABTのは緑の夏山)、貴族がぞろぞろ登場するところで、ABTは高級犬2匹だったのにこっちはでっかい白馬(もちろん生もの)2頭だったり、村人もいっぱい出てきて背後でわーわー騒いでいる。一番違ったのは2幕のエンディングのところだろうか。衣装はふたりの配色 - 緑と赤茶 - は同じだったかも。

どっちが正しい/すごい、なんてものはないとして、ABTのが二人の愛の破綻とその後の思慕にずっと寄り添っていたのに対して、こっちのは村人や猟師の描写も含めてややソーシャルとかリアリズムも盛ってみた、かんじかしら。

ふたりのダンサーのダイナミックな動きと安定感 - 他のみんなも同様 - はボリショイとしか言いようがない。

あと、ここからあの“Giselle”を生み出したAkram Khanてすごいな、って。
(たぶん、このふたりはなんであんなにかわいそうなんだろうか、って考えていくと..)

Chopiniana - Le Spectre de la rose - The Swan - Le Carnaval

23日の晩、Mariinsky Theatreで見ました。

今は Mariinsky Balletで、今も毎年やっているのかどうかは知らないが90年代の中頃は春になるとMETでABTの公演があり、それが終わると続けてKirov Balletの公演があって、そんなに数を見れるわけではないのだがABTとどれくらい違うのかしら、ってたまに見て、あーこんなに違うものなんだねえおもしろいなー、っていうのがバレエを見るようになったきっかけ(のひとつ)。

ボリショイの建物が街の真ん中にでーんて聳えているのと比べるとこっちのは街中にそうっと佇んでいるふう(ちょっとBAMみたいな)で、外側は地味なのだが扉が開いて中に進んでいくと目の前に巨大な鵞鳥だかなんだかの羽みたいな緞帳が広がっていておうおう、ってなる。ホールの調度は色彩も含めて穏やかで上品で、かわいいかんじ。 週末だったので客の装いもボリショイほどぎんぎんではなかったかも。

Saint Petersburg が生んだ偉大なダンサー/振付師であるMichel Fokine (1880 – 1942)を讃えるプログラムで、30分の中編がふたつ(Chopiniana, Le Carnaval)、5-10分の短編がふたつ(Le Spectre de la rose, The Swan)。休憩ふたつ。

群舞が多かったせいもあってボリショイとの単純な比較はできないが、どこまでも繊細で丁寧で特に腕先の動きの滑らかさときたらすばらしいのと、衣装の色合いも素敵で、それらを総合した結果としてバレエってすごい芸術よねえ、としみじみする。小さい子供たちもいっぱい来ていたが、あの子たち、ぜったいバレエ好きになるよね。 

“The Swan”(これが”The Dying Swan”のオリジナルなのね)のソロはOxana Skorikさんで、自分がみた”The Swan”としてはMaya Plisetskaya - Nina Ananiashvili に続く3人目なのだが白鳥いろいろだなー、なんであんなに鳥になれてしまうのかねえ、って。

薄汚れた俗世界を切り裂く光としてのバレエを見せてくれたBolshoi、たったひとりでもふたりでも、それ自体でひとつの世界を現出させてしまうMariinsky、たまたまに決まっているのだが、きれいな対照を描いていてよかった。

終わったら建物の前の車寄せの混雑ぶりがありえないくらいにごちゃごちゃで見ていて飽きないこと。

[log] Moscow

まだ11月初めの頃の書いていないやつがいっぱいなのだが、19日火曜日の晩から休暇でモスクワとサンクトペテルブルクに行ってきて、日曜日の晩に戻ってきて、まだだるくて眠くてしょうがないのだが、これが元に戻るとさっぱり流れて忘れてしまうので書けるところまで書いておく。

もともとモスクワは仕事で何度か行っていて、でもいつも2~3日で、ホテル近辺からほぼ出ないで終わってしまうし、もともとサンクトペテルブルクはずっと行ってみたい憧れの地で、でも夏は混雑がひどいと聞いていたのでじゃあ秋頃に、と思っていたら後ろに後ろに倒れていってほぼ冬、みたいになってしまった。でも気分としてはあくまで夏休みの続き、なの。

ぜったい行きたい(行きたかった)のはエルミタージュ美術館とマイリンスキー劇場で、飛行機はモスクワ往復しかないからモスクワとサンクトの間は4時間の電車移動になる、その辺の時間を考慮していくとモスクワ2日、サンクト1.5日、くらいが現実的かなあ… などなど。

水曜日の朝に飛ぶと夕方16時くらいにモスクワに着く(飛んでいるのは3時間、時差は3時間)。のだが、モスクワでぜったい見るべし、と言われていたArmoury Chamber(武器庫)とDiamond Fund(ダイアモンド庫)を含むクレムリンぜんぶ木曜日が休みであることがわかり、がーん、てなった。

気を取り直してBAのサイトを見たら前日火曜日の21時過ぎに飛ぶ便に乗れば水曜の朝4:20に着くことがわかったので、これよこれ、ってチケットを替えて火曜日に会社から戻って支度して空港に向かい、機内で3時間も寝れるわけないけど目をつむり、UK時間だと午前1時半、マイナス3度で真っ暗のモスクワに着いた。

市内のホテルに着いても入れてくれるわけないので荷物だけ置かせてもらって24時間やっているウクライナ料理店(だーれもいない)に入ってボルシチとか食べて、でもぜんぜん時間余ってて寒くて眠くて、できることといえば(凍死かな..)と周囲を見渡してみたら地下鉄の入り口らしきものがあったのでそこに潜っていくつかの駅をまわることにする。

モスクワの地下鉄、というと4月に帰国した際にシネマヴェーラで見た『私はモスクワを歩く』(1963)がじんわり蘇ってきて、あの夏の爽やかなイメージとは真逆なのだが、とにかく天井が高くてでっかくて荘厳でかっこいいの。 ゴミが吹きすさぶ掘っ立て小屋のようなNYの地下鉄、もぐって埋まって獣穴としか言いようのないロンドンの地下鉄、ゴミ広告と痴漢と圧しかないにっぽんの地下鉄、これまでに乗ったいろんな都市の地下鉄と比べてもぜんぜん違って、見あげて見まわしてひー、ばっかりだった。電車に乗ってひと駅ふた駅行って降りると装飾もその意匠もまったく違っていたりするのでぜーんぜん飽きないの。朝のラッシュ時のごじゃごじゃをすり抜けながら遊んでいるうちに午前は簡単につぶれた。

ここから先は20-21日に見た美術館系を。

Architectural ensemble of the Moscow Kremlin

クレムリンの敷地内に散らばっているいろんな古い建物たちの総称で、教会とか聖堂とかいろんなのがあるのだが(少しは知っている、気がする)キリスト教のそれらとは明らかに違うかんじで、でもとにかく天井までびっちり埋め尽くしてあるフレスコだったりモザイクだったりがいくら眺めていても飽きないの。こんな寒いところでこれらの建物に籠って吊ったり吊るされたりして隅から隅まで描いて祈っていたんだねえ。

Armoury Chamber(武器庫)

おなじクレムリンの敷地内にあるのだがここは↑とはチケットが別で、展示も博物館式にロシア帝政の頃から(?)のいろんなのが飾ってあって、三の丸尚蔵館、かしら。

ドレスに宝飾に武器に馬車に橇に陶器に.. ヨーロッパの王家のカラフルな華々しさや洗練はそんなにないのだが、例えば馬車とか山のようにでっかい。これをひっぱる馬って象よりでっかくないと、とか。

Diamond Fund(ダイヤモンド庫)

武器庫とおなじ建物内にあるのだがこれもチケットは別で、しかもネットでは売っていないので寒いなか1時間くらい前から並んで、セキュリティも厳重で荷物チェックでも延々並んで、写真も当然だめで。

なかにあるのは大粒小粒のダイヤモンドの群れとでっかい金塊と赤とか緑のいろんな宝石と宝飾品、ありえない分量のがじゃらじゃらざくざく並べられていて、あんたお金持ちだったのね、としか言いようがないの。宝石に目が眩む、という経験をしたことがあまりないのだが、このひと粒ふた粒くれないかな、そしたら本とかレコードいっぱい買えるのにな、くらいは思った。

あと、“Mission: Impossible – Ghost Protocol” (2011) でクレムリンに赴いたTomのチームはなんでここを狙わなかったのだろうか、とか。

Pushkin Museum of Fine Arts

20日の朝の彷徨いが悪寒と体調不良をよんで、翌朝は10時くらいまで立ちあがれず、でもとにかく這うようにしてプーシキン美術館に向かった。気温はマイナス8度で、こんなのNYの冬でも割とあったから、と初めは思っていたのだが、NYは道路から湯気でているし人もいっぱいいて道路も狭いし、クリスマスの音楽も流れているし、でもモスクワの路上は風と氷粒がちらちらぴーぷー舞っていてとにかく寒いの。

本館には彫刻とか遺跡関係と絵画は18世紀くらいまで。あるはずのボッティチェッリがなかったり、ロシアにあるヨルダーンスの絵を網羅した”Russian Jordaens. Paintings and Drawings by Jacob Jordaens from Russian Collections”ていう特別展をやっていて、これはこれですごくおもしろかったのだが、この展示のせいかあるはずのルーベンスがなかったり。でも全体としてはとても見易くて、角を曲がるたびにいちいち圧倒される、そういう構成になっていた。

19世紀以降の絵画はGalleyていう離れの別館にあって、入り口にでっかいボナールが2点 – “Early Spring in the Country” (1912) と”Autumn. Picking Fruit” (1912) があり(館内には彼のもう少し小さい’Summer. The Dance” (1912)も)、マティスの『金魚』があり、セザンヌの部屋があり、ヴァロットンの部屋があり、印象派が節操なくどかどか置いてあって、なかなか至福だった。

Tretyakov Gallery

プーシキンを出たら16時少し前で既に薄暗くなりはじめていて、地下鉄でトレチャコフ美術館に。

今年の初め、Bunkamuraでやっていた『ロマンティック・ロシア』展はここから来たやつで、あの女性の絵(忘れえぬ女)はまだ日本に滞在してて戻っていないのだった。ものすごい量のロシア絵画(近代寄り)がいっぱいあって、おもしろいのもあるのだが個々に見ていく時間があまりなくて、ここで見たかったのはカンディンスキーとマレーヴィチで、でも聞いてみたらそれらは別の建物だよ、と言われてしまったのであきらめた。

またこんどな、って(できたらもう少し暖かい頃に)。

11.26.2019

[film] Desolation Center (2018)

16日、土曜日の夕方、CurzonのSOHOで見ました。Doc’nRoll Film Festivalからの1本。
これがLondonプレミアで、上映後には監督のStuart Swezey, Mark Stewart (Pop Group), Jack SargeantとのQ&Aがあった。 LA~西海岸パンクの隆盛に関わる結構重要なドキュメンタリーではないかしらん。

80年代初のLAパンク – Black Flag – Ramones – Minutemenのライブが規模の大きな警察沙汰になり、その火がワシントンDCに飛んで燃え広がり、等は教科書的な知識として知っていたのだが、LAでは警察が寄ってこないような形態の自由なライブをやりたいと、この映画の監督たちがLAダウンタウンの廃墟になっているようなスペースを安価に借りてゲリラ的にライブをやっていく団体としてDesolation Centerを立ちあげ、チラシやzineを駆使してライブの場を作っていくのだが、その流れで、例えばなんもない砂漠でライブをやってみるのはどうだろうか? と思いつき、場所を探して(なんにもないところなら場所代不要だし)、交通手段(スクールバス - 週末なら空いているし)を確保して、口コミとかチラシで呼びかけ、昼間に集まって遠足みたいにみんなでわいわい会場=砂漠に向かう。

第1回がSavage RepublicとMinutemen、2回めがEinstürzendeNeubautenと爆破系のパフォーマンスアート(Mark Paulineとか)、3回目が(これが西海岸デビューとなった)Sonic YouthとMeat Puppetsと Redd Kross。(いまも見たいやつばかりだわ)

企画する方も、客として参加する方も、ミュージシャンたちも、砂漠にたどり着いたら何が待っていてどんなことが起こるのかあんま予測しておらず、でも実際やってみたらなんか気持ちいいし自由でクスリとかやり放題だし楽しいし画期的かも、になる。 3回それぞれ場所を変えてやってみても楽しかったので、これってひょっとしたら..

