4日、水曜日の晩、BFIのMaurice Pialat特集で見ました。
英語題は”Under the Sun of Satan”、邦題は『悪魔の陽の下に』。原作は1926年のGeorges Bernanosの同名小説 。 カンヌのパルム・ドールを受賞している、誰に聞いてもPialatの代表作のひとつ、と言うであろう1本(かな)。
フランスの北のカレーにあるカトリック教会に若くて修行に励む司祭のDonissan (Gérard Depardieu)がいて、彼の上の司祭(Maurice Pialat)も一生懸命に彼を教育しようとするしDonissanもそれに応えてがんばるのだが、なにが悪いのかなにかが変なふうに捩れていって止めることができない。道端で悪魔と会って取引をして、恋人を殺してしまったMouchette (Sandrine Bonnaire)を救おうとするのだが彼女は自殺して、修道院で修行しなおして戻ってくると奇跡を起こしたりするのだが、それが誰の手によるものなのかわかっているので、悶々どんより疲れて亡くなっているところを発見されるの。
救いとはどういう状態をいうのか、救われさえすれば善も悪もどうでもよいのか、そこにおいて祈りとは、聖性とは、宗教者による規律とか修行とか宗教活動とはどういう意味を持つのか。 Bernanos作品を2本映画化しているRobert Bresson、あるいはIngmar Bergmanのように登場人物の会話や動作が宗教的なシンボルやその顕現に直結する – なので映画を通して神や悪魔の存在とかその意味について考えることができる - そういう描き方をしていないかんじがした。
殺人も自殺も復活も、すべてはただ生と死の境目を超えて起こってしまった/起こってしまうことであり、そこに神や悪魔は、あるいはDonissanの修業や苦悶その成果は絡んでいるのかいないのか、神様仏様悪魔様などの実存(あんまいそうにない)も含めてよくわからなくて、それは信じている人にはかわいそうとしか言いようがないのだが、だってそうなんだからしょうがないよね、となる。
それがPialatの人の、人と人の間の行為を描くときの基本的な位置というか視座で、だから、かわいそうな人、とか嘆き悲しむ人とか、或いは向こうに遠ざかっていってしまう人、とかは出てくるものの、絶対的な悪とか善、そのありようが傷のようにして刻まれたり膿のように噴き出したりすることは最後までない気がする。どこまで行っても相対的な距離をとることがベースとしてあって、そこに彼の優しさをみるのか、厳しさをみるのかは人それぞれで。 ここまでPialatの作品を見てきて思うのはものすごい斑模様だけど(触らないけど見つめる)優しさがあって、同様の線で見てみるとR.W. Fassbinderはその辺がとても厳しくてきつい、とか。.. そんな気がする、くらいだけど。 (Serge Toubiana氏は”intimidation”(脅し)ではなく数少ない”remorse”(自責)の作家としてPialatを定義していて、その辺かも)
“Loulou“ (1980)でのGérard Depardieu、“À nos amours“(1983)でのSandrine Bonnaire、これらの映画で自由奔放の独尊で生きる主人公を演じていたふたりが、がんじがらめの宗教や愛に殉じる役を演じる、っていうところもなんだかおもしろい。どちらも我々が暮らしている世界の、すぐそこに生きている人たちなの。
12.12.2019
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