16日、月曜日の晩、National Theatre内のOlivier Theatreで見ました。
ここの隣にあるBFIには学校のように会社のようにほぼ毎日のように通っているのに、こちらに来たことは未だなかった。 ので、ようやく来れてうれしかった。
アイルランドの劇作家Brian Friel の原作をIan Ricksonが演出したもの。事前の予習とか一切しないで見てみる。
19世紀初、地の果てのようなところにあるアイルランドの田舎の村Donegalの台地にHedge School - 当時アイルランドの田舎のコミュニティ毎に作られた言葉 - ラテン語とかギリシャ語とか英語とか - を学んだりする非認可の学校 - で、先生のManus (Seamus O'Hara)と、老いてぼろぼろのJimmy Jack (Dermot Crowley)とかうまく喋れないSarah (Liadán Dunlea)とかMaire (Sarah Madigan)とか個性たっぷりの生徒たちがいて、堂々とした校長のHugh (Ciarán Hinds)がいて、都会のダブリンから戻ってきた息子のOwen (Fra Fee)も来て、みんなでわいわい楽しく授業をしていると、英国軍の兵士が現れ、Owenを通訳にして、この辺一帯の地図を作りたいので協力するように、という。
英国の兵士たちは彼らがSchoolで英語を学んでいることも知らず、彼らの喋る言葉は通じないと思いこんでいて、そのやりとりがなんか滑稽なのだが、その辺からだんだん明るみにでてくる彼らの企てとは。
やがて地図を作るために駐留している英国軍のYolland中尉 (Jack Bardoe)とMarieが恋に落ちて、そのタイミングで、英国による植民地支配に向けた企みが明らかとなり、言葉の通訳 - 地名の翻訳から始まったふたつの国の関係は突然天地がひっくり返って、向こうからどす黒い恐怖が。
日々自分の国の言葉ではない言葉を使うところで暮らして、普段からこちらの映画を見たり音楽を聴いたり本を読んだりしているものとして、ものすごくいろんなことを考えさせてくれる演劇だった。 出発点は自分が慣れていない言葉を自分の言葉に変換してその文脈も含めて理解する、それだけのことなのだが、それはそれだけのことではない、例えば異文化や習慣の理解みたいなところ、そもそもそういうのって「理解」できるのか? という問いとのせめぎ合いとか、その風呂敷は習得の度合いに応じて常に大きく不透明になりがちで、それが国レベルで極大化すると侵略とか植民地化、のようなところまで行ってしまう気がする。アメリカが先住民に対して、英国がオーストラリアの先住民に対して、日本が沖縄や北海道の先住民に対してやってきたような。
翻訳って、やるやらないでいうと、やるべきだし必要なことだし、多くの可能性に満ちた作業だとは思うのだが、そこには常に翻訳をする者はどこのだれなのか、その対象(その選択)は、という問題(のようななにか)がつきまとうはずで、そこに万国共通とかスタンダード、のような理想(幻想)を持ちこもうとすると面倒なことになる。 なぜならそういうスタンダード - 汎化を持ち込もうとするのは常に「強者」に決まっているから or - とされてしまうから。 (英語教育は素人だけど、例の共通テストの件が滑稽なのは彼らの前提の置き方がどう考えても変 - 気持ちわるい - から)
コミュニケーションがすべての礎、MUST、それは正しいことなのかもしれないけど、どこからどこまで、の線引きをしておかないと、言語が死滅したり民族が絶滅することにもなりかねない、ということが19-20世紀(以降)の歴史にはあったし、あるよ。 コミュニケーションなんてやりたい奴が尻尾ふって旗ふって喜んでやっていればいいのよ。
(関係ないけど、最近よく言われる「ダイバーシティ」があんま信用ならないのは、すでに確立された単一性を前提とした物言いの匂いがぷんぷんするから。あえてそう言わなければならないくらいに傾いて歪んでしまった、ということなのだろうけど)
ということを考えていったときに、あのラストの風景には慄然とする。そうだよね、って。
こういう作品がジョイスやイェイツを生んだ国から出る、というのもおもしろいな。
12.31.2019
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