こうしてここから2回めの砂漠に参加していたPerry FarrellはLollapaloozaを思いつき、Coachella の創業者のひとりは2回目の実施会場のすぐ北にあるCoachella砂漠 – もはや一大産業になりつつある – でのライブを構想し、ライブとはちょっと違うけど今や世界的な狂乱火祭りになっているBurning Manも、みんなここから派生してきた。

こうやって草の根で始めたイベントも結局は産業化されていっちゃうんだわ、ていう冷めた見方もできるのだろうが、この映画が映しだす写真や少量のフッテージが吹きつける生々しい空気感は、なにかとてつもないことが起こっているという緊張感とその反対側の、砂漠なんだからどうもなんねえよな、ていう適当さのバランスがすばらしくよく出ていて、そんなのパンクとか音楽に関係あるのか? と問われればたぶんあるのだ、と言おう。たとえばそんなふうに危うく適当な生の突端で弾けとぶ音とか衝撃波こそがパンクなのではないか、とか。

ライブのSonic Youth(Thurston Mooreがコメントしている)は、この時点で既にじゅうぶんSonic Youthの音になっていて、Kim Gordonさまのかっこよさにも痺れる。

Einstürzende Neubautenはなつかしー(浅草)、しかないのだが、コメントしている現在の各メンバーを見るとみんな年とるよねー(おまえもな)、としか言いようないなか、BlixaはFrancis Baconみたいになっていて驚いたり。

上映後のトークは、なんでそこにMark Stewart氏がいるのか、が謎だったのだが、監督のStuart Swezey氏がLAでやっている独立系出版社 - Amok Booksにお世話になったし、ということらしい。Mark Stewart、とにかく落ち着きのないおっさんで、客席の方に移動して勝手にコメントしたりいちゃもんつけたりおもしろかった。映画にも登場する語り部としてのMike WattとFugaziのメンバーにはきちんとRespectをしてて、彼の口からそういう名前が出てきたので、へー、とか。

団体としてのDesolation Centerはまだ細々と活動を続けているらしく、グッズとかも売っていた。

11.19.2019

[film] Ford v Ferrari (2019)

16日、土曜日の午後、Picturehouse Centralで見ました。

UKでのタイトルは”Le Mans '66”なの。米国は”Ford”の名前を出したかったんだろうな。
James Mangold監督による66年の24時間耐久レースでFordがFerrariを破った実話の映画化。

車とスポーツ(特にゴルフ)はまーったくわかんないし興味ゼロなのだが、それでも十分おもしろかった。 けど、RPMとかトルクとかそういうのをわかっていた方がもっとおもしろいのかも(見てから一応調べた。よくわかんなかった)。Le Mansていうのがフランスの土地の名前、っていうのも初めて知った。香水かなんかだと思っていた。過去にこんな対決があったことだってもちろん知らない。

Carroll Shelby (Matt Damon)は元レーサーで引退してから、地元のレースで自分の車を持ちこんで参加していたKen Miles (Christian Bale)と知り合う。Ford社は戦後に生まれた子供たちが大きくなって車に乗るようになった時に、車にはスピードとかかっこよさが求められるのだから変わらねば!って、経営が苦しくなっているFerrari社に行って買収話をしたらふん、て蹴られて、Henry Ford II (Tracy Letts)は、なめんじゃねえぞ、ってレースでFerrariをぶち負かしたるって宣言して、そこでShelbyが呼ばれてShelbyがMilesに声をかけて、お金使い放題のプロジェクト(いいなー)がスタートする。ふたりともレーサーで車の構造もよく知っているから、どこをどうすればどうなるからこうすべき、がわかっている、ので早い(速い)の。

のだが、結構荒っぽいMilesの振る舞いを見た重役のLeo Beebe (Josh Lucas)からいちゃもんがついたり(それはレースが始まってからも延々続く。そういう奴いるよね)、いろいろあって、でも最後には爆音でぶっとばして、やったぜ!ってなる熱い男たちのドラマなの。

ギアをがしがしやって踏み込むと車がぐぁーんて加速して視界が変わっていく、その一連の動作が快感を呼ぶことは映像からなんとなくわかるのだが、熱で車輪が火を噴いて大火事とかスピンとか車とかその破片が事故でびゅんびゅん飛んできたりとかおっかないのもいっぱいあるし、そうやって走ったり壊れたりするのをみんなでわいわい見て楽しむ24時間て、お祭りなんだろうけどやっぱしあんまわかんないわ。CO2問題だってあるし、こういうのやめちゃえばいいのに、とか。

そういうスピード狂のところとは別に、ShelbyとMilesのべたべたしない関係とか、そこに挟まってくるFordの幹部とか、Milesの家族 - 夫人役のCaitriona Balfeすてき - のこと、客席のFerrari一族とのにらみ合いとか、人と人のやり合いがおもしろい。一旦契約を切られたMilesのところにShelbyが戻ってきて路上で取っ組み合いの喧嘩するところとか、最高なの。

BatmanとJason Bourneが組むのだから強いに決まっている、のだが、ぜんぜんそんなふうではなくて、ひとりは金持ちの気前よさそうなおっさんで、もうひとり - Christian Baleの薄汚れてちょっと猫背ですたこらしたかんじ(耳にタバコとか挟んでる)の、でも妙な殺気があって、ああいうおっさん、そこらに歩いていそうな。

音楽は結構きもちよいのだが、こういうのの音楽は気持ちいいに決まっているので、あんまし言わない。 でっかい画面で、でっかい音でどうぞ。

11.18.2019

[film] The Report (2019)

17日、日曜日の昼間、CurzonのSOHOで見ました。 LFFでも上映されていた1本。

監督はScott Z. Burns、製作にはSteven Soderberghの名前があって、レビュー書くのを忘れてしまったが、彼の監督最新作”The Laundromat” (2019) - パナマ文書あれこれを庶民の側から描いた政治モノ:地味だけどキャストはMeryl Streep, Gary Oldman, Antonio Banderasとか豪華でおもしろ  – でScott Z. Burnsは脚本と製作を手掛けているの。

“The Report” – これのポスターには”The”と”Report”の間に黒塗りされた箇所があって、よく見ると黒塗りされている単語は”Torture”であることがわかる。 この間見た”Official Secrets”が911後の派兵にまつわる英国政府の隠蔽を暴くドラマだったのに対し、これはやはり911後、CIAがテロ容疑者に対して正式手続きなしに拷問を続けていた事実を暴いたもの。

Daniel Jones (Adam Driver)は上院議員Dianne Feinstein(Annette Bening)の命を受けてUnited States Senate Select Committee on Intelligence (SSCI)の調査スタッフとしてビルの地下の一室に数名のスタッフ(最初6人だったのが最後には2人に)と籠り、CIAのサーバーとメールにアクセスして(アクセスする権限がある)、5年に渡っていろいろ掘り続けて明らかになった拷問の実態と巧妙かつ腐った工作の全貌。

911後、再び攻撃される危険性があるなか自国民を守るため、という誰も反論できないような名目の元、ビン・ラディンの居場所を突きとめることと新たなテロの発生を食い止めるために、怪しいと思われるイスラム系容疑者を片っ端から拘束して、EIT - Enhanced Interrogation Techniques – という「科学的」な”Reverse-Engineering”により自白を強要する仕掛け – その様子は映画のなかにも出てくるが本当に怖い – を開発し、というか開発してその精度を上げるのも込みで組織ぐるみで虐待と拷問が行われていた。

なんでそんな怖ろしいことを何年も続けていたかというと、実際にこれによってテロを防止できた、とか、重要人物捕捉に繋がった、とか実績を作りたかったから。なにしろ「科学的に」開発したプログラムなので確実な結果が出る(はず)と信じていたから。結果さえ出てくれればそのレポートは胸張って誇れるものになる、でも出なかったら… 

司法省の許可もなしになんでCIAが単独でそんなことができたのか? については、「White Houseが…」くらいしか言及がないのだが、”Vice” (2018)を見ていれば出処はなんとなくわかるよね。

で、とにかく、彼の作成したレポートは6,700ページ(脚注38,000)で、サマリでも525ページで、でも公開にあたってはCIAの検閲が入って黒塗りだらけになってしまった(どっかの国と一緒)。

組織の保身と権威の維持のために収拾がつかなくなってほうらやっぱり、のぼろを出してしまう、というのは昔からあることなのだろうが、拷問で亡くなった人たちのことを考えると本当にきつい。拷問でクチを割るやり方なんて無理、というのは映画の中でも言われているように虐待される側にも家族や仲間がいるんだからそんな簡単に行くわけないの。そんなの科学いぜんの想像力の問題。

アクションらしいアクションというと時折挿入される容疑者へのひどい拷問シーンばかりで、主人公のDanielは地下のオフィスに出入りしてPCで作業したり図を書いたり、会議で憮然と座っているばかりで、でも彼の表情の裏側でめらめらしているエモだの何だのをじゅうぶん、ものすごく感じることができる。という点で、これはAdam Driverファンにとってたまらない1本であるかもしれない。丁度同じタイミングで公開が始まった”Marriage Story”は必須としても。

2001年のテロによって連鎖的に引き起こされた当時の国家が決して犯罪と認めようとしなかった犯罪、その裏側が今になって英国、米国で続けて映画化されて明るみに出てきているのはおもしろい。 ていうかおもしろがることでは全くないのだが、全てが捩れて繋がってTrumpだのBrexitだの最悪の結果というか終わりの始まりを生んでしまった反省が出てきているのではないか。

そして日本は .. 入国管理局による長期の拘束と虐待が、これだけ明確な証拠も証言も出てきているのにメディアはちっとも告発しようとしない。 なにが美しい国だよじゅうぶん世界最低だよ。

Adam Driver人気があるので日本でも公開されてほしい。できれば”Official Secrets”も一緒に。

[film] Last Christmas (2019)

17日、日曜日の夕方、Picturehouse Centralで見ました。
UKでは公開直後のこの週末、”Ford v Ferrari”を破って興行収入1位になったそうで、よかったねえ。

Paul Feigの新作で、脚本をEmma Thompsonさんが書いている(彼女は出演も)。 この季節のクラシック - Wham! – George Michaelの同名曲をベースにしたロマンティック・コメディ .. ?

冒頭、前世紀末のユーゴスラヴィアで、教会で歌っている少女とそれを見ている両親と少女がいて、彼ら4人は家族であることがなんとなくわかる。

そこから2017年の英国-ロンドンで、クリスマスグッズを売るお店の店員をしているKate (Emilia Clarke)はダメ店員で店長のMichelle Yeohに怒られてばかりで、住むところも定まらず、なんで定まらないかというと間借り先でトラブル起こして追い出されを繰り返しているからで、要は(昔から漫画にある)典型的なドジばっかりのダメな女の子、なの。当然ママのEmma Thompsonは心配して電話ばかりしてくるので、家には近寄れなくて、うううってどうしようもなくなっていると、店先でTom (Henry Golding)っていう若者と出会って、得体が知れないんだけど話を聞いてくれるのでなんか安心できる。でも彼はいつもどこからかふらりと現れて、数日間いなかったりすることもあってなんなのかしら? って気になってだんだんにKateはTomの姿を探し求めるようになっていって。

というふたりのお話に、ロンドンに暮らすKateの家族の暮らし – 移ってくる前はLawyerだったが今はMini-Cabのドライバーをしているパパと、Kateとは衝突してばかりのできる姉と、心配症で壊れそうなママと、Brexitで移民に対して厳しくなりつつある英国、Tomがボランティアをしていたというホームレスシェルターの人たち、いろいろと絡んでくるの。

本筋に関してはこれ以上書かないほうがいい内容なので書かないけど、ちょっとびっくりしたかも。監督の前作”A Simple Favor” (2018)はサスペンスだったのである程度予測したりする余地もあったのだが、これは無防備にただのほっこりコメディと思っていたら…   後ろの列の子たちはみんなしくしく泣いてて、でもとってもよいお話なので見たほうがいいよ。 あの歌そのままのー

Kateがいつも着ている服はヒョウ柄のコートと、店員のときは緑のElfの衣装で。今の若い子は知らないかもしれないが、Will Ferrellが主演した”Elf” (2003) っていうクリスマス映画史上に残る大名作があって、Elfは自分の国を離れてマンハッタンにやってきた移民なの。いろいろ衝突もあるけど心をひとつにすることの大切さがクリスマスを背景に歌われるの。だから..

というわけで、このお話が2017年のロンドンを舞台にしているのは必然のようなもので、今こそElfを! Last Christmasを! なの。 いくつかのロケ場所はわかったけど、夜の路地とかのひっそり暗いかんじとか、よく描けている、素敵なクリスマスのロンドン映画でもあると思う。

主演のふたりの相性もとてもよくて、ふたりがじゃれ合うところとか、TomがめそめそするKateに”Look Up”ってやるとことか、ずうっと残っている。そういえばEmilia Clarkeさんって、”Me Before You” (2016)でも..

Wham! – George Michaelの音楽の持つ独特の湿り気もとてもよいかんじに馴染んでいる。Wham!の音って、自分のなかではHaircut One Hundredが萎んじゃった後に出てきた連中、ていう位置づけで、"Club Tropicana"の12inchとか、よく聴いてたし、今も聴けると思うし。

問題なのは、こんご”Last Christmas”を聴くたびに泣いちゃうかもしれなくなることだ。既に泣いちゃうようにセットされてしまっている人はいっぱいいるのかもだけど、これはなかなかこまるかも。

[film] Du Barry Was a Lady (1943)

10月22日、火曜日の晩、BFIのMusicals! 特集で見ました。(もう、ぜんぜん行けてないの)
邦題は『デュバリイは貴婦人』。1939年のブロードウェイ(この後ウェストエンドにも行った)

ミュージカルの映画版。音楽はCole Porter。上映は35mmのTechnicolor dye transfer printというやつで、技術的にどういうのかはわかんないのだが、簡単にいうと、40-50年代のVogueとかHarper’sとかファッション誌のカラーグラビアの色味と豊かさがそのままスクリーンで絵巻物のように動き出すマジック。 見ているだけでため息、てやつ。 今のデジタル技術の限界って、こういうのを見たときに、デジタルだったらこうなるだろう、ていうのが容易に想像できてしまうことよね。

上映前にBBCが制作した5分くらいのショート“Busby Berkeleyland”が流れる。今回の”Musicals!”特集のプログラマーRobin Baker氏(彼、いろんな上映の前にいっぱい出てきて前説している)がガイドするBusby Berkeleyの世界。”42nd Street” (1933),  “Footlight Parade”(1933), “Gold Diggers of 1933” (1933)を中心にスペクタクルとセックスの導入でいかにミュージカルの世界に革新をもたらしたか、後世の作品 - “The Big Lebowski” (1998)とかを例に加えながら解説してくれる。

ナイトクラブの歌姫May(Lucille Ball)がいて、Tommy Dorsey(本人)のオーケストラで歌いまくり、前半はそこのナイトクラブの芸人たちの演芸大会で、Alec (Gene Kelly)の歌と踊りとかMayに想いを寄せるクラークの受付のLouis (Red Skelton)の紹介がある。 で、Louisが突然宝くじに大当たりして、お金持ちに弱いMayはそっちになびくようなのでAlecは、ちぇっ、てなると舞台は突然18世紀のフランスにスリップしてLouisはルイ15世に、MayはMadame Du Barryに、AlecはThe Black Arrowっていう盗賊頭みたいのになっていて、どんちゃかがあって..

ほんとたわいないすっとこラブストーリーなのだが、そっちよりもお正月映画(←死語)みたいなハリボテ感満載の豪華絢爛さがたまんなかった。 Gene Kellyも若さたっぷりでくるくるだし。

I Love Melvin (1953)

10月29日、火曜日の晩、これもBFIのMusicals!特集で。これも35mmのTechnicolor dye transfer printでの上映。
“I Love Melvins” だったらわかるけどな。

この前の年、”Singin' in the Rain” (1952)を当てたMGMが、あそこのトリオのうちの2人を使ったミュージカル。

駆け出しで端役しか貰えない女優のJudy (Debbie Reynolds)は将来はきらきらの大スターを夢見ているのだが、実際にはフットボールのお芝居でフットボールの役をさせられてよってたかって蹴られたり飛ばされたりひどい扱い(今ならぜったい上演不可)を受けてて、ある日公園でMelvin (Donald O'Connor)とぶつかって、Look magazineのカメラのアシスタントをしている彼はJudyに近寄りたいばっかりに雑誌の表紙にするから、って撮影デートに誘って(これも今ならコンプラ..)仲良くなっていくのだが、やがてその嘘がばれて.. 。

ストーリーは勿論ハッピーエンドでなかなか無理があるかんじなのだが、原田治の描いた50年代アメリカンのボーイズ&ガールズそのままみたいなふたりが歌って踊るのはとっても楽しくて、それだけでいかった。

11.15.2019

[film] À Nos Amours (1983)

10月18日、金曜日の晩、BFIのMaurice Pialat特集で見ました。英語題は”To Our Loves”、邦題は『愛の記念に』。 同年のルイ・デリュック賞、翌年のセザール賞を受賞している。 これ、かつてどこかで見たことがあったようななかったような..

パリに住む15歳のSuzanne (Sandrine Bonnaire)は洋裁屋(?)を営む家族 – 母(Evelyne Ker)、父(Maurice Pialat)、作家の兄(Dominique Besnehard)と暮らしているのだが、なんか家にはいたくないので外で仲間とつるんだり、いろんな男と寝たり、それで朝帰りしたら父に殴られて、それを見た母が泣き叫び、そんな父が家を出てしまうと母は精神的に不安定になり、兄がおまえのせいだってSuzanneをひっぱたき、そんなふうに彼女のここはあたしの居場所じゃない – こんなところにはいたくない – が延々続いていって、そうやって家から逃げるように婚約するのだが、それでもなんか..

長編デビュー作の”L'enfance nue” (1968) でも、TVシリーズの”La maison des bois” (1971)でも、まだ書いていないけど”Passe ton bac d'abord…” (1978)でも、Pialatは子供や若者を得体の知れないなにをしでかすかわからない動物のように描いていて、そこに彼自身も教師とか父親として出演しているところを見ると、彼らを指導したり教育したりする役割の人として自らを置いているように見えるのだが、実際には彼はなんもしない(”La maison des bois”ではちょっといい役だったけど)どころかろくでなしで、もちろん子供たちもなんかひどいのだが、動物なのであればあんなもんだと思うし。

でもそんなふうに描いているからといって彼らが地獄に堕ちたり処分されちゃったりするかというとそうはならずに、間違いなく彼らはノラとして野に闇に散ったり潜んだりこちらに背を向け、たまに寄ってきて一緒にご飯食べたり、そうやって生きている。はじめの方でSuzanneの背中にKlaus Nomi (& Henry Purcell) による“The Cold Song”の”Let Me.. Let Me.. Let Me..”が被さってくるとなんかたまんないの。

でもそれにしても、家族ってこんなもんだよね、こうあるべき、という姿とか「絆」とかいうわけのわかんないやつとか、「絆」さえあれば「幸福」もやがて、みたいな意味不明の論理は決して振りかざさず、とっ散らかって誰かが泣いたり叫んだりが延々続くのできつくて、でもだからといって家族ってそう簡単になくなるものではなくて。わからないからと言ってわかるように都合よく描かない、それならまだ話の通じない動物として描いたほうが...  ていう視点で彼らを見つめるそういう目が必要で、そういう目を保つためにはまず自分が。

そしてその目線が注がれるその先に生きている、まさに生きているように生きているSandrine Bonnaireの輝きと輪郭のつよいことかっこいいこと。これがきちんとクレジットされたデビュー作で、デビュー作とかで脱いだり絡んだりすると日本のメディアはすぐ「体当たり」とか「捨て身」とかしょうもないことを書いてきたものだが、ああいうのまだやっているのかしら? で、とにかく、この作品のラストに旅立っていった彼女が、“Vagabond” (1985) -『冬の旅』として田舎の寒い荒野に再登場するのはちっとも不思議ではなくて、あっさり繋がっているねえ、と思った。

[music] The Raincoats

10日、日曜日の晩、HackneyのEartHっていうとこで見ました。前回ここに来たのはRussian Circlesのライブで、あのときはスタンディングのフロアだったが、こんどのはその上の階のシアターみたいなところで椅子がある。指定ではなく早いものがちの。

ライブの数日前にチケット買ったところからメールがきて、タイムテーブルは、20:00-20:45 The Raincoats, 21:00-21:30 Special Guests, 21:30-22:00 The Raincoats、とあって、通常のライブとは違うみたいなので少し早めに行った。

彼女たちを見るのは94年、NYでのLiz Phairのオープニングの時以来で、この時のドラムスはSteve Shelleyで、今思いだすとものすごく元気がなかった、のはその日の午後、Kurt Cobainの遺体が発見されたというニュースがあったからで、ライブの音よりもAnaの「Kurt、ほんとうにありがとう」の辛そうな言葉の方が耳に残っている。あれから25年、25年、25年…(呪文)

この日の昼間にTracey Thornさんが、今晩はMarine GirlsのGinaと一緒に行くよ、とかTweetしているのでおおーってなる。同窓会かよ、と。実際前方の席は”Reserved”ばっかりだったし。

今回のライブは英国で4か所くらいをツアーする、1stの”The Raincoats”のリリース40周年のお祝いで、1st と2ndは色盤のプリント付きで再発されて(会場で買っちゃった。トートも)、最初にShirley O'Loughlinさん(たぶん)が出てきて再発盤の宣伝(後でサインもするからねー)と、Jenn Perryさんによる“The Raincoats' The Raincoats (33 1/3)”の一節を読みあげて(この本、本当にバンドに気に入られているらしい)、サポートアクトとして出てくるのはGreen Gartside(!!)とBig Joanieです!とアナウンスがあり、バンドが登場して、"Fairytale in the Supermarket”がどかどか鳴りだす。(変わらず)おっそろしくへたくそなのだが、でもこれがThe Raincoatsなのだ、としか言いようがない錯綜ぶりで混乱してて、でもキュートでパンクで、たまんないの。なんで40年前の曲をそんなふうにそんなままに再現できちゃうのへたくそなのに? って。曲が終わると、Anaが、この曲はわたしたちの最初のEPので、LPには入れなかったのだけど、後で(94年?)再発したときにここに入っていないのも変よね、って入れたのだと。近年だと”20th Century Women” (2016) で少し流れたよね。

数曲やって”Black and White”の前にこのアルバムを手伝ってくれた人を紹介します、と言って(もうその途中で誰だかわかって、隣に座っていたおばさんなんて床に向かって小さな声で「きゃぁぁー」て絶叫していた。 とてもよくわかる)、サックスを抱えたLora Logicさんが登場してAnaの横で吹くの。こんな夢のようなことがあってよいのか、と。彼女はこの1曲で引っ込むのだが、次の”Lola”では誘われてバックコーラスを(Loraが“Lola”を、ね)。

Anaがサポートアクトを紹介する。”The Raincoats”の最初のプレスが出たとき、レコードに”The Construction and Deconstruction of Myths and Melodies”って彫ったのが彼 - Green Gartsideだったのよ、って。 彼女たちのライブが始まってみんながじーんとしている時に、ステージ前の通路をリュック背負ったふつーのおじさんがしらーっと横切って、それは見てすぐGreenだ! ってわかるのだったが、幕間のサポートも催事場の演芸みたいにすっとぼけたかんじ。 ぼくらScritti Polittiの50%でーす(ステージ上にはGreenともうひとり)、とか言って"The "Sweetest Girl"”を始める。終わって、これはRobert Wyattに手伝ってもらった曲で、リリースは… (客席から81年よ、って助けてもらう)そう、81年。次のは僕らの最初のレコードで、これは78年、こっちは憶えてるよ、と”Skank Bloc Bologna"を。

昔話ばかりになってしまうのだが、81年にRough Tradeが日本に紹介された時のラインナップの中に”Clear Cut”っていう日本で編まれたオムニバス盤があって、それは輸入盤の7inchなんていちいち買えるわけがない高校生にとっては夢のような一枚で、Joseph Kに始まってThe Fallがあって、Orange Juiceがあって、Girls at Our Best!の”Politics”があって、A面の最後はThe Raincoatsの”In Love”(この曲が自分にとってのLove Songの永遠のNo.1なの)で、B面の頭がDelta 5の”You”で、続いてThis Heatの”Health and Efficiency”があって、Lora LogicのEssential Logicの “Music Is A Better Noise”があって、Scritti Polittiの"Skank Bloc Bologna"があって、最後はRobert Wyattだった(たしか)。その擦り切れるくらい聴いた一枚から2曲が聴けて、3アーティストがでてきた。しかも客席にはMarine Girlsまでいる。これってありえないくらいすごいことなの。個人的には。

Greenはこの後"The Word Girl" (1985)をやって、"Wood Beez (Pray Like Aretha Franklin)"(1984)をやって去っていった。(終演後もそこらをふらふらしてた)

この後そんなに間を置かずにBig Joanieの3人がアンプラグド形式で数曲やって、この人たち、Bikini Killのサポートの時にも思ったけど、なんか生々しさが残って、よいの。なんだろ。

The Raincoatsの後半のセットは、前半よりも更にどたばたして、何度もやり直したりとっ散らかったり、AnaとGinaのふたり漫才になったりしていて、でも音自体は奔放に跳ね回ることを止めないので、みんな前方に押し寄せてぴょんぴょこ80年代踊り大会をやっていた。初期のパンクが怒りと衝動にまかせた愚直に一直線をやっていた頃に登場した彼女たちは、それらの前後にやってくる困惑とか倦怠とか諦念とか痺れとか眠気とか、足下のどうでもよいけどどうしようもない何かをぐにゃぐにゃした毛玉として、混沌のままにぶちまけて(路地裏からスーパーマーケットへ)、でもちょっと甘苦くて笑えたりもして、その手編みの手触り(ちくちく)は永遠で、永遠がすごいのではなくて、永遠を永遠たらしめている彼女たちがすごいんだってば。っていうのと、そんな彼女たちのやり口をフェミニズムと呼ぶことになんの異議もないの。

終わったら23時で、ライブの後に電車に向かって走るとまた転んで流血するので、ゆっくり帰った。

11.14.2019

[film] The Aeronauts (2019)

9日の土曜日、”The Irishman”を見たあと、PicturehouseCentralに移動して見ました。完全にいちにち潰れてしまったのだが、どうせ天気ひどいしいいや、って。

ここのシアターではDigitalと70mmプリントの両方のバージョンで交互に上映していて、当然70mm上映のにした。夜の光とか雪のちらちらとか柔らかくて優しくて、やっぱりきれいだよね。

監督はTom Harper。LFFでもプレミアされていた。

19世紀のロンドンで、気象学者のJames Glaisher (Eddie Redmayne)がパイロットのAmelia (Felicity Jones)と共に熱気球で空に昇ってうんと高くまでいく記録をつくって、でも散々危ない思いして死にそうになって降りてくるの。それだけなの。

Jamesがこの気球による観測飛行の企画を立てて、いくら気象予測の重要性を説いても、当時の学会では指示を得られずお金が集まらなくて、パイロットもいなくて、そのうちAmeliaにぶつかるのだが、彼女は前の飛行で夫を失って情熱も失って飛ぶことすら怖くて、いったんは引き受けるのだがやっぱりやめる、っていって、でも当日になると犬を連れてじゃらじゃらやってくるの。

高いところがダメな人は見ないほうがよさそうな、ダメじゃない人が見てもありえないような気球のまんまると悪天候を使ったサーカス芸みたいな見せ場がてんこ盛りなのだが、それ以上にぼろぼろのへろへろ、鼻血に切り傷、擦り傷だらけになってもされても死なずにがんばるEddie Redmayneと、何が起ころうととにかく歯をくいしばって運命に立ち向かおうとするFelicity “Rogue One” Jonesの組み合わせが素敵なので、見ていられる。このふたりの組み合わせなら絶対死にそうにないような安心感、って、よいことなのかわるいことなのか。

自然を相手に信念をもって困難に向かっていく男と過去を乗り越えて前に進もうとする女、って“Twister” (1996)にあったのとおなじ設定かしら(Bill PaxtonとHelen Hunt)。

“Inspired by True Event”で、James Glaisherは実在の学者なのだが、史実上のパイロットは男性で、Ameliaは架空の - プロファイルは実在したフランスの女性パイロットから持ってきているのだそう。でもこれはこれで十分におもしろいからよいの。男女の役割設定が逆だったらつまんないな、って思うかもだけど。

あと、ふたりの(だけじゃないけど)衣装(by Alexandra Byrne)がとってもすてきなの。

あと、舞踏会の場面、こないだOpen Houseで見にいったLancaster Houseで撮っているのがわかった。

あと、またろくでもない邦題が来そうな予感。

[film] The Irishman (2019)

8日、土曜日の午後、CurzonのBloomsburyのでっかい画面で見ました。 上映時間3時間半なので午後だいたいぜんぶ潰れた。

NYFFではOpeningピースとしてプレミア上映され、LFFではClosingピースとして上映され、前評判も上映後のレビューも熱狂的でチケットがとんでもない速さでなくなってしまったので上映日には一般上映館でも急遽追加で上映されたりしていた。Martin Scorseseの久々のギャングもの、とかDe NiroとPacinoとPesciの競演とかいろいろあるのだろうが、なんでかすごい人気なの。

冒頭、カメラは病院と思われる建物の奥にぬいぬい進んでいって、音楽はゆったり甘いDoo-wopで、車椅子に座っているよぼよぼの老人に近づくと、彼 - Frank (Robert De Niro)が彼のここまで直近40-50年の人生を語り始める。

最初はステーキ用の肉塊の調達配送でズルとかしてバレても堂々と口を割らなかったのでマフィアのボスのRussell ( Joe Pesci) に認められていろんな仕事 – だいたい人殺しとかのお掃除 - を任されるようになり、やがて当時の組合の大物でスターのJimmy Hoffa (Al Pacino)の側近をすることになるのだが、こいつが手のつけられない傲慢野郎でどうしたものか、になっていって.. というのが現代の車椅子の彼の語りと、ドラマの本筋であるJimmy Hoffaをなんとかする車~飛行機の旅と、そこに至るまでの彼の経緯や経験と、時間の前後がとりとめなく繋がっていって、だいたいよぼよぼのFrank、貫禄がでてきたFrank、脂ぎったFrankの3種類の顔と佇まいでどの時代の動きなのかを知ることができるのだが、いろいろおもしろい。

3時間半は確かに余り長く感じない。物語は別の物語を呼びこんだり挿入したりの2階3階建て構造になってはおらず、時代の3点をFrankの語りで繋ぎながらもどこまでもフラットに横に滑っていって来るべきクライマックスや大円団に寄ったりそこを中心に廻っていったりすることはないし、そんな山も波もないし、そもそもFrankには苦悩や葛藤のようなものがぜんぜんなくて、その結果対峙したり乗り越えたりするなにかもちっとも現れないものだからドラマになる要素が希薄なの。とても軽い、けど考えるところはいっぱいある。

Frankはただ頼まれればはいはいさくさくとパーフェクトに仕事をして、それで生き延びてきた。人殺しでもなんでも、頼まれたことをただこなしただけなので、それで罪に問われてもはあ? なにが悪いの? しかないの。あまりに空っぽで中味がなくて悩みもなくて、それでいいの? と問われてもその問い自体の意味も理解できないだろう。ボスや周囲の人から認められて仕事を任される、それをただ実行する、これのどこが悪いのか? って。

ここにアメリカの60-70年代の実際の出来事や世相が被さることで見えてくるのは、当時の(おそらく今も)大多数のアメリカ人の心象とか志向が割とそうなのかも、みんなそうやってきたのかも、ということ。(これのどこが悪いんだ?  ってじじいが偉そうに居直るのってまさに今のにっぽんもな)

今年のもうひとつの話題作 – “Once Upon A Time… in Hollywood”との比較でいうと、あれがありえたかも知れないオルタナ出来事を中心に(映画の)世界と歴史を再構成しようとしたのに対し、こっちのは実際に起こったきな臭い出来事を軸に(ギャングの)世界と歴史にいろんな線と面を引いてみる。ものすごくいろんな顔と声と、その向こうに可能性が拡がっているのがわかる。どちらもだいたい50年前のアメリカ。

もういっこ、ここはとにかく男しかいない男の世界で、というのもFrankの視界にはそれしか入ってこなかったから(なにが悪いんだよ?いろいろ守ってきたんだよ)で、唯一、棘として刺さってくるのが彼の娘のPeggy (Anna Paquin)で、なぜなら彼女だけが彼のやってきたことを察知して最後まで彼を許そうとしないから。このギャップもまたアメリカが辿ってきた道だよね。(そしてにっぽんはまだまだ..)

俳優陣は誰も彼も申し分なくすばらしく、久々に“Son of A Bitch!”を連発しながら暴走していくAl Pacinoを見れたのがよかった。なんでか昔(2003年頃?)に小さな小屋で見た彼の芝居- “Salomé”を思いだす。このときSaloméを演じたのはMarisa Tomeiだった。

老人ばかり、というところで、例えばここにClint Eastwoodがいたらどう? とかちょっと夢想したり。彼が”The Mule” (2018)で演じた運び屋ってFrankに近い - Frankのが十分自覚的ではあるものの – やはり忌々しい棘にイラつくばかりの空っぽな老人の姿だった。

音楽は甘めのDoo-Wap - "In the Still of the Night" - とか、とRobbie Robertsonのノワールの世界がすばらしい光と闇のバランスを見せる。

これを見ると、ScorseseがなんでMarvelの世界を批判したのか、なんとなくわかる気がするのだが、その辺は、もうちょっと考えを転がしていたいかも。

11.11.2019

[film] A Dog Called Money (2019)

1日、金曜日の晩、Barbicanで見ました。
毎年この時期の音楽系ドキュメンタリー映画祭 - Doc'n Roll Film Festivalからの、これがLondonプレミア上映で、今はもうMUBIで配信もされているのかしら?

この映画祭、毎年行けないやつばかりなのだが、今年はThe RaincoatsのGina Birchさん - この会場にも来ていたみたい - のとか、SWANSのとか(これは巡回していくって)、でもいっつもなにかとぶつかるのよねー。

フォトジャーナリストのSeamus Murphyの監督作品で、彼とPJ Harveyは2015年に“The Hollow of the Hand”という、これは彼の写真と彼女の詩文が載った本 - どちらが先、というよりも両者がコラージュのようなかたちで並存している - を出していて、この映画はその映像版、というよりもあの本はこうして作られていったというその過程と、もうひとつはPJ Harveyの9枚目の作品“The Hope Six Demolition Project” (2015)がどのように作られていったのか、を記録したものにもなっている。

具体的にはSeamus Murphyが紛争の傷がまだ生々しいアフガニスタン、コソボ、貧しいアフリカン・アメリカンを中心としたコミュニティがあるワシントン DCの姿を記録していく旅にPJ Harveyが同行して、現地の人たちと会ったり、通りを歩いたり街角に佇んでメモを取ったり(映像に彼女の言葉が被さったり)する姿と、“The Hope Six Demolition Project”のレコーディング風景 - ロンドンのSomerset House(普段はアートギャラリーとかイベントとかスケートリンクとかをやっているとこ)の地下にガラス張りのスタジオを作って、レコーディングの模様をアート・インスタレーションとして公開した - がランダムに行ったり来たりする。

“The Hope Six..”のタイトル自体が、ワシントンDCの地域再開発プロジェクトから来ているものだし、個々の曲の詩も管楽器を多用した(これまでの彼女の作品と比べると)ラフで隙間だらけで雑多な構成の楽曲も、ここでのふたりの旅がもたらしたものであることがわかる。のだがそれだけ、と言ってしまえばそれだけの、本とレコードのメイキング映像、でしかないかんじになってしまったのはしょうがないか。

こういうのって、短期間安全なかたちで滞在しただけで現地の何がわかるというのか、とかよく言われるけど、たとえ数時間でもその場所に行ってある時間を過ごすっていうのはとても大事なことだと思うし、廃墟や通りの隅にひとりで立っているPJの表情が伝えてくるものは確かにある。そしてこれとは対照的にリラックスした、しかし力のこもったレコーディングの場で歌ったりいろんな楽器を弾いたりする姿 - それは自分はなぜ音楽をやるのか、を改めて発見した歓びに溢れているようで素敵ったらなくて、2017年1月31日 - 英国に赴任する前日 - に見たライブが圧倒的だった理由もこれを見ればわかると思う。

その人が出ているというだけで見に行ってしまう映画があるように、PJが映っていて歌ったり演奏したりしている、それだけで見にいくべき、これはそういうやつなので、行くべし。

上映後のSeamus Murphy氏とのトークで印象に残ったのは、この映画で訪れた各地域で最も身の危険を感じたのはワシントンDCだった、というところ。

PJにサインしてもらった“The Hollow of the Hand”が棚のどこかにあるはずで、3日くらいずっと探しているのに出てきてくれない。

11.09.2019

[film] Terminator: Dark Fate (2019)

10月27日、日曜日の午後、Picturehouse Centralで、見ました。 ネタバレしてるけどべつに。
このお話が成立しているってだけで半分くらいはどういうことかわかるよね。

最初のT1とT2から繋がる本流本筋、みたいに言われているけど、ああいう物語の構造上、なんでもありの世界のはずだから本流もくそもないと思う。

T2から少し経ってからの世界 - メキシコでJohn Connorは殺されて、それ以降の未来でやはりなにかが起こったらしく、今回狙われるのはDani (Natalia Reyes) で、狙うのはREV-9 (Gabriel Luna)ってやつで、彼女を守るために未来からやってくるのはGrace (Mackenzie Davis)で、でも彼女はロボットではなくて改造人間みたいなやつで、そこに未来からなんか来るのを待ち構えていたSarah Connor (Linda Hamilton)が加わって、なんとか刺客をかわしてアメリカに渡り、ロボットなのに老人になっている(なりたいんだって)何台目かのT-800 (Arnold Schwarzenegger)も加わってどんぱちするの。それだけなの。

このシリーズのそもそもの発想 - 過去に遡って反乱軍の指導者の母親を消してしまえばきっと安泰 - が余りにガサツでこれをAIが考えたのだとしたらそんなAIを開発した未来に未来はないよ、ていう揺り戻しとか反省もあったのか、今度のはぜんぶ女性が強くて彼女たちががんばってT-800は大型犬のように後ろにいる。男性よりも女性、しかもなんかをただ産むだけの存在として扱われていないし、シニアの活用もしっかり、ってそれはそれでなんかやらしいし、ここにDaniがキメ台詞のようにぶち上げる「Dark fateなんてあるもんか、運命は自分たちが作るんだ!」まで加えてみると余りに優等生すぎてがんばってね、くらいしか言えない(そしていろんな意味であまりにバカすぎるあの邦題)。AIみたいに優等生が作ろうとする未来に対しては絵に描かれたような優等生の絵で対抗するしかないのだろうか。 そしてこういう正論をいう優等生が出て来ていたのにあんな未来になってしまったというのはどういうわけ? ていうぐるぐるが。

なにがあっても政権の命令に従うこと、ってプログラムされた頭だけはよさげな官僚どもにどうやって立ち向かうのか。ろくにアートに接したことも「アートとはなにか?」を考えたこともないようなロボットに、なぜ表現の自由は尊重されなければならないのか、を説くことの難しさと徒労感。優等生の正攻法でどうにかできるレベルではない、とかそういうことを考えたり。 「アート」を「人権」とか「倫理」とかに置き換えてみてもいい。けどもう、ほーんとにあほらしいのでみんな滅んじゃえ、くらいは思う。思った。

Mackenzie Davisさんは、”Tully” (2018)のTullyに続いてなんでも解決してしまう夢のような人だったねえ。

Daniを演じたNatalia Reyesさんは、”Pájaros de verano* (2018) - Birds of Passage - でも素敵だったのだが、この機にこの映画も日本で公開されますように。彼女、真剣になったときの表情とか、ちょっとAOCに似ていたりしない?

11.08.2019

[film] De bruit et de fureur (1988)

10月15日、火曜日の晩、BFIのMaurice Pialat特集から、これはJean-Claude Brisseauの監督作。 タイトルはフォークナーと関係あるのかないのか。英語題は”Sound and Fury”。

13歳のBruno (Vincent Gasperitsch)は母の暮らす団地に籠入りのカナリアと一緒に移ってくるのだが仕事が忙しいらしい母親はママっぽい台詞をメモ書き伝言しているだけで最後まで姿を現さず、転校生として学校に入るものの学年レベルは下だし、だいたいの時間は同じ団地の同じ棟の悪ガキ- 家族揃ってろくでなし - のJean-Roger (François Négret)  とつるんで悪いことしたり、でも少しだけ目にかけてくれる学校の女の先生に放課後に補講して貰ったりする。

Bruno自身もなにがしたいのか、これからどうしたいのかどうなりたいのかよくわかっていない半透明な状態でいつもぼーっとしていて、Jean-Rogerの仲間や家族がもたらす悪い世界と、学校の先生が教えてくれる遠くの広い世界と、いつも不在のママが示す空っぽと、たまに部屋の奥に現れる女神みたいな天使みたいな不気味なやつが投げやりに交錯していって、最後に世界の終わりというか世界が終わるというのはこういうことだ、みたいなことが一瞬で沸騰したかのように起こる。「響きと怒り」と共に。

最近のフランス映画にもよく出てくる郊外の団地に住む若者たちの焦燥とか野蛮とか荒廃がわかりやすく- 本人たちが何を考えているのか全くわからないという形で示されるわかりやすさ - 描かれていて、これって日本でも世界のどこでもある傾向だと思うのだが、やっぱりフランスのが強いねえ、と思ってしまうのは”Les Quatre Cents Coups” (1959) - 『大人は判ってくれない』があるからだろうか?


L’Enfance nue (1968)

2日、土曜日の午後、BFIのPilalat特集で見ました。 これがPialatの長編デビュー監督作。
英語題は”Naked Childhood” - 邦題は『裸の幼年時代』。プロデューサーにはFrançois TruffautやClaude Berriの名前がある。

10歳のFrançois (Michel Terrazon)は養子に出されていた家で黒猫を階段から落としたり(あれはやめようね)悪いことをしたので斡旋所に返品されて、今度はより年寄りの夫婦と少し年上のRaoulがいるThierry家に引き取られて、そこでは細めに面倒を見て貰ったりおばあちゃんのNanaがいるので少しはよいこになったかに見えたのだが、でもやっぱりだめでー。

親がいない - 捨てられたり戻って来なかったりの - 放置されてきた少年が(おそらくは)善悪の見分けのつかない状態で悪いことをしてしまう - 本人にはどこがどうしていけないのかわからないので悪びれることもなくて、困った子として孤立して、本人もどうせひとりだし、と向こうに行ってしまう。というありそうな物語は本当にそういうものなのか? っていう問いがここにはあって、そのレベルで納得したりさせたりって、映画がやってはいけないことではないか?  と、Pialatの映画は問うている気がする。子供は天使ではないし悪魔でもないし(女性もね)、ひとりひとり名前があるし気にかけている人は必ずいるし、そういう目で家族のありようを見つめることから始まったPialatの映画、いいな。

[film] Loulou (1980)

10月14日、月曜日の晩、BFIのMaurice Pialat特集で見ました。これがPialat特集の最初の1本。
7月のBarbicanでの特集- ”After the Wave: Young French Cinema in the 1970s”でも上映されていて、でもその時は見れなかったの。

Nelly (Isabelle Huppert)は代理店に勤務するAndré (Guy Marchand)と結婚して広いアパートに住んで経済的にはまったく問題なさそうなのだが、ディスコで出会ったどうみてもチンピラのLoulou (Gérard Depardieu)と仲良くなって彼のところで暮らし始めて、更に自分ひとりで部屋を借りてLoulouとその仲間もそこに出入りするようになり、やがてNellyは妊娠して..

堅気のAndréがいてやくざのLoulouがいて、ふたりの間にいるNellyの愛はAndré → Loulouへゆっくりと移っていくのだが、そこに明確な理由はないかんじだし、Loulouはやくざですぐ怒ったりするし、彼と一緒にいることですれすれの怖い思いもするのだが、なんだか離れられない。幸せとか愛とか、それらのスパークとか中毒とか、そういうのとは(たぶん)別の次元で互いに離れられなくなってしまうふたりのありようがとても生々しいし放っておいてくれ、だし。それってふたりの俳優のとんでもなさ故、なのかも知れないが、この映画が捕えようとしているのは悲劇でも喜劇でもない、その中間に吊るされた振り子の魂の行ったり来たりで、わかるわからないは別としてとても近しく親しく感じさせるなにかだよね、と思った。

Nous ne vieillirons pas ensemble (1972)​​​

10月29日、火曜日の晩、BFIのPialat特集で見ました。英語題は”We Won't Grow Old Together”。

Catherine (Marlène Jobert)とJean (Jean Yanne)のカップルがいて、一緒に暮らしているのか彼のところに彼女が来て泊まったりしているだけなのかわからないのだが、付き合い始めて長い時間が経っているらしいふたりの今は余り仲がよくないようで、彼は彼女にすぐキレて悪態ついて引っ叩いたりするし、彼女は彼に一緒にいても楽しくない、ってはっきり言うし、彼の暴力を知っている彼女の両親も明らかに彼を嫌っているし、彼も彼女のことを諦めて昔の彼女とよりを戻したりしているし、でもやっぱりCatherineと結婚したいようで指輪を持っていったりすると当然受け取って貰えず、じわじわストーカーみたいになっていって、そんなでも彼女は彼に誘われたりすると一緒に海に行ったりするので、だらだら続いていく互いにとってたいへんよくない関係 - 人生相談に行ったら即座にやめなさい、って言われるような - の見本、みたいのが極めて細密かつリアルに描かれていて、その皮膚レベルで本当にありそうなずるずる感がすごい。どうしろっていうの? とか。

“Loulou”もそういうやつだと思うのだが、作劇として破局とか破滅とかを持ち込むことが簡単なところなのに敢えてそうせずに、どこまでもその関係を泳がせて漂わせておく、そうすることで彼らの表情や息遣いがすぐそこにあるものとしてずっと残って、それってどういうことなのだろう、そこに普遍性のようなものを見いだせるとして ... ?

永遠の愛とか、愛の普遍性、みたいのは割とドラマになるけど、ここで描かれているようなどこまでも救われない関係のような、剥がれにくいかさぶたみたいなのも、十分にそういう生きて呼吸しているなにかで、そういうところにだって愛はあるんだから、とか。

[film] The King (2019)

10月13日、日曜日の夕方、CurzonのVictoriaで見ました。LFFでも上映されて、Netflixのだけど映画館でも少しだけかかっていた。

どうでもよいけど、昨年まったく同名のドキュメンタリーフィルムがあって、そこでの”The King”はElvis Presleyだったのね。アメリカでは、やはりそうなるか。
史実で、シェイクスピアの作品をベースにしている、と。そうなの?

Henry Prince of Wales (Timothée Chalamet) は父のKing Henry IV (Ben Mendelsohn)からお前は後継ぎではないよ、と言われて本人もべつにそんならいいよ、って思っていたのだが、後継のはずだったThomas of Lancasterが戦いであっさり亡くなり、父も病気で死んでしまったのでKing Henry Vになるの。

で、隣のフランスが戴冠祝いにボール(ほんとただのボール)を送ってきたり暗殺者を送りこんできたり、なめてんのかおら、って気に食わないのでFalstaff (Joel Edgerton)とみんなで乗りこんでいって、Dauphin of France (Robert Pattinson)とぶつかって勝って、Catherine (Lily-Rose Depp)を貰うの。それだけなの。2時間超の上映時間とは思えない薄さ。

野望とか徳とか民を思うこころ、みたいな“The King”に求められる像からは遠く離れて、ここでのHenry Vはひたすら不機嫌にいきがる不良のガキで、最初の方のHotspur (Tom Glynn-Carney)の取っ組み合いもDauphinとの決闘も原っぱでガキとか犬とかが喧嘩するみたいなかんじのおらおらしたやつでしかない。別にいいけど。

戦闘シーンは”Game of Thrones”を意識したらしいのだが泥まみれのぐじゃぐじゃなだけで、でもリアリティとかいうなら『湖のランスロ』(1974)を見てからこい、と言いたいし、Timothée ChalametとRobert Pattinsonの対決のとこは、場内みんなで吹いてしまうようなあれで。ギャグかよ。 みんながわあわあ言ってるあの髪型にしてもさー。

あと、Falstaffってあんなかっこよいかんじにしていいの?(Joel Edgertonが脚本も書いている)

Laurence OlivierがHenry Vを演じた”Henry V” (1944)を見たいなー、と思ったら今週Southbankでオーケストラ伴奏付きででっかくやるのね。でも仕事で行けないや。


Maleficent: Mistress of Evil (2019)

10月19日、土曜日の夕方、Picturehouse Centralで見ました。族対決という同じようなカテゴリ、かしら。

前作から時間が経って、Princess Aurora (Elle Fanning)はThe Moors(ってポルトガルにあるあれ?)のQueenとしていろんな化け物とか妖精とかに慕われていて、Maleficent(Angelina Jolie)とDiaval (Sam Riley)はそれを背後から見守っていて、隣の国UlsteadのPrince Phillip (Harris Dickinson)が求婚してきたので受けて、彼の父と母- Queen Ingrith (Michelle Pfeiffer)のところにMaleficentを連れて挨拶に行ったらQueen Ingrithはなにか気に食わなかったのか癇癪おこしてMaleficentをぼろぼろにして招きいれたMoorsのいろんな連中を一網打尽にして、Maleficentは鳥人族みたいなのに救われて充電してみんなして反撃するの。それだけなの。

気に食わないのならふつうに喧嘩ふっかけてふたりでぼかすかやりあえばいいのに間に結婚とか挟むもんだからみんな大騒ぎになって怒りが膨らんでそれが民族間に飛び火して、でもこれってただの嫁姑問題みたいなやつじゃないのか、そんなの犬も食わないからヤギに、とか。

前作の方がまだ解る気がしたのは古典的な愛と裏切りの線上に物語が転がっていったからだと思うが、今度のはそこらの化け物みんな憎し、でそんなのだめに決まっているからなんか乗れない。ディズニーならなんでそれがだめなのか、ちゃんと説明すべきだと思うし、Ingrithひとりの性悪とかヘイト騒ぎにしちゃっているふう(女ってこわいわ~で終わり)なのもどうなのか、って。

あとね、彼はカラスなのかクマなのか。

11.04.2019

[film] La Maison des bois (1971)

先月からBFI Southbankで始まった特集 “Maurice Pialat and the New French Realism”は、Pialatの作品だけでなくて彼の周辺のJean-Claude Brisseau, Claire Denis, Cyril Collard, Olivier Assayas, Arnaud Desplechinといった作家の作品もカバーしていて、見始めたらどれもおもしろくてたまんなくて、とにかくPialatの初期作品とかものすごくて、自分の中ではJohn Cassavetesくらいのところまで来ていて、できる限り見たい。 けど時間が...

これは10月26日の土曜日に上映があって、でもぜんぶ見たら364分で一日なくなってしまうので、まず午後に、part1-3まで(156分)を見て、それでおもしろかったら後のも見ることにしようと思ったら、あまりに感動して、これは残りのも絶対見なきゃだめでしょ、になって、part4-5を29日-火曜日の晩に、part6-7を31日-木曜日の晩に見た。 こんなのがTVで流れていたなんて。 TVシリーズとしてはR. W. Fassbinderの”Berlin Alexanderplatz” (1980)に匹敵するくらい歴史に残る、歴史を描いたドラマだと思う。

英語題は”The House in the Woods”。 Pialatが46歳の時に撮った全7話からなるTVシリーズ。 それまで彼が撮った劇場用作品は”L’Enfance nue” (1968)のみ。

第一次対戦時のフランスの田舎で、小さな子供たちの学校があって(Pialatが先生役をしている)、そこから3人の子供達がお家に帰って、母というほど若くはなく祖母というほど老いていない女性からおやつを貰う。やがて彼ら3人は大戦でこの地に疎開してきている子供達であることがわかって、物語は3人の中でもいろんないたずらを含めて元気いっぱいで家族から特に注意を払われているHervé (Hervé Levy) - 他の2人には定期的に訪ねてくる母親がいるのにHervé にはいないの - を中心にいろんなエピソードが重ねられていく。

家には猟師をしているパパAlbert (Pierre Doris)とやさしいママJeanne (Jacqueline Dufranne) と息子のMarcelと娘のMargueriteがいて、やがてMarcelは兵隊として前線に向かい還らぬ人となるのだが、戦争は終わり、子供たちは実親の元に引き取られて、Hervéも再婚した父 - 義母にはHervé と同じくらいの齢の娘がいる - が暮らすパリに越していく。

パリでのHervéには新しい家族の元で当然のようにいろいろあったりして、お別れしてきた昔の家ではMarcelを喪い、大好きだったHervéもいなくなってしまったJeanneが寂しさのあまり病の床について、Hervéは家出してお見舞いに向かうの。

パパが再婚することを知ったHervéが癇癪おこして手紙をぜんぶ捨ててしまったので子供に会いにきたのに会えずに途方に暮れるふたりのママと楽しくピクニックしていた家族のすれ違いとか、子供たちがフランスとドイツの戦闘機の空中戦で落ちてきたドイツ機の操縦席にあるドイツ兵の遺体をこわごわ見るところとか、土地のお屋敷に住む侯爵とHervéとの交流とか、大好きなシーン(これから何度でも見返したくなる)がいっぱい。

カメラはHervéを多く映すけれど、彼の辛さや想いを決して代弁したり語ろうとしたりしない。それはかわいそうなJeanneに対しても誰についてもそうで、そうすることで距離感が際立って、車や列車で遠ざかっていくシーンがどこまでも目の奥に残るの。布をかけられたドイツ兵の遺体とその傍らに立っているフランス兵の間の距離とか、Marcelの幽霊とか。それらのカメラの置き方とかゆっくりしたズームとか。 今からだいたい100年前の人々の暮らしがこんなふうにどこまでも忘れがたいものに。

あとはフランスの田舎の美しい風景や人々で、これはNew Yorked誌のRichard Brody氏も書いているように、ルノワール - オーギュストとジャンの両方 - がたっぷり入っていて、どこを切ってもそんなふうに見えてしまう。

毎回のエンディングに流れるのはラヴェルの声楽曲 ”Trois beaux oiseaux du paradis” -『3羽の美しい極楽鳥』で、大好きな曲になった。

11.02.2019

[film] The Last Black Man in San Francisco (2019)

10月27日、日曜日の昼にPicturehouse Centralで見ました。
これも前日に見た”Monos”と同様、今年のSundanceでとっても話題になり、LFFでも上映されていた。配給はA24。 
原作はJimmie FailsとJoe Talbotのふたり、Joeが監督して、Jimmieが主演している。

San Franciscoのベイエリアに暮らすJimmie (Jimmie Faills)と友達のMont (Jonathan Majors)がいて、Montは祖父(Danny Glover)の世話をしたり介護士をしたりしながら絵を描いたり芝居の脚本を書いたり、JimmieはMontの家でごろごろしたりスケートボードで街を滑っていったり、どちらも忙しく仕事をしているかんじはなくて、ぼーっとしながら街の人々や世の中の成り行きを眺めたりしている。

Jimmieの自慢はFillmore地区の道路沿いに建つヴィクトリア様式の館で、それは界隈に日本人コミュニティがあった頃、彼の祖父が1946年に建てたものだという( 彼は"The First Black Man in San Francisco"だったんだぜ)。Jimmieが子供の頃に過ごしたこの家に今は白人の夫婦が住んでいて寄っていくと追い払われたりしていたのだが、ある日彼らが出ていってしまったので、地元の不動産屋に聞いてみると、あれは市の管理下に置かれるのではないか、と。

それを聞いたJimmieは叔母のところにあった昔の家具とかを勝手に運びこみ、かつて住んでいた家の内装を再現して暮らし始める。のだがそういう幸せな状態もそんなに続くものではなく …

地代が高騰して中心部にはとても住めなくなり、かつてあったコミュニティは得体の知れない汚染の懸念いっぱいの海岸沿いに追いやられ、職もなくうだうだしている若者もいっぱいいて - 一人は突然殺されてしまったり、どっちを向いてもしょうもない世の中、なにを拠り所にしてどんなふうに渡っていけばいいのか、ていう問いに対する例えばこんなの..

タイトルの”The Last Black Man in San Francisco”は、立退くことになった彼らの館で最後に一回だけMontが上演するひとり芝居のタイトルで、それもあんまし..   これ、自分こそが最後の一人なりー!、って大見得切って飛び込んでいく、というよりもどこに居たって行ったって自分は最後の一人になるしかないのだな、という決意と覚醒が語られるはずだったのだが...

むかし、若い頃ってどこでもどんなふうにでも生きていけると思ったりしたものだが、長いこと住んでいたりずっと眺めていたりしていた建物とか景色が失われることの重み、のようなものがわかるようになってきて、それって2010年代に入って失われた何かと関係のあることではないか、と思ったり。
この映画でのふたりの土地や建物に対する想いや目線って、単なる郷土愛とか思い出作りとかそういうのとは違う、もっと切実で彼らの生に直結した何かなのではないか。

そういう点から今年に入ってノートルダム寺院が焼け落ちて首里城が焼け落ちて、台風や大雨で沢山の家がなくなり(ホームレスが排除され)、San Franciscoの山火事では..   そういう年に作られた映画として記憶されるべき、なのかもしれない。

ヒップホップががんがん流れてもおかしくない世界かもしれないのに、音楽はJoni Mitchellの”Blue”だったり、みんなが知っている”San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair)“ - 歌うのはMichael Marshall - だったりするの。

昔の映画との参照関係、でいうと”Ghost World” (2001)は間違いなくあって、Ghostがバスに乗って導く世界は、まだあるのだと。 生者はなにもしてくれないし、生者が設定する家賃で暮らせる場所はもうどこにもないんだ。

何度か行って、大好きなSan Francisco、という場所について思うところもいろいろあったけど、いいや。 そうそう、Jello Biafraさんがセグウェイに乗った街ツアーのガイドとして出てくるの。あれ、本当にやってくれたらなー。

11.01.2019

[film] Monos (2019)

10月26日の土曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

今年のSundanceをはじめ、各国でいろんな賞を獲りまくっていて、LFFでも(そういうのあったの知らなかったけど)”Best Film”ていうのを受賞している。 ブラジル人監督Alejandro Landesによるコロンビア – アメリカ映画。

コロンビアの山奥の高地で”Monos”と呼ばれる若い男女8人くらいの小隊が、小さい筋肉ムキムキの男から厳しく激しい軍事訓練(取っ組み合いとか)を受けている。隊のひとりひとりは”Wolf”とか”Lady”とか”Rambo”とか”Bigfoot”とか呼ばれていて、中にひとりだけ様子の違う”Doctora”と呼ばれる年長の女性がいて、やがて彼女は人質のように囚われていることがわかる。あとホルスタイン牛を一頭あてがわれてこいつも守って連れていくように、と。

上からの命令は絶対服従のようなのだが、それがいなくなるとみんなハメを外して、夜明けにハイになって機関銃をばりばりやっていたら牛に当たって死んじゃって、それで責任を感じたりいろいろ考えこんだりしていたリーダーのWolfが自殺して、連帯とかそんななにかが崩れていくかんじになり、死んだ牛の肉でバーベキューをしてそこらに生えていたキノコを食べたら(食べちゃうんだ..)みんな楽しくなって…  でもそうしていると敵(誰だかどこからかしらんが)から襲撃にあったり、Doctoraに逃げられたり、突然上官が現れたりいろいろ大変で、白目で見たり見られたり仲間割れしたり、それぞれが必死のサバイバル合戦になっていく。

彼らがどこに属するどういう組織の軍なのか、なんの目的でどうやって集められた連中なのかが明らかにされないまま、中高生くらいの若者たちで構成された小隊が任務を遂行していく途中で直面する困難とか乗り越えとか、そういうところ以上に集団行動の規範(縛り)とそこからの逸脱を繰り返しながら野生とか本性(みたいなもの)を貪る快楽(?)に目覚めていく若者たちの姿が生々しく捉えられていて、それはMonos – サル としか言いようがない剥きかた剥かれかたで、悪くないかも。

都会とかスラムの隅で凶暴かつ無軌道な若者が暴れまわる、というありがちなドラマとも違って、ジャングルで武器はひと揃い持っているけど、持っているが故に敵味方の見分けはだいじで、いろんなのが隣り合わせなのだがどっちみち暴れて騒がないと殺されてしまう可能性が高い、そういう状況下のドラマとして、誰かが評していたように”Apocalypse Now on shrooms” - キノコ入りの地獄の黙示録 – というのは余り外れていないかも。『闇の奥』ならぬ『極彩色の彼方』とか。
いまやどこまでも人の手は入っているし追ってくるので、「黙示録」なんてありえなくなった世界のー。

若者たちひとりひとりの顔がとても真剣でよくて、彼らにとってもほぼノンフィクションに近い状態のドラマとしてあったのではないか。 自分としてはぜったい関わりたくない、遠くから見ているだけで十分の世界だけど。

あと、Mica Leviの音楽がすごい。鳥の声や個々の息遣いと同期しながら可聴帯域の周辺を暴れまくっていて、“Jackie” (2016)ではちょっとおとなしくなったかな、だったけど、”Under the Skin” (2014)のやばいかんじが全開で、この音楽のためだけにシアターで見たほうがよいかも。

自分は“The Breakfast Club” (1985) でじゅうぶんだわ。

10.31.2019

[log] October 2019

10月のその他の、まだぜんぜん書けていないのがいっぱいなのだが、いくつかを。

Islander: A New Musical

21日、月曜日の晩、Southwark Playhouseで見ました。今年のEdinburgh Festivalで好評だったというので。 客席が舞台を取り囲むかたちで、各辺は3列くらい、ほぼ真四角でとても小さい。マイクスタンドふたつとごろごろのついた台がひとつ、エフェクター&ミキサーの箱がひとつ。

出てくるのはBethany TennickとKirsty Findlayのふたりの女性。最初はアカペラで、マイクを手にしてからはループをかけた手拍子から鼻息から踏み鳴らしまで、楽器音なしで歌いまくる。内容はスコットランドの孤島にひとり残された Islander - 女の子Eilidh(Bethany Tennick)とその友達とか祖母とか周囲の自然 - クジラとかいろいろな対話。 スコットランドのオークニー諸島の民話とか妖精の話がベースにあるそうで音楽(by Finn Anderson)はすこしケルトの民謡ぽいかんじ。とにかくふたりの歌の絡みがすばらしいし歌はうまいし、それだけ聴いていても楽しいの。

Tim Walker: Wonderful Things‎

12日の土曜日、V&Aでの個展。Tim Walkerというとウサギさん、だったのだが最近のはややぎらぎらしすぎててどうなっていくのかしら、ていうタイミングでこれまでの作品たちを振り返る展示。
セレブのポートレートからクラシック(バロック、ロココ..)をネタにしたインスタレーション作品まで、素材も含めたモダンと古典、理知と野性の組み合わせやコラージュはすごく尖がっているかんじはしなくて、ちょっとキャンプでファンタジーとロマンに溢れていて、ひとりでに踊りだすような楽しさがある。たぶん彼、Cecil Beatonがやっていたようなことをやりたいのかしらん。

Dalí & Magritte

16日、ブリュッセルに出張した時、オフィスに向かう途中で雨に降られた、ということにして(実際ひどい雨だったし)王立美術館に入った。
Bruegelを含むOld MastersのコレクションはBoschもCranachもあるし溜息しかないの。

ベルギーの画家、というとMagritteよりもDelvauxの方だし、Daliもべつにとくにそんなにー、なのだが、なんとなくお得そうだったので。

両者の絵が明確にわかるふうでなく並んでいて、見る前はふたりの違いなんてすぐわかるじゃん、と思っているとそうでもなくて、似たタッチやテーマのものが結構あるのが新鮮だった。目に見えているその表面をひたすら磨いて滑っていってつい我々の眼球をも滑らせておっとっと、になる楽しさ。 頭を抱えている子供たちがそこらじゅうにいておもしろかった。

Steve Reich/Gerhard Richter

23日、水曜日の晩、Barbicanで見て、聴いた。
この晩、19:30と21:30の2回上映/演奏があって、この日は再びブリュッセルに日帰りで行っていてたので、Eurostarの電車の駅から直行して間に合った。

はじめにReichの“Runner” (2016)をBritten Sinfonia (指揮: Colin Currie)が演奏して、これはいつものReichで、その後オーケストラが14-pieceに減って、背後のスクリーンも使った”Reich/Richter”が演奏・上映される。スクリーンには始めに”Movie”とだけ文字で出たような。European Premiereとあったけど本当かしら。

そんなにどぎつくないカラーの横縞が緩やかにその幅を変えながら揺らめいていて、そこに傷のように縦のギザギザが入って広がり、横の隊列が乱れて縦横のセーターみたいになり、その模様が更に変態して電子曼荼羅みたいな極彩色展開になっていく。 Richterの最近の絵にそんなBridget Rileyふうのカラフルなパターンのはあるのは知っていて、でもここではそれが動いて時間と共にゆっくり変化していく。Richterの作家性にこんなふうななんでもあり、を置くのはいつものこと(どうでもいい)なのだが、これがReichの音楽とどこまで同調して移ろっていくのかはまた別の話で、これなら狂ったように緻密なエレクトロなドラッギーなやつにした方がおもしろくなったのではないか。Reichの音楽パートは、それはそれでよかったのでなおのこと。単にReichとRichterを並べてみたかっただけなのかもだけど。  上演前にSteve Reich氏のトークがあったようで、そこではどんなことを語ったのかしらん。

Nam June Paik

26日の午後、Tate Modernで見ました。なんで今Paik ? なのかは不明。

TVやVideoを使った環境とかマスを意識した後期のインスタレーション作品よりもFluxusの頃とかJoseph Beuysとやっていた頃の方が断然おもしろい。いま彼がいたらインターネットやSNSを使ってどんなことをやっただろうかねえ、とたまに思うけど、なんか外してしょんぼりになっちゃう気がする。 PaikもFluxusもプリント- ガリ版文化の人たちで、よいわるいではなくて、世界がぜんぜんちがうような。 デジタルじゃないの。デジタルなんてどーでもいいの。

Philip Glass Ensemble:  Music with Changing Parts (1970)

30日、水曜日の晩、Barbicanで見て、聴いた。
演奏はPhilip Glass Ensembleに、Tiffin ChorusとLondon Contemporary Orchestraが加わって、鍵盤は指揮者のところにあるのも入れて5台、なかなかの大編成。 置いてあったパンフには、最近若いアンサンブルがこの曲を演奏しているのを耳にしてなにかが湧いてきて、コーラスとブラスのパートを大幅に書き足したのだそう。 まったく途切れのない1曲90分。

機械の旋律(段々で時折つんのめる)が渦を巻きながら昇っているのか降りているのかわからないエッシャーの運動を延々繰り返している傍で、コーラスとブラスが溜息のような歓声のような呻きのような息を吹きこんで、そのいろんなぶつかり合いが分厚い地層を縦に割ったり斜めに裂いたり。そのおもしろさとスリルが後半に向かうにつれてどんどんアナーキーになって収拾つかなくなって、でも建物全体は揺るぎない。

こないだの”The Bowie Symphonies”も悪くはなかったが、これを聴いてしまうとエネルギーの凝り固まりようがぜんぜん違うかんじ。

もう10月もおわりだねえ。 あと2ヶ月で10年代もおわりだねえ。

10.30.2019

[film] Goodbye, Mr. Chips (1969)

BFIではLFFが終わったあとには派手に宣伝している”Musicals!”の特集が始まり、他にも地味だけど”Maurice Pialat and the New French Realism”の特集 - Pialat周辺の作家のもかかる - が始まり、ぜんぶ見たいのにぜんぜん見れていなくて泣いている。

これは20日、日曜日の晩、Musicals!の特集枠、しかも映画の50th anniversaryである、ということでQ&Aつきの上映会があった。

上映前のQ&Aに出てきたのはPeter O'Toole元夫人で、映画の中ではKatherineのかっこいい友人Ursulaを演じているDame Siân PhillipsとRaymond Ward .. って誰よ? というと映画の中の学芸会シーンでみんなで歌って踊るところでひとりだけ変な動きをして笑いを取るガキだったひと。(あのシーンは他の出演者には内緒でスタッフと自分でこっそり考えてやったのだそう)

Siân Phillipsさんの思い出話は、夫婦で映画に出ることについて自分は平気だったけどPeterはすごく神経質になってできるだけ一緒にいないようにしてて、でも撮影はリラックスしてみんなにとって素敵な夏の思い出になっているって。 あと、監督Herbert Rossのアシスタントであり奥さんだったNora Kaye(前夫がIsaac Sternだった)のエピソードとか。

原作の『チップス先生さようなら』は小さい頃に読んだ最初期の文庫本のひとつだったと記憶しているのだが、欠片も覚えていないのが悲しいよう。

上映は35mmで、現在ヨーロッパに現存するこの映画のフィルムの中では最良のコンディションのプリントだって。確かにうっとり。たまにぶちぶちしていたけど。

20年代の英国の、厳格な男子校のBrookfield Schoolでラテン語の教師をしているチップス先生 -Arthur Chipping (Peter O'Toole)はみんなに堅物の変な奴、って思われていて自分でもいいもんそんなもんだし、て思っているのだがある日歌手のKatherine (Petula Clark)と出会って、夏休み中のポンペイでも偶然に会って、話をしていくうちにお互いだんだん惹かれていって、ありえないありえないって自分で言いながらも結婚することになって周囲を唖然とさせて .. ずっとふたりで仲良しで。

イギリスの穏やかな地方の絵とゆっくり戦争に向かっていく暗い時代と、それでも来ては去っていく元気な子供たちとそれを迎える教師はあまり変わりなく移ろっていく、そういうゆったりとした時間の流れのなかで出会いがあって恋が生まれて、悲しい別れもあって。 という雲の行き来のような時がしっかり描かれているので、なにが起こってもうわあー!(歓)ってなる反対側で、悲しいことはほんとうに悲しく沁みてどうしようもない。 Arthurが長い手足で一目散に走り出すシーンとか、かきむしられるかんじ。

音楽もよくて、Petula Clarkが上手なのは当然として、Peter O'Tooleのぼそぼそした歌もボサノヴァみたいに聴こえないこともなくて、それと教師としてのC-3POみたいな(いや、あっちが真似しているのか)喋りが対となってなかなか素敵ったらない。

監督のHerbert Rossはこれが初監督作で、この次に”The Owl and the Pussycat” (1970)を撮っているのね。これも隣の、でも別世界から来た奔放系の女性にかき回される話だよね。

鴛鴦歌合戦 (1939)

20日の午後、チップス先生の前にBFIで見ました。 これも”Musicals!”特集の一本。英語題は”Singing Lovebirds”。
ミュージカルだろうがなんだろうが、BFIでマキノがかかるなんてえらいこっちゃ、とか、こいつぁめでてえ(ぴしゃ)とかそんなかんじで、なにがなんでも見にいく。

これ、大好きでLDも持ってて何度も見たし。
常連のお年寄りとかもいっぱい来ていて、あのTakashi Shimuraが歌って踊るんだぞ、うそー?  とかそんな会話をしている。
うん、歌って踊るのよ。

浪人浅井禮三郎(片岡千恵蔵)の周りに3人の娘 - 長屋の隣に住む仲良しのお春(市川春代)と、取り巻きがいっぱいいるお金持ちの娘おとみ(服部富子)と、昔の許嫁の藤尾(深水藤子) - がいて、貧困とか格差とか因習とかいっぱい問題はあるものの歌って踊ってしゃんしゃんしゃん、でよいの。 恋のさや当てとか、そういうのより骨董狂いのお春の父(志村喬)が他人事とは思えなくてかわいそうでならなかった。 あと、態度を最後まではっきりさせない浅井がいちばん悪いのでみんなでとっちめてやるべき。

デジタル上映だったのだが、画質がもうちょっときれいだったらなあ。日本の昔のって4Kリストアしたらすばらしいに決まっているのが山ほどあるのになー。でもお客さんはみんな大喜びで笑いながら見ていたのでなんか嬉しかった。 来週にもう一回上映あるよ。

これで『次郎長三国志』でもやってくれたらBFIにいっぱい寄付するのになー。

それにしても、いまFilm Forumでやっている”SHITAMACHI”特集のラインナップがすごすぎてうらやましいったらない。

10.29.2019

[film] Chambre 212 (2019)

9日水曜日の晩、Cine Lumiereで見ました。 LFFでは”Love”のカテゴリーに入っている1本。

英語題は”On a Magical Night”。 監督はChristophe Honoréなのでどうせ見る。今年のカンヌの「ある視点」部門に出品され、Chiara MastroianniがBest Actressを受賞している。

大学講師をしているMaria (Chiara Mastroianni)は若い男のアパートで情事して、帰り際にも別の男が気になったりして、でも家に戻ると結婚して20年になる夫のRichard (Benjamin Biolay - 実世界では前夫)がいる。 で、Mariaがシャワーを浴びている時に彼女のスマホに入ってきた男からの熱いメッセージを見てしまったRichardがぶつぶつ言うのでなんか嫌になったMariaは家を飛び出してアパートの向かい側にあるホテルにひとりでチェックインする – それがタイトルになっている「212号室」、なの。

少し気になったので窓越しに自分のアパートの方を覗いてみるとRichardはひとりでぼんやり佇んでいて、そしたら突然自分の部屋に若い頃のRichard (Vincent Lacoste)が現れたのでびっくりする。 更に当時のRichardの元カノのピアノ教師Irene (Camille Cottin)も現れてこっちを見ながらいろんなことを語りかけてくる。 IreneからすればMariaは自分からRichardをかっさらった女とも言えるし、当時のRichardがIreneからMariaに乗り換えたのだとも言えるし、それらはたぶんもちろん、あんなことをしてこんなことになっている自分自身の罪の(あるいはその逆の)意識みたいなやつがいろんな人の形(あるいはあれらはほんとうは… )をとって自分にとっての結婚とはなんだったのか、とか、これからもずっとこの状態でやっていくのか、とか、自分の人生って…とか、いろんなことを自分に問いているのだと思うのだが、そのうち60歳になったIrene (Carole Bouquet)まで出てきて、最後にはみんなでバー(”Rosebud”ていうの)で呑んで歌うしかない。

これが雪の散らつく寒い晩に起こった”Magical Night”で、ディケンズの『クリスマス・キャロル』や”It's a Wonderful Life” (1946)みたいなのをやりたかったらしいのだが、あれらよりもずっと生々しい迫力でくる(としか言いようのない)ものがあって、それはChiara Mastroianniの生々しい演技がすべてで、自分を半径とした修羅場をあんなにも他人のそれに繋いで透過させ、更に見ている我々のそれにまで結びつけてしまう。それを超越的ななんかの力とか借りずに彼女の生の身体と歌の力とか…  で、今回の音楽はBarry Manilowの”Could It Be Magic” (1973)が天から降り注ぐの。

Honoréの“Les chansons d'amour” (2007) - “Love Songs”、もう一回見たいなー。

ところでOlivier Assayasの“Non-Fiction” (2018)のあの邦題はなに? 呆れてなんも言えない。バカにしてるわ。

Finishing School (1934)

9日の晩、"Chambre 212"の前にBFIで見ました。 これはLFFの”Treasures”のカテゴリーので、サイレントではなくて、Pre-Code時代(リリースは1934年のヘイズコード発効直前)の典型的な作品として、この当時は少なかった女性監督 - Wanda Tuchockが手掛けた作品 - しかも女子学園モノとして、いろんな角度から見て楽しめるよ、と(イントロで)。

Virginia (Frances Dee)が母に連れられて厳格なしつけの寄宿学校 - Crockett Hall finishing schoolに入るところで、校長はいろんな規則を並べたてるのだが、ルームメイトになったPony (Ginger Rogers !)は適度に素行不良してて、タバコすぱすぱ吸ったりおおざっぱで、そんな彼女たちの影響を受けてVirginiaも朝帰りとかするようになって、病院勤めの彼もできるのだが、学校側もうるさいので対立して孤立していくの ..

この頃からこんなふうなおてんば娘の学園コメディはあったんだねえ、って。